2018年2月19日 (月)

3401 利雪

窓の外の雪景色を眺めながらの投稿です。以前も考えた様な気もしますが、あまり良いアイディアを書けなかった様な気がするので、改めて利雪(雪の有効利用)を考えてみる事に致します。その前に、雪の持つ特徴を整理してみましょう。1)冷たい(氷温である)、2)嵩高い(少なくとも水より比重が小さく嵩張る)、3)まとまって降る(ドカッと積もって長く居座る)、4)放っておけばやがて解ける、5)空気を抱え込み保温性がある、6)地域の偏在が非常に大きい(北陸以北の日本海側)、7)年度によって降雪量に大きな変動がある、8)締まって固まるとひどい厄介者になる。9)雪温によって性質が大きく異なる(パウダースノウからツユダクの雪まで)、などでしょうか。

さて、その利用法です。現在の対処方法は、兎に角屋根に積もった場合にそれを落とし、雪を集めて、邪魔にならない場所に捨てる事です。山間の雪深い地域には、流雪溝があり、住民は家の前の水路に小分けにした雪を放り込んで流します。また、北陸の一部地域には道路に地下水を散水して、雪を解かしていたりもします。この後者の地下水の活用は結構有望です。地下水は、冬でも十分10℃以上の温度を保っていますので、これを屋根のてっぺんから流す事により、屋根の雪は少な目で抑えられそうに思います。各戸では、地下水を汲み上げるための井戸を掘り、ポンプと散水パイプの設置という設備投資が必要となります。これはどちらかと言えば、雪下ろしを楽にする克雪対策にはなりますが・・・。

利雪で言えば、やはり1)と5)に注目する必要があるでしょうか。雪寄せのためには、どこかに雪を寄せて、道路や通路を確保する必要があるのですが、毎年の事なので、いっそその雪を放り込んでおく部屋(雪室)を準備しても良いでしょう。雪室は、古くからの先人の利雪の知恵の一つでしょう。雪室は天然の「氷温冷蔵庫」になり得るからです。雪室の中では、モノは凍結せずお0℃前後の温度に保たれる訳で、食糧の保存や種や球根などの発芽の季節調整には非常に有効な方法なのです。

氷温は、果物やコーヒーや酒などの熟成にも有効だと言われています。植物は、氷結を防止するために「糖分」を作り出すため、甘みを増すメカニズムを備えていますので、コメや野菜などの貯蔵にも適しているでしょう。雪室として使うには、普通のスチール物置ではやや強度に不安がありますので、既存の入れ物では間に合わないでしょうから、強度が高い中古のコンテナに断熱を施すのがベストでしょう。雪室があると、苦痛な雪寄せが、楽しい雪集めになりますので、冬の楽しみが増えることにもなります。雪に苦しむのではなく、考え方を変えて雪を利用するのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年2月15日 (木)

3400 列島の裏表(克雪・利雪)

この季節に列車や車で日本列島を移動していると、いわゆる裏日本(日本海側)と表日本(太平洋側)の気候の大きな違いに改めて気づかされます。列車だと、例えば新潟から関東平野に入った途端、車移動だと上越から妙高高原の豪雪地帯を抜けて長野県に入った途端、周りの風景や空模様がガラッと変わるのです。日本列島の中央部にでんと居座る山並みと、冬場に暖かく湿った日本海を渡ってくる大陸育ちの季節風(冬将軍)の襲来が、世界でも稀に見る積雪地帯を生んでいる訳です。

なので、今は死語となってはしまいましたが、太陽光が差す太平洋側を「表」、冬場は日が差す事もメッキリ減って、暗くジメジメしてしまう日本海側を「裏」と呼んできたのでした。

しかし、考えてみれば、日本海側は大陸からの冬将軍の攻撃を「矢面」に立って食い止めている最前線ではありませんか。裏どころか、なんと矢面(表)の前線なのでした。そこで大切な事は、実は冬将軍様の寒波攻撃を如何に受け流すかという知恵なのだと思います。具体的に言えば、冬場は寒波攻撃の置き土産でもある雪の始末でしょうか。雪は、当然の事ながら水が凍ったものですが、実はその「嵩」によって、全く性質が異なるのです。つまり、気温が低くサラサラのパウダースノウの状態だと、強い風でも吹けば一度積もっても、やがてどこかへ持ち去ってくれるでしょう。

しかし、気温が比較的高い(0℃前後)時に降る湿り雪や降った雪が昼間の暖かさで一部溶けて「締まった」雪は、全く処置に困るシロモノに化けるのです。雪は、春になれば自動的に解けて水になって流れ去るのですが、それまで待っていては生活が成り立たなくなるのです。その原因は、実は車への依存度の高さにあるのでしょう。子供の頃の風景を思い起こせば、雪が積もってもめったに除雪車など来ないので、道路は凸凹で歩きにくくなっていたものです。仕方がないので、人々は食糧や暖房用の薪を貯め込んで「冬籠り」するしかありませんでした。町の中心で立つ「市」に品物を運ぶ主役は「箱ぞり」だったのです。その意味で、人々は雪に負けながらもしかし降伏はしていなかったのでした。重機を使って雪を蹴散らす事ができるのは、今が石油が比較的安くて何とか重機を動かせる幸運な時代なだけなのです。続きます。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年2月11日 (日)

3399 トンネル列島のリスク

10日ほどの長い出張から、またドンヨリとした鉛色の空の自宅に戻りました。その間、車で岐阜まで移動し、その後列車で中国地方まで移動しました。その時お世話になったのが「トンネル」です。車であれば、長野道の長短のトンネル群、中央自動車道であれば8㎞強もある恵那山トンネル、新幹線であれば、トンネルに挟まれた新神戸駅をはじめ、全路線の1/3がトンネルだらけという山陽新幹線など、トンネルの話題には事欠きません。

しかし、それを利用する立場で気になるのはトンネル壁、正確にはコンクリートの劣化です。これまでも、トンネル内でのコンクリート剥離事故が何件かニュースになっていますが、そのニュースの陰には、たぶん数十件か数百件の微小剥離事故が隠れていると想像しています。もちろん、コンクリートの劣化は表面剥離だけではないでしょう、漏水や酸性水によって生ずるコンクリート自体からのいわゆる「脱灰」によって、コンクリート強度は大きく低下するでしょう。結果として、内部に隠れている鉄筋も錆びて膨張し、コンクリートに亀裂を作るでしょう。これは、亀裂と漏水と脱灰まさに悪循環です。多くのトンネルは、この国に多数刻まれている断層帯(破砕帯)を貫いて掘られてもいます、もしその断層が再び大きく動いた時に、それを貫通しているトンネルの健全性は全く保証の限りではない筈です。

その意味では、私たちはコンクリートの健全性に関して、非破壊で正確に診断する方法をまだ手にしていないと言えるのかも知れません。超音波で、「間接的に」内部を診断する事は居尼でも可能でしょう。しかし、コンクリートからどれくらいの割合で石灰分が抜け、その結果強度がどの程度低下しているかを知る定量的な方法はまだ見つかっていないと見ています。もちろん、あるトンネルが造られた時期に、同時に試験片も作り、経年劣化試験は実施されてはいるでしょう。しかし、それは試験場の環境での劣化試験に過ぎません。実際のトンネルと同じ、土壌、気象条件下で行われている経年劣化試験は、殆ど行われていないと想像しています。実物トンネルでの耐久性試験は、たぶん東海道線の「丹那トンネル」が嚆矢となるのでしょうか。このトンネルが開通して80年以上経過していますし、大規模な破砕帯を貫いていて、今でも大量の漏水に耐えてもいます。超過密な東海道線のダイヤを一度完全に止めてでも、「転ばぬ先の」大規模な劣化検査を実施すべきだと、建設のド素人は憂えています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年1月29日 (月)

3398 RJの行方

投稿者の前々職は、航空機メーカー勤務でした。仕事の中で、Bラジルとの共同開発リージョナルジェット(以下RJ)の開発にも、現地で深く関わりました。その中で、広く世界の航空機事情を見聞する機会にも恵まれたのでした。一方、この国ではM社が中心となって、悲願でもあったYS-11後継の、国産旅客機の開発に着手したのでした。残念だったのは、それがお国が後押ししたオールジャパンの取組みにはならなかった事だと振り返っています。何故なら、ブラジルでのRJ開発時に発生し、解決してきたノウハウが、M社での開発に生かされなかった結果、同じ様な問題で躓き、五度に亘るスケジュールの後ろ倒しを余儀なくされたからです。

製品の開発で最もモノを言うのは、実は「経験」である事は自明です。経験が無いゼロからの開発では、石橋をソロソロ叩いて渡るしかなく、場合によっては何度かの後戻りも起こり得るからです。取り分け、既存製品を超える性能を狙う場合には、いわゆる「開発要素」も多くなり、計画時には予想できない障害にも多くぶち当たるものなのです。経験が豊富であれば、その経験値で新規開発に当たってもリスクの予測と事前回避もし易くなるでしょう。残念ながら、この国の戦後の航空機産業の歴史は、朝鮮戦争時のB軍機の整備、今は博物館でしか見られない古い国産旅客機の開発、いくつかの自衛隊機の開発などしかない寂しいものである事は認めざるを得ないでしょう。

その中で、新たな「国際商品」であるRJの開発は、実は至難のワザだと言わざるを得ない事業だった訳です。その意味では、オールジャパンの人材を集め、Cナダの様に国の支援も仰いで、取り組むべき一大事業ではあったのでした。今となっては、以上の事は後知恵となってしまいましたが、今回の国産RJの開発も、残念ながらYS-11同様、「技術で勝ってビジネスで負ける(売れない)」という失敗プロジェクトになるだろうと予測しています。そのことは、B国エアラインからM社に突き付けられた、40機もの大量キャンセルという報道でも明らかになりつつあります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年1月27日 (土)

3397 ネット通貨2

3396でネット通貨を取り上げたのはタイミングとしては偶然なのですか、奇しくも昨日に「ネット銀行強盗」が起こった様です。電子マネーやネット通貨は、サイバー空間上の口座にある数字(デジット)に過ぎませんから、何重にもなっている筈の鍵が破られると、それこそアッと言う間に強盗が成立してしまう訳です。普通の銀行などで金庫が破られて、札束や金(ゴールド)や貴金属が奪われた場合、形のあるモノが奪われて移動するのですが、サイバー犯罪の場合は、良くて鍵破りの痕跡がログとして残るだけで、奪われた数字がこれまた瞬時に別の複数の口座に、何段階にも亘ってばら撒かれた場合、いわゆる(ネット)通貨ロンダリングもアッと言う間に成立してしまうと想像しています。

現金や、現金代わりの電子マネーは、それなりに価値が裏付けられてはいますが、ネット通貨は投資(や投機)対象ではあっても、日常的に決済する通貨としては明らかに「不適」なのです。今回のデジットの紛失が、どの様に保証されるのか素人には知る由もありませんが、少なくとも投機目的でデジットを保有していた人たちには、何らかの「お灸」が据えられて然るべきでしょう。

ここでの結論としては、便利なものは、受けられる便益と引き換えに、それなりのリスクを覚悟しなければならないという点です。これは、何も通貨に限った話ではなく、例えばスマホやAIスピーカや自動運転車、あるいは空飛ぶ車などの便利商品も、事情は全く同じでしょう。成りすましやシステム異常などを考えれば、犯罪や重大事故の温床になり得る筈なのです。今日は短く。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年1月26日 (金)

3396 ネット通貨

Bットコインをはじめ、種々のネット通貨が流通している様です。長い歴史の中で考えるに、いにしえの時代から、いわゆる「兌換通貨」が普通であった訳です。それは、通貨が紙(紙幣)に変った近代においても、例えばある時期までの$の様に、国が通過の値打ちを保証する「兌換紙幣」が流通していて、その存在感を示していた訳です。しかし、例えば兌換紙幣の価値の裏付けとしての「金(Gold)」の量が有限である限り、通貨量(経済規模)が天文学的額に膨れ上がってしまった今、通貨価値の総額の明確な裏付けにはとても対応できない事は明らかです。

一方で、決済に人手を殆ど必要としない電子マネーは、その流通量が日々、それも飛躍的に伸びている事も間違いないでしょう。なにしろ、時代の流れに乗り遅れていると思っている投稿者でさえ、日常的に犬の鳴き声がする電子マネーや交通系の電子マネーは常用しているのですから・・・。ただし、使い過ぎを避けるため、電子マネーへのチャージは、面倒でも現金で行う事は励行していますから、小銭の釣り銭が無く、千円札数枚以上の現金を持ち歩かなくなったため、単に財布が薄くて済むというメリットしかないのですが・・・。

投稿者の見方としては、後者の電子マネーの拡大は間違いないにしても、誰がその裏付を行うかが明確になっていないネット通貨は、全く不安定なものであり、その流通量の拡大には否定的な立場です。例えば、ネット通貨として「預金」を持っている人々は、その価値の乱高下に、枕を高くして寝る事は出来ない筈です。そのそも、サイバー空間であるモノの価値が勝手に上下する事などあってはならない事態でしょう。電子マネーに似ているものとして、例えば先物取引の権利や債券などというものもありますが、それらにしたって、短期に何倍に膨らんだり、何分の1かに目減りする事などは考えられないでしょう。ここでの結論としては、ネット通貨は単に経済の拡大で溢れかえった通貨のはけ口に過ぎず、マネーゲームの道具でしかないと見ています。触らぬカネ(ネット通貨)に祟り無しです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年1月24日 (水)

3395 ディーセントワーク

SDGsの17の目標の中にも取り上げられているディーセントワークを改めて取り上げます。ディーセントワークとは、3381にも述べた様に、「働き甲斐のある生業」とでも訳すべきなのでしょうが、多くの人々は、夫々にとって、仕事は飯のタネとなる(代価を受け取るための義務としての)仕事であり、それ以外の何物でもないと主張するかも知れません。しかし、もし心底そう思って働いている人々が大多数であるとしたら、それ程不幸な事態はないとも思うのです。

つまり、どうせ同じ仕事をするのであれば、その仕事が限られた人々ではあっても、社会の中の誰かの助けになり、感謝されるものであれば、どれほど「働き甲斐」が生まれる事でしょう。どんな仕事であれ、その代価として受け取るサラリーは、最低限家族の生活を支え、家族には感謝されてはいるでしょう。しかし、仕事の枠を少し広げるだけで、同じ仕事をこなしていても、より多くの人から感謝され、より強く働き甲斐を感ずる事は可能なのです。

例えば、道路工事で片側車線で交互通行をしている場所を通過する事がよくありますが、その際単に旗だけで車を止めるのはなく、同時に「お急ぎのところ、交互通行へのご協力感謝いたします」などと書かれた看板を掲げてあれば、ドライバーも気持ちよく時間待ちが出来るでしょう。客商売であれば、モノやサービスと一緒に無料の「笑顔を売る」のも同じような行動でしょう。

それらの行動をよくよく考えてみれば、それは関係した相手への「感謝」に裏付けられたものである事が分かります。働いている全ての人々が、その労働の代価を受け取る事ができるのは、その仕事に関わっている全ての人々の「お蔭」であると意識を切り替えることさえできれば、世の中は感謝で溢れかえる事でしょう。感謝は、邪魔にならないどころか、相手を幸福にさせ、感謝する側には「働き甲斐」をもたらす魔法でもあると思うのです。感謝の出来る仕事が、つまりはディーセントワークでもあると思う所以です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年1月22日 (月)

3394 寒波

寒波はよくクリスマス寒波、年末寒波、立春寒波などと、時期に応じて呼ばれたりもします。今度の寒波は、しかしいわゆる「大寒」の時期に重なっているので、それが来襲したからといって驚いたり、パニックに陥ったりするのは筋違いでしょう。冬場には、北極海に冷たい空気の寒気団が居座るのは、まさに自然な現象だからです。むしろ、異常であるのはその寒気団が、丸い形ではなく、歪なタコ足形状をする事が多くなった事でしょう。冬場は太陽光が全く差さない北極圏に、寒気が溜まるのはごく自然なのですが、何らかの原因でそれが歪な形になってしまう事が異常であり、その原因を考えてみるべきなのです。

一冬に強力な寒波が、何度か来たからと言って、温暖化に歯止めが掛かった訳ではないのは明らかです。むしろ、寒気団がタコ足形状になっていて、その足の間は極端に温暖化してしまっていると表現した方が適切だと思うのです。先週も、1月だというのにまるで3月の様なポカポカ陽気の日が続き、人々がすっかり春気分になっている状況での「普通のやや強い寒波」来襲ですので、数年ぶりの「大寒波」などと騒ぎ立てる事態になっている訳です。

北極気団は、近年は上に述べた様にタコ足型になり易い傾向にありますが、そのタコ足は上から見ると徐々に回転していますので、上手く予想すればかなり前もって寒波(或いはその間の温波?)の来襲は、前もって知る事も可能なのです。現状の気象予報は、精々1週間先の寒波を知らせるだけですが、これを1か月予報を織り交ぜて予報してやれば、社会の混乱は最小限に抑える事も可能でしょう。

さて、今回の寒波です。今回の寒波も、タコ足寒波である事には変わりはないので、それが冬中続く訳ではないわけで、精々1週間以内にピークは通過する筈です。子供の頃を思い起こせば、「本物の寒波」が来た冬には、何度も豪雪に襲われ、除雪が道路に厚く積もった雪の上を学校に通った記憶があります。それに比べれば、最近の寒波などは可愛いもので、ピークを越せば、積雪量もドンドン目減りしてしまうでしょう。やはり全体的に眺めれば、温暖化は着実に進んでいるのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年1月16日 (火)

3393 改めて「時間」について考える

時間は、現代文明にあっては、ますます価値を大きくしつつある「概念」なのではないでしょうか。金持ちにも、貧乏人にも時は同じように流れます。しかし、金持ちは時間と共に(例えば利子や配当)などでますますリッチになり、逆に貧乏人は、同じ時間の経過の中で必要不可欠の支出や利息を払いながらチマチマと暮らす事になっている様です。つまり、時を味方に付けた人々と逆に敵に回した人達では、時間という概念には雲泥の差がある事になるのでしょう。

しかし、それは「時はカネなり」と考えた場合の話であって、全ての人々にこれを当て嵌めるのは間違っているでしょう。つまり、お金が無くても「ココロ豊か」に時を送っている人は、たぶんそれなりに多いと想像しています。投稿者も、実際はどうあれ、出来ればそうありたいと願って日々を暮らしている一人ではあります。時の流れに逆らわず、自分が置かれた環境に感謝しつつ暮らせば、その様な境地に少しは近づけるのではないか、とも思っています。つまり、時間と価値(特に富)と結びつけるのは間違いで、時間を如何にココロ豊かに過ごすかに心を砕いて暮らして行けば良いのだと思っています。

そのために忘れてならないは、やはり感謝の気持ちであり、同時に全ての出来事を受け入れ、結果を前向きに捉える事に尽きるとも思うのです。この世で起こった事は、この世で納まるのであり、「山よりでっかい猪は出ない」からです。M空ひばりやTレサ・テンの歌の歌詞ではありませんが、川(時)の流れに身を任せると言った境地でしょうか。ガツガツ稼いで暮らしても、貧乏で慎ましく暮らしても、その人の人生に流れる時間(天体の運行の時間)は全く同じですが、ココロが感ずる時間は多分雲泥でしょう。前者の方が、きっとあっという間に歳をとってしまうだろうと想像しています。投稿者は、50歳過ぎにサラリーマンを早期に退職し、人生の舵を切りましたが、それからの時間の流れは非常にゆったりと流れた、と振り返っています。それは、たぶんお金には変えられない「時間の流れ」でもありました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年1月15日 (月)

3392 働き方改革って?

政治家(屋)は、言葉遊びが好きなので、ブレーンやお役人は、彼らの気に入る様な「言葉」を考え出します。働き方改革もその様な言葉の一つでしょう。しかし、これほど意味不明な言葉も珍しいでしょう。長時間労働を無くしたいのであれば、単に「時間外労働手当」を極端に上げてやれば済む話で、サブロク協定なんぞで「原則○○時間以内」などとボンヤリした規制なんかは、原則破りが横行する温床になるだけでしょう。

女性にも優しい職場にしたいのであれば、男性にも育児の義務を負わせ、同時に暇を持て余している高齢者を育児に巻き込む上手い育児制度の仕掛けを作るべきでしょう。またテレワークやフレックスタイムの普及や拡大は一体何処へ行ってしまったのでしょう。閣議検定した言葉だけで改革が進むなら、政治家やお役人は不要(までは行かなくても半減で十分)でしょう。

そうではなくて、政策はより具体的で、かつ実行可能である事が最重要なのです。難しい事は別にないでしょう。働き方先進国の事例を一つの目標に据えて、そこに向かう10年計画を立てるだけで良いのです。10年が無理なら20年計画でも仕方がないでしょう。この国の政治社会システムで最もダメだと思うのは、中期計画でも精々3-5年、予算に至っては夏場に執行額が決定し、その年の2月頃には使い切ってしまうという、単年度予算が殆どであり、長期的な展望が持てない点にあると思うのです。考えるべきは、私たちにとって「幸せ」とは何かを掲げる事であって、その幸せを求めるための働き方は如何にあるべきかを考える事でしょう。働くことが、自分の幸福(特に生き甲斐を感ずること)に繋がり、ひいてはたとえ少人数でも他の人々の役にも立つ様な働き方こそ、目指すべきゴールだと思うのです。今日は短く。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年1月13日 (土)

3391 構造改革って?

構造改革などという言葉を考え出した、お役人かリーダーのブレインかが、一体何を頭に描いて進言したのかは、役人の作文はあまりにも抽象的で具体例がないので知る由もありませんが、少なくともそれは、現在のグローバル経済の枠組みの中で、それに迎合するものである事は間違いないでしょう。貿易立国であるこの国には、それしか生きる道は無さそうに思えるからです。しかし、その様な考え方や行動は、結局は自分に跳ね返ってくる「ブーメラン」でしかないと思うのです。例えば、いわゆる構造改革の結果として、今のグローバル経済が渇望する、技術なりビジネスが提供できたと仮定しても、やがてライバル国やライバル企業に追いつかれ、追い越されてしまう事は、この国の少し前の歴史を振り返っても自明でしょう。悲しいことに、繊維、鉄、家電、車などいずれの主要産業を眺めても殆ど例外は見つかりません。

つまり、現在の「社会構造」を前提に、いくら「産業側の構造改革」を行ったとしても、結局それは後追いの対策に過ぎない訳です。対策とは、災害対策などという言い方でもおなじみですが、その対策は災害が起こらない限り発動はされないというジレンマがあります。東日本震災でも、津波被害地では、多くの場所で嵩上げ工事が行われ、ほぼ完了していると思いますが、数十年前の大津波を教訓にして、徐々に高台移転を進めていたと仮定すれば、これほどの被害は避けられた筈なのです。

さて、構造改革です。例えばAIIoTや車のEV化や自動運転化などは、いわば文明の津波だと考えても良いでしょう。その波から逃げるのか、それに乗ってイケイケドンドンで走るのか、或いはそれを下に眺めながら高台移転を進めて、それを冷静に観察するのか、私たちの「胆」が試されているとも思うのです。放っておいても、上に述べた技術はドンドン前に進むでしょうが、しかしその技術が人々を(大多数の人々)を幸福に導いてくれる保証はないでしょう。それどころか、それを享受できる一握りの人々と、それから置き去りにされてしまった大多数の人々との経済格差は、ますます拡大する事は明白です。

そこで必要なのは、ヒステリックに構造改革を叫ぶのではなく、冷静に私たち自身の「意識改革」を進めることだと思うのです。意識改革をもっと別の言葉で表すならそれは「価値観の転換」になるかも知れません。経済第一の社会で価値があるモノ(例えば、石油やお金や債券や仮想通貨など)は、価値観を転換した社会ではただのガラクタになり下がってしまう筈です。意識改革が完了した社会で多分大きな価値を持つのは、自分の手で育てた安全な無農薬の野菜やコミュニティの中でお互いに助け合う「絆」や、汗水流して山から切り出したバイオマスや、一度手にしたモノを、徹底的に使い倒し、最後は燃料や再生して再度製品に戻す「完全リサイクル」システムなどになるのでしょう。転換すべきは構造ではなく、社会の成員の意識なのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年1月11日 (木)

3390 目標17 パートナーシップで目標を達成すること

これまで述べてきた無理難題の目標を達成するには、もちろん色々なステークホルダーが互いに私利私欲を捨てて協働作業をする事が必要なのでしょうが、残念ながら狭い範囲の活動に勤しんでいる人達には、他者の活動は見えにくいものの様なのです。つまりは視野狭窄です。本来ならば、高所大所から社会を見渡し方向を指し示す、識者なり政治家が必要なのでしょうが、残念ながらこの様な「社会の指揮者」は今のところ見当たらない様なのです。

識者は、自身の専門分野という狭い立場から物事を眺めますし、今の政治の世界には、政治を商売にする「政治屋」しか見当たらないのが実情なのです。なにしろ国レベルで見ても、○○ファーストというエゴが堂々とまかり通る時代なのですから。国レベルのパートナーシップ、都市レベルのパートナーシップ、コミュニティレベルのそれを生み出すのは、まさに至難のワザだと言えるでしょう。

ではどうするかですが、現在の社会のリーダー(っぽい人達)に期待していては、千年待っても何も変わらないでしょう。先ずは個人レベルで他者を慮(おもんばか)る小さなパートナーシップを積み上げ、徐々に遠い他者をも慮る、「遠慮(遠き慮り)」を増やして行かなければならないのでしょう。もちろん、その道は千里に及ぶのでしょうが、先ずは一歩から始めるしかないのでしょう。

以上、SDGsの17個の目標を一応舐めてみましたが、いずれも一筋縄ではいかない課題を抱えているどころか、それらが複雑に絡み合っていて、さながら固く結ばれた乱麻に、更に水がぶっかけられた状態に似ている様に思えてきました。乱麻に掛けられた水とは、即ち人間の欲であり、それを具現化した「行き過ぎた経済活動」である事は間違いないでしょう。人間は、一度表出した欲を引っ込めるのは苦手な生き物であるからです。地球のため、他者のために欲を捨てる事を、仏教では「喜捨」などと表現するのでしょうが、全ての人がこの境地に到達するのは、たぶん夢のまた夢なのでしょうが、少しずつでもこの様な考え方が広がって欲しいと、投稿者としては夢見ています。SDGsに関しては、一旦筆(キーボード)を置きます。目標達成のための良いアイデアが浮かんだら、追加投稿する事にします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年1月10日 (水)

3389 目標16 平和、正義と充実した制度機構

投稿者が想像するに、今の世界が必ずしも平和であると言い難いのは、国やコミュニティ間にある「疑心暗鬼」に原因がありそうなのです。例えば、B国の社会では銃の所有が認められていますが、これは正当防衛で銃を持つ犯罪者に対抗する手段として合法化され続けているのでしょう。核爆弾には核爆弾で、ミサイルにはミサイルで対応するのも同類です。北の隣国も、周りの国々を全く信頼しておらず、周りの国々も同様に若い指導者の正気を疑っているのです。

これは、とりもなおさず国と国、人種と人種の交流が薄い事に原因が見つけられそうです。B国やアフリカ大陸の南端の国などでは、長い間人種差別が横行していて、現在では水面下に見えなくなりつつあるとは言っても、根絶された訳ではないでしょう。しかし、例えば投稿者も暮らしたブラジルなどでは混血が進んで、アフリカ大陸から連れてこられたブラックピープルの子孫も欧州やアジアから移り住んだ人々の子孫も、明確な人種の線引きは最早不可能となっています。数十年前五輪などで活躍した、ブラックピープルの血を濃く引きついでであろうサッカー選手がいましたが、国民から多大な尊敬を受けていた事でもそれが分かります。

その意味では、人々は人種に分かれて、モザイクの様に暮らすべきではないと思うのです。A国人でもB国人でもC国人でもない、地球人が増えれば、最早人種差別やそれに起因する(人種間)格差も霧散する筈なのです。もちろん、そんな社会でも才覚のある人とそうでない人との間に格差は生ずるのでしょうが、少なくともスタート時点の(人種に起因する)格差は無くなる筈です。

その上で、解決すべきは宗教戦争でしょうか。信教の自由は確保されて然るべきですが、それを根拠に他の宗派や他宗教の人々を差別したり、迫害したりするのは論外です。それにしても、同じ聖地から出発した筈の複数の宗教を信仰する人々が、数千年に亘って、互いに憎みあったり戦争したりするのは、やはり投稿者の想像をはるかに超えてはいます。ここでの結論としては、時間は掛かりますが、人種同士がしっかりと混ざり合って滑らかな人種のグラデーションを作る事しかなさそうだ、となりました。もちろん、その際の「正義」とは、地球上のヒトを含む全ての生き物とそれを取り巻く環境の「持続可能性」になるのでしょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年1月 9日 (火)

3388 目標15 陸の豊かさを守ること

3387で述べた海の豊かさを支える栄養塩類は、ごく一部は人間が出す排水にも含まれますが、当然の事ながら殆どは、陸地を潤した雨水が海に運び込んだものであるには自明です。渓流や河川や氷河が山地を削ったり、溶かしたりした塩類や鉱物、あるいは植物の朽ちたものから滴り落ちる水に含まれている有機酸などが最終的には海に流れ込むのです。鉱物で量が多いのは、雨水に溶かされ易いカルシウムやケイ素分、有機酸で代表的なのは、フミン酸やフルボ酸なのですが、それを供給する落葉樹が茂る里山の下流に広がる海域(里海)で、海の幸が豊富であるという事実がこれを裏付けてもいます。

つまり、海の豊かさを担保しているのは、陸(里山)の豊かさである、と言い切っても良いでしょう。しかし現実はと言えば、陸では天然林が農業や燃料とするために焼き尽くされたり、皆伐されたりしている事実には悲しいものがあります。森林を消し去っても、目先の食糧を得なければならない程、地上には人類が満ち溢れてしまったのです。陸上の可耕地は、反収(利益率)の高い単一の作物で埋め尽くされ、しかも灌漑のために、化石水と呼ばれる地下水を、持続不可能な形で使い尽くそうともしているのです。

その意味では、私たちは今陸の豊かさを守るという行動とは全く逆方向に突っ走っていると言うしかないのです。先ずは、木を植えられる場所には、何は無くともその土地気候や土壌に合った樹木を植林し、農地についてもその土地が供給可能な量の水で潤せる程度の農業を営み、かつ肥料についても可能な限り有機肥料の割合を増やすという動きが不可欠でしょう。その前提として、農産物は家畜(肉牛など)に食わせる量を減らし、人間がそれを直接食糧とする動きが欠かせないでしょう。なにしろ、牛を1㎏肥えさせるためには、その10倍以上の穀物量が必要とされているのですから、ざっと言えば穀物飼育の(美味な)牛肉を諦めれば、同じ耕地面積で10倍近くの人が生存できる筈なのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年1月 8日 (月)

3387 目標14 海の豊かさを守ること

海の豊かさの源は、大部分は海水に含まれる「栄養塩類」の多寡にあると考えられます。この栄養塩類とは、海中に漂う植物性プランクトンの肥料に当たるものだとも言えるでしょう。植物系プランクトンが増えれば、当然の事ながらそれをエサとする動物性プランクトンやオキアミなどの小さな甲殻類が増え、それをエサとする魚やクジラなども増えるといういわゆる「食物連鎖」が続くのです。

つまり、ごくごく簡単に言えば、海の栄養塩類を適当な濃度に管理してやれば、海の豊かさを維持する事は可能だと言えるでしょう。しかし、内海や湾などの閉水域で既に経験している様に、人間の活動から出る廃水は、栄養塩類だけではなく、植物プランクトンなどの海洋生物にとっては有害な物質も多く含まれています。特に重金属は、かつて水俣病などの公害病でも明らかになった様に、食物連鎖の中で「濃縮され」、その頂点に立つ人間にもっとも過激に攻撃してきたのです。

結局は、例えば人間のし尿や生活排水なども、排水する環境に応じて「(完璧ではなく)適度に処理」して放水する事によって水域の栄養塩類を適正に保てるでしょう。一方、それらにとって、ひいては人間にとって有害な(人工)物質(豊洲の有機溶剤等による土壌汚染やかつてのPCB汚染を思い出してください)や重金属などは徹底処理して排水から除去してやる必要があるでしょう。私たちは、かつての公害や鉱害の痛い経験から、排水処理の技術を磨いては来ましたが、経済的な理由からあまりあるいは全く処理しないまま、水系に放流する途上国の何と多い事でしょう。その意味では、お隣のC国も立派な途上国でもあります。

海は、地表の2/3の面積があり、深さも最深部では10,000メートル以上もあり水量は無限の様に見えますが、閉水域や海溝には、既に人間の工業生産や生活活動から出る有害物が、既にかなりの量堆積している事が想像できます。海水中に溶け込んでいる有害物も、ざっと言えば1千年単位の海洋循環(熱塩循環)によって、今後海洋生物に悪さを及ぼす可能性も否定できません。平凡な結論となりますが、地道ではあっても、水の重要性、取り分け河川や海域の水質には、今後とも敏感であり続ける必要があるのでしょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年1月 6日 (土)

3386 目標13 気候変動に具体的な対策を取ること

実はこれが17個の目標の中で、対策の実現が一番困難なものかも知れません。何しろ、問題が目には見えにくい上に、国境をまたいで地球規模で広がっている事と、この問題が世代を超えて長い時間を掛けて顕在化した、複雑な気候変動(例えば温暖化現象や気象の激烈化など)に関する問題であるからでもあります。しかも、化石燃料という「戦略物質」でもあり、全ての産業や社会セクターとも利害が絡むモノや、人間社会の格差問題等も抱合してもいるのです。まさに、この問題は「固く絡み合った乱麻」であるとも言えるでしょう。

その乱麻を解きほぐしたいのであれば、例えばヨーロッパでの実験の様に、地球規模で一枚岩の経済圏を作って、その中で利害を調整するしかないのでしょうが、残念ながら国々には資源の偏在、人口の密集度、産業力や経済力の格差などがあり、経済統合のためには、先ずは国と国との間のレベル調整や向かうべき社会の方向合せが必要でしょう。これは、多くの文明が生まれても、いずれの文明でも成功できなかった難題でもあり、その解決方法については糸口さえも未だに見つかっていないのです。それどころか、国々のレベル差はますます拡大している様にさえ見えます。従って、単一の経済圏を作って国々の利害を調整しつつ、気候変動を抑え込むという対策は、現段階では見果てぬ夢に過ぎない言うしかなさそうです。

そこで、京都議定書やパリ協定の様な国際間の枠組みで、各国のレベルに合わせて「それなりに努力する」といった程度の努力で、お茶を濁している状況に留まっているのです。しかし、考えてみれば、国々の利害を調整するよりは、国々にあって、個々人が環境保全に向けての活動を始め、その様な人々(投稿者の様な環境人間)を増やしていく方が、近道であるのかも知れません。それには、○○ファーストという国や個々人の「エゴ」を捨て、地球環境の保全に寄り沿うと言うココロを育む「環境教育」しかないのではいかと思っています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年1月 5日 (金)

3385 目標12 責任ある消費と生産

この表題で思い当るのは、例えば「グリーン購入」です。どうせ買うなら、環境負荷の小さな製品なり商品を買う、という行動を指します。では、いったい誰が誰に責任を持つかですが、それは「人間」が、「地球環境の持続可能性」に対して感ずるべき責任の事であるのは自明でしょう。逆説的ですが、残念ながら特に20世紀を通じて、私たちはその「責任」に鈍感に暮らしてきました。そのツケが、真綿の様に徐々に私たちの首を絞め付けつつあるのは間違いのないところです。それは、単に気候変動(温暖化や気象の過激化や砂漠化)のみならず、焼き畑農業による森林破壊などにおいても、その破壊のスピードに鈍化がみられません。それは、21世紀末までも増え続けると予測されている「人口圧」と、途上国に住む人々が、より物質的に豊かな生活を送りたいという強い願望の掛け算の結果であるのは間違いないでしょう。

責任ある消費と生産とは、結局「足るを知る」という言葉に集約される様に思うのです。人は欲深いので、どうせ手に入れるなら、それが余ると分かっていても出来るだけ多くのモノを手に入れよう行動します。それが、豊かな国にカウントされるこの国でも、廃棄食糧の割合を押し上げているのでしょう。足るを知るとは、どういう行動なのか考えてみると、先ずは食べ物で言えば、一度に食べきれるだけの量の食糧を買い、調理すると言う行動でしょうか。そのためには、材料をしっかり計量する事も必要かも知れません。エネルギーに関して言えば、お湯を沸かす際に、先ずカップに水を入れ、それをヤカンに移して沸かせば、最小限のエネルギーでお茶にありつけるでしょう。企業においても、在庫や造り貯めを最小限に抑えれば、物質消費やエネルギーの消費も最小限に抑えられるでしょう。

食べ物に関して一般的に言えば、先進国では食べ過ぎによる肥満が問題になっています。それは、お腹も減っていないのに、三度(かそれ以上)の回数の食事をしてしまうからでもあります。必要な量(と質)の食べ物をお腹がすいたタイミングで摂っていれば、生活習慣病と言われる病の大きな部分を無くせる筈なのです。同様に、エネルギーだって必要な量を吟味して、大切に使えば、エネルギー使用量の3割減だって、難しい数字ではないのです。生産者も、消費者も、鼓動を起こす前に、改めて「持続可能性に対する責任」を思い起こすべきだと言っておきます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年1月 4日 (木)

3384 目標11 住み続けられるまちづくり

これは、多くの社会で意外に軽視されがちなポイントです。人に年齢に応じたライフステージがある様に、街にもその様なものがありそうです。この国でも、高度成長期の産業構造の変化によって、ある時期に田舎から街へ大量の人口移動が生じ、街の郊外にいわゆるニュータウンや大規模団地が造られ、人々の住み処を提供してきた訳ですが、いまその団地は建物が老朽化し、住人の高齢化が極端に進んでしまいました。一方で、人口を送り出した田舎でも、家主の居なくなった家屋は放置され、朽ちるに任せている状況なのです。

結果として、高度成長期の産業や人の住み処の変化は、世紀単位の時間的経過の中では、決して「持続可能ではなかった」事が、いみじくも露呈してしまったと言えるのでしょう。急激な構造変化の下では、住宅も街も急造の「間に合わせ」となる事は仕方がなく、結果としてそれらは急速に「劣化」が進むのです。劣化した住宅は、最早人が住むには耐えられず、更地にするか、それが出来ない場合は、放置されるしかないのでしょう。一方で、頑丈に作られた田舎の住宅でさえ、十分なメンテナンスが為されなかった結果、構造が朽ちてしまい修復の限界を超えてしまうのです。

このブログでも、何度か構造がすこぶる頑丈な100年住宅を提案してきた様な気がしますが、構造だけは、大地震が来ても、水害に襲われてもビクともしない様に作って置けば、内装に手を加えるだけで、住み手のライフステージに応じて、住み続ける事が可能でしょう。地震が殆ど無いとはいえ、頑丈なヨーロッパのレンガや石造りの住宅が、数百年も存続し続けている所以です。コンクリート造も半世紀程度の寿命しかありませんので、地震や水害が多いこの国では、たぶん勘定で太い鉄骨造りが現実的なのかも知れませんが、ハウスビルダーには一層の工夫が求めらえるのは間違いありません。この国でも、人口は減少過程に差し掛かり、産業構造も落ち着いてきている事もあり、ここらでこの国の街(や村)のあり方も真剣に見直す必要があると思うのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年1月 2日 (火)

3383 目標10 人や国の不平等をなくすこと

何故、国や人々の間に格差や不平等が生まれるかですが、最大の原因としては、間違いなく資源や富の「偏在」にあるでしょう。極端な例では、砂漠しかない国々でも、そこから潤沢に石油や天然ガスが採取できれば、世界でもトップクラスの金持ち(国)になり得るでしょうし、MSやG-グルやAマゾンの様に、世界的にトップシェアが取れる様な商品やサービスを持っている個人や企業もまた、世の中の富を効率的に集める事も容易でしょう。

残念ながら、たぶん現在の経済の仕組みでは、手をこまねいていても、今後国や個人の格差が縮まるとは思えません。むしろ、その逆で拡大しそうな予感すらします。その理由は自明で、現在の世界で価値を認められているのは、化石燃料であり、情報であり、何よりお金(Moneyや債券)であり、それらが極端に偏在しているからです。なにしろ、これら(資源やマネーは)あるところには唸るほどあり、無いところには殆ど無いのですから。

投稿者の様な凡人がいくら集まって議論しても、そこで生み出せる浅知恵では、この格差は如何ともしがたいのですが、希望は持っています。つまり、資源やマネーの価値が相対的に低下し、代わって「生き甲斐」や「幸福度」や「土地土地で作られる食糧」といった必需品の価値が向上すれば、経済地図も変化してくると思うです。というより、経済活動の重要性が低下してくると見ているのです。その様な社会では、地産地消のエネルギーや食糧といったものがクローズアップされ、いくらお金を持っていても欲しいモノ(必需品)が手に入りにくくなる筈なのです。

さて歴史を振り返ると、人類が農業で食糧を手に入れる様になって以降、余剰の食糧はストックされて「富」なり、それらを売り買いする中で、いわゆる(貨幣)経済活動も拡大していったのでした。地産地消経済では、余剰(ストック)は必要最小限に抑えられる事が予想できますので、富の偏在もかなりの程度抑えられるのではないか想像しています。ここでの結論は、格差を無くすためには、地産地消を推進することとしておきます。太陽光(エネルギー)は、今は貧しい南の国々では豊富に手に入りますから、化石エネルギーの入手が経済的に難しくなるにつれ、それを多量に消費している先進国が困窮し、相対的に途上国が豊かになるという筋書きです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年12月31日 (日)

3382 目標9 産業と技術革新の基盤をつくること

いわゆる産業革命とは、18世紀から19世紀にかけて、人力が機械力に置き替えられ、生産性が飛躍的に向上した時期を指しているのですが、エネルギー源という視点で見れば、石炭が石油という液体燃料に置き替えられた時期、更に言えば電力がモーターという装置で動力源が電力になった時期も、産業史的に見れば同じ程度に「革命的な」事件だったと思うのです。更に、そこにコンピュータ(現在はIoTとか呼ばれるが)という道具が加わって、電力エネルギーはまさに現代文明の申し子と言って良い程の不可欠な産業要素となったのですした。

さてこの上で、更なる技術革新とは一体何を指すのでしょうか。たまたま29日の晩に、Eテレで「人間ってなんだ」などという意味深な番組を観てしまいましたが、投稿者としては、あらゆる意味で未来学者である、RK―ツワイルの言葉には賛同できませんでした。彼の予測は、いわゆるシンギュラリティなどと呼ばれる、人間(の脳と)AIの融合で、やがてはAIが人間の脳を超克するなどというものですが、人間としては手足をバタつかせて暴れても、そんな事態にはならない様にもがくべきでしょう。

投稿者としては、そんな夢の様な「絵空事」ではなく、ここいらでエネルギー的に見ての更なる技術革新(革命)を起こす必要があるのだと思っています。その技術革命とは、いま世界の基盤や産業活動を支えている化石エネルギーを、いわゆる「再生可能型エネルギー(以下再エネ)」に切り替えていくものになると予測しています。社会のインフラとして電力網や鉄道網が整備されている国々では、欧州のいくつかの国々で成功しかけている様に、かなりの程度実現性があるでしょう。火力発電所や原発を、徐々に(又は急速に)数多くの風力発電や太陽光発電などに切り替えて行けばよいからです。しかし、その様なインフラが整っていない途上国では、基本的なエネルギーは石油に頼り、加えて輸送もやはり化石エネルギーに依存しているからです。再エネ源から、石油より安いコストでエネルギーを取り出し、かつそれが輸送インフラにも適用できる様にするのが、今後求められる「技術革新」の中心だと思うのです。

同時に、この技術革新には、少なくとも使用エネルギーが、現在の半分あるいは1/3で済む様な「省エネ技術」が含まれている必要がある事は自明です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年12月30日 (土)

3381 目標8 ディーセント・ワークと経済成長を両立させる

ディーセント・ワーク(Decent work)も日本語になりにくい英語言葉の一つでしょう。敢えて置き替えれば「生業」なのでしょうが、その前に「働き甲斐のある」という形容詞が必要でしょう。つまり、その日の糧を得るための単なる労働ではなく、働くことが、ささやかでも他の人や社会の役に立ち、働き甲斐を感じられるという点が重要なのだと思います。

もちろん、日々のルーチンワーク(仕事)が、そのままディーセント・ワークになっているのが理想ですが、多くの場合は残念ながら、(投稿者が若かった事を思い起こせば)仕事は「メシのタネ」と割り切って働いている人が多いのではないかと勝手に想像しています。そうであるならば、そのメシのタネである仕事を、可能な範囲内で生き甲斐を感じられる様に軌道修正していくと同時に、余暇を少しだけでも世の中の役に立つ行動(一般にボランティア活動と呼ばれます)を起こすとか、それも面倒だと言うなら、ささやかに買い物の釣り銭(ばら銭)だけでも良いので恵まれない人達のために寄付し続けるとか、何らかの行動を起こす事によって、ディーセント・ワークに近づける可能性が髙くなると思うのです。

しかし、果たしてそれが経済成長につながるかと問われれば、かなり大きな?マークが付くでしょう。というのも、例えばボランティア活動とそれに対する金銭的な見返りとは、必ずしも相容れない部分が多いからです。お金が発生しない活動は、基本的には「経済」の枠からははみ出る事は致し方ないのです。従って、ボランティア活動がどれほど拡大しても、どの経済学者も政府も経済成長とはカウントしてくれないのです。しかし、よくよく考えてみれば、例えばあるボランティア活動が為されなかったと仮定した場合、それは例えば行政が税金を注ぎ込んで、それを代行しなければならなかった筈なのです。ボランティア活動の結果、使われる税金が減ったのなら、それは別の社会的活動のためのお金として生化されてくると思うのです。

という訳で、結果として見れば、それはさながら経済活動が活発になって、税収が増えたと同じ効果を生み出すでしょう。ディーセント・ワークが経済成長を両立させるという道は、工夫さえすれば、十分実現可能だ、と投稿者は信じたいのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年12月25日 (月)

3380 目標7 手ごろな価格のクリーン・エネルギーの普及

先進国では、クリーン・エネルギー(以下再エネ)を推進させるためにFIT制度や税制での優遇などのインセンティブを使って、いわば力で再エネ政策を推進してきました。しかし、FITは再エネ単価の高止まりを招き、かつ事業性の観点から大規模化が進んでしまったのでした。しかし、再エネは、別の視点から言えば「ローカルエネルギー」でもある訳で、ローカルエネルギーは「地産地消」でなければならない必然性がある点は強調しておくべきでしょう。

化石エネルギー以外のエネルギー源は、残念ながら貯蔵やその移送さらには、それを使っての「発電」にはあまり向いていません。少し考えれば分かりますが、クリーンエネルギーとは、地熱を除けば全てが太陽光(熱)起源となっています。例えば、太陽光発電は、太陽光のエネルギーが高い部分を直接使っていますが、バイオマスも植物(の葉緑素)が太陽光を使って有機物を固定した「成果物」なのです。水力だって、太陽光が海から水を蒸発させ結果生まれた雲が、山に雨を降らす事によって得られる立派な「太陽エネルギー」の一形態でもあります。

更に考えを進めれば、太陽光の分布という事に想いを馳せる必要が出てきます。太陽は、それが地表に直角に当った時に、それを100%利用できたと仮定しても、精々1kw程度のパワーしかありません。1kwの電力を得ようとすれば、太陽光発電の効率が20%と仮定すれば、5㎡の面積が必要となる事が分かります。他方、植物による有機物固定をエネルギーとして利用するには、もっともっと広い農地や林地が必要なのです。つまり、太陽光は広く薄く分散しており、その利用には広い面積が必要だという事です。

これは、太陽光の利用は、本質的に「大規模化には向かない」事を意味するのです。従って、太陽光発電は、各戸の屋根行い、その家で消費するのがベストですし、バイオマスにしても水力にしても、その地域で持続的な調達可能な範囲内で、小規模システムで利用すべきだと言うことが分かるでしょう。お国やメーカーは、先ず経済的な成り立つ最小限のシステム(ミニマムシステム)を構想し、もし規模の拡大が必要であれば、そのミニマムシステムを分散的に増やせば良いのです。その際、エネルギー源の調達が持続的であり、かつそのための(化石エネルギーを使った)輸送も最小限であるという条件を満たす必要もあります。幸いな事に、太陽光は赤道に近い、いわゆる途上国に豊富であるという事実は、地球規模のエネルギー問題という点から見れば、安価な再エネの入手には「希望」とはなるでしょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年12月23日 (土)

3379 目標6 安全な水とトイレの普及

日に何度も口にする水が汚染されている事は、その国や地域に住む人々の健康状態や平均寿命にも大きな影を落としている筈です。当て推量で言えば、死亡原因の半分程度は飲み水に関係がある様に思うのです。体の2/3が水分である私たちは、必要量の水無しには生きていけないので、汚染されていると分かっては居ても、やはりそれを飲まざるを得ない人達が、世界人口の大多数を占めるのは悲しい事実です。

同様に、トイレ問題も、水問題同様に感染症の主な原因になっている事も間違いないでしょう。かつてヨーロッパでも、トイレからの汚物が道路に捨てられていた時代、何度もペスト(黒死病)などの重大な感染症が原因で、人口の何割もの人達が亡くなるパンデミックを何度も引き起こしていた事実を忘れるべきではないでしょう。幸いにも、この国では江戸の様な百万都市でも、汚物を都市から運びだし、農地に還元する「リサイクルシステム」が出来上がっていたため、ヨーロッパの様な悲劇は殆ど起こりませんでした。

