2016年12月 4日 (日)

3177 暴走事故2

九州での暴走事故の原因が、ドライバーミスであれ、車の異常であれ、どの様な状況でも、ドライバーが止めようとする限りにおいては、車はそれに応答しなければならないでしょう。もしアクセルを離しても、加速し続けたとしたら、その瞬間から車はまさに凶器に変わってしまうからです。どの様な状況でも車を止める事が出来る様にするには、エンジンで動く車の場合は燃料を切る事であり、電気自動車の場合はモーターへの給電を断ち切る事を意味します。B国の暴走事故では、どうやらフロアマットがアクセルペダルが戻るのを妨げ、車が暴走して死者を出した例を思い出します。

投稿者は、もしドライバーが緊急ボタンを押す事により、強制的に燃料や電源を遮断する仕掛けが付いていたなら、このB国の事故も多分今回の博多の事故も防げたのでないかと推測するのです。事前の策としては、低速時の異常な加速を検知し、それを暴走と判断して、やはりエンジンやモーター電源を切る仕掛け(オーバースピードトリップ)を付ける事ですが、多分車メーカーは嫌がる対策になると想像できます。と言うのも、通常の走行で、これらの安全装置が誤作動を起こすと車は勝手に減速し、スムーズな交通を妨げる事故が多発する事が懸念されるし、同時にコストアップも招くので、競争力も低下するからです。

しかし、自然減速による事故は、重大事故とはなりにくく、精々軽度の追突事故に留まる筈なのです。一方、急加速・暴走事故は、間違いなく重大事故と言う結果を招くのです。車は動く機械であるため、使用する年数が長くなるに従って「劣化」が進みます。主に鉄で出来ている車体やメカは腐食し、あるいは動きが硬くなり、更には電気系統やマイコンが誤作動を起こす可能性が高まります。しかし、その様な状況にあっても、ドライバーが必死に車を止めようとする場合には、車は止まらなければならないと思うのです。メーカーの技術者には、ここで猛省を促し、車の本質安全とはそもそも何で、それをどう実現すべきかを改めて考えてみて貰いたいのです。ドライバーの高齢化は、車自体の安全メカとは別の社会問題になりつつありますが、これも併せて考えなければならない課題でもあります。出張などのため1週間ほど休稿です。

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3176 暴走事故

お年寄りのみならず、プロのドライバーの運転する車の暴走事故は、非常に衝撃的でした。映像を見る限り、ハイブリッドのオートマ車が起こした事故の様です。もちろん、ドライバー側にも何らかのミスはあったのかも知れませんが、車側の問題も避けては通れないでしょう。人間が、決定的ミスを犯しても、車側の安全装置が最悪の事態を回避する、いわゆる「フェイルセーフ」の真価が問われるのが重大死亡事故と言うものでしょう。カメラによって人やモノとの距離を測り、衝突を回避するのも確かに一つの方法ではありますが、それで万全と言う訳ではないでしょう。

暴走した車を、ギリギリ急ブレーキで止めるのではなく、そもそも暴走と言う最悪の事態を回避するのが、フェイルセーフの基本でなくてはなりません。暴走と言うのは、エンジン出力がドライバーの意に反して、異常に高まる事ですから、例えば車のスピードとエンジン回転数を確実にモニターできれば、急発進=低速時のエンジン異常回転は避けられる筈なのです。もちろん、フェイルセーフを追求すれば、例えば追い越しの際の加速も制限される可能性はありますが、それは致し方ない犠牲でしょう。命あっての物種だからです。

今回の事故を単なるドライバーミスで幕を引くべきではないでしょう。そうではなくて、車をマン・マシン一体の輸送システムと考え、異常事態には自動的にエンジンを停止し、同時にブレーキが掛かる本質安全を追求するための課題と捉えるべきだと思うのです。事故の調査が進めば、もう少し安全の本質に近づくでしょうから、今後の報道に注目する事にしましょう。

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2016年12月 3日 (土)

3175 宇宙旅行?

何故か、洋の東西で宇宙旅行ブームが来るだとか来ているとか、と騒ぎ出した様です。もちろん、それなりの体力があって、短い間の無重力旅行に、家を1軒建てるだけのお金がポンと出せる人は、少なからず居るのでしょう。しかし、それで短い宇宙旅行が出来たとして何になると言うのでしょうか。宇宙から地球を眺めたければ、衛星に載せたスーパーハイビジョン・カメラの画像を見れば十分過ぎるでしょう。今や、宇宙船の窓から自分の目で見るより、格段に鮮明な画像が地上で見られるのです。またもし無重力のスリルが体験したいのであれば、上手く設計されたジェットコースターか、旅客機を使って体験する事も可能でしょう。何も、莫大なお金とエネルギーを費やして、宇宙の入り口に入る必要までは無いと思うのです。

私たちは、何か重大な勘違いをし始めているのではないか、と思う事が最近多くなりました。確かに、今やお金さえ出せば、人に迷惑を及ぼす(倫理的にマズイ)事以外であれば、殆どの事やモノが、実現でき手に入る様になった事は間違いありません。しかし、お金やモノが、どれほど私たちの夢や想像力を消し去ったかを考えれば、恐ろしくもなるのです。これまで子供達(大人も含めて)の夢は、本や雑誌や漫画で育まれてきたのですが、実際にお金やモノを使って、夢だったものを手に入れた瞬間に、私たちの夢は完全に消失してしまうのです。ロケットでの宇宙旅行や、何でも言う事を実現してくれる(ネコ型)ロボットを手に入れる事は子供たちの夢でした。しかし、それが現実となった時に起こる事は、強烈な「幻滅」しかないと思うのです。

ところで、今の年寄り政治家の「夢」は、賭博場付きの、夢の様なリゾート施設なのだとか。少し若い実業家の夢が、宇宙旅行ビジネスの実現である事と考え併せても、情けなくて涙が出そうになるのです。政治家や、実業家の荷っている役割は、私たちの国や社会の将来あるべき姿を描いて、社会を導く事ではないか、とも思うのです。決して、今のお金持ちの夢を煽る事ではないでしょう。マスコミもこんな話題が発表されるや否や、批判もなく慌ててニュースで取り上げる事態に至っては、話にも何もなりません。書きながら、この話題に段々腹が立って来ましたので、ここで打ち切る事にします。

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2016年12月 2日 (金)

3174 バイオマス発電?

この言葉に違和感を感ずるのは、投稿者が環境人間に近づいているからかも知れません。と言うのも、「バイオマス」と「発電」とは、なかなか馴染まない、というより極端に言えば水と油の様な関係ではないかと思うからです。熱で電気を起こすには、当然の事ながら熱力学の法則に従った「火力発電所」を建設しなければなりません。法則によれば、発電効率は発生させる熱の温度が高い程良くなります。しかし、例えば蒸気を発生させるボイラを構成する材料(主に鉄系材料)の耐熱温度の制限から、闇雲に高くすることはできません。精々500-600℃が実用的には現在の上限と言っても良いでしょう。もちろん、より耐熱性の高い金属を利用し、温度と圧力をさらに高める事も可能なのでしょうが、コスト的に引き合わないジレンマに陥るだけでしょう。

かなり頑張っても、現状の最高水準でも例えば熱効率で45%を実現するのが精々でしょう。その意味するところは、発生させた熱量の55%は、大気と海に捨ててしまうと言う事なのです。石油や天然ガスと言った、「燃やし易い」燃料でさえこうですから、燃やしにくい固形燃料である「バイオマス燃料」に至っては、そもそも発生させる燃焼ガスの温度は、かなり低いレベルで我慢しなければならないのです。それは、熱効率も低いレベルで満足しなければならないのです。

もちろん、発生させた熱を熱のままで利用する場合は、結果(熱効率)は異なってきます。一般的に、良く設計されたボイラは、90%以上の熱効率を持って居ますので、燃やした燃料の持つエネルギーの殆どが回収できるのです。従って、それを熱として利用する限りにおいては、熱を送る仕組み(例えばパイプライン)からの放熱による損失だけに留まるでしょう。これは、先ほどの発電所からの熱損失である55%に比べれば、問題にならない程小さくて済むでしょう。

その意味においては、バイオマス発電は、発電システムから捨て去れられる廃熱を、例えば暖房や冷房や給湯の目的に「カスケード利用」する事を前提にする場合のみ許される選択肢だと言っても良いでしょう。然るに、FITの買取り価格に誤魔化される形で、各地で大規模なバイオマス発電所が建設され、その熱利用がなされないプラントにどんな意味があるというのでしょう。その燃料を、海外からの輸入に頼るケースに至っては、何をかいわんやでしょう。

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2016年11月28日 (月)

3173 徒然に思う事2

続きです。金銭欲や物欲を捨てるのは結構簡単な事の様な気もしますし、実は最も難しい事なのかも知れません。難しいと思うのは、例えば悟りを開いた人は、欲望から解き放たれるのでしょうが、普通の人間にはそこまでは出来ないものだからです。投稿者の様な普通の人間に出来ることと言えば、ホドホドで満足するといった程度でしょうか。ホドホドの家に住み、ホドホドの食べ物を食べて、ホドホドの仕事で、ホドホドより少し足りない位の収入を得て、ホドホドの満足感を得て暮らす、と言うホドホド人生を指します。

とは言いながら、人によってそのホドホドの物差しがかなり(或いはひどく)違っているのは全く困った事ではあります。例えば、4人家族がそれぞれに車を乗り回すのは、高級車でなくホドホドの車種であれば、ホドホド生活と言えるのかどうか、その判定は人によっても違ってくるのでしょうか。もちろん、数十年前に遡れば、自家用車が一家に1台もあれば、羨ましがられた時代がありましたが、メーカーのコストダウン努力と、コマーシャリズムと、石油価格が結果的に数十年前とあまり変わらない、それどころか物価水準を考えれば逆に異常に安いまま推移している奇跡が、車を贅沢品から外してしまったのかも知れません。

しかし、数十㎏の人間を移動させるのに、1トンを超える乗り物を使うのは、どう逆立ちして考えても、やはり贅沢だと思うのです。10㎞程度の通勤なら自転車やバイクで十分でしょうし、5㎞程度なら徒歩でも通勤できる筈なのです。雨の日や雪の日は、冷たさや寒さを感じながら、夏の暑い日は、ダラダラと汗を流す、季節を感ずる暮らしも良いものだと思うのです。投稿者は、サラリーマン時代の30年余り、ほぼ毎日自転車で通勤していましたが、単純計算でも地球を2周する分の距離は走った事になります。だからこそ、高齢者ビギナーになっても、若者並みのペースで山にも登れる体力が維持出来ているのだと思っています。この歳になって、やっと贅沢ではない低いレベルのホドホド人生の何たるかが分かってきて、それを楽しむ事が出来るようになった気がしています。

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3172 徒然に思う事

ある時期からこのブログは、環境ガチガチのブログから、随筆ブログに変わってきました。と言うのも、環境について考える事=人間の生き方(価値観)について考える事だと気が付いたからです。温暖化に急ブレーキを掛けなければならないのは、自然環境の悪化、取り分け気象異常による人間社会への「ブーメラン被害」は避けなければならないのは勿論、資源の温存と言う側面でも必須の取組みだと言えます。それが、例えば冷暖房の温度を控える程度の、ささやかな行動ではとても急激な環境悪化は防げないでしょう。それは、真っ赤に焼けた石に落とした数滴の水滴でしかないからです。

やはり、20世紀後半の石油にダブダブに漬かった生活スタイルからどうにかして脱する道を模索しなければならないでしょう。石油漬けの生活とは、車社会に代表される様に、雨に濡れずにドアからドアへ移動したいとか、今日注文した品物を明日受け取りたいとかの欲望に支配された生活スタイルを指します。また石油漬け社会とは、その石油を使って発電し、それ電気を多量に使う「電気漬け」社会でもあります。オール電化住宅に代表される様に、スイッチ一つで、冷暖房から給湯から調理まで、全てが動かせる「超便利生活」が実現された訳です。

数十年前の田舎の生活では、人々は釜戸や七輪を使って飯を炊き、薪ストーブや囲炉裏や火鉢や炭を入れたアンカのコタツで暖を取り、地元で採れるコメや野菜や魚で食卓を賄っていた訳です。しかし、それで人々が不幸であった訳ではありません。大人数の家族が集って暮らし、家族はそれぞれの役割を担って、助け合って暮らしていたのでした。

あの時代より、少しだけ便利で快適な生活スタイルは考えられないのでしょうか。たぶん、住宅さえ、高気密・高断熱になっていれば、少しのエネルギーで暑さ・寒さを凌げるでしょうし、そこに三世代が同居すれば、一人当たりの消費エネルギーは、十分に今の半分以下に抑える事も可能でしょう。技術にのみ頼った省エネや再エネありきではなく、先ずは生活スタイルの見直しこそ喫緊で肝要な提案だと思うのです。人は、お金(経済力)やモノだけで幸福になれない事は、20世紀後半の「実験」で証明されたと思うのです。金銭欲や物欲は、それがある程度手に入ると更に強まるものだからです。続きます。

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2016年11月27日 (日)

3171 北極温暖化2

続きです。最近の気象に関するデータで気になる事があります。地表の2/3を覆う広い海洋には、1000年単位で循環する緩い海流が存在します。しかも、単に海氷面近くの海流だけではなく、場所によっては深海に沈降し、また別の場所ではそれが湧昇すると言う垂直の循環を含んでいるのです。海水に目印を付ける事ができたとして、同じ海水が元の場所に戻るのに1000年程度を必要とするという壮大な循環なのです。これは「熱塩循環」と呼ばれますが、単に物質(海水)の移動だけではない、熱の移動にも関わっている故の呼び名なのです。

さて、大西洋北上した海の表面を流れる循環流は、グリーンランド+アイスランド阻まれて行先を失い、結果的にはそこから深海に沈降を始めるのです。それが湧昇するのは、マダガスカル沖のインド洋とベーリング海だとされています。それが、この海域が豊富な漁場となっていてクジラなども回遊する所以ともなっているのです。

さて気になるデータとは、大西洋の表層を北上した循環流が、近年はどうやら北極海に入り込んでいる様なのです。つまり、大西洋のの北端で、寒気によって冷やされた循環流が、重くなって沈降すべきところ、温暖化した北極圏では十分に冷やされず、一部がそのまま北極海に流れ込んでいるのではないかと疑われるのです。もし、それが事実なら、北極海は巨大な池の様になっていて、海底はなべ底形状になっているため、入り込んだ海流と熱は、そのなべ底に溜まる筈なのです。かくして、夏場の海氷面積の急激な減少=日射による熱の流入量増大に加え、海流からの熱の流入が相俟って、北極(海)の温暖化は急加速していると思われるのです。まだ、この「ハイブリッド温暖化」についての明確な報告は目にしていませんが、投稿者としては最近ますますこのメカニズムの確信を深めているところではあります。

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2016年11月26日 (土)

3170 北極温暖化或いは正のフィードバック

北極圏の温暖化が加速している様です。例えば11月は、例年より20℃も気温が上昇していて、海氷がなかなか結氷しないのだとか。それは、夏の間北極海の浮氷が融けて、太陽光により海水が暖められてしまっているのが原因ですが、加えてこの時期に北太平洋からの暖かい風が北極圏に向かって入っている様なのです。北極圏の気象は、1時間ごとに髙い精度で地上と衛星から監視されていますので、これは確かなデータによる分析です。

その昔(たぶん数十年前までは)、北極圏は文字通り「極寒」の地でした。中学校の地理で習ったかすかな記憶によれば、地球上の最低気温は、北極海沿岸にあるベルホヤンスクで記録されたのです。その気温はと言えば、確かマイナス80℃を下回っていたと記憶しています。現在その地域の最低気温は、多分40-50℃上昇している筈です。B国の次期大統領がどの様にコメントしても、これは明らかな「人為的」温暖化の証左でしょう。自然現象だけでは、数十年間で数十℃という変化は、大きな火山噴火や巨大隕石の衝突でも起こらない限りないあり得ないでしょう。

その意味で、世界の平均気温が100年以上かけて1℃くらいしか観測されていない事を考えれば、北極圏ではその変化を「大きく先取りしている」と言えそうです。先取りしているという意味は、変化が「増幅」されているとも言えそうですが、実は北極圏では「正のフィードバック」が生じて、温暖化が加速している様なのです。正のフィードバックとは、普通の言葉で言えば「悪循環」の事で、温暖化が進み、夏季に浮氷が消滅するに従って、日射エネルギーが海水に蓄積され、冬季の結氷が遅く、かつ厚みも薄くなる、という悪循環を指します。

ここまで書いてきて、何か人間社会にも通ずる現象の様にも思えてきました。例えば、お金がさらにお金を生み出す、あるいは吸い寄せる正のフィードバック現象や人口がますます都市に集中してスラム化する都市現象を想起しました。人間が絡む現象の底には、何か共通する力が働いているのかも知れません。

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2016年11月25日 (金)

3169 寒さの限界値

昨日からの冬型で、今朝は積雪もあり、この辺りでも氷点下に少し突入した様です。まだバイオマスボイラが入っていない我が家では、暖房器具は居間にあるエアコンだけの状態です。家の各所に仕掛けた温度計群によれば、外気温がほぼ0℃の現在、床下温度は11℃前後、室温は暖房の全く無い2階の寝室で9℃くらい、今パソコンに向かっているこの事務室で11℃くらいです。屋内でも薄いダウンジャケットを羽織り、靴下に室内履きを重ねれば寒さは感じませんが、流石に手先は冷たいです。仕方がないので、マウスパッド代わりに小さな電気アンカを置いて凌いでいます。

さて、通常の暮らしの中でどのくらいの気温であれば我慢出来にくくなるのでしょうか。これは、実は人種や生まれついての体質の様なものも関係しそうですが、多分10℃前後に限界値の境界がありそうに思えます。人種という視点では、いわゆる白人は熱を多く産生する「褐色脂肪細胞」が少ないので、体表面の温度が低い分、寒さはそれほど感じない様なのです。彼らは、多分10℃くらいなら快適で、一桁の気温に下がってやっと上着を羽織る気になるのでしょう。一方、南の地域で子孫を増やした黒人や褐色の人々は、日焼けに強い肌と、豊富な「熱源細胞」に恵まれて、暑さには強いのですが寒さにはめっぽう弱く、15℃を下回ると耐えられなくなる様です。

私たち日本人は、多分南北の人種の遺伝子が混在しているでしょうから、中間でしかも上下にばらついているものと想像できます。ちなみに投稿者の場合は、長年の観察?結果からほぼ11℃と結論しました。今の室温が11.3℃なので、限界付近で暮らしている事になります。それにしても、バイオマスボイラの到着が待ち遠しい今日この頃です。

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2016年11月24日 (木)

3168 断エネ

節酒や節煙に対して、それを完全に断つのはふつう断酒や禁煙という言葉が当てられます。そう言えば、省エネに対する同様の言葉が見当たらないと思い、ここでは勝手に「断エネ」という言葉を作りました。一体、私たちは「エネルギー」を断っても生きていけるのでしょうか。たぶん、無理でしょうね。なにしろ、エネルギー(特に熱)が無ければ、生米を噛み砕かなければなりませんし真冬に寒さで震えながら暮らさなければならないのですから。とは言いながら、注意して探してみると、投稿者の住んでいる地域のあちらこちらに先人が暮らしていたとみられる洞窟がいくつか見つかるのです。その中には、火を燃やしたり暮らしの痕跡が残っているものもいくつか残されています。

雪深いこの地方で、一体先人はどの様な暮らしぶりだったのか、非常に興味深いものがあります。もちろん、冬には洞窟の入り口に雪囲いを施した事でしょう。でもそうなると、中でたき火をするには煙の出口が無くなるので、困った事になります。もちろん、彼らには現代人に劣らない程の「知恵」があった筈なので、何らかの解決方法を編み出していた事でしょう。例えば、お隣の国の「オンドル」の様に、地面の下に煙の通るトンネルを巡らせていたかも知れませんし、獣の皮や樹皮を使って、煙突の様なものを作って煙を外に出していたかも知れません。

さて、人間が生きていくのに最低限必要な煮炊きや凍え死なない程度の暖房は、絶対に必要不可欠なものなので、ここではそれを「サバイバル(必須)エネルギー」と呼び、エネルギーとしてはカウントしない事にします。それを超える、「快適さを追求するためのエネルギーを、改めて「快適エネルギー」と定義し直す事にしましょう。今後このブログでは、それを可能な限り減らすのが、今回の表題の「断エネ」と呼ぶ事にしましょう。

さて問題になるのは、人々の我慢の限界です。例えば、昔の話になりますが、いわゆるオイルショックの頃、人々は街のネオンを消し、トイレットペーパーは短めに切り、家族はなるべく一部屋に集って暮らして照明や冷暖房を節約し(そう言えば冷房は殆ど普及していなかったなー)、テレビは深夜には放送を休止していたのでした。あれを我慢と呼ぶなら、私たちはまだまだ大きな「我慢のし代」を抱えて暮らしていると言えます。投稿者の家は、バイオマスボイラの導入が遅れており、初雪が降っても小さなエアコンだけの暖房で凌いでいますが、この分なら一冬くらいは「我慢」が出来るかも知れないと思う、プチ断エネ生活のこの頃です。

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2016年11月21日 (月)

3167 環境温度(熱)2

環境温度が重要なのは、単に暑さ寒さの感じ方に関わるという理由だけではありません。何度も書いている様に、熱(振動)は、激しい(温度が高い)部分から、緩やかな(温度が低い)部分に流れ(伝わり)ますから、温度差が非常に重要なファクターになる訳です。難しい方程式は好きではないので、すっ飛ばしますが、伝熱は温度差に比例するので、例えば室内と外部の温度差が大きい程、冬は建物内部から(夏は建物内部へ)の熱の流れが大きくなるのです。つまり、暖房冷房に要するエネルギーが大きくなる訳です。極端なケース、例えば家の内部と外部の温度差が無い(小さい)場合、つまりは春秋には、冷暖房負荷は非常に小さくなるのです。全く当たり前の話です。

さて熱の流れ(熱流)を小さくするには、何は無くとも、室内外の温度差を小さくすることに尽きますが、かといって真冬に室内温度を10℃以下にする訳にもいきません。仕方がないので、壁や窓など建物の熱の出入りの係数(熱貫流率)を可能な限り小さくする、つまりは断熱性能を高める事になるのです。とは言いながら、例えば魔法瓶に様に、内部を鏡の様にピカピカにし、壁の間に真空層を挟んんで、かつ建物の気密を最大限高める、というのは現実的ではないでしょう。

結局、建物の断熱を費用対コストが最大となる様に施工し、同時に地熱や太陽熱や地下水などの環境熱を最大限に取り込んで、冷暖房エネルギーを最小限に留める、という現実的なアプローチをするしか無さそうなのです。取り分け、投稿者が日本の住宅の弱点だと思うのは、基礎と床下構造なのです。新しい住宅では、もはや床下に通風口を設ける従来工法は殆ど無くなり、べた基礎が殆どですが、それでも基礎の底面のスラブや立ち上がり部は、地面から水分を吸い上げて、床下の環境温度を随分下げているのは間違いないでしょう。

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3166 環境温度(熱)

環境温度(熱)とは、このブログでの勝手な造語で、言わゆる身の回りの物体が持つ温度を指します。例えば、大気の温度、流水や地下水の温度、土壌の温度などです。建物について言えば、床下の温度や屋根裏の温度、あるいは壁や基礎のコンクリートの温度なども同様に環境温度と言えるでしょう。人間の気温の感じ方は、このブログも縷々書き連ねていますが、要は体を取り囲む環境温度の平均値を「気温」と感じますので、環境温度が重要となる訳です。ちなみに、温度とは、熱(振動)の指標であり、熱は温度の原因となる物理量という事になります。

例えば、今日(11202000)現在の、温度計で示される気温は外気温は9.8℃で室内は17.3℃ですが、床(下)温度は14.7℃、壁温や天井温は放射温度計では、ほぼ17℃前後となっています。この結果、体が感ずる気温(体感温度)は、概ね17℃前後であり、セーターを着ていれば寒さを感ずる事はありません。寒がりの連れ合いが居る居間では、エアコンを入れたりしていますが、今ブログを書いている事務室を含め、他の部屋には暖房を入れていません。この冬は、環境温度がどの程度まで低下すると、体が耐えられなくなるのか、自分の体で実験(耐寒実験)をしてみようと思います。もちろん、体は耐えられても、例えば手先や足先が冷た過ぎれば、仕事に差し支える訳で、そこは「部分暖房」を使わない訳にはいきませんが、投稿者の場合はUSB電圧(5V)で暖まる、小さなブランケットをマウスパッド代わりに使い、カイロやベルト型のヒーターも使って凌いでいます。

その意味では、手足に関しては、環境温度はやや高めに保たれているので、あまり寒さを感じないで済みそうです。加えて、人間の「寒さのセンサー」は、背中から首筋と手足に集中しているので、ここをガードしたり、体感温度を上げたりすれば、さらに寒さを意識しないで過ごせるのです。環境温度から体感温度の話に脱線しましたが、要は環境温度は体感温度の大元となるという当たり前の結論になってしまいました。たぶん続きます。

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2016年11月19日 (土)

3165 価値観の転換2

価値観の転換は、そんなに簡単に進むものではないでしょう。これまでの短い?人生の間の観察によれば、大多数とは50%を超える事ではなく、おおよそ2/3に達する必要がありそうなのです。つまり、喫煙率で言えば30%前後に低下して初めて「嫌煙権」がパワーを強めてくる事になる訳です。もちろん、これは何に関わる大多数かによっても境界は変ってくるでしょう。間接喫煙を強いられたからと言って、非喫煙者は苦痛には感ずるのでしょうが、我慢できない、あるいは直ちに健康被害を発する訳でもないでしょう。しかし、非喫煙者の割合が増えるにつれて、我慢の限界(しきい値)がドンドン下がってきて、僅かなタバコの匂いも許せなくなってしまう様なのです。

価値観の転換とは、つまりはしきい値の境界の移動という事にもなりそうです。「世間の常識」が変れば、しきい値も移動し、結果としてはそれまでは「僅かな」影響と考えられていたものが、一度しきい値を潜った瞬間、「許しがたい」影響に変質するのでしょう。

投稿者の専門とする「環境」に引き寄せて考えれば、例えば路上へのゴミやタバコの吸い殻のポイ捨ては、ずいぶん減ってきた事は間違いないでしょう。つまりはポイ捨ては「悪」であるとの文化が出来上がった証左と言えます。一方で、温暖化論議について言えば、彼の国の次期大統領が、温暖化のメカニズムに真っ向から否定するなど、まだまだ「文化」にはなっていないでしょう。一方で、欧州のいわゆる「環境先進国」では、既に文化として定着しつつある様に見えます。根は、同じ民族でありながら、欧と米で文化に差が出るのは、やはり社会背景が違うのだろうと考えるしかなさそうです。つまり、比較的質素=質実を是とする欧州文化と、Aメリカンドリームを理想とし、お金がそれなりに手に入ると湯水の様に消費=浪費をしたがる国との差という事になるのでしょうか。

さて、この国はどうでしょう。1900年代(特に戦後)B国流の「文化的生活」にすっかり洗脳された、貧しかったこの国は、やはり日本流ではありますが、便利な電化生活や車生活を追求してきたのでした。たとえ住宅事情が「ウサギ小屋」のままだとしても、です。そろそろ、この国も本物の文化を確立させる必要があると思うのです。それも、世界の何処にもない「日本流」の文化です。モノを大切にし、賢治の詩を理想とし、環境への負荷を最低限に抑え込む、という文化です。それには、このブログの投稿者の様な「環境人間」が、世の中の2/3に達する必要があるのかも知れません。先は長そうです。

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2016年11月18日 (金)

3164 価値観の転換

最近、文化の変質による価値観の転換が気になります。と書けば、なんだか難しそうですが、卑近な例を挙げるなら、例えば嫌煙権や分煙が思い浮かびます。数十年前を思い起こせば、大人の半数以上が喫煙癖を持ち、事実上どこでも喫煙できました。テレビでも喫煙シーンが出てくるのはごくありふれており、俳優も「さも煙たそうに、しかし美味そうに吸う」喫煙演技を研究していたことでしょう。

しかし、今この時代、都会の一定の地域では歩き喫煙は罰金を取られる「軽犯罪」ですし、レストランでも禁煙タイムを設定するとか、そうでなくても「分煙」は普通でしょう。企業の中でも、喫煙所を設定するのは、最早あたりまえの時代になったのです。つまり、この数十年、取り分けこの世紀に入って、嫌煙権や分煙は先進国においては「文化」として、ほぼ定着したとみてよいでしょう。それ以前は、タバコの嫌いな人は我慢するしかなく、今は喫煙者が肩身が狭い想いをしながらコソコソと喫煙コーナーやベランダで喫煙するしかない訳です。

偶然ですが、昨晩のTEDでは、B国の銃問題を取り上げていました。つまり、人口を軽く超える銃が市井に溢れているという「異常状態」の話題でした。今は少なくなりましたが、私たちの子供の頃は「西部劇全盛」の時代で、その中では銃による決闘シーンや銃撃戦が当たり前の様に放映されていたのです。さながら、日本の時代劇での立ち回りシーンの様な位置付けでしょうか。しかし私たちは、帯刀が当たり前のドラマを「時代劇」と呼んで、明治以降を描いた演劇や社会とは完全に分離して眺めていますが、B国では未だに「銃社会」という時代錯誤文化を抱えたままなのです。なにしろ、テレビの通販番組に「銃専門」の時間帯があるという程の、時代錯誤だと言うのです。

彼の国の銃文化が、過去のものとなるのに一体何人の犠牲者が必要なのでしょうか。既に、市民の銃保持に反対する人が半数を大きく超えているのは間違いないのでしょうが、喫煙の例で言えば7-8割の人々が、市民の銃保持は異常事態で取り締まるべきだ、と声を上げない限り、B国の銃文化の変質は起こらないのでしょうか。悲しむべき事ではあります。

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2016年11月17日 (木)

3163 PDCAは万能ではない

ISOの各システムでは、PDCAサイクルを回す事を基本として強く要求しています。しかし、考えてみなければならないのは、多くのケースでは、それが「堂々巡り」の原因になってしまっている点です。というのも、そもそも計画段階のPが果たして適正か否かは、実行後のCでは十分確認できるものではないからです。何故なら、このシステムは、計画に対して実行が上手く行ったかどうかはチェックできますが、計画そのものが妥当であったかどうかまではチェック出来ないからです。ゴールに対して、計画が妥当であるかどうかには、先ずは計画を立てる前に、計測(見える化)と得られたデータに基づいた分析(Analysis=問題の見える化)が必要になると思うのです。

その分析によって、問題点を掘り起し、それを解決するための計画案が出てくる、という順番になるべきなのです。計測には確かに手間が掛かりますが、計測とその分析に段階で、原単位かそれに類するデータも得られる筈です。例えば、空調機の電力量は毎月の請求書から容易に読み取れますが、では晴れた日と曇りの日で、あるいは外気温や湿度との関係で、時々刻々の電力がどの様に変化するか、と言ったデータは、何らかの手段で計測を行わない限り、得る事は叶いません。でも、もしその様なデータが手元にあれば、例えばエアコンの設定温度を1℃変化させた場合、どの程度(何%)の省エネになるかも比較的容易に推計する事が出来る様になるのです。

その様なデータに基づいた、省エネ行動の計画を立てる事が出来るなら、例えば前年比5%の省エネ達成という目標・計画も確実に達成可能となる訳です。即ち、例えばビルの電力量の50%を占める空調の電力を、調整する事によって、夏場は○○℃、冬場はXX℃だけ控える事によって10%削減可能という試算が出来、結果としてそのビルの消費電力削減5%が、確実に実現可能となる訳です。もし、その設定温度が作業に差し支える(暑すぎる、または寒すぎる)というのであれば、例えば運転時間の短縮との併せ技でマイナス5%を達成すれば良いだけです。多くの事業所で行われているPDCAサイクルは、結局は成り行きに任せ、出た結果に対して理窟を付けて「反省文」を書いているだけに終わっているので、堂々巡りに陥る羽目になる訳です。たぶん続きます。

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2016年11月15日 (火)

3162 スーパームーン地震?

スーパームーンの前後には大きな地震が多いのだそうです。確かに、地球サイズに比べても、結構大きな(直径で約1/4)月によって生ずる引力によって潮汐の満ち引きが起こっている訳で、その引力が薄皮である地殻の変形にも影響を与えない筈はありません。事実、歴史的に見ても大きな地震は満月の前後に集中している様ではあります。地殻が別の地殻に乗っかっている場所や断層が上下関係にズレ易い場所では、もし内部の歪が限界に達していて、ごく僅かの力のバランス崩れが地震につながるかも知れません、月の引力がそのそのきっかけになってもおかしくはないでしょう。

それが、月が地球に最接近する68年振りの「ウルトラスーパームーン」であれば尚更となるのでしょうか。地球と月の距離はざっと40万㎞と言われますが、その距離が数%短くなるスーパームーンでは、それだけ距離の自乗に逆比例する形で大きくなるからです。実際、今回もニュジーランドでは大きな地震が起こった様ですし、この国でも歪の蓄積した場所も、取りわけ東南海エリアでは増え続けて居る様です。

さてそれが事実だとして、私たちはどう行動すれば良いのでしょう。もし、大地震が満月、特にスーパームーンの前後に集中する事が、統計的にも十分裏付けられるなら、その時期だけ短期間地震に備えるのであれば、それは出来そうな気もします。オオカミ少年の逸話ではないのでしょうが、もちろんその警報に慣れてしまう、という心配はあるのでしょうが、何もココロの準備が無い不意打ち状態に比べれば数段マシでしょう。ほぼ1か月毎の満月の日を、地震を思い起こさせる日(地震の怖さ思い出す日)にするのも一つの自衛策とはなるでしょう。

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2016年11月14日 (月)

3161 Winner takes all社会2

勝者と敗者の調整は困難だと言っても良いでしょう。社会で最も困難な作業だと言っても良いくらいです。両者の立場が、精々白と灰色くらいの違いであれば良いのですが、もしそれが白と真っ黒だったらどうでしょう。仮に中間の灰色で決着したとしても、両方に不満は残るのでしょう。その様な場合には、仕方がないので墨流しの様にマーブル模様にして、両論の並走期間を設けるしかないかも知れません。そうこうしている内に、マーブル模様は徐々に混じり合い、適当な色合いの灰色で落ち着くのでしょう。それを、選挙結果の様に短い期間で決着させようとすれば、彼の国の様に軋みが生ずるのは仕方がないところでしょう。

さて、今回の国のリーダーを決める選挙で、候補者が二人だけというのは、上に述べた様にどちらの候補者が勝ったとしても、軋みが残る事になりますが、もし候補者が3人だったらどうでしょう。もし一人の候補が4割の得票数を得て、次点の候補者との決選投票になったとしても、落選した候補者の票が次点の候補者に回れば、逆転される可能性も出るでしょう。そうなれば、今回の選挙の様に候補者が好き勝手なホラを吹きまくって、ポピュリズムに走る事は抑制される筈です。つまりは二項対立の構図から「三項関係」に変る訳です。二項対立とは、白と黒が真っ向から綱を引きあう訳ですが、3項関係になれば、理想的には互いに120度の角度になった綱を3方から引き合う訳で、勝ち負けはそう簡単には決まらない筈なのです。

つまりは、落語の「三方一両損(得?)」の関係に落ち着く事になります。政策で言えば、白か黒ではなく、白と黒の意見を取り入れたマーブル模様の政策になるか、あるいは第三極の意見を取り込んだ「ピンク色」の政策になるかも知れません。要は、敗者と勝者が境界を挟んで対立しなければ良いわけで、人種差別政策の良薬は、可能な限り速やかな「平和な混血政策」ではないかと、無責任に考えています。この項終わります。

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2016年11月13日 (日)

3160 Winner takes all社会

今回の彼の国の大統領選挙で明らかになった様に、民主主義とは、Winner takes all(勝者総取り)主義だとも言えるでしょう。つまり、1票でも相手を上回った候補者が、全てを獲得できるというシステムです。今回も多分、互いに50%台前半と40%台後半の勝負だったでしょうし、その差は実際の有権者の投票比率で言えば、実は逆転していたという報道もあるくらいです。5149の得票差で勝ったWinnerは、その比率で敗者へのリスペクトを忘れるべきではないでしょう。そうでなければ、49の投票を行った人々の「腹は収まらない」ことにも繋がるからです。彼の国で、投票終了後数日を経ても、反Tランプの嵐が吹き荒れているのは、多分そこに根がある筈です。

結局のところ、民主主義の破綻は、敗者への配慮を欠く多数決という原則にあるのではないかと疑わざるを得ないのです。もちろん、全会一致などという決議もまた信じがたい事態でしょう。世の中に、100%の人が幸福になる決議など凡そあり得ないからです。敗者(looser)や底辺の人達は、standing small(ションボリと佇む)しかない訳です。もしそんなものがあるとすれば、現世代の幸せではなく、数世代後の(まだ見ぬ)子孫の幸福を考えての決議でなら、シブシブでも納得も出来る話です。何故なら、決議の賛成派と反対派の子孫は、やがて結婚して血縁関係が出来るかも知れませんし、遠い将来には、今の賛成や反対の理由にも変化が生じているかも知れませんから。

そうでなければ、安易に多数決に持ち込まず、道は遠くなっても「熟議」を重ね続ける必要がある筈なのです。年度毎に何らかの政策を打ち立てて、予算を付け、それを実行しなければならない、今の欠陥の多いシステムが必要悪だとしても、そうではない10年後や50年後を見越した、若者だけの「次世代議会」制度があっても良いとも思うのです。若者は、もし現体制に不満があるなら単に異議を唱えるだけではなく、同時にそれを克服する代案を時間を掛けて練り上げていけば良いのです。それを続けて行けば、欠陥の多いシステムも徐々にではあっても理想に近づいて行くのではないか、と投稿者としては言いたいのです。かなり楽観的ではありますが・・・。

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2016年11月11日 (金)

3159 たった一人で世界が変る?

たった一人の経営者が政治家になったというだけで、世界が揺れ動いています。これは、たった1%の富裕層が、全世界の富の半分を保有しているという構図に似ています。つまり、少数の大国がスーパーパワー(軍事力や経済力)で世界を牛耳っている世界情勢と、紙幣という紙に印刷された「ペーパーマネー」、あるいは銀行のコンピュータにインプットされた桁数の多い数字という「デジットマネー」を、握っているか否かで人間の価値までも決められてしまうマネー社会とが、同じように見えてしまう点に強いアナロジィを見てしまうのです。

そのスーパーパワーの頂点に、滅茶苦茶な事を放言する人物が間もなく座ってしまうと言う事態に世界が頭を抱えて慌てふためいているのでしょう。彼の国の大統領選挙は、ある意味人気取りのための情報戦であるとも言えるでしょう。あの手この手で相手の足を引っ張って、その争いに負けた者が退場し、そうでなかった者が「総取り」してしまう、いわば大きなギャンブルの様なものだと言えるでしょう。今回のバトルでは、セクハラだかパワハラだかの小さな?足と、セキュリティの弱い私用メールを公務に使ったというやや太い足をお互いに引っ張り合うという展開でしたが、結局は片方が引っ張られ負けてしまったという構図なのでしょうか。

それにしても、B国のシステムが、どれほど一人のやりたい放題を許すのか、これからが見ものですが、しばらくは彼の一挙手一投足を世界が固唾を飲んで見守る期間が続くのでしょう。それにしても、経済活動の原動力をモノではなくマネーだけに、国のパワーをたった一人のリーダーにこれほど集中させてしまったこの世界は、今後一体どの様になってしまうのでしょうか。富の再配分というか「格差縮小」と、政治的パワーの分散化は、待った無しの、それこそ喫緊の課題となった感があります。そのためにはどうすれば良いのか、引き続き考えて行く事にしましょう。個人があれこれ考えてもどうにかなる訳でもないのですが・・・。いずれにせよ、今度のリーダーが、どの様に既得権益に飲み込まれていくか、静観する事にしましょう。

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2016年11月10日 (木)

3158 エネルギー2

エネルギーを節約する行動を「省エネルギー」と呼びますが、3157の文脈で考えると、エネルギーの伝わる経路を塞ぐのが最良のアプローチである事が分かります。つまりは、断熱・遮熱です。一般的に言えば、熱の伝導や対流を妨げるのが断熱、物体の表面からの放射や赤外線の入射を妨げるのが遮熱と呼ぶのが適切でしょう。もちろん、冷房効率や暖房効率を上げるにも、断熱・遮熱は有効に作用するのです。

住宅やビルなどの居住空間を暑さ、寒さから遮断するのに断熱工事が有効である事は言うまでもありません。折角エネルギーを使って、居住空間を暖め(あるいは冷やし)ても、壁や窓から熱(エネルギー)が放射や入射で逃げたり、流入したのでは投入したエネルギーの大きな部分がムダになるでしょう。そのために、グラスウールや発泡材の断熱材が壁や天井裏に詰め込まれる「断熱工事」が施工される訳です。

しかし、この国では明らかに壁の断熱材が薄すぎる住宅やビルが大多数であるという事実は否めません。多くの住宅では、内壁と外壁の間、つまりは柱の厚み(75㎜程度)しか、断熱材が入れられないのです。しかも、断熱性の低い(例えば低密度のグラスウールなどの)断熱材しか奢ってもらえないのです。加えて、窓は単板ガラスですから、壁や天井や窓や床から、つまりは部屋の6面から、熱(エネルギー)が自由に出入りできるのです。これでは、いくらエネルギーを費やして冷暖房をしても、その効果は減殺されるでしょう。事実、電力エネルギーのピークは、真夏の晴れた午後に発生しているのです。その時、全てのビルや住宅には、強烈な真夏の日差しが襲い掛かり、炎熱地獄状態になっているでしょう。寒い冬場は全く逆で、折角暖めた部屋の空気によって、壁や天井や床も暖まってくるのですが、そこから二次的に放射されるエネルギーが建物構造を突き抜けて、外に逃げてしまうので、それを補うために暖房器具をドンドン運転しなければならないのです。何は無くとも、ビルや住宅の断熱・遮熱が省エネの基本のキである所以です。

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2016年11月 9日 (水)

3157 エネルギー

以前にも書いたような気がしますが、結局エネルギーとは、分子(原子)の熱振動や気体・液体の場合はブラウン運動の激しさの度合いによって決まる指数の様なもので、特殊なエネルギーとして、電子の流れである電気エネルギーや核エネルギーなどがあるのだと理解しています。それを統一する様な理論もあるのかも知れませんが、たとえあったとしても浅学にして投稿者に理解できないでしょう。

さて、その熱振動やブラウン運動は、より激しい物体や場所から、そうではない場所に向かって移動する性質があります。それには、3つの伝わり方があると学校の理科でも習いました。つまりは、伝導、対流、輻射(放射)の三態です。これを別の言葉で言えば、伝導とは個体間の熱振動の移動であり、対流とはブラウン運動の拡散であり、輻射とは振動している分子(原子)からの直接的な電磁波の放射であるとなるのでしょうか。その意味で言えば、例えば理想的な暖房を考える際の一助となりそうな気がします。床暖房や湯たんぽやカイロは、伝導を主とした暖房方法であり、エアコンは空気の対流を利用して室内空気のブラウン運動を活発にする仕掛けですし、反射式の電気ヒーターや石油ストーブは、輻射を主体にした暖房方法だと言えるでしょう。

しかし、その暖房効率は、伝導>輻射>対流の順に悪化するのです。特に、対流は常にエネルギーを供給し続けないと機能しない暖房法である事は注意を要します。エアコンや温風ヒーターを切った途端に寒さが押し寄せてくる訳です。もちろん、壁や天井が暖まっている間は、そこからの輻射が期待できるので、スイッチを切ってもしばらくは寒さは感じないかも知れません。

究極の暖房は、結局は「身に付ける暖房」でしょう。体に一番近いところに付けるカイロは、小さいけれど十分に暖かさを感ずる事が出来る「優れモノ」であると言えるでしょう。同様に、床暖房も足や体の一部が密着すると言う理由で、比較的効率の高い暖房法だと言えます。もし、可能なら、繊維自体が発熱する衣服があれば、最少のエネルギーで暖房が出来る究極の暖房法となる事は間違いありません。現在でも「発熱繊維」なるもので出来た下着はありますが、それは体から出る水分を熱に変えるなどのパッシブなものなので、本物の発熱繊維とは言い難いシロモノではあります。小さな充電式電池で、一日中発熱する衣服が開発されれば、寒風の中屋外で働く人達にとっての福音となるでしょう、きっと。

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2016年11月 8日 (火)

3156 赤外線を見直す2

赤外線が、生き物のエネルギー源だとしても、それを蓄える事は出来ません。電磁波の一種でもある赤外線は、物体や生物に当たると反射するか、あるいは物体表面の温度を少し上げて、より波長の長い(エネルギーレベルの低い)赤外線となって、宇宙に飛び去るのです。物体表面の温度を上げるのは、赤外線が持つエネルギーが、物体を構成する分子に伝わり、分子の「熱振動」が少し活発になる(=温度が上がる)からなのですが、赤外線自体のエネルギーレベルは、元々低いので、太陽光の様な強い輻射でも、皮膚が少し暖かく感ずるほどか、精々温水が作れる程度に留まるのです。

さて、そうではありますが、赤外線を上手く活用するか否かは、生き物の快適性やひいては生き死にも影響を与える訳で、あだや疎かには出来ません。物体には、二次的に赤外線を出しやすいもの、あるいは赤外線を吸収しやすいもの、更には反射し易いものなど、物理的に大きな違いがあります。例えば、黒鉛(グラファイト)や金属酸化物の多くは、その物体の温度が上昇した時、より多くの赤外線を放出する機能が髙いのです。反対に、鏡面を作り出せる金属(金・銀やステンレス鋼やアルミ、スズなど)表面は、赤外線の殆どを反射してしまいます。それは、石油ストーブなどの発熱体の後部が、鏡面になっている事でも分かるでしょう。また例えば、表面にススを付着させた様な(黒体に近い)表面では、赤外線のエネルギーン大奥が吸収される訳です。太陽熱温水器の集熱面が、マットブラックになっている所以です。

同様に、繊維の中にも赤外線に関して機能を持つものも開発されてきました。発熱繊維と呼ばれる、水分を吸収して少し温度が上がるもの、あるいは温度の上昇した空気を抱え込むもの、更には体温を受け取って、赤外線を体に送り返すものなどがありますが、いずれにしてもその着用によって、寒冷期の体感温度をやや上昇させる事が出来るものとなっています。

この項をまとめると、最終的に赤外線機能の再重要な因子は、「体感温度」であると言えるでしょう。赤外線を受け取って寒くなく暑くなく、暖かで快適な体感温度に感ずる様に、住居や衣服や冷暖房によって、積極的に調節している動物が、唯一人間であると言えるでしょう。もちろん、動物も夏毛や冬毛や脂肪の厚みによってパッシブには調整はしているのでしょうが、体温が限度以下に下がれば凍死してしまうしかないのです。

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2016年11月 7日 (月)

3155 赤外線を見直す

寒い季節になりましたが、そんな時は寒さの感じ方について考えます。暑さ、寒さの感ずるのは、結局は恒温動物であるヒトとしては、体温を維持するための「センサー」を多く備えた事に始まった筈です。変温動物であれば、寒くなると同時に体温も下がって、限度以上に下がると穴に籠って冬眠するしかなかったのですが、毛皮を脱ぎ捨てた恒温動物としては、衣服で調節する以外に、冬は暖房を必要としたわけです。その際、暖かさの指標としては「赤外線の波長と強度」を採用したのでした。たぶん。

赤外線は電磁波の一種なので、当然の事ながら波長と強度を示す並みの高さで、エネルギーの大きさが決まります。波長が短い電磁波は、確かにエネルギーレベルは高いのですが、それは高温の物体から放射されるので、それに触れると火傷をしていまうでしょう。真っ赤に焼けた、金属やたき火(炭火)のごく間近に手をかざしている状態を想像して貰えば直感的に理解できる話です。一方で、同じたき火でも数メートル離れると、体に気持ちの良い(長い)波長の赤外線だけ届くので、快適に感じます。波長の短い赤外線は、空気の分子や水(蒸気)分子に吸収されて、届かなくなるからです。しかし、波長の長い赤外線は、例えば太陽光の中の電磁波の内、主として長い波長のもの(赤外光)が地表に届く事によって、動植物が生きていける環境が維持されている訳です。

つまり、赤外光(とりわけ遠赤外光)は、生き物にとって非常に重要なエネルギーであるが故に、ヒトもそれを感知するセンサーを発達させたと想像できます。結局、ヒトの寒暖センサーとは寒さは体表面温度(36-7℃)が発する赤外線と、同じ表面が受け取る遠赤外線の差引によって、出る量が多いと寒さを感じ、逆に入る量が多いと暑さを感ずる様に作られていると言えるでしょう。そのバランスを、パッシブに行うのが「衣服」であり、アクティブに補うのが冷暖房という位置づけになる訳です。ですので、冬場に寒い家に住んで、ガンガン暖房するのは、体にとっては赤外線のエネルギーを失う壁や窓側の体半面と、一方で暖房器具に面している半面では、センサーの働きは真反対になり、大きな「ストレス=ヒートストレス」に晒される事にもなるのです。暖房のキモは、住宅全体を低い温度に保つ一方、寒い壁や窓、あるいは浴室などで寒い場所を作らない事だと言えます。続きます。

