2020年11月26日 (木)

3855 断熱・遮熱

エネルギーの熱利用で、最重要な事は、逃げやすい熱エネルギーを出来るだけ留め続けておくことです。「熱・温度」の本質とは、物質の振動の程度の指標であり、温度が高いほど、物質の原子振動が激しくなっていて「熱い」訳です。しかし、周囲温度に比べて温度が高い物質ほど、急激に温度が下がっていきます。その際、物質はエネルギーの一形態である赤外線を放出(放射)しながら冷めていくのです。赤外線は、電磁波の一種(ある波長範囲の電磁波)であるため、いくつかの方法で、その放射を抑制する事が可能なのです。
一つの方法は、断熱材です。断熱の本質は、熱源と周囲温度の間に断熱材を置く事により、温度勾配を小さくすることによって、赤外線放射を抑制しようとするものです。断熱材の一種である衣服は、それによっていくつかの空気層を形成する事によって、体表面からの放熱を抑制するのです。肌着は、体温とほぼ同じ温度になっており、シャツやセーターや外套と外に向かって徐々に温度が下がっていく訳です。
別の方法としては、赤外線を反射させて、熱源に戻してやる方法があります。つまり、光も電磁波ですが、電磁波は反射させることができるのです。アルミを蒸着させた衣服や、ガラス瓶で出来ている保温瓶にもやはりアルミ蒸着が施されている所以です。
いずれにしても、モノの温度を保つには、断熱や遮熱を施す必要があると言う事なのです。暖房で温めた部屋や、逆に冷房で冷やした部屋の温度を保つのに、冷暖房機を連続的に運転するのではなく、性能の高い断熱材や遮熱材を施してやれば、消費するエネルギーは大幅に節約することも可能になるのです。
初期投資のみにこだわり、断熱材や遮熱材をケチれば、その家や建物のランニングコストは高いままで推移しますので、ライフタイムコストの総額は、逆に大きくなってしまうのです。熱源を何に求めるかと同様に、いやそれ以上に断熱・遮熱性能は重要なファクターなのです。合理的な欧州(取り分け北欧)の住宅に、厚い断熱材使われているのは、我々にとっても大いに参考になるでしょう。

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2020年11月24日 (火)

3854 エネルギーの熱利用

エネルギー問題では、とかく電力をどうやって得るかと言う問題だけがクローズアップされがちです。つまり、化石エネルギーを使ってCO2を出しながら発電するのか、あるいは再生可能型のエネルギー源で作り出すのかと言った論争です。しかし、考えてみれば、電気の形でエネルギーを使うのは、例えば動力利用やOA機器や照明のための電力程度であり、多くの部分は熱としての利用であることに気が付きます。工場でのプロセス加熱、冷暖房、給湯、調理などなどで、我が家の分析では、75%以上は(カロリーベースでは)熱利用となっていたのです。つまり、日々の入浴や給湯、冬季の暖房、短い期間ですが夏季の冷房、調理のためのLPGや電気調理器などにおける熱エネルギーとしての利用が殆どで、照明やテレビなど電力でなければならないエネルギーの割合は10%に満たない程度だったのです。
ならば、エネルギー問題は電力問題ではなく、「熱源問題」であると言い換えができると思うのです。我が家では、ペレットボイラを入れてあるので、熱源としては、太陽熱とペレットボイラで殆どを賄い、調理と非常時のバックアップ用で少量のLPGを使っている程度となっています。寒がりの連れ合いは補助的に、エアコンや電熱暖房機も使っていますが、それは急に冷え込んだ日などに限定されています。
一方で、金額ベースでは、当家のエネルギー毎の割合は、電力:ガス(LPG):ペレット=6:4:3程度となっていて、電力はやはり高価なエネルギー源であることも分かります。北国の冬場は別にして、太陽熱は有効な熱源である事は間違いありません。太陽熱は簡単な仕掛けでお湯に変換する事ができます。リアルタイムで太陽熱を利用するには「ソーラーウォール」と言う、黒く塗った熱箱を設置すれば、80℃程度の温風を得ることもできます。事実、ある工場では太陽熱の利用により、年間の光熱費を半分程度まで低減させた例も報告されているのです。我が家の場合、ぺレットボイラだけで100%の給湯を行うとした場合に比べ、4㎡の太陽熱温水器でその4割程度を補っている計算になります。
見回してみれば、身の周りには低温度の熱源が結構見つかるものです。低い温度は低いなりに利用価値がありますので、石油やLPGが発生する1000℃を超える高温で蒸気を発生させ、それでタービン発電機を回して電気を起こし、発生熱の6割近くを煙突や海水に捨てると言う「効率のムダ」を考えると、全く頭が痛くなります。一方、熱を熱として直接利用する場合、変換しない訳ですから効率100%の達成が可能なのです。

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2020年11月18日 (水)

3853 運ばない社会2

私たちが考えてみなければならないのは、石油に替わるエネルギー源を見つけるのではなく、運ぶエネルギーを画期的に減らす事だと思うのです。モノについて言えば。運ぶことによって1円だってその価値は増えないでしょう。もし運ぶことに何らかの価値が見いだせるとしたら、それはある地域でしか取れない産物や製品を、それを作ることができない地域へ運ぶ場合だけでしょう。それは、決してモノの価値が上がったのではなく、ある地域では運んだ事によって、運賃を掛けても、産地より高い「ある値段で売れる」と言う現象でしかない訳です。
人について言えば、運ばれる(移動)の自由は、かなり大切な権利でしょう。封建時代には、移動はかなり制限されていましたし、海外との往来や交易も、鎖国政策によって限定されたルートしか無かった筈です。しかし、ビジネストリップは別にして、航空運賃を採算ギリギリに下げて、庶民が気軽に海外旅行ができる様になったこの時代には、やや疑問が残ります。つまり、物見遊山の旅行の是非です。若い人が見分を広めるために、一度は海外を見ておくのは確かに意味があります。しかし、お金のある年寄りや若者が、買い物やグルメ食が目的で、頻繁に渡航する風潮は、やはり異常事態と言うしかないでしょう。同じことが、急にお金持ちになった、海外の富裕層にも言えるでしょう。一時のブームを良く表している「インバウンド」や「爆買い」と言ったキーワードには、やはり作られた旅行バブルで生み出された、負のイメージが付きまといます。
そうではなくて、運ぶことや人が移動する要否を良く「吟味」してみる事が必要だと思うのです。その機会は、今まさに直面している「コロナ騒動」によってもたらされたと考えるべきでしょう。コロナ禍は、私たちに立ち止まって考えるチャンスをくれたと考えるべきなのです。モノを運ばず、必要なモノを必要な時に、必要な場所で作ると言う究極の地産地消を目指し、移動の自由を無駄に使わず、数少ない旅行の機会を最大限有効に楽しむことによって、移動に要するエネルギーは間違いなく今の半減以下にはできると見ています。事実として、長距離列車による旅行は一時9割以上減りましたし、航空機による移動は今もそのレベルで留まっているではありませんか。それによって、誰かが死んだとか、気がふれたと言う事は今のところ無さそうではあります。運ぶことに意味は無いと割り切るか、あるいは運ぶ必然性のある場合に限定することにより、物流や人の移動により強い意味が生じるでしょうし、エネルギーの浪費も防止できる筈です。

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2020年11月17日 (火)

3852 運ばない社会

より環境負荷の小さい社会の仕組みとして、ここでは出来るだけ「運ばない社会」を提案したいと思います。投稿者の子供時代、運送の手段としては遠距離ではほぼ鉄道だけ、市内などの近距離の運搬では、少ないトラックや馬車と数多くのリヤカーや人が押す四輪の運搬車が活躍していました。勿論、冬季には箱ぞりや馬が引くソリも多用されていたのです。取り分け鉄道は各地の名産品や農産物や工業製品の交易手段として、輸送の大部分を担っていたのです。
勿論、鉄道貨物などは運賃が結構高く、記憶に残っている限りでは、お小遣いが10円程度だった時代、段ボール箱1個で数百円や千円ほど取られていた様に思います。物価から考えれば、多分今の価値にすれば数千円ほどのレベルだったと想像できます。従って、モノを運ぶのは本当にそれが必要なタイミングに限定され、日用品の多くはそれが消費される地元で賄われていたのでした。今日では、それを敢えて「地産地消」などと呼びますが、それが当たり前だった時代が長く続いたのです。
これが画期的に変化したのは、高速道路網の整備が始まって、国道も拡幅・舗装工事が盛んに行われ、トラック便による物流が格段に増えた時代でしょう。この頃(1960年代の終わり)に、自転車で東北地方を旅行した事がありますが、一桁国道でも、ところどころ未舗装の区間が残っていたのでした。しかし、1970年代に入ると、主要国道に未舗装区間は殆ど解消され、トラックでの輸送量が飛躍的に増大したのです。いわゆるモータリゼーションの大波が起こったのでした。二度のオイルショックやその後の石油高の時期を潜り抜けて、輸送手段はさらに空に広がり、新幹線網の整備も相まって、国内の長距離旅行は勿論、海外旅行も庶民レベルに降りて来たのでした。
しかし、現在までのところ、種々の輸送手段のエネルギー源は、殆ど「石油」に限定されてしまっています。理由は明確で、石油は常温で液体であり、可搬燃料として、エネルギー密度の高いエのはほぼ石油に限定されているからです。勿論ある時期にはLPG(液化石油ガス)車が、市内の配送やタクシーには一部使われてはいましたが、燃費ではその後開発されたハイブリッド車に軍配が上がってしまったので、今は殆ど使われてはいないでしょう。残念ながら、航空機燃料を含め、石油代替のエネルギー源は未だ現れてはいないのです。続きます。

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2020年11月16日 (月)

3851 努力はシームレス

環境問題やそれを含むSDGsによるゴール(目標ではない)の解決には、国や企業の努力は不可欠ですが、だからと言って市民が座して眺めていれば良いと言う訳ではありません。それどころか、市民が主体となって考えなければならないと思うのです。市民ができる事は勿論限られてはいます。しかし、70億をはるかに越えてしまったヒトの数(人口)の力は莫大です。
例えば、レジ袋やストローです。この国でのレジ袋の消費量は、一人当たり300枚/程度で、石油換算にすればタンカー2隻分程度と言われていますが、最近スーパーなどで観察していると、かなりの割合でレジ袋を買わない人が増えている様です。レジ袋の有料化を決めるのは、行政や業界団体ですが、そもそもレジ袋を欲しがったのは、市民の側だった筈です。ストローも同じでしょう。カップから直接飲み物を飲むことはできるのに、数分間使っただけでポイ捨てしてしまうストローを欲しがったのは、歩きながら飲み物を飲みたいと言う市民の我がままだったのです。つまり、環境保全(改善)への努力は、市民こそが主体になって進めなければならないと言う事でしょう。
もとより、企業は消費者のニーズにおもねって売り上げを上げ、シェア拡大を図るために、あらゆる努力を払ってきた訳ですが、それを良いことに、私たち市民はその「我がまま度」をドンドン上げて来たと思うのです。それを逆回しするためには、市民は多少の不便は我慢し、企業はより環境負荷を下げるモノづくりを指向し、国は長期的展望に立ってそれを主導しなければならない筈なのです。その方向さえ正しければ、環境負荷は徐々に下がり始めるでしょう。国の役割をもう一つ挙げるなら、その努力の結果を数字として把握し、必要であれば法的あるいは行政指導上の軌道修正を加える事でしょうか。私たちが環境に依存しなければ生きていけない限り、国、行政、市民の努力は、完全に境の無いシームレスでなければならないのです。今日は短く。

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2020年11月14日 (土)

3850 今更宇宙開発?

ややネガティブな投稿が続きますが、今後の社会を展望する上で、3848、3849と併せ、無駄な人材やお金を浪費して貰いたくないための警鐘であると捉えてください。さて、今話題の宇宙開発ですが、先ず投稿者には、一体何を「開発」するのかが全く理解できません。1960年代の人工衛星やアポロ計画の様に、超大国の国威発揚のプロジェクトならいざ知らず、今更月に人を送りこんで一体何しようと言うのでしょうか。火星に人を送るための中継基地を作る準備?往復数年も掛かる火星へ往還ミッションなど、宇宙空間に浮かぶ完全孤立無援の「密室」の中で、孤独感のあまりついには気がふれてしまう?宇宙飛行士を生み出すのが関の山でしょう。月には、大気が殆ど無く兄弟星の地球とほぼ同じ岩石や砂があり、火星にだって薄い濃度のCO2以外大気らしいものはなく赤ちゃけた大地が広がるだけなのです。呼吸し、食事を摂り、排せつしなければならない人間を、月や火星に送るための生命維持装置の重量はかなりのモノでしょうから、ロケットや宇宙船も巨大なサイズになってしまうのです。
もし学術的な探索がしたいのであれば、月でも、火星でも無人機を送り込むだけで十分でしょう。人を送る意味は、多分ナショナルプロジェクトを成功させ、一人か数人の宇宙飛行士と呼ばれる英雄を祭り上げる事によって、国の威信を示し、衆目をそのプロジェクトに集めるくらいの意味しか考えられないのです。国威発揚だけのために、一体どれほどの人材や機材や予算を投じなければならないのかを考えるだけで、あまりの勿体無さに頭痛がしてきます。
断言しますが、強烈な宇宙線(放射線)も降り注ぐ宇宙空間には無重力と真空と暗黒しかないのです。月や地球以外の惑星に降り立っても、酸素の豊富な大気や液体の水などは存在せず、殺伐とした荒野が広がっているだけなのです。直射日光が当たる半球は高温となる一方、陰になる半球ではマイナス何十度にもなるでしょう。灼熱と極寒の大地なのです。そこに人を送り込む名誉を手にしたところで、問題山積の地球環境悪化の解決には、全く何の役にも立たないのです。そんな人材とお金を注ぎ込むなら、SDGsのターゲットに一歩でも半歩で近づくために振り向けて貰いたいものです。優秀な人材と貴重な予算の浪費にこれ以上黙ってはいては、未来に生きる子孫に申し訳が立たないでしょう。何より、人一倍優れた頭脳と強靭な肉体を持つ宇宙飛行士を、危ないだけで何の役にも立たないミッションに向かわせ、帰還後は無垢な若者や子供にいたずらに宇宙旅行の夢を語らせる「宇宙ピエロ」にしてはならないのです。

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2020年11月13日 (金)

3849 空飛ぶタクシーは飛ばない

昨日に続いてややネガティブな投稿になります。ドローン型や、車に翼を付けた軽飛行機型の空飛ぶ車の発表や再発表が続いています。再発表と書いたのは、思い起こせば1950-60年代にも、軽量化された車に翼を付けた空飛ぶ車がいくつも試作された時代があったからです。その時は、先進的過ぎて、かつ高価過ぎて夢の空飛ぶ車で終わったのでした。しかし、今回は特に車メーカーも力を入れて開発に邁進していることもあり、実用に近いものが急速に続々と発表されている様です。特にお隣の韓国では、ナショプロと位置付けて、開発のピッチを上げていると思われます。
しかし、元技術屋の目で見ても、空飛ぶ車程危険な乗り物は存在しないと言えるのです。その前に、そもそも私たちは二次元で動く車の事故さえ無くすことには成功していない事実を直視すべきででしょう。事故にはいくつかのファクターがあるのでしょうが、大きくは1)車自体の劣化や故障によるものと、2)運転者の操作ミスに起因するものが挙げられます。ここでは豪雨などの天候異常や地震になどの3)天変地異によるファクターは除いていますので、いわゆる人為的な原因によるものだと言えるでしょう。
2)のファクターによる事故を防ぐためとして、いわゆるスマアシや自動運転車なども開発されては来ましたが、1)の車載コンピュータの誤作動や、アクセル・ブレーキ系統の故障に関してはほぼお手上げ状態だと言うしかありません。何故なら、運転者は車のメンテナンスにはできるだけお金は使いたくはないし、同じ車をできるだけ長く使い続けようとする傾向にあり、結果として整備不良の車も多く市中を走り回っていると想像されるからです。
一方、空飛ぶ車に関して言えば、3次元の自由度を持った乗り物であることを忘れてはならないでしょう。飛行体が急激に高度を失い、地面にハードに着地する事を墜落と言いますが、空飛ぶ車の事故では圧倒的にこれが多いと想像できます。そもそも、ヘリの様に機体の最上部のプロペラがあるものは、力学的には浮力の下に重心があり、吊り下げ型なので安定していますが、それでもヘリの事故は耐えません。一方で、ドローン型では浮力と重心がほぼ同じ高さにあるため、基本的には不安定な乗り物だと言えるでしょう。もし、突風に煽られたり、いくつかのローター(プロペラ)が止まってしまった場合、この大型のドローンはバランスを失って、墜落は免れられない筈なのです。飛行体のクラッシュが乗員に甚大なダメージ(多くは死亡事故)を及ぼす事は、折々の飛行機事故の報道でも明らかでしょう。日々快晴で無風が続く筈もありません。山国でもあるこの国では、複雑な風も吹くでしょう。雷雲が来ればダウンバーストも発生するでしょう。そんな気象条件の中を飛ぶ空飛ぶ車は、まるで宙を舞う木の葉の様なものだと言うしかありません。そんな危なくて、しかも天気の良い日にしか乗れない不便な乗り物が、ブンブンと空を飛ぶ時代など絶対来ないと断言しておきます。

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2020年11月12日 (木)

3848 水素社会は来ない

このタイトルもこのブログですでに取り上げてはいますが、最近水素社会の話題がマスコミにかなり頻繁に登場します。先駆者と言えるTヨタ自動者は、時代に先駆けて早々とFCV(水素自動車)を開発してしまったので、水素社会の旗振りをせざる得ない立場だとは思います、しかし、冷静に眺めてみるといくつかの障害が横たわっている事に気付きます。例えば、1)水素をどうやって(どんなエネルギーを使って)作るのか。2)コストはEVと競合できるのか。3)水素インフラをどうやって拡大するのか。4)可燃ガスをボンベに入れて動く車に搭載する危険性をどう回避するのか。などなどです。
更に詳しく言えば、1)は完全な再エネを使って水の電気分解を行って手に入れない限り、炭素フリーエネルギーとは呼べない「まがい物」になってしまいます。現状は、主に石油改質法での水素製造ですので、プロセスからは大量のCO2が出ます。2)EVでは再エネ電力をそのまま動力源として使えますが、水素は先ずその再エネ電力を使って水素を作って、更にそれを、多分化石燃料を使うタンクローリーで流通させる必要があります。つまり、EVよりエネルギー単価が安く炭素フリーになるはずなど無いのです。3)インフラの拡大には、ユーザーの拡大が同時並行で進まなければなりません。しかし、スーパーカー並みにバカ高いMiraiの価格を、今の1/10まで下げられるとも思えませんので、FCVの普及は遅々として済まないでしょう。従って水素ステーションが増えるスピードも遅く、大都市近郊やTヨタの息が掛かっている地域に限定されるでしょう。4)では、現状水素は高圧(100気圧以上)に圧縮して、炭素繊維でグルグル巻きにした金属タンクに入れて車載しています。水素吸蔵合金に水素を吸わせればかなり安全なのですが、これは重い割に吸蔵能力が低く(航続距離が短く)、全く実用的ではありません。FCVが一旦事故を起こせば、ガソリン車よりさらに危険な「爆発事故」となるでしょう。絶対にタンクが壊れない様にするためには、戦車の様に頑丈な(重たい)車にするしかないのです。
いずれの障害も10年や20年で解決するとも思えませんので、投稿者の結論は「水素時代は来ない」です。少なくとも水素自動車時代は来ないとの確信は持っています。

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2020年11月 2日 (月)

3847 登山道

今日、ZOOMミーティングで新しい言葉に出会いました。「日本道」です。これは、華道や茶道や柔道などと同じく、日本の文化を学ぶことを道として究めようとと言う活動の事をさします。そこ(のコミュニティ)では、大きくは次の7つのカテゴリー(道)に分けている様です。
1、日本人が使いたい大和言葉
2、日本人が知っておきたい神話と天皇
3、日本人が生活に生かしたい和食と和食文化
4、日本人が守り抜きたい文化伝統
5、日本人が大切にしたい神社仏閣
6、日本人が誇りにしたい偉人
7、日本人が語り継ぎたい出来事
これに全面的に賛同する訳ではありませんが、いわゆる思想の右左の様に、イデオロギーを振り回すものでなければ、敢えてこのカテゴリー分けに反対する理由はありません。少し偏っている感じは否めませんが。それに加えるならば、投稿者が唯一の趣味と自認している、「登山」のまた「道」になり得るのでないかとふと思いました。登山は、古くから山岳信仰として、人々のココロの拠り所になってきたと思うのです。仕事の忙しい庶民の代表として、山伏と呼ばれる少数の人々が山に入り、修行を重ね、その成果や山々に棲む神々のお告げを里に住む庶民に分け与え、里で亡くなった人々の魂を山に送り届けるために、各戸を訪問して回ったのでした。今も少数の山伏は、各地で活動は続けてはいますが、その風習も文化もやがては忘れ去られる運命にあるのかも知れません。
しかし、参詣道や登山道や修行の道も、人がそこに足を踏み入れ、少しばかり手入れをする事により、道としては残り続けるでしょう。ならば、そこに若い人を含めて立ち入り、登山を続ける中で、伝わる文化もあるのではないかとも思ったのでした。何より、山深い、あるいは標高の高い森林限界を超えた尾根を、時には雨に打たれて歩く事により、自然との一体感の様なものも醸成される筈なのです。人間は、自分と一体と感じた自然を敢えて破壊する様な事を直ちに止めるでしょう。自然破壊は、人間が自然を離れて、そこにあった自然を一度壊して、都市と言う人工空間を作った時から始まったのですから。自然に畏敬の念を以って接し、それを保全する活動を考える中で、真の「環境保全道」を邁進することも可能になると思うのです。「登山道」は、その入り口になり得るかも知れません。

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2020年10月27日 (火)

3846 カーボンニュートラル

新しいリーダーが、所信表明演説の中で、2050年度カーボンニュートラルを声高に宣言した様です。これで、この国もやっと欧州の環境先進国と「目標ベース」では肩を並べた訳ですが、実情はまだ何も決まっていない「空箱」と言うしかありません。先ずは、原発の具体的廃炉計画と火力発電所、とりわけ石炭火力発電所を止めるための、ロードマップが必要でしょう。
しかしながら、そのアプローチを間違えると、無駄な税金を費やしてしまう可能性も出てきます。つまり、現在の負荷を前提にして、ロードマップを作ると、過剰な投資を招いてしまうでしょう。優先順位は、先ずは「省エネファースト」なのです。先ずは、今より3割程度の省エネを実行しなければならないと思うのです。エネルギーを消費する行動を、先ずは1/3程度減らす努力を試行するか、あるいは今より性能を上げて3割の省エネを実現する機器を開発するのです。勿論優先順位は、節約です。どの様な道筋で考えても、エネルギーの浪費をそのままに、メーカーの省エネ製品をあてにする訳にはいかないのです。ラッキーにも、メーカーの省エネ技術が進歩すると、節エネとの相乗効果で、カーボンニュートラルの時期が早まるかも知れません。
一方で、3割の節エネと機器の3割の省エネ性能向上が実現できたとして、エネルギー消費は今の半分程度にしか落ちません。再エネ率は自動的に上昇しますが、やはり原発と火力発電を無くすためには、再エネのポテンシャルを見つけなければなりません。
一つは太陽光発電です。とは言いながら、今以上原野や田畑をつぶす訳にはいきません。優先順位を「屋根発電」に集中すべきでしょう。屋根は風雨を防ぐ以外には活用されていませんので、助成金を乗せると同時に、義務化も併せて住宅や工場やビルでの屋根発電を画期的に増やす必要があります。次に、太陽熱の有効利用です。暖房給湯に使われる電気エネルギーは膨大ですが、貴重な電気を熱や冷熱を作るのに費やしては、カーボンニュートラルは何時になっても実現できません。太陽熱や地中の冷熱を有効利用する事によって、大幅な電力の削減が可能となるでしょう。もう一つやるべき施策は、なるべく人やモノの移動を減らす努力の背中を押す事です。コロナ騒ぎで、人の移動は随分減ってしまいました。ネットを使った人と人の交流が増えたからです。逆の、ネット通販が増え、流通業の仕事は増え、結果として流通に関わるエネルギー消費もかなり増えたでしょう。しかし、同じルートを別々の業者が走り回り、宅配をする無駄を考えてそれを減らす工夫をすれば、宅配量が増加してもエネルギー消費を抑える事は十分可能なのです。
国には、ぜひこの様な具体的作戦を立て、同時に地方でお金も回り雇用も生まれる様な、工夫のある施策を形にして貰いたいものです。リーダーが、口だけでカーボンニュートラルを宣言しても、誰も踊ってはくれないのです。

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2020年10月24日 (土)

3845 実体無き社会

日々メディアやネットで見聞きする情報の洪水に触れるたびに、果たしてそれらに実体が伴っているのかどうか疑問が湧いてきます。映像になって流れていたとしても、フェイク画像かも知れませんし、実際の映像だったとしてもある意図をもって編集されているのかも知れません。そうでないにしても、カメラのフレームから外れている場面は、そもそも無視されてしまっている筈です。
そういった画像情報と実体との乖離も確かに気にはなりますが、今の社会は、全ての価値を「お金」に換算してから評価する風潮になってしまった点はもっと気になります。例えば、企業の持つ社会的価値でさえ、株価や時価総額と言ったお金と言う指標で評価するしか方法が準備されていないのです。その企業が、長年あまり目立たないながら社会貢献を続けていたとしても、それがお金の価値として評価されていない限り、社会から適正に評価されることも少ないのです。企業の本当の価値は、企業が存続できる(過剰ではない)適正な利益を出し続けながら、その事業が社会から必要とされるものであり、利益の一部を社会に還元し続けているか否かであって、決して事業には無関係の投資などで儲けて、見かけ上の利益を上げているかどうかではないのです。見かけ上の利益だけを追求した果てに、悪しき結果が露呈したのが、あのバブル期とその後の崩壊でしたし、リーマンショックだったのでした。
また、例えばコロナ騒ぎですっかり火が消えた観光需要ですが、その指標としては、何千万人が日本に押し寄せて、彼らがどれくらいお金を落としたか程度の指標しかメディアの表には出てきませんでした。彼らが、この国のどの様な文化や景色や食に触れて感動したのかを示す適当な指標は見つからないのです。まるで形のない、インバウンド客と言う亡霊たちがゾロゾロと通り過ぎた後に残されたのは、使われたお金の記録とごみの山くらいでしょう。毎年毎年右肩上がりで増え続けた観光客の更にこの先を当て込んだ航空業界や輸送業界や宿泊業は、航空機や観光バスや宿泊施設に矢鱈と投資を繰り返し、そうなるであろうと予測された実体の無い数字に帳尻を合わせようと藻掻き続けていたのです。
ネットで日々つぶやかれる大国のリーダーのコメントに踊らされ、ホンの一部しか映されないTVやネット画像に反応し、今や紙幣と言う形さえ無くなったお金と言うコンピュータ上の数字の増減に一喜一憂し、直接会ったこともない人々のネット上の書き込みに脅かされる、バーチャル生活にはソロソロ終止符を打つべき時だと思うのです。実際のモノに触れ、人に直接会って共感し、地に足を付けて実体のある景色の中を歩き回り、五感を使ってそれを感じる事によってのみ、ヒトは生きている喜びを実感できる筈なのです。

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2020年10月23日 (金)

