2009年7月10日 (金)

1006 ○○実業

荷台に「○○実業株式会社」と書かれたトラックの後ろをバイクで走りながら、考え込んでしまいました。言葉としての「実業」があるのなら「虚業」もあるはずです。そう考えれば、金や債券を転がして儲けている人や企業は、果たして実業を営んでいると言えるのかどうか。ましてや、情報を操作して濡れ手に泡を掴んでいる輩においておや、です。

そこまで考えると、いわゆる「バブル期」は社会全体が虚業の海に浮かんでいた時代と言えなくもありません。その意味で実業とは、手で実際に掴めるモノを作り、又はそれを扱い、適正な手段で、適正な利益を上げる行為でなければならないでしょう。投稿者のスタンスで、これを拡大すれば、その実業の結果として自然に与えるインパクトは、持続可能性に照らして十分に低いレベルでなければならないと付け加えたいところです。これさえ守っていれば、どんな時代になっても経営者は慌てることもないでしょう。売上が景気の陰りで低下しても、食うに困ることもないはずです。もちろん、そのためには「無借金経営」は必須ですが。

さて、今「実業」を営んでいながら窮地に陥っている企業は、きっと借金があり、出荷している製品が「虚業に絡むもの」なのかも知れません。虚業に絡む製品とは、それ自体が新たな価値を生まないものを指します。例を挙げるなら、単なるレジャーのためだけの製品や、暇つぶしのための製品などになるでしょうか。それが、単なる道具ではなく、レジャー用の車やジェットスキーなどのように、遊びのためだけの、資源やエネルギーの浪費につながる「機械」である場合には、虚業とあまり変わらない産業と言えるかも知れません。

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2009年7月 2日 (木)

1005 エネルギーの本質

以前にも書いた様な気もしますが、忘れるのが投稿者の特技ですので、改めてエネルギーの本質を書いておきます。色々な言い方はあるのでしょうが、投稿者の言葉では「エネルギーとは、分子・原子を振動させるポテンシャルだ」という表現になります。正しく言えば、実はこの表現の中には「電子を動かすポテンシャル」は含まれていないのですが、今問題となっている二酸化炭素の放出に関して言えば、現在使われている後者のエネルギー(電力)も、殆どが火力や原子力の熱エネルギーで起こされているのですから、結局は上の表現に含めても構わないでしょう。

さて、エネルギーの本質がそうであるとすれば、それを節約するための方策も、考え直さなければならないはずです。それは、1)無為な原子・分子の振動を抑制し(エネルギーの入力抑制)、2)現在の振動状態を維持し(これを保温とも言います)、さらには、3)一度振動を始めた原子・分子には最後までしっかり働いてもらう(熱のカスケード利用とも言います)ことだけで十分なのです。

一つ目は、不要な不急なエネルギーの入力を抑制する話ですから、今盛んに行われている「省エネ論議」の延長線上のはなしです。まずはチマチマした節約、次いで更新時の省エネタイプ機器への転換(省エネ家電やハイブリッド車のことです)、さらには不要な(あまり役に立っていない)電灯や機器の停止や撤去、最終的には生きていくのに不可欠なエネルギー以外をゼロベースで見直すなどの優先順位になるでしょう。

二つ目の点は、熱(エネルギー)や輻射(電磁波の一種)の無駄な伝搬を遮断・抑制することだと考えらますから、関連する技術をしっかり確立していく必要があります。この目的のためには、少し前まで盛んに使われていた、魔法瓶の構造(反射面と真空スペースの組み合わせ)が、実は理想的です。

三つ目の点は、高温(激しい分子振動)のエネルギーでガスタービンを回し、その排熱で蒸気を作って蒸気タービンを回し、その余った熱で給湯を行い、その余った熱で床暖房を行い、その余りで温室を温めるなどといった、多段階の熱利用の追及がその例となるでしょう。エネルギーの「お下がり利用=カスケード利用」です。

上の意味では、現在の省エネ論議は、ひとつ目の点だけ、それも待機電力削減などチマチマした節約や省エネ家電やハイブリッド車だけに殆どの焦点が当てられている、まったく片手落ちのものに過ぎません。

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2009年7月 1日 (水)

1004 温暖化論議の不毛

A新聞に、温暖化人間のCO2排出源説(IPCC報告の立場)と、温暖化は長期の変動振れ幅の範囲内であるとの立場を取る学者の論争が取り上げられていました。なぜこのような意味の無い論争が繰り返されるのか、投稿者には全く理解できません。

現在の温暖化傾向(あるいは気候変動)が、科学的に見て、あるいは気象統計学的に見て、CO2起源であれ、太陽活動の長期的サイクルの結果であれどちらでも良い話で、それは理論にこだわる事が仕事の人=学者の飯の種に過ぎない話なのです。いま私たちが抱えている問題の本質は、20世紀から続く、地下から掘り出した資源やエネルギーに頼り切った社会システムが、今後とも「持続可能なのか否か」という点に還元できるはずです。話を温暖化の問題だけに単純化してはならないでしょう。ましてや目先の不景気の対策に終始し、進むべき道の選択を見失ってはならないのです。

温暖化は、原因はどうであれ、確かに数十年のスパンで見れば大きな問題であることは認めなければなりません。しかし、その前に考えるべきは、たとえば水資源(多くの場合は地下の化石水)の枯渇により大量の飢餓難民の発生の問題、あるいは石油エネルギーに浮かんだ現代文明の是正の問題だと言えます。

仮に、温暖化が人為的な原因でないとしましょう。しかし、一方では事実として何十万年もの間、最高でも280ppmであった大気中のCO2濃度が、化石燃料の燃やし過ぎで、今や380ppmに達していること、その石油はすでに可採埋蔵量の半分を消費してしまったこと、陸地にあって水源を涵養すべき森林が、毎年毎年、日本の東北地方にも匹敵する面積が伐採されあるいは焼き払われている事は忘れてはならないでしょう。これらは、持続可能性の立場から見るとただちに修正すべき愚行に他ならないでしょう。

いま為すべき議論は、科学者だけによる温暖化の真の原因云々といったものではなく、政治家、(社会)学者、行政、産業、市民などすべての社会の構成員を巻き込んで、100年後も持続可能となる社会の実現に向けての合意を形成することなのです。その結果、もし資源やエネルギーの消費レートが、今の1/4でなければ100年後の社会が破局的な状況に陥るのであれば、そこに向けて、たとえば産業の規模を1/4に落とす筋書きを描かなければならないはずです。法律さえ作られれば、今の1/4程度の燃料で走る車は、現代の技術を駆使すれば絶対に実現可能です。手っとり早く、数年以内にそれを実現したいのであれば、その開発のベース車としてS-パーカブを持ってくれば良いだけの話です。この「二輪の車」は、たった今でも1リッターで100km走る実力を持っているわけですから。問題解決への対策は、初期段階ではむしろ大袈裟なほど効果が期待できるのです。

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2009年6月26日 (金)

1003 脱エネ

企業からの「省エネ相談」がラッシュ状態です。石油の先高感もあり、操業が落ちている今の時期に手を打っておきたい経営者の気持ちは、モノづくり屋の卒業生としては理解できます。しかし、小手先の5%や10%の「省エネ」では、所詮焼け石に水に過ぎません。これからの時代を生き抜くためには、企業としては、まずは3割、望ましくは5割程度の資源とエネルギーの削減に挑戦する必要があります。とは言いながら、この数字は、単純な節約や工夫ではとても達成できないでしょう。そこで、投稿者が口を酸っぱくして経営者に説くのは「ゼロベースからの積み上げ」です。今ある設備や工程やエネルギー投入量を御破算でゼロにしてみて、改めて「ある機能のサービスや製品を市場に提供するために、最低限必要な設備やエネルギー」を積み上げてみるわけです。もちろん、今すぐできるものと、中長期に構えなければ実現できないものもあるでしょう。それでも良いのです。望ましい(あるべき)姿さえ頭に描いておけば、次に何か手を打つタイミング(例えば老朽設備の更新時期)に、正しい方向へ一歩踏み出すことが可能になります。

最終的には企業も社会も、脱エネ(脱化石エネルギー)を目指さなければなりません。脱エネとは、基本的にはその地域に降り注ぐ太陽光だけで、社会生活やそれを支えるモノづくりを維持していくことを意味します。このような社会の実現には、産業革命からのサイクルを逆に回すことになるわけですから、単純には100年以上掛かるでしょう。一方では、この100年で3倍以上にも「爆発的」に増えてしまった人口からの強烈な圧力にも耐えなければなりません。何より、最優先されるべきは「水と食料に確保」しかありません。100年で3倍になった人口の、少なくとも1/3は常に飢えています。それをあざ笑うように、森林伐採と温暖化に大きな原因がある水不足の災害は、乾いた草原や森林を焼き尽くす野火の様に、燃え広がりつつあります。A生さん、本当に10年でたった15%削減目標で良いんですか?と何度も尋ねたくなります。

まだ6月だというのに、最高気温が35℃になりそうな今日の空を見上げながら、50℃近くになるであろう南の国々を思いながら、今日も自分にできるささやかな「環境坊主活動」を開始することにしましょう。

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2009年6月19日 (金)

1002 削減目標を嗤う

少し前、国の温暖化ガス削減の中期目標が示されました。政治家のトップとして、かなり頑張ったつもりの目標なのでしょうが、あれではせいぜい「焼け石に数滴の水」にしかなりません。そもそも、温暖化ガスを削減することが、どうして企業や国民に犠牲を強いることになるのか、投稿者には全く理解できません。企業いわく、「CO21トン削減するのにコストが10万円掛かる」のだとか。それは、たとえばこれまで重油焚きの加熱炉を使っていたのを、LNG焚きに変更して、同じ熱量でもCO2の排出量を何割か減らした、という「安易なアプローチ」の結果に過ぎません。

温暖化ガスの削減に先ず必要なものは、削減することの決意と削減のための工夫なのです。加熱炉での工夫とは、上の例でいけば、プロセスや材料を変更して加熱温度を下げるとか、設計を変更して小型化し1チャージ当たりの部品数を何割か多くするとか、あるいは廃熱を利用して、次にチャージする部品を余熱しておくとかを指します。そのために、お金(投資)も少しは必要かも知れませんが、企業側からの経済原理から言えば、その額は数年(長くて5-6年)で回収できる範囲でなければならないでしょう。国は、そのための資金を貸し付けるだけで良いのです。環境負荷である資源=廃棄物量、やエネルギーを節約したもの造りが、企業や消費者にとって負担であるはずがないのです。材料費やエネルギーコストが圧縮できれば、値段は安くなって然るべきでしょう。

エネルギーや資源は有限ですが、人間の工夫は基本的にはタダで、しかも無限なのです。

A生総理が口にすべき中期目標は、少なくとも40-50%削減でなければ、本当の意味での国際的なインパクトは無いはずなのです。50%と言っても別にびっくりするような数字ではありません。私たちは1970年代の中頃に、そのような産業構造や生活レベルを経験済みなのです。その時代私たちは、別にその時代が苦しいとか、不幸だとかは感じなかったでしょう。むしろ、モノやお金が少し不足気味であったからこそ、それが前進するためのパワーの源になったでしょうし、将来への期待も強かったはずです。満ち足りてしまった時代の後には、無力感と退廃しかないのかも知れません。

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2009年6月10日 (水)

1001 ツバメ

ガチガチ環境ブログは一旦キーボードを置きました。確かに毎日アップするのは結構骨ですが、逆に書き慣れると書かないでいると何か落ち着きません。多くの人がブログにはまる理由が分かるような気もします。というわけで、今後は不定期で日々の徒然なる思いをアップしていくことにします。

さて、今借りている事務所の駐車場の梁に、今年もツバメが巣を掛けています。昨年、心無い大家の家族が、自分の車に糞を落とされたのに腹を立て、巣の一部を壊したのですが、今年のツバメ(去年と同じつがいかは不明)は、懲りずに近くの田圃の泥を運んで、見事に修復したのです。幸い今年は、巣の下に誰も車を置いてはいないので一安心です。自分も駐車場に入る時は、彼らをおどかさないようにバイクのエンジンを切って惰性で入ります。

ツバメの体重は、想像するに鶏卵1個よりは軽いくらいだと思いますが、彼らの小さな体のどこに「大きな海を渡る力」が蓄えられているのか、いつも不思議でそして感嘆させられます。常夜灯の下には多くの死んだ虫が落ちていますが、ツバメたちはそれには見向きもせず、ひたすら飛んでいる生きの良い虫を、見事な「燕返し」でキャッチする技を披露し続けます。巣を見上げると、今日も巣から少し茶色かかった橙色の頬の顔を覗かせながら、親鳥は警戒を怠りません。

日本で田植えの季節になると急増する虫を求めて海を渡り、その田圃の泥で巣を作り、カラスなどの外敵から身を守るため、人間の力を利用するために軒下に巣を掛ける知恵を、いつの頃から彼らは身につけたのでしょうか。少なくとも家に「軒」の無かった?縄文時代以降の知恵であることは間違いないでしょう。同様に、元々は断崖に巣を掛けていたドバトが、人間が作った橋梁やビルを「故里の崖」に見立てて巣を掛ける行動や、人間の生ごみ置き場をしっかりレストランにしてしまったカラスたちにも、環境の変化に順応する野生の生き物の逞しさを感じます。

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2009年4月14日 (火)

1000 終わりに

このブログでの一応の区切りと考えていた1000題に達しました。途中からは、ブログ投稿をさながら「千日修行」の様に捉えて書き続けてきたつもりです。しかし、これ以上書き続けたとしても、それは中年環境坊主の繰言や愚痴に陥る恐れがあります。それより何より、「環」境と漢字で表現されるように、自然は循「環」し続け、その営みに終わりは無いわけです。一方、人類の歴史には多分終わりがあるでしょう。それは、化石などに見る何億年にもわたる生物の盛衰の歴史が明白に示しています。そのピリオドは、人類自身の出す廃棄物による自家中毒が原因となって打たれるはずです。何故なら、戦争にせよ、環境悪化にせよ、地球規模の害悪には、直接被害を受ける個々の人間はさておき、国際社会や国や地域に歯止めを掛ける力が非常に弱いからです。それは、総論賛成、各論反対と言う「社会的には矛盾の無い主張」を聞くだけで十分でしょう。

めぐる環境の様に、話はめぐり巡って投稿者が環境坊主を目指したスタート点に立ち戻りますが、何回か書いたように、投稿者としては、科学・技術が引き起こした環境悪化は、結局のところ科学・技術には解決できない、との立場を取ったのでした。それは、科学・技術とは「人間だけ」を「物質的」に豊かにする限定的で「欠点の非常に多い手段」だったからです。結果として、科学・技術とは、自然環境を破壊し続ける運命を背負わされた「両刃の刃」であったわけです。一方の刃で、自然を切り開き人類の「科学・技術の恩恵に与る一部の人類」の物質的な豊かさや利便性の向上を図ってきたのですが、返す刃では、地下資源の乱用や自然破壊のスピードを年々上げてきたのでした。

そうではなくて、環境坊主としての見方や立場は、「ココロの豊かさ」あるいは「利他主義」あるいは「利自然主義」なので、科学・技術的視点とは全く次元の違う話になります。このブログで伝えたかった事を一行の文章で書き表すならば、多分次のようになるでしょう。すなわち、この環境坊主が考える、今後私たちの目指すべき方向とは、「環境悪化で荒廃した唯物主義の山を下りながら、ふもとにあるココロの豊かさに近づく行動」、もっと単純に言えば「慎重な時代の巻き戻し」ということになるかもしれません。

さて、ガチガチの環境ブログとしてはここで一旦キーボードを置きますが、日々の思いは、徒然なるままに時々はアップを続けることといたします。ただ今後のアップは不定期になりますので、ここまでお付き合いくださった皆さんには、時々思い出した時にこのブログを訪問していただくだけで十分だと思います。今後は、微力ながら環境保全のお経を唱えながら、一歩でも「ココロの社会」に近づけるように、しっかり修行し汗もかこうと思います。

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2009年4月13日 (月)

999 終わりの前に

20世紀後半、日本で言えば昭和時代の後半の出来事が、果たして「歴史か?」と問われれば、それにはまだ少し時間が必要とされるでしょう。確かに、このブログでは、さながらそれを「歴史風」に書き綴ってきました。その時代のレールを引いてきた「昭和一桁」は、殆ど「お隠れ」にはなりましたが、しかし、そのレールの上を、ひたすら物質的豊かさを求めて邁進してきた「D塊世代」が、まだまだ社会のマジョリティとしてデンと座っています。

と言う訳で、昭和を歴史として眺め、それを客観的に反省・評価するには、それを「懐かしがる世代」が存命であるかぎり、やはり時期尚早であると認めざるを得ません。多分D塊世代がフェイドアウトする20年後くらいには、「20世紀史」や「戦後昭和史」がブームとなるかもしれません。しかし、環境の悪化はそれを待ってはくれません。温暖化についてみれば、2040年ごろには、夏場の北極海の浮氷は完全に姿を消すと予測されています。何年も前から、「数年後」には、ゴミの最終処分場が満杯になると騒がれながら、いまだにレジ袋の有料化とごみの分別収集の徹底以外は、有効な対策は打たれていません。

少し早めでしたが、環境坊主を目指して「企業」や「技術屋」から「出家」した投稿者は、このブログを通じて、つたない「お経」を書き綴ってきたつもりです。しかし、1000題のブログを書き連ねても、そこに100万の言葉を並べても、「環境」を明確に言い表すことはできないでしょうし、ましてや「環境保全」に向かって歩き始める人の数を増やすことはなかなかできません。そうではあっても、この環境坊主には毎日お経を唱え続ける義務を負わされているとの思いから逃れることが出来ず、重要な仕事を与えてくれた企業や、それまでの数分の1収入での生活を余儀なくされた家族には大いに迷惑をかけながら、どうにかここまでやってきましたし、これからもいただいている寿命の範囲内でそれを続けることになるでしょう。

もちろん、シャカリキになって走りまわっても、それこそ無駄なエネルギーを消費するだけなので、できるだけユルユルと、あまり力を入れないで、少しずつ前に進んでいくこととします。それは、熱力学で言うところの「準静的な過程」という表現に似ているような気もします。(技術屋卒業生としては、熱力学などという浅知恵を振り回すべきではありませんでした…反省)つまりそれは、誰にも気づかれず、感謝もされないで、しかしなんとなく前に進んでいる「ミヤザワケンジ」の世界に通ずるものかも知れません。

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2009年4月12日 (日)

998 まとめ9(地球に生きる)

W田さんが狭い宇宙ステーションの中でどんなに大活躍しようと、NASANASDAが膨大な予算を確保・維持し続けようと、宇宙空間や他の星に人間が住む訳には絶対にいきません。なぜなら、今のヒトの生物的な構造は、1気圧の大気と太陽光が育てた植物(食糧)と1.0Gの重力の元で進化してきた存在なので、小さな重力下で、人工的に管理された空気を呼吸し、レトルトパックされた加工食品だけでは、いくら訓練を重ねた宇宙飛行士だとしても、たぶん半年も暮らすのが精一杯だと思うのです。それを超えると、無重力下での骨の脱灰が進み(いわゆる骨粗しょう症がひどくなり)結局は命にも関わることになるはずです。

そんな危なく、意味もない実験に天文学的な予算をつぎ込む位なら、この地球上で「持続的な農業を営むための研究に、今の何倍も予算をあてがわなければならない」と思うのです。それは、期待というよりは絶対に必要なことであると、大きなフォントと太字とアンダーラインで強調しなければなりません。それは、何も収量の多い作物を開発するなどというのではなく、先ずは、(益々ひっ迫しつつある)水資源をあまり消費しない品種でなければなりません。しかも、味は良くなくても、土壌養分のより少ない消費で成長する品種である必要もあります。それらの新しい品種の遺伝子は、たぶん荒れ地に逞しく自生している雑草の様なものから発見されるはずなのです。

そもそもジャガイモはアンデス高地の荒地が原産地ですし、稲は東南アジアの湿地の雑草でしたし、小麦も半乾燥地帯のペンペン草の様なものに過ぎなかったはずです。しかし、今食糧にしている穀類や野菜は、より良い味と収穫量の増加だけを目指して品種改良された「換金作物」に過ぎなく、持続可能性とはほとんど無縁の、石油エネルギーと化学肥料と農薬からできている「アヤシイ」食べ物だとも言えるでしょう。

私たちが、今後ともより永くこの地球に住まわさせていただくためには、何より環境への負荷を最小限に抑える努力を欠かしてはならないでしょう。それが、この限られたスペースである地球の環境に暮らすための最低限のルール(オキテ)だと思うのです。その答えは決して宇宙空間にあるのではなく、私たちが立つ大地(土壌)の中にこそ見つかるはずのものなのです。

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2009年4月11日 (土)

997 まとめ8(神々の世界)

自然のサイクルは、気の遠くなるような時間の中で微妙なバランスを獲得してきました。それは、大気を介した炭素循環、雲からの雨や雪や川や海からなる水循環、動植物を巻き込んだ有機物循環などに代表されますが、人間の与り知らない「隠れた循環」も実はあるのかも知れません。例えば、海洋における「熱塩循環」などはつい最近発見され研究が始まったばかりなのです。見えない循環や、種々の循環システム間の相互作用やフィードバック(あるいは負のフィードバック)、フィードフォワードなどは、自然の理解がまだまだ浅い私たちには、逆立ちしても予測不可能な「神々の世界」なのです。

上の熱塩循環ですが、これは熱と栄養塩を抱え込んだ海水(海流)が、海底深く潜り込み、概ね1000年単位の循環サイクルで、再び海洋の表面に浮かび上がるという、非常にスパンの長い海洋循環を指します。液体である海洋のボリュウムは、気体である大気に比べれば何桁も大きく、それが抱え込む物質(栄養塩や溶け込んだCO2など)や熱量は、地表と大気のごく低い高度の現象である「気象」に大きな影響を与えるであろうことは、学問を積んだ学者でなくても容易に理解できるでしょう。しかし、その影響が、植物や動物の食物連鎖を介して、いったいどの様に収束するのか、あるいは逆に発散・破局を迎えるのかはほとんど予測不能で、やはり「神々の世界」にお任せするしかないのです。それほど、自然の仕組みは巧妙で複雑だ、というのがここ5-6年の、まだまだ修行が浅い環境坊主の得た率直な感慨です。

何しろ、「虫」メガネで見なければよく見えないような虫の中にさえ、生命と生殖と環境を生き抜くためのメカニズムが内蔵されており、何万年も(あるいはゴキブリの様に)何億年も代を重ねて進化を続けている「世界」が存在しています。また、たった一握りの土(土壌)の中にも、何億もの微生物が蠢き、有機物の循環が行われている「世界」が存在するわけです。それらは、私たちが持っている浅い表面(おもてづら)の知識程度では、ほとんど理解不能な、神々の世界としか言うしかないと思うのです。

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2009年4月10日 (金)

996 まとめ7(開発=自然破壊)

カンボジアには、多くの仏教遺跡があり、環境坊主としても一度は訪問したいと思っていた国の一つですが、今となっては実際に行くことはなさそうです。というより、物見遊山であれば行くべきではないとも思うのです。それは、観光目的でアンコールなどの遺跡の周りは道路やホテルなどの観光施設が増えてすっかり開発が進み、森林もまばらになっているとの報道に接したからです。それらの施設から処理されずに垂れ流される汚水やゴミで、周囲の環境も極度に悪化しているようなのです。かつてこの国の国土の90%は森林で覆われていたのですが、それが今ではたった30%までに激減しているとか。ベトナム戦争の時に、ゲリラの潜むジャングルの焼き払いが行われ、戦後も農業開発や観光開発により、緑したたる熱帯林が土色の国土に変貌してしまったのです。それはまさに開発という名の自然破壊に他なりません。

同じ事は、日本でも高度成長期の大規模宅地開発と称する「里山の破壊」という形で進行しました。同時に、干潟はゴミの島としてドンドン埋め立てられ、都市近郊の海岸は、ほぼ100%コンクリートの護岸で覆われることになったのです。同じように、多くの川の上流には貯水ダムや砂防ダムが建設されて海岸には砂が供給されなくなり、下流の川の両岸は水害防止の御旗のもとに真っすぐに削られてコンクリートで覆われてきました。これらの開発は、間違いなくそのまま自然破壊と呼ぶべき行為に他なりません。何故なら、これらの開発によって自然のサイクルへの「不可逆的な変容」が起こってしまったからです。

「不可逆的な変容」とは、後戻りしようにも最早引き返すことができない状態を意味します。英語ではPoint of no-return.などと表現されますが、実は私たちはこのポイントをだいぶ前に通過してしまった可能性が高いのです。すでに作ってしまった、900兆円にも上るインフラを維持する事さえ難しいのに、今以上の道路建設や農地の宅地化や里山の破壊は必要ない、と知るべきでしょう。この国では、分配の仕方がかなり不味いだけで、モノやインフラの量は十分過ぎるほど足りているのですから。

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2009年4月 9日 (木)

995 まとめ6(技術ではなく)

投稿者が何故技術屋を卒業したかについては、何度か書いてきました。ここで繰り返すと、技術で引き起こした環境の悪化を、技術では解決できないことを悟ったからなのでした。それは「毒を以って毒を制す」という状況にも似ています。すでに、この地球は温暖化の「悪循環」に突入しつつあります。それは例えば、既に学者たちが認識している悪循環、たとえば温暖化により海水中のCO2が大気中に出ていく圧力の加速、あるいは夏季に極地の凍土が融けて湿地帯となり有機物の分解に伴って強烈な温暖化ガスであるメタンが多量に発生することなどを指しますが、実はまだ認識されていない悪循環も存在する可能性が高いのです。それは、さながら静かな時限爆弾と呼ぶべき現象かも知れません。

