2012年5月28日 (月)

1735 腐臭

生ものが腐敗すると、嫌な臭い(腐臭)が発生します。世の中に流通するに足るだけの、お金は確かに生きていますが、一方で無用に「吹き溜まったお金」は、もはや死にかけているお金で、それはやがて腐敗を始めます。お金における腐敗とは、お金が自分自身を動かす事でお金を生み出そうとする、利の連鎖が始まる事をさすと定義しておきましょう。銀行が事業主にお金を貸して、適正な利息を受け取るのは、勿論お金の腐敗には当たりません。

問題は、余ったお金を債権などのお金に替える事が出来る紙(債権)に投資し、その値上がりに期待する「濡れ手に泡」の行動なのです。実際は、それでもお金が余るので、更にお金持ちはモノ(先物市場)にも資金を注ぎ込みます。適当な期間寝かせたお金は、やがて醗酵して、役に立つ使われ方されるという期待もできますが、そうではない欲の泡にまみれた資金は、結局はその泡も消えて、紙屑になるしかないのです。バブル崩壊やリーマンショックなどと言う「お灸」も、時間が経過して熱さを忘れれば、またぞろお金の腐敗に陥るかもしれません。

私たちは、お金が醸し出す腐敗臭に敏感になっておく必要がありそうですが、考えてみれば自分がささやかに銀行に預けているお金さえも、お金の腐敗の一部を加速しているかも知れない事を考えれば、当座預金は別にして、必要以上のお金は、タンスの中にでもしまい込むか、世の中の役に立つ寄付でもしてさっぱりした暮らしを心掛けよう、と改めて自分の暮らし方を振り返っています。

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2012年5月27日 (日)

1734 風でモノは生まれない

今色んな風が吹いています。例えば、電力削減という省エネルギーの風、新エネ拡大の風、脱原発という風、あるいはリーマンショック後から吹き続けている金融不安という気味の悪い風や、あるいは政治不信などという、吹いてほしくない風もあります。20世紀末には、バブルショックというエポックはありましたが、基本的には景気は右高上がりになるものであり、そうでない局面でも、政府がてこ入れさえすれば、やがては景気も上向くものだと言う神話が生きていました。

しかし、風には景気を押し上げる順風もあれば、それを妨げる逆風もある筈ですが、これまでは逆風に対しては身を低くして耐えていれば、やがては順風が来るであろうという、「待てば海路の日和あり」式の対応で押し通せた時代でもありました。

しかし、ここにきてそれでは立ち行かない事が明らかになってきた様に思います。つまりは右肩下がりへの対応方法を、誰も考えてこなかったのです。経済規模の縮小、化石エネルギー産出量の漸減、さらには少子高齢による人口減などの、これまで殆ど経験してこなかった事態への対応策が、今の世代の辞書には載っていない様なのです。もちろん、1930年代の世界大恐慌を、リアルタイムの経験として持ち合わせているリーダーが居るはずもありませんし、現代の恐慌(あるいは困難)は、過去の時代のそれとは、質も量も全くと言って良いほど異なるでしょう。

そうであれば、私たちはあらぬ限りの知恵を出し合って、それを克服ための方法を編み出さなければならないのです。しかし、見回してもそれを為し得るリーダーも見当たらない様な気がします。それにも増して、例えば企業のリーダーにしても、追い風の存在には気が付いているにせよ、ではそれをどう利用したらよいかについては、未だ右往左往しているだけの様に見えます。追い風が掴めるかどうかは、やはりアイデアを形にしてTry & Errorを繰り返してみる必要があるわけです。高度成長期のリーダーたちは、確かにそれを実行していました。風は、それ自身はモノを風化させる事はできますが、何かモノを創り出す力は無いと思い定めるべきでしょう。意志を持って物事を為すのは、(神以外では)ヒトにしかできない芸当なのです。

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2012年5月26日 (土)

1733 田んぼという微環境

微環境とは、このブログで定義した言葉です。(だと思っています)草原の様に、広く連続した環境とは異なり、田んぼは畦道に囲まれた、半人工の狭い環境(微環境)だと言えるでしょう。しかしそこには土壌があり、水が張られると浅い沼地に似た環境となり、畦道には草が茂って、その横には細いながら水の流れもあるでしょう。つまり、小規模ではありますがかなり多様な環境要素が揃っている面白い場所だと言えそうです。

土壌だけ、草地だけなどいった単調な場所は、そこで生きていける植物や、それに依存する昆虫や小動物など生物相も単調になります。しかし、田んぼにはカエルといった、結構大きな動物が生息できる環境もあるため、それを狙う大型の鳥や蛇といった更に大型の動物も併存できる訳です。

つまり、生物の多様性を育む理想的な「環境」が備える条件としては、大きな面積で、しかも手つかずの環境である必要はなく、とにかく多様な環境条件(土壌環境、水環境、樹木や生物環境)が、微妙なグラデーションを描いて存在するだけで良いのです。生物の多様性は、そのグラデーションの中で自然に育まれる事になります。土壌の中には、植物の種や微生物や昆虫の卵など、既に多様性は仕込まれているはずですし、鳥や小動物がそれらを運んでも来ます。とりわけ、微環境における水環境の多様性は、最重要と言っても良いでしょう。浅い水辺や、湿潤な渚や、乾燥した草地を併せ持つ環境、例えば干潟や、河原や、湿地帯が多様な生物を育む所以です。

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2012年5月25日 (金)

1732 つる植物

毎日通る新しい道路の横の歩道には、手すりが設置してありますが、この手すりが「つる植物」に占領されています。つる植物は、樹木の様に幹を太くする事には頓着せず、ひたすらつるを伸ばし続けます。もちろん「彼ら」にも名前はあるのでしょうが、残念ながら元技術屋をしていた投稿者の語彙では「つる性の雑草」としか説明できません。

つる植物は、樹木や茎のしっかりしている他の植物、あるいは電柱の支線や手すりなど、なんでも空に向かって立ち上がっている物体にしがみつき、それより上になる様につるを伸ばし続けます。それもこれも、可能な限りの太陽光を集めるための戦略です。高い場所に葉を広げるほど、朝から晩まで、一日中日光を受ける事が可能になるわけです。しかも、葉で作った物質は、茎を太くするためではなく、もっぱら子孫を残すための花や実を付ける事に利用できるので、他の植物に比べて、びっしりと実を付け、周辺にばらまきます。

もう一つの彼らの戦略は、土壌が殆ど必要ない事です。種は、コンクリートの割れ目の数ミリの隙間にさえこぼれれば、そこから根を伸ばし、成長が可能です。茎が太くないので、隙間があれば、十分に成長が可能な訳です。加えて、コンクリートの下は、水分が蒸発しにくいので、乾燥した日が続いても、根は吸い上げる水には困りません。というわけで、つる性植物は、一夏でその勢力を広げて、他の植物を抑え込んでしまったのでした。秋には一度枯れてしまいますが、この季節になると、ムッとするくらい生い茂り、勝利を主張する事になります。この歩道は、朝晩には、悠々自適らしい年配の人たちが、ゾロゾロと散歩していますが、彼らには小さなハサミでも持って歩き、毎日何本かのつるを切って貰いたいと思いながら、その傍を自転車で通勤しています。

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2012年5月24日 (木)

1731 マグロ的人生?

あっちこっち動き回るのが好きです。国内は言うに及ばず、世界も(アフリカ大陸にはまだ足を踏み入れていないものの)、直近のカザフスタンの仕事では中央アジアにも足跡を残したので、G-グルマップで足跡に☆印を入れると、結構世界中に星が散らばっています。

それもこれも、どうやら「マグロ的生き方」の為せる技かも知れない、とぼんやり考えています。マグロは、海中で口を大きく開けて高速で泳ぎ回る事によって、自分が作り出した速度で、海水と餌を押し込みながら、呼吸と摂食を同時に行います。たとえ短時間でも泳ぐのを止める事は、彼らにとっての死を意味します。投稿者も、バタバタと動き回った結果、新たな人間関係がつながる事や、仕入れた雑情報に混じっている有益な情報を得る事に、何かしら生きているという実感が生じます。

これまでの人生を振り返ると、故郷秋田での成長期、就職してからの短い神戸時代、10年余りの坂出時代、その後現在までの岐阜時代と別れと出会いを積み重ねてきましたが、近い将来にはまた故郷の東北に戻って、新たな産業起こしに寄与したいと目論んでいます。東北は、山(森林や雪解け水)、海(豊富な海洋資源)、里(食糧自給が可能な農地)に加え、冬季の季節風や豊富な地熱等、ローカル資源やローカルエネルギーの宝庫でもあります。そこに腰を据えて、残りの人生を掛けて走り回れば。きっと何某かの結果(生きてきた証)を残せると思うのです。

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2012年5月23日 (水)

1730 ツバメ増やし隊2

借りている事務所の1階は吹き抜けになっている駐車場ですが、その天井のコンクリート梁には、数か所ツバメが巣を掛けた跡があります。その全部が、壊されて欠けているのは近所のカラス山に棲むカラスの悪行です。昨年も2組が巣作りをしましたが、投稿者が留守の間にカラスの「空爆」を受けた様で、下に巣の破片が散らばっていました。問題のカラス山は、風光明媚な木曽川の河畔にある岩山で、すぐ下には撮り鉄の間で有名な、名鉄犬山線のクラシックな鉄橋が掛かっている場所です。かつてはその上に展望台や料亭があったようですが、今は廃墟となっており、「カラスの勝手」し放題です。彼らは、そこを根城に付近の住宅やマンションのゴミ置き場で生ごみをあさっている訳です。しかし、最近は生ごみ袋置き場にカラス除けのネットを掛ける様になったため、食糧不足状態に陥っている様で、かなり個体数は減った様な気がします。その事もあって、逆にツバメの卵やヒナは、彼らの攻撃目標になり易くなった可能性もあります。

今年は、巣の下に棚板を取り付けて、巣の材料や糞が下に落ちない様に対策し、新たな「店子」を待っていましたが、昨日今年の番(つがい)がウロウロしたと思うと、巣の材料を運び始めました。ところが、せっかく棚板を取り付けた場所の隣の古巣を修理しているので、仕方なく棚板を移動しました。大家主から事務所を借りている、「店子家主」としては一応、「孫店子」の勧誘には今年も成功した様です。

今年は、カラスの影を見かけたら、新規開発の武器(ゴム鉄砲)で容赦なく攻撃し、ビルに近づかない様に気を使っていまが、間もなくこの事務所も引き払う予定なので、居なくなる前に子育てが終わる事を願っています。ツバメは本当に愛らしい生き物です。ツバメは人間に好かれている事を上手く利用し、住宅の軒先に巣作りをすることで、天敵から守られると言う賢い適応も果たしています。

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2012年5月22日 (火)

1729 日食

昨日は人並みに日食を観測しました。専用のサングラスを準備していなかったので、事務所を見回して、アルミを蒸着させたフィルムを発見しました。これは、事務所の窓に日よけとしてぶら下げているものの切れ端です。一見、アルミ箔の様に銀色で、不透明の様にも見えますが、実は透明フィルムに、小さなアルミのスパッタ―を付けているだけなので、太陽光はある程度透過させます。しかし1枚では透過する光が強すぎるので、結局は3枚重ねにしました。4枚だと太陽は全く見えませんでした。

これを通すと肉眼で直接見ても大丈夫で、デジカメのレンズの前に付けても撮影可能でした。岐阜南部は、金環食の中心線から少しずれているので、やや偏ったリングでしたが、それなりに感動しました。事務所の近所に飼われている犬は、何時になく興奮して吠えていた様です。

さて、日食で思う事は、お天道様のありがたみです。食になって、外に出てみると、気温が「スーッと下がった様に」感じました。しかし、数十分間程度の短時間で「気温=空気の温度」そのものが大きく下がる訳ではないので、それはあくまで体の感じ(=体感温度)なのです。下がったのは、太陽からの輻射熱で、それを受け取っている体の皮膚が、その量が減った事を感じていただけなのです。植物も、動物も太陽から紫外線も可視光も赤外線も含めて全部受け取っているはずです。とはいいながら、植物も動物も最も頼りにしている太陽光の成分は、光合成を活発にするために気温(葉の温度)を上げ、あるいは動物の体温を維持させるための赤外線や遠赤外線と呼ばれる熱線である事は明らかです。日食とは、その有難さを全ての生き物に再確認させるための、お天道様が執り行う「儀式」でもあるのでしょう。

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2012年5月21日 (月)

1728 悪あがき

日本を含め、いわゆる自由主義経済を標榜する国々においては、一見企業の経済活動や人々の間の競争の機会は平等に与えられている様に見えます。しかし、よくよく考えてみれば、それぞれのプレイヤーのスタート地点はバラバラで、つまりはハンディキャップ付きの自由競争となっているはずです。例えば、資本力のある起業家と、そうではなくてアイデアはあるが資本は借りてスタートせざるを得ない別の起業家とは、そもそもスタート点は異なるでしょう。単に、例えば自由貿易の原則を振りかざして前に進むだけでは、結局は勝ち組と負け組の差を広げるだけに陥ります。

同じような事は、国でも、企業でも、個人でも言えそうな気がします。そこで重要となるのは、実は「手加減」という思いやりなのかもしれません。もちろん手加減をするのは、上位に立っている勝ち組側になります。もちろん、企業が競争相手のために、自社のシェアを手放すなど言う「美談」は今の世の中では期待できるはずもありません。何故なら、いま勝ち組側に立っている企業さえ、過酷な国際競争の中では、少しの油断で負け組に押しやられるリスクを抱えているからです。

たとえそうではあっても、勝ち組はやはり節度を守らなければならないでしょう。企業における節度とは、適正な利益を確保する形でしか実現できそうもありません。つまりは、儲け過ぎを慎むということです。しかし、多くの企業では儲けを投資に回し、見かけ上の資産を少しでも増やそうと「あがき」ます。そうではなくて、為すべき事は、儲けが出ている時には、その儲けの一部でも顧客満足の充足のために使っておけば、その後に景気の落ち込んだ時期でも、顧客が助けてくれて売り上げや利益の低下を最小限に留める事が出来ると思うのです。つまり、企業の節度は、世の中の景気変動幅や要らぬ混乱を最小限に抑える事が出来るという事です。今の社会は、しかし全く逆の行動をして、その結果に右往左往している様に見えてなりません。

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2012年5月20日 (日)

1727 まだ宇宙ビジネスですか?

初の海外衛星の、H-2Aでの打ち上げに目出度く成功したとか。しかし、このブログでは、それこそ何度も何度も宇宙ビジネスに疑問を投げかけています。ロケット部分だけでも約100億円、衛星部分を加えればその倍も掛けて、一体宇宙空間から今以上何を得ようとしているのか、投稿者には全く理解が出来ません。地球の水分布を知りたいのであれば、成層圏(高度20㎞程度)にいくつか気球でも上げれば、その目的は十分達成できるでしょう。気球であれば数億円も掛ければ御の字で、目方が嵩む立派な観測機器も搭載できます。気球は、自然にガスが抜ければ高度が落ちますが、別の気球で迎えに行って回収するか、上手くいけばガスを再注入すれば、再利用も可能です。

36,000㎞もの高さの静止軌道に重量物を打ち上げるためには、莫大なエネルギーが必要であると同時に、用済みになった古い衛星は、その瞬間に宇宙ゴミとなってしまいます。運が悪ければ時々地上に落下すると言う危ない凶器にも変身します。古いタイプの衛星のエネルギーには、小型の原子炉(想像するに自然崩壊する核物質の放出エネルギーを利用する単純なモノなのでしょうが…。)が搭載されていますので、さらに物騒でもあります。

必要な技術は、大型ロケットでも数トンもある巨大な人工衛星でもなく、単にコンパクトな観測機器を、一定の期間高い高度に留めておく技術なのです。ヘリウムを詰めた気球でも十分その役目を果たせるのです。夜間に風で流される(成層圏には風はありません。自転による地表との相対的な位置ズレがあるだけですが。)分は、昼間に膜状の太陽電池で発電して、小さなプロペラを回して、定位置に戻せば良いだけです。いくつかの中小企業が手を組めば手が届きそうな、安くて将来性も有望な「成層圏ビジネス」が、一向に俎上に載らないのは、何故なのでしょうか。宇宙・ロケット技術者や宇宙企業の既得権保護のための陰謀としか思えません。(やや言い過ぎですかね?)

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2012年5月19日 (土)

1726 期待と幻滅

期待の大きさと、結果として生じた幻滅のひどさ加減の絶対値比例する、というのは一つの法則になりそうです。言わずもがなですが、期待値を+、幻滅を-と考えれば、絶対値を取る必要があるでしょう。もちろん、偉い先人はもっと洒落た表現で、その様な名言を残しているはずです。今の政府に対する期待、原子力を活用した全電化社会への期待、世界に冠たる技術大国になって更に外貨をガッポリ稼ぎ続けると言う期待はことごとく裏切られました。今この国を支配しているムードは、強い幻滅とそれに引き続いての諦めかもしれません。

良い決断と悪い決断があるのでしょうが、決めない事は混乱と不安を煽ると言う意味においては、悪い決断より更に悪質な場合さえあるかも知れません。悪い決断は、誰の目にも明らかなので、それに対する何らかの形で修正力が働きますが、決まらない状態は箸にも棒にも掛からないものです。人間は、宙ぶらりんの状態に長く置かれる事に関しては、忍耐力は強くありません。蛇の生殺し状態に対しては、「どっちでも良いから早く決めてくれ。」との叫びが大きくなるでしょう。しかし、その声も届かない場合、もはや期待も幻滅も消えて、諦めムードに支配される事に陥ります。

人間の脳の癖として、自分が環境に向かって働きかけて、然るべき時間内にその結果を求める傾向が強い様に思えます。それが、その人間が思う「良い方向」であれば、達成感や効力感を感じ、更に前に向かう力が湧いてきます。しかし、諦めムードからは何も生まれません。何を働きかえても、まったく何も変わらなければ、やがて人間は働きかけを止めてしまうからです。さて、今のこの国の状況は、幻滅と諦めの間のどの辺りを彷徨っているのでしょうか。早く前に進み始めない事には、長く深い沈滞ムード(Depression)に落ち込んでしまう可能性すらあります。ここから這い上がるには、過去の歴史を振り返っても、長く続く辛抱強い努力を傾けるかあるいは、これは二度とあってはならない事ですが、大きな戦争などの強いきっかけ(Trigger)が必要となるでしょう。

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2012年5月18日 (金)

1725 ズレの修正

「あるべき姿」と現実にズレが生じた場合、「あるべきシステム」は修正を始めるはずです。自然の仕組みや、私たち自身の体にもその様なシステムが組み込まれています。これをフィードバックとかホメオスタシス(恒常性)と呼んだりします。年々繰り返される季節(気候)や、生き物たちの活動にも明確に確認できるものがあります。例えば、気候が短期間に変動した場合や更に中長期で変動した場合でも、生き物はそれに対応して、自分たちの棲家を移動したり、気候変動に耐えうる様に準備をしたりします。植物には足がありませんが、どうにかして彼らの子孫を残すためには動物の助けを借りてでも移動し始めます。ありふれた樹木でも、毎年1㎞程度の速さでなら十分移動できるものです。まして、足のある動物や昆虫などは、毎年の気候変動にも敏感に対応している事でしょう。

私たちも、あるべき姿とのズレにはそれなりに気が付きます。例えばメタボな体を鏡に映して反省した場合、食べ物を控えたり、運動を始めたりするでしょうし、血圧が上がったり、血糖値が基準より高い時には、医者から節制を言い渡されます。ズレの修正を始める時期は、実のところ早ければ早い程、苦労無しに修正が実行できるはずなのです。ズレの修正は、変化を捉えた情報(フィードバック情報)として確認する事がスタートです。変化量に応じた「修正量」を加えて(あるいは引いて)やれば、ずれた軌道は元に戻る筈です。

しかし、人間がここ数百年(とりわけ戦後の数十年掛けて)作り上げてきた、社会システム・経済システムは、もはやズレの修正すら殆ど効かない巨大なものに膨れ上がってしまった様に見えます。為替水準や、経済指標のあるべき姿からのズレに対し、今や一政府の誘導政策などでは、数時間~数日しか効果が続かなくなってしまいました。いくつかの国や地域が力を合わせてさえ、修正する力は限定的です。それほど、実態の伴わない経済という「魔物」は、社会システムは、増長し、肥大化してしまった様に見えます。

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2012年5月17日 (木)

1724 型に収まる

モノには、形がありますが、その形は入れ物である型に依存すると言いきってしまえば、1723と矛盾するかもしれません。では、その入れ物の形はどの様にして決まったのか?という終わりの無い循環問答になるからです。しかし、それでもモノはその入れ物となる型に依存すると言うしかありません。

例えば、形の無さそうな海の水でさえ、地殻に出来た窪みの形に従って溜まります。生き物の細胞はDNAによって定められるその細胞膜に、つかみどころのない雲だって対流圏の温度分布や、地表に出来た凸凹によって生ずる風や、水面からの水の蒸発の量によって形を変えます。人間が、工業製品を作る場合であっても、まずはデザイナーが形(外形)を決めない事には、中身を設計する技術者は動けません。車も先ずはマーケティングによって消費者受けする形を決めて、その中に居住空間や走行メカニズムを詰め込むと言う順番です。

さて人間はどうでしょう。生まれた環境や育った「環境という入れ物」で、人格は決定されるのでしょうか。もし、そうならお金持ちで高い教育を受けた両親に育てられた子供は100%両親の様な子供に育つでしょう。そうはならないのは、人間の中に何か自律的な規範があり、環境の影響はそれなりに受けるものの、場合によってはそれを乗り越える場合も多いのではないかと想像しています。よく「型にハマらない人間」と呼ばれる一握りの人たちが存在しますが、彼らがそのサンプルなのかも知れません。

そう考えると、形と中身は、微妙な相互干渉によって、今ある姿に「収束」してきたのだと言うのが正しいのかもしれません。では、それが何の役に立つのかと言われれば、形を観察し、その中身を知る事の助けくらいにはなるでしょう。それが、自然物であれ、人間であれ、形と中身は常に興味深い観察対象ではあります。

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2012年5月16日 (水)

1723 形から入る

このブログでは、先ずタイトル(キーワード)を決めて置いて、時間が空いた時に本文を書き加えます。このタイトルも1月程前に考えて決めてあったのですが、残念ながらその時何を考えていたのかすっかり忘れてしまったので、改めてこの言葉を噛みしめてみます。さて、モノには、必ず形があります。形の無い、例えばスピリチュアルなものは、勿論モノではありません。モノの形には、そうあるべき必然性があった筈です。特に、それが自然物である限りにおいては、その可能性は100%でなければなりません。そうでなければ、そのものが自然のその場所に、その形で存在し得なかったからです。それは、有機物である自然の中の一木一草や山の斜面に引っかかっている無機物の岩に至るまで、例外はありません。

一方、それが人間によって手を加えられた自然ではあっても、その時の人の側のやむにやまれぬ必然性があり、手を加える事に関わった先人は、それなりに考えて行動した事でしょう。有機物は、その循環の節理やDNA情報に従って、また無機物は地殻変動や気象による風化や堆積のメカニズムによって、その形を変えてきたはずです。とは言いながら、戦後の闇雲な自然の改造(=列島改造論)に、必然性があったとはとても思えませんが…。

ここで言いたいのは、今私たちが見ているモノには、その形になった必然性と歴史が読み取れるに違いないという事です。子供の頃、飽かずに海や川で小石を拾い集め、昆虫や魚を捕って遊んだのも、モノの観察眼を養うのに、少しは役にたっていたことでしょう。しかし、大人になって忙しさにかまけ、道にしゃがみ込んで昆虫を観察する時間が無くなって以降、あるいは常識という名の底の浅い知識で目が曇り、モノの形に隠されているはずの自然の摂理が、殆ど見えなくなっている事は、実に悲しむべき事態です。田畑を守り、里山に分け入って、自然の恵みをいただいている様な人たちは、しっかり木々や野菜や山菜やその周辺に棲む生き物の形に対し、敏感なセンスを持っている事は間違いないでしょう。

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2012年5月15日 (火)

1722 ツブラジイの底力(萌芽再生)

数年前に、かつては行き止まりであった家の前の道の先の谷に橋が掛かり、その下にバイパスが通りました。新しい道を通した道の先には、小さな里山に切通しが出来ました。それまでは、人が入れないほど雑木が密生していた山ですが、切通しの出来た面に顔を出した木々は、それまでの「日陰の身」から、突然日当たり良好の場所に飛び出した形です。それまでは、葉に陽を受けるためにひたすら樹高を伸ばし続けたので、その高さはゆうに20mに達しています。しかし、1717にも書いた様に、特にツブラジイの幹の途中には一本も枝が出ていない、異様な樹形をしていました。

しかし、この春それらの木々に大きな変化を発見しました。それは、幹の至る所から新しい芽が吹き出て、枝を伸ばし始めたのです。葉も広がってきたので、遠目には幹がまるで緑の毛で覆われはじめた様に見えます。つまり、木の脇芽の成長=萌芽が始まったのです。その昔、里山の雑木は薪炭として、定期的に伐採されていました。しかし、根が生きている限り萌芽を繰り返すのが雑木(シイやヤブツバキやナラやヤマザクラ等)の底力なのです。というより、萌芽を繰り返さない木は、ナラ枯れの例に見る様に樹勢が衰え、枯れてしまう事も多いのです。古い木は、光合成の活動も不活発になり、ただ森に立っているだけの存在になってしまう訳です。また放置された里山は、林床にも陽が差さないため下草も生えず、昆虫や小動物も棲めない、半分死んだ森ともいえ、しかも地面が露出してしまって保水力も低い森になっています。

必要な行動は、雑木を適当に伐採し、人や小動物が自由に往来できる状態に保つ事しかありません。樹木は萌芽再生し、人や動物は山の恵みを享受でき、見通しの良い雑木には、基本的には人を怖れるイノシシ等(しばしば害獣と呼ばれます)も近づかないでしょう。生き物の多様性も一気に増加します。それにしても、伐採した樹木の使い道が、現代社会には殆ど見当たらないのは悲しい現実です。これらを、炭やペレット燃料や薪等のバイオマス燃料や、木工製品や、その他の工芸品に活用する産業は、とっくの昔に廃れてしまっていますが、新しい技術で再利用する道が開ければ、小さいけれど「産業の芽も萌芽」する筈です。

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2012年5月14日 (月)

1721 ミモザ(フサアカシア)

家の前の道路に、街路樹として植えられているミモザの花が見ごろです。樹木には日頃なかなか目が向きませんが、花が咲く時期は彼らもその存在を強く主張するので、見上げざるを得ません。先日の、ウワズミザクラやツブラジイの項も、やはり花が目を向けるきっかけになりました。人間が、目を向けるくらいですから、紫外線を感ずる目を持つ昆虫は、もっと敏感に反応している事でしょう。ハチや蝶の活動が活発になり、それを狙う鳥の活動ももっと活発になっている様に見えます。毎日通る田圃のあぜ道や週末に登る裏山の散歩コースを通るたびに、スズメかホオジロの類が毛虫や青虫をくわえている姿を頻繁に目にします。茶色で、小さな鳥を見ても、スズメとかホオジロくらいしか鳥の名前が浮かばないのが、元技術屋の悲しいところですが…。たぶん子育ての最中で、巣で待つヒナのエサとして持ち帰るのでしょう。

これは、暖かい気温や日光が植物を目覚めさせ、葉を広げ、花を咲かせる事が、地面から虫を這い出させて、それが鳥を呼ぶと言う自然の循環が、今年も巡ってきたと言う、本当に心安らぐ「悠久のワンパターン」の繰り返しを目撃です。

いずれにしても、木々や草花を見るたび、昆虫や小動物や鳥を見るたび、自然の仕組みの巧みさと、その連鎖の絶妙のバランスに感動させられ、一方では人間の知恵の浅さに落胆してしまいます。もちろん、戦前までの(伝統的な)暮らし方の中には、伝承の素晴らしい知恵が引き継がれていたはずなのですが、それが底の浅い産業革命以降の科学・技術とやらの、目新しくもゴチャゴチャしたノウハウに駆逐されつつあるのは、なんともやりきれないところです。植物や昆虫や動物を良く観察する中で、彼らの知恵も学び、ご先祖様が積み上げた知恵を掘り起こす中で、どうにかこうにか将来世代にしっかりしたタスキをつなぎたいものです。さあ、日々勉強べんきょうです。

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2012年5月13日 (日)

1720 キリギリスとアリ

この国や欧米諸国が、軒並み財政赤字あるいは(及び)貿易収支に悩んでいる状況を見るにつけ、これは実は20世紀型経済モデルの終焉を見ているのでないか、との想いにとらわれます。20世紀型の経済モデルとは、非常に単純化すれば、地下資源(や化石エネルギー)を掘り出して、技術力を使いながら工業製品を安く、大量に生産し、外貨を稼いで自分の国を富ますと言うもので、いわゆる先進国はこのモデルで突き進んできた訳です。しかし、考えてみれば、このモデルでは、資源やお金の流れは一方通行になっており、長い目で見て「持続可能なモデル」ではない事は明らかです。自分の国の資源を掘り尽くした先進国は、途上国の資源を安く買いたたき、自国に持ち帰って工業製品を作り、外貨を稼ぎます。

一方で、資源を持っている途上国は、資源を売って得た外貨で、工業国から製品を買い続けます。しかし、それも資源が産出する限りにおいての一時のラッキーに過ぎないのです。資源を売り尽くしたラッキーな途上国は、もはや冬にさまようキリギリスになるしかありません。車や、便利な電化製品も、ガソリンや電気無くしては、ただのゴミに過ぎません。

そうなる前に、準備すべきはアリの作戦しか考えられません。つまり、体を動かしてチマチマとストックを積み上げ、来たる冬に備えるのです。資源は、これまでに掘り出したものを徹底的にリサイクルすれば、どうにかなりそうです。問題はエネルギー源です。石油や天然ガスなどの、いわゆる化石エネルギーも、元を質せば太古の太陽エネルギーのなれの果てです。私たちは、それを消費するだけでなく、少しずつでも貯める努力を傾けなければならないでしょう。山に木を植えて、数十年かのサイクルで、CO2を固定する方法もありますが、本格的には太陽光を使って、炭化水素を固定する「人工光合成」を形にするしかなさそうです。さてしかし、こんな夢物語を真面目に研究している人たちは、(想像するに)ホンの一握りしか居ない現状に対しては、暗澹たる思いに陥るしかありません。求む、アリ研究者といったところです。

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2012年5月12日 (土)

1719 ツバメふやし隊

ツバメが減っているとのこと。長い年月に亘って小学生による生息数調査を続けている福井県のデータでは、一時の1/3程度に減っている様です。夏鳥であるツバメは、子育てのために多くの飛んでいる虫を必要としますので、そのためにも先ずは虫の密度が高くなっている必要があります。虫が湧く場所は、草原か湿地(田圃)などですから、先ずは開けたその様な場所が必要です。加えて営巣の場所が必要ですが、いかんせん新しい住宅では、壁が汚れにくくするために、滑らかに塗装されており、泥で作る巣が掛けられない様なのです。

投稿者が借りている事務所ビルは、1階の駐車場には壁が無く、上に2階を支える梁が通っているため、これまでに4か所ほど巣を掛けた跡が残っています。このビルは、直線距離で田圃が集まっている場所まで500m位で、目の前は木曽川なので、餌取りの条件としてはまあまあといったところです。しかし、問題は直線距離にして200m位の場所に、小高い「カラス山」があるので、カラスの密度がかなり高い事です。昨年も、目撃した訳ではありませんがたぶんカラスに巣が襲われて、ヒナが奪われた様です。巣も半分ほど壊され、その後二度目の営巣は確認できませんでした。

そこで今年は「武器」を準備しました。買ったものは、平たいゴムバンドと自転車の虫ゴムに使うゴム管です。これで、鉄砲とパチンコを作りました。弾は、近所の家に当たっても問題が無い様に、木製のものとしました。これを使って、このビルに近づくカラスを片っ端から攻撃するのです。カラスは、賢い鳥なので、危険をしっかり学習する筈です。このビルがカラスにとっては危険で、ツバメにとっては安全であることが分かれば、たぶん今年も営巣してくれるのではないか、と密かに期待しています。

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2012年5月11日 (金)

1718 ローカリズム

ローカリズムの重要性は、強調してもしきれません。その対極がグローバリズムですが、その前段階として、システムの中央集中が起こりました。政治・経済活動・企業など、社会システムの殆ど全ての分野においてそれは起こりました。つまりは、日本で言えば東京一極集中、企業で言えば本社への機能集中などがドンドンと進んだのでした。毎日話題に上る電力網もその好例でしょう。電力会社は、見かけ上10社に分かれてはいますが、それぞれがその地域の独占企業で、その地域の全ての企業や家庭が、その電力網にぶら下がっています。これが中央集中でなくて、何をそう呼ぶべきでしょうか。

50年以上さかのぼり、電力会社が再編成される前は、国内には小さな地域発電企業が林立していました。しかし、日本の社会では鉄道を始めとして急速な電化が進み、それに対応するための大規模なダム工事や原発や大型火力発電所の建設には、莫大な投資も必要であったため、国の強力な指導の元、電力会社が再編成され、並行して電源開発が多額の税金も注ぎ込んで進められたのでした。黒四ダムに代表される発電目的のダム工事も、その後も治水目的に「矛先を取り換えて」、継続的に進められましたし、原発についても多額の交付金をエサに、各地の反対派を押し切りながら推進されました。

しかし、その政策も昨年の原発事故をきっかけに、大幅に見直さざるを得ない状況に追い込まれた訳です。今後の社会を再設計する上で、エネルギーや資源のローカライゼイションは絶対不可欠のキーワードです。ではエネルギーのローカリズムはどの様な道筋で実現可能かと考えてみるに、大型プロジェクトは絶対に馴染まず、飽くまでも「チリも積もれば山となる」作戦しか考えられないのです。何故なら、ローカルエネルギーは「広く、薄く」賦存していますので、それをかき集めるための大きな仕掛けは、あまりにも無駄が大きくなるからです。メガソーラーなどは、その最たる例になるでしょう。メガソーラーで日光を遮られたその下の土壌は、まったく何の役にも立たない「土くれ」になってしまいます。日光が当たらなければ如何なる植物も育たないからです。ソーラー発電には、例えば日光が当たって欲しくない住宅や工場やビルの屋根や、精々駅前の「立体ではない」駐車場などが、その適地になるでしょう。

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2012年5月10日 (木)

1717 ツブラジイ

近くの雑木林を眺めると、もくもくと湧いた雲の様なツブラジイの黄色(金色)の花が咲き、存在を主張し始めました。この高木は、岐阜市の市の木・花ともなっており、この木が多い金華山の名前の由来にもなっています。この木は、非常に高く成長できるので、まったく手入れが行われず(つまりは間伐されず)込み合った雑木林でも、樹冠を他の木より高く出して、たっぷりと日光を受ける事が出来ます。しかし、近寄って木自体を見ると、途中には10m程も全く枝が見られず、その上に樹冠だけを付けていると言う異様な恰好をしています。まるでスギなどで、しっかり枝打ちされ、良く手入れされた針葉樹を想い起させます。つまりは、これは何十年もこの山の手入れは行われておらず、ツブラジイは枝を伸ばすのを止めて、ひたすら上に伸び続けたと言う事を意味します。

良く手入れされた人工樹林の木と、まったく手入れされていない広葉樹が同じような樹形をしていると言うのは皮肉な景色です。たまたま早朝に聞いた公共放送のラジオ番組に出演していた、柳生博が、自分は「森の番人」だと誇らしげに言った言葉がしばらく耳に残りそうです。彼や彼の家族が手入れした(し続けている)、八ヶ岳山麓の雑木林をぜひ見てみたいものだと思いました。

さて、里山をこのままに放置しておいて良い筈はありません。昔を知る地元の人の話では、現在は名古屋のベッドタウンとして住宅団地に開発されたこの辺りの里山は、マツタケや山菜の宝庫だったとか。放置され、ただ込み合っているだけで、人も入れない里山には、その面影は全く見られません。この山を誰が所有し、かつては誰が手入れの音頭を取って、誰が実際に間伐などの仕事を引き受けていたのか、知りたくなりました。誰かがきっかけを作ってさえくれれば、その麓の道を、朝夕ひたすら歩くだけのかなりの数の高齢者ウォーカーは、たぶん喜んで山の手入れをしてくれると思うのです。

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2012年5月 9日 (水)

1716 ルリタテハ

家の裏山のジョギング・登山コースは、広葉樹の雑木林で覆われていますが、同時に昆虫や小動物の宝庫の様でもあります。(まだ遭遇していませんがイノシシも居る様です)稜線では蝶類も多く観察できますが、最近気になる蝶が飛び始めました。小型の蝶で、羽を閉じて止まると、迷彩色で目立たなくなりますが、羽を広げると黒地に鮮やかな瑠璃色の筋が入っているのです。苦労してネットの蝶図鑑を調べると、どうやらルリタテハ類の様です。

蝶は、種毎に幼虫が好んで食べる葉の種類(樹木の種類)が異なっていますから、蝶の観察が好きな人は先ずは、特定の蝶が好む特定樹木を知り、それが自生している場所を探せば良い訳です。この事は、生き物の多様性は、即ち植物の多様性無くしては実現できない事を連想させます。しかし一方で、足の無い植物の多様性は、種の繁茂のためには、その種自身に依存して生きている動物や鳥や昆虫に頼ってもいますので、植物と動物との関係は、何処まで行っても切れない「環境の鎖」と言っても良いでしょう。

従って、山々にパレットの様に種々の色合いの緑が入り混じり、その中を歩くたびに種々の昆虫や鳥に出会える場所は、間違いなく環境が上手く巡っている場所を意味しますし、逆に単調な植生で、生き物にもめったに出くわさない針葉樹の人工林などは、もはや自然環境とも呼べない「木材工場」内の敷地と呼ぶしかありません。まして、誰も手入れをしなくなって、陽も差さない放置林は、見捨てられた木材工場の跡地にしか見えません。蝶からの連想でした。

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2012年5月 8日 (火)

1715 原発全停止

原発の全停止は、震災で引き金が引かれた原発事故後の最大のエポックではあります。この国の原子力発電所の熱核反応が全て停止したというニュースは、何か大きな緊張が解けた時の様な安堵感をもたらします。それは、私たちが持っている原子力技術がまだ稚拙過ぎて、熱核反応を制御していると主張していたのは、実は単に水と制御棒を使って、核分裂を「減速」させる事であった、という事実に拠ります。その証拠には、野に放たれた放射性物質を「制御」し、放射能レベルを弱める技術すら持ち合わせていない事が暴露されてしまったではありませんか。除染作業の中身はといえば、単に放射性物質を洗い流して、濃縮して仮置き場に移動する作業を指すと言う情けなさです。

私たちが、真に核物質を制御出来たと胸を張れるのは、物質に対して自由に放射能を付与したり、逆にそれを消したりできた時だけです。つまり、それは例えば放射性のセシウム137を、放射能を持たないセシウムに自由に転換できる技術を指します。それが出来ない限りにおいては、不完全な技術にしかサポートされていない原発の再稼働は考えるべきではないでしょう。私たちは、半世紀を掛けて原子力を利用する技術は磨いてきましたが、一方で放射能の除染技術や「消染(Sterilize)」技術を磨く事をサボってきたとしか言えないです。

過去に何度もチャンスはありました、東西の核爆弾の実験場からまき散らされた放射性物質と、それから受けた人的被害、チェルノブイリやスリーマイル島の原発事故、国内における大小の原発関連事故やJCO臨界事故などは、それらの代表です。これらの事故における対処としては、放射能を石棺に閉じ込め、人体や環境を洗浄し、あるいはヨウ素剤を服用して、放射能被害を薄める事しか出来ませんでした。原発の「一時再稼働」に必要は事は、古い原発の廃炉を含む、原子力のフェイドアウトの具体的な道筋と、それに代わる再エネの具体的なフェイドインの計画を国が示す事しかありません。

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2012年5月 7日 (月)

1714 再度ドイツに学ぶ

投稿者が10年ほど前に環境先進国と言われていたドイツを訪問した際、廃棄物を圧縮するいわゆる環境産業や、再生可能エネルギー分野などを見聞するにつけ、少なくとも日本の10年以上先は行っていると感じたものでした。事実、10年を経て、震災=原発事故のインパクトはあったにしても、この国でもここにきて再生可能エネルギー(再エネ)への取り組みが加速してきました。

しかし、学ぶのは良い点だけに限っては片手落ちです。いまドイツなどの環境先進国で起こっている問題点にも学ばなければならないでしょう。記憶では、02年の訪問時ドイツにおけるFIT(固定買取価格)は、売電価格の4倍もの高値に設定さており、風力や太陽光発電やバイオマス発電の増加を強力に誘引していました。4倍レベルの売電価格であれば、多くの再エネ分野で生み出した電力も十分算盤にのりますので、急激に増加させるインセンティブになり得ます。控えめな政策が好きな日本では、取り敢えずは2倍レベルでスタートする様ですが、インセンティブもそれなりに留まると予想されます。

勿論、お金をインセンティブに使う限りは、必ず限界や問題点も伴うのは自然の流れです。ドイツでも、今問題になっているのは、FIT価格が下がってきたのと同時に、再エネの設置適地が飽和してきており、多大な投資を繰り返してきた再エネ産業が、息切れを起こしている状況なのです。再エネ産業が持続可能となるためには、再エネ産業だけで作ったエネルギーで、しかも既に地上に存在する資源をリサイクルした材料だけを使って、永く産業基盤を維持できる場合に限られる事を考えれば、先進的と言われるドイツの環境産業といえども、未だ理想に向けての途上にあると、批判的に理解すべきでしょう。そこから、更に10年以上遅れて歩んでいるこの国の鈍さに対するもどかしさは、残念ながら10年前と全く変わっていません。モノマネではなく、この国独自の事情に対応する知恵出しが必要です。

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2012年5月 6日 (日)

1713 ウワズミザクラ

もう花の最盛期は過ぎつつありますが、毎週末1-2回登る400m弱の裏山に、白い羽毛のような花が咲く木があります。名前が知りたくて、ネットで調べると「ウワズミザクラ」だと出ていました。それにしても、技術屋を何十年もやっていた身としては、身近な樹木の名前さえ知らないと言う事に、改めて自分の知識の偏りを実感しています。そういえば、まとめて「雑草」と呼んでいる草花にも、それぞれ名前があって、先人はそれらを細かく分類した上で、自分の五感を信頼して、それらの一部を食用にしたり、あるいは薬草として活用したりしていた事を思うにつけ、すぐネットや図鑑に頼る、現代人の情けなさを思い知らされます。

それにつけても、数十万もの植物を採集して標本化し、そのうちの1500種類もの植物に新たに名前を与えた牧野富太郎博士の偉大さは、言葉にもできません。植物や生き物を分類すると言う作業は、先ずはそれらを詳細に観察し、小さな違いを見分ける事が必要です。植物や生き物は、長い時間を掛けて、その環境に適応すべく進化を重ねてきたので、僅かな環境の差異は、その違いと同程度の違いを個体の形態にもたらします。その違いが、一定以上のレベルに達すると、種の違いという事になるのでしょう。もちろん、遺伝子レベルではほぼ同じで同じ種だとしても、棲息している環境(例えば山間地なのか都市の公園なのか)によっても、色や形態に差が出ている可能性もあります。ある種の蛾には明らかにそのような傾向が確認できます。

さて、植物には足がありませんから、地下茎を使って勢力を拡大する竹などの一部の植物を除いて、彼らが頼りにするのは「風、鳥、獣」などになります。つまり、風に乗り易くするために種子を軽くして羽根や羽毛を備えるか、甘い果実をエサに鳥に種子を運んでもらうか、あるいはかぎ針を備えて獣の毛に取りつくか、などの戦略を磨いてきた訳です。その結果、手つかずの雑木林では、信じられない程の生物の多様性を確保している訳です。とは言いながら、人里に近い雑木林と(里山)には、薪炭採取や山菜採りなどの目的で、ほぼ100%人の手も入ってはいますが…。

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2012年5月 5日 (土)

1712 雑食系企業

企業は、その設立からの年数が長い程、徐々にある特定の分野に特化し、可能な限り市場のシェアを大きくしようと努力します。つまり、儲からない分野を切り捨て、利益がより厚い分野への集中度を高める訳です。たとえ話をするなら、それまでは何でも作って出す大衆食堂であった業態から、規模は大きくなったのに、イタリアンだとか中華だとかの専門店に衣替えする事に似ています。

しかし、そこには「ばっかり食べ」の危険も伴う筈です。つまり、日常の食生活を考えてみても分かるように、好きなものばかりを食べていれば、当然の事ながら栄養が偏り、やがて健康を害することになるでしょう。投稿者がかつて勤務した企業も、古くから総合重工業と言う看板を掲げていましたが、最近ではいくつかの看板を引っ込めてしまった様な気がします。同様に、総合電機と呼ばれる企業群も、かなりビジネスユニット(B/U)を集約してしまった様に見えます。このままでは、個別の企業もこの国全体の産業も、「偏食産業」と言うレッテルが貼られるかも知れません。

そうではなくて、人も企業ももっと雑食をしなければならないのです。それも食べ物(BU)を丸呑みするのではなく、良く咀嚼して味わう必要もあるでしょう。味わう事とは、そのビジネスユニットの成長により長く時間を掛けると言う意味になるでしょう。現代社会において多くの企業では、たぶん3年間も利益が出ないBUは、その時のサラリーマン社長の任期中にバッサリ切り捨てられるでしょうから、企業の体質はますます偏食にならざるを得ません。想像だけですが、今後の社会を担う新たなB/Uにおいておや、です。現在の多くの企業では、たった10年間でさえB/Uの芽が出させそれが成長するのを見守る余裕があるとはとても思えません。つまり、選択と集中する事しか能がない、偏食系企業は今後ますます増えて、バタバタと倒れるしかないのかもしれません。

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2012年5月 4日 (金)

1711 セミパラチンスク

これは、チェルノブイリやフクシマ以上に重たい意味を持つ地名です。多くの国々には、暗い過去が存在します。たぶんそんな歴史の無い国などは存在しないと言っても言い過ぎではないでしょう。このブログで取り上げたKザフスタンと言う国も例外ではありません。この国がニュースになるのは、バイコヌール基地から日本人や西側の宇宙飛行士が宇宙に飛び立つタイミングか、最近では、この国に豊富に存在する鉱物資源の権益を求めて、大臣や商社が詣でていると言った内容の報道程度しかありません。しかし、3月に短期間訪問した時はすっかり失念していましたが、この国には目を覆いたくなるような悪夢が存在したことを、偶然の機会に再認識しました。しかも、それは現在進行形だと言っても良いのです。

その悪夢のキーワードは「セミパラチンスク」と言う地名です。ここは、Kザフ国北東部の乾燥地帯にあり、なんと旧ソ連時代の核爆弾の実験場があった場所なのです。東西の冷戦が華々しかった頃、東西の陣営はそれぞれ活発に原爆や水爆の爆発実験を繰り返しました。それも、地下核実験ではなくかなりの数は大気中で実験されたのです。西側でいえば、B国のネバダ砂漠での実験やF国のムルロア環礁での水爆実験などが思い浮かびますが、東側の実験は報道されないまま、信じられない回数の大気中実験が行われてきたのでした。その際にまき散らされた放射性物質は、爆発の直接的な影響(爆風や熱波)が届かないとされてきた、近隣の村や町に風に乗ってまき散らされたのでした。

B国でも、西部劇スターがロケで度々訪れたであろう砂漠には、原発実験の放射能が残留していたと思われ、その間接的な影響かガンで亡くなるケースが話題になった時期がありました。

しかし、Kザフではそんな程度では済みませんでした。強烈な強度の放射能被ばくは、射爆実験場の近くに住んでいた人々、とりわけ妊婦(=胎児)に多大な影響を与え、目を覆いたくなるような奇形児が次々と誕生してしまったのです。従って、悲劇は彼らが生存している限りは現在進行形と言う事になります。その記録や現状をネットで再確認するにつけ、人類が放射能を制御する事など所詮見果てぬ夢に過ぎなく、やはり原発などと言う仕掛けは「パンドラの箱」そのもので、その蓋を一日も早く固く閉じなければならないと、強く思うのです。

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2012年5月 3日 (木)

1710 670㎞と言う距離

昭和40年代の終わり頃、交通事故件数はウナギ登りに増加し、車は「走る凶器」とも呼ばれていた様な気がします。道路が整備され、信号や交通システムが整備された結果、事故件数や死者は確かに低下しましたが、ここにきて再び走る凶器と言う言葉を思い出される事故が相次いでいます。これだけ免許証を持つ人口が増えれば、本来は運転には向かない性格の人や、本来は運転してはいけない病気の人の絶対数も増加している事は十分考えられます。

更に言えば、身体的能力の低下した、いわゆる高齢ドライバーも日々増えているとの実感もあります。かつて、羽田での旅客機の着陸の際に機長が異常な操縦をして、多くの乗客が犠牲になった事故もあったと記憶していますが、飛行機のパイロットとバスの運転手の適正や身体的な能力には本質的な違いは無いでしょう。基本的には健康で、判断力が良好で、反射能力が普通以上で、アルコールの血中濃度が極めて低い状態で、しかも寝不足ではない一定レベル以上の覚醒状態で、操縦桿やハンドルを握る必要があります。その様な適性と健康な身体を持つバスドライバーが、飛行機のパイロットと同様の割合で存在して貰わない事には、今回の様な事故は減らないでしょう。問題は、長距離バスよりたぶん2~3桁は多い数の大型トラックも、日夜道路や高速道を疾走している事です。基本的には、これらのトラックドライバーについても、何らかの適正検査なり、体調のモニターが必要です。

ところで、投稿者の生まれ故郷は、いま住んでいる岐阜からは丁度700㎞離れています。冠婚葬祭のタイミングなどには、夜通しで車やバイクを転がして帰省する事がありますが、流石にこの距離を一気に走る事は無理です。3回くらいに分けて休憩し、そのうち1回は大休憩(仮眠)も必要です。先日、名古屋から仙台まで夜行バスを利用した際には、運転手が2名乗っていて何となく安心感がありましたが、やはり長い距離例えばそれが670㎞以内だとしても、その日の健康状態も確かめようがないたった一人の運転手に、大勢の乗客の命を預けるにはかなりの不安感が伴います。ましてや大型免許を取って日が浅く、しかも慣れない単独運転ではなおさらでしょう。

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2012年5月 2日 (水)

1709 儲からない技術

技術とは、そもそも企業や産業を支えるために、つまりは儲けるために存在しているはずです。従って、「儲からない技術」などと言うものは、存在し得ない種類のものかも知れません。しかしながら、敢えてここでそのアンチテーゼを持ち出したのは、それが今後の技術の方向を指し示すキーワードになると、心の隅で信じているからです。

その意味で、儲けるための技術と、儲からない技術では、出発点が違います。前者は、市場のニーズ(消費者は何が=モノ・サービスが欲しいか)と企業によるそれらの提供と得られる適正な(できれば最大の)利益などになるでしょう。しかし、後者は消費者の基本的ニーズ(生活をしていく上で、何が必要不可欠か)、環境に大きくインパクトを与えない技術と必要最小限の利益、とでもなるのでしょうか。

これまで、この国を含め世界中の国々(たぶんBータン国は違うのでしょうね)やそこの企業は、儲かる技術を使って、より多くの利益を稼ぎ出すために汲々としてきたはずです。しかし、それが持続可能ではない事が、種々の局面で明らかになっても来ました。従って、ここでの結論(と言うよりこのブログの一貫した主張ですが)、私たちは何が何でも儲からないが持続可能な技術を徹底的に磨いて行かなくてはならないのです。具体的には、それらはかつて50年以上前にはこの国にもあった、「地に足を付けた生活」やそれを支えた技術(というよりは手わざ)に例を見出す事が出来るでしょうし、それを新しい技術も少し活用しながら補強していけば良いでしょう。

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2012年5月 1日 (火)

1708 伊吹山

連休の初日、好天に誘われて伊吹山に登ってきました。朝起きてから思い立ったので、バイクを転がして、登り始めたのは10時を過ぎており、頂上に立ったのは12時を少し回っていました。山登りの鉄則ですが、頂上に立つのは午前中、出来れば朝早くが理想です。理由は、昼に近くなると日射で気温が上がり、同時に大気中の水蒸気量も増加するので、見通しが悪くなるからです。加えて、夏場は昼過ぎになると雲が湧いてきて、運が悪いと雷さんに追いかけられるからでもあります。さて昨日は、出足はやや遅れましたが、頂上では遠くは霞みながらも、御嶽や北アルプスも望め、まあまあの視界でした。

頂上付近には、まだかなりの厚みで雪渓が残っており、雪解け水がチョロチョロと流れ落ちています。頂上から下界を眺めると、殆どの田には水が張られ、キラキラと輝いていました。その面積は、伊吹山の麓から、丘陵地や市街地を除いて、びわ湖のすぐ近くまで広がっており、各々の水田に平均2030センチ程度の水が湛えられているとしても、合わせればかなりの水量に上る事は容易に想像できます。この時期に豊富になる、雪解け水を導いて田んぼで米を作ると言う、自然の仕組みを最大限利用した、最適の農業システムを弥生時代から確立していたと思えば、先人の巧みさに改めて感嘆してしまいます。

伊吹さんの麓に広がる関ヶ原は、交通の要所でもあるので、下には名神高速や東海道線や新幹線が、パノラマの様に走っていますが、一方では石灰岩の塊でもある伊吹山の北側は、平面的に削られています。某セメント会社が削った跡です。たぶん高度成長期に、下を通る高速道路や新幹線の高架の建設に使われたものでしょう。しかし、現在のセメント会社の工場は、山から石灰石を運んだ長いコンベアを含めて、錆びだらけの残骸となっており、この姿こそが「昭和遺産」か「高度成長期遺産」の典型だとも言えそうです。つまりは、高度成長期に作られたインフラと、それを支えた企業や工場の変わり果てた姿のコントラストを指します。

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2012年4月30日 (月)

1707 電子制御

十数年ぶりで車を購入しました。こだわって、マニュアル車を探しましたが、小型車では最早数種類しか残っていませんでした。それでも、どうにか車種を決めて、3か月待たされてから納車されました。しかし、最初からやや強い違和感がありました。クラッチとブレーキを踏まないとエンジンが掛けられないのです。もし交差点でエンストしてしまったら、きっとパニックになるかも知れません。それに加えて、始動はイグニッション・キーではなくボタンで行います。ハンドルの横に手を伸ばせば、キーに触れて、目で確認しなくてもエンジンが掛けられた前の車とは大違いです。

そうこうしながらも、やっと操作にも慣れて、車を運転するのですが、まだ何かしっくりきません。アクセルを踏んでも、エンジンの吹き上がりが0.1秒かそこら遅れる様なのです。これは非常に重要なタイムラグで、エンジンの回転数を上げてクラッチを繋ぐ際に、やや回転不足のまま繋いでしまう事になるからです。従って、どうもキビキビした運転が出来にくくなってしまうのです。

ディーラーに苦情を言ったら、それは仕方がないとの返事。今の車は、電子制御になっているために、アクセルを踏んでから、実際に燃料が入るまでに、車載のマイコンの演算時間が必要なのだとか。もし、マイコンが故障したら、エンジン回転数が突然上がったり(これはフェイルセーフではないので、絶対にそうは設計されていないと信じたいのですが…)、あるいは突然エンジンが止まったりするのでしょうか。全く困ったものです。アクセルとエンジンスロットルが直接繋がってないマニュアル車は、まさに「まがい物のマニュアル車」と言うしかありません。

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2012年4月29日 (日)

1706 ブレークポイント

ブレークポイントにはいくつかの意味がありそうですが、ここではプログラミング用語で、バグのチェックのために、プログラムをある時点で一時停止させること、と言う意味で考えてみます。現在の社会システムは、お互いに複雑に絡み合いながら、しかしお互いが変動の原因となったり、起こった結果が更に別の変動の原因になったりもしています。つまりざっと考えるに現在のシステムには、ブレークポイントが仕組まれていない、危ういシステムなのではないかと言う、素朴な疑問が生じます。負の連鎖の結果、事象が停止する事を「破局」と呼びますが、ブレークポイントの仕掛けが無いと、歯止めが利かないのでないかと心配になるのです。

技術屋を卒業してしまったので、あまり例としては挙げたくはないのですが、航空機の構造では、例えば構造部材に亀裂が発生しても、一気に破局的な破壊に至らない様に、別の部材でその進展が止まるように「設計」されています。一方で、今の社会システムには、例えば誰か偉い設計者が居たわけでもなく、成り行きで出来てきたモノの様に降り返っています。経済システムがその最たるものでしょうか。戦後の世界経済には、いくつかのエポックや危機があった様にも思えますが、その都度それを乗り越えながら現在のシステムに行き着いたのだと思います。しかし、その形はよくよく考えられて設計されたものでは決してなく、いわば行き当たりばったりの積み木細工の様なものに見えます。

現代の社会システムは、その土台になるブロックを、たった1個外すだけで、全体が崩落してもおかしくないほど、脆く、硬直したモノの様に映ります。ホンの半世紀前までは、地域はかなり独立した存在でしたが、人やモノや情報の移動が激しくなり、同時に経済活動も広域化、国際化が加速し、局所的な小さな破局が、地域の境や国境で止まらず、瞬時に突き抜けてしまう事に、その根がありそうな気がします。ヨーロッパの一部で発覚した経済破綻やこの国の政治屋のごたごたのブレークポイントは、一体何処に存在するのでしょうか。

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2012年4月28日 (土)

1705 効力感

20代~50代の働き盛りの生活保護費の受給が増えているそうです。この背景には、この世代の独身率の急上昇もありそうに思えます。独身率の上昇は、結果として労働意欲の低下につながるとみているからです。独身であれば何故労働意欲が低下するかですが、たぶんそれは「効力感」と言う言葉で説明できそうな気がします。この言葉は、このブログでも何度か取り上げた様な気がしますが…。

効力感とは、簡単に言えば「自分が誰か(何か)の役に立っている」と言う達成感を指します。人が働くのは、結局は自分のためでも、お金のためでもなく、誰か(何か)の役に立っていると言う達成感=幸福感しかないと思うのです。普通の人間では、それは家族のためと言う事になるでしょうから、働き盛りで独り身の人たちの労働意欲が極端に低下するのも無理もない話です。家族の、とりわけ自分の子供のためであれば、人はかなりの辛い労働にも耐える事が出来そうに思えます。そうでなければ、先人が過酷な労働に耐えて成し遂げた過去の偉大な事業や日々の単調な労働の積み上げの説明が出来ないでしょう。

さて、全ての人に効力感を持ちながら、労働に励んでもらい貰う方策は無いのでしょうか。考えられるのは、労働形態の多様化かも知れません。つまり、現代の「まともな」労働の形態は、企業に雇われて働く「サラリーマン(パーソン)」が圧倒的に多数を占めているのです。自営業や農業などの比較的自由な労働形態は、多様な労働の形態を必要としますから、サラリーパーソンから見れば、一見落ちこぼれた多様な人材の受け皿になり得るでしょう。現代社会での人の価値が、企業から受け取る給料の多寡に偏り過ぎている事は否めないでしょう。そうではなくて、働く人がその人なりに、人の(何か)の役に立っていると言う効力感を持ちながら、多様な働き方を許す社会こそが、見かけ上の落ちこぼれを無くす方策になり得るとみています。

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2012年4月27日 (金)

1704 断熱産業

電力グリッドに加えて、熱グリッドが必要だと仮定して、エネルギーを考える上で、この国の住宅事情やインフラがこのままで良い訳ではありません。何より、特に北欧の住宅などに比べて圧倒的に断熱性能が劣ります。比較的新しく建てられた北海道の住宅などは比較的高断熱仕様となっているのでしょうが、本州の住宅の断熱材は精々グラスウールが75㎜~100㎜も入っていれば御の字でしょう。グラスウールは、確かに断熱材の一種ではありますが、性能のレベルは低い断熱材だと言うしかありません。グラスウールは、スカスカのガラス繊維の綿の様なものですから、通気性が良過ぎるからです。従って、内外の温度差が10-20℃くらいまでなら何とか断熱材として機能しますが、それ以上の温度差の環境では荷が重いのです。

従って、更に上の断熱性能を発揮させるには、ガラスウールの密度を上げるか、あるいは独立気泡を持った断熱素材に任せるしか断熱性能を高める方法は無さそうなのです。先ず、前者ですが、ガラス繊維には弾力性があるので、単に圧縮しただけでは、力を掛けるのを止めれば元の嵩に戻ってしまうでしょう。例えば、表面フィルム越しに、粗くミシンを掛けるなどの方法で、密度を保たせる必要があります。後者としては、ウレタンフォームなどがありますが、ウレタンを製造する際の石油資源の消費や火災時の有毒ガス発生などを考えれば、別の材料を検討すべきでしょう。最右翼候補はパルプでしょうか。古紙のリサイクル用途としても有望です。古紙パルプの中に、如何にして独立気泡を作るかは、かなりの工夫が必要でしょう。

同様に、熱媒体(たぶん温水になります)を、熱のロスを少なく送るためには、高断熱パイプも必要となります。しかしながら、ヨーロッパにはそのような市場がありますから、種々の断熱パイプが安価に入手できますが、例えば数百メートルの温水輸送に適する様な、規格化された温水パイプは、この国では殆ど製造されていませんので、入手できても非常に高いものにつきます。住宅やビルの屋根面、壁面の断熱に適する、薄くて性能の高い建物用断熱材と、高断熱パイプの市場は、非常に有望で、かつ強いニーズのある成長分野だと断言しておきます。

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2012年4月26日 (木)

1703 タンポポの直観

この季節、雨上がりの日の朝には、田圃の畔には頭をもたげたタンポポの綿毛が目立ちます。数日前までは全く気が付きませんでしたから、1-2日で急速に綿毛の茎を伸ばした事でしょう。さながら、タンポポは、この日が晴れて、乾燥した日になる事を、雨が降っていた前日から予測していたとしか思えません。それは、これほどまで広く繁茂に成功した、タンポポ(とりわけ西洋タンポポ)の遺伝子に組み込まれた戦略が見事に効奏した証左だとも言えます。実際、春先の低気圧は、急激に発達しますが、雨上がりは結構短い時間で回復し、晴れ間が広がるのは日常経験するところです。

そもそも植物が、天気図やレーダーを使わないで、どの様な気象情報を集めれば、雨の日の翌日がからりと晴れた、かなりの風の吹く快晴になると予報できるのかです。明日の天気は、もちろん気温だけでは決まりませんから、想像するに雨の降り方、地中の水分率、大気中の湿度の変化、気温の変化率、気圧の深まり方などの情報を総合的に「演算」しながら、綿毛を飛ばすタイミングを見計らっているはずです。

言わば、色々な数多くの小さな情報をかき集めて、これから何が起こりそうかを判断し、決断を下す事を「直感」と呼ぶならば、これはまだにタンポポの直観そのものでしょう。悲しい事ですが、私たちの直観は、情報量が多くなるにつれて、極端に弱まってしまった事は否めません。直感を高めるためには、小さな変化に敏感になる必要があると同時に、それらの小さな情報を統合する必要もあるからです。その意味では、ある情報は、特定の状況では、他の情報を増幅したり、あるいは無視したりする、働きがありそうな気がします。

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2012年4月25日 (水)

1702 自家「発力」

化石燃料の輸入量急増に関しては、一言、国にも企業にも「知恵が足りない」と、切って捨てるしかないでしょう。原発の停止で出来た穴を、化石燃料(とりわけLNG)による火力発電で100%埋めるなどと考えるのは、あまりに安直です。足りないのは、電力供給量ではなく、エネルギーを有効に使うための知恵なのです。

何度も書くように、電気をそのまま電気として使う用途は限定されています。多くは、動力や熱として使われているのです。例えば、ある工場で24時間回っている大きな送風機か集塵機を考えてみましょう。それが、合計で100kw程度の比較的容量の大きなものだったとしましょう。この工場の契約電力量は、無条件に100kw分だけ上積みされるでしょう。契約電力料金は、たぶんkw当たり1000/月以上にはつくでしょうから、経営者はこの動力分だけでも毎月10万円の基本料金と、90万円程度の従量料金、合計では100万円毎月毎月を払い続ける事になります。

さて発電所効率を40%と仮定し、送電効率を80%と仮定すれば、発電所では売るべき電力量の約3倍の熱エネルギー(石油かLNG)を投入しなければならないのです。しかし、日本の火力発電では廃熱を殆ど利用していませんので、悲しい事に発電ボイラからの排気はそのまま煙突から放出され、大気を暖めるだけにしか使われません。しかし、もし上記工場の送風機か集塵機を直接ディーゼルエンジンやガスタービンで駆動させる決断をすれば、90万円の電気料はそのまま浮きますので、新たに導入したエンジンの燃料代に回せる上に、契約電力料金も10万円浮く事になります。送電ロスも無いので、効率の良いエンジンを用いれば、燃料代もかなり少なくて済む筈です。加えて、エンジンから排出される熱は、工場の他の部署で使っている熱源として使えますので、総合的な熱効率は多分60%をかなり超えるレベルまで高める事も可能です。工場で動力+熱供給した分に応じて、当然の事ながら工場のボイラで焚いていた重油や発電所で使う化石燃料も減らせるはずです。

以上の議論で、企業が自分である程度の動力や熱を自前で賄う事により、日本が輸入すべき化石燃料は、ざっと半分程度まで削減できるポテンシャルがあると言う事がお分かりいただけたと思います。足りないのは電力ではなく知恵なのです。

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2012年4月24日 (火)

1701 貿易赤字

昨年のこの国の貿易収支は、大幅赤字だったとの事。その額はGDPの1%に迫る4.5兆円規模とか。いよいよ、この国も売るモノが無くなってきたのと同時に、原発の停止に伴う化石燃料の輸入にも拍車が掛かってきた感があります。

先ず、売るモノが無くなってきたと言う点です。車や家電は、耐久消費財とも呼ばれますが、途上国の常識で言えば、それらは立派な財産で、決してこの国や先進国の常識である様に「消費財」ではないのです。ですから、これらの商品は、一通り行き亘れば、やがて中古市場が生まれて、新品の売れ行きは鈍化する筈です。車市場も、先に石油需給ひっ迫が来るかもしれませんが、量的にも間もなく飽和状態に入る事は明白です。何度も書きますが、10年後、20年後、この国は一体何で食っていくかについて、国を挙げて真剣に考えるべき時なのです。その意味では、この国の政治家も(話を聞いてみれば、似たりよったりの政策を掲げている事が明白な寄せ集め集団でしかないのですが)他の党の揚げ足取りをしている場合ではないでしょうし、メーカーもメーカーで、カルテルなんぞを結んで、少しばかりの利益アップを図るなどという姑息な手段を弄している場合ではないのです。

追い風が吹いている分野は明白です。省エネルギーや新エネルギー分野です。1リッターで100㎞走る車や、これまでの半分のエネルギー源単位(単位製品当たりのエネルギー量)で製品を作る手法やその設備などは、今後何倍にも市場が拡大するポテンシャルを持っています。現状の製品の量産手法を磨いて、ひたすらコストを下げるだけの「20世紀型の生産手法(具体的にはカンバン方式などです)」は、すでに行き詰っている事に早く気が付くべきです。このままでは、貿易赤字は雪だるま式に積み上がって、赤字債権との双子の赤字国への坂を転げ落ちるしかないのですから…。化石燃料の輸入量急増については、項を改めます。

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2012年4月23日 (月)

1700 発「熱」機

発電機ではありません。発熱機です。このブログでは度々動力の直接的な熱変換に言及していますが、それをもう少し具体化しておきます。力を熱に変えるのは結構簡単です。固体同士をこすり合わせれば、当然の事ながら摩擦熱が発生します。しかし、問題なのは固体同士の擦過では、どちらかが(あるいは双方)がすり減って、徐々に磨滅していく事です。それを防ぐには、例えばディスクとパッドを水中でこすり合わせるなどの工夫が必要です。

一方、流体摩擦(液体の粘性などによりファクターが変わる)を利用する考え方もあります。具体的には、非常に粘性の高い物質の中で、アジテータ(プロペラの様なものです)を回すと、しっかり発熱させる事が可能です。類似の実用例としては、風車で作動油に圧力を加え、それをノズルから高速で噴出させる事により油温が上昇させ、それをラジエータ(放熱器)に循環させた暖房システムなどが挙げられます。

しかし、流体の比熱や安全性を考えれば、作動流体(熱媒体)としては、水が最適である事は間違いない訳で、少し工夫は要りますが水を中心に据えて考えて行くのがベターでしょう。例えば水の粘性を上げるため、食品などに使われる安全な増粘剤を使う事は有効かもしれません。発熱機で温度を上げた水を、しっかり断熱材を貼りつけたタンクに貯蔵しておけば、エネルギーの一時貯蔵も容易です。それによって、水量の変化などによって、得られるエネルギーが変動するのを補完する事も容易でしょう。いずれにしても、これら動力を熱に変えるシステムは、太陽熱や地熱など、その場所で得られる他の熱源と組み合わせて、多面的に利用する事も必要な条件となります。

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2012年4月22日 (日)

1699 連結水車

ここでは、小さな規模の水車を考えてみます。小規模な水車(マイクロ水力)の利用例では、上掛け水車やアルキメデス水車(螺旋水車)が多く見受けられます。しかしながら、疑問に感ずるのは、これら回転数の遅い水車を、無理に発電目的に使っている点です。発電機は、回転数が高い程コンパクトに出来、かつ発電効率も高くできます。従って、風車や水車などから毎分数十rpm~数百rpm程度の回転数しか取り出せない場合、仕方がないので高価な増速機(ステップアップギヤ等)を付けるしか方法がない訳です。

このブログで何度も書いているのは、低速の動力源の場合、何も無駄に電気などに変換しないで、そのまま「発熱装置」を駆動して、熱利用したらどうでしょう、というものです。それはそれとして、どうしても電力が必要なケースでは、ではどう考えたら良いのでしょうか。一つの考え方は、水車や風車の直径を小さくして、回転数を稼ぐ方法があります。例えば、毎秒1m程度の流れ(それほどの急流ではありません)から動力を取り出す場合、水車の直径が2m程度の水車(周長では6m強)では、10rpm程度しか回りませんが、直径を1/4にすれば回転数は4倍に高まります。一方トルクは1/4に減りますので、これをカバーするためには、いくつかの水車を機械的に連結すれば良い訳です。

イメージ的には、例えば50m程度の比較的小さな流れの中に、50個程度の小さな水車の列を並べ、例えば5-10kw程度の出力を得る様なものを想像して貰えば良いでしょう。もっと直径が大きく、トルクも大きな水車は、そのままの回転数で発熱機を回し、直接温水としてエネルギーを取り出せばよいのです。いずれにしても、水力発電に適するのは、流速が速く(つまりは落差が大きく)それなりの流量も稼げる限られた立地になると言う点は、重要なポイントです。そうでない場所の水力は、それなりに利用するしかない訳です。

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2012年4月21日 (土)

1698 スマート「熱」グリッド

電力におけるスマートグリッドが注目され、小さな地域でのいくつかの実験も始まっています。しかし、何度も書くようにエネルギー利用の最終形態は殆ど熱なのであって、直接電気そのものを必要とするのは、家庭においては例えば電灯やテレビやシロモノ家電のモーター程度なのです。冷暖房であれ、調理であれ、給湯であれ、量的に圧倒的に大きいのは熱利用だと念を押しておきます。

さてその熱は、現在のところは、LNGや灯油や電力から得ていますが、来たるべき社会では、太陽熱や地熱やバイオマスや廃熱など、あらゆる熱源を組み合わせる必要があります。その際に、低温の熱源を上手く使う技術は、まだまだ未熟だと言うしかありません。そこで、ここでの提案は、熱をスマートに使うための仕掛け=スマート熱グリッド、というわけです。それはどんなものかと言えば、需要家側で発生する、熱のデマンドを熱量計(温度と水量を掛け合せて算出)で把握し、熱供給事業者側では、それに合わせて、その時間帯に得られる多様な熱源を組み合わせて、熱を作る訳です。もちろん、コストの高い熱源を使う時間帯は、単価はしっかり上げておきます。しかし、熱は電気とは違って容易に温湯タンクなどで貯めておくことが可能なので、需要家側でもそれなりに工夫すればコストセービングは出来易いでしょう。

当然のことながら、熱は遠くへ送るほどパイプから逃げて目減りするので、このグリッドは比較的狭い範囲で使われてこそ最大限の効果が発揮できるでしょう。理想的には、田舎では例えば、木材工場などのバイオマスが容易に入手可能な施設を、都会では熱や蒸気を多用し、廃熱が得られる施設を核として、その周辺地域でグリッドを組めば良いでしょう。それが期待できない地域では、太陽熱や地熱などを利用した、さらに小さなグリッドになりそうです。究極は、戸建て住宅での自立型熱供給システムになるかもしれません。

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2012年4月20日 (金)

1697 冷熱源

山形からの帰路、山々や谷あいに残った豊富な残雪を眺めて、改めて豊かな気持ちになりました。高い山々に降った積雪は、夏前までの貴重な水源であると同時に、豊富な「冷熱源」でもあるからです。温度差があれば、エネルギーを取り出す事も出来ると言うのが、熱力学の諸法則が教えるところですから、雪国には新たなエネルギー源があると考え直せば良いわけです。

単純に考えれば、雪解け水は水源であると同時に、高い場所にある水ですから位置エネルギーも持っていますので、昔から大小の水力発電や村々の水車などで利用されてきました。新しい技術としては、以前にも紹介した、低温で気化・液化が可能な物質(例えばフロリナート等)を使って、地熱と雪氷温度の差を利用して、熱サイクルを組む事も出来ます。また、最近注目されているのは、熱電素子です。温水程度の熱源があれば、冷熱源である雪氷温度とは7-80℃程度の温度差を作る事が可能ですから、熱電素子を使って直接電力を取り出す事も可能です。温度差が小さいと変換効率も低くなりますが、それは面積でカバーすればよい訳です。何しろ、谷合の雪は夏場まで残っていますから、温泉熱が使える場所は非常にラッキーですし、そうでなくても太陽熱で得られた温水や温風と、残雪の温度差は十分使えるエネルギーだと言えます。

それに加えて、以前にも同様のアイデアを書いた様な気もしますが、春先に、例えば使われなくなったトンネルなどに雪を運び込んで蓄えて置けば、野菜や酒などの氷温貯蔵が可能になりますので、作物の端境期の調整や、食品や酒の品質向上による付加価値もあがりますので、これも有望な冷熱源の利用法となるでしょう。つまりは、北国の積雪は、厄介者どころか、逆に非常に有望な資源だと見直されて然るべきなのです。雪を上手く克服し(克雪)それを利用する技術(利雪)は、まだまだ磨いていく必要がありそうです。

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2012年4月19日 (木)

1696 熱源アイデア

1695で書いた様に、私たちは真剣に、石油、LNGやそれを使って起こした電力を使ったものに替わる、新たな熱源を探さなくてなりません。バイオマス(木質燃料など)はその一つではありますが、これも決して切り札にはなり得ません。確かに森林が豊かな地域では、それでも高い割合で、化石燃料を代替できるでしょう。例えば、50%かそれ以上までの代替も可能だとは思います。

そうは言っても、人口が極端に大きく、周りに山や森林もない都市部でこれが実現出来る訳もありません。しかし、都市部では都市部なりの熱源も見つかるはずなのです。例えば、工場やビルの廃熱、ビルや工場の屋根に降り注ぐ太陽熱、切れ目なく走る車からの廃熱や道路を通過する衝撃力さえ、工夫さえすれば熱として取り出せるかも知れません。冗談に聞こえるかもしれませんが、人が体表面から放つ熱量は概ね70w前後ですが、1000万人の発する熱量は、70kwですから、寄せ集めれば原発1個分くらいの熱量は期待できると言う事にもなります。言葉を替えれば、もし体から出る熱を殆ど逃がさず溜めこんだり、放出したりできるなら、私たちは70wの熱源を身に着けている事になるので、その意味では私たちはまだまだ「不完全な衣服」しか持っていないと言っても良いかもしれません。魔法瓶と同等な断熱性能を持つ衣服が開発されれば、事実上私たちは暖房器具を必要としない筈です。

そこまで極端な話でなくても、周りを見回して何となく暖かな煙や蒸気を放出している工場や家や建物や設備等、非常に多様で量も多い事に気が付きます。田舎に行けば、これに加えて小川や用水路には豊かな水が流れていますので、流れのエネルギーも熱に変換できれば(実のところ機械エネルギーから熱への変換効率は100%です)、農業残渣や家畜し尿からのメタンガス燃焼熱、さらには「堆肥の発酵熱」なども加えたバイオマス熱源に加えて、熱源は更に多様化が可能です。

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2012年4月18日 (水)

1695 熱源の多様性

山形のT芸工大で開催された、オーストリアのバイオマス事情の報告会では色々刺激を受けました。主に山形在住の色々な立場の人たちも、それぞれの立場で現地視察を行って、それぞれの立場で刺激を受けて帰ってきた様です。その中で、現地報告の中にあったシステムとして、都市の大規模な熱電併給施設も立派なものですが、一方で村々の小規模な熱供給組合が印象的でした。つまり、数軒の家や、やや規模の大きな事業所を核にした熱水のネットワーク(報告の中ではマイクロネッツと呼んでいました)を組んで、暖房熱供給や給湯を行っていると言う点でした。これは、以前にフィンランド人から聞いた彼の国での事情とも重なるので、北ヨーロッパの国々には、熱水による暖房や給湯の長い歴史があるのだと改めて思いました。(1669のカザフの事情も参照)

さて、ここで書きたいのは、熱水による暖房や給湯にも熱源が必要ですが、北ヨーロッパではインフラとして、水道管と並んで「熱水管」のインフラが出来上がっているという事実で、それはとりもなおさず、エネルギーインフラの多重化が既に出来上がっているという事でもあります。つまり、電力供給というインフラ、LNGという気体化石燃料のインフラ、灯油や重油という液体化石燃料のインフラに加え熱水インフラ、という様に少なくとも4重にはなっている訳です。一方、この国では電力網整備に力を入れ過ぎた結果、辛うじてそれに加えて石油類の化石燃料に都市部でLNGインフラが出来ているのみで、いわば精々2.5重程度にしか多様化されていないとも言えるでしょう。そこに持ってきて、この原発停止です。その2.5重のシステムも、今は2重程度まで後退しようとしているのです。

昨年の震災以降エネルギーの多様化はマスコミでも、話題に上らない日はありませんが、エネルギーの多様化(多重化)は、決して発電方法の多様化だけではありません。寒冷な地域では、冬場の暖房や給湯の熱源(今は灯油やLPGLNGですが)こそが必要なのであり、決して電力などではありませんし、温暖な地域でも年間を通じての給湯需要と、夏場の高温多湿の耐え難い気候をしのぐための方法なのであって、電力それ自体ではないのです。つまり、この国でも必要なのは、今以上の発電設備の増強などではなく、実は「熱源の多様化」だと結論できるでしょう。

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2012年4月17日 (火)

1694 遊び心

週末は、東北の山形まで行ってきました。往きは高速バスで東北道を使いましたが、帰りは日本海側に抜けて、富山まで車に同乗して移動しました。この季節、蔵王や月山を始め日本海側の山々は、また真っ白な衣装をまとったままで、峠では道路脇に数メートルの雪の壁が出来ていますが、流石に里は雪も消えて早春の風景です。それにつけても、この国の日本海側は、世界でも稀に見る豪雪地帯である事をしみじみ再確認した思いです。とは言っても、この雪が無いと雪解け水を利用した農業も、夏場の水供給も危うくなる訳で、その意味で豪雪の「天然のダム」としての価値には、非常に大きいものがあります。

さて、高岡で仕事をして、高山線で岐阜に帰る道すがら、列車の窓から見える飛騨川の谷の光景には、何時も見とれてしまいます。傾斜が45度かそれ以上ありそうに見える谷の両側は、天然林と人工林が入り混じっており、岩壁は殆ど見えません。先人が、どの様にして急傾斜の斜面に、数百メートルの高さにまで植林を行ったのか。たぶん、縄などで体を支えないと、滑り落ちてしまったでしょう。体を支えながらの作業は、実は非常に難しいのです。趣味が登山の投稿者としても、それが痛い程想像できます。

しかし、感心するのは、植林された人工林ばかりではありません、その人工林の中や天然林のあちらこちらに、実は桜も植えられている事です。他の季節にはそれに気が付く事はありませんが、今はまさに桜の季節ですので、暗い色の森林にいくつかの灯りが灯った様に、桜は自己主張します。それは、つらい肉体労働の合間にも、数十年後の子孫の目を楽しませようと考えた、ご先祖様の遊び心でもあったはずです。時間に追いまくられている、忙しい時代に生きている私たちも、ぜひこの様な遊び心は忘れない様にしたいものだと思った帰路でした。

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2012年4月16日 (月)

1693 規制法から基準法へ

法律の多くは「義務法」や「対策法」である事は、法律の素人でも想像がつきます。無法状態では、社会の規律が保てないので、何々をしなければならないと言う義務条項と、何々してはならないと言う禁止条項を列記した法律が作られます。しかし、これからの時代に必要なルールは、あるべき望ましい基準を示す、いわば「基準法」ではないかと思うのです。

分かりにくそうなので、具体例を挙げてみますが、例えばエネルギー関係の諸法が思い当ります。現在のいわゆる「省エネ法」では、エネルギー使用の合理化(管理)と年率1%の削減などを義務づけています。一方、ここでいう基準法とは、例えば何年か後の使用エネルギーの何%かを、自然エネルギー(再生可能エネルギー)で賄うべきであると言う、エネルギー源の割合レベルを示すものを指します。この基準があれば、例えば企業や家庭でも、将来に向けての設備投資の計画が立てられますし、一方でエネルギーを供給する側(例えば電力会社)としても、無駄な投資が抑えられるはずです。

確かに、時の首相が時々「我が国の西暦XX年における再生可能エネルギーの割合を〇〇%にしたい」などと花火は打ち上げますが、それはしかし決して法律ではありません。単なる、有権者や国際社会に向けての、拘束力のない口約束に過ぎません。もちろん難しいのは、単に基準を示すだけでは無責任で、そこに至る道筋をかなり具体的に示す必要もあります。単に、自然エネルギー全体の%を示すのではなく、太陽光、小水力、風力などの個別のエネルギーの割合と、加えて、例えば太陽光による空気中の炭素固定(つまりは人工光合成の事ですが)などの、将来絶対に必要となるはずの技術に対するガイドラインも示している法律でなければならないでしょう。ガイドラインさえあれば、企業としても経営資源をそちらに振り向ける意欲もグンと強くなる筈です。

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2012年4月15日 (日)

1692 所得の二極化

社会が一番安定しやすい構造を考えると、たぶんピラミッドの様な人口構成と、分厚い中間層を持つ、「正規分布の収入分布」を持つ場合である事は、誰が考えても明らかです。しかし、特にこの国では下が細い「樹木型」の人口構成と、いまや完全に二極化した収入分布を持つに至りました。この国が他の国と異なるのは、低所得層に対しては、退職した富裕層(あるいは食うに困らない世代)からのサポート(所得移転)があるため、いわゆる途上国での社会不安程は、不安の度合いは大きくないと想像されます。過去に、しっかりと年金を収めた世代の子供(いわゆるアラフォー世代やそれ以下の世代)のかなりの割合が、かなりの程度経済的に親に頼って暮らしている可能性があります。典型的には、独身で、かつ親と同居しているパターンでしょうか。

しかし、このままで済むはずがありません。今や「四十にして惑わず」は全くの死語になりかけており、四十にして親に頼り、結局は独身のままで生涯をすごす人の割合が増加しているからです。その意味で、団塊世代はこのままで楽隠居できそうもありません。人口ピラミッドの樹木型への移行は如何ともしがたいにしても、少なくとも所得の二極化には何としても歯止めを掛ける必要があります。一つには、実際に所得の再配分を行って、所得を移動させるか、あるいはもう一つの方法としては、所得が低くても暮らしていくのに心配の無い社会を作るか、といういずれかの方法を取る必要があるのでしょう。前者の手段としては、例えば団塊世代は二世世代に対して、自立を即す様に指導を続ける必要があります。即ち、団塊世代は忙しさにかまけ、自分の子供世代の教育を学校任せにしていた事を反省する必要があるでしょう。企業の中でも、自分の後輩に目を掛け、彼らの成長を十分にサポートし得たか、振り返ってみる必要もあります。企業で30数年働いて、企業からそれなりの退職金を得て、その後年金まで貰って、悠々自適の生活に入ろうなどと考えるのは、あまりにも身勝手というものでしょう。退職金や年金を貰うのは、もちろん彼らの権利ではありますが、では彼らの退職後の義務は?と考えれば、どう考えても若い世代の幸福と安定をサポートする事以外にはあり得ないでしょう。何度も書きますが、「楽隠居は待った!」です。

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2012年4月14日 (土)

1691 消費は悪徳・美徳?

20世紀のある時期「消費は美徳」などと、叫ばれた時期がありました。その行き着いた先はといえば、結果としては、バブル時代というあだ花の開花につながりました。土地価格がロケットの様にグングン上昇し、高級車や派手な装飾品などの高額商品が飛ぶように売れ、皆が金儲け(財テクは懐かしい言葉にありました)とそれで儲けたお金を使う事に熱中した時代でもありました。

しかし、時代は変わりました。今や消費は、環境を悪化させゴミを増やす元凶であり、「悪徳」に近い印象を持たれる行動になってしまいました。そうなると、モノが売れなくなり、景気も下降してしまいますが、もはや政府も「消費は美徳」だなどとは声高に叫ぶ事も出来なくなりました。先立つもの(税収)が落ち、おまけに震災被害の復興に加えて、ほぼ全原発の停止という強烈なボディブローを食らい続けています。その中で、この国の景気を押し上げていく事が、本当に可能なのか、多くの経営者も打つ手が見つからず、結局赤字減らしのためには、企業規模をシュリンクさせ、身を低くし逆風をやり過ごす「カタツムリ作戦(あるいはアルマジロ作戦?)」を取り始めています。

とは言いながら、身を縮めなければならないのは、逆風に立ち向かうからである事を、経営者は早く気が付かなければならないでしょう。そうではなくて、追い風を探す方が出口は近いと思うのです。追い風を感ずるには、何は無くとも「アンテナの感度」を最大限に上げる必要があるでしょう。企業活動にどっぷりと浸かっているとあまり感じない「時代の風」も、投稿者の様な自由業の立場に居るとかなりしっかりと感ずる事が可能です。何しろ、どうにかしてオマンマを食べていかなければならないので…。

さて、消費は美徳でも悪徳でもありません。あるのは、必要な消費とそうではない消費の2種類があるだけです。しかし、その境界は時代によって、揺れ動くのは否めません。バブル時代の必要な消費は、今や贅沢で不要な消費と考えられる様になりました。しかし、反省する必要があるのは、人間には楽しかった贅沢の記憶をなかなか忘れられず、願わくは「夢よもう一度」と考えてしまう悲しい癖がある事です。

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2012年4月13日 (金)

1690 企業の行き詰まり

SニーやSープの巨額赤字が報道されていますが、それは図体が大きくなるほど小回りが利かなくなる、動物で言えば「象」や「クジラ」を連想させます。しかし、たった50年前を思い起こせば、その頃は高度成長期の真っただ中で、今は大企業と呼ばれる多くの企業もまだ創世記にあったはずです。SニーやSープに限らず、HンダやTヨタだって、まだ規模もそんなには大きくなく、経営的にも幾多の困難に遭遇していたはずです。しかし、彼らは小さいながら、元気印で頑張って来たのでした。もちろん、その頃の企業経営者がラッキーだったのは、社会の経済規模全体が右肩上がりで、かついくつかの海外特需もあり、打つ手の殆どが結果的に上手く転がってくれたと言う点にあるでしょう。

とは言いながら、この頃の経営者は、実は立派な「起業家」でもあった訳で、伝説のH多総一郎氏も二輪から四輪車への転換に夢中になっていた時代でもあったでしょう。先ず軽自動車を作り、ついで空冷の1300㏄車をデビューさせ、更にCVCCをテコとした低公害車により一気にシェア拡大を図ってもいました。1689でも書いた様に、二輪車から四輪車へのステップアップは、製品としては企業の総合力をアップさせる素材として理想的でもあった訳です。もちろん社会的背景として、パーソナルな移動手段としての車に対しては、強烈な需要が起こっていた事が追い風になった事は間違いないでしょう。

今大企業病に掛かっている企業に忘れて欲しくないのは、しかし起業家精神でしょうか。企業経営は、実は守りの戦略しか必要としません。攻めに転ずるためには、バネに力を蓄える様に技術力や人材力を矯め、しかる後に今後進むべき方向に照準を定めて、力を集中させる必要があります。それは、決して「現在儲かっている分野」への選択と集中ではなく、来たるべき社会を見据えた新たな方向であるべきです。そのためには、「真のニーズ」を見透し、しかも独創的なアイデアに溢れたものである必要もあります。企業の行き詰まりの原因としては、結局は独創性の枯渇がトップに来るはずです。戦後、企業創世記の起業家たちの頭は、溢れる様なアイデアに満ちていたはずです。

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2012年4月12日 (木)

1689 何故車?

車メーカーは、国際化戦略、つまりは途上国での生産=海外生産で作った車を、周辺途上国へ輸出し、利益を日本に持ち帰る戦略でまだまだ進めると考えている様に見えます。ところで、なぜ車が、いまだに国際戦略の商品として機能しているかを考えてみると、それが適当な製品だからというしかありません。車は、住宅を除けば最大の大きさで、しかも高額な個人向け商品であり、かつその中に種々のコンポーネント(工業製品)が使われている、裾野の非常に広い工業製品ではある訳です。車の中には、エンジンブロックを始め、各種の電装部品、ゴムやガラスや内装品から、オーディオからカーエレクトロニクスまで、企業数でいえば何百社(下請け孫請けまで入れれば数千社)の裾野が広がっている訳です。

しかも、途上国では基盤としての工業力がそんなに高くなくても、先ずは完全なノックダウンから始めて、徐々に国産率を高めていくアプローチが可能であるため、途上国にとっても工業化のステップを刻む製品として適当な素材でもあります。これに替わる適当な工業製品が他にあるかを考えてみても、考えつきません。電子化が高度に進んでしまった電化製品は、大きな設備投資が必要でしょうし、航空機などはあまりにもハードルが高すぎます。その意味では、車ほど技術レンジが幅広く、かつ裾野が広い製品は他に見つからないのでしょう。さて、車産業がこのまま拡大を続けることが出来るかどうかは、実のところ石油の産出量と価格の推移に掛かっていると考えられます。石油産出量が減り、価格が庶民の手の届かないレベルに跳ね上がれば、車もただの「鉄の箱」と化す事でしょう。

では、何がそれに代わり得るかという点ですが、間違いなく新エネルギーしか見当たらない事は、異論が出ないところだと思います。新エネルギーと一口で言っても、その幅は非常に広く、薪炭の新しい利用(バイオマス)や、オランダ風車(やスペイン風車)の様な、伝統的な技術で利用可能なものもありますし、何より太陽光の直接利用(熱利用)などは、難しい技術を必要としないはずです。かつては重工が風車を手掛けていましたが、石油が易くなって投げ出しました。最近も車メーカーが中型風車を再度開発しかけましたが、価格競争はなかなか厳しそうです。しかし、車メーカーに体力が残っている内に、この国として「新エネルギー大国」にのし上がるしか、生き残る道は無いと思い定めるべき時期です。

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2012年4月11日 (水)

1688 何を作る3?

このタイトルでは何回か書いた気がするので、一応その3としました。さてS社が1万人規模の人員整理をするとか。更新国が、近代化の道を進むとして、この国で起こった出来事を思い出しても、産業の基盤でもある鉄鋼や造船が先導し、産業全体を底上げする中で、時代の作ったチャンスとでも言うのか、トランジスタという電気素子を使って、最初にラジオやテープレコーダ等を作った企業が、今や20万人を抱える大企業になった訳です。しかしながら、この国の産業の在り方は、先進国のモノ作りを真似しながら、そこに改良を加えて、品質を上げつつ、コストは下げると言う手法にこだわりつつ、しかしそこからは抜け出せないままで、ここまで来たのだと思います。

その産業の中から生まれたのは、家電製品であり、あとは車くらいしかなかったと言えるかも知れません。残念なことに、Iンテルに出来て、日本に出来なかったのはパソコンのCPUを開発して世界標準にする事でしたし、トロンという基本ソフトもメジャーにはなり得ませんでした。パソコンでは、DルやHPッカードの安さには勝てませんでしたし、携帯電話はといえば、やたらと色んな規格やデザインのものを市場に流し込んだだけで、何らのDefacto standardすら生み出せませんでした。スマホやパッド型の携帯端末でも、オロオロと欧米や韓国や台湾や中国の後追いを繰り返すだけです。

では今後どう考えて何を作っていくかですが、発想の転換が是非必要だと思うのです。素材や技術は全てあるのです。問題の根は、将来を見越した長期戦を構えて、市場の真のニーズを把握し、それを実現するための機能を持つ製品と、それに使われる規格や技術を世界標準に誘導するための戦略が、これまでは殆ど無かったというしかないのでしょう。とりわけ、数年単位で株主から求められる結果に汲々とする、多くのサラリーマン社長の責任は重大だと言うしかありません。自分の社長時代には、株主からコキ降ろされようが、意にも止めず10年後20年後評価される事にまい進する様な「真の経営者」が、今の企業には決定的に不在なのだと思います。

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2012年4月10日 (火)

1687 PVを冷やす

少し前のニュースでは、陶磁器メーカーが太陽電池を(たぶん素焼きの)タイルと少量の水で冷や実証試験を行っているとの事でした。確かに、投稿者の手元にある実際のシステムデータでも、10kwの公称出力を持つPV(太陽電池パネルです)の、夏季の実出力は最大でも7kwがやっとでした。カタログ値からみれば約30%の目減りです。もちろん、カタログに載せてある出力は、渇して誇大広告ではなく、ちゃんとした条件で計測すれば、公称出力は出せるはずです。出力が目減りする最大の原因は、実は太陽光パネルの過熱による効率低下にあるあるのです。少なくとも目減りの20%分は、過熱が直接の原因と言い切って良いでしょう。

効率低下の詳細なメカニズムはさておいて、いずれにしても太陽光から電力への変換効率が低下する訳ですから、その対策としてはともかくPV自体を冷やす事になります。しかし、冷やすために自分が作った電力を使って、例えば冷凍機などを動かすのは、タコが自分の足を食べる事と同じになりますので、そうではない自然の原理を使ったものを工夫する必要があります。それが、素焼きのタイルという訳です。これは何も日本人の発明ではなく、現代でも砂漠の民は、皮袋や素焼きの壺に水を入れて、表面に少しずつしみ出た水が蒸発する気化熱で、中の水を冷やして喉を潤しています。

同じ原理で、少量の水で濡らした素焼きタイルを、PVの裏に接して設置すれば、たぶん10℃程度は、下げる事が出来そうです。問題は、日本の気候と、砂漠のそれは非常に異なると言う事です。つまり砂漠では、日中は殆ど一桁%の湿度まで下がりますが、日本の夏は70-80%の湿度となる日も珍しくありません、日射があって、しかも湿度が高い日が多い、日本の気候では「素焼きタイル作戦」の効果も限定的となりそうです。それを改善するには、たぶんタイルからの蒸発を促進するための通風でしょうか。それも、電気を使ってファンを回すのではなく、太陽の日射で出来た高温の空気が起こす上昇気流を利用した、自然「強制空冷」などの方法が理想でしょう。

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2012年4月 9日 (月)

1686 漂流記

現在のこの国の状況や、世界の揺れ動いている国々を眺めていると、子供の頃読んだJ.ベルヌの「15少年漂流記」を思い出さずにはいられません。島に流れ着いてからの出来事の詳細は忘れてしまいましたが、複数のマストを持ち当時の最先端の造船技術で作られ、スピードも想像以上に速かった(現在の足の遅いタンカー等よりはよっぽど速かったのです)帆船である「スクーナー」が、「普通の嵐」で遭難し、漂流してしまったと言うストーリーが、今起こっている状況に似ていると思った訳です。

このストーリーとのアナロジーで言えば、スクーナーは、工業化され、複雑な物流・経済ネットワークで結ばれている現在の社会システムであり、嵐の海は「暴れる金融の海」に喩えられるでしょうか。一見土台がしっかりしている様に見える社会インフラも、暴れまわる金融システムのコロの上に乗っかってしまえば、滑って転んでしまう事にもなり兼ねません。何とか投資顧問の顛末も、間違いなく氷山の一角に過ぎない事は、素人目にも明らかです。その少し前には、20年間も損失を飛ばしていてバレなかった光学機器メーカーもあったくらいですから、現在の金融の流動化と嵐は、あのバブルの時代の末期から既に始まっていたと考えるべきなのでしょう。というより、バブル崩壊の後始末は、決して水底のヘドロまでは浚っておらず、表面に浮き上がったスカムだけを掬い取っていただけだったとも言えそうです。

さて、この国を含む15少年(=多くの国々)が、果たして陸地にたどり着けるかどうかは、見えているかも知れない陸地や島影に気が付く事が出来るかどうかに掛かっています。リーダーたちが足元の、激烈な荒波だけに気を取られていて、進路を見失う事が最も懸念されます。今は、救命ボートの中で誰がリーダーになるか、小競り合いを繰り返している様にしか見えません。リーダーの最も重要な資質とは、結局のところ他の人よりどれだけ遠くを見通せるか、という能力だけに掛かっていると思うのです。

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2012年4月 8日 (日)

1685 カネに拠らない社会

Gリシャで、年金生活者が減額に抗議して自殺をしたとか。あの歴史の長い国でも、食糧も医療サービスも、今やカネでしか手に入れる事が出来ない事情は変わらない様です。たとえ、国の借金が膨大で、年金を減額されても、例えば基本的な食糧や医療の現物供与がある社会システムがあり、屋根のある住居がありさえすれば、このような悲劇は避けられたかもしれません。

翻って、ラジオから流れるこの国の国会論議を聞くとはなしに聞いていても、やり取りの中心にはカネが多い少ないという話しか出てきません。いわく、タコが自分の足を食う年金制度、あるいは超高齢化社会で、毎年1兆円ずつ医療・介護費用が増加し続ける、いわく消費税が何%になれば、歳入が何兆円増える、しかし国債費は何兆円増え続ける云々カンヌン。

私たちは、そろそろ何でもかんでも価値をカネに換算するのを止めにしなければならないと、心底思います。カネが無いと何もできず、何も始まらないし夜も日も明けない社会に、この国は一体いつから入り込んでしまったのでしょうか。手に職があって、日々の稼ぎが得られる人たちには、江戸の商人も、ツケ(=信用だけ)で喜んで(又はシブシブだったかもしれませんが)モノを渡していたではありませんか。

そこで提案ですが、このブログを読んでくれた人だけでも結構ですが、カネに頼らない経済の割合を少しずつでも増やしていって欲しいのです。具体的には、物々交換や、カネを求めない労働奉仕や善意の交換や、農作物の小規模な自給自足などなど、カネは無くても食える仕組みは色々なパターンやレベルで実現できると思うのです。そういえば、親は儲からないクリーニング業を営んでいましたが、カネにあまり頼っていなかったかつての時代、しばしば月々のクリーニング代のツケを米や野菜や果物などの、客が作った商売モノで受け取っていた事を思い出しました。手元にカネは無くても、働く事さえできれば何とか食うには困らない社会には、社会の構成員である私たちさえ努力すれば、一歩ずつにはなりますが近づくことが出来ると思うのです。

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2012年4月 7日 (土)

1684 車頼み

B国や途上国での車需要の増加に対応するため、車メーカーやメーカー連合の海外生産能力の急拡大ニュースが目白押しです。しかし、考えてみればこれが長期のトレンドである筈がありません。例えば、途上国での車の普及率の瞬間風速が10%あったとして、数年後もその上昇カーブの傾きが持続するかといえば、そんな訳はなく、間違いなく近い将来には飽和するはずです。その後は、減速も始まるでしょう。数十億人の人たちが、あまねく車の恩恵に与れるなどと考えるのは、まったくの幻想に他なりません。車は移動の手段の一つではあっても、決して人間が生きていくのに必須のモノ=衣食住ではありません。車が無くて、目的地に行くのが不便だったり、着くのが遅くなったりしても別に命に関わる訳ではないのです。

この国は、一体いつまで車産業とその輸出に頼り続けるのか、10年後を見越す時、背筋がうすら寒くなるのを禁じ得ません。この国の将来を先導する人たちが持つべき、「その先の戦略」が、殆ど見えてこないからです。ガソリンや電気を使って快適に移動する手段を提供する車産業や、ましてや航空機産業などを無理やり鼓舞して前に進めるのではなく、環境技術や省エネ技術や新エネ技術が、本当にこの国の将来のメシ種だと主張するなら、そこに至るための具体的な青写真を描かなくてはならないでしょう。安易に、太陽電池とオール電化で、実質エネルギー消費ゼロのZEH/ZHBだと言い張るのではなく、途上国でも容易に導入可能な、自然の仕組みを巧みに利用した、パッシブなPSH(パッシブ・ソーラー・ハウス)やPSHETH(地中熱利用ハウス)を早急に形にしなければならないでしょう。(PSHETHも勝手な略語ですので念のため)

これらのパッシブなシステムで、最も重要となる技術は、太陽光発電パネルでもヒートポンプでも、スマートハウスでもなく、それは「断熱・遮熱・蓄熱」技術であること銘記すべきでしょう。例えば、断熱性の良い家やビルは、室内に暑い場所(冬は寒い場所)が無く、均一な温度分布となるため、僅かなエネルギーでも良好な冷暖房効果が得られるため「本質的に省エネな住宅」となり得る訳です。北海道で優良な断熱住宅は、そのまま本州の温暖な地域でも優良な住宅になり得ると言う事です。車作りしか目に入らない、車メーカーには、先ずは夏の暑い盛りでも、殆ど冷房を掛けないで済む、断熱性の良い車を開発して貰い、それをそのまま住宅技術としても転用して貰いたいのです。

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2012年4月 6日 (金)

1683 Failure Case2

このテーマでは、以前も書いた様な気がするのでその2としました。話題は当然の事ながら、再稼働が近そうな停止中の原発の事です。さて、ストレステストがどの様に行われたか、もちろん外部の人間に詳細は公開されていませんし、直接的に公開されても素人に分かる筈もありませんが、似ているものに対比させて考えるのは、容易な理解に通ずるはずです。ここでは、原発と航空機を対比させて考えてみます。

航空機の安全に取って、最も重要な事は、どんな事態になっても、パイロットがどうにかこうにか安全に着陸させ得るかどうかです。例えば、着陸時には安全のためにスピードを落としますが、そうなれば揚力も低下しますので、飛行は不安定になります。そのため、航空機の翼にはフラップやスラットと呼ばれる、「高揚力装置」が必ず組み込まれています。それによって、翼の面積を広げ、あるいは翼の前後縁の角度を調整する事によって揚力も何割か増加させる事が可能となります。しかしながら、機械仕掛けで動かすこれらの装置は、種々の原因で故障する可能性を秘めています。油圧の低下、電気系統の故障、センサーの故障、あるいはメカの引っかかり等などです。これらが別個に発生する事もあるでしょうし、運が悪ければいくつかが重なる場合も考えられます。それら、考えられ得るトラブルのケースをFailure Caseと呼ぶわけですが、投稿者が見聞きした範囲でも、航空機の高揚力装置だけでもFailure Case20数ケースに及んだと記憶しています。

同じことが原発にも当てはまるでしょう。つまり、どんな非常事態に陥っても、少なくともどうにか冷温停止までは持ち込めるシナリオが絶対に必要な訳です。Fクシマでは、そのシナリオがつながらず、炉心溶融という最悪の事態まで突っ走ってしまった訳です。ストレステストで、一体何ケースのFailure Caseが想定され、それに対する冷温停止シナリオが全て成立しているのか、内容が公開されていないので全く不明ですが、もし地震の揺れや津波の襲来を、別個に議論してそれぞれに結論を出しているのであれば甚だ危険な結論だと言うしかありません。地震で、燃料棒の制御系が被害を受けた場合、あるいは冷却に関わるポンプが破損した場合などは、いくら非常用電源が確保されても、冷温停止にはなかなかたどり着けない筈です。地震や津波や人的エラー等、複数のトラブルが重なった場合でも、何とか制御棒を押し込み、あるいは冷却継続する事を可能とするシナリオがつながっていない限り、安易な再稼働などはすべきではないでしょう。

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2012年4月 5日 (木)

1682 爆弾低気圧

 

春の嵐の限度をはるかに超える、爆弾低気圧が通り過ぎました。春先に発達する低気圧は、南からから上がってくる暖かい空気団と、北から降りてくる寒気団のせめぎ合いの境界で生まれます。その二つの気団の温度差が大きい程、急速にかつ強大に発達する事にもなります。台風は、ヒマラヤなどの高山の下流に生ずる「カルマン渦」が、太平洋上の強烈な日射によって発達するものなので、主に夏場の気象現象ですが、春の低気圧はあくまでも、南北の気団の勢力争いの結果なのです。

 

さて、その低気圧がこれまでの気象記録にない程発達したと言う事は、南北の温度差が記録的に大きかったと言う証左でもあります。今年は、寒気団が遅くまで南に下がって残っている事は、なかなか暖かくならない事でも分かりますが、一方では太陽高度は春分の日を過ぎて、ますます高く、日射強度も上がってきているのも間違いないでしょう。しかし、単に気団に境目があるだけでは、前線が出来るだけで、低気圧が大きく発達する要素は生じません。それらがせめぎ合い、混じりあう時に渦の発生が必須の要素となります。寒気団の貯蔵庫は、内陸中心部(例えばモンゴル盆地)ですが、それらが吹き出す通路は、実は朝鮮半島の西の東シナ海となっている様なのです。ここから、冷たい舌の様に寒気団が下がってくると同じタイミングで、日本列島沿いに南から湿った暖気が上がってくると、そこには二つの気団の進行方向にズレ(つまりは回転モーメントです)が生じ、渦を発生させる力となります。

 

一方、南の湿った空気が湿度を雨として吐き出すと、凝縮熱が発生して気温が上がりますので、渦の上昇気流は急激に強まり、気圧の低下も加速する事になります。それに、暖かい日本海流のエネルギーがドンと加わります。しかし、それが今回記録的に(台風並みに)強まったと言う事は、投稿者が以前から懸念している、地球規模の気象変動の結果としての地域気象過激化の一つの顕われなのかも知れません。

 

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2012年4月 4日 (水)

1681 低濃度公害

廃棄物が廃棄物として処理されたところで問題は終わらない理由は、廃棄物処理の結果が低濃度公害の原因になり得るからです。通常の意味での公害は、四大公害裁判の例でも理解出来る様に、被害は地域が狭いとはいえ顕著で甚大です。しかしながら、ここで低濃度公害と定義しているのは、濃度が低いが故に、今日明日の被害は考えられないにしても、長期的に見た場合何らかの健康被害や環境への影響を与える可能性があるものを指します。具体的に言えば、少し前、ゴミの焼却炉から排出される、低濃度のダイオキシン類がマスコミで取り上げられたことがありました。焼却炉に近い農地の葉物野菜にダイオキシンが付着し、場合によっては体内に取り込まれる心配もあるというものです。

ではこのダイオキシン問題が、今は解決しているかと問われれば、大部分は未解決であると言うしかありません。焼却煤塵の中からダイオキシン類を除去する最も効果的な方法は、電気集塵機(静電気の力で細かい煤塵を捕捉するもの)ですが、その設備の投資額が非常に大きいため、お金が無い自治体での設置が遅れていた事があります。しかし、たとえ設備が出来たとしても、集塵機が100%の有害物質を補足できる訳でもありません。結局、廃棄物処理の結果、低濃度の汚染がより広い範囲に拡散してしまう事は、廃棄物の種類を問わない本質的な問題なのです。

本質は同様ですが、放射能に汚染された震災・津波廃棄物の場合、少し考え方を変える必要はあります。放射能レベルの高い廃棄物は、一刻も早く人が住む地域から遠ざける必要があるからです。それは、ダイオキシンなどの通常の毒物に比べ、口からの取り込み(=放射能の場合は体内被曝)以外での被ばくが重大な健康被害をもたらす可能性があるからです。その意味で放射性瓦礫については、可能な限り放射線濃度を下げた上で、広域に分散保管するしか方法は見つからないからです。被災地以外の地域が、低濃度廃棄物の引きうけまで頭から拒否するのは、同じ国に住むものとしてエゴイズム以外の何物でもありません。

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2012年4月 3日 (火)

1680 廃棄物こそが環境問題

廃棄物の処理に関して考える機会がありました。K境省が作った、廃棄物処理を業とする企業の環境経営のためのガイドラインの説明会に出席したからです。その中で感じた事は、廃棄物の発生そのものこそが環境問題であるという想いです。というのも、全ての産業セクターの活動からは、例外なく産廃が出てくるからです。例外がない、と言い切ったので、例えば農林業や水産業はどうだ、という突っ込みが来そうですが、これらも例外ではあり得ません。農業や林業といえども、農作物でも出荷できない部分を切り取った農業残渣や林業からも製材残材等が出ますし、水産業からは貝殻や魚のアラ等多量の廃棄物が発生します。今の世の中では、お金にならないモノ、あるいは多少のお金にはなっても、経済的に引きあわないモノには、一括して廃棄物という名前が付けられて、やがていずれかの場所に廃棄されます。焼却炉で減容されるか、あるいはそのまま廃棄されるかの違いはあるかも知れませんが、商品として売れない部分は、結局は全て廃棄物となる運命であるわけです。現在でも、廃棄物も一定の割合ではリサイクルもされますが、そのレベルは特にエネルギーの側面で見ると決して十分とは言えません。しかし、廃棄物となった瞬間に全ての物質は環境への負荷となります。焼却炉で燃やされる場合は、そのための燃料である重油や灯油を消費しますし、同時に多量のCO2をまき散らします。燃やさない場合は多くは埋め立てられますが、安定型の埋め立て処理場でも、常に地下水汚染の心配が付きまといますし、埋め立て処分場の適地は殆ど残っていません。更に言えば、廃棄物の問題は、実は最終処分された段階で終わる訳ではありません。続きます。

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2012年4月 2日 (月)

1679 お金にならないモノ

最近の気になる風潮として、お金にならないモノへの無関心があります。B-タン国王ではありませんが、幸福度は決してお金では測れません。わざわざ「決して」と断って書いたのは、人によっては、それなりのお金も無ければ幸福にはなり得ないとの、単純な反論を持ち出す場合も多いからです。その反論への反論として、例えば出家した坊さんの例を挙げましょう。彼らは、お金にまみれた俗世間や財産を捨てて、風呂敷包みに入る程度の身の回りのものだけを持って、僧坊に入ります。一汁一菜の食事と、修行と座禅の日々がどれほど彼らの幸福度を高めるかを想像できれば、幸福になるのにお金は要らない事が容易に分かるはずです。

一方で、親切や、助け合いなどのいわゆる他者との絆も絶対にお金にはなりませんが、特に昨年の3月以降。これらに対する価値観は確かに上昇してきている様に思います。極端な言い方にはなりますが、お金から出来るだけ距離を置く方が、より幸福に近づくであろう事は、たった60年のつたない経験からも、確信を持って言えます。幸福度の条件としては、色々挙げられでしょうが、投稿者としては「他者の役に立つ=効力感」を第一番目に持ってきたいと思います。何故かと問われても、それが人間本来の性質だから、と答えるしかなさそうです。人間が、群れて他者を思いやりつつ暮らす事で、どの生き物より繁栄し、ここまで歴史を刻めたのは、一に係ってこの性質(本能と言っても良さそうです)があっての事でしょう。

つまり、借金まみれでうまくお金が回らなくなってしまった社会では、出来るだけお金にならない物事に興味を持ち、結果として他者の幸福につながるような行動を重ねていけば、自然の報酬として自分自身の幸福度も上がってくるのではないか、と真面目に考えています。環境坊主としても、そろそろ出家の日が近いのかもしれません。その前に、先ずは四国お遍路でも、とボンヤリとは考え始めています。

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2012年4月 1日 (日)

1678 袋小路

いまこの国の政治が入り込んでいるのは、20世紀型の政治システムの袋小路に他なりません。このシステムでは、経済規模の拡大が大前提で、多少の景気の山谷があるにしても、長期トレンドでは、平均すれば年率数%の割合では、経済規模が拡大し続けると言うものです。しかしながら、その前提も、戦後の世界経済の流れの中で結果として偶然そうなってきただけの事で、何か素晴らしい経済理論や政策が効奏してそうなった訳ではないでしょう。それどころか、贔屓目に見てもこの国の政策は間違いなく「行き当たりばったり主義」でここまで来たとしか思えません。間違いなく経済成長だけでは、この国の膨大に膨らんだ借金は返済できないのです。

と言うより、この国の人たちは、遠大な計画を立て、そこに向かって長い時間の努力を傾けるというアプローチは苦手の様に見えます。確かに、戦国時代(江戸時代)の城の普請には、たぶん数年の期間が必要だったと想像していますが、その一方でエジプトや中南米のピラミッドや万里の長城、石造りのヨーロッパの城や教会が造られた歴史を知れば、それらは数百年単位の年月を費やして作られていると言う事実がそれを物語るでしょう。つまり、彼らは数世代~十数世代にも亘って、一つの事業を成し遂げると言う遠大な計画とそれを成し遂げるだけの民族の根気を持ち合わせていた訳です。表面上は権力の強大さもあるかも知れませんが、その底には宗教の力も強く流れていそうな気がします。

さて、そんな長期計画も実行のための根気も宗教の力も殆ど期待できないこの国では、一体どうやってこれからの国づくりを考えて、行って行けば良いのでしょうか。一つのKWは、この国の文化の底を流れる「自然への畏敬の念」でしょうか。それは明確な宗教とも言えない、Shintoism

に一つの形を見る事が出来そうです。つまり、近くの山の頂上や、巨石や川や沼や大木にさえ、神(というか自然環境の象徴)として敬い、それらと共に季節の流れの中で慎ましく暮らす、というライフスタイルを指します。それらは、この国で気が遠くなるほど繰り返されてきた暮らし方なので、決して行き詰る事はない筈です。そうではない成長を伴う如何なる変化も、結局は「成長の限界」という袋小路に入り込む事は、何十年も前に「ローマクラブ」の賢人も指摘していました。

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2012年3月31日 (土)

1677 夏冬型気候

この国の良さの一つに、春夏秋冬の四季がはっきりしている点が挙げられます。しかしながら、投稿者が密かに心配しているは、今後は春秋がほとんど無い、夏冬型気候になるのでは、という推測が現実になる事です。その推測の根拠は、北極海の浮氷の現象です。減少するとはいっても、流石に日が当たらなくなる季節には、北極海は結氷します。夏場に大きな面積で浮氷が焼失し、逆に冬場には薄い氷で覆われるという季節サイクルを前提にすれば、夏場は海洋高気圧が高い緯度まで持ち上がり、冬は極気団が日本辺りまですっぽり降りてくる事になり、暑い夏としっかり寒い冬が短い春秋を飛び越して繰り返す事になるかもしれません。

つまり、これは、今は緯度の低い地域で観測される、乾季と雨季の「二季気候」が、日本辺りまで上がってくる事を意味します。緯度の低い地域では、乾季と雨季ですが、緯度が高くなると「夏冬型気候」になる訳です。何故なら、高緯度地方ほど夏場の日照時間が長くなるので、寒気さえ降りてこなければ、気温は結構高くなるからです。

本当にこの兆候が強まりつつあるかどうかが確認できるとすれば、今年の寒い春が急速に過ぎ去り、あっという間にすぐに暑い夏になると言う気候変化を目撃する時でしょう。もちろんこの推測が大きく外れる事を願ってはいますが…。

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2012年3月30日 (金)

1676 ガソリン価格

ガソリン価格の上昇が止まりません。数年前(2008年夏)の瞬間最大値は、たぶん170円を超えた様な気がしますが、その異常値を切り捨てたトレンド値(高原値)は155円前後だったとみています。実はピーク価格は問題ではありません。長期的な価格上昇のトレンドこそが重要なのです。その意味では、ガソリン価格は短期的には上昇下降を繰り返しながら、毎年6-7円の幅で上昇するトレンドカーブを描いている様に見えます。仮定しても、それから3年以上経過している現在は、それを軽く突破してもおかしくはないでしょう。事実、通常から価格が高めの地域ではすでに160円を突破している様です。この傾向は定着し、今後とも140円台前半には戻れない様な気がします。

その価格上昇圧力の原動力は、相変わらずダブついている投資マネーと、それと同程度の押し上げ圧力となっているのは、C国を中心とする途上国のガソリンのガブ飲みです。とりわけC国においては、毎年1000万台もの新車登録がある訳ですから、それぞれが例えば年間数百リッターのガソリンを消費するとしても、ガソリン消費量の毎年度増加率は尋常ではありません。エネルギー増加率は、ほぼ経済成長率に連動しますので、この国だけでも大雑把に言えば毎年10%レベルで増加を続けている事になります。

さてそれでどうするかですが、消費者が出来る唯一の抵抗手段は、ガソリンを買う量を減らす事しかありません。震災の時に、必要とするガソリンが買えない被災者を助けるために、私たちは不要不急の給油を我慢したではありませんか。出来ない相談ではありません。消費量に頭打ち感が出ると、価格の上昇圧力は弱まるはずです。余剰マネーは、利潤を求めてその他の地下資源や食糧に向かって流れるでしょう。ガソリンの消費を減らす方法は簡単です。不要不急の要件で、車を動かさない事です。先ずは、自転車や歩きで移動する楽しさを、ぜひ見つけましょう。

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2012年3月29日 (木)

1675 PM2.5

あの環境汚染が著しいC国でさえ、ここにきてPM2.5の規制を打ち出してきました。PM2.5とは、数ミクロン以下の微粒浮遊粉じんのことで、5ミクロン以上の大きさの粉じんが、気道にある繊毛で補足されるのに対し、それ以下の微粒子は肺の奥深くまで達し、肺胞に付着する性質があります。肺胞に付着した粉じんは、もはや排出される事はなく、異物として肺組織の細胞に取り込まれてしまいます。もちろん無機物の場合は細胞内で分解されませんので、死ぬまで肺に留まり続ける事になります。

粉じんの形状や生体との親和性にもよりますが、場合によっては石綿繊維の様に発がん性を発現する場合もある様です。PM2.5の主な発生源は、化石燃料の燃焼によるものですが、とりわけ車の排ガスに含まれるものが、量も多くかつ多種類に及ぶことから、中には有害なものも多い事が懸念されます。

かつて、有鉛ガソリンを燃やしていた車や、性能の悪いディーゼルエンジンの排気ガスや亜硫酸ガスなどを含む工場排煙による、喘息や呼吸器疾病を伴う大気汚染公害が、裁判を伴う社会問題となって、大気汚染には懲りているはずのこの国が、諸外国の動きに押される形で、やっとPM2.5にも社会の目が向き始めたのは、遅きに失した感があります。PM2.5は、非常に高性能の粉じん対策用マスクでも着用しない限り、体内への侵入を防止する手段がありません。発生源から絶つしか有効な対策は無いはずなのです。その対策を考え様にも、十分なデータさえまだ殆ど整備されていないのが現状です。先ずは、車や工場からのPM2.5の排出量と大気濃度の実態調査から始める必要があります。

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2012年3月28日 (水)

1674 秋田で考えた事

25-27日は仕事で秋田に行っていました。秋田は生まれてから学校を出るまので20年暮らした故郷でもあります。滞在中の天気はといえば、春3月とはいえ、冬型気圧配置のため、曇り時々雪・霰でした。県の海岸沿いは、田畑の雪も殆ど消えていますが、北や内陸では、まだしっかりと根雪が残っています。風が吹くと体感温度は急激に下がります。道路は凍結していませんので、プラス数℃なのでしょうが、湿度も高く底冷えがします。

しかし、秋田に限らず、東北には無限の資源がある事をとしみじみ再認識しました。山を見れば先人が植林した山々(手入れは出来ていませんが)、海を見れば大陸から吹き降ろしてくる風や押し寄せる波、冬でも凍らないで流れる大小の川、有り余るだけの雪、農業から出るもみ殻や農業残渣、すこし地面を掘れば温泉が湧き、夏は北ほど日も長くなり気温も結構上がります。こんな地域で、化石燃料を燃やし、電力を使って暖房や給湯をしている現状を見て、やはり何かが間違っていると、改めて考え込みました。

やるべき事は、山ほどあると思いました。断熱材が薄い安普請の建物で、多量の冷暖房のエネルギーを使うのは絶対にレッドカードです。ならば、出来る限り安価に高断熱にリフォームする事業には追い風が期待できるでしょう。同時に、耐震工事も行えば、一石二鳥なので、工事費のハードルも更に下がるでしょう。小規模な太陽熱やバイオマスやマイクロ水力やマイクロ風車や地熱を上手く組み合わせれば、石油やガスや電力を殆ど使わない冷暖房や給湯も可能になります。後必要なエネルギーはといえば、車のガソリンと調理のための熱源と冷蔵庫や洗濯機や電灯などのコンセント電力程度でしょう。いわゆる新エネルギーを活用して化石燃料を削減すれば、原発代替の火力発電所での石油やLNGの消費も下がり、ひいては石油製品の価格上昇圧力も弱められるでしょうし、原発停止の長期化も怖れる必要も無くなります。

その意味でも、今の仕事の半分を占めている省エネ指南もそろそろ卒業し、この夏以降は、東北に軸足を移して、本格的に新エネ利用に取り組もうと決意を固めながら帰ってきました。

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2012年3月26日 (月)

1673 鳥の目

しかしながら、虫の目だけで世の中や現象を見るだけでは、全体としての方向性を見失うでしょう。国のマツリゴトでも、増税やその使い道である予算の事ばかり論じていても、堂々巡りからはなかなか脱出できません。そうではなくて、時には鳥になって、上空からこの国の姿を眺めてみる必要があるのです。一体何のために、国会があり、行政組織があり、税金や予算の仕組みがあるのか、彼らにはもう一度考えて貰いたいものです。

国の行く末を案じ、そのあるべき姿と取るべき政策を論ずるのが、政治家(Statesman)の本来の仕事のはずですが、23世議員やや業界団体の利害の代理人的な、職業政治屋には、その気配すら感じられません。時には、議事堂の天井付近から国会論議を眺める鳥になったつもりで、いまの重箱の隅をつつくような堂々巡りの論議を眺め、反省して貰いたいものです。あるべき姿が明確になれば、舵取りの方向や選択肢はそれほど多くはない筈なのです。政党とは、あるべき姿の描き方の違いで自然発生的に出来るものであり、政策の手法だけで群れるべきではないでしょう。そうでなければ、政治的無関心層が50%を超える様な、世界でも稀なシラケた国であり続けるしかないのです。

鳥の目を養うのは、しかしそれほど容易ではありません。先ずは何より、世界を広く見聞する必要があるでしょう。その上で、良い点は学び取り、良くない点は批判的に切り捨てれば、より確からしい価値観が醸成されるはずです。その意味で、政治家は当然としても、虫の目はしっかり持っている多くの技術者も、一方では鳥の目も持たなければならない事を、最も心掛けなければならない人種だといえそうです。そうでなければ、技術的には優れているが、公害を出し温暖化を加速する様な、社会に役立たない(あるいは有害な)モノを作ってしまうかもしれません。(出張のため明日は休稿です)

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2012年3月25日 (日)

1672 虫の目

物事の見方にはいくつかの視点が考えられますが、先ず「虫の目」について、書いて見ます。虫の目とは、物事を見る際に虫の様に、極端に近寄って詳細に観察する事を指します。全ての物質は分子や原子、さらには素粒子レベルまでブレークダウンできるはずですが、同様に例えば人間の世界で起こる社会現象も、微視的に観察すれば、個人の行動の集合だと見る事も出来るでしょう。これを還元的な見方とも言いますが、いわば森の中で木々や植物を観察する事に似ているでしょう。現象を把握するのに、全体だけを大雑把に観察しても、何も見つからない事は良く経験するところです。

しかし、微視的に見れば、そこで何が起こっているか、その集合として全体で何が起こっているか、起こりそうかが見えてきます。というより、普通の人間の頭では還元的な物事の理解しか出来ないとも言えるかもしれません。もちろん、一を見て瞬時に全体を把握できる天才も少数は存在するでしょうが、私たち一般人はそうはいきません。個々の要素を良く観察し、それを理解してからでないと、全体像がぼやけて良く見えないのが通例です。

これは、投稿者が「元技術屋」だからかもしれませんが、科学や技術の多くは還元的なモノの見方に立脚しているとおもっています。つまり、如何に大きな構造物や装置といえども、数多くの部品から構成され、個々の部品の性能が、全体としての機能を支えているという見方です。社会現象でも、自然現象でも微視的に観察し、事実を積み上げなければ結局何も見つからないでしょう。最近のニュースでも、大きな地震の前に、樹木の持つ電気伝導度に大きな変化が観察されたとか。大地震前の地下水位の変化も多く報告されている様に、継続的でしかも微視的な観察は非常に重要な行動だと言えます。

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2012年3月24日 (土)

1671 金毒・金害

石油価格が知らない間に随分上がっていました。家の車の燃料が減っていたので、何気なくスタンドで入れたら金額で7千円以上も入ってしまい、びっくりしました。そのはずで、単価を見たらいつの間にか158/ℓになっていました。数年前に、170/ℓレベルになった時がありましたが、それに迫る勢いの値上がりです。今回の値上がりは、イランがホルムズ海峡を人質に取るとの脅しで始まったのでしょうが、お金のある人たち(投資家)が、こんな絶好の「チャンス」を見逃すはずもありません。石油先物相場に揺さぶりを掛けて、実質の相場変動幅以上に吊り上げているに違いありません。その意味で、世界のどこかに異常に吹き溜まってしまったお金は、それ自身が既に正常な経済活動にとっては有害な存在になっているとも言えます。

さて、話は変わりますが公害の歴史を振り返ると、それが起こった地域では、人体に有害な物質が環境に多量に放出され、その結果環境への蓄積=環境濃度の上昇を招き、結果として生物被害や人的被害を出してしまう「社会現象」と説明する事が出来ます。そのアナロジーで、日常経済活動に伴って動き回っている「まともなお金」は別に有害だとは言えませんが、淀みに溜まって腐敗しかけている「余っているお金(例えばオイルマネーや複雑な金融マネーや債券等)」は、もはや有害な種類のものに変質してしまいます。それらをここでは「金毒」と呼び、それから受ける害を「金害」と呼んでおきましょう。

金毒・金害は、その規模が拡大し過ぎて、もはや一国の国家予算を何倍も上回るパワーを持っていますので、高度成長期には国の金融政策でどうにかなったはずの、マネーフローの制御や為替コントロールも殆ど機能していません。さて、それではどうすれば良いかですが、投稿者の単純な頭では、なかなか良い知恵も浮かびません。黙って座っていても、エネルギーはドンドン消費され、同じ勢いでオイルマネーが積み上がるでしょうし、それを効率よく「運用」しようとする輩を押さえつける術も見当たりません。その意味で、油井やガス井こそまさに「バンドラの井戸」だと表現するしかなさそうです。

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2012年3月23日 (金)

1670 息切れ

C国やIンドなどの勢いのある途上国の、息切れはいつ頃始まるか時々は注目しています。この国は、かつてはB国がくしゃみをすると、風邪をひくと言われてきました。しかし、気が付くと最大の貿易相手国は、もはやB国ではなくお隣のC国になっていました。

しかも、この国との関係は、好むと好まざるとに関わらず、C国からは安い工業品や大量の食糧を輸入し、こちらからは工作機械やC国が得意としていない高機能部品や製品の輸出等、経済の相互依存関係のパイプは太くなるばかりです。その中で、C国やIンドなどにも息切れがかなり顕著になってきている様に思えます。理由は、例えばC国では沿海部と内陸部の格差が拡大し、かなり根の深い国内問題となりつつある事が挙げられます。つまり、沿海部には潤沢なモノやエネルギー(石油)が、潤沢に供給されますが、何千キロも内陸に入った地域では、それも限定的になるでしょう。例えば、何千キロもの内陸にタンクローリーを走らせるは、タンクローリー自身が走るために燃料をかなり食ってしまう事にもなります。また、沿海部でも内陸部でもあらゆる種類の公害問題が深刻ですが、流石にC国といえども、経済と人の命を天秤にかける場合、結論は決まってしまいます。また、C国やIンドも軍事力の増強にまい進している様ですので、その経済負担も重くのしかかってきています。軍事力を増強し続けた大国で、息切れもしないで経済的にも上手く立ち回った国は、これまでも殆ど存在しなかった事を考えれば、両国も例外にはなり得ないでしょう。

さて、アジア・エンジンの回転が落ちると、その勢いの恩恵に与っているこの国の経済はどう転ぶのでしょうか。それなりに車産業など、好調な一部の分野を除けば産業の空洞化はかなりの程度進んでおり、とりわけ投稿者が寄り添っている(つもりの)中小企業の体力は、ずいぶん落ちてきている様に見えます。それは、これまで作っていたものを親会社から取り上げられて、海外生産に切り替えられたことが主な理由です。新たな分野を切り開いた企業はどうにか生き残るのでしょうが、良い技術があっても作るものが見つからない企業は、結局フェイドアウトするしか方法がない様です。

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2012年3月22日 (木)

1669 理想の暖房

厳寒のカザフから帰ってきて、理想の暖房とは何か、と改めて考えてみました。カザフの建物は、高い建物を除けばほぼ全てがレンガ造りです。レンガは構造材でもあると同時に、多孔質の断熱材でもあり、部屋の内側に断熱材を追加すれば、それなりに断熱性の高い建物となっているはずです。しかし、屋根の断熱性はあまり良くない様で、暖房熱で屋根の雪が融けて、どの家も長いツララをぶら下げています。窓はほぼ例外なく木製サッシですが、もちろん100%二重窓になっています。(外部のサッシは鉄やアルミ製となっている事もありますが、熱ブリッジ=結露を防ぐため内部は木製です。)

暖房は、ほぼ100%が熱水による地域暖房です。街外れに、大きな煙突の熱水工場があり、地下に熱水管が張り巡らされている様です。道路の横断部は、地下ではなく配管ブリッジになっているところもあります。部屋の中には、鋳物製や鉄管を曲げて作ったラジエータが設置されておりますが、ホテルなどではやや高級なアルミ製のものが付けられています。ラジエータの表面温度は意外に低く、50℃を少し超える程度ですが、この温度が非常に心地よいのです。それは、体温に近い物質から出る遠赤外線が、人間にとって最も心地よい事がその理由です。例えば、子供を背負った時の体温が、理想の暖房温度である事は日常経験するところです。ニクロム線のジュール熱で暖房を行う電気ストーブや、石油やガスの燃焼ガスで暖房を行う器具が、決して快適な暖房手段でない事は、これも日常経験するところです。

つまり、体に非常に近い物体の表面温度が体温並みに、あるいは人間を取り囲む部屋の壁や天井や床などが、20℃~25℃程度に暖められている部屋とする事が、最も心地よい暖房環境だと言えそうです。事実、カザフで滞在したホテルの部屋は、窓際のラジエータだけで夜中でも20℃を下回る事はありませんでしたし、今回訪問した工場も建屋全体が20℃前後に保たれていました。これが、必要かつ十分で、しかも人間にとって最も快適な暖房方法だと再確認しました。つまり、理想の暖房とは温風で室温を上げるのではなく、建物の断熱性を可能な限り向上させて、空気を暖めるのではなく、「寒い場所を作らない」事がその本質だと言えます。

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2012年3月21日 (水)

1668 メガソーラー

お金のある大企業がメガソーラーを建設する事が流行の様です。メガソーラーといえば、巨大な太陽光発電施設であるかのような響きがありますが、それでも日中だけやっと300軒の一般家庭の電力が賄える程度の規模しかありません。作らないよりは、かなりマシですが、投資目的が7月から実施される固定買取り制度を当て込んだ利殖にあるならば、あまりにも電力需要家をバカにした行為だと言うしかありません。

メガソーラーという言葉も誤解を招きます。上に書いた様に、1メガワットのソーラー発電所でもたった数百軒の住宅の電力が賄えるだけです。例えば、100万キロワットの原発1基を太陽光発電だけで代替しようと目論むなら、少なくとも一辺が2.5㎞ほどの広大な空き地が必要となる筈です。国土が狭く、それでなくとも農地が潰されて道路にされ、建物が建てられているこの国で、一体どこにそのための土地の余裕が見つかるでしょうか。太陽光発電所の下には太陽光は差しませんので、農地としては使えませんし、住宅地にもできません。精々駐車場に出来るくらいです。

そうであるならば、太陽光発電の適地は工場やビルの屋上や壁、更に言えば土盛りをした道路の法面や、平面駐車場の上程度にしか見つからないはずなのです。そういえば、工場立地法で、工場敷地には一定以上の緑地を確保する事が義務付けられていますが、それと同列で、ぜひ全ての工場の屋根にも、一定規模の太陽光発電を義務付けるべきでしょう。それであれば、農地と太陽光発電間での太陽光の奪い合いは生じないで済みそうです。つまりは、メガソーラーなどと、言葉だけの先走りさせ、その適地など探している間に、需要家に限りなく近くに設置する「ミニソーラー」を出来るだけ数多く設置することの方が、結局は近道になると思うのです。

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2012年3月20日 (火)

1667 原発の津波対策

C電のT浜原発の、地震対策や津波対策について、その内容を説明した映像を見る機会がありました。津波対策としての、巨大な防波堤、停電対策の2重の非常用電源、冷却水系統の多重化、モーター設置エリアの水密区画化、更なる地震対策など、技術屋としても一応は納得できる内容だったと思います。それにしても残念なのは、このうちの一つでも二つでも、F島の原発に適用されていたら、悲劇は少なくとも半分に(津波被害だけに)出来ていたと言う点です。

取り分け、津波が押し寄せた場合でも冷却水ポンプのモーターが水に浸かる事故の回避は、何にも増して最重要の地震・津波対策だったにも関わらず、これまで殆どの原発では数台の非常用ディーゼル発電機しか準備していなかったと言う事実を見れば、F島の事故は「人災」と指摘されても仕方がないとも思いました。水に浸かったモーターは、絶縁が低下して、電源復旧後にいくら電気を送っても、モーターからは火か煙が出るだけで、決して再起動はできないからです。非常用ポンプは、電気モーター以外の原理で動くものでなければ、本質的な意味でのバックアップとはなっていないと言えます。

ポンプ自体は頑丈な構造なのですから、モーターの置かれている区画(殆どが地下か海水ポンプの場合は屋外の地上部)を水密にするよりも、モーターの軸を延長して、津波に絶対浸からない高所(櫓の上など)に予備モーターを設置しておくべきでしょう。津波が引いた後に、素早く予備モーターとポンプ軸を結合すれば、冷却水ポンプが止まる時間は最小限に出来るはずです。現在の対策に、これを加えれば、津波対策は更に盤石となるでしょう。

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2012年3月19日 (月)

1666 省エネ商売

投稿者の現在の仕事の半分は、企業への省エネ指導です。今回のKザフでの仕事もやはり省エネ診断と指導でした。この仕事は結構好きで、熱心に指導しています。何故好きかと考えてみたら、何よりこの仕事は誰もがハッピィになれるからだと気が付きました。例えば、企業の工程改善やコストダウンの指導をしたとします。それが実を結べば、確かにその企業のコストが下がって、市場での競争力は向上するでしょう。しかし、一方ではその企業の競争相手の市場シェアが少し減って、従業員の給料やボーナスが少し下がるかもしれません。これでは、勝ち組だけを応援する不公平の手助けをする事と同じです。

しかし、省エネ指導はこの例とは異なります。エネルギーの使用を減らせば、その企業では従来経費(固定費)と考えていた月々の光熱費が下がり、結果として純利益が上がりますので、従業員の給料を少し上げられるかもしれません。しかし、結果としてその会社の市場のシェアが上がる訳ではないので、競争相手への影響もないでしょう。唯一、エネルギーの供給企業、例えば電力会社の売り上げは少し減りますが、どうせ原発は減らさざるを得ないでしょうし、彼らはコストに利益を上乗せして電力が売れる幸せな企業群ですから、基本的には痛くも痒くも無いでしょう。

エネルギーを減らせば、CO2の増加にもブレーキが掛かり、将来世代に対しては、温暖化の防止もさることながら、化石燃料などの資源の温存にも貢献できます。そんな手助けが出来て、おまけにささやかながら謝金までいただける今の仕事は、サラリーマン時代からみれば大きく収入は減りましたが、3日やったら辞められない、理想的な商売だとますます好きになりつつあります。

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2012年3月18日 (日)

1665 Kザフの事

アッと言う間の出張で、もう日本に帰ってきましたが、Kザフの印象を追加します。治安については、南や西の都市では、隣接する国からの麻薬や犯罪の流入もあり、あまり安全ではない様にも聞きますが、ロシアに近い北や、モンゴルに近い東の地域、非常にのんびりした地域で、安全だと言えそうです。投稿者が滞在した街でも、夜間に一人で歩いてレストランに行っても、何の危険も感じられない雰囲気でした。車も増えている様ですが、歩いている人も結構多く、車屋さんには申し訳ありませんが、車の普及率と犯罪率は多分比例するのではないかと思っていますので、その意味では、政治的にも今の大統領が引いた中立的な路線が続き、内紛などが起きない限り、今後しばらくは安全な地域であり続けるとみています。この国も、それを見越してか、首府を南のAl,amityから北のAstanaに移したのでしょう。

滞在したのは、Ust-Kmenogorskというロシア(統治)時代に付けられたと思われる長い名前の街でしたが、気づいたことですが、交通マナーは全世界が学ぶべきものでした。交差点で、歩行者が横断しようとすることがはっきり分かる場合、車は信号に関わらず止まってくれるのです。車同士の譲り合いも「素晴らしい」の一語に尽きます。人種も、白人(ロシア系)とアジア系と中東系が「ほぼ均等」に混じりあっていますので、人種問題もあまり問題にはならないでしょう、街の中には、モスクもそれなりにありますが、あまり立派ではなく、頭にスカーフを被った女性も、Almatyでは少数みましたが、北東の街では見かける事もありませんでした。街の名前も、伝統的な名前のオスケメンという呼び方に戻しつつあるようです。

街の建物はレンガ造りで古いのですが、安い燃料や電力を使っての地域暖房や電化製品も揃っている様で、それなりに文化的な生活は送っている様ですし、豊かな鉱業生産が今後ともこの国の生活水準を上げ続ける事は間違いないところです。それを見越してか、往き返りの飛行機便でも、「利に敏い?」中国や韓国人のビジネスマンを数多く見かけました。資源小国の日本としても、数年も何もしないで推移すれば、後塵を拝すのは間違いないところです。人口1500万人ほどのこの国は、石油・石炭・天然ガスと始め、周期律表に乗っているほぼ全ての鉱物が産出するとも言われるほど豊富な地下資源は持ってはいますが、技術や産業基盤は低くて殆どの製品を輸入に頼っており、一方で日本は全くその逆ですから、これほど相互補完が上手くいきそうな組み合わせも少ないのではないか、と思えてなりません。その役に立つなら、今後何回かは日本とこの国を往復しても構わないとも感じました。

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2012年3月16日 (金)

1664 Kザフにて

 

Kザフ最大の都市、Almatyの空港で書いています。南のきな臭いイスラム国家が近いこの街は、麻薬の中継地にもなっているとの事で、到着ロビーには目つきの余り良くない白タクドライバーが数十人たむろしていて結構物騒な雰囲気なので、国際線への乗り継ぎで長いフライト待ちの時間があるのですが、街に出る気も起きません。従って、空港のパソコンスペースで粘る事に決めました。

 

この国での滞在は、Almatyから更に国内線で1時間半ほど飛んでやっと辿りついた、アジアのど真ん中のこの国でも、更にモンゴルに近い30万人程の地方都市でした。僅か3泊4日の滞在でしたが、それなりに充実した日程でした。無駄な時間は殆ど貰えず、忙しく働きました。この国で、一番大手の自動車メーカー(とはいっても多分唯一のメーカーだと思いますが)の省エネの助言をするため、はるばる日本から飛んだ訳ですが、最大と言っても従業員は400人程の、日本で言えば中堅企業といったところでしょう。しかし、鉱山業以外これといった大きな工業の無いこの国では超優良企業らしく、新たな合弁での生産(もちろん完全なノックダウン生産ですが)された最初の車がラインから出てくる日には、この国の大統領も臨席するほどの大騒ぎの様で、本社ビル=工場の玄関には、その種の写真が壁一面に掲げられていました。ロシアの小型車やGMKIA等の小型車を中心に、ノンビリとしたペースで(しかし対応したマネージャの言では、大車輪状態だとか)ラインを動かしていました。とは言いながらしばらく見ていても、一向にラインが進む気配もありません。

 

それはさておき、極寒のこの地では、今年もマイナス40℃以下の気温を何度も記録したとか。流石に3月も中旬ともなれば、日も長くなり、日中はプラスになる日も増える様ですが、それでも日陰は一日中バリバリに凍ったままです。雪は深くはありませんが、道端には除雪した雪が1mほど積まれており、野山はこの季節でも全くの銀世界です。ホテル近くの川の傍の公園には、背の高い落葉樹や針葉樹が生い茂っていましたが、朝に川から立ち上る川霧が木々の枝先で瞬間的に凍る(つまりは霧氷です)ため、この世のものとは思えないほどの幻想的な風景を作り出しています。いくらお金を積んでも、温かい日本ではこの様な風景を作り出す事は出来ないでしょう。朝に太陽を背にすると、ダイヤモンドダストを飽きるほど見る事ができます。

 

一方、街の建物の殆どは工場であれ、住宅であれ、事務所ビルやアパートであれ、ほぼ全てがレンガ造りで、背の高いビルだけが例外的に鉄筋コンクリートでできている様です。暖房は、殆どが地域暖房のため、大きな熱水工場がいくつかあって、太いパイプで町中に熱水を送っているようです。家々では、昔ながらの鋳物のラジエータで暖をとり、工場ではラジエータと熱交換器を通して得られた温風で、暖房を効かせています。ホテルの部屋でも、夜中でも20℃を下回る事はありませんでした。もちろん、冬場は電気式のエアコンでは暖を取る事は不可能です。電気は安そうなので、多くの建物では、韓国製のクーラーは設置している様です。聞けば、夏場は40℃になる事もあるようで、80℃にもなる気温差の話には呆れるばかりです。続きは帰国してからになります。

 

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2012年3月15日 (木)

1663 ご先祖様

 

中央アジアのKザフという国の、モンゴルに近い東の端の地方都市にいます。ここに来たいきさつを書くと長くなるので、気候と感想を少し。マイナス20℃の気温を期待?していたのですが、流石に3月ともなると春が来ていて、昨日の午後は、日が差して朝はバリバリに凍っていたはずの道路のアスファルトが見えていました。話を聞くと、今年の冬の最低気温はやはりマイナス40℃を下回ったとのことで、やはり極寒の地域である事は間違いありません。しかし、この季節は昼に融けた路面が、夕方になるとその再び凍結する、といった0℃を挟む気温です。道路の外の住宅地や野原は、まだ一面の雪景色ですが、積雪はせいぜい30センチ弱といったところでしょうか。想像するに北海道東部の内陸地方に近い気候かもしれません。雪質も、北海道のそれと同様サラサラで握れません。ユーラシア大陸のほぼ中央のこの場所で、雪になる水分が何処で補給されるのか、全く不思議です。もしかすると、カスピ海辺りの海や湖から限定的に水蒸気が出ている可能性もあります。昨晩も、夜に入るとチラホラ粉雪が落ちてきましたが、空には星も見えていました。

 

仕事の話はまた追って書くとして、短い感想ですが、それはどうやら「我が家のご先祖は間違いなく中央アジアらしい」というものです。何故なら、国内線乗り継ぎ待ちで泊まったアルマティの空港近くのホテルで、受付のおばさんを見てギョッとしたからです。彼女は、自分の姉に、双子の姉妹だと言われても信じてしまうほどそっくりの顔をしていたのでした。それだけならそれで終わっていたのですが、翌日の国内線の待合室で、今度は母方の叔母に全くそっくりのおばあさんが、隣の赤ん坊をあやしていたものですから、どうしても我が家のご先祖様のルーツを考えざるを得なくなったという訳です。この国には、ロシア系とカザフ人、モンゴル系に近い人種、更に南のイスラム系の人種が入り混じって暮らしていますし、かつては砂漠の交易の中継地でもあったでしょうから、我が家の母方のご先祖様が遠い昔この地域から、モンゴルや中国や朝鮮半島を経由して、日本に辿りついたとしても不思議は無いのかも知れませんが…。

 

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2012年3月13日 (火)

1662 リニューアル

衰退傾向と思われていた銭湯のリニューアルが結構進んでいるとか。それに加え、郊外には大型銭湯(入浴施設?)の建設も結構活発です。リニューアルや新設が活発なのはニーズがあるからです。誰が平日の昼間っから銭湯に行くかを考えれば、ニーズの主は明白です。お金も暇もある、年配の人たちに違いありません。そう考えれば、これからこの国の需要を引っ張るのは、彼らの持つシニアマネーしかないと言う結論が、自然に導かれます。

もしそれに間違いなければ、私たちはこの国インフラや施設やモノづくりの仕組みを、シニア仕様にリニューアルする必要がある筈なのです。公共施設や遊興施設、移動の交通手段から、工場設備に至るまで、彼らが元気に機嫌よく暮らしてもらうための工夫が必要です。実際、ゲームセンターでの高齢者の割合は増え続けている様です。ならば、ゲームクリエータには彼らの好みをリサーチして、理想の高齢者向けゲームを創り出して貰いたいものです。ただし、このゲームには、ハマればはまるほど、認知症に縁遠くなり、指先が器用になり、姿勢もシャッキリするモノでなければなりません。それらのゲームを前面に押し出して、ゲセンも高齢者向へのリニューアルも進めなければなりません。

高齢者向けの乗り物もリニューアルが必要です。歩く事をさせない「老人車」や、オートマ操作の車などとんでもありません。先ずは歩きが基本ですが、自転車を主な移動手段とするため高齢者向けに徹底的に安定性を向上させ、使い勝手も良くする必要があります。車も、ヨーロッパの様にマニュアル車を主体に供給し、体をボケさせない事が必要です。何しろ、彼らは100%マニュアル車で免許を取った世代ですので、まったく問題はありません。オートマ車は、「コンビニ突進事故」を増やすだけです。住宅もどうせ改築するならバリアフリーなどではなく、逆にバリアだらけで、そこで生活する事により自然に身体能力を鍛える事が出来るものとすべきでしょう。人間は、楽をすればするほど、能力が退化していく生き物である事を、決して忘れるべきではありません。今回は、高齢者よ、ピンピンコロリに向かって、脳と体を鍛えよう、そのために社会インフラを作り直そうという提案でした。

さて今日から、海外出張のため1週間ほど休稿予定です。出かけた先でネット接続が出来れば、何回か投稿するかも…。

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2012年3月12日 (月)

1661 震災の日に考えた事

震災の日に当たって、多くのメディアで過去の映像や、被災地の現状が報じられました。それらの映像を見るにつけ、逆説的にはなりますが、大震災といえども、今は穏やかに凪いで海や静まりかえった山々には、小さな爪痕ほどの影響も与えなかったと言う事実です。震災、特に津波被害は、海と山に挟まれた、海岸沿いの扇状地や沖積平野の海岸部など、ごく狭い範囲を破壊しただけに過ぎなかったわけです。しかも破壊されたものは、自然そのものではなく、人間が土地の上に作り上げた構造物だけだったと言えそうです。

謙虚に首を垂れて考えれば、結局私たちは海と山の間で、「辛うじて生かされていたか弱い存在」でしかなかったのでないか、と言えるかも知れません。そのか弱い存在が、今の文明の繁栄の結果として、かなり自信過剰となり増長してしまったのかも知れません。具体的な、増長の例としては、海岸に近い沖積平野に群れて暮らし、そのための多くのインフラを築き、そこに地下資源から作ったモノやエネルギーを送り込んで、「文化的」な生活を作り上げたのでした。ここで言う「文化」とは、結局は狭い意味での西欧文化(とりわけ歴史の浅いB国文化)でしかなかったと振り返っています。それを目標にして戦後の短い期間で追いつき、ある面では追い越した訳ですが、それは沖積平野の土の上にポンと乗せられただけの、底が浅く根の無い文明でしかなかった事が、いみじくもこの震災で証明されてしまった、と言うしかなさそうです。

さて、ではこれからどうすべきかですが、先ずは皆の心の中に自然に対する畏敬の念を改めて醸成すべきでしょう。その上で、かつてその地域にあった伝統的なライフスタイルに注目し、少しずつでも良いので、それを参考にした根を張った産業、根を張った生活をもう一度築き上げるしかないとは思います。それは、東京発のアイデアでは実現できない種類のものであることは間違いありません。その土地にある、海や山や川や土地と、そこで手に入る産物を中心に据えた産業やエネルギー構造や生活スタイルを取り戻すべきでしょう。そうです、復興とは全く新たな文化を創るのではなく、かなりの部分は先人が工夫に工夫を重ねて作り上げた伝統的な生活を思い出しながら、かなりの部分はそれを真似る事に近いと言えそうです。その様な生活では、たぶんお金はあまり回りませんが、食べ物を含めた基本的なモノはそれなりに豊かに暮らせるはずだと思っています

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2012年3月11日 (日)

1660 無い袖

連日行われている国会論議が、点けっ放しのラジオから流れてきます。しかし、与野党の議論は全くと言って良い程噛みあっていません。その原因は、少子高齢化社会の背景の中で、膨大に積み上がった国の債務や右肩下がりの経済にある事は間違いないところです。人口が減少しているこの国には、昭和の様な明るい右肩上がりの時代はもう来ないと思い致すべき時なのですが、20世紀型の常識しか持ち合わせていない古い(または古い常識しか持っていない)政治家は、小手先の刺激策で景気が上向くと本気で信じているフシがあります。今後もし間違って景気が持ち上がるとしたら、それは他の国のバブルの尻馬に乗っての短い期間の回復しか期待できないはずなのです。

この国の市場は縮小を続けていますし、C国などが息切れを始めれば、車産業をはじめとする輸出産業も元気が無くなるでしょう。税収は減り続け、国の借金は雪だるまの様に増え続けるしかなくなります。もう振るべき袖は無くなっている事に、特に政治家諸氏にはよくよく考えてもらう必要があるでしょう。いくら票を集められる格好の良い政策を打ち上げても、裏付けとなる財政(お金の入った袖)はついてこないのです。

そうではなくて、現状をしっかりと認識した上で、今後この国が進むべき道筋を描いて見せなければ、政治にそっぽを向く国民の割合は、更に増加し続ける事に、「彼ら」は早く気が付くべきでしょう。潤沢なお金が無くなってしまった今、この国で必要なものは知恵と工夫と汗かきなのです。的確な知恵出しが出来、無いなりに工夫し、「ボランティアベース」の汗が掛けるのは、どう考えても年金をもらっているシニア世代しかない事は明々白です。「あなた方」は、戦後の貧しい時代や、高度成長期のハードワークや、二度のオイルショックや、数度の世界的経済危機をくぐり抜けてきたではありませんか。今、社会を中心になって動かしている世代に、それほどの知恵や危機を乗り切る知恵や根性が醸成されているかについては、申し訳ありませんが疑問を持っています。ついては、ぜひ彼らに知恵を授け、ついでに「袖」も振ってやって貰いたいのです。

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2012年3月10日 (土)

1659 始めるのは簡単だが

物事を始めるのは、実は結構簡単です。始める前には十分な準備期間や助走期間も取れるでしょうし、資金もそれなりに準備して掛かれば、立ち上げに関わったスタッフの意気込さえあれば何とかなるものです。また、その維持も前年度の実績を下敷きにして転がせば、どうにか前には進むのでしょう。お上の組織や行政に関しても同じことで、毎年の予算や事業計画は、実績主義の上でしか転がっていきません。それを律する法律はといえば、ある時期の問題点を抑え込むために作られたものも、年月が経過すれば、悪法に陥る場合も多いでしょう。何故なら、殆ど全ての法律は「対策法」なので、状況が変われば対策も変わらなければならないからです。

結局、物事を始める時には、それを終わらせる仕組みも予め織り込んでおく必要があると思うのです。一度始めた事を、終了させるには、それが動いていた時に生まれた「ゴミ」を処理しなければなりません。例えば、ある工場を畳むには、その中にあった設備、在庫製品、仕掛品、原材料、廃棄物の置き場に溜まった産廃などをきれいに始末する必要があります。工場を解体すれば多量の建築廃材も出るでしょう。それらの処理にも、多大の労力とお金が掛かる一方、操業を止めた途端にお金は入らなくなりますので、工場を畳むための資金も貯めて置く必要があります。

しかし、そんな先まで考えて、工場を動かしている経営者も少ないでしょう。全く同じ事が、お国の事業にも言えそうです。ある時代の要請で始めた事業を、なかなか止める事が出来なくて、それが不要になった時にも、継続しているもののなんと多い事でしょう。それらのかなりの部分は、不要どころか、弊害になっている場合も多いのです。それを止める事が出来ない理由は、事業や予算措置を終息させる仕掛けが作られていないため、既得権を手に入れた輩にその権益を貪り続ける事が許されているからです。

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2012年3月 9日 (金)

1658 組織の柔軟性

国や自治体のイメージである「公」と、私企業や個人レベルの「私」が対比される事が多いのですが、その間には、忘れ去られた、あるいはかつて機能していた多くのコミュニティの形式やサイズがあり得ます。それは、会社組織の様に明確な組織構造を持ったモノもあり得るでしょうし、地域にある「結い」の様にゆるくつながった形もあり得るでしょう。また時間的に、あまり変わらないモノもあるでしょうし、一方では茅葺屋根の葺き替え作業の様に、必要の都度召集される組織形態もあり得るでしょう。

いずれにしても、あらゆる組織は、ニーズや時代の変化に対して即応できる柔軟性を保っている必要がある事は間違いないでしょう。それが出来ない組織は、実例を出して申し訳ないのですが、航空会社のJャルがそうであったように、結局は崩壊(あるいは再編)するしかないのです。さて、ここで言いたいのは、この国の組織です。国の姿を代表している様に見える行政組織ですが、これも国民や時代の要請(ニーズ)によって、徐々に現在の姿に収束してきた事は間違いありません。しかし、近年の国としての行き詰まりは、硬直化した官僚組織や諸制度の修正が、結局のところ時代の変化=高齢化+右肩下がりの経済指標に追いついていない事に原因が求められます。

そこに絡んでいるのは、実のところ「既得権益」であることは、誰が考えても明らかです。年金や福祉や公共事業を食い物にしている輩のなんと多い事でしょう。彼らが、食い物にしているのは、実のところ将来世代のための分け前でもあります。それを完全にしゃぶり尽くすまでは、貪欲な彼らの食欲は収まらないのでしょう。お役人として給料をもらいながら、退職後に更に貪欲に利権を貪る彼らの後ろには、大勢の予備軍が控えている訳で、彼らが組織を流動化させる事には強く抵抗するはずです。結局、この国の官僚組織を柔軟化させるには、「百年河清を待つ」と言う故事そのままになりそうです。

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2012年3月 8日 (木)

1657 100kmカーへの道2

数日前のニュースで、インドのTタ自動車が、100㎞カーのコンセプトモデルを発表したとの報道が流れました。100㎞カーとはガソリン1リッターで100㎞走る車の事です。そういえば自分が書いたブログでそんなコンセプトを書いた様な気がしたので、原稿を見てみると2008年の9月のブログ#802に確かに書いていました。ただし、現在は#1000以降でないと見られなくなっていますので念のため。

さてその100㎞カーの実用開発と市場投入には、更に3年ほど掛かるとか。非常に残念なのは、これを発表したのがインド企業で、日本のメーカーではなかった点です。一体、日本のカーメーカーは、リッター30㎞そこそこのHVの性能で満足しているのでしょうか。インド車もHVの様ですが、ガソリン1リッターで100㎞走るのであれば、発電所効率が30%程度しか期待できない(高いエネルギーである)電力を使うEVの環境性能を、軽く凌駕出来る事になります。今からでも決して遅くはないので、日本のメーカーにも奮起をお願いしたいものです。もちろん、その場合のハードルは更に上がって、120㎞カーでなければなりませんが…。

そういうわけで、このブログは、こと環境に限ってですが、世の中の動きの4-5年先、場合によっては10年以上先を予測出来ている(部分もある?)様ですので、ぜひ遡って読んでいただきたいものです。スタートからのブログの原稿は残してありますので、バックナンバーをお読みになりたい場合、ブログのコメントにその旨の要望を寄せていただければ、送る事はできます。

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2012年3月 7日 (水)

1656 経営の品質

経営の品質などと呼ばれる、企業の行動指針があります。しかし、企業の経済効率(要は儲けのが上手い下手の事です)だけをその指標にしては、その方向を誤るでしょう。近年になって、確かに企業の社会的貢献や環境保全活動も重要な指標として取り上げられても来ました。しかし、適正な利益を上げて、それなりの社会貢献を掲げ、環境経営=例えば省エネ行動や廃棄物の圧縮に努めれば、企業の経営品質は十分だと言えるのでしょうか。

このブログでも、再々書いているのは、企業倫理の重要性です。これを、社是や経営方針に掲げている企業は、まだまだ少数派に留まっています。繰り返しにはなりますが、企業倫理への言及無くして、企業の経営品質を議論することほどおこがましい話はないと言っておきます。企業が存続する(できる)ための基本的な条件としては、先ずは顧客ニーズの充足にあります。しかし、どんなニーズでも顧客の要求なら正しい=常にお客様は神様、という事にはなりません。また、ニーズが正当だとしても、そのニーズを達成するための手段が、法にさえ触れなければどんな方法も許されると言うわけでもありません。その意味では、経営方針に「法令遵守」を掲げれば十分だと考えるのは完全な間違いです。

あるべき企業倫理(真っ白)と、法令違反(真っ黒)の間には、広大なグレーゾーンが存在しており、企業理念としては、可能な限り天に向かって胸を張れるように、真っ白を目指すべきだと言えます。現実の経営効率上、それが現実的ではないのであれば、その企業としては早晩退場すべき運命にあると見なければならないでしょう。あるべき企業倫理と企業経営は、少しベクトルの方向はずれているかもしれませんが、方向は同じ方向を向いているはずなのです。具体例を挙げておきたいので続きます。

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2012年3月 6日 (火)

1655 五権分立?

