2017年6月27日 (火)

3321 シュリンクの難しさ2

3319の続きです。都市のシュリンク=インフラのシュリンクが難しいのには、いくつかの理由が考えられますが、最大のものはそれが目立った利益を生まない事でしょうか。都市を拡大する局面では、広げられた土地を人々がローンを組んで買ってくれ、それに従って公共サービスや流通業も拡大して行けた訳で、経済的な「回転力」もあったでしょう。しかし、シュリンク局面では、シュリンクによって誰かが際立った利益を上げ得る仕組みは考え辛く、シュリンク工事に必要な費用の出所が見つからないのです。敢えて言うなら、インフラが縮小する事によって、インフラの維持に係る自治体の出費は抑制できる程度でしょう。

ならば、もっと大所高所から物事を考えてみる必要が出ると言うものでしょう。つまり、50年後100年後の青写真を描き、インフラの修繕や更新のタイミングで、シュリンクを織り込んでいくしかなさそうなのです。そのためには、改めて「公共財」という概念を明確にして進める必要がありそうです。例えば、土地の個人所有の権利が強すぎる国では、公共事業は進めにくいでしょう。公共工事を進める中で、個人所有の小さな土地が、工事の障害になるなどの例は枚挙に暇が無い程です。

一方で、海外では、街並みの景観維持のために、建物の高さや形や色合いなどにも細かな規制が掛けられたり、あるいは、道路整備のために個人の権利が抑制されたりといった例が多い様に感じます。いずれにしても、ある時期に国や各自治体が一斉に、方向性をシンクロさせた「長期的な将来像」を描いてみる必要はありそうです。それは、単に経済的なメリットだけを求めるものではなく、少子高齢化社会になっても、人々が幸福感を感じながら暮らせる場所とする必要があるのは言うまでもないでしょう。投稿者が考える具体的な青写真については、稿を改めます。

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2017年6月26日 (月)

3320 食糧・水・エネルギー問題

N羽宇一郎著の新書を読みました。若い頃、商社で食糧を買い集めていた経験の長い氏の、人口増に対応が難しいとされる食糧問題の提起には説得力があります。本の中で、同時に氏が水問題とエネルギー問題に同じ程度のページ数を割いているのには、予てより同じ問題意識を持っていた投稿者としても納得できるものでした。つまり、食糧生産には、穀物重量の何十倍もの量の水が必要だと言う事実があります。嵩だけで見れば、小麦1㎥を作るには、その数千倍、穀物をエサにして育てる牛肉の場合には、数万倍の量の水が必要な計算になります。これは「バーチャルウォーター」と呼ばれ、環境省のHPでもそのそれぞれの食糧に対する見水の必要量を換算する「バーチャルウォーター計算機」がアップされています。

さて、食糧自給率が4割弱とされているこの国では、不足している大量の食糧の輸入している現状ですが、結局それは海外で農業灌漑に使われた大量の水資源を輸入していると同じ事になるのです。その絶対量は、なんと琵琶湖3杯分にも上るというのです。その意味するところは、輸入相手国で旱魃が起これば、その輸入が止まってしまうということなのです。自国の消費を抑制してまで食糧を輸出してくれる国などどこにもないからです。

同様に、現代においては食糧生産は高度に機械化されていますから、地下水の汲み上げ灌漑電力や作付、管理、収穫に使う大型農業機械の化石エネルギー、加えてその農産物を海を越えて輸送するエネルギー等、多大なエネルギーを費やしてもいるのです。これを、バーチャルエネルギーと呼ぶとすれば、その量も多分原発何個分かに相当すると想像しています。つまり、世界の水問題やエネルギー問題を受けての食料問題は、全てこの国にとっても大問題であり、しかもその比重はあまり変わらないのです。その3つの問題の中で、最も早い時期に顕在化しそうなのは、たぶん水問題でしょう。過酷な旱魃と現状は大量に汲み上げている地下水の枯渇が同時に起これば、その年に彼の国の農地の収穫は壊滅的な打撃を受けるでしょう。例えば、5%のある穀物の供給不足は、たぶん2倍に迫る価格上昇を招く筈なのです。それは、たぶん生産可能な農地や食糧そのものを巡っての新たな紛争を招くと容易に想像できます。今のうちに、この状況を緩和する政策が不可欠なのですが、今の政治屋にこの危機感を持っている人がどの程度いるのか、延々と続くレベルの低い「椅子取り合戦」を眺める限り、暗澹たる気持ちにならざるを得ません。

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2017年6月24日 (土)

3319 シュリンクの難しさ

出張から戻って投稿再開です。さて、21世紀入って少し経った頃にこの国の人口はピークを打ち、減少局面に入りました。偶然ですが石油埋蔵量の半分を消費してしまった時期にも重なります。人口減が加速し、エネルギー源も心細くなってくる今後、考えなければならないのは社会の縮小という課題です。人口がドンドン増え続けた高度成長には、社会が膨張しました。例えば、特に人口の集中が著しかった東京を中心とする関東圏では、山を削り、谷を埋め、それでも足りなくなって先祖伝来の田畑を潰して、工場団地や住宅地を増やし続けました。都市部では、川の上に道路を懸け、地下にはモグラの様に地下鉄を張り巡らし、高層住宅を雨後のタケノコの様に増やし続けてきたのです。結果として、村が町になり、それがさらに市となって膨張をつづけたのでした。今、関東平野を新幹線で進む時、家並みが全く途切れる事無く続くのを見て、唖然とさせられます。東京と衛星都市の間に近郊農業の農地が広がっていた関東平野のイメージは、既に過去のものとなってしまっていたのです。

しかし、その都市部でも、古い大規模団地や下町などでは、既に少子高齢化が顕著になってきています。高度成長に広げ続けた社会インフラ、つまりは道路、上下水道や道路、公共施設などは、多くの自治体で既に「お荷物」になりつつあるのです。広がりきったインフラは、既に耐用年数を超えている部分の比率が増えて、今後はメンテンナンスや更新の費用が自治体の財政を圧迫し続ける事は素人が考えても容易に想像できるでしょう。事実、上下水道の漏れ事故による道路の陥没事故は、既に日常茶飯事になってきました。

早急に考えなければならないのは、たぶん都市をシュリンクさせる事だと思うのです。広がりきった都市を縮小させるのは、しかし簡単な事ではありません。若い頃必死で働き、多額のローンを組んで買った、土地や家をあっさりと手放して、都市中心部の高層アパートに喜んで移り住む人はそれほど多いとは思われないからです。もし、住人の意思ではなく、外的要因での社会のシュリンクが起こり得るとすれば、あまり考えたくないストーリーではありますが、大都市圏を襲う大きな災害でしょうか。インフラがズタズタに寸断された都市には、もはや大きな人口を支える機能は残されてはいないでしょう。戦時中の様に、地方に縁故を頼って「疎開」するしか方法は無いのです。人が住めなくなった都市こそ、皮肉ではありますが再開発やシュリンクをする好機が到来したと言えるのかも知れません。しかし、物理的なシュリンクの前に、頭を冷やして「はて?何故私たちは都市に群れて住むようになったのだったろうか?」と自問してみる必要があるでしょう。今こそ、ゴミゴミして、忙しいだけの都会暮らしと、時間がゆっくり流れて緑豊かな田舎を、改めて比べてみて、どちらが幸せなライフスタイルかを考え直してみるべき時期だと思うのです。田舎に再度人口が戻り始めるタイミングこそ、実は田舎の町をコンパクトに設計し直す絶好のタイミングになる筈なのです。いずれにしても50年、100年単位での長期計画が必要な難しい話ではありますが。

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2017年6月21日 (水)

3318 今という時代2

3317ではエネルギーから今という時代を眺めてみましたが、ここではモノという側面から見てみましょう。この国は、戦前・戦後のモノの無い時代を経験し、高度成長期を通じて憑りつかれた様にモノを求め続けてきた様に振り返っています。いわゆる三種の神器や3C等の「耐久消費財」を手に入れるために、ローンを組み隣に負けない様に取り揃えたのでした。それが一段落すると、今度は住宅です。主に私鉄会社が山を削り、谷を埋めて造成された「新興住宅地」の狭い土地に、ギッチリと二階建ての家を建てたのでした。それが土地不足で行き詰ると今度は、高層マンションが建設され、より高く見晴らしの良い高層階に住居を求めたのでした。

殆どの新しい住宅には、所狭しと便利な家電が溢れ、近くのスーパーやショッピングモールに行けば、日用品や食糧が溢れる様に並べられています。駅前の大型家電店では、次々に新しくて高機能で大型の家電を、これでもかと展示販売しています。それどころか、最近はいわゆるネット通販で、欲しいと思ったものが、翌日か数日内に手元に届く物流システムが出来上がってしまったのです。モノに溢れた生活スタイルは、その背景に「便利中毒」が隠れていると投稿者は疑っています。便利には、楽をして結果を得ると言う意味合いもありますので、ネットでボタンをポンと押せば、殆ど待たずにモノが手元に届くと言う便利さは、さぞ便利中毒者を増やしているものと想像できます。

家電にしても、「全自動」を売り物にした銘柄も多く売り出されていますし、今や「全自動車?」が登場しようとしています。ここでの結論としては、便利に(楽に)、大量に手に入る様になった物流システムが、便利中毒=モノ中毒を増やしたのではないか、としたいと思います。問題は、この様な時代が、果たして持続可能か否かという点だと思うのです。否の場合は、間もなくこの様な便利でモノに溢れた時代がやがて終わり、不便で常にモノに渇望する時代に戻って行くしかないのです。そうなる前に、私たちは自ら進んでその様な時代に対応する訓練を積んでおくべきだとも思うのです。更に続きます。

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2017年6月20日 (火)

3317 今という時代

今という時代を、環境と言う切り口で見てみる事にします。さて、たった今の状態を眺めてみると、エネルギー的には石油・LNGは、一応安定的に供給されている様ですし、価格レベルも消費国側にすればまあまあで推移している様ではあります。従って、原発の再稼働がボチボチ始まっているにしても、そこへの依存度は限定的だと言えるでしょう。という事で、石油を燃料とする車や航空機の関連産業もそれなりに髙い水準を保っている様です。

しかし、これは現在の瞬間風速であり、今後どうなるかは保証の限りではないでしょう。パリ協定によるCO2削減圧力はジワジワと効いてくるでしょうし、石油そのものの供給が、今後とも安定して行われるという保証は何もないからです。産油国の周りは相変わらず「キナ臭い」状態ですし、グローバルなパワーバランスも微妙に狂い始めてもいます。従って、ポスト石油エネルギーに位置付けられている「水素」だって、それが石炭や原油から搾り取られる限りにおいては「ハードエネルギー」である事には違いが無い訳です。水素を絞った炭化水素(石油や石炭です)からは、多量のCO2が大気中に排出される事になります。これでは、石油を直接燃やすのと何ら変わりはないでしょう。

エネルギーから見る限り、石油を完全に代替するエネルギーは、未来永劫出てこないと考えるべきでしょう。私たちは、太陽光、太陽熱、風力、、波、バイオマス、水力といった、太陽光が形を変えたいわゆる再生可能エネルギーを賢く組み合わせて、質素に暮らす方法を編み出さなければならないのです。従って、石油に依存する車や航空機といった「石油系交通機関」の使用も、可能な限り抑制して行かなければならないでしょう。それを補完するのは、当然の事ながら環境負荷の小さな鉄道の活用であり、人力移動手段である自転車などでしょう。都会では、もっと公共の貸自転車を増やすべきでしょうし、田舎でも自転車を多用して高齢者の老化を防止するべきでしょう。決して、自動運転車を導入して足腰を更に弱くする愚策は行うべきではありません。概して言えば、今という時代は「時代の折り返し点」であると考えるのが妥当だと思うのです。特に、エネルギーに関して言えば、間違いなく石油時代のターニングポイントであるのは間違いありません。続きます。

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2017年6月19日 (月)

3316 アスベスト問題

NHKで取り上げられた公営住宅における室内でのアスベスト吹付問題については、全く行政の怠慢としか言いようがありません。アスベスト問題は、その使用が停止されて終わりという問題ではないからです。飛散したアスベスト繊維を吸引した人が発症するのは、下手をすれば数十年後というケースもあり、静かなる時限爆弾と呼ばれる所以です。数十年前に建てられた公営住宅の天井裏などに、断熱・防音あるいは結露対策として、アスベストの吹き付け塗装が行われた訳ですが、その図面や工事記録が廃棄されているケースが多かったのが大問題になっているのです。

実際の建物にアスベストが残っているかどうかは、実際に壁や天井の吹き付け物を採取し、検査を行ってみないと事実が判明しないのです。これは非常に手間の掛かる調査で、かつ住人の移動によって、アスベスト被害の発生する可能性がある人は、事実上把握できないのではないかと懸念されます。

かくなる上は、可能性がある人たちに、健康診断を受けてもらい、疑わしい人たちにはさらに精密な診断を行う、消極的な作戦しか残っていない様に思えます。アスベストは、何も住宅に限った話ではなく、使用が中止された後でも、例えば屋根材などには数%のアスベストの添加が認められていたのです。同時期には、車や鉄道車両や航空機のブレーキパッドにもアスベストが使われていましたので、それらが大気中に飛散し、今年配となった人たちは、知らず知らずのうちに吸引していた可能性も高いのです。いずれにしても、発症の可能性のある人を絞り込まず、初期症状の内に発見・治療できるような啓発活動が欠かせない動きになるでしょう。アスベスト問題は、終わったのではなく、今回の報道でむしろ今後数十年続く長期的な問題であると再認識されただけなのです。

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2017年6月16日 (金)

3315 多忙中

数日の出張から帰って、投稿の再開です。何故か最近忙しくなってきました。環境屋を名乗って、省エネやら再エネの重要性をお経の様に唱えて、あちらこちらに首を突っ込んできたのですが、それらの切れ切れのネットワークが繋がってきた様なのです。加えて、あまり気が進まないながら、頼まれた事だけを引き受けてきた「前職」関連も、ここにきて急にやはりネットワークが復活したり、新しく繋がったたりして少し驚いています。国際共同開発と言う名の「海外下請け」の仕事はあまり腹に入らないと、早めに卒業した業界ですが、所詮は技術屋のなれの果ての投稿者は、やはりモノ造りが好きだった様なのです。もちろん、環境人間ですからモノ造りといえども、それに使用する資源やエネルギーは極限まで絞り込む必要がある事は曲げません。

再エネについては、推してきたバイオマスも徐々にではありますが、今住んでいる地域でも普及が進んできていますし、新たに農業・畜産残渣、具体的にはもみ殻や畜糞・鶏糞の類をエネルギー化するプロジェクトにも巻き込まれてしまいました。もちろん、その方面に首を突っ込んで、巻き込まれる事をむしろ望んでいたので、当然の成り行きでもありますが・・・。

いずれにしても、誰かに頼りにされる事は、投稿者の様な年齢になってしまえば、むしろ嬉しい事になっていて、活動費が自前で賄えるのであれば、ボランティアでも参加したい程なのです。残念ながら竟の住み処を建てたばかりで貧乏なので、お金がいただける仕事のついでに、趣味の世界?にも立ち寄ると言った動きにはなってしまうのですが・・・。それにしても、お金のいただける仕事がボチボチと入ってくる事も有難い事ではあります。お蔭様です。

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2017年6月11日 (日)

3314 車「飛行」事故

東名高速で、まさに車が空を飛ぶ事故が起こりました。翼を持たない車が空を飛ぶには、少なくとも十分な助走スピードと、飛び上がるためのランプウェイ(スロープ)が必要です。今回の場合、事故車は一度走行車線のガードレールに接触した後、追い越し車線に飛び込んで、中央分離帯の土塁に乗り上げた結果、「離陸」してしまった様です。この間ブレーキは踏んでいない様なので、たぶんドライバーは意識が飛んでいた可能性はあります。

しかし、問題はこの土塁の形状なのです。土塁は、もし走路をはみ出しても、比較的安全に車を受け止める役割を負っているでしょう。それを超えた場合には、中央分離帯上のガードレールが反対車線に飛び出すのを阻む役割を持っています。しかし、今回の事故の場合、この土塁がジャンプのためのランプウェイになってしまった様ですので、事故原因の追究の中で、この点が問題にされ解明されるべきだと思うのです。一体何キロのスピードでこの土塁に侵入すると、ガードレールを飛び越えて反対車線に飛び出すのか、と言う点です。もし、高速道路の追い越し車線で普通に到達する110-120/h程度でその可能性が出るのであれば、それは道路構造の欠陥である可能性が出てきます。

事故現場の道路を「ストリートビュー」で見る限り、走行路の舗装部分と中央分離帯の土塁の間には、縁石がなく容易に草地に飛び込む可能性がある構造です。その草地が、傾斜した土塁に滑らかにつながっているので、それなりのスピードで突っ込むと、ガードレールを容易に飛び越し得ると考えられるのです。この様な構造が、東名のこの部分だけの特異な状況なのか、あるいは他の区間でも普遍的に見られる「普通の構造」なのか検証してみる必要はあるでしょう。本来なら、舗装部分と草地との間は浅い溝になっているか、あるいは相応の高さの縁石になっているべきなのでしょう。現状のままでは、同様ケースの事故再発が懸念されます。

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2017年6月10日 (土)

3313 IoTって何?

久しぶりに講演会なるものを聴講し、IoTについて少しだけ理解が広がった様です(のかも知れません)。さて、IoTについては、毎日の様にニュースやネット上に流れ、最早耳タコ状態とも言えそうです。そんな訳で、何となく知っていたつもりのIoTですが、正直に告白すれば、それを活用したIndustry4.0だか4.5だかも、どこか遠くの出来事の様な気がしていました。

しかし、事態はドンドン先に進んでいる様です。IoTとは、単にモノをインターネットにつないで、遠隔監視したり、操作したりする程度だと思っていましたが、そのインターネット上の「クラウド」自体が、ドンドン進化している様なのです。今やクラウドでは「何でも出来る」と言っても良さそうなのです。クラウドは、それ自体が巨大なデータのストレージであり同時にベースであり、その中では色々なボットが動き回り、種々のモジュールを使えば、新たなビジネスも起こせるし、もちろん製造システムの近代化にも、あるいは双方向(音声&文字)翻訳など、およそ出来ない事を探すのが難しいくらいです。

かと言って、IoTやネットが全てで、完ぺきであるというつもりはありません。何故なら、肝心なのは、モノや私たち自身の生身の体なのですから。IoTが何をしてくれようが、ネット上のクラウドがどんなサービスをチラつかせ様が、腹が減った時に空腹を満たしてくれる訳でも、喉が渇いた時に水を出してくれる訳でもないからです。ならば、出来るならば、ネットなど通さずに、直接自分の足や手を使ってモノにアクセスし、それを感じたり味わったりしたいものだとも思います。いくら、Holensで現実の世界にバーチャルな「物体もどき」を浮き上がらせようが、それを手に取って、口に運んで食べる訳にはいかないのです。結局IoTで、自分の手が少し長くなって、アクセスする足がとんでもなく速くはなるのでしょうし、外国人と容易に会話する事も出来るのでしょうが、所詮自分の五感で感じ、頭で認識して判断する事は、人間である限りは変らない訳で、IoTやクラウドでそれが変るのだとしたら、自分としてはそんなものには「あまり」関わらず、今のままで生きて行こうとは思っています。もちろん、自分の手足や頭脳の延長としてならば、少しは利用しますが・・・。

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2017年6月 9日 (金)

3312 脱フロン=省エネ

フロンガスが、オゾン層を破壊すると言う理由で、使用や生産が抑制されて、2020年からはHCFC(塩素を含む冷媒)が一切生産できなくなる事によって、オゾン層破壊には一定の歯止めが掛かる事にはなります。とは言いながら、既存のエアコンや冷蔵・冷凍設備で使われている、フロンや代替フロンは、機器の交換でもない限りはそのまま保持されるので、問題が無くなる訳ではありません。むしろ、機器の交換で抜き出したガスは、費用を払って無害化処理する必要があるため、経済性を優先する悪徳業者は、これを大気放出により処理してしまう「犯罪」が懸念されるのです。

一方で、フロンガスや代替フロンガスは、非常に高い温暖化(GHG)係数を持っているガスでもあるのです。これが大気放出された場合、CO2に比べ2ケタ高いGHG係数により、温暖化を加速してしまう事につながるのです。フロンは、空気より軽いので、大気に放出されると成層圏の高い高度まで上昇し、そこで安定的に留まり、温暖化を加速する訳です。結果として、層の厚みはCO2よりずっと薄いものの、しっかりした膜の様に地球からの赤外放射をブロックするのです。

その対策は、多くは無さそうです。投稿者が良いと考えているのは、フロンガスや代替フロンガスを石油系ガスで置き換えてしまう方法なのです。これには良い点がいくつかあります。石油系ガスには、ブタンやプロパンなど豊富な種類があるので、それらを混合する事により、ガスの性状のデザインが容易である事があります。しかも、気相から液相に圧縮するのに要する馬力は、フロン系ガスに比べて3割程度低く抑えられるという「省エネメリット」も期待できるのです。このメリットを利用すれば、フロンガスの回収や破壊の費用は十分捻出出来てオツリもたっぷり期待できます。

もちろん可燃性ガスである石油系冷媒には、その取扱いに十分な注意も必要です。しかし、考えてみれば、屋内にガス配管が設置されているのは普通の状態なので、それと同等の安全基準を守っていれば、何ら問題は生じないでしょう。何より、私たちには冷暖房に関して、3割程度の省エネポテンシャルが残されている事は、今後の省エネ活動には心強い話ではあります。

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2017年6月 8日 (木)

3311 品質管理?

久しぶりに、品質管理に関して良い話が聞けたので、忘れない内に書き留めます。結論は、非常にシンプルで品質管理とは「良い設計情報を素材に転写した際の精度」であるという一言で表現されるのだそう。もちろん、悪い設計情報で作られた製品の品質が良かろうはずもありませんから、先ずは「良い設計」が為される事が大前提ではあります。その上で、設計図通りにモノが作られておれば、取り敢えずは「製造の品質管理」はOKと言うことになるのでしょう。

では、良い設計とは何かを考えれば、実は頭が痛くなりそうです。つまり、消費者(市場)が何を求めているかを把握し、それを満足するクオリティと価格を実現するための、素材の吟味と形状・機能の設計を行い、加えて消費者(ユーザー)が気に入る外観デザインを採用し、しかも市場が期待する耐久性を実現する、と言ったとても一言では表現できない諸条件をクリアする必要があるからです。

つまり、これまではと言うか伝統的な品質管理は、専ら製造現場における品質管理を問題にしていましたが、今後は「設計の品質管理」まで、枠を広げて考えなければならない、と彼の講師は主張するのです。しかし、考えてみればそれでもまだ足りない様な気もしてきました。では、経営の品質は放っておいても良いのか、従業員の品質?は、あるいはマーケティングの品質は、あるいはアフターサービスの品質は、などとさらに枠を広げればキリは無い様でもあります。その意味で、品質管理と言えば狭い意味になりますが、品質保証と言えば枠がかなり広がり、品質マネジメントとすれば、企業活動全体に及ぶ概念になる筈なのです。そこまで、突き詰めて考えている企業がどれほどあるのかを想像してみれば、この国の企業もまだまだやるべき事は多いと言えるでしょう。その前に、この国の(政府)のクオリティや国民(文化)のクオリティについても、腰を据えて考えてみなければならないとも思います。それについては、稿を改めて考えてみます。

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2017年6月 7日 (水)

3310 温暖化論議

B国のパリ協定からの脱退問題が話題になっている様です。今回も、問題の本質は、「環境か経済か問題」にある様に見えます。B国第一主義とは、結局経済で一位のポジションを、今後もダントツで維持したいという、世界一強かった国力(Pax Americana)神話を忘れられない彼の国が、夢よもう一度と願って送り出した新リーダーではあったのでしょう。

しかし、金儲けでは成功した新リーダーも、その他の政策では筋の通ったものを持っていない事が露呈してきた様です。その他の中には、世界でのパワーバランスを鳥瞰した外交や経済以外でのG7などでのオピニオンリーダー力やあるいは文化面での発信源としての立場とか、更に言えば今回の環境保全でのリーダーシップとかが含まれるでしょう。否定からは、決して何も生まれないのは、経験上も間違いないのですが、新リーダーは、日々#ツィートで誰それはダメだ、何々はやらない、とヒステリックに叫ぶ否定人間の様に見えます。

そうではなくて、温暖化論議も含め、外交問題も、テロ問題でさえ、全ての問題は「未来に向けた問題」でもある事は再度確認する必要があるでしょう。未来は確実に現在に向かってくるのですが、私たちは歴史を否定しけなす事は出来ても、未来は否定し様がありません。未来は、じっくり考えて、現在から少しずつ積み上げていくものだからです。その意味で、是非全ての国のリーダー(のみならず企業リーダーにも)には、未来の青写真作りに強い責任を持つ事を自覚して貰いたいものです。全ての決議は、まだ見ぬ未来社会の子孫の利益と地球環境の持続可能性に資するものでなくてはならないのです。○○ファーストと言う言葉には、セカンドやサードやましてや列の最後尾の人達は顧みない、と言うニュアンスが滲み出ていると思うのです。リーダーは、口を開いて政策や決定を軽々に口にする前に、子孫幸福と地球環境の永続性による「✔」を必ず入れて貰いたいものです。思いついた事を、日々#ツィートに書きなぐるなど、何をかいわんやでしょう。書いている内に、このブログではご法度としている批判になってしまいそうですが、これはあくまでも単なる「愚痴」ですので・・・。

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2017年6月 6日 (火)

3309 飛行機事故に思う2

墜落した飛行機の残骸の写真を見ると、それが元はジュラルミンという金属で作られていたとは信じられない程ひどくつぶれて山肌にへばりついている様に見えます。航空機は、大型でも小型でも、基本的にはスキン+ストリンガー+フレーム構造を採用しています。スキンとは、胴体や翼の外板をさし、ストリンガーとは長手方向に伸びた細い骨をさします。そして、胴体の断面構造を形作っているのがフレームです。翼では、ストリンガーがスパーと呼ばれたり、フレームをリブと呼んだりするのですが、構造は同じです。

しかし、軽金属であるアルミ(ジュラルミン)作られているとはいえ、しっかりした厚みのある部材を使って作った場合には、重すぎて飛び上がれない機体が出来てしまいます。仕方がないので、部材や外板の厚みを極限まで薄くして、軽く仕上げるしかない訳です。航空機の機体を別のモノに例えるならば、それは張子の虎の様だというしかありません。見かけ上、確かに形は保ってはいますが、手で少し力を入れて握るとクシャリと潰れてしまうのです。残念ながら、今回の事故でも、それが見事に証明されてしまった様なのです。

もう一つの視点は、パイロットや乗員が乗る座席ですが、軽量化のために非常にシンプルに作られています。例えば、激しく墜落した場合に、車の様にエアバッグが膨張したり、座席のクッションが身を守ってくれる事はないのです。座席のシートは薄く、墜落の衝撃で座席が外れて外に放り出される可能性も高いのです。座席の強度は、辛うじて「胴体着陸」程度の衝撃には耐えられる様には設計されている筈ですが、それも航空機の価格次第の部分も大きいでしょう。安い航空機は、エンジンも非力なので、機体構造や座席などの保安装置も簡素にして軽く作られている事でしょう。いずれにしても、今回の事故は、富山空港を飛び立って、すぐ後ろにそびえる立山連峰を超える最短ルートを通った様なので、離陸後はまだ燃料もたっぷり入っているし、フル4人搭乗している、重量MAXの状態で、高山超えに加え、悪天候という最悪の条件が重なった、起こるべくして起こった事故の様に見えてしまいます。ベテランの機長が、何故?の疑問は残りますが、これまでの事故でも真の原因は、乗員が亡くなってしまっている場合は実はよく分からない場合も多く、いわゆる「魔が差してしまった」というしかないのかも知れません。

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2017年6月 5日 (月)

3308 飛行機事故に思う

また、小型飛行機の事故が起こってしまいました。飛行機事故には、もちろん多くの原因が数えられるのでしょう。整備不良や経年劣化による機体構造やエンジン・操縦系統の不具合、パイロットの体調変化、気象条件(気流)の悪化、視界不良、燃料切れ、等などです。大きくは、機体側の不具合と、ヒューマンエラーに分けられそうです。悪天候下の飛行も、もちろん判断ミスなので後者に入ります。今回の事故が何であるにせよ、北アルプスという険しい地形が根本原因になっている事は間違いないでしょう。切り立って、3000mを超えるアルプスの山並み、その谷を吹き抜ける複雑な気流、もちろん視界だって刻々と変わる事でしょう。単なる、平坦な地形の上を飛ぶのとは、全く異なる厳しい条件での飛行とならざるを得ないのです。

その一方で、やれ人が乗れる「乗用ドローン」だとか、車にプロペラと翼を付けた「空飛ぶ自動車」の開発だとかがニュースを賑わしている風潮は、全く腹に入らない話ではあります。車は、道路という平面を走る、いわば2次元の乗り物です。しかし、飛行機は、それに高さという次元が加わる3次元の乗り物であることを忘れてはならないでしょう。それに、気象や地形といった別の次元も加わりるのです。次元が一つ上がる事によって、事故率が2倍程度におさまる訳ではないでしょう。それは、いわば1次元の乗り物である鉄道の事故率と車の事故率を比較してみればすぐ分かります。鉄道事故の殆どは、対車や対人が殆どでしょう。車では、事故率は鉄道の倍などではなく自乗かそれ以上で効いてくる筈なのです。ましてや、3次元ではべき乗ですから、もっと恐ろしい話になるでしょう。

実際には、航空事故の事故がそれほど目立っていないのは、航空安全に関してはうるさいほどのチェックが義務付けられているからです。航空機を作る原材料から、製造工程はもちろん運行、整備に至るまで、隙間の無い様にルール化されているのです。ですので、空を飛ぶ乗り物を、人が乗れるドローンや翼を持つ車などと安易に代替できるなどと考えるべきではないのです。乗用ドローンで、仮にたった1枚のプロペラの羽根が折れただけで浮力のバランスが崩れて墜落してしまうでしょう。整備の悪い車が故障しても路上で止まるだけですが、整備不良の空飛ぶ自動車は簡単に落ちてしまう筈です。もし、それを見越して多重安全策を施せば、それは重すぎて飛び上がれないシロモノになってしまうのです。続きそうです。

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2017年6月 4日 (日)

3307 環境教

このブログを始めた頃、色々な言葉を「発明」しました。もちろん既にある言葉のモジりとか、勝手な略語とか、言葉の組み合わせで作ったものが殆どですが。その中に環境教というものもあったのです。環境人間を志したまでは良かったのですが、では何を拠り所にしていけば良いのかさっぱり分からなかったのでした。そこで、勝手ながら自分で環境教と言う教義を創り出して、前に進もうと考えた訳です。

もちろん、投稿者程度の平凡な頭では、良い知恵など浮かぶ筈もありません。そこで、本を読み漁る事に没頭したのでした。環境とか再エネとか、本のタイトルだけを見て手に取り、片っ端から読んでいったのです。その中で、最も高い頻度で繰り返し出てくる言葉が「持続可能性」だったのでした。もちろん、投稿者としてはこれに飛び付き、教義のだ一番目に据えました。

とは言いながら、持続可能性とはいかにも抽象的な言葉ではありました。更に、教義を考える中でぶつかったのは、ネイティブアメリカンの教えでした。それは、意味としては「決断しなければならない事が出来た場合には、7世代後の子孫の幸福を優先せよ」と言うものでした。つまり、過去の「凡例」に捉われがちな、頭でっかちの現代人に対して、7世代後のまだ見ぬ子孫を優先させた決議を求めている教えなのです。B国やこの国でも、○○ファーストと言う言葉が流行っている様ですが、もちろんこれは現世代を優先すると言う視野の狭い考え方の最たる例でしょう。

政策にせよ、企業判断にせよ、あるいは個人の日々の決め事にせよ、変らない事に価値を見出し、まだ見ぬ子孫の幸福を望んでいれば、自ずと方向は定まる筈なのです。投稿者としては、これにもう一つ付け加えました。それは「不便を楽しむ」と言うものです。便利な生活は、とかく資源やエネルギーの浪費につながるものだからです。自分の体を動かして働きかけを行えば、体は健康になり、資源やエネルギーを節約する事につながるでしょう。便利な生活をそのままにして、再エネで必要な電力を賄えば良い、とする現代の「環境政策もどき」には、したがって賛同していません。自分の教義にモトルからです。

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2017年6月 3日 (土)

3306 世界最大の航空機

B国で、世界最大の航空機がロールアウトした様です。大まかにいえば、エンジンの数からみてB747の1.5倍ほどのスケールの航空機と言えるでしょうか。胴体は2つに分かれていて、その間にペイロードとなるロケットをぶら下げるのだとか。200トンを超えるペイロードを運べるこの航空機で、到達可能な最高高度からロケットを発射すれば、たぶん1段目の巨大なブースターロケットが節約できるのでしょう。

確かに、資源が節約できて、たぶん今よりより大きな衛星の打ち上げも可能となるのでしょう。しかし、考えてみなければならないのは、ここでも入口からの「押し込み」しか考えていないという片手落ちです。何しろ今や、宇宙空間(と言っても数百キロから36千キロの静止軌道までの狭い空間ですが)には、数え切れないほどの数の衛星と衛星の残骸が、秒速数キロの猛スピードでブン回っているのです。その多くは、冷戦時代の遺物の小型原子炉を積んでいる軍事衛星で、しかも軍事機密のベールに包まれているので、その存在すら公にされてはいません。

これ以上衛星を打ち上げて、一体何に使おうというのでしょうか。通信?、観測?軍事偵察、そんなものは現状でも十分なレベルでしょう。その前に、用済みとなってしまった衛星の残骸(宇宙ゴミ)を放置したままで良いと考えているのでしょうか。ここでも、原発と同じ経済エゴがニヤけた顔を出してきます。つまり、原発の建設コストには廃炉費用は含まれてはいませんし、衛星の打ち上げコストには用済み後の回収コストなど全く考慮されてはいないのです。宇宙に浮かぶ数トンの観測衛星を、上手くキャッチし、安全に大気圏に再突入させて燃え尽きさせるには、たぶん衛星の打ち上げと同等のコストが発生するはずなのです。

私たちは、経済エゴの暴走をこれ以上許すべきではないのです。入口を作ったのなら、それと同じサイズの「出口」を準備しなければならないです。世界最大のランチャー航空機を作るのであれば、第二第三のスペースシャトルを建造して、用済みの衛星回収ビジネスを始める必要があるでしょう。もちろん、今の社会ではそんな(儲からない)ビジネスにお金を出す奇特な国や企業は現れないでしょうから、投稿者の儚い夢想に過ぎませんが・・・。以上、世界最大の航空機からの連想でした。

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2017年6月 2日 (金)

3305 最先端産業4

ついでなので、biomimiclycatalizerに加えもう一つくらい最先端産業のK/Wを考えておきましょう。それは、高いレベルの「持続可能性」だと言っておきましょう。完全な持続可能性とは、人が何か行動を起こしたり活動したりしても、環境のファクターを1ポイントも変えない事を意味します。例えば、人が呼吸すれば呼気の中のCO2は僅かに増加しますが、それは生き物の代謝なので、無視するとしましょう。しかし、車のエンジンを掛けるという行動は、それを運転する人の基礎代謝に比べ、何桁も多くのCO2やNOxや排熱や浮遊粉塵を排出するでしょう。

それに比べて、自転車を転がす場合は、呼吸が少し荒くなるくらいで、環境に与える負荷は無視できるでしょう。つまり、上記のK/Wの観点では、自転車産業こそ最先端だとも言えるのです。事実、自転車は1800年代初頭に発明されて以来、着実にその技術レベルを上げ続け、競輪やロードレースで使われるレベルの自転車には、現在でも最高峰の技術が注ぎ込まれてもいるではありませんか。そのレベルは優に航空機に使われる技術をを凌駕している筈なのです。人間が持続的に出力できる小さな馬力を、最大限に活用するためには、日常使われる自転車には、もっともっと、最先端の技術を盛り込む必然性あるし、その余地も残っているのです。

つまり、持続可能性と言うK/Wを持ち込む事によって、従来型のありふれた産業を、最先端に持ち上げる可能性が開けると言うことにもなるでしょう。投稿者としては、製鉄産業、工作機械産業、車産業、造船、建設業、流通業、農林業からサービス業に至るまで、もう一度このK/Wを視点に据えてチェックしてみれば、新たな展開も見えてくると確信しているのです。一旦この表題の稿を終えます。

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2017年6月 1日 (木)

3304 最先端産業3

この表題を更に掘り下げてみます。例えば、車産業の世界では、いまやHVPHVは当たり前で、最先端はEVFCV、自動運転などでしょうか。中でも、燃料電池を搭載したFCVは、次世代の車として日夜研究が進められていると想像しています。しかし、解決されていないのは、水素をどの様にして手に入れるかと言う根本課題です。石油や天然ガスの改質で作るのであれば、結局分離されて不要となったCO2が大気に放出される訳ですから、直接燃やすのと実質的には変らないでしょう。排気管から直接出るか、工場の煙突から出るかの違いだけです。他方、EVにしたって、エネルギー源が火力発電所や原発である限りにおいては、FCVの問題と何ら差はありません。

結論から言えば、最先端産業であり続けるためのもう一つのK/Wは、触媒だと断言しても良さそうです。ここでの触媒とは、太陽光だけをエネルギー源にして、水を酸素と水素に分離する機能を持つものを指します。既に、光触媒の代表選手でもある「酸化チタン」がその候補となって長いのですが、如何せん効率が数%しか達成できなかったので、経済的に実用化に至っておりませんでした。最近、酸化チタンと他の複数の触媒との併せ技で効率をかなり向上させる事に成功したとの報道があり、「やれば出来るじゃん」と言う感想を持った次第です。触媒の歴史は、結構トライ&エラーの世界ではなかったかと振り返っています。反応を起こしたり、分解するのに触媒が有効なのは、その際のエネルギー準位のハードルを下げる役割があるからですが、一つの触媒だけで少ししか下がらなくとも、複数用いて多段階に下げる事で、これまでできなかった反応を実現したり、効率をアップさせたり出来るのでしょう。

いまどきは、試験にもロボットが使えるので、種々の触媒を混ぜたり、それを溶液に入れて反応を促進させたりする実験も、かなりの程度は自動化も出来るでしょう。また触媒には、溶液で作用するものと、気中で(あるいは相を問わずに)作用するものなどがあり、組み合わせは事実上無限だと言えます。もちろん、現在の技術では、触媒の分子構造のどの部分が「効く」のかが判明しているものも多く、新たな触媒をデザインして創出する事も部分的には可能になってもいるでしょう。繰り返しますが、最先端の別のK/Wは「触媒の探索」だと言っておきます。

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2017年5月31日 (水)

3303 最先端産業2

どの様な技術を磨けば、最先端産業のなるのかをもう少し掘り下げて考えてみます。先ずは軽量化技術です。航空機で多用される複合材ですが、何が「複合」かと言えば、それはカーボン繊維とエポキシ樹脂の融合なのです。繊維は引っ張り強度を受け持つ一方、圧縮に強い樹脂は剛性を保つのに力を発揮します。しかし、厚みの必要な構造の場合、複合材だけではまだ重いので、複合材を皮として「アンコ」の部分には、更に軽量で剛性アップに効果的な、コア材(例えばハニカムコアや発泡材であるロハセルコアなどです)を入れるのです。もちろん、樹脂にはPPPE等の量産品で安価な材料も存在はしますが、残念ながら現在のところエポキシ樹脂に勝る耐圧縮性に勝る、あるいは安価な樹脂が開発されていないのです。

つまり、複合材の分野でも。カーボン繊維の様に電気を通さず(CFRPには雷が落ちて燃えます)、しかも強度が高い繊維や、エポキシ樹脂に変る高い圧縮強度の樹脂やさらには、もっと軽量で歪に耐えるコア材が開発できれば、もう一段の軽量化技術を磨くことも十分可能なのです。繊維屋さんや樹脂屋さんにはもう一段のブラッシュアップを期待したいものです。

軽量化に関してもう少し話を広げれば、軽量化設計技術があります。航空機には、離着陸時や飛行時に種々の荷重が掛かります。例えば主翼の付け根には、駐機時には翼の内部にたっぷり入れられている燃料の重みが掛かりますが、飛行時には翼面の浮力でそれがキャンセルされて、逆に胴体の重みで逆向きの大きな荷重が作用するのです。それは、駐機時にはダランと下がっている翼が、飛行時には逆に上側にはね上がっている事でも分かります。また、翼は重いエンジンをぶら下げる強度も必要で、飛行中は気流や操縦によりねじりや振動する力も掛かるのです。それらの荷重に抵抗するために、翼の中には多数の骨材やリブ(肋骨)が配置されていますが、それを最適に配置し、しかし最軽量に納めるのは、コンピュータに支援された「設計技術」である訳です。荷重が入る場所に、適正な「必要かつ十分」の骨を入れ、外側を強靭な皮膚である新複合材で包めば、最強の構造となるでしょう。その際参考にすべきは、自然界の造形でしょう。タンパク質やカルシウムと言ったありふれた素材だけ出来上がっていて、何千キロも海を越えて移動する渡り鳥の羽根の構造には、いまどきの最先端技術なんかはチャンちゃらおかしい程の「秘密」が隠されている筈なのです。最先端のK/Wの一つは、間違いなく生物に学ぶbiomimiclyです。飛行の事は鳥に聞け・・・。

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2017年5月30日 (火)

3302 最先端産業? 

モノ造り産業で最先端と言えば、何故か「航空宇宙産業」と言う声が上がります。事実、元々その産業が集積している中部地域以外の複数の地方でも、この分野に参入しようと、勉強会やコンソーシアムの立ち上げが盛んな様ではあります。前職でもあり、昔取った杵柄でありませんが、投稿者のつたない航空機産業での経験談を講義をする機会も多いのですが、実はあまり乗り気ではありません。仕事なので、頼まれれば出かけますが、航空機産業には常に「最先端産業」と言う枕詞が乗っけられる事には違和感しかないのです。

航空機産業は、前の大戦での敗戦で、進駐軍により完全に葬り去られた筈でした。しかし、朝鮮戦争で多数投じられた米軍軍用機のメンテナンスは、前線に一番近い日本で行わざるを得ない事情もあり、背に腹は代えられない米国は、産業の復活を許したのでした。当然の事ながら、日本軍の軍用機は高い破壊されたり、少数は没収されたりして一掃されましたが、流石にエンジニアの頭に残った航空機工学の知識や軍用機を作った技能者のワザまでは消される事無く引き継がれたので、それがやがて戦後初の国産旅客機であるYS-11として結実したのでした。

そのプロジェクトで、技術としては成功しながら、ビジネスとしての失敗を経験した日本は、その後何度かのチャンスがありながら、結局MRJの開発までは、航空機産業としては、ひたすらB国の下請けに甘んじてきたのでした。

一方で、航空機素材としてのカーボン繊維やそれを使ったCFRP技術においては一定のシェアを確保して、基盤を作った事は事実でしょう。CFRPは、航空機の軽量化を図りながら、しかし高剛性を保つには、現段階では最良の素材なので、軽い事が命である航空機には不可欠の材料だからです。しかし、軽くて剛性が髙い材料を使う事が最先端技術なのではなく、構造として極限まで安全率をそぎ落とした設計技術こそがキモだと言えるのです。しかし、それなら、何も航空機に限った話ではない筈です。例えば、今の車の安全性や快適性を損なわないで、車重を半分に出来る技術があれば、大雑把に言えば今の燃費を倍に改善できる可能性もあるのです。今は、30/ℓ代の後半で業界最高燃費と言い張っている性能ですが、一気に50/ℓを大幅に上回る可能性がある事を意味します。燃料消費を半分にする技術では、2030年のCO2削減目標も簡単にクリアできるでしょうし、そのための新たな産業を起こす必要も出てくる訳です。

開発に苦労して、最初から負け戦覚悟の新型国産旅客機プロジェクトではなく、今得意分野の一つとなっている車技術を、最先端にピカピカに磨くのもアプローチとして有効でしょう。つまり最先端技術とは、どの分野でも磨く事が可能だと言いたいのです。

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2017年5月28日 (日)

3301 自然資本会計2

自然資本会計と似ているものに「環境会計」と言う概念がありますが、両者は多分異なる分野の専門家が定義したのでしょうが、重なる部分が非常に多いと言えるでしょう。つまり、自然資本会計が、水や空気や動植物や地下資源といった自然資本の消費に着目しているのに比べ、環境会計は、自然資本の消費の結果、環境ファクターつまりは気象や自然環境の変化に着目しているという違いだけの様に思うのです。言い換えれば、原因としての資源の消費に着目するのか、あるいは結果としての環境現象に着目するのかの違いだと言えそうです。

もちろん、前者の方が原因に直接アクセスする考え方なので、望ましいとも言えるのですが、果たしてそれが適切かどうかはもう少し議論する必要がありそうです。投稿者の立場は、兎に角あらゆる資源の消費を、今すぐシュリンクさせる必要がある、と言うものです。自然資本(資源)は、その採掘や輸送、精製から流通・消費は勿論、その廃棄処理に至るまで、多大な環境負荷を発生させるものだからです。実例として、石油1リットルの消費は、2.3㎏程のCO2を発生しますが、その採掘から実際に燃やされるまでの過程では、たぶんその数倍のCO2負荷を発生させていると推定されます。

自然資本会計であっても、環境会計であっても、同じ行動を異なる側面で眺めているだけなので、どちらが正しく、どちらが間違っているという訳でもありませんが、必要なのは先ずは今日使う筈だった石油(ガソリン)1リットルを、どうにか工夫して節約する行動を始める事だと思うです。先ずは、屋根に太陽熱温水器を上げて、夕方風呂に入るために燃やす筈だった灯油やガスを節約するのも良いでしょうし、今日車で出かける筈だった用事を、明後日の別の用事のついでにまとめて済ます、といった日常の工夫を重ねて、資源を節約し環境負荷を下げるのです。学者先生は、確かに色々な定義をし、学問に仕立て上げる訳ですが、必要なのは「実際の行動」である事には変わりはないのです。

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2017年5月27日 (土)

3300 自然資本会計

あまり聞き慣れない言葉ではあります。正確な定義はさておき、投稿者が理解している範囲では、それは、企業活動が自然資本(水や空気や土地や動植物や地下資源など)に与える負荷や、依存度を評価しながら経営する事を指す、といったものになるでしょうか。具体的な経営手法は、「自然資本プロトコル」で規定される様ですが、もっと単純にその手法に近づける考え方もありそうです。

それは、「持続可能性」で評価する方法です。あるメーカーで現状の工程と、自然資本会計を考慮した工程を考えたとして、どちらが100年後の環境を考えた場合に、持続可能性が髙いかを比較してみれば良いのです。もちろん最善の方法も考えられるのでしょうが、取り敢えずは「比較法」でチェックして前に進めば良いのです。より自然資本の持続可能性の高い工程を選び取って改善を進めて行けば、自然に望ましい方向に近づく筈なのです。

もちろん会計ですから、自然資本の食い潰しが年々小さくなる様な棚卸と見直しは欠かせません。ですので、少なくとも棚卸の手法は確立しておく必要があるのは当然です。企業活動全体の棚卸が難しいのであれば、取り敢えずは自然資本への負荷が大きいと推定される、いくつかの指標に限定しても良いでしょう。製造業の場合は、意外にも調達している原材料の負荷が大きいのです。同様に、加工するためのエネルギーが、もし再生可能型エネルギーを使わない場合は、化石燃料を消費する訳で、自然資本の食い潰しが大きいでしょう。意外に見えにくいのは、物流に要する負荷でしょうか。不必要に冗長な物流ルートは、徒に環境負荷を増長させる事につながるものだからです。続きます。

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2017年5月26日 (金)

3299 植物油エンジン:SVO時代?