危ないと分かっている事をボチボチ減らすのではなく、プッツリと止めてしまえないものでしょうか。タバコとの類推で言えば、節煙ではなく、思い切って全面禁煙とすべきでしょう。同じように、省エネではなく、少なくとも心構えとしては「禁エネ」を指向すべきなのです。とりあえずは、投稿者の事務所の様に一切の冷暖房を止めてみれば良いのです。確かに室内温度はと言えば、夏は30℃をかなり超え、冬は5℃以下に下がることもありますが、別に命に関わるほどではありません。もちろん、省エネ家電と呼ばれる「技術を使った」エアコンを設置すれば、従来機種に比べてたとえば半分のエネルギーで快適な空調もできるでしょう。しかし、生き方を変えるだけで、その空調エネルギーはほぼゼロにできるわけです。

今後、この社会に必要な事は、省エネルギーにつながる新たな技術の開発などではありません。そうではなくて、地下資源や化石エネルギーの助け無しに、何とか暮らしを立てていくための工夫や技や知恵だと思うのです。それらは、科学・技術の専門書や教科書には書かれてはいません。ご先祖様たちが編出してくれたくれたものか、それが消えかかっているのなら、自ら「不便な状況」を作り出してみれば、自然に湧いて出てくる筋合いのものだとも思います。科学や技術とは、人々の持つ体験や技や知恵を体系化して一般的原理としてまとめた、いわば「帰納的なアプローチ」だと言えます。しかし、投稿者が提案するのは、環境が生み出す諸現象の注意深い観察により、そこから日常生活に必要な個々の知恵や工夫を紡ぎ出す「演繹的なアプローチ」の重要性なのです。

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2009年4月 8日 (水)

994 まとめ5(ゼロベース)

ゼロベースとは、今ある状態からの改善ではなく、全く何もないところ(ゼロ)から「絶対不可欠なもの」を積み上げることを指します。少なくとも投稿者の定義ではそうなっています。毎日の食糧を得るのが主な生活の活動であった時代には、少なくとも肥満であった人は皆無だったでしょう。むしろ、必要なカロリーが取れず、食べ物が不足する冬季にはガリガリに痩せていたことでしょう。少なくとも、私たちが属する東アジアの民族は、飢餓状態に非常に強い人種に当たります。反面、カロリーの過多には非常に弱く、簡単に糖尿病になったりするのです。

ゼロベースの考え方では、空腹に耐えられなくなった時にホンの少量の食料を口にすることになります。照明の明るさは、読書や工場や事務所の仕事に「支障が出ない程度」に落とすことになります。それを更に徹底すれば、読書や仕事は「昼の明るいうちに片付ける」生活スタイルになるでしょう。その意味で、日本が夏時間を採用しない理由が投稿者にはまったく理解できません。

工場では、製品に付加価値をつけるために必要な最低限の資源やエネルギーの定義が必要でしょう。従業員のための衛生設備や周辺設備は、必要なものから吟味して積み上げることになります。その意味では、あらゆるエネルギーや資源には、その必要性の優先順位を割り当てる必要があるでしょう。これに関しての投稿者の気づきを紹介しておきましょう。それは、モノに対してその必要性に優先順位をつけると、それは見事に「発明され作られた順番に並ぶ」という事実でした。つまり、人々の移動手段としては、航空機の前に列車の発明があり、その前には自転車が作られ、その間にエンジン付き馬車である自動車の発明、進歩が挟まっているわけです。ゼロベースで考えるならば、人々の移動手段である「歩き」はヒトが二足歩行を始めた時以来の能力ですし、その延長である自転車もどんな時代になっても生き残るでしょう。しかし、一家に2-3台保有されている車や、今から開発されるはずのリニア新幹線などは、明らかにひどく過剰な状況であることは間違いないと結論するしかないでしょう。

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2009年4月 7日 (火)

993 まとめ4(暮らし方)

暮らし方=ライフスタイルの見直しは、環境悪化に歯止めを掛けるためには絶対不可欠です。しかし、少し前に流行った「清貧」や「勿体ない」や、毎日のように叫ばれている「省エネルギー」や「温暖化防止」などのお題目だけでは、実は全く不十分です。可能な限りモノやエネルギーに依存しない暮らし方の実践こそが必要な行動だと言えます。

そのために必要なキーワードとしては、「無しで済ます」あるいは「辛抱する」さらには、「やせ我慢する」、「工夫する」などしか考えられないでしょう。中でも「工夫する」というキーワードは特に重要です。欲望の赴くままにモノやエネルギーを消費するのではなく、より少ないモノやエネルギーで暮らす工夫こそ、すべての環境問題への歯止めの第一歩だと言えるでしょう。大量生産、大量輸送、大量消費、大量廃棄の20世紀後半型の暮らし方が、今の環境悪化を招き、将来のさらなる悪化につながっています。地産地消が叫ばれだしてかなりの時日が経過しましたが、まだまだ日々の行動(暮らし方)までにはなっていません。

たとえば、昔は普通に見られた「市(いち)」が今や観光地の風物詩になり下がっている状況です。地元の産物や不用品や少し余った製品などを、地域の中心地の市場で売買する、あるいは物々交換する行動こそが、環境への負荷を減らすライフスタイルの第一歩でしょう。市による売買は、大量生産・大量消費の対極にある生産・消費行動であると言えます。

もうひとつ例ですが、いまの暮らし方で気になるのは、人々の生活から「歩き」が無くなったことです。近くのスーパーやショッピングセンターへ行くのにも人々は車に乗り、しっかり歩いて足腰の衰えを防がなければならないお年寄りも、電動の「老人カー」に乗って危なっかしく道路を「闊歩」しています。10年以上前、アメリカで1年ほど暮らした時、道路に全くと言ってよいほど人が歩いていない事を奇異に感じた経験がありますが、最近の日本もそれに似たような状況に近づいていることに気づいて愕然としたことがあります。ヒトは森を出て草原に棲み始めた時から、二足歩行で移動すべく、生物学的に進化してきたはずなのです。それを止めた時、つまり筋肉や骨に掛ける負荷を減らす「楽な生活」を選択した時、私たちは生活習慣病や足腰のトラブル、寝たきり老人の増加などの高い代償を払わなければならないのです。

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2009年4月 6日 (月)

992 まとめ3(価値観)

いまの時代は間違いなく、モノやお金にその価値のほとんど(投稿者の感覚では98%)が置かれています。モノがあれば、あるいはそのモノが自由に買えるお金さえあれば、人々は満たされたような「錯覚の幸福感」にとらわれ、それをひたすら求め続けているように見えます。それが見えるようになったのは、投稿者が、まだ十分とは言えないものの、意識的にモノやお金から遠ざかることを選択してからの様な気がしています。モノやお金のもう一つの側面は、その追求に限りがないことです。一度モノやお金を手にした人々は、より華美で高価なモノ(最終的にはステータスシンボルと呼ばれるモノたち)を手にするまで追及を止めないでしょうし、小金を手にした人は、短期間により高い利殖が得られる投資先にそれを預けて、1円でもお金が増えるように知恵を回すでしょう。大金をすでに握っている人々(例えばハゲタカファンドと呼ばれる利益集団)は、さらに狡猾に立ち回り、それを使って企業や市場を激しく揺さぶり、そこからこぼれ落ちた利益を貪るでしょう。それは「お金を儲けることがそんなに悪いことですか」とうそぶきながらの、まさにハゲタカ行動です。しかしそれでも満たされることのないモノ・金の追及は、終わりがなく空虚な「無限地獄」だと言えるでしょう。

一方、ココロの満足感はまったく次元が異なります。最低限の衣食住が確保できれば、そのこと自体に感謝し、人と人の結びつきにより強い価値を置き、他人のために汗をかくことを快く感ずる、穏やかで感謝に満ちた生活だと言えます。不足するモノは、工夫やお互いの融通で乗り切り、余ったものは知恵を使って保存し、来るべき不足に備えます。ここまで書くと、何の事はなく、これは投稿者が子供時代を過ごした地方都市で、あるいは現代ではお年寄りしか残ってない山里でしか見られなくなってしまった「田舎の日常生活」そのものだと気付きます。結局、人々はモノやお金を求めて都会へ流れ込んで物欲や金銭欲を満足させ、一方田舎に残った人々は穏やかなココロの満足感を得た、と対比できるでしょうか。

言わずもがなですが、どちらの暮らしが環境にやさしく、かつ持続可能であるかは明白です。そうであれば、私たちが今後持つべき価値観がどちらの方向に向かうべきかについては考えるまでもありません。必要な事は、その方向にたとえ一歩でも踏み出すことなのです。

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2009年4月 5日 (日)

991 まとめ2(脱エネ)

投稿者は、現在企業の省エネ診断や、省エネ研修、ボランティアとしての温暖化防止の出前講座などを引き受けていますが、率直な思いは「省エネでは届かない」というものです。何に届かないかといえば、温暖化防止に向けた実質的な効果に、です。省エネは温暖化のスピードを僅かに遅くする効果はあるでしょうが、しかし温暖化は着実に進行・悪化するのです。エネルギー消費を今の1/10位まで絞れば、何とかブレーキ効果が期待できる可能性はあります。

しかし現実は、たった6%程度の削減さえこの国では四苦八苦している状態なのです。つまり、今の「省エネ」思考から脱して「脱エネ」思考に転じなくてはならない状況だと思うのです。石油や電力や天然ガスなどのエネルギーの縛りから脱するには、どう考えても「エネルギー大量消費時代」以前の知恵に学ぶ必要がある、としみじみ思います。何も江戸時代までさかのぼる必要はありません。戦前や戦後の、モノやエネルギーの極端に少なかった時代に、その多くのヒントが埋まっていると思うのです。

それらを丁寧に掘り起こし、泥を落として、その後に手に入れたササヤカな科学・技術の知識をちょっとだけ使って、現代風にアレンジすれば、より持続可能な社会に近づくとは思うのです。その際に、間違ってもこの行為を990で述べた「加工場」に持ち込んではなりません。それを行うのは、「現代的な手工業」でなければなりません。なぜなら、それを「加工場」に持ち込んだ瞬間に新たな炭酸ガスの発生が始まるからです。脱エネに最も効果が高いのは、人力や太陽エネルギーを主とした加工へのシフトしかないと思うのです。

脱エネにはまた消費者の努力も不可欠です。せっかく作る側で、エネルギーや資源を絞って生産(ではなくて加工でした)しても、消費する側で蛇口を閉め忘れては、元も子もありません。ここでも、使い、消費する際の「一手間」を惜しんではならないでしょう。時間の短縮や利便には何度も書いたように、必ずエネルギー消費が伴うはずだからです。

それに関わる人たちには申し訳ありませんが、持続可能型社会に流通業は邪魔になります。可及的速やかに「運ばない工夫」を集結させる必要があるでしょう。いまは、A地域とB地域で、それぞれ大量に作ったものを大量輸送手段で交換していたりもする時代です。A地域で使うものをA地域やその近郊で調達すれば、輸送量を大幅に削減することも可能になります。脱エネに必要なことは、綿密な市場調査と少しの工夫と「環境のための一手間」だけなのです。

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2009年4月 4日 (土)

990 まとめ1(モノづくり)

ここで「モノづくり」の本質を再度まとめてみようと思います。よく工場での「モノ造り技術」などが議論されますが、投稿者の辞書には実は「「モノ造り」などは載っていません。なぜかと聞かれればそれは、モノ=物質は元々全てがこの地球上に揃っていたからだと言うしかありません。

例えば、製鉄所では鉄を作っているのではありません。元々地球の岩石に多量に含まれていた鉄分が、気の遠くなるような永い時間をかけて風化され、海中に溶け込んだ多量の鉄イオンがあったのです。地球が冷却するにしたがって、海の浅瀬に「ストロマトライト」という酸素を出す生物が繁殖し始めました。「ストロマトライト」が出す酸素は、鉄イオンを酸化し、酸化鉄に変えていきました。酸化鉄になった鉄は、最早海水に溶けていることができなくなって、やがては海底に沈殿していったわけです。その堆積物が、場所によっては数百メートルもの厚みになったのですが、ラッキーな国であるオーストラリアやブラジルでは、その堆積層が数億年の時を経て地上に顔を出しているという次第なのです。敢えて言えば、植物の祖先であるストロマトライトが、長いながい時間をかけて鉄鉱石の純度を高めておいてくれたお陰で、今の製鉄業が成り立っているだけなのです。それ以前には、人類には川が鉄分の多い岩石を風化して作ってくれた「砂鉄」しか鉄資源としては使えなかったわけです。

その意味で製鉄所とは、その酸化鉄を、これも「植物様」の化石遺産である石炭(コークス)を使って還元し、単に金属鉄に戻している「還元場」に過ぎないと言えるでしょう。その代り、コークスに含まれていた炭素(というよりコークスはほとんど炭素の塊なのですが)が酸化されて、多量の炭酸ガス(二酸化炭素)となって高炉の煙突から大気に捨てられ続けてもいるのです。アルミの工場も事情はまったく同じです。酸化アルミナ(身近な例では陶土がその代表ですが)であるボーキサイトを、大量の電力を使って精錬しなければならないので、アルミ1g当たり製造に1円程度の電力コストがかかると言われています。この過程も、まさに酸化アルミナの還元工程に他なりません。

一方で、これらで精錬された金属を、切ったり、曲げたり、溶接したりするいわゆる「加工」も結局はモノの形を変える行為に過ぎません。つまり、工場とは実はモノの形を変える「加工場」のことで、モノ造りとは「モノの形を変えるだけの行為」でしかなかった、との結論になります。重要な問題は、金属の精錬(還元)やその加工には多量のエネルギー消費と、精錬で不用になった廃棄物(鉱滓)や炭酸ガスが必ず多量に排出されるという事実なのです。それがモノづくりの本質だと言えるでしょう。

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2009年4月 3日 (金)

989 時はエネなり

このブログもそろそろ、本当のまとめに掛かるべき「時」になりました。さて、「時はカネなり」は、実は20世紀の格言でした。しかし今の時代に即して言い直せば「時はエネルギーなり」とでも表現できるでしょうか。いまの時代、先にも述べたように人々は狂ったようにスピードを上げて移動し、またモノを運んでいます。まるで、時間を短縮すれば人やモノの価値が上がる様な錯覚を抱いているとしか思えません。しかし、どんなに長い距離を移動しようが、モノは多少劣化するかもしれないし、人はやや疲れるかも知れませんが、その価値に変化はないはずです。にも拘わらず、私たちは自ら移動し、あるいはモノを運び続けます。何故なら、20世紀後半の50年をかけて連綿とそのような社会システムを作り上げた結果、もはや移動したり、モノを運んだりしなければ、一日として生活が続かなくなっているのです。車や公共交通機関を使わないで職場に通勤できる人は、たぶん全体の3割もいないでしょう。トラック便無しには、スーパーやコンビニの棚からは数日で食料が消えてしまうはずです。

結局のところ、私たちは移動や輸送に関わるインフラを作りながら、一方ではそれに完全に依存する社会システムを作ってしまったようなのです。しかも、その移動や輸送に要する時間を短縮する事に社会的な(過剰な)価値を認め、より速い移動手段に、より高い輸送コストを認めてきたのです。それは、在来線鉄道と新幹線と航空運賃を比較すれば自明です。割高ですが翌日配達時間を保証した宅配便もごく普通に使われるようにもなりました。しかし、私たちは輸送コストには敏感ですが、輸送に関わるエネルギーには全く鈍感なようです。鉄道便がトラック便に比べて1/10のエネルギーしか使わないことを知れば、例え配達に4-5日かかってもやはり鉄道便を選ぶべきなのでしょう。

言葉を代えて言うならば、時間の掛かる行動は、ほぼ全て省エネルギーになっていると断言しても良いと思うのです。社会的にどうしても省エネルギーを推進したいのであれば、その「人質としては時間を差し出す」しかないのです。

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2009年4月 2日 (木)

988 2100年の教室9

先生:「今日はみんなで環境についていろいろなことを議論しましたね。温暖化が進んで、今日も教室内が35℃近くになりましたが、最近新しくできた法律では、気温が体温を超えないとクーラーをつけてはいけないと定められたので、今日も皆には暑さを我慢してもらいました。でも今温度計を見ると、どうやら午後になって気温が36℃に到達したようなので、やっとクーラーが使えるようになりましたね。やれやれ。」

全員:手を叩いて喜ぶ。

先生:「でも、夏場の冷房温度は30℃以下には設定できないように機械側で設定されていますので、涼しさも少しだけですが・・・。」

全員:ブーイング。

生徒A:「温暖化が進んだので、日本では冬はほとんど暖房が要らなくなったけど、今年も4月になった途端に最高気温が30℃を超える日が現れたし、先週にはついに日本国内での最高気温が45℃に更新されたんだよ。」

生徒C:「空調にはエネルギーを使うけど、でも春先にみんなで窓の下に植えたゴーヤが結構伸びてきたので、隣の1組の教室に比べれば、こっちの教室の方が結構涼しいんだよね。」

先生:「そうですね。植物の力はすごいですね。休み時間になったら、屋根に降った雨水を貯めているタンクの水を使って、教室の外の芝生に水撒きをしましょう。もっと涼しくなりますよ。今日の当番の人は誰ですか?」

生徒A:「ハイ。僕とFさんです。」

生徒D:「二人ともケチらずにたっぷり水撒きしてよ。がんばってね。」

生徒F:「ハイハイ。」

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100年後の教室での議論もどうやら尽きたようなので、明日からはまた「通常の」環境ブログに戻ります。

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2009年4月 1日 (水)

987 2100年の教室8

先生:「少し視点を変えて、目を宇宙に向けてみましょうか。皆さんの使っている携帯端末にもGPS機能が付いていて、人口衛星のお世話になっていますが、環境の悪くなった地球を諦めて宇宙に飛び出していくという方向についてはどう考えますか。」

生徒C:「21世紀の初め頃、日本人も参加した宇宙ステーションが作られたと記録されていますが、たくさんのお金とエネルギーを使った割には、その成果がちっとも出ていないんですよね。人工衛星が、気象観測や通信だけにしか使えないのであれば、もっと安い通信用飛行船を成層圏まで上げれば十分間に合いますよね。」

先生:「成層圏プラットフォームですね。20世紀の初めに日本でも研究されたのですが、その後実用化がほとんど進みませんでした。ただ打ち上げコストが非常に低いので、途上国では自分の国の通信用に使っている地域が結構あるようですね。ではC君は、宇宙開発にはあまり意味がないという意見ですね。」

生徒C:「ロケットの打ち上げにはあまりにも沢山のエネルギーを使い過ぎますよね。だってたった1トンの衛星を打ち上げるのに、何百トンもの液体燃料を使うんですから。それに、宇宙空間には、使われなくなった衛星やその破片の宇宙ゴミが、それこそ星の数ほど浮かんでいるんですよ。」

生徒F:「そういえば、飛行機が飛ばないような高い高度の大気汚染の原因は、ロケットの打ち上げが原因だと聞いたことがあります。」

先生:「でも皆も一度は宇宙に飛び出してみたいと思いませんか?。」

全員「シーン!」

先生:「そうですか。今の若い人には宇宙開発はまったく人気がないようですね。」

生徒C:「だいぶ前に、21世紀の初め頃に数ヶ月間宇宙に滞在した最初の日本人が地球に帰ってきたときの動画を見たことがあるんだけど、自分ではまともに歩けないで車イスに乗せられているのをみて、すっごくカッコ悪いと思ったことがあったよ。」

先生:「そういえば、最近は宇宙飛行士になりたいという人がめっきり少なくなって、仕方がないので、政府は軽い犯罪歴のある人の中からボランティアを探すしかなくなった、と最近のニュースが伝えていましたね。」と軽いため息をつく。

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2009年3月31日 (火)

986 2100年の教室7

先生:「では私たちのご先祖さまたちは、21世紀の初め頃に一体どんな行動を取れば良かったのか、みんなで考えてみましょう。それは、皆さんの100年後の子孫に対してのメッセージにもつながってくるはずのものでもあるんです。」

生徒A:「ジーちゃんにもらったヒントでは、ジーちゃんのジーちゃんの時代は、みんながモノやエネルギーの中毒になっていたらしいんです。中毒ってそれを使うのを止められない事だよね。だから、その時代の人には悪いと思った事を『すぐに止める勇気』が無かったのかなーと思います。」

生徒B:「それもあるけど、20世紀に出来た言葉で『便利=コンビニエンス』という言葉に代表されるように、皆が自分が便利で楽をする方向だけに、モノやエネルギーを使った結果ではないかと思うんです。」

先生:「A君とBさんの言っている事は、良く考えると同じことなのかも知れませんね。つまり、20世紀の人々は『便利中毒』になってしまっていて、それを実現するためには、多量のモノやエネルギーが必要だった、ということなのでしょうね。」

生徒E:「僕が好きな鉄道は、列車の鉄の車輪がピカピカに磨かれた鉄のレールの上を走るので、地上を移動する方法としては、一番エネルギーの効率が高い乗り物だと本に書いてあったよ。だから、100年前にもっと鉄道の良さを見直して、それを発達させていたら今のようなひどい環境にはならなかったと思うよ。」

生徒F:「私が調べた結果では、100年くらい前に水素で走る自動車が開発されたけど、その水素はやっぱり、石油や天然ガスから作られていて、水素を取った後はたくさんの炭酸ガスが大気中に捨てられていたんだそうです。これって、温暖化防止には全く意味のない行動ですよね。」

生徒D:「そうだ、そうだ。もし僕だったら、その時代にすっごく熱心に植林をしていたと思うな。樹木は生長する時に、たくさんの炭酸ガスを吸収してくれるので、木材自身が炭酸ガスの貯金箱の様なものになるんだよ。」

先生:「D君の言っている事はとっても重要で、実際季節によって植物の活動が違うんだけれど、例えば北半球が夏の間は、大気中の二酸化炭素の濃度が数PPM程度は低くなるんです。それは、海水中の植物プランクトンや陸上の植物が力を合わせて二酸化炭素を吸収した結果なんだけど、確かに植物の力ってすごいですね。」

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2009年3月30日 (月)

985 2100年の教室6

先生:「20世紀の終わり頃に、色んな出来事があって、今の時代につながってきていることが分かってきましたね。それでは、いよいよ本題の環境悪化の問題についてさらに考えてみましょう。この100年で、地球の平均気温は、確実に3℃は上昇してしまいましたね。でも、北極や南極では、その倍くらいのスピードで気温が上昇しているんですよ。いまでは、夏の間は北極海には氷が全く消えてしまうので、船がベーリング海峡を通ってヨーロッパやロシアと極東や北米と自由に行き来してしますよね。この温暖化に対して過去100年のうちのどこかでブレーキを掛けることができなかったのか、もう一度考えてみましょう。」

生徒F:「でも温暖化の影響は目には見えないし、進み方もゆっくりなので、なかなかそれを確認してブレーキを掛けることは難しかったと思います。」

生徒G:「私は動物が大好きですが、北極の白クマは全部いなくなって今では動物園でしか見ることができないし、南極でもかなりの種類のペンギンが絶滅して、全体の数もすっかり減ってきました。もし、これらの動物たちがバタバタ死んで行くのを見過ごさず、エネルギーの使用を20世紀の終わり頃に比べて1/10位に急いで減らしていれば、こんな事にはならなかったと思います」

先生:「その急ブレーキを掛けるとしたらいつ頃だったら間に合ったと思いますか。」

生徒A:「たぶん、21世紀の初め頃には手を打たなければならなかったと思います。でも最初の温暖化防止の国際条約は、2008-2012年の間に1990年に比べてたった6-7%の削減目標だったんです。これでは、「この条約は、まるで池に目薬を差すようなものだった」、とオバアちゃんも怒っていました。」

先生:「みんなも結構怒っているようですね。確かに、今の日本では北海道や本州の高い山以外ではほとんど雪が積もらなくなりましたね。長野ではリンゴが取れなくなって、今やミカンを栽培する農家が増えてきました。九州や四国では気温が高すぎてコメが取れなくなり、今ではマンゴーやパパイヤやパイナップルなどが主な農産物になりましたね。」

生徒G:「でも先生。マラリアやデング熱など熱帯の怖い病気や毒虫も南から入ってきて、いま大変なことになっているよ。子供は、草むらで遊ばない様に注意されているし。」

先生:「そうですね。そういえば学校行事から遠足や林間学校が無くなってから何十年にもなりますね。」

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2009年3月29日 (日)

984 2100年の教室5

先生:「その他の生活や社会の変化についてはどうかな。環境に限らず20世紀に大きく変化したと思ったことを発表してください。」

生徒B::「やっぱりその時代の最大の変化はインターネットの普及だと思うよ。いまでは、ほぼ100%の人が携帯端末でインターネットを使っているけど、端末は薄くて軽くてどこにでも持ち歩けるので、今では紙のメディアは図書館で古い本を読むとき以外は使われなくなったよね。新聞や雑誌も端末で見るし、学校でも教科書はすべて端末にデータが記録されているので、この紙のようにクルクル巻いて持ち歩ける薄い端末だけですべての情報が手に入るんだよ。その技術の元は20世紀の終わりごろになって急に発達したんです。」

先生:「そうですね。確かにその時代に本当に急速にインターネットが発達しましたが、ではその本当の原因は何だとおもいますか。その時代でも、紙の新聞や雑誌や本やテレビや電話があったのに、なぜインターネットが発達したんですか。」