問題解決のヒントはどうやら江戸期にありそうに思います。水に関して言えば、この国はラッキーだと言えるでしょう。降雨量が多い上に、山から里までの高低差があるため、水路を上手く設計しさえすれば、水の入手には困らないからです。江戸期においてさえ、多摩川などの上流部から取水し、長い開渠や木製の暗渠を繋いで、市中の井戸で水が汲めるように仕掛けをしていたのです。流石に、砂漠や平原の地域では、別の方法で水を手に入れる必要があるでしょう。一つの方法は、簡易的な井戸を掘る事でしょうか。「上総掘り」の様に、たいした材料や装置も無しに井戸が掘れる工夫が不可欠でしょう。それも出来ない乾いた地域では、仕方がないので太陽電池で駆動する造水装置が必要かも知れません。これは、電動のヒートポンプを動かして、空気中の水分を凝縮するものです。

トイレ問題については、最近各地の登山道に設置る事が多くなった、いわゆるバイオトイレがあれば十分でしょう。おが屑などを入れたタンクに直接汚物を落とし、微生物の力で自然に分解させるものです。おが屑を時々かき混ぜる必要がありますが、それは手動か小さな太陽電池とモーターを備えてあれば十分でしょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年12月22日 (金)

3378 目標5 ジェンダー平等を実現する

人類は、ほぼ男女の比率が同等の珍しい生き物です。その意味で、オスが群れを守り、メスが食糧を調達する、例えばライオンなどの動物とは明らかに雌雄(男女)の役割が違うと思うのです。つまり、男女の役割は、子供を産み落とすという役割以外は、殆ど差が無い事を前提に進化してきたと想像しています。その意味で、ある試算が示す様に、女性も役割に適正に働けば、この国のGDP4%程度は増加すると見られているのです。一人当たりで言えば、4万ドルほどのGDPが、1600ドル程増えるとの試算です。

この国は、教育レベルも高い国なのですから、やる気にさえなれば(ところで誰が?という疑問は残りますが)この目標をクリアするのは比較的容易な筈なのです。もちろん、類人猿の集団がそうである様に、社会(集団)をして、その集団の子供を集団として育む行動は必須でしょう。子供は、放っておいても育ちますが、何より大切な事は、地域の子供たちの集団の中で育て、それを地域の大人(例えば子育てを終え、社会の一線から退いた世代)が見守る事は必須でしょう。これは、いわゆる少子高齢化社会で、子供世代の数を増やし、かつ退役世代に重要な役割を担って貰うという「両得」が期待できるでしょう。

もちろん、これは単に製造業の人手不足を解消し、ドンドンモノ造りを拡大する事は意味しません。そうではなくて、今の社会には人手不足のために、「痒いところに手が届かない」部分は非常に大きいと思うのです。例えば、上に述べた地域子供の見守りや同じく地域の独居世帯の見守りなど、経済合理性からは見放されたサービスなどが挙げられます。また例えば、車の利用を前提に、コンビニや郊外のショッピングセンターに押し付けられた各種の小さなサービスを、街中で歩いて行ける範囲で提供する様な仕組みも必要かも知れません。そこに、女性や草食系男子?も大活躍できる場が広がる筈なのです。というのも、LGBTが話題になる事も多い昨今ですが、男と女は完全に二分できるものではなく、投稿者はその間には多様な「グラデーション」を描くジェンダーが存在すると思っているからでもあります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年12月21日 (木)

3377 目標4 質の高い教育の普及

教育とは、単に教室に人を詰め込んでの座学を行う事ではありません。もちろん、最低限の読み書きソロバンは、座学が最も効率的でしょう。問題は、その先です。その先にある教育とは、結局「問題解決能力」を高める教育だと思うのです。この能力さえ高めてやれば、もし学習者がある分野の問題に突き当たって、自分にその分野の知識が足りないと感じたとすれば、自然に自ら進んで学習を始めることでしょう。問題解決能力は、自分の経験に照らしても、たぶん小学校の高学年になれば、芽生え始める能力だと想像しています。この時期に、小さな問題を提示し、それを解決する手法なり手順を身に付けさえすれば、その能力は中学校で、さらには高校レベルで急速に伸張する可能性が髙いのです。

さて、その能力を高めるためには、単に学生を大学に送り込むだけでは全く不十分でしょう。この国で講義と言えば、大勢の教室で、一方的にTeaching/Learing型で行われるからです。投稿者としては、理想の教育とは、Education/Study型ではないか、と理解しているからです。前者と後者の違いは、前者が一方的で受け身の「教育」であるのに対し、後者は学ぶ側の意欲を刺激し、学び取る「学習」である点です。結果として、両者は質的に全く異なる人材を育ててしまうのです。

さて、後者の様な質の高い学習で人材が育成出来たとして、その成果は、まさに3373で述べた17の目標を達成するためにこそ役立てる必要があるでしょう。教育とは、単に教養を身に付け、社会生活に適用するためだけではなく、人類の「持続的な繁栄」にこそ役立てるべきだと思うからです。ここで重要なキーワードは「持続的」という部分です。歴史上ごく短い期間だけ反映した文明はいくつもあったのですが、それらが消えた原因は、まさにその文明のシステムが持続的ではなかったからであるのは自明です。それらの失敗学にも学び、では今の文明を更に持続させるために、何を為すべきか(あるいは為さざるべきか)を学び取る教育こそが、この目標にうたう「質の高い教育」でなければならないのでしょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年12月20日 (水)

3376 目標3 全ての人に健康と福祉をもたらす

これも3375の食糧再配分問題と目標5に掲げられている安全な水問題に、たぶん7-8割の率で起因していると想像しています。その意味で、17の目標はお互いに不可分で乱麻の如く、絡み合った問題に対する目標だと言えるでしょう。さて、栄養状態が正常で、安全な水さえ確保されれば、免疫力低下や汚染された水に起因する多くの感染症が防止できる事は容易に想像できます。なにしろ、人間の体の2/3は水分で、しかも1日当たり数リットルの水を、直接又は食物として摂取しなければ、生きていけない存在なのですから、水の確保は食糧そのものと同程度に重要なのです。人々の健康維持のためには、先ずは安全な水の確保が必須である所以です。

17の目標全てが、人類の持続的な幸福につながるものである事は論を待ちません。その中で、この目標3の「福祉」は、公的な扶助により、比較的に幸福でない人達を、より幸福な生活が送れる様に手助けする事を意味します。つまりは、すっかり不平等が蔓延してしまった社会で、幸福のバランス取りを行うのが福祉政策の役割でしょう。しかしこれは、単に高額所得の企業や人から税を巻き上げ、それを貧しい(ここでは現金の手持ちが少ない)人達にばら撒く事は意味しません。お金だけで、人々の幸福度が比例して上昇する訳ではありませんし、単純で「機械的」な福祉だけでは、人々の「やる気」や「達成感」を損なってしまうからです。

その意味で、この目標3に関して言えば、そのアプローチとしては、例えば安全な水の確保のために、機械力を要しない井戸掘削の技術(例えば上総掘りの様な)を普及する活動や、直接的な福祉よりは、人々がその能力に応じて始められるSmall businessの元手を、無利子で貸す(例えばグラミン銀行の)様な、地味であるが地道な活動こそが求められると思うのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年12月19日 (火)

3375 目標2 飢餓をゼロにすること

3374の富の再配分同様、食糧の再配分も最も上手く行っていない分野の一つのです。理由は明確です。それは、いわゆる「商品作物」とそれを扱う「巨大市場」の存在でしょう。かつて、人々がモザイクの様に暮らしていた時代、食糧は基本的に地産地消でした。穀物も野菜も果物なども必要な量をその土地で賄っていた筈です。しかし、海運の発達や産業革命後の大量生産に対応するため、という先進国の身勝手な論理で、いわゆる植民地(プランテーション)をガンガン作って、商品作物化を拡大し続けたのでした。

コショウにしても、お茶にしても、ゴムや綿花にしても、それを直接口にして腹を満たす事は出来ない相談なので、先ずはそれらを市場で「換金」する事になります。市場には、相場というものがあって、価格は必ずしも安定的には推移しません。むしろ、投機を伴って乱高下を繰り返すのが常でしょう。結果として、資本家はますます富み続け、農地も労働力も豊富な国々は、先進国に搾取されながら、ますます貧乏で食糧状態もひどくなるという悪循環に陥るのです。現代においても、国際メジャー資本が、多くの途上国で、これとあまり変わらない状況を維持し続けていると想像しています。

これを根底から変えるのは、実は大変な努力を要するのは間違いないでしょう。何故なら、お金があって、それを買える国々の消費者は、商品作物に対して強い需要を抱えているので、すぐに状況を変える事は事実上できない相談だからです。しかし、いずれかの時期には、商品作物の作付面積(つまりは国際メジャー資本の権利)を徐々に制限しながら、食糧のための農地の割合を拡大し続けていくしかないのでしょう。もちろん、メジャー資本は、札束で彼の国々の政治家の頬を引っ叩きながらでも、その動きを阻止しようと画策する筈ですが・・・。いずれにしても、一気呵成は難しそうなので、国際的枠組みの中で長期的な目標を設定し、そこに向かって徐々に近づくしかないのでしょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年12月18日 (月)

3374 目標1 貧困をなくすこと

貧困は何時の時代も「相対的」である事には注意を払うべきでしょう。原始共同社会においては、部族の構成員は皆平等に扱われていた筈です。働けるものはその能力に応じて働き、部族として子供を育み、働けなくなった人たちを支えていた事でしょう。しかし、工夫し努力する事をいとわなかった部族は富を蓄えはじめ、そうでない部族は貧しいままだったと想像できます。また、大きな部族の中でも、上手く立ち回る人やその家族は、相対的に豊かになり、そうでない人達との豊かさの差は拡大して事でしょう。

しかし、富が地域内で循環している間はその差も問題にはならない程度だったのでしょうが、交易が盛んになり、そしてそれが国を跨ぐ様になると共に、富める者とそうでないものの差は一気に拡大した筈なのです。富める者は、リスクを取るための思い切った「投資」も出来た筈で、それが成功すると富の差は更に拡大した事でしょう。

産業革命以降、石炭や石油や天然ガスや原子力といった、言わゆる「化石エネルギー」や地下資源(鉱物など)が国際商品として流通し、それが量が限られた「金(Gold)」ではなく、印刷されたお金(Money)で決済される様になると、取引額は天文学的な数字に拡大していきました。資源を持てる国はますます富み、それを利用する工業化に成功した国々は資源国を超えて富む結果になったのです。資源は持っているが、それを掘り出すだけの財力や工業力の無い国は、強国に搾取され続け、資源も無く資本力も無いAフリカの国々などは、労働力(奴隷)として大国に連れ去られたのでした。産業革命以降は、数度の世界大戦を経ながら、持続可能性という視点から見れば、資源の搾取と環境破壊と加えて人権破壊の悲しい歴史を刻んできたとしか説明できない時代でもあった訳です。

貧困を無くす事は、単に歴史を逆転させるだけでは解決できないでしょう。国や社会に出来る事は、搾取に近い交易を制限し、富の再配分の仕組みを変えること程度に限られるでしょう。しかし、一部の北欧に、それにある程度は成功している国々がある事は、心強い事実でしょうし、それを取り敢えずの道筋のマイルストーンにする事は可能でしょう。しかし、3割以下の支持率の政党が、2/3以上の議席を浚ってしまう、政治の仕組みを変えない限り、それを陰から支える富を抱えた人達(企業や富裕層)は、既得権にしがみつき、決してその富を手放そうとしないだろう事も自明です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年12月17日 (日)

3373 SDGsとは

SDGsに関しては、このブログでも何度か取り上げた様な気もしますが、ここでもう一度まとめておきましょう。この中で言われるいわゆる17の目標は以下の通りなのですが、これらの目標を闇雲に解決しようともがくのではなく、明確な長期目標(ゴール)とそれを承けて短期目標を掲げながら、「持続可能な形」でアプローチする事を求めていると思うのです。

目標1 貧困をなくすこと

目標2 飢餓をゼロにすること

目標3 すべての人に健康と福祉をもたらすこと

目標4 質の高い教育の普及

目標5 ジェンダー平等を実現すること

目標6 安全な水とトイレの普及

目標7 手ごろな価格のクリーン・エネルギーの普及

目標8 ディーセント・ワークと経済成長を両立させること

目標9 産業と技術革新の基盤をつくること

目標10 人や国の不平等をなくすことはなぜ

目標11 住み続けられるまちづくりは

目標12 責任ある消費と生産

目標13 気候変動に具体的な対策を取ること

目標14 海の豊かさを守ること

目標15 陸の豊かさを守ること

目標16 平和、正義と充実した制度機構

目標17 パートナーシップで目標を達成すること

それぞれについては、以下毎回1個ずつ取り上げながら、投稿者の理解やそれにまつわる想いを記していく事にします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年12月13日 (水)

3372 何故今更月面プロジェクト

B国の月面着陸プロジェクトが再起動する様です。民間でも、月面に小型探査車を送り込み、500mだか走らせるレースが動いていますが、投稿者としてはその目的が見えないのです。一番乗り競争であれば、既にアポロ計画で決着がついている訳ですし、小型探査車であれば火星への送り込みが完結している訳です。その意味で、いわゆる宇宙ビジネスが何を狙っているのか、さっぱり理解できないのです。

たぶんB国あたりは、月面利用で先んじて、軍事的な優位を確保したいのかも知れませんが、それなら無人の高高度の宇宙ステーションで十分目的は達せられるでしょうし、今更人を月面に送り込む意味は無さそうです。民間の、月面車レースにしても、軽量で高性能のラジコン車が出来たとして、ではそれが世の中のどんな課題や問題を解決できそうなのか、誰も説明してくれそうもないのです。有人月面探査にしても、重さ数キロの月面探査車を月に送り込むにしても、多額の費用と人材の他に、多量のエネルギーや最先端の材料や技術が必要となる筈です。しかし、その投資と、結果得られる成果とは、釣り合うとは全く思えないのです。

そんなお金やリソースを注ぎ込むくらいなら、地上には解決しなければならない課題が山積していると、何故リーダーは思わないのでしょうか。例えば、原発から日々生み出され、Fクシマにも多量に生まれてしまった、放射性廃棄物を無害化する技術の開発は、月面探査などに比べれば、何段階も優先順位が高い筈です。温暖化にブレーキを掛ける主役になる筈の、再生可能エネルギーの開発だって、同じ程度に髙いプライオリティ―を持っているでしょう。

投稿者の目から見れば、月面探査にしても、殆どトンネルの中だけを走るリニア新幹線にしても、壮大な「ムダ」にしか映らないのです。いずれも、国の威信は高められるかも知れませんが、成果はそこに留まるでしょう。そんな、カネや人材やエネルギーが使えるなら、もっともっと優先順位の高い、地上の問題解決に振り向けるべきなのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年12月10日 (日)

3371 原発のリサイクル

再掲です。5-6年前にこのタイトルで書いた事は思い出しましたが、中身に何を書いたか思い出せなかったので、原稿に当ったらやっと出てきました。

原発施設の有効活用への前向きな提案です。自分でも結構イケそうなアイデアだと思うので、これを読んだ人は是非シェアしてください。さて、移行期間を別にすれば、最終的にはこの国の「原発をゼロにする」ことは国民の総意になりました。しかし、用済みになった原発を廃炉にし解体しようとする場合、原発内にある殆どの設備や部材は、程度の差こそあれ何らかの放射能を帯びている筈ですから、そこから運び出してリサイクルする事などはとても出来ないでしょう。廃材の輸送やリサイクル施設に運び込む事は、放射能にこれほど敏感になった国民意識を考えれば、事実上は出来ない相談だからです。という事は、たとえ原発内にリサイクル施設を作ったとしても、そこからは何も運び出せない事を意味します。

ではどうするかですが、既設の原発内に火力発電のためのボイラを設置すれば良いのです。タービンや発電機や復水器など、殆どの既存設備は寿命まで最大限活用し、一方で原子炉容器だけは完全封鎖しその後の廃炉に備えます。ボイラの燃料は、LNGが適当でしょう。最近のニュースでも、(ノルウェーやロシアの)北極海のガス田はかなり有望な様ですし、それを運ぶにも温暖化のお蔭で?夏場であれば「北極海航路」も利用できるようになりました。何より日本へのLNG供給量の1割程度にまで伸びてきた、サハリン2の日本製の設備も安定的に動いているようですので…。

ところで、原発には巨大な原子炉建屋も存在します。この屋根や壁を利用してメガソーラも設置してしまいましょう。また全ての原発は、海際に立地していますので、オマケに波力発電や浅海での洋上風力発電設備も設置するのです。ここまでやれば、単に原子炉を封鎖して、見通しの立たない「廃炉技術」の醸成を待つまでもなく、明日からでも原発施設を最大限に活用でき、再エネと組み合わせる事により、すっかり地に落ちた原発のイメージアップにも役立つでしょう。通常の火力発電所であれば、大津波を受けてもボイラの火が消えて「完全停止」してしまうだけなので、本質安全(フェイルセーフ)であり、金が掛かる大げさな津波堤防も不要でしょう。最悪の非常時にも、燃料プールを冷やすための少量の冷却水を確保するための安価な設備さえ追加すれば済みます。

とは言いながら、原発タービンの構造上「過熱蒸気」は使えないので、効率は通常の火力発電よりは低下します。しかし、電力ピーク時のバックアップ用としてはほぼ完璧でしょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年11月28日 (火)

3370 セミオフグリッド2

世の中は、エネルギーと言えば殆ど電力事情や石油を意味すると見做しがちですが、エネルギーの使用目的別で考えれば、空調にせよ、給湯にせよ、調理にせよかなりの部分は、エネルギーの熱利用の形態である訳です。取り分け、空調や給湯は概ね50-60℃以下の低い温度の利用になる点は注目すべきでしょう。低い温度の熱(冷熱)を得るために、電力やガスや石油を使う「ムダ」に想いを馳せるべきなのです。たとえるなら、まるで「斧で楊枝を削る」様な行為とも言えるでしょう。

我が家の屋根には4㎡ほどの太陽熱温水パネルを上げていますが、夏場であれば一回の入浴では使い切れない程のお湯が貯湯できます。雨の日や冬場は、木質燃料ボイラで追い焚きはしますが、使う木質燃料は、例えば1日当たり数キログラム程度のささやかな量で済みます。すぐ近所の家でも、石油ボイラやLPG給湯器で暖房や給湯している家や、オール電化の給湯器を使っている家などが見られますが、いずれもエネルギー源を供給しているインフラと繋がっています。その意味で言えば、我が家は熱エネルギーに関しては、オフグリッドをほぼ達成している事になります。ほぼと言うのは、調理器具としてはガスレンジが好きだと言う連れ合いの要望と入れて、LPGガスも購入しているのと、寒がりでもある彼女が床下温風暖房だけでは満足できず時々エアコン暖房のスイッチを入れるので、「ほぼ」という事になるのです。

さて、住宅には屋根の他に「壁面」というエネルギーがある事を紹介しておきましょう。南面の壁に、薄い箱に黒色フラット(ツヤ無し)に塗装し、小さな穴を明けた波板を取り付けておくと、晴れた日には80℃に近い温風を得る事ができます、既に「ソーラーパネル」という商品名でも販売されていますが、十分にDIYで自作できるシロモノです。晴れた日に、この箱で出来た温風を室内に導けば、極寒の北海道でも日中であればそれなりの暖房効果が得られるでしょう。セミオフグリッドの基本的なエネルギー源は、基本的には太陽光(熱)だと言う点は、しっかり押さえておく必要がありそうです。その意味では、例えば木質バイオマスでさえ、数年、あるいは数十年前に「樹木によって固定された太陽光エネルギー」である訳です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年11月24日 (金)

3369 セミオフグリッド

3368の続きですが、この表題では、たぶん2回目です。前に書いた事は忘れてしまいましたが、もう一度まとめてみても無駄ではなさそうです。もっとも、人気が無い地味なブログですので、誰も前の投稿を憶えていないでしょうから、何の問題もありません・・・。

さて、オフグリッドが完全にインフラから独立した、建物なり家だとすれば、セミオフグリッドとは、たとえわずかでも、インフラからの供給の一部を自前で賄っているケースを指します。インフラには、水道や通信や交通なども含まれますが、ここではエネルギーに限って筆を進める事にします。さて、エネルギーにも熱、光、電力などその形態によっていくつか考えられますが、この国では、エネルギーと言えば電力・石油・ガスにほぼ限定されますので、以下もそのインフラからの独立を考えていくことにしましょう。

さて、エネルギーの最終的な使用形態を考えると、殆どが熱形態と光源を含めた電力形態にまとめられそうです。熱は、調理と暖房など、電力は調理と冷暖房を含む空調、その他の家電のエネルギー源となりますが、これがこの国の基本的なエネルギー源として定着してしまった様です。石油エネルギーは、専ら輸送用(車)の燃料であり、冬場の石油暖房の季節需要に集約されてしまった様です。

その電力のセミオフグリッドを始めるのは、非常に簡単です。どんな家庭でも、ビルでも、配電盤では色々な方向の配線が分かれており、それぞれに元スイッチ(ブレーカ)が付いています。小型の太陽光発電のパネルを、バッテリーに繋いで、出力側にインバータを接続すれば、準備OKです。ある一系統、例えばパソコンなどが繋がっている)系統のブレーカを落とします。その系統に繋がっているコンセントに、インバータからの電力線を逆に流し込んでやれば停電時でもパソコンが問題なく動くでしょう。電力量の限界は、バッテリー容量とインバータの能力によって決まります。パソコンやテレビを併せても1kw弱のインバータ容量と大き目の車用バッテリー程度で、数日間は停電に耐えられるでしょう。もちろん、電力を送り込んでやるコンセントには、送る側にブレーカが必要でしょうし、間違って元のブレーカのスイッチを入れない様に気を付ける必要はあります。後は、予算に応じてこれを別系統にも広げれば良いだけです。もちろん、エアコンや調理家電やヘアドライヤなど短時間に大きな電力を必要とする系統は、グリッド接続のままとしておく必要はあるでしょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年11月21日 (火)

3368 系統連系問題3

旅行から戻って、投稿再開です。そもそも、日本の電力会社は地域に分散していたのでした。地域の力のある財産家が、地域にある水系を利用して、水力発電所を作り、地域の電力を賄い始めたのが最初でしょう。福沢桃介が、岐阜県の揖斐川水系で発電を始め、それが日本における電力事業の嚆矢となった話は有名ですが、その電力を使って、西濃地域に工業や化学工業が興隆したのでした。

つまり、ニーズがあってそれを満たすためのインフラを作るか、あるいはインフラがあって、その余剰分を生かすためにニーズや産業が興るというのが自然の成り行きなのでしょう。然るに、今の地域独占で、一見無駄が無さそうな今の電力インフラはどうでしょう。契約して(お金を払って)スイッチを入れれば、誰でも好きなだけ電力が使えるシステムが出来上がっていますが、毎年夏場には、発電能力の90数%に上るデマンドが発生し、節電を呼びかけるのが年中行事になってしまったのです。電力会社が利益を上げるために、出来上がったインフラがあるから、電気はEVやオール電化でドンドン使えと喧伝し、一方では夏場だけピークを下げたいので、節電を呼びかけると言うご都合主義がまかり通っているのです。

一度、自分の家やマンションがインフラから切り離された状況をシミュレーションしてみるのも有益でしょう。電力が無くなると、マンション住人は生活が全くできなくなる筈です。エレベータが動かないのですから、生活に必要なものを手に入れるにも、いちいち長い非常用階段を使って登り降りする事になりますし、ポンプを使って屋上タンクに上げている水も使えませんし、電気を使う全ての道具が役立たずになってしまうですからたまりません。私たちが如何に大規模インフラ、取り分け電力インフラに依存しきっているのが、簡単な想像でも分かる筈です。

投稿者がおススメすのは、セミオフグリッドです。これは、全ての電力を自前の太陽光発電などで賄うオフグリッドではなく、ベランダの手すりなどを利用して設置した小規模な太陽光発電を作り、その電力をバッテリーシステムに貯めておき、日常的にも使い、非常事態にも必要最低限の電力を確保すると言う仕組みです。オフグリッドにするためには、例えば5kwクラスのPVと大型の蓄電システムが必要だとすれば、1kw程度の小さなPVと小型の蓄電システムで、照明や通信のための必要最低限の電力の1週間分を賄うと言う安価なシステムで十分でしょう。ここでの結論としては、インフラベッタリの生活を送る限り、インフラ断絶のリスクからは逃れられないという点を改めて指摘しておきたいのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年11月16日 (木)

3367 系統連携問題2

系統連系の問題を、デマンド側から考えてみます。現代の消費者は、自分は神様だと信じ込み、すっかり無精でワガママになってしまった様なのです。食べ物や商品の在庫は、切れていないのが当たり前で、同様に商用電力も停電が無く、何時でも好きなだけ使える事が当たり前だと考えている筈です。自分でそう言っておいて、さて自分が停電に遭遇したのは一体何時の事だったか、実は思い出せません。何時か、変電所に落雷した時だった様な気もしますが、やはり思い出せないのです。そういう、均質でユニバーサルなサービスを、そのインフラの整備も含めて全国津々浦々まで普及させた電力会社は、地域独占というお墨付きが与えられていたとはいえ、大したものなのでしょう。

しかし、電力を消費する側(デマンド側)として考えなればならない事はいくつかあると思うのです。発電所の容量や送電網の容量は、ある時点のピーク電力(たぶん真夏の午後2時過ぎと想像)を基準として設定されるものでしょう。それに対して発電量としては、10%弱の余裕を持たなければ、電圧が安定的に保てない筈です。送電線ネットワークにはもっと大きな余裕がある事でしょう。電力会社間の電力融通があるからです。投稿者が住む地域では、聞きかじったところによると、実際に送電網に流れているのは、容量の2割程度の様なのです。

いずれにしても、需要家の基本料金は、ピーク電力を元に算定され、その量が多い程ペナルティ的に高く設定されている筈です。

消費者としていの一番考えてみなければならないのは、デマンドの抑制でしょう。一般家庭でも、企業でも、電力ピークは月曜日の朝一番か、暑い盛りの晴天の午後に生じている事でしょう。もし、このピークを2-3割減らす事ができさえすれば、間違いなく発電所の規模も2-3割縮小できる勘定になります。デマンドを抑え込むためには、結構な知恵と工夫と努力が要る事は間違いないでしょう。先ず、負荷を支配している機器(家庭では家電)を特定し、その運転要否を厳密に管理する必要があるでしょう。その上で、各時点の電力値を把握し、自分が決めた上限値を超えそうな場合は、優先順位の低い機器から停止する努力が不可欠なのです。これをデマンドコントロールと呼びますが、出来ればスマートな機器を使って自動的に行いたいところです。更に続きます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年11月15日 (水)

3366 系統連携問題

再生可能エネルギーの活用に当たっては、それが電力の場合「系統連系」が問題になります。大型の太陽光発電所や大型風車などの場合は、発電した電力を送電設備で電圧や周波数を商用送電網に合せて調整した上で、連係をする必要があります。その際、電力網を所有する電力会社からは「法外な負担」を要求されるケースも多い様です。もちろん、電力会社側からすれば、送電網の整備のためにはそれ相応のコストが掛かりますから、その一部を負担せよと迫るのは、一見妥当とも思えます。しかしながら、新たに系統のための送電線を設置するのは、再エネ側の負担となっており、既存の送電網の整備なら、再エネの連携有無に関わらず発生する筈です。

従って、新規の再エネ設備を投資する際には、送電網の負担額も含めた採算を弾く必要があるため、多くの再エネプロジェクトで初期段階で諦めてしまう結果に至る様です。これでは、多くの再エネのポテンシャルを潰してしまう悪い循環に陥ってしまうでしょう。これは、いわば経済性の罠だとも言えそうです。儲からないものはダメだ、という経済性優先社会の弊害です。

そうではなくて、再エネ設備で生まれたエネルギーは、地元で消費してしまうのが基本でしょう。つまりは、エネルギーの地産地消です。そちらの方向に舵を切ると、系統連系は200Vの低圧で十分という別の結論になる筈です。つまり、一般の住宅や工場に届いている電線(電柱)に、再エネ電力をそのまま繋いでやれば良いのです。もちろん、その周辺の電圧を安定化させるためには、電力の質を上げた上で、デマンドと発電量の変動を考慮してやる必要はありますが。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年11月13日 (月)

3365 バイオガス発電2

 

バイオガス発電には、もちろん大型のものも存在します。木質燃料を使うという意味では、国内にも2万kwもの出力を持つバイオマス発電所もありますし、先日この地域に完成した、生ごみをスタート原料とするバイオガス発電所は700kw以上の出力が出る様です。しかし、考えてみなければならないのは、原料を輸送する「化石燃料」なのです。前者のバイオマス発電所では、地元で発生する木材チップだけでは不足するらしく、海外から輸入するバガスも燃やしているらしいのです。再生可能エネルギーを得るために、輸送にバカにならない量の化石燃料を投入するのは、「禁じ手だ」と断ずるしかないでしょう。それは、目的と手段の逆転というものでしょう。

 

後者のバイオマス発電所でも、安定的に発電するためには、食品加工工場やコンビニチェーンあるいは外食産業から、パッカー車(ごみ収集車)を使って、毎日毎日50トンもの生ごみを、発電所に運び込む必要があります。3台のパッカー車が、平均200㎞走り回ると控え目に仮定しても、100リッター以上の軽油を消費する事になります。経由100リッターあれば、暗算でも1,000kwh相当の電力が発生出来る勘定ですから、この発電所が24時間に発電出来る量、たぶん17,000kwh程度でしょうから発電電力の「6%程度は石油で発電した」と見做す事ができます。もちろんこの発電所が出来る前は、パッカー車で「ごみ焼却場」へ運んでいたのでしょうから、それは無視できる、と強弁する人もいるでしょう。

 

しかし、真の再生可能型エネルギーを追求するためには、パッカー車をEV車として、それをこの発電所で発電した電力で動かすしかないのです。あるいは、食品廃棄物を発生させる食品工場に小さなバイオガス発電所を併設して、その日に発生した廃棄物を丁度処理できる規模とするべきでしょう。具体的には、日に5トンの食品残渣が発生する工場には、50-70kw程度の発電所が最適という計算になるでしょう。モノを運ぶ行為自体には、モノの価値やエネルギーポテンシャルを上げる意味はないでしょう。真の再生可能エネルギーを指向するためには、輸送を必要最小限に抑え込む工夫を考えるか、あるいは発生させたエネルギーで賄う事を考えるべきなのです。ここでの結論としては、再生可能エネルギーを考える上では、輸送は悪であり、原料の発生量にシンクロさせた最適サイズを指向すべきだ、という事になりそうです。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年11月12日 (日)

3364 バイオガス発電

長い出張から戻って、久しぶりの投稿です。さて、最近投稿者自身も巻き込まれつつある表題ですが、バイオガス発電と言っても決して新しい技術ではありません。エネルギー利用という意味でなら、この国でも戦前から実用化されていたからです。石油が、戦略物資となって輸入されなくなった時代、私たちのご先祖は、なんと木炭を燃料にして車を走らせていたのです。木炭を「不完全燃焼」させると一酸化炭素(CO)が出ますが、これをガスエンジンに導いて、プラグで点火させると、ガソリンには遠く及びませんが、それなりに「おしとやかに」爆発し、エンジンが回るのです。COの熱量は、同じ重量当たりではプロパンの2割程度なので、それでエンジンを動かした時の非力さが想像できると言うものです。容易に想像できますが、この木炭エンジンを積んだ車の最大の苦手は、坂道、それもかなり緩いものでもダメだった様です。従って、戦後石油が潤沢に入る様な時代になって以降は、木炭自動車はSLと同様、歴史上の技術になり、博物館入りとなってしまったのでした。余りにも地味な技術だった事もあり、実は博物館にさえ展示されているところも、稀の様なのです。

しかし、木材などを乾留させたガスはシンガスとも呼ばれ、一酸化炭素と水素が混じったものなので、かなり馬力が上がります。畜糞や生ごみを醸して発生させる消化ガスも、メタンが6割程度以上含まれていれば、実用的にはそれなりの出力でエンジンが動かせるでしょう。実世的という意味は、熱量が小さな燃料を用いた場合、当然の事ながら出力当たりのエンジン重量が大型化するので、それなりのサイズで必要な出力のエンジンが作れるという事を指します。

さて、バイオガスは種々の材料から乾留法や消化法で得られますので、身のまわりを探してみると結構原料には事欠かない事が分かります。田舎であれば、畜糞、木粉、もみ殻、鶏糞、食品残渣などなど、燃やすにしても処理するにしても厄介なモノどもが、結構良い原料=燃料になる様なのです。実証プラントもいくつか出来始めました。とは言いながら、先進地域の欧州に比べれば、1周遅れどころか2周程は遅れていると言うしかありません。先進地域では、50kw程度小型バイオバス発電プラントが、低い方の数千万円で手に入る「量産品」になっているからです。投稿者がドイツを訪ねた2001年頃には、独仏だけで既に2000台以上も普及が進んでいたからです。大きな農場は、例外なくバカ高く設定されていたFIT電力目当てで、競って導入を進めたからでした。続きます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年10月27日 (金)

3363 企業の劣化

企業の劣化が止まりません。次から次と「内部告発」される「品質不祥事」は、実は氷山の一角なのかも知れません。品質管理(今は品質マネジメント=QMですかね)は実は、組織運営のごく一部分にすぎないと思うからです。大きな枠組みで捉えるならば、QMは組織マネジメント=OM?(Organization Management)の一部でしかないと思うからです。この国では、組織のトップを経営者と呼びますが、この言葉の持つイメージは、金勘定をしていて、企業の利益ばかり気にしている人、というものでしょう。多くの企業には、組織(の機能)をモニターし、逸脱をコントロールしているOMが不在だと思うのです。その証拠には、品質マネジメントの長である、例えば品質管理担当の重役が、全く機能していないどころか、株主の顔色だけ窺っている経営者の片棒を担いでしまっていたではありませんか。

結局、この国の多くの企業では、組織それ自体がひどく劣化していると結論付けるしかない状況の様なのです。原因はいくつか考えられますが、20年以上に亘る景気の長い踊り場で、1円でも多くの利益を上げて、内部留保を増やす事だけに汲々として、企業はすっかり疲弊していると見るべきなのでしょう。楽をして儲けるには「手抜き」が手っ取り早いのは自明です。事務方が自ら進んで合理化を行う風潮が無ければ、利益を上げるためには製造現場で手を抜くしかないでしょう。品質管理は、最も手を抜きやすい職場である事もまた自明なのです。

もし、一連の品質不祥事を、品質部門だけの責に帰するなら、その企業はこの先も更に凋落の道を歩むしかないでしょう。そうではなくて、企業は創業時の基本に立ち返るべきだと思うのです。創業時の基本とは、つまりは創業者は市場の小さなニーズに気が付き、それに向けてささやかな製品を市場に出した筈なのです。製品やサービスで消費者のニーズを充足し、その代価を受けとり、代価の中から適正な利益を受けとり、更なる新製品の開発に勤しむ。製品の品質には責任を負い、小さな不具合にも目をつぶらず、アフターサービス(顧客とのコミュニケーション)も手を抜かない、といった企業風土に立ち返るというなのです。いま組織マネジメントを発動し、急いで歯止めを掛けなければ、この国の産業はあっという間に二流以下に落ちぶれてしまう事でしょう。ひどく心配ではあります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年10月25日 (水)

3362 このブログ

今日は取り敢えず、書きたい事が見つからないので、このブログを振り返ってみます。フリーランスになったばかりのある夏の日、何気なく始めたこのブログですが、気が付けば10年以上書き続けて来たことになります。思い返せば、最初の頃は、日に2度も更新していた事もありました。とは言いながら、人の頭の中にある事は所詮限られていて、投稿の多くは世の中で起きている事、雑誌やTVニュースで流れてきた事などに触発されて、書いてきたような気がします。

何となく、決まってきた文章スタイルとしては、たいていは3つの段落に分けて、先ずタイトルにした事象なり社会問題を自分なりに解釈・説明し、ついでそれを分析し、最後に「ではどうすれば」という投稿者なりの改善案を書いてみる、といった感じです。よく言われる起承転結スタイルの場合もありますが、形式にこだわる論文でもないし、なしてや言わゆるエッセイ(随筆)でもないので、文才も無い元技術屋で今環境屋の「独り言」というスタイルを変えずにここまで来ました。

取り敢えず、毎日書き続けて丸10年分である「3650投稿」目指して更新し続けようと考えてはいます。その後も、書きたいという気力が続く限りはジワジワと延長する事といたします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年10月20日 (金)

3361 モノの気持ち

今頭の中の1/3くらいは、どうしたら炭素繊維複合材(CFRP)に上手く穴が明けられるか、で占められている様な気がしています。そういうプロジェクトに巻き込まれているからです。前々職はその様な仕事をしていたので、まあ専門分野であったとも言えるでしょうか。モノと四つに取り組む場合、投稿者の場合先ずはモノの気持ちになって考える事にしています。

炭素繊維は、非常に強靭で切れにくい様に作られています。加えて、その硬さは尋常ではなく、普通刃物に使われる工具鋼では、あっと言う間に刃こぼれや刃先の摩耗を引き起こして切れなくなってしまう程です。しかし、炭素繊維自体の硬さは誰も計測した事が無いのです(と想像しています)。というのも、金属類などの硬さは、硬さ計と呼ばれる装置で、ダイヤモンドのコーンを、

良く磨いた試料の表面に押し付け、そのキズの深さで硬さを表現するものだからです。しかし、細い糸にその様なキズをつけて計測する事は不可能です。従って、その糸を刃物で擦って、その擦り減り方から硬さを推定するしかないのです。

さて、その繊維の気持ちになって考えると、繊維(糸や布)を切る際にも経験する事ですが、使うハサミの刃先が磨り減ったものや、カシメが緩いものは上手く切れないのです。つまり、繊維を切るには、鋭い刃先とそれを受け止める相方が必須だと言う結論になりそうです。さて、CFRPを切る場合、鋭い先端を持った刃物は必須として、そのせんだん力を受け止めるものは何になるでしょう。取り敢えずは、マトリックスとしてのエポキシ樹脂しか考えられませんが、それだけで繊維がスパッと切れるのかどうか、頭の中で繊維になった自分と、それを引き裂こうとする「敵」である刃物の戦いを想像しつつ、引き続き考え中です。もしかすると逆に考えた方が早いかも・・・。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年10月18日 (水)

3360 徒然に

急に仕事が忙しくなってきました。ボチボチと引き受けていた企業の環境経営システムの審査も、担当できる業種の範囲が広がりましたし、趣味として注目し情報を集めていたバイオマスエネルギーも、成り行きでプロマネを引き受ける事になったT県の企業支援プロジェクトも、殆ど同時並行で忙しくなってしまったのからです。出張で出歩く事も多く、したがって家でゆっくりブログを投稿する機会も減ってきてしまいました。サラリーマンを50代に初めのかなり早めに卒業して以降、一応「環境屋」を名乗ってきましたので、格好よく言えば「時代が追いついてきた」とでも言っておきましょう。

取り分け、バイオマスエネルギーの内、木質バイオマスの熱利用とエネルギー利用、バイオガス(メタンガスやシンガス)に関しては、ビジネスとして動き始めたベンチャー企業に直接的に関わる事になって、今後更に忙しくなりそうです。

もちろん、もっと自分の時間が持てる様になった暁には、いくつかのやりたい事を抱えてもいます。一つは、太陽熱で冷房を行う「デシカント冷房」の実験です。ゼオライトや珪藻土を使ったデシカントで湿度を吸収し、その分の水分を補給する際の気化熱で冷房効果を実現するもので、ファン以外は殆ど電力を使わない冷房機が実現できる筈です。もう一つは、SVOです。これは、廃植物油を濾しただけの油で、直接エンジンを動かし発電するもので、同時に出る廃熱も利用すれば、いわゆる小規模でも熱電併給が簡単に実現できるでしょう。いずれも、具体的なエレメントに関しては目星がついているので、後は実験場所を確保して、実際に形にするだけなのですが、その場所と時間と少しのお金の目途は立って居ないという寂しい状況です。もう少し若ければ、ファンドでお金でも集めて頑張れるのでしょうが、この歳になっては・・・。取り敢えずは、目の前の仕事をやっつけて、お金と将来の時間を作る事に勤しむことにしましょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年10月10日 (火)

3359 後ずさり2

3357の続きです。3357で経済最優先で人々の幸福が後回しになっていると指摘しましたが、それはある時期に「目的と手段の逆転」が起こってしまったからだと振り返っています。経済(お金)が、ある程度のレベルにないと、確かに幸福な生活は送れない様な「錯覚」に陥ります。錯覚と書いたのは、それが事実ではないからです。お金で殆ど全てのモノやサービスが買える様になる以前、私たちは必要なものは可能な限り自分達で賄い、自律的な生活を送っていた筈です。しかし、そのような生活はやはり不便なので、人々は大家族を形成して、互いに助け合いながら暮らしていた筈です。助け合いは家族内に留まらずに、コミュニティ単位の相互扶助も機能していたと数十年前を振り返っています。

家族やコミュニティの中で、それぞれの人は自分で出来る範囲の役割を分担しながら、実はそれなりの生き甲斐も感じていた筈なのです。何故なら、ヒトは好奇心の動物であると同時に、生き甲斐(やり甲斐)を糧に生きる存在だとも思うからです。自分で出来る役割をこなす中で、人々はより工夫を重ね、個人としての技も向上した事でしょう。これは、お金さえ出せば一定の品質以上の製品が手に入る社会とは明らかに、人生の質が違っているでしょう。つまり、製品やサービスを「買って」、あるレベル以上の生活を送るために(それを目的にして)自分の時間や能力を売っているのが現代の社会だと言うことも出来るでしょう。

ここに目的と手段の逆転が起こる余地があるのです。つまり、価値交換の手段であった筈のお金が、今やそれを手に入れるための経済活動自体が、社会のそして人々の目的にすり替わってしまった様なのです。このままでは、私たちはヒトらしさのココロを経済に売り渡して、いわば守銭奴として生きる道を突き進む事になってしまうでしょう。ここでの結論としては、私たちは人間としてより良く生きるために、少し後戻りをして、お金に関わらない経済(例えば自給自足や物々交換経済など)で、少し昔の様に人が関わる部分を増やしていくべきだと思うのです。急な方向転換は社会の混乱にもつながるので、先ずは都会に暮らす人たちは、それが可能な人から投稿者の様に田舎暮らしを始めてみるのアプローチをお勧めしておきます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年10月 9日 (月)

3358 モノ造り大国の崩壊?

またまた品質偽装事件の発覚です。建設、食品、輸送機(車)、原発?、そして素材産業などなど。最早、偽装は産業分野に無関係になった感があります。この国の繁栄の寄って来たるところは、戦後の粗製乱造時代から、B国式の品質管理を導入する中で育まれた、人材力とモノ造り(の高い品質)であった筈なのです。然るに人材力は、少子高齢化の中の理系・技術系離れでジリ貧状態が続いている事に追い打ちを掛ける品質偽装の横行です。隠しに隠していた偽装を、他社が公表したので隠しおおせないと判断したのか、あるいは内部告発があったものか、真実は各社の品質マネジメントの壁の中ですが、大いなる危機感を感じないでは居られません。

というのも、かつての品質管理ならいざ知らず、現代の品質マネジメントでは、トレーサビリティが必須とされているからです。その心は、素材製造から製造、販売、アフターサービスから最終的には製品の廃棄に至るまで、トレースの糸が繋がっていなければならないとされているからです。その重要な裏付け証拠となる品質記録(或いは原発など使用中の設備では点検記録)そのものが、日常的に偽装されている疑いがあるのです。これは、モノ造りの基本の「き」となる、品質ドキュメントが信用できないという非常事態であり、品質マネジメントの更に上を行く、マネジメントシステムを導入しなければ、この国のモノ造りは完全なる崩壊が免れない様に思うのです。

品質管理のシステムに関しては、戦後の品質管理から⇒品質保証⇒品質マネジメントを歩を進めてはきましたが、品質マネジメントを監視するシステムが必要である事を意味するのです。多くのモノ造り企業は、ISO9001など品質管理システムの認証を取得し、毎年の外部審査を受けてはいますが、1日或いは数日の審査で、ましてや文書の抜き取り審査だけで、根深い偽装を見抜く事など到底出来ない相談です。何故なら、その道のプロ中のプロが行った巧妙な偽装を、モノ造りの明るい専門家とはいえ、その道では素人同然の審査員が見抜ける筈もないからです。投稿者も、環境マネジメントの審査を担当する立場ですが、外部審査は「書類審査」に偏ってしまう傾向は否定できないでしょう。

ではどうするかですが、もし同じ審査の時間を掛けるなら、品質マネジメントと審査員と、審査を受ける業界の卒業生であるモノ造りの専門家がペアを組んで審査に当たる方法がありそうです。もちろん、それで全て解決する筈もありません。偽装のテクニックなら、いくらでも複雑に細工できるからです。結局は、売上や儲け主義に走ってしまった企業体質を、根底から見直し、モノ造り企業の基本(品質第一主義=顧客の信用第一主義)に立ち返るしか、この国の企業が立ち直る道は見つからないと思うのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年10月 8日 (日)

3357 後ずさり

最近の、国内外のカオス(混沌)を眺める時、後ずさりという言葉が脳裏をかすめました。山登りを趣味とする投稿者も、何度か山でガスに巻かれ、コースを逸脱してしまった事がありました。たいていは、尾根の平らな場所で、道が分かれている場所で、間違った道に進んでしまうと言うケースでした。それとのアナロジーで考えてみると、今は国際情勢も国内も全ての面で、行き詰ってしまった平らな尾根に差し掛かってるような気がするのです。狭い尾根や、1本道であれば迷う事も少ないのでしょうが、選択肢が多様化し過ぎた昨今、人々の価値観も多様に発散しつつある様なのです。

国際情勢では、かつての2大強国の時代から、1大国時代に。その後、C国の急速な台頭とRシアの巻き返しと、国際的なテロ活動の泥沼化と相俟って、パワーバランスはかつての様に単純な方程式では解けなくなってしまった様なのです。一方、国内も似たような状況です。一時の政権交代劇が終わってしまうと、国民の熱も冷め1強政党時代が結構長い期間続いてきました。かなり野心的な女性政治家が仕掛けた騒ぎも、結局は右と中道の間に、「右中間」なる政党もどきの誕生という局面を迎えた様ですが、中道や中道左派といったムードが好きな人達の受け皿が見つからない状況(つまりは道に迷った多数の国民)が生まれてしまった様なのです。

山で道に迷った時の鉄則があります。それは、迷った事に気が付いたら、先ずは見覚えのある分岐点まで引き返すというものです。世界が、あるいはこの国が漂流を始めた時期を思い返すに、それは多分行き過ぎた「経済偏重時代」の到来に遡る様な気がするのです。経済偏重は、国にも、国際情勢にも歪をもたらします。つまり、富める国々はますます富み、そうでない国々は富める国に搾取されてますます貧乏が加速すると言う負のスパイラルです。これが国際緊張や国内の貧富の格差拡大と無関係である筈はありません。少なくとも人々の幸福度を最優先に据え、経済指標は次位かそれ以下に下げない事には、このカオスが静まる事はなさそうに感じるのです。続きます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年10月 5日 (木)

3356 都市という場所

新幹線に乗って東京に向かう時、いつも不安に駆られます。例えば、新潟経由で向かう時、関東平野に入った途端、途切れの無い街並みが続いているからです。街は多くのインフラに支えられています。取り分け、電力、水道(+下水道)、ガスの3大インフラは、日々の生活に直結しているでしょう。道路や開放水系、通信なども勿論不可欠なインフラです。それらが、信じられない程複雑なネットワークを形成しているのですから、その維持に当たっている人達は、たぶん心休まる事はないだろうと同情しています。というのも、都市インフラは、戦後の人口膨張や都市域の拡大に伴って、「継ぎ足し継ぎ足し」の連続で拡大してきた筈だからです。

それらの維持に関しても、予算の関係もあるでしょうから、計画的な更新とは程遠く、問題が出た場合の手当てだけで済まして来たと想像しています。水道であれば、たぶん水漏れヶ所や健康にとって好ましくない古い鉛管が残っている部分の更新程度でしょう。下水道に至っては、今更掘り返しての補修は出来にくいので、既存の下水管の内側を洗浄した上で、内側にライニングを貼りつけると言った苦肉の策で対応している様です。

さて、そんなインフラに支えられている都市ですが、問題は災害時です。ありがちな災害としては、大雨時の洪水でしょうか。排水処理能力(例えば時間当たり50㎜)を超える短時間豪雨で、都市は簡単に水没してしまうのです。しかし、これはホンの日常的な災害に過ぎません。都市にとって最も怖い災害は、当然の事ながら地震でしょう。インフラが地面ごと大きく揺さぶられる訳ですから、地中に埋設されているインフラはひとたまりもありません。地盤の異なる場所では、揺れ方にも差が出るし、大小の地割れや埋立地の液状化によって、インフラはズタズタに引き裂かれる訳です。関東大震災は確かに大きな被害が出ましたが、都市域の狭さやささやかなインフラの規模を考えると、関東平野全体が大きな都市の様になってしまった現在、来たるべき大震災での被害は想像も出来ない規模になるでしょう。

ここでの結論としては、何に付けても便利な都市は、その裏返しとして、田舎の何倍も何十倍ものリスクを孕んでいる場所だと言うしかなさそうです。どうして人々は、都市に群れて住みたがるのかのか、田舎が好きな投稿者としては、さっぱり理解できません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年10月 4日 (水)

3355 田舎暮らし

徒然の感想です。我が家は、田舎町の市街地の外れに建っています。つまり、道路を隔てた先は田んぼや畑で、庭先にはカエルや虫、時にはヘビも遊びに来てくれます。投稿者としては、もっと田舎に土地を求めたかったのですが、連れ合いの強い希望でシブシブここに決めたのでした。

さてこの秋、その家の敷地に地続きになっている45坪ばかりの土地を買い足して、一応庭や畑が作れる様になりました。しかし、季節は既に秋が深まってきたので、年内は元田んぼで水はけが悪い土地なので、排水を良くするためにDIYで暗渠を埋めて、業者から10トンばかりの土を入れてもらった上で、数本の木を植えて春を待つ事になります。庭の1/3くらいは耕して畑にする予定です。1/3は連れ合いがハーブなどを植えて花壇にするでしょう。残りは雑草のために空けて置くことにしましょう。

実際に自分行った外回りに作業や、これからの計画を考えるにつけ、人間はコンクリートに囲まれた都会では、「精神的に健康」には暮らせないのではないか、と思うこの頃です。土(地面)は、ヒトの祖先が木から降りて、暮らす事に決めた場所でもあります。一握りの土には、数えきれないほどの微生物が蠢いていて、植物や虫や動物の揺り篭になってくれます。ヒトは、その植物や動物の命をいただいて生きている訳で、コンクリートの都会が食糧を生産してくれる筈もないでしょう。都会は「消費地」に過ぎないのです。食糧自給率が100%を大きく超えていて、その気になれば、自分でもささやかに食糧を作る事も出来る田舎暮らしに戻って数年になりますが、少しだけ健康寿命が延びそうな予感がしている今日この頃です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年10月 2日 (月)

3354 モーダルシフトの前に

モーダルシフトは、いわば環境「対策」に過ぎないと言えるでしょう。対策とは、何か問題が出てきた、後からそれに対処する後手の行動とも言えるのです。問題の本質は、こと輸送に関して言えば、近年では輸送量が増えすぎて、輸送に関するエネルギーが、まさに主要な環境負荷となっている点なのです。問題の本質に迫らず、単に増えすぎた輸送エネルギーを、モーダルシフトによって効率化し、削減できたとしても、それは解決にはつながらないでしょう。

事の本質に迫ろうとするなら、先ずはあまり運ばないでも成り立つ社会システムを指向すべきだと思うのです。具体的な手法に関して言えば、生産地と消費を近づける事などが挙げられるでしょう。その昔、高速道路網とトラック輸送があまり頼りにならなかった時代、長距離の輸送手段は主に鉄道でした。昔の鉄道(国鉄)は、非効率輸送の典型でもあったので、遅い、高い輸送手段であったため、人々は本当に必要な場合以外は、なるべく使わない様にして居た様な気がします。では、どうするかですが、結局必要なものは地元で調達する以外にはないのです。農産物は勿論、酒や調味料はもちろん副食品、嗜好品に至るまで殆ど全ては、地元企業(や個人企業)によって賄われて消費されていた筈です。

しかし、何時の頃からか、たぶんテレビCFが盛んになり、全国展開のメーカーが多数出現して以降だと思いますが、いわゆるブランド商品が全国規模で流通する様になって、大量生産、大量輸送、大量消費が定着したのでしょう。加えて、大量廃棄というオマケまで付いてしまって、環境負荷として新たにゴミ問題も浮上したのでした。

環境負荷を根底から削減するためには、やはり私たちは消費の本質的な部分で抑制的に行動しなければならない筈なのです。抑制的消費行動とは、結局は必要最小限(Minimum sufficient)の生活の指向とそれを地産地消(Feed locally)で賄おうとする努力に尽きると思うのです。先ずは、田舎でそれを実現し、それをモデルケースにして展開するしかないのかも知れません。時間は掛かるのでしょうが・・・。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年10月 1日 (日)

3353 今更モーダルシフト?

