2018年6月20日 (水)

3466 地震の予知

大きな地震が発生し、被害が起こるたびに地震の予知が取り沙汰されますが、投稿者の感覚では、残念ながら地震の余地は殆ど無理ではないかと感じています。物体の中に貯め込まれている応力(内部応力)を測定する方法はいくつか存在します。詳しい原理はさておいて、例えば、X線を使ってその回折によって内部の応力をかなり正確に推定する技術は存在します。これは、例えば金属サンプルなどでは有効ですが、例えば地盤でも応用できるかと言われれば、そんな技術はまだ開発されてはいません。

もし、仮に何らかの有効な方法が開発されて、地盤内に生じている歪なり内部応力が測定出来たにしても、ではその結果地盤が破砕し、何時断層がずれて地震になるかまでは、知る手段は無さそうなのです。というのも、地盤の種類によってそれが弱い応力でも破砕し断層がズレるのか、あるいは地盤が強固でなかなか破砕しないのか、それを評価する基準がないからです。しかも、地震を起こす断層のズレは、ゆっくり進むのではなく、突然かつ急激に起こるのです。

これでは、いくら神様でも地震の発生を前もって「お告げする」ことは到底無理と言うものです。加えて、この国の地盤は、大陸プレートの移動による大きなズレ(構造線と呼ばれます)に加えて、数十キロに及ぶ長い断層や数キロ程度の短い断層が複雑に入り混じっている事もあり、熊本や今回の大阪北部地震の様なローカルな地震の予知など、科学者が束になって掛かっても無理だと言うしかありません。

結局、この国に住む限り、地震には比較的高い頻度で(具体的には一生の内では数回)遭遇するものだ、という前提で日頃から心構えをしておくしか方法は無さそうです。いわゆる、防災や減災と言った考え方ですが、それにしても3464にも書いた様に、都市への人口集中は、その意味からも早急に解消すべき重い課題である事は間違いないでしょう。

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2018年6月19日 (火)

3465 目からうろこ 

イギリスで発明された、新エンジンに注目しました。これは、従来の内燃機関では、クランク軸からギヤやチェンを介して吸排気弁を駆動するカムシャフトを動かしていたものを、サーボモーターで適正なタイミングで直接駆動するという考え方のメカニズムです(IVAエンジンと呼ばれます)。燃料の供給に関しては、既に電子制御化され、燃費の低減に大いに寄与しましたが、吸排気のタイミングも負荷や回転数に応じて制御できれば、更に2-3割の燃費低減も視野に入ってくるでしょう。この例の様に内燃機関は、過去の「枯れた技術」だと考えられていて、既に多くのメーカーはEVにシフトしている中、古い技術だという思い込みが強すぎた、と元技術屋としては反省しきりです。

「目からうろこ」で連想した事に、乱流害悪論があります。航空機の世界では、翼面の乱流は揚力を消し去る害悪であり、失速の原因となるので忌避されてきました。確かに、翼型における揚力は、翼面の上下に流れる層流の速度差によって生ずるものであり、結果としての上下の圧力差によって機体の高度を維持させる揚力が発生するのです。

しかし、流体力学の世界では、これは正しい常識のですが、一方で熱力学の世界を振り返れば、これは非常識になってしまうのです。熱力学における多くの理論式は、理想的な乱流状態を前提に作られています。これが、もし層流の流体を扱う事になると、例えば熱交換器は殆ど役に立たないシロモノとなるかも知れません。エアコンの室外機を考えた場合、熱交換器のフィンを通過する空気流が層流である場合、高い温度になっているフィン表面から熱が殆ど放散出来ないのです。層流では、フィンの表面から空気の激しく流れる場所まで、空気流が層状になっているため、温度の分布も同じように層状になってしまう結果、相間の熱交換が上手行かないからです。

一方乱流に保てれば、フィン表面の高温は上手く空気に取り込まれて持ち去られるでしょう。つまり、熱交換器のキモは乱流を如何に上手く起こさせるかにある訳です。もし、この考え方を全ての熱交換に適用できれば、多くの熱を扱う機器、暖房機や冷房機や風呂や温水器や加熱器などなどの熱効率は、たぶん2-3割は向上すると見ています。人間の目は、幾重にも「ウロコ」で覆われてしまっている様です。特に、投稿者の様に技術者としてもバックグラウンドがあると、特に頭が凝り固まっている傾向がある様です。反省・・・。

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2018年6月18日 (月)

3464 地震列島

比較的強い震度の地震が続いています。それぞれ、震源の震度が比較的浅いいわゆる断層のズレであり、大きなプレート境界で発生する大地震とはメカニズムが異なります。とは言いながら、断層にズレを生じさせるのは、より大きな範囲に歪を加えているプレートの動きである事も間違いなく、大きな目で見ると日本列島は、まさに4つの大きなプレートの境界に出来て翻弄される島国ではある訳です。

さて、各地に網の目の様に走っている断層です。地面と地面のズレである断層は、もちろん独立したものではなく、互いに連動したり、時間差で動いたりする訳です。ある小規模な断層のズレは、隣接する断層には目には見えない歪を残します。その歪は、大きなプレートからのより大きな範囲の歪、或いは気温や雨水の浸透などの外的要因によって、突然ズレるのです。残念ながら、この目には見えない「地層の内部歪」を可視化する技術は未だ発明されていませんので、今のところ私たちは地震が起こってから慌てふためくしかない様なのです。

それにつけても、今の様な都市への人口の過度の集中は、地震列島であるこの国では、大災害が強く懸念される状況だと言えます。関東大震災や神戸地区の震災の例を引くまでもなく、人口密集地域での震災は、多くの人的被害が予想されるからです。投稿者の脳裏には、キラキラ輝く「構想のガラスビル」から、大小のガラスの破片が雨あられと降り注ぎ、その下で人々が逃げ惑うる地獄絵がちらつくのです。

一方、田舎で地震にまつわる心配の種はと言えば、例えば山際に寄り沿うように家が建てられている山村では、裏山の土砂崩れなどは懸念されますが、高層ビルも無いので、小さな災害の散発程度で済むのでしょう。訪問する度に胸が痛みますが、首都圏や大都市の過密度を見るにつけ、都市集中にピリオドを打って、地方回帰を進めるべきだと、田舎に住む投稿者としては、しみじみ思うこの頃です。

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2018年6月17日 (日)

3463 刹那的社会2

3462の続きです。ヒトをヒトたらしめているのは、脳の中でも[前頭前野]だと言われています。前頭前野は系統発生的にヒトで最もよく発達した脳部位であるとともに,個体発生的には最も遅く成熟する脳部位である一方、老化に伴って最も早く機能低下が起こる部位の一つでもあると言われています。この脳部位は、ワーキングメモリー、反応抑制、行動の切り替え、プラニング、推論などの認知・実行機能を担っていると同時に、高次な情動・動機づけ機能とそれに基づく意思決定過程も担っている様です。さらに社会的行動、葛藤の解決や報酬に基づく選択など、多様な機能に関係しているとも言われています。

投稿者が疑っているのは、この部位の老化が起こり易いという事は、逆に言えばこの部位は生まれ落ちてから発達すべき部位である筈で、刹那的行動を起こしやすい人達は、この前頭前野が未発達なのではないかという点です。例えば、長い時間ゲームに耽っている子供たちは、物事を深く考えたり、将来の事を考えたり・計画したりする訓練を怠っているとも言えるでしょう。一方で、違う年頃の子供達が群れて外遊びをしている時には、今日の遊びの「計画」や、誰がリーダー(或いはオニ)になるとか、日が暮れるまでにはあとどのくらい時間が残っているか、など等考えるタイミングも多いことでしょう。それは、まさしく前頭前野の訓練に他なりません。前頭前野は、危険に取り囲まれている野山で、弱い人間が強い野生動物の中で生き延びていくための「知恵」の引き出しだと思うのです。

そこを鍛える訓練も無く、空調の効いた室内で、モニター相手に何時間も過ごす子供達、或いは人生の殆どを人工的で清潔な都会で暮らしてきた大人たちの、前頭前野が未発達であるか、或いは非常に若い年代で退縮しやすい、という疑い(仮説)は否定はしにくいでしょう。つまり、刹那的な社会というトレンドは、このままでは歯止めが効かず、それにまつわる社会(や政治)の混乱や犯罪は、今後とも増加傾向が止まらない、と推測できるのです。これが、投稿者の杞憂に過ぎないのであれば幸いなのですが・・・。

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2018年6月16日 (土)

3462 刹那的社会

最近のニュースを眺めていると、背景が浮き上がってくるような気がします。キーワードとしては、「あまりに刹那的」でしょうか。つまり、前後の見境なく行動してしまって、様々な事件を引き起こすのです。ムシャクシャして、或いは収監されたいからという理由だけで人を殺傷する、社会に大きな混乱を与える形で自ら命を絶つ、僅かな金品を奪う目的で必要も無いのに相手を傷つける、ちょっとした事に腹を立てて危険な煽り運転を繰り返すなどなど、一体この国はどうなっていくのだろう、と心底心配になる事件が頻発しているのです。

それよりなにより、日々報道される世界情勢や国内のマツリゴトだって、決して自慢できるものではないでしょう。何より鼻につくのは、リーダー達の自画自賛です。痛いところを突かれれば、全く同じ言い訳を何度も繰り返す一方、少しでも手柄らしきものを立てれば、針先の様な中身でもを棒や大木の様に喧伝するのです。そして、いわゆる世論調査による支持率に一喜一憂し、それを1%でもアップさせる事に汲々とするのです。その際には、過去の野党の状況と比較し、少しでも上回っていれば、さも自分の代になってからの手柄の様にひけらかすのです。

刹那的と別な言葉で言い表すなら、動物的あるいは幼児的と言っても良いかも知れません。動物も、幼児も「今を生きる存在」だからです。どちらも、過去の自分を振り返ったり、或いは10年後の自分を想像して、今の行動を軌道修正する事などできないのです。情勢は、時々刻々変わります。その中に居て、10年一日の如き、産業の活性化と経済成長や景気対策しか口にしないリーダーを支持は出来ません。政治家なら、先ずは国家百年の計を論じて貰いたいものです。その上で、バックキャストした結果、今何を為すべきかを考えて行くべきでしょう。もちろん、百年後にどれだけの経済規模にしたいかなどという「低次元」の計では意味がありません。それは、国民の価値観や幸福感や達成感の問題であるべきなのです。

経済的に豊かになった結果、ほぼそれに相関する様に刹那的になったのだとすれば、私たちは額に汗して働いて、幸福度としてはマイナスの方向に走ってきたのかも知れないのです。必要な事は、立ち止まって足元を見つめてみる事でしょうか。その上で、視線を50年後100年後に向けて、この国を、ひいては世界をどの様な社会にしていきたいのかを、いま真面目に議論する必要があると思うのです。

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2018年6月15日 (金)

3461 マネー本位制社会

その昔社会科の授業で、金本位制という言葉を習った様な気がします。ある時期以降、兌換紙幣の代表であった$がそれを放棄し、その後はいわば「マネー本位制」の世の中になったのでした。それ以前の社会を含めて、「価値」の考え方を振り返ると、価値交換の手段としての貝や石貨や金属貨幣以前は、モノ本位制であった筈です。例えばこの国では、コメがその役目を果たしていた時代が長く続きました。さて、ものの価値ですが、それは一にも二にも「それ」がどの程度所有する人の役に立ち、所有する満足度を高めるかに掛かっているでしょう。しかし、贅沢品や装飾品に代表される様に、ある時期以降人々はそれを所有する満足度に酔う様になってしまったらしいのです。

その証拠には、例えば大金持ちは、めったに乗りもしない高級車を何台も車庫に並べて悦に入っているらしいですし、そうでない別の金持ちも、一生かかっても使い切れない程のマネーを銀行に預けて、ゼロの数を数えて満足しているらしいのです。その人にとっての価値とは、結局生活の役に立ついわゆる実利(実用)ではなく、所有欲の満足の様に見えるのです。それほど、極端ではなくとも、現代の社会で価値の基準になっているのはお金(マネー)になっている事は疑いないでしょう。若者は、職業の選択の基準として「給与」を最初に考慮するでしょうし、世の中での成功者、敗北者も持っているお金(お金に変えられる財産)の多寡によって判断される場合が殆どでしょう。

しかし、お金に換えられない価値、ここでは仮に「非兌換価値」とでも呼んでおきますが、はもっともっと重視されるべきだと思うのです。非兌換価値の例としては、美味しい空気や水、無農薬の野菜、国際や国内の平和、人と人或いは人と自然の間の愛情や幸福感、安全・安心感、信頼感、生き甲斐感、自身などなど、有形・無形のものが挙げられそうです。残念ながら、それらはお金に換算出来ないという理由で、あまり大切にされていないのが現状でしょう。取り分け、B国に代表されるマネー本位制社会では、それらは殆ど無視され続けているのです。それは、銃による犯罪が日常茶飯事となっている現在でも、それが殆ど規制されていない事でも自明です。

戦後一貫してB国のお尻を追いかけてきたこの国でも、事情はあまり変わりません。そうでなければ、児童虐待や僅かな金品を奪うために人を殺傷する犯罪、更には無差別の大量殺傷事件などに通底する根本部分の動機が説明できないのです。

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2018年6月14日 (木)

3460 電力輸入?

発電の元となる化石エネルギーは輸入されているのですから、大陸と送電線網を繋いで、ロシアなどから電力を買う、という選択肢もあるだろう、と言うことで具体的に検討され始めた様です。確かに、「どちらもエネルギーの輸入である事に変りはない」、という議論は間違っていない様にも聞こえます。しかしながら、両者には大きな違いがあると思うのです。化石エネルギーは、確かに発電用のエネルギー源でありながら、同時に化学工業の原料でもありますし、かなりの部分は車や船や航空機などの輸送用エネルギー(ガソリンや軽油)に振り向けられており、またLPGLNGや灯油などの熱源エネルギーでもある訳です。

確かに電気にさえ変えれば、それは電気自動車のエネルギー源にもなるし、エアコンでは暖房や冷房にも使えるし、電灯やOA等の日常生活に不可欠となったコンセント電源など便利なエネルギー源にもなるでしょう。しかし、考えてみなければならないのは、そのエネルギー効率です。火力発電では、発電の段階で化石燃料が持つエネルギーの6割程度は捨てなくてはなりません、加えて送電ロスもかなりの割合に上るでしょう。元々、エネルギーを電気にして使うのは、無駄の多い「贅沢な使い方」だと言うしかありません。

さて、電気を海外から輸入するとなると、海峡をまたいで繋ぐ送電で生ずるロスと、もしかすると接続する地点の周波数の違いによっては、周波数変換のロスも加わるでしょう。しかも、電力の貯蔵はコスト的に、原油やLNGの貯蔵より高くつくので、基本的には輸入と同時に逐次的に消費するしかありません。話は、机の上で考える程簡単ではないのです。

こんな事を検討する前に、先ず為すべき行動がある筈です。それは、徹底的な省エネです。確かに、この国では省エネは進んだレベルにあるとは言えるでしょう。但しそれは、相対的な意味においてです。例えば、冷蔵庫やエアコンなどの家電でも省エネはかなりのレベルである事は認めますが、では住宅の断熱状況はどうなのかと問われれば言葉に詰まるでしょう。暑い、寒い住宅を、冷房し、暖房しても省エネには限界があるでしょう。そのエアコンの冷媒だって、代替フロンより省エネになる炭化水素系のものだってある筈です。車にしたって、燃費競争も行き詰った様に見えますが、実は車体の軽量化をもっと進めれば、大幅な燃費向上も達成可能なのです。そんな努力を惜しんで、エネルギー不足を輸入で埋めるなどと考えるのは、まさに問題外の外です。そんな輩には、上杉鷹山の言葉でも煎じて飲ませるしかなさそうです。

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2018年6月13日 (水)

3459 地域(方)創生???

3458の続きです。屁理屈の様なものですが、「地域(方)創生」などとお役人言葉でわざわざ唱えなくとも、地方は都会なんかよりずっと古くから人が住んでいて、営みを続けてきた場所である事は間違いないでしょう。農林水産業を中心にして、決して豊かではなくともしっかりとした社会基盤を築いていた筈なのです。しかし、高度成長期に都市が、つまりは新しい産業が、農家の跡取り以外の若者をドンドン吸い取り、それでも足りずについにはその跡取りさえも吸い上げてしまったのでした。

しかし、少子・高齢化の加速もあり、もはや高度成長が止まってしまった都会に残ったのは、街に溢れる人々と、せせこましいしくバカ高い住宅事情と、長い通勤時間と、朝夕に限らない常に人にぶつからないでは歩けない人混みと、緑が無く照り返しがひどい夏場の気候と、人工的に手を加えた加工食品しか手に入らない食生活と、出会いが多い筈なのに実は独身や少子化が田舎よりひどい社会と、信号が無いだけでノロノロしか動けない高速道路と、地震の時には「破片落下地獄」となる筈のガラス張りの高層ビル群と、何処に行っても外国人だらけの街などなどでした。

地域創生などという訳の分からない「行政用語」はすぐにでも止めにして、必要な行動や政策はと言えば、スカスカになってしまった地方への「人の再移動」しかない筈なのです。既にあてがわれつつある地域創生予算で、地方に移住しようとする独身者やカップルや家族には、十分な助走資金が準備出来るでしょう。田舎では、住宅なんぞは、掃いて捨てる程有り余っています。少し手を加えれば、骨組みがしっかりしている古い住宅などは、この先もまだ長く住めるでしょう。そのリフォームの際には、大工や左官や配管や電気など多様な職人が必要ですから、間違いなく雇用も増える筈です。地域を活性化させ、飽和してしまった都市に余裕を取り戻すに必要な政策はたった一つ、人口の地方移動の誘導しかないでしょう。

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2018年6月12日 (火)

3458 SDGs2(長期レンジ)

地域創生や働き方改革などと言った政治家が唱えるお題目も、SGDsに照らして考えれば、おのずと実際の行動に繋がってくる筈のものでしょう。先ずは、地方創生を考えてみましょう。これは、もちろんお役人が考えて、その時のリーダーに進言した「お役人言葉」である事は間違いないでしょう。お役人言葉の特徴としては、聞いて耳に心地よく、しかし抽象的で実際の絵が描きにくく、かつ税金を使わなければ決して動き出さないものが多いのです。その意味で、単なる掛け声やスローガンではない事だけは確かです。それは、お役人という存在が、計画=予算を立て、それを計画通りに消化してナンボであり、それ無しには存在価値が疑われてしまう人達だからなのです。

しかも、この国の予算制度は基本的には「単年度予算制度」なので、予算や計画を立てても、実際に使えるのは、その会計年度で言えば7月頃であり、年末・年始を過ぎる頃には慌てて財布(会計)の締めに掛からなければならないという忙しさです。地方創生関連でも、予算をばら撒き、人材が少なくそれを消化しきれない地方組織は、毎年帳尻合わせに四苦八苦を重ねるのです。

そうではなくて、SGDsの含まれる項目の全ては、長期のレンジで取り組まなければならない事柄ばかりなのです。こんな予算制度や行政組織のままでは、たぶん百年経っても良い政策には殆ど手つかずで、殆どが先送りになってしまう事は容易に想像できます。先ずは、計画や予算を、例えば5年、10年と言った中期や、20年、30年といった長期レンジに至るまで、柔軟に使える様に構える仕組みが必要でしょう。目先の景気の上下にばかり気を配り、民衆の支持率しか興味が無い、いわゆる「政治屋」には速やかに退場願わねばなりません。代わって、国家百年の計が議論できる、若い政治家の登場こそが待たれます。

ただ待って居ても、そんな政治家の登場が期待できないのであれば、今の内に若い人材を育てる場(決して政治テクニックを教える場ではなく)が必要なのかも知れません。最大の問題は、その先生を誰が務める事ができるかでしょうか。出来るならば、かつて国家百年の計を滔々と説いていた、古の政治家に生き返って貰いたいくらいです。叶わぬ夢ではありますが・・・。

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2018年6月11日 (月)

3457 SDGs(不便を楽しむ)

S井の「国体論」に触発された随想=休題が続きましたが、やっと本来の環境ブログの話題に戻ってきました。さて、SDGs(日本語では「持続的開発ゴール(目標)」などと訳されますが)については、既に何度かこのブログでも取り上げてきました。ここでは、SDGsの17項目のゴールの個々についてではなく、「持続可能性」について改めて考えてみる事にします。持続可能性(Sustainability)という如何にも難しそうな言葉ですが、もっと単純に言えば、「それが一体何時まで続けられるのか」という問に変えれば分かり易いでしょう。化石燃料を考えると、石油だと数十年、天然ガスも同様の「可採年数」でしょう。石炭は、その数倍あるにしても、持続可能性に照らせば、このまま化石燃料を消費し続ければ、資源の枯渇の前に地球の気象の変動が大き過ぎて、例えば農業や沿岸地域の都市環境が持続可能ではない(復旧できない程の甚大な)被害を蒙る事になると予測されます。

つまり、17個の開発ゴールは実はゴールなどではなく、今日からすぐにでも実行しなければならない項目達だと言うしかありません。私たちの一挙手一投足は、何らかの形で地球環境にキズを付けずには置かないでしょう。それは、私たちの生活スタイルそのものが、既に自然に同化したものではなく「人工的」なものになってしまっているからです。日の出と共に起き、日の入りと同時に寝るのではなく、私たちはすぐ照明やエアコンのスイッチを入れるでしょう。1時間以上歩いて移動することだって、日常生活ではもはや稀になっているでしょう。田舎でも都会でも同様に、ドアからドアへ、車や電車を使って移動する生活にすっかり慣れてしまっているのです。

持続可能性とは、結局先人たちが行って居た様な、自然のサイクルの中に組み込まれた生活に近づくか、という問に答え続ける事に相違ないのです。ひたすら歩き、少しの空き地があればそこで作物を育て、里山に分け入ってはその恵みをいただき、太陽と共に寝起きし、ひたすら歩くか自転車で移動し、それが手に入る場所では薪を割って風呂を沸かし・暖を取り、古い家や衣服をリフォームして使い続け、道具を良く手入れして長持ちさせ・修理を重ね、と言った生活スタイルに出来る限り速やかに移行しなければならないのです。

いわゆる、自然児という言葉があります。広い世界ですから、辺境の地では今でもこの様な生活を送っている地域や部族も多い筈です。彼らも、このままでは私たちの様な「文化的(=環境破壊的)」な生活に憧れて、その生活スタイルを変えてしまうかも知れません。そうなる前に、私たちは彼らから「持続的な生活スタイル」の一端でも学ばなければならないです。つまりそれは、私たちが、夏場の短時間のレジャーとしてのアウトドア生活で感ずる「不便を楽しむ」感覚を、日常にしなければならない事を意味します。

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2018年6月10日 (日)

3456 休題(平和ボケ)

この国の状況を一言で表すなら「平和ボケ」又は「経済ボケ」でしょうか。戦後長く続いた(勝ち取ったのではなく与えられた)平和の中で、外交・防衛はB国盲追、自分たちは経済活動に専念し、兎に角外貨を稼ぐ事にだけ努力を傾けてきたからです。朝鮮半島や東南アジアや中東での戦争・紛争でさえ、この国の経済発展を加速してきたのです。北の大国が崩壊するまでは、東西冷戦のバランスの中で、その後は宗教に絡むテロや北の隣国を仮想敵国としながら、B国お仕着せの武器を揃えながら、専守防衛や非核三原則などの御旗を掲げて、実際はB国の傘の下で専ら金儲けにまい進してきたのです。

しかし、外交方針がB国盲追だけでは他の国々との関係が上手く行く筈もありません。経済援助でお金をばら撒いた途上国はいざ知らず、いわゆる先進国からは少し(かなり)低く見られていた事は否めないでしょう。B国は、身勝手な国でもあり、自国に有利になる事なら、かなりアクドイ作戦も敢行します。例えば、ドルを守るためであれば、レートの切り下げ誘導や関税の上げ下げによる輸出入のコントロール等、時にはルールは自分が作ると言った態度で暴れ回るのです。この国が、どれだけその身勝手に泣かされ、資本を巻き上げられてきたか、少し経済史を振り返れば、投稿者の様な経済の門外漢にだって理解できるのです。

この国は、一日も早く戦後の幼稚園児(被占領国)状態から脱する必要があるでしょう。もしそんな事はない、と言い張る人が居るなら、歴代のリーダー達のB国参りを説明しなければならないでしょう。彼らが、B国参りの度に頭を撫でられ、B国製品(特にJ衛隊の武器)を買わされ続けて来たかを思い出さなければならないでしょう。私たちは、ノウテンキなこの平和ボケをどうにかして叩き直さなければならないのです。それが時期的にはやや遅きに失したにしてもです。

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2018年6月 7日 (木)

3455 休題(見ない事に)

休題が続きます。この国の人々に通底する性癖として日頃感ずる事があります。それは、3454で述べた(特に政治的)無関心です。つまり、自分の利害に直接的に関係する事柄には、当然の事ながら興味を示しますが、そうでないものには極端過ぎる程無関心かあるいは無関心を装うのです。それが、古の時代からの習い性なのか、或いは長年の鎖国の時代の遺物なのか、或いは民族性なのか、正確な事は分析はできませんが、間違いなくその傾向は指摘できるでしょう。

それがどこから来るものなのか、私たちはよくよく考えてみる必要があると思うのです。この国では、戦前は軍の支配のもと(もっと古くは封建支配者のもと)、戦後はいわゆるGHQの支配の下、私たちの行動や言論はコントロールされ続けても来ました。その中で、人々は目立たない様に振舞うには、マツリゴトに無関心になるか無関心を装うしかなかったのでしょう。しかし、最初は意識しての表面上の装いであったにしても、装うにもそれなりのストレスを感じた筈なのです。しかし、それが無意識の「習い性」となれば、人々はストレスも小さく暮らせるようになるのでしょう。

その意味で言えば、私たちの社会は、「国体論」で、S井も指摘する様に、古の頃から今も変わらずに、何らかの支配社会であるのかも知れません。S井は、国体論の中でこの国の国民を「気の狂った奴隷」とまで呼んで蔑みますが、声なき被支配者はやはり「奴隷」と呼ぶしかないのかも知れません。

この国は、戦後70年以上も経過しているとはいえ、今日に至ってもB国の呪縛の中で動かされているとしか思えない政治の局面を頻繁に目にします。例えば、この国のリーダーは、リーダーになった途端(間髪を入れず)に訪米している筈です。そこで、B国のリーダーとの会見で、見かけ上の、First name bassisで呼び合う事を確認してやっと、帰国してからのマツリゴトに安心して取り組める立場に納まるのです。もちろん、移民の国であるB国では、自己紹介の後は誰とでもFirst nameで呼び合う暗黙の前提なので、それが国のリーダー同士の関係であっても同じになるだけの単純な話なのですが、Sンタローなどと下の名前で呼ばれた瞬間に、この国の人達は、何か特別に親しくなった様な錯覚に陥る様なのです。

さて「見ない事に」です。特に戦後の人口ピラミッドのコブである、いわゆる団塊の世代は、生まれてから現在に至るまで、大勢の同世代の人達の中で、One of them.という立場に、あまりにも馴らされ過ぎたと言うしかないと思うのです。その世代を、すぐ後から追いかけてきた投稿者には、それが痛い程理解できるのです。しかし、この国で相変わらずのマンパワーを持つ世代は、このまま黙して時代から消える訳にはいかないとも思うのです。奴隷から脱するためにも、声を上げて行動を始めるしかないのです。

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2018年6月 4日 (月)

3454 休題(戦後民主主義)

3452の続きの様なものです。この国の政治スタイルである民主主義は、戦後民主主義あるいは「民主主義もどき」と呼ぶべきで、他国の民主主義とは一線を画するものであると言うしかありません。何より、政治に民意が反映されにくいシステムであると同時に、民意を表明する国民が少な過ぎる、即ちいずれの選挙結果を眺めても投票率が余りにも低いという際だった特徴があります。たった3割しか支持率を集めていない政党が、議席の2/3を獲得してしまうという選挙制度も問題ではありますが、支持する政党なし層が半分近くを占めているという事態もかなり異常でしょう。

それは、今の政治システムが、戦後の占領軍(=B国)によって「与えられた民主主義」に基づくものであり、その後も大きな見直しされる事無しに、シームレスに(つまりは無意識に)現在まで引き継がれており、しかも誰もそれを問題として糾弾しようとしない風潮が支配的だったからでしょう。つまり、外交はB国任せ、政治は政治、市民の生活は生活として、割り切って考えるという風潮が完全に定着してしまった様なのです。

それで何が問題かですが、例えばこの国でリーダーの所業が気に食わないとしても、国民には直接働きかける手段は持たされていないのです。国民は、議員を選ぶ権利はありますが、議員は政党という名のグループを作り、その中の最大グループが政治を牛耳る事になります。しかも、自分の考えにやや近い支持政党があったとしても、現在の選挙制度では、3割の支持率しかない政党でも、2/3の議席を獲得出来てしまうのです。少なくとも、国民が支持割合に近い数字で、各政党の議席が揃わない事には、より正しかろうマツリゴトには近づかない筈です。

私たちは、もっと政治に関心を持ち、戦後民主主義の欠陥を正すべく行動を起こさなければならないでしょう。もっとも悪い行動は政治に対する「無関心」である事は自明です。

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2018年6月 2日 (土)

3453 休題(同根)

これは「環境ブログ」ですので、それ以外の事を徒然に書く場合は「休題」と言うことになります。ここでは、一向に収束しない国会での「MKけ問題」と、一応収束した様に見えるひどい「レイトタックル=潰しタックル問題」に同じ根っこを見てしまった様な気がしたので、それを書き残しておきます。さて、両者に共通する根っことしては、「ルール違反」が挙げられるでしょう。行政が特定の事業者に便宜を図るのはアウトですし、ましてやそれに政治の圧力が掛かってはならないでしょう。また、単純なラフプレーなどではなく、明らかに相手の選手を潰す(痛める)ための、プレー外でひどいレイトタックルは、ルール違反の範疇を大きく超えているでしょう。

しかし、もしこれらのルール違反を素直に認め、事件直後に謝罪会見を開いていたら、問題はこんなにも拡大しなかった事は間違いないでしょう。当然の事ながら、事件を引き起こす根っこの部分に居た政治家や監督・コーチは引責辞任をするという前提にはなりますが・・・。しかし、両方のルール違反を起こした当事者は、違反を認めるどころか、逆に言い訳をし、更には証拠を隠そうとまで画策したのですから放ってはおけません。マスコミや世論が黙っている訳にはいかなくなって、国会やSNSが炎上してしまったのでした。つまり、もう一つの問題の根っこは、「言い訳」あるいは「誤魔化し」であるとも言えそうです。

起こしてしまった事件を元に戻す訳には行きませんが、火事(問題)の拡大を小さくするコツは「初期消火」しかない筈です。もちろん、火事を起こさない「防火」や「リスク管理」も必要ですが、自分の立場に甘んじているリーダー達は、残念ながら脇が甘くなっている様なのです。しかも、初期消火を怠ってグダグタと言い訳した結果、炎上しこれほど事件が長引いているのでしょう。もちろん、政治家がささやかとはいえ「口利き」が表面化した場合には、責任を取らなければなりませんが、もしごく初期の段階でそうしたならば、この国ではむしろ「潔い」として称賛される事はあっても、訴追される事はない筈なのです。言い訳をしながらの居座り(居直り)は、この国では最も忌嫌われる行動であると、全てのリーダーは思い至るべきでしょう。

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2018年6月 1日 (金)

3452 休題(戦後の総括)

S井の「国体論」を読んで、一番強く感じたのは、人口ピラミッドのまさに塊りである団塊世代が、自分達自身が生きてきた戦後の時代を振り返り、十分に反省しているとは言えないなあ、という感慨です。団塊世代は、殆どが社会の第一線は退いている筈ですが、人生の余暇を楽しむ事に熱中する前に、自分たちの生きざまを冷徹な目で総括する必要があると思うのです。平成も終わりに近づきつつある今、昭和は既に「歴史」になりつつありますが、当事者が自分達自身の仕業を公平に評価しにくいのは確かですが、それはそれとして評価するという努力は必要でしょう。

人は、過去を振り返っての評価・反省無しには、実は将来の展望も描けないのです。だからこそ、歴史学があり過去の出来事の評価を繰り返し行う意味があると思うのです。その意味で、S井の書は、近現代史を明治維新後から戦前と、終戦を「分水嶺」として、戦後の70余年を均等に眺め、明治維新以降の近代化の盛衰?と戦後の高度成長の盛衰に相似なるものを見出すという新しい視点の嚆矢となるものかも知れません。それは、比較的若い世代の論客としてのS井だから打ち出せた論点なのかも知れません。何故なら、いわゆる団塊世代の論客に、同様の視点を持ち込んだ人を、寡聞にして知らないからです。

さて、団塊直後世代としての投稿者は、比較的団塊世代の仕業を身近に眺めながらも、一歩引いた立場で眺めて来たと思ってはいます。その中で感じた事を少し述べるならば、一言で言えば彼らは「夢中になって」突っ走ってきた集団であったとなりそうです。夢中になってと言うことは、周りを眺めたり、立ち止まって足元を確認し考えたりするという行動を殆どしてこなかった、という事を意味します。それは、例えばキチガイじみた工業化の中で、一時は人の命に関わるレベルまで悪化させた環境(公害問題)もあるでしょうし、批評無しに希求したアメリカ的な「文化生活」を、車や電化製品などと言った商品で実現したつもりになっている点も同根でしょう。

もちろん、ここで簡単に結論を出せるような軽いタイトルでもありませんが、いずれにしても私たち(戦後世代)には、戦後の70年余りを総括し、その中から今後あるべき社会システムの修正版を編み出す必然性があると思うのです。この国のリーダーも、確かに戦後世代ではありますが、S井の指摘する様に、彼は間違いなく戦前にもあった「国体」という言葉に相似した「戦後レジューム」の網に捕らわれ続けている人物の一人と言えるでしょう。団塊世代は、その責任(総括と反省を元に、今後社会のあるべき方向を指し示す)を果たさずして、早々と余生を謳歌する生活に入るのは許されないと思うのです。

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2018年5月31日 (木)

3451 モノ造り

モノ造り(ものづくり)と言う言葉は飲み込むのに抵抗があります。そもそも、神でもない人にモノが作れる訳がありませんし、モノを作ってもショウガナイとも思うからです。モノを作れないというのは自明でしょう。例えば、製鉄業に関わる人達は、我々は鉄を作っていると主張するのでしょうが、鉄はそもそも地球上に存在した物質なのです。もちろん、鉄は隕鉄などの例外を除けば、酸化鉄として赤茶けた地層(地層ですから元々は海の底だった場所)に堆積していた物質であり、製鉄所はその酸化鉄をコークスを使って「還元」している工場に過ぎない訳です。還元をモノ造りと呼ぶのは、おこがましいでしょう。

いわゆる、モノ造り工場と言う言う存在は、原料を買ってきて、それに手を加えて(加工して)何らかの付加価値と利益を乗せて、客先に売り払うビジネスを指すと言えるでしょう。加工は、決してモノ「造り」でもましてやモノ「創り」でもなく、単に原料の形や見かけ上の性質を変える作業に過ぎないでしょう。この国の、「モノ造り産業」に展望が開けないのは、まさに加工と言う名のモノ造りに徹し過ぎているからだと感じています。材料を買ってきて、加工をすれば勝手にモノの付加価値が上がる筈だという思い込みが強過ぎるのです。なので、もし儲からない事態になれば、同じ加工をより安いコストで作るべきだと思い込み、ひたすらコスト削減にまい進する事になります。

この間違いは、結局モノの「機能」あるいは「働きの持つ価値」を考えていない事から始まるのです。例えば、ひたすらボルトを作る加工に専念している工場があるとします。今頃は、丸棒を削ってボルトを作るなどと言う工場は存在せず、転造と言う技術で作っている筈です。しかし、ボルトの持つ「機能」を考えてみると、それは「モノを締結する」事にあると定義できます。ボルトなので、当然の事ながら緩める事によって分解も出来るでしょう。しかし、分解の出来る締結はボルトと言う(古いアイデアの)部品にしか出来ないか、という問への答えはYesではない筈です。スナップピンやスナップリング、また分解を前提にしないのであれば接着剤や溶接やFSWだって考えられるでしょう。「ボルト」をモノを締結するという機能、「車」をドアからドアへ雨に濡れないで移動する機能を持つ手段、冷蔵庫を食品の腐敗を防ぎながら短期間保存する方法などと定義し直すと、全く新しいアイデアによる製品も生み出せると思うのです。モノ造り大国は、既に煮詰まってしまった幻想に過ぎないのです。今後は、機能創り(コト創り)大国へ脱皮・移行しない限り、決してこの国の展望は開けないと思うのです。

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2018年5月30日 (水)

3450 利便と代償

昨夜クロ現で取り上げていた、究極の「Aマゾン社会」を想像して、暗澹たる気持ちになりました。ここでは、AIスピーカを通じて注文すると翌日には商品が届き、子供が宿題の答えをAIスピーカから聞き出し、家から出ずに何でも手に入れる事ができる社会を「Aマゾン社会」と呼んでおきます。確かに、便利な社会です。足が不自由なお年寄りでも、買い物に不便はないでしょうし、交通が不便な山間地でも、近いうちにドローンか自動運転車で配送してくれる仕組みが完成するでしょう。

しかし、その様な超便利な社会が人々の幸福につながるか否かは全く別問題です。何より、人と人との交流がありません。注文はAIスピーカを通じてコンピュータが受付け、無人の自動搬送車が縦横に動く倉庫で箱詰めされ、直ちに宅配便業者に引き渡されます。トラックは、夜通し走り、翌日には注文主に届けられる事になりますが、人は殆ど介在していないのです。配送まで無人化された暁には、注文主はモノだけを機械から受け取る事になるのです。90年代に登場し、その後この国でも爆発的に増えたショッピングモールですが、B国では、Aマゾン等のネット通販に押され、次々に閉鎖に追い込まれているのだとか。小売り商店にシャッターを降ろさせたモールが、今度は通販によって閉鎖を余儀なくされるのは、皮肉な話ではあります。モールは、デパートとスーパーと小売り商店を集約した、人々の交流の場でもあった事を考えれば、ネット通販はその交流を全く断ち切ってしまうのです。

人間とは、読んで字の如く、そもそも人と人との間の関係(交流)無しには生きていけない存在だと思うのですが、通販社会によって人間関係がドンドン希薄になっていく結果、一体その様な社会にどんな病理が蔓延るか、恐ろしくて想像もしたくない程です。少なくとも、人と人との関係を、AIや自動機械に任せてしまう結果、人間関係を上手く築けない人達、今流行の言葉で言えば「コミュ障」人間が、飛躍的に増える事は間違いないところです。人の表情を読み、心情を汲み取るなど全く出来ない人間は、たぶん感情的には極度に不安定な筈なのです。コミュ障国家でもある北の隣国の行動を引き合いに出すまでもなく、人間同士の関係にも、既にその兆候はボチボチ表れてはいますが、今後「信じられない様な事件」が更に頻発する事を憂えます。(便利過ぎる)利便に対する代償としてはあまりにも大き過ぎる事に私たちは早く気付くべき時代に差し掛かっていると思うのです。

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2018年5月29日 (火)

3449 持続可能型企業

久しぶりに、投稿者と同じ方向を向いている企業と巡り合いました。同じ方向と言うのは、単に環境経営を指向してと言うだけではなく、持続可能な地域資源を使って、中小規模の持続可能な形でのビジネスを展開しているという意味でです。いわば、「持続可能型企業」とでも呼べるでしょうか。投稿者の住む、A田県にも大規模なバイオマスは発電所や生ごみをメタン発酵させるバイオガス発電所がありますが、いずれもが設備に多額の助成金を仰いでいる事や前者については燃料を輸入バガスに頼っている点など、ビジネスとして成り立っていない上に、燃料調達も持続可能とはなっていないのです。

一方で、製材屑やモミガラや稲わら、売りものにならない廃棄農作物や家畜のし尿・畜糞など、身の周りには、小規模であれば十分持続可能な形で、熱やエネルギーを手に入れる事ができる「資源」も見つかるのです。そこに着目して、小さくとも地域にお金が回る仕組みを作って行けば、それをコピーする地域も広がって、やがてそれが産業に育つと思うのです。何チャラ特区とか、6次産業化だとか、地域創生だとか、お役人が作った抽象的な念仏では、地域の活性化は半歩も進まないでしょう。もし本当に地域を活性化したいのなら、小金もありまだまだ元気な団塊世代が力を持っている今の内にバリバリ手を打たなければならないのです。と団塊直後世代の投稿者は思うのです。

持続可能型企業になろうとするなら、先ずは遠くではなく足元をじっくり観察する必要があるでしょう。着目点は、モノの収支と、お金の収支、加えて地域の困り事(ニーズ)でしょう。モノや、お金の収支が崩れている地域は、間違いなく持続可能ではないでしょう。地域の困り事を、持続的に解決できる企業は、100年後も存続できるポテンシャルを持っていると断言できます。最初に述べた、企業はそのポテンシャルを持ってはいますが、もし経営者が売り上げや利益重視に走った瞬間、持続可能性はガラガラと崩れるでしょう。企業の存続に適正な利益は重要な源泉ではありますが、売り上げや利益は、顧客とのWin/Winの関係を達成した上で、後からついてくるものと、順番を入れ替えて掛かる必要があるのです。繰り返しますが、利益は後からついてくるもの(ご褒美)に過ぎないのです。これは、目先の利に走る商売と「持続する生業」の違いであると言えるでしょうか。

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2018年5月28日 (月)

3448 休題(通奏低音)

バロック音楽の用語に「通奏低音」と言うものがあります。これは曲を通じて流される低音の旋律の事で、演奏者はこの低音に和音を乗せながら全体としての楽曲を完成させる訳です。それにつけても、MリだKケだと一向に収束しない政局にせよ、N大のひどいレイトタックル事件にせよ、この国の文化の底流に流れる、「通奏低音」に注目せずには到底理解不能だと思われます。

事の善悪を断ずるのであれば、実は[便宜を払った、払わない]或いは「指示した、しなかった」で決着する筈なのですが、この国では、一方が「匂わして(暗黙に示唆して=暗示して)」、他方が「それを解釈して(忖度して)」事が進む文化なのです。つまりは、ゼロか一かでは決着せず、一方がどの程度匂わしたか、他方がそれをどの様に受け取って忖度したかと言う程度問題が常に付きまとう社会なのです。この国のリーダーが、友人のために便宜を図る様に匂わしたのは間違いないでしょう。友人なので、その見返りとして現ナマは受け取ってはいないでしょう。もし、受け取っていればロッキード事件の再現になってしまうでしょう。しかし、示唆と受取り方の程度問題にしておく限りにおいては、何年議論しても解決しない堂々巡りに陥ってしまう事でしょう。実際にも、この問題は国民がアキアキするくらい長引いているではありませんか。

N大の事件にしても、確かに監督者は具体的な指示はしなかったのでしょうが、逆らえない程強力な示唆(暗示)があった事は間違いないでしょう。純真な選手がそれをどう受け取ったかが問題の本質であるにも関わらず、監督者は「言っていない」の一言で、罪を逃れようとしている様に見えます。

実はこの様な構図は、政治でも、学校や大学や研究機関でも、企業でも、警察などありとあらゆる組織で繰り広げられて来たことは、少し古い人間であれば、いくつでも実例を想起出来る筈なのです。この通奏低音を掘り起こす事無しに、問題の本質に迫る事は到底無理な相談だと断言できます。これまで、この国で一体いくつの問題が「ウヤムヤ決着」で幕が降ろされた事でしょう。原発問題然り、いくつもの学校におけるイジメ事件然り、と言うより、この国で起きた全ての事件が例外ではあり得ないとも言えるでしょう。暗示や示唆する側は、いわば確信犯で、忖度した側は被害者であるとも言えるでしょう。確信犯が、ウヤムヤに逃げおおせるこの社会は、どうにかして変えなければならないでしょう。長年積み重ねられた澱(おり)の様な文化を変えるのは、確かに並大抵の努力では無理だとは思いますが・・・。

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2018年5月27日 (日)

3447 宇宙開発の終焉

宇宙ステーションに暮らす幸運に加え、名誉まで手にしたアストロノーツや、月にマイクロ・ローバーを送ろうと必死になっている人達には申し訳ありませんが、3446に引き続き、今回も(いわゆる宇宙開発に対する)ネガティブな投稿です。将来性のある産業分野として、航空・宇宙産業などともてはやされ、何かと脚光を浴びる宇宙開発ですが、何度か書いた様に、宇宙に対しての夢は夢として現実を直視する事も大切でしょう。現実は何かと問われれば、私たち人類は地球以外では頑丈なシェルターや地上と同じ組成の大気や体に必要な適度な日射や植物食を含めた普通の食糧無しやには暮らせないという事実です。数か月か1年位の短期間なら、無重力であろうが、シェルターの中であろうが何とか暮らせるでしょうが、それ以上の長き及ぶ宇宙生活には人類はとても耐えられない筈なのです。

重力が小さな環境では、ヒトの骨は吸収されてスカスカになり、適切に日照を浴びない結果必要な体のバランス(ホメオスタシス)も崩れてしまうでしょう。宇宙空間や他の惑星でも人工栄養で、命を繋ぐ事は可能なのでしょうが、長期間に亘って新鮮な野菜や果物や醗酵食品の摂食無しに、それらを必要とする腸内細菌が結構な状態を維持できるとはとても思えません。

一体何のための「宇宙開発」なのでしょうか。地球の環境悪化や資源の枯渇や人口爆発に問題があるにしても、私たちは宇宙に逃げないで、この地球上で問題に立ち向かうしかないのです。百歩譲って、月や火星の探査の結果、そこに水や資源見つかって、その水と太陽光を使ってロケットの燃料が出来たと仮定しましょう。ではそれを使って、私たち人類は宇宙空間で一体何を成し遂げようとするのでしょう。

確かに、宇宙に何があるかさっぱり分からなかった時代は、それを探索するエクスプローラは必要だったでしょう。しかし、既に私たちは宇宙空間には絶対零度に近い暗闇と真空しかない事を確認済みですし、月や火星には赤茶けた土や岩石くらいしかない事を知ってしまったのです。無責任に子供に宇宙飛行士になる夢を見させるのは止めにしましょう。私たちには、足元を見つめ、そこにある私たち自身が作ってしまった数多くの問題を解決する責務がある筈です。上を見上げながらの宇宙開発などと言う言葉は封印し、足元の問題に一つずつ取り組むしかないのです。

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2018年5月24日 (木)

3446 空飛ぶ車は飛ばせない?