生徒D:「それはネットが滅茶苦茶便利だからだよね。何か調べたいことや知りたいことがあれば、キーワードを入れるだけで、信じられないくらい多くの情報が一瞬で表示されるんだから、いちいちぶ厚い紙の辞書を開く人がいなくなったんだと思うよ。」

先生:「その他の意見はないですか。」

生徒F:「私は、自分もそうだけど、インターネットが発達して多くの人が<ネット依存症>になったのだと思います。」

先生:「ほう、それは面白い見方だね。もう少し詳しく説明してみてください。」

生徒F:「本で読んだことですけど、人間の脳は情報に飢えていると言われています。例えば、人間は何も無い部屋で長い時間を過ごすと、すぐ退屈するし、1週間を超えてその状態が続くと頭がおかしくなるとも言われています。そんな人間にとってのインターネットは、乾いた砂に注ぐ水のようなモノだったのだと思います。だからすぐに多くの人々は、情報の泉であるネットに強くひかれて依存症になったのだと思います。」

先生:「面白い見方だね。では、今みなさんが持っている端末を寝るとき以外手放さない人はどのくらいいますか。手を挙げてみてください。」

全員がしっかりと手を挙げる・・・。

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2009年3月28日 (土)

983 2100年の教室4

先生:「乗り物の話題のついでに飛行機についてはどうですか。これについて調べてきた人はいますか。」

生徒F:「私は、飛行機の歴史を少し調べてきました。」

先生:「どんなことですか」

生徒F:「飛行機は20世紀の代表的な乗物と言われていましたが、2020年ごろの第3次石油ショックが起こって、燃料が何倍にも高くなって国際線以外ではほとんど使われなくなりました。代わって、新しい考え方のエネルギーをほとんど使わない飛行船ができて、今世紀の後半になって国際線にも少しずつ使われるようになってきたんです。少し不便なことは、アメリカに行く時はジェット気流に乗れるので、2日くらいでいけるんですが、帰りはヨーロッパ経由で地球の反対側を回るので3日もかかるんです。でも最近叔父さんとそのお嫁さんが新婚旅行にこの飛行船を使ったそうですけど、飛んでいる最中は音がほとんどしないので、ロマンチックで良かったと喜んでました。」

先生:「確かに飛行船は、先生も一生のうち一度は乗りたい乗り物の一つですね。」

生徒F:「お父さんの会社はその開発に関わったらしいんだけど、お父さんから前に聞いた話だと、その新しい飛行船は、<ザイロン>という非常に軽くて強い繊維で作られた膜で出来ていて、表面には、これも薄くて軽いフィルムの太陽光発電膜を貼っているんだよ。普通はモーターで回るプロペラと、自然の気流を利用しているので、燃料は非常用に少し積んでいるだけなんだって。」

先生:「ザイロンは20世紀に日本人が発明したスーパー繊維ですね。炭素繊維よりさらに2倍以上も強いんですよ。」

生徒F:「今は石油資源がずいぶん少なくなってきたので、飛行機もやはりその影響を強く受けた乗り物だと思います。」

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2009年3月27日 (金)

982 2100年の教室3

生徒E:「僕はこの時代の乗り物について調べてきました。」

先生:「どんなことですか。」

生徒E:「僕が大好きな鉄道です。20世紀の後半は、鉄道のスピードが一気に何倍にもなった時代だということです。それまでは、狭い幅の線路だったので、100キロを少し超えるスピードしか出せなったけど、20世紀の「昭和」という時代の中頃に「新幹線」という超特急列車が開発されたんです。最初は200kmくらいで走っていたこの列車は、どんどん改良されて時速300kmくらいまで出せるようになったんだよ。」

生徒A:エッヘンと咳払いをしながら、「ジーちゃんのジーちゃんは新幹線の運転手だったんだよ。」

生徒E:「へー、すごいね。」

生徒D:「でもその後リニア新幹線ができて、時速500km時代になったんだよ。」

生徒A:「リニアは確かに速いけどジーちゃんはあまり乗りたくないと言ってたな~。何でも超電導磁石から出る強力な磁力線が体に悪い影響を与えるかもしれないという研究もあって、まだ医学的な結論が出ていないといってたなー。」

生徒C:「エネルギー消費で見ると車体が軽量化された今の在来線が、新幹線の倍くらい優秀で、リニアの1/3くらいの電力で走れるので、今後もなくならないだろうと本に書いてありました。

生徒A:「ジーちゃんもトンネルが少なくて、駅弁を食べながらゆっくり走る在来線が好きだと言ってたよ。」

生徒E:「僕はスタイルがかっこいいリニアが好きだけど、確かに2025年にできてから故障が続いて、運賃も高いので乗客の数はちっとも増えていないんだけどね。」

先生:「そうですね、20世紀は人や物をできるだけ早く・多く輸送することが価値を生むと言われていた時代だったようですね。でも、地球の温暖化が加速して、石油エネルギーの産出量が減ってくるにつれて、今あるような軽量でコンパクトな鉄道や太陽光エネルギーも併用した<ハイブリッドトラック>などが主流になってきたんですね。」

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2009年3月26日 (木)

981 2100年の教室2

先生:「では皆は、この20世紀の後半に、一体何が起こったと思いますか。社会の仕組みでも良いし、毎日の生活でも良いから想像してみてごらん。」

生徒A:「ジーちゃんから聞いた話では、ジーちゃんのジーちゃん達は、20世紀の後半に、経済という仕組みを使って、日本の国のお金を何十倍にも増やしたのだそうです。」

生徒D:「その時代に、世界の人口は一気に2倍にも増えたんだよ。」

先生:「そうですね。20世紀の初めや中頃には大きな戦争があって、その後も色々な地域で小さな戦争が続いて何百万人も死んでしまったけど、経済の力で食べ物が豊富になり、一方で医学も進歩して、栄養失調や病気で死ぬ人がずいぶん減ったので、日本を含めた世界ぼ人口が爆発的に増えてしまったんですね。今の世界人口は100億人を少し越えてしまいましたが、実は最近の統計では、気候変動や環境悪化で農産物がほとんど取れなくなった地域が増え、飢えで死ぬ人が増えて、世界の人口が少しずつ減り始めたと報告されていますよ。最近のネット新聞で、アメリカやオーストラリアやアフリカでのひどい干ばつのニュースを見た人は居ますかー。」

生徒ほぼ全員:手を挙げる。

生徒B:「ネットで見た映像では、干ばつのひどいアフリカの草原で、動物の食べる草や木が枯れて、像やキリンやシマウマがバタバタと死んでいるのを見て可哀そうだと思いました。」

生徒A:「ジーちゃんから聞いた話では、アメリカ中西部では今世紀の中ごろに地下水が枯れて、農業がほとんどできなくなっていと言っていました。」

先生:「今では、カナダやシベリアの元は凍土地帯であった場所が切り開かれて農地に変えられてきていますね。」

生徒D:「でもだいぶ前に、あまり水を使わなくても育つ作物の品種も開発されたんだよ。」

先生:「そうなんだけど、残念ながら全く水が必要ではない作物はまだ開発されていないので新しい品種でも、これまでの半分程度の潅水は必要なんです。」

生徒D:「そういえば、この前この新しく開発された「節水小麦」という品種で作られたパンを食べたけどパサパサしてあまり美味しくなかったなー。」

先生:「食糧の話になったけど、この時代にその他の社会生活で変わったことはありませんか。もう少し考えてみてください。」

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2009年3月25日 (水)

980 2100年の教室1

さて抽象論は書くほうも疲れ、たぶん読むほうも飽きてきたと思うので、これまでとは違ったスタイルで、数回のフィクションを書いてみようと思います。物語の場面は、100年後の日本の中学校の授業風景のつもりで、対話形式で書いてみようと思います。

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先生:「みんな、先週出した、歴史の宿題はやってきたかなー」

生徒A:「どうやって調べればよいか良く分からなかったので、ジーちゃんにヒントを貰いました。」

生徒B:「インターネットで調べたんだけど、色々な見方があってかえって分からなくなりました。」

先生「そうかも知れないね。<日本近代史における環境政策の失敗>というテーマは少し難しかったかもしれないなぁ。でも、間違っても良いから、調べてきたことを発表してごらん。」

生徒C:「私は、エネルギーを使う量と、エネルギーの値段の変化を調べました。20世紀後半には、オイルショックという事件が2回くらいあって、石油の値段が一気に2倍になった事があるそうです。でも、その後、逆のオイルショックが起こって、長く石油の値段が低い時期が続きました。その時代に急激に石油を使う量が増えたようです。21世紀のはじめにも原油の値段が2倍くらいになった事がある様ですが、すぐ元に戻ったと記録されています。」

生徒A「ジーちゃんによると、オイルショックが起こっても、エネルギーの使用量は殆ど減らなかったので、100年以上前に京都という場所で、世界中の偉い人が集まって、エネルギーの使い過ぎを止めようと話し合ったそうです。」

生徒B:「ネットで調べた、エネルギーの使用量のデータだと、この話し合いがあった後も、エネルギーの使用量は逆に増えていったようなんです。」

先生:「20世紀の後半に大切なポイントがありそうだね。ではもう少し、この時代に起こったことを考えてみるとしましょう。」

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2009年3月24日 (火)

979 環境の意味

これまで、「環境」を、種々の喩え話で書いてきましたが、ここで正確な言葉でまとめてみます。しかし実際に始めて見ると、それは結構難しい作業であることが分かります。つまり、環境を議論するためには、「自己」と「環境」の間に線を引く作業が必ず発生するからです。自己の外側にあるものが、即ち環境になります。

ところが、例えば、腸内環境という言葉があります。人間の場合、自己の境界線(面)が皮膚だと仮定した場合、腸は果たして身体の内部であるのか、はたまた外部であるのかを考えると頭がこんがらかります。確かに胃や腸の内部(外部?)にも粘膜という皮膚があり、それは口から肛門まで外部に向かって開放されていると言えなくもありません。

そこで、投稿者としては、少し整理して「自己」と「環境」とその間の「インターフェイス」に3分することを提案したいのです。上の例の腸内とは、まさにそのインターフェイス部分である訳です。そこでは、食物を分解(消化)し、それを体内に取り込むための吸収(同化作用)が行われる特殊な場所になります。これを人間社会と自然環境の関係に敷衍すると、インターフェイス部分に当たるものとしては、例えば「里山」や耕作のされていない「草原地帯」などが挙げられるかも知れません。そこは、自然環境と人間社会の間の直接的な軋轢を緩衝する場所でもあるわけです。しかしながら、全ての「経済的なムダ」を排除する癖のついた今の文明は、これらの本来必要なインターフェイスまで、無駄なものとして切り捨ててきたのでした。里山は、切り開かれて宅地や農地に変えられ、ステップと呼ばれていた草原地帯は、太古の昔に溜まっていた地下水を汲み上げて人工的に潅漑され、農地になってしまいました。

身近な例でも分かるように、木を切り払ったり焼き払って作った農地ではインターフェイスが殆ど無くなっているため、イノシシやシカなど動物の食害を受けたり、保水力の無い土壌故の鉄砲水や短期間の旱魃にも極端に弱くなってしまいます。それは、さながら人間が、点滴で直接体内に栄養素を取り込むような行為にも似て、決して持続可能であるとは言えない状況なのです。

ここでの結論を言えば、通常の意味で言う「環境破壊」とは、投稿者の言葉で表現するなら「インターフェイス破壊」と呼びかえるべきではないかと思うのです。勿論、地球上の多くの場所では、インターフェイス破壊が極端に進んだ結果、自然環境自体も取り返しのつかない破壊を受け始めている現場の多いのも事実ですが・・・。

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2009年3月23日 (月)

978 月・水木・土日人

問題ばかり並べたてるのも後ろ向きですので、ここでは環境問題の解決につながるキーワードを、一週間の曜日になぞらえてみましょう。これは、以前のブログでも細かく書きましたので、ここでは概略を繰り返すに留めます。これらは、すべて環境に負荷を掛けない持続可能なエネルギー源を表しているというのが投稿者の主張なのです。まず「月」ですが、地球に比べてもかなり大きな衛星である月は、結構強い引力を地球に及ぼしているのです。その強さは、例えば海の満ち干で確認する事が出来ます。海面を数十センチ、場所によっては数メートルも引き上げる力は強大なものです。実際、これを利用した潮汐発電も一部では実用化され始めています。「火」は化石燃料に通ずるのでここでは無視します。「水」は、太陽光によって大気中に蒸発させられ、やがては雲になり雨や雪になって地上降り注ぐ淡水を指します。昔から、私たちは水車などの形でそのエネルギーを利用してきましたし、何よりそれを田畑に導いて作物を育てて命の糧を得てきたのでした。「木」とは、樹木に代表される植物を指します。植物様の項で植物様の項で詳しく述べましたのでここでは省略します。

「金」は金属の意味であり、地下から掘り出す有限な資源なので、やはりこれも無視することにしましょう。さて「土」ですが、これは単なる土を意味するものではなく、植物を育む「土壌」を指します。土壌とは、その中に多くの有機物やミネラルや微生物を含む「システム」でもあるわけです。岩石を細かく砕いただけの土では、植物がまともに育たないことは、たぶん小学生でも理解できるでしょう。「日」は言わずもがなですが太陽光を意味します。それを浴びて植物が生長し、地球の平均気温を15℃程度に維持し、人間のささやかな知恵で太陽光発電もできるようにもなりました。石油や石炭や天然ガスも含め、太古の昔まで遡ればそれらもやはり太陽光のもつエネルギーが固定され、地下に埋もれたものであることは疑いありません。

「人」とは人力の意味であり、自転車に代表されるように利益を受ける人自身が力を出すのがもっとも環境への負荷が小さいのです。「月・水木・土日人」が今後のあるべき社会のキーワードであることが何となくお分かりいただけたでしょうか。

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2009年3月22日 (日)

977 温暖化の本質

ここで、温暖化の本質をもう一度確認してみます。地球の生命は、実のところ「温暖化に100%依存している」と認めるしかありません。もし、地球に大気が無いと仮定した場合、地球の平均気温はマイナス18度程度まで下がるとも言われています。しかも、太陽に照らされる昼の部分と、その反対側の夜の部分では、気温の差は100℃を大きく超えると想像できます。それは例えば、最強の温暖化効果ガスである水蒸気が極端に少ないカラカラの砂漠地帯では、昼夜の温度差は50℃程度に上ることからも類推できるでしょう・

しかし、幸いなことに地表には大量の水が存在し、それが大気中に蒸発し、気体となったもの(水蒸気)がフトンとなって、地表の日較差や年較差を最小限に留めていてくれています。オゾンや、メタンや炭酸ガスは、それらを全部合わせても、温暖化効果の8割を占める水蒸気に比して、わずか2割にとどまります。この2割の中では、その量が膨大なために(大気の0.04%弱程度)炭酸ガスが温暖化傾向の悪役とされています。その悪役の働きとは、実のところ赤外線の強いスペクトル吸収力にあります。その役割は、水蒸気が受け持っている守備範囲(波長5-8μm)よりは短い3μm弱や4.5μmを中心としたバンドにあります。短い波長の光(電磁波或いは赤外線)は、そのエネルギーポテンシャルが長い波長の光より非常に高いため、それをしっかり受け止めてしまう炭酸ガスの悪さ加減は、水蒸気よりかなりひどいと言えるのです。

不幸にも、炭酸ガスは無味無臭で色も付いていないガスですので、一方で植物の光合成やドライアイス製造や不活性ガスとして価値はあるものの、一方で不用になったものは、簡単に大気中に捨ててしまえるという困った特徴も兼ね備えてもいます。私たちが呼吸している大気には、誰が捨てたか分からない気体ゴミとしての炭酸ガスが3割は含まれている計算になります。それに加えて、炭酸ガスは重い気体であるがゆえに、その悪さが私たちの住む「大気の底」でより強く働く点も忘れてはなりません。対流圏では、もちろんある程度は拡散しますが、手元に詳しいデータはありませんが、相対的に見れば地上付近が最も高い濃度になっていることでしょう。

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2009年3月21日 (土)

976 都市文明

前世紀はまた、都市への人口集中が非常な勢いで加速した時代でもありました。それは、農業技術の発達によって、人口の増加への歯止めが外された事、大きな都市人口を支える交通・運輸や電気、水道などのインフラが整備された事などによって可能となりました。と言うより、人口増加と都市集中の圧力によって、後追いで行政がインフラ整備をせざるを得なくなったと表現すべきでしょうか。日本ではあまり見られませんが、海外の多くの大都市では、そのインフラ整備から取り残された街外れに、スラム街が見られます。これも、間違いなく都市の一面ではあります。

多くの都市は、計画的に造られ拡大していったのではなく、元々あった集落が、人口の流入によって膨れ上がり、後追いでインフラ整備や再開発がおこなわれた結果でしかありません。また結果として、高層住宅が必要になりましたが、その郊外には一戸建ての住宅地域が広がっており、都市中心との間に鉄道や道路が放射状に伸びている姿が、典型的な姿となっているでしょう。

都市は、その機能(より多くの人が群れて暮らす)の実現のために、徹底的に自然が破壊されます。その上で、人間だけが暮らせるように建物や道やインフラが再構築されます。しかし、歴史が示すように、大都市が長い時間を超えて栄えた試しはありません。江戸(東京)が数百年の歴史を刻んできたとしても、それは僅か数百年と言わざるを得ないでしょう。アテネやローマは、古代の小都市の遺跡跡地に今の都市文明再構築された数少ない例に過ぎません。

都市文明の脆さは、その殆んど全てが人工的に造られたものである点にあります。鉄やコンクリートのインフラが、数千年を超えて維持できるはずもありません。それらのインフラは、精々数十年の近視眼的な計画で作られたはずなのです。しかも、そのインフラを下から支えているのは、主に石油や天然ガスを中心とした化石エネルギーです。鉄やコンクリートや化石エネルギーに頼り切っている今の都市文明の生き死には、まさにこれら地下資源の残量だけに100%依存していると言うしかないのでしょう。

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2009年3月20日 (金)

975 ホモポーテージ

現代の文明の際立った特徴としては「運ぶ文明である」ということが挙げられます。確かK川紀章だったと思いますが、ホモ・モーベンス論で、とにかく移動する存在としての人間論を展開していますが、取り敢えずここではそれに倣って、もの運び続ける人間を、ホモ(Homo)+ポーテージ(Portage)で、ホモポーテージとでも命名しておきましょうか。

974でも書いたように、とにかくモノを運ばなければ、現代の社会では夜も日も明けません。この社会にはストックというものが殆ど無くなってしまったのです。勿論数ヶ月分の石油備蓄や古米や古古米あるいは、無理やり買わされた輸入米などの限られたストックは存在します。しかし、殆どの消費財は、ごく僅かな流通在庫を除けば、数日か数週間で在庫が底をつく事でしょう。腐る恐れの無い金属材料や工業製品については、それなりのストックはあるでしょう。しかし、カンバン方式の末端までの浸透によって、それらの在庫さえも極端に圧縮されてしまったのです。

結果として、私たち、夜も日もなく、狂った様に日々モノを運び続けなければならない運命に落とし込まれているとも言える状態にあります。何しろそうしなければ、食べ物が切れて、飢え死にする人たちが大量に発生するからです。6割の食料を海外からの輸入に頼っているこの国では、その内の半分が過食や期限切れや食べ残しの生ごみとして無駄にしていると仮定しても、人口の約1/3が飢餓に曝される計算になります。

これを宇宙から眺めると、地上に何やら鉄でできた箱にモノを積んで、夜も日もなくせかせかと運ぶ多くの生き物(人間)と、ほとんど動かないでのんびりと草を食んでいる少し大型の生き物(牛や羊などの家畜のことです)が観測できるはずです。UFOから私たち人類をじっくりと観察した宇宙人は、「あれこそホモポーテージだ」という意味のことを宇宙語で叫ぶと思うのです。

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2009年3月19日 (木)

974 石油文明

何度も言及してきましたが、20世紀文明(と言うか現文明)は、最終章になって石油文明と呼ぶべき特徴を鮮明にしてきたのでした。石油は、今や主要なエネルギー源であると同時に、プラスチックなど化学工業の主要な原料でもあるわけです。燃料としての石油無しには、自転車以外のほとんどの乗り物がただの鉄やアルミの箱になってしまうでしょうし、事実上石油系プラスチック無しに、ほとんど全ての製品の生産がストップしてしまうでしょう。基本的には鉄の箱である車でさえ、内装材の殆どにはプラスチックが使われているはずです。

衣服についても例外ではありません。綿や毛100%の衣料は今では稀で、多くは化学繊維との混紡品となっています。住宅についても見回せば、内装材や寒冷地でのサッシなどにもプラスチックが使われています。更に電線や水道管の類にいたるまで、石油系プラスチックが使われています。気がつきにくい点ですが、建設資材として重要な資材であるセメントでさえ、石灰岩を加熱して炭酸ガスを追い出す「ロータリーキルン」には大量の化石燃料を燃やした熱が不可欠です。セメント1トンを生産するのに、その重量と同じ程度の目方の炭酸ガスの発生が伴っているのです。原子力の比重が大きな少数の先進国を除けば、主要なエネルギー源は電力であれ、輸送用であれやはり石油頼みです。食糧でさえも、石油で動く農業機械を多用し、電力を使って地下水を汲み上げ、石油に依存したトラックや船舶の輸送網を使って、消費者に配送されます。

こう見てくると、これは石油文明と呼ぶよりは「石油依存症文明」と呼ぶべきかも知れません。依存症の恐ろしい点は、それが気づかない内に深く進行し悪化することです。アルコールであれ、ニコチンであれ、薬物であれ、強い弱いという差こそあれ依存症の特徴は同じです。その意味では、私たちは石油に「強い依存症状」を示していると言わざるを得ないでしょう。以前にも書いたような気がしますが、依存症の改善には「それ」を遠ざけるしかありません。短期的には禁断症状が出るでしょうが、それは覚悟しなければならないでしょう。まずは、可能な限り「石油絶ち」して1週間暮らして見ることです。例えば車に乗るのを止めてみることです。そこからきっと何かが見えてくると思うのです。

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2009年3月18日 (水)

973 ○○屋

現代社会から消えた或いは消えかけている商売やビジネスを考えて、それらを偲んで見ようと思います。それらは、たいてい○○屋という名前がついているはずです。桶屋、篭屋、提灯屋、蓑・傘屋、屋根屋、鍛冶屋、鋳掛屋、屑物屋、八百屋、薬売り、米屋、自転車屋、下駄屋、建具屋、左官屋、古道具屋、ラジオ屋、仕立て屋などなどです。これらは、基本的には個人経営か家族経営で、それを経営する職人の技が主な売り物となっています。また、主人と客は完全な対面販売で商売を行い、顧客の要望により品質や値段に関してはほぼ個別の交渉を行っていたことでしょう。

実は、この事はビジネスの基本の「き」であるはずなのです。つまり、顧客の信頼や満足無しには、リピート注文はありえない訳で、リピート客の無いビジネスは早晩立ち行かなくなるからです。その意味で、今のビジネスは顧客の気持ちがあまりにも軽視されていると言えそうです。それは「プロダクトアウト」と表現される場合もありますが、いずれにしても、大量生産を意識しての作りやすさ、価格の安さ、品質の絞りやすさなど、作り手側の都合だけで生産されていると思うのです。確かに市場調査と称して、1000-2000人程度のアンケートは行っているかも知れませんが、それは顧客の意見の最大公約数でしかありません。

仕立ての良い洋服が型崩れせずに長く着られるのは、その洋服が着る人の体系にぴったり合っているからで、型崩れどころか、着るほどにその人の体系にますますフィットしていくはずなのです。同様に、ユーザーの手の大きさや器用さに応じて調整された道具は、使い込むに連れてますます手に馴染んでいくことでしょう。

○○屋とは、結局は顧客の要望を形にする職人であると定義しても良さそうです。今後のビジネスを考えるとき、すでに言い古された言葉である「マーケットイン」でもまだ不十分です。もっと個別の対応である「カスタマーイン」でなくてはならない、と自営業になってみてしみじみ思います。というわけで、投稿者の選んだ商売は「環境屋」だったのでした。

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2009年3月17日 (火)

972 お経

お迎えが段々近くなると自動的に考えも線香臭くなるようです。さて、お経とは、たぶん偉い人の教えを書き写し、万人が日々唱えることの出来るように、様式や音韻を整えたものだと想像しています。投稿者も、3年間も同じようなことを繰り返し書いているうちに、ふと「お経」という言葉を思い出しました。重要だと思ったことは、自分自身の道標となるように、言葉を替えて数回は書いているつもりです。しかし、同じような事を書くのに、100回も繰り返して書けば、言葉や内容も収束してくるはずです。それは、ほとんどムダが削がれて、真理にかなり近いものになるのかもしれません。例えばこの3年で、同じような内容で3回書いたとしても100回書くまでには、今後30年は要するはずで、その意味で、新米の環境坊主である投稿者には、まだまだ「経文もどき」も書けそうにありません。

勿論、どんなに立派な経文や教義であったとしても、それが人の口から発せられたものであり限り、「真理」ではなくなっているはずです。何故なら、言葉とはその言葉が使われている文化に左右されるでしょうし、それぞれその文化には固有の価値観が存在するからです。価値観は本来自己やコミュニティを中心として形成されるものですから、それがどんなに素晴らしい教えであったとしても、真理からの「乖離」は避けられないわけです。

ここで言いたかったことは、真理に近づく努力は欠かせないにしても、しかしどんなに努力を重ねたとしても、私たちは永遠にそれには近づけないという「事実」があるという点です。その意味では、このブログも「新米環境坊主」の一面的な思いでしかなく、1000題近く書き続けて来た結果、言葉としてはそれなりに絞られてきたとは思いますが、実際のところ真理(真実)の周りを徒にグルグル回っていただけだとも言えるでしょう。なんとなく環境という「手のひら」の上を、キント雲に乗って飛び回っている孫悟空を思い出しました。