症状が出てから打つ手を対症療法と呼びますが、これまでのこの国の政策は、殆どがこのパターンで進んできたと言えます。何故なら、立法府と呼ばれる仕組みは、基本的にはその時に法律を作っていれば事は済んできたからです。法律は、ほぼ100%が「対策法」ですから、何か問題(例えば公害被害など規制が無い事によって出る問題)でも出ない限り、政治家の役目としては、例えばある利益団体を代表して政策を誘導する事くらいしか必要なかったからだと言えます。しかし、この仕組みは、右肩上がりの時代には殆ど問題も無く機能してきたのでしょうが、今後の時代には、間違いなく行き詰る筈です。

何故なら、今は病気の本当の原因を突き止め、その原因を取り除く「根治療法」が全くと言って良い程行われていないと思うからです。立法、司法、行政の三権分立はもはや過去の仕組みと考えるべき時代に至りました。「真の問題の分析と検証」および「将来社会の仕組み作り」を、今の三権に加えて独立させた「五権分立」が必要な時代に至っています。

でなければ、今のデフレと、震災(原発事故)復興の重荷と海外経済からの悪影響が波状に襲いかかるVicious Spiralからはとても脱出できそうもないからです。誰もが納得できる「真の問題点」の特定とそれを踏まえた将来に向けた青写真は、現世代へ忍耐を強いるためにも十分な説得力を持ち得ます。何故なら、将来世代を思いやる事は、人間だけが持っている能力だと断言できますし、誰もそれに抗う事は出来ないからです。本当に自分の子や孫に資する行動であれば、人間はかなりの苦しさに耐える事が出来るはずなのです。そうでなければ、先人が辛酸をなめながら気の遠くなるような年月をかけて成し遂げた、土木工事や植林や開墾など、(自分の世代の生活向上には直接つながらなかったであろう行動)の説明が出来ません。

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2012年3月 5日 (月)

1654 Ex-E

これまでも脱エネなどの表現を使ってきましたが、Ex-EとはEx-Energyの略で、より広い意味で積極的なエネルギーの呪縛からの脱出を意味する、投稿者の作った新しい略語です。原発の事故もあり、この国では産業も民生も、エネルギーの需給事情に関しては非常に敏感になっています。昨年の夏や今冬は、どうにか乗り切ってはきましたが、原発が全面的に止まっているであろう今年の夏は、まさに正念場になる筈です。一方で、原発で出来た穴をカバーするために火力発電所で焚かれる石油やLNGは、全世界で奪い合いが激しくなり、価格の右肩上がりの傾向固定は確実視されています。

その意味で、不足しがちなエネルギー市場の騒動やその価格動向に一喜一憂するよりも、いっそその呪縛からの脱出を画策すべき時期に差し掛かっていると見ています。これまでは、温暖化防止に向けた省エネ行動だけでどうにか済んできましたが、原発事故以降マスコミに躍るキーワードとしては、海底に眠るメタンハイドレートの発掘や再生可能エネルギーによる「創エネ」となってきました。しかし、化石エネルギーや原発に頼り切っていたこの国の体質からすれば、慌てて増やしても精々10%程度にしか届かない創エネではとても足りない事は目に見えています。創エネで10%稼ぐ一方で、Ex-E2030%削減すれば、原発が全て動かなくなっても、エネルギーの需給に心配は無くなるでしょう。

さて、その方法です。先ず必要な行動は、今投稿者が日中の殆どの時間を過ごしている貸事務所の様に、冷暖房や便利な電化製品を一切置かないで、暮らしてみる事でしょうか。何もなければ、どうしても必要なモノやエネルギーが見えてくるでしょうから、それをゼロから積み上げていく事です。これは、モノやエネルギーの無かった戦後に、私たちの親の世代が行ってきた事のトレースそのものです。モノやエネルギーを使う機器の追加に際しての選択基準は、「あれば便利」ではなく、これが「無ければ一日も暮らせない」であるべきです。必要性の吟味と峻別基準の厳しさ度合が、即ちその人の生き方や環境への向かい方そのものを示します。

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2012年3月 4日 (日)

1653 ロボットの限界

続きです。職人から手仕事を奪った張本人として「ロボット達」を挙げる事も出来るでしょうか。しかし、所詮ロボットごときに、人間の手仕事が真似できるはずもありません。例えば、人間の指先は数ミクロンの段差や傷を感じる事が出来ますが、ロボットの位置決め精度でさえそれより2桁か3桁くらい劣るでしょう。ロボットには、逆立ちしても米粒の上に、文字や絵を描く芸当はできない相談なのです。また、人間の柔らかな指や腕は、数グラムから数十キロまで、状況に応じた力を出すことが出来る優れたアクチュエータでもあります。私たちが持つ筋肉というアクチュエータは、出力を出す筋繊維の中にセンサーも内蔵していると言う優れものです。つまり、作業の中で「手加減」が出来る訳です。

いまどきのロボットで出来る事は言えば、精々卵を割らずに移動できるとか、人間の5本指を模倣し、指先に圧力センサーをくっつけたレベルのアクチュエータが作れたと、喜んでいる程度なのです。しかし、コンパクトに作られた関節には、間違いなく精密に作られた小さな歯車が入っているので、その華奢な厚みの歯車では、数キロの荷重持ち上げるのが精一杯でしょう。一方、動力は電動モーターですので、もし自立して移動させようとすれば、とてつもなく重いバッテリーを持ち運ばなければなりません。結果として見れば、いま本当に困り切っている原発事故現場で、実際に役に立っているロボットが無いと言う情けない状況から脱していません。

技術者がどんなに頑張っても、バッテリーの何倍もパワーを蓄積でき、何分の一も軽いパワーパックと、人間の筋肉にも似た、センサー内蔵のアクチュエータを実用化できない限り、今後ともロボットには単純なモノの移動や溶接やペンキ塗り程度の単準作業からは脱出できないでしょう。手間暇と莫大な開発費を掛けてあまり役に立たないものを開発するくらいなら、人間をトレーニングして、立派な技能を持った人材を育てる方が、どれほど世の中の役に立つことでしょう。

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2012年3月 3日 (土)

1652 手仕事の復権

モノづくりのスピードを極限まで上げた仕組みが、自動化された大量生産工場だとすれば、その対極にあるのが手仕事です。何日、何週間、何か月も掛けて一つの製品=作品を生み出す手仕事は、今の時代すっかり社会の隅に押しやられた感があります。第一、十分に手間ひま掛けて作った製品は、当然の事ながらびっくりする程高いものにつくでしょうし、飾り棚に入れて鑑賞するならいざ知らず、とても日常生活で使う気にはならない代物だ、と思ってしまうからでしょうか。

しかし、職人が確かな腕で作ったものは、量産品に比べものにならないくらい長持ちしますし、使えば使う程手に馴染むはずです。しかも、そんな製品であれば、もし壊れても修理が効きますから、長い目で見れば決して高価なものとは言えないはずです。漆器などでも、塗りが剥げても、割れが無い限り塗り直しが効きますし、使い慣れたモノを直して使えば愛着も更に湧いてくるでしょう。

手仕事は、単調で儲からない労働と思われがちですが、例えば数千万円もする手作りの腕時計が存在すると言う事実を見れば、これを仕上げるのにたとえ1年間掛かったとしても、時間単価に直せば、高給取りのサラリーマンより「割は良い」でしょう。もちろん、いくら高額の給料をもらっていても、所詮は会社に雇われている身より、自分の意志で仕上げた手仕事の方が、何倍も達成感が得られるはずです。手仕事を疎かにする国は、結局は文化としても廃れる宿命にあるような気がしています。徒弟制度のPros &Conesは、色々あるとは思いますが、親方と弟子の濃密な関係の中で受け継がれるワザや生き方は、学校教育や企業内の研修などでは、決して得られない種類のものでしょう。

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2012年3月 2日 (金)

1651 準静的過程

学校で居眠りしながら習った言葉に「準静的過程」というものがありました。これは、例えば熱サイクルで最大効率を出すためには、可能な限りゆっくりと(殆ど静的に)プロセスを進行させる必要があると言うものです。一例として、2500rpmで回転している自動車のエンジンを、例えば10rpm程度にスローダウンする事が出来れば、熱効率は飛躍的に向上するはずだ、という話になります。実際、大型の舶用のディーゼルエンジンは100rpm程度で回転し、高い熱効率を実現していますが、残念な事に高速エンジンと同じ出力を出そうとする場合、低速エンジンは大きくなり過ぎ、とても車などに積んで走らせる訳にはいきません。

この準静的過程を自然現象に敷衍すると、自然への理解がグンと深まるような気がします。つまり、自然の生き物はお天道様から得るエネルギーと、水と、炭酸ガスを使って生きていますので、そのいただいたエネルギーを仇や疎かにしないために、プロセスを可能な限りゆっくりと進めている様に見えるのです。それは、植物の生長や細胞の増殖を眺めても、周りから入手できる物質やエネルギーの範囲内で、ゆっくりと変化しています。

一方、人間だけが地下資源や化石エネルギーや化石水を掘り出して、それを駆使しながらあらゆる活動を加速させている様なのです。60年ほどの人生の中でのつたない経験で得た結論は、「物事の加速には必ず犠牲が伴う」と言うものです。これは、殆ど法則と呼んでも良いかもしれません。エンジン出力が何百馬力もあるスポーツカーに乗れば、痛快な加速度が体験できるかも知れませんが、事故のリスクは極度に増し、燃料もガブガブと食ってしまう訳です。同様に、化学工場で合成反応を加速するために、危ない触媒や熱エネルギーや電力を多用すれば、各種の公害や、温暖化を加速する事になる筈です。つまりは、環境悪化を加速して元凶は、私たちの社会システムを必要以上に加速させている全ての(生産や物流や移動などの)活動だ、と言い換えても良いでしょう。

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2012年3月 1日 (木)

1650 何を壊し、何を作ったか

震災や経済危機の前に立ちすくんだり、逆に闇雲に前に進んだりする前に、私たちが、特に戦後の時代から今日まで、何を壊してきて、何を作ってきたか、と問い直す事は大切です。高度成長期において、私たちは伝統的な農林業をほぼ完膚なきまでに捨て去り、ビルや工場を建て、高速鉄道や道路や橋や港湾を作り続けてきました。つまり、土壌や海に頼り、有機物(生き物)を育ていつくしむ伝統的な暮らしを捨て去り、無機質な製品を大量に生産し、それを運ぶためのインフラをせっせと作り続けてきた訳です。

このブログでも、ひたすらモノを運び、自らも乗り物に乗ってあまり必要もないのに移動したがる生き物である私たち自身を、ホモサピエンス(人類)を文字ってHomo-movens(動かし、動き続ける存在)と自嘲気味に呼んできました。まさに、その移動手段を担う産業の真っただ中で生きてきた人間として、その反省というか反動も大きかった訳です。なるべく作らず、なるべく運ばず、なるべく動き回らない生活に戻る事しか、環境の悪化に強力なブレーキを掛ける方法は見つからないとの確信は日々強くなっています。もし動き回る「本能」をどうしても満足させたいのなら、お遍路の様にテクテク歩くか精々自転車で移動すべきでしょう。これだと、環境への負荷は殆ど無視できます。

また、どうしても手や体を動かしてモノを作りたいなら、自分自身で作れる範囲をあまり超えないように、モノを運びたいなら昔の山小屋の荷揚げの様に、歩荷(ぼっか=荷担ぎ)で運ぶ量をあまり超えないようにすべきでしょう。大量生産の工場も、何とかメモリー社の様に、やがて行き詰るでしょうし、どんなに長い距離を運んでも決してモノは増えないでしょうし、価値も大きくはなりません。お隣のC国も、ここにきてどうやら息切れし始めた様です。

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2012年2月29日 (水)

1649 不可逆変化

自然界の殆どの現象は不可逆の変化だと言えます。例えば、毎年葉を付け、実を結ぶ営みが繰り返されている様に見える木々や植物も、当然の事ながら前の年とは異なっています。木々は少し成長し、一年草は昨年とは異なる種から育ったからです。ましてや、全ての動物は、生まれ落ちた直後から老化に向かって戻ることの出来ない変化を開始する事になります。毎年全く同じように陽光を降り注いでいる様に見えるお天道様さえ、燃料である水素が燃え(核融合し)、ヘリウムを生み出す不可逆変化の過程にある筈です。

そう考えれば、今現在目の前で起こっている事象のなんと儚く、なんと愛おしい事でしょう。そう思って周りを眺めて見る時、あの「方丈記」の書き出しの言葉が心に浸みます。現象は、いわば悠久の時の流れに浮かぶ泡だとの長明の言葉の適切さは、他に替える事は出来ない完璧さです。

その意味で言えば、悪化させてしまった環境を、フィルムを逆転させる様に、元のきれいな環境に戻す事は絶対に無理だ、という悲しい結論になってしまいます。ここ十年ほど、環境に関してそれなりに勉強してきた立場で言っても、やはりそれを否定する事はできません。出来る事はといえば、精々悪化のスピードを少しだけ減速する程度です。だからこそ、次に踏み出す一歩は、後戻りのできない一歩だと、思い定めなければならないでしょう。たった今、政治の世界で繰り返している不毛な議論の様に、今日明日の(まして自分のファクションの)利益だけを考えて、今後の政策や社会システムの行く末を決めてはならないのです。

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2012年2月28日 (火)

1648 ナノ粒子

遅まきながら、ナノ粒子の取り扱いに対しての規制が検討され始めた様です。世の中では、ナノ粒子こそありふれてはいませんが、ミクロン粒子であれば、驚くほど多くの種類が出回っていて、かつ空気中にも浮遊しているとみています。例としては、各種の顔料や色素、産業から出る磨耗粉や研磨粉、ディーゼル車や焼却炉などから出る浮遊粉塵など枚挙にいとまがありません。これらの粒子で特に危険なのは、直径が5ミクロン以下の微粒子と、その形状や物質そのものに人体(とりわけ肺胞)に付着した場合、ガンなどの細胞変異を誘発する粒子です。

最近の報道でも、大きさが2.5ミクロン以下の、いわゆるPM2.5が、幹線道路沿いなど多くの地域で基準量を超えているとか。基準値そのものも、それ以下なら果たして健康に全く影響が無いかどうかについての研究もあまり進んでいないと思われ、恐ろしい話ではあります。生体には、異物が体内に入ると、それを組織で包み込み、影響を最小限にしようとする防御反応が備わっており、肺胞に付着した微粒子も細胞組織に包み込まれて固定化してしまうわけです。その微粒子が、もし生体に馴染まない物質や形状であった場合、包み込んだ細胞組織がガン化する場合もある訳です。良く知られた例では、青石綿繊維がこれに当たります。

さてナノ粒子です。いくつかの動物実験では、すでにナノ粒子の発ガン性が報告されています。もしそうであれば、ナノ粒子の扱いは慎重の上にも慎重を期さなくてはなりません。つまりは、負圧に保った場所(ハンドリングチャンバー内等)で扱い、人はナノ粒子を通さないマスク(事実上その様なマスクは開発されていませんが…)を着用し、衣服に着いたナノ粒子はエアシャワーで払い落とすなどの行動が必要となります。何に使えるか分からないナノ粒子は、どんな悪さをする物質なのかもまだ良くわかっていない物質なのです。

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2012年2月27日 (月)

1647 形而上学っぽい話

モノ・カネを超える議論をする場合、形而上学っぽいものに少しだけ足を踏み入れない訳にはいきません。もちろんそのための十分な見識も無いので、ややこしい哲学の迷路に入り込む気は毛頭ありませんが、それでも唯物主義の欠陥については、触れない訳にはいきません。唯物主義を投稿者なりの言葉で解釈すると、結局は全ての物質や現象を細かく切り分け、分子原子レベルまで分けて理解しようとする「還元主義」に他ならないと思えるのです。技術屋としての教育や訓練では、まさにこの還元主義に徹する事を叩きこまれた様な気がします。全ての装置や機械は、それを構成する要素(エレメント)に分ける事が出来、それらがお互いに作用しあって、全体としての機能を発現する、という教えです。

しかし、それらの教育や訓練では、何故その装置や機械が必要で、それが全体としての環境の保全や人類の幸福にどう結びつくかについては、まったく何も教えてはくれませんでした。つまり技術屋としてのノウハウは教わりましたが、そのノウハウを使う「目的」に関しては、避けて通ってきたとしか見えません。それが、企業や社会システムを動かすのに最も「効率」が良かったからでしょう。それが何の効率かと更に突っ込めば、それは「経済効率」という事になるでしょう。

1646でも書いたように、経済に理が無いと仮定すれば、経済効率にもやはり理は無いとの結論になります。投稿者の言いたい事は、このブログの全体的主張でもあるのですが、「環境効率」にこそ理があり、それを全ての経済活動の基準に据えるべきだ、というものです。どの様な道筋で考えても、環境効率を高め、現在のマイルドな地球環境の持続性を高める行動には、絶対的な理があるとの思いを日々強めています。続きます。

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2012年2月26日 (日)

1646 経済にも理は無い

技術に理が無いと同様に、経済にもやはり理はない筈です。何故なら、経済こそモノの流通・交換の方便であり、経済がまだ存在しなかった時代の物々交換を、便宜的に決めた価値のシンボルである通貨を絡めて、少し便利にした「手段」に過ぎないからです。あるシステムが、目的かあるいは手段であるかのチェックは比較的簡単です。目的は唯一無二ですが、手段は目的に至るための方便ですから、いくつものオプションが存在する事で確認できるでしょう。

さて、経済は間違いなく手段ですから、単純に考えるだけでも、通貨や為替に拠らない取引という手段もありそうに思えます。例えば、物々交換やバーター取引と呼ばれる形態がその一つです。しかし、物量が大きくなり過ぎた現代社会では、それではあまりにも不便だし、モノの価値の基準が国や地域によってバラバラでもあり、利便性を追求した結果、不完全ながら今日の経済システムにたどり着いたのでしょう。

しかし、今の経済システムの状況をながめてみるに、明らかに理想の姿からは逸脱し、かつ歪みきっている様に見えて仕方がありません。地下資源をせっせと掘り出して生まれた価値(お金=例えばオイルマネー)が、地上にドンドン蓄積しついには雪崩をうって、あるいは洪水の様に、私たちに襲いかかって来ている様に思えます。目的を見失い、手段に振り回される構図は、歴史的にも何度も繰り返されてもいます。それを維持するために作られたはずの手段に押しつぶされて、結局は凋落してしまった文明や国々のなんと多い事でしょう。手段としての経済にもやはり理は存在しないと結論するしかありません。そうでないと言い張る経済学者は、「経済倫理」を私たちの前に示さなければならないでしょう。

 

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2012年2月25日 (土)

1645 技術に理は無い

環境問題から技術や経済問題へとブログの枝葉が伸びていますが、環境悪化の真の原因は、技術と経済の暴走にあると思っていますので、もう少し辛抱して貰うしかありません。さて、中間技術の前提ともなっていると思いますが、そもそも「技術とは何か」について、更に掘り下げてみます。技術とは、人が持っていた手ワザを体系化したもので、元々は、安くて誰でも手に入れられ、小さな規模で応用でき、人間の創造力を発揮させる様な、いわば補助的手段であったはずです。

しかし、産業革命(これは畜力・人力からのパワー革命でもあった訳ですが)以降、とりわけいくつかの近代戦争を含む近年は、その技術が社会を先導する様な、いわば逆転現象が常態化している様な気がします。核物質の濃度を高める技術が、核爆弾の製造を可能にし、その爆弾を持った国と持たざる国のパワーバランスが、極端に歪められてもいます。また、真空管を代替するために開発されたトランジスタが、「0」と「1」の2値を電気的に保持する「フリップフロップ」機能も持つことが確認されて以降、電子計算機(これも古い言葉になりました)に組み込まれ、この数十年で、信じられない様な長足の進歩を遂げたわけです。しかし、技術はそれ自身では倫理を抱合していませんので、誰かが「IT力」に関しても、核力と同様に如何なるモンスターを編み出すか、予断を許さない状況に至っています。ツイッターやフェイスブックの社会的影響力は、その望ましくない出現を強く懸念させます。

結局、技術は確かに物理科学(化学)の原「理」は応用してはいますが、ではそれを実際に人類の幸福のために使っても良いのか否かについては、何度も書いている様に、現在の技術の適用には倫理(技術倫理)への完全な無視があまりにも目につき過ぎます。

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2012年2月24日 (金)

1644 中間技術

シューマッハが提唱する「Small is beautiful」の中で、彼が言う「小ささ」の中心となるコンセプトは「中間技術」と呼ばれているものです。これは、現在、世界の大企業と呼ばれている企業群が、下請けや孫請けなどの裾野を巻き込んで展開している技術を「巨大技術」と呼び、家内工業や手工業的な技術を「小型技術=手仕事」と呼ぶならば、それに対比されるべき概念です。分かり易く言えば、中小企業が単独で、或いは何社か協力して枠組みを作れば、市場に製品を投入できる様な技術サイズで、しかもその製品へのニーズは企業が立地していている地域=足元にある事が前提になります。つまりは、それは決して華々しい輸出産業ではない、というタガも嵌っています。もし、輸出を考えるなら、その中間技術や工場自体を、必要とする国にそっくり移転する事になります。市場は、それぞれの国内にある訳ですから、異なる国でまったく同じ製品を作ったとしても決して競合状態になる事はない筈です。

さて、具体例を考えてみましょう。中間技術は、先ずは中小企業の手におえる規模でなければなりませんし、しかもその企業1社か精々数社の協力で全てが完結できる範囲の技術レベルである必要がありますから、製品価格としても数百万円から数千万円程度であると想定されます。現在世の中で見られる具体的なBUの例で言えば、中小規模の風力や水力利用、太陽熱・太陽光利用、バイオマスの利用技術などが挙げられるでしょう。ただし、それらは一般家庭に設置される、個別のソーラーシステムや常夜灯を灯す程度の小型風車などを指す訳ではありません。それらを、もし大企業が大きな工場で大量産をするなら、それは巨大技術になってしまうでしょうし、それを個人企業が手作りするなら、単なる手仕事になるからです。中間技術は、あくまでも中小企業として取り組むにピッタリのBUサイズである必要があります。

更に言えば、地域には、エネルギーや食糧や住宅や衣服(衣食住)に関しての基本的なニーズが存在する筈ですから、先ずはそれらの基本的なニーズ充足に寄与するために、第一優先として「地域の資源・エネルギー」に着目する必要があります。エネルギー源としては、太陽光が全ての基本になりますし、水が豊かな場所ではその活用も不可欠です。農業地帯や中山間地なら、バイオマスがその主役になり得ます。

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2012年2月23日 (木)

1643 刷り込み

ローマクラブの資源枯渇予測や環境悪化の予言、R・カーソンの指摘した静かな環境汚染、或いはシューマッハの予言がズバリ的中したエネルギー危機(石油ショック)や20世紀型経済の破綻など、彼らの予言や指摘に対して、投稿者が殆ど100%納得しているのは、自分で考えた事が彼らの思索と重なったと言うわけでは勿論ありません。そんな洞察力が備わっているのであれば、とっくの昔に何冊かの著書をモノにしているでしょうし、こうなる前に社会のオピニオンリーダーとなって、いくらかマシな方向に誘導できたかもしれません。

順序は全く逆で、投稿者は若い頃に彼らの著作を読んで、その論旨や考えが単純に刷り込まれたに過ぎないのです。メーカーのサラリーマン技術屋として長年暮らし、結局その立場に疑問を感じて、そこを飛び出さざるを得なかったのは、他の人とは少し違って、「刷り込み文字」が、年齢を重ねるに従って、段々濃くなってきただけなのだと振り返っています。その刷り込み文字は、バブルの崩壊やその後の経済低迷、石油価格の乱高下などを経て、更にくっきりと浮き上がってきたのでした。21世紀に入って間もなく、矢も盾もたまらず技術屋から環境屋に脱皮せざるを得なかったのは、彼らの深い洞察が、まさに本物だった事をますます確信したからでした。

取り分け、シューマッハの「私たちは、科学や技術で何をどうするかというノウハウは持っているが、それが一体どの様な目的に基づくものかを知らない」というメッセージは、その頃技術=ノウハウこそ重要だと考えていたノウテンキな一技術屋の目を覚まさせる強烈なパンチとなったのでした。たぶんその頃から、世の中を見る際には「目的と手段」という二つのフィルターと、鳥の目と虫の目を使い分けなる事を始めた様な気がします。一方では、単なる本や聞きかじりの知識の受け売りだけは止めようとも思いながら、暮らしてきたつもりではあります。この長たらしいブログでも、これまで仕入れた知識に自分自身の経験を織り交ぜた想いを、堅いスルメをしゃぶる様にクチャクチャト反芻しているという訳です。

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2012年2月22日 (水)

1642 創意工夫を取り戻すには

では、すっかり目減りしてしまった創意工夫の能力を取り戻す方法は無いのでしょうか。先ずは、知恵と知識を分けてかかる事が必要です。ネット上に蓄積された、或いは日々蓄積されつつある膨大な情報は、単なる「知識」であり、それ自体が何か物事を為すときの指針を与えてくれる訳ではありません。ましてや、よくよく吟味しないと間違った知識さえすましてアップされてもいます。喩えて言うなら、知識とはダムに溜まった水の様なものです。

しかし、知恵とはその水をどう使うかという、いわば知識とは次元の異なるものだと言うしかありません。つまり、ダムに溜まった水で、水車を回して電気を起こすのか、或いは用水路に流して農作物を育てるのか、或いはダム湖畔に宿を建てボートを浮かべてレジャー施設とするのか、はたまたダム湖で淡水魚を養殖して内陸漁業を始めるのか、水=知識の使い方はそれこそ無限にあり得ると言う事になります。その際、ダムに貯めた水を使って何をするかという発想ではなく、このダムが立地するエリアでは、一体何が求められ、何に特に困っているのかを、掘り下げて考えてみる必要があると思うのです。困っても居ない事に水=知識を使うのは、それこそ濫用というものです。水=知識は、両刃の剣でもあるので、時には洪水も起こすでしょうし、知識を間違って使えば武器や原爆だって作れる訳です。

創意工夫能力を呼び起こすための投稿者の提案とは、先ずは困ってみる、という状態に自らを置く事です。たった今困っていないなら、模擬的に困った状態を作り出しましょう。元電源のブレーカを落としてみれば、電気の有難みが疑似体験できるでしょう。携帯電話やパソコンや、身近な電化製品を一度押し入れに入れてみて何が、どの様に不便か、或いは車を車庫に入れっぱなしで1週間暮らしてみて、何が困ったかをながめてみれば良いのです。もし、あまり困らなかったら、それは今後とも必要のない道具でしょうし、確認のために使わない期間を1か月に延ばしてみれば、更に念が入るでしょう。ひどく困らない限り、ヒトの知恵も工夫も湧いてはきません。その意味で、原発が知識の間違った使い方であったのか、或いはそれが本当に必要な道具であったのか、これから夏場までの間にしっかり吟味されるはずです。 

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2012年2月21日 (火)

1641 創意工夫の放棄

ヒトには、他の動物には無い「知恵」という能力が備わっています。数少ない例外としては、チンパンジーなどの類人猿に、簡単な道具を使う「知恵らしきもの」が観察される程度です。さて、その知恵ですが、いまや殆どの「知識」がネット検索でき、或いは便利過ぎる道具が日々生まれている現在、ドンドン目減りしていっている様に思えて仕方がありません。必要は発明の母であって、困り事は工夫の父である事は論を待ちません。その意味で、現在の私たちの暮らしには、殆ど「重大な」困り事は無くなってしまった様なのです。衣食住がほぼ満ち足りた現在、暮らしの中に、お年寄りの持つ古くからの知恵などは入り込む余地を失ってしまった様なのです。

戦後にひもじい思いを経験した団塊以上の年代は、少なくとも空腹を満たすのに必死になった時代を通り抜けてきました。隙間だらけの住居で、大家族が身を寄せ合って暮らしていた時代、毎日が工夫の積み重ねだったと、自身の経験を通じても断言できます。子供は日々遊びの工夫をし、親世代は子供や自分の衣食住を少しでも改善するために、工夫を重ねていたと思うのです。1970年代の初めの頃に職を得た投稿者ですが、1970年代半ば以降は、食や生活物資がドンドン豊かになっていく過程しか記憶にありません。

電気仕掛けの便利製品が次々に市場に投入され、交通手段として車が爆発的に増加した社会の中で、人は新しいモノを受け入れ使いこなす事、そのモノを買うために1円でも多く金儲けをする事しか頭に無くなってしまったのかもしれません。他の人が作った便利な道具を、マニュアルを見ながら使いこなす事に知恵や工夫は必要ありませんし、金を稼ぐには少しばかりずる賢く立ち回るか、それが苦手な人はしっかりと体を動かせば良い訳です。自動化された工場では、体を動かすことすら必要なく、単なる監視で済む事さえ珍しくない光景になりました。続きます。

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2012年2月20日 (月)

1640 目的の無い技術

これまでも、「技術の目的」などのタイトルで何回か書いたような気がしますが、最近目に付く目的の無い技術について、改めて書いておきます。というよりも、そもそも科学や技術に目的など無かったのでないかとも思っています。科学とは、結局はヒトの好奇心の発露として知り得た事実を体系化したものに過ぎないでしょうし、技術に至っては目的の欠片もない「完全なる手段」だと言うしかありません。

例えば、車ですが、カーキチ諸氏がなんと主張しようとも、車は単なる陸上の移動手段に過ぎないのです。今の車の姿はといえば、現在の科学・技術で到達可能な移動手段そのものなのです。車以前の移動手段としては、種類は結構少なく、H田総一郎が作ったエンジンのついた自転車=原動機付き自転車があり、その前は自転車や鉄道や馬や馬車があっただけです。100数十年前にダイムラー・ベンツやフォードが実用化した車ですが、その後は他の陸上移動手段が発明されなかったので、仕方がなく私たちは車の改良を重ねて現在に至った訳です。もし、スターリングさんが、もっと効率の高い「すごい外燃機関」を実用化していたなら、或いはフォード車に鉄に替わる強靭で軽い素材が採用されていたなら、或いはダンロップさんがゴムタイヤではないスマートな動輪を発明していたなら、車の姿は今と似ても似つかない形になっていた可能性もあります。

その他の「新しい技術」と言われるもの、たとえば航空機やエレクトロニクスなどついても全く同じ事が言えるでしょう。あらゆる技術は、ある特定の機能を実現するための手段でしかないと断言できます。技術に理や目的を与えるのは、結局は倫理しかないのだと思います。それを「技術倫理」と呼んでおきますが、では原発に理はあるのかと問われれば、アインシュタイン以降、原子力は兵器であれ、原発であれ、度々の国際緊張や強いエネルギー需要の元で、結果としては技術倫理の網を掻い潜ってきたのだ、としか言えません。少なくとも、ヒトやあらゆる生物にとってこれほど危険なエネルギーを、たった二重か三重になった入れ物に入れただけで、1基100万kwもの出力を出し続ける様な危ない使い方を、一体誰が許したのか、という問いには答えは返ってこないでしょう。それは、産業政策を推し進め、人々の生活を快適にすると言う大義名分を実現するための「手段」でしかなかったと言うしかありません。

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2012年2月19日 (日)

1639 化石燃料という資本

前項の続きです。化石燃料が、人間社会のシステムを支える資本の一つだとして、それを食いつぶさない方法を更に考えてみます。人間が、勝手に使っても良いエネルギー源は、資本である化石エネルギーやましてや危ない原子力エネルギーではない事は、今後あるべき社会の大前提です。地下から勝手に湧き出てくる地熱エネルギーは、ギリギリでセーフだと言えます。

では何が絶対的にセーフなエネルギー源かといえば、言わずもがなですが太陽からのエネルギーしかないことは明らかです。これは、人類が存続しようが絶滅してしまおうが、今後何億年、何十億年に亘って地球に降り注ぐ「天からの恵み」だからです。これを、少しいただいて、人間社会を少しばかり快適に保つのは、自然の許容性というもう一つの資本から考えても許される範囲です。具体的には、太陽光発電、太陽熱利用、風力、水力、バイオマスなどの利用がこれに当たります。しかし、どの自然エネルギー=再生可能エネルギーを利用するにも、何らかの形の仕組み(ハードウェア)が必要となります。たとえば、太陽光発電におけるシリコンの精製やモジュール化、風力利用における風車や水力発電のためのダムや水車などです。

もちろん、これらのハードウェアやインフラを整えるためには、多大な資源や建設エネルギーが必要となる筈です。ここに、資本としての化石エネルギー(や地下資源)を役立てる局面が生じる訳です。したがって、単なる利便性やアメニティのためだけに使われるエネルギーは、これを最大限に抑制(我慢)して、自然エネルギー利用のためのハードウェアやインフラの建設の建設に、それを振り向けていく必要があると言う事になります。これが、シューマッハの言う資本の食いつぶしを防止する、唯一の方法だと言えるでしょう。

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2012年2月18日 (土)

1638 三つの資本

シューマッハは、化石燃料を、地球からのプレゼント=「所得」として見るのではなく、「資本」として見るべきだと主張しています。彼の見方では、私たちは資本であるべき化石燃料や地下資源を、さながら天からの授かりものの所得の如く「食いつぶしている」と言っているのです。確かに、2代目か3代目の経営者が初代の築いた資本(財産)を食いつぶした企業が長続きする筈もありません。その意味では、彼の主張には全面的に賛成できます。しかし、金属などの地下資源はさておき、燃やせばなくなる化石燃料は、資本として一体どう考えたら良いのでしょう。つまり、ことエネルギーに関しては、私たちは将来に亘って大事な財産を食いつぶすしか方法が無さそうにも見えます。

彼の言いたい事を想像して補えば、私たちは石油がまだある内に、次世代の持続可能なエネルギー源を開発しそれを確保しておきなさい、と述べている様に思います。石油は、賦存量の半分は既に消費してしまったので、その意味では残された時間はそんなに長くはないでしょう。エネルギーインフラの代替わりには、少なくとも数十年の時間を要するからです。取り敢えず化石エネルギーから絞り出す水素や、LNGやましてメタンハイドレートは、次世代エネルギーの候補リストから外さなければなりません。これについては、次項に続きます。

さてシューマッハは、エネルギー(を含む地下資源)資本と同じ意味で、三つの資本があると言っています。地下資源以外の残りの二つの資本とは、自然の許容性、人間自身なのだそうです。もちろん、彼は人間の社会を考えていた訳ですから、他の生き物を除外しているのは、仕方がないとは言えるでしょう。しかし、環境おじさんを自認する投稿者としては、ぜひ「彼ら=全ての生き物」も持続可能性の仲間に加えるべきだと主張しておきます。

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2012年2月17日 (金)

1637 製品のリストラ

企業の大型赤字決算が目白押しですが、これらの企業には、先ずは「人のリストラ」に走るのを思いとどまって貰いたいものです。その前にやるべきことは、製品のリストラだと思うのです。誤解を招くといけないので、製品のリストラを、ここでは「製品のバージョンアップ」と呼び換えておきます。ITの世界では、どんなハードウェアもソフトウェアもバージョンアップの努力を重ねているのは、誰もが知っている話です。IンテルのCPUも、Mイクロソフトの基本OSも、この十数年の短い間に、一体何世代の代替わりや小改良を繰り返してきた事でしょう。

振り返って、例えば家電の代表であるテレビ一つを取ってみても、ブラウン管を使った第1世代から、今はやっと2代目の液晶テレビに代替わりしたばかりです。近い将来に、膜が自身が発光する有機ELになってやっと3代目になる訳ですが、これにはたぶん更に10年程度の実用化開発と普及期間を要するでしょう。これまでメーカーが、そのパワーを注いできたのは、その時代に主流となった方式の製品コストを1円でも下げ、時間当たりの生産量を1台でも増やす努力でしかなかった訳です。

そうではなくて、メーカーにはより少ない資源やエネルギー消費で、より高い機能を実現する仕組みを日夜工夫して貰いたいのです。例えば、家電の代表選手であるテレビについて言えば、歯止めの効かない画面の大型化路線ではなく、どうせひとり一人がバラバラに番組を視聴する時代ですから、メガネの様に身に着けるモニター画面があっても良い訳です。これだと、超省エネが実現できるでしょうし、資源の使用量も最小で済みます。同様に車産業について言えば、今の半分の重量(資源使用量)で、逆に燃費は倍になる(リッター当たり50㎞以上)乗用車を開発して貰いたいのです。何しろ省資源かつ省エネで、目方当たりの単価が高い製品の提供こそが、資源小国であるこの国の産業が、国際社会で生き残る唯一の道なのですから…。

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2012年2月16日 (木)

1636 逆人口ピラミッド

人口構成は、一般的にはすそ野が広く、上に行くほど死亡率が高くなる結果少なくなり、ピラミッドの様な三角形になるところから人口のピラミッドと呼ばれてきました。しかし、教育水準が上がり、並行して出生率が低くなるにつれて「釣鐘型」に移行し、更に少子化が進めばこの国が悩んでいる様に、若い世代の割合が極端に小さい「樹木」型になると言う事の様です。何しろ、この国が「高齢化レース」では世界のダントツを走っている訳ですから、先進の他国も同じようになるかどうかは分かりませんが、いずれにしても問題の根は深いと思われます。

しかし、ものは考え様で、投稿者の提案はこの国の人口ピラミッドを逆さにしてしまおうというものです。逆人口ピラミッドでは、人は年を取っても元気で働ける限り、人口ピラミッドの底辺で、若者や社会を支え続けると言う考え方です。節制をしていたにも関わらず、病気やけがで動けなくなった高齢者は、このピラミッドの上に乗っても良いでしょう。つまり、元気な人は何歳であれ、支えを必要とする人口のサポートに回る社会構造を意味します。しかし、不摂生(例えばヘビースモーキングや深酒やメタボ)が直接の原因で病気になった人には、お灸をすえる意味で高い負担をしてもらうしかないでしょう。

さて、底辺の大人やお年寄りに支えられて、若い世代は懸念無くしっかり働けるでしょうし、新たに生まれた赤ん坊は、ピラミッドの頂点で国の宝になる訳です。つまりは、単に年齢で層別するのではなく、社会を支える能力の有無でピラミッドとして積み上げる訳です。これを、例えば国の制度とする「上から目線政策」では所詮民意の賛同は得られないでしょう。そうではなくて、これは若い世代には今以上の負担は掛けられないと言う、元気な団塊以上世代の「やむにやまれぬ善意」から生まれる制度でなければなりません。その意味で、投稿者より上の世代には、新聞の精読や、だらだらとしたウォーキングや、頻繁に出かける目的の無い旅行などで暇を潰している場合ではないと、褌の緒を締めて貰いたいのです。

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2012年2月15日 (水)

1635 延長線上ではなく

お役人は優秀であればあるほど、現在の延長線上の外挿で考え、判断を下す存在だと言えます。よく言われる様に、過去の実績に胡坐をかいて、「実績主義」での将来計画を立てる訳です。しかし、例えば地震が断層やプレート境界に起こる、不連続でしかも不可逆な現象であるように、たとえばリーマンショックや国や銀行などの経済破綻の多くも、不連続かつ不可逆であると言う点においては、地震と変わるところはない様に見えます。何故ならお金を持っている人や機関投資家は、鵜の目鷹の目で、次なる儲け話を探してはいますが、少なくともバブル崩壊を経験した世代が居なくなるまでは、たぶん同じ分野でギャンブルを仕掛ける事も無いでしょう。

さて、現象が不連続である限り、その対策も過去と現在の延長線上に存在する可能性は低くなります。具体的な例を挙げれば、破綻した、または破綻しかけている国があったとして、その国を立て直すのに、従来の経済的政策(例えば国債発行や他国からの支援による資金を注入しての景気刺激策)では、事態が好転しない事は明らかです。何より破綻の原因は、その国の経済が「持続可能ではなかった」事が原因ですので、対策はその問題の根っこに注目する必要があるからです。

従って、取るべき対策には、将来に向かって「本来あるべき姿」を描いた上で、そこに向かって現状からアプローチすると言う、いわゆる「バックキャスト」の手法が必要となる訳です。しかし、上に述べたように、実際に計画を立てる官僚はと言えば、相変わらず実績・実例主義でしか絵が描けませんので、いまこの国が陥っている様に、長いトンネルに入ったまま、或いは堂々巡りを繰り返す羽目になる事になる訳です。ケインズさんから連綿として続く経済屋さんにも、やはり将来ビジョンを描くのが得意な人をあまり見かけないのは偶然ではなさそうです。いずれにしても、金儲けの方法しか頭になく、金勘定しかできない人に、持たざる人や国の借金の清算を、ましてや人々の最大幸福への道などを相談するのは、所詮時間の無駄というものでしょう。ケインズ経済学を超える経済学(シューマッハの言葉を借りれば超経済学)の出現が待たれます。

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2012年2月14日 (火)

1634 選択と集中

右肩上がりの時代が終わりに近づいた時期に、大企業の経営者の口癖は「選択と集中」でした。つまり、今後とも利益が見込めるビジネスユニット(以下BU)には、経営資源(人、モノ、金)を集中させ、その事業の拡大と利益率の確保を狙った戦略だった訳です。一方で、その時点で収益率の低いBUは、たとえそれが社会的に必要とされ、将来の展望があったとしても、商売にならないものは切り捨てる方向に走ったのでした。しかし、当然の事ながら、競争相手も同じ様な事を、ほぼ同時期に考えていたはずです。何故なら、お互いに市場調査は怠りなく行っていたはずですし、所詮国やシンクタンクからの同様な情報インプット下での結論は似てくるものだからです。

その好例は、かつての重工業や重電機で、現在はエレクトロニクス業界や自動車業界に見る事が出来るでしょう。例えば、造船がK国やC国の追い上げでじり貧になってしまった局面で、重工は、航空機や新幹線や環境機器(それらはゴミ焼却炉など公害を防止する後ろ向きの設備ですが)などに活路を見出そうとしました。しかし、それもいまや必ずしも十分に成功しているBUとは言えない分野に成り下がりました。また典型的な設備型産業である、エレクトロニクスや太陽光発電パネル(PV)などは、積極的な設備投資を行った「追い上げ組」に対し、古い設備の更新に出遅れたこの国の企業は守勢に回り、結局は追い越されてしまったのでした。

投稿者が見るに、この方向は「再転換」しなければならない時代に入った様なのです。つまりは、多様なニーズに対する、多様な製品を提供しなければ、今後の時代には20世紀型企業として取り残されてしまうからです。一方で、各BUのサイズは可能な限り小さくしておかなければならないでしょう。何故なら、多様なニーズがそれぞれ要求する量(デマンド量)もますます小さくなると思われるからです。今後、多品種・小ロット生産体制に移行できなかった企業は、大きな設備を抱えて路頭に迷うしか道はなくなるだろうと見ています。この時代の流れに柔軟に対応できるのは、実は自動化設備などではなく、自分の頭で考え行動できる人間力だと言う点も重要なポイントです。

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2012年2月13日 (月)

1633 救いか呪いか

EF・シューマッハの「スモールイズビューティフル」を読み返していますが、1970年代に、これほど見事に現在を含む未来を見通した著書も少ないと、しみじみ感じ入りました。1632に投稿者の浅はかな感想で、原発再稼働には気は進まないながら目先のエネルギー危機を乗り切るためには、しっかりチェックした上なら当面の稼働は仕方がない、という様な事も書きましたが、この著書の「救いか呪いか」の項を読み返すにつけ、原発にはやはり未来永劫静かに眠って貰うしかない、と思い直した次第です。

シューマッハの論点は明快です。ウランという単純な放射性物質から、核分裂の結果、おびただしい種類の危険な放射性物質が生まれ、かつその処理に有効な方法が見出されていない結果、今後も永く環境に蓄積され続ける、という恐怖感を述べている訳です。しかも、それを長期間保管すべき、完全に安全な場所など存在しないと言う点も指摘しています。地震列島であるこの国にもまさに、放射性物質を燃やしたり、保管したりするに安全な場所など存在しない事は、昨年の震災で100%証明されてしまいました。保管期間は、しかも放射能が「事実上危険でなくなるレベル」まで、という前提が着きますので、長い半減期のその何十倍も長い期間に亘る訳です。

もちろん彼の結論は、放射能は明白な呪いであるというものです。加えて、その膨大なエネルギーを武器という最悪の方向に使うと言う危険な可能性を持つ限り、やはり放射性物質には、再び地下深くにお隠れになって貰わなければならないでしょう。というわけで、1632に書いたシブシブながらの原発再起動の条件は取り下げて、改めて強い反対派に回ることといたします。

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2012年2月12日 (日)

1632 徹底比較

1631の続きです。福島第1と第2は、ほぼ同条件の場所に所在し、同様に津波を被りましたが、片方は辛うじて冷温停止移行に成功し、片方は残念ながらメルトダウンという最悪の事故を起こしてしまいました。しかし、まだ津波や原発事故の記憶が生々しい内に、是非しておくべきことがあります。それは、福島第1と第2の徹底比較です。第2でも津波後は同様に電源が失われ、一つの原子炉ではメルトダウン直前まで追い込まれた様です。しかし、ここではそれを切りぬけ、しかし第1ではそれに「失敗」した訳です。事故原因には、大きく分けて設備の構造的な弱さとヒューマンエラーによる人為的なもの、或いはその複合があります。

そこで、専門家にこの二つの原発の比較表を作って、徹底的に比較をしてもらいたいのです。ここでの専門家とは、単に原発の専門家だけでは事足りません。事故には間違いなくヒューマンファクターも大きく関わっていたはずなので、心理学者には双方の原発スタッフの行動や、心理的な葛藤までも比べて貰いたいのです。

その徹底的な比較表で、結果を分けたハード面と行動面のファクターを取り出し、既存の他の原発のハード、ソフト面の改善に適用すれば、少なくとも福島第1の二の舞は防げるはずなのです。その説明をすれば、投稿者としても再起動にはあまり気は進みませんが、消極的ながら再起動を考えている原発立地自治体の理解もそれなりに得られると思うのです。コンピュータによる地震・津波ミュレーションや、その計算のための境界条件を与えた、(再起動ありきの)色着きメガネを持った原発メーカーの「専門家」が作った検証結果を、そのまま鵜呑みにせよと言っても、それは無理な相談というものです。その際少なくとも、上で述べた公正で客観的な比較表は、説得力を持った判断材料にはなり得ます。

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2012年2月11日 (土)

1631 机上のテスト

コンピュータの中で、原発の安全性がテストされたのだそうです。その結果が安全なら、国としても「取り敢えずは」再起動OKとの結論を出すのでしょう。しかし、ちょっと待ったです。誰が、現物のハードウェアを確認したのでしょうか。数日前の新聞記事で、同じく津波を被ったものの冷温停止中の福島第2原発で、圧力容器の下部構造などを公開したと報道されていました。同様に、全国のほとんどの原発が冷温停止している今の時期こそ、徹底的な横断的ハードウェア点検の好機だとも言えるでしょう。原発は、電力各社がそれぞれに建設し、メンテナンスされているため、原子力村の専門家を除けば、マスコミや「村」関係者以外に設備の裏側(バックヤード)を公開する事はほぼ皆無でした。

しかし、実際に燃料棒を上下する機構や冷却水ポンプの設置状況や、バックアップシステムの緊急時のマニュアル操作の仕組みを、原子力の専門家ではない、一般の設備の専門家が覗き見るだけでも、多くの問題点が浮かび上がってくるのだと想像しています。というのも、設備には故障が付き物ですので、その道の専門家であれば、トラブルが起きそうなポイント(ハードウェアの弱点)は、一目で見抜く事が出来ると思うからです。

もう一つのポイントは、緊急冷却システムなどの絶対に停まってはならない装置は、単にバックアップ(スタンバイ機)が設置されているだけでは十分ではないと言う点です。バックアップのバックアップシステムは、作動原理の異なるシステムである必要があるのです。電動ポンプのバックアップは、電動以外に、蒸気ターピンやディーゼル直結駆動など、複数のシステムで構成されている必要がありますし、当然の事ながら設置場所も、別区画である必要もあるのです。そうでなければ、いかなる場合も安全であると言うフェイルセーフ(Fail Safe)の考え方とは程遠い、危ないシステムだと切り捨てるしかないのです。

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2012年2月10日 (金)

1630 無重力実験

少し延期にはなりましたが、またぞろ宇宙ステーションに人を送るとか。スペースシャトルが引退したいま、交通手段は今度もばか高いRシアの「宇宙タクシー」を使わなければなりません。その意味で、せっかく作った「宇宙の小部屋」を、空き室にしておくのは勿体ないなどと考えるのは、まったくの筋違いです。空き家にしておいてもお金は掛かりませんが、人を送るためには食糧や水や補給物資を含め、タクシーの他にも別の貨物便も必要となります。もうそろそろ、超健康な宇宙飛行士を、自力では動けない状態になるまで、小部屋に閉じ込める愚は再考すべき時期だと言っておきます。

無重力空間で、各種の実験が必要なら、精工に作られたロボットこそその任に最適でしょう。「彼(又は彼女?)」は、太陽電池が働いている限り、それこそ不眠不休で働いてくれるはずです。船外活動だって、電線さえつながっていれば宇宙服などは不要なのです。実験機材を送り込むだけなら、それこそこの国がお得意の超小型ロケットや遠隔操作技術が100%役に立つでしょう。

それよりなにより、無重力下でなければ各種の高度(と呼ばれる)実験できない理由など、殆ど無いのだと言えるのです。完全無欠な合金や、重力下では合成が難しい医薬品だって、数秒間の無重力であれば地面に掘った立坑を使えば十分可能ですし、疑似的な無重力なら、航空機を使っての数十秒間の持続も可能です。不要不急の宇宙実験に、「天文学的」な予算を費やすくらいなら、それを再生可能エネルギー技術の開発や実用化に注ぎ込んでもらいたいのです。地上の暮らしの問題解決こそ、最優先されるべき課題でしょう。何度でも繰り返しますが、宇宙開発で手に入る資源としては、真空と無重力と暗黒しか存在しないのですから…。

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2012年2月 9日 (木)

1629 「公」を考える

経済学者は、経済活動を論ずる際、たびたび経済合理性を振りかざします。例えば、ある市場においては、需要と供給から市場価格が決まり、一定レベルの経済活動が回っていくなどと表現します。需要と供給のバランスが崩れた時に、市場価格が変動し、新たな価格に落ち着くと言った経験則を、この傾向に合わせた後付けの数式に表したりもします。

しかし、実のところこの経済合理性に市場を任せた結果、今の経済システムの混乱が生まれ、環境の悪化も加速した訳です。結果的に見れば、20世紀型の経済合理性に「理」は無かったと言う事にもなりそうです。それでは、どこで間違ったのかの反省こそ必要です。どう考えても、国を挙げて拙速な経済成長主義に走り、しかも欲の皮の突っ張った拝金主義を奨励した事に根がありそうです。アメリカンドリームが現実であった時代は、20世紀前半のテキサスの石油王や、後半ではAップルやMソフトなど「IT鉱脈」を掘り当てた人たちが、ビジネスの第一線から退場した時点で終わったのだと思います。

今後の経済合理性は、やはり「持続可能性」にその根拠を求めなければならないでしょう。それは、富やモノが社会の一か所(例えば機関投資家やお金持ちの銀行口座です)吹き寄せられるのではなく、社会の隅々まで万遍なく回る仕組みを必要とします。元々地面に埋まっていた資源を掘り出したものが、資本を出したとはいえ誰かの独占的所要物である筈がありません。かなりの部分は、公共の財産と考えるべきでしょう。誰かが主張するように、世の中は官と民に分けられるのではなく、その間にある「公」の部分の拡大こそ今まさに必要とされる行動であることに同意します。なおここでは、「公」とは、顔の見える助け合いを意味すると定義しておきます。それは、今は狭い意味で使われている「結い」やNPO活動が、社会活動の大きな部分を占める様になる事を意味します。共同で手に入れたものを、関わった人たちが平等に分け合うわけです。自然エネルギーの利用などは、この「小さな公」の仕組みにピッタリの対象になり得るはずです。

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2012年2月 8日 (水)

1628 赤字合戦

大手企業が赤字決算の額を競っている様に見えます。数千億円規模などと言う赤字は、そう簡単には生まれないだろうと、そんな天文学的な額のお金を想像すらできない投稿者はため息をつくだけです。庶民の想像の範囲は、精々宝くじの当選金額くらいでしょう。そういえば、それも最近は5億円にスケールアップしたとか。経済のデフレと、射幸心のインフレは相反する現象の様です。

さて、赤字になる理由はシンプルで、ビジネスプランが当初計画通りに回らない事にあります。単純な見込み違いの場合も多いのでしょうが、数千億円規模ともなるとやはり経営者は、為替変動や地震・津波や水害や市場の冷え込みなどの悪化原因を持ち出して、株主に言い訳をしたくなるでしょう。しかし、水害や地震・津波を除けば、それらの変動は起こるべくして起こったと言うしかないのだと思います。かつてこの国のバブルが「弾けるべくしてはじけた」様に、債券市場の不安定化や為替の大幅変動は、後知恵にはなりますが、それが必然だったとしか見えません。

20世紀型の、ビジネスモデルはそろそろ終わりにしなくてはなりません。では、21世紀型のビジネスモデルはどうあるべきかと突っ込みが来そうですが、何度も書いている様にそれは、基本的な衣食住に依拠したものである必要があると見ています。いわゆる先進国では、もはやそんなものは充足しているとの反論もあるかも知れませんが、これも何度も書いている様に、それらの殆どが「持続可能な仕組み」とはなっていない事に早く気づくべきです。例えば、化石エネルギーを使った機械力や化学肥料や化石水に頼り切った大型農業が持続可能ではない様に、大量の地下資源を採掘し、大型船を使っての輸送し、集中的な工業生産と、出来た製品の世界規模での交易も、まったく持続可能ではない事が、近年の経済システムの歪に顕著にあらわれている様に見えます。つまりは、真のニーズと実際の製品とその生産量に、すでにかなり大きなミスマッチが生まれている様なのです。一方で、「短気なお金」は、電子化された結果、実際の経済不具合が起こる前に先回りする事が出来、逆にそれが不具合を拡大する現象も引き起こしています。大手企業の赤字合戦は、それらの兆候の一つかもしれません。

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2012年2月 7日 (火)

1627 北極振動

ヨーロッパやアジアは、近年まれにみる低温状態にあり、日本では併せて豪雪にも見舞われていますが、他方で北米は異常な高温に見舞われている様で、緯度の高いニューヨーク辺りでも20℃を超える気温を観測している様です。コリオリの力によって極気団の縁を回るジェット気流は、寒気と暖気の境目でもありますが、北極気団そのものも北極振動と呼ばれる強弱を繰り返している事と、ジェット気流のクローバ型の歪みなどによって、同じ程度の緯度の地域でも、寒暖には大きな差が出る様です。

南米沖のエルニーニョやラニーニョ現象との関連もあるのでしょうが、北米の高緯度地域でのこの時期の20℃は、やはり超が付く異常気象とみなければならないでしょう。しかし、いずれにしても目先の、しかも地域限定の低温や高温等の「異常気象」に注意を奪われてはならないとは思います。本当に有害な「気候変動」が発生しているかどうか結論は、長期的なトレンドを見通してしか見えてこないからです。

ところで、北極振動は、エルニーニョやラニーニョ現象と同程度に注目すべき現象ではあると見ています。どちらも数年から十数年の周期での不規則な振動を繰り返していますので、相互に干渉し合っている現象である可能性は高いと想像できます。知りたいのは、その不規則性の「規則性」です。気象現象は、何らかの自然現象の引き起こす原因と結果によって生ずるはずですから、不規則な現象にもやはり何らかの理窟があり、規則があると思うのです。しかも、気象現象のリアクションには、海水温度が関わる場合数年のヒステリシスもあるため、時間遅れにより現れる現象は一見複雑になりがちです。とは言いながら、素人がでたらめに想像しても仕方がないので、結論は頭の良い気象学者の観測と今後の研究に待つことにしましょう。

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2012年2月 6日 (月)

1626 新経済モデル

20世紀を通じてこの国の経済発展モデルは、いわゆる途上国型でした。つまりは、先進国の技術やシステムに学び、それを改良して、比較的に安い労働力と「カイゼン力」を利用して輸出で外貨を稼ぐ、というものです。思い出してみれば、このモデルが最も有効に機能していた時期には、海外からライセンスを買う件数が最も多かった時代でもありました。投稿者が在籍した企業でも、ロボット、ディーゼルエンジン、ガスタービン、航空機、船舶機器、LNGLPGのタンク構造、油圧機器などなど、矢継ぎ早に契約した技術導入案件には枚挙にいとまがありません。

しかし、ここにきてC国やK国などの追い上げに晒され、このモデルにもそろそろ壁が見えてきた様に見えます。その一つの顕われが、貿易収支の赤字転落という見方もできます。比較的競争力があると言われてきた、エレクトロニクスやOA機器産業や家電産業において起こっている、N社やT社やR社やC社の赤字決算や大幅な人員削減という名のリストラのきっかけもやはり、同根とみるべきでしょう。この国の貿易赤字への転落の原因を、ひとり欧州経済や震災による短期的な輸出の落ち込みだけに押し付ける事は出来ないのです。

低成長時代にマッチした、持続可能な新たな経済モデルがぜひ必要です。購入できる社会階層が限られる、車や電気製品やOA機器やましてや贅沢商品などは、もはやゲップが出るくらい普及しているはずです。一方で、そんな工業製品の存在や購入など夢想すらできず、いまだに食うや食わずの生活をしている南の国の人口のなんと多い事でしょう。私たちは、せっかく先進国の一員に成り上がったのですから、これらの人々に手を差し伸べ。寄与する技術開発と、それを使ったビジネスモデルを他の先進国に先駆けて確立する必要があると思うのです。それは、たぶん砂漠地帯でも持続可能な農業技術であり、太陽光の多面的な直接利用技術であり、海水の淡水化技術であり、水棲生物などによるバイオマス技術であり、加えて全ての技術開発に優先するのでしょうが「人工葉緑素」技術を使った食糧生産などになるのでしょう。

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2012年2月 5日 (日)

1625 メタンハイドレート

国産の化石エネルギーとしてのメタンハイドレートの試掘が始まる様です。資源の無いこの国にとっては、まさに夢のようなエネルギー源の様にも見えますが、投稿者の見方はネガティブです。メタンハイドレートが、どの様に生まれたかは諸説ありますが、生物由来にせよ地殻由来であるにせよ、メタンガスは、深海が折角閉じ込めた強力な温暖化効果ガスでもあった訳です。もし、これらのガスが大気中に存在したままであったと仮定すれば、今の地球は水星の様に灼熱地獄だったかもしれません。メタンガスそのままの放出ではないにしても、その眠っているガスを掘り出して、燃焼させればやはりCO2は更に増加するでしょうし、結果として温暖化も加速する事にもなるでしょう。

原発が止まって、エネルギー源が不足するからという理由だけで、安易に新たな化石エネルギーを探して掘り出すのではなく、原発に頼らなくても済むエネルギー消費レベルに下げていくのが、正しいアプローチだと言っておきます。何億年もの間地下に眠っていた、石炭や石油や放射性物質などの化石エネルギーを叩き起こした結果が、現在の環境悪化を招いている事を、私たちは再度確認しなければなりません。

何らかの自然界の必然性があって、せっかく海溝の底深くに、シャーベット状の水和物となって眠っているメタンを、土足で踏み込んで叩き起こす「無礼」を考えなくてはなりません。先ずは、それを掘り出す事についての事前評価(環境影響評価)が必要でしょう。本当に、深海の生き物や、海洋に影響が出ないのか、それを掘り出して燃やす事によって一体何が起こるのか、頭を冷やして考えてみる必要があるでしょう。もう、一つの方向だけにダッシュする事は止めましょう。エネルギー資源の新規開発ではなく、脱エネももう一つの大きな選択肢です。

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2012年2月 4日 (土)

1624 利雪・克雪

各地で大雪です。温暖化が進んでいるのになぜ大雪になるかはこれまでもいくつかの理窟を考えて投稿してきましたが、それはさておき、ここでは取り敢えず目の前の雪の利用と、克服の方法を考えてみます。

先ず利雪です。雪は、どう考えても白い事と、冷たい事くらいしか長所が思い当たりません。もちろん、空気を多く含む新しい雪は、それ自体が軽い断熱材でもありますが…。昔の人たちは、しかしこれらの利点をしっかり利用してもいました。例えば、白くて冷たいと言う特徴は、染めた布や和紙原料の漂白(雪晒し)として、最大限活用していたはずです。また、冷たくて、しかし保温効果ゆえに雪の下は凍っていないと言う特徴は、雪室などでの野菜や穀物の氷温貯蔵にうってつけでした。ならば、せっかく苦労して除雪した雪を川などに捨てるのでなく、古いトンネルや、新しく掘ったトンネルの中に放り込み、春先から夏場にかけての食料の貯蔵庫として使うのも有効な利雪方法でしょう。この雪室ではエネルギーが一切不要です。しかも、氷温貯蔵ですから、食糧やお酒などの熟成も適度に進み付加価値が上がるでしょうし、春先の野菜の端境期や初夏に冬野菜などを出荷すれば、より高値で売れるでしょう。

克雪には、結構知恵を使わなければならないと思われます。新雪は、結構フワフワで比重も小さいのですが、厄介なのは圧縮されて、いかも凍って重くなった雪です。そうなってからの除雪は、新雪に比べれば何倍も苦労する事になります。つまり、積もってから除雪するのではなく、前の晩に積もった新雪を、翌朝簡単に屋根から落とす仕組みが是非必要です。最もシンプルな方法は、屋根のこう配を急にすることですが、既存の建物ではそれも叶いません。次善の策としては、予め屋根の上にフレームを立てて、そこにシート状の雪落としの仕掛けをセットしておく方法が考えらえます。摩擦係数の小さなシートを使えば、特に屋根勾配を大きくしなくても、雪は滑り落ちてくれるはずです。もし必要であれば、シートに少しの振動を与えれば、より緩い勾配でも、更に滑りは良くなります。

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2012年2月 3日 (金)

1623 人口予測

最新の予測では、50年後には、人口が今の2/3にまで減り、65歳以上の人口が4割になり、社会保証も肩車型になるとのだとか。政治家もその尻馬に乗っかって、50年後には全くその予測通りになる事を前提に、不毛な国会論戦を展開しています。将来「予測」などと言うシロモノは、お役人の好きな数字のお遊びに過ぎないのです。そんなヒマがあるのなら、そうならないためのアイデアの一つでもひねったらと心底情けなくなります。そもそも予測とは、単なる現状の追認と、直近の実績と傾向の外挿から導かれる算数でしかありません。好ましくない予測は、単にその数字を示すだけでなく、そうなった原因と、そうならないための方策をセットで示す必要があると思うのです。

上の予測の根拠が、団塊世代と団塊ジュニアの現実の人口であるにしても、高齢者がそもそも若者の肩車の上に乗ろうなどと考え、単純にそう予測するのでは全く能がありません。元気な高齢者が若者と協力して、元気を無くした高齢者を騎馬戦型でサポートする、現実的な仕組みを編み出さなければならないでしょう。取り敢えずは高齢者が、死ぬ直前まで元気で動けるアイデアを山ほど考えだし、出来るものを最大限実行する事が必要です。考え方は単純です。高齢者の肉体的能力を徐々に低下させるのは簡単です。仕事をさせないで、楽をさせて遊ばせておけば、自動的に筋力や骨が弱り、生活習慣病とも仲良くなれるからです。そうではなくて、高齢者も積極的に運動や筋トレをし、食にも気を付けて、生涯現役を貫く事を勧奨する社会の仕組みが必要です。

一方で、若い現役世代には積極的に子育てが楽しめる仕組みの準備も必要でしょう。彼らをサポートする応援団には、元気な高齢者たちにお願いしなければならないでしょう。幼稚園や保育園や小学校には、保育士や若い先生をサポートする高齢者応援団が多く関わるべきです。企業においては、多少の年金を貰いながらでもよいので、自分の得た知恵や技を若い世代に伝える企業ボランティア活動を推奨する社会のムードや仕組みも必須です。分かり易く、現代の徒弟制度を作るのも良いでしょう。心あるシニアは、ジュニアに知恵や技を伝えきるまでは、死ぬに死ねないと思い定めるでしょう。

この様な、アイデアを山ほど積み上げれば、算数や作文だけが得意のお役人の予測など、簡単にぶっ飛ばせるはずです。

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2012年2月 2日 (木)

1622 温故

最新の技術や知見を知る「知新」の前に、すべきことがあります。四字熟語の順番で言えば「温故」です。エネルギーのひっ迫が叫ばれている昨今、投稿者のお勧めは70年代の二度のオイルショック後に編み出された、省エネ・脱石油の知恵を学ぶことです。何しろ、この時は原油価格が数倍になり、ガソリンなどの石油製品価格も2倍になり跳ね上がり、つられて色々な商品の価格も上昇、しかもその傾向が右肩上がりだったため、国を挙げてパニックに陥ったものです。

しかし、戦後のモノ不足を経験し、生来の工夫好きでもあったこの国の人々は、これに対抗するために多くの工夫を重ね、多くの省エネ・新エネ技術を開発したのでした。タップリ時間のある人は、1週間くらい大きな図書館に通い、その頃の新聞記事を丁寧にスキャンすれば、多くの有用な情報やキーワードが見つかるはずです。国もサンシャイン計画やその後のムーンライト計画に、どれほどの税金が注ぎ込まれたかを考えると、その頃の成果をお蔵入りにさせるのは、その税金をドブに捨てるに等しいと思うのです。これらのプロジェクトから生まれた開発技術の中からは、太陽光発電の様に日の目を見た技術ももちろんありますが、多くは報告書やその試作品の製作程度で終わってしまったものも多い筈です。少し思い出すだけでも、風力発電、太陽熱発電、光触媒による水分解(水素発生)、潮汐発電、濃度差発電、熱電素子、波浪発電、小水力利用、バイオマス利用技術、パッシブ冷暖房住宅、地熱利用技術などなど、枚挙にいとまがありません。

最近これらの技術の再発掘やバージョンアップが、ボチボチ始まってはいますが、まだ限定的です。とりわけ、太陽光の直接利用(紫外光=エネルギーや光合成など、可視光=昼光利用など、赤外光=熱利用など)、とりわけ太陽光+光触媒による水素発生技術、さらにはバイオマスの高度利用については、優先度を上げた開発の加速が必須です。これらのアイデアを報道した新聞記事から、その特許公報や論文などに当たれば、今の技術を組み合わせて、比較的短期間で実用化することは十分可能でしょう。もちろんその頃の特許権などはとうの昔に切れていますので、まったくフリーで使えるでしょう。

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2012年2月 1日 (水)

1621 人口減少

この国の人口がピークを打ったのは確か2004年の話ですが、今回の人口の将来予測で、急激な減少傾向が、念を押される形ではっきりしてきました。首都圏に近い千葉県においても、昨年度には減少が確認されたとの事。そういえば投稿者が住む団地や、近くのいわゆる新興住宅地でも、いまや「高齢者団地」の様相が顕著です。少し前、人口10万人を少し超える程度のベッドタウンで開催された高齢者大学の会合で、温暖化と省エネの話をするように頼まれたことがありました。大きなホールでしたが高齢者がゾクゾクと700人も集まった事にびっくりした経験があります。これらの人たちの子供は、成人し就職して別の場所に居を構えているため、たぶん夫婦二人だけの所帯が殆どになったと想像しています。彼らは、昭和50年代に急拡大した住宅地に、ローンを組んで夢の一戸建てを手に入れたであろう正真正銘の団塊世代なのです。

彼らに続く世代も、人口ピラミッドで見れば、結構太い部分が続きますので、当分はツリー型の人口ピラミッド構成は解消される事はありません。三世代同居が当たり前であった、昭和の前半までに対し、高度成長期以降に庶民の理想とされた戸建て、核家族化が、今となっては人口増加の壁になっているのは皮肉な話です。核家族で多子を育てるのは、経済的にも、体力的にも至難の技でしょう。一方で、温厚な祖父母同居で育てられた子供が、精神的にも安定であることは明白な傾向です。少子化社会で、しかもそこで育てられた若者のかなりの部分が、精神的不安定を抱えていると言う現実は、景気の浮揚などの議論の前に、真剣に考えるべき社会問題だと言えます。

また限界集落は、何も中山間地だけの問題ではなく、いまや都市近郊の住宅地でも普通に見られる都市問題でもあります。いま真剣に考えるべきことは、高齢者の社会貢献=生甲斐対策しかないと思うのです。まだ元気なこの世代が、旅行などのヒマ潰しに終始し、現役世代のお荷物にならないための生き方(生甲斐作り)への提案がぜひ必要です。人口減少=高齢化社会の真の問題は、お金の(医療費や税金・年金の)問題では絶対ないでしょう。

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2012年1月31日 (火)

1620 正義について

M.サンデルの、正義に関する問いかけはなかなかに刺激的です。テレビ放映された講義や、著述の中で、学生や読者に正義の選択を求める極限状態を投げかけ、人としての正しい行動=正義のあり方を問いかけます。サンデルの頭脳には遠く足元にも及ばないにしても、このブログでの視点は、人間の正義ではなく、環境によって生かされている生き物全ての正義を論じてきたつもりです。「環境原理主義」との揶揄は甘んじて受けた上で、このブログでは、より長いレンジでの「持続可能性」こそ正義だと書き連ねてきました。サンデルが論ずる人の世の正義は、残念ながら多くの生き物の中でも動物、その中で「地上にたった60億個」の個体しか存在しないヒトの世界の出来事にしか適用できません。そのくらいの数の(微)生物で良ければ、手のひらの上の一握りの土の中に見つかるでしょう。

サンデルの正義を、環境全般(森羅万象)に広げたものは「環境正義」とでも呼ぶのでしょうが、それを人間のイデオロギーに置き換えるとすれば、環境原理主義とでも呼ぶしかないのかも知れません。しかし投稿者は、原理主義者でも功利主義者でもましてや、神秘主義者でもないつもりです。元技術屋、今環境屋としては、単純に環境効率については大きく問題にしなければならないし、現世代の人間が引き起こした(引き起こしつつある)問題については、次世代にツケを先送りすることなく、我々責任世代でどうにかカタをつけなければならないと考えているだけです。

環境原理主義は、たぶん環境保全のためには人間の犠牲も致し方ないとまで極言するのでしょうが、このブログの立場は、過剰な人の欲を抑えて環境負荷を下げる、精々「環境禁欲主義」程度のものでしかありません。かなりの程度「環境正義」の方向は向いているにしても、環境の今以上の悪化を防ぐための姿勢や生き方を考えるものでしかないのです。

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2012年1月30日 (月)

1619 一粒で三度…

自然エネルギーの利用の際のキーワードは、一粒で二度おいしい、或いは一石二鳥などの「エネルギーお下がり利用」利用です。太陽光発電で電気だけを起こして終わりでは知恵が足りません。最低でも、高温になると効率が低下する太陽光発電(以下PV)の欠点をカバーするために、PVの裏側を水冷し、その水(温水)を利用する、電気・熱のハイブリッドシステムくらいには太陽光を活用したいものです。

しかし、ここで提案するのは、そこで終わらせたくないという欲張り案なのです。太陽光には、種々の波長の光(一般的にはそれらをまとめて電磁波と呼びます)が含まれます。連続した太陽光のスペクトラムを無理に言葉で切り分けるなら、虹の七色、或いは紫外光、可視光、赤外光くらいになるでしょうか。異なる波長の電磁波には、それぞれの特徴があって、利用法も当然違ってきます。紫外光は、エネルギーレベルが非常に高いのですが、減衰も大きく地上まで届く割合は限定的です。しかし、PVに起電力を与えるのは紫外光ですし、植物の光合成や光触媒を活性化するのもこの波長です。

可視光は、動物にとっては重要なものです。モノの認識に可視光を使う生き物は、数多いでしょうし、人間は特にこの光に頼り切って暮らしています。そのため、昼間っからビルや工場や家庭でも、電灯を点けなくては仕事ができないし、暮らしても行けません。しかし、晴れた日中に、何故屋内で電灯を点けなくてはならないのか、天窓や昼光利用の方法はないのか、建築家には照明デザイナーとコラボして、改めて考え直して貰いたいのです。建物構造に、光を導くダクトを作り込んでおけば、昼光利用も簡単でしょう。

しんがりは、赤外光です。赤外光は減衰しにくい電磁波です。というより、絶対零度でもない限り、温度を持つ全ての物質から放射されるくらいです。つまり、温度に応じた波長の赤外線が我々の周囲には入り乱れて行き交っています。もちろん、低い温度(長波長)の赤外光は、殆ど役には立ちませんが、短い波長の赤外光は使い道も広い筈です。赤外光は、反射材で集めたり曲げたりできますので、工夫してもっと上手く利用したいものです。太陽光を三度くらいしゃぶり尽くせば、化石エネルギーの使用は大幅に削減できるはずです。

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2012年1月29日 (日)

1618 利害の統一

今の政界のドタバタは、結局のところ短期的な利害を代表する政治屋の勢力争いに過ぎません。と言うより、つい最近までは、確かに政党はステークホルダーの看板でしたが、最近の小競り合いの様子は、国民のみならず既にステークホルダーからもソッポを向かれている状況としか見えません。つまり、今の政局は、まっとうなステークホルダー間の勢力争いから、政党(というより政治屋グループ=ファクション)だけの小競り合い(あるいは場外乱闘)としか言えないでしょう。

ステークホルダー間の利害の統一(調整)は、簡単だとも言えますし、非常に困難だとも言えます。つまり、利害を想定する期間とそのグループのアスペクト(あまり良くない表現では「縄張り」)をどう考えるかによって、結果が大きく異なるからです。あるファクションにとって、短期的には不利益だとしても長期的にはそれを回収できるかも知れません。また、自分のグループにとっては不利益でも、国として見れば利益につながる事も多い筈です。

結局、利害の統一のためには、想定する期間と範囲を可能な限り長く、広く取るしか方法は見つからないはずなのです。それを「国家百年の計」と呼んだり、或いはこの愚ログ「7世代後の幸福」と喩えたりしています。短期的な景気の変動や、狭い業界団体の利益誘導だけ、ましてやその利益団体の支持さえ失いつつある、政党間の醜い場外乱闘は、いますぐにでも止めなければなりません。つけっ放しのラジオから流れてくる、相変わらずのかみ合わない国会論議(ではなくて原稿の読みあわせなのですが)は、時々の「原稿の読み間違い」も混じって、まったく聞くに堪えないやり取りではあります。

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2012年1月28日 (土)

1617 悪いリストラ

この国を代表する老舗のエレクトロニクス企業もリストラだそうです。しかし、リストラ(Re-structuring)の本来の意味は、「事業の再構築」ではあっても、絶対に「大量人員整理」ではなかった筈です。製鉄不況の時代、大手製鉄会社が養豚を始めた事を思い出します。これは、結果としてはやや方向はズレていたかもしれませんが、大量解雇に比べれば、100倍くらい立派な行動だったと思います。プラスとマイナスですから、実のところ倍率などでは比較できないかも知れません。重厚長大産業が飽和し、軽小短薄の代表であったエレクトロニクスにも限界見えた今、企業の取るべき行動は、将来の飯のタネ探しであるべきなのです。鉱物資源もエネルギーも無く、その他のめぼしい資源にも恵まれないこの国が、今後何で飯を食っていくのか、人員整理などに夢中になっていないで、皆で知恵を絞ってみるべきでしょう。

人員整理の人選などしているヒマがあれば、先ずは社内で「新事業コンテスト」を行ってみるべきでしょう。授業員が天井を向いて、或いは外にアイデアの刺激を求めてウロついている間は生産=売上は低下しますので、給料は大きく下げざるを得ないでしょう。それでも、首切りの100倍はマシでしょう。10%の人件費の削減が必要であったなら、首切りの前に20%給料カットして、数か月間アイデアを必死に考えて貰う方が、本来の意味のリストラの達成可能性が格段に上がるはずです。

アイデアを出した社員(グループ)には、20%下げた人件費の中から10%分を、社内ベンチャーの起業資金として使って貰えば、自分の身を切ったお金ですから、大事に使って必死に新しい事業を起こしてくれるでしょう。もちろん昭和の右肩上がりの時代は、何をやっても商売になり得たでしょうが、流石にこの時代はそんなに上手い話は転がっていないでしょう。しかし、10個事業を立ち上げれば1個くらいは箸か棒には引っかかる筈です。事業企画案をしっかり見極めれば、その確率は更に上げる事も出来ます。経済界の暗黙の法則である、「30年企業寿命説」に従えば、企業は結構頻繁に「良いリストラ」を行う必然性があるのでしょう。尻に火がついてから慌てておこなう「悪いリストラ」に理はありません。

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2012年1月27日 (金)

1616 流れを絞る

31年振りの貿易赤字だそうです。貿易の本質は、安い国で仕入れて、運んで、高く売れる国で売る事です。いわゆる加工貿易が成り立っていたのでは、製造に必要な資源やエネルギーをいくつかの国が安い価格で輸出承認してくれ、この国の技術の国際競争力と比較的円安の為替レートとあいまって、結果として価格競争力が維持出来ていたからでした。何度か書きましたが、運ぶ事によってモノの価値は1円も上がりません。それどころか、徒に輸送のためのエネルギーを消費するだけです。貿易とは、結局は国際的な価格差を利用した、利ザヤ(輸送ザヤ?)稼ぎ商売でしかない事を再認識すべきでしょう。

さてこれからの身の振り方です。輸出の落ち込みに恐怖を感じ、無理な価格の勝負に持ち込んでそれを回復させようと考えても、結局は更に自分の首を絞めるだけに陥ります。安直にコストを下げるために元請は、下請けを絞り、下請けは孫請けを絞るしかないからです。ひいては、消費が冷え込み、デフレのスパイラルは止まらないでしょう。そうではなくて、無駄なモノの移動を抑制する新たな仕組みこそ、ここで工夫しなければならないのだと考えています。運ぶことは無くせないにしても、ジャストインタイムと称して、トラックや航空機で日々チマチマ運ぶのではなく、鉄道や船でまとめて運ぶのが効率的なのは、子供が考えても分かる道理です。震災で明らかになった事は、在庫は悪ではなく、適正なレベルの在庫は、本来必要なものであると言う単純な事実でした

これからのシステムは、結局いくら安く作れても「要らないモノは作らない、買わない」しかし、「必要なモノは適正な量と価格で作り、適正に在庫し、まとめて効率的に運ぶ」ものとすべきでしょう。このシステムでは、結果的に流通量は減る事になります。しかし、製品の単価は高いレベルに保たれ、在庫により価格も安定するでしょうから、GDPが大きく落ち込むとは思われません。それが、下がるにしても「本来あるべきレベルに落ち着く」とみるべきなのです。集中的な大量生産システムに替わって、必要な地域の近くで多品種を少量生産する分散システムが必要になりますから、流通は絞られても、逆に雇用も拡大し、地域経済も活発になる筈です。

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2012年1月26日 (木)

1615 環境のツケ払い

環境経営に取り組む企業のみならず、家庭といえども今後は環境保全に資するためのコストを負担する事が求められます。例えば省エネ投資や環境負荷の小さな資材や製品を選定すること、有害物や廃水を適正に(今より更に高度に)処理する事などですが、それを追加のコストと考えて、忌避する傾向が出ないかを懸念します。企業で言えば、経営者は、設備投資や原料調達に余分なコストが発生し、結果として市場での競争力を失う事を嫌がるからです。

しかし、環境保全への努力をコストと考えるのは、明らかに間違いでしょう。何故なら、環境が悪化した原因は、環境への影響を適正に評価しないままに、環境負荷物質(つまりはCO2や廃棄物や汚水など)を環境に放出し続けた事にある訳で、当然果たすべき義務を、これまで免れてきたツケと考えるべきでしょう。つまり、このブログなり表現スタイルに直すと、環境改善のためのいわゆる環境コストは、本来は「環境のツケ払い」と呼ぶべきなのです。

ここにも、現在のお国の窮状とのアナロジーが見えてきます。つまり、ツケの先送りの結果、利息も含めて、後年多大なツケ払いに苦しむと言う例の構図です。それは海外でも例外ではなかった事を、最近の欧州からの経済ニュースが知らせています。ツケの先送り政策の権化であり、戦後長くこの国の政権の座にあった政党と、その亜流にあったいくつかのグループが新たなファクションを組んだ現政権との勢力争いは、その意味でも見るに耐えません。

愚痴はさておき、環境のツケです。ツケは利息を付けて支払わなければなりません。環境における利息払いは、現在の環境の質を保全するだけでは十分ではありません。自分の代で汚した環境は、最低でも自分達が受け取った時点まで環境を改善した上で、次世代に引き継がなければならないでしょう。しかし、地下から掘り出して燃やして、大気中に出してしまったCO2を圧縮して地下に戻そうなどと考えるのは、技術屋の愚案と断ずべきでしょう。それに必要なエネルギー=原子力発電はもはや当てには出来ないからです。長い取り組みにはなりますが、コツコツと森林面積を増やしてあるいは海中の植物プランクトンに元気になって貰って、活発に吸収していただくのが、まっとうなツケの払い方だと言っておきます。

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2012年1月25日 (水)

1614 定点観測

サラリーマンを卒業し、今の事務所を構えてから、世の中の動きが少しは見える様になったような気がします。つまり、社会的には経済活動の当事者ではなくなった訳で、いわば定点観測者の様に世の中を観る事が出来る立場になったからでしょう。したがって、2006年から5年以上も書き続けているこのブログの視点も、それほどはぶれてはいないつもりです。

さて、その5年間の定点観測の中間報告ですが、結論としては「環境」の置かれた状況は着実に悪化の方向に進んでいると言うものです。考えてみれば原因は簡単で、この間に間違いなく石油埋蔵量の半分を消費してしまった「オイルピーク」を迎えたはずなのですが、先進国ではささやかに省エネに勤しんだ一方、途上国のガブ飲みが加速した結果、逆に使用量は増加してしまいました。更に隣のC国やアジアで工業化を進めた国々では、世界の工場の地位を固めようと、闇雲な生産活動の加速を行い、結果として自国のみならず、隣国までに影響を及ぼすような、大気汚染、土壌汚染、水域汚染を加速してしまいました。

それに加えての天変地異です。地震やハリケーン等の発生は人間の力では如何ともしがたいにしても、沿岸部の津波や河川の氾濫に伴う洪水などは、海岸部の低地や氾濫原に都市を建設した結果の人災の側面が強いと言うしかありません。その人災に追い打ちを掛けたのが昨年の原発事故でしょう。

温暖化の影響は、急激には顕在化しないので、数十年しか生きられない人間には、ささやかな変化しか感知できませんが、長いスパンで見ると、北極海の浮氷面積の減少や、大規模氷河の減退、とりわけツンドラ地帯の永久凍土の融解で着実に進んでいる事は明白です。ごく短期ですが、環境の定点観測者としての懸念は、たとえば、温暖化⇒永久凍土の融解⇒夏場の沼地の増大⇒有機物の分解⇒メタンガスの発生増大⇒温暖化の加速と言う「負の連鎖」です。環境悪化が常態化するのは仕方がないにしても、それが安定しないまま負の連鎖を起こし、将来に亘って悪化傾向が続く事には、その「原因世代」としては何としてでも歯止めを掛ける必要があると思うのです。

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2012年1月24日 (火)

1613 経済実験

経済とは、モノと情報とお金が流れる仕組みだと言えます。経済素人が考えて、ごくごく単純化すれば、一次産業が原料を掘り出し、或いは農林水産物を収穫して売り、それを買って加工する産業が製品にして出荷し、流通業はそれを消費者に配り、逆の流れで金融機関が金を動かすのが経済システムだ、という事も出来るでしょう。

自然発生的に生まれた古い経済システムは、この流れが滑らかに行くように種々の改良が加えられて、今の形に収束してきたはずです。その意味では、多くの学問と同じように、経済学などは、まったく後知恵の学問でしかない訳です。その証拠としては、この時代になっても経済学者が束になって掛かっても経済の問題を解決できない事一つで十分でしょう。これまで「国」は、その国の企業と国民の利害と、他国の利害の折り合いをつけるための、国際間の取り決めと国内調整を行う役割を持っていて、一応それを果たしてもきました。国が持っているパワーとしては、基本的には通貨を印刷する機能と、税収を得てそれを使って行う経済調整機能だったと言えそうです。

しかし、今問題になっているのは、その経済の仕組みが国際連携によっても、ましてや一国のパワーだけでは、とても制御できないほど巨大に膨れ上がってしまったという事態です。地下資源やエネルギーを掘り出す量に比例して、地上のモノと同時にマネー量も膨張し続ける訳ですから、今後はそれを制御する事はますます困難になっていきそうです。その困難と闘う目的で始まったと思われる、欧州における市場統一⇒通過統一の実験が、今後失敗に終わるかどうかが、経済学や国際連携の限界を見極める試金石となるのは、誰が考えても明らかです。

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2012年1月23日 (月)

1612 使う技術、作る技術

長年技術屋として暮らし、それを卒業して改めて「技術」をながめてみると、技術には「使う技術」と「作る技術」があることに気が付きます。使う技術とは、車産業や投稿者も関わってきた航空機産業、いわゆる電機産業などが製品を生み出す技術を指します。つまり、これらの産業では多量の資源を採掘し使いながら製品を加工し、消費者はエネルギーをたくさん使いながらそれ使用し、最後は使用済みの製品が、処理しきれないほどの廃棄物となってしまいます。つまり、資源やエネルギーをたくさん使い、ゴミを増やし続ける技術です。HVEVや新型の国産旅客機がどれほどの省エネ性を強調しようが、使う技術であると言う事実からは逃れられません。使用中のエネルギー量がやや減るだけです。その意味で、20世紀は、使う技術の時代だったと総括しても良さそうです。

さて作る技術です。とは言いながら、たかが人間の浅知恵如きで、とてもモノを創造(Create)出来るはずもありません。お天道様に手伝ってもらいながら、少なくとも化石エネルギーを消費しないで、逆にささやかにエネルギーを作り出す事くらいしかできないと思うのです。風の力を借りて風車で電力を生み出す、太陽光や太陽熱を直接利用して電気や熱を作る(有難くいただく)、植物や微生物に食糧やバイオマスを作っていただくお手伝いをする、などの作業を、ここでは便宜上作る技術と呼んでおきます。その意味で、植物や微生物は「様」付けで呼ばないと失礼に当たるかもしれません。ご先祖様たちは、確かにそれらを敬い、奉っていたはずです。各地の神社やご神体に見られる様に、八百万の自然物や生き物に神が宿ると考えた訳です。

おこがましくも、使う技術を指してモノづくりなどと呼ぶのは、やはり人間の傲慢でしょう。そうではなくて、作る技術の背景には、お天道様の力を借りて、「作らせていただく」と言う姿勢が無くてはならないのです。木材にしても、食料にしてもそれを育てるには、間伐等で日光を上手く取り込み、或いは有機肥料で土壌の力をパワーアップする等以外の行動は、自然からの収奪と何ら変わらない事になります。収奪とはつまりは、植林を伴わない伐採や地下水や化学肥料や殺虫剤や大型農業機械に頼る、持続可能ではない(工場型)農業を指します。

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2012年1月22日 (日)

1611 カネゴミ?

欧州における経済トラブルは、結局のところ国家に対する信頼が極度に低下して、国債と言う手段での市場からの資金調達に行き詰ったという現象です。いわゆる格付け会社は、投資家と言う見えないパワーに向けて、企業の格付けを実施してきましたが、ここにきて「おこがましくも」国の信用度まで格付けする様になりました。影響力が大きくなってしまった、格付け情報は、発進された途端に、短期的利益やリスク回避のために、一つの国の介入だけでは火消しが出来ないほどに炎上する事になります。

国や企業の資金調達を容易にするためには、何より資金を出す側、国民や企業や銀行や投資機関の信用を得る事が不可欠です。今起こっているのは、資金調達を受ける側の近視眼的コメントに、出す側が完全にそっぽを向いていると言う事態です。それは、いわば国民や企業や金融機関による「国売り」状態と言っても良いでしょう。

行き過ぎたグローバリゼーションの結果、相対的に国のパワーが低下した事は否めません。パワーと言う意味には軍事力も含まれますが、ここでは金融パワーを指します。国家予算は、その国の例えばGDPに比例してしか拡大できませんが、一方で例えば日々増加するオイルマネーは、アラブの金持ちでもとても使いきれないはずで、ドンドン蓄積して膨張を続けるでしょう。使い道のないモノをゴミと呼ぶなら、これはもはやカネゴミと呼ぶしかありません。このブログでも何度も書いているのは、石油や資源掘削量を減らして経済活動を絞り込み、モノとカネの流れを抑制でもしない限り、相対的に国の信用力は低下し続け、ひいては国売りを加速する、と言う予感なのです。国売りもやはり、カネゴミが原因の「環境問題の一つ」だと言うしかありません。

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2012年1月21日 (土)

1610 四千年の浅知恵

やや重過ぎるテーマです。今の文明が、たとえば四千年の歴史を刻んでいるとはいえ、その結果として得た知恵は、いまだ浅知恵の域を脱していないと言うしか無さそうです。何より、同じ星に住み、同じ場所を聖地と崇める、「僅かな違いの宗教」を信じて暮らす民族同士の争いごとを、丸く治める方法をまだ確立していません。それどころか、何千年にも亘っていわゆる「縄張り争い」に類する小競り合いや国同士の争い(戦争)を繰り返してもきました。その意味で先の大戦後、とりわけS連邦崩壊後は、歴史的には例外的に平和な時代だったとさえ言えるかもしれません。その短い平和の結果と言うべきか、地上に満ち溢れつつあるヒト類の数(世界人口)の膨張は、すでに破局的なレベルとなっていると言っても過言ではないでしょう。この問題が実のところ、縄張り争い(今は資源獲得争い)の根底にも横たわっているのでしょうが、未だ有効な解決手段が見つかっていません。

浅知恵と呼ぶもう一つの理由としては、私たちは自らの飽くなき欲望をコントロールする方法をまだ発明していない事が挙げられるでしょう。底なしの欲望(物欲や金銭欲)は、地球上の資源という資源を掘りつくし、代わりに排出したゴミや汚水を地上や水系に蓄積し続けています。欲望のコントロールを失った結果、ある人は楽な金儲けに走ろうとして賭博に溺れ、ある人は飽くなき食欲の結果、玄関ドアから出られないほどの肥満に陥る訳です。一方、社会で上手く立ち回った人々は、経済的な勝ち組に回り、そうでない人は負け組になって、社会の階層を構成します。

公平な富の再配分を狙った、共産主義や社会主義の実験は、これまでのところはことごとく失敗した様に見えます。数百キロ上空の無重力空間に浮かぶ金属の箱に人を送ったり、一発で何十万人も殺傷できる兵器を開発したりするくらいの知恵がありながら、いまだ争い事や富の再配分の方法さえ確立していない私たちの文明は、やはりトホホの浅知恵文明だと自嘲するしかありません。

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2012年1月20日 (金)

1609 ITという環境

ITは、人間の頭脳の増強や延長と言う位置づけで進歩を続けてきたとは思いますが、ここにきてITが実は新たな「環境」になっているのでないかと思うようになりました。大気や水や土壌環境などと同じレベルで、私たちは情報を環境の一つとして、また欲求の一つとして消費し或いは呼吸している様な状況にあるのかも知れません。ヒトと言う存在を考える時、情報について考えない訳にはいきません。他の動物に対して見ても、突出して発達し過ぎた脳は、常に情報の飢餓状態にある様なのです。生きていくために必要な情報はさておき、ヒトは余分な情報(トリビア)まで欲しがります。

そこにコンピュータとWebとの組合せと(=IT)言う格好の「情報環境」が整った現在、それが「情報欲」を満たしたのでなく、逆に情報の飢餓状態の火にかえって油を注いでしまった可能性すらあります。地上の総人口に迫る数10億という数になってしまったHP数がそれを物語るかも知れません。それだけの数のHPが存在するという事は、それを欲する情報飢餓が存在すからに他なりません。HPに置かれた情報が事実かどうかは問題ではありません。脳は一つの情報を得ると、それに満足することなく、別の情報やもっと細かい情報を欲すると言う、困った「癖」を持つ器官だとも言えるでしょう。

問題は、しかしWeb上に蓄積するゴミ情報でしょう。それらは、有用で必要な情報を覆い隠したり、汚染したりする恐れさえあるからです。情報の洪水の中から有用な情報を取り出すのは、優れた検索エンジンを以ってしても、ますます困難になるでしょうし、せっかく取り出した情報が、別の正しくない情報を参照していたため、実は間違っていたと言う可能性は、今後ますます増えるでしょう。結局、今後重要になるのは、個々人が情報をしっかり濾しとるためにフィルターを備えるということになります。このフィルターの事を「価値観」とも呼びます。

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2012年1月19日 (木)

1608 除雪・利雪

北日本では歴史的な大雪の様です。雪国生まれの投稿者としても、ドカ雪に降り込められた時の窮状は痛いほど理解できます。

さてその雪を楽に取り除き、出来ればそれを利用したいものです。雪は、一晩に数十センチ程も降り積もることがあります。除雪のコツは、積もった雪を特に屋根に「貯めない」事に尽きます。つまり、前の晩に積もった雪を、翌朝には間髪を入れずに降ろしてしまう事です。除雪のために梯子を掛けて屋根に登るのは、あまりにも危険すぎます。やはり、何らかの道具を屋根に仕掛けて、簡単な操作で一気に雪を始末してしまいたいものです。例えば、屋根にブルーシートの様なものを被せておき、それが屋根のトップで分かれる構造になっていれば、ロープの操作で引き剥がせますので、あまり積もらないうちなら簡単に屋根の雪下しが出来そうです。その後は、反対側のロープで再度屋根にシートを引っ張り上げる事になります。大きな屋根であれば、ロープを引くためには、手動式のウィンチくらいは必要になるかもしれません。地上に落とした雪は、仕方がないのでボチボチ手や小型の除雪機械で取り除くしかないでしょう。

利雪については、今後ともこのブログでも考えて行きますが、取り敢えずは、以前にも少し書いたような気がしますが、地熱(例えば20℃)と雪氷熱(例えば0℃)の差を利用しての動力発生をもう一度提案しておきます。20℃で蒸発し、0℃で凝縮する作動流体(例えばフロリナート)を使って、地熱で液体を蒸発させ、屋上の雪で凝縮させれば、凝縮した液体を重力で流下させて小型のタービン(水車)を回す事が出来ます。これは決して夢物語ではなく、北陸のある大学では、実際に小型のシステムを作って研究している先生もいます。

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2012年1月18日 (水)

1607 貯水タンク

阪神淡路の大震災からもう17年も経ってしまいました。東北の震災でもそうでしたが、インフラの破壊で、取り敢えずの飲み水にも困ったとのニュースを多く聞きました。それについて、たった今良いアイデアを思い付いたので、忘れないうちに書き留めておきます。

いま家庭の蛇口は、当然の事ですが水道管に直接つながっています。単純なアイデアですが、これは元栓が付いた水道メーターから蛇口の間に、たとえば100リットルのタンクを設置するというものです。このタンクは、圧力タンクなので、水の勢いが弱くなる事はありません。水道水は、単にタンクを通過するだけです。しかも、中の水は常に入れ替わるので、塩素濃度も問題ないレベルのままで保たれますから水質悪化の心配もないでしょう。

さて、地震で水道が止まっても、タンクの中には100リットルのきれいな水が貯留されていますので、インフラ復旧までの数日間であれば、非常用の飲料水として利用可能です。ペットボトルでも水を溜めておくことはできますが、腐敗を避けるために時々は入れ替える必要があり、結構不便です。このタンクの設置に助成金でも出せば、ステンレスの加工が出来る、町の鉄工所や水道屋さんの仕事量も増えるでしょうから、ささやかな産業おこしにもつながります。何よりバケツやヤカンを持って給水車の列に並ぶ必要もなくなるでしょう。

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2012年1月17日 (火)

1606 ツケを払うアイデア

欧州での債務超過国に発した経済の混乱は、勘定をツケで回すのは簡単だが、そのツケを払うのが如何に困難かを如実に示していると言えそうです。例えば、お金を借りるのは、赤字が出て資金繰りに困っているからであり、それを返済するには、実は借りる前の倍ほどの利益(や税収)を上げる努力が求められるのです。その見込みも無いままに借金を重ねる場合、それは間違いなく不良債権の山に成り下がるだけです。

借金を返すには、アイデアこそが必要なのです。アイデアがあれば、もしかすると金を借りないで済ませる事の出来たかもしれません。材料の在庫があるのに、注文が無いなどと嘆く前に、その材料を使った新しい製品を工夫しなくてはならないでしょう。例えば、戦後、航空機業界が余ったアルミのシート材料で何を作ったかを振り返れば、それは鍋や釜であった訳です。旋盤に板を取り付け、スピン成形をすれば鍋底が出来ます。それに、取っ手をリベットで取り付けて、アルマイト加工を施し、木製の蓋を付ければ、立派な鍋の完成です。同じような例をアメリカで目撃しました。それは、航空機材料で作られたアルミ製のカヌーです。借りていたアパートの前の湖で夏場に開かれていたカヌー教室で使われたのは、年代もののアルミ製でした。それを作った企業は、かつての軍需産業の雄であるグラマン社でした。戦後、余った材料を使って民生品を作ろうとしたに違いありません。

アイデアは、しかし闇雲にひねり出しても始まりません。戦後の社会事情が、煮炊きに使う鍋を欲し、アメリカでは戦後の解放された雰囲気の中でレジャーを求めていたと言う背景があって、上の作戦も効奏した訳です。つまり、潜在的なニーズに合致するものでない限り、それは「アイデア倒れ」に終わってしまうでしょう。

資源もエネルギーも殆ど無く、財政はと見れば世界でも抜きんでた借金まみれのこの国が、世界の中で生き残っていくアイデアは結構限られていると思うのです。ざっと考えても、製造業で、既に韓国や中国に出し抜かれつつあり、結局環境保全(公害防止)技術や新エネ・省エネ技術くらいしか見当たらない様なのです。そうであれば、あれこれ迷っていないで、国を挙げてそちらの方向に一直線にまい進するだけでしょう。

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2012年1月16日 (月)

1605 傷んで知る

食事中に結構しっかりと舌先を噛んでしまいました。最近はそんな記憶がないので、数十年ぶりかも知れません。その痛いこと。翌日になっても、舌先の赤黒くなった部分は痛々しくはれ上がり、じっとしていても「舌の存在」を知らせてくれます。人間とは勝手なもので、舌であれ、手足であれ、腰であれ、痛めて初めてその存在を意識はしますが、日常生活では全く意識には登らないで暮らしています。例えば、膝や腰を痛めてしまった場合など、歩いたり、立ち上がったりするたびにその存在を意識しない訳にはいきません。歩行が不自由になって初めてその大切さを知るのでしょう。

環境に関しても、まったく同じ事が言えそうです。環境を破壊するのは、人間と家畜だけだと言っても過言ではありません。イナゴなど、時に増えすぎた生き物が植物を食い尽くして環境を破壊する事はあり得ますが、エサが無くなればそれらは死んでしまい土に戻って、植物の肥料になってくれるでしょう。しかし、人間の薪炭採取や家畜によって完全に裸にされた土地は、砂漠から緑の沃野に戻る事はありません。自然が完全に破壊され、最早薪炭採取も家畜の放牧もままならなくなるほどになった時、初めて人はそのかけがえの無さを知る事になります。

破壊されてしまった自然や環境を眺めると、それを元に戻す事はもはや不可能に見える地域も多く存在しますが、まだ残っている自然・環境は、痛めてしまう前に何か手を打ちたいものです。とは言いながら、自然環境に向かって「手を打つ」などとは、実はおこがましい表現だと言えるかもしれません。むしろ、人間が一歩も立ち入らない事こそ、本当の意味での環境保全だ、と言った方が正しいのでしょう。何もしないで完全に放置すれば、環境は自然の治癒力で、あるべき姿に回復され筈です。

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2012年1月15日 (日)

1604 暖房ダウンベスト

暖房の無い事務所でこのブログを書いていますが、このところの室温は日中でも5℃を少し超える程度にしか上がりません。ここが屋外よりマシなのは、室内なので風が吹かない点だけです。ボヤいていても仕方がないので、更に工夫が出来ないか考えました。これまでの「装備」は電気座布団25+金属製の飲料ボトルの湯たんぽ+バイクに乗るのと同じ服装、だけでしたが、着ぶくれしているのでどうにもモコモコして動きにくいのです。

そこで新たに考えたのが、ダウンベストです。ただの綿入れベストでは、このひどい寒さ対策には十分ではないので、少し張り込んで本物のダウン入りのものを買いました。これを着ると確かにかなり改善はしましたが、まだ物足りません。そこで、雑貨屋を探して見つけたのが、USB電源でほんのり暖まるシート状のヒーターです。安っぽい毛布に仕立てられていましたが、これをバラしてヒーターだけを取り出して、ダウンベストの内側に縫い付けて、電源をつないでみました。すると背中から腰に掛けて、心地よくほのかに温まってくるではありませんか。これで、氷点下にでもならない限り、冷蔵庫内並みに涼しい事務所での仕事にも十分なレベルの「体感温度」になりました。

この工夫での結論は、「暖房器具は身に着けるに限る」と言うものでした。USBの出力としては精々5w程度しか出せないので、電気座布団と足しても精々30wの出力ですが、これでも体に密着させれば、室温5℃の環境でも仕事が可能なら、1kw以上も食ってしまう普通の電気エアコンを100%とすれば、数%の電力で暖房が出来る勘定です。これで、この事務所では、95%以上の省エネルギーを達成した、と胸を張れそうです。ここでも、「原発なんかは○○くらえ」、と、大声で吠えておきます。

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2012年1月14日 (土)

1603 提案14(再軽少短薄時代)

重厚長大時代の終わり頃、軽少(小)短薄時代の到来が叫ばれた時期がありました。しかし、それは家電やエレクトロニクスなどの、単なる「電化の時代」の宣伝でしかなかったと振り返っています。ここで提案する、今後求められる「真の」軽少短薄時代の定義とは、現在ある製品の重量を、取り敢えず半分にしましょう、というものです。例えば、1200㎏程度のありふれた小型自動車の目方を、半分の600㎏(つまりは軽自動車以下)にする技術などを指します。

1割や2割の軽減化は、現在の技術の延長線上でも十分可能ですが、半分以下にするにはかなりのブレークスルーが必要です。具体的には、単に軽量素材への見直しだけではなく、機能そのものや、構造の大胆な転換が求められるでしょう。たとえば、車の目方を半分にするには、内装や装備の見直しはもちろん、最高速度、加速性能、航続距離など基本的な性能の再考が欠かせません。加えて、原動機そのもの(ガソリンエンジンか電動モーターか、或いは別の原理の動力装置か)の見直し、動力伝達装置、タイヤに至るまで、「車」という20世紀に確立された交通手段のコンセプトそのものを一から見直すことが必要なのです。

15年以上も前の話ですが、投稿者が、若い技術者を集めて、手作りのソーラーカーを作った経験から言えば、パワーの小さいソーラーカーでは、極限までの軽量化が必須でした。ですから、車体構造は、車から出発するのではなく、自転車からの発想が必要でした。人力は、しっかり頑張っても数100wの出力しか出ません。それとあまり出力レベルの変らない小型のソーラーカーの構造も、やはり自転車並みにならざるを得ません。その時搭載した、たった1kwの出力しかなかったモーターでも、車体構造だけだとドライバーの体重並みに抑えた車重のお蔭で、時速50㎞はどうにか出せたのでした。60㎏程度の車重は、ありふれた小型車の1/20ですから、非力なモーターでも十分走るのです。来たるべき、再軽少短薄時代には、贅肉だらけの現状製品からの発想ではなく、ゼロからの積み上げこそが必要な視点なのです。

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2012年1月13日 (金)

1602 提案13(環境シニア)

最近何かの文章で、「環境シニア」と言う言葉を目にしました。その明確な定義はないのでしょうが、結局は若いころ見聞きし、一部は体験もしたいわゆる「公害」や、二度のオイルショックなどを経験として持っている世代を「環境シニア」と呼んでも良さそうです。この世代は、これらの困難を克服する中で、低公害技術や省エネ技術の工夫を積み重ねた経験を持っている貴重な人たちだとも言えるでしょう。

そもそも投稿者が環境人間を志したのも、この環境シニア世代の最後尾の辺りを歩いてきたからだとも言えます。100%当事者であった環境シニアに比べれば、投稿者の世代は、R.カーソンやローマクラブからの提言やその後の地球温暖化などの国際的議論にも接してきたので、やや第三者的で少し広い目で「環境」を考える事が出来た世代でもあります。その中で蓄えた、公害防止や省エネの知恵を、単に定年退職したと言う理由だけで、楽隠居を決め込み、それら捨ててしまったりお墓の中に持ち込んだりしてしまうのはあまりにも「勿体なく」「身勝手」だと言うしかありません。

そうではなくて、今後のますます厳しくなる環境の悪化に歯止めを掛けるためにこそ、そのノウハウを使って欲しいのです。環境カウンセラーになって、市民や学校や企業で経験談を話しても良いでしょうし、自分が経験したノウハウが生かせる業種・業態で、公害を出さない方法や、省エネのノウハウを教えても良いでしょう。いわば、「環境シニア十字軍」の結成です。世間的に見れば、10年ほど早くこの十字軍入りをした立場として、それを必要とする人が居るならいくらでも十字軍入りを支援する事は吝かではありません。立ち上がれ、そして来たれ「環境シニア」です。

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2012年1月12日 (木)

1601 提案12(脱電力)

このブログでも、電気があまりにも便利である故に、私たちが電気中毒に陥っていると再々書いてきました。一方、春先には全部の原発が停止する異常事態に陥り、しかも原発の稼働率が極端に低い状況は今後も長く続くと見られます。原発で電力の4割を賄っていたこの国は、取り敢えずは3割程度の電力量削減の必要に迫られていると言えます。

その中で、望まれる行動としては、いわゆる単なる省エネではない「脱電力」しかないと言っておきます。脱電力とは、日々の生活やサービス業や製造業で、電力に頼る割合を減らすと言う事を指します。とはいっても、電気で動くエアコンしか冷暖房設備の無い建物で、どうやって脱電力を行うのか、との突っ込みが来そうですが、そこは必死の工夫で切り抜けるしかないのです。何故さ寒いか、何故暑いかを突き詰めて考えれば、それはこの国の建物が、冬に建物内に熱を閉じ込めたり、或いは夏に外からの熱の侵入を食い止めたりする性能が低い事や衣服が十分ではない、と見方を変える必要があります。更に言えば、カイロや湯たんぽなど、身に着ける暖房器具が昔ほど使われなくなった事があります。充電式のカイロと、小さな電気座布団と、ダウンベストがあれば、朝晩は5℃以下に下がる投稿者の事務所でも、エアコンや石油ストーブ無しにどうにか凌げます。

製造業では、電力の2-3割を占めるエアコンプレッサの電力を目の敵にして減らしましょう。方法は簡単です。集中エアコンプレッサを止めて、必要な部署にはベビコンをあてがうのです。分散化して「見える化」すれば、無駄なエアの消費も抑制できるでしょうし、配管からの無為な漏れに関しても問題が無くなります。つまり、工場では「絶対に電気でしか動かない」製造設備を特定し、改めて必要な電力を積み上げる作業が欠かせないという事です。照明に関しても例外ではありません。工夫を重ねて昼光の活用を進めるのです。太陽光は、曇りや雨の日もあり不安定ですが、脱電力をバックアップする心強い味方です。

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2012年1月11日 (水)

1599 提案10(自産自消)

ラジオでチラッと聞いただけなので、聞き違いかも知れませんが、「自産自消」と言う言葉を初めて耳にしたような気がするので、改めてここでその定義を考えてみます。地産地消は、かなり聞きなれた言葉になりましたが、自産自消はこれを更に一歩進めた言葉だとも言えるかもしれません。地元で作って地元で消費する地産地消を究極まで突き詰めると、消費者自身が必要なものを作る「自給自足」になりそうですが、ここでは自産自消はその中間であると定義しておきましょう。

具体例を挙げるなら、ある工場が、屋根で太陽光発電をして、工場の電力の一部を賄うのも自産自消の一部にはなり得ますが、更にボイラで焚く重油の量を減らすために、太陽熱でボイラの燃焼空気を予熱してやり、加えて太陽熱で給水も加熱してやれば、重油も2割程度は節約できる皮算用が成り立ちます。一方で地熱や地下水を利用した冷暖房システムを構築すれば、工場の敷地内にあるエネルギー源で、工場で使うエネルギーのかなりの部分が賄える事になります。

つまり、消費家が、自分の敷地内で使えるあらゆる資源やエネルギーを総動員して、これまでその敷地内で消費されていた資源・エネルギーを極小化する行動を、自産自消と定義したいのです。ですから、話はエネルギーだけで終わりません。地下水は、水資源でもありエネルギーでもあります。敷地の横の水路は、水利権の問題さえなければ立派なエネルギーです。工場の空き地にはびこる雑草だって、バイオマスとして使えるかもしれません。しかし、これまでは、設備の入れ物でしかなかった工場の最大の資源は、広い屋根や壁に降り注ぐ太陽光であることは間違いありません。もちろん可視光はそのまま光源としてスマートに活用します。

太陽光には、紫外線、可視光、赤外線と多様な波長の光(電磁波=エネルギー)が含まれますので、それぞれの波長に応じた多様な用途を開発すれば、平米当たり1kwものポテンシャルを持つ太陽光のかなりの部分が有効活用できる事になります。

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2012年1月10日 (火)

1598 提案9(政治)

政治については、書くべき事は多くありません。何を言っても「政治屋」に届く事はないからです。彼らは、20世紀型の中央集権の既得権や利権まみれの政治は、これからの右肩下がりの時代には、もはやまったく通用しない事に早く気が付くべきでしょう。地方政党がこれに取って代わられるかは、関西や東海地区の「実験」を見守るしか無さそうです。何より、マツリゴトに関わる人たちは、政策=利権を共通にする人たちが、緩く群れて政党を作ると言う旧来の政治行動それ自体の問われていると思い定めなければならないでしょう。それに気が付いたリーダー(真の政治家)が現れる事を一日千秋の想いで願っているのは、投稿者ばかりではないはずです。21世紀型のビジョンを掲げる20代、30代で政治を志す若者の登場が待たれますが、O市の首長になったあの人も、考えてみれば既に不惑に乗っていますので、「年齢的」にはあまり期待していません。

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1597 提案8(生活3)

個別の世代への提案です。とりわけ投稿者の年代以上の世代に向けてのメッセージです。この世代は、第一線を退いたからと言って、安穏としてはいられません。老老介護が待っていますし、年金だって段々当てに出来なくなってきているからです。ですから、朝から新聞を嘗め回す様に読み、昼はただただ散歩に時間を費やし、ましてや国内外のパッケージ旅行などにうつつを抜かしている暇はない筈なのです。そんなお金がある位なら、国内で困っている人に手を差し伸べるか、何より膨大な国の借金を減らす工面をしてもらいたいのです。

必要な事は、自分が、自分たちの世代が、国全体の中でどの様な立場に置かれているか、それは国=世代全体の取って望ましい状態なのを問い続けていく姿勢です。その結果、もしそうなっていなければ、それを望ましい姿に近づける様な努力が必要でしょう。国がなかなか動かないのなら、ぜひ団塊パワーを発揮すべきです。団塊世代より年齢が上の塊は、人口全体の1/3以上となっているという事は、今後しばらくはこの世代が日本のマジョリティーであり続けると言う事にもなります。そのマジョリティーが、責任を放り出して、ダンマリや「楽隠居」を決め込んでならないでしょう。何故なら、この国の政治・経済は、今後50年間かそれ以上、持続可能と思われるレベルでのシステム構築が出来ていないどころか、破局の危機さえ懸念される崖っぷちの状況に立たされているからです。

既に年金生活に入っている人たちは、それが自分の払ったものだと考える事は間違いだと認識すべきです。何故なら、自分たちの世代が払った掛け金は、掛け金を払わずに年金を受け取った世代に、既にかなりの部分が使われてしまったので、自転車操業になってしまった年金システムは、現役世代にそっぽを向かれてしまうと途端に破算してしまうからです。

そうではなくて、、特に団塊世代に求められているのは、望ましい暮らし方の実践なのです。金銭的な余裕は、ぜひ東北で困っている人たちに振り向けるか、その年金を支えてくれている現役世代に還流しましょう。そのためには、景気を良くするためと、何も考えずに消費行動に走るのではなく、使ったお金が、真にそれを必要な人に流れるか否かを十分に見極める事が必要でしょう。お金が無くて暇と体力がある人は、この春から活発になるであろう、放射能の除染活動に労力を出すのも有意義でしょう。団塊世代は、現役世代の重荷になるのではなく、むしろ気球の様に「自ら浮力を稼いで」、彼らを楽にしてやることだけを考えて、残りの人生を有効活用しましょう。それは、言葉を替えると部分的な「権利の放棄」を意味します。

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2012年1月 8日 (日)

1596 提案7(生活2)

世の中の変化の一つの原則として、景気の上昇はゆっくり進み、一方で悪化は急激に進むという事があります。現在の私たちの生活レベルは、先輩や私たち自身が、戦後連綿として積み上げてきた努力の上に構築されました。しかし、今を頂上として、ここから転げ落ちるにはそんなに時間は掛からないでしょう。何しろ、景気の悪化には「引力」が作用しますので、自由落下が時間の自乗に比例して速度が増す様に、あっという間に転がる事になります。転落の加速度を減ずるには、ひたすら手を広げ足を踏ん張ってこらえなければなりません。

具体的に足を踏ん張るとは何をする事を指すのでしょうか。取り敢えずは、世の中の速い流れに目を奪われてはならないでしょう。つまり、流されながらその中でもがくのは、努力の割には報われない行動だからです。視点は、あくまでも流れの外の「定点」でなければならないのです。坂道を転がりながら、或いは流れに流されながら、事態を観察すべきはこの定点からである事を忘れてはならないでしょう。では、定点とは何を指すのかと問われれば、それは人としての絶対的な価値の基準だとしか言えません。学者はそれを、倫理と呼びますが、更に抽象的になるだけです。

投稿者なりの解釈では、例えば7世代後の子孫の幸福を考える事がその基準となり得ると信じています。この国の言葉で言えば、「国家百年の計」になるでしょうか。つまりは、この絶対的な定点に照らしてみて正しい行動こそが、私たちに求められているのであり、そのように生活をして行かなくてはならない、と思い定めるべきでしょう。先人が、数十年後の子孫の幸福のために、目もくらむような急な斜面にせっせと木を植えた様に、ネイティブアメリカンが7世代後の子孫の幸福を守るために、無理やり侵入してきた白人と、槍や弓や斧だけで勇敢に戦った様に、私たちも今の生活スタイルを見直して、後の子孫に恨まれない様に襟を正すべきでしょう。大上段に「環境倫理」と振りかぶるのではなく、遠い子孫を思いやって質素に暮らす、と考え直して贅肉の多い暮らしぶりをしっかりシェイプアップしましょう。

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2012年1月 7日 (土)

1595 提案6(生活)

経済システムは、結局は人々が日々生活をしていく上での自然発生的な仕組みだと言えるでしょう。どの様な立場の人であれ、オフではただの生活者に過ぎません。農業や漁業だけではなく、全ての産業は、人々の「普通の生活」を支えるためだけに存在すると言い切っても良いでしょう。その生活レベルが、贅沢に傾けば「贅沢産業」が繁盛し、そうでなければ「堅実産業」がソコソコのレベルで栄えるでしょう。極端な実例はバブル期を思い出してもらえれば十分ですが、実は私たちはその頃の贅沢を今も強く引きずっていると言わなければなりません。

例えば、建物を考えてみます。バブル期に建てられた多くの建物は、贅をつくし、高い材料を使っていて広々としたレイアウトを持っているはずです。しかし、その広々としたスペースを、照明し冷暖房を効かせるためには、それ以前のものに比べれば、単位面積当たりでみれば、たぶん2倍程度のエネルギーを要しているはずなのです。キラキラする照明は、JISの照度基準で見れば過剰でしょうし、エアコンの効かせ方も、夏場にジャケットを羽織り、冬場には逆にそれを脱ぐほどのレベルになっている事でしょう。乗り物(車)について見れば、1990年代に圧倒的に増えたのは軽自動車でした。主婦や若者の「足」として、一家の2台目、3台目として購入され始めたのでした。しかし、その頃購入された車が耐用年数に至っても、所有者は間違いなく代わりの車を欲しがったはずです。それも、軽ではなく小型車を…。

流石に建ててしまったり、買ったりしたものを、生活を質素にするためとはいえ簡単に廃棄する訳にはいかないでしょう。そうであれば、エネルギー消費を半分にする「使い方」を考えなければならないでしょう。建物について言えば、廊下の照明を半分に間引き、室内照明には手元照明を活用して天井灯をこれも半分以下にします。エアコンは、温度を控えるだけではなく、運転時間を大幅に減らす工夫をします。これでバブリーな建物もエネルギー消費が半分近くになります。車について言えば、エコドライブを実施しても燃費を2倍に改善する事もできませんので、仕方がないので乗る時間を半分にします。乗らない日は、友人と乗合出勤をするか、徒歩+電車・バス通勤に、あるいは晴れた日の自転車通勤を併用するしかありません。これを省エネのためとは考えては長続きしません。あくまでも健康のためと考え直して、バブリーになった体に鞭を打ちましょう。

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2012年1月 6日 (金)