車の進化形のみならず、ドローンの進化形も含め、空飛ぶ自動車のニュースを見ない日はない程です。このブログは「対案」することを主体に書いているつもりですので、あまりネガティブな表題や中身はあまり好きではないのですが、「無駄なコト」に人材や資源を注ぎ込む無駄を看過する訳にもいかないと思い、この表題にしました。

さて、空飛ぶ車ですが、これは今ある小型飛行機(軽飛行機)とは事なるカテゴリーの乗り物だと定義するしかありません。飛行機は、基本的には翼の揚力を利用して飛行するものですが、一方で空飛ぶ車は、揚力を例えば浮上用のファンで生み出し、同じファンか又は推進用のファンで前進をさせるものであり、専門訓練を受けたパイロットではなくても操縦が可能な乗り物でもあります。極端に言えば、今ある小型のドローンを大型化し、キャビンをつけて人が乗れる様にしたものである、とも言うことも出来るでしょう。もちろん、軽量化した車に可動式の翼をつけて、道路から離陸できる様にした「翼付き茶車」やジャイロコプター型のコンセプトは古い時代からあり、実際いくつかの試作機も作られてはいますが、それらはとても実用機とは呼べないシロモノだったのです。

さて、仮に実用レベルのドローン進化形の空飛ぶ車が完成したとしましょう。では自由にそれを飛ばす事を許可するかと問われれば、誰にも二の足を踏むでしょう。何故なら、誰もその安全性を担保出来ないからなのです。車には、車検制度と言うものがあり、基本的に整備不良車は運行出来ない事になっています。車であれば、もし整備不良があったとしても、最悪はエンジンが止まったり、タイヤが外れて道路から飛び出す「程度」の事故で済むでしょう。しかし、空飛ぶ車では、整備不良は即運転者の死亡を含む重大事故につながるでしょう。なにしろ、地上数十メートル(現在の法律では高度150m以上の飛行は航空機の運航に当たる)から落下するのですから、高いビルから車ごと落下するのと何ら変わらない衝撃なのですから。全身を包むエアバッグが装備されていたにしても、墜落で巻き添えを食うであろう、地上を走行する車や通行人はたまったものではないでしょう。

データを示しましょう。およそ350機が生産され運用されている、V-22(愛称は、和名でミサゴと言う鳥)と言う、ヘリの様な飛行機の様な軍用の輸送機がありますが、ほぼ完ぺきに整備されている筈のこの機体でさえ、なんと年間10件前後の重大事故を起こしているのです。増してや、民間機でしかも個人所有となると、誰がどうやって安全性を担保するのか、と言う根本的な問には何人も答えを出せないでしょう。従って、たとえ空飛ぶ車が完成したとしても、法律上は飛ばす事ができないシロモノなのです。その開発は、人材とお金の無駄使いなのですから直ちに打ち切るべきでしょう。

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2018年5月23日 (水)

3445 この国の資源6

この項の最後として、地熱についても考えてみます。地熱エネルギーは、完全には冷え固まっていない地球内部の熱を利用しようとするものです。もちろん、見かけ上硬い岩盤で出来ている地殻にしても、薄い部分もありますし、何よりそれらは相対的に動き、摩擦し合って盛んに地殻変動=地震や火山活動も引き起こしている訳です。特にこの国は地殻で言えばユーラシアプレートの東の端にあり、そこに北米プレートや太平洋プレートに更にフィリピン海プレートが複雑に入り混じってぶつかっている、地球上も稀な地域に当たっています。

そこでは、地震や火山活動が日常茶飯事で、日常的に噴煙や噴気を上げている火山や数十年或いは数百年を経て大爆発を起こす火山も多いのです。同時に、それらの火山は温泉と言う恵みも与えてくれてもいるのです。東北に行けば、いくつかの県には全ての市町村に1ヶ所以上の温泉場がありますが、里に湧く温泉の多くは泉源の温度が低いため、加温しているケースも多くなっています。もちろん、山際の温泉の多くは、火山の恵みでかなりの高温の泉源を持ってはいるでしょう。温泉熱は、温泉として入浴する以外では、今は単純に温室や建物に導いて、暖房熱として利用するケースが圧倒的でしょう。

しかし、泉源が60℃以上ある場合は、エネルギー利用もかなり有望になってきます。つまり、60℃かそれ以上で「沸騰」する作動流体を用いて、温泉熱でタービンを駆動するのです。気化してタービンを回した作動流体は、空冷かあるいは水冷で液体に戻す必要がありますが、温泉場には渓流がつきものなので、地熱発電の適地ではそちらの心配をする必要はないでしょう。もちろん、湧出量が多い場所ではそれより低い温度の泉源でもパワー利用は可能です。より低い温度で沸騰する作動流体を使えば良いのです。アンモニアや炭化水素を主体とする作動流体では、例えば40℃程度の泉源と15℃の谷川の水の温度差を利用して、発電する事も十分可能です。温度差が小さい場合には、発電装置が出力の割に大型にならざるを得ない事は致し方ないでしょう。

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2018年5月22日 (火)

3444 この国の資源5

この国の資源として、水力(小水力)についても少し考えてみます。水力は、原理に立ち戻れば、山に降った雨が、海面に対しての「位置のエネルギー」を持ち、それが谷や川を流れ下る際のエネルギー(位置エネルギー+流れのエネルギー)を利用するものです。ここで注意を要するのは、エネルギーポテンシャルとしては、確かに位置のエネルギー(水頭)が重要なのですが、それを取り出す際には。どれだけの水頭の水が、どれだけの速度で、どれだけの量流れたかが問題にされる訳です。緩い傾斜だが水量が多く滔々と流れる川でさえ、その流れの持つエネルギーは、高いダムから導かれているが、しかし水量が限定的な発電所に匹敵するエネルギーを持っているのです。つまり、大河は水頭は小さいが、水量で稼げる可能性があるのです。

問題は、川は公共財なので、それを勝手にエネルギー利用だけに振り向ける訳にはいかないという側面です。と言うより、長い歴史の中で、河川水は農業(とりわけ水田)利用を主体として位置づけられ、水力の利用は農業利用に組み込まれていない細い渓流程度に限られていたのでした。とは言いながら、田舎に行くとかつて電力供給が十分ではなかった時代に、地元電力とでも呼ぶべき水力発電所の痕跡なども見つかるのです。山間の渓流をせき止めて、小規模なダムを作り、そこから比較的細い導水管や開水路を組み合わせて発電所まで水を引き、数百キロワット程度(つまりは数百軒程度の家庭向け)の発電を行っていたのです。ダムや水路は、補修を重ねれば耐久性はあるので、後は発電機をメンテしたり交換したりして、今でも現役の発電所が投稿者の住む町でもいくつか見ることができます。

もう少し、小規模な水力発電を考えていくと、規模はいきなり10kw以下に落ちてしまいます。その意味で、数十kwの規模の発電所の適地は、殆ど存在しない事を意味するのです。と言うのも、この規模の発電所を動かす事ができる水路の殆どは、既に農業水利に組み込まれているからです。農業排水が川に流れ込んでいる所や沢水が無為に川に落ちている小規模な水資源も田舎ではそれなりに見つかりますが、それらは、例えば数kwの発電ポテンシャルしかないケースが殆どなのです。そう思って見回すと、小規模で効率の高い水車や発電機は殆ど開発されていない事に気が付くのです。理由は明快で、そのサイズの需要が極端に少ないからでしょう。

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2018年5月21日 (月)

3443 この国の資源4

ある研究会のメンバーと共に、県内の内陸にある農業コンサルが作っているモデル温室を見学しました。雪国秋田でもこの地域(内陸)は特に多雪地域で、通年で農業を行うためにはハウス暖房が不可欠です。通常の温室では、灯油か重油ボイラで行うのでしょうが、ここではもみ殻ボイラを使っていたのです。厳冬期には、もみ殻ボイラだけではハウス内温度と地温が保てない様で、小型の灯油ボイラも併用していましたが、熱量の6割以上はもみ殻の燃焼熱で賄っているとの事でした。

このもみ殻ボイラには副産物もあります。それは「燻炭」です。完全燃焼では、もみ殻は白い灰になりますが、空気量を絞って燃焼させるともみ殻の形が残っている黒っぽい「燻炭」になるのです。燻炭は、土壌改良材として理想的なので、結構な値段で農業資材として取引される様なのです。国の政策が代わって、これまでもっぱら田の暗渠排水用として使われていたもみ殻ですが、今は余り気味で、基本的にはもみ殻は農家が無料で運び入れてくれる様なのです。厄介もので無料の燃料から、燻炭と言う付加価値を生み、同時に発生する熱で灯油を節減した上に、温室を暖めて季節外れの作物を収穫する。いわば、もみ殻と言うバイオマスエネルギーを組み込んだ、「農業システム(ビジネスモデル)」に仕立てる事も十分可能だと感じました。バイオマス資源の活用を考えるに当たっては、単独で発電したり暖房目的でエネルギーを取り出したりするよりは、農業との組合せで多段階でエネルギーと付加価値を生み出すという「ビジネスモデル」にする事によって、十分な採算性も期待できるのです。一言で言えば、「再エネと農業は相性が良い」、という事になるのでしょうか。

林業や農業からは、多くの残さが排出されますが、問題は「水分率」にあると見ています。もみ殻は、そもそも乾燥させたモミを籾摺り過程から生れますので、そのまま屋内保管すれば十分に乾燥させた燃料が手に入りますが、一方で林業残渣や売り物にならない農業残渣などは、屋外保管でたっぷりと水を含んでしまっているので、その活用は厄介です。ここでの提案したいのは、農業ハウス(ビニールハウス)や使われていない建物を活用して屋内保管とし、更に太陽熱で乾燥させて燃料としての価値を高める方法です。バイオマスと太陽熱の組み合わせは、これまた相性が抜群なのです。

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2018年5月18日 (金)

3442 この国の資源3

太陽光は、どの国にも普遍的に降り注ぐ、まさに天からの恵みだと言えるでしょう。南極や北極の極地方でさえ、一年の中では陽の差さない季節があるにしても、反対の季節では一日中太陽光が降り注ぎ続けるのです。間違いなく、太陽光を最大限に利用しているのは、植物(プランクトンを含む)でしょう。植物は、太陽光を利用するために葉緑素を生み出し、光合成能力を磨くように進化してきた訳です。殆どの動物は、その植物が作る物質に依存して命を繋いでもいるのです。3440で取り上げたバイオマスにしても、結局は太陽光無しには手に入らない筈のもので、ほぼ全ての再生可能型エネルギーの大元は太陽光である事は論を待たないでしょう。

太陽光には、紫外光から遠赤外光まで含まれますから、その利用に当たっても、光のスペクトルを分けて考える必要があるでしょう。例えば、太陽光発電は、エネルギー準位の高い紫外光に近い波長を利用している一方、太陽熱の利用は専ら赤外光に近い部分を利用する事になるでしょう。そう考えてみると、もし光のスペクトルを上手く分解する事ができるのであれば、同じ面積の受光面で、太陽の持つエネルギーを多重的に引きだす事も可能となるのです。つまりは、太陽光のハイブリッド利用です。もし、多少効率が低くても透明度のある太陽光発電パネル(PV)が出来るのであれば、透過した赤外光を熱として利用すれば、約1kw/㎡と言われる太陽エネルギーのポテンシャルを、例えば30%利用できるかも知れません。現在の実用的なPVのコプ率は、20%前後ですから、ハイブリッドにすることにより割増エネルギーが手に入る事になります。

その意味で、光の屈折や反射、集光など、太陽光を最大限利用する技術は、まだまだ改善する余地が残っている分野だと言えそうです。例えば、反射材にしても、安価でしかも反射率の高い材料の開発は、まだ道半ばだと見ています。メッキ技術や金属研磨技術或いは防汚技術を磨けば、太陽光を多重に利用する技術にも弾みがつくでしょう。同様に、太陽光を選択的に透過させる膜技術も太陽光の利用には重要です。光は透過させるが、赤外光はシャットアウトする膜は、窓からの入熱を防ぎ、建物の夏場の冷房負荷を大きく低減させる事でしょう。逆に、冬場は窓から赤外光を積極的に取り入れたい訳で、夏冬で窓の機能を切り替えることができれば、冷暖房両方の負荷が低減できるでしょう。その意味で、私たちの知恵は、まだまだ未熟なのです。

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2018年5月13日 (日)

3441 この国の資源2

次いでこの国の資源として、風力を考えてみましょう。亜熱帯から寒帯まで南北に広がるこの国では、風力の利用と言う面ではかなり不利と言えるでしょう。基本的に、極低温の極地方には空気の溜まり(気団)ができ易く、そこから吹き出す風が、地球の自転の影響を受けながら、いわゆる季節風として冬場を通じて良い風を送るのです。しかし、熱帯や亜熱帯では、強い日射を受けて熱帯性低気圧、それが成長した結果の「台風」となって、毎年この国に大きな被害を及ぼすのです。

つまり、夏場のそよ風でも発電し、台風からの爆風でも破壊されず、冬場の季節風を受けて目いっぱい発電できる様なそんな「都合の良い風車」は、今のところ存在しないのです。一般的な、3枚羽のプロペラ型風車は、強い風で高速回転させると、遠心力で羽根がすっ飛ばされるため、一定風速(カットアウト風速)以上では、プロペラのピッチ(ひねり)を中立にして風を逃がすのです。強風にも耐え、どの方向からの風でも回る風車としてダリウス型風車が提案されましたが、微風では殆ど役に立たないため、主役にはなり得なかったのです。

低速でも回り、強風時にもそれほど高速にはならない風車として「抗力型」もありますが、残念な事に効率が低すぎるため、経済性(費用対効果)と言う面で、これも主役になる事は叶いませんした。しかし、効率を度外視しても、徹底的にコストを下げれば、この種の風車にも見直される日が来るかも知れません。構造をシンプルにして羽根の向きを固定し、卓越風(季節風)が吹く時だけ効率的に発電する様に設計するのです。横軸型にして、軸受を両持ちタイプにすれば、頑丈になりますので、台風も問題なくやり過ごせるでしょう。

要は、何も風況の良い欧州製の風車の真似などしなくとも、この国の風況合せて、この国独自の風車を開発し、改良を続ければ良いのです。オイルショック後は、一時風力発電も脚光を浴びましたが、その後の逆オイルショックで、再エネに目もくれずに突き進んだ結果、風力利用では欧州に対して20年以上水を開けられましたが、微風でも発電し台風にも耐える風車には、途上国にも潜在的なニーズがある筈なのです。

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2018年5月11日 (金)

3440 この国の資源

エネルギーに限らず、資源の利用に当たっては、その持続可能性と、地産地消にどれだけ近づけるかが問われます。そこで、投稿者の身の周りを眺めて、果たしてどの様な(エネルギー)資源が手に入るかを考えてみました。この項では、先ずバイオマスについて考えてみる事にしましょう。バイオマスとは、生物が(主に太陽光を利用して)固定した物質の総称ですが、狭義には植物が固定したものを指す言葉だと言えます。

その中でも、樹木が固定した、「木質バイオマス」が、量的には大きな部分を占めるのは間違いないでしょう。森林は、それが若木で構成されている場合1ha 当り5-7トン/年炭素を固定しますが、20年以上の成木では、その量が2-4トンレベルに低下します。一方で、森林の0.6%を占めると言われる竹林は、どの樹齢でも5トン程度の炭素固定力=バイオマス量を維持すると言われています。竹林は、投稿者の身近な里山でも、タケノコの採取を目的に移植されたものが、放置されて蔓延っている様です。その他にも、目につくものとして河川木や河原のアシやヨシも非常に良く繁茂しているバイオマスだと言えるでしょう。竹や、アシやヨシも、十分な熱量を持つバイオマスエネルギーではありますが、やや難点として挙げなければならないのは、灰の量(灰分の多さ)でしょうか。

投稿者が住んでいる町にも、廃れてしまったとはいえ、それなりの木材産業が存在します。山から降ろされた用材は、製材・乾燥した上で、住宅などに用いられますが、製材屑は現在のところ、然るべき施設まで運ばれて焼却処理されている様です。バイオマス利用の実例ですが、投稿者が6年ほど前にこの町にUターンした際に、見学させて貰ったフローリング工場の年間1000トン以上発生する廃材をいかにも勿体なく感じたため、これをペレット燃料に加工して付加価値を付ける事を提案し、その後県の助成金が付いた事もあって、ペレットプラントが立ち上がったのでした。バイオマス2トンで、およそ石油1klの熱量に相当しますので、1000トンのバイオマスを燃料に転換した結果、石油換算で500klのエネルギー資源が生まれたことになります。

河原に蔓延るカヤ・ヨシの類にしても、簡単な軽量の結果200㎡もあれば、毎年そこから住宅1軒分の冬季暖房に十分な量のバイオマスが手に入る計算になりました。そういう意味で見回せば、製材屑、もみ殻、厄介者の竹林など、田舎では身のまわりのバイオマス資源の何と豊富な事でしょう。エネルギーに関する限り田舎の将来は非常に明るいのです。

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2018年5月 9日 (水)

3439 休題(国、国民について)

このブログは「環境ブログ」ですので、政治やイデオロギーには触れないのが暗黙のルールですが、たまには国や国民について考えてみるのも、環境を別の角度で眺めるという意味では良いかも知れません。さて、国とは、言わずもがなですが国境で仕切られた地域を指します。その中に暮らす人々を、便宜上国民と呼ぶのです。しかしながら、多くの国の中には、いくつかの(又は数多くの)民族が分かれて(又は入り混じって)、仲よく(又は諍いを起こしながら)暮らしているケースも多いのです。中には、民族の独立をかけて、内戦状態にある国々も多いようです。

そこで、ここでは「国境」について少し考えてみる事にします。国境は、誰かが歴史の流れの中で恣意的に引いたものもあれば、海や大河や高い山脈などで隔てられた、天然の国境(環境国境?)もあるでしょう。投稿者としては、多くの国境問題の本質は、国境が「線」である事にある、と思っています。もし、国境に幅があって、その中は隣接する国が同等の権利を有する「共用地」であったなら、と想像することがあります。しかも、利用の目的を農業などに限る必要があるでしょう。例えば、そこから鉱物資源や石油が湧き出ても、諦めるルールを定めないといけません。そうでないと、権益争いの火種になるからです。たとえ農業であっても、「水争い」が考えられますから、そこにも天水利用を前提にしたルールが必要でしょう。

とは言いながら、共用地を設定した場合にはG.ハーディンも指摘したように、「共用地(コモンズ)の悲劇」も想定されるでしょう。ですので、その設定には万国が賛同できる「厳密なルール」の設定が必須なのです。その意味で、共有地を牧場にする事は出来ないでしょう。放牧した牛が、他の人が放牧した牛の群れと、餌場の草地を取り合うからです。もちろん、放牧した牛の持ち主を特定しないのであれば、問題は少ないのかも知れませんが、争いが消えるとも思えません。農業利用であっても、両国に機械力の差があっては諍いの火種に繋がりますから、例えば人力による農業だけに限定する必要があるかも知れません。

この様な、頭の中だけの勝手な想像(思考実験)も結構楽しいものではあります。

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2018年5月 8日 (火)

3438 再エネ考6

再エネでもっともっと活用しなければ、と感じているものが「太陽光(熱)」です。極端に言ってしまえば、全ての再エネの起源は「太陽光」に還元できるからです。正確に言えば、潮汐エネルギーは引力の変化を利用していて、地熱は地球内部のマグマの余熱利用なのですが、バイオマスにしても、水力(雨や雪)にしても、或いは太陽光発電にしても、結局は太陽光の直接的・間接的な利用になるのです。太陽光のスぺクトルのスぺクトラム(分布)を眺めると、大気によって吸収されて歯抜けにはなっているものの、紫外光から赤外光まで、幅広く分布している事が分かります。

紫外光に近い帯域は、エネルギーが高い光なので、太陽光発電(PV)や或いは光化学反応(光合成もその代表です)に利用するのが得策です。一方で、赤外光に近い帯域は、エネルギーとしてのポテンシャルは低くはなりますが、帯域自体が広いので、植物や動物の体温を直接的に上げるエネルギー源として、不可欠な帯域の光でもあるのです。その意味で、私たち人間ももっと太陽熱利用をすべきであると提言しておきたいのです。人間は、他の哺乳動物同様、恒温動物ですから、衣服や住居によって、暑さや寒さから身を守る必要があるでしょう。現代は、文明を享受している国々では、いわゆる暖房器具やエアコンなどの機器を利用して、室温を快適な範囲内に保とうとするのです。

しかし、考えてみれば、冬でも晴れてさえいれば太陽熱を利用して暖房することができますし、真夏でも太陽熱を上手く利用すれば、除湿や冷房も十分可能(例えばデシカント冷房)なのです。現在の衣服や住宅に最も欠けているのは、せっかく暖めた(冷やした)空気の温度を維持する保温、保冷性能だと思っています。保温・保冷性能高ければ、必要なエネルギーは間欠的に使うだけで済みますが、低ければ室温を保つためにはエネルギーを使い続けなければならないからです。まとめて言えば、私たちの体温を維持しやすくするためには、太陽熱をもっと利用し、同時に衣服や住宅の断熱(遮熱)性能を格段に上げなけなければならないという事になるでしょうか。この項一旦終わります。

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2018年5月 7日 (月)

3437 再エネ考5

多様なエネルギー資源がすぐそこにありながら、殆ど無視され続けている再エネが、バイオマスではないかと思っています。と言うのも、バイオマスと言ってもその種類が半端なく多様ですし、しかも個々のエネルギーポテンシャルの密度が小さ過ぎて、「ソロバン」に乗らないからではないかと思っています。多様という面では、一口にバイオマスと言っても、間伐材や流木や河川木や伐採竹、木工端材などの木質廃棄物、家畜し尿、刈り芝やカヤなどの処理雑草、下水処理汚泥、生ごみや廃棄食品などの食品残渣、もみ殻や廃棄される農業残渣などなど、少し考えるだけでも十指に余ります。

確かに資源は多様なのですが、問題は個々の資源がエネルギー賦存密度が低いために、収集運搬に費用やエネルギー(つまりは石油燃料です)が嵩む事が利用を阻んでいる最大の原因でしょう。投稿者が住むA田県にも、2Mwの大型バイオマス発電所や700kwの食品残渣発電所がありますが、原料を発電所に運び入れるためのコストはかなりの額に上るのではないかと想像しています。取り分け、前者は燃料の大きな割合を占めるヤシ殻(パーム油の搾りかす)を輸入に頼っていますので、運搬費用は、たぶん燃やして得られる発電料金の何割かに上ると想像しています。後者は、元々焼却処理するために収集運搬を行っていましたので、収集車の行先が、焼却場からバイオマス発電所に変っただけなので、大きな問題は無いでしょう。

しかし、問題なのはその発電プラントの規模や過剰な設備です。規模の拡大は、上に述べた様に収集運搬コストに、過剰な設備とは、何十年稼動させても、投資額が回収できない様な立派過ぎるプラント設計に問題があるのです。それを回避する方法は、たった一つでしょう。それは、原料の集まる規模に応じて、小さい規模で、シンプル=安価なプラントとする事でしょう。規模拡大には、最小サイズのユニット数を増やせば良いのです。補助金のタップリ入った大型のプラントを部分負荷で動かす無駄を考えれば、最小サイズのプラントを高い負荷=効率で動かす方が賢いのは自明です。再エネの場合、決して「大は小を兼ねない」のです。

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2018年5月 6日 (日)

3436 再エネ考4

再エネの利用を考える際に最も重要な事は、その安定性かも知れません。例えば、商用電源としての再エネを考えてみると、例えば風力発電や太陽光発電は、かなり使いにくいモノと言えるでしょう。無風の日や逆に台風の様な(カットアウト風速を超える)強風が吹いている日には風力発電は役に立ちませんし、太陽光発電も日照が無い日や日没後は殆ど電力が得られません。従って、これらを使う場合には、かなりの工夫が求められるでしょう。

工夫の一つはエネルギーの貯蔵でしょう。発電する場合には、蓄電設備に電力を蓄えるか、或いは風車で熱を発生させ、或いは太陽熱を蓄熱槽で蓄える方法、更には水素や他の化学物質に変換してエネルギーを蓄える方法などが有望でしょう。別の工夫は、刻々と変わるデマンドと、同じく刻々と変わる発電量を、コンピュータを介在させながら、地域を超えて細かくマッチングさせる方法で、ヨーロッパの風力発電システムでは、既に広く行われている方法でもあります。もちろん、この方法には例えば真夏の無風の日などは、冷房デマンドが非常に大きいのに、風力発電は殆ど出力出来ない等、本質的なシステムの限界もありますから、他の発電手段(火力発電など)との連係は不可欠です。

投稿者としては、第三の工夫を提案したいところです。それは、需要家自身がデマンドをコントロールする方法です。各戸や各ビルは、例えば1日分程度のデマンドを賄える蓄電設備を備え、商用電源からかなりの程度独立を果たすという選択肢です。例えば、事務所ビルであれば、非常灯や非常用電源やデータバックアップ設備等は常に商用電源と繋いで置きますが、その他の空調やOAや一般照明は、自前の蓄電設備と太陽光発電設備などとデマンドコントローラーで繋いで置くのです。もちろん、蓄電量が不足してきた場合には、商用電源から電力を買う事になります。その際にも、低く抑えた契約電力量を越さない様に上手くコントロールするのです。それによって、電力会社は発電所への投資が抑制できますから、電力料金を低く抑えることが出来るでしょうし、需要家は買電料金を極めて低いレベルに抑えることも出来るでしょう。この様なシステムを、投稿者の言葉で「セミ・オフグリッド」と呼んでいます。商用電源からの部分的な独立、と言う程の意味です。

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2018年5月 5日 (土)

3435 再エネ考3

再エネを考える上でキーになるのは、実は熱としてのエネルギー利用だと思っています。熱は、暖房、給湯だけではなく、工場のプロセス加熱や調理、更には熱を利用した(吸収式)冷房・冷凍に至るまで、およそ人間の生活を快適にするために、如何に熱が多用(一般家庭では凡そ6割が熱利用)されているか改めて考えてみて欲しいのです。しかも、その熱源として世界中に(特に低緯度地域に)遍く賦存してるのは、実は太陽熱しかないと思うのです。もちろん、この国の様に火山からの贈り物である地熱が利用できる国もいくつかは数えられますが、太陽熱こそ尽きることのない「再エネ」の代表だと言えるでしょう。

太陽熱に利用は、非常にシンプルです。熱を集める集熱器(コレクター)と熱媒体に加えて、熱を蓄える蓄熱体があれば十分だからです。コレクターは、全反射集光器を利用した高度なものから、単に黒く塗られた箱までピンキリです。利用温度でも平板吸収タイプでも80℃前後、集光タイプだと数百℃程度の高温を得ることも可能です。熱媒体も、最もシンプルなものは空気それ自体で、次いで水や鉱物油などの液体、高度なものでは、気体⇔液体の相変化や化学的潜熱を利用するものまで、数多く考えられます。蓄熱体としては、熱媒体自身を利用したもの(蓄熱タンク)が最もシンプルですが、例えば石材を使うもの、あるいは比熱の大きな固体を用いるもの、更には、化学的潜熱を利用するものや、果ては温度が上がると比重が重くなる液体を利用したソーラーポンドまで、多様な形態が考えられるでしょう。

投稿者の家では、最も単純な、不凍液を熱媒体とする平板型コレクター(約4㎡)と200ℓの貯湯タンクを組み合わせるシステムを入れていますが、夏場は半日程度の日照があれば、給湯・入浴には十分な熱量が確保できます。この他にも、壁面に黒く塗ったアルミ板などを取り付け、壁面との間の空気を加熱して太陽熱を得る「ソーラーウォール」もありますが、こちらは蓄熱目的にはあまり向きませんが、日照があるのに寒い冬場の日中には、暖房用途には最適の仕組みだと言えます。取り分け、日中にしか利用しない事務所ビルの暖房目的には最適でしょう。手元のデータによれば、上手く設計すれば冬場でも80℃前後の温風が得られると言われています。実際、冬場にはかなり気温が下がるB国中西部の砂漠にある工場で、このソーラーウォールの設置で、工場のエネルギー消費が半分に減ったという実績データも出ているのです。太陽熱は、それを使おうが使うまいが、毎日世界中に遍く降り注いでいるのです。

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2018年5月 4日 (金)

3434 再エネ考2

再エネとして、先ずは、優等生の太陽光発電を見ていきましょう。太陽光発電は、実は初期には宇宙開発用として開発が進みました。それまでは、いわゆる核分裂物質を人工衛星に積み、出てくる熱で「熱電発電」をして衛星のパワーを賄っていたのですが、人工衛星はやがて用済みになって高度を失い地球に落下するので、核物質を使った発電は危険過ぎたのです。そこで、シリコンやガリウム・ヒ素と言った物質を駆使して、太陽光発電パネル(PV)が開発され、次々に人工衛星に搭載され始めたのでした。

それらの特許が公開されるや、日本のメーカーがそれに飛びつき、ベース技術からの効率アップと量産技術を磨くことによってコスト削減にしのぎを削ったのでした。昔のメーカー名で言えば、Sャ―プ、Sンヨウ、M下電工、Kセラ、M菱、T芝など等です。そう言えば、私が在籍したK重工でさえ、B国企業を買収したりして、それなりに手を出していた事を思い出しました。そんな事もあり、この国の量産技術は飛躍的に伸び、世界に冠たるPV王国になったのでした。その王国に陰りが見えたのは、欧州やC国で、それまでの日本のメーカーに比べると一桁大きな量産工場が建設された頃でした。間もなく、PVのシェアは、Dイツに越され、次いでC国にも追い越されたのでした。たぶん、この国のPVメーカーの失敗は、PVの量産に必要以上に慎重になり過ぎた事でしょうか。確かに、国としても遅まきながらFIT制度などを整備して、応援は始めましたが、例えばC国の急速なシェア拡大にはついて行けなかったのでした。

しかし、そうではあっても、PVが最重要の再エネであり続ける事に間違いはないでしょう。何故なら、再エネの大前提である「エネルギーの地産地消」の理想に最も叶うものだからです。それは、潜在的な需要家である家屋やビルとしては、この国の全ての屋根がPVで覆い尽くされるまでは途絶えることは無いからなのです。PVの効率向上競争は、ほぼ打ち止めになった感がありますが、太陽が照っている間にしか発電しないPVをバックアップする技術として、安価で大容量の蓄電技術の改良・コスト削減こそが今後不可欠でしょう。

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2018年5月 3日 (木)

3433 再エネ考

サラリーマンを辞して、環境人間に脱皮して一番興味を惹かれたのは「再エネ」でした。もちろん、私たちの生活が原始時代の様に、先ずは食糧の確保が第一優先であったなら、興味も違っていたのでしょうが、自分の中では、取り敢えず食糧問題の緊急度は低いと思っているのかも知れません。エネルギー問題は、昭和の石炭から石油時代に移った時には、問題の中心は価格でした。兎に角、一番手に入り易く、価格も安いのが石油だった訳です。石油は、精製や備蓄さらには流通まで、液体であるが故の扱い易いという最大のメリットがあります。ガスであれば、それを圧縮して嵩を小さくした上で、加圧又は冷却しながら運ばなければなりませんし、使う時にはベーパライザーで再度気体に戻す必要もあるからあります。

もちろん、二度のオイルショックを通じて、この国でも再エネ開発への機運が高まった事もありました。それは、70年代の事なのですが、その時代に(1980年に)NEDOと言う組織もそのために作られたのでした。太陽光、太陽熱、風力、水素、小水力、バイオマスなどなど、種々の新エネん(再エネ)のアイデアが出され、多額の費用を掛けて実証試験も行われました。しかしながら、風力利用の例を見ても分かる様に、それらの多くは「お蔵入り」になり、この国の固有技術のなる事はなかったのです。太陽光発電は、例外的だと言うしかありません。それは、太陽光発電は工業的に量産が可能であるという点で、この国の産業構造にマッチしたためと想像できます。

殆どの再エネの工業化が失敗になった理由がいくつか考えられますが、たぶん大きくは国のリーダーシップと、企業の熱意の両方が弱かったためと振り返っています。新エネ(再エネ)を形とするために、国は補助金制度を作り、重工など大手企業がその補助金を狙って(使って)「高価なテストプラント」を作るまでは、勢いがありました。しかし、2番手3番手のプラントの助成金は絞られ、或いは廃止されると、アウトプットに比して高価すぎるプラントの採算性などとても確保できなかったのです。

一方で、その間海外では、例えば欧州では、風力発電やバイオマスの利用に息長く取り組んできたのでした。気が付けば、風力発電やバイオマス利用技術のシェアは、欧州勢に抑えられていたのです。どう考えても、この国の政策や企業家のマインドには、単年度の予算や利益に興味が集中し過ぎて、中長期のビジョンが殆ど無視されているという本質的な欠陥があると思うのです。再エネの各論については更に続きます。

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2018年5月 1日 (火)

3432 製品ジャンル6

もう少しこのテーマを続けます。そもそも「製品」と呼ぶからには、誰かが誰かにそれを売って代価を得るために、自然物に手を加えて(加工して)、素材(原料)に何がしかの「付加価値」を追加したものだと定義できそうです。それ以前は、ヒトは自分自身のため、或いは家族のために自給自足をして暮らしていた事でしょう。しかし、ある時期以降、人は自分たちが消費する以上の余剰を作り出し、それで物々交換するか、後には通貨なども媒介して交換する様になったのでした。

産業革命期以降の、規模を拡大した工業化が前提とされた社会システムの中では、工場を持つ企業家は、何より売れる製品を作って、企業に利潤を上げることに腐心した事でしょう。それが社会の仕組みであり、企業(株式会社)の株主に対する義務となってしまったからです。それが、更に戦後の高度成長期を通じて、消費者が求めるものを作るのではなく、企業が売り捌きたいものを提案して、市場に「押し込む」ことが普通になったのでした。これまでに述べた製品ジャンルは、まさにこの流れの中で出来上がってきた産物だと言っても良いでしょう。

食べ物にしても、家電にしても、車などの耐久消費財にしても、今私たちが目にしている市場は、結果的には企業の提案に、消費者が乗っかった果ての姿だと言うしかないでしょう。それで何が悪いかですが、やはり納得がいかないのは、消費者側に常に「買わされている感」が拭えないからの様な気がします。ある個人が本当に欲しいモノは、たぶん完全なオーダーメイドでないと実現できないでしょう。しかし、全てに効率やコストを優先する現代社会のシステムでは、そんな面倒くさくて、まだるっこしい事は現実的ではないと切り捨てられるのです。

ここでの提案は、先ずはある製品で徹底的にオーダーメイドに応えるモノ造りをやってみてはどうかと言うことです。ある製品が、使い勝手が良く、長く手元に置きたくなるモノであれば、それを見た別の人が、同じもの或いはそれを少しカスタマイズしたモノが欲しいと思う事でしょう。その様にして、やがて新たなロングテールの「定番製品」が生まれると思うのです。もちろんロングテールの製品などというものは、1年や2年で生まれる筈もないのです。生活の中で使われ、使い込まれる過程でそれが定番になっていくだけなのです。製品を開発する人達は、消費者が買いたくなるものを作るのではなく、使用者が「一度手にしたら手放せなくなる製品」を目指すべきだと思うのです。この項一旦終わります。

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2018年4月27日 (金)

3431 製品ジャンル5

次いでエネルギージャンルについて考えてみましょう。エネルギーのジャンルとしては、大きくは再生可能型エネルギーと非再生エネルギー(いわゆる化石型エネルギー)に分けられます。前者、即ち使っても、自然が主に太陽光を使って再生してくれるものと、後者、即ち使えば目減りしてやがてエネルギーとしての資源が枯渇するものに分けられるのです。悪いことに、後者を使えば、例えば二酸化炭素や放射性廃棄物が排出され、それが地球環境、ひいては私たちの生活の質の悪化(例えば温暖化やPM2.5など)につながる事が、ほぼ証明され、世界中の人達もそれを認識する様になったのです。

具体的な、エネルギージャンルですが、前者としてはヒトの歴史の古い時代から使われてきたものがあります。木材などのバイオマスや水力や風力などです。もちろん、地域的に見れば温泉熱や自然に産するロウや植物油(動物油)なども利用していたでしょう。現代の再生可能型エネルギーは、基本的にはそれらを近代技術を使って効率化や大規模化を図ったものに過ぎません。

後者としては、不味い事にヒトは、歴史の中のある時期に燃える石(石炭)や燃える水(石油)を発見してしまい、更には物質の構造を変えることによる膨大なエネルギーの解放(核分裂や核融合)出来る事も理解してしまったのでした。化石型エネルギーの発見とその利用が始まったのです。これは、私たちの文明や生活を根底から変えてしまった発見でした。車で雨にも濡れずに馬より早く移動し、トラックで牛車より多くの荷物を運ぶ仕掛けが作られ、生活の中でも化石エネルギーから作られた電力を使って、快適で便利な生活を手に入れたのでした。

その意味で、再生可能型エネルギーについても、つい「発電」に注目が集まりますが、最終的に電力の形でなければならないのは、照明とOAと動力程度の筈なのです。実際のところは、エネルギーの多くは熱(或いは冷熱)の形で使われているのです。つまりは、冷暖房(空調)であり調理であり、工場でのプロセス加熱などを考えて貰えばすぐ理解できる話です。ある、家庭やビルの電力量を眺めれば、春秋に比べ夏冬が2倍以上になっている事は、請求書をチェックすれば一瞬で理解できるでしょう。それが、冷暖房にかかるエネルギーなのです。

ならば、熱は熱として再生可能型エネルギーで賄える範囲で賄えば、電力や化石型エネルギーは、取り分け地方では大幅に削減できる筈なのです。熱利用のエネルギー源を、化石型エネルギー(による発電)に依存したまま、徒に大型の太陽光や風力発電だけに頼るのは、やはり筋違いと言うものでしょう。まとまらないので更に続きます。

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2018年4月26日 (木)

3430 製品ジャンル4

移動手段についても考えてみましょう。投稿者は最近、「竟の車(人生最後の車)」を発注しました。もちろん最近の車は、オートマ車で何やら視覚センサーや安全ブレーキが装備されており、お金さえ出せば、高速道路で白線からはみ出さない機能などてんこ盛りですが、投稿者は敢えて一番プリミティブなMT車を選択しました。発進時にクラッチをミートさせるとか、速度に応じてギヤを選択するという運転操作は、実はかなりの運動能力を必要としますから、いわゆるボケ防止にもつながる筈なのです。

オマケに、車重はと言えばオートマ車に比べて50㎏(一人分)軽く出来ていますので、余分な目方を移動させる必要もありません。燃費は、加速時と自重と転がり抵抗の積によって支配されますので、もちろん自重が軽い方が有利でしょう。その意味で、車はもっと軽く作る事ができると思うのです。車メーカーには、もっと大胆に車の軽量化に取り組んで貰いたのです。最低限の動力や運転装置と、最小限の安全装置で、最軽量の車を実現して貰いたいと思っています。たぶんそれは、3輪のバイクに雨除けの車体を乗っけた様なスタイルになるだろうと想像しますが、過去には似たような例が見つかりますが、新しい車のジャンルと考えても良いでしょう。前二輪とするか、オート三輪の様に前一輪とするかは、操縦安定性と衝突時の安全性で判断すれば良いでしょう。

狙いは、軽量化による燃費の画期的な向上です。少なくとも、ガソリン1リッターで50㎞以上、出来れば100㎞も視野に入れて貰いたいものです。車の基本的な性能は、雨に濡れずにドアからドアへ移動したいという「基本的な欲求」に基づいている筈なのです。取り敢えずは安価な鉄でボディーを作り、実用的なレベルまで量産化が可能となったエンジンに、種々の快適装備を乗っけた結果が、小型車でも1トンを優に超えてしまうのが今の車なのです。それで数十㎏の体重の運転者や乗客を運ぶ訳ですから、如何に無駄が多いか分かるでしょう。単車だと二人乗りでも100㎏を超えても知れているでしょう。それに複合材で作られたキャビン付きの三輪にしたとしても、たぶん300㎏以下には抑え込めると思うのです。特に難しい技術に頼らなくとも、普通に作れば、燃費だって50/ℓ程には伸びる筈なのです。ここでは、三輪車と言う新しい製品ジャンルを提案してみました。

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2018年4月24日 (火)

3429 製品ジャンル3

メーカーの現状の情けなさについて言いっ放しでは無責任なので、来たるべき時代に投入すべき製品ジャンルに関して、想うところも考えてみます。製品(ハードウェア)ジャンルを考えるに、大きく分ければインフラ依存型と非依存型に分類できそうです。インフラ依存型とは、ガソリンスタンドや家庭用電源や携帯(スマホ)用の無線通信回線を使わなければ役に立たない製品群があります。そうではなくてそれを持っているだけで独立して使えて役に立つ製品、例えて言えば、太陽光や手動のダイナモで充電できるラジオや懐中電灯、或いは自転車や各種の工具や道具類、或いは携帯用音楽機器などが非依存型に該当するでしょう。

インフラ依存型は、インフラの充実と相俟って開発が進んできた筈で、逆に言えば災害などでインフラが寸断された場合には、無用の長物となる様なシロモノです。一方、非依存型は、使いこなすのに面倒で、多少の熟練やコツが必要ではあるものの、使い込むほどに所有者の愛着も湧いてくるというのが大きな特徴になりそうです。

さて、投稿者が推奨するのは、言わずもがなですが後者のインフラ非依存型製品で、何かしら人の基本的な欲求に強く訴えかける製品の提案なのです。所有する喜び、それを使いこなす喜びが感じられる製品が必ず提案出来る筈だと思うのです。その際に、必要な事は、いずれがより人々の基本的なニーズにより近いか、と言う吟味でしょう。テレビとラジオと新聞のいずれがよりプリミティブかを考えれば、それは自明でしょう。災害が起きた時、先ず復旧したのが、避難所の壁に貼られたお知らせ(壁新聞)であり、次いで比較的軽微な設備でスタート出来たラジオ(災害FM)であり、最後にテレビだった筈です。ならば、新聞に関わる人達は、メディアの変容による新聞の発行部数減少を嘆くだけの対応は改めなければならないでしょう。

今の新聞の形態が定着したのは、瓦版があったかなり古い時代に遡るのでしょうが、新聞の役割や面白さを見直せば、まだまだ面白いメディアであり続ける可能性だってある筈なのです。例えば、紙面の中に種々の情報をバーコードの形で埋め込んだ、タブロイド判かそれより小さいサイズの新聞はどうでしょう。人々は、バーコードにスマホをかざして、文字情報に加えて、写真や映像や音声データ等の追加情報を受け取る訳です。新聞は、情報社会のガイド役であり、入口役としての役割を担う事になるでしょう。つまりは、情報に関して言えば、PCやスマホの様にインフラにベッタリ依存するのではなく、紙媒体としての存在感を拡大させるという方向です。更に続きます。

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2018年4月23日 (月)

3428 製品ジャンル2

この国のメーカーからも、かつていくつかのヒット商品が生まれました。一時的なブームで終わらなかった定番商品として頭にすぐ浮かぶのは、SニーのWォークマンやHンダのS-パーカブなどですが(もちろん他にもたくさんありますが・・・)、それらに共通するのは、いずれも新分野を切り開いたという点と、同時にそれらが人々の基本的ニーズに寄り沿っているという点でしょうか。人々が、音楽を気軽に聞ける環境が整った時、彼らは「音楽を持ち歩きたい」と言う欲求を強く待ちました。しかし、その時代録音メディアとして最もコスパが良かったのは、磁気テープ(カセットテープ)であり、それを前提とした時にそのカセットとほぼ同じサイズのS社のテープレコーダが爆発的に売れたのは当然の結果だったでしょう。

一方、生活が豊かになるにつれ、人々の移動する機会は増えるものの様です。先ずは、買い物や物流、ついでレジャーや旅行などでの移動です。この国では、鉄道の歴史は古いのですが、パーソナルレベルでミニマムの移動手段は、自転車⇒バイク⇒車と言う順番でニーズ=市場も拡大していったのでした。そこに、起業初期のHンダが目を付け、原動機付き自転車(モーペッド)と言うジャンルを切り開いたのでした。もちろん、モーペットはHンダの発明品ではありませんが、それを大衆化したという点では功績は大きいでしょう。もちろん、ライバルのY社やS社やK社との切磋琢磨があった事は、この国のバイク産業にとっては幸運だったことは間違いありませんが、Hンダはカブの形態に拘り、未だにモデルを継続している事は超ロングテール製品と言う意味合いで驚嘆すべき事実でしょう。

今後、どの様な新製品が生まれるかは予測しようもありませんが、いずれにしても人々の基本的な、しかし根強いニーズに軸足を置かない事には、一発で終わりの「花火製品」に終わる事は明白です。そのためには、人々の日々の「困り事」に着目する必要があるのは言うまでもありません。「あれば便利」レベルの製品は、すぐ飽きられる事は自明です。一度手にしたら、二度と手放せないレベルを狙うしかないのです。その意味で、背景に携帯電話やタッチパネルと言った、要素技術が成熟しつつあったとはいえ、スマホの発明者であるS.Jブスの新分野開拓のセンスこそ、全ての開発者のバイブルとすべきものでしょう。

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2018年4月20日 (金)

3427 製品ジャンル

この国のメーカーが市場に投入する製品を眺めていて、気が付くことがいくつかありますが、その最たるものは、新しいジャンルの製品が少ない事でしょうか。投稿者が長く関わった航空機分野でも、M社のリージョナルジェットなどは、間違いなく「3匹目のドジョウ」を狙った製品でしかないと断ずるしかありません。既にCナダのB社や、BラジルのE社が手掛けていて、一定の市場を形成していた分野だからです。もし、この国が例えば70年代に、ターボプロップのYS-11に引き続いて、少し大型のリージョナルジェットを開発していたら、この国の航空機産業は、たぶんB国、欧州に次ぐ確固たる地位を獲得していた筈なのです。

Hンダのビジネスジェットは、デザインや性能で注目を集めて、それなりに売れてはいる様ですが、このジャンルにしたって、この国では過去にM社が性能の高いビジネスジェットを開発し、300機ほどは販売した実績もあったのですが、売り方やメンテナンス拠点の作り方に失敗し、結局ビジネス自体をB国のメーカーに売り渡してしまったのでした。YS-11にしても、ビジネスジェットにしても、時代がやや早過ぎたきらいはありますが、それにしてもこの国のメーカーは、「技術で勝ってビジネスで負ける」という轍を何度踏めば気が済むのでしょうか。

投入した時代が早過ぎたとしても、信念を持って取組み、「新たなジャンルを切り開くのだ」といった気概を持ち続ければ、本当にそれが新ジャンルになってしまう例も多いと想像しています。この国のメーカーも、他の国(欧州やB国の場合が多いのですが)で売れているものを手本にして、その性能や品質を高めてシェアを取りに行く、と言う作戦を放棄すべき時期に差し掛かっていると思うのです。航空機で言えば、リージョナルジェット(RJ)やビジネスジェット(BJ)ではなく、飛行場が不要な、水上機や飛行艇などを得意分野にして前に進めば、値段が高過ぎてRJBJが買えない途上国などでも、新ジャンルでのシェアが取れる可能性も高まる筈なのです。家電でも、車でも、世界がアッと言う様なジャンルの製品を開発してみよう、と言う気概のあるメーカーは、シュリンクしつつあるこの国の産業界からは最早出現しないのでしょうか。

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2018年4月19日 (木)

3426 航空機エンジン考

一日当たりで言えば、世界で10万便程が飛んでいると言われる旅客機ですが、旅客運賃低減競争に直接的にインパクトを与える燃費競争も激しく、日々改良や技術的チャレンジが進んでいる様です。いる様です、と書いたのは、投稿者は最早この業界の現役では、単なる傍観者だからです。燃費競争の中では、たぶんエンジンの改良に追うところが大であるのは間違いないでしょう。具体的には、同じジェットエンジンでありながら、かつてのエンジンと今のエンジンでは見かけからして別物の様に見えます。昔のエンジンは、エンジンの後ろから出る排気ガス(ジェット流)が推進力の大きな部分を占めていましたが、現在のエンジンはエンジンの前の部分にあるファンを回す事によって生ずる空気流(バイパス流)が殆どの推進力を受け持っているのです。従って、ジェットエンジンは小型機に採用され燃費も良いターボプロップエンジンに近い考え方に収束されてきた様なのです。さながら、ターボプロップエンジンでプロペラが何段にも重ねられ、それがエンジンダクトの中に納められたといった構成です。

またプロペラ(ファン)は、回転数を上げ過ぎるとスリップが多くなり効率が低下するので、出来るだけ大径にして、ねじり角を大きくし、低回転化を進める方が有利なので、高速化するガスタービン部との間に減速ギヤを入れる構成が主流になりつつあります。これをギアードファンエンジンと呼びます。さらに後段では、耐熱合金の性能向上に伴ってガスタービン部分の燃焼温度はますます上昇させ、高速回転化を進めていますので、これが熱効率の向上を更に後押してもいます。

しかしながら、これは製造技術や品質管理の上では、ますます困難の度を増し、リスクも大きくなってきたとも言えるでしょう。機体やエンジンに最も負荷かが掛かるのは離陸時と着陸時或いは、乱気流に巻き込まれた際ですが、設計条件が厳しい程、条件によっては部材がデッドゾーンに飛び込んでしまう可能性も増加してしまうでしょう。機体に対しては、軽く、しかし剛性が高いという矛盾する要求を、エンジンに関しては低速回転で大径のファン部とますます高温の燃焼温度と高速回転を要求されるタービン部との、これも矛盾する要求を同じ1本の軸上で実現しなければならない訳です。ですから、製造上の僅かな瑕疵が、エンジンブレードの飛散などという重大事故を引き起こすのです。安全性と性能とは、基本的には矛盾するものだと言うしかありません。飛行機に乗る際には、出来ればエンジンの真横の席には座りたくないものです。

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2018年4月18日 (水)

3425 バトルロイヤル?