3844 M社の躓き

この国の企業を揶揄する際にしばしば用いられる表現が「技術で勝って、ビジネスで負ける」と言うものです。その意味で、今回のM社の国産ジェット開発の大幅なスピードダウンは、製品を市場に投入する前に、既にこの表現にハマってしまっていたと言えるかも知れません。このブログで何度も書いている様に、製品を市場に出して顧客に使ってもらうには。明確なニーズが見えていなくてはなりません。技術屋経営者が、自社の技術力を確信し、製品開発のプロジェクトを立ち上げたとしても、それを必要とする確固たる市場のニーズが見えていない限りは、売れる筈もないのです。
コロナ前は、確かにインバウンド需要などとも表現される、海外からの旅行客が大挙して押し寄せ、各地の観光地に溢れていたものでした。しかし、その需要(ニーズ)が砂上の楼閣(旅行バブル)であった事は、そのニーズがこのコロナ騒ぎで全く消えてしまった事で明らかになったのです。ビジネス旅行以外の不要不急の海外旅行などは、お金に余裕のある人たちの物見遊山である訳です。旅行客の間に少しでも旅への不安があれば、楽しみと言う旅の価値が損なわれてしまいますので敬遠され、そのニーズなどたちまち雲散霧消していまうのです。
さて、航空機産業で20年余りメシを食ってきた投稿者から見ても、YS-11の後継機である国産旅客機の開発は、いわば航空業界に携わる人々の長年の夢でもありました。後知恵にはなりますが、開発のベストタイミングで、かつ最後のタイミングは、実のところ1980年代だったと今振り返っています。と言うのも、戦時中種々の航空機製造に関わった優秀な航空技術者が、そのまま戦後のYS-11のプロジェクトに関わった筈なのですが、YS-11プロジェクトの中心だった技術者が現役を退く時期が、実は1980年代に掛かっていたのでした。つまり、80年代こそが小型旅客機開発の技術やノウハウが、(失敗経験も含めて)世代を超えて若手に伝えられる最後のチャンスだったとも言えるのです。
それができなかった時代背景で、21世紀に入ってやっと始まったM社の小型旅客機の開発は、技術的にはほぼゼロからの出発となり、開発過程で報道されただけでも5回ほど大きな問題を起こして、その都度スケジュールの遅れも発生したのでした。小さな家電品などの開発とは異なり、航空機は安全性が最優先されるプロダクトであり、製造許可である型式証明を得るのに、数多くのハードルが待ち構えて居た訳です。それを、YS-11の経験者も居らず、たかだか米国の機体メーカーの機体の一部を下請け生産していただけの実績しかなかった企業が、目論見通りに開発を成就させるのは、土台無理な相談だったと言うしかないでしょう。このプロジェクトが今後どうなるかは見えていませんが、例えば航空機産業に全く関係のないお金持ち企業にでも買い上げて貰うしか道は無いのかも知れません。流石の「大M菱」と言えども、1機も引き渡しができていない状況で開発費(=赤字)を垂れ流す負担には耐えられないでしょう。

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2020年10月15日 (木)

3843 AI考

30代に読書人間になって以降、Y老孟司から多大な影響を受けてきました。解剖学と言う切り口から入りながら、脳や体や生物や社会の仕組みをスパッと分析して見せる知性には、最初から脱帽しっ放しでした。その氏が、何人かの知性とAIに関して対談している文庫本はなかなかに刺激的でした。とは言いながら、対談の内容をフムフムと鵜呑みにするのもどうかと思い、自分なりのAIに対しての考え方を書いてみたいと思います。
さて、AIを語る上で欠かせないのは、いわゆるビッグデータでしょう。顔認証AIの場合は、人種。性別などを跨いで、しかも色々な表情変化を集めた膨大な顔データを機械に覚えさせ、機械の中で同一人である事を判定するための「パターン化」を学習させるのだと想像しています。しかし、それは人間の顔認識プロセスとは大きく異なる筈なのです。人間の場合は、人の顔をチラッと眺めただけで、その顔にある特徴的な点を瞬時に把握し、その特徴だけをピンポイントで脳に焼き付けるのでしょう。ですから、目つきにだけフォーカスしてしまうと、鼻や口や頭髪などの周辺情報は飛んでしまう事でしょう。
しかし、機械はそうではありません。顔の特徴を、輪郭から顔の部品まで網羅的に認識するからです。しかしながら、AIの最大の特徴は、顔認識でもそうですが、特定のプロセスが必ずしも、明確ではない点だと思っています。つまり、AI顔認識では先ずは、ある人物と監視カメラの人物とは、95%の確率で同一だとの結論を出す訳です。しかし、それは何故かと問われても、機械がそう言っているとしか答えようがありません。学習を深めれば、確率は向上するのかも知れませんが、どこまで行っても機械の認識と真実との間には、僅かであっても誤差が生ずるのは不可避でしょう。それを、敷衍すると機械が作った「疑似真実」と「本物の真実」との間の乖離は、影響に埋める事は出来ないと結論するしかないのです。
例えば、自動運転車が認識している車の外の状況は、あくまでいくつかのカメラが認識し、コンピュータの中で合成した状況であり、少なくとも人間が認識した状況とは差があるのが当然でしょう。従って、その差(いわゆる機械の誤認識)が原因となる事故が発生するのはむしろ必然でしょう。人間が運転している場合は、もし運転者の過失が原因であれば、事故の検証の結果によって罪の重さが決まりそれなりに明確ですが、自動運転車の場合一体誰が、どの程度の罪を負うべきかが問題になり続けるでしょう。
結局何処まで行っても、人間が直感で処理している、0と1の間の値は、コンピュータには絶対補完できない芸当だと言う当たり前の結論に至りるのです。つまり、機械に虹の7色の間にある無限のグラデーションや自然の中にある無限の環境のグラデーションなどを理解させることは、永遠に無理で、それがAIの限界だと言うしかなさそうです。そんな限界のあるシステムに、私たちの命を100%任せる事など出来ない相談なのです。全く運転ができない人に100%の自動運転車を運転させることなど絶対させてはならないでしょう。続きます。

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2020年10月13日 (火)

3842 百年の計2(世代間エゴ)

百年の計を立てる時に、障害の第一位に上がるのが、世代間エゴでしょう。つまり、まだ見ぬ子孫の幸福よりは、先ずは今生きている世代の幸福が優先されがちになるからです。現世代は、自分たちが今ヒモジイのに、将来世代のヒモジサまでは責任が持てないと主張するのです。しかし、戦後(今や高齢者となった)自分たちの親が、自分たちの食べる分を削っても、子供に食べさせていたことを、私たちは忘れてはいないでしょうか。その頃に比べれば、今はヒモジイのではなく、実は贅沢ができないことを嘆いているだけの様に見えます。
ハレの日ケの日ではありませんが、かつてのハレの日は、盆と正月と祭りの日と祝いの日くらいだった筈です。その他の日は、一汁二菜程度の質素な食事をしていたと振り返るのです。ケーキが口に入るのは、それこそ年に数回、甘いお菓子が思い切って食べれるのは遠足の日くらいだったのです。今、スーパーやコンビニの陳列棚に並ぶお菓子の種類の豊富さと量は、間違いなく度を越えているでしょう。それは、間違いなくコマーシャリズムは、際限なく湧き出してくる人間の欲望を満足させることだけに注力してきた結果でしょう。つまり、ベース食品ではない嗜好品と言う贅沢品の市場だけが突出して拡大してきたと言えるでしょう。
嗜好品の原材料は高価です。例えば、嗜好品を生産するための、コーヒーやカカオや植物油や砂糖などを得るために、途上国の農地がどれほど占拠されているか、それ想像するだけでこれらの嗜好品を口にすることが憚られます。これらの農地を拡大するために、どれほどの原生林が焼き払われているか(環境が破壊されているか)を想像出来れば、二度と口するまい、と思える筈です。しかし、明日になれば私たちはそのことを忘れ、また嗜好品を手に取り口してしまうでしょう。
百年の計を立てるには、私たちは先ずは自らを律する事から始めなければならないのです。そのためには、何が贅沢品あり、何が日常品であるかの峻別から始めなくてはならないと思うのです。考えてみなければならないのは、私たちの多く(殆ど)が、既に贅沢品の中毒に陥っていると言う事実です。例えば、お酒やコーヒーや甘いお菓子やチョコレートを絶つと、かなりの人たちが禁断症状を示すでしょう。禁断症状とは、中毒に陥っている証左だからです。贅沢品の禁断症状を無くすには、原因となる商品を、徐々に減らして行くしか良い方法は無さそうですが、それが将来世代のためと考えれば、それは十分可能でしょう。投稿者としても、まだ見ぬ世代の幸福の事を、一日に一度くらいは思い致しながら暮らす事にしましょう。

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2020年10月10日 (土)

3841 百年の計

ミニ遠征に出ていたためしばらくぶりの投稿です。さて、人間が、今だけを生きる動物と違って、真に人間らしいのは、未来を想像できる点にあると思っています。だからこそ、未来に向かって百年の計も立てることができる筈なのです。然るにです、国の予算を編纂するこの時期に、事実上青天井のコロナ対策予算にかこつけて、役人たちが政治屋たちとつるんで良からぬ策略を巡らしている様なのです。つまり、これ幸いとばかりに自分のテリトリーの予算を目いっぱい膨らませて予算要求をすると言う動きです。お役所の予算は、実績主義ですから、コロナで予算を大きく膨らませることができれば、予算枠が小さくなっても、自分たちの分野の予算の割合を大きくすることが可能になるのでしょう。
良からぬ策略の例の一つが、コロナ予算として、なんと月旅行プロジェクトの予算が計上され様としているのです。その予算要求の「理屈」ですが、月に旅行するための宇宙船では、当然の事ながら宇宙飛行士は、完全に隔絶された空間で長期間過ごす事になるのですが、それはコロナで、患者を隔離する技術を磨くことに資すると言う立派な「屁理屈」をこねている様なのです。もしこんな屁理屈がまかり通るなら、事実上どんな予算要求でも、コロナに引っかけてしまう事も可能になるでしょう。例えば、道路だって、コロナ患者を搬送するために無くてはならないでしょうし、箱物(建物)だってイザという時にはコロナ患者を隔離するために転用が可能だと言えば、必要だと言う屁理屈もこねられるでしょう。
長くても来年の予算や精々数年先の近視眼的な見方しかできない役人や、自分の票集めにしか興味が無い政治屋に、この国の国家百年の計を任せておくことは、どうやら無理だろうとの思いは、今回のコロナ予算を眺めていてますます強くなってきました。では、どうすれば良いかですが、今の選挙の仕組みでは、国民は直接的には如何ともしがたいのですが、しかしダメはダメとして庶民が声を上げていくしかなさそうです。幸いにも、今はSNSの時代です。政治屋も、日々つぶやきを発信し続ける時代でもあります。ならば、国家百年の計としての正論をつぶやいて、それを拡散し続けていくしかないと思うのです。続きます。

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2020年9月29日 (火)

3840 SDGs考2

SDGsのターゲットへの到達に対しては、例えば国が大目標を掲げ、それに企業や個人がついていくと言う計画も立てることができるでしょう。しかし、よくよく考えてみると、国が決めることができるのは精々法律程度で、その法律も規制法と基本法程度しか種類が無いのです。規制法とは、何か悪いことをする輩を取り締まるために、ある行為の○✕の境界を定めて、それを遵守させるための罰則などを設けて誘導するものです。一方で、基本法は「~を~しましょう」と言った,
勧奨のための法律であり、数値目標などが付属する場合もありますが、当然の事ながら罰則などは設けられません。もし、国がSDGsに関する法律を整備し、それを守らせようとするなら、将来この法律の目標が守られなかった場合には、ある種の罰則を科すと言った、これまでには前例の無かった法律を作る必要があるのです。
前例主義のこの国で、未達成の罰則付きの将来目標を示す事などできるとは思えませんので、従って残念ながらSDGsも絵にかいた餅になる運命にあるとしか思えません。勿論、国としても全くの無策で指をくわえて成り行きを眺めている訳ではなく、例えばSDGsを子供たちに学校で刷り込む作戦を考えたようです。これは、非常に時間が掛かる作業ではありますが、個人レベルの意識を持ち上げるにはややマシな作戦ではあります。しかし、年間数時間程度の押しつけの教育で、子供たちの意識が180度変わって、環境意識や差別意識や社会問題を解決する戦士になるなどとはとても思えません。意識を転換するためには、山積する問題を現場に立って実際に見せ、体験させる必要があると思うのです。
海洋のプラスチックごみの問題であれば、死んで打ち上げられたクジラやイルカや魚のお腹から、プラスチックごみが出てくると言う現実を目にする必要があるでしょうし、イジメ問題では不幸にして自殺した子の遺体を目にし葬儀にも出席する必要があるでしょう。格差問題では、マスコミがもっともっとその問題の核心に迫り、報道量を増やす必要もある筈です。
17個もカテゴリーがあり、169もの項目があるSDGsのゴールテープを切るのは、2030年までと言う時間の中では殆ど無理と思えますが、少なくとも私たちはそのゴールが示す方向には走って行かなくてはならないでしょう。省エネが、二度の石油危機で芽生え、定着した様に、SDGsに向けた行動が、何をきっかけに始まり、定着していくのか、SDGsのSの字も始まっていない今、全く想像もできませんが、いずれにしても社会に影響を与えることができる人たち(インフルエンサー)が先に立って、ムードを醸成する事は必須でしょう。投稿者には、インスタもUチューブも使えませんが、当分自分だけでも「一人SDGs行動」を続けていくしかなさそうです。

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2020年9月26日 (土)

3839 SDGs考

講演でSDGsの話をたっぷり聞きました。たっぷりと言うのは、講師によって今世の中で目にできるSDGsの17枚のゴールを示すシールの内のいくつかを表示した製品の紹介がいくつも示されたのです。確かに、産地でカカオの収穫から製品化まで一貫して作られたチョコレート、しかもその包装紙はカカオの殻で作られているとか。また、同様に農園名が明確に示されたコーヒーとかの紹介が数多く紹介されたのです。
しかし、考えてみなければならないのは、SDGsのカバーする範囲は、単に環境問題に限定されず、人種や性による格差問題、貧困などの社会問題など広すぎるし、2030年までの短い期間で、解決の方向が見えて来るような軽い課題でもないのは明らかです。しかし、その目標がいくら高くても、何か行動を起こさなければならないのも事実でしょう。勿論、これを誰か、例えば行政やNPOやNGOなどに任せて、自分は出来る範囲内でそれに協力すると言う態度もあるでしょう。と言うより、殆どの人たちがこの「待ちの姿勢」だと想像しています。
しかし、この様な態度では多分2050年まで待っても事態は変わらないどころか、多分かなり悪化しているだろうと想像できるのです。つまり、環境や社会の悪化・劣化の強い圧力に、ささやかな対策程度ではとても抗しきれないのです。例えば、温暖化効果ガスの排出量の削減です。SDGsでは、排出量の削減目標ではなく、単にエネルギー効率の倍増をターゲットに据えているだけなのです。気候変動に対するターゲットに至っては、数値目標として示されているのは、気候変動の被害に対する援助の額を定めている程度なのです。
つまり、SDGsの枠組みについては、ささやかな数値目標と、締約国が批准できる程度の「総論」しか書いていない(書けなかった)のでした。
それにしても、ささやかなSDGs製品が、いくつ集まったとしても、ESD投資家の投資先には選ばれたとしても、SDGsの目標(もし明確なものがあると仮定して)のどの程度貢献するかの定量的評価などとても無理でしょう。単に、ある企業のある製品が、どちらかと言えばSDGs方向に向いている、と言った程度の表明に過ぎないとしか見えないのです。
そうではなくて、国や企業や個人が、自分の子や孫の世代に、何を残せるか、何を残すべきかを明確な数値として理想を掲げ、その数値目標に向けて、今何処まで進んできたかを、随時示せる様な道標(マイルストン)を描くべきだと思うのです。例えば、企業であれば何時いつまでに再生可能型エネルギー100%(Re100)を達成するのか、先ずは設定すべきでしょう。その上で、どの様な手段やアプローチで、何時迄にどの様な投資を積み上げればそれが達成可能なのか、青写真を描くべきでしょう。続きます。

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2020年9月24日 (木)

3838 正しい目的2

人生のある時期から、目的と手段をできる限り明確にする様に意識してきました。とは言いながら、それが完全にできているかどうかについては、実は甚だ自信は無いのですが。3837に正しい目的は、正しい手段を選び取らせるとは書いたのですが、勿論ある目的を達するための手段は一つではなく複数存在するのも事実です。そうではあっても、やはり正しい目的を設定すれば、手段としても自ずとより正しいものに近づくとも思っています。
例を考えてみます。ここに人間として、より幸福になりたいと言う目的をもって人生を送っている人が居たとします。そのための手段を考える中で、人より多く労働をして、人より少し多くの報酬を得て、人より少し多くのモノを得たとします。しかし、人間としての幸福を突き詰めて考えて行くと、自分自身だけが財産を得て幸福になったと錯覚しても、家族や知り合いが不幸と感じていたり、一方で社会に貧しい人達が存在し、不幸に感じていたことを知ってしまえば、その人の幸福感は急速に萎んでしまうでしょう。つまり、その人が自分だけ人より少しだけ豊かになったとしても、そこにある種の「後ろめたさ」を感ずるならば、幸福度もかなり割引されてしまうのです。
しかし、お金を儲けてモノを買う代わりに、自分の労働時間を少しだけ他の人のためになる事に使った場合はどうでしょう。例えばボランティア活動です。この場合は、たとえお金儲け仕事とボランティアでやった活動の内容が殆ど同じだったとしても、幸福度は後者の方が断然大きくなると思うのです。結局、幸福になる目的の対象を、個人ではなく「自分と関わる他の人たちも含む」と広く正しく定めれば、同じ労働でも報酬を受け取る、受け取らないの違いで、得られる幸福感に大きな差が出てしまうのです。ここでの「正しい目的」とは、結局個人の幸福希求ではではなく、より多くの人々、これに加えて持続可能な環境への希求の様に、より広く正しい意味での幸福追求といったものになるべきだ、と思っている今日この頃です。

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2020年9月23日 (水)

3837 正しい目的

正しいニーズとは、結局正しい目的を持ったものと言い換えることができます。目的を誤ると、間違った手段を選択してしまい、最終的には間違ったゴールにたどり着いてしまいます。例えば、ある集団の人たちは、お金を貯めることを目的に選んでしまい、投機的な利殖など手段を選ばずにひたすらお金を増やすことに熱中してしまいます。
しかし、何度も書いてきましたが、お金とは価値交換の手段に過ぎず、それを多く集めたからといって、それで人生の目的の一つでもある「幸福」が買える訳ではありません。それどころか、お金持ちの多くは、財産を守ろうとするあまり、人間不信に陥ったり、家族との確執を抱えたりすることも多いのです。これは、取りも直さず目的と手段を取り違えた結果の悲劇と言うしかないでしょう。この取り違いは、実は世の中で広く目撃する悲劇でもあります。取り分け、政治の世界では、世の中を良くするという究極の目的を忘れ去り、票を集めて議員と言う身分を維持するためだけに汲々としている政治屋がゴロゴロと目に付きます。
最近のトピックスでは、新型コロナウィルスを封じ込めると言う目的のために、兎に角PCR検査と言う手段を最大限使って、陽性者を炙り出すべきだ、と言う暴論が横行したりもしました。この目的には、新型ウィルスによる症状(COVID-19)を可能な限り軽減できる薬の開発や既存薬の探索が理想でしょう。それが可能になれば、COVID-19も只のコロナ風邪にしてしまう事ができるからです。ワクチンが完成すれば、新型コロナウィルスはすぐにでも終息させることができるなどと考えるのは、全くの幻想(考え違い)であることは、過去のウィルス開発の歴史を少し振り返るだけで、明らかでしょう。
一見、患者数の推移グラフで流行が終息した様に見えるのは、コロナ風邪としてのCOVID-19を、通常の風邪対策(マスクや消毒や3密の回避)を真面目に行った結果であり、加えてウィルスは感染を繰り返す間に自然に弱毒化すると言う原理に従っているだけなのです。正しい目的は、正しい手段を選び取らせ、結果としても正しい結果をもたらすと言えるでしょう。

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2020年9月22日 (火)

3836 正しいニーズ

巷間お客様は神様である、などと言われることもありますが、では、お客が持つニーズは全て肯定されるべきかと問われれば、勿論そうではないと言うしかないでしょう。それは当然です。例えば、極端にお金持ちで、しかも我儘な客が持っている、邪なニーズなどには耳を傾ける必要もないでしょう。
では、何が正しいニーズで、何が邪なニーズであるかの基準ですが、公害や資源の枯渇やいわゆる環境問題がそれほど浮上していなかった時代には、確かにお客様は神様と呼んでも差し支えなかったでしょう。しかし、これは今の時代には適用できないことは自明です。何しろ、今以上の資源の無秩序な採掘による浪費(枯渇)やその結果としての環境悪化は同の様な道筋で考えても、許されることではないのは明らかだからです。取り分け、温暖化効果ガスの排出は、殆ど限界に近付いていると見る専門家も多いのです。
かつては、普通のサラリーマンが、普通に家電や車を買い揃えるのは消費を拡大し、GDPの拡大に有益で、大いに奨励された時代もありましたが、環境の時代には相応しい行動とは言えないでしょう。この国では、現状で既に8千万台以上の車が登録されており、もしそれらを全てそれらを動かしたと仮定すれば、車は道路に溢れ、たった1㎞でさえも走れない超渋滞に陥るでしょう。それは、この狭い国土の国道を全て車の縦列で塞いでしまうほどの数量なのです。大型の中古車展示場には、数百台の車が並んでいることも珍しくはないでしょう。この国の車台数は、殆ど飽和状態だと言うしかありません。もはや、車に対するニーズは、環境の顔色を覗いつつ、遠慮しながら表明すべきものになってしまったのです。
結局。何度もこのブログで繰り返している様に、正しい消費行動(=正しいニーズ)とは、環境の持続可能性に配慮した、必要最小限の「遠慮がちでつつましい」ものであるべきだという事になります。具体的に言えば、メーカーは受注生産を基本に据えて、必要な数量を、必要なタイミングで生産し、一方で消費者はといえば、注文してから商品を手にするまでの一定の日数の間、「待つ楽しみ」を知る必要があるのでしょう。その期間はと言えば、普通の商品であれば数週間、車などの耐久消費財であれば数か月と言った期間を指します。

 

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2020年9月16日 (水)

3835 構造と機能とニーズ

この表題については、以前も「団子三兄弟の法則」として書いた様な気もしますが、どうせ人気の無い随筆日記の様なブログですので、重複しても構わないでしょう。さて、少し誇張はありますが、万事は「構造(Structure)」と「機能(Function)」として説明できると言うのが投稿者の考えです。例えば、脳と言う構造があって、その上で心(精神)という機能が走ります。会社組織と言う構造があって、初めてビジネスが動くと言った具合です。同様に、文法と言う構造があって、初めて言葉が意味を持って機能し、コミュニケーションが成立することになるのです。
今、五感で感ずる事ができるほぼ全ての事象が、この構造と機能で説明できると仮定しても、それでは何故その様な構造が出来たかの説明までは出来ません。何かが欠けています。その欠けているものこそ「ニーズ(必要性)」であると投稿者は気が付いたのです。つまり、何らかの必要性があって、それを満足するための機能を持つ構造が徐々に出来上がって来たと考えた訳です。脳は、進化の過程では、単なる神経節(神経の交差点)に過ぎませんでした。神経が体の隅々までつながっていて、その末端からの刺激(入力)に対して、どう行動すべきかの指令(出力)を出すのが、神経節の役割だったのです。
しかし、その神経節は徐々にですが単なる反射行動の出力だけではなく、種々の判断や少し先の予測、結果としては将来の行動の計画まで思考を巡らす事ができる器官にまで進化したのでした。その原動力としては、進化の過程でより多くの子孫を残し、地球上で繁栄すると言うニーズがあってこそ、脳と言う構造を大きく発達させてきたとも言えるでしょう。言語の発生の初期に、いくつかの単語があったとしても、それを単に並べても他者に複雑な意味を伝える事は出来なかったでしょう。そのもどかしさがニーズとなって、徐々に文法が出来上がり、それを使って微妙はニュアンスも伝えられる文学なども並行進化してきたのでしょう。
もし、今すでに存在する構造と機能、例えば社会や政治や各種のビジネスなどの正当性をチェックしたいと思ったのであれば、先ずはその背景にあるニーズを今一度確認してみるのが近道だと思うのです。戦後、この国の社会があるいは政治システムが今ある様になった背景としてのニーズを見直せば、どの様に軌道修正をすべきかどうかが判断できるでしょう。但し、それはあくまでもそのニーズが、「ある基準に照らして正しい」と判断される場合に限られることは自明です。間違ったニーズは、間違った構造や機能を出現させるからです。正しいニーズとそのに基準に関しては続きます。

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2020年9月15日 (火)

3834 蛹(さなぎ)期

あるZOOMミーティングで、自分の人生を簡単に振り返ってのライトトークを行いました。その中で、人生の曲がり角と言うか、進む方向に悩んだ時期を、昆虫の成長過程である蛹(さなぎ)に例えて、蛹期(ドロドロ期)と呼んでみました。と言うのも、芋虫であった幼虫が成虫になるためには、蛹の状態で体全体を成虫の形に造り替える過程で、体全体の形を無くして、さながら一度ドロドロに溶けてしまうからなのです。その過程は、さながら人間がそれまで進んできた連続した人生に迷い、立ち止まり、新たな方向を模索する姿にも重なるのです。
勿論、ドロドロの中身を持つ蛹になるとは言え、それまで自分を構成していた部品あるいはモジュールまでご破算になる訳ではありません。それらを使い回して、より高いレベルの人間(成虫)となるべく新たな自分を再構成するしかないのです。つまりは、昆虫や甲殻類で言うところの脱皮過程がこれに当たります。脱皮直後は、体の組織全体が柔らかいので、色々な刺激や情報や物質を取り入れて、一回り大きくなる余地も広がります。人間は、肉体的には連続した成長と歳を重ねての衰退の過程を経験しますが、とは言いながら脳とその機能に関しては、脱皮の様な大きな変化が起こる可能性があると信じています。
芸の世界では、ある日突然何かに目覚め、長足の進歩を遂げる状態、いわゆる「化ける」ことがある様ですが、脳も化けると思うのです。化けるためには、天才を別にすれば、凡人は苦しみ、悩み、もがく時期もたぶん必要なのでしょう。実際に投稿者も、人生で何回かその様な時期を経験して今があると思っています。それは、ある日突然、「このままで良いのか自分?」と言った疑問が湧き上がる事から始まった様な気がします。学生時代にも、配転で仕事内容がガラリと変わった時も、会社人間としての自分のサラリーマン人生の,行く末が見えてしまった時にも、テロ事件で自分が関わる業界が否定されてしまった様に感じた時も、同様の疑問が湧き、蛹期に入ってしまった様に振り返っています。
しかし、蛹期を否定的に捉えず、「脱皮のための過程だ」と前向きに捉えれば、もがきも悪い事ではないでしょう。勿論、脱皮するためにはそれなりの蛹の中で自分を作り替えるための準備期間が重要で、必須であることは論を待ちません。問題は、蛹の殻を何時破るかですが、これはまさにその人によるとしか言えません。人によっては、考え過ぎて何時までも脱皮できないかも知れませんし、先ずは殻を破ってからもがきながら行動を起こす人も居るでしょう。人間の自発的な変化の全ては、「このままで良いのか自分?」と言う疑問から始まると思うのです。

 

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2020年9月12日 (土)

3833 コロナ後の社会3

コロナ後でも、私たちの基本的な生活が無くなってしまう訳ではありません。それどころか、社会の7-8割は、社会の基盤を支えるために、慣性を伴うゆるぎない流れを持っていて、事実上止まることも止めることも出来ないでしょう。これを世の中のベースと呼んでおきます。コロナで最も打撃を被ったのは、その上に乗った2-3割の産業だったのです。それは、いわゆるサービス産業と呼ばれる分野です。つまりは、観光や旅客輸送やエンタメや外食産業、接客業など対面でのサービスを提供する商売です。
それらは、勿論不要不急だから人々の接触の機会を減らすために自粛の要請をされた訳で、事実全国レベルの自粛要請でも、私たちはストレスは感じたものの特に生きていくには不自由は無かったのでした。つまり、影響を受けた商売は、社会の余裕の部分で成り立っていた産業だったとも言えそうです。勿論、人間は余裕が無い生活に長期間耐えるのは難しいでしょう。ストレスに弱い人達は、体だけではなく精神的にも変調をきたしてしまうかも知れません。
かといって、バブル期の様に世の中が余裕でダバダバになった時代は、やはり異常だったと言うしかないでしょう。では、コロナ禍の直前の状況を思い起こし、ベースと余裕のバランスがどうだったのか考えてみます。ひいき目に見ても、あれはミニバブル期だったと言うしかないでしょう。世の中には、N銀が増刷した?低金利のマネーがダバダバに流通し、タワマンに人気が集まり、人々は熱に浮かされた様に、国内や海外旅行に出かけたのでした。リーダーが、地球の裏側まで土管を通って出かけ、ピエロ(マリオ?)になってまでオリンピックを誘致・喧伝し、インバウンド旅行客も3千万人レベルまで引き込んだのでした。これをバブルと呼ばずになんと呼ぶのでしょう。90年代が、土地&金融バブルだったとすれば、これは「余暇バブル」とでも呼ぶのでしょうか。
私たちは、ベースと余裕のバランスを取り戻さなくてはならないと思うのです。盆と正月とお祭り程度しか楽しみの無かった時代もありましたが、コロナ禍前のレベルを考えると、余裕の部分は半分程度でも十分に余裕を感じられると想像しています。つまり、旅行や外食や飲み会の回数も半分程度に、日用品以外の買い物を半分程度に減らしても、誰も何も困らないでしょう。それどころか、旅行や買い物の機会が半分減ると、次の観光やショッピングを待つ楽しみが、多分倍以上には大きくなると思うのです。子供の頃、待たされて待たされて、やっと買ってもらったオモチャを手にした時の感動を思い出してみてください。年に一度、クリスマスイブにホールケーキを切り分ける時の、子供たちの狂喜を思い出してください。長い休みの時には、父の親戚や母の実家に泊りがけで出かけた時、大人にチヤホヤされた時のうれしさを思い出すべきです。
コロナ禍を機会に、余裕を削って、少しの我慢を楽しむゆとりを持ちたいものです。サービス業に従事する人たちには申し訳ありませんが、社会の余裕の甘い味の汁を吸う側ではなく、ぜひ農林水産業や製造業に戻ってきていただき、社会のベースを支える側に回って貰いたいものです。
それでなくとも、私たちは既にモノ造りの多くの部分を海外に依存し、建設業や農林水産業では、海外からの労働者にかなりの部分を頼っているのですから・・・。この項一応終わります。