輸送に関してモーダルシフトがマスコミでも注目され始めたのは、確か投稿者が環境人間を志した20年近くも前だった様に思います。それが、頓珍漢にもつい最近またゾロお国が、数件の企業単位の小さなモーダルシフトの取組みをモーダルシフト事業に認定し、ささやかな助成金が出るのだとか政策を始めた様です。この間の長いながいタイムラグ、つまりはお国の動きの鈍さには、やはり絶望感を抱かざるを得ません。トラック輸送を、鉄道や船などのより効率的な大量輸送手段に切り替えていく事をモーダルシフトと呼ぶのですが、今更補助金を出してまで再加速しようとする行政のセンスが全く理解できないのです。

ちゃんと工夫しさえすれば、トラック輸送より鉄道や船舶の方が断然コストも環境負荷も小さい事は自明でしょう。例えば、鉄道輸送のエネルギー効率は、トラックの10倍高いのです。つまり、同じ貨物を1/10のエネルギーで輸送する事が可能なのです。不便があるとすれば、目的地近くの駅や港に到着してからの個別配送の方法です。これも、トラックの構造を工夫してコンテナサイズを統一し、駅や港での積み替えを半自動化すれば、何の障害にもならないでしょう。トラック便だって、一度地域の配送センターに集荷し、行先別に組み替えてトラック便を仕立てるでしょう。

その組み替えた貨物を、規格化されたアルミコンテナに詰めて、牽引トラックで近くの貨物駅や港に持っていけば良いのです。駅や港湾では、そのコンテナを半自動的に貨車や船に積んで、目的地に向かわせれば良いでしょう。貨物コンテナは、行先別に電子情報を持っており、目的駅で自動的にピックアップされて降ろされます。

お国の政策は、何時の時代も「十年一日」である状況は改善しないでしょう。何故なら、お役人の役割は、今の行政をなるべく変えない様、壊さない様に「維持」する事だからです。お役人という「維持屋」に新しい政策を期待する方がドダイ無理と言うものでしょう。維持屋の他には絶対に「計画屋」が必要なのです。その昔、通産省なるお役所がありましたが、この国が右肩上がりの時代には、確かにお役所にもその機能はありました。官民が「シンクタンク」なる頭脳集団を抱えていて、将来の青写真を練っていたのです。今どこがその機能を持っているか、浅学にして投稿者は把握していません。いずれにしても、政治もフラフラと漂流しつつある今、行先が定まらない航海は不安なものです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年9月28日 (木)

3352 車文化のゴール?

ダイムラーベンツを嚆矢とするエンジンを積んだ、いわゆる車の文化も、電気自動車の「自動運転車」の開発で、一応一つのゴールを迎えるのでしょうか。もちろん、車産業やその裾野産業の勢いというかイナーシャは、そこで留まる事を許さないのかも知れません。膨大な設備投資を含む資本の蓄積や数えきれないほどの優秀な開発技術者は、兎にも角にも新しい車を開発せずには居られない、「流れ」を持っているからです。

では、それが「空飛ぶ車か」と言われれば、投稿者としてはそれは否定するしかありません。何故、A地点からB地点まで移動するのに空を飛ばなければならないのか、必然性が感じられないからです。確かに、車で移動するには遠すぎる距離であれば空を飛びたいところです。また、朝夕のウンザリする渋滞を思い起こせば、空を飛んで最短距離で移動したいかも知れません。しかし、この国には世界に冠たる鉄道インフラと鉄道技術があるではありませんか。敢えて、通勤などの近距離に空飛ぶ車など全く必要としては居ないでしょう。

百歩譲って、一人乗りの通勤用の空飛ぶ車が開発されたとしましょう。しかし、住宅が密集し、高低のビルが乱立し、地上を人や車が密集している日本の都市の上空を、数えきれないほどの空飛ぶ車が、何の交通(飛行)ルールも無しに飛び交う事は全く想像できない事態です。平面交差の道路でさえ、交差点では出会いがしらの事故が頻発しているではありませんか。その道路(空路)が立体的に交差している状況を考えると空中衝突事故の多発する映像しか思い浮かびません。空中衝突は、当事者だけの事故は終わりません。空から、重い大きな2つの塊と、二人の人間と、いくつかの細切れになった部品が地上に落下するのです。その巻き添えを食ってしまう地上の人達こそいい迷惑でしょう。

空飛ぶ車は、それらしいものが既に登場している様に、開発は出来るでしょう。でもそれは、特にこの国の様に人口密度が高く、かつ気象変化が激しい国では、全く使えないシロモノだと言うしかありません。それが使えるのは、精々砂漠に囲まれたアラブの金持ち国くらいでしょうか。ここでの結論は、3351と同じものになりそうです。即ち、そんなお金とマンパワーがあるくらいなら、問題山積の地上の、海の環境問題の解決に当ててくれ、というものです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年9月27日 (水)

3351 宇宙ロケット:花火論

B国大統領が、彼の国のリーダーをロケットマンと呼んだ話はさておいて、下町ロケットや月面到達レースなどを含めて、未だ「宇宙開発」を煽り立てる風潮には、眉をしかめるしかありません。というのも、掛けるマンパワーやコストに見合う果実が期待できない行動だと思うからです。町の企業が起業生命をかけて、宇宙空間への小さな衛星の打ち上げに成功したとしても、その衛星にどんな機能を持たせようと主張するのでしょう。また、いくつかのチームが、月にちっぽけな月面走行車を送りこんで、ささやかな賞金を得たにしても名誉以外の何の果実が期待できるのでしょう。ナショプロではない民間プロジェクトで衛星の打ち上げが可能となれば、また民生品を駆使した安価な月面走行車が実用化されれば、確かに宇宙開発のコストは画期的に低減するかも知れません。

しかし、問題なのはその「宇宙開発の目的」なのです。何のために、その衛星を宇宙空間まで打ち上げなければならないのか、何のためにちっぽけな車を月面で走らせなければならないのか、がさっぱり見えないのです。国の威信をかけた、宇宙レースはもう終わったと見るべきでしょう。その名残として宇宙空間に留まっている宇宙ステーションも、間もなく退役する事でしょう。太陽系の果ての土星までたどり着いたカッシーニも役目を終えて土星の土?になってしまいました。

そうであれば、今後の宇宙開発や競争は、企業の威信をかけたものなのでしょうか。

投稿者には、今の宇宙開発が、何か真夏の夜の花火の様に見えて仕方がないのです。確かに、花火は華やかで爽快な一瞬を多くの人々に提供している事でしょう。しかし、花火は年々華やかにして行かなければ、人々の関心を集め続ける事は出来ないでしょう。そんなお金やマンパワーがあるのなら、それを是非地上や海に向けて貰いたいと思うのです。地上や海には特に環境上の問題が山積している筈なのです。それらをホッタラカシにしたまま、空だけを眺めているという風潮には、やはりイエローカードをかざすしかありません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年9月26日 (火)

3350 紛争と無理な国割り

こんな事は、えらい学者が何度も指摘してきている様に思いますが、投稿者の視点でも考えてみます。多くの紛争は、国境(くにざかい)を巡るものである事は論を待たないでしょう。歴史時代を通じ、現在まで脈々と続く紛争や戦争の歴史が雄弁にそれを物語ってもいるでしょう。どんな紛争も、何らかの境界の移動を伴って、あるいは双方の疲弊の結果、一度は落ち着くように見えるものです。これまで、終わらなかった戦争や紛争は無かった筈です。

しかし、一つの紛争で生じた目には見えない「ワダカマリ」は、世代を超えた火種となってくすぶり続けるのです。取り分け、国境が宗教や人種(部族)によって、濃く引かれている場合には尚更でしょう。同じ預言者?に端を発した宗教が、その後枝葉を生じて、ついには別々の宗派が覇を競った結果、長年の宗教戦争になったケースは、歴史上も決して稀ではありません。もちろん、古くは食糧の確保に関わり水資源をめぐるもの、近年では地下資源(とりわけ石油)をめぐる戦争や紛争のケースも多くなっています。中東をめぐる戦争や紛争もまさにこのケースでしょう。

しかし、投稿者が思うに、近年の紛争や戦争の最大の原因としては、「無理に引かれた国境線」にあると思うのです。イデオロギーの差異や部族の垣根をそのままにして、南北(東西)を分けるために北緯○○(東経XX)度に定規で引かれた国境線は、それが直線であるが故に、古からの地政学的・民族的な国割りを完全に無視してしまっている筈です。それもこれも、南北それぞれの陣営に肩入れしてきた、大国のエゴが招いた事態であるのもまた間違いないでしょう。武力のバランスの結果として引かれた近年の国境線は、当然の事ながら、そのバランスの崩れによって不安定に陥る筈なのです。超大国や欧州大国のパワーバランスが作り出した、アジアや中米やアフリカ大陸で引かれた直線的な国境地帯が、何時まで経っても紛争の火種になり続けている事には所以があるのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年9月25日 (月)

3349 あるべきモノの輸送手段2

3346で書き忘れた事があります。それは、持続可能型の社会での理想は、可能な限りモノを運ばない事なのです。モノを運ぶのは、効率(≒コスト削減)を最大限追及をした結果、極端と言えるほどの「分業」が進んでしまったのでした。極端なのは、ある製品を国内でたった1ヶ所で製造し、それを全国に配送しているケースです。もちろんこれは例外ではないでしょう、むしろ食品など嵩や重さの割に安い製品こそ、分散した工場で作られているのでしょうが、電化製品などはむしろ極端なまでの工場集約が進んでいる筈なのです。

もちろん、輸送手段や輸送システムも効率化が進んでいるのでしょうが、それにしても嵩張る製品では、さながら空気を運んでいる様なトラックやコンテナも多いと想像しています。それも、これも今のシステムが、コスト最低を狙い過ぎているからあり、それは決して「環境負荷最低」ではない事は明らかでしょう。環境負荷最低を狙うなら、輸送のためのエネルギーは全くのムダという事になります。何故なら、製品を遠くへ運ぶ事によって、そのモノ(製品)には、1円の付加価値も付け加わっては居ないからです。逆に環境対しては、石油資源を減らし、CO2や窒素酸化物やPM2.5をまき散らし、道路を傷めつけ、沿道の人達には騒音と、時には事故の危険も引き起こしているではないですか。

昔はそうではありませんでした。殆どのものは、地元で製造し、地元で消費していたのです。もちろん高価だった家電や車などは昔も集中生産され、全国に配送されてはいましたが、輸送手段は鉄道貨車(後にはコンテナ)、あるいはトラックの「混載」で移送されていたのです。混載のメリットは、貨物をスペース一杯に詰め込める点でしょうか。もちろん、そのために輸送時間も人手も多く掛かってはしまいますが、環境効率は非常に高いのです。

私たちが狙うべきは、環境効率をコスト効率の上位に位置づけること、矛盾する場合も多いにせよ、可能な限り両者を同時に達成する努力でしょう。今日注文して、明日受け取るというワガママな利便性さえ放棄すれば、環境効率はもっとずっと高める(=環境負荷を低減する)事は十分可能なのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年9月23日 (土)

3348 案ずるより2

少し前まで、バイオガスとりわけ乾留ガス(シンガス)はカロリーが低く、使いにくい燃料だと思っていました。そのまま燃やすのであれば、量で稼げば良いので、例えばボイラなどの熱利用には問題ないでしょう。しかし、ガスエンジンの燃料とするのは、そのままではカロリー不足で、十分な出力が期待できないと思い込んで居たのでした。

しかし、よくよく考えてみれば解決策は意外に単純なものだと分かります。ガソリンエンジンやディーゼルエンジンでは、同じ排気量でも出力を上げたい場合には、より多くの空気を送り込むために過給機(スーパーチャージャー)を使います。通常は排気ガスを使ってタービンを回す、ターボチャージャーか、エンジンの回転を利用してルーツブロアなどを回すいわゆるスーパーチャージャーを備えます。空気量を増やした分だけ、燃料も増やせますから、同じ排気量でも出力を、例えば数十%も増やす事も可能なのです。

ということは、同じことが、気体燃料にも応用できる事を意味します。カロリーの低い気体燃料でも、圧縮して密度を上げれば、例えば1/2に圧縮すれば、同じ体積当たりのカロリーは2倍に高める事も可能でしょう。嫌気性醗酵で生じさせる消化ガス(メタンガス)であれば2-5kPa、乾留ガスであれば、5-15Pa程度に圧縮してやれば、問題なく必要とされる出力を出す事が可能でしょう。これは、シンプルなルーツブロアを使えば実現できるレベルの圧力です。

内燃機関は古い技術ではありますが、その分ほぼ完全にこなれた技術でもあります。燃料と空気を完全燃焼できる割合で混合し、それを必要な熱量分だけ供給してやりさえすれば、20-30%の熱効率でエンジンを回す事ができるのです。今投稿者の頭の中にあるのは、家庭用のガスエンジンプラントです。燃料は、小型の乾留炉でシンガスを発生させ、それを改質してポータブルのガスエンジンを回すのです。問題は、これをどれだけ小型化できるかです。出来れば、ごく普通のサイズのスチール物置(例えば1坪程度)の中に設置できれば理想でしょう。ガスホルダーのサイズをどの程度にするかがスペース上は最大のポイントでしょう。これまでの常識では、例えば現在最もコンパクトな小型シンガス発電機は、Vルター社のパッケージでしょうが、出力が40kwで設置面積は2坪程度になっています。価格は、たぶん3千万円を超えると想像していますが、これを出力2-kwで、設置面積が1坪以内、価格で言えば低い方の数百万円に抑えたいのです。その際の燃料は、田舎では殆どタダ同然で手に入る木屑かもみ殻が適当でしょうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年9月22日 (金)

3347 案ずるより

「案ずるより産むが易し」とは昔からの言い習わしですが、最近それを強く感じています。バイオガス発電事業に関わる様になってから数か月経過しましたが、それまでのバイオマス(バイオガス)発電のイメージとしては、助成金をたっぷり貰った数億円の発電プラント、それも発電能力は精々50kw程度といったものでした。しかし、それは国内の中手や大手が手掛けて、設計やコンポーネントも試作レベルでたっぷりとコストをかけた(積み上げた)プロジェクトですから、コストが高くても仕方がない、と思い込まされていた様なのです。

しかし、その様な発電プラントが、それこそ数千か所存在するヨーローッパの常識は、かなり違っているのです。例えば、畜糞や農業残渣からメタンガスを発生させ、それをガスホルダーに貯めて50kw程度の発電を行うプラントは、たぶん2-3千万円で建設出来るでしょう。日本で作る場合と完全に一桁違うのです。コンポーネントが、長年の改良でブラッシュアップされている上に、設計も標準化されているでしょうから安価に製造できるのです。

日本で同様のプラントを増やすのに、何もゼロから始める必要はないと思うのです。20年以上の歴史のあるヨーロッパなど優れたコンポーネントは、先ずは輸入するか、ライセンス料を払って国産すれば良いのです。この国の産業の歴史は、まさにライセンスを受けた見よう見まねの国産から始まったものが殆どなのです。それは、原発だって例外ではありません。WHやバブコックといった欧米企業のノックダウンやライセンス生産から国産により原発製造の力を蓄えて行ったハスなのです。ガス発生プラントやガスエンジンは確かにローテク技術です。C国やIンドなどの製品でも十分な性能と耐久性がありますから、先ずはそれらのコンポーネントを輸入して使えば良いのです。それによって、建設コストは多分数分の1に絞る事が可能でしょう。そうなれば、FIT価格の乗った買電価格で計算すれば、5-6年でコスト回収が可能になるでしょう。そうこうしている間に、この国が得意な技術改良を加え、量産化技術を駆使すれば、価格競争力のあるプラントに仕立て上げられるでしょう。続きます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年9月21日 (木)

3346 あるべきモノの輸送手段

注文した翌日に、欲しいものが配達される「行き過ぎた流通」には賛成できませんが、人が都市に集まって住まう以上、日常的にも必要最低限の輸送は必要な活動でしょう。概して言えば、全ての輸送手段は、結局は摩擦力との戦いだと言えるでしょう。つまり、陸上輸送であれば、車輪と路面(線路)と間の転がり摩擦、あるいはそれを動かす動力装置中の摩擦、あるいは車体が空気をかき分ける際の空気抵抗などと闘いながら、貨物を移動させる事になります。海上輸送や航空機輸送だって、摩擦の大部分が空気と機体或いは水と船体の間の摩擦にとって代わられるだけでしょう。

ならば、あるべき輸送手段のキモは、摩擦の低減だと言い切っても良さそうです。移動速度は、例えば100/時に近づくと空気との摩擦(空気抵抗)が急激に増加しますので、まあ80/時程度に抑えるのが妥当でしょう。そうでなければ、真空に保たれたチューブ状の輸送路を建設しなければならないので現実離れするでしょう。その上で、摩擦を減らす切り札としては、ここでは空気ベアリングを提案しておきましょう。十分に滑らかな輸送路に、下から少量の空気を吹き出す移動体(キャリア)を、薄い空気の膜に浮かべると言う構想です。動力は、キャリアに搭載のバッテリーか、輸送路の横に張られた架線から得る電力になります。しかしながら、移動する動力は「重力」に頼るシステムです。

ここでの提案システムはと言えば、数キロ毎に設置される、高さ10mほどのタワーを、往復2本の輸送路が繫ぐと言うイメージです。タワーにはエレベータが設置され、キャリアを10mまで持ち上げます。次いで、ジェットコースター同様、急角度のスロープ状の輸送路にキャリアを放出するのです。空気ベアリングは十分に摩擦が小さいので、問題なく数キロ先の中継タワーに届く計算です。これを繰り替えす事により、海岸部に関しては輸送システムは、どうやら成り立つでしょう。問題は山越えです。新たなトンネルを掘るのは、コスト的にもペイしないと思われるので、そこは在来線の鉄道を活用するのが得策でしょう。山さえ越せば、海岸部にある都市に、標高差を利用して更に容易に輸送路が敷設できる事でしょう。もし100mの標高差が利用できるなら、たぶん数十キロ先まで、中継無しにキャリアを届ける事も可能でしょう。たぶん続きます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年9月19日 (火)

3345 人力アシスト自動車?

3344の続きの様なものです。電動アシスト自転車があるのであれば、人力アシスト自動車があっても良さそうです。1トンもの重量を持つ車を動かすには、少なくとも100kw弱の出力のエンジンかモーターが必要ですが、もしそれが100㎏前後の超軽量の車体であったらどうでしょう。1/1010kw以下の原動機でもそれなりにキビキビと走れると想像できます。そうであれば、頑張れば1kw弱の出力が出せる脚力でアシストしてやれば、車の燃費も大きく改善できる筈なのです。

想い起せば、排気量が360㏄しか許されていなかった昔の軽自動車は、20kw以下のエンジンしか積んでいなかった筈です。乗り心地を良くする事だけを狙った改良されたとはいえ、ドッシリと尻を落とせるバケット型の座席ではなく、自転車のサドルを進化させた様なチョン掛けの座席に尻を軽く乗せ、自由になった足でペダルを漕ぐ「人力アシスト自動車」を何故開発してくれないのでしょうか。アクセルとブレーキワークは、もちろんバイク式に手で行うのです。ペダルを逆転させてブレーキを掛ける「コースター式ブレーキ」も有効でしょう。

この人力アシスト自動車は、高速道路を走るのは流石に無理でしょうが、普通の公道であれば無理なく車の流れに乗れるでしょう。しかも、エンジンが故障したり、燃料(バッテリー)切れになったりしても、自転車並みのスピードでなら走り続ける事も可能なのです。馬力のある若い人なら、ガソリン1リットルで100㎞走らせるのも夢ではないでしょう。その上に、乗り手の健康増進にも役立つのなら、これに勝る乗り物は無いでしょう。タンデムや、子供も含めて乗れる4人乗りなどのバージョンも工夫できそうです。もちろん、乗り込む乗客もそれなりにペダルを漕いで、アシストするのは言うまでもありません。「漕がざる者、移動すべからず」です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年9月18日 (月)

3344 あるべき人の移動手段

来たるべき(持続可能な)時代に向けて、投稿者なりの、あるべき人の移動手段を提案してみましょう。人が移動するための最も「自然な形」は歩きでしょうか。ヒト(人類)が二足歩行という移動形態を獲得して以降、体の構造からも最も無理が無い「運動」にもなるでしょうから。一方、人類が発明した、殆ど全ての移動形態は、座席に尻を落として座る形態であるため、腰掛症候群に陥りがちになるのです。狭い座席に、長時間同じ姿勢で座る典型的な移動手段は、航空機ですが、ある時期知られる事になった「エコノミー症候群」がその代表でしょう。その他にも、尻や腰回りの血流が停滞する事が引き金となる循環器系や運動(筋肉)系の病気も多い事でしょう。

近年の「楽な」移動手段の問題は、まさに移動中姿勢が固定されているというなのです。異様な光景ですが、もし電車の中でも乗客がゾロゾロと歩いているとすれば、問題の大部分は解決される事でしょう。もちろん、急ブレーキを掛けた時に将棋倒しなるというリスクはありますが・・・。いずれにしても、移動中でも何らかの筋肉運動、取り分け第二の心臓とも呼ばれる下肢の運動が出来れば理想に近くなるでしょう。折角の移動という機会を、血流を停滞させる時間にしては、勿体ないし、体にも悪いというものでしょう。

その意味で、人の理想の移動形態は「歩き」ではありますが、次善の手段は多分「自転車」という事になるでしょうか。歩きも、自転車も移動中は必ず下肢を動かし続ける必要があるからです。心肺機能も向上するでしょうし、いわゆる化石エネルギーの使い過ぎや温暖化問題にも無関係な移動手段としては、この二つしかないと思うのです。足腰の筋肉が弱くなった人が、電動アシスト自転車を使うとか、バランス感覚に自信が無くなった人が三輪自転車に乗るのはご愛嬌でしょう。いずれにしても、ヒトが天から与えられた、骨や筋肉を、移動する際には最大限使うのは自然の摂理に則った方法である事は間違いないでしょうし、歳を取ってからの「ロコモティブシンドローム」も回避できる筈なのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年9月17日 (日)

3343 移動(輸送)依存症

以前、人間というものは、移動したがる(移動せざるには居られない)存在だ、と投稿しました。最初は自分の足で移動していましたが、やがては畜力(牛車や馬車)に頼る様になり、ついで風力に頼る帆船を、更には外燃機関の発明を利用して、蒸気船や蒸気機関車を実用化、やがてパーソナルな移動手段として、内燃機関やモーターを使った「自動車」を開発し、F-ドが開発した大量生産技術を用いて、一般庶民にも爆発的に普及させました。それにとどまらず、20世紀に入るとWrイト兄弟を嚆矢として飛行機を実用化し、やがて戦争と言ういわば強制的な技術革新を踏み台を利用して、その性能を飛躍的に高めたのでした。

移動手段の歴史を簡単に振り返っても、私たちは車や列車や飛行機といった移動手段、輸送手段無しには一日も暮らせない、最早「移動(輸送)依存症」としか呼べない状況に陥っているとしか見えないのです。あらゆる依存症から抜け出すのは、非常な努力を要します。何故なら、それは「病」だからです。アルコール、タバコ、ゲーム、薬物そしてネット、依存症のタネには事欠きません。その中で、移動依存症は今のところ「中度の依存症」に留まっていると言えるそうです。何故なら、高齢やその他の理由で、車の運転を止められた人たちも、それが理由で命を失ったり、重篤な禁断症状に襲われる事もなさそうだからです。

かと言って、多量のエネルギー消費を伴う「無為な移動(輸送)」の状況が、このままで良い訳もありません。そこで、数回に分けて、投稿者が提案する今後のより持続可能性の高い社会に向けて、あるべき移動(輸送)手段について、いくつかの提案を記してみる事にします。続きます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年9月16日 (土)

3342 空飛ぶ車?2

3341の続きです。手で軽々と持てるドローンとは違い、重い機体で有人の飛行物体を、たとえ高度150m以下とは言いながら自由に空を飛ばせるのは如何に危険かを皆が納得して、それを思いとどまったとしても、では地上から数(十)センチだけ浮き上がって移動する「浮き上がる車」だったらどうでしょう。いわば、ミニホバークラフトです。確かに地上の凸凹は拾わないので、乗り心地は良いでしょう。また、非常時にも数(十)センチの落下であれば、お尻にドスンと言う衝撃はあるのでしょうが、命に関わる事はなさそうです。

しかし、そうだとしても路面にタイヤが接触している車と違い、非常時に急ブレーキを掛ける事は出来ない相談でしょう。なにしろ、車体が接触しているのが空気だけですから、道路とタイヤの様に、固体同士の摩擦力が期待できないからです。摩擦を減らして、早く移動するために空中に浮き上がるのですが、停止しにくいというジレンマを解決する手段は多分見つからないのです。特定の場所で急停止したいのであれば、空母での航空機の着艦の様に、ワイヤを引っ掛ける方法は取れますが、不特定の場所ではこれも叶いません。

加えて、地上から車体を浮き上がらせるだけで、かなりのエネルギーを消費しますので、燃費性能を考えても地上を走る車には到底かなわないでしょう。唯一可能性がありそうなのは、非常に平滑な走行面(つまりは道路か軌道の様なもの)を作って、移動体を浮上させるのは1-2㎜に留めるアプローチがありそうです。重量物を移動させる際に用いる「エアスキッド」の様なものです。これだと、浮上に要するエネルギーも最小限で済むので、燃費でタイヤを有する車を超える事は出来そうです。しかし、ほぼ平坦で平滑な走路を建設するコストを考えると、あまり良いアイデアとなりそうもありません。ここでの結論は、結局「空飛ぶ車の開発なんぞモノにならないから無駄な努力はお止めなさい」となりそうなのです。関係者の皆様、悪しからず。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年9月15日 (金)

3341 空飛ぶ車???

最近「空飛ぶ車」の話題がマスコミに露出する機会が多くなって来た様な気がします。3340の宇宙ビジネスに次いで、この分野でもネガティブな投稿になってしまいそうで、熱心にこれを推進している皆さんには申し訳ないのですが、仕方がありません。空飛ぶ車は、非常に危険だからです。危険な理由は、空飛ぶ車が十分危険な重量を持つ飛行物体である事、その物体に人間が乗ってほぼ自由なルートで移動すると言う事などです。空飛ぶ車のイメージは、たぶん多くのプロジェクトでは「有人ドローン」といったものでしょうか。前進のためにプロペラを回すのであれば、小型飛行機になってしまうでしょうし、浮力を確保するための翼が必要ですから、大きさ的にも「クルマ」とは呼べなくなるでしょう。従って、コンパクトに設計できる大型のドローンが選択肢となる訳です。

先ず考えてみなければならないのはその重量です。60㎏の人を乗せて飛び上がるには、機体重量が人の体重以下ではたぶん設計出来ないでしょう。もしそんなに軽く出来るなら、座席なんかは無くして、その機械を背中に背負って飛ぶスタイルでも似たような機能が実現できるでしょう。いくら羽根の様な軽い材料を駆使しても、機体重量は体重の数倍にはなってしまう筈です。人と併せて数百キロの物体が、ブンブンと空を飛び回る時代を想像すると、とても安心して道を歩く事などできないでしょう。飛行物体である限り、墜落は稀であるにしても、燃料切れの不時着や小さな部品の落下などは日常茶飯事だと想像されるからです。操縦者は自業自得でしょうが、地上で巻き込まれた人こそ災難でしょう。

さて、構造的には羽根の様に軽く完全無欠の飛行物体が出来たとして、それを動かすのは人間です。もちろんそんな時代が来るとすれば、ドローンと同じように自動運転技術が確立されているでしょう。しかし、自動運転といえども突然の気象の変化、例えばビル風や突風やつむじ風やダウンバーストといった狭い場所で発生する気象現象に追随するのは困難な筈です。結局、つむじ風に巻き込まれて「キリモミ降下=墜落」の憂き目に遇うのでしょう。十分な高度での事故であればパラシュートを使って難を逃れる事も可能でしょうが、低空飛行時は命に関わる事故につながります。続きます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年9月14日 (木)

3340 何故宇宙ビジネス?

東京で、宇宙ビジネスへの進出を夢見るベンチャー企業の経営者の話を聞く機会がありました。どうやら人間は、何かを始めなければ落ち着かない存在の様です。これからは、宇宙ビジネスの時代になるのだとか。他のビジネスでお金を儲けた人達が、宇宙ビジネスに乗り出したり、投資したりしているとのニュースが時々飛び込んできます。オンラインビジネスで財を成したビジネスマンが、SペースX社を起こしてゼロから宇宙ビジネスに乗り出す、といった事例が思い浮かびます。

しかし、以前もこのブログに書いた様な気もしますが、再使用可能なロケットを開発したとして、では一体宇宙空間でどの様なビジネスを展開しようと言うのでしょう。打ち上げ費用が安く出来るとして、これ以上周回軌道や静止軌道に衛星を送り込んで、そこで起こる衛星同士の干渉や衝突をどう防ぐつもりなのでしょう。既に、多くの軌道は用済みのゴミ衛星(宇宙デブリ)の溜まり場になっているのですから。ドローンの性能は日進月歩なのですから、数週間の滞空性能のあるドローンや成層圏に上げられる飛行船などを使えば、地球観測や通信などの性能や選択肢は格段に向上する筈なのです。

地球外に友人宇宙船や探査衛星を送るプロジェクトも、構想段階のものを含めればメジロ押しの様ですが、そもそも多くのコストとリスクを冒して、人類を火星くんだりまで送り込む意義が見出せません。単なるアドベンチャーなら地上や海底にだって人跡未踏の地はあるでしょうし、もし国威発揚なら時代錯誤と切り捨てるしかありません。学問的な興味だったら、無人の探査衛星を送り、ローバーを着陸させれば済む話でしょう。好奇心は、一度満足させられれば、二度と同じ探査をする意味はないでしょう。水がある事が分かってきて重力の小さな月に、ロケットの打ち上げ基地を作って、見つかった少ない水を分解してロケット燃料を調達すると言うアイデアも、面白いのですが、月から何処に向けてロケットを飛ばし、一体何を「商売」にするつもりなのかが、凡人の投稿者には全く理解できないのです。

そんなお金や人材が居るなら、この地球上には、出来る限り早く解決しなければならない問題は、それこそ山積していると思うのです。それらを放ったらかしにして、空ばかり眺めている人達は、見たくはない現実に目をつぶる「夢追い人」と呼ぶしかないでしょう。もし溢れ出るほどの情熱があるのなら、地に足を着けた(持続可能な地球)ビジネスでは何故ダメなのでしょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年9月 6日 (水)

3339 ものの価値2

3338では少し話が反れましたので本題に戻します。ものの価値を決めるのは、個々人の価値観ではありますが、ではその価値観はどうやって育まれるのでしょうか。親によって育てられ、社会(世間)に揉まれて暮らす私たちの価値観には、親や社会の持つ最大公約数的な価値観が通奏しているに違いありません。もし、その価値観に反発して真逆の価値観に走ったにしても、所詮その価値観に支配されている事には変わりありません。その意味で、天才や悟りを開く様な聖人でもない限り、全く新たな価値観を創造する事など凡人に過ぎない私たちには出来ない相談でしょう。

しかしながら、枝葉の部分ではささやかながら何らかの価値観を付け足す事は出来そうな気もします。お金(の価値)に振り回され右往左往しながら生き、やがては石の下に入って終わるであろう人生ではありますが、その途中をどう生きるかは、やはりその人生を最後に振り返った時に、大きな違いが出るのでしょう。投稿者としては、50歳を少し超えた時、価値観をかなり変更した様な気がします。つまり、凡人故にそれまでの「平均的な」価値観はあまり変えられなかったものの、それに加えて「持続可能性」を新たな幹に育てようと決めたのでした。

持続可能性、つまりは「変らない事が価値だ」とする価値観ですが、それは自分が生きてきた20世紀後半の変り方が、あまりにも激しかった事への反発から来たものの様に感じています。戦後の殆ど全ての人が貧しかった時代から始まる投稿者の記憶は、あのバブル時代の狂喜乱舞の時代にも鮮明に続くのです。その落差のあまりの大きさに気付くのは、その後の長い踊り場に佇んでいた時だったのです。山登りに喩えるなら、下を見ないで急登を登り続けて、ちょっとした踊り場になっている場所に出た時、ふと下を振り返ると、あまりの急な登りであった事にビックリしている登山者の様なものでしょう。それは、子供の木登りでもまったく同様でしょう。最初元気に木に登っていた子供が、ふと下を見た途端恐怖に体がすくむ、といった状況と同じなのです。投稿者も50代に入った時、似たようなココロのすくみを感じてしまったのでした。

その「すくみ」を解消する方法は多くはなさそうです。確実な一つの方法は、ソロソロと後ずさりする事でしょう。登ってきた逆の手順で、手足を動かして少しずつ降りていくしかなさそうなのです。天才や宗教指導者でもあれば、新しい時代の新しい価値観でも創り出せば良いのでしょうが、その価値観を検証するには長い時間が掛かるでしょうし、リスクも大きいでしょう。後戻りであれば、そのリスクは回避できます。その上で、「より持続可能性の高い」道筋を選んで後戻りをすれば、間違いは少なくて済むであろう、と凡人である投稿者は信じているのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年9月 5日 (火)

3338 ものの価値

時々、ものの価値について考えます。本来ものの価値は、個々人の価値観によって異なる筈のものなのでしょうが、近年はお金(通貨)を物差しと考える人が大多数だと想像しています。つまり、ソレやアレを諭吉さん何人分に相当するのか、と考えてしまうのです。食べ物で言えば、野菜や果物1個が、何円で売られているのか、それは例年に比べて安いのか高いのか、同じモノを他の店ではどれだけ高く(安く)売っているのか、などに拘る訳です。

野菜や果物は、旬になると豊富に出回り、値段は当然のことながら割安になる事でしょう。しかし、旬を外れた時期や、本来ある筈の無い季節にそれらを手に入れようとすると、たぶん旬の時期の何倍にも高騰する事でしょう。旬を外れて野菜や果物を市場に出そうとすれば、当然のことながらハウス栽培の様に、人工環境でそれを栽培する必然性があります。つまりは、それらはエネルギーの塊でもある訳です。しかも、産地は集中する傾向にあるため、市場に向けて輸送のためのエネルギーもばかにはなりません。

ものは、欲しい人にとっては高く売りつけられる傾向にありますし、一方で供給が多く市場で余り気味のものは値崩れするでしょう。しかし、例えば安い時に手に入れてストックするとしたらどうでしょう。例えば、野菜や果物であれば瓶詰やジャムにしてストックしてあれば、年中安いコストで食べる事ができるでしょう。日本の住宅では、坪単価が高いので、いわゆる「ストックルーム」は割愛される傾向にあります。同様に、肉や魚だって大型の「冷凍庫」や「燻製」という手段を使えば、安いタイミングでまとめ買いも出来る筈です。

結局、この国で高いものを買わされる原因は、年中トマトや気に入った野菜を食べようとする食習慣にあるのです。旬の食べ物を入手し、複数の保存方法(乾燥、瓶詰、冷凍、燻製などなど)で保存しておけば、食費は安く上がるでしょうし、災害にだって強くなる筈です。つまり、保存のための一手間さえ惜しまず、保存食のためのスペースさえ確保する努力をすれば、安いものの価値を高める事も容易なのです。近年、「手間惜しみの銭失い」が多くなった所以です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年9月 4日 (月)

3337 田舎の暮らし3

田舎の暮らしとは、即ち土と水と緑=植物への依存度の大きい、というよりベッタリとした依存した生活を意味します。コメや農作物は勿論、土と水と太陽に助けられた植物の賜物ですが、他にも木材やカヤなどのバイオマスがあり、田舎の田舎に行けば、し尿や家畜の敷料=堆肥まで有効に活用しているのです。つまりは、植物の徹底的な活用とそれへの依存度が非常に高い生活だと言えるでしょう。現代の牧畜や酪農は、輸入飼料への依存度が大きいのですが、それでも耕作放棄地や河原で牧草を育て、家畜の粗飼料として活用しています。

植物への依存は、何も食糧に限った事ではありません。田舎には、木材を使った産業も根付いているからです。分かり易い製材業もありますが、木材の端材を使った工芸品、また樹皮(例えばヤマザクラの皮)を使った樺細工、あるいは漆器、曲げ木細工(曲げワッパ)など、地域毎に特徴を出しながら伝統を繋いでいるのです。樹皮を使う樺細工であっても、実は木を切り倒して採取する訳ではありません。元気の良い若いヤマザクラの樹皮を丁寧にはぎとれば、数年で新しい樹皮が再生するので、実は持続可能な産業でもあるのです。結局田舎の産業は植物に頼り、その植物にある程度の手を加える事によって、上手にやれば100年でも200年でも持続可能である事がその特徴であると言えそうです。

一方で都市の産業はどうでしょう。金属類(希土類を含む)やプラスチック(石油)や電力に100%依存した産業が、100年後に安泰である筈もありません。地下資源の埋蔵量には限りがあるに違いないからです。その証拠に、希土類の埋蔵量のかなりの部分を握っているC国が、少し輸出を絞ると、たちまち家電業界やエレクトロニクス業界に衝撃が走るではありませんか。石油も、現在の瞬間風速としては供給や価格が安定している様には見えますが、国際情勢は不安定要素を抱えていて、予断は許さない状況が続くでしょう。結局、田舎の暮らし(産業)と都会の暮らし(産業)の最大の違いは、その持続可能性(安定性)だと言えそうです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年9月 3日 (日)

3336 田舎の暮らし2

田舎で暮らす幸せの第一は、緑に囲まれているという点でしょうか。森から生れ、森に依存して暮らしていたご先祖様を想う時、私たちは緑から離れては幸せには暮らせないのだと思っています。鉄骨とコンクリートで作られ、アスファルトで覆われた地面しかない都会でも、公園や街路樹などのささやかな緑で、癒される人もいるのでしょうが、大切なのは緑に囲まれ、緑の風を呼吸するという感覚なのです。山に分け入って、木々や草の「いきれ」を呼吸する時、あるいは飛び回る虫たちや時には動物の臭いなどを感ずる時、自分も森の民であった事を実感できるのです。

時々、仕事で都会に数日滞在する事がありますが、たいていは23日でギブアップ状態になります。人混みに疲れるのもありますが、何より「緑の空気」が吸えない事による「呼吸困難」を感じてしまうのです。一面の田んぼに隣接する場所に土地を求め、家を建てた投稿者ですが、実は欲を言えばもっと里山の裾で、木々に囲まれた場所が理想だったのです。裏の里山で、山の手入れをしながら薪を採集し、それを熱源とするのを一つの理想としていたのですが、連れ合いの理解が得られずやむなく断念・・・。

とは言いながら、家の東側の窓からは、手前に田んぼ、川を挟んで向こう岸には里山の連なりが見える、自宅の立地には十分満足しています。目の前には、時々面倒くさそうに草刈りをして手間の掛からない蕎麦を植えている明らかに農家専業でない人が来ますが、もう少し仕事が落ち着いたら(つまりは暇になったら)是非ここを借り受けて、ささやかな自給農業を試みるつもりです。土を耕して、食糧を得ると言うのが、森を出て暮らし始めた人類の基本の姿だと思うからです。FBでコメ作りをしている何人かの知人の投稿を目にしますが、農業は、まさにお天道様(天気)頼みである事がしみじみ伝わってきます。日本の津々浦々にある神社や、里から眺めて東の方向(太陽の上る方向)の山々に、祠が作られ、あるいは田畑の水源となる川や山間の池に水神様を祀り、人々の信仰を集めてきた所以です。田舎の暮らしは、そんな神々に近い暮らしでもあります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年9月 2日 (土)

3335 田舎の暮らし

3332の続きの様なものです。投稿者は、還暦到達を一つの契機に、生まれ故郷である秋田に足場を移しました。親はとうの昔に鬼籍に入りましたので、新たに住宅やネットワーク構築を含め足場固めをする必要がありました。その中で、不要なものを脱ぎ捨て、必要なものを取り込みながら、どうにか暮らしを維持する方法を確立する事も出来ました。田舎に戻って見えてきた事があります。それは、3332で述べた山の頂上に近い都市部での暮らしに比べ、緑豊かな田舎は、まさに山麓であると言う実感です。ここでは、その気になりさえすれば、食糧も(バイオマス)エネルギーも地域内で賄う事が可能である事も分かってきました。

働き口が多くあって、給料レベルも高い都市部では、しかし高い住居費や重い住宅ローンや高い食糧費などに苦しめられている筈です。衣食住・エネルギーに心配が少なければ、人生の見通しは結構良好になるものの様です。我が家では、値上がりしているとはいえ都市郊外に比べれば安い土地に新たに家を建て、晴れた日は屋根の太陽熱温水器で、雨の日や冬場は地元産のペレット燃料で風呂を焚き、余った熱で床下をほのかに暖めるという、必要かつ最低限のエネルギー費で暮らしを支える仕組みを取り入れました。

知り合いから貰う事も多い、安い旬の野菜や山菜の恵みを享受し、たまには市内に数多くある温泉場で癒されます。春先から秋口までは、少し足を伸ばせば、変化に富んだ山々や大自然の雄大な景色を好きなだけ満喫できます。これは、たぶん都市部に住む人達にとっては、年に数回しか楽しむ機会の無い「贅沢」なのでは、と想像しています。しかし、田舎ではこれが「日常」そのものなのです。もちろん、これらの楽しみを享受するためには、進んで体を動かし、汗をかく必要はありますが、都会で楽をしてロコモティブ・シンドロームに陥る高齢者を考えれば、それもまた田舎暮らしのメリットの一つと言えるでしょう。今後は、買い足して少し広くなった庭で、野菜でも育てるつもりです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年8月30日 (水)

3334 モノ造り屋でいいのか2

モノ造りに徹していれば、コスト削減圧力への対応は確かに大変ではありますが、精神的には楽だとも言えるでしょう。工場の中(内向き)の事だけ考えていれば済むからです。新製品を開発したり、作った製品を市場に押し込むのは「元請」がやってくれるでしょう。その意味で、昔は製品を作った人(例えば職人)が、自らそれを商っていた事を思い起こせば、現代社会では「究極の分業」が行きつくところまで行ってしまった社会だとも言えるかも知れません。

銀行は資金調達部分だけ請け負って、出来るだけ多くの利息を受け取る事に注力し、メーカーはモノ造りに専念し、流通業や商社はそれを売り捌いて上前をはねるのです。市場は、メーカーにとっては何やら大きな「雲(Cloud)」の様にボンヤリとしかし活発に蠢く存在になり、結果としてメーカーと消費者が直接的に接触する機会は殆ど消滅したと言って良いでしょう。なにしろ、製品の修理でさえ、消費者はコールセンターに連絡を入れ、そこからの指示で宅急便で送り返して行われる時代なのですから、メーカーが直接ユーザーと「対面で接触する」事など殆どあり得ない事態となったのです。

こうなると、最早メーカーがユーザーの「生の声」を直接聞く機会は失われ、新たな製品の企画でさえ、たぶんリサーチ会社が行ったリサーチ結果で決められたりするのでしょう。つまりは、モノ造り屋は、市場から切り離された状態で、モノ造りに徹する事だけを強いられる社会になってしまった様なのです。一体これは何時から始まった事態なのでしょう。ツラツラ想い起すに、やはりこれはネット社会の為せるワザだと考えるしか無さそうなのです。昭和から平成への移り変わりは、いわばアナログ時代からデジタル時代=ネット時代への移行期でもありました。その流れの中で、モノ造りもコンピュータの中で、かなりの程度完結する事が可能となってしまいました。現代社会では、かなりの製品が、ネットの中で設計出来、ネットからの注文で現物となって届く時代なのです。ネットの向こう側では、モノ造り屋がせっせとモノ造りに集中しているのでしょうが、それは注文する側や、ましてやユーザーからは見えない世界になっているのです。この国も、そろそろモノ造り屋から脱却して、コト造りや価値の創造と提供といった方向に舵を切るべき時期でしょう。やや時期を失しかけている可能性はありますが、遅くともやらないよりはずっとマシですから・・・。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年8月26日 (土)

3333 モノ造り屋でいいのか

この国の得意技は、抵コストで高品質のモノ造りである、と言われていた時代がありました。確かに今でも、そのワザのかなりの部分は維持し続けている事も事実ではあります。しかしながら、既にいくつかのモノ造り(大)企業の破綻報道がある様に、それをヨシとする時代は過ぎ去りつつある様に思うのです。投稿者が長年関わってきた、航空機産業を例に、それを検証してみましょう。日本の戦後の航空機産業の嚆矢はYS-11の開発だったでしょう。しかし、それ以前に朝鮮戦争で使われた、米軍航空機の整備事業という形で、背景ではこの産業も動き出していたのでした。

1960年代の最後に開発されたジャンボジェット機は、世界に衝撃を与えたものでした。あんな大きな金属製の機体が、数百人もの乗客を乗せて大陸間を飛んだ訳ですから、当時技術屋の卵であった投稿者もたまげたものでした。同じころ、YS-11の後継機開発を考えていた、この国の航空機産業は、オランダのメーカーとの共同開発ベースに作業を進めていたものの、これを聞きつけたB社が、B767の共同開発を持ちかけ、B国の圧力に弱いこの国の行政はこの話を「忖度」して業界を「指導」したのでした。こうして、航空機産業におけるこの国の「モノ造り屋」としての位置付けが決まってしまったのでした。

しかし、モノ造り屋はそれ以外の何物でもありません。品質を確保し、コスト削減にさえ取り組んでいれば、大きなリスクが無いモノ造り屋や、しかし市場に影響力を及ぼす事もまた皆無なのです。もし、オランダとの共同開発が実現していたと仮定すれば、YS-11より大型で燃費も更に向上したであろうYS-22?が実現出来ていた事でしょう。その機体は、たぶん今でいるRJ(リージョナルジェット)と同等ですから、CRJERJなどより20年も早く、RJ市場を創り出していた筈なのです。

繰り返しますが、モノ造りをいくら頑張っても、途上国に追い上げられ、コストで絞られの「ジリ貧」に追い込まれるだけなのです。そうではなくて、市場に「価値」を提供する事によって、新しい製品を提案する様にならなければ、このジリ貧からは抜け出せない、と断言しておきます。人々(市場)が欲しいのは、航空機ではなく、座席単価が安くて、安全に旅行できる「移動手段」なのですから・・・。続きます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年8月22日 (火)

3332 下山の勇気2

実際の登山では、天気さえ良ければ、下界の様子が良く見え、これから渡るであろうルートも見通せるでしょう。であるなら、産業においても最先端を目指して、ドンドン高い山に登って行けば良さそうに思えます。しかし、それは「視界が良好である」と言う重要な前提条件が揃っていての話なのです。もし、山でガスに巻かれ、ルートを見失ったとしたらどうでしょう。闇雲に、上を目指すのは危険極まりない行動になるでしょう。視界が極端に悪い場合には、見えていない10m先が断崖になっているかも知れないし、広い尾根筋であれば間違ったルートに進んでしまうかも知れないのです。