最近のこの国のマツリゴトを眺めていると、何度目かの既視感に襲われます。派閥と野党が入り乱れて、リーダーの追い落としに熱中するという構図です。この環境ブログでは、マツリゴトは取り上げないルールを掲げていますので、深くは立ち入らず単なる既視感の表明に留めておきますが、ライバルの弱点を、週刊誌(もちろん誰かがタレこんだに決まっていますが)も巻き込みながら、叩き合うという作戦(椅子取りゲーム)に終始するという、例のパターンを何度も何度も見る事になります。いずれにしても、何時まで経っても「進歩の無い」人達ではあります。

既視感と言えば、世界情勢にも同様な既視感を抱きます。つまり、暴れん坊リーダーが座っている国を、寄ってたかって潰そうとする動きの事です。少し前ですが、例えばLビアやIラクと言った国が想い起されます。双方とも、核疑惑があり荒っぽいリーダーが軍をテコに独裁的に国を牛耳っていたのでした。さて、北の隣国のリーダーが簡単に白旗を揚げるか、或いは悪知恵を駆使して国際社会をかき回すのかは注目ですが、いずれにしても資源もあまりない小国ですので、今後とも十分な大国の後ろ盾が得られなければ、たぶん今の体制は長続きしないでしょう。

国内情勢にせよ国際情勢にせよ、あらゆる諍いは、人間の不信感や欲望の結果巻き起こされた「渦」であるのは間違いなく、小さな渦はやがて消えて無くなりますが、水面下の流れはまた新たな渦のタネを準備している事も間違いないでしょう。かつて、人々は部族や信条に従って、モザイクの様に分かれて暮らしていましたが、私たち人類は、地球環境が許容する人口レベルをとっくに超えてしまったと見るしか無さそうなのです。その結果、あらゆる価値観が入り乱れての、人と人、或いは人と環境のバトルロイヤル(少し古い言葉です)が繰り返される結果になるのでしょう。人と経済のグローバル化の加速は、その混戦に大量の油を注ぎ続けているのでしょう。今日は短く。

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2018年4月16日 (月)

3424 スタンダード(旗印)

このタイトルでの投稿は2回目かも知れません。さて、JISISOJASなどの頭文字でもおなじみの「S:スタンダード(Stanndard)」は、日本語では「標準」などと訳されていますが、本来の意味は軍隊などが先頭で掲げる「旗印」であった、という事はあまり知られていません。その割に、この言葉は、たとえば「国際標準(グローバル・スタンダード)」と言った言葉の中に、さも昔から決まっていた「標準」であったが如きの文脈で使われ続けてきました。ISOは、確かに各国から集まったISO委員が、長い時間を掛けて話し合って決めた国際「標準」なのでしょう。しかし、マスコミなどで使われる文脈での国際標準とは、例えばB国標準であったり欧州標準に過ぎない場合が殆どだと見ています。

では、この国のスタンダードは何であるかと考えてみても、にわかに思い当るものはないのです。伝統的な価値観だと思われている仏教でさえ、輸入宗教の一つに過ぎないですし、八百万の神々を敬う素朴な神道イズムでさえ、ある時期以降は軍や極右の思想と融合し、色濃く染められてしまったではありませんか。阪神や東日本の大震災で、せっかく生まれかけた「絆」や「結」と言った互助の風潮も、結局この国の文化の深い場所に根付く事もなく、やはり人々の日々の注目はグルメや景気の行方や政治ごっこやスポーツの結果程度にしか集まっていない様に見えます。

その人やその国の人々の価値観は、結局のところ掲げるべき「旗印」によって決まってしまうと思うのです。たとえ、それが「本音」ではなく「建前」だとしてもです。言わずもがなですが、もし人々や国々が本音を旗印にして進むとなると、恥ずかし過ぎるか危険過ぎるでしょうから、それを掲げる事はそもそも出来ない相談でしょう。旗印は、理想であって構わないどころか、まさに理想そのものであるべきだと思うのです。理想は理想であって現実とは乖離しているのが普通ですが、かといって旗印を降ろしてしまっては、その人や国の存在自体の意味が失われてしまうでしょう。投稿者は、50代のある時期以降、自分の旗印を「環境」を含めたものに書き換え、それを掲げて人生のコースを方向転換してみました。その後に考えた事どもは、このブログに縷々書き連ねてきたつもりですが、2006年夏に投稿をし始めて10数年経過してしまいました。その間、旗印は変えたり、降ろしたりすることは無かった事はすこし胸を張れそうです。

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2018年4月13日 (金)

3423 開発と言う名の破壊

「環境カウンセラー事務所」を開設し、勝手に環境カウンセラー業となって以降15年ほどが経過しました。想い起せば、1960-70年代にいわゆる「公害事件多発時代」を目撃し、その後の地球規模の環境悪化が指摘され続けてきた時代と共に歳を重ねた身としても、「環境」と言うキーワードは、既に体の一部になっている様な気もします。私たちの感覚では、自分と言う人間が居て、それを取り囲む形で環境があると思っていますが、Y老孟司が「自分の壁」の中でも指摘している様に、自分=環境と言う認識が正しいと、投稿者も賛同しています。

自分の体を構成している、原子や分子や細胞のどれ一つとして、自分で創り出したものなど無く、全ては環境からの「借り物」である事に異を唱える事は出来ないでしょう。しかし、悲しむべき事に私たちは、開発と言う名の下で、如何にすさまじい規模で環境を破壊し改変しているかに気付いていないのです。新しい道路を通すには、先祖伝来の美田をつぶし、里山を削ってその土で谷を埋め、或いはトンネルを穿ち、橋を架けるでしょう。その全てが、環境の破壊であり改変である訳です。その意味で、今の家を建てる際には、結構悩みました。と言うのも、買った土地が田んぼを埋め立てた土地だったからです。埋め立てられる前から、その土地は耕作放棄地で草ぼうぼうだったことは知っていましたので、少しだけで済みましたが、やはりココロは痛んだものでした。

私たちが、何か行動を起こしたり、或いはモノを作ろうとすれば、必ずや環境に何らかの変化を与えずには置かないのです。車を少し走らせただけで、人間が呼気から出す量の、何ケタも大きな量の莫大なCO2を排出してしまうでしょう。ましてや、それが旅客機である場合は更に2桁くらいは大きな量となる筈です。歩いたり、自転車で移動しない限り、私たちは地球大気の組成を改変しながら移動を重ねることになるのです。もちろん、環境改変を全くストップさせる事は、人が生きている限りは不可能です。生きていくだけで、少なくとも屋根の下に住み、衣服をまとい、食糧を口にし、排せつをする必要はあるからです。しかし、環境改変を最小限に留める努力は不可欠でしょう。そうでなければ、私たちの子孫の生活の質が著しく劣化せざるを得ないからです。現世代のエゴは、出来る限り抑え込んでしまう必要があります。それが、このブログの一貫したテーマでもあるのですが・・・。

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2018年4月12日 (木)

3422 負の遺産

「遺産」には、もちろんそれを受け取る子孫にとっては、何かしら棚ぼたの様なプラスのイメージがある筈のものです。労せずして、親や親族が残した財産(や権利)を継承できるからです。しかし、考えてみれば遺産はプラスのものだけではありません。それが「負の遺産」です。瀬戸内海の真ん中に懸けた瀬戸大橋が、架橋後30年を経過したそうですが、鉄で出来ているこの構造物は、残念ながら年々劣化が進んでいる筈です。少なくとも鉄は放っておけば錆びる素材だからです。それを食い止めるためには、錆が出たらそれを落として、ペイントを塗り直さなくてはなりません。いわゆるインフラのメンテナンスです。適正なメンテナンスのためには、設備やインフラには、毎年取得価格の2-3%の費用を掛ける必要があると言うのが常識です。瀬戸大橋の寿命を何年に設定しているのかは承知していませんが、100年以上も維持することは多分無理でしょう。

見回してみれば、私たちの周りは先輩や自分達が関わって、作ってしまった遺産に取り囲まれている事に気が付きます。高速道路、鉄道、橋梁、トンネル、港湾施設、各種のプラント、原発を含む発電所・送電網、ダム、河川工事云々かんぬんです。しかも、それらのインフラは、皆結構なお年頃になってメンテナンス費用の嵩む年代に差し掛かってもいるのです。問題は、多くのインフラは建設時にはメンテナンスの事など殆ど考えられずに設計され、建設されているという点です。メンテナンスは、それが出来てから改めて考えるという後追いになっている訳です。それも当然で、建設時の積算費用にはもちろんメンテナンスのための仕掛け(例えば点検用の足場)は、コスト競争に勝つためには除外せざるを得ず、それは使用者が運用の中で考えるべき事項に押し込まれてしまっているからです。

前出の長大橋にどれだけメンテナンスのための仕掛けが施されているか、詳細には知りませんが、もし橋げたの下部の点検・補修のために仮設の足場を掛けなければならないとしたら、海上部だけで10㎞もあるこの橋の場合、その費用だけでも天文学的な金額になる筈なのです。その費用は、メンテナンスに関わる世代へ、先輩世代から贈られた「負の遺産」の典型例と言えるのです。架橋による便益は、今の世代が受取り、崩落しない様にお守りをする費用を次世代に先送りする、といった例の何と多い事でしょう。もちろん、原発はその極端な例である事は論を待ちません。出るのはため息だけ・・・。

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2018年4月11日 (水)

3421 文明の逆転

この歳になると、やはり自分の歩いてきた道と、それを取り囲んでいた時代を振り返る事も多くなってきました。その中では、時代や文明は前に進むものであって、基本的には逆戻りはしないものである、と言った風潮が支配的であった様な気がします。先の戦争に負けて以降、戦後の焼け野原から出発したこの国は、B国の核や軍事力の傘の下で、彼らの顔色を見ながら、ひたすら経済力を高めるために注力すれば良かった時代が長く続きました。その「根性」は、現在でも色濃く息づいているとも言えるでしょう。この国のリーダーの「B国と完全に価値観を共有する・・・」と言った発言にもそれは読み取れます。すぐ北の隣国との関係を考える際に、先ず遠く太平洋を隔てた国の意向を確認しなければ、何も進められない情けない国だとも言えるでしょう。

今読んでいる新書にF沢諭吉の「文明論之概略」が取り上げられていますが、明治の初期に、彼が文明や国(体)について巡らせた思索の余りの深さに驚嘆させられます。ぜひ原文を読んでみたいと思ったものでした。その中で、F沢は文明とは国の独立を保証するための「手段」ではあっても、決して目的ではないと言い切っているのです。文明と言う言葉を、例えば経済や科学・技術や政治と言った言葉に置き替えても、彼の指摘は全く当てはまると思うのです。つまり、私たちはこの国を、鎖国状態の極東の島国から、海外に向けて開いて以降、殆どの時代に置いて、海外の文明を取り入れて、それを丸呑みする事に熱心であり続け、それを消化・吸収する努力を怠ってきたのだ、と断ずるしか無さそうなのです。

投稿者が生きてきた戦後の60数年に限って考えても、長く勤務した某重工でも戦後は殆どの分野で技術導入を行っての「ライセンス生産」から始め、その中で生産技術を養って、やっと今日の立場を確保したのでした。しかし、生産技術の改良は言わゆる「カンバン方式」の高みに到達さえたとはいえ、結果としてこの国から何か世界にインパクトを与える画期的な新原理や新技術なりの発見・開発があった訳ではなく、単なる「改良」に留まってきたことは銘記すべきでしょう。私たちは、明治以降の「文明開化?」の歴史を紐解き、必要によってはそれを巻き戻して、不味かった点を反省し、出来れば正しいピースに差し替えなければならないとも思うのです。文明(科学や経済や政治の仕組み)は、手段ではあっても決して目的ではない。目的は、たぶん「より正しかろう価値観を持った独立国となる」事にあるのでしょうから。

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2018年4月10日 (火)

3420 着地点2

何事にせよ始めるのは楽で、終わらせるのが難しいのは日常的にもよく経験する事です。例えば、自分の人生が間もなく終わるとして、それまでに契約している保険やローンや各種の加入案件を、短い期間でピリオドを打つのは至難のワザでしょう。最近「終活」と言う言葉が注目されていますが、今の社会が急に終わる訳ではないでしょうから、少なくとも全ての社会状況が安定する着地点を見定める「着活?」は今から始めておかないといけないのだと思います。

日本の人口ピラミッドを眺める限りにおいては、団塊世代と団塊ジュニア世代の突出を除けば、1年代当り大体100万人前後の出生で落ち着きそうな感じがします。それらの人が、80数年前後生きるとして、事故や病気もあるでしょうから、たぶんそんな時代の(安定)人口は、5-6千万人前後で推移すると想像できます。もちろん、人口当たりのGDPを考慮すれば、この国の経済力の順位は、たぶん10位前後かそれ以下に落ちてしまう事になる筈です。しかし、たとえそうではあっても、私たちが狙うべきは量より質であるべきだと思うのです。

さて、幸福度の問題です。ヒマヤラの麓に、国民の幸福度世界一と言う国がありますが、この国も一度物質的には頂点を極めた先進国の一つとして、エネルギーや物質を必要最小限レベルまで下げた上で、国民の幸福度はどこまで高められるか、と言う実験がたぶん必要なのでしょう。それによって、この国の、そして多分今の文明の着地点も少しは見えてくる筈なのです。物質(≒お金)やエネルギーは、基本的には人々の暮らしを安定させ、楽(快適)にするために使われてきましたが、今やそれらは「手段」としてではなくそれ「自体が目的」になってしまった感さえあるのです。つまり、原発が安定的なエネルギー源として位置づけられた時代は確かにありましたが、原発推進派にとって、今や原発の存続自体が目的になってしまった、というのがその一例として挙げられるのです。私たちは、一体何処の地平に着地できるのでしょうか、それとも無理やり飛び続けて、最後は大地に叩きつけられる「ハードランディング」しかないのか、このブログでは引き続き考えていきます。

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2018年4月 9日 (月)

3419 着地点

これは多分愚痴になるでしょう。今から10年ほど前、このブログのごく初期の頃、今の(石油)文明を飛行機に喩えて、飛び立った飛行機は有限の燃料の続く限りは飛び続けられるが、最終的には着陸しなければならない、と書いた様に記憶しています。これは、投稿者が若い頃読んだ、ローマクラブの「成長の限界」に影響を受け続けている投稿者の憂慮を表したものでした。あれから10年を経過して、その憂慮(心配)はますます強まっていると振り返っています。

心配の最たる点は、この国のマツリゴトを行っているリーダー達の劣化です。リーダー達とは決して政治家だけを指すのではありません。高度成長期においては、政治のトップに誰が座るかなどあまり問題ではなく、力のある官僚がしっかりした計画を立て、政治家(屋)はそれに乗っかってさも舵を取っている様な風を装えば国は前に進んでいたのです。この時期の計画は楽でした、世銀から借金をしてでもインフラ投資を行い、民間には利子補給をしながら経済を鼓舞し、景気の良さを煽り立てれば、団塊の世代がこの波に乗ってサーフィンをしていた時代だったからです。然るに、今の体たらくです。政治家は、国会の場を使って、さながら小競り合いの如き「何とか問題」での責任のなすり合いを繰り返し、官僚は尻尾を出さない様に(良い天下り先を得るために)保身に汲々とする、嘆かわしい時代になってしまった様なのです。

難しいのは、入口政策ではなく、出口政策である事は論を待ちません。何本だかの矢を放ったとしても、そのストーリーの完結編を書かない事には、やりっ放しの無責任の誹りは免れないでしょう。結局この国の最大の心配事は、少子高齢化の人口減少社会となっての、社会の着地点が全く見えない点なのです。リニア新幹線が開通しても、国民全体の幸福度を上げるとはとても思えませんし、観光客が4千万人来訪したとてもそれは同じでしょう。マツリゴトのリーダー達(ここでは高級官僚を指します)は、それぞれの分野において、国家百年の計を示し、それに向かってのステップとしての中短期計画を引いて貰いたいのです。政治屋は別として、政治家には単年度の予算の使いみち、ましてや「何とか問題」に徒に1日何億だか掛かる国会の時間を費やすのではなく、もっと国の行く末についての議論を深めて貰いたいのです。投稿者としては出来れば、「着地点国会」を開いて貰いたいくらいなのです。たぶん、そんな望みもこのブログの「独り言(愚痴)」に終わるのでしょうが・・・。

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2018年4月 7日 (土)

3418 省エネ技術・今更ですが2

3417でも言及した様に、エネルギーのベストミックスを云々する前に、先ずは省エネこそが最重要課題でしょう。その中で、住宅や建物の冷暖房に関わるエネルギーをもっともっとやり玉にあがるべきでしょう。通常、この国の家屋やビルのエネルギー消費量を1年間に亘って観察すると、間違いなく夏と冬に大きなピークが立つことが分かるでしょう。春と秋には、冷暖房負荷が殆ど無視できるので、そこからのエネルギー使用量の立ち上がりは、夏は冷房、冬は暖房にかかる負荷である事は自明です。何故、冷暖房負荷が大きくなるかは、結局は建物の断熱性能の低さに還元される筈なのです。もし、魔法瓶の様に完ぺきな建物があるとすれば、夏場に建物内の気温を上げるのは、換気で外から入れる空気と人の出入りの際に一緒に入ってくる熱気だけになる筈です。

従って、冷房負荷は外から持ち込まれた熱量を追い出すだけの微々たるエネルギーで済むでしょう。換気の際に、熱交換型の換気扇使えば、殆ど無視できる程度の小さなエネルギー負荷で、快適な居住空間が実現できるのです。然るにこの国の建物の粗末な事と言ったら・・・。薄い壁、単板ガラスで熱が自由に出入りする窓、日射熱や室内の暖気が出入りする屋根、湿気を抜くために開放的な床下も冬は外気と同じ程度まで気温が下がるのです。かくして、夏は熱く焼けた外壁や屋根(天井)、冬は床面も含め、部屋を構成する部材全てが10℃以下に下がる建物構造の所為で、私たちは莫大なエネルギーを冷暖房に費やす事になる訳です。

最近のこの国家屋は、長くて50年のサイクルでスクラップ&ビルドを繰り返している訳ですが、建屋コストを1-2割アップさせるだけで、冷暖房負荷を2-3割下げることは十分実現可能でしょう。更に断熱のためのコストを掛ければ、冷暖房負荷を今の半分以下に圧縮する事も問題なく実現できる筈なのです。見てくれだけを良くした、薄壁住宅がこの国の省エネを妨げる元凶だと断言しておきましょう。

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2018年4月 3日 (火)

3417 省エネ技術:今更ですが・・・

どんな団体かは知りませんが、D力広域的運営推進機関(OCCTO)の予測によれば、2021年にはこの国の予備電力率8%が確保できない状況になるのだとか。この報告が誰に向けてされたものかは承知していませんが、どうせ原発推進派が「再稼働やむなし」のムードを高めるために利用されるだろうことは容易に想像できます。その報告書を読んではいませんが、もしその結論が「もう一段の省エネが必要」となっているのであれば、OCCTOを評価する事は吝かではありませんが、そうでなく単に危機感を煽っているだけであるなら、きっと天下りの受け皿となる業界団体の一つに過ぎないのでしょう。

さて、投稿者は省エネ指導を仕事のカンバンに掲げていますので、上の報道に接して、ここで再度省エネの重要性に言及しない訳には行きません。省エネ(=ネガワット)の最大のメリットはと言えば、そのための投資が(殆ど)不要であるという点です。また、発電所を増設したり、再稼働のための安全設備の増設などを実行するためには、莫大な投資と工事期間が必要ですが、省エネは決断さえすれば、あまり役に立っていない照明や設備のスイッチをポンと切るだけで、瞬間的に実行可能なのです。

原発再稼働を回避するためには、先ずはピーク電力をカットする事が肝要です。発電所の規模や送電線の容量は、ピーク電力(たぶん夏場の晴天の日の昼下がりに発生)に合せて準備されますので、これをカットできれば、予備電力の余裕も生まれてこようと言うものでしょう。盛夏の電力ピークは、間違いなくガンガン使っている冷房機の電力消費によって生じていますから、それをカットするためには、いくつかの工夫や努力や少しの投資も欠かせないでしょう。冷房効果を上げるためには、建物の断熱や遮熱は必須です。建物の改修には大きな投資が必要ですが、遮熱シートや遮熱ペイントならば、メンテナンス費用の一部としてカウントできるでしょう。冷房機(エアコン)の冷媒にも工夫の余地があります。フロンより少ないパワーで圧縮できる炭化水素系の冷媒が普及すれば、それに入れ替えるだけで2-3割の省エネが実現できる筈なのです。蓄熱(蓄冷)も省エネやピークカットに効果の大きい技術でしょう。負荷が小さい時に、熱や冷気を蓄積しておき、必要な時間帯にそれを放出する訳です。たぶん続きます。

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2018年4月 2日 (月)

3416 超高齢化社会

投稿者が今住んでいるA田県は、少子(人口減少)高齢化社会の「トップランナー県」なのですが、最近の予測では、人口減少と高齢化に更に拍車が掛かり、2040年前後には高齢者の割合が、なんと50%を超えるのだとか。住人の二人に一人が65歳以上という社会は、なかなか想像できませんが、人口ピラミッドで今生きている人達の状況は変えようがありませんので、この予測は実際にも当たってしまうのでしょう。

もちろん、その時期まで投稿者が生きているとは思えませんが、予測はどうにも変えられないにしても、今から何らかの対策は考えておかなければならないのでしょう。さて、どう考えるかですが、少子化にはある程度の歯止めが掛かるにしても、姥捨て山でもない限り???、高齢化は医学の進歩もこれありで、ますます加速すると想像されます。その様な時代に必要な事こそ、「生涯現役」というキーワードでしょう。ピンピンと生き、コロリと居なくなるのが理想なのでしょうが、ヨロヨロしても良いので、或いは這ってでも、死ぬまで自分の力で動ける状態を維持するしかないでしょう。そのために、年寄りこそ「肉をほおばり」、活動的に動き回って、死んでも?ロコモティブシンドロームに陥る事を阻止しなければならないのです。

年寄りが寝込むきっかけは、多くのケースで転倒し、足を骨折してしまう事ですが、その対策は喫緊の課題でしょう。骨の再生を助けるサプリや食材の提案、更に骨に振動や適度な衝撃を与えて骨密度の低下を妨げる運動や機器の開発などなど、活動レベルを低下させない仕組み作りが不可欠です。

同時に、(僅かな額でも収入につながる様な)高齢者の働く場が絶対に必要です。その仕事やサービスは、それを受ける側から感謝されるものである必要もあるでしょう。いくつかの例を示すなら、例えば公園や街の清掃作業が考えられます。また、公園や街路の緑化維持・推進なども良い仕事になる筈です。田舎においては、異常な勢いで増加し続ける「空き家」や「耕作放棄地」の再生も重要な仕事になり得るでしょう。建物構造が寿命を迎えているのであれば、解体もやむなしでしょう。筋肉労働において、高齢者の弱った体力を補完するためには、素人でも扱える重機やロボットスーツの開発も必須でしょう。

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2018年4月 1日 (日)

3415 超ロングテール製品

B社のB737型旅客機の引き渡しが既に10,000機を超え、総受注数では14,000機を超えたとか。この世界では、500機程度を売り上げれば、開発費が回収でき、それ以上の売り上げで、徐々に利益が出ていくと言われており、数千機を売り上げれば、成功プロジェクトと評価されるのです。B737は、当初短距離機、いわゆるRJとして開発されましたが、特徴はそれ以前の機体の設計を生かす形で、単通路ながら336列キャビンとした事でした。いわゆる胴が太い寸胴タイプで、従って燃費もあまり良くなかった筈です。しかし、結果として、その後のエンジンの低燃費化、胴体延長型や長距離型の派生型機のラインアップで、顧客のニーズに応えて来たのでした。

その後、見かけ上は同じでありながら2代の代替わりを経て、設計的には全く異なる新世代のNGタイプへと進化を続けたのでした。今では、LCCが多用するやや大型のRJタイプから、200数十人が乗れる中型領域の機体、更には200人程度を乗せて、大陸間を行き来できる長距離タイプまで品ぞろえを増やした結果、最初に述べた様に「超ベストセラー機」となったのでした。

しかし、ここで強調したいのは、この機体は開発されて以降、数多くの改良や新設計を繰り返しながら、50年以上の長きに亘り第一線の機体として売れ続けている「超ロングテール」製品でもあるという点です。例えば、‘70年代を代表する旅客機でもあるB747B767などは既に製造中止に追い込まれていますし、AアバスA300シリーズを除けば、競合機種は全て市場から駆逐されてしまったのです。ロングテール製品に育てるには、非常に粘っこい努力が必要である事は言うまでもありません。それは、例えば家電や車などの耐久消費財や更に言えば日用品や加工食品の世界でも同じでしょう。○○と言えばXXといった様な「商品イメージ」をユーザーや消費者に植え付ける事に成功した製品・商品のみがその栄冠を手にする事ができる筈です。新製品の開発合戦も結構ですが、(高齢化した)消費者の目が肥えて、成長率も低い成熟した今後の市場で狙うべきは、「超ロングテール製品」以外あり得ないでしょう。その意味でB737は理想的なお手本と言えそうです。

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2018年3月30日 (金)

3414 不安定⇒安定化

このブログは、基本的には環境ブログであり、暗黙にですが政治・信条には触れないことに決めています。しかし、最近の国内・国外の政治情勢を俯瞰して眺めるに、何かが起きている様に感じられ、それが何かを少し考えてみる事にしました。

さて、砂や砕石が入った箱を振動させると、それはやがて引き締まって嵩が減ってくることは日常的にも経験する現象です。英語ではSettle downと表現しますが、それは例えばログハウスなどでも、木材の間の隙間が小さくなって、安定するという意味でも使われます。さて、国内や海外の不安定要素ですが、例えば国内では、安定政権が終わりを告げようとしており、政局が不安定化に向かっている様に見えます。海外では、近隣国の独裁者やB国の「予測不能な」リーダーやEUの一枚岩を揺るがしているE国、或いはRシア包囲網などが、世界を揺り動かしています。もちろん、血を見る様な戦争にでもならない限りにおいてですが、流動的な情勢は決して悪い事ばかりではありません。

最初に述べた様に、今は流動的でも、やがて事態は落ち着くところに落ち着くものだからです。不安定な隙間は、揺り動かされて引き締まり、より安定的な状態に落ち着くのが、世の理だと見ています。それは、何より歴史が雄弁に物語っていて、終わらなかった戦争は無かったと言えるでしょうし、ざっくりと言えば数千年以上に亘って、安定的に存続し続けた国も無かったでしょう。もちろん、「国」という制度が出来てから歴史が始まったのでしょうから、有史以前の事は想像するしかありませんが・・・。

さて、今の不安定な状況が、上手く落ち着くのか、或いは更なる不安定を生み出すのか素人には分析出来ませんが、いずれにしてもその不安定もやがては安定に向かう事は疑いないでしょう。物騒な想像ですが、例えば核戦争が起きて地球上のいくつかの国が消えても、「死の静寂という安定状態」には落ち着く筈なのです。揺さぶり上手なB国のリーダーには、やや皮肉な意味においてですが、ある意味期待もしているのです。

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2018年3月28日 (水)

3413 PM2.5考

春先になると憂鬱になります。花粉や、黄砂や、いわゆるPM2.5なる浮遊状物質などが大挙して押し寄せてくるからです。3月の初め頃、鳥取県のスギの名産地を車で通過した際に、突然今年の鼻炎が発症しましたので、スギ花粉に対するアレルギーを持っている事は間違いなさそうです。一方、ここ数日の霞んだような空は、大陸からのプレゼントである黄砂+PM2.5の賜物の様なのです。投稿者は、これにもしっかりアレルギー反応する様で、目の痒みと鼻水の量が再びピーク状態となりました。

春は、移動性高気圧が次々に大陸からやってきますが、高気圧は下降気流のかたまりですから、お隣の低気圧が巻き込んだ黄砂やPM2.5をしっかり抱え込んだままこの国の上空に飛来するのです。かくして、この国に住む人たちの間に鼻炎が定着し、更に年々飛来物の濃度が高まるにつれて、「アレルギーのしきい値」を超える人も多くなり、患者の数も増え続ける事になるのでしょう。

PM2.5の怖さは、5ミクロン以下の粒子は、一度肺に入ったら最後なかなか排出されないという点にあります。大きな粒子は、いわゆる気管支などに密生している繊毛の働きにより排出されますが、それ以下だと肺の奥深くに沈着し、排出されにくくなるのです。黄砂は、いわば鉱物ですから高濃度の場合は塵肺の心配はあるのでしょうが、あまり問題は無さそうです。しかし、PM2.5には発電や化学工場やその他の工業生産プロセスから発生する、有害な物質も多く含まれている可能性があるので、問題は深刻です。例えば、発がん物質です。喫煙者は自業自得ですが、PM2.5吸引者?こそいい面の皮でしょう。PM2.5をブロックしようとすれば、殆ど「ガスマスク」レベルになるでしょうから、日常的に装着するのは現実的ではありませんし、ますます生き辛い世の中になってきました。

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2018年3月23日 (金)

3412 自動運転車事故

B国で、自動運転車による初めての人身(死亡)事故が起こった様です。公開された画像によれば、夜に自転車を押して横断していた人が、殆どスピードを落としていない自動運転車にはねられてしまった様に見えます。同時に、試験車に同乗していた人の映像も公開されましたが、人をはねてしまってから慌ててパニックに陥る様子が映っていました。これを見ると、自動運転車の実力は、まだまだこの程度なのか、と暗澹たる気持ちにさせられます。何を犠牲にしても、自動運転車による対歩行者や他車との事故は回避されるべきですが、今回の事故の映像は暗闇からぬっと出てきた歩行者を、機械(AI)は殆ど認識出来ていなかったとしか思えません。

同時に、AIに頼り切った同乗者はといえば、車が事故を起こすまで何も手を打てていない事も問題です。つまり自分がハンドルを握っている場合には、すぐにでもハンドル操作やブレーキ操作ができる様に常に準備状態にあるのでしょうが、単に自動運転のお手並みを拝見している立場に置かれると、人間の注意力レベルも最低になってしまっている様なのです。自分自身の事を考えても、連れ合いがハンドルを握っている車に乗る時には、最初の時間帯はつい「助手席でブレーキを踏んで?」しまう事も多いのですが、しばらく走って行くうちに諦めて居眠りしてしまったりすることを思い出しました。

兎に角、何がなんでも事故を起こしてしまっては、AIも自動運転も便利も何もあったものではないでしょう。自転車がふらついて車線に入って来ようが、子供が急に飛び出してしまおうが、AIは事前に危険を認識し、回避動作を起こさなければならないのです。もし、それが人が運転している場合には不可避な事故であったとしても、自動運転車のAIにはヒト以上の「安全意識」が求められているのは間違いないでしょう。試験の途中で、人命が失われたという事実は、開発のスピードをかなりの程度遅らせることになるのは致し方ないでしょう。人命は、全ての利便性に優先しなければならないからです。

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2018年3月15日 (木)

3411 煮詰まる

Y老孟司の近刊に、時代が「煮詰まる」という表現が何度も出てきます。バブル後失われた数十年があり、その間に人口減少が始まり、それに輪をかけての「少子高齢化」社会が加速し、震災や原発事故に見舞われ、社会の隅々に何とはない「閉塞感」が充満している現代を、流石に上手く表現していると感心します。

しかし煮詰まっているのは事実としても、その事をはっきりと認識するためには、誰かが画策して煮詰めているのか、或いは文明の汁気(可塑性)が失われて、自ら煮詰まっているのか、分析してみる必要はありそうです。その分析は投稿者には荷が重すぎるのですが、感想程度であれば何か書けそうです。結論から言えば、前者もあるのでしょうが、主には後者の比重が大きいと見ています。それは、曲がりなりにも今の文明の一員として現代文明が、経済や物質的豊かさを追求し続けてきた結果、文明が必要とする文化や宗教などといった「ココロ」の問題を置き去りにしてしまった、との後ろめたさがあるからなのです。「人はパンのみにて生くる者に非ず」とは、あの宗教者の最強のスローガンですが、まさにパンの偏重が、現代文明の「煮詰り」を加速したとみているのです。

この「煮詰り」を回避するためには、何は無くとも私たちはモノをドンドン捨てて(喜捨して)、精神的な満足に拠り所を見出すべきなのでしょう。これは、言うは易しで、実行はかなり困難である事は分かり切っています。人は、一度手に入れたものを手放すことが、本当に苦手な生き物だからです。動物であれば、目の前のエサを腹いっぱい食べた後は、たとえ好物のエサが目の前に現れても、興味を示さないでしょう。しかし、私たちは死ぬまでには使い切れない、或いは処分しきれないモノや財産を貯め込んでしまう生き物の様なのです。それもこれも、凡人は死を恐れ、死期が予測できないがために、必要以上のモノを手元に置こうと、それにしがみつくのでしょう。ココロを重視した、ユルユル文明の時代はいったい何時来るのでしょうか。

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2018年3月14日 (水)

3410 やるなら水上機

3409の続きです。百歩譲って、技術的なブレークスルーがあって、安くて性能の良い空飛ぶ車が出来たと仮定しましょう。しかし流石に「空飛ぶ車」であっても、いきなり道路上から離陸は出来ないでしょうし、ましてや路上に着陸する事など危な過ぎて到底出来ない相談でしょう。結局、それを運用する段階では、郊外の田んぼを潰して飛行場を作る必要があるのです。どうしても空を飛ぶ事にあこがれる輩が集まるのであれば、そのパワーを空飛ぶ車に注ぐのではなく、むしろ水上機に向かうべきでしょう。海に囲まれた、島国であるこの国を含め、東南アジアの国々は島が多かったり、海に開けている筈です。水上機であれば、内湾や大きな川の河口など波が静かな水面も確保できるでしょう。当然の事ながら、水上機には飛行場などの大きなインフラは不要で、単に桟橋や岸壁があれば十分なのです。

これは、まさに島国や島しょ国或いは途上国の交通機関としてはうってつけの「足」だと言えるでしょう。加えて、水上機だと海上や水域だけを飛ばす事により、事故発生のリスクを最小限に抑える事も可能なのです。つまり、陸上に部品を落下させたり、或いは飛行機自身が墜落すれば、地上での「巻き添え事故」も起こるのでしょうが、飛行ルートが水上であれば、墜落時に乗員が助かる確率も上がりますし、巻き添え事故も殆ど起こらない筈だからです。

水上機の欠点は、フロートをぶら下げている結果、速度が遅いですし、燃費もそれほど良くない事です。しかし、その欠点を補って余りあるメリットも多いのですコストの掛かる飛行場は不要ですし、沿岸ルートを使えばハードランディングといった重大事故のリスクも無くなり、万が一の不時着水時でも、プカプカ浮いてさえいれば救難のための時間は十分取れるでしょう。水上機は近距離の旅客輸送手段としては、まさに最適なのです。どうしても飛行機をやるなら水上機しかないでしょう。

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2018年3月13日 (火)

3409 空飛ぶ車を嗤う

ビジネスジェット機が日常のTVCMに登場し、自動車ショーに空飛ぶ車が展示される時代になった様です。しかし、考えてみれば、旅客機や軍用ヘリの小さな(時には結構大きな)落し物が大問題になる様な、市街地だらけのこの国で、一体空飛ぶ自家用車の飛行が許される日が来ると夢見ている企業や輩が居るのかと想像すると、つい嗤ってしまいました。可愛らしいドローンがお祭りで使われ、それがバランスを崩して下に居た子供達の中に突っ込んで、大問題になったのは記憶に新しいところでしょう。

空飛ぶ車を夢見ているノーテンキな輩には、日々何千便も飛んでいる旅客便の安全のためにどれだけの努力が傾けられ、コストを掛けているか考えてみていただきたいものです。機体やエンジンなどの定期点検や日常整備、パイロットの訓練や健康状態のチェックなどなど。空飛ぶ車の型式証明が取れたと仮定しても、その莫大な運用コストと想像できない程増大する、無関係な市民の危険を考えれば、少なくともこの国の国内での運用は全く現実的ではない事は、真昼間の太陽光より明らかでしょう。外れやすいボルトを全く使わない構造が実現できたと仮定しても、天候の急変によって飛行が不安定になって、或いはエンジン不調などで墜落する危険性が低くなる訳ではないでしょう。増してや、ロクに訓練を受けてもいない運転者の操縦ミスを考えれば、それが空を飛び回る時代は全く想像できないでしょう。

地上を走り回る車の事故でさえ「ゼロ」に出来ない社会に、空飛ぶ車を持ち込むなど以ての外と言うしかありません。そんな事に資源(カネと人)を向けるくらいなら、先ずは原発廃炉技術や再エネ技術を磨く方がよっぽど優先順位が高いでしょう。空飛ぶ車などバカバカし過ぎて、これ以上書く気にもなれません。

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2018年3月 7日 (水)

3408 モノの消費コトの消費

表題で「コト」は、かなりの部分「情報」と置き替えても良いかも知れません。モノとは、言わずもがなですが、形があって触れるモノを指しますが、一方でコト≒情報は、それ自体には形がありません。別の言葉で表現するなら、コトとは脳に痕跡を残す「経験」だとしてもそんなに間違いではないでしょう。その具体例を挙げるなら、例えば、モノとは車や家電や食べ物といった、ものになるでしょう。一方、コトとは、例えば旅行やテーマパークでの経験とか、書物やPCやスマホから得られる情報や或いはその他趣味上の楽しみなどといったものになるでしょうか。

それで何が言いたいかですが、私たちの生活上の消費割合が、年々着実にコトの消費の比率が増えて行っている、という事実の指摘なのです。それも、徐々にではなく、ある時期以降は急激に増えて行った、というべきでしょう。その加速時期を振り返ってみれば、1990年代後半からの急激な情報化社会化以降だと言えるでしょうし、更に近年の携帯・スマホやAI化やIoT化の進捗によって更に急加速するのは間違いないでしょう。若者や子供たちは、ゲームやネット漫画などによってモノとしては実体のないVRの世界に取り込まれ、それを多量に消費する事に生き甲斐を見出していますし、それはスマホの小さな字が見にくいが故に、PC上でのネット遊びにうつつを抜かす中高年でも事情は似たりよったりでしょう。

コトを消費しても、実は現実の世界に何の影響も与えない事には注目する必要があるでしょう。もちろん、事を消費する段階で、現実の世界に触ればそれは話は別ですが、特に情報を消費する限りにおいては、スマホやPC上で、通信回線をデジットが流れるだけなので、消費するモノと言えば、多少の電力と通信回線の使用料だけなのです。当然の事ながら、消費するコトを創り出している人達が居て、彼らが暮らしを立てるために、たくさんのモノを消費しているのも間違いありませんから、コトの消費が環境に対して何らの影響を与えないという主張は必ずしも正しくはありません。結局、モノに充足してしまった、先進国と呼ばれる国々に住んでいる私達は、やり場の無くなった消費の矛先を、今度はコトの消費に向けて、突き進んでいるのだ、と考えるしかありません。結局、私たちの今後の最大で喫緊の課題とは、旺盛な消費「欲」を如何に弱めるかになりそうです。

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2018年3月 5日 (月)

3407 仮想現実の怖さ(○○したつもり)

仮想現実(VR)という技術があります。つまり、最終的には人間の五感に訴えて、(そこには存在しない)現実を創り出す技術だと言えるでしょう。視覚と聴覚程度であれば、既に性能の高いゲーム機やゴーグル等の道具を使えば、かなりの程度レベルの高いVRが実現できているものと想像しています。(投稿者は未経験)

しかし、VRというものは所詮コンピュータ上で作り出された現実であり、もちろん真の現実ではありません。ではそのまがい物の現実を、私たちが「経験」したとして、果たしてそれは現実の経験と同じものだ、と主張できるのでしょうか。例えば、車や航空機や電車の操縦を、VRで体験できたとして、その経験を積み重ねれば、実際にもそれらを動かせるのでしょうか。フライトシムレータ等の機器を用いれば、より現実に近いVRを体験できるのでしょうが、しかしそれで「免許皆伝」とはいかないでしょう。何故なら、車の免許で言う路上教習が抜けているからです。実際に車で道路を走れば、道路から車に伝わる振動やタイヤの軋み、他に路上を動く人や他の車の動き、或いは天候の急変など、VRに設定されていない事態を経験は、車の免許を与えるためには必須だと思うのです。

最も怖いのは、今の若い世代が生まれてすぐVRに接してしまう事だと思っています。つまり、彼らの経験は実際の経験とVR経験が、頭の中でごちゃ混ぜになっていると想像するからです。ゲーム機の中のVRでは、パンチを受けても痛くないし、相手を剣で切って血が出ても何の感情も湧かないでしょう。つまり、実際の経験では必ず伴う、五感に訴える刺激やココロの動きが、VR体験には殆ど伴わない心配があるのです。高精細のテレビを見て、ある場所に行ったつもり、或いはゴーグルをつけて仮想空間を移動したつもり、或いは人を傷つけたつもり、など等「つもり」が積み重なった時、仮想と現実の区別がつけにくい(或いは完全につけられない)人間が出来上がってしまう事を危惧します。杞憂であってくれればそれに越した事はありませんが・・・。

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2018年2月26日 (月)

3406 デジタルデクテータ

最近IT化の加速が気になって仕方がありません。そうした中、「デジタルデクテータ」或いは「デジタル経済」という言葉を耳にしました。デクテータとは、言わずもがなの独裁者ですが、デジタル業界で成功してしまったB国のM社や、F社や、G社や、二つのA社や、あるいはC国の2社など何社かの「デジタル巨人」が、お金で決済されていた実体経済を超えて、デジタル経済を寡占し始めているとの危機感を表した言葉でもあります。デジタル化の背景には「情報」の寡占も存在する筈です。その情報が、完全に誰でもアクセスできるならば民主化されたデジタル社会も実現できるのでしょうが、例えばC国やRシアの様に、或いはたぶんB国でも何らかの形で、情報の囲い込みや監視、更には情報操作が、国の権力の元に行われているに違いありません。

もし、それが国々のエゴや、時のリーダーが悪意によって操作されたら、デジタル経済何ぞというシロモノの操作や世論といった揺れやすいものも簡単に歪められるでしょう。つまり、勝手に数字(デジット)を弄るか、或いは勝手なフェイクデジットを差し込む事によって、情報などと言うものは簡単に操作可能だと思うのです。間違いないと信じて疑わない「写真」や「映像」でさえ、それはフィルムに焼き付けられた物的証拠ではなく、メモリーの中のデジット情報である訳です。デジタル映像である限り、その加工は今や素人でも出来てしまうのです。デジタル空間に溢れる、超美形の写真はどの程度実体を写したものなのでしょうか。

私たちは、デジタルデータに依存し、それに100%寄りかかった社会を作ってはならないと、投稿者は思ってしまいます。デジタルとアナログと実体を程よくミックスしながら、しかもシステムの中に人間が介入できる余地を残しながらの仕組みを模索すべきでしょう。今や、国も企業もIT化やデジタルデクテータの波にすっかり飲み込まれてしまっている様な気がするのは杞憂でしょうか。デジタル経済=実体経済「ではない」と何時誰が声を上げてくれるのでしょうか。と言いながら、今日もデジタル社会の掲示板に投稿するのでした。但し自戒を込めながら・・・。

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2018年2月25日 (日)

3405 設計ミスか製造ミスか

新幹線台車の亀裂の解析がかなり進んできた様です。中間的な情報では、製造時の部材の削り過ぎが原因と考えられている様です。幸いな事に今回は人身事故にはつながらなかったので、外野の勝手な当て推量も許されるでしょう。凡そ事故原因は、モノの破壊がきっかけになるものと、ヒトの操作・運行ミス(ヒューマンエラー)によるものに分けられるでしょう。もちろん、地震や突風などの転変地異は除外しての話です。ここでは、モノの破壊原因についてだけ考える事にしましょう。もちろん、設計ミスにしても施工ミスにしても広い意味ではヒューマンエラーではありますが、先ずはモノ自体に着目します。

さて、設計ミスの多くは、モノ(製品)の動的な挙動の解析が不十分なところに起因する場合が最も多いと推定しています。静的な荷重であれば、教科書に載っている公式で、或いは現代では、コンピュータを使った数値解析(CAE)で容易に設計可能でしょう。しかし、動的挙動の解析は必ずしも簡単ではありません。鉄道で言えば、線路地盤の歪みなどで、台車には想定外の力が力や振動が加わっている可能性があります。そこで想定されるのが「安全率」ですが、安全率を大き取り過ぎると製品が重くなり、経済性で見れば不利になるでしょう。そこで、ホドホドの値とするのですが、瞬間的な衝撃力によるピーク値は、時としてそのホドホド値を超える事もあり得るでしょう。また、気象(極低温による脆性)や、塩分による腐食環境(による減耗や応力腐食割れ=SCC)も設計者想定のホドホド値をオーバーさせる危険性を孕んでいます。

一方製造ミスは明確です。要は、モノが図面通りの寸法になっているか、更に溶接などの加工によって表面からは見えない「内部欠陥」が残っていないか、という確認(寸法検査と非破壊検査)が着実に行われてさえいれば、殆どの施工ミスは発見できる筈です。しかし、問題は最近報道を騒がせている「手抜き検査」の横行でしょう。あるいは、不良率を下げるため、施工者が検査員の目をごまかす「不良隠し」も懸念される事態です。今回の事故の教訓と対策は、当たり前過ぎますが、どんな場合でもモノ造りのAtoZの基本に忠実に従うことと、隠し立てのない真っ当な検査しかなさそうなのです。

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2018年2月23日 (金)

3404 水は高きから低きへ?

水は高きから低きへ流れるのは自然のコトワリでしょう。しかし、そこに人間が絡むと、その自然の摂理通りにはいかないものの様です。例えば、人口です。殆どの時代を通じて、しかも洋の東西を問わず、都会は田舎から人を吸い出し、それを飲み込んで拡大してきました。もちろん、例えば首都東京の中心部は、オフィス街となっており、従って夜間もそこで生活をしている人口は少なく、殆どは臨界のタワマンか郊外の住宅地域に住んでいるのでしょう。その意味で、昔はまとまった駅周辺の街以外は田園風景が広がっていた関東平野は、今や市街地の間を住宅地が埋め、さながら一続きの「関東圏都市」の様相を呈しているのです。

何故、人々は住み良い田舎を出て、緑も少なく窮屈な都会に群れて住みたがるのでしょう。学校を出て、就職口を探そうとした場合、望んでいる(給料を支払う)職が都会にしかない、というのが一つの理由かも知れません。しかし、住居費が殆ど掛からない広い田舎の家に住み続けようと決意さえすれば、都会の半分程度の給与でも田舎では十分暮らしは成り立つ筈なのです。少し昔を思い起こせば、田舎では3世代や4世代が身を寄せて暮らしていました。時と共に各世代は歳を取るので、働き手とそれに支えられる世代が一緒に暮らす事によって、いわゆる介護の問題もあまり目立たなかったのです。人は、住み慣れた我が家の畳の上で生涯を終えるのが仏だった訳です。しかし、まるでブラックホールの様な都会が、そんな社会をすっかり「個の社会」に変えてしまったのです。都会は、「人は結婚して家庭を持つ」という基本的な生活スタイルまで変えようとしています。独身世帯の猛烈な増加です。

都市化の底に横たわる真の原因を考えてみるに、そこには「経済論理」がありそうなのです。都市(とその近郊)は、大量生産の拠点でもありますし、同時に大量消費の市場でもあるからです。つまり、都市化は、経済活動(経済効率)にとっては理想的な環境であるとも言えるのです。都市化の中で犠牲になっているのは、いわゆる人間らしいライフスタイルだと言うしかありません。国も経済界も、経済(GDP)拡大を目指し、経済効率を追求する限り、都市は吸引力を維持し続け、その「引力圏」から抜け出せない捉われ人の数は増え続けるのだと見ています。どうやら人は、高きから低きへ(人口過密地帯から田舎へ)流れるのではなく、逆に経済力という引力によって引き付けられる存在の様なのです。

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2018年2月22日 (木)

3403 野菜メーカー?