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2009年3月16日 (月)

971 植物様

お天道様の次に偉いのは、言わずもがなですが、葉緑素を発明した「植物様」たちです。私たちのご先祖様は、さすがに植物様とは呼びませんでしたが、収穫物は一粒たりともムダにせず、しかし自分たちの口にする分を削っても神々にささげて感謝し続けてきたはずです。現代の庶民の中では、忘れられてきていますが、今でもそれは皇室や神社では最重要の行事であり続けているはずです。

植物のもっとも偉い点は、太陽光と水と炭酸ガスと土壌中の少量のミネラル分だけから、複雑な有機物を合成するプロセスを「発明」したことです。植物の体を構成するセルロースやヘミセルロースやリグニンは言うに及ばず、動物の主たる食糧となる炭水化物やたんぱく質やビタミン類など、それは動物生命を維持するに「必要かつ十分」な質と量であったでしょう。と言うより、必要かつ十分な量となるように、動物の種類と数は厳密に抑制されていたのでした。これは自然界のオキテと呼んでも良いでしょう。しかし、そのオキテの例外を作ったのは他ならぬ私たち「人類」にほかなりません。

品種を改良して収量や味を改善した植物は、人間社会では「作物」と勝手に呼ばれ、その結果原種に比べて、土地からの養分やミネラル分を何倍も多く吸い上げる困った性質も併せ持っています。その結果、作付けにより短期間のうちに土地が痩せてくるため、焼畑農業の様に畑地を毎年移動させるか、あるいは化学肥料を施肥して、収穫量を維持するしかありません。つまり焼き払う土地(林地)が無くなるか、あるいは燐鉱石や石油が不足して化学肥料が十分に作れなくなった時が、現代農業の終焉となるのです。それは、植物を勝手に品種改良し、自分たち(人間だけ)に都合よく利用してきた報いと言えるかも知れません。その意味では、私たちが今後是非していかなければならないことは、植物の話に耳を傾け、そのご機嫌を伺うことだとも言えそうです。

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2009年3月15日 (日)

970 お天道様

太陽に「様付け」して、お天道様と呼ぶのは、日本をはじめとする少数の国だけかも知れません。しかし、このすばらしく奥ゆかしい文化は是非次世代にも残したいものだとしみじみ思います。どのような道筋で考えても、私たち生き物の命は、100%お天道様に依存しているというしかありません。植物が発明し、気の遠くなるような年月を経て改良した葉緑素を使って、しっかり固定してくれた有機物を、小動物が摂食し、それを大きな動物が食べ、それを更に大型で強い動物や人間が餌や食糧にするという食物連鎖は、動物が死んで地面に還り、植物の栄養素となって「リサイクル」するという循環を繰り返すためのエネルギー源は、唯一太陽が放つエネルギーだけなのです。

だからこそ、天岩戸?が開かれて以降、私たち日本人は、太陽に「様付け」する伝統をかたくなに守ってきたのでしょうし、だからこそ、仏教が輸入されてからも、仏壇の上にはしっかりと神棚が祀られてきたのでしょう。村々から見て真東の山の頂上は、春分や秋分の日にお天道様のお出ましになる神聖な場所であり、信仰の対象であり、同様にお天道様の移動に関係するモニュメントは、同様に信仰の対象になったでしょう。具体的には大木や大岩や祠や滝などです。人工の建物や建造物や墳墓も、やはりお天道様の恩恵を受けやすい形や方角を気にして造られてきたはずです。古墳やピラミッドをしっかりと観察したことはありませんが、その構造は間違いなく黄道に支配されているはずです。何故なら、古代人ほど自分たちがお天道様に依存し、そのエネルギーの恩恵を受けている事を強く感じていたと思うからです。

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2009年3月14日 (土)

969 より不便な道

環境問題を少しでも軽減に導く最も簡単な方法を紹介しましょう。それは、何かの行動を起こす際に、より不便な方向、つまりは自分の体を動かす方を選ぶだけです。移動には、車ではなく、歩きと公共交通機関を選びます。食べ物に関して言えば、少し歩いて近所の農家が作っている野菜を、無人販売所から買いましょう。遠くの大工場で作られ、遠路はるばる運ばれてきた「加工食品」ではなく、自分で調理した料理を口にします。

ゴミは、混ぜてポイっと捨てるのではなく、少なくとも自治体で決められているレベルまでは分別します。何より、ゴミの量を減らす工夫を積み重ね、片手で持てるくらいの小さなゴミ袋を「自慢」しましょう。そのためには、特にゴミになる包装材の少ない、簡易包装の商品を選ぶ必要もあります。

蛇口をひねればガス給湯器から出てくる(化石エネルギーで暖めた)お湯ではなく、屋根に上げた太陽熱給湯器からのお湯を、お天気による温度変化を気にしながら湯船に張ります。翌朝には是非その残り湯を、使って洗濯をしましょう。

暑い夏でも、スイッチを入れれば一定の温度の冷風が出るエアコンに頼るのではなく、まずは団扇であおぎ、それでも死にそうなくらい暑かったら、水シャワーを浴びてから扇風機を回せば良いのです。エアコンの室外機からは、外の空気より更に熱い空気を隣家に送りつけていることを忘れてはなりません。

冬の寒い日には、仕方が無いので目いっぱい着込みます。背中や首筋に「寒さセンサー」が集中しているので、そこを重点的にカバーしましょう。また、手足は血液が回りにくい体の端っこにあるので、指ぬき手袋や室内履きで保温します。この程度カードすれば、投稿者の事務所のように、夏冬でも冷暖房無しでギリギリ辛抱できるのです。幸いなことに、日本の暑さ寒さは「ほとんど冷暖房無しに辛抱できるレベル」なのです。粗末な家に住んでいたご先祖さまたちや、望まずして路上暮らす人たちがそれを実証してくれてもいます。

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2009年3月13日 (金)

968 諦める

リサイクルだとか節約だとか省エネルギーなどで、この危機的な環境悪化の状況が改善できるとはとても思えません。何故なら、地球規模の環境変化には、非常に強いイナーシャ(慣性)が存在するからで、その傾向に歯止めを掛けるにはなまじっかな努力では追いつかないはずなのです。それは、坂道に駐車していた大型ダンプが突然動き出したとき、人手でだけで止めようとする努力に似ているかもしれません。節約や省エネルギー程度では、転がり落ちるダンプの勢いを少しだけ弱めることができるだけにとどまるでしょう。

そうではなくて、今必要なのは強力なブレーキ行動なのです。勿論、今完全に化石エネルギーの使用を止めたとしても、温暖化がとまるわけではありません。それは上に述べた強いイナーシャのせいです。しかし、S-パーマンのC.ケントの様に時間を逆転させることが叶わない私たちに出来る事は、可能な限りゼロエミッションに近いライフスタイルを始めることくらいです。

さて、化石燃料や地下資源を目いっぱい掘り出して積み、目方が極端に大きくなったダンプを止めるに、「京都でのささやかな約束」程度の貧弱なブレーキしか無い事が分かった今、私たちに出来るのは、ダンプの重量を精々減らすために、積んだ荷物を捨てることくらいでしょう。それは、車に積み込んだ「お宝」に執着することをスッパリ諦めて、車外に放り出すことを意味します。そのためには、私たちは、Needs(不可欠なもの)とWants(あったほうが良いもの)を明確に分けて考える必要があるでしょう。しかし、例えば車ひとつをとっても、それが不可欠と考える人とそうでない人のレベルを合わせるのは至難の業だと言えます。無理やり合わせるためには、やはり強制的な環境負荷税(環境税)を導入して、環境的に贅沢なものは無理やりにでもWants以下に引き下げる必要がありそうです。諦め易くするための具体的な方策についてはもう少し考えて見ます。

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2009年3月12日 (木)

967 ジェットコースターの法則

今の文明をジェットコースターに喩えるのは、結構分かりやすいかも知れません。この、現代的なアトラクションは、死人が出るほどその過激さを加えながら、年々進化を続けています。その高さ、その加速度、その恐怖感においてです。しかし、どんなスタイルのジェットコースターでも、必ず出発点に戻ってこなければならない「運命」にあることを忘れてはならないでしょう。この「運命」は、現在の社会システムや経済システムにもつながる、と考えるのは投稿者だけでしょうか。化石エネルギーは、確かに私たちを高みには連れて行ってはくれました。ラッキーな一握りの人は、宇宙空間や月面にさえ行くことも出来たわけです。普通の人でも、旅客機に乗って10kmほどの高さを飛んで海外に出かけ、車で足を使って走るのに比べ何倍も速く走り、数十階建ての「空中」にも住むことが出来る時代になったわけです。

しかし、ジェットコースターの法則が、この文明にも当てはまると仮定するならば、もはや石油の半分を使い果たしてしまった私たちは、今以上の高みは望まず、惰性だけを頼りに出発点に戻る努力をするしかないわけです。現代文明=ジェットコースターの動力が石油であることは間違いないところですが、それが残り少なくなった今、私たちには景色を楽しんでいる余裕は無いわけです。できるだけ、モノ(荷物)を捨てて身軽になり、太陽からの恵み(自然エネルギーやバイオマス)の追い風を利用して、スタートの高さに近づくしかないでしょう。途中の高さに引っ掛かり、もはや動力源が切れた宙ブラリン状態は、大きな犠牲の発生につながると予想されます。

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2009年3月11日 (水)

966 お金の意味3

お金の持つ意味については、再三再四考えてきましたが、くどいと思われるのは覚悟のうえで、もう一度念を押してもおきたいのです。それは、今の時代の価値観が、あまりにもお金に傾斜し過ぎていると思うからです。お金=経済偏重の根本原因を考えて見るとき、スタートは産業革命にあったと確信できます。それまで、農業にしても手工業にしても、動力は家畜の力か、ささやかな水力以外はもっぱら人力で賄われていたのです。しかし、石炭や後には石油更には原子力といった化石エネルギーは、それまでの人力を何桁も大きくする「レバレージ」を可能とした訳です。このレバレージは、そのまま経済のテコともなり、それまでの経済規模もやはり何桁も膨張してしまう結果となったのでした。

はじめの頃こそ、お金の価値は「金(ゴールド)」で裏打ちされていました。金本位制です。しかし、世界中のゴールドをかき集めても、価値が何桁も足りない時代になって、紙のお金が、発行した国の信用を支えとして、大量に流通するようになったわけです。かつては、それがペソやリラやポンドであった時代もありましたが、今はドルやユーロに取って代られてしまいました。それにしても、ある紙幣の価値を裏打ちするのは、繰り返しますがある国が「経済的に破綻しないであろう」という信用でしかないことは強調しておきます。

それに付けても思い浮かぶのは、かつて投稿者も1年暮らした国、ブラジルでの信じられないほどの「インフレ事件」です。これは実際の経験ではないものの、かの国では年率1000%ものハイパーインフレが長期間続いたのでした。そのため、1/1000や数千分の一のデノミが何度も繰り返されましたが、これはとりもなおさず国家への希薄な信用のなせる業であったわけです。ここでの結論を述べるなら、お金とは「国の信用を印刷した紙」であり、その価値は現在では「信用だけ」に裏打ちされているに過ぎない、という非常に心もとない存在だということになります。以前このブログでは、「お金とは他人の時間を自由に使う権利である」とも言いましたが、経済への信用が極端に低下している現在では、その意味合いはかなり弱まっていると言わざるを得ないでしょう。それにしてもB国の信用度とDルの価値の行方は、まったく先が見えません。

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2009年3月10日 (火)

965 7世代先

「国家100年の計」という表現があります。この言葉には、物事は100年先を見越して決めなければならない、という意味がこめられていると思います。同じような表現ですが、アメリカインデアン(考えてみればこれはおかしな言葉で、ネイティブアメリカンというべきでしょうが、言いやすいのでここではこのままにします)は、部族の決め事をする時には、7世代先の子孫の幸福につながる場合は「是」、そうでない場合には「否」と決議されます。たとえそれが、今生きている世代が非常な苦労を背負うとしても、です。

ですから、白人が西部に進出してきた時、かの勇敢な「ジェロニモ」をはじめとする、多くのインデアンたちは、命を賭して先祖伝来の部族の土地を守ろうとしたのでしょう。彼らの自分の子孫が危ないという予感は、実は非常に正しかったのでした。必死の抵抗もむなしく終わり、いまや彼らの子孫は「居留地」で、食うには困らない生活は保証されてはいるものの、日がな一日特に為すこともなく、肥満と糖尿病に悩まされながら過ごしていると想像しています。

振り返ってみて、20世紀を通じて、先輩や私たち自身は、何を是としてこの国を動かしてきたのでしょうか。結局、私たちは自分自身の生活安定のため、精々自分の子供世代の幸福くらいまでしか考えることが出来なかったと思うのです。そうでなければ、資源の無節操な採掘や、酷い公害や、植民地や途上国の搾取などは起こらなかったでしょう。まして、「奴隷制度においておや」です。

伝統的には、この国のご先祖さまは少なくとも次世代あたりの幸福までは願っていたことは確かです。そうでなければ、国策だったとはいえ、あんな急な山々の斜面に、自分たちの世代には絶対伐採するはずも無い樹木を植林できたはずはありません。彼らは数十年後の子孫たちが喜ぶ顔を想像しながら、厳しい植林作業に耐えていたはずなのです。

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2009年3月 9日 (月)

964 地球のサイズ

環境問題を語る上で「地球のサイズ」の評価は重要です。温暖化の問題は、圧縮して液体に戻すと僅か1-2mの深さにしかならない「大気の量」にその根があります。深いところでは10,000mを超える水深がある水(H2O)と比べると、何桁もその量が少ないわけです。大気の組成は、不活性なN2と活性のあるO2に加え、微量な不活性ガスと、ppm単位で計られるCO2などから構成されていますが、いずれもH2Oの圧倒的に膨大な量に比べると、微量ないしは極微量と言うしかないわけです。

しかし、気候に対する短期的な影響力で言えば、1000年単位で動く海水(熱塩循環)に比べれば、数日で地球を一周してしまう大気の方が圧倒的に大きいと言えるでしょう。事実として、この100年間の「短期レンジ」で見ても、大気組成の変化(主には炭酸ガスやメタンやフロンガスの極微量の増加)により、地球の平均気温は、1℃は確実に上昇しているのです。極地方では、4-5℃の上昇になっているとも言われています。表面に近い海水温度も同じように上昇はしているのでしょうが、海流となって海底深く潜り込んだ膨大な熱量が、再び海面に顔を出すまでには500年は掛かる計算です。勿論海水に蓄えられ500年後に浮かび上がった膨大な熱量が、一体どんな災害をもたらすかは、カミのみぞ知るところかも知れませんが、大気からの影響に比べると、その膨大な熱量故に、温暖化が桁違いに悪化する可能性はあります。

いずれにしても、ちっぽけな人間が引き起こした、ちっぽけな環境破壊が無数に集積した結果が、今や地球規模でも無視できなくなった事は間違いありません。実際、自慢できることではありませんが、投稿者のたった30数年の短いサラリーマン時代だけでも、このちっぽけな地球を、自転車で2周、バイクでも2周、飛行機でも3-4周はしている勘定です。地球の真裏のブラジルにでさえ、24時間も飛行機に揺られれば着いてしまう時代なのです。

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2009年3月 8日 (日)

963 手分別

混ぜない技術を推し進めたとしても、分解場を作ったにしても、全てのゴミが100%なくなるわけではありません。そうであれば、私たちはゴミにする前に、徹底的に分別を進める必要があります。そうするためには、たとえばゴミ箱は20種くらい並べておき、捨てる側は(正しくは資源を置き直すというべきですが)正しい箱(ゴミ箱ではなく資源箱と呼ぶべきですが)入れる必要があるのです。

この種の正確な分別は、実は機械は全く苦手な分野なのです。金属の磁性・非磁性などは、非常に際立った性質の違いですので、これを利用してスチール缶とアルミ缶は分別できるでしょう。しかし、微妙に比重が違うだけのプラスチックの種類を見分けるのは、機械にはほとんど無理な芸当なのです。勿論、含まれる元素に特徴でもあれば(例えば塩素が多く含まれる塩ビなど)、比較的分別も楽でしょう。しかし、炭化水素のモノマーを重合させただけの種々のポリマー(プラスチック)の明確な分別は、赤外光や紫外光やX線などを組み合わせた複雑なセンサーでも使わない限り、正確な分別は出来ないでしょう。分別が不正確なままで、プラスチックをリサイクルすると、結局は品質が下がる「劣化リサイクル」しか出来ません。劣化(つまり不純物の多い)したプラスチックは、運搬用パレットや土木工事用のギボク程度としてしか活用できません。リサイクルの理想は、分別した資源を全く同じ製品に甦らせることなのです。

そこで活躍するのが「手分別」です。人間は、目で色合いを確認し、リサイクルマークを見て、手で触りさえすれば、ほぼ100%正確に分別が可能です。人間はそれほど優れたセンサーを持ち合わせているのです。これを活用しない手はありません。それでなくても、今や世の中には職を失った人があふれています。これからは、せっせと資源を分別する「立派な仕事」を増やすべき時代です。資源分別の達人には、ぜひ国家資格でも与えて、誇り高い職業に格上げしましょう。

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2009年3月 7日 (土)

962 分解場

この言葉は、投稿者が「工場」の反語として造ったものです。もっと良いネーミングがあれば、その内に入れ替える事にします。もし、投稿者が環境問題を解決するための法律を作るなら、リサイクル法でもなく、温対法(温暖化対策法)でもなく、環境税でもなく、全ての製造業者に自社の製品を完全に分解する「分解場」を設置させる法律を作ります。多くの最終メーカーは、実は組立業なのです。大Tヨタでさえ、エンジンに使う部品や車体の艤装品を全て内部で加工しているわけではりません。むしろ、社内で鉄板をプレスし、スポット溶接して作られる車体を除けば、殆ど全ての部品は部品メーカーで加工され、トラック輸送されてくると言っても良いほどです。

新しい法律では、使用済みとなったあるメーカーの製品は、販売店を通じて全て回収させ、製品と逆ルートを使ってメーカーに送り返します。メーカーは、設計・製造を行ったのですから、古い製品であっても、100%部品の材質を把握できるはずです。分解場では、とにかく人手を使って使い終わった製品を徹底的に分解します。手に負えない複雑な組立品(アセンブリー)は、仕方が無いのでそのまま部品メーカーに返送します。部品メーカーにも分解場はありますから、そこでも完全に「単体の部品」になるまで分解します。ここまで徹底すれば、鉄や非鉄金属でも合金種類毎、ゴムやプラスチックもその種別毎、モーターなどに使われる希土類磁石もその種類ごとに完全分別できるはずです。ここまでやれば、それぞれの合金ごとに溶解できますので、単純な鉄のリサイクルによってグレードの下がったしまった「くず鉄」ではなく、価値の高い特殊な合金鋼として、全く同じ製品に生まれ変わらせる事も可能になるでしょう。

一方、不景気で労働力が余った「工場」でも、その余剰を「分解場」で活用すれば、雇用問題も解決可能です。資源小国で、大量に海外から輸入しているこの国でも、実はストックとして多くの資源が製品の中に眠っているのだと考えて見るべきです。わずかな処理費を節約するために、道端に放置され、捨てられた廃車や家電の残骸を見るたびに、勿体なくてもったいなくて涙が出て。しまいます。

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2009年3月 6日 (金)

961 混ぜない技術

「あの」ドイツの標語を、再度書かないではいられません。それは「ゴミとは、間違った場所に置かれた有用な資源の別名である」というものです。ここで言う間違った場所とは、もちろん「ゴミ捨て場」を指します。「混ぜればゴミ、分ければ資源」という標語が日本にもありますが、投稿者としてはこちらには、ゴミを分別収集しさえすればリサイクル率が上がり、結果ゴミ問題は解決するという誤った認識、しかもネガティブな響きさえ感じてしまいます。これは、ゴミ問題に悩む行政が作り出した苦肉の標語ではないかと想像しています。

ドイツの標語は、そもそも「ゴミ」などという言葉を否定し、要らなくなったものを最初から丁寧に分別した上で多種類に区別された「資源置き場」を設け、そこに置くようにしましょう、という前向きの標語なのです。たとえば、日本ではプラスチックゴミとして、種々の用済みの製品やパッケージゴミを捨ててしまいます。しかし、この「資源置き場」に置くためには、単純なペットボトルでさえ、蓋をPE置き場に、本体をPET置き場に、包装フィルムをPE置き場に、それぞれ丁寧に分けて置き直さなければなりません。しかし、よく見て見るとPETボトルの蓋を開けると、ボトルの本体側には蓋の残りカスがついたままになっています。道具を使わないと、完全には分別ができないのです。

一方、もし真面目な技術者であれば、ボトル本体も蓋も、包装フィルムも全て同じ材質で作るでしょう。しかも、20回位洗って再使用できる程度に丈夫に作るでしょう。また真面目な飲料メーカーであれば、上記のような分別作業に協力した人に、高額なデポジット料金を払い戻すか、あるいは完全なリターナブルPETボトルに飲料を詰めて売るでしょう。

しかし、環境問題に敏感な消費者は、そもそもPETボトルに入った飲料を、エネルギーとしては普通の家数軒分の電力を消費するような自動販売機からは買わないはずなのです。使い終わったものを混ぜないようにする技術ももちろん大切ですが、そもそもゴミになるものを買わない行動の方がもっともっと重要なのですから。

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2009年3月 5日 (木)

960 水問題

このブログを締めくくるに当たって、環境問題としての水問題についても再度触れないわけにはいきません。何故なら、環境問題での水問題の位置づけが最も重要で、かつ緊急だからです。それは、これが多数の人間の生死に直結している問題であることがその理由です。温暖化の出前講座で、よくアメリカ中西部の農業地帯のG-グルアースの映像を使います。そこでは、いわゆる「ピボット農業」と呼ばれる、化石水を強力なポンプで汲み上げながら、コンパスの様なスプリンクラーで潅水する農場が「ゴマ粒」の様に無数に見られます。しかし、そのゴマ粒の直径は、平均的にも1000mはある代物なのです。注意しなければならないのは、井戸枯れにより耕作を放棄したと思われる、土色のピボットがかなり増えているという点です。アメリカ自身が公開しているデータでも、地下水の水位は年々低下しており、今では100mをはるかに超える深いところから水を汲み上げなければならなくなっているエリアが広がっています。化石水は、何万年も前、中西部が水を湛えた盆地であった時の置き土産に過ぎず、その量は精々五大湖に今蓄えられている水量と同等だといわれています。

その限られた地下水を、下手をすれば彼らは半分近くを使い果たしている可能性があるのです。そこで出来た、小麦やトウモロコシや大豆を多量に輸入しているこの国も、実は同じ船に乗り合わせていて、この問題を共有しているわけです。彼らとて、自分たちの食う分を削ってまで輸出してはくれないでしょうから、まずは近い将来に来るであろう不作の年に、穀物価格が2倍くらいに跳ね上がるのが不吉な兆しとなり、続いて構造的な「穀物不足の時代」が幕を開けることになるでしょう。その時期は、投稿者の「テキトウな」予測では10年以内にも前兆が現れると見ています。工業製品を抱えた日本は、それをいくら輸出しても「誰も食糧を売ってくれない」という、お先真っ暗な時代が見え隠れしています。

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2009年3月 4日 (水)

959 別ルート2

別ルートを発見するために、では、航空機や宇宙ステーション(航空宇宙産業)や顕微鏡(ナノテクノロジー)などの「先端技術」を使えば良いではないかという声も聞こえます。確かに、今や宇宙カメラで地上数十センチのものも識別でき、カーボンナノチューブを使えば、宇宙ステーションから地上に垂らしても自重で切れない長いながいロープが作れますが、それで人や荷物を吊り上げれば「宇宙エレベータ」が作れる、と夢物語を語る人たちもいるでしょう。

しかし、それらの技術で環境問題は何一つとして解決できないことは、少し考えれば明らかでしょう。航空機やロケットを作る莫大なコスト、それを飛ばし、打ち上げるための多量の燃料の環境負荷はひどいものでしょう。ナノテクノロジーについて言えば、目には見えないほど細かい物質が体内に入った場合や、目に見えないがちょっとやそっとでは切れない糸の危険性は、悪意で使われた場合を想像すればぞっとします。(単なる、H殺仕事人からの連想ですが・・・)

そうではなくて、私たちは地に足をつけ、等身大の目で確認しながら、別ルートを探す必要があるのです。もっとも、別ルートと言いながら全く人跡未踏の道を意味しません。それどころか、それらの道は、かつてご先祖様たちが使い、その後雑草に埋もれてしまった踏み分け道や古道である可能性が高いのです。何故なら、それらの道はご先祖様によって、十分に安全性が確認されているでしょうし、持続可能性としても全く問題がないからです。つまり投稿者が考える別ルートとは、かつて私たちの祖先が通過してきた道の再発見だと言い切ってしまいましょう。勿論、それが環境に与える影響が限りなく小さい事を確認しながらですが、必要悪としては私たちが身につけたささやかな科学技術の知識は使っても仕方がないでしょう。というのも、いま生きている世代の多くは、ご先祖様が普通に身に付けていたサバイバルの知恵や技は、とっくに捨てたか、何処かに置き忘れてしまっているからです。

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2009年3月 3日 (火)