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2020年9月11日 (金)

3832 コロナ後の社会2

新型コロナウィルスが弱毒化してしまったのかについては、素人には判断できませんが、事実として重症化する人や亡くなる人の数が現状の程度であれば、最早「普通のインフル」と同程度ではないかと考えこんでしまいます。確かに、コロナ騒ぎの初期は、重症化した人や亡くなった人の、真っ白になった肺の写真がニュースに流れ、私たちの恐怖心を煽ったものでしたが、最近はそんな映像も殆ど流れなくなりました。一般に行政は、一度振り上げた鉈を急に取り下げてしまう事は出来にくい組織であるため、今の時期になってもなお、毎日のニュースのトップはコロナ色で染まり続けている様です。
つまり、なんとか委員会やかんとか評価委員会などは、一度作られると定期的な会合を開き、それなりの報告書なり議事録をまとめる訳です。行政組織は、それを恭しく受け取り、何らかの行動を起こすことになります。これらの委員会は、事態が完全に終息するまでは閉じられませんので、何時までもニュースネタになり続けるのです。そろそろ、コロナ禍から日常に戻す事を考えるべき時期でしょう。
さてコロナ後の社会です。コロナが、ここまで派手に世の中を乱すのであれば、それを逆手に取って世直しのきっかけにしたいものです。つまり、これまでの社会の流れの中で、底に沈殿してしまったオリ(諸課題)を、全体をかき混ぜる事によって浮き上がらせ、もう一度露わにする必要があると思うのです。例えば、K泉構造改革なるもので、一気に増えた非正規労働ですが、結果としては、所得格差に社会の底に沈んでいまいそうな層を増やしてしまったのは否めないでしょう。何は無くとももう一度「同一労働、同一賃金」の原則を、私たちの目の前にドンと引き出すべきでしょう。
その結果、例えば製造業や一次産業からサービス業への一方的な労働人口の流れにも歯止めが掛かると思うのです。ITやロボットだけで、日本のモノ造りを支える事が出来ないのは明らかでしょう。いわゆる、伝統工芸と言った熟練の技や、手加減などと言うものは、デジタルで割り切るITやロボットには真似が出来ない世界なのですが、それでもこの国はデジタル化に突き進もうと藻掻いているのです。
そうではなくて、これからの労働者には、働くことによって「生き甲斐、働き甲斐」を感ずることができるものにしていく必要があると思うのです。理想的には、単にお金のために働くのではなく、働くことによって誰かの役に立ち、働く方も、便益を受ける方も、双方がある種の「幸せ」を感ずることができ、結果としてお金にもつながる様な仕組みを目指すのです。何でもお金に価値転換するのではなく、現物(物々交換)や労役による代価の支払い、地域通貨などによる価値転換も有効な手段となり得るでしょう。お金による決済は、1円単位のデジタル換算になりますが、物々交換や地域通貨は、双方が納得さえすれば、アバウトで緩い決済でも何も問題は生じないでしょう。さらに続きます。

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2020年9月10日 (木)

3831 コロナ後の社会

コロナ禍を、右肩上がり神話社会(自由主義経済社会)の一つの踊り場とみなし、一服しましょうよ、と呼びかける経済学者の言葉に賛同しました。振り返ってみれば、投稿者が直接目撃してきたこの国の戦後の歴史でも、いくつかの踊り場がありました。例えば、石油ショックや円高不況、バブル崩壊からリーマンショックを経ての長い停滞期などです。しかし、官僚やリーダーたちは、そのたびに我武者羅に「経済対策」をうって、景気を浮揚させることに躍起になったのでした。
さて、投稿者は、日頃から目的と手段の峻別には気を使って生きてきました。戦後の復興期まで遡れば、この国の政治家や経済人の「目的」は、モノや食べ物を潤沢に流通させ、先進国に追いつき、出来れば追い越したいといったものでした。実際、所得倍増計画を打ち上げたリーダーや、「列島改造」を掲げたリーダーなどにけん引され、確かにこの国は豊かになってきたのでした。しかし、資源の少ない国の悲しさで、潤沢にエネルギーや資源や食料を輸入するためには、さながら自転車をこぎ続ける様に、モノを作りそれを輸出し続けなけれなならない宿命を背負っているのです。そうでなければ、スピードの落ちた自転車の様に不安定になって、最悪の場合は倒れてしまうでしょう。
製造業や流通業などには、それでも「イナーシャ(慣性)」がありますが、例えば観光業の様な典型的な「自転車型産業」は、真っ先にコロナ禍の割を食って、バタバタと倒れつつある様です。つまり、スーパーで食料を買って飯を食わないと死んでしまうが、外食や旅行に出かけなくても死にはしない、と言う事なのです。
そこで考えなければならないのは、減速しても倒れない産業や社会構造でしょう。輸出やインバウンド需要だけに頼る産業は、今回のの様な踊り場になると出口が見えなくなりますが、しっかりした国内需要や根強い海外需要などに対応する産業は、骨太で安定するでしょう。要は、2輪ではなく、産業や社会構造を3輪や4輪デザインし直す必要があると言う事なのです。それにつけても、去年と今年に全く経済的な成長が無くて、何が悪いのでしょう。今より悪くならないのは実は良い事だとは考えられないのでしょうか。続きます。

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2020年9月 9日 (水)

3830 コロナから人類への手紙

V.R.Reichの「コロナから人類への手紙」と言う詩が身に沁みました。彼女は、コロナから人類への手紙と言う形をとって、コロナウィルスは、環境が人類に送ったメッセージであり、最初はそれを軽んじていた人類が、やがてロックダウンや自粛などで経済活動を大幅に減速せざるを得なくなった状況を、コロナウィルスが、「さもありなん」と冷ややかに眺めている様を詩に書いているのです。詩人の言葉はシンプルですが力を持っています。
経済減速結果、C国の石炭火力発電所も大幅に出力を絞り、すっかり春の風物詩となってしまった、偏西風に乗ってやってくる黄砂とPM2.5の混合物による大気汚染も随分軽減されたのでした。各地の観光地の人出も大幅に減り、観光客が大量に排出していたごみも随分減った事でしょう。勿論、コロナ前の平常時であれば車や航空機や貨物船から大量に排出されていた筈の排気ガスも同様に格段に減ったのでした。
コロナウィルスによるCOVID-19を単なる伝染性の疾病と捉えず、悲鳴を上げていた地球環境からの警告の手紙と捉えたこの詩は、改めて人類に「環境倫理」を呼び起こさせるものとなりました。冷静に考えれば、私たち人類は、COP会議での目標値やSDGsの17個のゴールを参照するまでもなく、理想の旗印を掲げるのは得意なのですが、各論や実行段階では常に腰砕けを繰り返してきたのです。しかし、COVID-19は「強制力」を以って、私達の経済活動に強力なブレーキを掛けた稀有な例でしょう。勿論、コロナが終息した暁に、経済活動が完全に元に戻るなどと考えるのは幻想でしょうし、仮に出来てもそうするべきではないでしょう。
前向きに考えるなら、コロナ禍の経済活動の制限によって、経済が適正なレベルに回帰したと考えるべきなのでしょう。つまり、この狭い日本に、3000万人もの観光客が押し寄せるなどと言う事態こそが異常なのであり、適正なレベルは、多分その1/3以下であった事が、コロナ禍と言う冷水を被ったことにより、交通インフラや旅館業や飲食業も小売業なども思い知らされたと思うのです。この国は、無理な詰め込み型の観光立国を諦めて、コロナ後に相応しい別の飯のタネを探すべきでしょう。

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2020年9月 8日 (火)

3829 環境倫理

この表題では、過去に何度か書いた気がしますが、似た様な中身になっても何度も書いておきたいとも思っています。そもそも、倫理(学)と言う言葉ですが、ある哲学者によると、「倫」と言う文字は、人と人との関係を表わすのだとか。その理(決まり事)を倫理と呼ぶのですから、つまりは人として行動すべき規範を論ずる学問と言えるのです。
その倫理に、環境を冠すると、つまりは環境と人間の間の理の話になるのです。環境と人間の間の理(原則)ですから、当然の事ながら今人間が行っている様な、環境からの一方的収奪など論外であることは当然です。最低でも、環境を思いやる気持ちを以っての譲り合いが必要でしょう。しかい、具体的にどの様に譲り合うかと言う各論になると、なかなかスッキリした方策は述べにくい様です。例えば、地球からの資源の収奪と言う1点でも、誰がどの資源をどの程度節約するか、と言う議論になると、多分多くの国々は「既得権」を主張して譲ろうとしない筈です。
同様に、使用済みの資源(廃棄物)を環境に放出する、いわゆる「環境負荷」に関しても、先進国の既得権と、途上国の将来の排出権のせめぎあいが生ずるでしょう。取り分け、直接的には目には見えず、人間の五感でも感ずることができない、CO2の排出に関しては、それを抑制しようとする機運は、北欧の少女に叱られても、殆ど盛り上がらない状況です。
ここでの結論としては、時間は掛かりますが、先ずは幼少期から、子供に対しての「環境(倫理)」教育を施す事こそ最重要であると言っておきましょう。幼児だって、人間が環境を如何にイジメているかについては、十分理解してくれる筈なのです。続きます。

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2020年9月 7日 (月)

3828 良いニーズとは

少し前に、あるニーズを充足するために色々なモジュールが出来上がると書きました。例えば、人は生きていくために一定程度の食料を確保し、日々それを摂取して暮らしていく必要があります。そのニーズを満たすために、ある人は自分で畑を作って作物を育てるでしょうし、またある人は流通業を興して、例えばスーパーマーケットを経営するかも知れません。いずれにしても、人は食べ物を口にしないで生き続ける事は出来ませんので、そのニーズを満たすために種々のモジュールが出来上がるのです。
しかし、考えてみなければならないのは、ニーズには良いニーズと、悪いニーズがあると言う点です。良いニーズとは、取りあえずここでは、必要最低限であり、環境への負荷が最小限で、持続可能性が高いものと定義しておきます。逆に悪いニーズとは、これと真逆で、慾深く、自己中心的で、資源を浪費し、持続可能ではないものとなります。
具体的に悪いニーズの例を挙げると、例えば馬力のデカい車に乗って、普通の車をスイスイ追い抜いて、優越感を感じたいと思うと言ったものになります。ネットを使って、楽をしてお金儲けがしたいというのも、悪いニーズの例の一つとして挙げておきましょう。殆ど何もしないで、お金が儲かるいうことは、誰かが知らない間にお金を損していると言う事と同じ意味になりますので、やはり不労所得は、間違いなく持続可能ではないでしょう。その代表例としては、いわゆる株や電子マネーなどを使ったマネーゲームが例示されるでしょう。株を安値で買って、高くなった途端に売り抜ければ、汗をかかずにお金を儲ける事ができるのでしょうが、裏では誰かが後手に回って、損をしている筈なのです。誰かの損の上に、誰かの得が乗っかっている状況は、経済的には合法でも、やはり倫理的には「悪い」ニーズによる、悪いモジュールの働きと言う事になってしまいます。
では良いニーズとそれを実現する良いモジュールの例になりますが、なかなかズバリと言えるものは見つかりそうもありません。と言うのも、人類がここまで繁栄した(得した)裏には、多くの生物の絶滅や、資源の枯渇や環境の悪化などの諸悪が積み上がってしまった訳で、人間の得が環境の損という相反するベクトルの融合点がなかなか見つからないからです。その中では、環境負荷を可能な限り抑制するニーズとそれを実現する様なモジュールが、「あまり悪くはない」例になるのでしょうか。具体的に言えば、再エネの拡大がその例になりそうです。

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2020年9月 6日 (日)

3827 何で食っていく?

結局、長く続いた国の景気刺激策はと言えば、ひたすらお金をダブつかせ、そのお金で株を買わせて株価を上げ、円高を抑制しつつ海外からインバウンド客を誘導する、と言ったものでした。地方創生とか口では言いながら、長距離バスで移動する海外の観光客が、観光地に少しお金を落としたり、時たま港に豪華客船が立ち寄り、慌ただしく何十台ものバスで観光客が動いたリしたものの、何時まで待っても具体的な経済の波及などは見られなかったのです。地方創生とは、ある政策を以って、地方に然るべき産業を興し、雇用を創出する必要があるのですが、一方では地方自治体では相変わらず、税制優遇をエサにした企業誘致くらいしか具体策を持ち合わせていない様です。
真の地方創生とは、地方の中でお金がグルグル回る様な、仕組みを作ることだと思うのです。地方は、地方交付税や個人レベルでは、給与や年金の多くの部分を、中央に吸い取られてしまっているのです。大規模公共事業では中央のゼネコンが采配を振るい、市民はエネルギーや加工食品や日用品や車などに対して、大企業を通じてお金を吸い上げられているのです。
そうではなくて、地方でお金が回る仕組みとは、地方発の再生可能型エネルギーで地域の需要の大きな部分を賄い、地域で採れる食料を地域内で加工しながら消費し、余った分を中央に送って売り、車や設備などを地域内で上手にメンテナンスすることによって、外に出るお金を抑制しつつ、それらを維持するための産業を生み出す必要があるのです。
かつて、何度かヨーロッパを訪れて、優れた仕組みを見学したことがありますが、南ドイツのある村の取組みは特に印象的でした。そこでは、林業、農業、製造業、エネルギー産業などがバランス良く整っていたのです。村内では、山の木を循環的に利用する林業があり、その材を使って村内の住宅や公共施設が村人の手によって建設され、畑ではナタネを育てて、そのナタネ油で車やトラクターを動かし、村内には村外から買ってきたトラクターを林業用機械の改造するための工場まであったのです。結果として、職もあり子育てし易い村の環境が、都会から若い家族を引き寄せ、幼稚園や小学校にでは多くの子供たちが走り回っていたのです。結果として、この村ではお金が村外に出て行かないのです。何より田舎が子育てする若い家族には理想的な環境であるのは間違いが無いでしょう。勿論、年配者にだって暮らしやすいのです。何故、この国では地方創生が、インバウンド誘導しかなく

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2020年9月 5日 (土)

3826 観光業界のシェイクダウン

インバウンドも、日本から海外に出かけるアウトバウンドも激減し、観光(旅行)業界は、このコロナ禍で大きなダメージを受けています。90%の激減などと言う数字は、これまでの連続的な経済活動の中では、激震でパックリと大きな断層が出現した様なショックなのでしょう。断層ですから、元に戻ることはなく、地震が治まった後にもかなりの後遺症が残ると想像しています。大きな地震では、例えば鉄筋コンクリート造や鉄骨造の耐震構造の建物は残るでしょうが、古い構造の華奢な建物は倒壊してしまうでしょう。
お国の旗振りで、急増したインバウンド客を受け入れるために建増しした宿泊施設や、急激に数を増やした旅客機や高速バスと言った設備投資が、このコロナ・シェイクダウンに耐えられるかどうかですが、投稿者としてはかなり難しいと見ています。つまり、減価償却が進んだ設備で対応可能は事業者は残れるのでしょうが、急激な投資で多額の負債を抱えている事業者は、間違いなく資金繰りに行き詰まり、消えて行かざるを得ないと見ているのです。
社会が行動自粛に慣れてくるにつれて、人々は熱に浮かされたかの様に旅行に出かけ、美味しいものを食べ、それを写真に撮って、お土産やブランド品を買って帰るだけの旅行(物見遊山)などのために、何もしょっちゅう出かけなくても生きていけるという事に気が付いたと言う事なのでしょう。
統計データを少し振り返ると、2012年までのインバウンド旅行客は精々1千万人以下のレベルで推移していたのです。しかし、国が突然旗を激しく降って、あっと言う間に(5-6年で)3千万人を数えるレベルまで増やし続けたのでした。さあ次は4千万人だと意気込んだところを襲ったのがコロナ禍だったのです。冷静に眺めれば、数年で3倍に成長する産業など、誰が考えても「バブル需要」でしかないことに気が付く筈なのです。関係者には申し訳ないのですが、バブルは弾けるしかありません。バブル前の、1千万人レベルの設備状態に早急に戻さなければ、観光(旅行)業界は壊滅的な打撃を受けてしまうだろう事は素人目にも明らかです。

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2020年9月 3日 (木)

3825 技術屋モジュール

投稿者は卒業したとはいえ、元技術屋なので、曲がりなりにも自分の中に技術屋モジュールが存在し、残っているはずです。そのモジュールとは、つまりはあるニーズを科学・技術の力を借りて、モノの形で実現するモジュールである訳です。例えば、投稿者は航空機の生産技術を生業としていましたので、設計された航空機の部品をある許容されたコストの中で、品質を保ちながら製造する仕組みを作らなければなりません。設計図と言うインプットにより、実際の部品と言うアウトプットを出す役割を担ったモジュールと言えるでしょう。
つまり、個人の中にある一つのモジュールは、あるニーズに基づいて、一定のインプットの条件下で、ある水準のアウトプットを出すものであると定義できるでしょう。それが、ハードウェア(一部にソフトウェアを含む場合があるが)の製品であれば、それが技術屋モジュールと言う事が言えるでしょう。
しかし、考えてみなければならないのは、ニーズ、インプット、モジュール、アウトプットそれぞれの質でしょう。そもそも、顧客からの滅茶苦茶な「わがままニーズ」に真面目に応え様とする技術は失敗するでしょう。それは、質の悪いニーズに応える悪い製品だからです。同様に、瞬間的に爆発するような「ブーム」によって引き起こされるニーズも、質の悪いニーズと言えます。
一方で、質の悪いインプット(設計図)も、下流に悪い流れを呼び込みます。過去に起こった、多くの事故は、かなりの割合で設計ミスに起因するものも含まれていた筈です。表面に出るミスは、リコールと言う形で公表されますが、水面下には多くの未公表の事故が隠れているのです。また、質の悪い製造(生産)技術も、質の悪い製品を生み出します。しっかり定まってはいない工程、未熟な作業者、製造設備のメンテ不良、不十分な検査、などによって不良品が工場の外に出てしまうのです。
しかし、近年この技術屋モジュールに新たな質判断の基準が加わっています。それは、持続可能性と言う基準です。素材の継続的な調達の保証、製造と製品使用中に掛かるエネルギー消費量、製造工程中と製品使用後に発生する廃棄物の適正な処理など、その製品が環境に与える負荷(インパクト)が、如何に低いかが問われる時代になったのです。その意味で、一例ですが、使用中の環境負荷(化石燃料の消費率)が、鉄道に比べて1桁高い航空機は、やがて淘汰されるべき交通機関だと断言できます。これが、投稿者が50歳の頃に航空機の技術屋を卒業し、環境屋になった所以でもあります。

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2020年9月 2日 (水)

3824 私とは?2

3823の最後に、私たちがある状況に置かれると、その状況に合わせた行動ができる様に、脳の中にモジュールができると書きました。という事は、生まれ落ちてからの脳の発達(自我の形成)に対しては、脳は受動的に対応するとも考えられます。脳が、何か自分で目的を見つけて、能動的にあるモジュールを作り出す事は、普通では起こらないと見ています。
そうであれば、私(たち)の脳に、有効ないくつかの行動モジュールを形成しようと考えた場合、先ずはそれにふさわしい状況の中に身を置く必要がありそうです。勿論、同じ状況に置かれた別々の人間に、全く同じモジュールが育つと言う訳ではないでしょう。一卵性双生児においてさえ、異なったモジュール(個性)が形成されてしまう事でもそれは分かります。増してや、異なった遺伝子を持って生まれた他人においておや、と言う事でしょう。それでも、モジュールの形成には継続的に「良い」刺激が受けれる様な状況(環境)が不可欠であると言う点は変わらないでしょう。
問題は、その状況に「意に反して」投げ込まれたか、あるいは自ら進んでそこに飛び込んだか、と言うモチベーションの違いは、出来上がるモジュールの質に決定的な差を生み出す筈です。つまり、良いモジュールでは、状況の変化に対して「ポジティブ」な反応を起こすでしょうし、出来損ないのモジュールでは「ネガティブ」なものとなってしまうでしょう。良いモジュールの形成に必要で有効なイベントは、多分いくつかの成功体験の様な気がします。それによって、モチベーションが強化されるのは間違いが無い事実だからです。逆に、その状況で失敗が続いてしまうと、歪なモジュールが出来上がってしまうでしょう。
勿論、生まれついての性格(傾向)の様なものもあるとは思いますが、やはり真っ白な脳をある色に染めるのは、幼児期の親の対応であり、幼児期の家庭内でのモジュール形成は最重要であることは論を待ちません。その意味でも、人生で子供一人に対してたった1回しか親になれない身としては、自分の子を眺めるにつけ、数々の失敗を苦い思いで振り返るしかありません。もう一度親をやり直せるチャンスが与えられるなら、良い「子供モジュール」が形成できるのに、と不十分な「父親モジュール」しか持てなかった自分を振り返り反省しきりです。勿論、あれもこれも完全な後知恵ではありますが・・・。

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2020年9月 1日 (火)

3823 私とは?

ZOOMミーティングの続きの雑談で、「私とは何か?」と言う話題になりました。その時は上手く言えなかったのですが、投稿者としての考えは、次のようなものなのです。人は、生まれた時はほぼ真っ白で書き込みの少ない脳を持ってこの世に出てきます。脳は、信号(=入力)を処理して、自分が生き易くなる出力(=行動させるもの)を出す器官ですが、やがて赤ん坊の脳には、種々の「モジュール」が出来上がってくると思っています。つまり、母親や家族との関係で、自分は無力な赤ん坊であると言う自覚?での行動パターンを起こすモジュールです。お腹がすいても、オムツが濡れても、何処かが痒くても、暑くても寒くても、取りあえず鳴けば誰かが何とかしてくれるでしょう。
やがて、物心がつくにつれて近所の子供や大人たちとの間に、社会的な関係が生まれてご近所社会モジュールも出来てくるでしょうし、幼稚園や小学校でもそれぞれのモジュールが出来てくる筈なのです。やがて、学校を卒業すれば、社会人となってサラリーマン(職場)モジュールも出来るでしょうし、友人たちとのモジュールや趣味モジュールも出来てくるかも知れません。投稿者の結論としては、これらを全て括ったものが、自分=私と言うモジュールだと思うのです。各モジュールの中では、何度かの経験を通じて私の行動パターンも決まってきますので、自分以外の人がその行動を眺めて「個性」なるものを発見することもあるのでしょう。
勿論、一つのある刺激(入力)に対して、同じ人が同じリアクションをするとは限りません。その時々で状況が異なるからです。それを、投稿者はモードに違いとして大まかに括ってみました。モードは3つあり、脳のある部位(扁桃核など)が関係していると言われています。その3つのモードとは、「戦う、耐える、逃げる」です。
つまり、人はある状況で行動する際には先ず、その時使うモジュールを選び取り、周囲の状況に応じて、3つのモードの内の一つを選び取ると考えるのです。サラリーマンが、会社に着くと同時に直ちに職場モジュールに切り替わり、退屈な業務を殆ど「耐える」モードで過ごすのです。時には会議で、自分の意見とは異なる意見の人と意見を「戦わせる」モードになることもあるかも知れませんが、戦うモードは持続は出来ないのです。しかし、逃げモードだけを続けていると、やがて自閉的なモジュールが出来て、その中に閉じこもってしまう人も出来てしまうのかも知れません。もしかすると、近年社会に順応できない(出来にくい)人の割合が随分多くなった所以かも知れません。
投稿者としては、私たちに色々なモジュールが出来てくるのは、人がある状況に投げ込まれると、その状況の中で楽(あまりストレスを感じないで)に生きていくために、脳がそのモジュールを作り出さざるを得ないのかも知れないとも思っています。

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2020年8月31日 (月)

3822 宇宙開発???

3821,3822で空飛ぶ車を切りましたが、返す刀で宇宙開発も切っておきましょう。これも何度か取り上げた表題です。「宇宙開発」などとボンヤリ書くと、何か大きな夢のあるプロジェクトの様に聞こえます。確かに、各種の測地衛星や通信衛星、GPS衛星などの様に、もはや日常生活に不可欠になった成果も多いのですが、一方で単に人を宇宙空間に滞在させるプロジェクトや、月や火星に衛星や人を送ろうとする「国威発揚」プロジェクトは、多額の費用やリスクの割には、得られる成果は少ないと感じています。例えば、国際宇宙ステーション(ISS)を見てみましょう。2024年まで運用を続けると仮定した場合、その費用は15兆円を超えると見積もられています。その費用を、新型コロナウィルスを始めとする、各種疾病の撲滅のための研究や、山積する地球環境問題に振り向けることができれば、どれだけその恩恵に与る人々が増えるかを考える時、勿体無さに軽いめまいを感じてしまいます。
ISSの運用開始(2011年)からのそこでの各種実験結果が、今世の中の役に立っている技術に応用されていると主張する人が居るなら、その「費用対効果」の理屈をじっくり聞いてみたいものです。天文学的な費用を掛けた実験の中身は、金よりも何桁も高価な数グラムの合金作成であったり、高額過ぎてとても人には使えない薬剤の製造だったり、単なる無重力下での動物や植物の飼育実験だったりするのです。実験者を宇宙に送る費用や、滞在のための物資を送る費用を考えると、一人当たり、1日当たりの滞在費用たるや、軽く億円単位になると想像しています。
増してや、単に再度人類を月に送るとか、数年を掛けて人を火星に送るなど、莫大な費用と宇宙飛行士の精神破壊などのリスクを考えれば、一体何を考えているのか、本気で言っている人たちの頭の中身を疑いたくなります。
宇宙には、真空と無重力と宇宙塵や強烈な「宇宙線」しか存在しないのです。ISSに長期滞在した人たちのその後の健康状態に対する報告は少ないのですが、長期の無重力状態やISSを突き抜けてくる宇宙線を地上の2桁も多く浴びることが健康に良い筈がないでしょう。トータルで考えても、衛星打ち上げ以外の宇宙開発は直ちに縮小か中止にして、人材と費用を地上の問題解決にこそ振り向けるべきです。特に、かつてISSに滞在した人たちが、宇宙開発を美化し、徒に子供の宇宙飛行士になりたいなどの夢に駆り立てるのは、無責任な罪でもあると言っておきます。私たちの住む(住める)世界は、この美しい地球の表面にしかないのです。

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2020年8月30日 (日)

3821 空飛ぶ車2

空飛ぶ車における本質安全とは何でしょうか。矛盾はしますが、それは空飛ぶ車を高く飛ばさない事しかありません。飛び上がるためには、当然の事ですが機体(車体)を飛び切り計量に設計しなければなりません。という事は、今の車の鉄の車体の様に衝突時には変形して、衝撃を吸収する様には設計できません。精々、乗員や運転者の全身を包み込むような「エアバッグ」で守るしかないでしょう。しかし、高い高度で飛ばすためには、車体を重く頑丈にして、安全装置を何重にも準備しなければならないので、そもそも重すぎて離陸できなくなってしまうでしょう。現在のメタル構造の旅客機も、軽量化のためにグラム単位の「肉抜き」を行って、一人でも多くの乗客を乗せようと血の滲むような努力を傾けているのです。それでも、旅客機がトラブルでハードランディングした際の惨事は、年に何回か事故ニュースの映像で目にしますが、場合によっては機体が原型を留めない程ひどく壊れている事も多いのです。
結局、空飛ぶ車の本質安全を考えるなら、ハードランディングをしても、乗員の命を脅かさない様な高度で飛ばすと言うルールにしなければならないのです。つまりは、現在でも少しは使われている「ホバークラフト的」な乗り物とするしかないのでしょう。ホバークラフトなら、滑らかな道路さえ作れば、数センチから十数センチほど車体を浮き上がらせるだけで済むので、エンジンが停止して着地しても衝撃は最小限で済むでしょう。勿論、早いスピードで移動している場合に、路壁や他の車や人に衝突する危険については、今の車の事故と全く変わらないレベルになってしまいます。
とは言いながら、ホバークラフトが、今走っている車や人と混在する交通システムは事実上考えられないと言うしかありません。空飛ぶ車は、道路との摩擦を使って急停止する事ができず、数十メートルの滑空後にしか停止できません。空飛ぶ車はあまりに危険だと言うしかありません。結局、今の道路とは平面交差しない空飛ぶ車専用の道路を建設し、それを使わせるしか方法はないので、鉄道よりはやや建設費が少なくなるものの、新たなインフラを建設するしか方法は無さそうです。
何処かの駐車場から、目的の駐車場まで、自由に空を飛んで移動できる車など、どの道筋で考えても実現性はほぼゼロだと断言しておきます。早くその事に気付き、空飛ぶ車開発の人材と多額の予算を掛けるなら、今足元にある地球環境問題の解決にこそ振り向けるべきでしょう。

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2020年8月29日 (土)

3820 空飛ぶ車???