いわゆる「家電メーカー」などが、異業種とも言える例えば「野菜工場分野」へ進出する動きが加速している様です。昔の事を思いだせば、鉄が売れなくなった時代に、製鉄屋さんが養豚業などの異分野に手を染めた事などが頭に浮かびます。残念ながら投稿者は、それが正しい戦略なのか否かについて議論できる程「ビジネス」を熟知している訳ではありませんので、単なる感想に留めますが、やはりメーカーとしては、消費者のニーズに寄り沿わなければならないのだ、との思いが強くなります。しかも、そのニーズは根強く、基本的なものを重視しなければならないという事です。

確かに家電は、便利で快適な生活を演出するものではありましたが、ある家電が無かったと仮定しても、生活に大きな支障は出ないでしょう。炊飯器が無くとも、土鍋でもっと美味しくコメを焚くことは出来るでしょうし、エアコンが無くとも石油ストーブやコタツでも寒さはしのげる訳です。しかし、食欲だけは電化製品だけでは満たす事は出来ません。現代のどんな科学技術を駆使したとしても、人間が、水と炭酸ガスと太陽光だけで食糧を合成する芸当は出来ません。食糧生産は、植物にしか出来ない芸当である事実は受け止めなければならないのです。あらゆる動物は、その植物の生産物に依存して生きている訳です。

だからこそ、メーカーは仕方なく、植物(今は葉物野菜程度ですが)が成長しやすい環境を、つまりは電気を使って実現する「電化畑」という仕組み作りにまい進しているのでしょうか。結局、電気仕掛けのカラクリ(Gadget)には限界があり、私たちは自然の摂理の理解に努め、必要かつ最小限のニーズに向かい合う必要があるのだと、投稿者としては改めて認識を強くしている次第です。野菜は、無菌化された野菜工場で育てるべきではなく、一握りの土の中に数えきれない程蠢く土壌菌群の中で、逞しく育てるべきだと思うのです。野菜工場で出来るのは、無菌化された「まがい物の野菜」に過ぎないでしょう。何故なら、植物は土壌(の土壌菌や微量元素)と共に生き延びて進化してきた存在だからです。

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2018年2月21日 (水)

3402 ガラスビル

都会に出て、何時も不安に感ずるのは、背の高い「ガラスビル」を見上げる時です。ガラスビルとは、ビルの外壁に殆ど全面ガラスが貼ってある様に見えるビルの事です。ガラスビルは、全面ガラス張りで見た目も美しいのですが、ガラスは熱の出入り量も多いでしょうから、冷暖房効率からみても、あまり良い選択肢とも思えません。またもし、この様なビルが強い地震に遭遇した時、当然の事ながらビルの構造が歪み、最悪の場合は嵌めてあるガラスが割れて、地上に落下するでしょう。怖いのは、ビルの高さです。例えば、100mの高さから、割れたガラスが落下する事を想像するだけで、肌があわ立ちます。ガラスの破片は真っ直ぐ落下する訳ではなく、たくさんの破片がヒラヒラと広がりながら落ちてくるでしょう。

たとえ、重さが数キロしかない破片であっても、鋭い破断面を持つ分厚いガラスが地上付近まで落ちてきた時の破壊力は、想像をはるかに超えるでしょう。ガラスビルの壁の真下に、屋根も無い歩道が広がっている場所では、そこで起こるかも知れない阿鼻叫喚を思い浮かべずには居られません。昼時などには、当然の事ながら帽子もヘルメットもかぶっていない人々が群れて歩いている筈なのです。

ではどう対策するかですが、たとえ、不細工ではあってもガラス壁の真下には、万が一ガラス片が落下してもその衝撃を受け止めるだけの強度を持つ強靭なガードを取り付けるべきでしょう。陽光にキラキラと輝くガラスビルの外観だけに目を奪われてはならないのです。今日は短く。

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2018年2月19日 (月)

3401 利雪

窓の外の雪景色を眺めながらの投稿です。以前も考えた様な気もしますが、あまり良いアイディアを書けなかった様な気がするので、改めて利雪(雪の有効利用)を考えてみる事に致します。その前に、雪の持つ特徴を整理してみましょう。1)冷たい(氷温である)、2)嵩高い(少なくとも水より比重が小さく嵩張る)、3)まとまって降る(ドカッと積もって長く居座る)、4)放っておけばやがて解ける、5)空気を抱え込み保温性がある、6)地域の偏在が非常に大きい(北陸以北の日本海側)、7)年度によって降雪量に大きな変動がある、8)締まって固まるとひどい厄介者になる。9)雪温によって性質が大きく異なる(パウダースノウからツユダクの雪まで)、などでしょうか。

さて、その利用法です。現在の対処方法は、兎に角屋根に積もった場合にそれを落とし、雪を集めて、邪魔にならない場所に捨てる事です。山間の雪深い地域には、流雪溝があり、住民は家の前の水路に小分けにした雪を放り込んで流します。また、北陸の一部地域には道路に地下水を散水して、雪を解かしていたりもします。この後者の地下水の活用は結構有望です。地下水は、冬でも十分10℃以上の温度を保っていますので、これを屋根のてっぺんから流す事により、屋根の雪は少な目で抑えられそうに思います。各戸では、地下水を汲み上げるための井戸を掘り、ポンプと散水パイプの設置という設備投資が必要となります。これはどちらかと言えば、雪下ろしを楽にする克雪対策にはなりますが・・・。

利雪で言えば、やはり1)と5)に注目する必要があるでしょうか。雪寄せのためには、どこかに雪を寄せて、道路や通路を確保する必要があるのですが、毎年の事なので、いっそその雪を放り込んでおく部屋(雪室)を準備しても良いでしょう。雪室は、古くからの先人の利雪の知恵の一つでしょう。雪室は天然の「氷温冷蔵庫」になり得るからです。雪室の中では、モノは凍結せずお0℃前後の温度に保たれる訳で、食糧の保存や種や球根などの発芽の季節調整には非常に有効な方法なのです。

氷温は、果物やコーヒーや酒などの熟成にも有効だと言われています。植物は、氷結を防止するために「糖分」を作り出すため、甘みを増すメカニズムを備えていますので、コメや野菜などの貯蔵にも適しているでしょう。雪室として使うには、普通のスチール物置ではやや強度に不安がありますので、既存の入れ物では間に合わないでしょうから、強度が高い中古のコンテナに断熱を施すのがベストでしょう。雪室があると、苦痛な雪寄せが、楽しい雪集めになりますので、冬の楽しみが増えることにもなります。雪に苦しむのではなく、考え方を変えて雪を利用するのです。

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2018年2月15日 (木)

3400 列島の裏表(克雪・利雪)

この季節に列車や車で日本列島を移動していると、いわゆる裏日本(日本海側)と表日本(太平洋側)の気候の大きな違いに改めて気づかされます。列車だと、例えば新潟から関東平野に入った途端、車移動だと上越から妙高高原の豪雪地帯を抜けて長野県に入った途端、周りの風景や空模様がガラッと変わるのです。日本列島の中央部にでんと居座る山並みと、冬場に暖かく湿った日本海を渡ってくる大陸育ちの季節風(冬将軍)の襲来が、世界でも稀に見る積雪地帯を生んでいる訳です。

なので、今は死語となってはしまいましたが、太陽光が差す太平洋側を「表」、冬場は日が差す事もメッキリ減って、暗くジメジメしてしまう日本海側を「裏」と呼んできたのでした。

しかし、考えてみれば、日本海側は大陸からの冬将軍の攻撃を「矢面」に立って食い止めている最前線ではありませんか。裏どころか、なんと矢面(表)の前線なのでした。そこで大切な事は、実は冬将軍様の寒波攻撃を如何に受け流すかという知恵なのだと思います。具体的に言えば、冬場は寒波攻撃の置き土産でもある雪の始末でしょうか。雪は、当然の事ながら水が凍ったものですが、実はその「嵩」によって、全く性質が異なるのです。つまり、気温が低くサラサラのパウダースノウの状態だと、強い風でも吹けば一度積もっても、やがてどこかへ持ち去ってくれるでしょう。

しかし、気温が比較的高い(0℃前後)時に降る湿り雪や降った雪が昼間の暖かさで一部溶けて「締まった」雪は、全く処置に困るシロモノに化けるのです。雪は、春になれば自動的に解けて水になって流れ去るのですが、それまで待っていては生活が成り立たなくなるのです。その原因は、実は車への依存度の高さにあるのでしょう。子供の頃の風景を思い起こせば、雪が積もってもめったに除雪車など来ないので、道路は凸凹で歩きにくくなっていたものです。仕方がないので、人々は食糧や暖房用の薪を貯め込んで「冬籠り」するしかありませんでした。町の中心で立つ「市」に品物を運ぶ主役は「箱ぞり」だったのです。その意味で、人々は雪に負けながらもしかし降伏はしていなかったのでした。重機を使って雪を蹴散らす事ができるのは、今が石油が比較的安くて何とか重機を動かせる幸運な時代なだけなのです。続きます。

 

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2018年2月11日 (日)

3399 トンネル列島のリスク

10日ほどの長い出張から、またドンヨリとした鉛色の空の自宅に戻りました。その間、車で岐阜まで移動し、その後列車で中国地方まで移動しました。その時お世話になったのが「トンネル」です。車であれば、長野道の長短のトンネル群、中央自動車道であれば8㎞強もある恵那山トンネル、新幹線であれば、トンネルに挟まれた新神戸駅をはじめ、全路線の1/3がトンネルだらけという山陽新幹線など、トンネルの話題には事欠きません。

しかし、それを利用する立場で気になるのはトンネル壁、正確にはコンクリートの劣化です。これまでも、トンネル内でのコンクリート剥離事故が何件かニュースになっていますが、そのニュースの陰には、たぶん数十件か数百件の微小剥離事故が隠れていると想像しています。もちろん、コンクリートの劣化は表面剥離だけではないでしょう、漏水や酸性水によって生ずるコンクリート自体からのいわゆる「脱灰」によって、コンクリート強度は大きく低下するでしょう。結果として、内部に隠れている鉄筋も錆びて膨張し、コンクリートに亀裂を作るでしょう。これは、亀裂と漏水と脱灰まさに悪循環です。多くのトンネルは、この国に多数刻まれている断層帯(破砕帯)を貫いて掘られてもいます、もしその断層が再び大きく動いた時に、それを貫通しているトンネルの健全性は全く保証の限りではない筈です。

その意味では、私たちはコンクリートの健全性に関して、非破壊で正確に診断する方法をまだ手にしていないと言えるのかも知れません。超音波で、「間接的に」内部を診断する事は居尼でも可能でしょう。しかし、コンクリートからどれくらいの割合で石灰分が抜け、その結果強度がどの程度低下しているかを知る定量的な方法はまだ見つかっていないと見ています。もちろん、あるトンネルが造られた時期に、同時に試験片も作り、経年劣化試験は実施されてはいるでしょう。しかし、それは試験場の環境での劣化試験に過ぎません。実際のトンネルと同じ、土壌、気象条件下で行われている経年劣化試験は、殆ど行われていないと想像しています。実物トンネルでの耐久性試験は、たぶん東海道線の「丹那トンネル」が嚆矢となるのでしょうか。このトンネルが開通して80年以上経過していますし、大規模な破砕帯を貫いていて、今でも大量の漏水に耐えてもいます。超過密な東海道線のダイヤを一度完全に止めてでも、「転ばぬ先の」大規模な劣化検査を実施すべきだと、建設のド素人は憂えています。

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2018年1月29日 (月)

3398 RJの行方

投稿者の前々職は、航空機メーカー勤務でした。仕事の中で、Bラジルとの共同開発リージョナルジェット(以下RJ)の開発にも、現地で深く関わりました。その中で、広く世界の航空機事情を見聞する機会にも恵まれたのでした。一方、この国ではM社が中心となって、悲願でもあったYS-11後継の、国産旅客機の開発に着手したのでした。残念だったのは、それがお国が後押ししたオールジャパンの取組みにはならなかった事だと振り返っています。何故なら、ブラジルでのRJ開発時に発生し、解決してきたノウハウが、M社での開発に生かされなかった結果、同じ様な問題で躓き、五度に亘るスケジュールの後ろ倒しを余儀なくされたからです。

製品の開発で最もモノを言うのは、実は「経験」である事は自明です。経験が無いゼロからの開発では、石橋をソロソロ叩いて渡るしかなく、場合によっては何度かの後戻りも起こり得るからです。取り分け、既存製品を超える性能を狙う場合には、いわゆる「開発要素」も多くなり、計画時には予想できない障害にも多くぶち当たるものなのです。経験が豊富であれば、その経験値で新規開発に当たってもリスクの予測と事前回避もし易くなるでしょう。残念ながら、この国の戦後の航空機産業の歴史は、朝鮮戦争時のB軍機の整備、今は博物館でしか見られない古い国産旅客機の開発、いくつかの自衛隊機の開発などしかない寂しいものである事は認めざるを得ないでしょう。

その中で、新たな「国際商品」であるRJの開発は、実は至難のワザだと言わざるを得ない事業だった訳です。その意味では、オールジャパンの人材を集め、Cナダの様に国の支援も仰いで、取り組むべき一大事業ではあったのでした。今となっては、以上の事は後知恵となってしまいましたが、今回の国産RJの開発も、残念ながらYS-11同様、「技術で勝ってビジネスで負ける(売れない)」という失敗プロジェクトになるだろうと予測しています。そのことは、B国エアラインからM社に突き付けられた、40機もの大量キャンセルという報道でも明らかになりつつあります。

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2018年1月27日 (土)

3397 ネット通貨2

3396でネット通貨を取り上げたのはタイミングとしては偶然なのですか、奇しくも昨日に「ネット銀行強盗」が起こった様です。電子マネーやネット通貨は、サイバー空間上の口座にある数字(デジット)に過ぎませんから、何重にもなっている筈の鍵が破られると、それこそアッと言う間に強盗が成立してしまう訳です。普通の銀行などで金庫が破られて、札束や金(ゴールド)や貴金属が奪われた場合、形のあるモノが奪われて移動するのですが、サイバー犯罪の場合は、良くて鍵破りの痕跡がログとして残るだけで、奪われた数字がこれまた瞬時に別の複数の口座に、何段階にも亘ってばら撒かれた場合、いわゆる(ネット)通貨ロンダリングもアッと言う間に成立してしまうと想像しています。

現金や、現金代わりの電子マネーは、それなりに価値が裏付けられてはいますが、ネット通貨は投資(や投機)対象ではあっても、日常的に決済する通貨としては明らかに「不適」なのです。今回のデジットの紛失が、どの様に保証されるのか素人には知る由もありませんが、少なくとも投機目的でデジットを保有していた人たちには、何らかの「お灸」が据えられて然るべきでしょう。

ここでの結論としては、便利なものは、受けられる便益と引き換えに、それなりのリスクを覚悟しなければならないという点です。これは、何も通貨に限った話ではなく、例えばスマホやAIスピーカや自動運転車、あるいは空飛ぶ車などの便利商品も、事情は全く同じでしょう。成りすましやシステム異常などを考えれば、犯罪や重大事故の温床になり得る筈なのです。今日は短く。

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2018年1月26日 (金)

3396 ネット通貨

Bットコインをはじめ、種々のネット通貨が流通している様です。長い歴史の中で考えるに、いにしえの時代から、いわゆる「兌換通貨」が普通であった訳です。それは、通貨が紙(紙幣)に変った近代においても、例えばある時期までの$の様に、国が通過の値打ちを保証する「兌換紙幣」が流通していて、その存在感を示していた訳です。しかし、例えば兌換紙幣の価値の裏付けとしての「金(Gold)」の量が有限である限り、通貨量(経済規模)が天文学的額に膨れ上がってしまった今、通貨価値の総額の明確な裏付けにはとても対応できない事は明らかです。

一方で、決済に人手を殆ど必要としない電子マネーは、その流通量が日々、それも飛躍的に伸びている事も間違いないでしょう。なにしろ、時代の流れに乗り遅れていると思っている投稿者でさえ、日常的に犬の鳴き声がする電子マネーや交通系の電子マネーは常用しているのですから・・・。ただし、使い過ぎを避けるため、電子マネーへのチャージは、面倒でも現金で行う事は励行していますから、小銭の釣り銭が無く、千円札数枚以上の現金を持ち歩かなくなったため、単に財布が薄くて済むというメリットしかないのですが・・・。

投稿者の見方としては、後者の電子マネーの拡大は間違いないにしても、誰がその裏付を行うかが明確になっていないネット通貨は、全く不安定なものであり、その流通量の拡大には否定的な立場です。例えば、ネット通貨として「預金」を持っている人々は、その価値の乱高下に、枕を高くして寝る事は出来ない筈です。そのそも、サイバー空間であるモノの価値が勝手に上下する事などあってはならない事態でしょう。電子マネーに似ているものとして、例えば先物取引の権利や債券などというものもありますが、それらにしたって、短期に何倍に膨らんだり、何分の1かに目減りする事などは考えられないでしょう。ここでの結論としては、ネット通貨は単に経済の拡大で溢れかえった通貨のはけ口に過ぎず、マネーゲームの道具でしかないと見ています。触らぬカネ(ネット通貨)に祟り無しです。

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2018年1月24日 (水)

3395 ディーセントワーク

SDGsの17の目標の中にも取り上げられているディーセントワークを改めて取り上げます。ディーセントワークとは、3381にも述べた様に、「働き甲斐のある生業」とでも訳すべきなのでしょうが、多くの人々は、夫々にとって、仕事は飯のタネとなる(代価を受け取るための義務としての)仕事であり、それ以外の何物でもないと主張するかも知れません。しかし、もし心底そう思って働いている人々が大多数であるとしたら、それ程不幸な事態はないとも思うのです。

つまり、どうせ同じ仕事をするのであれば、その仕事が限られた人々ではあっても、社会の中の誰かの助けになり、感謝されるものであれば、どれほど「働き甲斐」が生まれる事でしょう。どんな仕事であれ、その代価として受け取るサラリーは、最低限家族の生活を支え、家族には感謝されてはいるでしょう。しかし、仕事の枠を少し広げるだけで、同じ仕事をこなしていても、より多くの人から感謝され、より強く働き甲斐を感ずる事は可能なのです。

例えば、道路工事で片側車線で交互通行をしている場所を通過する事がよくありますが、その際単に旗だけで車を止めるのはなく、同時に「お急ぎのところ、交互通行へのご協力感謝いたします」などと書かれた看板を掲げてあれば、ドライバーも気持ちよく時間待ちが出来るでしょう。客商売であれば、モノやサービスと一緒に無料の「笑顔を売る」のも同じような行動でしょう。

それらの行動をよくよく考えてみれば、それは関係した相手への「感謝」に裏付けられたものである事が分かります。働いている全ての人々が、その労働の代価を受け取る事ができるのは、その仕事に関わっている全ての人々の「お蔭」であると意識を切り替えることさえできれば、世の中は感謝で溢れかえる事でしょう。感謝は、邪魔にならないどころか、相手を幸福にさせ、感謝する側には「働き甲斐」をもたらす魔法でもあると思うのです。感謝の出来る仕事が、つまりはディーセントワークでもあると思う所以です。

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2018年1月22日 (月)

3394 寒波

寒波はよくクリスマス寒波、年末寒波、立春寒波などと、時期に応じて呼ばれたりもします。今度の寒波は、しかしいわゆる「大寒」の時期に重なっているので、それが来襲したからといって驚いたり、パニックに陥ったりするのは筋違いでしょう。冬場には、北極海に冷たい空気の寒気団が居座るのは、まさに自然な現象だからです。むしろ、異常であるのはその寒気団が、丸い形ではなく、歪なタコ足形状をする事が多くなった事でしょう。冬場は太陽光が全く差さない北極圏に、寒気が溜まるのはごく自然なのですが、何らかの原因でそれが歪な形になってしまう事が異常であり、その原因を考えてみるべきなのです。

一冬に強力な寒波が、何度か来たからと言って、温暖化に歯止めが掛かった訳ではないのは明らかです。むしろ、寒気団がタコ足形状になっていて、その足の間は極端に温暖化してしまっていると表現した方が適切だと思うのです。先週も、1月だというのにまるで3月の様なポカポカ陽気の日が続き、人々がすっかり春気分になっている状況での「普通のやや強い寒波」来襲ですので、数年ぶりの「大寒波」などと騒ぎ立てる事態になっている訳です。

北極気団は、近年は上に述べた様にタコ足型になり易い傾向にありますが、そのタコ足は上から見ると徐々に回転していますので、上手く予想すればかなり前もって寒波(或いはその間の温波?)の来襲は、前もって知る事も可能なのです。現状の気象予報は、精々1週間先の寒波を知らせるだけですが、これを1か月予報を織り交ぜて予報してやれば、社会の混乱は最小限に抑える事も可能でしょう。

さて、今回の寒波です。今回の寒波も、タコ足寒波である事には変わりはないので、それが冬中続く訳ではないわけで、精々1週間以内にピークは通過する筈です。子供の頃を思い起こせば、「本物の寒波」が来た冬には、何度も豪雪に襲われ、除雪が道路に厚く積もった雪の上を学校に通った記憶があります。それに比べれば、最近の寒波などは可愛いもので、ピークを越せば、積雪量もドンドン目減りしてしまうでしょう。やはり全体的に眺めれば、温暖化は着実に進んでいるのです。

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2018年1月16日 (火)

3393 改めて「時間」について考える

時間は、現代文明にあっては、ますます価値を大きくしつつある「概念」なのではないでしょうか。金持ちにも、貧乏人にも時は同じように流れます。しかし、金持ちは時間と共に(例えば利子や配当)などでますますリッチになり、逆に貧乏人は、同じ時間の経過の中で必要不可欠の支出や利息を払いながらチマチマと暮らす事になっている様です。つまり、時を味方に付けた人々と逆に敵に回した人達では、時間という概念には雲泥の差がある事になるのでしょう。

しかし、それは「時はカネなり」と考えた場合の話であって、全ての人々にこれを当て嵌めるのは間違っているでしょう。つまり、お金が無くても「ココロ豊か」に時を送っている人は、たぶんそれなりに多いと想像しています。投稿者も、実際はどうあれ、出来ればそうありたいと願って日々を暮らしている一人ではあります。時の流れに逆らわず、自分が置かれた環境に感謝しつつ暮らせば、その様な境地に少しは近づけるのではないか、とも思っています。つまり、時間と価値(特に富)と結びつけるのは間違いで、時間を如何にココロ豊かに過ごすかに心を砕いて暮らして行けば良いのだと思っています。

そのために忘れてならないは、やはり感謝の気持ちであり、同時に全ての出来事を受け入れ、結果を前向きに捉える事に尽きるとも思うのです。この世で起こった事は、この世で納まるのであり、「山よりでっかい猪は出ない」からです。M空ひばりやTレサ・テンの歌の歌詞ではありませんが、川(時)の流れに身を任せると言った境地でしょうか。ガツガツ稼いで暮らしても、貧乏で慎ましく暮らしても、その人の人生に流れる時間(天体の運行の時間)は全く同じですが、ココロが感ずる時間は多分雲泥でしょう。前者の方が、きっとあっという間に歳をとってしまうだろうと想像しています。投稿者は、50歳過ぎにサラリーマンを早期に退職し、人生の舵を切りましたが、それからの時間の流れは非常にゆったりと流れた、と振り返っています。それは、たぶんお金には変えられない「時間の流れ」でもありました。

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2018年1月15日 (月)

3392 働き方改革って?

政治家(屋)は、言葉遊びが好きなので、ブレーンやお役人は、彼らの気に入る様な「言葉」を考え出します。働き方改革もその様な言葉の一つでしょう。しかし、これほど意味不明な言葉も珍しいでしょう。長時間労働を無くしたいのであれば、単に「時間外労働手当」を極端に上げてやれば済む話で、サブロク協定なんぞで「原則○○時間以内」などとボンヤリした規制なんかは、原則破りが横行する温床になるだけでしょう。

女性にも優しい職場にしたいのであれば、男性にも育児の義務を負わせ、同時に暇を持て余している高齢者を育児に巻き込む上手い育児制度の仕掛けを作るべきでしょう。またテレワークやフレックスタイムの普及や拡大は一体何処へ行ってしまったのでしょう。閣議検定した言葉だけで改革が進むなら、政治家やお役人は不要(までは行かなくても半減で十分)でしょう。

そうではなくて、政策はより具体的で、かつ実行可能である事が最重要なのです。難しい事は別にないでしょう。働き方先進国の事例を一つの目標に据えて、そこに向かう10年計画を立てるだけで良いのです。10年が無理なら20年計画でも仕方がないでしょう。この国の政治社会システムで最もダメだと思うのは、中期計画でも精々3-5年、予算に至っては夏場に執行額が決定し、その年の2月頃には使い切ってしまうという、単年度予算が殆どであり、長期的な展望が持てない点にあると思うのです。考えるべきは、私たちにとって「幸せ」とは何かを掲げる事であって、その幸せを求めるための働き方は如何にあるべきかを考える事でしょう。働くことが、自分の幸福(特に生き甲斐を感ずること)に繋がり、ひいてはたとえ少人数でも他の人々の役にも立つ様な働き方こそ、目指すべきゴールだと思うのです。今日は短く。

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2018年1月13日 (土)

3391 構造改革って?

構造改革などという言葉を考え出した、お役人かリーダーのブレインかが、一体何を頭に描いて進言したのかは、役人の作文はあまりにも抽象的で具体例がないので知る由もありませんが、少なくともそれは、現在のグローバル経済の枠組みの中で、それに迎合するものである事は間違いないでしょう。貿易立国であるこの国には、それしか生きる道は無さそうに思えるからです。しかし、その様な考え方や行動は、結局は自分に跳ね返ってくる「ブーメラン」でしかないと思うのです。例えば、いわゆる構造改革の結果として、今のグローバル経済が渇望する、技術なりビジネスが提供できたと仮定しても、やがてライバル国やライバル企業に追いつかれ、追い越されてしまう事は、この国の少し前の歴史を振り返っても自明でしょう。悲しいことに、繊維、鉄、家電、車などいずれの主要産業を眺めても殆ど例外は見つかりません。

つまり、現在の「社会構造」を前提に、いくら「産業側の構造改革」を行ったとしても、結局それは後追いの対策に過ぎない訳です。対策とは、災害対策などという言い方でもおなじみですが、その対策は災害が起こらない限り発動はされないというジレンマがあります。東日本震災でも、津波被害地では、多くの場所で嵩上げ工事が行われ、ほぼ完了していると思いますが、数十年前の大津波を教訓にして、徐々に高台移転を進めていたと仮定すれば、これほどの被害は避けられた筈なのです。

さて、構造改革です。例えばAIIoTや車のEV化や自動運転化などは、いわば文明の津波だと考えても良いでしょう。その波から逃げるのか、それに乗ってイケイケドンドンで走るのか、或いはそれを下に眺めながら高台移転を進めて、それを冷静に観察するのか、私たちの「胆」が試されているとも思うのです。放っておいても、上に述べた技術はドンドン前に進むでしょうが、しかしその技術が人々を(大多数の人々)を幸福に導いてくれる保証はないでしょう。それどころか、それを享受できる一握りの人々と、それから置き去りにされてしまった大多数の人々との経済格差は、ますます拡大する事は明白です。

そこで必要なのは、ヒステリックに構造改革を叫ぶのではなく、冷静に私たち自身の「意識改革」を進めることだと思うのです。意識改革をもっと別の言葉で表すならそれは「価値観の転換」になるかも知れません。経済第一の社会で価値があるモノ(例えば、石油やお金や債券や仮想通貨など)は、価値観を転換した社会ではただのガラクタになり下がってしまう筈です。意識改革が完了した社会で多分大きな価値を持つのは、自分の手で育てた安全な無農薬の野菜やコミュニティの中でお互いに助け合う「絆」や、汗水流して山から切り出したバイオマスや、一度手にしたモノを、徹底的に使い倒し、最後は燃料や再生して再度製品に戻す「完全リサイクル」システムなどになるのでしょう。転換すべきは構造ではなく、社会の成員の意識なのです。

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2018年1月11日 (木)

3390 目標17 パートナーシップで目標を達成すること

これまで述べてきた無理難題の目標を達成するには、もちろん色々なステークホルダーが互いに私利私欲を捨てて協働作業をする事が必要なのでしょうが、残念ながら狭い範囲の活動に勤しんでいる人達には、他者の活動は見えにくいものの様なのです。つまりは視野狭窄です。本来ならば、高所大所から社会を見渡し方向を指し示す、識者なり政治家が必要なのでしょうが、残念ながらこの様な「社会の指揮者」は今のところ見当たらない様なのです。

識者は、自身の専門分野という狭い立場から物事を眺めますし、今の政治の世界には、政治を商売にする「政治屋」しか見当たらないのが実情なのです。なにしろ国レベルで見ても、○○ファーストというエゴが堂々とまかり通る時代なのですから。国レベルのパートナーシップ、都市レベルのパートナーシップ、コミュニティレベルのそれを生み出すのは、まさに至難のワザだと言えるでしょう。

ではどうするかですが、現在の社会のリーダー(っぽい人達)に期待していては、千年待っても何も変わらないでしょう。先ずは個人レベルで他者を慮(おもんばか)る小さなパートナーシップを積み上げ、徐々に遠い他者をも慮る、「遠慮(遠き慮り)」を増やして行かなければならないのでしょう。もちろん、その道は千里に及ぶのでしょうが、先ずは一歩から始めるしかないのでしょう。

以上、SDGsの17個の目標を一応舐めてみましたが、いずれも一筋縄ではいかない課題を抱えているどころか、それらが複雑に絡み合っていて、さながら固く結ばれた乱麻に、更に水がぶっかけられた状態に似ている様に思えてきました。乱麻に掛けられた水とは、即ち人間の欲であり、それを具現化した「行き過ぎた経済活動」である事は間違いないでしょう。人間は、一度表出した欲を引っ込めるのは苦手な生き物であるからです。地球のため、他者のために欲を捨てる事を、仏教では「喜捨」などと表現するのでしょうが、全ての人がこの境地に到達するのは、たぶん夢のまた夢なのでしょうが、少しずつでもこの様な考え方が広がって欲しいと、投稿者としては夢見ています。SDGsに関しては、一旦筆(キーボード)を置きます。目標達成のための良いアイデアが浮かんだら、追加投稿する事にします。

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2018年1月10日 (水)

3389 目標16 平和、正義と充実した制度機構

投稿者が想像するに、今の世界が必ずしも平和であると言い難いのは、国やコミュニティ間にある「疑心暗鬼」に原因がありそうなのです。例えば、B国の社会では銃の所有が認められていますが、これは正当防衛で銃を持つ犯罪者に対抗する手段として合法化され続けているのでしょう。核爆弾には核爆弾で、ミサイルにはミサイルで対応するのも同類です。北の隣国も、周りの国々を全く信頼しておらず、周りの国々も同様に若い指導者の正気を疑っているのです。

これは、とりもなおさず国と国、人種と人種の交流が薄い事に原因が見つけられそうです。B国やアフリカ大陸の南端の国などでは、長い間人種差別が横行していて、現在では水面下に見えなくなりつつあるとは言っても、根絶された訳ではないでしょう。しかし、例えば投稿者も暮らしたブラジルなどでは混血が進んで、アフリカ大陸から連れてこられたブラックピープルの子孫も欧州やアジアから移り住んだ人々の子孫も、明確な人種の線引きは最早不可能となっています。数十年前五輪などで活躍した、ブラックピープルの血を濃く引きついでであろうサッカー選手がいましたが、国民から多大な尊敬を受けていた事でもそれが分かります。

その意味では、人々は人種に分かれて、モザイクの様に暮らすべきではないと思うのです。A国人でもB国人でもC国人でもない、地球人が増えれば、最早人種差別やそれに起因する(人種間)格差も霧散する筈なのです。もちろん、そんな社会でも才覚のある人とそうでない人との間に格差は生ずるのでしょうが、少なくともスタート時点の(人種に起因する)格差は無くなる筈です。

その上で、解決すべきは宗教戦争でしょうか。信教の自由は確保されて然るべきですが、それを根拠に他の宗派や他宗教の人々を差別したり、迫害したりするのは論外です。それにしても、同じ聖地から出発した筈の複数の宗教を信仰する人々が、数千年に亘って、互いに憎みあったり戦争したりするのは、やはり投稿者の想像をはるかに超えてはいます。ここでの結論としては、時間は掛かりますが、人種同士がしっかりと混ざり合って滑らかな人種のグラデーションを作る事しかなさそうだ、となりました。もちろん、その際の「正義」とは、地球上のヒトを含む全ての生き物とそれを取り巻く環境の「持続可能性」になるのでしょう。

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2018年1月 9日 (火)

3388 目標15 陸の豊かさを守ること

3387で述べた海の豊かさを支える栄養塩類は、ごく一部は人間が出す排水にも含まれますが、当然の事ながら殆どは、陸地を潤した雨水が海に運び込んだものであるには自明です。渓流や河川や氷河が山地を削ったり、溶かしたりした塩類や鉱物、あるいは植物の朽ちたものから滴り落ちる水に含まれている有機酸などが最終的には海に流れ込むのです。鉱物で量が多いのは、雨水に溶かされ易いカルシウムやケイ素分、有機酸で代表的なのは、フミン酸やフルボ酸なのですが、それを供給する落葉樹が茂る里山の下流に広がる海域(里海)で、海の幸が豊富であるという事実がこれを裏付けてもいます。

つまり、海の豊かさを担保しているのは、陸(里山)の豊かさである、と言い切っても良いでしょう。しかし現実はと言えば、陸では天然林が農業や燃料とするために焼き尽くされたり、皆伐されたりしている事実には悲しいものがあります。森林を消し去っても、目先の食糧を得なければならない程、地上には人類が満ち溢れてしまったのです。陸上の可耕地は、反収(利益率)の高い単一の作物で埋め尽くされ、しかも灌漑のために、化石水と呼ばれる地下水を、持続不可能な形で使い尽くそうともしているのです。

その意味では、私たちは今陸の豊かさを守るという行動とは全く逆方向に突っ走っていると言うしかないのです。先ずは、木を植えられる場所には、何は無くともその土地気候や土壌に合った樹木を植林し、農地についてもその土地が供給可能な量の水で潤せる程度の農業を営み、かつ肥料についても可能な限り有機肥料の割合を増やすという動きが不可欠でしょう。その前提として、農産物は家畜(肉牛など)に食わせる量を減らし、人間がそれを直接食糧とする動きが欠かせないでしょう。なにしろ、牛を1㎏肥えさせるためには、その10倍以上の穀物量が必要とされているのですから、ざっと言えば穀物飼育の(美味な)牛肉を諦めれば、同じ耕地面積で10倍近くの人が生存できる筈なのです。

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2018年1月 8日 (月)

3387 目標14 海の豊かさを守ること

海の豊かさの源は、大部分は海水に含まれる「栄養塩類」の多寡にあると考えられます。この栄養塩類とは、海中に漂う植物性プランクトンの肥料に当たるものだとも言えるでしょう。植物系プランクトンが増えれば、当然の事ながらそれをエサとする動物性プランクトンやオキアミなどの小さな甲殻類が増え、それをエサとする魚やクジラなども増えるといういわゆる「食物連鎖」が続くのです。

つまり、ごくごく簡単に言えば、海の栄養塩類を適当な濃度に管理してやれば、海の豊かさを維持する事は可能だと言えるでしょう。しかし、内海や湾などの閉水域で既に経験している様に、人間の活動から出る廃水は、栄養塩類だけではなく、植物プランクトンなどの海洋生物にとっては有害な物質も多く含まれています。特に重金属は、かつて水俣病などの公害病でも明らかになった様に、食物連鎖の中で「濃縮され」、その頂点に立つ人間にもっとも過激に攻撃してきたのです。

結局は、例えば人間のし尿や生活排水なども、排水する環境に応じて「(完璧ではなく)適度に処理」して放水する事によって水域の栄養塩類を適正に保てるでしょう。一方、それらにとって、ひいては人間にとって有害な(人工)物質(豊洲の有機溶剤等による土壌汚染やかつてのPCB汚染を思い出してください)や重金属などは徹底処理して排水から除去してやる必要があるでしょう。私たちは、かつての公害や鉱害の痛い経験から、排水処理の技術を磨いては来ましたが、経済的な理由からあまりあるいは全く処理しないまま、水系に放流する途上国の何と多い事でしょう。その意味では、お隣のC国も立派な途上国でもあります。

海は、地表の2/3の面積があり、深さも最深部では10,000メートル以上もあり水量は無限の様に見えますが、閉水域や海溝には、既に人間の工業生産や生活活動から出る有害物が、既にかなりの量堆積している事が想像できます。海水中に溶け込んでいる有害物も、ざっと言えば1千年単位の海洋循環(熱塩循環)によって、今後海洋生物に悪さを及ぼす可能性も否定できません。平凡な結論となりますが、地道ではあっても、水の重要性、取り分け河川や海域の水質には、今後とも敏感であり続ける必要があるのでしょう。

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2018年1月 6日 (土)

3386 目標13 気候変動に具体的な対策を取ること

実はこれが17個の目標の中で、対策の実現が一番困難なものかも知れません。何しろ、問題が目には見えにくい上に、国境をまたいで地球規模で広がっている事と、この問題が世代を超えて長い時間を掛けて顕在化した、複雑な気候変動(例えば温暖化現象や気象の激烈化など)に関する問題であるからでもあります。しかも、化石燃料という「戦略物質」でもあり、全ての産業や社会セクターとも利害が絡むモノや、人間社会の格差問題等も抱合してもいるのです。まさに、この問題は「固く絡み合った乱麻」であるとも言えるでしょう。

その乱麻を解きほぐしたいのであれば、例えばヨーロッパでの実験の様に、地球規模で一枚岩の経済圏を作って、その中で利害を調整するしかないのでしょうが、残念ながら国々には資源の偏在、人口の密集度、産業力や経済力の格差などがあり、経済統合のためには、先ずは国と国との間のレベル調整や向かうべき社会の方向合せが必要でしょう。これは、多くの文明が生まれても、いずれの文明でも成功できなかった難題でもあり、その解決方法については糸口さえも未だに見つかっていないのです。それどころか、国々のレベル差はますます拡大している様にさえ見えます。従って、単一の経済圏を作って国々の利害を調整しつつ、気候変動を抑え込むという対策は、現段階では見果てぬ夢に過ぎない言うしかなさそうです。

そこで、京都議定書やパリ協定の様な国際間の枠組みで、各国のレベルに合わせて「それなりに努力する」といった程度の努力で、お茶を濁している状況に留まっているのです。しかし、考えてみれば、国々の利害を調整するよりは、国々にあって、個々人が環境保全に向けての活動を始め、その様な人々(投稿者の様な環境人間)を増やしていく方が、近道であるのかも知れません。それには、○○ファーストという国や個々人の「エゴ」を捨て、地球環境の保全に寄り沿うと言うココロを育む「環境教育」しかないのではいかと思っています。

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2018年1月 5日 (金)

3385 目標12 責任ある消費と生産

この表題で思い当るのは、例えば「グリーン購入」です。どうせ買うなら、環境負荷の小さな製品なり商品を買う、という行動を指します。では、いったい誰が誰に責任を持つかですが、それは「人間」が、「地球環境の持続可能性」に対して感ずるべき責任の事であるのは自明でしょう。逆説的ですが、残念ながら特に20世紀を通じて、私たちはその「責任」に鈍感に暮らしてきました。そのツケが、真綿の様に徐々に私たちの首を絞め付けつつあるのは間違いのないところです。それは、単に気候変動(温暖化や気象の過激化や砂漠化)のみならず、焼き畑農業による森林破壊などにおいても、その破壊のスピードに鈍化がみられません。それは、21世紀末までも増え続けると予測されている「人口圧」と、途上国に住む人々が、より物質的に豊かな生活を送りたいという強い願望の掛け算の結果であるのは間違いないでしょう。

責任ある消費と生産とは、結局「足るを知る」という言葉に集約される様に思うのです。人は欲深いので、どうせ手に入れるなら、それが余ると分かっていても出来るだけ多くのモノを手に入れよう行動します。それが、豊かな国にカウントされるこの国でも、廃棄食糧の割合を押し上げているのでしょう。足るを知るとは、どういう行動なのか考えてみると、先ずは食べ物で言えば、一度に食べきれるだけの量の食糧を買い、調理すると言う行動でしょうか。そのためには、材料をしっかり計量する事も必要かも知れません。エネルギーに関して言えば、お湯を沸かす際に、先ずカップに水を入れ、それをヤカンに移して沸かせば、最小限のエネルギーでお茶にありつけるでしょう。企業においても、在庫や造り貯めを最小限に抑えれば、物質消費やエネルギーの消費も最小限に抑えられるでしょう。

食べ物に関して一般的に言えば、先進国では食べ過ぎによる肥満が問題になっています。それは、お腹も減っていないのに、三度(かそれ以上)の回数の食事をしてしまうからでもあります。必要な量(と質)の食べ物をお腹がすいたタイミングで摂っていれば、生活習慣病と言われる病の大きな部分を無くせる筈なのです。同様に、エネルギーだって必要な量を吟味して、大切に使えば、エネルギー使用量の3割減だって、難しい数字ではないのです。生産者も、消費者も、鼓動を起こす前に、改めて「持続可能性に対する責任」を思い起こすべきだと言っておきます。

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2018年1月 4日 (木)

3384 目標11 住み続けられるまちづくり

これは、多くの社会で意外に軽視されがちなポイントです。人に年齢に応じたライフステージがある様に、街にもその様なものがありそうです。この国でも、高度成長期の産業構造の変化によって、ある時期に田舎から街へ大量の人口移動が生じ、街の郊外にいわゆるニュータウンや大規模団地が造られ、人々の住み処を提供してきた訳ですが、いまその団地は建物が老朽化し、住人の高齢化が極端に進んでしまいました。一方で、人口を送り出した田舎でも、家主の居なくなった家屋は放置され、朽ちるに任せている状況なのです。

結果として、高度成長期の産業や人の住み処の変化は、世紀単位の時間的経過の中では、決して「持続可能ではなかった」事が、いみじくも露呈してしまったと言えるのでしょう。急激な構造変化の下では、住宅も街も急造の「間に合わせ」となる事は仕方がなく、結果としてそれらは急速に「劣化」が進むのです。劣化した住宅は、最早人が住むには耐えられず、更地にするか、それが出来ない場合は、放置されるしかないのでしょう。一方で、頑丈に作られた田舎の住宅でさえ、十分なメンテナンスが為されなかった結果、構造が朽ちてしまい修復の限界を超えてしまうのです。

このブログでも、何度か構造がすこぶる頑丈な100年住宅を提案してきた様な気がしますが、構造だけは、大地震が来ても、水害に襲われてもビクともしない様に作って置けば、内装に手を加えるだけで、住み手のライフステージに応じて、住み続ける事が可能でしょう。地震が殆ど無いとはいえ、頑丈なヨーロッパのレンガや石造りの住宅が、数百年も存続し続けている所以です。コンクリート造も半世紀程度の寿命しかありませんので、地震や水害が多いこの国では、たぶん勘定で太い鉄骨造りが現実的なのかも知れませんが、ハウスビルダーには一層の工夫が求めらえるのは間違いありません。この国でも、人口は減少過程に差し掛かり、産業構造も落ち着いてきている事もあり、ここらでこの国の街(や村)のあり方も真剣に見直す必要があると思うのです。

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2018年1月 2日 (火)

3383 目標10 人や国の不平等をなくすこと

何故、国や人々の間に格差や不平等が生まれるかですが、最大の原因としては、間違いなく資源や富の「偏在」にあるでしょう。極端な例では、砂漠しかない国々でも、そこから潤沢に石油や天然ガスが採取できれば、世界でもトップクラスの金持ち(国)になり得るでしょうし、MSやG-グルやAマゾンの様に、世界的にトップシェアが取れる様な商品やサービスを持っている個人や企業もまた、世の中の富を効率的に集める事も容易でしょう。

残念ながら、たぶん現在の経済の仕組みでは、手をこまねいていても、今後国や個人の格差が縮まるとは思えません。むしろ、その逆で拡大しそうな予感すらします。その理由は自明で、現在の世界で価値を認められているのは、化石燃料であり、情報であり、何よりお金(Moneyや債券)であり、それらが極端に偏在しているからです。なにしろ、これら(資源やマネーは)あるところには唸るほどあり、無いところには殆ど無いのですから。

投稿者の様な凡人がいくら集まって議論しても、そこで生み出せる浅知恵では、この格差は如何ともしがたいのですが、希望は持っています。つまり、資源やマネーの価値が相対的に低下し、代わって「生き甲斐」や「幸福度」や「土地土地で作られる食糧」といった必需品の価値が向上すれば、経済地図も変化してくると思うです。というより、経済活動の重要性が低下してくると見ているのです。その様な社会では、地産地消のエネルギーや食糧といったものがクローズアップされ、いくらお金を持っていても欲しいモノ(必需品)が手に入りにくくなる筈なのです。

さて歴史を振り返ると、人類が農業で食糧を手に入れる様になって以降、余剰の食糧はストックされて「富」なり、それらを売り買いする中で、いわゆる(貨幣)経済活動も拡大していったのでした。地産地消経済では、余剰(ストック)は必要最小限に抑えられる事が予想できますので、富の偏在もかなりの程度抑えられるのではないか想像しています。ここでの結論は、格差を無くすためには、地産地消を推進することとしておきます。太陽光(エネルギー)は、今は貧しい南の国々では豊富に手に入りますから、化石エネルギーの入手が経済的に難しくなるにつれ、それを多量に消費している先進国が困窮し、相対的に途上国が豊かになるという筋書きです。

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2017年12月31日 (日)

3382 目標9 産業と技術革新の基盤をつくること

いわゆる産業革命とは、18世紀から19世紀にかけて、人力が機械力に置き替えられ、生産性が飛躍的に向上した時期を指しているのですが、エネルギー源という視点で見れば、石炭が石油という液体燃料に置き替えられた時期、更に言えば電力がモーターという装置で動力源が電力になった時期も、産業史的に見れば同じ程度に「革命的な」事件だったと思うのです。更に、そこにコンピュータ(現在はIoTとか呼ばれるが)という道具が加わって、電力エネルギーはまさに現代文明の申し子と言って良い程の不可欠な産業要素となったのですした。

さてこの上で、更なる技術革新とは一体何を指すのでしょうか。たまたま29日の晩に、Eテレで「人間ってなんだ」などという意味深な番組を観てしまいましたが、投稿者としては、あらゆる意味で未来学者である、RK―ツワイルの言葉には賛同できませんでした。彼の予測は、いわゆるシンギュラリティなどと呼ばれる、人間(の脳と)AIの融合で、やがてはAIが人間の脳を超克するなどというものですが、人間としては手足をバタつかせて暴れても、そんな事態にはならない様にもがくべきでしょう。

投稿者としては、そんな夢の様な「絵空事」ではなく、ここいらでエネルギー的に見ての更なる技術革新(革命)を起こす必要があるのだと思っています。その技術革命とは、いま世界の基盤や産業活動を支えている化石エネルギーを、いわゆる「再生可能型エネルギー(以下再エネ)」に切り替えていくものになると予測しています。社会のインフラとして電力網や鉄道網が整備されている国々では、欧州のいくつかの国々で成功しかけている様に、かなりの程度実現性があるでしょう。火力発電所や原発を、徐々に(又は急速に)数多くの風力発電や太陽光発電などに切り替えて行けばよいからです。しかし、その様なインフラが整っていない途上国では、基本的なエネルギーは石油に頼り、加えて輸送もやはり化石エネルギーに依存しているからです。再エネ源から、石油より安いコストでエネルギーを取り出し、かつそれが輸送インフラにも適用できる様にするのが、今後求められる「技術革新」の中心だと思うのです。

同時に、この技術革新には、少なくとも使用エネルギーが、現在の半分あるいは1/3で済む様な「省エネ技術」が含まれている必要がある事は自明です。

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2017年12月30日 (土)

3381 目標8 ディーセント・ワークと経済成長を両立させる

ディーセント・ワーク(Decent work)も日本語になりにくい英語言葉の一つでしょう。敢えて置き替えれば「生業」なのでしょうが、その前に「働き甲斐のある」という形容詞が必要でしょう。つまり、その日の糧を得るための単なる労働ではなく、働くことが、ささやかでも他の人や社会の役に立ち、働き甲斐を感じられるという点が重要なのだと思います。

もちろん、日々のルーチンワーク(仕事)が、そのままディーセント・ワークになっているのが理想ですが、多くの場合は残念ながら、(投稿者が若かった事を思い起こせば)仕事は「メシのタネ」と割り切って働いている人が多いのではないかと勝手に想像しています。そうであるならば、そのメシのタネである仕事を、可能な範囲内で生き甲斐を感じられる様に軌道修正していくと同時に、余暇を少しだけでも世の中の役に立つ行動(一般にボランティア活動と呼ばれます)を起こすとか、それも面倒だと言うなら、ささやかに買い物の釣り銭(ばら銭)だけでも良いので恵まれない人達のために寄付し続けるとか、何らかの行動を起こす事によって、ディーセント・ワークに近づける可能性が髙くなると思うのです。

しかし、果たしてそれが経済成長につながるかと問われれば、かなり大きな?マークが付くでしょう。というのも、例えばボランティア活動とそれに対する金銭的な見返りとは、必ずしも相容れない部分が多いからです。お金が発生しない活動は、基本的には「経済」の枠からははみ出る事は致し方ないのです。従って、ボランティア活動がどれほど拡大しても、どの経済学者も政府も経済成長とはカウントしてくれないのです。しかし、よくよく考えてみれば、例えばあるボランティア活動が為されなかったと仮定した場合、それは例えば行政が税金を注ぎ込んで、それを代行しなければならなかった筈なのです。ボランティア活動の結果、使われる税金が減ったのなら、それは別の社会的活動のためのお金として生化されてくると思うのです。

という訳で、結果として見れば、それはさながら経済活動が活発になって、税収が増えたと同じ効果を生み出すでしょう。ディーセント・ワークが経済成長を両立させるという道は、工夫さえすれば、十分実現可能だ、と投稿者は信じたいのです。

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2017年12月25日 (月)

3380 目標7 手ごろな価格のクリーン・エネルギーの普及

先進国では、クリーン・エネルギー(以下再エネ)を推進させるためにFIT制度や税制での優遇などのインセンティブを使って、いわば力で再エネ政策を推進してきました。しかし、FITは再エネ単価の高止まりを招き、かつ事業性の観点から大規模化が進んでしまったのでした。しかし、再エネは、別の視点から言えば「ローカルエネルギー」でもある訳で、ローカルエネルギーは「地産地消」でなければならない必然性がある点は強調しておくべきでしょう。

化石エネルギー以外のエネルギー源は、残念ながら貯蔵やその移送さらには、それを使っての「発電」にはあまり向いていません。少し考えれば分かりますが、クリーンエネルギーとは、地熱を除けば全てが太陽光(熱)起源となっています。例えば、太陽光発電は、太陽光のエネルギーが高い部分を直接使っていますが、バイオマスも植物(の葉緑素)が太陽光を使って有機物を固定した「成果物」なのです。水力だって、太陽光が海から水を蒸発させ結果生まれた雲が、山に雨を降らす事によって得られる立派な「太陽エネルギー」の一形態でもあります。

更に考えを進めれば、太陽光の分布という事に想いを馳せる必要が出てきます。太陽は、それが地表に直角に当った時に、それを100%利用できたと仮定しても、精々1kw程度のパワーしかありません。1kwの電力を得ようとすれば、太陽光発電の効率が20%と仮定すれば、5㎡の面積が必要となる事が分かります。他方、植物による有機物固定をエネルギーとして利用するには、もっともっと広い農地や林地が必要なのです。つまり、太陽光は広く薄く分散しており、その利用には広い面積が必要だという事です。

これは、太陽光の利用は、本質的に「大規模化には向かない」事を意味するのです。従って、太陽光発電は、各戸の屋根行い、その家で消費するのがベストですし、バイオマスにしても水力にしても、その地域で持続的な調達可能な範囲内で、小規模システムで利用すべきだと言うことが分かるでしょう。お国やメーカーは、先ず経済的な成り立つ最小限のシステム(ミニマムシステム)を構想し、もし規模の拡大が必要であれば、そのミニマムシステムを分散的に増やせば良いのです。その際、エネルギー源の調達が持続的であり、かつそのための(化石エネルギーを使った)輸送も最小限であるという条件を満たす必要もあります。幸いな事に、太陽光は赤道に近い、いわゆる途上国に豊富であるという事実は、地球規模のエネルギー問題という点から見れば、安価な再エネの入手には「希望」とはなるでしょう。

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2017年12月23日 (土)

3379 目標6 安全な水とトイレの普及

日に何度も口にする水が汚染されている事は、その国や地域に住む人々の健康状態や平均寿命にも大きな影を落としている筈です。当て推量で言えば、死亡原因の半分程度は飲み水に関係がある様に思うのです。体の2/3が水分である私たちは、必要量の水無しには生きていけないので、汚染されていると分かっては居ても、やはりそれを飲まざるを得ない人達が、世界人口の大多数を占めるのは悲しい事実です。

同様に、トイレ問題も、水問題同様に感染症の主な原因になっている事も間違いないでしょう。かつてヨーロッパでも、トイレからの汚物が道路に捨てられていた時代、何度もペスト(黒死病)などの重大な感染症が原因で、人口の何割もの人達が亡くなるパンデミックを何度も引き起こしていた事実を忘れるべきではないでしょう。幸いにも、この国では江戸の様な百万都市でも、汚物を都市から運びだし、農地に還元する「リサイクルシステム」が出来上がっていたため、ヨーロッパの様な悲劇は殆ど起こりませんでした。

問題解決のヒントはどうやら江戸期にありそうに思います。水に関して言えば、この国はラッキーだと言えるでしょう。降雨量が多い上に、山から里までの高低差があるため、水路を上手く設計しさえすれば、水の入手には困らないからです。江戸期においてさえ、多摩川などの上流部から取水し、長い開渠や木製の暗渠を繋いで、市中の井戸で水が汲めるように仕掛けをしていたのです。流石に、砂漠や平原の地域では、別の方法で水を手に入れる必要があるでしょう。一つの方法は、簡易的な井戸を掘る事でしょうか。「上総掘り」の様に、たいした材料や装置も無しに井戸が掘れる工夫が不可欠でしょう。それも出来ない乾いた地域では、仕方がないので太陽電池で駆動する造水装置が必要かも知れません。これは、電動のヒートポンプを動かして、空気中の水分を凝縮するものです。

トイレ問題については、最近各地の登山道に設置る事が多くなった、いわゆるバイオトイレがあれば十分でしょう。おが屑などを入れたタンクに直接汚物を落とし、微生物の力で自然に分解させるものです。おが屑を時々かき混ぜる必要がありますが、それは手動か小さな太陽電池とモーターを備えてあれば十分でしょう。

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2017年12月22日 (金)

3378 目標5 ジェンダー平等を実現する

人類は、ほぼ男女の比率が同等の珍しい生き物です。その意味で、オスが群れを守り、メスが食糧を調達する、例えばライオンなどの動物とは明らかに雌雄(男女)の役割が違うと思うのです。つまり、男女の役割は、子供を産み落とすという役割以外は、殆ど差が無い事を前提に進化してきたと想像しています。その意味で、ある試算が示す様に、女性も役割に適正に働けば、この国のGDP4%程度は増加すると見られているのです。一人当たりで言えば、4万ドルほどのGDPが、1600ドル程増えるとの試算です。

この国は、教育レベルも高い国なのですから、やる気にさえなれば(ところで誰が?という疑問は残りますが)この目標をクリアするのは比較的容易な筈なのです。もちろん、類人猿の集団がそうである様に、社会(集団)をして、その集団の子供を集団として育む行動は必須でしょう。子供は、放っておいても育ちますが、何より大切な事は、地域の子供たちの集団の中で育て、それを地域の大人(例えば子育てを終え、社会の一線から退いた世代)が見守る事は必須でしょう。これは、いわゆる少子高齢化社会で、子供世代の数を増やし、かつ退役世代に重要な役割を担って貰うという「両得」が期待できるでしょう。

もちろん、これは単に製造業の人手不足を解消し、ドンドンモノ造りを拡大する事は意味しません。そうではなくて、今の社会には人手不足のために、「痒いところに手が届かない」部分は非常に大きいと思うのです。例えば、上に述べた地域子供の見守りや同じく地域の独居世帯の見守りなど、経済合理性からは見放されたサービスなどが挙げられます。また例えば、車の利用を前提に、コンビニや郊外のショッピングセンターに押し付けられた各種の小さなサービスを、街中で歩いて行ける範囲で提供する様な仕組みも必要かも知れません。そこに、女性や草食系男子?も大活躍できる場が広がる筈なのです。というのも、LGBTが話題になる事も多い昨今ですが、男と女は完全に二分できるものではなく、投稿者はその間には多様な「グラデーション」を描くジェンダーが存在すると思っているからでもあります。

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2017年12月21日 (木)

3377 目標4 質の高い教育の普及

教育とは、単に教室に人を詰め込んでの座学を行う事ではありません。もちろん、最低限の読み書きソロバンは、座学が最も効率的でしょう。問題は、その先です。その先にある教育とは、結局「問題解決能力」を高める教育だと思うのです。この能力さえ高めてやれば、もし学習者がある分野の問題に突き当たって、自分にその分野の知識が足りないと感じたとすれば、自然に自ら進んで学習を始めることでしょう。問題解決能力は、自分の経験に照らしても、たぶん小学校の高学年になれば、芽生え始める能力だと想像しています。この時期に、小さな問題を提示し、それを解決する手法なり手順を身に付けさえすれば、その能力は中学校で、さらには高校レベルで急速に伸張する可能性が髙いのです。