現在の、国際情勢やこの国の置かれた立場を考える時、視界は良好である、などと主張する人は皆無でしょう。もしそんな人が居るなら、それは何がなんでも前に突き進む、イノシシの様な狭い視野の人達だけでしょう。この国にとって最先端産業こそが重要で、その方向に突き進むべきだ、と主張する人達もやはりイノシシ並みと言うしかありません。人間には、前に進む前に前頭葉で判断し、進む方向を見定める判断力が付与されている筈なのです。

闇雲に経済指標だけを拡大する方向ではなくて、私たちは立ち止まって、視界が回復するのを辛抱強く待たなければならないと思うのです。次の選挙までに結果(らしきもの)を出さなければならない、近視眼の政治屋たちの言うことに安易に耳を貸してはならないのです。逆に、その様な風潮の流れに逆らって竿を差す様な、賢者の話にこそ耳を傾けなければならないでしょう。決して、インフレ率2%、経済成長率やGDPなどという「見かけの数字」に目を奪われるべきではありません。それらは、実体を何も表しては居ないからです。統計上の数字は、お役人の匙加減で如何様にも作る事ができるでしょうし、それを解釈する方も多分100個くらいの異なった見方が出来ると思うからです。山でも標高の高い場所では、雲の中に入って視界が悪い場合でも、少し下ってみれば雲の下に入って急に視界が開ける事も多いのです。見通しが悪い現代社会ですが、そこし戻るか、経済活動レベルを少し下げるかして、もう一度足元(=価値観)を見つめ直す勇気が必要だと思う今日この頃です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年8月18日 (金)

3331 下山の勇気

似たような主旨で数回書いた様な気もしますが、まあ年寄りの繰り言と容赦願っておきます。さて、この国は、戦後の高度成長期を足掛かりに、石油危機や数回の何とか経済ショックを乗り越えて、世界でもトップレベルの経済大国に登り詰めました。その後20年以上に亘る経済の踊り場も経験した訳ですが、ナントカミクスで無理やり加速させようとした試みも潰えようとしています。兎にも角にも、経済大国にはなった訳ですが、しかし、登った山の頂上に待っていたのは、荒涼たる景色でした。今日みられる風景は、緑の殆ど無い都市に高層ビルやタワマンが林立する姿と、メッキリと人口が減り、シャッター街や廃屋が増えた田舎の「二極化」です。

経済成長とは一体何だったのか、こころで頭を冷やし、足元を見つめてみる必要がありそうです。経済成長とは、一種の錬金術です。しかし、無からお金を生み出す訳にもいかないので、元手が必要です。その元手は、地面の下にあります。鉱物や石炭や原油を掘り出す事が経済活動の第一歩でしょう。それを使って、金属を精錬し、石油製品を作って、売れる製品を大量に生産する事になります。それらを売り捌くために、またまた大量の石油を使って地球の隅々まで運ぶ必要があるのです。取り敢えず、自国内に天然資源があるなしに関わらず、取り敢えず大量生産技術を確立した国々が、経済大国入りの条件ではありました。

戦後、B国式の「流れ作業」や「品質管理」技術を、独自に改良し、カンバン方式やQM(品質マネジメントシステム)まで育て上げたこの国の「モノ造り力」は、確かに大したものではあるでしょう。しかし、それは単なる「モノ造り力」にしか過ぎず、決してビジネス力ではなかったのです。今売れる商品を安く大量に作る技術はあるにしても、ではこれから何を作って提案していくか、という将来のトレンドをリードする力は非常に弱いのです。その例として、M社の航空機を引き合いに出して申し訳ないのですが、彼の企業は既にあるリージョナルジェットという市場に打って出たのが間違いの元だったと言うしかありません。そこでは、性能や技術はさておき、価格と納期こそがカギを握る世界だからです。M社は、五度に亘るスケジュール遅れを起こしている訳ですから、売値を半分にでも引き下げない限り売れる訳などないのです。これは失敗プロジェクトになる、と断言しておきましょう。

必要なことは、草木も生えない荒涼とした頂上からの下山する勇気だと思うのです。航空機を作りたいのなら、島国や途上国の実情を汲んで、例えば安価な水上機といった飛行場の要らない新たな市場を創生すれば良いのです。山を下りつつ、原子力とか、造船とか、車とか20世紀型の産業のパワーを、少しずつ新たな産業の創生に向けて行けば良いのです。天候(経済)がひどく悪化してから、慌てて下山を始めるなら、間違いなく道を踏み外しての滑落かあるいは濃いガスに巻かれての遭難が待ち受けている事でしょう。長くなったので今日はここまで。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年8月16日 (水)

3330 適正規模

投稿間隔が随分空いてしまいました。仕事が急に忙しくなり、出張のついでに山に登ったり、夏季休暇で家人の帰省などが重なって、なかなかパソコンの前に座る時間が取れなかった事を言い訳にしていますが、体は忙しいものの、実は頭が夏季休暇になっていたのでした。さて、最近は再エネとの関わりが密になってきましたが、その際頭に置いているのは、その適正規模というファクターです。例えば、数万キロワット規模のバイオマス発電所というものが存在しますが、そもそもその燃料であるバイオマスをどうやって集めるのかを考えると、割り切れないものを感じます。つまり、臨海に所在するであろうその発電所に、大量のバイオマスを集めるためには、多くの化石エネルギーを必要とするからです。国内の間伐材や製材屑を活用するにしても、量が足りないので、海外から木材チップやヤシ殻などの燃料を、船を使って輸入せざるを得ないでしょう。バイオマスは、嵩張る割には嵩比重が小さいので、船を使って空気を運ぶようなものなのです。

バイオマスを含む再エネは、やはりその地域で入手可能なエネルギー源を使って、その地域で消費出来る規模というものを頭に置く必要があるでしょう。再エネの活用が、その運搬のために使われる化石エネルギーが入手できる限り、というのであれば何をかいわんやでしょう。収集や運搬が低コストで済むのは、化石エネルギーの価格があまり高くならない事が前提である事は銘記すべきでしょう。

さて、その上で、再エネの活用は、エネルギー源の分布状況の把握抜きにしては、成り立たないと思うのです。例えば、農林業地域を見回せば、バイオマス資源としては製材屑やモミ殻、河原のカヤなど、それなりに見出す事が可能です。しかし、それは太陽エネルギーが薄く広く分布しているのと同じ程度に薄いのです。しかし、製材ためには山から木を伐り出して里まで運ぶ必要があるので、そこには木屑が「集まってしまう」ので、それをうまく利用すると言う考え方になるでしょう。集めるのではなく、集まるのです。それはモミ殻などでも同じ事情になります。家畜し尿のエネルギーとして利用に注目していますが、バイオマス発電を考えるのであれば、家畜の頭数によってその発電規模を設計すべきなのです。決して、FITや助成金ありきの、欲張った規模を指向すべきではありません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年8月 6日 (日)

3329 閑話休題(本)

最近忙しいせいか、暑さのせいかブログ投稿(更新)の頻度が極端に減っています。書きたい事が尽きたのかも知れませんし、忙しい割に新しい刺激が少ないのかも知れません。それにつけても、読書が最大の刺激の様な気もします。その意味で、最近殆ど本を読んでいない事に気が付きました。それが小説であれ、ノンフィクションであれ、専門書であれ、本の書き手は何らかのメッセージを抱え、それを発出したくて本を書いたに違いありません。その意味で、どんな本であれ、二つか三つのメッセージを受け取る事ができると思っています。

本を読む楽しみは、そのメッセージを探し出し、自分なりの形で受け取る事だと言えます。それが、自分にとって新しいメッセージであれば最高ですし、そうでない場合でも、異なった立場の人が、ほぼ同じメッセージを発しているとすれば、それはかなり真実に近いものかも知れません。それが、三つに重なれば、ほぼ正しいと考えても良さそうです。さて、今週も遊び(山)と仕事で忙しくなりそうなので、盆休みには何冊かの本を手元において読んでみようと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年8月 3日 (木)

3328 ローテク三昧3

ローテクは、シンプルであるが故に応用も効かせ易いとも言えそうです。例えば、バイオガスを使ってエネルギーを得るには、途上国でも行っている様に、ブリキのガスホルダーを作ってメタン発酵ガスを貯めておいて、それをガスコンロに送り込めば、湯沸しや調理に使う事ができます。一方で、その熱を利用してスターリングエンジンを動かせば、電力を得る事も可能でしょう。しかし、スターリングエンジンがエンジンの主流になり得なかったのには、それなりの理由がありそうです。例えば、回転応答性が鈍いという点が挙げられます。つまり、発電機の原動機として応用した場合には、負荷の変動に追従遅れが生じてしまうのです。熱源を選ばないというメリットはあるにしても、これはやはり欠点と言うしかありません。

他方で、ディーゼルエンジンというローテクがありますが、これは移動用電源や非常用発電機として広く使われていますが、回転数制御が比較的簡単で、応答性も良いのです。つまり、1回転するする間に燃料の量を加減してやれば、次のサイクルでは回転数が変るので、実質上の応答時間は数秒以内という事になるのです。単位体積当たりの燃料の熱量が低い場合でも、ガスを加圧して密度を高めてやることによって、見かけの熱量はアップさせる事ができるのですから、あまり悩む必要はないのです。ガスの種類によって、やや点火しにくい場合でも、点火プラグを追加してやれば問題はありません。

別にスターリングエンジンがハイテクという訳ではないのですが、やはりディーゼルエンジンに比べれば、近年注目されていて、応用例も増えてきてはいるのですが、既にあるディーゼルエンジンの応用先として、ガスエンジンはかなり有望だと言えるのです。発電機との組合せで発電を行う場合でもも、回転数を制御するガバナーとガスと空気を混合するミキサー、ガス圧を上げてやるルーツブロアなどの周辺機器を組み合わせれば、数十キロワットクラスの発電システムを構築するのは、朝飯前のローテクだと言えるでしょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年7月27日 (木)

3327 ローテク三昧2

3326の続きです。一般にローテクの対極にハイテクがあると言われますが、ハイテクは確かに最先端ではありますが、「最先端」はイメージとして眺めれば細くて尖がっていると思うのです。細いという事は、それを支える基盤が狭く、不安定であるという事も意味するでしょう。一方でローテクは古くから使われていた技術であり、多くの実績があり、データがあり、安全性の確認があり、それを支える裾野の技術も広い訳です。それを絵に描けば、ハイテクはスカイツリーのイメージであり、ローテクはどっしりとすそ野を引いた富士山の様な山だと言えそうです。

さて、ハイテクですが、ロクなデータも無く、闇雲に前に突き進んでいる分野、例えばバイオテクやITやマイクロデバイスなどは、裏返して眺めれば、多くの危険も孕んでいるのだとも言えるでしょう。例えば、バイオテクを使った新薬が開発されたとして、それが果たして人体に使っても全くリスクが無いかと問われれば、過去の薬害事件を思い出しても分かる様に、作用と共に生ずる副作用の評価は非常に難しいし、膨大な治験の積み重ねが求められる筈です。然るに、経済性を追求すれば、費やした莫大な開発費を回収しようとする経営者は、時に見切り発車を指示してしまうのでしょう。

一方で、ローテクは数多くの事故やトラブルをくぐり抜けて、取捨選択の結果「生き残った技術」でもある訳で、リスクの評価は既に済んでいると断言しても問題ないでしょう。例えば、内燃機関が一体何台作られて、使われてきたか数え様もありませんが、少なくとも何億とか何十億台などという単位ではない事は確かです。作られては、壊されて材料は再利用され、新たに開発・改良されては、市場に送り出されてきた筈です。その意味で、ローテクはいわば「社会的実験済み」の技術であるとも言えます。もちろん、ローテクの新たな応用という視点は必要です。投稿者が、バイオマスやバイオガスの利用拡大に微力を尽くしたいと考えているのも、まさにその視点なのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年7月23日 (日)

3326 ローテク三昧

随分久しぶりの投稿の様な気がします。引き受けてしまった3つの仕事に対して、頭を切り替えながら、日本狭しと走り回っていたので、なかなかブログを書く時間が無かったのでした。と言うより、心の余裕が無かったというのが正しいでしょうか。

さてその内の一つはバイオガスエンジンでの発電で、別の一つは昔取った杵柄の一つ、機械加工(切削)分野ですが、どちらも「ローテク」の代表と言っても良さそうな分野です。なにしろ、バイオガスエンジンの元となるのは、いわゆるディーゼルエンジンですから、振り返ってみればディーゼルさんによって発明されてから既に100数十年経過している技術なのです。一方、切削については、木材をロクロで削っていた時代もあったでしょうから、事実上人間が道具を使い、金属を利用し出した時代に遡るのかも知れません。

しかし、いくらIoTの時代になろうが、機械に賢いAIを搭載しようが、結局機械を動かし、モノを削るのは「ローテク」であることにはいささかの変化もない筈なのです。モノや刃物をモーターの力でぶん回し、硬い金属でできた刃物で材料を削ったり、穴を明けたりするしかないのです。航空機の材料だって、巨大な糸巻につなぎ目の無いカーボン繊維を巻き付けて胴体でも作らない限り、やはり部材を重ねて穴を穿ち、リベットでカシメる以外に胴体を作る良い方法は発明されてはいないからです。材料研究者は、今より更に軽く、剛性の高い繊維や材料を考え出してしまうでしょうから、それを加工する側も、更に硬い材料で刃物をこさえていくしかない訳で、そのイタチゴッコは当分続く事でしょう。

しかし、関わっていて思う事は、ディーゼルエンジンにだって、刃物にだって、改善する余地が山ほどに残っているという事実なのです。ドリルの様に、研究し尽くされたと思える分野にさえ、まだまだ改善の余地がある事に、今更ながら気づかされているのです。ローテクも、まだまだ奥が深いと感ずる今日この頃ですし、死ぬまでローテク三昧に浸ろうとも考えている今日この頃です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年7月12日 (水)

3325 異常高温

ここ秋田でも、内陸部では酷暑日が数日続いています。最低、最高気温ともに平年に比べても6-7℃高いという状態はやはり「異常高温」でしょう。確かに、天気は良いのですが、日射だけでこの高温は説明できないでしょう。何故なら、日射が一番強いこの時期には、その強い日射で気温はグングン上がるでしょう。しかし、日が暮れてしまうと気温は速やかに下がる筈なのです。晴天の日には、最高・最低の気温差が10℃くらい開くのが普通なのですが、明け方でも25℃以上のいわゆる「熱帯夜」なのですから話になりません。

その原因としては、確かに梅雨前線が南の湿った暖かい空気(湿舌)を引き込んでいるのは間違いないでしょう。その上で、集中豪雨はいわば水蒸気の凝縮であり、発熱現象であることを忘れてはならないでしょう。暖かく湿った空気から雨が絞り出されると、気温は当然の事ながら上がるのです。異常な高温の原因の一つは、異常な降雨にもあると思うのです。しかし、このことだけで異常高温が全て説明できる訳ではないでしょう。

他の要因として投稿者が疑っているのは、大気中のエアロゾルです。エアロゾルは、例えば海面の波立ちによる塩分を含んだミストによっても生じますし、PM2.5あるいはそれ以下の微粒子が核になってできるものもかなりの割合になるのではないか、と疑っているわけです。その微粒子の供給源には事欠かないでしょう。お隣の大国であるC国の発電所や車などで燃やす石油や石炭から大量の粉塵や硫黄酸化物などが、日夜大気に供給され続けているからです。それらが核となってエアロゾルが生まれる訳ですが、それらが大気中の水蒸気と温暖化効果ガスと相俟って、地球に熱の蓋をしてしまうと言うストーリです。その結果、日射で地表に入った熱は、夜間にも宇宙への放射が弱くなり、熱が蓄積する事につながると考えています。二酸化炭素やメタンガスなどのGHGも右肩上がりで蓄積していますので、どう考えても異常高温は、今後も持続すると考えて、異常が通常になるとの前提で、「適応策」を考えていくしかないのでしょう。残念ながら。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年7月 7日 (金)

3324 バイオ燃料の課題

バイオ燃料の活用が特に難しいのは、それが固形燃料であれ、液体・気体燃料であれ、それが得られる地域やケースによって、性状が大きく異なる点でしょう。固形燃料であれば、比重や水分率、結果としての着火性や発熱量、また液体・気体であっても、発熱量に加えて含まれる不純物(SO2やシリコン化合物やタール分など)や不要成分(CO2N2など)の含有量が大きくバラつくのです。

これを上手く回避して使うためには、実はその利用設備(多くの場合はボイラや内燃機関ですが)に大きな調整代を確保しておく必要があると思うのです。場合によっては、不純物濃度を一定以下に抑えるために除去装置も必要になるかも知れません。具体的には例えば、消化ガスにおける脱硫装置や、乾留ガスにおけるタール除去装置などが挙げられます。また燃焼や内燃機関での利用に当たっても、加圧装置や空燃比を最適化するための混合器、燃焼や内燃機関の回転数を制御するシステムなどに多くの自由度を確保しておく必要もあります。

その意味では、自己学習能力を持つ小型のコンピュータの活用は不可欠でしょう。また、それを可能とするセンサーやアクチュエータの開発も必須です。こう考えてくると、現在使われている石油系の化石燃料が如何に便利で使い易い燃料あるかが理解できるでしょう。何故なら、その性状はJISなどで、厳密にコントロールされていますので、燃焼や内燃機関はその性状に合せて「容易」に設計できるからです。一方で、性状のバラつきが大きな燃料を使うには、「複雑な」制御系が必要となる点、機器の設計は困難なものになる筈なのです。これは、再エネ燃料の使用が拡大しない所以でもあります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年7月 4日 (火)

3323 パワーマージン

表題は、別の言葉で言えばパワートレランス(出力余裕)の意味です。トラブルが多発しているあるバイオガス発電所を調査する機会がありましたが、原因としての結論は「パワーに余裕が無い」厳しい設定だという事になりました。発電機としての動力は、ディーゼルエンジンですので、小さな馬力のエンジンにフルに負荷を掛けるという状態は、さながら車をレース場で常にエンジンをぶん回し、タイヤを軋ませながら走る様なもので、もちろんエンジンの寿命を縮める事は間違いないでしょう。しかし、同じ車でも交通規則を守りながら、一般道をトロトロ走るならば、車だって例えば20万キロを超える様な距離だって走破してくれる寿命は十分あるでしょう。

つまり、設計負荷と機器の寿命を全うさせる常用負荷は分けて考えるべきなのです。元技術屋のカンとしては、設計負荷に対して、例えば70%以下の負荷を常用とするなら、十分に長い寿命を享受できるはずなのです。航空機の様に、安全率や強度余裕を極限まで削らなければならない場合は仕方がないのですが、陸上用で重量にあまり制限が無い場合、徒に余裕を削る必要など無いでしょう。

発電機であれば、負荷に対してたっぷりと馬力のある原動機(ディーゼルやタービンなど)を用い、十分なパワー余裕を持ちながらトロトロと回せば良いでしょう。負荷が低ければ、当然の事ながら機器は長持ちするでしょうし、故障発生も少なくて済むでしょう。潤滑に関して言えば、軸受けの荷重が小さければ、転がり軸受けでは寿命が延びるでしょうし、滑り軸受けでは発熱量が減るので、潤滑も楽になるでしょう。それは、潤滑油の劣化を抑え、交換の頻度も低くて済むことを意味するのです。「大は小を兼ねる」と言う格言は、この場合非常に重要な意味を持ちます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年7月 2日 (日)

3322 ゾーンニング

この国の街づくりで、行政が最も苦手としているのはたぶん「ゾーニング」でしょうか。つまり、ここは商業地区、ここは住宅エリア、ここは工業団地、ここは官庁・文教地区といった区割りが上手くできていない都市や町が殆どなのです。何故かと考えてみるに、この国では古よりまずは農地、とりわけ水田ありきで村や町が構成されていました。水田の特徴としては、引水と湛水のために等高線に沿った開発が行われてきたのでした。国土の狭いこの国では、工業化や市街化は、水田や畑を潰す形で始まり、高度成長期においては浅海の埋め立て地が造成されましたが、農家の土地に対する執着も強く、かつ工業用地や住宅地の開発に計画性を持たせる事もない「単なる許可制」だけで対処したため、無秩序な工場立地や無理な宅地造成が横行してしまったのでした。

もし、行政が「ゾーニング」の考えに立ち、将来の青写真を描きながら許認可をコントロールしていれば、現在の様なカオスは生じなかったでしょう。今日、典型的な地方市を眺めれば、中心部には、鉄道駅を中心として昔ながらの街道町の面影を残す道幅の狭い市街中心部があり、その街を迂回するバイパス道路が造られ、その周りに田んぼを埋め立てた工場が散在し、町の郊外には乱雑に開発されたいくつかの住宅団地と大きなショッピングセンターが忽然と生まれたりもしています。

ゾーニングに必要なのは、都市計画を専門とする人材と、行政の強力な指導力だと思うのです。土地は誰の「所有物か?」という根本的な問いが、時々議論されますが、土地は基本的には「公共財」であるという信念が必要でしょう。何故なら、元々誰のものでもなかった荒れ地を開墾したのは、確かにあるご先祖様だったでしょうが、それを封建時代のルールで代々の子孫が受け継いだにしても、戦後の混乱期の農地改革で、それは「適当に切り分けられてしまった」のですから、その際の権利を必要以上に重視するのは正しくないと思うのです。土地を利用するのは、基本的にはある代だけに限定された権利として認める一方、それは有期の借地権の様なものとして、用済み後は公共に返納すべきだとも思うのです。そして、土地は上手くリサイクルしながら、将来に向けて青写真に沿って、再開発すれば良いのです。確かに10年やそこらでは目に見えた変化は生じないでしょうが、50年、100年後には、理想的で住み易く、働き易い街に変化していくでしょう。職住が接近していて、子供を育てやすく、青年が学び易く、老人が安心して生涯を終える事が出来る街の理想を追求すべきでしょう。多くの地方都市や小さな町ではその理想の追求も可能だと思うのです。ゾーニングにほぼ失敗してしまった東京は、最早人の住む街ではなくなったと言うしかありません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年6月27日 (火)

3321 シュリンクの難しさ2

3319の続きです。都市のシュリンク=インフラのシュリンクが難しいのには、いくつかの理由が考えられますが、最大のものはそれが目立った利益を生まない事でしょうか。都市を拡大する局面では、広げられた土地を人々がローンを組んで買ってくれ、それに従って公共サービスや流通業も拡大して行けた訳で、経済的な「回転力」もあったでしょう。しかし、シュリンク局面では、シュリンクによって誰かが際立った利益を上げ得る仕組みは考え辛く、シュリンク工事に必要な費用の出所が見つからないのです。敢えて言うなら、インフラが縮小する事によって、インフラの維持に係る自治体の出費は抑制できる程度でしょう。

ならば、もっと大所高所から物事を考えてみる必要が出ると言うものでしょう。つまり、50年後100年後の青写真を描き、インフラの修繕や更新のタイミングで、シュリンクを織り込んでいくしかなさそうなのです。そのためには、改めて「公共財」という概念を明確にして進める必要がありそうです。例えば、土地の個人所有の権利が強すぎる国では、公共事業は進めにくいでしょう。公共工事を進める中で、個人所有の小さな土地が、工事の障害になるなどの例は枚挙に暇が無い程です。

一方で、海外では、街並みの景観維持のために、建物の高さや形や色合いなどにも細かな規制が掛けられたり、あるいは、道路整備のために個人の権利が抑制されたりといった例が多い様に感じます。いずれにしても、ある時期に国や各自治体が一斉に、方向性をシンクロさせた「長期的な将来像」を描いてみる必要はありそうです。それは、単に経済的なメリットだけを求めるものではなく、少子高齢化社会になっても、人々が幸福感を感じながら暮らせる場所とする必要があるのは言うまでもないでしょう。投稿者が考える具体的な青写真については、稿を改めます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年6月26日 (月)

3320 食糧・水・エネルギー問題

N羽宇一郎著の新書を読みました。若い頃、商社で食糧を買い集めていた経験の長い氏の、人口増に対応が難しいとされる食糧問題の提起には説得力があります。本の中で、同時に氏が水問題とエネルギー問題に同じ程度のページ数を割いているのには、予てより同じ問題意識を持っていた投稿者としても納得できるものでした。つまり、食糧生産には、穀物重量の何十倍もの量の水が必要だと言う事実があります。嵩だけで見れば、小麦1㎥を作るには、その数千倍、穀物をエサにして育てる牛肉の場合には、数万倍の量の水が必要な計算になります。これは「バーチャルウォーター」と呼ばれ、環境省のHPでもそのそれぞれの食糧に対する見水の必要量を換算する「バーチャルウォーター計算機」がアップされています。

さて、食糧自給率が4割弱とされているこの国では、不足している大量の食糧の輸入している現状ですが、結局それは海外で農業灌漑に使われた大量の水資源を輸入していると同じ事になるのです。その絶対量は、なんと琵琶湖3杯分にも上るというのです。その意味するところは、輸入相手国で旱魃が起これば、その輸入が止まってしまうということなのです。自国の消費を抑制してまで食糧を輸出してくれる国などどこにもないからです。

同様に、現代においては食糧生産は高度に機械化されていますから、地下水の汲み上げ灌漑電力や作付、管理、収穫に使う大型農業機械の化石エネルギー、加えてその農産物を海を越えて輸送するエネルギー等、多大なエネルギーを費やしてもいるのです。これを、バーチャルエネルギーと呼ぶとすれば、その量も多分原発何個分かに相当すると想像しています。つまり、世界の水問題やエネルギー問題を受けての食料問題は、全てこの国にとっても大問題であり、しかもその比重はあまり変わらないのです。その3つの問題の中で、最も早い時期に顕在化しそうなのは、たぶん水問題でしょう。過酷な旱魃と現状は大量に汲み上げている地下水の枯渇が同時に起これば、その年に彼の国の農地の収穫は壊滅的な打撃を受けるでしょう。例えば、5%のある穀物の供給不足は、たぶん2倍に迫る価格上昇を招く筈なのです。それは、たぶん生産可能な農地や食糧そのものを巡っての新たな紛争を招くと容易に想像できます。今のうちに、この状況を緩和する政策が不可欠なのですが、今の政治屋にこの危機感を持っている人がどの程度いるのか、延々と続くレベルの低い「椅子取り合戦」を眺める限り、暗澹たる気持ちにならざるを得ません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年6月24日 (土)

3319 シュリンクの難しさ

出張から戻って投稿再開です。さて、21世紀入って少し経った頃にこの国の人口はピークを打ち、減少局面に入りました。偶然ですが石油埋蔵量の半分を消費してしまった時期にも重なります。人口減が加速し、エネルギー源も心細くなってくる今後、考えなければならないのは社会の縮小という課題です。人口がドンドン増え続けた高度成長には、社会が膨張しました。例えば、特に人口の集中が著しかった東京を中心とする関東圏では、山を削り、谷を埋め、それでも足りなくなって先祖伝来の田畑を潰して、工場団地や住宅地を増やし続けました。都市部では、川の上に道路を懸け、地下にはモグラの様に地下鉄を張り巡らし、高層住宅を雨後のタケノコの様に増やし続けてきたのです。結果として、村が町になり、それがさらに市となって膨張をつづけたのでした。今、関東平野を新幹線で進む時、家並みが全く途切れる事無く続くのを見て、唖然とさせられます。東京と衛星都市の間に近郊農業の農地が広がっていた関東平野のイメージは、既に過去のものとなってしまっていたのです。

しかし、その都市部でも、古い大規模団地や下町などでは、既に少子高齢化が顕著になってきています。高度成長に広げ続けた社会インフラ、つまりは道路、上下水道や道路、公共施設などは、多くの自治体で既に「お荷物」になりつつあるのです。広がりきったインフラは、既に耐用年数を超えている部分の比率が増えて、今後はメンテンナンスや更新の費用が自治体の財政を圧迫し続ける事は素人が考えても容易に想像できるでしょう。事実、上下水道の漏れ事故による道路の陥没事故は、既に日常茶飯事になってきました。

早急に考えなければならないのは、たぶん都市をシュリンクさせる事だと思うのです。広がりきった都市を縮小させるのは、しかし簡単な事ではありません。若い頃必死で働き、多額のローンを組んで買った、土地や家をあっさりと手放して、都市中心部の高層アパートに喜んで移り住む人はそれほど多いとは思われないからです。もし、住人の意思ではなく、外的要因での社会のシュリンクが起こり得るとすれば、あまり考えたくないストーリーではありますが、大都市圏を襲う大きな災害でしょうか。インフラがズタズタに寸断された都市には、もはや大きな人口を支える機能は残されてはいないでしょう。戦時中の様に、地方に縁故を頼って「疎開」するしか方法は無いのです。人が住めなくなった都市こそ、皮肉ではありますが再開発やシュリンクをする好機が到来したと言えるのかも知れません。しかし、物理的なシュリンクの前に、頭を冷やして「はて?何故私たちは都市に群れて住むようになったのだったろうか?」と自問してみる必要があるでしょう。今こそ、ゴミゴミして、忙しいだけの都会暮らしと、時間がゆっくり流れて緑豊かな田舎を、改めて比べてみて、どちらが幸せなライフスタイルかを考え直してみるべき時期だと思うのです。田舎に再度人口が戻り始めるタイミングこそ、実は田舎の町をコンパクトに設計し直す絶好のタイミングになる筈なのです。いずれにしても50年、100年単位での長期計画が必要な難しい話ではありますが。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年6月21日 (水)

3318 今という時代2

3317ではエネルギーから今という時代を眺めてみましたが、ここではモノという側面から見てみましょう。この国は、戦前・戦後のモノの無い時代を経験し、高度成長期を通じて憑りつかれた様にモノを求め続けてきた様に振り返っています。いわゆる三種の神器や3C等の「耐久消費財」を手に入れるために、ローンを組み隣に負けない様に取り揃えたのでした。それが一段落すると、今度は住宅です。主に私鉄会社が山を削り、谷を埋めて造成された「新興住宅地」の狭い土地に、ギッチリと二階建ての家を建てたのでした。それが土地不足で行き詰ると今度は、高層マンションが建設され、より高く見晴らしの良い高層階に住居を求めたのでした。

殆どの新しい住宅には、所狭しと便利な家電が溢れ、近くのスーパーやショッピングモールに行けば、日用品や食糧が溢れる様に並べられています。駅前の大型家電店では、次々に新しくて高機能で大型の家電を、これでもかと展示販売しています。それどころか、最近はいわゆるネット通販で、欲しいと思ったものが、翌日か数日内に手元に届く物流システムが出来上がってしまったのです。モノに溢れた生活スタイルは、その背景に「便利中毒」が隠れていると投稿者は疑っています。便利には、楽をして結果を得ると言う意味合いもありますので、ネットでボタンをポンと押せば、殆ど待たずにモノが手元に届くと言う便利さは、さぞ便利中毒者を増やしているものと想像できます。

家電にしても、「全自動」を売り物にした銘柄も多く売り出されていますし、今や「全自動車?」が登場しようとしています。ここでの結論としては、便利に(楽に)、大量に手に入る様になった物流システムが、便利中毒=モノ中毒を増やしたのではないか、としたいと思います。問題は、この様な時代が、果たして持続可能か否かという点だと思うのです。否の場合は、間もなくこの様な便利でモノに溢れた時代がやがて終わり、不便で常にモノに渇望する時代に戻って行くしかないのです。そうなる前に、私たちは自ら進んでその様な時代に対応する訓練を積んでおくべきだとも思うのです。更に続きます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年6月20日 (火)

3317 今という時代

今という時代を、環境と言う切り口で見てみる事にします。さて、たった今の状態を眺めてみると、エネルギー的には石油・LNGは、一応安定的に供給されている様ですし、価格レベルも消費国側にすればまあまあで推移している様ではあります。従って、原発の再稼働がボチボチ始まっているにしても、そこへの依存度は限定的だと言えるでしょう。という事で、石油を燃料とする車や航空機の関連産業もそれなりに髙い水準を保っている様です。

しかし、これは現在の瞬間風速であり、今後どうなるかは保証の限りではないでしょう。パリ協定によるCO2削減圧力はジワジワと効いてくるでしょうし、石油そのものの供給が、今後とも安定して行われるという保証は何もないからです。産油国の周りは相変わらず「キナ臭い」状態ですし、グローバルなパワーバランスも微妙に狂い始めてもいます。従って、ポスト石油エネルギーに位置付けられている「水素」だって、それが石炭や原油から搾り取られる限りにおいては「ハードエネルギー」である事には違いが無い訳です。水素を絞った炭化水素(石油や石炭です)からは、多量のCO2が大気中に排出される事になります。これでは、石油を直接燃やすのと何ら変わりはないでしょう。

エネルギーから見る限り、石油を完全に代替するエネルギーは、未来永劫出てこないと考えるべきでしょう。私たちは、太陽光、太陽熱、風力、、波、バイオマス、水力といった、太陽光が形を変えたいわゆる再生可能エネルギーを賢く組み合わせて、質素に暮らす方法を編み出さなければならないのです。従って、石油に依存する車や航空機といった「石油系交通機関」の使用も、可能な限り抑制して行かなければならないでしょう。それを補完するのは、当然の事ながら環境負荷の小さな鉄道の活用であり、人力移動手段である自転車などでしょう。都会では、もっと公共の貸自転車を増やすべきでしょうし、田舎でも自転車を多用して高齢者の老化を防止するべきでしょう。決して、自動運転車を導入して足腰を更に弱くする愚策は行うべきではありません。概して言えば、今という時代は「時代の折り返し点」であると考えるのが妥当だと思うのです。特に、エネルギーに関して言えば、間違いなく石油時代のターニングポイントであるのは間違いありません。続きます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年6月19日 (月)

3316 アスベスト問題

NHKで取り上げられた公営住宅における室内でのアスベスト吹付問題については、全く行政の怠慢としか言いようがありません。アスベスト問題は、その使用が停止されて終わりという問題ではないからです。飛散したアスベスト繊維を吸引した人が発症するのは、下手をすれば数十年後というケースもあり、静かなる時限爆弾と呼ばれる所以です。数十年前に建てられた公営住宅の天井裏などに、断熱・防音あるいは結露対策として、アスベストの吹き付け塗装が行われた訳ですが、その図面や工事記録が廃棄されているケースが多かったのが大問題になっているのです。

実際の建物にアスベストが残っているかどうかは、実際に壁や天井の吹き付け物を採取し、検査を行ってみないと事実が判明しないのです。これは非常に手間の掛かる調査で、かつ住人の移動によって、アスベスト被害の発生する可能性がある人は、事実上把握できないのではないかと懸念されます。

かくなる上は、可能性がある人たちに、健康診断を受けてもらい、疑わしい人たちにはさらに精密な診断を行う、消極的な作戦しか残っていない様に思えます。アスベストは、何も住宅に限った話ではなく、使用が中止された後でも、例えば屋根材などには数%のアスベストの添加が認められていたのです。同時期には、車や鉄道車両や航空機のブレーキパッドにもアスベストが使われていましたので、それらが大気中に飛散し、今年配となった人たちは、知らず知らずのうちに吸引していた可能性も高いのです。いずれにしても、発症の可能性のある人を絞り込まず、初期症状の内に発見・治療できるような啓発活動が欠かせない動きになるでしょう。アスベスト問題は、終わったのではなく、今回の報道でむしろ今後数十年続く長期的な問題であると再認識されただけなのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年6月16日 (金)

3315 多忙中

数日の出張から帰って、投稿の再開です。何故か最近忙しくなってきました。環境屋を名乗って、省エネやら再エネの重要性をお経の様に唱えて、あちらこちらに首を突っ込んできたのですが、それらの切れ切れのネットワークが繋がってきた様なのです。加えて、あまり気が進まないながら、頼まれた事だけを引き受けてきた「前職」関連も、ここにきて急にやはりネットワークが復活したり、新しく繋がったたりして少し驚いています。国際共同開発と言う名の「海外下請け」の仕事はあまり腹に入らないと、早めに卒業した業界ですが、所詮は技術屋のなれの果ての投稿者は、やはりモノ造りが好きだった様なのです。もちろん、環境人間ですからモノ造りといえども、それに使用する資源やエネルギーは極限まで絞り込む必要がある事は曲げません。

再エネについては、推してきたバイオマスも徐々にではありますが、今住んでいる地域でも普及が進んできていますし、新たに農業・畜産残渣、具体的にはもみ殻や畜糞・鶏糞の類をエネルギー化するプロジェクトにも巻き込まれてしまいました。もちろん、その方面に首を突っ込んで、巻き込まれる事をむしろ望んでいたので、当然の成り行きでもありますが・・・。

いずれにしても、誰かに頼りにされる事は、投稿者の様な年齢になってしまえば、むしろ嬉しい事になっていて、活動費が自前で賄えるのであれば、ボランティアでも参加したい程なのです。残念ながら竟の住み処を建てたばかりで貧乏なので、お金がいただける仕事のついでに、趣味の世界?にも立ち寄ると言った動きにはなってしまうのですが・・・。それにしても、お金のいただける仕事がボチボチと入ってくる事も有難い事ではあります。お蔭様です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年6月11日 (日)

3314 車「飛行」事故

東名高速で、まさに車が空を飛ぶ事故が起こりました。翼を持たない車が空を飛ぶには、少なくとも十分な助走スピードと、飛び上がるためのランプウェイ(スロープ)が必要です。今回の場合、事故車は一度走行車線のガードレールに接触した後、追い越し車線に飛び込んで、中央分離帯の土塁に乗り上げた結果、「離陸」してしまった様です。この間ブレーキは踏んでいない様なので、たぶんドライバーは意識が飛んでいた可能性はあります。

しかし、問題はこの土塁の形状なのです。土塁は、もし走路をはみ出しても、比較的安全に車を受け止める役割を負っているでしょう。それを超えた場合には、中央分離帯上のガードレールが反対車線に飛び出すのを阻む役割を持っています。しかし、今回の事故の場合、この土塁がジャンプのためのランプウェイになってしまった様ですので、事故原因の追究の中で、この点が問題にされ解明されるべきだと思うのです。一体何キロのスピードでこの土塁に侵入すると、ガードレールを飛び越えて反対車線に飛び出すのか、と言う点です。もし、高速道路の追い越し車線で普通に到達する110-120/h程度でその可能性が出るのであれば、それは道路構造の欠陥である可能性が出てきます。

事故現場の道路を「ストリートビュー」で見る限り、走行路の舗装部分と中央分離帯の土塁の間には、縁石がなく容易に草地に飛び込む可能性がある構造です。その草地が、傾斜した土塁に滑らかにつながっているので、それなりのスピードで突っ込むと、ガードレールを容易に飛び越し得ると考えられるのです。この様な構造が、東名のこの部分だけの特異な状況なのか、あるいは他の区間でも普遍的に見られる「普通の構造」なのか検証してみる必要はあるでしょう。本来なら、舗装部分と草地との間は浅い溝になっているか、あるいは相応の高さの縁石になっているべきなのでしょう。現状のままでは、同様ケースの事故再発が懸念されます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年6月10日 (土)

3313 IoTって何?

久しぶりに講演会なるものを聴講し、IoTについて少しだけ理解が広がった様です(のかも知れません)。さて、IoTについては、毎日の様にニュースやネット上に流れ、最早耳タコ状態とも言えそうです。そんな訳で、何となく知っていたつもりのIoTですが、正直に告白すれば、それを活用したIndustry4.0だか4.5だかも、どこか遠くの出来事の様な気がしていました。

しかし、事態はドンドン先に進んでいる様です。IoTとは、単にモノをインターネットにつないで、遠隔監視したり、操作したりする程度だと思っていましたが、そのインターネット上の「クラウド」自体が、ドンドン進化している様なのです。今やクラウドでは「何でも出来る」と言っても良さそうなのです。クラウドは、それ自体が巨大なデータのストレージであり同時にベースであり、その中では色々なボットが動き回り、種々のモジュールを使えば、新たなビジネスも起こせるし、もちろん製造システムの近代化にも、あるいは双方向(音声&文字)翻訳など、およそ出来ない事を探すのが難しいくらいです。

かと言って、IoTやネットが全てで、完ぺきであるというつもりはありません。何故なら、肝心なのは、モノや私たち自身の生身の体なのですから。IoTが何をしてくれようが、ネット上のクラウドがどんなサービスをチラつかせ様が、腹が減った時に空腹を満たしてくれる訳でも、喉が渇いた時に水を出してくれる訳でもないからです。ならば、出来るならば、ネットなど通さずに、直接自分の足や手を使ってモノにアクセスし、それを感じたり味わったりしたいものだとも思います。いくら、Holensで現実の世界にバーチャルな「物体もどき」を浮き上がらせようが、それを手に取って、口に運んで食べる訳にはいかないのです。結局IoTで、自分の手が少し長くなって、アクセスする足がとんでもなく速くはなるのでしょうし、外国人と容易に会話する事も出来るのでしょうが、所詮自分の五感で感じ、頭で認識して判断する事は、人間である限りは変らない訳で、IoTやクラウドでそれが変るのだとしたら、自分としてはそんなものには「あまり」関わらず、今のままで生きて行こうとは思っています。もちろん、自分の手足や頭脳の延長としてならば、少しは利用しますが・・・。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年6月 9日 (金)

3312 脱フロン=省エネ

フロンガスが、オゾン層を破壊すると言う理由で、使用や生産が抑制されて、2020年からはHCFC(塩素を含む冷媒)が一切生産できなくなる事によって、オゾン層破壊には一定の歯止めが掛かる事にはなります。とは言いながら、既存のエアコンや冷蔵・冷凍設備で使われている、フロンや代替フロンは、機器の交換でもない限りはそのまま保持されるので、問題が無くなる訳ではありません。むしろ、機器の交換で抜き出したガスは、費用を払って無害化処理する必要があるため、経済性を優先する悪徳業者は、これを大気放出により処理してしまう「犯罪」が懸念されるのです。

一方で、フロンガスや代替フロンガスは、非常に高い温暖化(GHG)係数を持っているガスでもあるのです。これが大気放出された場合、CO2に比べ2ケタ高いGHG係数により、温暖化を加速してしまう事につながるのです。フロンは、空気より軽いので、大気に放出されると成層圏の高い高度まで上昇し、そこで安定的に留まり、温暖化を加速する訳です。結果として、層の厚みはCO2よりずっと薄いものの、しっかりした膜の様に地球からの赤外放射をブロックするのです。

その対策は、多くは無さそうです。投稿者が良いと考えているのは、フロンガスや代替フロンガスを石油系ガスで置き換えてしまう方法なのです。これには良い点がいくつかあります。石油系ガスには、ブタンやプロパンなど豊富な種類があるので、それらを混合する事により、ガスの性状のデザインが容易である事があります。しかも、気相から液相に圧縮するのに要する馬力は、フロン系ガスに比べて3割程度低く抑えられるという「省エネメリット」も期待できるのです。このメリットを利用すれば、フロンガスの回収や破壊の費用は十分捻出出来てオツリもたっぷり期待できます。

もちろん可燃性ガスである石油系冷媒には、その取扱いに十分な注意も必要です。しかし、考えてみれば、屋内にガス配管が設置されているのは普通の状態なので、それと同等の安全基準を守っていれば、何ら問題は生じないでしょう。何より、私たちには冷暖房に関して、3割程度の省エネポテンシャルが残されている事は、今後の省エネ活動には心強い話ではあります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年6月 8日 (木)

3311 品質管理?