1594 提案5(経済システム2)

経済システムの軌道修正には、一にも二にもスピードが欠かせません。予測も必要かも知れませんが、所詮景気は「気のモノ」ですから、経済アナリストの数だけ予測シナリオも存在するはずです。ここで言う軌道修正のスピードとは、小さな変化の兆しが見えた時に、すぐ小さな手を打つと言う素早い動きの事を指します。自動制御で言うところの時定数(又は応答速度)を小さく設定すると言う意味です。

もちろん、理想を言えば最も望ましいシナリオに沿って、世の中が変化を起こす前に、変化を誘導する「フィードフォワード」を行う事になりますが、神ならぬ人間にはなかなか難しいのも事実です。と言うのも、経済におけるプレイヤーの数やそれらを結ぶシステムも半端でないレベル複雑になり、結果としてそれを解きほぐす連立方程式の数も多くなり過ぎているからです。しかし、どの様な前提で考えても、この星の狭さが、最早右肩上がりの経済成長を許さなくなっている事は、誰の目にも明らかでしょう。どの様に欲望を膨らませようが、その大きさは地球のサイズで頭打ちになると言う事です。ならば、私たちは欲を減じて、望ましい着地点を見定めなければならないのでしょう。ここでいう着地点とは、つまりは決して贅沢ではない平均的な「暮らしぶり」であり、それを支えるためのつましく適正な経済規模であると言っておきます。

一体どの程度のつましい生活が可能であるのかは、実際にシミュレーションを行ってみれば良いでしょう。たとえば1週間でも良いので、冷暖房を止め、一汁一菜の食事をし、車に絶対乗らず、入浴を2日に1回にして、コンビニに立ち寄らない生活が出来れば、たぶん資源もエネルギーの消費も今の半分以下には出来るはずです。これは、実のところ1970年代半ば以前の生活に似ていますし、投稿者もほぼ実行中です。その頃がそれほど豊かではなかったにしても、決して不健康で、貧しかったとは言えないでしょう。胸は夢や希望で膨らんでおり、人と人との接触が密で助け合いがあり、親切心や他者への思いやりのレベルは、今より数段高かったはずです。つまりは、GNHは少なくとも現在の2倍以上は高かったはずです。何時から、貧富の差が拡大し、幸福な人より不幸な人が増えたかを振り返れば、きっとバブル期がターニングポイントとなったのでないかと想像しています。それ以前は、この国にも「一億総中流意識」が満ち溢れていたからです。バブルの泡をつかんだか、つかみ損ねたかの差が、「日本流の中流意識(つまりは、他人と同レベルの生活であると言うささやかな満足感です)」真ん中に楔を打ち込んだと思うのです。

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2012年1月 5日 (木)

1593 提案4(経済システム)

経済システムへの提案は、元技術屋の門外漢にとっては難しそうに見えます。そこで、ここでは話を極端に単純化して書くことにします。

経済とは、元を質せば、モノの売り買いの仕組みです。モノの売り買いの歴史は、たぶん分業化の歴史だとも言い換えられるでしょう。つまり、まとめて作れば品質の良い製品が効率よく(安く)出来るので、一人が全てを作ってしまう自給自足社会に比べれば効率が良いと言えるでしょう。モノの売り買いの仕組みはドンドン拡大し、それに合わせて種々のサービス業(第3次産業)も急拡大しました。それどころか、彼らは第2次産業をコントロールし始め、経済の仕組みを支配する様にさえ「成り上がり」ました。何故モノ売りや、カネ貸しが、モノづくり屋より高い利益を出し、良いサラリーを手に出来るのか、誰も不思議に思わない社会が、つまりは今の「経済至上社会」と言う定義になります。

これに楔を穿つ手段としては、例えば「バーター取引」が考えられます。その昔、町には市(いち)が立ちました。その市には近郊から、農作物や海産物(生魚や乾物)や実用的な道具や日用品が並びました。多くは、お金で決済(売買)されていましたが、時には例えば乾物を作った漁師のオカミさんと農家のバアちゃんは物々交換もした事でしょう。

現在の仕組みで。このような取引が、合法なのかどうかは別にして、製品との物々交換で原料が買えるなら、運転資金が少なくても企業を回す事は出来るでしょう。とは言いながら、製品を受け取った材料問屋が、製品で仕入れ代金を決済するのは結構骨が折れるかもしれませんが…。しかし、部分的にもそれが可能であれば、GDPと実際の「経済」とはかなりの乖離が出る事にもあります。物々交換による取引には、消費税も掛かりませんから節税にもなります。企業や国民の節税は、即ち行政にとっての歳入減となりますので、自然の成り行きとして行政組織や金融業もその規模を縮小せざるを得ない事になります。モノも食糧も作らない、本来は社会の僕であるべき「あの人たち」を社会のトップでノサバラしておくシステムは、決して健全ではないでしょうから…。続きます。

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2012年1月 4日 (水)

1592 提案3(環境カンバン2)

環境カンバンという新たな言葉を作ってしまったので、具体的なイメージを書いておきます。現在のカンバンとは、例えば部品箱に付いており、その部品箱が空になった時点で、カンバンと空箱が部品メーカーに戻されます。そのカンバンを発注根拠として部品メーカーが、部品製作に着手するというものです。即ち、カンバンがモノづくりのトリガーになると言う仕組みで、欠品や作り過ぎを防止して、ピンと糸を張ったようなモノづくりが継続できる事になります。

一方で、環境カンバンの一つのイメージは、工場内に掲げる電子掲示板の様なものになるでしょう。このカンバンには、その日の完成品の個数(台数)も表示されますが、同じカンバンにその工場で消費されたエネルギーの推移や累積も表示されます。同時に、累積エネルギーを完成個数(台数)で除した値、つまりは1個(1台)当たりのエネルギー量も表示されます。これが設定された数字より大きくなると、エネルギー効率が低下している訳ですから、何らかの省エネ改善が必要だと言う情報が発信されます。この看板には、同時に工程から出る廃棄物量の指標(つまりは原材料が製品になる率=歩留まり率の事です)も掲示されますので、この工場における環境パフォーマンスが数字で示されていると言えるでしょう。

更に、梱包・倉庫部門では、別のカンバンが必要です。即ち、その製品を個装、輸送パッケージングするための材料(ラップ材や段ボール箱など)のLCAと製品1個(1台)当たりの使用量を把握し、掲示します。加えて、送付先までの距離により、輸送のためのエネルギー原単位も同じカンバンに表示します。上のカンバンと合算すれば、この企業が製品を出荷する際の全環境負荷が、ほぼ把握できたことになります。もちろん、事務部門や営業所の環境負荷も「見える化」して、上記に合算します。ここまでやらないと、今後の社会では、とても環境企業とは呼べないと言えるでしょう。

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2012年1月 3日 (火)

1591 提案2(環境カンバン)

これまでの生産方式の行き着くところがカンバン方式であったにしても、これからの生産方式は、資源とエネルギーの見える化、即ち「環境カンバン」を掲げなければなりません。基準とするものは、これまでのモノづくりとその製品になります。これを100とした時、改善された材料や工程を取った場合、何ポイント下げる事が出来るかが、今後の企業評価の指標になる、と言うよりならなければならない、と考えています。

材料について言えば、その材料を精製する際に、単位重量当たりどの程度のエネルギーを使っているのかを、採掘から輸送、精製、配送に至るまで、ライフサイクルで評価する事が求められます。その材料を、ある製品に何キロ使うのかが設計者の腕の見せ所です。例えば、比重の小さなアルミやマグネを使う場合、確かに重量的には小さくはできますが、それが例えば鉄に比べて10倍もエネルギーを費やして精錬されているのであれば、環境性能の軍配は鉄に上がります。各材料メーカーは、少なくとも全ての材料に関する環境カンバンを掲げてそれを供給する責任があるでしょう。

さてそれを使って製品化している企業の設計者は、使う材料の目方を出来るだけ小さくするように、年々改善を続ける必要があるでしょう。もちろん性能は維持する事は必須です。生産技術者は、その製品の製造に関わるエネルギーを最少となる様に工程設計を行い、その際排出される産業廃棄物の量も最少化する努力が求められます。工場では、材料の使用量のカンバンと、製造エネルギーの2枚のカンバンが必要です。

話はここで終わりません。製造企業と流通企業は、パッケージングや配送方法についても環境負荷が最低限となる様に、互いに協力しつつ工夫を重ねる必要があります。現在多用されている段ボール箱はいくらリサイクルに回すとは言っても、所詮「ワンウェイ容器」に過ぎません。更に言えば、メーカーと流通業者は、使用済みの製品の行く末にも責任を持っていると言わなければなりません。つまり、メンテナンスや修理が容易であるか、或いは使用後の分解(素材別の分別)やリサイクルが容易であるかについても不断の改善努力が必要です。つまり、今後は作りっ放し、売りっ放しは許されない時代になったと言えます。続きます。

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2012年1月 2日 (月)

1590 提案1(産業基盤)

一国の産業政策は極めて重要です。つまり、その国の国民が一体何を生業(なりわい)にして生きていくのかのデザインの事です。振り返って越し方を見れば、この国の産業政策は単純で、一貫して「加工貿易」でした。資源やエネルギーをほぼ100%輸入し、種々の部品や製品を輸出して、得たお金で新たな資源や食糧を輸入して、国を支えてきた訳です。しかし、そのシナリオは、近年の途上国の追い上げによって、徐々に崩れてきたのでした。「世界の工場」の地位は、K国をはじめとするアジアやBラジルやC国やIンドに取って代わられつつあります。確かに、一部のコア技術はまだ国内にあり、例えば車の主要部品などは世界のシェアを握ってはいます。しかし、多くの「設備型産業」は、旺盛な途上国の投資に押され、ジリ貧状態にあります。しかし実のところ、その設備は他ならぬ日本やドイツなど、技術的に優れたものを維持している国々が提供している事は、まったく皮肉な事実です。

さて、この時代、お金さえ積めば、精度が高く、生産性も高い設備が作れますが、この国の産業政策として考えるべきは、先ずは今後何を作るかであり、それを如何に資源・エネルギーを節約しながら作るかという点だけだと思います。つまりは、省エネ・省資源技術と呼ばれる技術の事です。省エネは、かつて石油ショック後に苦労しながらも必死に開発しました。また省資源技術に関しては、元々資源の殆ど産出しない国として、軽量化技術や複合機能技術で磨いてきたはずです。それを、今後は徹底的に研ぎ澄ましていかなければならないでしょう。

これまでの産業の基盤は、如何に安く・大量に・品質の高い製品を作るかに主眼を置いてきたはずです。その行き着くところが「カンバン方式」による無駄の無い生産システムだと言えます。しかし、今後のキーワードは「環境保全を織り込んだ生産」でなければならないと思っています。環境保全とは、可能な限り環境負荷を削減する事とほぼ同義ですから、結局は省エネ・省資源生産と言い換えても良い訳です。環境保全の考え方を、製品設計や生産技術=生産設備、さらに言えば使用済み製品の処理方法に織り込まなくてはなりません。具体的な考え方は、個々の項で展開する事とします。

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2012年1月 1日 (日)

1589 新しい年に

新年あけましておめでとうございます。旧年中は、退屈で繰り返しの多いこのブログを辛抱強くお読みいただきありがとうございました。このブログは、実のところ自分自身の戒めのために書いているので、楽しく読んでいただく事には力を入れておりません。毎日まいにち「有言実行」のための、自分自身に向けてのプレッシャーとして書いている訳です。そのような目で今後もお読みいただければ幸いです。

さて、この国には、新しい年を迎えるに当たって、旧年をリセットする風習があります。そのために寺社に詣で、元旦の日の出を拝みます。確かに季節は巡り、枯草や葉を落とした木々も春には再生します。しかし、人が作ってしまった文明や社会システムは、一度崩れ始めると、放置しても決して再生はしません。古の人たちが、繰り返しの地震に見舞われても、城の石垣などをコツコツと継続的に補修して美しい姿をこの時代まで残してくれた様に、私たちもシステムの綻びや解れを、手当が出来るうちに繕っておくべきなのでしょう。農地を埋め立てて道路を広げ、計画なしに工場を建設したり、細切れにした住宅地を増殖させたりする事はここらで止めにしなくてはなりません。また先人が残してくれた山林を忘れるべきでも、上流を洪水に弱いままに放置し、河川にムダなダムを造り続けるべきでもありません。

新しい年の初めには、来たるべき時代のグランドデザインを描き直す事こそが必要な作業だとも思います。そこで、今後数回に亘って投稿者なりの提案を書いてみようと思い立ちました。とりわけ、この国の産業の在り方は重要なデザイン要素ですので、力を入れて書こうと思います。

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2011年12月31日 (土)

1588 年の終わりに

物理的にも、社会システム的にも、今年はまさに100年に数度の激動の年であったと、後年永く振り返る事になりそうです。物理的とはもちろん地面が大きく揺れ、津波が押し寄せ、原発が壊滅的な事故を起こしたと言う意味においてです。社会システム的とは、20世紀型の大量生産システムにおいて、「選択と集中」が極限まで進んだ結果、実は苦労して作り上げたそのシステムが非常に脆いものであった事が、震災による東北地方のモノづくりの停滞や、タイの洪水で見事に証明されてしまった事を指します。同様に、債権市場に代表される「膨らませ過ぎた信用」も激しく揺さぶられたと言うべきでしょう。

モノづくりの世界においては、T社の先輩が口を酸っぱくして説いた、カンバンを使った「無駄を省いてピンと糸を張ったモノづくり」は、確かに無駄を極限まで省き、大量生産をこれ以上ないレベルまでブラッシュアップはしましたが、一方で実は「必要なゆとり」まで削り取ってしまった可能性もあります。ピンと張った糸は、一旦切れると大混乱を起こします。適正な在庫とは、いわばシステム上必要な糸の弛みだと考え直すべきなのかもしれません。つまり、在庫は保管のための場所も要り、投じた資本を寝かすから悪だという一面的な見方ではなく、在庫はいざという時のバッファや溜めであるとの多面的な見方が必要になると言う事です。更に言えば、部品の調達はコストと効率を追求して、力のある少数の下請けに集約するのではなく、可能な限りソースの幅を広げておくべきなのでしょう。

地震が引き起こす現象は悪い事ばかりではありません。地盤の弱い所や、崩壊が進んでいる危険な斜面を、激しい揺さぶりにより顕在化させてくれます。地下水を吸って緩んだ地盤を、水を絞り出して引き締めてくれるかも知れません。昔の人々は長い言い伝えの中で、そのような危険な場所に家を建てる事を戒めてきたはずですが、小手先の治山治水(結局その中身は砂防ダムと堤防のかさ上げ程度です)や擁壁工事程度で、それが防止できると勘違いしていた現世代に、改めて警鐘を鳴らしたと捉え直さなくてはならないのかもしれません。不謹慎な意味ではなく、天災とは天が与える試練だとも言えそうです。新しい年は、それを乗り越える知恵を絞り出す年になると、自らをも戒めておきます。

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2011年12月30日 (金)

1587 手段の目的化(個人)

個人の人生の目的を一言でくくるのは難しい話です。と言うのも、人は目的を持って生まれてくる訳ではなく、いわば成り行きで誕生する訳です。したがって、もし人生に目標が設定されるとすれば、それはその人が長じて、何らかのきっかけで人生の目標を見出してからの話になります。多くの人は、実は人生の目的など特に意識しないで一生を終えるのかも知れません。とは言いながら、それなりの割合の人々は、明確な目的を掲げて人生を駆け抜けます。政治家になる人、金儲けの達人や経営者になる人、医者になる人、投稿者の様に環境坊主や本当の坊主になるため出家する人、などなどです。

しかし敢えて、人々の共通項として普遍的な目的を考えてみるならば、それは「子孫を残し、その子孫へ文化を引き継ぐ事」となりそうな気がします。その前提として、子孫の生活が持続可能であることを保証しなくてならない、と言う点を忘れてはならないでしょう。そうでなければ、過去の多くの文明が滅びてしまった事実に照らすまでもなく、この文明も危うくなるからです。と言うより、実は今の文明も既にその結末に向かい始めているのかもしれませんが…。

いずれにしても、現世代は、駅伝に喩えれば、あくまでも単なる「中間走者」に過ぎず、資源やエネルギーを可能な限り温存して、子孫の暮らしを保証してやる義務を負っているはずです。少なくとも景気を押し上げて、より多くのお金を得ようと考えれば考えるほど、子孫の分け前を減らす事につながることは再確認すべきでしょう。そうではなくて、贅沢に慣れ過ぎて、資源やエネルギーやましてや食べ物の無駄を見ても、何も感じなくなっている感性こそ叩き直すべきなのです。その上で、オーバーシュートした、生活のモノやカネをダイエットし、子孫に分け前を残す事も人生の立派な目的になり得ると思うのです。間違っても、例えば退職後に貯金と年金で遊びまわり、一方で子孫に天文学的額の借金(国債残高)だけを残す愚だけは避けなければならないでしょう。

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2011年12月29日 (木)

1586 手段の目的化2(企業)

企業の目的は、もちろん企業自身の利益の拡大でもなく、従業員の待遇改善でも、株主の配当でもありません。多くの企業が忘れかけていますが、それは「顧客満足」しかないと思うのです。短期的に見れば、企業収益や株主への配当を増やす事が出来るかもしれませんが、顧客満足度が低い企業はやがて淘汰されるでしょう。何故なら、リピートオーダーが無くなるからです。100年企業が100年間存続しているのは、時代の変化を読みながら体質を修正し、その時代時代において顧客満足を得てきたからに他なりません。

一体どれだけの企業が、飛ばしや粉飾決算を繰り返してきたのでしょうか。つい最近も、大手企業が飛ばしで「挙げられ」ましたが、規模の大小を問わなければ、氷山の下にはそんな話は、いくらでも見つかるはずです。それは、兎にも角にも当期の利益を確保し、株主に配当を渡さなければ、経営者の責任が問われるという社会の風潮が、経営者の目を曇らせているとしか思えません。

企業の目的は、先ずは顧客満足度のレベルを高く維持しつつ、受注の継続により企業の稼働率を確保し、その結果として「適正な利潤を上げる」事しかないと思うのです。では企業の中で、誰が顧客の満足度をより正確に把握しているかと言えば、それは「アフターサービス部門」や「クレーム窓口」や「接客担当者」に他なりません。その上で、理想の企業組織の在り方を突き詰めれば、それは「ソフトクリーム型組織」になる筈なのです。つまり、組織で一番重要視される部署は顧客窓口であるべきで、それはクリームの様に柔らかく顧客に接し、他の組織はその部署をしっかり支え、一番下には経営者が組織全体を支える、逆三角形の組織になるべきだと思うのです。いち早くそれを提唱し始めたB国の航空会社(SW社)がありますが、大手キャリアーであるAA社の破綻をしり目にして、その企業の目覚ましい快進撃こそが、この組織の在り方の正しい事を証明しているとみています。

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2011年12月28日 (水)

1585 手段の目的化(政治)

年の終わりに際して、最近特に気になる事として「手段の目的化」を挙げておきます。例えば、国が政府を作り、行政組織を持つ最大の目的は、結局は富の適正配分(再配分)に他なりません。つまり、税の負担能力のある法人や個人から適正に徴税し、それを社会インフラの整備や弱者の救済に振り向ける仕掛けとして国の存在意義がある訳です。もちろん、国家の仕組みを他国から守るためには、外交交渉や軍事力も「手段」としては必要なものなのでしょう。国家としての枠組みを固めるためには、立法(国会)やそれを守るための組織、警察や裁判所確かにも必要なのでしょう。

一方、政治家の役割はと言えば、再配分に当たってのステークホルダーの代表者であって、実のところそれ以上でもそれ以下でもありません。彼らに期待される本来の役割は、あるべき将来の社会の姿を語って、それに賛同する支持者を増やす事ですが、今や現在の諸課題の火消しだけに追われ、或いは既得権を持つ団体の飾り物に成り下がっている可能性さえあります。何より、殆どの政党が一般国民からの支持率を失っている事が、その証左かもしれません。支持する政党無し層が、今や国民の半数に迫ろうとする国家は、明らかに異常でその体を失いつつあると言うしかありません。

私たちは、今一度国家の「目的」に立ち戻る必要がありそうです。行政組織も、経済の仕組みも、社会インフラなども全ては「手段」だと考え直さなければなりません。最大の目的は、やはり国民の安寧を第一優先とする社会の仕組みを構築・維持する事だと言うしかありません。そうであるならば、党利党略などあり得るはずもなく、議論の核心は、では一体どの法案が「より合目的」なのかという一点に集中するはずなのです。反対のための反対、安易に合意を得るための法案の骨抜きは、ますます「支持する政党無し層」を増やす茶番劇に見えてきます。

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2011年12月27日 (火)

1584 環ビジ88(原発停止リスク回避)

九州では全部の原発が停止して、しばしの原子炉の完全休息?期間に入ったとか。ここまで、原発の停止が広がり、更にその休止期間が長期に亘ると、この国の経済活動や社会生活にも大きな影響を与えずにはおかないでしょう。取り敢えずは、電力会社や国からの節電要請が、企業や市民に向けて突きつけられるはずです。関西では既にそれが始まっています。しかし、本当にその影響が効いてくるのは、電力料金の値上げかもしれません。原発停止により火力発電への比重が高まる結果、化石燃料とりわけ重油や天然ガスへの需要圧力が高まります。火力発電コストは、従来の原発電力に比べてかなり割高である上、今後はC国などとのエネルギー資源の奪い合いが激しくなって、燃料価格の高騰にも一段の拍車が掛かる筈です。

この大きなリスクを回避するについて、確実な妙案がある訳ではありません。先ずは、一にも二にも「省エネ体質国家」への脱皮が必須でしょう。一般的な製造業では、少なくとも3割程度の省エネは、それほどコストを掛けずに達成可能であるとみています。必要な事は、現状の把握のために細かい計測と、その結果を睨んでの知恵と工夫の結集です。電力会社が気にしているのは、総電力量ではなく、ピーク電力の高さだけですので、電力量の推移グラフを眺めれば、対策は結構単純です。電力会社側も少し知恵を使って、ピークが発生する時間帯の電力料金を「びっくりする程」値上げすれば良い訳です。その代り、レベルが下がる時間帯の電力は値下げして、ピークシフトを誘導する訳です。省エネとピークシフトは、一体でビジネス化する必要があるでしょう。

もう一つの対策は、時間が掛かりますが、エネルギーの多様化しか考えられません。それも、太陽光や太陽熱利用の促進だけを考えなくてはいけません。これは、必ずしもお金の掛かる太陽光発電の急拡大は意味しません。電力エネルギーの多くは(事務所ビルでは6割以上が)冷暖房と照明負荷ですので、太陽熱と昼光を最大限利用する、システムを考えれば良い訳です。太陽熱は今でも太陽熱温水器や一部の住宅の暖房に用いられていますが、これを全てのビルや工場に展開します。昼光照明も、鏡と反射ダクトさえあれば済むので、即効性もあり初期投資も安く上がるでしょう。

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2011年12月26日 (月)

1583 初雪

今朝、この地方でも今季初めての積雪がありました。雪国生まれの身としては、何か嬉しくなる朝でもあります。全てのくすんだものが白一色に塗られ、清々しく化粧直しする朝でもあります。とは言いながら、やはり冷え込みはソコソコで、なにか頼りなさそうな積雪でもあります。本当の冷え込みでない証拠には、建物や樹木の陰になった部分では、地面の雪が融けて水たまりになっています。この地方に越してきた冬の様子を思い出すと、やはり温暖化が静かに進行していると考えざるを得ません。この年(S58年末から)の冬には、一冬に20数回の積雪があったと記憶しています。そのシーズンには、とにかく朝起きて会社に出かけようとすると、地面に雪が積もっているか、道がバリバリに凍っていた様な気がします。今回の寒波がどのくらい居座るか楽しみですが、もし1週間程度で退散するのであれば、「冬将軍の老化現象?」が本物になったからかも知れません。

一方で、日本海側の積雪は、実は温暖化で増加する可能性が高くなります。日本海の暖流の温度が上昇すれば、海面からの蒸発量が多くなり、それを大陸からの寒風が急速に冷やして、多量の積雪をもたらすからです。今回も北陸ではドカ雪に見舞われている様です。結果として見れば、夏の暑さと冬の積雪はセットになっているのかもしれません。

しかし、全体として温暖化が進行するのであれば、今は雪として振っているものが、ある時期からは降雨に替わる可能性もあります。雪と雨の境目は、地上の気温で3-4℃ですから、暖流の影響で、寒波が来た朝でも氷点下数℃にしかならない北陸地方では、数℃の温暖化で積雪量が劇的に減少する可能性があります。そうなれば、天然のダムでもある山地の積雪も減り、夏場は渇水に悩まされると言う、しっぺ返しも懸念されます。

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2011年12月25日 (日)

1582 鉄・木時代

鉄は長い時代に亘って、今の文明の基盤材料となってきました。古い時代に作られた鉄器は、ほとんどが錆びて原型は留めていませんが、この国でも弥生時代に遡る事が出来るでしょう。その古い材料である鉄が、今でも例えば車や鉄道車両の主要な構造材料ですし、鋼材無しには一本の橋も掛けられません。何より鉄道の線路は鉄そのものです。豊富に産出する鉄原料(つまりは酸化鉄です)の精錬(還元)には、これも多量に産出する石炭(を蒸し焼きにしたコークス)があれば良いので、今後とも資源量の確保に関しては安定だと思われます。

一方、新しい材料としては、アルミニウムやチタンやマグネシムなどもありますが、これらの新しい材料を精錬するには、多量のエネルギー、とりわけ電力が必要ですので、これらの材料はいわばエネルギーの塊なのだと言っても良さそうです。つまり、これらの新しい材料の確保のためには、「安い電力」の確保が不可欠で、供給が不安定な材料だとも言えます。これらの新材料の実用には高々100数十年ほどの歴史しかありませんが、どの材料も結局は軽量化と言う目的に主眼が置かれて使われます。エネルギー確保が不自由になれば、やがて消えていくべき材料とも言えるでしょう。

しかし、今後の社会を見通す上で、ぜひ考えてみなければならないのは、石と並んで最も古い構造材料である木材の活用でしょう。木材は、確かに腐朽と言う弱点はありますが、比強度で考えれば理想的な素材ともなり得るポテンシャルを持っているからです。木材の長手方向には、強靭な繊維の束が通り、その周りには円筒状の空隙があり、結果として比重も0.5以下の軽量材料となっています。これを、体積で半分以下になる様に圧縮し、水蒸気で形状固定(圧密化)すれば、腐朽も殆ど問題の無くなり、アルミニウムに匹敵するほどの強度も実現できます。五重の塔ではありませんが、中層ビル程度であれば「新しい木材」で建設する事は十分可能ですし、その可撓性を考えれば地震にも強い筈です。木材を結合する金具には、鉄やステンレス鋼などが必要でしょうが、最小限の使用で済むでしょう。木製の自動車も結構有望だと思っています。その意味では、鉄・木時代は、長く持続可能な時代でもあります。

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2011年12月24日 (土)

1581 四季

何かの機会にG.アルチンボルドの絵を知りました。種々の精細に描かれた静物を組み合わせて、全体として人物を描く手法は独特のものですが、どちらが真似をしたかあるいは、洋の東西を問わず、共通の文化というものがあるのか、江戸時代の日本の戯画にも似たようなものが見つかるのは興味深いところです。

さて、彼の作品の中でも「四季」と呼ばれる4枚の連作は、人間の一生を描ききっていると同時に、文明の盛衰などにも通ずる普遍的な何かを訴えかけてくるような気もします。環境坊主を自認する投稿者としては、その中に「環境問題」を探してしまいます。全ての生命が息を吹き返して活動を始める春、それらが太陽光と雨の恵みを受けて最も活発に活動する夏、植物は果実や種子を実らせて、動物はその恵みにあずかりながらやがて来る冬に備える秋、全ての生き物が眠りに入る冬は実は春への準備でもあり、それらが4枚の絵に見事に表現されています。それを見る時、振り返って季節感の少ない人間の生活の事を考えない訳にはいきません。

四季は見事に循環しますが、季節感を可能な限り消し去った人間社会は、その循環が極端に弱まっていると言えます。食糧は、自然の循環を利用するのではなく、化学肥料と農薬と石油燃料で動く大型農業機械を使いながら、電力を使って大量の地下水(化石水)を汲み上げながらの農業によって「工業的」に作られます。ほぼ全ての工業は、地下資源を製錬した原料を使い、多量の熱と電力を使いながらその形を変えられます。汚く食べ残された「元食品」や用済みになった工業製品の多くは、一方通行の処理ルートに沿って、最終的には処分場に埋め立てられます。かなりの割合の紙や分別し易い金属などがリサイクルに回されるだけです。アルチンボルドの絵は、この持続可能ではない社会の仕組みへの警鐘の様にも見えてきます。機会があれば、ぜひ本物の絵の前に立ってみたいものです。

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2011年12月23日 (金)

1580 ソブリンリスク

今世界で起こっている、金融危機に始まる経済の閉塞感ですが、元を質せばそれはグローバル化の是非論に還元できるはずです。ヨーロッパの実験は、国境を超える通貨の統一でしたが、文化的背景や価値観の異なる国同士が、無理に価値交換の手段である通過を統一した場合、当面の(つまりは新しい通貨単位に慣れていないための)トラブルと、今起こっている様な根本的な壁が存在するという事がはっきりしてきました。

言葉を替えれば、ソブリンリスクとは国や文化の壁を越えた、無理なグローバル化の歪だとも言えると思うのです。基本的には楽観的で、その日を気分よく暮らせれば幸福なラテン系民族と、全ての物事を理窟と合理性で割り切ろうと努力する勤勉な北の民族が、たかが通貨や流通システムを統一し、関税を撤廃したぐらいで、短期間で融け合うなどとはとても信じられません。ソブリンリスクとして挙げられる国々に、ラテン系の国家が出てくるのは決して偶然ではないでしょう。つまり今や国境は目には見えませんが、明らかに国境には何らかの形のバリアは厳然として存在していると考えざるを得ません。つまりは、それは人モノカネに対しては、通過する方向で抵抗の異なる「ダイオード」として作用する訳です。

では振り返って、この国にソブリンリスクは存在しないのでしょうか。存在しないどころか、今やリスクだらけとみている人は少なくないでしょう。国家としての長期的な展望が無い中で、椅子取りゲームしか眼中にない政治屋と、自らの保身しか考えない官僚と、その中で方向を見失っている企業と、震災・津波被害と放射能汚染や電力逼迫に翻弄される国民が、莫大な借金に押しつぶされそうになりながら耐えている姿は、まるでソブリンリスクのデパートの様です。GリシャやPルトガルやSペインやIタリアやその他の危ない国々を、他人事として見過ごす訳にはいかないはずなのです。取り敢えずは今後50年後の社会システムや国を支えるべき産業や、或いは国民の幸福の物差しを示し、そこに向かっての10年後、20年後のステップを設計しないままでは、間もなくアジアのソブリンリスクを代表する国に成り下がるとみています。本項も続きます。

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2011年12月22日 (木)

1579 復興需要

震災の復興需要が期待され始めていますが、道のりは平坦ではありません。と言うより大変険しいと言うしかないでしょう。理由は、壊滅した産業の回復は、単に旧に復する事ではなく、東北と言う地勢的な特徴や資源を生かしながら、持続可能な新たな産業を興す事が必須だからです。つまりは復興ではなく、かなりの部分は「新興」でなければならないと見ています。震災地にも、重要なモノづくり産業が集積していた事は、震災後のモノづくり産業の混乱でも十分過ぎるほど証明されましたが、それに懲りた産業側は、当然の事ながら拠点の分散を図る筈です。つまりは、量的にも復旧はあり得ない話になります。

では、持続可能な産業の新興とはどの様なものになるのかを考えてみると、どの様な道筋で考えても、東北の産業の特徴でもある農業や林業や漁業などの一次産業に関連するものにならざるを得ないでしょう。しかし、一次産品をそのまま市場に出すのでは、海外の産品に太刀打ちはできないでしょう。そうではなくて、より大きなお金を生み出し、震災地の経済を拡大させるためには、産品を多面的に利用しより大きな付加価値を付ける新たな産業を興すしかないのです。

林業を例に具体的に考えるなら、現在1億トンに迫る量を輸入している「外材」に、日本の山から切り出した「材木」そのままでは決して価格競争力は生まれません。頑張っても赤字を垂れ流すだけです。しかし、例えば付加価値の向上では、木材を圧縮して強度や硬度を上げ、構造材や内装材として新たな付加価値を与えるとか、或いは美しい木目を際立たせて、意匠を売りにするとかが考えられます。

間伐材や端材や残材についても、単に燃料にするだけではなく、繊維を利用して複合材化(例えばランダムストランド合板など)するとか、保温材としての機能を引き出すなどの工夫をし、最後にどうしても製品にならない部分は、ペレット燃料に加工するなど「一粒で三度おいしい」使い方を実用化すれば、儲からないと言われて久しい林業でさえも十分再生可能だと思うのです。続きます。

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2011年12月21日 (水)

1578 では原発は?

きっかけは地震+津波であったとはいえ、最悪に近い事故を起こしたフクシマの原発の状況はどう考えるべきでしょうか。原発は、基本的には核物質の「連鎖反応」とその制御で成り立っているシステムです。もし、全く制御(冷却)が効かなくなった場合には、大量の核物質は最終的には圧力容器も、格納容器も、その下の岩盤も溶かしながら暴れまわる事でしょう。つまりは、最悪の場合は核物質の持つ核エネルギーのポテンシャルが尽きるまで、負の連鎖が続く危ないシステムだと言えます。

その意味では、原発の本質は「堰止湖」と何ら変わるところはない訳です。核物反応において、堰止湖の水に働く「引力」に相当するものは、核分裂の連鎖反応を起こす中性子群だと言えます。臨界以上の核物質が集まると、この「引力」は自然に発生しますので、原発の圧力容器内には強力な中性子の引力が満ちている事になります。もちろん、原発に用いる燃料ペレットは、わざと純度を低くして、ひどい暴走は起こさない様には考えられてはいますが、それも程度問題です。1100kwもの出力を持つ原発は、やはり日常的には想像できないほどの強大なパワーを内蔵しているパワフルなシステムなのです。

さて、環境に放出された放射性物質は、自然崩壊しながらその引力を弱めてはいきますが、そこから出る放射線(α、β、γ線)は、生体にその放射レベルに応じた害(つまりは細胞や遺伝子の破壊です)をもたらし、負の連鎖が長く持続する事になります。つまり、原発システムは、急激な負の連鎖(暴走事故)が一応収まった後でも、生体に対する負の連鎖は長くながく続くと言う意味で、本質的には人類にとっての「パンドラの箱」であると考えるしかないのでしょう。

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2011年12月20日 (火)

1577 正の連鎖

負の連鎖は、他人の災難を見た人がつい「弱気になって」自分の活動も抑制し始める、いわば心理的な要素が大きいと考えられます。ごく初期のきっかけは、喩えるなら堰止湖から少量の水があふれ出る様な状況かもしれません。それを見た人が「大変だー」と叫んで村に駆け込めば、下流の村々の住民は不安に襲われ、最終的にはパニックに陥ります。これが、負の連鎖の一つのシナリオですが、正の連鎖は全くこの逆プロセスにはなりません。というか、ならないと見ています。

その理由は、堰止湖の喩えで言うならば、地球には引力があるから、と言う説明になります。水を上流から流下させるのは、引力に従う訳ですから、勝手に事態が進行します。それも、加速度がついてです。しかし、水を上流に汲み上げるには、ポンプを使うか、或いはお天道様の力を借りて、水を蒸発させて雲を作り、雨を上流地帯に降らせなければなりません。それには、長い時間が掛かる事でしょう。

悪化した事態の好転も、たぶん同様に長い時間を要するのではないかと考えています。たった数年の戦争で壊滅状態に陥ったこの国が、立ち直るのにどのくらいの時間が掛かったかを思い起こせば、そう考えない訳にはいかないでしょう。では、バブル崩壊やリーマンショックなど、債権市場への不信が引き起こした「人災」から立ち直るには、何が必要で、一体どのくらい掛かるでしょうか。市場における「引力」は何によって生ずるかと問われれば、それは人間の欲望だという事が出来そうです。楽して儲けたいと言う欲望が、常に市場への引力として働くと見ています。一方、その強力な引力から脱するには、先ずは物欲や金銭欲を捨てるしかありません。これが、如何に難しい事かは今更説明するまでもないでしょう。

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2011年12月19日 (月)

1576 負の連鎖

60年のつたない人生経験から言えば、物事の悪化は必ず連鎖します。とは言いながら、事態はどこかで歯止めが掛かるのも事実です。例えば、悪化要因が「堰き止め湖」に溜まっている水だとして、そのダムが決壊すれば、下流の村や町が次々に洪水に襲われることになりますが、溜まっている水が尽きれば、流れは元の清流に戻る事でしょう。つまり、悪化の原因は、所詮有限である事が、結果として事態の悪化の連鎖も尽きる事につながります。

これを、某ラジオパーソナリティ風に言えば「山よりでっかい猪は出ん」、或いは、「この世で起こった事はこの世で収まる」とでもなるのでしょうか。これは、実を言えば投稿者の人生訓でもあります。それはさておき、この環境の悪化や経済の行き詰まりもやがては収まるのでしょうか。その点に関しては、楽観していると言っておきます。楽観の根拠ですが、氷河期や数々の戦争や紛争、或いは未曾有の災害などにもめげず、人類は生き延びてきたと言う事実しかありませんが、それで十分だとも思います。

しかし、要因(例えば水や膿)が完全に尽きてしまわないうちに、事態をウヤムヤに収束させた場合、それが長らく悪さを続ける事態が起こり得ます。不良債権などはその最たる例かもしれません。それらを表に出さずに闇から闇に封じ込めた場合(飛ばしをした場合)は、時限爆弾の様に近い将来に極端な悪化現象として目を覚ますでしょう。それは、例えば原発事故とその処理などについても当てはまるはずです。では、正の連鎖もあり得るのでしょうか。それについても次に考えてみます。

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2011年12月18日 (日)

1575 モノからココロへ

この時代、多くの事態が袋小路に入り込んでしまっている事に気が付きます。資源、エネルギーの確保、経済活動(金融)のシステム、国際関係(軍事バランス)などなど。その根元を掘ってみると、結局全ての問題は、この星が有限の閉じた世界であるという単純な事実に発している事が分かります。その有限である星に、多くのモノを詰め込み、求め過ぎているのだと言うしかありません。資源やエネルギーの権益は、近代の国際関係緊張の原因そのものでした。ドロドロした資源や権益の奪い合いを、一見平和的な価値交換の手段であるマネーに「ロンダリング」した、いわゆる経済活動も、結局のところ同根だと言えます。

ややぞんざいな言い方ですが、武器や軍事力を使ってドンパチやるのか、金にモノを言わせてジワジワ締め上げるのかは、僅かな違いでしかありません。結局は、武器も金も持てず、しかし資源だけは十分にある国々が、持てる国に絞り取られるだけです。武器も金も持てていなくて、絞り取られていた国々で、比較的力のある国々が、持てる側に入ろうともがいているのが、現状だと言えます。

その中で、戦後頑張って持てる側には入ったものの、90年代から方向を見失っている様に見えるこの国は、ソコソコ持てる国で、しっかりGNHが高い国に変身出来るかが、ここ10年の勝負になりそうな気がします。10年というのは、今回の震災が一応の収まりを得るまでの間、人々のココロの中に、優しさとか絆とか思いやりとか言う言葉が十分に残っている期間と言う事になります。阪神の大震災では、ボランティアとかNPOと言う言葉がもてはやされました。今回の震災では、「絆」と言う抽象的な言葉しか表に出ていない様な気がします。では、絆という言葉を具体的な行動に直したら、どんな形があり得るのか、この一年で皆が考えなければならないはずです。少し時代を戻れば「結い」などと言う言葉があり、それは集落の中では、具体的な決まり事や行動になっていたはずです。モノからココロへの具現化が必要な時代です。

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2011年12月17日 (土)

1574 使用後処理の設計

1573で書いた事にもう一言付け加えておく必要がありそうです。それは、そもそも製品や設備の設計時に、使用後の処理まで設計に組み込まれているかどうかという点です。原子炉に限らず、製品や設備は、使用時の性能に関しては気を使って作られている事は間違いないでしょう。しかし、それらが寿命を迎え、或いは不要になって処理される方法まで配慮された設計は「殆ど」見た事がありません。殆どと言うのは、「最近は」と言う意味においてです。古くはそうではありませんでした。工業製品や設備は故障すると言う前提で作られていましたし、構造的な寿命が来るまでは、繰り返し修理して使う、のが前提になっていた訳です。

そのためには、何より構造がシンプルで、分解修理も容易な構造になっている必要があります。一般的な工業製品や設備は、フレームがあり、その中に機能部が納められ、その後周囲に化粧パネルを張って、見栄えを良くしていました。これは、車などでも同じ考え方で設計され、基本的にはシャシ(英語ではフレーム)と車体に分離していて、車の作り方も今とはかなり違っていました。車体を取り外せば、エンジンが乗り、座席がついてそれだけでも走れるような車台が現れると言う様な構造です。したがって、ほぼ全ての部分について、部分的な修理が可能であり、廃車になった場合でも、細かく分解して処理すれば、ほぼ全てが資源として蘇らせる事が可能でした。

さて、今の製品です。見栄えを良くするために局面を多用した板金スポット溶接のモノコック構造や種々のプラスチックのフレームに、ブラックボックス化した機能部が込みこまれていますが、組立の容易化のために、そもそも分解できないか、或いは一度嵌め込むと工具無しには分解できない構造にしています。これは、故障した場合には買い替えを前提にしていますから、当然の構造とも言えます。原発でも事情はあまり変わりません。分解出来易い構造は、結局使用中の漏れも懸念されますので、点検部以外はガチガチに溶接されているはずです。これが、事故処理や廃炉作業にとっては、大きな壁となって立ちはだかるとみています。

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2011年12月16日 (金)

1573 廃炉まで40年!?

現在の見込みでは、事故を起こした原発を完全に廃炉にするまでに、なんと40年も掛かるとか。詰まるところ、現世代の手による廃炉処理を、始める前から諦めたと言う情けない事態です。数十年も原発の「お世話」になっておきながら、後のゴミ(放射能汚染+廃炉)の処理を子や孫によろしく、と頼むと言う現世代に、本当に後ろめたさや罪悪感は無いのか、と疑いたくなります。リニア新幹線建設などに注ぐだけの金と技術力があるのなら、そっちを遅らせてでも20年以内での原発の処理を優先させるべきだと、なぜ誰も言い出さないのか全く腑に落ちません。

遠隔操作のロボットや機械を使って、水中で炉内の構造物や融け落ちた燃料の残骸を、少しずつ削り取る、どちらかと言えば単純な作業に、何故そんなにも時間が掛かるのか、元技術屋としても全く理解できません。南アルプスに10㎞もの横穴を掘る技術力とパワーがあるのなら、例えば原子炉の上に巨大な天井クレーンを設置し、小型のトンネルマシンを吊り下げて、炉内の構造物と燃料をガリガリ削り取り、その切り粉を水と一緒に吸い出せば、全て水中の作業で完結する事が出来るでしょう。

そうでなければ、ロボットアームの先に、水中溶断トーチを持たせ、内部の構造物を切り刻んでも良いでしょう。ロボットアームの操作は、税金を使ってしっかり訓練をしていただいたW田宇宙飛行士にでもご教授をお願いすれば良いでしょう。税金もしっかり生きます。内臓物や燃料が何十トンあるか分かりませんが、毎年数トンずつ、毎日に換算すると十数キロずつ(これは手でも持てる重量です)でも処理できれば、10年もすれば処理は完了する勘定です。その準備に5年かけるとしても、現世代が責任を持って廃炉処理はできると思うのです。

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2011年12月15日 (木)

1572 環境ビジネス87(スケールダウン)

環境に配慮した社会システムあるいは環境ビジネスは、何は無くともスケールを小さくして、可能な限り地産地消を目指さなくてはなりません。つまり、現在あるシステムやビジネスモデルを、取り敢えずスケールダウンさせて、しかもそれが安定的に持続させ得るものであれば、何であれ環境ビジネスにはなると言う事にもなりそうです。

分かりにくいので具体例を挙げましょう。例えば、電力供給です。これは、見かけ上いくつかのシステム(電力会社)に分かれてはいますが、いわば国の息がかかった、準国策システムだと言えるでしょう。これを、究極的には個別発電に移行させることは、現在では立派な環境ビジネスになりつつあります。これに対応するものとして太陽光発電もあるでしょうし、ガスを使った熱電併給システムなどもあります。電力に限定せず、エネルギー一般と枠を広げれば、もちろん太陽熱給湯システムもその一員です。たった1基でも100kwは発電してしまう現システムに比べれば、数キロワットの分散システムは、なんと100万分の1のスケールダウンになります。これによって、エネルギーのセキュリティは格段に向上する事になります。例えば、ある家の発電システムがダウンしても、お隣さんから少し融通して貰えば、完全停電のリスクは極端に小さくなるでしょう。

スケールダウンは、生産システムにも必要です。大量生産の本質は、つかみにくい市場の「見込需要」に応えるための、「まとめ作り+中間在庫+流通=押し込み生産」です。しかし、市場が成熟するにつれて最早市場への「押し込み生産」のビジネスモデルは成り立たなくなってきます。一方で、一部の昔ながらの職人技による受注生産+手作り生産は、以前として根強く生き残っています。その意味するところは、本物志向に傾いている消費者の「所有する事による強い喜び」を満足させる事にあると考えるしかないでしょう。スケールダウンし、単価の高いものをしっかりした需要(つまりは注文です)に基づいて、適正な価格で市場に出せば、良いものであれば口コミでも徐々に売れていくはずです。

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2011年12月14日 (水)

1571 冗長性

システムにおける冗長性(Redundancy)は、あらゆる意味で重要です。それは、必ずしもムダ(Excess)を意味するものではありません。たとえば、車で言えば油圧式のブレーキシステムに加えて、ワイヤなどで力を伝えるサイドブレーキが必ず設置されています。春先に事故を起こした原発でも、不十分ではありましたが、非常用発電機は設置されていて、電力が失われた際には「自動的に起動するはず」でした。世の中の多くのシステムにも、確かに「補助~」とか「非常用~」とか「バックアップ~」、「スタンバイ~」などの非常時の手段が組み込まれています。

しかし、それらが十分ではないのは、非常用システムは、主たるシステムとは「別の原理」で働くものでなければならないと言う「原則」が実は多くの場合守られていない点なのです。車のブレーキシステムの例は、ギリギリセーフです。油圧ホースが破損して油圧が失われても、ワイヤさえつながっていれば、どうにか車は止められるからです。最悪の場合はエンジンを切れば、被害は最小限で済むでしょう。では原発の非常用発電機はどうかと吟味すれば、明らかに「アウト」です。電気で動くポンプの非常用バックアップは、電動ではないポンプ(例えば蒸気で動くとか、高い場所に大きな水タンクが設置されていて重力で水が供給されるとか)などの仕掛けが必要だ、と言う事になります。電動ポンプのモーター部分が水に浸かった場合、いくら非常用電源が確保されてもポンプは回らず、何の役にも立たない事は明白です。高い場所に非常用発電機を設置するなら、モーターも同じくらいの高さまで持ち上げなくてはなりません。地下にポンプを据えたままにしておきながら、非常用電源だけ高台に設置しても何の気休めにもならないのです。

同じように、例えば効率化(光熱費の削減?)のためにオール電化に走った家庭が、停電に襲われた時には食事の準備さえできなくなる悲劇を考えれば、少なくとも水とガスが残っている家庭の冗長性は貴重です。加えて、十分な食糧と薪ストーブと薪のストックがあれば、何があっても怖くはないでしょう。

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2011年12月13日 (火)

1570 COP17その2

COP17が、ほぼ事前の予想通りの決議を行って閉幕しました。決議は、要するに「環境より経済が重要だ」というものです。CO2発生抑制で、経済の減速を極度に怖れるC国や人口世界一のIンドや大統領選挙を控えたB国は、当然の事ながら何もコミットしませんでした。京都議定書のささやかな枠組みでは、実効は殆ど期待できない中で、この国は原発の殆どが停止している中で、そのささやかな約束さえ守ることが難しくなっています。

そこで、考えなければならないのは、環境効率と言う指標です。これは、経済活動の大きさ(例えばGDP)を、環境負荷(例えばCO2発生量)で割り込んで、この値を最大にしようという視点です。割り算の分母、分子をひっくり返すなら、最小化すると言う事になります。この視点を持ち込めば、話は結構単純になります。経済活動は、主には地下資源を掘り出すか農作物を清算する、或いは原材料に付加価値を追加するか、またはサービスを提供する事などによって営まれます。つまり付加価値を上げるために費やされたエネルギーや資源と、そうではなく無駄に費やされたものを峻別すれば良い訳です。例えば工場の工作機械の動力は有効、空調や集塵機の動力、あるいは廃棄物となる原材料の切れ端は、取り敢えずは無効と「仕分け」しなくてはなりません。無効の資源・エネルギーをどうしたら最小化できるかに注力すれば、経済規模を落とさずに環境負荷は下げられます。

問題は、生産的経済活動とは言えない「個人の消費行動」です。これは、確かに景気には左右されますが、一度自家用車の便利さを「知ってしまった」人にその使用抑制を求めるのが困難である様に、環境負荷抑制の最大の難関になるでしょう。物欲に替わる何か(ブータン流の満足度?)を示すか、或いは起こりつつある気候変動と、それによって起こり得る災害のプロパガンダしかないのかもしれません。

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2011年12月12日 (月)

1569 月食

久しぶりの皆既月食でしたがあいにくの雲が湧いて見損ねました。月食と言うKWで、地球と月の関係について改めて考えてみました。直径が、地球の1/4をやや超える大きさの月は、太陽系でも5番目の大きさの星で、地球との質量の比を考えれば、たんなる一般的な衛星以上の大きさだと言えます。そのため、重力だけを見ても例えば潮汐の変化や、たぶん動植物にも多大な影響を与えていると思われます。月は、やや重心が偏っており、地球側には常に同じ面だけしか見せていません。つまり、地球側の半球より反対側の半球が重たいので、バケツを振り回した時の様に、一定の面だけを見せている訳です。

さて、生物への月の影響です。ヒトを含め、重力の変化や潮汐の変化は、意外に大きいものです。太陽暦では、月の運行と暦は一致しませんが、古来多くの国々では太陰暦で暮らしていました。いわゆるバイオリズムにも、月齢は大きな影響を及ぼしているはずです。では何が影響を与えているかを考えてみると、重力以外にはあまり想像できません。微小な重力変化が生き物に与える影響に関しては、投稿者の不勉強のせいかもしれませんが、あまり重要な研究が見当たらない様な気がしています。

20年ほど前、自転車に乗っていて車に「軽く」はねられたことがありますが、実はそれ以来重力の変化にひどく敏感になりました。具体的には、板張りの廊下やスノコ板の上を歩いていて、自分が予測した以上に板が沈み込むと(つまりは1センチにも満たない程度落下すると)何か不快な感じが起こります。同じく、バイクに乗っていて道路の微妙な凹みで自分の予測以上に沈み込むとやはり不快です。どうやら重力センサーが敏感になってしまった様なのです。ヒトの場合、重力センサーは耳の辺り(三半規管)にあり、その入力情報を脳が判断しているのでしょうが、本来は非常に感度の鋭い器官の様なのです。日常でも、乗り物に乗っていて繰り返しGの変化が加わると、多くの人は乗り物酔いになりますし、長期滞在の宇宙飛行士も、筋肉の衰えの以前に三半規管の異常により、立って歩けないはずなのです。月の影響を含む1.0Gの重力が、今地上に満ちているあらゆる生き物の形態に100%の影響を与えている事は疑いがありません。月食からの取り留めもない連想でした。

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2011年12月11日 (日)

1568 選択する存在2

ヒトは、時々「考え」を巡らしますが、実はあれこれと「選択」している事を「考える」と呼んでいるだけなのかも知れません。実のところ、ヒトの頭の中に突然「考え」が降って湧いてくる訳ではないでしょう。何時か知った誰かの考えや示唆の内のどれかを「選び取る」事が、考えると言う行為の中身の様な気がしてきました。それが、他人がそれとなく認めている「自分らしさ」に沿っていれば、その人らしい「考え」になるでしょうし、そうでなければ、意外な選択と思われてしまうかも知れません。

何しろヒトは選択しないと歩く事すらできません。先ず右足を出すのか左なのか、つま先をどちらの方角に向けるか、決めない事には何も行動が始まらないのです。しかし、「考えて」みると、選択にはよく考えた選択と、ほとんど自動的にしてしまう選択がありそうです。例えば、右足を先に出すか左が先かを考えてから出す人も少ないでしょう。たぶん陸上競技のスタートラインに立ったランナーくらいのものでしょうか。S・アイエンガーも別の言葉でそう述べています。無意識の自動的な選択を出来るだけ避けるために、例えばバスや電車や航空機の運転手は、自分の選択を声に出して呼称するのでしょう。

その意味で、国政に集うあの「困った人たち」の発言にはホトホトあきれ果てます。ほとんど思った事を無意識のうちに自動的に言葉にしているとしか思えません。余りに自己中心的で、あまりに近視眼的です。熟慮するためには、先ず「考え」のフレームを広げてみる必要があります。例えば、時間の枠を広げて考えれば、国家100年の計になるでしょうし、地域的な枠を広げて考えれば、アジアや国際間の自国の立ち位置に言及しない訳にはいきません。次世代や、その次の世代の身の上を考え、国際間の利害を頭の端に置き、国民の幸福とは結局何なのかを考えれば、マツリゴトの結論は誰が議論しようが自ずとある方向に収束してくるはずでしょう。陣取りゲームは、もう終わりにする「選択」をあの人たちにはぜひお願いしたものです。

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2011年12月10日 (土)

1567 選択する存在

最近ブログの中身が薄くなった事を反省しています。理由は明白で、忙しさにかまけて本をほとんど読んでいないのです。もちろん、本を山ほど読んで、その受け売りだけを書くブログもうんざりするかも知れませんが…。その意味で、このブログで書いているのは、投稿者自身の企業人としての経験と、30代にそれこそ山ほど読んだ本を10年ほどかけて咀嚼した結果、それに加えて50代に放送大学で学んだこと、その後に自営業(自由業)となってから越し方を振り返って考えた事などをベースに書いたものだと言えます。とは言いながら、ブログに書いた言葉に厚みを加えるのは、実際の経験(できれば失敗体験)と、これまで巡り合った良書からの影響だと言えます。

さて、久しぶりに手に取った本で、感銘を受けたのは、S・アイエンガー著の「選択の科学(The art of choosing)」でした。この本の結論は、非常に短縮して言えば、「人間は本能として選択する存在」だ、と言うシンプルなものですが、合点がいってストンと飲みこめました。例えば、若者がのめり込むゲームですが、これこそプレイヤーに連続的に選択を求める究極の遊びに他なりません。これにのめり込んでいる限りにおいては、少なくともその最中は、選択本能が満たされ、他の嫌な選択をすることを忘れていられるのかも知れません。そうでないと、学生なら、やれバイトは何曜日に入れるのか、科目や単位はどうセットすべきか、やれ就活はどうするのかなどの煩わしい日常の選択をしなくてはなりません。会社員なら手がけている仕事は今日中に仕上げるべきか、今度の飲み会は参加すべきかどうか、上司のお歳暮はどうすべきか、などなど、やはり毎日の様に好きでもない選択を迫られます。

もちろん、選択には結果として、良い選択とそうでない選択はあり得ますが、たとえ結果が良くないものであっても、ヒトはひたすら選択し続けるでしょう。そう考えないと、競馬やその他のギャンブルに、人生を破滅させる程のめり込む人たちの行動が上手く理解できないのです。彼らは結果的には、人生に躓くにしても、ギャンブル行為の最中は選択本能をほぼ100%満足させ、ほとんどエクスタシー状態なのではないかと想像しています。続きます。

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2011年12月 9日 (金)

1566 干ばつと洪水

ケニアでは最近までの深刻な干ばつに引き続き、今度は大洪水に見舞われている様です。この傾向は、何もアフリカだけに特異な現象でもなさそうです。その意味するところは、結局のところ直接的には水蒸気(=雲)の偏在が加速している事と、その状態が持続し易くなってきたと言えるでしょう。しかし、その現象が何故多発しているかについては、少なくとも投稿者はまだ納得にいく説明に遭遇していません。一方で、個人的に疑っているのは、「熱塩循環」の異常です。

熱塩循環とは、千年単位のサイクルで、地球規模で海洋を循環する壮大な循環流です。それらは複雑に影響し合い、場所によっては深海に沈みこみ、場所によっては海面に湧き上がっています。ただし通常の海流と熱塩循環流が異なるのは、前者が海表面だけをかなりの速度で流れるのに比して、後者は長い時間を掛けての海表面と深海の熱エネルギーの循環に関わっていると言う点です。例えば、ある海域に深海から湧昇している熱塩流があるとすれば、それは多分数百年前の気候の痕跡を内在している流れだと見る事が出来ます。その時期が、例えば寒冷期であれば、当然湧昇流も寒冷でしょうし、逆にその時期が温暖期であれば、かなりの熱量を貯めこんだ流れになっているかもしれません。

つまり、現代のGHGの増加による温鈍化傾向と、過去の気象のブレ(気象振動)が、現在の地球上でせめぎあう(あるいは影響し合う)状況もあり得る事になります。温暖な熱塩流の湧昇は、その地域の大気中の水蒸気量(雲量)を押し上げるでしょうし、逆に寒冷な湧出流は、寒冷な高気圧(気団)をもたらすでしょう。しかも、この傾向は長く持続する事になります。湧昇流はインド洋、太平洋、大西洋にあると言われていますが、実際はもっと複雑でしょうし、異論もあり話は投稿者が考えるほどには単純ではなさそうですが…。

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2011年12月 8日 (木)

1565 地球益

誰かがラジオで「地球益」と言う言葉を使っていました。対になる言葉は、たぶん私益や企業益や国益となるのでしょうか。とりわけ、国益は今や地球益と拮抗する大きな「マイナスベクトル」を持つまでになりました。国益とは、ある国の国民の私益を優先する事に他なりませんから、個人の欲望が限りないのと同様、富める国の富める一部の国民の生活と、そうでない国の際貧民の暮らしとは、天文学的な差が生じているはずです。富める国は、その富と快適な生活を捨てたくはないでしょうし、そうでない国はいくらかでも国民に豊かな生活をしてもらいたいので、それらを制限する様な枠組みを話し合う国際会議の場では、意見が真っ向対決する事になります。

つまり、「国益を守る」とは、現状の国際間のレベル差を変えない事とそれを変えるとのせめぎ合いだと言えそうです。一方で、待たざる南の国の権利は地球益とは完全に対立しますが、それを制限する事は、豊かな暮らしを享受している北の国側には説得力がありません。結局、地球の地下資源が掘りつくされ、それを消費した結果ゴミの捨て場が無くなり、呼吸も息苦しくなるまで、地球益は略奪され続けるのかも知れません。

そこに、もし歯止めが掛かるとすれば、先ずは富める国と企業と国民が、自らの権益を大幅に放棄する事しかない事は明白です。つまりは率先垂範です。この国は、まだ戦前戦後の貧しい暮らしと、その後の目覚ましい高度成長とオイルショック、加えてバブルの崩壊や、さらには今回の大震災まで経験した得難い経験を持つ国民により構成されています。その知恵を結集しさえすれば、富める国々の中でも、持続可能性が高い世界(つまりは地球益を優先する世界)の構築でのリーダーに躍り出る可能性は非常に高いと思うのです。続きます。

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2011年12月 7日 (水)

1564 渋滞による環境負荷

四国からの帰路、いくつかの高速道路を利用しましたが、四国内の閑散とした交通量に比べ、阪神地域の渋滞のひどさに、改めて気づかされました。渋滞が起こるのは、もちろん道路の設計に対して、それ以上の交通負荷が掛かるためですが、結局のところ出口のランプで車列が出来る事がきっかけとなって発生する様です。

渋滞が発生すると、発停を繰り返し、低速で動く車からは不完全燃焼の排気ガスが排出され、同じ距離を進むのに通常の倍ほども燃料を使わなくてはなりませんので、大気汚染やCO2排出の負荷も増大します。多くの車は、渋滞に引っかかるまでは100kmで疾走し、渋滞の最後尾で急ブレーキを踏みます。道路が一定時間内に流せる車の量は、一定の区間に存在する車の台数と、それが動く平均速度の積になります。渋滞が起こった場合、車間距離が非常に小さくなりますから、道路上にある車の台数は、例えば4倍程度になってはいるのでしょうが、平均速度が例えば10㎞程度に落ちているので、4*1/100.4で、例えば交通量は半分以下に低下している勘定です。したがって、渋滞を予測した車が次のランプで流出して、道路上の車の数が一定以下になるまで、渋滞は解消されない事になります。

結論から言えば、渋滞を避けるためには、何らかの方法で、高速道路に入る車の台数を制限するしか方法は無い筈なのです。そのためには直接的な通信手段で、運転者に渋滞情報とそれを避けるための情報を届ける必要が出ます。GPSを利用したナビが十分に発達し、IT万能の時代になった事を考えると、方法はあるはずです。渋滞による、大気汚染と無為に浪費される燃料を考えると、何かうまいシステムの知恵が出ないものかとため息が出ます。

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2011年12月 6日 (火)

1563 休題(剣山)

岡山での仕事を貰ったので、週末は足を延ばして本四橋を通って四国に渡りました。なんと児島坂出ルートは、数十年ぶりに渡る勘定です。幸いにも天気も良く、横風も弱かったので、単車でも快適に通りぬけられました。四国側の最初の街である坂出は、造船業に関わっていた若い時に10年余り暮らした場所なので、無条件に100%懐かしい場所です。

ところで、今回のついで旅には、実は剣山の登山も入っていました。高さが2000mほどの山になると、四国でもさすがに冬は雪が降り寒さも厳しくなり、登る人も少なくなりますが、本格的な冬季シーズンの前なら、天気次第では秋山として登れると思い、数日前から天気予報とにらめっこしました。予報では、仕事が終わった日の翌日にはどうやら低気圧が去って晴れそうで、寒さもそれほどでもない様なので、決行することにしました。日曜日の当日は、どんどん天気が改善し、朝に本四橋を渡る頃には、目的地の見え隠れしていました。とは言うものの肝心の2000m近い山々(四国の屋根)は、雲の中の様です。阿讃山脈を縫って走る山道を抜けると、四国を東西の方向に引き裂く「構造線」に突き当たりますが、その裂け目には、今は吉野川が徳島まで流れ下っています。川を渡って、剣山に入るには、さらに40㎞ほど谷あいの細い道を登らなければなりません。しかし、深い谷を作っている山々を仰ぎ見ると、見上げるほど高い場所にも、農家が点在し、平家落人の末裔かも知れない人々のたくましさに心を打たれます。

峠を越えて祖谷渓側に少し下ると、カズラ橋につながる分かれ道に出て、そこに剣登山の入り口になる神社があります。駐車場には数台の車が止めてありましたが、登山リフトも12月に入ると冬季休業に入るので、山に歩いて登る物好きの車に違いありません。神社が標高1400mほどの場所にあるので、ホンの600mほども登れば頂上です。途中からは数日前の寒波で雪道にはなっていましたが、気温が上がっているので凍ってはいません。寒いので汗もかかずに1時間弱で頂上に立ちました。登るにつれて雲は消え、頂上に立った12時頃はまさに快晴でした。低いところにはまだ雲が残っていましたが、土佐湾や室戸岬まで見渡せ、まさに360度の絶景です。本当の冬山に登る体力や勇気はありませんが、吹雪が去った後の冬晴れの山の醍醐味の一端を味わった様な気がしました。下りは少し遠回りをして遊歩道を使ったので、往復丁度2時間の登山(と言うよりハイキング)でした。

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2011年12月 5日 (月)

1562 北極海の蓋

COP17でのWMOの発表によれば、北極海の海氷の体積が過去最低になっているとか。この報道で、最近の世界各地で起こっている豪雨災害に「少し」合点がいきました。北極海の海氷は、これまでは夏の間もそれなりの面積で北極海を覆っていた訳ですが、それがもう少し減れば夏場は、北極海に航路を設定できるほどに減ってしまった訳です。さて、氷の蓋が小さくなった北極海には、夏の間は沈む事の無い太陽からの日射がありますので、海面からのかなりの蒸発量があるはずです。

蒸発した水蒸気は、結果としてはどこかに雨となって降る事になります。それを運ぶのは、たぶん極を取り囲んで回る偏西風でしょう。偏西風は、複雑に蛇行しますので、低緯度地方にもそれなりに運ばれる事になります。

と言う仮説の元に、今後の気象を展望するなら、豪雨災害はますます増加するでしょうし、一方では偏西風の蛇行のポケットにスッポリ入ってしまった地域では、逆に干ばつが続く可能性もあります。つまりは、これは気象の過激化を意味します。この国が属する地域で言えば、程よい年間降雨と春秋のマイルドな天気がある四季のある気候ではなくなり、暑い夏と寒い冬の夏冬型気象になる恐れもあります。その間には、この夏に見られたように数十年ぶりの豪雨があるでしょうし、豪雪もあるかもしれません。

そこにあるべき蓋が無くなる事で起こる事は、実のところそんなには簡単なメカニズムでは説明できない事も明らかです。何しろ、北京で羽ばたいた蝶の風が、アメリカでの竜巻を結果すると言われるほど、気象の因果関係は複雑で、人知の及ばないところだからです。

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2011年12月 1日 (木)

1561 COP17

京都議定書に続く枠組みの話し合いがCOP17で行われています。おりしも南アの開催地では、数十年ぶりの集中豪雨に見舞われたとか。水害で亡くなった人には申し訳ないですが、会議の参加各国に、いくらかの危機感が生まれれば不幸中の幸いです。その意味では、この種の会議の開催地は、今まさに環境問題が起こっている現場により近い場所で行うのが正しい選択なのかもしれません。例えば、ヒマラヤや南米の氷河湖の畔とか、或いは過剰な取水によって干上がってしまったアラル海とか水が途切れた黄河河畔とか、夏場に凍土が融けてズブズブの沼地になって、メタンガスがボコボコ湧き出しているシベリアのツンドラ地帯や、或いは水がまだ引ききらないタイの水害地帯や、満潮時には波に洗われるサンゴ礁の島々とかが開催の適地になるでしょう。

都会に所在するエアコンの効いた会議場では、所詮これらの現場からの緊迫感は何も伝わりません。この種の議定書は、結局のところ、快適な生活を送るために「化石エネルギーをたっぷり使用する権利」を制限するものですから、あくまでも相対的な対立軸での権利主張の場となりがちです。つまり、これまで潤沢にエネルギーを消費してきた国々と、やっとローンで自家用車が買えるようになった国々やまだまだその域にすら達していない、多くの国々とのせめぎ合いになるからです。

であれば、やはり物差しのゼロは最貧国で、物差しの100はB国でなければ、エネルギーの物差しとしては使えないでしょう。では、物差しのどの目盛に今後のエネルギー使用の水準を置くかについては、100の国とゼロの国が、歩み寄るしかないでしょう。それも公平性の観点から言えば、先進国側が大きく譲る必要がありそうです。しかし、この国も原発事故を理由に、例の25%削減の国際公約さえ反故にしようとしていますから、今回も空回りの会議に終始するのかもしれません。とは言いながら、この夏に東日本が経験したように、15%程度の削減は少し頑張れば十分達成可能な短期目標であり、もう少し時間を掛ければ25%削減なんかは朝飯前だとも言えます。今日から出張のため4-5日休稿です。

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2011年11月30日 (水)

1560 やはり環境税しか・・・

1556で書いた排出権取引の仕組みは、やはり善意に期待する「弱い仕組み」と言うしかないでしょう。このシステムでは、どうしても誰かが善意で排出権を買ってくれるのを待つ、受け身の姿勢になりがちです。排出権の取引価格が高い時には、それでもいくらかは市場で動くのでしょうが、今の低価格状態ではそれは殆ど期待できません。この事態を打開するためには、どう考えてもやはり「環境税」導入しかないと思われます。消費税に加えての環境税の導入は、このご時世納税者に受け入れられないのではないか、という見方もありますが、もちろん環境税は強烈なメッセージを持つ「目的税」でなければなりません。

その目的は、もちろん化石燃料や原子力エネルギーを使った、環境に厳しい社会インフラに替えて、再生可能なエネルギー(グリーンエネルギー)の割合を急速に増加させる事しかないでしょう。再生可能エネルギーにドンと助成金を乗せて高く買い、火力発電や原発で作った電力と化石燃料に薄く環境税(炭素税)の網を掛ける訳です。メッセージの強さは、その比率で表現できるでしょう。例えば、ヨーロッパでは、グリーンエネルギーをそうでないものに比べて4倍程度で買い上げる制度を敷いており、かなり強いメッセージを発信していると言えるでしょう。

今以上のCO2削減を実現するには、どうしても環境税導入しか無さそうなのですが、それは諸外国に対しての経済的ハンディキャップを意味するものではありません。それどころか、今後数十年のスパンで眺めれば、世界の持続可能性を高めるために、どうしてもヒト1人当たりの化石燃料の使用量を、半分以下にはする必要があります。何故なら、その頃には世界人口が多分100億を突破しているからです。

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2011年11月29日 (火)

1559 足竦み

世界全体の足がすくみつつあります。C国やIンドでさえ、経済減速が明確になりつつあります。「成長エンジン」の出力が弱くなって困るのは、1558にも書いたように私たちが「空を飛んでいる」からです。つまりは地に足がついていないのです。通常、旅客機のエンジンが出す推力は、実は機体重量の3割程度です。旅客機には、戦闘機とは異なって、どんなに頑張っても垂直上昇はできない芸当なのです。それどころか、自分の機体重量よりずいぶん小さな推力で飛び続けられるのは、上手く設計された翼が発揮する浮力のお蔭なのです。早く飛ぶことで、出した推力の何倍もの浮力を発揮する状況は、今の世界経済の状況を連想させます。

何処が似ているかと言うと、実際に持っているお金の何倍(何十倍?)もの取引が出来る仕掛けがまるで同じに見えます。金を借りてそれを債権にしておけば、それがまるでお金の様に価値交換ができると言うのですから、それが無かった時代には夢のような話には違いありません。同じく、企業は債権に替わるものとして「株券」を考えだしました。これらの仕掛けによって、権利(価値)が、さながらモノの様に流通し、しかもその流通によって価値が膨らんだり、縮んだりする様にもなった訳です。もちろん将来の価値が膨らまない限り、誰も債権や株券を買ったりはしません。

これらの「紙」が、実際の価値より格段に大きな「帳簿上の価値」を持っている限りにおいては、経済の飛行機には決して着陸が叶わない事を意味します。自分で飛び上がっておきながら、足がすくむのは、さながら子供が勢いよく木に登り、しかし途中でふと下を見下ろすと急に足がすくむ状況によく似ています。これは、一種のカタストロフィックな反応だと言えます。

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2011年11月28日 (月)

1558 視界よし?

毎週団地の裏山(400m)に登ります。時間があれば土日も祝日にも登ります。数日前の土曜日は最高の視界でした。この日は、北は、笠や槍、穂高連邦から乗鞍、御嶽まで、東は恵那山や中央アルプス、南は名古屋の高層ビル群や空港まで、西は養老山地や伊吹、能郷白山あたりまで、西の電波塔以外は何も遮るものが無い「350度」の景色を楽しみました。この山には走って登りますので、往復でも1時間半程度しか掛かりません。登る際の呼吸の苦しさ度合いが、健康のバロメータだと思って走ります。

この日の視界の良さは抜群でしたが振り返って今の時代世界の視界の悪さはどうでしょう。霧の中を飛行機で闇雲に飛んでいる様な状態を想像します。車で走っているのであれば、視界が悪くて危険な場合は、取り敢えず路肩に停車すれば良いのでしょうが、飛行機の場合は、エンジン出力を極端に絞る事は墜落を意味しますので、それもできません。無茶苦茶に飛んでどこかの山に衝突するか、地上に錐もみで落ちていくのか、それとも徐々に速度と高度を下げてなんとかより安全な場所への不時着を目指すのか、あまり頼りなさそうですがパイロット(政治家?官僚?)に任すしかないのでしょうか。

別の可能性も考えられます。それは、飛んでいる飛行機の中から、出来る限り目方の大きなモノを放り出し、少し機体重量を下げながら高度を上げる努力をすることです。もちろん、法放り出されるモノ(既得権?)にしがみついている人たちは犠牲になるでしょう。飛行機に見切りをつけて、パラシュートを付けて飛び降りる人も出るかもしれません。パラシュートで降りた先は、たぶんつましい暮らしですが平和な山里の暮らしになると想像しています。

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2011年11月27日 (日)

1557 信用不安の連鎖

欧州では信用不安(収縮)の連鎖が止まりません。本来この手の信用収縮は一国の範囲内に収まるものなのでしょうが、経済統合という名の通貨の統一で、経済的に国境の垣根が非常に低くなってしまった欧州諸国では、もはや国境に堤防の役割はあまり期待できなくなったのでしょう。それを敏感に感じ取っている投資家は、危ない国に嫌気を感じて、「少しでも安全な国」へお金を動かします。かなり安全とみられていたDイツでさえ、不安な国に足を引っ張られているとみられて、割を食っています。この不安は一体どこまで広がるのでしょうか。素人が考えても、専門家が考えても多分結論は同じでしょうが、先に書いた「底なし沼」の底に、どうやら足が届いたと感じるまで、不安感や不信感は払拭できないと考えるべきでしょう。

ところで、今の状況を誰が招いたかを考えてみると、結局それは今不安を抱えている先進国自身だと言う事が分かります。例えば、先進国は特に戦後、一貫して石油の消費量を拡大してきました。私たちは、地下から石油を組み上げてそれを使ってしまいましたが、結局その代価は消えることなくオイルマネーとして地上に積み上がった訳です。そのオイルマネーを運用する「市場」は、石油を汲み上げた量に比例して拡大してきたのでした。今や、石油の消費が作り出した二酸化炭素も、オイルマネーも地上に満ち溢れ、その処置について人類は途方に暮れていると見るしかありません。

地上へのマネーの積み上げは、何も石油や天然ガスに限った事ではありません。鉄鋼やアルミやレアアースや、あらゆる採掘型の資源についても同じ事が言えるのです。ギリシャ神話で言う「パンドラの箱」とは、何のことはなく全ての再生不可能な地下資源の事だったのか、と最近合点がいった次第です。この泥沼の不安の連鎖は、結局私たちが際限なく地下から資源やエネルギーを掘り出し、それを消費し続ける限り終わる事はないのだ、と改めて知るべき時だとは思います。

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2011年11月26日 (土)

1556 排出権価格

CO2の排出権取引価格が最低線を彷徨っています。排出権制度に熱心であったEU諸国が、とりわけDイツが、足元に迫った経済の「火の車」を遠ざけるのに精いっぱいで、「環境」なんぞに目を向ける暇が無くなっている事がその原因なのでしょう。もちろん排出権価格が低迷している状況では、その吸収や削減に努力を傾けて、排出権を売ろうとするインセンティブも薄れますので、この制度は大きく後退すると思われます。

先進国が頑張ってCO2を減らしましょうと言うCOP10も、2012年以降のポストCOP10も結局それを先導してきた先進国が経済的に息切れすると、推進力も無くなるのでしょうか。それならそれで、経済が大きく減速するにつれて、経済活動レベルも低下してきて、CO2の排出量も自動的に低下するのかもしれませんが、その際のポイントは、経済減速の度合いと、CO2排出量の低下が、必ずしも比例関係にならないことです。つまり、人は一度手に入れた快適さを容易には手放さないと言う事実があります。それは、アメニティ中毒と呼んでも良い性癖かもしれません。具体的に言えば、折角ローンを組んで買ったお気に入りの車を、給料が下がったと言う理由だけで、簡単には手放さないでしょうし、冷暖房完備のビルに入居しているテナントが、売り上げが多少減っただけで暑さ寒さに耐えながら仕事をするとは思えないのです。もちろん、給料や売り上げが半分に落ち込んだ場合は、そうも言っていられないでしょうから、慌てて省エネに走ると想像できます。

結局、経済の減速が始まっても、工場の操業に比例する部分のエネルギー(CO2排出)量はそれなりに減るのでしょうが、社会全体で見ればその現象にはかなりの時間遅れがあると思われます。私たちは、排出権取引に替わる別の制度も工夫しなくてはならない時期に入ったのかもしれません。

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2011年11月25日 (金)

1555 GHG濃度

温室効果ガスの濃度が、歴史上の最高値を更新し続けています。問題はCO2ばかりではなく、気温上昇によって、凍土地帯の地下に眠っていた、強力なCHGであるメタンガスまでもが目を覚まし、さらに過剰な農業生産によって、最強のCHGのN2O(一酸化二窒素)までがその濃度を上げ続けています。その上がり方は、単なる一本調子に上がっているのではなく、カーブが加速度的に持ち上がっています。例えば、少し前まではCO2濃度は毎年1.5-2.0%弱の範囲内で上昇すると言われてきましたが、今年は2.3%に加速しています。

さてCO2の濃度は、結構簡単に上がるもので、例えば手持ちのCO2計で計っても、一人だけの事務所の濃度は、朝の300ppm台から半時間もすればすぐ700ppm程度に上昇します。車の排気管からは、10%前後の高いCO2濃度の燃焼ガスが排出されます。1%(10,000ppm)になれば人の生死にかかわるのがCO2濃度ですから、この濃度の高さが如何に異常なものであるかが分かります。CHGが温暖化の直接的な原因であるとかないとかの議論が、相も変わらず続いていますが、そんな議論はもちろん不毛です。現実に、加速度的に上昇しているCHGの濃度こそを問題にして、その増加量減速に注力すべきでしょう。対策案の一つとして、それを圧縮して地下の岩盤に封入してしまおうと言う議論もありますが、個人的にはそれには与しません。

電力供給の40%占めていた原発が、何とか20%程度を維持してくれる程度にまで回復するにしても、その20%の穴を、CHG増加の元凶の化石燃料を使った火力発電だけで埋める事はできません。死にもの狂いになって、20%以上の省エネに取り組む事こそ、エネルギー資源小国であるこの国の取るべき唯一の道でしょう。

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2011年11月24日 (木)

1554 やはり宇宙には何も無い

日本のアストロノーツが、半年近くのミッションを終えて帰還しました。当然の事ながら、無重力体験の代償として、骨の脱灰が進み、自力ではとても起き上がれない状態で(やや情けない状態)で搬出されました。過酷な訓練を積み、ほぼ完全な肉体で出発した事を考えれば、やはり大きな犠牲だと言えます。

さて、彼が宇宙でのミッションで何を成し遂げたかを考えれば、これもやはり少し寂しい成果しかカウントできなさそうです。自己健康診断システムを完成させたにしても、では私たちはこれから何処へ人類を送り込み、暗黒の宇宙から一体どんな果実を手に入れるつもりなのでしょう。何年間か掛けて火星に人を送って、或いは月に基地を設置できたとして、そこで何を見つけるつもりなのでしょう。小さな重力、大気に遮られない強烈な日射と逆に夜の過酷な低温、さらには強力な宇宙線(放射線)の照射と、真空で絶対零度に近いかそれに近い過酷な空間条件を考えても、そこで例えば地球の起源のヒントが得られ、或いは地球には微量しか存在しない物質を発見したとしても、それらを持ち帰れる訳でもありません。

それこそ「天文学」的な費用が掛かる、知識欲本位や興味本位の宇宙開発は、いま地上が経済と環境悪化で火の車となっているいま、そろそろ打ち止めにすべきではないか、と以前から憂いています。もしこれらの費用や科学者のパワーのたとえ半分でも、自然エネルギーの開発や環境保全技術の開発に振り向けられたら、今の地上の災いがどれほど軽減できるかを考えると、残念ざんねんで涙が出そうです。

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2011年11月23日 (水)

1553 環ビジ86(環境修復業)

経済の泥沼については、15461551でも書きましたが、ここでは環境悪化の泥沼を論じます。環境悪化について考えるべきは、人為的な環境破壊は、その修復に気の遠くなるような時間が掛かると言う点です。例えば、河川を堰き止めているダムについてだけを見ても、その下流域には多大な環境上の影響を与えているはずです。何より、山から土砂が運ばれない結果、海岸が痩せていきます。河川は、その勾配や流速に応じて、河床は礫や砂や泥などに適度に覆われ、多様な生物も育んできました。しかし、今はダムの上流と下流に二分された単調な環境が続くだけになりました。この環境条件は、建設されたダムが土砂によって完全に埋まる、数じゅん年後まで変わらないでしょう。

環境修復業とは、人間が改変した自然を、元々あった状態に引き戻す、建設業とはいわば対極にある産業を指します。この業界では、土砂に埋まって目的達成が出来なくなったダムを、少しずつ削って低くし、最終的には完全に取り去って元に戻します。下流のコンクリート護岸を剥がし、一方で洪水対策としては、昔の様に川底から砂利を採取し水深を深くして洪水を防ぎます。また深い山の中を走り、一日に数台しか車の通らない高規格林道は先ずは減幅し、ついで砂利道に戻すか場合によっては完全に廃止して原野に戻します。

環境の多様性、ひいては生物の多様性は、実のところ環境の緩やかな変化によって育まれます。道路と言う、アスファルトに覆われた無機質な環境のボーダーは、森を分断し、生き物の通る道を遮ります。ダムは、川を上流と下流に分断しますし、川や海の護岸は水辺を無くし、水環境と無機質な人工環境に、やはり二分化します。森と里山と人里は、連続したグラデーションを描いて貰いたいし、川は連続して魚の遡上を妨げないでもらいたいし、川や海は土手や砂浜を残して多様な生物の棲家を保証したいのです。

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2011年11月22日 (火)

1552 環境における閾値

閾値(しきいち)と言う概念は、多くの現象で観察されます。多くの現象と言いながら、原因と結果がかなり程度の因果関係を持つ現象を指している事に注意すべきでしょう。例えば、気象について言えば、夏が来て日照が強くなると気温が上がり、海からの水蒸気の発生が活発になり、雨が多くなり台風などの激しい気象現象も増えてきます。つまりは、日射量の増加と言う原因があって、夏場の気象現象が結果する訳です。夏場の気象現象は、例えば氷河や浮氷の融解の程度を左右しますから、翌年の夏場の気象にも何らかの影響を与えずにはおきませんので、先人がいみじくも指摘している様に因果は巡っている事になります。

また例えば、不景気や災害などが続き社会不安が高まると言う原因が、自殺者や犯罪の増加と言う望ましくない社会現象を結果する事にもつながります。不景気なったという現象自体にももちろん原因がありますから、これも巡っている因果の例となります。環境の悪化という「現象」には、しかしもう一つの側面である閾値がありそうに思うのです。思うと言うのは、つたないながら過去の記憶を辿ってみての感触の様なものです。例えば、身近な自分の体内環境で言えば、外から細菌なりウィルスが侵入してきて一定限度を超えると、残念ながら発病してしまいます。ギリギリまでそれを防いでいるのが免疫システムですが、これも体内を巡る因果に深く関わっています。

さて環境悪化にも、決定的で後戻りできない環境破壊の閾値があって、ギリギリまで環境を保全しようとする免疫システムの様なものがあるのでしょうか。J・ラブロックが提唱したように、地球全体を一つの生き物の様にみなす「ガイア仮説」から見れば、それは間違いなくイエスなのでしょうが、実のところ投稿者もこの考え方に寄り添いたい立場を取っています。

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2011年11月21日 (月)

1551 50年後の社会

1546で書いた底なし沼に沈む事を避けるために、何が必要であるかは、このブログでも縷々述べてはきましたが、結局は泥沼の水抜きをして、地固めを行う事しか方法はないと思うのです。たとえ話の「泥沼の水抜き」を、現実に社会に戻して考えると、それは「モノの裏付けがない価値」の縮小を意味します。モノの裏付けがない価値とは、当然のことながら、債権や有価証券や歳入の裏付けがない赤字国債などのペーパーマネーや電子マネーを指します。

これらの、「数字だけの価値」の氾濫が現実の社会の泥沼化を招いている事に関しては、あまり異論がないでしょう。ではそれらの水増しされた価値は、一体どこから生まれたのかを考えてみれば、間違いなくヒトが持つ金銭欲に源を発している事もまた間違いないでしょう。古くは、イギリスで始まった不安定な海運業に掛けられた貨物保険の仕組み、新しくは株式会社への投資がありましたが、少なくともそれらについては裏付けがありました。しかし、今行われている多額の金を借りてまで投資を行う様な金儲けだけが目的の経済行動は、やはり経済の拡大局面で20世紀に急拡大した好ましくない行動の一つでしょう。

取り敢えずは、放漫経営による赤字や投資目的の借入を「社会悪」として、早急に駆逐しなくてはなりません。替わって、基本的で社会に不可欠な産業と環境を保全・維持するための投資は、子孫へ渡す財産として、ますます拡大しなくてはならないはずです。50年後のあるべき姿を描き、今そこに向かって舵を切らないと、泥沼はますます深く、邪悪になるとみなければなりません。

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2011年11月20日 (日)

1550 環ビジ85(リサイクルビジネス)

消極的な意味においてですが、リサイクルビジネスは、環境ビジネスの一つの柱ではあります。では少し積極的意味ではどうあるべきかですが、それは「元々廃棄物の出にくい社会システム」という事になります。そうは言いながら、生産し生活を営む上で、何がしかの廃棄物の排出は避けられません。元々廃棄物の出にくい社会のためには、元々廃棄物の出にくい製品が必要です。そのためには、廃棄物の出にくい製品設計が必要になります。

その中ではリサイクルのし易さも、当然の考え方ですが、使用材料を可能な限り少なくして軽量化する、或いは廃棄の際の分解を容易にする、使用する材料の種類を減らす、などなど、数え上げれば廃棄物の出にくい設計は非常に難しい連立方程式を解く必要があるのです。その前に、そもそもこの製品は、社会に「絶対必要なのか」の問いにYESと明快に答え得る事が前提です。

歌舞伎には、リサイクルに向けた一つのヒントがあります。歌舞伎役者の真骨頂はなんといっても見得を切る瞬間でしょうが、そのほかに早変わりがあります。裏方が、着物の仕付け糸をたった1本引き抜くだけで、上に着た着物がハラリと落ちて、下の着物が現れます。同様に、ボルトかピンを数本取り外すと、製品がバラバラになって、部品の分別が容易になれば、クリーニングをして再使用する部品、消耗して交換する部品、鋳つぶして材料に戻す金属やプラスチックに分ける事もやりやすくなるでしょう。

このようなシステムは、結局のところメーカーは作りっ放し、リサイクルは廃棄物処理業者に任せっ放しと言う社会システムを変えない限りは実現できないかもしれません。最も容易な方法は、メーカーにリサイクルを義務付ける社会システムでしょう。自分が回収した製品をバラしてリサイクルをしなければならない立場に立てば、自然の行動として上に述べた環境に配慮した設計がグンと進む事は請け合います。

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2011年11月19日 (土)

1549 第三極人

 

今や、M主かJ民かという不毛な議論の時代ではなくなっている事は明白です。何しろ、どこよりも「無党派」支持層が多いのですから…。つまりAかBの二者択一の時代は終わったと、政に関わる人たちも気づくべき時だと思っています。20世紀後半は、成功(裕福)か失敗(貧乏)か、近年は経済拡大(お金か)か福祉(生活)か、などの選択を有権者に迫ってきました。しかし、前世紀の終わり頃からは、「環境」と言う第三極が俄然注目される様になったのです。お金やモノがいくら潤沢でも、住むのに困るほど悪化した環境の中では何の意味もありません。つまりは、今や右か左かの議論ではなく、先ずは進むべきか、少し後退して適正なレベルを見極めるべきか、その適正なレベルとは一体どこなのか、と言う議論が必要となっていると思うのです。

 

これを、登山に喩えると分かり易いかも知れません。つまり、20世紀後半はJ民党がリーダー役に立って、闇雲に「標高を稼ぐ事」にまい進してきた時代だったと総括できそうです。90年代以降は、切り立った岩壁に阻まれてそれ以上高度を稼ぐ事が出来なかった停滞の時代が続き、じれた隊員の中からはリーダー交替の声も高まり、結果としてM主新リーダーの時代になりました。

 

しかし、新しいリーダーを立てても、これ以上の登坂は困難であることが、隊員にも段々知れるところとなった訳です。隊員も、これ以上頂上に近づいても、頂上にはゴツゴツとした不毛の岩場(都市?)しかなく、しかも狭いために全ての隊員がそこに立つ事は出来ない事にも感づき始めたからです。ふと下を振り返ると、一面の緑に包まれた山麓と、さらにその下には豊かな山里や平野が広がって見えるではありませんか。ザイルやピッケルや近代的な登山装備(つまりは工業製品の事です)を投げ出して麓に下り、モノは豊富ではないが、心豊かな農村生活も悪くはないな、と考え始めた「第三極人?」が増えても何の不思議もないでしょう。おりしも。GNHを提唱している国の国王も訪問しています。お金で買えない幸せを真面目に考える時期ではあります。

 

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2011年11月18日 (金)

1548 何を残す?

今後の社会を維持していく上に、本当に何が必要かは真剣に議論すべき事柄ではあります。無くても済むものは、少しずつでも減らしていく必要があるでしょう。「捨てる技術」とでも言うべき能力が、今後の社会に生きていく上で必要になるでしょう。投稿者は、取り敢えず車を捨てました。自営業となって細かい移動が多いため、やむを得ずバイクを買いました。事務所を借りていますが、冷暖房器具は基本的にはありません。冬になって、室温が10℃以下になると、さすがに寒さに耐える事が気になって仕事にならないため、最小限の暖房として25wの電気座布団を使っていますが、電気料金はコーヒーメーカーとパソコンの電力を合計しても、1500円を超える事はありません。それでも寒い日は、ひたすら着込みます。もちろん、本当に寒い北国では別の対策が必要でしょう。その対策の一つは、身に着ける暖房器具でしょうか。この冬も、充電式の電池を使った、性能の高いネックウォーマーやウェストウォーマーが売り出されました。必要なものは、雨露をしのぐ住と最低限の衣料があれば先ずは生きていけます。

 

もちろん生きていく上で、絶対欠かせないものは必要最低限の食糧ですが、一方で、工業製品の中で「絶対に必要なモノ」が想い浮かびません。敢えて言えば自転車くらいでしょうか。もちろん、調理器具などは、工業製品ではなく「道具」という位置づけです。電線にぶら下がっている電化製品なんぞは「〇〇くらえ」です。

 

エネルギーに関しては、最小限の暖房用と給湯目的、加えて煮炊きに用いるものがあれば、十分です。高価で貧乏人が買えない上に効率の悪い?太陽光発電も「〇〇くらえ」です。暖房や給湯や一部の煮炊きには、もちろん太陽熱を集めたものを最大限活用します。ここで必要なものは「太陽熱コレクター」です。太陽光をパラボラで集光すれば、煮炊きもできるはずです。補助的なエネルギーとしては、もちろん薪炭です。これも、新しい形の燃料(例えばペレット燃料)として生き残るはずです。風力は、台風も落雷も多いこの国では、実用的ではないので、発電目的ではなく「発熱風車」として冬の日本海側にはいくらかは必要です。

 

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2011年11月17日 (木)

1547 経済成長モデルの限界

隣の大国であるC国の減速が顕著になってきた様です。20世紀型の経済成長モデルの限界については、1970年代に既に「ローマクラブ」が予測し、警鐘を鳴らしていたはずです。限界は、資源とりわけエネルギー(いわゆる化石エネルギーです)の枯渇と環境汚染の両面から議論され、いずれの見方においても早晩経済成長は減速し、やがて縮小過程に入るとの予言だったと記憶しています。数値モデルもあったと思いますので、予言と言うよりは予測と言うべきでしょうか。その意味では、今更ながらTPPだ、へったくれだと経済の拡大を議論している場合ではないとも思うのです。経済の縮小が避けられないとの前提に立てば、着陸すべき水準をあらかじめ予測した上で議論し、そこに向かって如何に滑らかにソフトランディングすべきかの知恵を集めるべき時期に至っているはずなのです。

C国の限界は、その国土の広さに、エネルギー供給面での対応が困難であると言う点でしょう。沿海地域は別にしても、数千キロの内陸部まで経済の原動力の前提となっている十分な量の石油や運ぶには土台無理があります。もし内陸部を切り捨てる方向に走れば、情報公開が進んでいる今、国民からのクレームが噴出する事でしょう。

そうではなくて、自国の資源やエネルギーを使いながら農業などの基本的な産業を守りつつ、先ずは持続的なレベル維持が実現可能な経済モデルをベースに据えなくてはならないでしょう。瞬間的には、ある程度の無理をして、経済の規模やレベルを上げ得たとしても、所詮資源とエネルギーと環境汚染によって、越えられない壁が行く手を塞ぐ訳ですから、今日明日の利益を求めるのは、やはり意味がありません。俯瞰的にいま置かれている状況を認識し、進むべき道を見据える必要があるでしょう。

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2011年11月16日 (水)

1546 底なし沼

最近の経済の泥沼化の原因を考えてみると、どう考えても実体の無いマネーに行き当たります。実態が無いと言うのは、それがモノに裏打ちされていない事を意味します。ある時期までは、マネーは金(Gold)によって裏打ちされていました。金本位制です。しかし、急速な経済規模の拡大と国際化により、有限な資源である金のストックが、マネーの名目上の価値に追い越された結果、古くからのシステムは崩壊せざるを得なくなった訳です。

しかし、モノを伴わないマネーの価値は、それを保有する国家なり金融システムの信頼性だけに依存する事になり、信用保証のあり方こそが、現在の金融のベースに据えられるべきものなのでしょう。信用が失墜した時のよりどころは、モノや担保なのでしょうが、今この世界で膨れ上がってしまったマネーの価値を裏打ちするモノは存在しません、つまり、泥沼に沈む事に抗う浮き輪が存在しない訳です。唯一のよりどころは、抜け駆けを防ぐために、主要な国々(例えばG8G20)が手を結び、見かけ上お互いを「信用し合おうね」と言う約束を取り交わすしかないのです。

もちろん、実態の伴う経済活動をしている限りは、マネーはモノに裏打ちされ、ほぼ同時に動きます。理想的には完全に同時交換である「現金取引」を中心に据えれば、実のところ何も恐いものは無くなります。つまりは、泥沼に近づかない事によりリスクは回避される訳です。現金取引を実行している限りにおいては、個人も企業も身の丈サイズの活動しかできませんが、安全性は格段に向上するでしょう。今泥沼の中には頼りになるべき「テコの支点」は殆ど存在しませんので、経済のレバレージ(つまりはROIです)は、最早限りなく1.0に近づけるしかリスクを回避する術は無いように見えます。

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2011年11月15日 (火)

1545 電気の発明

今回は「電気」について書いてみます。電気の発見の手柄は、フランクリンに上げるべきか、電池を作ったボルタさんに上げるべきか、はたまた実用化に大いに貢献したエジソンさんに捧げるべきか議論の分かれるところです。しかし、話を人間社会に限定しさえしなければ、地球が出来て以降、とりわけ水が地表に溜まって雲が生まれてからは、カミナリ様は日常的に地上のどこかで強力な放電を繰り返してきましたし、生き物に限定して考えても、例えば「デンキウナギさん」などは数百ボルトの電気を起こす能力は、生まれながらに備えている訳です。

それを、人間が自在に操る技を工夫した点で言えば、エジソンさんの功績は偉大ですが、原子力発電に限って言うならば、貢献者は原子力潜水艦の開発競争における技術者だと言えるでしょう。原発の起源は陸上の発電所ではなく、実は初期には原子力潜水艦や原子力空母の原動機として開発されたからです。閉じた空間で、どうにか人間が「そんなに被ばくしないで」推進力や電気を生み出せるなら、陸上でもたぶん大丈夫だろうという事になり、陸上用の原発をおそるおそる作ったのでした。その実用化過程での性格が「兵器」である限りにおいては、それはある程度のリスクを飲みこんだ上で開発された事は容易に想像できます。その後の改良において安全性のレベルは上がったのでしょうが、古い原発は多分原潜の技術を引きずっているのは間違いないところでしょう。

一方で、ワットさんやニューコメンさんが作った低速の往復動の蒸気機関では、精々鉱山の湧水を汲み出す目的にしか使えませんが、ド・ラバルさんらが実用的な高速蒸気タービンが開発して以降、発電設備は急激にコンパクト化に成功し、各地に石炭火力発電所、石油の時代になって重油焚きの火力発電所が次々に建設されたのでした。石炭や石油にはかなりの硫黄分も含まれていますので、現在はその多くの燃料はLNGに転換されて来ています。ここでは、電気の便利さが、他のエネルギー形態に比べてあまりにも強烈だったため、人々はその魅力酔って全く抵抗しなかった事が、現在の「電気中毒社会」を作ってしまったとだけ結んでおきます。

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2011年11月14日 (月)

1544 流動化

現代の社会や世界情勢を、俯瞰的に見てKWを付けるとすれば、それは「流動化社会」となりそうです。流動化は至るところで起こっている様に見えます。流通網や交通網が発達するにつれて、先ずモノやヒトの流動化が始まりました。古くはアメリカやブラジルへの移民船、或いは国内では集団就職列車による労働力の移動です。隣の大国でも、内陸部から海岸部への歴史的な民族大移動が起こった事でしょう。

流動化はモノ、ヒトに留まりません。モノに裏付けされていない余剰なお金=価値も、生き物の様に流動化を加速しました。即ち、お金は債権や電子マネーと名前を変えて、儲けを生む国や枠組みや先物取引を求めて、24時間彷徨い歩いている状態です。その旺盛なる攻撃力の犠牲となる国々も欧州を中心に増え続けています。つまりは、ある期間を通じて流れ続けていた流動化資産が、ある時期を境に引き抜かれる事によって悲劇が始まる訳です。流動化は、お金にとどまらず、モノでも起こっている事でしょう。モノは1円でも高い売り先を求めて、市場を彷徨う事になります。少しでも供給が弱るか、或いは需要が高まると、市場価格はすぐに反応し、高いお金を出しても買ってくれる国へ流れの方向を変えます。今は、C国、I度などがモノの向かう国になっていますが、これもいつまで続くかまさに「流動的」です。

流動化に対する言葉としては、「モザイク」や「地産地消」などがありそうな気がします。かつての、国内の藩がそうであったように、地理的に独立した小国が、経済的にも独立性を保ちながら、慎ましく「地産地消」の社会を営む社会です。ヒトの流動化が争いを起こし、モノの無理な流動化が戦争を生んだ歴史を振り返れば、そのような社会のメリットも納得できます。その意味で、20世紀は流動化が劇的に進んだ時代であり、21世紀もそれが「やや減速しながらも」続いている様に見えます。

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2011年11月13日 (日)

1543 駅伝ランナー

これもかつて書いたタイトルの様な気がしますが、二度書いてもまあ良いでしょう。さて長い人類の歴史から見れば、人の一生なんぞはホンの一瞬の出来事に過ぎません。しかし、生れ落ちて、生きて、生殖して、死んでいく昆虫や多くの動物などとは違って、ヒトには親から子へ、或いは書物という形で世代を超えて伝えていく知恵があります。もし、ご先祖様たちがこの知恵を伝えずに親世代が死んでいったと仮定するならば、今は地上に満ち溢れている人類の辿った道は、過酷なものとなっていたでしょう。それは、古代の洞窟生活と何ら変わらないものになるからです。

時代は流れて、伝承や書物で伝えてきた知恵が、今や電子化されてWeb上で誰でも閲覧できる素晴らしい時代にはなった訳ですが、一方でその中から役に立つ情報だけを選び出す事はますます困難になったのも事実でしょう。いわば、情報の環境汚染です。雑多な雑情報にまみれた、貴重な情報を探し当てるためには、それを濾し取り磨くためのフィルター(価値観)を持つ必要があります。

そこで、駅伝です。つまり、駅伝のタスキ受け渡しのためのリレーゾーンを十分に長く取り、正しい価値観を十分に伝えない限り、次世代にこの情報の洪水を泳ぎ切る力は生まれません。何が正しいかですが、それは人類を含むこの地上のあらゆる隣人たちが、出来るだけ長く共存できる方法、というしかありません。ただの駅伝ランナーである現世代が、地上や地下のあらゆる資源を浪費し、後の世代に大量のゴミに加えて多額の借金までオマケについた、だらしのない社会の仕組みだけを残し、無責任にタスキだけを渡す訳にはいきません。どうにかして、より持続可能性を高めた社会システムを次世代に渡す事こそが20世紀世代の責任だと強く思う日々です。

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2011年11月12日 (土)

1542 正解のない問題

日々飛び込んでくる、国内や海外のニュースを眺めると、どうやら私たちは正解のない問題に直面していると考えるしかないと思っています。例えば、人口密度の比較的高い場所が震災と津波と放射能汚染の三重苦に同時に見舞われた経験は、全世界の人類の歴史を見ても皆無でしたし、今の様な、経済規模で債権市場の拡大の中で、お金の流れの制御に関しても、国営銀行の総裁や偉い経済学者といえども未経験でしょう。と言うより、歴史の経験が無いのですから類推さえままなりません。

そうであれば、私たちには少し後ずさりする方法しか残されていないのではないかと思う日々です。環境悪化と、経済悪化、資源の枯渇というこれも三重苦の荒野を、答えの無いまま彷徨うのは、(人類の)命を縮めるだけになると考えねばなりません。そうではなくて、歩いてきた道は後ろにつながっているはずなのです。かつては、より小さな経済圏単位で、慎ましく事業を営み、暮らしていましたし、化石燃料や原子力を使った大機規模工業ではなく、より再生可能エネルギーに依存した農業や家内工業で生計を立てていました。

正解の無い混沌とした問題に向かって、これまでの経験を元にした「演繹的手法」ではたぶん道を間違えるでしょう。もしかすると現在の延長線上の先は、断崖絶壁となっているかも知れないからです。今後は、もしさらに前進しようとするなら、暗闇を手探りするように慎重に歩を進めるか、或いは元来た道をソロソロと後ずさりするかの、二者択一になるのではないかと思うこの頃です。どんなに間違っても、アジアの成長エンジンなどを当てにして、つまりは他力本願で、さらに経済規模を拡大しようなどと考えるべきではないでしょう。今以上の加速をすれば、その先の減速は「破局的な」ブレーキを結果するであろう事は、経済の素人にも明らかだからです。恐ろしい事ですが、この国の多くの人々は、もはや国の行状を信頼してはいない様にも見えます。その人たちを指して「無党派層」と呼ぶのでしょうか・・・。

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2011年11月11日 (金)

1541 立冬

数日前に暦は立冬を刻みました。流石にお天気は几帳面で、一応本格的な寒さを運んできました。環境坊主の事務所でも、足先と手先が冷えるので、20wの電気アンカを足元に、同じく20wの平型ソフトアンカを「マウスパッド」替わりにしてスイッチを入れました。電気を使うのはあまり好きではないので、日中は切りますし、調光器を使って半分くらいに弱めて使います。つまりは合計で20wとなる訳です。

今年は更に省エネ暖房に挑戦する予定です。それは、パーソナル暖房=身に着ける暖房です。この秋、かなり性能の高そうな充電式のウェストウォーマーとネックウォーマーが発売されました。以前から似たようなものはあったのでしょうが、電池の持ちが悪く数時間で止まっていたようです。少なくとも8時間くらいは暖かさが持続してくれないと実用的ではありません。寒さのセンサーは背中と首筋に集中していますので、ここを暖めれば手足も少しは暖まるのではと期待しています。

今年の冬は、寒さが厳しいとか、それでも今年も冷暖房無しの事務所で、寒さをこらえる知恵を絞り出すつもりです。太陽光・熱の活用が最大のテーマです。「ソーラーウォール」は一つの答えですが、もう少しパーソナルなものは考えられないか、などとボンヤリ考えをめぐらしています。

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2011年11月10日 (木)

1540 ナノテクの幻想 

 

ナノテクは一時の流行語でした。でした、と書いたのは、最近少しトーンダウンしたと思うからです。しかし、当然の事ながら研究所レベルでは、日夜深く静かに研究が進んでいるとも想像しています。ナノテクが嫌いなのは、それが目に見えないからです。目に見えないものは時として非常に危険でもあります。例えば、5ミクロンより小さな物質は、喉や気道の繊毛にキャッチされないまま、肺の奥深くにまで入り込みます。

 

前端が尖った硬い繊維状態になっている石綿は、肺組織に変性を誘発し、時にはガン化を引き起こします。では丸いナノテク粒子が安全かと問われても、現状では誰も自信を持っては答えられないはずです。何故なら、そんな粒子が地上にある密度で存在した試しがないからです。黄砂や火山灰や花粉はずっと大きな粒子ですが、人体にかなりの程度の影響を与えます。ナノテク粒子は、空気中では気体分子のブラウン運動により、沈降速度が極端に小さくなるので、非常に長い時間空中に留まるでしょう。その影響も長く続く訳です。

 

ナノテク粒子の扱いの開始には、少なくともその吸引によって、人体に悪影響の出ない事を綿密な検証によって確認されていなければならないのです。しかし、例えば石綿の場合、日常的な吸引からガンなどの発症に至るまで数十年というケースもある事を考えれば、基本的には吸引が絶対起きない状況でしか扱えないと思うのです。一方生物は、間違いなくナノ分子を上手く利用しているのでしょうが、それは多くの場合「ナノコロイド」など、水に溶けた状態での利用でしょうから、それが悪さをする可能性は殆どない筈です。ナノ粒子の安易なドライ状態での扱いは、くれぐれも戒めたいものです。その意味で、生物が持つ素材やメカニズムの真似は、多くの場合安全です。

 

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2011年11月 9日 (水)

1539 錬紙術

光学機器メーカーの老舗が死に体の様です。詳しい経緯は別にして、投資によって利益を上げようと必死になっている企業は数多くあると想像しています。何故誰かが労せずして金儲けをした場合、誰かが損をすると言う簡単なルールが、無視され続けるのか、何故、地道に「本業」に取り組まないのか、やはり理解に苦しみます。カメラが駄目だから、株主に褒められるために投資(ちょっと懐かしい言葉では財テク)に走ったのかもしれませんが、それしても度を超しています。

環境坊主の立場から言えば、例えば誰も損をしない夢のような投資話が存在すると仮定しても、最後は環境に甚大な影響を与える収奪により、地球から資源を掘り出さなければ、どうしても帳尻は合わない事は明白です。そうではない「普通の儲け話」の場合には、間違いなく誰かが儲けたのと同じ額を誰かが損をしている事になります(=ゼロサムゲーム)。20世紀の右肩上がりの時代には、一方で石油や地下資源を多量に掘り出して素材を作り、それを元に洪水の様に製品を作り続けていた訳ですから、見かけ上は夢のような投資話が存在したかもしれません、がしかし、今は時代が違います。

化学が万能と考えられていた古の時代には、化学によって鉛が金(Gold)になると言う錬金術(Alchemy)が信じられていました。さて、金融が万能と考えられているこの時代には、紙切れ(債権)が金(Money)を生むという「錬紙術」が信じられているのでしょうか。しかし、鉛から金が出来ない様に、ただの紙切れからお金がザクザクと生まれるはずもありません。結局は巡りめぐって誰かが損を出さない限り、紙がお金を生むはずもないのです。余り儲からないかも知れませんが、やはり本業の中で地道に、顧客に信頼される製品を生み出し、ささやかですが適正な利益を得る事に勤しむべきでしょう。品質の付加価値を上げて、安定的なリピート顧客を得る事しか、企業が長く生き残る道は無い、と経営者は腹をくくるべき時代ではあります。

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2011年11月 8日 (火)

1538 雪虫

週末の裏山登山(標高400m弱)で、先週あたりから雪虫をよく見ます。寒くなると観察される虫ですが、今年の異常な暖かさの中でも、着実に進んでいる季節を感じて現れたものでしょう。さて、その季節ですが、近年の傾向として夏の延長として秋が異常に暖かく、その後急激に寒さが来ると言う「夏冬型」の気象になりつつあるような気がします。

一つの可能性としては、北極の浮氷の減少にその原因を求める事が出来るかも知れません。即ち、夏場には温暖化の結果、北極の浮氷は殆ど消えそうなほど融けてしまいます。その結果北極海には沈まない太陽によって、夏の間にはしっかり熱が蓄積されます。しかし、季節が移って極地方に日が差さなくなると、厚みは薄いものの海面は結氷します。氷が張れば、暖まった海面も氷で蓋をされる訳で、気温は急激に下がり北極高気圧も急発達することでしょう。つまり、氷が薄くなったことで、秋から冬への季節変化が急速に進むと言う、一見矛盾する結果を生むという見方です。これは、まだ正式なデータで裏付けされている訳ではないので、このブログ内だけでの見解にしておきます。

さて、雪虫ですが、夏場は別名で呼ばれているアブラムシの類が、卵での越冬を目的に変態し、綿毛に覆われる様です。その名の通り、暑さには弱い虫の様で、人間の体温程度の温度でも死んでしまうか弱さだとのこと。この虫が飛び始めてから、どの程度で本格的な寒さが来るか、この虫の「天気予報力」を注目して眺めています。

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2011年11月 7日 (月)

1537 環境コンダクター

E那市で開催された、手作りの環境イベントに出かけました。体育館に30数個のブースがあるだけでのこじんまりしたイベントです。そこで感じたことを少々。それぞれのブースでは、堆肥の利用、3Rの推進、里山の保全、間伐材の利用、水資源の利用、再生可能エネルギーの拡大、菜種油やてんぷら油の活用などなど、それぞれの分野で、小さな活動を続けている様です。しかし、全体としてみれば、各々の活動があまりにも狭い範囲にとどまっている事が残念ではあります。それは、限られた人数の活動では、資金面や人材に限界がある事も大きな理由ですが、それにしてもそれらの活動全体を見渡す機能が欠けていると思われてなりません。

例えば、バイオマスも風力も小水力も、結局は太陽光の利用の一分野に過ぎず、太陽光発電(PV)と同列で考えなければならないはずなのですが、NEDOなどを通じて潤沢に税金が投入されてきた(され続けている)PVと、単発の事業にしか、それも一時期しか助成金のでなかった他の再生可能エネルギーを、同じ土俵で勝負させるには所詮無理があるはずです。

そうであれば、再生可能エネルギーの分野だけに限っても、「地域で」その全体を見回し、エネルギーの地産地消の方向を見定めて、ハンドルを切る仕組みが必要でしょう。それを、行政だけに求めるのはあまりにも買いかぶりでしょう。行政マンにそのための専門的な知識や、将来の青写真を描く力を求めるのは酷でしょう。必要な能力は、オーケストラにおけるコンダクターの様な、全体を見回す能力でしょう。余っているものはそれを抑え込み、足りないものはそれを引き上げて、全体として帳尻が合うようにする、細かい調整能力が必要なのです。

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2011年11月 6日 (日)

1536 人生は暇つぶし?

実際にそれを実行している訳ではなく、それを言ったのが誰かも忘れましたが「人生は暇つぶしである」とのたまわっている人にかなり共感します。親が誕生を望んだにせよ、生まれてくる赤ん坊に、生まれる場所や時や親を選ぶ選択肢はありません。親が与えてくれる食べ物を食べ、義務教育を経て自我が芽生えてやっと「自己」を確立します。しかし、それまでの過程や時間は千差万別です。20歳前に自立し、自活している人も居るでしょうし、30歳になっても親のすねをかじっているモラトリアム人もさぞ多いことでしょう。

しかし、自分が生まれた必然性を信じ込み、一生の間に何事かを成し遂げようと使命感に燃える人はホンの一握りしかいないと想像しています。多くの人は成り行きで学校に行き、成り行きで就職し、成り行きでパートナーに巡り合って家庭を築くだけです。暇を持て余せば、人は悪さをしますので、全ての人が職業を持つのは、社会の安定にとっても良い事には違いありません、昔ながらの衣食住を提供するためだけの職業は非常に単純ですが、人が多く群れて暮らすようになると、経済活動が生まれ、サービス業なども自然発生的に現れます。

しかし、どこまで考えても、今自分がこうして、ここで息をしているのは、やはり成り行きに過ぎません。そうであれば、これからの生き方も、出来る限り環境に痕跡を残さない様に、成り行きに任せて残された時間(暇)を生きていくしかないのでしょう。別に年金生活に入り、暇を持て余す暮らしを送る事は考えていませんが、それにしても有益な暇つぶしの方法はないか考える毎日です。環境坊主としては、数人の弟子を育てるのも良い暇つぶしになるかもしれません。

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2011年11月 5日 (土)

1535 デフォルト

「デフォルト」が国際的な流行語になりそうな様相です。そもそも債務(借金)は、(生きていくための最低限の借金は別にして)多くは身の丈を超える暮らしや企の実行のためにするのでしょう。身の丈はそれほど越さなくとも、例えばお金を貯めてから家を建てるのでは、普通のサラリーマンは下手をすれば老いぼれてしまってからでないと自分の家が持てないでしょう。将来の自分の収入を担保として差し借金を背負いこめば、若いうちにどうにか郊外の住宅団地にささやかなワイホームも持てる事になります。しかし、家などと言うものは、それを背負って墓に入る訳にもいかない限り、一生借家で済ます選択肢もあるはずです。

手に入る収入の範囲内で暮らすのは、長い間多くの国々で、庶民が生きていく際の「オキテ」だったはずです。しかし、通貨が生まれ、小金を貯めた人間(金貸し)が現れて、貧しくて当座を乗り切るためのお金が必要な庶民の前にニンジンをちらつかせて金を貸し、高い利息を稼ぐ上手い商売を発明したのでした。昔から夜逃げなどで謝金を踏み倒す事は多々起こった事でしょう。しかし、逃げ指す訳にはいかない法人や個人、今は一国が、借金は払えないと尻をまくる事は、合法的或いは普通にあり得る話になりつつあります。

しかし、考えてみればニッチもサッチもいかなくなる前に、打つ手はあったはずなのです。この国の借金も、最初から900兆円もあった訳ではなかったでしょう。警鐘は、バブル崩壊後に景気浮揚のために行った国債乱発の大盤振る舞いの結果、国の歳入の何倍にも達した時にも激しくならされました。消費税の増税は、時の政権にとっては「猫・鈴」案件であったため、誰もそれを言い出しませんでした。雪だるま式に膨れる借金問題の本質は、誰もそれを止める人が居ない状況にあるのでしょう。Gリシャの債務も、金を貸した側、それを見過ごした全ての当事者にも責任があります。さて、この国の債務は一体何処に向かうのでしょうか。とは言いながら、この国の国債を買っている人はお金持ちだから、まっイーか、かも知れませんが・・・。

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2011年11月 4日 (金)

1534 住の条件

住はシェルターです。自然環境は、季節や天候が変化し、暑さ寒さ、降雨、降雪、暴風などの試練を生き物に課します。それをどうにか耐えて、個体を維持できた種だけが、いま地上に生き残っている訳です。ミノムシは枯葉で衣を作り、動物は長い冬毛や羽毛で寒さから身を守ります。それでも足りなければ、洞穴や木の洞に身を潜めて冬眠する種もあります。人間だけが家を建てて、人工的に天候をブロックして、安定的な住環境を作り出して、地上に満ち溢れるまでに人口を増やしてきました。もちろん自然を注意深く観察すると、ビーバーなど自然物を使って家を作る生き物は他にも多く存在しますが・・・。

さて、一方で住居はある時期から富の象徴としての意味合いも強くなってきました。豪奢な館や城がその代表でしょう。そこまでいかなくても、時代や地域が違っても、お金持ちはやはりそれなりの住居を構えたがるものの様です。

ここでは、必要かつ最低限の住居の条件を考えてみます。エネルギーの出入りの簡単な法則から考えれば、住居の理想形は球形でしょう。体積当たりの表面積が最小であり、当然の事ながら熱の出入りも最小限で済むからです。しかし、これでは作るにも、済むにも不便でしょう。次善の形は立方体になります。これだと、4人家族で30坪の床面積の家でも、15坪(50㎡)程度の建坪になりますから、7m四方の小さな面積に建てる事が出来ます。3階建てなら、さらにその2/3で済むでしょう。表面積が増えた分だけ、壁や屋根の断熱性は少し高める必要があります。グラスウールの様な綿状の断熱材ではなく、発泡材料による外断熱が適当でしょう。窓も二重にすれば、熱の出入りが最少で済みます。これをユニット化すれば、安くできるでしょう。構造強度は外壁で確保し、間仕切りを自由にできる設計にすれば、ライフスタイルの変化に従って、住まい方への変化も容易です。躯体は100年以上の耐久性を確保すれば、住宅立って替えにともなう建築廃材も今の数分の一以下に出来るはずです。

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2011年11月 3日 (木)

1533 衣(食)住

全ての環境ビジネスは、衣食住に関連したものであるはずです。極端な例ですが、宇宙旅行ビジネスは絶対的に環境ビジネスにはなり得ません。なぜなら、それは人類の存続や環境保全には全く寄与しないばかりか、ロケットの打ち上げにより例えば、成層圏に有害なガスをまき散らしますし、人ひとりをたった数百キロの上空に打ち上げるためだけに、莫大な資源やエネルギーを消費するからです。あまりにも便利で、今では日常生活に「必要不可欠」とさえ思われている航空機や車でさえ、実はその同類項だと言えます。

表題で食を括弧でくくったのは、食は他の何にも増して重要な環境ビジネスだからです。ただし、その前提は「人類が生きていくのに必要かつ十分な量である限りにおいて」となります。つまり、飽食に寄与する様な外食ビジネスは、問題外になります。衣料や住居にも同様な前提が付けられるでしょう。つまり、過剰な装飾を付けた衣服や、過剰なスペースを有しエネルギーを浪費する住宅は、やはり環境ビジネスの対象外になるでしょう。

さて問題は、どの程度の食事が「飽食」に当たり、どのような衣服や住宅が過剰であるかは、時代によってその物差しが変わっていく事にあります。いずれにしても、今の日本の大多数の人々は、飽食の状態にあり、少なくとも衣服に関しては十分過ぎる状態にあるのは間違いないところでしょう。その証拠は、レストランやコンビニやスーパーのバックヤードに捨てられる、まだ十分に食べられるのに生ごみとして捨て去られる量、或いは数回しか袖を通していないのに、新しいものを買いたいがために捨てられる膨大な衣服の量をチラッと見るだけで十分でしょう。確かに、この国では、住宅事情に関して言えば、まだまだ不十分にも見えますが、もちろん、70年代の「ウサギ小屋」と呼ばれた、ミニ開発住宅に比べれば、近年の住宅の質は雲泥の差で向上していますので、かなりの程度贅沢の域に入り込んだ住宅も増えている様な気がします。いずれにしても、省エネルギーという視点でみると、今ある住宅の多くはリフォームの余地はありますので、ここ部分ではまだまだ「環境住宅ビジネス」拡大の余地はありそうです。

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2011年11月 2日 (水)

1532 ブータンシボリアゲハ

ブータンで幻のブータンシボリアゲハが「再発見」されたとか。アゲハに限らず、昆虫というか生物の多様な進化には、何時も感嘆させられます。僅かな距離しか離れておらず、物理的に見ればほとんど同じ様な環境で、何故こんなにも多様な生物種が進化でき得たのか。ほとんど、奇跡に近い偶然が重なったとしか思えません。もちろん、その偶然が重なるチャンスを演出したのは、気が遠くなるような時間の経過によるところが大なのでしょうが…。

さて、このアゲハは大人の手のひらほどもあるそうですが、ブータンの地理的に特異的な特徴は、とにかく高い標高にある事は明白です。元技術屋の単純な頭で考えれば、昆虫が同じ目方の胴体を、薄い空気の中で飛ばそうとすれば、当然の事ながらより大きな面積の翼が必要だと思い当ります。翼面積は大きくなっても、空気が薄いので、羽ばたく力まで大きくする必要はありません。他より少し大きな翼面積で生まれた個体が、食べ物のより多い、或いはより安全な高地に移動していった事は、たやすく想像できます。長い時間の中で、低地のアゲハが、徐々に高地に適応していったと仮定すれば、当然の帰結として巨大な翼面積の種がブータンで見つかっても不思議ではありません。

ヒマヤラの登山隊が、高地に適応したと思われるカラスの攻撃により、食料や装備を奪われたり、壊されたりする事件が続発しているとのニュースも流れますが、これらのカラスの翼も、高地に適応して面積が増加しているのかも知れず興味が尽きないところです。小さなニュースになったアゲハから、カラスにまで連想が飛ぶのは、たぶん考える(妄想する)暇がたっぷりあるからでしょうか。サラリーマンを早めに卒業して、儲からない自営業となり考える時間が増えた事に、実は感謝している今日この頃です。

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2011年11月 1日 (火)

1531 経験という引出し

本から学んだ知識は、いわば引き出しの見出しの様なもので、引き出しの中身は「経験」でなければならないと考えています。しかし残念な事に、人が一生の間に経験出来るエピソードの数は、非常に限られています。色々な国を放浪して、数々の職業を経験し、多くの人々と交わればそれはある程度は満足されるのかも知れません。それを補うものとして、たぶん本やメディアがあるのでしょうが、それは何処まで行っても疑似体験でしかなく、知識の範囲にとどまります。

経験や体験は、何は無くともその場に居合わせて、それを目撃し、その場の空気を吸い、音を全身で感じ、出来れば手で触って感触を確かめなくてはなりません。つまりは、五感を総動員して味わって記憶する必要があります。もちろん、何も世界中を歩き回らなくても、考えてみれば毎日行動する範囲内でも、立ち止まって注目しないが故に、見逃してしまう貴重な体験のチャンスは多く転がっている様にも思えます。要は、立ち止まってしっかり観察する事で、得られるものは非常に多いのではないかとも思います。

さて、道端の外来種の植物や、見慣れない昆虫や鳥等、観察すべき対象は非常に多くあるでしょうし、例えば何の特徴も無いような、ありふれた工場でさえ、しっかりと観察すると、結構興奮する発見があるものです。この数年、自営業=自由業になって、その気になりさえすればしっかり観察できる時間が取れる様になって、初めて気が付いた(つまりは、それまで目には入ってはいたけれど認識していなかったもの)が非常に多い事に、改めて驚いています。経験という引出は、日常の細かい観察からでも、十分幅を広げ深める事が出来そうです。

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2011年10月31日 (月)

1530 超貿易社会

超円高が怖いのは、何しろこの国が「超貿易国家」だからです。国内のほとんどの企業が、直接ではないにしても輸出を行っている企業に関連して事業を営んでいるでしょうし、一般市民においてもほぼ100%の人が毎日輸入された製品を手にし、輸入食品を口にしている訳です。この超貿易社会を、TPPによってさらに加速しようなどと考えるのは、もはや何をかいわんや状態だとも言えそうです。それは、関税を撤廃して経済等の交流の規模をさらに拡大し、互いの国々が相互依存度を高めましょう、という条約だからです。

戦後、一貫して安い輸送コストに依りかかる状態で拡大してきた、工業化社会と超貿易主義に警鐘を鳴らし続けているのが、このブログの趣旨なのですから、自動的にTPPにも反対するしかありません。いずれにしても、このまま手をこまねいて事態を放置すると、円高がピークを打つのは対ドル50円前後ではないかと警鐘を鳴らす学者もいるくらいです。

そうではなくて私たちは、もっと足元を見つめてみる必要があると思うのです。足元には土があり、そこに太陽光が当たっています。急峻な山々は、世界でも稀にみる樹林帯に覆われており、それが蓄える豊かな水が、狭い平野を潤しています。周りは、これも世界でも稀なほど豊かな海に囲まれており、海産物や海水に含まれる微量元素だって資源として手に入ります。先ずは、地域で継続的に手に入る資源を利用して、可能な限り食糧やエネルギーや産業の原料を手に入れ、安定的な産業を固めるのが先決でしょう。そのベースの上に、ある程度の貿易経済を載せれば、国としてより安定するはずなのです。貿易は、今回の超円高の様に、他の地域の社会や経済状態によって、大きくブレる不安定な仕組みの一つであることは、素人が考えても明白です。1ドル50円は極端な話だとしても、成り行きに任せるのではなく、日本として明確な意志を持った未来予想図を描いておき、折に触れて諸外国にも提示してみせる必要はあるでしょう。

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2011年10月30日 (日)

1529 ストレステスト

ストレステストの最初のレポートが出た様です。それはもちろん理論的な裏付けのあるものなのでしょうが、誰がそれを行ってレポートを書いたかを考えると、鵜呑みには出来ないとも思われます。検証とレポート作成は、実のところメーカーの設計者が行ったからです。メーカーには、設計書が保管されており、その前提条件によりシビアな条件を当てはめて、再計算したものがストレステストレポートそのものでしょう。したがって、その根拠は明確なものなのでしょうが、いかんせん「身内のチェック」に過ぎないので、あやふやな結論が出た場合は、恣意的に安全側に誘導されがちになると想像しています。

それを、チェックするのは行政側ですが、どう考えてもメーカーの専門家より、ハード面の設計に関して造詣が深いとは考えられません。したがって、計算の過程を100%トレースできるとも思えないのです。仮にそれが出来る人が検証に当たったにしても、今後どっと出てくるレポートの山を、かなり短い期間で検証せよと要求されれば、やはり抜き取りで検証するしかないと思われます。

結局、長い時間と費用を掛けて、中途半端なストレステストを行うくらいなら、最悪の事態でも炉心の冷却が問題なく続行できる仕掛けでも考えてもらい、一日も早くそれを設置して貰いたいものです。机上のテストはさておき、原子力発電再開への近道は、それしかないのです。

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2011年10月29日 (土)

1528 木枯らし1号

早々と木枯らし1号が吹きました。逆説的ですがこれは温暖化と必ずしも無関係ではなさそうです。というのも、北極圏では冬場の気温が下がってきている様なのです。その顕著な影響一つは、オゾンホールの発生でしょうか。オゾンホールは南極ではかなり以前から観測され、注目もされてきましたが、基本的には北極海があって、南極ほど冬場の気温が低下しない北極圏では、オゾンホールは発生しないとみられていました。それは、オゾン破壊の原因物質である塩素を含むラジカルの活性は、マイナス80℃程度の低温でより強まるからで、それより高い温度では、オゾン生成速度と破壊速度の差が小さいために、オゾン層が保持されてきた訳です。しかし、近年は北極圏でも冬場の上空の気温低下が著しく、オゾンホールが出来る条件が整ってきている様なのです。

原因は、低空に蓄積されているCO2であると言う説があります。この説では、CO2は地表の熱を閉じ込める効果はあり、空気に対して密度が高いため、比較的低層に溜まる性質もあります。しかし、この性質は逆に言えば、地表からの赤外線の宇宙への逆放射が上空に届かず、大気高層の気温を下げる方向に作用すると説明されています。それなりに納得できる説明ではあります。

そうであればなおの事、私たちはCO2の排出抑制にまい進しなければならないのでしょう。原発が動かないからと言って、一旦は退役させた火力発電所を復活させたり、現役のLNG発電所をフル稼働させたりして、発電量を増やすのではなく、節電型の暮らし、節電型の産業構造を確立して、世界に「良い手本」を示すべき好機だと捉えるべきでしょう。木枯らし1号のニュースからの連想でした。

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2011年10月28日 (金)

1527 情けない社会

環境には直接関係はありませんが、それにしても情けないニュースが続きます。どんな時代になっても汚職は無くならないのでしょうか。悪事に額の多寡は無関係なのでしょうが、それにしても道路会社で何億円というお金が闇から闇へと移され、一企業の元経営者から数十億円という大金がネバダのカジノに送られた薄気味悪さは、喩え様もありません。それが、道路料金に上乗せされ、製品価格に転嫁されていると思えば、怒りさえおぼえます。組織のチェック機能は一体どうなっているのでしょうか。またどう考えても同僚や家族の半端じゃない金遣いの荒さに、誰も気が付かないなどというトボケた話はないでしょう。

と怒ってみても、どこの国や社会でも、贈収賄事件は無くならないのかもしれません。それは、拝金主義や権限の集中が社会のベースとなっている限りにおいては、ドンと太鼓判が押せます。お金という、紙に印刷された軽くてあまり嵩張らない「価値のシンボル」の価値が、国立銀行によって保証されている限りにおいては、それを封筒に入れて、テーブルの下でやり取りする行為は、止めようがありません。まして、目には見えない電子マネーのやり取りにおいておや、です。やはり、この種の犯罪の罰則を、もっと厳しくするしかないのかもしれません。例えば、どこかの国の様に、公衆の面前でのムチ打ちの刑でも導入しなければならないのでしょうか。

マスコミには、この種の罪の人間としての「情けなさ」をもっと強調して貰いたいとも思います。淡々と事実だけを報道するのでは、単に受け手に「またか」程度のリアクションしか起こさないでしょう。そうではなくて、犯罪を起こした本人だけではなく、組織のずさんさを、もっと暴いてもらいたいのです。それが真の意味での組織の法令遵守に他ならないからです。

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2011年10月27日 (木)

1526 情報の不平等

Nューヨークの反格差デモは、公園の中にコミュニティも出来て長期化しそうな様相ですが、一方で彼らの具体的な要求は見えていません。一見、平等に見える競争社会で、一部の人間がチャンスをつかんで成功し、金持ちになって一体何が悪いのかを論破できないからからかもしれません。何が悪いかを論理的に説明できなければ、今回のデモもやはりただの騒動に終わってしまう可能性が大となります。

色々書いておきながら、事態を余り深掘りしているとの自信はありませんが、平等に見える自由主義と言われる経済圏の競争で決定的に不平等だと思うのは、実は情報の量の様な気がしています。金持ちには、そのお金に付随する形で、更なる金儲けにつながる多量の情報が入ってくるのでしょうが、一方貧乏人にはそもそも金儲けの情報などこれっぽっちも流れてはきません。99%貧乏人は、やっとツイッターという情報網を得て、金持ち側の情報と対峙しようとしている様にも見えますが、やはりその情報量と何よりその質において、到底太刀打ちできないだろうと観ています。

情報は、何も整理されていない状況では、単なる「雑音」でしかありません。明確な「価値観」というフィルターを通して初めて、それは情報としての価値を持ち始めます。ツイッターは今のところ、雑音の一つでしかありません。G-グルも、単なる便利な検索エンジンの開発で満足するのではなく、ここで「情報フィルタリングエンジン」でも開発してみてはどうでしょう。

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2011年10月26日 (水)

1525 五十にして・・・

今週ラジオで盛んに取り上げている論語は、残念ながらいま手元にありませんが、近々手に入れたいと思っています。とは言いながら、忙しさにかまけて本屋の前をついつい素通りしてしまいます。ほとんど中身を知らない論語ですが、「五十にして天命を知る」程度のフレーズは何となく頭に残っていました。その意味で、論語で孔子が言う世代とはだいぶかけ離れますが、学ぶ事の面白さを知ったのは、たぶん30代後半だったような気がしますし、50歳過ぎに一念発起して環境人間に脱皮をし始めたのは、もしかすると天命に目覚めたのかもしれません。

さて、うかうかしていたら六十歳になってしまいましたので、論語の教えではこれからは「耳従う」必要があるとの事、人の話をよく聞くことを心がけたいとは思っています。自分から、論理を組み立てて話をすることは、むしろ容易なのかもしれません、しかし、耳従うためには、予断を持たず、プラスでもマイナスでもないニュートラルな態度で人に接する必要がありますし、話の腰を折らない忍耐力も養う必要がありそうです。先ずは、家族の話を聞くことから始めようとは思っていますが、実はこれが一番難しそうですが・・・。

そして出来れば死ぬ前までには、心の欲するままに行動して、しかし矩を超えずの境地にはどうにか辿りつきたいとは思いますが、全く自信はありません。先ずは環境人間としての天命をどうにか少しでも前に進めたいとは思います。

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2011年10月25日 (火)

1524 環ビジ84(軽量化ビジネス)

ある運送会社の環境経営を審査しました。多聞に漏れず、ここでも車両燃料が一向に減らない事に悩んでいました。普通のバン型トラックの荷台部分はほぼ100%アルミ製になりました。その意味では、トラックの軽量化はかなり進んでいるとも言えそうです。しかし、車体部分を見ると、まだまだという感じが否めません。例えば、鋼鉄製で梯子型の車台です。構造を最も軽量にするためには、一定断面の梯子ではなく、ビーム形状であれば真ん中が太い形になる筈です。片持ち部分は、根元が太く先細りの形状になる筈です。少し凝った設計で、少しは作りにくくはなるかもしれませんが、小型のトラックでも100㎏や200㎏位はすぐにでも軽量化が可能でしょう。例えば、車重を5%削減できれば、燃料も同じ程度には減らせるはずです。

製造業からは隣のK国に追いつかれたり、C国にコピーされたりして、作るものが無くなるなどと嘆きも聞かれますが、どっこいこの国の強みは、細かいところまで気を配った「軽量化技術」だったはずです。携帯電話やスマホをここまで軽くできたのは、ほぼ100%日本の貢献でしょう。ならば、車産業でも極限までの軽量化を達成するべきです。

車のやるべきことは山ほど残っています。高張力鉄板で作ったモノコック構造、エンジンそのもの、ガラス窓、インテリア、車輪、ゴムタイヤなどなど。また何故、1トンもある車に、60㎏の体重の人がたった一人だけ乗って移動しなければならないのか、何故タイヤは4本もなければならないのか、車のコンセプトそのものについても考えるべき点は多いでしょう。

この国には、軽量化に使える素材はいたるところに転がっています。高張力鋼板以外にも、各種アルミ合金、マグセシウム合金、チタン、高強度繊維、ハニカム材料、プラスチック素材、木材?などなど。それらをベストミックスにより、例えば車の重量を今の半分に出来れば、石油資源の枯渇は、さらに数十年は先延ばしできるかもしれません。全ての製品の軽量化は、ゴールの無いしかし必須の課題であり、何でも良いのですが、目の前にある製品の重量を半分にする事を真剣に考えれば、新たなビジネスも起こせるはずなのです。

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2011年10月24日 (月)

1523 環境メッセ

ローカルなイベントながら、びわ湖岸で開催される環境メッセは、毎年活況を呈しています。ヒトが集まるため、結構遠くのメーカーもブースを構えます。ほぼ毎年のぞきますが、今年も短時間ですが会場を回りました。最近の展示のKWは、LED照明や太陽光発電や冷暖房の省エネ、エネルギーの見える化やEV車試乗などですが、確かに昨年と比べても、この分野が大きく前進している様な気がしました。例えば、LED照明の性能もコストダウンも長足の進歩を遂げているようです。

しかし、例えば照明の分野では、既存の照明、つまりは蛍光灯ですが、この分野でも省エネ性能が随分と進歩し、LEDに迫るところまで健闘している様です。テレビやパソコンのバックライトとして用いられている消費電力の小さいCCFLや、安定器の電子化による既存蛍光灯の省エネ、さらには管端にインバータを組み込んだ蛍光管など、比較的低価格でしかし省エネ性能の高い従来型照明も格段に種類を増やしてきています。中でも、管端にインバータを組み込んだ蛍光灯は、継ぎ足しも容易で、店舗照明などに使われる長尺蛍光管の代替としても有効です。インバータや安定器が不要なので、蛍光管の交換のためには、これらを切り離す必要がありますので、一手間は掛かります。

いくつかのブースでは、LED照明を使った野菜工場の展示もありました。つまりは、多段の棚に葉物野菜の種を蒔き、液肥とLED照明を使って無菌状態で栽培する技術です。しかしながら、植物はやはり太陽光で育てるべきだと思っていますので、この技術には疑問を持っています。つまり、本当にLED照明だけで、バランスの良い栄養価なりビタミンなり、味が期待できるのかという疑問です。どんな時代になっても、人工照明野菜には手が伸びません。

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2011年10月23日 (日)

1522 役所

行政の役割はますます重くなってきています。とりわけ、今回の震災を承けて、国民や住民の安全・安心に関しての「需要」が極端に強まり、その需要を実現するためには、人材も税金も全く足りない事態に陥っている様に見えます。もちろん、3月に東北で起こった事態は、今後東海や東南海でも起こる事は十分想定されます。しかし、だからと言ってそれを人間の力で完全に防ぐ事など到底できる話ではないでしょう。現実的には、災害で亡くなる人を一人でも減らす努力程度(減災対策)しかない事は明白です。

さて、お金は無いのに責任だけを負わされた行政は、仕方がないのでお金の面だけにはなりますが国に頼る事になります。しかし、お金をもらってもそれを上手く使う人材は限られているので、結局それを業者に丸投げするしかありません。かくして、税金の無駄使いは一向に減らず、国はますます借金を重ね、貧乏になっていく訳です。インフラの整備は長い時間とお金を掛ければ、徐々にですが規模を拡大できます。その様にして、この国にも900兆円とも言われるインフラが構築されてきました。しかし、インフラは作れば終わりではなく、エンドレスのメンテナンスと更新が求められる事になります。その意味では、行政にはそれをまともに行う予算も人材もありませんから、モグラ叩きの様に、トラブルが発生した都度、その場所の修理を行うだけしかできません。しかし、震災の様に大きなインフラの破壊が起こると、もはやお手上げ状態に陥る事になります。

ではどうすれば良いかですが、正直妙手がある訳ではありません。インフラの維持には、構築時の金額に対して、毎年3-5%の維持費が必要となる筈ですが、3%としても30兆円弱の維持費が必要な訳で、じり貧の国や自治体の財政状況では、やはり降りかかる火の粉だけを掃うしかないでしょう。一つの考え方は、少し時代を戻る事でしょうか。例えば、道路や橋の様なインフラは壊れてしまったら、元の姿に戻す方向で撤去する訳です。道は、農地や宅地に戻せば、もはやメンテナンスは不要となるでしょう。発生する土木工事で地元の業者も少しは潤うでしょう。

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2011年10月22日 (土)

1521 洪水

インドシナ半島の洪水被害は長期化、広域化を見せています。何度も書きますが、大気中の絶対的な水分量(湿度)が上昇しているとしか思えません。これまでは、3日も降れば、水分の露点が高くなり、自動的に降雨が止まったものが、今は1週間や10日以上も続く結果、何十年振りという豪雨や洪水が起こるとみています。