ニュースで空飛ぶ車の映像が流れました。見れば、ドローンに人が跨った様なものでした。このブログは批判を目的にはしていませんが、発想の貧弱さにかなり落胆してしまいました。例えば、ヘリコプターは揚力は専ら上部に取り付けられたローターにより発生し、重心はかなり下にありますので、さながら機体がローターによって吊り下げられている様な形態ですが、ドローンに跨る乗り物では、揚力の中心に比べて重心がかなり上になるので、飛行時に風などの外乱が入ると、姿勢が不安定になるのです。ヘリの場合だと、揺れても振り子の様になるだけで、ひっくり返ってしまう事は無いでしょう。無人のドローンで荷物を運ぶ際には、荷物は機体の下に吊り下げるのが原則になっている筈です。
一方で、エンジンが停止した時の非常時を考えても、ドローンは不安定です。つまり、4ローターの場合、ローターの1個が停止してしまうと、残りの3個の揚力で機体を支えることになり、揚力中心が突然移動し、重心との間にズレが生じ、つまりモーメントによって機体が傾いて、結果としては墜落につながるのです。他方でヘリの場合には、エンジンが停止した際には、ベテランのパイロットであれば、急降下の際の気流を利用してローターをフリーローテーションさせ、地上に近づくと、ピッチを変えて揚力を発生させて、地上との激突を回避できるでしょう。
空飛ぶ車が、地上1m以上高度の走行を認めないと言う法律でもできればまだしも、例えば100mの高度で機体にトラブルが発生した場合、間違いなく乗っている人たちは、パラシュートも開けないで高度でもあり、間違いなく命に関わる事態に陥るでしょう。もし、1mと言う高度規制を設けるなら、殆どそれはこれまでに開発されたホバークラフトと何ら変わらない乗り物になってしまうのです。
つまり、全く新しい発想で、本質的に安全な乗り物として開発しない限り、空飛ぶ車など夢のまた夢になってしまうシロモノなのです。このプロジェクトを大手車メーカーが後押ししている様ですが、優秀な人材とお金の無駄使いにならない様に、基本設計の段階での熟考が必要でしょう。空飛ぶ車っぽいモノを、先ずは(マスコミ向けに)形にする事だけを考えた末の思考停止は厳に慎むべきでしょう。

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2020年8月27日 (木)

3819 1+3R?

昨日県内の高校で、環境出前授業を行ってきました。事前に要請のあったテーマが、廃棄物減らしや3Rでしたが、敢えてタイトルを「1+3R」としました。追加の1RとはRefuse(拒否)です。最近の例で言えば、コンビニやスーパーでレジ袋の要否を尋ねられた場合「要りません」と断ることが挙げられます。ごみを減らすたりリサイクルしたりする前に、先ずはごみになるものを買わない、消費しないと言う事なのです。
PETボトルはリサイクルするから、ごみにならないから、何の考えも無しに自販機のボタンを押すのではなく、家から保温マイボトルで飲み物を持って出るか、保温瓶がやや重いと感ずるのであれば、一度使ったPETボトルを洗って、水やお茶を詰めて持ち歩けば良いだけです。これによって、その日はPETボトルをReuseしてその消費を1本減らし、Refuseも出来たことになります。当然の事ながら、行動としての優先順位はRefuseが筆頭で、以下Reduce、Reuse、Recycleとなりますので、リサイクルを頑張って、ごみを減らしましょう、などと喧伝するのは正しくないキャンペーンと言えます。
勿論、3818で言及したグリーンサイクルを回して、例えば木材繊維(セルロース)やデンプンなどから作られた飲料瓶を使えば、石油が節約できて、ごみになってもやがて微生物に分解されて水と炭酸ガスに戻るのかも知れませんが、それにしても自然素材は、地下資源にもまして貴重で、コストも嵩む筈なのです。
やはり、私たちの努力は「使い捨て」を(拒否して)無くすこと、つまりは消費量を如何に減らすかに集中するしかないのです。その意味では、最初の1Rの比重は、他の3Rに比べて何倍も重くせざるを得ないでしょう。これからの私たちの行動のキーワードは、「ごみになるので要りません」でなければならないと思うのです。高校生たちがどの程度理解してくれたか気になる出前授業ではありました。

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2020年8月26日 (水)

3818 グリーンサイクル

「グリーンサイクル」に対し明確な定義がある訳ではありませんが、投稿者なりの定義では、「太陽光を含む自然の営みだけで成り立つ持続可能な(人間活動の)サイクル」とでもなるのでしょうか。勿論、人間の活動を除外すれば、太古の昔から自然の中ではこのサイクルは「完全な形」で動いてはいました。増えすぎた人間が、このサイクルを歪めたのです。このグリーンサイクルでは、今ある環境のバランスを改変することなく、太陽光、太陽熱、植物の光合成や生物活動の結果得られるものと、太陽光が形を変えたエネルギーだけを使い、木材など再生産可能な自然材料だけを使うのです。勿論、既に地上に掘り上げてしまった金属材料などは、リサイクルを繰り返して使い続けます。
このサイクルを回す駆動源は基本的には太陽光だけなので、自然環境を改変しない限りにおいては、100年後も持続可能だと言えるのです。自然の生物が太陽光を使って増やした有機物(バイオマス)は、毎年増やした分だけは使う事が出来ます。使った後の有機廃棄物は、元々水と炭酸ガスから合成された自然物であるため、適正に自然に放置すれば水と二酸化炭素に戻る筈です。
バイオマスの主な中身は、人間が作った農産物と林産物及び海産物などの自然からの収穫物、となるでしょう。繰り返しますが、1年間で使えるのは、過去1年間に自然が増やした量の範囲内です。勿論、木材の様に生育に数十年かかる場合は、その数十年で帳尻が合う様に計画しなければ持続可能性は崩れてしまうでしょう。
当然の前提として、モノを運ぶにもエネルギーが必要ですので、太陽光から得られたエネルギー以外は殆ど使えませんので、石油燃料を使うトラックで長い距離を運搬する事は出来ません。結果として地産地消が原則とならざるを得ないので、基本的には殆どのモノの供給を域外に依存する今の都市での生活は、このグリーンサイクルには全く馴染みません。人口や都市機能の地方分散の強力な政策が不可欠であることは言うまでもありません。

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2020年8月25日 (火)

3817 国体論を読んで

S井聡の「国体論」を読み終えました。今の時代「国体」などと時代がたったタイトルに興味を惹かれ手に取った文庫本でありましたが、厚みもありなかなか読み応えがありました。この種の評論を読む際には、右寄りなのかあるいは左から見ているのが問題で、それを割り引いて読む必要があるのですが、筆者は最初に極右も極左もバッサリと切り捨てていますので、一応中道的立場で書いているとは感じました。それよりも、国体と言う視点で明治維新から、現在(2018年時点)までの、近現代史を総ざらえしていて、改めて近現代史を学び直した感があり、戦後の時代を肌間隔で知る身である投稿者としても良い振り返りになりました。
著者の視点としては、戦後75年経っても、アメリカに抱かれた日本と言う戦後構図から全く抜け出せていないと言う点で、それは取りも直さず戦後アメリカが天皇の戦争責任を問わず、象徴天皇としてまつり上げることによって、日本人の心に(都市空爆で飽き足らず原爆を2発も落とした非道なB国に対する恨みに)蓋をする方便としたという視点でしょうか。B国はそれによって、この国の「国体」を維持させて、混乱の無い占領を実現しようとしていたと言うのです。100%著者の立場には賛成できないまでも、客観的に歴史を振り返れば、それはかなりの部分当たっていると認めざるを得ないでしょう。それが戦後レジームの象徴の一つでもあった訳で、戦後75年を経ても、戦争被害を被った東アジアの国々が、戦争中のこの国の非道を避難し続けているのも、まさしくこの国が戦後レジームを引きずり続けている事の証左でしょう。
この国の、政権歴史上最長の期間、椅子に座り続けているリーダーは、「戦後レジームからの脱極」を旗印として掲げていましたが、結果として彼の行いを振り返るに、まさしくそれは「戦後レジームの堅持」以外の何者でもなかったのでした。北方領土問題でも、慰安婦や強制労働や北の拉致問題でも、何ら進展が無いのは、戦後生まれでありながら、家柄も含めて彼こそがまさに戦後レジームそのものを体現していたのであり、それから脱却するためには、自分自身を政治の世界から消し去らねばならないと言う自己矛盾の運命を背負っているとも言えるのでしょう。考えてみれば、かわいそうな運命を背負っているのかも知れません。いずれにしても、天皇家を尊敬しているポーズによって、この国の国民に嫌われることを回避して、今なお親米感情をプラス側に保っているB国の戦略を見透かした上で、ではこの国は今後世界の中でどの様な立ち位置で動くべきかなどとは、全く何も考えていない様にさえ見える与野党の政治屋を見るたび、暗澹たる思いに苛まれます。

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2020年8月24日 (月)

3816 航空便の数

コロナ禍から学ぶことはいくつかありそうですが、私たちは国際間の人の移動に関しても考えざるを得ませんでした。コロナ前までは、この国のリーダーは、景気の浮揚を優先するあまり、インバウンドの観光客をドンドン増やす政策に率先して激しく旗を振り続けていました。昨年は3千万人を超えたことを、さも自分の手柄でもあるかの様に喧伝していたのでした。勿論、良識ある人々は、人々の交流は同時に病気や違法なドラッグや各種の密輸などの好ましくないものも入ってくることを懸念していたことでしょう。そして懸念は現実のものとなった訳です。
その意味で、私たちは海を渡ることに関しては、もう少し慎重であるべきだと思うのです。税関や検疫と言った水際の活動は、3千万人もの人々の洪水には十分には対処できないでしょう。殆ど素通りのチェックで済ますしかないのです。若い頃の海外出張での記憶ですが、入管や検疫では結構しっかりチェックを受けた様な気がしますが、数年前の渡航では、殆どノーチェックだった様な気がします。何度も書きますが、航空需要の底堅い部分は、現在の半分ほどだと考えられます。残りの半分は、格安航空チケット狙いの「物見遊山」需要だと考えられるのです。もし、航空チケットが正規料金だけになったと仮定するなら、海を渡る人の数は見事に半分ほどに減ると思うのです。つまり、現在の航空便の数は明らかに「バブル」だと言っても良いでしょう。海外旅行は、行きたいときに行くのではなく、日頃からお金を貯めておき、意を決して出かけるものだと思うのです。繰り返しますが、国際便の便数は、ピーク時(昨年)の半分が妥当だと言っておきます。
国内旅行に関しては、新幹線での移動に限定しても全く問題ないはずです。ローカルの飛行場から市の中心部に出るのにバスで1時間も掛けるくらいであれば、新幹線で中心にある駅に直接乗り入れる方が便利に決まっているでしょう。それにも関わらず、各県に最低1ヵ所、場合によっては2か所もあるという事実は、明らかに航空行政のミスガイドでしょう。日に1-2便しか飛ばないローカル空港の存在意義など極めて薄いでしょう。コロナ後、航空旅客が5割程度に回復した時点で判断して、もし採算ラインを大きく割っている路線は、早晩淘汰されるべき不採算空港であり路線だと断定しても良いでしょう。

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2020年8月22日 (土)

3815 コロナ後の社会3

3813でやや書き足りなかったの補足します。コロナ後の社会で何が最も大切かと言えば、それは経済の再生ではない事は間違いありません。経済秩序の再生は、重要な課題ではありますが、その前に経済秩序そのものの「再設計」が必要だと思うのです。コロナ禍で、ある程度経済循環が棄損、あるいは部分破壊された今が、再設計のチャンスでもあると思うのです。例えば、交通システムは多大な損害を被りました。旅客数が、大幅に減ったからです。記憶では、9.11事件の直後、航空旅客は45%程度まで落ち込んだのでした。航空機が乗っ取られると神風特攻の様に空飛ぶ爆弾になることが証明されてしまったからです。
しかし、今回のコロナウィルスによる自粛では、旅客数は国際線ではほぼゼロに、国内線でも前年比では一桁%にまで落ち込んだのでした。9.11ショックの比ではありません。これは、まさしく壊滅的な減少です。では、航空機による交通システムをどの様に再設計すれば良いのでしょう。少しは航空機業界を知る立場として、航空輸送システムへの提言をしてみます。航空運賃は、物価の変動に関わらず一貫して低下してきたと言う事実は重要です。つまり、航空機の大型化、軽量化の技術と相まって、一人当たりの輸送単価を下げ続けてきたと言う事なのです。単価が下がった結果、庶民でも海外旅行に出ようと言う気になり、日々7000便ものフライトが飛び交う時代になったのです。しかし、これは航空輸送バブルだと見なければなりません。9.11テロ後、旅客数が45%に落ち込んだと言う事実は、底堅い需要としては、半分の3500便程度と想定できるのです。この話題については稿を改めます。
またモノの流通では、資源の大量採掘、大量生産、大量輸送、大量廃棄、大量廃棄時代への総括と強い反省が必要です。戦後一貫して善であるとされたこの傾向は、持続可能ではないと言う1点だけでも否定するに十分でしょう。資源の枯渇、地球温暖化やごみ処分場のひっ迫などと言う問題点も、「大量時代」の当然のツケだと言えます。資源を消費(廃棄)しないためには、このブルグでも再々言及しているグリーンサイクルへのシフトが最も有効です。これに関してもこのブログで繰り返し投稿してつもりです。
ここで書きたかった結論は、コロナ後の社会の再設計の最重要課題は、持続可能な形での人々の幸福で、そのためには健康寿命をより長くする活動が欠かせません。エネルギー問題の解決や経済活動の再活性化はそのための一手段に過ぎないと考えるべきでしょう。勿論、より多くの人々の幸福の達成のためには、富の分配の公平性の確保が必須です。

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2020年8月21日 (金)

3814 技術者倫理

科学とはまさしく学問であり、真理の追求が建て前になっています。建て前と書いたのは、大学が独立法人化されて以降、学問や研究の「成果主義」が協調されるあまり、本音ではその研究がどの様に実用化(企業化)され、その結果いくら儲かったのかがその先の研究費の額にも影響を与える様な時代になってしまった様なのです。まるで、学問こそがこの国の経済力を高めるためにある、と言った偏った考え方を示す傾向そのものでしょう。
側聞ですが、ノーベル賞を貰ったN依氏は、「科学は中立だが、科学技術は経済性と言う明確な偏向性を持っている」と言った意味の発言をしている様です。上に述べた背景もあり、これに100%賛同は出来ませんが、確かに「技術」は、誰かの役に立って、結果いくら儲けてナンボの世界である事は間違いないでしょう。中身が素晴らしくても、それが経済的に成り立たない技術など、あっという間に社会から駆逐されてしまうからです。しかし、そもそもノーベル賞そのものがA.ノーベルがダイナマイトを実用化し、莫大な利益を手にした結果創設されたものであり、その化学賞受賞者が科学の中立性を殊更協調するのは、やや自己矛盾気味であると感じてしまいます。
ここで書きたかったのは、科学の中立性ではなく、技術(者)倫理の話です。技術には、大きく分けて「良い技術」と「悪い技術」があるからです。勿論、技術に関してその様な憲法や法律がある訳ではないので、誰かに害さえ与えなければ、多くの場合技術を実用する事に関しては障害は無いのですが、その善悪を何に照らすかと言えば、ややボンヤリしてはいますが、それは技術(者)倫理だと思うのです。投稿者なりの解釈では、ある技術が持続可能性が十分高く、それが(子孫を含む)大多数の人々の幸福につながるなら、技術(者)倫理の吟味にもパスする様な「良い技術」と言っても良さそうです。
実例で示すなら、核爆弾の技術はあってはならない巨悪でしょうし、原発も過去の過酷事故の結果に照らせば、かなり黒色に塗られるでしょう。では車はどうでしょうか。石油の採掘が持続可能性が低いこと、温暖化を加速するだろうと考えれば、かなり濃いグレーに塗らざるを得ません。バイオマスの利用技術は、自然が毎年産生できる範囲内の利用、と言う条件付きですが善であると太鼓判が押せます。同様に、太陽光の電力変換や、太陽光が形を変えた水力や風力の利用も、自然を改変しないと言う条件付きではOKとなるでしょう。結局、技術の善悪の判定には、かなりの程度持続可能な時間のファクターが重要となるのでしょう。つまり評価するスパンが10年では善となっても、それを100年に広げると悪となるグレーな技術が結構多いという問題なのです。

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2020年8月20日 (木)

3813 コロナ後の社会2

このブログでも再々書いてはいますが、今後のあるべき社会を考える際には、先ずは「目的と手段」を明確に峻別して考えて行く必要があります。コロナ禍での議論として、感染の抑え込みか経済再生かなどという二元論がまかり通っていますが、そもそも経済活動は、社会を動かしていくための手段であり、決して目的などにはなり得ないと言う点を銘記しなければならないでしょう。勿論、感染の抑え込みは目下の最重要課題であり、目的ではあります。
では何が人間社会の目的として最適かと問われれば、それは人々の幸福とその持続である、と言っておきましょう。人間中心に考えJ.ベンサム風に言うなら、「最大多数の最大幸福の追求」とでもなるのでしょうが、今時は環境問題は避けて通れないので、それに「持続可能性の最大化」も加えなければならないでしょう。つまり私たちは、環境への負荷を最小化しつつ、人々の幸福(感)を最大化すると言う連立方程式を解かなければならないのです。
しかも、人々の幸福を「現世代の幸福」に限定する訳にはいきません。年金問題でも議論される様に、今の制度で現世代がある程度満足しているとしても、少子化が進んだ子や孫世代が負担に苦しむ様では、はなはだしい世代間の不公平が生じます。結局、人々の幸福を論ずる際とはまだ生まれていない後の世代の幸福まで抱合して考えなければならないのです。コロナ禍では、国は大盤振る舞いの補正予算を組んで対応しようとしてはいますが、その原資は国債であり、将来世代からの借金そのものだと言えます。一方で、現世代の高齢者は、将来不安から貯蓄に励み、銀行マネーや郵貯マネーを増やし続けてもいるのです。政府の借金は1,000兆円を超えていますが、日本人の貯蓄の総額は軽くそれを超えているのです。
国は景気浮揚に向けて徒に借金を重ねるのでなく、高齢者に将来に安心感を持たせて死蔵されている貯蓄を吐き出させて、生きたお金として社会の中で回し、役立たせるべきでしょう。高齢者の不安は、衣食住と病気で倒れた時の介護や医療費でしょうか。その解決には先ずは、国は明確な政策を立てて、人々の田舎回帰を誘導し、かつての様な大家族を奨励すべきでしょう。何より田舎には、多数の空き家があり、農地も遊んでいます。今は、人が住む予定の無い住宅をリフォームすれば、昔の様に三世代が同居しても十分暮らせる家を増やせるでしょう。子育ても、高齢者の介護も、大家族であれば助け合えるので、病院や介護施設に頼る機会も減らせるのです。現在は国の支出で大きな部分を占める医療や介護費を半分に出来れば、新規国債の発行も、消費税の更なる増税なども考えなくとも良い筈なのです。年寄りには、大家族の中で役割を持たせ、生き甲斐を感じさせながら、寝たきりにしない生活スタイルを普通のものとする事が、医療や介護費を減らす事こそ、財政の健全化のためにも最重要なのです。私たちは、今回のコロナ禍を、その方向に舵を切るための一つのきっかけとする事を必死に考えるべきでしょう。

 

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2020年8月18日 (火)

3812 コロナ後の社会

「コロナ後の世界」と言う文庫本を読みました。世界の賢者と呼ばれる6人へのつい最近のインタビューなどをまとめたものです。示唆に富むコメントばかりですが、必ずしもそれぞれが100%賛成できるものでもありませんでした。勿論、共通ししており賛同できるコメントもありました。それは、コロナ禍から得られる教訓として、今を今後の社会のあるべき姿を熟慮するためのプラスの機会と捉えると言うコメントです。
その上で、投稿者なりの想いを少し書いてみようと思います。勿論、世界の行く末を論ずるほどの見識は持ち合わせていない浅学の身としては、取りあえずは身の周りの生活や、自分自身の生き方程度しか考える事は出来ませんが、それでもやはり今回のコロナ禍では、考えるところも多かった様な気がします。
さて私たちは、近年でもAIDSやエボラ出血熱やMERSやSARSの様な、致死率の高い疾病の流行に襲われては来ましたが、医学の発達や病原菌や、ウィルスの伝染力が限定的であった事や、国際的な協力体制もあり、どうにか限定的な範囲の感染拡大で抑え込んできました。しかし、今度のウィルスは、その上を行くしたたかさを持っていたようです。その感染力、その毒性、加えて多分その変異の素早さにおいてです。その結果、この種の疾病は、私たちの経済活動にも大きな影響を与えずには置かないことも改めて銘記させてくれたのです。
何より、私たち社会、とりわけ日本は、世界でも冠たる「密社会」である事実を再認識せざるを得ませんでいた。関東エリアだけに人口の1/3(4千万人以上)が密集して暮らすと言う密社会の構築を、戦後一貫して続けて来たのです。それは、経済成長や社会の(ヒト、モノ、カネを動かす)効率としては確かに良かったのでしょう。一時は世界第二位の経済大国にはなれた訳ですから。しかし、それはその間に局地紛争以外の大きな戦争が無かったこと、同様に今回のコロナウィルスの様な「凶悪な疾病」に襲われなかっただけの幸運な時期が重なっただけだとも言えるのです。結局、多くの自然災害の直後にも思うのですが、私たちはあまりにも平和な時代を過ごし、「平和ボケ」が極度に酷くなった国民だったと反省しなくてはならないでしょう。
事態はまだ進行中ですが、先ずは私たちに必要な事は、データに基づいて今回のコロナ禍を正確に評価し、では今後の同様な、あるいは異なる災害に対し、日頃から何を考え、何を準備すべきだったかを熟考する事が必要でしょう。医療体制、ロックダウンや自粛の範囲や程度、医療体制を含む社会的備蓄の種類と量、教育制度や人材の育成の在り方などなどです。しかし、考えてみれば、この様な事は、日頃から政治家やマスコミや日常の会話の中で、自然発生的に議論されて然るべき内容だとも思うのです。私たちは、あまりにも自分たちの社会の「青写真」に無関心でビジョンをを持たな過ぎると、強く反省すべきでしょう。続きます。

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2020年8月17日 (月)

3811 モーリシャス座礁事故

モーリシャスの座礁事故の第一報が入った時、タンカーの事故で積み荷の原油が漏れ出したのだと想像しました。しかしそれは正しくなくて、とうやら鉱石を運ぶオアキャリアが空荷の状態で座礁し、燃料油のタンクが割れてC重油が漏れ出した事故だと知りました。海上油井やタンカーからの「原油」漏洩事故はこれまでも度々報告されてはいますが、では今回のC重油の漏洩事故とは何が違うのでしょう。
それは原油とC重油の性状の違いが大きく関連します。一般に重油とは油井から取り出した状態では、不純物も多くドロドロしたものの様に想像しますが、実際は常温で不通に流動するものが多く、想像よりサラサラしているのです。理由は、原油の中にはガソリンやナフサや灯油分の様な軽質成分も多いため、比較的粘度が低いのです。一方、C重油はそれらの軽質分を抜き出した後に残る「粘性が高く重い石油」で、硫黄分や灰分などの有害成分も多く含む、より「汚い石油」だと言えるのです。つまり、海面に浮上して漂う油膜の他に、いわゆる「原油ボール」の様な、厄介な半固形分の浮遊の他に海中への沈降にも対処する必要があるため、単なるオイルフェンスだけでは拡散を防げないのです。
また、海運をそれなりに知る者の常識として、積み荷が少ない時の操船は、船体が浮き上がっている部分が大きいため風に流されやすく、より慎重に行う事が求めれますが、今回はそれを抜かって島に近い航路を進んでいたと想像できます。南の島の周囲ではサンゴ礁が発達しているため、浅瀬が多く座礁事故が起こり易い海域でもある訳です。
更に船の構造上「から言えば、タンカーでは座礁や衝突事故での漏油事故を軽減するため、いわゆる二重底の船体構造とすることが義務付けられていますが、燃料タンクについては、貯蔵量も少ないこともあって、船体に直接作り付けられており、船体に亀裂が入ると今回の事故の様に直ちに漏油事故につながるのです。漏油事故は、重大な「環境事故」でもあるため、一海運会社が起こした問題とせず、国が強力にバックアップして事後処理を急ぐべきでしょう。評判の悪い神社の参拝などに出かけてないで、環境大臣の力量こそ試される事案だと認識すべきでしょう。

 

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2020年8月16日 (日)

3810 二階建て高気圧

この夏の気候の特徴としては、やはり長かった梅雨と異常な高温が挙げられるでしょうか。なんと北日本では、梅雨明けの宣言さえ見送られてしまいました。つまり、オホーツク高気圧と太平洋高気圧の押し合いによって生ずる梅雨前線が、夏場には太平洋高気圧が勝って、日本を夏空が覆うという方程式が崩れていたのです。代わって顔を出しているのが大陸育ちのモンゴル高気圧と呼ばれる、熱く乾いた高気圧です。厄介な事に、これが太平洋高気圧と重なって、二階建ての高気圧として(東北北部と北海道を除き)日本を安定的に覆っている状況が長期間続いているのです。
比較的湿度が高く温度の低い(=重い)太平洋高気圧は低層を、温度が高く乾いている(=軽い)モンゴル高気圧は上層をカバーすると言う棲み分けをしているので、二階建て高気圧は安定しており、上空10㎞ほどまで高温の大気が続いてるのです。従って、いつもの夏だと、強い昼間の日照で午後に発達する「お約束」の積乱雲の出現も制限されてしまう様です、従って、連日体温を超える様な異常な高温状態が各地で頻発する事にもなるのです。
今回の様な気象傾向は、数年前にも現れた様な気がするので、もしかすると近年の異常な気象現象のパターンの一つなのかも知れませんが、気象の専門家によるとこれには、ラニーニャ現象と、もう一つはインド洋のダイポールモード現象の異常(逆ダイポールモード)が絡んでいる様なのですが、いずれにしても地上や海表面だけの気象だけでなく、高高度の上層の気象現象との関連を詳しく知る必要がありそうです。
素人なりの見方ですが、根本的にはやはり夏場の北極気団(の子分であるオホーツク高気圧)の退潮が、モンゴル高気圧を引き込んでいる様な気がするのです。その分、太平洋高気圧が今年の様にあまり強くならないにも関わらす、異常に高い気温の日が続く事になるのでしょう。極気団の退潮は、いわゆる温暖化傾向から繋がる長期の気候変動によるものと考えられ、今後とも今年の様な異常高温が、当たり前の夏の気候となると覚悟しなければならないでしょう。暑さに弱い人は、出来る限り早期に北国への移住を検討すべきかも知れません。

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2020年8月12日 (水)

3809 エアロゾル感染?