久しぶりに、品質管理に関して良い話が聞けたので、忘れない内に書き留めます。結論は、非常にシンプルで品質管理とは「良い設計情報を素材に転写した際の精度」であるという一言で表現されるのだそう。もちろん、悪い設計情報で作られた製品の品質が良かろうはずもありませんから、先ずは「良い設計」が為される事が大前提ではあります。その上で、設計図通りにモノが作られておれば、取り敢えずは「製造の品質管理」はOKと言うことになるのでしょう。

では、良い設計とは何かを考えれば、実は頭が痛くなりそうです。つまり、消費者(市場)が何を求めているかを把握し、それを満足するクオリティと価格を実現するための、素材の吟味と形状・機能の設計を行い、加えて消費者(ユーザー)が気に入る外観デザインを採用し、しかも市場が期待する耐久性を実現する、と言ったとても一言では表現できない諸条件をクリアする必要があるからです。

つまり、これまではと言うか伝統的な品質管理は、専ら製造現場における品質管理を問題にしていましたが、今後は「設計の品質管理」まで、枠を広げて考えなければならない、と彼の講師は主張するのです。しかし、考えてみればそれでもまだ足りない様な気もしてきました。では、経営の品質は放っておいても良いのか、従業員の品質?は、あるいはマーケティングの品質は、あるいはアフターサービスの品質は、などとさらに枠を広げればキリは無い様でもあります。その意味で、品質管理と言えば狭い意味になりますが、品質保証と言えば枠がかなり広がり、品質マネジメントとすれば、企業活動全体に及ぶ概念になる筈なのです。そこまで、突き詰めて考えている企業がどれほどあるのかを想像してみれば、この国の企業もまだまだやるべき事は多いと言えるでしょう。その前に、この国の(政府)のクオリティや国民(文化)のクオリティについても、腰を据えて考えてみなければならないとも思います。それについては、稿を改めて考えてみます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年6月 7日 (水)

3310 温暖化論議

B国のパリ協定からの脱退問題が話題になっている様です。今回も、問題の本質は、「環境か経済か問題」にある様に見えます。B国第一主義とは、結局経済で一位のポジションを、今後もダントツで維持したいという、世界一強かった国力(Pax Americana)神話を忘れられない彼の国が、夢よもう一度と願って送り出した新リーダーではあったのでしょう。

しかし、金儲けでは成功した新リーダーも、その他の政策では筋の通ったものを持っていない事が露呈してきた様です。その他の中には、世界でのパワーバランスを鳥瞰した外交や経済以外でのG7などでのオピニオンリーダー力やあるいは文化面での発信源としての立場とか、更に言えば今回の環境保全でのリーダーシップとかが含まれるでしょう。否定からは、決して何も生まれないのは、経験上も間違いないのですが、新リーダーは、日々#ツィートで誰それはダメだ、何々はやらない、とヒステリックに叫ぶ否定人間の様に見えます。

そうではなくて、温暖化論議も含め、外交問題も、テロ問題でさえ、全ての問題は「未来に向けた問題」でもある事は再度確認する必要があるでしょう。未来は確実に現在に向かってくるのですが、私たちは歴史を否定しけなす事は出来ても、未来は否定し様がありません。未来は、じっくり考えて、現在から少しずつ積み上げていくものだからです。その意味で、是非全ての国のリーダー(のみならず企業リーダーにも)には、未来の青写真作りに強い責任を持つ事を自覚して貰いたいものです。全ての決議は、まだ見ぬ未来社会の子孫の利益と地球環境の持続可能性に資するものでなくてはならないのです。○○ファーストと言う言葉には、セカンドやサードやましてや列の最後尾の人達は顧みない、と言うニュアンスが滲み出ていると思うのです。リーダーは、口を開いて政策や決定を軽々に口にする前に、子孫幸福と地球環境の永続性による「✔」を必ず入れて貰いたいものです。思いついた事を、日々#ツィートに書きなぐるなど、何をかいわんやでしょう。書いている内に、このブログではご法度としている批判になってしまいそうですが、これはあくまでも単なる「愚痴」ですので・・・。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年6月 6日 (火)

3309 飛行機事故に思う2

墜落した飛行機の残骸の写真を見ると、それが元はジュラルミンという金属で作られていたとは信じられない程ひどくつぶれて山肌にへばりついている様に見えます。航空機は、大型でも小型でも、基本的にはスキン+ストリンガー+フレーム構造を採用しています。スキンとは、胴体や翼の外板をさし、ストリンガーとは長手方向に伸びた細い骨をさします。そして、胴体の断面構造を形作っているのがフレームです。翼では、ストリンガーがスパーと呼ばれたり、フレームをリブと呼んだりするのですが、構造は同じです。

しかし、軽金属であるアルミ(ジュラルミン)作られているとはいえ、しっかりした厚みのある部材を使って作った場合には、重すぎて飛び上がれない機体が出来てしまいます。仕方がないので、部材や外板の厚みを極限まで薄くして、軽く仕上げるしかない訳です。航空機の機体を別のモノに例えるならば、それは張子の虎の様だというしかありません。見かけ上、確かに形は保ってはいますが、手で少し力を入れて握るとクシャリと潰れてしまうのです。残念ながら、今回の事故でも、それが見事に証明されてしまった様なのです。

もう一つの視点は、パイロットや乗員が乗る座席ですが、軽量化のために非常にシンプルに作られています。例えば、激しく墜落した場合に、車の様にエアバッグが膨張したり、座席のクッションが身を守ってくれる事はないのです。座席のシートは薄く、墜落の衝撃で座席が外れて外に放り出される可能性も高いのです。座席の強度は、辛うじて「胴体着陸」程度の衝撃には耐えられる様には設計されている筈ですが、それも航空機の価格次第の部分も大きいでしょう。安い航空機は、エンジンも非力なので、機体構造や座席などの保安装置も簡素にして軽く作られている事でしょう。いずれにしても、今回の事故は、富山空港を飛び立って、すぐ後ろにそびえる立山連峰を超える最短ルートを通った様なので、離陸後はまだ燃料もたっぷり入っているし、フル4人搭乗している、重量MAXの状態で、高山超えに加え、悪天候という最悪の条件が重なった、起こるべくして起こった事故の様に見えてしまいます。ベテランの機長が、何故?の疑問は残りますが、これまでの事故でも真の原因は、乗員が亡くなってしまっている場合は実はよく分からない場合も多く、いわゆる「魔が差してしまった」というしかないのかも知れません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年6月 5日 (月)

3308 飛行機事故に思う

また、小型飛行機の事故が起こってしまいました。飛行機事故には、もちろん多くの原因が数えられるのでしょう。整備不良や経年劣化による機体構造やエンジン・操縦系統の不具合、パイロットの体調変化、気象条件(気流)の悪化、視界不良、燃料切れ、等などです。大きくは、機体側の不具合と、ヒューマンエラーに分けられそうです。悪天候下の飛行も、もちろん判断ミスなので後者に入ります。今回の事故が何であるにせよ、北アルプスという険しい地形が根本原因になっている事は間違いないでしょう。切り立って、3000mを超えるアルプスの山並み、その谷を吹き抜ける複雑な気流、もちろん視界だって刻々と変わる事でしょう。単なる、平坦な地形の上を飛ぶのとは、全く異なる厳しい条件での飛行とならざるを得ないのです。

その一方で、やれ人が乗れる「乗用ドローン」だとか、車にプロペラと翼を付けた「空飛ぶ自動車」の開発だとかがニュースを賑わしている風潮は、全く腹に入らない話ではあります。車は、道路という平面を走る、いわば2次元の乗り物です。しかし、飛行機は、それに高さという次元が加わる3次元の乗り物であることを忘れてはならないでしょう。それに、気象や地形といった別の次元も加わりるのです。次元が一つ上がる事によって、事故率が2倍程度におさまる訳ではないでしょう。それは、いわば1次元の乗り物である鉄道の事故率と車の事故率を比較してみればすぐ分かります。鉄道事故の殆どは、対車や対人が殆どでしょう。車では、事故率は鉄道の倍などではなく自乗かそれ以上で効いてくる筈なのです。ましてや、3次元ではべき乗ですから、もっと恐ろしい話になるでしょう。

実際には、航空事故の事故がそれほど目立っていないのは、航空安全に関してはうるさいほどのチェックが義務付けられているからです。航空機を作る原材料から、製造工程はもちろん運行、整備に至るまで、隙間の無い様にルール化されているのです。ですので、空を飛ぶ乗り物を、人が乗れるドローンや翼を持つ車などと安易に代替できるなどと考えるべきではないのです。乗用ドローンで、仮にたった1枚のプロペラの羽根が折れただけで浮力のバランスが崩れて墜落してしまうでしょう。整備の悪い車が故障しても路上で止まるだけですが、整備不良の空飛ぶ自動車は簡単に落ちてしまう筈です。もし、それを見越して多重安全策を施せば、それは重すぎて飛び上がれないシロモノになってしまうのです。続きそうです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年6月 4日 (日)

3307 環境教

このブログを始めた頃、色々な言葉を「発明」しました。もちろん既にある言葉のモジりとか、勝手な略語とか、言葉の組み合わせで作ったものが殆どですが。その中に環境教というものもあったのです。環境人間を志したまでは良かったのですが、では何を拠り所にしていけば良いのかさっぱり分からなかったのでした。そこで、勝手ながら自分で環境教と言う教義を創り出して、前に進もうと考えた訳です。

もちろん、投稿者程度の平凡な頭では、良い知恵など浮かぶ筈もありません。そこで、本を読み漁る事に没頭したのでした。環境とか再エネとか、本のタイトルだけを見て手に取り、片っ端から読んでいったのです。その中で、最も高い頻度で繰り返し出てくる言葉が「持続可能性」だったのでした。もちろん、投稿者としてはこれに飛び付き、教義のだ一番目に据えました。

とは言いながら、持続可能性とはいかにも抽象的な言葉ではありました。更に、教義を考える中でぶつかったのは、ネイティブアメリカンの教えでした。それは、意味としては「決断しなければならない事が出来た場合には、7世代後の子孫の幸福を優先せよ」と言うものでした。つまり、過去の「凡例」に捉われがちな、頭でっかちの現代人に対して、7世代後のまだ見ぬ子孫を優先させた決議を求めている教えなのです。B国やこの国でも、○○ファーストと言う言葉が流行っている様ですが、もちろんこれは現世代を優先すると言う視野の狭い考え方の最たる例でしょう。

政策にせよ、企業判断にせよ、あるいは個人の日々の決め事にせよ、変らない事に価値を見出し、まだ見ぬ子孫の幸福を望んでいれば、自ずと方向は定まる筈なのです。投稿者としては、これにもう一つ付け加えました。それは「不便を楽しむ」と言うものです。便利な生活は、とかく資源やエネルギーの浪費につながるものだからです。自分の体を動かして働きかけを行えば、体は健康になり、資源やエネルギーを節約する事につながるでしょう。便利な生活をそのままにして、再エネで必要な電力を賄えば良い、とする現代の「環境政策もどき」には、したがって賛同していません。自分の教義にモトルからです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年6月 3日 (土)

3306 世界最大の航空機

B国で、世界最大の航空機がロールアウトした様です。大まかにいえば、エンジンの数からみてB747の1.5倍ほどのスケールの航空機と言えるでしょうか。胴体は2つに分かれていて、その間にペイロードとなるロケットをぶら下げるのだとか。200トンを超えるペイロードを運べるこの航空機で、到達可能な最高高度からロケットを発射すれば、たぶん1段目の巨大なブースターロケットが節約できるのでしょう。

確かに、資源が節約できて、たぶん今よりより大きな衛星の打ち上げも可能となるのでしょう。しかし、考えてみなければならないのは、ここでも入口からの「押し込み」しか考えていないという片手落ちです。何しろ今や、宇宙空間(と言っても数百キロから36千キロの静止軌道までの狭い空間ですが)には、数え切れないほどの数の衛星と衛星の残骸が、秒速数キロの猛スピードでブン回っているのです。その多くは、冷戦時代の遺物の小型原子炉を積んでいる軍事衛星で、しかも軍事機密のベールに包まれているので、その存在すら公にされてはいません。

これ以上衛星を打ち上げて、一体何に使おうというのでしょうか。通信?、観測?軍事偵察、そんなものは現状でも十分なレベルでしょう。その前に、用済みとなってしまった衛星の残骸(宇宙ゴミ)を放置したままで良いと考えているのでしょうか。ここでも、原発と同じ経済エゴがニヤけた顔を出してきます。つまり、原発の建設コストには廃炉費用は含まれてはいませんし、衛星の打ち上げコストには用済み後の回収コストなど全く考慮されてはいないのです。宇宙に浮かぶ数トンの観測衛星を、上手くキャッチし、安全に大気圏に再突入させて燃え尽きさせるには、たぶん衛星の打ち上げと同等のコストが発生するはずなのです。

私たちは、経済エゴの暴走をこれ以上許すべきではないのです。入口を作ったのなら、それと同じサイズの「出口」を準備しなければならないです。世界最大のランチャー航空機を作るのであれば、第二第三のスペースシャトルを建造して、用済みの衛星回収ビジネスを始める必要があるでしょう。もちろん、今の社会ではそんな(儲からない)ビジネスにお金を出す奇特な国や企業は現れないでしょうから、投稿者の儚い夢想に過ぎませんが・・・。以上、世界最大の航空機からの連想でした。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年6月 2日 (金)

3305 最先端産業4

ついでなので、biomimiclycatalizerに加えもう一つくらい最先端産業のK/Wを考えておきましょう。それは、高いレベルの「持続可能性」だと言っておきましょう。完全な持続可能性とは、人が何か行動を起こしたり活動したりしても、環境のファクターを1ポイントも変えない事を意味します。例えば、人が呼吸すれば呼気の中のCO2は僅かに増加しますが、それは生き物の代謝なので、無視するとしましょう。しかし、車のエンジンを掛けるという行動は、それを運転する人の基礎代謝に比べ、何桁も多くのCO2やNOxや排熱や浮遊粉塵を排出するでしょう。

それに比べて、自転車を転がす場合は、呼吸が少し荒くなるくらいで、環境に与える負荷は無視できるでしょう。つまり、上記のK/Wの観点では、自転車産業こそ最先端だとも言えるのです。事実、自転車は1800年代初頭に発明されて以来、着実にその技術レベルを上げ続け、競輪やロードレースで使われるレベルの自転車には、現在でも最高峰の技術が注ぎ込まれてもいるではありませんか。そのレベルは優に航空機に使われる技術をを凌駕している筈なのです。人間が持続的に出力できる小さな馬力を、最大限に活用するためには、日常使われる自転車には、もっともっと、最先端の技術を盛り込む必然性あるし、その余地も残っているのです。

つまり、持続可能性と言うK/Wを持ち込む事によって、従来型のありふれた産業を、最先端に持ち上げる可能性が開けると言うことにもなるでしょう。投稿者としては、製鉄産業、工作機械産業、車産業、造船、建設業、流通業、農林業からサービス業に至るまで、もう一度このK/Wを視点に据えてチェックしてみれば、新たな展開も見えてくると確信しているのです。一旦この表題の稿を終えます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年6月 1日 (木)

3304 最先端産業3

この表題を更に掘り下げてみます。例えば、車産業の世界では、いまやHVPHVは当たり前で、最先端はEVFCV、自動運転などでしょうか。中でも、燃料電池を搭載したFCVは、次世代の車として日夜研究が進められていると想像しています。しかし、解決されていないのは、水素をどの様にして手に入れるかと言う根本課題です。石油や天然ガスの改質で作るのであれば、結局分離されて不要となったCO2が大気に放出される訳ですから、直接燃やすのと実質的には変らないでしょう。排気管から直接出るか、工場の煙突から出るかの違いだけです。他方、EVにしたって、エネルギー源が火力発電所や原発である限りにおいては、FCVの問題と何ら差はありません。

結論から言えば、最先端産業であり続けるためのもう一つのK/Wは、触媒だと断言しても良さそうです。ここでの触媒とは、太陽光だけをエネルギー源にして、水を酸素と水素に分離する機能を持つものを指します。既に、光触媒の代表選手でもある「酸化チタン」がその候補となって長いのですが、如何せん効率が数%しか達成できなかったので、経済的に実用化に至っておりませんでした。最近、酸化チタンと他の複数の触媒との併せ技で効率をかなり向上させる事に成功したとの報道があり、「やれば出来るじゃん」と言う感想を持った次第です。触媒の歴史は、結構トライ&エラーの世界ではなかったかと振り返っています。反応を起こしたり、分解するのに触媒が有効なのは、その際のエネルギー準位のハードルを下げる役割があるからですが、一つの触媒だけで少ししか下がらなくとも、複数用いて多段階に下げる事で、これまでできなかった反応を実現したり、効率をアップさせたり出来るのでしょう。

いまどきは、試験にもロボットが使えるので、種々の触媒を混ぜたり、それを溶液に入れて反応を促進させたりする実験も、かなりの程度は自動化も出来るでしょう。また触媒には、溶液で作用するものと、気中で(あるいは相を問わずに)作用するものなどがあり、組み合わせは事実上無限だと言えます。もちろん、現在の技術では、触媒の分子構造のどの部分が「効く」のかが判明しているものも多く、新たな触媒をデザインして創出する事も部分的には可能になってもいるでしょう。繰り返しますが、最先端の別のK/Wは「触媒の探索」だと言っておきます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年5月31日 (水)

3303 最先端産業2

どの様な技術を磨けば、最先端産業のなるのかをもう少し掘り下げて考えてみます。先ずは軽量化技術です。航空機で多用される複合材ですが、何が「複合」かと言えば、それはカーボン繊維とエポキシ樹脂の融合なのです。繊維は引っ張り強度を受け持つ一方、圧縮に強い樹脂は剛性を保つのに力を発揮します。しかし、厚みの必要な構造の場合、複合材だけではまだ重いので、複合材を皮として「アンコ」の部分には、更に軽量で剛性アップに効果的な、コア材(例えばハニカムコアや発泡材であるロハセルコアなどです)を入れるのです。もちろん、樹脂にはPPPE等の量産品で安価な材料も存在はしますが、残念ながら現在のところエポキシ樹脂に勝る耐圧縮性に勝る、あるいは安価な樹脂が開発されていないのです。

つまり、複合材の分野でも。カーボン繊維の様に電気を通さず(CFRPには雷が落ちて燃えます)、しかも強度が高い繊維や、エポキシ樹脂に変る高い圧縮強度の樹脂やさらには、もっと軽量で歪に耐えるコア材が開発できれば、もう一段の軽量化技術を磨くことも十分可能なのです。繊維屋さんや樹脂屋さんにはもう一段のブラッシュアップを期待したいものです。

軽量化に関してもう少し話を広げれば、軽量化設計技術があります。航空機には、離着陸時や飛行時に種々の荷重が掛かります。例えば主翼の付け根には、駐機時には翼の内部にたっぷり入れられている燃料の重みが掛かりますが、飛行時には翼面の浮力でそれがキャンセルされて、逆に胴体の重みで逆向きの大きな荷重が作用するのです。それは、駐機時にはダランと下がっている翼が、飛行時には逆に上側にはね上がっている事でも分かります。また、翼は重いエンジンをぶら下げる強度も必要で、飛行中は気流や操縦によりねじりや振動する力も掛かるのです。それらの荷重に抵抗するために、翼の中には多数の骨材やリブ(肋骨)が配置されていますが、それを最適に配置し、しかし最軽量に納めるのは、コンピュータに支援された「設計技術」である訳です。荷重が入る場所に、適正な「必要かつ十分」の骨を入れ、外側を強靭な皮膚である新複合材で包めば、最強の構造となるでしょう。その際参考にすべきは、自然界の造形でしょう。タンパク質やカルシウムと言ったありふれた素材だけ出来上がっていて、何千キロも海を越えて移動する渡り鳥の羽根の構造には、いまどきの最先端技術なんかはチャンちゃらおかしい程の「秘密」が隠されている筈なのです。最先端のK/Wの一つは、間違いなく生物に学ぶbiomimiclyです。飛行の事は鳥に聞け・・・。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年5月30日 (火)

3302 最先端産業? 

モノ造り産業で最先端と言えば、何故か「航空宇宙産業」と言う声が上がります。事実、元々その産業が集積している中部地域以外の複数の地方でも、この分野に参入しようと、勉強会やコンソーシアムの立ち上げが盛んな様ではあります。前職でもあり、昔取った杵柄でありませんが、投稿者のつたない航空機産業での経験談を講義をする機会も多いのですが、実はあまり乗り気ではありません。仕事なので、頼まれれば出かけますが、航空機産業には常に「最先端産業」と言う枕詞が乗っけられる事には違和感しかないのです。

航空機産業は、前の大戦での敗戦で、進駐軍により完全に葬り去られた筈でした。しかし、朝鮮戦争で多数投じられた米軍軍用機のメンテナンスは、前線に一番近い日本で行わざるを得ない事情もあり、背に腹は代えられない米国は、産業の復活を許したのでした。当然の事ながら、日本軍の軍用機は高い破壊されたり、少数は没収されたりして一掃されましたが、流石にエンジニアの頭に残った航空機工学の知識や軍用機を作った技能者のワザまでは消される事無く引き継がれたので、それがやがて戦後初の国産旅客機であるYS-11として結実したのでした。

そのプロジェクトで、技術としては成功しながら、ビジネスとしての失敗を経験した日本は、その後何度かのチャンスがありながら、結局MRJの開発までは、航空機産業としては、ひたすらB国の下請けに甘んじてきたのでした。

一方で、航空機素材としてのカーボン繊維やそれを使ったCFRP技術においては一定のシェアを確保して、基盤を作った事は事実でしょう。CFRPは、航空機の軽量化を図りながら、しかし高剛性を保つには、現段階では最良の素材なので、軽い事が命である航空機には不可欠の材料だからです。しかし、軽くて剛性が髙い材料を使う事が最先端技術なのではなく、構造として極限まで安全率をそぎ落とした設計技術こそがキモだと言えるのです。しかし、それなら、何も航空機に限った話ではない筈です。例えば、今の車の安全性や快適性を損なわないで、車重を半分に出来る技術があれば、大雑把に言えば今の燃費を倍に改善できる可能性もあるのです。今は、30/ℓ代の後半で業界最高燃費と言い張っている性能ですが、一気に50/ℓを大幅に上回る可能性がある事を意味します。燃料消費を半分にする技術では、2030年のCO2削減目標も簡単にクリアできるでしょうし、そのための新たな産業を起こす必要も出てくる訳です。

開発に苦労して、最初から負け戦覚悟の新型国産旅客機プロジェクトではなく、今得意分野の一つとなっている車技術を、最先端にピカピカに磨くのもアプローチとして有効でしょう。つまり最先端技術とは、どの分野でも磨く事が可能だと言いたいのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年5月28日 (日)

3301 自然資本会計2

自然資本会計と似ているものに「環境会計」と言う概念がありますが、両者は多分異なる分野の専門家が定義したのでしょうが、重なる部分が非常に多いと言えるでしょう。つまり、自然資本会計が、水や空気や動植物や地下資源といった自然資本の消費に着目しているのに比べ、環境会計は、自然資本の消費の結果、環境ファクターつまりは気象や自然環境の変化に着目しているという違いだけの様に思うのです。言い換えれば、原因としての資源の消費に着目するのか、あるいは結果としての環境現象に着目するのかの違いだと言えそうです。

もちろん、前者の方が原因に直接アクセスする考え方なので、望ましいとも言えるのですが、果たしてそれが適切かどうかはもう少し議論する必要がありそうです。投稿者の立場は、兎に角あらゆる資源の消費を、今すぐシュリンクさせる必要がある、と言うものです。自然資本(資源)は、その採掘や輸送、精製から流通・消費は勿論、その廃棄処理に至るまで、多大な環境負荷を発生させるものだからです。実例として、石油1リットルの消費は、2.3㎏程のCO2を発生しますが、その採掘から実際に燃やされるまでの過程では、たぶんその数倍のCO2負荷を発生させていると推定されます。

自然資本会計であっても、環境会計であっても、同じ行動を異なる側面で眺めているだけなので、どちらが正しく、どちらが間違っているという訳でもありませんが、必要なのは先ずは今日使う筈だった石油(ガソリン)1リットルを、どうにか工夫して節約する行動を始める事だと思うです。先ずは、屋根に太陽熱温水器を上げて、夕方風呂に入るために燃やす筈だった灯油やガスを節約するのも良いでしょうし、今日車で出かける筈だった用事を、明後日の別の用事のついでにまとめて済ます、といった日常の工夫を重ねて、資源を節約し環境負荷を下げるのです。学者先生は、確かに色々な定義をし、学問に仕立て上げる訳ですが、必要なのは「実際の行動」である事には変わりはないのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年5月27日 (土)

3300 自然資本会計

あまり聞き慣れない言葉ではあります。正確な定義はさておき、投稿者が理解している範囲では、それは、企業活動が自然資本(水や空気や土地や動植物や地下資源など)に与える負荷や、依存度を評価しながら経営する事を指す、といったものになるでしょうか。具体的な経営手法は、「自然資本プロトコル」で規定される様ですが、もっと単純にその手法に近づける考え方もありそうです。

それは、「持続可能性」で評価する方法です。あるメーカーで現状の工程と、自然資本会計を考慮した工程を考えたとして、どちらが100年後の環境を考えた場合に、持続可能性が髙いかを比較してみれば良いのです。もちろん最善の方法も考えられるのでしょうが、取り敢えずは「比較法」でチェックして前に進めば良いのです。より自然資本の持続可能性の高い工程を選び取って改善を進めて行けば、自然に望ましい方向に近づく筈なのです。

もちろん会計ですから、自然資本の食い潰しが年々小さくなる様な棚卸と見直しは欠かせません。ですので、少なくとも棚卸の手法は確立しておく必要があるのは当然です。企業活動全体の棚卸が難しいのであれば、取り敢えずは自然資本への負荷が大きいと推定される、いくつかの指標に限定しても良いでしょう。製造業の場合は、意外にも調達している原材料の負荷が大きいのです。同様に、加工するためのエネルギーが、もし再生可能型エネルギーを使わない場合は、化石燃料を消費する訳で、自然資本の食い潰しが大きいでしょう。意外に見えにくいのは、物流に要する負荷でしょうか。不必要に冗長な物流ルートは、徒に環境負荷を増長させる事につながるものだからです。続きます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年5月26日 (金)

3299 植物油エンジン:SVO時代?

SVOとは、Straight Vesitable Oilの頭文字です。文字通りに訳せば、生の植物油です。これは、バイオディーゼルオイル(BDF)に対応するもので、メチルエステル化など処理の処理を施さない、絞ったままの植物油を燃料を燃やせるエンジンが必要です。昨日のニュースで、Yンマー社が、25kw程度の出力を持つBDF発電機に、オプションとしてSVOが使えるタンクを追加したという報道がありました。価格は1,500万円程になる様です。1kw当たり60万円と言う勘定です。

しかし、そのオプションの中身を推定すれば、タンクと燃料配管に加温装置を追加しただけだと思われます。実際、アメリカではディーゼル車用のSVO改造キットなるものが販売されていますが、ネット通販で100ドル程度で他に入るものなのです。その中身はと言えば、温度コントロールが出来る様になっている燃料配管を加熱する電気ヒーターだけなのです。これで、エンジンに送られる植物油(コーン油など)を150℃程度に加熱してやれば、油の粘度が下がり、ノーマルのディーゼルエンジンでも問題なく着火するのです。

通常車のエンジンは、100kw前後ありますから、上記の1500万円の発電機の替わりに、中古の車用エンジンとSVOキットと適当な発電機を入手すれば、たぶん上記の1/10程度の価格で、出力4倍程度の発電機が入手できる事になります。つまり、kw当たりの単価を1/40程度に下げる事が可能なのです。何が言いたいかと言えば、結局大メーカーが乗り出すと、この手のシステムの価格は、軽く1桁は上昇してしまうと言う事実なのです。中小企業の生き残る道は、取り敢えずSVOの様にチャレンジングな分野にも踏み込み、大手ではとても真似出来ない価格でシステム提供を可能にする事だと思うのです。車にSVOを適用しようとすれば、山の様な規制に阻まれるのでしょうが、陸上用の発電機で、もし系統連系を考えないのであれば(オフグリッドであれば)、何をしても許されるでしょう。工場で大きな電力を消費する設備を切り離して独立させ、SVOの自家発電機で電力を賄えば、契約電力も大幅に引き下げられ、電力コストも低減できる筈なのです。もちろん、燃料は近くの外食産業や給食センターから出る廃食用油を貰ってくるのです。少し高級なフィルターで濾せば、そのまま燃料にする事が可能でしょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年5月25日 (木)

3298 My strory

ラジオから流れてきた、「人は、自分の物語を作りながら成長し生きていく」と言うコメントに強く賛同しました。確かに、生まれてから物心がつくまでの幼少期の物語は、親や周囲から繰り返し聞かされて物語が出来るでしょうし、学校を出てから社会人となって、世の中を泳いできた物語は、それらを甘く、又は苦く、あるいは切なく思い返す事によって、自分の物語は補強されていく事になるのでしょう。

人は自分史を書いてみたいという潜在的な願望がある様に思います。波乱万丈の人生を歩んできた人で、もしその人に文才があれば、きっとワクワクする様な自伝が書けるのでしょうが、凡人で文才も無い投稿者の様な人間は、読む人も少ないブログでも書き連ねていくのが精々かも知れません。しかし、自分の様なささやかな人生であっても思い返してみると、結構色んなイベントがあり、分岐点があった様な気がします。ブログに書きたい事が無くなってきたら、それらの思い出の物語を少しずつ書いていくかも知れません。ボケない内に。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年5月24日 (水)

3297 安全の品質2

安全の品質に関して、もう少し具体的に考えてみます。安全の品質に関しては、確かに公的機関が存在しています。言わゆるSマーク、STマーク、PSEマークあるいは食品で言えばJASマークなどが思い浮かびます。しかしながら、これらは適用される製品なり、業界が限定されたものであり、万能のマークは存在していません。業界基準がそのままスライドしてそれをお国が追認した様な規格も少なくないでしょう。

それらの公的安全規格やマークはそれとして、ではそれを満足していれば、全てOKなのか、と問われれば、それはそうではないでしょう。品質管理には、素材や工程のバラつきやヒューマンエラーと言った予期しないリスクも内在しているからです。どれかが、管理の幅いっぱいに振れ、それを瞬間的に逸脱したとしても、通常の品質管理ではなかなか発見できない可能性が髙いのです。例えば、食品工場で、何らかの原因で製品中の雑菌の数が、一時的に増加したとしても、ロットサンプリングに引っかかるとは限りません。何故なら、全数検査は「コスト的」に引き合わないため、最初から除外して工程が組まれているからです。そのサンプリングの「最低ライン」は確かにJASに既定されているのでしょうが、誰もその基準を超えた頻度でサンプリングを行う筈はありません。コストが許さないのです。

ではどうするのが、より高い安全の品質につながるのでしょうか。それには、不断のリスク管理の見直ししか近道は見つからないと思うのです。具体的に食品工場の例で言えば、例えば工程に雑菌が入るのは、原料そのものの汚染、洗浄殺菌工程の設備の汚染、殺菌薬品の濃度や温度低下、作業員からの飛沫、空気中のカビなどの胞子濃度増加など等、ざっと素人が考えるだけでもこのくらいは思い当ります。設備や建屋が古くなれば、逆にリスク管理のレベルは上げなければならないでしょう。それを、何の疑問も持たずに、十年一日の如き安全管理を続けて行けば、間違いなく品質事故を起こしてしまう結果に陥るのです。必要な行動は、日頃からのリスクポイントの把握と、管理手法の見直しなのです。それが、日常的にコスト管理に追われている企業でどの程度行われているかは甚だ疑問と言わざるを得ません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年5月23日 (火)

3296 安全の品質

経済性やコストパフォーマンスを追及すればするほど安全性は犠牲になってしまうという「逆比例」の関係にあることは認めなければならないでしょう。科学・技術の世界では、経済性を追求する中では、結局「安全率(Safety factor)」を減ずるしか有効な方法は見つからないからです。例えば、安全率を2.0程度まで高めた設計をした場合、旅客機は飛び上がるのがやっとで、乗客は殆ど乗せることが出来ないというシロモノが出来上がってしまうでしょう。安全率を、部位によって1.2程度まで削って、更に全体的な安全率のバランスを調整して、やっと乗客を載せられる「ペイロード」が確保できる事になります。

車も同じで、ハード面や事故を起こした時の安全性を考慮すれば、たぶん「戦車の様な車」になってしまう筈です。それ対して。コストと安全性の妥協をドンドン進めて、今ある様な薄い鉄板をスポット溶接で組立てる「モノコック構造」に至ったのでしょう。車の安全率については、専門家でもないので承知していませんが、鉄板の腐食や道路からの振動なども考慮して、それなりに髙く設定されていると想像しています。

しかし、問題になるのは、設計段階の強度余裕ではありません。製品を作る生産体制というか企業体質(あるいは企業文化)こそその核心だと思うのです。最近のニュースでも、企業の不良隠しが何件か報じられていますが、隠さずに公表されたリコール案件でさえ、実際の発表までは葛藤があった筈なのです。リコールの公表は、企業にとっては利益を減ずる大きな原因になり得ますし、大きなリコール公表は時に企業存続を脅かす問題にも拡大する惧れさえあるからです。そう考えれば、安全は、製品の品質と同様に企業文化の中で育む「品質」の一部であると言わざるを得ないでしょう。ポイントは、経営層やセールス部門、あるいはファイナンス部門の圧力に負けずに、企業活動の各関門で必要なチェックを重ねながら製品を作る事に尽きるでしょう。安全品質を無視したイケイケドンドンの企業体質が、これまでどれだけの企業を潰してしまったか思い出せば、それは自明なのです。やや抽象的になりましたので続きます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年5月22日 (月)

3295 将来への不信

いま、私たちの時代を覆っている空気は、間違いなく将来への不信感(あるいは不安感)ではないかと感じています。今60代の投稿者が若かった時代、社会を覆っていたのは、ほぼ「将来への期待」だけだった、と振り返っています。つまり、今は給料が安くて、欲しいものも買えないが、来年には大幅に給料もアップするし、ローンを組めば車にだって手が届くし、ドンドン値上がりする土地価格を考えれば、無理して家を買うのも賢い投資だ、などと普通のサラリーマンも希望に胸を膨らませていたものでした。実際にも、給料袋はみるみる厚くなり、同時に不動産や物価も負けじと高騰したのでした。その頃、官僚出身であった(決して二世政治家ではありません)お国のリーダーは、「所得倍増計画」なるものを打ち出しましたが、その後の10年で、そのホラは実現してしまったのでした。

しかし、その後失われた20数年を経験してしまい、この国の自身はすっかり萎んでしまい、かつての希望は、諦観あるいは絶望にとって代わられてしまった様な気がしています。その背景としては、いくつか考えられるのですが、背景というか時代の空気として、20世紀後半の「経済爆発」のエネルギーであった石油資源の半分を既に使い切ってしまったという暗然とした不安と、先進国では少し前から「人口減少局面」に入ってしまったという不安感がないまぜになっている様な気がするのです。少し余分にエネルギーを使おうとすると、直ちに「温暖化防止」のブレーキが掛かりますし、良い製品を開発したとしても、それが爆発的に売れることなど夢にも実現しないのです。何しろ、人が減りつつあるのに、モノは余っているからです。

それもこれも、結局は進歩のオーバーシュート(行き過ぎ)でないかと投稿者はみているのです。進歩のスピードが速すぎると、それについていけない人々は、間違いなくストレスや不安を感ずるでしょう。更に時代がスピードアップすると、最早それについて行こうとする努力さえ諦め、膝を抱えて座り込むのです。交通事故が2万人以上の犠牲者を出していた時代「狭い日本、そんなに急いで何処へ行く」と言う標語があった様な気がしますが、今まさに時代進歩のスピード違反に対して、同じ警鐘を鳴らしたいと思うのです。もっと、将来の青写真を明確にしてから、ゆっくり前に進みましょう、というのがここでの提案です。そうすれば、将来への視界がもう少し良くなると思うからです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年5月21日 (日)

3294 〇際問題

最近〇際と言う言葉が気になります。例えば、国際、学際、業際と言った言葉です。「際」には、何か境界と言った響きがありますので、国際と言っても、あくまでも境界(国境)を前提とした言葉ではある訳です。ヨーロッパでは、事実上国境を廃止すると言う「実験」が続いては居ますが、それとて「EU」と言う地域とそれ以外の地域との際が問題となって、ゴタゴタが絶える事はない状況です。つまり、〇際という言葉には常に「問題」と言う修飾語が後ろに付いていると考えねばならないでしょう。つまり、国際と言う言葉は常に国際問題を抱えている訳です。国際交流や国際交渉と言った言葉も、それらの諸問題を解決しようとする試みに過ぎないということでしょう。

さて、学際です。学問の世界でも、○○学と言ったそれぞれの象牙の塔に明確な境界線を引き、○○学者や専門家といったカテゴリーに属する事を是としてきたと振り返っています。では学際問題とは何かですが、それは「タコツボ現象」と言う言葉に集約できそうです。あるいは、「お山の大将現象」と言っても良いかも知れません。自分が活動するテリトリーでは専門家ではあっても、タコツボの外や他のお山の状態は与り知らないといった状況を指します。その結果起こる事は、言わゆる専門バカという困った状況です。ある出来事は、森羅万象の中でこそ正確に把握できるのに、専門領域の中で議論すると思いもよらない「偏見」に陥ってしまう事も多いのです。例えば乗り物(車や航空機など)の事故を、ハード面からだけ議論するのは問題の本質を大きく外します。事故は、その乗り物を操縦する運転者の真理面や健康状態、あるいは交通インフラとの関連、天候や運転席の環境などまで関連する筈だからです。つまり、真の事故原因は「学際的」に追求しなければ、全容は掴めないと思うのです。

では業際問題はどうでしょう。これこそ、今最重要課題として据えるべきテーマだと思っています。製品は、特にコンシューマープロダクトは、単に機能だけ満足すればそれで良しとするものではない筈です。消費者が手に取る製品であれば、見た目のデザインや細部の出来栄え、あるいは手触りと言った「官能的要素」、長年使っても飽きの来ない使い勝手の良さ、更に言えば所有し使うことの満足感などを総合した指数で評価されるべきでしょう。つまり、モノの製造は単に優秀な技術者集団が居れば済むといった単純なものではないのでしょう。形状デザイナー、消費者心理に明るい人材、いまどきのIoTの専門家、素材の専門家、環境負荷の専門家、更に言えばそれを総合的にコントロールするプロデューサーを忘れてはならないでしょう。この国の製品は確かに機能は優れてはいるのでしょうが、決定的に足りないものは学際、業際への考慮だと思っています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年5月20日 (土)

3293 問題発見力3

自分自身の反省を含めて、技術者の問題発見力についてさらに考えてみます。技術者とは、科学的知見を利用して、社会の課題を解決するモノやシステムを提供する人々だと定義しても良いでしょう。彼らは、一つの課題が与えられると、それを満たすための最良の解を出そうと、過去の知見や技術を組み合わせたり、全く新しい技術を開発したりしながら必死に努力します。通常企業は、利益を出すためのビジネスプランを立てて、それを達成するためのプロジェクトを立ち上げます。もちろん、期間がいくら長引いても、あるいは開発費が膨らんでも、それが許される訳ではありません。どちらにも厳しい「制約条件」が課せられるのが通常でしょう。

しかし、もし一技術者にこの国の、社会の、あるいは企業の置かれた課題や問題点は何か、と問うたとしても返ってくるのは???でしょう。彼らは、課題を上から与えられる事に慣れ過ぎて、問題を掘り起こす訓練を怠ってきた結果、いつの間にかそれが不得手になっているのです。それは、技術者が起業する例が、非常に稀である事でも明らかでしょう。統計を見た訳ではありませんが、この国では起業家の多くは、いわゆる文系出身者である事が多いのです。それは、技術者は科学技術の事だけ学んでおけば良い、と言う左右を眺める事を良しとしないいわゆる「競馬馬教育」に問題があった様に思うのです。

それは、中学校を卒業してから5年間に亘って、連続しての工学教育を施す学校を卒業した投稿者故の感想という訳ではなく、その10倍の数に上る大学工学部のOBにも当てはまると思うのです。小難しい理論や公式や演習問題がぎっしりと書かれた分厚い教科書と格闘し、苦労して及第点を取って学校を出ても、先ずは簡単な部品の設計と言う課題を与えられてエンジニアとしてのキャリアを始めるだろう多くの技術者には、問題発見力が極端に不足するだろうことは明白です。そうではなくて、良い技術者を育てるためには、先ず彼・彼女をアフターサービス等広く顧客や社会に触れる機会の多い部門に放り込むべきでしょう。そこでは、顧客のニーズや自社製品の弱点や、今後開発すべき製品のイメージを膨らますことが出来る筈です。その上で、現場でモノ造りの基礎を学んだ上で、やっと本格的な製品開発や設計が出来るエンジニアになってくれる事でしょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年5月19日 (金)

3292 問題発見力2

現実の問題として、政治家や企業リーダーの問題発見力について考えてみましょう。リーダーたるものは、彼らを選んだ人達、あるいは(成り行きか順番で)なるべくしてなったとしても、国や自治体や企業の有権者や組織の構成員に対しての一定の責任が生じます。その責任とは、国や企業に、より正しかろうと思われる方向を指し示し、活動をリードする責任だと言えるでしょう。もちろん、国であれば経済運営や安全保障や外交の持続性の保証があり、企業では利益を上げて株主や従業員の生活を確保する責任もあるでしょう。

しかし、それもこれもリーダーについてくる人達をより正しかろう方向に導く、強い引率力が備わっていてのことなのです。引率力を指導力と言い直しても良いのでしょうが、いずれにしても国や社会や企業システムを上手く導くためには、常に生じている大小の問題を的確に把握し、それらに正しい優先順位を振った上で、より正しかろう解決策を打ち出していく責務が、リーダー(達)には課せられるのです。

国会や企業運営のジグザグぶりでも明らかですが、この国の政治家や企業経営者一般に欠けているのは、明らかに問題の核心を把握する能力ですが、同時に問題解決のためのプライオリティを付けたり、解決の期限を切る能力にも大きく欠けている様に見えてしまうのです。問題の解決など面倒な事は出来るだけ「先送り」し、そして問題解決に行き詰まると、引責辞任と言う名の「無責任辞任」をして、尻拭いをあっさりと後継者に押し付けてしまうのが、この国の政治家と企業経営者の歴史だったと振り返っています。いわゆる、政治の世界の椅子取りゲームあるいは回転ドアと呼ばれる交代劇や、幾度となく繰り返される企業経営者の謝罪会見の映像を思い浮かべれば十分でしょう。この国の政治史や産業史を少し眺めれば、問題は瞭然なのです。

問題発見のためには、物事の本質を見極める能力が必須である事は当然です。そのために最適な方法は、たぶん物事を多面的に観察する力だと見ています。リーダーこそ、浅くとも良いので、森羅万象に興味を持ち、広い知識を身に付けている必要がある筈なのです。例えば、国や企業の経済危機を単に「ファイナンシャル問題」に「還元」してしまうのは簡単な話でしょう。財源を確保するために、増税や不採算部門の切り捨て、つまりは選択と集中と言う殺し文句です、それで一時は光が見えるかも知れません。しかし、問題の本質はそこにあるのではなく、国で言えば少子・高齢化による社会の成熟(から老化?)への移行問題であり、企業で言えば現状分析不足と長期戦略の欠落だった筈なのです。更に続きます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年5月18日 (木)

3291 問題発見力

この国の技術者(に限らず国民全般)に欠けているものを考えると、やはり問題発見力だと言うしかありません。それもこれも、結局この国の教育に中身に起因すると断ぜざるを得ません。この国の教育は、大学教育ですらTeaching/Learning Systemに染まっているとしか言えません。つまり、教師や講義者が一方的に授業を進め、生徒・学生はただ聞いて、ノートに取ると言ったスタイルが殆どなのです。そもそも「授業」と言う言葉がダメな根源です。先生が、生徒に知識を「授ける」と言っているのですから何をかいわんやでしょう。生徒は、先生を絶対に超えられないのです。

学問は、生徒・学生が自ら志して学び取るものであって、決して一方的に授けるものではないでしょう。望ましい教育とは、本来Education/Study Systemでなければならないとおもうのです。これは、教育者側は、生徒・学生の学ぼうとする意欲を掻き立て、学ぶ側も受け身の姿勢から一歩踏み出して「学び取り」に行くアプローチを指すのです。

では、どうやれば後者が可能となるかですが、そこで必要なのが「問題発見力」だと思うのです。人は問題にぶち当たると、それをどうにか解決しようと努力する存在でしょう。そもそも、問題意識も無しに、何かアイデアや提案などがポロリと生まれる筈もありません。必要が母となって発明が生まれる様に、社会的問題(課題)を特定して、初めて社会をより良くしようとする力も動き出すのです。若く可塑性が髙い学生の内に、この問題発見力を磨き、自分の身の周りに、あるいは社会システムに在る、大小の問題を嗅ぎ分けて、それを特定する能力を磨く必要があると思うです。

もちろん、そのためには授業のスタイルも一新する必要があるでしょう。教育者側は、現実の問題やそれを示唆する様なテーマを提示し、学ぶ側に徹底して議論させ、問題とすべき事を特定する能力を磨かせるべきです。その上で、その問題を解く議論もさせる事になります。もちろん、出た結論を否定や批判してはなりません。もし、明らかに間違っているとしても、それを気付かせる別の問題を提起して、議論を元のレールに戻すのは教育する側のテクニックになるでしょう。悩ましいのは、教育者がより確からしい知識や価値観を持ち合わせていない場合には、これらの問題発見力や解決のための議論をミスリードしてしまう事にもなってしまうので、彼らの責任が増してくる事です。長くなりそうなので続きとします

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年5月15日 (月)

3290 ピンチはチャンス

3289でも書いた様に、全てのピンチは裏を返せば事態改善のチャンスだと言えるでしょう。例を挙げましょう。例えば、過去の大地震は、間違いなくこの国の建築基準を引き上げ、地震に強いビルや住宅の増加に寄与した事でしょう。また、多くの交通事故も車の安全基準を大きく引き上げたのです。

さて原発です。あの過酷な原発事故は、この国に何をもたらしたでしょうか。確かに安全基準は引き上げられたかに見えますが、もちろんそれらは原子炉自体の構造改善に及ぶものではありません。ベントフィルターなどの付帯設備の追加や地震・津波対策で建物補強や非常用発電機を高い場所に移す、といった「小手先」の改善に過ぎません。そうでなくて、あの過酷事故でこの国は、脱原発に向けて、再エネ・新エネの優等生になるべく運命づけられたのだ、と考えるべきなのです。然るにです、今の政権は原発再稼働を推し進め、それに飽きたらず原発の輸出さえ進めようとしているではありませんか。何をかいわんやです。このピンチにやるべき事は山積でしょう。汚染水処理の効率的な方法の開発、放射性デブリの搬出ロボットの開発、廃炉技術の開発、それよりなにより放射能を弱め、無害化する技術は放射性廃棄物の処理問題でも待望される筈です。

臭いものに早く蓋をしたい輩は、国際的緊張やテロの危機を煽りながら、憲法問題や自衛力の増強問題に、問題をすり替えようと躍起になっている様に見えます。ピンチとそこから派生する問題に蓋をしたまま放置を続けると、当然の事ながら問題は拡大し続ける結果になる事は必定です。そうでなくて、いま為すべき事は諸問題の本質を見据えて、それらに優先順位をふる事でしょう。その上で、ダラダラ国会に終止符を打って、専門家を交えたボードを必要な数だけ立ち上げるのです。人材を集めて知恵を絞れば、どんな問題もチャンスに変える何かしらのアイデアが出る筈なのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年5月14日 (日)

3289 2020年問題

この国の当面の課題は、2020年のオリパラを成功裏に開催する事だけ?の様に見えますが、環境問題に関心のある人ならば、別の2020年問題も気にかかる筈なのです。2020年には、実は先進国では、代替フロンを含め、冷媒や発泡剤としてのフロンの全廃する事が決定しているのです。つまり、2020年は脱フロン元年である訳で、HCFCを含めて速やかにフロンを全廃する義務を負っているのです。代替フロンは、あくまで当面の対策に過ぎないからです。最終的ゴールは、ノンフロンでかつGHG効果ミニマムでなければなりません。

欧米では、動きが素早く、既にHFOへの切り替えが始まっているのです。この国でも、大手流通業や欧米ヘの輸出車については、CO2を主体にした冷媒やHFOへの切り替えが始まってはいます。しかし、この国では未だに多量のフロンや代替フロンを抱えた、冷凍機や空調設備、冷蔵ショーケースや車・家庭用のエアコンに加え、発泡剤としても大量に使われているため、製造設備の切り替えや在庫の処分には大きな混乱が巻き起こると想像されます。

投稿者の意見としては、解決策はあると見ています。と言うのも、炭化水素系のガス、つまりはLPGなのですが、これを含む冷媒ガスは、上手く配合すれば、現在のフロンや代替フロンを直接に入れ替えても、装置の能力が損なわれないどころか、約30%程度の省エネ効果も期待できるのです。つまり、より安全で性能も高い冷媒が開発されるか、HFOの量産が加速して価格が低減するまでは、当面炭化水素系冷媒を使えば良いのです。もちろん、この冷媒が漏れると強撚性ガスですから非常に危険です。従って、この冷媒を使用しているエリアには、複数のガス検知器を配置する必要もあるでしょう。しかし、考えてみれば殆どの建物には、既に都市ガスやLPGの配管が設置され、ガスが使われていますから、それと同等の安全対策を構えておけば十分でしょう。

その意味で、2020年問題は、冷媒を用いる機器のメーカーとユーザーにとっては、大きなビジネスチャンスであり、大幅な省エネルギーのチャンスが到来したと。前向きに考える事も出来るのです。この2020年問題も、裏返せば(ビジネス)チャンスだと言っておきます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年5月13日 (土)

3288 クールビズのデタラメ

クールビスが取りざたされる時期になりました。しかし、その基準たるやデタラメというしかありません。その前提は、環境省もエアコンの設定温度28℃だとしていますが、この基準が納得できないのです。そもそも、人が感ずる暑さ寒さの程度は、1)気温、2)湿度、3)輻射温度、4)風速といった複数の要素で決まるものなのです。これらを総合的に示す指数としては、WBGT値がありますが、これは最近熱中症の指数として労働環境の管理に使われ始めています。

つまり、たとえ気温が28℃以下であっても、非常に湿度が高いとか、天井の断熱が悪く、夏場に過度の輻射熱が降ってくるとか、あるいは部屋の空気が殆ど動かないとかの条件が重なると、人は熱中症に陥るのです。

取り分け、湿度は重要です。湿度が高い環境では、せっかくかいた汗が蒸発しにくいため、体の表面からの放熱が鈍くなり、体内に熱が籠るのです。また、壁や天井が、気温より高くなっていると、体が輻射熱を受けて、放熱が鈍くなるので、やはり熱中症になり易いのです。

この国の夏の気候は、いわゆるモンスーン(高温多湿)なので、気温の割には高い湿度が、人の体にはキツイのです。従って、クールビスの基準は、温度は28℃でOKとしても、湿度に関しても基準を設けるべきなのです。加えて、窓や壁や天井を抜けて侵入してきて、体感温度を上げる輻射熱も考慮すべきなのです。熱中症の総合指標であるWBGTは、安価な計器で計測可能ですから、それぞれの事業所にはWBGT計を持つ事を義務付けるべきでしょう。その意味では、この国の夏を快適に乗り切るためには、是非とも除湿に重点を置いた、超省エネ型のエアコンの開発が待望されるところです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年5月12日 (金)

3287 見せる化

投稿者は、フリーランスになって以降、長く省エネルギーの方法について掘り下げてきました。その中で一番相手に対して説得力があったのはエネルギーの「見える化」だったと振り返っています。触ると(ビリビリして)分かるが、しかし目には見えない「電気」を、例えば電力量計で見える化してやれば、時間帯毎に変化する電力量の推移をグラフで見る事が出来ます。

同様に、自分がやってきた事、やろうとしている事を、どうやって自分や他の人に見える様にするか、最近気になっています。文字にしてきたという意味では、ほぼ10年間書き続けているこのブログも、言葉を見える化したものではありますが、そうではなくて図表や画像などを使って、一目で理解できる様にしたいのです。言うは易しで、行うは・・・です。なにしろ、サラリーマンからフリーランスになって、手がけた事が多過ぎますし、今後やりたい事も多いからです。かと言って、残された時間も多くはなさそうなので、取り敢えずは後継者を見つけてココロザシを引き継いでもらうしかないのかも知れません。

当面やりたい事を少し書いてみます。それらは、分かり易い形で、絵にもしてみようと思います。先ずは、自宅を使って始めた、再エネによる暖房・給湯システムをもう少しブラッシュアップしたいのです。熱効率の向上と、今は全手動のシステムを半自動にしたいものです。加えて、夏場の冷房を「デシカント」を使った、太陽熱冷房を実用化したいとも思っています。これは、もうすでにかなりの程度具体化しているので、DIYで出来る範囲で形にしてみようと思います。もう一つ、形にしたいのが、ペレット燃料の定量供給装置の実用化です。現在は、殆ど全てのストーブやボイラでは、スクリューフィーダ(オーガ)を採用していますが、完全に毎秒○○cm分のペレット燃料が送れるようにできれば、燃焼空気量もルーツブロアなどの定量型送風機を使えば、デジタル制御が可能となり、完全燃焼が実現できるでしょう。

結局、全体としては「小規模再エネ」の家庭レベルへの普及だと言っても良いので、先ずは自宅を実験場にして、実証試験をする事にしましょう。それが、他の人への「見せる化」につながるでしょうから・・・。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年5月11日 (木)

3286 「小文字」の地方

国も、地方自治体も口を開けば、地方における「少子高齢者対策」や若い人達を引き付けるための「地方創生」などという抽象的な言葉を連呼します。これらの抽象的な言葉としての地方を「大文字」の地方と表現した場合、表題で言う「小文字」の地方とは、具体的に手に取り、感ずる事の出来る実体としての地方を意味します。つまりは、日常目にする小さな単位のコミュニティの事です。

大文字と小文字で何が違うかですが、それぞれの中で「自分」の占める比重が違います。投稿者が住む東北の県では、この春先ついに人口が100万人を割り込みました。その件で、投稿者の占める比重は1/100万に過ぎませんが、合併で一時は人口が9万人を超えたUターンした町は、元々は4万人弱の城下町だったので、その比重は1/数万と言うことになります。自分が占める比重が大きいということは、自分が何か行動するとその影響が少しは現れると言うことを意味するのです。

実際、Uターンして町中の企業を訪問する中で、ある企業で大量に余っていた木工廃材に着目し、お金を払って焼却処理していたものを、ペレット燃料に加工する事を進言し、県の助成金を得たこともありめでたくペレットプラントが導入されました。これによって、町にペレット燃料の供給基地が出来たのです。これによって、徐々にですがペレットストーブやペレットボイラの導入も進み、エネルギーの地域自給がささやかに始まったのです。また、地元の商工会に向けた新事業やアイデア出しのセミナーを引き受け、その際考えた事をまとめた「企業ハンドブック」を発行して貰い、会員企業に配布もしたのです。

もちろん、これらは対象としたコミュニティが小さかったために、一個人の話を受け取ってくれたものでしょう。もし、県レベルであれば、然るべき肩書き、例えば大企業の経営者や大学教授と言った「肩書き」の人達が、然るべき委員会などで政策提言を行った後、予算取りが始まり、世の中の景気が良くて税収に余裕があれば俎上される、と言ったまだるっこしい経過になる事でしょう。ここで、言いたかったのは、先ずは小文字の地方で小さな行動を起こし、それを徐々に波及させていった方が、結局は大文字の地方を巻き込む流れを作る事が出来るのではないか、とい点なのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年5月10日 (水)

3285 地球と自分の間

投稿者は、50代に差し掛かったある時期に「環境人間」を志しました。しかし、最近少し違和感を感じてしまう様にもなった気もしています。つまり、母なる地球があって、自分を取り巻く「環境」があるのですが、最近その環境の「巾」が気になりだしたのです。自分が認識できる環境の巾は、精々自分が日々活動する範囲か、時々旅行する際に車や列車から見える範囲内なのですが、地球環境と大上段に構えると、未だテレビで見たことさえない、世界の秘境や辺境も全て含まれる訳です。しかも、それは1万メートルを超える深海から、8千メートルの山々に留まらず、成層圏と呼ばれる数十㎞の大気圏の上端までも抱合するのです。