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2016年11月 6日 (日)

3154 周回遅れ2

ピッチを上げて、欧州の環境先進国に追いつくためには何が必要となるのでしょうか。先ずは、何は無くとも原発を今すぐ諦めて、再生可能エネルギーへ完全に舵を切るしかないでしょう。再生可能エネルギーには、太陽光(熱)、風力、バイオマス、小水力、バイオ燃料などがありますが、それぞれの地域によって、資源量にはバラつきがありますが、太陽光(熱)は偏在が少ないエネルギー源でもあるので、先ずはこれをベースに据えるべきでしょう。オール電化のベースとして、3kw程度の太陽光発電を屋根に載せるのが流行ですが、太陽熱はそのままで給湯熱源として有効に活用すべきでしょう。

理想的には、太陽光発電パネルを、水で冷やして発電効率を上げる一方で、冷却水(低温のお湯ですが)を給湯熱源として利用する、ハイブリッド(熱電併給)が理想と言えるでしょう。北国では、冬季の陽光が期待できない一方、バイオマス(木材や稲わらやもみ殻など)は豊富で、日本海沿岸では風力発電も、投資が回収できるレベルで有効です。山際では、小水力発電も有望でしょう。少し歴史を遡れば、電力会社の統合前には、国内各地でローカルな水力発電会社が林立していた筈なのです。

この国の得意技は、機器の多分小型化と多機能化に発揮されてきた様に思います。家電や車その他の設備機器を眺めてみても、それは事実でしょう。ならば、再生可能エネルギー分野に置いても、ハイブリッドとりわけ「熱電併給」分野では、この得意技を生かしていけば、周回遅れを取り戻す事も可能だと思うのです。バイオマスの燃焼熱やバイオガスで発電を行った上で、廃熱を給湯に利用できる様な、小型の(家庭用サイズの)システムが作れれば、逆に世界をリードできるかも知れません。またあるいは、太陽熱を利用した冷房システム、具体的には「デシカント冷房」ですが、が開発できれば、陽光に恵まれているが蒸し暑い、東南アジアやアフリカ諸国のQOL向上にも貢献できるでしょう。

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2016年11月 5日 (土)

3153 周回遅れ

この国はどうやらパリ協定に乗り遅れるらしいです。タッチの差で乗り遅れるならまだしも、投稿者が思うに、既に周回遅れではないかと疑っています。環境先進国に一周置いてきぼりを食っている様に見えるのです。例えば、原発です。事故直後は、国中でまるで悪魔の様に忌避した原発を、熱さが喉元が過ぎれば、なんと再稼働させたいという「既得権派」の要求に従うと言う、節操のない政治決断をしたのでした。期待する方が間違っていました。確かに、この世に生を受けて60有余年経ちますが「ブレない政治家というものを見た事がありません」でした。政治家が時々口にする、「世界に冠たる環境大国」なんぞ、チャンちゃらおかしいホラ話と言うしかありません。

未だに、自動車の完全リサイクルは程遠い状況ですし、PETボトルの再使用は俎上もされていませんし、原発の廃炉計画もオザナリですし、家庭や運輸部門の省エネ目標もボンヤリしたままです。たった26%の目標すら、空約束の怪しげなものだと言うしかありません。もちろん、風力や太陽光発電や太陽熱や地熱・地中熱の利用も、明確な量的ターゲットは示されないままです。その間、欧州では着々と原発の廃炉が進み、村々には風車がそびえ、太陽光発電による充電ステーションがドンドン増え、再計可能エネルギーだけで全てのエネルギーを賄う村が出現したりしているのです。

一方でこの国は、車ではハイブリッド車のリッター30㎞程度の半端な燃費で満足し、屋根のある戸建ての太陽光発電や太陽熱温水器の段階的義務化や、バイオマスの熱利用などもべた遅れの状態です。山には、利用される見込みの無い木々が、枝払いもされずにCO2吸収力も弱ったまま立ち尽くして、一方では原発の再稼働までの時間稼ぎにと石炭火力も、静かに増え続けているのです。一体、この国は、政治家や行政は、あるいはそれを見過ごしている国民は、何を考えているのでしょう。ここらでピッチアップして、追いつく努力が絶対に必要でしょう。絶対に・・・。続きます。

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2016年11月 3日 (木)

3152 見える化

何にせよ見える化は大切です。3151では、廃棄物の見える化に言及しましたが、その他にも衆目から隠されている事の何と多い事でしょう。環境分野でも、エネルギーの見える化をはじめ、有害物の見える化、放射線の見える化、土壌汚染の見える化、食品添加物の見える化、温暖化への負荷の見える化、騒音の見える化、振動レベルの見える化などなど、枚挙に暇がありません。

振り返って社会活動を眺めてみても、多くは意識的に隠ぺいされていることの多い事に愕然とします。政治の世界における法案決定のプロセス、閣議決定前の根回しのプロセス、行政の予算決定のプロセス、入札・発注金額が予算の98-99%で決まるプロセス、年金資金運用のプロセス、コメや野菜や農産物の値段決定のプロセス、各種助成金の金額決定のプロセス、各種公共団体への補助金の使いみちの中身、その団体への天下りのプロセス、企業の経営状態やコンプライアンス内容、更にはリコールにつながる自社に不利な品質情報などなど、これも枚挙に暇がないどころか、社会システムが複雑になればなるほど、見える化は遠のく筈なのです。というより、なまじっか知恵のある人たちは、出来る限り見える化しない様に謀略の限りを尽くすのでしょう。システムを、外部からは容易に見えない様に複雑にする、あるいは、責任が一人に及ばない様に、絶妙な決裁(決済)システムを作る、更には国会の答弁の様に「~という訳ではないが、場合によっては~」などという回りくどい表現で、結論をボヤかすなどのテクニックを弄する訳です。

もちろん、全てを見える化するのは、精神衛生上は良くない事かも知れません。総ガラス張りの檻の中で暮らしている動物園の動物たちの様に、落ち着かない状態である事は間違いありません。普通の精神状態の人間は、多分耐えられないとは想像します。しかし、こと公金や税金を使う活動である限りにおいては、必要な時あるいは必要とする人が居る限り、随時の見える化には対応せざるを得ないでしょう。

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2016年11月 2日 (水)

3151 減容(ゴミの見える化)

先日、息子が高校時代に使っていた20年ほど前の自転車と、置き場所が無くなった事務用イスを処分しました。市の最終処分場にある受付で車ごと軽量し、廃棄物を降ろした後で再計量します。その差分、約20㎏が処理料として課金されました。約500円でした。そこでは数人のシルバーの方(と言っても投稿者と同年代ですが・・・)が待ち構えていて、多分金属と燃えるゴミと埋め立て処理される部分に分解するのだろうと思いました。自転車で言えば、リムはステンレス、フレームは鉄のスクラップとして、タイヤやサドルは燃えるゴミ?、ダイナモは?などに分けるのでしょう。

結果、埋め立て処理される目方は殆どゼロとなり、見事ゴミの減容が行われ、燃やされる部分以外は、資源として蘇る訳です。何という、崇高な仕事でしょう。これは、是非一般市民や子供達にも体験させる必要があると、しみじみ思いました。何故かと言えば、この処分場は町の中心から見ると7-8㎞山の中に入った、谷合の場所に作られていて、用がある市民や業者以外は立ち入る事もない行き止まり道路の終点にあるからです。こんな場所で、市民に見えないところで不燃ゴミの処理が行われている限り、ゴミはなかなか減って行かないとも思いました。

そうでなくて、ゴミの減容や処理は手間=コストも掛かり、埋め立て処分場の逼迫など、持続可能ではないを抱えている問題行政の一つであることを、市民に知らしめて行く必要があると思うのです。もしこれを、幹線道路にある空き地で、透明なフェンスに囲まれた場所で行うなら、市民や子供達も興味を持って眺めるでしょうし、その大変さを認識すれば、自ら分解してから持ち込むなり、もう一度考え直して修理に出すなりのより望ましい行動を惹起させる筈なのです。「ゴミの見える化」が必要な所以です。

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2016年11月 1日 (火)

3150 リサイクル2

リサイクル分野で有望なのは、リサイクルにより戻された材料が、元々の素材より品質が向上する「アップグレード・リサイクル」でしょうか。品質が向上するという事は、つまりは「純度」が上がる事を意味します。金属であれ、プラスチック類であれ、リサイクルの過程でどうしても、好ましくない不純物が混入してしまいます。しかし、絶対に不純物を入れない工夫を重ねたにしても、リサイクル材料がオリジナルの材料の性能を超える事はありません。

アップグレード・リサイクルとは、この壁を打ち破る方法で、例えば化学的あるいは物理的に、材料の純度を上げるのですが、もちろん簡単な話ではない事は想像できます。例えば、しっかりと結びついた合金から、合金元素だけを抜き出す事は至難のワザなのです。もちろん、炭素鋼から炭素を抜き出す事は、水素で還元すれば良いので比較的簡単ですが、ステンレス鋼からクロムやニッケルを分離する事は事実上無理な話になります。現状でステンレスがリサイクル出来ているのは、リサイクル材を溶解する過程で、取鍋(とりべ)分析を行い、不足している合金元素を加えて、例えば組成がJISで言う18-8ステンレスの組成範囲に入る様に調整しているのです。

しかし、例えば電気分解を使うとか、金属をプラズマ化した状態で捕集するとか、何らかの工夫を加えれば、例えば「純鉄」を分離する事は可能の様に思えます。純鉄は、事実上腐食しないので、鉄の新たな用途として注目されていますし、磁気材料や電気材料として新たな用途が開ける可能性も高いのです。二束三文の屑鉄から、高価な「貴金属」を生み出す事が、即ちアップグレードと呼ばれる所以なのです。同様に、プラチック類に置いても、同様な展開が考えられますが、こちらは分離に成功しても、材料の単価が低いので、それ程のメリットが出るかどうかは、やや疑問が残りますが、いずれにしても不要となった廃プラや屑金属を、異種のものは絶対に混ぜないシステム作りが不可欠である事は言うまでもありません。それは、かつては飲み物や液体はガラス瓶だけで流通し、ビン類は有料で回収される「リターナブル容器」であった事実を思い出す必要があります。つまり、空容器は値打ちが無いゴミではなく、有価で取引される「資源」である事の社会的合意が不可欠なのです。その意味で、この国はまだまだ「環境後進国」であると断ずるしかありません。

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2016年10月31日 (月)

3149 リサイクル

このブログでは「本題」の表題です。リサイクルと言えば、例えば紙や金属やPETを溶解して、再度「再生紙」を作ったり、鉄鋼原料:アルミ原料やをPETボトルの原料としたりする事などを思い浮かべます。これは、「マテリアルリサイクル」と呼びます。もちろん、例えば中古車からバンパーなどの部品を外して、修理車へ付け替えるのもリサイクルの一分野でもあります。これは再使用されるパーツ「リサイクル部品」などと言う事もあります。更に広い意味でリサイクルという言葉を使うなら、不要なプラスチックや廃油を燃やして、熱として回収する「サーマルリサイクル」という使われ方もするのです。つまりは、何らかの形で、材料や熱を回収して「再利(使)用」する事が含まれる廃棄物処理の方法を称して全てリサイクルと呼んでいるのです。

しかし、もし純粋な原料のまま回収し再度製品として使えるなら、あるいはプラスチックなどでそのまま粉砕してペレット状にしたら、そのまま射出成形機に掛けれるなら、リサイクル率は飛躍的に向上する筈なのです。リサイクルを阻害しているのは、原料の汚染や異種材料の混入だと言えます。というのも、素材メーカーで同じ呼び方のプラスチック、たとえばPETやPEやPSやPPなど、でもその組成や製造工程は、規格の中で微妙に異なるでしょうし、もし許容範囲内だったとしても、それらを混合した場合には、元通りの純粋な材料に戻せる保証は無いでしょう。完全なリサイクルは、容器や製品を、作られて流通してきた経路を、全く逆向きに戻さない限り、実現は難しいと言えそうです。

だからと言って、諦める事もありません。廃棄物の分別の工夫は無限にあると思うからです。プラスチックの分野だけで言っても、破砕後に比重差で分け、風選で分け、視覚センサーで判別し、紫外光や赤外光やレーザー光で分け、最後は人間の目や分析計で分けるならば、廃棄物もほぼ100%の分別が可能となるからです。もちろん、コスト的に成り立つか否かは重要な問題ですので、なるべく廃棄物として捨てない努力、容器の再使用(リユース)やそもそも矢鱈とプラスチックの容器入れて売るのを止める(リデュース)、は優先的に不可欠でしょう。

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2016年10月29日 (土)

3148 先端産業?2

高強度・軽量の素材を多用し、空を飛ぶ乗り物を作ったり、宇宙空間に打ち上げるロケットを作る事だけが、何も先端産業ではないでしょう。物事には、必ず「目的」があり、それを達成するための「手段」が必要なのですが、いわゆる先端産業と呼ばれる分野では、得てして「手段の目的化」が起こっている様に見えるのです。空を飛んで旅行して移動時間を短縮するのはまだ理解できるにしても、ロケットを不要衛星のゴミで宇宙空間が汚れるほど打ち上げるのに、どれほどの必要な目的が見出せるのでしょうか。ましてや、何か月も研修者を宇宙に滞在させて、骨の廊下のメカニズムが分かったとして、その成果を何に役立てるのでしょうか。

飛行機による旅行時間の短縮したって、そもそもその旅行の目的が物見遊山や爆買いだけだっとしたらどうでしょう。何も海外にまで出かけなくたった、国内にだって見るに値する景色や史跡も多い筈なのです。たとえ宇宙実験で、骨の老化のメカニズムが判明したにせよ、運動嫌いの人の骨を強化するだけでは十分ではないでしょう。運動をしながら、筋肉と骨を同時に強化する必要があるからです。多額の旅行代金や国家予算を使いながら、不要品(ゴミの事です)を増やし、軟弱な人を増やすだけだったとしたら、悲しむべき事でしょう。

そうではなくて、私たちはもう一度「目的」に立ち返らなければならないと思うのです。では目的とは一体どの様なものが考えられるのでしょうか。何がなくとも、目的としては「持続可能性」を確固たるものとする事を挙げなければならないでしょう。私たちが、この世に生を受け、寿命を全うするのは、言うまでもなく「望ましい(持続可能な)社会を次世代に引き継ぐ」という使命を、万人が均しく負っている筈なのです。たぶん続きます。

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2016年10月28日 (金)

3147 先端産業?

前前職で航空機製造に携わっていた事もあり、時々各地の航空機分野への参入セミナー等の講師を依頼されます。とは言いながら、ホンネで言えば、多くの企業の新規参入が実現したとしても、将来それらの企業の事業の柱になるほどの仕事量は発生しないとも見ているのです。理由は、民間航空機(主に旅客機の事を指しますが)の分野で、やっとM社が名乗りを上げたとはいえ、YS-11の生産終了f後の非常に長い時間(約半世紀です)、この国では民間航空機の開発が絶えて無かった事があります。その間は、殆どの全てのリソースを、B国の大手航空機メーカーの下請けになり下がっていたのでした。製造のノウハウを蓄積出来た後も、国も企業もリスクを取るための「手を挙げる」事もなく、諾々として下請け仕事をこなしてきたのでした。

もちろん、航空機を作るための複合材分野では、国内の大手繊維メーカーが大きなシェアを握っては居りますが、その他の航空機用材料(ジュラルミンやチタンや鉄系材料)のほぼ全ては輸入に頼っている情けない状況ではあります。国内の航空機市場は小さいので、製造された殆どの航空機や航空機部材は、輸出される事になるのですが、結果的には為替の影響をもろに被ります。円安なら何とか息が出来ますが、円高局面になると途端に赤字に転落する体質は、昔も今も変わらないでしょう。

さて、航空機産業の一体何が先端産業なのかと問われても、数十年前に実用化されたカーボン繊維+エポキシ樹脂の、いわゆる複合材や、アルミやチタンを多用した、軽量・高剛性のモノコック構造位しか思い当らないのです。それらの技術が、そのまま民生品に応用できる筈もなく、例外的にゴルフクラブや釣竿やテニスラケット等の趣味製品に応用された程度だったのです。もし、航空機の構造が、車で実現出来たとすれば、車の燃費は飛躍的に向上する事でしょう。今、1トンを超えるクラスの車でも、多分その重量を半分以下には出来るからです。しかし、コスト的に見れば、家が1軒買えるくらいの値段のスポーツカーには使えるにしても、量産車には所詮無縁の技術だと言えるでしょう。もし真面目に先端技術に取り組む気があるのであれば、品質要求だけが矢鱈と厳しくて、儲からない航空機産業に向かうのではなく、航空機材料や製造技術のコストを一桁小さくして、民生品にも使える様にする努力こと意味があると思うのです。

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2016年10月27日 (木)

3146 似非環境経営3

先にも書いた様に、省エネだけに気を使っていれば、環境経営が成り立つ訳ではありません。廃棄物も圧縮しなければ、ゴミ処分場がひっ迫しますし、水資源も限られていますし、グリーン購入や、生物多様性、更には事業に使われる化学物質も無害なものに切り替えていく必要もあるでしょう。そこで、是非作成して貰いたいのは、事業に関わるモノ、エネルギー、製品、廃棄物の出入りを示すフロー図です。事業所を□で示し、そこに事業のために仕入れるモノ、エネルギーを「入り」の→で示し、そこから出ていく製品やサービスを「出」の→で示すのです。更に、事業の結果事業所から排出される、モノの廃棄物(ゴミの事です)と目には見えないゴミ(CO2)をやはり「出」の→で示します。CO2は目には見えませんが、事業所のボイラや営業車や運搬車から直接出るものもあるでしょうし、購入電力では、電力会社の煙突から排出されるものもあるのです。

また、これも目には見えませんが、部品の洗浄に使われる有機溶剤は、蒸発のために目減りしますが、その中には強い温暖化効果を示すものや、あるいはオゾン層を強力に破壊する成分が含まれるものもあるのです。これらを、例えば温水洗浄に切り替えるなどの方法で事業の中から追い出す必要もあるでしょう。

グリーン購入について言えば、今日多くのモノで環境負荷、あるいは「カーボンフットプリント」と呼ばれるデータが手に入りますので、同じ文具(例えば紙)であってもより負荷の小さな銘柄を選べばよいのです。その際、その分野のトップランナーのデータを参照すれば、グリーン度の判定役立つでしょう。

生物多様性について言えば、アプローチは比較的簡単です。多様性は、環境のグラデーションから生れるからです。工場、あるいは事務所と道路との間に緑地を設け、それも芝生だけで覆うのではなく、種々の樹木や灌木や花や苔や雑草を多様に配置するのです。そこには、鳥や小動物や昆虫などが多様に入り込む筈なのです。これは、現在の都市郊外で見られる、耕作地と放置された山林という構図ではなく、その間に適当に人間の手が入った「里山」が生物の多様性を育むのと全く同様の現象なのです。

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2016年10月26日 (水)

3145 似非環境経営2

似非環境経営には、何が不足して「似非」になっているのでしょうか。投稿者は、改善されたPDCAサイクルを提案しています。それは、APDCAとでも呼ぶべきサイクルです。PlanDoCheckActionの前に、新たなAAnalysis(分析)を加えるのです。野放図経営は、環境負荷を計測する事すら怠っていますが、環境経営に取り組んで先ず行うのが「負荷計測」なのですが、多くのケースでは計測した事に満足してしまい、そのデータの評価や分析が甘くなっているのです。

分析のためには、例えば1か月刻みの電力データでは、殆ど何も見えてきません。せいぜい夏・冬と春・秋の中間期で、冷暖房に係る電力に差があるのが分かる程度の分析しかできないのです。それでも何もデータが無いのに比べれば数段マシなのですが・・・。更なる分析のためには、1週間単位で、それも時間を追った分析が必要となるのです。それで何が見えるかと言えば、例えばピーク電力値が確認できます。電力料金の基本料金の元となる「契約電力量」とされるものと同じです。30分以上継続する最大電力が、そのまま契約電力量となりますのです、時間を追った分析では、週の曜日のどの時間帯にピーク電力が生ずるかが容易に分析可能なのです。もし、ピーク電力が、例えば朝一番とか、昼一番に生じているとすれば、それは設備の電源を同時にONにする事が原因となっている筈です。不必要は設備の電源投入時刻をずらす事により、労せずして基本料金を引き下げる事も容易なのです。契約電力1kw当たりでは1000円以上に相当するでしょうから、10kw引き下げれば、月々1万円の電気代が浮く勘定です。年間12万円も浮けば、古い蛍光灯や水銀灯を明るく省エネタイプのLED照明に更新する予算も楽に取れると言うものです。

省エネや工夫で浮いたお金を、新たな省エネ投資に回せば、これまでと同じ事業を続けていたとしても、自然に省エネ体質に近づくのです。これを、分かり易い言葉で「省エネサイクル」と呼びます。これを実現するためにも、最初に述べたAPDCAサイクルで、しっかりと分析をする必要があると言う訳です。更に続きます。

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2016年10月25日 (火)

3144 似非環境経営

環境経営の審査でささやかな収入を得ています。その中で感ずるのは、やはり有効なお金の使い方をしている企業が少ないと言う点でしょうか。環境経営にしっかり取り組めば、大幅な経費節減も可能なのに、多くの企業では「それなりの取組み」しか行っていないのです。それなりに、とは、環境経営と言いながら、せいぜい事務所の「紙・ゴミ・電気」減らし程度しか取り組んでいない、という意味です。もちろん、何もしないより「マシ」ではありますが、お金と時間を使って、ささやかにコピー用紙と一般ゴミと事務所の電灯の始末をしたところで、成果は知れているでしょう。

そうではなくて、企業の経費の大きな部分を占めている「環境負荷」に着目し、大きなところから取り組めば、当然の事ながら得られる成果も大きい筈なのです。営業車のガソリンや、冬場の暖房用の灯油など石油系燃料が、CO2排出の6割を占めている事業所が、割合としてはそれほどでもない事務所の電灯をLEDにしたところで、経費は殆ど下がらないでしょう。この場合は、徹底して「エコドライブ」を励行し、建物の断熱を見直して、冬あまり寒くない様に少しリフォームすれば、例えば石油燃料の2割の削減が達成できたと仮定すれば、全体でも10%以上の光熱費の削減が出来ると言う計算になります。要は、環境負荷の削減にチマチマした対策を積み重ねるのではなく、具体的で大きな手をしっかり打つ必要があるのです。

もちろん、単に省エネに取り組んで経費が下がれば、めでたしとはなりません。真の環境経営とは、常により環境負荷の製品やサービスの提供を指向する必然性があるのです。いわゆる、「本業部分での取組み」です。更に言えば、エネルギーや原材料のグリーン化を推進し、更に言えば取引先やステークホルダーに、環境上の好影響を与える事も重要な役割となります。ここまでやれば、当然の事ながら「世間」も黙ってはいないでしょう。環境企業としての評判も上がり、多分売り上げも伸びて行くでしょう。経費の圧縮は、ひいては企業の贅肉をそぎ落とし、筋肉質な経営も可能となるのです。続きます。

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2016年10月22日 (土)

3142 合従連衡

この国には、「寄らば大樹の・・・」という諺があり、結構広く「拠り所」にされている様な気がします。某自動車メーカーも同様でした。しかし、考えてみればデータのメイキングは、車を売らんがための姑息な手段の一つですが、その背景には若者のクルマ離れで、そもそもクルマの市場がシュリンクした事があった筈なのです。売れなくなった製品を売るには、値下げをするか、性能を良く見せてコスパをアピールするなど、メーカー/ディーラーの打つ手は限られてくるのでしょう。

冷静に考えるならば、シュリンクした市場に対しては、やはりいくつかのメーカーには「退場」願わなくてはならないと思うのです。もしそこに、この国の行動で陥りがちな人情を絡ませて進むならば、ますます「クルマ余り現象」が加速するだけになると思うのです。クルマ産業は、確かに20世紀を通じて、Fォード社の大量生産手法、それを洗練したTヨタ社の生産方式などで売値を大幅に低下=大衆化し、爆発的な普及を実現はしましたが、所詮「20世紀型の技術」である事実は変らないでしょう。それにハイブリッドの心臓を取り付けようが、バッテリーとモーターに挿げ替えようが、それを21世紀の乗り物に変える事は出来ないと思うのです。

その背景の中で、終わりかけた企業を合併により吸収するのは、やはり時代に逆行する動きにしか見えません。萎んだものは消え去るしかないと思うのです。そのリソースを新たな市場に振り向ければ良いだけです。作るもの、作らなければならないものは多く見つかるでしょう。このブログでも、縷々書き連ねてきましたが、21世紀の産業は「再生可能型」である必然があるでしょう。そうでなければ、資源・エネルギーの不足や廃棄物の始末という難題を子孫に背負わせる事になるからです。その意味で、クルマ産業は、如何にエネルギー源を、ガソリンから電気に変えようが、再生可能でないと言う一点で合格点を貰う事は出来ないのです。合従連衡で大樹の陰に寄り集まったとしても、産業の質を捻じ曲げる事は出来ない相談です。そうでなくて、萎んだ企業は立ち止まって、進むべき方向を模索すべきなのです。もちろん、吸収される企業の様に窮地陥ってから考えるのでは遅過ぎます。日頃から、将来の路線を考えておく必要はあります。さて、クルマ産業は、一体どちらの方向にハンドルを切るべきなのでしょう。

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2016年10月21日 (金)

3141 自動運転車?

自動車メーカーはもちろん、大手のソフトウェア企業に至るまで、2020年頃までに実用的な「自動運転車」を市場に出そうと熾烈な競争を繰り広げている様です。しかし、便利に、安全になると手放しでは喜べない話の様な気がします。というのも、投稿者としては全ての便利な自動化は、人間の能力を奪い「無力化」するのでは無いかと危惧しているからです。車を目的地に向けて運転するには、現在では頭の中にルートの地図を描き、ギヤやアクセルやハンドルやブレーキを操作して、車と自分を移動させる必要があります。この時、脳ミソを駆使し、腕や足の筋肉を微妙に動かしながら、対向車や歩行者にも注意を払いながら、しかも到着時間やさらには燃費なども気にしながら、パトカーや白バイにつかまらない程度のスピードで運転する訳です。

もしこれを、全部自動化したとすれば、ドライバー(もはや運転者ではないのですが)は、座席で腕組みをしてボンヤリと周りの景色を見るか、あるいはそれにも飽きて居眠りをするしかないでしょう。何という退屈な「ドライブ」でしょう。タクシーに乗客として乗っているのであれば、運賃を気にするとか、あるいは運転手を世間話をするとか、まだする事もありそうですが、ただ座席でする事もなく車に連れて行かれるドライブなど御免こうむりたい、と投稿者は思うのです。

もちろん、自動運転を可能にする技術自体にも心配の種は多いでしょう。機械やコンピュータは必ず故障するからです。部品の信頼性が十分に高くなったとしても、故障率をゼロにする事は出来ないでしょう。出荷時には完璧でも、経年変化や間違った使用法によりまでは防げないものです。それを回避するために、回路やコンピュータを二重に備えても、故障率は低くなるのでしょうが、やはりゼロにする事は出来ません。結局、どこまで行ってもドライバーや対向車や歩行者に犠牲を出さないためには、完全な自動運転車を実現することは出来ないのです。もし、自動運転システムの故障を、乗っているドライバーがバックアップするにしても、常時ハンドルを握って、前方や周囲に注意を払っていない限り、とっさの危険を回避する事は不可能である事は明らかです。ここまで書くと、一体何のための自動運転車かという大きな疑問が払拭できなくなります。結局、メーカー側の「先ずITIoTや自動化技術ありき」で突っ走っている風潮であるとしか思えなくなるのです。

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2016年10月20日 (木)

3140 住の重要性2

住まいの機能で最も大切なのは、やはり気象変化から住人を守る事でしょう。雨風から守る事は当然ですが、暑さ寒さあるいは湿度の影響からも守ってくれる機能が必要です。断熱性能や気密性能がその指標ですが、実は単に室内空気の温度管理だけでは不十分で、壁や窓や天井や床が、ほぼ同じ表面温度で、体を包み込む様に一様な「輻射温度」を実現することが最も重要な機能だと言えるのです。何故か、それは人間の皮膚にある暑さ(寒さ)センサーは、室内の構造体の表面温度の平均を輻射温度として認識するからです。

例えば、壁や天井が十分に暖かく保たれていたとしても、窓の保温性が貧弱で、かつ床下も寒風が吹き抜ける構造となっている場合、その家(部屋)に居る住人は、肌寒く感ずる筈なのです。窓、壁、天井や床が、ほぼ同じ輻射温度で統一されている場合には、例えば室内温度が15-17℃しかなくても、寒さは感じなくて済むでしょう。もちろん、その温度が10℃やそれ以下になると流石に寒さを感じますが、室内履きを使い、厚着をすれば、外が氷点下になる真冬を除けば、暖房もそれほど必要が無いと言えるのです。つまり、大切なのは「寒くない家」の構造であり、それは同時に「暑くない家」でもある訳です。

その意味で、日本の家屋で圧倒的に軽んじられているのは、窓と床下の保温だと言えそうです。単板のガラスの保温性は、非常に低く、冬の朝にびっしりと露を結んでいる様な窓は、全く話にならないレベルです。二重窓かあるいは、理想的にはアルゴンガスを封入したペアガラスが理想でしょう。加えて、基礎全体を保温材で覆って、床下を暖かく(夏は涼しく)保つ事により、冷暖房負荷は大きく引き下げられるのです。投稿者が終の棲家として構えた家は、その性能を狙ったつもりです。さて、その目論みの結果は?この冬を過ごしてみての感想は、追って報告する事に致しましょう。

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2016年10月19日 (水)

3139 住の重要性

住まいは、ヒトの生活の中心なのだ、と最近しみじみ感じます。何があっても、最後は逃げ込める「シェルター」があるという事は、ヒトの精神を安定させますし、取り敢えずは生きていく支えにもなるでしょう。住まいの要件は、暑さ寒さから身を守り、雨風を凌ぐものである必要がありますが、ヒトはその中で「自分の居場所」を確保して初めてココロが落ち着くのでしょう。それは、犬や猫などのケモノであっても、鳥や虫であっても事情は同じ事でしょう。自分の存在が肯定され、狭くても自分のスペースが確保されている「家」は、生きていくためのベースなのでしょう。

投稿者は、人生のある時期に中古の住宅を購入しましたが、やはりそこには「妥協」がありました。予算上の制約、自分が勤務していた企業への通勤距離、家族の状況などを勘案して、取り敢えずの住まいを確保した訳です。建売の安普請ながら、そこで子供達も成長し、それなりの役目を果たしてくれましたが、そこは「終の棲家」でありませんでした。そこで、還暦を過ぎてから生まれ故郷に単身でUターンし、アパート暮らしをしながら、ささやかでも生計を立てる道を模索しながら、同時に終の棲家を建てるための土地を探していたのでした。もちろん、連れ合いの意見も重要なので、何度か一緒に土地を見て回りましたが、なかなか決まりません。

ある日、アパートを出発していつもの散歩コースを、二人で歩いていた時、コースの道沿いで田圃を埋め立てて造成された土地が目に留まったのです。投稿者はあまり気が進みませんでしたが、連れ合いにとっては一目惚れだった様です。そこが、結局は終の棲家を建てるための土地になったのでした。続きます。

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2016年10月18日 (火)

3138 街路樹の伐採

老木となった街路樹の伐採が、果たして是か非かという議論が巻き起こっている様です。元々街路樹は、直線的で殺風景な舗装道路沿いに、夏には日陰も作る見た目に涼しげな照葉樹を植えて、景観を良くしようと植えられたものです。しかしながら、根の周りをコンクリートで固められた樹木は、根張りも浅く、結構な太さに成長してからも強風で倒れる事も多いのです。もちろん、古い時代に植えられて、しっかり管理されていた街路樹は、ちゃんと根を張って、立派な大木に成長している例もあるのでしょう。道路の拡幅や、改良のためにその様な立派な木を伐り倒して良いのかどうかは議論の分かれるところではあるのでしょうが、一方では樹木の「寿命」を考えて、着実に更新していく、という考え方も重要な視点だと思うのです。

つまりは、短期的な都合主義による単なる整理・伐採ではなく、樹木の代替わりを計画的に行っていく、という考え方です。これは山の人工林でも同じ事が言え、更新もせず、下草刈りや枝払いなどの管理が行われてこなかった森林は、もはやCO2の吸収能力を失い、ただ山を緑色に見せているだけのカバーに過ぎない存在に陥るのです。その様な人工林は、台風が豪雨を伴って襲来した際には、バタバタと倒れ、流木となって下流の里を襲うのです。

話を都市の街路樹に戻すと、大木だけの並木も確かに美しいのですが、大木と若木が交互に並び、更新・管理が計画的にかつ適切に行われている並木もまた美しいと思うのです。一気に全部を伐採し、全部を若木に植え替えるのでなく、老木も残しながら時間を掛けて更新していく選択肢は見つからないものか、と樹木には殆ど知識の無い投稿者は考え込んでしまいました。

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2016年10月15日 (土)

3137 同根

五輪のゴタゴタと、豊洲新市場のもめ事は同根でしょう。その根には、いわゆるゼネコンとその利権に群がる輩が見え隠れしている様な気がします。当初の予算が、談合を前提としているがために、見積と提案が繰り返される度に膨らんでいく謎。それを、見かけ上少しばかり削るため、水面下のコストダウン対策(手抜き?)と、それによって浮いた裏金に更に群がる輩、これは実はこの国の日常茶飯事だと言っても間違いないでしょう。政治家と企業の裏金と、それを飲み込んで動く行政、という税金を食い物にした公共事業の例には歴史を遡ってみれば枚挙に暇がないでしょう。それは、「利権屋」の暗躍する世界でもあるでしょう。

しかし、これを根こそぎ白日の下に晒せば、この国の土台がグラグラに揺さぶれらる事もまた間違いありません。何故なら、それがこの国では通常のプラクティスであり、政治、業界、行政(つまりはマツリゴト)の常識だからです。その常識が覆れば、プラクティスも瓦解せざるを得ないからです。

さて、そこにオットリ刀で切り込んだ新知事は、どの様に鞘に納めるつもりなのか、あるいは単に議員や行政マンにかましたハッタリなのか、今後も少しばかり注目する事にしましょう。しかし、この国の産官と政治「屋」の関係は、多分当面変る事は無さそうです。という事は、やはり税金を食い物にする輩は減らないと言う事にもなります。五輪や市場がパリッと新しい施設で表面上はきれいになったとしても、その根っこの部分はちっとも変わらないのでしょう。残念ながら。以上一庶民の愚痴でした。

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2016年10月14日 (金)

3136 電気自動車社会?

ドイツでは2030年以降、内燃機関を積んだ車を作らせない法案が可決された様です。流石に環境先進国と言いたいところですが、かといってエンジン付きの車を作らせない事で、温暖化問題や環境問題の全てが解決する訳ではない事は自明です。クリーンと言われる電力を作るにも間接的には温暖化ガスは出るでしょうし、事故を起こせば危険な物質や液体がまき散らされるバッテリーを積んだ乗り物が街にあふれる訳ですし、その他にもモーターの製造に欠かせない希土類の争奪合戦など、資源問題が過激化する可能性も高いのです。電気(自動車)社会は、むしろエネルギー問題を覆い隠して、人々に問題を見せない様にする社会であるとも言えるのです。

確かに内燃機関は、燃料を「燃やす」ので、空気中の酸素を消費し、その結果としての排気ガスを出しますので、時々何らかの理由で、排気ガスが車内に入り込んで起る不幸な一酸化炭素中毒事故でも分かる様に、ヒトにとって、環境にとって害にはなるでしょう。その代り、その害を目や五感に訴えかける形で提起もしているのです。大気汚染、酸性雨、悪臭、呼吸器の病気、植物の被害などなど、内燃機関の害は目に見えるし感ずる事も可能なのです。しかしながら、遠くの発電所が発生するより大規模な害は、人々の目には触れない形で、しかし確実に拡大するのです。

人々が便利中毒から抜け出す事は、実は非常に難しい事である事は、歴史が証明しているところでもあります。公害問題が発生しても、かなり深刻な事態にならない限り、つまりは直接の被害者を生まない限り、人々は便利な化学物質を作り、化石燃料を燃やし続ける便利生活を止める事が出来ません。それが、更に便利な電気社会になっても事情はあまり変わらないでしょう。投稿者は、このブログでも縷々考え続けて居ますが、まだ明確な答えは出ていません。取り敢えずは率先垂範で、自宅にバイオマス+太陽熱のハイブリッド暖房・給湯システムを付けて、データを取ってみようと思っています。またゆくゆくは、小規模な太陽光発電+蓄電池も加えて、セミオフグリッドも実現するつもりです。

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2016年10月13日 (木)

3135 大規模停電

大規模インフラは、大規模なトラブルを招きます。電力網は、大規模インフラの代表と言っても良いでしょう。何しろ、日本をたった10個のブロックに分けたインフラである上、電力の融通ブリッジも二種類の周波数の混在によって、決して十分とは言えない状態では、ピーク電力時や発電所・変電所の事故による送電停止時には、今回の様な大規模停電の覚悟しなければならない状況ではあります。

確かに、電力自由化によって、小・中規模の発電事業者も増えては来ましたが、如何せんその電力を送るのは、大手電力会社の送電線網しかないのです。かつて、(戦前話ですが)日本の発電事業者は地方ごとに細かく分かれていたのです。それは、大規模な発電所や送電線網が無かった時代には致し方ない事だったでしょう。多くはローカルな水力発電所が、その能力の範囲内の事業者や家庭に送電するのが精一杯だったからです。もちろん、小規模システムでは大規模な停電などは起きませんが、その代わり小規模な停電の頻度は高かったでしょう。とは言いながら、停電による影響は精々工場の動力源であるモーターが停止し、家庭では電灯が消える程度に留まっていた筈です。

しかし、この時代、停電は生命にも関わる重大事故につながり兼ねないのも事実です。例えば、鉄道などの交通インフラ、通信インフラ、エレベータやエスカレータ、その他安全システムの多くは「電力」に支えられているからです。電力自由化の時代であるからこそ、私たちは電力の安定供給に更に注力するか、あるいは需要家側で蓄電システムによるバックアップなどの自衛策が必要となるでしょう。長期的視点に立てば、私たちは「脱電力」に向けての社会システムも模索して行かなければならないのも間違いありません。

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2016年10月12日 (水)

3134 投稿再開(引っ越し騒動)

新居に入って数日経過したので、引っ越し騒ぎもやや一段落し、やっと投稿再開です。引っ越しは、特に一戸建ての場合は一大イベントになってしまいます。家財道具一切の移動はもちろん、引っ越しに伴う役所、銀行、郵便局などに関する「諸手続き」が山ほど発生します。加えて、各種サービスの停止や引っ越し先での開始など、チェックリストを見る度に頭痛がするほどでした。更には、長年住み慣れた家のご近所さんや知り合いへの挨拶、新たに住人になる場所での近隣や親戚一同への挨拶などなど、なかなか落ち着いて引っ越し荷物の開梱や整理に当てる時間が取れません。

以上は、引っ越し作業や手続きの煩雑さへの愚痴ですが、それより問題なのは、記憶が不連続になってしまう事です。雑事に関することなら問題ないのですが、仕事がらみともなるとそうはいきません。場合によっては、引っ越し後に重要な書類が埋もれてしまっている可能性もあるのです。つまり「整理」と「積み重ね」は、似ている様で全く逆の行動になりがちなのです。特に書類の場合は、積み重ねによって、必要な書類が見つからなくなる事も多いのです。場所さえ広ければ、書類は横に広げて並べておきたいところです。そうではないコンパクトな家では、行方不明になった書類の捜索に結構時間が掛かってしまいます。それを防ぐには、引っ越し先での荷物の落ち着き先(所番地)を決めて、必ずそこに置く様にすることですが、それも後知恵です。この先引っ越しの予定の無い「終の棲家」の積りの家なので、このバタバタが過ぎると静かな生活に入れる、と期待しています。今日は短め。

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2016年9月29日 (木)

3133 休稿

今日は、完成した自宅の正式な引渡し日で、取り敢えずはアパートに置いている事務所の引っ越しをするため、夕方までバタバタでオフラインとなり休稿です。来週も、今度は家族の引っ越しのため、引き続きの休稿となるやも知れません。

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2016年9月28日 (水)

3132 休題(自宅完成2)

建物が完成しましたが、自宅のボイラ小屋へバイオマスボイラを設置するのは多分年末の二期工事となります。取り敢えずDIYによるガス給湯器の取り付けが完了しましたので、お湯が使える様になり、住むための準備は完了。後は、単身住まいのアパートからの簡単な引っ越しが残るだけですが、ボイラ室の作業でぐったり疲れました。もちろん達成感はありますが・・・。とはいうものの、新しく家を構えると、役所の手続きやら、電話工事の依頼やら、まだまだやるべき事が山ほど残っている様です。なので、今日もブログ投稿もそこそこに、あちこち走り回ります。

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2016年9月27日 (火)

3131 休題(自宅完成)

6月初めに着工していた自宅がついに完成。役所の検査が数件続くため、引渡しは明後日ですが、太陽熱とバイオマスを使った暖房・給湯システムは、システム全体の面倒を見てくれる業者が居なかったのと、予算を節約するため、DIYで行く事しました。太陽熱温水器とバイオマスボイラを、自分で調達し、自分の責任で勝手に結合して一つのシステムにします。その過程はFBでも公開していますが、取り敢えず住めるようにする1期工事がまだ残っているので、今日の投稿はここまで。https://www.facebook.com/yutaka.hatanaka.73

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2016年9月26日 (月)

3130 安全率(SF)

元技術屋としては、時々「安全率(Safety Factor)」が気になる事があります。中でも、安全率が十分には取れない航空機は、長年その業界でサラリーを貰っていた身としては、特に気になる分野でもあります。今日も、何やら旅客機の片方のエンジンが停止して、片肺飛行で空港に引き返したとか。数日前には、米軍の戦闘機の墜落事故の報道もあり、やはり耳をそばだててしまいます。航空機の安全率が低いのは当然の事で、もし航空機のそれを陸上の機械並みに大きく取れば、きっと重過ぎて、乗客を殆ど乗せる事が出来ない旅客機や装備を殆ど積めない戦闘機や爆撃機になってしまうことでしょう。

そうならないためには、安全率は極限までそぎ落とす必要がある訳です。もちろん、そうするためには単なる机上の(今はコンピュータ上か)の計算だけでは不十分で、必ず実体での破壊試験や疲労試験が義務づけられてもいるのです。例えば、旅客機の翼に実際に荷重を掛けて、具体的には翼を吊り上げて「万歳状態」にして、翼の付け根がどのくらいの荷重で折れてしまうかを試験するのです。疲労強度も万回単位に上る旅客機の離着陸を想定し、実際に翼に上下の繰り返し荷重を掛けるのです。離陸時は上向きの揚力を受け、着陸後は翼はその中にたっぷり積み込まれている燃料の重さで下に垂れてしまうからです。そして実際に疲労破壊を起こすまで、繰り返し荷重を掛ける事になります。

しかし、決してそれで安心できる訳ではありません。実際の航空機の運航には、予期せぬ天候などによる突発事態も起こるからです。例えば、ウインドシェアやダウンバーストあるいは上空の乱気流による衝撃荷重、あるいは気象やパイロットミスによるハードランディングも頻繁に起こりうる衝撃荷重の例となります。当然の事ながら、その衝撃荷重は、強い慣性力で回転しているエンジンのタービンにも影響を与えずには居ないでしょう。例えば、軸受への衝撃荷重や、タービン翼への強い振動などが考えられます。その様な履歴を持った航空機が、何千機も日夜の区別なく世界中を飛び回っているのです。考えてみれば、怖い話ではあります。今程度の低い事故率で運行出来ているという状況は、実は奇跡的なのだと言うしかないでしょう。飛行機は、出来れば乗りたくない乗り物の一つです。

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2016年9月25日 (日)

3129 卵かニワトリか

日曜毎の政党間の議論番組にはイライラします。毎回、先ず景気刺激ありきか、それとも財政再建が先か、と言った不毛の議論が延々と繰り返されるからです。借金を重ねてでも、景気を要して、結果税収も増えるとする与党と、それは借金の先送りで将来世代が苦しむ悪政だとする反対野党のせめぎ合いです。これは、まさに卵が先かニワトリが先かという循環論そのものだと言えるでしょう。似たような循環論で何時も忘れらているのは、実は理念だと思うのです。結局、この国をどういった方向に持ってくのか、その基本理念が不在なのです。

景気は何のために良くしなければならないのか、そのためにはどういった手を組み合わせて打っていくのか、その過程で国民には一体どの様な努力(あるいは我慢)を期待しているのか、そこがスッポリ抜け落ちているのです。普通の国民であれば誰しもも、景気が良くなって、税収が増え、インフラや福祉がさらに充実する、と言われれば何となくその気になるでしょう。それが、何となくの現政権の高い支持率につながっているのでしょう。

各政党には、是非「この国のあるべき姿」で、し烈な議論を重ねて貰いたいものです。経済規模など、別に人口に見合ったサイズで十分でしょう。かつてのバブル時代、泡と膨らんだ不動産価値で国の資産価値を評価したところで、それが弾けると結局元の木阿弥に戻った経験を忘れてしまったとでも言うのでしょうか。

ましてや、海外からの大型客船が着岸できる様に、地方港湾の整備に何兆円だかを投ずるなどという、無茶苦茶な計画を聞くに至っては呆れるしかありません。今の、海外からの旅行ブームは円安期のバブル現象であると何故誰も言い出さないのでしょう。円高に傾いて、日本観光が割高なものになってしまえば、ガランとした地方空港同様「閑古鳥」が、声高に啼く事でしょう。日に数便しか飛行機が離着陸しない地方空港の建設国債は、立派な借金であり、税金の塊です。その見込み違いの責任を誰が取ると言うのでしょう。何やら、愚痴のオンパレードになってしまいました。たぶん建設的な提案の稿に続きます。

 

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2016年9月24日 (土)

3128 地震の季節?