SVOとは、Straight Vesitable Oilの頭文字です。文字通りに訳せば、生の植物油です。これは、バイオディーゼルオイル(BDF)に対応するもので、メチルエステル化など処理の処理を施さない、絞ったままの植物油を燃料を燃やせるエンジンが必要です。昨日のニュースで、Yンマー社が、25kw程度の出力を持つBDF発電機に、オプションとしてSVOが使えるタンクを追加したという報道がありました。価格は1,500万円程になる様です。1kw当たり60万円と言う勘定です。

しかし、そのオプションの中身を推定すれば、タンクと燃料配管に加温装置を追加しただけだと思われます。実際、アメリカではディーゼル車用のSVO改造キットなるものが販売されていますが、ネット通販で100ドル程度で他に入るものなのです。その中身はと言えば、温度コントロールが出来る様になっている燃料配管を加熱する電気ヒーターだけなのです。これで、エンジンに送られる植物油(コーン油など)を150℃程度に加熱してやれば、油の粘度が下がり、ノーマルのディーゼルエンジンでも問題なく着火するのです。

通常車のエンジンは、100kw前後ありますから、上記の1500万円の発電機の替わりに、中古の車用エンジンとSVOキットと適当な発電機を入手すれば、たぶん上記の1/10程度の価格で、出力4倍程度の発電機が入手できる事になります。つまり、kw当たりの単価を1/40程度に下げる事が可能なのです。何が言いたいかと言えば、結局大メーカーが乗り出すと、この手のシステムの価格は、軽く1桁は上昇してしまうと言う事実なのです。中小企業の生き残る道は、取り敢えずSVOの様にチャレンジングな分野にも踏み込み、大手ではとても真似出来ない価格でシステム提供を可能にする事だと思うのです。車にSVOを適用しようとすれば、山の様な規制に阻まれるのでしょうが、陸上用の発電機で、もし系統連系を考えないのであれば(オフグリッドであれば)、何をしても許されるでしょう。工場で大きな電力を消費する設備を切り離して独立させ、SVOの自家発電機で電力を賄えば、契約電力も大幅に引き下げられ、電力コストも低減できる筈なのです。もちろん、燃料は近くの外食産業や給食センターから出る廃食用油を貰ってくるのです。少し高級なフィルターで濾せば、そのまま燃料にする事が可能でしょう。

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2017年5月25日 (木)

3298 My strory

ラジオから流れてきた、「人は、自分の物語を作りながら成長し生きていく」と言うコメントに強く賛同しました。確かに、生まれてから物心がつくまでの幼少期の物語は、親や周囲から繰り返し聞かされて物語が出来るでしょうし、学校を出てから社会人となって、世の中を泳いできた物語は、それらを甘く、又は苦く、あるいは切なく思い返す事によって、自分の物語は補強されていく事になるのでしょう。

人は自分史を書いてみたいという潜在的な願望がある様に思います。波乱万丈の人生を歩んできた人で、もしその人に文才があれば、きっとワクワクする様な自伝が書けるのでしょうが、凡人で文才も無い投稿者の様な人間は、読む人も少ないブログでも書き連ねていくのが精々かも知れません。しかし、自分の様なささやかな人生であっても思い返してみると、結構色んなイベントがあり、分岐点があった様な気がします。ブログに書きたい事が無くなってきたら、それらの思い出の物語を少しずつ書いていくかも知れません。ボケない内に。

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2017年5月24日 (水)

3297 安全の品質2

安全の品質に関して、もう少し具体的に考えてみます。安全の品質に関しては、確かに公的機関が存在しています。言わゆるSマーク、STマーク、PSEマークあるいは食品で言えばJASマークなどが思い浮かびます。しかしながら、これらは適用される製品なり、業界が限定されたものであり、万能のマークは存在していません。業界基準がそのままスライドしてそれをお国が追認した様な規格も少なくないでしょう。

それらの公的安全規格やマークはそれとして、ではそれを満足していれば、全てOKなのか、と問われれば、それはそうではないでしょう。品質管理には、素材や工程のバラつきやヒューマンエラーと言った予期しないリスクも内在しているからです。どれかが、管理の幅いっぱいに振れ、それを瞬間的に逸脱したとしても、通常の品質管理ではなかなか発見できない可能性が髙いのです。例えば、食品工場で、何らかの原因で製品中の雑菌の数が、一時的に増加したとしても、ロットサンプリングに引っかかるとは限りません。何故なら、全数検査は「コスト的」に引き合わないため、最初から除外して工程が組まれているからです。そのサンプリングの「最低ライン」は確かにJASに既定されているのでしょうが、誰もその基準を超えた頻度でサンプリングを行う筈はありません。コストが許さないのです。

ではどうするのが、より高い安全の品質につながるのでしょうか。それには、不断のリスク管理の見直ししか近道は見つからないと思うのです。具体的に食品工場の例で言えば、例えば工程に雑菌が入るのは、原料そのものの汚染、洗浄殺菌工程の設備の汚染、殺菌薬品の濃度や温度低下、作業員からの飛沫、空気中のカビなどの胞子濃度増加など等、ざっと素人が考えるだけでもこのくらいは思い当ります。設備や建屋が古くなれば、逆にリスク管理のレベルは上げなければならないでしょう。それを、何の疑問も持たずに、十年一日の如き安全管理を続けて行けば、間違いなく品質事故を起こしてしまう結果に陥るのです。必要な行動は、日頃からのリスクポイントの把握と、管理手法の見直しなのです。それが、日常的にコスト管理に追われている企業でどの程度行われているかは甚だ疑問と言わざるを得ません。

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2017年5月23日 (火)

3296 安全の品質

経済性やコストパフォーマンスを追及すればするほど安全性は犠牲になってしまうという「逆比例」の関係にあることは認めなければならないでしょう。科学・技術の世界では、経済性を追求する中では、結局「安全率(Safety factor)」を減ずるしか有効な方法は見つからないからです。例えば、安全率を2.0程度まで高めた設計をした場合、旅客機は飛び上がるのがやっとで、乗客は殆ど乗せることが出来ないというシロモノが出来上がってしまうでしょう。安全率を、部位によって1.2程度まで削って、更に全体的な安全率のバランスを調整して、やっと乗客を載せられる「ペイロード」が確保できる事になります。

車も同じで、ハード面や事故を起こした時の安全性を考慮すれば、たぶん「戦車の様な車」になってしまう筈です。それ対して。コストと安全性の妥協をドンドン進めて、今ある様な薄い鉄板をスポット溶接で組立てる「モノコック構造」に至ったのでしょう。車の安全率については、専門家でもないので承知していませんが、鉄板の腐食や道路からの振動なども考慮して、それなりに髙く設定されていると想像しています。

しかし、問題になるのは、設計段階の強度余裕ではありません。製品を作る生産体制というか企業体質(あるいは企業文化)こそその核心だと思うのです。最近のニュースでも、企業の不良隠しが何件か報じられていますが、隠さずに公表されたリコール案件でさえ、実際の発表までは葛藤があった筈なのです。リコールの公表は、企業にとっては利益を減ずる大きな原因になり得ますし、大きなリコール公表は時に企業存続を脅かす問題にも拡大する惧れさえあるからです。そう考えれば、安全は、製品の品質と同様に企業文化の中で育む「品質」の一部であると言わざるを得ないでしょう。ポイントは、経営層やセールス部門、あるいはファイナンス部門の圧力に負けずに、企業活動の各関門で必要なチェックを重ねながら製品を作る事に尽きるでしょう。安全品質を無視したイケイケドンドンの企業体質が、これまでどれだけの企業を潰してしまったか思い出せば、それは自明なのです。やや抽象的になりましたので続きます。

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2017年5月22日 (月)

3295 将来への不信

いま、私たちの時代を覆っている空気は、間違いなく将来への不信感(あるいは不安感)ではないかと感じています。今60代の投稿者が若かった時代、社会を覆っていたのは、ほぼ「将来への期待」だけだった、と振り返っています。つまり、今は給料が安くて、欲しいものも買えないが、来年には大幅に給料もアップするし、ローンを組めば車にだって手が届くし、ドンドン値上がりする土地価格を考えれば、無理して家を買うのも賢い投資だ、などと普通のサラリーマンも希望に胸を膨らませていたものでした。実際にも、給料袋はみるみる厚くなり、同時に不動産や物価も負けじと高騰したのでした。その頃、官僚出身であった(決して二世政治家ではありません)お国のリーダーは、「所得倍増計画」なるものを打ち出しましたが、その後の10年で、そのホラは実現してしまったのでした。

しかし、その後失われた20数年を経験してしまい、この国の自身はすっかり萎んでしまい、かつての希望は、諦観あるいは絶望にとって代わられてしまった様な気がしています。その背景としては、いくつか考えられるのですが、背景というか時代の空気として、20世紀後半の「経済爆発」のエネルギーであった石油資源の半分を既に使い切ってしまったという暗然とした不安と、先進国では少し前から「人口減少局面」に入ってしまったという不安感がないまぜになっている様な気がするのです。少し余分にエネルギーを使おうとすると、直ちに「温暖化防止」のブレーキが掛かりますし、良い製品を開発したとしても、それが爆発的に売れることなど夢にも実現しないのです。何しろ、人が減りつつあるのに、モノは余っているからです。

それもこれも、結局は進歩のオーバーシュート(行き過ぎ)でないかと投稿者はみているのです。進歩のスピードが速すぎると、それについていけない人々は、間違いなくストレスや不安を感ずるでしょう。更に時代がスピードアップすると、最早それについて行こうとする努力さえ諦め、膝を抱えて座り込むのです。交通事故が2万人以上の犠牲者を出していた時代「狭い日本、そんなに急いで何処へ行く」と言う標語があった様な気がしますが、今まさに時代進歩のスピード違反に対して、同じ警鐘を鳴らしたいと思うのです。もっと、将来の青写真を明確にしてから、ゆっくり前に進みましょう、というのがここでの提案です。そうすれば、将来への視界がもう少し良くなると思うからです。

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2017年5月21日 (日)

3294 〇際問題

最近〇際と言う言葉が気になります。例えば、国際、学際、業際と言った言葉です。「際」には、何か境界と言った響きがありますので、国際と言っても、あくまでも境界(国境)を前提とした言葉ではある訳です。ヨーロッパでは、事実上国境を廃止すると言う「実験」が続いては居ますが、それとて「EU」と言う地域とそれ以外の地域との際が問題となって、ゴタゴタが絶える事はない状況です。つまり、〇際という言葉には常に「問題」と言う修飾語が後ろに付いていると考えねばならないでしょう。つまり、国際と言う言葉は常に国際問題を抱えている訳です。国際交流や国際交渉と言った言葉も、それらの諸問題を解決しようとする試みに過ぎないということでしょう。

さて、学際です。学問の世界でも、○○学と言ったそれぞれの象牙の塔に明確な境界線を引き、○○学者や専門家といったカテゴリーに属する事を是としてきたと振り返っています。では学際問題とは何かですが、それは「タコツボ現象」と言う言葉に集約できそうです。あるいは、「お山の大将現象」と言っても良いかも知れません。自分が活動するテリトリーでは専門家ではあっても、タコツボの外や他のお山の状態は与り知らないといった状況を指します。その結果起こる事は、言わゆる専門バカという困った状況です。ある出来事は、森羅万象の中でこそ正確に把握できるのに、専門領域の中で議論すると思いもよらない「偏見」に陥ってしまう事も多いのです。例えば乗り物(車や航空機など)の事故を、ハード面からだけ議論するのは問題の本質を大きく外します。事故は、その乗り物を操縦する運転者の真理面や健康状態、あるいは交通インフラとの関連、天候や運転席の環境などまで関連する筈だからです。つまり、真の事故原因は「学際的」に追求しなければ、全容は掴めないと思うのです。

では業際問題はどうでしょう。これこそ、今最重要課題として据えるべきテーマだと思っています。製品は、特にコンシューマープロダクトは、単に機能だけ満足すればそれで良しとするものではない筈です。消費者が手に取る製品であれば、見た目のデザインや細部の出来栄え、あるいは手触りと言った「官能的要素」、長年使っても飽きの来ない使い勝手の良さ、更に言えば所有し使うことの満足感などを総合した指数で評価されるべきでしょう。つまり、モノの製造は単に優秀な技術者集団が居れば済むといった単純なものではないのでしょう。形状デザイナー、消費者心理に明るい人材、いまどきのIoTの専門家、素材の専門家、環境負荷の専門家、更に言えばそれを総合的にコントロールするプロデューサーを忘れてはならないでしょう。この国の製品は確かに機能は優れてはいるのでしょうが、決定的に足りないものは学際、業際への考慮だと思っています。

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2017年5月20日 (土)

3293 問題発見力3

自分自身の反省を含めて、技術者の問題発見力についてさらに考えてみます。技術者とは、科学的知見を利用して、社会の課題を解決するモノやシステムを提供する人々だと定義しても良いでしょう。彼らは、一つの課題が与えられると、それを満たすための最良の解を出そうと、過去の知見や技術を組み合わせたり、全く新しい技術を開発したりしながら必死に努力します。通常企業は、利益を出すためのビジネスプランを立てて、それを達成するためのプロジェクトを立ち上げます。もちろん、期間がいくら長引いても、あるいは開発費が膨らんでも、それが許される訳ではありません。どちらにも厳しい「制約条件」が課せられるのが通常でしょう。

しかし、もし一技術者にこの国の、社会の、あるいは企業の置かれた課題や問題点は何か、と問うたとしても返ってくるのは???でしょう。彼らは、課題を上から与えられる事に慣れ過ぎて、問題を掘り起こす訓練を怠ってきた結果、いつの間にかそれが不得手になっているのです。それは、技術者が起業する例が、非常に稀である事でも明らかでしょう。統計を見た訳ではありませんが、この国では起業家の多くは、いわゆる文系出身者である事が多いのです。それは、技術者は科学技術の事だけ学んでおけば良い、と言う左右を眺める事を良しとしないいわゆる「競馬馬教育」に問題があった様に思うのです。

それは、中学校を卒業してから5年間に亘って、連続しての工学教育を施す学校を卒業した投稿者故の感想という訳ではなく、その10倍の数に上る大学工学部のOBにも当てはまると思うのです。小難しい理論や公式や演習問題がぎっしりと書かれた分厚い教科書と格闘し、苦労して及第点を取って学校を出ても、先ずは簡単な部品の設計と言う課題を与えられてエンジニアとしてのキャリアを始めるだろう多くの技術者には、問題発見力が極端に不足するだろうことは明白です。そうではなくて、良い技術者を育てるためには、先ず彼・彼女をアフターサービス等広く顧客や社会に触れる機会の多い部門に放り込むべきでしょう。そこでは、顧客のニーズや自社製品の弱点や、今後開発すべき製品のイメージを膨らますことが出来る筈です。その上で、現場でモノ造りの基礎を学んだ上で、やっと本格的な製品開発や設計が出来るエンジニアになってくれる事でしょう。

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2017年5月19日 (金)

3292 問題発見力2

現実の問題として、政治家や企業リーダーの問題発見力について考えてみましょう。リーダーたるものは、彼らを選んだ人達、あるいは(成り行きか順番で)なるべくしてなったとしても、国や自治体や企業の有権者や組織の構成員に対しての一定の責任が生じます。その責任とは、国や企業に、より正しかろうと思われる方向を指し示し、活動をリードする責任だと言えるでしょう。もちろん、国であれば経済運営や安全保障や外交の持続性の保証があり、企業では利益を上げて株主や従業員の生活を確保する責任もあるでしょう。

しかし、それもこれもリーダーについてくる人達をより正しかろう方向に導く、強い引率力が備わっていてのことなのです。引率力を指導力と言い直しても良いのでしょうが、いずれにしても国や社会や企業システムを上手く導くためには、常に生じている大小の問題を的確に把握し、それらに正しい優先順位を振った上で、より正しかろう解決策を打ち出していく責務が、リーダー(達)には課せられるのです。

国会や企業運営のジグザグぶりでも明らかですが、この国の政治家や企業経営者一般に欠けているのは、明らかに問題の核心を把握する能力ですが、同時に問題解決のためのプライオリティを付けたり、解決の期限を切る能力にも大きく欠けている様に見えてしまうのです。問題の解決など面倒な事は出来るだけ「先送り」し、そして問題解決に行き詰まると、引責辞任と言う名の「無責任辞任」をして、尻拭いをあっさりと後継者に押し付けてしまうのが、この国の政治家と企業経営者の歴史だったと振り返っています。いわゆる、政治の世界の椅子取りゲームあるいは回転ドアと呼ばれる交代劇や、幾度となく繰り返される企業経営者の謝罪会見の映像を思い浮かべれば十分でしょう。この国の政治史や産業史を少し眺めれば、問題は瞭然なのです。

問題発見のためには、物事の本質を見極める能力が必須である事は当然です。そのために最適な方法は、たぶん物事を多面的に観察する力だと見ています。リーダーこそ、浅くとも良いので、森羅万象に興味を持ち、広い知識を身に付けている必要がある筈なのです。例えば、国や企業の経済危機を単に「ファイナンシャル問題」に「還元」してしまうのは簡単な話でしょう。財源を確保するために、増税や不採算部門の切り捨て、つまりは選択と集中と言う殺し文句です、それで一時は光が見えるかも知れません。しかし、問題の本質はそこにあるのではなく、国で言えば少子・高齢化による社会の成熟(から老化?)への移行問題であり、企業で言えば現状分析不足と長期戦略の欠落だった筈なのです。更に続きます。

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2017年5月18日 (木)

3291 問題発見力

この国の技術者(に限らず国民全般)に欠けているものを考えると、やはり問題発見力だと言うしかありません。それもこれも、結局この国の教育に中身に起因すると断ぜざるを得ません。この国の教育は、大学教育ですらTeaching/Learning Systemに染まっているとしか言えません。つまり、教師や講義者が一方的に授業を進め、生徒・学生はただ聞いて、ノートに取ると言ったスタイルが殆どなのです。そもそも「授業」と言う言葉がダメな根源です。先生が、生徒に知識を「授ける」と言っているのですから何をかいわんやでしょう。生徒は、先生を絶対に超えられないのです。

学問は、生徒・学生が自ら志して学び取るものであって、決して一方的に授けるものではないでしょう。望ましい教育とは、本来Education/Study Systemでなければならないとおもうのです。これは、教育者側は、生徒・学生の学ぼうとする意欲を掻き立て、学ぶ側も受け身の姿勢から一歩踏み出して「学び取り」に行くアプローチを指すのです。

では、どうやれば後者が可能となるかですが、そこで必要なのが「問題発見力」だと思うのです。人は問題にぶち当たると、それをどうにか解決しようと努力する存在でしょう。そもそも、問題意識も無しに、何かアイデアや提案などがポロリと生まれる筈もありません。必要が母となって発明が生まれる様に、社会的問題(課題)を特定して、初めて社会をより良くしようとする力も動き出すのです。若く可塑性が髙い学生の内に、この問題発見力を磨き、自分の身の周りに、あるいは社会システムに在る、大小の問題を嗅ぎ分けて、それを特定する能力を磨く必要があると思うです。

もちろん、そのためには授業のスタイルも一新する必要があるでしょう。教育者側は、現実の問題やそれを示唆する様なテーマを提示し、学ぶ側に徹底して議論させ、問題とすべき事を特定する能力を磨かせるべきです。その上で、その問題を解く議論もさせる事になります。もちろん、出た結論を否定や批判してはなりません。もし、明らかに間違っているとしても、それを気付かせる別の問題を提起して、議論を元のレールに戻すのは教育する側のテクニックになるでしょう。悩ましいのは、教育者がより確からしい知識や価値観を持ち合わせていない場合には、これらの問題発見力や解決のための議論をミスリードしてしまう事にもなってしまうので、彼らの責任が増してくる事です。長くなりそうなので続きとします

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2017年5月15日 (月)

3290 ピンチはチャンス

3289でも書いた様に、全てのピンチは裏を返せば事態改善のチャンスだと言えるでしょう。例を挙げましょう。例えば、過去の大地震は、間違いなくこの国の建築基準を引き上げ、地震に強いビルや住宅の増加に寄与した事でしょう。また、多くの交通事故も車の安全基準を大きく引き上げたのです。

さて原発です。あの過酷な原発事故は、この国に何をもたらしたでしょうか。確かに安全基準は引き上げられたかに見えますが、もちろんそれらは原子炉自体の構造改善に及ぶものではありません。ベントフィルターなどの付帯設備の追加や地震・津波対策で建物補強や非常用発電機を高い場所に移す、といった「小手先」の改善に過ぎません。そうでなくて、あの過酷事故でこの国は、脱原発に向けて、再エネ・新エネの優等生になるべく運命づけられたのだ、と考えるべきなのです。然るにです、今の政権は原発再稼働を推し進め、それに飽きたらず原発の輸出さえ進めようとしているではありませんか。何をかいわんやです。このピンチにやるべき事は山積でしょう。汚染水処理の効率的な方法の開発、放射性デブリの搬出ロボットの開発、廃炉技術の開発、それよりなにより放射能を弱め、無害化する技術は放射性廃棄物の処理問題でも待望される筈です。

臭いものに早く蓋をしたい輩は、国際的緊張やテロの危機を煽りながら、憲法問題や自衛力の増強問題に、問題をすり替えようと躍起になっている様に見えます。ピンチとそこから派生する問題に蓋をしたまま放置を続けると、当然の事ながら問題は拡大し続ける結果になる事は必定です。そうでなくて、いま為すべき事は諸問題の本質を見据えて、それらに優先順位をふる事でしょう。その上で、ダラダラ国会に終止符を打って、専門家を交えたボードを必要な数だけ立ち上げるのです。人材を集めて知恵を絞れば、どんな問題もチャンスに変える何かしらのアイデアが出る筈なのです。

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2017年5月14日 (日)

3289 2020年問題

この国の当面の課題は、2020年のオリパラを成功裏に開催する事だけ?の様に見えますが、環境問題に関心のある人ならば、別の2020年問題も気にかかる筈なのです。2020年には、実は先進国では、代替フロンを含め、冷媒や発泡剤としてのフロンの全廃する事が決定しているのです。つまり、2020年は脱フロン元年である訳で、HCFCを含めて速やかにフロンを全廃する義務を負っているのです。代替フロンは、あくまで当面の対策に過ぎないからです。最終的ゴールは、ノンフロンでかつGHG効果ミニマムでなければなりません。

欧米では、動きが素早く、既にHFOへの切り替えが始まっているのです。この国でも、大手流通業や欧米ヘの輸出車については、CO2を主体にした冷媒やHFOへの切り替えが始まってはいます。しかし、この国では未だに多量のフロンや代替フロンを抱えた、冷凍機や空調設備、冷蔵ショーケースや車・家庭用のエアコンに加え、発泡剤としても大量に使われているため、製造設備の切り替えや在庫の処分には大きな混乱が巻き起こると想像されます。

投稿者の意見としては、解決策はあると見ています。と言うのも、炭化水素系のガス、つまりはLPGなのですが、これを含む冷媒ガスは、上手く配合すれば、現在のフロンや代替フロンを直接に入れ替えても、装置の能力が損なわれないどころか、約30%程度の省エネ効果も期待できるのです。つまり、より安全で性能も高い冷媒が開発されるか、HFOの量産が加速して価格が低減するまでは、当面炭化水素系冷媒を使えば良いのです。もちろん、この冷媒が漏れると強撚性ガスですから非常に危険です。従って、この冷媒を使用しているエリアには、複数のガス検知器を配置する必要もあるでしょう。しかし、考えてみれば殆どの建物には、既に都市ガスやLPGの配管が設置され、ガスが使われていますから、それと同等の安全対策を構えておけば十分でしょう。

その意味で、2020年問題は、冷媒を用いる機器のメーカーとユーザーにとっては、大きなビジネスチャンスであり、大幅な省エネルギーのチャンスが到来したと。前向きに考える事も出来るのです。この2020年問題も、裏返せば(ビジネス)チャンスだと言っておきます。

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2017年5月13日 (土)

3288 クールビズのデタラメ

クールビスが取りざたされる時期になりました。しかし、その基準たるやデタラメというしかありません。その前提は、環境省もエアコンの設定温度28℃だとしていますが、この基準が納得できないのです。そもそも、人が感ずる暑さ寒さの程度は、1)気温、2)湿度、3)輻射温度、4)風速といった複数の要素で決まるものなのです。これらを総合的に示す指数としては、WBGT値がありますが、これは最近熱中症の指数として労働環境の管理に使われ始めています。

つまり、たとえ気温が28℃以下であっても、非常に湿度が高いとか、天井の断熱が悪く、夏場に過度の輻射熱が降ってくるとか、あるいは部屋の空気が殆ど動かないとかの条件が重なると、人は熱中症に陥るのです。

取り分け、湿度は重要です。湿度が高い環境では、せっかくかいた汗が蒸発しにくいため、体の表面からの放熱が鈍くなり、体内に熱が籠るのです。また、壁や天井が、気温より高くなっていると、体が輻射熱を受けて、放熱が鈍くなるので、やはり熱中症になり易いのです。

この国の夏の気候は、いわゆるモンスーン(高温多湿)なので、気温の割には高い湿度が、人の体にはキツイのです。従って、クールビスの基準は、温度は28℃でOKとしても、湿度に関しても基準を設けるべきなのです。加えて、窓や壁や天井を抜けて侵入してきて、体感温度を上げる輻射熱も考慮すべきなのです。熱中症の総合指標であるWBGTは、安価な計器で計測可能ですから、それぞれの事業所にはWBGT計を持つ事を義務付けるべきでしょう。その意味では、この国の夏を快適に乗り切るためには、是非とも除湿に重点を置いた、超省エネ型のエアコンの開発が待望されるところです。

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2017年5月12日 (金)

3287 見せる化

投稿者は、フリーランスになって以降、長く省エネルギーの方法について掘り下げてきました。その中で一番相手に対して説得力があったのはエネルギーの「見える化」だったと振り返っています。触ると(ビリビリして)分かるが、しかし目には見えない「電気」を、例えば電力量計で見える化してやれば、時間帯毎に変化する電力量の推移をグラフで見る事が出来ます。

同様に、自分がやってきた事、やろうとしている事を、どうやって自分や他の人に見える様にするか、最近気になっています。文字にしてきたという意味では、ほぼ10年間書き続けているこのブログも、言葉を見える化したものではありますが、そうではなくて図表や画像などを使って、一目で理解できる様にしたいのです。言うは易しで、行うは・・・です。なにしろ、サラリーマンからフリーランスになって、手がけた事が多過ぎますし、今後やりたい事も多いからです。かと言って、残された時間も多くはなさそうなので、取り敢えずは後継者を見つけてココロザシを引き継いでもらうしかないのかも知れません。

当面やりたい事を少し書いてみます。それらは、分かり易い形で、絵にもしてみようと思います。先ずは、自宅を使って始めた、再エネによる暖房・給湯システムをもう少しブラッシュアップしたいのです。熱効率の向上と、今は全手動のシステムを半自動にしたいものです。加えて、夏場の冷房を「デシカント」を使った、太陽熱冷房を実用化したいとも思っています。これは、もうすでにかなりの程度具体化しているので、DIYで出来る範囲で形にしてみようと思います。もう一つ、形にしたいのが、ペレット燃料の定量供給装置の実用化です。現在は、殆ど全てのストーブやボイラでは、スクリューフィーダ(オーガ)を採用していますが、完全に毎秒○○cm分のペレット燃料が送れるようにできれば、燃焼空気量もルーツブロアなどの定量型送風機を使えば、デジタル制御が可能となり、完全燃焼が実現できるでしょう。

結局、全体としては「小規模再エネ」の家庭レベルへの普及だと言っても良いので、先ずは自宅を実験場にして、実証試験をする事にしましょう。それが、他の人への「見せる化」につながるでしょうから・・・。

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2017年5月11日 (木)

3286 「小文字」の地方

国も、地方自治体も口を開けば、地方における「少子高齢者対策」や若い人達を引き付けるための「地方創生」などという抽象的な言葉を連呼します。これらの抽象的な言葉としての地方を「大文字」の地方と表現した場合、表題で言う「小文字」の地方とは、具体的に手に取り、感ずる事の出来る実体としての地方を意味します。つまりは、日常目にする小さな単位のコミュニティの事です。

大文字と小文字で何が違うかですが、それぞれの中で「自分」の占める比重が違います。投稿者が住む東北の県では、この春先ついに人口が100万人を割り込みました。その件で、投稿者の占める比重は1/100万に過ぎませんが、合併で一時は人口が9万人を超えたUターンした町は、元々は4万人弱の城下町だったので、その比重は1/数万と言うことになります。自分が占める比重が大きいということは、自分が何か行動するとその影響が少しは現れると言うことを意味するのです。

実際、Uターンして町中の企業を訪問する中で、ある企業で大量に余っていた木工廃材に着目し、お金を払って焼却処理していたものを、ペレット燃料に加工する事を進言し、県の助成金を得たこともありめでたくペレットプラントが導入されました。これによって、町にペレット燃料の供給基地が出来たのです。これによって、徐々にですがペレットストーブやペレットボイラの導入も進み、エネルギーの地域自給がささやかに始まったのです。また、地元の商工会に向けた新事業やアイデア出しのセミナーを引き受け、その際考えた事をまとめた「企業ハンドブック」を発行して貰い、会員企業に配布もしたのです。

もちろん、これらは対象としたコミュニティが小さかったために、一個人の話を受け取ってくれたものでしょう。もし、県レベルであれば、然るべき肩書き、例えば大企業の経営者や大学教授と言った「肩書き」の人達が、然るべき委員会などで政策提言を行った後、予算取りが始まり、世の中の景気が良くて税収に余裕があれば俎上される、と言ったまだるっこしい経過になる事でしょう。ここで、言いたかったのは、先ずは小文字の地方で小さな行動を起こし、それを徐々に波及させていった方が、結局は大文字の地方を巻き込む流れを作る事が出来るのではないか、とい点なのです。

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2017年5月10日 (水)

3285 地球と自分の間

投稿者は、50代に差し掛かったある時期に「環境人間」を志しました。しかし、最近少し違和感を感じてしまう様にもなった気もしています。つまり、母なる地球があって、自分を取り巻く「環境」があるのですが、最近その環境の「巾」が気になりだしたのです。自分が認識できる環境の巾は、精々自分が日々活動する範囲か、時々旅行する際に車や列車から見える範囲内なのですが、地球環境と大上段に構えると、未だテレビで見たことさえない、世界の秘境や辺境も全て含まれる訳です。しかも、それは1万メートルを超える深海から、8千メートルの山々に留まらず、成層圏と呼ばれる数十㎞の大気圏の上端までも抱合するのです。

言葉だけで、「かけがえのない地球の環境を守りましょう」、「地球に優しい暮らしをしましょう」と呼びかけるのは簡単な話でしょう。しかし、では具体的に、何を、どの程度、いつまでに為すべきかを考え、決めて、それを実行に移すのは簡単な話ではありません。2030年までにGHGを3割減らし、2050年までに8割減らすことが出来たとしても、それは「焼け石に数滴の水」程度なのかも知れません。

どう考えても、私たちは今の生活スタイルを根本から変える必要があると思うのです。具体的には、高々10㎞に満たない通勤距離を、車で雨に濡れずに快適に移動する生活から、少し早起きして、雨の日には合羽を着て、自転車にまたがって通勤する生活スタイルへの移行するという訳です。車を10㎞転がすと2㎏強のCO2を出します、往復で4㎏、年間ではたぶん1トン以上に積み上がるでしょう。しかし、自転車通勤であれば8割減どころか10割削減が可能となります。

投稿者は、実際30年間のサラリーマン生活では、通勤距離はほぼ10㎞程度でしたが、ほとんどの期間を自転車通勤で通しました。走行した距離はたぶん地球を数回周回する距離になる筈です。そんな暮らしで得たものは、20代から殆ど変わらない体重と、人並み以上に強くなった心配機能、つまりは健康だと振り返っています。結果として、同じような距離の車通勤の人と比較すれば、数十トンのCO2を出さないで済んだ計算になるでしょう。

今後の暮らしでも、まずは自分で実行できる質素な生活を続けながら、出来れば水か空気か立木の様に静かに生きて行こうと思っています。自分と地球の間の比較的狭い環境を意識しながら・・・。

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2017年5月 8日 (月)

3284 小さな達成感

ある時期に気が付いたことがあります。それは、人間が生きていく最大の原動力は、実は達成感なのではないか、という事なのです。もちろん、幸福な人達は、いわゆるビッグプロジェクトに関わって、それが実を結ぶ様を眺め、大きな達成感を感ずることができるでしょう。しかし、投稿者の様な平々凡々な人間にも、小さな達成感は手にすることが出来る様に思うのです。小さな達成感とは、日々の小さな仕事が一区切りついた瞬間にも感ずる事が可能でしょうし、この人気のないブログを一稿書き上げる時にも少しは感じ得ていると思っています。そうでなければ、足掛け10年にも亘って、読んで突っ込みを入れてくれる人とて少ないこんな文章を、書き続けることなど出来ないはずなのです。

もちろん、誰かがこのブログを読んでくれたとして、何かが伝わって、その人にとって何かのヒントになってくれれば、それに越したことはありませんが、少なくとも、自分が生きた証として、自分を知る少数の人達や自分の子供達だけでも読んでくれれば、それで十分だと思って書いているのです。凡人の頭で考え、それを文章にしたところで、100題書いても、我ながら良いことを書いたと思えるのは、12題しかありません。しかし、振り返ってみればこのブログも既に3000題以上書き続けてもいるのですから、少しは他の人に参考になりそうなものも、控えめに数十個程度は含まれていたかも知れない、と言って置きましょう。

その一方、小さな達成感は、決して自己満足で終わってはならないとも思っています。人が生きる意味は、誰かに良い影響を与えるか、あるいは少なくとも他の誰かの役に立って、感謝されることが含まれなければならないでしょう。さて、これまでの人生で何か人の役に立てただろうかと考えてみると、いくつかの心当たりはありますが、もちろん中身としては不十分と言うしかありません。従って、今ボンヤリ考えているのは、残りの人生でどれほどの事が出来るかの「見積」とそれを実行に移す計画を立てることなのです。計画倒れにならない様にするためには、それが具体的で、かつ実行可能でなければならないでしょうし、大それたものではなく、小粒でしかも短い期間で達成できるものである必要があるでしょう。小粒の計画を、自分の残されている時間の限り、いくつか積み重ねていくのが、達成感を得るため凡人にできる最良のアプローチだと思うのです。

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2017年5月 6日 (土)

3283 これ以上何を

私たちの生活環境を見回すと、子供の頃は「夢物語」だったことの多くが実現されてしまっています。空を自由に飛び回る車はまだ実現できてはいませんが、代わりにドローンが飛び交い、腕時計型の端末は実用化されてはいませんが、スマホで通信はもちろんお金の支払いまでを含め殆どの機能が事足りる様になりました。ロボットの体内にも納められる小型の原子炉は、たとえ1馬力しか出力できなくても実用化される見込みはありませんが、バッテリーを背負った非力なロボットアトムなら、かなりのレベルまで進化した様です。その意味では、私たちが子供の頃に21世紀という時代に抱いていた、未来技術の殆どは、実現されてしまったとも言えるでしょう。

かつて人は、石や木の枝や簡単な道具を用いて、手指を拡張しながら、さらに種々の道具を作り出し、その道具を用いて機械を作りながら、頭脳と手業を磨いてきたのでした。その間、数知れない人々の小さな工夫と時々現れる天才のヒラメキによって、機械はさらに複雑なものに進化し、さらに電気・電子の発見・発達により、手のひらサイズのガジェットに信じられない程の機能を詰め込むことにも成功したのでした。しかし、投稿者が憂いているのは、世の中が便利になり過ぎて、その結果人間の能力が減退するのではないか、という事態なのです。

具体的に言えば、キーボードによる文字入力と自動変換技術によって、私たちが漢字を書き順も含めて書き記す能力や文字そのものを形良く書く能力の多くが損なわれてしまいました。車の殆どがオートマ車化された結果、人は時々前進と後退を勘違いして、しかもアクセルとブレーキを踏み間違えるとミスを犯すようにもなりました。自動運転車は、一体人間のどんな能力を奪ってしまうのか、今は想像もできません。さらに言えば、超絶に便利に進化してしまったコミュニケーションツールとしてのスマホが、今後人間のコミュニケーション能力をどこまで奪ってしまうのかもまた全く想像できません。

さて私たちは、こんなに「便利」にこだわる飽くなき努力を重ねながら、果たして何処に向かおうとするしているのでしょうか。それは便利に囲まれながら、無能な人間を増産する社会なのでしょうか。「ちょっと待って」です。私たちには便利を捨てて、不便を楽しむという選択肢もあると思うのです。先ずは衣食住に関して、自分の手を動かして手に入れてみてはどうでしょうか。それは、衣類を縫い、山菜を採集し、庭やベランダで野菜を育て、住居に自分で手を入れて住み易くする小さな改善をしてみる事から始めるのです。DIYこそは、人類を退化と破滅から救う唯一の手段だと思うこの頃です。

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2017年5月 2日 (火)

3282 アイデア不足

3281の続きです。もちろん、技術力の凋落だけで、この国の閉塞感を説明する事は難しいでしょう。最近の、世界市場における連戦連敗を眺めていると、決定的に欠けているのは、市場との対話とニーズにぶつけるアイデアだと思うのです。確かに、Wlォークマン辺りまでは、得意の精密技術を駆使して、カセットテープサイズのテープレコーダメカで、世界に差をつける事が出来ていました。しかし、市場が求めていたのはその先でした。携帯している事を感じさせない程の小さな音楽プレーヤだった訳です。それがIポッドであり、同様の流れはパソコン(+携帯電話)→スマホの流れにも見つける事が出来るでしょう。

つまり、技術を洗練させて新たな製品を発想するのでは、現在の製品の延長上のモノしか提案できないでしょうが、一方で市場との対話とグッドアイデアが結びついた場合には、それまでのカテゴリーを超える画期的製品が生まれる事も多いのです。アイデアは、多分日常のデスクワークに追い立てられて、それに埋まって長時間残業をこなしたとしても、生まれるものではないでしょう。自由な雰囲気の中で、余裕を持ちながらのフリートーキングと言った環境からポンと飛び出すのです。

ある時期、アイデア発想法について深く考え込んだ事がありました。もちろん、凡人の凡庸の頭脳で考える事ですから、大した名案も思い付きませんでしたが、考え続けていると何となく頭の中に「アイデア」が点灯するイメージが徐々に出来てきました。その中で、自分なりに使えそうだと感じているのは、ニーズを絵で表示する方法の一つである「出来る出来ない分析」でしょうか。同様の手法では川喜多氏が考案したKJ法がありますが、これはフィールドワークのまとめ手法としては理想的ですが、必ずしもアイデア発想には向きません。出来る・出来ない分析とは、ある手段で実現できる事と、出来ない事をチャート上に言葉として順に並べていくものです。つまりは、出来る→出来そうだ→出来るかも知れない→出来ないかも知れない→出来にくそうだ→今は出来ない、などと順位を付けて並べてみるのです。例えば、コンビニショップで今は出来ていないのは、嵩張る衣服などを売る事などが考えられますが、真空パックで十分に小さく圧縮すれば、不意の寒さを感じた時に提供するダウンジャケットやカーディガンやセーターなどは在庫可能でしょう。今は出来ない(出来にくい)事を可能にするのがアイデアの本質だと思うのです。その意味で、必要は発明の母であり、技術は発明の父なのです。

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2017年5月 1日 (月)

3281 技術貧国?

ものごとの表面しか見ない人達が、この国は、モノ造り大国とか技術立国であると、呼ぶことがあります。正確を期すために投稿者なりに解説しておけば、「かつてはそうであった」とは言えるでしょうか。戦後の荒廃から、生活を二の次にしての経済優先で、先人が努力を重ねて、欧米の技術を取り入れ、それを改善して築き上げたモノ造り技術は、確かに一時は世界水準に駆け上がった事は間違いありません。必死にモノ造りに取り組む中で、モノを作る技術力やそれを支える「技能」レベルも十分に高まったのです。

しかしながら、いわゆるバブル崩壊やリーマンショック後の「停滞期」において、この国のモノ造り産業は、すっかり自信を失い、あるいは安易な海外展開を図る中で、「技能の部分」の凋落が著しかったと言えるでしょう。理由は、人から人への技術や技能の「伝承」が上手くできなかった事にあるのは明らかでしょう。特に、技能の伝承などと言うものは、書き物にしたノウハウや、あるいはビデオ映像等だけで伝えるものではないでしょう。技術を持つ先輩が実際にやって見せて、それを弟子や後輩が真似ながら、先輩の適切な助言も貰いながら徐々に腕を上げていくのでしょう。

しかし、例えば利益を追求するために自動化に集中的に資本を注ぎ込み、それに比べて人材の採用を抑え続けた結果、技術や技能の人から人への「伝承」の糸が途切れたり、弱まったりしたと想像しています。

具体例を挙げましょう。戦後、戦時中の航空機技術を受け継いだ成果物としてYS-11と言う旅客機が開発されました。戦闘機乗りの多くが戦死した一方、工場でモノ造りに携わった技術者や職人は、戦後も産業を支え続ける事が出来、その発露がこの旅客機だったと言えるでしょう。然るにです、その技術や技能は、結局は途切れてしまったのです。正確に言えば、海外の下請け仕事やJ衛隊向けの機体で、細々とはつながっては居たのですが、YS-11の後継機の開発は、MRJの開発まで50年間もの長きに亘り捨て置かれたのでした。その間、技術者も技能者も2-3回かそれ以上代替わりし、真の意味での「伝承」は途切れてしまったのです。歴史に「たら・れば」は無いのでしょうが、例えば1980年代にオールジャパンで後継旅客機の開発が行われていれば、この国は技術立国であり続け、カナダやブラジルを抑えて第三の航空機製造拠点になっていた筈なのです。失われた20年を取り返す事はかなり絶望的だと言うしかありません。返すがえすも残念ではありますが・・・。この国は、今後一体何で食って行けば良いのでしょうか。

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2017年4月30日 (日)

3280 貧乏自適

今日は、適当な表題が思い浮かばないので、徒然なるままに書き出します。悠々自適と言う言葉がありますが、それに倣えば今は「貧乏自適」でしょうか。自分が蓄えたとはいえ、いわゆる年金を受け取り、頼まれた仕事を時々こなし、天気を予想して山に登れる今のせんかつ生活は、今後何年続けられるかは神のみぞ知るですが、出来れば足腰を鍛えながら、歩けなくなったら人生も終わり、を理想として暮らして行こうと思っています。

借金も無く、決して贅沢ではない生活ぶりで、自分の家で暮らしていれば、それ以上望むものはなさそうですが、何か足りないものを感ずるのは年齢の所為でしょうか。自分の年齢を勘定して見て、何時も愕然とするのは、歴史上に名前を残しているいわゆる偉人の没年齢に接する時で、彼らが30代や長生きしても50代までに「結果」を残しているのに比べ、凡庸な凡人とはいえ自分は一体何を為し得て、何を残し得るのかを考えると、何時も軽度の自己嫌悪に陥ります。そんな時、高齢者のビギナーとして、若者を追い抜きながら山に登り、頂上に立った時、小さな達成感が今の人生の駆動力になっている様な気もします。

今後の人生の中で、残したいと考えているのは、自分の人生で肥やしになった失敗経験や上手く行った時のコツやノウハウ等を後進に伝える事が出来れば良いな、とボンヤリ考えてはいます。もちろん、自分自身の子供達に伝える事が出来ればそれは理想ですが、残念ながら二人とも技術や環境学には、全く興味が無さそうなので、他人でも「弟子」が出来るのが理想ではあります。かと言って、身を助ける手仕事や技を伝える訳でもなく、単なる元技術屋や環境屋のノウハウ程度では、残念ながら誰かに弟子になって貰える当てすらありませんが・・・。

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2017年4月28日 (金)

3279 引き時

何に限らず、始まりは勢いもあり比較的簡単ですが、難しいのはそれにピリオドを打って、止める時でしょう。人で言えば、引き時、辞め時と言うことになるのでしょうか。引き時が難しいのは、始める時はまだ小さかった「行き脚」が、いざ止めよう、辞めようと思った時には、かなりのスピード(慣性)になっていて、急にストップするのが難しかったり、惜しかったりする気持ちが働くことが理由でしょう。特に、後者は日本語では「未練」とも言いますが、引き時を特に難しくしている最大の原因の様な気がします。

進みつつある事態を止める方法にはいくつかあるのでしょうが、いずれにしても行き脚を徐々に小さくしていく必要があるのは自明でしょう。そうでなければ、外部要因で突然事態が終わる場合には、そのデッドエンドの壁に激突してしまう恐れさえあるからです。道路の急こう配で急カーブが連続するの下り坂に、時々「緊急待避所」がありますが、あれはブレーキの使い過ぎでブレーキが過熱し、結果としてブレーキが効かなくなる事態に陥った場合に飛びこむ場所なのです。もし、その坂に差し掛かる前にギヤを下げて、エンジンブレーキが効くように準備するなら、そんな場所のお世話にはならないで済むでしょう。

人の一生で言えば、体力も気力も充実していて、行け行けドンドンの時期もある事でしょう。しかし、どんなスーパーマンであったとしても、ピークアウトの時期が来る事は不可避です。以前から気になっていたのは、政治家(多くは政治屋ですが)の動静です。自分の体験に照らして考えてみれば、活動のピークは50代の中盤だった様に振り返っています。まさにその時期に、現役を止めフリーランスとなったのですが、その選択肢は正解だったと思ってもいます。その後は、徐々に活動のスピードを緩めて、今に至る訳ですが、高齢者の仲間入りをした今、もし山で吹かれたり?、不治の病を得て人生にピリオドを打つ事になったとしても、あまり命は惜しまずに済みそうだとは思って暮らしています。マツリゴトに関わる先生方にも、是非還暦を越してしまったら、ソロソロ引退の準備をして貰いたいものです。老害と囁かれる前に・・・。

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2017年4月26日 (水)

3278 創エネより省エネ3

省エネに関して、ここ10年以上に亘って企業に助言し続けている「お経」があります。それは、「エネルギーを色分けしましょう」と言うものなのです。もちろん、エネルギーに実際に色を塗る事は出来ませんが、もし信号機の様に、赤、黄、青の3色の色分けをするとしたら、それそれのエネルギーの用途は何色になるかを想像して貰うトレーニングです。その際、赤色はサッカー競技で使うレッドカードに喩えて、これは即退場ですから電気エネルギーの場合は即スイッチを切ります。例えば、無人のトイレで点灯している電灯などがこれに当たります。

次に黄エネルギーですが、これは一見必要には見えるものの、実際にはサービスや製品には付加価値を追加しては居らず、もっと省エネにつながる別の手段で代用できるエネルギーを指します。例えば、工場の中で言えば「物流」に関わるエネルギーや職場環境改善のための空調や除塵のための等のエネルギーがこれに当たります。モノは、それを運ぶ事によっては決して付加価値は上がりません。前の工程から次の工程に運ばなければならないのは、ラインの設計が拙いからで、ラインが連続して繋がってさえいれば、前工程の出口はそのまま次工程の入口になる筈なのです。職場環境が、暑かったり、粉じんが飛び交っているのは、設備から大量の熱が放散していたり、粉じんを発生させる設備や作業がオープン状態に置かれており、そこから空中に粉じんが拡散しているからなのです。設備の防熱や粉じん設備をブースで囲って、局所排風装置を付けるだけで、工場の環境は見違えるほどクリーンになり、大型の空調設備は不要になるでしょう。

青エネルギーは、実際にモノやサービスに付加価値を付けているエネルギーであり、これを減らすには、サービスや工程の中身を吟味した上で取りかかる必要があり、更にチャレンジングですのでここでは割愛し稿を改めます。

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2017年4月25日 (火)

3277 情報寡占への抵抗

自分でも10年前からブログを書き続け、5年前からはFBへの投稿を始めておきながらですが、やはりネット社会、とりわけ大手IT企業への情報集積が気になってはいます。例えば、ある商品に興味があって、関連するサイトをクリックしたとたん、別のサイトのAD欄に、怒涛の如く関連する商品コマーシャルが現れ、フリックし始めます。つまりは、最初にサイト閲覧した時に「個人情報」が把握され、同じブラウザで開いている別のサイトに「関連付け」されてしまったことを意味します。表面には出ていなくとも、A氏はBやCやD製品に興味がある、という情報がいつの間にかネット空間の情報として、蓄積されてしまったのです。

ブラウザやネット通販やSNSは、ますます寡占化が加速していると言えるでしょう。つまりは、ビッグデータがますます大きく「育って」いるのです。怖いのは、それが一握りの企業に集中しているという事実で、これが悪用されれば、人々の消費行動や、ひいては政治信条などのマインドコントロールまで影響を及ぼすケースだって考えられるでしょう。つまりは、誘導したい方向の商品や政治信条に関するニュースなどを繰り返し差し込んでいけば、「意識下」での刷り込みが起こり、知らない間に強く影響を受けている事態も起こり得るでしょう。

私たちは、そのことをワキマエた上で、ITに接し、情報を受け取るべきでしょう。望んでもいない情報に誘導されないためには、やはり自からも情報発信を続けていくしかなさそうです。一方的に(パッシブに)情報を受け取るだけでは、どうしてもそれを評価しあるいは批判的に受け取る姿勢が弱くなるからです。自分で考え、情報発信をしていく中で、ネット上で異なる意見に接し、複数の意見を並べることで、物事の本質により近いものが見えてくると思うのです。その意味では、日々流れてくる情報に対して自分なりのフィルターを備えておくことと、受け取った情報を吟味し評価するだけの見識は養っておきたいものだと、再度ココロを引き締める今日この頃です。

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2017年4月23日 (日)

3276 創エネより省エネ2

創エネのネタは限られますが、省エネのネタは事実上無限です。一番簡単な省エネ方法は、スイッチを入れている時間、つまりは運転時間を短くする事です。それまで110時間動かしていた(点灯していた)機器を、9.5時間に短縮すれば、それだけで5%の削減が確実になるでしょう。時間短縮作戦です。ダラダラとしていた残業を、スパッと定時で終わる様にするだけで、かなりの省エネになるでしょう。

別の切り口は、蓄エネです。例えば、断熱材に覆われた蓄熱剤(材)、例えば水やコンクリートや砕石などですが、それに余った熱を蓄えて、必要な時に取り出せば、その間はエネルギーの消費を抑える事が出来ます。もう少し凝ったシステムでは、熱を相変化の形で蓄える事が出来る化学物質を使う場合もあるでしょう。無機材では、比重が大きく従って比熱値の割には蓄熱量が多い、精錬残渣なども有望でしょう。熱媒体としては、無害な水や空気で十分ですが、蓄熱温度が100℃以上になる場合には、鉱物油を使わざるを得ないかも知れません。

電力もバッテリーを使えば、簡単に蓄えて、必要な時には取り出しが容易なエネルギー源です。例えば、太陽光発電でピーク電力を超えた量が発電出来る場合には、低くなったFIT価格で買電するよりは、自家消費に回した方が有利になる場合もあり得ます。何故なら、蓄電と自家消費によって、電力会社との契約電力(ピーク時の電力)を低く抑える事ができ、1-2ランク下げる事が可能なら、基本料金がかなり低減できるからです。

オーソドックスですが、お金の掛かる省エネは、やはり省エネ型設備に更新する事でしょうか。エアコンやコンプレッサーなどは、一時に比べ50%程度の省エネ性能を実現している製品も多いのです。耐用年数が来ている設備は、経営者としては、ダラダラとエネルギーを垂れ流さずに、スッパリと更新すべきでしょう。更に続きます。

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2017年4月22日 (土)