958 別ルート

4半世紀ばかり前、投稿者は造船マンとして10年余り住んだ四国を後にして、軽自動車で名神高速道路を使って、今住んでいる岐阜に転勤して来ました。その頃の名神は、結構車間距離もゆったりしていて、投稿者の非力な軽自動車でも、トラックについて走れば邪魔にされることもありませんでした。しかし、この時代、大型トラックのコンボイが、20-30m程度の車間距離で、しかも100km/時を超えるスピードで疾走しています。目分量の感覚で言っても、確実にこの25年間では高速道路を使った輸送量が2倍を大きく超えるレベルまで拡大して来ているのです。一方、幹線の国道でも、「高い」高速道路料金を避けるトラックが流れ込んできています。たとえば、岐阜から長野に抜けるR19を夜間などに走ると、恵那山トンネルを避けるトラック軍団を目の当たりにすることができます。この道路の状況は、実はこの時代の状況を象徴的に示しているに過ぎません。高速道路や幹線国道を流れる物流を、実際に作り出してきたのは、部品を運ばせる自動車業界であり、電機業界であり、昔の贅沢な食生活を、今の普通の食生活に変えた流通業界であったわけです。これらの業界を高速道路や幹線国道に喩えるならば、いまこれらの道路は急激に濃霧に覆われ始め、走行スピードをこれまでの何割も落として走らなければならなくなってしまったと言えるでしょうか。

しかし、たとえばスピードをこれまでの半分に落とすのであれば、何も高速道路を使う必要は無いと思い直すべきでしょう。田舎の道路でも50km/時程度であれば、安全・快適に走れます。モノを運ぶことの現代的な意味は、分業を極限まで進め、コストをギリギリまで絞った事の結果に過ぎなかったはずです。

トンネルや防音壁の続く高速道路や幹線道路沿いに何かが見えてくると考えるのは、20世紀型の幻想に過ぎません。田舎のわき道にそれるか、いっそ車を捨てて野山の踏み分け道を歩いてみれば、そこから見えてくる普遍的なニーズが見えてくると思うのです。幹線道路が、濃い霧に覆われてきた今の時代こそ、わき道を歩いてみる絶好の機会だと思っています。自分の足で歩いて、細い峠道を越えれば、突然山里の良好な視界が広がってくるような気がします。

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2009年3月 2日 (月)

957 後ずさり

この表現もこのブログの中で数回は使ってきたような気がします。これまでの歴史を眺めて見ても、行き足がついてしまった社会システムへの急ブレーキと急な方向転換は、カタストロフィックな結果を招く場合も多いのです。後ずさりとは、元来た道を慎重に引き返すことを意味します。この方法だと、少なくとも自分たちが通ってきた道筋を確認することができます。そうではなくて、例えば新しい技術の開発や、新エネルギーなどと呼ばれるモノに矢鱈と手を出し、闇雲に突き進む場合、新たな害悪や問題を抱えることにもなりかねません。これを「急ハンドル症候群」または「急加速症候群」、逆のケースを「急ブレーキ症候群」とでも呼んでおきましょう。

事実、20世紀では多くの「見かけ上便利な」物質を合成・開発してきましたが、それらの多くが副作用としての公害を引き起こしてもきたのです。これは明らかに、前後の見境無く便利で新しいモノに手を出し続けた結果の「急ハンドル症候群」や「急加速症候群」の典型なのです。一方、今世の中で起こっている現象は(不景気とも呼ばれていますが)これはこれで、皆がパニック的に同時にブレーキペダルを踏んだことによる「急ブレーキ症候群」のひとつだと言えるでしょう。

必要な行動は、数歩先に待ち構えている崖や奈落を察知して、慎重に後ずさりを始めることなのです。いざなぎ超え景気の中で、何も考えずに当期利益だけを求めて前進してきたノウテンキ経営者や、行けいけドンドンと「怪しい金融工学」などを駆使して、濡れ手で泡を掴んできた亡者たちには、仕方が無いので一度奈落にでも落ちていただき、痛い目にあってもらうしかないでしょう。そうではなく、真面目に、欲をかかずに精進してきた企業には、やはりここで再度「真のニーズ」を確認していただき、その上で慎重な後ずさりを始めてもらいたいと願っています。やり直すための別の道筋については、さらに考えて見たいと思います。

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2009年3月 1日 (日)

956 リユニオン

20世紀後半は分割と拡大増殖の時代だったと言えるかもしれません。それは企業ばかりではなく、例えば家族のあり方だけを眺めても明らかです。戦後の高度成長は、それまで大家族で暮していた田舎の家族を、ほぼ完全に細分化しました。つまり核家族化です。田舎には、両親と長男家族だけが残り、それ以外の子供たちは例外なく、都会へ出て新しい家族を作りました。しかし、時代の流れはそれだけでは許してくれず、最初は長男の出稼ぎに始まりましたが、最後には長男家族までも都会に吸い取ってしまいました。最近はそれに加えて、結婚すらしない「個家族」を大量に作り続けています。たった一人の暮らしを家族と呼ぶかは疑問もありますが、いずれにしても統計上は「戸数」ではあるわけです。核家族や個家族といえども、毎日の暮らしでは複数の家電を使い、風呂を沸かしトイレを使う事は避けられないので、既に人口は減り始めているこの国でも、逆に戸数の増加には歯止めが掛からず、したがって民生のエネルギーの消費もハッキリした減少には転じていないわけです。それどころか、1990年比では大幅に増加してしまっています。

この流れにブレーキを掛けるには、家族の再合(Reunion=リユニオン)しか考えられません。長男家族でも、長女家族でも、それ以外の子供の家族でも良いので、先ずはまた両親の元へ戻って暮すことを考えることです。それによって寂れた田舎の暮らしも、ゆっくりかも知れませんがかつての方向に逆戻りを始めることでしょう。農地も、今なら取り返しのつかない荒廃から守られるはずです。一方、都会の独身者もアパートやせせこましい独身者マンションにこもって、コンビニに依存して暮すのはここらで止めにしましょう。具体的には不景気で、企業が売り払った独身寮を一般の独身者に開放して、共同生活を可能にします。フロア毎に分けて、男女混合寮にでもすれば、食堂で新たなカップル(家族)も生まれるかも知れません。これらは、かつて経済成長の嵐の中で、分断された家族の「リユニオン」のいくつかの方法だと言えるでしょう。

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2009年2月28日 (土)

955 ムダの定義2

ムダの定義については以前も取り上げました。このブログでのムダとは、もちろんカンバン方式で言うところの「コストのムダ」ではありません。いわずもがなですが、ここでのムダとは「環境に対するムダな負荷」を指します。人間が生きていくための最低限の環境負荷は、たとえそれが環境を悪化させるものであっても、ムダであるとは言えません。しかし、贅沢のための、単なる楽しみのための、快適さのためだけの環境負荷であれば、早急に切り捨てる必要があります。もちろん、この議論で難しいのは、何が絶対必要で、何がムダで切り捨て可能なのか、個人や社会や国の違いによって、その基準が大きく異なることです。

たとえば、Aメリカ人とコンゴのジャングルで昔ながらの生活を送っているピグミー族とで、この議論をすると仮定した場合、その場で行われる頓珍漢なやり取りが容易に想像できます。何しろ、ピグミー族は、車を見たことはあるにしても、乗ったことはないでしょうし、温水シャワーや電化製品などは使ったこともないわけですから、これらが生活に「必要」なものであるかどうかは、議論すら成り立ちません。しかし、ピグミー族は森から毎日300種類にも上る食材を採集し、採集の休憩時間には、植物の根から煎じる「コーヒー?」も楽しんでいるわけです。一方で、Aメリカ人やこの国の人も、毎日30種類の食材を口にする事すら殆ど絶望的なのです。平均的な、コンビニ弁当に使われている食材は、せいぜい10種類止まりだと想像しています。添加物を加えても、その倍くらいのものでしょう。

何万年もの間営まれてきたピグミー族や、アジアで言えばヤミ族などの生活スタイルからは、環境のムダは殆どそぎ落とされているはずです。一方、今世紀に入ってから経済力をつけたAメリカと、戦後急成長したこの国の生活スタイルは、まさに環境的なムダの塊であると言い切っても良い「代物」だといえるでしょう。日本でも、山里の伝統的な暮らし方は、環境の持続可能性に照らせば、かなり理想的なものだと言えそうです。

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2009年2月27日 (金)

954 空調から体感調整へ

以前にも書きましたが、動物としての人間が感ずる、いわゆる体感温度は「気温」だけでは決まりません。それに加えて「湿度」、「風速」、更には「輻射温度」の影響を受けます。とりわけ輻射温度は、気温と同じ程度に体感温度には支配的です。事務所で窓際に座っている人は、気温と輻射温度をほぼ同じレベルで体感していることでしょう。冷房で室温を27℃に保っていても、窓からの輻射温度が33℃となっている場合、体感温度としては「足して2で割った値」、即ち30℃程度にはなっているわけです。

投稿者は、この輻射温度を下げるのにロールカーテンが有効ではないかと思い、その効果を検証中です。つまり、布や和紙で出来たロールカーテンは、熱容量が小さくしかも断熱性能のある空気層を含んでいるので、日の当る面は上の例では33℃程度に、室内の面はほぼ27℃になっているはずです。したがって、室内に面している面からは室温と同じ輻射をしているのです。結局、体感温度は30℃から27℃に下がりますので、冷房温度がほぼそのまま体感温度になるでしょう。この場合は、冷房温度をもう12℃上げても全く問題はないでしょう。

つまり今後は、従来の意味の空気温度をコントロールする「空調=空気調和」ではなく、体感温度とコントロールする「体感調整」の考え方に移行する必要があるということです。このような考え方を入れた、家庭やビルの冷暖房システムが登場する気配が感じられないのは、悲しい限りです。体感温度に着目すれば、エネルギーを大幅に節約しながら、しかもやせ我慢の無い(しかし少しの我慢は必要です)冷暖房が可能となるのです。

その意味では、究極の「個人体感温度調節システム」である「衣服」に関して言えば、その機能追求は未だ究極の形までには至っていないとも言えるでしょう。アパレル業界は、不景気風など吹っ飛ばして、元気に究極のクールビス、ウォームビズ、体感温度調整製品を開発すべきでしょう。

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2009年2月26日 (木)

953 環境の世紀

21世紀が環境(保全)の世紀と呼ばれるのは、環境悪化の状況がもはや一刻の猶予も無く「そうあらねばならない」からです。その意味では、20世紀を一言で総括すれば「環境破壊の世紀」であったと言えます。しかし、環境を保全するのに何かを「する」と考えるのは正しいアプローチとは言えません。特に科学・技術を使って、環境のために何かを「する」と考えるのは、間違いなく自己矛盾に陥ります。それは、例えば膨大なエネルギーを費やして、出してしまったCO2を圧縮して、地下深くの岩盤の隙間に押し込んでしまう暴挙(とは言いながらこれは現実に税金を使った実験が行われている愚挙でもあります)と似ています。液化し、地下に押し込む膨大なエネルギーは、石油を燃やし、あるいは地下からエネルギーを使って掘り出し、濃縮した核物質を使った原発で生み出すしかないわけです。これは、一方でCO2を固定しながら、他方で別の場所からCO2を吐き出すという全くの自己矛盾なのです。

そうではなくて、これからの時代を環境の世紀にするためには、何かを諦め、何かを止めるしかないと思うのです。ハイブリッドカーを作って、これまでの半分の燃料で車を動かすことを考えるのではなく、まずは車を捨ててみて、しかる後に如何にして快適に、健康に暮らすかに知恵を絞る必要があるのです。安易に省エネ家電に買い換えるのではなく、今ある家電を、絶対に必要な場合にしか動かさないという決意を固めるだけで良いのです。例えば、エアコンは、「死にそうに暑い日に」、「死にそうな時間帯だけ」動かすべきなのです。環境のために何をするかではなく、「環境のために何を諦め、何を捨てるか」を考えることこそが、地球環境に100%依存して暮す私たちの責務だと言っておきます。

その意味で、今後の時代を「環境の世紀」などと勝手に呼ぶのは、人間中心の幻想に過ぎず、環境そのもの「は、多くの生物が滅んでも、人間が自分の出した環境毒で苦しんでも、それは依然としてそこに在り続けます。それを「カミ」と呼ぶか、「ほとけ」と呼ぶかは、専ら文化の問題です。

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2009年2月25日 (水)

952 中毒

以前「便利中毒」という言葉を使い、商品が売れれば良い(というより短期の収益が上がりさえすれば良い)という企業や、その中で働くあまり方向の正しくない技術屋などからの、便利製品を押し付けられ続けた結果、私たちはそれらに対してすっかり馴らされ、便利中毒になってしまったと書きました。しかし考えてみれば、それらの多くの便利製品は、限られた人間の力や能力を、エネルギーの力を借りながら、何倍か或いは何十倍、何百倍に増幅させる仕掛け(Gadget)だったといえるでしょう。

結果として起こった事は、それらのガジェットへの過剰な依存状態(=中毒)と、人間の本来持っていた(或いは生きていく上で是非獲得しなければならなかった)多くの能力の喪失でした。

この便利中毒を、言葉を代えて表現すれば、多分「エネルギー中毒」と呼んでも良いでしょう。何故なら、現代のガジェットの殆ど全ては、石油やガスや電気エネルギーで動いているからです。その証拠に、もし災害や落雷によるインフラの寸断や停電が起こると、これらの便利機器は金属かプラスチックの箱に電気回路が入っただけのガラクタになるでしょうし、ガス欠を起こした車は、単なる道路上の障害物になるだけです。

中毒を治すのは、比較的簡単です。一定の期間それを遠ざけるだけで良いのです。勿論、それを手放した直後は、ある種の「禁断症状」が出ると予想されます。しかし、そのつらい時期を脱した時、中毒患者だった人たちは「何であんなものに手を出し、べったり依存して暮らしていたのだろう」と、しみじみ思い返すはずです。航空機業界に身を置いていた時は、投稿者自身も幾度となく航空機に乗り海を渡りましたが、近頃は上を飛ぶ旅客機の騒音を煩わしく感じます。車を捨ててバイクに乗っている今は、大分くたびれてきた今のバイクの後継として、カタログ値ですが1リッターで100kmは走る事になっているSカブか自転車に狙いを定めています。というわけで、投稿者の場合ですが航空機中毒と車中毒は、どうやら脱した様な気がしています。

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2009年2月24日 (火)

951 最終コーナー

このブログも950題を超え最終コーナーに入ってきました。以後の50回くらいの投稿の中で、これまで考えてきたことを濃縮しながらまとめ、自分なりの結論を述べてみるつもりです。振り返って書き連ねたタイトルを眺めてみると、書き始めた頃は、やはり大上段に振りかぶって、肩に力の入ったものが多いようですが、間に「休題」を混ぜながら、毎日毎日書き続けていると、どうやら力の抜き方も分かってきたような気がします。

更に途中からは、「環境坊主」としての習わぬ経も増えてきて、環境を考える事は、とりもなおさず人間の生き方や、社会のあるべき姿を考えることであると改めて気がつきました。そこまで来て、元技術屋であった投稿者も、やっと環境屋の端くれ程度にはなれた様な気がします。勿論、環境坊主の役割としては、環境に無頓着な人たちに、できるだけ分かりやすい言葉で、環境の中での生き方や社会像を伝えることではではありますが、かといってそれを無理やり押し付ける訳にもいきません。言葉を変え、色々な喩えを使いながら何とか理解してもらう様に、口を酸っぱくして話し、書き続けるだけです。

その結果、元祖「見習い環境坊主」としては、何らかの形で影響を受けた数人の「見習い環境坊主見習い」を増やし、学校や市民や企業で行った(これからも行う)出前講座や、セミナーなどを通じて、話を聞いてもらった数百人~数千人の人たちに、時々は環境のことを考えながら暮らしてもらうことで満足すべきでしょう。より、広い範囲に影響を及ぼすためには、やはり「環境カリスマ」に登場してもらうしかありません。少し前は、GアさんやM-タイさんに期待はしていたのですがカリスマ性にややかげりも見られます。今後はやはりOバマさんでしょうか。これにしても、本格的な環境カリスマの登場が待ち遠しい限りです。それまでは、及ばずながら環境坊主の一人として、細々と説教を続けることといたします。

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2009年2月23日 (月)

950 やや・・・

人間に限らず生物は、例外なく環境と戦いながら生きています。「環境と戦いながら」、というのは正確ではないかもしれません。というのも、生物は環境によって生かされている存在なので、戦ってもそもそも勝てる「相手」ではないわけです。もっと正確に言えば、環境のニッチを獲得するために、同じニッチを狙っている同類や他の生き物と戦っている、というべきでしょうか。

その戦いに勝利するためには、それぞれの生き物は、「体」を鍛えなければなりません。かといって、植物や、微生物や、昆虫や動物が、筋トレをするわけではありません。彼らは、環境によって「淘汰され」生き残ったものが結果として強い系統となっていくわけです。しかし、現代の人類はやや異なります。なぜなら、現代の人類は、太古からの暮らしを守っている少数民族などの例外を除いては、人工の環境である家屋やビルを建て、外部とは異なる「室内環境」を作り出しているからです。とりわけ先進国や途上国でも富裕層と呼ばれる階層に所属するヒトは、冷暖房を完備し、多くのエネルギーを消費しながら、ほぼ完全な人工環境の中で日々の生活を送っているわけです。この過剰な環境のコントロールが、人間の戦う力を弱め、多くの虚弱な人類を年々増加させていることは疑いようがありません。かつて、人類はコレラや、ペストや、香港風邪などで、短期間に大量の人工を失った歴史を経験して来ました。その、疫病の嵐の中で生き残った人々の系統は、きっと免疫力が強い遺伝子を持っていたことでしょう。人工環境や、抗生物質入り食品やや煮沸消毒されたレトルト食品に慣らされ、体力や免疫力が極端に低下した今の人類に、来るべき時代にひどく劣化した環境は厳しく向かってくることでしょう。

私たちは、今急いで体を鍛えることを始めなければなりません。その為には、何事をするにしても「やや」厳し目な肉体負荷を受け入れ、「やや」不潔な生活を送り、「やや」不便で、「やや」暑さ寒さに耐え、「やや」粗末な食事に甘んじる必要があるでしょう。結果、流した汗の量に応じて、よりチューンアップされた体温調節能力や、軽い病気程度であれば薬に頼らなくても耐え得る免疫力を獲得できるはずなのです。

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2009年2月22日 (日)

949 マタニティドライブ

環境に配慮して車を転がそうとする場合、最近よく耳にするのが「エコドライブ10ヶ条」です。環境省が音頭をとって、ふんわりスタートだとか、加速の少ない運転だとか、余分な荷物を積まないなど10項目を挙げています。しかし、人間が常時覚えておけるのはせいぜい3か条程度ですから、10個もの要求を出されても、実際上それをしっかり守る事はできません。そこで、投稿者が薦めているのがたった一つの言葉、「マタニティドライブ」です。マタニティとは、妊娠中の状態や出産直後の女性の状態を示す言葉ですが、これは運転者により具体的な省エネ運転法を伝えるのにピッタリのイメージです。つまり、臨月間近の奥さんか、生まれたての赤ん坊を抱いて病院から帰る女性が助手席に乗っている、と想像して車を転がせばよいのです。もちろん、この状況では急発進や急加速、信号手前での急減速はもちろん急ハンドルもご法度です。

ですから、職業的なドライバーも、たとえば貨物室には客から預かった「妊娠中の女性のような大切な荷物」が載っていると考えて毎日運転するわけです。たったこれだけの心がけで、燃費は5%以上改善すること請け合いです。何しろ、急発進や急加速によって、多くの無駄な燃料が消費されますし、ブレーキを踏む信号機の直前までスピードを維持するのも、やはりアクセルをしっかり踏み続ける必要があるからです。投稿者は、エコドライブに替わる省エネドライブの方法としてこの「マタニティドライブ」を流行らせようと、色々な場所で紹介しています。このブログ経由で、更に広まる事も期待しています。

この様に、省エネルギーや省資源や廃棄物圧縮など、環境に配慮した生活や企業活動においては、「抽象的な標語」ではなく、市民や社員が「具体的」にその行動をイメージできなければ、単なる掛け声に終わってしまうでしょう。より具体的で、万人に判りやすい行動指針を、どうすれば示せるか、このブログでも更に提案していこうと思います。

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2009年2月21日 (土)

948 休題(ジョギング)

久しぶりに、いつものジョギングコースである木曽川沿いの道を走りました。その道のどん詰まりまでは、犬山の橋からはちょうど5kmくらいですので、往復でちょうど1時間ほどのジョギングコースになります。途中の小さな集落には、農業を営み、道の傍に農産物の直売所を構えている夫婦が居ます。株数はそれほど多くないなりに多種類の野菜を植えているようで、季節毎の味覚が並んでいます。野菜などの農作物ばかりではなく、栗やミカンや八朔などの果樹もそれなりに並んでいます。野菜を買っても投稿者の事務所では調理できないので、そこを通るたびに果物などを100円分か200円分買います。今の季節は八朔が並んでいます。小ぶりですが、100円出せば4個ももらえます。しかも元気な声での「何時もありがとね」のオマケつきです。

帰り道は、手に少し重いものを持っているので、走るスピードは落ちますが、その分道端の植物の季節変化や、川面に浮かぶカモたちを少しだけしっかり観察できます。彼らは何を餌にして冬を越したのか知りませんが、かなり動きが活発になってきたので、そろそろ北へ帰る準備をしているのかも知れません。その横では、鮎などの養殖魚を食い荒らす、悪名高い「カワウ」が、羽根を広げて太陽光を受けながら獲物を狙っているようです。

しかし気持ちよく走って、事務所に帰ってからが大変でした。1月末から軽い前兆はありましたが、例の症状が突然悪化したのです。花粉によるアレルギー性鼻炎です。その午後からちり紙の消費量もどっと増えました。殆ど水である液体を吸った紙は、結局はゴミになるので、環境には決してやさしくない困った病気です。例年、杉花粉に軽く反応し、ヒノキの花粉にひどく反応し、黄砂が更に拍車を掛けているような気がします。その三重苦が起こる3月は最悪です。そうなると待ち遠しいのは桜の季節という事になります。これからしばらくは、走らないと気持ちが悪いし、かといって走ると困った状態になる、憂鬱な季節ではあります。

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2009年2月20日 (金)

947 信心

少し田舎の道路を走っていた時のことです。70歳は大分越えたと思われる老人が、道端の祠に向かって熱心に拝んでいました。後ろは、見上げる様な岩山になっていましたが、そこに祀られているのは、何の神様なのか知る由もありませんが、そんな事はその老人には何の影響も無いでしょう。その祠は、多分老人が生まれた時には既にそこに在り、近所の住人の信心を集めていたと想像できます。信心には何の訳も理由付けも要りません。

さて日本には、八百万の神々が存在すると言われています。西洋のたった一人(ひとつ)の偶像を崇拝する一神教(宗教)とは全く違うものが信心だと言っても良いでしょう。お釈迦様への信心でさえ、この国では「輸入」されたものだったはずです。日本古来の信心は、自然物や自然現象への単純な崇拝と畏敬の念から出発した、自然発生的なものだったと思うのです。海に隔てられ、他民族からの侵略になど余計な神経を使う必要もない平和な国では、一つの神の元に一致団結する必要すらなかったはずです。

結果として、この国では、自然を敬い、その恵みに感謝する信心が根付いたと想像できます。農作物を育む太陽が昇り、農業用水を恵んでくれる山の頂を拝み、それが蓄えられている池や湖や湧き水に水神様を祀り、時には暴れる川の流れを畏れ、大きな岩や大木に自然のパワーを感じ、それらを祀り、信心するのでしょう。いま自然物への信心が、ほぼ失われた都会の暮らしに慣れた人々が、一体何を信じて暮らしているのか、非常に気にかかります。いずれにしても、それはお金か、便利な工業製品か、或いはコンピュータの中にあるバーチャルな世界などになるでしょう。

先の老人が、もし小さな孫でも連れて拝んでいたのであれば、信心の伝承も出来るのでしょうが、現実には彼の子や孫は、多分街でモノ(工業製品)に囲まれて「唯物的な生活」をしているのではないかと勝手に想像し、軽い絶望を感じたのでした。

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2009年2月19日 (木)

946 象

象を知らない盲目のひと数人が、像を撫でて感想を述べ合ったとします。ある人は、鼻を撫でて太い蛇のようだと言いました。別の人は尻尾を掴んで、暖かいロープのようだと言いました。もう一人は、そんな事はない、これは少し軟らかいが木の幹に違いない、と太い足を触りながら言いました。物事には、この例のように多くの側面があるはずです。単純な形のコインでさえ、表面、裏面、側面のギザギザを見出すことが出来ます。

しかし、環境に限って言えば、温暖化問題たった一つにしても、賢い人間達が寄って集って議論しましたが、精々IPCCの不確かな「予測」しか結論できませんでした。環境は、モノではないので、人間の持つ「ささやかな科学の知識」だけでは、正確に観測することすら出来ないでしょう。環境とは、観測したり理解したりするものではなく、結局生物とはその中で育まれ、それを感ずる存在でしかないです。環境とは、地圏、水圏、大気圏、熱圏、有機物圏=生物圏に、可視光、紫外線、赤外線や地磁気などの電磁場、太陽光、宇宙線などが複雑に絡みあったものであり、各分野の専門家程度では、とてもとても全体の理解は出来ないはずなのです。気象の専門家集団の「温暖化の警鐘」は確かに一定の意味はあるでしょうが、本当に警鐘を鳴らすべきは、社会学者や哲学者や宗教家による、人類としての価値観や生き方に対してでなければならないと、言いたいのです。