コロナウィルスによるCOVID-19については、市中感染の割合の増加につれて、以前から取沙汰されている「エアロゾル感染」の可能性が高まったと言う専門家の声が大きくなってきた様です。エアロゾルとは、気体のブラウン運動によって、沈降せずに長く留まる様な液体または個体の微粒子の事ですが、ウィルスのキャリア(感染者)が咳や発声時に飛ばす飛沫には、かなりの割合でエアロゾルも含まれることがシミュレーションでも明らかになっています。
密閉空間に限らず、外気中でもウィルスを含むエアロゾル発生者(=感染者)に接近した際には、運悪くそのゾルを吸い込み、感染してしまう可能性がある事は否定できません。むしろ、全く身に覚えのない感染者は、人込みを普通に歩いている時にエアロゾル感染した可能性が高いのです。エアロゾルを出す感染者も、それを貰ってしまうかもしれない陰性者も、マスクをしていれば感染の可能性は低減は出来るのでしょうが、それで勿論100%防げる訳ではないでしょう。マスク(衣服を含む)に付着したウィルスは、1週間程度は感染力を保っていたと言う事実が報告されている限り、また市中に無症状の感染者の割合いが増え続ける限り、今後市中感染はますます広がりを見せるでしょう。
頼みは。感染を繰り返す内にウィルスが弱毒化して、普通のインフルエンザ並に大人しくなってくれるか、既存、新規開発を問わず重症化を抑える薬による有効な治療が確立されるかですが、ワクチンにより予防に関しては、投稿者はかなりの疑問を持っています。利益優先の開発競争で他を制する事に集中するあまり、極端に短期間で開発され、結果として効果や安全性に問題を抱えたままの「粗悪ワクチン」が市場に出回る可能性も高いからです。いずれにしても、この国政府は対策を急ぐあまり、大枚をはたいて粗悪なワクチンを掴まされない様に留意すべきででしょう。私たちは、いくつかの安全性の低い粗悪なワクチンの副作用によって、死者や重篤な障害者を生みだしてしまった苦い過去は忘れるべきではありません。

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2020年8月11日 (火)

3808 猛暑考2

猛暑は人間だけに影響を与える訳ではありません。むしろ、それはホンの一部に過ぎません。例えば、農作物や植物です。樹木や植物も気候の変動に対応して、動く事は可能です。とは言いながら、植物自身が能動的に動く訳でありません。種子を鳥や動物に運んで貰い、移動した先で発芽する必要があるのです。従って、植物が動ける速度は多分数キロ/年程度だと推定されます。飛べる昆虫や、運動能力の高い動物は勿論それ以上動く事は出来ますが、何しろ植物の移動スピードが遅いので、それらに依存している限りにおいては、そんなに急いで移動しても仕方がありません。
一方で、温暖化が進む最前線を、温暖化前線と仮に呼ぶなら、その北上のスピードは年に10㎞ほどだと言われています。10年ではなんと100㎞、50年では500㎞に及ぶのです。500㎞と言えば、東京の気候が仙台辺りまで北上する勘定です。農作物も、勿論植物なので、温暖化の影響を直接受けるのですが、勿論温暖化に対応するための品種改良も行われてはいますが、対応が遅れているのが実情でしょう。例えば、イネは既に九州での夏場の高温に耐えきれず、米粒の白化などの生育障害を起こしています。
動物や昆虫などの生き物を眺めても、温暖化に対応しての北上が続いているのです。冬場の積雪が少ない地域にしか住めない筈のニホンジカやイノシシが、白神山地や東北の北部で目撃される様になってきました。冬場の積雪が減った結果、それらの動物が越冬できる様になってしまったからです。昆虫の北上も、特に目立ちやすいセミやチョウなどで良く目撃されています。投稿者が指標生物として注目している昆虫は実は「ダニ」なのです。ダニは、自身での移動距離は短き、代替わりのサイクルも短い上に、環境の変化に敏感であるが故に、指標生物としては理想的なのです。
生物と温暖化の関係で、最も好ましくないのは、生物の多様性が阻害されることでしょうか。日本は、いわゆる四季がはっきり分かれていると言う気候的特徴がある国ですが、これが東南アジアの様な蒸し暑い夏と、寒気が弱い冬と言う「二季」になってしまうと、春秋の気候に馴染んでいた植物や動物の棲む環境が消えてしまうでしょう。東南アジアの毒虫(蚊や毒クモなど)も越冬出来て、繁殖する事でしょう。同時に、それらが媒介する病気の蔓延も懸念されます。温暖化北上のスピードをどうやって減速させるのか、待った無しで全世界の知恵を結集させるべき時代に入ったと言うべきでしょう。やや不謹慎かも知れませんが、コロナによる経済減速もでさえも、これを逆手に取って温暖化減速の絶好の機会と捉えるべきなのです

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2020年8月10日 (月)

3807 猛暑考

猛暑の直接的な原因は、間違いなく夏場の北極気団の縮小です。極気団は、この地域の低温故に冷やされた大気が降下、堆積し高気圧の塊(気団)が形成された結果です。そのままでは、気団から風が吹き出し、比較的短期間に気圧が下がるのですが、その吹き出した風が地球の自転によってもたらされる「コリオリの力」によって、気団の縁を回るジェット気流となって、気団をキリリと縛っているため、気団としての安定性が確保できる訳です。
当然の事ながら、極地方の気温が上がると、極気団の形成も弱く、従ってジェット気流も弱く、結果として容易に蛇行が始まってしまいます。極気団の外を回るジェット気流は、通常は上から見るとほぼ円形なのですが、蛇行が酷くなるとまるでクローバの様な形になってしまいます。クローバの葉と葉の間(ジェット気流の谷間)に入ってしまうと、南の温度も湿度も高い大気が、高い緯度まで上がってきて、猛暑となるのです。
一方で、猛暑の原因は他にもあると、投稿者は疑っています。それは、大気中の絶対的な水蒸気量とPM2.5を含むエアロゾル濃度の上昇です。水蒸気は、CO2を軽く上回る温暖化効果ガスなのですが、一方で人間の活動が起源のPM2.5や火山活動などが起源のエアロゾルもガスではありません(微粒子です)が、温暖化の効果があるのです。つまり、太陽からの熱を、大気中に閉じ込める働きが、この二者で年々強まっていると考えられるのです。水蒸気量の増加は、近年の過酷な降雨でも裏付けられているでしょう。時には、線状降水帯を形成して、各地で水害を引き起こしても居ます。他方で、PM2.5はヒトや生き物への健康被害は取沙汰されてはしますが、温暖化効果の評価はこれからの課題でもあります。とは言いながら、前者も後者も年々大気中の濃度は増加傾向であることは間違いないのです。
いずれにしても、この傾向は今後も続くのは間違いなく、真夏の猛暑日の連続は、ごく普通の気象となっていまうでしょう。東京以西の西日本の夏は、その意味で今後はますます過ごしにくくなるのでしょう。酷暑の西日本や首都圏から、夏場に涼しい北海道や北東北への移住が増えそうな予感が、ホンのチョッピリだけですがあります。

 

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2020年8月 9日 (日)

3806 チョウトンボ

年甲斐もなく、よく些細な疑問が湧きます。例えば、チョウトンボを見かけると、何故翅の先だけが透明で、根元は黒っぽいのかと言う疑問が湧きます。つまり何故、他のトンボの様に全体が透明ではないのかと疑問です。自然物の形や色には、必ず「必然性」があると思っていますので、黒い色には意味があって、その様に進化し、翅の先が透明なのはやはり意味があるのでしょう。しかし、全部が黒くなく、あるいは透明ではなく、一部がそうなっている理由は簡単に説明が出来そうにありません。素人として無理に訳を考えてみると、チョウトンボを遠くから見ると、先端の透明な部分は殆ど見えないので、さながら翅が短い昆虫の様に見えるかも知れません。トンボは細長い胴体と、やはり細長い4枚の翅が特徴的ですが、チョウトンボはその名の通り、遠目には蝶にも見えるかも知れません。
黒い蝶の中には、毒のある植物を食べて、体内に毒を蓄える種類もある様(例えばジャコウアゲハ)ですので、あるいはそれらの蝶の擬態で、外敵から身を守っている可能性は考えられます。いずれにしても、チョウトンボという種が確立して以降、進化の中で多様性が生まれた過程で、たまたま翅の先っぽだけが透明な系統がそうでない種より繁栄出来たのでしょう。
昆虫は、間接・直接の関りはの違いはあっても、100%植物に依存して生きています。植物の多様性もまた、投稿者の疑問の出発点でもあります。ほぼ同じような環境(例えば田んぼあるいは堤防の土手)でありながら、何故この様な植生の多様性が生まれるのか、全く不思議です。背丈が高いとか、多数の種子を作るとか、地下茎で伸びるとか、植物毎に他の種より優れている点はあるのでしょうが、結果としてその環境を独占すること無しに他の植物との棲み分けが出来ていますから、他の植物は優勢な植物の繁茂を抑え込む、見えない作戦(例えばアエロパシー物質の放出)を展開しているのかも知れません。いずれにしても、それらの多様な植物は、受粉のために多様な昆虫を必要としており、昆虫の多様性も保証している訳ですから、自然の仕組みの観察は飽きることがありません。投稿者が「環境人間」に脱皮した所以です。

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2020年8月 8日 (土)

3805 原爆とコロナ

8月6日は75回目の広島原爆の日でしたし、8月9日は長崎原爆の日です。原爆による死者数は、広島では直接間接を含め10数万人、長崎では7万人とも言われますが、一方で新型コロナによる肺炎(COVID-19)による死者は、直近では全世界では70万人に達したとの報道がありました。そう考えると、原爆は人間が作り出した最強の殺戮兵器の一つですが、多くの病原菌起源の疾病が克服されてきた中で、強毒性のウィルスはさながら自然が差し向けた最強・最終の殺戮兵器だとも言えるかも知れません。
ウィルスは、常に私たちが作り上げた「密社会」を狙っています。東京を始めとする、国内・国外の大都市は、密に暮らすことを前提に、人々を吸収し拡大し続けてきました。集合住宅や地上や地下に高密度に張り巡らされた交通システムと通勤ラッシュ、繁華街や歩行者天国に溢れる人波、海外では最悪の3密とも見えるスラム街の存在などなど。何処かの野生動物の体内で、毒性の牙を磨いていたウィルスは、ある日突然にその密社会に入り込み、猛威を奮う訳です。
原爆もウィルスも、一度トリガーが引かれると、無差別で防ぎようがない点も共通です。その被害から逃れるには、前者だと核シェルター、後者だと陽圧に保たれた無菌室にでも籠もるしか方法がありません。しかし、都会で多くの人々がそんな行動が出来る筈もありません。スペースと多額の費用がそれを許さないでしょうし、そんなことをすれば社会生活そのものが成り立たないでしょう。
私たち人類は、核爆弾ですら、投下から75年を経た現在でも、その製造や保管や「最悪の場合は」その使用を、完全に禁止する国際間の枠組みは作られていないのです。ましてや、インフルエンザを含むウィルス病は、ウィルスが忍者の様に姿や病気を引き起こす毒性を変えるため、全てのウィルスに効くワクチンなどは事実上開発できないのです。逆に全てのウィルスを抑えるワクチンや薬剤が出来たとしても、人間の生命力そのものを抑制する事にもつながるため、そもそも不可能だと言うしかありません。どうやら私たちは、今後も永く核爆弾ともウィルスとも「共生」して行かざるを得ない様です。

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2020年8月 7日 (金)

3804 懲りない事故

ベイルートの爆発事故は悲惨でした。しかし、すこし過去を振り返ってみると、同様の事故が繰り返し、起こっている事が分かります。肥料の原料として多用される硝酸アンモニウム(硝安)は、加熱すると爆薬に変わると言う危険な性質を知らなかったか、知っていても無視か軽視した結果の事故だと言えるます。なんと過去には、吸湿して岩の様に固まってしまった、硝安をダイナマイトで粉々にしようとして大爆発を誘発したと言う「うその様」な事故もありましたし、2015年の天津での事故は、ごく最近で生々しい映像ニュースにもなりましたから、数々の硝安の大爆発事故はまだまだ過去の歴史的事故でもない今現在のリスクなのです。
そんな危ない硝安は、一方で優れた肥料の原料であるため、これに代わる安価で実用的な原料が見つかっていないこともあり、未だに多量の硝安が製造され、各地に蓄積されているのす。素人が考えても、硝安のアンモニア基は水素を3つも含んでいますから、適当な酸化剤(或いは適量の燃料)と接触すると、簡単に爆薬になってしまうのでしょう。問題は、保管の仕方と量でしょう。粒状の硝安を多量に倉庫に積み上げるなどと言う保管の仕方では、全く問題外ですが、小さく袋に詰めたとしても、それを1ヵ所に集積させている状況もあまり違いはないでしょう。
根本の問題は、硝安の保管基準が明確ではない事にありそうです。1ヵ所に保管してよい量とか、隣接する保管場所との隔壁構造、保管場所の温度、湿度管理などの基準があれば、今回の様な事故が繰り返されることも無くなる筈なのです。事故は、その事故で生じた目の前の被害に対処することが最優先ではありますが、失敗に学び、再発防止の明確な基準を作り、それを遵守する事こそが最重要なのです。そうでなければ、同様の爆発事故が人々の記憶から遠のく何年かに一度繰り返されることになるからです。

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2020年8月 6日 (木)

3803  分類学⇒環境学?

分けると分かるとはよく言われる表現です。土手の草花も、単に雑草や野草と括ってしまうと、何の変哲もない草むらになってしまいますが、ムラサキツメクサやブタナやフランスギクなとと特定が出来れば、草むらにも興味が湧いてきて、観察する楽しみが出来ます。虫なども同じで、単に虫と呼んでしまうと何も見えてきませんが、同じ蝶でも、モンシロチョウなのかヤマトシジミであるのか、あるいはキアゲハであるのかあるいはジャコウアゲハであるのかが特定できれば、彼がどの花や植物が好きなのか、その植物が見られればそれを好む蝶も見つかるなど、散歩の楽しみが増えるのです。
植物学とか昆虫学とか、とかく学問の世界は細かく縦割りに専門化する傾向にありますが、そうではなくて、植物と昆虫との相性とか、植物と土壌や気候との関係を解き明かすなど、いわゆる学際的なアプローチこそより重要で、より奥が深いと思うのは投稿者だけではないでしょう。単に、生物や鉱物や気候や、環境を分ける(分類)するのではなく、相互の「関連」に考えを巡らす事こそより難しく、楽しみも多い筈なのです。
その意味で、それを取りあえず「環境学」と呼ぼうと言うのが、ここでの投稿者の提案なのです。環境とは、あるものを取り囲む周囲の状態全てを指すと考えれば、ある植物やそれに依存する昆虫が、その場所に存在するのは、そこにある条件を備えた環境があったからこそだとも言えるでしょう。逆に言えば、特定の条件さえ満足できる環境を揃えてやれば、やがてその環境を必要としている特定の植物や昆虫や動物がそこに出現する筈なのです。生き物は環境に依存し、環境は生き物を育む「条件」に他ならないからです。つまりここで定義した環境学こそ、ほぼ全ての学問を統合する究極の学問であると言いたいのです。投稿者は、50歳を超えてから、技術屋から環境屋への脱皮を決意し、不十分かも知れませんが独学と放送大学で環境学も勉強してきました。その学びを通じて、環境学こそ総合学であるとの確信をますます強めたのでした。

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2020年8月 3日 (月)

3802 食物(物質)連鎖

ほぼ毎日10㎞のほどの距離を散歩します。道すがら、目にするのは堤防道路の法面の草花、それに依存している虫たち、河川木とそれに集まる何種類かの鳥、田んぼとそこに集まる鳥やヘビや昆虫などの動物たちです。勿論、ずべての生き物を育む大元は植物ですが、その植物を支えているのは土壌です。土壌を肥やしているのは土壌菌やミミズなどの土壌生物や動物の出した排泄物などかも知れませんが、いずれにしても生き物のの世界は綿密に設計された食物連鎖と言うか物質の連鎖で成り立っているのは間違いないでしょう。何かが足りなければ連鎖は途絶えるでしょうし、何かが余ってしまうと、何処かにその物質が蓄積してしまうでしょう。
例えば、鉄鉱石の鉱床は、酸素を出す生き物(ストロマトライトなど)が出し続け、大気中や海水中の濃度が増した酸素が、鉄イオンを酸化して多量の酸化鉄が海底に蓄積したものでしょうし、石炭や石油も同様に太古の植物や生物の遺骸が蓄積したものでしょう。これらの地下資源や化石資源とも呼ばれ、短期間では復元できない種類のものです。
一方、現在の食物(物質)連鎖に組み込まれている物質は、連鎖の中でグルグルと循環して繰り返し生き物に利用されていますが、それらの多くは、生き物を構成している酸素と水素(水)と炭素と窒素であることは自明です。それに、微量の鉄やマグネシウムや亜鉛などのミネラル分が関わっているのです。植物は、水と空気と太陽光を使って、いわゆる炭水化物を作る事が出来ますが、昆虫やヒトを含む動物は全て植物に依存し「それに生かされているのだ」、と言えるでしょう。自然が作った食物(物質)連鎖の巧さと絶妙なバランスに日々感心しながら散歩する毎日です。

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2020年8月 2日 (日)

3801 ダム問題

この国のスポークスマンである人が、洪水対策として治水ダム以外の、発電ダムや農業用水ダムなどを、治水目的に臨時的運用する政策を強調していました。そもそも、各地のダムは目的別に、国交省や農水省あるいは経産省などに縦割れに管轄が分かれていました。従って、ある地域で洪水が予想された場合は、国交省が地域で管轄するダムの水量を減らして対策を進めますが、農水省や経産省は見て見ぬフリをしていたのでした。それが、連携して洪水対策をすることになったと主張するのです。
しかし、考えてみれば国交省が成功例として挙げるのは、台風19号に対しての八ッ場ダムによる大洪水防止のケースですが、そもそもこれは完成直後で殆ど空っぽであった偶然のラッキーケースであり、通常の運用であった場合は、事前の放水に時間が掛かり、間に合っていなかったと言えるのです。ダム放水がどのくらいの時間で可能かは、ダムの規模によって異なるのでしょうが、とても1日程度で空っぽにするのは無理でしょう。逆に、放水による下流の人工的な洪水が心配になるからです。そもそも、そんなに一気に放水が出来るほど、放水ゲートを巨大に設計している筈もありませんが・・・。
とすれば、ゲリラ豪雨や想定外の台風豪雨による1日か2日で生ずる急激な増水と洪水対策として、既存のダムが有効な対策になるなどとはとても考えられないのです。中途半端な放水では、流入する水量に追いつけず、結局は緊急放流をしてダムの越水を防止するしかないでしょう。投稿者の様な素人がざっと考えても、ダムの洪水対策としての有効性には大きな疑問符がつくのです。逆に、ダムの洪水防止機能を過信する結果、ダムの下流域に根拠の無い安心感が蔓延し、イザと言うときに洪水による人的被害の多発が懸念されるのです。
そうではなくて、100年に一度の洪水が頻発する様になってしまった現在、ダムに洪水対策機能を求めるのは無理な相談なのです。私たちは、先ずはかつての氾濫原だった場所に住むのを止め、洪水時は兎に角安全な場所に避難するしかないと思うのです。中途半端にダムに頼るのは、大きな犠牲を生む原因にもなり得るのです。人間の営みは、自然現象に対してはあまりにも非力であり、私たちは自然を畏怖しながらどうにか自分たちの身を守るしかないと思うのです。

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2020年8月 1日 (土)

3800 ジャコウアゲハ(温暖化指標生物)

毎日の散歩コースには、川沿いの堤防道路が含まれますが、その堤防道路に入った辺りで、ジャコウアゲハが飛んでいます。最初は、単に色が黒いのクロアゲハと思っていましたが、写真に撮ってネットで調べる黒いアゲハ蝶にも数種類あって、見かけたのはジャコウアゲハであることが判明しました。もう少し調べると、このアゲハの繁殖の北限は、どうやら秋田県であるとのこと。太平洋側で見ると、今年宮城県の登米市の北上川畔で10年ぶりに確認されたのがニュースになっていたので、夏場の秋田は緯度で見れが比較的暖かい地域になる様です。
去年は、別の散歩コースを歩いていたので、このジャコウアゲハには気が付かなかったのですが、もしかすると登米市と同様10年ぶりの北上だったのかも知れません。このチョウは、自分の身を守るために、幼虫が毒草である「ウマノスズクサ」を食べて体内に毒を蓄えるのだとか。きっと、見かけた堤防の近くにこの植物が生えていたのでしょう。ネットの記事によると、毒を持つこのチョウの幼虫や成虫を捕食した動物や鳥などは、激しい嘔吐に襲われるのだとか。
調べていて、北限でこのチョウを実際に見かけたり、見かけたというニュースが流れるという事は、もしかすると温暖化が急激に進んでいる証左なのかも知れないと思いました。実際、冬眠しないニホンジカは既に白神山地に入ったと言うニュースが最近流れましたし、同様に冬眠しないイノシシの北上も進んでいる様なのです。秋田県では数年前からイノシシの目撃情報がボチボチ出ている様で、北上の最前線になっている様です。確かに、昨シーズンは海岸に近い投稿者の住む地域では、積雪が極端に少なく、住宅の周りの除雪も殆ど不要でした。確かに、冬眠しない動物にとっては、積雪が数十センチもあれば、食物にありつけず越冬は出来ませんが、それより積雪が少ないと、土を掘って、植物の根などを見つける事は可能でしょう。ニホンジカは、樹皮をエサとしているので、かなりの積雪があってもあまり障害にはならないでしょう。あとの棲息条件はと言えば気温でしょう。たとえ冬場に零下になったとしても一桁であれば、多分越冬は出来ると想像しています。
ジャコウアゲハから、イノシシやシカの話になりましたが、この様な温暖化指標生物(植物、昆虫、動物)に、今後とも注目していきたいとは思います。

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2020年7月30日 (木)

3799 堤防の高さ基準で

隣県の水害の様子を見るにつけ、改めてこの国は水害(災害)列島なのだと深く認識しました。隣県ではほぼ全てが最上川の流域になりますし、川の全長が長いので、降雨と水害発生に時間差が生ずるのが今回でも河川水害の特徴だと思いました。水害で、何時も感ずる違和感は、堤防が越水を始めると、それが直ちに住宅地の浸水に繋がり、被害が大きく広がってしまうと言う事実です。つまり、人々は平時の河川の水面を基準として、そこから何メートル増水したかを確認する訳ですが、多くの場所では人々は堤防の上面より低い地面に、住宅や工場などの社会インフラを構築している筈なのです。
これでは、堤防から水が溢れた直後から、浸水被害が生ずるのは仕方がないと言うしかないでしょう。極めつけは、各地のゼロメートル地帯や干拓地やいわゆる天井川となっている輪中地帯に住んでいる人たちは、日頃から水害に敏感でなければならないでしょう。実際、輪中地帯の伝統的な住宅では、敷地の中に堤防の上面に相当する高さに石垣を築き、そこに「舟屋」と呼ばれる避難小屋を建て、丁寧にも軒先に小舟を吊り下げて、何年か何十年かに一度の水害に備えているのです。勿論、舟屋の中には日持ちのする保存食や水も備蓄してあることは言うまでもありません。
堤防は、多分30年に一度程度の水害を想定して補強されて来た筈です。一方、最近の水害は100年に一度級のものも散見されているのです。また、国交省が管轄する大河川や本流ではなく、補強が追いつていない中小河川や支流で発生する水害が多発していることを考えてみなければならないでしょう。私たちは、ハザードマップの浸水域を眺めて豪雨の度にクヨクヨ心配するより、ぜひ堤防の上面より標高が高く、土石流や浸水予想域の外に家や工場を建てて、安心して暮らしたいものです。勿論、水田などの農地は全体を嵩上げする訳にもいかないのでこの限りではありませんが。投稿者も、今の住居を建てる際には、比較的川に近いことを考えて、堤防よりは高い土地を求めましたので、一応水害に関してはリスクは最初から低いとは思っています。

 

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2020年7月28日 (火)

3798 ミニ線状降水帯

3797でウワサ(投稿)をしてすぐですが、昨晩この地域が線状降水帯に襲われました。1時間に100㎜にも上る豪雨だった様です。恐怖に襲われる様な大きな雨音に、通常夜間に目を覚ます事の殆ど無い投稿者も、起きて外の様子を見てしまいました。幸い、豪雨は1時間ほどしか続かず、トータルの降水量は7月の1か月分程度だった様で、県内では中小の河川が越水を起こした場所があったものの、被害は限定的で済んだ様です。
まさに、昨日の投稿の様に、この国では何時、何処で豪雨災害が起こっても不思議はない事が証明された様な気がします。スマホで雨雲の様態を確認すると、幸いにもこの線状降水帯は、幅が狭く、長さも短い様だったので、少し安心して再度寝入りました。とは言いながら、予報の画面でかなり大きな雲の塊が示されていて、少し南の隣県に掛かる様だったので気になりました。就寝する直前の天気予報では、こんな豪雨は予報されていなかったので、この様な線状降水帯は、短時間の間に発達し、迫ってくるものの様で、油断が出来ません。
気象がこの様に激烈になってしまったこの時代、私たちに出来そうな事は、線状降水帯の発生と動きを検知して、一刻も早く警報を出す事なのでしょうが、では真夜中にその警報をどの様に受け取り、どの様な(避難)行動に移すかを考えた時、やはりそれは決定的な対策にはなりそうもない、とも思います。前兆も殆ど無いまま、突然発生する豪雨水害については、その対策について引き続き考えてみる事にします。

 

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2020年7月27日 (月)

3797 ゲリラ豪雨

昨晩は、時間は短かったもののビックリすほどの豪雨でした。この時期、梅雨前線はたっぷりの水蒸気を蓄えて横たわっていますが、前線に近い場所で異なる方向からの風の流れがぶつかるところでは、集中的な降雨が起こります。同じ場所に雨雲が連続的に発生する場合は、線状降水帯などとも呼ばれますが、いずれにしても大気中に水分(水蒸気)が十分に蓄えられており、それが飽和水蒸気量に達しているか、それに近いにも拘らず水として凝縮していない状態、つまりは「過飽和水蒸気」の状態になっている場合、何かのきっかけで一度凝縮が始まると、連鎖的に凝縮して大粒の雨粒になって豪雨をもたらすと考えられます。
結局、温暖化によって南の海水温が上昇し、前線に送る水蒸気量が増えている事が、梅雨時期に集中豪雨が頻発する根本原因になっているのでしょう。従って、ゲリラ豪雨は前線の位置によって、全国何処にでも起こり得る時代になったと考えるべきです。しかも、線状降水帯による攻撃を受けた地域では、狭いエリアに豪雨が長時間続く結果、中小河川が短時間で氾濫を起こす災害にもつながるのです。勿論、沢や河川が許容できる流量の限界を一気に超えた場合、土砂災害も頻発する事になります。
豪雨災害で悲惨なのは、沢や中小河川の下流に建てられた家々が、土石流に巻き込まれて崩壊する災害の頻発です。現場を上空から撮影した写真を見ると、間違いなくそこは氾濫原であるが素人にも分かります。何故少しでも、氾濫原から外れた場所に家を建てなかったのかと悔やまれます。100年に一度と言われる水害が頻発するこの時代、改めてその地域の水害の歴史を100年くらいまで遡って、ハザードマップを作り直すべきだとは思います。

 

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2020年7月26日 (日)

3796 沖積平野の宿命

太古の昔から川が土砂を運び続け、それで出来上がっている平野を沖積平野と呼びますが、砂漠の無いこの国では、その意味では平野と呼ばれる地域のほぼ全てが沖積平野でしょう。山がちのこの国では、急峻な山を流れる急流が岩を削り、粗い土砂を運んで作るのが扇状地ですが、もっと細かい砂や粘土はさらに下流まで運ばれて、川の流速の低下度合いに応じて、沈殿し「河床を高く」していきます。しかし、それは同時に流域に過剰な降雨があった際に、川の氾濫が起こり易くなることも意味します。かつては、河床を下げる意味もあって川の土砂を浚渫することも盛んに行われていたのですが、砂利需要の低迷もあって今は殆ど見られなくなった様です。それに代わって行われたのが堤防を高くする工事です。それをある時期から「国土強靭化」などと呼びならしている様ですが、今回球磨川流域で起こった様に、堤防を数メートルも越水する様な洪水に堤防は無力です。
それどころか、堤防を高くするにつれて、人々がかつて氾濫を繰り返した危ない場所(氾濫原)に好んで家を建てる様になってしまい、それが近年の大規模な水害を招いてしまっている点は忘れてはならないでしょう。平らな土地は、道路や建物を作って街も広げ易いのですが、水害の頻度が高まってから慌ててハザードマップを作っても、人々の「正常性バイアス」は如何ともしがたく、また時間や予算の都合上、都市計画の急激な変更も出来ないこともあって、毎年の様に大規模な水害発生を防止できないで来たのです。
異常気象が日常化してしまった今、百年に一度の豪雨が、どの地域を襲っても不思議はない時代に入ったと考えるべきでしょう。であるならば、堤防の上面より低い土地に住居を構えている人たちは、改めて自身の家の安全性を見直してみるべきでしょう。問題は、地方より大都会でしょう。河口近くのゼロメートル地帯にどれだけの人々が群れて住んでいるかを考えた時、殆ど絶望的になります。もし、このまま彼らが住み続けるのであれば、低層の戸建て住宅をを諦めて、高僧集合住宅に建て替えなければ、近い将来大量の水害難民を生み出す結果を招く筈です。近年、台風や豪雨による水害は毎年の様にこの国を襲っていますが、その地域が異なっているため、一地域で見れば、やはり災害は忘れた頃に襲ってくることになりますが、もし線状降水帯がほんの数十キロずれていれば、我が事になっていたことを忘れるべきではないでしょう。対策は、平常時にこそ打つべきなのです。水害が作った沖積平野に密集して住む私たちは、その宿命から絶対に逃れる事は出来ないのですから。