3275 引いて見る

カメラワークが得意な訳ではありませんが、目を引く写真はズームインとズームアウトを上手く利用して、主題を浮き上がらせているテクニックを使っていますが、これは世の中の動きを眺める際にも重要だと思っています。例えば、国会でKゴイケ事件が、さながらこれが国政の問題点の全てであるかの様に連日テレビ中継されましたが、鋭く切り込んだつもりの野党が、ブーメラン現象によって血を流したり、同じ趣旨の質問と答弁がダラダラと繰り返されるに至っては、茶番芝居にしか見えないのは、投稿者一人ではない筈です。

その時、一つの方法として、引いて眺める(ズームアウトする)のが好ましい姿勢でしょう。具体的には、長い国会の歴史を少し振り返ってみるのも良いでしょう。政治家の言動を官僚や企業が「忖度」するなどと言うことは日常茶飯事だった筈です。たった?5億円で、首相経験者が巣鴨に収監されたのは、そんなに遠い昔ではないでしょう。隠し政治資金として、政治家自身の懐に入れるためや票や資金集めのためのパーティ開催などで、表に出せないカネがどれだけ動いたかを考えれば、氷山の一角しか報道されない事を考えれば、想像の域を超えるでしょう。私たちは、日々の報道の派手さに惑わされず、冷めた、少し引いた目で事態を眺める必要があると思うのです。

引いた目で見る時、上に書いた様に時間を遡ってのロングスパンで眺める手法の他に、視点を変えてみるのも良い方法でしょう。政治をカネの視点から見る他にも、政治家の離合集散の様子を、椅子取りゲームの野心の視点から見るのも面白い視点になるでしょう。絶対多数を取っている様に見えるJ民党ですが、もし中道勢力が党を割り、M進の右より勢力と手を組めば、新たな党も組める筈です。それでなくとも、J民党だってかつての自由党と民主党の寄せ集め党だったではありませんか。引いてみて、別の角度から眺めて、今の社会や政治の流れを冷静に評価したいものです。もちろん、その結果「ではどうあるべきか」への提言を発信する事も怠ってはならないでしょう。このブログは、そのために書き続けています。

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2017年4月21日 (金)

3274 道徳ではなく倫理

最近時々道徳教育なるものが取り沙汰されることが多くなりました。国会でも取り上げられることも多いですが、たまたま質疑や答弁を聞いていて、片腹が痛くなるのは、投稿者だけではないでしょう。そもそも道徳とは人間の集団(社会とも言いますが)の中で、行動すべき社会規範の様なものをまとめた、「べし・べからず集」だと理解しています。最近の教科書は手に取ったことはありませんが、子供は親に孝行しなければならない、国民は国のために汗をかかなければならない、食べるなら、パンより和菓子を大事にしなければならない、などなどが書いてあるのでしょうか。

「政治家倫理さえ」わきまえていない先生方が、手を振り上げながら道徳教育を云々している国会風景の中継に接する時、片腹が痛みは最高潮になります。人は、社会の一員である前に、まずは人間でなければならないはずです。政治活動費やその他の出費を誤魔化しておいて、事務所や秘書の所為にするなどは朝飯前で、官僚に「忖度」させるために、強くニオワすなどは日常茶飯事でしょう。方法は簡単です。担当のお役所に、事務所から政治家の名前を出して、なぜ~をするのか(あるいは~をしないのか)といった「質問」をぶつければ良いだけです。たった、それだけで官僚の忖度が引き出せるのです。道徳教育を云々する前に、まずは自身の倫理観を深く反省すべきでしょう。

そもそも倫理とは、人として他の人とのあるべき関係を導くものであると理解していますが、人としての倫理観が薄い輩が、道徳教育を議論する姿が正視に耐えないのです。このブログは、批判を目的とはしてはいませんから、今回も「警鐘」に過ぎませんが、かなり大きな音で鐘を打たざるを得ないのです。道徳の前にまず倫理です。

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2017年4月20日 (木)

3273 創エネより省エネ

人間の生活は、ますますエネルギーインフラに頼る様になってしまいました。ガソリンで動く車が、EVに置き換わっても、その事情は変わりません。石油インフラが減って、電力インフラの比重が高まるだけの事です。その中で、お国の政策としては、いわゆる新エネの拡大や20世紀型のアブナイ技術である原発の再稼働に、あまり好ましくない新規石炭火力などで、増加する電力需要を賄おうとしています。しかし、一時は持て囃された「省エネ」の掛け声が、最近下火になっているのはどうした事でしょう。

省エネは「ネガワット」とも呼ばれ、省エネ努力で減った分は、さながら発電量が増えたのと同じ効果がある上に、当然の事ながら新たな設備投資は不要なのです。つまり、省エネ10%を達成することは、今の電気の使い方で需要増加分への対応として、発電能力を1割増やすのと、全く同じ結果を生み出すのです。

10%の省エネなど、国が掲げる2030年度3割省エネ(CO2削減)目標や最終的な2050年:80%削減目標に比べれば、誤差の範囲内でしょう。それどころか、3割削減の目標先取りもそれほど困難ではないでしょう。何故なら、1970年代に私たちは今の半分のエネルギーを使いながら、十分幸福を感じながら暮らしていたからです。増えたのは、紙がOA機器になり、スイッチさえ入れれば快適を生み出す電化製品の数と、便利に移動できる車などの交通手段と、今日注文すれば明日に手元に届く便利過ぎる物量システムなどが歯止めなく増えた結果でしょう。

省エネの考え方は比較的簡単です。企業の収益や日常生活に直接影響を与えない設備や家電は、先ずはコンセントを抜けば良いのです。これは「ヤメル」省エネです。通路を必要以上に明るく照らしている電灯や部屋の隅を照らしているだけの電灯も間引いてやれば良いでしょう。「ヘラス」省エネです。一番骨が折れるのは、効率を「タカメル」省エネでしょうか。しかし、例えば冷蔵庫やエアコンや自販機などは、冷媒の工夫や熱交換器のブラッシュアップで、既に50%程度の省エネは達成していますし、まだまだ効率を上げつつあります。問題は、今動いている膨大な数のエアコンや冷凍・冷蔵設備の電力消費です。投稿者としては、当面はフロンや代替フロンが使われている冷媒を、炭化水素系を含むノンフロン冷媒に交換するビジネスの拡大が必須だと思っています。冷媒の交換だけで3割程度の省エネの達成は十分可能だからです。たぶん続きます。

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2017年4月19日 (水)

3272 ボタンの掛け違え

最近、この「ボタンの掛け違え」という言葉が気になりだしました。例えば、海外で起こっていることをいくつか思い返すと、まずはEU離脱問題が想起されます。ある時期、EUの拡大ブームがありました、そこにいくつかの問題、例えば難民流入問題などが投げ込まれ、それを嫌がる国々の右向きで内向きの勢力が、難民排除の掛け声を上げ、それがEU離脱問題に波紋を投じてもいるのでしょう。E国が離脱を決め、Fランスも離脱を表明する大統領候補が有力の様です。しかし、E国が抜けた後の「ボタンホール」は一体どうなのでしょう。ボタンが取れてボタンホールが開いたままの衣服というものはかなり情けないものです。隙間風が入りますし、下着が見えたりもするでしょう。かといって、その下のボタンを掛けても、衣服が片側だけずれ上がってしまい、その滑稽な状態は話にもならないでしょう。

そうかと言えば、C国のリーダーがB国を訪問して、晩餐会の最中に、数十発のミサイルをSリアの基地に向けて発射させるといった「暴挙」があり、しばし世界がその対応をどう評価すべきか躊躇するという事件もありました。情けない事に、この国のリーダーは背景や状況をよく吟味をすることなく、早々と「支持」を表明したではありませんか。開いた口が塞がりません。

同じような事がこの国でも起こっているでしょう。安定性を重視する傾向のあるこの国の人々は、危なっかしいM主党(ある時期からはM進党などと訳の分からない党名になりましたが)を見限り、J民党に回帰してしまいましたが、3本の矢などという故事を持ち出して、政策を打ち出した今のリーダーの人気にも陰りが濃くなってきました。そのそも、3本の矢は政策でもなんでもなく、単なるキャッチフレーズに過ぎなかったのですが、汗をかかない手段である財投や金利誘導と円安という外的要因も重なって、曲りなりにも経済がそれなりに回っている状態だといえるでしょう。しかし、ここにきて穏健で結構上手くいっていたB国が、突然「先の読めない」リーダーを選んだ結果、ボタンの掛け違えが顕著になってきた様なのです。

この国のリーダーは、新リーダーがその席に座る前からB国に飛び、ボタンを掛けてもらおうと必死ににじり寄りました。正式な就任後は、彼の別荘にまで出かけて行って2日もゴルフに興じる始末です。B国の真面目な顔の副リーダーがアジアに回ってくると、この国の副リーダーが大歓迎の満面の笑みを浮かべてカメラに収まるチグハグな写真が気になります。この国は、それが長期的に見てこの国の将来に資するか否かは全く度外視して、B国が差し出したボタンホールには、無条件にボタンを掛けてきたのです。それをB国追随ともいうのでしょうが、逆に言えば、B国以外が示したボタンホールは無視せざるを得ないとも言えるでしょう。「善隣外交」などという言葉は最早死語になってしまった様で、まるで戦争が間近に迫っている時代にも似た殺伐とした昨今です。

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2017年4月18日 (火)

3271 中間技術でどうでしょう3

中間技術のもう一つの条件と言うか側面ですが、それは顔の見える技術になります。大量生産品を前にして、それが生み出される量産ラインの作業者を想い浮かべる事は多分あり得ない話でしょう。ましてや、それを企画した人や設計した人達がどんな人なのかは全く見えません。消費者は、それが量販店に並んでいた時に、たまたま店に入り、たまたま他社の同様製品よりデザインや機能を少しだけ気に入ったので、つい買ってしまった筈です。

「スモール イズ ビューティフル」では、中間技術を整地作業に例えています。つまり、大規模技術は、例えば大型の重機(ブルドーザ)と想定すれば、スモール技術はレーキやクワによる手作業になるでしょう。中間技術とは、エンジンはついているが、人がハンドルを握って一緒に歩く小型の土木機械を使った作業という事になるでしょう。大型で、遠隔操作機も使える大規模技術に比べれば、中間技術は一目でその作業が確認でき、細かい調整も可能でしょう。結果としてみれば、整地作業の出来栄えは、作業スピードを別にすれば中間技術に軍配が上がる筈なのです。それは、機械を運転する人が整地しながら、一緒に歩くことにより、小さな凸凹にも気づくことができ、修正する事が可能となるのです。

工場の例でいえば、ロボットやコンベアを駆使した完全自動化ラインを大規模技術として、手作業の家内工業をスモール技術とすれば、中間技術は機械設備も活用する「半自動ライン」に相当するでしょうか。そこは、人の目や手がしっかり行き届いているモノづくりラインなのです。もし、製品に関して顧客の細かい要望が入ったとしても、この様なラインでは即日改善が可能となる一方、大規模技術の向上では、ラインの手直しにかなりの期日が必要になる筈なのです。結局は、機械だけに頼るのではなく、人がしっかり関わるということが、すなわち顔の見える技術の要件なのです。それを、モノづくりはいわんやサービス産業でさえ、ITとかIoTに頼りきってしまおうとしている現代の風潮に、投稿者としては危機感を禁じ得ないのです。

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2017年4月16日 (日)

3270 中間技術でどうでしょう2

3269の続きです。さて、顔の見える「中間技術」とは、具体的にはどんなものになるのでしょうか。投稿者なりに提案してみたいと思います。このブログは、前日の晩か当日朝に、30分程かけて書いて投稿しているのですが、もちろんそんな短時間で、中間技術論に関して良いアイデアがポンと出る訳ではありませんが、少し頭を働かせてみます。

M.シューマッハの定義による中間技術は、先ずは小さな投資、具体的には個人事業主として投資出来る程度の設備から生み出せる製品やサービスと言うことですから、何らかの形で建屋があるとして、その中の設備としては、併せて数百万円相当の中古設備が数台置いてあるというイメージでしょうか。その中で、数人が働き、年間(低い方の)数千万円を売り上げると言ったビジネス規模になるでしょう。もちろん、最初から全国区を狙ったりしては「スモールビジネス」にはなりませんから、先ずは地元の市場を考えなくてはなりません。

ビジネスには、B to BB to Cが考えられますが、もちろん生み出す製品やサービスによって、前者に重点を置くのか、後者なのかは決めなければなりません。後者の場合は、顧客は個人と言うことなので、先ずは個人のニーズを把握する事から始めなければなりません。その地域には、どの様な人達が住んでいて、主に何を求めて、あるいは何に困っているのかを知る必要があります。マズローの欲求5段階を引くまでもなく、ニーズにも段階があって、特に顧客が困っている事を解決する製品やサービスには強いニーズがある筈です。例えば、北国では寒い冬季を乗り切るために、暖房や給湯のための光熱費が頭痛のタネになっています。しかし、それは年間を通じてのニーズではないため、単に暖房手段だけを提供しても、ニーズを充足する事は出来ません。年間を通じて必要な給湯の熱源とはなり得ないからです。

であれば、冬季は暖房と給湯に、中間期と夏季は給湯に使えて、しかも石油やガスやオール電化より光熱費が安く上がる熱源には強いニーズがある筈です。家庭用ですから、その熱源の大きさは限られてくるでしょうし、大きな設備も不要でしょう。売値で、1台100万円前後と想定すれば、それを年間数十台生産するラインは、それ程大きな規模とはならないでしょう。1週間に1台も出荷すれば十分だからです。電装関係は、基本的な機能さえ設計できれば、外注で簡単に調達できるでしょうから、後は本体構造を作るだけです。それすら、近くの鉄工所を使って製作できますので、社内には組立と調整及び出荷試験をする機能があれば十分でしょう。出荷数が増えれば、アフターサービスを充実させる必要がある事は言うまでもありません。続きます。

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2017年4月15日 (土)

3269 パーキンソンの法則

パーキンソンの法則とは、「役人の数は仕事量とは関係なく、一定率で伸びる」、および「仕事と言うものは、与えられた時間いっぱいまで伸びる」と言うものの様です。日頃の報道や自分自身の企業での経験を振り返ってもイタク納得できる法則ではあります。水が容器の形によってその姿を変える様にと言う比喩はあまり適切ではなさそうです。むしろそれは、例えば気体が、容器の形や容積に合せて、膨張収縮をする様だと言うのがより近いアナロジーかも知れません。より大きな容器に移し替えられた気体は、その圧力が低下するでしょう。分子の密度で言えば、ボイルとシャルルが証明したシンプルですが非常に重要な式に示される様に、容器の容積に反比例する形で低くなるからです。

仕事の密度も多分同様の法則に従うのでしょう。ヨーロッパのいくつかの国々の労働生産性がこの国のそれより何割も高いのは、仕事の合理化や長いバカンスを取得する報酬と引き換えに集中が出来ている証左かも知れません。少なくとも、ぼうっとしている時間が、かなり少なくなっているのは間違いないでしょう。少し前まで、この国ではちょっと仕事をして一段落すると、喫煙室に走って行ってタバコを吹かし、そこで暫し雑談をしてから席に戻る、と言った行動が茶飯事だったと振り返っています。

それと言うのも、どうやらこの国のワーカーには、仕事の目標を定めて、計画的にそこに向けて追い込みを掛けると言った風潮が弱い様なのです。追い込まれれば、確かにねじり鉢巻きをして、長時間の残業を掛けて「やっつける」事はどの企業や役所でも行われている行動でしょう。逆に言えば、追い込まれるまではボチボチと仕事を進めておいて、最後にガーッと仕上げてしまうパターンが好きだ、と言うことでもあります。結局日々の仕事でも、午前中はボチボチ仕事を進め、午後も眠気をこらえながら仕事をつづけ、3時のコーヒーブレークが済んだ頃から馬力を上げ始め、残業時間になってやっとトップスピードになる、と言うのが多くのサラリーマンの仕事ぶりなのでしょう。働き方改革やワークライフバランスなど、キャッチフレーズをいくつ並べても、「働き方の文化」を変えない事には、一向に事情は改善しないでしょう。さて、何から始めればパーキンソンの法則を打ち破れるのでしょうか。たぶん続きます。

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2017年4月14日 (金)

3268 中間技術でどうだろう

この言葉は、多分M.シューマッハの著述で知った様な気がします。書名は「スモール イズ ビューティフル」ですが、新書となっている小さな本を再び手に取ると、ビッシリと付箋が貼られ、重要な部分には赤の傍線が引かれているので、若い頃に熱心に何度か読み返し、強く影響を受けた事が明らかです。その中で、今も明確に自分の語彙に残っている言葉が「中間技術」なのです。サイズ的には、もちろん重厚長大ではなく、単純な軽少短薄でもない、いわば等身大の技術を指します。

重厚長大産業のビッグスケールの技術も、いわゆる最先端の軽少短薄な技術も、いずれも莫大な額の設備投資が必要である事は間違いないでしょう。前者は向こうが霞んで見える様な建屋に、同じく見上げる様な設備が並んでいる産業でしょうし、後者は巨大なクリーンルームや高真空設備やレーザー発振装置や精密な計測機器が必要でしょうし、エネルギー密度の集積も高いでしょう。結果として、天文学的な額の設備投資を必要とする訳です。一方、伝統的な技術はそうではありません。狭い仕事場に、立派ではありますが手に馴染んだ別の職人の手による「道具」整然と並べられた場所から生み出されます。

中間技術とは、上記の大と小の中間的な投資で始められる産業を指すのですが、しかしそれだけではなく、彼は「顔の見える技術」でもあると説くのです。誰に顔が見えるのかと言えば、それは、その中間技術から生み出される製品を強く必要としている消費者に対してなのです。消費者のニーズによって引き寄せられる製品を、中間的な設備投資から生み出す顔の見える技術がまさしく「中間技術」なのです。具体例については次回に続きます。

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2017年4月13日 (木)

3267 かと言って軽少短薄?

3266の文脈では、では軽少短薄に走りさえすれば良いのか、と突っ込みが入るかも知れませんが、決してそうではありません。家電や半導体の凋落は、かなり深刻です。航空機産業などを眺めても、例えばCFRPなどの素材としてのシェアは確かに握ってはいますが、それを使って飛ばしているのは、欧米の機体メーカーです。Mビシが少しやる気を出した時には、既に小型機市場でさえ、入り込む余地は非常に狭まっていたのです。仕方なく、国内の航空機(部品)産業は、汲々として海外下請けに勤しんでいるという状況なのです。

つまり、大きなインフラ関連の重厚長大産業も、最先端を狙った軽少短薄産業も、どちらも行き詰っている様に見えてしまうのです。特に後者に関しては、理由は明白です。つまりは、無理に作り出された需要を見込んだ産業だから、と言うしかないでしょう。安ければ買うだろうと、家電製品の大量生産に走った結果、大きな在庫を抱え、結果としては値崩れを引き起こした家電業界は好例そのものです。同様に、LCCの台頭で、値崩れしてしまった旅行業界も、先日の新興旅行代理店の倒産騒ぎの様に、歪で邪道なビジネスに走る結果を招いてしまったのでしょう。

何処も、どの産業も「地に足がついていない」のです。固く締まった万年雪が、雪崩を打って崩れ落ちる事は決してありません。地面に接している部分が、それこそ底堅いからです。しかし、新たに降り積もった雪は、そこが傾斜が急な斜面であれば容易に崩落するでしょう。表層雪崩です。これまで、生まれては消えて行った産業の多くは、地固めや事業拡大に際しての「引き締め」が足りなかったのがその原因であることは明らかです。バブルの崩壊とは、まさにビジネスの引き締めを怠った当然の罰だとも言えるでしょう。

さて、この稿での結論は単純です。先ずは底堅い需要を探し当てる事です。衣食住の基本部分は間違いなくそれに該当するでしょう。次のステップは、慎重な起業や事業拡大でしょう。一発当てるのではなく、小さくても数多くの弾を撃ち、それを確実に当てるのです。観光や、贅沢な車や高級家電などは、いわば景気の泡に乗っかった危うい需要と見定めなければならないのです。そんな事よりは、先ずは今ある売れ筋の製品やビジネスをバージョンアップし、ロングテールに仕立て上げる事こそが大切だと思うのです。

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2017年4月12日 (水)

3266 重工長大産業の限界

同じ様な表題で何度か書いたような気もしますが、最近の世情を眺めていると、再度警鐘を書き記して置く必要がありそうに思うのです。T芝の巨額赤字や不良債権隠しがやっと、と言うか一応俎上された様ですが、額は少なくともM菱やH立など、原子力に関わる企業でも同様の損害を出している筈です。それと言うのも、過去のある時期お国が原発再加速政策を打ち上げ、重工各社がそれに乗っかって事業拡大を図った時期があったからです。手っ取り早い事業拡大策は、つまりは企業買収でしょう。各社は、大金を握りしめて欧米の原子力企業の買収に走ったのでした。

重厚長大産業のシンボルは、かつては鉄鋼、造船業でした。しかし、途上国の親切な技術指導に力を入れた結果、K国やBラジルやC国などにお株を奪われ、シェアを大きく減らしたのでした。造船業の凋落は、日々悪化していると報じられる通りです。その後、重工はローリングストック(鉄道などです)産業に力を入れましたが、それもC国にコピーされて国際入札では苦戦しています。ならばと力を入れた航空機産業も、B社に上手く立ち回られ「万年下請け」に甘んじている状況です。起死回生策として、半世紀ぶりで開発中の国産旅客機は、開発のべた遅れで立ち上がったとしてもビジネスとしての成功には「赤信号」が点滅している状況です。

結局、重厚長大産業とは、社会インフラ産業であると括弧で括る事が出来るでしょう。この国の社会インフラは、殆ど煮詰まってしまい、今後は維持に力を入れなければならない時期に入っています。一方で、途上国が求めている社会インフラは、決して原発や新幹線やジェット旅客機ではない事は明らかでしょう。求めているのは、それ以前の基本的なインフラ、例えば水道事業や基本的でシンプルな(投資の小さな)流通インフラである事は自明です。結局、20世紀型の産業である出番はほぼ終わったと考えるべきなのでしょう。輸出を考えるのであれば、輸出先の国情を踏まえた製品を並べるべきでしょうし、国内産業として考えるなら、作ってしまった膨大なインフラを長持ちさせるためのメンテナンス産業にこそ力こぶを入れるべきでしょう。T芝の躓きを詳細に検証し、他社も早急な路線転換を始めるべき時です。リニア新幹線など作っている余裕は、この国には残されてはいないのです。

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2017年4月11日 (火)

3265 バイオマス生活

ペレットボイラで給湯・暖房する暮らしを始めて3か月が経過しました。炊事はLPGで行っていますし、寒がりの連れ合いは寒い日はエアコンを動かしていますから、完全にバイオマス・非電化生活ではありませんが、まあまあ良い生活スタイルではないかと思っています。

燃料は、地元産のペレットを、車で数分走ったところの農機具店で購入するのですが、10袋(100㎏)買って帰ると、これで約2週間程度の給湯・暖房が出来る量になります。金額で言えば、3,500円なので、一日当たりでは冬場で200円前後と言うことになるでしょうか。我が家のシステムは、太陽熱温水器も併用しているハイブリッドなので、春先でも太陽熱が採れる日は、ペレット燃料の消費は半分以下になります。夏場の晴天日は、間違いなく太陽熱だけで間に合うでしょう。

システムは、自分でざっと熱計算した上で、太陽熱温水器のセットとペレットボイラを別々に購入して、スチール物置(ボイラ室)の中に自分で設置し、設備屋さんに配管を繋いで貰いました。結果としては、温水タンクに組み込まれている熱交換コイルがそれほど能力が高くなく、ペレットボイラで生み出した熱が不凍液を暖め、それが温水に熱交換される割合が低い結果、ボイラとしての熱効率は50%を少し超える程度ですが、既製品なので仕方がありません。加えて、貯湯量が200ℓと少な目なので、油断をして貯湯温度が低めだと入浴中にお湯の温度が下がってしまい、風邪をひく「危険性」もあります。理想的には、もっと熱交換コイルの面積が大きく、貯湯量も少なくとも500ℓ程度は欲しかったところです。

もう一つの失敗と言うか不満は、ペレットボイラと太陽熱の切り替えが、完全手動なので切り替えのためにわざわざ屋外のボイラ室に行かなければならない点です。これは、今度電動の3方コックを追加して、遠隔で切り替え出来る様に改善する予定です。また、貯湯量が少ない点も、300ℓ程度の予備の貯湯タンクを追加して、2タンク方式へのシステムアップも検討中です。昔を思い出すと風呂に入るためには、薪を用意してそれを焚きつけて風呂を沸かす必要がありましたが、それに比べれば、点火さえすれば後は自動燃焼のペレットボイラは、随分楽だとは思いながら毎日風呂焚きをしている今日この頃ではあります。

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2017年4月10日 (月)

3264 還歴?2

還「歴」の例をもう少し続けます。かつて、宰相とまで呼ばれた人がLッキード事件の収賄罪で収監された時、受け取った金額は確か5億円程度だった様に記憶しています。当時の庶民感覚からすれば、3億円事件でもそうだった様に、天文学的な数字の金額だと感じたものです。時代は下って、現代の社会でも8億円もの国有財産が、忖度か何かで消えてしまったと聞くと、やはりかなりの金額だとは感じますが、最早それはワイドショーが囃したてる「話題」程度にしか扱われていない様なのです。現在でも当然収監に値する罪だとは思うのですが、これは、悪い歴史が繰り返し過ぎて国民の感覚がマヒしてしまった結果なのかも知れません。

60年前との比較で思い起こせば、高度成長期に打ち上げた「列島改造計画」と言うものがありました。いわゆる土建屋リーダーが、日本列島をトンネルや橋で結び、高速道路網や新幹線網を張り巡らすという大きな構想でした。60年以上の時が流れて、結果としてそれはほぼ実現できた訳ですが、それに匹敵する様なデカい計画は立てれそうもない今のご時世、今のリーダーは20兆円程のリニア新幹線でお茶を濁すしかなかった様です。代わりに、6年前の震災被害復興事業での嵩上げ工事や、原発事故の収拾作業+廃炉工事で、天文学的な額の「負の予算」を積み上げ続けているのでしょう。その意味では、景気の主導をインフラ事業に充てる「国債」で賄うという手法は、時を経てリサイクルされている様なのです。

マツリゴトの世界を振り返ってみると、いわゆる保守合同の55年体制は今のリーダーの祖父が深くかかわって出来たと理解しています。それから、月日が巡ってその孫が政権の舵取りをしているのは、やはり還歴の一現象に見えてしまいます。と言うより、現リーダーはまさにそこを狙っているのではないかとさえ思えるのです。つまり、祖父が築いた保守の基盤をガッチリと固めたいという願望のことです。そのためなら、N本会議であろうが、ナントカ学園であろうが、何でも利用して地固めを進めてきたのだと見えるのです。もし、彼がなにかのシンボルだとすれば、それは日本の「政界の系譜」だと言えるでしょうか。天皇家が100代以上遡れるとしたら、政界の系譜は精々明治維新に遡れるだけでしょう。むしろだからこそ、皇室をシンボル以上に持ち上げ、戦争責任を逃れた政界の系譜を守るために、腐心する様に見えるのです。以上は、最近の投稿者の感想でした。批判ではありませんので念のため。

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2017年4月 9日 (日)

3263 還歴?

還暦と言うのは、単に干支が5回まわって、60歳になる事だと思っていました。しかし、最近還暦とは、つまりは還「歴」も意味し、過去の出来事は、60年も経つと直接的には人々の記憶から忘れ去られ、たとえ過ちの歴史であってもそれは繰り返されるものだ、と言う教えでないかとさえ思うようになったのです。

具体例を挙げましょう。例えば、五輪や万博誘致です。60年代、70年代は、この国にとって飛躍の時代でした。オイルショックに振り回されたとはいえ、産業は拡大して経済規模は成長の一途を辿り、人々は「所得倍増計画」に踊っていたのでした。投稿者の様な年代の人間は、学校を出て社会に入っていく中で、その躍動を体感し、享受した世代と言えるでしょう。その中で、前回の東京五輪や、大阪万博はまさに経済成長のシンボルでもあったし、実際にも社会インフラを拡充し、国威発揚(もはや死語ですが)の証でもありました。

さて、今また2020五輪であり、関西への万博誘致活動の兆しがある様ですが、彼らは一体何を狙っているのでしょうか。あの高度成長期の真似事をしようと考えるのであれば、それは間違った選択か、あるいは悪い夢想に過ぎないと断ずるしかありません。見かけは、歴史が巡ってきた様にも見えるかも知れませんが、それは形だけの還「歴」であって、全くの還暦ではないからです。まして、その開催目的が単なる「経済活性化」だけだとすれば、何をかいわんや、でしょう。

別の例では、かつてO宅壮一がテレビ番組の劣化を指して「一億総白痴化時代」と評した昭和の時代から、めぐり巡って今は「一億総ネット化時代」とでも言うべき社会になったと言えるでしょう。賑やかなだけの娯楽番組を一方的に受け取るだけのテレビ生活は、確かに人々をアホにするかも知れません。しかし、自分の興味があるコンテンツだけをググるネット生活も、考えてみれば思考停止の白痴化現象と言えるかも知れません。O宅が憂いたのは、人々が自分の頭で考えなくなる事、結果として思想的にも「為政者にとって操作しやすくなる」国民が生まれる事だったのではないかと想像しています。今は、ネットでツブヤクだけで、世論を操作できる「便利な時代」になったという点では、まさに還歴でしょうか。長くなりそうなので稿を改めます。

 

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2017年4月 8日 (土)

3262 時代錯誤

何故人はこれほどまでに過去に引きずられるのでしょうか。もし過去を断ち切る簡単な術が見つかり、将来を考える事に夢中になれるなら、あるいは動物の様に瞬間瞬間を生きる事だけに集中出来たら、どれほど幸せだろうと夢想します。過去に学ぶ事は、もちろん悪い事ではないでしょう。過去の失敗に学ぶ事が出来るからです。だからこそ、人は口伝や書物に書き記して、無駄な試行錯誤を回避しようと努力してきたのです。試行錯誤はもちろんムダだけではありません。試行錯誤の中から、先人の知恵を超えるアイデアが生まれる事も多いからです。むしろ、ブレークスルーのためには、過去の文献だけに頼るのではダメなのかも知れません。

しかし、同じ錯誤でも時代錯誤はいけません。「時代錯誤」と言う言葉は、専らネガティブな文脈で使われる言葉でもあります。時代錯誤は、過度な過去への郷愁から生れるものの様です。つまりは、「昔は良かった。然るに今の時代は一体なんだ・・・」と言う文脈でです。

さて、このブログは、ある特定の人や集団の行動を批判する事はご法度に決めて書いていますが、時々警鐘は鳴らしています。その意味で、残念ながら昨今のマツリゴトのレベル低下には、ガンガンと警鐘を鳴らさざるを得ないのです。その国会での議論の多くが、過去に問題になった事案と同じ道筋で、延々と繰り返されている事に国民は飽き飽きしています。いわく、利権問題、活動費の不正流用、官僚の政治「屋」への忖度問題、特定団体への利益誘導問題、敢えて敵を想定したがる外交政策、何かにつけて防衛費の増額問題、公共投資によるワンパターンの景気刺激手法問題、金利操作だけの楽チンな経済政策、(例えば復興)関連予算への無関係予算の潜り込ませ問題などなど。

一体70年代の利権政治と何が違うと言うのでしょう。「たった5億円」で、リーダー経験者が投獄された過去を振り返れば、それ以上の額の税金が消えてしまった罪は軽くはないでしょう。私たちには、過去を懐かしむ自由は許されるのでしょうが、無理やりシステムまで過去に戻そうとする力には抵抗しなければならないでしょう。もし、そんな暇があるのなら、将来世代の幸福を真剣に考えるための議論に集中しなければならない時期だと思い定めなければならない時期なのです。明治時代の何とか勅語なんか○○喰らえ、です。今回の投稿は、単なるグチでした。

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2017年4月 7日 (金)

3261 工夫力

最近の工夫力低下には、危機感すら感じます。原因はハッキリしています。私たちが、仕事や生活の中で、困る場面がメッキリ減ってしまった事にあります。人は、困るとそれをどうにか回避しようと工夫を始める存在だからです。仕事は、と言えばミスを犯さない様に、ミッチリと書き込まれた「マニュアル」が作成されていますので、日常の仕事をこなす中で、困ったり迷ったりする事は随分少ないでしょう。

一方、生活の中では、衣食住に不自由する局面は随分無くなった筈ですし、家電は自動化され、車でさえも自動化されようとしているではありませんか。子供が、疑問を持ったとして、親に尋ねるとそれはG-グルに聞けと答えておけば事足りるでしょうから、次回から子供は勝手に自分でGグル事でしょう。更に言えば、今の世の中ではモノの入手に関する不自由さは殆ど無くなってしまったのです。何故なら、ネットショッピングを使えば、欲しいと思ったものが早ければ翌日、長いものでも数日待てば宅配便で手元に届くからです。

戦後のモノの無い時代、進駐軍が中身を消費して捨てたドラム缶や缶詰の空き缶が、実は貴重な材料であったのです。それらを無駄なく使って、鍋釜や薪ストーブやブリキのオモチャが作り出され、私たちの生活を支えてくれたのでした。缶詰の空き缶の内側は、非常に美しくメッキされており、裏返すとさながら新品のブリキ板の素材として蘇るのです。ドラム缶だって、少し厚手の鉄板として、色々なものに生まれ変わらせる事が可能です。例えば、今でもモノ不足状態が続いているCューバでは、ドラム缶からスティールパンと言う楽器まで作り出したではありませんか。まさに、「窮すれば通ず」です。音楽に対する渇望が、新しい楽器を生み出したのです。

私たちは、便利過ぎる都会生活に慣れ過ぎたと言うしかありません。もっと、田舎に住んで「不便を楽しむ」必要があるでしょう。不便を感ずれば、俄然私たちの脳や手先が働き出し、色々なものを再び創り出すことでしょう。お国は、地方創生などと訳の分らない事を言っている様ですが、創生のアイデアなんぞは、先ずは不便を感じて工夫を始めるところから始まるのです。

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2017年4月 6日 (木)

3260 ハードではなくビジネスモデル

お国の産業政策を眺めるたびに溜息が出ます。いわく、農業の大規模化や6次産業化を図る、観光客を何千万人だかして観光立国になる、またIoT産業を伸ばす、、またモノ造りで言えば、航空宇宙産業を伸ばし、水素社会にする云々。しかし、考えてみればこの国が道を誤った(かも知れない)のは、社会構造の変化やモノ造りを形(構造、或いはハードウェア)からしか見てこなかった事ではないかと振り返っています。

エネルギー政策に関して言えば、石炭から石油、原発を挟んで天然ガスから水素へとの転換を図って、あるいは目指しているにしても、ソフトウェアの面(つまりは格段の省エネ技術)への目配りが抜けています。モノ造りに関してみても、造船業で稼ぎまくって、その後は技術を教えてやったK国やC国に追い上げられた末に、慣れない客船なんぞに手を出して大赤字を出すなど目も当てられません。鉄道車両についても全く同様です。技術供与した新幹線がコピーされ、海岸案件では連戦連敗になっている様です。

考えなければならないのは、簡単にコピーできるハードウェアで勝負するのはもう止めにすべきではないかと言う点です。Aップルが、携帯端末の分野でトップシャアを維持しているのは、決してハード面でリードしている訳ではないでしょう。ハードであれば、少し前だったら日本、今はK国やT湾やC国のメーカーに任せれば良いだけです。彼らは、ソフトウェアやコンテンツに集中すれるだけです。この国でも、ソロソロ形に拘る事を止めて、ビジネスモデルの構築に注力すべきでしょう。

例えば、航空機産業です。M菱重工のMRJの開発がまだグズグズと泥沼でもがいている様ですが、その間にBラジルにおいて行かれ、C国などにも追い上げられてきているのです。しかし、LCCの台頭で、エアラインは最早儲かる産業ではなくなっているのです。それは、N航の経営危機でも証明されているでしょう。そうではなくて、今の時期の海外渡航の市場を綿密に調査し、どの様な「交通手段」が最適解になり得るか、そのためのビジネスモデルはどうあるべきか、と言う視点が欠かせないでしょう。それ無しに、単にハードウェアの開発だけに注力すれば、残念ながら今度の国産旅客機もかつてのYS-11の「二の舞」に陥ってしまう結果に終わるでしょう。

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2017年4月 5日 (水)

3259 新冷媒

3258の続きです。これまで、ヒートポンプの冷媒はフロン系のガスが主流でした。フロンは、非常に安定なガスで、長期間の使用でも劣化が少ない事が理由です。しかし、あまりにも多量のフロンガスが使用され、製品の廃棄に伴って、回収されずに大気放出されたガスが、成層圏まで上昇して、オゾン層を破壊続けることが分かって、国際的な製造・使用の廃止が決議されたのでした。(1987年、モントリオール議定書など)

一方で、フロンやその後開発された代替フロン類も、オゾン層への影響はかなり軽減されたものの、強力な温室効果ガスであることが明らかにされて、この国でも「フロン類の使用の合理化及び管理の適正化に関する法律(フロン排出抑制法)」として、使用や排出規制の対象としています。その中で、炭化水素系やCO2系の、いわゆる「ノンフロン系」の冷媒が注目されてきたのです。炭化水素系は引火性の問題があるのと、CO2系はそのためのコンプレッサーの開発が必要で、既存のシステムの冷媒としては使えないなどの障害があって、未だに社会の隅々にまで浸透してしまったエアコンの多くはフロンガス系の冷媒を抱えたままになっているのです。

しかし、例えば新冷媒であるHB-156は、R-22の代替として理想的で、しかもより小さなパワーで圧縮・液化が可能であるため、1割程度の省エネにつながるというオマケも付いて居るのです。投稿者としては、もう一つ有望なノンフロン冷媒にも注目しています。これはR-1222HCFC系冷媒や、R-400系のHFC代替として開発された、R-441aやR-443aなどの炭化水素系の冷媒です。これは、省エネ効果がさらに大きく、入れ替えにより電力の3割減が可能となるものです。とは言いながら、炭化水素系はその成分がプロパンやイソブタンなどの強燃性ガスであり、システムからの漏洩による爆発・火災事故が懸念されるリスクも含むものでもあります。しかし、考えてみれば、都市ガスやプロパンガスなども屋内配管はされている訳で、同程度の安全管理でリスク対応は可能だとも言えるでしょう。

それにつけても、GM社がかつてデュポン社と共同開発し、世界中に広まった結果、地球環境に甚大な影響を与えるまでに大量に使われたフロンガスに代わる、温室効果が小さく、安全でしかも省エネにもつながる究極の冷媒ガスの出現が待たれます。世界中の化学メーカーが本気になって努力すれば、それは十分可能だとも思うのです。

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2017年4月 4日 (火)

3258 スパコン

今回は「解説もの」です。スパコンと言ってもスーパーコンピュータの話ではなく、エアコンの省エネの話題です。正しく呼べば、スーパーコンデンサとなるのでしょうか。これは、エアコンの室外機に付加する、補助的な熱交換器なのです。

エアコンは、冷媒ガスを電力を使って圧縮する事によって、液体の冷媒を作り、それを膨張弁で膨張させる時に「気化熱」を奪い、室内の熱交換器で冷たい空気を作って冷房を行う機械なのです。暖房時は、逆に気体の冷媒を圧縮する時に出る熱を暖房に利用し、室外機では冷たい外気から更に熱を奪って室内に送るのです。なので、エアコンや冷媒を使ったオール電化の給湯器を「ヒートポンプ」とも呼ぶのです。さながら、目に見えない熱を移送するポンプの様だからです。

さて、特に夏場の気温の高い日には、圧縮機がウンウンうなって仕事をしても、冷媒が十分に液化せず、気体と液体の混合物となって膨張弁に入る事も多いのです。こうなると、エアコンとしての効率は低下し、電力を注ぎ込んだ割にはあまり冷えない、と言うマズイ状態に陥るのです。冬も同様で、あまりに冷たい機体の冷媒が圧縮機に入ると効率が低下するのです。

そこで、スパコンの出番になります。スパコンは、圧縮機に入る前の冷媒を、夏は少し冷やして液化し易くして、冬は少し暖めてやり、より多くの熱を発生させる働きをするのです。この結果、エアコンとしての効率は10%以上改善するので、電気代としては約1割安く上がる事になります。夏場に、室外機に間欠的に水ミストをスプレイする仕組みと併用すれば、夏場は2割程電力が下がると見込まれます。エアコンシステム改善のためには初期投資が必要ですが、4-5年で投資は回収できるでしょう。

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2017年4月 1日 (土)

3257 避難指示解除

Fクシマ事故で出されていた避難指示エリアがかなり解除され、一時の1/3程度に縮小された様です。しかしながら、当然の事ながら元通りの生活からはほど遠い状況だと想像しています。戦後の復興期、大陸から引き揚げてきた人や、ベビーブームの中で食料増産のため、多くの地域で山間部深くまで開発され、人々が入植していったのでしょう。そんな、村々がやがて原発の城下町になって、そこに住む人や原発作業員や関連雇用の拡大で新たに住民になった人々は、それなりに恩恵も受けながら平和に暮らしていた事でしょう。

しかし、原子炉は放射能というあらゆる災いを閉じ込めた恐ろしいパンドラの箱でもあった訳です。Fクシマ事故で、最悪の見えない災いが大気中に踊りだし、野山に広がり、土壌の中に潜り込んでしまったのです。残念ながら、ギリシャ神話とは異なり、この現代のパンドラの箱の底には「希望」などは残っていませんでした。代わりに、格納容器の底には燃料デブリという長く永く災いを振り撒き続ける絶望的なモノが残ってしまったのです。

戦前戦後を通じて、先人が作り上げてきた桃源郷は、今後何十年経っても取り戻すことは叶わないでしょう。少しずつ人が戻るにしても、それは「恐るおそる」のすり足になるからです。人は、そうしなければならない時は、額に汗して頑張る存在ですが、仕方なくそうしなければならない場合は、ノロノロと引っ込み思案に行動する様です。野山に残された放射性物質は、ガイガーカウンター(やや古い言い方ですが)を鳴らしながら、あまり近づくなと警告を出し続けるでしょうから、山に入っての楽しみも少なくなるでしょうし、ましてや山菜や山の恵みもいただけなくなってしまうのです。山間の楽しみは、山に入って同化し、そこの恵みを少し分けていただく事ですので、それが奪われた暮らしは、魅力の半分以上が損なわれたのと同じになってしまうでしょう。

問題は、除染されたエリアと除染されなかったエリアの放射線の自然減が、どの程度期待できるかですが、平原にあったチェルノブイリと、起伏があって降雨量も比較的多いこの国では、良い方にかなりの差が出る事を祈るしかありませんが、過大な期待は慎むべきでしょう。汚染エリアの前途は多難であると言うしかありません。

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2017年3月31日 (金)

3256 生物多様性

環境保護や生物多様性などと、声高に叫ぶのは、環境を破壊し続け、生物多様性を毀損してきた人類の一人としては、かなり気恥ずかしいものがあります。まだ発見されていない土壌中の微生物や、海底の泥の中の海棲生物などまで入れると、何百万種にもなると想像される生物は、未だ多様性に富んでいるとは言えますが、日々数十種程度の生物が絶滅し続けている事も確かな事実です。また、生物の殆ど棲めない砂漠やプランクトンが見当たらない「死んだ環境」も広がり続けてもいます。

その中で、私たちに何が出来るかですが、取り敢えずは身の回りの植物を、単一なもので飾るのではなく、1種でも多くの植物を植える事から始めたいのです。植物の種類が増えると何が起こるのかですが、見える変化として集まる昆虫の種類が増えるでしょう。ある昆虫は、特定の植物に依存生活史を送る事が多いからです。植物に依存する植物が増えれば、肉食の昆虫や見かける鳥の種類も間違いなく増えるでしょう。また、植物の根と土壌微生物の関係も多様化し、種類も増える筈です。もちろん、土に入れる肥料は「微生物の宝庫」である堆肥に限る事は言うまでもありません。農薬は使わず、合成肥料も使用を避けます。

つまり、人間の都合により、育てやすく収量の多い作物や、見た目に華やかですが、遺伝子操作によって「創られた」植物は、決して昆虫の好みではあり得ないのです。見た目ではなく、昆虫に人気の高い植物を、可能な可能な限り多くの種類を寄せ植えする事により、生物の多様性は徐々に増してくる筈なのです。それらの植物は、ホームセンターではなく、田んぼのあぜ道や里山の近くで見つかるでしょう。もちろん、保護されている植物の採取はご法度ですが、種が取れる植物であれば結実の時期を待てば良いだけです。

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2017年3月30日 (木)

3255 Minimum sufficient

これを日本語にすれば「必要最小限」、あるいは「必要かつ十分」でもなるのでしょうか。そういえば、この表題では一度ならず書いたような気もしますが、どうせ以前に書いた内容は忘れていますし、今回は別の視点で書くかも知れないので、まあ良いでしょう。必要かつ最小限をどう考えたら良いのでしょう。ある人にとっての必要は、別の人には不要なものかも知れません。またある人にとっての十分は、別の人にとっては不足、あるいは過分かも知れません。

例えば、冷暖房を考えてみましょう。かつて、この国の人々は、冬季の暖房は必要に迫られて、最小限の熱源を確保してギリギリの暖を取っていたはずです。それは、目に沁みる煙が出る囲炉裏での焚火だったり、町家では炭を利用した火鉢や炬燵だったでしょう。少し、時代が進んで、ブリキや鋳物のストーブが手に入る様になると、人々は入会林で薪を採集し、軒下に積み上げて冬場の燃料としていたのです。その後、ある時期には石炭が手に入り易くなり、さらに時代が進んで1970年代には、石油が手に入り易くなり石油ストーブがポピュラーになりました。

しかし、夏場の冷房についてはかなり近年になるまで、一般家庭には導入されていなかった筈です。家電メーカーにおけるコスト削減努力が実を結び、ほとんどの人が「エアコン」の恩恵に与れる様になり、爆発的に普及したのでした。もちろん、その背景には都市化による熱帯夜の増加や、温暖化傾向による猛暑日の増加があったのも間違いないでしょう。

さてMinimum sufficientです。私たちは、やはり必要・不必要の境界線や、十分・不十分の境界を引き下げるべきだと思うのです。それも大幅にです。具体的に言えば、1970年代のレベルです。もっと具体的に言えば、モノの消費とエネルギーの消費を、現在の1/2以下にする事を意味します。一見難しい様にも見えますが、今の生活レベルをあまり落とさなくともそれは可能だと見ています。例えば、既存のエアコンの冷媒だけをもっと効率が高く、しかもノンフロンのもの(炭化水素系)に交換するだけでも20-30%の省エネが可能だとされています。それに加えて、冷房や暖房温度を2-3℃押えれば、エアコンのエネルギー50%削減は十分視野に入ります。新しく家を建てるのであれば、温暖な地域でも断熱材をたっぷり使えば、それだけでエアコンに係るエネルギーを半減する事も可能となるでしょう。続きます。

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2017年3月29日 (水)

3254 巨大プロジェクト考

大T芝が存続の危機に瀕しているというニュースは、日々マスコミに踊っています。かつて、公共放送で人気のあった「プロジェクトX」で取り上げられたトピックスを思い起こすまでもありませんが、この国では高度成長期を通じて、いわゆるビッグプロジェクトが目白押しでした。新幹線網、都市や地方の高速道路網、それらに付随する長大橋や長いトンネル、更に雨後のタケノコの様な原発建設、都市を拡大させる沖合埋め立てや高層ビル建設ラッシュや空港の整備などなど、枚挙に暇がありませんでした。

さて、それらが経済の踊り場で一巡一段落し、私たちの注目はそれらの補修や維持に向けなければならなくなったこの時勢に、更なる原発建設へ向かおうと考えたT芝の積極策は、やはりと言うか結局というか大失敗に終わろうとしています。目を転じて、戦後二つ目の国産旅客機プロジェクトを眺めてみると、大苦戦を強いられている様です。かつて同じ業界に身を置いた立場で眺めると、やはりこのプロジェクトは、まだ経済に勢いのあった時代に開発しておくべきプロジェクトだったとコメントするしかなさそうです。少なくとも、経済の停滞から右肩下がりが始まっているC国や途上国、あるいは先進国での人口減少局面にぶつけるべきプロジェクトとはとても思えません。

ところで、JRのリニア新幹線のケースはどうなのでしょう。東海道トランクラインのバイパスとしてのリニア新幹線ですが、バイパスならば従来型の新幹線で一体何が悪かったのでしょうか。私たちは、ソロソロ20世紀型の夢から覚めなくてならないでしょう。手塚が描いた21世紀の鉄腕アトムの世界で、これまで実現されたものが殆ど見られない事に気が付くべきでしょう。21世紀に間に合ったのは、ハイブリッド車のPリウスや癒しロボットのPッパーくらいのものでしょう。20世紀の技術だけで私たちは十分に早い移動手段を手にし、かなりの程度の自動化や工業用ロボットを手に入れたではありませんか。これ以上「無理を押して」何を求めると言うのでしょうか。20世紀型の夢を追うのはソロソロ止めにして、今世紀は先ずは自分たちの足元を見回して、為すべき事を見出すべき時期ではあります。

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2017年3月28日 (火)