さて、その能力を高めるためには、単に学生を大学に送り込むだけでは全く不十分でしょう。この国で講義と言えば、大勢の教室で、一方的にTeaching/Learing型で行われるからです。投稿者としては、理想の教育とは、Education/Study型ではないか、と理解しているからです。前者と後者の違いは、前者が一方的で受け身の「教育」であるのに対し、後者は学ぶ側の意欲を刺激し、学び取る「学習」である点です。結果として、両者は質的に全く異なる人材を育ててしまうのです。

さて、後者の様な質の高い学習で人材が育成出来たとして、その成果は、まさに3373で述べた17の目標を達成するためにこそ役立てる必要があるでしょう。教育とは、単に教養を身に付け、社会生活に適用するためだけではなく、人類の「持続的な繁栄」にこそ役立てるべきだと思うからです。ここで重要なキーワードは「持続的」という部分です。歴史上ごく短い期間だけ反映した文明はいくつもあったのですが、それらが消えた原因は、まさにその文明のシステムが持続的ではなかったからであるのは自明です。それらの失敗学にも学び、では今の文明を更に持続させるために、何を為すべきか(あるいは為さざるべきか)を学び取る教育こそが、この目標にうたう「質の高い教育」でなければならないのでしょう。

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2017年12月20日 (水)

3376 目標3 全ての人に健康と福祉をもたらす

これも3375の食糧再配分問題と目標5に掲げられている安全な水問題に、たぶん7-8割の率で起因していると想像しています。その意味で、17の目標はお互いに不可分で乱麻の如く、絡み合った問題に対する目標だと言えるでしょう。さて、栄養状態が正常で、安全な水さえ確保されれば、免疫力低下や汚染された水に起因する多くの感染症が防止できる事は容易に想像できます。なにしろ、人間の体の2/3は水分で、しかも1日当たり数リットルの水を、直接又は食物として摂取しなければ、生きていけない存在なのですから、水の確保は食糧そのものと同程度に重要なのです。人々の健康維持のためには、先ずは安全な水の確保が必須である所以です。

17の目標全てが、人類の持続的な幸福につながるものである事は論を待ちません。その中で、この目標3の「福祉」は、公的な扶助により、比較的に幸福でない人達を、より幸福な生活が送れる様に手助けする事を意味します。つまりは、すっかり不平等が蔓延してしまった社会で、幸福のバランス取りを行うのが福祉政策の役割でしょう。しかしこれは、単に高額所得の企業や人から税を巻き上げ、それを貧しい(ここでは現金の手持ちが少ない)人達にばら撒く事は意味しません。お金だけで、人々の幸福度が比例して上昇する訳ではありませんし、単純で「機械的」な福祉だけでは、人々の「やる気」や「達成感」を損なってしまうからです。

その意味で、この目標3に関して言えば、そのアプローチとしては、例えば安全な水の確保のために、機械力を要しない井戸掘削の技術(例えば上総掘りの様な)を普及する活動や、直接的な福祉よりは、人々がその能力に応じて始められるSmall businessの元手を、無利子で貸す(例えばグラミン銀行の)様な、地味であるが地道な活動こそが求められると思うのです。

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2017年12月19日 (火)

3375 目標2 飢餓をゼロにすること

3374の富の再配分同様、食糧の再配分も最も上手く行っていない分野の一つのです。理由は明確です。それは、いわゆる「商品作物」とそれを扱う「巨大市場」の存在でしょう。かつて、人々がモザイクの様に暮らしていた時代、食糧は基本的に地産地消でした。穀物も野菜も果物なども必要な量をその土地で賄っていた筈です。しかし、海運の発達や産業革命後の大量生産に対応するため、という先進国の身勝手な論理で、いわゆる植民地(プランテーション)をガンガン作って、商品作物化を拡大し続けたのでした。

コショウにしても、お茶にしても、ゴムや綿花にしても、それを直接口にして腹を満たす事は出来ない相談なので、先ずはそれらを市場で「換金」する事になります。市場には、相場というものがあって、価格は必ずしも安定的には推移しません。むしろ、投機を伴って乱高下を繰り返すのが常でしょう。結果として、資本家はますます富み続け、農地も労働力も豊富な国々は、先進国に搾取されながら、ますます貧乏で食糧状態もひどくなるという悪循環に陥るのです。現代においても、国際メジャー資本が、多くの途上国で、これとあまり変わらない状況を維持し続けていると想像しています。

これを根底から変えるのは、実は大変な努力を要するのは間違いないでしょう。何故なら、お金があって、それを買える国々の消費者は、商品作物に対して強い需要を抱えているので、すぐに状況を変える事は事実上できない相談だからです。しかし、いずれかの時期には、商品作物の作付面積(つまりは国際メジャー資本の権利)を徐々に制限しながら、食糧のための農地の割合を拡大し続けていくしかないのでしょう。もちろん、メジャー資本は、札束で彼の国々の政治家の頬を引っ叩きながらでも、その動きを阻止しようと画策する筈ですが・・・。いずれにしても、一気呵成は難しそうなので、国際的枠組みの中で長期的な目標を設定し、そこに向かって徐々に近づくしかないのでしょう。

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2017年12月18日 (月)

3374 目標1 貧困をなくすこと

貧困は何時の時代も「相対的」である事には注意を払うべきでしょう。原始共同社会においては、部族の構成員は皆平等に扱われていた筈です。働けるものはその能力に応じて働き、部族として子供を育み、働けなくなった人たちを支えていた事でしょう。しかし、工夫し努力する事をいとわなかった部族は富を蓄えはじめ、そうでない部族は貧しいままだったと想像できます。また、大きな部族の中でも、上手く立ち回る人やその家族は、相対的に豊かになり、そうでない人達との豊かさの差は拡大して事でしょう。

しかし、富が地域内で循環している間はその差も問題にはならない程度だったのでしょうが、交易が盛んになり、そしてそれが国を跨ぐ様になると共に、富める者とそうでないものの差は一気に拡大した筈なのです。富める者は、リスクを取るための思い切った「投資」も出来た筈で、それが成功すると富の差は更に拡大した事でしょう。

産業革命以降、石炭や石油や天然ガスや原子力といった、言わゆる「化石エネルギー」や地下資源(鉱物など)が国際商品として流通し、それが量が限られた「金(Gold)」ではなく、印刷されたお金(Money)で決済される様になると、取引額は天文学的な数字に拡大していきました。資源を持てる国はますます富み、それを利用する工業化に成功した国々は資源国を超えて富む結果になったのです。資源は持っているが、それを掘り出すだけの財力や工業力の無い国は、強国に搾取され続け、資源も無く資本力も無いAフリカの国々などは、労働力(奴隷)として大国に連れ去られたのでした。産業革命以降は、数度の世界大戦を経ながら、持続可能性という視点から見れば、資源の搾取と環境破壊と加えて人権破壊の悲しい歴史を刻んできたとしか説明できない時代でもあった訳です。

貧困を無くす事は、単に歴史を逆転させるだけでは解決できないでしょう。国や社会に出来る事は、搾取に近い交易を制限し、富の再配分の仕組みを変えること程度に限られるでしょう。しかし、一部の北欧に、それにある程度は成功している国々がある事は、心強い事実でしょうし、それを取り敢えずの道筋のマイルストーンにする事は可能でしょう。しかし、3割以下の支持率の政党が、2/3以上の議席を浚ってしまう、政治の仕組みを変えない限り、それを陰から支える富を抱えた人達(企業や富裕層)は、既得権にしがみつき、決してその富を手放そうとしないだろう事も自明です。

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2017年12月17日 (日)

3373 SDGsとは

SDGsに関しては、このブログでも何度か取り上げた様な気もしますが、ここでもう一度まとめておきましょう。この中で言われるいわゆる17の目標は以下の通りなのですが、これらの目標を闇雲に解決しようともがくのではなく、明確な長期目標(ゴール)とそれを承けて短期目標を掲げながら、「持続可能な形」でアプローチする事を求めていると思うのです。

目標1 貧困をなくすこと

目標2 飢餓をゼロにすること

目標3 すべての人に健康と福祉をもたらすこと

目標4 質の高い教育の普及

目標5 ジェンダー平等を実現すること

目標6 安全な水とトイレの普及

目標7 手ごろな価格のクリーン・エネルギーの普及

目標8 ディーセント・ワークと経済成長を両立させること

目標9 産業と技術革新の基盤をつくること

目標10 人や国の不平等をなくすことはなぜ

目標11 住み続けられるまちづくりは

目標12 責任ある消費と生産

目標13 気候変動に具体的な対策を取ること

目標14 海の豊かさを守ること

目標15 陸の豊かさを守ること

目標16 平和、正義と充実した制度機構

目標17 パートナーシップで目標を達成すること

それぞれについては、以下毎回1個ずつ取り上げながら、投稿者の理解やそれにまつわる想いを記していく事にします。

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2017年12月13日 (水)

3372 何故今更月面プロジェクト

B国の月面着陸プロジェクトが再起動する様です。民間でも、月面に小型探査車を送り込み、500mだか走らせるレースが動いていますが、投稿者としてはその目的が見えないのです。一番乗り競争であれば、既にアポロ計画で決着がついている訳ですし、小型探査車であれば火星への送り込みが完結している訳です。その意味で、いわゆる宇宙ビジネスが何を狙っているのか、さっぱり理解できないのです。

たぶんB国あたりは、月面利用で先んじて、軍事的な優位を確保したいのかも知れませんが、それなら無人の高高度の宇宙ステーションで十分目的は達せられるでしょうし、今更人を月面に送り込む意味は無さそうです。民間の、月面車レースにしても、軽量で高性能のラジコン車が出来たとして、ではそれが世の中のどんな課題や問題を解決できそうなのか、誰も説明してくれそうもないのです。有人月面探査にしても、重さ数キロの月面探査車を月に送り込むにしても、多額の費用と人材の他に、多量のエネルギーや最先端の材料や技術が必要となる筈です。しかし、その投資と、結果得られる成果とは、釣り合うとは全く思えないのです。

そんなお金やリソースを注ぎ込むくらいなら、地上には解決しなければならない課題が山積していると、何故リーダーは思わないのでしょうか。例えば、原発から日々生み出され、Fクシマにも多量に生まれてしまった、放射性廃棄物を無害化する技術の開発は、月面探査などに比べれば、何段階も優先順位が高い筈です。温暖化にブレーキを掛ける主役になる筈の、再生可能エネルギーの開発だって、同じ程度に髙いプライオリティ―を持っているでしょう。

投稿者の目から見れば、月面探査にしても、殆どトンネルの中だけを走るリニア新幹線にしても、壮大な「ムダ」にしか映らないのです。いずれも、国の威信は高められるかも知れませんが、成果はそこに留まるでしょう。そんな、カネや人材やエネルギーが使えるなら、もっともっと優先順位の高い、地上の問題解決に振り向けるべきなのです。

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2017年12月10日 (日)

3371 原発のリサイクル

再掲です。5-6年前にこのタイトルで書いた事は思い出しましたが、中身に何を書いたか思い出せなかったので、原稿に当ったらやっと出てきました。

原発施設の有効活用への前向きな提案です。自分でも結構イケそうなアイデアだと思うので、これを読んだ人は是非シェアしてください。さて、移行期間を別にすれば、最終的にはこの国の「原発をゼロにする」ことは国民の総意になりました。しかし、用済みになった原発を廃炉にし解体しようとする場合、原発内にある殆どの設備や部材は、程度の差こそあれ何らかの放射能を帯びている筈ですから、そこから運び出してリサイクルする事などはとても出来ないでしょう。廃材の輸送やリサイクル施設に運び込む事は、放射能にこれほど敏感になった国民意識を考えれば、事実上は出来ない相談だからです。という事は、たとえ原発内にリサイクル施設を作ったとしても、そこからは何も運び出せない事を意味します。

ではどうするかですが、既設の原発内に火力発電のためのボイラを設置すれば良いのです。タービンや発電機や復水器など、殆どの既存設備は寿命まで最大限活用し、一方で原子炉容器だけは完全封鎖しその後の廃炉に備えます。ボイラの燃料は、LNGが適当でしょう。最近のニュースでも、(ノルウェーやロシアの)北極海のガス田はかなり有望な様ですし、それを運ぶにも温暖化のお蔭で?夏場であれば「北極海航路」も利用できるようになりました。何より日本へのLNG供給量の1割程度にまで伸びてきた、サハリン2の日本製の設備も安定的に動いているようですので…。

ところで、原発には巨大な原子炉建屋も存在します。この屋根や壁を利用してメガソーラも設置してしまいましょう。また全ての原発は、海際に立地していますので、オマケに波力発電や浅海での洋上風力発電設備も設置するのです。ここまでやれば、単に原子炉を封鎖して、見通しの立たない「廃炉技術」の醸成を待つまでもなく、明日からでも原発施設を最大限に活用でき、再エネと組み合わせる事により、すっかり地に落ちた原発のイメージアップにも役立つでしょう。通常の火力発電所であれば、大津波を受けてもボイラの火が消えて「完全停止」してしまうだけなので、本質安全(フェイルセーフ)であり、金が掛かる大げさな津波堤防も不要でしょう。最悪の非常時にも、燃料プールを冷やすための少量の冷却水を確保するための安価な設備さえ追加すれば済みます。

とは言いながら、原発タービンの構造上「過熱蒸気」は使えないので、効率は通常の火力発電よりは低下します。しかし、電力ピーク時のバックアップ用としてはほぼ完璧でしょう。

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2017年11月28日 (火)

3370 セミオフグリッド2

世の中は、エネルギーと言えば殆ど電力事情や石油を意味すると見做しがちですが、エネルギーの使用目的別で考えれば、空調にせよ、給湯にせよ、調理にせよかなりの部分は、エネルギーの熱利用の形態である訳です。取り分け、空調や給湯は概ね50-60℃以下の低い温度の利用になる点は注目すべきでしょう。低い温度の熱(冷熱)を得るために、電力やガスや石油を使う「ムダ」に想いを馳せるべきなのです。たとえるなら、まるで「斧で楊枝を削る」様な行為とも言えるでしょう。

我が家の屋根には4㎡ほどの太陽熱温水パネルを上げていますが、夏場であれば一回の入浴では使い切れない程のお湯が貯湯できます。雨の日や冬場は、木質燃料ボイラで追い焚きはしますが、使う木質燃料は、例えば1日当たり数キログラム程度のささやかな量で済みます。すぐ近所の家でも、石油ボイラやLPG給湯器で暖房や給湯している家や、オール電化の給湯器を使っている家などが見られますが、いずれもエネルギー源を供給しているインフラと繋がっています。その意味で言えば、我が家は熱エネルギーに関しては、オフグリッドをほぼ達成している事になります。ほぼと言うのは、調理器具としてはガスレンジが好きだと言う連れ合いの要望と入れて、LPGガスも購入しているのと、寒がりでもある彼女が床下温風暖房だけでは満足できず時々エアコン暖房のスイッチを入れるので、「ほぼ」という事になるのです。

さて、住宅には屋根の他に「壁面」というエネルギーがある事を紹介しておきましょう。南面の壁に、薄い箱に黒色フラット(ツヤ無し)に塗装し、小さな穴を明けた波板を取り付けておくと、晴れた日には80℃に近い温風を得る事ができます、既に「ソーラーパネル」という商品名でも販売されていますが、十分にDIYで自作できるシロモノです。晴れた日に、この箱で出来た温風を室内に導けば、極寒の北海道でも日中であればそれなりの暖房効果が得られるでしょう。セミオフグリッドの基本的なエネルギー源は、基本的には太陽光(熱)だと言う点は、しっかり押さえておく必要がありそうです。その意味では、例えば木質バイオマスでさえ、数年、あるいは数十年前に「樹木によって固定された太陽光エネルギー」である訳です。

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2017年11月24日 (金)

3369 セミオフグリッド

3368の続きですが、この表題では、たぶん2回目です。前に書いた事は忘れてしまいましたが、もう一度まとめてみても無駄ではなさそうです。もっとも、人気が無い地味なブログですので、誰も前の投稿を憶えていないでしょうから、何の問題もありません・・・。

さて、オフグリッドが完全にインフラから独立した、建物なり家だとすれば、セミオフグリッドとは、たとえわずかでも、インフラからの供給の一部を自前で賄っているケースを指します。インフラには、水道や通信や交通なども含まれますが、ここではエネルギーに限って筆を進める事にします。さて、エネルギーにも熱、光、電力などその形態によっていくつか考えられますが、この国では、エネルギーと言えば電力・石油・ガスにほぼ限定されますので、以下もそのインフラからの独立を考えていくことにしましょう。

さて、エネルギーの最終的な使用形態を考えると、殆どが熱形態と光源を含めた電力形態にまとめられそうです。熱は、調理と暖房など、電力は調理と冷暖房を含む空調、その他の家電のエネルギー源となりますが、これがこの国の基本的なエネルギー源として定着してしまった様です。石油エネルギーは、専ら輸送用(車)の燃料であり、冬場の石油暖房の季節需要に集約されてしまった様です。

その電力のセミオフグリッドを始めるのは、非常に簡単です。どんな家庭でも、ビルでも、配電盤では色々な方向の配線が分かれており、それぞれに元スイッチ(ブレーカ)が付いています。小型の太陽光発電のパネルを、バッテリーに繋いで、出力側にインバータを接続すれば、準備OKです。ある一系統、例えばパソコンなどが繋がっている)系統のブレーカを落とします。その系統に繋がっているコンセントに、インバータからの電力線を逆に流し込んでやれば停電時でもパソコンが問題なく動くでしょう。電力量の限界は、バッテリー容量とインバータの能力によって決まります。パソコンやテレビを併せても1kw弱のインバータ容量と大き目の車用バッテリー程度で、数日間は停電に耐えられるでしょう。もちろん、電力を送り込んでやるコンセントには、送る側にブレーカが必要でしょうし、間違って元のブレーカのスイッチを入れない様に気を付ける必要はあります。後は、予算に応じてこれを別系統にも広げれば良いだけです。もちろん、エアコンや調理家電やヘアドライヤなど短時間に大きな電力を必要とする系統は、グリッド接続のままとしておく必要はあるでしょう。

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2017年11月21日 (火)

3368 系統連系問題3

旅行から戻って、投稿再開です。そもそも、日本の電力会社は地域に分散していたのでした。地域の力のある財産家が、地域にある水系を利用して、水力発電所を作り、地域の電力を賄い始めたのが最初でしょう。福沢桃介が、岐阜県の揖斐川水系で発電を始め、それが日本における電力事業の嚆矢となった話は有名ですが、その電力を使って、西濃地域に工業や化学工業が興隆したのでした。

つまり、ニーズがあってそれを満たすためのインフラを作るか、あるいはインフラがあって、その余剰分を生かすためにニーズや産業が興るというのが自然の成り行きなのでしょう。然るに、今の地域独占で、一見無駄が無さそうな今の電力インフラはどうでしょう。契約して(お金を払って)スイッチを入れれば、誰でも好きなだけ電力が使えるシステムが出来上がっていますが、毎年夏場には、発電能力の90数%に上るデマンドが発生し、節電を呼びかけるのが年中行事になってしまったのです。電力会社が利益を上げるために、出来上がったインフラがあるから、電気はEVやオール電化でドンドン使えと喧伝し、一方では夏場だけピークを下げたいので、節電を呼びかけると言うご都合主義がまかり通っているのです。

一度、自分の家やマンションがインフラから切り離された状況をシミュレーションしてみるのも有益でしょう。電力が無くなると、マンション住人は生活が全くできなくなる筈です。エレベータが動かないのですから、生活に必要なものを手に入れるにも、いちいち長い非常用階段を使って登り降りする事になりますし、ポンプを使って屋上タンクに上げている水も使えませんし、電気を使う全ての道具が役立たずになってしまうですからたまりません。私たちが如何に大規模インフラ、取り分け電力インフラに依存しきっているのが、簡単な想像でも分かる筈です。

投稿者がおススメすのは、セミオフグリッドです。これは、全ての電力を自前の太陽光発電などで賄うオフグリッドではなく、ベランダの手すりなどを利用して設置した小規模な太陽光発電を作り、その電力をバッテリーシステムに貯めておき、日常的にも使い、非常事態にも必要最低限の電力を確保すると言う仕組みです。オフグリッドにするためには、例えば5kwクラスのPVと大型の蓄電システムが必要だとすれば、1kw程度の小さなPVと小型の蓄電システムで、照明や通信のための必要最低限の電力の1週間分を賄うと言う安価なシステムで十分でしょう。ここでの結論としては、インフラベッタリの生活を送る限り、インフラ断絶のリスクからは逃れられないという点を改めて指摘しておきたいのです。

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2017年11月16日 (木)

3367 系統連携問題2

系統連系の問題を、デマンド側から考えてみます。現代の消費者は、自分は神様だと信じ込み、すっかり無精でワガママになってしまった様なのです。食べ物や商品の在庫は、切れていないのが当たり前で、同様に商用電力も停電が無く、何時でも好きなだけ使える事が当たり前だと考えている筈です。自分でそう言っておいて、さて自分が停電に遭遇したのは一体何時の事だったか、実は思い出せません。何時か、変電所に落雷した時だった様な気もしますが、やはり思い出せないのです。そういう、均質でユニバーサルなサービスを、そのインフラの整備も含めて全国津々浦々まで普及させた電力会社は、地域独占というお墨付きが与えられていたとはいえ、大したものなのでしょう。

しかし、電力を消費する側(デマンド側)として考えなればならない事はいくつかあると思うのです。発電所の容量や送電網の容量は、ある時点のピーク電力(たぶん真夏の午後2時過ぎと想像)を基準として設定されるものでしょう。それに対して発電量としては、10%弱の余裕を持たなければ、電圧が安定的に保てない筈です。送電線ネットワークにはもっと大きな余裕がある事でしょう。電力会社間の電力融通があるからです。投稿者が住む地域では、聞きかじったところによると、実際に送電網に流れているのは、容量の2割程度の様なのです。

いずれにしても、需要家の基本料金は、ピーク電力を元に算定され、その量が多い程ペナルティ的に高く設定されている筈です。

消費者としていの一番考えてみなければならないのは、デマンドの抑制でしょう。一般家庭でも、企業でも、電力ピークは月曜日の朝一番か、暑い盛りの晴天の午後に生じている事でしょう。もし、このピークを2-3割減らす事ができさえすれば、間違いなく発電所の規模も2-3割縮小できる勘定になります。デマンドを抑え込むためには、結構な知恵と工夫と努力が要る事は間違いないでしょう。先ず、負荷を支配している機器(家庭では家電)を特定し、その運転要否を厳密に管理する必要があるでしょう。その上で、各時点の電力値を把握し、自分が決めた上限値を超えそうな場合は、優先順位の低い機器から停止する努力が不可欠なのです。これをデマンドコントロールと呼びますが、出来ればスマートな機器を使って自動的に行いたいところです。更に続きます。

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2017年11月15日 (水)

3366 系統連携問題

再生可能エネルギーの活用に当たっては、それが電力の場合「系統連系」が問題になります。大型の太陽光発電所や大型風車などの場合は、発電した電力を送電設備で電圧や周波数を商用送電網に合せて調整した上で、連係をする必要があります。その際、電力網を所有する電力会社からは「法外な負担」を要求されるケースも多い様です。もちろん、電力会社側からすれば、送電網の整備のためにはそれ相応のコストが掛かりますから、その一部を負担せよと迫るのは、一見妥当とも思えます。しかしながら、新たに系統のための送電線を設置するのは、再エネ側の負担となっており、既存の送電網の整備なら、再エネの連携有無に関わらず発生する筈です。

従って、新規の再エネ設備を投資する際には、送電網の負担額も含めた採算を弾く必要があるため、多くの再エネプロジェクトで初期段階で諦めてしまう結果に至る様です。これでは、多くの再エネのポテンシャルを潰してしまう悪い循環に陥ってしまうでしょう。これは、いわば経済性の罠だとも言えそうです。儲からないものはダメだ、という経済性優先社会の弊害です。

そうではなくて、再エネ設備で生まれたエネルギーは、地元で消費してしまうのが基本でしょう。つまりは、エネルギーの地産地消です。そちらの方向に舵を切ると、系統連系は200Vの低圧で十分という別の結論になる筈です。つまり、一般の住宅や工場に届いている電線(電柱)に、再エネ電力をそのまま繋いでやれば良いのです。もちろん、その周辺の電圧を安定化させるためには、電力の質を上げた上で、デマンドと発電量の変動を考慮してやる必要はありますが。

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2017年11月13日 (月)

3365 バイオガス発電2

 

バイオガス発電には、もちろん大型のものも存在します。木質燃料を使うという意味では、国内にも2万kwもの出力を持つバイオマス発電所もありますし、先日この地域に完成した、生ごみをスタート原料とするバイオガス発電所は700kw以上の出力が出る様です。しかし、考えてみなければならないのは、原料を輸送する「化石燃料」なのです。前者のバイオマス発電所では、地元で発生する木材チップだけでは不足するらしく、海外から輸入するバガスも燃やしているらしいのです。再生可能エネルギーを得るために、輸送にバカにならない量の化石燃料を投入するのは、「禁じ手だ」と断ずるしかないでしょう。それは、目的と手段の逆転というものでしょう。

 

後者のバイオマス発電所でも、安定的に発電するためには、食品加工工場やコンビニチェーンあるいは外食産業から、パッカー車(ごみ収集車)を使って、毎日毎日50トンもの生ごみを、発電所に運び込む必要があります。3台のパッカー車が、平均200㎞走り回ると控え目に仮定しても、100リッター以上の軽油を消費する事になります。経由100リッターあれば、暗算でも1,000kwh相当の電力が発生出来る勘定ですから、この発電所が24時間に発電出来る量、たぶん17,000kwh程度でしょうから発電電力の「6%程度は石油で発電した」と見做す事ができます。もちろんこの発電所が出来る前は、パッカー車で「ごみ焼却場」へ運んでいたのでしょうから、それは無視できる、と強弁する人もいるでしょう。

 

しかし、真の再生可能型エネルギーを追求するためには、パッカー車をEV車として、それをこの発電所で発電した電力で動かすしかないのです。あるいは、食品廃棄物を発生させる食品工場に小さなバイオガス発電所を併設して、その日に発生した廃棄物を丁度処理できる規模とするべきでしょう。具体的には、日に5トンの食品残渣が発生する工場には、50-70kw程度の発電所が最適という計算になるでしょう。モノを運ぶ行為自体には、モノの価値やエネルギーポテンシャルを上げる意味はないでしょう。真の再生可能エネルギーを指向するためには、輸送を必要最小限に抑え込む工夫を考えるか、あるいは発生させたエネルギーで賄う事を考えるべきなのです。ここでの結論としては、再生可能エネルギーを考える上では、輸送は悪であり、原料の発生量にシンクロさせた最適サイズを指向すべきだ、という事になりそうです。

 

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2017年11月12日 (日)

3364 バイオガス発電

長い出張から戻って、久しぶりの投稿です。さて、最近投稿者自身も巻き込まれつつある表題ですが、バイオガス発電と言っても決して新しい技術ではありません。エネルギー利用という意味でなら、この国でも戦前から実用化されていたからです。石油が、戦略物資となって輸入されなくなった時代、私たちのご先祖は、なんと木炭を燃料にして車を走らせていたのです。木炭を「不完全燃焼」させると一酸化炭素(CO)が出ますが、これをガスエンジンに導いて、プラグで点火させると、ガソリンには遠く及びませんが、それなりに「おしとやかに」爆発し、エンジンが回るのです。COの熱量は、同じ重量当たりではプロパンの2割程度なので、それでエンジンを動かした時の非力さが想像できると言うものです。容易に想像できますが、この木炭エンジンを積んだ車の最大の苦手は、坂道、それもかなり緩いものでもダメだった様です。従って、戦後石油が潤沢に入る様な時代になって以降は、木炭自動車はSLと同様、歴史上の技術になり、博物館入りとなってしまったのでした。余りにも地味な技術だった事もあり、実は博物館にさえ展示されているところも、稀の様なのです。

しかし、木材などを乾留させたガスはシンガスとも呼ばれ、一酸化炭素と水素が混じったものなので、かなり馬力が上がります。畜糞や生ごみを醸して発生させる消化ガスも、メタンが6割程度以上含まれていれば、実用的にはそれなりの出力でエンジンが動かせるでしょう。実世的という意味は、熱量が小さな燃料を用いた場合、当然の事ながら出力当たりのエンジン重量が大型化するので、それなりのサイズで必要な出力のエンジンが作れるという事を指します。

さて、バイオガスは種々の材料から乾留法や消化法で得られますので、身のまわりを探してみると結構原料には事欠かない事が分かります。田舎であれば、畜糞、木粉、もみ殻、鶏糞、食品残渣などなど、燃やすにしても処理するにしても厄介なモノどもが、結構良い原料=燃料になる様なのです。実証プラントもいくつか出来始めました。とは言いながら、先進地域の欧州に比べれば、1周遅れどころか2周程は遅れていると言うしかありません。先進地域では、50kw程度小型バイオバス発電プラントが、低い方の数千万円で手に入る「量産品」になっているからです。投稿者がドイツを訪ねた2001年頃には、独仏だけで既に2000台以上も普及が進んでいたからです。大きな農場は、例外なくバカ高く設定されていたFIT電力目当てで、競って導入を進めたからでした。続きます。

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2017年10月27日 (金)

3363 企業の劣化

企業の劣化が止まりません。次から次と「内部告発」される「品質不祥事」は、実は氷山の一角なのかも知れません。品質管理(今は品質マネジメント=QMですかね)は実は、組織運営のごく一部分にすぎないと思うからです。大きな枠組みで捉えるならば、QMは組織マネジメント=OM?(Organization Management)の一部でしかないと思うからです。この国では、組織のトップを経営者と呼びますが、この言葉の持つイメージは、金勘定をしていて、企業の利益ばかり気にしている人、というものでしょう。多くの企業には、組織(の機能)をモニターし、逸脱をコントロールしているOMが不在だと思うのです。その証拠には、品質マネジメントの長である、例えば品質管理担当の重役が、全く機能していないどころか、株主の顔色だけ窺っている経営者の片棒を担いでしまっていたではありませんか。

結局、この国の多くの企業では、組織それ自体がひどく劣化していると結論付けるしかない状況の様なのです。原因はいくつか考えられますが、20年以上に亘る景気の長い踊り場で、1円でも多くの利益を上げて、内部留保を増やす事だけに汲々として、企業はすっかり疲弊していると見るべきなのでしょう。楽をして儲けるには「手抜き」が手っ取り早いのは自明です。事務方が自ら進んで合理化を行う風潮が無ければ、利益を上げるためには製造現場で手を抜くしかないでしょう。品質管理は、最も手を抜きやすい職場である事もまた自明なのです。

もし、一連の品質不祥事を、品質部門だけの責に帰するなら、その企業はこの先も更に凋落の道を歩むしかないでしょう。そうではなくて、企業は創業時の基本に立ち返るべきだと思うのです。創業時の基本とは、つまりは創業者は市場の小さなニーズに気が付き、それに向けてささやかな製品を市場に出した筈なのです。製品やサービスで消費者のニーズを充足し、その代価を受けとり、代価の中から適正な利益を受けとり、更なる新製品の開発に勤しむ。製品の品質には責任を負い、小さな不具合にも目をつぶらず、アフターサービス(顧客とのコミュニケーション)も手を抜かない、といった企業風土に立ち返るというなのです。いま組織マネジメントを発動し、急いで歯止めを掛けなければ、この国の産業はあっという間に二流以下に落ちぶれてしまう事でしょう。ひどく心配ではあります。

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2017年10月25日 (水)

3362 このブログ

今日は取り敢えず、書きたい事が見つからないので、このブログを振り返ってみます。フリーランスになったばかりのある夏の日、何気なく始めたこのブログですが、気が付けば10年以上書き続けて来たことになります。思い返せば、最初の頃は、日に2度も更新していた事もありました。とは言いながら、人の頭の中にある事は所詮限られていて、投稿の多くは世の中で起きている事、雑誌やTVニュースで流れてきた事などに触発されて、書いてきたような気がします。

何となく、決まってきた文章スタイルとしては、たいていは3つの段落に分けて、先ずタイトルにした事象なり社会問題を自分なりに解釈・説明し、ついでそれを分析し、最後に「ではどうすれば」という投稿者なりの改善案を書いてみる、といった感じです。よく言われる起承転結スタイルの場合もありますが、形式にこだわる論文でもないし、なしてや言わゆるエッセイ(随筆)でもないので、文才も無い元技術屋で今環境屋の「独り言」というスタイルを変えずにここまで来ました。

取り敢えず、毎日書き続けて丸10年分である「3650投稿」目指して更新し続けようと考えてはいます。その後も、書きたいという気力が続く限りはジワジワと延長する事といたします。

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2017年10月20日 (金)

3361 モノの気持ち

今頭の中の1/3くらいは、どうしたら炭素繊維複合材(CFRP)に上手く穴が明けられるか、で占められている様な気がしています。そういうプロジェクトに巻き込まれているからです。前々職はその様な仕事をしていたので、まあ専門分野であったとも言えるでしょうか。モノと四つに取り組む場合、投稿者の場合先ずはモノの気持ちになって考える事にしています。

炭素繊維は、非常に強靭で切れにくい様に作られています。加えて、その硬さは尋常ではなく、普通刃物に使われる工具鋼では、あっと言う間に刃こぼれや刃先の摩耗を引き起こして切れなくなってしまう程です。しかし、炭素繊維自体の硬さは誰も計測した事が無いのです(と想像しています)。というのも、金属類などの硬さは、硬さ計と呼ばれる装置で、ダイヤモンドのコーンを、

良く磨いた試料の表面に押し付け、そのキズの深さで硬さを表現するものだからです。しかし、細い糸にその様なキズをつけて計測する事は不可能です。従って、その糸を刃物で擦って、その擦り減り方から硬さを推定するしかないのです。

さて、その繊維の気持ちになって考えると、繊維(糸や布)を切る際にも経験する事ですが、使うハサミの刃先が磨り減ったものや、カシメが緩いものは上手く切れないのです。つまり、繊維を切るには、鋭い刃先とそれを受け止める相方が必須だと言う結論になりそうです。さて、CFRPを切る場合、鋭い先端を持った刃物は必須として、そのせんだん力を受け止めるものは何になるでしょう。取り敢えずは、マトリックスとしてのエポキシ樹脂しか考えられませんが、それだけで繊維がスパッと切れるのかどうか、頭の中で繊維になった自分と、それを引き裂こうとする「敵」である刃物の戦いを想像しつつ、引き続き考え中です。もしかすると逆に考えた方が早いかも・・・。

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2017年10月18日 (水)

3360 徒然に

急に仕事が忙しくなってきました。ボチボチと引き受けていた企業の環境経営システムの審査も、担当できる業種の範囲が広がりましたし、趣味として注目し情報を集めていたバイオマスエネルギーも、成り行きでプロマネを引き受ける事になったT県の企業支援プロジェクトも、殆ど同時並行で忙しくなってしまったのからです。出張で出歩く事も多く、したがって家でゆっくりブログを投稿する機会も減ってきてしまいました。サラリーマンを50代に初めのかなり早めに卒業して以降、一応「環境屋」を名乗ってきましたので、格好よく言えば「時代が追いついてきた」とでも言っておきましょう。

取り分け、バイオマスエネルギーの内、木質バイオマスの熱利用とエネルギー利用、バイオガス(メタンガスやシンガス)に関しては、ビジネスとして動き始めたベンチャー企業に直接的に関わる事になって、今後更に忙しくなりそうです。

もちろん、もっと自分の時間が持てる様になった暁には、いくつかのやりたい事を抱えてもいます。一つは、太陽熱で冷房を行う「デシカント冷房」の実験です。ゼオライトや珪藻土を使ったデシカントで湿度を吸収し、その分の水分を補給する際の気化熱で冷房効果を実現するもので、ファン以外は殆ど電力を使わない冷房機が実現できる筈です。もう一つは、SVOです。これは、廃植物油を濾しただけの油で、直接エンジンを動かし発電するもので、同時に出る廃熱も利用すれば、いわゆる小規模でも熱電併給が簡単に実現できるでしょう。いずれも、具体的なエレメントに関しては目星がついているので、後は実験場所を確保して、実際に形にするだけなのですが、その場所と時間と少しのお金の目途は立って居ないという寂しい状況です。もう少し若ければ、ファンドでお金でも集めて頑張れるのでしょうが、この歳になっては・・・。取り敢えずは、目の前の仕事をやっつけて、お金と将来の時間を作る事に勤しむことにしましょう。

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2017年10月10日 (火)

3359 後ずさり2

3357の続きです。3357で経済最優先で人々の幸福が後回しになっていると指摘しましたが、それはある時期に「目的と手段の逆転」が起こってしまったからだと振り返っています。経済(お金)が、ある程度のレベルにないと、確かに幸福な生活は送れない様な「錯覚」に陥ります。錯覚と書いたのは、それが事実ではないからです。お金で殆ど全てのモノやサービスが買える様になる以前、私たちは必要なものは可能な限り自分達で賄い、自律的な生活を送っていた筈です。しかし、そのような生活はやはり不便なので、人々は大家族を形成して、互いに助け合いながら暮らしていた筈です。助け合いは家族内に留まらずに、コミュニティ単位の相互扶助も機能していたと数十年前を振り返っています。

家族やコミュニティの中で、それぞれの人は自分で出来る範囲の役割を分担しながら、実はそれなりの生き甲斐も感じていた筈なのです。何故なら、ヒトは好奇心の動物であると同時に、生き甲斐(やり甲斐)を糧に生きる存在だとも思うからです。自分で出来る役割をこなす中で、人々はより工夫を重ね、個人としての技も向上した事でしょう。これは、お金さえ出せば一定の品質以上の製品が手に入る社会とは明らかに、人生の質が違っているでしょう。つまり、製品やサービスを「買って」、あるレベル以上の生活を送るために(それを目的にして)自分の時間や能力を売っているのが現代の社会だと言うことも出来るでしょう。

ここに目的と手段の逆転が起こる余地があるのです。つまり、価値交換の手段であった筈のお金が、今やそれを手に入れるための経済活動自体が、社会のそして人々の目的にすり替わってしまった様なのです。このままでは、私たちはヒトらしさのココロを経済に売り渡して、いわば守銭奴として生きる道を突き進む事になってしまうでしょう。ここでの結論としては、私たちは人間としてより良く生きるために、少し後戻りをして、お金に関わらない経済(例えば自給自足や物々交換経済など)で、少し昔の様に人が関わる部分を増やしていくべきだと思うのです。急な方向転換は社会の混乱にもつながるので、先ずは都会に暮らす人たちは、それが可能な人から投稿者の様に田舎暮らしを始めてみるのアプローチをお勧めしておきます。

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2017年10月 9日 (月)

3358 モノ造り大国の崩壊?

またまた品質偽装事件の発覚です。建設、食品、輸送機(車)、原発?、そして素材産業などなど。最早、偽装は産業分野に無関係になった感があります。この国の繁栄の寄って来たるところは、戦後の粗製乱造時代から、B国式の品質管理を導入する中で育まれた、人材力とモノ造り(の高い品質)であった筈なのです。然るに人材力は、少子高齢化の中の理系・技術系離れでジリ貧状態が続いている事に追い打ちを掛ける品質偽装の横行です。隠しに隠していた偽装を、他社が公表したので隠しおおせないと判断したのか、あるいは内部告発があったものか、真実は各社の品質マネジメントの壁の中ですが、大いなる危機感を感じないでは居られません。

というのも、かつての品質管理ならいざ知らず、現代の品質マネジメントでは、トレーサビリティが必須とされているからです。その心は、素材製造から製造、販売、アフターサービスから最終的には製品の廃棄に至るまで、トレースの糸が繋がっていなければならないとされているからです。その重要な裏付け証拠となる品質記録(或いは原発など使用中の設備では点検記録)そのものが、日常的に偽装されている疑いがあるのです。これは、モノ造りの基本の「き」となる、品質ドキュメントが信用できないという非常事態であり、品質マネジメントの更に上を行く、マネジメントシステムを導入しなければ、この国のモノ造りは完全なる崩壊が免れない様に思うのです。

品質管理のシステムに関しては、戦後の品質管理から⇒品質保証⇒品質マネジメントを歩を進めてはきましたが、品質マネジメントを監視するシステムが必要である事を意味するのです。多くのモノ造り企業は、ISO9001など品質管理システムの認証を取得し、毎年の外部審査を受けてはいますが、1日或いは数日の審査で、ましてや文書の抜き取り審査だけで、根深い偽装を見抜く事など到底出来ない相談です。何故なら、その道のプロ中のプロが行った巧妙な偽装を、モノ造りの明るい専門家とはいえ、その道では素人同然の審査員が見抜ける筈もないからです。投稿者も、環境マネジメントの審査を担当する立場ですが、外部審査は「書類審査」に偏ってしまう傾向は否定できないでしょう。

ではどうするかですが、もし同じ審査の時間を掛けるなら、品質マネジメントと審査員と、審査を受ける業界の卒業生であるモノ造りの専門家がペアを組んで審査に当たる方法がありそうです。もちろん、それで全て解決する筈もありません。偽装のテクニックなら、いくらでも複雑に細工できるからです。結局は、売上や儲け主義に走ってしまった企業体質を、根底から見直し、モノ造り企業の基本(品質第一主義=顧客の信用第一主義)に立ち返るしか、この国の企業が立ち直る道は見つからないと思うのです。

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2017年10月 8日 (日)

3357 後ずさり

最近の、国内外のカオス(混沌)を眺める時、後ずさりという言葉が脳裏をかすめました。山登りを趣味とする投稿者も、何度か山でガスに巻かれ、コースを逸脱してしまった事がありました。たいていは、尾根の平らな場所で、道が分かれている場所で、間違った道に進んでしまうと言うケースでした。それとのアナロジーで考えてみると、今は国際情勢も国内も全ての面で、行き詰ってしまった平らな尾根に差し掛かってるような気がするのです。狭い尾根や、1本道であれば迷う事も少ないのでしょうが、選択肢が多様化し過ぎた昨今、人々の価値観も多様に発散しつつある様なのです。

国際情勢では、かつての2大強国の時代から、1大国時代に。その後、C国の急速な台頭とRシアの巻き返しと、国際的なテロ活動の泥沼化と相俟って、パワーバランスはかつての様に単純な方程式では解けなくなってしまった様なのです。一方、国内も似たような状況です。一時の政権交代劇が終わってしまうと、国民の熱も冷め1強政党時代が結構長い期間続いてきました。かなり野心的な女性政治家が仕掛けた騒ぎも、結局は右と中道の間に、「右中間」なる政党もどきの誕生という局面を迎えた様ですが、中道や中道左派といったムードが好きな人達の受け皿が見つからない状況(つまりは道に迷った多数の国民)が生まれてしまった様なのです。

山で道に迷った時の鉄則があります。それは、迷った事に気が付いたら、先ずは見覚えのある分岐点まで引き返すというものです。世界が、あるいはこの国が漂流を始めた時期を思い返すに、それは多分行き過ぎた「経済偏重時代」の到来に遡る様な気がするのです。経済偏重は、国にも、国際情勢にも歪をもたらします。つまり、富める国々はますます富み、そうでない国々は富める国に搾取されてますます貧乏が加速すると言う負のスパイラルです。これが国際緊張や国内の貧富の格差拡大と無関係である筈はありません。少なくとも人々の幸福度を最優先に据え、経済指標は次位かそれ以下に下げない事には、このカオスが静まる事はなさそうに感じるのです。続きます。

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2017年10月 5日 (木)

3356 都市という場所

新幹線に乗って東京に向かう時、いつも不安に駆られます。例えば、新潟経由で向かう時、関東平野に入った途端、途切れの無い街並みが続いているからです。街は多くのインフラに支えられています。取り分け、電力、水道(+下水道)、ガスの3大インフラは、日々の生活に直結しているでしょう。道路や開放水系、通信なども勿論不可欠なインフラです。それらが、信じられない程複雑なネットワークを形成しているのですから、その維持に当たっている人達は、たぶん心休まる事はないだろうと同情しています。というのも、都市インフラは、戦後の人口膨張や都市域の拡大に伴って、「継ぎ足し継ぎ足し」の連続で拡大してきた筈だからです。

それらの維持に関しても、予算の関係もあるでしょうから、計画的な更新とは程遠く、問題が出た場合の手当てだけで済まして来たと想像しています。水道であれば、たぶん水漏れヶ所や健康にとって好ましくない古い鉛管が残っている部分の更新程度でしょう。下水道に至っては、今更掘り返しての補修は出来にくいので、既存の下水管の内側を洗浄した上で、内側にライニングを貼りつけると言った苦肉の策で対応している様です。

さて、そんなインフラに支えられている都市ですが、問題は災害時です。ありがちな災害としては、大雨時の洪水でしょうか。排水処理能力(例えば時間当たり50㎜)を超える短時間豪雨で、都市は簡単に水没してしまうのです。しかし、これはホンの日常的な災害に過ぎません。都市にとって最も怖い災害は、当然の事ながら地震でしょう。インフラが地面ごと大きく揺さぶられる訳ですから、地中に埋設されているインフラはひとたまりもありません。地盤の異なる場所では、揺れ方にも差が出るし、大小の地割れや埋立地の液状化によって、インフラはズタズタに引き裂かれる訳です。関東大震災は確かに大きな被害が出ましたが、都市域の狭さやささやかなインフラの規模を考えると、関東平野全体が大きな都市の様になってしまった現在、来たるべき大震災での被害は想像も出来ない規模になるでしょう。

ここでの結論としては、何に付けても便利な都市は、その裏返しとして、田舎の何倍も何十倍ものリスクを孕んでいる場所だと言うしかなさそうです。どうして人々は、都市に群れて住みたがるのかのか、田舎が好きな投稿者としては、さっぱり理解できません。

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2017年10月 4日 (水)

3355 田舎暮らし

徒然の感想です。我が家は、田舎町の市街地の外れに建っています。つまり、道路を隔てた先は田んぼや畑で、庭先にはカエルや虫、時にはヘビも遊びに来てくれます。投稿者としては、もっと田舎に土地を求めたかったのですが、連れ合いの強い希望でシブシブここに決めたのでした。

さてこの秋、その家の敷地に地続きになっている45坪ばかりの土地を買い足して、一応庭や畑が作れる様になりました。しかし、季節は既に秋が深まってきたので、年内は元田んぼで水はけが悪い土地なので、排水を良くするためにDIYで暗渠を埋めて、業者から10トンばかりの土を入れてもらった上で、数本の木を植えて春を待つ事になります。庭の1/3くらいは耕して畑にする予定です。1/3は連れ合いがハーブなどを植えて花壇にするでしょう。残りは雑草のために空けて置くことにしましょう。

実際に自分行った外回りに作業や、これからの計画を考えるにつけ、人間はコンクリートに囲まれた都会では、「精神的に健康」には暮らせないのではないか、と思うこの頃です。土(地面)は、ヒトの祖先が木から降りて、暮らす事に決めた場所でもあります。一握りの土には、数えきれないほどの微生物が蠢いていて、植物や虫や動物の揺り篭になってくれます。ヒトは、その植物や動物の命をいただいて生きている訳で、コンクリートの都会が食糧を生産してくれる筈もないでしょう。都会は「消費地」に過ぎないのです。食糧自給率が100%を大きく超えていて、その気になれば、自分でもささやかに食糧を作る事も出来る田舎暮らしに戻って数年になりますが、少しだけ健康寿命が延びそうな予感がしている今日この頃です。

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2017年10月 2日 (月)

3354 モーダルシフトの前に

モーダルシフトは、いわば環境「対策」に過ぎないと言えるでしょう。対策とは、何か問題が出てきた、後からそれに対処する後手の行動とも言えるのです。問題の本質は、こと輸送に関して言えば、近年では輸送量が増えすぎて、輸送に関するエネルギーが、まさに主要な環境負荷となっている点なのです。問題の本質に迫らず、単に増えすぎた輸送エネルギーを、モーダルシフトによって効率化し、削減できたとしても、それは解決にはつながらないでしょう。

事の本質に迫ろうとするなら、先ずはあまり運ばないでも成り立つ社会システムを指向すべきだと思うのです。具体的な手法に関して言えば、生産地と消費を近づける事などが挙げられるでしょう。その昔、高速道路網とトラック輸送があまり頼りにならなかった時代、長距離の輸送手段は主に鉄道でした。昔の鉄道(国鉄)は、非効率輸送の典型でもあったので、遅い、高い輸送手段であったため、人々は本当に必要な場合以外は、なるべく使わない様にして居た様な気がします。では、どうするかですが、結局必要なものは地元で調達する以外にはないのです。農産物は勿論、酒や調味料はもちろん副食品、嗜好品に至るまで殆ど全ては、地元企業(や個人企業)によって賄われて消費されていた筈です。

しかし、何時の頃からか、たぶんテレビCFが盛んになり、全国展開のメーカーが多数出現して以降だと思いますが、いわゆるブランド商品が全国規模で流通する様になって、大量生産、大量輸送、大量消費が定着したのでしょう。加えて、大量廃棄というオマケまで付いてしまって、環境負荷として新たにゴミ問題も浮上したのでした。

環境負荷を根底から削減するためには、やはり私たちは消費の本質的な部分で抑制的に行動しなければならない筈なのです。抑制的消費行動とは、結局は必要最小限(Minimum sufficient)の生活の指向とそれを地産地消(Feed locally)で賄おうとする努力に尽きると思うのです。先ずは、田舎でそれを実現し、それをモデルケースにして展開するしかないのかも知れません。時間は掛かるのでしょうが・・・。

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2017年10月 1日 (日)

3353 今更モーダルシフト?