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2020年7月22日 (水)

3795 大河の一滴2

水は、雲・雨・川・海・雲と循環し、生きとし生きるものの全てを潤しますが、一方でその偏在は酷い災害も引き起こします。殆ど水循環の恩恵が受けられない地域では、干ばつ被害が起こるでしょうし、逆に降雨の程度が過ぎると、水害が起こってしまいます。最近は、そのメカニズムには諸説ありますが、統計上は数十年に一度と言われた災害が、毎年の様に起こっている事はやはり注目するしかありません。気候や気象の変動を時系列に並べてカーブで表すなら、多分山谷のある曲線になるのでしょうが、例えば大気中の二酸化炭素濃度の様に、季節変動の細かいカーブが全体としてみれば急激な右肩上がりのカーブを描いている様な例は、やはり危険な兆候と見るべきでしょう。つまり現象にブレーキ作用が効いていない様に見えるのです。
ブレーキが効かない現象を、「暴走」とか「発散」などと呼びますが、二酸化炭素濃度とそれを引き金とすると思われる温暖化傾向は、もはや気象の暴走と呼ぶしかないでしょう。さて、今問題となっている各地の水害です。数十年に一度と言われる豪雨が、地域を限定せずに、突然発生する訳ですから、それまでの経験に基づく治水対策などは、簡単に打ち破られることになります。堤防で言えば、決壊や越水が頻繁に起こってしまう訳です。道路や橋もいとも簡単に流出し、わずかな平地に身を寄せる様に広がっている住宅地も2階が浸水するほどの水害に見舞われる訳です。
記憶にある限り、数十年前までは、1時間当たりの降雨が100㎜を超えるような事は、大型の雨台風でも来ない限りあり得ない事態でした。しかし、今はそれが日常茶飯事になりつあります。台風による豪雨は、続いても数時間程度ですが、近年の豪雨災害は、いわゆる線状降水帯により豪雨状態が半日~1日と長引く傾向にある様なのです。降雨に関する限り、私たちは大河の一滴などと悠長に構えては居られない時代になったというしかありません。今や、豪雨は頻発し、川は氾濫し、堤防は決壊、あるいは容易に越水すると言う前提に立って、地域を設計し直し、住む場所を考え直さなければならない時代になってしまったのです。便利で住みやすいと言う理由だけで低い土地に住み、「想定外の」水害に見舞われて途方に暮れ、水害ごみや床下の泥出しを繰り返す事にピリオドを打たなければならないでしょう。

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2020年7月21日 (火)

3794 大河の一滴

I木寛之の「大河の一滴」を読んでいます。思春期の命からがらの終戦、引き上げを経験した昭和一桁生まれの著者の、永く生きてきて諦観したような、しかし戦中・戦後の混乱を生きのびた者としての責任感と言うか生き恥に苛まれてきた著者の苦悩も感じられる内容でした。いずれにしても、氏の長く変化に富んだ人生経験と、抜群の記憶力と、人間観察力には驚嘆するしかありませんが、取り分投稿者の様な凡人と異なるのはその記憶力でしょうか。彼が読んだ書物のエッセンスは勿論、数多く重ねた対談相手のコメントなどを細かに記憶する能力は、やはり驚くべきものだと思います。
さて、大河の一滴ですが、この著作の中で、自身の事を繰り返し大河の一滴に過ぎず、その一滴はやがて海に出て、太陽光に照らされて蒸発し、雲となって再び地上に降り注ぎ、また小川から大河に流れ込むと流転を、いわゆる輪廻転生に重ねているのです。そう考える方が、頭でっかちになり過ぎて、自分の人生についてクヨクヨ悩むより、よほど精神衛生には有益でしょう。つまり、どうせ、自分はちっぽけな存在なのだから、その人生で起こる出来事もちっぽうけなものに違いない、といった割り切り方だとも言えます。
大河の中の一滴が、たとえ急流に巻き込まれようが、魚に飲みこまれようが、巨大な滝壺に落下しようが、所詮たった一滴の水の身の上に起こった、ささやかな出来事だと考えれば、確かに気は楽になりそうです。それに気が付いたのは、勿論著者だけではなかったでしょう。方丈記でも、見事に人の人生を流れに浮かぶ泡沫に例えているではありませんか。泡の様に偶然にこの世の中に生を受けて、最後は泡がパチンと消える様に人生を終えると例えるのも、I木の様に人を大河の一滴に例えるのも、全く同様の見方でしょう。さて、ここにも居る大河の一滴は、今日は何をして過ごしましょうか。たった水滴一滴にできる事など本当に限られてはいますが。一滴が出来る範囲内でチョッピリでも人の役に立つことをしたいものです。

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2020年7月20日 (月)

3793 コロナ疲れ

昨晩のニュース番組に、あまりテレビに露出していなさそうな医療の専門家が出演していて、「新型コロナは比較的マイルドなウィルスだ」と断定していました。確かに、感染し易さ(感染力)と言う面では強めではありますが、一方で重症化する人は2%ほどで、その人たちは基本的な免疫力が弱いか、あるいは高齢だとか基礎疾患があるとかで、元々ウィルス一般に弱みをもっていた人達であるとも言えそうです。そういわれてみれば、普通の風邪やインフルエンザで、例えば肺炎を併発して亡くなってしまう人たちは、想像ですが今回COVID-19で亡くなった人の人数とあまり変わらないでしょう。むしろ前者の方が多いかも知れません。最初にニュースを賑わした、クルーズ船の集団感染にしても、重症化した乗客の多くは裕福な高齢者であったことを思い出します。
そうであれば、私たちはコロナ包囲網を少しは緩める事が出来そうだと言えます。つまり、重症化に対する対策さえしっかり打っておけば、98%に当たる一般の人たちの「自粛度」は下げても構わない筈なのです。確かに、新しい生活様式は。感染症一般に対しては安全サイドの行動であることは間違いありませんが、それを忠実に守るには、かなりの息苦しさを感じてしまいます。これを守って暮らすのは、正直疲れてしまうのです。
正しく恐れると言うのは、初期段階では正しい行動でしょうが、新型ウィルスの正体が明らかになるにつれて、「少しずつ大胆」になることも大切でしょう。「幽霊の正体見たり枯れ尾花」ではありませんが、新型コロナウィルスは、これまでのコロナウィルスよりやや感染力や毒性が強い程度の普通のコロナウィルスだと思い直せば、私たちの暮らしもかなり楽になるのではないでしょうか。いい加減コロナには疲れましたので、このブログでのコロナ関連の投稿も一区切りといたします。

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2020年7月19日 (日)

3792 COVID-19の致死率

3791で新型コロナの弱毒化について書きましたが、しかし発表されるデータを冷静に眺めてみると、この国の国内における陽性者数の致死率は、他国、例えばBラジルなどと比べても、有意な差は無いように見えます。いずれも4%を挟む数値で、1ポイントも違わないのです。勿論、彼の国は若者社会であり、この国は超高齢化社会であることを考えれば、少し前のニュースを賑わした、病院や高齢者施設でのクラスター感染も多くあり、両国に致死率にそれほどの差が無い事も頷けます。それでもなお、Bラジルではスラム地域での感染が主体であり、その地域では多分貧弱な医療体制であることを考え併せれば、彼の国の致死率は、(想定より)かなり低いとも言えそうなのです。
想定より低いという事は、彼の国の爆発的な感染の中で、COVID-19が確実に弱毒化しているとの証左とも考えられますが、逆に言えばこの国の致死率が、先進国としてはかなり高めであるとの見方もできる訳です。それも、これも受け身と言うしかない行政の対応姿勢によるところが大なのですが、つまりは患者受け入れ側の対応が出来ないとの理由だけで、PCR検査数を抑制した、初期対応の拙さに象徴されるでしょう。つまり、PCR検査の入り口で数を絞れば、見かけの感染者数は少なめに出る筈で、いわば時間稼ぎ作戦であった訳です。これが、誰の知恵であったかどうかは今となってはどうでも良いと言うしかありませんが、「臭いものには蓋をする」と言うこの国の行政マンの考えそうなシナリオではあります。
さて、そうではあっても最近は、COVID-19による死亡者数のカウントの増え方が、めっきり遅くなっています。これは、感染者の中心が若者になったこともありますが、やはりウィルスの弱毒化が大きく関係しているのは間違いなさそうです。それにしても、某有名コメディアンのCOVID-19死などが報道されていた時期にあれほど注目され、待望された既存薬の治療効果に関してのニュースがめっきり減ったのは、新型コロナによる「熱さ」が喉元を過ぎつつあるからなのでしょうか。いずれにしても、COVID-19による致死率が下がったのは良い傾向である事は間違いありません。

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2020年7月18日 (土)

3791 コロナの弱毒化

3790でも言及した様に、医学的にも統計学的にも、強毒性の「株」は、死亡者と共に消えてしまう結果、感染を繰り返すたびにウィルスは弱毒化の変異を遂げます。ここ1週間のニュースは東京を中心とした感染の急拡大ですが、その一方でCOVID-19による死亡者数は6月に入るとめっきり少なくなっている事に気が付きます。つまり、今回の新型のコロナウィルスは、明らかに弱毒化してきている証左と言えそうです。
米国やブラジルやインドなどでの感染の急拡大は、このウィルスの感染力の強さを示すのでしょうが、不幸な事にこれらの国々で猛威を奮っているウィルスは、どうやら強毒性の」「株」の様で、致死率が高いまま推移してい様にも見えます。しかし、上に示した「原理」によれば、やがてこれらの「株」も弱毒化が進むと期待できるのです。
それにしても、風邪が万病のもとである様に、免疫力が弱い人たちや基礎疾患を持っている人たちは、勿論感染防止に最大限の努力を払うべきなのでしょうが、普通の人たちは間もなく普通の「風邪対策」だけで普通の暮らしができる日も近いと、期待を込めて思うのです。しかし、日々感染者に接し、治療に当たっている関係者は、そんな「安易な」予測になど容易にには賛同できないとも思います。何しろ彼らは患者の命を預かっていますから、どうしても安全サイドの対応をせざるを得ない立場だからです。
しかし、科学や医学は上記の様に明確にウィルスの弱毒化を示唆していますので、そのスピードが加速することを期待して、待ちたいものです。とは言え、逆のケースも考えられる訳で、手放しの期待も禁物かも知れません。つまり、突然の大変異によって、再度の強毒化の可能性です。そのメカニズムは、現実に今回の新型コロナ株を作り出し、COVID-19を世界中に蔓延させた訳で、新型が新々型に変異するか、あるいは全く別の新々型ウィルスが出現する可能性も否定できない訳です。どう考えても、ウィルスと人類の戦いは続くと見るしかありません。今後とも、Withコロナで進むしかなさそうです。

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2020年7月17日 (金)

3790 コロナの変異力

昨晩、ネットを通じて感染症の専門家の話を聴く機会がありました。その中で、講師は薄々は理解していましたが、ウィルスは、感染し増殖の過程で小さな変異を繰り返し、今この国や欧米で感染が拡大しているウィルスの型は。武漢で猛威を奮っていたウィルスの型とはかなり異なっていることを改めて指摘されていました。つまり欧米に広まったウィルスの型は、致死率が高いもので、その後アジアや日本に広まった際には、致死率は比較的に低いものに変異していた可能性があると言うのです。
確かに、致死率の高い型は、亡くなった人で感染はストップしてしまう訳で、広く感染してしまった型は、徐々に弱毒性に変異していたはずです。
その様にして、強毒性で致死率高かったウィルスは、徐々に弱毒性になり、やがては普通の風邪ウィルスになっていまうのでしょう。しかし、更に考えてみれば、その様にして弱毒化したウィルスも、自然界で水鳥や豚や野生動物の間で感染=変異を繰り返す中で、また突然強毒化の変異を起こし、COVID-XXとしてまたぞろ猛威を奮う可能性も十分高いのです。そのサイクルは、10年ほどとも言われていますので、2030年前後には次の「新々型コロナウィルス」などのニュースを聞くことになるのでしょうか。投稿者がその頃まで生きている保証もないのですが・・・。
いずれにしても、生物の歴史と同じくらいの長い歴史の中で、ウィルスが「生きのびて」来たのも、ひとえにこの忍者の様な変異力によるのでしょうから、例えば今度のウィルス検出用のPCRキットやワクチンの開発が行われたとしても、例えばその検出精度や抗体を作る能力などすぐに低下してしまうと想像できるのです。この稿で言いたかったのは、もしかすると私たちとしては、新型コロナウィルスは、既にバージョンアップを完了してしてしまっているのではないか、と言う疑いを持ちながら対峙しなければならないと言う点なのです。

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2020年7月16日 (木)

3789 コロナ下の価値観3

コロナ下で感じた価値観の変化をもう一つ挙げておきます。それは、コロナと言う人類共通の「敵」の出現によって、それまでの人間同士のいさかいが、やや影を潜めた感が出て来たという変化です。ある国で、コロナ感染が急激に広がり、亡くなる人の数も日々積み上がると言うニュースに接しても、多くの人々は自分たちの状況に引き寄せて考え、何らかの共感を持った筈なのです。つまり、人間対人間との対立に、第3の軸である感染症が加わった、3項関係が出来てしまったという事でしょう。3項それぞれの対立より、人類対コロナと言う対立軸が強いために、人間の間の対立が見かけ上弱まったというのがより現実に近いのかも知れません。
これは千載一遇のチャンスでもあるでしょう。いさかいを繰り返してきた集団同士が一時休戦をして、最終的には仲直りできるチャンスでもあるという事です。しかし、大きな海を隔てた隣人であるB国のリーダーは、コロナ禍さえも対立軸に祭り上げ、もう一つの大国との関係に火種を提供している様です。実情は、B国はそれを利用しようとしたコロナに逆に支配されて、苦しんでいる様に見えます。
やがて、有効なワクチンが開発されて、来年の今頃は新型コロナも、普通の流感の様な扱いになるのかも知れませんが、その時には人類は喉元の熱さを忘れ、また利害が対立する民族間でのいさかいを繰り返す、きな臭い世界に逆戻りするのでしょうか。どう考えても、人類というものは「経験に学ばない」しょうがない存在の様なのです。そうでなければ、何度も人口が大幅に減るほどの感染症や戦争を経験しておきながら、何度も同じ失敗を繰り返す状況が説明できないのです。今更指摘するのも気が進みませんが、それもこれもマツリゴトに関わる人たち(政治屋)のポピュリズム、それもたった今の支持率を重視するあまり、将来ビジョンなどと言うものを無視しがちな風潮が根本原因だと言うしかありません。一方で、マツリゴトを眺めている一般大衆の政治に対する無関心の度合いも年々強まっている様にも感ずるのです。その意味でもコロナ禍は、水面下に隠れていた様々なものを露出させてくれたような気がしています。

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2020年7月14日 (火)

3788 コロナ下の価値観2

コロナ下で価値観が変化したものを改めて考えてみると、2787で言及したもの以外に、都市と言う存在への見直しがあった様に思います。都市に住むことのメリットとしては、例えば、容易な職探し、教育機会の豊富さ、文化的な華やかさの享受、中央省庁や本社の集中による豊富な情報量、多彩な食や旬の製品や服飾が容易に入手できるなどなどが思い浮かびますが、しかしそのメリットの陰に隠れてしまっては居たものの、他方で様々なデメリットもあった筈です。
デメリットとしては、密で住むことによって、狭くてコストの嵩む住居費があるでしょう。かといって、郊外に住むと、密集の代表である通勤地獄が待っています。便利で何でも手に入る一方で生活コストは、取り分け食費などは割高になって居たはずです。かなりの数の人たちが、コロナ下で否応なしのリモートワークを余儀なくされ、結果的には「それなりの快適さ」も感じられたとも想像しています。取り分け、通勤に要する時間や体力の浪費が無い事は。最大のメリットだったでしょう。ではリモートワークのままで、地方に移住すると言う選択肢はどうかと問われれば、かなりの割合の人が、近い将来の選択肢として頭の中の可能性が大きくなった筈なのです。普通に考えれば、田舎でのリモートワークの方が断然QOLが高いのは自明でしょう。
問題は、これから職を求めようと考えている若者がどう行動するかでしょう。コロナ騒ぎが一段落して、新しい日常が、古い日常に逆戻りしてしまった場合には、喉元の熱さを忘れて、またぞろ人々が都市に群れて暮らすことを選択してしまうのでしょうか。コロナ(COVID-19)と言う伝染性の災害をただただやり過ごすことを考えるのではなく、一つのチャンスとして、私たちの(20世紀型の)価値観や生活スタイルを見直すための、絶好の転換点と考えたいものです。

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2020年7月13日 (月)

3787 コロナ下の価値観

今朝のラジオで心理学者が分析していたコロナ下の価値観の変化に聞き耳を立てました。彼によると、コロナ騒ぎで多くの人の時間の感覚がすっかり狂ってしまったとのこと。確かに、C国のB漢で最初の感染が報告され、それが野生動物起源で清潔でない市場から広まったらしいこと、その後大型クルーズ船が横浜に入港してコロナ感染者が見つかったというニュースなどが、何か数年前の遠い出来事の様な気がしています。その後、日々報告された感染者の数字や、世界中に広がるパンデミックになったこと、自粛要請、自粛解除などが前後の脈絡なく記憶されてしまっているのです。明らかに、コロナ下では多くのイベントが中止に追い込まれ、自粛生活を私たちの時間に「区切り」が無くなった結果、エピソード記憶の「時間の目盛り」が刻めなくなってしまったのがその原因だと思われます。
もう一つ彼が指摘していたのが、人間関係です。一つの社会システムでは、人は組織や学校などの決まりにより、強制的に会社や学校に通わざるを得ず、そこで好きな人とも、そうでない人とも顔を合わせざるを得なかったのです。それを、この心理学者は「対面の暴力」と呼んでいましたが、確かに会いたくない人と顔を合わせざるを得ない状況は、一面では強制力=暴力とも呼べるかも知れません。ましてや、人付き合いが苦手な人にとっては苦痛に感ずることも多かった筈です。しかし、コロナ下のリモートワークやオンライン授業では、随分快適な思いを経験した人たちも少なからず居たと想像しています。勿論、人と交わることが好きで得意な人はかなり寂しく感じたのでしょう。いずれにしても、コロナ騒ぎは人と人との関係(距離感や密接度)に関して、改めて考え直すきっかけにはなったと思われます。
問題は、今後です。有効なワクチンや治療薬が開発されて、もはやコロナがただの風邪になった暁に私たちに何が起こるかです。相変わらず、上記の視点を引きずるのか、あるいはまったくコロナ以前の「三密大好き社会」または「観光お祭り騒ぎ社会」に戻るのか、上記2点に興味を寄せながらしっかりウォッチしていくことにします。

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2020年7月11日 (土)

3786 水害考5

3785に書いた直後ですが、投稿者が住む東北の日本海側の地域にも、洪水警報が発令されるほどの降雨がありました。梅雨前線と低気圧の組み合わせで、集中豪雨となった様です。県内の他地域では、時々水害を起こす中小河川の流域では避難指示が出た地域も出たようです。この川は、流域面積の広い割には川幅が狭いので、中流域の堤防で時々越水するのです。九州や中部地域の水害を、遠い話の様にニュースで見ていたのですが、まさによそ事ではなかった訳です。
梅雨末期にまつわるKWとして、湿舌と言う気象用語があります。太平洋高気圧の縁を回る様にして、フィリピン沖辺りから北上してくる、暖かく非常に湿った空気の流れを指します。その気流が、梅雨前線に十分過ぎる量の水蒸気を補給する結果、集中豪雨を発生させるのです。これは、ほぼ毎年の事ではあるのですが、問題は太平洋高気圧とオホーツク高気圧とのバランスによって、この湿舌の攻撃を受ける地域が変わってくると言う点です。今年は、九州が集中攻撃を受けている様ですが、少し前には中国地方の雨無し県が集中攻撃を受けたこともあったのです。同様に、関東北部や東北地方の南部にその魔手が伸びたこともあったのです。
何度も書きますが、この国でこの魔手から逃れられる地域は、もはや存在しないと言うしかないのです。しかも、人工的な構造物で(つまりは堤防やダムなどですが)水害を100%防ぐことには無理があるのです。私たちは、集中豪雨下では、堤防は決壊や越水を起こすもので、ダムはイザと言う場合には、下流の状況に関わらず緊急放水をせざるを得ないという前提に立って、全ての行動を決める必要があると思うのです。つまり、アジアのモンスーン気候の影響を受ける北の端の列島に住み、しかもその列島には多くの急で短い川が存在し、気象=海洋の温暖化で、数十年に一度と考えられていた集中豪雨が、日常的に発生する時代に生きる私たちの宿命になってしまったからです。

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2020年7月10日 (金)

3785 水害考4

先に述べた様に、ある時期以降水害の原因は、大型台風からゲリラ豪雨、または線状降水帯によるものに変わって来たのでした。最近の水害を思い返しても、昨年は台風による水害がありましたが、ここ十年で考えるとほぼ8割方が線状降水帯に起因するものではないかと見ています。その多くが、国交省や自治体の想定を超える降水量で、河川の容量を超える水量によって、堤防が越水したり、決壊したりして広い範囲が水没するパターンに陥っています。
それに加えて、元々川底が高い地域では、河川の水量が増え、水面が高くなると地域に降った、降雨を河川側への排水が間に合わなくなって、結果的に河川からの越流が無いにも関わらず冠水してしまう、いわゆる内水氾濫で住居地域が水没してしまうパターンも目立ちます。最悪のパターンは、ポンプ場が比較的低地に設置されているため、ポンプ場そのものが水没してしまって、全く機能しないケースも散見されます。このパターンは、実は福島の原発事故でも経験済みのものだったのです。つまり、地下室に設置された原子炉の冷却ポンプが、水没によって全く機能しなかったあの事故です。少なくとも、排水ポンプの原動機(モーターやエンジン)や配電盤は、水害時の想定水面より十分高い場所に設置されていなくてならないでしょう。
この項のまとめとしては、私たちは既に「想定を超える降水量」を何度も経験してしまっているのですから、もはや堤防やましてやダムで水害が防止できるなとと言う「幻想」を捨て去らなければならない時代に入ったと知るべきでしょう。その上で、どうすれば人の命を守れるのか、真剣に考えなければならないのです。山間の集落は、簡単に孤立してしまうし、低地の住宅や川の合流地点は短時間で冠水してしまうとの前提で、今後の街づくりや自治体運営を考えて行かなくてはならないでしょう。何しろ、今後ともかつて経験したことが無いほどの降雨が、何度もしかもこの国の何処でも起こり得る時代になったからです。不幸にして、最近冠水した地域は、残念ながら今後も水害を受ける可能性が大ですし、そうでない地域も水害は、同じ程度の確率で起こると考えなければならない筈なのです。

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2020年7月 9日 (木)

3784 水害考3

水害のニュース映像を見ていて気が付いたことがあります。それは、氾濫した地点の共通点でです。多くの氾濫地点は、実は本流と支流の合流場所に集中している様なのです。これらのパターンは、本流の水位が高いために、支流からの流れが抜ける事が出来なくなって、結局支流が氾濫してしまうというものです。これをバックウォーター(逆流)とも呼んでいる様ですが、要するに支流が溢れてしまうと言う現象なのです。通常、本流は多額の予算をつぎ込んで、堤防の補強に余念がないのですが、支流は後回しにされがちです。
しかし、ニュース映像を良く見てみると、支流が交わっている地点の上流と下流で本流の幅は、殆ど変わっていない様なのです。本流の水量に支流の水量が加わる訳ですから、素直に考えれば合流地点から下流は、支流の水量分だけ川幅は広げなければならない筈なのです。しかし、多くの場合本流の両岸は堤防道路になっているか、主要な道路になって居たりするので、川幅の拡幅はなかなか難しい相談だとは思います。しかし、たとえそうではあっても合流地点から下流の拡幅が行われない限り、豪雨に伴う河川の氾濫災害の多くは防ぐことが出来ないと見ています。
拡幅の際に重要な事は、本流に水の流れを制御する「導流提」を付加して、支流からの流れを誘引する(引き出す)様に設計すべきだという点です。つまり、本流の流れが速くなるほど、支流の水をスムーズに引き出してやる様な設計を指します。実際、投稿者が住む地域でも、支流が良く越水を起こしていましたが、導流提は無いものの、川幅は合流地点から下流で拡幅されました。理想的に言えば、本流と支流は直角で交わるのでなく、支流が本流に対して角度をもって交わらせて欲しいのです。理想は、川同士の作る角度が30度より鋭角であれば、流れはスムーズに合流して、支流の水位上昇は防止できる筈なのです。合流地点には、多くの場合集落が出来ているかも知れませんが、度々の水害を受け入れるのか、あるいは住居移転を選ぶかと問われれば、多くの場合は後者を選ぶ筈です。長い距離の堤防を補強する工事費と、支流の付け替えと部分拡幅工事費を天秤にかければ、多くの場合後者に軍配が上がると見ています。

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2020年7月 8日 (水)

3783 水害考2

最近の水害の原因として頻繁に耳にするのは、「線状降水帯」でしょう。かつては、水害の原因はもっぱら台風だった様に思い返していますが、ある時期以降は「主役」が交替してしまった感があります。その背景としては、2つあると見ています。一つには、温暖化傾向の中で、日本の南部の海水温が、年々上昇傾向にある事は間違いないでしょう。もう一つは、逆説的ですが、投稿者は偏西風の弱体化にあるのではないかと見ています。偏西風は、極を中心として、地球の自転に伴って生ずるコリオリの力によって生ずる強い西風ですが、温暖化に伴って極地域の気温が上がり、極から吹き出す風も弱くなってしまった結果、偏西風(ジェット気流)のスピードが低下し、その緯度も上がってしまった様なのです。
ジェット気流は、気象の変化にも大きく関わっていて、例えば低気圧や高気圧が西から東に移動する際の主な原動力にもなっていいるのです。ジェット気流が高い山(例えばエベレスト)にぶつかると、下流に渦が出来て、それが低気圧や台風の卵になるのですが、それが弱いと必然的に渦も弱まるでしょう。しかし、一度渦が出来ると気温の高い南の海でたっぶりと水蒸気が供給され、台風として発達もするのですが、ジェット気流が弱いとそれに流されにくくなり、動きも複雑となる「迷走台風」になり易いのです。また、梅雨前線についても、梅雨の末期には十分に温度の高かまった海水面からたっぷりと水蒸気が供給されるため、いわゆる線状降水帯が出来易くなるというメカニズムが生まれたのでしょう。
いずれにしても、温暖化は減速は可能かも知れませんが、もはやストップは出来ないでしょう。であるならば、私たちは来るべき水害時代に備えなければならないでしょう。例えば、濁流が堤防を乗り越えた場合でも、命だけは守れる様に、より高い場所に家を構える必要がありますし、かといって土石流が心配される様な山際や崖下には住むべきではないでしょう。百年単位で見ても、水害に襲われていない地域を地域の「ハザードマップ」をしっかり眺めて見定める必要があります。不幸にして、危険地域に家を構えている人たちは、水害の発生を前提に、日頃から非難訓練を何度も繰り返しておくべきでしょう。

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2020年7月 7日 (火)

3782 緑のダム

今回の九州豪雨で、またぞろ「ダムを造っておけばこんなことには・・・」論が高まっている様です。問題の球磨川支流の「川辺川ダム」は、前の政権の際に仕分けの対象となり、地元の意向もダム反対が多かったこともあり計画自体が消滅することととなったのですが、その球磨川が今回複数のヵ所で氾濫してしまった訳です。しかし、川辺川ダムが実現していたとしても、今回の水害が防止できたかは甚だ疑問と言わざるを得ません。何故なら、川辺川は球磨川の一支流に過ぎず、流域面積で言えば人吉市のある大きな盆地のホンの2割程度を占めているに過ぎないのです。つまり、球磨川流域に降った雨の2割をダムが食い止めたとしても、合流地点の上流の水害を防ぐ事は無理ですし、結局ダムも満水になれば緊急放流する訳ですから、時間は稼げるにしても水害は防ぎきれないのです。
問題は、山の保水力だと思うのです。今回、九州の山を巡る中で気が付いたことがあります。それは、公有林(町有林や村有林など)が多い事とその内のかなりの部分が、多分戦後に植林された針葉樹であったという点です。勿論、宮崎県のえびの高原の様に自然林が多い場所もあるのですが、ある晩ここで一晩で400㎜程度の強い降雨に遭遇したのです。翌日、霧島山に登ったのですが、沢の水が増えているという印象は全くなく、水も濁っていなかったのです。これは、落ち葉が厚く積もった広葉樹雨林の林床の保水力と浄化力の賜物でしょう。一方、人工林の多い球磨川流域は、日本でも指折りの急流であることもあって、集中豪雨後アッと言う間に川が氾濫してしまったと見ています。
林業の衰退は、保水力の弱い針葉樹林の放置を招きました。理想を描くなら、林業を復活させ樹齢の高い木は伐採して材木やバイオマスとして積極的に利用すべきなのです。その上で、日が差す様になった林床には、昔からあった広葉樹を植えて「混交林」として維持すべきだと思うのです。自然林であった広葉樹林は基本的には手入れは不要です。薪などとして利用しても、実生再生や萌芽再生で速やかに復活するからです。つまり、急峻な山からの水害を防止する緑のダムは、針葉樹林などではなく、絶対に昔からその地域に自生していた樹種による広葉樹林であるべきなのです。