象が果たして取り返しのつかない病気になったのか、どのように感じているかは、象の尻尾を掴んで「温暖化の危険を叫ぶ」だけでは事足りません。象(環境)に寄り添い、五感を使ってしっかり観察し、その中で何かを感じ、その上で象が喜ぶ方向に少しずつでも踏み出して行動する必要があります。もちろん行動と言っても、何も稚拙な科学・技術を振りかざして前進する事は意味しません。慎重な後退や、何かをきっぱりと捨てる(止める)ことも重要な選択肢なのです。

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2009年2月18日 (水)

945 不便だが気持ちいい

投稿者も支援しており、これから環境経営に取り組もうとしている小さな運送会社の社長さんの言葉がココロに残りました。その社長さんは、自分が経営する会社の経費である燃料費を少しでも下げようと、これまでは自宅と会社の往復には、会社の営業車を使っていましたが、最近歩きと電車通勤を組み合わせた通勤方法に変えました。何が一番変わったかといえば、少し早起きをする事にはなったが、この通勤方法は何故か「気持ちいい」のだそうです。家族からは多少のメタボを指摘されていたようなので、健康にもたぶん良い影響が出るでしょう。

振り返って、投稿者の行動に当てはめれば、居心地が良いが「気持ちのあまり良くない」企業を辞め、貧乏にはなったが「気持ちだけは良い」環境坊主生活に入ったと考えることもできます。同様に、20世紀型の社会やその中で暮らす人々の生活スタイルは、確かに「便利で快適ではあった」かも知れませんが、未来世代へのツケ回しや、同じ地球上に暮らす生き物たちへの悪影響など、むしろ「気持ち悪い」ものだったのかもしれません。逆に、不便で質素だけれども「気持ちいい」田舎の暮らしや、環境坊主生活には、なんとなく吸い寄せられてそこに向かう人が、今後一人でも多くなることを願っています。

その為には、まず何か環境に優しいことを始めて、「気持ちが良くなる」経験が必要です。上の社長さんは、歩き通勤が気に入ってくれました。それは川原のゴミ拾いでも良いでしょうし、自転車通勤でも良いでしょうし、たまには家族揃っての歩いての買い物でも良いでしょう。電気を消して、まん丸になったお月様や星達を愛でるのも良いでしょうし、この時期でも暖房を消して、外で走って体の中から暖まるのも良いでしょう。何しろ、快適な生活ではなく、気持ちが良くなる生活を始めればよいだけなのです。改めて眺めてみても、今の社会には、快適だが気持ちの悪いものが多過ぎます。車はその典型的な例でしょう。それは、大量に吐き出されるCO2や廃車が不法に捨てられている現場や、シュレッダーダストの最終処分場を改めて確認するまでもなく、車はやはりなんとなく気持ち悪く、後ろめたい乗り物なのです。ましてや、某鉄道会社の計画しているRニア新幹線などは、環境的に見れば、車の何倍も得体が知れず、気持ちの悪い乗り物だとバッサリ切り捨てておきます。

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2009年2月17日 (火)

944 お節介

投稿者はどう考えてもおせっかい者です。頼まれもしないのに、家族の反対を押し切って勝手にサラリーマンを辞めて環境カウンセラーになり、交通費程度しか出ないのに学校や公民館で「温暖化防止の出前授業」を引き受け、お余りお金が回らない中小企業の省エネルギー診断では、ささやかな謝金をおそるおそる申し出て、もしいただければありがたく受け取り、誰に読んでもらう当ても無く、結構な時間をかけて毎日ブログをかき続けています。

当人に言わせれば、それは生きとし生けるものの母である「自然環境への義理立て」なのですが、勿論一人の環境坊主がどんなに経を唱えようと、人々の意識が変わり、温暖化に急ブレーキが掛かるわけでもありません。しかし、それでも何とかしようとあれこれもがくのが、お節介のお節介たる所以だとも思っています。とは言いながら、お節介にも言い分はあります。街にお節介オジサンや、世話焼きオバサンの居なくなった、今の社会には余裕も潤いも消えてしまいました。効率とお金が全ての世の中に、お節介の入り込む隙間は少なくなってしまいました。統計データとてありませんが、きっとお節介オバサンの減少と、未婚率の高さは見事に逆相関しているはずです。

しかし、自然そのものへの気持ちの上での義理立てはまだしも、直接的な手出しによるお節介は更に深刻な環境破壊につながる恐れもあります。例えば、山火事のあった山に植林をする行動は、今の社会では是とされます。焼け爛れて土の見えている山肌は、単純に見苦しいからです。しかし、灰が残ってミネラルが豊かになった地面には、少し雨が降れば草が芽吹き、やがては自然に潅木も甦るはずです。つまり、火事になる前の植物の様子(植物相)は、気の遠くなるほどの長い時間と、人間が少しだけ手を掛けた結果できあがっていたのです。人間が働きかけて自然にお節介を申し出るとすれば、慎重な観察と長い時間を掛けた「人手による」働きかけこそが必要だと言っておきます。自然に対しての余計はお節介は考え物ですが、一方貧乏に引っ張り込まれた家族の思いは別にすれば、投稿者としては、市民や企業にお節介を焼く自分は結構肯定しながら暮らしています。

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2009年2月16日 (月)

943 照明費倒れ

大分前、小規模な図書館でも、誰も閲覧しない書架の照明に掛かる電気代が年間50万円にも上る計算になる書いたことがありますが、各種の大型店舗の横を通るたびに同じ様なため息が出ます。それは、その照明の煌々たる明るさと、その結果生ずるCO2の排出量の多さ、その結果生ずる店舗の費用負担、その結果生ずる商品単価への価格上乗せ、などなど「勿体無さの連鎖」を想像してしまうからです。

例えば、2灯式の蛍光灯(40wx2)の天井灯ですが、営業中の10時間で1箇所当たりの電気代は、年間4500円程度になります。少し大きな売り場面積の店では、その天井灯の数が500個程度設置されている事も珍しくないので、その店の照明の電気代は、しめて年間200万円以上になる計算です。蛍光管に反射率の高いフードをかぶせるだけで、明るさは約2倍になりますので、天井灯の数を半減でき、電気代も半分で済みます。また別の車ディーラーでは、明るい店舗イメージを強調するために、250ワットの水銀灯を50個以上も常時点灯していました。この場合でも年間の電気代は、軽く50万円を超えます。赤字を出さないためには、それを、年間販売する車の価格に上乗せするしかありません。それを190ワットの高効率ランプや100ワット相当のメタルハライドランプに交換するだけで、電気代はそれぞれ24%~60%削減できるわけです。

考えてみれば、照明をいくら明るくしても「商品自体の価値」が上がる訳ではありません。見かけ上、経費を上乗せした商品価格が上がり、結果として店の売り上げは増えるでしょうが、逆に利益率は薄くなるのです。そうではなくて、売りたい商品があるのなら、店の全体照明は暗くして、その商品にLEDのスポットライトを取り付けるのです。サボっているのは照明デザイナーかも知れませんし、もしかすると、店舗の照明の仕様を決めたのは、照明デザイナーではなく、設備屋さんや建築屋さんが適当に配置しただけなのかも知れません。一方、ショップキーパーの「売り物」は、明るい照明ではなく、接客時の笑顔と客に対する親切心だけで十分でしょう。そもそも、半年や1年も売れ残っている商品の上も降り注ぐ、ただ明るいだけの照明は一体何のためのものなのか、店長や店員はもう一度じっくり考えてみるべきです。

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2009年2月15日 (日)

942 ロードマップ

車で旅行や移動する時は、やはり道路地図は欠かせません。そうでなければ道に迷い、目的地に着けなかったり、時間に間に合わなくなったりするでしょう。この頃は、新しい車には「ナビ」と呼ばれる電子地図が装備されていますが、一方で環境保全を織り込んだ社会へ至る道筋を示す地図は(青写真=これももはや古語でしょうか)、まだ殆ど出来ていません。

まったく悲しむべき事ですが、今の日本には国家百年の計を議論できる「政治家」が見当たりません。政局に群がり、相手の言葉尻を突っつき、揚げ足を取るだけの「政治屋」が居るだけです。何百人もの政治屋が、役人に繰られながら寄って集って税金を食いものにし、国の屋台骨をグラグラにしてしまった現状は、まさに位置を失って、霧の中をただ前に進もうとしている無謀な車にも似ています。

ロードマップ作りは、結構骨の折れる作業です。何しろ、国家や社会のロードマップは、時代をまたがる代物でなければならないので、先ずは歴史を振り返ってじっくり眺める作業が欠かせません。その上で、過去の過ちを反省しつつ、自分達の子孫が生き易くなる方向で道を作らなければなりません。同時に、人間の都合だけではなく、他の生き物との共生を忘れてはならないでしょう。つまり、これまでのようにブルドーザをただ闇雲に前進させて、山を削り、橋を架けて真直ぐな道を作ればよいのではなく、象徴的に言えば地形をじっくり見定めた、「等高線」を通る道を作らなければなりません。更に言えば、それは片側3車線の真直ぐな道ではなく、必要な場所に作る必要な幅の道でなければなりません。

それを具体的に書けば、例えばある産業の適正なサイズを考え直すことであり、人口の偏在と社会インフラの一極集中を見直すことでもあります。その際見直しのポイントは、「ゼロベース」でということになります。現状から出発して見直すのではなく、そもそも絶対不可欠なものは何であるかを見定め、それを積み上げていく作業でなければなりません。

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2009年2月14日 (土)

941 負の連鎖

とは言いながら、940で述べた鎖は、安定しているときは確かに頼りになります。それにつながっている限り、自分だけ、或いは自分の所属する企業だけが落ち込む怖れはあまり無いからです。しかし、一旦その鎖の一方の端を握っている大企業が沈み始めると事は重大です。鎖にぶら下がる状況にどっぷり漬かっている体質の裾野企業に、親会社の危機を救う力はありません。それと言うのも、緊張したサプライチェーンの中で、殆どの下請け企業は、親会社の認める以上の利潤を上げる事は許されず、結果として体力的にはギリギリの状態での自転車操業を余儀なくされてきたからです。

市場に、製品をドンドン押し込んで、空前の利益を謳歌していた親企業が、一度でも「売り上げ減少」と言う小石に躓くや、強力な設備故に、産業の慣性力が非常に大きくなってしまった結果、市場の在庫は短期間で一気に積み上がり、操業を止めるしかない状態に陥るわけです。部品を親会社に引き取ってもらえない中小企業は悲惨です。親会社の生産増に合わせて設備投資を繰り返し、結果として気がつけば売り上げの大部分を、特定の親会社に依存する悲しい下請け体質が、企業の隅々まで滲みこんでいるのでした。これは、「イザナギ越え」などと呼ばれるぬるま湯に、気持ちよく長い間漬かっていた高いツケだと知るべきでしょう。

さて、負の連鎖を断ち切るにはどうすれば良いのでしょう。中小企業について言えば、市場のニーズをじっくり見定め、いざとなれば、自社の製品を車や自転車やリヤカーに積んで、社員が売って歩ける自社製品を開発すべきです。そうして、これまでの親会社向けの売り上げ比率を、半分程度まで引き下げておく必要があると思うのです。

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2009年2月13日 (金)

940 サプライチェーン

今の社会では、全く意識しないままに、個人や会社や社会システム自身が、複雑に絡み合った「鎖」につながれている状態にあるようです。そんな事はない。自分は自由業だと、例えば文筆業の人が言い張ったとしても、それは虚しい叫びに過ぎません。その人自身や家人が、コンビニやスーパーで買い物し、食べ物を手に入れている限り、「フードサプライチェーン」に完全につながれていると認めなくてはなりません。企業にしてもそうです。いまや、ほぼ全ての企業は、親会社や商社や流通業に手綱を握られ、アリの様にせっせとモノ造りに勤しんでいるはずです。それは、サプライチェーンと言う名の強力な鎖です。

製造業者や産地から、製品や農産物や海産物などが、数段階の仲買人や商社や流通業によりサプライチェーンの上で転がされ、その鎖の端につながれた消費者の手元に届くまでには、農協の買い上げ価格や漁港でのいわゆる「浜値」に比べれば、価格は数倍に跳ね上がっていることでしょう。それは、仕方のない流通コストだと諦めるにしても、実態はコストに加えて更に「市場価格」が上乗せされているはずです。そしてその上積みの言い訳としては、値崩れしたときの保険金のようなものだ、と流通に関わる人たちは主張するでしょう。

それも認めるにしても、流通に関わる人たちの多くが、儲かるときには目一杯(本来売ってはならない事故品まで混ぜ込んで)売り、儲からなくなると手を引いてしまう、Hit away (食い逃げ)ビジネスを繰り返すに至っては、もはや責任あるサプライチェーンとは呼べないでしょう。伝統的なサプライチェーンは、本来生産者と消費者がお互いに顔の見える関係で築かれていました。顔の見える関係においては、売り手は一度買い手の信頼を損ねれば、翌日からの商売が出来なくなるわけです。そうであればこそ、吟味した商品を適正な価格で商う必然性があったのです。その基本を忘れた多くの企業は、20世紀後半を通じて、楽で安定的に見える親会社依存の比率を拡大する道を突き進んだのでした。

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2009年2月12日 (木)

939 予算消化

この季節になると腹の立つことがいくつかありますが、「予算消化」もその一つです。よく見かける光景は、道路工事やその下に埋まっているガスや水道や下水管を「いじる(失礼、修理でした)」事ですが、空に目をやれば航空基地の上空を、グルグルと回っている「点検飛行」と言う名の「燃料費消化」も気になります。勿論、これに関連する業界に籍を置いていたときは、全く気にもしていなかった事なのですが、利害関係が全く無くなった今はただ喧しく感じるだけになってしまいました。ヒトとは全く勝手なものだと自分でも嫌になります。

さて、その消化される予算は勿論税金ですが、税金を一度手にしたお役人は、1円残さずキッチリと使うテクニックが身に付いていますので、予算を使い残して翌年の予算を削られるようなドジは決して犯さない訳です。しかし、残さずキッチリ使う事はさておき、下手をすれば消耗品を「買った事にして」業者に裏金をプールさせ、職場の飲み食いに当て、更にその管理をまかされていた経理担当が、個人的に流用(横領)するにいたっては、もはや呆れるしかありません。「公僕」などという言葉は、既に「古語」かも知れませんが、公金横領は何時の時代になっても立派な犯罪です。

そんな極端な話ではなくても、ここで言いたいのは、税金を公平に運用すべき立場の役人が、果たして不要不急の予算を、2-3月に無理やり消化することが、黒ではないにしても「灰色」ではないかということなのです。これは公金横領ではないにしても、「公金不適切使用」だと思うのです。余った税金は、ガラス張りの金庫に入れて、数年はプールできるようにすべきでしょう。その間には、地震や台風などの自然災害や、今回のような不況もあるはずです。その時にこそ、この貯金が役立つのです。それでも、慎ましい行政運用の結果、貯蓄が累積する場合は、税金負担者に正しく返還すべきでしょう。いずれにしても、今政府や地方行政が打ち出している全ての不況対策の原資は、未来からの借金に間違いありません。

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2009年2月11日 (水)

938 風呂敷もどき

温暖化の出前講座で、主婦に温暖化防止の話と同時に、エコバッグの代用としての「風呂敷」の活用法を話してもらうように依頼を受けました。勿論、ネットで風呂敷の活用法、見事な包み方や結び方の紹介も見つかるはずですが、投稿者は自分なりに活用法を考えて見ました。あまり時間が無かったのですが、1時間ほど考えて12個ほどの活用法を挙げて見ました。結論から言えば、風呂敷は日本人の大発明であることが改めて実感できました。つまり、折り紙でもそうですが、正方形の布切れの活用法は、殆ど無限に考えられるのです。(これは想像ですが)折り紙の、新しい折り方が今なお毎日のように考案され続けていることを考えれば、風呂敷の用途もドンドン「発明」されても然るべきなのです。次に、その12種類の活用法を挙げてみます。

<風呂敷の12の使い方>

1.         包む

2.         敷く

3.         下げて運ぶ(ハンドバッグ)

4.         背負って運ぶ(ナップサック)

5.         腰に結ぶ(ウェストポーチ)

6.         首に巻く(スカーフ)

7.         頭にかぶる(帽子代わり)

8.         飾る(タペストリーの様に壁に下げる)

9.         隠す(あまり片付いていない箇所を覆って隠す)

10.      羽織る(ケープのように)

11.      応急手当する(止血する・三角巾として使う)

12.      手品の小道具

1時間かけて上の12個を思いついたので、もう1時間考えれば、この倍くらいは出てきそうです。更に、実際に風呂敷を手にとって触りながら考えれば、もっともっと面白いアイデアが出てきて、もしかすると新たな「風呂敷産業」が生まれるかもしれません。ちなみに、呉服屋で立派な風呂敷を買えば2000円ほどしますが、今回の出前講座では、100円ショップで90cmx90cmのハギレを買って実演しましたので、たった105円で立派な「風呂敷もどき」が手に入りました。今後活用する予定です。いま思い出しましたが、そういえば子供の頃、風呂敷は、棒切れや「肥後守」と同じくらい遊びの「重要な小道具」だったのです。つまり、その頃子供たちがこぞって真似をしたテレビや映画のヒーローは、何故か皆、覆面や頭巾やマントを愛用していたからなのですが・・・。

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2009年2月10日 (火)

937 アリ・キリ3

もう一つの、無理やりはじき出されたアリさんたちの活躍の場は、やはり農山村や漁村など田舎にあるはずです。何故なら、そこではヒトの生命維持に「絶対不可欠」な食糧を生産しているからです。生産と言う言葉は実は正しくなくて、生産しているのは植物であり、食糧となってくれる動物や魚介類たちなので、収穫と言うべきでしょうか。

規格化され大量生産向きに自動化された工場では、人手は殆ど掛かりません。矛盾していることですが、「製造」工場では大部分の人手は製造ラインではなく、出荷作業などにより多く掛かっている場合すら珍しくありません。そこで働いていた、多分派遣の人たちは、製造業ではなく工場の中の流通業に従事していた、と表現すべきかも知れません。

一方、食糧や森林資源の収穫は実に人手の掛かる作業の一つです。植物は、土壌にしかそれを育てる力がありませんし、魚介類は海中や川の中でしか捕獲できません。勿論、葉物類やモヤシなどの一部の植物は、エネルギーを使って人工的に環境管理された「工場」で作られる場合もありますが、所詮食糧の中では「添え物」にしかなりません。米や小麦やトウモロコシを工場で育てる事は所詮できない相談です。その人手が掛かる、植物育成や、森林の手入れや、魚介類の収穫作業は、実は大変過酷な肉体労働でもあるため、楽をしてお金を稼ぎたい人たちからは、戦後一貫して敬遠され続け、いまやこの国では労働人口の5%も大きく下回る事態に陥っています。どう考えても、少なくとも10%近くの労働人口は、食糧の収穫や森林の維持に回ってもらわなければ、バランスの取れた社会の維持はままならないでしょう。労働人口の5%の移動とは、日本では300-400万人を意味します。この不況で製造業やサービス業から100万人規模ではじき出されたとしても、その受け皿に右往左往する必要は全くないはずです。来るべき社会ではキリギリスさんは、文化的な活動をするホンの少数で十分で、残りの人たちはやはりアリのように、なるべく環境に負荷をかけずに暮らさなければならないと思うのです。

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2009年2月 9日 (月)

936 アリ・キリ2

アリとキリギリス物語の続編です。さて、934で書いた「バブル産業」で働いていて、余った(とされてしまった)アリさんはどう行動すべきでしょうか。確かに、介護産業(介護を産業と呼ぶべきかは迷うところですが)やバスやタクシー運転手など、業種によっては慢性的な人手不足状態にあるでしょう。

しかし、いま本当に人手が足りない産業の一つは、実は「静脈産業」なのです。この言葉は、産業廃棄物の不法投棄などと結びついて、マスコミ的にはあまり響きが良くない(ネガティブ)なものと考えられがちですが、実は今の大量生産・大量消費時代には「絶対不可欠」な産業なのです。試しに、今産業廃棄物処理を行っている業者が、何らかの理由でストライキを打てば、多くの産業はものの1週間も経たないうちに操業ストップに追い込まれるはずです。製造業では、バックヤードに、工程から出てくる廃棄物が溢れて最早製造ラインを動かせませんし、サービス業でも厨芥ゴミやその他のゴミの処理が出来なくなれば、やはり店舗などを閉めるしかないでしょう。しかし、考えて見なければならないのは、これまで儲けてきた製造業やサービス産業は、その活動から出た廃棄物を、静脈産業に安い料金で押し付けてきたと言う事実です。安く請け負った人たちは、より多くの利益を出すために山間の谷に不法投棄に走ったのでした。

そうではなくて、真の静脈産業とは、不要になった製品や、今はゴミと呼ばれている「貴重な資源」を丁寧に「分解」し、あるいは「分別」して、完全にリサイクルできる原料に戻す作業なのです。この生真面目な作業をセッセと行っているのは、昆虫などの小動物であり、更にキノコなどの菌類やバクテリアなどの微生物です。人間の社会でも、この作業を行うために大勢の人手が実は必要なはずなのです。ドイツではこのために外国人中心にはなっていますが100数十万人の雇用を創り出しています。日本では、自治体から請け負っているゴミの収集運搬や処理に当る人、それをまとめてダンプトラックで運ぶ人たちを含めても、この半分には遠く及ばないはずです。その差は、廃棄製品を「手分解」や「手分別」する人たちが十分居るかどうかなのです。メーカーは、義務として、製造工場のすぐ横に、自社製の廃棄製品の分解工場を設けるべきなのです。雇用も、製造だけしている場合に比べれば、少なくとも3割増にはなるはずです。「きれいな分解工場」では、アリさんたちも自信に満ちて幸福に働けるはずです。

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2009年2月 8日 (日)

935 悪くても5割

「未曾有」の不況だそうです。「百年に一度」と言う形容詞もマスコミに乱れ飛びます。しかし、どんなに最悪の事態になっても、最も良かった時の5割減ほどで止まると思うのです。例えば、9.11事件の直後、人々は第二、第三の旅客機による特攻テロを恐れ、飛行機での旅行を敬遠しました。その時でさえ、最も落ち込んだ数字で、その直前からは45%までの落ち込みで踏みとどまったのでした。つまり、大きな不安はあるにしても、絶対しくじることが出来ない商談や、親の死に目にあうため、人々はテロの恐怖に怯えながらも旅行を決行したのでした。勿論、物見遊山の旅行客は、どっと予約のキャンセルに走ったのですが・・・。

今、車産業をはじめ、電機あるいは工作機械などの設備型産業の売り上げ(或いは受注)が前年比20-30%ダウンしている、と連日報じられています。50%が「底」だと仮定すれば、更なる底割れも起こるかも知れません。しかし、それでもゼロになる事は絶対ないはずです。企業は、売り上げ落ち込みの底も5割までと「腹を括って」、改めてそこからも巻き返しの準備を始めるべきでしょう。勿論、景気がある程度回復するかもしれない数年後でも、昨年前半までのレベルには戻る事は殆ど考えられません。もし多額の税金をつぎ込み、無理やり景気刺激を行って、このレベルに戻したとしても、その先の更なる落ち込みの恐怖と、将来世代への更なる負債の押し付けが残るだけとなります。

そうではなく、この未曾有の不況を如何に上手く利用するかを考えなければなりません。つまり、これは企業や社会の贅肉をそぎ落とすための「千載一遇」のチャンスと考えるべきなのです。どう考えても、バブルであった製造業やサービス産業は、やはり退場してもらわなくてなりません。一方、社会の基盤を支えている産業やサービスも、従来の半分のレベルを想定して、事業戦略を見直してもらわなくてならないでしょう。余った労働力の受け皿については、改めて考えて見ます。

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2009年2月 7日 (土)

934 光の春

大分昔の話になりますが、雪国に住んでいた子供の頃、何故昼間が最も短い冬至の時期ではなく、1月下旬の「大寒」が最も寒い時期なのか、真面目に考えたことがあります。その地方では、地域によっては、冬休みは結構短くなっていて、その代わり1月下旬から2月初めにかけて「寒休み」を取るのが普通だったのです。投稿者の生まれた地域は海岸に近く、積雪が比較的少なかったので、やや長めの普通の冬休みしかなく、残念に感じていたものでした。さて上記の疑問の答えは、実は比較的単純で、冬至の日に南回帰線の真上に「居た」お天道様が、そろそろ北へ帰ろうかと考えて少しずつ戻り始めても、実際には北極では一日中夜で「陽の差さない日々」がまだまだ続くわけです。陽が差さないと、地表からは、絶対零度に近い宇宙空間に向けての放射冷却も続くので、一日の最低気温が日の出直前に記録されるのと同じ理由で、北極の年間の最低気温は、1-2月に記録される事になります。

とはいいながら、今の時期になると冬至の日に比べて、既に昼間の時間がちょうど1時間は延びても居るのです。まさに、今は光だけ先行して春を告げている「光の春」となっています。植物が目覚める草芽の春や花の春、同時に始まる虫や鳥の春までには少し時間がありますが、それも南から着実に近づいてきています。それにつけても、もしこれでこの冬が終わってしまうのであれば、やはり既に50年以上も人間をやっている投稿者としては、実感としても間違いなく温暖化が進んでいるとしか言えません。

夜明け前や立春の直前が最も寒くなり、その後急激に暖かくなるのと同様、温暖化も更に進行すると、突然大きな気候変動が始まる可能性も否定できません。それは、バネが反発を開始する前に、最大のエネルギーを溜め込んでいる状態に似ているかもしれないと思う今日この頃です。