それと気になるのは、気象のメリハリの弱体化です。具体的には、寒気と暖気の境目や、地球の自転にともなう大気の渦や気象変化が、通常時はどうやら弱まってきている様にも見えるのです。これは、同じ気象状態が長く続く事にもつながり、結果として降雨も長く続く結果になります。日本でもこの夏、新潟や東北南部で、九州南部で、或いは和歌山や奈良でそのような現象が確かに確認されました。つまりは、このような豪雨災害は、今後日常的に起こると考えられるのです。もちろん、エルニーニョやラニーニャといった、地球規模の気象振動は深く関係しますが、長期的トレンドとして固定化する可能性が考えられます。それに対する例外は、台風やハリケーンの強大化がありますが、残念ながらそのカラクリは良く理解できません。

さてどうすべきかですが、時間が掛かるかもしれませんが、個人的には、長期的な解決策としては実は地道な「植林」しかないのではないかと思っています。山崩れを防ぐにも、山の保水力を増加させて大洪水を防ぐのも、植林それも広葉樹を中心とする森を育てるしか安価で有効な手段は無さそうなのです。ダムが治水に非力である事は、戦後のダム行政で既に立証されたと言っても良いでしょう。山の崩落を放っておいて、ダムをいくら作っても、すぐ土砂で埋まってしまうからです。洪水に苦しんでいる彼の国も、きっと山の木はすっかり伐り倒されて裸になっている事でしょう。大きな河の三角州に築かれた都市は、堤防を越える様な洪水には全く無力です。

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2011年10月21日 (金)

1520 反格差デモ

マンハッタンから始まった格差反対デモは広がりを見せています。いわゆるサイレントマジョリティが本格的に声を上げ始めたものか、それとも単なる一時の騒乱に終わるのかは注目すべきポイントではあります。自由主義経済の元では、格差が生ずるのはむしろ当たり前の話であり、それを容認する社会に生きている限りは、大多数の庶民は、上手く立ち回った人間を羨望の目で眺めるしかない訳です。しかし、その格差が限度を超えると、羨望はやがて怒りにすり替わるものかもしれません。

振り返ってみれば、昔の金持ちの暮らしは質素だった様な気がします。ケチケチ生活で小金を貯め、それを元手に事業を起こして、やがて財を為すと言うのが、お決まりの金持ちコースだった訳です。しかし、最近の金持ちは、株取引やマネーゲームなどで千載一遇のチャンスをモノにして、一気に大金持ちになるケースも多いので、そんな事に手を出す勇気も、元手も無い庶民は、その金が一体どこから生まれたのかにやがて気が付いて、割り切れなさを感じているのでしょう。それは、例えばマネーゲームの果てに大量の不良債権を抱えた銀行を、税金で救う様な理不尽な例を指します。

問題は失業率でしょう。なかなか仕事が見つからない人は絶望し無気力になるか、最悪の場合は悪さに走り最後は暴力に訴えるかもしれません。反格差デモはその中間状態とも言えます。仕事が少ない場合は、どう考えてもそれを分け合うしかない訳で、有効に働く「ワークシェアリング」の仕掛けを、早急に構築しなければならないでしょう。10%の失業率の社会では、仕事のある人が1割労働時間を減らして、それを失業者と分け合わなければならない事になります。同時に1割の生活レベルのダウンも受け入れる必要がある訳ですが、自発的失業で7割以上のダウンを経験した立場から言えば、そんなことは造作もない話だと言っておきます。

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2011年10月20日 (木)

1519 モノと空想

モノは空想力を阻害します。モノが空想を具現化した結果、もうそれ以上の空想を掻き立てなくなるからです。その証拠に、今頃の子供に将来の夢や空想物語を語らせれば、かなり具体的なものになる筈です。大人でも事情は全く同じでしょう。例えば、今の団塊世代が若者の頃、経済は毎年どころか、毎月或いは日々拡大し、10年後自分は、自分の会社がどうなっているのかさえ、十分には想像できませんでした。したがって、向上心のある若者は起業を考えたでしょうし、そうでもない若者は、所属する企業でのそれなりの昇進や、マイホームの夢を抱いた事でしょう。

しかし、その時代の夢の多くは既にモノになってしまいました。掌に収まるコンピュータ(スマホ)が、(数十年前は夢であった「移動電話」の進化形である)携帯電話を駆逐しようとしていますし、一家に1台が夢であった自家用車は、2台目の通勤車や3台目の買い物車が当たり前の時代になりました。庶民の宇宙旅行でさえ、退職金の一部をはたけば、実現できるようにもなったようです。もうこれ以上、モノとして一体何が必要なのでしょうか。

そうではなくて、私たちはモノを捨て始めなければならないのだと真面目に考えるべきだとさえ思います。モノを捨てて、空想する時間を手に入れなければならないのだ、と真剣に思います。夢を食う動物を「バク」と呼ぶ様ですが、多少食べ物が減っても、空想力で人は生きる力を得る事が出来るでしょう。逆に、想像力が欠如して将来に夢が描けず、極端な場合は諦めや絶望につながり、そこから生まれる不安は、キルケゴールではないですが人を死に至らせる場合もあるでしょう。先ずは、思い切ってモノを捨ててみる事が、明るい将来の第一歩だと言いきっておきます。

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2011年10月19日 (水)

1518 人間とヒト

このブログでは、人間(人)とヒトを使い分けて書いています。人間は、字の通り人と人のとの関係を持って生きる社会的存在として見ていますし、ヒトは生物の一種霊長類ヒト目としての見方です。前者は、仙人でもない限り、必ず群れて社会を形成しますので、集団として考える必要があり、平均的な人間像が浮かんできます。また、人間社会が引き起こす環境への圧力も考えなえればなりません。それは、70億人にも増えてしまった数からの圧力に他なりません。人間の平均体重と、その数を掛けあわせた生物種としてのマス(バイオマス?)は、動物の中でもかなり上位にランクされる様な気がします。人間の数百倍の体重を持つクジラが、何万頭群れても、とても人間のマスには勝てません。

ヒトは生物学的分類ですから、その興味はヒトが何故ヒトになったかに向かいます。遺伝子レベルではチンパンジーと殆ど変らない生き物が、何故ここまで社会的存在に進化したか、やはり大きな謎です。とりわけ、生物全般に通ずることですが、たったATGCという4種類の塩基だけで、どの様にしてこの多様な生物種を存続させ続けているのかは、まったくエニグマであり、神のみぞ知る世界と言うしかありません。

ヒトは自然の中では、最もか弱い存在の種ですが、一旦群れを作って社会的に組織されれば、地上でもっともパワフルで、しかも環境にとっては最も強力な破壊者になります。この二面性が、あまりにも極端であるために、しかもその二面性がますます乖離しつつあるために、何とかそのカラクリの一部でも解き明かしたいものですから、このブログも連綿として続く事になります。

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2011年10月18日 (火)

1517 EV考

NッサンのEVに同乗させてもらいました。感じは、「中途半端」でした。それは、この車の使用シーンをあまり吟味していない事から来るのかもしれません。つまり、これは通勤車なのか、ある程度長距離ドライブも頭に置いたファミリーカーなのか、それとも買い物中心のセカンドカーなのか、などの位置づけが必ずしも明確になっていません。サイズはこれまで市販されたEVよりかなり重たいので、しっかり積んでいるはずのバッテリーでも、200㎞弱しか航続距離がありません。ファミリーカーなら少なくとも300㎞以上は欲しいところです。

もし、通勤車やセカンドカーなら思い切って2-3人乗りの小型に設計する必要があります。車体の重さは、EVといえども燃費を悪化させるでしょうし、相変わらず運転者に充電場所の心配を強要します。

結論から言えば、EV車は思い切った小型化=軽量化との合わせ技で提案すべき商品だと思っています。小型化すれば、モーターの出力も小さくでき、電池の容量も小さくて済むでしょうし、その結果、例えば手で持てるバッテリーサイズとして、充電する代わりに直接交換する事も可能となるでしょう。また、小型の太陽光パネルを屋根やボンネットに搭載して、駐車中の充電も実用的に機能するでしょう。現状の、重たい鉄製の車からの発想では、方向を誤ります。

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2011年10月17日 (月)

1516 T社の軽

T社でも軽自動車を売る事になったとか。利幅の小さい軽に見向きもしなかった企業としては、かなり舵を切ったと言う印象です。もちろん、これによって市場が広がる訳ではないので、T+Dで軽のシェアを少し大きくする程度のインパクトでしょう。

しかし、その意味するところは結構大きいのではないかとみています。それは、車(自家用車)の軽量化トレンドへの影響です。1トンの車が750㎏になると、ざっと燃費も25%程度は向上する勘定です。軽自動車といえども、高速道路では100/hを超えるスピードで疾走している様ですから、性能もかなり向上しているのですから、何も2台目、3台目の車ではなく、メインの自家用車(特に買い物車)としても十分でしょう。ましてや燃費が30/ℓに迫れば、中途半端なHVなんかは、必要無くなるかもしれません。

しかし、軽は今や「軽」ではなくなっている事は大問題です。軽は、限りなく500㎏に近く作る必然性があります。それによって、燃費はさらに2-3割向上させる事が可能だからです。それは十分可能でしょう。屋根なんかは、搭乗者の安全性さえ確保されれば何も鉄で作る必要はないでしょうし、座席だってカリスマデザイナーが作れば、洒落たキャンプ椅子の様に布で作る事も可能でしょう。エアコンは、社内全体を暖めたり冷やしたりするのではなく、運転者や同乗者の頭や首筋だけに絞れば、今の半分の重量に出来るでしょうし、車重が小さくなれば、その分足回りも華奢にできるでしょうから、さらなる軽量化も可能です。T社も手軽に協力会社のOEMで済ますのではなく、自前で画期的な「次世代の軽」を開発して貰いたいものです。

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2011年10月16日 (日)

1515 何のために生きる

毎日考えると、きっと気が狂うので、時々暇を持て余した時にこのことを考えます。さて、生まれてしまったものは仕方がないので、成り行きのままに生きる人生も「あり」なのでしょうが、それでは少し寂しいので、人は自分の人生に意味づけをして、「人生の目的」の様なものを探したがります。しかし、偉人でも天才でもない限り、普通の人が大それた目的を掲げても、空回りに終わるでしょう。ましてや人が生きた証を何らかの形で刻み後世に残すなどと考えるのは、逆に危険な場合もあります。普通の人間はできる限り生きた痕跡を残さず、生まれて、生きて、少し頑張り、やがては静かに消えていくべきなのでしょう。生きた証としては、二人程度の普通の子供を残せば、それで十分だとも考えています。

生きた痕跡を残さないと言う意味では、縄文人や弥生人などに学ぶところが大でしょう。彼らは、住居の柱穴や貝塚や土器の破片以外、ほとんど痕跡を残さないで静かに生きて、静かに消えていきました。私たちが消えてから千年後の子孫は何を目にするでしょうか。自然の川の所どころを堰き止めてしまった上に、砂で埋まって役に立たなくなったダムの残骸、鉄筋が腐食して危なくなって放置されたビル群、鉄橋部分が落ちて、橋脚だけが残った橋、誰も通らなくなってアスファルトの隙間から木が生えだした高規格林道などなど、千年前の反映の痕跡だけが残る、うら寂しくなる光景だけでしょう。今の時代、誰も1000年後の景観を考えて、インフラの建設を考える人は居ないでしょう。しかし、少なくとも100年後に残る姿程度までは想像を膨らましてみるべきでしょう。

戦後の闇雲な植林は別にして、それ以前の先人は、100年後の豊かな山林と、農業用水の涵養を夢見て、厳しい山仕事に耐えたはずです。その意味で、かなり以前にも書いたような気がしますが、アメリカの先住民の長が、物事の善悪を判断する基準は「7世代後の子孫の幸福」であったと言われています。少なくとも私たちが7世代前のご先祖様から受け継いだ環境は、出来るだけそのままの形で、子孫に引き渡す事が「現世代の責務」なのではないか。そのために生きるのが「善」ではないかなどと、このことを考えるときいつも同じ様な結論に至ります。

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2011年10月15日 (土)

1514 環ビジ84(淡水ビジネス)

1513で書いた淡水の確保ですが、これは立派な環境ビジネスになり得ます。何十年も、何百年も持続的に淡水を確保する技術は、今後どんなビジネスも増して重要視されるべきものです。B国やその他の先進国で行われている、地下深くのいわゆる化石水をポンプで汲み上げる灌水方法は、持続的ではないと言う理由で否定されなければなりません。では、どの様な方法が考えられるのかですが、先ずは途上国で普通に見られる「素掘りの用水路」は改善されるべきでしょう。四国ほどの面積があった、アラル海は、綿花の栽培拡大のための無計画な素掘りの用水路の建設によって、干上がってしまいました。たぶん粗い計画では、そうはなっていなかったのでしょうが、実際には用水路から地下に浸み出す水量が、約半分にも達し、それを補うためにより多くの水を、アムダリアとシルダリアの二つの大河から取水し続けたのでした。結果は、現在のアラル海は、真ん中あたりに塩分の非常に濃い水溜まりが残っただけで、チョウザメの豊かな漁場でもあったアラル海は消えました。一方中国の黄河では、これに工業用水の圧力が加わって、断流が頻発しています。

ではどうすべきですが、先ずはせっかく取水した用水を漏らさずに、ほぼそのままの量を、いかに農地まで導くかの知恵が必要です。先進国では、当然の事ながらコンクリートで固めますが、途上国ではそうもいきません。ならば、地下に浸みる水の量を減らすために、粒子の細かい粘度などで、シールするなどのビジネスが考えられます。5割の漏水を半分に出来れば、増えた水で新たな農地が灌漑できます。つまり、農地は現在の1.5倍に拡大できる勘定です。

淡水ビジネスに、海水の淡水化を挙げる向きがありますが、そのためには多大な石油エネルギーが必要であり現実的ではありません。精々、都市部の水道用としての可能性があるだけです。農業用水としては、穀物1トンの生産のためには、その数千倍の淡水が必要である事を忘れてはならないでしょう。

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2011年10月14日 (金)

1513 70億人時代

世界の人口が70億人に達したか、間もなく達する様です。途上国の多産、多死の傾向が続き、しかし前者が後者を大きく上回っている状況に変化が無い事を示しています。90年代半ばの人口が60億人程度だった事を考えれば、たった10数年で10億人も増えてしまった訳です。まだ60億に達していない時期だったと思いますが、もし世界中の人を1ヶ所に集めて、隙間が無い状態で立って貰ったとしたら、どのくらいの面積に入るかというトリビア話があったと思いますが、その時は、琵琶湖に何とか入ると言う結論だった様な気がします。意外に狭い面積だな、とその時は思いました。

この星でも、食糧と水を上手く分配すれば、何とか100億人くらいまでは暮らせるとは言われていますが、環境がそれを許すかについては大きな疑問符が付きます。環境が許すかどうかのボーダーラインは、結局はその環境が持続可能か否かに置かれます。環境が瞬間的に100億人を受け入れたとしても、その環境がどんどん悪化していけば、犠牲になる、いわゆる環境弱者が淘汰圧を受けざるを得ないでしょう。もろもろの環境悪化のトップには、水不足が来る事は明らかです。淡水が枯渇すれば、農業用水が確保できなくなり、食糧生産量が減少します。飢餓が世界規模で発生すれば、これは1-2年スパンの緊急事態になります。

淡水は、一方で氷河が長期間抱え込み、他方で森林が降雨を誘い涵養し、それが川となって平野を潤すのですが、両者とも確実に、しかも大規模に消滅を続けています。このまま、手をこまねいていると、間違いなく100億に達する前に、破局的な水飢饉が起こり、先進国が取り分を減らして分配しても、(物理的に食糧生産量を人口が超える事により発生する)本当の飢餓が襲来するでしょう。いま考えるべきは、景気回復や電力不足などの目先の問題ではなく、人工増加にどうやって歯止めを掛けるか、農業用の淡水をどうやって確保するかに最大限の知恵を使わなければならない時代ではあります。

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2011年10月13日 (木)

1512 体が脳を育てる

脳の話を出したついでに、最近耳に残った言葉で連想した事を書いておきましょう。私たちは、脳が指令を出して、例えば手足を動かしていると信じ込んでいます。しかし、脳みそそのものは「盲目の臓器」である事を忘れてはならないでしょう。脳は、目や耳や五感につながるネットワーク(神経線維)を持ってはいますが、それ自体に感覚器がある訳ではありません。脳が判断できるのは、結局のところ、五感から来る情報、とりわけ目からの情報がそのほとんどなのでしょうが、を取り入れて、どの様にリアクションを起こすかを判断する、灰色の臓器に過ぎないのです。

ポイントは、脳の可塑性は、外部からの情報によってのみ、影響を受けると言う点です。目や耳や、体中に張り巡らされた感覚器からの情報により、脳は初めてリアクション情報を発信できる訳です。脳は、もちろん生まれた時から情報を持ち、判断が出来る訳ではありません。感覚器からの情報を受け止め、自身の快を増し、不快を取り除くようにプログラムを修正していくしかない訳です。

その意味では、体は周囲環境と脳のインターフェースそのものであり、その体が脳をプログラムしているとの指摘は、的を射ています。その意味で、子供時代の運動や行動体験、とりわけその中での失敗経験を軽視すべきではなく、快と不快をできるだけ均等に、たっぷりと経験させるべきでしょう。不快だけを避けた経験は、明らかに脳の「歪なプログラム」につながるでしょう。最近の、子殺しや刹那的な殺傷事件などの暗いニュースを見聞きするにつけ、そのことを深く考えざるを得ません。快に慣れ過ぎた現代人に足りないのは、適当な不快経験であると言っておきます。

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2011年10月12日 (水)

1511 合理主義の限界

20世紀は科学の時代だったと言っても良いでしょう。実際には、その前の世紀から始まった潮流でした。科学は、物理や数学などの公理や定理や法則に従った合理的学問であり、一見誰にも否定しようがないようにも見えます。話題になった光速より早い粒子の存在も、今のところアインシュタインを否定するところまでは確かではありません。しかし、穴の無い様にも見える科学の合理性も、所詮は森羅万象に対して人間の頭の中で組み立てた、自然界への理解の一側面に過ぎない事は認めなければならないでしょう。人知を超える現象などは、実のことろ珍しくもなんともありません。一握りの土の中で蠢く、虫眼鏡でも見えない微生物たちの「生活」などは、「彼ら」の多くが特定・命名すらされていないものが殆どであることを考えれば、何も分かっていないとすら言えるでしょう。時々テレビの特集番組で扱われる、超常現象と呼ばれる殆どはカメラトリックやフィクションかも知れませんが、それでもその中のいくつかは、底の浅い科学では理解が出来ないが故に否定的に扱われている様な気もします。

つまりは、理窟で理解できない事は、合理主義の塊である脳みそにも理解が出来ませんから、存在しない事と同じになってしまうのです。環境問題に関しても、同じような事が言えます。環境とは、私たちを取り巻く自然界全体=森羅万象ですから、所詮はその全てを理解する事はできません。その証拠には、科学はいまだに人工の植物を作り出し、それが作り出す一握りのデンプンすら手にしてはいないのです。精々、遺伝子操作などの姑息な手段で、これまでとは少し性質の異なる「兄弟」を作る程度の技しか持っていません。

脳が合理的判断に従わないのは、非常に強い激情に襲われた時くらいでしょう。私たちは、しかしこの「完全ではない科学」を使って生きるしかできません。何故なら、ヒトは、正しいにせよ、間違っているにせよ、ほとんどの場合合理的な判断を下す能力しかない脳を与えられているからです。そうであれば、私たちは「科学が完全ではない」事を認めた上で、それを上手く使って生きていくしかないとの結論になります。

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2011年10月11日 (火)

1510 20世紀型技術の退場

Mツダのロータリー車が無くなるようです。バインケル博士の偉大なる発明も、その燃費の悪さやメンテナンスの特殊性から、歴史から消えようとしています。しかし、考えてみるとこれは20世紀型技術が見舞われる共通の運命の様な気がします。多くの20世紀型技術に共通するのは、強力で、巨大で、物質やエネルギーを実感できる事の様な気がします。コンパクトながら、ローターが1回転するうちに2回も爆発するバインケルオットーサイクルは、現状のクランク2回転で1回しか爆発できないエンジンに比べれば、1/4のコンパクトさで同じ出力が出せるのですから、まさに画期的なエンジンだったのです。

原発にも同じような特徴が見受けられます。燃料やLNGを中東からタンカーで運んで、日夜ボイラで燃やさなければならない火力発電所に比べ、一度燃料をチャージすれば、数年間も水を沸騰させ続ける事が出来る原発は、パワフルで夢のエネルギー源でした。しかし、その素性はと辿れば、それはMンハッタン計画という名の悪魔のプロジェクトに至る訳です。核の分裂を利用した原子爆弾というパンドラの箱を開けるに際して、私たちは見かけ上は、水と減速材を使った緩慢な熱核反応として抑え込む事に成功したかに見えましたが、じつはそれは幻想だった事が、「また」照明された訳です。

これらの20世紀型技術が、時を同じくして否定的な立場に追い込まれたことは、決して偶然ではないかも知れません。それは、これらの技術のいずれもが、「環境の永続的保全」という価値観に照らして、否定的に見られる事になったという、時代背景で理解されるでしょう。さて次に歴史から消える技術は何になるでしょうか。時期の予測はさておけば、予測は結構簡単です。それは、20世紀に入ってから急速に拡大した技術に注目すれば良い訳です。それは車かも知れませんし、航空機かも知れません。それが、発明され、使用が急拡大した時代を、時系列に従って直線上にプロットすれば、退場する順番のある程度は予測できるはずなのです。古くから登場した、自転車や形を変えた帆船などは、どの様な時代になっても残ると断言できます。

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2011年10月10日 (月)

1509 省エネ行動

この夏は、原発停止にともなう節電に振り回されたような気がします。発電量とピーク電力の予想は、毎時の様にニュースで流され、東日本では罰則付きの法律まで施行されて節電が叫ばれました。しかし、省エネ行動は電力削減だけに終始して、片手落ちというものでしょう。エネルギー資源をほとんど持たないこの国では、ほぼ100%のエネルギーが輸入されています。そのエネルギーを買う外貨を稼ぐためには、せっせと製品を作って海外に輸出しなければなりません。その製造にも多大なエネルギーを使っている事が、この夏の節電騒動で明らかにもなりました。業界によっては、労働日の曜日シフトによってピーク電力を平準化せざるを得なかった事でも分かります。

この節電の時代に、車をEVにシフトしようとする世の中の動きには納得できないものを感じます。石油を精製して燃料を絞り取ってそれで車を動かすか、その石油を燃やして発電した電力で車を動かすかを比べてみると、実は総合的なエネルギー効率では、ほとんど差が出ないのです。発電所では60%近くの熱(エネルギー)を捨てなければ発電できませんし、送電でも送電線で生ずるジュール熱によって遠くに送電するには、何割もの電力がロスされます。やっと届いた貴重な電力で、いくら効率が高いからと言って、車を動かすのが合理的か、と問われればやはり「NO」と答えざるを得ません。

必要な事は、工場や家庭での省エネ・節電に加えて、やはり輸送や車の使用に関しても、大幅な省エネを実現する必要があると言えるでしょう。そうでなければ、円高やそれに伴う景気後退で、ますます入りにくくなる外貨で買えるエネルギーも、食料事情もますます逼迫するからです。自転車か、太陽光発電で得られた電力で動く、ささやかな電動バイクくらいが、この国の日常の乗り物としては最適だとは思います。

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2011年10月 9日 (日)

1508 PCB

PCBはしばらく忘れていた物質です。この処理の現状についての講演会に出て、はっきりと思い出しました。昭和の40年代の終わりごろ、この物質が原因で数千人の中毒患者を出しました。この物質が、加熱タンクの熱媒体として使われていた食用油工場で、PCBが過熱コイルから漏れ出して油に混入したのが原因でした。Kネミ油症事件です。原因が特定された時には、既にこの物質が、電源トランスや、コンデンサー、水銀灯などの安定器などに絶縁油として広く使われていましたし、恐ろしい事には、日頃手に取るノーカーボン紙の類にまで使われていたのでした。毒性に関しては、それまでもそれなりに知られていたのでしょうが、大規模な中毒が無かったために無視されていたのでしょう。しかし、この事件で明らかになった人体への重大な毒性の影響は、この物質の非常に安定している化学的な性質故に、数十年たった今日まで続き、たぶん今後数十年まで続くとみられています。

高濃度の絶縁油とそれを使っている機器は、法律で厳しく管理する事を求めてはいますが、PCBという物質そのものを知らない世代の無知や、或いは故意で、年間数%が通常の廃棄物と混ぜられて廃棄されています。PCBは燃やされれば、排煙中のダイオキシンとなりますし、破砕され埋め立てられれば、破砕工場での従業員の吸入、埋め立てられたとしても機器からの漏えいによる地下水汚染などが懸念され、問題は後を引きます。

この物質の製造は既に大分以前に禁止されていますし、ある時期からは機器にも使われてはいませんが、5-6年前に新たな事実が判明しました。つまり、PCBが使われていた電機設備の製造工場で、PCBから無害な絶縁油への切り替え過程で、製造設備がPCBに汚染されたまま使われ、低濃度ながらその後も長くPCB汚染された機器が製造され続けたのでした。低濃度汚染の機器は、原液とはちがって管理された焼却炉で燃やす事はできますが、残念ながらこの種の施設は全国に4か所しかありません。一方で、まだ処理が進まない原液を含む機器や、低濃度汚染機器は、全国には数百万台残っていると言われ、今後何十年掛かるか想像もつきませんし、その間にどれほどが不法に廃棄されるかも分かりません。実際、PCBが使われていないはずの北極圏の生物が、かなりの程度PCBに汚染されていると言う事実も判明しています。これには、食物連鎖による生体内濃縮も深く関わっているはずです。最初にOCB合成に成功した、ドイツの化学者は、偉大な人なのでしょうが、とんでもない物質を作ってくれたものです。20世紀の残した恐ろしい「負の遺産」の一つです。

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2011年10月 8日 (土)

1507 いまどきF-1?

Sサーキットで久々のF-1が開催されるとか。エコでスマートが世界のキーワードとなった今、何か時代錯誤を感じるイベントです。1台のF-1車が、1レース中にドラム缶何本の燃料を焚くかは想像できませんが、数十台が走れば、半端ではない量の燃料が必要なのでしょう。高度成長期で、人々がイベントに飢えていた時代はさておき、若者の車離れが進んでいるいま、やはりこの種のイベントには、そろそろ終止符を打つべきだと思われます。

代わりに時代にふさわしいイベントを提案しておきましょう。それは、E-1とでも呼ぶ省エネカーレースです。1リッターで1000㎞以上も走らすマイレージカーレースは時々行われますが、この種のレースに出走する車は、時速20㎞程度のゆっくりしたスピードでトロトロと走るものなので、あまり実用的ではありません。しかし、E-1ではそれなりのスピードで走ります。何故なら、実用的な省エネカーの開発に当たっては、それなりの加速度やトップスピードも必要だからです。このレースで使うコースは、自動車教習所の様な大きさで十分でしょう。廃校になった教習所そのものでもOKです。

この中を、キビキビと最低タイム以内で車を走らせ、所要タイムを競います。もちろん、タイムは短い方がポイントは高いのですが、一方で燃料を多く消費した車には大きなペナルティが課されるため、基本的には燃費が勝負を左右します。このレースでは、詰まるところエンジンの燃費向上と同時に、徹底的な車体の軽量化が求められます。重たい車体では、加速時により多くの燃料を消費するからです。このレースに参加する事により、自動車メーカーの省エネエンジン技術と軽量化技術が徹底的に磨かれる事でしょう。その結果、例えば1リッターで50㎞以上走る(望ましくは100㎞ですが)実用的な車の開発が加速します。エネルギー資源を持たないこの国の、車メーカーはリッター当たり30㎞程度の燃費で満足してはならないのです。

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2011年10月 7日 (金)

1506 ポスト飽和曲線

1505で書いたのは、これから書く事の前ふりです。「変化は必ず飽和する」というのは、科学でも工学でも法則以前の「真理」です。飽和・安定しない変化を、発散とか、時には暴発などと呼びますが、それはカタストロフィックな変化を意味します。実例を挙げれば、物事の学習においても、脳の細胞数が有限である限り、やがて知識の詰め込みは飽和します。車のアクセルを目いっぱい踏み込んでも、有限なエンジンの出力と、増加する空気抵抗や路面抵抗と釣り合ったスピードで頭打ちになるでしょう。同様に、全ての経済活動の拡大も、やがて来る「飽和の時代」の一つの過程に過ぎません。

しかし、飽和曲線(単調な上に凸のカーブ)のその後についての議論も必要です。多くの人が指摘する様に、この国はかなり以前から飽和状態にある事を認めざるを得ないでしょう。人口は既に減少過程に入っていますし、今後経済規模を拡大できるような産業のテコもありません。超円高に背中を押されて、多くの企業が海外展開を進める中で、国内の空洞化も急加速される事でしょう。

そうであればこそ、私たちは飽和後の着地点を模索しなくてはならない時代に至ったと考えるべきでしょう。飽和曲線のピークを無理やり維持しようとあがけば、結果は、かつての歴史時代の大文明や航海時代の超大国がそうであった様に没落が待っているだけです。歴史が教える様に、無理な繁栄は、ある時期にピークを打ってから急激にシステムが上手く機能しなくなり、やがては全てがネガティブに動くようになります。それは、さながらボールを空に向かって投げた場合と同様に、放物線と描いて変化するはずです。投げ上げたボールはやがて地面に落ちる必然性を持っています。その様な事態を避けるためには、予めピーク時よりはかなり低いレベルに着地点を設定し、そこに向けて膨らんだバブルの中の空気を、ゆっくりゆっくり抜いていく努力が必要になります。その際に、決して「欲を書いてはならない」でしょう。1割や2割のケチなレベルダウンではなく、「先ずは半減」を狙うべきでしょう。モノやエネルギーの消費が丁度今の半分で、しかし大きな夢があった70年代、人々の幸福度は、実はピークを打っていたのかもしれません。あらゆる発動において変化が飽和した後は、マイナスの加速度で減速しながら、望ましいレベルまで活動を下げる「S字カーブ型の変化」に移行しなければ、残された道は「破局」しか残りません。

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2011年10月 6日 (木)

1505 変化の時代

20世紀は大戦を一つの区切りとして、特に後半は激変の時代でした。戦争で社会システムやインフラがご破算になった日本は、ある意味では古いシステムやインフラの制約が無くなり、高度成長には都合が良かったのかもしれません。戦後、食べ物にも事欠いた国民は、その後の40-50年で、ほとんどのモノを手に入れました。両手では数えきれないくらいの電化製品に囲まれ、一家で数台の車を乗り回し、田圃を潰して山を削って道路を巡らし、都会にニョキニョキと高層マンションを建て、大規模な郊外住宅団地の開発で狭いながらも我が家を手にし、食料の大半を輸入しながらその何割かを廃棄する食生活も実現し、結果としてはゴミの捨て場に困る社会を作ってきました。

その過程では、古くは各地で公害問題を引き起こし、開発による自然破壊を起こし、一時は年間数万人が事故で無くなる交通地獄も生み、果てはバブルとその崩壊の時代を通過し、しかしそれらをどうにか克服しながら、ここ20年にも及ぶ長い停滞の時代に入ったのでした。

変化の結果しか知らない若い世代はさておき、団塊の世代やその上の世代は、十分過ぎるほど変化を楽しみ、そのフルーツを手にしたとも言えます。不十分ながら、何とか暮らせる年金制度もあり、毎日ウォーキングや犬の散歩と新聞を嘗め回す事に費やす時間や、時々は旅行に出かける余裕も手にしたはずです。それは、近くの東海自然歩道を、黙々と歩き回る年配者や高齢者マークを貼りつけた車が、街であれ高速道路であれ、かなりの割合で走り回っている事からも分かります。しかし、変化のフルーツを手に入れた世代は、少なくとも負の財産(国の借金などです)を残したまま人生を終わってはならない、と改めて褌を締め直してもらいたいのです。もちろん、ポスト団塊世代の我々こそ、今踏ん張る必要があるのは言うまでもありませんが…。

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2011年10月 5日 (水)

1504 山津波

津波は広域の破壊を伴う恐ろしい自然現象ですが、近年は山津波(土石流)も随分増えたような気がします。実際、この夏も各地で多くの犠牲者を出したのでした。山津波の直接の原因は土壌の「深層崩壊」ですが、もちろんきっかけは短時間ながら集中的な豪雨です。地震による山津波はさておき、豪雨でこれまで崩れたことのなかった山が崩壊するのは、間違いなく雨水がこれまで直接届かなかった深層まで短時間に浸み込んでいくからですが、それだけ「時間当たりの雨量」が増えている事の証左でもあります。日本の「夏場の熱帯化現象」の一つとしての豪雨について、このブログでも再三書いてきましたが、山津波こそが結果として最も明確に顕われた現象かもしれません。

山津波増加のもう一つの原因としては、林床の保水力の低下が考えられます。針葉樹は常緑樹でもありますので、広葉樹異なり落ち葉の堆積が非常に少なくなります。結果として、林床は表土が露出して、豪雨時には表土の流出も激しいのです。少し溝になっている部分の表土が筋状に剥ぎ取られると、そこから地層の深い場所にまで雨水が浸透します。これが人口樹林帯で、山津波が多発する事態を招くと考えられます。いわば、山津波には人災の要素も含んでいるとも言えるのです。

その防止は容易ではありません。戦後連綿として禿山に針葉樹を植え続けてきたことが、実は環境的には正しくなかった事を認め、それらの間伐と同時に、針葉樹を植えて「混交林」に育て上げる必要があるからで、林業の担い手が殆ど居なくなった現在、打つ手も無い状態です。森林・環境税を本格的に導入して、「新たな林業」を起こすしか方法が無いのかもしれません。震災復興でお金が動くここ数年が、そのチャンスかもしれません。

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2011年10月 4日 (火)

1503 除染3

セシウムによる放射能汚染は、土壌の表面数センチに集中しているとか。例えば、それを5センチと仮定しましょう。つまりは、5センチの表土を除去しさえすれば、例えば放射能レベルを90%下げる事が出来ると言う事になります。これは手間とコストを掛け、取り除いた土を地下深くに埋める事が出来れば、計算上は一応可能です。

しかしながら、考えてみなければならないのは、そもそも土壌とは何かです。土壌は、単純に風化した岩石ではありません。僅か一握りの土の中に数十億もの微生物が蠢いているのが「土壌」だと言えます。土壌が堆積するには、例えば30センチの厚さになるまでには千年態度掛かると言われています。たった5センチでも百数十年掛かる計算です。この間、自然が持ち込んでくれた土壌に加えて、古の時代から連綿として客土などを行って、守ってきた土壌が、たった数基の原発事故で失われようとしています。

いま開発すべきは、土壌はそのままで土壌中のセシウムだけを除去する技術なのです。これは、例えば土を飲みこんで洗いながら、土壌中でセシウムと結びついている粘土より、セシウムとの親和性が高い物質に吸着させる機械です。これだと、セシウムを含む放射性廃棄物は最小限で済みますので、廃トンネルや廃坑などに埋め立てる事も容易です。物理的に表土の除去をする方法にしても、1年や2年で完了する規模ではない事は明らかなので、科学者や技術者の総力を挙げて、そのような技術を開発すべきでしょう。考えてみれば、そんなことはチェルノブイリ事故の時に、国際協力で確立しておかなければならなかったものでもあったはずです。チェルノブイリ事故は、結局のところ、当事国以外の国々は対岸の火事として見ていたと言う事なのでしょう。しかし、フクシマは間違いなく現実です。

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2011年10月 3日 (月)

1502 除染2

警戒準備地域の解除が発表されましたが、実際の復帰にはかなり時間が掛かる事が予想されます。理由は、一度崩壊したコミュニティや社会システムの復活には時間が掛かる事、何より放射能レベルの低下には、時間が掛かる事があります。とりわけ、放射性物質の除去(除染)には、気の遠くなるような時間と手間が必要となります。

放射能の人体に与える悪影響に関しては、事実上の「しきい値=上限(あるいは下限)」は設定されていません。どこまで高ければ人体に悪影響を与えるのか、どこまで下げれば安全なのか、誰にも正確な事は言えません。断片的なデータ、例えば原爆被爆地の統計的数字、チェルノブイリのデータや、国内の少数の放射線漏れ事故のデータなどで推測するしかありません。しかし、考えてみれば、放射線被ばくに関しての感受性は、たぶん人毎に大きく異なるはずなのです。何故なら、放射線被ばくという言う目で見れば、例えば宇宙線により被ばくは日常起こっているはずですし、航空機のパイロットや宇宙ステーションに滞在した宇宙飛行士は、通常の一桁か二桁高い放射線を浴びていると推測されるからです。にも拘わらず、これらの人たちの中に、例えば「放射線被ばくが原因」で起こるガンの発症率が、特に高くなったと言う疫学的データは無さそうです。

従って、除染に関しても「可能な限り下げる得る数値」を目標とせざるを得ません。それにも増して、放射能に最も敏感な人は誰なのかを特定する必要はあります。それらの判定が可能であれば、放射能レベルの高さに応じて、地域を住み分ける事も可能になります。結局のところ、放射能に対する感受性とは、放射線で傷つけられた遺伝子の修復能力を意味しますから、これは「遺伝的な要因」がかなり高いと想像できます。遺伝子検査で、それに関連する遺伝子が特定できれば、除染レベルや復帰に向けた緩和基準もかなり柔軟になると考えられます。

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2011年10月 2日 (日)

1501 新潟平野

結婚式に出るため、新潟まで行ってきました。ここで感じたのは、新潟平野の広大さです。西は、妙高・火打辺りから始まって、谷川岳、越後駒、北は飯豊山塊、朝日連峰に至るまで、連なる山並から流れ出る大小の河川が、長い年月をかけて、この広大な沖積平野を作ってきたのでしょうえ。その広さは、北ヨーロッパの田舎の風景にも似ています。新潟市から高速道を1時間飛ばしても、平野の西の端に届きません。北東方向も同じです。山と狭い平野の長野や岐阜の風景を見慣れた目には、やはり北海道と並んで、日本の中では異質な何かを感じさせる光景です。この平野は、今でも見渡す限り稲作が行われている田圃ですが、その中にかなりの割合の面積で、米以外の作物も作られている様でした。たぶん、大豆やイモ類だと思われます。

それにつけても、多くの食料を輸入しているこの国で、農業人口の激減に始まり、強制的な転作やその結果としての耕作放棄地の増加には、危機感を持たざるを得ません。耕作放棄地は、県によっては、既に10%をかなり超え、全国平均でも6%を超えていますが、それらのかなりの面積は、もはや耕作をすぐに再開できる状況にはなく(例えば森林の進出で耕作できない)、この数字が固定化する可能性が大です。一方で、住宅地の開発や道路の拡幅、新設で農地以外の目的で潰される面積をカウントすれば、耕作面積は既にピーク時の半分にまで減っている計算です。

広大で、豊かな新潟平野も、この国の人口のごく一部しか支えられません。この問題の本質を考える時、問題は植物に頼ってしか食料を手に入れる手段を持っていない事に思い至ります。植物を育てるには、十分に灌漑された土壌(農地)が必要、その農地がドンドン減っている事が、問題の中心でしょう。世界に目を向ければ、人工比の耕地面積は、年々歳々現象の一途をたどっている現実もあり、全ての産業に優先して、農業問題が議論されるべき時代に至ったと、広い新潟平野を走りながらボンヤリと考えていました。

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2011年9月29日 (木)

1500 環ビジ83(メンテナンス業)

省エネ指導で、種々の業種・業態の企業を回っていますが、「省エネの前にすべき事」がありそうな気がします。それは、計画的な設備メンテナンスです。一般的に、あらゆる設備について、ほぼ初期の性能を維持させるためには、毎年取得価格の3-5%のメンテナンス費用を掛ける必要があると言われています。1000万円の設備では30-50万円になりますので、一見高そうにも思える金額です。しかし、これには、潤滑油や消耗部品、日常のメンテナンスの工数(手間賃)、数年ごとの部分的分解点検・修理を含んだ金額の平均なので、決して高いとも言えないのです。

この時代、いわゆる修理屋はめっきり減りました。アフターサービスに修理依頼をすると、色々な一方で、金額を積み上げて修理費用の見積を膨らまし、「結局買った方が安いですよ」などと、顧客を丸め込み修理を嫌がる風潮もあります。それは、腕のいい修理スタッフが殆ど居なくなったこの時代、仕方がないのかもしれません。しかし、だからこそこれからの時代は、修理屋や腕の良い修理屋が貴重で、必要な時代になったのだ、とも言えるでしょう。修理が、喩え割高になるにしても、どう考えても新品を作る場合に比べれば、資源。エネルギー的に負荷が小さいのは当たり前です。例えば、小さなベアリングが痛んでも、機械は動かなくなりますが、軸や歯車を慎重に外し、軸受を交換して、グリスアップして組み立てれば、殆どの機械は新品同様に蘇ります。消耗した資源は、1個か2個のベアリングを作る資源とエネルギーと、少々の作業者の筋肉労働だけです。車は、世の中で使われている台数が多い事もあり、修理技術は維持されていて結構派手な事故車もきれいに直りますが、産業機械や家電品などについては、本当に修理屋が居なくなってしまったのです。これからの時代、修理屋(メンテナンス業)こそこれからの時代に絶対必要であり、しかも右肩上がりの市場拡大が期待できる、数少ない分野だと確信しています。

明日から小旅行のため数日間休稿です。

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2011年9月28日 (水)

1499 湿度考

省エネ研修会で、湿度と体感温度の関係を体感する実習を行いました。ミスナールの式により、理窟では理解していたつもりでしたが、狭い部屋に加湿器2台を持ち込んで、実験した結果は想像以上に劇的でした。実験前は、室温が30℃程度はありましたが、湿度が45%程度しかなかったため、「カラッとした暑さ」でした。そこで、2台の加湿器を作動させ、湿度を上げ始めてみました。効果はテキメンで、湿度が10%程度(つまりは55%程度)になっただけで、同じ温度でありながら、かなりムッとする感じに変わりました。さらに湿度を上げて、65%までなると、その部屋はもうサウナ状態になり、事務仕事でさえも続けられない状態まで激変したのでした。

WBGT計で計ると、3℃以上の上昇を示していたので、湿度の10%の変化は、体感温度ではざっと1.5℃程度の変化に相当する事が「体感」できました。そういう目で見ると、現在市販されているエアコンは、確かに気温は下げたり上げたりしてはくれますが、湿度は気温を下げた結果として(凝縮水になって排出されて)変わるのであり、機械が調節してくれているわけではありません。体感温度は、気温、湿度、輻射温度を主なファクターとして変化しますので、湿度や輻射(夏場は窓や壁や天井から来る熱気)を無視したエアコンは、片手落ちどころか1/3しかコントロールしていないとも言えそうです。

湿度だけコントロールする「デシカント冷房」という考え方がありますが、例えばこのデシカントエアコンで20%湿度を下げると、体感温度で3℃下げたのと同じ効果が得られて、しかも太陽熱を併用すればほとんどエネルギーを使わないでこれが達成できます。上の実験でも分かるように、たとえ気温が30℃でも、湿度が低くカラッとさえしていれば、何もたくさんのエネルギーを消費する今のスタイルのエアコンを動かさなくても、結構快適な室内環境が得られるのです。

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2011年9月27日 (火)

1498 物納

増税論議が盛んです。やれ、増税すれば景気回復が遅れる、やれツケを次世代に回すな、やれ増税は減税とのセットで、などなど。しかし、全てをお金の問題に還元して議論する事には賛成できません。巨額の財政赤字と復興財源を考えれば、いずれにしてもかなりの程度の増税は避けられない話なのですが、考えてみれば物納という手もあるはずなのです。メーカーであれば、復興に資する製品を作って国庫に納入する、サービス業であれば、復興に直接資するサービスを提供する、消費者も被災地の産品を購入する事で、増税分の税金を納めるなどの方法、それもできない人や体力の余っている人は直接的な労働奉仕で払う、などが考えられます。つまり、増税が「直接被災地復興」に向かう事が明確でさえあれば、納税者は納得できるでしょうし、ましてや納めやすい物納であれば、収税も進む事でしょう。

今の様に、税金をお金として集める限りは、お金は一度「訳の分からない金庫」に吸い込まれてから、訳の分からない政策に沿って、訳の分からない目的でお金がばらまかれます。役人は役人で、前年の実績(=既得権)を強調しながら、出来るだけ支出の内訳が分からない様に税金を使う「例のテクニック」を駆使しますので、結果的には税金の一部しか被災復興に向かわない恐れがあります。

お金には色が着けられませんが、物納であれば目で確認できるはずです。裏金を見かけ上きれいにするマネーロンダリングという手法もありますが、「タックスロンダリング」も分かりにくいと言う点では、五十歩百歩でしょう。そうではなくて、人々は、自分が払った税金が、直接的に復興に使われる流れを確認したいはずなので、それを目に見える形にするのが、税金を集める側の責務だとは思います。

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2011年9月26日 (月)

1497 ホタルガ

ここ数日、歩いたり自転車で移動したりしている時に、黒くて、小さくて、羽に白い筋がある蝶を良く見かけます。昼間に飛んでいるのでてっきり蝶だと思ってネット図鑑で調べてみても見つかりません。しかし止まっている姿を見て納得しました。それは蝶ではなく蛾だったのです。蝶は羽を上に合わせて閉じますが、蛾は体に沿わせて後ろに畳むという大きな違いは、虫マニアでなくても常識です。もちろん、大分類で言えば蛾も「蝶目」なので、大差ありませんが…。気になるのは、今この季節に何故同時に多くの個体が羽化するのかという点です。この種では春先にも羽化のピークがある様ですが、秋には蝶や蛾の数が減るので、とにかく良く目立ちます。目立つという事は、天敵である鳥にも捕食されやすいと言う事を意味します。

ところで、ホタルガの名前の由来は、とまっている姿がホタルに似ているからの様です。蛍は、捕食されると強い臭いを出すので、鳥からは敬遠される様なのですが、ホタルガはそれを利用して鳥から逃れているのかもしれません。いわゆる擬態です。もう一つ、秋になると猛烈な食欲を持つ南からの渡り鳥がそろそろ帰り始め、危険も減ってくるので、涼しくなり始めてから出現する方が、生存に有利なのかもしれません。たぶん羽化のきっかけは、台風一過で急激に下がってしまった気温なのかもしれません。

いずれにしても、小型でヒラヒラ愛らしく飛ぶ、黒くて白筋の入ったこの蛾は、頭の中の図鑑にインプットされましたので、今後道で会った時には「挨拶」が出来そうです。

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2011年9月25日 (日)

1496 国境2

国境がお金の洪水を防ぐ堤防として最早その役割を果たせない今、一民に出来る事は限られてはいますが、何もできない訳ではありません。例えば、ある時期に流行ったキャッチフレーズが少しは役に立つかもしれません。それは、Buy Japanese.といった、国産品購買の奨励です。もちろんこの時は、輸入相手国からのしっぺ返しを覚悟しなければならないでしょう。ですから、これは誰にも内緒で、密かに、しかしジワジワと進める必要がある「作戦」ではあります。

もう一つは、食料やエネルギーにおいて、その自給率を高める行動が考えられます。半分を大きく超える率の食料を輸入し、ほぼ全てのエネルギー資源を輸入に頼っているこの国では、20世紀型のお金の流れが狂ってしまっては、もはや国の存続も叶いません。モノを輸出して外貨を手に入れなければ、食料もエネルギーも手に入らないからです。自給率が上がれば、海外に売らなければならないモノの量も少し減ります。国内に産業が育ち、食料やエネルギーのセキュリティも向上するでしょう。これを、キャッチフレーズ的に言うならば、Support ourselves.とでもなるのでしょうか。自分たち自身の食料やエネルギーは、やはりある程度以上は自分たちで支える必要があると思うのです。

取り敢えずは、狭くても庭がある家では、例外なく1坪でも良いので畑を作り、それが無いマンション住まいでも、ベランダに所狭しとプランターを並べて野菜や作物を作りましょう。太陽光発電パネルが買えない家でも、最低でも屋根には太陽熱温水器を載せて、ガスの使用量を半分にしましょう。家庭内の電化製品を見直して、その数を半分にしてみましょう。これだけで、食料の自給率もエネルギーの自給率も、5-10%は改善するはずです。お金の洪水の勢いも、僅かですが弱まる事でしょう。そんな行動を、50年も続ければ、この国も社会も随分変貌すると思うのです。それは、実は20世紀の後半を通じ行ってきた行動の「逆回し」に他ならないのですが・・・。

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2011年9月24日 (土)

1495 国境

当たり前の事ながら、国には国境がありますが、一方お金には国境がありません。もちろん地域通貨だけが流通している限りは、その通貨は(法を犯さない限りにおいては)国境を越えられないのですが、それでは国際貿易は成り立たないので、いわゆる国際通貨が何らかの形で決まってくる事になります。20世紀を通じては、B国の力があらゆる側面で強かった事もあり$がその地位に君臨してきました。EU統合後は€も一部その地位を奪ってきたのでしょう。その結果、あらゆる製品や産物は、事実上自由に国境を越えて取引され、その代価としての国際通貨も自由に往来できたのでした。

しかし、今や実際の取引で動く通貨量に比べ、債権や為替取引という形で国を超えて動く、目に見えない電子マネーの量が、たぶん何桁も多くなってしまったのです。電子マネーが、実質的な通貨の価値を激しく揺さぶり、通貨比較の物差しでもある為替レートを激しく揺さぶります。その影響は、小さな小石で引き起こされた波紋(地域の小さな経済ニュース)が、ネットに乗って瞬く間に世界中に広がる間に、何倍にも「増幅」されます。

国境に塀やバリケードで関門を設ける事はできますが、お金や、まして電子マネーは今やほぼ完全にボーダレスであり、その波紋や洪水を防ぐ事は事実上できない状態です。その意味で、もはやお金は「Tsunami状態」にあるとも言えるかもしれません。その波高は、実のところ年々歳々高くなっている事は間違いないでしょう。何故なら、全通貨量は信じられない勢いで膨張を続けているからです。その額は、もやは「兆」などという単位ではカウントできず、一つ上の「京」など言う単位を持ち出さないと数える事さえできません。しかし、国家予算である「兆」単位なら何となく想像はできますが、それ以上の単位になると、人は数字としては認識できず、アナログ的に「非常に大きな額」としか認識できなくなります。したがって、認識・把握できないその量をコントロールする事も、もはや叶わない相談になります。今の状況は、世界の国々がマネーという「混沌の海」に漂っていると言う喩えが最も近いのかも知れません。ではどうすれば良いのか。続きます。

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2011年9月23日 (金)

1494 彼岸花

春秋に毎年感じる事ですが、彼岸花が季節を感ずるセンサーの巧妙さに感嘆します。想像するに、気温ではなく夜昼の長さを感知しているのでしょうが、それにしてもこの季節、昼の長さ(夜の長さ)の変化率は、精々1日に数分程度しかない筈です。その数分を計り、ほぼ等しくなる直前に、急速に蕾を冠した茎を伸ばし、花を咲かせる訳です。

植物は日中に光合成を行い、例えばデンプンを作って根に蓄えます。反対に、夜はそのデンプンを分解する暗反応が進むのでしょうが、その差をどの様に感知しているかはやはり謎ですが、案外単純なのかもしれません。つまり、夏の間はデンプンが根に蓄積し、秋になるとそのデンプンの分解が進む結果、根に残っているデンプンの量が単純に、開花のスイッチを入れているとも考えられます。もちろん植物がデジタル時計を持っているはずもありませんので、単純な物理量のバランスが指標としては確実だと想像しています。そういえば、アサガオも昼の長さが11時間以上になると、日没後10時間後(つまりは早朝)に開花すると言う話を聞いた覚えがあります。これも、やはり葉の光合成と、夜の暗反応のバランスが開花信号を送っている様です。

こんな事をあれこれ考えているのは、結局のところ、菊の様に電照で開花時期をコントロールして、出荷時期を調整する農業者の工夫をまねて、LED照明などで、葉がまだ日中だ、或いはまだ夏だと勘違いするシグナルを送り、光合成をより多くする工夫が出来ないものかと、ある時思いついたからです。ただし、電照菊の様に、多量の電力を使う方法ではなく、最少のエネルギーで最大の収量を挙げる事が目的なので、植物を「勘違いさせる更なる工夫」が必要でしょう。例えば、光合成は行えないまでも、昼に合成したデンプンを消費する暗反応を抑制する波長と光量の光を当てるなどの工夫です。

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2011年9月22日 (木)

1493 グリーンエネルギー2

グリーンエネルギー(再生可能エネルギー)に関しては、その追い風がますます強まってきています。もちろんそれを後押ししているのは、言うまでもなく原発事故による、エネルギー政策の破たん=需給ひっ迫による行き詰まりです。しかしながら、今のところ国としては、エネルギーシフトについては言葉だけで煽っている状態に留まっている様に見えます。グリーンエネルギーの固定買い取り制度も、今のところそよ風程度にしか作用していない様な気がします。

それは、市場の形成が未熟である事によるところに大きな原因があると言えるでしょう。つまり、十分な取引価格や取引規模が期待できる市場さえ確立されれば、企業が放っておくはずがないと思うからです。市場とは、結局「お金が上手く回る仕組み」の事ですから、企業が参入する条件としては、補助金が無くてもそれなりの利益が生まれる取引量が必要です。最初は、税金を投入しても構わないので(というより積極的に投入すべきですが)、びっくりするくらい高いレベルの取引価格が必要なのです。ヨーロッパでは、電力買い取りの4倍程度の売り渡し価格が設定されました。この価格設定は、つまりはインセンティブなのですが、もちろん市場が拡大するにつれて、この価格差は徐々に縮小されるべきでしょう。そうでなければ、税金を無駄使いする事につながるからです。

さて、問題は中小企業経営者の本気度です。超円高の長期化によって、彼らの事業へのマインドは冷え切っている様にも見えます。そうではなくて、地域でエネルギーを起こして、地域で売る、いわゆるエネルギーの地産地消は、決してトレンドではなくて、「必然」だと認識すべきなのです。超円高で、ガソリンなど見かけのエネルギー価格は確かに下がっていますが、結局内需を喚起できないでグズグズ進む結果、このまま輸出が細れば、最終的には企業は工場を畳むしかないからです。まだ体力がある内、銀行がお金を貸してくれるムードが強いうちに、ぜひ起業すべきでしょう。

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2011年9月21日 (水)

1492 台風

昨晩は目の前の木曽川が溢れそうでした。今朝はその時よりは2m位下がったようですが・・・。さて、今回の最初は小粒であった台風16号が、何故ここまで強力になったかですが、一にも二にも日本近海の海水温上昇に原因がありそうです。沖縄近海で、長い間とどまっている間にたっぷりと湿って暖かい雲を身にまとってから、おもむろに踵を返して本州に向かってきたのでした。この台風は、2000年の東海豪雨を思い出させます。あの時も、名古屋市内を流れるいくつかの川が溢れて、大きな水害を起こしました。北側に停滞する秋雨前線に、台風からの湿った気流が長い間入り続け、大水害を引き起こしたのでした。

日本近海の海水温度が上昇しているのは事実です。沖縄近海でも、海水温の上昇の結果、サンゴの白化が起こっている様で、サンゴの白化は海水温の平均値で1℃以上の上昇で報告されていますので、これを裏付けています。このような、環境変化の指標を「生物指標」と呼びますが、同じような生物指標があるかも知れないので、気を付けてウォッチしています。例えば、海水温で言えばプランクトン相の変化など、地上で言えばダニ相の変化などが考えられます。しかし、これらの分野は「地味」なので人気が無く、したがって研究者も少ないため、手に入るデータも限定的な点に悩みがあります。

さて、台風は紀伊半島をかすめて本州直撃コースを進んでいますが、スピードを上げてできるだけ短時間で通過する事を願うばかりです。

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2011年9月20日 (火)

1491 東北ミニ紀行

今日から「ハーネス」に戻りました。仕事を貰ったついでに、バイクで東北を走り回ってきました。ガソリンを60リットルばかり焚きましたので、環境にはあまり優しくない行動です。秋田での仕事を終え、日曜日朝に走り出しました。あいにくの雨模様でしたが、南に走るにつれて晴れてきました。山を越えて岩手県に入ると、高速道路に所々段差を補修した跡が見え始めました。この日は山形まで入る予定を立てていたので、先ずは津波の被害を自分の目で見ておきたいと思い三陸海岸を目指しました。あまり北に入ると遅くなるので、一番南の石巻に入る事にしました。石巻の手前20㎞位から、空き地には瓦礫の山が築かれ、小規模な仮設住宅も点在し始めます。新市街に入ると、街の様子は全くの日常に見えました。ショッピングセンターや外食店は、日曜日でもあり何処も賑わっている様に見えました。しかし、一歩海岸に近い旧市街に入ると、まだ津波の爪痕を残したままでした。商店は流されていないまでも、2階まで水につかり、手つかずのまま放置されています。信号機は、まだ完全には復旧していないので、辻つじに警官が立って手信号で整理しています。たぶん、この地域は地盤が沈下している事もあり、再開発予定か何かの都合で、復旧が始まっていないのかもしれません。満潮でもないのに、市街地レベル比べ、かなり高いと感じました。川に近い駐車場には、土嚢が高く積まれてもいました。牡鹿半島に守られた石巻でさえこの姿なので、湾口が太平洋に口を開けている、三陸海岸の多くの町々の被害を改めて想像しました。

街の中心に近い高台の日和山公園は、既に「観光地化」していました。つまり、ここに登れば、市街が見渡せて、津波の被害も一目瞭然なのです。観光バスを仕立てて、学生らしき団体や年配者のツアーバスが、何台も狭い頂上の駐車場にひしめいていました。一人で来たとはいえ、彼らとあまり変わらない立場なので、海岸側の何もない旧市街地を確認して、早々に山を降りました。その後松島を見ながら南下しましたが、こちらも海水に洗われたのでしょうが、見た目は島々の松は学生時代に自転車で走った時に見たままで、道路も渋滞が生ずるほど観光客が戻ってきている様で、やや安心しました。仙台市内はバイパスして、山形(蔵王)に向かいましたが、内陸部も道路はかなり被害を受けていて、地震の強大なパワーを感じました。

海岸部の被害を、完全に「復旧」させようとすれば、市街地全部を1m程度土盛りしてから、再建しなければならない訳で、気の遠くなるような歳月(例えば10年から20年)が必要かも知れないとも感じました。仕方がないので、先ずは腰を据えて、しっかりと長期の青写真を描きながらボチボチと戻していくしかないのでしょうが、当面コミュニティを仮の姿で維持しながら、本来の形に戻していくしかないとも思いました。コミュニティは一度崩壊すると、建物やインフラの再建以上に、その修復が困難だからです。先ずは、三陸産の魚介類や産物をできるだけ多く食べる事など、長続きする日常行動でこの地域を支援しようと考えました

さてその後は、山+温泉モードに入ったので、ここでは省略します。

 

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2011年9月15日 (木)

休稿

出張のため数日間休稿です。

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2011年9月14日 (水)

1490 グリーンエネルギー

グリーン原料を使ったグリーン産業のエネルギー源は、言うまでもなくグリーンエネルギーでなければなりません。電力に色を付けられない限り、原発や火力発電所で作られた電力に、僅かばかりのグリーン電力を混ぜたものを使うわけにはいかないでしょう。望ましくは、グリーン産業を興す地域で、その産業に使うエネルギーを調達したいものです。とはいいながら、グリーンエネルギーは必ずしもグリーン電力は意味しません。産業活動には、電力の他に熱エネルギーや機械エネルギーも同時に必要ですので、工夫をすれば、地元調達の可能性も広がるはずなのです。熱エネルギーについて言えば、バイオマス自身が熱源になってくれるでしょう。つまりは薪炭です。これを、現代の技術でスマートに燃やせば、ありふれた重油ボイラと同等の使い勝手で利用できるはずです。

機械的エネルギーについては、小水力や場合によっては風力、ソーラータワーとタービンとの組合せによる太陽熱も併せ技で使いたいものです。短時間・小規模であれば、人力や畜力も考えられるかもしれません。グリーン原料は、グリーンエネルギーと組み合わせてこそ、その意味があると言えるからです。

グリーンエネルギーの大元は、もちろん太陽光です。太陽熱と、太陽光と、太陽光発電を上手く組み合わせて、グリーン産業のエネルギー源とするためには、何もハイテクが必要な訳ではありません。むしろ、例えば江戸時代などの先人の知恵に、現代の技術を組み合わせるだけで勝負できるとみています。そのためには、絶対に必要なエネルギーを吟味しつつ、それを必要なタイミングで、必要なだけ生み出すことが求められるだけです。

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2011年9月13日 (火)

1489 グリーン原料

持続可能な産業の原料として、想定されるのは、植物(生物)が作り出す資源(バイオマス)です。これは、土壌+水があって適当な温度(望ましくは平均15℃程度)があって、太陽光が降り注いでいる限り、持続可能に生産され続けます。したがって、人間がこの条件をぶち壊さない限りにおいては、100年後も1000年後も持続可能性の点では、文句はつけようがありません。したがって、グリーン原料と呼ぶ事が出来るでしょう。空気(酸素や窒素や炭酸ガス)水も、それを汚さないで、環境に戻す限りにおいては、グリーン原料と呼べるでしょう。

しかし、これ以外の原料は、実のところ使えば減る(無くなる)原料だと考えるしかありません。しかし、これらは物質として地上から消えて無くなる訳ではありませんので、もしこれらの資源を、純度を劣化させる事なしにリサイクル可能であるならば、それもグリーン原料と呼べるかもしれません。しかし、これは非常に困難を伴う技術と呼ぶしかありません。例えば、資源としての金と銅があるとします。しかしこれを色々な割合で合金する事は容易ですが、逆に合金された金銅を、純粋な金と銅に分離する事は至難の技だと言えるでしょう。それは、さながら間違って混ぜてしまった、砂糖と塩を分離しようとする努力にも似ています。砂糖と塩ならどちらも調味料で、水に溶けるので、まだ分離方法は工夫できる可能性もありますが、では砂糖と石灰ならどうでしょう。

いずれにしても、バイオマス以外の原料は、100%完全なるリサイクル技術が確立されている場合以外は、やはり消耗資源でしかありません。とは言いながら、バイオマスは原料としてはほぼ水と空気から作られる物質でありながら、その膨大な賦存量と多様なバリエーションには、感動するしかないでしょう。例えば、植物は炭化水素とタンパク質(アミノ酸)など単純な物質を使いながら、信じられない種類の物質を生み出しています。木材に限っても、主なものだけでもセルロース、リグニン、ヘミセルロース、タンニンなどなどがありますが、驚くべき事にそれらは樹種毎に組成が微妙に異なっているのです。しかも、その複製(再生産)仕組みは、それ自身の中にあるDNAに完全にプログラムされている訳です。

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2011年9月12日 (月)

1488 何で食う

新しい産業興しが必要だと以前から思っています。しかし、これまでの国や企業のR&Dの動きは、例えばITや航空宇宙や、ナノテクなど、いわゆるハイテクと呼ばれる分野の技術をテコにして、新たな製品を作り出す、非常に偏ったものだった様な気がします。例えば、航空宇宙産業はスペースシャトルを生み出し、宇宙ステーションに人を滞在させる程度までには技術を高めましたが、しかしそれが単に、無重力に植物の種を保管して地上での発芽の影響を見る、無重力下で骨の脱灰(骨粗鬆)の進行を観察する、地上と交信して子供たちの夢を掻き立てる、或いは自分に聴診器を当てて、遠隔診断を可能にする程度の実験に留まるのであれば、即刻プログラムを中止していただき、そのお金はぜひ震災復興に振り向けたいものです。ましてや、スペースシャトルや宇宙ステーションの製造技術から、新しい民生向けの製品が生まれたと言う話をついぞ聞いたことがありません。多額の税金は、何を生み出すために費やされたのでしょうか。

そうではなくて(技術先行ではなくて)、ニーズ先行で、しかも今後数百年を見越しても、持続可能性の高い製品を、知恵と工夫とアイデアを使って、育て上げなければならない時代だと思うのです。ニーズには、しかし根源的な(衣食住に関するもの)と、やや或いは非常に贅沢なニーズ(我儘に近いもの)がある事には注意する必要があります。好きな時に、好きな場所に移動したいと言うニーズは、どの様に考えてもやや贅沢で我儘に近いと思われます。そのニーズを充足させるための製品、例えば車は決して根源的なニーズに基づいた製品であるとは言えません。

では、今後必要な新しい産業とはどのようなものになるのかですが、それは兎にも角にも、先ずは身近で手に入る持続可能な資源を使って、日々の生活に密着した高いレベルのニーズに基づいた製品を生み出す産業という言い方になります。具体的に言えば、日々の衣食住を思い返し、それらを支える製品、商品がどの様に資源とエネルギーの無駄の生みながら作られたかを想像すれば、それを回避するための新たな産業にも思い至るはずです。間違いなく、それらは多様で、かつ小規模である必然性もあるので、それらを興すにそれほど高いハードルも存在しないでしょう。続きます。

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2011年9月 9日 (金)

1487 数値目標

省エネでも、その他の企業目標でも、数値目標を立てるのは日常行われている事ですが、残念ながら肝心の数値自体の計測は、ほとんど行われていないのが実情でしょう。例えば、ある企業が電力削減の数値目標を立てたとしましょう。しかし、その評価は精々月々の電力会社の請求書から、使った電力を管理表に書き写すのが、担当者の仕事で、経営者はそれを眺めて、先月はまだ削減が足りないと、工場長を呼びつけて小言を言って終わる事でしょう。

そうではなくて、数値目標を立てるからには、最低でもその数値を自前で計測できなくてはならないと思うのです。電力計は、最近便利な小道具が安く手に入る様になりました。Oムロン社などが出している、電力量をメモリーカードにも記録できる掌サイズのモノがお勧めです。これをパソコンに取り込めば、時間的な変化やピークや平均値が、何の苦労も無しにグラフ化(見える化)できます。ピークを下げれば、直ちに契約電力量も下がり、月々の基本料金も下がります。平均値を下げるためには、系統別の電力量を1週間単位で、計測しそれを重ねあわせれば、概略ですが系統別(設備別)の電力の切り分けが出来ます。切り分けさえできれば、割合の大きな部分に焦点を当てた省エネが出来易くなるので、得られる効果も大きくなります。

しかし、もし節電努力が単に「昼休みはできるだけ消灯しよう」とか、「冷房温度は28℃で控えめにしよう」など言う(標語)目標を、目標として掲げている限り、その企業の省エネは何年たっても進まないはずです。その目標が数値である限り、出来ればリアルタイムで、それが出来なければ可能な限り短い時間単位、設備単位で、計測できなければ、目標値は単に掛け声に過ぎなくなります。多くの設備には、温度計などの計器は付属しているでしょうから、追加で流量(あるいは電流値)さえ読み出せれば、エネルギーの定量評価は容易にできるのです。10日、11日は旅行不在につきアップはありません。

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2011年9月 8日 (木)

1486 経験値

ヒトは幸いにも進化の過程で優秀な頭脳を授かりましたが、残念ながらその脳の想像力の及ぶところは、自分の経験の及ぶ範囲に限定されます。それを補うのが、先人が残した膨大な書籍や、近現代の論文や文献ですが、それらは逆に膨大過ぎて、多くの人はその存在すら知らずに日常を暮らし、死んでいきます。書いてある経験を書物から引き出すのは、大変な時間が掛かる作業なので、例えば災害や事故が起こった場合に、直ちに打つべき対策を、書物や文献に問うていてはとても間に合いません。その意味では、多くの書物や文献は、死にそうな(あるいはあまり活きが良くない)知識だと言えます。そうであればなおの事、今生きている世代から、少なくとも次の世代へは、口伝でも「生きた経験」や知恵を引き継いでいく必要があります。

その経験の深さは別にしても、一度経験をしておけば、それに似た新たな事態に対しては、パニックになる事なしに対応が可能となります。この国の不幸は、小さな放射能拡散を含む原発事故が殆ど起こらなかった結果、今回の大事故に際して、非常事態への対応がお粗末だった事にあるのかもしれません。というよりも、事の重大さの認識が弱かったと言い直しておきましょう。小さな経験は、大きな異常事態のシビアリティの見積を容易にします。地震に対しては、この国の国民は、ほぼ十分な経験を持ち、対応可能でしょう。しかし、津波や甚大な原発事故に対しては、その事態の重大さを見積る「物差し」をほとんど誰も持ち合わせていなかったと言えます。

経験や経験値は、非常事態の大まかな見積には非常に大切ですが、残念ながら今後に関しては、悲観しています。多くの人々は、テレビやネットや書物で、多くの事を「経験した積もり」の状態で満足しているからです。経験は、その場に居て、五感や第六感も総動員して、体で感じなければ完了する事はできません。脳は、体からの五感情報でしか事態を判断できない「灰色の盲目の臓器」であることを忘れてはならないでしょう。

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2011年9月 7日 (水)

1485 除染

原子炉からの放射能放出のリスクも一段落したように見える昨今、既に放出されてしまった放射性物質の除染が本格的な議論になってきました。除染とは文字通り、例えば汚染された土壌から、放射性物質を分離して、放射線のレベルを下げる事ですが、言うは易くて、実行は非常に困難な作業だと言えます。何より、放射線を出している物質は目で確認する事はできませんので、計器で計りながらレベルの高低を判別しながらの作業になるでしょうし、土壌ではその汚染レベルが土の深さ方向に大きく変化していますので、どこまで取り除けば「本当に安全」かの判断も難しいからです。直感的にも分かるように、モノをまき散らすのは非常に簡単ですが、一度散乱したものを、純粋にかき集めるのは非常に困難です。

急いで開発しなければならないのは、新たな除染技術です。既にいくつかのアイデアや実験は始まっていますが、十分ではありません。何は無くとも国や東電が音頭を取って、研究機関や大学や企業に、ニンジンをぶら下げて技術開発を促進させなければならないでしょう。分離技術には、いくつかのパターンが考えられますが、原理はそれほど多くはありません。土壌の場合、実用的には、放射性物質を多く含んでいる粘土層を水中で比重差などを利用して分離する方法、或いは放射性セシウムなどの汚染物質を、酸などで化学的に処理し、親和性の高い物質と結合させて分離するなどの方法しか思い当りません。

加えて、取り除いた結果、逆にレベルが高くなってしまった放射性物質の処理方法の確立も必要です。方法としては埋め立てくらいしかないのでしょうが、大量の土砂を長期間安定的に埋め立てる技術は、新たに開発しなければならないでしょう。この国には、残念ながら人里か遠く離れた、例えば砂漠などのスペースは存在しません。そうであれば、その技術はできるだけ深くて大きな穴を、出来るだけ安価に掘る技術になる筈です。しかし、その埋立地近くに住む人たちからは、強い反対も受けるでしょうから、多くの人が納得できる合理的説明が出来るシステムでなければならない点、ハード面以外に更なる工夫も必要です。立坑よりは、掘りやすい水平トンネル方式が現実的でしょう。日本には多くのトンネルボーリングマシンもあるでしょうし、技術の蓄積も豊富ですから…。

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2011年9月 6日 (火)

1484 食べ物と絆

衣食住とはよく言ったもので、とりわけ食の重要性については改めて強調するまでもありません。それにしても、今回の震災や原発事故後ほど、食料の供給や安全について、生産者と消費者の関係について、真剣に議論された事はかつてなかった様な気がします。確かに、カビ米や食中毒菌や狂牛病などの病原菌などで食糧が汚染され、しばらくの間マスコミを賑わした事は何度もありましたが、取り敢えずそれらは影響の及ぶ範囲が限定的で、原因となった食品を廃棄すれば事態は収拾できたのでした。

しかし、低濃度で放射能汚染された食料は、その「しきい値=安全性の限度」が必ずしも明確ではない事もあり、しかもその影響が非常に長期に亘る事が確実な事もあり、影響の及ぶ範囲や期間の限定が事実上存在しない種類の汚染だと言えます。極端な例を挙げれば、1950年代や60年代に大国がこぞって行った、大気中での原水爆実験で放出された放射性物質は、いまだに自然の放射能レベル(バックグラウンド)を僅かながら押し上げていると言う事実もあります。

さて。この時代、農家と消費者の絆は「流通業者」によって分断されていると言って良いのかもしれません。一部、産直の食糧を拡大する動きはあるにしても、ほぼ全ての食料は、大小のスーパーマーケットやSCで購入されているはずです。食品パックの裏側に、国産か輸入か程度は表示されているにしても、それらはホンの参考情報に過ぎません。その意味で、事実上多くの食品のトレーサビリティは、流通業者によって切られてしまっていると言っても過言ではありません。もし、全ての食品のトレースを行おうとすれば、予め山地で食べても無害な微小ICチップを食品に埋め込んでおいて、スキャナーでそれを読み取ってから購入するしかなさそうです。それとて、悪用しようと考える輩が居れば、簡単に切れてしまう絆であるとも言えます。結局、私たちは自分が自転車で行ける範囲で生産された食料を主体に、食生活を組み立てる以外に、生産者との絆を確保する適当な方法は見当たらない様です。

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2011年9月 5日 (月)

1483 脳化社会の意味

養老孟司の著書の言葉の中で、印象に残っているものの一つが「脳化社会」です。氏は、自然物以外のあらゆる社会システムやインフラ全ては、人間の脳が作り出したものであり、いわば脳化社会だと断じています。それで何が悪いかですが、投稿者なりの解釈では、人間がその浅知恵で作り出したものには、必ず欠陥が隠れており、事態が上手くいっている時にはそれが見えませんが、一度状況が変化し事態が悪化すると、それが水面下の岩礁の様に顔を出します。通常社会システムとしては、欠陥を修正、或いは欠陥の悪影響を最少化するために、法律を定めます。その意味で、ほぼ全ての法律や法令は、「何々してはならない」、「何々をしなければならない」と書いてある「対策法」となっているはずです。

しかし、一旦脳化社会を離れ、自然の中に身を置くと、自然の仕組みの巧みさに、感動せざるを得ない自分を発見します。それは、何億年という時間を惜しみなく使った自然の、「必然性のある仕組み」の一端を発見する事から来る感動なのでしょう。一方で、僅か数千年間で、さらに言えば今ある多くのものはこの数百年の間に、人間の頭の中で作られた仕組みは、どれも底が浅く見え、欠陥だけが目につきます。社会システムの欠陥の例は枚挙にいとまがありませんが、最近の例としてはやはり原発事故を挙げておきましょう。震災を引き金に起こった甚大な原発事故を振り返れば、今後原発を動かし続けるためには、今ある法律にさらに山ほどの法律や規則を追加しなければならない事でしょう。

脳化社会の最大の欠陥は、つまりは頭の中で考えられる以上の事態を、無視してしまう事にあります。それを「想定外」などと言い訳しますが、原発の「現実のストレステスト」は、地震国の日本では僅か40年の実績しかありません。今後、どの様な「頭の中で考えたストレステスト」を実施するにせよ、所詮それは脳が考えた範囲を超えられるものではない事は自明です。

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2011年9月 4日 (日)

1482 自然の猛威

今回の台風は、自然の猛威という言葉を、再認識させるものとなっています。合計1000㎜(1m)を超える降雨が数日間にも亘ってふり続ける状況は、一生の内でも何度も経験できる現象ではありません。人生60-70年に一度の現象であれば立派な異常気象と言えるでしょう。これは、何度か書きましたが、北極気団の弱体化と無関係ではありません。9月に入ってからの台風は、日本に上陸したとしても、その後は偏西風に流されて、急速に速度を速めるのが普通ですが、このたびの台風はこの傾向に反しています。それは、偏西風がこの時期としては異例に北を流れているからです。偏西風は、極気団の縁を回る気流ですから、これが北を流れていると言う事は、気団が縮小している事を意味します。

風と桶屋の関係を引き合いに出すと、極気団が小さくなっているのは、夏場の極の気温が比較的高かったからでしょうし、その原因は結局北極海の浮氷の面積が小さくなって、北極海が(沈まない太陽によって)しっかり暖められた結果だと想像できます。極地方の異変が、中緯度地方にも影響を与えるのは、つまりは地球規模の熱循環が崩れつつあることの証左でしょう。台風は、南方の海にたっぷりと降り注いだ太陽光エネルギーを、相対的に気温が低い、極地方に運搬する自然の熱コンテナだと言えます。蒸発と上昇気流によって大量のエネルギーを抱え込んだ渦を形成し、緯度の高い地方で降雨によってそれを放出し、地球の気温を平均化しようとする自然の巧まざるカラクリなのです。

しかし、既に夏場の極と低緯度の気温差が縮小している近年の状況では、この日射エネルギーを極地方まで運ぶ必然性も小さくなり、結果として中緯度地方で放出してしまう事にもなってしまっている様なのです。この状況が、果たして人間の活動(CO2の過大な放出)によるものなのか、或いは他の要因(例えば太陽の活動の変化や地球の歳差運動など)との組合せによるものなのかは、さらに長期の気象変動を観察する必要はありますが、例えば過去50年の気象と比較すれば、明らかに有意な変動が生じている事は疑いないところでしょう。

 

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2011年9月 3日 (土)

1481 波?

経済が循環する波かと問われれば、経済に素人の投稿者ですが、「今まではそうだった」と答えたいと思います。これまでも、この国は何度かの経済の減速を経験してきました。景気を波に喩えるならば、不景気は波の谷間を指しますが、幸いな事に私たちは都度それを克服してきた様にも見えます。しかし、不景気の前後で、社会や経済が完全に連続であったかを思い起こすと、そこには社会や産業構造の「脱皮」もあったと思うのです。石炭・鉄鋼産業から造船産業を興し、さらに電気・電機産業で外貨を稼ぎ、航空機を作り、エネルギーや鉄道などの社会インフラを輸出し、ITやハイテク電子機器の産業を興して、その都度不況を切り抜けてきたはずです。

つまり、景気を波に喩えるのは、決して良い比喩ではないと言えそうなのです。では、今後はどの様に考えて行けば良いのかですが、どの様な道筋で考えても、国や社会の持続可能性を高めるためには、ひたすら体質改善に努めるしかないと思うのです。ここで言う体質改善とは、社会システムや個人生活をシェイプアップする事に他なりません。

景気が波であるにせよ、そうでないにせよ、身を軽くしてそこに漂えば、例え飲みこまれても自然に浮き上がってくれる事でしょう。そうでなければ、景気の谷間で沈んでしまうしかない訳です。身を軽くするとは、企業では文字通り設備投資を抑えた、軽快で借金の少ない経営を指すでしょうし、個人ではモノをあまり持たず、身の丈で暮らす質実な生活を意味します。

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2011年9月 2日 (金)

1480 対症療法

震災後の経済減速や超円高などの大きな変動要因への対応で気になるのは、ほとんどの打つ手が対症的なものであると言う事です。変動をキャッチして修正するのは、自動制御で言ういわゆるフィードバックですが、これが機能するのは、変動をできる限り早期に感知し、間髪を置かずに修正する場合だけです。もし、修正が遅れれば、変動は大きく振れ、好ましくない幅の逸脱、つまりはオーバーシュートが生じます。変動はできるだけ小さな内に感知する事が必要で、時間的な遅れは急速に事態を悪化させるでしょう。

ヒトの健康でも同様の事が言えます。人体での状況変化のオーバーシュートとは、つまりは病気の状態を指します。痛みや症状が出て、病気になってから病院に駆け込むのが、正しい行動かといえば、もちろんそれは遅きに失しているでしょう。体が重い、寝起きが悪い、便通が不規則だ、といった軽い異変が出た段階で、適正に診断を受け対策を打てば、多くの場合は病気に陥らないで済むはずです。

さて、この国は既に病気になっているのではないか、と疑われます。それを適切に診断し、対応を指示してくれる人はあまり見当たりません。何故なら、多くの経営者や経済学者やエコミストは戦後の高度成長期以降に起こった事しか体験していないからです。それ以前の話は、本で読むしか知りようがない訳で、既にそれは「歴史」になっているのでしょう。したがって、いま世界で、この国で起きている負の現象は、いわば未知の症状とも言え、対処方法も手さぐりにならざるを得ないと思われます。しかも、これは何か一つ(例えば経済政策の失敗)が原因となっている症状ではなく、戦後を通じて、いわゆる「社会の体質」が変わってしまったことが原因の、「生活習慣病」に他ならない訳で、その治療には、生活習慣の改善から始める必要がありそうです。具体的に言えば、経済規模を縮小しながら、財政を均衡化させるという、新たな社会システムを構想しなければならないでしょうし、そのための10年、20年レンジの中長期の取組みも必要でしょう。

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2011年9月 1日 (木)

1479 押し込み型生産

作られた需要を支えるのが押し込み型生産です。この生産形態の進展は、T社の生産性の向上の優れた仕掛けであるJIT生産の普及に負うところが大です。つまりは、ピンと張ったサプライチェーンを構築する事により、少なくともラインからは徹底的に無駄が省かれたからです。しかし、整然としたラインからは毎日まいにち一定量の製品が市場に押し込まれる事になります。このシステムは、確かに生産には無駄が無いのでしょうが、ライン在庫が極端に少なく、例えば災害時などの緊急事態には、底の浅さが露呈し、直ちにライン停止に追い込まれます。

これと対局をなすのが、注文生産でしょう。注文を受けてから、資材調達の情報が流れ、ラインの生産計画にそれが追加されます。材料の入庫により生産が始まり、製品の種類によって、例えば1週間或いは1か月で出荷される事になります。しかし、注文生産が機能するのは、この時代では大型の設備製作か、或いは職人が手作りする様な伝統工芸品やクラフト品に限られる事になってしまいました。考えてみると、伝統工芸品の工房には、実に多くの原材料のストックが見られるはずです。木工の世界でも、たぶん数年分のストックは普通ではないかと想像しています。何故なら、木材工芸では、木材を自然乾燥させ、木の狂い・反りを出しきってしまうためには、少なくとも数年間の季節変化を通過させなければならないからです。数年分のストックは、生産側に、原材料供給面で十分な安定性をもたらします。

押し込み型の生産においては、しかし残念ながら朝の生産開始に合わせて、原材料は前の晩に運び込まれますので、ラインストックは精々半日分かそれ以下になっている事でしょう。ラインを安定的に運用するために、しかし結局は部品メーカーに数日分か数週間分のストックを持たせ、製品倉庫や問屋にもやはり少なからぬ在庫を強要する事になります。つまり、押し込み型生産は、非常に硬直化したシステムだと言うしかありません。右肩上がりの時代は機能したこのシステムも、経済の縮小局面では、逆にリスクの大きさだけが目立ちます。それは、春先の震災後の状況を考えまでもなく、中越地震の比較的規模の小さな災害時でさえ、車産業には多大なインパクトが出たのは記憶に新しいところです。結局私たちは、今後の縮小均衡社会に最も適したJITに代わる生産システムを、改めて工夫し直さなければならない時期に至ったと考えています。

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2011年8月31日 (水)

1478 作られた需要

何故モノがそれほど売れなくなったのかを考えてみると、実は結構単純なのでないかと思っています。素人経済学の域は出ませんが、需要には、大きくは3つの種類がありそうで、日々の基礎的な消費(食べ物や日用品)への需要、耐久消費財の新規需要、同じく耐久消費財の買い替え需要です。もちろん企業の設備投資、企業間取引など、幅広い定義があるのでしょうが、ここでは思いっきり単純化して考えます。

自分が生まれ育ち、歳を重ねてきた越し方を振り返ると、ある時期以降「需要の創出」などという言葉が飛び交っていたような気がします。つまり、新たな需要を作り出し、企業の売り上げを伸ばす、といった企業行動の事です。そのための企業の戦略は徹底していました、あらゆるメディア(マスコミからDMからチラシの折り込みまで)動員し、商品や製品を露出し宣伝しまくる作戦です。子供たちは好んでCMソングを口ずさみ、代表的な商品名が、その製品群の代名詞になったりもしました。特に徹底的だったのは、菓子や食品や飲料業界、車、薬品、化粧品、洗剤や電化製品業界などでしょうか。

しかし、これらは結局「作り出された需要」であったわけで、結果としての市場への押し込み生産であった訳です。人々は、過剰な食品を押し込まれた結果、食べ過ぎとなり肥満や生活習慣病と仲良くなり、一人1台の車を乗り回し、数多くの電化製品に取り囲まれながら、より多くの電力を要求し、それを満たす必要悪としての原発を乱立させてきた訳です。その絶頂は、いわゆるバブル期と呼ばれた「お祭り騒ぎ」の時代でしょう。この作られた需要に人々が気付き始めた昨今、LOHASや省エネやゴミ減らしといった市民レベルの行動が、結果としては国や行政も動かし始めたのが最近の状況ではないかとみています。ではこの先はどう考えれば良いのか。さらに続きます。

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2011年8月30日 (火)

1477 この国の行く末

新しいリーダーの誕生に際して、一人の国民として、この国の行く末を心配してみました。世界的な閉塞感の中で、この国も内外に憂いを抱えています。憂いというよりは、患部といった方が良いかもしれません。資源をほとんど持たないこの国は、資源を輸入し、それを加工して外貨を稼ぎ、それでエネルギーや新たな資源や食糧を買うしかない体質の国になってしまいました。それは、投稿者が子供の頃から一貫してこの国の施策であり続け、国や社会の構造もすっかりそれに対応して構築されても来ました。そういえば中学の社会科でも「加工貿易」なる言葉を習った様な気がします。

しかし、国を取り巻く状況は、特に新しい世紀入って数年で明らかに変わってきました。それは、この国の原動力であった輸出に陰りが見えてきた事に象徴されます。直接的には、アジアの諸国、とりわけC国やK国の台頭があり、Iンドの追い上げなども加わってきました。何を作って、どこの国にいくらで売るのか、し烈なシェア争いの末に、結果的に敗れる商品市場が増え、撤退も相次いでいる訳です。加えて、この円高が追い打ちをかけています。いくら品質が高い商品でも、値段が競合製品の2倍ではとても勝負になりません。例えば車です。現地メーカーの50万円の戦略車に対して、現地での売値が100万円となる輸入車では、庶民が買えるのは前者に決まっています。電化製品でも事情は全く同じでしょう。外貨を稼いでいた、車、電化製品、プラントなどなど、円高で一度シェアを失ってしまえば、その回復は非常に困難でしょう。

さてこの国は一体何で食っていくのか。新しいリーダーに秘策はあるのか。残念ながら、震災復興や原発収拾などの内向きの課題や政局に振り回されている限りあまり期待はできません。そうであれば、私たち一人ひとりが、これからの飯の種を考えて行かなくてはならないでしょう。このブログでも、環境ビジネスというカテゴリーですが、いくつものビジネスの枠組みを提案してきましたが、それがどのようなビジネスであれ、その視点は少なくとも50年後を見据えなければならないでしょうし、何よりそのビジネスは「持続可能性」が十分に高いものである必要もあります。当然の事ながらこのテーマは永く続きます。

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2011年8月29日 (月)

1476 月山

このブログを書く以外では数少ない趣味の登山ですが、27日は仕事で秋田に向かったついでに(どちらがついでかはさておいて)月山に登ってきました。山形県の中央にそびえるこの山は、形から数年前に登った鳥海山などと同じように、火山である事は間違いないのでしょうが、かなり古い造山と見えて、噴出したのが粘い溶岩だったのか、或いは風化が進んだためか、かなり丸みを帯びた山容です。

東北の山を見て気が付くのは、多くの山の裾野がブナやミズナラなどの広葉樹林にしっかりと覆われていて、山が重要な水源であるとの位置づけが明確だという事です。そうでなければ、南アルプスの様に、原生林を切り倒して針葉樹の人工林に植え替えられていたはずです。それぞれの山には、水源守り神を祀る神社が建てられ、昔から修験者を含む地元の人たちに崇められてきたはずです。月山にも、頂上に立派な神社が建てられており、無理やり拝観料を取られて、無理やりお祓いをさせられるのはあまり好きではありませんが、それらのお金が山の自然を守るためにも使われる事を願いました。高山植物も豊富で、多くが花の季節を終えて、ささやかに残っているだけですが、2000mに満たないこの山でも緯度が高いため、北アルプスなどでは2500mを超えないとみられない花々も見つける事が出来ます。飛び飛びにそびえる山で、同じような高山植物がみられる事は少し不思議な気もしますが、鳥の助けを借りれば、離れた山に種を運ぶのも容易なのかもしれません。植物の戦略にはいつも感心させられます。

その日の朝は、早起きして湯殿山神社への参道も歩いてきたのですが、鬱蒼とした広葉樹林帯の中に作られた古い道は、まさに森林浴そのものが満喫でき、寿命が一年くらいは延びたような気がしました。この付近には「60里越え」と呼ばれる修験者道も作られており、1週間近くかけて修行をした往時を想像しました。もちろん今でも、この道を歩き通す人も居るにはいるらしいのですが・・・。東北の山は、単に頂上に登る「登山」だけで済ますのは、あまりにも勿体ない山が多い様です。もちろん、山の裾野にはいくつもの温泉が湧き、ひなびた温泉宿もあります。

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2011年8月28日 (日)

1475 モンスーン

25日から秋田に出かけていました。古い友人から紹介して貰った仕事の下打ち合わせでしたので、半日で終わります。どちらか「ついで」であったかは横に置いて、東北の山にも登ってきました。今回は月山です。庄内平野の東にそびえるこの山は、羽黒山、湯殿山と並んで出羽三山の一つですが、その中では兄貴分です。いずれの山も古くからの信仰の山で、それぞれに立派な神社でご神体を祀っています。

さて、27日に登った時は、秋雨前線が南下して東北北部は北の乾いた空気に覆われ、絶好の登山日和となりました。空気もかなり澄んで、眼下の庄内平野はパノラマ写真の様に見え、月山の上の兄弟分の鳥海山もくっきり見えました。しかし、南を振り向くと朝日連峰より南は雲が湧き、まだ夏の名残の空気に支配されている様に見えました。実際に、その日のうちに山鹿県を南下し、新潟県を走っている間中は晴天でしたが、夜になって長野県に入った途端に土砂降り状態になりました。それは、縦に長い長野県を通り抜けている間中続き、岐阜に戻ってからも同じでした。長く続く土砂降り雨は、モンスーンから水分の補給を受けている場所(閉塞前線)で発生します。寒冷前線がもたらす強い雨は、数時間程度で通り過ぎるからです。

一日の内に、このモンスーンと北の空気の境目を走った訳ですが、どうやらこの境目は、近年はかなり北まで持ち上がっている様なのです。「梅雨の無い」は長らく北海道の枕詞になってきましたが、どっこい最近はオホーツク海に近い海岸部を除いて、モンスーンの影響を受ける様になってきました。彼の地でも豪雨が発生したりもすることでそれが分かります。これが温暖化の影響なのか、別の理由なのかは、長期の気象データがやがて白黒をつけるのでしょうが、事実として、夏場の北極海の浮氷面積の縮小によって極地方の海温(気温・地温)が上昇し、冷たい空気が弱くなってモンスーンの北上を抑えきれなくなってきたことが挙げられます。大洋や地殻(表面)は膨大な熱容量をもっていますので、この傾向はひどくなる事はあっても、容易に後戻りはしない様に思えます。非常に近い将来には、この国がある中緯度地域も、夏場は「午後のスコール」も見られる「パートタイム亜熱帯地方」の仲間入りをするのかも知れません。

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2011年8月25日 (木)

1474 竜巻

近年気になる気象現象として竜巻もあります。アメリカ中西部でも、多くの犠牲者を出していますが、超大型竜巻発生の頻度が上がっている様な気がするのです。同様に、日本でも小型ではありますが、どうやら竜巻と呼べるつむじ風が多く発生する様になっても来ています。これは1472で書いた、絶対湿度との関連もあるでしょうし、明確なデータは手元にありませんが、大気上層と地表付近の温度差が大きくなっている事も関係しているかも知れません。つまり、地表付近の気温が夏場の日射などで急激に上昇し、上層との温度差が大きくなると、強い上昇気流が発生、同時にそれを補うための下降気流も発生し、結果として激烈なつむじ風=竜巻に成長します。これまでは、入道雲+夕立程度で済んでいた現象の規模が大きくなっている可能性があるのです。

これに大気中の湿度がどの様に関係するかといえば、気圧低下部分(竜巻の中心部)と一方で竜巻の周りの上昇部分で、空気中の水分が蒸発すると温度が下がり、一方で空気中の水分が凝縮すると発熱して温度が上がります。つまり、空気中の高い湿度は、竜巻に関わる温度差をさらに大きくする方向に働くと考えられます。

温暖化が進めば、気象現象が激烈になると言われていますが、竜巻数の増加もそのような傾向の一つだと言えるかもしれません。

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2011年8月24日 (水)

1473 環ビジ82(木質燃料)

国内でかなりの量が調達できるエネルギー熱(熱源)として、バイオマスにはやはり注目し続ける必要があります。この分野のキモや、やはり地域での循環を軌道に乗せる事でしょう。石油にしても、電力にしても戦後の長い時間をかけて、インフラを整備し続けてきた結果、木炭や薪や石炭を駆逐して、現在の座を獲得した訳です。ここでのインフラとは、つまりは製油所や備蓄基地であり、ガソリンスタンドであり、送電線網などを差します。

木質燃料に関してのインフラは、実はささやかなもので済みます。薪や木炭やペレット燃料に関して言えば、材を定常的に切りだすための里山(道路から100m程度の範囲を差します)や奥山(道路から500m以上奥の山を差します)からの搬出方法、それを薪にする加工場所、炭焼き小屋、ペレット製造小屋などです。これらを敢えて「工場」と呼ばないのは、急峻な日本の山の利用においては、大規模化は全く不向きなので、これらは「小屋」でなければなりません。しかも、材を運ぶ距離をできるだけ短くするためには、それらのインフラは何が何でも小型で、しかも山の中の道路の切れる様な場所に所在する必要があります。したがって、そこで使われる動力も、理想的には小川の水を使った「水力」が理想的なのです。つまりは、水力を使った鋸盤や薪割機、ペレット製造装置こそが理想なのです。炭焼きのエネルギーは薪自身の燃焼熱なので、これについては燃料調達の問題は無いでしょう。

燃料に加工したバイオマスは、先ずは軽トラで搬出し、村内の販売所に集積します。家々から予め注文を受けているのであれば、直接配達するが理想です。村内で余ったバイオマスは、近くの町まで運んで、専売所で売ります。ガソリンスタンドかコンビニかJAで扱うのも良いかもしれません。消費者は、車のトランクに詰める程度(1週間分程度)の木質燃料が手軽に買える環境が整います。薪ストーブは煙が出るので、町での使用は近所迷惑ですが、木炭やペレットストーブであれば全くの無煙燃焼(完全燃焼)が可能なので、問題ないでしょう。

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2011年8月23日 (火)

1472 豪雨

昨夜の雨はまさにゲリラ豪雨でした。すぐ近くでは、1時間内に100㎜を超える雨が降って、地盤が低い地域では家屋の浸水も多く出た様です。毎朝通勤で通る踏切近くのマンションでは、1階にある駐車場(地下ではないのですが1段低くなっています)では、車が水につかって、通勤前の大騒ぎになっていました。強い降雨が起こる条件としては、先ず一にも二にも空気中の湿度が高い事が必須です。次に、温度が低い空気と高い空気の接近(前線の発生)、或いは強烈な日射、または非常に冷たい気団の接近などの条件で、強い上昇気流(同時に下降気流も起こる)の発生も必要です。これらの条件が重なると、いわゆる積乱雲が発生し、雲の中に大粒の雨粒が溜まってきます。

この雲が移動しながら雨を降らす訳ですが、これに地形も絡みます。今住んでいる付近は、平野と山地の境目に近いですから、南から雨雲が近づいてきた場合、雨が落ちやすい場所に当たります。同様に、川筋の谷に沿っても積乱雲が移動しやすいので、谷合でも豪雨が発生しやすくなります。今朝は、やはり下呂辺りでも集中豪雨があったようです。

何度か書きましたが、背景には大気中に温暖化効果ガスとしての水蒸気の絶対量が増えている事が疑われます。つまり、これまでは時間当たり50㎜程度を豪雨と呼んできたものが、今では時間100㎜の降雨が決して珍しくなくなった事が、その傍証だとも言えます。海に蓋をする訳にもいかないでしょうから、GHGとしての水蒸気(絶対湿度)の増加に関しては、私たちは全く無力です。この雨を、砂漠の国にプレゼントする事が出来たら、アフリカでの飢餓も、中緯度の豪雨被害も同時に解決できると思うと、地域を破壊し犠牲者の山を築くだけの軍事費や役にも立たない宇宙開発費の、せめて一部でもそのような研究に向けてくれたらと、つい八つ当たりしたくなります。

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2011年8月22日 (月)

1471 シンテッポウユリ

今年は、ジョギングを休止して、週末に裏山(420m)の登るのが楽しみになりました。登り下りで計3時間くらいかかりますが、丁度一汗かくのに手頃な距離です。もちろんただ登るのではなく、動植物を観察し、美味しい空気を吸いながら登ります。でも、昨日はシトシト雨で、虫は葉陰で休んでいる様でした。植物は、しかし雨ですっかり元気を取り戻し、特にテッポウユリは山道に沿って、一列に並んで咲いています。誰かが植えたにしては、石ころの間から茎を伸ばしており、やはり野生の様に見えます。どの様にして道端にきれいな列を作ってきたのか、その繁茂の戦略には興味が湧きます。

高い山では、ヤマユリやニッコウキスゲなどが、大きな群生地を作っている場所は良く目にしますが、道端に並ぶには、ヒトや動物に繁殖を依存する必要がありそうにも思えます。ユリはユリ根(球根)で増えるのでしょうが、近くに「分家」を作るには、何らかの方法で地下茎を伸ばす必要がありそうです。

少し調べてみると「葉っぱの岬」というHPで、これはどうやら正確には「シンテッポウユリ」という自然の交雑種で、タネでも増える種だとの事で、やっと納得しました。それにしても、自然の仕組みは実に巧妙です。雑草もあまり生えない、乾燥して石ころだらけの道端というニッチに、種としてのテリトリーを広げるために交雑したか、交雑した結果その能力を持つようになったのか、その順序は分かりませんが、そんな事はどうでもよく、結果として見事に繁茂に成功している訳です。実際には、両者(種と環境)が微妙に絡み合いながら、変化の道を進むのかもしれません。

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2011年8月21日 (日)

1470 ホメオスタシス

恒常性とも呼ばれる表題は、もちろん本来の意味での生物の活動に関わる代謝バランスという意味でも重要なKWですが、一方では環境の持続性という意味でこそ最重要だと思っています。右肩上がりの経済拡大(人口も同様に拡大)の時代において、最も酷く破壊された環境としては、森林の畑地化のための破壊、優良な畑地や里山の住宅地化、工業用地化、道路化があったと振り返っています。

環境=自然は、自律的な回復力を持っています。しかし、それは非常に緩慢な回復力なので、それを超える破壊に対しては、かなり無力です。例えば、森林は年率であれば1㎞以下程度であれば、気候変動に応じて移動が可能だと言われています。つまり、温暖化で砂漠化が進んでいる場合、1km/年程度で森林は後退し、灌木地に変化が可能だという事です。しかし、現実に起こっている温暖化(熱帯や温帯の北進)のスピードは、10/年にも達していると言う試算があり、このスピードには森林は全く追いつけないので、結果としては森林が淘汰され完全な砂漠化が北進していく事になります。

自然界のホメオスタシス確保のためには、とにもかくにも人間が自然に加える改変は、可能な限りゆっくりでなくてはいけません。先人は、自然に手を加える場合、全て人力で行っていましたから、ほとんどの場合、環境破壊や改変は、実のところ自然の回復力の範囲内にあったはずなのです。しかし、機械力や爆薬を使った大規模な土木工事や自然の改変は、その範囲を大きく逸脱する事になる訳です。

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2011年8月20日 (土)

1469 中央集中から地域分散へ

これも数回書いたような気もするテーマですが、次世代のデザインではやはり欠かせない視点です。戦後、全てのモノやシステムが一貫して極端な中央集中化の道を突き進んできた事を考えれば、何らかの見直しが必要なのは言うまでもありません。毎日ニュースになっている電力会社や電力会社の統合集約は言うに及ばず、教育システムから、行政、産業に至るまで、スポンジが水を吸い取る様に、東京を核とする大都市が吸い取ってしまったのでした。それは、あたかも大都市が標高の最も低いところにある湖に、周りから全ての水が流れ込むと言うイメージも連想させます。事実東京だけを考えても、日本全体の人口の10%を吸収してしまったのです。(最高時には11%を超えました)

水が流れ込むところには必ず淀みができ、オリが溜まります。流れが強い時には、どうにか上手く回っていた中央集中システムも、一旦流れが止まると、しかし淀みのオリも腐敗し始めます。それを閉塞感と言い換えても良いのですが、2000年代に入って、日本の人口統計が明らかに飽和状態を示し、次いで減少に転じた事もその閉塞感を増長したはずです。閉塞感を打ち破るには、結局は新たな流れを作り出すしかないのでしょう。そうであれば、何も新たな危険を冒す必要はないと思うのです。これまでの流れをゆっくりで良いので、逆流させれば、最低のリスクしか生じないはずです。つまりは、中央集中の流れを、地域分散に切り替えると言うことです。

とはいっても、手をこまねいていてもその流れが出来るわけでもありません。何らかの引水が必要となるでしょう。英語ではインセンティブとでも言うのでしょうが、税制も考えられるでしょうし、積極的には助成金も付けなければなりません、もちろんその原資は更なる集中へのペナルティ(罰金)から回してくる必要があります。政令都市の首長は真っ向から反対はするでしょうが、しかしこれはこの国の将来に向かっては避けて通れない道だとも思います。そうでなければ、都市の閉塞感の中で、国自身がドンドン深みに沈んでいくしかないからです。

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2011年8月19日 (金)

1468 50年後の社会デザイン

戦後の経済拡大期は、ある意味では経済界も政界も楽でした。増加した経済(利権)をどの様に分配するか考えていればよかったからです。政・官は、それを仕切る仕掛けであれば良かったのです。したがって、政・官の利害は一致し、官から財への助成金とその見返りとしての税金をしっかり回してさえいれば、経済は自動的に右肩上がりになっていったのです。利権の山分け(リベートとも呼びます)の例には事欠きません。造船疑獄、Rッキード事件、もう少し規模を下げれば各種の公共事業の政・財の受発注関係などなどが思い出されます。

しかし、その拡大の陰りが見え、右肩下がりが見えてきたこの10-20年、このカラクリは最早機能しなくなってきた事を明確に認識しなければなりません。松下さんの塾が何を教えてくれたのかは知る由もありませんが、20世紀型の政治や経済のカラクリしか教えてくれなかったとしたら、これまでの、或いはこれからのこの国のリーダーには何も期待できません。混迷の時代こそ、リーダーは「将来像」を掲げて進まなければならないはずなのですが、相変わらず為替操作や、金融工学、或いは種々の景気浮揚策と税金を絡めた論議しか俎上されません。実際、景気浮揚策と称して、この国が天文学的税金(や債券)を注ぎ込み、そしてそのほとんどが効果をもたらさずに単なる借金になってしまったかを考えにつけ、それを看過した一国民として、呵責の念を禁じ得ません。

欲しいのは、今の子供が世の中を背負っている時代の社会デザインなのです。そのために、今の世代がどれだけ血を流し、汗をかかなければならないのかを差し示すリーダーが登場しなければなりません。戦後の事を考えれば、先人は禿げた山に木を植え、粗末な住宅事情にも耐えながら、我々のために基盤を整備してくれたではありませんか。我々の世代は、その恩を次世代に返していくとの決意こそが必要だと思うのです。

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2011年8月18日 (木)

1467 戻す努力2

インフラを取り壊して元に戻す場合、単に壊せば済む話ではありません。如何に元に近い姿に戻すかをしっかり意識する必要があります。ドイツの例ですが、ルール地方を流れ、かつては石炭船が行き交っていた中小河川であるエムシャー河は、ほとんどコンクリートの護岸で固められていました。流れは淀んで、工場からの処理不十分な放水もあり、ほとんどドブ川に状態でしたが、ドイツ政府は素直に反省し、護岸を剥がして土手に戻す工事に着手しました。もちろん、そのころは石炭の産出量は殆ど無くなり、石炭重化学工業も終息状態でしたので、石炭の廃坑に川のヘドロやコンクリートの瓦礫を埋め立て、両岸を土手に戻したのでした。この結果、魚や水鳥も戻り、2002年に訪問した当時は、すっかり田舎を静かに流れる川といった風情になっていました。

この事業に、ドイツ政府がどれほどの税金を注ぎ込んだかを想像するにつけ、振り返ってこの国のインフラ戻しを考える時、その道のりは非常に遠いとため息が出るばかりです。山を削り、谷を埋め立てて造った、ほとんど車の通らない高規格林道を見るにつけ、砂防ダムを作って下流の護岸をコンクリートで固めた日本の川を見るにつけ、自然に近い状態でこれらのインフラを元に戻すのは絶望的なほどの努力を要すると思われます。

しかし、一方では何も完全に諦める必要もないとも思うのです。つまり、方向性を定めた上で、今後インフラに手を加えるついでに、少し後戻りをさせれば良いわけです。例えば、道路を補修する必要が出た場合は、交通量を再評価して道幅を削る「減幅」工事をすれば良いでしょう。ついでに動物の通るトンネルも道の下に作ってやるべきです。

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2011年8月17日 (水)

1466 戻す努力

エントロピーの法則を持ち出すまでもなく、物事はより安定性の高い方向へ不可逆的に進みます。高い温度のモノは冷えて、周囲温度と同じになろうとするし、ゴミの始末を放置すれば必然的に「ゴミ屋敷」が誕生します。整然よりは雑然の方が、よりエントロピーが増大し、安定するからです。先人は、しかしささやかですがそれに人力で逆らってきました。里山や深山に分け入って、自然のままの森林に手を加え、落葉樹を植えて水源を涵養する努力をしてきましたし、その下には棚田を刻んで、人工のミニダムを築いてもきました。

山の手入れを怠れば、林床に日が差さなくなり、土壌の固定が出来なくなり少しの雨で土砂が流出するでしょうし、棚田の維持を怠れば、石垣が崩れ、林地も新入してきて雑木林に戻る事でしょう。人間が作り上げた生活を維持するためには、必要な事は、この自然(混沌)に戻る事への不断の抵抗しかないわけです。戦後の時代は、多大なエネルギーと重機を使い、山の奥深い場所にまで林道を刻みましたが、そんなものは多分10年に1回くらいの豪雨で、簡単に崩落する程度のモノでしかありませんでした。多大なエネルギーをつぎ込んだインフラは、やはり多大な維持のエネルギーも必要とするのです。

戦後この国で、莫大な税金を注ぎ込んだインフラは、今その維持にやはり莫大な税金を要求し続けているはずです。少し山に分け入れば、立派に舗装された林道が、あちらこちらで崩落し、落石がゴロゴロしています。多くの橋は老朽化し、港湾のインフラもやはりメンテナンスを求めています、ダムは土砂に埋まり、公共の建物にもとうに寿命が尽きたものも多いのです。これらを造り替えるのか、或いは取り壊して更地に戻すのか、一度立ち止まって考えてみる必要はあるでしょう。

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2011年8月16日 (火)

1465 変わらないもの

投稿者が生きてきた20世紀後半の半世紀と、21世紀の最初の10年余りを振り返ってみると、何もかもが変わってしまったことに改めて感嘆します。産業、食べ物、人やモノの移動の手段、日々の暮らしぶりなどなど、逆に変わらないものを探すのが骨です。敢えて探せば、それは伝統的な工芸職人や、人間国宝の人たちの生活の一部(手仕事や国宝の部分)にその痕跡が見つかるかもしれません。彼らとて、日常的には洋食をたべ、車や新幹線や飛行機で移動するのでしょうから、日常生活を含め全て「伝統的な暮らし」を続ける人は、余程の深い山里でひっそりと暮らすお年寄り所帯くらいにしか見つからないと想像しています。

こんな事を書いているのは、もちろん変わってしまった生活を嘆いているからですが、何より完全に変わってしまった場合、もはや後戻りができなくなる事を怖れているからでもあります。加えて、本当に伝統的な暮らしぶりは、今や公共放送のアーカイブにある古い紀行番組位でしか見る事が出来ない時代になってしまいそうですが、その暮らしを支えてきた手仕事や先人の知恵は、映像だけでは決して伝える事が出来ないとも思っているからです。

どの様な道筋で考えても、その土地に産するものを食し、産する材料で伝統的な産業を維持する暮らし方を考える場合、高度成長期以前の暮らし方から大きくはみ出る事は出来ないはずなのです。その制約を超えるために、この国は多くの石油エネルギーや鉄鉱石や石炭など原料を輸入して産業を興し、得た外貨でさらに便利な暮らし得る道を選択してきました。そのために、沿海部の優良な農地や里山を潰して工場や住宅を建て、確たる計画も無しに人工的な都市を形成してきた訳です。人工的な都市を維持するには、膨大な電力(エネルギー)と、食料を含む全てのモノの供給を、周辺の地域や海外に依存せざるを得ない事は、今回の震災で改めて認識されたはずです。震災で、コンビニやスーパーの機能は停止し、鉄道や道路が寸断されてサプライチェーンは破たんし、原発事故で電力も制限される事になった事実は、物事が変わり過ぎたことへの警鐘と捉えなければならないでしょう。ではどうすれば良いのか、さらに考えてみます。続きます。

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2011年8月15日 (月)

1464 ブルーベリー

ブルーベリーには年間360日くらいお世話になっています。食べ方は、ほぼ100%トーストにブルーベリージャムを塗るという単純なものです。残りの5日は、買い置きのブルーベリージャムが切れた日か、或いはおせち料理が出て、トーストが出ない朝になります。なぜ、こんなにもブルーベリーが好きなのか考えてみたことがありますが、答えは見つかりません。一種の中毒なのかもしれませんが、アントシアニンが目には少しは良いらしいし、特に体に悪い中毒でもないので、気にはしていません。

勝手に想像を巡らせれば、たぶん遠いご先祖さまは、ブルーベリーの葉に住み、甘い実の汁を吸っていた昆虫か、小動物だったのかもしれません。進化の順番から言えば、間違いなく先ずブルーベリーの形態が定まり、それに依存する動物の形態が進化を進めたはずです。一方、植物としても、動物との共生関係のなかで、自分の種のニッチを少しでも広げるために、動物たちを利用して種をばらまくために、さらに実の甘さを加えたのかもしれません。年に一回くらいは、生のブルーベリーを口にする機会がありますが、確かに身震いするくらい感動します。痩せた土地を好むこの地味な植物には、密かなパワーが宿っている様な気がします。

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2011年8月14日 (日)

1463 人間力

昨日も山に入っていました。例によって、3000m級日帰り登山です。今回は、少し低い山ですが、南アルプスの光岳(てかりだけ)です。

さて少し前、この言葉を再認識させられました。ある会合で、若い教育者から彼が教育で重視している言葉として紹介されました。動物としてのヒトと人間が異なるのは、たぶん後者はヒトとしての能力に加え「コミュニケーション能力」を兼ね備えている特別な存在だという事なのでしょう。つまり、個人としてのヒトの能力はささやかなもので、たくましさにおいては犬猫にも劣るかもしれませんが、いったんグループとして徒党を組んだ場合の能力は、相乗作用で何倍にも高まるからです。

確かに、数十年前の高度成長期を経て、その後世界に冠たる輸出大国にのし上がったこの国には、ものすごい量の人間力(ヒューマンパワー)があったと思い返されます。しかし、いわゆる「個性重視」の教育の中で、人と違う事は素晴らしいと言う価値観の中で、人間力は急速に小さくなったのではないかと疑っています。言葉を替えれば、この国の人間集団が、個々の行動や志向のベクトルが合わない単なるヒトの集団になりつつある過程かも知れないと言う危惧です。さらに別の言葉で言えば、この国には20世紀の後半を通じて、「経済的成長」以外の目標が無かったのかも知れないと思い返しています。

経済成長以外の、尊敬される国として、或いはすばらしい国民としてのどの様な価値観を共有するか、という基本的な目標無しに突き進んだ結果、確かにお金持ちにはなったのでしょうが、その他の多くの人間としての基本的価値観を置き去りにしてきた様な気がするのです。お金持ちになったヒトほど手の付けられない存在は他にはないでしょう。お金さえ使えば、法律で禁止されていること以外は、ほぼ全ての欲望をかなえる事も可能だからです。この国に足りなかったのは、確かに人間力でしたし、その前提となる人間としての倫理観なり価値観だった事を再確認しています。

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2011年8月12日 (金)

1462 後知恵

毎年この時期の1週間は、毎年原爆の悲劇を考えさせる時期になります。加えて、今年は多くの人に原発事故についても深く考えさせることにもなりました。原爆も原子力も、放射性物質(ウラン)の核分裂のパワーを利用する事において、本質的な違いはありません、前者は、小さな火薬の爆発によって、核物質を瞬間的に衝突させ、一瞬のうちに核の大爆発を引き起こすものですし、後者はそれを減速材や水によって、緩やかに持続させるものという違いがあるだけです。しかし、質量がエネルギーに変わると言うアインシュタインさんの式を見れば分かるように、エネルギーは光速の自乗に比例すると言うものですから、1秒間に30万㎞も走る光速の自乗も想像を超える桁数ですが、そのエネルギーもまた想像を超えるものだとしみじみ思います。

その想像を超える核力を内在した放射性物質を、敷地内の原子炉や冷却プールに何トンも抱え込んでいる原発の、底知れぬパワーを改めて想像すると、やはり身震いを禁じ得ません。今回の事故のメルトダウンで、圧力容器の底に穴が開き、核燃料が格納容器の底に落ちた辺りで止まっているとすれば、全く不幸中の幸いだったとしか言うしかありません。最悪の場合には、生の核物質が、大気中に躍り出し、猛威を振るう事態もあり得た訳です。そうなった場合には、広島や長崎の比ではない惨事になっていたかもしれません。それにしても、全ての電源を失っても、何とか水だけは切らさないシステムになっていれば、ここまでひどい事故にはならなかったとは言えるのでしょうが、いずれにしてもすべて後知恵でしかありません。

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2011年8月11日 (木)

1461 信用収縮

最近の超円高(欧米通貨の下落)にしても、それを承けての株価暴落にしても、何らかの調整局面だとはみています。その何かとは、一つは通貨に対する信用力の調整ではないかと思うのです。紙に印刷しただけの通貨は、それを発行し、流通させている国や国の連合体への信用力によってのみその「価値が保証」されています。しかし、それらの国々が最早それほど信頼できなくなった時、お金持ちは通貨やそれが形を変えた債権などから逃げ出し、現物に向かう事でしょう。事実「金」の価格は上昇の一途をたどっていますし、穀物や石油の先物価格に関しても事情は同じでしょう。

これは、実のところ「モノの価値の再評価」としての意味もあります。それは例えば、ペットボトルの水よりも安いガソリン価格、土壌の養分や化石水と呼ばれる地下水を絞りとって作付される安すぎる穀物価格、全世界の保有量が有史以降2倍程度にしか増えていない金の価格など、ダブついた通貨に比べ相対的に価値の低くなってしまったモノどもへの再評価局面だと言えなくもありません。

別の見方をすれば、いわゆる労働の代価の見直しという意味もあるのでしょう。お金持ちが、そのお金を「運用」して、利益を得る事は、もちろんこの時代は合法的に認められています。しかし、合法である事と、倫理上正しい事とは根本的な相違があります。ほぼ全ての法は、トラブルや悪意を防ぐための対策法に過ぎません。したがって、法文の多くは何々をしてはならない。何々を超えてはならないなどと、ネガティブな表現になっていると想像しています。法文では禁止されていないとはいえ、不労所得などは倫理的に言えば抑制されるべき行動でしょうし、一方でまっとうな労働こそが、より高く評価されるべき行動だと思っている投稿者は、この調整局面を。期待をもって眺めています。

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2011年8月10日 (水)

1460 土砂降り

最近の雨の降り方を見ていると、明らかに空気中の水分(湿度)が高まっている様な気がします。夏の日射によって上昇気流が巻き起こり、たっぷりと水気を含んだ空気が10,000m程度の高層まで上昇します。気温のピークを過ぎると空気は冷やされ始めて、氷や水の粒になり、数ミリの大きさになった時点で、もはや上昇気流では支えきれなくなって落下(降雨)します。一般的な呼び名は「夕立」ですが、最近の雨の降り方は土砂降り、または「スコール」と呼びたくなるような勢いです。スコールは熱帯地方の現象ですが、もしかするとこれは日本付近が熱帯化している一つの証拠かもしれません。

大気中の水蒸気は、実は最も強力な「温暖化効果ガス(GHG)」です。したがって、湿度が高い日には、夜間の放射冷却が抑制される結果、気温が十分に下がらず熱帯夜になりがちです。最近の気象は、翌日の日中の高温を呼ぶと言う「悪循環」が生じているように見えます。残念ながら、大気中の湿度をコントロールする術を、私たちは持ち合わせてはいません。自分たちの仕業が引き起こしたかも知れない温暖化やその結果の現象は、甘んじて受け入れるしかないのでしょう。

それにしても、暑い夏です。冷房のないこの事務所の気温は連日35℃に貼りつき、WBGT指標も30℃に近いので、労働強度としては「手先の作業」しかできない状況です。幸いにも、キーボードを叩けばある程度仕事が進みますので、どうにか熱中症にならずに済んでいます。

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2011年8月 9日 (火)

1459 森に帰る

ヒトは森を出て、近くの草原に進出した「サルのなれの果て」だと言う説を信じています。森には、色んな生き物が溢れています。木や草やキノコなどの植物、それを住み処やエサとする昆虫や微生物、その昆虫などを捕食する小動物、その小動物を狙う大型の爬虫類や哺乳動物や猛禽類など。見事な食物連鎖が完成していて、しかもその連鎖は「人間が壊さない限り」は、ほぼ永遠に続くサイクルでもあります。

森から離れすぎて、都市で暮らすようになった私たちは、もう一度森に入って、何かを感じてみなければならないでしょう。都市には人間が作った構造物以外何もありません。公園の樹木ですら、昔からその土地に根付いた樹種ではなく、見栄えを考えてどこかの樹木業者から買った、よそ者の植物で構成されています。その根土には、よその土地の生き物の卵や幼虫も付着していて、九州にしか居なかった南の昆虫、例えばクマゼミなどが、首都圏や北の都市の公園でも大合唱をしている訳です。

先ずは森に分け入って、森の声、鳥の鳴き声や昆虫の羽音に耳を傾け、森の匂いを嗅ぎ、植物に触れてそれらの本質をしみじみ眺めてみたいものです。それらがどの様にしてそのニッチを確保しながら、悠久の年月を生き抜いてきたのかを考えてみるのです。先日も、山に登るつもりで、南アルプスの真ん中辺りまで出かけたのですが、沢沿いの登山道を3時間ばかり沢を遡ったところ道が突然消えていました。腰までつかって対岸に渉る事も出来たのですが、結構流れが速かったので、安全を考え諦めて引き返しました。しかし、たっぷりと森の空気を吸ったことにより、えも言われぬ幸福感に包まれました。いずれにしても森には、不思議な力が宿っているようです。

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2011年8月 8日 (月)

1458 マイクロ水力

山を越えた隣町である関市に結構縁があります。先日、関市在住の人から突然電話が掛かってきて、小水力発電を始めたいから相談に乗って欲しい、との依頼がありました。直前に名刺を交換した、新聞社の編集者から紹介でした。数日後に出かけてみると、河岸段丘を駆け下りる農業用水がその候補地でした。水量も結構あり3m程度の落差が取れそうなので、単純な上掛け水車ではなく、小型にできるタービン型の水車が良いのではないかと助言しました。タービン型と言っても、特殊な水車を注文したり、開発したりするのではなく、例えば市販品の軸流ポンプや遠心式のポンプに逆に水を流して回すアイデアです。これだと、中古のポンプを何処かから「貰って」来れば、先ずは水車が完成します。水の導入は、水道屋の知り合いに頼み込んで、余った塩ビパイプなどで安く設置します。発電機は、取り敢えずは中古の車のダイナモで間に合わせます。タービンポンプは結構高速で回転しますので、大がかりな増速装置も必要ありません。単純なVベルト駆動で十分でしょう。これなら予算は締めて10万円以下で済むはずです。できた電気は、車と同様12Vのバッテリーに蓄え、直流のままか、インバータで変換して交流として使います。

先ずは、兎に角目の前にある水路で、ささやかでも電気を起こしてみる事が必要なのです。出力アップアや改良は、その後にボチボチ進めれば良いわけです。自分たちで作った発電機が動き出して、出来た電気で電灯が灯ると、理窟無しに嬉しさがこみあげてくる事請け合いです。こと再生可能エネルギーに関して言えば、効率などは二の次で良いのです。

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2011年8月 7日 (日)

1457 蝉の戦略

今朝も多分南アルプスの山の中なので、やっぱり自動投稿です。さらに生き物シリーズです。今年は、なぜか蝉が少ない様です。たぶん、7年ほど前も同じ状態だったかもしれません。その年は成虫が少なく、地中に残された卵も少なかったのでしょうから、その時の幼虫が孵化する今年も同様に少なくなったと思われます。

蝉がなぜ7年間も(種類によっては17年間)も地中で暮らすのか、考えてみればかなり不思議です。投稿者なりの理窟では、気象変動の平準化の様な気がします。気象は、太陽の黒点や地軸の歳差運動などの要因で、短期的な変動を繰り返します。これは、温暖化などの長期に亘る「気候変動」とは明らかに異なる原因と変化なので、この周期に繁殖行動が敏感に影響を受ける種は、その年によって個体数を大きく増減させる事になります。例えば、イナゴの大発生や急激な減少は、気象変動が植物の繁茂状態に直接影響し、それに依存している代表的な昆虫の例の一つに過ぎないとみています。

しかし、セミは数年間地下に潜る事により、これを見事に回避しているのではないかと思えるのです。毎年の成虫の発生数は確かに、大きく変動するのでしょうが、地下にはその6-7倍の幼虫が眠っているので、全体としての個体数は、精々十数パーセントの範囲でしか増減しません。この推測が正しいとすれば、「蝉の戦略」はなかなかにしたたかなものだとは言えるでしょう。

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2011年8月 6日 (土)

1456 不便を楽しむ

今朝は暗いうちに起きだして山に向かっているので自動投稿です。さて昭和がますます遠く感じされる今日この頃です。ところで、本気になって脱原発=脱電化を実現するには、「不便を楽しむ心意気」が必要です。そのためには、先ずは便利なモノを身辺から遠ざける事から始めると良いでしょう。より便利なモノとは、より最近に開発され売り出されたモノのはずですから、新しいモノはとりあえず納戸に仕舞い込み、出来るだけ古いモノを引っ張りだしてくることがその近道です。具体的には、エアコンのプラグを抜いて(エアコンの待機電力はバカにならないワット数です)、古い扇風機を引っ張りだしてくる、掃除機を納戸の隅に押し込んで、ホウキとハタキとモップを手前に出してくる、車にしばらくお休みいただいて、油の切れかかった自転車を引っ張り出し、油をさして通勤や買い物に使ってみる、テレビを消して、ラジオの電池を替えて生き返らせるなどの行動を指します。

不便は、しかし単に不便なだけではありません。不便に甘んじると、必ず頭を使い、体も動かさなければならないので、ボケが防止出来て、同時に体が丈夫になり、手先の器用さが戻ります。不便に慣れてくると、不便の楽しさが段々実感できてくるはずです。その楽しさとは、いわば「効力感」から生じてくる楽しさだと言えます。効力感とは、自分が行動して周りに働きかけた結果が、何らかの変化として自分の五感で実感できる状態を指します。それが、自分の望んだ方向と一致していれば、その効力感は最大になるでしょう。例えば、気合を入れてホウキとハタキとモップ(雑巾)を使って掃除して、部屋がすっかりきれいになった状態を見る時の幸福感は、電気掃除機をスイスイ動かしただけでは決して得られないものだとは思うのです。

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2011年8月 5日 (金)

1455 非インフラ

大手の重工、重電機メーカーの提携が昨日のニュースに踊っていました。これからの成長分野である、再生可能エネルギーやエネルギーインフラ事業に共同して当たるのだとか。しかし、ちょっと待ったです。前半の再生可能エネルギーの利用拡大には反対はしません。問題は、「エネルギーインフラ」という言葉です。この中心には、いわゆるスマートグリッドやスマートシティと呼ばれる、高度にコントロールされた、エネルギー供給・消費インフラが意識されている事でしょう。一方で、インフラという言葉は、あまりにも安易に使われ過ぎているとも思うのです。

インフラは、そのコミュニティに適用される基盤技術ですから、その成員は。好むと好まざるとにかかわらず、それに依存せざるを得ません。スマートシティやスマートグリッドなどという「インフラ」は、やはり集中化された「電力」というエネルギーに依存している事には変わりありません。もちろん、停電すれば充電器につながれたEVのバッテリーから、自動的に家庭の配電盤に電気が供給され、1日か2日程度は電気のある生活が続けられるのでしょう。しかし、これとて発電所というインフラにべったりと依存したシステムである訳です。

そうではなくて、エネルギーにはある程度のストックがなければならないと思うのです。ストックとは必ずしも電気に対するバッテリーという意味ではなく、薪や炭などのバイオマスや太陽熱で温めた温水やフライホイールやアキュムレータなどへの運動エネルギーの蓄積など多様な蓄積の組み合わせを意味します。それらの組合せは、地域の事情などに応じて、特徴的なものでなければなりません。天候の変化や季節変動、夜昼などデマンドの変化による対応は、機械が自動的に行うのではなく、人間が少し先を予測しながら適当に行う訳です。人間のカンによる「適当」は、下手な自動制御システムよりはよっぽど優秀で、融通も利くはずなのです。インフラは設備や自動制御に100%依存し、一方で非インフラは、大きな部分を「人」に依存するところが最大の違いです。

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2011年8月 4日 (木)

1454 トンボの登山

生き物シリーズです。週末には、家の裏山(400m)に必ず登ります。土曜日だけの事もありますし、日曜日も続けて登る事もあります。最初は往復2時間くらいかかっていましたが、今は1.5時間で済みます。明王山と呼ばれる電波塔のある頂は、邪魔者の無い眺望が340℃くらい広がっており、南は三河湾、東は中央アルプス、北には北アルプス、西には伊吹山や養老・鈴鹿山系が望めます。

さて、頂上に登ると生き物が数種類飛び回っているのが目につきます。今は、蝶とツバメとトンボの天国です。誰が主役かといえば、それは虫で、ツバメはそれらの虫を捕食するために山に登ってきたのだと思われます。ツバメは生きて飛んでいる虫しか食べませんので、虫が飛び交う山の頂は、まさに秋の南への旅立ちに備えての「腹ごしらえ」なのでしょう。

それにしても、不思議なのは、池や川で羽化するトンボが、何のために山に登ってくるかです。素直に考えれば繁殖のためですが、なぜその場所が水辺ではなく山の頂なのかは、やはり謎です。彼らにしてみれば、何億年前の巨大トンボ時代からの「単なる習慣だ」というかもしれません。汗を乾かしながら観察していたら、悠々と飛んでいたオニヤンマが、見事にツバメにキャッチされました。そういえば最近、酸素濃度を30%以上に保つなど、古代の環境を再現した結果、現代のトンボを古代トンボと同じ程度(体長70センチくらいの大きさ)に成長させる実験に成功したと言う、インパクトのあるニュースと写真を見ました。この大きさだと逆に、ツバメなど軽く捕食しそうなサイズです。生き物は、環境に100%依存し、受け身的に対応して進化してきたのだ、との思いを強くします。

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2011年8月 3日 (水)

1453 トカゲの兄弟

数日前、借りている事務所の中で2匹の生き物を見かけました。仕事中にふと足元を見ると、何やら小さなものがチョロチョロと動き回っていてドキッとしました。見ると10センチほどのトカゲでした。生意気な事に、事務所の床に引いてあるブロック式の絨毯と同じ薄緑色に変色しているではありませんか。しかし、まだ修行中の悲しさで、尻尾の部分しか変色が出来ていませんから、体はまだ黒いままなので、動くと良く目立ちます。そうこうしていたら、部屋の反対側にももう一匹いるではありませんか。なんと、兄弟(姉妹?)で部屋に闖入したようです。目当ては、夜の間に部屋の窓や廊下に集まった虫だと思われます。

今借りている部屋(元は和室ですが、ボロボロの畳の上にブロック式の絨毯を敷いて使っています)や窓のない通路を含む3階には、ヤモリの親子も棲んでいますので、まるで爬虫類ビルです。今年はまだ見ていませんが、隣の古い借家の庭には、間違いなくシマヘビも棲んでいますので、家が隙間なく並んだ地域にはありながら、部屋に居ながらにしてささやかな「自然との共生」も実感できるのは、築40年で安い家賃の貸ビルの「メリット」かもしれません。

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2011年8月 2日 (火)

1452 絶対湿度

通常、「湿度」の指標は相対湿度(RH)で表示されます。しかし、アフリカでの干ばつや、今回の豪雨のニュースを見るにつけ、この星の湿度の分布が様変わりしているのではないかとの疑問にとらわれます。その際、大気全体が含む事が出来る水蒸気の絶対値が知りたくなります。空気中の水蒸気は、過冷却状態にある時は、核になるものさえあれば、急激に雨粒となって落下します。核になるものには実は事欠きません。火山の噴火から出る粉じんやガス(ミスト)、台風で巻き上げられた塩分などのミスト、隣の大国が大量に吐き出している石炭発電所からの粉じんなどなど。それが偏西風に乗ってこの国の上に流れてきて、タップリと含まれた水蒸気を凝縮させて降らせます。

水蒸気は、以前より水温の上がった海表面よりタップリ補給されます。これは、短期的にはラニーニャ現象による東南アジアの太平洋上の海表面温度の上昇によって加速もされますが、一方では、アジアで凝縮して降雨し、相対的に乾燥した大気は、アフリカでは雨を降らせるほどの湿度を持っていませんので、地球を半周して彼の地では旱魃を引き起こすのではないかと推測しています。

一方で、もう一つの要素として、夏場の北極海の浮氷の減少が挙げられます。浮氷が減少すると、太陽光の反射率(アルベド)が低下し、結果として太陽光がより多く吸収され北極海の海水温=気温が上がります。当然の事ながら気温が上がると、極地方に溜まる空気(北極気団)が弱まるため、夏場に湿った空気(モンスーン)が、より北の地域にまで上がってくる事になります。北極気団が弱まると、その縁を回るジェット気流も弱まりますので、それは例えば台風の迷走を引き起こすでしょう。つまり、地球の大気は一つにつながっており、ある地域の気候異変は、巡り巡って地球の反対側や、極地方にまで、大きな影響を及ぼすと言えます。

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2011年8月 1日 (月)

1451 スイッチからダイヤルへ

私たちは、あまりにも当たりまえに、何も考えずに壁や機器のスイッチを操作します。スイッチは、言わずもがなですが「電気」を入り切りする仕掛けです。電灯であれば、パッと点灯し、電気器具であれば動き出します。しかし、考えてみなければならないのは、電灯であればその状況に必要な明るさであり、電気器具(例えば電気掃除機)であれば、その状況で必要とされる出力(仕事率)なのです。外が結構明るい時は、実は電灯の明るさは控えめでも良い筈で、掃除機でも、ゴミがホコリ程度しかない時は、弱い吸い込み力で十分なはずなのです。

ここで言いたい事は、全ての電化製品には、実はONOFFだけのスイッチではなく、明るさや出力を調整するダイヤルを付けて欲しいという事なのです。電灯であれば、ダイヤルを操作すると、先ずカチンと電路が通じて電流が流れ始め、その時に必要な明るさまで徐々に電流を増やします。掃除機であれば、掃除エリアに落ちているゴミを吸い込むのに必要な吸込み動力まで、やはり徐々に上げていきます。つまり、エネルギーはそのありがたみを意識して、小刻みに調整して使うべきものだと言いたいのです。

0-1のシステムでは、ONOFFなので、出力も0-100%となりますが、ダイヤル式の調節器があるだけで、10%でも50%でも80%でも機器が使える事になりますので、出力を減らした分だけエネルギーが節約出来たことになります。

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2011年7月31日 (日)

1450 超円高

最近の超円高状況の再来で思い出す事があります。90年代の中ごろ、80円を突破した超円高期がありました。素人には裏のカラクリは良く分かりませんが、バブルの崩壊があったにも関わらず、海外投資が縮小した一方、輸出は好調であった事もあり超円高となったようです。

今回は、逆パターンで、ヨーロッパとB国の信用が低下した結果の円高なのでしょうが、輸出依存体質からいまだに脱出できないこの国では、産業の足をしっかり抑え込んだ上で、ジリジリと引っ張っています。

前の円高では、最早国内でモノを作り、それを組み込んだ製品を海外に輸出する事業は成り立たない。取り敢えずは、部品は可能な限り海外で作らせて、高い円で買ってくるべきだ、という議論が社内で巻き起こり、それに巻き込まれた形で、ヨーロッパ、B国、アジアなどのベンダーを購買担当者とチームを組んで回り、見積もりを取りまくった記憶がまざまざと蘇ってきました。今回の円高でも、さらに長期化するなら、企業経営者はやはり輸入を志向するか、またはいっそ海外での生産を選択する事でしょう。

しかし、近視眼的行動は、結果として自分の首を絞める事につながります。国内の空洞化は、伸びが著しい、アジアの競合相手に塩を送る事につながるからです。モノづくりを止めて、金融ゲームに走った国々の末路は、改めて指摘するまでもないでしょう。資源を持たないこの国の運命としては、やはり知恵と工夫を積み重ねて、他の国ではとても真似のできない、優れた製品を生み出し続けるしかないと思うのです。それは、「資源やエネルギーを極限まで絞り込んだモノづくり」という点に最大の特徴を持つものでなければなりません。投稿者はこのブログで、それも「環境ビジネス」と呼んできました。

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2011年7月30日 (土)

1449 今更アストロノーツ

新たな宇宙飛行士が3名も誕生した様です。スペースシャトルが退役し、20世紀型の「宇宙開発」は一段落したものだと思っていました。20世紀型と揶揄したのは、つまりは宇宙ステーションに行ったり来たりする、いわば重力⇔無重力遊びだと思うからです。

宇宙ステーションには、無重力以外は何もない事に、税金を払っている人々は早く気が付くべきでしょう。そこに置いた種を発芽させようが、宇宙飛行士が犠牲的精神で、骨粗鬆症をシミュレーションしようが、何も得られるものはありません。無重力下で完全無欠の合金や薬品が合成出来たとしても、それが工業的に作れる訳ではありません。そんなにややこしい事を持ち出さなくても、これから彼らが、あの限られたスペースで一体何をさせられるのか、明確な「目的」が見えません。目的のはっきりしない行動は、一般的には手段の目的化が起こっていると思われます。この場合の「手段」とは、スペースシャトルやその他の手段で、宇宙飛行士をステーションに送る、というミッションを指します。このミッション自体が目的化を引き起こすと、宇宙ステーション自体を維持する事が主目的になってきます。

宇宙ステーションを打打ち上げるのにも、「天文学的額のお金」が使われたはずですが、その維持のための物資輸送や人の行き来のために、更なる同じ程度の税金が注ぎ込まれる事になります。儲かるのは、宇宙タクシーを独占する事になった北の国だけです。アフリカで今起こっている飢餓も、その予算のホンの一部を回すだけで、かなりの程度救済されるでしょう。何より、能力のある新たな宇宙飛行士たちの人生が、宇宙ステーションを中空に浮かばせ続けるだけのために費やされるのが、いかにも残念です。始めるのは簡単ですが、原発にしても宇宙ステーションにしても、20世紀の遺物をどの様にして終息させるか、そろそろ真面目に考えなければならない時期です。

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2011年7月29日 (金)

1448 電気の本質

1446で(熱)エネルギーから除外した「電気エネルギー」についてもその本質を考えてみます。先ず「電線」です。もちろんこれは自然物ではない人工物なのですが、これを「エネルギーを送るパイプ」と見立てると、何やら電気エネルギーの本質が見えてくる様な気がします。液体燃料やガスは中空のパイプで送りますが、電気は中身の詰まったアルミのパイプ(送電線)で送っていると言えます。

発電所は、その意味では「電気エネルギーをパイプに押し込む場所」という表現になります。需要家の配電盤やコンセントは、電気の取り出し口という事になります。しかし、考えてみると私たちは電気を電気のままで使う事は殆どありません。最終的には、熱や光や動力に変えて使っている訳です。パソコンの中では、確かに電気(電子)が流れて演算をしているのですが、最終的にはモニター上に光の強弱や色の情報として表示しない事には、機能が完結しません。つまり、人類は最も使いやすいエネルギーの形態として、20世紀を通じて「電気」を選択してきたと言う事が出来そうです。電気の本質として、しかしそれを送るパイプ(電線)がつながっていない事には、その便利さを享受できません。ギリギリの選択として、移動体である電車は決まった軌道を走る事の代償として、電気を動力とする事が出来ている訳です。

同じく移動体である車に、その電気をバッテリーに詰め込んで走らせるEVが注目されていますが、発電所効率(40%強)と送電効率(80%前後)を掛け合わせた総合的な「電力効率」は、30%程度しかないので、もし原発が殆ど休止してしまうと、化石燃料を電気に変えて、それで車を走らせるという変な事態に陥ります。そうなってしまうと、車の熱効率(ガソリンの燃焼エネルギーが車を転がす事に使われる割合)は20%を少し超えるレベルですから、EVとガソリン車の「環境負荷」は、どっこいドッコイという結論になってしまいます。いまガソリン車を作っているメーカーも、少し頑張れば、すぐEVの効率を追い越せるという事も言えそうです。

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2011年7月28日 (木)