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2020年7月 6日 (月)

3781  水害考

つい先日山を巡ったばかりの、九州(南部)が激甚な水害に襲われています。水害の度に湧き上がるのが、ダムによる治水論です。K磨川は、日本でも有数の急流としても知られていますが、水害に度々襲われる地域に共通するのは、川の最大流量に比して、流域面積が広いと言う特徴を持っている事だと見ています。例えば、先の阿武隈川の水害や度々水害を引き起こしている鬼怒川などが思い浮かびますが、鬼怒川上流には先の政権で白紙撤回されましたが、その後計画が続行され完成した八ッ場ダムがあり、完成後の鬼怒川流域の集中豪雨では殆ど災害が起こらなかったことから「ダム治水の勝利」とマスコミで持て囃されました。しかし、注意を要するのは現地で高さ100mもある八ッ場ダムをこの目で見て感じた事は、貯水量が少なそうという感想でした。八ッ場ダムの周辺は、谷は深いものの、川幅が狭く、面積X高さで考えても貯水量は限定的なのです。
先の鬼怒川豪雨でラッキーだったのは、ダムが完成直後であり、試験貯水の初期段階で、ダムが殆ど空だったという点です。もし、満水状態だったと仮定すれば、集中豪雨に合わせて慌てて放流しても、結局は間に合わず、実際の豪雨時点ではダムを守るための緊急放流を実行せざるを得なかった筈です。もし、球磨川の一支流の川辺川にダムが完成していたと仮定しても、今回の水害が防げたかは甚だ疑問なのです。
さて今回の球磨川や西日本豪雨や阿武隈川の水害です。確かに、水害列島であるこの国では、毎年予算を組んで、各地の大小の河川の堤防を補強してきたのは事実です。しかし、根本的な問題として、私たちは自然のままの河川で言えば「氾濫原」に家を建てて住んでいるという点を忘れてはならないでしょう。いくら堤防を高くして厚くし、それなりのダムを築いたとしても、結果として超えるを超えるほどの水量をもたらす集中豪雨に対しては、全く無力です。水害から命を守るためには、豪雨の度にハザードマップを頼りに安全な場所に避難するしか方法は無いのです。ハザードマップの危険地域の古い住宅に関しては、予めスクラップ&ビルドで、安全な高台への移住も進めるべきでしょう。人的被害で問題になるのは、寝たきりで動けない独居世帯や病院や高齢者の避難でしょう。仕方がないので、それらの人達に関しては、緊急避難の必要が無いように、予め2階以上の高い部屋に入ってもらうしか良い方法は無さそうです。水害列島でもあるこの国では、大きなダムでも高くした堤防で囲っても、絶対的に安全な場所など無いと、考え方を改めるべきでしょう。それにしても、昔からあったかどうか記憶が定かではありませんが、「線状降水帯」と言う水の爆弾の発生する頻度が上がっていると感ずるのは投稿者だけではないでしょう。集中豪雨の頻発は、どうやら温暖化=高温湿潤化のなせるワザの一つである可能性がますます高まっている様です。

 

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2020年7月 5日 (日)

3780 レジ袋考

山旅から自宅に戻り投稿再開です。さて、今回の山旅の途中、山の行動食や非常食を仕入れるコンビニでも7月1日から突然レジ袋が有料になりました。勿論、環境カウンセラーとして、ごみを入れたまま、駐車場の端にポイと捨てられたレジ袋や道路で風に舞っているレジ袋を見るにつけ、腹立たしく思ってはいました。自分も、確かに食料や着替えをザックに入れる際に、レジ袋を便利に使っていますし、小さいものはごみ入れに使って、申し訳ないのですがコンビニで食料を仕入れる際にごみ箱に入れさせて貰っていました。
このレジ袋が、1枚数円の有価となったわけで、それとなく見ていると何人かのトラックドライバーが少量のお菓子や飲み物などを買った際に、レジ袋を断る姿を目にしました。投稿者自身も手の平に載る程度の少量の買い物では、以前からレジ袋は断ってはいました。問題は、今回の「容リ法改正」があまりにも「ささやか過ぎる」と言う点だと思うのです。プラスチック全般の生産量は、世界中で年間4億トンとも言われ、その打ちの3億トンがごみとして処分されます。1/4の1億トン程度は、確かにリサイクルされてはいるのですが、PETの様なマテリアルリサイクルの優等生はごく一部で、殆どは燃やされる「サーマルリサイクル」なのです。ごみとなるプラスチックの殆どは、その中身と言えば包装ごみであることは容易に想像できます。その容器をできるだけリサイクルしようと言うのが「容リ法」の趣旨なのですが、これはあまりにも後ろ向きな法律だと言うしかありません。
作るならばそれは「容器減量法」でなくてはならないでしょう。プラスチックごみの1%にも遠く届かない量のレジ袋(ある試算では、この国では石油換算にして40万トン程度の消費量の様です)を禁止するのではなく、単に有料化しただけで、投機ごみや海洋プラスチックごみがどれほど減らせるというのでしょう。単なる環境行政のジェスチャー(素振り)としか見えないのです。3Rの順番の最初は、Reduce(減量)であると定めたのは、お役所自身である事を忘れてはならないでしょう。行政は、先ずメーカーに対し、容器に使われるプラスチックを先ずは半分にする努力義務を負わせなければならないでしょう。飲み物は、欧州の一部の国の様に、PETを逆に分厚くして、20回程度再使用する様な法律にすべきでしょう。勿論、容器を返却すれば10円程度のデポ料が返金される様にすべきでしょう。数円のレジ袋を買う人は多いのでしょうが、10円を道端に捨てる人は居ないでしょう。何なら、デポ料を100円くらいにすればポイ捨ては完全ゼロにできるでしょう。名指しをするなら、K境省もK境大臣も、環境悪化の防止にあまりにも消極的過ぎると言うしかありません。レジ袋=プラスチックは環境に放置されると生き物にとっては完全に有害な物質です。環境行政には、環境中では短期間で完全に分解される材料のレジ袋を法制化するか、あるいはレジ袋を例外なく完全に禁止する法制とするくらいの指導力を発揮して貰いたいものです。

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2020年6月23日 (火)

3779  休稿

世の中に何の影響もありませんが、明日からトレッキング遠征のため当分休稿です。

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3778  終活2

この歳(間もなく古希)になると、人生の締めくくり方を時々考えます。百名山を踏破してしまうと、当面の大きな目標も無くなり、燃え尽き症候群になるかも知れません。取りあえずは、鳥海登山100回などと新しい目標を立てて、それなりに生きていくのでしょうが、やはり何かしらの「自分が生きた証」を残したいとも考えるのです。「それ」は何らかの形で、後の人々の役に立ち、「あって良かった」と思われる様な形のあるものを残すのが理想ではあります。実は、「それ」には今のところ、2つの候補があります。
一つ目は、デシカント冷房機です。デシカント(乾燥剤)を使って、部屋の空気の湿度を連続的に下げて、一方では超音波加湿器で加湿をして気温を下げるものです。デシカントを使った除湿器と言う製品は今でも販売されてはいますが、投稿者が考えているのは、デシカントの再生を電熱ではなく、太陽熱で行うもので、デシカントや熱交換器はやや大きくはなりますが、必要な電力は送風機やローター用の小さなモーター用だけなので、数十ワット程度で済むでしょう。太陽熱は、内部を黒く塗った簡単なガラス箱で得られますから、1kw程度の消費電力のいわゆるエアコンに比べれば、1/10以下の電力で涼しさが得られることになります。しかも、太陽がカンカン照りの日ほど、部屋の温度を下げる事が出来るの訳です。
もう一つは、ペレットフィーダーの開発です。あまりメジャーではありませんが、ペレット燃料が手に入り、冬季にストーブ暖房が必要な地域では、ペレットストーブがジワジワと普及しています。しかし、投稿者自身もペレットストーブの試作をしてみましたが、鉛筆の消しゴムの様な形(円筒形)のペレットを定量送る仕掛けが結構大変なのです。一般には、螺旋のフィーダーで送るタイプが殆ど(全部)の様ですが、投稿者が考えているのはペレットを縦向きに並べ替えて、細いステンレスのパイプの中を送る様なフィーダーなのです。これで何が良いかですが、例えば既存の薪ストーブの横に小さな穴を明ければ、薪ストーブが即ペレットストーブに早変わりする訳です。新しくペレットストーブを開発する場合でも、ストーブ本体とフィーダーを別置きにすることができ、薄型デザインのストーブも実現でき、火事に対する安全性も向上するのです。
今2つ目の開発プロジェクトは動き始めていますが、前者は残念ながらまだ頭の中にしかありません。先ずは百名山を踏破して、仕事もグンと減って毎日が日曜日になったら本格的に取り組むつもりです。

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2020年6月20日 (土)

3777  ミニ終活?

古希を目前にして、同年代の知人のFB投稿をみて、自分も「終活的な事」を始めようと思いました。手始めは小さなことから、です。先ずは、長年購読していた環境関係の雑誌の継続案内が来ましたので、次号で打ち切りにすることにしました。3年毎の自動継続で申し込んでいましたが、貧乏な身には結構な出費にもなります。確かに、最新の環境関連の情報は入りますが、企業人でもない身には、フンフンと言う感じで読み流していた様な気がします。少し寂しい気はしますが、環境人間を志して以降の十数年間の購読にピリオドを打ったのでした。
終活の第2弾は、百名山の踏破コンプリートです。年齢が若い内にと、体力的にハードな山は殆ど潰したのですが、コンプリートまでにはまだ15個残っています。天気が悪かったなどの理由で、再度登りたい山もありますから、今年と来年くらいには何とか踏破したいと密かに考えています。百名山踏破の終盤に向けて、先ずは来週からアクセスの大変な九州シリーズをコンプリートする遠征に出る予定です。
既に完了したこともあります。40数年ぶりで故郷にUターンして、少しローンは組みましたが、終の棲家となるコンパクトな家を建てました。家から鳥海山が見える場所に土地を求めましたので、その日の天気と仕事の予定を眺め、無風快晴で仕事が入っていない日に(大体月に2回程度)はお山に登る事が出来る生活を送っています。
それと、こともの頃遊んだ小高い丘陵地に、市が開いた墓地を買いました。数回の売り出しの内の最終回でしたが、団塊の世代の旺盛な需要?で、10区画以下しか残って居らず、墓石タイプの条件の付いていない最後の区画を何とか購入する事が出来ました。ギリギリ滑り込みセーフです。
パソコンの始末は結構大変です。古くなって、起動時にガタピシと音が大きくなったデスクトップパソコンを諦め、一応最新のノートパソコンに乗り換えて、データ移行も完了しましたが本体の処分はまだです。また、仕事用の持ち歩きノートパソコンもあり、数百GBに膨らんだデータを調べて、残すデータと捨てるデータの選別が大変です。とは言いながら、残したデータを家族が閲覧・参照するとも思えないので、多分写真データ以外は全てごみ箱に入れて消去する事になるのでしょう。
さて、15年ほど続けているブログと、8年になるFBのタイムラインはどうすべきでしょうか。今から悩ましい問題ではあります。

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2020年6月17日 (水)

3776 お金とは2

お金は、3775で考えたように、価値交換の媒介手段であり、それ以外の何者でもなかった筈なのですが、近年はお金自体が価値そのものであり、それを如何に多く所有するかに人生の目的であるかの様に考えていると思われる輩が増えた様な気がします。ある調査で、実際の年収と幸福度の関係について調査しか結果を見ましたが、450万円ほどの年収に最大の幸福度の山があり、それ以上ではプラトー(高原)状態が続き、それ以上の高額所得者ではむしろ幸福度は低下していく傾向が見られたようです。
生活していく上で、あまり過不足のない所得があり、しかしそれなりに若くて、将来の所得の向上も期待される立場の人たちは、確かに幸福度は高そうです。つまりは「右肩上がりの幸福」です。しかし、そんな立場になったことはありませんが、必要以上の高額所得者は、結局はそれを「守ろうとするストレス」も掛かってくると想像され、結局幸福感にはつながらない様に想像してしまいます。
くり返しますが、お金は価値交換の手段でありそれ自体が生きる上での価値を代表するものではありませんし、ましてや幸福度の物差しにはなり得ません。大切な事は、お金を介してか、出来ればそれを介さずに、人生の生き甲斐=幸福を手に入れる事だと思うのです。取りあえずは、若いうちに中古でボロでも自分の家を手に入れて「住」を安定させるべきでしょう。その上で、普通に食べて、少しの貯蓄が出来る程度の収入を得て、家族が増えたり、やや余裕が出来たら住宅をステップアップさせれば良いだけです。借金は将来の所得が人質に取られている様なものなので、なるべく少ない抑えたいものです。間違っても、一生掛かっても返済できないほどの額のローンを組んで、小ぎれいだけれど狭い都会のマンションなど買わない様にしたいものです。若い人たちが家族を持って、子供をのびのび育てたいのであれば、やはり住むべきは自然の環境が良くて、住と食の安い田舎でしょう。人生に最重要なものは、先ずはストレスの少ない質の良い生活であり、十分ではないにしてもお金はそれを支える手段の一つに過ぎないのです。

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2020年6月15日 (月)

3775  お金とは

この表題では何度か書いてきた様な気がしますが、確認も含めて再度取り上げます。貝や加工された石が貨幣の代わりに使われていた時代から、人々はモノの価値を示すシンボルが必要だった様です。鋳造貨幣が作られる時代には、想像するに広い地域間での船やラクダを使った交易も盛んになってきたことでしょう。しかし、あくまでも貨幣はモノの価値を表すシンボルではあって、モノの価値以上の値を示す事は無かった筈です。つまり、モノとの価値交換手段としての貨幣であり続ける限りにおいては、と言う意味です。
しかし、ある時期以降紙幣が印刷されるに至って、その原則に変化が生じて来たのでした。インフレになれば、政府はせっせと紙幣を印刷を繰り返し、見かけ上のモノの値段は右肩上がりになるでしょう。一方で、経済活動が盛んになるにつれて、株や債券も発行される様になり、実態経済以上の紙幣を含む「有価証券」が大量発行される様にもなったのでした。さらには、まだ掘り出されていない地下資源や農産物などに対しても、先物取引で値を付けて、その権利まで売り買いする始末です。
モノの不足していた時代、援助と言えば食料などのモノ(現物支給)が主体でした。しかし、今の時代、コロナ禍で困窮している人にも、そうでない人にも「お金」が支給されます。今や、お金が万能の「お金の時代」になったと言うしかありません。爪に火を灯す苦労をして蓄えた結果財を成した人も居るのでしょうが、宝くじで或いは時代の波に乗って、ラッキーをつかみ成金的に財を築いた人の方が多いのでしょう。
たとえそうではあっても、ここではやはり私たちはモノや実体(現物)に拘るべきだと主張したいのです。いくらお金があっても、もし誰もモノを売ってくれなくなれば、それはただの印刷された紙片の束に過ぎないでしょうし、当然の事ながらお金で腹は膨れません。お金を墓に持ち込んでも仕方がないでしょう。少しばかりの財(お金)が手元のあるなら、やはりそれを世のため人のために使って、満足感に浸りながら人生を閉じたいと思う様になった今日この頃です。残念ながら、強くそう思うほどの財は今のところ手元にありませんが・・・。

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2020年6月12日 (金)

3774  コロナ後2(経済から人へ)

今の野党が与党であった時期に「コンクリートから人へ」といったキャッチフレーズが持て囃されました。その類型で言えば、コロナ後は「経済から人へ」となるべきだと投稿者は思っています。そもそも、経済とは人間社会が上手く機能するための手段として、発展した来たはずですが、近年はその規模が、もはや人知の及ぶ範囲を超えて膨張してしまった様な感があります。極端に喩えるならば、巨大な生き物(或いはモンスター)に成長してしまった様でもあります。
勿論、その経済モンスターも膨らみ過ぎて自ら破裂する場合(いわゆるバブルの崩壊です)もあるのですが、それが喉元を過ぎるとまた新たなバブルが膨らんでくるのが常でした。かなり前では石油バブル、造船バブルもありましたが、近年は不動産バブル、株・債券バブル、ITバブルなどと手を変え品を変えてバブルは繰り返すのです。計画経済ではない、自由主義経済下では、誰かが小さなバブルを仕掛けてたんまり儲けても、ルールを守っている限りにおいては違法ではありません。柳の下の2匹目3匹目のドジョウを狙って、別の誰かが同様のビジネスで後を追い、次第に世の中全体がお祭りムードとなって浮かれ出して、やがて大きなバブルを巻き起こすのでしょう。
しかし、私たちはここで「経済活動は手段であって目的ではない」という事実を確認しなければならないと思うのです。経済活動を通じて財を成し、それなりの財産を持つことが、現代の成功者であるとの20世紀型の価値観は、今世紀に入ってかなりの時間経過した現在でも殆ど変わってはいないのです。20世紀を通じて、経済といる手段が「完全に目的化」してしまったと見るしかありませんが、その価値観に私たちはまだしがみついているのです。言わずもがなですが、社会の主人公は、経済(お金)ではなく人でしょう。お金が余り無くとも、人は人らしく生きる事は十分可能でしょう。但し、それは完全に経済化した都市空間では実現は出来ない相談です。それは、地方(田舎)でしか実現できないのです。それは、経済がまだ手段っぽく残っている地域でしか考えられない価値観だからです。ここで提案する「経済から人へ」は、別の言葉に代えて、例えば「都市から地方へ」、と言ってしまっても殆ど意味は変わりません。

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2020年6月11日 (木)

3773 コロナ後

今度の新型のコロナウィルスは、感染力や毒性の強さ(=重症化率や致死率の高さ)において、SARAやMERSを上回り、社会取り分け経済活動に多大なインパクトを与えました。過去を眺めてもスペイン風邪ほどではないにせよ、香港風邪とは並ぶほどのインパクトの大きさだと言えそうです。古くは、インフルエンザの流行に関しては、自然免疫=集団免疫任せでしたが、近年ののインフルエンザの大流行に関しては、ある程度「型」を予想した上でワクチン接種や対症薬の投与で何とか乗り切って来たのでしょうが、今度の新型ウィルスや今後現れるであろう「新新型」ウィルスへは、また新たな対処方法を編み出さなければならないでしょう。
しかし、いずれにしても今度のコロナ禍は、これまでの(20世紀型の)社会の仕組みに大きな警鐘を与えたことは間違いないでしょう。それは、大規模システムとその集約化への警鐘です。大規模化して集中化を図れば、物事の効率は高まり、経済活動の規模も拡大し、より大きなお金が動く(経済が拡大し景気が良くなる)という20世紀の神話に基づいています。しかし、それは新型コロナウィルスの「思う壺」だとも言えるでしょう。ウィルス達は、渡り鳥、豚(または野生動物)、ヒトの間で感染を繰り返し、その感染に伴う変異を利用して牙(毒性)を磨いてきました。とは言いながら、ウィルス達は宿主を皆殺しにはしないでしょう。それは、ウィルス自身の消滅に繋がるからです。宿主は、生かさず、殺さずという戦略です。
いずれにしても、コロナ後の社会の在り方については、ここで立ち止まって冷静に考えてみるべきであることは明確です。Withコロナ下で、とても社会が20世紀型の価値観を維持できるとは思えないからです。ならばどうすべきかですが、結論は自明でしょう。20世紀型=大規模型=都市型社会を少し前に引き戻す事です。少し前とは具体的には、高度成長期の「ある時期以前」と言っておきましょう。勿論、高度成長期以前、つまりは戦後の荒廃期に戻ることはできませんが、例えば1970年代の中盤、具体的にはこの国のエネルギー消費量が現在の約半分であった時期はポイントとして頭に置くべきでしょう。描くべき未来の姿を、過去と重ねるのには異論もあるでしょうが、闇雲に前に進むことは、結果としてカオスや破局を意味することも多いのです。長期レンジであるべき社会の青写真を描き、しっかりとしたマイルストーン(道標)を置いて考えるべき時期ではあります。

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2020年6月 9日 (火)

3772  コロナと環境2

コロナ後の社会をKW的に表現するなら、それは「疎ら(まばら)」でしょうか。これまでの社会のトレンドは、巨大化、集中化、効率化などの言葉で表されるでしょう。それは、都市、生産システム、流通、ネット化など全てに共通しています。そのトレンドの始まりは、戦後の高度成長期の始まりと一致しています。先の大戦以降は、大国同士の冷戦や局地での紛争を除けば、世界規模の戦争は起こらなかった比較的平和な世界だったと言えそうです。勿論、地域を限れば、大規模ハリケーンや大地震や津波被害などで社会システムが壊滅的な被害を受けたこともありましたし、9.11事件の様にテロが世界を震い上がらせたこともありました。
しかし、コロナ禍は上記の様な災害や事件とは決定的に異なる点があります。それは、人と人との密な接触によって被害が広がる種類の害悪であるという特徴でしょう。ヒトは多くのサル同様群れて暮らすことが好きな生き物ではありますが、それを「ダメだ」と否定されることは結構辛い指令だと思うのです。人々が日常的にハグする慣習のある国々でコロナ感染が爆発し、会釈文化のこの国で、感染がそれなりに抑制されている事は、単なる偶然ではない様な気がします。
つまり、コロナ感染抑制のKWの一つは、間違いなく物理的距離であると言えるでしょう。であるならば、私たちは新新型コロナ(ウィルス)への構えとしても、20世紀型の社会システムへのトレンドを、かなり「巻き戻す」必要があると思うのです。外見的に見るならば、それは「密」から「疎」への転換でしょう。度を越した大都市への人口集中を、ぜひ地方分散の流れに変える必要があります。大量生産・大量輸送・大量消費・大量廃棄の流れを、必要量を分散して生産・輸送・消費する、いわゆる地産地消型の社会システムに変えて行くのです。
結果としてみれば、それは環境負荷を大きく下げる行動とも重なるでしょう。それこそを、まさに「新しい行動様式」として定着させなければならないのですが、残念なことにマツリゴトに関わる輩には、その様な長期ビジョンは微塵も感じられず、取りあえずは景気回復、これまでの経済活動路線への復帰しか頭に無い様です。コロナ禍を機会に、社会システムが変わらなければ、中途半端な景気回復のための莫大な借金のみが後世に残されるだけに終わるでしょう。

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2020年6月 8日 (月)

3771  コロナと環境

投稿者は、長い間技術屋として働いてきましたが、ある時期以降「環境人間」に脱皮しました。環境人間とは、色々な事象を「環境の持続可能性」に結びつけて考えてしまう「性癖」を持った人間だとも言えるでしょう。ここでは、今が盛りのコロナ禍を、環境の視点から考えてみることにします。
さて、コロナ禍で最大の問題点は、人間の活動、とりわけ経済活動がロックダウンや自粛で制限を受け、景気が酷く停滞・悪化する事でしょうか。かといって、経済活動を優先して規制を緩めれば、B国や南米のBラジルの様に、感染者や死亡者を「量産」することになってしまうでしょう。経済活動と言えば、環境負荷との関連で議論されることも多いのですが、そうであれば環境悪化に伴う種々の害悪と感染症による人的被害は類似であると言えるかも知れません。つまり、人々が密に接して活発な経済活動をすればするほど、また環境負荷に目をつぶって、経済活動を活発にするほど、人々の間の感染症のリスクは高まり、環境問題酷くなるのです。
であるならば、コロナ禍への対応と、環境悪化を食い止める対策は重なるところが大だとも言えそうです。つまり、経済活動レベルをある程度下げることによって、両方の問題点を軽減できるとも言えるのです。人々は、混みあった都会を離れて過疎に悩む田舎に移り住み、地産地消を拡大して他地域や国外との交易量を減らし、ゆとりをもって暮らす様にします。エネルギー的にも、化石燃料への依存割合を減らし、再生可能エネルギーの割合を格段に増やす訳です。
もう少し具体的にライフスタイルを説明するなら、つまりは不要不急の活動や資源消費やエネルギー使用量をカットするという事に他なりません。その上で、減らした資源やエネルギーを再生可能なものに置き換えていく不断の努力を忘れない事でしょう。勿論、人々に息抜きや楽しみも必要ですから、旅行やレジャーを否定するつもりはありませんが、環境負荷の高い楽しみは、数年に1回に抑え、日常的な楽しみは、サイクリングやピクニックや自然観察など、殆ど自然への負荷が掛からないものをぜひ選択すべきでしょう。例えば、植物や昆虫や野鳥などの観察は、実に奥が深く飽きることはありません。それを、例えばデジタルカメラで撮影するなどは、非常に環境に優しい趣味だと言えるでしょう。コロナ禍は、私たちの生活スタイルを見直して環境負荷を下げる、まさに千載一遇のチャンスでもあるのです。

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2020年6月 3日 (水)

3770  変幻自在

3769の「勝手な仮説」をいきなり翻す訳ではありませんが、感染症の専門家によると、B漢で見つかった新型のコロナウィルスは、世界中に感染が広がる過程で、遺伝子(RNA)レベルで観察した場合、既に数えきれない程の変異を繰り返しているとのこと。しかし、やや安堵できる点は、一般的に言えばウィルスの変異は、通常は弱毒化する方向になるのだとか。というのも、強毒性の「株」は感染した宿主自体が亡くなってしまうため、そこで感染は一旦途切れることになるとのことでした。
一方、逆に弱毒化した「株」は、宿主が比較的元気に動き回ってしまうので、感染を広げる可能性が高まるというのです。その意味では、今この国で猛威を奮っている「株」が強毒性のものか、あるいはどこかの国経由で入って来た弱毒性のものなのかは、非常に興味深い点ですが、残念ながらこの分野の研究には、今後の感染や発症・重症化或いは死亡例と言った多くのデータの積み上げが必要とのことで、結構時間が掛かりそうです。
つまり、この国の比較的被害の少ないと見られる現状は、国民レベルでこの種のウィルスへの集団免疫のレベルが高いせいなのか、あるいはクルーズ船から、又は海外からの入国者経由で入って来て国内に広がった「株」が幸運にも比較的弱毒化されていたのかは、今後のデータの蓄積とその解析に待たなければならない様で、いずれにしても素人が立てた仮説程度で説明できるほど安直ではなく、今のところ専門家でも解析し切れていない「難敵」ではある様です。

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2020年6月 2日 (火)

3769  集団免疫力

今回のコロナ禍に関して、感じていることがありますので、一応仮説として記しておきます。日々のニュースを見ていると、どうやら日本は「特別な国」の様な気がします。つまり、感染率=発症率の低さと死亡率の極端な低さです。この国は、高齢化社会なのですから、高齢者に限って言えば、もっと感染率や死亡率が高くても不思議は無さそうです。
しかし、現実はそうなってはいません。これは、どうやら日本人が、今度の新型ウィルスに「免疫の様なもの」を持っているとしか思えないのです。背景はあります。日本では、今や田舎の観光地でさえ、バスを連ねたツアーや単独のグループでの外国人(取り分けC国人の)観光客が目に付くようになっていました。明治神宮や大阪城などを散歩した際には、間違いなく半分以上がアジア系の観光客で占められていた様に感じたものです。
つまり、この国ではウィルスの故郷?であるアジア(取り分けC国の内陸部)からの観光客と日常的に接する機会が多かったと想定できるのです。新型のコロナウィルスは確かに、強力で感染力も強いのですが、そうではない並みのウィルスなら、症状を出さないままのキャリアが、町中何処でも「接触」出来ていたことでしょう。つまり、並みのウィルスに対する並みの(或いはやや性能の良い)免疫力は、日本人なら誰でも持ち合わせていても不思議はないと思うのです。これが、ここで仮説として述べている「社会背景としての集団免疫力」なのです。その意味で、他人よりやや優れた免疫力を持っている人たちは、たとえ感染しても普通の風邪の様に免疫力で症状を抑え込めたでしょうし、陰性の人たちにウィルスを拡散させることも少なかったのでしょう。
感染経路が不明とされた多くの人たちは、街中でこの様な「無症状陽性者」からウィルスを貰ったと考えるのが妥当でしょう。これに関連して、ACE2という血圧上昇に関与しているいる因子の存在が、今回の新型コロナウィルスへの感染、重症化に関係しているとの説があり、この因子の増減が社会背景としての集団免疫力に関係しているか、あるいは遺伝的な要素なのか、今後の報告を待つことにします。