何やら関東沖での「ナマズ」の動きが不穏です。考えてみれば、太平洋プレートが西方向に動いた3.11震災後、少なくともそれに接するフィリピン海プレートとの間に大きな歪が溜まっている事は間違いないでしょう。特に、大陸側のプレートである北アメリカプレートと、太平洋プレート、フィリピン海プレートの三者が接する「Y字三叉路」は、最も危険で、かつ地震の予測が難しい地点でもあるのでしょう。つまり、A:Bの関係を解析するのは比較的容易でも、A:B:Cの三者がどう動くかは、人間関係でも特に「三角関係」と言われるほど微妙なバランスの問題でもある訳です。大陸プレートの三角関係を、国土のすぐ近くに抱え、かつ国土の西半分がユーラシアプレートに載っている日本は、実はもっと複雑な「四角関係?」にあると言え、地震発生という点から見ると、世界的に見ても、稀に見る困った場所にある国だとも言えそうです。

3.11の様にあるプレート間で起こる大地震や断層で起こる地震は、互いに相関しながら比較的短い期間(例えば数年~10年程度)で、連続して起こる傾向があります。ある場所地震が起こって歪が解放されても、地殻が連続している事実を考えるならば、他の場所で解放されたのと同程度の歪が移動して蓄積されたと考えるのが自然だからです。思い浮かぶ歴史上の地震でも、例えば秀吉の時代に起こった「天正地震」と「伏見地震」は、互いに接した地域で10年ほどの間に連続して発生しているのです。

3.11から5年半経過した現時点ですが、追い打ちを掛ける大地震の発生に、心掛けだけでも備えておく必要がありそうです。以上は、今朝起きた時に感じた「胸騒ぎ」ですが、杞憂に終わればと思う一方、プレート間に溜まっているであろう歪を想像するにつけ、近い将来の再度の大地震は不可避なのだ、と覚悟を決めるしかないのかも知れません。

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2016年9月23日 (金)

3127 PBL

PBLとは、Project Based Learning、つまりは学生が実際のプロジェクトの課題を解決しながら学びを進める事をさす言葉です。それで何が良いかですが、何より「問題解決能力」が磨かれる事が挙げられます。全ての学問は、何らかの問題を解決するために存在する、と言ったらやや言い過ぎにはなるでしょうが、自然科学にせよ、哲学などの人文科学にせよ、あるいは環境学にせよ、やはり何らかの課題を抱えて進んできたと思うのです。それが、純粋に自然の謎であっても、人間社会の問題であっても、あるいは人間のココロや体の問題であっても、それらを解決するためにこそ学問が編まれてきた筈なのです。

学問のための学問、ましてや大学入試のためや、企業が人材を選別するために、ヒトをランク付けすることが目的の学問であってはならないでしょう。であるならば、PBLが教育現場でもっと重視されるべきだと思うのです。PBLで問題解決能力を向上させた上で社会に送り出された学生は、いわゆる「即戦力」そのものでしょう。何しろ、行政にせよ、企業にせよ、引き続き学問を究めるにせよ、問題は山積しているからです。山積どころか、問題は日々積み重なって、ますます巨大な山塊になりつつあると言えるかも知れません。

さて、学生にどんな課題を解決して貰いましょうか。もちろん、より大きな社会問題にガップリ取り組んで欲しいのですが、学生だからと言って、それが出来ない訳ではありません。大きな問題でも、問題を小分けに切り分けるか、あるいは大きな問題でも「部分的解決」を狙えば良いのです。例えば、少子高齢化問題と漠然と考えないで、大学周辺の限られた地域を一つのサンプルとして取り上げれば良いでしょう。また、エネルギー問題などと大上段に振りかぶらないで、例えば大学や家庭の「熱需要」に切り分け、電力を熱や冷熱として使っている割合を調べて、それを再生可能エネルギーで代替する、と言った課題に取り組めば、社会全体の敷衍できる可能性があるでしょう。具体的な課題とその取組み方については、稿を改めて取り上げることとします。

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2016年9月22日 (木)

3126 「先ず科学技術ありき」ではない

批判のための批判は書かないと決めたブログなので、以下はあくまで「指摘」に留める事としましょう。お国は、何やら「高速増殖炉」を廃炉にして、原発政策の方向を切り替えるのだとか。まあ、これは1兆円の勉強代を払って得た結論なので、お金の無駄使い問題は別にして、是としましょう。しかし、新たな政策の方向が「高速炉」なのだとか。これは、政策転換と言いながら、何か言葉の言い直しだけの様で納得できません。というのも、両者は基本的には同じモノだからです。原発は止めるが、核分裂炉による発電は続ける、と言っている事と何も変わりません。

ましてや、高速増殖炉は核技術の伝承のために必要であり、そのために「もんじゅ」の存続は不可欠だ、などとノタマウ文科省や科学者の合唱には、呆れるしかないでしょう。これは、完全に目的と手段の逆転の典型例と指摘するしかないのです。そもそも、高速増殖炉は、通常原発で増え続ける核廃棄物、取り分けアブナイ「プルトニウム」の処理のための手段として開発された筈です。出来たプルトニウムを再度燃料として燃やし、結果として分裂性の核種を投入量以上に増殖させる、という夢の(というより虫の良い)科学者の言い分を真に受けた、失敗作がもんじゅだったと切り捨てるしかありません

真の目的は、化石エネルギーに頼らない「安全」なエネルギー源の確保だった筈です。その手段の一つに過ぎなかった高速増殖炉が、上手く行かない事が明白になってからも、それに関わるステークホルダー(官、学、民)が無理やり維持してきたシロモノがもんじゅだった訳です。手段の一つに過ぎないと言う証拠は、もんじゅ維持の一方で、核融合というこれも「夢のまた夢の技術」の追求を、もう半世紀以上も続けていることを挙げるだけで十分でしょう。先端的な科学技術ありきではないのです。私たちは、真の目的に立ち返るべきなのです。その際「安全な」という冠詞は絶対に外してはならないでしょう。アブナイ核種を閉じ込める核分裂も、地上に太陽を閉じ込める核融合も、この冠詞を外してしまったアブナイ科学技術の代表だと言うしかありません。

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2016年9月21日 (水)

3125 絶対的湿度

このテーマは、環境屋としては特に気になるので、繰り返し考えています。通常気象用語で「湿度」という場合は、暗黙のうちに「相対湿度」を指しています。つまり、ある温度での飽和蒸気状態を100%湿度と定義し、その実際の蒸気量を百分率で表現する訳です。しかしながら、最近の降雨の状況を眺めるに、投稿者は最早この定義では説明できないのではないかと疑っています。もしかすると、湿度100%を超えて、過飽和状態になった大気が、一気に水分を放出しているのでないか、と疑われるのです。

過飽和という、通常ではあまり見られない現象は、もちろん条件が整えば、観察できる場合もあります。飛行機雲は、過飽和状態にある高空の大気が、航空機が作る渦(タービュランス)によって、急激に凝縮し雲を作るという現象なのですが、晴れて放射冷却によって上空の大気が冷やされた日に多く観察されています。しかし、熱帯性の低気圧や台風の場合は、別のメカニズムで過飽和蒸気を抱えながら北上してくる様なのです。通常の場合は、水蒸気が凝縮して降雨となる場合は、気化潜熱が凝縮によって放出されるため、発熱現象になるのですが、一方で高い温度の海面から、水蒸気が大量に供給される結果、昇温と水蒸気供給の循環により、結果としてかなりの過飽和状態になっている事が推定できそうです。

過飽和状態の低気圧や台風が、陸地に接近すると、陸上には人間の活動から生れる微粒子(エアロゾル)がありますし、地形の影響から生れるタービュランスによって、過飽和状態の大気から一気に雨滴が凝縮する、いわゆる集中豪雨、更には記録的短時間豪雨となるのではないか、と推定しているのです。これが正しいかどうかは、専門家の詳しい研究を待たなければなりませんが、いずれにしても私たちは、かつての異常気象が通常の気象となりつつある「異常状態」に、ますます注目して行く必要がありそうです。その場合のキーワードが、過飽和状態もカバーする絶対湿度だと思うのです。

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2016年9月20日 (火)

3124 汚いエネルギー

これは、言わずもがなですが、原子力エネルギーの別の呼び方です。元々、開発の動機が不純でもあります。原子炉は、当初半年間も浮上しないで動き回れる原子力潜水艦の動力源として開発されたのでした。一方で、陸上の発電所、いわゆる原発は、使用済み燃料棒から、プルトニウムという原爆の材料を取り出す事も主要な目的として数多く建設されたのでした。その結果、何が起こったかと言えば、全部で7000発とも8000発とも言われる、大気圏や地下での原爆実験だったのです。1960年代、地球上の放射能レベルは、歴史上最大値を記録したのでした。

さて、原発です。核分裂の結果、原子炉から放出される、種々の危険な「核種」を遮蔽するために、ジルコニウム合金のシース(鞘)、その周りの水、更に厚さ100㎜前後の鉄製の圧力容器、これらは更に厚さ数メートルにも及ぶコンクリート製の格納容器に納められているのです。これだけ、厳重に遮蔽されているのは、核分裂が如何に汚い反応であるかの証左と言えるでしょう。だからこそ、原発の所在する自治体では、いざという事態を想定して「避難シナリオ」を準備し、訓練を重ねる必要も出てくる訳です。原発の本家本元のB国でさえ、十分安全な避難シナリオが立てれないと言う理由で一部の原発が廃炉に追い込まれていると言うのに、はるかに狭い国土に50基前後の原発がひしめきあっていて、しかも地震大国であるこの国では、相次いでの原発再稼働が予定されているのです。

最早何をかいわんやです。私たちは、一日も早く原発を放棄して、廃炉作業を加速すべきなのです。原発を放棄すれば、それを補うための再生可能エネルギー産業が必要となり、新たな需要や産業=雇用が拡大する筈なのです。誰が一体、頭の固い原発主義者の頭に冷水を浴びせるか、あるいは鉄槌を下してくれるのでしょうか。福一の過酷事故だけでは学習が足りなかったとでも言うのでしょうか。景気刺激より先ずは、安寧な暮らしを優先すべきである事を何故言い続けないのでしょうか。3.11から5年半過ぎました。この国の人々は、75日も過ぎれば怒りを忘れ、750日?(数年)も過ぎれば、辛さも痛みも完全に忘れてしまう性向がありそうです。残念ですが・・・。

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2016年9月19日 (月)

3123 VPP2

続きです。VPPがエネルギー問題のベストソリューションという訳ではありません。それどころか、これは単なるピークカット手段の一つに過ぎないと考えるしかありません。というのも、VPPの前提が、「エネルギー問題=電力供給問題」になっているからです。ボルタやエジソンや、日本の電力網を築いた先人は確かに偉大ではありますが、一方では私たちは知らず知らずの間に「電気中毒」という病に冒され続けてきたと思うからです。電気中毒とは、全ての機器を電力エネルギーを動かし、熱を作り、IoTで通信を行わせ、自動で快適な暮らしが最上だと思い込む病を指します。別名「便利中毒」とも呼べる病でもあります。私たちは、ついに自動運転の車まで実用化しようとしているではありませんか。

自動運転の電車ならまだ理解できます。実際、この国で殆どの電車はATCでコントロールされており、運転士のミスを自動でカバーしてくれる様になっています。もちろん、カーブでの過大な速度まで完全に補正してくれるまでにはまだ時間は掛かりますが、少なくとも衝突や追突の心配はないでしょう。しかし、車は違います。1台の車が、どの様な角度でハンドルを切るか、あるいは道路の状況に応じて、その様な速度で走るかは、実は無限大の選択肢がある筈です。それを、どの様なカメラで、あるいはセンサーで検知、その情報をどの様に処理して、車の運転をコントロールするかを、ただ1台のコンピュータに任せるのは余りにも「危険な賭け」というしかありません。電気自動車の動力は電力です。ガソリン車のメリットは、と言えば、それは運転者が意識を失ってアクセルから足を離したら、車は自動減速を始めると言う点でしょうか。しかし、自動運転の電気自動車のコンピュータが暴走した場合にはその限りではないでしょう。

私たちの正しい選択肢は、多分エネルギーの多様化だと思うのです。エアコンをガンガン使って、その結果ピークが立ってしまった電力の供給を心配するのではなく、例えば「デシカント(除湿)冷房」や太陽熱なども利用して、電力を可能な限り使わないアプローチを探すべきなのです。投稿者は、今自分の家を使って、その実験を行うべく準備中です。その結果については、このブログでも折に触れて紹介していく事といたします。

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2016年9月18日 (日)

3122 VPP

VPPとは、Virtual Power Plant(仮想発電所)の略ですが、つまりは蓄電池などで深夜電力を蓄えておき、日中のピーク電力時にそれを放出して、発電所の発電能力を抑制しようというもので、ピーク電力が小さくなる分発電所投資が抑えられるので、原発の縮小政策にとっても追い風となる良い方向だと言えるでしょう。とは言いながら、それを大規模なものとして、例えば発電所に併設するか、あるいは中規模のものを変電所レベルにおくか、あるいは完全に分散化して各事業所や各住宅に設置するのかは、重要な問題だと思うのです。

先ず課題をどうとらえるかですが、それが真夏の日中に立つ冷房負荷を中心とした数時間のピークに対処するものであれば、例えば車のバッテリーに毛の生えた様な小型の蓄電システムで十分でしょうから、投資は最小限で済むでしょう。各戸にバッテリーとインバータがセットになったものを配置すれば良いので、比較的簡単にピークカットが出来そうです。しかし、更に踏み込んで、昼と夜の負荷を均して平準化を図ろうと目論む場合には、バッテリー容量は、電気自動車に近いものとする必要があるので、投資額は一桁大きくなりそうです。

もちろん、そんな面倒な事をしないで、もっと規模の大きな蓄電システムを電力会社の投資によって建設すれば良い、と考える人も居るでしょう。いずれにしても、投資を負担するのは消費者自身であることには変わりないので、自分で投資するか、あるいは電力料金としてそのコストを「分割して」負担するかの問題となるでしょう。とは言いながら、小規模分散システムの方が、実際に消費家が電力会社から買う電力量を減らせる訳で、いわば根本的な手段に近いとも言える訳です。もちろん、これに小規模な分散型太陽光発電を組み合わせるのがベストである事は言うまでもありません。続きます。

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2016年9月17日 (土)

3121 技術慣性

慣性という言葉は元来物理用語です。もちろん、そうでない社会現象などでも喩えとして用いられる事はありますが、ここでは特に「巨大技術」について考えてみます。そもそも、巨大技術とはナショプロに俎上する様な大規模な技術を指しますが、具体的な例としては、核融合技術、宇宙ステーションとその関連プロジェクト、高速増殖炉、かつての一連の発電用原子炉実用化技術、核燃料サイクルなどなどが挙げられます。そこに共通する要素として、多額の国費の投入という事実があるでしょう。つまりは、国策プロジェクトである訳です。人間は、多額のお金を注ぎ込むと、それが惜しくなってくる様です。例えば、高速増殖炉には、1兆円を超える国費が費やされたと言われていますが、多くのトラブルを抱えながらも「廃炉」の決断が出来なかったのは、お金の慣性が強かったに違いありません。

この国には、似たようなナショプロも多かった様に振り返っています。投稿者が思い出すだけでも、まず原子力船「むつ」が挙げられます。原子力潜水艦が存在しながら、その原子炉を載せた商船が実現できなかったのは、技術的には実現可能ではあっても、その船が着岸できる港が無かったからに他なりません。港のある地域の住民が、原子力船の入港を忌避するのです。同様のリアクションは、米国の原子力空母や原潜に対しても示されたのでした。では、人工の太陽を目指す、核融合炉はどうでしょうか。これは、技術的な困難のために数十年にも亘って、巨額の国費を注ぎ込みながら、未だ慣性の目途は立って居ない様ですが、これも今更中止すると言う選択肢は、考えられない話なのでしょう。リニア新幹線は、無理やり感はありますが、どうやら実現に向かっている様で、宮崎の実験線、山梨の実験線や実験に投じた税金が無駄になるのは避けられそうですが、これは路線のインフラは巨額に上るのでしょう、車両自体の価格は航空機とあまり変わらないのが幸いしたのでしょう。

結局、技術的な慣性とは、そのプロジェクトに注ぎ込まれた税金の多寡によると言えそうです。1億円や2億円のプロジェクトであれば、見込が立たなければ中止するのも容易ですが、数百億や兆円という単位になると、そのプロジェクトに関わっている役人や従事者の「生活」も掛かってくる訳で、急には止まれなくなる訳です。それは、車は数十メートル停止できるでしょうが、列車であれば数百メートル、大型船に至っては1㎞ほども、その慣性による空走距離が必要となるのと似ています。

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2016年9月16日 (金)

3120 豊洲雑感

東京BSの展示会などを冷やかす時には、時々東京駅から銀座、築地を経由して、今話題の新しい豊洲市場の横を通って、7-8㎞ほどを歩きます。豊洲は、隅田川の河口の浅瀬を埋め立てた「埋立地」であることは、そこを歩いてみればすぐ分かります。埋立地には、先ずは岸壁を築き、そこに浅瀬を浚渫した砂や砕石を入れ更に山を削った山土で覆って、埋立地が出来上がります。新豊洲市場の不運は、そこが石炭ガス工場の跡地だったという事でしょう。石炭ガスを作る過程では、種々の(有害な)副産物も出た事でしょう。それを利用した化学物質も作られた筈です。かつて、ルール地方には巨大な石炭産業が存在しましたが、その跡地は土壌汚染のため、多くが再利用されないままに放置されている光景を見たことがありました。

そうです。土壌汚染の回復は、非常にコストの掛かる作業なのです。覆土工事は最も単純ですが、その土砂を何処から掘り出して、それをどうやって運搬するかはコスト上の大問題です。その他に、地下に大電流を流して、有害な化学(有機)物質を短時間で分解してしまう方法もありますが、この方法で重金属類も除去できる訳ではありません。コンクリート箱作戦は、その意味では、空洞の部分の土砂の運び込みが節約できるというグッドアイデアではあった訳ですが、ベストソリューションという訳ではありません。というのも、コンクリートと言えども、通常は完全な水密、気密材料ではないので、地下水も、気化した化学物質もある程度は透過してしまう訳です。もちろん、緻密で水密を確保できるコンクリートも存在はしますが、当然の事ながらそのコストは、数倍に跳ね上がることでしょう。

結局、コンクリート箱作戦は、セカンドベストではあると言えるのでしょうが、それが密室で決定された事に何か(政治的)胡散臭さを感じずにはいられないのです。今の広報で、完全覆土に比べてどれほどのコストが節約できて、その分をコンクリート箱にした事によって、誰が得をしたのか、豊洲市場が安全に使えるかの検証と同時に、密室での暗躍や決定にもグサリとメスを入れる必要がありそうです。

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2016年9月15日 (木)

3119 ErP(環境設計指令)

EUは、地域全体に波及すべきルールとして、多くの指令(プロトコル)を発しています。環境関連だけに絞っても、製品に含まれる有害物の排除(RoHS=例えば鉛ハンダなどの禁止)はもちろん、化学物質の使用制限に関するもの(REACH)、家電や車や容器のリサイクルに関するもの(WEEEELVなど)、省エネに関するもの、生物多様性の保護に関するものなど枚挙に暇がありません。その背景には、危険なものや人体や環境に有害なものは、EU地域に入れない、持ち込ませないと言う「大原則」があると思うのです。

ErPは、その中では新しいプロトコルで、初期に作られたプロトコルの多くが、規制を目的とするものであったのに対し、新しいプロトコルは、いわゆる将来に向けた「指針」になりつつあるのは、日本における公害と、公害関連の法制のイタチゴッコの歴史にも通ずるものがあります。つまり、環境悪化などの問題が起きて、慌ててそれを防ぐための「規制法」が作られるという時期があって、その後は徐々に産業や消費者を望ましい方向に誘導するための「指針法」、例えば○○基本法と言った名称の法律が整備されてくる訳です。

さてErPです。これは、製品を作るための原材料調達に関わる環境負荷を始め、製品の使用に関わる環境負荷(例えば省エネ性能)、使用中の保守性や使用後のリサイクル性まで、いわゆる製品の揺り篭から墓場までに、「環境負荷の低減」や環境の持続可能性への配慮をした設計を求めるもので、現在の完成度は別にして、製造業全体を規制する究極の指針法とも言えるものと言えるでしょう。残念ながら、この国にはこの様なプロトコルを作る機運も、社会的背景も見られません。言葉だけですが、この国が世界に冠たる「環境先進国」であるという「間違った思い込み」が、方向を誤らせている様に思うのです。続きます。

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2016年9月14日 (水)

3118 CE(循環経済)

アルファベットの略語が続きます。CEとはサーキュラーエコノミー(循環経済)の略です。この国でも、リサイクルの美名のもと、金属やPETや紙などが、マテリアルリサイクルのルートに乗せられて、循環しています。循環というのは少し言い過ぎで、PET以外の殆どのプラスチックは、異なった種類の材料が混入するため、完全な原料に戻す事は出来ず、プラスチック混合物として、例えばプラスチックパレットやプラチックコンテナなどとして、一方通行のリサイクルルートに流れているのが現状なのです。

プラチック製品や容器には、確かにPEPPPSなどとプラスチックの種類は明記されてはいますが、PET以外のプラスチックには着色のための顔料や、成型を容易にするための可塑剤などが、特に決められたルールもなく混入されています。これが、容器やプラスチック製品を純粋な原料に戻す事を阻害している訳です。

さて、CEを推進しているのは、やはり環境先進地のEUです。EUCEで重視しているのは、「耐久性」、「修理可能性」、「リサイクル可能性」ですが、その前提として、環境配慮設計(エコデザイン=ErP)があるのは言うまでもありません。ErPについては稿を改めます。加えて、リサイクル率を高めるため製品を構成する部品個々に、材料の表示を義務付けているのです。その上で、リサイクルに関して、初等教育の段階で子供達にリサイクルの必要性と、具体的方法を教え込んでいるのです。

結局、CEを実現するために、上流の原材料メーカーから、製品メーカー、流通、消費者に至るまで、循環型社会の糸をピンと張る必要があるという事でしょう。単に、循環型社会の実現とか、3Rの推進とか、掛け声だけの計画は終わりにしなければならないのです。必要な行動は、綿密な制度設計と、それを守らせるためのアメ(インセンティブ)と少しのムチ(ペナルティ)、何より幼児期からの環境教育でしょう。ErPについては続きます。

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2016年9月13日 (火)

3117 MA&Mその3

保守作業で最も重要なものは、実は清掃なのです。取り分け、熱交換を伴う設備・機器においては、熱交換面の清掃こそが、初期の効率を維持するためには、最重要作業だと言えます。しかしながら、熱交換を良くするために熱交換面は凸凹になっていたり、更にはフィンが植えてあったりする訳です。という事は、平滑な面の清掃に比べて、伝熱面の清掃はかなり困難であると言えそうです。加えて、コストの制約から、多くの機器においては、汚れが蓄積しても、それを効率的に清掃するための設計が欠如しているものさえ散見されるのです。

伝熱面を清掃するためには、スケーラやワイヤブラシと言った機械的な方法の他、石油系の溶剤や界面活性剤を加えた水(温水)あるいは、酸やアルカリに傾けた水(温水)で洗う必要があります。伝熱面の内部や外部を流れる流体(ガス)の種類によって汚れの種類も程度も千差万別です。加えて、完全な洗浄のためには、その設備やプラントを完全にシャットダウンする必要もあり、それは経営者にとっては余分なコストだと感じてしまうでしょう。プラントをシャットダウンした上に、清掃のためのコストの負担は、多くの経営者に忌避される作業なのです。従って、設備は、たとえ効率の低下が生じたとしても、出来れば壊れるまでは使い続けたいと言う誘惑からは逃れられないのです。

そうではなくて、全ての設備や装置には、年間に取得価格の数%(1-3%)は保守費用として予算を組む必要があるのです。もし、ある設備をシャットダウン出来ないならば、一見無駄にも見えますが、予備として同じものをもう1台準備する必要があるのでしょう。しかし、これは大きな無駄にはつながりません。これによって、設備を常に新品同様の高い効率で動かす事が出来ますし、それぞれの設備は手入れが行き届く結果、設計寿命以上の長きに亘って使い続ける事も可能になるのです。この項終わります。

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2016年9月12日 (月)

3116 MA&M2

設備や機械の適切な保守は、実は省エネルギーにもつながります。多くの設備や機械においては、その性能は経年に従って低下します。動くものであれば、エンジンや油圧装置など可動部のある者は、その部分の抵抗が増えて、エネルギー効率も低下するからです。また、ボイラや空調機や熱交換器など、エネルギーの授受を行う設備においては、汚れが蓄積するとやはり効率が低下するのです。

摩擦抵抗を減らすのは、「潤滑油」です。動く部分のある機械には、例外なく潤滑油が施されているのです。サラサラのタービン油を強制的にポンプで回すタイプ、機械が動く事によって潤滑油が滴下する様に仕組まれるタイプ、あるいはグリスの様に半固体の潤滑油を予め仕込んでおくタイプなど、単独であるいは部位によってそれらを組み合わせながら、潤滑が行われているのです。摩擦を低下させることを目的とした学問を、トライボロジィと呼びますが、残念ながらこの学問はそれほど重要視されていない様な気がするのです。技術屋のカンですが、もし世の中の全ての設備や機械を、トライボロジィの専門家が診断し、潤滑を最適化したと仮定すれば、この国で使っているエネルギーの10%ほどは間違いなく節約可能だと見ています。

潤滑を要する面は、互いに限りなく凸凹を無くさなければなりません。ボールベアリングであれば、内外のレース面やボールは、限りなく鏡面に近いものでなくてはなりません。寿命が近くなったベアリングでは、その面が荒れてきて、あるいはフレーキングが生じて、回転音に異常が生じます。かと言って、平面同士が擦れ合うスライド面においては、互いに完全な平滑面であることは逆に有害になります。この場合は、面と面の間に潤滑油を溜めておく「ポケット」が必要なのです。それは手で触っても感じるかどうかという非常に浅いものでありますが、不可欠な凸凹でもあるのです。その凸凹を機械加工だけで作るのは実は難しく、未だに「キサゲ作業」という職人技に頼るところが大なのです。更に続きます。

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2016年9月11日 (日)

3115 MA&M

アルファベットの略語が続きます。これは、MA?とは全く無関係の投稿者のオリジナル造語です。最初のMは、Monitor(監視)、AAnalysis(分析)、次のMMaintenance(保守)のそれぞれの頭文字です。全ての企業や、企業に限らず、自治体や一般家庭だって、何らかの設備を使用しているでしょう。インフラだって、例えば発電設備やガス・水道、道路関連にも設備は組み込まれています。それらの設備は、経年に従って、あるいは突発的な事故によって劣化したりして、やがて動かなくなるのです。しかし、手入れの悪い設備や機械は、それが造られた時に想定された「設計寿命」に比べ、実際の廃棄までの期間がかなり短くなっているのです。

原因は、まぎれもなく日常の手入れを怠った結果である事は間違いありません。手入れとは、何なる掃除ではなく、潤滑油の交換、寿命部品(例えばボールベアリングなど)の交換、更には電気関係の絶縁状態の確認・清掃、燃焼機器(ボイラなど)や熱交換器などの伝熱面の清掃、水流による管路などの腐食、そして何より鉄鋼などで造られている構造の経年腐食などへ、対応し、それを補修しながら、上手く使い続ける事を指します。

何処をどの様に低入れすべきかは、実はメンテナンスマニュアルに書かれている筈ですが、多くの場合は、単に潤滑油やフィルターの交換時期、その他の安全上の注意書き程度でお茶を濁しているものも多いのです。そこで、必要な事が、「(常時)モニター」なのです。設備や機械の重要なポイント、例えばモーターやポンプの軸受温度を常時モニターしておけば、もし軸受が摩耗してきた場合には、その温度が上昇傾向になる事で、寿命が近い事が判断可能です。あるいは、回転機械であれば、その機械が持つ通常時のノイズレベルをモニターしておけば、異常時にそのレベルが大きくなる事で事前にそれに気が付くでしょう。

その変化を、「分析」すれば、どの様な手を打つべきかが速やかに判断できる筈です。そこで、保守(補修)の出番です。そのためには、日頃使っている設備や機械の構造にも明るくなければなりません。使いっ放しの機械は、点検口やカバーを止めているネジ類もすっかり錆びつき、それを緩める事すらできなくなっている可能性もあるでしょう。そうならないためには、日頃から設備自体の外側の清掃や、ペイントの塗り直しなど、日常の手入れ(清掃)も怠ってはならないのです。MA&Mを上手く実行しさえすれば、多くの設備や機械は、少なくとも設計寿命の2倍は使える筈なのです。

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2016年9月10日 (土)

3114 ESG

これは、E(環境)、S(社会)、G(ガバナンス)という言葉の頭文字を並べた言葉です。想像できる様に、この言葉は主に企業経営に向けた戒めのキーワードだと言えます。さて、「環境」です。これは、10年近く書き連ねてきたこのブログの大テーマでもありますが、このKW抜きに、今後の企業経営は語れないでしょう。温暖化や資源・エネルギー源の枯渇や、環境汚染、更には廃棄物処理場の逼迫や生物種の絶滅まで、多くの環境危機が叫ばれながら、未だに小手先の対策に留まり、有効な手が打たれていないのです。何は無くとも、企業経営の理念の最初の一つに加えて貰いたい文言の一つなのです。

次に「社会」です。企業が「社会的存在」である事は、論を待ちません。どんな企業であれ、その存続は、社会的な存在である顧客や、顧客が形成する市場に依拠しているからです。少し前の(かなり前?)右肩上がりの時代、企業の経営者は主に株主の方を向いて、利益至上主義の経営だけでもどうにかやって来れました。しかし、これからの時代、企業は単に顧客や市場のみならず、その背景としての社会に向き合わなければならないと思うのです。具体的に言えば、たとえささやかではあっても、企業利益の一部を社会へ還元していく必要があると言う事です。少し前、SCR(企業の社会的責任)というKWが叫ばれましたが、ここでの「社会」との繋がりは、それよりはかなり深く、広く捉えて行く必要があるのです。つまり、単なる金銭的な還元に留まらず、企業の立地する地域の環境改善を含めて、製品や企業活動の中身そのものが、社会貢献に向き合っている必要があると言う事なのです。

「ガバナンス」とは言うまでもありません。企業経営という言葉では、あまりにも意味が狭いのです。つまり、「経済的営み≒利益確保」しか見ていない言葉だからです。経営者は、自分の、あるいは「経営する」企業の「腹」を全てさらけ出しても誰に恥じる事の無い「ガバナンス」を目指すべきだと思うのです。もちろん、企業経営などした事もない投稿者ですから、胃に穴が開く様な経営の労苦は想像するだけなのですが、それにしても少なくない企業の「呆れるしかない企業」の報道に触れる度、ガバナンスの不在を感じずには居られないのです。たぶん続きます。

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2016年9月 9日 (金)

3113 ブルーマウンテン戦略2

大きな変化には馴染まないこの戦略には、他にも原則が必要となりそうです。物理現象の表現の一つに「準静的変化」というものがあります。これは、敢えて言うなら、変化している事に気が付かない程の変化、とでも言えるでしょうか。荒っぽい変化は、軋みや歪を生み出しますが、経済活動に携わる人々も、大衆も、殆ど気が付かない程の経済政策があるとすれば、それこそが「準静的政策」の例になるでしょう。もちろん、あの人の何とかミクスとは対極にある政策と言えるでしょう。この政策を実現するには、最終的なゴールを見定め、そこに向けたベクトルを定めた上で、しかし非常にゆっくりしたスピードで、少しずつ手を打って行くしかないでしょう。スタンスを低く構えて、ひたすら気を長く持つしか方法は無さそうです。それは、今の数年毎に部署が変る様なお役所の人事プラクティスでは、到底実現不可能だと見るしかありません。

ブルーマウンテン戦略には、気が遠くなるくらいの時間に亘る「継続」が必要なのです。まさに、「継続こそ力」なのです。力技を使った変化ではなく、塵を積もらせて山を作る戦略だと言い直しても良いでしょう。都合により今日は短めで切り上げます。

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2016年9月 8日 (木)

3112 ブルーマウンテン戦略

3111で勝手に「ブルーマウンテン戦略」なる言葉を作ったので、もう少しこの言葉の意味を強調しておきます。この言葉の背景には、暗黙のうちに「変らないものにこそ価値がある」というコンテキストがあると思うのです。縄文・弥生の時代に遡ったとしても、人間の営みや価値観を眺めてみれば、現代と何ら変わらない部分も多いでしょう。衣食住、家族やコミュニテイとの絆、善悪の基準、パートナーを得た喜び、子が生まれた喜びと死に分かれる悲しみ、労働の満足感、などなど・・・。

一方、大航海時代を経て、新しいフロンティアの開拓、宗教にも関わる戦争や飢饉や疫病に追われる形での民族の大移動、ほぼ同時に資源やモノやカネの大量移動=流動化によって、経済のオーシャンも急速に拡大したのでした。しかし、無限に広がると思われたこのオーシャンは、実は有限であることが、近年の経済の行き詰まりであることが露呈したのです。それは当然の事だと言えます。何故なら地球のサイズが有限だからです。実際の大洋が有限である様に、人間の流動的な営みを指すオーシャンも有限なのです。

しかし、どの様な時代になっても、大自然や人間の営みの「基本的は部分」は変らない筈なのです。私たちは余計な荷物を背負いこみ過ぎていると思うのです。変わりゆくもの(オーシャン)を取り除いてみたと想像して、そこに残る「地殻」こそが、マウンテンの本質なのでしょう。その基本的なニーズを満たす営みで、既に捨て去られてしまったか、忘れられてしまった部分が「ブルーマウンテン市場」だと言えるでしょう。ここでの市場は、経済用語で言うところのマーケットの意味ではない事は確かです。ローカルの市場(いちば)を指す言葉として使いました。つまりは、大きなマーケットに対する経済活動ではなく、市場(いちば)に対する生業(なりわい)という関係を。示したかったのです。税金を注ぎ込んで、「何とか特区」をいくつも作るだけが地方創生の戦略であってはならないでしょう。地域で回る小さな営みを応援し、その地域ならではの気候や資源や伝統の技を活用した「スモールビジネス」を数多く育てる戦略でなければならないと思うのです。それに近い考え方を「里山資本主義」などと呼んだ人も居ます。続きます。

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2016年9月 7日 (水)

3111 マウンテンとオーシャン

このブログを書き始めた当初より、貫いているスタイルがあります。それは、単なる自分の行っている事の報告ではなく、また誰かの批判に陥る事もなく、可能な限り将来社会に向けた「提案ブログ」にしようと努めてきたつもりなのです。今の社会は、確かに矛盾に満ちてはいますが、そんな事は今に始まった事でも何でもなく、何時の時代にも人の集まる事によって出来た、コミュニテイや社会や国は、欺瞞に満ちており、理不尽がまかり通ってきた筈なのです。そうでなければ、一揆やデモや紛争や革命などが頻発する筈がないのです。

民族や国家間のパワーバランスの崩れや、宗教観のすれ違いは、紛争に留まらず、大きな戦争も引き起こしてきました。それもこれも、結局は人々が地に足を着けて、地域の資源に依拠して、慎ましく暮らす事を止め、言葉だけは恰好が良い「国際化」、「グローバル化」の美名のもとに、モノ、カネ、ヒトを過度に流動化させてしまったのが、現代社会の多くの矛盾の根底に横たわっていると思うのです。

この状況を表すのにピッタリの言葉があります。それは「マウンテン」と「オーシャン」です。マウンテンとは、多分何億年にも亘って、あまり姿を変えずにそこにどっしりと座り続けて居る「変わらないもの」の象徴であり、オーシャンとは気象や海流や洪水などによって常に変化し流動する「変わり続けるもの」の象徴でもあるのです。最近マスコミで取り沙汰されるKWとして「ブルーオーシャン」などと言う、耳に心地よい言葉もありますが、「ブルーマウンテン」という言葉はコーヒー銘柄?以外では目にしません。誰も(競争相手の)居ない市場を探すも結構ですが、地に足を着けて地域資源(産物)、地域エネルギー、地域市場に注目して、地域でお金の回る仕組みを「再度」取り戻していく、「ブルーマウンテン戦略」こそ重視されるべきだと強調したいのです。またそれが、本当の意味での「地方創生」政策の中身でなければならないでしょう。

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2016年9月 6日 (火)

3110 このブログ

この、いつ終わるかも分からないブログを書き始めた頃の事を思い返しています。始めたのは、2006年の夏だったのですが、その少し前、55歳になった日を一応の区切りとして、サラリーマンを完全に辞めて、自営業(フリーランンス)になった記録として、このブログを書き始めたのでした。名刺に書く職業として何を書くのか迷いましたが、自営業の中身は「環境屋」と決めていましたので、2003年に資格認定された「環境カウンセラー」としました。その肩書はもちろん世間に認知されたものではなかったので、仕事の中身を顧客(候補も含めて)何度も説明しなくてはならなかったのです。とは言いながら、何をどうやれば仕事として認知され、お金がいただけるのか、全くの暗中模索でもあったのです。

自営業と言っても、毎日仕事や問い合わせの電話が掛かってくるわけでもないので、取り敢えず企業からの省エネ相談や、環境カウンセラーとしての学校や市民向けの出前講座には、積極的に手を上げて講師を務めました。自分から営業活動をする訳ではないので、中小機構や県や商工会の専門家派遣制度に登録して、連絡が入るのを待ちました。環境省が認定する「エコアクション21」の審査人にも合格してからは、企業の環境経営システムの審査が少しずつ増えていきました。サイドビジネスとして、特許関係のアドバイザーに応募して2年ほど採用されましたが、それなりに特許の勉強と、それなりの生活の支えにはなった様な気がします。

しかし、やり甲斐を感じたのは、企業や自治体などの省エネ診断と助言をしている時でした。エネルギーの無駄を熱診断と電力診断を通じて見つけ出し、自分のアイデアで省エネに取り組んで貰い、それなりの「結果」が出た時はささやかな謝金しか貰えませんが、それ以上の喜びを感ずる事が出来ました。何度かの省エネ診断・支援を通じて、自分なりの理論や手法を確立して、必要な計測機器も徐々に買い揃え、徐々に自信を持って助言が出来る様にもなったのでした。その一方で、仕事を通じて感じた事どもを「このブログ」に書き残す事で、自分がフリーランサーとして行った事の記録として「環境屋(環境おじさん)」の「環境ブログ」を書き続けてきたのでした。旅行移動などで抜けた日もありましたが、一応毎日書く事をノルマとしてきましたので、3650回目のブログが満10年の区切りとなる計算です。今のところ、何とか途切れること無く書き続けてはいます。

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2016年9月 5日 (月)

3109 異常気象が止まらない

昨日もNスぺで、止まらない極地域の温暖化と、融けた永久凍土から放出されるメタンガスの放出によって加速される更なる温暖化のリスクが放送されていました。何より、北半球の気象に直接影響を与える北極海とその周りの凍土地帯の温暖化は、間違いなく極を取り巻くジェット気流に影響(正確にはその風速の低下)を与えるでしょう。風は、強く吹いている時には直進しますが、風速が低下した時には、地上の地形などの影響を受けて「蛇行」するのです。

実際、先日東北地方に上陸して甚大な被害をもたらした台風は、日本海に渦巻いてた蛇行ジェット気流に引きずられて、異常なコースを進んだのでした。しかし、もはや夏場のジェット気流の蛇行が日常となってしまった感のある昨今では、それに支配される中緯度地域の異常気象も加速すると考えねばならないでしょう。ますます、暖かくなる海水温と、蛇行するジェット気流に操られる低気圧や台風が、湿潤な空気を一気に陸上に送る結果、時間100㎜を超える様な豪雨やヒョウや落雷の多発と言った、激甚な気象現象が日常茶飯事になると予測されているのです。

そうなると、20世紀では普通だった海抜が低い海岸部と都市に、人々が集中して住む、というライフスタイルを見直さざるを得なくなる様な気がします。未曾有量の短時間豪雨は、地下鉄や地下街を非常に危険な場所にしてしまいますし、頻発する落雷は、電子機器や通信を無力にしてしまうかも知れません。どの様に考えても、私たちは田舎に分散して住む様な社会に再度戻らなければならない炉思うのです。とは言いながら、今回の台風がいみじくも証明してしまった様に、谷合の山間部も危険を内在しているのも間違いありません。自分が住む場所を決める際には、「異常気象を前提に」、その上で「地形を読んで」家を建てるべきなのでしょう。

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2016年9月 4日 (日)

3108 山の津波2

3107の続きです。今回の台風による水害ですが、特徴的なのは川の水が急速に盛り上がり、数十か所で堤防を易々と超えてしまった事です。というのも、東北や北海道の河川の堤防は、豪雨の多い東海以西の河川とは、明らかに水準が低く設定されている様なのです。それは、平均降雨量も時間降雨量も、想定水準が低く設定されているからなのでしょう。加えて、東北・北海道の山々は、深い森林に覆われていて、雨や雪解け水をコントロールしながら流してもくれるのです。

しかし今回の未曾有の豪雨です。報道のインタビューでも、かなりの年配の人が「経験した事の無い程の豪雨」だったと答えていました。

多くの自然現象には「しきい値(限界の様なもの)」というものが存在し、それを超えると事態は破局的に急変(多くの場合は悪化)するのです。森林に降った雨の量が、森林がコントロールできる限界を超えると、抱えきれなくなった水は、一気に川に流れ込むでしょう。その量が、川と堤防の高さで決まる流量を超えると、氾濫原に流溢するのです。現在、川の両岸で人の住んでいるエリアは、結局最後に出来た氾濫原である筈で、それが何百年前かは分かりませんが、その時代も、最近の気候の様に、気温や海水温が高く多雨の時代だったのかも知れません。

いずれにしても、ここ最近の気候は、明らかに20世紀後半の気候とはかなり異なってきていて、温暖、多雨であるばかりでなく、どうやら気象変化そのものが過激になってきている様なのです。どうやら、最近の気象は20世紀後半の気象ではしきい値と考えられていたポイントを、易々と超えてしまう様なのです。その真の原因は、単なる温暖化なのか、それとも複合的な原因なのかは。いまだはっきりとは解明はされてはいませんが・・・。とは言いながら、私たちはこれからも起こるであろう災害に対処するための「構え」を平常時に準備しておかなくてはならないでしょう。何しろ、今後は、今回の様な異常気象が日常的に発生すると考えなければならないのですから。

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2016年9月 3日 (土)

3107 異常台風と山の津波

よく山に登ります。登山口へのアプローチでは、山間の幅の狭い川に沿った道を、クネクネと辿る事が多いのです。その道すがら、かなり山深い場所でも、狭い平地があると小さな集落が現れます。その昔は、子供の姿も見られたのでしょうが、今は高齢化が進みひっそりとしているのが普通です。しかし、考えてみれば川沿いの道に平地が現れるという事は、地形的にはそこは「氾濫原」であった事の証左に他ならないのです。そこは、太古の昔から、それこそ何度も何度も洪水に見舞われ、岩や砂利や砂が堆積して、今の姿になった筈なのです。

山は高い場所は自然林に、道から比較的近い場所は人工林に覆われているのが普通ですから、少々の雨で洪水が起こる事は無いのですが、今回の様に東北、北海道にしては、未曾有の集中的な降雨によって、森林の保水力を超えた量の水がドッと川に流れ込んだのでした。その結果、氾濫原が新たな土砂でリセットされてしまったという状況でしょう。

何故、東北日本では、西日本に比べて降雨量が少なかったのかと考えれば、それは海面温度に関係があるとするのが普通でしょう。台風の雲が持ち込んだ湿気の貯金は、進路途中で降らす雨量が多くなるにつれて、急速に減ってしまいます。しかし、今回はかなり高い緯度まで、高温のままであった海面から、たっぷりと湿気を供給され続けた台風が、直接東北地方に上陸し、雨雲が北海道にも掛かった結果、今回の様な予想を大きく超える災害につながったと思われます。

私たちは、今後台風に向き合う時、これまでの「常識」を捨てる必要がありそうです。これまでの常識とは、台風は台湾辺りの緯度で発生し、暖かい南の海で発達しながら北上して西日本に接近し、やがて偏西風に流されながら日本列島を縦断して北太平洋で低気圧になって消えるパターンを辿る、と言ったものです。しかし、その常識は、今回の異常台風で否定されつつあると考えるべきなのでしょう。高い緯度まで髙くなった海面温度と、吹き出しが弱くひどくなって蛇行し易い偏西風の組合せが、今回の様な異常台風が、ごく普通の台風になる可能性が出てきたと、覚悟を決めるべき時なのかも知れません。

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2016年9月 2日 (金)

3106 破局の理論2?

確か同様のタイトルで以前にも書いたような気もしますが、何を書いたか忘れたので書き直しておきます。さて、私たちは時空を何か「連続したもの」と捉える癖がある様に思います。時間も空間も、連続していて、時間で言えば過去から現在、そして未来につながっていると見做す傾向があるのです。もちろん、SFではありませんから、時間に裂け目の様なものがあって、私たちがそこに落ち込んで、大冒険に踏み込むなどと主張するつもりはありません。

そうでなくて、時空は海面の様に歪むものだと言いたいのです。時空を平面と考えた場合、歪みと言うのはその平面に高低の山谷が出来ると考えるのです。もちろん、物理的な歪みの話はアインスタインさんに任せるとして、ここで言う歪みは、もっぱら人間のココロが作り出すものを指します。その、歪みを増長させると、時空のシワは大きくなり、やがてそのシワは波の様に裏返るかも知れません。時空のシワの頂点に立っていたと考えると、下手をすれば私たちは、その頂点から波底に落下してしまうかも知れません。簡単に言ってしまえば、その落下を、破局と呼ぶのが、破局(カタストロフィー)の理論という訳です。波が盛り上がっても波の表面は確かに連続して繋がっているのは間違いありませんが、それがまくれ上がった時に、もしその表面に人が立っていたとすれば、確かに天地は逆転する筈なのです。

破局を作り出す時空の歪みを創り出す、人間の仕業です。例えば、無理な経済加速政策や経済の失策がいくつかの「バブル」や「ブラック○○デー」を生み出したのは記憶に新しいところです。工場の生産量を上げようと、現場主任がベルトコンベアのスピードを、作業者に知られない様に徐々に上げたところ、ある時点から不良数が急激に増えてしまった、というのも破局の例になるでしょう。つまり、(自然ではない)無理な圧力を生む行動や荒っぽい施策が、結果としては時空に歪みを生じさせ、やがて破局を生んでしまうのです。もちろん、Aベノミクスなる荒業も、このまま進めればその例外にはなり得ない、まさに下手な政策だと切り捨てておきましょう。

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2016年9月 1日 (木)

3105 もみ殻カスケード

3102の続きの様なものです。誘われるままに「もみ殻研究会」なるものに顔を出しています。もみ殻を燃やして先ずは、熱を利用し、残った灰をコンクリートの混和剤として、有効利用しようと言う目論見の研究会です。従って、もみ殻が余ってしまうJAさん、もみ殻を安価な燃料として見ている事業者、コンクリート製品を作っている事業者、加えて行政も名前を連ねている、ユニークな研究会となっています。もちろん課題も多く、季節的に供給量に山谷が出来る原料のもみ殻、嵩比重の小さなもみ殻を低コストで運ぶ方法、性状が好ましいもみ殻灰を作るための燃焼条件の確立、その灰を実際のコンクリートに混ぜた場合の品質確保、などなどが上がっています。

しかしながら、3102に書いた「熱のカスケード利用」に対して、この枠組みは「熱→マテリアルカスケード」であり、考え方としてはより理想的で、しかもチャレンジングだとも言えるでしょう。何しろ、この枠組みでは廃棄物=埋め立てゴミが出ない訳ですから。もちろん、田んぼから出るもみ殻を継続的に消費する訳で、結果として田んぼには抜けたシリカ分を補ってやる必要はありますが・・・。そうではあっても、これまで暗渠排水路の中に埋め込むか、燻炭として田んぼに鋤き込むか、あるいは粉砕して家畜の敷料とする程度しか用途が無く、暗渠への補助金が打ち切られて、ますます余ってくると見込まれるもみ殻の用途開発は、もみを引き受け、継続的にもみ摺りを行うJAにとっては喫緊の課題なのです。もみが吐けないと、カントリーエレベータが動かせないからです。

ここには、農業とボイラ技術のある産業やコンクリート産業など、産業横断の協力関係が必須なのですが、実のところこの様な学際というか産業際としての枠組みは実績も少なく、手探り状態であるのは間違いありません。この様な枠組みにこそ、地方創生の助成金を注ぎ込んで貰いたいのですが、実績が無いところには助成金は降りてこない、という「法則」があり、進捗が遅いのが歯がゆいところです。

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2016年8月31日 (水)

3104 輻射のコントロール

熱の伝導や対流を防ぐのが「断熱」なら、エネルギーの輻射を制御するのは「遮熱」という事になるのでしょう。私たちは、これまで省エネルギーと言えば、「断熱だ」と刷り込まれていた様な気がします。だからこそ、ビルや住宅でも、壁や屋根の断熱に集中的にコストを掛けてきたのです。しかし、ここにきて屋根や、壁面や、窓の「遮熱」が注目を浴びてきました。屋根には遮熱ペイントを、壁面には遮熱サイディングを、窓には遮熱フィルムを貼るなどの方法で、太陽光からの入熱を抑えてやる方法です。遮熱面の性能にもよりますが、これは冬期の室内からの熱の放散にも有効な場合もあるので、更なる研究・開発が望まれます。

というのも、遮熱は物体からの輻射(放射)を制限するためには、その温度に応じた電磁波(この場合は赤外線ですが)の波長に見合った反射面を選択する必要があるので、太陽光の遮熱と遠赤外線の遮熱では、遮熱面の性状には微妙な違いが求められるからです。十分に滑らかな「鏡面」であれば、かなりの幅の電磁波を反射する事が可能ですが、だからと言って建物全体をピカピカの「銀色」に統一する訳にもいきません。とは言いながら、最近のビルは外から見るとまるで鏡の様に眩しく感ずるものも増えてきているのは間違いありません。

輻射のコントロールにおいて反射面の応用は、工場設備などでも考えられるでしょう。例えば、ロータリーキルンやボイラなど、エネルギーを多量に消費し、表面温度もそれなりに髙い設備からは、多量のエネルギーが輻射の形で失われてしまいます。それを、断熱材と遮熱材を組み合わせて防止するのはもちろんですが、逆に凹面の遮熱材で輻射熱を集めて、一点に集中させれば、放散エネルギーを高いレベルで「リサイクル」出来る可能性も生まれるでしょう。これは、例えば太陽光を虫眼鏡で集めて、紙を焦がすのと同様だと考えれば良いでしょう。

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2016年8月30日 (火)

3103 キルヒホッフらの功績

3102の続きです。エネルギーの伝達に関しては、黒体の概念を考え出し輻射に関して解析したキルヒホッフの名前を忘れる訳にはいかないでしょう。彼は電気回路でも自分の名前を冠した法則を導いているので、マルチタレントの人だった様です。他方で、輻射エネルギーが物体の温度の4乗に比例する事を示した、ステファンとボルツマンの功績も、同じ程度に評価すべきでしょう。

さて、輻射エネルギーです。輻射によるエネルギーの伝搬には、「電磁波」が関わっています。電磁波とは、波長によっては「電波」と呼ばれたり、「光」と呼ばれたり、「赤外線」と呼ばれたりするものであり、電波と磁波が交互に作用し合って伝搬する、と頭の中では理解していても、手で触れる訳ではないので、何か漠然としたものを感じてしまいます。しかし、それは波長にもよりますが例えば網膜で光という電磁波は、明るさや色としてとらえる事は出来ますし、また例えば赤外線という電磁波は、火に手をかざして「温点」で暖かさとして感ずる事が出来る物理量でもある訳です。つまりは、五感で捉える事が出来る電磁波は、非常に限られた波長のものだけではありますが、生き物としての人間にはそれで十分なのです。もし、電波が目に見えたとしたら、煩わしくて気が狂ってしまうでしょう。

輻射エネルギーは、感ずる事が出来る出来ないは別して、計測器を使えば計測する事が出来る物理量です。しかも、そのエネルギーは、他のエネルギーの伝搬方法、伝導や対流に比べて桁違いに大きいのです。そもそも、比べるべくもないくらい桁違いなので、比べるのが失礼なほどなのです。その証拠は、太陽を例に引けば十分でしょう。極寒、暗黒の宇宙空間で、地球が今の気温を保って居られるのは、ほぼ太陽表面からの輻射エネルギーが地球表面を暖め続けて居てくれる「お蔭」だと言うしかないでしょう。冷え続ける地球内部からの「伝導」による熱流なんぞは、時たま起こる火山噴火や温泉入浴などでしか感ずる事は出来ないでしょう。