1447 生体内半減期

放射能について考える場合、いわゆる放射性物質の自然崩壊による「半減期」の他に、生体内での半減期を考えてみる必要があります。これを抜きにして考えると、例えばセシウムに関して言えば、「暫定値」を2倍程度超えた牛の肉は、もしそのまま肉の状態で保管したと仮定すると、20-30年経たないと口に出来ない計算になります。

しかし、生体(生きている動物)内の半減期を勘定に入れるならば、例えば牛の筋肉に入った、セシウムは、一方では生体活動の結果日々体外に排出されますので、概ね90日程度で半分になると言われています。現状では、筋肉中の放射能レベルが、暫定値を倍程度越えている牛も、さらに90日間生きた状態で飼育を続けるなら、自然に暫定値以下に戻る訳です。同じく、人間が牛肉などの食物から取り込んだ放射性セシウムも、一生を通じて体内に留まる訳ではなく、やがて汗や尿や便となって代謝され、牛と同じく90日程度で半減してしまう事になります。自然界からの環境放射能やラジウム温泉などからの、低レベルの放射線被ばくは、長い歴史の結果としてみるならば、生き物の「緩やかな突然変異」や進化に寄与してきた可能性も否定できません。今流布されている暫定値の根拠は良くは分かりませんが、放射能を必要以上に恐れる必要はないとみていて、基本的には楽観しているものです。

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2011年7月27日 (水)

1446 熱(エネルギー)

エネルギーの本質について時々考えます。一言で表現を試みるなら、その本質は「熱振動」だと言っておきます。絶対零度でない限り、全ての物質(固体、液体、気体に関わらず)は、熱振動をしています。その振動の度合い(強さ)を便宜上「温度」と呼んでいる訳です。熱振動は、しかし環境との間に温度差がある場合、温度の高い物質は、より温度の低い物体(あるいは周囲環境)と同じ温度になろうとして、エネルギー波を放出します。このエネルギー波を、一般的な呼び名では「電磁波」と呼び、特別なバンドの波長を、紫外線、赤外線、或いは電波や可視光と呼んだりしています。

生物は、単純に表現すれば、高いエネルギーを持つ電磁波が、より低いエネルギーの電磁波に変わる「落差」のエネルギーを使って生きているとも言えます。もちろん、そのエネルギーの根源は、表面温度が6000℃で太陽系を照らしているお天道様から来る訳です。そう考えると、森羅万象が結構単純に見えてくるような気がします。もちろん、事はそんなに単純ではない、という突っ込みが入るかもしれません。上記の割り切り方では、例えば金属内の電子エネルギーは説明できていませんし、いわゆる核力(原子力)等、物質そのものが変化する現象に関してや、磁気エネルギーなども説明できていません。

しかし、それは電気伝導度を持つ「一部」の物質カテゴリーであり、ましてや自然界では低いレベルで続いている、原子核崩壊による「自然核エネルギー」(例えばオクロ鉱床の例など)は、マイナーな部分として、横目で見ておくだけで良いのでは、と思っています。例えば、自然界で「自然に」電流が流れる現象は、カミナリさんくらいしか思い浮かびません。金属内を流れる電流などは、フランクリンさんがカミナリは電流であることを発見し、ボルタさんやアンペールさんが、人工的に電気や電流を作り出して以降の「ささやかな人間の営み」に過ぎないではありませんか。

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2011年7月26日 (火)

1445 黒い小さな蛙

雨上がりの時間帯、毎日事務所に通う途中のあぜ道に、非常に小型の蛙がたくさんいる事に気が付きました。色は黒っぽく、大きさも1センチくらいしかないので、動かなければ、道に小石が転がっている様にしか見えません。トノサマ蛙やヌマ蛙とは違う種類の様なので、別の種類の蛙の幼形なのかも、とも思います。何年も同じ道を通っているのに、なぜこれまで気が付かなかったのか、自分でも不思議に思います。たぶんこれまでは、結構スピードを上げて自転車のペダルを漕いでいたのかもしれません。気になりだすと、種類を知りたくなりますが、Net上でも多くの同じような写真を見かけますが、種類まで特定してくれているサイトはこれまでのところ見つかっていません。

今日もうっとうしい梅雨の様な一日となりそうですが、早い梅雨明けと、安定しない夏空は、セットになっているのかもしれません。天気の周期は、90日程度と信じているので、7月末の冷夏は、9月以降の残暑を予感させます。一方、自営業が忙しく、なかなか山に向かう日程が取れないので、かなりストレスが溜まっていましたが、自分が出かけられない時期に天気が悪い事は、勝手ながらそれなりに気分が良いものです。

さてもう少し、蛙のサイトを探してみる事にしましょうか。(PS:結局ヒキガエルの幼形でした。お騒がせいたしました。)

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2011年7月25日 (月)

1444 土に刻まれた歴史

考古学や地質学にも、それなりに興味があります。石ころになるほど古い地質にも、浸食や堆積の歴史が刻まれ、その中から見つかる生き物や植物・花粉などの痕跡が、過去の歴史をありありと物語ります。まだ石になっていなくても、少し掘るだけでも地層からは数千年の歴史が現れます。土壌の体積は、1000年で30㎝程度と言われ、1mも掘れば3000年までの過去を観察できるはずです。

津波の歴史も、間違いなくありありと記録されているのでしょうが、いかんせん人々は忙しすぎて、今そんなのんびりした観察ができるのは、一部の学者くらいでしょう。考古学であればB化庁やM科省などから予算が出るのでしょうし、深い地層の断層の研究であれば、土木や原発等の構造物の地盤を知る上で重要ですから、事業費として予算が取れます。しかし地層を掘り返すのは、単なる学術研究になるのでしょうから、規模もささやかなものにとどまると想像しています。

しかし、重要なのは数万年や数億年前の歴史ではなく、ここ数千年の足元(地球)の歴史なのです。間違いなく一部の学者からは、1000年に一度起こってきた大地震と大津波に対して警鐘が鳴らされていたはずですが、「事」が起こるまで、それらは完全に無視されてきたのでした。何故なら、それを想定する事は、あまりにも対策コストが掛かり過ぎて、原発の経済的優位性が損なわれる恐れがあったからです。恣意的に、重要な警鐘を無視してきた構造や組織こそ非難されるべきで、その部分の反省無しに、今後のエネルギー政策もクソもあったものではないでしょう。

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2011年7月24日 (日)

1443 エネルギー比率

原発の運転停止数が増え、電力のひっ迫が取りざたされていますが、そんなに心配はしていません。というのも、現状で電力の大きな部分が「熱利用」となっているからです。この熱利用には、冷房時の「冷熱」も含まれますし、暖房や冷蔵庫や給湯も含まれます。そうであれば、熱の供給が目的なら何も電力に頼る必要はない、と考え方を変える事も出来るでしょう。

熱利用を考える場合、特に夏場の冷房電力需要期には、お天道様の力がグンと強まりますので、これを利用しない手はありません。しかし決して、太陽光を電力に変えて、オール電化のガジェットやエアコンや冷蔵庫を動かそうなどと考えてはいけません。太陽光は、そのまま熱として最大限利用します。太陽熱温水器でお湯を沸かし、ソーラークッカーで調理をし、デシカント冷房で空調も行います。その分、確実に電力や化石燃料を削減できますから、より多くの電力を産業用に回す事も可能です。

見直すべきは、発電所のエネルギー比率(つまり、化石エネ:原子力:自然エネ)の比率ではなく、熱利用における比率(電気エネルギー:自然エネルギー)なのです。例えば、200リットルの水を、太陽熱温水器で50℃程度暖める場合、それはほぼ12kwhの電気エネルギーに相当します。つまり、1kwの電熱器に12時間通電した時に発生する熱量と同等なのです。これを、まだ屋根やベランダに太陽熱温水器を設置していない世帯に法律で設置を義務付け、例えば2000万戸に新たに設置したと仮定すれば、これで原発20個ほどのエネルギーに相当する熱量を、得る事が出来るはずです。もちろん曇りや雨の日もありますから、実効を1/3に減ずるとしても、原発5-6個分には相当するでしょう。これはたった2㎡程度の小型の太陽熱コレクター(ソーラーコレクター)での計算ですから、屋根や壁に取り付け、空気を熱媒体とするコレクター(ソーラーウォール)を設置すれば、この何倍も熱量を得る事も可能になりますから、ほとんど原発に頼らなくても、この国の暮らしは成り立つことになります。つまり、来たるべき脱原発社会では、熱は基本的にはお天道様に作っていただき、雨や曇りの日の足りない部分を化石燃料や地熱から補給する方向に持っていく必要があると言えるでしょう。

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2011年7月23日 (土)

1442 WBGT計

最近WBGT計を入手しました。それなりに高かったのですが、京都にある寺の舞台から飛び降りたつもりで買いました。WBTG計は、日本語にすれば「黒球・湿球温度計」とでも呼ぶのでしょうか。黒球で「輻射温度」を計り、サーミスタで計る気温と湿度センサーのデータを組みあわせ(演算し)、例えば熱中症予報などにも使えるWBGT指標を表示できる優れものの「温度計」です。体感温度の6要素である、1)気温、2)湿度、3)輻射温度、4)風速、5)労働強度、6)被服のうち、3要素を加味するので、より実際の体感温度に近い数値を指標化できます。

それでどうなのかですが、この指標を例えば、冷房の運転開始・停止のトリガーにすれば、間違いなく省エネにつなげることが出来ます。つまり、気温はかなり上がっているが、湿度が小さく、建物の壁温度(輻射温度に関係する)があまり上がっていない午前中は、今は8時に自動的に運転開始しているビルでも、たぶん10時頃まで、運転時間を遅らせる事も可能です。事務所に朝日が差さない方角(つまりは西日が当たる方角)にあれば、さらに遅らせる事も可能でしょう。

一方、気温は既に27℃くらいに下がっている夕方でも、もし建物の西壁が35℃に熱せられたままの状態になっていると、体感温度は31℃前後となるため、熱中症のリスクはMAXのままとなります。この場合は、リスクを低減するためには、冷房を運転し続ける必要があります。輻射温度計は単独でも機能しますので、これは例えば冬場の暖房器具の性能評価などにも活用できるはずです。

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2011年7月22日 (金)

1441 浅い技術

元技術屋として、やはり技術の「仕業」については関心があります。原発を作った技術が、果たしてどの程度のレベルだったか、自分が関わったものではなくても、やはり気になるのです。ここでは、技術レベルの深浅について考えてみます。何をもって、技術のレベルの深浅を判断するかですが、投稿者は「想定ケースの多寡」を提案しておきます。

想定ケースを、例えば「森羅万象」を含む全ての最悪ケースを想定したと仮定すれば、全ての建造物や破壊した時に危険な状態が発生する設備は、全く作れないはずです。何故なら、建物や設備設計には、必ず「安全率」を想定しなければならず、そのためには想定される危険を数値化しなければならない訳です。例えば、ブラジルの建物を見たときに衝撃を受けた記憶があります。それは、素人目にも細く見える建設中の鉄筋コンクリートのスケルトン(骨)でした、技術屋の直観として、確かに静荷重には耐える強度の様には見えましたが、震度5程度の地震が襲ったら、ひとたまりもない様に見えました。その建物は、スケルトンに煉瓦で作った壁を追加して完成する途中だったわけです。考えてみれば、彼の国ではチリで地震が起これば、僅かに振動を感ずるのでしょうが、基本的には国民は「地震」という言葉を知りません。ですから、静荷重の「想定」で十分と考える事が出来ます。一方この国では、有史以降でも繰り返し大地震や大津波に襲われてきました。ユーラシア大陸の縁に位置する国の運命でもあります。

さて、これ(最悪の想定)をどの様に技術に、設計に盛り込むかですが、それは一に掛かって技術屋の広い知識と良心に依ると考えるしかありません。少なくともフクシマでは、原子炉を設計した機械系の技術屋は、専門外の地質学的に稀なリスク、ましてや1000年前の貞観地震までは想定していなかった事は明確です。それを想定外と切って捨てるか、可能性として安全率に盛り込むかによって、建設コストは多分、数十%の違いは出てしまうでしょう。技術屋は、コストという言葉に弱いと言うウィークポイントを持っている事は否めません。技術屋には算盤勘定の苦手な人が多いのも事実だからです。コストで押し切られて「妥協設計」がなされた原発がどの程度あるのか、直接関わった技術屋は、今は退職していればなおのこと、何らかの形で告白すべきでしょう。

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2011年7月21日 (木)

1440 水

水は実に不思議な物質です。1gの水の温度を1℃上昇させるのに、昔の単位で1cal(今の単位では4.2J)必要としますが、100℃の水が沸騰すると、たった1gの水の蒸発で、540calも奪ってしまいます。したがって、大気圧状態では水は100℃以上になることが出来ません。また、0℃の水が0℃の氷になる際には、さらに1g当たり80calの熱を奪う必要があります。これらは、相変化に伴う、気化潜熱、融解熱に相当するものですが、多くの物質の中で「水だけ」が大気圧下で、しかもたった100℃の範囲内で、2つの相変化を可能とする存在なのです。 生物、とりわけ植物は、水の相変化、特に液体⇔気体の相変化を巧みに使って生体を維持しています。葉が持つ、気孔などは、まさにその真骨頂でしょう。もちろん、同様にヒトも特に昔の人は、このカラクリを上手く利用していました。夏場の暑さを乗り切る濡れ手拭いや打ち水、砂漠の民の素焼きの壺や皮袋などは、知恵のホンの一例に過ぎません。 また水は、最も比熱が大きく、暖まりにくく冷めにくい物質です。したがって、海や大きな湖の近くでは、気温の変化が小さく、湿潤で温和な気候を与えてくれます。さてこの性質を上手く利用しない手はありません。身近な例では、コンプレッサーの無い冷風扇がありますが、ドライミストを簡単に発生させる装置(例えば超音波加湿器の大きなもの)を使えば、もっと小型で性能の高いものが実現できるでしょうし、同じものはエアコンの室外機の空気吸い込み側に設置すれば、大幅な省エネも可能です。なぜなら、加湿する事により気温が数℃下がるので、それに応じてエアコンのコンプレッサーの出力も10-20%下がるからです。同様に、例えば水を吸い上げる性質のある物質で屋根を掛ければ、屋根の下は単なる日陰の気温以下に下がるはずです。水を蒸散させている広葉樹の木陰の気温が、日向に比べて10℃近く低くなる所以です。コンビニや、多くの事務所ビルなどで、カンカン照りの屋上に置かれている室外機を見るたびに、勿体なくてため息が出ます。

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2011年7月20日 (水)

1439 生体濃縮

食物連鎖の頂点に立つヒトは、常に生体濃縮のリスクに晒されています。小魚が弱い「毒」を含むプランクトンを捕食し、その小魚を大きな魚が捕食し、その魚を人間が食べる、或いは弱い「放射能」に汚染された穀物や稲わらが牛や家畜のエサになり、その乳や肉を人間が口にすることによって、弱い毒や放射能が「濃縮」される状況が、生体濃縮です。

弱い毒でも毒、弱い放射能でも放射能である事は間違いないのですが、より美味しい食物を口にする代償として、そのリスクを受け入れるしかないのでしょう。もし、ヒトが植物(穀物)や野菜だけで生きていく決心が出来るなら、この地球が養う事が出来る人口は飛躍的に拡大しますが、肉に対する欲求が抑えきれない限り、現状の人口でも既にオーバーフローしている事は疑いないところです。世界各地で10億人前後の人口が、恒常的に飢餓に晒されている事実が、それを明白に示唆しています。

さて生体濃縮ですが、「毒」が生体内のどの物質と親和性があるかによって、濃縮される部位が変わります。よく知られたところでは放射性ヨウ素は甲状腺に集まり、今話題になっているセシウムは、カリウムと似た物質だと言われているので、生体内ではカリウムポンプに関わるため、たぶん血液や筋肉で多く見つかるでしょう。とは言いながら、カリウムと同様、取り入れられたセシウムもやがて代謝され、体外に排出されますので、その間に被ばくして遺伝子が傷つけられたとしても、普通の体力があればその傷も修復される訳です。その意味で、放射性物質や放射能を過度に恐れる必要はないのでしょうが、環境に与える負荷の大きな肉食は、やはり戒められるべきでしょう。

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2011年7月19日 (火)

1438 トレーサビリティ

今回の、放射能汚染牛肉の報道で、牛の肉の行方が、あらかた明らかになってきました。フクシマから出荷され、関東で食肉処理された肉は、遠くは四国や山口まで運ばれて消費されている事が報道されたのでした。そこで、九州からの肉などと混ぜられたり、ミンチされたりして消費されたのでしょう。それでも国産肉とは表示できます。

さて、工業製品のトレーサビリティは比較的容易です。製品本体に、ロット番号や通し番号が識別されているでしょうし、何よりメーカー名や製造国、製造年月などが明記されているからです。これは、製品安全に関わる法律(例えばPL法)などでも、必須項目として義務化されているはずです。

しかし、食品は原料が多岐にわたること、それらが調味料などと混ぜ合わされること、そのプロセスが複雑なこと、また流通経路が複雑なこと、そのいずれをとってもトレースが困難である上、それが組み合わさっている訳ですから、ほとんど不可能だと言っても良いかもしれません。辛うじてトレースできるとすれば、地元産の食材を使って、地元で調理されたものを、地元で消費する以外に方法は見つかりません。言葉を変えれば、食品のトレーサビリティは、消費者のわがままが不可能にしているとも言えそうです。旬外れた食べ物を、何時でも、安定した価格で、調理する手間を掛けずに口にしたい、という非常のわがままな要求を、工業的な食品加工業と流通業が可能にしてきたのでした。この上は、食べても害がない微小なマイクロチップでも開発して貰い、それを各食材に混ぜ込んで、口にする直前に、携帯電話に組み込まれたセンサーで読み取って、産地と安全性を確認する、と言ったシステムでも開発しない限り、心配性の人は、食事の度に、「清水の舞台から飛び降りる」決意が必要となるかもしれません。

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2011年7月18日 (月)

1437 解体工学

この国のこれまでの技術は、ひたすらモノを作る技術に集中してきました。それはKンバン方式に代表される様に、無駄の無い工程を指向し、安く、効率よく、品質の良いモノを、大量に作る技術でした。しかし、ここにきて矛を収める技術が俄然注目を集める様になりました。これまでも、いわゆる廃棄物減らしとしての静脈産業やリサイクル技術に関しては、それなりに議論され、進歩もしてきました。

そうではなくて、ここで言いたいのは、具体的にはこれまで作り続けてきたインフラを減らす技術、さらに具体的には、例えば30年を超えた原発を、安全に廃炉にする技術などを指します。インフラについては、例えば建造されて長い時間が経過した橋梁やビルの劣化状態の明確な評価基準は、ありません。あるのは、建設時の設計基準や検査基準だけなのです。原発についても、既に劣化した本体や機器を、完全に新設時の状態に戻すことはできない相談ですから、どこまで使っても大丈夫か、基準を設けたいところではあるのですが、実体の破壊テストを行う事も出来ない状況では、その基準すら一つの「想定」でしかありません。したがって、ある年限が経過したインフラは、やはり一度解体して、もし絶対に必要なものであれば、さらに安全なものを再構築すれば良いわけです。もし、高度成長期には必要と思われたものでも、これからの時代にはそれほど必要とされないものは、撤去して更地に戻せば良いだけです。

モノを作る技術は、技術屋も熱心に取り組み、一応洗練されてはきましたが、既にあるモノを、安全に、廃棄物をできるだけ出さずに解体する技術は、あまり面白味もない分野でもあり、開発はこれからでしょう。しかし、これは今後非常に重要となる技術分野である事は間違いないでしょう。具体的に提言するなら、全ての工科大学に「解体工学」を専門とする学部を起こさなければならない時代だということです。

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2011年7月17日 (日)

1436 電化中毒2

この言葉も数回使ったような気がします。家庭の中にある電化製品を数え上げてみると、あきれるくらいあることが分かります。ちなみに、子供の頃家にあった電化製品をあげてみると思い出せるのは、せいぜいテレビ(白黒)、冷蔵庫(小型1ドア)、電気釜、いくつかの電灯くらいです。暖房も1台の板金製の薪ストーブだけでした。

一方、電化製品は世間様に比べ比較的少ないと思っている我が家を眺めると、テレビ3台(最近替え替えた液晶型1台と子供部屋に各1台)、録画機2台、冷蔵庫(中型3ドア)、洗濯機(1台)、電気釜(1台)、トースター(1台)、電子レンジ(1台)、扇風機(3台)、エアコン2台(内1台は不使用、1台は西日が当たる夕方から少しだけ使用)、パソコン(2台)、シャワートイレ(使う時だけ電源を入れる)、ヘアドライヤー2個、照明器具各部屋に数台、掃除機(2台)、電気鍋1台(冬場に数回使用)、パネルヒーター(寒がりの娘が冬場に使用)などですが、それでも如何に多くの電化製品に囲まれているか、考え込んでしまいました。

高度成長期以降、電機メーカーと電力会社は、お互いにお互いを刺激し合いながら、現在の状態を作り上げてきました。夏冬にボーナスを貰えば、家族の話題や楽しみは、今度はどんな「便利な電化製品」を買うかでした。現在の電化中毒から脱却して、「非電化生活」を送るには、かなりの決意が必要である事は間違いないでしょう。その決意が固まらなければ、ましてや冷房の効いた、昼間っから人工照明が明る過ぎる部屋で、脱原発など口にする権利はない筈です。

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2011年7月16日 (土)

1435 38.8℃!!

わが事務所の昨日の最高温度は、なんと38,8℃を記録しました。冷房は一切無し、夕方からはしっかり西日も当たる、酷暑に最強の?条件なので、この記録も当然でしょう。これに対抗する唯一の武器は、扇風機と首に巻く吸水樹脂が入った冷え冷えバンド?だけです。水分は、暖かいコーヒーを何杯も飲んで補給していますし、ミネラル分の補給は、コーヒー用として山水を汲んできているのでたぶん大丈夫でしょう。念のため時々ですが、コーヒーに塩をふります。暑さに耐えながら、夏場の省エネや冬場の省エネ暖房を考えるのもなかなかに乙なものです。開発中?の水冷座布団は、今週超多忙であった事もあり、残念ながらまだ完成していません。週末に頑張るつもりです。

しかし、この環境は「汗かき訓練」には最適だとも言えます。しっかり暖かい事務所の環境で汗かきの名人になったおかげで、全く熱中症の心配はありません。体温は、昨日も全くの平熱の35.8℃でした。つまり、体が持っている自前のクーラーは、体中の血液温度=体温を3.0℃程はしっかり下げるだけの「冷却能力」を持っている事が日々証明されています。少なくとも40℃を超える事はないこの国で、なんで冷房機なんぞが必要なのか、改めて考えてみる必要はありそうです。過去100年かそれ以上前を振り返れば、たぶん最近の酷暑より、暑い夏もあった事でしょう。しかし、昔の人は小柄で痩せていたので、体重当たりの体表面積が大きい事も幸いして、「暑気あたり」程度はあったにしても、熱中症ごときで死ぬ人などは殆どいなかったでしょう。

クーラーに慣れた人の体表面は、きっと熱を運ぶ毛細血管の密度が少なくなっている筈なのです。短時間校庭にいただけで、バタバタと熱中症で倒れる生徒の家庭は、きっとエアコンがよく効いている事は断言できます。毛細血管の長さは、皮膚表面にせっせと血液を運ばせる訓練をしないと決して伸張しません。汗かき訓練は、最も効果的な「毛細血管伸張作戦」でもあります。

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2011年7月15日 (金)

1434 忙中閑

ここ数日は間が回る忙しさで、2日ばかり投稿もできませんでした。営業活動はしませんが、来た仕事は断らないと言うこの事務所の代表(投稿者の事です)ポリシーの結果です。経営者=従業員ですから、ポリシーには逆らえません。今日はポッカリと自分の事務所で、ブログ三昧が出来そうです。

もうすっかり夏にもなったので、山に向かう算段もしなければなりません。春先は、まとめて休んで、北海道にでも向かおうか、と考えていたのですが、この調子では数回の日帰り登山が「関の山」かもしれませんが・・・。

さて、今回も原発の話題です。今の首相も、原発のフェイドアウトを決めた様ですが、抵抗勢力は党内を含めまだまだ強力でしょう。ハードを建設する企業、それを運用して電力事業を営む企業、その株主、何より電力料金に敏感な企業団体がこぞって、激しい抵抗のノロシを上げる事でしょう。そのたびに、私たちはフクシマの残骸の映像を凝視し直さなければならないのだと思います。残骸は、安易に薄っぺらなシートドームで覆い隠すべきではないのです。それは、醜いものを覆い隠し、さも重大な問題が少し小さくなった事を装う行為に過ぎないからです。フクシマは、広島の原爆ドームと同様、たとえ一部ではあっても絶対に現状のまま保存しなければなりません。

一方、原発を動かし続けたいのであれば、いかなる事態が起こっても、絶対に冷温停止する事を、システムとして保証しなければならないのです。津波想定を見直して、それを少し超える堤防を築いても浜岡が安全になるとは言えません。その堤防を越える津波が来るかもしれませんし、そんな堤防なんぞ打ち砕く激しい津波が来るかもしれません。事実、三陸の湾口堤防の多くが崩壊したではありませんか。津波が、震度6とか7とかの揺れと合わさった事態は、誰にも正確には想定できるはずもありませんし、ましてや完ぺきな対策など立てられるはずもありません。そうであれば、取り敢えずは冷温停止→廃炉が正しい選択でしょう。

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2011年7月12日 (火)

1433 知恵出し

エネルギーの利用目的で、圧倒的に大きな部分を占めるのは、熱利用です。家庭生活だけに限っても、冷暖房、給湯、冷蔵庫、調理などなど。それが冷たいか、暖かいか、熱いかは別にして、最終的なエネルギーの利用形態としては、80%以上が熱だと言っても良いでしょう。工場等では、その割合が50%以下に落ちるのでしょうが、それでも半分程度は熱利用だと想像しています。

その熱(冷熱)を得る手段として、私たちは電気やガスを使っている訳ですが、ヒーターで直接熱を発生させる設備の非効率は論外ですが、多くのケースでは、電気でモーターを回し、ヒートポンプを動かすことによって、温冷熱を得ている事に気が付きます。エアコン、オール電化の給湯機、冷蔵庫がその代表です。しかし、20℃ソコソコの冷風や、30℃以下の温風、或いはたった50℃のお湯を得るのに、エネルギー源として電気しかないのか、電力不足を嘆く前に、私たちは自分たちの知恵の無さを恥じるべきでしょう。地下には、年中20℃以下の地熱?があり、太陽光からは火傷するくらい熱いお湯や、上手く集めれば調理ができるくらいの高熱だって得られるではありませんか。細かい霧(ドライミスト)を吹き出せば、広いスペースの気温を数℃下げる事も容易です。工場や事務所ビルの屋根や壁には、ぜひ遮熱ペイントを塗るか、ある種の苔を植え付けたマットを敷き詰めて、酷暑を乗り切るべきでしょう。

それもこれも、熱を上手く利用しようとする知恵に過ぎません。知恵出しをすっかり忘れて、やれピーク電力が発電量のXX%になりそうだ、等という電気予報やピークカット論議は全くのナンセンスだと言えます。

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2011年7月11日 (月)

1432 ベストミックス

エネルギーのベストミックという議論があります。ちょっと待った、です。何故なら、現状のエネルギー垂れ流し状態のままで、では原発を止めて何で代替するのか、という議論は殆ど意味がないからです。先ずしておかなければならない議論は、私たちは将来、どの程度のエネルギーレベルでこの国を維持していくのかというポイントなのです。当面少なくとも現状の半分以下、最終的には1/4に圧縮したエネルギー使用レベルを目標とすれば、現状4%のエネルギー自給率は、一気に16%に上昇するでしょうし、大規模水力を含めても9%にしかならない再生可能エネルギーも30%を超える事になります。

その上で、やはり7割は輸入に頼らなければならない1次エネルギー源の割合を改めて考えてみなければならないでしょう。原子力を除けば、石炭、石油、LNGの3本柱には、当面頼らざるを得ないでしょう。しかし、その先を見越すならば、この国にも平等に降り注いでいる太陽光と、場所によっては豊富な地熱と、僅かな風力と、それなりのバイオマスを組み合わせて凌いでいかなければならない事は自明です。

取り分け、太陽については、光として、熱として、そして電力として、日中で晴れた日は最大限利用をしていく必要があります。天候の不安定性を考慮すれば、当然何らかエネルギーを一時蓄えて置く仕掛けも欠かせません。つまりは、効率的な蓄光、蓄熱、蓄電、蓄力の仕掛けの開発無しには、化石エネルギーへの依存度が減らせないジレンマから抜け出られないでしょう。続きます。

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2011年7月10日 (日)

1431 猫兄弟

自転車で、数年まえからタダ同然で借りている事務所に通う途中に、田圃道が国道の下をくぐり抜ける低いトンネルがあります。そのトンネルにこの春から猫の兄弟が棲みついています。誰かが時々餌をやっているらしく、痩せてはいますが、何とかこの夏まで生き延びてきました。彼らのサバイバル作戦は、道の真ん中に寝そべって、自分たちの存在を通行人にアピールする事の様です。自転車が来ても、人が来ても決して道を譲りません。狭い道なので、車は通りませんが郵便配達のバイクが来たらシブシブながら道端に移動します。

誰が捨てたのかは知りませんが、彼ら?を初めて草むらで見たときは、ミャーミャー啼いている生まれたての子猫でした。あまりにも弱々しく見えたので、数日で死んでしまいそうにも見えました。しかし、動物のサバイバル能力には感心させられます。何もできない、生まれたての子猫が、どうにかエサにありつき、冷たい雨をしのいで、しぶとく生き抜いてきた訳です。毎朝、彼らの顔を見るたびに、なにやら小さな感動の様なものをもらいながら、その日の仕事を始めます。

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2011年7月 9日 (土)

1430 脱原発=脱電力

脱原発は間違いなく脱電力を意味します。1970年代、この国の電力(エネルギー)使用量は、現在のほぼ半分でした。その後盛んに建設された原発の恩恵を受けた形で、私たちは潤沢に電力が使える国になった事は疑いありません。その原発を止めると言う選択は、つまりはエネルギー的には結局1970年代レベルの電力供給量への逆戻りを意味するのです。

原発を古いものから順次停止し、最終的に原発が無くなった場合を想定すると、どのような道筋で考えても、これに代わる太いエネルギー源は出現しそうもありません。例えば、核融合も、開発が始まって50年近く経つような気がしますが、今でもやはり「夢のエネルギーのまま」です。太陽光発電は晴れた日にしか当てに出来ませんし、風力発電などは殆ど突っ張りにもなりません。雨がたくさん降っても、数時間か数日で海に流れ下る短い川しかないこの国では、水力発電も既に飽和に近いでしょう。

結局、私たちは1980年代、90年代を通じて手に入れた、シャレた電化製品どもを、順に一つずつ処分していくしか方法はなさそうなのです。では、何を最初に捨てるかですが、それは新しく開発された順序という事になります。何故なら新しいものほど電力を食う様になっているからです。例えば近年大量に作られる様になったエアコンより、古い発明である扇風機の方が、電力を食わない事は自明です。何故なら、扇風機は電力があまり潤沢でない時代に開発された製品だから当然なのです。同様に、見上げる様に背が高く、引き出しが10個もあり、省エネを謳っている大型冷蔵庫より、小型でドアが2つしかない可愛らしい冷蔵庫の方が、電力を使わないに決まっています。1970年代の生活の方が、質素だけれど夢があって楽しかったような気がするのは投稿者だけではない筈です。

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2011年7月 8日 (金)

1429 エネルギー・チューニング

これまでも、このブログで何気なくエネルギー・チューニングという言葉を使ったかもしれませんが、ここで改めてこの言葉を定義しておきます。チューニングとは、例えばラジオ(今はあまり聞かれていない様ですが…)で選局し、一番受信状態が良い状態に微調整する事を指しますが、同じ考え方はエネルギーに関しても適用できます。ラジオのチューニングは、抵抗RとバリアブルコンデンサCで、RC等価回路の容量を変える事によって、電波の持つ周波数と同調させて最大の「信号」を得る行為ですが、エネルギーにおけるチューニングとは、最少のエネルギーで最大の「仕事(効果)」を得る事を指します。

例えば、冷暖房で言えば、より少ないエネルギー(多くは電力ですが)を使って、最大の体感温度の変化幅(夏はより涼しく、冬はより暖かく感ずる)を得る事と定義できます。一方、モノづくりで言えば、より少ないエネルギーで、最大の生産効率を得る事を意味します。しかしながら、数十年前のオイルショック以降、あまりにも安易に使われて続けている言葉、省エネルギーという言葉や行動には、この意味合いはほとんど含まれていません。今使われている意味での省エネとは、誰も居ない場所の電灯を消し、アイドル状態の設備の元電源を切る、冷暖房温度の設定をチマチマと見直す等、いわばケチケチ作戦、勿体ない作戦の延長に過ぎません。

そうではなく、エネルギー・チューニングの考え方では、ある量のエネルギーを使って得られた効果を、何らかの方法で測定・評価しなければなりません。冷房設備では、運転によって得られた体感温度の低下度(℃で表す事にしましょう)を、消費されたエネルギーで除してやれば、単位エネルギー(kw)当たりの体感温度の変化、即ち(℃/kw)という指標が得られます。これを最大にする設備が、エネルギー・チューニングという意味では最良の設備という事になります。さらに時間のファクターを入れれば、効果量とエネルギー量になります。体感温度のファクターは、なんと6個もありますので、冷房温度(室温)或いは移動熱量だけで省エネ性能を評価している今の基準は、全くの片手落ち基準だと言えます。続きます。

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2011年7月 7日 (木)

1428 省エネマジック

照明に関する省エネ対策で、お金も掛からず、確実に効果の上がる方法は間引きです。40+40wの2灯式蛍光灯が10本常時点灯している事務所で、隅か書棚かコピー機の真上の1本を間引けば、照明電力については間違いなく10%の省エネになります。望ましくは、1本ごとに間引き、半分にすると50%の省エネになりますから、年間数万円の電気代が節約できる皮算用が出来ます。その結果、それまでは例えば800ルクスあった照度が、500ルクスかそれ以下になったとしましょう。ほとんどパソコンだけで仕事をしている人ならば、これでも何も困る事はありません。もし職場に、常に書類をプリントアウトし、書類をチェックできない古いタイプの上司が居れば、やや困りますが、その場合はその上司に20wの蛍光灯スタンドをプレゼントしましょう。これを点灯させれば、瞬間的に机上の照度は1200ルクス程度になり、老化でやや視力が落ちた彼(彼女)も大喜びする事請け合いです。

浮いたお金で、超省エネのCCFL(冷陰極線管=液晶テレビなどのバックライトとして多用されている蛍光灯です)や無極灯(中国発の新型省エネ蛍光灯です)をいくつか買って取り付ければ、さらにお金が浮きますので、他の省エネ投資ができる事になります。

これを繰り返せば、知らぬ間に照明に関して言えば、電気代を現状の1/3-1/4に圧縮する事も可能です。結局、新たな元手は出していませんから、省エネメリットだけで新たな省エネ投資が出来た事になります。無から有を生み出す、まるで手品ですね。

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2011年7月 6日 (水)

1427 環ビジ82(磁気冷房)

磁力を使ってなぜ冷やす事が出来るのか、ちょっと聞くと不思議な感じがしますが、古くからまじめに研究されています。特に、超電導磁石を利用して極低温を得る世界では、かなり研究も進んでいるようです。ただ、超電導を得るのに極低温が必要という自己矛盾故に、技術の進展はボチボチの様です。そこまでいかなくても、例えば非常に小型でソコソコの温度(言えば10-20℃及び30-35℃くらいです)を得る事が出来れば、温暖化ガスであるフロンを使わないパーソナル冷暖房が見えてきます。

原理は比較的簡単で、磁石の磁区がバラバラの状態(全体としては磁力が無い状態)で吸熱させると、電流を流すなどの方法で、この磁石を一方向に磁化した場合、放熱反応が起こります。このサイクルを繰り返すと、さながら冷媒を使ったヒートポンプの様に熱の移動が可能になります。冷凍(冷房)サイクルを逆転させれば、発熱を伴う暖房サイクルとなります。

例えば、机の横に置ける程度に小型化するか、さらにはこれを身に着ける程度に小さくでき、出来た冷熱を小さなパッドに導いて、体の必要な場所(例えば額や首筋や背中など)を少し冷やす事によって、体感温度を確実に下げる事が可能になります。

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2011年7月 5日 (火)

1426 エネルギーの呪縛

あるモノへの依存度が高まるという事は、そのモノに束縛される事を意味します。例えば、車に頼れば頼るほど、車無しの生活は考えられなくなるでしょう。電気エネルギーに関しても同じことが言えます。私たちの日常生活も、いまや電気無しにはほとんど考えられなくなっています。

さて、北アルプスのど真ん中に、文明から隔離されたような小さな湿地、「高天原」があります。ここに入るには、どのルートからも途中で一泊しない事には辿りつけません。高天原にはテントを張れないので、山小屋はありますが、冬季には3mを超える積雪のため、小さくて頑丈な一軒の山小屋がポツンと建っているだけです。当然の事ながら電気は通っておらず、自家発電機もないので、夜はランプしか灯りません。一生に何回もは行けない場所ですから、その時はランプ生活も情緒があるなあ、程度しか感じられませんでしたが、これが毎晩だったらどうでしょう。

現実の生活はと言えば、パチッとスイッチを入れれば、明る過ぎるほどの蛍光灯が点灯し、エアコンや、扇風機も動きます。洗濯機も、掃除機も同様です。それどころか、各種のリモコンが手元にあれば、一歩も動かなくても用が足ります。

エネルギーへの過度の依存は、エネルギーによる呪縛をますます強めます。たまに、手洗いで洗濯をし、ホウキやハタキや雑巾で掃除をしてみれば、自分の体で作ったエネルギーを実感でき、エネルギーからの呪縛が弱まって少しはホッとできるはずです。自転車で移動して汗をかいても同じ感覚が得られるでしょう。

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2011年7月 4日 (月)

1425 中古原発

アメリカの技術を何の疑いもなく導入して追随し、原発先進国の仲間入りを果たしたこの国では、既に30年を超えて使われている原発がほぼ3割(19基)に上っています。さらに危ない40年越えもいくつか存在します。元技術屋の立場から言えば、古い原発にはいくつかの事故の懸念が付きまといます。その原因の一つは、金属の腐食です。金属の腐食は、実は目には見えないレベルで始まります。金属結晶の境(粒界)に水素が侵入して始まる「水素脆性」がその代表です。これは、運転中より、むしろ定期点検などで停止し、冷えている時にこそ進行しやすいとも言えます。暖まっている時には、水素はあまり悪さをしないからです。

もう一つの原因は、金属の疲労です。金属疲労の進展には、振動等の繰り返し応力によるものがありますが、加えて熱応力による疲労も加わります。数年前H岡原発で見た、振動による疲労破壊で吹き飛んだタービンの羽根の残骸は、深く投稿者の心に刻まれています。人の背丈ほどもある金属の羽根が、高速で回転中に遠心力で飛ばされた時の衝撃力は、想像するに余りあります。

金属腐食や金属疲労は、原子炉本体だけの問題ではありません。網の目の様に張り巡らせた大小の配管、計測機器のための枝管など、長さ何十キロにも及ぶ配管の健全性を、どの様に担保するのか、途方に暮れてしまいます。中が単なる水や蒸気であれば、漏れが見つかってから、その系統をシャットダウンして修理すれば済みますが、放射能を帯びた蒸気や液体が漏れ出す事故に関しては、その被害の甚大さは、とても火力発電所事故の比ではありません。とりあえずは、この国の古くなった3割の原発は、どのような道筋で考えても即時停止し、残りの原発の安全性にも二重三重のチェックを掛けるべきでしょう。

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2011年7月 3日 (日)

1424 省エネ騒動

「趣味も仕事も省エネです。」と冗談でふれ回っていたら、本当に仕事としての省エネ指導が忙しくなってきました。ここにきての、休日シフトも加わり、環境経営の審査という仕事も加えれば、環境屋として立派にメシの食えるありがたい時代にはなりました。企業を卒業する時に、頭に描いたのは、晴れた休日には(自営業ですから仕事の無い日は休日です)山に向かって、思う存分山を歩き回って満喫する夢でした。しかし、この省エネ騒動です。今年の夏も、その夢は見事に裏切られてしまいそうです。

ところで、この国の人々は、カチカチ山の狸をご先祖様に持つ人が多いためか、尻に火がついてから走り回るのを常としているようです。前のオイルショック騒動の時にも同じ事が起こりましたし、その後の何度かの金融(為替)・経済騒動でも、そして今回の原発停止騒動でも、右往左往しているだけです。無いものは、何とか工夫して「無しで済ます」覚悟さえ決めれば、飢え死にする時代でもないでしょうから、事態はどうにか乗り切れるはずなのです。エネルギーが足りないのなら、使えるエネルギーだけで乗り切る工夫を集めれば良いのです。工夫の種類はそんなには多くありません。全て挙げても、替える(代替エネや代替法に切りかえる)、止める(当分あるいは今後は無しで済ます)、減らす(回数や運転時間や回転数を減らす)、くらいで十分でしょう。それに加えて、しっかりメンテナンスを行っておけば、機械や設備は新品とあまり変わらない性能を維持してくれるのです。ドロドロの状態で機械や設備を酷使しておきながら、電力が切迫してから慌てて省エネ対策に走り回る姿は、やはり「ドロ縄」という言葉や「ドロ舟に乗った狸」を連想させます。

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2011年7月 2日 (土)

1423 脱電

原発停止に伴う、電力需給のひっ迫は、定期点検明けの原発に対しての地元自治体の慎重な姿勢によって、ますます長引きそうな形勢です。であれば、企業は自前の電気(自家発電、望ましくは太陽発電を含む)に走るか、或いは徹底的な節電に取り組むしか道はなさそうです。投稿者としては、ここで脱電というもう一つの道を提案しておきたいと思います。これまでも、このブログでは度々「脱エネ」については書いてきましたが、ここではもう少し的を絞った「脱電」について書いてみます。節電と脱電が異なるのは、全社が電力の使用を前提として、その節約を考えるのに対し、後者は電気以外の方法を出発点とする違いがあります。

電力を、電気のまま(電流として)工場などで直接的に使っている例は、実は結構少ないのです。例えば、電気メッキや電子機器のコントローラ部分(例えばNC機械など)などしか思い浮かびません。では照明はどうかと突っ込まれても、電灯は電流を光エネルギーに転換して使用しているのであって、昼間から何故わざわざ電灯など点けなくてはならないのか、電気の不便な国の人々はとても不思議がるでしょう。電力の多くの部分は、モーターを回して機器を動かすか、空気を圧縮するか、油圧を発生させてより大きなパワーを得るか、或いはヒーターを加熱して炉を熱するかなどに使われているはずです。

しかし、例えば空気を送るのにモーターで送風機(ブロア)を回すしか方法がないのか、或いは圧縮空気を作るのにやはりモーターに頼るしかないのか、じっくり考えてみれば、別の答えも見つかるはずなのです。たとえば、真っ黒に塗った鉄の煙突があるとして、ここに太陽光が当たると煙突内の空気が暖まって強い上昇気流が生まれます。これに、ダクトをつなげば「太陽熱ファン」が誕生します。晴れた日には、動力は一切不要です。例えばプロセスで余った蒸気を上手く減圧すれば、タービンを回して空気を圧縮する事も可能です。つまり、電気に頼る割合を減らせば、節電ではない脱電が現実のものとなるでしょう。

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2011年7月 1日 (金)

1422 分散型エネ2

分散型エネルギーのもう一つの条件として「必要な量を、必要な形で、必要な場所で得る」が挙げられます。余分に手に入れたエネルギーは、苦労して溜めておくか、さもなければ捨ててしまわなければなりません。車の発電機は、必要以上に電力を起こしていますが、バッテリーが満タンになると、仕方がないので抵抗に電流を流して、熱の形にしてから捨てています。その元はと考えれば、エンジンが動いて作り出したぜっかくのパワーの一部ですが、勿体ない話です。

系統連携をしない独立した太陽光発電も似たような形になるでしょう。つまり、夏の盛りの日中に、力強い太陽光でタップリ電力を作っても、エアコンと冷蔵庫で使ってしまった残りは、熱に替えてお湯として溜めておくくらいしか使い道がなさそうです。バッテリーがあれば、少しは溜めて置いて夜間の電灯くらいには使えるでしょう。

しかし太陽光の最も効果的な利用形態は直接熱に変える事です。簡単な仕掛けの「太陽熱温水器」があれば、一家の入浴に必要な熱エネルギーを確保できます。少し大きなものを準備すれば冬場の暖房にも使えます。一方夏期に太陽のエネルギーを蓄え、利用するのに有望な一つ方法に、デシカントがあります。つまり、太陽光を使ってデシカントを十分乾燥させておけば、湿部屋の空気をしっかりと除湿できますから、蒸し暑い日本の夏には有効です。もし、少量の霧を発生させる加湿器を使えば、水の気化熱により気温を下げる事も可能です。

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2011年6月30日 (木)

1421 分散型エネ

代替エネは、再生可能型エネでもあり、結局は太陽光が形を変えたものしか利用できません。例外的には、もちろん地熱(地球が元々持っていて、地表に出てくる熱)などもありますが、利用できる場所がかなり限定されます。

もちろん太陽光は膨大で、地球上どこでも入手可能ですが、残念ながら広く薄く(最大でも1kw/㎡程度に)分散しているのが難点でもあります。従って、1ヶ所だけで原発1個分の100万kwなど言う巨大な太陽光発電所などというものは、全く意味を持たない事になります。それは、勝手に想定すれば、一辺が数kmにも及ぶ広大な面積を有する発電所になりますから、海の上にでも作らない限り、とても現実味がありません。

結論とすれば、代替エネは、自動的に分散型エネにならざるを得ないという事になります。それも、究極的な姿としては、需要家が個別に設置するのが理想です。問題は、その発電システムを系統と連携するか否かですが、連携しない場合には高性能の蓄電池などが必要となります。雨の日が続き、電池が完全に放電した場合に備えるならば、バックアップの仕掛けも必要でしょう。ですから、現在の便利さのままで、代替エネの解を求めようとすれば、結局はバカ高いシステムとなりそうです。そうではなくて、太陽光からエネルギーが得られた日はラッキーで、曇りや雨の日は何らかのエネルギーのストックを伴う別の手段を工夫するか、それも手に入らない日は、さっさと寝てしまう、などという割り切った考え方に立てない人は、しかたがありませんので高いお金を支払っていただく事になります。それを「便利コスト」や「便利税」とも呼びます。

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2011年6月29日 (水)

1420 代替エネ

原発と火力発電に代わる代替エネを考え続けています。水力は、多くの日本の短い河川では、上流部や狭い用水路などに設置する、ごく小型のものを除けば、開発しつくされた分野だと言うしかなさそうです。とは言いながら、人影がメッキリ減ったしまった山里などでは、まだまだ潜在力はあるかもしれません。もし、非常に小規模で、需要家のすぐ近くで発電を行うなら、まだかなり潜在力はあると言い直しても良さそうです。

同様に、電力の需要を電灯や限られた電子機器の利用だけに限定し、その他のエネルギーをバイオマスの熱利用への依存度を高めるならば、これも間伐材などのバイオマス資源の入手が容易な地域では、エネルギーの転換は比較的容易だと考えられます。

エネルギー転換で、最も厄介なのは、実は交通・運輸に掛かるエネルギー源だと言えるでしょう。皆が切り札と頼んでいた電気自動車に、電力削減という大ブレーキが掛かってしまった今、今後長い期間に亘って、私たちの石油への依存度が小さくなることはなさそうです。という事は、T社やN社やM社など自動車産業で反映を築いた企業には、ぜひ石油と電力に頼らない輸送手段を、まだ石油がある内にそのインフラが構築できるように、急いで開発して貰いたいのです。水素自動車も良いでしょう。でも、その水素をガスや石油を改質して得るとい言った途端、その技術はニセモノに陥ります。前の石油ショックの直後には、太陽光と触媒を使って、低い恋率ながら自ら直接水素を分解すると言う技術もあったはずなのです。その研究者や、研究室で学んだ学生は、一体どこに消えたのでしょうか。

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2011年6月28日 (火)

1419 環ビジ81(何でも環ビジ?)

環境ビジネスとそうでないものの境界はあいまいです。誰も自動車産業や電力会社が「環境ビジネス」であると主張する人は居ないと思いますが、では、車が木や竹や少量の金属で出来ていて、動力は人力も使いながら、太陽電池で走るものであったら、或いはある電力会社の電源が、100%自然エネルギーである(つまりは太陽光や、風力や水力で発電している)場合はどうでしょう。その企業は、一応環境ビジネスを展開していると主張しても、そんなにおかしくはなさそうです。

それはそうなのですが、投稿者はもう少し厳しい条件を要求したいのです。それは、何度も書きますが、「持続可能性」という物差しに照らして、「可」とするか「否」とするかという視点です。太陽光発電パネルに使われている希少元素(例えばシリコンやゲルマニウムなど)が、持続的に入手でき、寿命が尽きた太陽電池が100%リサイクル可能なものであるならば、確かに可と言えるでしょう。しかし、それが新たな資源枯渇や廃棄物の山を残す技術であれば、その有益性の如何に関わらず「否」と断ずるしかありません。

技術が未熟で、持続可能性に照らしては×か△ではあるけれど、現在の技術よりは環境負荷が大幅に小さくできるなら、とりあえずは「準環ビジ」と呼んでおいて、来たるべき時代には本物の環ビジに置き換わるもの、というカテゴリーに放り込んでおくしかしかありません。ハイブリッドカーや電気自動車などは、もちろん準環ビジでも何でもない、と切り捨てるしかないでしょう。

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2011年6月26日 (日)

1418 脱エネ3

省エネルギーを指向し、実行しているという企業によく出かけます。しかしながら、現場を眺めていつもがっかりします。精々、壁のあちらこちらに、「節電励行」や「冷房温度は28℃」などの「標語」がベタベタ貼られている程度の取り組みしか目につきません。この国では、多くの企業で水と空気と目に見えないエネルギーはタダか、無視できる経費だと思われているフシがあります。

そうではなくて、たとえ月数万円しか省エネメリットを生み出せなくと、その数万円の純利益を生み出すために、一体いくら売り上げを伸ばさなければならないのかを考えれば、経営者でなくとも省エネの重要性が分かるはずです。つまり、逆から考えると、エネルギーを垂れ流すということは、そのコストを稼ぎ出すために、本来作らなくとも済んでいた製品や、不要なサービスを、余分に提供する必要があるという事にもなります。

脱エネの基本は、決してささやかな省エネ行動であってはなりません。まずは本当に必要なエネルギーだけを積み上げてみて、それが結果として現在のエネルギー使用レベルから何割か減っている、というアプローチが必要となる訳です。その際、現在の設備や工法ありきで考えてならず、オイルショックを経験した先輩たちが、30-40年前にはどう工夫をしていたのかを、改めて学んでみる必要があります。モノやエネルギーが十分ではなかった時代ほど、それを上手く使うワザを磨いていたはずなのです。

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2011年6月25日 (土)

1417 酷暑

暑いです。というより熱いです。一昨日に輪をかけて昨日は暑かったようです。投稿者はといえば、冷房の無い事務所で、熱いコーヒーを飲みながら、ひたすら発汗能力を鍛えています。汗腺の発達は、実は生まれてから3か月間晒された気温で左右されます。つまりは、夏に生まれた人は汗かきが上手く、寒い冬に生まれた人は、寒い時期の体温維持が得意なのでしょう。

では、夏場に生まれながら、冷房の効いた部屋で育てられた赤ん坊の将来はどうなるのでしょうか。言わずもがなですが、彼らは熱中症予備軍になります。高齢者に熱中症患者が多いように、汗かきが下手な彼らは、夏場に短時間屋外で活動しただけで、簡単に熱中症に負けてしまうはずです。もちろん、先天的に汗腺の発達が未熟でも。水分をしっかり取りながら、しっかり汗かきの訓練をすれば、貧弱だった汗腺もそれなりに鍛えられるでしょう。

もう一つの要素は、毛細血管の発達です。毛細血管は、いわば生体のラジエータです。温度変化の少ない環境に馴染めば、これは急速に退化します。暑さ、寒さで鍛えられた場合にのみその長さを延ばす訳です。さて今日も「ひとり我慢大会」を開催するとしましょうか。

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2011年6月24日 (金)

1416 脱エネ2

この国では、全ての順序が逆転しているのではないかとの錯覚にとらわれる事があります。今俎上されている増税論議にしても、先ずは事業仕分けや(天下り等の)無駄な人件費とカットなどでの歳出圧縮がありきだったはずなのに、何回かの「仕分けショー」で誤魔化されているうちに、いつの間にか増税の幅と実施時期に論点が移ってしまいました。

エネルギー問題についても事情は全く同じで、遠い将来に自然エネルギーの割合を何%するか(したいか)というリーダーの想いはさておき、先ずは原発がなかなか動かないこの夏を、或いは今後の数年をどう乗り切るかを、額を寄せて考えなければならない時だと思うのです。歳入不足は、毎年多額の借金で埋め合わせをしながら何とか国を動かしてはいますが、電力はごまかせません。デマンドが発電能力を超えた瞬間に大規模停電が現実のものになるでしょう。夏場のデマンドで問題になるのは、間違いなく猛暑日の冷房負荷による電力ピークでしょう。人々は、耐え難く蒸し暑い職場で作業を続けるため、死にそうな屋内で熱中症にならないためについついエアコンのスイッチに手が伸びます。

しかし、順序は逆で、職場や住宅を快適にするためには、先ず建物自体の断熱や遮熱にお金を使うべきだと考え直すべきでしょう。コンクリートの建物は暖まりにくく、冷めにくいので、外断熱工事を施せば、最小限の冷暖房負荷で快適に過ごせるはずです。同じく、薄い鋼板やスレートで葺かれている多くの工場でも、屋根に断熱材が入った屋根材を乗せるか、遮熱シート、遮熱ペイントなどで「武装」すれば、真夏もより少ない冷房エネルギーで乗り切れるはずです。冷暖房に関して言えば、先ずは断熱・遮熱工事を考える事こそ、全てに優先する「脱エネ行動」なのです。不要な電灯や設備のスイッチをこまめに切る程度のささやかな「省エネ行動」では、今後の夏は間違いなく乗り切れないでしょう。

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2011年6月23日 (木)

1415 夏至

昨日は夏至でした。今頃は、沈まなくなった太陽が北極点を24時間照らし続け、すっかり浮氷のすくなくなった北極海を暖めますので、この夏も北極海にはたっぷり太陽熱が蓄えられるでしょう。北極海が暖まると、南からの湿った高気圧が、より高い緯度まで押し上げられ易くなるため、この夏もここ数年と同じパターンで猛暑日が頻発するのでしょう。そういえば昨日も早速、多くの地域で今年最初の猛暑日の洗礼を受けたようです。

以前にも書きましたが、投稿者はもう一つの温暖化効果ガスとして「水蒸気」を疑っています。つまり、温暖化が進むと、中緯度地域の「平均的湿度」が上昇し、その結果として太陽からの熱を大気中に抱え込むという筋書きです。何しろ、水蒸気こそ最強の温暖化効果ガスですから…。日頃実感できるように、この季節で湿度が高い日は猛暑日や熱帯夜になる事も多いのです。

さて、相変わらず、扇風機しか夏を乗り切る武器の無いこの酷暑の事務所で、どうすれば蒸し暑い日本の夏を、エネルギーを使わないで涼しく過ごすか、額に大汗をかきながら考える毎日です。今年のささやかな追加武器は、水で濡らして首に巻く、「ひんやりジェル」です。紙おむつに入っている樹脂を、目の細かい筒状のスカーフに詰めたもので、300円を少し超える程度のものを2個仕入れました。1個は首に、もう一つは鉢巻きにして額を冷やします。なかなかに快適です。でも考えてみれば、紙おむつ1枚とハンカチが何枚かあれば、何個でも同じものが作れるのでした。もう一つの武器として工夫しつつあるのが「水冷座布団」ですが、省エネ指導で毎日忙しく走り回っているため、まだ完成していません。

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2011年6月22日 (水)

1414 汚染水処理

放射能汚染水の浄化処理が進んでいない様です。彼らの見通しや計画は全く甘いと、言うしかありません。何故なら、浄化すべき汚染水の性状に不明な点がいくつもあるからです。原発のシステムには、かなりの油圧装置や機器も組み込まれているでしょうから、それらのシステムが水没した結果、かなりの油分も漏出したでしょう、津波の海水と同時に中身の分からない泥や有機物も流入したはずです。メルトダウンによって、金属や非金属が融けると同時に微細な粒状になって飛散し、再度水に混じった事でしょう。そんな訳のわからない危険な泥水を、緊急で輸入した単純な仕掛けで浄化できるとは、投稿者の様な素人が考えても大きな無理がある事が分かります。

やるべき事は、緊急に新品のタンカーを船主から譲ってもらい、それに真水を積んで原発の岸壁に横付けさせることです。真水は、今後の原発の冷却に使います。今溜まっている泥水は、取り敢えずは、空いたタンクに収めれば良いでしょう。タンカーの中の汚水の処理技術は、今後数年かけてじっくりと開発すれば良いのです。今のタンカーは、完全な二重底構造となっているので、そこにも水を入れておけば、放射能だってほとんど外には漏れないはずです。

タンカーは50億円も出せば、善意の船主が譲ってくれるはずです。なんならエンジンなどは無くても良いでしょう。船上には人も住まないので居住区も不要で、タンク部分だけの箱でも用が足りますから上の半額くらいでも十分間に会うでしょう。今あわただしく、バタバタと深く考えないで打っている方策、例えばチマチマと細かく作った汚染水タンクやバカ高い輸入浄化装置、ほとんど効果のない建屋への布カバーなどに費やしている費用に比べ、なんと安上がりな事でしょう。世界中を鐘や太鼓を叩いて回れば、1-2週間の間には、タンカーを横付けできるでしょう。今まさに、汚染水が溢れ出し、海へ流れ出す前夜の状況なのですから、まずはきれい事で遠い将来のグリーン電力買取法案などは放っておいて、緊急行動ありきでしょう。

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2011年6月21日 (火)

1413 脱エネルギー

前首相の、大幅な原発へのシフトを前提とした、CO225%削減という国際宣言は、原発の爆発と同時に霧散しました。しかし、逆に新たな原発が作れない事態に至ったという事は、今後既設の原発もどんどん「高齢化」することを意味します。もちろん原発の減った分、省エネルギーに励めば、ほぼ自動的に上の目標に近い数字が出るのでしょうが、今後火力発電や自家発電が増える様であれば、目標はさらに遠のくのでしょう。震災後、今の首相が言い出した太陽光発電の大幅拡大だけでは達成できない事は明白です。何故ならこのシステムは、雨の日、曇天、夜間には全く力(パワー)が出せない本質を持っているからです。

そこで、脱エネです。前のオイルショック後や、京都議定書の枠組み以降のキーワードは、「省エネルギー」(によるCO2削減)でしたが。このたびの原発事故以降のキーワードは、脱エネルギー(脱エネ)でなければならないのです。さもなくば、絶対に脱原発も見えてこないからです。脱エネは、別の言葉で言えば、脱化石エネ、脱原子力を意味しますが、さらに言えばそれは脱電力に向かわなければならない、と投稿者は予言しておきます。

電力は非常に便利で、有益なエネルギーですが、自然界ではすこぶる手に入れにくいエネルギーの形態でもあるからです。電気ですぐに頭に浮かぶのは、精々電気ウナギか雷さんくらいです。手に入れにくいという事は、その元となるエネルギー源、つまりは化石燃料や核熱反応や太陽光などから、電力を取り出すには、多大な犠牲(廃熱や変換ロスの事です)を払わなければならない事を意味します。その貴重な電気を使って作った熱で、風呂やお湯を沸かし冷暖房や調理を行うオール電化に事故後強い逆風が吹いたのは、全く自然な成り行きだと言えるでしょう。

脱エネには、熱は熱としてエネルギー源から必要で十分なだけいただき、電気は照明やテレビ程度に留め、人力を最大限活用し、先人の暮らしの知恵や工夫を最大限現代風にアレンジしてモノを製造し、暮らしを立てる必要があると思うのです。このタイトルは重いので今後何度も書き続けます。

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2011年6月20日 (月)

1412 感性

数名のT山大学のゼミ生に、「ペレットストーブ」の何たるかを話す機会をもらいました。彼らは工業デザインの実習として、数か月を掛けてストーブのデザインをするのだそうですが、話をしていて感じた事がありました。それは「感性」についてです。消費者が欲しいと思う製品を実現するのが設計者ですが、技術屋が「理窟」で形を決める場合、まちがいなく機能一点張りで味気の無い製品が出来上がります。何故なら、多くの技術屋には感性が欠けているものだからです。元技術屋の投稿者が言うのですから、これほど確かな事はありません。感性が十分に豊富か、或いは感性だけの人はきっと芸術家か芸人?になるのでしょうか。工業デザイナーは、実はこの両者(理屈と感性)を高いレベルでバランスよく持っている必要があります。

その意味では、その様なタレントに恵まれた工業デザイナーは、結構少ないのではないかと想像しています。それが証拠に、デザインが良くて、機能も優れていて、ぜひ購入してこの手に取ってみたい電化製品や道具や車などのなんと少ない事でしょう。少なくとも投稿者は、ここ10年くらいはそんな経験が無かったような気がします。最後の経験は、たぶんDイソンが作ったサイクロン式の真空掃除機でしょうか。売値が結構高かったので、店頭で触って満足してしまいましたが・・・。その後、日本の才能のない?えせ工業デザイナーたちが、それをすぐコピーした事は記憶に新しいところです。

工場の設備にすら今や「工業デザイン」が取り込まれつつあるのは、喜ばしい事です。つい触って動かしてみたくなるような、旋盤やマシニングセンターや油圧機械があると、味気ない工場の作業にも潤いが出るかもしれません。世の中の、技術屋=設計者には、ぜひ多くの芸術作品や良い音楽などを鑑賞してもらい、少しは感性を磨いてもらえば、世の中にはもっと楽しい製品が増えてくるのかもしれません。

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2011年6月19日 (日)

1411 夢の跡

昨晩は奈良泊まりでした。1300年祭も終わって、またしっとりした街に戻ったような気がしました。朝食前に時間があったので、宿となった施設の裏手の丘に登ったところ、何やら遊園地の様な施設の横に出ました。看板を見ると「XXドリームランド」と書かれていましたが、今は草ぼうぼうの廃墟となり果てていました。スクラップとして売れる遊具や観覧車はとうに取り払われたらしく、残っているのは木製のジェットコースターの土台程度でした。まさに「夢の跡」です。しばらく眺めていたら、これは実は「20世紀(或いは昭和)の遺跡」ではないかと思えてきました。日常では感じる事が無い、何Gかの大きな加速度の体験をさせるアトラクションは、今はさらに過激になったのかも知れませんが、毎日馬車馬の様に忙しく働いて、たまの休みには通園地などで「非日常」を体験するという、20世紀(昭和)型のレジャーの終わりとも感じました。

何故か、空を見上げて別の連想もしてしまいました。大枚の国費と人材を使って、宇宙ステーションでゼロに近いGを、数人の宇宙エリートだけに体験させているのも、やはり20世紀型の「国威高揚」型事業の一つの形に他ならないとも感じたのでした。このいずれも、1.0Gの地表では日常は体験できない重力でしょうし、戦闘機乗りか宇宙飛行士でもない限り、特別高いGの訓練や体験などは不要でしょう。どの様な道筋で考えても、私たちは1.0Gの世界に適応して進化してきたのでしょうし、これからも生きていかなければならないはずです。夢の後は、地に足を付けて「地道に生きていく」決心が必要です。遊園地の廃墟からの変な連想でした。

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2011年6月17日 (金)

1410 P to P

現在の物流システムに関して日頃から感じている事があります。それは、今の物流の大きな部分が、ハブ&スポークタイプになっている事に対してです。もちろん、一部の部品メーカーと組立工場の間には、直行便が仕立てられていますが、残りの大多数は、高速道路のインター近くに作られた「物流センター=ハブ」に一度集荷され、そこから行先別に仕分けされて、地域への配送するシステムでおこなわれています。個別配送には、もう一段くらいの集配のサブシステムが存在する場合もあるでしょう。

もちろん、効率が高いのはPoint to Pointでの配送です。これは、出荷する場所から、最終的に配送する場所へ直行便を仕立てるものです。現在の様な、小分けされた貨物を、チマチマと毎日配送するには、たぶん今のシステムが向いているのでしょうが、単位貨物重量当たりの配送燃料使用量という指標を導入した場合、非常に無駄の大きなシステムだとも言えます。

考えてみれば、毎日配送するから貨物が小分けになるのであって、1週間分、2週間分をまとめるならば、直行便を1便仕立てるに十分な量の貨物になるでしょう。できれば、目的地では積み替えをしないで、コンテナ部分を外してサッサと帰りたいものです。その際、その地域からの別の貨物を詰めたコンテナを積んで帰れば、空のトラックも少なくなるでしょう。この国の人々は、いつの間に宅配便やスーパーマーケットなどの量販店の便利さに慣れ過ぎて、たった1週間でさえも待てない気が短い人たちになってしまったのでしょうか。

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2011年6月16日 (木)

1409 国家の重み

お国の重みがドンドン軽くなってきたような気がします。政治家の発言の軽さは、今に始まった事ではありませんが、国の重みが軽くなったのは他に原因がありそうです。まずは、記憶を昭和の時代に巻き戻しましょう。投稿者の記憶も鮮明な高度成長期においては、国が主導する産業振興政策が次々と繰り出されました。大量物流や輸出入に不可欠であるが故の、護送船団方式による造船業振興、高速道路網や新幹線の路線整備、青函トンネルや長大橋の架橋(いわゆる列島改造計画)や、少し遅れて必要性の薄い地方空港や港湾整備も切れ目なく行われたのでした。

かつてのT産省やU輸省は、まさに国の牽引省庁の代表であり、優秀な官僚集団により、国家の裁量権も最大限になったのでした。

これが狂ってきたのは、たぶんバブルの崩壊以降の事でしょう。最早、一国の為替政策だけでは、瞬間的にピクリとしか動かないほど膨張してしまった電子マネーという見えない経済、一方のスーパーパワーの崩壊によって、極端に流動化した国際情勢は、手の付けようもないほどあちらこちらでキナ臭い煙を上げ続けています。いくつかの天変地異や人災も重なりました。人災の留めは9.11であり、天災と人災のコンビネーション極端な例は。今回の震災・津波・原発被害でしょうか。いずれにしても、90年代以降の時代の流れの中で、国の重みは極端に軽くなった事は否めません。その一つの証拠としては、各地の首長の発言の重みは日々強くなっている事が挙げられます。しかし、その一方で力もお金も無くなった国に対しての財政的要請が、日々強くなっている事は皮肉な現象に見えます。

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2011年6月15日 (水)

1408 リスク評価

飲み水、野菜や、お茶の放射能レベルに関するニュースが日々流れています。合理的に考えれば、例えば茶葉の乾燥工程前後で、白黒判定がひっくり返る様な「茶番」は、やはりおかしな話です。基準は、科学的で明確でなければならないのです。

その基準は、先ずは外部被ばくと内部被ばくに分けて考えなければならないでしょう。外部被ばくは一時の事で、環境放射能レベルと、暴露時間の積で評価できます。しかし、内部被ばくは、半減期との関係もありますが、放射性物質が代謝・排出されない限りは非常に長い時間に亘って、被爆が続く事になります。しかも、線源が脳や神経や臓器に非常に近い訳で、当量として考えれば、深刻度は高い筈です。同時に、内部被ばくの原因となる放射性物質は、どのくらいの期間体内に残留するかの評価は非常に重要です。例えば、骨格組織に取り込まれるというストロンチウムは、一体何年間残留し続けるのか、何も基準は示されていません。骨も、破骨細胞が働いて、やがて入れ替わるのでしょうが、その際放射性物質は、何らかの形で再度取り込まれるのか、或いは尿となって排出されるのか、その割合は、などなど疑問点は数多く存在します。

一方、この国には、広島や長崎の大きな犠牲の上で得られた貴重な被ばくデータが存在するでしょうし、スリーマイルやチェルノブイリからのデータも存在するはずです。徒に、何ミリシーベルトであるとか、何ベクレルであるとか、瞬間の放射線レベル値だけを公表して、混乱だけを招くべきではないでしょう。体重当たりの、時間当たりの外部被ばくと、水や食料や呼吸からの内部被ばくの想定量の基準を明確に示して、科学的なリスク評価こそ重視されるべきでしょう。

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2011年6月14日 (火)

1407 回顧と回帰

もし、今の世の中が良い方向に向かっている否か、というアンケートを取れば、この国では過半数の人が「そうではない」と答えそうな気がします。理由は、いくつかあるでしょうが、何より将来に対する閉塞感が考えられます。どうやら、将来に希望が持てない人の割合が非常に多くなってしまったのでしょう。それは何故かをさらに想像すれば、科学・技術の進歩の停滞が目立ってきた事と、逆に負の側面が急浮上した事が挙げられそうです。科学・技術を使って21世紀にやっと間に合ったのは、超小型原子炉で動く鉄腕アトムなどではなく、ギクシャクしながら動く?ハイブリッド車だけだった訳です。宇宙開発では、多額の税金を使いながら、何も宇宙ステーションまで出かけなくてもできそうな、結構つまらない実験を繰り返していたりする訳です。

投稿者は、これらのはしゃいだ事象を「時代の正の振れ」でしかないと切り捨てます。逆に、「負の振れ」には、公害とか温暖化とか原発の事故などが挙げられるでしょう。今日のタイトルの中の「回帰」は、本来あるべき方向へ戻る事を意味します。太陽が、北と南の回帰線の間を往復するように、架空のグラフの上にプロットされる時代や社会の正・負の振れを鳥瞰し、そこに「回帰直線」を引くならば、それが社会の本来あるべき正しい道筋なのでしょう。

間違いなく、今の時代は資源やエネルギーを使い過ぎ、便利過ぎる方向に大きく振れています。流石に江戸時代までには戻れませんが、少なくとも、まだまだ多くの人が「回顧」できる1970年代レベルまでには、少なくとも資源・エネルギーの消費規模の点では、戻る必要がありそうに思うのです。それは、今の丁度半分のレベルにはなりますが、そうなれば原発などは1基も要らなくなるはずです。

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2011年6月13日 (月)

1406 バージョンアップ

このタイトルも、書いてから2回目かな?とも思いました。でも、考えながら書いていくと、たぶん前回とは少し見方も違っているかもしれないので、まー良いか、です。

さて、世の中にはありとあらゆる製品が流通しています。しかしながら、形(デザイン)、機能、耐久性、メンテナビリティ(修理のし易さ)、コストパフォーマンス、質感、最終的な顧客満足度、などなど重要な製品指標を満足できる製品は、ほとんど見当たりません。

それは、新しい製品の開発に追いまくられるあまり、既存製品の「バージョンアップ」を行っている結果である事は明らかです。例えば車です。マイナーチェンジを繰り返すとはいえ、10年を超えて売れ続けている車種は数少ないものです。一方で、T社の戦略に見るように、同じパワートレンを使って、片方の手ではとても数えきれないほどの車種を乱発し続ける例もあります。例えば、10年余り乗って車の寿命が尽きて(実際には20万キロ程度の一応の寿命まで乗る人も希少ですが)、今では車を買い替える時、同じ車種が存続している可能性は非常に低くなっています。

そうではなくて、30年後も十分に時代の要請に応えられるように、不断のバージョンアップを続けるなら、車の決定版が生まれると思うのです。デザインについて言えば、見るたびに新しさを発見する形は必ず存在すると思うのです。人間の頭で思いつかないなら、自然の造形に学べば良いだけです。無駄の無い究極の形は、間違いなく製品ごとに存在するはずなのです。機能に関して言えば、顧客への徹底したアンケート調査で、不満足点や不具合点を掘り出して改善すれば、「ほとんど文句のつけようがない製品」だって完成すると思うのです。世の技術屋は、売らんかなの事務屋の言いなりになって、バージョンアップを忘れてはいませんか?

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2011年6月12日 (日)

1405 環ビジ80(ドライフォガー)

高速道路のSAや夏場のイベント会場では、ドライフォガーが大活躍します。その中に少し長く立っていても、ベッショリとは濡れない程度の細かい霧(ドライフォグ)を出す装置です。細かい霧が、瞬間的に蒸発して消え去る際に、気化熱を奪いますので、気温は数℃下がります。湿度が高い曇りの日にはその効果が減りますが、湿度が高くても晴れた日には、蒸散量が大きくなるので、それなりの効果は期待できるでしょう。

さてそのドライフォガー応用問題ですが、投稿者ならこれを絶対に夏場の節電対策にも使います。具体的には、例えば冷凍機や冷房機の室外機の多くは、空気で冷やされていますが、真夏の熱い空気では、冷却効果も限定的です。したがって、コンプレッサーはフルパワーで回る必要性がある訳です。このドライフォガーを、室外機が並んでいるエリア(多くは直射日光が当たる屋上や庇の上に設置されています。)に設置し、室外機に向けて霧を放出する訳です。数℃気温が下がった空気で室外機を冷やす事により、今までと同じ設定温度でも10-20%の電力削減につながるのです。

増してや、設定温度を1℃控えれば、併せ技で25%削減も見えてくることでしょう。開発して貰いたいのは、小型で水使用量も電力使用量も小さなドライフォガーです。水は毎分1リットルも使えば十分でしょう。これを指向性の高い送風機の気流に乗せて、各室外機器届くようにするだけです。これだと数万円の費用で出来そうな気がしますので、たった一夏の電力削減料金で元が取れそうです。

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2011年6月11日 (土)

1404 薪プロジェクト

三陸のある海岸では、数千本の海岸の松並木が津波でなぎ倒されて、たった1本だけ残ったのだとか。地元の人は、倒れた松をチェーンソーで細切れにし、斧や薪割木で割って「震災薪」として売り出したとか。このニュースを見て二つの事を思い出しました。

一つは、ふるさと秋田の海岸にあった松並木です。それは、並木というにはあまりにも広大で、幅が広いところでは、幅が1㎞ほどもあったような気がします。ある時期、松枯れ病が発生して、かなりの被害が出ましたが、それでも多くは冬場日本海からの厳しいシベリアおろしを防いでくれています。小学校の時に夏休みの宿題か何かで調べたところ、この並木は江戸時代にたった一人の庄屋が全財産を投げ打って植林を始めた偉大な成果なのだとか。それまでは、何を植えても育たなかったこの地方の砂地が、「防砂林」おかげで豊かな農地に生まれ変わった、との感動すべき歴史が見慣れた並木の背後にはあったのでした。三陸の並木にも、ほぼ同じような歴史が刻まれていたと想像すると、やはり倒されたとはいえ、薪にするというのは、地元の人にとってはやるせないものなのでしょう。

もう一つは、その松並木の一部を、畑や宅地にするためとはいえ、戦後のある時期、かなりの面積にわたって伐採したことです。小学校の頃、父親と一緒に、伐採された松をのこぎりで細断し、リヤカーに積んで持ち帰り、冬場の薪として軒下に積んだ事を鮮明に思い出しました。松は、油分を含むので、ブリキで作られた薪ストーブは、側面が真っ赤になるほどよく燃えました。倒れた松は仕方がないにしても、次の世代のためにも、私たちは再度しっかりと植林をしていかなければならないのだと、決意を固める必要がありそうです。

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2011年6月10日 (金)

1403 石徹白(いとしろ)

岐阜県と福井県との県境にある郡上市の石徹白(いとしろ)に行く機会がありました。国道から20㎞位山道を走り、峠を超えると、山里と呼ぶのにこれ以上ふさわしい場所は無いと思われる程の、石徹白地区に入ります。聞けば、ここは「元は福井県」だったとか。平成の(越境)合併で岐阜県になってしまったようです。ご多聞に漏れず、規模の小さな農林業以外産業が少ないこの地域でも、冬のスキー客を期待しての無残なゲレンデ開発が行われていました。

ここを訪問したのは、実はこの場所が「小水力発電のメッカ」と呼ばれる場所だからです。冬季は2mを超える積雪があるこの地域では、豊富な雪解け水が得られ、急斜面を駆け下る小さな農業用水が数多く流れています。その流れの一部を導いて、螺旋型(アルキメデス型?)や昔ながらの上掛け水車がいくつも設置され、回っています。もちろん、それらは木製ではなく、しっかり助成金をいただいて作った鋼鉄製です。

少しさびしいのは、それらが全て「ささやかな発電」しか行っていないという事実です。かなり大がかりなものでも、家1軒分の電力をまかなうのがやっとです。そうではなくて、投稿者などは「水力」を本来の力や熱源として多面的に利用する方法もありそうに思うのです。かなり昔になるでしょうが、ご先祖様たちは水車小屋で作った動力を、脱穀や製粉や鍛冶仕事、少し大がかりなものでは製材などに利用していたはずです。力を熱に転換すれば、ほぼ100%の効率が得られるでしょう。ならば、水車で水の中の摩擦板を回し、熱に変えるなどの仕掛けを使えば、雪深い山里でも冬季の暖房や給湯の熱源が確保できるでしょう。電力は、精々LED照明用程度で済むわけですから、オモチャの様な発電機でも十分でしょう。

投稿者の夢は、小水力で木質のペレット燃料を作る「ペレット小屋」を作る事です。これによって夏の間に里山を整理した間伐材からペレット燃料を作り、それを冬に使うという昔ながらのエネルギーの自給自足が実現できる事になります。こんな山里は、この国の田舎には何百も存在するはずですから、一つモデルケースができると、水平展開も期待できます。東北の復興計画の一助にもなりそうな気がします。

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2011年6月 9日 (木)

1402 マニュアル車

買い物車になっている家の車が古くなってきたので、買い替えを検討し始めましたが、躓きました。何しろ、小型車ではマニュアル車の設定が殆ど無いのです。スポーツタイプの車種では辛うじて存在しますが、いわゆる小型ファミリーカーのカテゴリーでは、片手で数えられるくらいしか残っていません。まさに絶滅危惧種です。

ヨーロッパでは、まだまだマニュアル車が元気ですが、今の日本の状態はまるで「米国か」です。そういえば、十数年前に今の車を買った時にも、その車種では既にマニュアル車の割合が5%程度まで下がっていたような気もします。したがって、納車までに2-3か月待たされた記憶があります。

少なくなったマニュアル車の値段を聞いてまたびっくり。なんとオートマ車と全く同じなのです。その昔には、マニュアルとオートマには5万円以上の価格差があったと思います。(今となっては時代遅れの記憶かもしれませんが)マニュアル車が売れないので、値段が上がるのは仕方がないのかもしれませんが、シンプルなものと複雑なものが同じ値段というのも何か納得できません。

オートマ限定免許を作り、マニュアル車の販売を止め、これ以上「不器用な」人間を増やして、国やメーカーは何が嬉しいのでしょうか。とりあえず、今の車は「つぶれるまで乗る」しかない、と思い始めています。

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2011年6月 8日 (水)

1401 環ビジ79(輻射暖房)

輻射冷房が出来るなら、少し季節は早いですが輻射暖房も同様にできるはずです。輻射冷房の仕掛けをそのまま用い、30℃を少し超えるくらいの温水を流せば、寒い冬季でもヒトは室内で快適に過ごす事が出来ます。

さて、もう一工夫です。温度が低いとはいえ、やはり温水を作って循環させるには、それなりのエネルギーが必要です。そこで、輻射冷房と同じくパーソナル暖房を考えてみます。こちらは、少し規模が小さくても大丈夫でしょう。事務仕事であれば、椅子の上に敷く座布団や背もたれがほのかに温まっていれば、他に暖房が無くても、日本でも温暖な地域は大丈夫です。実際、投稿者の事務所でも、電気座布団と電気アンカで冬を乗り切っています。電気ヒーターで直接熱を発生させる方法もあるでしょうし、手に平に乗るくらいの小型のコンプレッサーで動くヒートポンプも有望です。ヒートポンプだとCOPが3倍くらいになるからです。この場合の作動流体は当然の事ながら無害なCO2です。

このコンプレッサーで出来た熱(あるいは温水)を、直接体に接する椅子や机の一部や、場合によっては衣服(ベストなど)に通すと、ほぼ完ぺきなパーソパル輻射暖房ができるでしょう。使う電力は、多くても50W(電球1個分)程度には抑えたいものです。これなら、10人の事務所でもたった500Wの電力で暖房が賄えます。一般的な家庭用のエアコンの半分くらいの電力です。でも考えてみれば、何のことはなく、これは使い捨てではない大判のカイロを各人に配っておくようなものです。確かにカイロは先人の偉大な省エネの知恵の一つですね。

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2011年6月 7日 (火)

1400 環ビジ78(輻射冷房)

ヒトの冷暖の感じ方は、赤外線の収支に依存していると考えて良いでしょう。理論は、いくつもあるでしょうが、これは投稿者の「実感」でもあります。日向や、体温より温度の高い物体の近くに立つと、私たちは肌に「赤外線」が当たるのを感じます。一方で、夏にトンネルの中に入った途端、何か「ヒンヤリしたもの」を感じます。これは、実際には「ヒンヤリしたもの」を受け取っているのではなく、体から赤外線が放射され、トンネルの壁に吸い込まれる感触を「ヒンヤリ」と感じる、と定義しているだけだとも言えます。

さて、そこでこれを利用した冷房が出来ないか、という話になります。現代人は、それを実現するカラクリとして「エアコン」を考えだしました。これは、部屋全体の空気を必要なレベルの温度に保ち、結果として壁や床や天井も、この温度に無理やり倣わせ、トンネルと同じ状況を再現しようとするものです。しかし、これではあまりにも非効率です。窓や屋根から容赦なく侵入する「熱」を汲み出すために、これからの季節、エアコンのコンプレッサーは悲鳴を上げながらフルパワーで回り続けます。事務所は、法律で最低でも一人当たり10㎥の気積が要求されます。実際は、この何倍もの気積があるわけで、この空気の温度を侵入熱に打ち勝って、低く保つのは至難の技(というより莫大なエネルギーが必要)です。

そうではなくて、理想は屋根や壁や床の表面だけを冷やして、ヒンヤリ効果を得るのが最少のエネルギーで冷房を実現する最善の方法だと言えるでしょう。具体的には、壁や天井に細いチューブを塗りこめ、そこに井戸水程度の冷水を流す方法が考えられます。実用化もされていますが、設備価格が高いのが難点です。ならば、一人一人の机の横(あるいは椅子の後ろに)に、小さなパネルを立てて、そこに冷水を流すという個人バージョンだって考えられるはずです。それで、エネルギーが今のエアコンの半分以下になるのなら、たぶん売れるでしょう。

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2011年6月 6日 (月)

1399 麦秋

仕事で、郊外を通りかかった時、見事に実った麦畑が目に入りました。そういえば、麦秋という言葉があった事を久しぶりに思い出しました。比較的暖かい地方では、二毛作(これも久しぶりで使う言葉です)としてこの季節まで麦を育て、刈り取った後あわてて稲を植える事になります。

それにつけても津波で塩害を受けた被災地や、放射能汚染で将来の農業再開が全く見えてこない農家の無念や苦悩が想われます。とりわけ、人間の健康被害に関して言えば、放射能は「程度問題」になりますので、近い将来かなりの程度まで放射能レベルが下がったからといって、「完全に安全」と消費者が認めない限りは、一生懸命作っても結局「売れない作物」の山が出来てしまう可能性もあります。

当面、汚染された農地が食糧生産に適さないのであれば、取り敢えずは「燃料作物」を数年作り続け、土壌の放射性物質を植物に吸収させ、来たるべき食糧生産再開に備えるべきでしょう。お米でお酒や焼酎を作る代わりにエタノールを作り、稲わらもバイオマスとして燃料にすれば、いくばくかの収入が入るでしょうから、不足する部分をT電や国から補てんして貰えば、農家が立ち上がる一助にはなると期待されます。良く実った麦畑から、そんなことどもを連想しました。

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2011年6月 5日 (日)

1398 ダブルスタンダード

どう考えても、今の世の中はダブルスタンダードで動いているようです。たとえば、「経済的発展」と「環境への配慮」は、どちらも基本的には誰も反対はできない基準でしょう。しかしながら、それらは共存できないどころか、多くの場合は相反するベクトルを持っているのだと断言できます。

そのダブルスタンダードの中で、この国のトップも、何か訳の分からない4本の(矛盾する)柱を持ち出さざるを得ない事態に至ったのでしょう。その矛盾を取り払って、省エネと再生可能エネルギーだけで営める社会に移行する場合、この国の経済規模は、たぶん現在の半分か数分の一にシュリンクするしかないでしょう。それはしかし、環境保全のために経済を犠牲にすると考えずに、環境から与えられた必然であると認めなければならないのです。それを認めた上で、それを達成する時期を思い定めるのが、国の上に立つ人々の仕事であるはずなのです。その目標年度を、例えば50年後としましょう。考えてみれば、それを高らかに宣言したとしても、その人々は50年後には誰一人残っていない訳です。しかし、10年後には、そこに至る道のりの1/5は進んでいる訳ですから、そこで達成すべき目標値には明確な責任が生じます。しかし投稿者は、国民の大多数が賛成できる方向ならば、政局(まつりごと)がどうあれ信念を持って突き進む真のStates Manの登場を心待ちにする者です。

ダブルスタンダードは、出来るだけ早い時期に20世紀の政治や社会の遺物にしてしまいたいものだともしみじみ思います。「言行一致とは程遠い」、政治屋のやり取りを聞くたびに、この国の行方を憂います。

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2011年6月 4日 (土)

1397 Globalizationの二極

突然表題の言葉が降ってきたので、言葉が導くままに書いてみます。Globalizationが招いた二極とは、いわゆる先進国に偏った豊かな社会とその対極にある貧しいテロ蔓延社会である、と象徴的には言えるでしょう。もちろん、その間を縫うような形で、BRICSと呼ばれる資源もそれなりに持っている国々が、それなりに豊かな第三極を形成している事実はありますが…。

Globalizationの功罪云々は、長い間議論の中心になってきたような気がしますが、それは一にも二にも、それを維持するためには、多量の資源とエネルギーの消費が前提で、その奪い合いの争い、即ち貧しいが資源を持てる国々と、資源は無いが技術とお金を持てるとのし烈な綱引きが避けられないからです。これは、この星の環境問題の行方とも密接に関わりあっている事も間違いありません。

では、Globalizationは悪か、と問われれば、少なくともこの星の持続可能性にとっては、限りなくクロに近いというしかありません。地域に同族の人々がかたまってひっそりと暮らしていた時代には、部族間のささやかなイザコザはあったにしても、少なくとも地球規模の環境問題は存在しませんでした。Globalizationが無限に要求し続ける資源とエネルギーが有限であり、しかもその採掘のピークが過ぎてしまった事が明らかになった今、やはり私たちはLocalizationに向かって、元来た道を少し引き返さなければならないのだと思います。どこまで、戻るかは難しい問題ではありますが、資源・エネルギー的に、今の丁度半分であった、1970年代半ばが一つの目安にはなるでしょう。

Globalizationには、もう一つ人口圧からの必然という側面があるでしょう。どう考えても、この国の資源・エネルギーだけで、1.2億の人口が養えるはずがありません。同様に、爆発を抱える途上国にしても、資源を切り売りしなくては、農業だけでその人口が支えきれないでしょう。結局、この二極構造と、結果としての環境悪化は、今後とも間違いなく「前に進む」事になりそうです。それに歯止めを掛けるのは、天変地異か、はたまた人類未知の疫病か、などとつい悲観的に考えてしまいます。これは、今日のブログの出発点であるキーワードが悪いのであって、投稿者のせいではありません。

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2011年6月 3日 (金)

1396 ピークカットではなくて

業界横断の休日のシフトや単独のサマータイムなどの、夏場のピーク電力崩し論議が華やかです。しかしながら、スーパーかウルトラクールビスで、しっかり冷房を止めるのであればまだしも、実際に熱波が襲来すれば、今の決意も消し飛ぶでしょう。本当のピークカットのためには、ラテンの国々で昔から行われているシエスタしかないでしょう。しかし、職住が離れている日本のサラリーマンは、日中の数時間を一体どこで過ごせば良いのでしょう。やはりどうにも答えが見つかりません。

小手先のピークカットではなく、やはり現在の電力デマンドのレベルを1ランク下げるしかないとの結論になります。ここでは、夏場の冷房負荷について考えてみましょう。例えば工場です。典型的な中小企業の工場では、20-30人程度の作業員が工場の中で働き、そこに10-15kw前後の出力を持ついわゆるパッケージ型のエアコンを、例えば4-6台据えている事でしょう。夏場は、屋根が直射日光に焼かれて灼熱地獄になりますから、これらのエアコンは終日フルパワーで動き続ける事になります。しかし、その吹き出し口の方向から外れた作業場では、ちっとも涼しく感じられない事でしょう。流入熱量が大き過ぎるからです。そこで、登場願いたいのはスポットクーラーです。これは、小さなものでは0.5kw程度のものもありますから、これを一人に1台配る事にしましょう。30人分でも15kwの電力で賄えますから、現在の15kw x 4台=60kwに比べれば、なんと1/4の電力で全員が涼しくなるでしょう。

事務所の冷房にも同じ事が言えます。例えば、ペルチェ素子などを利用して、部分的に涼しくなる座布団や椅子の背当てがあれば、人はかなり涼しく過ごせるはずです。電気座布団やカイロの夏バージョンという訳です。これに扇風機でも組み合わせれば、冷房なんかは一夏ほとんど使わなくて済むと思うのです。少なくとも投稿者の事務所では、扇風機以外の一切の冷房はありません。

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2011年6月 2日 (木)

1395 環ビジ77(脱エネグッズ1)

脱原発のためには、先ず「脱エネルギー」への決意が不可欠です。ケチな省エネなどではなく、「脱」エネルギーですから、中途半端でやわな決意では達成不可能です。考え方は至って単純です。とにかく「人力」や「太陽光」に依存する生活を目指せば良いわけです。人力の代表的な利器は、例えば自転車です。乗員と運転手と原動機が同じ人なのですから、これほど脱エネの移動手段は考えられないでしょう。脱エネを目指す社会では、市内や地域の交通システムは、自転車を中心に組み直すべきでしょう。都市間の移動は、電車やバスで、狭い地域の移動は全て自転車と考えるシステムです。足が悪い人も、手で漕げる3輪車ならどうにかなるでしょう。どうしても必要ならば、最小限の電動アシストは許しましょう。

家や職場の掃除はモップやホウキで行い、洗濯も洗濯は電気で仕方がないにしても、脱水は足踏み式の遠心脱水機を開発しましょう。洗濯機の横に、ダイエットサイクルをくっつければ良いだけなので開発は楽チンです。暑い夏は、軽装、団扇、扇風機の優先順位でしのぎます。身に着ける冷房機(実際は保冷剤の様なもの)も良いかもしれません。これはとりもなおさずカイロの夏バージョンです。何しろ使い捨てではない仕組みが重要です。手元に、USB電源で動く、保冷・保温パッドがありますが、温度をもう少し控えて、弾力性のあるパッドにすれば、衣服の内側に入れて個別冷暖房に使えそうです。

パソコンや液晶テレビのバックライトは、ぜひ昼間は太陽光を導いて照明できるように、鏡とレンズと光ファイバーなどを使ったアタッチメントを開発しましょう。バックライトは、省エネ型の蛍光灯であるCCFLを使っているとはいえ、パソコンモニターでさえも30-40wは消費していますので…。これが日中の数時間は、電力ゼロになれば、軽く原発2個分の電力が浮く計算になります。

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2011年6月 1日 (水)

1394 嫌気

昨日はポッカリと暇だったので、久しぶりに事務所の書類整理を行いました。事務所にいる時には、耳の刺激のためにラジオを点けっぱなしにするのですが、たまたま昨日も朝から国会中継が行われていました。

例によって例のごとくですが、野党議員が入れ替わり立ち代わり、現政権を針でチクチクと差しまくり、過去の失策をあげつらいます。確かに、寄合所帯である今の政権は、まとまりも悪く多くの失策を犯してきたのでしょう。しかし、国会の議論の中からは「一切の前向きな提言」が聞かれないのは、この国に住むものとして、寒々しいものを感じます。椅子取りゲームは、しばし休戦にすべきでしょう。今の政権を助ける様な良い提案を出すのであれば、それを出した野党への支持も上昇するでしょうから、震災対応が一段落してから、改めて正々堂々と勝負をすれば良いのです。これ幸いとばかり、失策をあげつらうのは、判官贔屓の多いこの国の国民からは支持を得られないでしょう。これまでの様に無党派層が増えるばかりです。与党も野党も、この国に吹いている「空気」を全くといって良いほど読んでいません。永田町には別の空気が閉じ込められているようです。

さて、嫌気や愚痴ばかりを並べ立てても前に進みません。震災対応の「対策部隊」とは別に、この国の将来像を描く「あるべき社会検討部隊」も並行して設置し、真剣にこの国将来をどうすべきか(この国はどんな国になるべきか)を議論してもらいたいものです。震災復興で、さらに膨らむであろう膨大な借金だけを子孫に押し付けてはならないでしょう。

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2011年5月31日 (火)

1393 ミニ台風

今回の台風は、小粒でしたが発生時は強力で、かなりのパワーを持っていたような気がします。台風が、強力になるという事は、発生し発達した海域の水温が高い事を意味しますが、今回は幸いにも日本近海の海水温がまだ低かったため、勢力は急速に衰えました。

さて、夏が近づいてきて、近海の水温がしっかり上がってくると、例えば920Paなどまで、しっかりと気圧の下がった台風は、そのままの強さで日本を直撃する事になります。アメリカ中西部の竜巻は、春先に強まる砂漠地帯への日射と、上空の寒気のコラボ?で凶悪に化けますが、日本近海の場合は、上昇した海水温と上空の寒気のコラボになります。しかも、台風の場合は竜巻とは異なり、海からたっぷりと湿気が補給されますので、強風と同時にゲリラ雨ももたらします。

以前も書いたような気がしますが、竜巻もハリケーンも台風もサイクロンも、偏西風と高い山塊に起因する「カルマン渦」です。これらの原因を作る山塊とは、アメリカではロッキー山脈であり、日本の場合はヒマヤラであり、インド洋の場合はキリマンジェロというわけです。北半球では、自転の影響で右回転の渦が消え、左回りの渦だけが残ります。それが、太陽光からのエネルギー補給を受けて勢力を強める訳です。海水温は、近年確実に上昇しており、今後も大小の台風の頻繁な襲来が懸念されます。

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2011年5月30日 (月)

1392 環ビジ76(保暖フィルム)

夏場を前に、酷暑を省エネで乗り切るため、ガラスに貼る遮熱フィルムがブームです。しかし、投稿者の頭の中は既に冬に飛んでいます。少し違った特性は求められますが、遮熱フィルムは基本的には冬場の暖房時にも有効なはずなのです。適切に製造されたフィルム(という事は、世の中にはまがい物も多いという事を意味しますが)は、例えば微細な「銀のスパッタ」を付けたフィルムなのですが、これはそのスパッタの大きさや密度により、特定波長以上の電磁波(赤外線)をブロックします。

しかしながら、太陽光含まれる赤外線と室内暖房によって発生する赤外線は、波長がだいぶ異なるのです。室内暖房だけに特性を合わせたフィルムは、夏場には実はあまり効果は期待できませんが、上手くスパッタの設計をすれば、両方にそれなりの効果を発揮するフィルムの製造は可能なのです。具体的には、室内から逃げる長い波長の赤外線と太陽から来る短い波長の赤外線を、それぞれ違った大きさのスパッタでブロックするため、二種類のスパッタをハイブリッドするなどの方法が考えられます。しっかりと設計されたフィルムは、冷暖房負荷を10%以上は削減できるはずです。加えて、いわゆる体感温度で言えば、気温以上に冷暖房効果を高めるので、冷暖房はさらにもう一段弱めても良いので、省エネ効果はさらに大きくできます。夏冬ともにしっかりした効果が発揮できれば、例えば㎡当り10,000円のフィルムの施工は必ずしも高くはないでしょう。そんな理想の性能を持つ銘柄は、今のところどのメーカーでも作ってくれていません。

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2011年5月29日 (日)

1391 環ビジ75(輻射制御技術)

最近しみじみ思う事がもう一つあります。それは、今後先細る石油エネルギーや、気まぐれで量も限られる再生可能エネルギーを賢く使うためには、私たちは「輻射」を制御する技術を磨かなければならないという事です。輻射は、基本的には電磁波の「流れ」ですが、これは熱の原因にもなり、赤外線や可視光にもなり、X線や電波にもなり、ガンマ線など放射線の一部でもある訳で、この世で起こる種々の現象の根源の一つと考えても良いでしょう。

しかしながら、これを制御するのは非常に骨の折れる事は、少し考えれば分かります。これ(電磁波の輻射)を上手く止める技術は殆ど開発されていないからです。それが可能なら、その技術を使って防護服を作れば、原発事故現場の強い放射線もほとんど問題にならないはずです。今使われている防護服は、ビニール合羽とあまり変わらないもので、放射性物質(チリ)が、自分が着ている服や肌に付着するのを避ける程度の機能しかないと想像しています。

脱線しましたが、さて輻射コントロールです。可視光の範囲であれば、鏡やレンズが有効である事はすぐ分かります。しかし、目には見えない紫外線や赤外線ではどうでしょう。それをある程度であれば遮るには比較的容易です。その電磁波の波長より細かい網を作ってやれば、ほとんどシャットアウトできます、電子レンジのガラスは伊達に網目が入っている訳ではないのです。遮熱フィルムも、しっかりした銘柄では、金属スパッタなどで、数ミクロンの細かい網目を作っているはずです。

しかし、根本的な問題として電磁波の持つエネルギーを直接的に貯蔵したり、高い効率で反射したりする技術はまだまだ頼りない状況だと言えます。それが高度に洗練されれば、例えば数日間熱湯のまま保温できるポットができるでしょうし、真夏の強い太陽熱を、季節を超えて寒い冬まで貯めてもおけるでしょう。これこそが地球を救う技術だと言えるでしょう。何故なら、(石油ではなく)砂漠の灼熱を寒い北国まで運ぶことが出来る様にもなるからです。

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2011年5月28日 (土)

1390 有効・境界・無効

エネルギーや行動やお金やモノなど、何か機能を持つものども(モノ=物質とは限りません)には、必ず有効なものと無効なものが存在します。エネルギーで言えば、誰もいないトイレにしょんぼり灯っている電灯であり、行動であれば目的の無いほっつき歩きでしょうか。しかし、これほどハッキリしていない中間の状態の方が実は割合としては殆どなのだと感じています。

工場で言えば、そこの製品に1円でも「付加価値」を追加している、モノや行動やエネルギーは有効だと言えますが、では仕掛品を次の工程に横移動させる行動やエネルギー、時々人が通路を照らしている電灯、或いは作業環境の改善のために動いている送風機はどうでしょう。見かけ上は付加価値を生んでいる様には見えません。では無効なものかといえば決してそうではありません。つまりは、有効・無効の間の(太い)境界線上にあるものども、だと言えるでしょう。

世の中が右肩上がりで、とにかく経済や企業の規模や業績が拡大している時代では、確かにこれら「境界線」上にあるものは、取り敢えずは「有効」に放り込んでおけば事足りました。

しかし、今後はこれらを、先ずは「境界エリア」の俎板に上げて、じっくりと腑分けしてみる必要があると思うのです。腑分けのためには、「なぜそれが、そのタイミングで、それだけ必要なのか?」などという「なぜなぜクエスチョン」を繰り返すしかないでしょう。ありふれた平均的なモノづくり工場を想定すれば、エネルギーの有効:境界:無効=442などとなるでしょう。無効の排除(無駄取り)で2割、境界エネルギーの腑分けで、さらに2割程度の省エネは、どの事業所でも可能だと、最近しみじみ感じています。この数字さえ叩き出せれば、T電さんもC電さんも全原発を止めても安心できるでしょう。

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2011年5月27日 (金)

1389 隠す

放射性物質は、危ないので絶対に何重にも遮蔽容器の中に隠し続けなければなりません。それらが入った窓のない建物も最終的な目隠しです。この建物に入るためには、厳重なゲートと、たぶんセキュリティが掛かった何枚かの扉を通らないと、制御室などの中枢部分には入れないでしょう。体質として、原発は世の中からは隠し続けなければならないモノを抱えているシステムだと言えるでしょう。

とはいいながら、今回の事故のごく初期の対応に関しては、絶対にその真実を明らかにする必要はあるでしょう。想像するに、発災のごく初期には、原発設備自体の保存を考えたでしょう。しかし、炉心を冷やすための手段が全て絶たれた段階では、専門家はすぐに炉心溶融を思い描いたでしょう。しかし、残念ながら彼らは炉心溶融を「知識」として知っていただけでした。彼らの中にチュルノブイリを視察したスタッフが何名かいただけでも事態は少し変わっていたかもしれません。初期の段階から廃炉さえ厭わなければ、打つ手は他にもあったはずなのです。

水素爆発があった時点で、それ以前にメルトダウンが起きていたのは、専門家には常識だったはずです。何人かはそれを指摘していたでしょうが、何重にも隠された炉心の中の状況は「確認できない」ため、T電はつい最近までそれを認めようとはしませんでした。2000℃にもなるマグマは、鉄やコンクリートのバリアなど容易に溶かしたり、破壊したりしてしまいます。このマグマと水が接触すれば、水が酸素と水素に分離して、バリアの隙間から漏れ出し、水素爆発を起こすにはそれほど時間はかからなかったでしょう。このプロセスの時間を追った正確なトレースは、動き続けている原発の更なる安全対策のためには、絶対に必要な事でしょうし、もしコストを掛けてそれを忠実に行うなら、原発は経済性の観点から「消え去るべきエネルギー」だと言うしかなくなるはずです。

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2011年5月26日 (木)

1388 新しい経済学

壁に突き当たっていると再々書いている、現在の社会システムや経済学ですが、これもたぶん何度か書いたその本質部分ですが、それは「量的拡大が全ての前提になっている」という点にあると考えています。ですから、短い期間であっても縮小局面では、やれ円高不況だ、リーマンショックだ、デフレ不況だ、などなど対処方法が分からず大騒ぎになる訳です。

ここで提案する新しい経済学(学と呼ぶほど大げさなものではないのですが)は、そのそもそもの大前提を変えます。つまり、将来のある時期の経済規模を縮小均衡させるレベルを、過去のある時期に経験したレベルを想定して、一定幅に固定します。全ての社会活動や経済活動は、それを前提に展開されますので、滅茶苦茶な投資や前提を無視した拡大は必ず破たんする事を意味します。何やらかつての赤い国の計画経済の様にも見えますが、決してそうではありません。これは、国民の大多数の意志の表明でもありますから、あくまで「自律的」に達成されるべき目標なのです。

実は、エネルギーに関しては、既に多くの提言が行われてきました。例えば、ファクター4やファクター10と呼ばれる「環境効率」があります。これは、資源・エネルギー効率を今の4倍や10倍にしなければ、持続可能性は破たんするとの指摘です。

しかし、今の1/10のエネルギーで走る車が開発されたとして、それで可能性が担保される訳ではありません。資源の塊である車の重量も1/10にしなければならないからです。それは、今車に乗っている人全てが、S-パーカブの様な100㎏に満たない車重の車(バイク?)に乗って移動しなければならない事を意味しますし、日夜高速道路を疾走するトラックで運ばれる貨物量も1/10にしなければならない事を意味します。つまり、エネルギー消費規模を1/10にすることは、経済の規模も1/10かそれに近い規模になることを意味するのです。雇用や経済に関しては、例えばIT産業やサービス業を拡大すれば良いなどとして、古い経済学にしがみ付こうとする輩もおりますが、「スマホ」ではお腹の足しにはなりませんし、レストランが裏庭で野菜や穀物を生産している訳ではありません。まずは、「足るを知る」ことから始め、何が「足るレベル」であるかの真剣な議論が必要です。

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2011年5月25日 (水)

1387 環ビジ74(木材複合材)

航空機で軽量化のために多用されている複合材(CFRP)は、通常上下2枚のカーボン繊維で編まれたスキン材で、軽量なハニカム(蜂の巣状のフィラー)を挟んで、接着剤で固めたものが用いられます。この材料で、部材の曲げ荷重は上下のスキンで受け持ち、一方上下のスキン間に発生するせんだん力(シェア)は、横変形に強いハニカムが受け持つ、という「材料の役割分担」で、軽量化と同時に高い強度が実現されている材料だと言えます。何しろアルミ箔やノーメックスという薄い材料で作られているハニカムの中身は殆どが空気ですので、軽い訳です。ハニカムの替わりに、発泡させたプラスチック材料を使う場合も結構多くなっています。

さて木材複合材です。木材は、セルロースとい非常に強度の高い繊維と、リグニン等の接着剤に当たるものから出来ている、天然の複合材だと言えます。しかも、水の通り道である維管束は、換装させると空気が入っている管になるため、比重は0.5弱程度で、金属に比べれば非常に軽い材料だと言えます。しかし、天然材である木材はいくつかの欠点も抱えています。一つは、腐朽するという事です。ほとんどの場合には菌類(キノコ類)によって普及されるのですが、広い意味では、シロアリなどにより虫害も含まれます。腐朽でボロボロになった木材には、強度は残っていません。もう一つは、曲げ強度が低いという事が挙げられます。木材を曲げるとまずしなり、次いで表面にひびが生じてバキバキと折れてしまいます。もし、この表面に引っ張り強度の高い、繊維のスキンがあれば、圧縮には強い木材の強度は飛躍的に向上するはずです。つまり、木材を補強するには、表面にスキンを貼ってやれば良い事になります。このスキンは、やはり天然繊維を使いたいものです。純粋なセルロースなどが考えられます。接着剤としては、ニカワや漆などに類した、動物性か植物性の天然物を使いたいものです。木材自身に含まれる、天然の接着剤であるリグニンなども候補に挙げたいところです。

ところで、このビジネスの最大の問題は、こんなに夢があり、有用な技術だと思われる素材も、当面は儲からないという理由だけで、誰も真面目に研究してくれないという点だけなのです。

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2011年5月24日 (火)

1386 環ビジ74(圧縮木材)

木材は間違いなくすぐれた環境材料ですが、水を吸って虫食いが起こったり腐朽したりする事や、反りや割れが発生するなどの欠点も多く抱えていて、建築材料ではあっても「工業材料」とは認識されていません。これらの欠点をほぼ全てカバーするのが、「圧縮木材」です。この技術は野球のバットや一部の家具などには、強度アップや傷がつきにくくできるなどの目的で適用されてはいますが、なんせ、内部に加圧機構を持つ設備(圧力釜=オートクレーブ)が非常に高価であるのと、材料を200℃弱の蒸気で蒸して1-2時間加圧し続ける必要があるので、サイクルタイムも長く、処理には大きなコストが掛かります。素材そのものは山に豊富に眠っていて安いとしても結果としては、今は気楽に使えない材料だと言えます。圧縮木材は、極限まで圧縮する事が出来れば、比重で1.6程度、強度はアルミ並みに上がる事が確認されています。

最大の欠点(コストが高い!)をブレークするには、技術開発が必須です。もちろん、何か特別な原理やプロセス特許の開発が必要なのではなく、これまである技術や装置などの転用アイデアやいくつかの工夫の組み合わせが必要なだけだと思うのです。木材を加熱するのに水蒸気しか考えられないのか、圧縮形状を固定するのに本当に2時間必要なのか、数分で処理が終わる温度サイクルは考えられないのか、等のいくつかの壁をブレークしてコストを下げれば、今は山に放置されたまま眠っている木材の価値も、グンと増すと思うのです。そうなると、日本は突然「資源大国」に変身する事も夢ではありません。

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2011年5月23日 (月)

1385 矛盾の噴出

21世紀を境に、技術屋から環境屋への脱皮を図った投稿者ですが、2001年のあの9.11事件以降、あまりにも事態の流れが速すぎ、目が回りそうな感覚にとらわれっ放しです。高度成長と経済的繁栄という蓋が外れ、あらゆる矛盾が噴出してきた様な感じもします。

あらゆるシステムは、それが人間の作ったものである限り、完ぺきなものは存在しないはずです、何故なら、全てのシステムはそれを作って、使う事によって便益を得る側から設計され、運用されているからです。その恩恵に与らない側から見ると、そのシステムは矛盾だらけで、時には憎むべき存在にも映る訳です。原子力は、それ自体が熱エネルギーを生み出す源であるというメリットと裏腹に、それが内在する目に見えない放射能が人を傷つける存在である矛盾を抱えています。圧力容器や格納容器は、その矛盾を覆い隠すシェルターだった訳ですが、それが破壊されたとき、その矛盾が如何に邪悪なものだったかを思い知らされたのでした。

さて、振り返って経済システムなど、今の社会システムを眺めるとどうでしょうか。今のシステムは、経済が右肩上がりの時は、大方の矛盾は無視できるか、十分に小さなものだったかも知れません。しかし、その拡大路線に壁が見えたとき、同時にこのシステムの矛盾も拡大し始めたようにも見えます。成長を伴わない今の経済システムは、悪性のインフレに悩まされ、税収が伸びない結果、国の借金は増え続け、天文学的数字まで膨らみました。

巨大な矛盾を抑え込むには、どう考えてもそれを抑え込む国や企業や個々人の手におえる程度のサイズまで切り分けるしかないと思うのです。もしたった100kwの出力の原発が作れたとして、それが間違って暴走したとしても、たぶん避難地域の半径は1-2㎞で済むと思えるのです。100kwというその1000万倍の規模の事故を前にして、人間は全く無力に見えます。私たちは時間の経過の中で、核物質が自然崩壊して弱まり、凶悪な矛先を収めるのをひたすら待つしかないのは、悲しい事ですが事実でもあります。

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2011年5月22日 (日)

1384 金華

山の新緑がまぶしい時期ですが、周りの山々(というよりは小高い丘ですが)には、売れ残ったブロッコリーの様な樹形の木々が多く見られます。そういえば、岐阜の金華山の通称も、この木(ツブラジイと呼ぶようですが)の黄緑色の花が、陽光に映えて金色にも見えるところからきているのだとか。近づいて見ると、この木は非常に樹高が高くなる樹種の様で、20mを超えるものも珍しくはありません。下部は、ブロッコリーの形に似て枝は無く、樹頂にだけこんもりと枝を張っているので、樹木としては無駄の無い形に見えます。他の木より首一つ高く枝を伸ばすことで、陽光をより多く受け取り込み合っている里山のニッチを確保してきたのでしょう。この季節、彼らはその存在を、その色で誇っている様に見えます。

これらの木々が自然にその相を形成してきたのか、それともかなり人の手が加わっているのか定かに分かりませんが、たぶん長い時間をかけて人が育んできた様に思えます。何故なら、去る先に存在を示す山桜を含め、これらの木々は決して群生している訳ではなく、山を眺めると何となく、バランスよく配置されている様にも見えるからです。たぶん、先人は季節ごとに、山々が美しく映えるように、桜やシイやその他の紅葉する木々を意識的に配置したものかもしれません。そうだとすれば、先人はなんという美的センスと根気を併せ持っていたのでしょう。ただただ、勝手にですが感嘆するしかありません。

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2011年5月21日 (土)

1383 環ビジ73(パソエアコン2)

そういった目で眺めると、世の中には色んなものが作られて溢れているものです。1380で書いたパソエアコンに使えそうな仕掛けを2つばかり見つけました。一つは、金魚の飼育に使うサーモスタット(ヒーター・クーラー)です。たぶん20℃~30℃程度の温度範囲で、数十リットルの水槽の温度を保つように作られているはずです。これだと12万円で手に入りそうです。もう一つは、もう少し本格的なもので、化学や生物実験室などで恒温槽の温度保持に使われているものです。こちらは10万円をかなり超えると思われます。

もちろん、これまでもスポットクーラーなどの呼び方で、1kw程度のパソエアコンは存在しましたが、ここで提案しているものは、100w程度の消費電力で動かすものですから、省エネという観点から見れば、電力を1/10に出来るので、狙うレベルが違います。この夏は、金魚用のユニットを使ったパソエアコンを1台試作して、事務所で評価してみるつもりです。

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2011年5月20日 (金)

1382 実像と虚像

実像と虚像に関しては、小学校の理科で習った結果、逆に意味の混同が起こった経験を持っている者の一人です。さて、実際の社会に照らしてみると、この言葉はどう映るのでしょうか。

実像とは、実体が伴い名実が一致しているものだと言えるでしょう。例えば、適正な代価を払えば、食べ物や車や電化製品が手に入ります。これは、モノという実態と、その代価としてのお金は、矛盾なく対応している場合です。

では、債券や株券はどうでしょうか。これらで、直接モノを買う事はできませんから、実体経済からはやや外れるシステムになります。これらはまた、経済の状況変化により、その値打ちが変化するものでもありますから、さながら凸レンズを使って、周りの景色を眺める場合に似てきます。いわゆる景気が良い時期には、凸レンズで「拡大してモノを観察」する場合の様に大きく膨らんで見えるでしょう。しかし、これは理科で教える「虚像」そのものなのです。実態のないお金は、いわばお金を使う権利であって、それは時価で大きく変わりうる価値でもあります。凸レンズで拡大してみれば、たぶんそれを所有している人はひいき目もありますから、大きな財産を持っていると感ずることになるでしょう。

しかし、凸レンズを離して眺めた時に見える逆さの像こそ「実像」である事は、改めて銘記する必要があります。というより、「だまされ易い視覚」以外の四感で確認できるものこそが実体であると考えた方が間違いないといえるでしょう。人間の例で、視覚に当たるものが、実は社会では、お金であり経済であると、投稿者は見ています。そうでないと、お金に換算できないモノや行動にはほとんど価値を認めない、という現代の風潮が説明できないからです。

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2011年5月19日 (木)

1381 予測ではない意志

将来あるべき社会を考える時、よく「予想や予測」が行われます。あまり責任の無い予測を「夢」と呼んだりします。投稿者の子供の頃の「夢」は、フォン・ブラウンの様な「科学者」になってロケットや手塚のアトムや横山の鉄人などを作る事だった様な気がします。投稿者は、少し長じてもこの夢をあまり曲げずに「総合重工業」と呼ばれていた企業に就職したのでした。

さて、その中で最初は造船事業部の機関技師、残りの2/3のキャリアは、航空機の生産技術者と呼ばれる仕事をこなしてきたわけですが、結局は環境問題という大きな壁に突き当たったのでした。もちろんその見えない壁を打破する事などできるはずもなく、尻尾を巻いて引き返し、モノを作らない環境屋になったのでした。モノ作りの代わりに始めた事は、このブログでも縷々書いているように、20世紀の反省と、来たるべき社会の望ましい姿への提言でした。その姿は、決して予想や予測では見えては来ません。20世紀人にとっては、初めて踏み込む未踏の道でもあるからです。本質を見抜く力と、方向を見定める知恵と、併せて強い意志が必要でもあります。

しかし、それは全く見えない道などではない筈です。確かに、鬱蒼と茂るグローバル経済や大量生産・大量消費や廃棄物、温暖化などの「ジャングル」に覆い隠されてはいますが、その道は確かに少し昔には自分たちが通ってきたはずの道だと思うのです。その踏み分け道は確かに細く、枝道も多いものではあります、正確なコンパスと地図さえ携えていれば、ゆっくりならば前に進めるはずなのです。コンパスとは、常に行き先を指し示す意志であり、地図(ロードマップ)とは目的(たぶん持続可能性に照らして正しい社会?)に至る道程だと言えるでしょう。今この国には、そのコンパスすら見当たらないのは悲しい事です。

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2011年5月18日 (水)

1380 環ビジ72(パソエアコン)

表題はパソコンでもエアコンでもありません。パーソナル・エアコンを縮めたものです。はて何のことか?といぶかる向きもあるでしょうが、これは一人で一台使うエアコンなのです。勝手にその姿を想定すれば、出力は100W程度が望ましいでしょう。このエアコンで作るのは、冷水と温水です。利用するのは、もちろん夏は冷水で、冬は温水ですが、機械の都合上これは同時でできてしまいます。熱源はペルチェ素子という、電流を流すと片面が熱くなり、片面が冷たくなる素子で、車の中で使う「冷・温蔵庫」などにも使われているものを考えているからです。

出来た冷水や温水は、細いゴムホースを縫い込んだベスト(チョッキ)に導きます。入り口と出口が必要なので、ホースのつなぎは2か所必要です。ベストは、体に密着するので、このエアコンで冷やしたり、暖めたりするのは、ベストと体の間にある僅かな空気層になる結果、パワーは最小限で済む訳です。これを10人が同時に使っても、家庭用のエアコン1台分程度の電力で済みますので、10人の作業者が働くスペースに、5-10kw程度のパッケージエアコンを入れる場合に比べればなんと、たった1/5-1/10のエネルギーで済むはずです。

手近にあるものを利用するなら、取り敢えずは、熱帯魚の水槽の温度を制御する装置などを使えば、簡単なテストくらいはできるでしょう。本当にそれが可能かどうかですが、まずは、だまされたと思ってテストしてみる事でしょう。ちなみに投稿者はまだ効果を試していませんので、念のため。

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2011年5月17日 (火)

1379 エネルギーの地産地消

ここにきて、やっと発・送電分離の議論が起こってきました。なぜ、発電者と送電者(売電者)が同一でなければならないのか、合理的な説明は無いままに、戦後の電力9社態勢へと突入しました。そこにはGHQの強引な指導?もあったようですが…。

基本的には、電力も形は無いものの「商品」の一つでしょうから、需要と供給の関係で値段が決まり、自由に取引されても不思議はありません。確かに、戦前は乱立していた電力会社を、国内9社に統合すれば、発電施設の合理化や送電網の整備により、安価にしかも安定的に電力を供給する事は容易になる様にも思えます。しかし、その一方で発電エネルギーの多様化が進まず、高度成長期の石炭火力→石油火力→原発推進→同時に火力のLNG化などの、後戻りの無い設備とエネルギー源の集中化が進められてきたわけです。

しかし、考えてみれば電力網の大規模化は、大規模停電のリスクを増すでしょうし、電力網にぶら下がるデマンドのコントロールもしにくくなる筈です。結果として需要家は、今自分が使っている電力が、一体どこから送られて来ているかの意識する事無しに、日々節操なく電気を消費し続ける事になります。エネルギーのセキュリティにためには、少なくとも需要家が、自分が今使っている電力が、何のエネルギー源で(あるいはどの様なエネルギー源の割合で)、どこで発電され、どのようなルートで送電されているのか、大まかにでも認識している必要はあります。電力会社には、その情報公開が求められます。

さて、エネルギーの地産地消です。送電によるエネルギーロス防止と、セキュリティを考えれば、発電所と需要家はできるだけ接近している必要があるでしょう。究極は自家発電です。うるさい事を除けば、ガスタービン発電やディーゼル発電などでも、排熱の利用まで行えば、大規模火力発電所で発電するよりは高い熱効率が得られます。企業などでも、ピーク電力を押し上げている設備負荷を切り離して自家発につなぎ、電灯や保安的な電力を電力会社から買う、という電源の二重化だけでも、ずいぶん基本料金やコストが下がり、セキュリティも向上するはずです。

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2011年5月16日 (月)

1378 技術者の敗北

H岡原発の停止は、いわば技術者が自然の脅威に敗北したことを意味します。そんな極端な言い方をしなくても、と突っ込みが来そうですが、それは認めなくてはならないでしょう。技術者が設計時にした「想定」は、今回の震災・津波の前では無力であったことが証明されてしまったのですから、仕方がありません。投稿者に、元技術屋として全く悔しさが感じられないのは、たぶんですが、ほぼ技術屋からの卒業が出来た結果かもしれません。

技術が完ぺきではない事は、繰り返し書いても来ましたが、かつてH岡原発を見学した際に見た、4号機のタービンで折れて飛んだタービン羽根を見たときにもそれを強く感じました。蒸気タービンの羽根が飛んだ事故は、舶用のものでは実は若いころ何度か見たことがありました。しかし、考えてみれば「絶対安全」を謳っていた原発でも、同じような事故が起こる事は、何も不思議な事ではないのでした。製造技術に完ぺきはあり得ないでしょうし、オペレーション側にもヒューマンエラーは付き物だからです。

今度のH岡5号機の停止間際には、おまけがつきました。どうやら復水器の冷却管に穴が開いていたようなのです。ほとんど純水の冷却水があまり強い放射能を帯びる事は無いのでしょうが、海水が冷却水に混じったという事は、冷却水も海水側(海)に漏れ出した事も意味します。つまり、復水器は、冷却管という絶った数ミリの金属管を境に原子炉と海水がつながっている、危うい場所でもあった訳です。この管は、常に海水からの腐食環境に晒されている訳で、古くなった原発では、ありがちな普通のトラブルでもあります。原発技術者は素直に敗北を認め、拙速な運転再開を画策するのではなく、先ずは謙虚になって原発技術の仕切り直しをじっくり考えるべき時期でしょう。

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2011年5月15日 (日)

1377 ツバメ

今年も、事務所1階の駐車場の梁に、ツバメが巣を構えました。昨年心無い家主が、少し壊してしまった巣を、しっかり泥と藁で補強し、前よりも住みやすくなったように見えます。それにしても、事務所の窓の前の電線に止まっているツバメの、なんとか細く、頼りない姿でしょう。卵1個分も無い体重のほっそりした体型ですが、その内に蓄えている生命力の力強さとは対照的です。一日に何度となく田んぼに通って泥を運んで巣を修復し、その合間に空中で虫を採ってお腹を見たし、来たるべき抱卵・ヒナの誕生と、子育てに備えている事でしょう。

数ミリ以下の小さな虫が持っている、「ミクロの構造」にもいつも感嘆しますが、季節ごとに海を渡る小さな鳥の、ほとんど永遠に続いている営みの連鎖には、さらに感動します。それは機械に囲まれて暮らしていた、かつての技術屋稼業の時には絶対に感じたはずのない感動でもあります。またそれは、何億年も掛けて少しずつ、またある時期は急速に進んできた、生物の仕組みに対する感動でもあります。ツバメなどの野の生き物を愛おしく感ずるのは、自然の仕組みに対する畏敬の念から出てくる抑えようのない感情の様にも思います。などと、人工の環境に囲まれながら感じています。今年も「がんばれツバメ」…。

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2011年5月14日 (土)

1376 環境破壊の不可逆性

これも別の形で書いた(と思っている)テーマですが、原発事故を想いながら書き直す事とします。放射能に限らず、本来環境中に高い濃度で存在しない物質は、それを分解・代謝する自然の仕組みもほとんど存在しないか、十分ではない筈です。例えば、PCBという化学物質があります。塩素を含む高分子の一種であるこの物質は、液状であり熱安定性や化学的安定性に非常に優れていたため、その毒性には目をつぶって、トランスなどの絶縁油として多量に使われました。しかし、しかしそれが環境に放出された場合、「難分解性」という特長が仇になって分解が進まず、環境汚染は非常に長い期間に亘って続く事になりました。いまだに多くの施設では、費用が掛かるので、PCBを内蔵する電気設備などは地下倉庫に保管したままとなっている事でしょう。一方。間違って放出されたPCBは、薄く拡散する事はあるでしょうが、自然に無毒化される速度は気が遠くなるほど緩慢です。

放射性物質に関しても、事情は全く同じことで、確かに放射線を発する能力(放射能)には半減期がありますので、数日~数百年も経てば、それは徐々に弱まるのでしょうが、基本的には環境へ薄く拡散するのをじっと待つしかない汚染の一つであることは言うまでもありません。つまり、多くの環境汚染の場合、汚染の原因物質は環境中に物理的に拡散・浸透するという「不可逆な過程を経る」事が問題の本質だと言えるでしょう。もし、その物質が目に見えていて、しかも塊になっているのであれば、手間は掛かりますが一個一個拾い集めて回収すれば良い訳ですが、環境中に浸透・拡散した汚染物質への対策は、大量の環境物質(水や大気や土壌など)と混ぜて濃度を薄めるか、地下に穴を掘って埋めるか、自然に拡散して薄まるのを座して待つしかないという事になります。

これらの汚染に対しての対策は、原因物質は今以上生産しないで、既に作ってしまった物質はそれを破壊する技術を開発し、ひたすら神経質になって排出を抑制するしか方法は見つからないでしょう。

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2011年5月13日 (金)

1375 原発停止

H岡原発が停止され始めました。決定までに裏でどんな取引があったのかは想像するしかありませんが…。さて原発を、例えばボイラに喩えると、つまりは火を落とした訳です。ボイラは、内部の蒸気圧力に耐えるために、熱い鉄板の容器(ドラム)やチューブ(水冷壁)などから構成されています。圧力容器の内部では、水分子が熱せられて、激しく熱振動を行っています。ただし、原発の場合その圧力とは、蒸気圧に加えて、「高い放射能圧」の二つを同時に保持する必要が訳です。水の場合激しさの程度を「圧力」と呼びますが、核反応を水が蒸発しない温度、圧力まで下げれば、原子炉はただの核燃料貯蔵庫になる訳です。

高い圧力を保持するためには、どうしてもその高いエネルギー状態の物質を圧力容器内に閉じ込める必要があります。元技術屋の立場で考えるならば、どんな圧力容器も100%の信頼性で製造する事は出来ない相談だというしかありません。容器の製作には、その材料(例えば圧延された鉄板)、加工(例えば熱曲げ加工や溶接)、組立工程などがあり、そのすべてに設備と作業者が介在します。それぞれが、100%の信頼性を持っていなければ、結局はその掛け算である圧力容器の信頼性も100%にはなり得ないのです。例えば、完全無欠の技量を持った溶接作業者などは存在しないはずなのです。それを担保するのが「非破壊検査」ですが、所詮これも人間に対するレントゲン撮影や超音波診断と全く同じ内容の検査なのです。内部欠陥は、あくまで白黒写真を眺めながら、やはり完全無欠ではない検査員が良し悪しを判定するしかないからです。

また通常のボイラであれば、ボイラの圧力が異常に高まった時には、燃料である重油やガスを止めさえすれば、火は消えて圧力は自然に下がります。燃料遮断弁が動かない時には、燃料ポンプやガスの元弁を人力で止めれば事なきを得るでしょう。一方、原子力の本質は「抑制された核分裂」ですから、制御棒や水で中性子の運動を抑制する必要がある訳です。しかし、今回の事故で明らかになったように、制御棒だけでは核分裂の暴走を止める事が出来ない事が素人にも分かってしまいました。そうであるならば、どんな天変地異が起こっても反応容器の中は「絶対に水位低下を起こさない」システムにしない限り、原発の安全性は担保されないはずです。その意味で、防潮堤のかさ上げや、非常用発電機の移設などは、何らの本質的な安全対策にはなっていないと断定できます。とりあえずのH岡の停止は朗報ですが、「本質対策」が出来ない限り、再稼働は大きなリスクは残ったままになるでしょう。

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2011年5月12日 (木)

1374 経済のレンズ

経済とは、モノとお金を回す仕掛けの一つだと定義できます。その仕掛けに「経済しかないのか」と問われれば、今はそれが唯一無二と考えている人が大多数だというしかありません。かつて、赤い国々では、少し異なるシステムで国を動かしていましたが、ほとんど失敗に終わってしまいました。一方で、経済はその規模拡大が前提となっている、「かなり癖のある」システムでもあります。つまり、何某かの経済成長が無い経済システムは、やがて行き詰るという悪い癖がありそうなのです。私たちは、その時々立ちふさがった行き詰まりを「恐慌」などと呼んだりしてきましたが、緩やかな行き詰まりはなんと形容したら良いのでしょうか。仮にそれを「緩やかな恐慌」と呼ぶ事にすれば、現代社会がその過程には突入していない、と誰も断言はできないとも思います。

ところで、経済はさながら拡大レンズの様にも見えます。それを通して眺めると、世の中が大きく、楽観的に見えるのですが、このレンズの特徴として、どうしても周辺部分に「歪み」が出るのです。経済の歪みとは、平たく言えば貧富の差の拡大に代表されます。そのほかにも、モノや資源の偏在と歪んだ集中も起こります。

ところで、最近替えた投稿者のメガネは、かなりの乱視が入っているものなのですが、レンズに周辺が歪んで見えない改良(非球面レンズによる収差改良)が施されている様です。経済のレンズにも同様の工夫が出来ないか、まじめに考えています。そういえば、カメラにも「合わせレンズ」という技術がありました。経済にも「合わせ経済」があっても良さそうですが…。本件はもう少し「焦点」がはっきり絞られたら、さらに議論を進める事とします。

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2011年5月11日 (水)

1373 環ビジ71(農林の巻き返し)

投稿者は、長い間いわゆる「工学」で飯を食ってきました。十年ほど前に、そこからの卒業を目指してもがき始めたのですが、その過程でしみじみ考えた事は、人生のごく初めの段階で、道の選択を誤ったとの反省でした。人生のやり直しができるものなら、投稿者は農学か林学の道を選ぶことでしょう。

それは、何度も書きますが、工学は地下資源や化石エネルギーの採掘と消費(最終的にはゴミとして環境への廃棄)を前提に構築されている一方で、農学や林学は、地表にある土壌の永続的な利用を前提にしているという、大きな違いがあるからです。持続可能性に照らして考えれば、工学は間違いなく凋落の道を辿るしかないでしょうし、資源やエネルギーの枯渇が見えてくるにつれて、いくつかの分野が壁に突き当たりつつあると言えるでしょう。この夏は、取り敢えず「電力の壁」が高さを増しながら見えてきました。

他方で、地下資源(農林業機械のエネルギーや化学肥料)や、太古の時代に涵養された地下水に頼ってきた近代的な農業や林業もまた大きな壁に突き当たり始めています。新しい時代の農学や林学には、結局地下の資源に頼らず、植物の力を最大限活用した「持続可能性の追求」にそのベースを置かなくてはならないという必然性があると思うのです。N-P-Kを効率よく回収し、土壌に還流させる新しい循環を設計し直し、構築しなければ、農業といえども地下資源に依拠する工業と何ら違いが無い凋落産業に成り下がってしまうからです。震災・津波被害を受けた地域の再興の一部では、これらの実験場として、新しい農林業の形もぜひ試行してみるべきだ、と提言しておきます。その具体的な内容は追ってアップすることとします。

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2011年5月10日 (火)

1372 環ビジ70(江戸的ビジネス)

類稀な、循環型社会であった江戸時代の事は、このブログでも何度か触れました。ここでは、この時代から投稿者が、環境ビジネスのほぼ全ての原型があったと考えている、いくつかの江戸的ビジネスを発掘することとしましょう。

江戸的ビジネスの、本質は実は循環であったことは、間違いありません。ほぼ全ての物質が、人手を介しての循環が保たれていたために、廃棄物の蓄積が起こらず、百万都市であった江戸の清潔さも維持されていたのでした。そのあたりの事情は、石川英輔の、「大江戸~事情」シリーズに詳しいのですが、とりわけ投稿者が注目するのは「リン・サイクル」です。リンは、植物成長においても3大要素ですし、人間の体の中でも、骨格に取り込まれたり、基本的代謝であるATPサイクルなど使われたりして重要な位置を占めています。そのリンが、今不足し始めています。リンは、これまで海鳥のフンが堆積したなれの果てである「グアノ」リン鉱山から採掘されてきましたが、近年この資源が枯渇し始めているのです。リンは主に、リン酸肥料などとして化学肥料に加工され、農地に大量に施肥されます。現在の、反収が江戸時代などより大幅に増えた背景としては、リンを含む化学肥料に負うところが大きいのです。江戸時代には、人間が摂取し代謝したリンは、し尿として有価で取引され、田畑に戻されていました。川や海に流れ込んだ、リンも魚介類や海藻に取り込まれて、食料になったり干鰯(ほしか)として加工されたりして、これも最後は田畑に貫流していました。

現代にこのサイクルを持ち込もうと考えるなら、どうしても下水処理場に着目する必要があるでしょう。現在は、下水処理場から排出される大量の汚泥ケーキは、無為に燃やされたり、精々その灰をコンクリートの材料に混ぜたりするくらいのささやかなリサイクルしか行われていません。今必要な事は、リン・サイクルの復活なのです。例えば、リンを大量に代謝・固定する微生物も多く存在するでしょうから、これらの微生物を使って下水を処理し、効率よくリンを回収するプラントも考えられるでしょう。いずれにして、あらゆるリサイクル業のルーツは、江戸時代以前に既に存在していたことは、銘記すべきでしょう。

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2011年5月 9日 (月)

1371 環ビジ69(バイクトラック)

今回の震災でも、被災地では(阪神の震災に輪をかけて)、道路が寸断され、瓦礫で埋め尽くされて、輸送が完全に停止しました。このような状況でも活躍できるのは、たぶんオフロードバイクしか考えられないでしょう。何本かの柱が道路を塞いでいるだけでも、車は通過できませんが、バイクなら可能です。バイクに、1輪か2輪のリヤカーをつないでおけば、最悪の場合はバイクとリヤカーを切り離せば、かなりの障害でも乗り越えられるはずです。トライアルレースでは、熟練したライダーたちは、太い土管や壁の様な岩だって平気で乗り越えてしまうではありませんか。

どうしても乗り越えられない道路上の障害も、リヤカーから荷物を降ろし、人手で運んで障害を乗り越えてから、積み直してからさらに先に進めば良いでしょう。1輪のリヤカーなら、昔の峠道や踏み分け道さえ見つかれば、先に進む事は容易です。

これは、もちろん通常時は、混雑した都市の中での小口配送に使われる事を想定しているシステムです。リヤカーは、バイクから外せば、歩行者天国や人しか入れない小路にまで入ることができるでしょう。

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2011年5月 8日 (日)

1370 環ビジ68(エネルギーチューン)

1369に書いた「エネルギーチューン」という言葉ですが、これは「省エネ」の次に注目される言葉になるだろうことを、投稿者は疑いません。というより、ぜひこの言葉を流行らせようと目論んでいます。省エネは、いわばケチケチ作戦です。使っていない電灯を、片っ端からパチパチ消して歩くような行動だと言えます。これでも、結構な省エネにはつながるでしょうが、とてもとても半分にするまでにはいかないでしょう。

エネルギーチューンは、これを打ち破る考え方です。基本的に、全ての設備や機械は、一定の余裕率を含んで設計されています。構造物の強度計算では、これを安全率と呼んだりもしていますが、実はエネルギー的にも、かなりの余裕を持たせているはずなのです。例えば、3台のエアコンを使っているスペースがあるとしましょう。もちろん、真夏か真冬でも無い限り、これらの機械はフル稼働している訳ではありません。フル稼働しているように見える真夏でも、3台目のエアコンは、発停を繰り返して「コントロール」しているはずなのです。

エアコンやエアコンプレッサーなど、気体の圧縮を伴う機械では、実際には圧縮を行っていない「アンロード状態」でも、実は50%程度の負荷がモーターには掛かっています。もし3台目のコンプレッサーにインバータが組み込まれていると、この機械はオンオフ制御ではなく、容量コントロールで制御する事が可能になります。10%の部分負荷で十分な時は、モーターにも10%の馬力で回って貰いたいのです。その結果、インバータが無い場合、アンロード状態でも50%の負荷で回っていた3台目の機械では、例えば40%の省エネが達成可能となる訳です。同じく、複数台回している冷却水ポンプや曝気ブロアなども、常に最適な量に調整する事により、大幅な省エネが見えてきます。理想的には、通常の省エネ行動に加えれば、合算で50%の省エネも決して絵空事ではなくなります。とは言いながら、エネルギーチューンのためには、そのシステムを「熟知」していることも求められるのも事実です。その意味で、多くのオペレータは、その設備の中身をろくに知らずに使っているのだ、とも言えます。

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2011年5月 7日 (土)

1369 資源・エネルギーの壁

ラジオから流れてきた言葉が耳に残りました。「資源・エネルギーの壁」という言葉です。この言葉の投稿者なりの解釈ですが、これまではボヤケていたものが、この震災でアウトラインが明確になってきたような気がします。まず資源に関しては、震災前でも既に、レアアースを中心にその資源偏在と需要の急速な伸びが主な理由で、ショーテージと価格上昇が問題になり始めていました。

一方、エネルギーに関しては、輸送用としての石油需要の急増を、原子力が何とかカバーして発電分の燃料から船やトラック燃料に回していた状況だったのですが、フクシマ以降激変してしまいました。原子力が当てに出来なくなれば、石油は相対的に電力向けに回される割合が多くなり、輸送用との綱引きで、需給はひっ迫するはずなのです。中間期であるこの春先は、まだそれが顕在化していませんが、夏場を迎えて電力不足と石油価格上昇のダブルパンチが懸念されるところです。

資源やエネルギーの壁を打ち砕く妙案はたぶんありませんが、何とか回避する知恵はありそうです。それは、省資源設計と省エネルギー製造という2本の柱を打ち立てる事です。もちろん以前に紹介したドイツのP.I.U.Sの様に、5本も柱があれば理想的ですが、取り敢えず2本で辛抱しましょう。まず前者ですが、この視点は、実はこれまでの設計者には欠けていました。というより、20世紀後半の豊富で安い資源供給の陰で、忘れ去られてきた視点だとも言えます。それを見直して、もし今の半分の資源で、同じ機能を実現できる製品が開発できたなら、その企業の将来は非常に明るいものになる筈です。後者についても、製造に掛かるエネルギーは立派なコストですから、これをやはり半分程度に下げる努力を重ねないと、今後のエネルギー不足社会を泳いではいけないでしょう。省エネだけでは、たぶん3割削減が限界となるでしょうが、それを打ち破るのはエネルギーのチューニングだと言えます。(続く)

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2011年5月 6日 (金)

1368 環ビジ67(注文生産システム)

注文生産システムは、何も新しい考え方ではありません。というよりは、むしろこれこそが、昔ながらの無駄の無い合理的な経済活動の基本だと思うのです。例えば、昔のテイラー(洋服の仕立て屋)や鍛冶屋、桶屋など何々屋と呼ばれてきた商売は、実はほとんどすべてが注文生産システムで営まれていました。例えば、お菓子屋もそうで、店先の売れ具合を見ながら、奥にある作業場では、追加の仕込みを行うか、今日は売切れたら店じまいをするか、決めていたわけです。祭りがあれば、朝暗いうちから起き出して仕込み、そうでない日はソコソコに仕込む量を決めていた事でしょう。