3253 付託と忖度

今回は、最新の流行語を取り上げます。文字にすれば、付と忖はニン偏とリッシン偏の違いだけなので、託と度の違いはあるにしても、一見ではどっちがどっちか分からなくなりますが、付託と忖度は、この国ではどうやら180℃すれ違う言葉の様なのです。前者は、例えば有権者が政治家にマツリゴトを「付託」するなどして使われる言葉ですが、ではその付託を受けた政治家が、有権者を忖度してくれているのか、と問われれば、そんなことはなく、政治家の取り巻き(=官僚)が票集めに協力するために、「先生」(ら)が望んでいる利益誘導の意向を忖度する程度の、狭い意味合いしか持たない言葉に成り下がっている様です。つまり、忖度は今や完全に「政治用語」になっているのです。しかも、付託に対する回答としての忖度ではなく、専ら政治家が利用する「権利」の様な意味になってしまった様なのです。

こうなっては、国語辞典の意味を改訂するしかなさそうです。つまり、

[名](スル)ひそかに政治家に有利なる様に状況を推し量ること。「先生の下心を―する」

などと改訂するしかない言葉になったというしかありません。今回の「事件」を通じて、上記の意味は完全に確定したのですから。忖度が政治用語になってしまったからには仕方がありませんが、本来の日本語では上記に意味においては「斟酌」を使うべきだったのでしょう。つまり、酒を酌み交わすときの様に、相手の杯が空になった時に、間髪を入れずに酒を注ぐか、あるいは少し間をおいて注ぐべきか、あるいはFAXを送るべきか、埋設物を過大に評価すべきかなどの、相手の意向を察知する、という行動を指す言葉だからです。

冗談はさておき、言葉は便利なものですか、使い方によっては怖いものでもあります。政治家はいわば言葉使いのプロでもある訳ですから、付託と忖度は互いに対の言葉として正しく使って欲しかったのですが、忖度の意味が今回の事件で「貶めらえた(捻じ曲げられた)」事を残念に思う者の一人です。

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2017年3月27日 (月)

3252 3Dプリンタ建築

何となく、3Dプリンタを大きくした様なもので、家が作れないかボンヤリ考えていたところ、ネットでそれを試行している動画を目にしました。それは、家の中心となる場所に柱(=回転軸)を立て、それから水平にアームを伸ばして、そのアーム上に少量の生コンを出すノズルを取り付けたものでした。いわばシンプルな「スカラーロボット」の様なものです。そのアームを回転・上下・出入りさせて、3Dプリンターの様に、基礎となるコンクリート床から、徐々に壁を積み上げていく工法の様です。しかしながら、コンクリートは圧縮力には強いものの、樹脂の様に接着力は大きくはないので、鉄筋を配してやらない限り、強度的には十分ではないでしょうから、小さな小屋程度であれば作れるでしょうが、人が住む家を作るには不十分だと言うしかありません。

もちろん、樹脂と硬化剤を混ぜたり、熱可塑樹種を使ったりすれば、補強材(例えば鉄筋など)は不要なのでしょうが、コストがかなりアップする事は間違いないでしょう。さてそこで上のシステムにもう一工夫加えましょう、コンクリートだけで、強度を高めるにはやはり生コンクリートに繊維状のものを添加する必要があります。例えば、繊維としてガラス繊維やカーボン繊維を使えば、確かに強力で壁の強度も上がるのでしょうが、リサイクル性に難があります。やはり、ここは天然繊維を使うしかないでしょう。天然繊維として、最も入手し易いのはやはりセルロース(紙繊維)に軍配が上がります。

適当な長さに切った紙の短繊維をコンクリートに混ぜて、上記の3Dプリンタもどきから吐き出させ、積層しながら固化すれば、強度的にも十分な壁構造が出来上がります。もちろん紙繊維には、簡単に風化しない様なコーティング処理なども必要でしょう。先人の知恵として、土壁にワラ繊維を混ぜて、十分に長い間の風雨に耐えている例もありますから、紙繊維にもそれ以上の耐久性が期待できるでしょう。座標の中心となる柱を徐々にリフトアップしていけば、多層階の建物も建設可能となる筈です。人手不足の建設業界ですから、設計図通りに自動的に建設が可能なこの様なシステムには、挑戦する価値が十分ある筈です。

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2017年3月26日 (日)

3251 レゴ建築

レゴブロックは偉大な発明だと思っています。小さなエレメント(ブロック)を組み合わせて、およそ形のある殆どのモノを創り出す事が出来るからです。最近のレゴはドンドン進化していて、部品の種類も増えて何やらPタゴラスイッチの様に、楽しく動くGadgetも作れる様になっている様です。しかし、ここで考えてみようと思っているのは、レゴの様なブロックを使った建築方法なのです。

かつて、間伐材として整理された小径木は、建築足場などの重宝されていましたが、今では殆ど使いみちがなく、山肌に切り捨てられたままになっていてココロが痛みます。そこで、この間伐材(たぶん直径で100-150㎜程度だと思いますが)を使って、木材ブロックを作ってみたらどうかと提案したいのです。例えば、断面で言えば100㎜角程度、長さで言えば軽くハンドリングできる300㎜程度に規格化し、レゴブロックの様に穴が開いていて、そこに同じく木製のダボ(ほぞ)を叩き込んで、互いにロックします。それを、さながらレンガの様に積み上げて壁を作るのです。開口部の上部は、少し長い部材で支えてやる必要があるのでしょうし、屋根を掛けるにはやはり部材の工夫や構造の工夫も必要でしょう。

しかし、基本的には誰でも日曜大工程度の道具で、倉庫や勉強部屋や事務所が作れる様なキットにすれば、自分で建ててみようとする人も増えると思うのです。そう思っていたら、FBの「Information Civil Engineering」と言うサイトに、面白い工法が紹介されていました。

https://www.facebook.com/Information-Civil-Engineering-383870055097958/?hc_ref=NEWSFEED 

それは、まさに発泡スチロール製の大きなレゴブロックを積んで家を建てるのですが、そのブロックの所々には、縦穴が貫通しており、そこに鉄筋を入れて生コンを流し込めば、壁がコンクリートの柱で補強されるという工法です。これだと、コンクリート柱で構造強度が確保できる上に、発泡スチロールはそのまま断熱材として機能する訳です。日本の様にがんじがらめの規制が無い(少ない)国ならではのアイデアではあります。しかしながら、投稿者の考えている木製のレゴブロックとは、少し主旨が異なるので、取り敢えずは「面白い工法」としておきましょう。投稿者が考えている木製レゴは、構造強度と断熱性能と木の温もりを同時に達成するものである点が異なります。暇が出来たら実際に設計してみようと思います。

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2017年3月25日 (土)

3250 エネルギー生産性

久しぶりに環境カウンセラーらしい投稿です(だと思います。)。エネルギー生産性とは、例えばGDPをCO2排出量で割り込んで、CO2排出量1トン当たりのGDP(生産高)を示す指標です。1980年代までは、実のところこの国は世界でもトップの指標を示していたのでした。1970年代以前のいわゆる「公害列島」を返上し、二度のオイルショックもくぐり抜けて、環境技術や省エネ技術の開発や投資を積極的に行ってきたからです。しかし、バブル時代を経て崩壊後の長いトンネルの中で、国や企業も委縮し、小さく縮こまっている間に、この指標でも他の先進国に追い抜かれてしまっていたのです。

風車ではヨーロッパ諸国に大きく置いて行かれ、シェアトップを取り優位を保っていた太陽光発電もDイツやC国にアッサリと抜き去られたのでした。原子力やクリーンな石炭火力などでは善戦はしていたものの、3.11以降は原発には強烈な逆風が吹き荒れています。日本の環境技術を使って環境負荷を比較的低く抑えた石炭火力においてさえ、今は逆風の時代でもあるのです。もちろん、環境負荷が小さいとはいえ、硫黄酸化物や他の有害物質が少ないものの、肝心のCO2量は変らないからです。つまりは、エネルギー生産性は全く改善していないのです。

さて最近注目されている、まるで2足飛びくらいに環境・省エネ技術を高めようと四苦八苦している水素利用技術ですが、莫大なインフラ投資を必要とする事もあって、多分今後とも歩みはノロいでしょう。加えて、そのインフラを造るために発生するCO2があり、何より水素を発生させ、運搬するために発生させるCO2量があり、システム全体としてみて、果たしてエネルギー生産性を今より低く抑えることが出来るかどうかは全く疑問です。

見かけは、確かに水素自動車や水素を燃料とする熱電併給システムからは、水以外は排出されないのですが、見えないところでのCO2排出が増え、一方でインフラ整備のためにGDPが増えるので、エネルギー生産性がそれほど改善する訳ではないでしょう。結局、必要な行動は「無理に」水素社会を造るのではなく、私たち自身のライフスタイルの見直しだと思うのです。質素に、慎ましやかに、必要かつ最小限の暮らしこそが、エネルギー生産性も低く出来る近道なのでしょう。

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2017年3月23日 (木)

3249 弱い連係と多様性

最近、またぞろ進化論に関係する本を読みふけっていますが、その中の言葉からの連想です。最近の知見では、どうやら細胞レベルの進化では、細胞内のエレメントや他の細胞との連係によって進化が進む様なのですが、連係には、多分強い連係と弱い連係が存在すると想像しています。それを人間社会に敷衍して考えてみようと思います。

さて、強い連係とは、例えば国レベルの法律や規制や、あるいは政治家を選択するための選挙などが思い浮かびます。政策で予算が付けば、その予算で交付した先を縛る事も出来るでしょう。また、罰則付きの法律を使えば強い縛りを設定できるでしょうし、逆に許可制度及び規制緩和とのアメ・ムチの両輪で転がせば、更に強いコントロールも可能となるでしょう。一方で、弱い連係と言うものが考えられます。これは、ボランティアや善意などを元にしたいわゆる「絆」の様なものが考えられます。

しかし、何が人間社会で人を強く動かすかと考えてみれば、それは間違いなく「弱い」連係だと思うのです。予算や法律や規制の縛りは確かに強いのですが、それは人が道路からはみ出すのを防ぐ事は出来るでしょうが、人を強く動機付けるものにはならないでしょう。一見、強い縛りに従っている様に見える人々も、心の中では反発を抱えている可能性も強いのです。でも、善意から出た行動はしっかりした意志に支えられていますし、例えばボランティアの経験は、人を変えてしまう原動力にもなるでしょう。

細胞レベルの弱い連係(さざ波)が、細胞自体を大きく揺さぶる大波に変る事もあるのでしょう。これを、変化の「共振」現象と呼んでも良さそうです。細胞や社会の変化は、決して強すぎる連係からは生まれず、変化しようとしている状況にピタリと波長が合った弱い連係によってこそ、大きな変化(進化)や多様性が生ずると思っています。何やら政治の世界では、さながら戦前に回帰でもしようとする動きもある中で、この国を変えるのは、やはり良く変わろうとするココロが、私たち自身の間に充満してくる必要があるのでしょう。

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2017年3月22日 (水)

3248 プログラム死

生き物の受精=発生、成長から死までを連続的に観察したとすれば、DNAに記述されたプログラムに従っている事が良く分かるでしょう。もちろん、生き物の一生はDNA「だけ」で一義的に定まるものではなく、成長過程では環境からの影響や相互作用により、かなりの程度変化しても来るのでしょう。その中で、注目すべきはDNA(と環境からの影響もあるかも知れませんが)による「プログラム死」と言う現象だと思っています。受精卵の分割が始まり、やがて胎児になる過程では、さながら太古の生物から霊長類に進化してきた過程を繰り返す様に成長を続けるのです。ある時期には、魚のエラの様な部分が現れたり、指の間にはカエルの様な水掻きまで出来て、それが妊娠のかなり後期まで残っていたりもするのです。

しかし、それらはDNAに仕組まれた「プログラム」によって、やがて消えてしまいます。プログラムによって,、エラや水掻きになるべき組織が死んで、吸収されてしまうのです。これを、細胞のプログラム死と呼びますが、およそ人間に限らず生き物の体や細胞の一生は、このプログラムとプログラム死によってコントロールされていると言っても過言ではないでしょう。プログラム死が無ければ、私たちは陸上では全く用がないエラや水掻きを抱えながら一生を送らなくてはならない羽目に陥るのです。

さて、生き物はDNAに繰られているとして、人間社会や文明は一体何にコントロールされているのか、時々考え込みます。歴史を振り返れば、絶える事の無かった紛争や戦争は、見方を変えれば、人類と言う生き物の「部分的なプログラム死」であったとも考えられるのです。それが一体何によって引き起こされているのか、色々な人が色々な見方で解説を試みてはいるのですが、なかなか納得する説に出会ってはいません。ここでは、個々人やコミュニテイを一つのDNAの切れ端と見做して、それで説明を試みてみましょう。DNAは、コピーを繰り返して情報(文化)を継承しようとしますが、いわゆるコピーミスや変異によって徐々に変質や劣化してしまうのは致し方の無い事でしょう。文化のコピーミスや劣化によって、例えば相応しくないリーダーに扇動され他のコミュニテイとの軋轢を生み出す事も度々あった事でしょう。

さて、出来るだけ世界を鳥瞰してみて、果たしてこの国や現代文明がプログラム死の過程にあるのかどうか、投稿者としても注目して観察を続けたいと思います。

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2017年3月21日 (火)

3247 進化

何故か進化論が好きです。それほど種類が多くはないたんぱく質類と、これもたった4種類の塩基で構成され、複雑な動植物の体の設計図(DNA)としては、意外に少ない遺伝子情報(4デジット)で、なぜこれほどまで多様な生物が地球上に出現し得たか、全く興味が尽きないからです。シェークスピアの著述の簡単なセンテンス、例えば「To be or not to be that is the question.」を、コンピュータが26文字+記号を、ランダムに選びながら組み立てると仮定したら、たぶん天文学的な時間が必要だと想像しています。数学で習った順列組み合わせの式は忘れてしまいましたが、確か26の階乗に比例するのでしょうから、やはり組み合わせの種類は天文学的な数に上り、上記の一文が再現されるためには、長い時間が掛かる筈なのです。

しかし、生物の進化は数億年という「信じられないほど短い時間」でほぼ完成してしまったのは、驚くべきという外は無いでしょう。とても、ランダムな小さな変化が数多く生まれ、環境に適応した選択によって「徐々に進化した」などという悠長な理論(例えばネオダーウィニズム)ではとても説明しきれません。それどころか、環境に適応できるように、都合の良い「数多くの突然変異」が、無駄なく続き、生物の系統樹に沿って順調に進化を続けない限り、現在の生物の多様性は説明不可能でしょう。

と言う意味では、進化はランダムな突然変異と選択の積み重ねだけで起こったのではなく、ある時期からは環境との相互関係の中で、「明確な目的」をもって進んできた様に思えるのです。カンブリア紀などの様に、生命が爆発的に増えた時期と氷河期などの生命の絶滅危機を繰り返しながら、その中で明確な「生存戦略」が、今ある進化の系統樹を完成させたのだと思っています。

翻って、文明を一つの生命と考える時、似たような感慨を抱かずにはいられません。文明の寿命は果たしてどの程度なのでしょうか。人間の歴史を振り返れば、過度の環境改変(例えば森林の皆伐)などが原因で滅んだ文明の何と多い事でしょう。森林の消滅と過密な農業が、それに続く環境悪化(例えば砂漠化)を招き、水や食糧の不足を引き起こし、そこに栄えた文明を消し去ったのです。つまり、文明の持続可能性は、その文明を取り巻く「環境の持続性」によって担保される筈なのです。話が大分ややこしくなってきたので、今回はこの辺で・・・。

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2017年3月19日 (日)

3246 多価社会への道2

3225では、具体的な方法を書き切れなかったので、続きです。多様な価値観を醸成するためには、何より強い思い込みを排除する事から始める必要がある様です。いわゆるイデオロギーなどと言うものは、狭い価値観への思い込みに他ならないでしょう。一般的な意味での神様や個人や偶像崇拝もイデオロギーと同じようなものでしょう。では、このブログでさながら「神様」の様に扱っている「環境」は偶像ではないのか、との突っ込みを受けそうですが、決してそうではありません。そうではなくて、ここでは私たちは環境にすっぽりと包まれて、どうにか生かされている、ちっぽけな存在に過ぎないとの想いを書き連ねているだけなのです。

さて、多価社会への道ですが、それぞれの価値観を持つ人たちが、垣根を低くして、出来るだけ緩く繋がるというアプローチが最善の様な気がしています。価値観に凝り固まってしまうと、異なる価値観の人達の間に「壁」を作ってしまいがちです。実際、海の向こうの新リーダーは、ナントカ令の頻発で往来の壁を築き、それでも足りずに国境に物理的な壁まで築こうとしているではありませんか。あのベルリンの壁崩壊の歴史的な意味は、一体何処にすっ飛んでしまったのでしょう。壁さえなければ、「お隣の価値観」をチラッと覗いたり、気楽に足を踏み入れたりするのも自由でしょう。

緩い繋がりはもっと大切でしょう。額に筋を立てながら、あるいは口角泡を飛ばしながらの議論からは何も生まれない事は、国会の様子を見ても明らかでしょう。言いたい事を言って、のらりくらりの言い訳を聞いて、最後は数で押し切る訳ですから・・・。そうでなくて、政党などと言うものは、もっと緩いものにして、自由に行き来が出来る様にすべきなのです。節操が無くなる訳ではないでしょう。是は是、非は非と言う態度を貫くだけの事なのです。法案ごとに、賛成・反対が大きく傾くなら、法案の作成ももっと少数意見も盛り込んだ「まとも」なものになる事は請け合いです。と言うより、何もかも盛り込んだてんこ盛りの法案などは出せなくなって、細切れの法案の山とせざるを得ない訳です。そうなると、国会も通年開催となり、議員と言う仕事も老体にはとても勤まらない若者の職業になる筈です。と言うより、今や議員は職業ではなく「身分」になり下がってはいますが・・・。残念ながら。

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2017年3月18日 (土)

3245 多価時代への道

3244で書いた一価社会からの多価社会への脱皮方法を引き続き考えてみます。キーワードは「縛り」でしょうか。つまり、一価社会では、強い宗教観なり価値観で、社会全体が縛られていると思うのです。例えば、国が地方自治体を「地方交付税」で縛るとか、金利で銀行を縛るとか、あるいは教育を助成金の多寡でコントロールするとか、あるいは教育を「何とか勅語間がい」で縛るとかを例示する事が出来るでしょう。国家と言う縛りが極限で突き進んだ結果は、第二次世界大戦時のいくつかの国々や戦後の赤い国を思い出すだけで十分でしょう。

さて国にはどちらに向かっているのでしょうか。再々に亘って国益と言う言葉を連発するこの国のリーダーは、果たして国民をある価値観で縛ろうとしているのかどうか、私たちは周囲深くウォッチする必要があるのでしょう。そのチェックポイントとしては、やはりリーダー(が属するFaction)が、他の意見に耳を傾けているか否かと言う点に尽きるでしょう。その際、テレビ映りを気にしての茶番に終始する国会中継はそれとして、またそれをネタに小さな問題を大きく膨らませるのが得意のマスコミや週刊誌はそれとして、私たちはそれらに惑わされない、個々人のブレない視点を持っておく必要もあるのでしょう。

ブレない視点とは、結局はその人自身の「個人的価値観」そのものである事は自明です。起こっている、あるいはこれから起ころうとしている事が、望ましく、また好ましいものであるかどうかの判断は、まさにその価値観に掛かっている訳です。価値観はバラバラで別に統一する必要はないのですが、しかし何かを決議する時には、何らかの形で意志を統一する必要があるのは勿論です。そのために、多数決などと言う「一見民主的」なプロセスも決まってはいるのですが、時には今のこの国の状況の様に数の論理が暴走する事もあるでしょう。

そこで、投稿者が折に触れてこのブログで推奨しているのは、決議にその決議を受け取る事になる将来世代を参加させる事なのです。もし、将来世代を直接参加させる事が現実的ではないのであれば、それを代弁する人の意見を聞き、それと矛盾しない形で決議を行うべきなのです。現世代だけの利益を考えて決議された法案の何と多い事でしょう。最近決まった税制や医療や介護や教育関連等の法制は、まさに殆どが「現世代エゴ」と呼ぶしかない状況でしょう。表題とは少しズレてきましたが、今回はここまで。たぶん続きます。

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2017年3月16日 (木)

3244 一価時代

投稿者は一応理系だったので、理屈で割り切れない、ココロの問題や宗教論などは不得手で、どちらかと言えば無意識に避けてきた様な気がしています。しかし、そうではあっても「一神教」に関しては、一言言って置かなければならないとも思ってます。別に得手ではないので、Cリスト教やB教やMスレムなどを論ずるだけの知識もありませんしそのつもりもありません。しかし、いわゆる一神教というものは唯一無二の神(これを価値観と言っても良いでしょう)を信じ、他を排斥する(しがちである)ことは指摘しておく必要があると思うのです。そうでなければ、歴史上絶える事が無かった「宗教戦争」などとても説明することはできないでしょう。

つまり、一神教社会とは言葉を替えれば「一価社会」でもあるとも言えるでしょう。それで何が悪いかですが、最も、マズイのは価値を共有できない人々やコミュニティを排除しようとすることだと断言できます。最悪の場合には、排他性は紛争や戦争の引き金を引く事にもなるからです。さて、この国の場合はどうでしょうか。神も仏も八百万の神々も、ご先祖様も、山も川も湖も全て受け入れて畏敬の念をもって接してきたこの国の価値観は、ある時期(敢えて絞り込むなら高度成長期)以降、神様としての「お金」を崇拝する様になってしまった様なのです。別の言葉で言えば拝金主義や(経済)成長神話社会とでもなるのでしょうが、いずれにしても国(地方自治体)が出来るだけ多くのお金を集めて、それをばら撒いて国民をコントロールするか、に集中してきた社会だと断じても良さそうです。

もちろん、個々人の幸福はお金の多寡だけに依存するものではない事は明らかです。人の数だけ、生き甲斐や価値観は異なるのかも知れませんし、それを実現する手段もお金やモノだけでは無い筈です。その意味で、私たちが目指すべきは「多価社会」であるべきだと言えるでしょう。宗教的にも価値観的にも異なる人達やコミュニテイを認め、お金やモノ以外のものに価値を認め、自然環境や生き物にも権利を認め、その中で環境負荷を最小限に留めて暮らす社会こそが、目指すべき社会だと、どうにか環境人間に脱皮できたらしい投稿者は言いたいのです。

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2017年3月15日 (水)

3243 新規性と進歩性

新規性とは、これまでに無かった何かが新しく付け加わることを指しますが、それが好ましい事であるかどうかは別の問題になるでしょう。一方、進歩性とは、望ましい方向に一歩踏み出すための何かを指すのであり、一定の方向性(ベクトル)を持つものと言えそうです。もちろん、そのベクトルとは望ましい変化の方向を意味するのですが、現代の様に人々の価値観がバラバラで、共通のベクトルが定まらない時代においては、それを定義すること自体が困難な作業だと言えそうです。

しかし、それでも私たちは将来あるべき社会の青写真を描かなければならないと思うです。そうでなければ、それは目的地が無い船に乗って、大海をフラフラ漂流しているのと何も状況は変わらないからです。船頭(船長あるいは政治家)が船の行き先を決める訳ではありません。彼(ら)の使命は、船を目的地に向けて、安全な航海を続ける事であるに過ぎないからです。行き先を決める義務と責任は、船に乗り込んでいる乗客自身の意志によって決められる必要があるのです。

しかし、この国の風潮を見ていると、国民は、国の方向を決めてマツリゴトを進める権限をすべて政治家や行政に丸投げしている様にしか見えないのです。丸ごと受け取った筈のお国のリーダー達は、いつまでたっても、国会で「批判と言い訳の堂々巡り」を繰り返しているだけの様に見えます。一体、最近の国会の議論で心から喝采を送れるような議決がまとまったことがあったのでしょうか。少なくとも投稿者には、その記憶はありません。つまり、一見新しい議決ができたとしても、それは新規ではあっても進歩には繋がっていないと言うしかないのです。多くの議決は、目の前の問題の対策に過ぎず、進歩にはつながっていないのです。進歩の無い活動を指して「停滞」と呼ぶのです。今後この国を、どの方向に導くかを誰が責任をもって議論してくれているのでしょうか。60数年生きてきましたが、まだその様な人の存在を知りません。もちろん、かなり時代を遡れば、いわゆる骨のある評論家や論客もそれなりに存在したのでしょうが、最近はトンと見かけた記憶が無いのです。寂しい限りです。今日も批判ではありません。ため息です。

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2017年3月12日 (日)

3242 環境変化の幅

環境変化の幅を指して、私たちはしばしば「ストレス」という言葉を使います。例えば、殆ど温度変化の無い部屋にずっと住んでいると仮定すると、私たちには気温の変化と言うストレスが掛からない事になるでしょう。しかし、夏は35℃を超え、冬には零下に下がる地方が殆どを占めるこの国では、体に対しては結構な気温ストレスが掛かっていると言えるでしょう。もちろん、広く地球全体に視野を広げれば、砂漠地帯の様に、日中と明け方の一日の気温差(日較差)が50℃にもなる場所もありますから、この国でさえ比較的マイルドなストレスの地域だと言っても良さそうです。

もちろん、ストレスが全て悪い訳ではありません。それどころか、ストレスは必要だとさえ言えるでしょう。ストレスが無ければ、私たちの環境への適応力が弱まってしまうからです。宇宙空間に長期間滞在した宇宙飛行士は、多くの点でストレスフリーの「実験室内」に住む事になります。温度は、当然の事ながらほぼ一定です。もし、宇宙ステーション内の気温が、+/-5℃程度でも上下させているとするなら、かなり良い設計だと言っても良い程です。気温ストレスの他、湿度や重力のストレスからも解放されますので、体は怠ける一方になる筈です。加えて、「完全に」空調されている船内は、多くの細菌からも無縁な状態、つまりは無菌室状態に近く維持されてもいるでしょう。彼らは、私たちが日常晒されている「軽微な」細菌ストレスからもフリーな状態である続けるのです。

さて、僅か半年のストレスフリーの環境が何をもたらすかですが、言わずもがなの「極端にひ弱な」人間を創り出してしまうと言えるでしょう。宇宙飛行士は、取り敢えず横にされたまま無菌室の様な部屋に入れられ、地上の重力に慣れるまでは起き上がる事さえままならないのです。一週間もすれば徐々に動ける様になり、数か月のリハビリ期間の後にやっと「娑婆」に出して貰える事になるのです。ストレスが、如何に私たちにとって必要不可欠であるか、改めて認識する必要がありそうです。ストレスには、体に負荷を掛ける肉体的ストレスもありますが、精神的な苦痛にも耐える力を養う、精神的ストレスなどもあり得るでしょう。この他にも、チャンスをじっと待つストレスや、ままならない状況を地道な努力を重ねながらじっと耐えると言ったストレスもあり得るでしょう。現代人は、多くの面でストレスフリーを嗜好している様に見えますが、その様な状況に慣れてしまった人々の将来は決して楽観できないと言うしかありません。

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2017年3月11日 (土)

3241 用不用説

進化論に興味があって、時々関係する本を読みます。用不用説と言えば、すぐラマルクさんを思い出しますが、生まれてから必要となって獲得した形質は基本的には遺伝はしないので、進化論の歴史の中には必ず出ては来ますが、今や誰にも見向きもされない説となってしまいました。確かに、ミャンマーの首長属の女性の金属環を数多く嵌めて伸ばした首は、自分の子供には遺伝はしません。もちろん、生まれながらに首が長く、部族では「美しい」とされる女の子は、大事にされより多くの子孫を残す可能性はありますが、それとて一定の範囲の中での話でしょう。

しかし、社会や文化の話として敷衍する、ラマルク説はいまだに十分通用する理論ではないかと投稿者は思っているのです。というのも、社会や文化の持つ価値観は、世代を超えて受け継がれるので、「遺伝する」と言っても良いと思うからです。同様に、ある社会にとってある時期「有用」であるとされたシステムも世代を超えて受け継がれるでしょう。しかしながら、社会や文化の価値観は比較的短時間で変わってしまうのに対し、社会システムの変化は鈍いのです。この国の価値観は、例えば「東日本大震災」で、しかも短時間で大きく様変わりしてしまいました。それまでの経済や効率優先の社会が、数日の内に、原発のハイリスク性が強く認識され、「命」の大切さや「絆」といった言葉が社会のムードを飲み込んでしまったのでした。

しかし、社会システムはそうではありませんでした。官僚組織やそれに付随する行政システムは微動だにせず、原発を含めたインフラの殆どは(東北の一部を除いて)温存された結果、喉元を過ぎればまたぞろ「原発再稼働」などに走ったことでもそれは明らかでしょう。つまり、原発は20世紀型の社会システムの延長である現在の社会インフラでは、曲がりなりにも「必要」と判断されてしまった訳です。もちろん、国民投票にかけた訳でもないので、絶対多数与党の独走の産物であることは間違いありません。

来るべき社会の価値観として、しかしエネルギーの需要と供給システムへの要求は別の方向を向いていると考えるべきでしょう。Q州電力では、瞬間的には70%を超える再エネ電力で需要を満たした実績ができました。供給の中身は、太陽光発電と風力発電が大部分だったと想像していますが、やれば出来ることを証明した点では重要な一歩でしょう。必要なことは、既存インフラから見た用不用政策ではなく、多様な価値観からの要求であり、それを満たす供給側の多様性だと思うのです。それは、何も電力に限った話ではないのは当然です。

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2017年3月10日 (金)

3240 日の丸

日の丸について考えてみました。日の丸(日章旗)は、非常にシンプルなデザインで、古くからこの国(日ノ本)の象徴であった太陽をシンボライズした意匠は分かりやすく、好感の持てる旗だと言っても良いでしょう。しかしながら一方では、天皇制や日出国の民族であるとの民族意識とも相まって、過去の戦争の歴史も含めて、偏った思想のシンボルともなってきたのでした。それは、天皇制や神社信仰やいわゆるU翼活動などとも複雑に絡み合って、右寄りの人々のシンボルともなってきたのでした。

国旗の位置づけはそれぞれの国で多様なのでしょう。生まれたばかりの国、紛争を繰り返している国、苦労の末に独立を勝ち取った国、さらにはこの国の様にずーっと存在し続けた国などなど、国旗が重要なシンボルとなっている国々もあれば、そうでない国も、時にはそれが焼かれることもあるかもしれません。しかし、好ましくないのはそれを眺めた時、眺めた人々に、他の人々を排斥しようとする気持ちや、自分たちのグループの信奉するイデオロギーだけが正しいという偏った思想のシンボルとして扱われる場合でしょうか。彼らの集まりで、壇上に恭しく掲げられる日の丸に、何やらアヤシイものを感じてしまうのは投稿者だけではないでしょう。

そうではなくて、国旗は人々が集い、同じ方向を目指す「旗印=standard」でなければならないと思うのです。この国の目指すべき方向は、一体どっちなのでしょう。口を開けば、景気浮揚や国際的緊張やB国の顔色を窺う発言しかしない、この国のマツリゴトに関わる人達(一応リーダー達と呼んでおきますが)から、目指すべき国の理想像などいった言葉が一切聞かれないのは、全く寂しい限りです。今回も批判ではなく、単なる嘆息でした。

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2017年3月 8日 (水)

3239 フェイク・ツイッター?

そもそも、独り言である筈の「つぶやき」に一々反応したり、炎上させたりする必要があるのか、大いに疑問です。このブログにしたって、独り言と明言しているので、書いたことに関しての苦情は受け付けるつもりもないですし、特に誰かから褒めて貰いたいとも思っていません。敢えて、ツイッターやブログを書く人たちの気持ちを察するならば、できれば誰かの共感を得たい、といった程度の軽い気持ちなのでしょう。

しかるに、語調のきつい「あの人」のつぶやきと言ったらどうでしょう。誉め言葉などほとんど見られず、自分の気に入らない人々を攻撃する言葉であふれています。攻撃ならまだマシですが、そもそも謂れのない(事実無根の)つぶやきに至っては、何をかいわんやでしょう。フェイク・ニュースという言葉を流行らせた人へお返しするには、彼のツブヤキは「フェイク・ツイッター」と呼ぶしかなさそうです。

と言いながら、そのフェイク・ツイッターに反応してこんな独り言を書く自分自身にも何か割り切れないものも感じてしまいますが・・・。いずれにしても、現代人は他人のツブヤキに敏感になり過ぎであることは間違いないでしょう。それをわきまえた上で、では何を取り上げ、何を無視するのかという「情報フィルター」がますます重要になって行く筈なのです。投稿者がおススメしたいのは、何かに反応する場合でも、数日間をおいてリアクションする方法です。人々の怒りは6秒以内にピークに達し、その後は徐々に弱まります。しかしながら、他の人が怒りの対象に対してリアクションするのを見て、怒りが再度こみあげてくるものの様です。もちろん、3か月(75日)も経過すれば、怒りがあったことすら忘れてしまうのでしょうが、それでなくとも3日や1週間も経てば、物事を冷静に判断することも可能になると思うのです。いきなりリアクションしたり、他の人のツイートの尻馬に乗るのは厳に慎みたいものです。ましてや、根拠も示していない様なフェイク・ツイッターなんぞは、完全無視で良いでしょう。

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2017年3月 6日 (月)

3238 報道フィルター

どうも最近報道に変なフィルターが掛けられている様で、もどかしい。何やら、透明度が低いレースのカーテン越しにマツリゴトを見せられている様な、ひどいフラストレーションを感じているのは投稿者だけではないと想像しています。日々のニュースはと言えば、少し前は豊洲の話題、今は関西のの私立小学校への国有地の投げ売り疑惑だけで、たまにB国の西洋花札大統領のツブヤキへの過剰反応報道程度しか見当たりません。

しかし、その報道も中心がかなりズレていて、的を大きく外しているとしか見えません。例えば、豊洲問題ですがその核心は、地下空間ににじみ出てくる地下水の汚染濃度ではなく、そもそもあの地下空間にあったであろう、ひどく汚染された土壌を掘り出して、一体何処に処分したのか。その結果、それが埋設された先で新な汚染問題が生じていないか、という点だと思うのです。例えば、かつて豊島という瀬戸内海に浮かぶ島に、大量の産業廃棄物が埋め立てられ、目も当てられないほどの汚染問題を引き起こした過去の教訓を忘れるべきではないでしょう。

国有地の投げ売り問題は、確かに国有財産への政治家が絡んだたたき売り事件ではありますが、そもそも戦前の時代錯誤教育を現代に持ち込もうとする輩に対し、何も手を打ってこなかった教育行政こそ問題の核心だと思うのです。教育勅語の全てが悪ではないのでしょうが、それを暗唱させられた子供の将来が、教育行政側は心配にならないのでしょうか。真の問題は、政治家を巻き込んで土地を安く手に入れたことでも、開校後の収支計算がデタラメである事でもなく、極端に右寄りの教育の中身の筈なのです。

おっといけない、そう言えばこのブログは批判はご法度にしていたのでした。とは言いながら、あまりにも弱腰で的外れの報道に対しては、批判ではないが「お小言」を書いておかない事には、ますますこの国が訳が分からない社会になってしまいそうで、本当に心配になるのです。老爺心ながら・・・。

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2017年3月 4日 (土)

3237 熱電併給

東京BSで開催中の、再生可能エネルギーの展示が多いイベントの最終日、バイオマス発電に注目しながら、駆け足で展示を見てきました。バイオマス発電は大きく分けて3種類ほどの方式に分けられそうです。一つ目は、古くからの技術ですが、バイオマスボイラで蒸気を発生させ、蒸気タービンを回す方式です。タービンで使った蒸気を、再度水に戻すための熱交換器(復水器)なども必要であるため、システムとして複雑で小型化が難しいという欠点があります。二つ目は、木質燃料をガス化(乾留)し、主には水素と一酸化炭素の混合ガスを発生させ、そのガスでガスエンジンを動かすという方式で、小型化も可能ですが、乾留ガス中のタール分の除去など、やはり少し面倒な点があります。もう一つは、バイオマス燃焼で得られた高温のガスで、外燃機関(スターリングエンジンであることが多いのですが)を動かす方式で、小型化には最も有効な方式だと言っても良いでしょう。

もう一つ投稿者が有効な方法だと思っているのは、例えばバイオマスボイラの煙道に、多数の熱電素子を貼り付け、直流電流を得る発電方式で近年素子の価格が下がってきたこともあり、かなりコストパフィーマンスが改善してきたと感じています。100ワット程度であれば、1万円以下の電源を得る事も容易に可能となってきています。その電源をバッテリーに蓄えておけば、ボイラ運転のための自立電源としても使えるでしょう。

いずれにしても、バイオマスエネルギーを発電目的だけで使うのは、無駄が多くて実用的ではありません、いわゆる「熱電併給」として、電源及び熱源の両方を供給する方式とすべきでしょう。理想は、半々ですが、効率最大を狙うのであれば、方式にもよりますが、電力:熱を1213程度にするするのが現実的な解となりそうです。そのうえで、総合的な熱効率として90%程度を目指すアプローチが期待されます。その意味でも、投稿者の推奨する熱電素子方式では、既に85%程度の熱効率を達成している温水ボイラに簡単に付加してさらに高い効率が容易に達成出るのおススメだと言っておきます。いずれにしても、小型のバイオマス発電は、やっと各メーカーが注目して出して開発し、トップランナーが市場にと投入してきた、というタイミングだとみています。

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2017年3月 2日 (木)

3236 将来への盲信

人はある時期から、将来への盲信を始めた様です。そうでなければ、例えばEギリスで始まった、高価な荷物を積んだ船が無事に帰ってくれば大儲けで、途中で沈没したらパアになると言った海運の「博打」の様なリスクを避けるための海上保険の引き受けや、あるいは企業の将来の利益を見越しての株式投資などはやれたものではないでしょう。今や、ほぼ全ての人は、将来も今の制度が続く事を100%信じて、株を買い、お金を預け、あるいはローンを組み、年金の掛け金を支払う訳です。

もちろん、銀行の金庫には、預金者から預けられた預金金額がそのまま残っている筈もありません。殆どは、投資先や貸出先に移動しているので、多分預金残高の1/10以下を大きく下回る「現金」しか「在庫」していない事でしょう。銀行の財産や預金残高は、デジタル化された数字として、コンピュータネットワーク上のサーバーに記録されているだけなのです。

しかし、盲信が不信に変わった時、一体何が起こるのか、時々不安になるのです。それを発行する国家の信用に裏付けられている「紙」でしかない通貨が、本当にただの紙になってしまう事が無いとは言い切れないからです。信用が極限まで膨らんだ時、それが破裂する場合もあるからです。価値をストックするには、お金にかえて貯蓄をするかタンスに隠しておくか、それを貴重なモノ(例えば貴金属や宝石)に換えるか、あるいは消費可能なモノ(例えば食料)、さらには動産や不動産の様な形のあるモノに換えるかなどの方法があるでしょう。現物であるモノは別にて、お金や貴金属などというものは、いわば時価であり、必ずしも絶対的な価値があるというものではありません。それは単に価値を表す「シンボル」に過ぎないとも言えます。

私たちのシンボルへの盲信、ひいては将来が現在の延長線上にあるという盲信がいつまで続くのかは分かりませんが、このまま盲信の膨張が続けば、やがてはそれが爆発を起こさないという保証はどこにも無いでしょう。その時は、たぶん価値観の大転換(意識の革命)が起こるのかも知れません。かつての「物々交換」の時代に少し戻るのか、あるいは別のシンボル(例えば新しい電子マネー=ビットマネー)の様な奇怪なものになるのか、見守ることにいたします。

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2017年2月27日 (月)

3235 モノの価値

長期の出張から帰って、投稿再開です。暇な時は、モノの価値について時々考えます。モノの価値は絶対的なものではなく、当然の事ながら個人や社会の持つ価値観と結果としての相対的な価値で決まるものだと思います。先ずは価値観ですが、これも人や社会によって大きな差があるでしょう。それは、ヒトを「人間」と書くように、ヒトは群れて社会を作る存在であり、その社会の中で揉まれて初めて価値観を醸成していくしかないからです。社会的に承認されない価値は、最終的には個人にとっても価値が無いと感じてしまうでしょう。

さて、今の世界で普遍的に価値が認められているものに「お金」があります。その昔「お金」は入手が難しい金属、とりわけ貴金属で作られ、その価値は当然の事ながらその重さで決まっていました。取り分け金(ゴールド)は、その希少性と現代ではエレクトロニクス向けなどのメッキ金属の仕手の重要性ゆえに、未だに大きな価値を持った金属であり続けています。とはいうものの、ゴールドが持つ価値の総量は、その埋蔵量と流通量の範囲内に限られるでしょう。

しかし、今世界中に流通している「お金=通貨」持つ価値の量は、ほとんど無限の様に見えます。各国の通貨発行を担う中央銀行が、紙幣印刷機や貨幣製造機を動かせば、事実上いくらでも発行できるからです。もちろん、いたずらにマネーを発行し続ければ、その通貨の価値は下落し、信用を失うでしょう。その意味で、現在のマネーの価値は、それを発行する国の信用の上に保証されているだけの「儚い」価値だというしかありません。もし、本当に必要なモノの供給がひじょう極端に不足して手に入らなくなった場合、相対的にお金の価値は下落し、いくらお金を積んでもモノが手に入らない事態に陥る事でしょう。つまり、お金の価値が「相対的に」下落してしまったのです。

さて、どの様な時代になっても、どの様な社会で暮らしたとしても、必要最小限の水や食料とエネルギー源などは、確実に価値を持ち続けるモノであり続けるでしょう。水や食料無しには、私たちは1か月も暮らせないでしょう。夏はともかく、寒い冬は何らかの暖房や煮炊きに使うエネルギー無しには暮らせないでしょう。かつて北米のイヌイットは、氷で出来た家に住み犬ぞりを駆使して猟に出て、海獣の生肉や干し肉で暮らしていたかも知れませんが、現代社会では猟にはスノーモビルが不可欠ですし、暖房の効いた家に住んでもいます。先ずは、衣食住の基本部分についての価値を認識し、その自給自足に少しでも近づく努力が必要なのでしょう。しかし、都会の高層マンション暮らしでどれほどそれが現実的かを考えれば、途方に暮れるしかないのでしょうね。

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2017年2月16日 (木)

3234 重厚長大産業の終焉?

T芝の凋落が加速しているとの報道が続いています。しかし、これは引いた目で見ると、もしかして重厚長大産業の終わりの始まりとも見えてしまうのです。曲がりなりにも、重厚長大産業の片隅でサラリーマン時代を過ごしてきた身としては、その気配を身近に感じざるを得ないのです。投稿者の若かった時代(70年代)は、重厚長大産業は華やかでした。産業のコメである鉄が大量生産され、その原料や製品を運ぶ大型船は、作れば飛ぶ様に売れたのです。それを下から支えるインフラ、電力網や道路網や都市インフラが日夜伸び続け、大量生産、大量輸送、大量消費の時代に突入したのでした。まさに「大きい事は良い事だ」のCFそのままの時代だったのです。

戦後解体させられた大企業は、再び直接あるいは間接にまとまり、「寄らば大樹」の時代になったのでした。豊かになった消費者に支えられて、家電や車産業も急速に拡大し、そのすそ野も大きく広がったのでした。インフラ整備の背景で、この狭い国土に原発が50基以上も建設され、「安定電源」として国策としても後押しされてもきたのでした。モノが大量に消費される際に出るゴミも、各自治体にそれぞれ数百億円もの巨費を投じた大型ゴミ焼却炉が建設され、結果としてゴミは分けずに燃やす時代になったのでした。

この時代を、影になり日向に立ちながら裏から支えたのが重厚長大産業だったのです。その中に数十年席を置いた立場としては、自分のサラリーがそこから出ているとはいえ、あまり納得していたのではなかった、と振り返っています。だからこそ、世間のサラリーマンよりはかなり早めに企業を卒業する事としたのでした。

さて、重厚長大産業の行方です。結論から言えば、それぞれが適正サイズに分割、または縮小せざるを得ないのでしょう。時代が、もはや巨大なインフラ建設を求めては居りませんし、今後はむしろ既存インフラへの細かなメンテナンスが必要な時代に入って居ると言えるでしょう。大量生産、大量輸送、大量消費時代は終わりを告げ、必要なものを、必要なだけ、必要する地域で生産する事が是とされる時代に入らなければならないのです。それは、単に投稿者だけの勝手な予測ではなく、それこそが時代の必然だと思うのです。

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2017年2月15日 (水)

3233 ポストモダニズム

3231の続きの様なものです。なんとなく分かったつもりの「ポストモダニズム」という言葉ですが、自分の頭の整理のためにも少しだけ嚙み砕いてみます。さて、近代文明は、あらゆる部分で閉塞感を呈し始めている様に思えます。建築の分野で、1980年代に叫ばれ始めた「ポストモダン」は、その後概念としてのポストモダニズムとして一般化され、それまでの唯一無二の価値観の文化から、多様性を重視する文化論へと進化したのでした。

ポストモダニズムの背景には、3232でも書いた様に、価値観が固定されている社会では、どうしても行き詰まる場面が多くなることが隠れていそうな気がします。何しろ、それまでの価値体系では、ああすればこうなるという起承転結がほぼ決まっていますので、それから外れる事は許されないか、悪くすれば批判の対象ともなるからです。しかし、多様性が許される社会では、アプローチのルートが数多くあり得る訳で、ゴールですら一つではなく、複数存在し得る訳です。

その意味で、投稿者としては、20世紀を通じて支配してきた価値観、つまりは科学技術に依拠して、国際交易を活発にする自由主義経済とその成長を100%是とする、「モノ・カネ」主義が、ソロソロ期限切れになってきたのではないか感じているのです。とは言うものの、ではどうすれば良いのか、と言う漠然とした問いに応える理論的リーダーや新しい宗教家もまだ現れていない様なのです。このままでは、ポストモダンはそのまま「カオスの時代」に突入してしまうのでは、と言った危惧すらありそうです。私たちは、一体何に価値を置き、あるいは生き甲斐を持って生きて行けば良いのでしょう。表題のポストモダンが何処かに行ってしまいましたが、引き続き、この単純な頭で考えていく事にします。

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2017年2月14日 (火)

3232 ポスト契約社会

西欧社会やモスレム社会を含め、言わゆる「一神教」の世界は、たぶん契約社会だと言っても良いのでしょう。つまり、その社会を構成する人々は、唯一無二の神や預言者との間に無条件に「信仰と言う契約」を結び、同時に他の宗教を排除すると言う「契約」を結んでいる社会であるとも言えるからです。従って、これらの社会では物事の取り決めに「契約」が重視され、シェークスピアの戯曲ではないですが、時にはそれ契約が人の命さえ左右しかねないものとなる場合もあるのです。

しかし、契約社会は一方では逃げ道の無い社会でもあり、もっと言えば限界のある社会でもあると思うのです。契約に無い事は、しなくても誰も咎めませんが、同時に神や預言者の残した言葉の範囲からはみ出ることもできないからです。何故なら、それが絶対的な真理だと信ずると「契約」してしまっているのですから。真理を疑うことは、契約上できない相談ですし、真理からの逸脱は、未だに思い罰の対象である一神教社会も多いのです。他者との契約では、その契約を「言い訳」に使う場合も多いのではないかと疑っています。教義に無いことは、存在しないも同然ですから、無視しても良いと判断できますし、他の社会では許されない事でも、教義が許せば実行しても構わないと開き直れるのです。

一方で、かつてのこの国の民の様に特に契約などせずに、八百万の神々を「畏れ敬う」というアプローチもあり得るのでしょう。そのメリットとしては、何しろ契約などしていないのですから、畏敬の念は持ってはいても、完全にそれに縛られる必要もないでしょう。しかし、だからと言って何を信じても、何をしても良い完全な自由が許されるという訳ではありません。それにブレーキをかけるのは、たぶん「内なる誓い」ではないかと思っています。自分で自分の欲望に打ち勝つには、自分に許されるリミットを自覚し、それから踏み出さないことを自分に誓うという行動です。別に、神や預言者に「規定」されなくとも、人としてして良いことと、してはならないことは、自ずと決まってくると思うからです。その基準としては、環境屋になった投稿者としては、全ての価値観に優先するのは、実は「持続可能性」ではないかと言いたいのです。たぶん続きます。

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2017年2月13日 (月)

3231 ウィルスとしての文化(論)

最近ブログに書くネタが少なくなって来たような気がしていましたが、考えてみればここしばらく本を殆ど読んでいない事に気が付きました。単身赴任の数年間は、仕事が入っていない時は暇を持て余して、夏は山々に入って彷徨し、冬は読書に勤しんでいたものでしたが、竟の住み処を構え連れ合いと再び同居を始めると、何かと雑用が増えて、本から離れてしまっていた様なのです。そうなると、人間の頭の中身などは知れているので、毎日ブログを書き続けていると短期間の内に「ネタ切れ」になってしまう様なのです。ネタは、読書や人との密な交流から生まれてくるものらしく、最近は頭の中が少し薄まっていたかも知れない、と反省した次第です。

早速図書館で、少し前話題になったYNハラリの人類の全史と題された本を借りてきたのでした。上巻は誰かに借りられていたので下巻から読み始めましたが、この壮大な文明論はなかなかに刺激的でもありました。その中で少数意見として引用されていた、いわば「ウィルスとしての文化論」に強く共感してしまいました。そこでは、文化は、その文化圏に所属する人間の体を「宿主」として増殖するウィルス様に、その社会の構成員の利益などには頓着なく、文化それ自体の繁栄と存続のために、人間を利用するものだ、と言うやや乱暴とも言える考え方なのです。

しかし、投稿者なりに、例えば経済活動に置き換えてみると、何故かすっきりと理解出来る様な気がしてくるのです。文化を、例えば「マネー」に置き換えてみましょう。つまりは、お金は決して金持ちのためにあるのではなく、お金は自分自身を増殖させるために、貧乏人を踏み台にしつつ、金持ち達を利用しているに過ぎないとも考えられるでしょう。ある金持ちが、ビジネスや利殖に失敗して落ちぶれようが何しようが、お金は次の宿主(他の金持ち)に乗り換えて、更なる増殖を続けるだけなのです。お金=ウィルスと見做せば、今の文明=自由主義経済が持続する限り、お金の量が減る事などあり得ないという結論になりそうなのです。いわば、お金=ウィルス論も成り立ちそうな気がするのです。