残念ながら、輻射エネルギーは、例えば蓄熱槽などで、高温媒体の内部エネルギーとして蓄える他は、実用的な方法が発明されていません。それでも、太陽輻射を温水の形で蓄える、太陽熱温水器は重要な発明品である事は間違いないでしょう。少なくとも、一晩以上は、太陽の暖かさを「蓄える」事が出来るからです。太陽で沸かしたお風呂に浸かり、キルヒホッフやステファンやボルツマンの功績に感謝するのは至福の時間となるでしょう。

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2016年8月29日 (月)

3102 熱のカスケード利用

熱は高いところから低い方に伝わると言う「熱伝導則」が、誰の法則だったか忘れましたが、フーリエさんが、数学的に系統だてて体系化したのは間違いない様です。そのおかげで、私たちは熱伝導率なる係数を持ち込んで、単位時間あたりにどの程度の熱が伝わるかを計算できる様にもなりました。ところで、何故熱は高い方から低い方にだけ流れ、逆の現象は生じないのか、不思議ですが、実は逆流は起きているのです。しかし、統計的に見ると、圧倒的に少ないので、全体的に見れば、逆流は起きないと結論づけられるのです。

熱の流れは、ミクロ的には分子の熱運動(振動)の伝導という現象で説明できますが、気体や液体であればそれは「ブラウン運動」とも呼ばれます。その熱運動の程度が激しければ、温度が高いと表現し、程度が低ければ温度も低いと言われるのです。振動が完全に停止する様な極低温を「絶対零度(約-273℃)」と表現します。

さて、熱は高きから低きに流れるのですから、どんな高温度の熱を帯びた物質も、徐々に、あるいは急激に冷えて、やがて周囲の温度と同じになるまで熱の伝導は続きます。熱の伝導を妨げる手段としては、断熱材や遮熱材で流れを食い止めると言う方法があります。しかし、しっかりとした断熱・遮熱にはかなりのコストが掛かるのも間違いありません。そこで、断熱・遮熱はソコソコにしておいて、流れる熱を利用してやると言うアプローチを考えてみましょう。高いところから流れる水が、多段階で流れる滝(小滝)をカスケードと呼びますが、熱も燃焼温度の様に高い状態から、手洗いに使うぬるま湯の温度まで多段階で使い倒す事を「熱のカスケード利用」と呼びます。石油でエンジンを動かして動力を得て、その廃熱で吸収式冷房機や暖房機を動かし、更に低温度の熱でシャワー用のお湯を作ると言った具合です。一般的な表現では、これは「エネルギーのカスケード利用」とも呼ばれます。続きます。

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2016年8月28日 (日)

3101 環境エネルギー

環境エネルギーとは、エネルギーを必要とするすぐ周囲で調達できるエネルギーの事で、太陽光を主とした再生可能エネルギーと殆ど重なりますが、同義ではありません。例えば、電力や石油エネルギーを利用した工場の生産活動から出る「廃熱」や、他の場所よりやや高い温度が得られる「地熱」や、もしその地域から石油やメタンガスが産出するなら、それもまた環境エネルギーと言えます。実際、千葉や秋田などでは、天然ガスが湧きあがってくる地域があって、爆発事故になったり、安全のために無為に燃やされたりしている例もあるのです。

さて、そうは言っても、殆どの場所で確実に期待できるエネルギーとしては、やはり「太陽光」を柱に据えるしかなさそうです。もちろん、太陽光は夜は使えませんし、雨や曇りの日もまた頼りに出来ません。しかし、電気や熱に変換して蓄える事により、その不便をかなり解消する事は可能です。取り分け、お湯の形で熱を蓄えるのは、設備も投資額も最小限で済む筈です。つまりは、保温を施したタンクがあれば良いのです。200リットルもあれば一回分の入浴は賄えるでしょうし、その倍以上あれば、給湯や暖房の熱も賄えるでしょう。

更に言えば、もっと多くのお湯を貯めておけば、冷房にも使える可能性が出てきます。それはデシカント冷房の熱源とする方法です。デシカント冷房とは、デシカントを使った除湿機と同じ原理で、珪藻土やゼオライトの様なデシカントに室内の湿気を吸収させ、蓄えたお湯の熱で、その湿気を室外に吐き出させる仕組みを指します。もちろん、室内の温度を上げない様に、顕熱交換器は必要ですが、それにしても必要な電気エネルギーとしては、小さなファンを動かすだけなので、小さな太陽光発電を併用すれば問題ありません。主たる環境エネルギー源としての太陽光を使えば、少なくとも住宅の冷暖房と給湯エネルギーが賄えるとすれば、この国の石油や電力エネルギーのデマンドは、多分1-2割は削減可能だと思うのです。それを実現しないで今後も石油や原発に頼り続けるのは、ただただ勿体なく、大きなため息しか出ません。

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2016年8月27日 (土)

3100 モンスター

モンスターが主役のホラー映画では、モンスターの恐ろしさは直接的には見せず、小出しにして未知の恐怖を演出するのが常套手段です。人間は、未知なるものにこそより強い恐怖を感ずるものだからです。残念ながら、ホラー映画を論ずるほど、熱心に映画を見たわけではないので、ここでは「モンスター台風」である、台風10号について考えてみます。この台風がモンスターである所以は先ずはその進路です。多くの台風は、太平洋高気圧の縁を回る様に最初は西向き、その後北上して、やがて偏西風に流され始めて速度が上がり、速度をドンドン速めながら、やがてベーリング海に消えていくと言う普通の盛衰なのですが、10号は全く異なります。

「彼女(昔は台風を女性名で呼んでいましたので・・・)」は、比較的高い緯度で台風になったものの、南下しながら西の方向にヨロヨロと進んでいきました。その後、完全にUターンし、元来たコースを折り返しながら日本に近づきつつあるのです。しかも、海水温が高いエリアをうろつきながら、その勢力もますます増強しつつあるのです。しかも、この間気まぐれな偏西風(ジェット気流)の活動は非常に弱かったのですが、今後や徐々に蛇行を強めながら、「彼女」を誘っている様なのです。

未知なる恐怖は、実は今回の台風そのものではありません。そうではなくて、今回の台風を操る偏西風と海水温度の異常事態なのです。通常吹くべき偏西風が吹かなかったり、北半球と南半球のジェット気流が交わったり、極端な形で蛇行したりするのは、結局は極地方と赤道地域、その間にある中緯度域の温度差が縮まった事が原因でしょう。結果として、中緯度域の海水温が上昇し、台風を勢いづかせます。また、同じ原因で極から吹き出す風が弱くなり、その吹き出しがコリオリの力で曲げられて生まれるジェット気流をも弱めるのです。弱い流れは当然の事ながら蛇行もし易くなるのです。しかし、本当のモンスターはと考えてみれば、それは緯度方向の温度差を小さくさせた「未知なる力」である事が分かります。それは、「単なる温暖化」だけなのか、それともエントロピー増大則に関係する未知なる害悪なのか、私たちはまだ真実を十分に知っている訳ではない様なのです。残念ながら。

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2016年8月26日 (金)

3099 小規模分散2

小規模分散システムのメリットについてもう少し考えてみます。3098の例として、電力を挙げましたが、考えてみれば電力が「電気のまま」で利用される割合は非常に小さい事が分かります。つまり、電気(電子)をそのまま使っている機器としては、例えばパソコンの様な「電子機器」に限られるという事です。その他の電力を利用している機器は、「電力」と呼ぶように、電気のパワーを動力、熱、光、磁気力などに変換して利用しているという事です。電気のパワーを利用した場合には、そのパワーは、最後は必ず「低温度の熱」になって環境に放出されるのです。

つまり、電力の利用と廃熱の発生は必ずペアになっている点は非常に重要な点です。同様に、電力を起こす場所(発電所)でも、電力の発生と同時に、不要な熱が発生してしまうのです。火力発電所では、蒸気を水に戻すコンデンサーから海水中に、ボイラで石油を燃やした廃熱が高い煙突から大気に、不要な熱が捨てられています。CO2を出さないと主張されている原発だって、廃熱を海水中に捨てざるを得ないのです。

大規模分散システムでは、この廃熱の利用がままならないのです。というのも、発電所から電力の需要家や熱の需要家が遠く離れているので、熱輸送の方法が見つからないからなのです。低温度の熱だって、暖房や冷房には十分使えますし、かなり低くても家庭用の給湯温度としては十分使い道があるでしょう。

小規模分散では、この低い温度の廃熱が有効利用できる範囲が広がるのです。エアコンの廃熱は、50℃程度はありますので、上手く設計すれば夕方に風呂に入れるくらいのお湯は作れるでしょう。モーターだって長く回せば、やはり巻線はかなりの温度に上昇してしまいます。屋根に上げた太陽光発電パネル(PV)でも、夏場にはかなりの温度(数十℃)には上昇してしまいます。マズイ事に、PVはパネルの温度が上昇すると1-2割は発電量が目減りしてしまうのです。ですから、これらの低温度の廃熱を上手く熱交換して利用する技術は、非常に重要でありながら、しかし殆ど実用化されていない事は悲しむべき事と言うしかありません。小規模分散型システムでこそ、エネルギーの多面的利用が実現し易いと思うのです。

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2016年8月25日 (木)

3098 小規模分散

大きいことは良い事ではありません。大量生産・大量消費の時代に持て囃された「大規模・集中化」ですが、もはやそれは死語になりつつあります。例えば、電力網です。かつて、電力は地方に分散する水力発電所や石炭火力発電所を核とした、ローカル企業が林立していた時代がありました。一時は40社を超える数の電力会社が存在しましたが、関東大震災を契機に集約が加速していったと言われています。現在は、10社体制まで集約化が進み、今の電力網が確立しました。もちろん、一国でありながら50Hz60Hzの混在と言う珍しい形でですが。

さて、大規模化の弊害ですが、いくつか考えられる中で、最大の問題点は送電線から生れるかも知れません。野を超え、山を越える送電線は、建設も大変な作業ですが、その維持もまた大変な労苦を求めます。災害などで、送電線網が切断されると、その影響(停電や電力制限)は長く続くでしょう。また送電線(アルミ線)の電気抵抗は、多大なジュール熱を発生させ、発電所からの正味電力に比べ、大きなロスが生まれます。荒っぽく見積れば、およそ10%弱は送電の過程で失われています事になります。送電線の建設や維持費用は当然の事ながら、電力料金に上乗せされていますから、知らない内に我々は費用を負担しているのです。他方で火力発電所や原発は「法定検査」がありますので、殆どの発電所では余剰設備を抱える事になります。数か月間の検査期間中は、予備の設備を動かす訳で、夏季のピーク電力対応を含め、30-40%の余剰設備を抱えているものと推定されます。これも電力料金のアップ要因となります。

一方で小規模分散システムとした場合は、これらの無駄をかなりの程度回避する事が出来そうです。もちろん、小規模システムでもメンテナンスを怠れば故障(停電)も生ずるでしょう。しかし、規模が小さければ小さい程、停電は狭い範囲に限定されるのです。送電ロスも生じませんし、究極の分散システムである、太陽光による屋根発電においては、夏季の冷房負荷のピークと発電ピークが上手く重なると言う、決定的なメリットが享受できるでしょう。このシステムでは、電力会社が保有する発電所は、むしろバックアップ的な使い方となるのです。

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2016年8月23日 (火)

3097 地域循環

ここでの「循環」とは、モノ・カネの循環を指します。高度成長期以前を思い起こすと、元々地域はそれぞれの狭い範囲内で、モノ・カネを循環させていました。少し規模の大きな町には、色々な家内工業や職人が居て、地域の需要を賄っていたのです。食糧はもちろん、刃物、桶・樽、調味料、農林業機械などなど、一通りの事が地域で賄えたのです。しかし、高度成長期を迎え、大量生産・大量消費を前提とする社会では、モノは設備の整った大規模工場で生産する方が「能率が良い」とされたのです。能率が良いとは、経済効率が良いとの意味ですが、一方でそれは「環境効率」が良い事は意味しません。というのも、自動化された大規模な工場では、確かに人手は最少で済むでしょうが、エネルギー消費は多大で、材料効率(部止まり)は低く留まるのです。

他方、かつての手工業は、多くの人手を掛けながら、しかしエネルギーは余り使わず、廃棄物も最少で済むのです。何故なら、かつてはエネルギー単価が高く、金属材料そのものも高価だったからです。相対的に、人件費は安かったので、手工業が成立していたのでした。しかし、環境負荷の面から考えると、大量生産・大量消費の時代は終わりにしなければならない事は明白です。エネルギーや材料の調達面、使用済み製品の廃却処理場の面から考えても、既に限界を超えてしまっているからです。

そうではなくて、私たちは再度地域循環の輪を広げ、新しい形でのモノ・カネの循環を取り戻さなければならないと思うのです。例えば、ドイツには「シュタットベルク」という、公共サービスを賄うシステムがありますが、日本で言えば水道局の様な仕組みですが、それにとどまらず、エネルギー、交通、熱供給などより広い分野の社会インフラをカバーしている点が特徴となっています。サービスを受ける側は、地域内で代金を支払うので、例えば石油会社の灯油を買う場合に比べ、地域内にお金の循環が生まれます。もちろん、そのエネルギー源は地域内に求める必要があります。バイオマスや風力やその他の再生可能型エネルギー源です。地域には、いわゆる「未利用資源」や「未利用エネルギー」が多く眠っている筈なのです。それらは、今は確かに「未利用」ですが、かつてはしっかり利用されていた筈なのです。それらを「新しい形で利用」すれば良いのです。その形は、大規模化ではなく小規模分散型である事は言うまでもありません。

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2016年8月22日 (月)

3096 台風多発

細かい雨台風が、数多く発生しています。台風のエネルギーは、主に水温の高い海洋から得ています。きっかけとなる小さな渦が、そのエネルギーを吸収して雲が成長し、地球の自転によるコリオリの力によって回転力を加えて台風に成長するのです。この夏は、いわゆる、夏の太平洋高気圧の張り出しが弱く、無風帯の海水温が高いので、いくつかの台風の卵が同時に発生しやすい状況にある様です。しかも、その台風の卵たちが北上してくる海域の水温は、例年に比べて3-4℃も高いので、台風に発達する段階で、更にたっぷりと湿気を吸収してから日本に近づいてくる訳です。

台風を加速するのは、上空を流れるジェット気流なのですが、これも現在は弱まっているので、台風はノロノロと迷走し、やがて北に向かいます。しかし、大型の台風を発生させる条件は整っていないので、小さな雨台風が数多く発生する年に当たっている様なのです。

さて、3092にも書いた様に、この様な傾向は長期的に固定化する可能性が髙い様なのです。即ち、従来の気候を支配していたジェット気流の、異常蛇行の固定化です。蛇行の山が来るか、谷が来るかによって、季節ごとの「平均気象」は、数十年振りの「異常気象」によって記録が破られ、その異常が固定化する事になります。それを別の言葉で表すなら、気象の振幅が大きくなっているとも言えます。これは、考えてみれば怖ろしい現象かも知れません。振動現象の振幅が「収束」する事なしに徐々に拡大していくと、最終的には「発散」するからです。かつて、アメリカ西海岸にあった吊り橋「タコマ橋」は、振動の発散によって崩落してしまいましたが、さて気象現象の発散が何を意味するのか、私たちはしっかり考えてみなければならないでしょう。

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2016年8月20日 (土)

3095 ホドホド

この国には、良い言葉や表現がたくさんあります。取り分け、程度を示す言葉は実に豊富である事は、暮らし方や身分や自分の状況を、細かく表現する事に、昔から熱心だったのだと思われます。オノマトペもあれば、日常使われる表現や四字熟語も豊富です。例えば、ホドホド、ソコソコ、人並み、無理なく、身の程、悠々自適、自給自足、無為自然、平穏無事などなどです。ご先祖様たちは、目立たず、平均的で、無理をしない、それこそホドホドの暮らしぶりを理想としていた様なのです。

それなのに、です。何時の頃からか、「大きい事は良い事だ」、「便利で楽な事も良い事だ」、「消費は美徳だ」といった、下品で安易な表現が蔓延してしまったのです。そこには、明らかに「価値の大転換」が起こった様なのです。モノが不足して貧しかった時代、ご先祖様たちは仕方がないので「ココロの満足」を重視するしかなかったのです。赤貧の中でも、短歌や俳句を嗜み、手遊びを考え出し、少ない食材から精進料理を編み出し、年に数回の祭りでストレスを昇華させるといった生活スタイルを工夫してきました。モノが豊富になり、使い捨てこそが経済を活性化する、と言った間違ったお国の政策誘導が、国の舵取りさえも狂わせてしまった様なのです。

モノを大切にし、修理をしながら大切に使って、モノの寿命を全うさせる、というスタイルこそ、日本的な暮らし方の基本だと思うのです。モノの寿命もホドホドの使い方をして、消耗部分を研いだり交換したりしながら使えば、道具だって何百年も使い続ける事も出来るでしょう。壊れたら買い換えて、古いものはポイと捨てる、こんな不遜な暮らし方はもうやめるべきでしょう。エンピツはキャップを嵌めて数ミリになるまで使うべきだし、文化包丁だって研いで、研いでペティナイフの様になるまで使い倒したいものです。ホドホドに食べて、ホドホドの暮らしぶりを崩さなければ、地球環境だって人類の生存をもう少し長く許してくれると思うのです。

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2016年8月19日 (金)

3094 元来た道

このタイトルでは、このブログを始めた10年ほど前にも書いたような気もします。人の記憶などと言うものは不確かなもので、気がするだけなのですが・・・。さて、私たちは何処で道に迷い、あるいは何処で踏み込んではいけないエリアに入ってしまったのでしょうか。それを示す言葉があります。Point of no-returnPONR=後戻り不可能点)です。その限界を超えると、もはや安全に戻る事は出来ない点であり、モノの形で言えば復元できない程の破壊を意味します。

もし、道を間違えただけならば、素直に引き返せば、元の道に戻れるでしょう。しかし、PONRを超えてしまった場合には、「遭難」が待っているだけです。PONRを超えてしまい、行方不明になった冒険家や登山家の何と多い事でしょう。人間の能力は、いくら鍛えたとしても限界があります。その限界を超える事が冒険なのですから、冒険家や登山家の遭難を無くす事は出来ないでしょう。しかし、人類全体や地球の環境自体を冒険家や未踏の荒野に比べる事は出来ないのです。何故なら、スペアが無いからです。名前を売りたい冒険家は、今後も出てくるでしょう。そして、これまでの冒険家が到達したリミットを超えようとするでしょう。しかし、地球環境や人類自体の存続に関しては、冒険は許されないのです。

PONRの例を挙げましょう。私たちは、核と言うパンドラの箱をこじ開けてしまいました。しかも、初めての核分裂の実用が原爆であり、動力としての利用が原子力潜水艦のエンジン、つまりは両方とも「兵器」であったことは、全く不幸な歴史だったと言うしかありません。幾多の国際的危機を乗り越えて、PONRのボタン(核ミサイルの発射ボタン)が、押されること無く今に至っている事は、まったくの奇跡と言うしかありません。少なくとも、私たちはこのアブナイ道具を放り出して、元のパンドラの箱に押し込む事が出来ない限り、PONRをドンドン超えてしまい、本当に後戻りできない事態に立ち至ることは断言できそうです。残念ながら。

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2016年8月18日 (木)

3093 想えば遠くに・・・

外国人観光客が月に200万人以上も押し寄せ、同時に外国人投資家が、国内の不動産を買い漁ると言った時代になりました。それで、業界によっては国内の景気が少し良くなり、GDPがやや改善したとして、それが一体何になるのでしょうか。カネのある者が、肩で風を切って闊歩し、そうではない普通の観光客が肩身の狭い思いをしてこの国の観光地を見放したとしたら、リピート客が減り、数年後には閑古鳥が鳴いているかも知れません。

不動産だって、投資家の目的は先ずは買い漁って価格を吊り上げ、続いて高く売り抜けて、大きな利益を上げる事にあるので、1980年代にあった不動産バブルの再現だとも言えるでしょう。私たちは一体何処に向かっているのでしょうか。世界の各地で紛争やテロが繰り返され、もはや安全だと断言できる場所は少なくなってしまいました。人々には、カネやモノだけを信じ、人は信じない風潮が蔓延してしまいました。将来が明るく見え、希望が持てた1970年代を振り返る時、私たちは随分遠くに来てしまった様な気がします。

私たちは、ソロソロ元来た道を戻って、家に帰る時に至ったのかも知れません。これ以上進んでも、目の前には暗い森だけがあって、日が暮れてきた今、危険な動物もウロウロしている様なのです。面白いものは無くなるかも知れませんが、家には平和があり、暖かい部屋や夕食が待っているのです。家から遊びに出てから手に入れた遊び道具(カネやモノ)を放り出し、家に帰る決心さえできれば、もっとココロ安らかに生きる事も出来ると思うのです。その想いは、最近ますます強くなるのです。

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2016年8月17日 (水)

3092 大気循環の異常

地表の気象は、大きくは大気の循環の状態に左右されます。間接的には、海洋の温度や大陸への日射量に影響されますが、その影響は大気に伝わって発現するのです。従って、大気の動き(風)が、地域の気象を大きく支配する事にもなります。一番規模の大きな風は、偏西風などの上空の風、いわゆるジェット気流でしょう。ずっと下層の風としては、低気圧や高気圧の気圧差によって生ずる地上風があります。これらの風は、地球の自転の影響を受けて、回転しながら吹き渡ります。高気圧からは時計回りの風が吹き出し、低気圧には反時計周りに風が吹き込みます。中層では、低気圧の上空へ吹き上がった風が、高気圧の上に降り注ぐのです。

これまでは、ジェット気流は北半球と南半球で分かれて吹いていました。しかし、近年両半球のジェット気流が、赤道を越えてつながる「クロスオーバー現象」が観測される様になってきたのです。これは一体何を意味するのでしょうか。北半球と南半球の上空を、整然と西から東に流れていた風が、赤道を越えて混じり合うのですから、そこには間違いなく大きな蛇行が生じ、南北半球の大気が混合することによるカオス=異常が生ずると予想できます。性質の異なる流体が混じり合う時、そこには渦が生じ、完全に混合するまでの間には、様々な「異常」が見られるでしょう。

それは、例えば暖かい気団と冷たい気団がぶつかり合う「前線」で起こる気象現象からも容易に想像できるでしょう。激しい上昇気流と下降気流によって、豪雨や突風などが引き起こされ、時には被害も起こるのです。それが、より巨大なスケールで起こるのですから、その影響は予測さえ難しいでしょう。何しろ、この現象は人類が初めて目にする現象な訳ですから・・・。私たちは、この現象を「目を皿にして」観察し、小さな気象異常にも注目してその拡大にこそ注意を払うべきなのです。

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2016年8月16日 (火)

3091 湿度のコントロール

いわゆる空調(エアコン)の制御は、温度コントロールに偏り過ぎていると思っています。温度は確かに体感温度に関しては支配的なファクターですが、快、不快の尺度を持ち込むならば、温度は、湿度、輻射温度、風速などの中の1要素に過ぎないのです。取り分け、高温時の高い湿度は、いわゆる不快指数を高め、熱中症の危険因子ともなるのです。日本の夏が厳しいのは、日射による高温に加えて、季節的なモンスーン気候に伴う高い湿度が相乗的に襲ってくるからでもあります。

現在のエアコンは、コンプレッサーで圧縮した冷媒を、急速に膨張させる事によってブライン(冷却剤)を作り、それを熱交換器に送って空気と熱交換する仕組みなのですが、結果的に空気中の湿度の一部は凝縮水となって湿度も下がる事になります。しかしながら、弱冷状態では除湿能力は十分ではなく、仕方なく設定温度を下げざるを得ない状況に陥るのです。

ここでは、除湿能力を高めた、「除湿冷房機」を開発してみたらどうかとの提案をしたいのです。デシカントを使って、先ずは湿度を大幅に下げ、オマケ程度に温度も下げるのです。湿度が、例えば40%以下のカラカラ状態に下げておくと、気温が30℃近くに上がっても、体の不快感はそれほど大きくはないでしょう。加えて、窓や壁や天井からの熱の侵入を遮熱材や断熱材で防いでおけば、不快感はほぼ無くなる筈なのです。熱中症計は、実は温度と湿度と輻射温度を同時に計測する計器ですから、そこに示される数値こそ重視すべきデータになるでしょう。この数字をコントロールするエアコンこそ、理想的な冷暖房機器になる筈です。温度と湿度が高く、不快な夏が来るたび、エアコンメーカーの考え方が修正される事を願わずにはいられません。

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2016年8月15日 (月)

3090 時間という尺度

終戦の日というタイミングで、歴史に想いを馳せ、時間について少し考えてみます。時間は、基本的には天体の運行、狭い意味では地球の自転、公転の時間が基準になっています。12進法を採用していた当時の先進国が、一日を24時間、1時間を60分などという、ややこしい刻み方を採用してしまったので、我々はそれに倣わざるを得ませんでした。もちろん、1365日と1/4日は、誰が数えても同じなので、それは飲み込む事にしましょう。

さて、時間の尺度が日単位であった時代はきっと平和でのんびりしていた事でしょう。今日出来なければ、1日遅れて明日に延ばすしかなかった訳です。しかし、人々が日常的に時計を目にし、その針の指す時刻を気にする様になって以降、私たちの生活は「針に追われる」生活になったのでした。朝○時に起きて、X時の電車に乗って、学校や会社に行き、12時に昼食を取り、夕方△時に帰宅する、という生活スタイルを指します。腕時計や懐中時計に「秒針」が追加されたのは一体いつ頃だったのでしょう。せわしく動く秒針は、慌ただしい現代の象徴とも言えるかも知れません。

時間は、いくらでも細かく分ける事は可能です。例えば、レーザー光の世界では、今やフェムト秒(10のマイナス15乗秒)という、単位が普通に使われる時代になりました。しかし、ここでは、例えば「短針しかない時計」を提案したいのです。せめて、1時間くらいを基本単位として暮らすライフスタイルを提案したいものです。時刻も、○時X分と表示するのではなく、○時頃、X時少し前などの表現で十分でしょう。待ち合わせでも、待たされる方はお茶でも飲みながら、あるいは文庫本を読みながら相手を待てば良いでしょうし、会社の勤務形態だって、大体の時間に出勤し、規定の勤務時間が終われば帰る、と言ったアバウトなもので良いでしょう。会議が必要なら、全員が集まる「コアタイム」に短時間で効率よく開催すれば良いだけです。時間を細かく分ければ分けるほど、私たちは自分達をせわしく暮すライフスタイルに追い込む事を認識すべきでしょう。物差しや時計は、目盛が細かい程正確であると言うものではなく、実用的な桁の目盛で十分だと思うのです。

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2016年8月14日 (日)

3089 新しいエネパ

3006で書いた「エネルギーパフォーマンス(=エネパ)」の枠を更に広げてみます。3006では、製造業や輸送などでのエネパを議論しましたが、もっと広い視野でというかより抽象的に考えてみれば、使った単位エネルギー当たりに得られた「利便や満足感」の大きさという指標が定義できそうです。例えば、乗用車に乗って移動する場合、石油を1リッター使って、10㎞の距離を移動した結果、雨にも濡れず、夏の暑さも感ずる事なしに、僅か10分で到着したとします。歩いて行けば、ずぶ濡れになったり、大汗をかきながら2時間以上も掛かるでしょうから、快適さと2時間近くの節約が、1リッターのガソリンの消費によって得られた「利便」という事になるでしょうか。

一方で、エネルギーの消費は、地球環境へ負荷を与えたり、そのためにコストが発生したりしますが、加えて最近は環境負荷を発生させる事への「後ろめたさ」もより強く感ずる時代にもなった様です。その後ろめたさは、誰に対するものかを察すれば、多分それは「まだ見ぬ子孫」へのものである事に気付きます。石油が潤沢に仕えた時代の我々世代が、地球環境が悪化し、オマケに石油の埋蔵量が激減して、価格も上がっているであろう将来と、その時代を生きなければならない子孫への申し訳なさなのです。

つまり、エネルギーパフォーマンスを、エネルギー消費と得られる利便の、単なる割り算だけで表現してはならないと思うのです。ココロの問題がすっぽり抜けてしまっているからです。ココロが痛んでしまう様な利便なら、それは除外して考えなければならない筈なのです。ココロの痛みとは、結局自分が得る利便が、自分以外の誰かか、まだ見ぬ将来世代の犠牲の上に成り立っている時に強く感ずるものだからです。例えば、自分の筋肉を使ってやや疲れたとしても、エネルギーを節約して、ココロの満足感が得られれば、ここで定義する新しいエネパ、即ち(ココロの満足感/使用エネルギー=新エネパ)は大きく向上するでしょう。体に楽をさせるのが20世紀型の「利便」目標だとすれば、体を動かしてココロを喜ばせる事こそ21世紀型の満足度の指標とすべきなのでしょう。

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2016年8月13日 (土)

3088 会社の機能2

会社組織を、ステークホルダーの利益からスタートした場合の代表例が「NPO法人」でしょうか。この国では阪神淡路大震災後に急激に拡大しましたが、この種の組織で残念なのは、スタートダッシュで活躍しても、設立コアメンバーが疲れてしまって抜けたり、初期の意気込みが萎えたりして、やがてはフェイドアウトしてしまうケースが多い事でしょう。投稿者自身もNPOの設立と運営に長く関わった事がありますが、やはりこの壁に突き当たり、別のコアメンバーに交替して貰って、再活性化が出来た例を目撃しています。

NPOの例では、機能を優先するあまり、組織自身の利益(あるいは運営メンバーの分け前)が殆ど確保できない結果、いわゆるボランティア組織に陥り、推進力が弱ってしまうのだと想像できます。3087で、会社組織が利益優先に走るのと逆で、機能だけを優先する(NPOの様な)組織もまた、長続き出来ないと言う例になるのかも知れません。人は、「意気込みだけでは生きていけない」生き物なのかも知れないとも思っています。

いずれにしても、利益を優先し、組織以外のステークホルダーを軽んじてもダメだし、逆に機能を優先するあまり、組織がボランティア活動化する場合も、やはり長続きしないと言う、ここでの結論になりました。これを回避するには、ボランティア活動の要素をもった活動で、利他の満足感に浸りつつ、一方では多額ではないにしても、贅沢をしなければ生きていくのに足りる程度の利益確保のバランスが重要な訳で、その意味では会社の経営者や儲けないNPO法人のトップは楽な商売であり、本当に利益と機能のバランスが取れている組織のトップには、真の意味での「高度の経営センス」が要求されるのかも知れません。

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2016年8月12日 (金)

3087 会社の機能

このブログで重視している考え方で重要な部分を占めるのは、「ものの機能」という見方です。何らかの作用を及ぼす「もの」には必ず「機能」が存在すると考えているからです。ここでは会社の言うものの機能を考えてみる事としましょう。会社には、いくつかの機能があるでしょう。例えば利益を上げると言う重要な機能が考えられるでしょう。いくら、優れた機能を有する企業であっても、適正な利益が上げられない限りその会社の存続はあり得ません。赤字が続けば、企業の再生産のための投資が出来なくなり、失活してしまうからです。

しかしながら、利益だけを優先する企業もまた、中長期で見れば、その存続は強く危ぶまれます。何故なら、企業存続の重要な源泉の一つは、顧客の信頼を得て「リピート受注」を継続させる事にあるからです。もし、企業が利益優先主義に走った場合には、間違いなく顧客の信頼を失い、徐々に、または急激に売り上げも低下してくるでしょう。それは、ステークホルダー全体を俯瞰した時に「片利」に陥っている不安定な状態に他ならないからです。理想は、もしステークホルダーが二者なら「相利=Win/Win」、三者ならその三者が相応の利益を享受する様な枠組みを必要とするからです。

結局、企業に望まれる機能としては、関係全体を俯瞰しながら、自社とステークホルダーにとってバランスの良い利益を継続的に出し続ける、努力が必要な筈なのです。とは言いながら、切羽詰まると企業は自社の生き残りばかりしか考えなくなるので、いわゆるProfitcenterd(経営優先)戦略に走る事になってしまいます。企業の「社是」として、何らかの形で「共存共栄」を掲げている企業は、一応バランスの良い経営を目標としているとは言えるでしょう。その様な、バランスの良い企業が極端に少なくなってきている現状を憂えます。

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2016年8月 8日 (月)

3086 O&M4

O&MM(保守)の部分で重要なポイントは、オーバーホール(分解整備)です。特に、回転部分やスライド部分(いわゆるメカ部分)が多い装置、車や家電と言った「機械」には、オーバーホールが不可欠なのです。というのも、例えば軸受(ボールベアリング)などにも、時間寿命があるからなのです。もちろん、殆どの機械で、軸受が設計寿命の中で時間寿命を迎える事は少ないのでしょう。とは言いながら、軸受寿命にとっての大敵は、実は「停止期間の長さ」なのです。停止ししている間、軸受のボールとレース、あるいは軸と軸受は、同じポイントで接したままになっています。停止して荷重が掛かっている状態では、そのポイントでは潤滑油が切れて、メタルとメタルの接触になっているのです。そこに、湿気あるいは静電気などの微弱な電位などが存在するだけで、金属軸受の腐食が進んでしまうのです。

その意味で、多くの場合、機械は(動いている時ではなく)停止している間にこそ劣化が進むのです。それは、毎日過酷な条件で運用される、長距離トラックや高速バスの寿命は、実は設計寿命の何倍も長いと言う事実で証明されているのです。毎日運用される機械は、潤滑油さえ切らさなければ、部品の劣化は「自然摩耗」の範囲内に留まり、その程度は設計寿命に比べて十分に(何倍も)長いのです。

逆に稼働している時間よりも、停止している時間が圧倒的に長い、農業機械などは、まさに停止している期間内に劣化がドンドン進んでしまう訳です。機械の泥を丁寧に落とし、錆び易い部分に植物性の油などを塗り、1週間に一度くらい動かしてやる事により、これらの機械も十分に寿命をまっとうさせる事が出来る筈なのです。結局、モノの無い時代には、ご先祖様たちは、どんな機械でも後生大事に慈しんできました。しかし、モノの豊富な時代になって私たちは、あまりにもモノを軽んじて、粗末に扱ってしまっている様なのです。この項終わります。今晩から小旅行のため、休稿です。

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2016年8月 7日 (日)

3085 O&M3

OMO(運用)の中で、最も重要なポイントの一つは、実は潤滑なのです。動く部分のある、機械や設備には、必ず潤滑が施されています。多くの潤滑ポイントは、グリースが封入された軸受なのですが、歯車やスライド面やヒンジ部分なども潤滑を必要とする重要な可動ポイントでもあります。潤滑の目的は、もちろん滑りや転がり摩擦を減じて、円滑な運動を確保するためですが、同時に可動部と固定部相互の磨滅を防止する目的も兼ね備えるのです。金属と金属が相対運動をする場合、異種金属では柔らかい方が磨滅し、同種金属の場合は「かじり」が生じます。かじりと言うのは、意図しない圧接の様なものだと言えます。

しかし、コンポーネント間の相対運動部に潤滑油が存在すると、滑り摩擦も、転がり摩擦も大きく低下するのです。油膜は、さながら氷とスケート靴の間の水の膜の様に、金属間の摩擦を減ずるのです。その結果、金属同士の運動により磨滅が防止でき、機械要素の寿命が大きく伸びる事につながります。潤滑という狭い意味よりもっと広い「摩擦低減」全体を意味する言葉(学問)はTriborogy(トライボロジー)と呼ばれますが、摩擦の低減はひいては、省エネにもつながるのです。

とは言いながら、保守作業の中で潤滑はそれほど重視されているとも思えません。精々、潤滑油が規定レベルより低下していないか、チェックされる程度でしょう。しかし、潤滑油は汚染されますし、劣化もするのです。塵や磨滅した金属粉により、潤滑の界面に異物が混在し、金属部品の磨滅を加速しますし、潤滑油の酸化などの劣化によって摩擦を低減させる能力も低下するのです。保守作業の中では、潤滑油の汚濁度や性能劣化の評価を行い、油の寿命が来る前に交換する必要があるのです。もちろん、交換に当たっては機器内を洗浄する「フラッシング」作業も不可欠である事は、保守の常識と考えるべきでしょう。

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2016年8月 6日 (土)

3084 O&M2

O&Mを意識する上で、重要なポイントがいくつかありそうです。先ずは、設計寿命でしょうか。その設備やインフラや家電や車を設計する際に、一体どの程度の製品寿命を頭に置いて設計したかが問題なのです。モノには、言わゆる原価焼却期間というものが決まっていて、例えば8年とか16年とか、カテゴリー別に決まってはいます。しかし、それは税制上の決まりであって、減価償却期間が終わったからと言って、直ちに更新出来るのは、財務状態が良好な金持ち企業だけでしょう。例えば、車で言えば、減価償却期間は僅か4-6年となっています。機械装置で言えば8-10年程度、建物では20数年(木造)から50年(コンクリートの事務所など)となっています。

しかし、O&Mを適正に管理すれば、償却期間の2倍程度の寿命は十分に確保できる筈なのです。例えば農業用機械を考えてみると、償却期間は7年ほどと設定されていますが、機械が年間に稼働する日数は数えるほどでしょう。長い期間、納屋や倉庫にほったらかしにされている結果、車軸にはサビが発生し、バッテリーは劣化し、エンジンの起動もぎこちなくなるでしょう。もし、週に1回ほどエンジンを掛け、錆びやすい個所には油やグリースを塗っておくならば、多分20年位の寿命は十分確保できる事でしょう。

乗用車だって、10年あるいは10万キロで寿命が尽きる筈もありません。毎日通勤に使う様な、継続的な運用では、楽に20万キロは走らせる事が出来ます。当然の事ながら、タイヤを含むゴム部品とか、ブレーキパッドなどの消耗部品は交換してやる必要はあるでしょう。結局は、装置全体としての設計寿命の他に、それとは異なる(多くはかなり短い)部品個々の設計寿命があり、そのバランスをどう取って行くかが、設計寿命を全うし、あるいはそれを倍増するための必要な作戦になるのです。

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2016年8月 5日 (金)

3083 O&Mの重要性

O&Mは、たぶん今後の重要なキーワードになるでしょう。これは、Operation(運用)とMaintenance(保守)の略なのですが、今はどこの企業の設備でも社会インフラでも、家庭用の機器も含めて、全くと言って良い程重視されていない様に思うのです。かなり昔に遡れば、この国にはモノや設備を大切にする文化がありました。何しろ、モノが少ない資源小国だったものですから、海外から輸入した設備などは、コピーして作った部品を交換しながら、後生大事に使い込んだのでした。

しかし、何時の頃からか、規格化された量産品の設備や、行動成長期に量産された?社会インフラ、あるいは家電に至るまで、安く大量に作ると事には熱心だったものの、保守や修理は殆ど留意されなかったのでした。理由は簡単で、壊れればリプレイス需要が生まれるので、メンテナンスの必然性は弱かったのです。従って、例えば車なども、修理を前提としては設計されなくなって、ユニット毎の交換が当たり前になってしまったのです。当然の事ながら、個々のユニットの耐久性は、ホドホドに設定され、車であれば10年も経てばスクラップにして買い換える事が暗黙の前提になってしまったのです。

しかし、上手く運用し、適正に保守を行えば、設備やインフラなどと言った「ハードウェア」は、信じられない程長く出来るのです。具体例で言えば、動態保存されている蒸気機関車などは、作られてから優に100年前後は経過している筈なのです。もちろん、動く状態で保存する努力は並大抵ではないでしょう。スペアパーツなどは存在しないでしょうから、寿命が来た備品は新たに作るしかありません。でも、機械などと言うものは、潤滑油にしっかり気を使い、ギャップなどの点検項目をしっかりチェックして調整し、必要なインターバルで分解整備を行えば、人間の寿命以上に長持ちさせる事も可能なのです。例えば、1台の車を親子三代で乗り継ぐ、と言った事も実現は可能なのです。重要なKWなので、本稿は続きます。

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2016年8月 4日 (木)

3082 時間の「消費」

3081の続きです。消費行動には、モノの消費とサービス(機能)の消費があると思っています。実際に手で触れ、あるいは舌で味わうことの出来るモノを買って、使ったり、食べたりする行動がモノの消費です。いわゆる耐久消費もいつかは使えなくたってゴミになるでしょうし、食べ物も消火されてエネルギーやUンチに化ける事になります。つまりは、モノはやがて消えて無くなるか、リサイクルされるか、あるいは埋め立てゴミとなって半永久的に残るかの運命を辿る事になります。

一方、サービスや機能の消費はどうでしょう。例えばマッサージというサービスを受けたとしても、受けた側の体に何か目立った変化が現れる訳ではありません。血液やリンパ液の流れが少し良くなって、硬くなっていた筋肉も少しは弛緩するかも知れませんが、モノに変化が生ずる訳ではありません。ではゲームはどうでしょう。いくつかのボードゲームは、確かに実体があり、駒やカードにも形があります。しかし、実際の遊びの中で、それらのモノの形が変化してしまう訳ではありません。ゲームが終わればご破算に(リセット)されて、新たなゲームに使うことが出来るでしょう。スマホのゲームは、それらの道具を画面の中に造っただけで、本質としては変らないでしょう。

結局、ゲームで消費しているのは、プレイヤーの持っている「時間」であって、得られるのは強い、あるいはそれなりの「達成感」になる訳です。とは言いながら、昨今のゲーム・ブームの持続に関しては、ゲームを嗜まない投稿者としては、やはり眉をひそめない訳にはいきません。結局、多くのゲーマーが持っている時間が、徒に「消費(暇つぶし)」されていまうからで、もしその時間を恋愛なり、生産的な活動に使った場合の事を考えると、この国の出生率やGDPも少しは改善するだろうに、と本当に残念なのです。

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2016年8月 3日 (水)

3081 ブームも75日

Pケモンを話題に取り上げることにも飽きたのか、既にマスコミのヘッドラインのKWとしては、既にピークは過ぎた様です。実際にも、もし3か月後にもどこかの公園やスポットに、スマホを握って人が殺到するなどの現象が残っているなら、それは別の意味で驚異でしょう。世間の噂が75日もは継続しない様に、あらゆるブームも三月もすれば、そんなブームなどまるで無かったかの様に、忘れ去られている事でしょう。もし、その痕跡が見つかるとすれば、年末に募集される新語・流行語の中にかすかに出てくるかも知れません。

このブームも、他の多くのブームと、どうやら人々は、常に何か熱中する対象を求めている様なのです。それは、何も今に始まった事ではなく、人々が群れて暮らす様になった、例えば江戸時代にもあった様なのです。何か、人々を引き付ける事件の発生を奉ずるかわら版や、それにヒントを得た芝居や浮世絵など、多分2-3か月は人々の話題に上った事でしょう。しかし、人々は直ぐに「飽きる」のです。これは、多分私たちの「脳のクセ」なのでしょう。新しいもの、他の人が夢中になっている様な事が無性に気になると言うクセです。もし、これが無いと群れで暮らす場合には、「群れからはぐれる怖れ」があるからなのでしょう。取り分け、この国の人々は、このクセが強い様なのです。

しかし、一方ではブームが去るのも早い様で、この忙しい時代、ウワサ話だって75日もは持続しないでしょうし、ブームも同じ事でしょう。もし、マスコミが1か月後もPケモンゲームを話題にし、一般の人達がモンスター探しに血道を上げている様であれば、まさに異常な状況だと考え直さざるを得ないでしょう。その時は、この投稿を取り下げる事にしましょう。熱しやすく、冷めやすいと言う、脳のクセには今後とも注意を払っていく様にしたいと思います。

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2016年8月 1日 (月)

3080 IoTしかないのか?

マスコミには、毎日の様にITとりわけIoTという言葉や文字が出てきます。日に何度もです。お国もお国で、第三の矢は、観光とIoTしかないとまで言い切っている様でもあります。果たしてそうなのか、少し考えてみます。時々というか頻繁に、目的と手段について気になります。つまり、多くのケースで目的と手段が逆転している事に気が付くからでもあります。一体誰が観光だとかIoTだとかの目的を真面目に考えているかですが、これらを提唱しているお役人は、結局は手っ取り早い目先の結果を求めているだけの様に見えるのです。結果とは、言わずもがなですが、取り敢えず景気が良くなった、国民所得が少し上がり、同時に物価が2%くらい上昇すればOKという、非常に安易なものの様です。

だったら、そのための手段は何も観光やIoTでなくても良いのでしょうし、そもそもそれらは手段ではあっても、決して目的にはなり得ないものどもなのです。もし、観光が目的なら、取り敢えずは円安を誘導して、せっせと国外からの観光ツアーや買い物ツアーを誘導すれば済む話でしょう。その内に、海外資本が割安になった観光地の土地やホテルを買収し、自国からの観光客を勝手にひっぱて来るでしょう。「統計的」には、入国する観光客は急増するでしょうが、利益は根こそぎ国外に持ち去られる事になる事でしょう。つまり、手段としての観光誘致政策は、見かけ上は今後とも成功している様に見えても、目的はさっぱり達成はされないのです。

IoTについても全く同じです。IoTを使って一体どの様な社会を目指すのかの議論をすっ飛ばしておいて、全てのモノに「ものを言わせ」それをネットで繋げる事に、一体何の目的があり、理想があると言うのでしょうか。確かに、湯沸しポットや冷蔵庫にものを言わせれば、独居老人が生きているのか、そうでないのかは分かるかも知れませんが、果たしてそれで目的(たぶん孤独なお年寄りを見守り、安寧な老後を保証するなどという)が達成されるのかは不明です。IoTの「その先」が描かれていないからです。先ずは、目的(ゴール)や将来ビジョンをを明確にして、そこに使われる手段の一つとしてIoTを位置付けるのが正しいアプローチだと思っています。「第三の矢」に感ずるモヤモヤは、その目的が明確になっていない点にこそあるのでしょう。

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2016年7月31日 (日)

3079 最強の温暖化効果ガス

温暖化の原因として、二酸化炭素が「悪者ガス」の筆頭に挙げられますが、実のところ最大・最強の温暖化効果ガス(GHG)は「水蒸気」である訳です。何せ、二酸化炭素は百万分率(ppm)で計られますが、水蒸気は百分率(%)で評価される訳で、絶対量で言えば4桁もの差がある訳です。水蒸気は、確かにマイルドな温室効果しか及ぼしませんが、その絶対的な量で、あらゆるGHGとは比べものにならない程の温室効果を発揮するのです。

もし地球にGHGが全く無いと仮定した場合、現在14-5℃となっている平均気温は、マイナス20℃程度に低下すると言われています。地球は、ラッキーな事に大気と海洋の星となりましたので、太陽からの絶妙な距離と相俟って、生き物が棲むに最適の条件が整ったのでした。その地球が、今急速な温暖化の危機に晒されていますが、どうやら人為的なGHGに加えて、上昇した気温が海面からの水蒸気の蒸発を促し、温暖化を加速している様なのです。海水温の上昇は、例えば北極海の海氷の消失に顕著に現れています。

大洋の海水は、熱塩循環と呼ばれる千年単位のゆっくりした対流に支配されていますが、これは深海は一種の蓄熱槽になっている事を意味します。今、大洋のいくつかの場所で深海から再び海面に湧きあがってくる海水(湧昇流)が、果たして徐々に温度上昇しているのか、あるいはそうでないのか、長期的なデータが殆ど無いので、想像するだけですが、その海水には実はメタンなどのGHGも溶け込んでいるので、温度ばかりではない影響を大気に及ぼすと見られます。

地表の気温は、日々上下を繰り返しますが、大気中の湿度が高い場合、日没後の気温はなかなか下がりません。そこに、翌日の太陽からの日射が注がれると、結果的には近年急増した「真夏日」や「猛暑日」が普通に現れる事にもつながります。ここでの結論としては、私たちはもっと湿度、取り分け大気中の絶対湿度に注目する必要がある、としておきます。

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2016年7月30日 (土)

3078 ニーズのレベル

市場のニーズ、二―ズと言いながら、ニーズにもレベルと言うものがあるでしょう。例えば、「喉から手」レベルもあるでしょうし、「日々の暮らしに必須」レベルもあるでしょう。また趣味の領域で、「あればとてもうれしい」レベルもあれば、「あったらあったで便利」レベルから、最低の「あっても邪魔にならない」レベルまで、必要度においてバラつきがある筈です。なので、メーカーや企業が、モノやサービスを、どの様なレベルのニーズに向けて提供するものであるかは、よくよく吟味してみる必要があるでしょう。

もちろん、モノやサービスを実際に買おうとする消費者の、その時の懐具合も大きな問題ではなります。いくら欲しくても、先立つものが無ければ、如何ともしがたいでしょうから。消費者が欲しいと思った製品やサービスが市場に存在し、その代価が懐具合と欲しさ加減の綱引きで、後者が勝った場合に、実際に彼(彼女)は、財布を片手に店に走るのです。

しかし。日々の暮らしに必須の、衣食住や交通手段やエネルギーについては話は別です。生きていくため、あるいは日々の糧を得るための仕事をするために、不可欠なモノやサービスは、それを抜きには生活が続けられないでしょう。例えば、投稿者が住む北国のデータベースによれば、1所帯当たりの熱需要(つまりは給湯暖房用などのエネルギーですが)は、年間30万円以上もあるとされています。現在、その多くは石油(灯油)で賄われているため、化石燃料には強いニーズが存在し続けています。高々8万人ほどの人口しかない地域ですが、熱需要を金額に換算するとなんとおよそ300億円にも上るのです。

何も弱いニーズに向けて、無理やり製品やサービスを提供する必要はないのです。上の例で言えば、灯油に代わる熱源を作って提供してやれば、300億円の何割かの市場を掴む事も可能だと言えます。たった1割だって30億円の市場につながるのです。これを太陽熱やバイオマスなどの再生可能エネルギーで賄えば、地元に新たな市場を形成できるはずなのです。そういうアプローチこそが、地域創生の中身でなければならないでしょう。

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2016年7月29日 (金)

3077 スモールビジネス

スモールビジネスについてもう少し続けます。スモールビジネスとは、文字通り小さいサイズの商売です。例えば、従業員が30人ほどの企業があったと仮定すれば、その内の1人か、0、5人ほどの給料が賄える程度のビジネス規模を指します。つまり、数人の人が少し残業をして頑張ればどうにか始末できるくらいのビジネス規模でスタートするのです。この程度だと、もし目論見が上手く行かなくてもその会社が傾いてしまうこともないでしょう。

もし幸運に恵まれてそのスモールビジネスが前に進むのであれば、残業する人の人数を増やし、生産量を上げていけば良いのです。そして、何人かの給料が賄える規模に拡大した時点で、例えば設備投資などの「手」を打っていけば良いわけです。実は、これは先人が事業を起こしてきた方法のコピーに過ぎません。あの巨大企業となったM下電気(Pナソニック)でさえ、創業時は電灯の二又ソケットを作っていた手工業メーカーだったではありませんか。

結局は、スモールビジネスであっても、大きなビジネスであっても、市場のニーズへの「感度」が重要である事に変りはないでしょう。今ある設備や人材を転用して、新たな製品やサービスを提供しようと目論んでも、ニーズが動かなければ一人相撲になってしまうからです。ニーズを掘り起こすのは実は結構骨が折れます。つまり、自分や周りの人が欲しい製品やサービスだと確信しても、では実際に消費者が財布を開いてお金を払ってくれるかどうかは別問題だからです。つまりは、ニーズのレベルの問題です。これについては稿を改めます。

幸いな事に、現代社会ではネットというコミュニケーション手段が発達しています。多くのスモールビジネスは、ネットで評判になって拡散していったものが多い様です。その際、製品やサービスの持つ市場価値と、値付けのバランスが重要で、髙過ぎず、安過ぎない値付けが不可欠でしょう。

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2016年7月28日 (木)

3076 地域創生?