しかし、何時の頃からか(たぶん高度成長以降)見込生産が横行し始めました。その最たる例が、あのAK福事件でしょうか。工場と販売を完全に分離した結果、工場では販売店の状況が見えないために、売れ残りが出るほど作ってしまい、「間違った勿体ない精神」により、売れ残りをリサイクルしてしまった訳です。

もし、AK福が1箱売れるたびに、工場にその情報が入る仕掛けがあれば、売れただけ作るという、合理的なシステムが作れるはずなのです。道具は揃っています。POSシステムです。商品には固有のバーコードが付いていますので、これをスキャナーでなぞると、店のコンピュータには売れ行き情報はインプットされます。しかし、その情報は一日の終わりに集計されて、翌日の生産計画には反映されるかもしれませんが、実は情報が欲しいのは、その日に販売店に出荷できる最終の時間と、それから逆算したその日の最終仕込みの時間までに仕込む量なのです。人の動きかが活発で、何時もよりさばけている日は、最終仕込みの量が増えるでしょうし、そうでない日は仕込み量を抑制すれば、売れ残って廃棄される量も最小限で済むからです。というより、むしろ売切れる日が多い方が、その商品の価値は相対的には高まるはずなのです。人は、手に入らないモノを欲しがるわがままな存在でもあるからです。

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2011年5月 5日 (木)

1367 デマンド

デマンドは、経済活動で良く使われる言葉ですが、あまり好きにはなれません。もちろん言葉自体の責任ではなく、言葉の背景にあるイメージが良くないのです。つまり、経済活動では、経済的にモノとお金が回るのであれば、需要(デマンド)には応じなくてはなりません。何故なら、お客様は神様であり、デマンドとは「神の声」だからです。もちろん、デマンドに応じるサプライサイドも、手をこまねいて座している訳ではありません。話は、むしろ逆でメディアに広告やCFなどをしつこいほど流し続け、デマンドを人為的に作り出している面が強いのです。

お金さえ出せば、どんな無理難題でも叶えられると、煽てられ、あげ奉られた消費者と、それを持ち上げて下に降ろそうとしない供給側、という構図が「デマンド」という言葉の背景に見え隠れしています。デマンドは、ニーズとは異なります。というより、違った意味で使うべきだと思っています。ニーズには、実態としての裏付けがありますが、デマンドには見込や投機やバブリーな部分も含めた、供給側の思惑も含まれていると思うのです。

さて、電力デマンドです。オール電化やEVや、電力デマンドを煽る言葉は、だいぶ影を潜めたような気もしますが、一方で相変わらずEVブームは続きそうな様相です。電力不足が問題になっているこの時期に、ポストガソリン車としてEVしかアイデアが出ないのか、エネルギー漬けになってしまっている20世紀人の頭の改造が必要なようです。投稿者の答えは決まっています、自転車の高度な活用しかないと思っています。お手本は、ヨーロッパ、とりわけオランダで十分に学べます。この国のお得意のテクノロジーとかで、羽の様に軽い車体と、坂道を登る時だけの超コンパクトな電動アシスト自転車を開発すれば、坂道の多いこの国でも、快適な自転車生活がエンジョイできるでしょう。

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2011年5月 2日 (月)

1366 モノ足りない 

物足りないはどちらかと言えばネガティブな言葉と受け取られますが、ここで言うモノが足りない「モノ足りない」は、モノがやや不足した状態を指すポジティブな言葉として定義しておきます。モノが足りないと、実はヒトはそこから知恵を使い工夫を始める存在だからです。ヒトが火を使い始めて以降長い間、火は薪炭で起こしていましたが、人口が増えたり、薪炭を採りつくして不足したりした時に、燃える石(石炭)や燃える水(石油)を見つけ出して利用する様になったのでしょう。さて、震災地では、モノが足りません。もちろん支援が届いている間は、モノによっては余ったりする状態も起こります。そうではなくて、日常生活に戻った時に、地元にあるどの様な資源を使って、どのようなモノを供給する産業を起こすか、という問いに、実はまだ誰も答えていないと思うのです。安い人件費を求めて進出した企業が、震災地から逃げ出した後に、一体何を生業にして生活を続けていくのか、という問いです。

エネルギーに関してだけでも、またぞろ電気・石油に頼る生活に戻るのか、或いは岩手県の葛巻町の様に、風力やバイオマスエネルギーに強力にシフトするのか、早い時期の決断が必要です。それは、国のリーダーが「脱原発」を標榜するだけで、この舵切りは容易に行われ、加速できるでしょう。とにかく、30年を超えるような古い原発から徐々に止めていけば、自動的にエネルギーの「モノ足りない」状態が作られ、それをバックアップする知恵が生まれ、自然エネルギーの利用も増えるはずなのです。もちろん、化石エネルギーにはタップリと炭素税をかけて抑制します。相対的に、東北地方に豊富に賦存する、バイオマス(木材)の価値は上がり、新しい産業も生まれるはずなのです。

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2011年5月 1日 (日)

1365 環ビジ66(水乳化燃料)

石油燃料に水を混ぜて燃やすと、何となく燃焼温度が下がって例えばボイラの効率が低下してしまいそうな気がしますが、事実はそうではありません。確かに、水の蒸発潜熱により僅かに燃焼ガス温度は下がりますが、例えば蒸気を1000℃で供給する訳ではないので、燃焼ガス温度の低下は無視できます。一方、液体燃料は霧にしなければ、空気と適正に混合してくれないので、バーナーや車ではキャブレータ(やインジェクションバルブ)により細かい霧状にしてから燃やします。それでも、細かく見ると霧はあくまで液滴でその状態で燃焼できるわけではなく、その液滴がガス化して、初めて空気と混じりあい、完全燃焼できる事になります。

水混入が効果的なのは、燃料中に微細に分散された少量の水が燃焼ガスの輻射熱(放射熱)で爆発的に蒸発し、燃料の液滴をさらに細かく分断するからだと言われています。言われていると書いたのは、このような微視的な現象は、必ずしも直接観察できる訳ではないので、間接的事実から推測しているからです。いずれにしても、水を適切に混入させた燃料を燃やした場合、空燃比を下げる事ができ、NOxも低下し、良い事ばかりです。

単純に、乳化剤(界面活性剤)と数%の水を混ぜて、乳白色の燃料を作る考え方もありますが、投稿者は、燃焼させる直前に超音波等で「物理的に乳化」させるシステムを推奨しています。界面活性剤そのものがあまり体に良いとは思えないし、その成分が燃焼ガス中に出て大気に拡散した場合も同様だからです。

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2011年4月30日 (土)

1364 環ビジ65(熱電併給車)

1355で太陽光の熱電ハイブリッドを提案しましたが、エネルギーを熱に変えるシステムでは、ほとんどの場合、熱電併給が有利です。理由は単純で、熱を利用する場合、必ず廃熱が発生するからです。車の場合、燃料をエンジン内のシリンダで爆発的に燃焼させて、その膨張する力だけを利用していますが、排気管やラジエータから捨てられる排熱は、まだかなりのポテンシャルを持っているはずです。ガソリンの燃焼によって生ずるエネルギーの、1/4以下しか車を前進させる事には使われていませんが、排熱を利用すれば家庭用の風呂を何杯も沸かす事が出来るでしょう。今は、それを徒に大気中に捨て、一方では別にガスや電気を使って給湯を行っている訳です。

T社がハイブリッド車に、非常時にも家庭用の電化製品をつなげる100Vコンセントを設けるとか。どうせなら、ラジエータにホースをつないで、風呂が沸かせるコネクターも設けていただきたいものです。災害時には、被災地の避難所にこの種の車を並べれば、数日間くらいなら停電とガス供給停止にも対応可能でしょう。逆に言えば、なぜこの地震の災害大国にこのような目的の熱電併給車が、例えば1000台くらい装備されないのか不思議です。電源車はかき集めれば、この程度はあるのでしょうが、電気を起こせば多量の廃熱も発生するのですから、それで風呂を沸かせば、1か月も風呂に入れない被災者の不幸を無くせるはずなのです。

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2011年4月29日 (金)

1363 環ビジ64(サーモクロミック)

ある種の色素は、温度変化によって色調を変化させます。これをサーモクロミック現象と言いますが、これをペイントの顔料として混ぜ込むと、色が変化するペイントが作れます。このペイントは、寒い冬は太陽光を吸収する様に、黒色に近い色調ですが、逆の太陽の強い夏は、白色に「衣替え」するようにできます。その結果、このペイントを塗った家では、冬暖かく、夏涼しい環境を、エネルギーを使わないで実現できるでしょう。サーモクロミック色素の耐久性は未知数ですが、車の屋根部のペイントにも、その効果が十分期待できます。

これを繊維に混ぜ込むと衣服やカーテンなども、同様に遮熱と吸熱を切り替える事も可能ですし、意匠に使えば、同じ生地の模様をいくつかのパターンに切り替える事も可能でしょう。つまり、冬と春秋と夏に、福野模様が変わるという面白い生地も作れます。投稿者の様に、衣服の手持ち枚数手持ちが少なく面倒くさがりの輩は、ぜひ年中「着た切りスズメ」で済ましたいところです。

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2011年4月28日 (木)

1362 環ビジ63(ハイブリッド鉄道)

これは、ハイブリッドカーの鉄道版です。動力は、基本的動力としては電気モーターか、またはディーゼルエンジンにはなりますが、何とハイブリッドするのかと言えば、それはフライホィールが適当と考えています。鉄道にしても、車にしても、動力の1/3以上は加速時に費やされます。回生ブレーキを追加し減速時にブレーキを掛ける代わりに、フライホイールに動力をか加えれば、それを加速時に「使い回し」できますから、原理的には30%の省エネが実現できるはずです。もちろん、摩擦など機械損失がありますから、実際には20%程度で頭打ちになるかもしれませんが、これまでと同じ走り方をして、丸々20%のエネルギーが削減できれば、これはもうやるしかないでしょう。

同じような仕組みは車や加減速を繰り返す路線バス等でも同様に有効なはずです。一定速度走行の距離が長い超距離トラックには、車体重量が増すデメリットがあるので、あまり有効とはならないとみています。

HVを始め、ハイブリッド化するメリットは、欠点を持つ2つかそれ以上のシステムを、組み合わせる事によって、お互いの弱点を補完し合う点にあります。エネルギーは、基本的には力や熱や電磁波の「流れ」ですから、それを蓄えて置くことは結構難しく、エネルギー効率的にも決して有利とは言えませんが、だからこそそれが出来れば、メリットも非常に大きくなる訳です。

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2011年4月27日 (水)

1361 環ビジ62(リヤカー配送)

今回の震災でも、発災初期には支援物資の配送で、大きな混乱がありました。原因は、被災地で大量に発生した瓦礫の山です。津波による瓦礫は、震災による瓦礫の量とは比べるべくもありませんが、例えば、流された材木や柱がたった1本道を塞いだだけでも、車による配送では先へは進めません。そこで活躍するのは、実のところは人力しかないのです。どうにか、道がつながっていれば、そこまでは車で、そこから先はリヤカーに積み替えます。このリヤカーは、車いすの仕組みを活用して収納時はコンパクト畳めるもので、簡単に車に積めます。これを広げて、物資を小分けにして、車が進めない被災地に分け入ります。さらに瓦礫が邪魔をするようであれば、そこから先は背負子に荷物を括りつけて、いよいよ足で歩くしかないでしょう。この仕組みは、実は都市でも有効です。実際、ビル街や狭い商店街などでは今でもリヤカー配送がかなり行われていますが、もう一段進めても良いでしょう。具体的には、中心市街地の外側に配送車が駐車できるスペースを確保して、そこから先は配送車が立ち入らないゾーンを設定します。宅配便は、ここで荷物を積み替えて、中心市街地の店舗やオフィスに配送を行う仕組みとします。住宅地でも、その地域を担当する主婦や高齢者が、時間を掛けて地域の宅配を引き受ける様にすれば、その地域の騒音や排気ガスも少なくなり、住宅地としてのクオリティも向上するでしょう。

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2011年4月26日 (火)

1360 環ビジ61(鉄道トラック)

これも、かなり以前に、長くながく連なった鉄道コンテナ列車の通過を踏切で待ちながらボンヤリ考えたアイデアです。鉄道コンテナは、想像するに各地にある鉄道コンテナ駅にある引き込み線のあるコンテナヤードで、フォークリフトなどを使いながら、積み込みと積み下ろしが行われているのでしょう。しかし、これではあまりに非効率で、固定的な大口荷主(メーカー間の部品のやり取りや大規模問屋への配送等)にしか使えない硬直化したシステムになります。

そうではなくて、鉄道は最も効率的な輸送手段の一つなのですから、この国の鉄道網はもっともっと活用されて然るべきなのです。具体的には、どの駅でも鉄道コンテナの積み下ろしができるように、システムを変えてしまいましょう。現在のホームを少し延長し、コンテナの積み下ろしにも使います。そのホーム横には、道路が引き込んであり、台車だけのトラックが横付けできるようになっています。ホームにはコンテナを列車から短時間(数分)で積みおろしできるような、自動化されたクレーンを設置しておきます。ローカルの駅では、たぶんコンテナ数個程度の積み下ろししかないでしょうから、列車運行を乱すこともほとんどないでしょう。

つまり、これは30m間隔でつながる高速道路のトラックコンボイの替わりに、コンテナだけをぎっしりと数百個積んだ長いトラックだと考えれば良いのです。運転手は助手も入れて二人で済みます。高速道路の渋滞も、連休時などを除けばほとんど問題無くなるでしょうし、定時性も格段に向上するでしょう。

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2011年4月25日 (月)

1359 環ビジ60(水上トラック)

10年ほど前に高速道路を走っているときに発想したアイデアです。その時は夜間でしたが、気が付くと周りは全て長距離トラックに囲まれていました。数十メートルの間隔で、夜の高速道路を疾走するトラック軍団(コンボイ)を眺めながら、何かが間違っていると感じました。考えてみると、高速道路網が整備される以前のこの国は、鉄道と海運大国であったはずです。高速道路は、高度成長期の波に乗ろうとした建設業界(ゼネコン)と国土・交通運輸族議員の努力の産物です。T首相の「列島改造計画」に基づいて、結局は四国には3本もの橋が掛かり、列島の隅々まで高速道路が延びました。

しかし、何度も書きますがゴムタイヤを使う輸送システムは、1トン当たりの貨物に換算すれば鉄道より一桁多いエネルギーを消費しますし、船に比べればさらに一桁跳ね上がる非効率な輸送手段なのです。ここでの提案は、ほとんど規格的に見える「トラックのアルミバン」を、完全に規格化して、しかも取り外し式にするというものです。外したコンテナは、専用のコンテナ船に積んで都市間を移動させれば、今の何十分の1かのエネルギーで、モノの移動ができる事になります。鉄製の舶用コンテナと異なり、アルミコンテナは強度が低いので、平積みにはなりますが、却ってその方が、自動化して短時間で積み下ろしを完了させたいという目的には好都合です。夕方にコンテナを港に集めて積み込み、夜間に船を走らせ、翌朝には目的地に着いているでしょうから、地元のトラック台車に乗せると想定しても、今と同じ程度の宅配スピードを確保できるでしょう。時には低気圧や台風の通過を待つために1日か2日程度の遅延は起こるかもしれませんが…。それは、省エネのためのささやかな代償だと割り切るしかないのです。

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2011年4月24日 (日)

1358 環ビジ59(マイクロ水力補足)

1532に質問的コメントが付いたので、少し補足しておきます。エネルギーの地産地消において便利さや安定性を追求しては本末転倒になります。何時でも、スイッチを入れさえすれば、全ての需要家で、好きなだけ電力が使える、という理想を追求した結果が、化石燃料を多量に燃やし、それでもまだ足りなくなり、原発を多数建設しなければならなかったという現在の事態を招いたのだ、と見方を変えるべきでしょう。電力の様に便利なエネルギーを手に入れるためには、本来大変な努力を要するはずなのです。なぜなら、熱を熱として利用するのであれば、方法にもよりますがほぼ100%利用可能です。しかし、熱を電力に変えるためには、高熱源から低熱源に「半分以上の熱を捨てる」事によってのみ可能だからです。事実、火力発電所の熱効率(石油や石炭の持っている熱量を電力に変える効率)は40%を少し超える程度しかありません。残りの熱量は、煙突や冷却水に捨てられ、無為に大気や海水を暖め続ける事になります。

使うのに便利で、作るのに大変な電力を地産地消しようとする場合、その供給がやや不安定でも辛抱しなければならないでしょう。負荷を掛けすぎると電圧が下がって、モーターの回転数が下がり、或いは電灯が暗くなる事によって、需要家はエネルギーの使い過ぎを「実感」できる訳です。水力の場合、確かに渇水期には発電能力が下がるでしょう。一方、渇水期には逆に太陽光が元気なはずですから、補完的に太陽光を利用すれば良いのです。ただし、水力や太陽光で電力を作り、その電力でお湯を沸かす、などという愚行は絶対避けなければなりません。T電が強力に進めるAール電化なんかはくそくらえです。電力は、作るのには最も不便で、最も効率の悪いエネルギーの形態だと再認識した上で、遠慮しながら慎ましく使用すべきです。

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2011年4月23日 (土)

1357 環ビジ58(ソーラーポンド2)

このブログでも、かなり以前にソーラーポンドの紹介をしたような気がします。夏の間に大きな池の底に、季節を超えて多量の熱を蓄えておき、冬にその熱で暖房をしてしまおうという目論見です。日本でもこの目的で、北海道に実証施設が作られているようです。ここでは、晴れた日の昼間にエネルギーを蓄えておいて、夜間や雨天の日にも安定的に発電が可能となるシステムを提案しておきます。

発電効率は、高熱源と低熱源の温度差が大きいほど高くなります。したがって、例えば5-60℃の温水と、環境温度である20℃前後との温度差では、その効率はずいぶん低くなるので、実用的ではありません。この目的のソーラーポンドでは、蓄熱媒体としては、たぶん比較的低い温度で融ける溶融塩が有望です。最近、効率の高い蓄電池の電解液としてナトリウム溶融塩が注目されていますが、同様のものが使えそうです。この溶融塩は、理想的には数百℃程度には加熱したいものです。そのためには、太陽光をある程度集光する必要もありますが、それも反射鏡などを使えば、比較的簡単に実現できるはずです。小さな池の上に桁が掛かっており、その上に反射鏡を乗せて、池の周りの反射鏡で集めた光を池の中の液体に照射する、というイメージです。

対流によって表面から無為に逆放射のエネルギーロスが生じないように、溶融塩には透明で断熱性の液体の蓋をしておきます。溶融塩を、200℃以上に加熱できれば、この熱を使った熱機関の効率はかなり大きくできます。その熱を使った、熱機関に関しては別の機会に提案する事にします。

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2011年4月22日 (金)

1356 安全性と経済性

技術屋を卒業してしみじみ感じるのは、技術屋とは安全性を削って、経済性を成り立たせるために、しこしこ努力しなければならない辛い存在だという事です。例を挙げれば、例えば航空機の製造があります。もし、乱気流に巻き込まれようが、宙返りをしようが壊れない飛行機を設計しようと目論む技術屋には、絶対に実用的な旅客機の設計はできないでしょう。それは、戦闘機の様な頑丈さになるでしょうから、大きな機体でも数人の乗客しか乗って貰えない代物になるからです。そこで、恐るおそる安全率を削り、それなりの理屈をこねた試験を繰り返し、なんとか通常の気象条件であれば飛べると考えた仕掛けが、今飛んでいる旅客機の姿だと言えます。それは、身近なものに例えるなら、さながら「アルミの張子」であると言っても良いでしょう。もちろん、格好をつける技術者は、それを「経済性と安全性の絶妙なバランス」などと、ノタマウかもしれませんが…。

さて原発です。有史以来の天変地異だけでも、この国や世界のそここそでは、台風やハリケーンなどの風水害や地震や津波や磁気嵐や、隕石落下などなど、数えきれないほどの天変地異があったはずです。それ以前に遡れば、大陸が移動してくっついたり離れたりしてきたはずです。そんな物騒で頼りない陸地に建設された建物が「絶対に」安全であるはずはありません。少なくとも、隕石が原子炉を直撃しない保証はありませんし、過激派が旅客機を乗っ取って突入しないという保証もありません。

では少なくとも津波や高波の心配が無いように、小高い山でも削ってその上に原発を建設すれば良さそうなものですが、それでは大量に必要となる冷却水を、「安いコスト」で調達できなくなります。たぶん毎秒数十トンも必要となる冷却水(海水)を、50mの高台に送る動力を考えれば、原発で作った電力の例えば5%を犠牲にしなければならないでしょう。これでは、電力会社の「経済性」を著しく損ねます。また、放射能を帯びた燃料や、燃えカスを運搬するにも、陸路を通るより、専用の岸壁に船を横付けする方が、「経済的」で通常の場合は安全です。したがって結果としては、国内の全ての原発が、いざという時にも「避難民が最少となる様な過疎地域」の臨海に立地している訳です。フクシマが、安全性より経済性の方に過度に傾いた、やばい施設であったかどうかの総括は、いずれ明らかにされるはずです。

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2011年4月21日 (木)

1355 環ビジ57(光・熱ハイブリッド)

太陽光の利用において、ひたすら太陽光発電だけを追求するのは、片手落ちです。地球に届く太陽光のスペクトルは、非常に幅広くなっていて、チリやオゾンや水蒸気によって、歯抜けの様にギザギザにはなっていますが、それでも十分に多様性に富んでいます。

太陽からの光(一般化して言えば電磁波)は、紫外線から可視光、遠赤外線まで幅が広いので、その活用も波長に応じて太陽光発電の1段だけではなく、多段階に活用すべきなのです。多段階で使うには一応のルールがあります。それは、光の波長が短い(エネルギーレベルが高い)順に使う、という単純なものです。紫外線は、非常に高エネルギーレベルの電磁波ですが、他方で非常に減衰し易く散乱もし易いという弱点も持っています。したがって、大気中の小さい分子であるオゾンやチリで、かなりの部分が減衰してしまいます。そこで、先ずこれは太陽光発電など、高いエネルギーレベルの光を要求する用途に使います。また光触媒を使った、汚れ物質の分解や水の触媒分解による水素発生などにも使えるでしょう。

一方で、赤外線や遠赤外線などの波長の長い電磁波は、水蒸気の様な大きな分子にはある程度吸収されてしまいますが、場合によって物質中を、波長を変えながらも透過し伝播もします。例えば、建物の鉄板やスレートでできた屋根などは、苦も無く通過してしまう訳です。そこでハイブリッドです。上記の紫外光を使う用途には、「半透明の素子」を使い、赤外線の多くを透過させます。赤外光は、その下で黒色の太陽熱利用機器でしっかり受け止め、熱としても最大限利用します。この結果、太陽光の総合的なエネルギー利用効率は、50%近くに跳ね上がる事になります。

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2011年4月20日 (水)

1354 何かが違う

フクシマの原発事故を承けて、各地の原発でも津波対策が計画されています。いわく、非常用電源車を高台に設置する、また高さ15mの防波堤を建設する、緊急時に冷却水を供給する消防車を配置するなどなど。しかし、何かが間違っている様な気がします。電源喪失は確かに非常用発電機や電源車で対策はできますが、ポンプを動かすモーター自体が水没した場合には、現在考えられているどんな対策も無力です。

良い例を挙げましょう。原油タンカーには原油を移送するための大きなポンプが設置されていますが、ポンプ室には実はポンプを動かすための原動機(多くの場合は蒸気タービン)は設置されていません。原動機は、隔壁を隔てた機関室内にあり、ポンプ室に水や油が充満しても、ポンプは動かし続ける事が出来るようになっているのです。

さて原発です。15m以上の津波対策を施しても、16mの津波が襲来したら、防波堤は無力です。通常低い場所に設置されているポンプのモーターも冠水し、フクシマの二の舞になる筈です。そうではなく、ポンプはそのままで良いので、台を作ってモーターを20m以上高い場所に設置すれば良いのです。ポンプとモーターは、長いながいシャフトでつなぎます。理想的には、モーターは水密区画に入れ込んでしまうのが良いでしょう。モーターさえ健全なら、外部電源をつなげば直ちに原子炉内に送水できるでしょう。今回のフクシマでも、外部電源をつないだ後で、モーターの絶縁が低下している事が判明し、結局は動きませんでした。今各地で行われようとしている津波対策は、根本策にはなっていません。

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2011年4月19日 (火)

1353 環ビジ56(木材複合材)

複合材とは、例えば引っ張り強さに優れる繊維と、圧縮強度に優れるエポキシ樹脂を組み合わせて、あらゆる方向の荷重に強い材料とすることを指します。繊維としてカーボン繊維を使ったものをCFRPと呼びますが、しかし使用済みのCFRPは、無為に燃やしてしまうしか処理方法がありません。しかも有害なガスが出やすいエポキシ樹脂を含んでいます。

では、木材を繊維として使った複合材は考えられるでしょうか。木材は、実は繊維方向の引っ張り強度に加え、圧縮強度も十分あると考えても良い材料なのです。細くて高い塔を建設する場合、比重と圧縮の比強度を考えれば、実は鉄よりも木材に利があるとの建築家の試算もあるくらいです。つまり鉄を使った塔では、自重により根元に使われた材料に座屈が生ずるため、仕方なくピラミッドの様に土台部分を広くしておく必要があるからです。

さて、木材複合材ですが、せっかくの天然材料の結合に石油系の接着剤を使うわけにはいきません。天然素材から作った「ノリ」を検討すべきでしょう。水に溶けるノリだからと言って、出来た複合材が水に弱いものとなると考えるのは早計です。ある程度の温度を掛けて、水分子を追い出すと、最早水分にはフヤケない性質を持つノリはいくつか存在します。木材は、(鉋屑の様に)薄く剥いでランダムな方向に積層し、このノリで固めます。この材料で、合板と柱や梁を造れば、少なくとも骨組みだけは津波や水害でも流されない強固な建物を作ることも十分可能でしょう。その材料は、日本の山に豊富に賦存します。復興のついでに、新しい産業も興してしまいましょう。

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2011年4月18日 (月)

1352 環ビジ55(マイクロ水力)

原発を全廃すると仮定した場合、今のエネルギー使用水準が維持できるはずもありません。それをカバーするほどの火力発電所を建設すれば、大気中への二酸化炭素排出を加速するだけでなく、石油の需給状態も逼迫する事になるでしょうから、世界の経済秩序も乱しますからもちろん大幅な省エネ行動は必須です。その上で、エネルギー源の多様化を急いで進める必要もあるのです。それは、省エネ行動には矛盾する様にも見えますが、何よりエネルギーのある内に、次のエネルギー源を開拓しなければならないという台所事情があるからです。原発や火力発電所が電気の力で建設されたものでない事は小学生でも理解できます。それらは、重機と呼ばれる建設機械を動かすため、多量の石油を使って作られたはずです。

それはさておき、ここでは、少しでも水の流れが利用できる地域で、その流れからささやかでも電力や動力を取り出す仕掛けである「マイクロ水力利用」について少し書いておきます。1本の直径が10mもある導水管で、1台あたり100万kwの発電能力がある発電機が19基もある、ブラジルのイタイプダムはさておいて、この国では直径3mもあれば、結構大きな発電設備だと思われています。つまりは、10万kwの出力の発電タービンは大きい部類に入る訳です。マイクロ水力発電とは、厳密な定義がある訳でもないのでしょうが、100kw以下の出力、投稿者的には数kw程度の出力をイメージしています。

この程度であれば、ちょっと水量のある堰でもなんとかなりますし、ゴミが引っかからない下掛け水車を採用すれば、たとえ農業用水でも利用可能です。水路を堰き止めてヘッド(水頭)を作ったり、面倒な導水管を設置したりするのではなく、ここでは水路の上に梯子を渡して、その上に発電機が載っている、というイメージの小型水車を、投稿者なりのマイクロ水車と呼んでおきます。1台の出力は数kwでも、これを100台も並べれば数百kwの立派な小規模発電所になります。つまり、立地条件の厳しい小水力発電ではなく、多数のマイクロ発電により「エネルギーの地産地消」を実現する訳です。雪解け水のない太平洋側の地域では、もちろん太陽光発電でカバーします。

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2011年4月17日 (日)

1351 環ビジ54 放射能固定植物

原発のお膝元である福島県や近隣県では、農地の放射能汚染が深刻になりつつあります。放射能の除去には、格納容器や冷却プールに残された燃料棒を含め、まずはそれらを除去して隔離する、拡散したものは洗い流して薄める、自然減少(半減期)をひたすら待つなどが考えられますが、より前向きな方法としては1350でも書いたバイオレメディエーション(bioremediation)が最有力です。これまでに知られていた、放射能除去に有用な植物もすでに見つかっているのでしょうが、投稿者の提案は、新たな植物の探索です。

少し別の方向ですが、例えば原油流出現場やダイオキシン濃度が高い地域、或いはPCBに汚染された土壌などでは、間違いなくそれらの汚染に強く、逆にそれらを利用する様な、微生物や植物の突然変異体が見つかるはずなのです。放射性物質は、低濃度ですが自然に広く分布しているものなのですが、原発事故や原水爆から放出される「人工放射能」に関しては、既に人工放射能が放出されてしまった、事故現場や実験現場に当たってみる必要があります。そこで見つかるであろう、根や葉や体内に放射性物質をしっかり抱え込む性質を持つ植物や微生物を探して、汚染地域で試験栽培(培養)してみる必要があります。

同時に、放射能除去は、塩害除去よりはさらなる長期戦を覚悟する必要がありますので、産官学が、海外の人材も頼んで、しっかりした態勢を構える事も求められるはずです。仮に、ある企業がそれを高い連ベルで成し遂げる事が出来たと仮定すれば、間違いなくそれは「環境ビジネス」の大きな柱の一つになる筈です。

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2011年4月16日 (土)

1350 環ビジ53 津波被害農地の脱塩

津波被害を受けた農地は、海水をたっぷり被っているため、今後長く塩害に悩まされる事になります。しかしながら、オランダやこの国には、長い干拓の歴史があり、干上がった干拓地での農業開始時には、塩害との厳しい戦いの歴史もあったはずなのです。その知恵のエッセンスを使えば、比較的短期間のうちに、塩害から抜け出すことも可能でしょう。もちろん、淡水を導いて塩分を洗い流す基本的な手法も行われるでしょう。

より深い土壌中の塩分を取り除くには、塩分に強く、土壌から塩分を根から吸い上げてくれる植物の栽培が必要かもしれません。乾燥地で栽培がおこなわれる様な作物は一般的には塩害に強いと思われます。乾燥地では、河川水や地下水による灌漑の結果、灌漑水中に含まれる塩分が濃縮し土壌の塩分濃度が高くなっているからです。もちろん、食料などとして利用できる作物が栽培できればベストですが、収穫は無くとも、塩分吸い上げ能力が高い植物を数年間栽培するのも一方法です。それらは、たとえ食料には出来なくとも、パルプか燃料くらいには使えるでしょう。塩素を含んでいるので、この燃焼ガスからは多少のダイオキシンが出るかもしれませんが、短期間の話なので、多少の事には目をつぶりましょう。まずは農地を回復させて、食料を確保する事が先決ですから。

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2011年4月15日 (金)

1349 地熱発電としての原発

原発は、いわゆる化石燃料とは異なり、温暖化に無関係な「クリーンなエネルギー」であると言われ続けてきました。しかし、原子力も実は立派な化石エネルギーである事は疑いがありません。地殻の中には、多くの天然の核物質が埋め込まれています。そのいくつかは、億年という単位でみれば天然の原子炉となって、核分裂反応を繰り返してもきたでしょう。(例えば、アフリカのオクロ鉱床に実例あり)日本でも、岡山の人形峠でのウランの鉱山跡や、各地のラジウム温泉などの付近では、天然の放射能や放射性物質が観察されるはずです。多くの場所での地熱の源となっているエネルギーのかなりの部分は、実は地底の天然原発(放射性物質の崩壊熱)の贈り物でもあるのでしょう。

一方、今ある原発は、化石として薄く分布してその影響が最小限に弱めていた放射性物質を、わざわざ地底から掘り出して、何万倍にも濃縮したうえで、地上で改めて「地熱発電」を始めたシステムだ、とも言えるでしょう。濃縮した核物質が引き起こす猛烈な核分裂のエネルギーを、薄い鉄の圧力容器と精々数メートル厚さのコンクリート如きの二重のバリア程度で封じ込める事が出来ると考えたのは、技術屋の不見識(あるいは事務屋との経済性の議論に負けた結果?)であったと素直に認めなければならないと思います。さらに言えば、発生させた蒸気を冷やして水に戻すためとはいえ、復水器に海水を導入し易さだけを考え、安易に標高の低い海岸部に原発建設を許した責任は、原発技術者に加え、地質学者や津波を含む災害の専門家も免れ得ません。

化石燃料の多量消費の結果としてのCO2増加(CO2汚染)によると言われる温暖化と放射性物質による大気や土壌や水の放射能汚染の、どちらが深刻な汚染であるかは言うまでもありませんが、その差は実は50歩と1000歩程度の差かもしれません。つまり、その悪影響が数年間に集中的に出るか、或いは数十年スパンでジワジワ出てくるかの、長い時間のスパンで見れば、ホンの僅かな違いだとも言えるからです。放射性物質様には、元の地底に戻っていただき、ジワジワ地熱を出して貰って、私たちはお裾分けの温泉くらいで我慢しましょうか。

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2011年4月14日 (木)

1348 地震の巣

3.11地震の震央を中心とする南北500㎞の範囲内での余震が治まりません。一昨日は東京へ日帰りで往復しましたが、運の悪い事に朝夕の往き返りとも余震の影響を受けて、それぞれ15分程度の停電停止に遭遇し、初めて新幹線の「カンヅメ」を経験しました。往きは、車中でラジオを聴いていたのですが、NHKの緊急地震情報が出てすぐに減速が始まり、その数秒後に停電停止が起こりましたから、確かに新幹線の地震P波による「緊急停止システム」は正常に機能していることを、身を以て確認できました。

さて余震です。私たちの暮らしている陸地が載っている地殻そのものは極々薄いもので、精々100㎞程度しかないでしょう。さらに、地殻の下に地殻(プレート)が潜り込んでいる様な、日本近海の地殻の「エッジ」では、その厚みは削り取られて楔の様になりさらに薄くなっているはずです。したがって、その摩擦面で発生する地震震源の深度も精々数十㎞となっているのです。しかも、プレートは三陸沖からすぐに潜り込んでいるのではなく、日本列島の下をしばらく進んでから、徐々に沈降していきます。その間の強烈な地殻運動のエネルギーは、地殻の底でマグマを造りだし、そのエネルギーが東北の各地の火山や温泉となって地表に噴出してきます。例えば、岩手県でも岩手山は立派な活火山で、山麓には新しい溶岩流が観察されます。投稿者の故郷である日本海側でも、鳥海山は現在活動を休んでいますが代表的な火山です。極端に例えるなら、日本列島は地殻のエッジにできた、細長いシワであると言ってもそんなに間違いではないでしょう。

また、三陸のリヤス式の海岸線は、北欧のフィヨルドを彷彿とさせる一方で、多くの「溺れ谷」の集合である様にも見えますが、太古から数十メートルの地殻陥没を含む活発な地殻運動が起こっていたのかもしれません。まさに、三陸は地殻と海洋プレートのせめぎあいの最前線であったという事なのでしょう。地震の巣に棲む「ナマズ大王様」も、地殻と海洋プレートの「収まり」が良くなれば、また数百年の眠りに入るのでしょうが、ここ1年くらいは、さらに地震の巣の中をモゾモゾと蠢くのかもしれません。

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2011年4月13日 (水)

1347 環ビジ52(コンクリート延命)

コンクリートは、砂や砂利(骨材)と石灰岩を原料とするセメントで作られた「複合材」だとも言えます。しかも、その原料は環境にありふれたものだけで作られている事もあり、人工材料でありながら、限りなく「環境材料」に近いものだと言っても良いでしょう。

しかしながら、コンクリートの建造物にも寿命があるように見えます。例えば、高度成長期に雨後の竹の子のように作られた、鉄筋コンクリートのアパートなどは、その多くが建て替え時期と「判断」され、スクラップ&ビルドの対象となっています。ではなぜ建て替え要と判断されたかと言えば、それは鉄筋の腐食とそれに伴うひび割れでしょう。ただしこれは、単なる素人の推測です。鉄筋の腐食は、実は結果であって、原因は酸性雨によるセメント成分の溶出にあると言われています。つまり、本来アルカリ性であるコンクリートが、酸性雨により鍾乳洞の様にCa成分が溶かし出されて、結果として鉄筋が酸性に傾いた水に晒される結果、急激に腐食が進むというメカニズムです。腐食した鉄分(酸化鉄)は、体積が拡大する結果、コンプリートを内から破壊します。もう一つのコンクリートの寿命短縮の要素は、高度成長期の建設ラッシュで、供給が間に合わなくなった川砂に替えて、大量に手に入る海砂が使われたことがあります。コンクリート中の塩分は、鉄筋の腐食をかなり加速させたことでしょう。

さて、コンクリートの延命アイデアです。一つには、鉄筋の腐食を遅らせる方策でしょう。鉄さびには赤さびと黒さびがあります。ややこしい話はさておいて、赤さびは進行しますが、黒さびは安定化している事を利用します。例えば、赤さびが発生した鉄筋に対して、黒さび化させる薬剤を、コンクリートを通して浸透させる方法が考えられます。もう一つは、コンクリートの脱灰を防ぐ手立てです。これは、単にコンプリート表面に水を通さないコーティングを施すだけでは足りません。コンクリート中のCaを安定化させる薬剤を内部まで浸透させる必要がある訳です。それを浸透させるルートは、実は雨水が侵入した経路を探せば見つかるでしょう。コンクリートの脱灰、鉄筋の腐食を早期に発見する手法の開発も重要です。サーモグラフィによる水侵入の経路観察や鉄筋の腐食による発熱観察、超音波探傷技術を利用したコンクリート内部の密度・ポーラスの測定などが有効でしょう。

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2011年4月11日 (月)

1346 文明の転換点

今回の震災・津波・原発災害の、初期のショックは静まり収まりありますが、ここにきて20世紀型の文明(化石燃料=石油文明、ここ数十年は原子力文明)への見直し論が盛んになりつつあります。高度成長期までは、この国は石炭と石油エネルギーで乗り切ってきました。しかし、産油国の反乱の結果ともいえる、オイルショックの勃発とその影響に懲りた先進国は、原子力発電拡大に向けて急速に舵を切ったのでした。石油が採れず、E国やB国の石油メジャーの動きにも乗り損ねたF国は、なんと全電力の80%を原発だけで生み出すことになった訳です。

考えてみれば1970年代中盤までは、産業向けのエネルギー量としては。水力+火力でほぼ足りていたはずなのですが、その後数多く建設された原発から送られる事になった電力は、専ら私たちの暮らしの利便や快適さを追求するために費やされたとみても、そんなに見当違いではないでしょう。原子力の拡大に伴って、火力発電に回されていた石油は、一家に2-3台にも増えた乗用車や委託した翌日には配送される「過剰に便利な宅配便」の増便やさらにはプラスチックの原料など多用され、さらに余裕のできた電力を使っては、工場やオフィスや住宅の、過度な電化や冷暖房が行われる事になったのでしょう。

しかし、今回の地震や津波や原発事故は、これらの20世紀人の思い上がりを強烈に打ち砕いた、と言っても過言ではないでしょう。その意味では、厳しい見方にはなるのでしょうが、今日の状況は「災いを転じて、文明の見直し」につなげる好機だと捉え直すべき時かもしれません。見直すべき方向は明らかです。それは、より環境やヒトを含む生物に安全でしかも持続可能性高い方向しかないでしょう。このブログも、そんな提言だけを日々書いているのだ、と言っておきます。

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2011年4月10日 (日)

1345 白黒二値

環境汚染を考える時、安全と危険という、いわゆる「白黒二値」では説明できません。何故なら、汚染度を計測して数値化した場合、汚染の拡散の度合いにより、白と黒の間には、限りない明度差を持つ「灰色」領域が広がっているからです。限りなく白い灰色は白、同じく濃い灰色は黒とすることができるでしょうが、例えば全く中間の明度を持つ灰色は、白なのでしょうか黒なのでしょうか。算数であれば「四捨五入」で割り切って、0.51であると言い切り、0.4はゼロであるとするのでしょうが、では放射能の暫定基準を仮に0.45とした場合、これは全くシロで、隣町で計測された0.51はクロと決めて良いのか、という疑問に苛まれます。それは、微妙なグラデーションを持った写真を、データ量を圧縮するために、白黒二値でスキャンした場合の画像を見る違和感と同じ種類のものでしょう。

暫定基準は決して安全基準ではない事を改めて認識すべきでしょう。かつて、公害問題が「華やかなりし頃」いくつもの、公害対策法が施行されました。それらで採用された安全とされた基準は、報道されている放射能の暫定基準とレベル的に違うものではなく、いくつかの動物実験や、健康被害調査結果などを、適当に組み合わせた「暫定値」でしかないと想像しています。もちろん、汚染はゼロが理想ではありますが、一方では「それではモノが作れない」、それでは「コストが掛かりすぎて現実的ではない」という技術屋や経済界との「妥協の産物値」を決める必要があった訳です。

その妥協は、四捨五入とすべきか、業界の意向をくみ取って三捨四入とすべきか、或いは消費者の安全をより重視し五捨六入とすべきか、は全く妥協点の探り合いの中から生まれた数字のはずです。いわゆる四大公害に代表される、水質、大気汚染などに比べれば、地域拡大性、重大で長期に亘る健康被害を考えれば、白黒二値の境界は、可能な限り人間に安全な側に設定すべきでしょう。事故後、原発から80㎞以遠圏への避難を指示したB国や、日本からの脱出を指示したヨーロッパの国々の指示を、大げさ過ぎると笑うことはできないでしょう。

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2011年4月 9日 (土)

1344 モノ金に頼らない幸せ

お金もそうですが、モノに関しても、このブログでは何度も書いてきました。たどり着いた結論は、モノ(や金)の追及は、結局は人を不幸に導くという、単純なものです。しかし、それは決して霞を食って生きろ、という極端で短絡的な結論ではありません。そうではなく、必要最小限のモノ(やそれを得る手段としての金)で満足する、慎ましさを身に着けるという事で実現できる幸福の話なのです。

人間は「最低限」何があれば幸福に生きられるか、について時々考えます。前にも書いた気もしますが、この年齢まで生きてきて得た結論は、それは「必要かつ最小限の食物」と、「人々と絆で繋がって、出来れば周りに頼りにされて生きる満足感=生きがい」の二つだというものです。美食に楽しみを求める人は、生きがいの意味をはき違えている、としか言えません。動物は、生きるために食物を探し、しかし餌場のエサを決して食い尽くさない程度に留めて、慎ましく食事をします。振り返って、食料に事欠かない生活を送っている動物園の動物の幸福度を誰が推し測っているでしょう。オリの中で自由度を奪われた生活代償としては、食料が食い残すほど与えられても、野山での生活での幸福感を代替はとてもできないと想像しています。

さて、食料と生きがいがあれば、モノは要らないのか、と問われれば、それはYESと答えておきます。江戸時代の長屋生活は、落語の中でしか詳しくは語られませんが、柳梱に入る程度の少ない数の着物や鍋釜、薄い布団以外は、たぶん殆どが「借り物」で済ませていたと想像しています。同じように先代からの寺を「預かっている」住職以外で僧職に入ったお坊さんも、モノを持たない生活を実行している「見本」と言えるでしょう。モノを持たず、檀家に慕われてその喜捨で暮らしている坊さんの幸福度は、かなり高いのではないかと、密かに羨んでいます。所詮モノとは、生きている間だけの「借り物」であると考えれば、モノに固執する気も起きないでしょう。

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2011年4月 8日 (金)

1343 農業の工場化

1342で、不用意に農業の工場化という言葉を使いましたが、少し補足が必要でしょう。現在でも、葉物野菜に限定すれば、人工照明を使った密閉空間で無菌栽培がおこなわれており、「野菜工場」などと呼ばれて注目されています。しかし、本来工場とは原料の形や性質を、工業的な技術を使って改変し、付加価値を付ける場所であるとの投稿者の定義からすれば、上記の野菜工場は、決して「工場」などではなく、温室(エネルギーや資源を使って季節に関係なく農業をする農地)と何ら変わるものではありません。

一方、投稿者が「農業の工場化」と呼んだのは、工場経営や品質管理といった、企業の製造に関する手法を農業に持ち込む、という意味に限定されます。工場化されても、農業の本質、即ち植物が土壌に根を張り、そこから微量の栄養塩を吸い上げながら、水と太陽光を使って、光合成をおこなう営みを、人間が少しだけアシストする、というベースの部分は何千年も前の農業と何も変わってはいないのです。

それにつけても、放射能に汚染された土壌を、今後どの様に利用可能な農地に戻していくのでしょうか。私たちは、チェルノブイリ事故が、実のところ今日でも深刻な影響、とりわけ農業への悪影響を引きずったままであることに思いを馳せなければならないでしょう。

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2011年4月 7日 (木)

1342 環ビジ?企業の農業参入

少し前の報道になりますが、石油暖房機器のC社が農業に参入するとか。この種のニュースは実は結構最近耳にするようになりました。投稿者の情報の多くはラジオからなので、ニュースは「耳」にする訳です。これは、つまりは大企業の農業参入の動きです。大企業であれ、若者であれ、新規の農業への参入は、この時代においては歓迎すべきトレンドだと言えるでしょう。とにかく、モノ(工業製品)を大量に安く作って、大量の消費・輸出する時代は、終わりつつあるからです。土や太陽に頼る産業は、何より持続可能が格段に高くもなります。

耕作放棄地が、再度農地に戻すことが、荒れ果てたまま、雑草や灌木に覆われ再度農地に戻すのに骨が折れるようになる前に行われれば、かなり楽でしょう。雇用も、それなりに吸収できるでしょうから、この面からも歓迎されるはずです。しかし、考えなければならないのは、農業では食えるけれども儲からないという現実です。農業を、手間暇を省いて(つまりは省力化して)行おうとすれば、まずは圃場整備が必要なことに加えて大型の農業機械を入れ、化学肥料と農薬を多用しなければならないのです。つまりは、これは「農業の工場化」を意味します。これは先進農業国で行われていて、コスト競争力も十分です。

しかし、これはこの国の事情には全くマッチしません。高低差が大きく、しかも細切れの農地が多い条件の悪い耕作放棄地を、どれだけ集めても事情は変わらないでしょう。農業に新規参入する企業には、ここのところを十分に検討して貰いたいのです。つまりは、日本の上記の事情に合致した作物を、有機肥料を使いながら、手間暇をかけて作る覚悟が必要でしょう。あるいは、企業の社会的責任と割り切って、思いっきり環境に優しい農業を展開し、それを企業のイメージアップに利用すると割り切った方が、よっぽど正直な態度かもしれません。

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2011年4月 6日 (水)

1341 多様性の縮小

環境の悪化や変化を別の言葉で表現すれば、多様性の縮小とも言い直せそうな気がします。例えば、多様な性質の環境を維持している地域が、今回の様な津波による農地の塩害や放射能の一様な拡散により、同じレベルで汚染される結果、放射線に弱い生き物は淘汰され、太陽などからの自然の放射線が高かった太古の時代に繁栄した古生物の子孫が復活するかもしれません。少なくと、私たち「ヒト属」は、森や草原などが育む、多様な環境と、そこに反映した多様な動植物の恩恵に与って生かされている存在だと言えます。

人工的な環境は、多様性がひどく矮小化されています。田舎でさえも、手入れの行き届かない元山林や元里山、コンクリートで固められた水路や川、ほとんど商業作物単作の農地といった、単純で境界のはっきりしたモザイク状の環境です。しかし真に必要な環境は、徐々に変化するグラデーションだと思うのです。その様な環境では、例えば数メートルも移動すると、微生物相が変化し、そこに蠢く小動物や植物相も変化しているものです。かつての里山と農地の境界、土手や河原と市街地との境界などは、豊かな動植物の天国だったと回想しています。

つまり、環境の悪化とは、多様性の破壊=単純相の拡大だと、投稿者なりに定義しておきます。多様性の縮小は、環境への工業的な働きかけで起こりますが、逆に多様性の回復には、人手や生物の助けを借りなければならない点が、圧倒的に異なる点だと言えます。生物多様性と環境の多様性は、どちらが先とは言えない、相互作用の「微妙な関係」にある点も非常に重要です。

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2011年4月 5日 (火)

1340 5年、10年、20年

今回の東日本のトリプル震災の復興には、長い期間が必要でしょう。その中でも地震の被害は結構短い期間でどうにかなるでしょう。地上の建物は5年程度もあれば、見かけ上の形は取り戻すでしょう。やや長い期間が必要なのは、地面に埋められている下水道などの掘り返しが必要な工事です。

しかし、津波の被害が大きかった地域の復興にはもっと長い時間、たぶん10年程度のスパンが必要だと想像しています。なぜなら、まず復興住宅や公共施設を造るにしても、果たして元あった場所に立て直すべきか、それとももっと高台に土地を造成して街を移転すべきか、立ち止まっての慎重な判断が必要だからです。場合によっては、地域のゾーンニング(より狭い意味で、都市計画や、土地利用計画等と呼ばれる事もあります)をやり直して、広域的視点でコミュニティの集約や再編が必要となるかもしれません。低い場所に立て直すなら、10m以上の津波にも流されない避難拠点を、例えば100mおき程度に配置図すべきかもしれません。これらを組み入れた本格的な復興までには少なくも10年程度は覚悟しなければならないかもしれません。

しかし、最も困難で時間が掛かりそうな復興は、放射能汚染からのリカバリーでしょう。放射能汚染の縮小には、ひたすら自然現象による拡散を待ちながら、一方では放射能物質自体の半減期に頼るしかないからです。X線写真撮影やCTスキャンで受けるγ線被ばくからの健康被害は最小限(ほぼ影響が無い)とは言いながら、日常的にこれらの検査を繰り返しても何も問題が無いとは誰も断言できないでしょう。しかも、原発からの飛散物質が出す放射線は、α線、β線、γ線、中性子線と多様です。これらの相乗的な健康被害に関しては、ロシアやアメリカあるいは、この国の被爆者からの数少ない統計的なデータ程度しか頼りになるものがありません。つまりは、フクシマの健康被害データが積み上がるまでには、少なくとも20.年以上の長い期間の観察が必要であることを意味します。

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2011年4月 4日 (月)

1339 アイデアは頭の中には…

アイデアは、実は頭の中にはありません。事実かどうかは別にして、というのが投稿者の持論です。ではアイデアは何処にあるかですが、それは外から入ってくる情報(というよりは刺激)にあると思っています。もちろん、アイデアを出そうと必死に何かを考え続ける事は重要です。そのための、個々のエレメント(種)も必要でしょう。

でもそれらを全て貫いて、瞬時にアイデアにするのは、やはり外からの刺激しかないと思っています。当然の事ながら、その刺激をしっかり受け止める「アンテナ」も重要です。しかも、そのアンテナにはしっかりした「指向性」が無ければなりません。指向性を別の言葉で具体的に説明するなら、それはそのアイデアを求めているニーズであり目的が明確になっている事だと言っておきます。

さて、東日本の地震・津波・放射能のトリプル災害の話になりますが、放射能の抑え込み、或いは被災地の復興に関しては、この国の叡智の全てを傾けなければならないでしょう。被災地や原発の中に閉じ込められたスタッフのアイデアは、どうしても閉塞的で悲観的なものになりがちです。そうではなくて、制約を一切無にして考え、世界中の叡智や、機器をかき集めて事に当たる必要があるとみています。そういった目で世界を見回せば、戦争に使う目的で開発された、高価で凝った機械や装備も数多く存在します。例えば、無人偵察機、被爆地域での活動服や車両、上陸用舟艇や補給艦などなど。まずは、バラエティに富む人々が、額を寄せ合ってアイデアを出す必要があります。過去の事例や法律から出発するお役人や、過去の書物や論文からしか出発できない学者や、彼らに頼りっぱなしの政治屋先生からは、そんなアイデアは出ないでしょう。今求められているのは、まさに阪神淡路大震災の事例を超える復興アイデアであり、さらにはこれまで全く経験した事がないレベルの放射能汚染の抑え込みや津波による地域悉皆被害への対応アイデアなのです。

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2011年4月 3日 (日)

1338 情報による環境汚染

時々グローバル化やネット社会の拡大に伴う「情報による環境汚染」を危惧します。グローバル化や情報開示は、これまでほとんど疑問を差し挟む余地なく「是」とされてきました。しかしその結果、何が起こったかと言えば、世界の各地では、地学的な境界(山脈や川や海)に囲まれた狭い地域で、伝統的なスタイルにしたがって、モザイク模様の様に暮らしていた人々の生活を、情報や工業製品が、グチャグチャにかき混ぜる結果にもなった訳です。伝統的な生活スタイルは、地産地消が基本的で簡単には揺るがない、どっしりとしたものなのですが、一度その中に近代的な要素(例えば、化石エネルギーや電化製品や車、ITやネット環境など)が入り込むと、ひどく脆いものに変質してしまいます。

別の最近の例ですが、良く噛み砕かない、放射能汚染情報などは、情報による汚染の一つのサンプルにもなるでしょう。人体に危険を及ぼす可能性もある重要な汚染情報は、吟味できていないポイント情報ではなく、面の広がり情報、加えて時間的な変化情報をセットとする必要もあります。さらに、私たちにも出来る簡単な「自衛策情報」を併せて送らなければ、単にパニックを煽るだけの「汚い情報」になってしまうでしょう。それは、避難地域や屋外待避の勧告に関しても全く同様です。見通しが効かない状況にあっても、少なくとも高い可能性で想定される事態や、避難指示を出すにも「期間情報」なくしては、これも避難者を当惑させるだけの「混乱情報」に陥ります。

もう一つ考えなければならないのは、情報の偏った方向性です。マスメディアや情報発信を商売とする側からは、大量のしかし時にはバイアスの掛かった情報が流されます。私たちは、どうしても一方的な情報の受け手に甘んじてしまいがちです。その結果、発信者の恣意によっては、意識しないままにかなりの有形無形の影響を受けてしまいます。私たちに必要なものは、感度の良い「情報フィルター」だけです。これがあれば、情報の津波にも、情報による汚染にも負けない人格が形成できるはずです。投稿者は、この情報フィルターの事を「確かな価値観」などと呼ぶこともあります。

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2011年4月 2日 (土)

1337 レジャー義援

大震災・津波被害は甚大なものですが、事の重大さに立ちすくんでいるだけでは、日本全体が沈没しかねません。各地の観光地やレジャースポットには閑古鳥が鳴いており、さらなる景気の落ち込みや震災の外側での新たな失業や悲劇を生みかねません。そうではなくて、「可能な限り平常な暮らし」は維持しなければなりません。そんな中レジャーに出かけるのが「後ろめたい」のなら、客は費用を5%余分に支払い、レジャー施設側も5%値下げし、併せて10%分の義援金を捻出して災害復興資金に回せば良いでしょう。これをしないで、例えば日銀でお札を増刷して復興資金に回すなどという、一部の政治家が考える安易な手段は、石に噛り付いてでも絶対に避けるべきです。それは、この国の通貨を含む信用を大きく失墜させてしまい、国民や産業が将来に亘って長く苦しみ続ける事を意味するからです。

同じ様な支援は、世の中の全ての楽しみに広く薄く適用できるはずです。例えば、レストランでやや贅沢な料理を頼んだ時、甘党がケーキや甘味を楽しんだ後、ゲームや音楽を楽しんだ時は、被災者の苦難を思いやりながら、ささやかな(しかし、しっかり寄与できるレベルの)支援を続ければ良いのです。9月末日までの寄付期間?だけで、支援活動を一段落させてはならないでしょう。避難生活をしなくても済む幸せな人は、その幸せに感謝しつつ、無理なく楽にできる支援を、復興が終わるまで長く続ける必要があるでしょう。

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2011年4月 1日 (金)

1336 ミン・サフ

これは、投稿者が勝手に作ったミニマム・サフィシェント(Minimum Sufficient)の略語です。その意味するところは、「必要かつ最小限」というほどになるでしょう。これは非常に重要な概念なのですが、残念ながら軽視され続けてきました。国の経済政策でも、企業経営にしても、家庭生活にしてもとてもとても必要かつ最小限からは程遠いのが現状です。つまり、国が、企業が、人間が最低限に存続、生存できる条件の見極めが出来ていないと思うからです。この見極めさえできれば、それを超えるすべてのものは、無くてもどうにか生きていける訳です。最低ギリギリの国家予算、企業のBudget、或いは家計費は一体いくらなのかの見極めは、この豊かな時代の中で見極めるのは、全く至難の業だと言えるでしょう。何より、命をつなぐのに、ギリギリのカロリーなど、この時代に実証することも叶いません。しかし、一歩外に目を転ずれば、多くの途上国で、栄養失調状態の人々を多く目撃できるでしょう。

一方で、この国には「一汁一菜」やつましい暮らしや、さらには「清貧」などという好ましい言葉もあります。しかし、清貧という言葉については、10年ほど前ある本により流行語となりましたが、今や死語になりつつあるとも言えそうです。あの本は、「清貧」という言葉が消え去る前の、さながら線香花火が燃え尽きるまでの様な、一瞬の輝きだったのでしょうか。ミン・サフは語呂があまり良くないのであまり流行らないとは思いますが、その意味だけでも汲み取って貰ってもらいたいものです。

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2011年3月31日 (木)

1335 人工地盤

震災・津波災害の復興は必要ですが、そのためにはまずしっかりとした青写真を描くことが必要です。それは、空襲を受けた都市の復興に似たものになる筈です。まずは、特に津波の爪痕を詳細に検証することから始める必要がありそうです。確かに、山を駆け上がって30mの高みにまで津波は押し寄せたでしょう。しかし、それは入り江が狭まり、山が迫っている地域に限定されるでしょう。したがって、町を再建する際に30m以上の山を削って、そこに新しく建設し直す必要まではない筈です。

また「復興は復旧であってはならない」でしょう。復旧では、津波のリスクが残ったままになるからです。したがって、復興の青写真には再創造の視点を入れなくてはなりません。ここでの提案は、基本的には、今ある土地に人工的な地盤を作るというアイデアです。平地での津波高さが、例えば10m程度に留まったのであれば、10mの高さの人工地盤を作れば、千年に一度の津波にも大丈夫だと確信できるでしょう。つまりは、新幹線の高架の様な、人工的な地盤を作り、そこに街を建設する事にするのです。10mの防潮堤は、無力であることは証明されたのですから…。

人工地盤の下には、倉庫や市場や駐車場など、もしもの場合は流されても仕方がない施設を作ります。人工地盤の上には、中層の集合住宅を作り、これまで無秩序に広がっていた市街地を集約します。余った土地は、公園や農地やある程度の高さのある公共的な施設を建設します。人工地盤の上の街の交通機関は、基本的には徒歩と自転車だけにします。港は、少し工夫が必要でしょう。つまり、津波が襲来した時に、波がまともに乗り越える様な岸壁だと、係留されている船は全て陸に打ち上げられるからです。たぶんその対策としては津波がUターンして、回り込まざるを得ない様な行き止まりの入り江に港を移すしかないでしょう。そこでは、確かに船は引き波、押し波で上下はしますが、頑丈な浮桟橋にでもしておけば流される事は避けられるでしょう。

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1334 超夏時間

T電の電力需給ひっ迫は、気候の良い今の中間期は一段落しているように見えますが、夏場に向かうにつれて、本当の危機に向かう様相です。現在の電力ピークは、暖房負荷の増える朝晩ですが、暑い夏場は昼下がりの冷房負荷により、現在のピークよりさらに数十%高いピークを打つはずです。これを下げるには、時間差攻撃、即ち夏時間の活用しか思い当りません。それも、1時間程度の夏時間シフトでは間に合いません。第1シフトの企業や家庭は、踏ん張って朝4時か5時には仕事や活動を始めて、昼には終わるようにします。第2シフトは、その後に活動を開始する訳です。それも、社会活動を完全に2分すると、新たなピーク電力が発生しますので、それぞれのシフトでも前後1時間程度の、小シフトを組み合わせれば理想的です。

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2011年3月30日 (水)

1333 閉塞打破

福島第1が行き詰っているようです。冷却水は入れたし、しかし放射能を帯びた廃水を溜める場所はなしという閉塞感です。これは、原発の中だけで処理しようとする方針に間違いがあると見なければなりません。例えば、大型タンカーを原発の岸壁に横付けするだけで、何十万トンも水の供給源や廃水の入れ物ができるわけです。加えて、タンカーには、消防車など足元にも及ばないほど、強力な蒸気タービン駆動のポンプが備わっていますので、水の移動も短時間で完了できます。危ない廃水は、緊急避難で海に流す事を考えるくらいなら取り敢えずこのタンカーに貯めておき、その後の処理は別途陸上施設での処理を考えれば良いわけです。

完成寸前の新品のタンカーでも数十億円も出せば、善意の船主が譲ってくれるでしょうし、古くなって退役寸前のタンカーなら、ほとんどタダで入手できるでしょう。必要な事は、有効な手立ての見つからない閉塞感の中で結果の出ない消耗戦を続けるのでなく、物量作戦に切り替える方向転換です。確かに、放射能を帯びた大量の水は、新たな厄介者にはなりますが、取り敢えず数センチの厚みを持つ鋼鉄製の入れ物に溜めてさえおけば、環境への放射能拡散は最小限で済みますし、それを処理する仕掛けを作る時間も十分稼げるわけです。

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1332 ティッピングポイント

このブログでは、最早後戻りができない点をPONRPoint of No return)や閾値(しきいち)などと呼んできましたが、最近はティッピングポイント(Tipping Point)と呼ぶのが国際的にも流行なんだそうです。Tipは心付けの「チップ」と同じ綴りですが、英語の口語的には「ひっくり返す」というほどの意味もありますので、それまで平穏に経過していた事態が、ある日突然に大荒れになるとの連想があるのかもしれません。

さて、身近でもティッピングポイントを体験することがあります。例えば、ズボラをして電子レンジで湯を沸かしたいと思って、カップ一杯の水をレンジに入れてスタートさせたとしましょう。出力で言えば、500-700wもの強い電磁波を浴びせられ続けている少量の水の温度は、あっという間に上昇し沸騰温度に近づきます。投入するエネルギー(のレート)が強すぎる結果、沸点は瞬間的に通過し「爆発的に沸騰」してしまいます。湯は、急激に泡沫となって沸騰し、吹きこぼれて、コップには殆ど残らない事でしょう。この現象は、直前までは「何も起こっていない様にも見えます」が、水の中では、沸騰の寸前まで分子運動が急激に激しくなっている訳です。

環境の悪化と、その結果現れる悪影響も、これと同様のプロセスを示す可能性があります。つまり、表面上は、レンジ内のコップの水の様に、平穏な状況が続いているように見えるのに、環境の内部では取り返しのつかない悪化が静かに進行し、ある日突然に「誰にも止められない災害」が発生するというシナリオです。それは、さながら休火山の再噴火に直面した人たちにも似て、ただオロオロと、次々に襲ってくるDisasterに翻弄されるしかないのでしょう。ティッピングポイントにつながる現象を早期に検知し、それを回避する有効な手を打つ仕組み造りが欠かせません。温暖化のティッピングポイントは何処にあるのか、改めて考えています。それは、ひたすら注意深い自然や環境の観察によってしか見つからないとも予想しています。

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2011年3月29日 (火)

1331 宇宙旅行代理店

少し前のニュースですが、日本の宇宙飛行士が、Rシアのロケットで、宇宙ステーション(ISS)に向かうとか。スペースシャトルが退役後は、かの国のロケットが唯一の宇宙への(有人の)往復手段になります。ISS関連国は、国の威信をかけても、せっかく打ち上げたISSを「空き部屋」にしていくわけにもいかないのでしょうから、今後とも北の国の宇宙旅行代理店業は商売繁盛になることでしょう。一個人が自費で宇宙滞在を果たすには、何十億円かの費用を工面する必要があるのでしょうが、税金を使う宇宙飛行士の旅行費用には、ほとんど注目されません。ISS滞在に掛かるのは往復の旅費だけではありません。滞在用として、年に何度かは無人の宅配便で、食料や水や酸素を届けなければなりません。通信衛星(数万キロの高度)に比べれば、ISSの高度(数百キロ)はずいぶん低いので、打ち上げ費用もやや少なくて済むのでしょうが、それでも100億円に近い金額の費用が発生します。

ではISSで何を研究するかですが、何やら今度は「骨粗鬆症」の研究などをするのだとか、無重力の宇宙で人工的に骨粗鬆状態を作って、重力(1G)の地上で何の役に立つのか、医学には素人の投稿者に想像すらできませんが、何百億円も投じてすべき実験とも思えません。どの様にひねってみても「空き部屋防止作戦」としか思えないのです。

ISSもやがては徐々に高度が下がって、ついには大気圏に落ちてくることは間違いないので、その前に爆破してしまう必要が出るのでしょうが、それらの破片は結局「宇宙ゴミ」をさらに増やすことになってしまいます。何度も繰り返しますが、宇宙空間には真空と闇と無重力しかないのです。無重力さえ求めなければ、真空も闇も地上でいくらでも作り出すことができるでしょう。1Gで暮らしている我々には、無重力は基本的には無縁ですし、短時間であれば航空機などを使えば、比較的簡単に実現可能です。「宇宙に浮かぶ税金」でもあるISSにはぜひ一日も早く退役していただきましょう。そして、そんなお金がある位なら、全て震災復興に回しましょう。

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2011年3月28日 (月)

1330 季節を味わい尽くす

これも何度も書きますが、投稿者の事務所には冷暖房がありません。従業員もいないので、経営者兼従業員である投稿者自身が我慢すれば、べつに何の問題も無いわけです。確かに最初の冬は「やせ我慢」が必要でした。しかし、今ではすっかりそれにも慣れて、暑さ寒さを楽しむ余裕さえ出てきたような気がします。寒さに耐えると、良いこともあります。暖房による過度な乾燥が起きないため、風邪にかかりにくく、実際この10年以上は風邪で寝込んだ記憶がありません。

暑さに耐えれば、汗かきが上手になりますので、気温が体温以上になったとしても熱中症とも無縁です。

何より、季節の変化を体の「感触」あるいは「体感温度」として、しっかり感ずることが、生き物として生きている、或いは環境に生かされている、との実感を高めてくれます。それが、実は生き物としての喜びでもあると思うのです。つまり、今年も寒い冬を乗り切った、或いはこの夏も猛暑も、干からびることなく生き延びた、という自信と喜びの様なものが、それぞれの生き物にはあるような気がするのです。計画停電で、不便にはなりますが、生き死には決して関わりません。ならば、少なくとも生活に関わるエネルギーを、1970年代並みに今の半分程度に減らし、もっともっと季節を味わってはいかが、と提案したいのです。この国の、エンジンである産業用のエネルギーについては、生産量は減らさずに、しかし知恵と工夫だけで、先ずは25%減らすことが、新たな原発を増やさないために必要な行動です。

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2011年3月27日 (日)

1329 温泉招待支援

何度でも書きますが、モノや金の支援だけでは不十分です。2週間以上も着た切りで、風呂にも入れない被災者の悲惨な状況をもっと思いやる必要があります。ここでの提案は、被災を受けなかった自治体が、地元のバス会社と契約し、被災地に向けて観光バスを差し向ける活動です。このバスには、人数分の着替えと短い旅行中の差し入れ品などが入った段ボール箱を積み込みます。そして50人程度の被災者を、23日の温泉旅行か、観光地への旅行に招待する訳です。

社会的ムードから考えても、どうせ観光バス会社や観光地の宿泊施設は、閑古鳥が鳴いている状態でしょう。バス会社や宿泊施設のアイドル対策にもなりますし、被災者にとっては最高の気分転換になるでしょう。到着した晩には、必要な支援物質のアンケートを取り、翌日に自治体の総力を挙げてそれらの物資を地元で調達します。出発の朝には、被災者は二晩の温泉入浴と心づくしの料理で、すっかりリラックスし、栄養補給もでき、出発の時には、バスの車内やトランクに積みきれないほどの支援物資を積み込んで、さらに避難所で暮らす元気も貰って帰っていくというプログラムです。体調が悪い人は、間の日に病院に出向き、検診と2週間分の薬を受け取ります。

これが直接できない遠くの自治体は、側面援助に回れば良いでしょう。1回当たり、バス数百台も調達できれば、1万人くらいは動かせるでしょうし、ホスト自治体を順繰りに回して2週間程度で一巡するように計画し、全ての被災者を対象に、仮設住宅が出来るまでの間継続的に支援します。

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1328 循・環・境

投稿者は技術屋を卒業し(たつもり)、環境屋に脱皮したと思っているのですが、それでも後者はまだまだ「見習い」だとも感じています。何気なく使っている「環境」という言葉にさえ、よくよく眺めれば「循環」の「環」の字が入っている事に、改めて気が付きました。つまり、環境を考える上では、改めて物質の循環についても、しっかり押さえておく必要があると思うのです。

水や大気は環境そのものでもあり、循環を繰り返している代表的なものですが、もちろん私たち自身の体を構成している物質を含め、あらゆる生物は、かつてこの世に存在した生き物を構成していた物質を使って、再生(リサイクル)して生きている訳です。さらに何億年というスパンで見れば、この台地さえ「循環」している事が、今度の震災でも思い知らされました。太平洋の真ん中で湧き上がった地殻は、毎年10センチかそこら、移動しながら日本やアメリカ西海岸に押し寄せます。そこで、地下に潜り込んで、やがて相対的に冷たい「スーパープルーム」となって、地底深くに沈んでいくわけです。私たちは、その「リンゴの皮の様に薄い」地殻にしがみつきながら、生かされている存在でしかないのでしょう。この事実に想いを馳せるにつけ、環境とはまさに循環でもあるとの感慨にまたおそわれます。

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2011年3月26日 (土)

1327 環ビジ51(レールバイク)

今回の環境ビジネスのアイデア集も、50件を超えたところでどうやらネタが切れたので、今回で一段落し、溜まったらまた再開することとします。

さて、これは鉄道の廃線を利用した移動手段です。各地の、特に過疎の地域には、かつて使われていた鉄道路線が多く存在します。廃線になるとやがてレールが撤去されてしまいますが「ちょっと待った」です。バス転換を検討する前に、「レールバイク」を導入しましょう。そんなバイクは聞いたことがない?それも当然です。投稿者が最近考えたものだからです。レールは当たり前ながら2本並んでいます。そのうちの1本を上り、他方を下りに使えば、待避線は不要です。それぞれのレールに、小さなエンジンか電動モーター、望ましくは人力で動くバイクを走らせます。上下はそれぞれ当然のことながら、追い越しはできませんが、所詮距離が10㎞かそこらの通勤通学や買い物の足ですし、30分程度の我慢で済みますから、問題ないでしょう。どうしても、追い越さなければならない時は、前の人に声をかけて、前後でバイクを乗り換えます。時速は、安全上も自転車+αの30/時以下で十分でしょう。ハンドルは動くとかえって危ないので固定です。これに乗るのに免許証は不要です。自転車や老人車に乗れる程度に「健康」であれば、身体能力的には十分です。

さて、どうやって1本のレールだけに乗っても倒れないようなバイクを作るかですが、その実現は結構簡単です。つまりは、ジャイロを内蔵させるわけです。車輪が左右2個だけで、立って乗る「変な乗り物」をテレビで見たことがあると思いますが、あれと原理は同じです。つまり、どんなに倒そうと努力しても、簡単には倒すことができないバイクなのです。鉄橋部分は流石に危ないので、転落防止のフェンスかネットを追加します。このバイクを、予約制で必要な数だけ駅に配備し、レンタルします。各駅には、ボランティアの駅員が居て、ミニホイストなどを使って、バイクを出し入れします。この結果、かつての様に駅や駅前通りの賑わいも戻ることでしょう。バイクに小さな屋根(キャノピー)が掛かっていれば、雨の日も楽でしょう。

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2011年3月25日 (金)

1326 この世で起こったこと・・

押し付けるつもりは毛頭ありませんが、投稿者の長年の処世訓は「この世で起こったことはこの世で収まる」というものです。何時から、これを取り入れたかは忘れましたが、たぶん新入社員として神戸に赴任した時に、毎朝の様に寮に流れていた、地元ラジオのパーソナリティの景気づけの言葉、「山よりでっかい猪は出ん」の投稿者なりの焼き直しだったのかもしれません。

長い間サラリーマンをやっていれば、自分のしくじりや急な状況変化を読み切れなかった結果、会社へ損失を与えて、落ち込む事も多く、その内の数回は辞表を書くことも考えたのを、今は懐かしく思い返します。たぶんラッキーでもあったのでしょう、最後には全てそれらはどうにか「収まってくれた」のでした。おまけに、投稿者や会社には、貴重な教訓まで残してくれた訳です。私たちは、この大災害が「収まった」とき、一体何を教訓として受け取るのでしょうか。表面上の復興に安心することなく、身を以て震災・津波の恐ろしさを示してくれた犠牲者や、被爆のリスクを顧みず原子炉を冷やし続けた人々に報いるためにも、その教訓をしっかり噛みしめなければならないのだと思っています。

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1325 食べ物と絆

今回の震災・津波の報に接し、人間にとって最低限必要なものは何かを考えさせられました。投稿者の結論は、私たちからほとんどすべての欲求を削ぎ落した結果、最後に残るものは「食べ物」と「絆」ではないかというものです。ケモノとは違い、私たちは食べ物だけあっても、それだけでは生きていけるとは、とても思われません。ヒト同士のコミュニケーション無くしては、生きている甲斐も無いというものでしょう。

被災地の人たちも、直接支援を申し出ている国内外の声や、義援金程度でしか支援できなくても、メッセージを発信し続けているその他の人たちと「繋がっている」事に、大きな力をもらっているのだと想像しています。私たちできる事は、この絆を今後何年にも亘って保ち続ける努力を傾ける事だと、改めて決意を固めるべきでしょう。

ついでに言えば、この機会に、せっかく生まれた絆を大切にする気風を「再度」この国に根付かせれば、復興後はさらに住みよい、文化レベルの高い「絆の国」に生まれ変わるかも知れません。それは、やや少し前の農村や田舎にあった「結い」などと呼ばれる、有形・無形の助け合い精神の復活に過ぎないのですが、それが無くなっていたために、例えば毎年毎年、(今回予想される被災者数を超える)多数の自死者を出していた事にも思いを馳せる必要があると思うのです。

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2011年3月24日 (木)

1324 放射能汚染の自衛策は?

放射能汚染の報告は、野菜、牛乳から水道水まで、拡大の一途をたどっています。あれだけの「爆発」があったのですから、放射性物質が数百キロ先まで飛散しても不思議ではありません。しかし、汚染報告や報道が片手落ちなのは、汚染量や出荷停止、摂食、飲用禁止の指示だけ出して、自衛策には何ら言及していない点です。

例えば、葉物野菜で言えば、水で洗ったら(除染したら)jどれだけ線量が落ちるのか、或いは茹でて茹で汁を捨てたらどれだけ汚染度が低下するのかの情報がありません。こんな実験は、数時間もあればすぐできるはずで、それで「暫定基準」以下に下がるのであれば、パニックに陥る必要はないわけです。水道水であっても、活性炭でろ過したら、或いはROで膜ろ過したら、一体どの程度汚染度が下がるのか、或いは何日汲み置きしたら、線量がどの程度下がるのか、沸騰させたらどんな物質が減少するのか、それらを組み合わせたらどうなるのかの、具体的な自衛策情報がぜひ欲しいのです。チェルノブイリ事故のあと、ヨーロッパでは牛乳汚染はどの様に終息したのかは、酪農家の懸念に一定の安心感を与えるでしょう。

私たちは、チェルノブイリですでに高い授業料を払って、これらの自衛策についても十分学んでいるはずで、その知恵を公開すれば、今のパニックは収まると思うのです。

比較的客観的な野菜除染のデータが見つかったので、追加でアップします。

http://www.rist.or.jp/atomica/data/dat_detail.php?Title_Key=09-01-04-06

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1323 休題(春分)

さて人間社会の営みや大災害にも関わらず、季節は進み、まさに春。数日前には夜昼の長さが同じになりました。つまりは、この日から北極点にも日の光が差し、北半球の各地域では、夜より日照時間が長くなり始めるわけです。原理的には、北極点の気温は夏至までは一本調子で上昇するのでしょうから、寒気の吹き出しは急速に弱まりますので、ようやく「暑さ寒さも彼岸まで」が実感できる季節にもなります。でも今年は寒いです。被災地には一日も早く暖かさを届けたいものです。

さて春分は「二十四節季」の一つではありますが、気が短い(あるいは季節に敏感な)人たちは、半月毎に進む二十四節季では満足できず、さらにそれを3分割して5日毎に進む、七十二候という暦も考えだしました。5日もすれば季節が一つ進むという「きめ細かさ」あるいは「せっかちさ」にも感動しますが、きっとそれを感知できる「繊細な感覚」もご先祖様たちには備わっていたのでしょう。家庭や会社で冷暖房が普通に行われ、加えて朝晩の通勤さえも空調された車や電車・バスで移動する我々の感覚器は、さぞかし「ひどく鈍って」いる事でしょう。投稿者はといえば、事務所に冷暖房を一切入れず、単車で移動しながら、季節感を存分に「体感」しています。

とは言いながら、これらは江戸時代には既に確定していた季節分けですので、温暖化が進んだ近年では、ゆうに数週間程度はずれてしまっていると思われます。ちなみに、この季節は春分の中でも、雀始巣=雀が巣を構え始める頃、だそうですが、今では3月に入るか、入らないかの時期に終わってしまっている可能性もあります。最悪の季節感は、熱帯地方での乾季と雨季の二分法ですが、温暖化が進めば日本もこれらの地域に似た気候になるかもしれません。

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2011年3月23日 (水)

1322 「暫定」基準

今回の原発事故の報道に接し、遅まきながらですが、投稿者は少なくとも二つの事実に気が付きました。今頃気が付いたという事は迂闊でもあるし、実はこれまでは報道する必要もほとんどなかったので、情報を持つ側が知らんぷりを決めていたことも疑われます。

第一は、我々の周りの環境は、既にバックグラウンドとして、それなりの「人工放射性物質」に汚染されてしまっているという事実です。確かに、チェルノブイリ事故で半端ではない量の放射性物質が、世界中にばらまかれました。ジェット気流に乗ってこの国にも飛来・降下したはずです。また、世界中に分散している原発からはちょっとしたトラブルを回避するか、操作ミスなどで闇に紛れた、少量の放射能を帯びた蒸気や気体の放出もあったかもしれません。あるいはお隣の大国では、老朽化した原子力潜水艦の無法な解体も行われたかもしれません。それらが、「暫定基準」を下回ると言いながら、既に土壌を汚染し、水や食糧も低濃度で汚染していたという事実には改めて注目する必要がありそうです。

第二は、放射能の「暫定」基準という位置づけです。原発を動かし始めて40年以上を経過する中で、何故いまだに暫定なのかを考えれば、それを確定する必要がなかったか、或いは決定する事に抵抗があった事が想像されます。即ち、この基準は、原発推勢力にとっては、非常にセンシティブなものであり、放射能の許容暫定基準は上で述べたバックグラウンド値よりは、かなり高くなっている必要があります。もし、ギリギリであれば、国内の原発で起こる「ちょっとしたミス」でも、瞬間的にこの基準を超えてしまう恐れがあるからです。即ち、彼らには十分なAllowanceが必要である訳です。一市民としては、この暫定基準を作る側と、それを守る側に、例えば天下りなどを通じての「裏の連携」が無かった事を、「淡く」ですが期待したいものです。

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1321 自家発のススメ 

東日本の企業や事業所にとって、当面続き、さらに電力需要の大きくなる夏場に向かっての、計画停電という名の「強制省エネ」は頭の痛い問題でしょう。もちろん、先々は前の首相の国際公約通り、25%の省エネを実現すれば、いくつかの古い原発を閉じても、どうにかなる筈です。しかし、問題は目先の対策です。

投稿者の提案は、電力負荷の一部分を系統から切り離して、その部分は自家発電機に直結するというものです。ありふれた製造業では、電力の2-3割はコンプレッサーで占められていますので、話は簡単です。コンプレッサー室の外に、ディーゼルエンジン駆動の発電機を仮設し、その電力でコンプレッサーを回せば、明日からでも25%の電力負荷削減が実現できます。多少騒音は出ますが、設置場所を住宅に配慮し、夜間は止めれば良いので、そんなには問題にはならないでしょう。

少し大きな企業で、プロセス加熱なども必要な企業は、迷わず中小型のガスタービンによるコジェネでしょう。これなら、電力と蒸気が同時に供給できます。出来合いのシステムでも、100kwクラスの小型から、1000kw位の大きなものまで、レンジも結構広いものが揃っています。総合的な熱効率も60%は確保できるはずですので、実質的なエネルギーコストも削減可能です。不足する電力は、これまで通り電力会社から買えば済む話なので、負荷が小さい夜間などはこれも停止できますので、投資の無駄は生じません。こちらは、元々静粛なシステムなので、騒音問題も小さい筈です。

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2011年3月22日 (火)

1320 海上仮設住宅

復興に向けて仮設住宅の建設も始まりました。全壊住宅の数を考えれば、少なくとも10万戸を超える規模になると思われます。しかし、仮設住宅建設は被災者にとって所詮2年間限定の臨時処置に過ぎませんし最終的には解体撤去されて、少なからずの解体廃材も出ます。ここでの提案は、どうせ作るのであれば、いくつかの耐久性のある海上仮設住宅を検討して貰いたいものです。これは、平らな台船の上に、数十戸の集合住宅を作りつけた、いわば海に浮かべる仮設住宅なのです。ただし、これは2年間だけの役割で終わらせるものではありません。恒久的な、災害避難船として数十年使い続ける役割も担わせます。この国の大都市は、海岸に集中していますから、地震だけの被害にせよ、津波の被害も同時に受けるにせよ、救援の手は海からの方が差し伸べ易い筈です。この台船を、いざ鎌倉の事態には、タグボートで曳航して災害地に一番近い港に駆けつける訳です。

震災が無い時期には、風光明媚で静かな入り江にでも係留しておいて、宿泊施設や青少年の研修施設などとして活用すれば、投資の無駄も出ないでしょう。何より、かつてこの国の基幹産業であった、鉄構や造船産業にも新たな雇用が生まれるでしょうし、さらにこの浮かぶ集合住宅に、水や燃料を備蓄しておけば、24時間もあれば日本中どこの被災地の岸壁にも、住宅、食料、燃料、水の短期的な支援物資の備蓄基地としても重要な役割を果たせるでしょう。

具体的には、この台船上には多段ベッドを備えた小部屋と、食堂や集会場や入浴施設を備えた公共スペースを設置します。小部屋には、家族単位で寝泊まりしますが、多段ベッドとはいえ、乾いた暖かい寝床が供給できますし、被災地に近くに係留してあれば、行方不明者を抱える家族の避難場所としても理想的です。

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1319 放射線代謝?

電磁波であるガンマー線は、線源からの瞬間的・継続的な被曝線量が問題ですが、放射能を持つ物質が体内に入った場合の被爆は、大きく二つの場合に分けて考える必要がありそうです。即ち、放射性CaSr(ストロンチウム)、I(ヨウ素)などは、人体は通常のCaやヨウ素と判別できないため、骨や甲状腺に取り込まれて、それらが崩壊して安定的な元素になるまで、放射線を出し続けます。考慮しなければならないのは、この場合はそれぞれの放射性物質の半減期です。半減期の短い場合は、被曝量は限定的ですが、そうでない場合蓄積線量は非常に大きくなることが懸念されるからです。もう一つのケースは、食物や呼吸によって取り込まれた放射性物質が、代謝に従って汗や尿や便となって、速やかに排出されるものです。これは、体内に留まる時間が限定的なので、それほど神経質になる必要はないでしょう。

問題は、マスコミなどで報道される「ごちゃ混ぜ線量」の数値です。これが、暫定基準を超えたとか、何倍だから出荷禁止だとかは、ヒステリックな行動だというしかありません。まずは、動物には可哀そうですが、早急な動物実験による放射性物質の仕分けが必要でしょう。例えば牛乳で、放射性ヨウ素が問題なのであれば、それが半減期の長いものなのか、極端に半減期が短いヨウ素131なのか、厳密に分析する必要があります。

原発付近の放射線量は、日ごとに減少していますが、これは一時は多量に放出された放射性物質の中のヨウ素131など半減期の短いものが、着実に崩壊して弱まっている客観的な証拠です。合理的考え方に基づかない、「不必要に安全サイド」の政府ステートメントは、「官制風評被害」につながりかねません。

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1318 休題(温故知新)

論語の中の言葉でしょうが、なかなかに味わいのある言葉です。人間の知恵などというものは、いくら時代が進んだからと言っても、それに応じて高度になる訳ではありません。というより、逆に先人が苦労して、発明・工夫した結果生み出されたモノどもに囲まれて、安穏に暮らしている私たち子孫の知恵の程度は、日々低下しているとさえ言えるかもしれません。何故なら、知恵はモノがない時などに、手元にあるものでの代替を工夫するときに最大限に使われると思うからです。今私たちが、日常何気なく口にしている食物でさえ、たぶん空腹だったとはいえ、それを最初に口にしたご先祖様の勇気には敬服するばかりです。フグの内臓に毒があることや毒キノコと食用キノコの区別などは、命を賭した人体実験なくしては、絶対に判明しなかったでしょう。同様に、彼らは身近に手に入る材料や燃料で、厳しい時代を乗り越えてもきました。

ところで、そんな昔にまで遡らなくても、先人の知恵は発掘可能です。それは、今も図書館などに保管されている書物や新聞などでも多く発見することができるでしょう。近くは、1970年代に突然巻き起こった「オイルショック」は投稿者の記憶にも鮮明です。何しろそれまで1リットル当たり50円で入れていたガソリンが、あっという間に100円になってしまった訳です。夜遅くなると町の広告塔やネオン看板が全部消され、テレビも夜12時には放送を止めました。バイク少年であった投稿者も、バイト代や奨学金が入るまで、なかなかバイクに乗れなくなった記憶があります。

しかし、石油の高騰は悪い事ばかり引き起こしたわけでありませんでした。国を挙げて「省エネ行動」にいそしんだからです。国も、多額の予算をサンシャイン計画やムーンライト計画につぎ込み、企業も省エネ行動や省エネ製品の開発に必死に取り組んだのでした。この頃に考え出された省エネ製品や工夫は、たとえ特許が出されていたとしてもとっくに期限切れになってしますから、著作権フリーで使い放題でしょう。手元に、そのころの省エネアイデアを集めた古い本が数冊ありますが、いま読み返してもなかなかのものが見つかります。アイデアは、先人の工夫から少し頂戴するに限ります。そこに、その後に少しばかり進んだ技術や仕掛けを加えるだけで、この国の製造業も結構息を吹き返せると思うのです。

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2011年3月21日 (月)

1317 まずはお風呂と鍋

被災者に対して、それなりの数のホストファミリーの申し出でもある一方、住宅が完全に破壊された人たちにとっては、まだまだ長い避難所での集団生活が続きます。そろそろ、被害の無かった地域への集団疎開も行われていますが、いずれにしても体育館などでの寝起きが強いられます。容易にできる支援として、避難所周辺の家庭は、モノやお金の支援とは別に、少なくとも入浴への招待を申し出る程度の思いやりは必要でしょう。彼らにとって、体中の筋肉が弛緩する入浴こそ最大のプレゼントになるでしょう。

ついでに、鍋物の夕食にでも誘えば、お金もかからず、最も喜ばれる支援になる事でしょう。ホスト家族から、被災者の恐怖や苦労話を聞いてあげれば、被災者の心も開き、ホスト家族の子供たちにも、これ以上ない教育となる筈です。

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1316 放射線コントロール技術

放射線や放射性物質との戦いにおいて、この分野の技術のレベルアップは欠かせません。これまでは、原子炉や格納容器の中に閉じ込められていた「彼ら」が、今や低濃度とはいえ野に放たれた訳です。ならば、それらに対抗するための技術開発が急がれる訳です。これらの技術にはいくつかの要素が考えられますが、まずは遺伝子レベルでの影響が特に懸念されるガンマー線への対応です。これは、広くX線による医療検査やガンマー線(波長の短い電磁波)による非破壊検査で使われていますので、その技術の横展開でどうにかなりそうですが、問題はバリアの軽量化や可搬性です。重たい鉛のエプロンをぶら下げて運転をしたり作業したりはできにくいからです。薄くて軽くても、それなりにブロック効果が高い素材を探す必要があります。

アルファ線は粒子ですし、ベータ線は電子ですので、比較的ブロックは容易です。前者は物理的なバリアで十分ですし、後者は電圧を印加したグリッドで補足できます。中性子線は、基本的には水で補足できますので、水そのものや水を多く抱えるコンクリートなどで十分ですが、これも軽量化や可搬性を考えた、例えばバリア樹脂などの開発が急がれます。

最大の問題は、実は水や食物や呼吸からの吸収により体内被曝だと思っています。放射能を帯びたカルシウムやストロンチウムは、骨格などに吸収されて長く放射線を出し続けますし、放射性ヨウ素は甲状腺に留まって免疫機能などを壊し続けるからです。何より、これらを「体に入れない技術」や「体から排出させる技術」の開発が急務です。この国では、既に広島や長崎の悲劇からたくさんのデータや知識を得ているはずですし、この機会を前向きにとらえて、世界に冠たる「放射性物質コントロール大国」になる決意が必要です。

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2011年3月20日 (日)

1315 屋内待機の無意味

数日間ならいざ知らず、それ以上の屋内待機は全く無意味な指令です。20-30㎞地域には、いずれの意味でも物資供給は期待できません。運送会社が、ドライバーの安全を優先して配送を拒否するからです。もちろん、ガソリンの供給も絶たれるので、住民は車での移動すら不可能です。危険区域の設定は、避難地域と、通常の活動許可地域に2分すべきでしょう。30㎞圏内は明らかに避難地域と設定すべきです。

今そこに住んでいる人たちに、放射線に関しての知識は殆ど無いと言っても良いでしょうし、例え話でレントゲン撮影やCTスキャン何回分と言われても、誰もピンと来ていないはずです。長期に亘って屋内待機を指示するのであれば、配送トラックのキャビンには鉛版と鉛ガラスで放射線遮蔽を施して安全を確保し、ドライバーと住民には簡易防護服を支給しなければならないのだと思います。

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1314 放射能との戦い

いよいよ、放射能との四つに組んだ戦いを決意しなければならない様相です。改めて、調べてみると、ウラン燃焼(核反応)から生まれる半端ではない数の放射性物質の多様な事に驚かされます。(下記で資料が入手できます)

http://ribf.riken.jp/~koji/jishin/zhen_zai.html

元技術屋としては、このシステムを作り、その断末魔に向き合っている運転関係者の必死の努力とそれを見守っているハードの設計者や製作者の、「システム構成を、ああしておけば良かったと」いった後悔や苦悩を痛いほど想像してしまいます。一方環境屋としては、地上で最悪・最強でしかも長期間持続する「環境汚染」を強く懸念します。我々世代は、この国を捨てるわけにもいかないので、それを甘んじて受けるしかありませんが、次世代には被爆の悪影響を持ち込まないための知恵を結集する必要があります。まずは、修復が不可能となった原子炉の、一日も早い安全な「コンクリート詰め」までの道筋を決める必要があるでしょう。また、水や食料や大気からの多重な体内被曝とその遺伝子的影響を避けるためにも、次世代を担う子供たちには「学童疎開」も真剣に考える必要があるのかもしれません。

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1313 緊急「手段」

12941296にも書いたように、やはり最後に残った切り札は、エンジンで直接駆動される、ローテクの消防ポンプでした。ECCSは、あくまでも短時間だけ対応する緊急装置に過ぎず、長期間に亘る異常事態には、緊急装置ではなく「緊急手段」が必要であるという事が明確になったと言えます。すべての緊急装置が動ない場合でも、何らかの緊急手段が確保されていなければ、このように「危険な種類の発電所」は動かすべきではないと言うしかありません。

今回の教訓で言えば、例えば建屋の天井には、水素放出口や放水ノズルの設置が必須で、同時に建屋から離れた場所に、消防車からの接続口も設けておき、最悪の場合でもホースをつないでバルブを開けて水さえ送れば、少なくとも消防隊員は安全に建屋内への放水が持続できなければなりません。炉心や、燃料プールの冷却についても、建屋の外部に冷却水の接続口さえ設けておけば、すべてのシステムや電源がブラックアウトした場合でも、遅くも30分以内には、消防車と海水を使って取り敢えず冷やし始める事はできる訳です。

現在動いている原発であっても、定期点検のついでに、冷却配管に枝を付けてバルブを追加すれば済むので、安い費用で本当の意味の「二重安全」が確保できる事になります。

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1312 環ビジ50(マルチモードボイラ)

通常のボイラは、10/㎠(古い人間なので古い単位です、最近は約1MPa或いは980Pa程度と言うべきでしょうか)程度の圧力、180℃前後の「飽和状態」で蒸気を供給します。ボイラ単体としての熱効率は、最近のものでは意外に高く、燃料の持つ発熱量の90%程度は、蒸気の持つエネルギーに変換されます。さて、その用途ですが、プロセス加熱や乾燥、暖房等、いずれにしてもその内部エネルギー(エンタルピ)を使っている訳です。しかしながら、食品の加熱で言えば100℃前後もあれば十分でしょうし、乾燥なら6-70℃もあれば用は足りるはずです。結果として、プロセス全体としての効率は、蒸気の減圧ロスや熱交換器の効率の悪さに足を引っ張られて、結構低いのです。

ここで提案するボイラは、炉内の燃焼ガスの温度分布範囲に対応して、高温(3-400℃の過熱蒸気)、中温(180℃程度の飽和蒸気)、100℃前後の低温蒸気、5-60℃の温水等、目的に応じいくつかのレベルの熱源を同時に作るものです。それらの熱源間の比は、バルブなどの調整により容易に変更できるものとします。また、加熱に使った上記のドレン(凝縮水)はまだかなりの高温ですので、これもしっかり回収して、ボイラに送る水を予熱するなどの目的に活用します。

この結果、複数の用途に応じた最適温度の熱源が、一つのボイラで供給できることにより、最適の熱効率が達成可能となります。仕掛けがやや複雑にはなりますが、いくつかの弁とパイプを追加するだけなので、コスト上昇は限定的範囲に収まるでしょう。

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2011年3月19日 (土)

1311 備蓄燃料としての薪

今回の様な大震災では、避難所が広く分散し、暖房・煮炊き用の燃料(今は石油かガスを意味しますが)が入手できないために、被災初期は一層不自由な生活に陥っています。電気が無い状況では、僅かとはいえマイコンやファンが電気で動く石油ファンヒータさえピクリとも動かず、何の役にも立ちません。ここで力を発揮するのは、やはり原始的な方法です。災害時に備えた理想的な備蓄燃料は、間違いなく薪やペレット燃料などの木質バイオマスといえるでしょう。これであれば、乾燥した倉庫スペースさえ確保できれば何年でも安全に備蓄できます。燃やすときは、ドラム缶や最悪の場合は、石を寄せ集めたかまどを作ってキャンプ場と同様に暖房や煮炊きをします。

火が起こせれば、暖かい飲み物、食べ物が口にでき、身も心も暖まり被災者の人心も安定します。それば寒い季節であれば、適当な大きさの石を温めて布でくるめば石タンポになります。湯をペットボトルに詰めても同じ目的に使えるでしょう。これは冷めれば飲み水になりますので無駄がありません。災害に備えるためには、田舎の地域ほど日頃から石油に頼る割合を減らし、少しずつでも良いので継続的に薪を作り、消費する仕組みを途絶えさせないようにしておくべきでしょう。

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1310 数字の出せる節電

「暖房を控えましょう」、「不要な電灯は消しましょう」、・・・などの行動だけでは、計画停電は解消できません。何をどの程度どうしたら、何kwの節電ができるのか、数字で裏付けなくてはならないのです。100kwの電力を確実に節減するには、ありふれた40w*2灯式の天井灯(消費電力は安定器も含め100w相当)を1000万個は間引く必要があります。途方もない数字の様にも見えますが、例えばすべての事務所や量販店で、10灯に1灯を間引(蛍光管を外す)くだけで、この何倍も節電できると想像しています。

実際、今指導している某自治体で、書棚やコピー機、通路など、事務スペースほど照度の必要のないエリアを、照度計で明るさを確認しながら間引いてもらったところ、上記の数字が叩き出せたのです。この役所の例では、電力の30%を占める照明電力の10%、即ち3%減の数字が、1円も使わないで実現できたことになります。金額に直しても60万円程度はカットできた訳で、これをややお金の掛かる省エネ対策に振り向ければ、省エネのサイクルが回り出します。

同じく、エアコンの吹き出し口温度を1℃下げたら、一体何%の省エネになるのかは、実際に数日間試験をして、電力量か灯油の消費量削減の数字を算出します。たぶん、1℃で数%~10%弱程度の省エネが、これもお金を使わずに叩き出せます。エアコンで、次に打つ手は稼働時間の短縮です。コンクリートの建物は、かなり蓄熱しているので、よほど寒冷地でもない限り、5℃以下まで下がらなかった夜の翌朝は、室内温度は例えば15℃程度は保っているはずです。ならば、朝1~2時間程度暖房を入れれば、午後3時頃までは完全に暖房を切っても、問題なく過ごせるでしょう。日中5時間切っただけでも、暖房負荷は5/10、即ち50%削減できることになります。これらの数字を、各家庭でも企業でも積み上げれば、25%の省エネは間違いなく実現できます。今これをやれば、2020年目標であるマイナス25を先取りしてしまうわけで、さらにマイナス50に向けても邁進できるパワーが生まれるでしょう。当然の事ながら、計画停電も回避できます。

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2011年3月18日 (金)

1308 2~30世代も遡れば皆親戚

狭い国の事ですから、230世代も遡れば、国民は皆親戚のはずです。ならば、モノやお金を送って支援をしたような気になってはいけないでしょう。被災地の親戚は、ぜひ疎開していただき、暖かく迎えてあげなくてはなりません。まずは、各自治体で、ホストファミリーを募りましょう。受け入れ単位は、バスの定員程度(50名)程度とし、自治体の規模によって何単位かを明確にします。送り出し側の自治体でも、現地に踏みとどまるべき人員を残し、地区ごとに送り出しグループを組織します。国は、この両者を速やかにマッチングし、受け入れ自治体に通報します。受け入れ側では地元のバス会社に発注し、被災者の受け入れ輸送を行います。1台貸し切っても20万円程度で済むでしょうし、そうでなくてもバス会社もきっとボランティアを申し入れるでしょう。

受け入れ側では、まず被災者を風呂に入れ、きれいに洗濯した古着で良いので、着替えてもらいましょう。もちろん、何か月も滞在してもらうのは、いくら「親戚」でも双方に負担でしょうから、取り敢えず1か月単位でも良いでしょう。そして、送り届ける際には、当面必要な物資をたっぷり付けて帰ってもらえば、無駄な物資の輸送も不要です。過去の震災では、当初こそモノ不足ですが、しばらくすると種類が重なった物資で、置き場所にも困るほどになる筈です。

受け入れ自治体のホストファミリー以外の家庭は、持ち帰ってもらうモノや義援金を集めて協力することになります。これはまさに戦時中にも匹敵する国難です。先の大戦では、多くの田舎では見も知らぬ都会の人を暖かく受け入れたではありませんか。今こそ、モノカネではない、Face to Faceの支援が必要です。これにより、「遠くの親戚」が数十万組誕生し、この国ももっとずっと暖かい国に生まれ変わります。

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1307 脱電

電力が地震に弱く水にも弱いことは、今回の震災でも証明されました。電柱は倒れ、電線が切れ、水につかったモーターは銅と鉄の塊でしかなくなります。そうであれば、災害に強いエネルギー源も少しは考えておかなければならないでしょう。非常事態において最後の最後は人力しかないのですが、その前にあるのはやはり内燃機関でしょうか。電力の大きな使い道は照明と動力ですが、特に動力(モーター)に関しては一考の余地がありそうです。

確かに、スイッチを入れれば数秒で起動できるモーター動力は優れもので、発明者に感謝すべき文明の利器ですが、例えば夏場にピークを迎える冷房負荷について言えば、原動機で直接冷房用のコンプレッサーを回す仕掛けがもっと普及してもよさそうです。つまり、燃料の持つエネルギーを一度電力に変換した上で、さらにモーターで動力に変えるロスを、直結する事によりなくしてしまう作戦です。ガスを使った冷暖房機であるGHP(ガスヒートポンプ)はそれなりに街で見かける様にはなりましたが、まだまだ不足です。T電が、果たしてどの様にして今年の夏を乗り切るのか、現状では全く悲観的にならざるを得ません。とにかく、少しでも電力に対する過信と依存割合を下げて、よりプリミティブながら打たれ強いエネルギー源にシフトすべきでしょう。

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1306 自家発電

発電施設の理想はどう考えても自家発電です。各家々や各ビル・工場で自前の発電設備を持つわけです。それではあまりに非効率ではないかとの突っ込みも入りそうですが、電力と熱を同時に取り出すのであれば、効率は一気に高まります。大規模発電所の熱効率は40%を超えるレベルにありますが、送電ロス(10%以上)を考えれば30%以下です。これなら、ガソリンエンジン、またはガスエンジンで発電機を回してもそれほど効率に遜色は無いでしょう。本格的なコジェネでは、総合熱効率は60%程度確保できるはずです。エンジンからは、冷却による排熱も出ますので、これで風呂を沸かし、暖房もします。工場であれば、電力とプロセスで使う熱を取り出します。自家発は、何も一日中回しておく必要はありません。家庭で電力や熱がたくさん要るのは朝晩くらいで、工場では日中だけです。残りの時間の保安電源は、電力会社から買えば済むので、夜は静かに眠ることができるわけです。自家発を増やせば、この国の電力のセキュリティも飛躍的に増加するはずです。

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1305 分散発電=発電船

計画停電を含む不安定な需給は、今後長期化する様相です。新しい発電所の建設には、立地場所の選定や埋め立て工事も含め何年もかかります。しかも、今回の震災・津波災害で、大規模発電所への一極集中の危険性も明らかになりました。1発100万kw以上の出力を持つ原発がたった一つつぶれても、既にある電力会社間の融通システムの容量を超えます。

必要な事は、大規模な原発や火力発電所の追加建設ではなく、多数の中小規模発電所の建設による発電設備の分散しかないと思うのです。では何処に建設するかですが、忘れてはならないのは、造船大国でもあるこの国の実力です。まずは、既にある建設用の作業台船の一部を改造して、重量が小さいタービン発電機を乗っけた、ミニ発電所を多数作りましょう。これなら数か月で多数完成できるでしょう。これを、海辺に集中している都市の岸壁に横付けし、狭い地域にはなりますが、電力供給を始める訳です。1000kwクラスを100個も作れば、10kwになり、その中に大型のものも混ぜて、数百万kwまで増やします。発電船は、狭い国土を拡張するものですから、新たな埋め立て工事も不要です。また、自分で動く動力も不要です。タグボートが曳いて移動できるからです。これを多数作っておくと、災害時にもそれを被災地に曳航していくだけで、1日か2日程度で電力復旧できる仕組みが実現できます。津波は心配ですが、今回の津波でも大型船がひっくり返ったニュースが出てこないので、そんなに心配は要らないでしょう。

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2011年3月17日 (木)

1304 計画停電ではなく計画シフト

戦時中でもないのに計画停電とは情けない限りです。可能な限り省エネしても、供給不足が生じるのなら、全員で知恵を絞って、計画的に社会生活や企業活動をシフトすべきでしょう。地域によってのシフトは、問題も多いので、同じ地域でのまだらなシフトを計画します。そうすれば、朝夕のラッシュや交通渋滞も無くなり、せわしさが少し緩和されます。朝5時からシフトをスタートし、4シフト制で3-4時間ずらしながらシフトを組めば、最終シフトも12時前には終わるでしょう。最大でも3つのシフトしか重ならない様にすれば、ピーク電力レベルは25%カットできます。

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1303 お金の自己保身

人の利便のために発明され、使われてきたマネーが、今生き物の様に自己保身を図る存在に進化してきました。今朝の超円高のニュースはなんという事態でしょう。復興資金の調達のために、海外資産を売って円を買うだろうとの見込の元に、(手元にある海外通貨を目減りさせないために)今後高くなるだろう円を買う動きなのでしょう。逆に、本当に円資金が必要で買う人にとって、手に入る円資金は大きく目減ります。マネーという怪物は、復興にブレーキを掛け、人間社会を危険に晒してまでも、自分自身が目減りする事に抗う存在となったという事です。しかし、すでに、電子マネーの総量は、実体経済を何倍(あるいは桁違いに)も超えているでしょうから、もしこれが目減りしても、マネーの所有者以外は誰も困らないでしょう。機関投資家や、海外の金持ちは当然マネー所有者ですが、日本の場合はコツコツと老後のために貯めてきた高齢者が、所有者の大きな部分を占めます。つまり、現在は、マネーの実質的な所有者の意思とは全く別の存在が「運用」している、というねじれが生じていると思うのです。

機関投資家やファンドは、資金の所有者が、利息分だけでも地震・津波復興などのボランティア目的に使う自由を保証すべきでしょう。そうでなければ、高齢のマネー所有者は貯めたお金は増やさない、何らかの形の「安全なタンス預金」を選択すべきでしょう。

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2011年3月16日 (水)

1302 買いだめと日本売り

買いだめに走る人、株を売りに走る人、一見違う行動の様に見えますが、本質は同じです。それは「自己中心行動」であるという点においてです。当面の食料や生活物資は足りているのに、いざという時のために「取り敢えず買っておこう」、取り敢えず株券を売って現金にする必要が無いのに、先の値下がりを予測して「取り敢えず売っておこう」という、自己チュウ行動に他なりません。被災地には食糧やモノを届けたいので、備蓄食品での質素な食事を考えなければならないし、トイレットペーパーは短めに切る必要があります。電力会社や被災企業には、何とか踏ん張ってもらわなければならないので、それを支援するためには、株を買い支える行動こそが必要なはずなのです。近視眼的な自分だけの損得勘定での売り買いは、非常事態にこそ厳に慎むべきでしょう。それとも、この国には「慎み」という言葉が失われたのでしょうか。

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1301 計画停電ではなく強制省エネ

冷静に考えてみれば、この狭い国の電力システムには、糸魚川構造線を挟んで50Hz地域と60Hz地域存在し、西で節電しても、東には100万kw程度しか融通できないのでした。これは、MGと呼ばれる、周波数変換設備の容量による制限値となっています。

そので東電や東北電で計画停電が行われています。しかし、この非常時の対策としては非常に稚拙な方法というしかありません。1/4の電力が不足するなら、強制的にでも(しかしできれば自発的に)25%の省エネを実行すれば済む話ではありませんか。方法は簡単です。まずは、1/4の電灯を間引きます。冷暖房は25%の時間(日中の数時間)は切っておき、設備も工夫して稼働時間をずらしてピーク電力を下げます。家庭でも、洗濯器を回す回数も4回を3回にし、電気掃除機を使わずにホウキとモップで済まします。テレビを消して、押し入れに眠っているラジオかラジカセを引っ張り出してニュースを聞けば、電力不足はほぼ回避できるはずです。コンビニでも、アースクリームなどは売り切って(あるいはタダで配って)、冷凍ケースをいくつか止め、暖房も切って、明かり過ぎる照明も窓際は全部間引きます。街での街灯を4個に1個は電球を外します。地域を区切って、時間ごとに上記の25%省エネを実行させれば、停電などという情けない事態は回避できるはずです。

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1300 モノを送らず人を受け入れる

災害時にいつも感じるのは「不便な避難所生活」というワンパターンの報道の虚しさです。仮設住宅ができるまでに、支援する側に回った私たちがまずすべきことは、被災者の現地からの速やかな移動とボランティア家庭での受け入れしかないと思うのです。45万人避難しているのであれば、45万世帯で一人ずつ受け入れれば、1-2週間で避難者はすべて居なくなるでしょう。家族がバラバラになっても、すぐ近くの家庭に分散しているのであれば、全く問題ありません。数か月の辛抱ですし、子供の学校に通えます。仮設のトイレや、仮設の風呂ではない、普通の風呂に入れます。その受けいれ地域で、まず被災者を保護し、次に生活再建に必要な物資を持たせて、仮設住宅ができた故郷に送り届ければ良いのです。非常時の初期はモノ、金の支援ではなく、まず困っている人を受け入れる行動しかないでしょう。例えば、受け入れは、便利だけれど人のつながりが切れた都会の集合住宅の空き部屋ではなく、お年寄りしか残っていなくて、広い家を持つ山間地の世帯が最適です。何より、人が人を迎えてくれます。そんな場所なら、この国では少なくとも数百万戸はあるでしょう。

原発城下町では、避難が長期化、固定化する懸念がますます強くなっている現在、避難所は一日も早く、解消すべきでしょう。

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1299 廃炉への躊躇

投稿者なりの推定ですが、今回の原子炉事故では、決断のポイントが少しずつ遅れた結果、最悪の事態に突入しつつあるような気がします。具体的には海水注入のタイミングです。彼らは、まず通常の手段で(真水で)何とか冷却しようと努力しました。海水を入れてしまうと、最終的には原子炉は使えなくなり、大きな損失が出るからです。しかし、真水は長時間入れることができない状態が続き、空焚き→過熱→水素発生→爆発による機器損傷、という悪循環に陥ってしまったように見えます。

最初に行うべきは、最悪の事態を回避するための廃炉への決断だったと思うのです。その決断さえできれば、まず放射性物質を含むとはいえ、蒸気放出で圧力容器の圧力さえ下げれば、臨時的な手段でも海水注入ができたと思うのです。事故の初期段階には、間違いなく経済優先の躊躇があったと想像しています。シンドロームの回避のために、廃炉のストーリーを誰がこの事故の中で冷静に提案できたかあるいは実際に提案したかは不明ですが、騒動が一段落した後には、今回の決断の遅れをしっかりと振り返っておく必要があります。

さて、最終的には溶けかけた燃料を含む原子炉は、安全にコンクリート詰めにする必要があります。技術者は、原子炉に関係する否かは別にして、如何に短期に、しかも安全に放射性物質を閉じ込めるかに、知恵を結集する必要があります。それができなければ、地震列島であるこの国で、原発を維持する事は諦めざるを得なくなると思っています。

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1298 環ビジ48(空気圧センサー)

この非常事態に、ささやかな話題です。街中で車の後ろを走っていて、いつも気になることがあります。それは、タイヤの空気圧が低いままで走っている車が結構多い事です。空気圧が低い車は、後ろから見るとタイヤの設置部分が膨らんで見えますのですぐ分かります。投稿者も、タイヤにピンが突き刺さったのを知らずに、1週間くらい走り、給油の際に急に燃費が悪くなったので点検した結果、空気圧の低下を見つけてヒヤッとした経験があります。幸い少し空気が抜けた程度の状態でしたが、燃費は確実に10%以上悪化しました。これが自転車であれば、当然漕ぐ力が余分に要りますのですぐ気が付きますが、バイクでは少しフワフワする感覚があるくらいで、気が付きにくいものです。ましてや、車には車輪が4つもあり、立派なサスペンションもついていますので、よほど注意していないと気が付きません。

そこで、必要なものは空気圧センサーです。アメリカでは、すでに義務化の動きもあり、高級車にはボチボチ採用され始めています。しかし、今のところ1システムが10万円ほどしますので、大衆車への採用までには、長い年月か、あるいは「無視できないくらいの、タイヤバーストによる事故件数」になるまで待たなくてはならないでしょう。投稿者が目撃した範囲内でも、車検の無いアメリカでは、信じられないくらい大量のタイヤ屑が、フリーウェイの路肩に溜まっています。最初は路肩にゴミが多いのを不思議に思っていた程度でしたが、しばらくして、それぞれがバーストしたタイヤの破片だと気が付きました。

ここで提案する空気圧センサーは、路面からのタイヤの衝撃力(G)を検出するもので、空気圧が低下すると、それまでコツコツと伝わっていたタイヤへの衝撃力が、フワフワになり、状態が変化します。この変化を感知する、1軸のGセンサー(かアコースティックセンサー)とアンプという構成ですので、たぶん1万円も掛からない電化製品に仕上げることができそうです。1万円以下で、安全と燃費の維持が確保できるなら、安いものだと言えるでしょう。高級車が買えるユーザーでもない限り、少しの安全性の向上と燃費改善のために、追加で10万円を払おうとは考えないと想像されるからです。

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2011年3月14日 (月)

1297 両刃の剣

刻々と拡大する甚大な災害の報に接し、何かを書かなくてはいられなくなって、本日4度目の投稿です。午前中は、ハイテクは鋭いが脆いと書きましたが、ほぼ「全てのハイテクは両刃の剣でもある」と訂正します。投稿者が、技術屋を辞め、環境屋に転身するきっかけの一つも、ハイテク産業と呼ばれる航空機を使ったあのB国での事件でした。WTCビルが、投稿者もささやかながら関わって作られたありふれた旅客機を使って、人間爆弾と化して突入する映像を繰り返し見るにつけ、便利で快適であるはずの乗り物でさえ、使い方によっては強力な殺戮兵器に変わり得る事実を突き付けられたのでした。それ以来、もう便利さも行き着くところまで来たのだから、そろそろ元来た道を引き返して、貧しくても平和な時代に少しでも戻ろう、というほどの考えに取りつかれてしまったのでした。

本日の昼前にテレビで流された映像も、全く同様で、便利で役に立つ電力を作り出すための「平和の道具が」、きっかけはほんの小さな発電機トラブルの結果、どんどん事態が悪化し最早ブレーキが利かなくなり、強烈な爆発力で頑丈な建屋を吹き飛ばすほど物騒な、灼熱の容器と化した原子炉の「咆哮の瞬間」を映し出したのでした。制御されたエネルギーは確かに有用なものではありますが、そのトリガーが外れ短時間でのエネルギーの放出は、その規模が大きくなるほど、私たちに向かってくる刃の危険度も増します。冷却する術を失った原子炉が、最終的にチェルノブイリ事故のレベルまで行くのか、その前段階でブレーキがかかるのか、固唾を飲んで見守るしかありません。

さらに言えば、投稿者の環境屋としての出発点や危機感は、石炭を使った産業革命から始まり、20世紀後半に石油文明として花開いた近代文明そのものが、実はもっと大きな意味での「両刃の剣」か、あるいは「パンドラの箱」だったのかもしれないという強い憂いから発しているのです。

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1296 災害に強いローテク

本日3度目の投稿です。ローテクは災害時ほど実力を発揮します。電気を使ったシステムがダウンしても、エンジンで直接駆動するポンプや、最後は重力や人力を利用して緊急事態を回避する方法など、原理が単純なものほどトラブルには強い筈です。大きな動力が必要なものも諦める必要はありません。50人も力を合わせれば、数トンのものであっても動かせるはずです。

通信手段にしても同じです。電気が無ければ電話やITは無力です。携帯電話も、基地局がダウンすれば全く使い物になりません。今回の様な本当の災害時に緊急時に使えるのは、狼煙や伝書鳩や人が走るか自転車を使った伝令程度しかないのかも知れません。

交通手段にもそれは言えるでしょう。電気が無ければ電車は動きませんし、冠水した車も最早動かせません。動力船でさえ浮遊物が多数浮いている海域では動きが取れません。被災の初期には支援物資の輸送には、ヘリ程度しか手段がないのですが、それも人命救助が優先されますのでほとんど物資輸送には当てにはできません。今回の場合も、港は浮遊物で埋まっていますから、とりあえずは被災地から少し離れた港ではない場所で、手漕ぎボートなどを使って少しずつ陸揚げし、最後は人が担いで避難場所に届けるしかないのでしょう。

結局、ハイテク=最先端技術は最新「鋭」ではあっても「先が細くて脆い」のです。ローテクとは、本質的に技術のレベルは低いのですが、裾が広くてどっしりと地に足がついているものであって、使う側もその原理を直感的に理解しているため、トラブル時の対処や修理も容易なものなのです。ローテクこそしっかり維持すべきです。

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1295 今こそ省エネ・プチ断食

今般の大震災の報に接して、直接的な被害を受けなかった人たちに求められる行動は明白です。複数の原発の長期休止や廃炉が余儀なくされる状況に至っていることを考えれば、何は無くても節電です。今こそ、何が必要不可欠な電力(エネルギー)で、何が不要不急や贅沢なエネルギーであるのか、しっかりと見極めて仕分けしてみる必要があります。食器乾燥機や衣類の乾燥機、薄着しながらの暖房、明る過ぎる照明や家族がバラバラに個室でテレビ視聴するなど、家庭生活での無駄エネルギーはまだまだ多過ぎます。投稿者が仕事としている、企業の省エネ指導でも、まだまだ事務所ビルや工場での「無効なエネルギー」の垂れ流しが目に余ります。量販店に至っては、まぶしい程の照明をしながら、安っぽい商品を並べています。何は無くてもしっかり節電して、できた余剰を関東・東北方面に融通しましょう。それが長期に固定化すれば、来たるべき時代のポスト京都議定書や省エネ法であれ温対法や環境税ですらドンと来いでしょう。25%の省エネの国際公約も楽に実現できるはずです。

もう一つは、災害義援金の捻出のアイデアです。ここで提案するのは、週1回の程度のプチ断食です。その晩は、夕食は「無し」で早寝します。この日は、胃や内臓をいたわり、一晩ゆっくり休める日とします(休肝日ならぬ「休胃日」と呼びましょう)。これは、合理的な健康法でもあり、特にメタボを気にしている人には不可欠の行動でしょう。浮いた夕食代を貯金しておいてぜひ義援金として寄付しましょう。これで毎月少なくとも4-5千円は浮くはずですので、健康に感謝しながら被災者の応援ができるでしょう。投稿者も、もちろんプチ断食貯金を開始しました。

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1294 たった2台の自家発で…

たった2台の非常用発電機が動かなくなっただけで、炉心(燃料棒)溶融が起きました。複数のディーゼルエンジンが設置されていたとはいえ、燃料タンクが共通になっているか、或いは起動用の圧縮空気タンクが共通になっている場合、地震時などシステムの物理的な破損を伴う非常事態では、同時に起動できなくなる可能性は十分考えられます。建屋ごとに非常用発電機を設置していたのなら、なぜ建屋間の渡り電線を設置していなかったのも理解ができません。他のラインやポンプなどは、二重三重の構えになっているはずですが、緊急炉心冷却(ECCS)ポンプ起動に必須の非常用発電機は、完全に盲点になっていたとしか思われません。もちろん、手順書に従って、定期的な発電機の点検や起動試験は行われていた事でしょう。しかし、事実として今回は2台とも起動しなかった訳です。そのため、隣の建屋に別の発電機がありながら、わざわざ遠くから電源車を走らせなければならなかったのでしょう。その間、燃料棒を冷却するための水注入が全く行えなかったので、結果的に手遅れになりました。もちろん、福島でも、たぶん他の発電所でも、法律で決められた2台の非常用発電機を、建屋ごとに設置して、設計基準はクリアしていたはずです。

しかし、設備が2台あるというだけでは、実は非常事態の構えが二重になっているとは言えません。何故なら、例えば津波で冠水した場合、電気系統は全く役に立たなくなるため、何台バックアップポンプがあっても事実上意味を持たないからです。本当の二重化のためには、バックアップポンプのうちの1台は、エンジンで直接駆動される様な、電力に頼らないものである必要があります。さらに安全を三重化にするためには、注水ポンプが動かなくなった事態でもなんとか注水ができる必要があります。例えば、建屋の高い位置に水タンクを設置し、最悪の場合は手動でバルブを操作して重力で注水できるなどの対策が考えられます。

原子力とは、制御棒や冷却システムのトラブルで、制御(中性子の減速や炉内の冷却)が行えなくなった場合は、必ず熱核反応が暴走するという意味で、本質的にFail Safeではない、不安定なシステムだと認識し直す必要があります。その上で、新たなFailure Caseの想定と、その安全対策が必要であることが今回の災害ではっきりしてきました。

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2011年3月12日 (土)

1293 環ビジ47(水冷屋根)

かなり以前にも同じようなテーマで書いたような気もしますが、内容も含めて投稿者本人も思い出せないので、重なってもまあ良いでしょう。投稿者が借りている事務所の窓からも、多くの家々の屋根が見えます。昔ながらの古い地域なので圧倒的に瓦屋根が多いです。瓦は、基本的には素焼きのセラミックス、(建築費をケチった家ではコンクリート)なので、吸収した太陽ルギーを赤外線の形で効率よく放射する素材だと言えます。しかし、問題はその色で、多くは黒に近い灰色をしています。伝統的な工法では、瓦の下には藁や土が入れられていて、断熱性と湿度調整に一定の役割を果たしていました。しかし、新しい瓦屋根の下は、合板の上に防水シートがあるだけで、その下はすぐ屋根裏です。熱を蓄えた瓦から、屋根を抜けてきた熱により、夏季には屋根裏が50-60℃にも上昇します。また冬季の室内からの放熱も大きくなっています。仕方がないので現代の家づくりでは、安易ですが天井裏に50-100㎜程度のグラスウールを入れてある程度は防いでいます。しかし、グラスウールは確かに安いのですが、断熱効果もソコソコしか期待できません。

さて、身近な材料で比熱が最大のものは実は水です。したがって、家屋への熱の出入りで大きな部分を占める屋根に、何らかの形で水を組み入れる事には大きな意味があると思うのです。具体的には、瓦自体に水の通路を設けて水冷する方法や、瓦表面の溝に接する様なウォータージャケットをいくつか並べる方法などが考えられます。家屋において水漏れは大敵はなので、後者の方が現実的かもしれません。この屋根で、夏場の屋根裏温度を大幅(20℃ほど)下げる事ができるのと同時に、太陽の恵みである温水も同時に得る事も出来ます。投稿者も自宅の屋根に小さな太陽熱温水器を上げていますが、太陽熱だけで沸かした風呂に入ると、環境人間としてはやはり最高に和みます。

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2011年3月10日 (木)

1292 環ビジ46(デシカント冷房)

デシカントとは、シリカゲルの様な除湿剤を指します。それが、どうして冷房に使えるかですが、デシカントが空気中の水分を分子中に取り込む際には、実は温度が少し上昇します。したがって、除湿した空気をそのまま室内に導入した場合、乾燥したやや暖かい空気が送られる事になります。仕方がないので、(顕)熱交換器で温度だけは、室内と同じに下げる事にします。しかし、これでも乾燥した「生暖かい」風が送られますので、あまり快適ではありません。そこで、水分を細かい霧にして、この空気に混ぜてやれば、温度が下がりやっと涼しい風を作ることが可能になります。温度が上昇し水分を抱えたデシカントは太陽熱などで加熱し、湿度を取り去って(再生して)やれば、繰り返し使える事になります。デシカントは、通常円盤型に成形されたハニカムなどに担持され、ゆっくり回転しながら上記のサイクルを繰り返します。

通常のエアコンでは、冷やされた空気の温度が下がりすぎる傾向にあり、もう一度加熱が必要だったりするので、エネルギー効率はずいぶん低くなるのですが、デシカント冷房では、除湿と顕熱交換を分けて行う結果、元々効率が高い上に、再生に太陽熱が使えますので、ごくわずかなエネルギーだけで快適な空調が実現できるというわけです。

最近の朗報は、M菱樹脂で50℃前後の低い温度で再生可能なデシカントが開発されたというニュースです。これまでのデシカントの代表であったシリカゲルやゼオライトは、その再生に100℃をかなり超える温度が必要だったのです。50℃であれば、簡単な太陽熱コレクター(例えば内部を黒く塗った、ガラス戸のある箱)程度で得ることが可能ですので、画期的に安価な空調機が実現できるでしょう。ちなみに、通常の吸収剤を使った、いわゆる吸収式冷暖房機で冷房が効率よくできるのは、吸収剤が水分を吸収する際に強い真空が発生しますので、これを温度を下げるための断熱膨張際の差圧として利用する仕組みとなっていますので、上記の原理とは異なります。

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2011年3月 8日 (火)

1291 環ビジ45(熱流カメラ)

最近、団地の裏山に登ることにハマッています。電波塔がある400m程度の山ですが、これが登ってみると頂上には絶景が広がっているのです。南には濃尾平野の全景、北には関市の全景と薬師から乗鞍までの北アルプス、御嶽から中央アルプスまで、西には養老山系や伊吹、能郷白山まで、これまでに登った山々が、全部見渡せるのです。もちろん、この絶景に遭遇するのはよく晴れた日の朝である必要があります。昼ごろになると、気温が上がり空気中の湿度が上がりますので、見通しはぐっと悪くなるからです。

さて、今回の話題です。熱画像カメラ(サーモグラフィー)は、新型インフルエンザが流行した昨年、空港などに設置されたり、テレビの科学番組などで時々使われたりして注目され始めました。これは、物体から放射される赤外線の波長やレベルを感知し、温度を色の変化として表示できる優れものです。投稿者も安かったので画素数は少ないものですが、1台所有していて重宝に使っています。

しかしながら、このカメラは温度を持つ物体から発せられる、温度に固有の波長の赤外線を検知して色として表示するものですから、ある瞬間の温度分布が表示・記録できるだけです。エネルギーとは、電磁波=赤外線の流れる度合いや量を示す指標ですから、本当のところは赤外線の流れを見ることができるカメラが欲しいわけです。熱流計は、ある断面を流れる赤外線の流れレベルを微弱電圧に変換する素子ですが、これを撮像面に多数並べた素子を作れば、原理的には、ここで提案する「熱流カメラ」ができるはずなのです。

ではなぜ熱流カメラが必要なのかですが、例えば放熱性が良い材料の表面は、温度としては周囲温度との差が小さいのですが、実際には内部から多量のエネルギーが漏れ出ている場合もあり得るからです。このカメラを使えば、例えば壁や窓や天井や床から、単位面積当たり何ワットの熱流が流入(流出)しているかが、画像としてとらえることができますので、建物や設備からの熱損失量を可視化できることになります。カメラメーカーや、電子機器を作っているメーカーには、緊急に開発してもらいたいアイテムの一つです。これが省エネルギービジネスに貢献する度合いは非常に大きなものになるでしょう。

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2011年3月 6日 (日)

1290 環ビジ44(ユニット化設計)

ユニット化設計が環境負荷を下げるという話です。ユニット化設計のお手本は、デスクトップのパソコンでしょう。電源ユニット、マザーボード、CPU、メモリー、HD、各種のサブボードは、さながら組立オモチャの様に組み立てられ、それぞれがコネクターでつながれているのが、現在のパソコンです。長期間の使用で主に消耗するのは、メカニカルに数千rpmで回転しているHDくらいでしょうから時々これを交換して中身をコピーしてやり、CPUの速度さえ我慢すれば、PCは結構長く使える耐久消費財でもあります。

さて、例えば現在の車は、プレスされた板金をスポット溶接した車体に、エンジンとパワートレインを乗せ、車輪とステアリングや懸架装置(ばねやショックアブソーバ等です)、燃料系統を取り付けて、後はマイコンで制御される電子制御装置と各種の装置を、複雑なワイヤーハーネスで結んだ代物ですので、専門職でもない限り、修理はそれほど簡単ではありません。

しかし、電気自動車=EVであれば話は別です。基本的にEVは、一種の「電化製品」ですから、パソコンと同じテクニックが使えはずです。つまり、予めモーターを組み込んだ車輪、バッテリーと制御装置さえあれば、後はそれを車体に乗せて、座席とハンドルを付ければそれなりに車になる訳です。車の馬力は、モーター出力だけで決まりますので、話は簡単です。航続距離は使用目的によって、バッテリーの容量で決めれば良いので、たぶん数人の従業員しか確保できない小企業でも、それなりに「自動車メーカー」として名乗りを上げられるでしょう。しかもユニット化設計ですから、馬力を上げたり下げたり、修理や改造の自由度も飛躍的に向上するはずです。摩耗するコンポーネントさえ交換すれば、車体が腐らない限り、何年でも乗り続けられ乗り物ができるはずです。ユニット化設計の考え方は、資源の有効活用の観点からも、無駄を省きコストを低く抑えるためにも、強力に推進されなければならない大きな課題だと言えます。

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2011年3月 4日 (金)

1289 環ビジ43(メカニカルハイブリッド)

機械的エネルギーを一時保存する道具として、フライホィールがほとんど使われていないことは、「元機械屋」としても「環境屋」としても非常に残念な状況だと思っています。電気を一時的に蓄えておくのが蓄電池なら、運動エネルギーを一時蓄えておく「蓄力器」がフライホィールだと定義できます。フライホィールは、望ましくは真空中で、数十万rpm程度の高速で、円盤状の錘をぶん回す仕掛けです。数時間以上蓄えて置くにはかなり大きなサイズになってしまうのでしょうが、数分や十数分度であれば、非常にコンパクトなサイズでも十分効果が期待できます。例えば、信号待ちで止まった車を、再発進させる際や、下り坂で蓄えたエネルギーを上りに「再利用」する目的などに有効に使えます。

回転するホィールを真空中に閉じ込めて、動力を軸で伝える構造にすると、メカニカルなシール構造が必要ですので、ここでは「磁気カップリング」を用いて動力を伝えるようにして、完全に密封された容器とする構造を提案しておきます。軸受は、転がり軸受では「持たない」ので、空気ベアリングなどとする必要があるでしょう。

車では、ブレーキを掛ける際にフライホィールに蓄力し、蓄えたエネルギーを発進・加速の際に車輪に伝える「メカニカルハイブリッド=MHV」構造とします。発進・加速時に約3割のエネルギーを消費するのが車ですから、エンジンを燃焼効率高いポイントで、連続して運転できる仕掛けは、燃費向上に非常に有効です。重いバッテリーを必要とする今のHVに比べ、大幅に軽量化しながら、しかもHVと同程度の低燃費を達成できるはずです。より大きなフライホィールを搭載すれば、ガソリン1ℓで100㎞程度走ることができる夢の車も十分実現可能です。この車では、エンジンは理想の燃焼条件で、ほとんど一定の回転数で回っており、車を動かす動力は専ら大きな主出力のフライホィールが担うことになります。フライホィールの回転が下がってきたら、エンジンからの動力によって、再度加速するという仕組みです。なお、超高速で回転する「コマ」は、材料に金属を使うと、自重による遠心力で破壊する恐れがありますので、CFRPなどの複合材を採用する必要はあります。

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2011年3月 2日 (水)

1288 環ビジ42(和紙の巻き返し)

投稿者は以前から、和紙の持つ高い機能に注目しています。和紙は、コウゾやミツマタなどの樹皮に含まれる、長くて強い繊維を漉いて作られますので、丈夫で破れにくく、しかも柔らかく優しい風合いも兼ね備えています。しかし、和紙の機能はそれだけではなさそうです。例えば、障子紙です。薄くてかなりの光も通すこの紙には、それなりの断熱性能もありそうなのです。最高の断熱材は「真空」ですが、現実的に次善のものは空気になります。空気を使った断熱材には、安価なグラスウールなどもありますが、その中に含まれる空気(分子)は、運動の自由度が大きくて結構熱を伝えてしまうわけです。そのために、有効な断熱性能を得るためには、温暖な地域でも100㎜程度、北国などでは200-300㎜もの厚みが必要となるのです。空気の断熱性能を高めるのは、比較的単純です。空気を小さな部屋に閉じ込めて、気体分子の自由運動(ブラウン運動)を抑制するのです。独立気泡を持つ発泡コンクリートや発泡ウレタンが、高い断熱性能を持つ所以です。

さて和紙です。和紙は、工業製品の紙とは異なり、顔料(タルク等)を入れておらず、ローラーで強く圧縮されてもいませんので、厚みの中に空気を抱え込んでいます。それも、繊維間のごく狭い空間に閉じ込められているので、空気分子の「ブラウン運動の自由度」は抑制されます。したがって、薄い割にはそれなりの断熱性能も兼ね備えているはずです。住宅の「内障子」が、冬季の寒さ対策にそれなりに有効なのは、日常経験できるその証左でしょう。つまり、細かく見ると、障子の外面はかなり温度が下がっているのに対し、室内面側は室温程度に温められており、室内に居る人の体からガラス窓を通って奪われる熱(赤外線放射)を遮っていると思われます。

事務所スペースでも、和紙をロールスクリーンなどに仕立てて吊り下げれば、夏冬とも大きな冷暖房効果の改善が期待できます。和紙により多くの空気を抱え込ませるためには2枚重ねて使い、一方では火事対策としては「防炎剤」をスプレーしておく必要もありますね。

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2011年2月28日 (月)

1287 環ビジ41(リース社会)

きたるべき社会では、モノの消費は大幅に抑制されなければなりません。食べ物の様な、消費すれば消えてなくなるものはさておき、耐久消費財はより長く丁寧に使われる仕組みが不可欠です。例えば、この国では春先が卒業や転勤の季節でもあり、今年も巷には多量の粗大ごみが溢れる事でしょう。一部は、リサイクルショップに持ち込まれるのでしょうが、ほとんどは最近目に付くようになった「無料の回収業者」が粗大ごみ置き場からタダで「回収」していくはずです。その行き着く先が気になります。無思慮な解体によりそれらからばらまかれる、廃棄物、例えば、冷蔵庫やエアコンからは、壊せば多量のフロンが放出されるからです。

そうではなくて、耐久消費財は徹底的に繰り返し「コキ使われるべき」なのです。しっかりしたリースシステムを構築すれば、無駄に捨てられる白物家電などは格段に減る事でしょう。リース会社は、貸し出し及びリースバックとメンテナンスを主な仕事としますが、メンテナンスで機能を維持された家電などは、設定された10年かそれ以上の設計寿命を全うできることになります。

静脈産業(ごみ回収・処理産業)に投げ込めば、消費者は常に新品の製品を使い続けられることにはなりますが、工場の自動化設備の稼働率が上がるだけで、実のところ雇用は殆ど増えません。一方、手間暇のかかる貸し出しや回収とメンテナンスには、多くの人手が必要ですので、この国の雇用情勢改善にもプラスに作用するはずです。スクラップとして廃棄されるモノは、ほとんどの部品の寿命が尽きて、もはや資源ごみにしかならないモノに限られるべきです。

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2011年2月26日 (土)

1286 環ビジ40(多機能住宅補強)

テレビは殆ど見ませんが、食事の際にちらりと見る時、老朽化した住宅に、後から取り付けるタイプの耐震補強のCMが時々流れます。建物の外側に「筋交い」を貼りつける工法の様ですが、単に耐震目的だけでは「費用対効果」があまり高くなさそうです。何しろ、住宅が被害を受けるような大地震は、ほとんどの人は一生に一度遭遇するかどうかの確率でしか発生しないからです。どうせ住宅を改造するなら、ついでにもっと付加価値の高い機能も追加しましょう。

筋交いは、基本的にはトラス構造の三角形を作れば補強の目的は達せられますが、ここでは、「面の筋交い」を提案しておきます。外装材を構成する材料の外縁を強くしておき、さらに炭素繊維の束などでX状に補強しておけば、筋交いとしての強度は十分でしょう。一方この板には、性能が高く、しかもごく薄い断熱材が貼りつけられており、耐震補強と同時に、住宅の外断熱化工事も完了させるという作戦です。

最新の断熱材は、10㎜程度の厚みでも、十分100㎜厚みクラスのグラスウールに匹敵する性能を持ちますので、既存の建物の外側に、薄いサイディングを追加する程度の比較的容易な改装となるでしょう。その結果、耐震性と同時に冷暖房効果も格段に向上しますので、夏涼しく、冬暖かい住宅の断熱改装と、地震対策が同時に完了することになります。なお、この、補強材は窓のある壁にも使えます。窓の部分をくり抜いておけば、窓の中に細い×印の繊維の束が見えますが、そんな程度の不便は、慣れればどうってことはないでしょう。すでに学校などでも、教室の窓が耐震補強のための太い鉄の×印に囲まれているではないですか。

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2011年2月24日 (木)

1285 環ビジ39(相乗り配送)

毎日、街中や郊外を走り回る、コンビニ配送車を見ていて、大きな疑問を感じざるを得ません。配送車には、コンビニチェーンのロゴがペイントされていますが、実際に車両を運用しているのはたぶん運送会社(何とか運輸)でしょう。コンビニチェーンはいくつか存在しますので、それぞれのチェーンの配送車が、しっかりと(何重にも)重なったエリアの中で動き回っているはずです。

もし、同じ運送会社が同じエリアにある複数のコンビニに配送できるとすれば、配送トラックの走行距離は、今の何分の1かに削減可能になる事でしょう。エコドライブの励行などという、実行が面倒で、しかし効果がささやかな省エネではなく、少し柔軟に運用方法(ソフトウェア)を考えるだけで、大幅な省エネが実現可能なのです。

同様の考え方は、すべての配送システムに適用できることでしょう。望ましくは、全て商品が米粒の様な「電子チップ」で識別されるコンテナに収められてさえいれば、商品自身が送り元と送り先の情報を発信することができますから、その情報を受けて貨物の容量と重量と集荷・配送ルートの情報を加えて、最適化されたパッケージングがコンピュータの中で組み立てられます。トラックは、配送センターからのデマンド・配送情報を受けて、全く無駄な動きをすることなしに、最短で一筆書きの効率的な集荷・配送が可能となるでしょう。高速道路や街中の道路からは、現在の半分くらいの数のトラックが消え、騒音や排気ガスによる大気汚染も大幅に軽減されるはずです。でもそうなると多くのドライバーが失業する?。それも環境のため、ひいては子孫のため仕方ありません。このブログでも参考にして、新たな(環境)ビジネスを始めていただくしかないでしょう。

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2011年2月22日 (火)

1284 環ビジ38(エアバイク)