この見方を文化(文明)に敷衍すれば、人権と自由主義経済と科学技術を是とする今の文明は、人類が滅びようが、自然が取り返しがつかないくらい破壊されようが、人類を利用して行き着くところまで突き進んでしまう、と言う悲観的な結論に至ってしまいそうなのですが・・・。残念ながら。

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2017年2月12日 (日)

3230 MustとWant

サラリーマン時代、上司から業務遂行の優先順位の付け方に関して繰り返して叩き込まれたように振り返っています。それは、業務をMust(絶対期限まで終わらせなければならない事ども)とWant(それが望ましい事ども)に分け、先ずはMustから手掛けて完了させる事を優先せよ、といったものでした。Wantも勿論重要ですから、Mustをやっつけた後には当然の事ながら直ちに着手する事にはなりますが。

さて、今のこの国のリーダーと取り巻きの最重課題すなわちMustは、間違いなく「景気対策」である様に見えます。そのためには、禁じ手に近いマイナス金利や、遠回しの円安誘導や、あるいは赤字国債の増発による史上最大の予算を打ち出すなど、手段を選ばず、といった政策を続けているのでしょう。また同時に、景気対策にもなるとして輪が五つあるお祭りの国を挙げての誘致でも、リーダー自ら乗り込んで行ってのプレゼンで、フクシマには何も問題は無いなどとする強弁をもって無理やり引っ張ってきたのでした。

しかし、この国のMustは決して景気対策Onlyではないでしょう。フクシマ収拾問題は、マスコミの露出頻度が低下しただけであり、格納容器の中ではリモートカメラが短時間で故障してしまうほどの、強烈な放射能で満たされている事態に何ら前進は見られない状況は変わってはいません。それどころか、汚染水処理の問題はますます深刻になっているでしょうし、短時間のカメラ映像でも、格納容器下部に溶融落下したデブリの状況は、予想以上に手が付けられない過酷な状況であることが明らかになってきた訳です。フクシマ事故の早期収拾こそ、この国のMustでなくして、一体何を挙げるべきなのでしょう。

一歩譲って、景気対策がWantであるにせよ、B国の新リーダーにすり寄ってまで、集中すべきIssueではないでしょう。オッと、また愚痴になりかけていますので今日も短く。

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2017年2月11日 (土)

3229 木質燃料2

品質幅の大きな燃料を上手く使いこなすためには、工夫が欠かせません。工夫の重要な一つは、「空気量=酸素量」でしょう。ある発熱量を持った燃料(炭化水素)は、ある量の空気量で完全燃焼し、それ以上の空気量では空気過剰、それ以下では不完全燃焼を引き起こすでしょう。しかしながら、供給される燃料は、必ずしも一定ではなく、時々刻々変動するので、空気量を固定していては完全燃焼状態を持続させる事は出来ないのです。そこで、排気ガスの残存酸素量をモニターして、その量に応じて空気量を増減させてやる必要があります。つまりは燃焼制御です。

一方で、石油やガスとは異なり、木質燃料では燃やすためには先ずは輻射熱で燃料を加熱し、燃料をガス化してやる必要があります。つまり、燃焼皿に燃料を置き、着火させるだけは条件としては不十分なのです。燃焼皿の中の燃料を持続的に燃やすためには、供給された燃料を速やかに発火温度(300℃後半)に上昇させなければならないのです。そのためには、燃焼ポッドの設計は重要でしょう。蓄熱性が髙く、輻射熱を多く発する材料としては、元技術屋としては、やはり「鋳鉄」が最適だと思っています。

更に言えば、木質燃料の最適な燃焼を持続させるためには、燃焼後に残る「燠(おき)」と、新たに供給される燃料との位置関係やそれらが作る形も重要です。つまり、下に燠があり、上に燃料が置かれて、下から空気が供給される時、理想的な燃焼が始まるからです。これらの条件を実現するのは結構大変です。しかし、木質燃料は、3228にも書いた様に、燃料性状のバラつきが大きいため、石油やガスバーナーなどとは比べものにならないくらい上手い工夫が求められるのです。結局、それを実現するためには、燃焼制御にきめ細かいパラメータが設定できる機能を盛り込んでおく必要があるのでしょう。取り分け、燃料供給量と空気量の微調整が出来る機能は必須です。国産のペレットストーブ(ボイラ)やチップボイラには、先進的な機能を持つ欧州製に比べて、それらの機能が不足している点は、やはり寂しいものがあります。「頑張れ国産」と結んでおきます。

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2017年2月 9日 (木)

3228 木質燃料

ペレット(ボイラ)生活を始めて20日ばかり経過したが、強く感ずるのは、やはり木質燃料は、石油やガスとは違う、いわゆる固形燃料であるという点です。モノが燃えるのは、当然の事ながら液体や固体が直接燃える訳ではありません。いずれにしても、液体の燃料や固体の燃料が、ガス化した上で、燃焼空気と適度に混じり合い、それが発火温度以上であれば燃焼するという順番になるのです。特に固形の燃料の場合は、まず燃料全体が輻射熱で熱せられ、燃焼ガス(主成分は水素と一酸化炭素などの炭化水素の分解ガスですが)が発生し、そこに十分な量の空気=酸素があると燃焼が始まる事になります。通常、この過程はゆっくり進むので、木質燃料や石炭などの固形権料が爆発的に燃焼する事は起こらない訳です。もちろん、木材や石炭といえどもそれを微粉化したものを燃焼させる場合には話は別で、いわゆる「粉塵爆発」を起こし、瞬間に爆発的に燃焼してしまうでしょう。

もう一つ、木質燃料や石炭などは、原料となった木材や石炭の産地によって、性状や特性に大きなバラつきがあることを忘れてはならないでしょう。場合によっては、重量当たりの熱量に13割程度の差があったり、燃え方や燃焼後の灰の量にも大きな違いがあったりもするのです。何より、固形燃料を最適な量の空気で燃やすのは、やはりかなり難しい技術だと言うしかないでしょう。一つの方法として、燃料をまず一次燃焼させた上で、燃焼ガスをより高温の二次燃焼室へ導き、正確にコントロールされた量の二次燃焼空気で燃やせば、残留酸素量として78%程度の「完全燃焼」が期待できるのです。当然の事ながら、燃焼ガス中の残留酸素量を正確にモニターし、適切な応答速度を持ったシステムにより空気量を制御する必要があるでしょう。残念ながら、国産のバイオマスボイラには、特に小型の分野には、そこまで制御できるボイラが未だ製造されていないのは寂しい限りではあります。技術は十分あるのに・・・。続きます。

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2017年2月 8日 (水)

3227 スマホる

気が付けば、自分の子供たちを含め、若者はスマホを片時も手放せなくなっている様なのです。もちろん、重要なニュースや情報やメールがそんなに頻繁に飛び込んでくる筈もないでしょう。それでもスマホが手放せないのは一体何故なのでしょうか。背景には、都会に一人暮らしする若者が孤立しがちな現代社会で、ネットや緩い友達関係と繋がりたいという「強い欲求」がありそうな気もしますが、昭和世代にはスッキリとは理解できない行動でもあります。

投稿者としては、大切なのは情報の丸呑みではなくて、「情報のソシャク」ではないかと言いたいのです。次々と流れてくる情報を一々咀嚼していたのでは、消化不良を起こしてしまうでしょう。ならば、自分に入れる情報の流れを絞らなければならないと思うのです。つまりは、Minimul sufficient(必要最小限)を狙うしかないのです。先ずは、要らない情報にアクセスせずにスルーする術を身に付けなければなりません。もちろん、息抜きの時間に肩の凝らないゴシップや趣味の情報を眺めるは仕方がないでしょう。しかし、それが生活の中心になってはならないでしょう。投稿者も、一時はスマホを持っていましたが、数年で通信手段をガラ携とパソコンに戻しました。

要は自分がアクセスが必要な時にパソコンを開けば良いのです。

とは言いながら、情報リタラシーは必要でしょう。今流行のFake newsに惑わされないためにも、絶対に必要です。ネット上の情報は、仮のものであるか、あるいはウソだと思うべきでしょう。では何が本物か、と言われればそれは取り敢えずは、自分で直接確認した情報か、あるいは本や論文になっている情報だと言うしかありません。本にも怪しい情報は載っているのでしょうが、一応「査読」や「校正」が行われているでしょうし、それが長く読まれているものであれば、信頼度は高いと考えて良いでしょう。ネットでアクセスランクの上位に来る情報が正しいものとは限らない事は、最近の「お騒がせ」でも証明されているところでもあります。今日は短く。

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2017年2月 7日 (火)

3226 〇〇ファースト

〇〇ファーストという言い方に違和感を感じているのは、投稿者だけではないでしょう。〇〇以外はどうなっても構わないというニュアンスが強いからです。特にそれが狭い範囲のコミュニテイや国を指し示す場合にはなおさらです。仮に、それを「人類ファースト」とした場合でも、何も変わらないでしょう。つまり、人類以外の生き物や自然が破壊されても構わないと聞こえるからです。一時「共生」などという言葉もマスコミに登場しましたが、最近はトンと耳にしなくなりました。これも、アクの強いB国のリーダーからの悪影響でしょうか。何しろこの国の首都のリーダーも全く同じことを言っている様ですから。

首都に住んでいない田舎は、過疎化が加速しそこの住民やコミュニテイはどうなっても、卸市場が何とかなって、五輪がうまく開催でき、自分がカラクリ回しをする議員団ができれば、万々歳だとしか聞こえないのです。オッと、このブログは批判を目的にしてはいませんでした。ここで言いたいのは、「他者を思い遣る心」の重要性でした。一人の勝者の裏には多くの敗者が必ずいますし、成功者の裏には不運にして、あるいは努力がやや足りなくて成功を掴めなかった人たちが、一握りの金持ちの裏には彼らの様に上手く立ち回れなかった「不器用な人たち」が、山の様に存在する訳です。

〇〇ファーストは、その意味では「勝者の論理」と呼ぶしかないでしょう。全員が平等な権利を持ち、同じような質素だが不自由の無い生活を送る社会が理想ではありますが、それは必ずしも「悪平等」は意味するものではありません。成功者が、「喜んで」未だ成功していない人たちに手を差しのべる社会を理想とすべきなのでしょう。それを何かに例えるならば、「団体登山」が適当かも知れません。体力がある一握りの人が登頂に成功し、多くの体力の弱い人たちが中腹で登頂をギブアップするのではなく、体力のある人たちはザイルを延ばして、後ろの人たちを引っ張り、彼らのペースに配慮してゆっくり登れば、全員が登頂できなかったとしても、かなりの高度まで登れる筈なのです。〇〇ファーストではない社会を何と呼べば良いのでしょう。とりあえずここでは、「〇〇共生」とでも呼んでおきましょうか。

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2017年2月 6日 (月)

3225 工夫力3

人間は、喉元を過ぎれば困り事を忘れがちになる存在です。雪国で最も困っているのは、少子高齢化問題を除けば、除雪問題だと言っても良いでしょう。もちろん、家の前に除雪車に寄せられた雪山が家に前にできても、家の屋根から降ろした(滑り落ちた)雪が家の周りに壁を作っても、高齢世帯ではいつ来るか分からない応援隊にSOSを出すしかないのです。しかし、「〇年豪雪」などと呼ばれる「ドカ雪」は数年に1回かそこらの頻度でしか来ないので、その間の冬は普通の大雪に普通に対処するだけでOKとなるのです。

小型の除雪機や軽トラックなど機械力を使える家は、まだラッキーな方です。普通の家々では、スコップやスノーダンプを使って、ひたすら人海作戦しかないのです。昔人口が多かった時代は、「人海」も可能でしたが、今の様に人が減り、かつ高齢化してしまった社会では、雪に埋もれて暮らすしか術がない家庭も多いのです。仕方がなく、山際の雪深い地域から、街の郊外で田んぼを埋め立てた地域に、小ぢんまりとした家を建てて、引っ越してくる家族も多くなっている様です。

雪は、春になって解けてしまえば、ただの水で、しかも農業用水や飲み水の元となってくれて私たちを潤しますが、空気を含んで、しかも硬くしまった氷(つまりは雪ですが)を移動させて処理すのは大変な作業で、エネルギーも人手も、つまりはお金も掛かる大変な作業なのです。この「雪害」をいくらかでも軽減するためには、やはりかなりの工夫力が欠かせないです。屋根から降ろす際の滑落の危険を無くす知恵、降ろした雪を移動させる知恵、道の轍の凸凹を減らす知恵、などなど雪に負けない工夫が必要なのです。

そのためには、いわゆる雪を取り除いて生活スペースを確保する「克雪」だけでは不十分でしょう。むしろ、雪を積極的に利用する「利雪」技術が不可欠だと思うのです。雪の最大の特徴は、その「冷たさ」だと言えるでしょう。つまりは、冷熱としての価値です。この冷熱源に対して、少し温度の高い熱源さえ見つかれば、何等かの形の「熱機関(例えばランキンサイクル)」によって動力が取り出せる可能性も出てくるでしょう。熱機関では、熱源からの熱を低熱源(冷熱源)に捨てる事によって、サイクルが成り立ちますので、冷熱源である雪も徐々に解けていく事になるでしょう。フロリナートなどを作動流体とするランキンサイクルが有望とされています。運動エネルギーを取り出しながら同時に雪を解かす、優れた工夫の実現が待たれます。

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2017年2月 5日 (日)

3224 本当の豊かさ

最近のギスギスした世相を眺めていると、本当の豊かさって一体何だろうとしみじみ考えさせられます。この国のリーダー達が騒ぎ立てている様に、経済成長ではない事は全く自明です。そうでなければ、喰うには困らない社会で自ら命を絶つ人が一向に減らない事や、イジメや金品を目的としない凶悪犯罪の増加が説明できないでしょう。もちろん、もし1円でも有利な貿易条約が成締結出来てし、経済成長(=2%だかの物価上昇率)が実現出来たとしても、貧困層が減らない「貧しい国化」が加速するだけでしょう。

最近、竟の住み処を建て、その家になけなしのお金をはたいてペレットボイラを導入しましたが、燃料はと言えば、地元で生産される木工端材から作られるペレットで、車で2-3分走った場所にある店舗で購入できるという恵まれた環境です。そのペレットで沸かした湯を張った風呂に肩までつかる時、「うーん。誰が何と言おうとこれが豊かさだーっ。」と独り言を漏らします。もちろん、ボイラを動かすにも、100w弱の電力は必要です。しかし、近い将来の計画として、ボイラ小屋の屋根を使って小規模な太陽光発電も始めるつもりです。それをバッテリーに蓄えて、インバータを用いてボイラを動かせば、石油やガスに頼らない、本物のエネルギーの「オフグリッド」が完成するでしょう。もちろん、その時にはペレットも「手押し車」を押して買いに行かねばなりませんね。散歩を兼ねながら、往復30分歩けば十分でしょう。

その様な生活は、その昔秋になると家族総出でリヤカーを引きながら、近くの入会林に薪を集めに出かけ、冬に備えての薪割が男手の仕事であった「あの時代」に少しだけ近づく事にもなります。面倒な事や汗を流す手間のかかる仕事をこなした結果、報酬として得られるささやかなプレゼントこそ、本当の豊かさ、幸福感の源泉というものでしょう。

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2017年2月 3日 (金)

3223 工夫力2 

工夫力を磨くには、まずは何かにひどく「困らなければなりません」。困り事に悩む中から、背水の陣のもがきの末良い工夫が生まれるのでしょう。それも、困り事の悩みが深ければ深いほど、より素晴らしい工夫が生まれるとも思うのです。

具体例を挙げましょう。昔、北国の暖房は、もっぱら薪ストーブでした。北海道など石炭が潤沢に手に入った地域ではもちろん、ダルマストーブで石炭を燃やしていたのです。しかし、薪や石炭ストーブは「バッチ燃焼」の暖房機でもあります。つまり、種火の上に燃料をまとめて入れる(置く)ことによって、燃料に着火しやがて燃え上がり、燃え尽きると燠になって、そのまま放っておくとやがて火が消えてしまうのです。継続的燃焼させるためには、時々燃料を足して「火の面倒」を見なくてはならないのです。家にお年寄りが居て、火の面倒を見てくれる3世代同居世帯であれば、薪ストーブもありなのでしょうが、忙しい現代社会の家族には、その選択肢は無いのでしょう。電気暖房や石油ストーブなら、タイマー運転や温度調整もスイッチやダイヤルで自由自在です。その意味で、現代の便利機器には「工夫の余地」は殆ど残されていないのです。

しかし、薪ストーブや薪の利用で工夫をするとすれば、例えば朝にドカッと薪を積んでおいて、それを自動的に燃焼させながら、発生させた熱でお湯を作り、それを大きなタンクに貯めておいて、暖房や給湯に使うマイコン制御された「薪ボイラ」なら、運転の着火時だけの手間で済む半自動であり、かつ貯湯タンクに23日分のお湯が貯められタンクを備えるなら、ボイラの運転も2-3日に1回で済むわけです。これなら、忙し共働きのサラリーマン家庭でも、潤沢にお湯が使え、暖房も可能となるでしょう。実際、南欧州では郊外の家庭であればmこの薪ボイラやペレットボイラがポピュラーで、石油やガスを燃やしているのは主に都市部だけという状況になっているのです。暖房だけに限っても、私たち日本人が工夫すべき事は非常に多いと思うのです。

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2017年2月 1日 (水)

3222 工夫力

私たちは、メーカーが日夜努力して、改善し、コストダウンし続けてきた「便利商品」を使い、それに慣れてしまった結果、不便を解消していくらかでも快適な生活をするための、最小限の工夫さえ何処かに置き忘れて来た様な気がします。例えば、投稿者が今取り組んでいるペレットボイラによる暖房・給湯の実用化ですが、燃料は外見こそ規格化された「ペレット燃料」ですが、実際に燃やしてみると品質のバラつきが非常に大きいのです。具体的に言えば、熱量や灰分等で2-3割かそれ以上の差があるのです。

そのため、燃焼機器側で燃焼ファクターが固定されてしまうと、連続燃焼ではトラブルが発生してしまうのです。例えば、連続運転時の燃焼量と空気量、また燃焼がらや灰を除去する装置の運転インターバルや給湯・暖房システムとのマッチングなど、それなりの工夫を重ねないと、使いこなせない事態が発生するのです。もちろん、エアコンや石油ストーブやガスを使ったシステムでは、温度設定をしてスイッチを入れるだけで、全自動でしょうから工夫も手間も必要はないでしょう。しかし、工夫を忘れた人間は、多分ボケ易くもなるでしょうし、その便利システムが動かなくなった時には、寒空の元途方に暮れるしか為す術はないのでしょう。

不便だけれども地元で手に入る資源(材料やエネルギーや食糧など)を工夫を重ねながら、世代を超えて使い続ける生活こそ、真に持続可能な地産地消生活だと言えるでしょう。投稿者としても、生涯現役を目指して工夫力を磨いていく事としましょう。

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2017年1月31日 (火)

3221 品質管理

最近自宅にペレットボイラを入れ、それで沸かしたお湯による暖房・給湯生活を始めました。それまでは、非常用と位置付けたガス給湯器とエアコンに頼る生活でした。さて、そのペレットボイラには、最初値段が高いが広く流通している銘柄のペレットを入れてスタートしたのです。しかし、流石に流通経費がたっぷり入っている商品は値段が高いので、どう計算しても石油ボイラなどよりは割高になります。地元で容易に手に入る銘柄には、実は地元産のペレットもあるので、最初からそれを基本とする様には考えていたのです。

その地元産ペレットは、木工廃材を利用しているので、燃焼ガスに有害物が無い事の確認や、熱量、灰分等の検査はクリアしていたのですが、灰分の多いのが欠点とされていたのでした。従って、一般家庭で普及しつつあるペレットストーブには、頻繁な掃除が必要であるため敬遠されていた様でした。とは言いながら、地産地消を理想としてペレットボイラを入れた投稿者としては、どうにかして地元エネルギーを有効活用したいと、工夫を重ねているのです。

問題は、この燃料を燃やすと燃焼皿に灰と燃えがらがうず高く残り、長い時間の燃焼が継続できなくなるのです。仕方がなく、時々(45時間毎)にボイラを止めて、燃焼皿を掃除しなくてはならない「面倒くさい燃料」だった訳です。しかし、この燃料には意外なメリットもあったのです。原料には、製品を磨いた研磨粉も多く混じっているので、出来たペレットが非常に緻密なのです。スカスカの市販ペレットは、着火し易く灰も少ないのですが、すぐ燃え尽きてしまいますが、一方地元産は、火が着きにくい一方で、燃え尽きるまでに長い時間が掛かり、更に燠になってもコークスの様に長い時間(15分程)燃え続ける燃料だったのです。これを市販燃料並みの条件で燃やすと、燃料が燃焼皿にうず高く溜まり、火が立ち消えてしまうのでした。そこで、思いついて燃料供給量を思いっきり絞ってみました。ざっと言えば、初期設定の半分くらいです。しかし、これが大成功、オマケに灰落とし装置の働く間隔を短くした結果、長時間の連続運転が可能になったのでした。

ここで言いたかったのは、石油燃料やガスの様にJISで厳密に規定されている訳ではないペレット燃料は、品質の幅が「倍も異なる」と言う点です。ペレット燃料が広く作られ流通するためには、工業製品と同じく、品質管理の幅をある程度狭くし「使い易い燃料」とする努力が欠かせないと思うのです。国が重い腰を上げるのは一体何時になるのでしょうか。トホ。

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2017年1月30日 (月)

3220 雪のないアラスカに想う

雪のないアラスカの海岸でシロクマがションボリとうなだれる写真が、ネットで注目を浴びている様です。この時期雪がなく、しかも海が凍結していない北極海沿岸では、流氷に乗って息継ぎの浮上するアザラシなどを狙う狩りを行うシロクマにとっては、まさに死活問題に直結するでしょう。日本などの中緯度地域に多少積雪が多いからと言って必ずしも北極の気温が十分に下がっているとは言えないでしょう。その証拠に、冬将軍(寒波)が来たからと言って、それが長続きする訳でもなく、すぐに将軍が息切れしてしまう事でも容易に想像できるでしょう。

かつて、北極海沿岸はマイナス60℃以下に下がるのが普通でしたが、現在は下がってもマイナス40℃ほどまでしか下がらない様なのです。寒気がマイナス40℃もあれば、暖かい日本海の水蒸気を使って、日本に大雪をもたらすには十分かも知れませんが、北極海を氷結させるには全く不十分なのです。D.Tランプがなんと詭弁を弄して言い張ろうとも、これが温暖化の影響でなくて、一体何だというのでしょうか。

ネットで公開された写真を見て、何も感じない人に何を言っても無理かも知れませんが、シロクマが暖冬に耐えなければならないのであれば、温暖化の元凶となっている我々人間は、夏の暑さや冬の寒さに耐えて、温暖化効果ガスを減らす努力をしなければならないでしょう。その方法に関しては、このブログでも縷々書き連ねては来ましたが、何は無くともまずは地下から掘り出す石油や天然ガスや石炭などの量を減らす必要があるでしょう、化石燃料は、堀り出した分に比例して、確実にCO2量を増やすことにつながるからです。CO2により加速された温暖化は、凍土地帯の地下に氷結されていた、未分解の有機物の夏場の融解によって分解され、メタンを発生させて、さらに温暖化を加速させるという「悪循環」を引き起こすのです。

さらに恐ろしいのは、海洋に溜め込まれていると推定されている「ミッシングシンク」と呼ばれる多量のCO2が、海洋温度の上昇によって大気中に放出されるという別の悪循環です。まさに、悪循環の自乗です。必要な行動は、一に省エネ、二に再エネ、三四が無くて五に我慢でしょうか。

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2017年1月29日 (日)

3219 劇場型XX

今や「つぶやき」だけで政治や世界情勢を動かしてしまう時代になってしまったようです。何しろ、影響力のある人のツイッターをフォローしている人が五万と居る上に、その中身を一々マスコミも「フォロー」してくれる訳で、SNSとマスコミの相乗効果が今や最強のパワーを持つコミュニケーションという事でしょう。短いつぶやきが、為替相場や株価に跳ね返り、あるいは国と国との関係悪化や好転にさえ強いインパクトを与えている状況を眺めるにつけ、時代は変わったもんだ、と大きな吐息が漏れそうです。

かつて、劇場型政治が注目された時期がありました、今や政治の状況を何と表現すればよいのでしょう。劇場型XXというのは、役者が舞台の上で脚光を浴びながら、派手な「立ち回り」を演ずる様子を皮肉った表現です。しかし、劇場である限り、役者や劇場やマスコミで目立つようなパフォーマンスが求められますが、SNS*マスコミの場合は、やや趣が異なるでしょう。SNSとマスコミが、さながら「コダマ」の様に反射し、あるいは互いに増幅し合う訳で、影響の広がるスピードと範囲が、半端なく大きいのです。

この悪弊に対処するには、やはり無視するか、あるいは「またやってる、やれやれ」程度のリアクションで受け流すしかないでしょう。SNSやマスコミは、ネタに飢えていますので、どうしてもオーバーリアクションに陥ってしまう性癖を持って居るのです。やれやれ、難しい時代になったものだ。今日は短く。

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2017年1月28日 (土)

3218 〇〇を励行する

続きです。乱麻を解きほぐすもう一つの方法は、たぶん格差を埋めるために、小さくても何かをすることでしょう。この国には、寄付(喜捨とも言いますが)という習慣はあまり根付いてはいないような気がします。しかし、いざ震災や風水害や大規模火災などに際しては、かなりの人々が義援金を贈ろうと郵便局などへ駈け込んでもいます。しかし、本当に大切なことは、日ごろから社会の格差を埋めるための小さな行動の積み重ねではないかと思うのです。

社会の凸凹のうち、高いところを凹ます行動に関しては、3217に少し書きましたが何かを止めることで少しは実現できる様な気がします。しかし、凹んでいるところを埋めるには、やはり何か行動を起こす必要があるでしょう。例えば、タイガーマスクによるランドセルプレゼンント「事件」は、単なる美談として一時期マスコミの注目を集めてはいましたが、ではその枠を広げて、何か社会の制度を改革するところまでには波及はしませんでした。結局、社会の弱者には注目は集まりますが、そこから先の行動につながらないのが、この国の人々の行動の「欠点」だとも言えそうです。いわば、一億総「あしながおじさん」の国を理想に掲げる必要があると思うのです。

喜捨する事が、日常になれば、世の中の凸凹は徐々に均されていく筈なのです。その昔、貧しい農民でさえ、托鉢の坊さんには手を合わせ、たとえ僅かでもコメなどを喜捨していたではありませんか。特定の宗教の好き嫌いを論ずる必要もないのでしょうが、結局全ての宗教などというものは、ある共同体を引きまとめるための「手段」だと言えそうです。もちろん、いくつかの宗教では、それを信ずることが目的化し過ぎて、民族間の紛争や憎しみ合いの原因にさえなっていることは悲しむべきではありますが。もう一度、宗教や社会システムを、世の中の凸凹を均すための「手段」と位置付けて、それ(喜捨)を励行することを日常する社会に戻っていかない限り、残念ながらこの世はドンドン住みにくい場所になり果てていくと考えざるを得ないのです。

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2017年1月27日 (金)

3217 〇〇を止める

絡まった乱麻を解きほぐすには、取り敢えずは今以上問題を拡大させないことが肝要でしょう。事態の悪化に、いわゆる「ブレーキ」を掛けるのです。例えば、貧困の連鎖と格差の拡大という太い乱麻を考えてみましょう。格差が生まれるのは、ある社会システムの中で、上手く立ち回れる人と、そうでない人とが存在することが発端でしょう。当然の事ながら、地球の資源やそれをお金という一つの価値に換算した「富」は有限ですので、ある人の取り分が多いということは、他の誰かの取り分が減っている(減らされている)ことを意味します。資源を持つ、例えば中東の王族や、富や情報を握る世界の1%が、富の大部分を掌握し、他方では何十億もの飢えた人々が存在することになるのです。

昔共産主義というユートピアが夢見られた時代がありました。しかし、そのユートピアが実現できたことは歴史上ついぞ無かったのです。それは、その様な仕組みの中で、力を持つもの(支配階級)と一般大衆(被支配階級)に分かれてしまい、その中で結局格差が生じてしまう事が避けられなかったからで、これは残念ながら学問や理論だけでは人が絡む社会の仕組みは上手く機能させ得ない、ということの証左でしょうか。何の欲もない無い学者が社会のリーダーになれば、ある程度は上手い仕掛けも実現できるのでしょうが、実際には社会の権力を掌握したがる、政治家や軍人がしゃしゃり出てくる訳です。途上国では、パワーによる椅子取りゲームで、常に政情が混乱するのは、そういった理由でしょう。

さて、ここでの提案ですが、私たち一般大衆にできる事はと言えば、精々「何かを止める」ことぐらいでしょうか。例えば、石油を使うのを止めて、アラブの王族をこれ以上裕福にさせるのを阻止するとか、あるいは小麦食(パンやパスタや麵)を控えて、穀物メジャーのパワーを減ずるとか、或いはたまには夜9時に寝て、電気を消す時間を長くしてみるだとか、さらに言えば1時間早起きして、5㎞を歩いて通勤して、車やバスを使うのを止めてみるとか、富める人たちをさらに富ませることに抵抗してみるのです。つまり、今自分が払ったお金が、回りまわって最後は誰の手に渡るのかをじっくり考えてお金を使う必要があると思うのです。もしそれが、一部のお金持ちだった場合には、そこで思いとどまりブレーキを踏むという行動を続ける訳です。それを、すべての持たざる者たちが行えば、格差の拡大にもブレーキが掛かる筈なのです。続きます。

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2017年1月26日 (木)

3216 快答乱麻

表題は快刀乱麻の誤変換ではありません。よく切れる大鉈(刀)を振るって困難な問題を断ち切るというのは、イメージ的には簡単そうに見えますし、問題そのものが小さい場合はたぶん有効でしょう。しかし、現代社会が抱える諸問題は、国をまたがって広がっていて、あまりにも規模が大きくかつ複雑に絡み合っています。例えば、経済と軍事バランスの複雑さは、とても常人の想像の範囲には納まらないでしょう。例えば、本来は紛争を抑える立場の先進国の企業が、裏では紛争国の下手をすれば、両方の陣営に武器を売りつけていたりする訳です。前の戦争でも、戦争初期には軍事介入を正当化するために、局地紛争を陰で糸を引くなど、両陣営が策謀の限りを尽くした事でしょう。

いずれにしてもグローバル化の世界経済の中で、多くの国々は矛盾や不満を抱えながらも、市場経済を維持するために一方では紛争を起こし、他方では日々の食料品や製品を手に入れるために交易も続けざるを得ない状況にある訳です。企業は企業で、利益を上げて株主を喜ばせるために、民生品を売ると同時に、裏では武器に流用されるかも知れないグレー製品もドンドンと作って売り捌いているのです。そうして、貿易摩擦を起こしながら、先進国は他の国を踏み台にしながら利益を上げて、より高い繁栄を目標に掲げる事になるのです。かくして、絡まった乱麻は、ますます固く締まって、解決の糸口さえ見えなくなってしまったのでした。

そうではなくて、絡まった乱麻を解くには、麻糸を切るのではなく、一本いっぽん解きほぐしていくべきだと思うのです。糸の一本とは、社会を構成する個々の企業であり、社会構成員の個々人になる訳で、社会を実際に動かしているのは政府でも行政府でもないでしょう。かつて、JFKが「国が国民に何をしてくれるかではなく、国民が国のために・・・」と言った様に、他力本願では何も変わらないでしょう。私たちが、もし現代の社会の問題、例えば非正規労働、例えば貿易摩擦、例えば国境を巡っての紛争問題、例えば少子高齢化、例えば環境問題などなどに、それぞれの立場で絡まった糸を解く努力をし、同時に声を上げて行く必要もあると思うのです。乱麻を解くために私たちにも取り組めそうな具体策については、思いつき次第投稿する事にしましょう。

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2017年1月25日 (水)

3215 聞く耳

B国の新しいリーダーは、どうやら言いたいことは言うが、聞く耳を(あるいは聞くための小さな耳しか)持たない人物の様です。もちろん、パワフルなリーダーは唯我独尊タイプも多いのでしょうが、一応民主主義の先頭を走っていると自負している国のリーダーたるものは、やはり他者の意見には耳を傾けるべきでしょう。それを採用するかどうかに関しても、理路整然たる説明も不可欠です。そのためには、その価値判断の基準とすべき、いわゆるポリシーが欠かせないと思うのです。

いわゆるビジネスマンという存在を良く表現していると思うのは、ポルトガル語のHomen de negocio.(ネゴシエーションをする人)だと思っています。つまり、ビジネスパートナーとDealするためには、丁々発止のネゴが不可欠だからです。双方が条件を出し合い、折り合ったところで双方が「Deal」と叫べば、商談は成立する訳です。つまり、双方が「落としどころ」は意識しているにしても、最初から明確なポリシーやシナリオがある訳ではなく、出たとこの「押し引き勝負」がビジネストークの基本だと言えるでしょう。

そのビジネストークの達人として、ここまでのし上がってきた人物に、そもそも政治的な方針(ポリシー)を出せと言っても詮無い話ではあります。彼は、とにかくツイッターや会見コメントで言いたい事を言うつもりなのでしょう。それに、相手が食いついてきたら「しめた」ということで、やっとビジネストークの入り口に立ったと考えれば良いだけです。ツイッターの一言一句(のエサ)に反応する、各国の対応やマスコミの報道を見て、彼(彼ら)はほくそ笑んでいるはずです。たぶん、相手の言い値の半分でセリ落とすためには、彼は1/4ほどの買値を提示することでしょう。言い値を100とすれば、買い手の25と売り手の100からビジネストークをスタートする訳です。最悪?で、双方の中間で落ちたとしても60程の値段で落ちるでしょう。この国には、B軍の駐留経費を全額払え、と詰め寄り、現在の負担と全額負担の中間値でも勝ち取れば、彼のビジネス政治は完結するのでしょう。やれやれです。

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2017年1月24日 (火)

3214 負荷=進歩

更に続きです。人間の能力を高めるには「適当な負荷」を掛けておく必要があるでしょう。筋肉についてみても、それを太くするのはウェイトトレーニングに勝る方法はきっと見つからないでしょう。一本の筋繊維を太くするには負荷を掛ける必要があるでしょうし、もっと負荷を掛けて筋繊維の一部を切る程度の負荷を掛ければ、回復過程でより強くて太いものに置き換わる訳です。マッスルマンは、これに加えて筋を増強するためのプロテインやサプリをモリモリと口にするのです。

他方、脳についても同様の事が言えるでしょう。歳を取ってもボケない様にするには、やはり適当な頭の体操を必要とするでしょう。つまりは、記憶する訓練と、それを出力する訓練、あるいは新たなアイデアを生み出すなどのトレーニングです。もちろん、机上のトレーニングだけでなく、細かい手仕事や芸術作品や工作なども立派な「脳トレ」であり、頭の体操と同様の効果が期待できるでしょう。32113213に書いたAIからの文脈で言えば、私たちの能力・脳力への負荷を減ずる目的であるならば、全くのNGだと言うしかありません。

そうではなくて、AIは、私たちの致命的なエラーをカバーするか、あるいは単調で過大な負荷を減ずるためなどに絞って用いる必要があると思うのです。さもないと、AIに過度に頼るかも知れないこれからの世代は、数世代後には無能集団になる可能性すらあるでしょう。つまり、スイッチを押すか、コンピュータに声で命ずるか「しか」出来ない種類の人間が出来上がってしまうのです。硬いモノを噛まなくなった結果、細く華奢になってしまった現代の若者の顎の「退化」を目にするたびに、人間の能力減退や器質的な退化は、結構早いスピードで進みそうな、悪い予感もするのです。さて、高齢者の仲間入りをしたので、能力を上げるのは難しいかも知れませんが、低下を食い止めるトレーニングでも続けるとしましょうか。

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2017年1月23日 (月)

3213 無能化

3211の続きです。主に人間の能力を補完したり、あるいは人間の判断を補助するのがAI開発の目的なのでしょうが、機械(あるいは人工知能)に高度なコントロールを任せる、と言うことは、結局それまで発揮していた人間の能力を不要化し、それが続けばやがて人間の能力が退化すると言うことを意味するのです。卑近な例で言えば、今簡単なAIを使って、ローマ字かな変換を行わせ、それを漢字変換しているのですが、この変換ソフトは学習能力を持って居るので、一時期のいわゆる「ワープロ」時代に比べれば、かなり賢くなっている筈です。しかし、その一方で投稿者自身の漢字を書く能力は、確実に減退している事を感じています。

もしそれが、音声入力を全面的に使う事にして、パソコンと対話しながらテキスト入力をすると決めた場合、キーボードを間違いなく打つために、訓練した指先を動かす能力は不要になるという事を意味します。それを可能にしていた小脳や入力した文字を確認し、咀嚼しながら修正していた能力(脳力)は使わなくなり、やがて退化する事でしょう。いわゆる「要不要」の法則です。使う能力や器官はますます磨かれ、使わなくなったものは退化・縮小する訳です。

人間は、いわゆる「ヒューマンエラー」を犯してしまう存在ではありますが、それはシステム設計でかなりの程度回避する事は可能ですし、一方でそれを修正し再発を防ぐ学習能力も備えている筈なのです。アナ・デジ両時代を生きた古い人間として、AIに全面的に頼る「自動運転車」にはどうしても納得がいかないのです。機械としての車をコントロールする能力を放棄し、車を転がす事の危険性は、AIがらみの路上での事故の他に、私たち自身の能力減退面にもあると思うのです。

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2017年1月22日 (日)

3212 ペレット暮らし開始

待望久しいペレットボイラがついに我が家に入りました。早速、ボイラで作ったお湯で、暖房と給湯を始めたのですが、いくつかの問題が出ましたので、記録しておきます。システムは、太陽熱温水器にペレットボイラを追加すると言う構想で、太陽熱集熱器に循環している不凍液を、循環ポンプ共用で、ボイラからの熱回収にも使う設計です。当然の事ながら、不凍液を加熱して、その不凍液で水を加温する訳で、熱効率的には損失が大きくなる筈です。これは、このシステムのデメリットとして最初から織り込み済みでした。

その他の問題ですが、一つは給湯システムの仕様です。既製品のN-リツ社製の太陽熱温水システムの貯湯タンクを採用したのですが、200リッターでやや小さめでした。少しお金を足せば300リッタータンクも手に入ったのですが、二人暮らしには小さめで十分だろうと踏んだのが間違いでした。75℃程度の貯湯温度では、バスタブにお湯を張ると、水が補給されかなり温度が下がるのです。水を撹拌しなければ、タンク内は上がお湯、下が水に相分離するのですが、他方でボイラを運転していると下側の加温コイルに熱が入るので、タンク内の水は対流し、全体的に温度が低下するのです。当面は貯湯温度を80℃に挙げましたが、恒久的には補助タンクを追加して、二つのタンクを連通させる予定です。

もう一つのシステムは、暖房システムです。自作の熱交換器は、12㎜径の銅管20mをコイル状に巻いただけのものを、木箱に入れただけのものですが、問題が二つ発生しました。一つ目は、床下の温風循環用に設置した換気扇の騒音です。静かな田舎では、夜になるとブーンと言う小さな音も耳につくのです。特に連れ合いはこの音に敏感過ぎる様でした。対策としては、DCモーター搭載のサーキュレータを「静音モード」で使う事にしました。もう一つの問題は、暖房能力です。上記の熱交換器では、熱交換器出口での温度が、+7℃くらいしか上がらないのです。冬で、外気温度が零下になる日には、床下温度も10℃くらいに下がりますので、狙っていた20℃の床下温度に届かないのです。これは、夏場の改造工事で、今の倍の40mに拡大する事で解決できそうです。その他の状況(例えば経費など)については続報で。

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2017年1月21日 (土)

3211 AI時代

長いシリーズもののEテレ「時空を超えて」を良く見ます。モーガン・フリーマンは役者であり単なる語り部なのでしょうが、語り部を務める中で、彼自身も何となく広い視野を持ち始めているんだろうな、と感ずる事が時々あります。さて、AIに関しては、多分複数回取り上げられていると記憶していますが、もし今度急速にAI時代に入るのだとすれば、そのAI時代への入り口を目撃している世代の一人としては、やはりその行方が気になるところではあります。

AIが徐々に賢くなっているのは確かでしょう。人々は、かなりの分野での「判断」を、AIに任せはじめてもいます。例えば、経済での投資案件の判断とか(つまりは、株や債券売り買いのタイミングです)、あるいは技術的には機械のコントロールとか(車などではかなり前からブラックボックスるが搭載されています)、既にかなりの部分が人間の手を離れた部分でAIが「勝手に」判断を下している状況が起こっています。アナログ時代に生れ育ち、人生の後半になってデジタル時代に働き、暮らした「アナ・デジ」世代としては、やはり0(ゼロ)と1(イチ)の間が気になる事は否定できません。つまり、Oと1の間には、0.01とか0.75とか0.9999だとかの「中間値」が存在する訳で、それを0だ1だと判断する(しなければならない)AIがあり、やはり最後のところではその判断を100%は信頼できない自分が居るのです。

AIが用いろ桁数は、コンピュータの長足の進歩で、十分大きくはなった事でしょう。それでも、最後の桁を繰り上げるのか切り捨てるのかで、AIの下す判断が、右と左に分かれる事はあり得ると思うのです。あるいは、判断に用いる「データ」(これは多くの場合人間がALに食わせるのですが)の信頼性の低さによって、計算の誤差が累積し、下す判断が大きく狂う恐れも出てくる事でしょう。ここでの結論は、私たちは過度にAIに頼ったり、100%信頼してはならないだろう、と言うことにします。それは、私たちの判断能力を低下させ、AIの命ずるままに行動する「AI人間」が増える危険性を増長することに繋がるからです。

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2017年1月19日 (木)

3210 「自動」車

近い将来には、自動運転車を自動車と呼ぶ時代が来るのでしょうか。投稿者としては、そうはなって欲しくないと感じています。事故率は、人が運転する場合より、もしかすると低くなるのかも知れませんが、不幸にして自動運転車との事故に遭って亡くなられた人は、果たして何に殺されたとみれば良いのでしょうか。機械?、AI?はたまたただ乗っていただけの「乗客」なのか、怒りのぶつける先が不明確にもなると思うのです。

何より、その車に乗っている人が、車が「走る凶器」になり得るとの認識が無いままに、単なる移動手段として大した用も無いのに無為に動かす事態は、避けなければならないでしょう。と言うのも、車は自動で運転されるにしても、目的地を入力するのは人であり、その人が絶対的に「正気」であるとは限らないからです。もちろん、車には対人センサーが装備され、人を事故に巻き込む可能性は限りなく低いのでしょうが、例えば経年劣化や事故によるコンピュータの部分破損や断線によりAIが暴走したり、踏切の中でエンコしてしまう可能性は否定できません。

たとえ、航空機並みにハードやAIをチェック出来たにしても、航空機事故がゼロに出来ない様に、台数が圧倒的に多い自動車に於いては、事故率が同じと仮定しても、件数は無視できない数に上るでしょう。結局どこまで行っても、事故はヒューマンエラーと機械の故障のいずれか一方、またはその複合によって必ず起こり、その確立をゼロにする事は出来ないのです。では、理想は何かを考えてみるに、やはり車は人間が、ある技量を身に付けた上で運転すべき「機械」であり、AIは、例えばアクセルとブレーキを踏み違えても急発進しないとか、追突を未然に防止する様な「インターロック機能」に限定するべきだと思うのです。人間は、概ね0.5秒毎に、視認をリフレッシュすると言われていますが、もちろん安全装置を付けたとしても、自動運転でない限り、例えば人が意識を失った時の事故は避けられないかも知れません。しかし、被害者としても訳の分らない「ブラックボックスのAI」に殺されるよりは、そうでない方が諦め易い様な気がします。幸いな事に、人生で事故の当事者になった事はありませんが・・・。

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2017年1月18日 (水)

3209 コスト削減?