マスコミで毎日の様に言及される「地域(地方)創生」という言葉を少し噛み砕いてみます。地域は昔からそこに存在するのであって、今更何を「創るのか」という突っ込みもできますが、今のお国のリーダーの「お経」で言えば、3本目の矢で地方を活性化させるための地方版の「お経」という事になるのでしょうか。確かに、地方では少子高齢化の流れが、国の中でも加速度が大きく、今投稿者が住んでいる県や地域では、減少率が1%を超える勢いなのです。その中で、創生策だとか活性化のために打つ手は限られそうです。

例えば、以前から言われている農林水産物を地元で加工して売る、いわゆる6次産業化の動きがありますが、残念ながらマーケティングや流通力の弱いままでは、生業にはなり得ても、産業には育ちにくいでしょう。また、「観光産業」に「インバウンド」などというカタカナ言葉を当てて、海外からの観光客を地方に誘導しようと言う安易過ぎる「政策」を打ち出して、お役所を作った上で大臣まで任命しているのです。一体今の観光ブームが何時まで続くと考えているのでしょうか。日本観光など、海外旅行が出来そうな海外の富裕層も、一巡すれば何度もリピートするとは考えにくいでしょう。これらの策が行き詰った時、次の矢はとしてどんなものが準備されているのでしょう。新たな赤字国債で予算を組めば、地方創生が進むと言うものではない事は明らかです。

しかし地方の「売り」は決してこんなものではないでしょう。食や住の安全は、何物にも代えがたいでしょうし、物価の安さを考えれば、あくせく働くなくてもどうにか暮らせるでしょう。地域の暮らしにくさは、実はエネルギー(石油やガスなど)や工業製品を地域外から移入しているために、それらが物価を押し上げている点にあるのであって、食・住は、都市住人には信じられない程安く手に入るのです。もちろん、サラリーをしっかり貰える職は少ないので、自ら何らかの生業を創り出す事は必要でしょう。言わゆる、現在地場産業と呼ばれているものだって、先人が小規模で始めた生業がスタートだった筈で、始めるのは「スモールビジネス」で十分なのです。

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2016年7月27日 (水)

3075 ココロの闇

まるで海外のテロ事件の様な悲惨な事件のニュースが流れました。海外での銃乱射事件やトラック暴走事件も壮絶ですが、それらとあまり変わらない凄まじさです。こうなってくると、やはり事件の背景を考えてみない訳にはいかないでしょう。もちろん、犯罪心理学など全くの門外漢の投稿者に上手い分析が出来る筈もありませんが、素人にもココロの闇は確かに見えている様に思えるのです。他人に憎しみを抱く事は、例えばイジメの被害者などには十分あり得るのでしょう。しかし、殺意となれば、しかもそれを実行するとなれば話は全く異なってきます。ココロの問題から、行動の問題にジャンプするからです。思う事と、行動する事にはかなりの位置エネルギーの差があると思うのです。

他人を殺したいほど憎むのと、実際にそれを実行する事には、結果において雲泥の開きがあるのです。つまり、どんな危険な事を思っても、それは思った人のココロの中の嵐ですが、実際に手を下してしまえば、取り返しのつかない「結果」が生まれてしまうからです。その境界を越えてしまう事は、やはり人間としてのココロが、突然何者かによって真っ黒に塗りつぶされてしまったとしか考えられないのです。

その「何か」ですが、取り敢えず思い至るのは、明るすぎる社会の底に出来る影の存在です。太陽が明るければ、明るい程くっきり影を作りますが、実際には空全体も光を放っているので、影が完全に闇になる訳ではありません。しかし、真昼でもなにか箱の様なもので完全に光が遮断された場合には、真っ暗な闇が存在してもおかしくはありません。その意味で現代社会は、少し外れた人を阻害する「生き辛い」世の中になってしまったのかも知れません。社会から弾き出された人たちは、影の中に、やがては暗い闇の中に籠るしか生きる術がなくなるのでしょう。何処から、何時からこの様な(闇の多い)嫌な時代に入ってしまったのか、私たちは猛省する必要があります。

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2016年7月26日 (火)

3074 各種症候群

成長症候群というKWが出たついでに、各種の症候群について記しておきましょう。ヒトや社会は、どうやら上手く方向を切り替えながら進む事が苦手の様なのです。よく人生や社会の悪循環とか好循環とか言い方をしますが、この言葉が表す様に、事態はグルグル循環を繰り返し易いと思われるのです。別の言葉でハマると言う言い方をしますが、ツボにハマってしまうと、取り敢えずは快適なので、なかなか抜け出る意欲が湧かないのでしょう。

ある病気にハマってしまい、いくつかの症状を発する事を「症候群」と呼びますが、ヒトや社会も種々の症候群にハマり易いのでしょう。3073では、社会の「成長症候群」に言及しましたが、その他にもヒトや企業の「金儲け症候群」、ヒトの「ギャンブル症候群」、社会の「悪者探し症候群」あるいは「現状維持症候群」や「アイドル作り症候群」などなどが挙げられます。つまりは、ヒトも社会も企業も、何らかの形で「偶像を祀り上げ」それを維持する事で、モチベーションを保とうとする「力学」が働くと考えられるのです。

そうではなくて、私たちは種々の病気に立ち向かわなければならないでしょう。そのためには、先ずは「診断」が必要です。自分が、社会は、あるいは自分が属するコミュニティが何らかの病気に罹患していないか時々診断をしてみる必要があります。病気を直接特定する事は、なかなかに難しい事ではありますが、幸いな事に症状を観察する事は比較的容易です。社会で言えば、多くの人が、何か特定の人やモノや現象に夢中になっていないかを第三者的な視点で観察してみれば良いでしょう。その結果、その他のより注目すべき事象が無視される様であれば、明らかに良くない症状に陥っていると見るべきでしょう。古くから、為政者は各種症候群を上手く利用してきた事は歴史の教えるところでしょう。一度「穴」にハマってしまうと、そこから抜け出すには結構なパワーが必要なので、穴に落ち込まない様に注意を払う事も大切ですが・・・。

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2016年7月24日 (日)

3073 持続可能性

この言葉を何度このブログで使った事でしょう。投稿者が、何となく社会の行く末に不安を抱いたのは、多分1970年代の後半の事だったでしょうか。当時の風潮は、オイルショックでの一時の停滞はあったものの、「日本列島改造計画」だの「大きい事は良い事だ」などと言った、右肩上がりの時代背景に、行け行けドンドンのムードが支配していたのでした。来年は、今年より経済規模がグンと拡大し、給料も確実に上がり、それで車や新たな家電を買い足し、和洋中のグルメを口にし、旅行などいわゆる旅行やレジャー産業も拡大の一途だった様に思い返しています。

物価も同じように右肩上がりで、土地や住宅の不動産価格も給料以上のカーブを描いて上昇を続けていたのですが、庶民は給料が上がり続けていたので、強気でローンを組んで、高額商品や不動産も買い込んでいたのです。しかし、飽和しない上昇カーブの行き着く果ては、カタストロフィー(破局)しかないと指摘する「破局の理論」と題された本を手にするに至って、投稿者としても持続可能な社会の重要性を強く意識するに至ったのでした。旅客機でも同じですが、離陸した機体は高度を上げつつも、やがて上昇を止めて水平飛行に移りますが、それも目的地に近づくにつれて再び高度を下げて着陸態勢に入るでしょう。もし、パイロットのミスであるいは計器が故障して高度を上げ続けたと仮定した場合、規定の高度を超えると、最悪の場合機体が空中分解を起こすなどの大事故(カタストロフィー)に至るのは間違いないでしょう。

私たちの社会は、とっくに水平飛行に入っていなければならないと思うのですが、それを認めない人達は未だに「経済(成長)至上主義」を捨てられないでいるのです。実のところ、資源やエネルギーの賦存量や環境負荷を考えれば、今世紀に入った辺りで、私たちはやや下降に入るフェイズに入らなければならない筈なのですが、事態は逆で、更なる経済規模の拡大を止める事が出来ないのです。最早これは「成長症候群」と呼ぶしかない重い社会病なのかも知れません。

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2016年7月23日 (土)

3072 Pケモノミクス?

歩きスマホを強要するアプリがブームの様です。何時も、何かのブームの度に感ずるのは、人はどうやら本能的に熱中できる何かを求めている様だ、との想いです。それは、生きるのに必死である時代には生活苦に隠れているのでしょうが、江戸時代の様に、世の中が安定し、どうやら日々の暮らしも安定してくると、人々のブーム好きが頭をもたげてくるのでしょう。寺社参りブーム、冨士登山ブーム、朝顔ブーム、観劇ブーム、旅ブーム、俳句ブームなどなどが頭に浮かびます。

現代でも、健康ブーム、卵型のポケットゲーム、ディスコブーム、投資ブーム、海外旅行ブーム、グルメブーム、ボランティアブーム、携帯電話ブームとそれに続くスマホ(アプリ)ブーム、各種のスポーツブームなどなどがあったり、今も続いたりしています。

あれもこれも、結局は人々の価値観がどっしりと安定していない事に起因するのではないか、と投稿者はみています。もし、ある人の人生において価値観が安定しているものであれば、行動の優先順位も自ずと決まってくると思うのです。例えば、他の人の役に立つ事が価値観の大きな部分である人が多ければ、ボランティアは一時のブームではなく、持続する底流となっているでしょうし、現代の様に弱者が切り捨てられる時代とはならなかったでしょう。

私たちは、何か面白いもの、熱中できるものを探し回る前に、先ずはじっくり自分の価値観を見つめ直してみるべきだと思うのです。それに人生を懸けるかどうかは別にして、仕事の他に余裕が出来た場合には、取り敢えずコツコツと、自分が価値を感ずる行動を続ければ、長い人生の中では、何事かを成し遂げる事も出来そうな気がします。

さて投稿者が人生の後半で何に価値観を見出したかですが、やや抽象的にはなりますが「持続可能性」という価値だったのです。だからこそ、環境の持続可能性に注目し、「環境おじさん」に脱皮したのであり、長い間技術者であった事を何らかの形で「持続可能な産業」形成の役に立ちたいと志したのでした。書いている内にPケモノミクスの話題からは大分離れてしまいましたが・・・。

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2016年7月22日 (金)

3071 全自動なんか○○喰らえ

現代社会では、何でも全自動にしたがります。電化製品の多くは、マイクロコンピュータが状況を確認し、洗濯であろうが、料理であろうが、掃除であろうが、勝手に「処理」してくれる事を売りにしているのです。いまやそれが、人の命に直接関わる車の運転であってもです。しかし、ここで投稿者がどうしても納得できないのは、家事と車の運転を同じレベルの話として片付けようとしている風潮です。家電は、異常事態が起こっても自動的に停止すれば、それ以上の事態の悪化は防げるでしょう。

しかし、公共の場所や路上を高速で走っている車の場合、異常を検知して自動的にハンドルを切ろうが、自動ブレーキが作動しようが、惰力走行距離が生ずるので、結局は事故が避けられないケースも多いでしょう。しかし、多くの場合、起こってしまう事故では、良くて大けが、悪くすれば命に関わる事態も避けがたいのです。

一方で、多くの機器が全自動になった場合、オペレータである人間を無能化するデメリットも大きいのです。つまり、機器の操作は元スイッチを入れるだけで終わりなので、オペレータは機器の構造を理解する必要もありません。従って、電池切れなどの簡単な故障でも、それを直す事など考えもしないでしょうし、修理能力も失われてしまうのです。

そうではなくて、出来ればメーカーには手動操作の余地を残すか、自動・手動の切り替えが出来る様にしておいて貰いたいものです。そして、オペレータには是非機器の構造を知る努力を惜しまないで貰いたいのです。中身が分からないブラックボックス程恐ろしいものはありません。マイコンの暴走、接触不良、あるいはソフトウェアのバグなどなどで、制御不能になる可能性を孕んでいるからです。便利な、特に便利過ぎる機器は、人類を滅ぼす元凶だと言っておきましょう。

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2016年7月21日 (木)

3070 熱伝導の抑制≒省エネ

省エネルギーと言えば、現在はほぼ「節電」と同意になっている様に見えます。これに加える形で、自動車燃料や石油(ガス)暖房の抑制などが含まれている場合もあります。しかし、省エネルギーを突き詰めて考えると、実はエネルギーの流れの抑制にこそその本質があると思うのです。エネルギーは、どの様な形態であれ、ポテンシャル(例えば電圧や水圧・空圧)と流れの強さ(例えば電流や水量や空気量)の積によって規定されるものであり、単に流れの量の抑制だけに還元しては片手落ちというものでしょう。

例えば、コンプレッサーの省エネを考える際に、空気量を絞って節約するだけでは対策としては不十分です。もし、空気の元圧を下げても、機器や作業の効率が殆ど落ちないのであれば、それを実行すれば、ダブルでの省エネ効果が実現できるでしょう。それぞれ、1割ずつ下げれば、併せ技で1割近くの省エネが達成できる訳です。

とは言いながら、エネルギーの多くは熱の形(熱の流れ)で消費されている事を忘れてはならないでしょう。冷暖房はもちろん、車だってガソリンを燃やして「熱」エネルギーから力を取り出している仕組みですし、発電所だって、元はと言えば石油や天然ガスの燃焼熱を利用して、その一部を電力に変換している施設ではあります。それを踏まえた上で、熱はそれを利用するのに必要とするルートで流れる他に、いわゆる「損失」として、失われる割合も非常に大きいのです。効率を追求した最新の発電所でさえ、熱を電気に変えられる割合は40%を少し超える程度ですし、車に至ってはガソリンからは20%を超える程度でしか、運動エネルギーを取り出す事が出来ていません。損失となるエネルギーは、実は全て低温度の熱となって、大気中や海水中に放出又は失われているのです。

現代生活では、非常に大きなエネルギーを消費している冷暖房負荷の殆どは、建物の壁や屋根を通じて侵入する、又は放散する熱を、排出又は補充する形で冷暖房を行うので、建物の断熱性能によって、消費エネルギーがほぼ決まってしまう事になります。その他にも、高温の流体が流れる配管からの熱損失など、無駄な熱の流れは至るところに散見されます。それらを、今より性能の高い断熱材で食止め、減らすだけで、停滞している省エネは、グンと進む筈なのです。

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2016年7月20日 (水)

3069 ダブル断熱

旅行から帰り、今日から投稿再開です。建築中の拙宅は、色々考えた末にダブル断熱構造にしました。内断熱は、140㎜厚みの現場発泡の断熱材で、東北地方でもあまり寒くないこの地域では、これだけでまあまあの性能が得られますが、投稿者は最低限の入熱でも冬場の暖房が可能となる様に、構造の合板の外側に、更に30㎜の発泡断熱ボードを追加を依頼しました。結果、合板を含めると200㎜弱の壁厚となり、その上に窯業系のサイディングが載る事になります。その結果、気密性能も多分ですがかなり向上し、床下には温水を熱交換して作る低温度の温風を送る事によって、冬場に靴下で歩いても冷たくない家にすると言う目論見なのです。

ダブル断熱の効果は、個別の断熱材の性能に加え、間に挟まれる合板パネルの両面に閉じ込められる若干の空気層による断熱も期待できるため、さながら衣服の重ね着の様に冬暖かく、夏は熱気を室内に入れない効果も得られると考えているのです。

拙宅の建設工事の様子は、FBで工事と同時進行で公開中で、構造が分かる様にしていますし、今後も公開しながら進めるつもりです。最終的には、太陽熱・バイオマスハイブリッドの暖房給湯システムと共に、エネルギー収支のデータも公開予定ですので、今後の北国の住宅構造や暖房システムのひな形の一つとなる事が出来れば幸甚です。

https://www.facebook.com/yutaka.hatanaka.73

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2016年7月13日 (水)

3068 旅行不在

旅行不在のため、たぶん1週間ほど休稿です。世の中には何の支障もありませんが・・・。

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3067 自前発電所?

自前発電所と言っても、別に電気を起こすと言う話ではありません。別に電気など起こさなくとも、しっかり節電をすれば発電をしたのと同等の効果がある筈なのです。つまり、それまで月々200kwhの電力を消費し、例えば5千円位の電気料を払っていた人が、1割節電すれば、20kwhの電力を起こしたのと同じ事になり、外食が1回出来るくらいのお小遣いも生まれるでしょう。

忘れてはならないのは、国には2030年までに、2013年比で2.5割(正確には26%)の二酸化炭素削減の義務を負っていると言う事です。原発を止めながら、これを達成するためには、不安定な再エネ発電を増やすだけでは届かない筈です。

そうではなくて、先ずは25%の節電を目標に、官や企業や家庭が努力をすれば良いだけなのです。考え方は単純です。全ての電力を消費する機器の稼働時間を25%短くするか、建物や設備の断熱や減数運転やその他の方法で、運転時の電力を25%低く抑えるか、或いは両者の併せ技になるでしょう。それぞれのアプローチで10%削減ずつ落とせば、併せ技で20%近く削減できる訳ですから、25%カットも不可能な数字ではありません。

省エネの手法については、このブログでは繰り返し紹介してきましたが、考え方は単純です。エネルギーを使う際に、メーカーであればそれが製品に付加価値を付けているのか否か、サービス業であれば、それが本当に顧客満足の向上に寄与しているか否か、という✔を行って。Yesであれば、品質とサービスの質を落とさずそれを少しでも減らす工夫を、NOであれば速攻の削減を、その中間であれば、それに代わる他の方法を考えると言う「三分法」によって「仕分け」して、合理的に削減を進めるのです。これまで様々な業種業態の企業を指導してきましたが、真面目に取り組んでくれた企業では、3割削減の大きな果実をゲット出来たところもあったのです。必要なものは、やる気と、根気と、合理的アプローチだけなのです。

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2016年7月12日 (火)

3066 先人に学ぶ

ネットを使えばあらゆる「情報」が検索でき、それなりに理解できる時代になっても、私たちが先人以上に賢くなったとはとても言えないでしょう。何故そうなのか、あるいは何故そうでないのかは、ネットでは読めない「本質」に関わるものでしょうし、本質に迫るには、長く深い思索に頼るしか方法が無いと思うのです。先人の人生は今よりずっと短かったのでしょうが、その短い人生の中での彼らの思索の深さには脱帽せざるを得ません。

先人の思索を学ぶには、ネットで偉大な先人(偉人)の名前を検索して、何とかペディアを斜め読みするだけでは、全く不十分でしょう。少なくとも、偉人の数冊の著作を読み、その中でココロに引っかかった事に関して、更にその偉人の著作を読み進めて、初めて彼の偉大さの一端に触れる事が出来る程度でしょう。彼の思索の全容を理解する事などは、狭い分野の歴史研究者でも無理と言うものでしょう。

しかし、たとえ浅読みではあっても、先人の書いた本を読み、より深く考える事を止めてはならないのです。TVやラジオで、解説者が「そうだったのか・・・」とか、「これで分かった・・・」などの解説番組を見て「分かったつもり」になってはイケナイのです。何故なら、そこには深い思索が伴わないので、1日も経てば殆どあるいは完全に忘れてしまうでしょう。というのも、時々刻々と恐ろしい勢いで、新たな出来事の「ニュース」や「解説」が積み重なってくるからです。それを正しい意味の「情報」と考えるのは間違いでしょう。それらを何かに喩えるならば、洪水の際の泥水に似ているかも知れません。私たちは、それを正しい価値観というフィルターで濾して、少量でも「真水」を得る努力をしなくてはならないと思うのです。そのフィルターは、可能な限り多くの先人の著作に接し、「より確からしい」価値観を醸成するしか方法はないのでしょう。でもそう言えば投稿者自身も背中を痛めて以降、図書館に足が向いていなかったなー。反省反省。

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2016年7月11日 (月)

3065 右寄り、左寄り

このブログは、単なる批判とりわけ政治批判は書かないモットーですが、昨夜の感想を少し書いておきます。大衆の投票行動は、大きく右寄りに動いた様ですが、その動きには不安を禁じ得ません。それというのも、2/3もの多数などと言う「数」には、胡散臭さがあるからです。何しろ6割ほどの有権者の過半数を制したにしても、精々第一党の支持率は3割強しかなかった筈で、それが2/3の議員数を浚ってしまうのですから・・・。社会が安定に向かうのは、一方の陣営が多数を取って政治を動かす時ではなく、左右が適度のバランスを取りながら、少しの緊張関係を醸し出す時ではないかと思うからです。ヤジロベーが、不安定そうに見えて、しかし左右に揺れながらもやがて振れ幅が小さくなり安定に向かう様に、社会の重心が一方向に偏るのは、隣国のフェリー事故ではありませんが、大きく舵を切った時に復元力を失う可能性も高いのです。

かくなる上は、右寄りの勢力の中の中道に少しだけ期待するしかないのかも知れません。彼のFactionも、集合離散を繰り返してきた「ゆるい集まり」で、決して一枚岩でもないでしょうから・・・。何ちゃらミクスが息切れして不協和音が生まれれば、やがて「岩」にもクラックが生じて、ひび割れも起こるでしょう。多少、というよりかなり不安は残りますが、この国の底を流れているだろうバランス感覚に期待するしかたがなそうです。

先ずは、国が壊れない程度に問題が噴出するのを待つとしましょう。本物のマグマが噴出しては困りますが、慢心を揺さぶる程度の地震の頻発は期待したいところです。振動は、飛び出た地形を修正し、均すには良い刺激になり得るでしょう。この国は、海外からの揺さぶり(外圧)には弱いので、何発かのJoltを期待しつつ、加えて「国は経済だけて成り立つものに非ず」を証明する意味で、いくつかの「経済事件」も期待したいところではあります。それにしても、数年後ではなく、10年後、20年後、更には数世代後の将来まで見越した国のあり様を議論を口にする人々が増えるのは、百年河清を待つ様なものなのでしょうか。経済優先のモノカネ主義、今が良ければ将来世代は思いやらない刹那主義には本当にウンザリです。ところで、これは政治批判ではありません。単なる独り言のグチです。

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2016年7月10日 (日)

3064 何で食っていくか

審査などで訪問する企業の多くで、お国のリーダーが吹聴する程は、景気が良い訳ではなく、むしろ右肩下がりの再来を懸念しているとの声が聞かれます。もちろん、地域差もあるのでしょうが、少なくとも東北の田舎には「波及」が届いていないと言うべきでしょうか。しかし、景気の良さを誰かが作り出してくれるなどと考えるのは、他力本願過ぎると言うしかありません。仕事は、自ら作り出すべきであり、人々が暮らしを立てて行く限りにおいては、必ずや基本的な需要が途切れる事は無いのです。

結局は私たちは上を見過ぎている様に思うのです。確かに宇宙ステーションは、400㎞上空に浮かぶ「星」ではありますが、その星が喰えて、お腹が一杯になる訳ではありませんし、その星が何かエネルギーを地球に送ってくれる訳でもありません。凡人には、膨大な国費を使って、何やら大衆には理解できない実験をやっているとしか見えません。空を仰ぐのを止めて、地面を眺めれば、足元には問題が山積している事に気が付く筈です。作るべきは、下町ロケットではなく。「下町廃炉ロボット」だと思うのです。下町ボブスレーではなく、小型の再生可能エネルギー機器、例えば高効率のマイクロ風車やマイクロ水車でしょう。

無為に川に捨てられている処理下水や農業排水、あるいは街では殆ど利用されていないビル風、更に言えば全ての建物の屋根に降り注ぐ太陽光や太陽熱の有効利用こそ、中小企業が取り組むべき、そして取り組む価値のある分野だと思うのです。もちろん、1社だけで取り組むには、荷が重い分野もあるでしょう。その時こそ、数社が手を結ぶ「コンソーシアム」を作れば良いのです。負担やリスクが大きく減る代わりに、異業種が集まる結果「文殊の知恵」が次々と湧き出る筈なのです。何時までも、大企業の部品作りに甘んじている時代ではないのです。この国らしい、知恵を工夫を発揮すれば、世界に冠たる「小さな製品」もまだまだ生み出せるでしょう。

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2016年7月 8日 (金)

3063 900h㎩台風

なんと900Paまで気圧が深まった台風が、台湾を襲った様です。ニュースではまるで普通の台風の様に報道していますが、この気圧の低下は尋常ではないでしょう。何しろ、台風中心の気圧の低下だけで海面を1mも持ち上げる事が出来るパワーを持って居る訳ですから。これに、風による大波が加わるので、これがこの国を直撃する場合を想像するだけで、大都市のウォーターフロントで起こる悪夢の映像が浮かびます。

台風の気圧がこれほど大きく低下する理由としては、大きくは2つ考えられます。一つは海面温度の上昇です。事実、現在の太平洋の海面温度は、沖縄以南では30℃に張り付いているのです。海水温が高いエリアでは、台風が膨大な熱量と水蒸気量の補給を受けて、ますます強大に発達するのです。他の一つは、大気中の水蒸気量の増加です。地球規模で見れば、この数十年間で大気中の絶対的な水蒸気量は、4%ほど増加している様なのです。たった4%とも言えますが、それを絶対的な水の量に換算すれば、天文学的な量と言えるでしょう。水蒸気は、太陽光が海面から蒸発させるのですから、まさに熱エネルギーの権化とも言えるでしょう。それが増えているという事は、大気が起こす気象現象がよりパワフルになってきているとも言えるのです。

その結果の一つが台風やハリケーンあるいは竜巻などの暴風雨現象であり、集中豪雨やその裏返しである酷い旱魃も好ましくない現象だと言えるでしょう。海水温の上昇も、結果としての水蒸気量の増加も、温暖化が原因であることは疑いようがないでしょう。その犯人が、単独で400ppmを超えてしまった二酸化炭素の増加だけではない事もまた事実でしょう。いずれにしても、ますます地球が熱を貯め込み易い「体質」になりつつあることは間違いありません。困ったものです。・・・明日は海で遊ぶ予定なので休稿です。

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2016年7月 7日 (木)

3062 本当の宇宙病? 

宇宙病とは、無重力状態での乗り物酔いの様な症状を指す言葉ですが、ここでは故なく宇宙に取りつかれてしまった人々の「宇宙好き過ぎ」の症状を指す言葉として使います。11年目の宇宙病の青年がまたISSに向かう様です。今度のミッションがどんなものか、殆ど知りませんが、ニュースなどで伝えられる目玉実験は、宇宙における老化の加速に関して、マウスを使って確認するのだそうです。もちろん、その実験は地上に居る普通の人々のための実験でない事は確かです。何故なら、私たちは、遊園地のややスリルのある遊具などで瞬間的に味わう以外、一生無重力などというものを経験する事は無いのですから。

つまり、宇宙での実験は、長期に宇宙で滞在する、12人目以降の宇宙病青年か、あるいは月に滞在するか火星に向かう、もっとキチガイじみた宇宙病患者のためだけの実験でしかない訳です。これまでISSの日本モジュールの中で行われた「無重力実験」で、どの様な成果が出て、それが私たちの生活に役立っているか寡聞にして知りませんが、少なくとも投稿者自身は、それを確認したとはありません。ISSのこの国の費用分担は、既に9000億円を超えた様です。長い間の積み重ねであるとはいえ、お金だけではなく、プロジェクトに注ぎ込まれた、この国でもトップクラスの多くの人材が、宇宙病患者のままで生涯を終え、更には多くの宇宙病の少年を生み出し続けている事を悲しく思います。

ISSの予算と、優秀な頭脳を別の「地上のプロジェクト」に振り向けたら一体どの様な素晴らしい成果が生まれたか、想像も出来ない程です。宇宙病患者の人々は、物理学や航空宇宙工学や材料科学や医学や生物学などの分野ではトップクラスの頭脳であった筈です。彼らのパワーを使えば、例えば放射能を無害化する技術や、事故を起こした原発内部でも働ける「ロボットアーム」などが実現できているかも知れないのです。宇宙病患者の満足のためだけの予算とマンパワーの浪費に、今日も深く嘆息するしかありません。

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2016年7月 6日 (水)

3061 MAITEDサイクル2

3052にPDCAサイクルを超えるためのMAITEDサイクルを提案しました。これはその続きです。PDCAでももちろん、良く考えられた計画を立て、忙しさにかまけないでしっかり実行し、その結果を深く分析し、それを踏まえて次年度の計画を練れば、良い結果も生まれるでしょう。しかしながら、ヒトは慣れる動物でもあります。前年度の計画をそのまま日付を変えて次年度の計画にしてしまう、ズル賢さも持ち合わせています。その結果どうなるかと言えば、言わずもがなですが「堂々巡り」に陥るのです。

一応の計画があって、見かけ上PDCAを回すとどうなるかと言えば、計画を実行した結果は、当然の事ながら「成り行き」になってしまうでしょう。誰も、計画の存在を気にしたり、生真面目に実行したりする人はいないからです。

これを防ぐには、常に原点に復帰する必要があります。無理やり例を挙げるなら、高等な動物であれば、もちろん長期記憶も持ち合わせていて、経験も蓄積されて上手く生き抜いていく事も出来るでしょうが、多くの動物は瞬間を生きていると想像しています。つまり、その瞬間の事態に対して、生き抜くための最善の行動をする筈なのです。つまりは、時々刻々と原点復帰を繰り返している訳です。

堂々巡りに陥らないためには、やはり常に「目的に立ち返る」必要があるのです。PDCAサイクルの目的は、PDCAを回す事にあるのではなく、例えば品質を向上させたり、省エネを達成して環境負荷を下げるたりする事にある訳で、それはひいては事業の持続可能性を引き上げる事につながるのです。その、本来の目的をすっ飛ばして、ひたすらにPDCAを回しても、時間や紙のムダが延々と続くだけになるでしょう。そうではなくて、システムで回されるあらゆるサイクルは、例えばMAITEDサイクルの様な深い分析を行った上で、常に新しい行動アイデアを吹き込み続ける必要があると思うのです。

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2016年7月 5日 (火)

3060 紛争○○

3059で取り上げた言葉、コンフリクトフリーが注目されてきた背景には、言わゆる「紛争鉱物」の問題があります。これは、いわゆる紛争地域、取り分けアフリカのコンゴに代表される地域で採掘されるスズ、タンタル、タングステン、金(まとめて3TGとも括られる)などの鉱物を、指す場合が多いようです。紛争地域では、ゲリラ組織などが武力で鉱山を抑えているので、産出される鉱物の取引代金が、ゲリラの資金源となって、更に紛争を長引かせる要因にもなっているのです。

しかし、紛争鉱物は何も3TGに限られるものではないでしょう。ダイヤモンドや金や各種のレアアースなども例外ではないでしょう。というより、石油も含めて、お金になる主要な地下資源は全て紛争○○と呼んでもおかしくはないのです。紛争石油、紛争LNG、紛争メタンハイドレート、紛争・・・、という事になります。紛争地域外であっても、鉱物の採掘作業自体が、いわゆる鉱害を引き起こす場合も多いのです。目的の鉱物と共に産出する不要な「重金属(鉛やヒ素など)」が、高山周辺の土壌や下流の川や地下水を汚染する事が主な害悪です。

一方で、紛争地域でとれるモノは何も鉱物だけではありません。作物だってあるでしょう。残念な事に、紛争地域は飢餓地域とも重ねってしまっています。結果、B国などの農産物輸出国は、穀物自体を「戦略物質」としても認識していて、武力ともに「アメとムチ」として利用してもいるのです。この場合は、紛争によって十分な作物を作れない地域では、ありふれた作物自体が紛争のタネともなっている様にも見えます。

私たちは、この様な紛争鉱物や紛争○○に手を出す事の無いようにしたいものです。安いと言う理由で買い続ける事は、結果としてその地域の紛争を長引かせる事になるからです。とは言いながら、商社は安い地下資源を求めて貪欲に紛争地域へも分け入ります。企業は、コンフリクトフリーを死守し、由緒正しい資源を調達すべきでしょう。この国には、既に十分な量の資源が輸入されていますので、リサイクル技術をもっと磨けば、国内にも多くの3TGやレアアースの蓄積がある筈なのですから。都市鉱山などというKWもありますし。

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2016年7月 4日 (月)

3059 コンフリクトフリー

企業経営で最もよく引き合いに出されるキーワードは、多分法令遵守でしょうか。しかし、考えてみれば、法令を守っているだけで十分だとはとても思えません。何故なら、殆どの法律は、過去に何か問題が起こったケースに関して、再発を防止するための「最低限のルール」を定めたものだからです。最低限のルールであるが故に、違法と適法のギリギリの線を狙う輩も出てくることにもなるでしょう。どこかの首長でありませんが、「違法ではないが適切でもない」状態をニュースなどで見聞きすることは茶飯事でしょう。

そこで、企業や組織が持ち込みたい行動規範として提唱したいのは、コンフリクトフリーという概念です。コンフリクトとは、あらゆるステークホルダーとの間の摩擦ですから、それが無いと言う事は、企業が存続するに当たって、誰からも抵抗を受けない状態を意味します。原料の仕入れ先、顧客はもちろん、流通業者から、廃棄物の処理業者や企業の足元の住民にまで、その企業が存在し、事業を営む事に、何ら抵抗を感じさせない事がコンフリクトフリーの条件と言えます。

もちろん、コンフリクトフリーだけで、全てがメデタシとなる訳ではありません。事業継続の抵抗が無い事と、ステークホルダーが積極的に組織を支持し、応援する事とは別問題だからです。企業や組織が、社会から必要とされ、それに高いレベルで応えている場合だけ、その組織は支持を受ける事が出来る筈です。いずれにしても、単に株主の顔色だけ読んで経営を行っている多くの企業が、その条件を満たしている筈もありません。法令遵守<コンフリクトフリー<社会貢献<CSVの順に組織の格は上がって行きます。

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2016年7月 3日 (日)

3058 断熱と熱交換

18世紀に、B.フランクリンかガルバニーかボルタか誰かが電気を発見して以来、私たちは電気の活用に夢中になってきた様な気がします。発電や送電技術や出来た電気を使って、光や動力や熱や電波などに変換して生活を便利にする技術を磨いてきたのでした。電気は、電線さえあればスイッチ一つで入り切り出来、電圧も自在に操る事が可能です。しかも、例えば熱ではマイナス数十℃の冷熱でも、数千℃で金属を溶かす事も可能とする潜在力を持っています。

一方で、マイヤーやケルビンやクラウジウスやカルノーらが、苦労して築きあげた熱力学の分野は、既に完成された学問分野として、その後あまり進歩したとも思われません。しかし、熱こそ生き物が生きていく上で最重要の物理量の一つである筈なのです。例えば私たちの体温が、10℃低くなるだけで、死の危険に直面しますし(低体温症)、僅か3-4℃上昇するだけで、これもまた危険な状態に陥ります。体温を維持するために、私たちは衣服を身に付け、夜は部屋の中で、寝具に包まれて寝るのです。

熱に関しての重要なキーワードは、多分「断熱」と「熱交換」でしょうか。熱を利用するために私たちは熱を発生(発熱)させますが、放っておけば熱はたちまち放散してしまいます。つまりは、放射や伝導や対流の3つの経路で失われるのです。一度発生させた熱を出来るだけ長い時間維持させる方法が断熱なのです。一方で、折角発生させた熱を、最後(周囲温度と平衡する)まで、使い倒す方法が熱交換です。発電所でタービンを回した蒸気はまだかなりの熱量を持って居るので、海水中に捨ててしまう前に、例えばボイラに送る水を暖めるなど多段階で熱を回収(リサイクル)します。この際使われる技術が熱交換(器)なのです。

私たちは、省エネを考える際に、あまりにも節電に集中し過ぎると思うのです。そうではなくて、私たちはもっと「節熱」にも目を向けなくてはならないでしょう。特にこの国の住宅やビルの断熱や遮熱の貧弱さは、情けない程です。そこにどれほど節電性能の高い空調設備を持ち込んでも、ザルに水を注ぐようなものです。建物の断熱レベルを上げ、作った冷熱や温熱も多段階の熱交換器で有効利用すれば、消費エネルギーの半減だって視野に入ってくる筈なのです。

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2016年7月 2日 (土)

3057 融合と分離

3056の続きです。では、EUの様な融合や人やモノやカネの自由な移動を是とする国際化の方向と、そうではない今回のE国の様な分離(離脱)行動のどちらが、望ましいのでしょうか。結論としては、やはり人々が平和に暮らすには、ある程度モザイク模様になりながら暮らすしかないとも思うのです。ある程度という意味は、お互いが緊張関係にならない程度の距離を置いて、という事になるのですが、例えば同じ都市内に異なる文化の人々が暮らす場合でも、○○タウンや○○街と呼ばれる様に、地域を区切って群れて暮らす方が良さそうなのです。その中で、何十年も掛けて、徐々に混じり合う(混血する)しかないのでしょう。拙速な融合は、余計なトラブルに悩まされるだけでしょう。その意味で、EUはまだ十分に折り合っていない、カオス(混沌)の中にあると言わざるを得ません。

その意味では、今回の分離(離脱)騒動が象徴する様に、一度は一方通行で進んできた融合の流れを、立ち止まって見直してみる事は大切なのでしょう。いずれにしても、それをいきなり多数決で決めると言うのは如何にも乱暴すぎる議論である事も間違いないでしょう。ましてや、残留・離脱が拮抗している事が事前の世論調査などで分かっていた訳ですから、国民投票は「危なっかしい橋」ではあった訳です。

分離の議論は、融合時と同様に長い時間を掛けて議論し、周到に準備を進めるべき政策に該当すると思うのです。場合によっては、段階的な分離という方法もあった訳です。現在でE国では通貨としてはポンドを使っている訳であり、人の移動だって完全なフリーと完全禁止の間には、多くの段階が設定できる筈なのです。ここでの一応の結論としては、分離と融合の間には、多数のレベルのグラデーションがある事を再認識し、そのグラデーション間の移動は時間を掛けて、出来れば多くの人々が気が付かない内に、進めるべきだと思うのです。

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2016年7月 1日 (金)

3056 ルツボかモザイクか

種々の背景を持った人々が入り混じって暮らす時、その暮らし方には大きく二種類がありそうです。一つは、人種も文化の違いはありながらもごちゃ混ぜになっての暮らし方であり、もう一つは人種や文化を異にする人々が地域に分かれて暮らす方向です。よく言われるのは、前者の例として米国が、後者の例としてはカナダなどが挙げられる様です。それを良く表す言葉として、前者は「人種のルツボ」、後者は「人種のモザイク」などとも言われます。その意味で言えば、EU統合前の欧州は、まさに人種のモザイクであったのでしょうが、今はまさにルツボとなりかけている様に見えます。ルツボ国家の代表格である米国にしても、現在の形になるまでにも、黒人の公民権運動やヒスパニック問題や近年のモスレム問題まで抱え、一応の折り合いは付けている様にも見えながら、未だ多くの問題を内在しているのでしょう。

ルツボもモザイクもそれぞれに、長短はあるのでしょうが、今のEUではルツボの悪い面が強く出ている様に見えるのです。人種や文化がミキシングされる場合、上手く行けば化学反応の様に、活発に刺激し合い、より高いレベルでの新しい文化が形成される場合もあるのですが、それが裏目に出ると、それぞれの文化グループが互いに疑心暗鬼に陥り、誹謗中傷を繰り返すのです。軽度のトラブルとしては、いわゆるヘイトスピーチなど言葉の暴力ですが、それがエスカレートすると場合によっては血を見る様にもなるのです。

モザイク社会は、カナダの様に、ご先祖が入植した地域分けそのままに、現在でも例えばイギリス系とフランス系が分かれて暮らして、公用語も英語と仏語を併用するなどの工夫をすれば、比較的平和に暮らせるでしょう。それでも、未だに彼の国には、ケベック独立運動などが渦巻いている始末です。まさに、人種の融合は数十年程度では済まない年月が必要なのでしょう。それは、縄文人と弥生人の融合に何世紀も掛かったこの国の歴史を想像するだけでも理解できる筈です。

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2016年6月30日 (木)

3055 メカケミ?

いわゆるメカトロという造語は大分前に流行し、事典にも定着した様ですが、ここでは「メカケミ」という造語を提案しようと思います。メカトロはメカニクスとエレクトロニクスの造語ですが、メカケミは想像通り、メカとケミストリーを組み合わせた造語です。今やロボットや工場設備や車などでは、メカトロニクスが多用されていますが、寡聞にして投稿者の知る限りでは、メカケミに関連したニュースは殆ど目にしません。もちろん、メカノケミカルという言葉は以前からあり、機械的な混練などで化学反応を促進させるほどの意味で応用もされてはいますが、ここで提案するメカケミとは全く意味が異なります。

ここでのメカケミは、化学反応を機械的な力に変換すると言う意味を持つ言葉なのです。分かり易い例で言えば、動物の筋肉は、まさにメカケミの典型だと言えるでしょう。その仕組みは一言で説明できるほど単純ではありませんが、NETから少し引用すると下記の様になります。「大脳皮質から出された運動指令は電気信号として脊髄を下りて、脊髄にある運動ニューロンに伝達されます。電気信号が神経伝達物質としてアセチルコリンを介して筋線維に伝わるとアクチンフィラメントとミオシンフィラメントとの間に架橋が形成され、アクチンフィラメントがミオシンフィラメントの中央へ滑走します。このとき、両フィラメントの長さは変わりませんが筋節が短縮するので筋肉の収縮が起こります。」

メカケミを応用して、耐久性のある人工筋肉が実現できると、例えばロボットは重たいバッテリーを背負うと言う制約から解放される可能性が出てくるのです。代わりに、少量の化学物質が入ったボトルだけで長時間活動できる筈なのです。今のロボットのパワーの限界は、動力を発生させるモーターのトルクと、関節を動かすためのリンクや歯車の強度に依存しています。モーターや間接歯車を大きくすれば関節や腕が太くなり、重くもなりバッテリーも大きくならざるを得ません。しかし、人間の腕くらいの細い人工筋肉でさえ、数十キロの力を出せる事を考えれば、ロボットの小型、軽量化はグンと進む事でしょう。メカケミ筋肉は柔軟性もあるので、介護ロボットも人間への接触も柔らかく出来るでしょう。たぶん続きます。

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2016年6月29日 (水)

3054 プログラミング教育?