言葉だけで、「かけがえのない地球の環境を守りましょう」、「地球に優しい暮らしをしましょう」と呼びかけるのは簡単な話でしょう。しかし、では具体的に、何を、どの程度、いつまでに為すべきかを考え、決めて、それを実行に移すのは簡単な話ではありません。2030年までにGHGを3割減らし、2050年までに8割減らすことが出来たとしても、それは「焼け石に数滴の水」程度なのかも知れません。

どう考えても、私たちは今の生活スタイルを根本から変える必要があると思うのです。具体的には、高々10㎞に満たない通勤距離を、車で雨に濡れずに快適に移動する生活から、少し早起きして、雨の日には合羽を着て、自転車にまたがって通勤する生活スタイルへの移行するという訳です。車を10㎞転がすと2㎏強のCO2を出します、往復で4㎏、年間ではたぶん1トン以上に積み上がるでしょう。しかし、自転車通勤であれば8割減どころか10割削減が可能となります。

投稿者は、実際30年間のサラリーマン生活では、通勤距離はほぼ10㎞程度でしたが、ほとんどの期間を自転車通勤で通しました。走行した距離はたぶん地球を数回周回する距離になる筈です。そんな暮らしで得たものは、20代から殆ど変わらない体重と、人並み以上に強くなった心配機能、つまりは健康だと振り返っています。結果として、同じような距離の車通勤の人と比較すれば、数十トンのCO2を出さないで済んだ計算になるでしょう。

今後の暮らしでも、まずは自分で実行できる質素な生活を続けながら、出来れば水か空気か立木の様に静かに生きて行こうと思っています。自分と地球の間の比較的狭い環境を意識しながら・・・。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年5月 8日 (月)

3284 小さな達成感

ある時期に気が付いたことがあります。それは、人間が生きていく最大の原動力は、実は達成感なのではないか、という事なのです。もちろん、幸福な人達は、いわゆるビッグプロジェクトに関わって、それが実を結ぶ様を眺め、大きな達成感を感ずることができるでしょう。しかし、投稿者の様な平々凡々な人間にも、小さな達成感は手にすることが出来る様に思うのです。小さな達成感とは、日々の小さな仕事が一区切りついた瞬間にも感ずる事が可能でしょうし、この人気のないブログを一稿書き上げる時にも少しは感じ得ていると思っています。そうでなければ、足掛け10年にも亘って、読んで突っ込みを入れてくれる人とて少ないこんな文章を、書き続けることなど出来ないはずなのです。

もちろん、誰かがこのブログを読んでくれたとして、何かが伝わって、その人にとって何かのヒントになってくれれば、それに越したことはありませんが、少なくとも、自分が生きた証として、自分を知る少数の人達や自分の子供達だけでも読んでくれれば、それで十分だと思って書いているのです。凡人の頭で考え、それを文章にしたところで、100題書いても、我ながら良いことを書いたと思えるのは、12題しかありません。しかし、振り返ってみればこのブログも既に3000題以上書き続けてもいるのですから、少しは他の人に参考になりそうなものも、控えめに数十個程度は含まれていたかも知れない、と言って置きましょう。

その一方、小さな達成感は、決して自己満足で終わってはならないとも思っています。人が生きる意味は、誰かに良い影響を与えるか、あるいは少なくとも他の誰かの役に立って、感謝されることが含まれなければならないでしょう。さて、これまでの人生で何か人の役に立てただろうかと考えてみると、いくつかの心当たりはありますが、もちろん中身としては不十分と言うしかありません。従って、今ボンヤリ考えているのは、残りの人生でどれほどの事が出来るかの「見積」とそれを実行に移す計画を立てることなのです。計画倒れにならない様にするためには、それが具体的で、かつ実行可能でなければならないでしょうし、大それたものではなく、小粒でしかも短い期間で達成できるものである必要があるでしょう。小粒の計画を、自分の残されている時間の限り、いくつか積み重ねていくのが、達成感を得るため凡人にできる最良のアプローチだと思うのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年5月 6日 (土)

3283 これ以上何を

私たちの生活環境を見回すと、子供の頃は「夢物語」だったことの多くが実現されてしまっています。空を自由に飛び回る車はまだ実現できてはいませんが、代わりにドローンが飛び交い、腕時計型の端末は実用化されてはいませんが、スマホで通信はもちろんお金の支払いまでを含め殆どの機能が事足りる様になりました。ロボットの体内にも納められる小型の原子炉は、たとえ1馬力しか出力できなくても実用化される見込みはありませんが、バッテリーを背負った非力なロボットアトムなら、かなりのレベルまで進化した様です。その意味では、私たちが子供の頃に21世紀という時代に抱いていた、未来技術の殆どは、実現されてしまったとも言えるでしょう。

かつて人は、石や木の枝や簡単な道具を用いて、手指を拡張しながら、さらに種々の道具を作り出し、その道具を用いて機械を作りながら、頭脳と手業を磨いてきたのでした。その間、数知れない人々の小さな工夫と時々現れる天才のヒラメキによって、機械はさらに複雑なものに進化し、さらに電気・電子の発見・発達により、手のひらサイズのガジェットに信じられない程の機能を詰め込むことにも成功したのでした。しかし、投稿者が憂いているのは、世の中が便利になり過ぎて、その結果人間の能力が減退するのではないか、という事態なのです。

具体的に言えば、キーボードによる文字入力と自動変換技術によって、私たちが漢字を書き順も含めて書き記す能力や文字そのものを形良く書く能力の多くが損なわれてしまいました。車の殆どがオートマ車化された結果、人は時々前進と後退を勘違いして、しかもアクセルとブレーキを踏み間違えるとミスを犯すようにもなりました。自動運転車は、一体人間のどんな能力を奪ってしまうのか、今は想像もできません。さらに言えば、超絶に便利に進化してしまったコミュニケーションツールとしてのスマホが、今後人間のコミュニケーション能力をどこまで奪ってしまうのかもまた全く想像できません。

さて私たちは、こんなに「便利」にこだわる飽くなき努力を重ねながら、果たして何処に向かおうとするしているのでしょうか。それは便利に囲まれながら、無能な人間を増産する社会なのでしょうか。「ちょっと待って」です。私たちには便利を捨てて、不便を楽しむという選択肢もあると思うのです。先ずは衣食住に関して、自分の手を動かして手に入れてみてはどうでしょうか。それは、衣類を縫い、山菜を採集し、庭やベランダで野菜を育て、住居に自分で手を入れて住み易くする小さな改善をしてみる事から始めるのです。DIYこそは、人類を退化と破滅から救う唯一の手段だと思うこの頃です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年5月 2日 (火)

3282 アイデア不足

3281の続きです。もちろん、技術力の凋落だけで、この国の閉塞感を説明する事は難しいでしょう。最近の、世界市場における連戦連敗を眺めていると、決定的に欠けているのは、市場との対話とニーズにぶつけるアイデアだと思うのです。確かに、Wlォークマン辺りまでは、得意の精密技術を駆使して、カセットテープサイズのテープレコーダメカで、世界に差をつける事が出来ていました。しかし、市場が求めていたのはその先でした。携帯している事を感じさせない程の小さな音楽プレーヤだった訳です。それがIポッドであり、同様の流れはパソコン(+携帯電話)→スマホの流れにも見つける事が出来るでしょう。

つまり、技術を洗練させて新たな製品を発想するのでは、現在の製品の延長上のモノしか提案できないでしょうが、一方で市場との対話とグッドアイデアが結びついた場合には、それまでのカテゴリーを超える画期的製品が生まれる事も多いのです。アイデアは、多分日常のデスクワークに追い立てられて、それに埋まって長時間残業をこなしたとしても、生まれるものではないでしょう。自由な雰囲気の中で、余裕を持ちながらのフリートーキングと言った環境からポンと飛び出すのです。

ある時期、アイデア発想法について深く考え込んだ事がありました。もちろん、凡人の凡庸の頭脳で考える事ですから、大した名案も思い付きませんでしたが、考え続けていると何となく頭の中に「アイデア」が点灯するイメージが徐々に出来てきました。その中で、自分なりに使えそうだと感じているのは、ニーズを絵で表示する方法の一つである「出来る出来ない分析」でしょうか。同様の手法では川喜多氏が考案したKJ法がありますが、これはフィールドワークのまとめ手法としては理想的ですが、必ずしもアイデア発想には向きません。出来る・出来ない分析とは、ある手段で実現できる事と、出来ない事をチャート上に言葉として順に並べていくものです。つまりは、出来る→出来そうだ→出来るかも知れない→出来ないかも知れない→出来にくそうだ→今は出来ない、などと順位を付けて並べてみるのです。例えば、コンビニショップで今は出来ていないのは、嵩張る衣服などを売る事などが考えられますが、真空パックで十分に小さく圧縮すれば、不意の寒さを感じた時に提供するダウンジャケットやカーディガンやセーターなどは在庫可能でしょう。今は出来ない(出来にくい)事を可能にするのがアイデアの本質だと思うのです。その意味で、必要は発明の母であり、技術は発明の父なのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年5月 1日 (月)

3281 技術貧国?

ものごとの表面しか見ない人達が、この国は、モノ造り大国とか技術立国であると、呼ぶことがあります。正確を期すために投稿者なりに解説しておけば、「かつてはそうであった」とは言えるでしょうか。戦後の荒廃から、生活を二の次にしての経済優先で、先人が努力を重ねて、欧米の技術を取り入れ、それを改善して築き上げたモノ造り技術は、確かに一時は世界水準に駆け上がった事は間違いありません。必死にモノ造りに取り組む中で、モノを作る技術力やそれを支える「技能」レベルも十分に高まったのです。

しかしながら、いわゆるバブル崩壊やリーマンショック後の「停滞期」において、この国のモノ造り産業は、すっかり自信を失い、あるいは安易な海外展開を図る中で、「技能の部分」の凋落が著しかったと言えるでしょう。理由は、人から人への技術や技能の「伝承」が上手くできなかった事にあるのは明らかでしょう。特に、技能の伝承などと言うものは、書き物にしたノウハウや、あるいはビデオ映像等だけで伝えるものではないでしょう。技術を持つ先輩が実際にやって見せて、それを弟子や後輩が真似ながら、先輩の適切な助言も貰いながら徐々に腕を上げていくのでしょう。

しかし、例えば利益を追求するために自動化に集中的に資本を注ぎ込み、それに比べて人材の採用を抑え続けた結果、技術や技能の人から人への「伝承」の糸が途切れたり、弱まったりしたと想像しています。

具体例を挙げましょう。戦後、戦時中の航空機技術を受け継いだ成果物としてYS-11と言う旅客機が開発されました。戦闘機乗りの多くが戦死した一方、工場でモノ造りに携わった技術者や職人は、戦後も産業を支え続ける事が出来、その発露がこの旅客機だったと言えるでしょう。然るにです、その技術や技能は、結局は途切れてしまったのです。正確に言えば、海外の下請け仕事やJ衛隊向けの機体で、細々とはつながっては居たのですが、YS-11の後継機の開発は、MRJの開発まで50年間もの長きに亘り捨て置かれたのでした。その間、技術者も技能者も2-3回かそれ以上代替わりし、真の意味での「伝承」は途切れてしまったのです。歴史に「たら・れば」は無いのでしょうが、例えば1980年代にオールジャパンで後継旅客機の開発が行われていれば、この国は技術立国であり続け、カナダやブラジルを抑えて第三の航空機製造拠点になっていた筈なのです。失われた20年を取り返す事はかなり絶望的だと言うしかありません。返すがえすも残念ではありますが・・・。この国は、今後一体何で食って行けば良いのでしょうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年4月30日 (日)

3280 貧乏自適

今日は、適当な表題が思い浮かばないので、徒然なるままに書き出します。悠々自適と言う言葉がありますが、それに倣えば今は「貧乏自適」でしょうか。自分が蓄えたとはいえ、いわゆる年金を受け取り、頼まれた仕事を時々こなし、天気を予想して山に登れる今のせんかつ生活は、今後何年続けられるかは神のみぞ知るですが、出来れば足腰を鍛えながら、歩けなくなったら人生も終わり、を理想として暮らして行こうと思っています。

借金も無く、決して贅沢ではない生活ぶりで、自分の家で暮らしていれば、それ以上望むものはなさそうですが、何か足りないものを感ずるのは年齢の所為でしょうか。自分の年齢を勘定して見て、何時も愕然とするのは、歴史上に名前を残しているいわゆる偉人の没年齢に接する時で、彼らが30代や長生きしても50代までに「結果」を残しているのに比べ、凡庸な凡人とはいえ自分は一体何を為し得て、何を残し得るのかを考えると、何時も軽度の自己嫌悪に陥ります。そんな時、高齢者のビギナーとして、若者を追い抜きながら山に登り、頂上に立った時、小さな達成感が今の人生の駆動力になっている様な気もします。

今後の人生の中で、残したいと考えているのは、自分の人生で肥やしになった失敗経験や上手く行った時のコツやノウハウ等を後進に伝える事が出来れば良いな、とボンヤリ考えてはいます。もちろん、自分自身の子供達に伝える事が出来ればそれは理想ですが、残念ながら二人とも技術や環境学には、全く興味が無さそうなので、他人でも「弟子」が出来るのが理想ではあります。かと言って、身を助ける手仕事や技を伝える訳でもなく、単なる元技術屋や環境屋のノウハウ程度では、残念ながら誰かに弟子になって貰える当てすらありませんが・・・。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年4月28日 (金)

3279 引き時

何に限らず、始まりは勢いもあり比較的簡単ですが、難しいのはそれにピリオドを打って、止める時でしょう。人で言えば、引き時、辞め時と言うことになるのでしょうか。引き時が難しいのは、始める時はまだ小さかった「行き脚」が、いざ止めよう、辞めようと思った時には、かなりのスピード(慣性)になっていて、急にストップするのが難しかったり、惜しかったりする気持ちが働くことが理由でしょう。特に、後者は日本語では「未練」とも言いますが、引き時を特に難しくしている最大の原因の様な気がします。

進みつつある事態を止める方法にはいくつかあるのでしょうが、いずれにしても行き脚を徐々に小さくしていく必要があるのは自明でしょう。そうでなければ、外部要因で突然事態が終わる場合には、そのデッドエンドの壁に激突してしまう恐れさえあるからです。道路の急こう配で急カーブが連続するの下り坂に、時々「緊急待避所」がありますが、あれはブレーキの使い過ぎでブレーキが過熱し、結果としてブレーキが効かなくなる事態に陥った場合に飛びこむ場所なのです。もし、その坂に差し掛かる前にギヤを下げて、エンジンブレーキが効くように準備するなら、そんな場所のお世話にはならないで済むでしょう。

人の一生で言えば、体力も気力も充実していて、行け行けドンドンの時期もある事でしょう。しかし、どんなスーパーマンであったとしても、ピークアウトの時期が来る事は不可避です。以前から気になっていたのは、政治家(多くは政治屋ですが)の動静です。自分の体験に照らして考えてみれば、活動のピークは50代の中盤だった様に振り返っています。まさにその時期に、現役を止めフリーランスとなったのですが、その選択肢は正解だったと思ってもいます。その後は、徐々に活動のスピードを緩めて、今に至る訳ですが、高齢者の仲間入りをした今、もし山で吹かれたり?、不治の病を得て人生にピリオドを打つ事になったとしても、あまり命は惜しまずに済みそうだとは思って暮らしています。マツリゴトに関わる先生方にも、是非還暦を越してしまったら、ソロソロ引退の準備をして貰いたいものです。老害と囁かれる前に・・・。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年4月26日 (水)

3278 創エネより省エネ3

省エネに関して、ここ10年以上に亘って企業に助言し続けている「お経」があります。それは、「エネルギーを色分けしましょう」と言うものなのです。もちろん、エネルギーに実際に色を塗る事は出来ませんが、もし信号機の様に、赤、黄、青の3色の色分けをするとしたら、それそれのエネルギーの用途は何色になるかを想像して貰うトレーニングです。その際、赤色はサッカー競技で使うレッドカードに喩えて、これは即退場ですから電気エネルギーの場合は即スイッチを切ります。例えば、無人のトイレで点灯している電灯などがこれに当たります。

次に黄エネルギーですが、これは一見必要には見えるものの、実際にはサービスや製品には付加価値を追加しては居らず、もっと省エネにつながる別の手段で代用できるエネルギーを指します。例えば、工場の中で言えば「物流」に関わるエネルギーや職場環境改善のための空調や除塵のための等のエネルギーがこれに当たります。モノは、それを運ぶ事によっては決して付加価値は上がりません。前の工程から次の工程に運ばなければならないのは、ラインの設計が拙いからで、ラインが連続して繋がってさえいれば、前工程の出口はそのまま次工程の入口になる筈なのです。職場環境が、暑かったり、粉じんが飛び交っているのは、設備から大量の熱が放散していたり、粉じんを発生させる設備や作業がオープン状態に置かれており、そこから空中に粉じんが拡散しているからなのです。設備の防熱や粉じん設備をブースで囲って、局所排風装置を付けるだけで、工場の環境は見違えるほどクリーンになり、大型の空調設備は不要になるでしょう。

青エネルギーは、実際にモノやサービスに付加価値を付けているエネルギーであり、これを減らすには、サービスや工程の中身を吟味した上で取りかかる必要があり、更にチャレンジングですのでここでは割愛し稿を改めます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年4月25日 (火)

3277 情報寡占への抵抗

自分でも10年前からブログを書き続け、5年前からはFBへの投稿を始めておきながらですが、やはりネット社会、とりわけ大手IT企業への情報集積が気になってはいます。例えば、ある商品に興味があって、関連するサイトをクリックしたとたん、別のサイトのAD欄に、怒涛の如く関連する商品コマーシャルが現れ、フリックし始めます。つまりは、最初にサイト閲覧した時に「個人情報」が把握され、同じブラウザで開いている別のサイトに「関連付け」されてしまったことを意味します。表面には出ていなくとも、A氏はBやCやD製品に興味がある、という情報がいつの間にかネット空間の情報として、蓄積されてしまったのです。

ブラウザやネット通販やSNSは、ますます寡占化が加速していると言えるでしょう。つまりは、ビッグデータがますます大きく「育って」いるのです。怖いのは、それが一握りの企業に集中しているという事実で、これが悪用されれば、人々の消費行動や、ひいては政治信条などのマインドコントロールまで影響を及ぼすケースだって考えられるでしょう。つまりは、誘導したい方向の商品や政治信条に関するニュースなどを繰り返し差し込んでいけば、「意識下」での刷り込みが起こり、知らない間に強く影響を受けている事態も起こり得るでしょう。

私たちは、そのことをワキマエた上で、ITに接し、情報を受け取るべきでしょう。望んでもいない情報に誘導されないためには、やはり自からも情報発信を続けていくしかなさそうです。一方的に(パッシブに)情報を受け取るだけでは、どうしてもそれを評価しあるいは批判的に受け取る姿勢が弱くなるからです。自分で考え、情報発信をしていく中で、ネット上で異なる意見に接し、複数の意見を並べることで、物事の本質により近いものが見えてくると思うのです。その意味では、日々流れてくる情報に対して自分なりのフィルターを備えておくことと、受け取った情報を吟味し評価するだけの見識は養っておきたいものだと、再度ココロを引き締める今日この頃です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年4月23日 (日)

3276 創エネより省エネ2

創エネのネタは限られますが、省エネのネタは事実上無限です。一番簡単な省エネ方法は、スイッチを入れている時間、つまりは運転時間を短くする事です。それまで110時間動かしていた(点灯していた)機器を、9.5時間に短縮すれば、それだけで5%の削減が確実になるでしょう。時間短縮作戦です。ダラダラとしていた残業を、スパッと定時で終わる様にするだけで、かなりの省エネになるでしょう。

別の切り口は、蓄エネです。例えば、断熱材に覆われた蓄熱剤(材)、例えば水やコンクリートや砕石などですが、それに余った熱を蓄えて、必要な時に取り出せば、その間はエネルギーの消費を抑える事が出来ます。もう少し凝ったシステムでは、熱を相変化の形で蓄える事が出来る化学物質を使う場合もあるでしょう。無機材では、比重が大きく従って比熱値の割には蓄熱量が多い、精錬残渣なども有望でしょう。熱媒体としては、無害な水や空気で十分ですが、蓄熱温度が100℃以上になる場合には、鉱物油を使わざるを得ないかも知れません。

電力もバッテリーを使えば、簡単に蓄えて、必要な時には取り出しが容易なエネルギー源です。例えば、太陽光発電でピーク電力を超えた量が発電出来る場合には、低くなったFIT価格で買電するよりは、自家消費に回した方が有利になる場合もあり得ます。何故なら、蓄電と自家消費によって、電力会社との契約電力(ピーク時の電力)を低く抑える事ができ、1-2ランク下げる事が可能なら、基本料金がかなり低減できるからです。

オーソドックスですが、お金の掛かる省エネは、やはり省エネ型設備に更新する事でしょうか。エアコンやコンプレッサーなどは、一時に比べ50%程度の省エネ性能を実現している製品も多いのです。耐用年数が来ている設備は、経営者としては、ダラダラとエネルギーを垂れ流さずに、スッパリと更新すべきでしょう。更に続きます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年4月22日 (土)

3275 引いて見る

カメラワークが得意な訳ではありませんが、目を引く写真はズームインとズームアウトを上手く利用して、主題を浮き上がらせているテクニックを使っていますが、これは世の中の動きを眺める際にも重要だと思っています。例えば、国会でKゴイケ事件が、さながらこれが国政の問題点の全てであるかの様に連日テレビ中継されましたが、鋭く切り込んだつもりの野党が、ブーメラン現象によって血を流したり、同じ趣旨の質問と答弁がダラダラと繰り返されるに至っては、茶番芝居にしか見えないのは、投稿者一人ではない筈です。

その時、一つの方法として、引いて眺める(ズームアウトする)のが好ましい姿勢でしょう。具体的には、長い国会の歴史を少し振り返ってみるのも良いでしょう。政治家の言動を官僚や企業が「忖度」するなどと言うことは日常茶飯事だった筈です。たった?5億円で、首相経験者が巣鴨に収監されたのは、そんなに遠い昔ではないでしょう。隠し政治資金として、政治家自身の懐に入れるためや票や資金集めのためのパーティ開催などで、表に出せないカネがどれだけ動いたかを考えれば、氷山の一角しか報道されない事を考えれば、想像の域を超えるでしょう。私たちは、日々の報道の派手さに惑わされず、冷めた、少し引いた目で事態を眺める必要があると思うのです。

引いた目で見る時、上に書いた様に時間を遡ってのロングスパンで眺める手法の他に、視点を変えてみるのも良い方法でしょう。政治をカネの視点から見る他にも、政治家の離合集散の様子を、椅子取りゲームの野心の視点から見るのも面白い視点になるでしょう。絶対多数を取っている様に見えるJ民党ですが、もし中道勢力が党を割り、M進の右より勢力と手を組めば、新たな党も組める筈です。それでなくとも、J民党だってかつての自由党と民主党の寄せ集め党だったではありませんか。引いてみて、別の角度から眺めて、今の社会や政治の流れを冷静に評価したいものです。もちろん、その結果「ではどうあるべきか」への提言を発信する事も怠ってはならないでしょう。このブログは、そのために書き続けています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年4月21日 (金)

3274 道徳ではなく倫理

最近時々道徳教育なるものが取り沙汰されることが多くなりました。国会でも取り上げられることも多いですが、たまたま質疑や答弁を聞いていて、片腹が痛くなるのは、投稿者だけではないでしょう。そもそも道徳とは人間の集団(社会とも言いますが)の中で、行動すべき社会規範の様なものをまとめた、「べし・べからず集」だと理解しています。最近の教科書は手に取ったことはありませんが、子供は親に孝行しなければならない、国民は国のために汗をかかなければならない、食べるなら、パンより和菓子を大事にしなければならない、などなどが書いてあるのでしょうか。

「政治家倫理さえ」わきまえていない先生方が、手を振り上げながら道徳教育を云々している国会風景の中継に接する時、片腹が痛みは最高潮になります。人は、社会の一員である前に、まずは人間でなければならないはずです。政治活動費やその他の出費を誤魔化しておいて、事務所や秘書の所為にするなどは朝飯前で、官僚に「忖度」させるために、強くニオワすなどは日常茶飯事でしょう。方法は簡単です。担当のお役所に、事務所から政治家の名前を出して、なぜ~をするのか(あるいは~をしないのか)といった「質問」をぶつければ良いだけです。たった、それだけで官僚の忖度が引き出せるのです。道徳教育を云々する前に、まずは自身の倫理観を深く反省すべきでしょう。

そもそも倫理とは、人として他の人とのあるべき関係を導くものであると理解していますが、人としての倫理観が薄い輩が、道徳教育を議論する姿が正視に耐えないのです。このブログは、批判を目的とはしてはいませんから、今回も「警鐘」に過ぎませんが、かなり大きな音で鐘を打たざるを得ないのです。道徳の前にまず倫理です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年4月20日 (木)

3273 創エネより省エネ

人間の生活は、ますますエネルギーインフラに頼る様になってしまいました。ガソリンで動く車が、EVに置き換わっても、その事情は変わりません。石油インフラが減って、電力インフラの比重が高まるだけの事です。その中で、お国の政策としては、いわゆる新エネの拡大や20世紀型のアブナイ技術である原発の再稼働に、あまり好ましくない新規石炭火力などで、増加する電力需要を賄おうとしています。しかし、一時は持て囃された「省エネ」の掛け声が、最近下火になっているのはどうした事でしょう。

省エネは「ネガワット」とも呼ばれ、省エネ努力で減った分は、さながら発電量が増えたのと同じ効果がある上に、当然の事ながら新たな設備投資は不要なのです。つまり、省エネ10%を達成することは、今の電気の使い方で需要増加分への対応として、発電能力を1割増やすのと、全く同じ結果を生み出すのです。

10%の省エネなど、国が掲げる2030年度3割省エネ(CO2削減)目標や最終的な2050年:80%削減目標に比べれば、誤差の範囲内でしょう。それどころか、3割削減の目標先取りもそれほど困難ではないでしょう。何故なら、1970年代に私たちは今の半分のエネルギーを使いながら、十分幸福を感じながら暮らしていたからです。増えたのは、紙がOA機器になり、スイッチさえ入れれば快適を生み出す電化製品の数と、便利に移動できる車などの交通手段と、今日注文すれば明日に手元に届く便利過ぎる物量システムなどが歯止めなく増えた結果でしょう。

省エネの考え方は比較的簡単です。企業の収益や日常生活に直接影響を与えない設備や家電は、先ずはコンセントを抜けば良いのです。これは「ヤメル」省エネです。通路を必要以上に明るく照らしている電灯や部屋の隅を照らしているだけの電灯も間引いてやれば良いでしょう。「ヘラス」省エネです。一番骨が折れるのは、効率を「タカメル」省エネでしょうか。しかし、例えば冷蔵庫やエアコンや自販機などは、冷媒の工夫や熱交換器のブラッシュアップで、既に50%程度の省エネは達成していますし、まだまだ効率を上げつつあります。問題は、今動いている膨大な数のエアコンや冷凍・冷蔵設備の電力消費です。投稿者としては、当面はフロンや代替フロンが使われている冷媒を、炭化水素系を含むノンフロン冷媒に交換するビジネスの拡大が必須だと思っています。冷媒の交換だけで3割程度の省エネの達成は十分可能だからです。たぶん続きます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年4月19日 (水)

3272 ボタンの掛け違え

最近、この「ボタンの掛け違え」という言葉が気になりだしました。例えば、海外で起こっていることをいくつか思い返すと、まずはEU離脱問題が想起されます。ある時期、EUの拡大ブームがありました、そこにいくつかの問題、例えば難民流入問題などが投げ込まれ、それを嫌がる国々の右向きで内向きの勢力が、難民排除の掛け声を上げ、それがEU離脱問題に波紋を投じてもいるのでしょう。E国が離脱を決め、Fランスも離脱を表明する大統領候補が有力の様です。しかし、E国が抜けた後の「ボタンホール」は一体どうなのでしょう。ボタンが取れてボタンホールが開いたままの衣服というものはかなり情けないものです。隙間風が入りますし、下着が見えたりもするでしょう。かといって、その下のボタンを掛けても、衣服が片側だけずれ上がってしまい、その滑稽な状態は話にもならないでしょう。

そうかと言えば、C国のリーダーがB国を訪問して、晩餐会の最中に、数十発のミサイルをSリアの基地に向けて発射させるといった「暴挙」があり、しばし世界がその対応をどう評価すべきか躊躇するという事件もありました。情けない事に、この国のリーダーは背景や状況をよく吟味をすることなく、早々と「支持」を表明したではありませんか。開いた口が塞がりません。

同じような事がこの国でも起こっているでしょう。安定性を重視する傾向のあるこの国の人々は、危なっかしいM主党(ある時期からはM進党などと訳の分からない党名になりましたが)を見限り、J民党に回帰してしまいましたが、3本の矢などという故事を持ち出して、政策を打ち出した今のリーダーの人気にも陰りが濃くなってきました。そのそも、3本の矢は政策でもなんでもなく、単なるキャッチフレーズに過ぎなかったのですが、汗をかかない手段である財投や金利誘導と円安という外的要因も重なって、曲りなりにも経済がそれなりに回っている状態だといえるでしょう。しかし、ここにきて穏健で結構上手くいっていたB国が、突然「先の読めない」リーダーを選んだ結果、ボタンの掛け違えが顕著になってきた様なのです。

この国のリーダーは、新リーダーがその席に座る前からB国に飛び、ボタンを掛けてもらおうと必死ににじり寄りました。正式な就任後は、彼の別荘にまで出かけて行って2日もゴルフに興じる始末です。B国の真面目な顔の副リーダーがアジアに回ってくると、この国の副リーダーが大歓迎の満面の笑みを浮かべてカメラに収まるチグハグな写真が気になります。この国は、それが長期的に見てこの国の将来に資するか否かは全く度外視して、B国が差し出したボタンホールには、無条件にボタンを掛けてきたのです。それをB国追随ともいうのでしょうが、逆に言えば、B国以外が示したボタンホールは無視せざるを得ないとも言えるでしょう。「善隣外交」などという言葉は最早死語になってしまった様で、まるで戦争が間近に迫っている時代にも似た殺伐とした昨今です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年4月18日 (火)

3271 中間技術でどうでしょう3

中間技術のもう一つの条件と言うか側面ですが、それは顔の見える技術になります。大量生産品を前にして、それが生み出される量産ラインの作業者を想い浮かべる事は多分あり得ない話でしょう。ましてや、それを企画した人や設計した人達がどんな人なのかは全く見えません。消費者は、それが量販店に並んでいた時に、たまたま店に入り、たまたま他社の同様製品よりデザインや機能を少しだけ気に入ったので、つい買ってしまった筈です。

「スモール イズ ビューティフル」では、中間技術を整地作業に例えています。つまり、大規模技術は、例えば大型の重機(ブルドーザ)と想定すれば、スモール技術はレーキやクワによる手作業になるでしょう。中間技術とは、エンジンはついているが、人がハンドルを握って一緒に歩く小型の土木機械を使った作業という事になるでしょう。大型で、遠隔操作機も使える大規模技術に比べれば、中間技術は一目でその作業が確認でき、細かい調整も可能でしょう。結果としてみれば、整地作業の出来栄えは、作業スピードを別にすれば中間技術に軍配が上がる筈なのです。それは、機械を運転する人が整地しながら、一緒に歩くことにより、小さな凸凹にも気づくことができ、修正する事が可能となるのです。

工場の例でいえば、ロボットやコンベアを駆使した完全自動化ラインを大規模技術として、手作業の家内工業をスモール技術とすれば、中間技術は機械設備も活用する「半自動ライン」に相当するでしょうか。そこは、人の目や手がしっかり行き届いているモノづくりラインなのです。もし、製品に関して顧客の細かい要望が入ったとしても、この様なラインでは即日改善が可能となる一方、大規模技術の向上では、ラインの手直しにかなりの期日が必要になる筈なのです。結局は、機械だけに頼るのではなく、人がしっかり関わるということが、すなわち顔の見える技術の要件なのです。それを、モノづくりはいわんやサービス産業でさえ、ITとかIoTに頼りきってしまおうとしている現代の風潮に、投稿者としては危機感を禁じ得ないのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年4月16日 (日)

3270 中間技術でどうでしょう2

3269の続きです。さて、顔の見える「中間技術」とは、具体的にはどんなものになるのでしょうか。投稿者なりに提案してみたいと思います。このブログは、前日の晩か当日朝に、30分程かけて書いて投稿しているのですが、もちろんそんな短時間で、中間技術論に関して良いアイデアがポンと出る訳ではありませんが、少し頭を働かせてみます。

M.シューマッハの定義による中間技術は、先ずは小さな投資、具体的には個人事業主として投資出来る程度の設備から生み出せる製品やサービスと言うことですから、何らかの形で建屋があるとして、その中の設備としては、併せて数百万円相当の中古設備が数台置いてあるというイメージでしょうか。その中で、数人が働き、年間(低い方の)数千万円を売り上げると言ったビジネス規模になるでしょう。もちろん、最初から全国区を狙ったりしては「スモールビジネス」にはなりませんから、先ずは地元の市場を考えなくてはなりません。

ビジネスには、B to BB to Cが考えられますが、もちろん生み出す製品やサービスによって、前者に重点を置くのか、後者なのかは決めなければなりません。後者の場合は、顧客は個人と言うことなので、先ずは個人のニーズを把握する事から始めなければなりません。その地域には、どの様な人達が住んでいて、主に何を求めて、あるいは何に困っているのかを知る必要があります。マズローの欲求5段階を引くまでもなく、ニーズにも段階があって、特に顧客が困っている事を解決する製品やサービスには強いニーズがある筈です。例えば、北国では寒い冬季を乗り切るために、暖房や給湯のための光熱費が頭痛のタネになっています。しかし、それは年間を通じてのニーズではないため、単に暖房手段だけを提供しても、ニーズを充足する事は出来ません。年間を通じて必要な給湯の熱源とはなり得ないからです。

であれば、冬季は暖房と給湯に、中間期と夏季は給湯に使えて、しかも石油やガスやオール電化より光熱費が安く上がる熱源には強いニーズがある筈です。家庭用ですから、その熱源の大きさは限られてくるでしょうし、大きな設備も不要でしょう。売値で、1台100万円前後と想定すれば、それを年間数十台生産するラインは、それ程大きな規模とはならないでしょう。1週間に1台も出荷すれば十分だからです。電装関係は、基本的な機能さえ設計できれば、外注で簡単に調達できるでしょうから、後は本体構造を作るだけです。それすら、近くの鉄工所を使って製作できますので、社内には組立と調整及び出荷試験をする機能があれば十分でしょう。出荷数が増えれば、アフターサービスを充実させる必要がある事は言うまでもありません。続きます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年4月15日 (土)

3269 パーキンソンの法則

パーキンソンの法則とは、「役人の数は仕事量とは関係なく、一定率で伸びる」、および「仕事と言うものは、与えられた時間いっぱいまで伸びる」と言うものの様です。日頃の報道や自分自身の企業での経験を振り返ってもイタク納得できる法則ではあります。水が容器の形によってその姿を変える様にと言う比喩はあまり適切ではなさそうです。むしろそれは、例えば気体が、容器の形や容積に合せて、膨張収縮をする様だと言うのがより近いアナロジーかも知れません。より大きな容器に移し替えられた気体は、その圧力が低下するでしょう。分子の密度で言えば、ボイルとシャルルが証明したシンプルですが非常に重要な式に示される様に、容器の容積に反比例する形で低くなるからです。

仕事の密度も多分同様の法則に従うのでしょう。ヨーロッパのいくつかの国々の労働生産性がこの国のそれより何割も高いのは、仕事の合理化や長いバカンスを取得する報酬と引き換えに集中が出来ている証左かも知れません。少なくとも、ぼうっとしている時間が、かなり少なくなっているのは間違いないでしょう。少し前まで、この国ではちょっと仕事をして一段落すると、喫煙室に走って行ってタバコを吹かし、そこで暫し雑談をしてから席に戻る、と言った行動が茶飯事だったと振り返っています。

それと言うのも、どうやらこの国のワーカーには、仕事の目標を定めて、計画的にそこに向けて追い込みを掛けると言った風潮が弱い様なのです。追い込まれれば、確かにねじり鉢巻きをして、長時間の残業を掛けて「やっつける」事はどの企業や役所でも行われている行動でしょう。逆に言えば、追い込まれるまではボチボチと仕事を進めておいて、最後にガーッと仕上げてしまうパターンが好きだ、と言うことでもあります。結局日々の仕事でも、午前中はボチボチ仕事を進め、午後も眠気をこらえながら仕事をつづけ、3時のコーヒーブレークが済んだ頃から馬力を上げ始め、残業時間になってやっとトップスピードになる、と言うのが多くのサラリーマンの仕事ぶりなのでしょう。働き方改革やワークライフバランスなど、キャッチフレーズをいくつ並べても、「働き方の文化」を変えない事には、一向に事情は改善しないでしょう。さて、何から始めればパーキンソンの法則を打ち破れるのでしょうか。たぶん続きます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年4月14日 (金)

3268 中間技術でどうだろう

この言葉は、多分M.シューマッハの著述で知った様な気がします。書名は「スモール イズ ビューティフル」ですが、新書となっている小さな本を再び手に取ると、ビッシリと付箋が貼られ、重要な部分には赤の傍線が引かれているので、若い頃に熱心に何度か読み返し、強く影響を受けた事が明らかです。その中で、今も明確に自分の語彙に残っている言葉が「中間技術」なのです。サイズ的には、もちろん重厚長大ではなく、単純な軽少短薄でもない、いわば等身大の技術を指します。

重厚長大産業のビッグスケールの技術も、いわゆる最先端の軽少短薄な技術も、いずれも莫大な額の設備投資が必要である事は間違いないでしょう。前者は向こうが霞んで見える様な建屋に、同じく見上げる様な設備が並んでいる産業でしょうし、後者は巨大なクリーンルームや高真空設備やレーザー発振装置や精密な計測機器が必要でしょうし、エネルギー密度の集積も高いでしょう。結果として、天文学的な額の設備投資を必要とする訳です。一方、伝統的な技術はそうではありません。狭い仕事場に、立派ではありますが手に馴染んだ別の職人の手による「道具」整然と並べられた場所から生み出されます。

中間技術とは、上記の大と小の中間的な投資で始められる産業を指すのですが、しかしそれだけではなく、彼は「顔の見える技術」でもあると説くのです。誰に顔が見えるのかと言えば、それは、その中間技術から生み出される製品を強く必要としている消費者に対してなのです。消費者のニーズによって引き寄せられる製品を、中間的な設備投資から生み出す顔の見える技術がまさしく「中間技術」なのです。具体例については次回に続きます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年4月13日 (木)

3267 かと言って軽少短薄?

3266の文脈では、では軽少短薄に走りさえすれば良いのか、と突っ込みが入るかも知れませんが、決してそうではありません。家電や半導体の凋落は、かなり深刻です。航空機産業などを眺めても、例えばCFRPなどの素材としてのシェアは確かに握ってはいますが、それを使って飛ばしているのは、欧米の機体メーカーです。Mビシが少しやる気を出した時には、既に小型機市場でさえ、入り込む余地は非常に狭まっていたのです。仕方なく、国内の航空機(部品)産業は、汲々として海外下請けに勤しんでいるという状況なのです。

つまり、大きなインフラ関連の重厚長大産業も、最先端を狙った軽少短薄産業も、どちらも行き詰っている様に見えてしまうのです。特に後者に関しては、理由は明白です。つまりは、無理に作り出された需要を見込んだ産業だから、と言うしかないでしょう。安ければ買うだろうと、家電製品の大量生産に走った結果、大きな在庫を抱え、結果としては値崩れを引き起こした家電業界は好例そのものです。同様に、LCCの台頭で、値崩れしてしまった旅行業界も、先日の新興旅行代理店の倒産騒ぎの様に、歪で邪道なビジネスに走る結果を招いてしまったのでしょう。

何処も、どの産業も「地に足がついていない」のです。固く締まった万年雪が、雪崩を打って崩れ落ちる事は決してありません。地面に接している部分が、それこそ底堅いからです。しかし、新たに降り積もった雪は、そこが傾斜が急な斜面であれば容易に崩落するでしょう。表層雪崩です。これまで、生まれては消えて行った産業の多くは、地固めや事業拡大に際しての「引き締め」が足りなかったのがその原因であることは明らかです。バブルの崩壊とは、まさにビジネスの引き締めを怠った当然の罰だとも言えるでしょう。

さて、この稿での結論は単純です。先ずは底堅い需要を探し当てる事です。衣食住の基本部分は間違いなくそれに該当するでしょう。次のステップは、慎重な起業や事業拡大でしょう。一発当てるのではなく、小さくても数多くの弾を撃ち、それを確実に当てるのです。観光や、贅沢な車や高級家電などは、いわば景気の泡に乗っかった危うい需要と見定めなければならないのです。そんな事よりは、先ずは今ある売れ筋の製品やビジネスをバージョンアップし、ロングテールに仕立て上げる事こそが大切だと思うのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年4月12日 (水)

3266 重工長大産業の限界

同じ様な表題で何度か書いたような気もしますが、最近の世情を眺めていると、再度警鐘を書き記して置く必要がありそうに思うのです。T芝の巨額赤字や不良債権隠しがやっと、と言うか一応俎上された様ですが、額は少なくともM菱やH立など、原子力に関わる企業でも同様の損害を出している筈です。それと言うのも、過去のある時期お国が原発再加速政策を打ち上げ、重工各社がそれに乗っかって事業拡大を図った時期があったからです。手っ取り早い事業拡大策は、つまりは企業買収でしょう。各社は、大金を握りしめて欧米の原子力企業の買収に走ったのでした。

重厚長大産業のシンボルは、かつては鉄鋼、造船業でした。しかし、途上国の親切な技術指導に力を入れた結果、K国やBラジルやC国などにお株を奪われ、シェアを大きく減らしたのでした。造船業の凋落は、日々悪化していると報じられる通りです。その後、重工はローリングストック(鉄道などです)産業に力を入れましたが、それもC国にコピーされて国際入札では苦戦しています。ならばと力を入れた航空機産業も、B社に上手く立ち回られ「万年下請け」に甘んじている状況です。起死回生策として、半世紀ぶりで開発中の国産旅客機は、開発のべた遅れで立ち上がったとしてもビジネスとしての成功には「赤信号」が点滅している状況です。

結局、重厚長大産業とは、社会インフラ産業であると括弧で括る事が出来るでしょう。この国の社会インフラは、殆ど煮詰まってしまい、今後は維持に力を入れなければならない時期に入っています。一方で、途上国が求めている社会インフラは、決して原発や新幹線やジェット旅客機ではない事は明らかでしょう。求めているのは、それ以前の基本的なインフラ、例えば水道事業や基本的でシンプルな(投資の小さな)流通インフラである事は自明です。結局、20世紀型の産業である出番はほぼ終わったと考えるべきなのでしょう。輸出を考えるのであれば、輸出先の国情を踏まえた製品を並べるべきでしょうし、国内産業として考えるなら、作ってしまった膨大なインフラを長持ちさせるためのメンテナンス産業にこそ力こぶを入れるべきでしょう。T芝の躓きを詳細に検証し、他社も早急な路線転換を始めるべき時です。リニア新幹線など作っている余裕は、この国には残されてはいないのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年4月11日 (火)

3265 バイオマス生活

ペレットボイラで給湯・暖房する暮らしを始めて3か月が経過しました。炊事はLPGで行っていますし、寒がりの連れ合いは寒い日はエアコンを動かしていますから、完全にバイオマス・非電化生活ではありませんが、まあまあ良い生活スタイルではないかと思っています。

燃料は、地元産のペレットを、車で数分走ったところの農機具店で購入するのですが、10袋(100㎏)買って帰ると、これで約2週間程度の給湯・暖房が出来る量になります。金額で言えば、3,500円なので、一日当たりでは冬場で200円前後と言うことになるでしょうか。我が家のシステムは、太陽熱温水器も併用しているハイブリッドなので、春先でも太陽熱が採れる日は、ペレット燃料の消費は半分以下になります。夏場の晴天日は、間違いなく太陽熱だけで間に合うでしょう。

システムは、自分でざっと熱計算した上で、太陽熱温水器のセットとペレットボイラを別々に購入して、スチール物置(ボイラ室)の中に自分で設置し、設備屋さんに配管を繋いで貰いました。結果としては、温水タンクに組み込まれている熱交換コイルがそれほど能力が高くなく、ペレットボイラで生み出した熱が不凍液を暖め、それが温水に熱交換される割合が低い結果、ボイラとしての熱効率は50%を少し超える程度ですが、既製品なので仕方がありません。加えて、貯湯量が200ℓと少な目なので、油断をして貯湯温度が低めだと入浴中にお湯の温度が下がってしまい、風邪をひく「危険性」もあります。理想的には、もっと熱交換コイルの面積が大きく、貯湯量も少なくとも500ℓ程度は欲しかったところです。

もう一つの失敗と言うか不満は、ペレットボイラと太陽熱の切り替えが、完全手動なので切り替えのためにわざわざ屋外のボイラ室に行かなければならない点です。これは、今度電動の3方コックを追加して、遠隔で切り替え出来る様に改善する予定です。また、貯湯量が少ない点も、300ℓ程度の予備の貯湯タンクを追加して、2タンク方式へのシステムアップも検討中です。昔を思い出すと風呂に入るためには、薪を用意してそれを焚きつけて風呂を沸かす必要がありましたが、それに比べれば、点火さえすれば後は自動燃焼のペレットボイラは、随分楽だとは思いながら毎日風呂焚きをしている今日この頃ではあります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年4月10日 (月)

3264 還歴?2

還「歴」の例をもう少し続けます。かつて、宰相とまで呼ばれた人がLッキード事件の収賄罪で収監された時、受け取った金額は確か5億円程度だった様に記憶しています。当時の庶民感覚からすれば、3億円事件でもそうだった様に、天文学的な数字の金額だと感じたものです。時代は下って、現代の社会でも8億円もの国有財産が、忖度か何かで消えてしまったと聞くと、やはりかなりの金額だとは感じますが、最早それはワイドショーが囃したてる「話題」程度にしか扱われていない様なのです。現在でも当然収監に値する罪だとは思うのですが、これは、悪い歴史が繰り返し過ぎて国民の感覚がマヒしてしまった結果なのかも知れません。

60年前との比較で思い起こせば、高度成長期に打ち上げた「列島改造計画」と言うものがありました。いわゆる土建屋リーダーが、日本列島をトンネルや橋で結び、高速道路網や新幹線網を張り巡らすという大きな構想でした。60年以上の時が流れて、結果としてそれはほぼ実現できた訳ですが、それに匹敵する様なデカい計画は立てれそうもない今のご時世、今のリーダーは20兆円程のリニア新幹線でお茶を濁すしかなかった様です。代わりに、6年前の震災被害復興事業での嵩上げ工事や、原発事故の収拾作業+廃炉工事で、天文学的な額の「負の予算」を積み上げ続けているのでしょう。その意味では、景気の主導をインフラ事業に充てる「国債」で賄うという手法は、時を経てリサイクルされている様なのです。

マツリゴトの世界を振り返ってみると、いわゆる保守合同の55年体制は今のリーダーの祖父が深くかかわって出来たと理解しています。それから、月日が巡ってその孫が政権の舵取りをしているのは、やはり還歴の一現象に見えてしまいます。と言うより、現リーダーはまさにそこを狙っているのではないかとさえ思えるのです。つまり、祖父が築いた保守の基盤をガッチリと固めたいという願望のことです。そのためなら、N本会議であろうが、ナントカ学園であろうが、何でも利用して地固めを進めてきたのだと見えるのです。もし、彼がなにかのシンボルだとすれば、それは日本の「政界の系譜」だと言えるでしょうか。天皇家が100代以上遡れるとしたら、政界の系譜は精々明治維新に遡れるだけでしょう。むしろだからこそ、皇室をシンボル以上に持ち上げ、戦争責任を逃れた政界の系譜を守るために、腐心する様に見えるのです。以上は、最近の投稿者の感想でした。批判ではありませんので念のため。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年4月 9日 (日)

3263 還歴?