輸送に関してモーダルシフトがマスコミでも注目され始めたのは、確か投稿者が環境人間を志した20年近くも前だった様に思います。それが、頓珍漢にもつい最近またゾロお国が、数件の企業単位の小さなモーダルシフトの取組みをモーダルシフト事業に認定し、ささやかな助成金が出るのだとか政策を始めた様です。この間の長いながいタイムラグ、つまりはお国の動きの鈍さには、やはり絶望感を抱かざるを得ません。トラック輸送を、鉄道や船などのより効率的な大量輸送手段に切り替えていく事をモーダルシフトと呼ぶのですが、今更補助金を出してまで再加速しようとする行政のセンスが全く理解できないのです。

ちゃんと工夫しさえすれば、トラック輸送より鉄道や船舶の方が断然コストも環境負荷も小さい事は自明でしょう。例えば、鉄道輸送のエネルギー効率は、トラックの10倍高いのです。つまり、同じ貨物を1/10のエネルギーで輸送する事が可能なのです。不便があるとすれば、目的地近くの駅や港に到着してからの個別配送の方法です。これも、トラックの構造を工夫してコンテナサイズを統一し、駅や港での積み替えを半自動化すれば、何の障害にもならないでしょう。トラック便だって、一度地域の配送センターに集荷し、行先別に組み替えてトラック便を仕立てるでしょう。

その組み替えた貨物を、規格化されたアルミコンテナに詰めて、牽引トラックで近くの貨物駅や港に持っていけば良いのです。駅や港湾では、そのコンテナを半自動的に貨車や船に積んで、目的地に向かわせれば良いでしょう。貨物コンテナは、行先別に電子情報を持っており、目的駅で自動的にピックアップされて降ろされます。

お国の政策は、何時の時代も「十年一日」である状況は改善しないでしょう。何故なら、お役人の役割は、今の行政をなるべく変えない様、壊さない様に「維持」する事だからです。お役人という「維持屋」に新しい政策を期待する方がドダイ無理と言うものでしょう。維持屋の他には絶対に「計画屋」が必要なのです。その昔、通産省なるお役所がありましたが、この国が右肩上がりの時代には、確かにお役所にもその機能はありました。官民が「シンクタンク」なる頭脳集団を抱えていて、将来の青写真を練っていたのです。今どこがその機能を持っているか、浅学にして投稿者は把握していません。いずれにしても、政治もフラフラと漂流しつつある今、行先が定まらない航海は不安なものです。

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2017年9月28日 (木)

3352 車文化のゴール?

ダイムラーベンツを嚆矢とするエンジンを積んだ、いわゆる車の文化も、電気自動車の「自動運転車」の開発で、一応一つのゴールを迎えるのでしょうか。もちろん、車産業やその裾野産業の勢いというかイナーシャは、そこで留まる事を許さないのかも知れません。膨大な設備投資を含む資本の蓄積や数えきれないほどの優秀な開発技術者は、兎にも角にも新しい車を開発せずには居られない、「流れ」を持っているからです。

では、それが「空飛ぶ車か」と言われれば、投稿者としてはそれは否定するしかありません。何故、A地点からB地点まで移動するのに空を飛ばなければならないのか、必然性が感じられないからです。確かに、車で移動するには遠すぎる距離であれば空を飛びたいところです。また、朝夕のウンザリする渋滞を思い起こせば、空を飛んで最短距離で移動したいかも知れません。しかし、この国には世界に冠たる鉄道インフラと鉄道技術があるではありませんか。敢えて、通勤などの近距離に空飛ぶ車など全く必要としては居ないでしょう。

百歩譲って、一人乗りの通勤用の空飛ぶ車が開発されたとしましょう。しかし、住宅が密集し、高低のビルが乱立し、地上を人や車が密集している日本の都市の上空を、数えきれないほどの空飛ぶ車が、何の交通(飛行)ルールも無しに飛び交う事は全く想像できない事態です。平面交差の道路でさえ、交差点では出会いがしらの事故が頻発しているではありませんか。その道路(空路)が立体的に交差している状況を考えると空中衝突事故の多発する映像しか思い浮かびません。空中衝突は、当事者だけの事故は終わりません。空から、重い大きな2つの塊と、二人の人間と、いくつかの細切れになった部品が地上に落下するのです。その巻き添えを食ってしまう地上の人達こそいい迷惑でしょう。

空飛ぶ車は、それらしいものが既に登場している様に、開発は出来るでしょう。でもそれは、特にこの国の様に人口密度が高く、かつ気象変化が激しい国では、全く使えないシロモノだと言うしかありません。それが使えるのは、精々砂漠に囲まれたアラブの金持ち国くらいでしょうか。ここでの結論は、3351と同じものになりそうです。即ち、そんなお金とマンパワーがあるくらいなら、問題山積の地上の、海の環境問題の解決に当ててくれ、というものです。

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2017年9月27日 (水)

3351 宇宙ロケット:花火論

B国大統領が、彼の国のリーダーをロケットマンと呼んだ話はさておいて、下町ロケットや月面到達レースなどを含めて、未だ「宇宙開発」を煽り立てる風潮には、眉をしかめるしかありません。というのも、掛けるマンパワーやコストに見合う果実が期待できない行動だと思うからです。町の企業が起業生命をかけて、宇宙空間への小さな衛星の打ち上げに成功したとしても、その衛星にどんな機能を持たせようと主張するのでしょう。また、いくつかのチームが、月にちっぽけな月面走行車を送りこんで、ささやかな賞金を得たにしても名誉以外の何の果実が期待できるのでしょう。ナショプロではない民間プロジェクトで衛星の打ち上げが可能となれば、また民生品を駆使した安価な月面走行車が実用化されれば、確かに宇宙開発のコストは画期的に低減するかも知れません。

しかし、問題なのはその「宇宙開発の目的」なのです。何のために、その衛星を宇宙空間まで打ち上げなければならないのか、何のためにちっぽけな車を月面で走らせなければならないのか、がさっぱり見えないのです。国の威信をかけた、宇宙レースはもう終わったと見るべきでしょう。その名残として宇宙空間に留まっている宇宙ステーションも、間もなく退役する事でしょう。太陽系の果ての土星までたどり着いたカッシーニも役目を終えて土星の土?になってしまいました。

そうであれば、今後の宇宙開発や競争は、企業の威信をかけたものなのでしょうか。

投稿者には、今の宇宙開発が、何か真夏の夜の花火の様に見えて仕方がないのです。確かに、花火は華やかで爽快な一瞬を多くの人々に提供している事でしょう。しかし、花火は年々華やかにして行かなければ、人々の関心を集め続ける事は出来ないでしょう。そんなお金やマンパワーがあるのなら、それを是非地上や海に向けて貰いたいと思うのです。地上や海には特に環境上の問題が山積している筈なのです。それらをホッタラカシにしたまま、空だけを眺めているという風潮には、やはりイエローカードをかざすしかありません。

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2017年9月26日 (火)

3350 紛争と無理な国割り

こんな事は、えらい学者が何度も指摘してきている様に思いますが、投稿者の視点でも考えてみます。多くの紛争は、国境(くにざかい)を巡るものである事は論を待たないでしょう。歴史時代を通じ、現在まで脈々と続く紛争や戦争の歴史が雄弁にそれを物語ってもいるでしょう。どんな紛争も、何らかの境界の移動を伴って、あるいは双方の疲弊の結果、一度は落ち着くように見えるものです。これまで、終わらなかった戦争や紛争は無かった筈です。

しかし、一つの紛争で生じた目には見えない「ワダカマリ」は、世代を超えた火種となってくすぶり続けるのです。取り分け、国境が宗教や人種(部族)によって、濃く引かれている場合には尚更でしょう。同じ預言者?に端を発した宗教が、その後枝葉を生じて、ついには別々の宗派が覇を競った結果、長年の宗教戦争になったケースは、歴史上も決して稀ではありません。もちろん、古くは食糧の確保に関わり水資源をめぐるもの、近年では地下資源(とりわけ石油)をめぐる戦争や紛争のケースも多くなっています。中東をめぐる戦争や紛争もまさにこのケースでしょう。

しかし、投稿者が思うに、近年の紛争や戦争の最大の原因としては、「無理に引かれた国境線」にあると思うのです。イデオロギーの差異や部族の垣根をそのままにして、南北(東西)を分けるために北緯○○(東経XX)度に定規で引かれた国境線は、それが直線であるが故に、古からの地政学的・民族的な国割りを完全に無視してしまっている筈です。それもこれも、南北それぞれの陣営に肩入れしてきた、大国のエゴが招いた事態であるのもまた間違いないでしょう。武力のバランスの結果として引かれた近年の国境線は、当然の事ながら、そのバランスの崩れによって不安定に陥る筈なのです。超大国や欧州大国のパワーバランスが作り出した、アジアや中米やアフリカ大陸で引かれた直線的な国境地帯が、何時まで経っても紛争の火種になり続けている事には所以があるのです。

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2017年9月25日 (月)

3349 あるべきモノの輸送手段2

3346で書き忘れた事があります。それは、持続可能型の社会での理想は、可能な限りモノを運ばない事なのです。モノを運ぶのは、効率(≒コスト削減)を最大限追及をした結果、極端と言えるほどの「分業」が進んでしまったのでした。極端なのは、ある製品を国内でたった1ヶ所で製造し、それを全国に配送しているケースです。もちろんこれは例外ではないでしょう、むしろ食品など嵩や重さの割に安い製品こそ、分散した工場で作られているのでしょうが、電化製品などはむしろ極端なまでの工場集約が進んでいる筈なのです。

もちろん、輸送手段や輸送システムも効率化が進んでいるのでしょうが、それにしても嵩張る製品では、さながら空気を運んでいる様なトラックやコンテナも多いと想像しています。それも、これも今のシステムが、コスト最低を狙い過ぎているからあり、それは決して「環境負荷最低」ではない事は明らかでしょう。環境負荷最低を狙うなら、輸送のためのエネルギーは全くのムダという事になります。何故なら、製品を遠くへ運ぶ事によって、そのモノ(製品)には、1円の付加価値も付け加わっては居ないからです。逆に環境対しては、石油資源を減らし、CO2や窒素酸化物やPM2.5をまき散らし、道路を傷めつけ、沿道の人達には騒音と、時には事故の危険も引き起こしているではないですか。

昔はそうではありませんでした。殆どのものは、地元で製造し、地元で消費していたのです。もちろん高価だった家電や車などは昔も集中生産され、全国に配送されてはいましたが、輸送手段は鉄道貨車(後にはコンテナ)、あるいはトラックの「混載」で移送されていたのです。混載のメリットは、貨物をスペース一杯に詰め込める点でしょうか。もちろん、そのために輸送時間も人手も多く掛かってはしまいますが、環境効率は非常に高いのです。

私たちが狙うべきは、環境効率をコスト効率の上位に位置づけること、矛盾する場合も多いにせよ、可能な限り両者を同時に達成する努力でしょう。今日注文して、明日受け取るというワガママな利便性さえ放棄すれば、環境効率はもっとずっと高める(=環境負荷を低減する)事は十分可能なのです。

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2017年9月23日 (土)

3348 案ずるより2

少し前まで、バイオガスとりわけ乾留ガス(シンガス)はカロリーが低く、使いにくい燃料だと思っていました。そのまま燃やすのであれば、量で稼げば良いので、例えばボイラなどの熱利用には問題ないでしょう。しかし、ガスエンジンの燃料とするのは、そのままではカロリー不足で、十分な出力が期待できないと思い込んで居たのでした。

しかし、よくよく考えてみれば解決策は意外に単純なものだと分かります。ガソリンエンジンやディーゼルエンジンでは、同じ排気量でも出力を上げたい場合には、より多くの空気を送り込むために過給機(スーパーチャージャー)を使います。通常は排気ガスを使ってタービンを回す、ターボチャージャーか、エンジンの回転を利用してルーツブロアなどを回すいわゆるスーパーチャージャーを備えます。空気量を増やした分だけ、燃料も増やせますから、同じ排気量でも出力を、例えば数十%も増やす事も可能なのです。

ということは、同じことが、気体燃料にも応用できる事を意味します。カロリーの低い気体燃料でも、圧縮して密度を上げれば、例えば1/2に圧縮すれば、同じ体積当たりのカロリーは2倍に高める事も可能でしょう。嫌気性醗酵で生じさせる消化ガス(メタンガス)であれば2-5kPa、乾留ガスであれば、5-15Pa程度に圧縮してやれば、問題なく必要とされる出力を出す事が可能でしょう。これは、シンプルなルーツブロアを使えば実現できるレベルの圧力です。

内燃機関は古い技術ではありますが、その分ほぼ完全にこなれた技術でもあります。燃料と空気を完全燃焼できる割合で混合し、それを必要な熱量分だけ供給してやりさえすれば、20-30%の熱効率でエンジンを回す事ができるのです。今投稿者の頭の中にあるのは、家庭用のガスエンジンプラントです。燃料は、小型の乾留炉でシンガスを発生させ、それを改質してポータブルのガスエンジンを回すのです。問題は、これをどれだけ小型化できるかです。出来れば、ごく普通のサイズのスチール物置(例えば1坪程度)の中に設置できれば理想でしょう。ガスホルダーのサイズをどの程度にするかがスペース上は最大のポイントでしょう。これまでの常識では、例えば現在最もコンパクトな小型シンガス発電機は、Vルター社のパッケージでしょうが、出力が40kwで設置面積は2坪程度になっています。価格は、たぶん3千万円を超えると想像していますが、これを出力2-kwで、設置面積が1坪以内、価格で言えば低い方の数百万円に抑えたいのです。その際の燃料は、田舎では殆どタダ同然で手に入る木屑かもみ殻が適当でしょうか。

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2017年9月22日 (金)

3347 案ずるより

「案ずるより産むが易し」とは昔からの言い習わしですが、最近それを強く感じています。バイオガス発電事業に関わる様になってから数か月経過しましたが、それまでのバイオマス(バイオガス)発電のイメージとしては、助成金をたっぷり貰った数億円の発電プラント、それも発電能力は精々50kw程度といったものでした。しかし、それは国内の中手や大手が手掛けて、設計やコンポーネントも試作レベルでたっぷりとコストをかけた(積み上げた)プロジェクトですから、コストが高くても仕方がない、と思い込まされていた様なのです。

しかし、その様な発電プラントが、それこそ数千か所存在するヨーローッパの常識は、かなり違っているのです。例えば、畜糞や農業残渣からメタンガスを発生させ、それをガスホルダーに貯めて50kw程度の発電を行うプラントは、たぶん2-3千万円で建設出来るでしょう。日本で作る場合と完全に一桁違うのです。コンポーネントが、長年の改良でブラッシュアップされている上に、設計も標準化されているでしょうから安価に製造できるのです。

日本で同様のプラントを増やすのに、何もゼロから始める必要はないと思うのです。20年以上の歴史のあるヨーロッパなど優れたコンポーネントは、先ずは輸入するか、ライセンス料を払って国産すれば良いのです。この国の産業の歴史は、まさにライセンスを受けた見よう見まねの国産から始まったものが殆どなのです。それは、原発だって例外ではありません。WHやバブコックといった欧米企業のノックダウンやライセンス生産から国産により原発製造の力を蓄えて行ったハスなのです。ガス発生プラントやガスエンジンは確かにローテク技術です。C国やIンドなどの製品でも十分な性能と耐久性がありますから、先ずはそれらのコンポーネントを輸入して使えば良いのです。それによって、建設コストは多分数分の1に絞る事が可能でしょう。そうなれば、FIT価格の乗った買電価格で計算すれば、5-6年でコスト回収が可能になるでしょう。そうこうしている間に、この国が得意な技術改良を加え、量産化技術を駆使すれば、価格競争力のあるプラントに仕立て上げられるでしょう。続きます。

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2017年9月21日 (木)

3346 あるべきモノの輸送手段

注文した翌日に、欲しいものが配達される「行き過ぎた流通」には賛成できませんが、人が都市に集まって住まう以上、日常的にも必要最低限の輸送は必要な活動でしょう。概して言えば、全ての輸送手段は、結局は摩擦力との戦いだと言えるでしょう。つまり、陸上輸送であれば、車輪と路面(線路)と間の転がり摩擦、あるいはそれを動かす動力装置中の摩擦、あるいは車体が空気をかき分ける際の空気抵抗などと闘いながら、貨物を移動させる事になります。海上輸送や航空機輸送だって、摩擦の大部分が空気と機体或いは水と船体の間の摩擦にとって代わられるだけでしょう。

ならば、あるべき輸送手段のキモは、摩擦の低減だと言い切っても良さそうです。移動速度は、例えば100/時に近づくと空気との摩擦(空気抵抗)が急激に増加しますので、まあ80/時程度に抑えるのが妥当でしょう。そうでなければ、真空に保たれたチューブ状の輸送路を建設しなければならないので現実離れするでしょう。その上で、摩擦を減らす切り札としては、ここでは空気ベアリングを提案しておきましょう。十分に滑らかな輸送路に、下から少量の空気を吹き出す移動体(キャリア)を、薄い空気の膜に浮かべると言う構想です。動力は、キャリアに搭載のバッテリーか、輸送路の横に張られた架線から得る電力になります。しかしながら、移動する動力は「重力」に頼るシステムです。

ここでの提案システムはと言えば、数キロ毎に設置される、高さ10mほどのタワーを、往復2本の輸送路が繫ぐと言うイメージです。タワーにはエレベータが設置され、キャリアを10mまで持ち上げます。次いで、ジェットコースター同様、急角度のスロープ状の輸送路にキャリアを放出するのです。空気ベアリングは十分に摩擦が小さいので、問題なく数キロ先の中継タワーに届く計算です。これを繰り替えす事により、海岸部に関しては輸送システムは、どうやら成り立つでしょう。問題は山越えです。新たなトンネルを掘るのは、コスト的にもペイしないと思われるので、そこは在来線の鉄道を活用するのが得策でしょう。山さえ越せば、海岸部にある都市に、標高差を利用して更に容易に輸送路が敷設できる事でしょう。もし100mの標高差が利用できるなら、たぶん数十キロ先まで、中継無しにキャリアを届ける事も可能でしょう。たぶん続きます。

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2017年9月19日 (火)

3345 人力アシスト自動車?

3344の続きの様なものです。電動アシスト自転車があるのであれば、人力アシスト自動車があっても良さそうです。1トンもの重量を持つ車を動かすには、少なくとも100kw弱の出力のエンジンかモーターが必要ですが、もしそれが100㎏前後の超軽量の車体であったらどうでしょう。1/1010kw以下の原動機でもそれなりにキビキビと走れると想像できます。そうであれば、頑張れば1kw弱の出力が出せる脚力でアシストしてやれば、車の燃費も大きく改善できる筈なのです。

想い起せば、排気量が360㏄しか許されていなかった昔の軽自動車は、20kw以下のエンジンしか積んでいなかった筈です。乗り心地を良くする事だけを狙った改良されたとはいえ、ドッシリと尻を落とせるバケット型の座席ではなく、自転車のサドルを進化させた様なチョン掛けの座席に尻を軽く乗せ、自由になった足でペダルを漕ぐ「人力アシスト自動車」を何故開発してくれないのでしょうか。アクセルとブレーキワークは、もちろんバイク式に手で行うのです。ペダルを逆転させてブレーキを掛ける「コースター式ブレーキ」も有効でしょう。

この人力アシスト自動車は、高速道路を走るのは流石に無理でしょうが、普通の公道であれば無理なく車の流れに乗れるでしょう。しかも、エンジンが故障したり、燃料(バッテリー)切れになったりしても、自転車並みのスピードでなら走り続ける事も可能なのです。馬力のある若い人なら、ガソリン1リットルで100㎞走らせるのも夢ではないでしょう。その上に、乗り手の健康増進にも役立つのなら、これに勝る乗り物は無いでしょう。タンデムや、子供も含めて乗れる4人乗りなどのバージョンも工夫できそうです。もちろん、乗り込む乗客もそれなりにペダルを漕いで、アシストするのは言うまでもありません。「漕がざる者、移動すべからず」です。

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2017年9月18日 (月)

3344 あるべき人の移動手段

来たるべき(持続可能な)時代に向けて、投稿者なりの、あるべき人の移動手段を提案してみましょう。人が移動するための最も「自然な形」は歩きでしょうか。ヒト(人類)が二足歩行という移動形態を獲得して以降、体の構造からも最も無理が無い「運動」にもなるでしょうから。一方、人類が発明した、殆ど全ての移動形態は、座席に尻を落として座る形態であるため、腰掛症候群に陥りがちになるのです。狭い座席に、長時間同じ姿勢で座る典型的な移動手段は、航空機ですが、ある時期知られる事になった「エコノミー症候群」がその代表でしょう。その他にも、尻や腰回りの血流が停滞する事が引き金となる循環器系や運動(筋肉)系の病気も多い事でしょう。

近年の「楽な」移動手段の問題は、まさに移動中姿勢が固定されているというなのです。異様な光景ですが、もし電車の中でも乗客がゾロゾロと歩いているとすれば、問題の大部分は解決される事でしょう。もちろん、急ブレーキを掛けた時に将棋倒しなるというリスクはありますが・・・。いずれにしても、移動中でも何らかの筋肉運動、取り分け第二の心臓とも呼ばれる下肢の運動が出来れば理想に近くなるでしょう。折角の移動という機会を、血流を停滞させる時間にしては、勿体ないし、体にも悪いというものでしょう。

その意味で、人の理想の移動形態は「歩き」ではありますが、次善の手段は多分「自転車」という事になるでしょうか。歩きも、自転車も移動中は必ず下肢を動かし続ける必要があるからです。心肺機能も向上するでしょうし、いわゆる化石エネルギーの使い過ぎや温暖化問題にも無関係な移動手段としては、この二つしかないと思うのです。足腰の筋肉が弱くなった人が、電動アシスト自転車を使うとか、バランス感覚に自信が無くなった人が三輪自転車に乗るのはご愛嬌でしょう。いずれにしても、ヒトが天から与えられた、骨や筋肉を、移動する際には最大限使うのは自然の摂理に則った方法である事は間違いないでしょうし、歳を取ってからの「ロコモティブシンドローム」も回避できる筈なのです。

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2017年9月17日 (日)

3343 移動(輸送)依存症

以前、人間というものは、移動したがる(移動せざるには居られない)存在だ、と投稿しました。最初は自分の足で移動していましたが、やがては畜力(牛車や馬車)に頼る様になり、ついで風力に頼る帆船を、更には外燃機関の発明を利用して、蒸気船や蒸気機関車を実用化、やがてパーソナルな移動手段として、内燃機関やモーターを使った「自動車」を開発し、F-ドが開発した大量生産技術を用いて、一般庶民にも爆発的に普及させました。それにとどまらず、20世紀に入るとWrイト兄弟を嚆矢として飛行機を実用化し、やがて戦争と言ういわば強制的な技術革新を踏み台を利用して、その性能を飛躍的に高めたのでした。

移動手段の歴史を簡単に振り返っても、私たちは車や列車や飛行機といった移動手段、輸送手段無しには一日も暮らせない、最早「移動(輸送)依存症」としか呼べない状況に陥っているとしか見えないのです。あらゆる依存症から抜け出すのは、非常な努力を要します。何故なら、それは「病」だからです。アルコール、タバコ、ゲーム、薬物そしてネット、依存症のタネには事欠きません。その中で、移動依存症は今のところ「中度の依存症」に留まっていると言えるそうです。何故なら、高齢やその他の理由で、車の運転を止められた人たちも、それが理由で命を失ったり、重篤な禁断症状に襲われる事もなさそうだからです。

かと言って、多量のエネルギー消費を伴う「無為な移動(輸送)」の状況が、このままで良い訳もありません。そこで、数回に分けて、投稿者が提案する今後のより持続可能性の高い社会に向けて、あるべき移動(輸送)手段について、いくつかの提案を記してみる事にします。続きます。

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2017年9月16日 (土)

3342 空飛ぶ車?2

3341の続きです。手で軽々と持てるドローンとは違い、重い機体で有人の飛行物体を、たとえ高度150m以下とは言いながら自由に空を飛ばせるのは如何に危険かを皆が納得して、それを思いとどまったとしても、では地上から数(十)センチだけ浮き上がって移動する「浮き上がる車」だったらどうでしょう。いわば、ミニホバークラフトです。確かに地上の凸凹は拾わないので、乗り心地は良いでしょう。また、非常時にも数(十)センチの落下であれば、お尻にドスンと言う衝撃はあるのでしょうが、命に関わる事はなさそうです。

しかし、そうだとしても路面にタイヤが接触している車と違い、非常時に急ブレーキを掛ける事は出来ない相談でしょう。なにしろ、車体が接触しているのが空気だけですから、道路とタイヤの様に、固体同士の摩擦力が期待できないからです。摩擦を減らして、早く移動するために空中に浮き上がるのですが、停止しにくいというジレンマを解決する手段は多分見つからないのです。特定の場所で急停止したいのであれば、空母での航空機の着艦の様に、ワイヤを引っ掛ける方法は取れますが、不特定の場所ではこれも叶いません。

加えて、地上から車体を浮き上がらせるだけで、かなりのエネルギーを消費しますので、燃費性能を考えても地上を走る車には到底かなわないでしょう。唯一可能性がありそうなのは、非常に平滑な走行面(つまりは道路か軌道の様なもの)を作って、移動体を浮上させるのは1-2㎜に留めるアプローチがありそうです。重量物を移動させる際に用いる「エアスキッド」の様なものです。これだと、浮上に要するエネルギーも最小限で済むので、燃費でタイヤを有する車を超える事は出来そうです。しかし、ほぼ平坦で平滑な走路を建設するコストを考えると、あまり良いアイデアとなりそうもありません。ここでの結論は、結局「空飛ぶ車の開発なんぞモノにならないから無駄な努力はお止めなさい」となりそうなのです。関係者の皆様、悪しからず。

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2017年9月15日 (金)

3341 空飛ぶ車???

最近「空飛ぶ車」の話題がマスコミに露出する機会が多くなって来た様な気がします。3340の宇宙ビジネスに次いで、この分野でもネガティブな投稿になってしまいそうで、熱心にこれを推進している皆さんには申し訳ないのですが、仕方がありません。空飛ぶ車は、非常に危険だからです。危険な理由は、空飛ぶ車が十分危険な重量を持つ飛行物体である事、その物体に人間が乗ってほぼ自由なルートで移動すると言う事などです。空飛ぶ車のイメージは、たぶん多くのプロジェクトでは「有人ドローン」といったものでしょうか。前進のためにプロペラを回すのであれば、小型飛行機になってしまうでしょうし、浮力を確保するための翼が必要ですから、大きさ的にも「クルマ」とは呼べなくなるでしょう。従って、コンパクトに設計できる大型のドローンが選択肢となる訳です。

先ず考えてみなければならないのはその重量です。60㎏の人を乗せて飛び上がるには、機体重量が人の体重以下ではたぶん設計出来ないでしょう。もしそんなに軽く出来るなら、座席なんかは無くして、その機械を背中に背負って飛ぶスタイルでも似たような機能が実現できるでしょう。いくら羽根の様な軽い材料を駆使しても、機体重量は体重の数倍にはなってしまう筈です。人と併せて数百キロの物体が、ブンブンと空を飛び回る時代を想像すると、とても安心して道を歩く事などできないでしょう。飛行物体である限り、墜落は稀であるにしても、燃料切れの不時着や小さな部品の落下などは日常茶飯事だと想像されるからです。操縦者は自業自得でしょうが、地上で巻き込まれた人こそ災難でしょう。

さて、構造的には羽根の様に軽く完全無欠の飛行物体が出来たとして、それを動かすのは人間です。もちろんそんな時代が来るとすれば、ドローンと同じように自動運転技術が確立されているでしょう。しかし、自動運転といえども突然の気象の変化、例えばビル風や突風やつむじ風やダウンバーストといった狭い場所で発生する気象現象に追随するのは困難な筈です。結局、つむじ風に巻き込まれて「キリモミ降下=墜落」の憂き目に遇うのでしょう。十分な高度での事故であればパラシュートを使って難を逃れる事も可能でしょうが、低空飛行時は命に関わる事故につながります。続きます。

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2017年9月14日 (木)

3340 何故宇宙ビジネス?

東京で、宇宙ビジネスへの進出を夢見るベンチャー企業の経営者の話を聞く機会がありました。どうやら人間は、何かを始めなければ落ち着かない存在の様です。これからは、宇宙ビジネスの時代になるのだとか。他のビジネスでお金を儲けた人達が、宇宙ビジネスに乗り出したり、投資したりしているとのニュースが時々飛び込んできます。オンラインビジネスで財を成したビジネスマンが、SペースX社を起こしてゼロから宇宙ビジネスに乗り出す、といった事例が思い浮かびます。

しかし、以前もこのブログに書いた様な気もしますが、再使用可能なロケットを開発したとして、では一体宇宙空間でどの様なビジネスを展開しようと言うのでしょう。打ち上げ費用が安く出来るとして、これ以上周回軌道や静止軌道に衛星を送り込んで、そこで起こる衛星同士の干渉や衝突をどう防ぐつもりなのでしょう。既に、多くの軌道は用済みのゴミ衛星(宇宙デブリ)の溜まり場になっているのですから。ドローンの性能は日進月歩なのですから、数週間の滞空性能のあるドローンや成層圏に上げられる飛行船などを使えば、地球観測や通信などの性能や選択肢は格段に向上する筈なのです。

地球外に友人宇宙船や探査衛星を送るプロジェクトも、構想段階のものを含めればメジロ押しの様ですが、そもそも多くのコストとリスクを冒して、人類を火星くんだりまで送り込む意義が見出せません。単なるアドベンチャーなら地上や海底にだって人跡未踏の地はあるでしょうし、もし国威発揚なら時代錯誤と切り捨てるしかありません。学問的な興味だったら、無人の探査衛星を送り、ローバーを着陸させれば済む話でしょう。好奇心は、一度満足させられれば、二度と同じ探査をする意味はないでしょう。水がある事が分かってきて重力の小さな月に、ロケットの打ち上げ基地を作って、見つかった少ない水を分解してロケット燃料を調達すると言うアイデアも、面白いのですが、月から何処に向けてロケットを飛ばし、一体何を「商売」にするつもりなのかが、凡人の投稿者には全く理解できないのです。

そんなお金や人材が居るなら、この地球上には、出来る限り早く解決しなければならない問題は、それこそ山積していると思うのです。それらを放ったらかしにして、空ばかり眺めている人達は、見たくはない現実に目をつぶる「夢追い人」と呼ぶしかないでしょう。もし溢れ出るほどの情熱があるのなら、地に足を着けた(持続可能な地球)ビジネスでは何故ダメなのでしょう。

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2017年9月 6日 (水)

3339 ものの価値2

3338では少し話が反れましたので本題に戻します。ものの価値を決めるのは、個々人の価値観ではありますが、ではその価値観はどうやって育まれるのでしょうか。親によって育てられ、社会(世間)に揉まれて暮らす私たちの価値観には、親や社会の持つ最大公約数的な価値観が通奏しているに違いありません。もし、その価値観に反発して真逆の価値観に走ったにしても、所詮その価値観に支配されている事には変わりありません。その意味で、天才や悟りを開く様な聖人でもない限り、全く新たな価値観を創造する事など凡人に過ぎない私たちには出来ない相談でしょう。

しかしながら、枝葉の部分ではささやかながら何らかの価値観を付け足す事は出来そうな気もします。お金(の価値)に振り回され右往左往しながら生き、やがては石の下に入って終わるであろう人生ではありますが、その途中をどう生きるかは、やはりその人生を最後に振り返った時に、大きな違いが出るのでしょう。投稿者としては、50歳を少し超えた時、価値観をかなり変更した様な気がします。つまり、凡人故にそれまでの「平均的な」価値観はあまり変えられなかったものの、それに加えて「持続可能性」を新たな幹に育てようと決めたのでした。

持続可能性、つまりは「変らない事が価値だ」とする価値観ですが、それは自分が生きてきた20世紀後半の変り方が、あまりにも激しかった事への反発から来たものの様に感じています。戦後の殆ど全ての人が貧しかった時代から始まる投稿者の記憶は、あのバブル時代の狂喜乱舞の時代にも鮮明に続くのです。その落差のあまりの大きさに気付くのは、その後の長い踊り場に佇んでいた時だったのです。山登りに喩えるなら、下を見ないで急登を登り続けて、ちょっとした踊り場になっている場所に出た時、ふと下を振り返ると、あまりの急な登りであった事にビックリしている登山者の様なものでしょう。それは、子供の木登りでもまったく同様でしょう。最初元気に木に登っていた子供が、ふと下を見た途端恐怖に体がすくむ、といった状況と同じなのです。投稿者も50代に入った時、似たようなココロのすくみを感じてしまったのでした。

その「すくみ」を解消する方法は多くはなさそうです。確実な一つの方法は、ソロソロと後ずさりする事でしょう。登ってきた逆の手順で、手足を動かして少しずつ降りていくしかなさそうなのです。天才や宗教指導者でもあれば、新しい時代の新しい価値観でも創り出せば良いのでしょうが、その価値観を検証するには長い時間が掛かるでしょうし、リスクも大きいでしょう。後戻りであれば、そのリスクは回避できます。その上で、「より持続可能性の高い」道筋を選んで後戻りをすれば、間違いは少なくて済むであろう、と凡人である投稿者は信じているのです。

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2017年9月 5日 (火)

3338 ものの価値

時々、ものの価値について考えます。本来ものの価値は、個々人の価値観によって異なる筈のものなのでしょうが、近年はお金(通貨)を物差しと考える人が大多数だと想像しています。つまり、ソレやアレを諭吉さん何人分に相当するのか、と考えてしまうのです。食べ物で言えば、野菜や果物1個が、何円で売られているのか、それは例年に比べて安いのか高いのか、同じモノを他の店ではどれだけ高く(安く)売っているのか、などに拘る訳です。

野菜や果物は、旬になると豊富に出回り、値段は当然のことながら割安になる事でしょう。しかし、旬を外れた時期や、本来ある筈の無い季節にそれらを手に入れようとすると、たぶん旬の時期の何倍にも高騰する事でしょう。旬を外れて野菜や果物を市場に出そうとすれば、当然のことながらハウス栽培の様に、人工環境でそれを栽培する必然性があります。つまりは、それらはエネルギーの塊でもある訳です。しかも、産地は集中する傾向にあるため、市場に向けて輸送のためのエネルギーもばかにはなりません。

ものは、欲しい人にとっては高く売りつけられる傾向にありますし、一方で供給が多く市場で余り気味のものは値崩れするでしょう。しかし、例えば安い時に手に入れてストックするとしたらどうでしょう。例えば、野菜や果物であれば瓶詰やジャムにしてストックしてあれば、年中安いコストで食べる事ができるでしょう。日本の住宅では、坪単価が高いので、いわゆる「ストックルーム」は割愛される傾向にあります。同様に、肉や魚だって大型の「冷凍庫」や「燻製」という手段を使えば、安いタイミングでまとめ買いも出来る筈です。

結局、この国で高いものを買わされる原因は、年中トマトや気に入った野菜を食べようとする食習慣にあるのです。旬の食べ物を入手し、複数の保存方法(乾燥、瓶詰、冷凍、燻製などなど)で保存しておけば、食費は安く上がるでしょうし、災害にだって強くなる筈です。つまり、保存のための一手間さえ惜しまず、保存食のためのスペースさえ確保する努力をすれば、安いものの価値を高める事も容易なのです。近年、「手間惜しみの銭失い」が多くなった所以です。

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2017年9月 4日 (月)

3337 田舎の暮らし3

田舎の暮らしとは、即ち土と水と緑=植物への依存度の大きい、というよりベッタリとした依存した生活を意味します。コメや農作物は勿論、土と水と太陽に助けられた植物の賜物ですが、他にも木材やカヤなどのバイオマスがあり、田舎の田舎に行けば、し尿や家畜の敷料=堆肥まで有効に活用しているのです。つまりは、植物の徹底的な活用とそれへの依存度が非常に高い生活だと言えるでしょう。現代の牧畜や酪農は、輸入飼料への依存度が大きいのですが、それでも耕作放棄地や河原で牧草を育て、家畜の粗飼料として活用しています。

植物への依存は、何も食糧に限った事ではありません。田舎には、木材を使った産業も根付いているからです。分かり易い製材業もありますが、木材の端材を使った工芸品、また樹皮(例えばヤマザクラの皮)を使った樺細工、あるいは漆器、曲げ木細工(曲げワッパ)など、地域毎に特徴を出しながら伝統を繋いでいるのです。樹皮を使う樺細工であっても、実は木を切り倒して採取する訳ではありません。元気の良い若いヤマザクラの樹皮を丁寧にはぎとれば、数年で新しい樹皮が再生するので、実は持続可能な産業でもあるのです。結局田舎の産業は植物に頼り、その植物にある程度の手を加える事によって、上手にやれば100年でも200年でも持続可能である事がその特徴であると言えそうです。

一方で都市の産業はどうでしょう。金属類(希土類を含む)やプラスチック(石油)や電力に100%依存した産業が、100年後に安泰である筈もありません。地下資源の埋蔵量には限りがあるに違いないからです。その証拠に、希土類の埋蔵量のかなりの部分を握っているC国が、少し輸出を絞ると、たちまち家電業界やエレクトロニクス業界に衝撃が走るではありませんか。石油も、現在の瞬間風速としては供給や価格が安定している様には見えますが、国際情勢は不安定要素を抱えていて、予断は許さない状況が続くでしょう。結局、田舎の暮らし(産業)と都会の暮らし(産業)の最大の違いは、その持続可能性(安定性)だと言えそうです。

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2017年9月 3日 (日)

3336 田舎の暮らし2

田舎で暮らす幸せの第一は、緑に囲まれているという点でしょうか。森から生れ、森に依存して暮らしていたご先祖様を想う時、私たちは緑から離れては幸せには暮らせないのだと思っています。鉄骨とコンクリートで作られ、アスファルトで覆われた地面しかない都会でも、公園や街路樹などのささやかな緑で、癒される人もいるのでしょうが、大切なのは緑に囲まれ、緑の風を呼吸するという感覚なのです。山に分け入って、木々や草の「いきれ」を呼吸する時、あるいは飛び回る虫たちや時には動物の臭いなどを感ずる時、自分も森の民であった事を実感できるのです。

時々、仕事で都会に数日滞在する事がありますが、たいていは23日でギブアップ状態になります。人混みに疲れるのもありますが、何より「緑の空気」が吸えない事による「呼吸困難」を感じてしまうのです。一面の田んぼに隣接する場所に土地を求め、家を建てた投稿者ですが、実は欲を言えばもっと里山の裾で、木々に囲まれた場所が理想だったのです。裏の里山で、山の手入れをしながら薪を採集し、それを熱源とするのを一つの理想としていたのですが、連れ合いの理解が得られずやむなく断念・・・。

とは言いながら、家の東側の窓からは、手前に田んぼ、川を挟んで向こう岸には里山の連なりが見える、自宅の立地には十分満足しています。目の前には、時々面倒くさそうに草刈りをして手間の掛からない蕎麦を植えている明らかに農家専業でない人が来ますが、もう少し仕事が落ち着いたら(つまりは暇になったら)是非ここを借り受けて、ささやかな自給農業を試みるつもりです。土を耕して、食糧を得ると言うのが、森を出て暮らし始めた人類の基本の姿だと思うからです。FBでコメ作りをしている何人かの知人の投稿を目にしますが、農業は、まさにお天道様(天気)頼みである事がしみじみ伝わってきます。日本の津々浦々にある神社や、里から眺めて東の方向(太陽の上る方向)の山々に、祠が作られ、あるいは田畑の水源となる川や山間の池に水神様を祀り、人々の信仰を集めてきた所以です。田舎の暮らしは、そんな神々に近い暮らしでもあります。

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2017年9月 2日 (土)

3335 田舎の暮らし

3332の続きの様なものです。投稿者は、還暦到達を一つの契機に、生まれ故郷である秋田に足場を移しました。親はとうの昔に鬼籍に入りましたので、新たに住宅やネットワーク構築を含め足場固めをする必要がありました。その中で、不要なものを脱ぎ捨て、必要なものを取り込みながら、どうにか暮らしを維持する方法を確立する事も出来ました。田舎に戻って見えてきた事があります。それは、3332で述べた山の頂上に近い都市部での暮らしに比べ、緑豊かな田舎は、まさに山麓であると言う実感です。ここでは、その気になりさえすれば、食糧も(バイオマス)エネルギーも地域内で賄う事が可能である事も分かってきました。

働き口が多くあって、給料レベルも高い都市部では、しかし高い住居費や重い住宅ローンや高い食糧費などに苦しめられている筈です。衣食住・エネルギーに心配が少なければ、人生の見通しは結構良好になるものの様です。我が家では、値上がりしているとはいえ都市郊外に比べれば安い土地に新たに家を建て、晴れた日は屋根の太陽熱温水器で、雨の日や冬場は地元産のペレット燃料で風呂を焚き、余った熱で床下をほのかに暖めるという、必要かつ最低限のエネルギー費で暮らしを支える仕組みを取り入れました。

知り合いから貰う事も多い、安い旬の野菜や山菜の恵みを享受し、たまには市内に数多くある温泉場で癒されます。春先から秋口までは、少し足を伸ばせば、変化に富んだ山々や大自然の雄大な景色を好きなだけ満喫できます。これは、たぶん都市部に住む人達にとっては、年に数回しか楽しむ機会の無い「贅沢」なのでは、と想像しています。しかし、田舎ではこれが「日常」そのものなのです。もちろん、これらの楽しみを享受するためには、進んで体を動かし、汗をかく必要はありますが、都会で楽をしてロコモティブ・シンドロームに陥る高齢者を考えれば、それもまた田舎暮らしのメリットの一つと言えるでしょう。今後は、買い足して少し広くなった庭で、野菜でも育てるつもりです。

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2017年8月30日 (水)

3334 モノ造り屋でいいのか2

モノ造りに徹していれば、コスト削減圧力への対応は確かに大変ではありますが、精神的には楽だとも言えるでしょう。工場の中(内向き)の事だけ考えていれば済むからです。新製品を開発したり、作った製品を市場に押し込むのは「元請」がやってくれるでしょう。その意味で、昔は製品を作った人(例えば職人)が、自らそれを商っていた事を思い起こせば、現代社会では「究極の分業」が行きつくところまで行ってしまった社会だとも言えるかも知れません。

銀行は資金調達部分だけ請け負って、出来るだけ多くの利息を受け取る事に注力し、メーカーはモノ造りに専念し、流通業や商社はそれを売り捌いて上前をはねるのです。市場は、メーカーにとっては何やら大きな「雲(Cloud)」の様にボンヤリとしかし活発に蠢く存在になり、結果としてメーカーと消費者が直接的に接触する機会は殆ど消滅したと言って良いでしょう。なにしろ、製品の修理でさえ、消費者はコールセンターに連絡を入れ、そこからの指示で宅急便で送り返して行われる時代なのですから、メーカーが直接ユーザーと「対面で接触する」事など殆どあり得ない事態となったのです。

こうなると、最早メーカーがユーザーの「生の声」を直接聞く機会は失われ、新たな製品の企画でさえ、たぶんリサーチ会社が行ったリサーチ結果で決められたりするのでしょう。つまりは、モノ造り屋は、市場から切り離された状態で、モノ造りに徹する事だけを強いられる社会になってしまった様なのです。一体これは何時から始まった事態なのでしょう。ツラツラ想い起すに、やはりこれはネット社会の為せるワザだと考えるしか無さそうなのです。昭和から平成への移り変わりは、いわばアナログ時代からデジタル時代=ネット時代への移行期でもありました。その流れの中で、モノ造りもコンピュータの中で、かなりの程度完結する事が可能となってしまいました。現代社会では、かなりの製品が、ネットの中で設計出来、ネットからの注文で現物となって届く時代なのです。ネットの向こう側では、モノ造り屋がせっせとモノ造りに集中しているのでしょうが、それは注文する側や、ましてやユーザーからは見えない世界になっているのです。この国も、そろそろモノ造り屋から脱却して、コト造りや価値の創造と提供といった方向に舵を切るべき時期でしょう。やや時期を失しかけている可能性はありますが、遅くともやらないよりはずっとマシですから・・・。

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2017年8月26日 (土)

3333 モノ造り屋でいいのか

この国の得意技は、抵コストで高品質のモノ造りである、と言われていた時代がありました。確かに今でも、そのワザのかなりの部分は維持し続けている事も事実ではあります。しかしながら、既にいくつかのモノ造り(大)企業の破綻報道がある様に、それをヨシとする時代は過ぎ去りつつある様に思うのです。投稿者が長年関わってきた、航空機産業を例に、それを検証してみましょう。日本の戦後の航空機産業の嚆矢はYS-11の開発だったでしょう。しかし、それ以前に朝鮮戦争で使われた、米軍航空機の整備事業という形で、背景ではこの産業も動き出していたのでした。

1960年代の最後に開発されたジャンボジェット機は、世界に衝撃を与えたものでした。あんな大きな金属製の機体が、数百人もの乗客を乗せて大陸間を飛んだ訳ですから、当時技術屋の卵であった投稿者もたまげたものでした。同じころ、YS-11の後継機開発を考えていた、この国の航空機産業は、オランダのメーカーとの共同開発ベースに作業を進めていたものの、これを聞きつけたB社が、B767の共同開発を持ちかけ、B国の圧力に弱いこの国の行政はこの話を「忖度」して業界を「指導」したのでした。こうして、航空機産業におけるこの国の「モノ造り屋」としての位置付けが決まってしまったのでした。

しかし、モノ造り屋はそれ以外の何物でもありません。品質を確保し、コスト削減にさえ取り組んでいれば、大きなリスクが無いモノ造り屋や、しかし市場に影響力を及ぼす事もまた皆無なのです。もし、オランダとの共同開発が実現していたと仮定すれば、YS-11より大型で燃費も更に向上したであろうYS-22?が実現出来ていた事でしょう。その機体は、たぶん今でいるRJ(リージョナルジェット)と同等ですから、CRJERJなどより20年も早く、RJ市場を創り出していた筈なのです。

繰り返しますが、モノ造りをいくら頑張っても、途上国に追い上げられ、コストで絞られの「ジリ貧」に追い込まれるだけなのです。そうではなくて、市場に「価値」を提供する事によって、新しい製品を提案する様にならなければ、このジリ貧からは抜け出せない、と断言しておきます。人々(市場)が欲しいのは、航空機ではなく、座席単価が安くて、安全に旅行できる「移動手段」なのですから・・・。続きます。

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2017年8月22日 (火)

3332 下山の勇気2

実際の登山では、天気さえ良ければ、下界の様子が良く見え、これから渡るであろうルートも見通せるでしょう。であるなら、産業においても最先端を目指して、ドンドン高い山に登って行けば良さそうに思えます。しかし、それは「視界が良好である」と言う重要な前提条件が揃っていての話なのです。もし、山でガスに巻かれ、ルートを見失ったとしたらどうでしょう。闇雲に、上を目指すのは危険極まりない行動になるでしょう。視界が極端に悪い場合には、見えていない10m先が断崖になっているかも知れないし、広い尾根筋であれば間違ったルートに進んでしまうかも知れないのです。

現在の、国際情勢やこの国の置かれた立場を考える時、視界は良好である、などと主張する人は皆無でしょう。もしそんな人が居るなら、それは何がなんでも前に突き進む、イノシシの様な狭い視野の人達だけでしょう。この国にとって最先端産業こそが重要で、その方向に突き進むべきだ、と主張する人達もやはりイノシシ並みと言うしかありません。人間には、前に進む前に前頭葉で判断し、進む方向を見定める判断力が付与されている筈なのです。

闇雲に経済指標だけを拡大する方向ではなくて、私たちは立ち止まって、視界が回復するのを辛抱強く待たなければならないと思うのです。次の選挙までに結果(らしきもの)を出さなければならない、近視眼の政治屋たちの言うことに安易に耳を貸してはならないのです。逆に、その様な風潮の流れに逆らって竿を差す様な、賢者の話にこそ耳を傾けなければならないでしょう。決して、インフレ率2%、経済成長率やGDPなどという「見かけの数字」に目を奪われるべきではありません。それらは、実体を何も表しては居ないからです。統計上の数字は、お役人の匙加減で如何様にも作る事ができるでしょうし、それを解釈する方も多分100個くらいの異なった見方が出来ると思うからです。山でも標高の高い場所では、雲の中に入って視界が悪い場合でも、少し下ってみれば雲の下に入って急に視界が開ける事も多いのです。見通しが悪い現代社会ですが、そこし戻るか、経済活動レベルを少し下げるかして、もう一度足元(=価値観)を見つめ直す勇気が必要だと思う今日この頃です。

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2017年8月18日 (金)

3331 下山の勇気

似たような主旨で数回書いた様な気もしますが、まあ年寄りの繰り言と容赦願っておきます。さて、この国は、戦後の高度成長期を足掛かりに、石油危機や数回の何とか経済ショックを乗り越えて、世界でもトップレベルの経済大国に登り詰めました。その後20年以上に亘る経済の踊り場も経験した訳ですが、ナントカミクスで無理やり加速させようとした試みも潰えようとしています。兎にも角にも、経済大国にはなった訳ですが、しかし、登った山の頂上に待っていたのは、荒涼たる景色でした。今日みられる風景は、緑の殆ど無い都市に高層ビルやタワマンが林立する姿と、メッキリと人口が減り、シャッター街や廃屋が増えた田舎の「二極化」です。

経済成長とは一体何だったのか、こころで頭を冷やし、足元を見つめてみる必要がありそうです。経済成長とは、一種の錬金術です。しかし、無からお金を生み出す訳にもいかないので、元手が必要です。その元手は、地面の下にあります。鉱物や石炭や原油を掘り出す事が経済活動の第一歩でしょう。それを使って、金属を精錬し、石油製品を作って、売れる製品を大量に生産する事になります。それらを売り捌くために、またまた大量の石油を使って地球の隅々まで運ぶ必要があるのです。取り敢えず、自国内に天然資源があるなしに関わらず、取り敢えず大量生産技術を確立した国々が、経済大国入りの条件ではありました。

戦後、B国式の「流れ作業」や「品質管理」技術を、独自に改良し、カンバン方式やQM(品質マネジメントシステム)まで育て上げたこの国の「モノ造り力」は、確かに大したものではあるでしょう。しかし、それは単なる「モノ造り力」にしか過ぎず、決してビジネス力ではなかったのです。今売れる商品を安く大量に作る技術はあるにしても、ではこれから何を作って提案していくか、という将来のトレンドをリードする力は非常に弱いのです。その例として、M社の航空機を引き合いに出して申し訳ないのですが、彼の企業は既にあるリージョナルジェットという市場に打って出たのが間違いの元だったと言うしかありません。そこでは、性能や技術はさておき、価格と納期こそがカギを握る世界だからです。M社は、五度に亘るスケジュール遅れを起こしている訳ですから、売値を半分にでも引き下げない限り売れる訳などないのです。これは失敗プロジェクトになる、と断言しておきましょう。

必要なことは、草木も生えない荒涼とした頂上からの下山する勇気だと思うのです。航空機を作りたいのなら、島国や途上国の実情を汲んで、例えば安価な水上機といった飛行場の要らない新たな市場を創生すれば良いのです。山を下りつつ、原子力とか、造船とか、車とか20世紀型の産業のパワーを、少しずつ新たな産業の創生に向けて行けば良いのです。天候(経済)がひどく悪化してから、慌てて下山を始めるなら、間違いなく道を踏み外しての滑落かあるいは濃いガスに巻かれての遭難が待ち受けている事でしょう。長くなったので今日はここまで。