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2009年2月 6日 (金)

933 ハンドパワー(道具産業)

ハンドパワーと言っても何もサングラスを掛けたマジシャンの話ではありません。文字通り手力(てぢから)のことです。たぶん普通の人の握力は、女性では20-30kg、男性では30-50kg位でしょうか。先日、出先で次の予定までにポッカリ時間があいたので、名古屋駅にあるTハンズの売り場を冷やかしていました。売り場で特に目に付いたのは、手動のエスプレッソマシンやハンドスクイーザ(ジューサー)、ハンドフードプロセッサーなどでした。つまりは手の握力を利用してコーヒーや果物を搾り、調理をする道具たちです。いずれにしても、これらは電気の力で動く「機械」ではなく、人力で動かす「道具」なのです。特にハンド・エスプレッソマシンは、デザインも洗練されていて、もし値段が1万円以下だったら即刻買っていたかも知れません。残念ながら、輸入ものの電気式コーヒーメーカーが買えるほどの立派な値段だったので、今回はあきらめました。

しかし考えて見ると、ハンドパワーや脚力を連続のパワー源と考えて、それを利用した簡単な機械(ここでの機械とはmachineではなくgadgetの意味です)や道具の可能性は、もっと広がっても良さそうです。つまり、機械や道具を使って、そのメリットを受ける人自身がパワーを出すわけですから、究極のエネルギーの地産地消の仕掛けになります。ハンドルを回して、充電するラジオやハンドドリル、あるいは運転者自身がエンジンとなる自転車、あるいは昔使っていたような足踏みミシンや脱穀機などなど。ハンドパワー(握力や腕力)やマンパワー(人力)の可能性はまだまだ広がると思われます。これは、来るべき時代の、古くて新しいビジネスの種に十分なり得ます。つまり石油を多量に消費し、その重量が1トンもある車を作る産業が無くなっても、重量が車に比べ2桁も軽い15kg程度の自転車産業は、どんな時代になってもそれなりのレベルでは生き残るということでもあります。言葉を換えれば、車1台の資源やエネルギーで、自転車は100台近く製造でき、しかも自転車を転がすのに何らの化石エネルギーも使わないという意味です。ましてや、ハンドツールや道具を作る産業は、人類が続く限り永久不滅でしょう。

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2009年2月 5日 (木)

932 消費者

ここでは「消費者」という言葉について少し考えて見ます。この言葉が、いつごろからマスコミに登場したか、言語学者ではないので詮索はしませんが、たぶん高度成長期に庶民の消費行動がグングン伸び始めた時期に重なるのだろうと想像しています。元々、自給自足に近い社会を営んでいた時期には、生産者=消費者でしたので、区別する必要は無かったわけです。しかし、多分「信長」の時代になるのでしょうか、農、工、商の色分けが濃くなり、それが江戸時代には明確に区分される時代になったのでした。つまり、作る人と消費する人との分離の時代が始まったのです。とは言いながら、信長の時代には、商家や職人の家であっても、裏庭には畑があり、それなりの芋や野菜を作っていた事でしょう。人々の大きな仕事や興味は、先ずは「食」だったはずなのです。

一方、食に全く無頓着になってしまった現代の消費者は、お金さえ出せば何でも、どれだけでも「スーパーマーケット」で買えると信じ込んでいます。スーパーの裏口には、毎日毎日トラックが、その日に売り上げる生鮮食料品を、各地から運び続けていることを、全く考えてもいないわけです。もし、何らかの事情で、全てのトラックが動かない日が3日続くだけで、生鮮食料品の棚は空っぽになり、缶詰などの保存食の棚の前もやはり奪い合いの場になることでしょう。

どのような道筋で考えても、消費者は最低でも自分達の「食」にもっとコンシャスでなければならないでしょう。その食品の原料はどこで栽培され、あるいは採集され、どこで加工されて、どの程度の距離を運ばれて来たものなのか。あるいは、その食品が環境的に見て、果たして持続可能な種類のものなのか、などなど、食品一つ手にとっても考えるべきことは多いはずです。残念な事に、日本ではその持続可能性に関する指標が評価される事は殆どありませんし、それが商品に表示されるケースも皆無なのです。全ての消費者は、少なくとも「考える消費者」にはならなければならないでしょう。

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2009年2月 4日 (水)

931 休題(風邪はひかない)

少し前から、街や電車はマスクを掛けた人であふれています。また多くの学校での学級閉鎖がニュースをにぎわしています。

投稿者は、最近風邪を引いて寝込んだ経験がありません。頭が痛くて少し寒気がする日も、早めに布団に入って暖かくして寝れば、翌朝は問題なく起きられます。風邪は、種々のウィルスで引き起こされます。ウィルスは、細胞壁を持つ細菌ではないので、通常の細菌の様な湿潤状態ではなく、逆に乾燥状態を好みます。ですから冬に猛威を振るうことにもなります。人工的な乾燥状態は、実は暖房によって引き起こされます。電熱器で直接的に暖房される電車暖房は、その極端なケースです。電車の中は、人の吐き出す呼気があるにしても、10%程度まで下がることも珍しくないでしょう。家庭でもやはりエアコン暖房が広く行われています。つまり、外でウィルスを貰えば、家庭でそれが爆発的に増加することになります。

投稿者の事務所には、冷暖房設備は一切ありません。ですから、冬場の寒い日には室温が5℃程度まで下がる日もかなり多いのです。手がかじかむとキーボードが打てなくなるので、アルミ製のフタ付き飲料缶にお湯を入れ、保温袋に入れて「ハンドウォーマー」とします。お尻も寒いので、オーバーズボンをはいて、20ワットの電気座布団を使います。暖かくなると電気座布団はすぐ切ります。結果として、部屋の相対湿度は50%以上が確保でき、一方寒さで鼻水の分泌も活発になって邪悪なウィルスどもを、ズルズルと流し去ります。

かくして、今年も投稿者は風邪と無縁で、バイクで走り回って、環境念仏を唱え続けることができています。ちなみに、これは風邪防止に効くかどうか定かではありませんが、ほぼ毎日口にするのは、1カップの(琴欧州の生まれた国の名前が付いた銘柄かピロリ菌の抑制に効くと書いてある銘柄の)ヨーグルトと1パックの野菜ジュースです。

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2009年2月 3日 (火)

930 真の永久機関2

お天道様への依存を強める社会では、資源もやはり地下から掘ってくるわけには行きません。先ずは、日本でも比較的資源量が多いバイオマス、とりわけ木材や、竹や、農業残渣などの活用を考えなければなりません。しかしながら、木材に関して言えば、国産材の利用は非常に限定的で、1億トンにも迫る量が海外から入ってくるのです。その一方では、ご先祖様が急斜面をものともせずに植え続けてくれた杉やヒノキは、全く手入れが行われずに放置された結果、込み合ったヒョロヒョロの林になり、ちょっとした台風や豪雨で簡単になぎ倒される有様です。

先ずは、これらの林の間伐が不可欠です。そうしなければ、太い木材が残らないからです。しかし、間伐が行われただけでは不十分です。枝打ちが行われない木材は、根元の方まで枝が張り、結果「節」だらけの「使えない木材」となってしまうのです。枝打ちのためには、さながらサルのように身軽に木に登り、ナタで枝を払う技を持った多くの人たちが必要です。今、国や県が行おうとしているのは、お金を払って、不況業種になった建設業の人たちに、間伐をしてもらう程度の「対策」しかありません。10年後や20年後、山には切り倒されて朽ちつつある伐採材の「死骸」と、太くはなったが枝が張ってとても売り物にはならない杉、ヒノキの山が残るだけです。

打つべき手は決まっています。先ずは山をしっかり観察して、木材資源として残すべき地域と、伐採して植え替えるべき山を色分けすることです。木材林はお金と人を入れて計画的にしっかり手入れを行う必要があります。つまりは間伐と下草刈と枝打ちです。一方、伐採林から出た木材は、新たな「木質原料活用産業」の原料として、固形燃料や木炭やDMEやその他の木材抽出物の原料としてしっかり活用します。伐採された山には、計画的に針葉樹と広葉樹の混合林を植林することになります。その姿は、上手く計画さえされれば、たぶん戦時中に皆伐されてしまう前の、本来そこにあった自然林や少し人間の手が入った「半自然林」に近い姿に戻るはずなのです。

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2009年2月 2日 (月)

929 真の永久機関

以上書いたように、今の社会システムやそれを裏打ちしている価値観は、決して持続可能ではないことは間違いないところです。では、どうすれば良いかですが、それは事実上の永久機関である「お天道様」に依存する産業構造に移行するしか考えられないはずです。とは言いながら、単にエネルギーを太陽光に依存するだけでは十分ではありません。産業の基本となる原材料もまた、太陽光の産物であることが必要なのです。原材料を相変わらず地下資源に依存する産業構造では、それを掘り出し、輸送するエネルギーや精製するエネルギーを石油に依存しなければなりませんから。

もちろん、お天道様が作る資源やエネルギーだけで、今の地球上の人口が養えるわけではありません。何しろ、60数億人食べるだけでも、その為には全ての耕作地をフル動員しなければなりませんし、樹木などが生産するバイオマス量にも限界があるからです。事情は、日本国内に限っても同様です。お天道様が養える国内人口は、食糧に限っても僅か3000万人程度と見積もられています。一方で、国内に限ってもお天道様への依存度は全く進んでいません。確かに、電機メーカーは、大量の化石エネルギーとシリコン資源を使いながら、せっせと太陽電池を生産しています。しかし、周囲を見回しても屋根に太陽電池を載せている家の割合は、精々数百軒に一軒程度のものでしょう。太陽光発電システムは少し高めの中型車程度の価格ですが、確かにコスト回収には20年程度が必要ですので、簡単には手がでないかもしれません。

そうではなくて、まずはできるところから始めれば良いのです。例えば、太陽熱温水器があります。これは少し立派なものでは20万円くらい掛かりますが、数年程度で回収できる金額です。ガスで風呂を沸かすと、たぶん1回で200-300円は掛かるでしょう。太陽熱温水器は、うす曇りの日でもそれなりに温度は上がりますので、年間200日程度はお天道様の恩恵が受けられそうです。また投稿者が、いま考えているのは「太陽熱冷房器」です。これは、コンプレッサーを回して空気の温度を下げるのではなく、太陽熱を利用して湿度を下げるデシカント冷房と呼ばれるものです。続く予定です。

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2009年2月 1日 (日)

928 永久機関3

現在の経済システムを動かしている、もう一つのエンジンは、経済社会の仕組みそのものにあります。判りやすい例で言えば、日本の国がそうであったように、経済の成長期には第3次産業(いわゆる流通業やサービス業など)に従事する人の割合が急激に増加します。彼らは、モノを作ってはおらず、その意味では「純粋な消費者」なのです。したがって、その人口割合が増えること自体、人口がそれほど増えていなくても、需要は確実に増えるという仕掛けです。しかし、これも持続可能な動きではありません。日本では、製造業の人手が減りすぎて、ついには海外から働き手をかき集めてこなければならなかったのです。その既成事実を合法化するためには、派遣労働を法制化するしかなく、それが現在につながる労働問題の発端ともなっています。

3次産業の野放図な増加傾向も、やはり永久に持続可能なものであるはずがありません。誰かが家畜や作物を育て、誰かが日用品を作り、誰かが家を建て、誰かが布を織り衣服を作らなければなりません。それを、加工・梱包したり売り買いしたりする仕事は、本来は副次的な作業であったはずなのです。農林業や基本的な産業をないがしろにし、何処かの国で作られたモノに相場を張り、流通させるだけの今のシステムは、どう考えても「適正なレベル」まで戻さなくてはなりません。そのレベルがどの程度かと問われれば、現在の2/3ではないことは明らかで、少なくとも半分以下ではあるはずです。

と書くのは簡単ですが、2/3-1/21/6ですから、6000万人以上の労働人口を抱える日本では1000万人以上が、製造業や農林水産業など、より基本的な産業へ移動しなければならない勘定になります。戦後60年かけて作られた今の仕組みを、1-2年で変えることはできません。しかし、時間はそれほど残されているわけでもありません。環境悪化と、世界規模での20世紀型システムからのパラダイム変化の兆候を考えれば、この10年を正念場と捉えなければならないでしょう。その、国の方向を定めるべき「リーダーもどき」達が、毎日繰り返す茶番劇を眺めていると、暗澹たる気持ちにならざるを得ませんが・・・。

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2009年1月31日 (土)

927 永久機関2

経済サイクルを回していたもう一つのエンジンは、実は人口の増加でした。人口が増加すれば、自動的に経済のパイは大きくなるわけです。しかし、例えばその胃袋を支える優良な農地は、同じ割合では増えていないはずです。仕方がないので、人々はそれまで農地としては不適とされた半乾燥地を地下水で灌漑し、或いはジャングルを焼き払って畑に変えました。

これらの「新しい農地」は、両方とも持続させる事は不可能な仕組みでもあります。アメリカ中西部やインドやアフリカの多くの農地では、天水だけでは作物が出来ないため、地下深くから水を汲み上げています。その地下水は、実は太古の昔に溜まっていた「化石水」で、やがては井戸枯れを起こす事は明らかなのです。何しろ今は殆ど雨が降っていない訳ですから。更に、地下水に含まれる塩類が、灌漑水の蒸発によって地表に蓄積する結果、やがて作物が作れなくなる耕作放棄地が拡大する事になります。塩害です。アメリカ中西部やアフリカやアラル海周辺地域には、真っ白になった耕作放棄地が拡大し続けています。

一方、熱帯の焼畑農業はもっと悲惨です。熱帯地方では、生物分解が非常に活発であるため、温帯や寒帯地域のようには有機物が土壌に蓄積されません。熱帯の樹木は、したがって地中深くに根を張る事はなく、もっぱら地上に広く根を広げます。この様なジャングルを焼き払っても、樹木の灰(ミネラル分)や僅かな有機物が残っている数年間は耕作が可能ですが、急速に収量が減少します。仕方がないので、農民は更に奥地の森林を焼き払うと言う、悪循環が続くのです。有機分の少ない熱帯の土壌は、少しの雨でも簡単に流出し、少ない土壌が更に失われ、そうした地域では慌てて化学肥料を補ったとしても、最早作付けそのものが不可能になるのです。このサイクルも全く持続可能ではないどころか、逆に温暖化などの環境悪化を加速し続けているのです。

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2009年1月30日 (金)

926 永久機関

サイクルやシステムを動かすためには、その為の仕組みとエネルギー(燃料)が必要です。古い時代から、人々はエネルギーを加えなくとも、動き続ける「永久機関」を夢見て、発明家がこぞって挑戦してきました。実は、その原理が否定されてしまった今の時代でも多くの「発明おじさん」達が同じ挑戦を続けているのです。まあ、それはおじさん達の生き甲斐でもあるでしょうから、仕事をそっちのけで奥さんから三行半を突きつけられない限り平和な趣味でしょう。

さて、現代の社会の仕組み、経済の仕組みのシステムはどうなっているでしょう。社会のインフラでハードウェアの部分を動かしているエネルギーは疑いなく石油です。一方、経済システムを動かしているのは、「過剰なお金」だと言えます。以前にも書いたように、お金とは、本来は人の労働時間を使う権利ですから、60数億人の労働に見合うお金以上は、実は過剰なお金だと言えます。そのお金はどこから出てきたかと言えば、それは地下からだと答えます。地下資源が十分に使えなかった時代、地上の資源だけで地球が養っていける人口は、多分数億人が限度だったはずです。地下資源が潤沢に使えるようになった20世紀後半に、人口は爆発的に増加し、経済システムのエネルギーである、過剰なお金もドンドン増え続けたのでした。

とは言いながら、今の経済システムが永久機関ではないことは、少し考えただけでも分かります。実際、昨年後半以降、経済機関の燃料(資金)が急速に減ってきています。資金はどこから生まれていたかですが、仕掛けは比較的簡単です。経済機関のエンジンは、かなりの部分がB国にありました。実のところ彼らの「浪費癖」がその原動力だったのです。彼らは、モノ造りをやめて海外から大量に輸入し、大排気量の車をガンガン乗り回し、バス代わりに飛行機を使っています。貯蓄をしないで、レジャーに奔走し、しかし投資には熱心でした。このエンジンを動かすお金は、結局のところ、石油の値上げと消費増加で膨らみ続けたオイルマネーと、世界の工場となったアジアマネー(日本や中国や韓国など)がB国に流れ続けたのです。この流れが順調である限り、このサイクルは回り続けると期待されていましたが、B国の「普通の人が普通に行っていた」、住宅投資がもはやお金を生まなくなって以降、経済エンジンを動かす燃料が不足し始めたのです。

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2009年1月29日 (木)

925 断熱性能

以前にも書きましたが、全てのエネルギーは結局熱になり、最終的には波長の長い赤外線(遠赤外線)となって絶対零度に近い宇宙空間に放射されます。全ての生き物は、太陽から発せられたエネルギーの流れの中で生きています。人間の科学技術をもってしても、このエネルギーの流れをコントロールすることは至難の技なのです。仕方がないので、人間は比較的にコントロールが容易な、化石燃料の火でこれを代用することを始めたわけです。

もちろん、エネルギーの流れが全くコントロールできないわけではありません。たとえば、鏡を使えばある波長のエネルギーの流れである電磁波を、反射させたり、ルートを変更したりはできます。また、熱を通しにくい材料(断熱材)を使えば、熱になったエネルギーの流れを少しゆっくりさせる事も可能です。

来るべき「低炭素社会」における、ひとつの重要なキーワードが、このエネルギー流のコントロールなのですが、とりわけ「断熱材」は重要なアイテムだと考えています。つまり、潤沢に使えなくなる化石エネルギーの代用として、広く薄くしか配られていない太陽光を使おうとした場合、より高い性能の反射材や断熱材の重要性が相対的に高まる筈なのです。熱の流れ方向を変え、蓄えた熱を逃がさない、あるいは無用な熱の流入を防ぐ、反射材や断熱材の価値は、今後右肩上がりで上昇を続けることでしょう。

ここに、ひとつの環境ビジネスの可能性があります。今、無為に漏らし続けているエネルギーに注目し、その漏れを食い止めるための技術や製品は、当面大きな需要の伸びが見込めます。たとえば、安価な材料と方法で、既存住宅の断熱性能が高められるなら、冷暖房に掛かるエネルギーは大幅に削減できるはずです。

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2009年1月28日 (水)

924 環境コスト

残念ながら「環境コスト」は目には見えにくいものです。電気料金は確かに請求書の数字として目で確認できるでしょう。しかし、火力発電所の煙突から排出される「環境が引き受けるコスト=環境コスト」や、原子力発電所で蓄積されている放射性廃棄物の増加量は、目では確認できない、計算上の数字でしかありません。もちろん環境コストを目に見える形にするにはいくつかの方法が考えられますが、例えば環境税もその一つです。

環境税の導入には、産業界や消費者がこぞって反対のノロシを上げると思われます。何しろ、消費税と同様に、環境税の網が広くかけられると、ほぼ同じ率で製造コストが上がり、日々の生活費もアップするからです。その結果、消費が落ち込み、経済が減速し、不景気を加速すると言い張るでしょう。とは言いながら、環境税は国民の「意志」で決定し、実行が可能です。しかし、今のまま放置し、環境悪化が人類の存続にも関わる様になった場合を考えると、事態は取り返しがつかないほどの最悪の事態になるでしょう。その時代には、消費が環境からの強制的な抑制を受けるわけです。取り返しがつかない環境悪化を「環境ハザード」と呼びますが、事故を起こしてから、ハザードランプを点灯させるのでは、やはり遅すぎるのです。

そうなる前の警告やブレーキの役目を果たすのが環境税であるわけです。人々に環境コストを意識させるのに、環境税ほど有効な手段は、実のところ他には見つからないでしょう。まずは、低い税率で様子を見ることで十分です。そこで、効果が上がらなければ、細かに税率を上げていけば良いわけです。まずは、イギリスなどですでに始まっているように、商品に環境負荷(具体的にはCO2量や森林減少面積など)を表示することからスタートするのも大きな前進ではあります。何より、それを表示する側のメーカーや、それを認定する公的機関が、環境負荷を自覚するようになるからです。そして、低い税率からでも良いので、それを環境税として、目に見えるお金に換算していく必要があります。

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2009年1月27日 (火)

923 同居

あまり苦労しないで環境にやさしく暮らす最も簡単な方法は、たぶん親や友人との同居でしょうか。親家族と子家族が離れて暮らす場合、資源やエネルギーの消費は、同居の場合に比べ、1.5倍以上にはなるでしょう。殆ど2倍に近いかも知れません。核家族となって家族が別居する場合、別々の家を構え、別々に風呂を沸かし、別々に冷暖房して、別々に調理を行います。更に、別居の場合、子供を乳飲み子の時代から保育園に預け、その保育料を稼ぐためと、より物質的に豊かに暮らすために、たぶん妻も共働きするでしょう。

同居は、たぶん青少年の多くの問題を解決する事にもつながるはずです。何故なら、青少年が捻じ曲がるのは、彼らを認め、励ましてくれる存在が居ないことに大きな問題があると考えるからです。忙しい両親にあまりかまって貰えない、非行予備軍や引きこもり予備軍の子供たちも、常に優しいまなざしで自分を見守ってくれる祖父母の存在が強い支えになることでしょう。核家族化により、十分な支えが無くなった多くの若者が、限度を超えて取り返しの付かない罪を犯し、あるいは引きこもりになった例のなんと多い事でしょう。統計的な数字に聞くまでもなく、日々のニュースを眺めるだけでも十分でしょう。

いまだに比較的大家族で暮らすケースの多い田舎で、比較的若者が健全に育つのは、環境にも優しい、同居の大きなメリットの証左だと思っています。せっせと働き、多額のローンを組んで、郊外に、隣家と30cmしか隙間が無い、せせこましいウサギ小屋を建て、あるいは駅前の高層マンションに「積み重なって住む」文化は、20世紀で終わりにせねばなりません。田舎には、年老いた親が二人で、あるいは一人で、広い家に住んでいるではありませんか。

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2009年1月26日 (月)

922 無形の財産

財産には不動産や動産・お金のように目に見える財産と、目には見えない無形の財産があります。後者には、例えば、家族の助け合い、面倒見の良い友人や同僚・上司、いざと言うとき役に立つ資格や能力、人並み以上の体力や健康、何より困ったときにすぐ飛び出す知恵やアイデア力などがあるでしょう。もちろん生きている事(命)は最大の財産です。しかし、現代人は悲しいことに、ある時期以降、目に見えるものしか信じないようになってしまいました。中でもお金の価値はもはや絶対的です。無形の財産に対して、有形な財産の代表であるお金の価値が上昇した証拠として、僅かな金額のお金目当てに、目には見えない財産の代表である「命」を奪う事件の、劇的な増加を例示しておきます。結局この時代は、財産がある人とは「単に」お金がある人だけを指すようになってしまいました。このブログで長々と書いてきた事の背景には、実はこのひどいお金重視社会への批判と無形の財産への再評価があったのです。

環境は、無形の財産の代表です。環境は大気などを除き、殆どが目に見えますが、一方その悪化の程度は、はっきりとは確認できません。その変化のスピードが、人間の持つ時間のモノサシに比べてあまりにもゆっくりだからです。毎日、マスコミでも取り上げられる「温暖化」は、結果的には200年ほどかけて顕在化しました。海洋の「熱塩循環」に伴う気候変動は1000年経たなければ白黒が判明しないでしょう。

環境は確かに財産ではありますが、実際問題としては誰もそれを所有はできません。というより所有してそれを自由に使う権利は誰にも無いのです。私たちは、たまたまこの瞬間に、この環境を借りているに過ぎないと思うべきでしょう。借り物であれば、それを散々汚して後の世代に渡す事には強い罪悪感を持たなければならないはずです。車の窓から、レジ袋に入れたゴミやタバコの吸い殻をポイ捨てする輩は問題外ですが、それと意識しないで週2回、両手で持ちきれないほどのゴミ袋を捨てにくる人や、平気で下水に食用油を流す主婦、あるいは車の排気管から排気ガスを捨てる事に何の罪悪感もない人たちは、今後もこのかけがえの無い無形の財産をゆっくり、しかし確実に汚し続ける事になるでしょう。

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2009年1月25日 (日)

921 愛と決意とサムハンド

表題は、もちろんC.チャップリンの有名な言葉のパクリです。投稿者なりに少し変え「(地球)愛と決意とサムハンド(少しの手間)」としてみました。かけがえのない地球とはよく言われる表現ですが、その地球を愛する気持ちは、環境問題軽減の方向へと導きます。勿論、この問題は、何度でも書くように、解決は殆ど無理な話です。60数億の人間の存在そのものが、環境破壊の根本原因だからです。とは言いながら、都会を離れ、自然により近い場所に立つと、その愛しさがグンと強まるはずです。でも自然をボンヤリ眺めてはいけません。立ち止まって、鳥の声を聞き、植物の逞しさを実感し、昆虫達の営みをマジマジと観察しなければなりません。例えばアリの行列を観察しても、行きと帰りのアリたちの「情報交換」や、新たな食糧を求めての「探索行動」など、見飽きることがありません。増してや、植物と鳥や昆虫との共生の観察では、自然のカラクリの全く無駄のない巧みさに感嘆させられるでしょう。

決意とは、この地球環境に対する負荷を可能な限り減らそうとココロを定めることを意味します。その決意無しには、日頃の行動に基準が無くなります。決意と言いながら、別に難しい事は必要ありません。目の前に2つの選択肢があるとして、「より環境にやさしい方を選ぶ」行動を日々繰り返すだけで十分なのです。