今の社会の閉塞感を招いた根源を振り返って考えるに、K政権下の規制緩和政策に大きな根があった様な気がします。当時のこの国のリーダーのお題目は、「○○民営化」オンリーだった訳ですが、結果として労働法制の規制緩和がグッと進んでしまったのでした。つまりは、非正規で雇える労働者の枠がほぼ青天井で開かれたのでした。経済の停滞で、コスト削減の「ネタ」に困っていた企業は、待ってましたとばかり、労務費に手を付け、非正規労働者を増やしたのでした。非正規雇用制度での、雇用者側の最大のメリットは、当然の事ながら給料に連動して支払わなければならない各種企業負担費用の削減である事は明らかです。雇用保険や健康保険など、企業が負担する(あるいは労働者にとってのFringe benifit)費用がほぼゼロになるので、コストにいわゆるオーバーヘッドがグンと軽くなるのです。

企業は、労働市場の自由化までは、労務費は固定費であり、コスト削減は現場の工程や業務改善や省エネ・省資源でひねり出していたのですが、労務費に手を付ければ、あっけない程楽にコスト削減が出来たのでした。楽に利益が増やせる「麻薬」は、あっという間に社会を席巻し、非正規で働く労働人口を急拡大させたのでした。景気の低迷期は、企業としても採用を抑制せざるを得ず、大学を出ても非正規職にしか就けない時代も長く続き、若者から希望を奪ってしまったのでした。

この国の産業界の悲しむべき行動は、「コスト削減だけ」に偏重していた事に、多くの企業経営者は意識がありませんでした。利益を上げるためには、例えば製品の付加価値を上げる、と言う選択肢もある訳です。家電が売れない時代に、非常にコンパクトで機能の高い掃除機や調理器具が、たとえ値段が割高でも売れる理由に経営者は気付くべきでしょう。私たちは、乾いた雑巾を更に絞るコストダウンはさておいて、モノやサービスの付加価値を上げ、更にはこれまで存在しなかったカテゴリーの製品を開発する事に注力し、新たな市場を切り開くべきなのです。そうすれば、若者に希望を与える職場が増え、僅かなコスト削減のために、工場を世界のあちらこちらに移動させる苦労も減る筈なのです。投稿者が考える具体案については続きます。

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2017年1月17日 (火)

3208 SNSサイダー

脅しを別の言葉で言えば、恫喝やカマシやもっと悪い言葉で言えば、カツアゲとでもなるのでしょうか。それほど極端でなくても、買い手である立場を利用し、モノを買う時に始め信じられない様な安値を提示し、「値引きが嫌なら買わない」と売り手に値引き圧力を掛ける、「値切り」なども軽い恫喝に入るのでしょうか。B国の今度のリーダーは、どうやらこ手法の名手の様なのです。もちろん、多くの不動産を手に入れた手法をこれを駆使した事でしょうし、自身の自家用ジェット機も、メーカーの売値(定価)の1/3以下で調達したとかも伝え聞くからです。

たった140文字の中でコメントを出せば、翌日には名指しされた国や個別のメーカーが、慌てて対応やコメントを出さざるを得ない事態は、たぶんSNS時代の新たな恫喝と言っても良いのでしょう。しかし、これはSNSのルールからは、明らかに外れていると指摘するしかないでしょう。もしこれが許されるのであれば、影響力のある人物のツブヤキを使えば、為替相場だって株価だって、紛争の状況だって変える事が出来るからです。ツブヤク本人が、ビジネスの一線から退いたとしても、予め親族に同じ内容のツブヤキを流していれば、親族はそれを利用して「ボロ儲け」する事も可能になるからです。これは、新しい形のインサイダー取引に相当し、SNSルール上は禁止されている行為です。これらを、マスコミが指摘した途端に「フェイクニュース」と切り捨てるとしたなら、それはまさに独裁と呼ばれても仕方がないでしょう。

ここでは、取り敢えず「SNSサイダー(取引)」などと言う新語を提示しておきましょうか。スーパーパワーや著名人である事を利用して、弱い立場の人間に圧力を掛け、ひいては自分の側に利益を誘導する「手法」を指します。伝えられる「フェイクニューズ」によれば、選挙でも情報戦を駆使したのだとか。まさにSNS時代が生んだ新リーダーなのかも知れません。さてそれに相対する側ですが、何は無くとも私たちは「それ(恫喝)」に振り回されてはならないでしょう。それは、繁華街の店がYKZ(ヤーさん)のカツアゲには乗らない、と言う態度とも共通するでしょうか。恫喝は無視には勝てない筈だからです。

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2017年1月16日 (月)

3207 是々非々

これは好きな言葉の一つでもあります。是は是、非は非として前に進んでいくのは、人生であれ、国のマツリゴトであれ理想だと思うからです。しかしながら、これは実行上はなかなかに難しい行動規範でもあります。何故なら、国や社会的背景によって特に人によって、是と非の判断基準が大きく異なるからです。従って、言葉で「是々非々」の判断で進めると言えば、何事もスンナリと前に行けそうなのですが、実際上はそうは問屋が卸さないでしょう。

ましてや、企業運営や国のマツリゴトで言えば、一つ一つのビジネス判断や、政策毎に是々非々の判断基準がバラバラでしょうから、仕方がなく企業内や政局に「派閥」などが出来て、離合集散を繰り返す事にもなるのでしょう。マツリゴトの分野で言えば、経済政策では合意が出来ても、税制や憲法問題や外交など別分野では合意できないという、バラバラ政局がこの国の日常なのです。とは言いながら、その様な状態では、企業も国もやがては立ち行かなくなる事は必定です。最悪の場合は、一つの判断や投票結果を巡って、企業や国が真っ二つになることだって起こり得る訳です。近くは、E国でのEU脱退問題やB国の大統領選挙結果を巡ってのシコリなどが思い浮かびます。

そうではなくて、これらの是々非々の境界を巡るバトルに決着をつけるには、私たちはやはり上手い「合意形成の手法」を編み出す必要があると思うのです。是と非の境界は、多くの場合は損得が絡んでいるのですが、結局はある人の得は、別の人の損の上で達成できる事が多いので、どこまで行っても、人間の完全平等が保証されない限りにおいては、万人が納得できる合意形成は無理だと言うしかないでしょう。投稿者が考える、数少ない方法の一つは、得をする人たちを「将来世代」と決めて、是々非々を議論するアプローチです。自分たちの子孫が得をするのであれば、余程の「亡者」でもない限り賛成は出来るでしょう。その際、損をするのは現世代全体でなければなりません。そうでなければ、やはり現世代間での不平等問題が浮上するからです。現世代が、果たしてご先祖様たちの様に我慢強く、かつ子孫想いに徹する事ができるかどうか、確かにそれは「大問題」ではある訳ですが・・・。

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2017年1月15日 (日)

3206 光と影

これは、何を書いても影響力の無いブログでして、このところストレスが溜まってしまったので、少しお小言を書いてしまいます。光があれば影があり、光が強ければ影も濃くなるものです。マスコミでもて囃される様なタレントや時の人が、家に帰って一人になった時の孤独はいかほどもものか、つい考えてしまうことがあります。万人うけしそうな政策を打ち、地球儀を俯瞰しながら派手飛び回りながらODAだか、無償供与だかのお金をばらまいているいる人の、私生活では一体どの程度の深い闇を抱えているのか、つい穿って眺めてしまうのは、お陰様であまり影のない人生を送れせてもらっている凡人故の勘繰りでしょうか。

いずれにしても、いわゆる「良い恰好しぃ」には暗い影が付きまとっていると考えるのが自然でしょう。それを払拭したいがための恰好付けに違いないからです。良い恰好しぃの化けの皮が剥がれることを「幻滅」と言いますが、なかなか化けの皮が剥げずに長い間リーダーの座に座っているあの人は、その意味でなかなか大したもんだと言うしかないのかも知れません。しかし、強気がそんなに長く続くものではないことは、古今東西の歴史が教えるところでもあります。奢れるものは久しからず、(赤字国債という空手形で支払う)何本だかの矢を放ち、福島の放射能を言葉で覆い隠して五輪を誘致し、世界の途上国に半端ではないお金をバラまいたツケを払うのは、その後継者と国民であることは間違いない訳で、史上最長のリーダーの座という名誉を独り占めしての「逃げ得」など何の役にも立たないでしょう。

さて、愚痴はこの程度で切り上げて、前向きな提言でも書いておきましょうか。影ができないようにする比較的簡単な方法があります。それは、いくつかの方向から光を投げかけることでしょう。一つの光源が作る影も、他の光源が当たれば影も「半影」になるからです。もう一つの方法は、あまり大きなことを仕掛けない事でしょうか。大きな月は地球上に真っ黒で大きな影を作りますが、人工衛星や雲の塊などが完全な影を作ることはないからです。あまりに恰好を付けて、自身の名前を付けてまで政策を膨らませるリーダーには、やはりできるだけ速やかに退場して貰うしかないでしょう。この国が影で覆われてしまう前に・・・。今回はやや愚痴っぽく。

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2017年1月13日 (金)

3205 Tランプる2

彼の国の次期リーダーの、就任前のプレス会見を少しだけ興味持って注目していましたが、彼の本質が見え隠れしていた様でかなり残念なものの様でした。人を、前向き後ろ向きあるいはPositiveNegative に分けるとしたら、彼は間違いなく後者でしょう。前任者の為したことをことごとく批判し、内に籠ろうとする姿勢や、気に入らない人々を否定・排除し、壁を築こうとする姿勢は、まさに後ろ向きそのものだと言うしかないでしょう。

とは言いながら、若くて、前向きで、スピーチの上手かった前任者に対する反動といういうか、揺り戻しと考えれば、そんなに奇異な選挙結果ではなかったのかも知れないとも思うのです。たとえは適切ではないかも知れませんが、美食に飽きた人が急に刺激の強い「ジャンクフード」が食べたくなる心情に少し似ている様な気もします。高い教育を受け、洗練された政治家に飽きた人々が、激しい言葉で敵をなじる、叩き上げの不動産屋を選んでしまったということでしょう。たぶん、そのアジ演説を聞いて、「多少溜飲が下がった」、という理由だけで・・・。

ここでは「Tランプる」を、前体制に抗って、反動的に大きく揺り戻しする事、とでも定義しておきましょうか。もちろん、それが良い方向であればあまり問題はないのでしょうが、批判のための批判が得意そうな人なので、心配しながらも横目で注目して行く事にしましょう。今日は短く。

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2017年1月12日 (木)

3204 地域おこし

この言葉ほど曖昧で分かりにくい言葉を知りません。そもそも地域などというものは、改めて「興さなくとも」古の頃から厳然として存在する場所だからです。興すのは地域ではなく、キャッチフレーズとするなら、例えば産業の興隆だったり、結果としての雇用増加だったり、あるいはズバリ人口減少への歯止めだったり、といった「主語」を明確にしないと正しい意味が見いだせないのです。

しかし、行政側が主語を理解しているとも思えないのは、予算を付ければそれで、何か地域が動き出すとでも思っているフシが見え隠れしているのです。地方行政では、その予算の範囲内で行政組織を再編したり、少人数の何とかおこし隊を組織したりはするのですが、では何の具体策を打ち出したかと突っ込むと、中身はやれ農産物の6次産業化だとか、産業の高度化などと銘打って、無理やり航空宇宙産業への参入を推奨したり、観光産業を勧奨するだけなのです。6次産業などと口走るためには、先ずは市場調査を行った上で、何を誰がどのくらい生産し、どの様に市場にアクセスするかと言った、明確なビジネスプランが必要なのでしょう。航空宇宙産業にしても、不便な交通アクセスや関連産業の未発達をカバーするだけの、どの様な魅力を打ち出すか、と言う戦略無しには、地方でその様な産業が成功するとも思えません。結局、いわゆる現在の「地域おこし」政策は、予算措置だけありきで、既存の枠組みに捉われた、「中身の無い」ものだと断ずるしかないのです。既存の市場に打って出る戦略では、結局はどこかに歪を作らざるを得ないのです。

そうではなくて、全く新たな市場を作る出す様な「アイデア」が必要なのです。その過程で、地域の資源、原材料や気候風土や人材を有効に活用できるのが真の新たな「地場産業」になり得るのです。言わゆる伝統産業などと呼ばれる産業も、先人が何時の頃か「新産業」として導入したものが、気候風土に馴染んで定着したものの筈なのです。このブログでも再々書いている様に、冬は雪に閉じ込められるこの北国にも、種々の資源が埋もれているのです。不足しているのは予算ではなく「アイデア」だけなのです。

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2017年1月11日 (水)

3203 再開発⇒?

梅田駅の北が再開発される様ですが、なんとそこに森を造る計画があるのだとか。確かに、荒地だった場所に、荘厳な明治神宮の森を育てた先人の例がありますから、そのミニ版と考えれば、西の神宮の森が出来るのかも知れません。ここで考えてみたいのは、「再開発」と言う言葉です。これまでは、駅前の再開発と言えば、例えば自動的に古い建物を壊し、背の高いマンションや商業施設を作る事だったり、里山だった場所を削って谷を埋め、道路を通して新たな街を作ったりと言ったもの、つまりは古い街並みや自然を一度完全に破壊し、鉄骨とコンクリートとアスファルトを使ってゼネコンが人工のインフラを「造り直す」事を一義的に指したのです。

しかし、人間が一度作ったモノを壊し、森や自然に戻す事を何と呼べば良いのでしょう。英語ではRestoreなどと言いますが、日本語としてましてや行政用語や業界用語としては適切なものが見当たらないのです。敢えてそれをここで作るなら、「再自然化」とでもしたらどうでしょうか。再自然化は実は結構難しい話です。人間が大きく作り替えた自然環境は、建物を取り壊し、舗装を引っ剥がしたとしても、例えば地下水を含む水環境やそこに棲む微生物や植物相が復活する筈もありません。仕方がないので、表面上だけでも土を入れて、植物を植えても、結局はその植木が生えていた土壌を微生物や昆虫の卵ごと移植してしまうだけで、下手をすれば一つの公園で、寒冷地の植生や昆虫類が、温暖地域のそれとごちゃ混ぜになっていたりするのです。

再自然化のためには、綿密な調査と計画が必要だと思うのです。もちろん計画と言っても、人間も浅知恵で作るものではなく、自然の再生力に任せる余地を十分広く取って置く必要があります。「自然の取り分」とでも呼んだ方が良さそうです。加えて、気の遠くなるような「時間」も重要な要素です。人間が三代かけて壊した自然の復旧には、それ以上の時間を要するからです。明治神宮は、その意味で成功した例なのでしょうが、ここまで100年以上を経過している事を考えれば、結局この森は、自然自身の再生力が100年かけて作り上げた傑作とでも言えるでしょうか。人間は、それにホンの少し力を貸しただけなのでしょう。

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2017年1月10日 (火)

3202 90秒ルール

人間の怒りは、90秒も経過すれば一応はおさまるのだそうです。もちろん、その怒りが強すぎれば、もしかすると数年程度は続くのかも知れません。投稿者にその様な経験はありませんが・・・。しかし、世代を超えて70年経っても消えない様な怒りや憎しみは、結局は教育によって何度なく「強化」された結果もたらされたものだと言えるでしょう。

その作られ強化された憎しみに、反発を以って背を向けるのは、あまりにも「大人げない」態度だというしかありません。憎しみには、それを大きく包み込む「慈愛」の態度しかあり得ないと思うのです。人々は、その意味では敏感だと言えるでしょう。お金で解決しようとして、尊大な態度をとり続ける隣国のリーダーは、彼の国でどのように見られているのかは容易に想像できます。確かに、彼の時代で犯した罪ではないのでしょうが、少なくとも親や祖父の時代の出来事であり、心の痛みとしては感じてもらいたいとも思います。

さて、世界の全ての人々が、90秒ルールで暮らせたら、どんなに平和な時代が訪れることでしょう。確かに、動物の世界では、草食動物は、肉食の猛獣への恐れは抱くのでしょうが、家族を殺されたからと言って、肉食獣への憎しみを抱き続けることなどないのでしょう。憎しみは、アドレナリンで体を痛めつけ不健康にすることは明らかです。これを書きながら、許し忘れることの重要性とその結果の幸せを改めて噛みしめています。何故なら、過去に拘泥してウジウジと他人や特定の国民一般を憎み続けることの無意味さが想像できるからです。まあ、忠臣蔵の仇討ちを美徳とするこの国の国民性と、隣国の科学技術や産業のノウハウ・設備を導入し、追いつけ追い越せと目標にしながら、心情的には教育で叩き込まれた「憎しみ」の呪縛から抜けられない人々には、何らかの共通する「遺伝子」があるのかも知れません。磁石のNN、電荷の+と+が反発し合うように・・・。

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2017年1月 9日 (月)

3201 ○○の一つ覚え

経済政策一本槍のこの国のマツリゴトには、強い違和感を持たざるを得ません。何度でも書きますが、景気が良くなる事と、人々の幸福度は今や比例する事もなく、もしかすると格差拡大により「逆比例」している惧れすらあるからです。何とかミクスの荒っぽい三本の矢と、結果としての円安と原油安や世界情勢にも後押しされて、どうにか恰好は付けていますが、中身の無いお札や国債の増刷だけでは迎える結果は目に見えています。つまりは、膨大な借金の後世へのツケ回しです。

経済バカは、結局は経済に呪われるだけでしょう。経済は「魔物」だからです。たかだか、アジアの小国のリーダーが、いくら旗をバタバタ振り回そうが、魔物は一瞥をくれるだけなのです。「富」という呼び名の魔物は、間違いなく爆発的に巨大化しています。しかも、それは極端な「偏在」を加速させているのです。富は、いわばブラックホールの様に強力な吸引力で新たな富を引き寄せるのです。富はあるところにはあるのです。そしてそれは肥大化し続けるのででしょう。

なまじっかな努力で、この富の集中を止める事は出来ないでしょう。明らかな価値観の転換、と言うか「逆転」が必要だからです。アルコール中毒や薬物中毒の患者を治療するには、断酒や断薬を断行して、患者から「魔物」を引き離す必要があるのです。とは言いながら、果たして私たちに「富」、直接的にはマネーですが、それを忌避する事は可能なのでしょうか。少し遡れば、田舎には確かに殆どお金に縁の無い生活が存在しました。自給できるより少し多い程度のコメや野菜を育て、時には川や海で魚介類を手に入れ、また季節には山に入って山菜やキノコを採集すれば、生活に要するお金は最小限で済むでしょう。余った農産物や食糧は必要とする人に販売したり、他の日用品と物々交換すれば、結構豊かな生活を送る事が出来る筈なのです。もちろん、マネーを価値基準とする人達から見れば、貧しい生活に見えるかも知れませんが、精神的には充実した生活と言えると思うのです。なかなかその域までに道は遠いのですが、一歩でもその方向に近づこうと努力はしています。

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2017年1月 8日 (日)

3200 熱の3R

ようやく熱の有効利用にも光が当てられ始めたようです。つまり、熱の3Rにも助成金が出るようになったということです。熱の3Rとは、助成金を出す側の定義によれば、1)熱の使用量を減らす技術、2)熱リサイクル(例えばヒートポンプ)技術、3)低温度熱エネルギーの(電力への)変換技術、なのだそうです。しかし、熱の本質を考えてみれば、1)、3)は理解できるにしても、2)には違和感を抱かずにはいられません。熱(エネルギー)は、周囲に伝熱し放熱し続けながら、徐々に温度(エネルギーとしての質の)低下していきます。つまりは、熱は温度が低下する際の落差を利用する、「カスケード利用」が真髄だと思うのです。

さて、1)の使用量を減らす取り組みには、全く賛成で何も議論の余地は無いでしょう。つまりは省エネ技術です。また、3)のエネルギー転換、例えば熱電変換素子、については、まだまだ効率は低いながら、徐々にですが実用化に近づいているのは間違いありません。最もチャレンジすべき課題は、実は低温度の熱(いわゆる排熱)の利用の高度化だと思うのです。種々のエネルギー機器や設備から発生する排熱は、その絶対量が膨大だからです。熱は、放置していれば自然に環境温度まで低下します。それを防ぐのが「断(遮)熱材」ですし、熱そのものを蓄えておくのは「蓄熱材」の役割です。

この二つの目的の材料を高度化し、かつ安価にすることができれば、熱の3Rにも弾みがつくはずです。その際重要なことは、これらの材料を、環境に普遍的に存在する資源で実現する姿勢でしょう。複雑なプロセスを必要とする材料や化学物質を使おうとすれば、その材料調達のための環境負荷も大きくなるでしょう。断熱材としては、発泡させた無機材やその粉体が有望でしょう。また蓄熱材としては、蓄熱性能は低いでしょうが、比重の大きな岩石などが候補に挙がるでしょう。水に比べれば比熱は小さいのですが、比重と量でカバーする訳です。これらを用いて、例えば設備排熱や太陽熱を蓄えてかつその温度を維持し、それをカスケード的に利用する「安価」なシステムであれば、実用化に近づけそうな予感がします。高度な材料や複雑なシステムは、環境エネルギーでもある排熱の利用には馴染まないと思うからです。

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2017年1月 7日 (土)

3199 たかがつぶやき

もうすぐ大国のリーダーとなる人の「つぶやき」が注目を集めている様です。なにしろ、そのつぶやきによって大企業の株価が大きく下げたり、あるいは為替相場が揺れ動いたりするのですから、たかがつぶやきとは言えそうもありません。日本語で書けばここまでで100字を超える訳ですから、アルファベットで140文字で一体どれほどの想いが表現できるのでしょうか。文字数を制限した場合、多くの形容詞や意味をぼやかす「オブラート」を省略し、ズバリと「本音」を書く必要がありますから、多くのツイッター文は「紋切型」にならざるを得ません。それは、読み手に取ってはアグレッシブな印象も受ける事でしょう。

しかし、忘れてはならないのは、ツイッター利用の基本ルールとして、これを「特定のターゲットに向けた攻撃や非難」に用いてはならないとされている点です。その意味で、ツイッター上に特定の国や企業名を挙げて、チクチクとあるいはグサリと攻撃する、彼の国の次期リーダーは、明らかなルール違反を犯していると指摘せざるを得ないでしょう。もし、彼が実際にリーダーの座についてからも、今の様な「攻撃」を続けるならば、良識ある人々はそれを咎めて、すぐに止めさせなければならないと思うのです。

たかがつぶやきですが、短い、強い言葉で特定のターゲットを攻撃・非難する事は、それが個人レベルのイジメであれ、企業や国レベルの攻撃であれ、民主主義を標榜する人々なら、してはならない「ご法度」である筈なのです。その良識の書けている、彼の国の次期リーダーの行動には、大きな懸念を抱かざるを得ないのです。やれやれ。

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2017年1月 6日 (金)

3198 幸福論

最近、いくつかの幸福論が発表されて話題を集めている様です。3197で言及した書もその一つですが、書籍に限らずTV等のメディアでも同様の傾向だと言えそうです。その様な幸福論が取りざたされる事態は、裏返せば私たちがかつてない程の混迷の時代に置かれているとも言えるのでしょう。物質的には、例えば戦後の特に貧しい時代が存在しなかったと仮定しても、この国の歴史上でも最も豊かな時代に生きていると言うのに、です。

その意味で言えば、人間の幸福感と言うものは、ある程度までは物質的豊かさに比例するのでしょうが、それがあるレベルで充足されてしまえば、むしろ両者は(物質的充足と幸福度)は、上下に乖離してしまうのでないか、と疑われるのです。その理由は、多分人間の幸福感がそれほど単純なものではない、と想像されるからです。物欲や金銭欲などというものは、多分充足されればされる程逆に強まってしまう種類の欲望なのでしょう。それは、薬物やギャンブルなどの「依存症」にも通ずるもので、いわば人間の性(サガ)とでも考えるべきなのでしょう。

そうではなくて、物欲や金銭欲を最低限のレベルで「辛抱」し、幸福感を「精神的なもの」に求めていく選択肢を取るならば、私たちの幸福度は今より高い水準で実現できるのではないか、と投稿者は考えるのです。精神的満足による幸福感などと言うものは、髙いレベルで充足されたとしても、中毒になる心配は薄いのでしょうし、かつより高い満足度を追求したとしても、それはさながら「修行者」や「求道者」の様に、自分の内なるものに向かって行くだけなので、誰にも迷惑を掛けないでしょうし、地球環境に余分な負荷を掛ける必要もないのです。寒い時期に寒修行でもすれば、暖房エネルギーの節約にはなるのでしょうし、暑い時期に積極的に汗をかけば、発汗能力も高いまま維持できるのでしょうから、むしろ自分にとっても「健康維持」と言う幸福も手に入るでしょう。節制・節約しながら日々健康に暮らしていく事は、人間にとっての究極の幸福に違いない、と思う今日この頃です。

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2017年1月 5日 (木)

3197 人類の歴史

正月のズボラ生活から、日常に復帰しての初投稿です。今日のクロ現によると、人類の歴史書が今ベストセラーなのだそうです。しかも、それが現代の著名人にも大きな影響を与えているのだとか。まだ読んでいませんが、近いうちに手に取ってみようと思います。人類の歴史に関しては、これまでも種々の切り口で書かれた書が、それこそ枚挙に暇が無い程書かれた筈ですが、この書がこれほど評判になるのは、多分人類全体ではなく、それを構成する個々人の幸福に着目したからだと想像しています。

これまでの書は、例えば人類としての進化や自然淘汰あるいは、人類とそれを取り巻く環境や他の生き物との関係を読み解いたり、化石等の物的証拠を元に論を展開したり、更には生物全体と人類を一つの系統樹で表現しようとしたり、つまりは種の塊としての「人類」を論じたものばかりだったのです。しかし、例えば農業が始まった人類の歴史のイベントを、その農業を支える個々の農民に着目して論じたものは確かにこれまで目にした事は無かった様な気がします。

学問上、集団を集団としての特徴で論ずる事は確かに可能ですが、それを個々の構成員に落として論じてしまうのは、実は「学問」としては邪道でしょう。それを論ずるのは「文学」や「小説」の役目だからです。しかも、もし学問として構成員に着目したとしても、それを裏付ける太古の時代の物証など残っている筈もありませんしそれを補うのは、あくまでも「想像力」でしかない訳です。その意味で、イスラエル人の書いたこの本に対する書評は、多分壮大な歴史小説に対するものと似た様な感じになるのではないか、と勝手に想像を膨らませています。この本を読んでの感想は、その内このブログにもアップする事といたします。たぶんですが・・・。

 

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2017年1月 2日 (月)

3196 Tランプる

昨晩のNスぺで、Tランプ後の世界の変化に関して議論していました。要は、Tランプが大統領職に座った場合、世界のパワーバランスや経済がどう変わるか、という予測であり、その分析です。しかしながら、少なくとも20世紀後半を生きてきた人間の一人としては、たった一人の(政治経験の全くない)政治家の出現によって、世界がガラッと変わってしまうとはとても信じられないのです。

政治(や外交)経験が無い「ビジネスマン」にできることはと言えば結構限られてしまい、例えば手の内を見せない、つまりは「あやふやな態度」をとることによって、相手の次の出方に迷いを生じさせ、次の一歩を踏み出すことをけん制することくらいでしょうか。ビジネスと政治は、似ている様で実はかなり異なるのではないかとみています。ビジネス取引(Transaction)の結果として、例えば直接人が死ぬことはないのでしょうが、しかし、パワーバランスを崩すような政治的決断次第では、世界の各地に紛争が飛び火する惧れさえあるのです。怖いのは、パワーを握ったビジネスマンの起こす行動でしょう。パワー(直接的には武器や軍隊)を握った人間がそれを使ってみたいと思うことは容易に想像できるでしょう。

もちろん、大人の対応としては、「それ」をチラつかせながら、パワーバランスを維持することなのでしょうが、それにしてもどの様な「チラつかせ方」であれば、緊張を緩めながらバランスを保つことができるのかは、かなり高等な「駆け引き」が必要だと思うのです。選挙戦の中だったとしても、勢いで色々な事を口走る(Tランプる)人は、やはり「要注意人物」と考えておくべきなのでしょう。

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2017年1月 1日 (日)

3195 ○○協力隊?

年末はバタバタしていて、年末にアップする予定だったこの稿が、初投稿になってしまいました。このブログは、悪口はご法度にしているので、以下もあくまで提言です。

さて〇〇協力隊なるものが各地で組織されてはいる様ですが、なかなか目に見える成果が上がっていないのが実情の様です。しかし、協力隊員の任期は多分2年程度でしょうから、成果の有無にかかわらず、また不本意ながらその地域を離れる事も多いのでしょう。そもそも、隊の名前が余り腹に入りません。誰かが地域起こしをするのに「協力」する、あるいは「お手伝い」をする、と言うスタンスが見え隠れしているとも思えるからです。

本当に地域興しをしたいのであれば、「地域興し実行隊」とか、もっと過激に「地域興し決死隊」程度のネーミングにして貰いたいものです。もちろん、名前だけで中身が変る訳でもないのですが、あくまでもう数歩前に進んだ取組みとするため、先ずは名前から入ろう、とススメているだけです。そして、隊員には給料だけではなく、実際にビジネスを興すための場所の確保と、ささやかでも予算(元手)を渡すべきでしょう。新しく興すビジネスは、最初から大きな売り上げや多数の雇用を生み出す必要は全く無いでしょう。

そうではなくて、地域ビジネスはむしろ手間暇の掛かる、昔ながらの「生業(なりわい)」に近いものでなくてはならないと思うのです。例えば、田舎の農家の庭先を見ると枝先にビッシリと成り下がっているカキ木が数本目につく筈です。カキの実を見て、さてそれをお金に変えるためには、どうしなければならないと考えれば、それを摘んで渋を抜くために焼酎を使ったり、皮を剥いて干し柿などにする必要があるでしょう。あるいは、カキの糖分を利用してアルコールを作るのも良いでしょう。必要なのは、ヨソ者の目と、若者(もちろん年寄りでもOKですが)のやる気・体力と、意外性のあるアイデアでしょう。○○決死隊の隊員が、先ず生計を立てる事が出来れば、一つの生業モデルが出来る訳で、それをコピーするか少しアレンジすれば、別のモデルも作れるかも知れません。

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2016年12月27日 (火)

3194 総論賛成、各論・・・

あれほど熱心に誘致し、国のリーダーまで乗り込んで行って、福一事故後の安全性をアピールして引っ張ってきた五輪なのに、今度は予算をどの組織が持つかの「押し合い」を繰り返している姿は、見にくいとしか形容の仕方を知りません。この国には、どうやら総論賛成、各論反対の根強い伝統が脈々と受け継がれている様です。

「お祭り」の細かい事が決まらない内は、子供の様にはしゃぎ、いざ役や負担額が決まり出すと途端に引いてしまうと言う「絵柄」は、何度目にし、耳にした事でしょう。今回のバタバタ劇にしても見慣れたデジャブの一つにしか思えません。

それもこれも、結局は責任を誰が取るかについて合意形成が「下手」なのだと言えそうです。これを回避するのは、やはり欧米流の「書面」による取り決めしかないのかも知れません。それも悲しい事態である事は間違いありませんが、いずれにしても「食い逃げ・逃げ得」を防ぐには仕方がないのかも知れません。

もう一つは、上下関係を明確に決めておく事でしょうか。もし国、自治体、組織委の関係(権限の強さ)が、完全に同等であるとした場合には、いわゆる「三すくみ」状態が続く事にもなるでしょう。今がまさにその状態だと言えるでしょう。三者の上にもう一人権限を付与された「議長(プロジェクトリーダー)」が座れば、多分物事が滑らかに進み始めるのだと思われます。余り時間は残されては居ませんが・・・。それにしてもプロジェクトの進め方が下手な国民ではあります。今日は短く。

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2016年12月26日 (月)

3193 格差社会

現代程格差が問題になっている時代は、無かったかも知れません。確かに、封建時代は支配階級と被支配階級があって、格差は存在しました。とは言いながら、同じ階級の中では、殆ど均質であったと想像しています。支配階級にしても、富の集中とは言っても、精々領地内の年貢の範囲内だったでしょうから、知れていると言っても良い程度でしょう。

然るに、現代の格差のオンパレードです。経済格差は言うに及ばず、地域格差、交通インフラ格差、学歴格差、更に国際的にも資源(有無)格差、武力格差、人種格差(差別)、宗教格差(差別)、日照(気象)格差、水資源格差、貿易収支格差、通信インフラ格差、食糧自給格差などなど、枚挙に暇がない程です。それらの格差の結果、地上には貧困禍が溢れ、その中から生まれたテロが蔓延し、その結果信じられない程の避難民が溢れる事に繋がったのでしょう。全ては、各種各様な格差の為せるワザだと言えるでしょう。

しかし、一方ではその格差の助長を進める政党の支持率が下がらなかったりもするのです。格差を助長する事になる賭博や都市への集中を加速する五輪や万博の誘致に至っては何をかいわんやでしょう。誘致をしたところで、所詮一時のお祭り騒ぎが起こるだけで、「祭りの後」の虚脱感の反動を想像するだけで憂鬱にさえなるのです。

この方向に、後戻りは無いのでしょうか。確かに、これを反省したり、好ましくはないと言う「掛け声」はあります。マスコミの特集で取り上げられる機会も増えてはいます。いくつかの提言も聞きましたが、どうにも決定打に欠ける様ではあります。やはり、ここは社会の方向を「左寄り」に修正するしか無さそうなのです。この国でも、かつて左寄りの政党が強い時代もありました。瞬間的には、政権の座に座った事さえあったのですから。しかし、ゾンビの様な右寄り政党が戦後一貫してこの国を右寄りに引っ張ってきたのでした。最近でも若者がこの傾向に嫌気がさして少し騒いだ事もありましたが、かつての勢い、例えば安保闘争時の様な勢いは当然ありません。若者の人口に占める割合(パワー)が、60年代の数分の一になっているのですから仕方がありません。どうにもこうにも、結局は右寄りで人口の大きな多数派を占める我々以上の世代が、世の中から居なくならない限り、大きな揺り戻しは期待できないのかも知れません。

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2016年12月25日 (日)

3192 利息の発明2

人々が、カネを貸す際に度を超えた利息を取るとか、あるいは商売をする上でぼろ儲けをしたがるのは、多分「儲けられる内に儲けておけ」と言う意識が働くからでしょう。もし、人々の生活が「揺り篭から墓場まで」保証されるならば、人々はきっとあくせく働いて、多額の貯蓄をする必要性が薄くなる事でしょう。確かに、北欧など一部の国々では、高負担ながら高福祉を実現している例が見られます。この国の様に、中負担、中福祉の国々では、多くのケースで失敗しかけている例も散見されるのです。例えば、この国やお隣のK国などでは教育費が親や子供に重く圧し掛かりますし、B国などでは医療費制度が破綻しかけている様です。

投稿者としては、中途半端はどうも上手く行かないのかも知れない、と思うようになりました。と言うのも、人々は将来に対し、不安を抱きがちな存在だと思うからです。世の中が右肩上がりで、行け行けどんどんの時代には、不安も最低限に縮小するのでしょうが、人口減で高齢化が進んでいるこの国の現状では、きっと老いも若きもそれぞれに大きな不安を抱えて暮らしていると想像しています。過度の利息のブラックローンや、率の高い証券投資話や不動産投資等や射幸心を過度に煽る高額の宝くじや、カジノ付のレジャー施設やまたぞろの五輪や万博の誘致などの話題が引きも切らないのは、そうした不安の裏返しでしょう。つまりは、「景気(に火)をつけろ」と叫んで。不安を覆い隠そうとする「策略」でしかありません。

そうではなくて、私たちは現実に真っ直ぐに向き合い、数十年後のあるべき姿を見据えて、そこに向けて地道な努力を傾けて行く必要があると思うのです。人口は、例えばこの国の国土サイズでは、例えば今の半分程度が適正なのかも知れません。もしそうであるなら、そこに向かって、年寄りは簡単には寝たきりにしないで、生涯現役が貫ける様な工夫が必要なのです。老人が寝たきりになって重荷になる社会は、若い世代の不安を煽るからです。寝たきり老人をベッドに括りつけて彼らに何の生き甲斐が残るのでしょうか。三輪自転車や車いすや新しい移動手段を準備してでも、何とか活動度を維持していないと、寝たきりになってしまうからです。

そうそう利息の発明の話でした。いずれにしても、活動レベルの低下は、別の格差(健康格差)の原因にもつながってしまうでしょうし、同時に働けなくなって、莫大な医療費を使う事は、経済的な格差の大きな原因にもなってしまうのです。利息の発明による経済格差と共に、健康格差は、どうにか解決しなければならないこの国の大問題ではあるでしょう。

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2016年12月24日 (土)

3191 利息の発明

格差の拡大が幾度となくマスコミで取り沙汰されていますが、その根本原因や根本対策に言及される事はついぞありませんでした。持てる者と持たざる者を分けた元凶は、実のところ「利息」ではないかと、投稿者は疑っています。Yダヤ人が発明したと言われる「利息」ですが、利息は少しだけ余剰を蓄えた者と、その余剰を少しの間だけ借りた者との間の富の差を、利息の2倍分だけ広げた事でしょう。貸した者は利息を受け取り、借りた者は利息を支払ったからです。

それは、長年の商慣習の歴史の中で、例えば保険制度を生み出し、更には株式会社等の種々の経済システムを生み出し続けてきたのでした。保険会社は、海運などのリスクを請け負う代わりに掛け金を受け取り、株主は投資をした見返りに配当を受け取る、更には銀行は、Yダヤの発明に従って貸した元金に加えて利息を受け取る権利を履行するのです。マンションが持てる程富を蓄えた者は、それを転売したり貸したりして、生活に必要な額以上の収入を得て、それを利息を得ながら蓄えるか、あるいは新たな投資に振り向ける事でしょう。

一方で持たざる者は、教育を受けるために奨学金と言う名のローンを背負い、その元金と利息の返済に、若い労働力や生命力をすり減らすしかないのです。人間は、一体何と言う仕組みを発明してしまったのでしょうか。満ち足りたCリスト教徒は、過剰な収入の中からささやかな寄付を行う事で、救いを求めるのでしょうが、シェイクスピアの有名な著作ではありませんが、極言すれば、Cリスト教は最早完全にYダヤの仕組み(金儲け主義)に取り込まれてしまった、と嘆くしかなさそうです。

さて、この呪縛から逃れる術はあるのでしょうか。それは、新たな経済システムなのか、禅の様の精神的な思索に価値を求める宗教なのか分かりませんが、多分100年待ってもそんなものは現れない様な気もする今日この頃ではあります。たぶん商業主義によって、冬至後に日が長くなり始める(太陽が復活し始める)時期に当たる「明日を誕生日とされた人」を祀る宗教の、イブの日に感じた所感です。

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2016年12月23日 (金)

3190 高速増殖経済?

Mんじゅからの連想で、着陸できそうもない今の世界経済についても考え込んでしまいました。洋の東西を問わず、諸国の当面の主要な課題は、たぶん景気の浮揚であり、経済成長にあるでしょう。もしそうでなければ、国民の支持もおぼつかないからです。物質的に今より貧しいレベルの生活を受け入れる様に主張する政権など、支持を得られる訳もないでしょう。と言うことは、世界の経済は、今後も高度を上げ(お金を増やし)続けるしか選ぶ道は無い事を意味する、と言う想像を受け入れざるを得ないのです。

そう言えば、このブログを始めた最初の頃(10年ほど前)、実はこの事を書いたのを思い出しました。飛行機が着陸するためには、徐々に高度を下げて、飛行場(着陸地点=社会の目指すべきゴール)にアプローチしなければならない筈なのですが、高度を上げ続けている限りにおいては、もし燃料が切れた場合には「ハードランディング」、今流行の表現では「不時着」するしかない事に気が付いたからでもあります。最近、TVでお金の特番があった様ですが、マンションを多数保有する様なお金持ちが、さらにお金を集める経済の仕組みは、核分裂を繰り返せば、プルトニウムの割合が増えると言う、夢の原子炉Mんじゅの「虫の良い」技術とビックリするほど似ているのです。ここでは、それを高速増殖経済とでも呼んでおきましょうか。

しかし、残念ながら私たちは、「利得」を得るためには他方で必ず「廃棄物」が発生する、という法則から逃れる事は出来ないのです。発電所からは、多量の排気ガスや使用済み燃料が発生しますし、商品を消費すればそれに比例してゴミが出る訳です。従って、経済成長を続ける限りに、私たちは自分たちが出した「ゴミや廃棄物」にまみれて暮らすしかないのです。ゴミ屋敷やし尿処理が出来ていない畜舎を想像して貰えば良いでしょう。それとて、ある限界を超えれば、破局的な大量の犠牲者を伴うデザスターを起こす可能性が大なのです。今世界中の、政治家や学者や宗教者や私たち自身が、叡智を集めて考えなければならないのは、如何にしたら人々に「物欲」を放棄させるかと言う、ただ一点だと思うのです。高速で膨張する現象は、いずれ爆発的に崩壊する(あるいは破局を迎える)原理からは逃れられないからです。

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2016年12月22日 (木)

3189 直陸出来ない飛行機

FB上の、廃炉決定のMんじゅを指して、「まるで着陸(廃炉)が出来ない飛行機の様だ」、とのコメントが胸に刺さりました。と言うのも、元技術屋としてツラツラ振り返るに、我々技術屋が果たしてその装置や機械や設備の廃棄まで想定して作ってきたか、と言う痛烈な反省が湧きあがるからです。例えば、車です。自動車リサイクル法が出来て以降、確かに少しは分解を想定した車体や部品の設計が考えられては居るのでしょうが、当然の事ながら分解しやすさは、他方で使用中の緩みやすさや外れやすさと言うリスクも生ずるわけです。

そうなると、設計者がユーザーの安全性を重視すると言う「御旗」を掲げるならば、当然の事ながら緩みにくいナットなどを多用するしかないでしょう。そうだとしても、かなりの部分は技術屋の「言い訳」だというしかありません。少しだけコストを掛ければ、ワンタッチで結合し、緩みにくく、かつワンタッチで分解できる様なボルトナットや結合方法の採用が可能だからです。1円でもコストを削る事を要求される開発現場では、つい言い訳をしたがるのも無理もないのかも知れません。しかし、例えば素材の種類を統一するくらいの努力は、コストアップにも逆行しませんし、リサイクルの立場から見ると、グッと楽になる筈なのです。つまり、車の数万点の部品の素材が、もし10種類くらいに分類できれば、どんなにリサイクルが楽に出来るか容易に想像できるでしょう。

Mんじゅの場合、廃炉の障害は、減速材として多量に使われている金属ナトリウムの存在だと想像しています。水で冷却する通常の原発に比べ、高速増殖炉と呼ばれる「Mんじゅ」で使われている金属ナトリウムは、中性子をあまり減速させない冷却材としての必然性があって採用されては居るのですが、では放射能で汚染されたナトリウムの処理方法など、技術者の頭の中には殆ど無かったであろうと想像しています。それより、多額の税金を背負っているが故に、一日も早く動かすという圧力が強かったに違いありません。だからこそ、安易に管路の中に折れやすい形で温度計の鞘を取り付け、それが折れてナトリウム漏れ事故を起こしてしまった訳です。もちろん事故当時は、放射能で汚染された金属ナトリウムの処理方法など、全く想定外だったに違いありません。

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2016年12月21日 (水)

3188 冬至

今日は冬至ですが、冬至は始めでもあり終わりでもあると言えます。始めとは、つまりは冬至は本格的な冬の幕開けでもあるという意味です。昼の長さが一番短いこの時期は、太陽の全く当たらない北極圏に、冷たい空気が蓄積し、それが本格的に放出され始める時でもあるのです。これまでの寒気は、北極気団の凸凹によってもたらされたものなので、長続きはしなかったのですが、これからの2か月ほどは、寒気団にすっぽり覆われ易くなる期間に入るからです。

一方で、昼の長さが最も短いと言うことは、今日を境に昼の長さが短くなるのが終わり、それが逆転しはじめる日である事を意味します。この頃に、洋の東西を問わず種々の行事が集中しているのもごく自然の成り行きとも言えるでしょうか。実際には、12月に入るとすぐ、夕方の日の入りの時間は既に遅くなり始めては居るのですが、相変わらず日の出時間は遅くなり続けて居るので、トータルとして昼の時間は、冬至まで短くなり続けて居ると言う訳です。

さて今年の冬は、ドカ雪でしょうか、それとも小雪の暖冬でしょうか、それとも普通の冬でしょうか。もっとも、最近の普通の冬は、投稿者の子供時代に比べれば、小雪の暖冬と言うしかないのですが、今年も一旦降った雪がすっかり消えてしまったので、雪の無い正月になるかも知れません。北国秋田でも、それが普通の冬になってしまった感があります。今日も短く。

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2016年12月20日 (火)

3187 Oスプレイ考

今やアブナイ乗り物の代名詞になりつつあるOスプレイですが、少し冷静に眺めてみます。軍用機ですから、今回の様な空中給油とかの軍事上のオペレーションがあり、天候の悪い日にも飛ばなければならないでしょう。今回の事故が例えば、空中給油中にホースとプロペラが接触して事故に至ったと仮定しても、この機体の弱点に関しては指摘しておかなければならないでしょう。

第一の弱点は、飛行モードの切り替え時にある、遷移モードである事は明らかです。垂直離陸モードは問題ないでしょう。タンデムローターのヘリコプターと変わるところはありません。しかし、ローターを徐々に前方に傾けて、水平速度を上げるにつれて、ヘリが飛行機に「変身」するのですが、では水平速度が何ノットの時が最適で、その前後にどれほどの幅が許されるのか、疑問の残るところなのです。構造上の制約から、この機体の翼面積は、通常の固定翼の輸送機に比べて小さいのは仕方がないでしょう。しかし、Oスプレイは輸送機なのです。それなりの重量の貨物を積んでいますから、その荷重によって遷移速度が変ってくる筈なのです。と言うことは、パイロットの知識や操縦の技量に著しく依存する機体であると言えるでしょう。なまじっかの訓練で乗りこなせる機体ではない事を再認識すべきでしょう。

もう一つの弱点は、いくつかの事故の映像を見る限り、横風への弱さにあると感じました。通常の固定翼機も確かに横風は苦手ですが、離陸速度がある程度高いので、複数の方角に向いた滑走路を持つ空港では、可能な限り向かい風の角度になる様に離着陸をさせる事も可能でしょう。しかしヘリパッドは、この様な設計になっていないので、横風を受けたまま離着陸をしてしまいがちです。離着陸時はヘリなので、機体は二つのローターで吊り上げられた状態になるでしょう。そこに横風が吹くと、機体はまるで「振り子」の様に振動を始めるのです。この振動周波数に横風の「息」が動機した時に最悪の事故につながるのです。これを避けるには、離着陸時には固定翼機と同等の注意を払う必要がある筈なのです。

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2016年12月18日 (日)

3186 随想

このブログは、ほぼ毎日書いているので、3650回目の投稿で一応丸十年と言う事になりますが、忙しかったり、旅行不在の時などは投稿できない日も結構あったので、振り返って数えてみると(20068月から書き始めたので)既に10年間以上は書き続けている勘定です。最初、環境ネタだけで、毎日、それもこれほど長く書き続ける事は想像できなかったのですが、書き始めてみると書かない日は何か落ち着かなくなってしまい、たとえ一行でも書いて投稿することを続けました。

人は、不思議なもので、書くことによって考えがまとまり、それを日々記録していくことによって、自分の考えにも一貫性が出てきた様に振り返っています。つまり、初めに「こうなのではないか」と書くと、次には「こうに違いない」となり、最終的には「こうなのだ」と確信し、それを断言する様にもなります。もちろん、可能な限り本やネット情報などで調べて、自分の考えの補強をしたりもします。実データなどによる確認です。

環境問題を突き詰めて考えていくと、結局問題の核心は「持続可能性の崩壊」である事が分かります。資源の枯渇にせよ、環境汚染問題にしても、ある時期を基準として悪化傾向が見られなければ、その状態は持続可能である事になるでしょう。然るに、現代の様に進歩や開発による「経済成長」を是とする世界では、変化(増大)を是とする訳ですから、持続可能性からは逸脱してしまうのです。なにしろ持続可能性が髙いと言うことは、結局は変化が無い事、あるいはプラスとマイナスが相殺する「ゼロサムゲーム」を意味するのですから・・・。今日は短く。

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3185 環境ビジネス3

環境ビジネスは、小さくて、地産地消であればそれで必要かつ十分な条件と言う訳ではありません。何より、最重要な要件は持続可能性なのです。例えば、山の木を伐り倒しても、それが持続可能となるためには、木材を利用した世代が、同時に同じ量の森林が再生する様に、植林と森林の手入れを行う必要があるのです。次の世代か、次の次の世代になるかは分かりませんが、それを怠らなければ、森林は見事に再生する事でしょう。そこまでやって、やっと持続可能性が担保されるのです。たった今が、FIT制度で利益が出ると言う理由で、バイオマス発電所を建設し、不足するバイオマス燃料を輸入して補うなどと言う枠組みが持続可能である筈がないでしょう。

今ある環境をこれ以上変えない、あるいは先人が手入れして守ってきた森林や里山を、可能な限り人が入って維持をするのも立派な環境ビジネスだと言えるのです。ここで強調したかったのは、環境ビジネスと言うものは、結局は「持続可能性」を柱に据えて、地元で持続的に手に入る資源(その殆どが太陽エネルギー起源ですが)を使って、地元の小さなニーズを満足させつつ行う、小さなビジネスである必要があるという点なのです。

例えば、大規模なバイオマス発電、例えば水素ビジネスや水素自動車、例えば廃棄物のエネルギー利用(ヒートリサイクル)、例えば大量の輸送やエネルギー消費を伴うリサイクルビジネス(紙や金属やプラスチックなど)は、それぞれ大規模でかつ持続可能ではないという理由で、環境ビジネスの大きなまな板からは速やかに降ろさなければならないでしょう。その上で、環境ビジネスの小さなまな板を多数用意して、より多くの「人手」を掛けた真の環境ビジネスへの脱皮を図らなければならないのです。それを、ここでは「日本型環境ビジネスのゴール」と呼んでおきましょう。

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2016年12月17日 (土)

3184 環境ビジネス2

今から書く事も既に書いたような気もしますが、まあいいでしょう。環境ビジネスの筆頭に挙げるべき必須要件として、「運ばない事」があります。今は、まさに「運ぶ時代」であり、人々が大した用もないのに「移動したがる時代」でもあります。しかし、モノを運んだからと言ってモノの付加価値が1円でも上がる訳では無く、人がタダ遠くに移動しただけで賢くなった訳ではないでしょう。もちろん、モノには輸送料が載せられますし、人も移動すれば少しは見聞が広がる事もあるのでしょうが、それはモノ価値や人の見識とは無関係なオマケに過ぎません。

さて移動させる事にそれほどの意味がないどころか、移動にはかなりのコストもエネルギー消費も発生するのです。特に嵩張る、軽いモノを運ぶ場合には、その輸送コストが顕著になるのです。例えば、嵩比重が0.2以下の木材チップを運ぶ事を考えてみましょう。10トン積み程度の車体を持つトラックに、大きな箱を乗っけてそこに山積みにチップを放り込み、上にネットを掛けて運ぶ事を想定しても、実際に運べるチップの量は低い方の数トンしか期待できないでしょう。チップの持つ熱量を考えても、トン当たり1万円程度しか値のつかないチップを、一回数万円掛かる距離を輸送する場合、下手をすれば価格は倍に跳ね上がる事になるでしょう。結局これでは、折角カーボンニュートラルのバイオマスを使って、熱や電力を生み出すにしても、化石燃料も燃やしているので、二酸化炭素排出への歯止めは効かないのです。

そうではなく、環境ビジネスの「基本のき」は運ばない事、つまりは限りなく地産地消を目指さなければならないと思うのです。もし運ぶとしても、精々半径10㎞以内に留めないと、化石燃料の浪費に歯止めは掛からないでしょう。田舎であれば、結構身近に余っているバイオマス(整理木やモミ殻や木屑等)が見つかる筈です。そんな田舎程、暖房や給湯目的で、遠くから小型タンカーやタンクローリーで運んだ石油燃料を多く消費していたりするのです。小規模で簡単な設備があれば、薪やバイオマスチップを狭い範囲で流通させる仕組みは作れるでしょう。必要なものは、やる気のある若者(もちろん高齢者でも良いのですが・・・)と小さな資本だけなのです。先ずは、自分の家の需要を賄った上で、ボチボチと近所の需要も満たして行けば良いのです。

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2016年12月16日 (金)

3183 環境ビジネス

この表題も何度となく取り上げた様な気がします。忘れっぽくなったので、以前の投稿はさておきまた新たに書いてみます。ここでは、環境ビジネスで大きな利益を上げても良いのかについて考えてみます。いわゆる、今の環境ビジネスのモデルは、たとえばFIT制度を利用して、儲かる内に再エネで利益を上げるものとか、あるいは廃棄物処理に困っている事業所に、処理業者が処理料を提案し、それなりの利益を上げるとか、更には省エネにつながる様な製品を作って売るとかが挙げられるでしょうか。

しかし、全てのビジネスで言える事でしょうが、利益の一部はビジネス拡大のため、あるいは将来のための投資に回されるでしょうし、回す必然性もあるでしょう。そうでなければ、そのビジネスは「ジリ貧」に陥ってしまうからです。それを怠ったがために消えて行った企業やビジネスの何と多い事でしょう。枚挙に暇がない程です。しかし、環境ビジネスの神髄が「持続可能性の強化」にあるとするならば、過大な利益はご法度だと言うしかありません。たとえ、利益の大きな部分が再投資に回されたとしても、拡大・再生産は持続可能ではないからです。

結局環境ビジネスとは、どの様な形をとるにせよ、「スモールビジネス」でである必要があり、設備も可能な限り人力を主体にしたもの、つまりは「道具」に頼るものであるべきだ、と投稿者は思うのです。もし、ある人が環境ビジネスを志すにしても、メシを食っていくためには、いくつかの環境ビジネスを組み合わせたものとするのが理想形だとも思うのです。ここでは、環境ビジネスとなり得るスモールビジネスとは、別の言葉で言えば、ご近所の困り事やニーズを、環境に配慮しながらきめ細かく解決していくものと言っておきましょう。

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2016年12月15日 (木)

3182 エコプロ2016

先週、BSで開催の「エコプロダクト2016」を短時間ですが冷やかしました。個々のブースを覗き込んだ訳ではなく、一応通路をジグザグに歩いて、目についたブースを除いてみる、と言う何時ものパターンで進みました。その中で、目についた展示と感想をいくつか書き残します。

1) 太陽熱+デシカント冷房のハイブリッド空調(給湯):太陽熱温水器メーカーとデシカント空調メーカーのコラボで、かなり小型のシステムのパンフレットを手に入れましたが、まだまだ家庭用までは小型化が出来ていない様子で残念でした。

2) ノンフロン冷媒:これまでの空調機は、冷媒としてフロン(オゾン層破壊や温暖化の超悪玉)や少し悪玉の代替フロンを使っていましたが、いよいよノンフロン空調機や冷蔵庫が主役になってきた様です。その中で、フロンで動いている既存のシステムを、ノンフロンで置換してしまうビジネスが注目です。この方法では、フロン空調機が機器はそのままでノンフロン空調機に変身できる訳です。しかも、機器の調整(具体的には圧縮率等)の調整を行えば、3割程度の省エネも達成できるのだとか。設備更新を伴わないので、投資も最小限で済む妙手になり得るでしょう。