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2017年8月16日 (水)

3330 適正規模

投稿間隔が随分空いてしまいました。仕事が急に忙しくなり、出張のついでに山に登ったり、夏季休暇で家人の帰省などが重なって、なかなかパソコンの前に座る時間が取れなかった事を言い訳にしていますが、体は忙しいものの、実は頭が夏季休暇になっていたのでした。さて、最近は再エネとの関わりが密になってきましたが、その際頭に置いているのは、その適正規模というファクターです。例えば、数万キロワット規模のバイオマス発電所というものが存在しますが、そもそもその燃料であるバイオマスをどうやって集めるのかを考えると、割り切れないものを感じます。つまり、臨海に所在するであろうその発電所に、大量のバイオマスを集めるためには、多くの化石エネルギーを必要とするからです。国内の間伐材や製材屑を活用するにしても、量が足りないので、海外から木材チップやヤシ殻などの燃料を、船を使って輸入せざるを得ないでしょう。バイオマスは、嵩張る割には嵩比重が小さいので、船を使って空気を運ぶようなものなのです。

バイオマスを含む再エネは、やはりその地域で入手可能なエネルギー源を使って、その地域で消費出来る規模というものを頭に置く必要があるでしょう。再エネの活用が、その運搬のために使われる化石エネルギーが入手できる限り、というのであれば何をかいわんやでしょう。収集や運搬が低コストで済むのは、化石エネルギーの価格があまり高くならない事が前提である事は銘記すべきでしょう。

さて、その上で、再エネの活用は、エネルギー源の分布状況の把握抜きにしては、成り立たないと思うのです。例えば、農林業地域を見回せば、バイオマス資源としては製材屑やモミ殻、河原のカヤなど、それなりに見出す事が可能です。しかし、それは太陽エネルギーが薄く広く分布しているのと同じ程度に薄いのです。しかし、製材ためには山から木を伐り出して里まで運ぶ必要があるので、そこには木屑が「集まってしまう」ので、それをうまく利用すると言う考え方になるでしょう。集めるのではなく、集まるのです。それはモミ殻などでも同じ事情になります。家畜し尿のエネルギーとして利用に注目していますが、バイオマス発電を考えるのであれば、家畜の頭数によってその発電規模を設計すべきなのです。決して、FITや助成金ありきの、欲張った規模を指向すべきではありません。

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2017年8月 6日 (日)

3329 閑話休題(本)

最近忙しいせいか、暑さのせいかブログ投稿(更新)の頻度が極端に減っています。書きたい事が尽きたのかも知れませんし、忙しい割に新しい刺激が少ないのかも知れません。それにつけても、読書が最大の刺激の様な気もします。その意味で、最近殆ど本を読んでいない事に気が付きました。それが小説であれ、ノンフィクションであれ、専門書であれ、本の書き手は何らかのメッセージを抱え、それを発出したくて本を書いたに違いありません。その意味で、どんな本であれ、二つか三つのメッセージを受け取る事ができると思っています。

本を読む楽しみは、そのメッセージを探し出し、自分なりの形で受け取る事だと言えます。それが、自分にとって新しいメッセージであれば最高ですし、そうでない場合でも、異なった立場の人が、ほぼ同じメッセージを発しているとすれば、それはかなり真実に近いものかも知れません。それが、三つに重なれば、ほぼ正しいと考えても良さそうです。さて、今週も遊び(山)と仕事で忙しくなりそうなので、盆休みには何冊かの本を手元において読んでみようと思います。

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2017年8月 3日 (木)

3328 ローテク三昧3

ローテクは、シンプルであるが故に応用も効かせ易いとも言えそうです。例えば、バイオガスを使ってエネルギーを得るには、途上国でも行っている様に、ブリキのガスホルダーを作ってメタン発酵ガスを貯めておいて、それをガスコンロに送り込めば、湯沸しや調理に使う事ができます。一方で、その熱を利用してスターリングエンジンを動かせば、電力を得る事も可能でしょう。しかし、スターリングエンジンがエンジンの主流になり得なかったのには、それなりの理由がありそうです。例えば、回転応答性が鈍いという点が挙げられます。つまり、発電機の原動機として応用した場合には、負荷の変動に追従遅れが生じてしまうのです。熱源を選ばないというメリットはあるにしても、これはやはり欠点と言うしかありません。

他方で、ディーゼルエンジンというローテクがありますが、これは移動用電源や非常用発電機として広く使われていますが、回転数制御が比較的簡単で、応答性も良いのです。つまり、1回転するする間に燃料の量を加減してやれば、次のサイクルでは回転数が変るので、実質上の応答時間は数秒以内という事になるのです。単位体積当たりの燃料の熱量が低い場合でも、ガスを加圧して密度を高めてやることによって、見かけの熱量はアップさせる事ができるのですから、あまり悩む必要はないのです。ガスの種類によって、やや点火しにくい場合でも、点火プラグを追加してやれば問題はありません。

別にスターリングエンジンがハイテクという訳ではないのですが、やはりディーゼルエンジンに比べれば、近年注目されていて、応用例も増えてきてはいるのですが、既にあるディーゼルエンジンの応用先として、ガスエンジンはかなり有望だと言えるのです。発電機との組合せで発電を行う場合でもも、回転数を制御するガバナーとガスと空気を混合するミキサー、ガス圧を上げてやるルーツブロアなどの周辺機器を組み合わせれば、数十キロワットクラスの発電システムを構築するのは、朝飯前のローテクだと言えるでしょう。

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2017年7月27日 (木)

3327 ローテク三昧2

3326の続きです。一般にローテクの対極にハイテクがあると言われますが、ハイテクは確かに最先端ではありますが、「最先端」はイメージとして眺めれば細くて尖がっていると思うのです。細いという事は、それを支える基盤が狭く、不安定であるという事も意味するでしょう。一方でローテクは古くから使われていた技術であり、多くの実績があり、データがあり、安全性の確認があり、それを支える裾野の技術も広い訳です。それを絵に描けば、ハイテクはスカイツリーのイメージであり、ローテクはどっしりとすそ野を引いた富士山の様な山だと言えそうです。

さて、ハイテクですが、ロクなデータも無く、闇雲に前に突き進んでいる分野、例えばバイオテクやITやマイクロデバイスなどは、裏返して眺めれば、多くの危険も孕んでいるのだとも言えるでしょう。例えば、バイオテクを使った新薬が開発されたとして、それが果たして人体に使っても全くリスクが無いかと問われれば、過去の薬害事件を思い出しても分かる様に、作用と共に生ずる副作用の評価は非常に難しいし、膨大な治験の積み重ねが求められる筈です。然るに、経済性を追求すれば、費やした莫大な開発費を回収しようとする経営者は、時に見切り発車を指示してしまうのでしょう。

一方で、ローテクは数多くの事故やトラブルをくぐり抜けて、取捨選択の結果「生き残った技術」でもある訳で、リスクの評価は既に済んでいると断言しても問題ないでしょう。例えば、内燃機関が一体何台作られて、使われてきたか数え様もありませんが、少なくとも何億とか何十億台などという単位ではない事は確かです。作られては、壊されて材料は再利用され、新たに開発・改良されては、市場に送り出されてきた筈です。その意味で、ローテクはいわば「社会的実験済み」の技術であるとも言えます。もちろん、ローテクの新たな応用という視点は必要です。投稿者が、バイオマスやバイオガスの利用拡大に微力を尽くしたいと考えているのも、まさにその視点なのです。

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2017年7月23日 (日)

3326 ローテク三昧

随分久しぶりの投稿の様な気がします。引き受けてしまった3つの仕事に対して、頭を切り替えながら、日本狭しと走り回っていたので、なかなかブログを書く時間が無かったのでした。と言うより、心の余裕が無かったというのが正しいでしょうか。

さてその内の一つはバイオガスエンジンでの発電で、別の一つは昔取った杵柄の一つ、機械加工(切削)分野ですが、どちらも「ローテク」の代表と言っても良さそうな分野です。なにしろ、バイオガスエンジンの元となるのは、いわゆるディーゼルエンジンですから、振り返ってみればディーゼルさんによって発明されてから既に100数十年経過している技術なのです。一方、切削については、木材をロクロで削っていた時代もあったでしょうから、事実上人間が道具を使い、金属を利用し出した時代に遡るのかも知れません。

しかし、いくらIoTの時代になろうが、機械に賢いAIを搭載しようが、結局機械を動かし、モノを削るのは「ローテク」であることにはいささかの変化もない筈なのです。モノや刃物をモーターの力でぶん回し、硬い金属でできた刃物で材料を削ったり、穴を明けたりするしかないのです。航空機の材料だって、巨大な糸巻につなぎ目の無いカーボン繊維を巻き付けて胴体でも作らない限り、やはり部材を重ねて穴を穿ち、リベットでカシメる以外に胴体を作る良い方法は発明されてはいないからです。材料研究者は、今より更に軽く、剛性の高い繊維や材料を考え出してしまうでしょうから、それを加工する側も、更に硬い材料で刃物をこさえていくしかない訳で、そのイタチゴッコは当分続く事でしょう。

しかし、関わっていて思う事は、ディーゼルエンジンにだって、刃物にだって、改善する余地が山ほどに残っているという事実なのです。ドリルの様に、研究し尽くされたと思える分野にさえ、まだまだ改善の余地がある事に、今更ながら気づかされているのです。ローテクも、まだまだ奥が深いと感ずる今日この頃ですし、死ぬまでローテク三昧に浸ろうとも考えている今日この頃です。

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2017年7月12日 (水)

3325 異常高温

ここ秋田でも、内陸部では酷暑日が数日続いています。最低、最高気温ともに平年に比べても6-7℃高いという状態はやはり「異常高温」でしょう。確かに、天気は良いのですが、日射だけでこの高温は説明できないでしょう。何故なら、日射が一番強いこの時期には、その強い日射で気温はグングン上がるでしょう。しかし、日が暮れてしまうと気温は速やかに下がる筈なのです。晴天の日には、最高・最低の気温差が10℃くらい開くのが普通なのですが、明け方でも25℃以上のいわゆる「熱帯夜」なのですから話になりません。

その原因としては、確かに梅雨前線が南の湿った暖かい空気(湿舌)を引き込んでいるのは間違いないでしょう。その上で、集中豪雨はいわば水蒸気の凝縮であり、発熱現象であることを忘れてはならないでしょう。暖かく湿った空気から雨が絞り出されると、気温は当然の事ながら上がるのです。異常な高温の原因の一つは、異常な降雨にもあると思うのです。しかし、このことだけで異常高温が全て説明できる訳ではないでしょう。

他の要因として投稿者が疑っているのは、大気中のエアロゾルです。エアロゾルは、例えば海面の波立ちによる塩分を含んだミストによっても生じますし、PM2.5あるいはそれ以下の微粒子が核になってできるものもかなりの割合になるのではないか、と疑っているわけです。その微粒子の供給源には事欠かないでしょう。お隣の大国であるC国の発電所や車などで燃やす石油や石炭から大量の粉塵や硫黄酸化物などが、日夜大気に供給され続けているからです。それらが核となってエアロゾルが生まれる訳ですが、それらが大気中の水蒸気と温暖化効果ガスと相俟って、地球に熱の蓋をしてしまうと言うストーリです。その結果、日射で地表に入った熱は、夜間にも宇宙への放射が弱くなり、熱が蓄積する事につながると考えています。二酸化炭素やメタンガスなどのGHGも右肩上がりで蓄積していますので、どう考えても異常高温は、今後も持続すると考えて、異常が通常になるとの前提で、「適応策」を考えていくしかないのでしょう。残念ながら。

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2017年7月 7日 (金)

3324 バイオ燃料の課題

バイオ燃料の活用が特に難しいのは、それが固形燃料であれ、液体・気体燃料であれ、それが得られる地域やケースによって、性状が大きく異なる点でしょう。固形燃料であれば、比重や水分率、結果としての着火性や発熱量、また液体・気体であっても、発熱量に加えて含まれる不純物(SO2やシリコン化合物やタール分など)や不要成分(CO2N2など)の含有量が大きくバラつくのです。

これを上手く回避して使うためには、実はその利用設備(多くの場合はボイラや内燃機関ですが)に大きな調整代を確保しておく必要があると思うのです。場合によっては、不純物濃度を一定以下に抑えるために除去装置も必要になるかも知れません。具体的には例えば、消化ガスにおける脱硫装置や、乾留ガスにおけるタール除去装置などが挙げられます。また燃焼や内燃機関での利用に当たっても、加圧装置や空燃比を最適化するための混合器、燃焼や内燃機関の回転数を制御するシステムなどに多くの自由度を確保しておく必要もあります。

その意味では、自己学習能力を持つ小型のコンピュータの活用は不可欠でしょう。また、それを可能とするセンサーやアクチュエータの開発も必須です。こう考えてくると、現在使われている石油系の化石燃料が如何に便利で使い易い燃料あるかが理解できるでしょう。何故なら、その性状はJISなどで、厳密にコントロールされていますので、燃焼や内燃機関はその性状に合せて「容易」に設計できるからです。一方で、性状のバラつきが大きな燃料を使うには、「複雑な」制御系が必要となる点、機器の設計は困難なものになる筈なのです。これは、再エネ燃料の使用が拡大しない所以でもあります。

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2017年7月 4日 (火)

3323 パワーマージン

表題は、別の言葉で言えばパワートレランス(出力余裕)の意味です。トラブルが多発しているあるバイオガス発電所を調査する機会がありましたが、原因としての結論は「パワーに余裕が無い」厳しい設定だという事になりました。発電機としての動力は、ディーゼルエンジンですので、小さな馬力のエンジンにフルに負荷を掛けるという状態は、さながら車をレース場で常にエンジンをぶん回し、タイヤを軋ませながら走る様なもので、もちろんエンジンの寿命を縮める事は間違いないでしょう。しかし、同じ車でも交通規則を守りながら、一般道をトロトロ走るならば、車だって例えば20万キロを超える様な距離だって走破してくれる寿命は十分あるでしょう。

つまり、設計負荷と機器の寿命を全うさせる常用負荷は分けて考えるべきなのです。元技術屋のカンとしては、設計負荷に対して、例えば70%以下の負荷を常用とするなら、十分に長い寿命を享受できるはずなのです。航空機の様に、安全率や強度余裕を極限まで削らなければならない場合は仕方がないのですが、陸上用で重量にあまり制限が無い場合、徒に余裕を削る必要など無いでしょう。

発電機であれば、負荷に対してたっぷりと馬力のある原動機(ディーゼルやタービンなど)を用い、十分なパワー余裕を持ちながらトロトロと回せば良いでしょう。負荷が低ければ、当然の事ながら機器は長持ちするでしょうし、故障発生も少なくて済むでしょう。潤滑に関して言えば、軸受けの荷重が小さければ、転がり軸受けでは寿命が延びるでしょうし、滑り軸受けでは発熱量が減るので、潤滑も楽になるでしょう。それは、潤滑油の劣化を抑え、交換の頻度も低くて済むことを意味するのです。「大は小を兼ねる」と言う格言は、この場合非常に重要な意味を持ちます。

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2017年7月 2日 (日)

3322 ゾーンニング

この国の街づくりで、行政が最も苦手としているのはたぶん「ゾーニング」でしょうか。つまり、ここは商業地区、ここは住宅エリア、ここは工業団地、ここは官庁・文教地区といった区割りが上手くできていない都市や町が殆どなのです。何故かと考えてみるに、この国では古よりまずは農地、とりわけ水田ありきで村や町が構成されていました。水田の特徴としては、引水と湛水のために等高線に沿った開発が行われてきたのでした。国土の狭いこの国では、工業化や市街化は、水田や畑を潰す形で始まり、高度成長期においては浅海の埋め立て地が造成されましたが、農家の土地に対する執着も強く、かつ工業用地や住宅地の開発に計画性を持たせる事もない「単なる許可制」だけで対処したため、無秩序な工場立地や無理な宅地造成が横行してしまったのでした。

もし、行政が「ゾーニング」の考えに立ち、将来の青写真を描きながら許認可をコントロールしていれば、現在の様なカオスは生じなかったでしょう。今日、典型的な地方市を眺めれば、中心部には、鉄道駅を中心として昔ながらの街道町の面影を残す道幅の狭い市街中心部があり、その街を迂回するバイパス道路が造られ、その周りに田んぼを埋め立てた工場が散在し、町の郊外には乱雑に開発されたいくつかの住宅団地と大きなショッピングセンターが忽然と生まれたりもしています。

ゾーニングに必要なのは、都市計画を専門とする人材と、行政の強力な指導力だと思うのです。土地は誰の「所有物か?」という根本的な問いが、時々議論されますが、土地は基本的には「公共財」であるという信念が必要でしょう。何故なら、元々誰のものでもなかった荒れ地を開墾したのは、確かにあるご先祖様だったでしょうが、それを封建時代のルールで代々の子孫が受け継いだにしても、戦後の混乱期の農地改革で、それは「適当に切り分けられてしまった」のですから、その際の権利を必要以上に重視するのは正しくないと思うのです。土地を利用するのは、基本的にはある代だけに限定された権利として認める一方、それは有期の借地権の様なものとして、用済み後は公共に返納すべきだとも思うのです。そして、土地は上手くリサイクルしながら、将来に向けて青写真に沿って、再開発すれば良いのです。確かに10年やそこらでは目に見えた変化は生じないでしょうが、50年、100年後には、理想的で住み易く、働き易い街に変化していくでしょう。職住が接近していて、子供を育てやすく、青年が学び易く、老人が安心して生涯を終える事が出来る街の理想を追求すべきでしょう。多くの地方都市や小さな町ではその理想の追求も可能だと思うのです。ゾーニングにほぼ失敗してしまった東京は、最早人の住む街ではなくなったと言うしかありません。

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2017年6月27日 (火)

3321 シュリンクの難しさ2

3319の続きです。都市のシュリンク=インフラのシュリンクが難しいのには、いくつかの理由が考えられますが、最大のものはそれが目立った利益を生まない事でしょうか。都市を拡大する局面では、広げられた土地を人々がローンを組んで買ってくれ、それに従って公共サービスや流通業も拡大して行けた訳で、経済的な「回転力」もあったでしょう。しかし、シュリンク局面では、シュリンクによって誰かが際立った利益を上げ得る仕組みは考え辛く、シュリンク工事に必要な費用の出所が見つからないのです。敢えて言うなら、インフラが縮小する事によって、インフラの維持に係る自治体の出費は抑制できる程度でしょう。

ならば、もっと大所高所から物事を考えてみる必要が出ると言うものでしょう。つまり、50年後100年後の青写真を描き、インフラの修繕や更新のタイミングで、シュリンクを織り込んでいくしかなさそうなのです。そのためには、改めて「公共財」という概念を明確にして進める必要がありそうです。例えば、土地の個人所有の権利が強すぎる国では、公共事業は進めにくいでしょう。公共工事を進める中で、個人所有の小さな土地が、工事の障害になるなどの例は枚挙に暇が無い程です。

一方で、海外では、街並みの景観維持のために、建物の高さや形や色合いなどにも細かな規制が掛けられたり、あるいは、道路整備のために個人の権利が抑制されたりといった例が多い様に感じます。いずれにしても、ある時期に国や各自治体が一斉に、方向性をシンクロさせた「長期的な将来像」を描いてみる必要はありそうです。それは、単に経済的なメリットだけを求めるものではなく、少子高齢化社会になっても、人々が幸福感を感じながら暮らせる場所とする必要があるのは言うまでもないでしょう。投稿者が考える具体的な青写真については、稿を改めます。

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2017年6月26日 (月)

3320 食糧・水・エネルギー問題

N羽宇一郎著の新書を読みました。若い頃、商社で食糧を買い集めていた経験の長い氏の、人口増に対応が難しいとされる食糧問題の提起には説得力があります。本の中で、同時に氏が水問題とエネルギー問題に同じ程度のページ数を割いているのには、予てより同じ問題意識を持っていた投稿者としても納得できるものでした。つまり、食糧生産には、穀物重量の何十倍もの量の水が必要だと言う事実があります。嵩だけで見れば、小麦1㎥を作るには、その数千倍、穀物をエサにして育てる牛肉の場合には、数万倍の量の水が必要な計算になります。これは「バーチャルウォーター」と呼ばれ、環境省のHPでもそのそれぞれの食糧に対する見水の必要量を換算する「バーチャルウォーター計算機」がアップされています。

さて、食糧自給率が4割弱とされているこの国では、不足している大量の食糧の輸入している現状ですが、結局それは海外で農業灌漑に使われた大量の水資源を輸入していると同じ事になるのです。その絶対量は、なんと琵琶湖3杯分にも上るというのです。その意味するところは、輸入相手国で旱魃が起これば、その輸入が止まってしまうということなのです。自国の消費を抑制してまで食糧を輸出してくれる国などどこにもないからです。

同様に、現代においては食糧生産は高度に機械化されていますから、地下水の汲み上げ灌漑電力や作付、管理、収穫に使う大型農業機械の化石エネルギー、加えてその農産物を海を越えて輸送するエネルギー等、多大なエネルギーを費やしてもいるのです。これを、バーチャルエネルギーと呼ぶとすれば、その量も多分原発何個分かに相当すると想像しています。つまり、世界の水問題やエネルギー問題を受けての食料問題は、全てこの国にとっても大問題であり、しかもその比重はあまり変わらないのです。その3つの問題の中で、最も早い時期に顕在化しそうなのは、たぶん水問題でしょう。過酷な旱魃と現状は大量に汲み上げている地下水の枯渇が同時に起これば、その年に彼の国の農地の収穫は壊滅的な打撃を受けるでしょう。例えば、5%のある穀物の供給不足は、たぶん2倍に迫る価格上昇を招く筈なのです。それは、たぶん生産可能な農地や食糧そのものを巡っての新たな紛争を招くと容易に想像できます。今のうちに、この状況を緩和する政策が不可欠なのですが、今の政治屋にこの危機感を持っている人がどの程度いるのか、延々と続くレベルの低い「椅子取り合戦」を眺める限り、暗澹たる気持ちにならざるを得ません。

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2017年6月24日 (土)

3319 シュリンクの難しさ

出張から戻って投稿再開です。さて、21世紀入って少し経った頃にこの国の人口はピークを打ち、減少局面に入りました。偶然ですが石油埋蔵量の半分を消費してしまった時期にも重なります。人口減が加速し、エネルギー源も心細くなってくる今後、考えなければならないのは社会の縮小という課題です。人口がドンドン増え続けた高度成長には、社会が膨張しました。例えば、特に人口の集中が著しかった東京を中心とする関東圏では、山を削り、谷を埋め、それでも足りなくなって先祖伝来の田畑を潰して、工場団地や住宅地を増やし続けました。都市部では、川の上に道路を懸け、地下にはモグラの様に地下鉄を張り巡らし、高層住宅を雨後のタケノコの様に増やし続けてきたのです。結果として、村が町になり、それがさらに市となって膨張をつづけたのでした。今、関東平野を新幹線で進む時、家並みが全く途切れる事無く続くのを見て、唖然とさせられます。東京と衛星都市の間に近郊農業の農地が広がっていた関東平野のイメージは、既に過去のものとなってしまっていたのです。

しかし、その都市部でも、古い大規模団地や下町などでは、既に少子高齢化が顕著になってきています。高度成長に広げ続けた社会インフラ、つまりは道路、上下水道や道路、公共施設などは、多くの自治体で既に「お荷物」になりつつあるのです。広がりきったインフラは、既に耐用年数を超えている部分の比率が増えて、今後はメンテンナンスや更新の費用が自治体の財政を圧迫し続ける事は素人が考えても容易に想像できるでしょう。事実、上下水道の漏れ事故による道路の陥没事故は、既に日常茶飯事になってきました。

早急に考えなければならないのは、たぶん都市をシュリンクさせる事だと思うのです。広がりきった都市を縮小させるのは、しかし簡単な事ではありません。若い頃必死で働き、多額のローンを組んで買った、土地や家をあっさりと手放して、都市中心部の高層アパートに喜んで移り住む人はそれほど多いとは思われないからです。もし、住人の意思ではなく、外的要因での社会のシュリンクが起こり得るとすれば、あまり考えたくないストーリーではありますが、大都市圏を襲う大きな災害でしょうか。インフラがズタズタに寸断された都市には、もはや大きな人口を支える機能は残されてはいないでしょう。戦時中の様に、地方に縁故を頼って「疎開」するしか方法は無いのです。人が住めなくなった都市こそ、皮肉ではありますが再開発やシュリンクをする好機が到来したと言えるのかも知れません。しかし、物理的なシュリンクの前に、頭を冷やして「はて?何故私たちは都市に群れて住むようになったのだったろうか?」と自問してみる必要があるでしょう。今こそ、ゴミゴミして、忙しいだけの都会暮らしと、時間がゆっくり流れて緑豊かな田舎を、改めて比べてみて、どちらが幸せなライフスタイルかを考え直してみるべき時期だと思うのです。田舎に再度人口が戻り始めるタイミングこそ、実は田舎の町をコンパクトに設計し直す絶好のタイミングになる筈なのです。いずれにしても50年、100年単位での長期計画が必要な難しい話ではありますが。

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2017年6月21日 (水)

3318 今という時代2

3317ではエネルギーから今という時代を眺めてみましたが、ここではモノという側面から見てみましょう。この国は、戦前・戦後のモノの無い時代を経験し、高度成長期を通じて憑りつかれた様にモノを求め続けてきた様に振り返っています。いわゆる三種の神器や3C等の「耐久消費財」を手に入れるために、ローンを組み隣に負けない様に取り揃えたのでした。それが一段落すると、今度は住宅です。主に私鉄会社が山を削り、谷を埋めて造成された「新興住宅地」の狭い土地に、ギッチリと二階建ての家を建てたのでした。それが土地不足で行き詰ると今度は、高層マンションが建設され、より高く見晴らしの良い高層階に住居を求めたのでした。

殆どの新しい住宅には、所狭しと便利な家電が溢れ、近くのスーパーやショッピングモールに行けば、日用品や食糧が溢れる様に並べられています。駅前の大型家電店では、次々に新しくて高機能で大型の家電を、これでもかと展示販売しています。それどころか、最近はいわゆるネット通販で、欲しいと思ったものが、翌日か数日内に手元に届く物流システムが出来上がってしまったのです。モノに溢れた生活スタイルは、その背景に「便利中毒」が隠れていると投稿者は疑っています。便利には、楽をして結果を得ると言う意味合いもありますので、ネットでボタンをポンと押せば、殆ど待たずにモノが手元に届くと言う便利さは、さぞ便利中毒者を増やしているものと想像できます。

家電にしても、「全自動」を売り物にした銘柄も多く売り出されていますし、今や「全自動車?」が登場しようとしています。ここでの結論としては、便利に(楽に)、大量に手に入る様になった物流システムが、便利中毒=モノ中毒を増やしたのではないか、としたいと思います。問題は、この様な時代が、果たして持続可能か否かという点だと思うのです。否の場合は、間もなくこの様な便利でモノに溢れた時代がやがて終わり、不便で常にモノに渇望する時代に戻って行くしかないのです。そうなる前に、私たちは自ら進んでその様な時代に対応する訓練を積んでおくべきだとも思うのです。更に続きます。

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2017年6月20日 (火)

3317 今という時代

今という時代を、環境と言う切り口で見てみる事にします。さて、たった今の状態を眺めてみると、エネルギー的には石油・LNGは、一応安定的に供給されている様ですし、価格レベルも消費国側にすればまあまあで推移している様ではあります。従って、原発の再稼働がボチボチ始まっているにしても、そこへの依存度は限定的だと言えるでしょう。という事で、石油を燃料とする車や航空機の関連産業もそれなりに髙い水準を保っている様です。

しかし、これは現在の瞬間風速であり、今後どうなるかは保証の限りではないでしょう。パリ協定によるCO2削減圧力はジワジワと効いてくるでしょうし、石油そのものの供給が、今後とも安定して行われるという保証は何もないからです。産油国の周りは相変わらず「キナ臭い」状態ですし、グローバルなパワーバランスも微妙に狂い始めてもいます。従って、ポスト石油エネルギーに位置付けられている「水素」だって、それが石炭や原油から搾り取られる限りにおいては「ハードエネルギー」である事には違いが無い訳です。水素を絞った炭化水素(石油や石炭です)からは、多量のCO2が大気中に排出される事になります。これでは、石油を直接燃やすのと何ら変わりはないでしょう。

エネルギーから見る限り、石油を完全に代替するエネルギーは、未来永劫出てこないと考えるべきでしょう。私たちは、太陽光、太陽熱、風力、、波、バイオマス、水力といった、太陽光が形を変えたいわゆる再生可能エネルギーを賢く組み合わせて、質素に暮らす方法を編み出さなければならないのです。従って、石油に依存する車や航空機といった「石油系交通機関」の使用も、可能な限り抑制して行かなければならないでしょう。それを補完するのは、当然の事ながら環境負荷の小さな鉄道の活用であり、人力移動手段である自転車などでしょう。都会では、もっと公共の貸自転車を増やすべきでしょうし、田舎でも自転車を多用して高齢者の老化を防止するべきでしょう。決して、自動運転車を導入して足腰を更に弱くする愚策は行うべきではありません。概して言えば、今という時代は「時代の折り返し点」であると考えるのが妥当だと思うのです。特に、エネルギーに関して言えば、間違いなく石油時代のターニングポイントであるのは間違いありません。続きます。

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2017年6月19日 (月)

3316 アスベスト問題

NHKで取り上げられた公営住宅における室内でのアスベスト吹付問題については、全く行政の怠慢としか言いようがありません。アスベスト問題は、その使用が停止されて終わりという問題ではないからです。飛散したアスベスト繊維を吸引した人が発症するのは、下手をすれば数十年後というケースもあり、静かなる時限爆弾と呼ばれる所以です。数十年前に建てられた公営住宅の天井裏などに、断熱・防音あるいは結露対策として、アスベストの吹き付け塗装が行われた訳ですが、その図面や工事記録が廃棄されているケースが多かったのが大問題になっているのです。

実際の建物にアスベストが残っているかどうかは、実際に壁や天井の吹き付け物を採取し、検査を行ってみないと事実が判明しないのです。これは非常に手間の掛かる調査で、かつ住人の移動によって、アスベスト被害の発生する可能性がある人は、事実上把握できないのではないかと懸念されます。

かくなる上は、可能性がある人たちに、健康診断を受けてもらい、疑わしい人たちにはさらに精密な診断を行う、消極的な作戦しか残っていない様に思えます。アスベストは、何も住宅に限った話ではなく、使用が中止された後でも、例えば屋根材などには数%のアスベストの添加が認められていたのです。同時期には、車や鉄道車両や航空機のブレーキパッドにもアスベストが使われていましたので、それらが大気中に飛散し、今年配となった人たちは、知らず知らずのうちに吸引していた可能性も高いのです。いずれにしても、発症の可能性のある人を絞り込まず、初期症状の内に発見・治療できるような啓発活動が欠かせない動きになるでしょう。アスベスト問題は、終わったのではなく、今回の報道でむしろ今後数十年続く長期的な問題であると再認識されただけなのです。

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2017年6月16日 (金)

3315 多忙中

数日の出張から帰って、投稿の再開です。何故か最近忙しくなってきました。環境屋を名乗って、省エネやら再エネの重要性をお経の様に唱えて、あちらこちらに首を突っ込んできたのですが、それらの切れ切れのネットワークが繋がってきた様なのです。加えて、あまり気が進まないながら、頼まれた事だけを引き受けてきた「前職」関連も、ここにきて急にやはりネットワークが復活したり、新しく繋がったたりして少し驚いています。国際共同開発と言う名の「海外下請け」の仕事はあまり腹に入らないと、早めに卒業した業界ですが、所詮は技術屋のなれの果ての投稿者は、やはりモノ造りが好きだった様なのです。もちろん、環境人間ですからモノ造りといえども、それに使用する資源やエネルギーは極限まで絞り込む必要がある事は曲げません。

再エネについては、推してきたバイオマスも徐々にではありますが、今住んでいる地域でも普及が進んできていますし、新たに農業・畜産残渣、具体的にはもみ殻や畜糞・鶏糞の類をエネルギー化するプロジェクトにも巻き込まれてしまいました。もちろん、その方面に首を突っ込んで、巻き込まれる事をむしろ望んでいたので、当然の成り行きでもありますが・・・。

いずれにしても、誰かに頼りにされる事は、投稿者の様な年齢になってしまえば、むしろ嬉しい事になっていて、活動費が自前で賄えるのであれば、ボランティアでも参加したい程なのです。残念ながら竟の住み処を建てたばかりで貧乏なので、お金がいただける仕事のついでに、趣味の世界?にも立ち寄ると言った動きにはなってしまうのですが・・・。それにしても、お金のいただける仕事がボチボチと入ってくる事も有難い事ではあります。お蔭様です。

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2017年6月11日 (日)

3314 車「飛行」事故

東名高速で、まさに車が空を飛ぶ事故が起こりました。翼を持たない車が空を飛ぶには、少なくとも十分な助走スピードと、飛び上がるためのランプウェイ(スロープ)が必要です。今回の場合、事故車は一度走行車線のガードレールに接触した後、追い越し車線に飛び込んで、中央分離帯の土塁に乗り上げた結果、「離陸」してしまった様です。この間ブレーキは踏んでいない様なので、たぶんドライバーは意識が飛んでいた可能性はあります。

しかし、問題はこの土塁の形状なのです。土塁は、もし走路をはみ出しても、比較的安全に車を受け止める役割を負っているでしょう。それを超えた場合には、中央分離帯上のガードレールが反対車線に飛び出すのを阻む役割を持っています。しかし、今回の事故の場合、この土塁がジャンプのためのランプウェイになってしまった様ですので、事故原因の追究の中で、この点が問題にされ解明されるべきだと思うのです。一体何キロのスピードでこの土塁に侵入すると、ガードレールを飛び越えて反対車線に飛び出すのか、と言う点です。もし、高速道路の追い越し車線で普通に到達する110-120/h程度でその可能性が出るのであれば、それは道路構造の欠陥である可能性が出てきます。

事故現場の道路を「ストリートビュー」で見る限り、走行路の舗装部分と中央分離帯の土塁の間には、縁石がなく容易に草地に飛び込む可能性がある構造です。その草地が、傾斜した土塁に滑らかにつながっているので、それなりのスピードで突っ込むと、ガードレールを容易に飛び越し得ると考えられるのです。この様な構造が、東名のこの部分だけの特異な状況なのか、あるいは他の区間でも普遍的に見られる「普通の構造」なのか検証してみる必要はあるでしょう。本来なら、舗装部分と草地との間は浅い溝になっているか、あるいは相応の高さの縁石になっているべきなのでしょう。現状のままでは、同様ケースの事故再発が懸念されます。

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2017年6月10日 (土)

3313 IoTって何?

久しぶりに講演会なるものを聴講し、IoTについて少しだけ理解が広がった様です(のかも知れません)。さて、IoTについては、毎日の様にニュースやネット上に流れ、最早耳タコ状態とも言えそうです。そんな訳で、何となく知っていたつもりのIoTですが、正直に告白すれば、それを活用したIndustry4.0だか4.5だかも、どこか遠くの出来事の様な気がしていました。

しかし、事態はドンドン先に進んでいる様です。IoTとは、単にモノをインターネットにつないで、遠隔監視したり、操作したりする程度だと思っていましたが、そのインターネット上の「クラウド」自体が、ドンドン進化している様なのです。今やクラウドでは「何でも出来る」と言っても良さそうなのです。クラウドは、それ自体が巨大なデータのストレージであり同時にベースであり、その中では色々なボットが動き回り、種々のモジュールを使えば、新たなビジネスも起こせるし、もちろん製造システムの近代化にも、あるいは双方向(音声&文字)翻訳など、およそ出来ない事を探すのが難しいくらいです。

かと言って、IoTやネットが全てで、完ぺきであるというつもりはありません。何故なら、肝心なのは、モノや私たち自身の生身の体なのですから。IoTが何をしてくれようが、ネット上のクラウドがどんなサービスをチラつかせ様が、腹が減った時に空腹を満たしてくれる訳でも、喉が渇いた時に水を出してくれる訳でもないからです。ならば、出来るならば、ネットなど通さずに、直接自分の足や手を使ってモノにアクセスし、それを感じたり味わったりしたいものだとも思います。いくら、Holensで現実の世界にバーチャルな「物体もどき」を浮き上がらせようが、それを手に取って、口に運んで食べる訳にはいかないのです。結局IoTで、自分の手が少し長くなって、アクセスする足がとんでもなく速くはなるのでしょうし、外国人と容易に会話する事も出来るのでしょうが、所詮自分の五感で感じ、頭で認識して判断する事は、人間である限りは変らない訳で、IoTやクラウドでそれが変るのだとしたら、自分としてはそんなものには「あまり」関わらず、今のままで生きて行こうとは思っています。もちろん、自分の手足や頭脳の延長としてならば、少しは利用しますが・・・。

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2017年6月 9日 (金)

3312 脱フロン=省エネ

フロンガスが、オゾン層を破壊すると言う理由で、使用や生産が抑制されて、2020年からはHCFC(塩素を含む冷媒)が一切生産できなくなる事によって、オゾン層破壊には一定の歯止めが掛かる事にはなります。とは言いながら、既存のエアコンや冷蔵・冷凍設備で使われている、フロンや代替フロンは、機器の交換でもない限りはそのまま保持されるので、問題が無くなる訳ではありません。むしろ、機器の交換で抜き出したガスは、費用を払って無害化処理する必要があるため、経済性を優先する悪徳業者は、これを大気放出により処理してしまう「犯罪」が懸念されるのです。

一方で、フロンガスや代替フロンガスは、非常に高い温暖化(GHG)係数を持っているガスでもあるのです。これが大気放出された場合、CO2に比べ2ケタ高いGHG係数により、温暖化を加速してしまう事につながるのです。フロンは、空気より軽いので、大気に放出されると成層圏の高い高度まで上昇し、そこで安定的に留まり、温暖化を加速する訳です。結果として、層の厚みはCO2よりずっと薄いものの、しっかりした膜の様に地球からの赤外放射をブロックするのです。

その対策は、多くは無さそうです。投稿者が良いと考えているのは、フロンガスや代替フロンガスを石油系ガスで置き換えてしまう方法なのです。これには良い点がいくつかあります。石油系ガスには、ブタンやプロパンなど豊富な種類があるので、それらを混合する事により、ガスの性状のデザインが容易である事があります。しかも、気相から液相に圧縮するのに要する馬力は、フロン系ガスに比べて3割程度低く抑えられるという「省エネメリット」も期待できるのです。このメリットを利用すれば、フロンガスの回収や破壊の費用は十分捻出出来てオツリもたっぷり期待できます。

もちろん可燃性ガスである石油系冷媒には、その取扱いに十分な注意も必要です。しかし、考えてみれば、屋内にガス配管が設置されているのは普通の状態なので、それと同等の安全基準を守っていれば、何ら問題は生じないでしょう。何より、私たちには冷暖房に関して、3割程度の省エネポテンシャルが残されている事は、今後の省エネ活動には心強い話ではあります。

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2017年6月 8日 (木)

3311 品質管理?

久しぶりに、品質管理に関して良い話が聞けたので、忘れない内に書き留めます。結論は、非常にシンプルで品質管理とは「良い設計情報を素材に転写した際の精度」であるという一言で表現されるのだそう。もちろん、悪い設計情報で作られた製品の品質が良かろうはずもありませんから、先ずは「良い設計」が為される事が大前提ではあります。その上で、設計図通りにモノが作られておれば、取り敢えずは「製造の品質管理」はOKと言うことになるのでしょう。

では、良い設計とは何かを考えれば、実は頭が痛くなりそうです。つまり、消費者(市場)が何を求めているかを把握し、それを満足するクオリティと価格を実現するための、素材の吟味と形状・機能の設計を行い、加えて消費者(ユーザー)が気に入る外観デザインを採用し、しかも市場が期待する耐久性を実現する、と言ったとても一言では表現できない諸条件をクリアする必要があるからです。

つまり、これまではと言うか伝統的な品質管理は、専ら製造現場における品質管理を問題にしていましたが、今後は「設計の品質管理」まで、枠を広げて考えなければならない、と彼の講師は主張するのです。しかし、考えてみればそれでもまだ足りない様な気もしてきました。では、経営の品質は放っておいても良いのか、従業員の品質?は、あるいはマーケティングの品質は、あるいはアフターサービスの品質は、などとさらに枠を広げればキリは無い様でもあります。その意味で、品質管理と言えば狭い意味になりますが、品質保証と言えば枠がかなり広がり、品質マネジメントとすれば、企業活動全体に及ぶ概念になる筈なのです。そこまで、突き詰めて考えている企業がどれほどあるのかを想像してみれば、この国の企業もまだまだやるべき事は多いと言えるでしょう。その前に、この国の(政府)のクオリティや国民(文化)のクオリティについても、腰を据えて考えてみなければならないとも思います。それについては、稿を改めて考えてみます。

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2017年6月 7日 (水)

3310 温暖化論議

B国のパリ協定からの脱退問題が話題になっている様です。今回も、問題の本質は、「環境か経済か問題」にある様に見えます。B国第一主義とは、結局経済で一位のポジションを、今後もダントツで維持したいという、世界一強かった国力(Pax Americana)神話を忘れられない彼の国が、夢よもう一度と願って送り出した新リーダーではあったのでしょう。

しかし、金儲けでは成功した新リーダーも、その他の政策では筋の通ったものを持っていない事が露呈してきた様です。その他の中には、世界でのパワーバランスを鳥瞰した外交や経済以外でのG7などでのオピニオンリーダー力やあるいは文化面での発信源としての立場とか、更に言えば今回の環境保全でのリーダーシップとかが含まれるでしょう。否定からは、決して何も生まれないのは、経験上も間違いないのですが、新リーダーは、日々#ツィートで誰それはダメだ、何々はやらない、とヒステリックに叫ぶ否定人間の様に見えます。

そうではなくて、温暖化論議も含め、外交問題も、テロ問題でさえ、全ての問題は「未来に向けた問題」でもある事は再度確認する必要があるでしょう。未来は確実に現在に向かってくるのですが、私たちは歴史を否定しけなす事は出来ても、未来は否定し様がありません。未来は、じっくり考えて、現在から少しずつ積み上げていくものだからです。その意味で、是非全ての国のリーダー(のみならず企業リーダーにも)には、未来の青写真作りに強い責任を持つ事を自覚して貰いたいものです。全ての決議は、まだ見ぬ未来社会の子孫の利益と地球環境の持続可能性に資するものでなくてはならないのです。○○ファーストと言う言葉には、セカンドやサードやましてや列の最後尾の人達は顧みない、と言うニュアンスが滲み出ていると思うのです。リーダーは、口を開いて政策や決定を軽々に口にする前に、子孫幸福と地球環境の永続性による「✔」を必ず入れて貰いたいものです。思いついた事を、日々#ツィートに書きなぐるなど、何をかいわんやでしょう。書いている内に、このブログではご法度としている批判になってしまいそうですが、これはあくまでも単なる「愚痴」ですので・・・。

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2017年6月 6日 (火)

3309 飛行機事故に思う2

墜落した飛行機の残骸の写真を見ると、それが元はジュラルミンという金属で作られていたとは信じられない程ひどくつぶれて山肌にへばりついている様に見えます。航空機は、大型でも小型でも、基本的にはスキン+ストリンガー+フレーム構造を採用しています。スキンとは、胴体や翼の外板をさし、ストリンガーとは長手方向に伸びた細い骨をさします。そして、胴体の断面構造を形作っているのがフレームです。翼では、ストリンガーがスパーと呼ばれたり、フレームをリブと呼んだりするのですが、構造は同じです。

しかし、軽金属であるアルミ(ジュラルミン)作られているとはいえ、しっかりした厚みのある部材を使って作った場合には、重すぎて飛び上がれない機体が出来てしまいます。仕方がないので、部材や外板の厚みを極限まで薄くして、軽く仕上げるしかない訳です。航空機の機体を別のモノに例えるならば、それは張子の虎の様だというしかありません。見かけ上、確かに形は保ってはいますが、手で少し力を入れて握るとクシャリと潰れてしまうのです。残念ながら、今回の事故でも、それが見事に証明されてしまった様なのです。

もう一つの視点は、パイロットや乗員が乗る座席ですが、軽量化のために非常にシンプルに作られています。例えば、激しく墜落した場合に、車の様にエアバッグが膨張したり、座席のクッションが身を守ってくれる事はないのです。座席のシートは薄く、墜落の衝撃で座席が外れて外に放り出される可能性も高いのです。座席の強度は、辛うじて「胴体着陸」程度の衝撃には耐えられる様には設計されている筈ですが、それも航空機の価格次第の部分も大きいでしょう。安い航空機は、エンジンも非力なので、機体構造や座席などの保安装置も簡素にして軽く作られている事でしょう。いずれにしても、今回の事故は、富山空港を飛び立って、すぐ後ろにそびえる立山連峰を超える最短ルートを通った様なので、離陸後はまだ燃料もたっぷり入っているし、フル4人搭乗している、重量MAXの状態で、高山超えに加え、悪天候という最悪の条件が重なった、起こるべくして起こった事故の様に見えてしまいます。ベテランの機長が、何故?の疑問は残りますが、これまでの事故でも真の原因は、乗員が亡くなってしまっている場合は実はよく分からない場合も多く、いわゆる「魔が差してしまった」というしかないのかも知れません。

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2017年6月 5日 (月)

3308 飛行機事故に思う

また、小型飛行機の事故が起こってしまいました。飛行機事故には、もちろん多くの原因が数えられるのでしょう。整備不良や経年劣化による機体構造やエンジン・操縦系統の不具合、パイロットの体調変化、気象条件(気流)の悪化、視界不良、燃料切れ、等などです。大きくは、機体側の不具合と、ヒューマンエラーに分けられそうです。悪天候下の飛行も、もちろん判断ミスなので後者に入ります。今回の事故が何であるにせよ、北アルプスという険しい地形が根本原因になっている事は間違いないでしょう。切り立って、3000mを超えるアルプスの山並み、その谷を吹き抜ける複雑な気流、もちろん視界だって刻々と変わる事でしょう。単なる、平坦な地形の上を飛ぶのとは、全く異なる厳しい条件での飛行とならざるを得ないのです。

その一方で、やれ人が乗れる「乗用ドローン」だとか、車にプロペラと翼を付けた「空飛ぶ自動車」の開発だとかがニュースを賑わしている風潮は、全く腹に入らない話ではあります。車は、道路という平面を走る、いわば2次元の乗り物です。しかし、飛行機は、それに高さという次元が加わる3次元の乗り物であることを忘れてはならないでしょう。それに、気象や地形といった別の次元も加わりるのです。次元が一つ上がる事によって、事故率が2倍程度におさまる訳ではないでしょう。それは、いわば1次元の乗り物である鉄道の事故率と車の事故率を比較してみればすぐ分かります。鉄道事故の殆どは、対車や対人が殆どでしょう。車では、事故率は鉄道の倍などではなく自乗かそれ以上で効いてくる筈なのです。ましてや、3次元ではべき乗ですから、もっと恐ろしい話になるでしょう。

実際には、航空事故の事故がそれほど目立っていないのは、航空安全に関してはうるさいほどのチェックが義務付けられているからです。航空機を作る原材料から、製造工程はもちろん運行、整備に至るまで、隙間の無い様にルール化されているのです。ですので、空を飛ぶ乗り物を、人が乗れるドローンや翼を持つ車などと安易に代替できるなどと考えるべきではないのです。乗用ドローンで、仮にたった1枚のプロペラの羽根が折れただけで浮力のバランスが崩れて墜落してしまうでしょう。整備の悪い車が故障しても路上で止まるだけですが、整備不良の空飛ぶ自動車は簡単に落ちてしまう筈です。もし、それを見越して多重安全策を施せば、それは重すぎて飛び上がれないシロモノになってしまうのです。続きそうです。

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2017年6月 4日 (日)

3307 環境教

このブログを始めた頃、色々な言葉を「発明」しました。もちろん既にある言葉のモジりとか、勝手な略語とか、言葉の組み合わせで作ったものが殆どですが。その中に環境教というものもあったのです。環境人間を志したまでは良かったのですが、では何を拠り所にしていけば良いのかさっぱり分からなかったのでした。そこで、勝手ながら自分で環境教と言う教義を創り出して、前に進もうと考えた訳です。

もちろん、投稿者程度の平凡な頭では、良い知恵など浮かぶ筈もありません。そこで、本を読み漁る事に没頭したのでした。環境とか再エネとか、本のタイトルだけを見て手に取り、片っ端から読んでいったのです。その中で、最も高い頻度で繰り返し出てくる言葉が「持続可能性」だったのでした。もちろん、投稿者としてはこれに飛び付き、教義のだ一番目に据えました。

とは言いながら、持続可能性とはいかにも抽象的な言葉ではありました。更に、教義を考える中でぶつかったのは、ネイティブアメリカンの教えでした。それは、意味としては「決断しなければならない事が出来た場合には、7世代後の子孫の幸福を優先せよ」と言うものでした。つまり、過去の「凡例」に捉われがちな、頭でっかちの現代人に対して、7世代後のまだ見ぬ子孫を優先させた決議を求めている教えなのです。B国やこの国でも、○○ファーストと言う言葉が流行っている様ですが、もちろんこれは現世代を優先すると言う視野の狭い考え方の最たる例でしょう。

政策にせよ、企業判断にせよ、あるいは個人の日々の決め事にせよ、変らない事に価値を見出し、まだ見ぬ子孫の幸福を望んでいれば、自ずと方向は定まる筈なのです。投稿者としては、これにもう一つ付け加えました。それは「不便を楽しむ」と言うものです。便利な生活は、とかく資源やエネルギーの浪費につながるものだからです。自分の体を動かして働きかけを行えば、体は健康になり、資源やエネルギーを節約する事につながるでしょう。便利な生活をそのままにして、再エネで必要な電力を賄えば良い、とする現代の「環境政策もどき」には、したがって賛同していません。自分の教義にモトルからです。

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2017年6月 3日 (土)

3306 世界最大の航空機

B国で、世界最大の航空機がロールアウトした様です。大まかにいえば、エンジンの数からみてB747の1.5倍ほどのスケールの航空機と言えるでしょうか。胴体は2つに分かれていて、その間にペイロードとなるロケットをぶら下げるのだとか。200トンを超えるペイロードを運べるこの航空機で、到達可能な最高高度からロケットを発射すれば、たぶん1段目の巨大なブースターロケットが節約できるのでしょう。