サムハンド(少しの手間)とは、億劫がらずに自分の手や体を動かすことを指します。自分の体を使う分には、少し呼吸が荒くなり、結果呼気に含まれるCO2が微量増加する以外、環境への負荷は全くありません。自転車が環境に最もやさしい乗り物である所以です。勿論、それよりは徒歩がさらに好ましいわけですが・・・。

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2009年1月24日 (土)

920 ねじれの発見

919は少し抽象的過ぎたかもしれません。もう少し、ねじれを具体的に示します。20世紀、とりわけその後半に、何らかのねじれ現象が起こったとの認識は、何も投稿者だけの思い込みではないはずです。生活を(物質的に)豊かにしようとすればするほど身の回りや地球の環境が悪化するという事実、モノを生産しようとすればするほど廃棄物が増えること、ある利益集団の利益を追求すればするほど、他の集団の利益を損ねることなどがその例です。また、農村を捨てて都会に群れ、食料の半分以上を外国に頼るこの国の状況も、ひどい捩れ以外の何者でもありません。何より、マスコミで日々流される「国会の捩れ」を、外国人に一体どのように説明すれば良いのでしょう。あれも、「捩れの時代」の単なる象徴のひとつでしかありません。

人のココロもねじれがひどくなっている様な気がします。たとえば、金のために携帯電話で次々に年寄りをだまし、僅かな金を盗るために路上やタクシーで人を殺傷し、挙句は「刑務所に入るために」あるいは「自分の存在を確認するために」意味の無い殺傷事件を繰り返す若者や、長い人生経験を積みながら、それを伝える術もなく、日々散歩やゲートボールやカラオケに時間を費やすリタイヤ組、シャッター街を作りながら一方では平日の日中から巨大モールにあふれる人々などなどです。

残念な事は、ヒトは日々の暮らしに埋没すると、目の前のねじれが全く認識できなくなるという性質です。ねじれを確認するためには、鳥のように一度高みに駆け上って、俯瞰することが不可欠なのです。その方法はいくつか考えられるでしょうが、団塊の世代が、勤め人というハーネスから解き放たれる「定年」は、その絶好のタイミングだと言えます。そこで安易に悠々自適のしかし退屈な生活に入らず、まずは自分の半生や自分が歩いてきた時代を振り返りましょう。一方、自ら積極的に鳥の目を得ようともがいた先人の多くは、きっと俗世を捨てて出家するか、あるいは放浪の旅に出ることを決意したのだと思います。その結果、自分や自分の子孫が歩むべき、道が見えてくるのだと思います。

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2009年1月23日 (金)

919 メビウスの輪

「環境」を突き詰めて考えていくと、解決できない矛盾が多いことに気がつきます。例えば、人間だけが地球上に満ち溢れ、その全てが生きていくためには、かなりひどい環境破壊を続けなければならないこと、あるいはモノを作ったり(実際には形を変える加工の事ですが)消費したりすると必ず廃棄物が出ること。さらには、熱源からエネルギーを取り出すためには、必ず大量の熱を「環境に捨てなければならない」ことなど等です。

これらの事実を、もし絵に描くとすれば、それはきっと「メビウスの輪」のようなものになるはずです。メビウスの輪とは、テープの端同士を半ひねりしてつないだもので、表と思って辿っていくと、いつの間にか裏面に入ってしまう立体のことです。これを今の社会に当てはめると、20世紀では良かれと思って「まい進」してきたことの殆ど全てが「裏目にはまります」。それは、例えば重化学工業が地域に公害を撒き散らし、今はそれが地球規模にまで拡大してきていることなどを指します。今の時代に見られるメビウスの輪のねじれは、結局のところ、化石燃料や地下資源を発見し、それを大量に掘り出して消費する「産業革命」以降定着したと考えるべきでしょう。つまり、それまでの宗教的な、精神的な幸福ではなく、物質的な豊かさこそが、人間の幸福につながる、という価値観の反転が、この輪の半ひねりに相当します。

とりわけ20世紀の後半を通じ、この価値観はほぼ完全に人類を席巻したと思われます。しかし、その輪の表の部分、つまりは鉄や石油を使った物質的に豊かな世界の裏側では、着実にその影の色を濃くしていたのでした。つまりは、田舎で自然に囲まれた、お金は無いが大家族に囲まれた、精神的に豊か生活こそが、やはり「表」である、と考え直す再度の価値転換こそ、現在の影である地球環境の悪化を防ぐ、唯一の方策だと思えるのです。続きます。

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2009年1月22日 (木)

918 Rニア新幹線を笑う

南アルプスにトンネルを通して、東京名古屋間を40分で結ぶRニア鉄道の計画が打ち上げられました。近頃肩身が狭い運輸族や建設族には、ずいぶん先の話とは言え朗報でしょう。しかし、山をこよなく愛している投稿者としては憮然としています。何も、せっかく鎮座ましましている南アルプスのお山のどてっ腹に、わざわざ穴を掘らなくてもいいのに、という気持ちです。

さて、計画を打ち上げた人は本当に、この計画を真面目に吟味したのでしょうか。もしそうであれば、その吟味は「単に技術的な側面」からしか行われなかった可能性があります。そもそも、需要予測はどうなっているのでしょうか。2つの都市(東京と名古屋)の中心間を、今の2時間弱から1時間弱に縮めたとして、今の新幹線からどの程度の客が、新しい鉄道に流れるでしょうか。確かに、今の新幹線のダイヤは「超過密」ですが、超繁忙期であったはずのこの年末年始も、今回は便数の大幅増発にも関わらず、旅客数が完全に頭打ちになったことが報告されています。事実として、日本の人口は既に減り始めているのです。

Rニア新幹線の発案者は、せっかくの雄大な日本アルプスの景色が、真っ暗なだけのトンネルで見られなくなり、社内販売や駅弁を楽しむ暇もない旅行や忙しいだけの出張を、一体誰が望むと考えているのでしょう。これを計画した人は、たぶん、人の気持ちの全く理解できない、「技術バカ」にほぼ間違いありません。百歩譲って、急ぎのビジネス客が、この鉄道をある程度利用すると仮定しましょう。では、利用料金はどの程度にするつもりなのでしょうか。もちろん、今の新幹線と同レベルであるはずがありません。200兆円にも上る膨大な建設費を考えれば、ざっと2倍くらいにはなるでしょう。客を誘導するために、無理して1.5倍程度に抑えることを決断したとしても、(給料を割り戻した)時給にして2-3000円程度のビジネス客が利用するには、まったく元が引けません。つまり、客がたった1時間の時間節約のために、余分に5000円を払うかどうかの簡単な計算も、彼らにはできていない様なのです。加えて、来るべき環境の時代には、勤労者の持つ時間の価値は、「相対的」に低くならざるを得ないという、基本的な認識にも全く欠けているとしか思えません。

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2009年1月21日 (水)

917 雨にも負けて

このブログを振り返って反省してみると、投稿者の心積もりに反して、やや小難しい言葉で書き進めた結果となっているようです。と言うより、文才が無いので、頭の中にあるありったけの言葉を「ぶち込んで」、量で稼ぐしかなかったというのが事実です。もし、宮沢賢治の1/10ほどの文才でも授かっていたとすれば、こんなダラダラ長いブログなどではなく、たぶんいくつかの「短い環境詩」を書いていたと思います。その意味では、賢治の「雨ニモマケズ」の詩は、何度読んでも驚くほど簡素で、しかも力強さにあふれています。この短い詩の中に、環境問題や格差社会問題や社会的弱者問題や生活習慣病の問題など、現代社会が抱える、殆ど全ての問題とその解決策が示されているとも思うのです。雨にも、風にも負けて、少々の夏の暑さや冬の寒さにも耐えられない現代人は、改めてこの詩人の精神を学ぶべきかもしれません。悲しいかな文才の無い投稿者は、今の気持ちを表すために、この詩をそっくりいただき、たった1語だけ書き換えました。

「雨ニモマケズ」

雨にも負けず

風にも負けず

雪にも夏の暑さにも負けぬ

丈夫なからだをもち

慾はなく

決して怒らず

いつも静かに笑っている

一日に玄米四合と

味噌と少しの野菜を食べ

あらゆることを

自分を勘定に入れずに

よく見聞きし分かり

そして忘れず

野原の松の林の陰の

小さな萱ぶきの小屋にいて

東に病気の子供あれば

行って看病してやり

西に疲れた母あれば

行ってその稲の束を負い

南に死にそうな人あれば

行ってこわがらなくてもいいといい

北に喧嘩や訴訟があれば

つまらないからやめろといい

日照りの時は涙を流し

寒さの夏はおろおろ歩き

みんなに「環境坊主」と呼ばれ

褒められもせず

苦にもされず

そういうものに

わたしは

なりたい

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2009年1月20日 (火)

916 ステップダウン

強気のエコノミストの中には、今回のリセッションは、新たな拡大のための踊り場だ、と楽観論を述べる輩も多くいるようです。確かに、踊り場ではあるでしょうが、これはステップアップの踊り場ではなく、逆にステップダウンのための踊り場だとの認識が必要だと、投稿者は思っています。資源やエネルギーを半分にして「暮らなければならない社会」においては、従来の意味の物質的豊かさは、やはり全て半分以下にするしかありません。その意味で、今回の不況は、従来の経済学で言うところの景気循環による不況などでは決してなく、非常に大きなパラダイムシフトを伴う未曾有の経済縮小(ステップダウン)と考えなければならないでしょう。

私たちはこれまでに何度も大小の不況に見舞われました。大きな地域紛争や戦争の終結時やオイルショック、超円高やバブル崩壊などが引き金になってきました。しかしながら、その一方で世界経済のパイは大きくなり続けていましたので、それぞれは上り坂での踊り場となっていたのです。しかし、パイがそれほど拡大しないこれからの時代には、自由主義経済に任せておけば、分け前を奪い合う、血みどろの競争に陥ることにもなりかねません。企業は競って、合併や業務提携を繰り返し、大樹となるしか生き残る道は無い、とばかり突っ走るでしょう。一方、大樹の枝の下に入れず、そこから弾き飛ばされた中小企業は、下請け仕事を奪われて途方に暮れ、やがては消え行くしかないのかも知れません。

そうならないためには、世界同時不況にただうろたえるのではなく、これまでの5割の操業でも生き残って行ける方策を考えるべきでしょう。むしろ、自由主義経済下では、企業の操業度は50%から100%の間で、好不況の波を刻むのは、ごく自然の成り行きなのです。昨年あたりに、操業度が80-100%で、今後もやって行けるなどと考えていた経営者は、よっぽどのノウテンキだったと強く反省すべきでしょう。9.11事件直後、航空旅客数が半分以下になった事実を引き合いに出すまでもなく、昨年夏までの需要の5割は、バブリーな需要であったと考えるべきでしょう。しかし、そうではあってもあと5割の需要は残るはずです。皆が必要以上に不況に恐れおののき、結果として踊り場の板が割れて、全員が奈落の底に転落するよりは、足元を固め直し、5割の操業でもどうにか生き抜く知恵を磨くべき時だとは思います。

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2009年1月19日 (月)

915 顔の見える市場

これも以前に取り上げたポイントのような気がしますが、ここでは再度見方を変えて考えてみます。究極の生産者と顧客のあるべき姿は、店舗や市場(いちば)における対面販売です。店舗では、普通店の後ろが工房(作業場)になっていて、そこで製品を作っている主人や職人の耳には、店でのやり取りが聞こえるはずです。市場で農家自身が対面販売する場合も同様で、産物の売れ行きや、客の気持ちを直接感ずることができます。小さな店の主人や農家は、それを即時かつ直接的にフィードバックできるはずです。

つまり、顔の見える市場とは、顧客のニーズが即時に製品やサービスの品質に反映できる環境を指すということです。それは、何も顧客のワガママをそのまま鵜呑みにする事は意味しません。そうではなくて、顧客の真のニーズに耳を傾けるということなのです。真のニーズとは、贅沢をそぎ落とした、スリムなニーズを指します。

たとえ話として、あるケーキ屋さんを考えて見ます。店員が、顧客との雑談の中から、実は客によっては、好みのケーキの甘さに、かなりの差があることに気づいたとしましょう。これまでは、ケーキ職人は十年一日の如く、決められたレシピを頑なに守って、日々ケーキを焼いていましたが、店員からのフィードバックを元に、職人は甘さに違いのある、3種類の新製品を作ることにしました。甘め、普通とさっぱりめ、の3種類です。見かけは同じでありながら、客の要望をしっかり入れたため、それに感激した客は、その後は甘さを指定して買う事になるでしょう。さながら、我が家で自分好みでケーキを焼いている様な気分になるはずです。これが、客と店との顔の見える関係の例ですが、それは、実はそのままメーカーと顧客との関係にも当てはまります。最早、作れば作っただけモノが売れる時代ではない今後は、その製品(やサービス)を、固有名詞の分かっている顧客に、直接的に売る事を考えなければならないのです。これは、かつての洋服の作り方であった「テーラーメイド=完全注文生産」に近いモノ造りを意味します。景気より、右往左往する、顔の見えない顧客に向けた「見込み生産経済」は既に限界に来ていると見るべきです。

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2009年1月18日 (日)

914 人=コスト?

913の様に、経済効率を追求する社会(会社)では、結局「人=コスト」とみなされます。この社会(会社)では、人を原材料と同等に見て「人材」と呼びます。しかし、冷静に考えてみれば、カイシャ存続の条件は、高い品質の製品やサービスを提供する事によりリピータ顧客を掴み、同時にその事業継続を可能とする人的財産=人財を持っている事なのです。人をコストと考えて、しかも長く事業を続けている企業を、少なくとも投稿者は知りません。その意味で、来るべき将来社会への布石をサボり、株主を意識した目先の利益追求に終始して、余剰なコストとしての雇用の切捨てに走った多くの企業の行く末は「推して知るべし」でしょう。

コストとしての人材は、その価値が変わることはありません。何故なら、彼らは人手であり、彼ら自身の時間を売って生計を立てていると思われているからです。しかし、人財は決してそうではありません。財産が利子で増えることがある様に、人財は自己啓発や企業内教育により、その価値は年々増加するものなのです。終身雇用の時代、企業は入社仕立ての若者に、時間とお金をつぎ込んで、しっかり仕込みました。社員は、その意気に呼応して愛社精神を培い、社員を家族とも思い、忠誠を誓ったのでした。

さて、ここでの結論は明確です。人=コストと考えている企業は、早晩市場から駆逐されることになるでしょう。しかし、苦しい時代に必死で社員を抱えていた企業は、来るべき時代にも生き残り、新たな環境ビジネスで、一定の地位を確保するはずです。繰り返しになりますが、人は決して材料やコストではなく、ココロを持ちしかも「日々進化する財産」なのです。

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2009年1月17日 (土)

913 コスト効率追求の限界

T社のカンバン方式は、作業効率の最大化を狙い、もってコスト最小を実現するための考え方であり、生産手法です。しかしながら、この路線の効率追求では、勤労者の「幸せ度」向上の追及や、生産における「環境効率」の追求とは、明らかに矛盾します。

先ず前者です。作業を、ストップウォッチを持った同僚が観察し、作業手順のムダを秒単位で記録され、最終的にはそれをそぎ落とすことを要求される場合、作業者の「仕事のやりがい」や「達成感」は一体どこに追いやられるのでしょうか。勿論、作業者の中にはそのムダ取り作業、即ち「カイゼン」に新たな生き甲斐を見つけ出す人もあるでしょう。しかし、多くの場合ムダと余裕の違いについては、意識される事は少ないのです。カンバン方式の考え方では、製品やサービスに付加価値を乗せる作業は「作業」ですが、そうではないものを「ムダ」と定義します。しかし、安定的に運転するためには機械も「遊び」が必要です。例えば、歯車の噛み合いの間の遊びを「バックラッシュ」と呼びますが、これ無しに歯車は全く回りません。増してや、機械ならぬ「ヒト」が持続的に作業を行うためには、余裕や「遊び」が絶対に必要なのです。

一方、後者の「環境効率」とコスト効率の綱引きですが、環境効率はより多くの人力の活用を要求する一方、コスト効率は可能な限り自動化して、人手を掛けないことを最優先におきます。その結果、コスト効率を追求した、究極の自動化工場では、多くの「ロボット様」が忙しく働き、その数を十分に少なく抑えられた作業者(その多くは非正規労働者です)は、ロボット様たちが快適に働けるように、部品を途切れなく供給するお膳立て、いわゆる「配膳」作業に従事する事になります。はてさて、この様な工場では、一体誰が「主」で、誰が「従」なのでしょうか。最近の四半世紀の中で、何らかの望ましくない「価値逆転現象」が起こっているとしか思われません。

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2009年1月16日 (金)

912 GNH

911の様な事を考えていた時、先日のラジオでGNHGross National Happiness)と言う言葉を耳にして、ハタと膝を打ちました。これはブータンと言う国の国是らしいのですが、なかなかに説得力があります。自由主義経済が行くところまで行くと、勝ち組と負け組に分かれます。ウサギとカメではありませんが、経済の仕組みを熟知してウサギのように素早くしかも上手く立ち回れば勝ち組に、しかしカメのようにコツコツとマイペースを保つ生き方をしている人は取り残され、結果として負け組になってしまいます。それも、経済の仕組み上、必ず一握りの勝ち組と大多数の負け組に分離してしまうのです。

それを、911の「幸せ度」と言う指標を使って表せば、その国の平均値はずいぶん低くなるでしょう。しかし、GNHという指標を導入し、同じ国民総生産レベルでありながら、ほぼ全員がホドホドの幸せを感じる社会が作れるとした場合、国民の「総幸せ度」は最大にできるはずです。K総理の目指した、規制緩和=自由な競争によるGNHの増加は、明確に失敗に終わりました。「お金儲けはそんなに悪い事ですか・・・」などと公然と言い放つ鬼子を生み出し、いまその歪の狭間に多くの失業者を取り残そうとしています。

今では、よっぽど田舎まで出かけないと、痕跡さえ見ることが出来ませんが、資源を持たないこの国の最も優れたコミュニティの仕掛けは、実は「結い」と呼ばれる人々の助け合いだったのです。この仕組みは、高度経済成長で、急激に膨らんだ製造業やサービス業でも「終身雇用」などとなって、形を変えて受け継がれてきたのでした。多くの人々は、単にある職業を就くのではなく、ある結いの形式である「カイシャ」に帰属する事に、収入を得ると同時に精神的な満足感を得ていたのでした。その当時は、多分「カイシャ」としてのGNHは最大となっていたことでしょう。しかし、能力給を導入し、評価する側に立たされた上司と、評価される側になった部下の関係はギクシャクし、企業の業績とGNHは逆比例の悪循環に陥ったのではないかと想像しているのです。根っからの技術屋であった投稿者は、人を評価する立場に立たされたとき、迷い無くそれを放棄したのでした。GNHの追求は、決して古典的な意味での社会主義や共産主義とは同じではありません。経済を離れた場所での、人間の幸福の在りようの追求なのです。

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2009年1月15日 (木)

911 幸せ度

もし、一人当たりの収入とその人の「幸せ度」をグラフに描くなら、そのカーブはある時点までは、収入の上昇につれて幸せ度も比例的に大きくなるでしょう。収入が増えれば、住居費や日々の食糧費の捻出も考えなくても済むでしょうし、また自家用車や便利な電化製品も買えるでしょう。子弟の教育費を出すのも楽になります。しかし、一定の水準を越えると、幸せ度の上昇はストップし、逆に下降を始めるに違いないと想像しています。想像と言うのは、投稿者としては50歳到達を機に、収入上昇の権利を放棄したので、それから上の経験が無いからです。

さて想像を逞しくして、自分や家族が一生住んで食っていくのに心配が無いレベルまでお金持ちになった状況を考えて見ます。例えば、企業活動で成功した経営者がその例ですが、日本ではまずその財産を自分の親族(子供)に、可能な限り(税金徴収などで)減らさずに引き渡す事に知恵をめぐらします。富裕のシンボルとして建てた邸宅の周囲には、高価なセキュリティシステムを張り巡らし、資産増加のために行っている種々の投資や信託のリターンに一喜一憂することでしょう。また、寄付の申し込みを如何に断るかのマニュアルを作って家人に教え込むでしょう。自分と家族のために買い揃えた高級外車は、キズが付くのを恐れてあまり乗らずに飾っておく事になるでしょうし、毎日の栄養たっぷりの豪華な食事は、着実に家族の生活習慣病を進行させるでしょう。

必要な額の収入(通貨)は、少しの貯蓄を除けば、殆どが消費に回されるので、その回転率は非常に良いはずです。しかし、それ以上の余剰な資産は、結局貯蓄だけではなく、利殖のための投資に回される事になるのです。国が工業化を進め、経済規模が拡大する局面では、これらの余剰資産も上手く循環していたでしょうが、日本の様に成熟し、定常状態に移行している国では、このカラクリは既に立ち行かないのです。この国がいま行うべきは、「ホドホドの幸せ度」のレベルを明確にし、より多くの人がそのレベルに向えるように、誘導する制度を整えることのような気がします。持てるものが、ムダな資産を手放し、持たざるものに少し回す事が出来る社会は、結局国全体としての平均幸せ度が高くなることでしょう。

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2009年1月14日 (水)

910 雇用創出の矛盾

失業率が高くなると、政治家は「雇用の創出」などと軽々に口走ります。しかし、右肩下がりのご時勢には、それは所詮無理なのです。経済規模が縮む時代に、新たな職場がそんなに増えるはずもないのです。現実的な対応策としては、結局仕事の分け合い(ワークシェアリング)しか考えられません。経済が縮小している時には、皆が身を縮めて、小さくなったパイを更に分け合うしかないからです。それを、間違って税金を使った雇用創出などの「麻薬」を投与してしまうと、その効果が切れる近い将来に、もっとひどい痛みを引き起こすことになるはずです。

もっと不便で、モノが不足していた時代でも、人々は大家族で身を寄せ合いながら結構幸せだった様な気がします。例えば、田植えや稲刈りの時期には、母親の実家で農作業を手伝い、労働の代価としてささやかに米の現物を貰いました。実家は田舎町でクリーニング業を営んでいましたが、料金の半分程度は農作物などの現物で支払われていたような気もします。どうせ、お金を貰ってもそれを使って店屋から買うわけですから、むしろ手間が省けるというものです。冬場に焚く薪は、秋口に近所総出で近くの入会林に入って、予め間引いていた木をリヤカーに積んで持ち帰り、乾燥させるため切って軒下に積んでおいたものでした。

思い出話はさておいて、ここでの結論は失業対策としては、残業など全て廃止し、その分を仕事のない人に上手に振り分ける仕掛けを作ることしかないというものです。その結果、今の「物質的レベル」での生活が維持できないなら、車をバイクに乗り換え、或いは自転車や歩きに切替えるしかないでしょう。食事も腹八分目にすれば、生活習慣病の大半が消えうせ、医療費も安く上がるでしょう。元気なお年寄りは、良い暇つぶしではあっても、あまり運動にはならないGートボールなどにうつつを抜かさず、Gートボール場をささやかな畑にして自分達が食べる分の野菜を育てる事に生き甲斐を見出すべきでしょう。皆が、欲をかかずに適度に働いて、ささやかに暮らせば、気がつくと環境問題は解決しているかもしれません。政治が口先で言うだけの雇用創出など、環境的側面から見れば明らかな矛盾にしか見えません。

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2009年1月13日 (火)

909 グリーン化

B国でも新しい大統領が「産業のグリーン化」による雇用の創出を表明しています。しかしながら、投稿者の厳密な定義によれば、省エネカーの開発や太陽光発電やバイオマス燃料などをグリーン産業と呼ぶには抵抗があります。敢えて言うならそれらは「グリーンっぽい産業」などと呼ぶべきでしょう。本当のグリーン産業とは、原料がそもそも太陽エネルギー起源でなければなりません。ずばり言うなら、それはバイオマスでなければなりません。それらから作った製品は、消費して、最終的に廃棄しても、それは土に還ります。加えて、それらの産業に関わるエネルギーも可能な限り、太陽エネルギー起源か畜力・人力などなければなりません。使うエネルギーが化石エネルギー起源の場合は、結局環境負荷を出し続ける訳ですから、グリーンに「灰色」が混じった、汚い製品になり下がるからです。

これまで、このブログでは「絵」を示してきませんでしたが、今回はイメージを明確にさせるため、模式図を示す事にします。この絵で、グリーンで示されているサイクルを回す産業を、まさにグリーン産業と定義すべきでしょう。このサイクルは、輸送や製造に関わるエネルギーの消費と海外からの資源輸入を大幅に抑制するものでもあります。

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2009年1月12日 (月)

908 伝統産業

持続可能な産業として、何も新たな産業を無理に考え出す必要はありません。その地域に昔からあった生業(なりわい)を再度掘り起こせばよいだけです。多くの地場産業は、江戸時代にその基盤が固まったものが多いと想像できます。長年に亘って戦乱が殆ど無かったこの時代に、人々は多くの産業を興しました。自生していた漆を使った塗り物、質の良い陶土を活用した焼き物や瓦産業、コウゾやミツマタの樹皮を使った和紙つくり、木材生産や木工業、酒や醤油などの醸造業、砂鉄や手掘り鉱山からの少量の鉄や金銀銅の生産、イグサが良く育つ地域での畳表の生産などなどです。地域に寄らない普遍的な産業としては、里山の雑木から作る薪炭生産や、ワラや竹やスゲなどを使って日用品を作る手工業などがあったでしょう。勿論、主食である米や、中山間地での雑穀つくりや木こり(つまりは農林業ですが)は、もっとも普遍的な産業でした。