お国が、小学生からプログラミング教育を導入する事を決めたとか。それ自体に異議を差し挟む気はありませんが、その決定に至ったプロセスについては、少しモノ申したいと思います。それは、そもそも何故子供のうちからプログラミングを仕込まなければならないのか、その目的を明確にしていない様に思うのです。つまり、プログラミングは一つの手段に過ぎず、では一体何のためのプログラムを作るのかが明確でないと、子供たちのモチベーションが保てないでしょう。モチベーションの低い学習は、遊びに流れるか、あるいは興味を失っての苦行に陥るだけなのです。

もちろん、今や世の中で使われる多くの機器にはマイコンが仕込まれ、プログラムに従ってコントロールされているのでしょう。その意味で現代の車は、マイコンとプログラムの塊と言っても過言ではないでしょう。しかし、ここでも再度目的のチェックが不可欠です。人間を楽にする便利機能は、見方を変えれば、人間を無能にすると言う望まない結果を生むかも知れません。より理想的なプログラムとは、実は人間が意識しないでその能力を少しずつ向上させる様なものかも知れないのです。何のためのプログラムを考えないでプログラムを作れば、単なる手順(シーケンス)の自動化に過ぎないでしょう。

そうでなくて、目的のしっかりしたプログラムには、その目的をよりスマートに達成するための単純化や、場合によっては「学習機能」も追加する必要があるかも知れないのです。取り敢えず、プログラムのやり方だけを教えるのは、使い方や危険を知らせないで道具を与える様なものでしょう。本来の目的を見失ったまま、プログラミングの技術だけを身に付けた若者が、一体どんな暇つぶしゲーム、あるいは逆に世の中に害を及ぼすアブナイプログラムを生み出すか、心配だけが残ります。

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2016年6月28日 (火)

3053 熊モン

くまモンには悪いのですが、最近山や里で本物の熊モンが暴れている様です。東北では何人もの犠牲者も出てしまっています。投稿者も山に登るのが好きなので、登山中に何度か熊モンを目撃はしていますが、幸いな事に山道での鉢合わせという最悪の事態は経験していません。熊モンは、非常に敏感な嗅覚と、多分良い聴覚を持って居るので、音を出す鈴やラジオなどの持参である程度は防衛出来るのでしょうが、安心のためにも「クマ除けスプレー」の持参は必要でしょう。

それにも増して重要な事は、山道を歩く際には、五感を研ぎ澄ましながら歩く事でしょうか、動物は縄張りを主張するために、糞尿や匂い腺によるマーキングを行います。熊モンは非常に強い匂いを残しますので、人間のそれなりの嗅覚でも十分感知できるのです。匂いがキツイ場所には、直前に熊モンが居たか、あるいは今まさに居るのかも知れません。茂みがあって見通しが効かない場合は、遭遇する危険が非常に高いと言わざるを得ないでしょう。投稿者の場合殆どが単独登山なので、この様な状況でそれ以上の前進を中止したことが数回あったのです。

熊モンの行動の最優先は、食糧の確保です。春先は、山菜とりわけ根曲がり竹のタケノコが柔らかく、甘いので、人も熊もそれを狙って藪に分け入るのです。もちろん、子連れの母熊は、小熊の分も栄養を付けなければならないのと、小熊を守るためにも戦いの姿勢を強めます。この春数件続いた死亡事故は、不運にもヒトの血の味を憶えてしまったらしい「スーパーK」と名付けられた個体によって、犠牲者がひどく傷つけられてしまった結果の様ですが、多くの場合熊モンは人を威嚇するために攻撃をする様なのです。もちろん、もし人が甘い食べ物の匂いを振りまきながら歩く場合には、それに引き付けられた熊モンの方からが積極的に近づいてくる可能性もありますが、人と山菜を奪い合う春先はもちろん、エサが少なくなる夏場やブナ・ドングリなどの不作が予想される秋口まで、ユメユメ油断することなく山に入りたいものです。

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2016年6月26日 (日)

3052 MAITEDサイクル

いわゆるPDCAサイクルというものがあります。計画し、実行し、チェックし、次のアクションに結び付けると言うサイクルで、ISOなどでも管理手法の基本の「き」となっているものでもあります。しかし、多くの企業やシステムでは、サイクルを回すそもそもの目的を見失い、毎年同じ様な目標や計画をコピーし、さもPDCAを回している様に「格好付け」をする、「堂々巡り」に陥っている様に見えます。小さくても問題点を見つけてそれに対応している企業はまだマシですが、所詮これも「モグラ叩き」の域を超えてはいないでしょう。

そうではなくて、ここで提案するサイクルは、先ず計測(Measure)から入るのです。計測とは、数値化、データ化する事ですから、状況の見える化と言い換えても良いでしょう。次に、その結果を分析(Analysis)します。絶対値や割合や時間的変化や効率などなどを客観的に分析し、評価するのです。本来の目的を頭においた上で、分析の結果浮き上がってきた問題点を解決するための方策を、工夫(Improve)するのです。

工夫を実行してもすぐに上手く行くとは限りません。特に、安定している工程をイジる場合には、品質の変化(悪化)にも注意を払う必要もあるのです。そのためには、試行(Trial)が不可欠でしょう。試行の結果、再度新たな工夫に逆戻りしなければならない場合も多いのです。つまりは、先に進めるかの評価(Evaluation)が不可欠なのです。その結果がGoであれば、やっと実行(Do)の段階に進むのです。もちろん、その結果は再度計測して、目標なり目的に照らして効果が出た事を確認しながら前に進まなければならない事は言わずもがなです。

もし本当に、企業がこのMAITEDサイクルの実行を決意してくれるなら、例えば省エネでも30%の削減も夢ではない事は請け負います。何しろ、このサイクルは投稿者が数社の省エネへの取組みの指導で、既に試行(Trial)済みだからです。上記のプロセスの頭文字を集めたものがMAITEDサイクルという訳です。これは全くの投稿者のオリジナル造語なのでが、MAITEDが遠くない将来にISOシステムにも採用される事を淡く期待しています。

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2016年6月25日 (土)

3051 歴史の逆転2

ヨーロッパで、一つの歴史の逆転が起こりました。E国のEU離脱が決まったと言うニュースが全世界を駆け巡りました。ヨーロッパを1枚の経済圏、同様のシステムで染めると言うEUの夢は、結局は究極の国際経済圏の実験であり、究極の国際化の実験でもあった訳です。つまりは、モノも人も自由に国境をまたいで移動させる、という実験だったのです。もちろん、EUに参加している全ての国々が、それなりの水準で国力が揃えば、この実験も順調に進んだのでしょうが、如何せん国力や国民の生活水準に、あまりにも大きな格差が残った状態での融合は、流石に無理があったのでしょう。

ジョンブルの国、E国には流石にかつての、日の沈まない世界帝国の盟主としてのプライドも残っていたのでしょう。特に年配世代にとっては、EU前の状況も知っている訳で、独仏に牽引されがちなEUのシガラミに嫌気も差していたのでしょう。そして、歯止めの効かない人の流入です。入ってくる移民にとって、魅力に映るのは多分手厚い福祉政策でしょう。垣根が無ければ、人は住みやすい土地に移動するものです。

3050にも書いた様に、歴史の逆転の必然性は、あらゆる事態は落ち着くところに着陸するべきである、という点にあります。有限な資源やエネルギーを使って、無限に経済成長を続ける事は出来ない相談だからです。たとえ、人口が右肩上がりに増えたとしてもです。今の文明を一日の暮らしに喩えるならば、時刻は既に夕方に差し掛かっていると思うのです。、私たちは落ち着いた夕方や夜の暮らしを過ごすために、まだ残照が残っている間にその準備をしておくべきだと思うのです。歴史を逆転するにはたぶん混乱も生ずる事でしょう。経済も乱れそうな気もします。それは、さながら泥で濁った水をグルグルかき回す様なもので、やがて泥は重い粒から沈殿し、層別に積み重なる訳です。混乱した事態は、少しは時間を掛けないとSettle down(沈殿)しないのです。

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2016年6月24日 (金)

3050 歴史の逆転

自分で書いておいて、3048の「歴史の逆転」という言葉が気になり出しました。一般に歴史は後戻りする事は無い、時は逆転できないとは思われてはいるのでしょう。確かに、H.G.ウェルズらが夢想したタイムマシンでもない限りそれは無理だとは思います。しかし、日々の暮らしや社会の仕組みであれば、それは部分的には可能の様な気がします。例えば、1970年代以前の暮らしを思い起こせば、車の数は今ほど多くはなく、エネルギー消費も現在の半分以下で暮らし、社会システムも確かに回っていたのでした。地方では、薪ストーブによる暖房が当たり前でしたし、車が持てない場合の足も、自転車や単車でどうにか間に合わせていたのでした。

電化製品はと言えば、各家庭にあるのは、電気釜や白黒テレビや扇風機程度で、そろそろ洗濯機や冷蔵庫が普及し始めた時期だったでしょう。クーラーやエアコンは、普通の家にはまだ普及しておらず、カラーテレビ、車、エアコンのいわゆる3Cと呼ばれた三種の神器は、高度成長期に中間層がぐっと厚くなってから急速に普及したのでした。しかし、時代の勢いはそれに留まらず、今や車は一家に複数台、各居室にはエアコンが付き、大型テレビや大型冷蔵庫と、更には給湯や調理まで電気で賄う「オール電化」が住宅設備の売りになる時代になったのです。

しかし、1970年代に勃発した石油ショックの歴史や、現在のこの国のエネルギー自給率のデータを紐解くまでもなく、私たちはエネルギー供給の殆どを他国に依存している状況は、全く変わってはいないのです。少なくとも、エネルギー使用量やその構成は、もう少し前の時代に逆戻りさせる事は可能でしょう。Dイツなどでは、既にエネルギーの25%以上を再エネで賄う目標を達成していますし、更なる高い目標に向かって突き進んで(後戻りして?)いるのです。リーダーが口を開けば「景気」の事しか話さない、情けないこの国とは理想の高さが大きく異なる事は認めざるを得ないでしょう。私たちは、そろそろ穏やかな「着地点」を定め、そこに向かって徐々に高度(例えばモノやエネルギーの消費量)を下げざるを得ない時代に入ったと思うのです。それを歴史の逆転と呼ぶあれば、その通りです。間違っても「エンジンを吹かす」べきではありません。ますます「軟着陸」が困難になるからです。

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2016年6月23日 (木)

3049 隠ぺい体質

企業の隠ぺい体質には全く困ったものです。その例には枚挙に暇がありません。隠しおおせなかった一部の隠ぺいのサンプルは、TVでの「謝罪会見」で日常的に目にする事が出来ます。技術データのねつ造、財務諸表の誤魔化し(赤字隠し)、事故隠し、不具合(リコール)隠しなどなど、悪事の種類はそのあくどさ加減に差はあるのでしょうが、それこそ企業の数だけ、更に言えば企業数に部署の数を乗じた数だけ存在してもおかしくは無いでしょう。

各部署では、敢えて経営層まで上申する必要が無い程度のトラブルは、部署の長が握りつぶすでしょうし、経営層はやはり、株価に悪影響を及ぼすネガティブニュースは、間違いなくひた隠しにする決断をするでしょう。もちろん、積極的に隠す場合も、公表を取り敢えず見合わして、遅らせるケースもあるのでしょうが、いずれにしても悪いニュースを喜んで公表する企業は稀有でしょう。オイコノミアではないですが、これは企業における「情報の非対称性」あるいは「情報の一方通行原理」とでも言えるでしょうか。良い情報は通すが、悪い情報は社内で止めるか握りつぶすと言う傾向を意味します。

ではどうするかですが、企業はミスや不具合に対して、その重大性(Sevierity)と拡大性(Growth)を常に評価し続ける必要があると思うのです。それが、会社の業績や評判(その指標としての株価)に悪影響を及ぼすほど、更にそれを放置すればさらに事態が悪化すると予想されるほど、それは小さい内に早く公表して、対策を打つべきなのです。マンションの基礎杭の穿孔電流データにのねつ造にしても、車の燃費データにしても、会社の粉飾決算にしても、ごく初期にそれに気づいた人は必ず居た筈です。少なくとも、それを実行した本人と直属の上司は。それを更に上に報告しておけば、あんなことには・・・、です。重大性と拡大性の継続的な評価は、如何なるシステムにおいても最重要のチェックポイントだと断言しておきましょう。

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2016年6月22日 (水)

3048 EU問題

環境問題とはあまり関係が無さそうなE国のEC離脱問題を少し考えてみました。そう言えば、この国には2回ほど行ったことがあります。EUの一員とは言いながら、通貨としてはいまだにポンドに拘っていますし、日本と同じように頑なに左側通行を死守しているのです。もちろん、日本の左側通行はこの国のシステムを真似ただけなのですが。従って、この国でレンタカーを借りて田舎道を走ると、全くストレス無しにドライブを楽しむ事が出来るのです。

さて、E国と日本の最大の共通点はと言えば、どちらも島国であると言う点でしょうか。島国であるが故に、例えば交通システムが「大陸」と異なっていても、問題なく独自路線を進む事が可能となります。歴史的に見ればEUが出来る前は、EECECと言った、経済関係だけの国際条約の枠組みがあった訳ですが、EUになって人の移動もほぼ自由になった結果、想定外の弊害も起こってきたのです。それまでの人の移動と言えば、精々隣国に出稼ぎに出るくらいのものだったのでしょうが、今は遠く離れた、それも生活レベルの高い国々めがけて、人々が大量に移動する事態も起こったのです。

今起こっているEU問題とは、いわば国境問題だとも言えるでしょう。人々が、国境に隔てられてモザイクの様に暮らしていた時代は、基本的に国際間問題とは国境の線引き問題だったのです。しかし、国際化が進んだ今、国境問題とは(抽象的な)国境の壁の高さと検問の甘辛の問題だと思うのです。E国でいま議論がされている問題の本質は、取り払った国境の「フェンス」や検問所でのモノや人の通過基準を再度厳しくするのか、それとも現状のままかという議論なのです。一般的に考えれば、昔の様に国境に隔てられて暮らせば平和は維持されるのでしょうが、国際化が進んでしまった今、歴史を逆転させるのかどうかは難しい問題でもあります。いずれにしても、「リトマス試験紙」としてのE国投票結果を見守るしかありませんが・・・。

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2016年6月21日 (火)

3047 原発耐用60年だって?何をバカな

原発の耐用年数(寿命)が一気に+20年で、60年に延びる(延ばされる)だそうです。余りの大盤振る舞いに、元技術屋としては「仰天」しています。つまり、天を仰いで、言葉も出ないのです。とは言いながら、懸念は山ほどあるので、ここで書き連ねておかない訳にはいかないでしょう。

先ずは、原子炉は格納容器や建屋を除けば、主要な構造は「金属」で出来ていると言う点に注目しない訳にはいきません。金属の弱点として、腐食(応力腐食割れ)が起こる事、疲労限界がある事、特に鉄系材料では水素脆性が起こる事などが挙げられます。腐食は、原子炉を冷やす水の中に微量ながら酸素が溶け込んでいるため、検査の度に炉を開放する度に、腐食環境が発生する事になるでしょう。また、総延長が何十キロ、何百キロになるのか想像もつきませんが、その中を水や蒸気や海水が流れる配管や熱交換器は、流体の流れによる機械的なアタックでの「キャビテーション・エロージョン」の発生も避けられません。また、流体の流れによって、配管や熱交換器が「振動」する事によって、例えばサポート付近で疲労破壊を起こして破断する事故も実際に起こっているのです。誰が全ての配管や熱交換器の金属部材が薄くなっていない事、60年先まで疲労限界が来ない事を「100%保証」出来ると言うのでしょう。「ふざけるな」と叫ぶしかありません。

その他にも、例えば発電タービンの低圧段では、蒸気温度が低くなり一部が水(ドレン)に戻る事によって、タービンブレードをアタックするのです。かなり以前ですが、C部電力のH岡発電所を見学に行った際に、これによって破壊されたタービンブレードが展示されているのを見て、身震いがしたものです。原子炉工学が門外漢の投稿者にさえ、30分程で上の様な懸念を挙げる事が出来るのです。各分野の専門家が少し突っつけば、山の様な懸念材料が湧きだす筈です。

20年の寿命延長にGOサインを出した先生方は、確かに原子炉工学の専門家ではあるかも知れませんが、その中に冶金学や流体工学や振動工学や脆性破壊の専門家もしっかり混じっているとも思われません。「彼ら」は20年後にはたぶんお隠れになっているでしょうから責任は取らなくて済む訳ですが、これは間違いなく「亡国の結論」だと断ずるしかありません。3.11は、強烈な津波と、それを予測できなかったために生じた人災とが重複した不幸な事故でしたが、寿命延長後に発生する事故は、「完全なる人災」になるのです。誰がその責任を負えると言うのでしょうか。やはり天を仰いで深いため息を吐くしかありません。兎にも角にも、原発推進政権には、明確なレッドカードを出して即刻退場願うしかないでしょう。

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2016年6月20日 (月)

3046 機能展開図

表題を、絵を描かないで、言葉だけでいい表すのは難しいのですが、世の中を構成するシステムやモノなどは、「機能展開図」で表現できると思っています。例えば、あるモノ(車)を機能展開すれば、人たモノを運ぶ機能や天候に関わらず移動できる機能やあるいは移動するオーディオルーム機能や、移動する居間機能?、更に言えば電気自動車などは非常用のバッテリーとして、住宅に電力を供給する機能すら兼ね備えています。更に、それらの機能を「何のために?」という問を発して遡ると、より高次の機能を定義する事も可能です。例えば、オーディオ機能で言えば、「移動中にも良い音質で音楽を楽しむ」という高次の機能が定義できそうです。

ある機能は、もしかすると別の仕掛けで代替できる可能性もあります。例えば、一人か二人の移動であれば、車の替わりに二輪車や自転車を使うという選択肢もあるでしょうし、将来ドローンが人を持ち上げるくらいの馬力を持つ様になれば、空中を移動する事も可能になるかも知れません。つまり、機能は横展開も出来るのです。これを絵にすれば、機能定義のネットワーク図が描ける筈なのです。つまりは、頭の中の考えを絵に描くための一つの方法になり得るでしょう。

話はここで終わりません。ある機能を実現するために、その裏にモノ(道具や製品など)あるいはサービスなどの場合はそれを提供する仕組み、つまりは「構造」が必要です。構造とは、何らかの形を持ったモノや(会社などの)組織であるとも言えるでしょう。

もう一つ忘れてはならないのは、その機能を必要とする「ニーズ」なのです。ニーズが無ければ、いくら便利な架電やサービスを考えて実現しても売れる事はないでしょう。これを、イメージが湧くように形にして表してみると、機能の団子を真ん中に挟んだ、3個の串団子を想像すれば良いでしょう。もちろん、上下には機能を実現する「構造」と、それを必要する「ニーズ」が位置するわkです。3個を繋ぐ串は「情報」に相当します。つまりは「こんなモノ(サービス)が欲しい」あるいは、「こんなモノ(サービス)はいかがでしょう?」と言った情報を指します。これを、投稿者は勝手に「団子三兄弟の法則」と名付けています。

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2016年6月19日 (日)

3045 パイを分け合う

3044で最初に書いたシェアの話に戻ると、シェアを広げるには大きなコストも発生します。例えば、広告宣伝費であり、また例えば原料や製品の輸送費でもあります。広告宣伝だけで、超巨大企業にのし上がった、あのD通という会社も思い浮かぶ様に、何しろシェア獲得にはカネが掛かるのです。右肩上がりの時代には、それでもまだ良かったのでしょう。無理をしてもシェアを取れば、経済成長で翌年には更に数量が稼げるからです。

しかし、人口減少時代に入り、右肩下がりの21世紀において、同様の路線で進めるとも思えません。今後は、むしろシェアを分け合う事が必要となるのかも知れません。出来れば、地域によるシェアの棲み分けを行い、近隣の地域とで緩く重なる様なイメージでしょうか。競争が無いわけではありませんが、少なくとも我武者羅なシェア争いではない状態です。原料調達や製品配送の輸送コストも最小限で済むでしょうし、地元でさえ名前が知れていれば、無理に宣伝広告費を注ぎ込まなくとも、安定的な売り上げが確保できる筈です。ネット時代ですから、もし本当にコスパが高く、値打ちのあるモノであれば、通販でも簡単に買える訳で、自然にシェアも伸びるでしょう。

パイを分け合う事には、他のメリットもありそうです。リサイクルも容易になるのです。例えば、かつては、一升瓶という「液体容器」がありました。また例えば、牛乳瓶やラムネ瓶という「飲料容器」もありましたが、実は殆どの容器は、地域からは出ないままに、グルグルと数十回も再利用されていたのです。耐久財と言っても製品には必ず寿命がありますから、地域で作られたモノが地域で寿命を迎えて廃棄されても、それをリサイクルの流れに載せるのは容易なのです。シェアありきの大量生産、大量消費時代には、モノの流れが(工場からごみ捨て場への)一方通行だった事を考えれば、地域主義色の濃い経済は、より持続性可能性の高い社会システムだとも言えるのです。

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2016年6月18日 (土)

3044 ブラッシュアップ

現代の自由競争を是とする経済社会では、いわゆる「シェア」を取る事が、事業活動の最優先事項の一つであり、場合によってはそこに多くの資源を投入する経営を得意にしている経営者も多い様です。そのため、少し前の経営方針に「選択と集中」を掲げた企業も多かった訳です。かつては、何にでも手を出した「多角経営」や「総合重工」あるいは「総合商社」も、得意分野に経営資源を集めて、その分野のシェアを握ろうと考えたのでしょう。

シェアを、他の企業から奪うのは大変な作業です。QCD(品質・コスト・納期)いずれの点でも、他をリードする必要がありますし、何より「ブランドイメージ」を市場に植え付けなければなりませんので、通常は長い期間を要する筈なのです。しかし、実際には多くの企業はシェアを広げつつ、しかもパイそのものを大きくする「両得」を狙うのです。競争力を強めるためにコストを絞るのですが、売り上げや利益額を確保するためには、数で稼ぐしかない訳です。注意しなければならないのは、経営者の手柄は「利益額」の大きさにあるのであり、決して「利益率」ではない訳です。

とは言いながら、利益率を高めるのは比較的単純な話です。製品の付加価値を上げて、市場で単価を高める事を「許容して貰えば良い」だけなのです。そのためには、ソコソコの品質で大量生産をするというこれまでの手法は通用しません。個々の製品やサービスに、必要な手間を惜しまず、磨き上げる必要があると思うのです。もちろん、物理的に磨く訳ではなく、製品やサービスのブラッシュアップあるいはバージョンアップという意味においてです。ところで100円ショップが注目されて久しいのですが、その存在価値を想像すれば、あれはいわば「新しい形のオモチャ屋」ではないかと思うのです。確かに、100円の実用品は並んではいますが、大多数の商品は特に必要とするものではない筈なのです。ながめつつ、手に取って「何かに使えないか」と考える楽しみのためにそこに通う人も多いと想像しています。

そうではなくて、メーカーやサービス業には、所有して、または受けて大きな精神的な満足を得るモノやサービスを提供して貰いたいのです。モノであれば、使う度に五感が嬉しくなるデザイン、機能、手触り、音、匂い?、振動などの要素が必要でしょうし、サービスであれば何度もリピートしたくなるものである必要もあるのです。いわば、受ける度に新たな発見や感動があるサービスと言ったものになるのでしょうか。続きます。

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2016年6月17日 (金)

3043 幸福論?

TEDのスーパープレゼンが好きで、よく見ます。昨日も、幸福な人生とは何かについての再放送がありました。ハーバード大の、700人余りの市民を対象とした75年間も続く追跡調査の根気よさにも感嘆しますが、それに長く関わってきた研究者の、到達した結論もまた印象的でした。つまり、人の幸福の尺度は、名誉でも、社会的地位でも、ましてやカネでもなかったのでした。幸福だと感じている人の尺度は、家族や親しい他人との人間関係が、如何に豊かでしかも良好であったかだと言うのです。確かに、人間はコミュニケーション手段として、言葉を発明し、現在でもそれを豊富にし続けています。英語圏では、いまだに年に数百もの新しい単語や表現が生まれていると聞いたことがあります。

その豊かな言葉や、表情などのボディランゲージを駆使して、人は人と繋がりたがっているのでしょう。しかし、私たちは今ある意味での危機を迎えているのかも知れません。その大きな元凶は、PCやスマホなどを通じたネットコミュニティへの過度の依存です。ネットを通じてのコミュニケーションでは、完全な形でのコミュニケーションは無理だと思うのです。完全なコミュニケーションは、単なる言葉の往復だけではなく、相手の語気やイントネーションや息遣いも感じながら、顔の表情や全身で表現されるジェスチャーまでも加えたものであるからです。

さて、わが身を振り返って、これまでの人生で十分な人間関係が築けたかと反省してみると、それなりはであったかと総括できそうです。学生時代、長い重工時代、その後の中小企業時代を経て現在のフリーランスになり果てた?時代を通じて、繋がってきた人達とは、現在でも良い関係を維持できているとは思ってます。もちろん、折々に便りを送るとかがあまり出来ないという、「筆無精」の性格が災いして、メンテナンスは十分だとは言えませんが、彼らと再びのつながり(Reunion)が出来ると、その間の無沙汰を融かす事は容易です。

ここで、言いたかったのは、ハーバードの研究は、経済(=カネ)や科学技術の恩恵である便利製品(モノ)を盲信し、猛進している、この国の国民に重要なのは、GDPでなくGNH(総幸福度)である事を再度確認し、それを上げるための重要なヒントを与えているのではないか、という点なのです。

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2016年6月16日 (木)

3042 バックキャスト

「バックキャスト」という考え方があります。これは、先ず理想とする「鋳型」を想定し、それに向けて中身を詰めていくと言うアプローチ法を指します。このアプローチ法が優れているのは、ゴールの形がかなりの程度明確なので、そこに近づく行動に、あまり迷いや無駄が出なくて済むと言う点にあるでしょうか。これに対して、現状から出発し、過去から続く延長線上に将来像を見出す、「演繹法」というアプローチもあるでしょう。この国を含め、多くの社会が採用しているのもこの方法に頼っています。国の施策や予算も、前年度や直近の年度の延長線上で編纂される訳です。

しかし、現時点からの延長線上に将来像を描く場合、もし現在のベクトルが余り正しくない場合、ズルズルと好ましくない方向に外れて行く事になり兼ねません。そのため、ある時代の政権や国の施策が偏っている場合、別の政治勢力が台頭してきて、それを修正する様に機能するのが、民主主義で理想と言われる二大政党制なのでしょう。とは言いながら、たった二つの政党の間で転がしたとして、果たして国が正しい方向に導かれるか?と問われれば、それは「否」でしょう。何故なら、拮抗するそれぞれの政党(政策集団)の党是が必ずしも「正しい」とは言えないからです。もし、真に正しい答えが一つ存在するとして、そもそも政党が複数あること自体が納得できない話になるでしょう。

問題の本質は、誰も最も正しいと思われる「鋳型」を示す事が出来ない点にあります。国のあるべき姿、その中で国民が果たすべき役割、更に言えば私たちの価値観は、倫理や哲学の問題なのですが、政治や政策とはそのための手段に過ぎないのであり、方法論に過ぎないのです。政治屋はその意味で単なる工事屋に過ぎなく、あちこちのホコロビをトンカンと直し続けるイタチゴッコを見る思いです。真の政治家の役割とは、理想を掲げ将来の「鋳型」を示す事しかあり得ないでしょう。日本中をトンネルや橋や新幹線で繋ぎまくる「日本列島改造論」は論外としても、事実としてはその亡霊がこの国を支配し続けている様にも見えます。国家百年の計を唱える政治家の出現を待ちたいところですが、百年待っても現れない可能性も高いのかも知れません。

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2016年6月15日 (水)

3041 エンジンを吹かす?何をバカな・・・

字ばかりで、あまり人気の無いこのブログは、単なる投稿者の独り言であり、批判のための批判はしないモットーなのですが、腹に入らない事は、やはり苦言を呈しておくしかありません。さて、ラジオから流れてくる最近の街頭演説によると、Aベノミクスは、更にエンジンを吹かすのだそうです。しかし、元技術屋の端くれとしては、「効率」という事を抜きしては、結論を誤ると警鐘を鳴らさない訳にはいきません。

さて、Aベノミクスの本質は、三本の矢なのだそうですが、最初の二本はお金で勝負しようと言うものでしょう。車で言えば、お金とはガソリンの様なものでしょう。エンジンを吹かすための燃料です。国がお金をどうこうしようとすれば、税金や国債を使った財政出動か、あるいは日銀を口説いての金利政策くらいしか弾は無いでしょう。しかし、考えてみなければならないのは効率です。車において、注ぎ込んだ燃料の持つエネルギー(熱量)以上に、馬力を引き出せるものでしょうか。カルノーはこれをきっぱりと否定しています。つまり、エンジンには内部抵抗や排気やラジエータからの熱ロスがあり、車には走行抵抗や空気抵抗による「機械ロス」が付きまといます。従って、車全体としては、技術者がいくら頑張っても20%前後の熱効率しか実現できないのです。

他方で、経済効率です。もし、お国が投じたお金以上に税金が回収できるなら、経済効率は100%を上回るでしょう。たとえ、短期間ではそれが実現したとしても、やがては厳しいしっぺ返しが始まる筈です。自然現象でも、経済でも同じでしょうから、無から有は絶対に生まれないのです。政策で、ミニバブルを起こす事は可能でしょうが、3034に書いた持続的な開発ゴールとは、真反対のベクトルをもっていると切り捨てるしかありません。

他方で第三の矢が何だったのかと振り返れば、やれInbound観光客の爆買い期待とか、地方自治体に丸投げしての「地方創生」だとか、税金をばら撒いての「一億総活躍」だとかの、中身の薄い(無い)お題目でお茶を濁している状況です。繰り返しますが、無から有は絶対に生れません。地道に、基本的な(固い)ニーズに対応した経済を展開する中でこそ、しっかりした経済基盤が固まってくるものだと指摘しておきます。

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2016年6月14日 (火)

3040 自家中毒

3000日以上も投稿を続けると、人間は忘れっぽい存在ですので、どうしても同じタイトルで書く事も多くなります。確かこのタイトルでも書いた様な気がしていますが、書いた内容はすっかり忘れてしまっているのです。とは言いながら、何年も前に使ったたった一つのキーワードを憶えていると言うのは、人間の記憶の痕跡が脳の何処にあって、どの様に記憶されているかが何となく想像出来て、少し楽しくもなります。このブログでは日々「環境」について書いているつもりですが、最近の投稿を読み返すと、すっかり「随筆ブログ」になってしまっている事に気が付きます。毎日、最近ホットになっているトピックスのキーワードを取り上げて、そこから書き始めるのです。今朝は、表題の言葉が降ってきたのでした。

さて、環境問題(環境汚染)の本質は、自家中毒だと言い切れます。というのも、環境汚染や悪化は、人間が必要とされる資源や物質を抽出し、利用し、廃棄する中で生ずるものだからです。鉱山から鉱物を掘り出せば、有用な鉱物を抜き出した残り(鉱滓)は完全に不要な廃棄物でしょうし、選別の過程や鉱道から排水した水の中にカドミウムなどの重金属が混じっており、鉱害が発生してしまったのでしょう。また、発電や車の利用などで、大量の化石エネルギーを消費すれば、その過程で最早地球規模となった大気汚染や温暖化ガスの一つであるCO2が増加し続ける訳です。一方で、何十万種類とも言われる人間が作り出した物質(化学物質)は、用済み後環境に廃棄され、自然に分解(生分解)されない物質は、水や土壌汚染、あるいは食物連鎖による生体濃縮によって環境汚染が長く固定される事になるのです。

人が自らの過ちで食べてはイケナイ食べ物を口にすること(誤食)や自分が体内で作り出した物質によって、腹痛を起こしたり、命に関わる様な症状を起こす事を「自家中毒」と言いますが、環境の悪化は、まさに時間を掛けて進行する人類の「自家中毒」に相違ありません。対策は、上に述べた科学技術の恩恵を出来るだけ遠ざける様に生活する以外には見当たりません。すっかり「便利中毒」となってしまった私たちには非常に難しい挑戦ではありますが・・・。

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2016年6月13日 (月)

3039 Inboundブーム

Inboundという何やら訳の分らない言葉が、日夜マスコミを賑わし、行政を惑わしています。これ(外国人観光客の急増)は、国の骨太の方針?でもあり、官民を挙げて誘致に血道を上げている様です。しかし、急造りの対策は、底が浅いのです。老舗のホテルは、二束三文で外国人経営者に買い叩かれ、そこにバスで連れ回された観光客をギュウギュウに詰め込んで、利益を貪る訳です。それでもまだ宿泊施設が不足するので、空き部屋となっているアパートやマンションを、名前を「民泊」名前を変えて貸すのだそうです。

私たちは、「ブームは必ず何時か去る」という原則を忘れるべきではないでしょう。何時かと言われれば、それは円高が加速した時であり、バスで連れ回されてギュウギュウ詰めホテルの待遇に嫌気がさしてリピータが来なくなった時であり、C国や東南アジアの国々が不景気に陥った時でしょう。少し、過去を振り返ってみれば、如何に多くのブームが、あっという間に、あるいは少し長めに続いた後に、まるでそれが無かったかのように消えて行ったかが想い起される事でしょう。ブームには必ず仕掛け人が居て、それに乗っかる人々が存在するのです。このInboundブームの場合は、仕掛け人が官であり、乗っかる側が旅行・観光業界であり、更にそれにやっと海外旅行が自由に出来る様になった東南アジアの富裕層がk乗っかっていると言う構図でしょう。

円高になって、旅行代金が限度以上に高騰したり、生活に余裕が無くなったりすれば、誰も物見遊山の海外旅行などには出かけないでしょう。9.11直後に既に証明された様に、少しの危険があっても海外旅行が絶対に必要な人は、45%しか居なかった訳です。残りの55%は不要不急の物見遊山客だった訳です。ブームが去れば、お国が口を開けばマスコミを煽っている様に、Inbound客が何千万人だかに増える事はあり得ないでしょう。何度も経験している様に、一度ブームの峠が見えたと報じられ始めると、ブームが去るのは潮が引く様に早いのです。

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2016年6月12日 (日)

3038 空き家問題

この国では今や空き家の増加が大問題です。首都圏でも空き家率が増加中だとか。もちろん、投稿者がUターンしたA田の田舎町でも深刻です。その特徴は、駅に近い、いわゆる旧市街での「歯抜け現象」だと言えます。商店街や住宅地で、飛び飛びの空き家が目立つのです。跡継ぎの居なくなった商店や、一人暮らしで頑張っていたお年寄りが亡くなって、都会に出た子や孫が、実質上放棄したケースが多いと想像しています。

一方で、駅裏に広いバイパスが出来て、ショッピングセンターや小奇麗な医院が並ぶエリアでは、田んぼが次々に埋め立てられ、新しい住宅地が誕生しているのです。銀行屋さんにそれとなく聞いたところによると、どうやら市の中でも雪深い山の麓から、町に出てくるケースも多いとか。結局は、お年寄りが冬場の雪寄せや、薪を作るのが大儀になって、先に町に降りてきている子や孫との同居を始める家族が増えている様なのです。山麓の家は、夏場には戻って暮らすのかも知れませんが、いずれ空き家(廃屋)になるのでしょう。

一体何が、この問題の根にあるのでしょうか。人口減少で空き家が増えるのは致し方ないでしょう。しかし、新しい家やマンションが次々に建てられ、その一方で空き家が加速度的に増えると言う現象はやはり異常です。その背景には、TVのリフォーム人気番組とは裏腹ですが、住宅のリフォームが殆ど進められていない事が挙げられそうです。というのも、リフォームは建築屋さんにとって面倒くさく、手間が掛かるものだからと想像しています。設計も、施工もケースバイケースの一点一様であるため、コピーして手間を省く事が出来ないのです。

ヨーロッパで見た例は違っていました、ビルでもアパートでもレンガ造りの建物に「外断熱」を施して、ピカピカのサイディングで仕上げると言うリフォームが盛んに行われていました。もちろん、それに合わせて内装にも手を加えれば、戦前からある古い建物も新品同様に蘇ります。つまりは、日本の建物とは骨格が違うと言えるでしょう。この国では、鉄筋コンクリート造でさえ、50年ほどで寿命が尽きることが前提です。木造住宅に至っては、精々3040年と言ったところでしょう。つまりは、建て替えが前提の間に合わせ建築となっている訳です。解決の方向としては、例えば建物の土台や骨格は、十分な強度を持たせて、例えば100年程度は持つ様にするのです。骨格さえしっかりしていれば、外装や内装のリフォームにより、住人のライフスタイルが変わっても対応可能でしょう。その代り、敷地にも余裕を持たせ、あるいは低層の集合住宅として、価値の下がらない建物とすべきなのです。リフォームではなく、価値の下がらないリノベーションです。私たちは、間に合わせで、古くなると二束三文になる安普請はもう止めにしなくていけないでしょう。

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2016年6月11日 (土)

3037 宇宙ホテル?

国際宇宙ステーション(ISS)に、何やらホテルモジュールが追加されたとか。金属製のハード構造ではなく、繊維補強の軟構造による膨張式で内圧によって風船の様に膨らむ構造なのだそうです。技術的な点で言えば、強度的には十分かも知れませんが、一方では金属に比べて「宇宙船」の遮蔽能力が落ちると思われ、搭乗者の宇宙線被ばく量が高くなる懸念があります。

それより、何より宇宙滞在のための「宇宙ホテル」というコンセプトが腹に入りません。果たして、宇宙船の窓から暗い星空や、青く輝く地球を眺めるためだけに、膨大な資源を浪費して良いのでしょうか。お金は、そこに滞在できるお金持ちのものなので、勝手に浪費して貰って結構ですが、往復に使われるロケットの大部分は使い捨てで、たとえ再使用できるロケットが出来たと仮定しても、膨大な量に達する燃料は、ため息が出るほどのエネルギーを持って居る筈です。それを地球上で利用すれば、どれだけの人が何日間暮らせるのか、誰か試算した人は居るのでしょうか。宇宙からの景色であれば、4Kカメラの画像で十分でしょう。無重力を体験したいだけなら、航空機でも数十秒間なら体験可能でしょう。

宇宙空間の「開発?」など「夢のまた夢」である事が既に十分証明されているではありませんか。宇宙空間には、闇と低温と真空と無重力しかないのです。無重力以外であれば、地上で簡単に実現できるでしょう。無重力でさえ、地中に深い穴を掘れば、1分くらいなら持続できるでしょう。無重力を利用して医薬品や完ぺきな合金を作るのであれば、多分それでも間に合うでしょう。宇宙ホテルを構想した人は、何かはき違えているに相違ありません。折角打ち上げたISSの寿命が尽きるまでに、ホテルモジュールで一儲けしようと考えたのかも知れませんが、間違いなくそうは問屋が卸さないでしょう。あたら優秀な能力を持った宇宙飛行士を、宇宙線被ばくの人体実験に供する上に、税金をムシャムシャ食ってしまう宇宙アパート(ISS)などは、一日も早く店じまいにして貰いたいものです。

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2016年6月10日 (金)

3036 周回遅れFIT

FIT制度の本家本元であるDイツでは、この制度を間もなく終了させる様です。元々FIT制度は、導入コストが高い再エネ発電設備の設置を加速させるため、例えば売電と買電の比率を、4倍程度に設定して、投資の回収期間を短縮させ、促進するための制度でした。しかし、その仕組みでは必要なインセンティブの原資を税金で賄うのではなく、電力需要家の料金に上乗せした形で調達するのです。従って、FIT制度を長い期間(Dイツの場合16年余り)続れば続けるほど、電力料金は消費者が耐えきれない程高くなり、しかもそれが20年以上も持続すると言う消費者に厳しい制度でもあります。

従って、いずれにしてもFIT制度はある時点では打ち切る必要がある訳ですが、徐々に買取り価格を下げるのか、又はある時期にスッパリと切るのか、その決断が難しい制度でもあるでしょう。打ち切り時が難しいのは、再エネの充足率の数値目標が明確でないのが原因として挙げられます。というのも、再エネ投資は、投資の申請・認可から実際に稼働するまでは、数年は必要となる訳で、行政側としては現状と数年先までの認可状況から、打ち切るタイミングを計るのはそれほど困難ではない筈なのです。

さて、この国のFITは、実のところ初期の買取り価格は、Dイツ程大盤ふるまいではなく、2倍強程度からスタートしました。これは、実のところスロースタート法と言えるでしょう。その後、太陽光は加速し過ぎ、風力はソコソコ、バイオマスはボチボチと言うより出足が悪いため、毎年の様にFIT価格の見直しが行われてきたのでした。

想像するに、本家のDイツの消費者は、しかしそれを現世代から将来世代への贈り物という意識で、負担に耐える覚悟をした訳です。しかし、この国(の消費者)に、それだけの覚悟があるかと問われれば、大きな疑問符が付くでしょう。例えば、電力料金が今の3割増しになると言われれば、FIT制度に反対する企業や消費者の割合が、大多数になると見ています。FIT制度は、目標値を決めて、それが達成された暁にはスッパリ止めると言うメリハリこそ大切だと思うのです。この国は、何時も海外、特に欧州の制度を真似る事から始めるのですが、周回遅れで制度をグズグズ続ける傾向にあるのは情けないと感ずる事も多いのです。たまには、制度のトップランナーになって貰いたいものです。

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2016年6月 9日 (木)

3035 解体工場

隣町にリサイクル事業所があります。ここでは、手作業を多用して、受け入れた廃棄物を徹底的に分解し、素材毎に分別します。例えば、パソコンも筐体、基盤、ケーブル、ファン、ハードディスク、・・・、と言った具合に、メーカーの組立工程とは逆の順番で分解するのです。もちろん、基盤やハードディスクなどは更に分解する訳ではなく、専門のリサイクル工場に送って、最適な?方法でマテリアルリサイクルされる訳です。

この様な方法は実はメジャーではありません。手間が掛かるからです。もっと荒っぽいリサイクル方法は、廃棄物を一緒くたにして破砕し、磁選や風選や比重差分別程度の自動分別機に掛け、分別後は金属関係はリサイクルをしますが、残りは焼却や埋め立て処理に送る、と言ったラフな手段で「リサイクル」を行うのです。これでは、正しい意味のリサイクルとは言えないでしょう。

理想は、「解体工場」だと思うのです。これは、最初に述べた様な工場に近いイメージの工場になります。つまり、機器を分解するのですが、その際には機器別はもちろんですが、可能な限り部品メーカー別に分別します。ハードディスクと言っても、いくつかのメーカーがあり、部品構成や原材料も微妙に異なる事でしょう。しかし、それを作ったメーカーであれば、ビス1本まで、素材や製造方歩まで熟知していますから、厳密な意味でのマテリアルリサイクルが可能となるでしょう。もちろん、分解専門の事業所が究極の理想ではありません。全ての製品を、最後はそれを製造したメーカーに送り返すのが、マテリアルリサイクルの理想なのです。全てのメーカーには、製造工場とは別に分解工場を作る事を義務付けるのです。例えば、車メーカーで言えば、組立ラインと分解ラインがある訳です。廃車は徹底的に分解され、部品単位まで分別されます。それを法律で義務づければ、ほぼ100%近いマテリアルリサイクルが可能となるでしょう。事実、Dイツには、廃車を元々のメーカーに送り返す法律が出来ていて、有効なリサイクルが行われている例もあるのです。必要な事は、先ずは理想像を掲げる事だと言えます。その上で、現実を徐々にでも理想に近づけるのです。

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2016年6月 8日 (水)

3034 SDGs

国際会議などでも議題に取り上げられる事も多く、最近は、マスコミには頻繁に出てくる言葉ですが、どうにも具体的なイメージが湧かない言葉でもあります。SDGsとは日本語にすれば、「持続的な開発目標」とでもなるのでしょうか。しかし、この言葉が「具体的」ではないのは、何を何時までにどのれネルで達成すれば「持続的」であるかの定義が無い事です。開発であるからには、現状を打破して何かを変える事が必須でしょう。そうでなければ、開発ではなく現状維持と呼ばなくてはならないでしょう。

持続可能社会とは、厳密に言えば、地下資源には手を付けず、地上にある資源だけで継続できるものでなければならないでしょう。地下資源を消費すれば、必ず地下資源を掘り出す際に排出される不要物、例えば鉱滓なども蓄積し、化石燃料の消費では、CO2などの温室効果ガスやNOx、SOxなども大気中に蓄積していきますので、間違いなく環境の持続性は担保されません。しかし、エネルギーとして再エネ、バイオマスや風力や太陽光などを使う限りにおいては、持続性はどうにか確保されるでしょう。

SDGs社会を標榜するなら、少なくともインフラに関して言えば、スクラップ&ビルドが基本であり、人口減少地域においては、それに応じての縮小もやむを得ないでしょう。スクラップの場合には、取り壊した残滓のリサイクルも100%を目指し、跡地も含めて元あった環境に近づける事を実行する必要もあるでしょう。実際、ヨーロッパの「環境先進国」では、川のコンクリート護岸を剥がして草の生えた土手に戻したり、湖のコンクリートで覆われた岸を、剥がして砂浜に戻したりしてもいます。その結果、淀んでいた川や湖の水質が改善し、魚や鳥も戻ってきたのでした。人工インフラの完全復旧の例と言えるでしょう。

SDGsの実現のためには、先ずはマテリアルリサイクルを完全実施(限りなく100%)し、社会を回すための化石エネルギーや地下資源の消費を取り敢えず半減を目指す省エネ技術を磨き、経済規模を適正な規模まで引き締め、再エネを社会のベースとなるまで(例えば4割以上に)引き上げ、と言った具体的な数値目標を掲げた上で、国民の覚悟を引き出す事が必要だと思うのです。掛け声だけでSDGsは、そこらの電柱に貼ってある交通安全標語と何ら変わりがありません。標語だけで交通事故が減ったと言う話は、寡聞にして知りません。

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2016年6月 7日 (火)

3033 二項対立?

3032の続きです。白か黒か、あるいは保守か革新か、と言ったいわゆる二項対立の構図は大衆も好きなので、マスコミもついその尻馬に乗って賑やかに報道しがちです。しかし、それが如何に「危険なこと」であるかについては、時々考えてみなければならないでしょう。二項対立は、結局は綱引きや、多くの対抗スポーツ、あるいは対戦ゲームと同じで、必ず勝ち負け、白黒が決着するので、観客として観る分には面白いでしょう。だからこそ、マスコミも記事を面白くし、視聴率を取るために、論点を際立たせての対立を煽る訳です。

政治ショーで言えば、増税賛成か反対か、あるいはAベノミクスが成功か失敗か、憲法改正か護憲かと言った、いわば荒っぽい論点整理しかやらないです。民主主義と言いながら、有権者は納得はしていないにも拘らず、どちらがの陣営かの二者択一を迫られる事になります。結論から言えば、政治形態の理想は、二大政党制ではないと思うのです。そうではなくて、ベクトルの異なる第三党があって、お互いに違うベクトル方向に引き合い、有権者に政治の中心を好ましい方向に動かす手段を持たせるべきなのです。

具体的に課題を挙げるなら、例えばAベノミクスが是か非かではなく、本来国の経済や税制はどうあるべきかという視点を掲げ、それに向けての将来ビジョンを掲げた政党に出てきて貰いたい訳です。それ抜きでは、現在の論点である、税収を上げて、収支のバランスを取り戻すためには、世の中の景気を上げざるを得ず、そのためには世のお金をジャブジャブにすれば良い、そうすればオコボレが民衆にも滴り落ちる筈だ、という単純過ぎるAベノミクス政策を指示するか、あるいは否定するかの二択に落ち込むしかない訳です。まさに二項対立です。

論議の焦点は、国のあるべき姿でなければなりません。その意味で上等な国としては、やはり北欧やDイツを挙げざるを得ないでしょう。例えばDイツです。この国では、2020年までに1994年比で資源の消費を半分にする、更には2050年までに1990年比で温室効果ガスを90%に抑え込む、と言った非常にチャレンジングな数値目標を掲げていますが、資源については既に15%の削減を達成しているのです。しかも、経済成長は順調に継続している様なのです。彼の国では、Fクシマの事故が報じられるや否や、原発の全廃も決めて、実際の廃炉作業も順調に進めているのです。何が彼の国のスマートさと、この国のグダグダを分けているのでしょうか。優れた政治家の輩出を阻害している、「政治屋集団」だけに責任を押し付ける事は出来ないでしょう。これは、国民の意識と選択の問題だからです。

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2016年6月 6日 (月)

3032 税のグラデーション?