確かに、資源が節約できて、たぶん今よりより大きな衛星の打ち上げも可能となるのでしょう。しかし、考えてみなければならないのは、ここでも入口からの「押し込み」しか考えていないという片手落ちです。何しろ今や、宇宙空間(と言っても数百キロから36千キロの静止軌道までの狭い空間ですが)には、数え切れないほどの数の衛星と衛星の残骸が、秒速数キロの猛スピードでブン回っているのです。その多くは、冷戦時代の遺物の小型原子炉を積んでいる軍事衛星で、しかも軍事機密のベールに包まれているので、その存在すら公にされてはいません。

これ以上衛星を打ち上げて、一体何に使おうというのでしょうか。通信?、観測?軍事偵察、そんなものは現状でも十分なレベルでしょう。その前に、用済みとなってしまった衛星の残骸(宇宙ゴミ)を放置したままで良いと考えているのでしょうか。ここでも、原発と同じ経済エゴがニヤけた顔を出してきます。つまり、原発の建設コストには廃炉費用は含まれてはいませんし、衛星の打ち上げコストには用済み後の回収コストなど全く考慮されてはいないのです。宇宙に浮かぶ数トンの観測衛星を、上手くキャッチし、安全に大気圏に再突入させて燃え尽きさせるには、たぶん衛星の打ち上げと同等のコストが発生するはずなのです。

私たちは、経済エゴの暴走をこれ以上許すべきではないのです。入口を作ったのなら、それと同じサイズの「出口」を準備しなければならないです。世界最大のランチャー航空機を作るのであれば、第二第三のスペースシャトルを建造して、用済みの衛星回収ビジネスを始める必要があるでしょう。もちろん、今の社会ではそんな(儲からない)ビジネスにお金を出す奇特な国や企業は現れないでしょうから、投稿者の儚い夢想に過ぎませんが・・・。以上、世界最大の航空機からの連想でした。

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2017年6月 2日 (金)

3305 最先端産業4

ついでなので、biomimiclycatalizerに加えもう一つくらい最先端産業のK/Wを考えておきましょう。それは、高いレベルの「持続可能性」だと言っておきましょう。完全な持続可能性とは、人が何か行動を起こしたり活動したりしても、環境のファクターを1ポイントも変えない事を意味します。例えば、人が呼吸すれば呼気の中のCO2は僅かに増加しますが、それは生き物の代謝なので、無視するとしましょう。しかし、車のエンジンを掛けるという行動は、それを運転する人の基礎代謝に比べ、何桁も多くのCO2やNOxや排熱や浮遊粉塵を排出するでしょう。

それに比べて、自転車を転がす場合は、呼吸が少し荒くなるくらいで、環境に与える負荷は無視できるでしょう。つまり、上記のK/Wの観点では、自転車産業こそ最先端だとも言えるのです。事実、自転車は1800年代初頭に発明されて以来、着実にその技術レベルを上げ続け、競輪やロードレースで使われるレベルの自転車には、現在でも最高峰の技術が注ぎ込まれてもいるではありませんか。そのレベルは優に航空機に使われる技術をを凌駕している筈なのです。人間が持続的に出力できる小さな馬力を、最大限に活用するためには、日常使われる自転車には、もっともっと、最先端の技術を盛り込む必然性あるし、その余地も残っているのです。

つまり、持続可能性と言うK/Wを持ち込む事によって、従来型のありふれた産業を、最先端に持ち上げる可能性が開けると言うことにもなるでしょう。投稿者としては、製鉄産業、工作機械産業、車産業、造船、建設業、流通業、農林業からサービス業に至るまで、もう一度このK/Wを視点に据えてチェックしてみれば、新たな展開も見えてくると確信しているのです。一旦この表題の稿を終えます。

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2017年6月 1日 (木)

3304 最先端産業3

この表題を更に掘り下げてみます。例えば、車産業の世界では、いまやHVPHVは当たり前で、最先端はEVFCV、自動運転などでしょうか。中でも、燃料電池を搭載したFCVは、次世代の車として日夜研究が進められていると想像しています。しかし、解決されていないのは、水素をどの様にして手に入れるかと言う根本課題です。石油や天然ガスの改質で作るのであれば、結局分離されて不要となったCO2が大気に放出される訳ですから、直接燃やすのと実質的には変らないでしょう。排気管から直接出るか、工場の煙突から出るかの違いだけです。他方、EVにしたって、エネルギー源が火力発電所や原発である限りにおいては、FCVの問題と何ら差はありません。

結論から言えば、最先端産業であり続けるためのもう一つのK/Wは、触媒だと断言しても良さそうです。ここでの触媒とは、太陽光だけをエネルギー源にして、水を酸素と水素に分離する機能を持つものを指します。既に、光触媒の代表選手でもある「酸化チタン」がその候補となって長いのですが、如何せん効率が数%しか達成できなかったので、経済的に実用化に至っておりませんでした。最近、酸化チタンと他の複数の触媒との併せ技で効率をかなり向上させる事に成功したとの報道があり、「やれば出来るじゃん」と言う感想を持った次第です。触媒の歴史は、結構トライ&エラーの世界ではなかったかと振り返っています。反応を起こしたり、分解するのに触媒が有効なのは、その際のエネルギー準位のハードルを下げる役割があるからですが、一つの触媒だけで少ししか下がらなくとも、複数用いて多段階に下げる事で、これまでできなかった反応を実現したり、効率をアップさせたり出来るのでしょう。

いまどきは、試験にもロボットが使えるので、種々の触媒を混ぜたり、それを溶液に入れて反応を促進させたりする実験も、かなりの程度は自動化も出来るでしょう。また触媒には、溶液で作用するものと、気中で(あるいは相を問わずに)作用するものなどがあり、組み合わせは事実上無限だと言えます。もちろん、現在の技術では、触媒の分子構造のどの部分が「効く」のかが判明しているものも多く、新たな触媒をデザインして創出する事も部分的には可能になってもいるでしょう。繰り返しますが、最先端の別のK/Wは「触媒の探索」だと言っておきます。

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2017年5月31日 (水)

3303 最先端産業2

どの様な技術を磨けば、最先端産業のなるのかをもう少し掘り下げて考えてみます。先ずは軽量化技術です。航空機で多用される複合材ですが、何が「複合」かと言えば、それはカーボン繊維とエポキシ樹脂の融合なのです。繊維は引っ張り強度を受け持つ一方、圧縮に強い樹脂は剛性を保つのに力を発揮します。しかし、厚みの必要な構造の場合、複合材だけではまだ重いので、複合材を皮として「アンコ」の部分には、更に軽量で剛性アップに効果的な、コア材(例えばハニカムコアや発泡材であるロハセルコアなどです)を入れるのです。もちろん、樹脂にはPPPE等の量産品で安価な材料も存在はしますが、残念ながら現在のところエポキシ樹脂に勝る耐圧縮性に勝る、あるいは安価な樹脂が開発されていないのです。

つまり、複合材の分野でも。カーボン繊維の様に電気を通さず(CFRPには雷が落ちて燃えます)、しかも強度が高い繊維や、エポキシ樹脂に変る高い圧縮強度の樹脂やさらには、もっと軽量で歪に耐えるコア材が開発できれば、もう一段の軽量化技術を磨くことも十分可能なのです。繊維屋さんや樹脂屋さんにはもう一段のブラッシュアップを期待したいものです。

軽量化に関してもう少し話を広げれば、軽量化設計技術があります。航空機には、離着陸時や飛行時に種々の荷重が掛かります。例えば主翼の付け根には、駐機時には翼の内部にたっぷり入れられている燃料の重みが掛かりますが、飛行時には翼面の浮力でそれがキャンセルされて、逆に胴体の重みで逆向きの大きな荷重が作用するのです。それは、駐機時にはダランと下がっている翼が、飛行時には逆に上側にはね上がっている事でも分かります。また、翼は重いエンジンをぶら下げる強度も必要で、飛行中は気流や操縦によりねじりや振動する力も掛かるのです。それらの荷重に抵抗するために、翼の中には多数の骨材やリブ(肋骨)が配置されていますが、それを最適に配置し、しかし最軽量に納めるのは、コンピュータに支援された「設計技術」である訳です。荷重が入る場所に、適正な「必要かつ十分」の骨を入れ、外側を強靭な皮膚である新複合材で包めば、最強の構造となるでしょう。その際参考にすべきは、自然界の造形でしょう。タンパク質やカルシウムと言ったありふれた素材だけ出来上がっていて、何千キロも海を越えて移動する渡り鳥の羽根の構造には、いまどきの最先端技術なんかはチャンちゃらおかしい程の「秘密」が隠されている筈なのです。最先端のK/Wの一つは、間違いなく生物に学ぶbiomimiclyです。飛行の事は鳥に聞け・・・。

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2017年5月30日 (火)

3302 最先端産業? 

モノ造り産業で最先端と言えば、何故か「航空宇宙産業」と言う声が上がります。事実、元々その産業が集積している中部地域以外の複数の地方でも、この分野に参入しようと、勉強会やコンソーシアムの立ち上げが盛んな様ではあります。前職でもあり、昔取った杵柄でありませんが、投稿者のつたない航空機産業での経験談を講義をする機会も多いのですが、実はあまり乗り気ではありません。仕事なので、頼まれれば出かけますが、航空機産業には常に「最先端産業」と言う枕詞が乗っけられる事には違和感しかないのです。

航空機産業は、前の大戦での敗戦で、進駐軍により完全に葬り去られた筈でした。しかし、朝鮮戦争で多数投じられた米軍軍用機のメンテナンスは、前線に一番近い日本で行わざるを得ない事情もあり、背に腹は代えられない米国は、産業の復活を許したのでした。当然の事ながら、日本軍の軍用機は高い破壊されたり、少数は没収されたりして一掃されましたが、流石にエンジニアの頭に残った航空機工学の知識や軍用機を作った技能者のワザまでは消される事無く引き継がれたので、それがやがて戦後初の国産旅客機であるYS-11として結実したのでした。

そのプロジェクトで、技術としては成功しながら、ビジネスとしての失敗を経験した日本は、その後何度かのチャンスがありながら、結局MRJの開発までは、航空機産業としては、ひたすらB国の下請けに甘んじてきたのでした。

一方で、航空機素材としてのカーボン繊維やそれを使ったCFRP技術においては一定のシェアを確保して、基盤を作った事は事実でしょう。CFRPは、航空機の軽量化を図りながら、しかし高剛性を保つには、現段階では最良の素材なので、軽い事が命である航空機には不可欠の材料だからです。しかし、軽くて剛性が髙い材料を使う事が最先端技術なのではなく、構造として極限まで安全率をそぎ落とした設計技術こそがキモだと言えるのです。しかし、それなら、何も航空機に限った話ではない筈です。例えば、今の車の安全性や快適性を損なわないで、車重を半分に出来る技術があれば、大雑把に言えば今の燃費を倍に改善できる可能性もあるのです。今は、30/ℓ代の後半で業界最高燃費と言い張っている性能ですが、一気に50/ℓを大幅に上回る可能性がある事を意味します。燃料消費を半分にする技術では、2030年のCO2削減目標も簡単にクリアできるでしょうし、そのための新たな産業を起こす必要も出てくる訳です。

開発に苦労して、最初から負け戦覚悟の新型国産旅客機プロジェクトではなく、今得意分野の一つとなっている車技術を、最先端にピカピカに磨くのもアプローチとして有効でしょう。つまり最先端技術とは、どの分野でも磨く事が可能だと言いたいのです。

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2017年5月28日 (日)

3301 自然資本会計2

自然資本会計と似ているものに「環境会計」と言う概念がありますが、両者は多分異なる分野の専門家が定義したのでしょうが、重なる部分が非常に多いと言えるでしょう。つまり、自然資本会計が、水や空気や動植物や地下資源といった自然資本の消費に着目しているのに比べ、環境会計は、自然資本の消費の結果、環境ファクターつまりは気象や自然環境の変化に着目しているという違いだけの様に思うのです。言い換えれば、原因としての資源の消費に着目するのか、あるいは結果としての環境現象に着目するのかの違いだと言えそうです。

もちろん、前者の方が原因に直接アクセスする考え方なので、望ましいとも言えるのですが、果たしてそれが適切かどうかはもう少し議論する必要がありそうです。投稿者の立場は、兎に角あらゆる資源の消費を、今すぐシュリンクさせる必要がある、と言うものです。自然資本(資源)は、その採掘や輸送、精製から流通・消費は勿論、その廃棄処理に至るまで、多大な環境負荷を発生させるものだからです。実例として、石油1リットルの消費は、2.3㎏程のCO2を発生しますが、その採掘から実際に燃やされるまでの過程では、たぶんその数倍のCO2負荷を発生させていると推定されます。

自然資本会計であっても、環境会計であっても、同じ行動を異なる側面で眺めているだけなので、どちらが正しく、どちらが間違っているという訳でもありませんが、必要なのは先ずは今日使う筈だった石油(ガソリン)1リットルを、どうにか工夫して節約する行動を始める事だと思うです。先ずは、屋根に太陽熱温水器を上げて、夕方風呂に入るために燃やす筈だった灯油やガスを節約するのも良いでしょうし、今日車で出かける筈だった用事を、明後日の別の用事のついでにまとめて済ます、といった日常の工夫を重ねて、資源を節約し環境負荷を下げるのです。学者先生は、確かに色々な定義をし、学問に仕立て上げる訳ですが、必要なのは「実際の行動」である事には変わりはないのです。

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2017年5月27日 (土)

3300 自然資本会計

あまり聞き慣れない言葉ではあります。正確な定義はさておき、投稿者が理解している範囲では、それは、企業活動が自然資本(水や空気や土地や動植物や地下資源など)に与える負荷や、依存度を評価しながら経営する事を指す、といったものになるでしょうか。具体的な経営手法は、「自然資本プロトコル」で規定される様ですが、もっと単純にその手法に近づける考え方もありそうです。

それは、「持続可能性」で評価する方法です。あるメーカーで現状の工程と、自然資本会計を考慮した工程を考えたとして、どちらが100年後の環境を考えた場合に、持続可能性が髙いかを比較してみれば良いのです。もちろん最善の方法も考えられるのでしょうが、取り敢えずは「比較法」でチェックして前に進めば良いのです。より自然資本の持続可能性の高い工程を選び取って改善を進めて行けば、自然に望ましい方向に近づく筈なのです。

もちろん会計ですから、自然資本の食い潰しが年々小さくなる様な棚卸と見直しは欠かせません。ですので、少なくとも棚卸の手法は確立しておく必要があるのは当然です。企業活動全体の棚卸が難しいのであれば、取り敢えずは自然資本への負荷が大きいと推定される、いくつかの指標に限定しても良いでしょう。製造業の場合は、意外にも調達している原材料の負荷が大きいのです。同様に、加工するためのエネルギーが、もし再生可能型エネルギーを使わない場合は、化石燃料を消費する訳で、自然資本の食い潰しが大きいでしょう。意外に見えにくいのは、物流に要する負荷でしょうか。不必要に冗長な物流ルートは、徒に環境負荷を増長させる事につながるものだからです。続きます。

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2017年5月26日 (金)

3299 植物油エンジン:SVO時代?

SVOとは、Straight Vesitable Oilの頭文字です。文字通りに訳せば、生の植物油です。これは、バイオディーゼルオイル(BDF)に対応するもので、メチルエステル化など処理の処理を施さない、絞ったままの植物油を燃料を燃やせるエンジンが必要です。昨日のニュースで、Yンマー社が、25kw程度の出力を持つBDF発電機に、オプションとしてSVOが使えるタンクを追加したという報道がありました。価格は1,500万円程になる様です。1kw当たり60万円と言う勘定です。

しかし、そのオプションの中身を推定すれば、タンクと燃料配管に加温装置を追加しただけだと思われます。実際、アメリカではディーゼル車用のSVO改造キットなるものが販売されていますが、ネット通販で100ドル程度で他に入るものなのです。その中身はと言えば、温度コントロールが出来る様になっている燃料配管を加熱する電気ヒーターだけなのです。これで、エンジンに送られる植物油(コーン油など)を150℃程度に加熱してやれば、油の粘度が下がり、ノーマルのディーゼルエンジンでも問題なく着火するのです。

通常車のエンジンは、100kw前後ありますから、上記の1500万円の発電機の替わりに、中古の車用エンジンとSVOキットと適当な発電機を入手すれば、たぶん上記の1/10程度の価格で、出力4倍程度の発電機が入手できる事になります。つまり、kw当たりの単価を1/40程度に下げる事が可能なのです。何が言いたいかと言えば、結局大メーカーが乗り出すと、この手のシステムの価格は、軽く1桁は上昇してしまうと言う事実なのです。中小企業の生き残る道は、取り敢えずSVOの様にチャレンジングな分野にも踏み込み、大手ではとても真似出来ない価格でシステム提供を可能にする事だと思うのです。車にSVOを適用しようとすれば、山の様な規制に阻まれるのでしょうが、陸上用の発電機で、もし系統連系を考えないのであれば(オフグリッドであれば)、何をしても許されるでしょう。工場で大きな電力を消費する設備を切り離して独立させ、SVOの自家発電機で電力を賄えば、契約電力も大幅に引き下げられ、電力コストも低減できる筈なのです。もちろん、燃料は近くの外食産業や給食センターから出る廃食用油を貰ってくるのです。少し高級なフィルターで濾せば、そのまま燃料にする事が可能でしょう。

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2017年5月25日 (木)

3298 My strory

ラジオから流れてきた、「人は、自分の物語を作りながら成長し生きていく」と言うコメントに強く賛同しました。確かに、生まれてから物心がつくまでの幼少期の物語は、親や周囲から繰り返し聞かされて物語が出来るでしょうし、学校を出てから社会人となって、世の中を泳いできた物語は、それらを甘く、又は苦く、あるいは切なく思い返す事によって、自分の物語は補強されていく事になるのでしょう。

人は自分史を書いてみたいという潜在的な願望がある様に思います。波乱万丈の人生を歩んできた人で、もしその人に文才があれば、きっとワクワクする様な自伝が書けるのでしょうが、凡人で文才も無い投稿者の様な人間は、読む人も少ないブログでも書き連ねていくのが精々かも知れません。しかし、自分の様なささやかな人生であっても思い返してみると、結構色んなイベントがあり、分岐点があった様な気がします。ブログに書きたい事が無くなってきたら、それらの思い出の物語を少しずつ書いていくかも知れません。ボケない内に。

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2017年5月24日 (水)

3297 安全の品質2

安全の品質に関して、もう少し具体的に考えてみます。安全の品質に関しては、確かに公的機関が存在しています。言わゆるSマーク、STマーク、PSEマークあるいは食品で言えばJASマークなどが思い浮かびます。しかしながら、これらは適用される製品なり、業界が限定されたものであり、万能のマークは存在していません。業界基準がそのままスライドしてそれをお国が追認した様な規格も少なくないでしょう。

それらの公的安全規格やマークはそれとして、ではそれを満足していれば、全てOKなのか、と問われれば、それはそうではないでしょう。品質管理には、素材や工程のバラつきやヒューマンエラーと言った予期しないリスクも内在しているからです。どれかが、管理の幅いっぱいに振れ、それを瞬間的に逸脱したとしても、通常の品質管理ではなかなか発見できない可能性が髙いのです。例えば、食品工場で、何らかの原因で製品中の雑菌の数が、一時的に増加したとしても、ロットサンプリングに引っかかるとは限りません。何故なら、全数検査は「コスト的」に引き合わないため、最初から除外して工程が組まれているからです。そのサンプリングの「最低ライン」は確かにJASに既定されているのでしょうが、誰もその基準を超えた頻度でサンプリングを行う筈はありません。コストが許さないのです。

ではどうするのが、より高い安全の品質につながるのでしょうか。それには、不断のリスク管理の見直ししか近道は見つからないと思うのです。具体的に食品工場の例で言えば、例えば工程に雑菌が入るのは、原料そのものの汚染、洗浄殺菌工程の設備の汚染、殺菌薬品の濃度や温度低下、作業員からの飛沫、空気中のカビなどの胞子濃度増加など等、ざっと素人が考えるだけでもこのくらいは思い当ります。設備や建屋が古くなれば、逆にリスク管理のレベルは上げなければならないでしょう。それを、何の疑問も持たずに、十年一日の如き安全管理を続けて行けば、間違いなく品質事故を起こしてしまう結果に陥るのです。必要な行動は、日頃からのリスクポイントの把握と、管理手法の見直しなのです。それが、日常的にコスト管理に追われている企業でどの程度行われているかは甚だ疑問と言わざるを得ません。

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2017年5月23日 (火)

3296 安全の品質

経済性やコストパフォーマンスを追及すればするほど安全性は犠牲になってしまうという「逆比例」の関係にあることは認めなければならないでしょう。科学・技術の世界では、経済性を追求する中では、結局「安全率(Safety factor)」を減ずるしか有効な方法は見つからないからです。例えば、安全率を2.0程度まで高めた設計をした場合、旅客機は飛び上がるのがやっとで、乗客は殆ど乗せることが出来ないというシロモノが出来上がってしまうでしょう。安全率を、部位によって1.2程度まで削って、更に全体的な安全率のバランスを調整して、やっと乗客を載せられる「ペイロード」が確保できる事になります。

車も同じで、ハード面や事故を起こした時の安全性を考慮すれば、たぶん「戦車の様な車」になってしまう筈です。それ対して。コストと安全性の妥協をドンドン進めて、今ある様な薄い鉄板をスポット溶接で組立てる「モノコック構造」に至ったのでしょう。車の安全率については、専門家でもないので承知していませんが、鉄板の腐食や道路からの振動なども考慮して、それなりに髙く設定されていると想像しています。

しかし、問題になるのは、設計段階の強度余裕ではありません。製品を作る生産体制というか企業体質(あるいは企業文化)こそその核心だと思うのです。最近のニュースでも、企業の不良隠しが何件か報じられていますが、隠さずに公表されたリコール案件でさえ、実際の発表までは葛藤があった筈なのです。リコールの公表は、企業にとっては利益を減ずる大きな原因になり得ますし、大きなリコール公表は時に企業存続を脅かす問題にも拡大する惧れさえあるからです。そう考えれば、安全は、製品の品質と同様に企業文化の中で育む「品質」の一部であると言わざるを得ないでしょう。ポイントは、経営層やセールス部門、あるいはファイナンス部門の圧力に負けずに、企業活動の各関門で必要なチェックを重ねながら製品を作る事に尽きるでしょう。安全品質を無視したイケイケドンドンの企業体質が、これまでどれだけの企業を潰してしまったか思い出せば、それは自明なのです。やや抽象的になりましたので続きます。

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2017年5月22日 (月)

3295 将来への不信

いま、私たちの時代を覆っている空気は、間違いなく将来への不信感(あるいは不安感)ではないかと感じています。今60代の投稿者が若かった時代、社会を覆っていたのは、ほぼ「将来への期待」だけだった、と振り返っています。つまり、今は給料が安くて、欲しいものも買えないが、来年には大幅に給料もアップするし、ローンを組めば車にだって手が届くし、ドンドン値上がりする土地価格を考えれば、無理して家を買うのも賢い投資だ、などと普通のサラリーマンも希望に胸を膨らませていたものでした。実際にも、給料袋はみるみる厚くなり、同時に不動産や物価も負けじと高騰したのでした。その頃、官僚出身であった(決して二世政治家ではありません)お国のリーダーは、「所得倍増計画」なるものを打ち出しましたが、その後の10年で、そのホラは実現してしまったのでした。

しかし、その後失われた20数年を経験してしまい、この国の自身はすっかり萎んでしまい、かつての希望は、諦観あるいは絶望にとって代わられてしまった様な気がしています。その背景としては、いくつか考えられるのですが、背景というか時代の空気として、20世紀後半の「経済爆発」のエネルギーであった石油資源の半分を既に使い切ってしまったという暗然とした不安と、先進国では少し前から「人口減少局面」に入ってしまったという不安感がないまぜになっている様な気がするのです。少し余分にエネルギーを使おうとすると、直ちに「温暖化防止」のブレーキが掛かりますし、良い製品を開発したとしても、それが爆発的に売れることなど夢にも実現しないのです。何しろ、人が減りつつあるのに、モノは余っているからです。

それもこれも、結局は進歩のオーバーシュート(行き過ぎ)でないかと投稿者はみているのです。進歩のスピードが速すぎると、それについていけない人々は、間違いなくストレスや不安を感ずるでしょう。更に時代がスピードアップすると、最早それについて行こうとする努力さえ諦め、膝を抱えて座り込むのです。交通事故が2万人以上の犠牲者を出していた時代「狭い日本、そんなに急いで何処へ行く」と言う標語があった様な気がしますが、今まさに時代進歩のスピード違反に対して、同じ警鐘を鳴らしたいと思うのです。もっと、将来の青写真を明確にしてから、ゆっくり前に進みましょう、というのがここでの提案です。そうすれば、将来への視界がもう少し良くなると思うからです。

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2017年5月21日 (日)

3294 〇際問題

最近〇際と言う言葉が気になります。例えば、国際、学際、業際と言った言葉です。「際」には、何か境界と言った響きがありますので、国際と言っても、あくまでも境界(国境)を前提とした言葉ではある訳です。ヨーロッパでは、事実上国境を廃止すると言う「実験」が続いては居ますが、それとて「EU」と言う地域とそれ以外の地域との際が問題となって、ゴタゴタが絶える事はない状況です。つまり、〇際という言葉には常に「問題」と言う修飾語が後ろに付いていると考えねばならないでしょう。つまり、国際と言う言葉は常に国際問題を抱えている訳です。国際交流や国際交渉と言った言葉も、それらの諸問題を解決しようとする試みに過ぎないということでしょう。

さて、学際です。学問の世界でも、○○学と言ったそれぞれの象牙の塔に明確な境界線を引き、○○学者や専門家といったカテゴリーに属する事を是としてきたと振り返っています。では学際問題とは何かですが、それは「タコツボ現象」と言う言葉に集約できそうです。あるいは、「お山の大将現象」と言っても良いかも知れません。自分が活動するテリトリーでは専門家ではあっても、タコツボの外や他のお山の状態は与り知らないといった状況を指します。その結果起こる事は、言わゆる専門バカという困った状況です。ある出来事は、森羅万象の中でこそ正確に把握できるのに、専門領域の中で議論すると思いもよらない「偏見」に陥ってしまう事も多いのです。例えば乗り物(車や航空機など)の事故を、ハード面からだけ議論するのは問題の本質を大きく外します。事故は、その乗り物を操縦する運転者の真理面や健康状態、あるいは交通インフラとの関連、天候や運転席の環境などまで関連する筈だからです。つまり、真の事故原因は「学際的」に追求しなければ、全容は掴めないと思うのです。

では業際問題はどうでしょう。これこそ、今最重要課題として据えるべきテーマだと思っています。製品は、特にコンシューマープロダクトは、単に機能だけ満足すればそれで良しとするものではない筈です。消費者が手に取る製品であれば、見た目のデザインや細部の出来栄え、あるいは手触りと言った「官能的要素」、長年使っても飽きの来ない使い勝手の良さ、更に言えば所有し使うことの満足感などを総合した指数で評価されるべきでしょう。つまり、モノの製造は単に優秀な技術者集団が居れば済むといった単純なものではないのでしょう。形状デザイナー、消費者心理に明るい人材、いまどきのIoTの専門家、素材の専門家、環境負荷の専門家、更に言えばそれを総合的にコントロールするプロデューサーを忘れてはならないでしょう。この国の製品は確かに機能は優れてはいるのでしょうが、決定的に足りないものは学際、業際への考慮だと思っています。

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2017年5月20日 (土)

3293 問題発見力3

自分自身の反省を含めて、技術者の問題発見力についてさらに考えてみます。技術者とは、科学的知見を利用して、社会の課題を解決するモノやシステムを提供する人々だと定義しても良いでしょう。彼らは、一つの課題が与えられると、それを満たすための最良の解を出そうと、過去の知見や技術を組み合わせたり、全く新しい技術を開発したりしながら必死に努力します。通常企業は、利益を出すためのビジネスプランを立てて、それを達成するためのプロジェクトを立ち上げます。もちろん、期間がいくら長引いても、あるいは開発費が膨らんでも、それが許される訳ではありません。どちらにも厳しい「制約条件」が課せられるのが通常でしょう。

しかし、もし一技術者にこの国の、社会の、あるいは企業の置かれた課題や問題点は何か、と問うたとしても返ってくるのは???でしょう。彼らは、課題を上から与えられる事に慣れ過ぎて、問題を掘り起こす訓練を怠ってきた結果、いつの間にかそれが不得手になっているのです。それは、技術者が起業する例が、非常に稀である事でも明らかでしょう。統計を見た訳ではありませんが、この国では起業家の多くは、いわゆる文系出身者である事が多いのです。それは、技術者は科学技術の事だけ学んでおけば良い、と言う左右を眺める事を良しとしないいわゆる「競馬馬教育」に問題があった様に思うのです。

それは、中学校を卒業してから5年間に亘って、連続しての工学教育を施す学校を卒業した投稿者故の感想という訳ではなく、その10倍の数に上る大学工学部のOBにも当てはまると思うのです。小難しい理論や公式や演習問題がぎっしりと書かれた分厚い教科書と格闘し、苦労して及第点を取って学校を出ても、先ずは簡単な部品の設計と言う課題を与えられてエンジニアとしてのキャリアを始めるだろう多くの技術者には、問題発見力が極端に不足するだろうことは明白です。そうではなくて、良い技術者を育てるためには、先ず彼・彼女をアフターサービス等広く顧客や社会に触れる機会の多い部門に放り込むべきでしょう。そこでは、顧客のニーズや自社製品の弱点や、今後開発すべき製品のイメージを膨らますことが出来る筈です。その上で、現場でモノ造りの基礎を学んだ上で、やっと本格的な製品開発や設計が出来るエンジニアになってくれる事でしょう。

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2017年5月19日 (金)

3292 問題発見力2

現実の問題として、政治家や企業リーダーの問題発見力について考えてみましょう。リーダーたるものは、彼らを選んだ人達、あるいは(成り行きか順番で)なるべくしてなったとしても、国や自治体や企業の有権者や組織の構成員に対しての一定の責任が生じます。その責任とは、国や企業に、より正しかろうと思われる方向を指し示し、活動をリードする責任だと言えるでしょう。もちろん、国であれば経済運営や安全保障や外交の持続性の保証があり、企業では利益を上げて株主や従業員の生活を確保する責任もあるでしょう。

しかし、それもこれもリーダーについてくる人達をより正しかろう方向に導く、強い引率力が備わっていてのことなのです。引率力を指導力と言い直しても良いのでしょうが、いずれにしても国や社会や企業システムを上手く導くためには、常に生じている大小の問題を的確に把握し、それらに正しい優先順位を振った上で、より正しかろう解決策を打ち出していく責務が、リーダー(達)には課せられるのです。

国会や企業運営のジグザグぶりでも明らかですが、この国の政治家や企業経営者一般に欠けているのは、明らかに問題の核心を把握する能力ですが、同時に問題解決のためのプライオリティを付けたり、解決の期限を切る能力にも大きく欠けている様に見えてしまうのです。問題の解決など面倒な事は出来るだけ「先送り」し、そして問題解決に行き詰まると、引責辞任と言う名の「無責任辞任」をして、尻拭いをあっさりと後継者に押し付けてしまうのが、この国の政治家と企業経営者の歴史だったと振り返っています。いわゆる、政治の世界の椅子取りゲームあるいは回転ドアと呼ばれる交代劇や、幾度となく繰り返される企業経営者の謝罪会見の映像を思い浮かべれば十分でしょう。この国の政治史や産業史を少し眺めれば、問題は瞭然なのです。

問題発見のためには、物事の本質を見極める能力が必須である事は当然です。そのために最適な方法は、たぶん物事を多面的に観察する力だと見ています。リーダーこそ、浅くとも良いので、森羅万象に興味を持ち、広い知識を身に付けている必要がある筈なのです。例えば、国や企業の経済危機を単に「ファイナンシャル問題」に「還元」してしまうのは簡単な話でしょう。財源を確保するために、増税や不採算部門の切り捨て、つまりは選択と集中と言う殺し文句です、それで一時は光が見えるかも知れません。しかし、問題の本質はそこにあるのではなく、国で言えば少子・高齢化による社会の成熟(から老化?)への移行問題であり、企業で言えば現状分析不足と長期戦略の欠落だった筈なのです。更に続きます。

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2017年5月18日 (木)

3291 問題発見力

この国の技術者(に限らず国民全般)に欠けているものを考えると、やはり問題発見力だと言うしかありません。それもこれも、結局この国の教育に中身に起因すると断ぜざるを得ません。この国の教育は、大学教育ですらTeaching/Learning Systemに染まっているとしか言えません。つまり、教師や講義者が一方的に授業を進め、生徒・学生はただ聞いて、ノートに取ると言ったスタイルが殆どなのです。そもそも「授業」と言う言葉がダメな根源です。先生が、生徒に知識を「授ける」と言っているのですから何をかいわんやでしょう。生徒は、先生を絶対に超えられないのです。

学問は、生徒・学生が自ら志して学び取るものであって、決して一方的に授けるものではないでしょう。望ましい教育とは、本来Education/Study Systemでなければならないとおもうのです。これは、教育者側は、生徒・学生の学ぼうとする意欲を掻き立て、学ぶ側も受け身の姿勢から一歩踏み出して「学び取り」に行くアプローチを指すのです。

では、どうやれば後者が可能となるかですが、そこで必要なのが「問題発見力」だと思うのです。人は問題にぶち当たると、それをどうにか解決しようと努力する存在でしょう。そもそも、問題意識も無しに、何かアイデアや提案などがポロリと生まれる筈もありません。必要が母となって発明が生まれる様に、社会的問題(課題)を特定して、初めて社会をより良くしようとする力も動き出すのです。若く可塑性が髙い学生の内に、この問題発見力を磨き、自分の身の周りに、あるいは社会システムに在る、大小の問題を嗅ぎ分けて、それを特定する能力を磨く必要があると思うです。

もちろん、そのためには授業のスタイルも一新する必要があるでしょう。教育者側は、現実の問題やそれを示唆する様なテーマを提示し、学ぶ側に徹底して議論させ、問題とすべき事を特定する能力を磨かせるべきです。その上で、その問題を解く議論もさせる事になります。もちろん、出た結論を否定や批判してはなりません。もし、明らかに間違っているとしても、それを気付かせる別の問題を提起して、議論を元のレールに戻すのは教育する側のテクニックになるでしょう。悩ましいのは、教育者がより確からしい知識や価値観を持ち合わせていない場合には、これらの問題発見力や解決のための議論をミスリードしてしまう事にもなってしまうので、彼らの責任が増してくる事です。長くなりそうなので続きとします

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2017年5月15日 (月)

3290 ピンチはチャンス

3289でも書いた様に、全てのピンチは裏を返せば事態改善のチャンスだと言えるでしょう。例を挙げましょう。例えば、過去の大地震は、間違いなくこの国の建築基準を引き上げ、地震に強いビルや住宅の増加に寄与した事でしょう。また、多くの交通事故も車の安全基準を大きく引き上げたのです。

さて原発です。あの過酷な原発事故は、この国に何をもたらしたでしょうか。確かに安全基準は引き上げられたかに見えますが、もちろんそれらは原子炉自体の構造改善に及ぶものではありません。ベントフィルターなどの付帯設備の追加や地震・津波対策で建物補強や非常用発電機を高い場所に移す、といった「小手先」の改善に過ぎません。そうでなくて、あの過酷事故でこの国は、脱原発に向けて、再エネ・新エネの優等生になるべく運命づけられたのだ、と考えるべきなのです。然るにです、今の政権は原発再稼働を推し進め、それに飽きたらず原発の輸出さえ進めようとしているではありませんか。何をかいわんやです。このピンチにやるべき事は山積でしょう。汚染水処理の効率的な方法の開発、放射性デブリの搬出ロボットの開発、廃炉技術の開発、それよりなにより放射能を弱め、無害化する技術は放射性廃棄物の処理問題でも待望される筈です。

臭いものに早く蓋をしたい輩は、国際的緊張やテロの危機を煽りながら、憲法問題や自衛力の増強問題に、問題をすり替えようと躍起になっている様に見えます。ピンチとそこから派生する問題に蓋をしたまま放置を続けると、当然の事ながら問題は拡大し続ける結果になる事は必定です。そうでなくて、いま為すべき事は諸問題の本質を見据えて、それらに優先順位をふる事でしょう。その上で、ダラダラ国会に終止符を打って、専門家を交えたボードを必要な数だけ立ち上げるのです。人材を集めて知恵を絞れば、どんな問題もチャンスに変える何かしらのアイデアが出る筈なのです。

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2017年5月14日 (日)

3289 2020年問題

この国の当面の課題は、2020年のオリパラを成功裏に開催する事だけ?の様に見えますが、環境問題に関心のある人ならば、別の2020年問題も気にかかる筈なのです。2020年には、実は先進国では、代替フロンを含め、冷媒や発泡剤としてのフロンの全廃する事が決定しているのです。つまり、2020年は脱フロン元年である訳で、HCFCを含めて速やかにフロンを全廃する義務を負っているのです。代替フロンは、あくまで当面の対策に過ぎないからです。最終的ゴールは、ノンフロンでかつGHG効果ミニマムでなければなりません。

欧米では、動きが素早く、既にHFOへの切り替えが始まっているのです。この国でも、大手流通業や欧米ヘの輸出車については、CO2を主体にした冷媒やHFOへの切り替えが始まってはいます。しかし、この国では未だに多量のフロンや代替フロンを抱えた、冷凍機や空調設備、冷蔵ショーケースや車・家庭用のエアコンに加え、発泡剤としても大量に使われているため、製造設備の切り替えや在庫の処分には大きな混乱が巻き起こると想像されます。

投稿者の意見としては、解決策はあると見ています。と言うのも、炭化水素系のガス、つまりはLPGなのですが、これを含む冷媒ガスは、上手く配合すれば、現在のフロンや代替フロンを直接に入れ替えても、装置の能力が損なわれないどころか、約30%程度の省エネ効果も期待できるのです。つまり、より安全で性能も高い冷媒が開発されるか、HFOの量産が加速して価格が低減するまでは、当面炭化水素系冷媒を使えば良いのです。もちろん、この冷媒が漏れると強撚性ガスですから非常に危険です。従って、この冷媒を使用しているエリアには、複数のガス検知器を配置する必要もあるでしょう。しかし、考えてみれば殆どの建物には、既に都市ガスやLPGの配管が設置され、ガスが使われていますから、それと同等の安全対策を構えておけば十分でしょう。

その意味で、2020年問題は、冷媒を用いる機器のメーカーとユーザーにとっては、大きなビジネスチャンスであり、大幅な省エネルギーのチャンスが到来したと。前向きに考える事も出来るのです。この2020年問題も、裏返せば(ビジネス)チャンスだと言っておきます。

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2017年5月13日 (土)

3288 クールビズのデタラメ

クールビスが取りざたされる時期になりました。しかし、その基準たるやデタラメというしかありません。その前提は、環境省もエアコンの設定温度28℃だとしていますが、この基準が納得できないのです。そもそも、人が感ずる暑さ寒さの程度は、1)気温、2)湿度、3)輻射温度、4)風速といった複数の要素で決まるものなのです。これらを総合的に示す指数としては、WBGT値がありますが、これは最近熱中症の指数として労働環境の管理に使われ始めています。

つまり、たとえ気温が28℃以下であっても、非常に湿度が高いとか、天井の断熱が悪く、夏場に過度の輻射熱が降ってくるとか、あるいは部屋の空気が殆ど動かないとかの条件が重なると、人は熱中症に陥るのです。

取り分け、湿度は重要です。湿度が高い環境では、せっかくかいた汗が蒸発しにくいため、体の表面からの放熱が鈍くなり、体内に熱が籠るのです。また、壁や天井が、気温より高くなっていると、体が輻射熱を受けて、放熱が鈍くなるので、やはり熱中症になり易いのです。

この国の夏の気候は、いわゆるモンスーン(高温多湿)なので、気温の割には高い湿度が、人の体にはキツイのです。従って、クールビスの基準は、温度は28℃でOKとしても、湿度に関しても基準を設けるべきなのです。加えて、窓や壁や天井を抜けて侵入してきて、体感温度を上げる輻射熱も考慮すべきなのです。熱中症の総合指標であるWBGTは、安価な計器で計測可能ですから、それぞれの事業所にはWBGT計を持つ事を義務付けるべきでしょう。その意味では、この国の夏を快適に乗り切るためには、是非とも除湿に重点を置いた、超省エネ型のエアコンの開発が待望されるところです。

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2017年5月12日 (金)

3287 見せる化

投稿者は、フリーランスになって以降、長く省エネルギーの方法について掘り下げてきました。その中で一番相手に対して説得力があったのはエネルギーの「見える化」だったと振り返っています。触ると(ビリビリして)分かるが、しかし目には見えない「電気」を、例えば電力量計で見える化してやれば、時間帯毎に変化する電力量の推移をグラフで見る事が出来ます。

同様に、自分がやってきた事、やろうとしている事を、どうやって自分や他の人に見える様にするか、最近気になっています。文字にしてきたという意味では、ほぼ10年間書き続けているこのブログも、言葉を見える化したものではありますが、そうではなくて図表や画像などを使って、一目で理解できる様にしたいのです。言うは易しで、行うは・・・です。なにしろ、サラリーマンからフリーランスになって、手がけた事が多過ぎますし、今後やりたい事も多いからです。かと言って、残された時間も多くはなさそうなので、取り敢えずは後継者を見つけてココロザシを引き継いでもらうしかないのかも知れません。

当面やりたい事を少し書いてみます。それらは、分かり易い形で、絵にもしてみようと思います。先ずは、自宅を使って始めた、再エネによる暖房・給湯システムをもう少しブラッシュアップしたいのです。熱効率の向上と、今は全手動のシステムを半自動にしたいものです。加えて、夏場の冷房を「デシカント」を使った、太陽熱冷房を実用化したいとも思っています。これは、もうすでにかなりの程度具体化しているので、DIYで出来る範囲で形にしてみようと思います。もう一つ、形にしたいのが、ペレット燃料の定量供給装置の実用化です。現在は、殆ど全てのストーブやボイラでは、スクリューフィーダ(オーガ)を採用していますが、完全に毎秒○○cm分のペレット燃料が送れるようにできれば、燃焼空気量もルーツブロアなどの定量型送風機を使えば、デジタル制御が可能となり、完全燃焼が実現できるでしょう。

結局、全体としては「小規模再エネ」の家庭レベルへの普及だと言っても良いので、先ずは自宅を実験場にして、実証試験をする事にしましょう。それが、他の人への「見せる化」につながるでしょうから・・・。

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2017年5月11日 (木)

3286 「小文字」の地方

国も、地方自治体も口を開けば、地方における「少子高齢者対策」や若い人達を引き付けるための「地方創生」などという抽象的な言葉を連呼します。これらの抽象的な言葉としての地方を「大文字」の地方と表現した場合、表題で言う「小文字」の地方とは、具体的に手に取り、感ずる事の出来る実体としての地方を意味します。つまりは、日常目にする小さな単位のコミュニティの事です。

大文字と小文字で何が違うかですが、それぞれの中で「自分」の占める比重が違います。投稿者が住む東北の県では、この春先ついに人口が100万人を割り込みました。その件で、投稿者の占める比重は1/100万に過ぎませんが、合併で一時は人口が9万人を超えたUターンした町は、元々は4万人弱の城下町だったので、その比重は1/数万と言うことになります。自分が占める比重が大きいということは、自分が何か行動するとその影響が少しは現れると言うことを意味するのです。

実際、Uターンして町中の企業を訪問する中で、ある企業で大量に余っていた木工廃材に着目し、お金を払って焼却処理していたものを、ペレット燃料に加工する事を進言し、県の助成金を得たこともありめでたくペレットプラントが導入されました。これによって、町にペレット燃料の供給基地が出来たのです。これによって、徐々にですがペレットストーブやペレットボイラの導入も進み、エネルギーの地域自給がささやかに始まったのです。また、地元の商工会に向けた新事業やアイデア出しのセミナーを引き受け、その際考えた事をまとめた「企業ハンドブック」を発行して貰い、会員企業に配布もしたのです。

もちろん、これらは対象としたコミュニティが小さかったために、一個人の話を受け取ってくれたものでしょう。もし、県レベルであれば、然るべき肩書き、例えば大企業の経営者や大学教授と言った「肩書き」の人達が、然るべき委員会などで政策提言を行った後、予算取りが始まり、世の中の景気が良くて税収に余裕があれば俎上される、と言ったまだるっこしい経過になる事でしょう。ここで、言いたかったのは、先ずは小文字の地方で小さな行動を起こし、それを徐々に波及させていった方が、結局は大文字の地方を巻き込む流れを作る事が出来るのではないか、とい点なのです。

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2017年5月10日 (水)

3285 地球と自分の間

投稿者は、50代に差し掛かったある時期に「環境人間」を志しました。しかし、最近少し違和感を感じてしまう様にもなった気もしています。つまり、母なる地球があって、自分を取り巻く「環境」があるのですが、最近その環境の「巾」が気になりだしたのです。自分が認識できる環境の巾は、精々自分が日々活動する範囲か、時々旅行する際に車や列車から見える範囲内なのですが、地球環境と大上段に構えると、未だテレビで見たことさえない、世界の秘境や辺境も全て含まれる訳です。しかも、それは1万メートルを超える深海から、8千メートルの山々に留まらず、成層圏と呼ばれる数十㎞の大気圏の上端までも抱合するのです。

言葉だけで、「かけがえのない地球の環境を守りましょう」、「地球に優しい暮らしをしましょう」と呼びかけるのは簡単な話でしょう。しかし、では具体的に、何を、どの程度、いつまでに為すべきかを考え、決めて、それを実行に移すのは簡単な話ではありません。2030年までにGHGを3割減らし、2050年までに8割減らすことが出来たとしても、それは「焼け石に数滴の水」程度なのかも知れません。

どう考えても、私たちは今の生活スタイルを根本から変える必要があると思うのです。具体的には、高々10㎞に満たない通勤距離を、車で雨に濡れずに快適に移動する生活から、少し早起きして、雨の日には合羽を着て、自転車にまたがって通勤する生活スタイルへの移行するという訳です。車を10㎞転がすと2㎏強のCO2を出します、往復で4㎏、年間ではたぶん1トン以上に積み上がるでしょう。しかし、自転車通勤であれば8割減どころか10割削減が可能となります。

投稿者は、実際30年間のサラリーマン生活では、通勤距離はほぼ10㎞程度でしたが、ほとんどの期間を自転車通勤で通しました。走行した距離はたぶん地球を数回周回する距離になる筈です。そんな暮らしで得たものは、20代から殆ど変わらない体重と、人並み以上に強くなった心配機能、つまりは健康だと振り返っています。結果として、同じような距離の車通勤の人と比較すれば、数十トンのCO2を出さないで済んだ計算になるでしょう。

今後の暮らしでも、まずは自分で実行できる質素な生活を続けながら、出来れば水か空気か立木の様に静かに生きて行こうと思っています。自分と地球の間の比較的狭い環境を意識しながら・・・。

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2017年5月 8日 (月)

3284 小さな達成感

ある時期に気が付いたことがあります。それは、人間が生きていく最大の原動力は、実は達成感なのではないか、という事なのです。もちろん、幸福な人達は、いわゆるビッグプロジェクトに関わって、それが実を結ぶ様を眺め、大きな達成感を感ずることができるでしょう。しかし、投稿者の様な平々凡々な人間にも、小さな達成感は手にすることが出来る様に思うのです。小さな達成感とは、日々の小さな仕事が一区切りついた瞬間にも感ずる事が可能でしょうし、この人気のないブログを一稿書き上げる時にも少しは感じ得ていると思っています。そうでなければ、足掛け10年にも亘って、読んで突っ込みを入れてくれる人とて少ないこんな文章を、書き続けることなど出来ないはずなのです。

もちろん、誰かがこのブログを読んでくれたとして、何かが伝わって、その人にとって何かのヒントになってくれれば、それに越したことはありませんが、少なくとも、自分が生きた証として、自分を知る少数の人達や自分の子供達だけでも読んでくれれば、それで十分だと思って書いているのです。凡人の頭で考え、それを文章にしたところで、100題書いても、我ながら良いことを書いたと思えるのは、12題しかありません。しかし、振り返ってみればこのブログも既に3000題以上書き続けてもいるのですから、少しは他の人に参考になりそうなものも、控えめに数十個程度は含まれていたかも知れない、と言って置きましょう。

その一方、小さな達成感は、決して自己満足で終わってはならないとも思っています。人が生きる意味は、誰かに良い影響を与えるか、あるいは少なくとも他の誰かの役に立って、感謝されることが含まれなければならないでしょう。さて、これまでの人生で何か人の役に立てただろうかと考えてみると、いくつかの心当たりはありますが、もちろん中身としては不十分と言うしかありません。従って、今ボンヤリ考えているのは、残りの人生でどれほどの事が出来るかの「見積」とそれを実行に移す計画を立てることなのです。計画倒れにならない様にするためには、それが具体的で、かつ実行可能でなければならないでしょうし、大それたものではなく、小粒でしかも短い期間で達成できるものである必要があるでしょう。小粒の計画を、自分の残されている時間の限り、いくつか積み重ねていくのが、達成感を得るため凡人にできる最良のアプローチだと思うのです。

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2017年5月 6日 (土)

3283 これ以上何を

私たちの生活環境を見回すと、子供の頃は「夢物語」だったことの多くが実現されてしまっています。空を自由に飛び回る車はまだ実現できてはいませんが、代わりにドローンが飛び交い、腕時計型の端末は実用化されてはいませんが、スマホで通信はもちろんお金の支払いまでを含め殆どの機能が事足りる様になりました。ロボットの体内にも納められる小型の原子炉は、たとえ1馬力しか出力できなくても実用化される見込みはありませんが、バッテリーを背負った非力なロボットアトムなら、かなりのレベルまで進化した様です。その意味では、私たちが子供の頃に21世紀という時代に抱いていた、未来技術の殆どは、実現されてしまったとも言えるでしょう。

かつて人は、石や木の枝や簡単な道具を用いて、手指を拡張しながら、さらに種々の道具を作り出し、その道具を用いて機械を作りながら、頭脳と手業を磨いてきたのでした。その間、数知れない人々の小さな工夫と時々現れる天才のヒラメキによって、機械はさらに複雑なものに進化し、さらに電気・電子の発見・発達により、手のひらサイズのガジェットに信じられない程の