還暦と言うのは、単に干支が5回まわって、60歳になる事だと思っていました。しかし、最近還暦とは、つまりは還「歴」も意味し、過去の出来事は、60年も経つと直接的には人々の記憶から忘れ去られ、たとえ過ちの歴史であってもそれは繰り返されるものだ、と言う教えでないかとさえ思うようになったのです。

具体例を挙げましょう。例えば、五輪や万博誘致です。60年代、70年代は、この国にとって飛躍の時代でした。オイルショックに振り回されたとはいえ、産業は拡大して経済規模は成長の一途を辿り、人々は「所得倍増計画」に踊っていたのでした。投稿者の様な年代の人間は、学校を出て社会に入っていく中で、その躍動を体感し、享受した世代と言えるでしょう。その中で、前回の東京五輪や、大阪万博はまさに経済成長のシンボルでもあったし、実際にも社会インフラを拡充し、国威発揚(もはや死語ですが)の証でもありました。

さて、今また2020五輪であり、関西への万博誘致活動の兆しがある様ですが、彼らは一体何を狙っているのでしょうか。あの高度成長期の真似事をしようと考えるのであれば、それは間違った選択か、あるいは悪い夢想に過ぎないと断ずるしかありません。見かけは、歴史が巡ってきた様にも見えるかも知れませんが、それは形だけの還「歴」であって、全くの還暦ではないからです。まして、その開催目的が単なる「経済活性化」だけだとすれば、何をかいわんや、でしょう。

別の例では、かつてO宅壮一がテレビ番組の劣化を指して「一億総白痴化時代」と評した昭和の時代から、めぐり巡って今は「一億総ネット化時代」とでも言うべき社会になったと言えるでしょう。賑やかなだけの娯楽番組を一方的に受け取るだけのテレビ生活は、確かに人々をアホにするかも知れません。しかし、自分の興味があるコンテンツだけをググるネット生活も、考えてみれば思考停止の白痴化現象と言えるかも知れません。O宅が憂いたのは、人々が自分の頭で考えなくなる事、結果として思想的にも「為政者にとって操作しやすくなる」国民が生まれる事だったのではないかと想像しています。今は、ネットでツブヤクだけで、世論を操作できる「便利な時代」になったという点では、まさに還歴でしょうか。長くなりそうなので稿を改めます。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年4月 8日 (土)

3262 時代錯誤

何故人はこれほどまでに過去に引きずられるのでしょうか。もし過去を断ち切る簡単な術が見つかり、将来を考える事に夢中になれるなら、あるいは動物の様に瞬間瞬間を生きる事だけに集中出来たら、どれほど幸せだろうと夢想します。過去に学ぶ事は、もちろん悪い事ではないでしょう。過去の失敗に学ぶ事が出来るからです。だからこそ、人は口伝や書物に書き記して、無駄な試行錯誤を回避しようと努力してきたのです。試行錯誤はもちろんムダだけではありません。試行錯誤の中から、先人の知恵を超えるアイデアが生まれる事も多いからです。むしろ、ブレークスルーのためには、過去の文献だけに頼るのではダメなのかも知れません。

しかし、同じ錯誤でも時代錯誤はいけません。「時代錯誤」と言う言葉は、専らネガティブな文脈で使われる言葉でもあります。時代錯誤は、過度な過去への郷愁から生れるものの様です。つまりは、「昔は良かった。然るに今の時代は一体なんだ・・・」と言う文脈でです。

さて、このブログは、ある特定の人や集団の行動を批判する事はご法度に決めて書いていますが、時々警鐘は鳴らしています。その意味で、残念ながら昨今のマツリゴトのレベル低下には、ガンガンと警鐘を鳴らさざるを得ないのです。その国会での議論の多くが、過去に問題になった事案と同じ道筋で、延々と繰り返されている事に国民は飽き飽きしています。いわく、利権問題、活動費の不正流用、官僚の政治「屋」への忖度問題、特定団体への利益誘導問題、敢えて敵を想定したがる外交政策、何かにつけて防衛費の増額問題、公共投資によるワンパターンの景気刺激手法問題、金利操作だけの楽チンな経済政策、(例えば復興)関連予算への無関係予算の潜り込ませ問題などなど。

一体70年代の利権政治と何が違うと言うのでしょう。「たった5億円」で、リーダー経験者が投獄された過去を振り返れば、それ以上の額の税金が消えてしまった罪は軽くはないでしょう。私たちには、過去を懐かしむ自由は許されるのでしょうが、無理やりシステムまで過去に戻そうとする力には抵抗しなければならないでしょう。もし、そんな暇があるのなら、将来世代の幸福を真剣に考えるための議論に集中しなければならない時期だと思い定めなければならない時期なのです。明治時代の何とか勅語なんか○○喰らえ、です。今回の投稿は、単なるグチでした。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年4月 7日 (金)

3261 工夫力

最近の工夫力低下には、危機感すら感じます。原因はハッキリしています。私たちが、仕事や生活の中で、困る場面がメッキリ減ってしまった事にあります。人は、困るとそれをどうにか回避しようと工夫を始める存在だからです。仕事は、と言えばミスを犯さない様に、ミッチリと書き込まれた「マニュアル」が作成されていますので、日常の仕事をこなす中で、困ったり迷ったりする事は随分少ないでしょう。

一方、生活の中では、衣食住に不自由する局面は随分無くなった筈ですし、家電は自動化され、車でさえも自動化されようとしているではありませんか。子供が、疑問を持ったとして、親に尋ねるとそれはG-グルに聞けと答えておけば事足りるでしょうから、次回から子供は勝手に自分でGグル事でしょう。更に言えば、今の世の中ではモノの入手に関する不自由さは殆ど無くなってしまったのです。何故なら、ネットショッピングを使えば、欲しいと思ったものが早ければ翌日、長いものでも数日待てば宅配便で手元に届くからです。

戦後のモノの無い時代、進駐軍が中身を消費して捨てたドラム缶や缶詰の空き缶が、実は貴重な材料であったのです。それらを無駄なく使って、鍋釜や薪ストーブやブリキのオモチャが作り出され、私たちの生活を支えてくれたのでした。缶詰の空き缶の内側は、非常に美しくメッキされており、裏返すとさながら新品のブリキ板の素材として蘇るのです。ドラム缶だって、少し厚手の鉄板として、色々なものに生まれ変わらせる事が可能です。例えば、今でもモノ不足状態が続いているCューバでは、ドラム缶からスティールパンと言う楽器まで作り出したではありませんか。まさに、「窮すれば通ず」です。音楽に対する渇望が、新しい楽器を生み出したのです。

私たちは、便利過ぎる都会生活に慣れ過ぎたと言うしかありません。もっと、田舎に住んで「不便を楽しむ」必要があるでしょう。不便を感ずれば、俄然私たちの脳や手先が働き出し、色々なものを再び創り出すことでしょう。お国は、地方創生などと訳の分らない事を言っている様ですが、創生のアイデアなんぞは、先ずは不便を感じて工夫を始めるところから始まるのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年4月 6日 (木)

3260 ハードではなくビジネスモデル

お国の産業政策を眺めるたびに溜息が出ます。いわく、農業の大規模化や6次産業化を図る、観光客を何千万人だかして観光立国になる、またIoT産業を伸ばす、、またモノ造りで言えば、航空宇宙産業を伸ばし、水素社会にする云々。しかし、考えてみればこの国が道を誤った(かも知れない)のは、社会構造の変化やモノ造りを形(構造、或いはハードウェア)からしか見てこなかった事ではないかと振り返っています。

エネルギー政策に関して言えば、石炭から石油、原発を挟んで天然ガスから水素へとの転換を図って、あるいは目指しているにしても、ソフトウェアの面(つまりは格段の省エネ技術)への目配りが抜けています。モノ造りに関してみても、造船業で稼ぎまくって、その後は技術を教えてやったK国やC国に追い上げられた末に、慣れない客船なんぞに手を出して大赤字を出すなど目も当てられません。鉄道車両についても全く同様です。技術供与した新幹線がコピーされ、海岸案件では連戦連敗になっている様です。

考えなければならないのは、簡単にコピーできるハードウェアで勝負するのはもう止めにすべきではないかと言う点です。Aップルが、携帯端末の分野でトップシャアを維持しているのは、決してハード面でリードしている訳ではないでしょう。ハードであれば、少し前だったら日本、今はK国やT湾やC国のメーカーに任せれば良いだけです。彼らは、ソフトウェアやコンテンツに集中すれるだけです。この国でも、ソロソロ形に拘る事を止めて、ビジネスモデルの構築に注力すべきでしょう。

例えば、航空機産業です。M菱重工のMRJの開発がまだグズグズと泥沼でもがいている様ですが、その間にBラジルにおいて行かれ、C国などにも追い上げられてきているのです。しかし、LCCの台頭で、エアラインは最早儲かる産業ではなくなっているのです。それは、N航の経営危機でも証明されているでしょう。そうではなくて、今の時期の海外渡航の市場を綿密に調査し、どの様な「交通手段」が最適解になり得るか、そのためのビジネスモデルはどうあるべきか、と言う視点が欠かせないでしょう。それ無しに、単にハードウェアの開発だけに注力すれば、残念ながら今度の国産旅客機もかつてのYS-11の「二の舞」に陥ってしまう結果に終わるでしょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年4月 5日 (水)

3259 新冷媒

3258の続きです。これまで、ヒートポンプの冷媒はフロン系のガスが主流でした。フロンは、非常に安定なガスで、長期間の使用でも劣化が少ない事が理由です。しかし、あまりにも多量のフロンガスが使用され、製品の廃棄に伴って、回収されずに大気放出されたガスが、成層圏まで上昇して、オゾン層を破壊続けることが分かって、国際的な製造・使用の廃止が決議されたのでした。(1987年、モントリオール議定書など)

一方で、フロンやその後開発された代替フロン類も、オゾン層への影響はかなり軽減されたものの、強力な温室効果ガスであることが明らかにされて、この国でも「フロン類の使用の合理化及び管理の適正化に関する法律(フロン排出抑制法)」として、使用や排出規制の対象としています。その中で、炭化水素系やCO2系の、いわゆる「ノンフロン系」の冷媒が注目されてきたのです。炭化水素系は引火性の問題があるのと、CO2系はそのためのコンプレッサーの開発が必要で、既存のシステムの冷媒としては使えないなどの障害があって、未だに社会の隅々にまで浸透してしまったエアコンの多くはフロンガス系の冷媒を抱えたままになっているのです。

しかし、例えば新冷媒であるHB-156は、R-22の代替として理想的で、しかもより小さなパワーで圧縮・液化が可能であるため、1割程度の省エネにつながるというオマケも付いて居るのです。投稿者としては、もう一つ有望なノンフロン冷媒にも注目しています。これはR-1222HCFC系冷媒や、R-400系のHFC代替として開発された、R-441aやR-443aなどの炭化水素系の冷媒です。これは、省エネ効果がさらに大きく、入れ替えにより電力の3割減が可能となるものです。とは言いながら、炭化水素系はその成分がプロパンやイソブタンなどの強燃性ガスであり、システムからの漏洩による爆発・火災事故が懸念されるリスクも含むものでもあります。しかし、考えてみれば、都市ガスやプロパンガスなども屋内配管はされている訳で、同程度の安全管理でリスク対応は可能だとも言えるでしょう。

それにつけても、GM社がかつてデュポン社と共同開発し、世界中に広まった結果、地球環境に甚大な影響を与えるまでに大量に使われたフロンガスに代わる、温室効果が小さく、安全でしかも省エネにもつながる究極の冷媒ガスの出現が待たれます。世界中の化学メーカーが本気になって努力すれば、それは十分可能だとも思うのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年4月 4日 (火)

3258 スパコン

今回は「解説もの」です。スパコンと言ってもスーパーコンピュータの話ではなく、エアコンの省エネの話題です。正しく呼べば、スーパーコンデンサとなるのでしょうか。これは、エアコンの室外機に付加する、補助的な熱交換器なのです。

エアコンは、冷媒ガスを電力を使って圧縮する事によって、液体の冷媒を作り、それを膨張弁で膨張させる時に「気化熱」を奪い、室内の熱交換器で冷たい空気を作って冷房を行う機械なのです。暖房時は、逆に気体の冷媒を圧縮する時に出る熱を暖房に利用し、室外機では冷たい外気から更に熱を奪って室内に送るのです。なので、エアコンや冷媒を使ったオール電化の給湯器を「ヒートポンプ」とも呼ぶのです。さながら、目に見えない熱を移送するポンプの様だからです。

さて、特に夏場の気温の高い日には、圧縮機がウンウンうなって仕事をしても、冷媒が十分に液化せず、気体と液体の混合物となって膨張弁に入る事も多いのです。こうなると、エアコンとしての効率は低下し、電力を注ぎ込んだ割にはあまり冷えない、と言うマズイ状態に陥るのです。冬も同様で、あまりに冷たい機体の冷媒が圧縮機に入ると効率が低下するのです。

そこで、スパコンの出番になります。スパコンは、圧縮機に入る前の冷媒を、夏は少し冷やして液化し易くして、冬は少し暖めてやり、より多くの熱を発生させる働きをするのです。この結果、エアコンとしての効率は10%以上改善するので、電気代としては約1割安く上がる事になります。夏場に、室外機に間欠的に水ミストをスプレイする仕組みと併用すれば、夏場は2割程電力が下がると見込まれます。エアコンシステム改善のためには初期投資が必要ですが、4-5年で投資は回収できるでしょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年4月 1日 (土)

3257 避難指示解除

Fクシマ事故で出されていた避難指示エリアがかなり解除され、一時の1/3程度に縮小された様です。しかしながら、当然の事ながら元通りの生活からはほど遠い状況だと想像しています。戦後の復興期、大陸から引き揚げてきた人や、ベビーブームの中で食料増産のため、多くの地域で山間部深くまで開発され、人々が入植していったのでしょう。そんな、村々がやがて原発の城下町になって、そこに住む人や原発作業員や関連雇用の拡大で新たに住民になった人々は、それなりに恩恵も受けながら平和に暮らしていた事でしょう。

しかし、原子炉は放射能というあらゆる災いを閉じ込めた恐ろしいパンドラの箱でもあった訳です。Fクシマ事故で、最悪の見えない災いが大気中に踊りだし、野山に広がり、土壌の中に潜り込んでしまったのです。残念ながら、ギリシャ神話とは異なり、この現代のパンドラの箱の底には「希望」などは残っていませんでした。代わりに、格納容器の底には燃料デブリという長く永く災いを振り撒き続ける絶望的なモノが残ってしまったのです。

戦前戦後を通じて、先人が作り上げてきた桃源郷は、今後何十年経っても取り戻すことは叶わないでしょう。少しずつ人が戻るにしても、それは「恐るおそる」のすり足になるからです。人は、そうしなければならない時は、額に汗して頑張る存在ですが、仕方なくそうしなければならない場合は、ノロノロと引っ込み思案に行動する様です。野山に残された放射性物質は、ガイガーカウンター(やや古い言い方ですが)を鳴らしながら、あまり近づくなと警告を出し続けるでしょうから、山に入っての楽しみも少なくなるでしょうし、ましてや山菜や山の恵みもいただけなくなってしまうのです。山間の楽しみは、山に入って同化し、そこの恵みを少し分けていただく事ですので、それが奪われた暮らしは、魅力の半分以上が損なわれたのと同じになってしまうでしょう。

問題は、除染されたエリアと除染されなかったエリアの放射線の自然減が、どの程度期待できるかですが、平原にあったチェルノブイリと、起伏があって降雨量も比較的多いこの国では、良い方にかなりの差が出る事を祈るしかありませんが、過大な期待は慎むべきでしょう。汚染エリアの前途は多難であると言うしかありません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年3月31日 (金)

3256 生物多様性

環境保護や生物多様性などと、声高に叫ぶのは、環境を破壊し続け、生物多様性を毀損してきた人類の一人としては、かなり気恥ずかしいものがあります。まだ発見されていない土壌中の微生物や、海底の泥の中の海棲生物などまで入れると、何百万種にもなると想像される生物は、未だ多様性に富んでいるとは言えますが、日々数十種程度の生物が絶滅し続けている事も確かな事実です。また、生物の殆ど棲めない砂漠やプランクトンが見当たらない「死んだ環境」も広がり続けてもいます。

その中で、私たちに何が出来るかですが、取り敢えずは身の回りの植物を、単一なもので飾るのではなく、1種でも多くの植物を植える事から始めたいのです。植物の種類が増えると何が起こるのかですが、見える変化として集まる昆虫の種類が増えるでしょう。ある昆虫は、特定の植物に依存生活史を送る事が多いからです。植物に依存する植物が増えれば、肉食の昆虫や見かける鳥の種類も間違いなく増えるでしょう。また、植物の根と土壌微生物の関係も多様化し、種類も増える筈です。もちろん、土に入れる肥料は「微生物の宝庫」である堆肥に限る事は言うまでもありません。農薬は使わず、合成肥料も使用を避けます。

つまり、人間の都合により、育てやすく収量の多い作物や、見た目に華やかですが、遺伝子操作によって「創られた」植物は、決して昆虫の好みではあり得ないのです。見た目ではなく、昆虫に人気の高い植物を、可能な可能な限り多くの種類を寄せ植えする事により、生物の多様性は徐々に増してくる筈なのです。それらの植物は、ホームセンターではなく、田んぼのあぜ道や里山の近くで見つかるでしょう。もちろん、保護されている植物の採取はご法度ですが、種が取れる植物であれば結実の時期を待てば良いだけです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年3月30日 (木)

3255 Minimum sufficient

これを日本語にすれば「必要最小限」、あるいは「必要かつ十分」でもなるのでしょうか。そういえば、この表題では一度ならず書いたような気もしますが、どうせ以前に書いた内容は忘れていますし、今回は別の視点で書くかも知れないので、まあ良いでしょう。必要かつ最小限をどう考えたら良いのでしょう。ある人にとっての必要は、別の人には不要なものかも知れません。またある人にとっての十分は、別の人にとっては不足、あるいは過分かも知れません。

例えば、冷暖房を考えてみましょう。かつて、この国の人々は、冬季の暖房は必要に迫られて、最小限の熱源を確保してギリギリの暖を取っていたはずです。それは、目に沁みる煙が出る囲炉裏での焚火だったり、町家では炭を利用した火鉢や炬燵だったでしょう。少し、時代が進んで、ブリキや鋳物のストーブが手に入る様になると、人々は入会林で薪を採集し、軒下に積み上げて冬場の燃料としていたのです。その後、ある時期には石炭が手に入り易くなり、さらに時代が進んで1970年代には、石油が手に入り易くなり石油ストーブがポピュラーになりました。

しかし、夏場の冷房についてはかなり近年になるまで、一般家庭には導入されていなかった筈です。家電メーカーにおけるコスト削減努力が実を結び、ほとんどの人が「エアコン」の恩恵に与れる様になり、爆発的に普及したのでした。もちろん、その背景には都市化による熱帯夜の増加や、温暖化傾向による猛暑日の増加があったのも間違いないでしょう。

さてMinimum sufficientです。私たちは、やはり必要・不必要の境界線や、十分・不十分の境界を引き下げるべきだと思うのです。それも大幅にです。具体的に言えば、1970年代のレベルです。もっと具体的に言えば、モノの消費とエネルギーの消費を、現在の1/2以下にする事を意味します。一見難しい様にも見えますが、今の生活レベルをあまり落とさなくともそれは可能だと見ています。例えば、既存のエアコンの冷媒だけをもっと効率が高く、しかもノンフロンのもの(炭化水素系)に交換するだけでも20-30%の省エネが可能だとされています。それに加えて、冷房や暖房温度を2-3℃押えれば、エアコンのエネルギー50%削減は十分視野に入ります。新しく家を建てるのであれば、温暖な地域でも断熱材をたっぷり使えば、それだけでエアコンに係るエネルギーを半減する事も可能となるでしょう。続きます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年3月29日 (水)

3254 巨大プロジェクト考

大T芝が存続の危機に瀕しているというニュースは、日々マスコミに踊っています。かつて、公共放送で人気のあった「プロジェクトX」で取り上げられたトピックスを思い起こすまでもありませんが、この国では高度成長期を通じて、いわゆるビッグプロジェクトが目白押しでした。新幹線網、都市や地方の高速道路網、それらに付随する長大橋や長いトンネル、更に雨後のタケノコの様な原発建設、都市を拡大させる沖合埋め立てや高層ビル建設ラッシュや空港の整備などなど、枚挙に暇がありませんでした。

さて、それらが経済の踊り場で一巡一段落し、私たちの注目はそれらの補修や維持に向けなければならなくなったこの時勢に、更なる原発建設へ向かおうと考えたT芝の積極策は、やはりと言うか結局というか大失敗に終わろうとしています。目を転じて、戦後二つ目の国産旅客機プロジェクトを眺めてみると、大苦戦を強いられている様です。かつて同じ業界に身を置いた立場で眺めると、やはりこのプロジェクトは、まだ経済に勢いのあった時代に開発しておくべきプロジェクトだったとコメントするしかなさそうです。少なくとも、経済の停滞から右肩下がりが始まっているC国や途上国、あるいは先進国での人口減少局面にぶつけるべきプロジェクトとはとても思えません。

ところで、JRのリニア新幹線のケースはどうなのでしょう。東海道トランクラインのバイパスとしてのリニア新幹線ですが、バイパスならば従来型の新幹線で一体何が悪かったのでしょうか。私たちは、ソロソロ20世紀型の夢から覚めなくてならないでしょう。手塚が描いた21世紀の鉄腕アトムの世界で、これまで実現されたものが殆ど見られない事に気が付くべきでしょう。21世紀に間に合ったのは、ハイブリッド車のPリウスや癒しロボットのPッパーくらいのものでしょう。20世紀の技術だけで私たちは十分に早い移動手段を手にし、かなりの程度の自動化や工業用ロボットを手に入れたではありませんか。これ以上「無理を押して」何を求めると言うのでしょうか。20世紀型の夢を追うのはソロソロ止めにして、今世紀は先ずは自分たちの足元を見回して、為すべき事を見出すべき時期ではあります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年3月28日 (火)

3253 付託と忖度

今回は、最新の流行語を取り上げます。文字にすれば、付と忖はニン偏とリッシン偏の違いだけなので、託と度の違いはあるにしても、一見ではどっちがどっちか分からなくなりますが、付託と忖度は、この国ではどうやら180℃すれ違う言葉の様なのです。前者は、例えば有権者が政治家にマツリゴトを「付託」するなどして使われる言葉ですが、ではその付託を受けた政治家が、有権者を忖度してくれているのか、と問われれば、そんなことはなく、政治家の取り巻き(=官僚)が票集めに協力するために、「先生」(ら)が望んでいる利益誘導の意向を忖度する程度の、狭い意味合いしか持たない言葉に成り下がっている様です。つまり、忖度は今や完全に「政治用語」になっているのです。しかも、付託に対する回答としての忖度ではなく、専ら政治家が利用する「権利」の様な意味になってしまった様なのです。

こうなっては、国語辞典の意味を改訂するしかなさそうです。つまり、

[名](スル)ひそかに政治家に有利なる様に状況を推し量ること。「先生の下心を―する」

などと改訂するしかない言葉になったというしかありません。今回の「事件」を通じて、上記の意味は完全に確定したのですから。忖度が政治用語になってしまったからには仕方がありませんが、本来の日本語では上記に意味においては「斟酌」を使うべきだったのでしょう。つまり、酒を酌み交わすときの様に、相手の杯が空になった時に、間髪を入れずに酒を注ぐか、あるいは少し間をおいて注ぐべきか、あるいはFAXを送るべきか、埋設物を過大に評価すべきかなどの、相手の意向を察知する、という行動を指す言葉だからです。

冗談はさておき、言葉は便利なものですか、使い方によっては怖いものでもあります。政治家はいわば言葉使いのプロでもある訳ですから、付託と忖度は互いに対の言葉として正しく使って欲しかったのですが、忖度の意味が今回の事件で「貶めらえた(捻じ曲げられた)」事を残念に思う者の一人です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年3月27日 (月)

3252 3Dプリンタ建築

何となく、3Dプリンタを大きくした様なもので、家が作れないかボンヤリ考えていたところ、ネットでそれを試行している動画を目にしました。それは、家の中心となる場所に柱(=回転軸)を立て、それから水平にアームを伸ばして、そのアーム上に少量の生コンを出すノズルを取り付けたものでした。いわばシンプルな「スカラーロボット」の様なものです。そのアームを回転・上下・出入りさせて、3Dプリンターの様に、基礎となるコンクリート床から、徐々に壁を積み上げていく工法の様です。しかしながら、コンクリートは圧縮力には強いものの、樹脂の様に接着力は大きくはないので、鉄筋を配してやらない限り、強度的には十分ではないでしょうから、小さな小屋程度であれば作れるでしょうが、人が住む家を作るには不十分だと言うしかありません。

もちろん、樹脂と硬化剤を混ぜたり、熱可塑樹種を使ったりすれば、補強材(例えば鉄筋など)は不要なのでしょうが、コストがかなりアップする事は間違いないでしょう。さてそこで上のシステムにもう一工夫加えましょう、コンクリートだけで、強度を高めるにはやはり生コンクリートに繊維状のものを添加する必要があります。例えば、繊維としてガラス繊維やカーボン繊維を使えば、確かに強力で壁の強度も上がるのでしょうが、リサイクル性に難があります。やはり、ここは天然繊維を使うしかないでしょう。天然繊維として、最も入手し易いのはやはりセルロース(紙繊維)に軍配が上がります。

適当な長さに切った紙の短繊維をコンクリートに混ぜて、上記の3Dプリンタもどきから吐き出させ、積層しながら固化すれば、強度的にも十分な壁構造が出来上がります。もちろん紙繊維には、簡単に風化しない様なコーティング処理なども必要でしょう。先人の知恵として、土壁にワラ繊維を混ぜて、十分に長い間の風雨に耐えている例もありますから、紙繊維にもそれ以上の耐久性が期待できるでしょう。座標の中心となる柱を徐々にリフトアップしていけば、多層階の建物も建設可能となる筈です。人手不足の建設業界ですから、設計図通りに自動的に建設が可能なこの様なシステムには、挑戦する価値が十分ある筈です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年3月26日 (日)

3251 レゴ建築

レゴブロックは偉大な発明だと思っています。小さなエレメント(ブロック)を組み合わせて、およそ形のある殆どのモノを創り出す事が出来るからです。最近のレゴはドンドン進化していて、部品の種類も増えて何やらPタゴラスイッチの様に、楽しく動くGadgetも作れる様になっている様です。しかし、ここで考えてみようと思っているのは、レゴの様なブロックを使った建築方法なのです。

かつて、間伐材として整理された小径木は、建築足場などの重宝されていましたが、今では殆ど使いみちがなく、山肌に切り捨てられたままになっていてココロが痛みます。そこで、この間伐材(たぶん直径で100-150㎜程度だと思いますが)を使って、木材ブロックを作ってみたらどうかと提案したいのです。例えば、断面で言えば100㎜角程度、長さで言えば軽くハンドリングできる300㎜程度に規格化し、レゴブロックの様に穴が開いていて、そこに同じく木製のダボ(ほぞ)を叩き込んで、互いにロックします。それを、さながらレンガの様に積み上げて壁を作るのです。開口部の上部は、少し長い部材で支えてやる必要があるのでしょうし、屋根を掛けるにはやはり部材の工夫や構造の工夫も必要でしょう。

しかし、基本的には誰でも日曜大工程度の道具で、倉庫や勉強部屋や事務所が作れる様なキットにすれば、自分で建ててみようとする人も増えると思うのです。そう思っていたら、FBの「Information Civil Engineering」と言うサイトに、面白い工法が紹介されていました。

https://www.facebook.com/Information-Civil-Engineering-383870055097958/?hc_ref=NEWSFEED 

それは、まさに発泡スチロール製の大きなレゴブロックを積んで家を建てるのですが、そのブロックの所々には、縦穴が貫通しており、そこに鉄筋を入れて生コンを流し込めば、壁がコンクリートの柱で補強されるという工法です。これだと、コンクリート柱で構造強度が確保できる上に、発泡スチロールはそのまま断熱材として機能する訳です。日本の様にがんじがらめの規制が無い(少ない)国ならではのアイデアではあります。しかしながら、投稿者の考えている木製のレゴブロックとは、少し主旨が異なるので、取り敢えずは「面白い工法」としておきましょう。投稿者が考えている木製レゴは、構造強度と断熱性能と木の温もりを同時に達成するものである点が異なります。暇が出来たら実際に設計してみようと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年3月25日 (土)

3250 エネルギー生産性

久しぶりに環境カウンセラーらしい投稿です(だと思います。)。エネルギー生産性とは、例えばGDPをCO2排出量で割り込んで、CO2排出量1トン当たりのGDP(生産高)を示す指標です。1980年代までは、実のところこの国は世界でもトップの指標を示していたのでした。1970年代以前のいわゆる「公害列島」を返上し、二度のオイルショックもくぐり抜けて、環境技術や省エネ技術の開発や投資を積極的に行ってきたからです。しかし、バブル時代を経て崩壊後の長いトンネルの中で、国や企業も委縮し、小さく縮こまっている間に、この指標でも他の先進国に追い抜かれてしまっていたのです。

風車ではヨーロッパ諸国に大きく置いて行かれ、シェアトップを取り優位を保っていた太陽光発電もDイツやC国にアッサリと抜き去られたのでした。原子力やクリーンな石炭火力などでは善戦はしていたものの、3.11以降は原発には強烈な逆風が吹き荒れています。日本の環境技術を使って環境負荷を比較的低く抑えた石炭火力においてさえ、今は逆風の時代でもあるのです。もちろん、環境負荷が小さいとはいえ、硫黄酸化物や他の有害物質が少ないものの、肝心のCO2量は変らないからです。つまりは、エネルギー生産性は全く改善していないのです。

さて最近注目されている、まるで2足飛びくらいに環境・省エネ技術を高めようと四苦八苦している水素利用技術ですが、莫大なインフラ投資を必要とする事もあって、多分今後とも歩みはノロいでしょう。加えて、そのインフラを造るために発生するCO2があり、何より水素を発生させ、運搬するために発生させるCO2量があり、システム全体としてみて、果たしてエネルギー生産性を今より低く抑えることが出来るかどうかは全く疑問です。

見かけは、確かに水素自動車や水素を燃料とする熱電併給システムからは、水以外は排出されないのですが、見えないところでのCO2排出が増え、一方でインフラ整備のためにGDPが増えるので、エネルギー生産性がそれほど改善する訳ではないでしょう。結局、必要な行動は「無理に」水素社会を造るのではなく、私たち自身のライフスタイルの見直しだと思うのです。質素に、慎ましやかに、必要かつ最小限の暮らしこそが、エネルギー生産性も低く出来る近道なのでしょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年3月23日 (木)

3249 弱い連係と多様性

最近、またぞろ進化論に関係する本を読みふけっていますが、その中の言葉からの連想です。最近の知見では、どうやら細胞レベルの進化では、細胞内のエレメントや他の細胞との連係によって進化が進む様なのですが、連係には、多分強い連係と弱い連係が存在すると想像しています。それを人間社会に敷衍して考えてみようと思います。

さて、強い連係とは、例えば国レベルの法律や規制や、あるいは政治家を選択するための選挙などが思い浮かびます。政策で予算が付けば、その予算で交付した先を縛る事も出来るでしょう。また、罰則付きの法律を使えば強い縛りを設定できるでしょうし、逆に許可制度及び規制緩和とのアメ・ムチの両輪で転がせば、更に強いコントロールも可能となるでしょう。一方で、弱い連係と言うものが考えられます。これは、ボランティアや善意などを元にしたいわゆる「絆」の様なものが考えられます。

しかし、何が人間社会で人を強く動かすかと考えてみれば、それは間違いなく「弱い」連係だと思うのです。予算や法律や規制の縛りは確かに強いのですが、それは人が道路からはみ出すのを防ぐ事は出来るでしょうが、人を強く動機付けるものにはならないでしょう。一見、強い縛りに従っている様に見える人々も、心の中では反発を抱えている可能性も強いのです。でも、善意から出た行動はしっかりした意志に支えられていますし、例えばボランティアの経験は、人を変えてしまう原動力にもなるでしょう。

細胞レベルの弱い連係(さざ波)が、細胞自体を大きく揺さぶる大波に変る事もあるのでしょう。これを、変化の「共振」現象と呼んでも良さそうです。細胞や社会の変化は、決して強すぎる連係からは生まれず、変化しようとしている状況にピタリと波長が合った弱い連係によってこそ、大きな変化(進化)や多様性が生ずると思っています。何やら政治の世界では、さながら戦前に回帰でもしようとする動きもある中で、この国を変えるのは、やはり良く変わろうとするココロが、私たち自身の間に充満してくる必要があるのでしょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年3月22日 (水)

3248 プログラム死

生き物の受精=発生、成長から死までを連続的に観察したとすれば、DNAに記述されたプログラムに従っている事が良く分かるでしょう。もちろん、生き物の一生はDNA「だけ」で一義的に定まるものではなく、成長過程では環境からの影響や相互作用により、かなりの程度変化しても来るのでしょう。その中で、注目すべきはDNA(と環境からの影響もあるかも知れませんが)による「プログラム死」と言う現象だと思っています。受精卵の分割が始まり、やがて胎児になる過程では、さながら太古の生物から霊長類に進化してきた過程を繰り返す様に成長を続けるのです。ある時期には、魚のエラの様な部分が現れたり、指の間にはカエルの様な水掻きまで出来て、それが妊娠のかなり後期まで残っていたりもするのです。

しかし、それらはDNAに仕組まれた「プログラム」によって、やがて消えてしまいます。プログラムによって,、エラや水掻きになるべき組織が死んで、吸収されてしまうのです。これを、細胞のプログラム死と呼びますが、およそ人間に限らず生き物の体や細胞の一生は、このプログラムとプログラム死によってコントロールされていると言っても過言ではないでしょう。プログラム死が無ければ、私たちは陸上では全く用がないエラや水掻きを抱えながら一生を送らなくてはならない羽目に陥るのです。

さて、生き物はDNAに繰られているとして、人間社会や文明は一体何にコントロールされているのか、時々考え込みます。歴史を振り返れば、絶える事の無かった紛争や戦争は、見方を変えれば、人類と言う生き物の「部分的なプログラム死」であったとも考えられるのです。それが一体何によって引き起こされているのか、色々な人が色々な見方で解説を試みてはいるのですが、なかなか納得する説に出会ってはいません。ここでは、個々人やコミュニテイを一つのDNAの切れ端と見做して、それで説明を試みてみましょう。DNAは、コピーを繰り返して情報(文化)を継承しようとしますが、いわゆるコピーミスや変異によって徐々に変質や劣化してしまうのは致し方の無い事でしょう。文化のコピーミスや劣化によって、例えば相応しくないリーダーに扇動され他のコミュニテイとの軋轢を生み出す事も度々あった事でしょう。

さて、出来るだけ世界を鳥瞰してみて、果たしてこの国や現代文明がプログラム死の過程にあるのかどうか、投稿者としても注目して観察を続けたいと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年3月21日 (火)

3247 進化

何故か進化論が好きです。それほど種類が多くはないたんぱく質類と、これもたった4種類の塩基で構成され、複雑な動植物の体の設計図(DNA)としては、意外に少ない遺伝子情報(4デジット)で、なぜこれほどまで多様な生物が地球上に出現し得たか、全く興味が尽きないからです。シェークスピアの著述の簡単なセンテンス、例えば「To be or not to be that is the question.」を、コンピュータが26文字+記号を、ランダムに選びながら組み立てると仮定したら、たぶん天文学的な時間が必要だと想像しています。数学で習った順列組み合わせの式は忘れてしまいましたが、確か26の階乗に比例するのでしょうから、やはり組み合わせの種類は天文学的な数に上り、上記の一文が再現されるためには、長い時間が掛かる筈なのです。

しかし、生物の進化は数億年という「信じられないほど短い時間」でほぼ完成してしまったのは、驚くべきという外は無いでしょう。とても、ランダムな小さな変化が数多く生まれ、環境に適応した選択によって「徐々に進化した」などという悠長な理論(例えばネオダーウィニズム)ではとても説明しきれません。それどころか、環境に適応できるように、都合の良い「数多くの突然変異」が、無駄なく続き、生物の系統樹に沿って順調に進化を続けない限り、現在の生物の多様性は説明不可能でしょう。

と言う意味では、進化はランダムな突然変異と選択の積み重ねだけで起こったのではなく、ある時期からは環境との相互関係の中で、「明確な目的」をもって進んできた様に思えるのです。カンブリア紀などの様に、生命が爆発的に増えた時期と氷河期などの生命の絶滅危機を繰り返しながら、その中で明確な「生存戦略」が、今ある進化の系統樹を完成させたのだと思っています。

翻って、文明を一つの生命と考える時、似たような感慨を抱かずにはいられません。文明の寿命は果たしてどの程度なのでしょうか。人間の歴史を振り返れば、過度の環境改変(例えば森林の皆伐)などが原因で滅んだ文明の何と多い事でしょう。森林の消滅と過密な農業が、それに続く環境悪化(例えば砂漠化)を招き、水や食糧の不足を引き起こし、そこに栄えた文明を消し去ったのです。つまり、文明の持続可能性は、その文明を取り巻く「環境の持続性」によって担保される筈なのです。話が大分ややこしくなってきたので、今回はこの辺で・・・。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年3月19日 (日)

3246 多価社会への道2

3225では、具体的な方法を書き切れなかったので、続きです。多様な価値観を醸成するためには、何より強い思い込みを排除する事から始める必要がある様です。いわゆるイデオロギーなどと言うものは、狭い価値観への思い込みに他ならないでしょう。一般的な意味での神様や個人や偶像崇拝もイデオロギーと同じようなものでしょう。では、このブログでさながら「神様」の様に扱っている「環境」は偶像ではないのか、との突っ込みを受けそうですが、決してそうではありません。そうではなくて、ここでは私たちは環境にすっぽりと包まれて、どうにか生かされている、ちっぽけな存在に過ぎないとの想いを書き連ねているだけなのです。

さて、多価社会への道ですが、それぞれの価値観を持つ人たちが、垣根を低くして、出来るだけ緩く繋がるというアプローチが最善の様な気がしています。価値観に凝り固まってしまうと、異なる価値観の人達の間に「壁」を作ってしまいがちです。実際、海の向こうの新リーダーは、ナントカ令の頻発で往来の壁を築き、それでも足りずに国境に物理的な壁まで築こうとしているではありませんか。あのベルリンの壁崩壊の歴史的な意味は、一体何処にすっ飛んでしまったのでしょう。壁さえなければ、「お隣の価値観」をチラッと覗いたり、気楽に足を踏み入れたりするのも自由でしょう。

緩い繋がりはもっと大切でしょう。額に筋を立てながら、あるいは口角泡を飛ばしながらの議論からは何も生まれない事は、国会の様子を見ても明らかでしょう。言いたい事を言って、のらりくらりの言い訳を聞いて、最後は数で押し切る訳ですから・・・。そうでなくて、政党などと言うものは、もっと緩いものにして、自由に行き来が出来る様にすべきなのです。節操が無くなる訳ではないでしょう。是は是、非は非と言う態度を貫くだけの事なのです。法案ごとに、賛成・反対が大きく傾くなら、法案の作成ももっと少数意見も盛り込んだ「まとも」なものになる事は請け合いです。と言うより、何もかも盛り込んだてんこ盛りの法案などは出せなくなって、細切れの法案の山とせざるを得ない訳です。そうなると、国会も通年開催となり、議員と言う仕事も老体にはとても勤まらない若者の職業になる筈です。と言うより、今や議員は職業ではなく「身分」になり下がってはいますが・・・。残念ながら。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年3月18日 (土)

3245 多価時代への道

3244で書いた一価社会からの多価社会への脱皮方法を引き続き考えてみます。キーワードは「縛り」でしょうか。つまり、一価社会では、強い宗教観なり価値観で、社会全体が縛られていると思うのです。例えば、国が地方自治体を「地方交付税」で縛るとか、金利で銀行を縛るとか、あるいは教育を助成金の多寡でコントロールするとか、あるいは教育を「何とか勅語間がい」で縛るとかを例示する事が出来るでしょう。国家と言う縛りが極限で突き進んだ結果は、第二次世界大戦時のいくつかの国々や戦後の赤い国を思い出すだけで十分でしょう。

さて国にはどちらに向かっているのでしょうか。再々に亘って国益と言う言葉を連発するこの国のリーダーは、果たして国民をある価値観で縛ろうとしているのかどうか、私たちは周囲深くウォッチする必要があるのでしょう。そのチェックポイントとしては、やはりリーダー(が属するFaction)が、他の意見に耳を傾けているか否かと言う点に尽きるでしょう。その際、テレビ映りを気にしての茶番に終始する国会中継はそれとして、またそれをネタに小さな問題を大きく膨らませるのが得意のマスコミや週刊誌はそれとして、私たちはそれらに惑わされない、個々人のブレない視点を持っておく必要もあるのでしょう。

ブレない視点とは、結局はその人自身の「個人的価値観」そのものである事は自明です。起こっている、あるいはこれから起ころうとしている事が、望ましく、また好ましいものであるかどうかの判断は、まさにその価値観に掛かっている訳です。価値観はバラバラで別に統一する必要はないのですが、しかし何かを決議する時には、何らかの形で意志を統一する必要があるのは勿論です。そのために、多数決などと言う「一見民主的」なプロセスも決まってはいるのですが、時には今のこの国の状況の様に数の論理が暴走する事もあるでしょう。

そこで、投稿者が折に触れてこのブログで推奨しているのは、決議にその決議を受け取る事になる将来世代を参加させる事なのです。もし、将来世代を直接参加させる事が現実的ではないのであれば、それを代弁する人の意見を聞き、それと矛盾しない形で決議を行うべきなのです。現世代だけの利益を考えて決議された法案の何と多い事でしょう。最近決まった税制や医療や介護や教育関連等の法制は、まさに殆どが「現世代エゴ」と呼ぶしかない状況でしょう。表題とは少しズレてきましたが、今回はここまで。たぶん続きます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年3月16日 (木)

3244 一価時代

投稿者は一応理系だったので、理屈で割り切れない、ココロの問題や宗教論などは不得手で、どちらかと言えば無意識に避けてきた様な気がしています。しかし、そうではあっても「一神教」に関しては、一言言って置かなければならないとも思ってます。別に得手ではないので、Cリスト教やB教やMスレムなどを論ずるだけの知識もありませんしそのつもりもありません。しかし、いわゆる一神教というものは唯一無二の神(これを価値観と言っても良いでしょう)を信じ、他を排斥する(しがちである)ことは指摘しておく必要があると思うのです。そうでなければ、歴史上絶える事が無かった「宗教戦争」などとても説明することはできないでしょう。

つまり、一神教社会とは言葉を替えれば「一価社会」でもあるとも言えるでしょう。それで何が悪いかですが、最も、マズイのは価値を共有できない人々やコミュニティを排除しようとすることだと断言できます。最悪の場合には、排他性は紛争や戦争の引き金を引く事にもなるからです。さて、この国の場合はどうでしょうか。神も仏も八百万の神々も、ご先祖様も、山も川も湖も全て受け入れて畏敬の念をもって接してきたこの国の価値観は、ある時期(敢えて絞り込むなら高度成長期)以降、神様としての「お金」を崇拝する様になってしまった様なのです。別の言葉で言えば拝金主義や(経済)成長神話社会とでもなるのでしょうが、いずれにしても国(地方自治体)が出来るだけ多くのお金を集めて、それをばら撒いて国民をコントロールするか、に集中してきた社会だと断じても良さそうです。

もちろん、個々人の幸福はお金の多寡だけに依存するものではない事は明らかです。人の数だけ、生き甲斐や価値観は異なるのかも知れませんし、それを実現する手段もお金やモノだけでは無い筈です。その意味で、私たちが目指すべきは「多価社会」であるべきだと言えるでしょう。宗教的にも価値観的にも異なる人達やコミュニテイを認め、お金やモノ以外のものに価値を認め、自然環境や生き物にも権利を認め、その中で環境負荷を最小限に留めて暮らす社会こそが、目指すべき社会だと、どうにか環境人間に脱皮できたらしい投稿者は言いたいのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年3月15日 (水)

3243 新規性と進歩性

新規性とは、これまでに無かった何かが新しく付け加わることを指しますが、それが好ましい事であるかどうかは別の問題になるでしょう。一方、進歩性とは、望ましい方向に一歩踏み出すための何かを指すのであり、一定の方向性(ベクトル)を持つものと言えそうです。もちろん、そのベクトルとは望ましい変化の方向を意味するのですが、現代の様に人々の価値観がバラバラで、共通のベクトルが定まらない時代においては、それを定義すること自体が困難な作業だと言えそうです。

しかし、それでも私たちは将来あるべき社会の青写真を描かなければならないと思うです。そうでなければ、それは目的地が無い船に乗って、大海をフラフラ漂流しているのと何も状況は変わらないからです。船頭(船長あるいは政治家)が船の行き先を決める訳ではありません。彼(ら)の使命は、船を目的地に向けて、安全な航海を続ける事であるに過ぎないからです。行き先を決める義務と責任は、船に乗り込んでいる乗客自身の意志によって決められる必要があるのです。

しかし、この国の風潮を見ていると、国民は、国の方向を決めてマツリゴトを進める権限をすべて政治家や行政に丸投げしている様にしか見えないのです。丸ごと受け取った筈のお国のリーダー達は、いつまでたっても、国会で「批判と言い訳の堂々巡り」を繰り返しているだけの様に見えます。一体、最近の国会の議論で心から喝采を送れるような議決がまとまったことがあったのでしょうか。少なくとも投稿者には、その記憶はありません。つまり、一見新しい議決ができたとしても、それは新規ではあっても進歩には繋がっていないと言うしかないのです。多くの議決は、目の前の問題の対策に過ぎず、進歩にはつながっていないのです。進歩の無い活動を指して「停滞」と呼ぶのです。今後この国を、どの方向に導くかを誰が責任をもって議論してくれているのでしょうか。60数年生きてきましたが、まだその様な人の存在を知りません。もちろん、かなり時代を遡れば、いわゆる骨のある評論家や論客もそれなりに存在したのでしょうが、最近はトンと見かけた記憶が無いのです。寂しい限りです。今日も批判ではありません。ため息です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年3月12日 (日)

3242 環境変化の幅

環境変化の幅を指して、私たちはしばしば「ストレス」という言葉を使います。例えば、殆ど温度変化の無い部屋にずっと住んでいると仮定すると、私たちには気温の変化と言うストレスが掛からない事になるでしょう。しかし、夏は35℃を超え、冬には零下に下がる地方が殆どを占めるこの国では、体に対しては結構な気温ストレスが掛かっていると言えるでしょう。もちろん、広く地球全体に視野を広げれば、砂漠地帯の様に、日中と明け方の一日の気温差(日較差)が50℃にもなる場所もありますから、この国でさえ比較的マイルドなストレスの地域だと言っても良さそうです。

もちろん、ストレスが全て悪い訳ではありません。それどころか、ストレスは必要だとさえ言えるでしょう。ストレスが無ければ、私たちの環境への適応力が弱まってしまうからです。宇宙空間に長期間滞在した宇宙飛行士は、多くの点でストレスフリーの「実験室内」に住む事になります。温度は、当然の事ながらほぼ一定です。もし、宇宙ステーション内の気温が、+/-5℃程度でも上下させているとするなら、かなり良い設計だと言っても良い程です。気温ストレスの他、湿度や重力のストレスからも解放されますので、体は怠ける一方になる筈です。加えて、「完全に」空調されている船内は、多くの細菌からも無縁な状態、つまりは無菌室状態に近く維持されてもいるでしょう。彼らは、私たちが日常晒されている「軽微な」細菌ストレスからもフリーな状態である続けるのです。

さて、僅か半年のストレスフリーの環境が何をもたらすかですが、言わずもがなの「極端にひ弱な」人間を創り出してしまうと言えるでしょう。宇宙飛行士は、取り敢えず横にされたまま無菌室の様な部屋に入れられ、地上の重力に慣れるまでは起き上がる事さえままならないのです。一週間もすれば徐々に動ける様になり、数か月のリハビリ期間の後にやっと「娑婆」に出して貰える事になるのです。ストレスが、如何に私たちにとって必要不可欠であるか、改めて認識する必要がありそうです。ストレスには、体に負荷を掛ける肉体的ストレスもありますが、精神的な苦痛にも耐える力を養う、精神的ストレスなどもあり得るでしょう。この他にも、チャンスをじっと待つストレスや、ままならない状況を地道な努力を重ねながらじっと耐えると言ったストレスもあり得るでしょう。現代人は、多くの面でストレスフリーを嗜好している様に見えますが、その様な状況に慣れてしまった人々の将来は決して楽観できないと言うしかありません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年3月11日 (土)

3241 用不用説

進化論に興味があって、時々関係する本を読みます。用不用説と言えば、すぐラマルクさんを思い出しますが、生まれてから必要となって獲得した形質は基本的には遺伝はしないので、進化論の歴史の中には必ず出ては来ますが、今や誰にも見向きもされない説となってしまいました。確かに、ミャンマーの首長属の女性の金属環を数多く嵌めて伸ばした首は、自分の子供には遺伝はしません。もちろん、生まれながらに首が長く、部族では「美しい」とされる女の子は、大事にされより多くの子孫を残す可能性はありますが、それとて一定の範囲の中での話でしょう。

しかし、社会や文化の話として敷衍する、ラマルク説はいまだに十分通用する理論ではないかと投稿者は思っているのです。というのも、社会や文化の持つ価値観は、世代を超えて受け継がれるので、「遺伝する」と言っても良いと思うからです。同様に、ある社会にとってある時期「有用」であるとされたシステムも世代を超えて受け継がれるでしょう。しかしながら、社会や文化の価値観は比較的短時間で変わってしまうのに対し、社会システムの変化は鈍いのです。この国の価値観は、例えば「東日本大震災」で、しかも短時間で大きく様変わりしてしまいました。それまでの経済や効率優先の社会が、数日の内に、原発のハイリスク性が強く認識され、「命」の大切さや「絆」といった言葉が社会のムードを飲み込んでしまったのでした。

しかし、社会システムはそうではありませんでした。官僚組織やそれに付随する行政システムは微動だにせず、原発を含めたインフラの殆どは(東北の一部を除いて)温存された結果、喉元を過ぎればまたぞろ「原発再稼働」などに走ったことでもそれは明らかでしょう。つまり、原発は20世紀型の社会システムの延長である現在の社会インフラでは、曲がりなりにも「必要」と判断されてしまった訳です。もちろん、国民投票にかけた訳でもないので、絶対多数与党の独走の産物であることは間違いありません。

来るべき社会の価値観として、しかしエネルギーの需要と供給システムへの要求は別の方向を向いていると考えるべきでしょう。Q州電力では、瞬間的には70%を超える再エネ電力で需要を満たした実績ができました。供給の中身は、太陽光発電と風力発電が大部分だったと想像していますが、やれば出来ることを証明した点では重要な一歩でしょう。必要なことは、既存インフラから見た用不用政策ではなく、多様な価値観からの要求であり、それを満たす供給側の多様性だと思うのです。それは、何も電力に限った話ではないのは当然です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年3月10日 (金)

3240 日の丸

日の丸について考えてみました。日の丸(日章旗)は、非常にシンプルなデザインで、古くからこの国(日ノ本)の象徴であった太陽をシンボライズした意匠は分かりやすく、好感の持てる旗だと言っても良いでしょう。しかしながら一方では、天皇制や日出国の民族であるとの民族意識とも相まって、過去の戦争の歴史も含めて、偏った思想のシンボルともなってきたのでした。それは、天皇制や神社信仰やいわゆるU翼活動などとも複雑に絡み合って、右寄りの人々のシンボルともなってきたのでした。

国旗の位置づけはそれぞれの国で多様なのでしょう。生まれたばかりの国、紛争を繰り返している国、苦労の末に独立を勝ち取った国、さらにはこの国の様にずーっと存在し続けた国などなど、国旗が重要なシンボルとなっている国々もあれば、そうでない国も、時にはそれが焼かれることもあるかもしれません。しかし、好ましくないのはそれを眺めた時、眺めた人々に、他の人々を排斥しようとする気持ちや、自分たちのグループの信奉するイデオロギーだけが正しいという偏った思想のシンボルとして扱われる場合でしょうか。彼らの集まりで、壇上に恭しく掲げられる日の丸に、何やらアヤシイものを感じてしまうのは投稿者だけではないでしょう。

そうではなくて、国旗は人々が集い、同じ方向を目指す「旗印=standard」でなければならないと思うのです。この国の目指すべき方向は、一体どっちなのでしょう。口を開けば、景気浮揚や国際的緊張やB国の顔色を窺う発言しかしない、この国のマツリゴトに関わる人達(一応リーダー達と呼んでおきますが)から、目指すべき国の理想像などいった言葉が一切聞かれないのは、全く寂しい限りです。今回も批判ではなく、単なる嘆息でした。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年3月 8日 (水)

3239 フェイク・ツイッター?