3) 体脂肪率の高い藻:「体脂肪率」が50%もある藻が開発された様です。これの大量培養が可能となれば、その藻から絞る油を直接燃やしたり、エンジンを動かしたりできるので、いわば「池の油田」が実現できる様になりそうです。

4) 層流技術:これは3178に詳しく書いたので省力

5) 木材の活用:今回改めて考えさせられたのは、木材の活用の更なる拡大が必要だという事です。木材は、材木として家具や建物に使われる他、極限まで純粋にし微細化したナノセルロースファイバー、木材を貼り合せた多様な合板や集成材などなど、その可能性はますます拡大している様に見えるのです。それらに使われなかった「端材」や「枝葉」は、薪やチップやペレットとして、立派な燃料になって、再び空中に戻り、植物の光合成サイクルに入って行くのです。つまりは、本質的にカーボンニュートラルである殆ど唯一の素材だ、と言う事も出来るのです。

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2016年12月14日 (水)

3181 たかがつぶやき、されど・・・

B国の次期大統領のツイッター機関銃(砲?)が止まりません。その意味で、彼のツイートは世界で最も注目を集めるつぶやきだとも言えるでしょう。何より、経済への影響が半端ではありません。一企業を名指しすれば、差された企業の株価が乱高下し、B国の近い将来の積極的な経済政策に言及すれば、世界中の株価が吊り上る結果につながります。Rシアとの関係を改善する人事を発表した途端に、Rシアを後ろ盾とする彼の国では反政府勢力の拠点が激しい空爆を受けて陥落したりもする訳です。まさに機関砲どころか、言葉のミサイルと言っても良いかも知れません。

翻って、内向きな話になりますが、小さなイジメの芽や誰かの誹謗中傷が、あっという間にネット上で拡散するのもやはりツイッターの力でしょう。一体、人々はどうなってしまったのでしょう。ある人の一方的なつぶやき(感想)の表明を、他の人が読むのはまあ良いでしょう。しかし、それに対してロクに咀嚼もしないで、更に過激な賛同意見や逆に滅多切りにする意見をすぐさまアップするのはいかがなものでしょうか。考える事なしにすぐさま「反射(反応)」してしまう、いわば「反射社会」になりつつある様にも見えてしまうのです。

しかも、その反射の強度が増幅されるのがツイッターの怖いところであることを、私たちは理解した上で使う必要もあるでしょう。反射が増幅され発散してしまう事を写真用語でハレーションを起こすとか、工学用語では「発散」とか呼んだりしますが、要はコントロールが効かなくなって、本質が飛んで見えなくなってしまう現象だと言えるでしょう。表面の現象だけに注目し、反射的に反応している限りにおいては、「では来たるべき社会はどうあるべきか」と言う本質的な議論は完全に覆い隠され、現在ある様な刹那的な社会の傾向はますます強まるのでしょう。まことに怖い現象ではあります。

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2016年12月13日 (火)

3180 SDGs

179で書いたESGが投資家の方を向いた経営であるのに対し、もう一つの経営に関するのキーワードであるSDGsSustainable Development Goals=持続可能な開発目標)は、同時に国際社会がこぞって目標にすべきゴールでもあります。しかし、よくよく考えてみれば。「持続可能=変わらない事」と「開発=拡大する変化」とは、実は相矛盾する概念である事に気付きます。と言うのも、持続可能であるためには、例えば使えば無くなる資源(例えば地下資源)には、一切手を出さない様にしなければなりませんし、同時にゴミや汚染物質の排出も、自然が分解できる範囲内に留めなければならないからです。

一方で、開発も今以上に資源や廃棄物を増やさないで行う訳ですから、何かを始めるためには、別の何かを止めなければならない事になり、なかなかに難しい活動になる筈です。と言うのも既存の産業や社会を支える消費活動と新たに始める産業や活動との間に、資源の奪い合いが生ずるのは確かですし、それに失敗すれば即「持続可能性」は失われる事になるからです。つまり、SDGsでは、完全に違う方向に走る二兎を、同時に追いかけなければならないのです。もしそれを目指せば、体は完全に二つに裂けてしまう事でしょう。

結局は、つかまえるべき兎は「持続可能性だけ」に絞るしかないと思うのです。それを実現するためには、何かを犠牲にして、その分を持続可能性を高めるための「開発」に振り向けなければならない筈なのです。その意味で、私たちは20世紀の後半で次々に手に入れてきた「利便」を、一つひとつ捨てて行かなければならないでしょう。利便とは、例えば人口の2/3にも上る自動車の台数(トラックバスを含みます)や、家庭で囲まれて暮らしている家電品や季節を忘れさせる空調や欲しいモノが数日内に手元に届くネット通販などが挙げられます。これらの大きな部分を諦めれば、持続可能性に向けた開発のリソースもどうにかなると思うのです。たぶん続きます。

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2016年12月12日 (月)

3179 ESG?

最近の企業経営のキーワードの一つがESG(Environment Social Governance)なのだとか。つまりは、環境・社会・ガバナンスに配慮した経営をする企業が評価される時代になったという事で、かなり以前のCSRや少し前のCSVをも抱合する視点での経営を意味します。何か分かった様な、曖昧として分かりにくそうな概念でもあります。環境経営に関しては、かなりポピュラーにはなってきた様な気もしますが、社会への取組みやガバナンスと言われても、さて具体的には一体何に取り組んだら良いのか途方に暮れてしまいそうです。

いずれにしても、「企業経営は利益さえ出せば正しい」と言う時代は遠く昔の話になってしまいました。企業メセナやCSRで、利益を社会に還元すれば許された時代もありましたが、やはりそれだけでは、確かに何かが足りません。例えば、「持続可能性」の視点が抜けていますし、「社会的価値の創造」と言う視点もスッポリ抜け落ちているでしょう。

もちろん環境への配慮があれば、持続可能性は少しは上がるでしょう。しかし、そもそもベクトルが持続可能性の逆向きの事業で、少しばかり環境負荷を減じたところで、「焼け石に水」とも言えるでしょう。そうではなくて、事業のベクトル自体を、グイッと持続可能性に向けて舵を切るのが、真にESGに向けた環境経営だと思うのです。他方、社会的価値の創造に関して言えば、社会的価値に関しての熟考が必要になるでしょう。と言うのも、現在の社会的価値は、将来世代に贈るべき社会的価値と一致する訳ではないからです。と言うより、両者の価値は多くの点で相反さえしているからです。卑近な例で言えば、例えば年金問題があります。現世代が、豊かな生活を求めて主張すればするほど、将来世代の権利を貪る事に繋がるからです。

結局、理想のESGを投稿者なりに噛み砕くならば、子孫のために田畑を開梱し、その水源を確保するためと、将来の町を作るための材とするためにせっせと山に木を植えたご先祖様の様に、50年後、100年後を見据えた種を蒔く経営こそその神髄だと言いたいのです。今叫ばれているESGが、殆ど投資家の方しか向いていない事には、大きな疑問を持たざるを得ません。何故なら、投資とは、富がさらに富を得るための手段でしかないと思うからです。

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2016年12月11日 (日)

3178 乱流を減らせ

出張がらみの1週間の旅行から自宅に戻り、今日からブログ三昧に復帰です。

この10年以上に亘って省エネ指導も仕事にしてきましたが、その中で一番難しいのは、目には見えないムダを事業者に理解させる事でした。取り分け、「乱流(渦)によるムダ」は、余程「工学」に理解が深い人でもない限りお手上げになります。つまり、乱流を起こす事が目的の機械でもない限り、全ての乱流はエネルギーのムダに繋がる事がなかなか理解して貰えないのです。乱流を起こす事が目的の機械とは、例えば、撹拌機や熱交換器などが挙げられます。前者は、ABの流体を均等に混ぜる事が目的ですし、熱交換に於いては乱流によって熱交換率が向上するからです。

さて、乱流によるムダの例ですが、その例はあらゆる「流体機械」で起こっている筈です。そもそも流体機械とは、液体や気体に流れを作るものですから、必ず「流れ」を起こします。並行な管路やダクトの中を流れる限り、流体には乱流(渦)は殆ど生じませんが、流路の段差、曲り、分岐箇所などで「ひどい渦」が生ずるのです。渦が何か役に立つ仕事をする訳ではなく、そこではエネルギーの損失(具体的には流体の僅かな温度上昇など)だけが生じている訳です。その損失は、とてもとても「ささやか」などと呼べるレベルではなく、例えば空気流で言えば、90度の曲りが1ヶ所あるだけで、なんと流体の持つエネルギーの10%が失われる程です。つまり、曲りが10ヶ所もあれば、損失は100%に達する訳で、動力としては所用の2倍必要とするという事なのです。

多くの工場やビル等では、水や各種流体、圧縮空気、空調用空気などが日夜大量に流され続けて居ますが、当然の事ながら、流路は段差や曲りや分岐だらけですから、その渦によるエネルギー損失たるや膨大な量に上ると想像できます。段差を滑らかにし、曲りを大きく取り、分岐を直角ではなく、例えば30度以下にする事で、流体機械のエネルギーは、何割も減らせる筈なのです。こんな「美味しい」省エネビジネスに手を付けないで、単に流体機械単体の効率追求に汗を流しても、焼け石に水だと断ずるしかありません。省エネは、先ずは管路・ダクトの改善から始めるべきなのです。

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2016年12月 4日 (日)

3177 暴走事故2

九州での暴走事故の原因が、ドライバーミスであれ、車の異常であれ、どの様な状況でも、ドライバーが止めようとする限りにおいては、車はそれに応答しなければならないでしょう。もしアクセルを離しても、加速し続けたとしたら、その瞬間から車はまさに凶器に変わってしまうからです。どの様な状況でも車を止める事が出来る様にするには、エンジンで動く車の場合は燃料を切る事であり、電気自動車の場合はモーターへの給電を断ち切る事を意味します。B国の暴走事故では、どうやらフロアマットがアクセルペダルが戻るのを妨げ、車が暴走して死者を出した例を思い出します。

投稿者は、もしドライバーが緊急ボタンを押す事により、強制的に燃料や電源を遮断する仕掛けが付いていたなら、このB国の事故も多分今回の博多の事故も防げたのでないかと推測するのです。事前の策としては、低速時の異常な加速を検知し、それを暴走と判断して、やはりエンジンやモーター電源を切る仕掛け(オーバースピードトリップ)を付ける事ですが、多分車メーカーは嫌がる対策になると想像できます。と言うのも、通常の走行で、これらの安全装置が誤作動を起こすと車は勝手に減速し、スムーズな交通を妨げる事故が多発する事が懸念されるし、同時にコストアップも招くので、競争力も低下するからです。

しかし、自然減速による事故は、重大事故とはなりにくく、精々軽度の追突事故に留まる筈なのです。一方、急加速・暴走事故は、間違いなく重大事故と言う結果を招くのです。車は動く機械であるため、使用する年数が長くなるに従って「劣化」が進みます。主に鉄で出来ている車体やメカは腐食し、あるいは動きが硬くなり、更には電気系統やマイコンが誤作動を起こす可能性が高まります。しかし、その様な状況にあっても、ドライバーが必死に車を止めようとする場合には、車は止まらなければならないと思うのです。メーカーの技術者には、ここで猛省を促し、車の本質安全とはそもそも何で、それをどう実現すべきかを改めて考えてみて貰いたいのです。ドライバーの高齢化は、車自体の安全メカとは別の社会問題になりつつありますが、これも併せて考えなければならない課題でもあります。出張などのため1週間ほど休稿です。

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3176 暴走事故

お年寄りのみならず、プロのドライバーの運転する車の暴走事故は、非常に衝撃的でした。映像を見る限り、ハイブリッドのオートマ車が起こした事故の様です。もちろん、ドライバー側にも何らかのミスはあったのかも知れませんが、車側の問題も避けては通れないでしょう。人間が、決定的ミスを犯しても、車側の安全装置が最悪の事態を回避する、いわゆる「フェイルセーフ」の真価が問われるのが重大死亡事故と言うものでしょう。カメラによって人やモノとの距離を測り、衝突を回避するのも確かに一つの方法ではありますが、それで万全と言う訳ではないでしょう。

暴走した車を、ギリギリ急ブレーキで止めるのではなく、そもそも暴走と言う最悪の事態を回避するのが、フェイルセーフの基本でなくてはなりません。暴走と言うのは、エンジン出力がドライバーの意に反して、異常に高まる事ですから、例えば車のスピードとエンジン回転数を確実にモニターできれば、急発進=低速時のエンジン異常回転は避けられる筈なのです。もちろん、フェイルセーフを追求すれば、例えば追い越しの際の加速も制限される可能性はありますが、それは致し方ない犠牲でしょう。命あっての物種だからです。

今回の事故を単なるドライバーミスで幕を引くべきではないでしょう。そうではなくて、車をマン・マシン一体の輸送システムと考え、異常事態には自動的にエンジンを停止し、同時にブレーキが掛かる本質安全を追求するための課題と捉えるべきだと思うのです。事故の調査が進めば、もう少し安全の本質に近づくでしょうから、今後の報道に注目する事にしましょう。

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2016年12月 3日 (土)

3175 宇宙旅行?

何故か、洋の東西で宇宙旅行ブームが来るだとか来ているとか、と騒ぎ出した様です。もちろん、それなりの体力があって、短い間の無重力旅行に、家を1軒建てるだけのお金がポンと出せる人は、少なからず居るのでしょう。しかし、それで短い宇宙旅行が出来たとして何になると言うのでしょうか。宇宙から地球を眺めたければ、衛星に載せたスーパーハイビジョン・カメラの画像を見れば十分過ぎるでしょう。今や、宇宙船の窓から自分の目で見るより、格段に鮮明な画像が地上で見られるのです。またもし無重力のスリルが体験したいのであれば、上手く設計されたジェットコースターか、旅客機を使って体験する事も可能でしょう。何も、莫大なお金とエネルギーを費やして、宇宙の入り口に入る必要までは無いと思うのです。

私たちは、何か重大な勘違いをし始めているのではないか、と思う事が最近多くなりました。確かに、今やお金さえ出せば、人に迷惑を及ぼす(倫理的にマズイ)事以外であれば、殆どの事やモノが、実現でき手に入る様になった事は間違いありません。しかし、お金やモノが、どれほど私たちの夢や想像力を消し去ったかを考えれば、恐ろしくもなるのです。これまで子供達(大人も含めて)の夢は、本や雑誌や漫画で育まれてきたのですが、実際にお金やモノを使って、夢だったものを手に入れた瞬間に、私たちの夢は完全に消失してしまうのです。ロケットでの宇宙旅行や、何でも言う事を実現してくれる(ネコ型)ロボットを手に入れる事は子供たちの夢でした。しかし、それが現実となった時に起こる事は、強烈な「幻滅」しかないと思うのです。

ところで、今の年寄り政治家の「夢」は、賭博場付きの、夢の様なリゾート施設なのだとか。少し若い実業家の夢が、宇宙旅行ビジネスの実現である事と考え併せても、情けなくて涙が出そうになるのです。政治家や、実業家の荷っている役割は、私たちの国や社会の将来あるべき姿を描いて、社会を導く事ではないか、とも思うのです。決して、今のお金持ちの夢を煽る事ではないでしょう。マスコミもこんな話題が発表されるや否や、批判もなく慌ててニュースで取り上げる事態に至っては、話にも何もなりません。書きながら、この話題に段々腹が立って来ましたので、ここで打ち切る事にします。

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2016年12月 2日 (金)

3174 バイオマス発電?

この言葉に違和感を感ずるのは、投稿者が環境人間に近づいているからかも知れません。と言うのも、「バイオマス」と「発電」とは、なかなか馴染まない、というより極端に言えば水と油の様な関係ではないかと思うからです。熱で電気を起こすには、当然の事ながら熱力学の法則に従った「火力発電所」を建設しなければなりません。法則によれば、発電効率は発生させる熱の温度が高い程良くなります。しかし、例えば蒸気を発生させるボイラを構成する材料(主に鉄系材料)の耐熱温度の制限から、闇雲に高くすることはできません。精々500-600℃が実用的には現在の上限と言っても良いでしょう。もちろん、より耐熱性の高い金属を利用し、温度と圧力をさらに高める事も可能なのでしょうが、コスト的に引き合わないジレンマに陥るだけでしょう。

かなり頑張っても、現状の最高水準でも例えば熱効率で45%を実現するのが精々でしょう。その意味するところは、発生させた熱量の55%は、大気と海に捨ててしまうと言う事なのです。石油や天然ガスと言った、「燃やし易い」燃料でさえこうですから、燃やしにくい固形燃料である「バイオマス燃料」に至っては、そもそも発生させる燃焼ガスの温度は、かなり低いレベルで我慢しなければならないのです。それは、熱効率も低いレベルで満足しなければならないのです。

もちろん、発生させた熱を熱のままで利用する場合は、結果(熱効率)は異なってきます。一般的に、良く設計されたボイラは、90%以上の熱効率を持って居ますので、燃やした燃料の持つエネルギーの殆どが回収できるのです。従って、それを熱として利用する限りにおいては、熱を送る仕組み(例えばパイプライン)からの放熱による損失だけに留まるでしょう。これは、先ほどの発電所からの熱損失である55%に比べれば、問題にならない程小さくて済むでしょう。

その意味においては、バイオマス発電は、発電システムから捨て去れられる廃熱を、例えば暖房や冷房や給湯の目的に「カスケード利用」する事を前提にする場合のみ許される選択肢だと言っても良いでしょう。然るに、FITの買取り価格に誤魔化される形で、各地で大規模なバイオマス発電所が建設され、その熱利用がなされないプラントにどんな意味があるというのでしょう。その燃料を、海外からの輸入に頼るケースに至っては、何をかいわんやでしょう。

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2016年11月28日 (月)

3173 徒然に思う事2

続きです。金銭欲や物欲を捨てるのは結構簡単な事の様な気もしますし、実は最も難しい事なのかも知れません。難しいと思うのは、例えば悟りを開いた人は、欲望から解き放たれるのでしょうが、普通の人間にはそこまでは出来ないものだからです。投稿者の様な普通の人間に出来ることと言えば、ホドホドで満足するといった程度でしょうか。ホドホドの家に住み、ホドホドの食べ物を食べて、ホドホドの仕事で、ホドホドより少し足りない位の収入を得て、ホドホドの満足感を得て暮らす、と言うホドホド人生を指します。

とは言いながら、人によってそのホドホドの物差しがかなり(或いはひどく)違っているのは全く困った事ではあります。例えば、4人家族がそれぞれに車を乗り回すのは、高級車でなくホドホドの車種であれば、ホドホド生活と言えるのかどうか、その判定は人によっても違ってくるのでしょうか。もちろん、数十年前に遡れば、自家用車が一家に1台もあれば、羨ましがられた時代がありましたが、メーカーのコストダウン努力と、コマーシャリズムと、石油価格が結果的に数十年前とあまり変わらない、それどころか物価水準を考えれば逆に異常に安いまま推移している奇跡が、車を贅沢品から外してしまったのかも知れません。

しかし、数十㎏の人間を移動させるのに、1トンを超える乗り物を使うのは、どう逆立ちして考えても、やはり贅沢だと思うのです。10㎞程度の通勤なら自転車やバイクで十分でしょうし、5㎞程度なら徒歩でも通勤できる筈なのです。雨の日や雪の日は、冷たさや寒さを感じながら、夏の暑い日は、ダラダラと汗を流す、季節を感ずる暮らしも良いものだと思うのです。投稿者は、サラリーマン時代の30年余り、ほぼ毎日自転車で通勤していましたが、単純計算でも地球を2周する分の距離は走った事になります。だからこそ、高齢者ビギナーになっても、若者並みのペースで山にも登れる体力が維持出来ているのだと思っています。この歳になって、やっと贅沢ではない低いレベルのホドホド人生の何たるかが分かってきて、それを楽しむ事が出来るようになった気がしています。

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3172 徒然に思う事

ある時期からこのブログは、環境ガチガチのブログから、随筆ブログに変わってきました。と言うのも、環境について考える事=人間の生き方(価値観)について考える事だと気が付いたからです。温暖化に急ブレーキを掛けなければならないのは、自然環境の悪化、取り分け気象異常による人間社会への「ブーメラン被害」は避けなければならないのは勿論、資源の温存と言う側面でも必須の取組みだと言えます。それが、例えば冷暖房の温度を控える程度の、ささやかな行動ではとても急激な環境悪化は防げないでしょう。それは、真っ赤に焼けた石に落とした数滴の水滴でしかないからです。

やはり、20世紀後半の石油にダブダブに漬かった生活スタイルからどうにかして脱する道を模索しなければならないでしょう。石油漬けの生活とは、車社会に代表される様に、雨に濡れずにドアからドアへ移動したいとか、今日注文した品物を明日受け取りたいとかの欲望に支配された生活スタイルを指します。また石油漬け社会とは、その石油を使って発電し、それ電気を多量に使う「電気漬け」社会でもあります。オール電化住宅に代表される様に、スイッチ一つで、冷暖房から給湯から調理まで、全てが動かせる「超便利生活」が実現された訳です。

数十年前の田舎の生活では、人々は釜戸や七輪を使って飯を炊き、薪ストーブや囲炉裏や火鉢や炭を入れたアンカのコタツで暖を取り、地元で採れるコメや野菜や魚で食卓を賄っていた訳です。しかし、それで人々が不幸であった訳ではありません。大人数の家族が集って暮らし、家族はそれぞれの役割を担って、助け合って暮らしていたのでした。

あの時代より、少しだけ便利で快適な生活スタイルは考えられないのでしょうか。たぶん、住宅さえ、高気密・高断熱になっていれば、少しのエネルギーで暑さ・寒さを凌げるでしょうし、そこに三世代が同居すれば、一人当たりの消費エネルギーは、十分に今の半分以下に抑える事も可能でしょう。技術にのみ頼った省エネや再エネありきではなく、先ずは生活スタイルの見直しこそ喫緊で肝要な提案だと思うのです。人は、お金(経済力)やモノだけで幸福になれない事は、20世紀後半の「実験」で証明されたと思うのです。金銭欲や物欲は、それがある程度手に入ると更に強まるものだからです。続きます。

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2016年11月27日 (日)

3171 北極温暖化2

続きです。最近の気象に関するデータで気になる事があります。地表の2/3を覆う広い海洋には、1000年単位で循環する緩い海流が存在します。しかも、単に海氷面近くの海流だけではなく、場所によっては深海に沈降し、また別の場所ではそれが湧昇すると言う垂直の循環を含んでいるのです。海水に目印を付ける事ができたとして、同じ海水が元の場所に戻るのに1000年程度を必要とするという壮大な循環なのです。これは「熱塩循環」と呼ばれますが、単に物質(海水)の移動だけではない、熱の移動にも関わっている故の呼び名なのです。

さて、大西洋北上した海の表面を流れる循環流は、グリーンランド+アイスランド阻まれて行先を失い、結果的にはそこから深海に沈降を始めるのです。それが湧昇するのは、マダガスカル沖のインド洋とベーリング海だとされています。それが、この海域が豊富な漁場となっていてクジラなども回遊する所以ともなっているのです。

さて気になるデータとは、大西洋の表層を北上した循環流が、近年はどうやら北極海に入り込んでいる様なのです。つまり、大西洋のの北端で、寒気によって冷やされた循環流が、重くなって沈降すべきところ、温暖化した北極圏では十分に冷やされず、一部がそのまま北極海に流れ込んでいるのではないかと疑われるのです。もし、それが事実なら、北極海は巨大な池の様になっていて、海底はなべ底形状になっているため、入り込んだ海流と熱は、そのなべ底に溜まる筈なのです。かくして、夏場の海氷面積の急激な減少=日射による熱の流入量増大に加え、海流からの熱の流入が相俟って、北極(海)の温暖化は急加速していると思われるのです。まだ、この「ハイブリッド温暖化」についての明確な報告は目にしていませんが、投稿者としては最近ますますこのメカニズムの確信を深めているところではあります。

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2016年11月26日 (土)

3170 北極温暖化或いは正のフィードバック

北極圏の温暖化が加速している様です。例えば11月は、例年より20℃も気温が上昇していて、海氷がなかなか結氷しないのだとか。それは、夏の間北極海の浮氷が融けて、太陽光により海水が暖められてしまっているのが原因ですが、加えてこの時期に北太平洋からの暖かい風が北極圏に向かって入っている様なのです。北極圏の気象は、1時間ごとに髙い精度で地上と衛星から監視されていますので、これは確かなデータによる分析です。

その昔(たぶん数十年前までは)、北極圏は文字通り「極寒」の地でした。中学校の地理で習ったかすかな記憶によれば、地球上の最低気温は、北極海沿岸にあるベルホヤンスクで記録されたのです。その気温はと言えば、確かマイナス80℃を下回っていたと記憶しています。現在その地域の最低気温は、多分40-50℃上昇している筈です。B国の次期大統領がどの様にコメントしても、これは明らかな「人為的」温暖化の証左でしょう。自然現象だけでは、数十年間で数十℃という変化は、大きな火山噴火や巨大隕石の衝突でも起こらない限りないあり得ないでしょう。

その意味で、世界の平均気温が100年以上かけて1℃くらいしか観測されていない事を考えれば、北極圏ではその変化を「大きく先取りしている」と言えそうです。先取りしているという意味は、変化が「増幅」されているとも言えそうですが、実は北極圏では「正のフィードバック」が生じて、温暖化が加速している様なのです。正のフィードバックとは、普通の言葉で言えば「悪循環」の事で、温暖化が進み、夏季に浮氷が消滅するに従って、日射エネルギーが海水に蓄積され、冬季の結氷が遅く、かつ厚みも薄くなる、という悪循環を指します。

ここまで書いてきて、何か人間社会にも通ずる現象の様にも思えてきました。例えば、お金がさらにお金を生み出す、あるいは吸い寄せる正のフィードバック現象や人口がますます都市に集中してスラム化する都市現象を想起しました。人間が絡む現象の底には、何か共通する力が働いているのかも知れません。

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2016年11月25日 (金)

3169 寒さの限界値

昨日からの冬型で、今朝は積雪もあり、この辺りでも氷点下に少し突入した様です。まだバイオマスボイラが入っていない我が家では、暖房器具は居間にあるエアコンだけの状態です。家の各所に仕掛けた温度計群によれば、外気温がほぼ0℃の現在、床下温度は11℃前後、室温は暖房の全く無い2階の寝室で9℃くらい、今パソコンに向かっているこの事務室で11℃くらいです。屋内でも薄いダウンジャケットを羽織り、靴下に室内履きを重ねれば寒さは感じませんが、流石に手先は冷たいです。仕方がないので、マウスパッド代わりに小さな電気アンカを置いて凌いでいます。

さて、通常の暮らしの中でどのくらいの気温であれば我慢出来にくくなるのでしょうか。これは、実は人種や生まれついての体質の様なものも関係しそうですが、多分10℃前後に限界値の境界がありそうに思えます。人種という視点では、いわゆる白人は熱を多く産生する「褐色脂肪細胞」が少ないので、体表面の温度が低い分、寒さはそれほど感じない様なのです。彼らは、多分10℃くらいなら快適で、一桁の気温に下がってやっと上着を羽織る気になるのでしょう。一方、南の地域で子孫を増やした黒人や褐色の人々は、日焼けに強い肌と、豊富な「熱源細胞」に恵まれて、暑さには強いのですが寒さにはめっぽう弱く、15℃を下回ると耐えられなくなる様です。

私たち日本人は、多分南北の人種の遺伝子が混在しているでしょうから、中間でしかも上下にばらついているものと想像できます。ちなみに投稿者の場合は、長年の観察?結果からほぼ11℃と結論しました。今の室温が11.3℃なので、限界付近で暮らしている事になります。それにしても、バイオマスボイラの到着が待ち遠しい今日この頃です。

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2016年11月24日 (木)

3168 断エネ

節酒や節煙に対して、それを完全に断つのはふつう断酒や禁煙という言葉が当てられます。そう言えば、省エネに対する同様の言葉が見当たらないと思い、ここでは勝手に「断エネ」という言葉を作りました。一体、私たちは「エネルギー」を断っても生きていけるのでしょうか。たぶん、無理でしょうね。なにしろ、エネルギー(特に熱)が無ければ、生米を噛み砕かなければなりませんし真冬に寒さで震えながら暮らさなければならないのですから。とは言いながら、注意して探してみると、投稿者の住んでいる地域のあちらこちらに先人が暮らしていたとみられる洞窟がいくつか見つかるのです。その中には、火を燃やしたり暮らしの痕跡が残っているものもいくつか残されています。

雪深いこの地方で、一体先人はどの様な暮らしぶりだったのか、非常に興味深いものがあります。もちろん、冬には洞窟の入り口に雪囲いを施した事でしょう。でもそうなると、中でたき火をするには煙の出口が無くなるので、困った事になります。もちろん、彼らには現代人に劣らない程の「知恵」があった筈なので、何らかの解決方法を編み出していた事でしょう。例えば、お隣の国の「オンドル」の様に、地面の下に煙の通るトンネルを巡らせていたかも知れませんし、獣の皮や樹皮を使って、煙突の様なものを作って煙を外に出していたかも知れません。

さて、人間が生きていくのに最低限必要な煮炊きや凍え死なない程度の暖房は、絶対に必要不可欠なものなので、ここではそれを「サバイバル(必須)エネルギー」と呼び、エネルギーとしてはカウントしない事にします。それを超える、「快適さを追求するためのエネルギーを、改めて「快適エネルギー」と定義し直す事にしましょう。今後このブログでは、それを可能な限り減らすのが、今回の表題の「断エネ」と呼ぶ事にしましょう。

さて問題になるのは、人々の我慢の限界です。例えば、昔の話になりますが、いわゆるオイルショックの頃、人々は街のネオンを消し、トイレットペーパーは短めに切り、家族はなるべく一部屋に集って暮らして照明や冷暖房を節約し(そう言えば冷房は殆ど普及していなかったなー)、テレビは深夜には放送を休止していたのでした。あれを我慢と呼ぶなら、私たちはまだまだ大きな「我慢のし代」を抱えて暮らしていると言えます。投稿者の家は、バイオマスボイラの導入が遅れており、初雪が降っても小さなエアコンだけの暖房で凌いでいますが、この分なら一冬くらいは「我慢」が出来るかも知れないと思う、プチ断エネ生活のこの頃です。

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2016年11月21日 (月)

3167 環境温度(熱)2

環境温度が重要なのは、単に暑さ寒さの感じ方に関わるという理由だけではありません。何度も書いている様に、熱(振動)は、激しい(温度が高い)部分から、緩やかな(温度が低い)部分に流れ(伝わり)ますから、温度差が非常に重要なファクターになる訳です。難しい方程式は好きではないので、すっ飛ばしますが、伝熱は温度差に比例するので、例えば室内と外部の温度差が大きい程、冬は建物内部から(夏は建物内部へ)の熱の流れが大きくなるのです。つまり、暖房冷房に要するエネルギーが大きくなる訳です。極端なケース、例えば家の内部と外部の温度差が無い(小さい)場合、つまりは春秋には、冷暖房負荷は非常に小さくなるのです。全く当たり前の話です。

さて熱の流れ(熱流)を小さくするには、何は無くとも、室内外の温度差を小さくすることに尽きますが、かといって真冬に室内温度を10℃以下にする訳にもいきません。仕方がないので、壁や窓など建物の熱の出入りの係数(熱貫流率)を可能な限り小さくする、つまりは断熱性能を高める事になるのです。とは言いながら、例えば魔法瓶に様に、内部を鏡の様にピカピカにし、壁の間に真空層を挟んんで、かつ建物の気密を最大限高める、というのは現実的ではないでしょう。

結局、建物の断熱を費用対コストが最大となる様に施工し、同時に地熱や太陽熱や地下水などの環境熱を最大限に取り込んで、冷暖房エネルギーを最小限に留める、という現実的なアプローチをするしか無さそうなのです。取り分け、投稿者が日本の住宅の弱点だと思うのは、基礎と床下構造なのです。新しい住宅では、もはや床下に通風口を設ける従来工法は殆ど無くなり、べた基礎が殆どですが、それでも基礎の底面のスラブや立ち上がり部は、地面から水分を吸い上げて、床下の環境温度を随分下げているのは間違いないでしょう。

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3166 環境温度(熱)

環境温度(熱)とは、このブログでの勝手な造語で、言わゆる身の回りの物体が持つ温度を指します。例えば、大気の温度、流水や地下水の温度、土壌の温度などです。建物について言えば、床下の温度や屋根裏の温度、あるいは壁や基礎のコンクリートの温度なども同様に環境温度と言えるでしょう。人間の気温の感じ方は、このブログも縷々書き連ねていますが、要は体を取り囲む環境温度の平均値を「気温」と感じますので、環境温度が重要となる訳です。ちなみに、温度とは、熱(振動)の指標であり、熱は温度の原因となる物理量という事になります。

例えば、今日(11202000)現在の、温度計で示される気温は外気温は9.8℃で室内は17.3℃ですが、床(下)温度は14.7℃、壁温や天井温は放射温度計では、ほぼ17℃前後となっています。この結果、体が感ずる気温(体感温度)は、概ね17℃前後であり、セーターを着ていれば寒さを感ずる事はありません。寒がりの連れ合いが居る居間では、エアコンを入れたりしていますが、今ブログを書いている事務室を含め、他の部屋には暖房を入れていません。この冬は、環境温度がどの程度まで低下すると、体が耐えられなくなるのか、自分の体で実験(耐寒実験)をしてみようと思います。もちろん、体は耐えられても、例えば手先や足先が冷た過ぎれば、仕事に差し支える訳で、そこは「部分暖房」を使わない訳にはいきませんが、投稿者の場合はUSB電圧(5V)で暖まる、小さなブランケットをマウスパッド代わりに使い、カイロやベルト型のヒーターも使って凌いでいます。

その意味では、手足に関しては、環境温度はやや高めに保たれているので、あまり寒さを感じないで済みそうです。加えて、人間の「寒さのセンサー」は、背中から首筋と手足に集中しているので、ここをガードしたり、体感温度を上げたりすれば、さらに寒さを意識しないで過ごせるのです。環境温度から体感温度の話に脱線しましたが、要は環境温度は体感温度の大元となるという当たり前の結論になってしまいました。たぶん続きます。

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2016年11月19日 (土)

3165 価値観の転換2

価値観の転換は、そんなに簡単に進むものではないでしょう。これまでの短い?人生の間の観察によれば、大多数とは50%を超える事ではなく、おおよそ2/3に達する必要がありそうなのです。つまり、喫煙率で言えば30%前後に低下して初めて「嫌煙権」がパワーを強めてくる事になる訳です。もちろん、これは何に関わる大多数かによっても境界は変ってくるでしょう。間接喫煙を強いられたからと言って、非喫煙者は苦痛には感ずるのでしょうが、我慢できない、あるいは直ちに健康被害を発する訳でもないでしょう。しかし、非喫煙者の割合が増えるにつれて、我慢の限界(しきい値)がドンドン下がってきて、僅かなタバコの匂いも許せなくなってしまう様なのです。

価値観の転換とは、つまりはしきい値の境界の移動という事にもなりそうです。「世間の常識」が変れば、しきい値も移動し、結果としてはそれまでは「僅かな」影響と考えられていたものが、一度しきい値を潜った瞬間、「許しがたい」影響に変質するのでしょう。

投稿者の専門とする「環境」に引き寄せて考えれば、例えば路上へのゴミやタバコの吸い殻のポイ捨ては、ずいぶん減ってきた事は間違いないでしょう。つまりはポイ捨ては「悪」であるとの文化が出来上がった証左と言えます。一方で、温暖化論議について言えば、彼の国の次期大統領が、温暖化のメカニズムに真っ向から否定するなど、まだまだ「文化」にはなっていないでしょう。一方で、欧州のいわゆる「環境先進国」では、既に文化として定着しつつある様に見えます。根は、同じ民族でありながら、欧と米で文化に差が出るのは、やはり社会背景が違うのだろうと考えるしかなさそうです。つまり、比較的質素=質実を是とする欧州文化と、Aメリカンドリームを理想とし、お金がそれなりに手に入ると湯水の様に消費=浪費をしたがる国との差という事になるのでしょうか。

さて、この国はどうでしょう。1900年代(特に戦後)B国流の「文化的生活」にすっかり洗脳された、貧しかったこの国は、やはり日本流ではありますが、便利な電化生活や車生活を追求してきたのでした。たとえ住宅事情が「ウサギ小屋」のままだとしても、です。そろそろ、この国も本物の文化を確立させる必要があると思うのです。それも、世界の何処にもない「日本流」の文化です。モノを大切にし、賢治の詩を理想とし、環境への負荷を最低限に抑え込む、という文化です。それには、このブログの投稿者の様な「環境人間」が、世の中の2/3に達する必要があるのかも知れません。先は長そうです。

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2016年11月18日 (金)

3164 価値観の転換

最近、文化の変質による価値観の転換が気になります。と書けば、なんだか難しそうですが、卑近な例を挙げるなら、例えば嫌煙権や分煙が思い浮かびます。数十年前を思い起こせば、大人の半数以上が喫煙癖を持ち、事実上どこでも喫煙できました。テレビでも喫煙シーンが出てくるのはごくありふれており、俳優も「さも煙たそうに、しかし美味そうに吸う」喫煙演技を研究していたことでしょう。

しかし、今この時代、都会の一定の地域では歩き喫煙は罰金を取られる「軽犯罪」ですし、レストランでも禁煙タイムを設定するとか、そうでなくても「分煙」は普通でしょう。企業の中でも、喫煙所を設定するのは、最早あたりまえの時代になったのです。つまり、この数十年、取り分けこの世紀に入って、嫌煙権や分煙は先進国においては「文化」として、ほぼ定着したとみてよいでしょう。それ以前は、タバコの嫌いな人は我慢するしかなく、今は喫煙者が肩身が狭い想いをしながらコソコソと喫煙コーナーやベランダで喫煙するしかない訳です。

偶然ですが、昨晩のTEDでは、B国の銃問題を取り上げていました。つまり、人口を軽く超える銃が市井に溢れているという「異常状態」の話題でした。今は少なくなりましたが、私たちの子供の頃は「西部劇全盛」の時代で、その中では銃による決闘シーンや銃撃戦が当たり前の様に放映されていたのです。さながら、日本の時代劇での立ち回りシーンの様な位置付けでしょうか。しかし私たちは、帯刀が当たり前のドラマを「時代劇」と呼んで、明治以降を描いた演劇や社会とは完全に分離して眺めていますが、B国では未だに「銃社会」という時代錯誤文化を抱えたままなのです。なにしろ、テレビの通販番組に「銃専門」の時間帯があるという程の、時代錯誤だと言うのです。

彼の国の銃文化が、過去のものとなるのに一体何人の犠牲者が必要なのでしょうか。既に、市民の銃保持に反対する人が半数を大きく超えているのは間違いないのでしょうが、喫煙の例で言えば7-8割の人々が、市民の銃保持は異常事態で取り締まるべきだ、と声を上げない限り、B国の銃文化の変質は起こらないのでしょうか。悲しむべき事ではあります。

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2016年11月17日 (木)

3163 PDCAは万能ではない

ISOの各システムでは、PDCAサイクルを回す事を基本として強く要求しています。しかし、考えてみなければならないのは、多くのケースでは、それが「堂々巡り」の原因になってしまっている点です。というのも、そもそも計画段階のPが果たして適正か否かは、実行後のCでは十分確認できるものではないからです。何故なら、このシステムは、計画に対して実行が上手く行ったかどうかはチェックできますが、計画そのものが妥当であったかどうかまではチェック出来ないからです。ゴールに対して、計画が妥当であるかどうかには、先ずは計画を立てる前に、計測(見える化)と得られたデータに基づいた分析(Analysis=問題の見える化)が必要になると思うのです。

その分析によって、問題点を掘り起し、それを解決するための計画案が出てくる、という順番になるべきなのです。計測には確かに手間が掛かりますが、計測とその分析に段階で、原単位かそれに類するデータも得られる筈です。例えば、空調機の電力量は毎月の請求書から容易に読み取れますが、では晴れた日と曇りの日で、あるいは外気温や湿度との関係で、時々刻々の電力がどの様に変化するか、と言ったデータは、何らかの手段で計測を行わない限り、得る事は叶いません。でも、もしその様なデータが手元にあれば、例えばエアコンの設定温度を1℃変化させた場合、どの程度(何%)の省エネになるかも比較的容易に推計する事が出来る様になるのです。

その様なデータに基づいた、省エネ行動の計画を立てる事が出来るなら、例えば前年比5%の省エネ達成という目標・計画も確実に達成可能となる訳です。即ち、例えばビルの電力量の50%を占める空調の電力を、調整する事によって、夏場は○○℃、冬場はXX℃だけ控える事によって10%削減可能という試算が出来、結果としてそのビルの消費電力削減5%が、確実に実現可能となる訳です。もし、その設定温度が作業に差し支える(暑すぎる、または寒すぎる)というのであれば、例えば運転時間の短縮との併せ技でマイナス5%を達成すれば良いだけです。多くの事業所で行われているPDCAサイクルは、結局は成り行きに任せ、出た結果に対して理窟を付けて「反省文」を書いているだけに終わっているので、堂々巡りに陥る羽目になる訳です。たぶん続きます。

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2016年11月15日 (火)

3162 スーパームーン地震?

スーパームーンの前後には大きな地震が多いのだそうです。確かに、地球サイズに比べても、結構大きな(直径で約1/4)月によって生ずる引力によって潮汐の満ち引きが起こっている訳で、その引力が薄皮である地殻の変形にも影響を与えない筈はありません。事実、歴史的に見ても大きな地震は満月の前後に集中している様ではあります。地殻が別の地殻に乗っかっている場所や断層が上下関係にズレ易い場所では、もし内部の歪が限界に達していて、ごく僅かの力のバランス崩れが地震につながるかも知れません、月の引力がそのそのきっかけになってもおかしくはないでしょう。

それが、月が地球に最接近する68年振りの「ウルトラスーパームーン」であれば尚更となるのでしょうか。地球と月の距離はざっと40万㎞と言われますが、その距離が数%短くなるスーパームーンでは、それだけ距離の自乗に逆比例する形で大きくなるからです。実際、今回もニュジーランドでは大きな地震が起こった様ですし、この国でも歪の蓄積した場所も、取りわけ東南海エリアでは増え続けて居る様です。

さてそれが事実だとして、私たちはどう行動すれば良いのでしょう。もし、大地震が満月、特にスーパームーンの前後に集中する事が、統計的にも十分裏付けられるなら、その時期だけ短期間地震に備えるのであれば、それは出来そうな気もします。オオカミ少年の逸話ではないのでしょうが、もちろんその警報に慣れてしまう、という心配はあるのでしょうが、何もココロの準備が無い不意打ち状態に比べれば数段マシでしょう。ほぼ1か月毎の満月の日を、地震を思い起こさせる日(地震の怖さ思い出す日)にするのも一つの自衛策とはなるでしょう。

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2016年11月14日 (月)

3161 Winner takes all社会2

勝者と敗者の調整は困難だと言っても良いでしょう。社会で最も困難な作業だと言っても良いくらいです。両者の立場が、精々白と灰色くらいの違いであれば良いのですが、もしそれが白と真っ黒だったらどうでしょう。仮に中間の灰色で決着したとしても、両方に不満は残るのでしょう。その様な場合には、仕方がないので墨流しの様にマーブル模様にして、両論の並走期間を設けるしかないかも知れません。そうこうしている内に、マーブル模様は徐々に混じり合い、適当な色合いの灰色で落ち着くのでしょう。それを、選挙結果の様に短い期間で決着させようとすれば、彼の国の様に軋みが生ずるのは仕方がないところでしょう。

さて、今回の国のリーダーを決める選挙で、候補者が二人だけというのは、上に述べた様にどちらの候補者が勝ったとしても、軋みが残る事になりますが、もし候補者が3人だったらどうでしょう。もし一人の候補が4割の得票数を得て、次点の候補者との決選投票になったとしても、落選した候補者の票が次点の候補者に回れば、逆転される可能性も出るでしょう。そうなれば、今回の選挙の様に候補者が好き勝手なホラを吹きまくって、ポピュリズムに走る事は抑制される筈です。つまりは二項対立の構図から「三項関係」に変る訳です。二項対立とは、白と黒が真っ向から綱を引きあう訳ですが、3項関係になれば、理想的には互いに120度の角度になった綱を3方から引き合う訳で、勝ち負けはそう簡単には決まらない筈なのです。

つまりは、落語の「三方一両損(得?)」の関係に落ち着く事になります。政策で言えば、白か黒ではなく、白と黒の意見を取り入れたマーブル模様の政策になるか、あるいは第三極の意見を取り込んだ「ピンク色」の政策になるかも知れません。要は、敗者と勝者が境界を挟んで対立しなければ良いわけで、人種差別政策の良薬は、可能な限り速やかな「平和な混血政策」ではないかと、無責任に考えています。この項終わります。

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2016年11月13日 (日)

3160 Winner takes all社会

今回の彼の国の大統領選挙で明らかになった様に、民主主義とは、Winner takes all(勝者総取り)主義だとも言えるでしょう。つまり、1票でも相手を上回った候補者が、全てを獲得できるというシステムです。今回も多分、互いに50%台前半と40%台後半の勝負だったでしょうし、その差は実際の有権者の投票比率で言えば、実は逆転していたという報道もあるくらいです。5149の得票差で勝ったWinnerは、その比率で敗者へのリスペクトを忘れるべきではないでしょう。そうでなければ、49の投票を行った人々の「腹は収まらない」ことにも繋がるからです。彼の国で、投票終了後数日を経ても、反Tランプの嵐が吹き荒れているのは、多分そこに根がある筈です。

結局のところ、民主主義の破綻は、敗者への配慮を欠く多数決という原則にあるのではないかと疑わざるを得ないのです。もちろん、全会一致などという決議もまた信じがたい事態でしょう。世の中に、100%の人が幸福になる決議など凡そあり得ないからです。敗者(looser)や底辺の人達は、standing small(ションボリと佇む)しかない訳です。もしそんなものがあるとすれば、現世代の幸せではなく、数世代後の(まだ見ぬ)子孫の幸福を考えての決議でなら、シブシブでも納得も出来る話です。何故なら、決議の賛成派と反対派の子孫は、やがて結婚して血縁関係が出来るかも知れませんし、遠い将来には、今の賛成や反対の理由にも変化が生じているかも知れませんから。

そうでなければ、安易に多数決に持ち込まず、道は遠くなっても「熟議」を重ね続ける必要がある筈なのです。年度毎に何らかの政策を打ち立てて、予算を付け、それを実行しなければならない、今の欠陥の多いシステムが必要悪だとしても、そうではない10年後や50年後を見越した、若者だけの「次世代議会」制度があっても良いとも思うのです。若者は、もし現体制に不満があるなら単に異議を唱えるだけではなく、同時にそれを克服する代案を時間を掛けて練り上げていけば良いのです。それを続けて行けば、欠陥の多いシステムも徐々にではあっても理想に近づいて行くのではないか、と投稿者としては言いたいのです。かなり楽観的ではありますが・・・。

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2016年11月11日 (金)

3159 たった一人で世界が変る?