政治ショーは、問題を「白黒論議」に持ち込む手法を多用します。戦争法案に賛成か反対か、あるいは増税(延期)に賛成か反対か、はたまたコンクリートか人か、といった論議の事です。しかし、物事の本質はそんなに単純ではないでしょう。白黒写真にしても、単に白(地)と黒(銀塩)の2値で割り切れるものではなく、その間には何百階調もの「灰色」が存在している訳です。何百階調というのは、控え目な数字であり、実際の自然は人間の目やカメラの画素ではとても判別できない程の階層で出来ている訳です。それに、色彩が加わるに至っては、人間はかなりの程度「端折って」認知する以外に方法はないのでしょう。だからこそ、色彩や階調を「言葉による分類」で振り分けて、どうにか表現するしか方法が無いのです。例えば、薄い赤色、濃い緑、鮮やかな黄と言った具合です。その意味で、全ての言葉は、実は自然のグラデーションを単純化して説明するために発明されたと言っても過言ではないかも知れません。

さて人間社会のグラデーションです。一応民主主義を標榜している社会では、「多数決」という物事の決め方があります。これが果たして本当に「民主的」であるかどうかについては、事あるごとに論議が必要でしょう。というのも、多数決により決め事に於いては、必ずと言って良い程「多数派工作」が蠢くからです。政治の世界における「政党(Faction)」は、まさにある企みのために集まったグループの表面上の呼び方に過ぎません。もちろん、グループの成員が、必ずしも同じ企みを持って居るとは限りません。ある党員は、親の代から続く議席を必死に守るために、またある者は政治的なパワーを利用して稼ぐために、またある人は、大きな勘違いから党に所属してのかも知れません。

ある問題の回答は、決して白黒で割り切れるものではないでしょう。それを避けるためには、安保法制にしても、複雑な国際社会の中で、「この国の立ち位置はどうあるべきか」を最初に論議すべきであり、税も上げるか上げないかではなく、先ずは「何が税の平等か」という徹底的な論議が必要なのです。必要ならば、B国寄りか離反かではなく、国毎のきめ細かいグラデーション外交が必要なのかも知れませんし。税の平等のためには、納税者毎に年度毎に税率を変えたって良い訳です。そもそも税とは、それぞれの納税者が、可能なレべルで社会を支える仕組み(共助システム)であるべきで、税で得をする人と損に回る人を二分する悪い制度であってはならないと思うのです。

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2016年6月 5日 (日)

3031 現物給与・現物納税

新しい、社会システムの提案です。今は、全てお金(通貨)でなければ、代価や給与や税が支払えないシステムですが、これをモノや体(労働)で支払えるようにするのです。主に食べ物が必要な人は、農家やスーパーや外食産業で働いて、給料の一部を現物として受け取ります。これは、雇う側からすれば現物給与という形態であり、受け取る側からすれば必要なモノを労働の提供で受け取る事を意味します。もちろん、この場合はお金とししてのやり取りは発生しませんので、お国や自治体としても課税対象の給与とはならないため、税金は発生しません。

しかし、これでは店で売り買いされる商品が激減するため、消費税もガタ減りになり、給与所得への直接税も同様に激減するでしょう。当然の事ながら、税金を受けとり行政サービスやマツリゴトを行う政府も、人件費さえ賄えない事になります。ましてや、お金の掛かる、インフラ工事や福祉や教育などは、ガクンとレベルダウンせざるを得ないでしょう。そこで、お金による税金の替わりに、現物税も可とする訳です。介護や、保育や教諭、建設関係の資格を持って居る人はもちろん、車の運転や単純な肉体労働しか出来ない人も、社会の中では役立てる局面は多い筈です。行政の仕事には、もちろん事務仕事もあれば、現業の仕事も多いでしょう。

つまり、お国の仕事も自治体の仕事も、職員とお金で動かす部分に加え、地域のプレーヤが現物、労働で支える部分を加えれば、行政サービスの量と質も維持できる勘定になります。サラリーとして、お金で受け取り、税として天引きされるのが良いか、天引き後のサラリーと同じ程度しか手取りが無くても、税金は取られず、税労働や現物で払う方が「精神衛生上良い」?のか、それぞれの人のオプションとすれば良いでしょう。もちろん、税労働や現物で支払おうとする場合は、自分が提供する資格や労働や現物の中身に関して、事前に登録して、承認を受けて置く必要があるのは当然でしょう。農家だって、何も無理やりN協さんを通じて売らなくとも、地元の学校や地域の外食産業などで、日々消費される食糧はある筈ですから、現物納税でも十分機能すると思うのです。兎に角、マネーだけに依存している今の経済活動の外に、現物や労務で支払われる経済が存在する事により、景気や物価の変動に左右されない、ベースとなる地域経済を構築してもおかしくはないでしょう。かつては(少なくとも投稿者の子供時代までは)、間違いなく地域に存在した訳ですから。

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2016年6月 4日 (土)

3030 先送り文化

消費税増税が再度「先送り」された様です。この構図は、この国ではそのこそ何度となく繰り返されている訳で、デジャブを見る思いです。先送りの意味するところは、現世代や現政権の保身行為そのものであり、問題を将来世代に先送りする行為そのものであると断ずるほかありません。全く同じ構図は、サラリーマン社長がトップとなっている企業でも目にする光景でもあります。つまり、自分が社長で居る間には、飛ばし取引をしても、トンネル企業を通した架空の取引をデッチ上げても、経理を操作してでも、つまりは違法(あるい違法スレスレ)な行為を犯してでも、「当期利益」を確保し、株主へ「配当」をしようと足掻くのです。しかし、問題は次の経営者に先送りされるだけです。売り上げが少なかった事や、実際に赤字はやがて露呈し、コンプライアンスが問われ、三役そろい踏みでの謝罪会見が繰り返されるのです。

ならば、何をどうすべきなのでしょうか。先ずは、政治家や経営者が率直に失政を認め、自ら頭を丸めるべきなのでしょう。具体的には、自らの給与を減らし、議員の数を減らす姿勢を示す必要があります。経営者であれば、自らメザシを食し、企業経費をバッサリ切り、それを例えば新分野に振り向ける「方針」を明確にする必要もあるでしょう。

経済の失政を、海外の経済状況の変化に責任転嫁するのは、やはり最低・最悪の政治姿勢と言うしかありません。企業の減益局面でも同じです。経済の山谷があるのは、市場経済社会では日常茶飯事なのです。投稿者のつたない経験から類推するだけでも、短期間の内に企業の売り上げは50%くらいに落ち込んだり、100%まで反発したりするのです。企業の売上見込みなどは75%(+/-25%)と考えておけば、それ程慌てる事もないのでしょう。それを、前年度よりたとえ1%でも多く売上げようとする足掻きが、例えば利益偽装などを招くのです。

増税論議に戻れば、明確な赤字減らし対策の提示無しに、単に先送りすると言う姿勢は、「新しい判断」などという口先だけの言葉など、言い訳にすらなっていないでしょう。これはまさに「誤魔化し」そのものです。約束を守らない政治家は、去るしかありません。政治家の役割は、言い訳を繰り返す事ではなく、将来を見越して裏付けのある青写真を示す事しかないのです。身を切る改革などいうものは、言葉では簡単ですが、人は自分に甘いものなので、実行は困難なのです。投稿者が生きてきた人生の中ではそれを目撃した記憶が無いのです。残念ながら。

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2016年6月 3日 (金)

3029 モノの値段≠価値

値段と価値は同じ意味か、と問われれば、違うと答えるしかありません。例えば、ラーメン一杯の値段は、時代によって上がってきました。学生時代には50円でも食わせてくれる食堂があった様な気もしますが、今は500円は下らないでしょう。しかし、インスタントラーメン1袋ではどうでしょう。昔だって、数十円はしていましたが、今でも50円売りの銘柄もそれなりに残っています。つまり、人手が掛かるものは、50年で10倍になり、工場で機械を使って作られるものは、材料費分の値上がりはあったにしても、売値が殆ど変っていないと言う事なのでしょう。その意味で、物価の優等生である鶏卵は、何万羽もの卵製造機が居る「鶏卵工場」で作られる、工業製品であるとも言えそうです。

しかし、ラーメン一杯やインスタントラーメン一袋の、食べ物としての機能、例えばカロリーや栄養価や味に、昔と今でそれほど差があるとも思えませんから、モノの持つ「価値」としては殆ど変っていない筈なのです。という事は、人の(労働時間)の価値(ではなく労賃)が変ったと考えるべきなのでしょうか。世界中のメーカーは、大量生産設備によって、モノの値段を下げながら、生産量を上げる事に汲々としてきた筈です。そうでなければ、旺盛な需要を満たせないし、何より競合相手の遅れを取ってしまうからです。そうなれば、市場でシェアを失い、企業規模を拡大する事もおぼつかなくなります。

一方で、モノの値段を下げる(あるいは値上げしない)ために、最終的に企業は人権費に手を付けざるを得ませんでした。人一人が生きていくためのコスト(リビングコスト)は、物価指数と共に着々と上がってきました。従って、正規雇用の場合は、ほぼ物価にスライドさせて賃上げせざるを得ないでしょう。しかし、正規雇用でなければ・・・です。その意味で、相対的に見れば人の労働の価値は、年々低下し続けているとも言えそうなのです。結局、現代社会は、価値を表現する手段としてのカネが主役に躍り出ていまい、モノやましてや人は脇役に追いやられてしまったにだ、と結論するしかありません。残念なことですが・・・。

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2016年6月 2日 (木)

3028 サラリーマンという働き方

人が人に、あるいは組織や企業に雇われ、給料をもらいながら働くと言う労働形態が始まったのは、多分戦国時代の事だったのでしょう。けらい家臣は領主に忠誠を誓い、給料(あるいは扶持)を貰って、領主のために、あるいは領国の維持のために働く訳です。城が出来、家臣が住む城下町が出来ると、それを支えるために色々な商売も増え、商売が上手い人は家業を拡大し、大店を構えた事でしょう。そんな店では、仕事の役割分担を進め、それを手分けするため当然雇い人も増え、労働者・使用者という形態も増加した事でしょう。しかし、一方では農家や職人の様に、自分や家族だけの労働力で一家族を養う、自営=Self employmentの割合が圧倒的に多かったのは間違いありません。

その割合が劇的にサラリーマンに傾いたのは、戦後の高度成長期でしょう。都市の企業は、旺盛な需要を満たすために大規模な工場を次々に建設し、地方の中学生や高校の卒業生をグングン吸収していったのでした。子供の頃見た、春先の「集団就職列車」の光景は今でも記憶に残っています。数百人あるいは千人を超える、中学校を出ただけの「子供達」が、夜行列車に乗せられて、一夜明ければ、列車が到着した都会で「労働者群」に生まれ変わる訳です。

結局、サラリーマンという働き方は、仕事を限りなく細分化する中で、それぞれの役割分担をするために生れ、拡大してきたと言えるでしょう。その意味では、現代は究極的に枠割分担が進んでしまった時代とも言えそうです。もちろん、それが良い事であるとは思えません。役割分担が進むと言う事は、逆に言えばその役割しか出来ない人を増やすと言う事になります。企業でうけ付けを担当する人は、経理の仕事は出来ず、工場でモノ造りに従事する事はない訳です。

一方、田舎で米作農業を営む人も、苗作りやヘリによる農薬散布や刈取り後の乾燥や精米から販売までは、N協さんに任せると言う分業をしている筈です。考えてみれば、農業と言えども、自家消費分以外は、消費者の食べる分を「肩代わりして」耕作していると言う形になっているのです。もちろん、分業を依頼する際には、現代社会では必ずお金の移動が発生します。今や、何から何まで一貫してこなして生業を立てている人は、カネや太鼓を叩いて探しても殆ど見つからないでしょう。山の中の集落で、ひっそりと自活農業をしている人は、それに近いのでしょうが、それにしても誰にも仕事の分担を依頼していないかと言われれば、お金を誰かに支払っている限りにおいては、その相手に作業を依頼しているのは間違いないでしょう。私たちは、~しか出来ないという、単能の「仕事音痴」から脱却すべきでしょう。サラリーマンと言えども、家庭菜園や簡単な大工仕事位はこなしたいものです。

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2016年6月 1日 (水)

3027 生体検知

例年この季節、各地の山では山菜取りに伴う行方不明事件が多発します。不明が報じられると、警察は大勢の人の手を借りて山狩りを行いますが、非常に非効率でもあります。例えば、乗り捨ててある車がある場所から山に入ったのであれば、非常に敏感なセンサーで、匂いや踏み跡やその他の痕跡を見つけ出し、それをトレースする方が早いでしょう。

それよりは、ドローンを飛ばして、赤外線センサーカメラで、動物の体温を検知する方が早いかも知れません。高度をある程度高くすれば、カメラがスキャンできる範囲も結構広いので、数キロ四方をスキャンするのにそんなに時間が掛からないでしょう。クマやタヌキなどの本物?の動物なら、動き回るので位置は結構変るでしょうから、動かなくて体温の高いターゲットこそ、遭難者である可能性が髙い訳です。遭難者は低体温症に陥り易い事を考えれば、事は緊急を要する訳で、何日もかけて山狩りをする訳にはいかないのです。

別の方法ですが、家電メーカーには、百円ショップで買える程度のな安い発振器とそれをトレースする検知器を開発して欲しいものです。検知器はもちろん捜索隊が持つので高くても構わないのですが・・・。周波数の種類は少なくて良いので、兎に角安い事が必須です。複数の人が同じ地域に入っていたとしても、夕方になれば遭難者以外は山から下りているでしょうから、残された遭難者の捜索に使っても混乱の原因にはならない筈です。

でも、考えてみれば警察犬の方が能力が高いかも。彼らなら、遭難者の持ち物の臭いを嗅ぐだけで、一直線に遭難者を探し出す事が出来るでしょうから。結論としては、人間の技術なんてものは、まだまだ動物の能力には程遠い、低レベルだと言う事になるのでしょうか。

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2016年5月31日 (火)

3026 脳は意味を求める?

脳の癖?として、として良く言われるのは、脳は情報(インプット)に何らかの意味を求めようとすると言われています。意味のある、言語情報の解釈はもちろん、脳の得意とするところですが、そればかりではありません。例えば、視覚情報で言えば、何の意味も為さない、壁のシミや天井の木目の中に、人の顔や風景や事物の形を「見てしまう」のです。聴覚だって、山の中や暗闇では単なる物音や動物の鳴き声にさえ何か恐ろしい存在(魑魅魍魎や妖怪?)を感じ取ってしまう事も多いでしょう。もっと鈍い嗅覚やさらに鈍い触覚などは、どの様にも誤魔化せるでしょう。つまり、意味のない情報にいかにも意味がありそうに感じさせるのは、簡単な事だと言えるでしょう。

それの何が問題かと言えば、本来意味を求めず、中立的に振る舞わなければならない場合でも、人は自分の行動に白黒の色をつけて、意味を持たせないと「落ち着かない」のが、我々のどうしようもない性(サガ)の様なのです。例を考えてみましょう。例えば、株の相場です。株価は、時間帯やプレーヤの入れ替わりにより、自然に上下を繰り返すものでしょう。しかし、そのランダムな変化にある人が、何らかの意味を見出そうと想像を巡らせ、そこの何らかの「変化の意味」を見出したとしましょう。実は、そこには意味が無かったとしても、無理やり「原因」を見出そうとする訳です。当然その変化に対応した「手」を打ちますので、場合によっては変化が増幅されます。

それを見た別の第三者が、更に想像を膨らませれば、あのブラックマンデーなどは簡単に繰り返される事になります。背景として、何らかの社会不安があれば、小さな引き金であっても、重大な結果を引き起こせる訳です。これが、逆の場合には少し異なります。好景気は時間を掛けて徐々に進み、不景気は一気に起こってしまう様なのです。これは、脳は良い兆しより悪い兆候に敏感であることを意味するのでしょう。確かに、ラッキー(例えば好きなエサ)が目の前にあるとゆっくりと処理する事が出来ますが、敵の襲来などの危険は急速に迫ってくるのが常ですので、(善・悪)情報の処理スピードに大きな差があるのは致し方ありません。

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2016年5月30日 (月)

3025 技術の尻拭い

昨晩のNスぺは、「廃炉」という非常に重たいテーマでした。率直に感ずる違和感は、40年とされている廃炉計画の時間のスパンの中で、いったい誰がそれを取りまとめ切る事ができるのか、という点です。学卒で新入社員で入ったしても、企業人生はたったの30年余りしかないからです。しかも、内部の燃料の溶融状態が殆ど分かっていない段階での40年という見積もりは、あまりにも楽観的過ぎると言わざるを得ないでしょう。すでに5年経過しましたが、目に見える前進もないまま、未だに汚染水対策に振り回されている状況なのです。技術開発のためには、人材育成を含めて、腰を据えた取組みが必須なのです。

さて、今回の表題は、技術が起こした不始末の、技術による尻拭いなのですが、実のところ技術の規模が大きくなればなるほど、事故を起こした場合の収拾が難しいという事実は受け入れなければならないでしょう。例えば、石油の掘削技術を考えてみましょう。現在は、海底からでも石油や天然ガスを汲み上げる「技術」は確立されてはいますが、一度噴出事故が起こると、実際上は自噴が止まるのを待つことしかできない場合も多いのです。B国の石油メジャーがメキシコ湾で起こした海底油田事故は記憶に新しいところです。つまりは、海底での「漏出事故を収拾する技術」は、いまだ確立されていないと言うべきでしょう。

原発事故の場合、油田事故の様に時が解決してくれる訳ではありません。核種にもよりますが、半減期が非常に長いため(数万年という核種も)、時間の経過が解決につながらないからです。放射能を消す技術?が存在しない限り、事実上私たちは原発事故を収拾する技術を持っていないと白状するしかないのです。現在の技術で出来そうなのは、何百トンにも上る燃料デブリを、強い放射能にもある程度耐久性のあるロボットを開発し、水中か、あるいは気中で、コツコツと少しずつ削り取って、分厚い金属の容器に詰め、どこかの処理施設の地中深くに「隔離」するしかないのです。デブリが格納容器のどこに溜まっているのか、その硬度はどの程度か、果たして強い放射能に耐えるロボットが作れるのか、周囲に放散される放射能はどの程度に抑えられるのか、解決しなければならない技術的問題点は山積です。後知恵ではありますが、やはり私たちの放射性物質を扱う技術は不完全であり、だからこそ核エネルギーの利用は「諦めざるを得ない」と思うのです。

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2016年5月29日 (日)

3024 技術とコントロール

広島でのOバマ大統領の言葉ではありませんが、技術は適正にコントロールされなければならないでしょう。科学者や技術者は、文字通り科学や技術のスペシャリストではありますが、それを応用するに当たっての「倫理」については、全くと言って良いほど素人なのです。何しろ、この国限らず学校で「科学倫理」や「技術倫理」などという授業は全く行われてこなかったからです。倫理などという言葉は、そもそも文系の言葉であり、理系の人が学校に入り直して哲学でも専攻しない限りは、言葉さえ知らない科学者や技術者が殆どだと想像しています。

倫理(学)とは、一般には「人と人との間のルールを考えること」ですから、科学倫理や技術倫理とは、結局は科学・技術と人(社会)との関係を考える事を指す言葉だと言えます。科学者や技術者は、ある技術が実用化されると、その事だけに興奮して闇雲に前に進んでしまう傾向あるのは間違いないでしょう。論文や特許を、他人より1分でも早く「モノにして」手柄を立てる事が、自らの存在感を増すと考えている人種だからです。原爆を開発した、マンハッタン計画に関わった、科学者や技術者の「興奮」や、小型の原子炉を開発して、潜水艦に搭載して、数か月間潜航したままで行動が可能になった時の彼らの「達成感」は想像するだけしか出来ません。、しかし、その爆弾が日本に投下され、あるいは軍事用の原子炉が大型化され発電用に造り直された結果起こした、「人間には制御できない事故」の悲惨さは、開発に関わった彼らにはついぞ想像できなかった訳です。

技術開発に関わるチームには、絶対に文系の「見張り役」が欠かせないと思うのです。彼らの役割が、その技術が使われ、広く普及した場合の社会を想像力を膨らませて想像し、そしてマイナスの側面を、可能な限り拾い出す事です。そして、技術がもたらす利益と回避出来ないマイナス面を天秤に掛ける役割を引き受けるのです。もし、その技術がのマイナス面が人間の健康や環境の悪化につながる要素を一つでも持って居るのであれば、どんなに優れた技術でも直ちに放棄すべき、という結論を出すべきでしょう。

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2016年5月28日 (土)

3023 疑わしきは・・・

私たちは、それこそ数えきれないほどの数(一説には100万種以上)と量の「化学物質」に囲まれて暮らしています。そのうちのかなりの数を、食べ物と一緒に口から体内に入れてもいるでしょう。例えばm食品添加物は、色や食味を良くするために、日々口にする食物に知らない間に練り込まれているでしょうし、防腐剤は、食品がスーパーやコンビニに運ばれ、陳列される間の日持ちを良くするために、たっぷり入れられてもいるのでしょう。

野菜や果物には、目には見えませんが、たぶん残留農薬やポストハーベストの薬品が付着してのは間違いないでしょうし、場合によっては果物などは糖度を上げ、色付きを良くするための、何らかの処理がされている可能性も否定できません。想像を巡らせて、考えれば考えるほど、私たちの「化学物質」への暴露の危険は、日々増大していると結論せざるを得ません。さらに想像を逞しくすれば、その結果私たちの「化学物質病」の種類と重篤度を、日々増大させているかも知れません。いわゆる、アレルギーやアトピー体質、さらに言えば慢性頭痛や生活不活発病や内臓疾患、あるいはアルツハイマー病などの遠因になっている可能性も指摘されてもいいるのです。

化学物質の影響は、もちろん人間だけにはとどまりません。恐ろしい、影響としていわゆる「環境ホルモン」がしばしば引き合いに出されます。環境に放出されて薄められた化学物質が、さながら体内で種々の作用を担っているホルモンと同様な効果を生物に及ぼし、例えば生殖能力の低い個体が増えて、絶滅の危機にさらされたり、あるいは化学物質の慢性毒によって、繁殖期間や健康寿命を全うできない種も増えているのです。今絶滅の危機に瀕している生き物は、結局は人間の行く末を映している鏡なのかも知れません。

低濃度の化学物質が、慢性毒であるか、あるいは環境ホルモンとして働くかは、非常に長いスパンの疫学的調査からしか知る事は出来ないからです。さらに言えば、遺伝子レベルへの悪影響などは、調査する術もない筈なのです。私たちにとって、取るべき正しい態度は、「疑わしきは作らず(使わず)」となるべきでしょう。

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2016年5月27日 (金)

3022 貴生物・卑生物

金属は、貴金属と卑金属に分かれます。明確な境界線は無いにしても、結局は目方当たりの価格によって決まるのでしょう。トン単位で取引されるか、あるいは㎏やグラム単位で取引されるかも目安となるでしょう。要するに、人間にとってどれだけ価値があるのか、言い換えればどれだけの経済取引の額になるのかが価値の基準なのです。例えば、鉄や亜鉛が人間の健康に重大な影響を及ぼす金属元素であるにしても、それは微量でお金に換算できない限りにおいては、やはり非金属なのです、

表題は、これを生物(動物や植物や微生物)の範囲まで敷衍してみたものです。問題の本質が、金属と少し異なるのは、生物の場合、今や遺伝子操作という技術によって、その特徴をかなり大幅に「改変」できると言う点でしょうか。人間に役立つ生物を貴生物、そうでないものを卑生物に分けるとしたら、遺伝子操作された生物(例えば作物)は、当然の事ながら貴生物にカテゴライズされるのでしょう。一方で、熱帯雨林の樹木の様に、それがどれほど多くの生き物を育み、地球の大気中のCO2を吸収し、酸素を放出してくれていて、しかも雨をもたらし気象をマイルドに保ってくれていても、それが経済活動に乗らずお金を生まない限りにおいては、「卑生物」としか見られないのです。

一方で、どうやって作るかは問題ですが、IPS細胞や高価な医薬品を生み出す微生物は、目方当たりの経済的価値で言えば信じられないほど高価で、間違いなく「貴生物」に区分けされるのでしょう。かつては、人間にもそのような区別が存在した時代もありました。勿論、ここでは生き物に貴賤などあってはならない、という立場でこの投稿をかいているのですが、全ての生き物は、何らかの必然性があって、長い進化の歴史を潜り抜けてこの時代に存在する訳です。もし、進化の神様が存在するとして、その神様の網からこぼれ落ちた生き物は、恐竜の様にすでに滅びている訳で、そうでないすべての生き物は、同等の価値を与えられて生きているのです。

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2016年5月26日 (木)

3021 頑張らないで努力する

企業の不祥事のニュースに接する度に思う事があります。つまりは、経営者が企業の実力を「過大評価」している結果、組織の能力以上の結果(頑張り)を求めた結果、組織が経営指標や技術データのねつ造(誤魔化し)を起こしてしまったことがその根っこにあると思えるのです。能力以上の頑張りや、ましてや上っ面を繕った誤魔化しが長続きする筈はありません。人の頑張りはせいぜい数か月、組織だって1年もすれば疲弊してくるでしょう。誤魔化しなどは、必ずや化けの皮が剥がれる瞬間が来るのは必至でしょう。組織内からの告発で剥がれるか、あるいはマスコミにすっぱ抜かれるかは別にして、いずれはバレるのです。

であるならば、組織は日頃からコツコツと努力し、実力を高めて置く必要があるでしょう。経営層は、同様に日頃から組織の実力を自分の目で確かめる努力が必要でしょう。会議に上がってくる資料には、必ずと言って良い程何らかの粉飾が施されているからです。事実、某自動車会社の燃費データに限らず、某ゴム会社での防振ゴムのデータや、某大手企業の経営指標も、長い期間に亘って粉飾されていましたが、見事に引っ剥がされてしまったではありませんか。

コツコツ地道に努力する人や企業こそ、最終的には評価され、事業の継続が保証されるのです。つまりは、頑張らないで努力する姿勢です。もちろん、努力は闇雲にすれば良いというものではありません。企業として、長期的な展望を描いた上で、その方向に向かって努力を積み重ねるのです。例えば、車メーカーであれば、世界に冠たる低燃費車を目指すのであれば、具体的な努力の方向としては、例えば徹底的な軽量化と安全性の両立や、動力系の摩擦軽減、バッテリーの軽量化、内燃機関の燃焼効率の追求、それに加えての人間工学を踏まえてのソフトウェアにより総合的な動力制御などにより、全体として「実燃費」を向上させる事などが考えられます。データの誤魔化しなど、技術屋や企業の風上などには絶対置けない、まさに悪行と言うしかないのです。技術は一日にしてならずでしょうし、企業への市場の信頼もまた然りです。

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2016年5月25日 (水)

3020 人口減少国

少子化と多死社会が加速して、この国の人口減少が止まらなくなっています。自慢できる話ではありませんが、投稿者が住んでいるA田県は、そのトップランナーであり続けてもいます。ざっと言えば、国の人口は瞬間風速では、毎年30万人ずつ減り続け、A田県では1万人ずつ減っている事になります。この傾向は、加速度的に増えていくのか、またはある時期に加速度が減じて、安定期に向かうのか、それは社会全体の意識に関わってくるのでしょう。つまり、成り行きに任せて、非婚化も進み、さらなる人口減少を招くのか、あるいは、例えば新たな形の大家族を是とする、多子社会を目指して、人口減に歯止めを掛けるのか、どちらを選び取るのかという選択です。

では、どの様なアプローチで歯止めを掛けたら良いのでしょうか。いくつかのアイデアを考えてみましょう。まずは、子供を産み育てるベストの環境としての大家族制を考えてみましょう。かつては、三世代同居の大家族制は当たりまえでした。親世代は、子供の子供(孫)を育み、子供世代は共働きで家計を支えます。親世代は、可能な限り働いて家計も助けますが、年取って力尽きれば子供世代や孫世代に看取ってもらう事になります。このようなコミュニティは、田舎や沖縄などで今でも目にする事は出来ますが、田舎でも核家族の割合が圧倒的に多くなってきています。さすがに若い世代に三世代同居を強いるのは無理かも知れませんが、親世代と近い距離内に住んで、互いに支え合う事は可能でしょう。いわば、新しい形の大家族制です。住まいとしては、親世帯の一戸建て+子供世帯のアパートという事になるでしょうか。

もう一つ考えられるのは、やはり公的な支援でしょう。人口減少の著しい地域では、子供を持つ世帯に分厚い手当を出しているところも多いのです。勿論、二人目や三人目には金に糸目をつけずに手当を上積みするのです。時間は掛かるかも知れませんが、何とかミクスの三本目の矢は、もしかするとびっくりするほどの額の「子育て手当」と「教育費の無償化」が正しいのかも知れません。人口がグングン減って、明るい将来の展望が見えない国になりつつあるのに、足元で現世代のためにだけ景気を良くしても殆ど意味をなさないでしょう。

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2016年5月24日 (火)

3019 5月の真夏日?

5月に真夏日の連発の様です。しかも、北海道で南の地域を差し置いて連日国内の最高気温が記録される始末です。まだ暑さに慣れていないこともあって、子供やお年寄りの熱中症も多発している様です。この傾向には何か異常なものを感じます。天気が良ければ、日射強度はすでに真夏並みになっている季節ですので、気温が上がっても不思議はないのですが、一方で放射によって熱が宇宙に帰っていきますので、本来の5月は、精々夏日(25℃)程度に留まっていたはずなのです。

それが、北海道でもあっさり30℃を軽く超えて真夏日になるには、何か隠れた理由がある様に思うのです。投稿者が疑っているのは、温暖化効果ガス(GHG)以外の、未知の温暖化ファクターなのです。具体的には、大気中を浮遊する粒子状物質(SPM)が怪しいと考えているのです。粒子状物質は、天然由来と人工のものに大別できます。天然由来のものには、火山ガスや黄砂や海洋表面から発生するミストなどがあるでしょう。一方で、人工のSPMとしては、石油や石炭の燃焼ガスに含まれる、煤塵や硫酸ミストなど、航空機や車などの運用から発生するもの、あるいは人工と天然の中間的なものとして森林火災からの煙も無視できない存在です。

大気中の粒子状物質の濃度が上昇すると何が起こるでしょうか。いわゆるGHGは、気体分子ですから、温暖化を引き起こすいわゆる吸収スペクトラムも、狭い範囲の波長のみに限定されます。PM2.5の様な、比較的「大きな」粒子は、一方では太陽光の入射も遮るので、温暖化とは逆の働きをしますが、いわゆるPM0の様に非常に小さな粒子は、太陽光は通しながら、地表から放散される赤外線は吸収する働きが強いのです。勿論、CO2や強力なGHGであるメタンなどは、量が多いので、温暖化への寄与率は高いのですが、一方でSPMは、波長の長い電磁波(いわゆる赤外域)を吸収しやい傾向にあり、短期的な気温上昇への寄与率は大きいと見なければならないでしょう。残念ながら、現在までのところこの推定を裏付ける定量的な報告はまだ確認していませんが・・・。

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2016年5月23日 (月)

3018 生き死に

朝のラジオで、終末医療の話題を取り上げていました。確かに、この国では人間としての最後の迎え方の議論が殆ど為されていない様です。そうでなければ、もはや意識もなく、ヒトとしての寿命もほぼ全うして、体も十分に「枯れて」しまったお年寄りの、胃壁に無理やりチューブを差し込んで、数か月、ひどい場合には数年も、生かし続けるなどという「虐待」を思いつく筈がありません。人間には、生きる自由もあるのでしょうが、病気に負けてしまった場合などには、覚悟さえ固めれば、自然体で死へ旅立つ自由だってある筈です。

そうこうしていたら、昨晩Nスぺでも、人生の終い方の特集をしていました。結局、人は覚悟さえ決めれば、人生の最後を有意義に使う事も可能だと思うのです。別に、対症療法や気休めの手術を繰り返して、半年ばかり生きながらえるより、しっかりと覚悟を決めて、残された人たちに、自分なりのメッセ―ジを考えて残せば良いのです。何も、美文や麗句は必要はないでしょう。しっかりと相手を想って考えたものならたったの一言でも良いのです。

確かに命を粗末にするのは良くない事ですが、自由が保証されている筈のこの国から、自然に死ぬ自由を奪ったのは一体誰なのでしょうか。医療制度が整えられてきたのは、一体誰のためなのでしょうか。実は、象牙の塔自体のため、あるいは製薬会社のためだったかも分かりません。動物は、まともに食べる事が出来なくなったら、やはり死を覚悟すべきなのでしょう。多くの高等な動物は、自分の死にざまを晒すことなく、死を覚悟したらそれぞれの墓場に向かっていきます。ゾウの墓場は、多分そうした彼らの死に場所なのでしょう。本来病院とは、治る病気を治す場所ではあっても、不治の病を得た人が死を待つ場所ではない筈です。大変でも、手間が掛かっても、最後に看取るべき人は家族しか居ないのです。もちろん、覚悟を決めた人は、必要なら痛み止めでも何でも飲んで、出来るだけ看取る人たちに負担を掛けない形で、最後の瞬間まで生き抜くしかないでしょう。

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2016年5月22日 (日)

3017 持続可能ではない開発

3016の続きです。先ずは地下資源の開発を例に引きましょう。地下資源とは、鉄を始めとする金属資源、石油や天然ガスなどの化石燃料、各種のレアアースなどを指しますが、そのいずれを取っても、持続可能ではない事は明らかでしょう。地下資源を掘削すると、必ず余分なものも出てきます。金属やレアアースの場合は、不要な鉱滓や邪魔になる重金属類など、石油の場合は蒸留後に残るタール分などが多量に排出されるのです。それらは、多くの場合厄介者であり、時としてそれらは野積み状態で放置され、重篤な公害を発生させたりもするのです。

全く別の例ですが、「宇宙開発」なるものも存在します。多くの場合は、種々の目的の衛星を打ち上げるのですが、用済みになった衛星が、何千個も宇宙ゴミとなって、軌道を回り続けています。軍拡競争が華やかな?時代には、多くの軍需衛星が打ち上げられましたが、それら多くには動力として小型の原子炉が搭載されていた事は、あまり知られていません。何しろそれは「軍事機密」なのですから。用済みになった衛星は、徐々に高度が下がってしまい、やがては大気圏に突入して金属屑となって地上に落下してしまう事になります。私たちの危険を増やして一体何が宇宙「開発」なのでしょうか。

もう一つ気になる開発例を挙げましょう。それは医療分野の開発、たとえば「新薬開発」などです。抗生物質と薬剤耐性細菌のイタチごっこは、大きな問題ではありますが、解決に向けた新たな展望は開けてはいません。今の医療や医薬品の開発の方向は、病気の人を手っ取り早く治療する事が目的であり、決して体質を改善して病気になりにくい体を作る事ではないのです。保健目的の医療は、「お金にならない」という理由で見向きもされないのです。

結局、持続可能ではない開発とは、ここでは、それに伴って大量のゴミを発生させたり、あるいは病気に対して抵抗力の弱い人間を増やすだけの結果になる事を指す、と定義しておきましょう。

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2016年5月21日 (土)

3016 持続可能な開発?

サミットでも議題に取り上げられると言う「持続可能な開発」というものが果たして存在するのか考えてみます。持続可能という言葉には、恒常性という意味が含まれている筈です。つまり、変わらなければ、その状態を維持する事はどうにか可能となるでしょう。変わらないとは言いながら、人間の活動からは廃棄物が出ますので、環境の劣化は避けられないことではありますが・・・。

一方で、開発という言葉からは、拡大とか変化という意味しか出てきません。(土地の)開発とは、一義的には森を切り倒して、街に作り替える事を意味します。森をそのままに維持して、開発すると言っても、意味のない言葉になるだけです。

結局、持続と開発とは、相矛盾する言葉の対に過ぎないのです。従って、持続可能な開発などという「スローガン」は、「開発」という変化を「持続可能」というオブラートで包み込んだだけの、言葉遊びに過ぎないというしかありません。そもそも、何故これ以上「開発」しなければならないのか、納得できる説明が見当たりません。開発を続け、例えばGDPが600兆円の大台に乗ったとして、果たして私たちの幸福度が上がるとはとても信じられません。

この国を含めて先進国の人口が減り続けるのであれば、選択肢は「持続可能性を高めるための縮小均衡」、とならなければなければ、どうにも理屈が合いません。何故なら、全ての開発とは、それまであったものの破壊又は造り直しを伴うからであって、必ず環境破壊=悪化を引き起こさずには置かないからです。人間が開発した土地や製品で、環境破壊を起こさなかったケースを見つけるのが難しいのです。実例は、次項に続きます。

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2016年5月20日 (金)

3015 同じ穴の・・・

M社に続いて、S社でもイレギュラーな燃費測定方法を行っていたとか。記者会見では、M社とは異なり、データを誤魔化したのではではなく、風の影響が出ない様に「きれいなデータ」を出すために、室内データを取り込んだと、苦しい説明の様です。一体全体、その様な言い逃れで責任が回避できると考えているのでしょうか。少しでも工学をかじった者が聞いたら、あきれ返る会見というしかないでしょう。検査法を、法定法から逸脱させるのは、立派なデータの誤魔化しに相当する行為でしょう。風がデータに影響を与えるのであれば、バラついたデータをそのまま提出し、風力・風向データを添えて提出し、バラつきの原因を分析したものを提出すれば済む話でしょう。そもそも、データをきれいに揃えるという行為そのものが誤魔化し(データのメイキング)なのです。

悪いデータを切り捨て、チャンピオンデータのみを残して、結果をより良く見せる誤魔化しか、あるいはデータを綺麗に揃えるために、室内データなど外乱の少ないデータを使う誤魔化しか、何処に違いがあるのでしょう。どう考えても、同じ穴のムジナという言うしかないでしょう。悪意があったかどうかは両者の「悪さ加減」を分ける材料にはなりません。自然に得られるデータに手を加えた点で、全くの同罪だと言うしかないのです。

データは、ウソをつきません。もしそれが正しい条件で試験が行われた場合は・・・。もしデータにバラつきが出て、良いデータとそうでないものが凸凹したとすれば、実はそれこそが改良するためのヒントであり、入口にもなる筈なのです。つまり、悪いデータが出た時の条件を詳しく分析して原因を特定できれば、その条件さえ正せば、より良い結果が得られるからです。また、良いデータが出た時にそのカラクリが解明できれば、常にその良いデータを叩き出すための改善点も明らかになる筈なのです。その努力を惜しみ、データの数字だけを弄るのは、技術者としてはあってはならない「悪行」というしかありません。その点を正しく反省出来ない企業に、以降は技術力について語る資格はないでしょう。元々買う予定もありませんが、元技術者である投稿者としては、M社の車もS社の車も、もちろん絶対に買いません。

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2016年5月19日 (木)

3014 技術だけでは2

YS-11のビジネスとしての失敗に懲りた、この国の航空業界とそれをパックアップする立場のお国は、その後長く国産旅客機の開発に立ち上がる勇気が出ませんでした。技術の伝承は、20年ほどで途切れてしまうのにも関わらずです。武器であったにせよ、技術レベルでは当時世界最高レベルのゼロ戦や、飛燕を開発した優れた「航空技術」は、こうして1980年代には途切れてしまったのでした。

その一方で、1980年代に市場は、40-50人乗りの旅客機(まさにYS-11サイズです)を渇望していたのです。用途は、主に米国における「トランク&ハブ」システムによる航空需要向けです。これは、大都市に隣接する主要空港を大型機で繋ぎ、ローカル空港とは小型機で結ぶと言う考え方です。大型機路線(いわば新幹線に相当)をトランクラインと呼び、乗換空港からの小型機路線(いわばローカル線)をハブラインと呼ぶシステムです。これに目を付けた、当時民営化を果たしたブラジルのEンブラエル社と、航空機メーカーを合併しカナダ政府のバックアップを受けたBンバルデイア社が、あれよあれよという間にシェアを獲得し、業界No.34に躍り出たのでした。航空機の開発は、確かに大きなリスクだったとは思いますが、彼らは立派にそのリスクを取ったのでした。もちろん、ビジネスセクターはしっかりとした「市場調査」も行った事でしょう。

一方で、立派な技術がありながらビジネスリスクを取らなかったこの国の航空機産業は、完全に出遅れてしまったのでした。遅蒔きながら、2000年代になって国産旅客機の開発を決断したM社ですが、ビジネスとして見れば完全に「遅蒔き」だったと言うしかないでしょう。しかも、ゼロからの出発だった開発作業は、慣れない事だらけの「ガタガタ(あるいはゴタゴタ)」状態で、スケジュールがべた遅れになってしまった事は、初飛行が四度も延期された、という報道でも明らかでしょう。

何故、1980年代にYS-11のバージョンアップという形で、小型旅客機ビジネスを立ち上げられなかったのか。この国の企業とお国の、市場への疎さと優柔不断を嘆かずには居られません。既に枠組みが出来上がってしまっている小型機市場に、いくら性能が優れていると主張しても、結局は売値を叩かれて、またぞろ赤字を垂れ流すと言う、「(技術で勝ってビジネスで負ける)この国の轍を踏んでしまう事は必至、だろうと投稿者は見ています。

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2016年5月18日 (水)

3013 技術だけでは・・・

3012と同様の事を別の角度から見てみます。製品を作る技術がいくら優れていても、やはり製品が売れない場合も多いという話です。ここでは、いわゆる旅客機と呼ばれる「製品」をマナ板に載せてみましょう。この国でもかつては、国の技術を結集してYS-11という「名機」を世に送り出しました。それが、ギリシャからオリンピックの聖火を空輸した事は、確かに当時はまだ敗戦後の経済回復途上にあった国民に勇気を与えた事でしょう。幸いなことに。当時は戦時中の兵器としての航空機の研究開発に関わった技術者が、現役で活躍していた時期でもあり、「技術」という点だけから見れば、当時の最先端の近いところに到達していたとも言えるでしょう。事実、YS-11は、STOL性能(短い滑走路で離着陸が可能である性能)、燃費、操縦性など、当時のレベルでも優れた面が多かったのです。

しかし残念な事には、この機体は僅か200機弱しか売れなかったのです。業界の常識では、500機以上売れないと、開発費用の「元が引けない」と言われていますので、ビジネスとしては大赤字だったでしょう。当時まだ「メイド・イン・ジャパン」というブランドが確立出来ていなかった事もその理由の一つかも知れません。いずれにしても、技術で勝って、ビジネスで負ける、というこの国の弱点を地で行った感が残るプロジェクトであった訳です。

ブランド力以外に、モノを売りさばく仕組みを考えていなかった事も大きな「敗因」でしょう。工区会社は、運航に入ると手持ちの航空機をメンテナンスする事が必須です。一定の時間毎に、エンジンの定期点検や整備、機体の点検、時間交換部品の入替えなどなどです。そのためには、客先の利便を考えた整備や部品センターなどの拠点づくりも欠かせないでしょう。しかし、YS-11は基本的には、海外には僅かしか売れなかったので、整備は国内に限定されて、ますます海外には売りにくいと言う「売れないジレンマ」に陥ったのでした。市場調査やユーザー視点が、全くと言って良い程欠如していた、この国のビジネスレベルの低さが敗因だったと言えるでしょう。その後の業界事情については、次稿に続きます。

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2016年5月17日 (火)

3012 造り込み

投稿者は、20年来M菱の車に乗り続けていますが、性能的には満足して使ってきました。排気量1800㏄のガソリン車でありながら、日常乗りで平均18/ℓ程度の燃費が出ているからです。この車は、燃料噴射で、ハイオク仕様なのですが、新車でおろして以降レギュラーを入れ続けていても特に不具合は出ていません。塗装もしっかりしていて、屋根のペイントもまだ大丈夫です。

しかし、いくらエンジンが丈夫で、車体がしっかりしているだけでは車は売れない様なのです。それは、車はユーザーが日常的に触る、まさしく「官能評価」に関わる製品だからです。つまり、座席の座り心地、ハンドルやシフトレバーの感触、外観デザイン、内装の出来、価格のバランスなど、ユーザーの好みや感覚が重視される製品の代表なのです。所有出来てうれしい、眺めてうっとり、乗って楽しいと言う感覚が必要なのです。官能評価を上げるには、いくつかのアプローチが考えられるでしょう。一つは、ユーザーのターゲットを絞り込み、彼らに向けて徹底的に媚びる方向でしょう。ターゲットユーザーの好みを徹底的に調査して、彼らの喜ぶ内装や、装備や走行性能をチューニングする訳です。別の方向もあり得るでしょう。ユーザーの最大公約数的な、内装や装備を準備して、いくつかのオプションを選択して貰う方向です。予算に応じて、ベース車から足し算的にオプションを選ぶのです。

しかし、いずれにしても最も重要なポイントは、車の目的別に基本的な性能をしっかりと見据えて、磨きを掛ける必要があると思うのです。走る、曲がる、止まる、ぶつかった時の安全性、などです。これらの性能は、実は一度の設計で完成するものではありません。販売後も不断の努力で、バージョンアップ(改良)を加え続ける必要があるでしょう。これを、製品を作る立場(メーカー)から見ると、製品の「造りこみ」と呼ぶのです。最近、しっかりと造り込まれたと感ずる製品にお目に掛かった記憶がありません。モノ造り大国を自認するこの国の住人としては、全く残念ですが・・・。

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2016年5月16日 (月)

3011 生産性?

お国の考え方(皮算用)では、人口減少局面に入っても、経済成長は可能で、GDP600兆越えが視野に入れられるのだとか。なんという超楽観論でしょう。どう数字を置けば、そんな試算が可能なのか、ぜひお役人の頭の中を覗いてみたいものです。もちろん、お役人はそれを命じた政治屋の気に入る様に数字合わせをしただけなのでしょうが・・・。

さて、人口が減ってもGDPを上げ続けるには、生産性を上げる必要があるでしょう。より、少ない人数でより高い生産高を達成するためには、機械化をさらに進めるか、あるいはモノの売値を上げて、売上高を稼ぐしかないでしょう。お国の皮算用では、インフレ率アップでもGDPを稼げると想定しているのでしょうが、それでは単なる数字の誤魔化しに過ぎないと言われても仕方がないでしょう。

そうではなく、本当の意味での生産性を上げるのか、あるいは生産性は脇に置いて、製品自体の付加価値を上げるのか、それともGDPなどにカマケテいないで、お金に依存しない幸福(価値観)を追及していくか、私たちは選び取っていく必要があるでしょう。

ところで単に生産性を上げるだけで、企業やそこに働く人々が幸福になれるでしょうか。確かに、工場であれば同じ人数でも、出荷できる製品の数は増えるでしょう。しかし、それがちゃんと売れるかどうかは別問題です。単に在庫が積み上がるだけに終わる可能性も高いのです。それは、市場がその製品を渇望していないからに他なりません。つまり、闇雲に生産性だけを上げても、企業の利益アップや、ましてや従業員の給料アップには繋がらないのです。それは、単に製品を市場に「押し出す」だけの行為だからです。生産性は、あくまで市場のニーズに連動した形で適正値に調整されるべきでしょう。流通業界でこれだけIT化が進んだ今日、得られたビッグデータを活用すれば、それほど難しいワザではない筈なのです。

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2016年5月15日 (日)

3010 信頼性(信用)

あらゆるシステムにとって、最も重要なKWはたぶん「信頼性」でしょう。信頼性は、システムの恒常性(安定性)を担保するからです。比較的小さなシステムである企業を考えてみましょう。もちろん、大企業と呼ばれる巨大なシステムもありますが、事情は変りません。企業が、市場から信頼されている限りは、その企業は安泰だと言えるでしょう。景気変動で、多少は揺さぶられるのでしょうが、やがて復元できるでしょうし、多少の経営的危機があっても、銀行も助けてくれるでしょう。それは多くの場合経営危機は外的要因だからです。(内部のゴタゴタで危なくなる企業もありますが・・・)

しかし、信頼性の大部分を失った企業は、市場から去るしかないのです。内部チェックの甘さで不祥事を起こし、市場の信頼を無くした企業は、結局は自己コントロールが出来なかった事を暴露した訳で、失った信頼を取り戻すには、それまで築き上げ来た期間と同じ程度の年月が必要だと考えるべきでしょう。つまり企業は、本当に市場にソッポを向かれたら一度企業を清算し、新たに会社を興す事とあまり変わらない努力が必要な事に想い致す必要があるのです。

さて、人間が作った一番大きなシステムであるお国に、これを敷衍してみましょう。お国への信頼の意思表示は、直接的は選挙によって、議員を選ぶ権利(選挙権)によって担保されている様にも見えます。しかし、B国とは異なりE国式の議会制民主主義を選択しているこの国では、その権利も間接的に制限されてしまっています。別の形では、例えば国債を買って経済の面で国を支える方法もあるでしょう。もちろん、国債を買う動機は利殖なのでしょうが、この低金利の時代、ボランティアの要素も少しはあるのでしょう。

しかし、私たちは真面目に、お国に対する信頼感を上手く表現する方法を改良しなければならない時代に入っているとも思うのです。ネットに溢れるお国批判(多くは政治家批判ですが)だけでは何も良くならないでしょう。10年先、50年先の将来にこの国を世界から信頼され、手本とされるようになる「信頼に足る国のシステム」を真面目に考えている政治家を選び取る仕組みが絶対必要なのです。五輪を招致したとか、3つほどの小手先の経済政策を手柄として自慢する様な人は、この時代にはもう要らないのです。

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2016年5月14日 (土)

3009 寄らば大樹2

似たような様なタイトルで以前にも書いた気がするので、二段目です。今回は、M菱がN産の傘下に入ると言う話題です。M菱としては、非常に数少ない選択肢の一つを選んだ結果だったのでしょう。穿った見方をすれば、N産と示し合わせて、燃費数値のウソを公表し、今回の傘下入りの筋書きを書いたのか知れません。

ここでは、その経緯はさておいて、この時代やはり、「寄らば大樹」なのかについて考えてみる事にします。MAのメリット、デメリットは何かを考えてみるに、先ずメリットですが、もし合併する企業がお互いに補完的な関係にあれば、相互に弱点を補完し合って、よりバランスの良い企業体が出来る事でしょう。経営的にも、個々の凸凹を埋め合って、より安定的にビジネスを進める事が可能となるでしょう。また、機能が重なる部分については、重複をそぎ落とす事によって、オーバーヘッドも軽く出来る筈です。

しかし、良い事ばかりではないでしょう。今回の様に、不始末をしでかした企業を、救済すると言う色合いが強い場合には、救いの手を差し伸べた側が足を引っ張られる可能性も出てきます。つまりは、もたれ合いがマイナスの方向に作用する可能性もあるのです。過日の、HンハイとSャ―プの例を引くまでもなく、強者と弱者の関係におけるM&Aは、好況時の対等合併のケーズに比べて悲劇的な結果に終わるケーズも多いのです。もちろん、企業側もそれなりに手は打ってきた事でしょう。車業界で言えば、複雑なOEM戦略です。自社のコスト競争力のある車種を、別のメーカーにOEM車種として提供してきた訳です。M菱とN産も、複数の車種で、クロスOEMを行っていました。OEMの交流の中で、技術の移転もそれなりに行われますが、残念ながら企業風土までは交換出来ないものの様です。企業風土の典型は、いわゆる生産地術と品質管理なのですが、そのノウハウの交換は、やはり完全に一つの会社に溶け合わなければ無理なのです。非常事態を乗り切るための「取り敢えずM&A」は良い結果を残さない事も多いのです。

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2016年5月13日 (金)

3008 最終(自社)製品

この国には、400万社以上とも言われる数の「企業」があります。その内の90%近い数の企業は、いわゆる小企業となっています。ちなみに、数で言えば大企業は0.3%程度、10%を少し超える数が中企業という内訳です。今話題の、大企業の燃費データねつ造による不祥事に絡んでも、ワリを食うのは間違いなく下請けの中小企業である事は間違いないでしょう。

それというのも、中小企業の多くはいわゆる「自社製品」は持っておらず、単なる部品屋かあるいは単なる「加工屋」でしかないという決定的な弱みを持っているからだと言うしかありません。ネジ屋はひたすらネジの生産に注力し、あるいはワイヤハーネス屋は、ひたすら電線とコネクターを結合するだけに注力する訳です。その中で、コストと1円でも下げる事に日夜もがき続ける事になるのです。それも、親会社からの再々のコスト削減要求を、無理やり飲まされてのコストのそぎ落としなので、まさに乾いた雑巾をさらに絞る努力と形容される通りなのです。投稿者も30年以上に渡ってサラリーマンの草鞋を履いていたので、それは痛いほど分かるつもりではあります。

しかし、そうではあっても各企業は、自社で最終製品を市場に出す事を諦めないで欲しいのです。自社のブランド名で市場に製品を送る事は、従業員にとっても自身になるでしょうし、何より自社で価格を決められるというメリットもあるでしょう。今は、機能と価格がリーズナブルである限りにおいては、問屋を介さなくともネットで売れる時代なのです。その際に重要なのは、類似製品との差別化だと思うのです。取り分け、高い質感や考え尽くされたデザイン、使い勝手の良さなどで、他社よりは一歩抜きん出る必要があるのです。加えて、日々の改良努力(バージョンアップ)努力は、それ以上に重要です。ソフトウェアだって、バージョンアップを10回程度は重ねる様に、形ある製品もやはり、素材、デザイン、仕上げ、色、手触り、機能などの改良を続ける必要があります。その結果、いつまで経っても「古さ」を感じさせない製品が生まれるのです。サンプルには事欠かないでしょう、店屋に行って、10年前、20年前と殆ど同じデザインで、しかも今なお売れ続けている製品を見つければ良いのです。それこそが、いわゆる定番製品(ロングテール製品)のサンプルなのです。

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2016年5月12日 (木)

3007 与えられた権利

民主主義の社会では、しばしば(自由の)権利と義務(責任)という二つのキーワードが引き合いに出されます。この国では、戦後の占領状態から一貫して、民主主義社会の構築を目指して、社会システムが整備されてきました。しかし、考えてみなければならないのは、占領政策の中で、多くの権利は勝ち取ったものではなく、与えられたものでったという事実です。苦労して、あるいは戦って勝ち取った権利は、それを得た人々にとっては、貴重でこだわりの強いものでしょう。しかし、それが他人から与えらえた場合には、それをあまり重要なものとは感じないでしょう。つまりは、棚から落ちてきたボタ餅は、あまりありがたいとは思わないものなのです。

一方で、与えれた権利に付随する「義務」の方ですが、それこそ棚ボタ手に入った権利に付随するものは、やはり軽視されがちになるものでしょう。だからこそ、例えば自由選挙という権利を手にしたとしても、いわば一体の義務としての選挙権を行使しない人も多くなるのかも知れません。そう考えると、戦後私たちが占領軍から与えられた権利や、それに伴う義務が如何に多かったことか考えざる込まざるを得ません。教育制度、税制、政治(選挙)制度、さらに言えば金融やビジネスマターに至るまで、多くの社会システムが、勝ち取ったもの、あるいはよく考えられて練られたものでは無かった、という反省は必要でしょう。戦後のドタバタの中で、占領国の頭の良い人たちのいくつかのグループが、それぞれの専門性を生かして「デザインしてやった」システムでしかなかったのでしょう。

もっと、反省すべきことは、システムが与えられた事は歴史の行き掛かり上仕方がなかったとしても、それを不断の努力で、長いスパンを視野に見直すことを怠ってきたという点でしょう。私たちは、経済発展に注力するあまり、与えられた社会システムを熟考しつつ、この国にフィットするように見直す努力を傾けてこなかったと思うのです。この国の国会が、たった1年のスパンしか見渡さず、バタバタと予算やシステム改革を小手先で行ってきた事を思い返すと、大きなタメ息しか出ません。

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2016年5月11日 (水)

3006 エネルギーパフォーマンス

3004の議論をもう少し広げます。エネルギーパフォーマンス=エネパという言葉は、実はまだマスコミなどにも殆ど出てきません。例外的には、省エネとの関連で、単位製品当たりのエネルギー量(エネルギー原単位)という形で、見え隠れしている程度です。但しこれを意識しているのは、ISO14001やEA21などの環境経営に取組んでいるホンの一握りの企業(最大に見積もっても数万社)に限られるのです。何より、エネパの考え方を規定している「ISO50001」の認知度が、殆どと言って良いほどく広がっていない事がそれを物語っています。

このブログでは、この言葉をもっと広く、あらゆる社会活動に拡大してみようと提案しているのです。狭義のエネパは、上述の様に生産におけるエネルギー効率ですが、例えばサービス業や日常生活までも範囲に入れてしまおうと考えるのです。まずはサービス業です。サービス業とは、有形無形のサービスを提供して、その代価をもらう訳ですが、製品とは異なり、エネルギーパフォーマンスには馴染にくそうな気もしますが、指標さえ適当に設定すれば、それは可能でしょう。例えば、運送業を考えてみましょう。その昔、貨物は殆どが鉄道便で運ばれていました。いくつかの拠点駅で、何回かの積み替えが行われ、そのたびに人手が掛かりますので、相対的に運賃は高かったでしょう。しかし、エネパで見れば貨物1個当たりの輸送エネルギーは、今の1/10以下だったと思われます。

その根拠は、鉄道輸送のエネパは、トラック輸送のそれに比べて丁度1/10程度に留まっているからです。それは、ちょうど鉄道車輪とレールの摩擦対ゴムタイヤと路面の摩擦の差なのです。モノを移動させるには、理科で習った様に、摩擦に打ち勝って移動させる必要があるからです。勿論、現代では、鉄道コンテナもトラックコンテナとの連携で、それなりに有効活用はされていますが、人手を介さない分エネパがさらに悪化している筈なのです。機械力には必ずエネルギーが必要だからです。人手(人力)は、いくら費やしてもエネルギー収支上はゼロとカウントされるのです。

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2016年5月10日 (火)

3005 下り坂を・・・

H田オリザの「下り坂を、そろそろと下る」を読もうと考えています。しかし、近くの本屋には置いてないし、図書館にも入っていませんでした。仕方がないので、先ずは書評を読みながら、中身を想像し、然る後に入手してゆっくりと読もうと思っています。さて、実はこのブログでもごく初期のころ、私たち(の国)は、すでに夕暮れ時に差し掛かっているのであるから、ソロソロ家に帰る準備をしなければならない、などと書いた記憶があります。子供の遊びを想像すれば、彼らは棒切れや空き缶や、肥後の守などを遊び道具を使って色々な遊びを考え出し、放課後を楽しく過ごします。

それを社会の様子に重ねれば、高度成長期においては、主に技術(遊び道具)を使いながら、私たちは色々な工業製品(遊び)を生み出して、それを喜ん使ってきたのでした。それらは、確かに私たちの生活に潤いを与え、物質的には豊かな社会を実現してきたことは間違いありませんが、結局それは「物質的には」という括弧付きの豊かさであったわけです。このモノの豊かさ、それらを使う楽しさと引き換えに、私たちは「ココロの豊かさ」を何処かに忘れてきたと思うのです。つまり、私たちは遊びに夢中になって、家から遠く離れて心細くなった子供にも似ているのかも知れません。

さて、表題の文庫本ですが、投稿者が喩えた「社会の日暮れ時」を、多分上り坂(高度成長期)と下り坂(現在と今後)になぞらえたと想像しています。誰であれ、今の豊かさが、何の問題も生じさせないで今後も続けられるとは思っていないのでしょう。大多数の誰かの、あるいは自然の犠牲無しに、一握りの人々だけが「モノの豊かさ」を享受する訳にはいかないのです。皆が、揃って下り坂をソロソロと下るしか道は無さそうなのです。そうでなければ、下り坂でブレーキが効かなくなった車か自転車の様に、坂の下でクラッシュ(ハードランディング)するしかないのす。坂はソロソロと下るに限ります。

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2016年5月 9日 (月)

3004 時間短縮中毒

「便利である」、という事を別の言葉で説明するなら、要は「快適に時間が短縮できること」というと言う風になりそうです。快適に、という事は、暑さ寒さや苦痛を感じないで、しかも時間を短縮すると言う事は、より早く(速く)目的を達すると言う意味になります。暑さ寒さを感じずに、快適に過ごすには、衣服の他に屋根や壁で囲まれた、人工の環境(箱)と、エネルギーを使って、その中を温めたり、冷やしたりする必要があります。また、1馬力にも満たないヒトが、移動やモノを加工する時間を短縮するためには、機械とそれを動かすためには、やはりエネルギーに頼るしかありません。

つまり、私たちの便利・快適・時間短縮生活は、箱と機械とエネルギーによって支えられていると言えるでしょう。しかし、便利で快適な生活は私たちの気候に対する抵抗力=耐候性をかなりの程度弱めてしまいました。一方で、時間の短縮の努力は、自転車<車<鉄道<高速鉄道<航空機へと、間断なく続けられてきました。しかも、個々の交通機関は日進月歩で改良が続けられてもきました。

しかし、これらの努力に圧倒的に欠けていたのは、コストパフォーマンス(=コスパ)ではなく、「エネルギーパフォーマンス(=エネパ)」という視点だったと思うのです。つまり、快適さやスピードの加速を、数値化できると仮定すると、1単位当たりの快適さやスピードを得るために、どれだけのエネルギー単位を費やしたか、という勘定なのです。さらに細かく見ると、全てのエネルギーは、その使用によって、必ず最後は熱になって、環境や宇宙に放散されるという事実にしっかり着目する必要性があるでしょう。つまり、機械を動かせば摩擦によって必ず熱が出ますし、住宅を冷暖房すれば、壁や屋根や窓から必ずエネルギーの出入りが生ずるのです。気密性の悪い家の冷暖房程エネルギーの無駄使いの典型は見つからないでしょう。同様に、私たちは、あまりにもエネルギーの使用の無駄に無頓着すぎますし、漏れて放散するエネルギーを無視しているのです。便利・快適中毒や時間短縮中毒に付ける薬としては、結局はエネパを数値化したものしか見当たらないのです。

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2016年5月 8日 (日)

3003 豊かな所有?