少し前に発想した、まったく新しい乗り物の具体案です。E国のダンロップさんが開発して以降、私たちは、何の疑問もなく自転車や車には「ゴムタイヤ」を採用し続けてきました。しかし、ゴムのタイヤと道路の間の転がり抵抗は、例えば鉄道の車輪とレール間のそれの10倍にもなっているのです。この摩擦に打ち勝って乗り物を前に進めるためには、間断なく大きな推進エネルギーを投入し続けなければなりません。しかし、もし路面が氷の様にツルツルで、車輪との間に極端に低い摩擦しかなかったら、一度動き出した乗り物はほとんど動力を使うことなく動き続けることができます。たとえば、アイスホッケー(か遊技場のエアホッケー)のパックの様な乗り物を想像してもらえば良いでしょう。もちろん、タイヤの摩擦力は前進させるためだけではなく、停止する際に大きな摩擦を発生させるためにも必須と考えられています。確かに、路面の間の摩擦が極端に小さい場合、乗り物は急停止などできず、事故が多発するかもしれません。

さて、ここでのアイデアは、路面との摩擦を極小化することは、乗り物をごく僅かに空気で浮上させる事によって実現しますが、一方で駆動や停止は別の手段を使うというものです。頭の中で考える勝手な乗り物ですから、勝手に想定しますが、路面はアスファルトやコンクリートの打ちっぱなしではなく、表面に凹凸のほとんどない、ツルツルのコーティングを施します。凸凹が小さいほど、浮上させる高さ=エネルギーは小さくできるからです。そのような軌道上では、たぶん1ミリも浮上させれば十分なので、動力は模型飛行機のエンジン程度の出力のエンジンか小型の扇風機程度の出力のモーターで十分でしょう。前進動力は、路面との摩擦が極端に小さいので人力でも十分間に合います。もし、多少の坂道がシンドイという我儘な人がいたら、少しであれば電動アシストも許しましょう。駆動は、タイヤの様に摩擦力に頼るのではなく、路面側には数センチ幅のラック(直線歯車)を、滑走面より低くなるように埋め込んで設置し、それを跨ぐ乗り物側には歯付きベルトを裏返した様なゴム(かプラスチック)の歯車をつけて、機械的に結合させれば、暴走する恐れもなくなります。電力は、溝の中に設けた架線から低電圧のものを供給します。開発時は、とりあえず、工場内や空港の中などで実用試験をすれば良いでしょう。

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2011年2月21日 (月)

1283 環ビジ37.5(雪降ろし装置2)

時々、このブログにも突っ込みが入ります。特に「技術畑」と思われる人たちからは、投稿者のアイデアの上を行くものも多くあり刺激になります。しかし、長年航空宇宙産業で飯を食っておきながら、いまさらそれを批判する立場に立つ投稿者の想いに関しては、もう一言書き添えておきたいと思います。それは、これ以上やれ宇宙ステーション(ISS)だ、電動飛行機(EA)だと多額のお金をつぎ込みながら、「見果てぬ夢」を掻き立てなくとも、「この地球上には、まだまだ解決すべき足元の(環境や貧困や食糧)問題が山の様にあるでしょうが・・・」という気持ちなのです。ISSEAの開発プロジェクトに使われている技術程度では、ゴミ問題や資源の枯渇、温暖化ましてや生物多様性の減少には歯止めが掛けられないのです。でもこれらの「科学のお遊び」に毎年注ぎ込まれている多額お金や、優秀な頭脳たちを振り向ければ、かなりの成果が期待できると思うのです。

さて、1281は自分でもどうもあまり良いアイデアとも思えなかったので、その2を考えました。これは、やはり屋根に除雪シートを掛けるものなのですが、このシートの一端には小さな振動を起こす「起振器」を取り付けておくというものです。超音波で、粉体を送る装置は実用化されてはいますが、残念な事に超音波の発生装置は寡占状態で、安いものでも数十万円はします。しかし、この用途には、もっとずっと安っぽい起振器(例えば手で持つ肩たたき器程度)でも十分役に立つはずです。これだと低い方の数千円で済みます。シートの表面としては、やはり雪との馴染み性が小さく撥水性を持つ素材かコーティングが必要です。

この起振器をタイマーで、時々動かしてやれば、積もった雪は比較的緩い傾斜の屋根でもズルズルと滑り落ちてくれるはずです。振動は、往きと戻りが同じ加速度ではなく、タレントが正月のかくし芸大会で見せる技を参考にすれば、「引きの際のスピード」を大きく設定すべきでしょう。実際のイメージとしては、起振器は屋根の頂上に設置して、屋根に敷いたシートを上に引くのが合理的でしょう。戻りは、シート自体の弾力性を利用すればどうにかなりそうです。これなら、結構安いシステムでまとまりそうですので、各戸で買い取りも可能でしょう。ですから値段としては、10万円以下、できれば数万円に設定することになります。

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2011年2月20日 (日)

1282 環ビジ37(地雷除去ロボ)

だいぶ前に発想したやや大きな話です。世界中の紛争地域に埋められてしまった地雷は、間違いなく環境を悪化させています。なぜなら、地雷によって「火薬汚染」された地域や土壌では、もはや容易に立ち入ったり作物を作ったりすることができないからです。紛争が終息した地域でも、地雷原だけが残され、それと知らずに避難民が元住んでいた場所に戻ってきても、危険な荒野と化した元農地では、安心して農業を再開することは困難です。

地雷(金属)探知装置を肩にかけて、センサーを付けた長い棒を左右に振りながら、探知・除去を行っている映像を時々目にしますが、あれではあまりに非効率で、安全な地域を拡大するスピードは、亀の歩みに近いものでしょう。何より、この方法では探知作業をする人があまりにも大きな危険に晒されてしまいます。ましてや、金属探知器で検知できないように、プラスチックでできた爆弾も作られていますので、全く油断できません。

投稿者の提案は多少荒っぽいのですが、地雷除去のスピードは、人手による何十倍も高効率となるものです。それは、ブルドーザを改造した地雷除去車両です。ブルドーザの前面にある板(ブレード)はそのまま流用します。その板の前に、別の腕を左右に1本ずつ出し、その間に多数のチェーンをぶら下げた回転軸を渡します。この軸を比較的高速で回転させる事によって、チェーンの先端が地面を万遍なくビシバシと叩きます。地雷は衝撃で爆発しますが、対人地雷程度の爆発力では、ブルドーザに被害を与えるまでには至らないでしょう。爆風は、ブルドーザ前面の頑丈なブレード板が防いでくれますので、運転者も車体も安全です。ブルドーザが通過した後は、地雷が爆破処理された場所なので、多数の穴は開いていますが、農地に戻すことができるでしょう。改造するブルドーザは、建設不況で国内で余っている中古品を流用すればよいので、お金もほとんど掛かりません。これも、立派な「環境改善ビジネス=途上国貢献」になり得るでしょう。もちろん、さらに安全に留意するなら、運転者を乗せずにリモコン装置を取り付けましょう。

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2011年2月18日 (金)

1281 環ビジ36(雪降し装置)

利雪ではない除雪の話です。電熱ヒーターを使った屋根や道路の融雪システムが売られています。しかし、使う側から見れば翌月に来る「肝を潰すくらいの電力料金請求書」がたまりません。屋根の雪降しが必要となるのは、当然のことながら屋根に雪が降り積もって、建物が危険に晒されるからです。ならば、雪が積もらない屋根にするのが、一番自然な考え方でしょう。雪との親和性が非常に低いコーティングを屋根材に施す方法も考えられますが、屋根のこう配や、コーティングの劣化などに影響されるためこの対策は完ぺきではありません。

ここでの提案は、テーブルクロスなどとして用いられる、表面がビニール(よりはもう少し耐寒性の高いものが必要?)などでコーティングされ、裏面は補強用の布面となっているありふれたロール材を用いる、エンドレスベルトを屋根に設置するというものです。そのベルトは2個のローラーに渡され、ゆっくり回転します。ご想像の通り、ローラーの1個は、屋根の一端に、他方のローラーは反対側の軒先に設置します。雪が積もらないうちに、ベルトを回転させれば、一晩で50センチも積もる地域でも怖くはありません。雪は一方の側に細切れになって落下します。太陽光によるベルトの劣化を防ぐため、この装置は積雪期だけに仮設置されます。ベルトは1時間程度で、1回転する必要があるだけなので、小型モーターと減速ギアの組み合わせで十分でしょう。

さて切り妻屋根はこの対策でほぼ完ぺきですが、寄棟屋根ではやや難があります。しかし、この装置で屋根面全部を覆う必要までは無いでしょう。たとえ装置に隙間があっても、屋根全体に雪が乗っかる状態に比べれば、雪による荷重は何分の1かに減り、かつ分散されるので問題はないからです。装置は、ロール材の幅単位(90120180㎝程度)でユニット化し、橋場やクレーンなど無しに、梯子の様なリフトを使って設置できるようにします。夏季は邪魔になるのでロールは巻き取り、ユニットは分解してコンパクトに格納できるようにします。それでも邪魔になるので、レンタル物件とした方が現実的かもしれません。降ろした雪は、パラパラと落ちるだけなので、雪崩による事故も無くなるでしょう。

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2011年2月16日 (水)

1280 環ビジ35(利雪)

少し前に利雪のアイデアが必要だと書きましたが、これが言うに易く、実現はなかなか難しい問題でもあります。積雪を利用して、トンネルの中などで野菜の「氷温貯蔵」を行うアイデアは既に書きましたので、ここでは「低(温)熱源」としての雪の利用法を考えてみます。「熱機関」には、原理上「高(温)熱源」と「低(温)熱源」が必要です。この間に流れる熱流から、エネルギーを取り出すのが熱機関ですから・・・。例えば、内燃機関では、「高熱源」はシリンダー内で爆発的に燃焼するガスですし、「低熱源」は排気管から燃焼ガスが排出される大気の温度です。火力発電所では、それがボイラで作られる蒸気と、海水で冷やされる復水器になるわけです。

さて、雪が低熱源だとして、高熱源はどこに見つかるでしょうか。冬季は太陽光が期待できない雪国では、唯一の天然の熱源は「地熱」くらいしかありません。温泉が湧くようなラッキーな地域はさておき、通常は20℃足らずの地中の温度になります。雪の温度を0℃と仮定しても、たった20℃程度の温度差しか得られない勘定です。この温度範囲で使える「作動流体」の候補は限定されます。融点や沸点が十分に低い作動流体を、圧力をコントロールしながら使うしかないでしょう。

「フロリナート」類はその第1候補になり得ます。より安価なものとしては、漏れた場合にはあまり安全ではありませんが、アンモニアも同様に使えるでしょう。雪を使った熱機関としては、高い場所に積もった雪により、地熱で蒸発された作動流体を凝縮させ、凝縮液が持つ位置エネルギーで水車(液体タービン)を回すパターンが一つ考えられます。北陸にある大学の先生が研究していたような気がします。もう一つは、地表の雪で凝縮させた作動流体が、地熱で気化・膨張する際に、気体タービンを回すパターンも考えられます。こちらは、まだ研究例を承知していません。追加の熱源も併用できるので、こちらの方が現実的かもしれません。

しかし考えてみれば、先人は雪と結構うまく付き合ってきたような気もします。例えば、投稿者が生まれた秋田の小さな田舎町にも、酒や醤油の醸造元が10社以上もあったことを思い出しますが、冬季に深い雪に振り込められるこの地域の醸造蔵は、日本海を流れる暖流のせいで、めったに零下には下がる事はなく、氷温に近い気温や高い湿度もほとんど一定であり、醸造場所として実は理想に近かったのだと想像できます。こんな、世界でも類のない雪国の「好条件」には、まだまだ利用価値が発見できそうな気もします。

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2011年2月14日 (月)

1279 環ビジ34(オンデマンドバス)

続きです。1278にも書きましたが、数人しか乗客を乗せない状態で走るバスなどの公共の乗り物を見ると、勿体なくてため息も出ます。なぜ乗客が少ないかをさらに考えてみると、公共交通機関が定時運行なのに対して、人は時計の様に行動するのが苦手だからかもしれないと想像できます。通勤や通学の時間帯ならいざ知らず、日中の利用者は、病院通いか、買い物目的の高齢者がほとんどでしょう。適当な時間にバスがなければ、つい便乗を頼んだり、タクシーに頼ったりしてしまいます。自治体によっては、助成金を出してそれを推奨してもいるのです。

そうであれば、停留所にはぜひ「デマンドボタン」を設置して貰いたいものです。デマンドボタンとは、乗客がそれを押すことによって、デマンド信号が無線でバスセンターに飛び、1人分の乗車が「予約」される仕組みです。3人居たら3回押せば良いでしょう。センターではそれを集約して、バスを走らせるかどうか判断します。もし、たった1人しか予約がない場合は、「ごめんなさい、乗客が少ないので後1時間くらい待ってください。」と表示します。あるいは、もう動き出している場合は、「あと○○分お待ちください」と表示します。日中の利用者は、結構暇がある人がほとんどでしょうから、屋根の掛かった停留所にベンチなどが置いてあれば、辛抱強く待ってくれるはずです。

デマンド発信機は太陽電池で動力を賄いますが、悪戯を避けるために電池や発信機は高い電柱の上に設置します。ボタンの位置も子供が悪戯できにくい位置にするか、ダブルアクション(2つ以上の操作を同時に行う必要がある)ボタンにすべきでしょう。バス待ちの退屈を紛らせるためには、デマンドボタンを押したら、バスの到着までは音楽かラジオ番組でも流しましょうか・・・。バス事業は、タクシーより格段に運賃が安く、しかし全体としての環境負荷は低く、ビジネスとしても成り立つ必然性があるのです。

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2011年2月12日 (土)

1278 環ビジ33(バス・自転車)

日中に、ガラガラに空いたままで虚しく走るバスを見ると、ココロが痛みます。リッター数キロしか走らないこの重たい乗り物を、数人の乗客しか乗っていない状態で動かす姿は、どう見ても「移動する無駄」に見えてしまいます。バスの燃費は、実際に計ったわけではないのですが、たぶん1リッター当たり数キロ(2-3㎞)と推測しています。

さてバスの利用率が低いのは、路線がますます縮小されていることと、同時にその運行時間間隔もますます長くなっている結果非常に不便になり、これがさらにバス離れにつながるという、悪循環に入っているからです。バス会社は路線バスから次々に撤退し、代わって自治体がその肩代わりをしている例も多いのです。

バスの利便性を上げるための一つの提案は、バスに自転車を乗せることです。バスと自転車を組み合わせれば、幹線上を動くバスに対して、数キロ横移動するのに最適の乗り物である自転車による「面の広がり」が期待でき、街中や郊外の交通手段として、一つの理想形に近づきます。この目的のバスは、たぶん今のバスとは形が大きく異なる可能性があります。自転車を乗せるためには、中央部分の床が極端に低くなければならないので、前後の車輪の間は、車体が大きく落ち込んでいる形状をしていてもらいたいのです。海外(ヨーロッパ)ではいくつかの先進例を見ることができます。作るものが無いと嘆く日本のメーカーにも、まだまだ作らねばならないものが一杯ありそうです。

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2011年2月10日 (木)

1277 環ビジ32(触媒燃焼器)

バイオマス利用拡大が叫ばれています。バイオマスを燃やして発生したCO2を、再度植物(など)に吸収させれば、理論上は大気中のカーボンは増えない(カーボンニュートラル)とされているからです。しかし、ざっと考えてみても、石油やガスを燃焼させる機器は、長足の進歩を遂げたと思われますが、バイオマスを燃やす仕掛けとしては、科学技術が進んだと言われる現代でも、薪ストーブか、近年各地で盛んに開発されている「ペレットストーブ」などしか見当たりません。その一方で、少し昔を思い返してみれば、ほとんどの場所で熱はバイオマスだけを使って発生させていたような気がします。ブリキで作った「柱時計型のストーブ」を始め、カマドでの煮炊き、炭を使った火鉢や囲炉裏での暖房、業務目的でも例えば銭湯や工場なども、製材所の木挽き粉で、湯を沸かしたり、暖房したりしていたと記憶しています。

ここでの提案は、せっかく植物(など)が固定してくれた炭化水素を、あだや疎かにしないためにも、それを利用させていただく私たちは、是非とも効率の高いバイオマス燃焼器を開発しなければならないということです。効率の高い燃焼のためには、まずはバイオマスの持つ潜在熱量を減ずる悪者である「水分」を減らさなければなりません。軒下に積み上げた薪は、いくら長期間乾燥させても、まだ25%程度の水分を抱えています。燃焼器の中でその水分を蒸発させるために、バイオマスの持つ熱量が大きく削がれるわけです。高い乾燥度を得るためには、ぜひ太陽熱を活用したいものです。

もう一つのポイントは、バイオマスと空気(酸素)を如何に効率的に結び付けるかです。キーワードとしては「触媒」がありそうです。例えば薪は、固体ですからそのままでは決して燃えません。温度が上がって、ガス化した結果追い出された炭化水素分子(あるいは炭素や水素に分離した分子)が酸素分子と結びついて燃焼するのです。この際、白金触媒を使った「カイロ」を想像してもらえば良いのですが、酸化を促進させる適当な触媒が介在すると、燃焼効率は飛躍的に向上します。セラミック・ハニカムや金属網に担持させた、(白金などの貴金属=レアメタルではなく)安価で効率の高い触媒の登場が待たれます。これを使えば、ありふれたストーブでも、熱効率が飛躍的に向上するはずです。

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2011年2月 8日 (火)

1276 食料危機前夜

北アフリカや中東の騒乱が激化していますが、その根っこにはイデロギーと同等のレベルで、あるいはそれ以上に「食糧危機」問題があると見なければなりません。北アフリカでの最初の騒乱でも直接のきっかけは、国際食料価格の上昇を国内価格に転嫁し、値上げが発表されたことだったようです。さらなる背景としては、地球規模の気象変動、ひいては環境の無視できない変動=悪化を考えないわけにはいかないでしょう。多くの穀倉地帯は、北半球の冷涼な半乾燥地帯(ステップ)に集中していますが、すでに天水だけで十分には灌漑できない地域では、かなり以前から地下水に頼り切っていますので、これらの地域では最早「持続可能な農業形態」ではなくなっています。一度地下水に頼り始めると、速攻収穫量が飛躍的に増えて、短期的には利益が上がり、強い麻薬の様な依存性を伴っていますので、そこからは容易に抜け出すことができません。北半球の不作時に期待が高くなる、南半球の農業国からのバックアップも、昨年の豪州の干ばつや洪水による不作などで、穀物市場の先物価格もかなり上昇したことでしょう。

お金さえ出せば、自由に海外から食糧が調達できるという時代は、終わりつつあると考えなければならなくなったようです。おりしも自由貿易協定論議です。この国の為政者の認識が、上の認識からかなりずれてしまっていることを危惧します。工業の経済活動が多少低下しても、まずは国民の胃袋を心配しなければならない事態にたち至っていると思えてなりません。国内の不況は、取り敢えずはワークシェアリングなどの「目先の対策」で凌がなければならないでしょう。しかし、食糧確保の問題は、景気対策にも優先する最重要課題の一つだと思うのです。

工業生産は、今や機械(設備)が中心となっていますので、今後輸出が以前の様に増えたとしても雇用はあまり増えませんが、食料の生産には多くの人手が必要ですから、雇用問題の解決にも有効でしょう。何より、「食糧危機前夜」のこの時代、狭いこの国で、埼玉県ほどの面積に達したと言われる耕作放棄地が勿体なくてなりません。

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2011年2月 6日 (日)

1275 環境問題としての鳥インフル

秋田で義母の葬儀に出席してきました。久しぶりに北国のうんざりするほどの雪の多さを見て、これをどうにかして利用したいものだと、しみじみ考え込みました。つまりは利雪です。もう少し考えて、アイデアが浮んだら投稿する事にします。

さて鳥インフルが猛威を振るっています。ニュースでは、渡り鳥や野鳥たちが「悪者」にされていますが、事実は逆なのだと思っています。つまり、鳥インフルやヒトインフルなどのウィルスの故郷は、実のところC国や、東南アジアなどのあまり衛生環境のよろしくない田舎であって、そこで飼われている家畜や家禽が元々の宿主なのです。とりわけ、豚インフルは容易にヒトインフルになり得ますし、鳥インフルもいつかは豚インフルやヒトインフルとなって凶悪化するというわけです。野鳥や渡り鳥は、主にはこの三者(ヒト、家畜、家禽)の三角形間の、キャリアの役目を押し付けられている「被害者」だとも言えます。ウィルス達は、種の異なる動物間での感染の際に見事に変身し、生体にすでに備わっている防御機能(免疫)を掻い潜る事になります。悪性(毒性の強い)の鳥インフルや、豚インフルが、ヒトに感染する能力を得た時が、ヒト世界でインフルのパンデミックが起こる瞬間なのでしょう。ソ連風邪や香港風邪もそれが現実化した例ですが、昨年からのSARS騒動も、その一例に過ぎません。今回の鳥インフルも、C国や東南アジアから渡り鳥が、春の北帰行で持ち帰ったウィルスが繁殖地で増殖し、晩秋に日本に渡ってきた鳥たちが、国内各地にばらまいたものと想像されます。

もう一つの悲劇は、1ヶ所で何十万羽も集中的に飼育されている、「食鳥・鶏卵工場」で起こります。そこで飼われている鳥たちは、同じ繁殖場で増やされた兄弟ヒヨコであり、遺伝子的にはほぼ同じセットを持っていると考えなければなりません。つまり、ウィルスがたった1羽の免疫機能を突破して、新型の鳥インフルに化けると、その鶏舎のほぼすべてが、瞬く間に感染することになります。何しろ、最新の鶏舎は密閉された建物となっており、狭いケージ内にほとんど動けない様に束縛された鶏が、「体を接して」飼われているのですからたまりません。インフルエンザの一鶏舎内の「集団感染」には数日もあれば十分でしょう。そういう意味では、インフルエンザの蔓延も一種の人災=環境問題なのだと言えるのかもしれません。

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2011年2月 4日 (金)

1274 休題(電動飛行機の愚)

どこかで電動飛行機(EA)が実験されているようです。将来は「空飛ぶタクシー」にするのだとか。航空機産業の将来に見切りをつけた投稿者としては、つい鼻で笑ってしまいました。あまりにも、原理を無視した夢物語だからです。というより、これは電気自動車(EV)の「単純で低級なアイデアコピー」に過ぎないと切り捨てておきます。飛行機は、翼の発生する揚力で空中に浮かんでいますので、自重は非常に軽く抑え、結構大きな面積の翼を用いたとしても、最低でも100/h前後のスピードで飛行する必要があります。100/hと言えば、車が高速道路を走る速度です。こんな「高速の物体」が、低高度を、タクシーの様に飛び回っている社会は、危険過ぎて安心して道を歩けないものになるでしょう。何しろ家の中で寝ていたら、突然空から電池切れのタクシーが降ってくるなどという事態は、映画の中だけにしてもらいたいものです。

そんな「オモチャ」に多額の開発費を使うくらいなら、企業や技術者が目指すべきは、まずは徹底的な軽量化で、ガソリン1リッターで少なくとも100㎞程度は走れる「乗り物」の開発でしょう。それを敢えて車と呼ばずに「乗り物」と呼ぶのは、何も物体の移動手段に「車輪」など無くても良いからです。この文章を書いていて、ある面白い乗り物のコンセプトが湧いたので、もう少し具体化したらこのブログに投稿することにしましょう。いずれにしても、ため息が出るくらい無駄なこの種の開発は、即刻諦めてもらいたいものです。

なんでも電動式にすれば、さもCO2が出なくなり、温暖化の問題が遠のくと考えている向きが多いのは、単純であきれた風潮だというしかないでしょう。タクシーにする空飛ぶ乗り物なら、客待ちのためには「ホバリング」できなければならないでしょうし、たとえ電池切れでモーターが止まっても、フンワリと着地できなければなりません。そんな乗り物は、たぶん「気球タイプ」でもない限り実現できませんし、風の影響を受け不安定な気球を使うくらいなら、地上を走る車の方がよっぽど速くて安全な筈なのです。

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2011年2月 2日 (水)

1273 環ビジ31(加速度リミッター)

車の燃料は、約3割が発進、加速時に消費されてしまいます。等速度運動においては、路面抵抗や空気抵抗など、車を転がす際に生ずる「摩擦・抵抗」に打ち勝つだけの10kw程度のパワーがあれば済むのですが、普通車でさえ1トンの目方のある物体をグイグイ加速させるには、数十kwの出力が要求されるわけです。

そこで加速度リミッターが必要となるわけです。これは、既に先進的な省エネトラックには装着されているのかもしれませんが、何も同じようにお金をかけて、加速度センサーや速度センサーやマイコン+アクチュエータなどの複雑な機器を組み込む必要はありません。なぜなら、運転している人間様がそのすべての機能を兼ね備えているからです。つまり、省エネドライブの基本を身に着けていて、それを忠実に守れるドライバーが運転すれば、現在のガソリン車でも、結構な省エネルギー性能が期待できるはずなのです。これは、運転者自身を加速度リミッターにしてしまうというアイデアなのです。

一方人間は、優れた学習能力の裏返しとして、すぐ「慣れ」が生じやすい存在でもあります。ですから、過剰な加速度にも慣れてしまう結果、ついついアクセルを踏み込んでしまうことにもなってしまいます。ここでの提案は、簡単な1軸加速度センサーを持ち、アラーム(または合成音声)で、アクセルの踏み過ぎを警告する「ブザー」を、「加速度の見張り番」として、運転席の前に設置しておくことなのです。この程度だと、数千円のコストで立派なブザーが量産できるはずです。音声は有名な声優にでも似せて、外観も無骨な金属やプラスチックの箱ではなく、「ゆるキャラ」の着ぐるみでも着せておけば、ドライバーの心も和むでしょう。

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2011年1月31日 (月)

1272 環ビジ30(PCB代謝菌)

1270のダイオキシン代謝菌からの単純な連想です。PCBそのものは、現在は製造されていませんが、かつて作られて、今は取り外されている古い変圧器の中などに入ったまま保管されているPCBの量は膨大です。最近でも、保管されていた古いトランスなどが、それと知らずに不燃ゴミとして処分された、などという危ないニュースが時々流れます。PCBは、非常に安定性が高く絶縁性のある化合物ですから、かつては変圧器の中の絶縁油や、熱交換機の熱媒体などとして多量に使われました。多くの人は忘れているかもしれませんが、かつてPCBの混じった食用油が原因で多くの中毒患者を出し、体内での分解や代謝がほとんど進まない結果、長い間後遺症にも苦しんだ歴史を銘記すべきでしょう。つまり、安定であるということは裏を返せば、自然に分解されることはほとんど期待できないということにもなるのです。これを分解する場合は、仕方がないので高い温度の燃焼ガス中で、分解無害化する装置が開発されました。しかし、基本的にはPCBの製造が中止され新しい需要は無いので、処理装置の絶対数が少ない事、処理費用が高いこともあるのでしょうが、多くの企業や自治体なども、昔取り外したPCB含有機器を一か所に集約して保管しているだけで、処理はほとんど進んでいません。ましてや今の様な経済の停滞期には、大きな出費となり何の利益も生まない「厄介者」の処理を積極的に行う推進力も出てきません。

ここでも、PCB分子の強固な結合力を切り離す力(酵素)を持った微生物への期待が大きくなります。それは、ダイオキシンとPCBに共通するベンゼン環(や類似の六角結合)とそれに結合する塩素との強固な結合を切ることができる、強力な「ハサミ酵素」を持つ史上最強の微生物かもしれません。

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2011年1月29日 (土)

1271 休題(宇宙宅配便)

数百キロ上空に浮かぶ住宅(ISS)に、鳥の名前が付いた宅配便(HTV)が届いたようです。ここでは、バスほどもあるこの無人の使い捨てコンテナを、宇宙まで届けるまでの気の遠くなる額のお金を考えてみました。日本のHTVのペイロード(載荷能力)は約5トンです。それをグラムに直せば500万グラムになります。さて、これを1発100億円程度の使い捨てロケットで打ち上げるとした場合、ペイロード1g当たりにすれば、概ね2000円掛かると計算できます。ちなみに、これは金(Gold)の地金価格の半分程度に相当し、例えば500mlのペットボトルに入った飲料1本を宇宙に送るには、なんと100万円も掛かるという途方もない金額になる計算です。

どう考えても、無重力下で、長期間植物を育て、あるいは夢の合金を作るといった「程度」の実験をしたいのであれば、ISSは無人化し、飯も食わず、水も飲まず、呼吸も排泄もしない「精巧なロボット」でも送り込めば十分でしょう。また何も、ロシアの高い「タクシー」で人を送り、無重力下で骨粗鬆症の人体実験などしなくても、間違いなく今後とも「宇宙で暮らすお年寄り」は現れないでしょうし、同じお金を掛けるのなら、地上で何万人かのお年寄りに対して、長年に亘る精密な検査や聞き取り調査を何十回も行った方が良いに決まっています。そこから得られるデータベースの方が、「健康過ぎる宇宙飛行士」一人の実験データより、どんなにか役に立つでしょう。

長期展望のないまま、徒に(成り行きのまま)人を宇宙に送る事業はここらで打ち止めにしたらどうでしょう、というのが投稿者の提案です。どうせ22世紀になろうが、普通の人が宇宙に旅行することは叶わない夢なのですから、そんな「夢のまた夢」を若者に見せるのは逆に罪というものでしょう。確かに投稿者の子供時代には、21世紀になったら、あのベレー帽の漫画家が想像した様な「小型原子炉を搭載した人型ロボット」が、人間を助けながら社会で仲良く暮らすというバラ色の夢を見せてもらったような気がします。しかし、現実に21世紀に「やっと間に合った」のは、T社のハイブリッド車くらいのものでした。小型原子炉どころか、数メートルもある分厚いコンクリートの遮蔽容器に閉じ込めて一歩も歩けない原子炉でさえ、危なっかしくもやっとお守りをしているのが、現代文明の技術力レベルなのです。一方で、化学製品や車や航空機や電化製品の多大な利便を受けた代償として、重たい環境汚染や温暖化のツケも受け取ってしまった訳です。オッと、また「環境愚痴」になりそうです。

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2011年1月27日 (木)

1270 環ビジ29(ダイオキシン代謝菌)

もし、私たちにとって最も危険な有害物質の一つであるダイオキシンを代謝し、無害化する微生物が見つかれば画期的な発見となる筈です。しかし、同じくらい有毒なヒ素を代謝する微生物が見つかったくらいですから、「ダイオキシン代謝菌」が見つかってもそんなに不思議ではありません。そのような微生物は、たぶんダイオキシンに高濃度に汚染された地層から見つかりそうな気がします。エサがあるところには、必ずそれを代謝する生き物が発生するからです。人間や動物の様に足があって自由に移動できる生き物はさておき、植物やバクテリアの類はほとんど移動できないので、その周囲(環境)に存在する物質やエネルギーで生き延びる工夫を始めるしかないわけです。

普通の生き物は、酸素を使って(物質の酸化で発生するエネルギーから)活動のエネルギーを得ているわけですが、多くの物質は、結合(化合)する相手物質との相性があり、その結合エネルギーの差を利用すれば、理論的にはいくばくかのエネルギーを得ることもできるでしょう。結合ポテンシャルの高い化合物の結合を切り離し、全体として一段低いレベルの結合エネルギーを持つ化合物にする際に「配当」がもらえるわけです。

化合物の結合を切り離すには、高エネルギーを持つ紫外線を利用したり、常温であれば「酵素」を利用したりすることになるのでしょう。強固に結び付いているダイオキシンのベンゼン環や塩素を切る「ハサミ」を持つ酵素は、もしかするとすでに存在するのかもしれませんが、化学や生物には素人である投稿者は、必要な努力は、ダイオキシン汚染地域に棲息する何万種類かの微生物を根気よくスクリーニングすれば、そのうちに見つかるのでないか、などと単純に考えています。

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2011年1月25日 (火)

1269 環ビジ28(花粉抑制剤)

去年に比べると、今年は花粉の飛散が一桁多いらしいです。中学時代に発症し、筋金入りの花粉症を持つ投稿者としては、今から憂鬱です。数年前に花粉の少ない種類のスギが、遺伝子操作だったか、品種改良だかで開発されたニュースを聞きましたが、今猛威を振るっているのは、戦後に税金を投入して植林され、国有林や民有林にただ立っているだけで、枝払いもされていない、ヒョロヒョロのスギやヒノキからの花粉なのです。新しい品種の苗木が植えられて、実際に大部分が新品種の山に生れ変わるまでには、たぶん数世代にわたる時間が必要だと想像されます。

そうではなくて、今必要なのは、現在立っている樹木の花粉を抑える事なのです。植物の成長や季節サイクルは、天候によって支配されますが、植物は完全な受け身なのではなく、いわゆる「植物ホルモン」の分泌によってそれにうまく対処しています。前年の夏の気温が高いと、翌春の花粉量が増えることは、すでに知られていますので、見つけるべきは高温が継続した夏の気候の結果として産生され、花粉を作る機能を亢進させる「花粉増産ホルモン」なのです。

生体の場合、ある種のホルモンには、必ずそれを抑制する「拮抗ホルモン」が存在するはずなので、花粉を増産するホルモンが見つかれば、花粉の産生を抑える拮抗ホルモンも芋づる式に見つかるはずです。これは植物由来ですから、人体や動物には無害でしょうし、ごく微量で効果を発揮するでしょう。もしかして、このホルモンのトバッチリを受ける別の植物が存在するかもしれないので、散布前には十分な事前検証が必要かもしれませんが…。

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2011年1月23日 (日)

1268 環ビジ27(ノイズキャンセラー)

発電風車や冷却塔からの低周波騒音が問題になっています。低周波は、耳にはほとんど聞こえないものの「体には聞こえていて」、不眠や頭痛などの不定愁訴がその症状となります。同様の例ですが、投稿者の背向かいの家では、最近オール電化に乗り換えましたが、真夜中に忙しく働く「ヒートポンプ」のグーンというノイズが、時々眠りを邪魔します。寝つきは良い方なのですが、時々いつもの時間に入眠できない夜があり、結構これが気になるのです。夏になったら騒音対策をお願いしなければならないかもしれません。同じようなトラブルは、住宅に隣接して設置されている大型の冷却塔(クーリングタワー)でも起こる可能性があります。

音波は、空気中を伝わる疎密波ですから、それが可聴域であれば耳(鼓膜)に、しかし低周波域であれば体全体を揺さぶることになります。実際のところ自然界には、この様な一定した波長や音圧を持つ音源は存在しません。自然の音は例外なく、例えばゴウゴウ吹く大風でさえ、1/fで揺らいでいるからです。一定の波長で、あるデシベル以上で持続する人工の疎密波は、何故かは知りませんが、人体にとっては強いストレスの原因になっているようなのです。そういえば、昔スパイ映画か何かで「拷問の道具」として、「音責め」をしている映像を見たような気もします。

そこでノイズキャンセラーの登場です。これは、音源をサンプリングして、それと逆位相の音をスピーカから出すことによって、疎密波であり、音による環境汚染源であるノイズを積極的に消してしまう装置です。量産して、道路沿いの防音壁などに取り付ければ、道路沿いの住民の安眠を助ける事でしょう。騒音も、実のところ音による「環境汚染」なのであり、もっと環境問題として取り上げなければならないはずなのです。音圧レベルにもよりますが、もしかすると周波数を1/fで揺らぐように、モーターの回転数を少し変化させる(自然の音に近づける)だけでも、かなり改善できるような気もします。

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2011年1月21日 (金)

1267 休題(お金の話)

このブログでは、再三再四お金の話を取り上げてきました。なぜなら、お金の流れは、その「逆の向き」に動くモノやエネルギーの流れを産み、結果として環境負荷の増大に直結するからです。最近、少しだけですが頭の整理が進んだような気がするので、そこらの事を書いてみます。

お金の歴史を想像すれば、そもそもは不便な物々交換を補完するため、「モノ」の代価を示すシンボルとして発達したはずです。貝であれ、珍しい石であれ、最初は鋳造され、後には鍛造(Coining)されるようになった銅や金であれ、誰かが決めた通貨の価値に対する「信用力を根拠に」流通していたはずです。しかし、貯めておいても腐らない通貨は、大量に流通するにつれて、ストックされる様にもなった事でしょう。それは「海賊映画」などを見ても、容易に想像できます。通貨を多く貯めこんだ人を指して「金持ち」と呼ぶようにもなりました。

通貨の歴史に大きなエポックを刻んだのは、たぶん「紙幣」だったのでしょう。ほとんどタダの紙に印刷され、それを発行している国の信用力だけに裏付けされた「長方形の紙」は、作るにも携帯にも札束にしてのストックにも便利で、金(Gold)の流通量が限界を超えた時点から、通貨そのものとなりました。国際的には、$が(最近で言えば€が)その代表「でした」。しかし、経済規模が、飛躍的に増大するにつれて、それでは量的に間に合わなくなり、第二のエポックである「債権化」が進み、さらにはそれらの「価値」やお金自体が「電子化」されたわけです。

しかし、ここでの大きな誤算は、電子マネーや電子価値の決済は瞬時で完了する結果、誰にも「うまく制御ができない」という事態の発生だったのです。自然現象である地震波や津波は、伝わるのに一定の速度を持っているため、ある条件下であれば「予測」も十分可能です。しかし、この時代では経済ショックの波は、瞬時に世界を駆け巡り、しかもその波は「増幅」することになりますので、いまや誰にも予測や制御ができなくってしまったのです。経済には素人の投稿者でさえ、あのリーマンショックは、電子マネーが原因の「ドミノ倒し」現象だったと理解しているのと同時に、規模の大小は別にすれば、今後も何度か起こりうる経済の「活断層」の一つに過ぎない、という見方をせざるを得ません。それでなくとも金余りの現在、特定の場所に溜まった金の持つ圧力=歪が蓄積し、まさに地震を引き起こそうと待ち構えている活断層は、日本や世界のあちらこちらに見え隠れしています。

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2011年1月19日 (水)

1266 環ビジ26(保温手袋)

環ビジというより、誰かにぜひ開発してもらいたい製品です。冬の日にバイクに乗るのは辛いものです。特に、手が冷たいとハンドルの感覚も鈍くなり、不安全でもあります。一応グリップにヒーターは巻いていますが、それでもやっぱり指先は冷たいのです。そこで、手袋の甲に、小型の風車をつけて、その電力でヒーターに通電し、指先と手の甲を温めてもらいたいのです。充電式の電池で数時間暖かさを保つカイロは愛用していますが、ほのかに温めるだけであれば、そんなに大きな電力は必要ない筈で、数ワットの出力の発電機があればOKでしょう。

別に発電機+ヒーターの組み合わせでなくてもOKです。例えば、風の持つ力を摩擦熱に変えて、直接手袋を温める仕掛けも考えられるからです。誰かが開発してくれたら、投稿者が少なくとも1セットは買うことを確約します。

ところでここでは、単純な製品アイデアを書いているのではなく、環ビジの考え方も示しているつもりなのです。これは、実のところ環境ビジネスの原則に近い考え方に沿っているアイデアの例だとも言えなくもありません。投稿者が考えるその原則とは、「本当に」必要なものを、必要な場所で、必要な時に、必要最小限の量を、「環境に(ほとんど)負荷を与えずに調達・利用する」というものなのです。この条件さえ満たせば、そのビジネスは「環境ビジネスである」と胸を張っても良いと思えるのです。つまり、バイクに乗っていて、その場で、ほとんどタダで手に入る「資源・エネルギー」はと言えば、正面から当たる「強い風の力」しかないとも言えるからです。

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2011年1月17日 (月)

1265 環ビジ25(昼光照明)

晴れた日中でも、蛍光灯を点けっ放しにしたビルや工場を見るたびに不思議になります。なぜ「お天道様」の「明る過ぎるほど明るい恵み」を利用しないのか、全く理解できないからです。一方では、国も省エネのために大きな投資が必要な、LEDなどの「小手先の対策」である、高効率照明器具を推奨したりしているのです。実のところ太陽光ほど、お金がかからず、しかも目に優しい光はない筈なのです。何しろ、私たちが持つ目は、幅広い波長の光が混在する太陽の光の下でこそ、その能力が最大限発揮できるように進化したはずだからです。いくら太陽光に似せても、所詮波長が高温度側(青色側)に偏った蛍光灯や水銀灯、まして波長の幅が極端に狭いLEDなどは、目には決してよろしくない、欠陥だらけの「人工光源」にすぎません。

そうではなく、私たちはもっとお天道様の光を活用しなくてはならないはずです。仕掛けは結構単純なもので十分でしょう。ステンレスやアルミの反射板を使えば、日の光が当たらない北側の部屋にも日光のお裾分けができますし、同じ材料で内側がピカピカのダクトを作れば、奥まった室内まで光を導くことも簡単にできるでしょう。光源が必要となる場所で、ダクトに窓を切っておき、そこに半透明で光を乱反射させる和紙か半透明プラスチック板などを貼っておくだけで、目に優しい自然照明が実現できます。光は真っ直ぐ進みますので、これらの仕掛けの設計は決して難しいものではなく、簡単な縮小図を描くだけで済みます。あとは、季節や時間によって、高度や方向が少しずつ変化するお天道様を追いかける必要があるだけです。その際、決して光センサーや自動追尾装置などの仕掛け(Gadgets)などを考えてはいけません。それは当番の人が、一日数回の時間調整と、2週間に1回くらいに季節調整のためにハンドルを回す手間で済む話だからです。

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2011年1月15日 (土)

1264 休題(COP16)

昨年末のCOP16は事前の予想通り何も決まらず、問題の先送りで閉会しました。生物多様性の様に、誰もが賛成できそうな議論とは異なり、参加国の経済エゴ、とりわけ先進国と途上国の利害対立の溝は今後も埋まらないとみられます。しかしながら、この膠着状態は、千載一遇のチャンスでもあると捉え直してはどうかと、投稿者などは思うのです。この国の主張はと言えば、「我が国はすでに世界で最も省エネルギーが進んでいるので、今以上の省エネ努力は、製造業のコストアップを招き、国際競争力が弱まる」というものです。しかし、企業の省エネ指導を仕事の一つとしている投稿者からは、どの工場でもそんなにコストをかけないで、少なくとも現状の3割程度はエネルギーを削減できるポテンシャルは持っているように見えます。当面の目標は、現在の半分のエネルギー、半分の資源投入で、現在と同レベルの「機能」を発揮する製品づくりを目指すべきでしょう。現在と同じ製品ではなく、同レベルの働きができる製品なので、根底のコンセプトまで遡った製品のバージョンアップが必要です。

結局、B国やC国や途上国抜きの温暖化防止条約では、日本は省エネのためのコスト負担で、国際競争力が弱まるとの議論は、実は嘘っぱちではないかと思えるのです。そうではなくて、今からしっかり省エネや新エネ技術、省資源技術を磨いておいて、国際競争力を蓄えておけば良いのです。アイデアは、十分過ぎるほどあります。1970年代に起こったオイルショック直後の新聞や論文を丁寧にチェックすれば、省エネや新エネのネタはゴロゴロ出てくるでしょう。例えば、Dイツが最近力を入れだした「太陽熱発電」ですが、実は1970年代にたっぷり使えたNEDOの助成金で、この国でも十分実用レベルに到達していた技術なのでした。Dイツは、それに「蓄熱技術」を加えて、夜間でも発電できるように「少し改善」しただけなのです。

Dイツの様に、世界の10年先を走ってさえいれば、何も恐いものはない筈なのですが…。

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2011年1月14日 (金)

1263 環ビジ24.5(インコンビニ)

おまけのコンビニ提案です。Inconvenienceとは「不便なこと」を意味しますが、あえて不便なコンビニを考えてみます。この店には、飲料や菓子や乾物以外の「生もの商品」はほとんど置いていません。基本的には、ここはインターネットや予め電話で申し込んでおいた商品を受け取る場所なのです。利用者は「予約」という一手間をかけることを求められますが、商品の保管スペースは最小限で済みますから、大型の冷凍冷蔵設備は不要ですし、接客エリアも最小限として、照明や冷暖房負荷もミニマムとしますので、売値は下げられます。空いたスペースには、照明を落とした休憩場所を設けて、簡単な飲食もできるようにします。

食べ物は、予め登録してあるコンビニに、45時間前には予約を入れないと、ありつけないようにしておけば、食べ残しや売れ残りの食品処分もほとんど無くなるでしょうから、この国の見かけ上の「食料自給率」も上がる事でしょう。ネット+携帯社会となったこの国で、絶滅しかけている「注文して待つ」という行動も、少しは復活するでしょう。少し、明るい兆しは、それほど高価でも、中身が立派でもない「福袋」ごときに、早朝(あるいは前夜から)長蛇の列を作る「忍耐力」が若い世代にも残っているという事実でしょうか。

考えてみれば、少しだけ待つ忍耐力さえあれば、欲しいものを無駄なく手に入れることが可能なのです。しかも、環境に与える負荷も最小限で済むというオマケつきです。どうせなら、値段も待つ時間の長さに反比例して安くなるように設定しましょう。つまりは急げば急ぐほど高いものを買わされるという仕掛けです。例えば、1週間以上待てるなら、この時代ですからメーカーも商品在庫を持たないで、無駄のない注文生産が可能となります。「待つ楽しみ」を今後の重要なKWに据えなければならないのかも知れません。在庫を抱え、現代の間断のない流通を調整する役目の倉庫業や問屋業界には、やや申し訳ないシステムではありますが・・・。

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2011年1月13日 (木)

1262 環ビジ24(環境・コンビニ2)

コンビニや高速道路のSAで見かける、ごみ箱からあふれ出たごみの洪水には、見るたび「ごみを出さずには生きていけない人間のサガ」を見るようでいつも悲しくなります。コンビニは、商品をできる限り小分けにして、独身者や高齢者の便宜を図ることで、その利益を出しているわけですから、商品と包装の目方の比を取ったと仮定すれば、すべての流通業で、たぶんコンビニが最悪となることでしょう。もちろん、小分けにした商品配送に掛かるトラックからの環境負荷の割合も非常に大きいのですが・・・。

普通のコンビニを「環境・コンビニ」へ変身させるには、ここのところに楔を打ち込む必要があります。つまりは、例えば「秤売りコンビニ」を登場させる案です。商品の種類をある程度絞り込み、商品にはすべて目方で値段が付けられます。客は、備え付けのビニール袋で商品をつかみ、くるりと裏返して中に入れます。いくつかの商品を籠に入れてレジに行くと、籠ごと秤にかけ商品名を選ぶと値段が瞬時に計算され表示されます。個装の商品を売る場合に比べてそんなに手間はかからないので、ますます気が短くなりつつある現代人にも受け入れられるはずです。もちろん、レジ袋を欲しがる客には、マイバッグを持ち歩かないペナルティとして、びっくりするくらい高い値段で売りつけます。

ところで、投稿者はここ数年古紙業界に少し縁ができ、その内情にもかなり詳しくなったのですが、彼らの目下の悩みは、古紙の相場が下がっている事に加え、コンビニなどの小口の顧客でも、ほぼ毎日収集に行かなければならないという、「顧客のわがまま」なのです。段ボール箱が、数枚しか溜まっていなくても、軽油リッター当たりでたった3㎞しか走らないパッカー車を転がして、日々収集して回るのです。「環境・コンビニ」業界には、ぜひ全面的に専用の配送コンテナを使った配送システムを工夫してもらいたいものです。根本問題は、製品の入り口だけ作って、廃棄物の出口を行政にまかせっきりのしている社会の仕組みなのです。むしろ、積極的にコンビニの駐車場の片隅に「小奇麗なゴミステーション」を設置して、近隣住民の、段ボールや飲料空き容器、新聞や雑誌などの「資源ごみ」の集積場所を作ってもらいたいのです。これならば、毎日収集に回っても、回収効率は飛躍的に向上するでしょう。コンビニは、商品を売る入り口であると同時に、包装ごみが戻ってくる出口でもある、という枠組みが作れれば、環境・コンビニの評判や存在価値は飛躍的に上がるはずです。

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2011年1月11日 (火)

1261 環ビジ23(環境・コンビニ)

環境保全とコンビニ型店舗は、本来水と油の様に全く相いれないものなのですが、ここでは敢えて投稿者なりの「乳化剤」を加えて、無理やり混ぜてみます。つまりは、環境に配慮したコンビニが実現できるかどうかの「思考実験」です。

さて、1店のコンビニは普通の家の40軒分かそれ以上のエネルギーを使って、営業されています。24時間点けっぱなしの明るすぎる照明、同じく壁いっぱいに作りつけられた冷蔵・冷凍設備。さらには、夏は涼しすぎ、冬は暖かすぎる冷暖房など、さながらエネルギー浪費の見本市です。その中で最大のものは、屋根やバックヤードにゴロゴロと設置されている「室外機」を見ても想像できるように、冷暖房と冷蔵・冷凍ショーケース運転の電力です。照明負荷も確かに大きいのでしょうが、精々数kwの電力にとどまるでしょう。

ではどのようにして、電力を減らすかですが、屋根一杯に太陽光発電パネルを設置したとしても、最大でも3kw止まりでしょうから、照明を賄う程度にしか間に合いません。それならば、屋根を光は通すが、赤外線はほとんど通さない素材で葺けば、少なくとも日中はほぼ無照明で済むはずです。一方、開架の(開放式の)ショーケースは全く納得がいかない道具です。つまり、冷気は全く解放されている前面から「じゃじゃ漏れ」状態になっているからです。ましてや、冬には漏れた冷気で冷えた店内を、わざわざ電力を使って暖房し直しているわけです。前面に何らかの扉をつけるだけで、冷凍機の負荷はたぶん半分にはできるはずです。見栄えが良くて、開けやすい扉は、少しの知恵や工夫で開発できるでしょう。それより、真空パックなどを上手く利用して、冷やさなくても済む商品を増やすだけでも、冷蔵ショーケースはかなり減らせるのです。それより、冷蔵冷凍ショーケース自体を、簡単仕切った小部屋に押し込むのも良いアイデアかもしれません。機械の排熱も、冬の暖房に使いまわします。

一方で、建物の断熱性も現状では十分ではないので、屋根や壁に分厚い断熱材を入れ、窓にも赤外線をブロックするフィルムを貼れば万全でしょう。これだけで、コンビニの環境負荷は約半分、つまりは家20軒分ほどに低下し、全国4万店のコンビニ全体では、標準的な家庭80万軒分の電力が削減できる勘定です。適当な暗算ですが、これはたぶん原発半個(50kw)程度の電力削減に相当するという「皮算用」が成り立ちます。

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2011年1月 9日 (日)

1260 環ビジ22(P.I.U.Sとは)

環ビジの少し大きな枠組みです。「P...S」とは、環境人間への脱皮を志し、2002年にDイツを訪問した際に投稿者が仕入れてきた概念です。意味するところは、「環境保全を織り込んだ製造」で、そのドイツ語の頭文字を取った略語です。この概念は次の5つの柱からなっています。即ち、1)Cleaner Production(より環境負荷の小さな工程や製品)、2)EMASEUの環境管理制度)、3)ISO14000(これは言わずもがなでしょう)、4)MEAs(多国間の環境協定)、5)ESCO(これも今やこの略語だけで通用するようになりました)です。

これをよく眺めてみると、ISO14001の認証だけで、「我環境経営に対応せり」と考えている企業は赤面して、身を小さくせざるを得ないことが分かります。つまり、ISO14001だけでは、Dイツ企業の、やっと足元に手が届いただけのヨチヨチ歩きの状態だと言えるでしょう。投稿者は、この時の訪問で、日本企業の環境への取り組みは、Dイツに比べて「少なくとも10年は遅れている」と感じたものです。そうであれば、遅くもここ1-2年の間には、残りの4つの概念を「ガリ勉」し、かの国に追いつき、やがては追い越さなければなりません。ISO14001こそ知名度が上がり、中堅以上の企業ではある程度行きわたり、現在2万社あまりが認証を受けています。ESCOは、たぶん大企業や大口のエネルギー需要家ではすでに検討されたり、実施が始まったりしているかもしれません。しかし、残りの3つは全くノーマークだと想像しています。

断言しておきますが、少なくともこれらすべてに取り組まない限り、日本の企業や産業は、今後世界市場では浮かび上がれないだろうとみています。省エネだけの取り組みでは焼け石に水なのです。逆に、「P...S」を越えるくらいの理想の高い概念を掲げて進むことによってのみ、環境先進国として世界をリードできるようになるのでしょう。「P...S」にまだ欠けているのは、例えば伝統的な日本社会が持つ「自然との共生」という姿勢、「勿体ない精神」、「環境倫理」や「製品の徹底的なトレーサビリティ」さらにはなどが考えられます。これらすべてが、決して「お金や物理的な解決策」でないことは、よくよく留意すべきポイントだとは思います。

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2011年1月 7日 (金)

1259 休題(カモが見えない)

今年は、前の木曽川にカモの姿がほとんど見えません。いつもの年であれば、猿尾(船着き場の流れを緩めるため、石を沈めた場所)の上に、マガモなどがびっしりと並んで、まん丸い胸を見せながら日向ぼっこなどしているのですが、同じ場所に今年は数羽程度しか見えません。

考えられるのは鳥の間にインフルエンザか何かが大発生しているような緊急事態です。鳥の渡りには、想像するにギリギリ命を懸けるくらいの体力が必要なのでしょうから、「風邪」を引いた状態では渡る途中で力が尽きて、数多くの鳥が落ちてしまった可能性もあります。おりしも、B国でもブラックバードの類が大量死したとか。あちらは、雷か物理的な事故が起こった可能性もありますが…。いずれにしても、鳥たちにとってもこの星が住みづらい場所になりつつあるのかもしれません。インフルエンザのVirusどもは、鳥、動物、人間、鳥など、循環的に宿主を変えながら、自身の姿も変えながら、生体の免疫網を巧みにかいくぐります。

宿主側ももちろん、宿敵に対抗するために免疫力を磨くのですが、環境の悪化はその力を削いでいる恐れがあります。環境の悪化とは、具体的には「急激過ぎる」気候変動や人間が作り出して環境に蓄積している化学物質などが考えられます。人間界で言えば、例えばアレルギー体質を持つ人の割合が増えている事なども、類似の事態なのかもしれません。

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2011年1月 5日 (水)

1258 環ビジ21(モグラ機械)

1/3日に書いた投稿に結論を書くのを忘れたので付け加えます。結局消えたCO2は、海底に沈降して厚く堆積して化石化(油化)し、地殻変動でドーム型の地形に隆起した結果、石油や天然ガスなど化石燃料の元になったのでは、というのが投稿者の推測なのです。

さて、いつぞや書いたミミズ機械ができるなら、モグラ機械も考えられるでしょう。モグラは悪者と考えられがちですが、決してそうではありません。モグラが餌であるミミズやオケラを探すために活発に活動した畑では、網の目の様にトンネルを掘られて耕されるため、土壌の通気性や水はけが良くなって、作物には理想的な土の条件に近づくはずです。そうであれば、人工的にモグラの通路の様な、空洞を作る機械があっても良さそうです。通常の耕運機では、深さ30㎝程度まで土を切り返し、土壌の通気性を確保しますが、この機械はモグラの体の大きさ(太さ)のドリルが、土の中で水平に移動するものです。掘り返さないので、大きな馬力の農業機械は不要で、草刈り機程度の小さなエンジンか、太陽電池程度で動く小型のモーターで十分駆動できるでしょう。動力軸は下向きになっており、べベル・ギアか可撓軸などで直角に向きを変えた水平軸でドリルビットを回します。モグラ機械ですから、自分が掘った土は上に跳ね上げるのではなく、後ろに移動させるだけなので、この機械が通った後は、本当のモグラが動いた後の様に、土が少しだけ盛り上がって見えます。

この機械のユニットを取換えて、垂直方向にも土を掘り返せる様にしておけば、畑の中に数多くの小さな縦穴ができ、土中深くまで上下の土の撹拌ができるかもしれません。モグラ機械が縦横のトンネルを掘り返してフカフカになった土壌では、植物が深く根を張り、病害虫にも強くなり、減農薬や減肥料でも収穫量はきっと増える事でしょう。

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2011年1月 3日 (月)

1257 休題(炭素の行方)

J.ラヴロックのかなり前の著作を読み直していて、行方不明とされている炭素の行方を改めて考えてみました。行き先は分からないが、収支上は存在しなければ辻褄が合わない炭素吸収源を「ミッシング・シンク」呼びますが、それは森林だ、あるいは海洋だと学者の間でもなかなか意見がまとまりません。まとまらない理由は、結構はっきりしています。彼らは、ある分野の専門家ではありますが、じつは学際的知識はそれほどでもない?可能性が挙げられます。つまり、偉い海洋学者や森林学者やあるいは気象学者が会議で額を寄せ集めても、互いの頭の中までは十分には理解できていない可能性も高いのです。

さて、どの分野にも素人の投稿者の見方ですが、気相の炭酸ガスが、液相の雨や海水に(炭酸となって)直接吸収され、そこに大量に固定されるとは考えにくいのです。つまり、大気中にPPM単位でしか含まれない炭酸ガスの「分圧」は非常に小さいので、海水に吸収されるのは、海水に溶け込む空気全体に比べれば、格段に少ないはずなのです。もちろん、溶け込んだ二酸化炭素は植物プランクトンに取り込まれ、固定はされますが、それらは動物プランクトンか魚類などに取り込まれ、代謝された結果また大気中に戻るわけです。

やはり、炭酸ガスの大きな部分は森林を含む植物に取り込まれ、根を通じて土壌中に固定されると考える必要がありそうなのです。土壌中に固定された炭素を含む物質は、地下水や河川を通じて海に流下し、想像するに太古には石油などの化石燃料の元になった物質として、海底に堆積すると考えざるを得ないのです。その物質の代表は、水に溶けない「フミン物質」ではないかとみています。豊かな照葉樹林が、炭素を含むフミン質などを海に供給し、そこで大量の植物プランクトンを育み、余剰分はやがて海底に堆積する、というストーリーです。

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2011年1月 1日 (土)

1256 賀詞(懐かしい未来)

明けましておめでとうございます。地球がぐるりと回転し、新しい年が明けましたが、自分の上でも干支が5回ほどグルグル回ってしまい、目が回りそうな齢にはなりました。このブログでは相変わらずの環境話です。元旦の今朝はたぶん寝坊していますので、これは自動投稿です。

年の初めに当たって、少し背筋が伸びる話題です。少し前に、ラジオで「懐かしい未来」という言葉を耳にしました。その意味するところは聞きかじりのため、詳しく中身を聞いた訳ではないので、この言葉から投稿者が連想した事を書いてみます。

多くの人にとって懐かしい事とは、たぶん子供時代の出来事でしょう。時代的に括るならば、平成の今の時代からみると、たぶん昭和、それも40年代か50年代前半辺りのことになるのでしょうか。西暦で言えば1960-70年代になります。1970年代中ごろの事ですが、この時代私たちや諸先輩は今の丁度半分のエネルギーの使用量で暮らしていました。住宅事情も決して恵まれてはいませんでしたし、一家に1台でも車があれば「御の字」でしたが、ほとんどの人は将来に夢を抱いて、明るく暮らしていたはずです。田舎の暮らしも楽ではありませんでしたが、父ちゃんの出稼ぎで足りない分を補い、新しい農機具も揃ってきた時代です。

電気で動き、かつて欲しいと思っていたモノどもは既にほとんどが揃い、一家に3-4台の車を保有し、どこでも歩きながら電話し、季節外れの野菜や果物や世界中の食べ物も病気になるほど食べ、しかもその3割を食べ残してしまうこの社会、やはり何かを変えていく必要性を、多くの人が感じ始めている昨今です。

どの様に変えるのが正しいのか、本当のところは神様しか知らないのかもしれませんが、分からない時は「取り敢えず少し前に戻ってみれば」というのが投稿者の提案なのです。勢いで買ってしまったモノどもは、なにもいきなり捨ててしまう必要はありません。粗大ゴミが増えますし。電化製品はコンセントを抜き、携帯電話は部屋に置きっぱなしにし、あるいは車は駐車場に入れっぱなしにします。とりあえず、1970年代の生活を思い出して再現してみれば良いのです。当時テレビは一家に1台しかなかった筈ですから夕食後は一家揃って観たでしょうし、若者も孤独ではなくラジオの深夜放送で「つながって」いたはずです。そんな生活を数日続ければ、「懐かしい何か」が蘇ってくるのだと想像します。その懐かしさを持続させるためには何が必要か(あるいは何が不必要か)を確認してみれば、「懐かしい未来」の青写真が見えてきそうな気がするのです。

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2010年12月30日 (木)

1255 環ビジ19(ピンポイント灌漑)

環境話を書き連ねているうちに今年も暮れてしまいました。営業活動もしていないのに、企業からの省エネ相談や支援要請やらが今年に入ってから急増し、大忙し状態になりました。ありがたい話ではあるのですが、なかなかマイペースでの暮らしができにくくなってしまったのが悩みです。山にもたった2回しか登れていません。環境坊主としては、しかし環境説法をする機会が多く与えられることは望むところでもあるため、来る話は断らずに全て引き受けることにしています。もちろん、学校や市民向けの出前講座は、すべてに優先して引き受けています。

さて、今年の最後の話題は農業ビジネスです。G-グルアースで見ても分かるように、アメリカ中西部や、半乾燥地帯の農業には、地下水が「ピボットシステム」を利用して多量に使われています。ピボットとは、半径500m以上もある巨大な「コンパス」で、中心の井戸から汲み上げた地下水を、コンパスの腕に付けた多数のノズルから散水します。したがって、農場の形は円形で、空から見るとゴマ粒を蒔いたような風景が一面に広がっています。もちろんゴマ粒と言ってもその直径が1-2㎞はある巨大な「代物」なのです。

このシステムの最大の問題点は、二つの意味で「持続可能ではない」ということです。まず、地下水は、アメリカ中西部の場合、太古に盆地に溜まった「オガララ帯水域」と呼ばれる地下水脈から水を得ていますが、その総量は五大湖程度の水量しかなく、しかもその半分はすでに消費してしまったらしいのです。地下水の補給には、千年単位の時間が必要なので、近い将来この地域の農業は水不足で必ず頓挫するはずです。もう一つの問題は、農地に広がる「塩害」です。地下水に混じって上がってくる塩類が、水の蒸発によって地表に蓄積し、やがて一面真っ白の「塩っ原」になる結果、もはや農業が持続できなくなるのです。

そこで、「ピンポイント灌漑」の出番です。これは、地中の水分をモニターしながら、植物の根にだけ、ピンポイントで「チュッと」灌漑するシステムです。作物の根元をどうやって認識させるかですが、たぶん画像処理技術などを使えばどうにかなるでしょうし、ピンポイントで少量の水を打ち出すのは、水鉄砲の様なものをコンピュータで方向制御することになるのでしょう。このシステムを使えば、灌漑水の使用量を2ケタは少なくでき、したがって塩害もほぼ回避できるとみています。

では各位もよいお年をお迎えください。

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2010年12月28日 (火)

1254 環ビジ20(新幹線トラック)

かなり以前のドイツでの話だったと記憶していますが、トラックを数十台連ねて運航する「コンボイシステム」が検討・実験されたことがありました。トラック同士は、自動制御されて50センチくらいの間隔で、列車の様につながって走るわけです。何がメリットかといえば、このシステムではトラックの前面が受ける風圧は、先頭の1台だけで済むわけで、残りのトラックは、側面の空気の粘性による抵抗だけを受けることになります。理論上は、一台当たりでは1-2割の燃料削減が期待できます。技術的にも、障害物に(ほぼ)絶対に衝突しないという売りの車も販売されたことですし、技術的には、自動的に狭い車の間隔を保って走らせることくらいは朝飯前のはずです。

ここでの一工夫は、先頭を走る車だけには、新幹線のような流線形のボディーを持たせることでしょうか。コンボイに参加する車は、自動制御をオンにして列をなして走っているコンボイの最後尾につけます。一方、列から抜ける車は、後ろの車に何らかの合図を出して、前の車との間隔を少し空けてから追い越し車線側に抜け出します。後続車はまたスピードを上げて、コンボイに追いついて、「連結」することになります。

このシステムでは、バラバラに走る場合に比べて、車列の長さが1/3-1/5程度に短くなりますので、渋滞も大幅に緩和するはずですし、コンボイのスピードは一定しているので、他の車からも動きの予測がしやすく安全性も高くなると予想されます。高速道路全体としても、そこを流れる車の平均燃費が大幅に向上できるでしょう。何より、コンボイの中のトラック同士の「相対速度はゼロ」なので、たとえ何らかのシステム故障で追突したとしても、被害もほとんど出ないでしょう。

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2010年12月26日 (日)

1253 環ビジ18(道路発電)

車自身による「自己発電」のその2です。だいぶ前のニュースで、駅の改札口を通過する乗降客の体重で発電し、改札機の電力として使う実験が紹介されていました。それができるなら、何もそんな「ささやかに」行わないで、堂々と道路にも同じような仕掛けを作って、重たい車の通過重量を電力に変える実験をしてもらいたいものです。車は乗用車でさえ、人の体重に比べて一桁以上、トラックに至っては二桁以上重いので、発電できる電力も、平均でも数十倍になるはずです。

具体的には、道路を横断するように幅が狭く浅い溝を掘り、その中に鉄板を敷きます。その鉄板は2枚重ねになっており、間には「圧電素子」を仕込んでおきます。上の鉄板にタイヤが乗り上げると、何十個かの圧電素子には、(電流は小さいですが)高い電圧のパルス電力が起こりますので、それを整流して、街路灯の下に設置したバッテリーやコンデンサに蓄電しておきます。必要な仕掛けはこれだけです。上りと下りに数個の仕掛けをしておけば、数本の照明塔は電線なしで点灯できるでしょう。照明器具は、もちろん低電力のLED照明でなければなりません。

圧電素子は、一昔前のガス器具に採用されていた事でも分かりますが、火花放電を起こすくらいの高い電圧を発生しますので、その高電圧を有効活用する照明器具や、新しい電力の用途も考えられるかもしれません。

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2010年12月24日 (金)

1252 環ビジ17(風圧発電)

風力発電ではありません。「風圧」発電です。聞いたことがないのも当然で、投稿者の全くのオリジナルです。投稿者は毎日バイクに乗って動き回っていますが、大型トラックやバスの横を通るとき、大きな風圧でグイッと横に押し出され、ヒヤッとすることがあります。つまり、「四角い箱型」であって、決して流線形ではない大型車両は、それほど無理やり空気をかき分けながら走っているという証拠でもあります。日常的にも、大型車が通過するたびに、道路際に立っている人や自転車に乗っている人は、車が巻き起こす風圧によって激しく押され、通過後は逆に吸い込まれる様な感じが体感できるはずです。

このエネルギーは、車の通過後はアッという間に消えてしまいますので、これまでは誰も気にも留めませんでした。しかし、もったいないのでこんな大きな風圧エネルギーを放っておく手はありません。たとえば、道路に沿って作られている防音壁に、風圧に敏感に反応する風車かパドルかダイヤフラムを設置し、数秒間受けるエネルギーを電力に変換します。直流の電流にしておけば、バッテリーに貯めておけますので、夜はそれを放電して街路灯を点灯させます。これは、いわば道路照明電力の地産地消に他なりません。もちろん、これは電車等、鉄道車両にも応用可能です。既設の防音壁や擁壁や柵などを利用すれば、投資額も小さくできるはずです。この「風圧」発電は、風圧はそれなりに期待できますが、一方で風量は少ないため、エネルギーとして取り出すためには、面積で稼ぐなどの工夫は必要です。形としても、今の風車とは似ても似つかないものになるはずです。努力した割には、得られる電力は結構ささやかなものになる筈ですから、それを使う場合には、超省電力型の照明器具を採用しなければならないなどの条件が付きます。

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2010年12月22日 (水)

1251 環ビジ16(太陽熱オーブン)

太陽熱で調理するオーブンです。オーブンと呼ぶからには、300℃弱の温度が使えるものでなければなりません。そのためには、放物面(パラボラ)などで、太陽の光を集める必要があります。しかし、折角集光して温度を高めても、そこに流動する空気があると対流を起こし、温度が低下してしまいます。したがって、集光部は真空にするか、あるいは空気が対流を起こさないように、小さな区画に仕切っておく必要はあるでしょう。鍋や調理容器さえ、熱を受ける部分以外はしっかり断熱しておく工夫も必要です。

虫眼鏡で集光しただけでも紙を焦がすことができるくらいですから、直径1m程度のパラボラを使えば、ケーキやグラタンなどの焼き料理を調理する程度の温度は確保できるでしょう。このオーブンは、得られる熱量が小さいので、本体の保温材は十分性能の高いものを使う必要はありますし、調理時間も長くかかりますが、下ごしらえをしてオーブンにセットしさえすれば、夕方には勝手に温度が下がってしまいますから、料理を焦がして台無しにする事もないでしょう。また、パラボラの向きは常に太陽光を追尾する必要もありますので、動力を使わないで、太陽光を追いかける、簡単な「カラクリ」も考える必要もあります。しかし、「飛騨のからくり山車」や「茶運び人形」を工夫した日本人ですから、手巻きのゼンマイなどを使えば、そんなものはいとも簡単に実現できるでしょう。

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2010年12月20日 (月)

1250 環ビジ15(マイボトル自販機)

これは、完全な環ビジ製品ではありませんが、国民の20数人に1台は普及しているといわれる、今の飲料の自動販売機に再考を促す(注文をつける)ビジネスモデルです。紙コップ式の自販機はそれなりに見かけますが、圧倒的に多いのはPETボトルや缶飲料を売る機械です。私たちは、外出先でのどが渇いたら、周りを見回せば何の苦労もなしにすぐ見つかる自販機から、つい無意識のうちに買ってしまいますが、困るのは飲んだ後のPETボトルや缶の後始末です。一応は、備え付けの回収箱に放り込めばリサイクルされるのでしょうが、それにもエネルギーが必要です。缶のリサイクルだけを考えても、集めて、どこかで圧縮してから運び、溶解し、再圧延し、(鉄缶は)スズメッキし、再度缶に戻す膨大な手間とエネルギーは本当に勿体ないものです。

そうではなくて、外出先で飲み物を飲みたい人は、必ずマイボトルを持ち歩くようにします。洗ったPETボトルでも良いし、気の利いた小型の保温水筒でも良いでしょう。自販機で買うときは、「マイボトル」ボタンを選ぶ事によって、いま120円の飲み物も、例えば50円程度で買えるように設定します。70円も安ければ、誰しもマイボトルを持ち歩くでしょう。飲料メーカーは、ビン詰や缶詰工場を縮小できますし、配送費用も濃縮原料と炭酸ガスなどを運ぶだけなので最小限で済むでしょう。売値が50円でも十分ビジネスになるはずです。その一方で、PETボトルや缶の回収費用も格段に小さくなるでしょうから、自治体も大喜びでしょうし、ビン・缶のポイ捨ても無くなるでしょう。マイボトルは、薄いPET材料で作れば、折り畳みも可能でかさばりません。

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2010年12月18日 (土)

1249 環ビジ14(生ゴミ乾燥器)

これは、もちろんかつて幾つかの電気会社が作って、殆ど売れなかったあの「電気式の生ゴミ乾燥機」とは違うものです。これは、ベランダの手すりにぶら下げて、太陽熱で温風を作る熱箱と、網の上に置いた生ごみを乾燥させる乾燥箱をパイプで結び(あるいは一体で作り)、熱箱でできた温風を小さなファンで送るだけの、ささやかな「器=道具」です。もちろん、この道具にグチョグチョの生ごみを放り込む事はご法度で、台所でしっかり水切りをしたものに限ります。

この乾燥機を使って、十分に乾燥させた生ゴミは、匂いも出ず、燃やしても有害なダイオキシンを出しません。(ダイオキシンは、燃焼ガスが400℃を下回る温度域で発生しやすいので、特に生ごみを湿ったまま焼却炉に投入した直後に発生しやすいのです。)一方乾燥した生ゴミは、立派な補助燃料ですから、自治体がゴミ焼却炉で燃やす重油の量が減り、CO2減らしにもつながり、自治体の税金も少しは安くなるはずです。そのまま捨てれば生「ゴミ」、乾燥させれば補助「燃料」になるという話です。

ところで、こんな道具さえ作ったり、使ったりするのが面倒だ、という人にうってつけなのが、「新聞紙乾燥器」です。これは「乾燥器」というほどのものではありませんが、水切りした生ごみを新聞紙に包んで、物干竿につるしておくだけです。外から見えないので鳥につつかれることもありませんし、生ごみも数日でカラッと乾燥できます。これは、もう環境ビジネスなどというものではなく、「環境への一手間」レベルの話にはなりますが…。

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2010年12月16日 (木)

1248 環ビジ13(モノレール林道)

今回は、山から木を降ろすための仕掛けの話です。通常の場合、山の木を切って搬出する場合、等高線に沿った形で林道を刻みます。しかし、表土を剥がしただけの林道は、大雨が降った後などには、大きく崩壊することも多いのです。最近、間伐材の搬出の目的にぴったりの工夫を目にしました。それは、電線などを地下に埋設するための、大径で蛇腹状のプラスチック管を半分に割り、U字型の樋としたものを、山の斜面に並べるというアイデアです。傾斜が30度を超える様な急斜面では、確かに短く切った間伐材が面白いように滑ってくれます。難点は、材を短く切っておかないと、カーブで引っかかってしまう事と、傾斜をうまく工夫しないと緩斜面の途中で止まってしまうことです。

さてここでは、谷を渡ったり、途中の緩斜面があったりする場合でも使える別のアイデアとして「モノレール林道」を提案してみます。これは、実は急斜面のミカン畑などで昔から用いられている仕掛けですが、木材の運搬用に少し工夫します。その工夫とは、台車を2台連結して用いるという点と、レールの敷設や撤去が容易な様に工夫しておく事だけです。ミカン畑のそれは、固定的な設備なのですが、モノレール林道の場合、必要の都度設置し、用済み後は撤去して別の場所に移設する事が必要だからです。足のついた軽量のレールを地面に置くだけにして、固定はワイヤーやチェーンなどを使って、周囲の樹木に担当してもらいます。またモノレール台車の燃料はガソリンではなく、地元で木材から作ったDMEか、菜種などを絞っただけの植物油(SVO=Straight Vegitable Oil)を使う様にします。

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2010年12月14日 (火)

1247 環ビジ12(風力温水器)

SPFの様に、空にポッカリ浮かぶ夢のある環ビジも良いのですが、やはり地に足をつけた環ビジが重要です。冬に風が強くて、底冷えのする地方にお勧めなのが、「風力温水器」です。そんな名前を聞いたことが無い?。それも当然です、投稿者がだいぶ前に勝手に考えたものですから・・・。これは、サボニウス型などのように固定翼で低速の「抗力型風車」によって駆動され、温水タンク内に設置したパドル車や摩擦板を動かして、風力を直接熱に変える装置です。風力「発電」は、多くの自治体などでそれなりに行ってはいるものの、落雷によるブレード破壊の修復やメンテナンス費用などが掛る割に、期待していたほどには発電してくれず、多額の赤字を垂れ流しながら維持されているようですが、こちらの風車は素人にもメンテナンスが可能な、小型でシンプルな構造の風車なのです。

風力による機械的エネルギーは、ジュールさんが指摘した様に、ほぼ100%を熱に変換することが可能です、また熱は、電力とは違って、安価に(温水の形で)それなりの時間蓄える事が可能です。したがって、風が強くなったり止まったりして「息をしても」安定的に温水を得ることができるでしょう。タンクの壁には、分厚い断熱材を入れて、せっかく作った「風の熱」を逃がさないようにします。できた温水は、風呂に使うのはもちろんですが、床暖房にも使えば、(火を使わないため)高齢者世帯にも安全で、ほのかに暖かい快適な暖房も可能となります。この機械は風が強い冬型の日ほど、しっかり働いてくれるはずです。

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2010年12月12日 (日)

1246 環ビジ11(成層圏PF)

少しスケールの大きなビジネスです。イトカワからのチリの採取の成功にしたハヤブサに象徴されるように、日本が得意とする小型で手の込んだ宇宙関連技術は、国際的にみても「たいしたもの」なのでしょう。しかし、それが科学者の興味を満足させ、プロジェクトに関わった一部の中小企業を元気づける以外に、人類の幸福にとって一体何の役に立つのか、と問われれば、そちらの側に立つ人からも、たぶん「科学を志す若者に夢を与えられる」程度の答えしか返ってこないのではないでしょうか。

投稿者がかつて少し関わったプロジェクトに、成層圏プラットフォーム(SPF)がありました。これは、非常に丈夫な膜材で作られた「気球」です。丈夫な膜材なので、成層圏(約20kmの高さ)まで昇っても膨らんで破裂することなく、内部のヘリウムが抜けない限り、いつまででも浮かんでいられます。気球の上面には、軽くて薄い太陽光発電フィルムが張られており、風(成層圏には基本的には地上と同じ意味での気圧差による風はありません。地球表面との相対的なずれがあるだけです。)で流されても、作った電力を使い、地上に対して自分の位置を一定の位置に保つため、自動制御で小さなプロペラを回します。一方で蓄電池に蓄えた電力は搭載機器の電力としても使います。

さて、この気球の役割ですが、基本的には、低高度に浮かぶ通信衛星や観測衛星と同じだと考えてもらえば良いでしょう。圧倒的な違いは、その打ち上げ費用です。一発100億円に近いロケットによる衛星打ち上げと違って、こちらはたぶん数億円程度で打ち上げる事が可能となるでしょう。日本全土の通信回線の負荷を考えてもたぶん数個のSPFでカバーできる筈です。また衛星を打ち上げるお金が無い途上国でも、このSPFで、低コストで携帯電話や衛星放送の恩恵を受ける事が出来るようになるでしょう。ガスが抜けて高度が下がった気球のメンテナンスは、ヘリコプターではSPFを傷つけるので、専用の飛行船(ツェッペリン)を使って、上空でガス補充を行ったり、もし必要であれば地上に回収したりできるでしょう。化石燃料を使わない、この低高度の衛星(飛行船)技術は、世紀を超えて存続できる環ビジになり得ます。膜材としては、たぶん日本で開発された「Xylon=ザイロン」で作った布が最適でしょう。

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2010年12月10日 (金)

1245 環ビジ10(ミミズ機械)

ミミズは口から土を食べて、その中に含まれる有機物を代謝し、フンとして吐き出します。どちらがミミズの口で肛門かは確認した訳ではありませんが、たぶんそうでしょう。その根拠としては、ミミズが食べて排出した土が、虫のフンの様に小さな粒形をしていることから想像できます。ところで、作物の成長に理想的な土は「団粒構造」と呼ばれます。つまり、土が粒状になっている結果、土の粒の中には水分を保持し、一方では粒と粒の間の多くの隙間によって、根に空気(窒素です)を送る構造となっているのです。このミミズのフンは、フンですから当然有機物も豊富で、実は作物にとっての理想的な土壌となっているわけです。

さてここで提案するミミズ機械は、小さな電力でゆっくり動く、いわばコンクリートミキサーの様なものです。その中には土と一緒に、有機分を多く含み、土を団粒構造とする様な、自然物から作った「液肥」を少しずつ入れ、反対側からは粒状に固まった土を少しずつ排出します。どうせなら遊び心も加えて、機械の形も細長いミミズの様な形にしておきましょう。電力は、小さな太陽光発電パネルで十分賄えます。晴れた日に動いてくれさえすれば良いからです。水が豊富な地域なら、ぜひ水車で駆動しましょう。

これに使う液肥としては、例えば人間や家畜の糞尿を、空気を吹き込みながら長い時間をかけて好気発酵させ、匂いも殆ど無くなったものの上澄み液が最適でしょう。昔の記憶ですが、畑の中に埋め込まれたツボ(野ツボ)の中に溜まっていた「液体」の上澄みは、結構澄んでいたように思い返しています。

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2010年12月 8日 (水)

1244 環ビジ9(ソーラーポンド)

この夏の様に、「でら暑い」季節を経験すると、そのうんざりするほどの熱をどこかに貯めておき、寒い冬に暖房用などに使えたら…、と誰しも思った筈です。前の石油ショックの時に、実はこれが真面目に検討されていた事は、多くの人が知らないかあるいは忘れてしまったのかも知れません。そのころから、環境人間の素養が少しはあった?投稿者は、しっかりチェックしていました。それは「ソーラーポンド」と名付けられた「池」の提案です。この池には、望ましくは「暖まると比重が大きくなる液体」を満たしておきます。この池が、夏場の太陽光で暖められると、暖かい(熱くて重い)液体は、池の底の方にどんどん溜まります。しかし、表面付近は冷たくて軽い液のままなので、それが熱い液体の「蓋」になるのです。つまり、夏場の暑さによる熱が池の底に蓄熱された事になります。池の底には、熱交換用のパイプを巡らせておけば、冬場に池の底から熱を取り出す事が可能となります。池の表面にはゴミ除けのフィルム程度は浮かべておく必要はありそうです。

上の例は「1液」システムですが、残念ながら有害性が無くて、この目的にかなう液体は、投稿者の知る限り、現在のところ存在しません。次善の策は、軽い蓋液体とそれと混じらない重い蓄熱液体との「2液」システムです。こちらの方が、安全で安く上がるかも知れません。中間層には、透明で、しかしそれなりの断熱性を持つフィルム材を挟んでおく必要があるかも知れません。濃い塩水も重い液体の有力候補です。

しかし、考えてみれば、この逆パターンも可能な訳で、冬の冷気を蓄えておく「池」も考えられるはずです。水の場合は、しかし4℃の時の比重が最も重たいので、せっかく氷点下まで下がっても凍ってしまうとプカプカと浮かんでしまいます。この点を何とか解決すれば、一年中使える「池」が作れるかもしれません。

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2010年12月 6日 (月)

1243 環ビジ8(下水ガス発電)

パソコンの動作が安定していると、精神衛生にも良いような気がします。何しろ、先代のデスクトップはいつブラックアウトするか予想ができなかったのですから…。さながら時限爆弾を抱えながら仕事をするような状況だったわけです。

さて、新ビジネスの提案も段々加速してきました。今回は下水の話です。下水処理場からは、多量の汚泥(活性汚泥)が排出されます。現状は、それを脱水して燃やすしか処理方法が無いのでしょうが、この汚泥にはまだ多くの有機物が含まれているはずです。それらの有機物をさらに嫌気環境で分解させる過程で、メタン菌はメタンをしっかり吐き出す事でしょう。排出されたメタンガスは、品質は低い(カロリーが低い)のですが、立派な燃料なのです。単独では燃えにくくても、少量の石油燃料やガスと混合させて燃やせば、それなりの規模の発電も可能となります。できた電力は、下水処理場の自家電力程度にしかならないでしょうが、火力発電所から電力を送ってもらう場合に比べれば、一定レベルでの電力の地産地消も可能となるでしょう。ところでメタンは、そのまま空中に飛散させると、強力な温室効果ガスとして働きます。

消化メタンの利用で注意を要するのは、メタン発酵で発生させたガス(消化ガス)には、それが結晶するとエンジンを汚してしまう「シロキサン(ケイ素を含む化合物で硬いので排気弁の汚れや摩耗の原因となる)」などの成分も含まれますので、なるべく頑丈で、低速回転で、汚れにも強い、旧型のエンジンの方がこの目的には適しているという点くらいです。具体例でいえば、その昔川船(ポンポン船)などで使われていた「焼玉エンジン(グローエンジン)」がこの用途には理想的です。ちなみに、ガスエンジンといえども、特別なエンジンではなく、普通のガソリンエンジンやディーゼルエンジンを簡単に転用できます。

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2010年12月 4日 (土)

1242 環ビジ7(雪室トンネル)

パソコンの不調がDルに送り返しても結局治らないので、業を煮やして、大根を買うように新しいデスクトップを購入しました。最低限の構成ですが、事務用としては十分です。半日かけて再セットアップも終わってやれやれです。Dルはこりごりです。

さて環境ビジネスの続きです。投稿者が生まれた日本海側の雪国では、農家は本格的な冬が到来する前に、庭先に藁束を組み合わせた三角形のトンネルを作っておき、積雪が始まると、秋に収穫したイモや野菜をその雪室に保存しておきました。同じ雪国でも、さすがに北海道でもない限り雪室の中までは凍結しませんので、生野菜は0℃より僅かに高い温度、湿度もほぼ100%に近い状態で(野菜保管の理想的条件です)保存できます。雪室の良い点は、エネルギーを全く使わない保存方法であるばかりではなく、実は保存した野菜の品質も良くなることです。つまり、野菜であれば熟成し甘くなって(糖やアミノ酸が多くなって)味も良くなる事なのです。

さて、これをどの様にビジネスにするかですが、雪がしっかり降る地域の適当な丘を選んで、そこにU字型の水平トンネルを掘ります。地下鉄や道路用の様な巨大なモグラ機械は不要で、人が立って歩ければOKなので、下水工事に使われる様な、小径のもので十分でしょう。内部に、簡単なベルトコンベア(理想的にはコロコンです)と保存棚を設けておけば準備完了です。そこに、秋口に採れ過ぎた野菜を雪とともに放り込んでおけば、真冬や春先の野菜の「端境期」に、美味しい野菜を高値で出荷する事ができるでしょう。ワインや酒が作られている地域では、そこはワイン蔵や酒蔵としても理想のスペースになるはずです。投資額はやや大きいですが、たまにしか車の通らない高規格の農道を作るムダに比べれば、ホンのささやかな投資ですし、農協さんは多分今でもお金持ちでしょうから、トンネルの1本や2本掘るのは朝飯前の筈です。廃線となった鉄道トンネルや道路トンネルの再活用も、もちろん「あり」です。

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2010年12月 2日 (木)

1241 環ビジ6(ダム再生ロボット)

少し大きな枠組みのビジネスです。既存のダムは、実は年々流れ込む土砂の堆積で、新しく造っても数十年の寿命しか与えられていません。黒部ダムなどでは、定期的な排砂放水を行ってはいる様ですが、殆どのダムでは成り行き任せです。提案の製品は、発電所の電力を使ってダムの底を這いずり回る「有線の潜水ロボット」です。ロボットは、電線のほかにホースも引きずっており、吸い込んだ土砂を、ダムの下流に少しずつ流します。

黒部ダムでも、一時的な大量の排砂は、川や海の濁りを引き起こし、漁業などへの影響が懸念されてもいます。しかし、毎日24時間続ける、規模の小さな排砂は、実はダムを造る前の川の流れと何も変わらない筈なのです。その結果、昔の様に砂が下流の川を浅くし、結果として砂浜も回復するでしょうが、洪水から下流を守るためには、昔のように川砂を採取する産業も復活するでしょう。問題は、川砂は小型の船でボチボチ採取されますので、地元の需要を満足する程度しか採れない事なのですが、それが(川の)供給量しか使えないという環ビジのリミットであると割り切るしかないでしょう

蛇足ながら、主に海砂を使った今のコンクリートは、塩分による鉄筋の腐食のため(鉄は錆びると大きく膨張し、コンクリートを割ってしまうので)寿命が短い事が問題ですが、昔のように川砂を使ったコンクリートの寿命は非常に長いものとなるでしょう。実のところ、川砂を使ってうまく作られたコンクリートは、100年以上に亘って、強度が少しずつ向上することが分かっています。小樽では、今でも明治期に作られたコンクリートサンプルを毎年破壊して、強度変化を確認する試験が細々とですが行われているようです。

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2010年11月30日 (火)

1240 環ビジ5(一坪農園キット)

これは、とても可愛らしい環ビジ製品です。庭付き一戸建ての家を持つ家庭はもちろん、普通のマンション住まいなどでもベランダに一坪くらいのスペースはあるはずです。そんなスペースが見つからなくても、ベランダの手すりの外側には、日当たりの良いスペースを何とか確保できるでしょう。この製品は、例えば廃繊維と木くずを固めたような人工土壌のマットと、栽培が容易な野菜や果物などの種や苗がセットになっているものです。マットを広げ、種や苗をマットの穴に植えて、水や液肥を与えれば、だれでも家庭で新鮮な野菜や果物を収穫できるというものです。究極の地産地消です。土を使っていないので、根っこまで全部食べることができるため、生ごみも減るでしょう。管理を子供に任せれば、自由研究も夏休みの宿題も食育もスイスイ楽勝です。収穫済みの後マットは、天日で乾燥させて殺菌、管理すれば数回程度は使える様にしますが、最終的には、燃えるゴミとしても処分もできる材質とします。

少し規模を大きくするのであれば、マットを連続したものとして作り、非常にゆっくり動くかまたは間欠的に動くベルトコンベアの様にしておくと、例えばスーパーマーケットの屋根を利用した、マーケット自前の菜園も実現できるでしょう。1-2週間程度で一周する様にしておけば、連続的に野菜が収穫できる仕組みも実現可能でしょう。これも、マーケット自前の「朝採り野菜」を自店で売るという、注目される地産地消の実践例となるはずです。間違っても、地下室で人工照明を使って野菜を作るような「変な」地産地消は考えるべきではありません。人工照明では、照射できる波長の範囲が限られ、デンプンを作るなどのパワーの要る光合成は無理なので、今のところ小さな葉物野菜しか作れませんし、お天道様が作ったものより味も落ちるでしょう。

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2010年11月28日 (日)

1239 環ビジ4(海鉱山)

都市鉱山から類推での思い付きです。海水には、実に多くのミネラル分が溶け込んでいます。水そのものは、決して優れた溶剤ではないのですが、何よりその膨大な量と、何十億年という気の遠くなるような時間を使って、有機物のみならず、地球上のほぼあらゆる鉱物や金属までをも溶かし込んでしまったのです。

さて、海の水から貴金属やレアアースなどを回収する事は現実的な話なのでしょうか。短時間で、しかも商業的なレベルで、と条件をつけられるとたぶん難しいかも知れません。しかし、十分な時間(例えば数十年)をかけて、子孫のために資源を残す、などという悠長な枠組みであれば十分可能だと、投稿者は勝手に思っています。それは、小型の太陽光発電パネルを備え、「種金属」をぶら下げた電極を持つ、筏のような設備になるでしょう。条件をうまく設定し、特定の金属だけが析出する様にしておけば、何十年か後には、見事な貴金属のインゴットが得られるはずです。その間、良からぬ輩にそれを盗まれない様にする工夫は必要かも知れません。太陽光発電の電力で動く小型のポンプで、海水や河川水を連続的に汲み上げる仕掛けをしておけば、陸上の施設でも実現可能かも知れません。このビジネスのポイントは、ひたすら長い時間と付き合う「根気」だけだと言えるかも知れません。

ただ注意しなければならないのは、深海の熱水が噴き出す場所(熱水鉱床)などで見つかるマンガン団塊や、メタンがシャーベット状に固まっている、メタンハイドライトなどは、決してここでいう海鉱山などではなく、従来の穴掘り鉱山=モグラビジネスと何ら変わらないという点です。なぜなら、それらは掘り尽くせば、やがて消えてなくなるからです。

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2010年11月26日 (金)

1238 環ビジ3(都市鉱山)

都市には、実に多くの鉱物がゴミとして埋もれています。それは廃棄された工業製品の中に眠っています。携帯電話の廃棄物からは、やっと貴金属やレアアースなどがそれなりに回収されるようになったと側聞してはいますが、その他電化製品や車や工業製品からの回収はかなり遅れていることでしょう。現状の問題点は、手間暇をかけた丁寧な収集と、製品(原料)別の正確な分別が殆ど行われていない事なのです。それは一に掛って、この国のリサイクル法が違法な廃棄の防止を主眼に作られたもので、使用者やメーカーに「完全な回収」までは求めていない中途半端なものだからです。望ましいリサイクル法は、使用者とメーカーに完全なリサイクルルートを示し、製品は必ずメーカーが責任をもって回収する様に作られるべきです。

メーカーであれば、どの様な材料を使って、どの様な工程で作られたかについて、完全に把握している筈ですので、それを100%リサイクルするか、場合によってはきれいに洗浄して、機能を保証しさえすれば製品へのリユースも可能となるでしょう。また廃棄製品に含まれる、金属やレアアースやプラスチックは、正確に分別しさえすれば、非常に純度や含有率が高く、落盤事故の危険を賭して鉱山から掘り出したり、環境を汚して鉱物を精錬したりする事に比べれば、100倍も効率が高いでしょう。増してや、途上国の鉱山では、山に直接強い酸をばらまき、染み出てきた液から金属を抽出するなど、荒っぽく環境を破壊する方法で資源採取がおこなわれている現状を考えれば、しっかりコントロールされた国内の「都市鉱山」で金属精錬を行う方が100倍も安全です。つまり、10010010,000倍も有利なはずなのです。足りないものは、このような行動を行なうメーカーや消費者へのムチ(課税など)を、リサイクルを積極的に行うメーカーや消費者へのアメ(減税やデポジット制度=廃棄物の買い取り)などでしょう。金属の回収は、たぶんメッキなどの逆サイクルでしょうから、回収に当たって大幅な設備投資までは必要ないと見ています。

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2010年11月24日 (水)

1237 環ビジ2(事務所内製紙機)

第2回目は、ささやかな環ビジ製品案です。先ごろのビジネスメッセで、某事務機器メーカーから、使用済みのコピー用紙を、事務所内で溶解して再度紙漉きを行う紙のリサイクル機械が発表されました。しかし売値を聞いてひっくり返りました。家が一軒建つほどの価格だったからです。これでは、紙代だけで年間数百万円飛んでしまう事務系の大企業かお役所くらいしか買ってくれそうもありません。何しろ、これは小型とは言え、溶解、紙漉き、乾燥、加熱ロール掛けと、製紙工場と同じ機能がある機械なので、それも仕方ありません。ランニングコストも、大出力のヒーターが仕込まれていそうなので、かなりの電気代も覚悟しなければならないでしょう。

一方投稿者の提案は、たった5万円でできる機械です。コピー機で紙に付着させているトナーは、顕微鏡で見ると、数ミクロンですが紙から「盛り上がって」定着されて居ます。これはカーボンブラックを樹脂で固めたものなのですが、実際には、紙の繊維によってできた凸凹の凹部分にも多少(数ミクロン)は入り込んで居ます。提案の機械は、使用済みの紙の表面を数ミクロンだけ削り取るものなのです。つまり、数ミクロンのカーボンブラックとプラス数ミクロン(望ましくは2ミクロン以内)の紙を削り、圧延ローラーで均せば、紙は「白紙」に戻るわけです。紙の厚みは30ミクロン(100枚で3mmの厚み)をすこしこえる程度が標準ですので、この方法でも5回以上は再生できるはずです(紙の厚みは2/3になりますが)。紙の使用量も当然1/5以下には減らせる事になります。紙を削る動力はそんなに必要ありませんので、電気代も心配する事はありません。開発要素はと言えば、耐久性のある精密な回転刃(たぶん髭そり用のロータリー刃の技術に似ています)と、紙の削り代をミクロン単位で調整できる切り込み機構だけです。昨今の工作機械はミクロンレベルの精度は十分確保できていますので、それも難しいものではないでしょう。出てきた紙の削り具合を確認して、手動で調整するだけなので、難しい制御も不要です。売値が5万円程度であれば飛ぶように売れ、殆どの事務所でコピー機械に並べて置いてくれるはずです。

リサイクルペーパーも、実は(収集運搬・溶解・脱色・再度の紙漉きで)バージンペーパーとほぼ同等のエネルギー(紙1トン当たり4-5tのCO2が発生)を使って作られていることはあまり知られていません。紙のリサイクルは、海外でパルプ材を切り出す量を減らす事には確かに役立っていますが、CO2削減には決して寄与していないのです。この機械で、事務所内で紙を「リユース」できる仕組みが出来上がります。

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2010年11月22日 (月)

1236 環ビジ1(木材の多面的利用)

さて模様替え初回ですので、気張って考えてみます。やはり最初は、この国の最大の資源である「山の木」の利用について書くべきでしょうか。国土の6割以上を占める山の木が殆ど利用されず、1億トン近くの外材が輸入されているという現実は、何より山から木を切り出すお金が回らないから生まれています。山の急斜面で木を倒し、それを里まで(石油を使わないで)安く運ぶには、例えばその昔、ご先祖さまが木曾の山から木を切り出して、三河湾まで流してさらに伊勢神宮あたりまで運んだ方法のように、冬場にソリを使って降ろし、その下の川での筏組みや筏乗りの技が必要です。現代では、そんな危ない事を作業者にさせることもできないでしょうから、別の切り出し方法が必要でしょう。

切り出しの方法を考える前に、手入れが殆どされてこなかった、ヒョロヒョロの木に、どうにかしてそれなりの値段をつけなければなりません。建材としての価値だけでは、とても切り出すお金が出ない事は、国内林業が殆ど廃れてしまった事を見ても明らかです。しかし、木材を多面的に利用する事を考えれば、「一粒で何度か美味しいお菓子」の様に、建材だけとして売るのに比べて何倍かのお金を生み出す事は可能だと思うのです。具体的には、

1)工業材料として:木材を半分くらいの体積になるまで圧縮し熱をかけて固定すると、重くはなりますが、強度は飛躍的に向上します。理論的には、比重は1.6前後まで圧縮可能で、その場合の強度はアルミニウム並みになるはずです。しかも、材料は木材繊維の方向に強度の偏向がありますので、方向をうまく組み合わせると、複合材であるGFRP程度の強度を持つ材料とすることも可能です。蒸気で処理して粉砕すれば、プラスチックと同様に射出成型することも可能となるのです。日本の山には、アルミやガラス繊維やプラスチック原料が大量に眠っていると考えれば良いでしょう。木材をコウカイ(紙すきのために繊維にばらす事)すれば、非常に強度が高く、保温性にも優れる繊維原料も得られます。2)食料や薬として:木材からは、口に入れられる食料も得られます。メープルシロップやキシリトールなどを例に挙げるまでもなく、木からはまだ開発されていない食料資源が見つかりそうな気もします。カブトムシが、なぜクヌギの木が好きなのか、だれかクヌギの樹液を詳しく研究してください。3)肥料として:木材の葉(腐葉土)や破砕した竹が、非常に有用な肥料になる事は、昔から知られています。建材や工業材料として利用された残りものも、立派な肥料の原料になり得ます。4)燃料として:上記に使えなかった木材屑は、押し固めると立派なペレット燃料になり、ストーブやボイラーで燃やせば、石油代替燃料となります。投稿者はペレット燃料を「固形灯油」と呼んでいます。引火性が無いので、これから高齢化社会迎える日本では、理想的に安全に取り扱える燃料になることでしょう。

これだけ、木材を徹底的にしゃぶり尽くせば、木材を山から切り出すお金も、お釣りがくる位はひねりだせる筈なのです。山に近い村々に、これらを実現する「ミニ木材コンビナート」が数多く生まれるのが、投稿者の夢です。

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2010年11月20日 (土)

1235 環境ビジネスとは

今日からは、(たぶんですが)前向きブログに模様替えです。さて産業構造のシフトが、国レベルの政策にも俎上されてきました。その内の一つである環境関連ビジネス(以下環ビジ)ですが、それは間違いなく今後の社会の大きな部分を構成する産業に育てなければなりません。それが、悪化しつつあるとはいえ、まだ十分にヒトや生き物が棲める地球環境が残されている今、私たちに残された唯一の選択肢だからです。そうなければ、前回に書いたレミングのたとえ話と同じ運命を辿るしかないでしょうから。

しかし、省エネや新エネと呼ばれる新産業や、この国がかつて公害で苦しんだのと同じ道を辿っている途上国に、公害防止機器や省エネ機器を売りつける事が環境ビジネスではありません。ましてや、補助金頼りで赤字を垂れ流している、各地の自治体の風力発電なども除外されなければならないでしょう。投稿者なりの定義では、環ビジには次に挙げる幾つかの要件が必要だと思っています。

1)持続可能性:何より、このビジネスは100年後も変わらず持続できなければなりません。つまりは数十年で無くなってしまうエネルギーや資源には依存できないのです。この種のビジネスモデルは、何代にも亘って変わらず引き継がれる筋合いのものなのです。 2)エネルギーの太陽光依存度:持続可能なエネルギーは太陽光しかありません。それ以外のエネルギー源を前提にする全てのビジネスは間違いなく破たんします。 3)原料の環境への依存度:当然の話として、環ビジの原料は、環境を破壊することなしに持続的に環境から入手できるものでなければなりません。具体的には、植物が水と太陽光を使って作り出す「バイオマス」である必要があります。2次的に植物を代謝し動物が作り出す「バイオマス」ものもこれに含まれます。 4)ものを運ばない:環境から得た原料や製品を、長い距離を運ぶのであれば、またぞろ「石油の呪縛」に陥る事になります。環ビジは、やはり「地産地消」が大々原則でなければなりません。この国元首が主張する「開国」やビジネスの国際化は、環ビジには矛盾しその対極にあると考えなければなりません。 

また、これらの要件が満足されるビジネスモデルは、間違いなく「小規模」なものでなければならないのですが、以上の原則が、かなりのレベルで実現できるのであれば、そのレベルに応じて環ビジに近づいたと言えるでしょう。次回以降は、大きな環ビジの枠組みや具体的ですがちっぽけな製品案など、玉石を取り混ぜながらの提案を行っていくことにします。それらのアイデアは著作権フリーですので、気に入ったら「玉をしっかり磨いて」勝手に実行していただいても結構です。しかし、あらかじめ断っておきますが、投稿者は「商才が全く欠如」していると、自信を持って?いますので、枠組みが甘く結果的に失敗しても責任は負いかねます。たとえ事業の失敗を愚痴られても、「残念でしたね。めげずにまた頑張りましょう。」と慰めるのが、投稿者にできる唯一の事ですので念のため。

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2010年11月18日 (木)

1234 自壊(反省の総括)

間違いを隠して(見ないふりをして)、その表面を取り繕うことを「上塗り」とでも言うのでしょうか。間違いは間違いとして謙虚に反省し、軌道修正すればたぶん問題はそれ以上拡大しないでしょう。何度も書きますが、この国を含めた、今の文明の問題点は「行き過ぎた経済の拡大」とそれに付随する諸問題だと言えます。その問題を隠さないで、100年程度の長期の視点に立った軌道修正を始めない限り、景気や経済規模の拡大路線には、もはや今の袋小路からの出口は見つからないと断言しておきます。

また、自分が原因で、自分自身がつぶれてしまうことを自壊とでもいうのでしょうが、これまで一体いくつの文明が、自分自身が作り出した仕組みの肥大のために自壊してきたことでしょう。現代文明は、今その自壊の道を突き進んでいるとしか見えません。「レミング」というネズミ科の小動物が居ますが、彼らは個体数が増えすぎて餌が不足すると大挙して海岸に向かい、海に飛び込んでおぼれ死んでしまいます(これは事実とは多少違うかも知れませんが、象徴的なたとえ話です)。それは、個体数を制御するためにDNAに組み込まれたプログラム故なのかも知れませんが、私たちのDNAにもその様なプログラムが隠されていないとも断言ができません。それほどヒト属は増え過ぎてしまったようなのです。ただ幸いな事に、ヒトにはコミュニケーション手段としての言語があり、(たぶんですが)問題解決の知恵もあります。自壊を回避するためには、それを最大限に発揮する事が求められていると意識しなければならない時代だと思います。

幾つかの歴史的な間違いがあったにせよ、実はこれまでは「人間界」の中での間違いでした。世界的な戦争も、爆弾で「とばっちり」を受けた動植物もそれなりに多かったでしょうが、多くは人的・文化的損害だったと言えます。しかし、今進んでいる環境破壊は、継続的に進むこの星の生き物全体の「自壊」への道でもあります。これを必死にくい止めなければ、上に書いたレミングのたとえ話が、現実のストーリーになる可能性がますます強まります。

さて、反省プログもネタが尽きかけて、そろそろ「後ろ向きで走る」のにも疲れてきましたので、今後は「ではどうすれば良いかブログ」に徐々にですがシフトすることとします。

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2010年11月16日 (火)

1233 どこで間違えたか2

例その2は経済システムです。経済は、モノの生産・流通と、その反対の方向に動くお金で回っています。経済活動の拡大とは、同時に流通しているモノやお金の量が増える事にほかなりません。お金は、その量が多くなればなるほど、それを多く所有している人(大企業や大金持ちや小金持ち)は、それを「運用」してさらに増やそうと奔走します。彼らは、通常の銀行利息では決して満足できない人種なので、多少荒っぽい方法も使います。通常利息に比べて、何倍の運用益が得られたか、いわゆる「レバレージ」の高さを、自分の手柄とする事に生き甲斐を感じる人種だからです。

しかし、経済規模が大きくなり過ぎると、最早それを人の力で制御する事はままならない状態に陥るのでしょう。この国が、何兆円というお金を投じても、為替の暴走をたった数日しか止める事しかできません。増してや、負のお金である債権まで考えると、何が実態で、何が絵空事なのか、真実は厚い「お金の霧」のかなたに隠されてしまっています。素人考えでも、実際のモノや土地の評価額に比べて、たぶんその何倍ものお金や負債が世界中を駆け巡っている事は容易に想像できます。その内のかなりの部分は、通貨や債券(証書)のように形のあるものではなく、コンピュータの中の「01」の数字として存在するだけだとも想像しています。

実態のないモノは、実に始末に負えないシロモノでもあります。たとえば我が家の財産です。確かに、自分の家やその中に収まっているガラクタは自分の財産であるモノとしては把握できますが、一方では財布にある現金以外の「形の無い財産」の実態は、銀行のコンピュータの中に記録されている「01」だけのDigitでしかありません。仮の話として、もし社会システムや銀行のシステムが、未曾有の災害等で修復できないほどの壊滅的な被害を受けた場合を想定すれば、自分には、例えば地震で半分壊れた家だけが残るだけです。1週間分程度の食料の備蓄も無ければ、水道管が壊れれば水も飲めなくなり途方に暮れるでしょう。そうではなくて、私たちには実態のある、食料の備蓄や、緊急の時に使える井戸こそが、生きていく上で「役に立つ財産」として必要です。私たちは、田舎を出て、都会の暮らし始めた時に、お金と引き換えに大切なものを捨ててしまったのかも知れません。たぶん、これも大きな間違いの一つだった様な気がします。つまり、この数十年をかけて、実態のあるモノや財産を捨てて、「実態の無い経済(お金)に過度に依存する社会」を作り上げてしまったとも言えるのです。さて、反省や「愚痴」は、「一応」次回で打ち止めにする事にします。

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2010年11月14日 (日)

1232 どこで間違えたか

では、戦後の高度成長期から、経済大国へ邁進し、失われた20年と言われる時期を経て、現在に至るまでの過程で、一体どこで何を間違えたのでしょうか。明らかな間違いの一つは、「問題の先送り」だったと言えます。「椅子取りゲーム」に明け暮れ、国政をお役人の先送りテクニックに任せて、本当の問題から目をそむけて来た事が現在のカオスを招いた事は間違いないところでしょう。

もう一つの間違い、というより勘違いは、人間が作ったシステムは、人間がコントロールできるはず、ということ自体への幻想だと見ています。たとえば、官僚組織、たとえば経済システムです。システムには、いくつかの側面があります。それが作られる時には、確かに一定のルールに基づいているのは間違いありませんが、全てのシステムは変化を嫌い「慣性」を持つこと、自己増殖すること、自己修正ができにくい事など、多くの硬直した側面も抱えています。通常のシステムには、将来を見越した修正プログラムまでは組み込まれていないのです。もっと考えなければならないのは、それを作った人間が居なくなった後でも、システムは生き続けるという事実です。つまり、そのシステムが必要とされた時代背景を踏まえ、そのシステムを作った「ココロ」が引き継がれないまま、ただ形だけが残るという事実です。

具体例をすこし挙げましょう。まずは官僚組織です。正確なデータは手元にありませんが、官僚組織は、一貫して肥大化し続けてきたはずです。行政を円滑に行うためのシステムであるこの組織は、それが一旦安定的に機能し始めると、強力な自己保持機能を発揮します。つまり、前年度の「実績」が全ての基準になり、その延長線上で次年度の予算を組むからです。それが一番楽で、しかも大きな間違いが少ない唯一の方法だからです。もし、毎年毎年ゼロベースで事業計画を立案し、予算を積み上げると仮定した場合、たぶん今の2倍の人数の官僚組織が必要となるはずです。つまり、半分の官僚は年がら年中事業計画と予算の積み上げに追われる事態になるという意味です。地方自治体レベルでも、概ね住民の100人に1人は役人ですから、それがやがては2%に肥大化するわけです。続きます。

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2010年11月12日 (金)

1231 歴史ブーム

歴史がブーム、らしいです。興味本位で江戸時代やそれ以前の歴史掘り出すのも結構ですが、過去の文明の過ちの過程を改めて検証してみるのが、歴史を紐解く本来の意味の様な気がします。歴史の勉強とは、結局は過去の失敗に学ぶという意味あいが大きいと思うからです。投稿者も一時、その手のタイトルの本を読み漁った時期がありました。たぶん、70年代の終わり頃の事です、時代的にも社会が、70年代に噴出した各種の問題に直面し、それまでの経済拡大一辺倒の「行けいけドンドンの価値観」が揺らいで右往左往していた時代に重なります。

しかし、のど元過ぎれば、公害も石油ショックもすっかり忘れ、カネ儲けを企む企業は、80年代に入ると、大型の高級車や贅沢品を普及品と錯覚させ、主婦は軽自動車に乗るべきだとの作戦を考え出し、もっとずる賢く立ち回ったブローカー連中は、土地や建物や株や債権などを転がして、ボロ儲けを始めたお祭りの(バブルの)時代もありました。その後は、記憶にも新しい、失われた10年(20年)とも呼ばれる停滞期に落ち込むわけです。その意味では、のど元を過ぎても過去の熱さを記憶に留めておくのが、歴史の役割であるとも言えるのです。

この国の戦後の歴史でいえば、「一体どこで間違えたのか」を考えてみる必要があるでしょう。先の大戦の総括については、数多くの歴史書や研究がおこなわれていますので、このブログでは主に高度成長期以降の「現在と地続きの歴史」を振り返ってきました。せっかくの歴史ブームですので、この際20世紀後半を、冷静な目で総括してみるのも大切な事だとは思います。もう少しだけ、20世紀の振り返りを続けたうえで、このブログも「環境に関して徹底的に考え、自分が50年生きた20世紀を反省するブログです」というタイトルから、たとえば「20世紀の反省を踏まえて、来るべき社会を展望するブログです」などと模様替えをしていくつもりです。もう少しだけ「反省」が続きます。

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2010年11月10日 (水)

1230 分解産業

前を向くための一つの産業の提案です。これまでの第2次産業は、原料の大半を輸入し、いくばくか(あるいはかなりの)廃棄物を出しながら原料を加工し、それを組み立てて売ると言うスタイルでした。しかも、近年のビジネスモデルでは、まだ使えるのにすこし型遅れになった製品は、消費者に出来だけ早く捨てさせ、替わりの恰好が良く、機能も少し加えた新型製品を買わせる、というものでした。一方では、引き取られた、あるいは不法に投棄されたまだ使える製品は、結局は環境を汚すゴミだった訳です。流石に国も重い腰を上げて、いくつかのリサイクル法を作り出しはしましたが、全く不完全です。法律の網をくぐった不法廃棄は一向に減る気配がありません。

そこで新たな産業の提案です。全ての製品は、完全に分解しさえすれば、間違いなく立派な資源の集まりです。鉄も、アルミも、電気基板も、電線も、プラスチックの筺体も、ボルトやビスまで、もし完全に分解して、材料種類毎に、あるいは劣化の程度毎に厳密に分別できれば、ほぼ100%材料としてのリサイクル、あるいは中古部品として再使用が可能な訳です。そのためには、先ずは材料が何でできているかの情報は必須です。もし、メーカーが機密事項として材料組成を公表したくないのであれば、メーカー自身が分解工場を作るべきでしょう。というより、メーカーは自社の使用済み製品は無償で(あるいはデポジット制度の元に有償で)引き取り、完全にリサイクルする様に、リサイクル法を整備すべきでしょう。

それは、立派な産業になり得ます。都市鉱山とは最近耳にする言葉ですが、レアアースも金も、半導体も、日々廃棄される「ゴミ」の中に、有り余るほど(ゴミにして捨てるほど)資源として含まれているではありませんか。使用済み製品の分解、分別産業を法制化すれば、軽く見積もっても100万人以上の雇用が生まれるはずです。

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2010年11月 8日 (月)

1229 付加価値

加工により付加価値を上げる話の続きです。付加価値の話で、持ち出さなければならないのは、付加された機能とそれに支払う代価という視点です。C国の万博では、全自動トイレが大変な評判を呼んでいるとか。土を焼いただけの便器に暖房・洗浄便座を付けた「従来便器」と、トイレに入るだけで、殆ど何もしないで用を足せる「ロボット便器」で、値段の差が例えば40万円だったとしましょう。ロボット便器では、立ち位置によって「大」「小」を判断し、便座を上げ下げしてくれ、用後は局部の温水洗浄や温風乾燥や、音消し音楽などが自動的に提供されるはずですが、体が不自由な人ならいざ知らず、全てはヒトが本来持っている(自分で排泄し、それを始末する)能力を奪ってしまうものでしかなく、ヒトは、自分が不器用になるためだけに、40万円という法外な代価を支払おうとしている、というしかありません。

つまり、ロボット便器に仕組まれた、数多くのセンサーやアクチュエータや電子回路は、全く「余計なお世話機能」と言わざるを得ないでしょう。ですから、そんなお節介機能をいくら付加しても、停電になったら用足しもできないという不便を抱え、不器用なヒトを増やすだけの欠陥商品だと断じても良いと思っています。似たような例は、「全自動~」あるいは「電動~」などの冠を付けた製品に見出す事ができます。電動のシニアカーが、歩行能力を急速に奪い、車いす生活者や寝たきり生活者を増やす事にしかならない事を、私たちはメーカーの言葉に惑わされずに、再認識する必要があります。そんなものより、軽くて使いやすい2本のストック(杖ではありません)を使って、3点支持歩行の訓練をした方が、よっぽど「生涯しゃっきり」の幸福な老後が送れるはずなのです。

そういう意味では、付加価値とは、適正な機能を、適正な価格で提供するために、許される必要かつ最小限のものと定義しなおす必要がありそうです。それ以上お金の払える金持ちが、他人に見せびらかすために余分な機能や華美な装飾を求めるのは全く勝手ですから、それは量産ラインから外れた特注ラインで職人の手作りで作りこみ、その代わり立派な値段を吹っかければ良いだけです。例えば、車や電化製品の適正な機能は何で、付加価値とは、それに対する代価とはどの程度かについては、また改めて考えてみたいと思います。

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2010年11月 6日 (土)

1228 加工貿易

「加工貿易」とは中学校の社会科で習った懐かしい言葉で、いまや死語かもしれません。何故、いまこの埃の被った言葉を掘り出したかと言えば、この国の本質は、その頃(高度成長期)と何ら変わっていないと感じる事が多いからです。この言葉の定義を思い出してみると、途上国から原料や一次産品を輸入して、それに付加価値を付ける「加工」を施して、それを輸出して国の経済を支える、という産業構造を差すと習った様な気がします。「加工」については、以前にも定義しましたが、簡単にはモノの形を変えて、付加価値を上げる作業の事です。

輸出入には、為替による決済が必要なので、為替レートは大きな問題です。つまり、国内企業が付与した負荷価値以上に、為替レートが円高に振れると、輸出すればするほど赤字に陥りますので、企業は存続できません。だからこそ、倒産する前に海外移転を画策する事にもなる訳です。市場経済では、コスト(原料やエネルギーや加工費)に利益を乗せた価格で売れる訳ではありません。従って、原料や材料価格は仕方がないにしても、加工コストをギリギリまで下げる事によって、薄い利益を確保する事に、企業はキュウキュウとせざるを得ない事になります。

加工については、このブログでも再々取り上げていますが、では何が何でも付加価値を上げて、原材料の仕入れ値段と、売値の差を大きくすべきか、という議論に関しては、そうではない(それだけではない)というしかありません。例えば、有名な時計メーカーが、仕入れ価格でわずか数万円の材料を使って、数百万円の腕時計を作って売るとします。その売値は、長い間掛って築き上げたブランド名故に、可能となったとも言えますが、では数百万円の腕時計に、1000円の時計以上に機能としての価値があるか、と問われれば「NO」というしかありません。つまり、付加価値などという、訳の分からない世界では、モノを買う側の懐具合に依存する、水商売的な要素も大きいと言うしかないのです。

もちろん、デザインやブランドは気にしないから、機能さえしっかりしていて、頑丈でさえあれば十分だ、という消費者もそれなりにいる事でしょう。市場とは、結局ブランド買い消費者と機能買いの消費者の混じったものであり、その比率は時代背景によって変わるものだと考えしかないでしょう。バブル時代に起こった事を少し思い出せば、あの時代が異常な比率だった事が容易に分かります。続きます。

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2010年11月 4日 (木)

1227 COP10 雑感

前回、前向きな提言を増やすと書きながら、また少し後ろ向きのコメントとなりそうです。COP10が終了して残したものは、「生物多様性の減少問題とは、結局人間社会の経済の問題だったのか」感です。この会議を外から眺めると、途上国は、これまでは先進国に独占されてきた、生物「資源」からの分け前に与り、先進国は今まで通りより多くの利権を確保したいという、人間社会の経済エゴのぶつかり合いだった様に思えてなりません。利権の問題なので、ステークホルダー間には対立が生じ、その調整は、結局は両社の妥協ポイントの探り合いに終始するだけの集まりなってしまいます。それは、温暖化問題に関してのCO2の排出量の割り当て(排出権の奪い合い)と何ら変わるところはありません。

そうではなくて、生物多様性を「環境の安定」の問題として捉え直さなくてはならない、と投稿者レベルの頭でもそう考えてしまいます。多様性の高いシステムほど安定性が高いという考え方は非常に単純で明快です。環境に変化が生じた場合、それを揺り戻すのが環境の安定性ですが、例えば温暖化が進みつつある時代、ある種の植物やプランクトンが徐々に増加し、大気中のCO2をより多く吸収する様に作用すれば、環境は安定性を取り戻すでしょう。一方、作物に重大な損害を与える害虫が大量発生した場合、その虫を捕食する(天敵の)昆虫や鳥が少なくなってしまえば、他の生物にも危険である農薬を、更に多く散布しなければならなくなり、生物の多様性は加速度的に低下するはずです。カネになると考えて、戦後植林された単相の針葉樹林の保水力が弱く、災害に弱い事はたびたび指摘される事ですが、それ以前のご先祖様たちが育てて残してくれた様な、混淆林が人間社会のためにも、生き物たちのためにも理想的であった事を、現世代は謙虚に学ばなければならないでしょう。

生物の多様性は、決して経済の問題などではなく、将来世代に、より安定した多様な環境を残すための、「現世代の責任」だとの問題意識が必須です。生物は、その環境の多様性の重要な指標と考えるべきでしょう。100年後、今の世代が子孫からどの様な批判を受けるのか、そんな時代に生きてはいない、と「ほっかぶり」を決め込む無責任は許されないのです。机上の議論や会議などで生物の多様性が増す事は決してありません。生物の多様性は、人間が気を付けて「環境の多様性」を確保すれば、そこに棲む生物は、「保護」などしなくても自然の多様性を回復する筈です。体を使っての行動しかないのです。犬や、自分自身の散歩で暇つぶしをしている間は無いと、退役した人たちも鉢巻を締め直す必要があります。先ずは(クマに気をつけて)山に入り、その荒れ果てた姿に関心を持つことから始めましょう。9月の連休の中日、日帰りでしたが、南アルプスの塩見岳に登っただけで、パルプ用の人工林とその荒廃、北アルプスに比べて積雪が少ない事による森林相や生物相の劇的な変化など、生物多用性に関して投稿者の感じた事は非常に多かったのです。こと環境や生物多様性に関して言えば、いま必要なことは、実りの少ない後ろ向きの会議などではなく、先ずは前を向いた行動ありきです。

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2010年11月 2日 (火)

1226 前を向くために

このブログを読んでもらっていて面識のある人から、最近このブログが後ろ向きになっているのでは、とのコメントを貰いました。このブログは書き初めに意識したように、自分が50年生きてきた20世紀の後半の出来事を、環境の視点から見て反省する事が目的なので、最初から視点は間違いなく後ろを向いています。しかし、それもこれも、先ずは間違っていた事の反省を踏まえて、来るべき社会に向けて、「より良い方向」に舵を切るための一つの見方になってくれれば、というほどの想いなのです。もちろん、常にこの種の議論には、「誰にとっての良い方向」なのかという疑問符が付きまといます。投稿者としては、それは母なる自然「環境」がより喜ぶ方向だ、という立場なのです。母なる自然「環境」に対して、この国では、古から八百万の神として畏敬の念をもって接してきました。世界を眺めてみれば、唯一太陽神だけを崇める人々も多く存在しますし、地球や生き物を「たった1週間でお造りたもうた」全能の偶像を崇める人々もまた数多くいます。

それはそれとして、(無機の地球はいざ知らず)あらゆる生き物が、環境に順応して進化し、その環境から生かされているという事実は、万人が認めなければならないでしょうし、そのためにこそ、今世界の国々も(いやいやながらでも)実りの少ない国際会議を繰り返している訳です。投稿者のもう一つの視点は、「時間」です。生物は、無生物から複雑な自然現象と、何億年という気の遠くなるような「時間」を通過して現在の姿になった訳です。自然は、確かに八百万の神ではありますが、加えて何十億年という長い永い「時間」こそ、それらに加えて(あるいはそれらを包み込む)本当の神なのかも知れない、とも想うのです。

自然「環境」のご機嫌に十分な注意を払いながら観察し、一方でわたし達のこれまでの行状を反省し、しかしその自然は、百年や二百年程度で今の姿になったのではないとの再確認した上での行動が、今ほど求められている時代は無かったと想っています。その点さえ踏まえておけば、これからの社会を見据える中で、何を、どの様に直していくべきか、前を向いた考え方が出てくるとも考えています。というわけで、今後はなるべく前向きな提言も増やしていくつもりです。

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2010年10月31日 (日)

1225 申し訳なさ

20世紀後半に生まれて、曲がりなりにも生きてきた投稿者としては、十分にラッキーな人生を歩んできたと振り返っています。それなりの規模の二流会社に技術屋として勤務し、人並みに家族を持ち、家も買って、十分ではないけれど老後に向けての蓄えもできました。しかし、世紀が一つ進むというポイントに立って、越し方を振り返ってみて、実はこれら全てのささやかなラッキーも、何かの犠牲に上に成り立っていたのではないかとの、「大きな疑問」にとらえられたのでした。投稿者の年代以上の世代のこれまでの行いを、焼き魚料理を食べる状況にたとえてみると、私たちは既に魚の上半分をペロリと平らげてしまったようなのです。ひっくり返しても、身はもう半分ほどしか残っていません。人口ツリーで太い塊となっている世代は、もう殆どが退役し、悠々自適の生活に入ろうとしています。モノづくり人口が減る事は、資源やエネルギーの温存という点では、それほど悪くない方向なのかも知れませんが、悠々自適生活にも、資源やエネルギーが相当程度必要です。その人たちの蓄えを、その人たち自身が使う事に何の問題も無さそうに見えますが、そこに今回の題である「申し訳」の出番があると思うのです。

投稿者自身の僅かな財産や蓄え、上の世代が持っている膨大な蓄えが、何によってもたらされたか、元を質してみれば、それは途上国で地下資源やエネルギーを掘り出したものを安く輸入し、それでモノを作り、せっせと輸出して生みだしたおカネであった事は間違いないところです。モノを作る過程、あるいはそれを消費して捨て去ったゴミは、誰かがうまく処理してくれた訳でも何でもなく、目には見えない形で環境に蓄積され続けてきたはずです。日本ではかなりの固形ごみを燃やして、CO2を含む気体ゴミに替えていますが、B国の様に砂漠に埋めるだけの国では、そこを掘り返してみれば、ここ数百年のゴミの山が、そのまま発掘できる事でしょう。貝塚ではなく、まさしく現代の「ゴミ塚」という訳です。資源やエネルギーの消費による減少と、CO2を含む多量の有形・無形の廃棄物の蓄積という、後世への負の遺産を残す事によって、投稿者以上の世代の繁栄が成り立ってきたというしかありません。

私たち、20世紀人は、もっともっと「申し訳なさ」感、もっと言えば「後ろめたさ」を強める必要があると思うのです。誰に申し訳なく、後ろめたいかは、このブログでも縷々書き連ねてきましたが、改めて書くと、それは大きくはヒト属を育んでくれのに、その子からひどい仕打ち(破壊)をうけている母なる自然であり、ヒト属に限った狭い意味では将来世代の、きっと裏さびしくなるであろう未来の生活に対してです。投稿者の行動の原動力は、いまや完全にこの申し訳なさになっています。

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2010年10月29日 (金)

1224 スクラップ&ビルドではなく

現代のモノづくりと消費社会は、使い捨てを前提として回っている様に見えます。安価な電化製品は、間違いなく修理を前提には設計されてはおらず、修理を頼もうものなら新品と同等か、下手をすればそれより高い見積もりを突き付けられます。修理を頼んだとしても、たぶんブラックボックス化した中身の基板を、そっくり入れ替えるだけなのでしょう。結局、送り賃と故障の状況をチェックする作業者の手間の分だけ、新品より高くなってしまうのだと想像しています。

電化製品は、相対的に非常に安くなっています。一方で、デザインや見栄えはますます美しくなってきており、相対的に、中身より見かけにより多くのコストを掛けている事が明らかです。かつて、電化製品の色は殆ど白か灰に決まっていました。台所で使われる製品群は、俗に白物家電と呼ばれてもいました。これは、修理やリサイクルには、理想的な状況だと言えます。種々の色を取りそろえた製品には、数多くの部品の在庫を置く必要がありますし、一方でリサイクルする場合、プラスチックの色の混合(つまりは材料の劣化です)が起こり、リサイクル材の用途が荷役パレットや車止め等にしか使えないからです。加えて、使われる素材の多様化があります。

例を挙げれば、見栄えが良くて加工性の高い合金とその装飾方法(例えばメッキ方法)や新しいプラスチック素材が開発されるや否や、メーカーは飛びついて新製品にそれを採用します。結果、プラスチックだけを取って見ても、その種類は日々増え続け、同じプラスチックでもそのグレード(硬度や強度区分)は増え続け更には、ますます多様になる(とメーカーが言っている)ユーザーの嗜好によって、色のバリエーションも加えると、すぐに何百種類にも枝分かれする訳です。

これでは、製品のたった一つの部品が壊れても、その部品を生産終了後も長い期間在庫しておくことは、殆ど現実的ではありません。メーカーとしては修理代を高く設定して、新品を買ってもらうしかない事になります。そのトレンドを、私たち消費者は、メーカーの口車に乗って、よしとしてきたわけです。ですから、この流れをメーカーだけの責任に帰すわけにはいかないでしょう。つまりは、メーカーは消費者の(「消費は美徳」というキャッチフレーズに乗った)ワガママ心を育て、消費者はそれを良いことに、この国にたっぷりとあったはず「つつましさという美徳」を捨て去ってしまったからです。

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2010年10月27日 (水)

1223 ターニングポイント

このブログを書き続けている目的は、20世紀、とり分け戦後のこの国の行状への反省を真剣に考えてみるというものです。サラリーマンを卒業しようと決意してから実際に辞めるまでの間に考えたこと、その後に考えた事どもがかなり溜まったのですが、年のせいか考えた事がすぐ頭の中から消え去りますので、ある時何らかの形で書き留めておきたいと考えたのでした。ある日、何気なく始めたブログですが、よくもまあこんなに続いているものだと、書いている投稿者自身も呆れているこの頃です。

さて、いまこの国が大きなターニングポイントに差し掛かっている事は、どの側面で眺めても間違いないところです。いま、産業構造、それを支える経済面、労働事情、環境面、何より社会を構成する私たち自身の価値観が揺らいでいます。このような、言わば歴史の大地震の揺れの中で行く末を見定めるとき、古い20世紀型の価値体系を振りかざす政治家もエコノミストも、机上でモノを考える学者先生たちも無力に見えてしまいます。何より、彼らに国家百年の計のビジョンの提案が見られないからです。70%の人々が、いわゆるサービス産業(人が人への便益や快適さの提供のためだけに働く産業)で生計を立てているこの国の現状を、何か異常な事として感じなければ何も変わらないでしょう。そう書いている投稿者自信も、実のところ今は何も作り出してはいませんが、少なくともモノ作りを行っている企業を環境保全という視点でサポートし、市民に欲望を弱めるためのお説教をする、「環境坊主」の行を行っているという意識は常に持っていますし、今後の道筋はこのブログを通じて、キーボードを叩く指が痛くなるほど発信し続けてきました。

さて20世紀の総括ですが、まずは20世紀型の価値観や価値体系の根っこに対する強い反省に立って、その清算に着手する必要があると思うのです。結論から先に言えば、今のようなモノとカネに重心がある価値体系ではなく、ココロとイキガイに価値の重点を移す必要があると思うのです。食うや食わずの生活が日常であった古の時代、人々はある年にひどい冷害ににおそわれたとしても、神仏への畏敬の念を捨てるどころか、ますますそれにすがったことでしょう。それは、自然相手の農林業に軸足を置く限り、神である自然環境を畏れ敬う以外の価値観が見つからなければならなかったからでした。先ずは、モノとカネへの「信仰」を捨てなければ、清算の「せ」の字も始まらない事ははっきりしています。

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2010年10月25日 (月)

1222 ガラパゴス化

江戸期を通じ、日本は「文化のガラパゴス島」でした。しかし、一方では鎖国により、外国からの文化の流入が殆ど絶たれると、文化は独自に開花し、やがては結実するものの様です。

さて現代社会で、自虐的にガラパゴス化と呼ばれているのは、各種の工業規格や製品規格が、日本国内だけで有効であり、多くの製品が諸外国では使えない状況を指す意味としてです。例えば携帯電話や液晶テレビやカーナビが引き合いに出されます。その意味するところはかなりネガティブだと思われます。しかし、江戸期は確かに行き過ぎだったにしても、ガラパゴス化を裏返して、あるいは側面からみればそれほど悪くはないとも言えないでしょうか。つまり、ガラパゴス化は文化の場合と同じように、しばらくすれば大陸では考えられないような、独自の進化を遂げると予想されます。携帯電話が好例でしょう。日本の携帯電話ほど、小型で多機能で、しかも多様な機種が揃っている市場は世界にも類を見ない事でしょう。

市場が限られているだけに、色んな機能も、サービスも試してみやすいという事情もあるでしょう。今は、携帯電話も過渡期だと思われますが、見渡せば世界標準にもなりそうなものもボチボチ現れてきたような気もします。携帯電話フリークではないので、あくまで横目で見た感想ですが・・・。

ところで、投稿者が考えているガラパゴス化は、実は別の意味においてなのです。それは、外部から隔離された環境(閉環境)においては、その環境における問題点も際立つと思うからです。特に、資源の調達限界や廃棄物処理という点においては、間違いなく鮮明になることでしょう。つまり、レアアースの様に、「島」で調達できない資源は、それまでのストックが尽きるともはや手に入らなくなります。廃棄物に至っては、「島」のゴミ捨て場が一杯になったかどうかは、そこに行って直接見さえすれば、即時に理解できるはずです。この国の場合で考えれば、例えば製品や食品の原材料や使用エネルギーを、国産材料・エネルギーと、輸入されたものの割合を、パイグラフで色分けして表示すれば良いのです。そうすれば、この国がC国などとの国際競争に負け、いよいよ輸出するものも減って、従って輸入するお金も稼げなくなった時(本当にガラパゴス化した時)一体何が起こるか、誰の目にも明らかになる事でしょう。私たちは、この島で手に入る資源やエネルギーや食糧の余りの少なさに、愕然とする事でしょう。

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2010年10月23日 (土)

1221 省レア

レアアースの禁輸騒ぎがホットな話題です。待てよ。そういえば同じような状況が前にもあったよな。と古い人たちは思い出すでしょう。近くは、POECの石油の輸出禁止(抑制)で起こった、石油危機でしょうか。その結果、この国でも原油輸入価格が4倍に、石油製品価格が2倍に跳ね上がり、当時バイク少年であった投稿者も、ガソリンを1リットル単位で入れていた事を思い出しました。これに懲りた政府は、石油の備蓄基地を整備する事を決め、九州の喜入や国内各地に、概ね3か月分相当の消費量に当たる量を備蓄したのです。もっとも、その後は石油の消費量が増えたので、今は2か月分位に下がっている可能性もありますが・・・。この方法でも、短期的なショックを和らげる効果はあるでしょうが、長期レンジでの石油価格の上昇には、焼け石に水でしょう。

さて、レアアースです。鉄やアルミが産業のコメで、石油を味噌汁に、半導体や特殊合金をオカズに喩えると、レアアースは産業の調味料でしょうか。醤油や塩やダシや香辛料が手に入らなければ、私たちの食生活はそれこそ味気ないものになるはずです。金属の強度は低下し、半導体産業は競争力を失い、電池やモーターの性能向上に100%依存している電気自動車も、その普及が止まることでしょう。この国は、戦後一貫してB国の傘の下での平和が続いた事もあり、平和ボケがかなり進んでいると指摘され続けてきました。それゆえ、危機管理に関してもピントがズレている感がぬぐいきれません。危機に突入してから行動するのは、地震が揺れ始めてからうろたえて、何をすべきか考えるのと何も変わりません。バナジウムだ、ネオジウムだ、ガリウムだ、○○ウムだと言った材料を、国内でも調達できる材料か、あるいは世界のいくつかの国で産出している手に入れ易い材料で代替できる技術を磨かなければなりません。実は、そのためには膨大な組み合わせを試す必要があるので、非常に金もお金も時間のかかる作業となる筈なのです。

省エネを進めれば、石油はダブつき価格も下がるでしょう。同様に、レアアースの使用量を「省レア技術」を磨いて減らすか、既に使われている製品の含まれるものをリサイクルで取り出すか、他のレアでない元素で代替するか、あるいは裏ワザ的ですが海水にイオンとして溶けているものを取り出すか等の手段で、早急に省レアを達成しなければ、C国に首根っこを押さえられている状況からは脱出できないでしょう。(ちなみに原理的には海水からは金も抽出できます)いまやレアアースは、産業の「人質」になってしまった感があります。

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2010年10月21日 (木)

1220 欲望と夢

どんな人間も、やがては墓石の下に入らなければなりません。許された寿命を何事もなく全うできる人は幸せなのでしょうが、予期せず、望みもしないで事故や生活習慣病などで早々とお隠れになる人もそれなりに多いことでしょう。死んで墓石の下に抱えて持っていけるのは、賽の河原で取られる渡し舟の船賃「六文銭」程度でしょうから、残りはこの世に残していくしかありません。そうであれば、私たちは欲を出し過ぎて、この世の日々の暮らしに、必要でかつ十分なレベル以上のモノやエネルギーを求めるべきではないでしょう。欲張った望みを「欲望」と呼びます。

戦後、世界に門戸が開かれた時、戦中・戦後の貧しい生活を経験した投稿者以上の年配の人たちの夢は、三食腹いっぱい食事をすること、「文化住宅」で良いから家に住む事、兄弟や親せきのお下がりではなく、卸したての衣服を身につけることだった様な気がします。しかし、そんなささやかな夢も、欧米の(特にB国の)文化に(テレビや映画で)触れるにつれて、Aメリカンドリームで大金持ちになり、高級住宅街や億ションと呼ばれた、高層住宅の屋上階に住む事などという欲張った夢が膨らみ、実際株や債券などを転がして、それを実現する人たちも結構増えてきたのでした。右肩上がりの時代は、経済規模がどんどん拡大していく訳ですから、そのパイ拡大のおこぼれを集めて儲けるのは許されたかもしれませんが、パイが縮小しつつある、バブル崩壊後の現代社会では、一人の儲けは、他の多くの人々からの搾取無くしては成り立ちません。つまり、現在の社会では、一人の欲望の満足は、他の多くの人々の苦難の上にしか成立しない状況に至った事を改めて考えてみなければなりません。

欲望は、快適・快楽に対する欲求から生じ、満足されてもそれがますます増大するという、強い依存性があるようです。それが急に断たれると、禁断症状も現れる点、麻薬やドラッグと類似点も多いと感じています。人々は、歩いての移動に疲れると自転車を手に入れ、さらに遠くに出かけるためにバイクを買い、雨の日も、寒い日も快適に移動するために、相対的に値段がドンドン下がって行った車に飛びつきました。しかし一家に一台の車では満足できず、今や一人一台の時代に立ち至った訳です。この欲望にも、環境問題という、外的要因でブレーキは掛かって来てはいますが、では人々が一度手に入れた快適さ(車)を実際に手放すかを考えてみれば、当面それは期待できないものと思われます。むろんタバコ税の大幅値上げの様に、その快楽を享受することに、今の何割増しかのコストが掛かるようになれば、少数の人はそれを手放すかもしれません。実のところ、私たちに今一番必要とされているのは、「欲望を抑制する薬」かも知れません。今の時代、そのような薬も作れるのかもしれませんが、たぶん90%以上の人は、それを望んではいないのでないかとも想像しています。欲望のごく弱いものを、私たちは「夢」と呼んだりしていますので、それが殆どなくなった生活ほど味気ないものもないような気もしますので・・・。たぶん続きます。

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2010年10月19日 (火)

1219 軽小短薄速(即)

よく見ると、軽小短薄の語順が重厚長大と何故か入れ替わっているのは御愛嬌です。投稿者は、語呂は悪くなりますがそれに「速(あるいは即)」を加えてみました。軽小短薄速(即)の動きは、実のところエレクトロニクスの伸張に支えられてきたものでした。真空管がトランジスタに置き換わり、そのトランジスタはICに、ICは更にLSIへと集積度が上がり、小型化(マイクロ化)されてきました。この時期の日本の失敗は、CPUの開発において、B国に先を越され、単純で値段の安いメモリの製造に甘んじた事でしょうか。