そもそも、独り言である筈の「つぶやき」に一々反応したり、炎上させたりする必要があるのか、大いに疑問です。このブログにしたって、独り言と明言しているので、書いたことに関しての苦情は受け付けるつもりもないですし、特に誰かから褒めて貰いたいとも思っていません。敢えて、ツイッターやブログを書く人たちの気持ちを察するならば、できれば誰かの共感を得たい、といった程度の軽い気持ちなのでしょう。

しかるに、語調のきつい「あの人」のつぶやきと言ったらどうでしょう。誉め言葉などほとんど見られず、自分の気に入らない人々を攻撃する言葉であふれています。攻撃ならまだマシですが、そもそも謂れのない(事実無根の)つぶやきに至っては、何をかいわんやでしょう。フェイク・ニュースという言葉を流行らせた人へお返しするには、彼のツブヤキは「フェイク・ツイッター」と呼ぶしかなさそうです。

と言いながら、そのフェイク・ツイッターに反応してこんな独り言を書く自分自身にも何か割り切れないものも感じてしまいますが・・・。いずれにしても、現代人は他人のツブヤキに敏感になり過ぎであることは間違いないでしょう。それをわきまえた上で、では何を取り上げ、何を無視するのかという「情報フィルター」がますます重要になって行く筈なのです。投稿者がおススメしたいのは、何かに反応する場合でも、数日間をおいてリアクションする方法です。人々の怒りは6秒以内にピークに達し、その後は徐々に弱まります。しかしながら、他の人が怒りの対象に対してリアクションするのを見て、怒りが再度こみあげてくるものの様です。もちろん、3か月(75日)も経過すれば、怒りがあったことすら忘れてしまうのでしょうが、それでなくとも3日や1週間も経てば、物事を冷静に判断することも可能になると思うのです。いきなりリアクションしたり、他の人のツイートの尻馬に乗るのは厳に慎みたいものです。ましてや、根拠も示していない様なフェイク・ツイッターなんぞは、完全無視で良いでしょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年3月 6日 (月)

3238 報道フィルター

どうも最近報道に変なフィルターが掛けられている様で、もどかしい。何やら、透明度が低いレースのカーテン越しにマツリゴトを見せられている様な、ひどいフラストレーションを感じているのは投稿者だけではないと想像しています。日々のニュースはと言えば、少し前は豊洲の話題、今は関西のの私立小学校への国有地の投げ売り疑惑だけで、たまにB国の西洋花札大統領のツブヤキへの過剰反応報道程度しか見当たりません。

しかし、その報道も中心がかなりズレていて、的を大きく外しているとしか見えません。例えば、豊洲問題ですがその核心は、地下空間ににじみ出てくる地下水の汚染濃度ではなく、そもそもあの地下空間にあったであろう、ひどく汚染された土壌を掘り出して、一体何処に処分したのか。その結果、それが埋設された先で新な汚染問題が生じていないか、という点だと思うのです。例えば、かつて豊島という瀬戸内海に浮かぶ島に、大量の産業廃棄物が埋め立てられ、目も当てられないほどの汚染問題を引き起こした過去の教訓を忘れるべきではないでしょう。

国有地の投げ売り問題は、確かに国有財産への政治家が絡んだたたき売り事件ではありますが、そもそも戦前の時代錯誤教育を現代に持ち込もうとする輩に対し、何も手を打ってこなかった教育行政こそ問題の核心だと思うのです。教育勅語の全てが悪ではないのでしょうが、それを暗唱させられた子供の将来が、教育行政側は心配にならないのでしょうか。真の問題は、政治家を巻き込んで土地を安く手に入れたことでも、開校後の収支計算がデタラメである事でもなく、極端に右寄りの教育の中身の筈なのです。

おっといけない、そう言えばこのブログは批判はご法度にしていたのでした。とは言いながら、あまりにも弱腰で的外れの報道に対しては、批判ではないが「お小言」を書いておかない事には、ますますこの国が訳が分からない社会になってしまいそうで、本当に心配になるのです。老爺心ながら・・・。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年3月 4日 (土)

3237 熱電併給

東京BSで開催中の、再生可能エネルギーの展示が多いイベントの最終日、バイオマス発電に注目しながら、駆け足で展示を見てきました。バイオマス発電は大きく分けて3種類ほどの方式に分けられそうです。一つ目は、古くからの技術ですが、バイオマスボイラで蒸気を発生させ、蒸気タービンを回す方式です。タービンで使った蒸気を、再度水に戻すための熱交換器(復水器)なども必要であるため、システムとして複雑で小型化が難しいという欠点があります。二つ目は、木質燃料をガス化(乾留)し、主には水素と一酸化炭素の混合ガスを発生させ、そのガスでガスエンジンを動かすという方式で、小型化も可能ですが、乾留ガス中のタール分の除去など、やはり少し面倒な点があります。もう一つは、バイオマス燃焼で得られた高温のガスで、外燃機関(スターリングエンジンであることが多いのですが)を動かす方式で、小型化には最も有効な方式だと言っても良いでしょう。

もう一つ投稿者が有効な方法だと思っているのは、例えばバイオマスボイラの煙道に、多数の熱電素子を貼り付け、直流電流を得る発電方式で近年素子の価格が下がってきたこともあり、かなりコストパフィーマンスが改善してきたと感じています。100ワット程度であれば、1万円以下の電源を得る事も容易に可能となってきています。その電源をバッテリーに蓄えておけば、ボイラ運転のための自立電源としても使えるでしょう。

いずれにしても、バイオマスエネルギーを発電目的だけで使うのは、無駄が多くて実用的ではありません、いわゆる「熱電併給」として、電源及び熱源の両方を供給する方式とすべきでしょう。理想は、半々ですが、効率最大を狙うのであれば、方式にもよりますが、電力:熱を1213程度にするするのが現実的な解となりそうです。そのうえで、総合的な熱効率として90%程度を目指すアプローチが期待されます。その意味でも、投稿者の推奨する熱電素子方式では、既に85%程度の熱効率を達成している温水ボイラに簡単に付加してさらに高い効率が容易に達成出るのおススメだと言っておきます。いずれにしても、小型のバイオマス発電は、やっと各メーカーが注目して出して開発し、トップランナーが市場にと投入してきた、というタイミングだとみています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年3月 2日 (木)

3236 将来への盲信

人はある時期から、将来への盲信を始めた様です。そうでなければ、例えばEギリスで始まった、高価な荷物を積んだ船が無事に帰ってくれば大儲けで、途中で沈没したらパアになると言った海運の「博打」の様なリスクを避けるための海上保険の引き受けや、あるいは企業の将来の利益を見越しての株式投資などはやれたものではないでしょう。今や、ほぼ全ての人は、将来も今の制度が続く事を100%信じて、株を買い、お金を預け、あるいはローンを組み、年金の掛け金を支払う訳です。

もちろん、銀行の金庫には、預金者から預けられた預金金額がそのまま残っている筈もありません。殆どは、投資先や貸出先に移動しているので、多分預金残高の1/10以下を大きく下回る「現金」しか「在庫」していない事でしょう。銀行の財産や預金残高は、デジタル化された数字として、コンピュータネットワーク上のサーバーに記録されているだけなのです。

しかし、盲信が不信に変わった時、一体何が起こるのか、時々不安になるのです。それを発行する国家の信用に裏付けられている「紙」でしかない通貨が、本当にただの紙になってしまう事が無いとは言い切れないからです。信用が極限まで膨らんだ時、それが破裂する場合もあるからです。価値をストックするには、お金にかえて貯蓄をするかタンスに隠しておくか、それを貴重なモノ(例えば貴金属や宝石)に換えるか、あるいは消費可能なモノ(例えば食料)、さらには動産や不動産の様な形のあるモノに換えるかなどの方法があるでしょう。現物であるモノは別にて、お金や貴金属などというものは、いわば時価であり、必ずしも絶対的な価値があるというものではありません。それは単に価値を表す「シンボル」に過ぎないとも言えます。

私たちのシンボルへの盲信、ひいては将来が現在の延長線上にあるという盲信がいつまで続くのかは分かりませんが、このまま盲信の膨張が続けば、やがてはそれが爆発を起こさないという保証はどこにも無いでしょう。その時は、たぶん価値観の大転換(意識の革命)が起こるのかも知れません。かつての「物々交換」の時代に少し戻るのか、あるいは別のシンボル(例えば新しい電子マネー=ビットマネー)の様な奇怪なものになるのか、見守ることにいたします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年2月27日 (月)

3235 モノの価値

長期の出張から帰って、投稿再開です。暇な時は、モノの価値について時々考えます。モノの価値は絶対的なものではなく、当然の事ながら個人や社会の持つ価値観と結果としての相対的な価値で決まるものだと思います。先ずは価値観ですが、これも人や社会によって大きな差があるでしょう。それは、ヒトを「人間」と書くように、ヒトは群れて社会を作る存在であり、その社会の中で揉まれて初めて価値観を醸成していくしかないからです。社会的に承認されない価値は、最終的には個人にとっても価値が無いと感じてしまうでしょう。

さて、今の世界で普遍的に価値が認められているものに「お金」があります。その昔「お金」は入手が難しい金属、とりわけ貴金属で作られ、その価値は当然の事ながらその重さで決まっていました。取り分け金(ゴールド)は、その希少性と現代ではエレクトロニクス向けなどのメッキ金属の仕手の重要性ゆえに、未だに大きな価値を持った金属であり続けています。とはいうものの、ゴールドが持つ価値の総量は、その埋蔵量と流通量の範囲内に限られるでしょう。

しかし、今世界中に流通している「お金=通貨」持つ価値の量は、ほとんど無限の様に見えます。各国の通貨発行を担う中央銀行が、紙幣印刷機や貨幣製造機を動かせば、事実上いくらでも発行できるからです。もちろん、いたずらにマネーを発行し続ければ、その通貨の価値は下落し、信用を失うでしょう。その意味で、現在のマネーの価値は、それを発行する国の信用の上に保証されているだけの「儚い」価値だというしかありません。もし、本当に必要なモノの供給がひじょう極端に不足して手に入らなくなった場合、相対的にお金の価値は下落し、いくらお金を積んでもモノが手に入らない事態に陥る事でしょう。つまり、お金の価値が「相対的に」下落してしまったのです。

さて、どの様な時代になっても、どの様な社会で暮らしたとしても、必要最小限の水や食料とエネルギー源などは、確実に価値を持ち続けるモノであり続けるでしょう。水や食料無しには、私たちは1か月も暮らせないでしょう。夏はともかく、寒い冬は何らかの暖房や煮炊きに使うエネルギー無しには暮らせないでしょう。かつて北米のイヌイットは、氷で出来た家に住み犬ぞりを駆使して猟に出て、海獣の生肉や干し肉で暮らしていたかも知れませんが、現代社会では猟にはスノーモビルが不可欠ですし、暖房の効いた家に住んでもいます。先ずは、衣食住の基本部分についての価値を認識し、その自給自足に少しでも近づく努力が必要なのでしょう。しかし、都会の高層マンション暮らしでどれほどそれが現実的かを考えれば、途方に暮れるしかないのでしょうね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年2月16日 (木)

3234 重厚長大産業の終焉?

T芝の凋落が加速しているとの報道が続いています。しかし、これは引いた目で見ると、もしかして重厚長大産業の終わりの始まりとも見えてしまうのです。曲がりなりにも、重厚長大産業の片隅でサラリーマン時代を過ごしてきた身としては、その気配を身近に感じざるを得ないのです。投稿者の若かった時代(70年代)は、重厚長大産業は華やかでした。産業のコメである鉄が大量生産され、その原料や製品を運ぶ大型船は、作れば飛ぶ様に売れたのです。それを下から支えるインフラ、電力網や道路網や都市インフラが日夜伸び続け、大量生産、大量輸送、大量消費の時代に突入したのでした。まさに「大きい事は良い事だ」のCFそのままの時代だったのです。

戦後解体させられた大企業は、再び直接あるいは間接にまとまり、「寄らば大樹」の時代になったのでした。豊かになった消費者に支えられて、家電や車産業も急速に拡大し、そのすそ野も大きく広がったのでした。インフラ整備の背景で、この狭い国土に原発が50基以上も建設され、「安定電源」として国策としても後押しされてもきたのでした。モノが大量に消費される際に出るゴミも、各自治体にそれぞれ数百億円もの巨費を投じた大型ゴミ焼却炉が建設され、結果としてゴミは分けずに燃やす時代になったのでした。

この時代を、影になり日向に立ちながら裏から支えたのが重厚長大産業だったのです。その中に数十年席を置いた立場としては、自分のサラリーがそこから出ているとはいえ、あまり納得していたのではなかった、と振り返っています。だからこそ、世間のサラリーマンよりはかなり早めに企業を卒業する事としたのでした。

さて、重厚長大産業の行方です。結論から言えば、それぞれが適正サイズに分割、または縮小せざるを得ないのでしょう。時代が、もはや巨大なインフラ建設を求めては居りませんし、今後はむしろ既存インフラへの細かなメンテナンスが必要な時代に入って居ると言えるでしょう。大量生産、大量輸送、大量消費時代は終わりを告げ、必要なものを、必要なだけ、必要する地域で生産する事が是とされる時代に入らなければならないのです。それは、単に投稿者だけの勝手な予測ではなく、それこそが時代の必然だと思うのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年2月15日 (水)

3233 ポストモダニズム

3231の続きの様なものです。なんとなく分かったつもりの「ポストモダニズム」という言葉ですが、自分の頭の整理のためにも少しだけ嚙み砕いてみます。さて、近代文明は、あらゆる部分で閉塞感を呈し始めている様に思えます。建築の分野で、1980年代に叫ばれ始めた「ポストモダン」は、その後概念としてのポストモダニズムとして一般化され、それまでの唯一無二の価値観の文化から、多様性を重視する文化論へと進化したのでした。

ポストモダニズムの背景には、3232でも書いた様に、価値観が固定されている社会では、どうしても行き詰まる場面が多くなることが隠れていそうな気がします。何しろ、それまでの価値体系では、ああすればこうなるという起承転結がほぼ決まっていますので、それから外れる事は許されないか、悪くすれば批判の対象ともなるからです。しかし、多様性が許される社会では、アプローチのルートが数多くあり得る訳で、ゴールですら一つではなく、複数存在し得る訳です。

その意味で、投稿者としては、20世紀を通じて支配してきた価値観、つまりは科学技術に依拠して、国際交易を活発にする自由主義経済とその成長を100%是とする、「モノ・カネ」主義が、ソロソロ期限切れになってきたのではないか感じているのです。とは言うものの、ではどうすれば良いのか、と言う漠然とした問いに応える理論的リーダーや新しい宗教家もまだ現れていない様なのです。このままでは、ポストモダンはそのまま「カオスの時代」に突入してしまうのでは、と言った危惧すらありそうです。私たちは、一体何に価値を置き、あるいは生き甲斐を持って生きて行けば良いのでしょう。表題のポストモダンが何処かに行ってしまいましたが、引き続き、この単純な頭で考えていく事にします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年2月14日 (火)

3232 ポスト契約社会

西欧社会やモスレム社会を含め、言わゆる「一神教」の世界は、たぶん契約社会だと言っても良いのでしょう。つまり、その社会を構成する人々は、唯一無二の神や預言者との間に無条件に「信仰と言う契約」を結び、同時に他の宗教を排除すると言う「契約」を結んでいる社会であるとも言えるからです。従って、これらの社会では物事の取り決めに「契約」が重視され、シェークスピアの戯曲ではないですが、時にはそれ契約が人の命さえ左右しかねないものとなる場合もあるのです。

しかし、契約社会は一方では逃げ道の無い社会でもあり、もっと言えば限界のある社会でもあると思うのです。契約に無い事は、しなくても誰も咎めませんが、同時に神や預言者の残した言葉の範囲からはみ出ることもできないからです。何故なら、それが絶対的な真理だと信ずると「契約」してしまっているのですから。真理を疑うことは、契約上できない相談ですし、真理からの逸脱は、未だに思い罰の対象である一神教社会も多いのです。他者との契約では、その契約を「言い訳」に使う場合も多いのではないかと疑っています。教義に無いことは、存在しないも同然ですから、無視しても良いと判断できますし、他の社会では許されない事でも、教義が許せば実行しても構わないと開き直れるのです。

一方で、かつてのこの国の民の様に特に契約などせずに、八百万の神々を「畏れ敬う」というアプローチもあり得るのでしょう。そのメリットとしては、何しろ契約などしていないのですから、畏敬の念は持ってはいても、完全にそれに縛られる必要もないでしょう。しかし、だからと言って何を信じても、何をしても良い完全な自由が許されるという訳ではありません。それにブレーキをかけるのは、たぶん「内なる誓い」ではないかと思っています。自分で自分の欲望に打ち勝つには、自分に許されるリミットを自覚し、それから踏み出さないことを自分に誓うという行動です。別に、神や預言者に「規定」されなくとも、人としてして良いことと、してはならないことは、自ずと決まってくると思うからです。その基準としては、環境屋になった投稿者としては、全ての価値観に優先するのは、実は「持続可能性」ではないかと言いたいのです。たぶん続きます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年2月13日 (月)

3231 ウィルスとしての文化(論)

最近ブログに書くネタが少なくなって来たような気がしていましたが、考えてみればここしばらく本を殆ど読んでいない事に気が付きました。単身赴任の数年間は、仕事が入っていない時は暇を持て余して、夏は山々に入って彷徨し、冬は読書に勤しんでいたものでしたが、竟の住み処を構え連れ合いと再び同居を始めると、何かと雑用が増えて、本から離れてしまっていた様なのです。そうなると、人間の頭の中身などは知れているので、毎日ブログを書き続けていると短期間の内に「ネタ切れ」になってしまう様なのです。ネタは、読書や人との密な交流から生まれてくるものらしく、最近は頭の中が少し薄まっていたかも知れない、と反省した次第です。

早速図書館で、少し前話題になったYNハラリの人類の全史と題された本を借りてきたのでした。上巻は誰かに借りられていたので下巻から読み始めましたが、この壮大な文明論はなかなかに刺激的でもありました。その中で少数意見として引用されていた、いわば「ウィルスとしての文化論」に強く共感してしまいました。そこでは、文化は、その文化圏に所属する人間の体を「宿主」として増殖するウィルス様に、その社会の構成員の利益などには頓着なく、文化それ自体の繁栄と存続のために、人間を利用するものだ、と言うやや乱暴とも言える考え方なのです。

しかし、投稿者なりに、例えば経済活動に置き換えてみると、何故かすっきりと理解出来る様な気がしてくるのです。文化を、例えば「マネー」に置き換えてみましょう。つまりは、お金は決して金持ちのためにあるのではなく、お金は自分自身を増殖させるために、貧乏人を踏み台にしつつ、金持ち達を利用しているに過ぎないとも考えられるでしょう。ある金持ちが、ビジネスや利殖に失敗して落ちぶれようが何しようが、お金は次の宿主(他の金持ち)に乗り換えて、更なる増殖を続けるだけなのです。お金=ウィルスと見做せば、今の文明=自由主義経済が持続する限り、お金の量が減る事などあり得ないという結論になりそうなのです。いわば、お金=ウィルス論も成り立ちそうな気がするのです。

この見方を文化(文明)に敷衍すれば、人権と自由主義経済と科学技術を是とする今の文明は、人類が滅びようが、自然が取り返しがつかないくらい破壊されようが、人類を利用して行き着くところまで突き進んでしまう、と言う悲観的な結論に至ってしまいそうなのですが・・・。残念ながら。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年2月12日 (日)

3230 MustとWant

サラリーマン時代、上司から業務遂行の優先順位の付け方に関して繰り返して叩き込まれたように振り返っています。それは、業務をMust(絶対期限まで終わらせなければならない事ども)とWant(それが望ましい事ども)に分け、先ずはMustから手掛けて完了させる事を優先せよ、といったものでした。Wantも勿論重要ですから、Mustをやっつけた後には当然の事ながら直ちに着手する事にはなりますが。

さて、今のこの国のリーダーと取り巻きの最重課題すなわちMustは、間違いなく「景気対策」である様に見えます。そのためには、禁じ手に近いマイナス金利や、遠回しの円安誘導や、あるいは赤字国債の増発による史上最大の予算を打ち出すなど、手段を選ばず、といった政策を続けているのでしょう。また同時に、景気対策にもなるとして輪が五つあるお祭りの国を挙げての誘致でも、リーダー自ら乗り込んで行ってのプレゼンで、フクシマには何も問題は無いなどとする強弁をもって無理やり引っ張ってきたのでした。

しかし、この国のMustは決して景気対策Onlyではないでしょう。フクシマ収拾問題は、マスコミの露出頻度が低下しただけであり、格納容器の中ではリモートカメラが短時間で故障してしまうほどの、強烈な放射能で満たされている事態に何ら前進は見られない状況は変わってはいません。それどころか、汚染水処理の問題はますます深刻になっているでしょうし、短時間のカメラ映像でも、格納容器下部に溶融落下したデブリの状況は、予想以上に手が付けられない過酷な状況であることが明らかになってきた訳です。フクシマ事故の早期収拾こそ、この国のMustでなくして、一体何を挙げるべきなのでしょう。

一歩譲って、景気対策がWantであるにせよ、B国の新リーダーにすり寄ってまで、集中すべきIssueではないでしょう。オッと、また愚痴になりかけていますので今日も短く。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年2月11日 (土)

3229 木質燃料2

品質幅の大きな燃料を上手く使いこなすためには、工夫が欠かせません。工夫の重要な一つは、「空気量=酸素量」でしょう。ある発熱量を持った燃料(炭化水素)は、ある量の空気量で完全燃焼し、それ以上の空気量では空気過剰、それ以下では不完全燃焼を引き起こすでしょう。しかしながら、供給される燃料は、必ずしも一定ではなく、時々刻々変動するので、空気量を固定していては完全燃焼状態を持続させる事は出来ないのです。そこで、排気ガスの残存酸素量をモニターして、その量に応じて空気量を増減させてやる必要があります。つまりは燃焼制御です。

一方で、石油やガスとは異なり、木質燃料では燃やすためには先ずは輻射熱で燃料を加熱し、燃料をガス化してやる必要があります。つまり、燃焼皿に燃料を置き、着火させるだけは条件としては不十分なのです。燃焼皿の中の燃料を持続的に燃やすためには、供給された燃料を速やかに発火温度(300℃後半)に上昇させなければならないのです。そのためには、燃焼ポッドの設計は重要でしょう。蓄熱性が髙く、輻射熱を多く発する材料としては、元技術屋としては、やはり「鋳鉄」が最適だと思っています。

更に言えば、木質燃料の最適な燃焼を持続させるためには、燃焼後に残る「燠(おき)」と、新たに供給される燃料との位置関係やそれらが作る形も重要です。つまり、下に燠があり、上に燃料が置かれて、下から空気が供給される時、理想的な燃焼が始まるからです。これらの条件を実現するのは結構大変です。しかし、木質燃料は、3228にも書いた様に、燃料性状のバラつきが大きいため、石油やガスバーナーなどとは比べものにならないくらい上手い工夫が求められるのです。結局、それを実現するためには、燃焼制御にきめ細かいパラメータが設定できる機能を盛り込んでおく必要があるのでしょう。取り分け、燃料供給量と空気量の微調整が出来る機能は必須です。国産のペレットストーブ(ボイラ)やチップボイラには、先進的な機能を持つ欧州製に比べて、それらの機能が不足している点は、やはり寂しいものがあります。「頑張れ国産」と結んでおきます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年2月 9日 (木)

3228 木質燃料

ペレット(ボイラ)生活を始めて20日ばかり経過したが、強く感ずるのは、やはり木質燃料は、石油やガスとは違う、いわゆる固形燃料であるという点です。モノが燃えるのは、当然の事ながら液体や固体が直接燃える訳ではありません。いずれにしても、液体の燃料や固体の燃料が、ガス化した上で、燃焼空気と適度に混じり合い、それが発火温度以上であれば燃焼するという順番になるのです。特に固形の燃料の場合は、まず燃料全体が輻射熱で熱せられ、燃焼ガス(主成分は水素と一酸化炭素などの炭化水素の分解ガスですが)が発生し、そこに十分な量の空気=酸素があると燃焼が始まる事になります。通常、この過程はゆっくり進むので、木質燃料や石炭などの固形権料が爆発的に燃焼する事は起こらない訳です。もちろん、木材や石炭といえどもそれを微粉化したものを燃焼させる場合には話は別で、いわゆる「粉塵爆発」を起こし、瞬間に爆発的に燃焼してしまうでしょう。

もう一つ、木質燃料や石炭などは、原料となった木材や石炭の産地によって、性状や特性に大きなバラつきがあることを忘れてはならないでしょう。場合によっては、重量当たりの熱量に13割程度の差があったり、燃え方や燃焼後の灰の量にも大きな違いがあったりもするのです。何より、固形燃料を最適な量の空気で燃やすのは、やはりかなり難しい技術だと言うしかないでしょう。一つの方法として、燃料をまず一次燃焼させた上で、燃焼ガスをより高温の二次燃焼室へ導き、正確にコントロールされた量の二次燃焼空気で燃やせば、残留酸素量として78%程度の「完全燃焼」が期待できるのです。当然の事ながら、燃焼ガス中の残留酸素量を正確にモニターし、適切な応答速度を持ったシステムにより空気量を制御する必要があるでしょう。残念ながら、国産のバイオマスボイラには、特に小型の分野には、そこまで制御できるボイラが未だ製造されていないのは寂しい限りではあります。技術は十分あるのに・・・。続きます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年2月 8日 (水)

3227 スマホる

気が付けば、自分の子供たちを含め、若者はスマホを片時も手放せなくなっている様なのです。もちろん、重要なニュースや情報やメールがそんなに頻繁に飛び込んでくる筈もないでしょう。それでもスマホが手放せないのは一体何故なのでしょうか。背景には、都会に一人暮らしする若者が孤立しがちな現代社会で、ネットや緩い友達関係と繋がりたいという「強い欲求」がありそうな気もしますが、昭和世代にはスッキリとは理解できない行動でもあります。

投稿者としては、大切なのは情報の丸呑みではなくて、「情報のソシャク」ではないかと言いたいのです。次々と流れてくる情報を一々咀嚼していたのでは、消化不良を起こしてしまうでしょう。ならば、自分に入れる情報の流れを絞らなければならないと思うのです。つまりは、Minimul sufficient(必要最小限)を狙うしかないのです。先ずは、要らない情報にアクセスせずにスルーする術を身に付けなければなりません。もちろん、息抜きの時間に肩の凝らないゴシップや趣味の情報を眺めるは仕方がないでしょう。しかし、それが生活の中心になってはならないでしょう。投稿者も、一時はスマホを持っていましたが、数年で通信手段をガラ携とパソコンに戻しました。

要は自分がアクセスが必要な時にパソコンを開けば良いのです。

とは言いながら、情報リタラシーは必要でしょう。今流行のFake newsに惑わされないためにも、絶対に必要です。ネット上の情報は、仮のものであるか、あるいはウソだと思うべきでしょう。では何が本物か、と言われればそれは取り敢えずは、自分で直接確認した情報か、あるいは本や論文になっている情報だと言うしかありません。本にも怪しい情報は載っているのでしょうが、一応「査読」や「校正」が行われているでしょうし、それが長く読まれているものであれば、信頼度は高いと考えて良いでしょう。ネットでアクセスランクの上位に来る情報が正しいものとは限らない事は、最近の「お騒がせ」でも証明されているところでもあります。今日は短く。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年2月 7日 (火)

3226 〇〇ファースト

〇〇ファーストという言い方に違和感を感じているのは、投稿者だけではないでしょう。〇〇以外はどうなっても構わないというニュアンスが強いからです。特にそれが狭い範囲のコミュニテイや国を指し示す場合にはなおさらです。仮に、それを「人類ファースト」とした場合でも、何も変わらないでしょう。つまり、人類以外の生き物や自然が破壊されても構わないと聞こえるからです。一時「共生」などという言葉もマスコミに登場しましたが、最近はトンと耳にしなくなりました。これも、アクの強いB国のリーダーからの悪影響でしょうか。何しろこの国の首都のリーダーも全く同じことを言っている様ですから。

首都に住んでいない田舎は、過疎化が加速しそこの住民やコミュニテイはどうなっても、卸市場が何とかなって、五輪がうまく開催でき、自分がカラクリ回しをする議員団ができれば、万々歳だとしか聞こえないのです。オッと、このブログは批判を目的にしてはいませんでした。ここで言いたいのは、「他者を思い遣る心」の重要性でした。一人の勝者の裏には多くの敗者が必ずいますし、成功者の裏には不運にして、あるいは努力がやや足りなくて成功を掴めなかった人たちが、一握りの金持ちの裏には彼らの様に上手く立ち回れなかった「不器用な人たち」が、山の様に存在する訳です。

〇〇ファーストは、その意味では「勝者の論理」と呼ぶしかないでしょう。全員が平等な権利を持ち、同じような質素だが不自由の無い生活を送る社会が理想ではありますが、それは必ずしも「悪平等」は意味するものではありません。成功者が、「喜んで」未だ成功していない人たちに手を差しのべる社会を理想とすべきなのでしょう。それを何かに例えるならば、「団体登山」が適当かも知れません。体力がある一握りの人が登頂に成功し、多くの体力の弱い人たちが中腹で登頂をギブアップするのではなく、体力のある人たちはザイルを延ばして、後ろの人たちを引っ張り、彼らのペースに配慮してゆっくり登れば、全員が登頂できなかったとしても、かなりの高度まで登れる筈なのです。〇〇ファーストではない社会を何と呼べば良いのでしょう。とりあえずここでは、「〇〇共生」とでも呼んでおきましょうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年2月 6日 (月)

3225 工夫力3

人間は、喉元を過ぎれば困り事を忘れがちになる存在です。雪国で最も困っているのは、少子高齢化問題を除けば、除雪問題だと言っても良いでしょう。もちろん、家の前に除雪車に寄せられた雪山が家に前にできても、家の屋根から降ろした(滑り落ちた)雪が家の周りに壁を作っても、高齢世帯ではいつ来るか分からない応援隊にSOSを出すしかないのです。しかし、「〇年豪雪」などと呼ばれる「ドカ雪」は数年に1回かそこらの頻度でしか来ないので、その間の冬は普通の大雪に普通に対処するだけでOKとなるのです。

小型の除雪機や軽トラックなど機械力を使える家は、まだラッキーな方です。普通の家々では、スコップやスノーダンプを使って、ひたすら人海作戦しかないのです。昔人口が多かった時代は、「人海」も可能でしたが、今の様に人が減り、かつ高齢化してしまった社会では、雪に埋もれて暮らすしか術がない家庭も多いのです。仕方がなく、山際の雪深い地域から、街の郊外で田んぼを埋め立てた地域に、小ぢんまりとした家を建てて、引っ越してくる家族も多くなっている様です。

雪は、春になって解けてしまえば、ただの水で、しかも農業用水や飲み水の元となってくれて私たちを潤しますが、空気を含んで、しかも硬くしまった氷(つまりは雪ですが)を移動させて処理すのは大変な作業で、エネルギーも人手も、つまりはお金も掛かる大変な作業なのです。この「雪害」をいくらかでも軽減するためには、やはりかなりの工夫力が欠かせないです。屋根から降ろす際の滑落の危険を無くす知恵、降ろした雪を移動させる知恵、道の轍の凸凹を減らす知恵、などなど雪に負けない工夫が必要なのです。

そのためには、いわゆる雪を取り除いて生活スペースを確保する「克雪」だけでは不十分でしょう。むしろ、雪を積極的に利用する「利雪」技術が不可欠だと思うのです。雪の最大の特徴は、その「冷たさ」だと言えるでしょう。つまりは、冷熱としての価値です。この冷熱源に対して、少し温度の高い熱源さえ見つかれば、何等かの形の「熱機関(例えばランキンサイクル)」によって動力が取り出せる可能性も出てくるでしょう。熱機関では、熱源からの熱を低熱源(冷熱源)に捨てる事によって、サイクルが成り立ちますので、冷熱源である雪も徐々に解けていく事になるでしょう。フロリナートなどを作動流体とするランキンサイクルが有望とされています。運動エネルギーを取り出しながら同時に雪を解かす、優れた工夫の実現が待たれます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年2月 5日 (日)

3224 本当の豊かさ

最近のギスギスした世相を眺めていると、本当の豊かさって一体何だろうとしみじみ考えさせられます。この国のリーダー達が騒ぎ立てている様に、経済成長ではない事は全く自明です。そうでなければ、喰うには困らない社会で自ら命を絶つ人が一向に減らない事や、イジメや金品を目的としない凶悪犯罪の増加が説明できないでしょう。もちろん、もし1円でも有利な貿易条約が成締結出来てし、経済成長(=2%だかの物価上昇率)が実現出来たとしても、貧困層が減らない「貧しい国化」が加速するだけでしょう。

最近、竟の住み処を建て、その家になけなしのお金をはたいてペレットボイラを導入しましたが、燃料はと言えば、地元で生産される木工端材から作られるペレットで、車で2-3分走った場所にある店舗で購入できるという恵まれた環境です。そのペレットで沸かした湯を張った風呂に肩までつかる時、「うーん。誰が何と言おうとこれが豊かさだーっ。」と独り言を漏らします。もちろん、ボイラを動かすにも、100w弱の電力は必要です。しかし、近い将来の計画として、ボイラ小屋の屋根を使って小規模な太陽光発電も始めるつもりです。それをバッテリーに蓄えて、インバータを用いてボイラを動かせば、石油やガスに頼らない、本物のエネルギーの「オフグリッド」が完成するでしょう。もちろん、その時にはペレットも「手押し車」を押して買いに行かねばなりませんね。散歩を兼ねながら、往復30分歩けば十分でしょう。

その様な生活は、その昔秋になると家族総出でリヤカーを引きながら、近くの入会林に薪を集めに出かけ、冬に備えての薪割が男手の仕事であった「あの時代」に少しだけ近づく事にもなります。面倒な事や汗を流す手間のかかる仕事をこなした結果、報酬として得られるささやかなプレゼントこそ、本当の豊かさ、幸福感の源泉というものでしょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年2月 3日 (金)

3223 工夫力2 

工夫力を磨くには、まずは何かにひどく「困らなければなりません」。困り事に悩む中から、背水の陣のもがきの末良い工夫が生まれるのでしょう。それも、困り事の悩みが深ければ深いほど、より素晴らしい工夫が生まれるとも思うのです。

具体例を挙げましょう。昔、北国の暖房は、もっぱら薪ストーブでした。北海道など石炭が潤沢に手に入った地域ではもちろん、ダルマストーブで石炭を燃やしていたのです。しかし、薪や石炭ストーブは「バッチ燃焼」の暖房機でもあります。つまり、種火の上に燃料をまとめて入れる(置く)ことによって、燃料に着火しやがて燃え上がり、燃え尽きると燠になって、そのまま放っておくとやがて火が消えてしまうのです。継続的燃焼させるためには、時々燃料を足して「火の面倒」を見なくてはならないのです。家にお年寄りが居て、火の面倒を見てくれる3世代同居世帯であれば、薪ストーブもありなのでしょうが、忙しい現代社会の家族には、その選択肢は無いのでしょう。電気暖房や石油ストーブなら、タイマー運転や温度調整もスイッチやダイヤルで自由自在です。その意味で、現代の便利機器には「工夫の余地」は殆ど残されていないのです。

しかし、薪ストーブや薪の利用で工夫をするとすれば、例えば朝にドカッと薪を積んでおいて、それを自動的に燃焼させながら、発生させた熱でお湯を作り、それを大きなタンクに貯めておいて、暖房や給湯に使うマイコン制御された「薪ボイラ」なら、運転の着火時だけの手間で済む半自動であり、かつ貯湯タンクに23日分のお湯が貯められタンクを備えるなら、ボイラの運転も2-3日に1回で済むわけです。これなら、忙し共働きのサラリーマン家庭でも、潤沢にお湯が使え、暖房も可能となるでしょう。実際、南欧州では郊外の家庭であればmこの薪ボイラやペレットボイラがポピュラーで、石油やガスを燃やしているのは主に都市部だけという状況になっているのです。暖房だけに限っても、私たち日本人が工夫すべき事は非常に多いと思うのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年2月 1日 (水)

3222 工夫力

私たちは、メーカーが日夜努力して、改善し、コストダウンし続けてきた「便利商品」を使い、それに慣れてしまった結果、不便を解消していくらかでも快適な生活をするための、最小限の工夫さえ何処かに置き忘れて来た様な気がします。例えば、投稿者が今取り組んでいるペレットボイラによる暖房・給湯の実用化ですが、燃料は外見こそ規格化された「ペレット燃料」ですが、実際に燃やしてみると品質のバラつきが非常に大きいのです。具体的に言えば、熱量や灰分等で2-3割かそれ以上の差があるのです。

そのため、燃焼機器側で燃焼ファクターが固定されてしまうと、連続燃焼ではトラブルが発生してしまうのです。例えば、連続運転時の燃焼量と空気量、また燃焼がらや灰を除去する装置の運転インターバルや給湯・暖房システムとのマッチングなど、それなりの工夫を重ねないと、使いこなせない事態が発生するのです。もちろん、エアコンや石油ストーブやガスを使ったシステムでは、温度設定をしてスイッチを入れるだけで、全自動でしょうから工夫も手間も必要はないでしょう。しかし、工夫を忘れた人間は、多分ボケ易くもなるでしょうし、その便利システムが動かなくなった時には、寒空の元途方に暮れるしか為す術はないのでしょう。

不便だけれども地元で手に入る資源(材料やエネルギーや食糧など)を工夫を重ねながら、世代を超えて使い続ける生活こそ、真に持続可能な地産地消生活だと言えるでしょう。投稿者としても、生涯現役を目指して工夫力を磨いていく事としましょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年1月31日 (火)

3221 品質管理

最近自宅にペレットボイラを入れ、それで沸かしたお湯による暖房・給湯生活を始めました。それまでは、非常用と位置付けたガス給湯器とエアコンに頼る生活でした。さて、そのペレットボイラには、最初値段が高いが広く流通している銘柄のペレットを入れてスタートしたのです。しかし、流石に流通経費がたっぷり入っている商品は値段が高いので、どう計算しても石油ボイラなどよりは割高になります。地元で容易に手に入る銘柄には、実は地元産のペレットもあるので、最初からそれを基本とする様には考えていたのです。

その地元産ペレットは、木工廃材を利用しているので、燃焼ガスに有害物が無い事の確認や、熱量、灰分等の検査はクリアしていたのですが、灰分の多いのが欠点とされていたのでした。従って、一般家庭で普及しつつあるペレットストーブには、頻繁な掃除が必要であるため敬遠されていた様でした。とは言いながら、地産地消を理想としてペレットボイラを入れた投稿者としては、どうにかして地元エネルギーを有効活用したいと、工夫を重ねているのです。

問題は、この燃料を燃やすと燃焼皿に灰と燃えがらがうず高く残り、長い時間の燃焼が継続できなくなるのです。仕方がなく、時々(45時間毎)にボイラを止めて、燃焼皿を掃除しなくてはならない「面倒くさい燃料」だった訳です。しかし、この燃料には意外なメリットもあったのです。原料には、製品を磨いた研磨粉も多く混じっているので、出来たペレットが非常に緻密なのです。スカスカの市販ペレットは、着火し易く灰も少ないのですが、すぐ燃え尽きてしまいますが、一方地元産は、火が着きにくい一方で、燃え尽きるまでに長い時間が掛かり、更に燠になってもコークスの様に長い時間(15分程)燃え続ける燃料だったのです。これを市販燃料並みの条件で燃やすと、燃料が燃焼皿にうず高く溜まり、火が立ち消えてしまうのでした。そこで、思いついて燃料供給量を思いっきり絞ってみました。ざっと言えば、初期設定の半分くらいです。しかし、これが大成功、オマケに灰落とし装置の働く間隔を短くした結果、長時間の連続運転が可能になったのでした。

ここで言いたかったのは、石油燃料やガスの様にJISで厳密に規定されている訳ではないペレット燃料は、品質の幅が「倍も異なる」と言う点です。ペレット燃料が広く作られ流通するためには、工業製品と同じく、品質管理の幅をある程度狭くし「使い易い燃料」とする努力が欠かせないと思うのです。国が重い腰を上げるのは一体何時になるのでしょうか。トホ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年1月30日 (月)

3220 雪のないアラスカに想う

雪のないアラスカの海岸でシロクマがションボリとうなだれる写真が、ネットで注目を浴びている様です。この時期雪がなく、しかも海が凍結していない北極海沿岸では、流氷に乗って息継ぎの浮上するアザラシなどを狙う狩りを行うシロクマにとっては、まさに死活問題に直結するでしょう。日本などの中緯度地域に多少積雪が多いからと言って必ずしも北極の気温が十分に下がっているとは言えないでしょう。その証拠に、冬将軍(寒波)が来たからと言って、それが長続きする訳でもなく、すぐに将軍が息切れしてしまう事でも容易に想像できるでしょう。

かつて、北極海沿岸はマイナス60℃以下に下がるのが普通でしたが、現在は下がってもマイナス40℃ほどまでしか下がらない様なのです。寒気がマイナス40℃もあれば、暖かい日本海の水蒸気を使って、日本に大雪をもたらすには十分かも知れませんが、北極海を氷結させるには全く不十分なのです。D.Tランプがなんと詭弁を弄して言い張ろうとも、これが温暖化の影響でなくて、一体何だというのでしょうか。

ネットで公開された写真を見て、何も感じない人に何を言っても無理かも知れませんが、シロクマが暖冬に耐えなければならないのであれば、温暖化の元凶となっている我々人間は、夏の暑さや冬の寒さに耐えて、温暖化効果ガスを減らす努力をしなければならないでしょう。その方法に関しては、このブログでも縷々書き連ねては来ましたが、何は無くともまずは地下から掘り出す石油や天然ガスや石炭などの量を減らす必要があるでしょう、化石燃料は、堀り出した分に比例して、確実にCO2量を増やすことにつながるからです。CO2により加速された温暖化は、凍土地帯の地下に氷結されていた、未分解の有機物の夏場の融解によって分解され、メタンを発生させて、さらに温暖化を加速させるという「悪循環」を引き起こすのです。

さらに恐ろしいのは、海洋に溜め込まれていると推定されている「ミッシングシンク」と呼ばれる多量のCO2が、海洋温度の上昇によって大気中に放出されるという別の悪循環です。まさに、悪循環の自乗です。必要な行動は、一に省エネ、二に再エネ、三四が無くて五に我慢でしょうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年1月29日 (日)

3219 劇場型XX

今や「つぶやき」だけで政治や世界情勢を動かしてしまう時代になってしまったようです。何しろ、影響力のある人のツイッターをフォローしている人が五万と居る上に、その中身を一々マスコミも「フォロー」してくれる訳で、SNSとマスコミの相乗効果が今や最強のパワーを持つコミュニケーションという事でしょう。短いつぶやきが、為替相場や株価に跳ね返り、あるいは国と国との関係悪化や好転にさえ強いインパクトを与えている状況を眺めるにつけ、時代は変わったもんだ、と大きな吐息が漏れそうです。

かつて、劇場型政治が注目された時期がありました、今や政治の状況を何と表現すればよいのでしょう。劇場型XXというのは、役者が舞台の上で脚光を浴びながら、派手な「立ち回り」を演ずる様子を皮肉った表現です。しかし、劇場である限り、役者や劇場やマスコミで目立つようなパフォーマンスが求められますが、SNS*マスコミの場合は、やや趣が異なるでしょう。SNSとマスコミが、さながら「コダマ」の様に反射し、あるいは互いに増幅し合う訳で、影響の広がるスピードと範囲が、半端なく大きいのです。

この悪弊に対処するには、やはり無視するか、あるいは「またやってる、やれやれ」程度のリアクションで受け流すしかないでしょう。SNSやマスコミは、ネタに飢えていますので、どうしてもオーバーリアクションに陥ってしまう性癖を持って居るのです。やれやれ、難しい時代になったものだ。今日は短く。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年1月28日 (土)

3218 〇〇を励行する

続きです。乱麻を解きほぐすもう一つの方法は、たぶん格差を埋めるために、小さくても何かをすることでしょう。この国には、寄付(喜捨とも言いますが)という習慣はあまり根付いてはいないような気がします。しかし、いざ震災や風水害や大規模火災などに際しては、かなりの人々が義援金を贈ろうと郵便局などへ駈け込んでもいます。しかし、本当に大切なことは、日ごろから社会の格差を埋めるための小さな行動の積み重ねではないかと思うのです。

社会の凸凹のうち、高いところを凹ます行動に関しては、3217に少し書きましたが何かを止めることで少しは実現できる様な気がします。しかし、凹んでいるところを埋めるには、やはり何か行動を起こす必要があるでしょう。例えば、タイガーマスクによるランドセルプレゼンント「事件」は、単なる美談として一時期マスコミの注目を集めてはいましたが、ではその枠を広げて、何か社会の制度を改革するところまでには波及はしませんでした。結局、社会の弱者には注目は集まりますが、そこから先の行動につながらないのが、この国の人々の行動の「欠点」だとも言えそうです。いわば、一億総「あしながおじさん」の国を理想に掲げる必要があると思うのです。

喜捨する事が、日常になれば、世の中の凸凹は徐々に均されていく筈なのです。その昔、貧しい農民でさえ、托鉢の坊さんには手を合わせ、たとえ僅かでもコメなどを喜捨していたではありませんか。特定の宗教の好き嫌いを論ずる必要もないのでしょうが、結局全ての宗教などというものは、ある共同体を引きまとめるための「手段」だと言えそうです。もちろん、いくつかの宗教では、それを信ずることが目的化し過ぎて、民族間の紛争や憎しみ合いの原因にさえなっていることは悲しむべきではありますが。もう一度、宗教や社会システムを、世の中の凸凹を均すための「手段」と位置付けて、それ(喜捨)を励行することを日常する社会に戻っていかない限り、残念ながらこの世はドンドン住みにくい場所になり果てていくと考えざるを得ないのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年1月27日 (金)

3217 〇〇を止める

絡まった乱麻を解きほぐすには、取り敢えずは今以上問題を拡大させないことが肝要でしょう。事態の悪化に、いわゆる「ブレーキ」を掛けるのです。例えば、貧困の連鎖と格差の拡大という太い乱麻を考えてみましょう。格差が生まれるのは、ある社会システムの中で、上手く立ち回れる人と、そうでない人とが存在することが発端でしょう。当然の事ながら、地球の資源やそれをお金という一つの価値に換算した「富」は有限ですので、ある人の取り分が多いということは、他の誰かの取り分が減っている(減らされている)ことを意味します。資源を持つ、例えば中東の王族や、富や情報を握る世界の1%が、富の大部分を掌握し、他方では何十億もの飢えた人々が存在することになるのです。

昔共産主義というユートピアが夢見られた時代がありました。しかし、そのユートピアが実現できたことは歴史上ついぞ無かったのです。それは、その様な仕組みの中で、力を持つもの(支配階級)と一般大衆(被支配階級)に分かれてしまい、その中で結局格差が生じてしまう事が避けられなかったからで、これは残念ながら学問や理論だけでは人が絡む社会の仕組みは上手く機能させ得ない、ということの証左でしょうか。何の欲もない無い学者が社会のリーダーになれば、ある程度は上手い仕掛けも実現できるのでしょうが、実際には社会の権力を掌握したがる、政治家や軍人がしゃしゃり出てくる訳です。途上国では、パワーによる椅子取りゲームで、常に政情が混乱するのは、そういった理由でしょう。

さて、ここでの提案ですが、私たち一般大衆にできる事はと言えば、精々「何かを止める」ことぐらいでしょうか。例えば、石油を使うのを止めて、アラブの王族をこれ以上裕福にさせるのを阻止するとか、あるいは小麦食(パンやパスタや麵)を控えて、穀物メジャーのパワーを減ずるとか、或いはたまには夜9時に寝て、電気を消す時間を長くしてみるだとか、さらに言えば1時間早起きして、5㎞を歩いて通勤して、車やバスを使うのを止めてみるとか、富める人たちをさらに富ませることに抵抗してみるのです。つまり、今自分が払ったお金が、回りまわって最後は誰の手に渡るのかをじっくり考えてお金を使う必要があると思うのです。もしそれが、一部のお金持ちだった場合には、そこで思いとどまりブレーキを踏むという行動を続ける訳です。それを、すべての持たざる者たちが行えば、格差の拡大にもブレーキが掛かる筈なのです。続きます。