戦後、モノの無い環境で育った団塊世代は、高度成長期を通じて、出来る限り多くのモノを所有する事こそが幸福の条件だと信じて、皆が突き進んできたと見ています。その少し後ろを歩いてきた投稿者の世代は、少し上の世代が、ブルドーザの様に幅を広げ、平らに均した道を、結構楽に進んできた「得な世代」でもあった訳です。しかし、最近ますます疑問に思うのは、モノの充足こそが人間の幸福につながる、という基本的な20世紀型の価値観です。つまりは、豊かな所有=幸福というテーゼです。

最近は、そうでなくて、豊かな所有≠豊かに生きる、ではないかと思うようになったのです「豊かに生きる」の豊かとは、つまりはココロの豊かさを指すと考え始めたのです。もちろん、もし今の自分の生活が喰うや喰わずやの生活に陥っていれば、兎も角も明日のメシを心配しないで生きたいと思うのかも知れませんが、幸いな事にはそれよりは少し余裕のある生活が送れている様なのです。

そこで、豊かに生きるにはどうしたら良いのか、を当面の人生の課題に据える事にしたのです。ココロの満足感や充足感を得るには、何より自分の活動が、他の誰かの役に立っている、という生き甲斐を感ずるのが最善でしょう。お金持ちであれば、困っている人たちにバンバン寄付をすれば良いのでしょうが、貧乏ではそうもいきません。仕方がないので、技術屋その後は環境屋として生きてきた、自分の経験を何らかの形で社会に還元することを、投稿者の当面の目的に据える事にしたのです。より具体的に言えば、技術を持続可能な形で社会に役立てることの手助けをすること、という中身になります。そのため、ここ4-5年は、企業の環境経営活動の手助けや、市民や学校の環境学習、あるいは持続可能な産業を興すための火付け役を意識してきたつもりです。このブログは、その中で考えた事を残す事も目的としています。

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2016年5月 7日 (土)

3002 生業を作る5

田舎は、住宅の敷地も広く、住宅事情も良いように思われがちですが、実は住宅に関していえば、住宅部分は面積が徒に広く、また断熱性能なども貧弱で、光熱費は結構掛かるのです。住宅設備も、例えば風呂やトイレなども、快適さとはほど遠いのが実情です。そこで、ここでは、田舎の生業として「住宅リフォーム業」を提案しようと思います。住宅のリフォームには、いくつかの段階がありそうです。今回は水回りのリフォームを取り上げましょう。

いわゆる、水回りのリフォームは、台所とか給湯、浴室などのリフォームを主体に行うもので、予算もソコソコに少なくて済むでしょう。しかし、このリフォームで不可欠なアイテムがある事は忘れてはならないでしょう。それは「太陽熱温水器」です。これにも、いくつか種類があって、主なものは集熱器と貯湯タンクが一体になったモノと、集熱器と貯湯タンクが別々になっていて、タンクは地上に設置するタイプです。おススメは後者で、貯湯量も300リッターは確保したいところです。このタンクには、減圧弁を介して水道がつながっており、水道圧でお湯を押し出すのです。一方、太陽熱は、季節や天候によって強弱があるので、補助熱源は必須でしょう。最も安価で、単純なシステムは、貯湯タンクからの出湯パイプの途中に「直列に」ガスや石油の給湯器を繋げば良いでしょう。太陽熱が足りない日には、ガスや石油で補う事になります。

太陽熱を併用する事により、地域にもよりますが、化石エネルギーの使用量を、大幅に減少(例えば半減)させる事も可能です。予算に余裕があれば、補助熱源として、ペレットボイラを選択するのも良いでしょう。但し、現状では適当な国産の小型ペレット給湯システムが殆ど見当たらないので、欧州製に頼る必要がありますが、近い将来国産の技術も追いつくでしょう。生業としては、この新しい「再エネ給湯システム」の設計や取りまとめをするビジネスも、将来有望でしょう。取り敢えずは、欧州製の後追いにはなりますが、この国の量産化やコストダウン技術を駆使して、さながらかつての家電の様に、欧州製を追い越す事も可能でしょう。必要な事は、使い勝手の向上やコスト削減のための工夫の積み重ねなのです。

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2016年5月 6日 (金)

3001 燃費レース

M菱の不正が、燃費向上(のチキン)レースが背景の一つになったのは間違いないでしょう。しかし、燃費をジリジリと向上させていくのは一つのやり方ではあります。部分的にバッテリーでバックアップするセミハイブリッド化したり、アイドリングストップを組み込んだり、コンピュータで燃料の量をコントロールしたりといった、現在の技術の延長線での改良です。これはリスクがあまり大きくないので、短期的な成果を出したい場合には有効でしょう。とは言いながら、メーカー間でジリジリと改良競争をするのは、あまり賢いやり方とは思えません。

他のメーカーと差別化したいのであれば、技術改良のジャンプアップが必要だと思うのです。これまでの技術の延長線上ではなく、例えばこれまでより3割軽い車体を開発し、それに伴って「ばね下荷重」を小さくし、結果として走行抵抗を3割程度下げる事が出来れば、リッター40㎞かそれ以上の燃費性能も叩き出せる筈です。1㎞や小数点以下の数字を競うチキンレースではなく、本物の技術で他を圧倒するガチンコ勝負をしてもらいたいのです。それは、決して不可能でない事は、実はすでに過去に証明済みなのです。かつて、軽自動車の排気量が360㏄に固定されていた時代がありました。非力なエンジン出力をカバーするためには、実は車体の軽量化という選択肢しかなかったのです。

例えば、F士重工では、かつて初代のカブトムシ型の車には、軽量化の為になんと複合材(GFRP)トップや樹脂窓を用いたりしていたのです。今の時代で言えば、キャビントップなどにはさらに軽量なCFRPやアルミ材などの採用も、設計次第ではそれほどのコストアップ無しに可能でしょう。もちろん、軽量化には事故の際の危険性の増大というリスクもあるでしょう。それを飲み込んだ上で、燃費を取るか、あるいは燃費が悪くても安全性を重視するかは、ユーザーの選択肢にゆだねれば良いのです。その意味では、現在の車メーカーは、かつてより設計思想がコンサバになっていると言わざるを得ないかも知れません。

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2016年5月 5日 (木)

3000 世界標準の家?

投稿者はラッキーなことには、サラリーマン時代に多くの国へ渡る機会が与えられました。そのうち2回は、それぞれ1年に亘って現地に駐在していましたので、単なる短期旅行とは異なり、国情や産業界の状況を、肌感覚で知る機会が持てたのでした。ところで、マスコミに頻繁に踊るキーワードとして、「グローバルスタンダード」という言葉がありますが、その際引き合いに出されるのが、例えばAップル、だったりHンハイだったり、Sムスンだったり、巨大コングロマリット(これも懐かしい言葉になりました)と、それらに敗れた国内企業を比較する中で、国内メーカーがシュリンクした原因として、グローバルスタンダードからの逸脱があった様な言われ方がされている様な気がするのです。

確かに国際競争に打ち勝つためには、企業合併を繰り返し、マーケティングに力を入れ、研究開発に勤しむのも一つの方向でしょう。しかし、投稿者の見方は大分違います。表面に出ている、巨大で華やかな部分は、絵にもなってマスコミにも多く露出しますが、重要な部分は日々の生活の中身であり、質だと思うのです。何を着ているか、何を食べているか、どんな住居に住んでいるか、休みの日には何をして過ごしているか、と言った基本的な部分が質素でも、キチンとしている事が重要だと思うのです。B国の状況はあまり参考にはなりませんが、ヨーロッパのいくつかの国々には、確かにしっかりした生活の質の良さを確認する事が出来ます。

例えば住宅です。Iタリアを除けば、火山や地震の心配が無い事もヨーローッパのメリットにはなるのでしょう。そのため、石積みの建物を何百年にも亘って使い続ける事も可能です。必要な事は、内装や外装に手を入れて維持する事だけです。住がしっかりしていると、お金はその他の分野に掛ける事も可能でしょう。つまり、グローバルスタンダードに近づくためには、何も最先端の電子機器が必要な訳ではないのです。先ずは、耐久性の高いしっかりした住居を揃える事から始めるべきでしょう。三匹の子豚の寓話ではありませんが、木造は、やはりセカンドベストでしょう。地震の多いこの国では、流石にレンガ積みでは持ちませんが、しっかりした鉄骨構造なら、躯体は100年以上持たせる事も可能でしょう。ライフスタイルの変化に合わせるためには、内装だけを変えれば良いのです。先ずは、住宅をグローバルスタンダードに近づけなければ、この国は何時まで待っても一等国にはなれないでしょう。災害は、間違いなく繰り返しやってくるのですから。

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2016年5月 4日 (水)

2999 漢方薬

素人なりに見ていると、漢方薬というものは、結局は体に良い成分がジワジワと効いてくるモノなのだと思っています。西洋医学が、症状や病原菌に直接的に働きかけて、症状を和らげるか、消そうとする対症療法であるのに比べ、漢方薬はいわば免疫力を高めたり、弱っている体質改善につながる様な成分を、色々組み合わせている様に見えます。

もちろん、ここで全くのド素人である漢方について書くつもりは毛頭ありません。今この国が直面している多くの問題・課題に効く薬について考えてみたいのです。今、何本の矢だか知りませんが、国が打っている策の殆どが「対症療法的」である事は否めないでしょう。景気が悪くなれば、金融や財政で手当てをし、失業が増えれば自治体に交付金をばら撒き、訳の分からない言葉「地方創生???」を示し、それを無理やりに絵に描けとノタマワウのです。

そうではなくて、今必要は事は、この国の体質をじっくりと診察した上で、処方すべき漢方薬を決めるべきなのです。もし、この国が人で言うところの「壮年期」や「初期の老齢期」に入ったのであれば、無理やりに「カンフル剤」を処方すべきではないでしょう。冷え症気味の手足の血流を改善するとか、あるいは弱り気味の免疫機能を少し高めるとか、あるいは薬ではなく日常的な運動を奨励するとか、などの穏やかな処方を言い渡すべきだと思うのです。

これも素人なりですが、この国の経済の体質が弱っている様に見えるのは、未だに20世紀型の、大量生産、大量消費型経済にドップリと漬かっているからに他ならないと見ています。今、この国が、あるいは世界が求めているのは、経済成長ではなく、持続的な社会を形作る上で必要な技術や経済の仕組みだと思うのです。長い間デフレに苦しみ、急激な人口減少や超高齢化社会に入りつつあるこの国だからこそ、それを逆手にとって、穏やかに暮らせる持続可能社会を提案すべきだと思っています。具体策については、折に触れて書いても来ましたし、これからも書き続ける事にします。

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2016年5月 3日 (火)

2998 生業を作る4

計画中の自宅の給湯設備は、是非バイオマス(木質ペレット)燃料で賄おうと計画しています。しかし、その設備の面倒を見てくれそうな業者が地域で見当たらないのです。メーカー既製の、電気やガスや灯油をエネルギー源とする給湯システムは、結構リーズナブルな価格て手に入ります。この国のメーカーが得意の「量産化技術」を磨いて、互いに競争しながらこなれた価格で市場に出しているからです。

しかし、投稿者が頭に描いている、太陽熱とバイオマスを併用したシステムは、ヨーロッパ製にはいくつか候補が見つかりますが、国産では皆無です。国産としては、やっとペレットストーブが種類が増えて、選択肢が広がってきた段階だと言えるでしょう。しかし、価格的にはこなれた価格(例えば20万円以下)には程遠い、その2倍ほどの高値で推移しています。その高い価格故に、普及が進まない、だから量産化出来ない、というジレンマから抜け出れないのです。

メーカーは発想を変える必要があると思うのです。つまり、既存の量産品を流用しつつ、価格のこなれたシステムを作り上がれば良いのです。太陽熱温水器と貯湯タンクを含む「太陽熱温水システム」は、高くない数十万円で手に入ります。これに、熱交換器を内蔵し、ボイラ機能を持たせたペレットストーブと組み合わせれば、100万円を少し超える程度の価格で、システム化が可能でしょう。太陽熱温水器を提供する量産メーカーは、オプションとしてペレット焚きのバイオマス補助熱源を設定すれば良いでしょうし、ペレットストーブメーカーも量産メーカーと提携して、太陽熱温水器をオプションに設定できるでしょう。相互乗り入れのOEMです。どちらのメーカーにも不足しているのは、顧客が望む多様なニーズに対応できる、システムとしてのインテグレーション力だと思うのです。そこを切り開けば、殆どが零細規模に留まっているペレットストーブメーカーも住宅機器メーカーとして事業の幅や規模を拡大する事が可能になるでしょう。

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2016年5月 2日 (月)

2997 生業を作る3

では具体的な生業をさらに考えてみます。まずは、自分自身の生活を支える技を磨けば、その延長線上にメシも食える生業も見てくると思うのです。ところで、投稿者は、入社後の10年余りは、船舶の修理部門に籍を置いていました。勿論、技師なので自分で手を動かして、修理をする訳ではありませんが、少なくとも不具合の内容を確認し、明確な修理方案を現場に示す必要はありました。修理屋としての10年間の経験は、しかし船舶に搭載されているあらゆる機器、つまりはエンジンやボイラやタービンやポンプなどの機器、それを支える、熱交換器や造水器や送風機などなど、あらゆる機器の故障を目撃し、その修理方法を体得したと思っています。

これは、たぶん生業になり得るワザでしょう。この経験に少し足りないと思うのは、たぶん電気関係の知識だと思いますが、その知識を持つ別の人と手を組めば、たとえば大型風車の故障診断やメンテナンスだって十分可能だと思っています。世の中には、車や工場設備を含め、機械が溢れていますが、残念ながらユーザーやオペレータが、それらの機械の構造を熟知しているとは言えないのです、構造を理解しないままの使用は、時として故障や、事故さえも引き起こすのです。

これは、投稿者なりの経験ですが、全ての設備(機械)は、毎年取得価格の数%のメンテナンスコストを掛けないと、寿命を全うする事は難しいのです。例えば、200万円ほどの車を買った場合、オイルや消耗品などで毎年数万円ずつほどのお金を掛けていかないと、例えば20年という製品寿命を確保できないでしょう。ここでの提案は、地域社会に大小の、メンテナンス産業を興すと言うものです。大は、風車などのインフラの未然の故障診断や修理、小は車以下の日常で使用する機器や住宅設備のメンテナンスや故障修理業などです。故障が起こってからだと、修理費も高くつきますので、メンテナンス契約によって定期的な掃除や点検を行うようにすれば、立派な生業になり、産業ともなるでしょう。ここでも、メカ屋と電気屋が手を結べば、パワーは2倍以上に増大するでしょう。

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2016年5月 1日 (日)

2996 生業を作る2

2982の続きです。生業とは、継続的に「飯を食っていく」ための手段という事も出来るでしょう。昔であれば、それこそ日々の食料を得るためと、加えて住むための家を借り、季節ごとの服などがあればどうにか暮らしていけたでしょう。しかし、今特に都会で暮らしていくためには、現金が不可欠です。とにかく、何をするにも「お金」が必要なのです。食料は全て、スーパーやコンビニなどで買い、あるいは外食で済ますかですが、お金が無ければ何も口に入らないでしょう。住宅だって、タダで貸してくれるところなどありませんから、狭い住宅を買うか借りるかしなければなりませんし、収入に占める住宅費の割合は非常に大きくなるでしょう。衣服費は、それでも切り詰めようとすればどうにかなるのでしょうが、都会では着飾る誘惑も大きいのでしょう。

田舎では事情はかなり違います。空き家になっている家を借りようと考えれば、信じられない様な安い家賃で済むでしょう。多少のDIYの腕があれば、古い住宅だって自分で快適に改修できるででしょう。場合によっては、敷地に畑が付いていて、野菜くらいは作れるでしょうし、そうでなくとも、季節ごとに野山に分け入れば、山菜だって採れるでしょう。しかし、田舎でもどうしても現金が必要なのは、光熱費と税金でしょうか。そういえば忘れてならない教育費もありました。田舎のメリットの一つに、現金があまり要らない事がありますが、これらについては現金収入が少ない暮らし方では、重くのしかかってくるでしょう。その中で、実は光熱費の割合がかなり大きい点には注目すべきでしょう

光熱費の中には、言わゆる電力や水道や化石燃料などが含まれますが、その中でも化石燃料が圧倒的に大きいのです。北国では冬季の暖房に灯油を使うケースが殆どなのですが、夏季の給湯と併せると、平均的には30-40万円/年程度は消費している事になります。通勤や買い物に使うことが多い(複数台の)乗用車の燃料代を加えると、50万円を軽く超える金額になるのです。何のために生きるかと、基本的な問いに、光熱費を払うために働くと言う主客転倒の答えになり兼ねない状況だとも言えます。生業とは、結局は中東のお金持ちに石油代金を払うために(現金)収入を求めて働くのではなく、地域にある資源を上手く活用しながら、お金にあまり依存しない生活を支えるために働く事を指すと思うのです。

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2016年4月30日 (土)

2995 劣化、老化?

形あるものは、劣化し最後は風化して消えてなくなるのでしょう。もちろん、風化とは言っても物質が完全に消えてなくなる訳ではありません。モノの形が崩れてしまって、チリになってどこかへ吹き飛ばされてしまうだけです。これに対して、老化(エイジング)という状況変化もあるでしょう。こちらは、生き物の劣化に使われる言葉ですが、DNAに仕組まれたプログラムの様なものに従って、生き物は老化し、寿命が尽きて、やがて土(ではなくて、水と炭酸ガスと窒素とカルシウムなどのいくらかのミネラル)に分解されて、やがて別の生き物の材料になるのでしょう。

ところで、人間社会や文化にも劣化や老化があるのでしょうか。残念ながら、それは間違いなく「ある」と言わざるを得ないでしょう。今の文明が何千年と続いているのは間違いありませんが、かなりの程度劣化が進んでいるというしかありません。世界で信仰されている、いくつかの主要な宗教を考えてみてもそうでしょう。それを始めた開祖は確かに偉大だったのでしょう。何故なら、いまだに神として崇められ続けているからです。しかし、現在の司教様や坊様や宗教指導者が、開祖様を超越する事は今後とも無さそうです。というより間違いなく無いでしょう。何故なら開祖を超えるという事は、つまりは別の宗教を興すことと同じことになってしまうからです。

ところで政治はどうでしょうか。今の英国スタイルの議会制民主主義が、究極の政治スタイルなのでしょうか。それは間違いなく「否」でしょう。高々3割の支持しか集められない政党が6割以上の議席を占める事が、公平な1票を保証する選挙システムとはとても思えません。そうではなくて、全体の半分近くを占める無党派層と呼ばれるマジョリティの意見を吸い上げる仕組みを作る事こそが、不完全な議会制民主主義の一つのゴールでなければならないでしょう。しかし、それは一つのゴールに過ぎず、それ以前にもっと重要なゴールを見据えなければならないとも思うのです。それは、いみじくも今のリーダーが薄っぺらく唱える「1億何とか社会」に似ているともいえる社会です。簡単なキャッチフレーズにはしにくいのですが、「社会の全ての構成員が、それなりの役割を負っている社会」とでもいえるかも知れません。「1億何とか社会」と異なるのは、活躍の度合いの物差しが、稼ぐサラリー(お金)の多寡ではなく、社会の一員であることの「達成感や生甲斐の強さが」その指標であるという点です。それを確立できなければ、現在の政治の劣化は歯止めなく続くことになるかも知れません。

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2016年4月29日 (金)

2994 ソリューション売り

多くの企業(メーカー)は、モノを作って(あるいは加工して)それを売って生業としていますが、よくよく考えてみると、モノ売りで終わってしまっているケースが多いようなのです。しかし、モノを買う立場に自分の身を置いてみると、私たちは何もモノ自体が欲しい訳ではないことが分かります。例えば、食料です。私たちは、健康を保ち、エネルギーを得るために食品を口にします。土から掘り出したばかりの野菜は、それ自体が直接食料になる訳ではなく、洗って、皮を剥いて、あるいは刻んで、それを煮るなりして調理された後にやっと口に入る訳です。

メーカーが部品を売るのは、種から育てた泥だらけの野菜を売るのと同じようなものでしょう。部品自体が、何かの機能を発現している訳ではないからです。部品は、他の部品と組み合わされモーターや電子回路が組み付けられて、例えば「家電」になる訳です。しかし、ここでもなお、私たち消費者はその家電が欲しい訳ではないことは、確認しておくべきでしょう。ちなみに洗濯機であれば、私たちには、汚れてしまった衣服を、あまり手を掛けないでキレイにしたいというニーズがあるだけです。もし、衣服がキレイになるのであれば、何も現在の洗濯機の様に、洗濯槽やパルセータがモーターで回って、洗剤を入れた水と洗濯物が、強力な渦でかき混ぜられる構造でなくても構わないでしょう。もし、強力な洗剤が発明されて、漬け置きだけで真っ白にできて濯ぎもいらない様になれば、洗濯機は単なるバケツで代用できる訳で、精々脱水機が必要なだけでしょう。冷蔵庫だって、食品が傷むのを遅らせる役割を負わされているだけの「食品箱」であり、食品の腐敗を防ぐのに人体に全く無害な方法が見つかれば、ただの木かプラスチックの箱で代用できるでしょう。

何かの役に立つことを「機能を発現する」と言いますが、その機能を提供する事を、ソリューションと呼ぶならば、メーカーはソリューションを売るべきなのです。部品メーカーは、どこか別の価格が安いメーカーにすげ替えられる可能性がありますが、機能を提供するメーカーであれば、ニーズが消えない限りは、ソリューションは売れ続けるでしょう。私たちは、車が欲しいのではなく、雨に濡れずに時速数十キロで移動したいだけなのです。現在の様な車でも自動運転車でも、オンデマンドのバスでも、なんでも構わないのです。車を売る方が良いか、移動のソリューションを売る方が賢いか、私たちは立ち止まって考えてみるべき時代だと思うのです。

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2016年4月28日 (木)

2993 ドーピング(良い細菌?)

あまり響きの良い言葉ではありませんが、それは許されない薬物を使って、自分の能力以上の記録を出そうとするスポーツ選手が引きも切らないからでもあります。そもそもドープ(Dope)とは、物性の改良を目的として、少量の不純物を加えると言う程の意味なのですが、少量で劇的な変化が起こると言う事がポイントでもあります。一方で金属における合金は、かなりの量の「合金元素」を加えないと、物性の改善は期待できません。例えば、鉄の錆を防止するためには、ニッケルとクロムをそれぞれ、18%及び8%程度加えないと、錆びの防止(ステンレス性)は発現しません。

しかし、物性が元々中間的な、例えば半導体などでは半磁性体などでは、少量の希土類などの添加によって、性能が劇的に変化するものの様です。シリコン自体は不導体に近いのでしょうが、その中に、4価のシリコンとは異なる電価の物質、リンやセレンやホウ素などを加えると、正孔や遊離電子を持った、いわゆる半導体が生まれると言う訳です。永久磁石の性能を上げたいと考える場合でも、ネオジウムなどの希土類の添加によって、飛躍的に磁性が向上するのです。

ここで、ドーピングを持ち出したのは、ではこの事が人間社会にも有効なのではと、ふと思いついたからです。例えば、比較的均質なコミュニティや企業があったとします。均質という意味は、同じような能力や考え方を持った人たちによって構成されている意味においてです。そこに、一人か、少ない人数の異彩を放つか異才を持った人間が放り込まれたらどうなるのでしょうか。余りにも異質過ぎれば、浮き上がるか無視されて、殆ど変化は見られないでしょう。しかし、その人の周りの人間が影響を受けて感化され、それが次々に伝播する様な事態になれば、大きな変化が生まれる可能性はあります。そのためには、元々のコミュニティの構成員の「感受性」が高い状態にある事が求められます。そうでなければ、感化が起こらないからです。

ネガティブな例ですが、物事に喩えるならば、ある細菌に対する免疫の有無に似ているでしょうか。つまり、人々に免疫の無い細菌やウィルスはアッと言う間にコミュニティに拡散するのでしょうが、殆どの人が接種などで免疫を持って居る場合は、何も起こらないでしょう。つまり、感染性の高い「良い細菌」の様な人が、変化の少ないコミュニティを活性化できる人だと言えるでしょう。投稿者もそうなりたいとは思っていますが、残念ながらあまり若くないし、資本は無いし、社会的な立場も無い(フリーランス)状態なので、出来る範囲でボチボチ動き回っている状態です。

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2016年4月27日 (水)

2992 機能と環境

最近の気づきは、機能の定義は、それを取り巻く環境との兼ね合いで決まるものだという事です。当たり前の事ですが・・・。大きく構えて、例えば国の機能ですが、江戸期の様に、殆ど鎖国状態にあれば、国のマツリゴトは専ら内向きのご沙汰で事足りたことでしょう。鎖国というのは、被害が出る様なちょっかいを出されない限りにおいては、諸外国は存在しないのも同じだからです。

しかし、現代においては、国の存在は、諸外国との関連を抜きにしては考えられないでしょう。つまり、諸外国とは現代社会においては、国にとっての環境である訳です。しかし、国の環境と言っても外国との関係だけではないでしょう。いわゆる自然の環境もあれば、国内における外国人の存在という環境もあるでしょうし、今回の九州での地震の様に、火山や地震も国を取り巻く環境だと言えるでしょう。従って、お国の機能(マツリゴト)も、時々の環境変化によってモードを切り替えて対応する必要があるのでしょう。この期に及んでは、Aベノミクスだろうが、消費税だろうが、安全法制であろうが、目先の話に構っていられる状況ではないでしょう。

災害克服に対しては、それこそ国を挙げて、単なる旧ではなく、これまでより災害に強くする、補強的な復旧を果たすべきでしょう。そのためには、環境の変化に柔軟に対応することが必要になり、何より目先の課題の先に、より高いレベルのゴールを描いて置く必要があるでしょう。そうでなければ、目先の外乱に目を奪われ、環境の変化が読めなくなるからです。何やら、段々抽象的になってきましたが、災害復旧のテーマに戻れば、もし災害が起こっても、起こらずに平和裏に推移したとしても、将来目指すべき地域の「青写真」が描けている必要があるという事です。具体的に言えば、住と職と商と遊をどの様にゾーニングするか、あるいはどの様にミックスするのかと言った基本的な絵が描けていなければ、事が起こっても右往左往するだけに終わるでしょう。その時の成り行きで、津波被災地を嵩上げしたり、あるいは高台移転に走ったりして、施策が「ブレる」ことにも繋がるのです。さて、九州の地震災害の結末はどうなるのでしょうか。繰り返しますが、地震の多発も、この国の置かれた環境の一つに過ぎないのです。

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2016年4月26日 (火)

2991 哲学と倫理学

何故こんなややこしい表題になったのか、自分でも良く分かりません。さて哲学とは、狭い意味での学問ではなく、知を愛する態度、または行動ですから、倫理学をも抱合するものなのでしょう。難しい事はさておいて、というより難しい事が議論できるほど、勉強?している訳ではないので、浅学の身としての理解の範囲内で二つの言葉をかき分けてみる事にします。さて哲学です。哲学者と自称、あるいはそう呼ばれる人は、かなりの数に上ることでしょう。それこそ、名前だけ程度しか知りませんが、ソクラテスやその弟子のプラトンの時代から、たぶんその前から、人々は万物のあり様を知ることを欲し、深く考え、議論してきたのでしょう。中世や、近世になっても、特にヨーロッパはカントやデカルトを引くまでもなく、哲学者を多く生み出してきました。もちろん、東洋においても、中国などでは、それを哲学と呼ぶかどうかは別にして、深い思索が行われてきた事でしょう。

それで何が分かったかですが、結局「シンプルな言葉」で物事の本質を言い表す事は出来なかったと言うしかないでしょう。もし、「~は~である」、とシンプルに表現できるなら、私たちはこれほど混迷を深める事は無かったことでしょう。できるのであれば、「人間とは~である」、と断言してしまえば、宗教はこんなに枝分かれする事もなかったでしょうし、それが原因でこれほど終わりの争い事に悩む必要もなかったでしょう。結局、哲学も色々な「学派」を生み出しただけでしたし、それが学問の限界なのかも知れません。

ところで、倫理学をごくごく単純に説明を試みるなら、人と人の関係を考える学問だという事も出来るでしょう。この学問でも、哲学と同様、あるべき人間関係の説明に失敗してしまったというしかないでしょう。そうでなければ、前の戦争を終わらせるために核兵器の使用が是であったか否か、などというバカバカしい議論がいまだに行われることもなかった事でしょう。そもそも、どの様な兵器であれ、人々が大量に人を殺し合うなどという悪夢が繰り返される筈もないでしょう。結局、人類は、どの世界でも通用する哲学も作れなかったし、どの様な社会でも普遍的に通ずる倫理学を確立することも出来なかった、「落第生であった」と締めくくるしかなさそうなのです。投稿者なりにまとめるなら、哲学とは結局矛盾の学問であり、倫理学とは人間の複雑さを記述することに失敗した不完全な学問であると言うしかなさそうです。

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2016年4月25日 (月)

2990 何故⇔どうやって

学者の仕事は、多分物事の本質、何故(理論)を追求する事なのでしょう。そうではない学者もいるのでしょうが、一般的に言えばそうなるのでしょう。一方で、技術者の役割は、求められる機能をどうやって実現するかを考える事でしょう。残念ながら理論だけではメシが食えません。どんな良い理論であってもそれを具現化しなければ、役に立たない(お金が稼げない)のです。理論が解明されたとしても、多くは学者の自己満足に終わるのです。

もちろん、純粋理論やその学問が不要であると言っている訳ではありません。宇宙ステーションを作っての無重力実験も少しは必要でしょう。しかし、多額の国費を注ぎ込んで何時までもダラダラと続ける様な中身がある訳ではない事は、既に明らかになっています。宇宙「開発」は既にかなり前から行き詰まり状態なのです。素粒子の追及も多額の予算を食う研究です。長さが数十キロにもなる、円形や直線装置で粒子を加速する「加速機」や、宇宙からの粒子を検知するKミオカンデの様な装置は、実際上お金がいくらあっても足りない様な設備ではあります。しかし、究極の素粒子が見つかったとしても、それが人類の幸福につながるものであるか、と言われれば大きな疑問が残ります。理論物理学は、賢い学者の頭の中で考えを巡らすだけで十分でしょう。

さて、理論を形にしてお金が稼げるようにするためには、費用対効果(収支)の計算が、利益を出せる(プラスになる)結果につながる必要があります。いくら良い理論でも、コストがかかり過ぎれば、研究室の中から出る事は出来ないでしょう。今、世の中に流通している製品の多くは、たぶん費用対効果のチェックをクリアしている筈です。しかし、技術者は、「どうやって」形するかを日夜考えているのですが、時としてそれが何故必要だったのかをすっ飛ばしてしまう事も多いのです。小さなスペースに、考えられる限りの機能をギュウギュウに詰め込んだ製品を目にすることがありますが、かといってそれが消費者が求め、コスパも高いか言われれば疑問が残る製品も多いのです。私たちは、常に「何故」と「どうやって」のバランスを考えながら進まなければならないのでしょう。

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2016年4月24日 (日)

2989 見えているが見ていない

表題同様に、聞こえているが聴いていない、食べているが味わっていない、触っているが感じていない、香っているが匂わないなど、私たちはボンヤリ過ごしている時間が結構多い事に気が付きます。特に、視覚情報はあまりにも多過ぎるために、脳が処理しきれず、多くの情報は垂れ流しにするしかないのかも知れません。

とは言いながら、大切な情報を漏らすのは悲しいものです。そこで、大切となるのが「フィルター」だと思うのです。フィルターとは、必要なものを引っ掛け、要らないものを通す網の様なものでしょう。網のサイズを変えれば、大きな魚を捕らえて、幼魚は逃がすことも可能でしょう。同様に、感度の良い情報フィルターを備えていれば、雑音情報はパスして、必要な情報だけ引っ掛ける事も可能となります。問題は、どうやってフィルターを準備するかですが、やはり情報を集めたい方面の知識を集積するしかなさそうなのです。投稿者の場合は、ある時期以降は「環境人間」を目指しましたので、頑張って環境学を修める努力をしてきました。その中で、準備したフィルターは主に「持続可能性」という網を磨いてきたつもりなのです。

世の中で起こっていることを、漫然と眺めていれば、さもそれがコトの必然の様な気もしてきます。ましてや、それが自分の生まれる前から継続しているコトであればなおさらでしょう。しかし、持続可能でないことは、文字通り「続けられない」のです。有限である化石燃料を未来永劫利用し続ける事はできませんし、廃棄物処理の方法が見つかっていない核燃料を燃やし続けることもできない相談なのです。今私たちは、エネルギーとしては石油(ガス)と電力しか見ていないような気がします。水素エネルギーなども遡上されてはいますが、所詮それは化石燃料から炭素を抜き出したまがい物に過ぎません。化石エネルギーや電力しかエネルギーとしか認めていない人々にとって、例えば太陽熱やバイオマスや小規模なローカルエネルギーは、見えておらず、従って存在しないのも同じなのでしょう。化石エネルギーや原発や、火力発電などは、投稿者に取っては見たくもないし、持続可能性フィルターには絶対に引っ掛からない類の選択肢なのです。

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2016年4月23日 (土)

2988 サラリーマンというラッキー

投稿者は50歳過ぎに長年勤めたメーカーを早期に退職し、その後一時中小企業にも籍をおきながらゴソゴソ準備をして、計画通りに55歳の誕生日に晴れてフリーランスとなりました。フリーランスは、まさしくフリーで、自分の興味のおもむくままに何をしても良いのですが、何しろ全て自分で考えて歩を進めなければならないのですから、ある意味でシンドイ話です。楽をしようと思えば、何もしないでじっとしていても良いのですが、そうするとオマンマが食えません。

その意味で、決まった時間に出勤し、上司にハッパを掛けられながらも、何とか仕事をこなせば、給料がもらえて、大抵は年二回のボーナスもいただける、という待遇は、辞めてみて初めて結構良い暮らしだったなあ、とちょっぴり後悔したものでした。実は、サラリーマン時代のある時期(30代)に、価値観を少し入れ替えた事がありました。つまり、それまでは、与えられた仕事をこなし、その報酬としてサラリーを受け取る、というのが普通の考え方をしていましたが、それを「仕事をこなす中で、自分の知識やスキルを上げる事が出来た上に、給料までもらえる」という風にひっくり返したのです。

それは、午後からの会議に出るのに構内用の自転車が出払っていて、仕方なくトボトボと広い工場内を30分近くもかけて歩いていた時の気付きでした。なんと、自分はただ歩いているだけなのに、この時間も給料をもらっている。ならば、ただ歩くのではなく、汗をかくほどしっかり歩いて体力が付くようにした方が得だ、と思い直したのでした。それからは、移動に自転車を使うのを止めて、速歩で歩く事にしたのです。仕事だって、言われた通りにソツなくこなすのではなく、自分で積極的に関連する知識やスキルを増やしながら取り組んだ方が得というものでしょう。なぜなら、この国では働いた時間に応じて給料がもらえるからです。

仕事の中で自分のスキルを上げる工夫はいくつもできます。例えば、仕事上調べものをしなければならない時は、関連情報を調べてまとめて置きます。出張を命じられた時は、近くの別のサプライヤーも「ついで訪問」し、ちゃっかり工場見学をさせて貰って情報も仕入れます。仕事で失敗を出してしまった時は、原因を徹底的に分析し、自分なりの「べからず集」にまとめるのです。この方向で3年、5年経てば、同僚に対してかなりの差がつく事でしょう。別に望んだ訳ではなかったのですが、上司がしっかり見ていて大学卒でなかった投稿者を、異例の速さで昇進させてくれたのでした。最終的には、それが嫌だったことも理由で早期退職したのでしたが・・・。いずれにしても、サラリーマンにはいくつもの「Fringe benefits」があり、本当にラッキーな時代だったと振り返っています。

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2016年4月22日 (金)

2987 企業の闇

またゾロ企業の不正隠しです。データ処理の段階で、良いデータだけを採用して、悪いデータをゴミ箱に捨てると言う手口の様です。元技術屋として、今回の事件もまた非常に悲しい事件と言わざるを得ません。何故技術者は、技術者として勝負しなかったのでしょうか。燃費が目論見より5-10%悪かったのは、努力が足りなかったと何故考えなかったのか、残念でなりません。

経営者や販売部門からのプレッシャーが大きかったであろうことは部外者であっても容易に想像できます。開発の時間的リミットもあったでしょう。しかし、技術者として不完全なモノを市場に送り出すことほど、恥ずかしい事は考えられないでしょう。それは、技術の敗北だからです。もしエンジン改良だけで、燃費が稼げなかったのあれば、車体重量を少し減らし、車輪の転がり抵抗も減らし、空気抵抗を少し減らしつつ、燃料の気化をすこし改善し、排気触媒の抵抗もやや減らし、などと言った改善を積み重ねれば、もう少し、例えば5%くらいは目標に近づいた事でしょう。届かないのは努力が足りなかったのだ、という反省なしに、安易にデータを弄る事に走る体質は、企業の闇と言うしかなさそうです。それは、サラリーマンの「楽をして結果を出したい」という弱い心根から来るものだと思っています。

その闇故に、メーカーは排ガスデータを修正したり、リコールを届けたりするのを躊躇したりする技術者に限らず、経営者も、経営指標(利益率)を盛り上げたりあるいは赤字を隠したりするのでしょう。これは、まさしく企業に対する消費者の期待・信用の裏切り行為と呼ぶしかないでしょう。いわんや、その闇を社内告発でなく、社外からの指摘によって暴露されるなど、下手をすれば企業存続にもつながるスキャンダルだと言うしかありません。どこかの航空機メーカーの社是に「Practice makes perfect(継続は力なり)」というものがありますが、小さな不正であっても、企業の名声は地に落ちるでしょうし、その回復には長期間を要する筈です。リコール隠しで二度も地に落ちた名声を、データのメイキングごときで回復できると、この企業の誰かが考え、それを容認した上司が居たのであれば、残念ながら企業の存続は諦めざるを得ないかも知れません。技術者は、技術で勝負するしかないし、メーカー経営者の役割は、徒に現場にQCDの圧力を掛ける事ではなく、技術者の背中を押しながら、顧客の名声を上げる事しかないのです。

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2016年4月21日 (木)

2986 出入りの収支

この国の人たちは、一般的なレベルで言えば物知りなのでしょう。大学も入れれば十数年も学びの期間がありますし、社会に出て余り本を読まない人だって、ネットで調べものくらいするでしょうし、雑誌や新聞を読んだり、クイズ番組くらいはマメに見ているでしょう。しかし、知識を詰め込んだとしても、それを取り出さなければ、何も始まりません。どんなに大きな図書館を作ったとしても、その町から天才的な科学者や指導力のある政治家が輩出できる訳ではないでしょう。つまり、物知り=賢者ではないのです。

知識をインプットだとすれば、アウトプットは何と呼ぶべきでしょうか。ここでは、それを知恵とか工夫とか呼ぶことにしましょう。つまり、人々が何か困り事や問題を抱えた時、それをどうにか切り抜けるのが知恵というものでしょう。とは言いながら、知識を詰め込めば良い知恵が生まれとは限らないでしょう。知恵を絞りだす際に、特に役立つのは、投稿者の経験から言うなら、「良い経験」だと断言できます。取り分け「良い失敗経験」が理想的です。失敗から学ぶことの方が、成功体験から得るものより何倍も多いと思うのです。何故なら、人間の脳は、幾多のサバイバルのための苦難を乗り越えながら現在の様に進化した筈なのです。ヒトが、もしノホホンと生きてこれたとしたら、ナマケモノの様になっていたかも知れないのです。(ナマケモノさんには失礼なことを書きました・・・。)

さて、という訳で現代人、とりわけこの国の人たちは、かなりの程度知識のインプットが多く、アウトプットが非常に少ないという、バランスの悪さの中で暮らしている様なのです。何しろ、日々の暮らしの中で、本当に困った事などまず経験する機会は無いでしょう。その意味で、今九州で起こっている事は、かなりの程度人間の知恵を要求している「緊急事態」だと言えるでしょう。災害時の知恵は、しかしかなりの程度蓄積はしている筈です。最近の事例で言っても阪神淡路や3.11の震災・津波災害や新潟地震などの現場で得られた知恵は、すぐにでも九州で役に立つ筈なのです。東京で、何の不自由も無い暮らしを続けながら役所や政治家が出してくる支援アイデアなんぞには、あまり期待はできそうもありません。体験に基づいてはいない「知識」しか使っていないでしょうから。最大の支援は、過去の震災経験者が身に付けた知恵を携えて、現場でそれを伝える事でしょう。

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2016年4月20日 (水)

2985 予防原則(PP)

 

これは、環境悪化とその防止に関して、1970年代にドイツで使われ始めた言葉です。英語表現ではPrecoutionary principlePP)で、その日本語訳が「予防原則」ですが、もし環境の悪化が比較的容易に原状に戻せるのであれば、この原則はあまり重要ではありません。しかし、環境悪化が元に戻すことができない、つまり不可逆的に進むものなら、そしてそれが人々の暮らしを危機的に破壊するのであれば、この原則は極端なまでに厳格に遵守されなければならないでしょう。

 

例えば、Fクシマです。原発から放散された放射性物質は、それらを拾い集めて原子炉の中に戻す事は不可能です。また、原発事故の結果、周辺の地域は人が住めない環境になり、しかもそれは少なくとも数十年続く事になりました。除染とは、結局は放射性物質が付着した、植物や土を取り除いて、どこかに集めるしかない、消極的で果てしのない作業を指します。確かに数十年もすれば、半減期の短い物質の放射能レベルは下がるでしょうが、しかし厳密に言えば事故で放散された放射能は、何万年も「消える」ことはありません。それにつけても刻々と流れる九州の群発地震の報に接して、やはり稼働中の川内原発に想いは至ります。

 

放射能汚染こそ、この予防原則によって未然に防止されるべき環境汚染の代表だと言うしかないでしょう。しかも、厳格に当て嵌められるべき、典型的な対象なのです。予防保全の国であるドイツが、3.11事故を受けて、国内の原発の廃炉を加速したのは立派な「言行一致」です。然るにです、なんとこの国では、傍でもっと大きな揺れが来るかも知れない状況で、これまでの地震による加速度が、何とかガル以下であると言う、「たった一つの安全基準」を根拠に、原発を回し続けている状況なのです。これだって、誰かが実体サイズの原発を、実際に加振して作った基準ではない筈で、学者の推定値に過ぎないでしょう。熊本城の大きな被害でも分かる様に、数百年耐えてきた構造物でさえ、脆くも崩れるのです。私たちは、「形あるモノは何時か壊れる」という大原則の前にひれ伏すべきでしょう。ましてや、川内原発は稼働後既に30年以上経過した「ロートル」原発の代表です。古い原発の「実体での耐震試験」は、即中止すべきでしょう。それが、予防原則というものです。

 

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