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2020年6月 1日 (月)

3768  レバレージ(格差拡大)

レバレージとは、一般的にはテコを意味しますが、「テコ比」を指す工学用語でもあります。さて、社会を根底を揺さぶる様な大きな自然災害や今回の様に疫病災害が起こると、さながら落ち着いていた地盤が、地震で揺られて液状化や地盤沈下や断層が生ずる様に、社会の種々の問題が露わになる場合が多い様です。平常時には殆ど問題視されてこなかった貧困問題や高齢者問題、あるいは正規・非正規問題、男女格差問題、学歴格差問題、貧困の世代間継承問題などなどが、災害によって表面化してくるのです。悪い事には、多くの災害は、その問題を暴露するだけにとどまらず、それを拡大して見せたりもするのです。
例えば、今回のコロナ禍では、高齢者の厳しく牙を剥きましたし、アルバイトで辛うじて暮らしを維持していた学生や非正規労働者の生計を1か月内に破壊してしまいました。つまりは、若者と高齢者の「免疫力の差」や毎月の収入と支出に差が無く、アパートに住みながら貯蓄が殆ど無い単身や一人親所帯の経済的弱者ぶりが露呈してしまったのです。北欧や、Dイツの様に社会としてのセーフティネットがしっかりしている国々では、実は上記の様な問題点はあまり拡大しないのですが、税金が安い分社会保障レベルも低いこの国では、イザという時には赤字国債で場当たり的な災害対策を打つしかないのです。
これは、国としての日頃のリスク想定を真面目に行っていないことに主因があるのでしょう。この国の予算は、自然災害や疫病などが殆ど起こらないことを前提に、単年度予算として組まれています。災害対応は、ささやかな予備費として考えられてはいるのでしょうが、勿論実際の大災害では焼け石に数滴の水程度の意味しかないでしょう。平時のリスク想定は、単なる想定ではなく、実際の状況を想定しなければ意味がないでしょうし、それに備えた平時の蓄積こそ重要なのです。MERSで痛い目にあわされたK国では、ウィルス禍に対する備えがあった事もあり、比較的平穏にコロナ禍への対応が出来ていたと思います。しかし、この国のあのクルーズ船を抱えての右往左往ぶりは、やはりリスク対応が殆ど出来ていなかった証左でしょう。
事が起こってからの対応では、アクションが遅れる分事態の悪化を止めるのは困難でしょう。リスク想定とその対策とは、いわゆる「転ばぬ先の杖」を準備しておくことに他ならないのです。今回のコロナ禍で、世界やこの国の社会がどの様にヨロケタか、しっかり記録し次なる災害にしっかり備える必要があるのでしょう。

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2020年5月29日 (金)

3767  社会のゆとり

工学の常識でもあるのですが、一般に硬いものは脆いのです。アルミを打ったり曲げたりすると簡単に変形しますが、焼きの入った鋼の刃物は、刃こぼれしたり折れたりするでしょう。変形したり、曲がったりできるのは、材料を構成する結晶そのものが柔らかく変形しやすかったリ、あるいは結晶間に柔らかい組織が介在するからです。
さて、社会の柔軟性です。都市社会を眺めてみると、社会構造の中の柔軟性が極端に低くなってしまったと言うしかない状況だと思っています。かつて下町に残っていた(人情とも呼ばれる)共助の精神や仕組みも、地方からの流入住民割合の増加によってほぼ失われてしまったと言えるでしょう、典型的には大規模団地に見られる極端な高齢化によって、その傾向に拍車が掛かることも間違いないでしょう。この様なゆとりの無い社会を、大規模な自然災害(地震や津波や水害)または、今回の様な疫病災害が襲った場合、脆い社会は一気に崩壊に危機に直面することになります。都市では多くの住人は、賃貸住宅に住んでいますから、短い期間であっても収入が途切れてしまうと、そこを追い出されます。つまり、都市社会は巨大な自転車の様なものに例えられるかも知れません。自転車は、止まると倒れてしまうものだからです。
田舎の暮らしはかなり異なります。先ず、多くの人々は、自分の所有する家に住んでいます。少し郊外に行けば、多くの家々では自家消費する程度の畑を耕しています。古いコミュニティが残っている地区では、近所同士がモノを融通しあいますし、人間関係も密です。つまり、知らんぷりが出来ないのです。15年ほど前、新潟県の山間地が大地震(中越地震)に見舞われたことがありましたが、すぐに近隣地域からの手厚い支援の手が差し伸べられた様な記憶があります。3.11の震災や津波被害だって、もし原発事故が重ならなければ、かなりのスピードで復興が進んだことでしょう。
コロナ禍で顕著になった、都市社会の脆さですが、もし追い打ちをかける形で他の自然災害に襲われた場合を想定すれば、狭い避難所に多数の人達が、まだ終息しない新型コロナの影に怯えつつひしめいているという「地獄絵」がどうしても想像されてしまうのです。

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2020年5月27日 (水)

3766  アフターコロナ

何か大きな災害や事故・事件が一応おさまりつつある時期を指して「アフター○○」と呼んだりします。例えば、先の大震災・津波災害の後には「アフター311」などと呼ばれました。さてアフターコロナです。勿論、今回のコロナ禍は爆発的な感染拡大期こそ一段落したとはいえ、これから第2波や3波が来るのでしょうから、むしろコロナとの長期戦が始まったばかりというしかなさそうです。長期戦と書きましたが、新型にせよ旧型にせよ私たちは、ウィルスをせん滅する事とはでいません。私たちには、コロナと共存し、それに慣れていくしか道しか無いのです。かつて猛威を奮ったウィルス達、例えばSARSやMERSも今は、宿主となっている動物達の中に潜伏し、今のワクチンが効かなくなる様な「変異」の準備をしている事でしょう。
私たちが、過去のウィルス病や感染症の経験に学ぶべきなのは、取りあえずは肺炎の重症化のメカニズムを解明し、有効な対症薬を確保しておくことと、ワクチン開発の短縮化のノウハウを蓄えておくことぐらいし無さそうなのです。今のワクチン開発の主流は、生ワクチンや弱毒化ワクチンではなく、無害なウィルスの殻に新型ウィルスのRNAの一部を入れたものだそうですが、その手順を確立しておくという事です。
さて、医学の話はさておき、私たち市民にできるアフターコロナです。それはアフターコロナ後の暮らし方の修正でしょうか。3765では、そのKWを「ゆとり」であるとしましたが、もう一つ書くとすれば、それは「集中から分散へ」だと見ています。つまり、新幹線で結ばれた太平洋沿岸の「トランクベルト」への人口・産業・文化などの集積は、いかなるウィルスとの共存でも不利に働くでしょうし、大震災や津波や豪雨災害にも脆弱性を抱えたままになるからです。それこそリモートワークが可能な産業こそ、地方に出ていくべきでしょうし、モノ造り産業にしても、地方には空き地のままの工業団地も多い事ですから、自動化・少人化をさらに進めた最新式の工場に脱皮するチャンスと捉えるべきでしょう。ここで重要点は、大規模な工場を作るのではなく、分散したいくつかの中小規模工場のグループとすることです。それによって災害にも強くなり、BCPの可能性も高まる先ずなのです。

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2020年5月24日 (日)

3765  新しい日常2

新しい日常のKWをたった一言で言うならば、それは「ゆとりのある暮らし」という事になるのでしょうか。逆に言えば、これまでの私たちの社会はさながら「詰め放題社会」であったとも言えそうです。例えば、交通システムです。数分間隔で発車する新幹線や山手線に憑りつかれた様に乗り込む乗客や休日の繁華街や電気屋街やテーマパークでは、肩と肩をぶつけながら歩く人々、あるいはノロノロにしか進まない都市「高速(鈍足?)」道路や何十キロも数珠繋ぎになる様な高速道路、一日に何度も配送するコンビニトラックや宅配便、席と席が接近してギュウギュウ詰めの外食産業、稼いでも稼いでも月々のローンやクレジットの支払いに消える給料、狭いオフィスにギュウギュウ詰めの職場環境、猫の額ほどの土地にギリギリに建てられた狭小住宅、あるいは目も眩む高さのタワマン等々、その例には事欠かないでしょう。
しかし、コロナ禍は確かにその流れに大きな一石を投じたようです。ガラガラの新幹線や高速道路、行列に並ぶ人と人との間隔もレストランやカフェのテーブルのレイアウトもゆったりになりましたし、映画館や劇場やアリーナなどの椅子席は1個飛ばしになるでしょうし、観客総立ちで狂ったように叫ぶイベントも大人しくなるでしょう。
つまり、高度成長期以降からこれまではさながら「お祭りモード」だったと思うのです。最初こそ、お祭りは休日や連休などと言ったオフだけに限られていましたが、近年は都会に行けば平日でも、まるでお祭りの様な騒ぎが見られるでしょう。一度に千人が横断する交差点や、ゾロゾロと人の流れが途切れない何とか銀座や何とか横丁や何とか寺の参道、あるいは都会のラッシュ並みのテーマパークなどなど、至るところが毎日お祭りモードになっています。
そうではなくて、新しい日常には「ゆとり」こそが必要なのです。物理的な距離(Phisical distance)も重要ですが、何より心のゆとり(余裕、余白)も同様に重要でしょう。ネットが騒ぐから、他の人々が殺到するから、あるいはマスコミが騒ぐからといった理由だけで行動する、付和雷同が減れば、ココロのゆとりも増えてくると思うのです。「ゆとり」と「せわしさ」は、間違いなく逆比例するのですから。

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2020年5月22日 (金)

3764  新しい日常

新型コロナウィルスの症状に有効な薬が承認され、ワクチンが開発されたら、私たちの日常は、コロナ以前の様に、「浮かれた」ものに戻るのでしょうか。多分、10年後であればそうなるかも知れません。つまり、社会は土地バブルがはじけて痛い目にあっても、その後ITバブルが起き、それが一段落してもインバウンドバブルや五輪バブルで沸き返る訳ですから、バブルに付ける薬は無いと思うべきでしょう。
さて、新しい日常です。ウィルスは、そこここに潜んでいて、何時変質して伝染性かつ強毒性になって牙をむくか分からないことは、今度のCOVID-19の蔓延で世界中に知れ渡る事となりました。ジビエ料理の食材となる野生動物は、そうしたウィルスの宿主となっていることも十分理解されたはずです。つまり、これまでもインフルエンザ対策として行っていた衛生面の注意に加え、なんとなく人との距離を保ち、食べ物には十分火を通して、身の周りの目には見えないウィルスを減らしておけば、取りあえずは爆発的な感染だけは防げるでしょう。
いずれにしても、医療研究者に期待したいのは、ウィルス一般の複製の機序を解明していただき、それを阻害する薬を開発して貰う事です。たとえウィルスに感染しても、気道や気管支や肺での増殖を抑え込めれば、どの様なタイプの「新型ウィルス」が現れても、そんなに恐れる必要は無くなります。その上で、今回のウィルス禍で明らかになった、社会にとっての不要不急の活動や必要かつ十分な生活レベルを認識した上で、社会を挙げて新しい日常を作り上げる必要があると思うのです。

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2020年5月21日 (木)

3763  移動のエネルギー

今回のコロナ禍は、私たちが如何に頻繁に移動する生き物であるかという事を改めて認識させてくれました。それは、自粛によって人の動きが極端に抑制されてしまったことで、期せずして表面化してしまったのです。例えば、この国の人移動の「動脈」であった新幹線が、ガラガラの空席のまま徒に往復する姿を見れば、感覚的にもその異常さが際立つでしょう。東海道新幹線は、夏のピーク時には1日当たりなんと400本以上が運転されているというではありませんか。ターミナル駅では、数分毎に発着を繰り返すというまさに超過密ダイヤです。
根拠の無い推定ですが、これまで新幹線の座席を埋めて来たのは、多分半分ほどがビジネスでの移動で、残りは旅行のための旅行(物見遊山)だったと見ています。しかし今回の自粛によって、前者は8割以上減、後者はほぼゼロになった筈なのです。新幹線1本が東京から大阪に移動するのには凡そ1万kwhの電力が必要です。勿論一度に1000人以上の乗客を運べる鉄道は、航空機や車に比べれば、はるかに省エネの移動手段ではありますが、この電力は我が家の3年分の電力量に相当するのです。それが1日に400本ですから、なんと家一軒分の電力換算では1200年分を一日で消費する計算になります。勿論、新幹線網は全国に広がっていますので、その一桁以上の年数になる訳です。
更に、鉄道には在来線もあり、加えて船や航空機やトラックやバスや車での輸送や移動に費やすエネルギーたるや、気が遠くなるほどの天文学的数字になるでしょう。資源エネ庁のデータによれば、運輸部門のエネルギー消費は、全エネルギー消費量の1/4程度にも上るとか。その8割を輸入される化石燃料(石油、石炭、天然ガス)で賄われているのです。人の移動だけでも、今の半分になれば多分この国の消費エネルギーは10%は減るでしょう。移動半分・エネルギー消費半分とは言っても、例えば1970年代の中盤程度の生活に戻るだけですから、その時代を経験している投稿者世代にとっては容易に想像できる時代でもあります。そんなに不便でも、そんなに不自由でも、ましてや不幸ではなかったと振り返っています。むしろ、将来の夢があって、明るくウキウキした時代でもあったのです。移動やましてやエネルギー消費量と人々の幸福度は比例しないどころか、もしかすると逆比例している可能性もありそうです。

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2020年5月20日 (水)

3762 コロナという「生き物?」

(コロナ)ウィルスは、生物学的な意味では「生き物」ではありません。DNAという生き物としての設計図を持っていませんし、他の生物に取り付かない限り単独では増殖も出来ないからです。しかし、太古の時代から、つまりは生き物が地球上に誕生して以降、ウィルスは生物と共に「生き」、時には、生物内に取り込まれながら、しかし巧みに変容しながら生き物の免疫システムを掻い潜って生き延びてきた訳です。
ポイントは、ウィルスの持つ忍者の様な変わり身の早さでしょうか。免疫システムは、ウィルスの外皮の凸凹を認識して、それが(既知の)ウィルスであるか否かを判定し、Yesであれば速やかに攻撃して駆逐する訳ですが、未知のウィルスの場合は、それを見逃し、体内での増殖(=感染)を許してしまう事態になるのです。ウィルスは、その外表面の性状の変化によって、同じような症状、例えば上気道に取り付いて、発熱や咳の症状を引き起こしたりするありふれたコロナウイルスであっても、新たな「型」となって、新たな流行を生み出すことが可能となるのです。
しかし、ウィルスの種類によっては、肺の内部にまで入り込んで症状を引きおこす、今度の新型ィルスの様な種類があることが厄介の原因となっている様です。SARSやMERSといった肺炎ウィルスがその類に当たります。肺の奥深くに存在する肺胞は、血液と空気の酸素⇔二酸化炭素交換を司る重要な器官であり、それが炎症を起こした時の症状は、まるで溺れている人が感じている「息苦しさ」と同じであろうと想像しています。つまり、酸素が豊富な空気を呼吸していながら、溺れている様なものなのでしょう。
我々の免疫システムが、自らの力で或いはワクチンの助けを借りながら、一日も早く新型ウィルスへの免疫を獲得する日を待ちたいと思いますが、一方でこの種のウィルスは、次には「新々型ウィルス」へと変容する機会を虎視眈々と狙っているのも間違いない事実であることは銘記すべきでしょう。まるで、生物とも呼べないウィルスが意志を持っているかの様です。

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2020年5月18日 (月)

3761  近自然学の立場2

紹介が後になってしまいましたが、「近自然学」とはスイス在住のY脇正俊が提唱した、人間社会と自然との関わり方を説明する概念を論ずるもので、具体的には自然と人間社会との境界、林地や草原や河原や里山などの人間の手が入った自然を近自然と定義しています。その中で、人間が用いて良い技術は、いわゆるローテクを基本に据えますので、当然の事ながら使える(使って良い)エネルギー源も規模の小さな再エネに限定されることになります。その意味では、大型の風力発電やメガソーラー発電などは否定されます。一方で、戸別の屋根ソーラー発電は問題無しとする立場です。
近自然学のもう一つの立場として、人間社会と自然を広く捉えて、問題の所在を考えるという点があります。つまり、洪水が発生するから堤防を高く、厚く補強するのがこれまでの人間社会中心の治水の考え方だとすれば、近自然学的な立場から見ると、洪水が起こるのは山の保水力が低いことが理由であり、針葉樹中心の林業ではなく、広葉樹や針葉樹と広葉樹のとの混交林とすることによって、林床の保水力を高めることができ、合わせて根を深く張る広葉樹によって、広い面積の倒木を防止できると考えるのです。
人間社会だけからの視点では、自然は制御しがたく、それと付き合うのは面倒だと考えがちになりますが、一方で我々のご先祖様たちは人力だけを使って、しかし気が遠くなるくらいの長い年月を費やして、山に木を植え、棚田を起こし、防風林や防砂林を増やし続けて来た筈なのです。それは決して人間と自然との戦いなどではなく、自然に寄り添い自然と共生するための「近自然の整備」に他ならない行動だと言えるでしょう。結局、近自然学のエッセンスとは、自然を良く知り、人間社会と自然との距離を近く保ちながら、しかし自然に与える負荷は最小限に抑え込むという「持続可能な共生関係」を重視するという立場に立つ学問だと言えそうです。

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2020年5月14日 (木)

3760 近自然学の立場

余りメジャーではありませんが、近自然学の立場は、投稿者の考えに非常に近いため、注目してきました。その考え方は、天然自然と人間の活動に境界を想定し、特に人間の活動に近い自然を「近自然」と呼び、それを自然との折り合いがつくレベルで利用しようとするもので、基本的にはその使用で環境への相当の負荷を与えるハイテクを否定し、ローテクを基本に据えようとするものです。例えば、その製造に相当の資源やエネルギーを消費する太陽光発電は否定しますが、一方で太陽熱の利用は奨励します。里山や森林の材としての持続的利用は歓迎しますが、バイオマスを直接的に燃焼させて行う大規模なバイオマス発電は否定するのです。
つまり、あくまで自然を持続的な形で利用するとは否定はしないのですが、自然を何か一つの「資源」であるかの様に扱い、自然から「収奪」することは許さないという立場なのです。その意味で都市は、人間が一度全ての自然を完全に破壊してから、改めてコンクリートや鉄や、アスファルトで、街や商工業地域を建設し、オマケとしてささやかな自然っぽい公園や緑地などを「建設」した場所ということになるのでしょう。
田舎では、水田などの農業は、稲作が始まって以降数千年も続いている地域もあるのでしょうから、近自然的な営みであると言えるのでしょうが、近自然学からは、諸外国で行われている様な、地下深くの化石水や河川水を過剰に使った灌漑農業は否定されるべきでしょう。何故なら、これらの「反近自然的」な農業は、数年乃至は数十年内に、水資源の枯渇によって息詰まることが明らかだからです。自然から補給される量以上の水使用は、自然からの水資源の収奪に他ならないのです。
近自然学も投稿者の立場も同じですが、私たちは、自然と人間社会の間の距離を縮め、必要最小限のレベルかつ「持続可能な形で自然を利用させて貰う」以外にないと思うのです。当然のことながら、わたしたちのご先祖はその様に暮らして来た筈ですが、戦後取り分け高度成長期以降の人間の驕りは、どうやら限度をかなり越えているというしかなさそうです。

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2020年5月12日 (火)

3759 コロナ雑感

今回のコロナ禍に限らず、凡そ災害というものは、平常時には水面下に隠れていた岩礁(問題点)を露わにする様です。自然災害による社会活動の減速や停止は、多分破壊されたインフラの復旧や仮設住宅などの整備によって正常化しますので、被害者もある程度の見通しが立ちます。災害列島でもあるこの国は、地震・津波、火山や洪水に至るまで、数多くの多様な自然災害を経験してきましたので。災害訓練もそれなりに行われてもいて、ある面では慣れてもいるでしょう。しかし、今回の様な病原菌・ウィルスによる「人為的な」活動の停止に関しては、これまで想定も予行演習も行われておらず、想定外だったのです。それが極端に表れたのが、医療システムと経済活動ではないかと見ています。
医療面で言えば、この国の病院が持つベッド数は、世界でもトップレベルの充実度だと言えます。しかしそれは主に、高齢者など重篤ではないが動きづらい患者が長い期間入院生活を送るためのベッドであり、いわゆる感染症に対応した個室や陰圧室ではない訳です。そのため、今回のコロナ禍では、苦し紛れとも言えるPCR検査数の抑制によって、重症者のみを選別するという「日本式」の陽性者検出策を取ったのでした。それは、諸外国の様に取りあえず陽性者を発見し、急造の病院に隔離するという方式に比べ、軽症の陽性者を市中に放置するのでオーバーシュートのリスクも高いのですが、この国の国民が得意な「規律を守る」特性と何故か低いまま推移している死亡率に助けられて、いわゆる医療の底の浅さによる医療崩壊は起こしていないのは思わぬラッキーとしか言えないでしょう。
一方、3759でも言及した様に、ストックの極端に少ないフロー経済社会は、今回の様な「経済の急ブレーキ」には極端な弱さ露呈してしまった様です。ヒト、モノ、カネの流れが突然止まったしまった今の経済社会は、何しろストックが極端に少ない訳ですから、在庫がすぐに底を尽き、モノ不足が生ずる訳ですが、幸いにも食料生産や物流の減速は限定的だったので、見かけ上ではマスク不足以外のモノ不足騒ぎは避けられました。しかし、出口のフン詰まりによる問題、例えば学校の休校になどによる食材のダブつき、石油の値崩れ、極端なヒトの移動の制限、同様に殆どのサービス業の活動停止(抑制)などに伴う、今の経済の底の浅さを露呈してしまったのは否めません。これを絵として描くなら、確かに経済の海は広大な広がりを見せてはきたのですが、その海は浅く、水面下には多くの岩礁(課題)が見え隠れしている様として表現できそうです。その浅い海を、岩礁をどうにか避けながら巨大なタンカーや貨物船や客船がひっきりなしに往来しているという絵です。

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2020年5月11日 (月)

3758  フロー社会

昨今のフリーズしつつある社会の状況を見るにつけ、今の時代は、ストックを軽視したフロー社会になってしまった様な気がします。兎に角、ヒト、モノ、カネが常に動き続けなければ社会活動が成り立たなくなっているのです。今回のコロナショックでは、その流れを強制的に急停止する事が要請された訳で、社会のあらゆるエリアで混乱が生じています。フローを前提にデザインされた社会では、例えば石油です。この国の石油のストックは、多分6か月以上はあるのでしょうが、このストックは決して「ローリングストック」ではなく、いわばイザという場合の貯金という意味合いです。例えば戦争などが理由で、産油国からの輸入がストップしても沈静化するまでは国内の石油供給のストップが避けられる訳です。これは、前の石油ショックから学んだ知恵でもあったのです。
しかし、今回のコロナショックは逆の意味で石油ショックです。つまり、ガソリンが売れなくて出口が詰まってしまった状況なのです。出口が詰まれば、石油流通も滞り、結果的には製油所も動かせず、そこに原油を運ぶタンカーも止まってしまい、結果としては石油の採掘場もバルブを絞らざるを得ないのです。つまり、石油の流れ(フロー)が滞ってしまい、システムの機能不全が生じているのです。どこかの石油市場では、価格がマイナスを付けたとか。つまり、産油国なり企業は、お金を払うので原油を引き取ってくれと懇願している状況なのです。
同様の事は、基本的な食料需給を除いては、全てのヒト、モノ、カネに関わるセクターで生じている事でしょう。少し事情が異なるのは、情報産業でしょうか。ヒト、モノ、カネがあまり動かない状況で、情報は逆に活発にやり取りされる筈です。何故なら、今の状況では人々は家に籠もりながら、しかし情報には餓えているからです。しかし、ヒト、モノ、カネのフローが伴わない情報だけの移動や消費は空しいもので、やがて人々は情報だけの流れに飽いてくることでしょう。情報だけでは目や耳という二感は満足するかも知れませんが、味覚や触覚や嗅覚などの三感やそれが関わる欲求は充足されないからです。実際の匂いも感じられるパソコンや画像の中の物体に触ったり味わったりする事が出来る機械などは、多分今後も出来ないでしょう。つまり、二感と三感との間のせめぎあいにより、人々は強いストレスを感ずる筈なのです。
フローの話から少しズレましたが、いずれにしても今の時代、社会の仕組みは全て、ヒト、モノ、カネのフローを前提に設計されているため、今回のコロナショックはそれを一時的に止めてみる「壮大な社会実験」をしていると考えてみる必要がありそうなのです。

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2020年5月10日 (日)

3757 ISSの退役

ISS(国際宇宙ステーション)は、長い間人類の夢であり続けました。B国を主体に、世界各国の多くの宇宙飛行士や科学者を送り込んで、多くの宇宙空間での作業や無重力下の実験を可能としてきたのです。地上では実現できない完璧な合金を作ったり、重力下では合成できない薬剤を作ったり、植物やメダカなどの動物を無重力下で育てる実験などなどです。しかし、それらの実験の全てを実行するに当たっては、とてつもない金額の予算が必要だった筈です。何しろ、宇宙飛行士の往復の運賃だけでも、それこそ「天文学的」な額に上るでしょう。加えて、絶対に故障しない金やダイヤモンド並みに高額な機材が必要です。宇宙飛行士の滞在に必要な光熱費や食費などもバカにできないほど高価だと想像しています。
しかし、宇宙飛行士がISSから地上に持ち帰ったものは?と改めて問われれば、それらの研究成果が何か重要な民生品に利用されて、製品化されたなどという話は寡聞にしてついぞ耳にしたことがありません。成果主義という視点から見れば、これまでISSで費やされた予算の殆どが「無駄カネ」だったと切り捨てられても仕方がないでしょう。
一方で地上に目を転ずれば、世界中でコロナ禍で痛めつけられている現状があります。地上の問題の山積を放置して、これ以上見果てぬ夢である宇宙空間に無駄なお金を捨てるのは許されない「贅沢」だと思っているのは投稿者だけではないでしょう。ISSの最初のモジュールが打ち上げられてから既に20年以上経過しています。強い宇宙線や紫外線に直接晒されるISSは、劣化も進んでいるでしょうし、宇宙飛行士の安全という面でも問題がありそうです。
私たちは、ソロソロ見果てぬ宇宙への夢を捨てて、足元に山積している問題点の解決に向けて、国際協力もしながらしっかり取り組むべき時期に来ていると思うのです。これ以上子供たちの宇宙への夢を「煽る」べきではありません。そうではなくて、足元の(いわゆる環境問題を主とする)問題に着目し、それを解決するための知恵を出し合うために、社会の力を集中する努力を必要があるのです。ぜひ近い内にISS(宇宙アパート)を空き家にしたいものです。

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2020年5月 9日 (土)

3756  ゴールの無い駅伝

考えてみれば当然すぎる事ですが、私たちの体は両親からの贈り物です。その両親も、その親たちから体を授かりました。つまりは、地球上に1個の生命体が誕生してから連綿とつながる命のリレーの駅伝ランナーの一人として、今タスキを掛けながら走って(歩いて)いる訳です。勿論、ヒト等に比べれば、もっと長いリレーを行っている生き物(例えば植物や原始的な生物)も数多い事でしょう。そう思えば、今自分がここに生きて(生かされて)いることが何か奇跡的な事のようにも思えてきます。
勿論、何らかの理由(結婚しないとか、子供が出来ないなどの理由)で自分の代、または子供の代でこの命のリレーが途切れてしまう場合もあるでしょう。むしろ、現代社会では、特に強い理由も無しに、独身を通す人たちの割合が増えている様です。結婚し、子孫を残すことだけが人生の目的ではありませんが、取り分け経済的な理由で未婚者が多いのであれば、それは社会的な不幸と言うしかないでしょう。社会とは、人々が寄り添って生きることによって、より生き易くなるための仕組みであった筈なのですが、それが今は逆に多くの制約の原因になっているのは、もはや人類の不幸と言うしかないでしょう。
かといって、Aフリカ諸国の様に、計画性の無い多産社会となってしまっては、食う事に追われてしまい個々人の福祉などは犠牲にならざるを得ないでしょうし、社会をデザインするのもなかなかに難しい作業ではあります。勿論、上記の意味においては人類は当然として、生き物全ては皆兄弟と呼んでも構わないでしょうから、ある家の(あるいはある民族の)血筋が途絶えてしまったとしても、生物の長い歴史の中では、取るに足らない話なのかも知れませんが・・・。ともあれ、最近駅伝ランナーの一人としての自分を意識する様になったのは、もしかすると歳を重ねた所為なのでしょうか。

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