たった一人の経営者が政治家になったというだけで、世界が揺れ動いています。これは、たった1%の富裕層が、全世界の富の半分を保有しているという構図に似ています。つまり、少数の大国がスーパーパワー(軍事力や経済力)で世界を牛耳っている世界情勢と、紙幣という紙に印刷された「ペーパーマネー」、あるいは銀行のコンピュータにインプットされた桁数の多い数字という「デジットマネー」を、握っているか否かで人間の価値までも決められてしまうマネー社会とが、同じように見えてしまう点に強いアナロジィを見てしまうのです。

そのスーパーパワーの頂点に、滅茶苦茶な事を放言する人物が間もなく座ってしまうと言う事態に世界が頭を抱えて慌てふためいているのでしょう。彼の国の大統領選挙は、ある意味人気取りのための情報戦であるとも言えるでしょう。あの手この手で相手の足を引っ張って、その争いに負けた者が退場し、そうでなかった者が「総取り」してしまう、いわば大きなギャンブルの様なものだと言えるでしょう。今回のバトルでは、セクハラだかパワハラだかの小さな?足と、セキュリティの弱い私用メールを公務に使ったというやや太い足をお互いに引っ張り合うという展開でしたが、結局は片方が引っ張られ負けてしまったという構図なのでしょうか。

それにしても、B国のシステムが、どれほど一人のやりたい放題を許すのか、これからが見ものですが、しばらくは彼の一挙手一投足を世界が固唾を飲んで見守る期間が続くのでしょう。それにしても、経済活動の原動力をモノではなくマネーだけに、国のパワーをたった一人のリーダーにこれほど集中させてしまったこの世界は、今後一体どの様になってしまうのでしょうか。富の再配分というか「格差縮小」と、政治的パワーの分散化は、待った無しの、それこそ喫緊の課題となった感があります。そのためにはどうすれば良いのか、引き続き考えて行く事にしましょう。個人があれこれ考えてもどうにかなる訳でもないのですが・・・。いずれにせよ、今度のリーダーが、どの様に既得権益に飲み込まれていくか、静観する事にしましょう。

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2016年11月10日 (木)

3158 エネルギー2

エネルギーを節約する行動を「省エネルギー」と呼びますが、3157の文脈で考えると、エネルギーの伝わる経路を塞ぐのが最良のアプローチである事が分かります。つまりは、断熱・遮熱です。一般的に言えば、熱の伝導や対流を妨げるのが断熱、物体の表面からの放射や赤外線の入射を妨げるのが遮熱と呼ぶのが適切でしょう。もちろん、冷房効率や暖房効率を上げるにも、断熱・遮熱は有効に作用するのです。

住宅やビルなどの居住空間を暑さ、寒さから遮断するのに断熱工事が有効である事は言うまでもありません。折角エネルギーを使って、居住空間を暖め(あるいは冷やし)ても、壁や窓から熱(エネルギー)が放射や入射で逃げたり、流入したのでは投入したエネルギーの大きな部分がムダになるでしょう。そのために、グラスウールや発泡材の断熱材が壁や天井裏に詰め込まれる「断熱工事」が施工される訳です。

しかし、この国では明らかに壁の断熱材が薄すぎる住宅やビルが大多数であるという事実は否めません。多くの住宅では、内壁と外壁の間、つまりは柱の厚み(75㎜程度)しか、断熱材が入れられないのです。しかも、断熱性の低い(例えば低密度のグラスウールなどの)断熱材しか奢ってもらえないのです。加えて、窓は単板ガラスですから、壁や天井や窓や床から、つまりは部屋の6面から、熱(エネルギー)が自由に出入りできるのです。これでは、いくらエネルギーを費やして冷暖房をしても、その効果は減殺されるでしょう。事実、電力エネルギーのピークは、真夏の晴れた午後に発生しているのです。その時、全てのビルや住宅には、強烈な真夏の日差しが襲い掛かり、炎熱地獄状態になっているでしょう。寒い冬場は全く逆で、折角暖めた部屋の空気によって、壁や天井や床も暖まってくるのですが、そこから二次的に放射されるエネルギーが建物構造を突き抜けて、外に逃げてしまうので、それを補うために暖房器具をドンドン運転しなければならないのです。何は無くとも、ビルや住宅の断熱・遮熱が省エネの基本のキである所以です。

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2016年11月 9日 (水)

3157 エネルギー

以前にも書いたような気がしますが、結局エネルギーとは、分子(原子)の熱振動や気体・液体の場合はブラウン運動の激しさの度合いによって決まる指数の様なもので、特殊なエネルギーとして、電子の流れである電気エネルギーや核エネルギーなどがあるのだと理解しています。それを統一する様な理論もあるのかも知れませんが、たとえあったとしても浅学にして投稿者に理解できないでしょう。

さて、その熱振動やブラウン運動は、より激しい物体や場所から、そうではない場所に向かって移動する性質があります。それには、3つの伝わり方があると学校の理科でも習いました。つまりは、伝導、対流、輻射(放射)の三態です。これを別の言葉で言えば、伝導とは個体間の熱振動の移動であり、対流とはブラウン運動の拡散であり、輻射とは振動している分子(原子)からの直接的な電磁波の放射であるとなるのでしょうか。その意味で言えば、例えば理想的な暖房を考える際の一助となりそうな気がします。床暖房や湯たんぽやカイロは、伝導を主とした暖房方法であり、エアコンは空気の対流を利用して室内空気のブラウン運動を活発にする仕掛けですし、反射式の電気ヒーターや石油ストーブは、輻射を主体にした暖房方法だと言えるでしょう。

しかし、その暖房効率は、伝導>輻射>対流の順に悪化するのです。特に、対流は常にエネルギーを供給し続けないと機能しない暖房法である事は注意を要します。エアコンや温風ヒーターを切った途端に寒さが押し寄せてくる訳です。もちろん、壁や天井が暖まっている間は、そこからの輻射が期待できるので、スイッチを切ってもしばらくは寒さは感じないかも知れません。

究極の暖房は、結局は「身に付ける暖房」でしょう。体に一番近いところに付けるカイロは、小さいけれど十分に暖かさを感ずる事が出来る「優れモノ」であると言えるでしょう。同様に、床暖房も足や体の一部が密着すると言う理由で、比較的効率の高い暖房法だと言えます。もし、可能なら、繊維自体が発熱する衣服があれば、最少のエネルギーで暖房が出来る究極の暖房法となる事は間違いありません。現在でも「発熱繊維」なるもので出来た下着はありますが、それは体から出る水分を熱に変えるなどのパッシブなものなので、本物の発熱繊維とは言い難いシロモノではあります。小さな充電式電池で、一日中発熱する衣服が開発されれば、寒風の中屋外で働く人達にとっての福音となるでしょう、きっと。

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2016年11月 8日 (火)

3156 赤外線を見直す2

赤外線が、生き物のエネルギー源だとしても、それを蓄える事は出来ません。電磁波の一種でもある赤外線は、物体や生物に当たると反射するか、あるいは物体表面の温度を少し上げて、より波長の長い(エネルギーレベルの低い)赤外線となって、宇宙に飛び去るのです。物体表面の温度を上げるのは、赤外線が持つエネルギーが、物体を構成する分子に伝わり、分子の「熱振動」が少し活発になる(=温度が上がる)からなのですが、赤外線自体のエネルギーレベルは、元々低いので、太陽光の様な強い輻射でも、皮膚が少し暖かく感ずるほどか、精々温水が作れる程度に留まるのです。

さて、そうではありますが、赤外線を上手く活用するか否かは、生き物の快適性やひいては生き死にも影響を与える訳で、あだや疎かには出来ません。物体には、二次的に赤外線を出しやすいもの、あるいは赤外線を吸収しやすいもの、更には反射し易いものなど、物理的に大きな違いがあります。例えば、黒鉛(グラファイト)や金属酸化物の多くは、その物体の温度が上昇した時、より多くの赤外線を放出する機能が髙いのです。反対に、鏡面を作り出せる金属(金・銀やステンレス鋼やアルミ、スズなど)表面は、赤外線の殆どを反射してしまいます。それは、石油ストーブなどの発熱体の後部が、鏡面になっている事でも分かるでしょう。また例えば、表面にススを付着させた様な(黒体に近い)表面では、赤外線のエネルギーン大奥が吸収される訳です。太陽熱温水器の集熱面が、マットブラックになっている所以です。

同様に、繊維の中にも赤外線に関して機能を持つものも開発されてきました。発熱繊維と呼ばれる、水分を吸収して少し温度が上がるもの、あるいは温度の上昇した空気を抱え込むもの、更には体温を受け取って、赤外線を体に送り返すものなどがありますが、いずれにしてもその着用によって、寒冷期の体感温度をやや上昇させる事が出来るものとなっています。

この項をまとめると、最終的に赤外線機能の再重要な因子は、「体感温度」であると言えるでしょう。赤外線を受け取って寒くなく暑くなく、暖かで快適な体感温度に感ずる様に、住居や衣服や冷暖房によって、積極的に調節している動物が、唯一人間であると言えるでしょう。もちろん、動物も夏毛や冬毛や脂肪の厚みによってパッシブには調整はしているのでしょうが、体温が限度以下に下がれば凍死してしまうしかないのです。

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2016年11月 7日 (月)

3155 赤外線を見直す

寒い季節になりましたが、そんな時は寒さの感じ方について考えます。暑さ、寒さの感ずるのは、結局は恒温動物であるヒトとしては、体温を維持するための「センサー」を多く備えた事に始まった筈です。変温動物であれば、寒くなると同時に体温も下がって、限度以上に下がると穴に籠って冬眠するしかなかったのですが、毛皮を脱ぎ捨てた恒温動物としては、衣服で調節する以外に、冬は暖房を必要としたわけです。その際、暖かさの指標としては「赤外線の波長と強度」を採用したのでした。たぶん。

赤外線は電磁波の一種なので、当然の事ながら波長と強度を示す並みの高さで、エネルギーの大きさが決まります。波長が短い電磁波は、確かにエネルギーレベルは高いのですが、それは高温の物体から放射されるので、それに触れると火傷をしていまうでしょう。真っ赤に焼けた、金属やたき火(炭火)のごく間近に手をかざしている状態を想像して貰えば直感的に理解できる話です。一方で、同じたき火でも数メートル離れると、体に気持ちの良い(長い)波長の赤外線だけ届くので、快適に感じます。波長の短い赤外線は、空気の分子や水(蒸気)分子に吸収されて、届かなくなるからです。しかし、波長の長い赤外線は、例えば太陽光の中の電磁波の内、主として長い波長のもの(赤外光)が地表に届く事によって、動植物が生きていける環境が維持されている訳です。

つまり、赤外光(とりわけ遠赤外光)は、生き物にとって非常に重要なエネルギーであるが故に、ヒトもそれを感知するセンサーを発達させたと想像できます。結局、ヒトの寒暖センサーとは寒さは体表面温度(36-7℃)が発する赤外線と、同じ表面が受け取る遠赤外線の差引によって、出る量が多いと寒さを感じ、逆に入る量が多いと暑さを感ずる様に作られていると言えるでしょう。そのバランスを、パッシブに行うのが「衣服」であり、アクティブに補うのが冷暖房という位置づけになる訳です。ですので、冬場に寒い家に住んで、ガンガン暖房するのは、体にとっては赤外線のエネルギーを失う壁や窓側の体半面と、一方で暖房器具に面している半面では、センサーの働きは真反対になり、大きな「ストレス=ヒートストレス」に晒される事にもなるのです。暖房のキモは、住宅全体を低い温度に保つ一方、寒い壁や窓、あるいは浴室などで寒い場所を作らない事だと言えます。続きます。

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2016年11月 6日 (日)

3154 周回遅れ2

ピッチを上げて、欧州の環境先進国に追いつくためには何が必要となるのでしょうか。先ずは、何は無くとも原発を今すぐ諦めて、再生可能エネルギーへ完全に舵を切るしかないでしょう。再生可能エネルギーには、太陽光(熱)、風力、バイオマス、小水力、バイオ燃料などがありますが、それぞれの地域によって、資源量にはバラつきがありますが、太陽光(熱)は偏在が少ないエネルギー源でもあるので、先ずはこれをベースに据えるべきでしょう。オール電化のベースとして、3kw程度の太陽光発電を屋根に載せるのが流行ですが、太陽熱はそのままで給湯熱源として有効に活用すべきでしょう。

理想的には、太陽光発電パネルを、水で冷やして発電効率を上げる一方で、冷却水(低温のお湯ですが)を給湯熱源として利用する、ハイブリッド(熱電併給)が理想と言えるでしょう。北国では、冬季の陽光が期待できない一方、バイオマス(木材や稲わらやもみ殻など)は豊富で、日本海沿岸では風力発電も、投資が回収できるレベルで有効です。山際では、小水力発電も有望でしょう。少し歴史を遡れば、電力会社の統合前には、国内各地でローカルな水力発電会社が林立していた筈なのです。

この国の得意技は、機器の多分小型化と多機能化に発揮されてきた様に思います。家電や車その他の設備機器を眺めてみても、それは事実でしょう。ならば、再生可能エネルギー分野に置いても、ハイブリッドとりわけ「熱電併給」分野では、この得意技を生かしていけば、周回遅れを取り戻す事も可能だと思うのです。バイオマスの燃焼熱やバイオガスで発電を行った上で、廃熱を給湯に利用できる様な、小型の(家庭用サイズの)システムが作れれば、逆に世界をリードできるかも知れません。またあるいは、太陽熱を利用した冷房システム、具体的には「デシカント冷房」ですが、が開発できれば、陽光に恵まれているが蒸し暑い、東南アジアやアフリカ諸国のQOL向上にも貢献できるでしょう。

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2016年11月 5日 (土)

3153 周回遅れ

この国はどうやらパリ協定に乗り遅れるらしいです。タッチの差で乗り遅れるならまだしも、投稿者が思うに、既に周回遅れではないかと疑っています。環境先進国に一周置いてきぼりを食っている様に見えるのです。例えば、原発です。事故直後は、国中でまるで悪魔の様に忌避した原発を、熱さが喉元が過ぎれば、なんと再稼働させたいという「既得権派」の要求に従うと言う、節操のない政治決断をしたのでした。期待する方が間違っていました。確かに、この世に生を受けて60有余年経ちますが「ブレない政治家というものを見た事がありません」でした。政治家が時々口にする、「世界に冠たる環境大国」なんぞ、チャンちゃらおかしいホラ話と言うしかありません。

未だに、自動車の完全リサイクルは程遠い状況ですし、PETボトルの再使用は俎上もされていませんし、原発の廃炉計画もオザナリですし、家庭や運輸部門の省エネ目標もボンヤリしたままです。たった26%の目標すら、空約束の怪しげなものだと言うしかありません。もちろん、風力や太陽光発電や太陽熱や地熱・地中熱の利用も、明確な量的ターゲットは示されないままです。その間、欧州では着々と原発の廃炉が進み、村々には風車がそびえ、太陽光発電による充電ステーションがドンドン増え、再計可能エネルギーだけで全てのエネルギーを賄う村が出現したりしているのです。

一方でこの国は、車ではハイブリッド車のリッター30㎞程度の半端な燃費で満足し、屋根のある戸建ての太陽光発電や太陽熱温水器の段階的義務化や、バイオマスの熱利用などもべた遅れの状態です。山には、利用される見込みの無い木々が、枝払いもされずにCO2吸収力も弱ったまま立ち尽くして、一方では原発の再稼働までの時間稼ぎにと石炭火力も、静かに増え続けているのです。一体、この国は、政治家や行政は、あるいはそれを見過ごしている国民は、何を考えているのでしょう。ここらでピッチアップして、追いつく努力が絶対に必要でしょう。絶対に・・・。続きます。

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2016年11月 3日 (木)

3152 見える化

何にせよ見える化は大切です。3151では、廃棄物の見える化に言及しましたが、その他にも衆目から隠されている事の何と多い事でしょう。環境分野でも、エネルギーの見える化をはじめ、有害物の見える化、放射線の見える化、土壌汚染の見える化、食品添加物の見える化、温暖化への負荷の見える化、騒音の見える化、振動レベルの見える化などなど、枚挙に暇がありません。

振り返って社会活動を眺めてみても、多くは意識的に隠ぺいされていることの多い事に愕然とします。政治の世界における法案決定のプロセス、閣議決定前の根回しのプロセス、行政の予算決定のプロセス、入札・発注金額が予算の98-99%で決まるプロセス、年金資金運用のプロセス、コメや野菜や農産物の値段決定のプロセス、各種助成金の金額決定のプロセス、各種公共団体への補助金の使いみちの中身、その団体への天下りのプロセス、企業の経営状態やコンプライアンス内容、更にはリコールにつながる自社に不利な品質情報などなど、これも枚挙に暇がないどころか、社会システムが複雑になればなるほど、見える化は遠のく筈なのです。というより、なまじっか知恵のある人たちは、出来る限り見える化しない様に謀略の限りを尽くすのでしょう。システムを、外部からは容易に見えない様に複雑にする、あるいは、責任が一人に及ばない様に、絶妙な決裁(決済)システムを作る、更には国会の答弁の様に「~という訳ではないが、場合によっては~」などという回りくどい表現で、結論をボヤかすなどのテクニックを弄する訳です。

もちろん、全てを見える化するのは、精神衛生上は良くない事かも知れません。総ガラス張りの檻の中で暮らしている動物園の動物たちの様に、落ち着かない状態である事は間違いありません。普通の精神状態の人間は、多分耐えられないとは想像します。しかし、こと公金や税金を使う活動である限りにおいては、必要な時あるいは必要とする人が居る限り、随時の見える化には対応せざるを得ないでしょう。

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2016年11月 2日 (水)

3151 減容(ゴミの見える化)

先日、息子が高校時代に使っていた20年ほど前の自転車と、置き場所が無くなった事務用イスを処分しました。市の最終処分場にある受付で車ごと軽量し、廃棄物を降ろした後で再計量します。その差分、約20㎏が処理料として課金されました。約500円でした。そこでは数人のシルバーの方(と言っても投稿者と同年代ですが・・・)が待ち構えていて、多分金属と燃えるゴミと埋め立て処理される部分に分解するのだろうと思いました。自転車で言えば、リムはステンレス、フレームは鉄のスクラップとして、タイヤやサドルは燃えるゴミ?、ダイナモは?などに分けるのでしょう。

結果、埋め立て処理される目方は殆どゼロとなり、見事ゴミの減容が行われ、燃やされる部分以外は、資源として蘇る訳です。何という、崇高な仕事でしょう。これは、是非一般市民や子供達にも体験させる必要があると、しみじみ思いました。何故かと言えば、この処分場は町の中心から見ると7-8㎞山の中に入った、谷合の場所に作られていて、用がある市民や業者以外は立ち入る事もない行き止まり道路の終点にあるからです。こんな場所で、市民に見えないところで不燃ゴミの処理が行われている限り、ゴミはなかなか減って行かないとも思いました。

そうでなくて、ゴミの減容や処理は手間=コストも掛かり、埋め立て処分場の逼迫など、持続可能ではないを抱えている問題行政の一つであることを、市民に知らしめて行く必要があると思うのです。もしこれを、幹線道路にある空き地で、透明なフェンスに囲まれた場所で行うなら、市民や子供達も興味を持って眺めるでしょうし、その大変さを認識すれば、自ら分解してから持ち込むなり、もう一度考え直して修理に出すなりのより望ましい行動を惹起させる筈なのです。「ゴミの見える化」が必要な所以です。

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2016年11月 1日 (火)

3150 リサイクル2

リサイクル分野で有望なのは、リサイクルにより戻された材料が、元々の素材より品質が向上する「アップグレード・リサイクル」でしょうか。品質が向上するという事は、つまりは「純度」が上がる事を意味します。金属であれ、プラスチック類であれ、リサイクルの過程でどうしても、好ましくない不純物が混入してしまいます。しかし、絶対に不純物を入れない工夫を重ねたにしても、リサイクル材料がオリジナルの材料の性能を超える事はありません。

アップグレード・リサイクルとは、この壁を打ち破る方法で、例えば化学的あるいは物理的に、材料の純度を上げるのですが、もちろん簡単な話ではない事は想像できます。例えば、しっかりと結びついた合金から、合金元素だけを抜き出す事は至難のワザなのです。もちろん、炭素鋼から炭素を抜き出す事は、水素で還元すれば良いので比較的簡単ですが、ステンレス鋼からクロムやニッケルを分離する事は事実上無理な話になります。現状でステンレスがリサイクル出来ているのは、リサイクル材を溶解する過程で、取鍋(とりべ)分析を行い、不足している合金元素を加えて、例えば組成がJISで言う18-8ステンレスの組成範囲に入る様に調整しているのです。

しかし、例えば電気分解を使うとか、金属をプラズマ化した状態で捕集するとか、何らかの工夫を加えれば、例えば「純鉄」を分離する事は可能の様に思えます。純鉄は、事実上腐食しないので、鉄の新たな用途として注目されていますし、磁気材料や電気材料として新たな用途が開ける可能性も高いのです。二束三文の屑鉄から、高価な「貴金属」を生み出す事が、即ちアップグレードと呼ばれる所以なのです。同様に、プラチック類に置いても、同様な展開が考えられますが、こちらは分離に成功しても、材料の単価が低いので、それ程のメリットが出るかどうかは、やや疑問が残りますが、いずれにしても不要となった廃プラや屑金属を、異種のものは絶対に混ぜないシステム作りが不可欠である事は言うまでもありません。それは、かつては飲み物や液体はガラス瓶だけで流通し、ビン類は有料で回収される「リターナブル容器」であった事実を思い出す必要があります。つまり、空容器は値打ちが無いゴミではなく、有価で取引される「資源」である事の社会的合意が不可欠なのです。その意味で、この国はまだまだ「環境後進国」であると断ずるしかありません。

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2016年10月31日 (月)

3149 リサイクル

このブログでは「本題」の表題です。リサイクルと言えば、例えば紙や金属やPETを溶解して、再度「再生紙」を作ったり、鉄鋼原料:アルミ原料やをPETボトルの原料としたりする事などを思い浮かべます。これは、「マテリアルリサイクル」と呼びます。もちろん、例えば中古車からバンパーなどの部品を外して、修理車へ付け替えるのもリサイクルの一分野でもあります。これは再使用されるパーツ「リサイクル部品」などと言う事もあります。更に広い意味でリサイクルという言葉を使うなら、不要なプラスチックや廃油を燃やして、熱として回収する「サーマルリサイクル」という使われ方もするのです。つまりは、何らかの形で、材料や熱を回収して「再利(使)用」する事が含まれる廃棄物処理の方法を称して全てリサイクルと呼んでいるのです。

しかし、もし純粋な原料のまま回収し再度製品として使えるなら、あるいはプラスチックなどでそのまま粉砕してペレット状にしたら、そのまま射出成形機に掛けれるなら、リサイクル率は飛躍的に向上する筈なのです。リサイクルを阻害しているのは、原料の汚染や異種材料の混入だと言えます。というのも、素材メーカーで同じ呼び方のプラスチック、たとえばPETやPEやPSやPPなど、でもその組成や製造工程は、規格の中で微妙に異なるでしょうし、もし許容範囲内だったとしても、それらを混合した場合には、元通りの純粋な材料に戻せる保証は無いでしょう。完全なリサイクルは、容器や製品を、作られて流通してきた経路を、全く逆向きに戻さない限り、実現は難しいと言えそうです。

だからと言って、諦める事もありません。廃棄物の分別の工夫は無限にあると思うからです。プラスチックの分野だけで言っても、破砕後に比重差で分け、風選で分け、視覚センサーで判別し、紫外光や赤外光やレーザー光で分け、最後は人間の目や分析計で分けるならば、廃棄物もほぼ100%の分別が可能となるからです。もちろん、コスト的に成り立つか否かは重要な問題ですので、なるべく廃棄物として捨てない努力、容器の再使用(リユース)やそもそも矢鱈とプラスチックの容器入れて売るのを止める(リデュース)、は優先的に不可欠でしょう。

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2016年10月29日 (土)

3148 先端産業?2

高強度・軽量の素材を多用し、空を飛ぶ乗り物を作ったり、宇宙空間に打ち上げるロケットを作る事だけが、何も先端産業ではないでしょう。物事には、必ず「目的」があり、それを達成するための「手段」が必要なのですが、いわゆる先端産業と呼ばれる分野では、得てして「手段の目的化」が起こっている様に見えるのです。空を飛んで旅行して移動時間を短縮するのはまだ理解できるにしても、ロケットを不要衛星のゴミで宇宙空間が汚れるほど打ち上げるのに、どれほどの必要な目的が見出せるのでしょうか。ましてや、何か月も研修者を宇宙に滞在させて、骨の廊下のメカニズムが分かったとして、その成果を何に役立てるのでしょうか。

飛行機による旅行時間の短縮したって、そもそもその旅行の目的が物見遊山や爆買いだけだっとしたらどうでしょう。何も海外にまで出かけなくたった、国内にだって見るに値する景色や史跡も多い筈なのです。たとえ宇宙実験で、骨の老化のメカニズムが判明したにせよ、運動嫌いの人の骨を強化するだけでは十分ではないでしょう。運動をしながら、筋肉と骨を同時に強化する必要があるからです。多額の旅行代金や国家予算を使いながら、不要品(ゴミの事です)を増やし、軟弱な人を増やすだけだったとしたら、悲しむべき事でしょう。

そうではなくて、私たちはもう一度「目的」に立ち返らなければならないと思うのです。では目的とは一体どの様なものが考えられるのでしょうか。何がなくとも、目的としては「持続可能性」を確固たるものとする事を挙げなければならないでしょう。私たちが、この世に生を受け、寿命を全うするのは、言うまでもなく「望ましい(持続可能な)社会を次世代に引き継ぐ」という使命を、万人が均しく負っている筈なのです。たぶん続きます。

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2016年10月28日 (金)

3147 先端産業?

前前職で航空機製造に携わっていた事もあり、時々各地の航空機分野への参入セミナー等の講師を依頼されます。とは言いながら、ホンネで言えば、多くの企業の新規参入が実現したとしても、将来それらの企業の事業の柱になるほどの仕事量は発生しないとも見ているのです。理由は、民間航空機(主に旅客機の事を指しますが)の分野で、やっとM社が名乗りを上げたとはいえ、YS-11の生産終了f後の非常に長い時間(約半世紀です)、この国では民間航空機の開発が絶えて無かった事があります。その間は、殆どの全てのリソースを、B国の大手航空機メーカーの下請けになり下がっていたのでした。製造のノウハウを蓄積出来た後も、国も企業もリスクを取るための「手を挙げる」事もなく、諾々として下請け仕事をこなしてきたのでした。

もちろん、航空機を作るための複合材分野では、国内の大手繊維メーカーが大きなシェアを握っては居りますが、その他の航空機用材料(ジュラルミンやチタンや鉄系材料)のほぼ全ては輸入に頼っている情けない状況ではあります。国内の航空機市場は小さいので、製造された殆どの航空機や航空機部材は、輸出される事になるのですが、結果的には為替の影響をもろに被ります。円安なら何とか息が出来ますが、円高局面になると途端に赤字に転落する体質は、昔も今も変わらないでしょう。

さて、航空機産業の一体何が先端産業なのかと問われても、数十年前に実用化されたカーボン繊維+エポキシ樹脂の、いわゆる複合材や、アルミやチタンを多用した、軽量・高剛性のモノコック構造位しか思い当らないのです。それらの技術が、そのまま民生品に応用できる筈もなく、例外的にゴルフクラブや釣竿やテニスラケット等の趣味製品に応用された程度だったのです。もし、航空機の構造が、車で実現出来たとすれば、車の燃費は飛躍的に向上する事でしょう。今、1トンを超えるクラスの車でも、多分その重量を半分以下には出来るからです。しかし、コスト的に見れば、家が1軒買えるくらいの値段のスポーツカーには使えるにしても、量産車には所詮無縁の技術だと言えるでしょう。もし真面目に先端技術に取り組む気があるのであれば、品質要求だけが矢鱈と厳しくて、儲からない航空機産業に向かうのではなく、航空機材料や製造技術のコストを一桁小さくして、民生品にも使える様にする努力こと意味があると思うのです。

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2016年10月27日 (木)

3146 似非環境経営3

先にも書いた様に、省エネだけに気を使っていれば、環境経営が成り立つ訳ではありません。廃棄物も圧縮しなければ、ゴミ処分場がひっ迫しますし、水資源も限られていますし、グリーン購入や、生物多様性、更には事業に使われる化学物質も無害なものに切り替えていく必要もあるでしょう。そこで、是非作成して貰いたいのは、事業に関わるモノ、エネルギー、製品、廃棄物の出入りを示すフロー図です。事業所を□で示し、そこに事業のために仕入れるモノ、エネルギーを「入り」の→で示し、そこから出ていく製品やサービスを「出」の→で示すのです。更に、事業の結果事業所から排出される、モノの廃棄物(ゴミの事です)と目には見えないゴミ(CO2)をやはり「出」の→で示します。CO2は目には見えませんが、事業所のボイラや営業車や運搬車から直接出るものもあるでしょうし、購入電力では、電力会社の煙突から排出されるものもあるのです。

また、これも目には見えませんが、部品の洗浄に使われる有機溶剤は、蒸発のために目減りしますが、その中には強い温暖化効果を示すものや、あるいはオゾン層を強力に破壊する成分が含まれるものもあるのです。これらを、例えば温水洗浄に切り替えるなどの方法で事業の中から追い出す必要もあるでしょう。

グリーン購入について言えば、今日多くのモノで環境負荷、あるいは「カーボンフットプリント」と呼ばれるデータが手に入りますので、同じ文具(例えば紙)であってもより負荷の小さな銘柄を選べばよいのです。その際、その分野のトップランナーのデータを参照すれば、グリーン度の判定役立つでしょう。

生物多様性について言えば、アプローチは比較的簡単です。多様性は、環境のグラデーションから生れるからです。工場、あるいは事務所と道路との間に緑地を設け、それも芝生だけで覆うのではなく、種々の樹木や灌木や花や苔や雑草を多様に配置するのです。そこには、鳥や小動物や昆虫などが多様に入り込む筈なのです。これは、現在の都市郊外で見られる、耕作地と放置された山林という構図ではなく、その間に適当に人間の手が入った「里山」が生物の多様性を育むのと全く同様の現象なのです。

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2016年10月26日 (水)

3145 似非環境経営2

似非環境経営には、何が不足して「似非」になっているのでしょうか。投稿者は、改善されたPDCAサイクルを提案しています。それは、APDCAとでも呼ぶべきサイクルです。PlanDoCheckActionの前に、新たなAAnalysis(分析)を加えるのです。野放図経営は、環境負荷を計測する事すら怠っていますが、環境経営に取り組んで先ず行うのが「負荷計測」なのですが、多くのケースでは計測した事に満足してしまい、そのデータの評価や分析が甘くなっているのです。

分析のためには、例えば1か月刻みの電力データでは、殆ど何も見えてきません。せいぜい夏・冬と春・秋の中間期で、冷暖房に係る電力に差があるのが分かる程度の分析しかできないのです。それでも何もデータが無いのに比べれば数段マシなのですが・・・。更なる分析のためには、1週間単位で、それも時間を追った分析が必要となるのです。それで何が見えるかと言えば、例えばピーク電力値が確認できます。電力料金の基本料金の元となる「契約電力量」とされるものと同じです。30分以上継続する最大電力が、そのまま契約電力量となりますのです、時間を追った分析では、週の曜日のどの時間帯にピーク電力が生ずるかが容易に分析可能なのです。もし、ピーク電力が、例えば朝一番とか、昼一番に生じているとすれば、それは設備の電源を同時にONにする事が原因となっている筈です。不必要は設備の電源投入時刻をずらす事により、労せずして基本料金を引き下げる事も容易なのです。契約電力1kw当たりでは1000円以上に相当するでしょうから、10kw引き下げれば、月々1万円の電気代が浮く勘定です。年間12万円も浮けば、古い蛍光灯や水銀灯を明るく省エネタイプのLED照明に更新する予算も楽に取れると言うものです。

省エネや工夫で浮いたお金を、新たな省エネ投資に回せば、これまでと同じ事業を続けていたとしても、自然に省エネ体質に近づくのです。これを、分かり易い言葉で「省エネサイクル」と呼びます。これを実現するためにも、最初に述べたAPDCAサイクルで、しっかりと分析をする必要があると言う訳です。更に続きます。

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2016年10月25日 (火)

3144 似非環境経営

環境経営の審査でささやかな収入を得ています。その中で感ずるのは、やはり有効なお金の使い方をしている企業が少ないと言う点でしょうか。環境経営にしっかり取り組めば、大幅な経費節減も可能なのに、多くの企業では「それなりの取組み」しか行っていないのです。それなりに、とは、環境経営と言いながら、せいぜい事務所の「紙・ゴミ・電気」減らし程度しか取り組んでいない、という意味です。もちろん、何もしないより「マシ」ではありますが、お金と時間を使って、ささやかにコピー用紙と一般ゴミと事務所の電灯の始末をしたところで、成果は知れているでしょう。

そうではなくて、企業の経費の大きな部分を占めている「環境負荷」に着目し、大きなところから取り組めば、当然の事ながら得られる成果も大きい筈なのです。営業車のガソリンや、冬場の暖房用の灯油など石油系燃料が、CO2排出の6割を占めている事業所が、割合としてはそれほどでもない事務所の電灯をLEDにしたところで、経費は殆ど下がらないでしょう。この場合は、徹底して「エコドライブ」を励行し、建物の断熱を見直して、冬あまり寒くない様に少しリフォームすれば、例えば石油燃料の2割の削減が達成できたと仮定すれば、全体でも10%以上の光熱費の削減が出来ると言う計算になります。要は、環境負荷の削減にチマチマした対策を積み重ねるのではなく、具体的で大きな手をしっかり打つ必要があるのです。

もちろん、単に省エネに取り組んで経費が下がれば、めでたしとはなりません。真の環境経営とは、常により環境負荷の製品やサービスの提供を指向する必然性があるのです。いわゆる、「本業部分での取組み」です。更に言えば、エネルギーや原材料のグリーン化を推進し、更に言えば取引先やステークホルダーに、環境上の好影響を与える事も重要な役割となります。ここまでやれば、当然の事ながら「世間」も黙ってはいないでしょう。環境企業としての評判も上がり、多分売り上げも伸びて行くでしょう。経費の圧縮は、ひいては企業の贅肉をそぎ落とし、筋肉質な経営も可能となるのです。続きます。

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2016年10月22日 (土)

3142 合従連衡

この国には、「寄らば大樹の・・・」という諺があり、結構広く「拠り所」にされている様な気がします。某自動車メーカーも同様でした。しかし、考えてみればデータのメイキングは、車を売らんがための姑息な手段の一つですが、その背景には若者のクルマ離れで、そもそもクルマの市場がシュリンクした事があった筈なのです。売れなくなった製品を売るには、値下げをするか、性能を良く見せてコスパをアピールするなど、メーカー/ディーラーの打つ手は限られてくるのでしょう。

冷静に考えるならば、シュリンクした市場に対しては、やはりいくつかのメーカーには「退場」願わなくてはならないと思うのです。もしそこに、この国の行動で陥りがちな人情を絡ませて進むならば、ますます「クルマ余り現象」が加速するだけになると思うのです。クルマ産業は、確かに20世紀を通じて、Fォード社の大量生産手法、それを洗練したTヨタ社の生産方式などで売値を大幅に低下=大衆化し、爆発的な普及を実現はしましたが、所詮「20世紀型の技術」である事実は変らないでしょう。それにハイブリッドの心臓を取り付けようが、バッテリーとモーターに挿げ替えようが、それを21世紀の乗り物に変える事は出来ないと思うのです。

その背景の中で、終わりかけた企業を合併により吸収するのは、やはり時代に逆行する動きにしか見えません。萎んだものは消え去るしかないと思うのです。そのリソースを新たな市場に振り向ければ良いだけです。作るもの、作らなければならないものは多く見つかるでしょう。このブログでも、縷々書き連ねてきましたが、21世紀の産業は「再生可能型」である必然があるでしょう。そうでなければ、資源・エネルギーの不足や廃棄物の始末という難題を子孫に背負わせる事になるからです。その意味で、クルマ産業は、如何にエネルギー源を、ガソリンから電気に変えようが、再生可能でないと言う一点で合格点を貰う事は出来ないのです。合従連衡で大樹の陰に寄り集まったとしても、産業の質を捻じ曲げる事は出来ない相談です。そうでなくて、萎んだ企業は立ち止まって、進むべき方向を模索すべきなのです。もちろん、吸収される企業の様に窮地陥ってから考えるのでは遅過ぎます。日頃から、将来の路線を考えておく必要はあります。さて、クルマ産業は、一体どちらの方向にハンドルを切るべきなのでしょう。

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2016年10月21日 (金)

3141 自動運転車?

自動車メーカーはもちろん、大手のソフトウェア企業に至るまで、2020年頃までに実用的な「自動運転車」を市場に出そうと熾烈な競争を繰り広げている様です。しかし、便利に、安全になると手放しでは喜べない話の様な気がします。というのも、投稿者としては全ての便利な自動化は、人間の能力を奪い「無力化」するのでは無いかと危惧しているからです。車を目的地に向けて運転するには、現在では頭の中にルートの地図を描き、ギヤやアクセルやハンドルやブレーキを操作して、車と自分を移動させる必要があります。この時、脳ミソを駆使し、腕や足の筋肉を微妙に動かしながら、対向車や歩行者にも注意を払いながら、しかも到着時間やさらには燃費なども気にしながら、パトカーや白バイにつかまらない程度のスピードで運転する訳です。

もしこれを、全部自動化したとすれば、ドライバー(もはや運転者ではないのですが)は、座席で腕組みをしてボンヤリと周りの景色を見るか、あるいはそれにも飽きて居眠りをするしかないでしょう。何という退屈な「ドライブ」でしょう。タクシーに乗客として乗っているのであれば、運賃を気にするとか、あるいは運転手を世間話をするとか、まだする事もありそうですが、ただ座席でする事もなく車に連れて行かれるドライブなど御免こうむりたい、と投稿者は思うのです。

もちろん、自動運転を可能にする技術自体にも心配の種は多いでしょう。機械やコンピュータは必ず故障するからです。部品の信頼性が十分に高くなったとしても、故障率をゼロにする事は出来ないでしょう。出荷時には完璧でも、経年変化や間違った使用法によりまでは防げないものです。それを回避するために、回路やコンピュータを二重に備えても、故障率は低くなるのでしょうが、やはりゼロにする事は出来ません。結局、どこまで行ってもドライバーや対向車や歩行者に犠牲を出さないためには、完全な自動運転車を実現することは出来ないのです。もし、自動運転システムの故障を、乗っているドライバーがバックアップするにしても、常時ハンドルを握って、前方や周囲に注意を払っていない限り、とっさの危険を回避する事は不可能である事は明らかです。ここまで書くと、一体何のための自動運転車かという大きな疑問が払拭できなくなります。結局、メーカー側の「先ずITIoTや自動化技術ありき」で突っ走っている風潮であるとしか思えなくなるのです。

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2016年10月20日 (木)

3140 住の重要性2

住まいの機能で最も大切なのは、やはり気象変化から住人を守る事でしょう。雨風から守る事は当然ですが、暑さ寒さあるいは湿度の影響からも守ってくれる機能が必要です。断熱性能や気密性能がその指標ですが、実は単に室内空気の温度管理だけでは不十分で、壁や窓や天井や床が、ほぼ同じ表面温度で、体を包み込む様に一様な「輻射温度」を実現することが最も重要な機能だと言えるのです。何故か、それは人間の皮膚にある暑さ(寒さ)センサーは、室内の構造体の表面温度の平均を輻射温度として認識するからです。

例えば、壁や天井が十分に暖かく保たれていたとしても、窓の保温性が貧弱で、かつ床下も寒風が吹き抜ける構造となっている場合、その家(部屋)に居る住人は、肌寒く感ずる筈なのです。窓、壁、天井や床が、ほぼ同じ輻射温度で統一されている場合には、例えば室内温度が15-17℃しかなくても、寒さは感じなくて済むでしょう。もちろん、その温度が10℃やそれ以下になると流石に寒さを感じますが、室内履きを使い、厚着をすれば、外が氷点下になる真冬を除けば、暖房もそれほど必要が無いと言えるのです。つまり、大切なのは「寒くない家」の構造であり、それは同時に「暑くない家」でもある訳です。

その意味で、日本の家屋で圧倒的に軽んじられているのは、窓と床下の保温だと言えそうです。単板のガラスの保温性は、非常に低く、冬の朝にびっしりと露を結んでいる様な窓は、全く話にならないレベルです。二重窓かあるいは、理想的にはアルゴンガスを封入したペアガラスが理想でしょう。加えて、基礎全体を保温材で覆って、床下を暖かく(夏は涼しく)保つ事により、冷暖房負荷は大きく引き下げられるのです。投稿者が終の棲家として構えた家は、その性能を狙ったつもりです。さて、その目論みの結果は?この冬を過ごしてみての感想は、追って報告する事に致しましょう。

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2016年10月19日 (水)

3139 住の重要性

住まいは、ヒトの生活の中心なのだ、と最近しみじみ感じます。何があっても、最後は逃げ込める「シェルター」があるという事は、ヒトの精神を安定させますし、取り敢えずは生きていく支えにもなるでしょう。住まいの要件は、暑さ寒さから身を守り、雨風を凌ぐものである必要がありますが、ヒトはその中で「自分の居場所」を確保して初めてココロが落ち着くのでしょう。それは、犬や猫などのケモノであっても、鳥や虫であっても事情は同じ事でしょう。自分の存在が肯定され、狭くても自分のスペースが確保されている「家」は、生きていくためのベースなのでしょう。

投稿者は、人生のある時期に中古の住宅を購入しましたが、やはりそこには「妥協」がありました。予算上の制約、自分が勤務していた企業への通勤距離、家族の状況などを勘案して、取り敢えずの住まいを確保した訳です。建売の安普請ながら、そこで子供達も成長し、それなりの役目を果たしてくれましたが、そこは「終の棲家」でありませんでした。そこで、還暦を過ぎてから生まれ故郷に単身でUターンし、アパート暮らしをしながら、ささやかでも生計を立てる道を模索しながら、同時に終の棲家を建てるための土地を探していたのでした。もちろん、連れ合いの意見も重要なので、何度か一緒に土地を見て回りましたが、なかなか決まりません。

ある日、アパートを出発していつもの散歩コースを、二人で歩いていた時、コースの道沿いで田圃を埋め立てて造成された土地が目に留まったのです。投稿者はあまり気が進みませんでしたが、連れ合いにとっては一目惚れだった様です。そこが、結局は終の棲家を建てるための土地になったのでした。続きます。

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2016年10月18日 (火)

3138 街路樹の伐採

老木となった街路樹の伐採が、果たして是か非かという議論が巻き起こっている様です。元々街路樹は、直線的で殺風景な舗装道路沿いに、夏には日陰も作る見た目に涼しげな照葉樹を植えて、景観を良くしようと植えられたものです。しかしながら、根の周りをコンクリートで固められた樹木は、根張りも浅く、結構な太さに成長してからも強風で倒れる事も多いのです。もちろん、古い時代に植えられて、しっかり管理されていた街路樹は、ちゃんと根を張って、立派な大木に成長している例もあるのでしょう。道路の拡幅や、改良のためにその様な立派な木を伐り倒して良いのかどうかは議論の分かれるところではあるのでしょうが、一方では樹木の「寿命」を考えて、着実に更新していく、という考え方も重要な視点だと思うのです。

つまりは、短期的な都合主義による単なる整理・伐採ではなく、樹木の代替わりを計画的に行っていく、という考え方です。これは山の人工林でも同じ事が言え、更新もせず、下草刈りや枝払いなどの管理が行われてこなかった森林は、もはやCO2の吸収能力を失い、ただ山を緑色に見せているだけのカバーに過ぎない存在に陥るのです。その様な人工林は、台風が豪雨を伴って襲来した際には、バタバタと倒れ、流木となって下流の里を襲うのです。

話を都市の街路樹に戻すと、大木だけの並木も確かに美しいのですが、大木と若木が交互に並び、更新・管理が計画的にかつ適切に行われている並木もまた美しいと思うのです。一気に全部を伐採し、全部を若木に植え替えるのでなく、老木も残しながら時間を掛けて更新していく選択肢は見つからないものか、と樹木には殆ど知識の無い投稿者は考え込んでしまいました。

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2016年10月15日 (土)

3137 同根

五輪のゴタゴタと、豊洲新市場のもめ事は同根でしょう。その根には、いわゆるゼネコンとその利権に群がる輩が見え隠れしている様な気がします。当初の予算が、談合を前提としているがために、見積と提案が繰り返される度に膨らんでいく謎。それを、見かけ上少しばかり削るため、水面下のコストダウン対策(手抜き?)と、それによって浮いた裏金に更に群がる輩、これは実はこの国の日常茶飯事だと言っても間違いないでしょう。政治家と企業の裏金と、それを飲み込んで動く行政、という税金を食い物にした公共事業の例には歴史を遡ってみれば枚挙に暇がないでしょう。それは、「利権屋」の暗躍する世界でもあるでしょう。

しかし、これを根こそぎ白日の下に晒せば、この国の土台がグラグラに揺さぶれらる事もまた間違いありません。何故なら、それがこの国では通常のプラクティスであり、政治、業界、行政(つまりはマツリゴト)の常識だからです。その常識が覆れば、プラクティスも瓦解せざるを得ないからです。

さて、そこにオットリ刀で切り込んだ新知事は、どの様に鞘に納めるつもりなのか、あるいは単に議員や行政マンにかましたハッタリなのか、今後も少しばかり注目する事にしましょう。しかし、この国の産官と政治「屋」の関係は、多分当面変る事は無さそうです。という事は、やはり税金を食い物にする輩は減らないと言う事にもなります。五輪や市場がパリッと新しい施設で表面上はきれいになったとしても、その根っこの部分はちっとも変わらないのでしょう。残念ながら。以上一庶民の愚痴でした。

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2016年10月14日 (金)

3136 電気自動車社会?

ドイツでは2030年以降、内燃機関を積んだ車を作らせない法案が可決された様です。流石に環境先進国と言いたいところですが、かといってエンジン付きの車を作らせない事で、温暖化問題や環境問題の全てが解決する訳ではない事は自明です。クリーンと言われる電力を作るにも間接的には温暖化ガスは出るでしょうし、事故を起こせば危険な物質や液体がまき散らされるバッテリーを積んだ乗り物が街にあふれる訳ですし、その他にもモーターの製造に欠かせない希土類の争奪合戦など、資源問題が過激化する可能性も高いのです。電気(自動車)社会は、むしろエネルギー問題を覆い隠して、人々に問題を見せない様にする社会であるとも言えるのです。

確かに内燃機関は、燃料を「燃やす」ので、空気中の酸素を消費し、その結果としての排気ガスを出しますので、時々何らかの理由で、排気ガスが車内に入り込んで起る不幸な一酸化炭素中毒事故でも分かる様に、ヒトにとって、環境にとって害にはなるでしょう。その代り、その害を目や五感に訴えかける形で提起もしているのです。大気汚染、酸性雨、悪臭、呼吸器の病気、植物の被害などなど、内燃機関の害は目に見えるし感ずる事も可能なのです。しかしながら、遠くの発電所が発生するより大規模な害は、人々の目には触れない形で、しかし確実に拡大するのです。

人々が便利中毒から抜け出す事は、実は非常に難しい事である事は、歴史が証明しているところでもあります。公害問題が発生しても、かなり深刻な事態にならない限り、つまりは直接の被害者を生まない限り、人々は便利な化学物質を作り、化石燃料を燃やし続ける便利生活を止める事が出来ません。それが、更に便利な電気社会になっても事情はあまり変わらないでしょう。投稿者は、このブログでも縷々考え続けて居ますが、まだ明確な答えは出ていません。取り敢えずは率先垂範で、自宅にバイオマス+太陽熱のハイブリッド暖房・給湯システムを付けて、データを取ってみようと思っています。またゆくゆくは、小規模な太陽光発電+蓄電池も加えて、セミオフグリッドも実現するつもりです。

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2016年10月13日 (木)

3135 大規模停電

大規模インフラは、大規模なトラブルを招きます。電力網は、大規模インフラの代表と言っても良いでしょう。何しろ、日本をたった10個のブロックに分けたインフラである上、電力の融通ブリッジも二種類の周波数の混在によって、決して十分とは言えない状態では、ピーク電力時や発電所・変電所の事故による送電停止時には、今回の様な大規模停電の覚悟しなければならない状況ではあります。

確かに、電力自由化によって、小・中規模の発電事業者も増えては来ましたが、如何せんその電力を送るのは、大手電力会社の送電線網しかないのです。かつて、(戦前話ですが)日本の発電事業者は地方ごとに細かく分かれていたのです。それは、大規模な発電所や送電線網が無かった時代には致し方ない事だったでしょう。多くはローカルな水力発電所が、その能力の範囲内の事業者や家庭に送電するのが精一杯だったからです。もちろん、小規模システムでは大規模な停電などは起きませんが、その代わり小規模な停電の頻度は高かったでしょう。とは言いながら、停電による影響は精々工場の動力源であるモーターが停止し、家庭では電灯が消える程度に留まっていた筈です。

しかし、この時代、停電は生命にも関わる重大事故につながり兼ねないのも事実です。例えば、鉄道などの交通インフラ、通信インフラ、エレベータやエスカレータ、その他安全システムの多くは「電力」に支えられているからです。電力自由化の時代であるからこそ、私たちは電力の安定供給に更に注力するか、あるいは需要家側で蓄電システムによるバックアップなどの自衛策が必要となるでしょう。長期的視点に立てば、私たちは「脱電力」に向けての社会システムも模索して行かなければならないのも間違いありません。

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2016年10月12日 (水)

3134 投稿再開(引っ越し騒動)

新居に入って数日経過したので、引っ越し騒ぎもやや一段落し、やっと投稿再開です。引っ越しは、特に一戸建ての場合は一大イベントになってしまいます。家財道具一切の移動はもちろん、引っ越しに伴う役所、銀行、郵便局などに関する「諸手続き」が山ほど発生します。加えて、各種サービスの停止や引っ越し先での開始など、チェックリストを見る度に頭痛がするほどでした。更には、長年住み慣れた家のご近所さんや知り合いへの挨拶、新たに住人になる場所での近隣や親戚一同への挨拶などなど、なかなか落ち着いて引っ越し荷物の開梱や整理に当てる時間が取れません。

以上は、引っ越し作業や手続きの煩雑さへの愚痴ですが、それより問題なのは、記憶が不連続になってしまう事です。雑事に関することなら問題ないのですが、仕事がらみともなるとそうはいきません。場合によっては、引っ越し後に重要な書類が埋もれてしまっている可能性もあるのです。つまり「整理」と「積み重ね」は、似ている様で全く逆の行動になりがちなのです。特に書類の場合は、積み重ねによって、必要な書類が見つからなくなる事も多いのです。場所さえ広ければ、書類は横に広げて並べておきたいところです。そうではないコンパクトな家では、行方不明になった書類の捜索に結構時間が掛かってしまいます。それを防ぐには、引っ越し先での荷物の落ち着き先(所番地)を決めて、必ずそこに置く様にすることですが、それも後知恵です。この先引っ越しの予定の無い「終の棲家」の積りの家なので、このバタバタが過ぎると静かな生活に入れる、と期待しています。今日は短め。

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2016年9月29日 (木)

3133 休稿

今日は、完成した自宅の正式な引渡し日で、取り敢えずはアパートに置いている事務所の引っ越しをするため、夕方までバタバタでオフラインとなり休稿です。来週も、今度は家族の引っ越しのため、引き続きの休稿となるやも知れません。

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2016年9月28日 (水)

3132 休題(自宅完成2)

建物が完成しましたが、自宅のボイラ小屋へバイオマスボイラを設置するのは多分年末の二期工事となります。取り敢えずDIYによるガス給湯器の取り付けが完了しましたので、お湯が使える様になり、住むための準備は完了。後は、単身住まいのアパートからの簡単な引っ越しが残るだけですが、ボイラ室の作業でぐったり疲れました。もちろん達成感はありますが・・・。とはいうものの、新しく家を構えると、役所の手続きやら、電話工事の依頼やら、まだまだやるべき事が山ほど残っている様です。なので、今日もブログ投稿もそこそこに、あちこち走り回ります。

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