一方、産業を支える素材としてみれば、鉄はアルミニウムに、アルミニウムはチタンや複合材へと進化し、強度と剛性を格段に上げましたが、軍事用はいざ知らず、それらが民生品の主材料になる事はありませんでした。速の代表である旅客機は確かに、ほぼ100%アルミの機体に変わりましたが、車の主材料は相変わらず鉄のままに留まっています。JRが打ち上げた、Rニア新幹線にしても、確かに旅客機同様のアルミボディーで軽量化ははかられるのでしょうが、南アルプスを貫くトンネル工事の環境負荷、時速500kmの高速走行を可能にする超伝導磁石の電力や強大な空気抵抗に打ち勝つ推進力を出す「仕掛け」は、とても環境に優しいとは言えない代物です。

さて、今後の社会で軽小短薄速(即)の動きが今以上進展するのかという点ですが、投稿者は否定的です。何故なら、軽小短薄速(即)の動きは、決して環境負荷を下げる方向に働かないからです。例えば、ボーキサイト(主成分はアルミナです)からのアルミの精錬(還元)には、1g1円(日本では約2円)と言われるほどの電力が必要ですし、複合材はと言えば、リサイクル上は最も質の悪い劣等生です。エレクトロニクスは、確かに小型で高速で消費電力も小さくなる方向に今後もズンズン進むのでしょうが、しかしコンピュータ自身がモノを製造してくれる訳でもなく、やはりモノを作るのは、電力を消費する工作機械でありそれらをオペレートするのは、やはり人間であり続けるでしょう。ヒトを機械を監視するだけのつまらない仕事に追いやって、一方で多大なエネルギーを使う自動化・省人化(これは人を「省く」という怖い言葉です)を推進する世の中の動きには、どこかで歯止めが掛かって然るべきだと日々感じています。

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2010年10月17日 (日)

1218 重厚長大

重厚長大は、近代化を象徴する熟語でもあります。戦後の日本の大改革は、農地改革、財閥解体、新憲法発布、シャウプ税制の施行などでしょうが、金融業としての財閥解体やその資本で大きく成長した重厚長大産業の解体は、実は完全には行われなかった様なのです。解体が終了する前に朝鮮戦争が勃発し、アメリカは戦線の後方支援のため大量の物資が必要となり、日本の重厚長大産業に対して、急速な復興と生産量拡大を要求したからです。結局、戦後5-6年ほどで、日本は戦前のピーク時の生産量を回復し、更に増産するため、信じられないほどの勢いで設備投資も行ったのでした。投稿者が生まれた頃の昔の話です。

結果としてみれば、朝鮮戦争や、その後勃発したベトナム戦争などの地域戦争が、アジアの奇跡とも呼ばれる、日本の戦後復興とその後の経済の高度成長を後押しし、加速してくれたのでした。B国は、実は駐留軍を(講和条約後に)縮小して、速やかに撤退する計画だった様ですが、きな臭いアジア情勢と世界を支配した(キューバ危機から始まる)冷戦ムードのなかで、B国軍隊の日本駐留を固定化せざるを得なかったというのが、戦後史から読めるこの国の時代背景なのでした。B国とこの国は、S連崩壊という千載一遇のタイミングでの、軍備縮小と国内基地撤退のチャンスを逃してしまったのかも知れません。

さて、重厚長大産業を下から支えたモノは鉄で、カネは経産省などが旗を降る種々の助成金だったと言えるでしょう。ヒトは、田舎が空っぽになるほどの、都市流入で賄いました。結果として、高度成長のベースには、1億トンまで伸びた、製鉄業の拡大があったはずです。鉄は、船となってあらゆる資源(石油、石炭、鉄鉱石自体など)を輸入する輸送手段となり、また一方では工作機械や車となって、外貨を稼ぎまくる産業のコメとなって拡大の推進力となってきました。鉄は、実際環境にはありふれた原材料でもあります。クラーク数でも地球では4番目に多い元素で、全体の5%弱の割合となっています。その分、例えば砂鉄などの形で、古くから人々に認識され、利用されてもきました。近代製鉄の発展によって、鉄のか還元が木炭からコークスに置き換わり、大規模工業的に行われる様になって以降は、急激にその生産(還元)量が増加しましたが、更にそれを加速したのは、イデオロギー戦争や各地の宗教紛争だったと言えます。戦争は鉄を消費します。艦船、戦車、砲弾等を作っては、一方で戦線ではそれらを惜しげもなく破壊してきたわけです。もちろんあの核爆弾は世界戦争こそ抑制はしてきましたが・・・。たぶん続きます。

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2010年10月15日 (金)

1217 パソコン退院・再入院

入院していたパソコンがやっと退院してきました。入院以前の症状は、パソコンを立ち上げて、デスクトップ画面が出た途端に、電源が勝手に落ちてしまうというものです。セーフモードでは問題なく立ち上がるのですが、何度やっても同じ症状なので、諦めて入院させました。マザーボードと電源装置を換えたとかで、新品を買うより少し安い金額の請求書とともに、無事退院してきました。

喜び勇んで、面倒なソフトウエアの再インストールと各種の初期設定を行い、なんとか元通りに戻った様でした。が、数日後以前と全く同じ症状でダウンしてしまいました。注意して画面のコメントを読むと、どうやら何かのソフトがリソースを馬鹿食いしているとのこと。結局犯人は、無料でダウンロードできるデスクトップ常駐ソフトである「G-グル・デスクトップ」などのようです。試しに、それを削除してみると、どうやら元気を取り戻してくれたのでした。つまりは、パソコン君は、立ち上げ時にデスクトップ画面を表示しようとして、パワーを出し過ぎで、毎朝ストレスを溜めていたようなのです。教訓:タダほど怖いものはない。

やっと直ったと思ってのぬか喜びも1日だけでした。翌朝パソコンを起動したら、パソコンがまたまた修理以前とまったく同じ状態に逆戻りしてしまいました。結局、問題はソフトウェアなどではなく、修理がしっかり行われていなかった事の様なのです。ちなみに請求書だけはしっかり届きましたので、とりあえずは怒りの電話を入れて、再修理を依頼しました。教訓:病気は全快までしっかり治しましょう。

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2010年10月13日 (水)

1216 遠赤ビジネス2

光(可視光)も同じですが、遠赤の本質は「電磁波」です。実のところ電磁波自体も、果たして電波なのか磁波なのか、見当もつかない存在?ではありますが、実際テレビやラジオや携帯電話を使い、電子レンジのお世話になっている私たちとしては、確かにそれが在る?事は認めざるを得ないでしょう。何より、焚き火に手をかざすと、確かに私たちの手に「それ」が届いている事は実感することが可能です。電磁波は、方向性も持っています。だからこそ、「それ」は空間を突き抜けて、エネルギー源から、エネルギーの受け手に向かって、エネルギーを伝えることができるわけです。

しかしながら、実のところ「それ」をコントロールするのは、至難のワザだと言うしかありません。というのも、「それ」は電気などと違って直接蓄えておく事はできませんし、集めたり、反射させたり、止めたりするのも、かなり厄介です。「それ」は、電波でも同様ですが、発生源からあらゆる方向に、広がりますので、集めるにはパラボラ型をした鏡の様なものを使うしかありません。しかし、首尾よく集められたとしても、「それ」の波長は変化しませんので、「使いで」は向上しません。つまり、100℃の物質から出た赤外線で、別のものを100℃以上に熱する事は叶いません。

しかし、考えてみると、私たちは素晴らしい、赤外線の発生源を持っています。お天道様です。お天道様の表面温度は、6000℃程ありますので、これを集めると原理的には数千度の温度を得ることが可能です。実際、3000℃程度の温度が、太陽光反射炉で得られています。凸レンズで集めても、紙が焦げる温度(約300℃)程度には加熱することができます。問題は、そのエネルギー密度です。虫眼鏡で集めた程度では、300℃が得られるのは直径数ミリの円形の中に限られますし、量にしても真夏の昼ごろの直射日光でさえ、平米当たりでも1kw程度のエネルギーしか得られません。100%集められたとして、調理に使うためには、最低でも1㎡程度の面積を有する、凹面鏡が必要となる計算です。でも、それは可能なのです。

いずれにしても、遠赤ビジネスのエネルギー源としては、お天道様以外には考えられません。あとは、それを蓄える、反射させる、食い止める、集めるなどのテクニックを磨いて、それを組み合わせることが必要なだけです。具体的に言えば、蓄熱材、反射材、断熱材、集光装置などの要素技術を磨く事になりそうです。さらに続きそうです

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2010年10月11日 (月)

1215 遠赤ビジネス

遠赤外線(以下遠赤)は環境に溢れている量が多くて、しかも多様なエネルギーだと言えます。問題は、目には見えない事と、どこかに溜めて置くことができない事、更には波長範囲が広すぎて、コントロールできない事くらいのものでしょうか。とは言いながら、人間にとっては暖を取る時や、食糧を調理する時くらいしか使っておらず、お世辞にも有効に活用しているとは言えない状態なのです。赤外線や遠赤は、太陽光に多く含まれる事、焚き火やストーブなどの暖房、焼く(ベーキング、ローストなど)という調理法で利用されている事は、すぐに思い浮かびますが、実のところ、温度を持つすべての物質から、遠赤が放射されている事は思い起こす必要があります。宇宙空間の平均温度は、絶対零度に限りなく近いので、もし太陽が暗くなり、地球内部のマグマが完全に冷えてしまうと、地球の平均温度も絶対零度(0°K=マイナス273℃)近くまで下がってしまうはずです。今、全球の平均気温は15℃(288°K)程度ですから、私たちは絶大な太陽光のパワーと、豊富な地球内部からの熱(地熱)伝達に、文句なしに感謝しなければなりません。

さて、遠赤ビジネスです。それぞれの物質の温度に対応した波長で、それぞれの物質が放っている赤外線や遠赤ですが、実際のところその利用は大変困難です。人間が、今行っているビジネスで、図らずも遠赤を多量に利用しているのは、唯一農林業だけであると言っても言い過ぎではないでしょう。植物は、短い波長の光を使って光合成を行いますが、実は赤外線や遠赤もうまく利用しています。その証拠は、植物の葉の緑色です。植物の葉は、可視光線の赤色に近い赤外線や遠赤を効率よく吸い取ってしまうので、結果として不要な緑色だけを反射しているだけなのです。その巧妙な光合成の仕組みや赤外線や遠赤を利用する仕組みは、だいぶ解明はされては来ていますが、人工葉緑素の合成にさえ成功していない現状の研究レベルは非常に低いと言わざるを得ません。先ずは、植物が何億年も掛けて開発してきた、光や赤外線や遠赤の利用のテクニックに、徹底的に学ぶべきなのでしょう。光や遠赤の利用とそのビジネスは、その先に無限大に広がっています。続きます。

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2010年10月 9日 (土)

1214 RGE25%

また勝手な略語を作ってしまいますが、RGEとはRe-generative Energyの事です。日本語では、再生可能エネルギーや自然エネルギーとも呼ばれます。エネルギーの削減に関して、チームマイナス6%などと、いつまでも誤魔化しては行けません。まずは、チームマイナス50%を結成して、その分科会としてRGE25%が必須となりつつあります。再生可能エネルギーを25%にするのは、そんなに非現実的な提案でもありません。そもそも、エネルギーを半分にする訳ですから、現在のRGEレベルが5%であっても、エネルギーのマイナス50%が達成されれば、自動的にRGE10%に跳ね上がるからです。10%を25%にするには、さらに2倍以上にする必要がありますが、現在のままのエネルギー使用レベルでは、RGE5倍にしなければならないことに比べれば楽なものです。

さてRGE25%へのプロセスですが、まずは太陽熱の最大限の活用が求められでしょう。熱の形で、使われるエネルギーの割合は、非常に多いのではないかと想像しています。家庭生活に限ってみても、炊事・給湯、入浴、冷暖房などが思い浮かびます。その他は、光や洗濯機や掃除機などの動力、加えて冷蔵庫やテレビなどの家電の電力などがあるでしょう。まずは、これらの内の半分でも太陽熱で賄うことができれば、RGE25%は結構近い将来にも実現できそうです。風呂などで使う50℃前後の温水と、調理にも使える100℃を超える温度が得られる太陽熱集熱器(ソーラーコレクター)が必要です。前者は、我が家にもある太陽熱温水器をやや大型化するだけで十分でしょう。通常の容量の太陽熱温水器では、夏場の入浴には十分過ぎますが、冬場では入浴に必要な湯量の1/3程度しか得られません。現在よく目にする太陽熱温水器の2倍程度の容量があれば、晴れた日には、ほぼ十分な量の給湯が可能となるはずです。

問題は、調理に使う熱です。食物の中の澱粉がアルファ化する(米が飯になるには)90℃以上の温度が必要です。平面型のソーラーコレクターでは、60-70℃が目いっぱいなので、何らかの形で、太陽光を何倍かに集光する必要があります。実際にも、凹面鏡(パラボラ)で集光するタイプの、ソーラークッカーも市販されていますが、実用化にはまだ距離があります。南向きの窓の下で太陽光を集める集光器と、集めた熱を台所の調理器に導く、何らかの導熱ダクトの開発が必須です。光ファイバーの様な高価なものでも、火事を出す様な危険なものでも使えません。金属製のパラボラや、内部をピカピカに磨いた金属パイプなどがその候補になるでしょう。給湯と、調理が、太陽熱だけで可能であれば、年間の1/3程度の日数は、現在の半分程度のエネルギーで暮らせる生活が見えてくるでしょう。これでRGE15%以上が実現できるはずです。現在の太陽光発電が主体の路線で5%程度は確保できるとして、残りの5%は小水力なり風力なり、バイオマスなりを、地域の特性に応じて取り入れる事になります。

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2010年10月 7日 (木)

1213 環境の値段

空気やエネルギーや水の値段を突き詰めて考えていくと、結局「環境の値段」を考えてみなくてはなりません。一方では、自然が与えてくれた命や環境に、おこがましくもヒトが値段など付けられるものだろうか、との疑問もあるでしょう。しかし、事実としてこれまで私たちは、環境を殆どただ同然に「消費・浪費」してきた事を思い出す必要があります。水や空気の無節操な使用、あるいは材料やエネルギー源としての過度の森林伐採、焼畑農業などに見られる土壌の濫用など、枚挙にいとまがありません。環境を消費して手に入れた、いわゆる資源や食糧は、殆ど「運び賃+儲け」だけの値段で取引され、消費されてきました。「環境からの収奪」という厳しい表現もありますが、これは、この国の伝統的な態度、「食べ物や材料は自然からの賜り物」という考え方とは、180度ほども異なるアプローチだと言えます。

自然からの収奪では、奪いっぱなしで知らんふりを決め込むのでしょうが、賜り物をありがたく「いただく」ためには、いただいた後に自然を元の状態に戻す努力が不可欠なのです。木を切った山に、元と同じような種類の樹木を植林する、米を収穫した田んぼに、山土やたい肥を補う、自然が増やしてくれる範囲以上には魚介類も採取しないなどの努力を、ご先祖様たちはコツコツと続けてきたのでした。それが、自然から恵みをいただくための、あるいは神としての自然を崇める「唯一で絶対のルール」だったからです。そのルールを破る事は、自然に100%依存する社会では生死を分けるご法度でもありました。

さて、環境に値段をつける事とは、お金を払って環境を取引する事ではありません。環境から、資源や食糧をいただくためには、相応のお金を支払い、そのお金を自然を修復するための活動資金として還流させる事を意味するのです。その意味で、今後必要とされる産業は、農林業でも、工業でもなく「自然環境維持業」、あるいは「自然環境修復業」というカテゴリーの、古くて新しい産業だと言えます。この分野に関わってさえ行けば、100年後も絶対安泰な超優良企業になり得る、と断言しておきます。

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2010年10月 5日 (火)

1212 化石エネルギー半分

1210で提案した、化石エネルギーを半分にカットする、具体的な方法ですが、いくつかにまとめる事が出来ます。

1)頻度を下げる。今、エネルギーを使って、当たり前の様に繰り返している毎日の行動や習慣(Routine)を見直せば、間違いなく大幅な省エネが可能です。例えば、通勤です。一人しか乗っていない車を転がして通勤している人の、ほぼ90%は20㎞以内の通勤距離ではないかと想像しています。多くは10㎞前後でしょう。そうであれば、天気の良い日を選んで、踏ん張って週に数回は自転車通勤を実行すれば、車の燃料は半分にできるでしょう。また例えば、風呂です。夏場は週に数回はシャワーだけで済ませれば、風呂のガス代は半分になるでしょうし、冬場は入浴を一日おきにすれば年間を通じて、半分にできるでしょう。

2)必要性を見直す。いわゆる、エネルギーの仕分けです。企業活動に、あるいは生活を行う上で、どうしても必要なエネルギー(不可欠エネルギー)は、実は3割程度しかありません。残りの7割は、無駄使いしているエネルギーと、自動化や利便性・快適性向上に使われている部分だと言えます。例えば、最近のマシニングセンターなどの工作機械でも、直接金属の加工に費やされているエネルギーはまさしく3割ですし、日常生活でも今の3割のエネルギーで暮らすことは十分可能です。電気掃除機での掃除は週1にし、他の日はホウキで済ませる、あるいは主婦車を止めて、買い物には自転車で行ことで、車は一家に1台にするなどを実行すれば、今の半分のエネルギーでも十分暮らせます。実際にも、エネルギー消費が現在の半分以下で暮らしていた、1970年代半ば以前の暮らしは、決して原始生活でも、不便で我慢が出来ない暮らしでも無かったと振り返っています。

3)手動に戻す。2)にも関連しますが、無くても済むものは、思い切って捨ててしまいましょう。特に自動移動車(車の事です)、電気~機、自動~機などの「機械」を捨ててしまい、自分の手や足で動かす「道具」に戻す訳です。私たちは、便利なモノどもに飛びつき、あまり手足を使わなくなって以降、健康や器用さや工夫する能力など、失ったものがいかに多いか、考えると情けなくて、勿体なくてため息しかでません。

結局、何も面倒な事を考えたり、実行したりする必要はないのかも知れません。必要な事は、進んでしまった時代を、少し巻き戻しをして、かつてのつましい生活を思い出して、少しでも実行するだけで良いのでしょう。追加の削減アイデアが浮かべば、また投稿します。

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2010年10月 3日 (日)

1211 水の値段

最近は、バーチャルウォーターというキーワードが、マスコミにも頻繁に登場しています。水の消費は、日常の炊事に使ったり水まきや風呂や洗濯などのために、蛇口から使う水だけではなく、加えて輸入食糧や輸入製品を作るために使われた、目には見えない農業用水・工業用水(バーチャルウォーター)が、食糧や工業製品と一緒に輸入されたとみなす考え方です。例えば、1トンの穀物を作るためには、乾燥地帯であるアメリカ中西部などでは、1000トンから2000トンほどの灌漑用水が使われている事は事実です。世界の多くの穀倉地帯は、半乾燥地帯(ステップ地帯)と重なっていますので、降雨量は非常に少なく、農業用水のかなりの部分は、実は地下からの汲み上げ水に頼っています。現在の農業用水は基本的にはただで、せいぜい地下からポンプでくみ上げる電力料金が、水の値段だと言っても良いでしょう。

しかしこの地下の水脈の多くは、その地方が盆地か湖だった太古の昔に貯金された水(化石水)であり、補給はほとんど無い事は頭に置いておく必要があります。今はどうにか汲み上げている地下水も、降雨や山脈からの伏流水による補給が無ければやがて涸れてしまいますので、現在の農業は「持続可能性」に照らせば、やがて破局を迎えると考えなければなりません。つまり、どんなにポンプをブン回しても、地下水が最早一滴も上がって来なくなれば、現在の豊かな農場はただの砂漠に戻ってしまうのです。一方、石油井戸はたとえ自噴しなくなっても、別の古い井戸から海水を押しこめば、どうにか石油を絞り出す事が可能です。この点で、石油と真水は入手量の推移において全く異なる性質をもっている訳です。つまり、ジワジワ無くなる石油と、ある日突然出なくなる水、の比較となる訳です。石油には既に値段がありますが、投機的な値段の吊り上げがなければ、徐々に値上がりするでしょう。しかし、もし農業用水にも相応の値段をつけたと仮定すれば、同じ水脈を共有している地域では、水の値段は突然上がるのではなく「いくらお金を積んでも買えなくなる」訳です。突然の、しかも後戻りできない変化を、日本語では「破局」と呼んでいます。

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2010年10月 1日 (金)

1210 エネルギーの値段

エネルギーにより高い値段をつける意味は、空気に値段をつける事と重なる部分もありますが、そうではない意味も大きいとも言えます。同じ部分とは、いわゆる温暖化防止に向けて、エネルギーの大量消費にブレーキを掛けるという事においてです。そうではない部分とは、資源の温存(Preservation)というほどの意味においてです。誰が、作って残しておいてくれた訳でもない地球からの贈り物である化石燃料を、たまたま自国の中にある井戸から湧きだすという理由だけで、市場経済の求めるままに、それを掘り出して売るという行為に歯止めをかけてくれるのは、今のところはエネルギーにより高い価格をつける手段しか無さそうなのです。

前者については、国際間の話し合い(Post京都議定書)に待つところ大ですが、国同士の利害の対立で大きな進展は望めません。後者については、例えば石油資源の枯渇の小さな兆しでもあれば、世界中がパニックに陥り、短期間のうちに投機マネーがどっと動いて、石油価格をぐいと押し上げる可能性はあります。投稿者の期待は、結局は後者のパニックが、急速にしかしどうにか制御可能な(つまりは戦争が起きない)範囲内で発生する事です。

その事態に予め対応する事が、結局は逆立ちしても化石エネルギーが産出できないこの国が、今後の世界で生き残る道なのだと思います。具体的には、ささやかな省エネ行動では全く事足りず、今後必要な姿勢は「脱化石エネ行動」でなければなりません。石油を中心とする化石エネルギーから脱するためには、どう考えても、数十%程度の大幅なエネルギーの削減と同時に、再生可能エネルギーへの依存度を高める事を意味します。それも、急速に事を進める必要があると見ています。まずは、10年もかけない期間で化石エネルギーの比率を半分までカットする必要があるでしょう。いまそれを行わなければ、10年以内にもエネルギー価格が2倍に跳ね上がり、原産の結果、量的にも現在の半分しか輸入できない事態を、手をこまねいて待つ事になると見ています。減らした化石エネルギー分の半分程度は、再生可能エネルギーで賄うのですが、残りの半分は、正味の省エネつまりは脱エネ分となる訳です。

結局、理想的にいえば2020年までに、国の言うようにエネルギー使用を25%減らすのですが、化石エネルギーを半分に減らし、再生可能エネルギーの比率を、25%まで増やし、今の75%レベルまで抑え込むという比率になりそうです。本当に可能かと問われれば、とにかくパニックを避けるためには、やるしかない、という答えになるでしょう。その具体策は、追って提案することとします。

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2010年9月29日 (水)

1209 空気の値段

ほとんどのモノには値段があります。目に見えるモノに値段があるのは、たとえ原料の原価がゼロのモノでも、それを採取し、加工し、梱包して運搬する手間を考えれば、いくばくかの値段が付けられてもそれなりに納得はできます。モノの値段は、理想的に考えれば需要と供給のバランスによって決まるはずですが、現実の場合では、売り手側や問屋の思惑や、投機対象か否かなど複雑な過程で決まるのでしょう。さて、空気の様に、その場で全くの無代価で入手できるモノはどう考えたら良いのでしょう。空気は基本的には、世界中どこでも無料なので、化石燃料など空気(中の酸素)で燃やせる燃料を手に入れることができた人は、誰に断る事なしに、勝手に車のエンジンに取り入れたり、ガス風呂のバーナーで使ったりしても、これまでのところどこからも文句は出ませんでした。

しかし、いまや燃やした後にできるCO2には、値段が付き始めています。排出権取引で、CO2として排出されたカーボンに、トン当たり数千円の値段が付けられて取引され始めたのです。結果としてみれば、これは燃やすために取り入れる空気(酸素)に値段がついている事と同じ意味になります。いわば目には見えない空気に、お金という「札」をつけて、可視化しようとする試みでもあるでしょう。これは、遅かれ早かれ「環境税」として、空気消費に対して、より大きな額の値段が付けられる前の試行段階とみる事も出来るでしょう。何であれ、目に見える様にさえすれば、ヒトはそれに注目し始めます。ヒトとは、視覚情報とそれを処理する脳の部分が、異常に発達してしまった存在でもあるので、見えるものには何であれ注目してしまうクセがあるからです。

匂いは無いにしても、もし、化石燃料を燃やした排気ガスに、濃い色が付いていたと仮定すれば、街は車の排気煙?で、全く見通しが効かない事態になり、ヒトは車の使用を自粛し始める事でしょう。しかし、残念ながら、空気も排気ガスも殆ど無臭で眼にも見えません。永いながい地球の歴史がプレゼントしてくれた、酸素21%を含む大気は、本当に得難い自然の恵みだと思うのです、この貴重な資源である空気にもできるだけ高い値段をつけて、その重要性をヒトに意識させるしかないのでしょうか。

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2010年9月27日 (月)

1208 雨季・乾季

熱帯地方には、雨季と乾季という二つの季節しかありません。理由は簡単で、偏西風が吹かない熱帯地方で、季節を支配するのは、基本的には日射量しかないからです。太陽が、赤道を越えて北回帰線側に入ってくる頃になると、北半球の側の日射量が増える結果、赤道付近により多くの熱が溜まり、熱帯性の低気圧の発生が活発になって、アジアでは、いわゆるモンスーンの季節(雨季)に入ります。逆に、お天道様が南半球に旅に出ている間は、北極や中緯度の大陸性気団が勢力を盛り返してくるので比較的乾燥して涼しい季節である乾季に入ります。

さて、日本付近での近年の季節変化は、何やらこの熱帯地方の気候に似てきたような気がしてなりません。理由としては、夏季に吹く偏西風の緯度が高くなっている事が疑われます。偏西風はとは、北極気団の南の端を取り巻く西向きで高速の気流で、ジェット気流などとも呼ばれます。偏西風の流れは、実のところ日本付近ではヒマラヤ山脈の地形に支配されます。北極気団が強く、偏西風が、ヒマラヤ以南で流れていると、日本付近は冬の季節になり、ヒマラヤ以北を流れていると夏になります。春秋は、偏西風がちょうどこの山塊にぶつかるので、蛇行したり渦(つまりは低気圧や台風です)を発生させたりすることになります。

今年の夏は、どうやら偏西風が殆ど期間ヒマラヤのかなり北側を流れていたようなのです。従って、モンスーンの北の境である梅雨前線は北海道辺りまで北上する事になり、梅雨のないはずの北海道でも、多量の雨が降る結果につながりました。その一方、本州以南は、さながら熱帯性の気候になり、夏場は日照時間が長い分だけ、連日35℃を超える様な、「熱帯以上」の記録的な猛暑となったようなのです。偏西風の北上は、実のところ北極圏の気温上昇が起因していると思われます。夏場に北極海の浮氷が広い面積で消滅してしまっている近年では、北極海を照らす「沈まない太陽」が、海水温度をこれまで以上に高くしてしまっているはずなのです。この推論は、ヨーロッパやロシア辺りでも同様の猛暑となった事でも、裏付けられている様に見えます。どうやら、この気候の傾向は既に定着してしまっているようなので、猛暑の夏は年毎の振れはあるにしても、右肩上がりに激しくなると思われます。日本の熱帯化が、いよいよ現実のものとなりつつあります。

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2010年9月25日 (土)

1207 PONR

PONRとは、Point of no return(もう後戻りの効かないポイント)の略です。山によく登りますが、投稿者は、日帰り登山の場合、必ず遅くも正午まで山頂に立つ事を目標にします。1100までに登頂できれば更に理想的です。その時間に届くように、時間を逆算して、登り始めの時間を決める訳です。それが、例え0400であっても、その様に計画します。つまり、時間的に見れば1200が日帰り登山のPONRという事になります。その時間まで届かなければ、無理はしないで次回に再挑戦する事にします。実際に、そんな事態になった事は、かつて一度しかありません。その時はバスで下駄履きでも登れる乗鞍に、あえて裏側(南側)の一合目から登っていて、8合目付近からは10メートル先が見えないほどのガスに巻かれ、闇雲な行動が危険となってしまったのでした。(というより、今となってはクマに遭遇しなかった幸運に感謝するだけですが・・・)更に少しずつルートを確認しながら登りましたが、ついにルートを示すペンキマークも見失ってしまいました。ガスが薄くなるのを1時間ほど待ったのですが、昼になっても状況が変わらないため、頂上まで500mほどの地点から仕方なく撤退したのでした。この地点が、この登山でのPONRだった訳です。

さて、ここでPONRを引き合いに出したのは、もちろんこのブログの主題である環境問題に敷衍するためです。環境におけるPONRとは、環境悪化による影響が更なる環境悪化を招く、いわゆる「悪循環」に陥るポイントを差します。温暖化で言えば、温暖化の結果、広大なシベリアの凍土が夏場に解けて沼地になり、そこからCO2より一ケタ以上強力な温暖化効果ガスであるメタンが多量に湧きだし、更に温暖化を加速する、といった現象です。余り考えたくもなく、言いたくもありませんが、投稿者のカンでは、どうやら温暖化に関しては、PONRを超えてしまった様な気がしてなりません。もちろん、かといって明日から原始時代の暮らしに戻る訳にもいかないでしょうから、私たち人類は、文字通りこの地球に骨を埋める覚悟で、前進するしかないのでしょう。どうせヒトは、何時かは死んで骨になるのだから、それが早いか遅いかの違いだけだ、という様な「諦観論」もあるのでしょうが・・・。

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2010年9月23日 (木)

1206 百年製品

1204での「百年」という年月からの連想です。この題で以前にも書いたような気もしますが、別の言葉を使って繰り返しておきます。百年製品とは、10年以内に買い替える事を前提に設計され、結果として廃車というゴミを増やすイビツな製品である今の車や、それを後押しするエコカー減税のような悲しい制度ではなく、走行距離で言えば例えば30万キロ以上、あるいは使用期間では30年以上にわたって、快適に走る性能を持つ、「超長寿命製品」を意味します。住宅でいえば、僅かな内装の模様替えだけで、何世代にもわたって住み続けられる、いわゆる「百年住宅」がこれに当たります。

勿論、何の手入れもなく100年も使い続けられる製品は、初期コストが掛り過ぎて現実的ではないという突っ込みもあるでしょう。そうではなくて、百年製品でも、実は綿密なスケジュールに従った「メンテナンス」や「修理」が必要なのです。かつて街にはそれを実現してくれる職人さんが沢山いました。電化製品を売るだけの電気屋ではなく、ハンダの匂いがする「ラジオ屋」や目に拡大鏡を嵌めた「時計屋」、ブリキでできた容器などを修理する「鋳掛屋」、建具を直す「指物師」、刃物ならなんでも新品同様に蘇らせる「砥ぎ屋」、洋服の破れを見事に直す「カケツギ屋」、客が望むオリジナルのリヤカーなど中古部品を使って簡単に作ってしまう「自転車屋」等などです。これらはホンの一例で、実のところ製品の種類だけ修理屋が存在したと言っても過言ではありませんでした。

投稿者のサラリーマンとしてのキャリアも実は、修理屋で始まりました。それは、大型船のエンジンを保守や修理を行う、造船所の技師という仕事でした。10年ほどの、修理屋修行で身に付けた教訓は「直らない故障はない」というものでした。例えば、鋳物製品が割れてしまうと、本体ごと交換してしまうしかないと考えがちですが、「Mタロック」という技術を使えば、ほころびをミシンで縫うように、脆い鋳物をくっつけてしまう事も出来るのです。その他、最初は頭を抱えてしまうような、故障やトラブルを数多く経験しましたが、不眠不休の修理作業の結果、全ての船が何事もなかった様に船出していく姿を見送りながら、上の人生訓を得た訳です。メーカーの設計者にモノ申したいのは、ぜひ修理のし易い百年製品に挑戦してもらいたいという一点だけです。そのためには、徹底的に壊れたモノを見て、壊れた原因を追究し、それを修理する方法を考え続ける事です。その結果、ほぼ自動的に壊れにくく、直し易い製品の姿が見えてくるはずです。

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2010年9月21日 (火)

1205 人工林

連休の中日、1年ぶりの本格登山で、南アルプスのど真ん中にそびえる、3000mの山のピークに立ちました。山に登って何時も感じるのは、人のちっぽけさです。山の頂上には、だれも引っ張り上げてくれませんから、自分の足で、一歩一歩自分自身を高みに上げていかなければなりません。3000mといえども、水平距離にすればたった3kmです。平地では歩いても、1時間もかかりませんが、山だと往きだけで6時間以上も掛りました。日帰りでしたので、都合10時間以上は蟻ンコの様にひたすら歩いていたことになります。

しかし、今回は人の力の大きさも感じた山登りでした。というのも、今回は塩見岳でしたが、登山口からピークの肩にある山小屋まで、5時間ほど樹林帯の中の道を歩いたところ、その殆どが針葉樹の「人工樹林」だった事に気がつきました。その大部分が、あるパルプ会社の社有林である事が、何箇所かに掲げられた古い看板で分かりました。植えられているのは「ツガ」か何かのパルプ用の針葉樹なのでしょうが、標高の低い部分は、しっかりと間伐などの手入れが行われている様で、素人が見たところでも、十分な太さで成長している様です。全く余計な事ですが、この山の木を切る段になったら、一体どのようにして運び出すのか、という心配が湧きおこりました。値段の高い立派な住宅用材であれば、ヘリコプターを使って一本吊りしても費用が捻出できるのでしょうが、パルプ用材では、そうはいかないでしょう。今回登った登山口までは、舗装された立派な林道が建設されていましたので、この山のパルプ材を切る時になったら、やはり多額の税金を使って、その林道を延長することになるのでしょうか。

塩見岳のケースは、実のところ特殊ではないと想像しています。データで見ても、日本の国土のほぼ6割は森林で覆われていますが、その半分は人工林か、あるいはかつて人の手が入った、半人口林であるとされています。人間は確かにちっぽけな存在ではありますが、そのちっぽけな祖先たちが束になって、しかも長いながい年月をかけて、背中に苗木を担ぎ、腰にオニギリを下げて、ろくな道も無かった標高2500m近くの高みにまで植林をし続けたのでしょう。その結果であるこの山の様子を見るにつけ、この膨大な祖先からの財産をどのように受け継いで、維持管理すべきなのかを、既に山を放棄してしまった今の世代に問いかけても、答えは見つからない気もしました。

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2010年9月19日 (日)

1204 百年の計

1203の続きです。以前にも書いたのですが、かつて(西部劇以前の話です)のアメリカ原住民の決めごとの基準は、その決めごとが「7世代後の子孫の幸福につながるか否か」であったと言われています。つまりは、その決定が100年後の子孫が振り返っても正しかったと言われるように行われなければならない、という事を意味します。さて、この国で100年ほど前に行われたであろう決定を振り返ってみたいのですが、残念ながらその間に数回の戦争や紛争が起こっているので、歴史も人々の価値観も不連続になっています。そこで、このブログでは投降者の記憶も残っている、過去60年ほどの後半(戦後)について書いている次第です。

さて、戦後のこの国の政策は、首尾一貫していました。一言でいえば、脇目もふらずに経済立国への道を突っ走る事だったのです。そのために、国はその方向に資すると判断した場合には、公共事業は勿論、産業や企業への直接的な補助金や利子補給(つまりはほぼ無利子で金が借りられる制度)等の形で多額の税金も使い、官民一体となって産業を鼓舞してきたのでした。しかし、その一方で急速な経済の拡大は、多くの歪みや軋轢も生みだしました。多くの公害に始まり、拝金主義やモノ依存、不労所得への期待等、人心も荒れてきものだと、振り返っています。何より、青写真無き経済規模だけの拡大は、行先を定めないまま(明確な将来像が描けないまま)、前進だけを続けていただけなのではないか、という反省が否めません。それは、私たちは日本株式会社の構成員として、何も考えずに前に進むだけしか能がない馬車馬だったのかも知れない、言う反省です。

投稿者は、他人よりは多少早くこの馬車馬のハーネスから抜け出した訳ですが、だからこそなお一層、馬車馬の悲哀がココロにしみてきます。百年の計を描くのは実は容易でもあるし、難題でもあります。容易であるという理由は、物事の決断を下す時に「ところでこれは100年後も正しいと評価されるものかどうか?」という問いにYesと言えるかチェックすれば良いだけなのですが、一方難題であるという理由は、私たちは歴史上、今以上の難題(地球規模の環境の悪化)に遭遇した経験が無く、従って何から手をつければ良いか、途方に暮れて佇んでいるのが実情だからです。

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2010年9月17日 (金)

1203 近代化

相変わらずの鳥の目で見た投稿者の感慨です。産業革命は、近代化の黎明期であり、それを鵜呑みにして移入した明治初期が、日本の近代化のスタートラインだと言われます。確かに明治は西欧制度の移入期ではありますが、実際には戦後こそが、この国にとっての本当の近代化が始まった時期だとも思っています。というより、戦後の体験しか持たない投稿者が、明治期の産業の変革について深くは語れないというのが実際のところですが・・・。さて、戦後急加速して再近代化(というより米国化)に突き進んだこの国ですが、これをまさに体感している投稿者としても語る資格があると思っています。とは言いながら、東北の田舎町で育った投稿者の体験は、実際のところ中央から見れば数年~10年程度のタイムラグはあった事でしょう。それは、例えば電化製品の普及や車の保有台数が急増加する勢いなどの差として観察された事でしょう。

しかし、この国の本当の近代化は、戦後の製鉄や造船業が牽引した重厚長大産業の隆盛と、それを世界中に売りまくった、商社パワーに象徴されているのではないかと感じています。それは、まさに国策でもあり、実際にも国が、あるいは利権に群がる政治屋などが、表でも裏でも金をばらまいて、近代化=欧米化を鼓舞していたわけです。それは、多くの疑獄事件も生みだしましたが、「所得倍増」という魔法の言葉や、熱病のような産業拡大の大河の前には、3月も経てば忘れ去られてきたのでした。少し遅れて、電機や電気産業、さらにはロボット産業や半導体産業なども花開きましたが、お隣の国や、Bトナムでの戦争特需にも加速されて、奇跡とも呼ばれる経済規模の急拡大を実現したのでした。

結果として、確かにこの国は、一度は世界第2位のGDP大国に座る事が出来たのです。しかし、その過程で失ったものも非常に多かった事も否めません。例えば、伝統的な暮らしの知恵、手入れの行き届いた里山、バイパス工事で埋め立てられた美田、食糧自給の仕組み、助け合いの精神などですが、何より若者たちの将来への希望が失われた事が最大の損失かもしれません。満腹で満ち足りた人間は、決して夢を見る事は出来ないからです。上の意味での近代化は、実のところこの十数年は煮詰まってしまい、停滞しています。私たちは、今後どの方向を向いて、社会の歩を進めていくべきか(あるいは少し後戻りすべきか)、ここで立ち止まって考えてみる必要があると思うのです。このブログも、その振り返りの場として、クドクドと書き続ける積りです。

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2010年9月15日 (水)

1202 エコ・カーの矛盾

車は、航空機と並んで20世紀を代表する工業製品の一つですが、どう贔屓目に見てもエコではありません。殆どの人が一人で乗って動く乗り物の割には、自重が1トンもあって、しかも冷暖房付きで、まさに動く居間でもあります。従って、「エコ・カー」などと言う流行り言葉も「矛・盾」という熟語と同様に「・」の前後で全く矛盾する言葉だとも言えるでしょう。体に楽をさせる「機械」は、ほぼ例外なく、資源やエネルギーを沢山消費する仕掛けですので、エコではありません。運転者自身の体重の十数倍もある乗り物を、移動させる事とは、深く考えてみるまでもなく、資源とエネルギーの浪費以外の何物でもありません。

一方、自転車はその対極の例となりますが、体重の数分の1の重量の乗り物を、自分の出すエネルギーだけで移動させるわけですから、これほど環境負荷の小さい乗り物は他に見当たりません。徒歩は勿論同様にエコですが、同じ距離を移動する事を考える場合、何度食事をし、何回呼吸して、肺から二酸化炭素を排出しなければならないかを計算に入れれば、自転車の方が環境負荷は断然小さいと思われます。

さて、エコカー補助が終了して、投降者はほっとしています。何故なら、この制度は最大の補助を得るためには、今まで乗っていた(まだ十分に乗れる)車を廃車(スクラップ)にする必要があったからです。廃車にされた車は、自動車処分場でグシャッと潰されて、事前に取り外したエンジンなどの非鉄部品と車体の鉄は再利用されますが、それ以外は細かく砕かれたシュレッダーダストにされてしまいます。シュレッダーダストの行先は、最終処分場呼ばれる埋め立て処分場です。つまりは、大気への環境負荷であるCO2の排出量を僅かに減少させるために、大地への環境負荷である大量の埋め立てゴミを増加させるのがエコカー補助の本質だったとも言えるからです。車メーカーに言いたいのは、カンフル剤かあるいは覚せい剤的な効果しかないエコカー減税や補助金による「駆け込み需要」など当てにせず、地道に廃車を自社の工場に持ち込み、部品1個まで丁寧に分解し、完全リサイクルができる「車分解工場」を建設して、社会に貢献しながら同時に雇用を生み出すべき時が来ているという事を言いたいのです。同時に、今の車の重量を半分して、車の製造に掛る資源量と、車の燃費を共に半分にするプロジェクトにお金を使って欲しいのです。

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2010年9月13日 (月)

1201 竹の利用

団扇の事を書いていて、竹の有用性を改めて考えてみる事にしました。竹は、かなり特異な植物(材料)の一つです。何より、あんなに見事に幹が中空になっている植物(天然素材)はそんなに多くはありません。それに数多くの節です。その成長のスピードは驚異的で、タケノコとしての若竹は、数日で周囲の樹木の高さを凌駕し、いち早く枝葉を広げる結果、短期間のうちに樹林を押さえつけて竹林に変えてしまう能力を持っています。地下茎に至っては、年間に数メートル横に伸ばす勢いで、竹林のテリトリーをグングン拡大していきますので、そのCO2固定能力は、樹木の2倍以上あると言われています。

竹の成長能力はさておいても、材料としての竹材も(木材などと比べて)特徴的です。縦には容易に割ける竹材も、曲げに対しては非常に柔軟で、かつ強靭です。竹材は、管状の特徴を利用して半割れの樋や丸のままのパイプとして、あるいは軽く弾力があって、容易には破断しない特徴を利用して、足場材などとしても利用されてきました。ちなみに、竹の節を抜くには水を使います。節の間に水を入れて、固い石の上で上下にトンと突くと、水撃(ウォーターハンマー)によりあっけなく節が抜けます。これも先人の知恵です。

さて竹は、各地で多くの民芸品や日用品にも加工されています。玩具やオーナメントなどはもちろん、竹かごや提灯の類、更にはスダレや敷物に至るまで、その種類は非常に多様です。それほど、竹は普遍的な素材で、それを確保すべく遣唐使の時代に中国から移植され、日本全国至るところに植えられてきたとも言えるでしょう。しかし、今や「放置竹林」は百害あって一利もない厄介者になり下がってしまいました。近年、竹炭などして、竹の利用の多様化の努力も見られますが、やはり竹はその特性を利用して、材料として活用すべき、類のない自然素材だと思うのです。

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2010年9月10日 (金)

1200 団扇

この夏に大活躍してくれた手元にある団扇を眺めていて、その作りの巧みさにしみじみ感じ入りました。柄と骨は一体で削りだされ、その上半分ほどを30数本に割いて、それを広げて骨を形成しています。竹の節の部分は肉厚になっていますが、その厚い部分に正確に錐で横穴を開けて、別の竹ヒゴを通して曲げ、下側を補強しています。骨は、薄く割いていますので、それ自身では柔らかく、頼りないものですが、両面に少し厚手の紙を貼る事によって、しっかりとした弾力を得ています。これは、カーボン繊維をエポキシで補強するCFRPと同様、竹と紙の「複合材」だと言えます。団扇が、いつの時代から作られてきたかは良く分かりませんが、紙が高価であった時代にも、紙の代用として、例えば藁を打ったものなどを使って、それをノリで固め、同様のものを作っていた事が想像されます。自然素材だけで作った複合材が、もっと見直されて然るべきでしょう。例えば、鉄筋ではなく「竹筋」コンクリート等も考えられますね。

どういう産業の歴史があったのかは知りませんが、投稿者が若い頃10年ほど住んでいた、香川県の街の近くには、日本全体の9割ほどの生産量を誇る、団扇の一大産地がありました。デパートだったかイベント会場だったか忘れましたが、団扇を作る職人さんが、手際良く団扇を作る手品の様な職人技に、まだ小さかった子どもと一緒にしばらく見とれていた事を思い出しました。今は、射出成型で作られたプラスチックの骨に、大量に印刷された紙が、自動機械を使って、目にも止まらぬスピードで大量生産されるのでしょうが、そんな団扇は何の魅力も無い量産品の一つになり下がっています。そういえば、今住んでいる岐阜にも「水団扇」と呼ばれ、水に濡らして使う、風情のある団扇がありました。

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2010年9月 9日 (木)

1199 断熱ビジネス

来るべき社会を展望する中で、絶対に右肩上がりのビジネス規模になると断言できる分野があります。それは、熱の流れをコントロールする(可能な限り遮断する)技術を使ったビジネスです。例えば、ビルや工場や住宅の光熱費の大きな部分を占めるのは、今や冷暖房に関わるエネルギーとなっています。しかし、現状を見れば、単なる鉄筋コンクリートのビルやスレート屋根・壁の工場や、安いグラスウールを100㎜厚み程度しかない住宅の天井や壁などを見回す時、目いっぱい外から熱を入れてしまってから冷房するムダ、あるいは冬場に内部の熱をドンドン外に逃がしながら、一方でガンガン暖房するムダを考えない訳にはいきません。

まして、お国が旗を振って、2020年までに25%という省エネ基準を達成するためには、魔法瓶の様に、断熱性の高い建物や、遮熱性能の高い設備ブース構造を、実現する必要があると思うのです。ボイラーなどの熱源や、冷凍・冷房機等のヒートポンプなどのハードウエアの効率向上は、間違いなく頭打ちになるでしょう。何しろ、熱力学上の理論効率は絶対に上回る事は出来ないからです。少し考えれば分かる様に、効率を低下させる最大の要因は、熱(エネルギー)の漏れなのです。

熱機関やシステムの効率を高めるためには、高熱源と低熱源の差を最大に取る(つまりは熱源の温度を上げる)しかない訳ですが、当然のこととして、高い温度の熱源を閉じ込めるためには、より性能の高い断熱壁が必要となります。何故なら、熱(エネルギー)が逃げる(侵入する)量は、断熱壁の性能(熱貫流率)と、壁の内外に作られた温度差だけに依存するからです。この、システムから逃げ出す(あるいは勝手に入ってくる)熱量を最小限にとどめる仕事が「断熱ビジネス」です。ここに関わって行けば、この先飯のタネに困る事はないと言っておきます。

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2010年9月 7日 (火)

1198 ソーラータワー

道を歩いていたら、数百メートル上空に何やら変なものが漂っていました。よく見ると、どうやら農業用のビニールシートの様です。多分、外されて畑の横に積まれていたものが、突然のつむじ風によって上空に吹きとばされ、強烈な日射による上昇気流も乗ってなかなか地上に降りてこられない状態になっていたものと思われます。その姿は、竜か何かの生き物がもがいている姿にも見えて、しばらく見とれていました。

上昇気流からの連想で、かつてオイルショックが起こった時代に工夫された、いくつかの発明を思い出しました。その内の一つがソーラータワーです。これは、100mほどの高さの黒く塗った煙突状の仕掛けです。これを、砂漠などの直射日光が強烈な場所に立てておくと、煙突の外部は日中7-80℃に熱せられて、煙突の内外部に強烈な上昇気流が生まれます。特に、煙突内部には秒速十数メートルの安定した上昇気流が形成されます。もし、煙突内に直径と同じサイズの風車を設置しておけば、風のない日中にも安定的に動力が得られる事になります。もちろん、この煙突の形状は、通常の様に少し上が細くなった様な形状ではなく、上昇気流が起こり易い様に上が少し膨らんだ曲面としておく必要があります。

これを逆手にとれば、夏の暑い盛りほど、より大きなエネルギーを得る事が出来る仕組みも考えられそうです。そのエネルギーで冷房を行い、一方で強力な上昇気流を使って建物内の通風も行えば、この夏の様な酷暑さも少しは過ごしやすくなるかも知れません。しかも高温の日程高い出力が期待でき、しかも石油エネルギーは一切必要ありません。商社や建設業界は、海外から輸入した風車を建てるための基礎工事ばかりに精を出していないで、こんな夢のある建造物を作ってみてはいかがでしょう。

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2010年9月 5日 (日)

1197 異常高温

113年ぶりの異常高温の夏だそうです。まだ続いていますが・・・。さて、この高温が100年に一度の特異現象なのかどうかですが、投稿者としては温暖化への通過点ではないかと見ています。理由は、エルニーニョやラニーニャ等の「振動現象」に加えて、今年の場合は「北極気団の弱体化」も顕著だからです。北極や南極の気団(高気圧)の形成には、一にかかって極地方が地球上の中で特異的に低温である事が寄与しています。低温の場所には下降気流が蓄積し、結果として高気圧団(気団)が形成されます。南極の場合は、数千メートルの厚さの陸氷で夏もしっかり冷やされていますが、海である北極海の場合には、低熱源としては厚さが精々数メートの浮き氷(海氷)しかないので、夏場には沈まない太陽に照らされて、それが結構薄くなり、あるいは完全に解けて海面が顔を出します。そうなると、海では光合成ができる様になるため、急激に植物ブランクトンが増加します。その結果、海面の太陽光の反射率(アルベド)が変化して、より太陽光を吸収し易くなってしまいます。結局、海水温が上昇し、海氷を更に解かす悪循環に陥る事になります。少し前の予測では、2040年頃には、夏場には北極海の海氷は殆ど消滅する事が指摘されています。

そうなると、夏場には、北極海では日射により気温が上昇して、低気圧が多数生まれても不思議ではなくなります。これまでは北極気団と偏西風にブロックされていた、低緯度地方の熱量が、更に北極深くに攻め入る事になります。結局夏場には、シベリアの冬将軍は完全にダウンする事になるでしょう。さすがに、秋分の日以降は、極点には日が射さなくなり、また氷が張り始めるでしょうが、海水温が上昇しているので、その氷も薄いものしかできないと予想されます。薄い氷は、翌年夏には急速に解けるでしょうから、結果としては日本などの中緯度地域は、春秋が殆ど無くなり、酷暑の夏と余り気温の下がらない冬しかない、味気ない二つの季節しか残らない事になります。以上の素人予測が杞憂に終われば、と願ってはいますが・・・。

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2010年9月 3日 (金)

1196 熱中症考

熱中症で命を失う人のニュースが引きも切りません。理由は、異常な熱波ですが、熱中症について少し考えてみます。恒温動物である人間は、体の中で熱を作り出していますが、基本的にはこの能力は、元はといえば「寒さに耐えるため」に編み出された筈です。もっとも最近の氷河期を、ヒトが生き抜いたのもこの能力によるところが大でしょう。

さて、体温が36℃余りに設定されているのは、地球の平均気温である15℃前後と比べると、絶妙な温度であると言えます。つまり、平均20℃の差が、この地球環境を(裸で)生き抜くに丁度良い体温なのでしょう。もっと寒い地域に適応している動物は、厚い皮下脂肪かフカフカの毛皮でガードを固めています。しかし、例えば平均気温40℃を超える様な高温地域に適応している生物は非常に少ないと想像しています。砂漠に棲む一握りの生物種といえども、日中は砂の中や岩陰に身を潜めて、暑さをやり過ごしている筈です。体温を超える様な気温には、そもそも恒温動物は適応できないと思うのです。何故なら、いくら動物の様に効率の高い熱機関で動いているとは言いながら、外部への放熱無しには出力を出し得ないのは、熱力学の超えられない基本法則だからです。

さて、連日36℃や37℃といった気温に晒される時、仕方が無いのでヒトは発汗で、体温を維持しようと努力します。しかし、日本の夏の高い湿度はこれも妨げます。高湿度により汗が、蒸発して気化熱で体温を下げる事が邪魔されるのです。加えて、ヒートアイランド現象と呼ばれる、道路面や建物の蓄熱があります。これらからは、例えば夜間でも35℃を超える様な温度に相当する赤外線放射が続きます。最低気温が27℃だったとしても、「体感」温度は結局(27+35/231℃を超えてしまう事になります。波長の長い赤外線は、皮膚表面からかなりの深さまで侵入しますから、皮膚表面にある「温度センサー(温点)」を突き抜けて、直接血液を暖めてしまう現象も起こっている事でしょう。結局、温度に鈍感になっている年配者を中心に、それと気づかず寝ている間にも重い熱中症に陥る事になってしまいます。気温ばかりではなく、高い湿度や、部屋環境の赤外線放射温度も含んだ、総合的な熱中症注意報が必要な所以です。

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2010年9月 1日 (水)

1195 熱流計

熱の流れを図る計器、熱流計を入手しました。何度も書くように、エネルギーとは、基本的には電磁波の流れを意味しますが、これはそれを直接計る事が出来る計器です。電磁波(赤外線)の流れに、熱流計のセンサーをおくと、そこに熱流束密度に応じた起電力が発生します。それを、センサーの感度に応じた係数で処理すると、W/㎡という単位のエネルギー流束の大きさが算出できるというものです。これを使えば、例えば断熱材の性能が評価できますし、ある建物の壁や設備から(へ)のエネルギーの流入/流出が直接測定できるのです。

以前から使っている熱画像カメラでは、熱(エネルギー)の流れが画像として可視化できますが、熱流計はその量の数値化が可能となる訳です。これが何の役に立つかですが、ある省エネ設備を投資する場合に、その費用対効果が数値(金額)化できる事になります。建物やサッシに断熱工事を施工して省エネを図ろうとする場合、いくらの費用を掛けたら、季節毎にどの程度の冷房・暖房負荷(電気代やエネルギー代)が削減できるか、より厳密に計算可能なのです。結果、「何年で元が引けるのか」が、例えば投資を決断する経営者の背中を押す事(またはブレーキを掛ける事)が出来ると言う事になります。入手に大枚をはたきましたが、今後せいぜい有効に活用するつもりです。

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2010年8月30日 (月)

1194 大山

「ついで登山」で大山に登ってきました。日本海の海岸から10kmほどの場所にニョッキリそびえる1700mのこの山は、そんなに高い山ではありませんが、独立峰でもあり、美しい日本の山の代表だとも言えるでしょう。多くの日本の山が国立公園内にありますが、ここも例外ではなく、あまりお金持ちではないK境省の予算がたっぷり使われていました。例えば、それは登山道の整備状況を見ればはっきり分かります。かなりの標高まで石段が刻まれ、その上は、丸太で土砂止めを施した階段状の登山道が続きます。更に頂上近くになると幅が広い立派な木道が敷かれています。結局、登山口から頂上に至るまで、自然の岩や土だけの登山道は殆ど見られないのです。

しかし、単に登山道だけに予算が使われている訳でもない事は、頂上近くの植生の歴史を説明した説明板で分かりました。大山は、崩壊し易い火山灰や凝灰岩でできている「若い」山であり、大雨のたびに激しい崩壊を繰り返すので、放っておくと頂上付近は禿山になってしまいます。事実。ここもかつては禿山の頂上でした。それは、実のところ大勢の登山者が立ち入る事によって、悪化してもいた筈です。その為、環境省が予算を付けて、頂上付近には木道を設置して、それ以外には立ち入りできないようにしてしまったのでした。それに加えて、地元や登山者が協力して、少しずつ少し標高の低いところに自生していた植物を移植して、ついには見事に頂上にも緑の植生を復活させたのでした。

投稿者が登った日も、日曜日という事もあって、家族連れやバスを連ねた中高年登山者が行列を作っていましたが、みな行儀良く木道から植物の写真を撮って満足していた様です。しかし、非常に狭い幅の環境条件だけに適応している高山植物は、ヒトの入山だけに限らず、お隣の大国から海を渡って飛んでくるSOxやNOxなどから生まれる酸性雨や温暖化の厳しい環境の試練に耐えなければなりません。10年後この山の植生がどうなっているか、もう一度くらいは登って観察してみたくなりました。

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2010年8月28日 (土)

1193 ハグロトンボ

蝶の様にヒラヒラと優雅に飛ぶハグロトンボが好きです。トンボの幼虫はヤゴなので、ほぼ全てのトンボは、水辺に棲んでいます。中でも、ハグロトンボは水辺に近いところでしか観察できません。蝶の様にか細いハグロトンボは、飛行能力の高いアキアカネみたいに、勇ましく標高の高い山にまで登れる訳ではないので、生まれた辺りで暮らすしかないのでしょう。ハグロトンボの翅は、ほぼ黒色ですが、胴体はきれいな青色の金属光沢を放っていて結構感動します。この青い色は、以前ブラジルで見たモルフォチョウを彷彿とさせます。このトンボは、葦原などで水面に浮いている植物の葉に産卵しますので、川や池から離れては繁殖できない種でもあります。一時はめっきり減った様な気がしていましたが、どっこいしぶとく生き延びてくれていた様です。ハグロトンボは、アキアカネなどとは異なり、日影が好きなようです。その羽根の黒色も、好きな場所に適応した結果だと思われます。

見回せば、開けた畑ではアキアカネ(ナツアカネかも)が群れて飛んでいます。こちらは、強力な飛行能力を見せ付ける様に、高速で羽ばたき、ホバリングしたり、急速に移動したりして、遊んでいる風にも見えます。トンボに代表される様に、狭い地域に、同種でありながら多様な外観を持って、繁殖している虫たちの生態とその環境は、やはり末永く大事にしていく必要があると思わせる、自然の造形美ではあります。

さて、トンボは飛んでいる虫しか捕食しません。止まっている時はもちろん、葉で虫がうごめいていても多分食べないでしょう。きっと、トンボの複眼は、高速で動いている物体しか認識できないのかも知れません。そういえば、トンボを捕まえる時に、手をグルグル回しながら、その輪を段々小さくして近づいて行った子供の頃の遊びを思い出しました。その時、トンボの頭が手と一緒にグルグル動いていて可愛いらしく感じたものでした。

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2010年8月26日 (木)

1192 境界は作らない

多様な環境を残すのは、実はそんなに面倒でも、大変な事でもないと言っておきます。ポイントは、「境界を作らない事」だと言えます。人工の環境は、えてして境界線が明確に引かれています。コンクリートに覆われた道路や駐車場と田畑の間には、フェンスがありキッチリと線が引かれています。しかし、少し昔はそうではありませんでした。道路は舗装されてはいましたが、路肩は土が見えていて、土手の草っ原とつながっていました。その向こうには水路と土手を挟んで、田畑の畦があり、農地とは緩やかに分けられていました。多様な環境のキーワードは、実は「環境のグラデーション」だと言い換えても良いでしょう。緩やかに変化する環境は、さながら小さな幅の、多様な環境のモザイクの様になっている筈です。従って、昔の風景で言えば道路から農地までの、ホンの10m足らずの幅の中に、かなりの多様性がある小さな環境が並んでおり、もちろんその中で多様な生き物や植物が観察された事でしょう。

しかし、今は舗装された道路から農地を見渡すとは、その間にはコンクリートで作られた用水路と、これもコンクリートで固められた畦があるだけです。これでは、何度COP10会議を開いても、机上の空論を積み重ねてしまう結果にもなりかねません。生物多様性は、昆虫学者や魚類の専門家、あるいは河川の専門家が自分の分野だけの勝手な知恵を出しても、良い方向は示せないでしょう。そうではなくて、先ずは微小な環境をしっかり観察し、植物や生物の適応力のすごさを知るべきでしょう。

とは言いながら、人間は境界を引きたがる存在でもあります。川や高い山並が境界になっていた昔はいざ知らず、国境で言えば、緯度や経度で真っ直ぐな線を引いたり、砂漠の中に線を引いたりする訳です。地図上の国境や境界線なら、生き物には何の影響もないでしょうが、鉄条網でも築こうものなら、大型の動物は移動ができませんので、その動物に依存してテリトリーを広げていた植物相も、境界線でクッキリと分かれるでしょう。

人が群れて住む地域から、手つかずの天然自然の間に、少しずつ違った度合いで人間の手が入った、「半自然」の環境が、グラデーションを描きながら続いている環境こそ、多様な生物の生息を許す、豊かな環境だと言えるでしょう。

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2010年8月24日 (火)

1191 生物多様性考

この地方でも、生物多様性を議題としたCOP10の開催が近付くにつれて、生物多様性論議が盛り上がりを見せてきています。しかし、生物多様性についてよくよく考えてみれば、実はそれは「環境の多様性」の問題である事に気が付きます。何故なら、ある特定の生物は、ある一定の幅の条件を持つ環境の隙間(ニッチ)に適応して進化してきたものでしょうから、その母なる環境の多様性を保てば、黙っていても生物相も多様になる筈なのです。

悲しい事に、私たちのご先祖さまは、子孫のためとはいえ、金になるからという理由だけで、山にスギやヒノキといった単一の針葉樹を植えました。しかもその後の手入れを怠った結果、山林から流れ出る土砂を防ぐために、今度は多数の砂防ダムを築き、下流の川の両岸をコンクリートで固めざるを得ませんでした。加えて、農地以外の里山は荒れるに任せているという今の状況を見る時、私たちの身の周りは、実のところたった数種類の人工的な環境に単純化されてしまったとも見える訳です。

もちろん、生物の多様性を掲げ、子供たちに川で水棲生物を採集させ、外来種が増えた事や在来種の生物の数が減った事を観察させるのも一つの教育の姿でしょうが、そんな事をさせなくとも、川から田んぼの畦、雑草地や「かつての里山」で、狭いエリアの中で生物相がどの様に変わっていくのか、時間を掛けて観察させる方が、生物の多様性を学ぶには、よっぽど有効でしょう。

さらに言えば、偉い学者が額を寄せ集めて会議を繰り返しても、生物の多様性が増して行くわけではないでしょう。しかしながら、生物多様性への近道は確かに存在しそうにも思います。これについては次回にもう少し詳しく書く事にします。

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2010年8月22日 (日)

1190 ついで登山

良い事を思いつきました。仕事に追いまくられて、山に登る時間がないとこぼしましたが、何の事はなく、仕事で出かけたついでに山に向かえば良い事に気が付きました。今度岡山の仕事を貰いましたが、残念ながら岡山には「岡山」と呼ばれるだけに、岡はあっても高い山は見当たらないので、お隣の県の大山まで足を伸ばす事にしました。住んでいる近くの山は、思い立った朝にバイクを飛ばせば、日帰り登山も可能ですが、さすがに日帰りで大山までの距離の数百キロを一気に往復する訳にも行きません。

もしわざわざ、大山当たりまで足を伸ばすとすれば、夜遅くに出発して夜中も走り、朝方までに麓についてそのまま登山、昼過ぎまで下山して、どこかの温泉にでも漬かり、無理をして夜中に帰宅する0泊3日の強行軍になるでしょう。とは言いながら、この年齢になるといささかキツイものがあります。そこで、ついで登山です。出張だと、一応旅費も確保されますので、そこから足を伸ばす旅費と、追加の宿泊費程度の出費で済みますし、体も楽です。大山の様に低い山であれば、大した装備も要らないので、ナップサック一つで十分でしょう。

ついで登山で思い出しましたが、サラリーマン時代よく「ついで出張」をしました。もちろん遊びではなく、例えばアメリカのシアトルに出張するついでに、中西部かカリフォルニア辺りまで足を伸ばし、その地域のベンダー数社をまとめて訪問する、といった「真面目」なついで出張でした。メールで事前にアポを取っておくのですが、出張日程が数日伸びるだけで、飛行機代は殆ど変わりませんので、上司は問題なくハンコをついてくれました。その後味をしめて、この手で数十社を訪問した事が、今思えば投稿者の良い肥しになっていると思い返しています。どんな大きな企業も、あるいは小さな企業も、厳しい競争社会で生き残るためにはいくつか(あるいは多くの)の工夫や努力を重ねているものですから、それを見聞する事が役に立たない筈はないのです。

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2010年8月20日 (金)

1189 クロアゲハ

ジョギング中クロアゲハを何度か目撃しました。多分、コースの近くに柑橘系の植物があるのでしょう。そういえば、季節になると道路にボタボタ落下している甘夏を見た様な気がします。蝶で面白いのは、種によって幼虫が育つ(親が卵を産みつける)植物が、かなり明確に決まっている事です。キアゲハは、ニンジンやパセリが好きな様ですし、アオスジアゲハはクスノキ、モンシロチョウは言わずもがなのキャベツ畑に群れています。

いつも考え込んでしまうのは、蝶がニッチを求めて、多様な植物に適用する様に分化したものか、あるいは植物自身が、授粉やその他の目的のために、特定の蝶との「契約」を結んだものかどうか、つまりはその多様化の道筋の順番です。私たちは、つい蝶を主人公として考えがちですが、実は蝶や昆虫たちは、植物が仕掛けた巧妙な罠にはまっているだけではないのか、というのが最近の投稿者の結論です。

植物たちは、動けないのではなく、実は動かないズボラな戦略を取っているだけなのかも知れません。結果として、こまめに働かせる昆虫たちの多様性を確保するために、おいしい葉や花の蜜や樹液を提供し、自分達の繁茂の手伝いをさせているという訳です。植物の僕としての役割に喜々として甘んじている多くの昆虫たちを眺めていると、何とも愛しい想いにさせられるのも、自営業になって、時には道端に立ち止まって自然の観察をするココロの余裕ができた賜物だと思っています。

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2010年8月18日 (水)

1188 夏草

夏草が矢鱈と元気です。あるものは、高く伸びていち早く葉を広げて他を圧倒し、あるものはツルを伸ばして、高い木に巻き付き、木より大きな葉で宿主を出し抜きます。これらの夏草をしみじみ眺めていて、ある事を思いつきました。

それは、この夏草の活力を、例えば有用な植物の成長に利用するか、あるいはこれらの雑草を品種改良して、食用か有用な作物に変身させる事です。植物の成長には、成長物質(成長ホルモン)である、オーキシンやジベレリンやサイトカインなどが関わっていますが、夏草にはこれらが豊富に含まれている筈です。また、夏草は、同じ様な種類が固まって繁茂しています。もしかすると他の植物の成長を押さえる、「忌避物質」を出している可能性もあります。これは、とりもなおさず自然農薬そのものだとも言えます。忌避物質とは、好ましくない競合相手を殺すのではなく、遠ざける様な物質を指します。

夏草の戦略は、それに留まりません。夏草の多くは、広い面積の葉を持っており、より多くの太陽光を受け、それを固定して豊富な数の種子を残します。それらの種子は、風を利用し、あるいは水の流れや更には鳥や動物の体を利用して、陣地を拡大し続けます。それに比べれば、栽培作物のなんとひ弱な事でしょう。過剰ともいえる施肥と昆虫を近づけない農薬散布、更には雑草抜きまで、徹底的に人手による管理を求めます。

放っておいても、勝手に、それなりの実や種子を毎年みのらせる「雑草作物」は、今後ますます高齢化する農業人口の行く末を考える時、絶対に必要だとも思うのです。考えてみれば、イネも歴史をたどればモンスーン地帯の湿地に自生する雑草でした。今のイネは、食味と収穫量だけを追求して品種改良され続けた結果、弱く不完全な植物になり下がってしまったと思われます。収穫量は少なくとも、放っておいても毎年実を付け続ける原種に近いイネが待たれるところです。もちろん、田植えや稲刈りは行いません。実りの季節に穂だけを摘み取れば、残った根からまた茎を出して勝手に実を付ける事でしょう。収穫方法は、稲刈りではなく、穂積みという訳です。

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2010年8月16日 (月)

1187 逆ストレス

ストレスとは、本来精神的か肉体的な何かの過度な負荷がかかった場合に発生するものなのでしょうが、普通かかるべき適当なストレスがかからない場合にも、同様に発生するものの様です。若かった時、転勤で、目茶苦茶に忙しい工場から、そうではない工場に移動しました。前の工場では、長くても1週間先の予定しか考えられませんでしたが、新しい職場では6カ月から数年先に、製造される部品の製造計画を行う様な部署でした。しかしながら、新しい職場でなんとか早く仕事を覚えようと焦る投稿者に、指導員は、善意からなのですが「まあのんびり行こうや」という風な態度で接してくれました。とは言いながら、頭の中では仕事時計がコチコチ刻んでいるのに、昨日から今日まで殆ど仕事が進まない場合、これもまた強いストレスとなるようです。実際、転勤後数カ月で、夕方になると胃がシクシク痛み出し、ついに病院に駆け込み、胃カメラを飲みました。診断結果は意外なもので、医者には「きれいな胃をしていますね。全く問題ありません。」というものでした。結局、診断結果を聴いて、ほっと肩の力が抜けたのか、胃痛はパッタリと消え、逆ストレスは無くなったのでした。

さて、最近同じようなストレスを感じています。それは、忙しすぎて山に登れない事が原因の様です。自営業になれば、気が向いて天気の良い日には、いつでも山に向かえる筈でした。しかし、今年に入ってからは、幸か不幸か目茶目茶に忙しくなり、自分のペースでの仕事がなかなかできなくなりました。加えて、6月の旅行で休んだ時のしわ寄せが、未だに残っている様です。一方、逆ストレスのせいか、机に向かっても山の事が頭に浮かび、仕事の能率もさっぱり上がりません。やはり、無理をして山に向かうべきなのでしょうが、今度は天気がなかなか良くなりません。という訳で、最近出るのはため息ばかりです…。

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2010年8月14日 (土)

1186 しきい値

しきい値(Threshold Value)については、この言葉を知るようになって以降、折に触れて気にかかります。しきいとは閾でもあるし、敷居の意味も持ちます。ココロの問題であれば堪忍袋の緒が切れる限界でもあるでしょうし、自然現象の例でいえば洪水が堤防を越える限界という場合もあるでしょう。

環境問題についても、未だそれを証明する理論は無いようですが、ある限界を超える環境悪化は、破局的な終末を意味するのかも知れません。もちろん、知恵のある人間ですから、そこまで手をこまねいている筈もありませんが、自然現象の慣性(Inertia)を考える時、私たちの打つ手が遅きに失する可能性も否定できません。

もう一つ、指摘しなければならない点は、誰にとってのしきい値か、という点です。もちろん、全てのしきい値は、それを超えた時に被害をこうむる側にとっての値です。古代に起こった小惑星の衝突は、確かに多くの爬虫類にとって、種の絶滅というしきい値を突破してしまった現象でした。しかし、私たちや現代の生き物の祖先となった生物群は、どうにかそのハードルを越えたのです。人間が堤防を築くまでは、川は日常的に氾濫を繰り返し、肥沃な平野を作りました。堤防が無いので、自然の川の土手は、少しの雨でも氾濫したでしょう。しかし、川は遊水地という自然のバッファーを用意していたので、洪水が地域の生き物に壊滅的な被害を与える事は無かったでしょう。そう考えると、元々は緩やかで低い自然のしきい値を、人間が人工物で高く、しかし脆く作り変えてしまったという事も出来そうです。

もっとも脆弱に見えるしきい値は、実は増え過ぎてしまった人口に起因する災害に見る事が出来そうです。今や、僅かな干ばつや水害などが、多くの飢餓人口を作り出してしまいます。遊水地やかつての土砂崩れによってできた谷筋に、多くの住宅を建ててしまった私たちは、しきい値を上げるため、堤防をより高くし、砂防ダムを築いて、ささやかに抵抗するしかないのです。

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2010年8月12日 (木)

1185 えくさエコのススメ

楽エコの裏返しで、ここでは、新しい言葉として「えくさエコ」を提案します。えくさエコの「えくさ」とは、言わずもがなですがエクササイズの意味です。えくさエコのいくつかの例を示しましょう。

それでなくても、今は空前のウォーキングブームです。ある年齢に達して、忙しくなくなった人は、時間だけはたっぷりありますので、気のすむまで何時間でも歩けば良い訳です。昔の旅人は、お殿様以外は自分の足で歩く事が普通だった筈です。旅に出ないまでも汗をかき、達成感を感じながら数キロ離れたショッピングセンターまで、リュックを背負って買い出しに行けば、車で出かけた場合に出した筈の数キログラムの二酸化炭素が減らせますし、同時に足腰の鍛錬にもなる筈です。

同様に、ただ闇雲にウォーキングをするのではなく、しゃがみ込む際の筋肉の負荷を意識しながら、道路に落ちているゴミや煙草の吸殻を拾いましょう。10回拾えば、10回のスクワット運動をしたのと同じ筋肉負荷です。また同じ掃除でも、柄のついたモップではなく、雑巾がけを行えばかなりの運動負荷になるでしょう。

それでも暇や体力が有り余るようならなら、固定式の自転車で発電しながら読書でもしましょう。アリストテレスの逍遥学派ではありませんが、歩きながら考え事をするのは、昔から良い知恵を出す方法でもありました。自転車を漕ぎながらの読書も、きっと知識がドンドン頭に入ってくるはずです。ウォーキングシューズやジョギングシューズの靴底には、圧電素子でも埋め込み、衝撃力を和らげながら、携帯電話機やラジオの充電もしてしまいましょう。ケチケチ作戦の省エネに頭や時間を費やすのはソコソコにして、筋肉を使って自分ため、できれば少しは社会のために、自前のエネルギーを生み出しましょう。えくさエコで…。

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2010年8月10日 (火)

1184 楽エコのイマシメ

楽をして環境の保全ができるとの風潮には危険性を感じます。ハイブリッドカーを買う、省エネ家電や省エネ照明に買い替える、エアコンの温度を数℃上げる(下げる)、自分の水筒や箸を持ち歩く、などなど。人間が楽をする場合、必ず裏で環境負荷が増加するからです。私たちが楽をして、エコが出来そうな錯覚に陥るのは、新しいいわゆる「エコ製品」が、「旧製品と比較してエコ」であるに過ぎず、絶対的に環境負荷を下げる手段にはなり得ないのです。

絶対的に環境負荷を下げるには、何度も書きますが、今環境に負荷を与えている行動を、止めるしかないのです。ある年齢に達した人が、車に乗るのを諦め、徒歩や自転車や公共交通機関で移動を決意すれば、例え年間数千キロしか走らなかった人でも、1トン近くの二酸化炭素を削減できる計算になります。一般家庭では、年間5トン程度の二酸化炭素を出していると言われているので、ある家庭で1台の車を無くせば、それだけで20%の二酸化炭素を減らせる事になります。

楽をして、環境にやさしくできると言う幻想は今すぐ捨てましょう。汗をかいて、自分が食べ物から取り込んだ(多くの場合は余剰となって身に着く筈だった)エネルギーを使う事によってのみ、石油エネルギーを直接に減らす事が可能になるでしょう。体を動かして、空き地で野菜を育てる事によってのみ、究極の地産地消が実現できて、トラック輸送による環境負荷を直接減らす事が可能なのです。電気掃除機ではなく、ハタキとホウキと固く絞った雑巾で掃除が完了すれば、掃除機で使われる筈だった電力が直接的に削減できるのです。

現代人が罹患している、最悪の病名を投稿者は「エネルギー依存症候群」あるいは「便利中毒」と命名しました。エアコンを効かせて、すいすいと車を転がしている人たちは、例外なく重症化の傾向が観察されるグループだと言えるでしょう。汗にまみれながら、単車を転がしている投稿者は、単車のマフラーから排出される、ささやかな二酸化炭素さえも意識しながら、彼らを横目で眺めています。

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2010年8月 8日 (日)

1183 試験疲れ

昨日エネルギーを管理する資格試験を受けました。これまでは、いわば無免許運転で「省エネ説法」をしてきた訳ですが、やはり免状が無いと話に迫力が出ないのでないかと反省しての話です。さて、この試験は、朝0900から夕方1720まで、4科目の分野の試験を科しています。それぞれ80分や110分の時間、頭をフル回転させるので、終わる毎に頭がしびれます。特に、公式を使って説く問題では、公式が頭に入っていない事もあり、その公式を導くのに時間を費やしたりもします。しかも、意地の悪い事に前問で出した数値を、次の問題を解くための値として使いますので、1問目がずっこけると、後の数問もずっこけてしまいます。この手の問題の回答は、穴埋め式ではなく、数字を書く事になるので、鉛筆を転がして答えを出す訳にも行きません。

穴埋め問題は、選択肢の中から選ぶので、よっぽど気が楽です。概ね、計算問題と穴埋め問題が半々なので、両方ある程度点数を取らないとパスできない仕組みになっている様です。まあ今回は、2科目くらいパスすればオンの字と、帰りの電車の中でリターンマッチの事などに想いを巡らせていました。

試験会場は、専門学校を借り切って、ざっと数えても千人はかなり超えそうな数の受験者です。試験会場を見回すとその部屋では受験者の平均年齢は30歳を少し超えるくらい。投稿者の様なオジサンは数えるほどです。省エネ大国日本の将来も少しは明るいのかな、とココロ強く感じたものでした。今日も頭がシビレっぱなしなので、本日のブログもこの辺で止めておきます。

夏雲の上に秋の雲を発見しました。さすがに立秋です。

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2010年8月 6日 (金)

1182 釣鐘型特性

70年代のチョコレートのCMの様に、なんでも多い方が、大きい方が良いわけではありません。そんな事は無い、お金はどんなにあっても困る事は無い、と突っ込みが来そうですが、ではお金の額と、幸福度の相関をグラフに描いたら、どんな形の曲線・直線になるでしょうか。もちろん、単調な右肩上がりの直線、まして指数曲線になる筈もありません。何故なら、(経験がありませんから想像するだけですが)お金が有り余ってくると、色々と困った事が起きると思うからです。何より、盗まれない様にどこにしまっておくか、税金はどうするか、増やすには何に投資すべきか、寄付をどうやって断るか、何より一体何にお金を使えば良いのか、問題が次々に湧き起こり、安寧な生活はままなりません。ココロが安らかでない生活が幸福である筈はありません。つまり、全く無一文も困りますが、お金を持つなら、逆U字(釣鐘)の様な、何やら最適値(額)が存在する様なのです。

同じような現象は、色々な現象で観察される様な気がするのです。例えば、石油の掘削量と、それによって生ずる受益者の総幸福度には、やはり同様の関係があるように思うのです。つまり、ある時期までは石油を掘削すれば、それがエネルギーになり、プラスチックなどの原料になり、種々の薬品や工業材料にも作りかえられ、人々の幸福度を上げてくれました。しかし、ある時期以降石油は、投機の対象となり、戦争の原因物資となり、今や世界規模の環境悪化の原因物質になり下がってしまいました。加えて、先ごろはメキシコ湾で、歴史に残るほどの環境破壊まで引き起こしてしまったのです。今後、無秩序に石油を掘削する事は、逆にそのために不幸になる人々を急激に増加させる恐れさえ出てきたと思えるのです。

つまり、少なくとも石油採掘とその利用に関して言えば、その最大利益を享受できた時代は既に過ぎ去ってしまった様なのです。では、そのピークは何時であったのかをつらつら考えてみるに、異論が出るかも知れませんが、1980年前後ではなかったかと振り返ります。このころは、まだ温暖化問題は大きな問題とはなっておらず、湾岸戦争の気配もあまりなかった筈ですし、まだ「大きい事は良い事だ」というキャッチフレーズが、死んではいなかった時代だったからです。考えてみれば、その頃から既に30年が経過してしまったわけで、山で言えば頂上から8合目くらいまでは下ってしまったのではないかとも感じています。

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2010年8月 4日 (水)

1181 何をつくるか?

新幹線に乗って移動している時、窓を流れる景色の中に、数多くの大企業や中小企業の工場が見えます。こんなにも多くの企業が一体毎日まいにち何を作り続けて、生業としているかいつも気にかかります。モノをつくるためには、原材料を仕入れ、色々な機械を使って加工し(材料の形を変え)、ペイントを塗ったりして、小奇麗に包装し、段ボール箱に詰めてからトラック便で送り出す訳です。私たちは、Tヨタのカンバン方式などから学んで、「どうやってモノを作るのがQCD(特にコスト)最適か」については、もうすでに散々学んできた筈です。それを実現するために、工場建屋などにはお金を掛けず、スレートの屋根と壁の、夏は暑くて冬はしっかり寒い、工場で暑さ寒さに耐えながら、安くて高品質の製品を、顧客が望む値段と納期で出荷してきたのでした。

しかし、今後経営者が考えなければならないのは、将来に向かって、何を作って社会に提供していくのか、という一点でなければならないでしょう。しかも、提供する製品は、1)何十年にも亘って持続的に入手できる原材料で、2)加工に掛るエネルギー効率や3)材料歩留まりが最大で、しかも4)使用に掛るエネルギーや5)使用後の廃棄物が最小となるようにしなければならないのです。この5条件が満足されるならば、しかもその製品が、6)社会にとって(贅沢品ではなく)必要不可欠なものであれば、その企業の存続は何十年にも亘って担保される事でしょう。

話は非常に簡単で、とりあえず今自分の会社で作っている製品について、上の6つの条件で吟味を重ねるならば、来るべき社会での存続可能性は格段に高まる筈です。原材料として使われている資源が、枯渇が心配されている様なものなら、今いくら売れて儲かっていても、撤退を考えるべきでしょう。一方、加工に掛るエネルギーが、他社のレベルに比べて、半分で済むなら、今後数十年に亘って、競争力はあまり心配ないでしょう。加えて、製品が寿命を迎えた時でも、メーカーが全量を引き取って、完全にリサイクルできる設計になっているならば、その企業の存続は数十年に亘って60%程度は確実になります。後の40%は、社会がその製品を、本当に必要(Indispensible=必要不可欠)としているか否かのチェックが必要なだけです。

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2010年8月 2日 (月)

1180 太陽熱エンジン

梅雨明け後太陽光が矢鱈と元気です。実際に、太陽の活動レベルが上がって暑いのか、受けた熱を逃がす仕組み(GHGを含む温度維持装置)が異常を起こしているのか、100年くらい経たないと、正確な評価はできないかも知れませんが、それにしても太陽光の利用レベルはあまりにも低すぎる事は嘆かわしい限りです。太陽光が元気な夏場の時期は、ざっと言って平米当たり1kw相当のエネルギーがあまねく降り注いでいます。それが、山や野原や道や家々の屋根にも分け隔てなく与えられている訳ですから、これを利用しないのは太陽への冒涜とも言えます。我が家では、ささやかに3平米程度の太陽熱温水器を屋根に挙げて、その恵みの何十分の1かをいただいていますが、この3kwの出力の温水器は、夏場の晴れた日は一切の追いだき無しに家族の入浴が完了します。

先日、ある工場で概ね2000平米程度の屋根からの入熱量を試算したところ、晴れた日は屋根から工場内に約200kw相当の熱が流入していました。そこでは、出力70kw相当のエアコンをフル稼働させていましたが、工場内で200kwのヒーターを付けながら、その半分以下の馬力のエアコンを動かしても、精々エアコンの吹き出し口からの空気が直接当たるエリアで涼しく感ずることができる程度でしょう。この流入熱を、もし殆どブロック出来たと仮定すれば、70kwのエアコンは、十分に強力であり日中の半分以上の時間は、Off状態となる事でしょう。

消極的にブロックするのではなく、2000平米の屋根には、潜在的には2000kwものエネルギーが降り注いでいる訳で、できれば簡単な仕掛けで、その1%でも利用したいところです。熱力学の教えるところによれば、高熱源と低熱源があれば、その絶対温度によって決まる効率でエネルギーを産み出す事が出来る筈ですし、その温度差が50℃もあれば、つまり太陽熱で集めた温水と、地下水程度の温度差があれば、適当な作動流体を使えば10%程度のエネルギーが取り出せる筈なのです。太陽熱を温水器で取り込んでしまえば、工場に流入する熱もブロック出来るでしょうし、太陽光発電等という高いシステムではなく、上面を黒く塗った温水パネルに少量の水を流して、75℃のお湯を作り、地下水15℃との温度差60℃動く熱機関を作って、それでエアコンを回せば、エネルギーを全く使わないでも快適な工場環境や住宅環境が実現できる筈です。2枚のステンレス版に、水路になるパターンの窪みを加工し、これを併せて渕を溶接すれば、軽くて効率の良い温水パネルが作れるでしょうし、既存のスクリュウコンプレッサーを流用して逆転させれば、立派なタービンになるはずですから、全く新しい技術などはどこにも必要ありません。作動流体も、多分空気や炭酸ガスで十分でしょう。

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2010年7月31日 (土)

1179 植物>動物

当たり前の事ですが、動物は植物の存在を前提に進化した筈です。というより、面倒くさく時間が掛りしかも効率も悪い光合成という作業を諦めて、他人さま(植物や自分より弱い動物)からちゃっかり養分を戴く戦略に転じた存在が、ヒトを含む動物であるとも言えます。しかし、もちろん地球上から植物が完全に消えてしまった場合、同時に動物も滅びるはずです。

その意味では、私たち動物はもっと植物たちの行く末に興味を持たなければならないでしょうし、その存続に力を貸さなければならないでしょう。では、具体的にはどうすれば良いかですが、何より、水、太陽光、土壌とそこに含まれるNPKや植物の栄養素の供給にもっと気を使うべきでしょう。そのためには、先ずは森林の手入れにより水源を涵養しなければならないでしょうし、持続的な栄養素の供給に、努力すべきです。先人は、その努力を怠りませんでした。例えば、田畑には客土と称して、山の土を運んできて入れる作業を数年に一回程度は行っていたのです。山土には、鉄分を始めとするミネラル分が多く含まれ、作物を育てて疲れた土を元気づけた事でしょう。また、田畑には堆肥や腐葉土や雑魚を干したもの(ほしか)などを入れていた事でしょう。(事実、江戸時代には、ほしかを扱う専門も卸問屋が存在した程でした。)それらがゆっくり分解される過程で、土壌中の微生物が活性化し、結果として作物の収量も増加し、病害虫にも負けない農業が持続したのでした。

一方、水源の涵養という意味では、ご先祖様たちは、せっせと里の上に広がっている山に植林を続けた事でした。戦後は、針葉樹一辺倒になってしまいましたが、伝統的には水源を涵養する力が強いブナ等の広葉樹や各種の雑木だったはずです。勿論何の考えも無しに植林したのでなく、高木と低木と灌木をバランスよく組み合わせて、山菜の収穫や薪炭の採取も行いながら結果としての水源確保が出来たのでした。しかし、知恵が無く労力を惜しむ現代人は、何とも単純なコンクリートのダムでそれが代用できると勘違いしてしまった様です。そうではなくて、植物や海のプランクトンに上手く育って貰うには、広葉樹林の林床から浸み出す、フミン酸やフルボ酸や多くの無機物・有機物を含む清涼な水が不可欠なのです。そこに再び気がついた少数の人たちが、再び広葉樹林の植樹に細々と取組みはじめている事はココロ強いことです。

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2010年7月29日 (木)

1178 何を諦める

これも何度か書いた様な気もするテーマで、環境坊主としての提案でもあります。「環境保全のために、何ができるか、何をすべきか」、という大上段にかぶったテーマが、このところの先進国の主要な課題となっています。しかし一方では、景気の減速による不景気風が、それに水を差し始めてもいます。もちろん、この国で起こった様に、景気の減速により企業活動が鈍化し、大した苦労もなく2012年までの90年比6%の省エネは達成できそうです。とは言いながら、この夏も電力ピークを更新しそうな勢いですが、民生向けのエネルギーは、まだ右肩上がりを続けて行きそうな様相です。一方で、多量の化石エネルギーを消費していながら、ささやかな緑化活動や、ライトダウンや、打ち水、まして川での生物採取による生物多様性のお勉強程度の活動で、この厳しい環境悪化の状況に歯止めが掛るとはとても信じられません。

そうではなくて、私たちは何を諦め、何を捨てるかの覚悟を決めなければならないと思うのです。そのためには、先ずは体を鍛えて、来るべき厳しい環境にも耐え得る体力を付けておく必要もあります。難しい事はさておき、とりあえずは暑さ寒さに音をあげない体があれば十分でしょう。寒さは、目いっぱい着こめばなんとかなりますが、暑さに耐えるためには、体質改善が必須です。何より、熱中症を防ぐ耐えにはたっぷり汗をかける体質が不可欠でしょう。そのためには、汗腺をしっかり働かせる訓練が欠かせません。

冷房を効かせた室内環境に慣れると、汗腺がサボタージュを始めますので、体温以上の環境にさらされるか、湿度の高い環境では熱が体に貯まる事になります。水の様な、汗をしっかりかいて、体温を下げる能力は、今後の気象条件の中で生き抜くには基本的な能力となるでしょう。これができると、蒸し暑い日本の夏も、扇風機程度で乗り切れる事にもなります。これで、暑い夏を更に暑くしているエアコンを諦める事が可能になります。

更に付けくわえれば、より少ない食糧で生き抜けるスリムな体も欲しいところです。小柄で、飢餓に強いというモンゴル民族の遺伝子を受け継ぐ、私たち日本人は、実のところ悪化した環境の中でもより長く生きのびる条件に恵まれていると言えそうです。しかし、それも、今お年寄りと呼ばれる世代までかも知れません。投稿者以降の世代は、便利で快適なライフスタイルの代償として、世界で最もひ弱な体力しか持たない民族になり下がってしまった可能性もありそうです。

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2010年7月27日 (火)

1177 時間の加減速

先が短いせいか、最近時間の事が気にかかります。もちろん気にかかるのは自分に残された時間の事もありますが、一方地球時間はと言えば、その「環境時間」も含め、数十億年の時計をゆっくりと刻んでいる途中に過ぎません。ここで環境時間と名付けたのは、有機の地球環境という意味においてです。宇宙には、地球などよりもっと古い、しかし無機の天体はそれこそ星の数ほどあるのでしょうが、地球に類する有機の星は、数えるほどしか見つからないでしょう。というより、それらの星は自分で光っている訳ではないので、きっと永遠に見つからないのでしょうが…。

さて、有機の環境は、狭い意味での生物によって、その時間が刻まれると言っても良いでしょう。つまり、植物は熱帯地方を除いて、太陽光の強弱によって春には芽を出し、夏に葉を広げ、秋には実を付け、冬には葉を落とす年周期を繰り返します。鳥や動物は、その植物のサイクルに合わせて、繁殖を繰り返します。しかし、熱帯はそうではありません。植物は年中花を咲かせ、いずれかの植物は実を付けています。つまり、温帯以北には季節と時間が明確に刻まれ、熱帯ではさながら時間が無い様な、生態となっていると言ってもよいでしょう。

結果として何が起こったかと言えば、熱帯地域ではさながら進化の過程が止まっているか、あるいは非常にゆっくりとしか進んでいない様に見えますし、一方温帯や亜寒帯では、生物の進化が加速された様に見えてしまいます。生物の進化は、多分どうにか耐えられる程度の厳しい環境の変化によってもたらされるのではないかと、投稿者は密かに考えています。温帯以北の冬は、まさに多くの動植物にとって試練の季節となっています。冬を越すために、植物は葉を落とし、幹の中の水分を最小限に抑えて凍結を回避しますし、あるものは種で冬を越します。昆虫は蛹となり、クマは冬眠し、リスは餌をたっぷり蓄えて冬ごもりをする能力や体の形態を進化させたのでしょう。季節という時間の刻みは、結果として進化という時間軸を加速させ、一方季節の無い熱帯や深海では、多分その時間がひどく減速されてしまったのではないかと思っています。

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2010年7月25日 (日)

1176 酷暑考

ただならぬ暑さです。体を冷やす仕組みとして扇風機しかない投稿者の事務所では、35℃の熱風を送ってくるこの機械で、体温並みの気温と戦っている訳です。体温を維持できているのは、体が適当に汗をかいてくれるからですが、暑さとの戦いに疲れて仕事の能率はちっとも上がりません。そんな時は、仕方がないので山の地図を広げて、盆休みに向かう予定の山のルートの検討を始めるしかありません。

さて、何故こんなにも暑い(熱い)かですが、日本の熱帯化が疑われます。熱帯化の一つの証拠は、梅雨の時期にも観測された、信じがたい程の集中豪雨ですが、時間当たり100mmを超える様な豪雨は、熱帯のスコールを彷彿させるに十分です。それも、地域が非常に限定的である事もスコールに似ています。もう一つの間接的な証拠が気温です。砂漠の様な場所では、日中50℃を超える様な事も珍しくは無いでしょう。しかし、湿度の低い砂漠では、夜間の放射冷却によって、明け方までにはしっかりと地表の温度も下がる事が出来ます。一方、熱帯地方では、空気中の高い湿度が、さながら強力な温暖化ガスとして(厚い布団の様に)作用し、夜間の放射冷却を妨げます。そのため、夜間の気温が下がらず、結果として翌日の最高気温も引き上げてしまいます。いわば、地表への熱の蓄積が起こっている訳です。熱帯化の確実な指標は、しかし生物相の変化によって確定的になります。生物相の変化は、気象の変化がある程度定常化し、固定化した証拠でもあるからです。熱帯地方でしか育たない植物が育ち、冬越しが出来る事、あるいは温帯で良く育つはずの植物が最早育たなくなる事、あるいは熱帯にしか生息しない筈の鳥や昆虫が定常的に観察できる様になるなどの指標です。

具体的には、温帯のモンスーン気候で良く育つイネが、日本の酷暑で、例えば九州地区で白化等の発生により品質が大きく低下している事、温帯果樹の代表であるミカンが、最早四国や和歌山では収穫の維持が厳しくなってきている事、あるいは亜寒帯の果樹であるリンゴが、本州の緯度の低い地域では育ちにくくなっているという事実もあります。以上を総合すれば、日本の熱帯化が、かなりのスピードで進んでいると考えざるを得ません。その北進のスピードは、年間10km前後であるという数字を目にした事があります。

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2010年7月23日 (金)

1175 観察力

環境の質の測定は、決して炭酸ガス濃度や、気象観測や、有害物質やましてや絶滅しつつある生物種の数のカウントなどの「数字」だけで測れるものではありません。何故なら、環境の変化には長いながい時間の経過が伴うからです。温暖化の評価にしても、はたして100年程度の短い?時間軸で十分なのかについては、意見の分かれるところです。

その意味で、環境の変化については、実のところ気の長い定点観察によってのみ可能なのではないかと密かに感じています。どの程度気の長い期間かと問われれば、それは少なくとも数世代をまたぐ程度の期間と言っておきます。観察には、先ずは物事や事象をじっと見て、何かを感ずる事が必要です。古人達は、この事に非常に長けていましたが、現代人の感覚たるや、殆どが急激な退化の途上にあるとしか思えません。観察眼で言えば、アリの行動を日がな一日眺めているような子供を見る事は殆ど無くなりました。暑さ寒さの温寒感覚も、冷暖房でかなり鈍感になり、ちょっとした暑さでも熱中症になる人が続出します。ましてや、皮膚感覚や聴覚、嗅覚や味覚はもちろん、何かを感ずる第六感などは、いまや殆ど痕跡も残っていないのではないかと疑っています。

それら全ての感覚は、実のところ私たちの祖先が、厳しい環境を生きのびるために、磨きにみがいてきたものの筈です。それらを総動員して、今環境で何が起こりつつあるかを、敏感に感じ取って、それに歯止めを掛けるか、あるいは自分達のサバイバル能力を強化しておく必要があると思うのです。退化には、実はあまり時間を要しません、戦後食生活が欧米化され、咀嚼回数が激減した結果、ホンの12世代で、急速に下顎が小さくなり、結果として八重歯の若者が増えたという事実は、それを物語ります。

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2010年7月21日 (水)

1174 EV試乗記

仕事先での移動の際、M社の電気自動車(EV)にかなり長い時間同乗させて貰いました。軽自動車サイズですが、重たいバッテリーが功を奏して?か、あまり小刻みな振動もなく、大衆車並みの落ち着いた乗り心地でした。さて、運転者もそうでしょうが、乗っていてもっとも気にかかるのは、バッテリーに貯まっている電力で「後何キロ走れるの?」という点です。この車は、200Vでの充電が基本ですが、2倍の時間を掛ければ(多分一晩くらい掛る様ですが)100Vでも充電は可能とは言え、路上でガス欠(電欠?)になれば、救援車を待つしかありません。現在のところ、200Vの充電設備は、東名高速道路にたった2か所だけ、あとはM社の販売店くらいにしか設置されていないので、遠出をする際には冷や冷やしそうです。ちなみに、フル充電で130km程度は走る様ですが、当然の事ながらエアコンやヒーターも電動なので、これらを併用すると急速に後続距離が短くなります。実用的には、100km未満と考えるべきでしょう。

面白いのは、M社の各販売店では、わずか500円で1時間賃貸しを行っている事です。充電設備の使用料は、今のところ電力量に応じたメーター金額ではなく、1100円程度の施設使用料制なので、燃料費(電気代)は事実上無視できる範囲だと言えます。500円のレンタルでは、数百万円もする車両代の元は引けませんが、販売台数を1台でも増やしたいと言うメーカー・ディーラーの苦肉の策なのでしょう。今度は、是非500円を払って自分で運転してみようと思います。

さて、EVの性能を左右するのは、一にかかってバッテリーの性能(=単位重量当たりの充電エネルギー密度)なので、軽くて容量の大きなバッテリーの開発に期待するところ大です。それに加えて、太陽光発電を利用した、道路上に設置された充電ステーションの整備でしょうか。そこでは、12時間程度走れるくらいの補充電が短時間(30分以内)でしかも無料でできる様にしておく必要があります。ちゃっかりした人は、そこで毎日充電するかも知れませんが・・・。

もし自分がこの種の車に乗る様な羽目になった場合、是非小型の補助発電機(APU)を搭載してもらいたいと思っています。非常の場合1馬力程度のAPUを回せば、1時間程度の充電で、なんとかコンセントを借りる事が出来る場所へ辿りつけるでしょう。この場合、社会的な契約により、例えばコンビニなどでも充電に対応できる様になっている必要もあります。

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2010年7月19日 (月)

1173 バイオマス考

ここで改めて「バイオマス」を、投稿者の言葉で定義をし直すとすれば、それは「太陽光が、物質として固定化されたもの」となるかも知れません。目には見えない太陽光(太陽光の持つエネルギーの流れ)を物質として固定できるのは、事実上(というより投稿者の浅い知識が知る限り)葉緑素を持つ植物や植物プランクトンに限定されます。葉緑素を持つ動物というものも、少ないながら存在するのでしょうし、人間がまだ知らない未知の生物もそれができる能力を持っているのかも知れません。しかし、事実上バイオマスの殆どの部分は植物や植物プランクトンによって固定されていると言っても間違いではないので、ここでもそう考えておきます。

さて、水と炭酸ガスと少量のミネラルと太陽光の持つエネルギーの一部を使って行われる光合成は、実のところその巧みさにおいて驚嘆に値します。その営みは、例えば葉緑素だけの単純な物質や単純なサイクルでとても説明できるものではありません。そこに関わるのは、種々の酵素や中間物質、太陽光を波長によって利用する、巧妙で繊細な化学工場とも言える仕掛けがそこにあるからです。

人間が逆立ちしても、植物が何億年もかけて開発したこの巧妙な仕組みを真似する事さえできません。人間がこれまで実現できたのは、賢かったハーバー・ボッシュさんが、植物が苦手とする窒素の固定(アンモニア固定)の工業化に成功し、アンモニアと硫酸から硫安を作って植物へ施してあげて、彼らのバイオマス固定量をいくらか増やす手伝いが出来たくらいでしょう。水と空気と太陽光から、単純な構造の糖を合成する事すら、宇宙に人を送る何百倍も難しい研究になるでしょうし、今のところは夢のまた夢に過ぎません。バイオマスに関しては、私たちは今のところ植物様達に、お天道様の恵みを得て機嫌良く作っていただき、それをありがたく頂戴する事しかできない情けない存在ではあります。

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2010年7月17日 (土)

1172 水害考

今年も梅雨末期の水害が多発しています。投稿者の住む地域でも、かなりの被害が出たようです。投稿者は、水害、中小河川の氾濫や土砂崩れ(鉄砲水)は、一面で人災ではないかとも考えています。例えば土砂崩れです。どんな山や丘でも必ず、尾根や谷があります。谷とは、言い換えれば以前にも何らかの理由で、他の場所より浸食が大きかったか、あるいは土砂崩れの痕跡そのものだとも言えます。ご先祖様は、決してそのような場所に家を立てなかったと想像しています。何故なら、地区の長老は古くからの言い伝えを忠実に後継者に伝えたでしょうから、水害の歴史の轍は踏まなかったでしょう。

しかし、戦後の高度成長期になって人口も増えたため、地区の「分家」や都会からの移住者は、深く考えずに小さな谷の下流にも家を建ててしまったのです。これらの被害を増大させているのは、実は里山や人口樹林の手入れ不足です。里山は、かつては薪炭林でもあったため、灌木は切られ、また人工林では間伐や枝打ちが行われ、地面にもしっかり日が射したでしょう。日が射すと下草が生え、土を抑えます。下草が繁り過ぎると、木の成長にも影響が出るため、草刈りも欠かせない仕事でした。しかし、現在の里山や林地には全くと言ってよい程手が入っていません。というより、人々は山に全く無関心なのです。なぜなら、山仕事では食えないし、儲からないからです。

そうではなくて、山仕事は「環境維持業」として、捉えなおさなければならないと思うのです。山の恵みを間接的にせよ享受している人々、飲み水や工業用水や農業用水を得ている人々はもちろん、水害被害を受けずに暮らせている平野に住む人々も、そのためのコストを負担しなければならないのです。それを、山仕事に従事してくれる人々にしっかり還元しなければならないでしょう。これも、環境を維持するための持続可能な一つの「循環する仕組み」ともなり得ます。

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2010年7月15日 (木)

1171 環境の懐

環境、かんきょう、カンキョウとマスコミでも日夜連呼していますが、彼らが言うカンキョウとは、実は非常に限られた範囲で、かつどうにか五感で認知できる範囲を指す場合が殆どだと想像しています。例えば、温暖化により気候変動や気象の激化、例えば生物種の減少、また例えば公害に代表される住環境悪化や健康被害などです。しかし、カンキョウはそんなに懐が浅いものでも、単純に人間の五感などで感知できるものでもないと思うのです。つまり、今私たちが問題にしている、しようとしているカンキョウとは、大気圏の環境の場合は20km以上もある大気の厚みの内、気象に直接関係のある対流圏(高くても10km程度まで)、水環境の場合、人間が利用できる淡水や目に見える川や海の汚れ、大地について言えば、農業に利用している地表から僅か30cmの深さまで、それに加えて目に見える一部の森林やそこに棲む目に見える僅かの種類の生き物たち程度なのです。

目には見えず、五感で感じる事の出来ないその他のカンキョウについては、実際上は殆ど無視されていると言っても言い過ぎにはならないでしょう。何故なら、それらは人間の営みには実際上の利害関係を生じさせない(関係無い)からです。人間は、利害に無関係のものには全くの無関心かあるいは冷淡になりがちです。人間が環境を意識するのは、悪化した環境で自分達が生き辛くなった時に限られる事は、もう一度認識する必要がありそうです。

そうではなくて、環境への本当の配慮とは、実際には見る事や感ずる事の叶わない環境やそこに棲む生き物たちに思いを馳せ、彼らを思いやるココロを持つ事に他なりません。生物多様性という耳に心地よい言葉に代表され、目にも見える、例えばホタルやトンボや珍しい蝶や、メダカやハリヨやモロコやクジラなどにばかり目を向けるのではなく、水底に棲むイトミミズや目には見えない一握りの土の中にうごめく、数十億の微生物たちの生活を慮る必要もあるのです。環境への配慮とは、「配慮」という言葉が示す通り、目には見えないものたちへの想像力や気配りであり、彼らへの慮り(おもんばかり)そのものだと思うのです。

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2010年7月13日 (火)

1170 トンボ

この季節は、トンボの羽化の季節なのでしょう。いつものジョギングコースで、今日は沢山のトンボを目撃しました。オニヤンマ、ハグロトンボ、あまり赤くないアカネトンボ(正確な名前は知りません)などです。特にオニヤンマは久しぶりで見たので、さながら旧友に出合った様な懐かしさを覚えました。オニヤンマは、多分全長が1m近かった古代トンボ(例えばメガネウラなど)の遺伝子を濃く受け継いでいる様な気もしますが、日本のトンボでは最大級の大きさです。

さて、ゆったりと飛んだり、ホバリングしたりしているトンボを見ていて感じたのは、彼らにとって空気はどの程度の粘性物質なのか、という変な想像でした。人間のサイズでは、空気の存在を感じるのは、強風の日か、短距離陸上選手か、自転車か単車で走っている時くらいでしょうが、小型の虫にとって、空気はさながら人間にとっての水くらいの粘性を感じていると想像できます。レイノルズさんが、その辺の感覚を見事に数式に表してくれていますが、トンボや昆虫は非常に高速で羽ばたく事と、人間に比べて2桁は小さいサイズによって、空気の粘性を完全に味方につけて悠々と飛び続ける事ができます。鳥は、ややサイズが大きいので、その弱点をカバーするために、体重に比べて強大な胸の筋肉を発達させる必要があった様です。

とは言いながら、トンボを含む昆虫の種類や目にする数はめっきり減った事も事実です。理由は明白で、彼らの幼虫がココロ安らかに育つ事が出来る、自然の水溜りや小さな流れが、激減した事にあります。多くの湿地が埋め立てられて住宅地になり、土がコンクリートで覆われ、水溜りが無くなりました。小さな水路の壁はコンクリートで覆われ、虫の隠れ家となる水草も繁っていません。オニヤンマも絶滅危惧種と呼ばれる日がやがて来るのかも知れません。そう思って見ると、最近のオニヤンマはやや小さくなって、迫力が無くなってしまった様にも感じました。投稿者の気のせいだと良いのですが。

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2010年7月11日 (日)

1169 爬虫類天国

投稿者の借りている事務所ビルは、1階が学習塾、2階は空き家、3階の半分を投稿者が借りている、築30年以上経過したと思われる古いビルです。夜間は完全無人で、常夜灯も「完備」され、しかも階段・廊下部分は窓が無いので、虫がしっかり集まってきます。その虫を餌にしているのは、ヤモリの親子(複数のヤモリを同時に目撃しましたので、とりあえずは親子という事にしておきます)です。ヤモリはトイレのロータンクの中と、洗面所の鏡の裏を棲家としている様で、小さくてそれなりに可愛いのですが、壁中にフンを付けて回る品格の無さには閉口します。

さて、先日そのヤモリを狙っていたのか、常夜灯の下でのたうち回る虫を狙ってきたのか、ついに蛇が登場しました。とはいっても、1mもないシマ蛇の子供?ですが、朝来ると階段にとぐろを巻いて眠っていました。草むらで蛇を見るのは当たり前ですが、直線で囲まれたコンクリートの建物の中で、不定形のぐにゃぐにゃした物体を見ると、やっぱりドキリとします。毒は無いと分かっていても、ココロが受け付けないのです。小石を投げて退散願いましたが、どうも投稿者の遠いご先祖は、葉っぱに棲んで居た青虫の様なものの様で、爬虫類は天敵なのか、かなりの苦手です。

コンクリートの建物にも、これらの生き物が棲みついて、安らかに暮らしている事については、店子である投稿者としても、彼らの同居人という立場である訳で、できる限り邪魔しない様に共存していきたいとは思っています。

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2010年7月 9日 (金)

1168 集光装置

太陽光を集める装置(例えば太陽光発電パネル)がただの平板ではあまりにも非効率です。少なくとも、ナミナミか、曲面か、理想的には多数の平面の集まりにはなっていて貰いたいものです。また太陽光は、理論的には地球の表面至るところに、ほぼ平等に降り注いでいる様にも見えますが、実は厳しい競合関係にあるからです。例えば、田んぼや畑の上に太陽光発電パネルを設置すると仮定した場合、そのパネルの下では最早作物は育ちません。精々、光が要らないヒョロヒョロのモヤシ程度しか収穫できないでしょう。同様に、山の木を広く伐採して、斜面に同様の施設を設置する場合も同様です。山は、結果として保水力を失い、洪水が頻発する事でしょう。海の上でも事情は同じです。植物プランクトンは、太陽光を利用して増えますので、洋上の巨大な構造物は、海に棲む生物にも多大な影響を与えずにはおきません。

つまり、太陽光の利用設備は、他に影響を与えない場所を選びに選んで決定すべきでしょう。南に面していて盛土をした道路の法面、高速道路の防音壁、住宅の屋根、マンションのベランダの手摺の外側、平面駐車場の上の空間、海外では砂漠地帯等が候補地になるでしょう。しかし、砂漠に植物や生物が棲んでいない訳でもありません。それどころか、昼間は砂の中に潜っている乾燥に強い動物や、非常に長い地下茎を伸ばしている植物など、人間が殆ど注目していないが、しかし有用な生物の宝庫かも知れないのです。太陽光の利用に当たっては、それらの生物との競合が無いかどうかに関しても、厳しい影響評価が欠かせないでしょう。

太陽光は無限のエネルギー源の様に考えられがちですが、人間がそれを集めて利用する際には、まだまだ考えなければならない事柄が多そうです。もっとも安全で、正しい方法は、植物やプラントンに太陽光を集めて「いただいて」それを、人間が「利用させてもらう」という腰の低い姿勢を持つ事かもしれません。

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2010年7月 7日 (水)

1167 バックキャスト

成長の限界点というイメージ出来上がり、それが具体的に描けたとして、では今それに向けて何を為すべきかを決めるのが「バックキャスト」という考え方です。つまり、将来に亘って安定的に使える資源やエネルギーが、今の25%であるとすれば、私たちの日常生活や社会システムのサイズも、同じ縮尺で縮めて行かなくてはならないわけです。誰もが、自分の生活水準を下げるには抵抗があるでしょう。しかし、皆で渡ればそれも怖くはなくなるでしょう。隣の生活も、ウチの生活と同じレベルになるのであれば、人々はかなりの事に我慢できる筈です。しかし、やせ我慢は決して長続きはしないので、その物質的には低い生活レベルでも、人々がココロ豊かに暮らせる知恵や工夫が、今後の社会システムには不可欠になるでしょう。つまりは、無責任な経済予想を繰り返す経済学者や政治屋には退場願い、少ない資源・エネルギーでココロ豊かに暮らす知恵を生み出す、数多くの知恵者やアイデアマンに登場願いたいものです。

投稿者を含め、企業経験や行政経験の長い人たちは、多分決められたゴールを目指して、そこに至る計画を引くのは比較的簡単な作業に違いありません。何故なら、「外挿法」が使えるからです。つまり、過去の実績を引っ張り出してきて、それに成長率を掛けて、将来の予測がかなり正確に出来ると言う事です。しかし、右肩下がりの計画を引くのは容易ではありません。過去の実績にマイナスの成長率を掛けて予算を引き下げると、既得権益を持つあらゆる勢力から、一斉にブーイングが湧き上がるからです。結局は優先順位の問題にはなるのですが、これが実は至難の業なのです。企業に場合は、それでも経営者のツルの一声で決める事も可能なのでしょうが、一般社会の生活に絶対不可欠なもの、あれば快適なもの、無くてもどうにかなるものと、無駄なものを「仕分け」するのは、行政仕分けほど簡単ではありません。乗用車は一家に1台に制限し、湯船に湯を張った入浴を週2回に制限し、庭の水撒きには屋根に降った雨水を使わなければならない法律でも作らない限り、現在の25%の資源・エネルギーで動く社会の設計は、結局各論反対で実を結ばない結果に終わるでしょう。右肩下がりのバックキャスト手法の開発が必要な所以です。

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2010年7月 5日 (月)

1166 成長の限界

今度の選挙の争点の一つである税率の議論を聴いていると、イライラします。なぜなら、これがまさにタマゴとニワトリの論争そのものだからです。景気が悪いから税金が集まらず、結果として消費物資に課税せざるを得ない。いや、増税すると過去の例でも税収は更に下がったのであるから、景気は完全に失速するから景気対策が先だ、という不毛の議論です。日本を含む、世界経済の成長の限界はどこか、という議論は、実は1970年代から繰り返し行われてきた筈です。その端緒となったのは「ローマクラブ」がまとめた「成長の限界」という報告書でした。コンピュータの能力が限られたものであったあの時代、その推計値は大まかなものでしたが、資源の有限性から論じ詰めたその結論には説得力もありました。それは、投稿者の頭の片隅にも、明確な暗示の様に刷り込まれてしまったのでした。

成長の限界は、地球のサイズが有限である限り、100%認めなければならないとしたら、では、その限界点(着陸点)はどこになるのか、真剣に議論してみなければならないでしょう。マクロ経済で見る目も必要でしょうが、私たちの日々の生活は、一体過去の何時の時代に相当するレベルまでが許されるのかも具体的に示して行く必要があると思うのです。私たちは、既に地球が(資源が)許す、生活水準をとっくに超過してしまった訳です。確かに、その水準にはるかに届かない生活を送っている人口が圧倒的に多いのも事実ですが、欧米を手本として、モノが豊かで過剰に清潔な生活スタイルは、最早持続可能ではない事は率直に認めなければならないでしょう。その際、輸出入が殆ど無かった時代に、100万人の都市(江戸)を、ココロ豊かにしかも清潔に維持してきた、先人の知恵の結晶は、一つの着陸点として頭の片隅に置かなければならないでしょう。それに加えるべきは、エネルギーを馬鹿食いする近代科学技術ではなく、江戸時代の知恵のブラッシュアップ版でなければなりません。

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2010年7月 3日 (土)

1165 電磁波

「エネルギー」と私たちが呼びならわしている「モノ」の本質が、実は種々の波長の「電磁波」とほぼ同じ意味である事は、強調してもし過ぎる事はないと考えています。エネルギーが伝わる場合には、例外なく電磁波が関わっています。物質が、内部にエネルギーを抱えている時は、必ずその物質が熱振動を行っています。熱振動があるところには、その物質表面からの電磁波(例えば赤外線)の放射が伴います。空気の分子も熱振動を繰り返していて、分子からも活発に赤外線が放出され、結果エネルギーレベルが下がりますが、同時に周りの環境からも新たな電磁波の放射を受け取っており、通常振動状態は維持されます。

物質が熱振動を止めるのは、その物質の温度が絶対零度(ほぼ-270℃)に到達した時だけです。従って、エネルギーをコントロールする事とは、電磁波をコントロールする事と同義だと言っても過言ではありません。しかし、私たちが持っている電磁波のコントロール手段は十分ではありません。例えば、通信に使っている電磁波(いわゆる電波です)だけを遮るのであれば、例えば鉛や炭素等でシールドすれば可能だと言えます。しかし、もっと長い波長の電磁波(赤外線)やもっとずっと短い波長の電磁波(例えばX線やγ線)を遮るのは、分厚いコンクリート等の遮蔽物を準備する必要があります。

高温の物質の温度を保つには、不十分ながら、断熱材と呼ばれる「フトン」を使う方法や、少々大げさですが、周りに真空に保った空間を作る程度の手段しか持っていない訳です。しかし、これらの手段でブロック出来ない波長の電磁波は、ほぼ自由にこれらのバリアを通過し、エネルギーが失われる事になります。そう考えると、エネルギーの使用量を大幅に減らしたいのであれば、電磁波となって失われる(役に立っていない)エネルギーの量を如何に少なくするかに、私たちの叡智を集めるのが近道だと言えます。

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2010年7月 1日 (木)

1164 環境の劣化

ここでは、環境の劣化は何を意味するのかを考えてみます。これは実に難しい問で、一介の環境坊主にすっきりと答えられる筈もありませんが、なんとか無い知恵と言葉を絞り出してみます。さて、環境劣化を投稿者なりの言葉で表現すると、一つは環境のメリハリが無くなる事だと言えるかも知れません。高い山が浸食されてなだらかになると、高山植物やそれに依存して暮らしていた生き物、例えばライチョウやホシガラス等は暮らしの場を失う事でしょう。北極海の氷が解けると、それに乗ってアザラシやオットセイを捕食していたシロクマは絶滅するしかありません。凍土地帯の永久凍土が溶けると、その上の僅かな表土にしがみついていた針葉樹やその他の植物が失われる事でしょう。つまり、環境にはメリハリが無くなり、植物や動物相が単純になってきます。これを、環境へのエントロピー増大の法則の適用という言い方もできますが、同じ事を学者先生が難しく言っているに過ぎませんので省略します。

環境の劣化のもう一つの指標は、環境汚染という言葉に代表されます。汚染とは、本来そこにあるはずの無い物質が、人為的に排出された結果、環境が許容する濃度を上回って存在する状態を指します。火山が爆発して、大気中の火山ガスや硫酸ミストなどが増加するのは環境汚染ではありません。しかし、火力発電所で石炭を燃やし、十分に脱硫しないまま、亜硫酸ガスが排出され、結果として酸性雨が降るならば、それは環境汚染であり、とりもなおさずもう一つの意味での環境劣化を意味します。

実際のところ、これらの劣化は個別に進行する訳ではなく、人間社会の活動量の増大に比例して、同時に進行する事が問題で、時にはこれらが相乗的に影響し合う事も問題です。特に、温室効果ガスと呼ばれるもののうち、オゾン層も破壊するものや、化学肥料起源のものなどが思いア当たります。それらの、環境劣化への影響力は、足し算では収まらず、掛け算としてカウントしなければならないでしょう。

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2010年6月29日 (火)

1163 進化と劣化

とは言いながら、一方で生命の営みや形ある生物が、時間とともに進化するという事実は、「劣化の法則」と矛盾するのでは?という突っ込みが来そうですが、それももっともな事です。それについては、禅問答的にはなりますが、「全ての進化は、個体の老化と死という犠牲の上に成り立っている」、あるいは「全ての進化は、環境の劣化の犠牲に上に成り立っている」と答えるしかなさそうです。もし、老化と死が無ければ、地上には生物が満ち溢れ、生物そのものが存続できない困った状態に陥るはずですし、同じ時代に祖先と、進化を果たした子孫が「博物館の様に並んで存在する」滑稽な光景が見られるからです。バクテリアの様に無性生殖する、進化を諦めた生物は、例えば高温シアノバクテリアの様に、火山水(つまりは温泉です)が湧き出る泉に、何億年もの間、変わらぬ姿で「生き続ける?」事が出来る訳です。生き続ける、と表現しましたが、個体レベルで行けば、当然劣化して、死んでしまう事は避けられません。遺伝情報は、「新たに」二つに分裂した新しい個体に引き継がれる事になります。

では、生命の進化が何にとっての質の低下につながるのか、と考えてみると、それは結局は環境にとっての劣化の加速につながる、言えそうです。生命が進化する事は、一般的に考えれば、その生命体の存続のためにより多くの環境資源を消費する事につながるでしょう。水中のバクテリアの存続に必要な環境資源は、水と太陽光と酸素と僅かなミネラル分だけだと想像していますが、一方クジラは大量の海洋小生物(オキアミや小魚等)を摂食しなければ巨大な個体を維持できません。私たち人類に至っては、地上の植物や動物だけでは事足りず、生き物を飼ったり、地下資源を大量に掘り出したりして、贅沢な暮らしを支えています。クジラがそれほど環境の劣化を加速しているとは言えないでしょうが、人類の経済活動や飼育されている大量の家畜からの環境負荷が、地球規模の環境劣化を加速している事は、今や否定しようがありません。

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2010年6月27日 (日)

1162 劣化の法則

「全ての形あるものは必ず劣化する」は、法則になり得る真理だと思っています。もちろんこんな当たり前の事は、洞察力の鋭い先人が、きっともっと気のきいた表現で、格言などにしている事でしょう。さて劣化の定義は結構あいまいですが、ここではとりあえず質の低下としてみます。もっとも、これでは「それは一体誰にとっての質か」という根本的な問いにはなかなかすっきりとは答えられないのでしょうが…。私たち人類は、かなり身勝手なので、この質を「人間にとっての質」と勝手に解釈して、環境悪化(劣化)問題などと声高に叫んでいる訳です。しかし、岩石が風化して礫や砂に崩壊していく「岩石の劣化」は、それらに依存して生きている植物や生き物にとっては、ありがたい質の高い劣化ではあります。

そこで、もう少し表現を変えて、劣化とは「形あるものが、よりエントロピーの低い方向に変化する現象である」と言い直してみます。エントロピーの低下というのは、平たく言えば、逆らわずより楽な方向に流されて行く現象だとも言えるでしょう。例えば、質の高いエネルギーは、その使用によって、エントロピーが低い熱に変化して、宇宙に逃げ去ってしまうでしょうし、形のある存在はやがて風化や紫外線によって形が崩れ、色褪せてしまうことでしょう。しかも、この変化は放っておけば決して後戻りする事はありません。

多くの自然現象中で、生物や生命現象だけがこの例外の様にも見えます。つまり、植物は無生物である環境の栄養素を吸収して、芽を出し、枝葉を茂らせて実を付けます。動物は、それらの植物を餌にして生殖を繰り返してして子孫を残します。たった一個の胚が、分裂を繰り返して種々の器官になり、やがて親と同じ形態に成長する過程は、さながら劣化の過程のフィルムを逆回ししている様な錯覚にもとらわれてしまいます。しかし、投稿者としてはこの法則には例外はあり得ないのでないかとも感じています。続きます。

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2010年6月25日 (金)

1161 無極灯

最近「無極灯」という言葉を人生で初めて耳にしました。蛍光灯の一種ですが、蛍光灯とは異なり、フィラメントを熱して熱電子でグロー放電させる原理ではなく、二つのコイルの電磁誘導により蛍光管内の電子を動かし、蛍光灯と同じように発光させる原理の様です。インバーター制御された二つのコイルだけでどの様にして放電を起こすのか、その辺りが特許なのでしょうが、中国発の技術である事は、一面驚きでもありました。というより、かつての日本の様に、外国の技術を導入して、安いコストで、大量に生産するのが、中国のもの造りの特徴であると単純に考えていた事に忸怩たる思いなのです。この話を聞いた時は、環境カウンセラーを天職と思いこみ、省エネルギー説法を当面の仕事と定めた投稿者にとっては、「まだまだ修行が足りないな」と思い知らされた瞬間でもありました。

この電灯は、蛍光灯とは異なりフィラメントを熱しませんので、同じ照度を得るのに要するエネルギーは、蛍光灯の半分~1/5以下になる様ですし、フィラメントを使わないので、当然球の寿命もかなり長くなる筈です。LEDは確かに、省エネの発光体ではありますが、蛍光灯の様に面で発光出来る訳ではないので、全体照明の様に広がりのある照明器具の目的には不向きです。つまり、蛍光灯の代用のためには、何十個も並べて発光させる必要があるからです。省エネ型面発光素子の希望の星でもある、有機EL照明に適した安価でありふれた、しかも無害な物質が見つかるまでは、この技術が今後のある期間の照明市場をつないで行きそうな予感がします。

勿論、環境坊主としては、これは「つなぎの技術」と見ており、最終的には、少なくとも昼間は、太陽光だけで屋内を照明するという理想の姿を棚上げする積りは毛頭ありませんが・・・。

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2010年6月23日 (水)

1160 情報飢餓

2週間の旅行中、ほぼ毎日メールを受信していました。どのホテルでも、それなりにネットはつながりましたし、日本にあるデスクトップパソコンからのメール自動転送機能でメールも開けましたし返事も書けました。もっとも、途中で誰かの巨大な添付データがついた不用意なメールで、メールボックスがブロックされて受信ができなくなりましたが・・・。また、E国内でも、つれあいからの細かな買い物に関する情報要求も地図や関連情報付きで随時検索できました。

これほど便利な仕掛けですので、ネット社会が世界中に爆発的に拡大したのも当然でしょう。しかし、それに付けても私たち人類は、「常に情報に飢えている存在」ではないかと考えたくなります。巨大に発達した私たちの脳は、学校での詰め込み教育や社会生活で多少考え込んだくらいでは、とても使いきれないくらいの余裕(Redundancy)を持っていますので、脳は常に情報を要求している筈なのです。それを好奇心と呼ぶ事もありますが、刺激の無い状況に置かれ、情報遮断された脳が、短期間のうちに情報飢餓状態に陥り、それを通過すると次には精神異常を起こす事は、過去の実例や模擬実験でも確認されてもいます。

さて振り返って、投稿者自身が情報飢餓状態にあるかどうかですが、今のところ必要な情報を必要の都度入手するためにネットを使う程度で、幸いにもネットサーフィンにはまる様な飢餓状態はありません。それは、このブログで情報発信(といより自分の頭の中の整理)をしている事もありますが、一方で仕事の中で日々新しい人と会って話をする中で、好奇心のかなりの部分が満たされているからではないか自己分析しています。

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2010年6月21日 (月)

1159 井戸枯れ

E国では、E国資本の石油会社が引き起こした海底油田からの油漏れ事故のニュースが一日中流れ続けていました。ところで、E国が産油国の一つである事は意外に知られていません。北海そのものが、かなり枯れてきたとは言え大きな油田(北海油田)なので、その縁に当たるE国で石油が採れても不思議はありません。事実、E国の国内にいくつかの油田が存在します。もちろん規模は小さく、一日にタンクローリー数台分しか採れない油田もあります。その採掘の様子は、かつてブレークした「水飲み鳥」がコップをつっつく姿に似ています。モーターで駆動されるクランクが、天秤となっているポンプの「つるべ」を上下に動かし、地下深くに吊り下げられたポンプのバケットを引き上げます。バケットには逆止弁が付いていますので、石油が少しずつ汲みだされる事になります。自墳しなくなった古い石油井戸では、動力を使ってシコシコ汲み上げるしかない訳です。

この光景はアメリカ中西部でも見ましたし、日本でもかつては新潟や秋田などでも普通に見られた光景でした。その意味では、日本もかつては「産油国だった」と言えます。もっとも日本ではその光景は30年ほど前には姿を消し、辛うじて少量の天然ガスを産出する井戸が残っているだけです。

ここで言いたかった事は、井戸はやがては枯れると言う原則です。何千年も枯れない井戸はあるかも知れませんが、それはむしろ例外で、多くの古代文明は井戸の水枯れで崩壊していきました。石油の井戸が枯れる事は、それに過度に依存してきた「この文明」も危うくなる事を意味します。少なくとも、石油や天然ガスやそれらから得られる電力を消費すべく運命づけられている「近代文明」は停止せざるを得ないでしょう。残るのは、昔ながらの「伝統的」な自然エネルギーに依存する生活です。江戸時代の生活を想像すれば、イメージとしてはほぼドンピシャでしょう。井戸枯れ=文明枯れとなる所以です。

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2010年6月19日 (土)

1158 Dイソンの国

帰国してからの投稿です。現在のEギリスで有名な発明家といえば、現代ではJ.Dイソンでしょうか。サイクロンのアイデアは、B国人が発明したようですが、紙パックの要らない掃除機にこだわり続け、今や押しも押されもせぬ、E国を代表する発明家、実業家になりました。サイクロンは、実は多くの工業製品や設備に使われていますが、あまりにも普遍的な技術なので、それを家電に採用するという発想を、Dイソンまで誰も持たなかったのかも知れません。具体的には、空気と粉体(粉塵など)の分離、同じく空気と水分や油分の分離には、サイクロンは不可欠の設備です。圧縮空気を使えば、超小型のサイクロンで、低温の空気を作る事も可能で、製鉄所の溶鉱炉近くで作業する人の防熱服などにも使われています。ついでながら脱線すると、個人が身につける究極の「携帯冷房機」などというものも、サイクロンを使えば実現できるのかも知れません。

Dイソンは、その後も羽根の無い扇風機や、手の切れるような風が出て、瞬間的に乾燥できる「ハンドドライヤー」など、空気力学の原理を利用した家電品を次々に開発して、モノづくりでは今や小国になってしまったE国を元気づけています。そう思って見回すと、実はE国には独創的な発明家や実業家が結構多い様な気がしてきました。良い例はすぐには思い付きませんが、進化論を発想したダーウィンの生まれた国でもある一方、例えば摩擦撹拌接合(FSW)の特許を持っている企業もE国にありますし、コンピュータの発明家として知られるシンクレアなども思い浮かびます。

独創性が何から生まれるのか、平均的な知能しかないと自認する投稿者には想像もつきませんが、気候や風土の他に、教育システムも勿論影響があるに違いありません。今回の訪問でも大英博物館を含む複数の博物館を訪問しましたが、幼稚園から中学生くらいまでの、学校関係の見学グループが非常に多かった上に、単なる見学ではなく、展示物の前で、細かく説明したり、感想を求めたりしている光景に出合いました。博物館には、非常に古い発掘物も最新のサイエンスを展示している科学博物館もありますが、それらの雑多なものからの強烈な刺激を与え続ける教育が、情操に与える影響が悪かろうはずはありません。それらの子供たちの中から、ダーウィンやDイソンに続く様な人が生まれるのかも知れません。

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2010年6月17日 (木)

1157 チューブの合理性?

世界で初めて地下鉄が建設されたのは、まだ蒸気機関車の時代で、たぶんこの国の首都だったと思います。現代の地下鉄は「チューブ」と呼ばれ、その名の通り円形のトンネルと、ほぼ同じ形に断面が丸く作られた電車が、壁と30センチほどの隙間しかない状態で走り回っています。電車が空気を押して進むので、駅のホームでは、強い風が起こり、電車が近付くのが遠くからでもわかります。隙間が余りにも狭過ぎるので、電車が押す空気が常にトンネルの壁との摩擦を起こすので、日本の地下鉄に比べると、エネルギー的には少し損をするかも知れませんが、何しろ地下鉄の建設費や電車の重量=製作費は最低限で済むでしょうし、乗客が少し窮屈に感じることを除けば、それはそれで合理的だと感じてしまいます。

電車の重量は、電車の製作費の節約に留まらず、日々の運航エネルギー=費用にも直接リンクしています。すなわち、運航エネルギーのたぶん3割程度は、電車の加速に使われますので、目検討で、重量が日本の地下鉄の2/3程度で作られていると思われ、電車の運航エネルギーもほぼ比例的に少なくなっている勘定です。

合理的とは言いながら、作られて長い年月を重ねているチューブのシステムは、古い上に制御系統もツギハギだらけと思われ、短い運休や、路線ごとの週末の終日の運休は日常茶飯事です。これを補完する意味もあるのでしょうが、地上では必要以上に多いと感じるバスが、狭い道路に溢れていて至るところで、交通渋滞を引き起こしている状態です。もう少し、路線を整理して、合理的な運航方法を採用すれば、公共交通機関で消費するエネルギーは、たぶん3割は削減できそうに思えます。合理的なチューブと非合理なバスが同居している変な街ではあります。

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2010年6月15日 (火)

1156 ここでもエコ

10年近く前にDイツとEギリスを同時期に訪問した時に、両国の環境に対する姿勢には大きな差があると感じたものです。今回も、その思いはあまり変わってはいませんが、それでもEギリスとしても、遅まきながらエンジンをかけ始めたような雰囲気もあります。スーパーでは、レジ袋を減らそうと、麻布で作ったようなエコバッグが普通に売られていますし、生物資源の保全が配慮されている魚介類には、その旨の表示も付いています。また、地下鉄の壁に掲げられている広告も、温暖化防止のためのカーシェアリングの推奨をするものや、環境保全を企業のイメージアップに使っているものが多く見受けられます。名物の2階建てバスも、最近は更新が進み、以前に比べて、排気ガス公害もかなり緩和されたような気がします。なにしろ前回の訪問時は、一日市内を歩き回ると、鼻の中が真っ黒になったように記憶しています。

今回もレンタカーを借りて、湖水地方や牧歌的な田舎を3日ほど走り回りましたが、今回借りた車はDイツ車のディーゼル車でした。それとなく燃費を計算すると、1リットルで十分30km程度は走る勘定になりますので、日本のPリウスと遜色ない性能です。しかも、高速道路は平均7080マイルで飛ばしての平均燃費なので、十分に及第点がつけられる性能ではあります。

とは言いながら、ゴミの分別や捨て方、路上のゴミやタバコの吸い殻の散乱の多さには、この国もまだまだ環境保全途上国であることは間違いなさそうです。

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2010年6月13日 (日)

1155 樹木の戦略

樹木は地球上でもっとも普遍的な植物です。しかもその進化の歴史は非常に長いと想像されます。何しろ、太古の昔に倒れた樹木が、石炭などの「化石」になって出土していますし、投稿者が住む地域の河原では、樹木が立ったまま化石になった「珪化木」も観察できます。ついでながら、この近くの河原では、日本で最古の岩石と特定されている岩石も採取されているのですから、地層の古さも半端ではありません。

では樹木がこれほどの繁栄を勝ち取ったのはどの様な戦略が使われたからなのでしょうか。第一には、頑丈な樹幹を発達させ、重力に打ち勝って枝葉を広げる事が出来るようになった点が挙げられそうです。その結果、太陽光を利用した光合成が効率良く出来やすくなり、雑草やコケ類などの背の低い植物の「上」に君臨する事が出来たのでしょう。

さて、旅行中のこの北の島は、北緯で言うと北海道よりかなり北になるはずなので、公園や街で目にする樹木の種類も全く異なります。何しろ樹形が大きく異なります。また樹高も非常に大きくなっているようですし、葉の形も日本なので見られる様に上からの太陽光を受けやすい上向きの形とは異なり、プラタナスやエルムのように大きな葉を下に垂れさせた形のものが多く見られます。これは、一にかかって短い夏の斜めから差す弱い日光を集めるために、北国の樹木が数億年かけて開発した戦略なのでしょう。緯度が高い地方では、円錐形をした針葉樹が多く観察されますが、しかし、メキシコ湾流の影響で、冷涼ではあっても寒冷ではないこの国では、とくに南部では、針葉樹はあまり見ることがありません。針葉樹は、たぶん長い期間氷点下にさらされる地域での戦略だと思われます。

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2010年6月 8日 (火)

1154 フロートシステム

旅行先からの投稿で、1153の続きです。海水温度はどの様にモニターされているかと言えば、実はかなり大がかりに(国際的に)、しかも正確に観測されている事は意外に知られていません。それは、例えば「アルゴフロート」と呼ばれる海洋観測ロボットに代表されます。これは、予めプログラムされたサイクルにより、海表面と2000mの深海を往復しながら、海水温度を含むデータを収集し、浮上した時に衛星通信でそれを送信する観測システムです。このほかにも、タオシステムやトライトンブイと呼ばれる、固定されたブイでも同様の計測が行われています。しかもそのデータは、ネットで公開もされているのです。例えば、次のURLがあります。

http://www.pmel.noaa.gov/tao/

http://www.jamstec.go.jp/jamstec/TRITON/

これらの信頼できるデータからも、海水温度の継続的上昇は動かし難い事実となっています。

しかしながら、問題は「海洋学者」は必ずしも気候変動の専門家ではなく、「気象学者」は主に大気の現象を扱っているため、海洋(とりわけ深い海)の状況には比較的疎いという、「学際レベル」の低さではないかと感じています。海洋は、あらゆる意味で大きな「バッファー」である事は論を待ちません。生物の揺りかごであり、蓄熱槽であり、種々の物質を溶かしこんだ複雑な溶液であり、沈殿物質の堆積場所であり、加えてCO2を含む気体濃度の調節装置でもあります。このほかにも、投稿者の浅い知識では、想像すらできない奥が深く複雑な機能も秘めていそうな気もします。いま気象観測に割いている予算とマンパワーの、例え10%でも海洋観測に回し、「海洋・気象・環境学」といった「学際学」を学ぶ人々を、少なくとも今の10倍にはする必要があると、この素人学際学人は感じています。

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2010年6月 4日 (金)

1153 海水温度

明日から2週間程日本におりませんが、もしインターネットがつながって、アップできれば旅先からも投稿する予定です。今回は、つれあい孝行として、彼女の「専任ツアコン」を引き受けてしまったのです。行き先はイギリスなどですが、全て自分でセットしたので、パック旅行に比べれば安くは上がりそうですが、結構ツアコンの「お仕事」はキツそうです。

さて、最近の研究で、全地球的な規模での海水温度の上昇が再確認されたとか。この種の研究は、気温上昇(温暖化)の研究ほどではないにしても、地道に行われてきたものです。しかし、投稿者としては、気温上昇以上に海水温の上昇の問題は深刻で、かつ対策に急を要する事態だと感じています。それは、大気と海水の圧倒的な比熱の差が頭に浮かぶからです。比熱とは、一定の熱量を加えた際に、どの程度温度が上昇するかの指標です。空気と海水では、単位重量当たりでは後者が3倍程度大きいだけですが、密度が何しろ数千倍なので、3桁以上異なる訳です。つまり、気温の0.1℃の上昇と、海水温の0.1℃では、そこに蓄えられている熱量と、その影響が数千倍程度異なる可能性がある事を意味します。

100年掛って、平均気温が1℃あまり上昇した大気と、同じ期間に同程度上昇した海水では、表面上の影響が数千倍になるかも知れないのですが、実は、これはまだ海の深さを勘定に入れていない「表面上の」議論なのです。もし、大気を凝縮して液体空気に戻すと仮定した場合、それは多分地球表面に1mあまりの浅い海を作る程度の量に過ぎないでしょう。一方、海洋は1万メートルを超える深さの場所もあるわけですから、平均深度を数百メートルと仮定しても、その影響は更に2桁程度大きくなる可能性を秘めていると考えなければなりません。

深海までの海水循環(熱塩循環)を考慮した場合、現在の海水温上昇の本当に恐ろしい影響は、数百年後にしか出てこない可能性もありますが、現実問題として、海水温上昇は大気中の水蒸気量を増加させ、結果として最近のインドネシアやガテマラの例を引くまでもなく、局地的な降雨量の増加や、逆に少雨化の現象も顕著になっており、対策の緊急度が急激に高まっている様に見えます。

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2010年6月 2日 (水)

1152 生物一様性?

各地のブランド牛が実は、その多くがM崎県産の子牛から育てられたものである事が、今回の事件で露呈しました。別に隠していた訳ではないのでしょうが、何しろブランド牛ですから、育てられた地域の地名を冠する事が必須です。中国に商標をパクられた隣県のブランド牛も、やはりその典型の様です。そのブランドに群がる消費者もどうかと思いますが、ここでも「コシヒカリ症候群」が観察されます。コシヒカリは、確かにおいしいコメではありますが、病気や高温や風に弱いという欠点も多く抱えています。おいしいから高く売れ、従って農家はこぞってコシヒカリを植え、地域の名前を冠した「○○産コシヒカリ」として売り込みます。しかし、他の米では殆ど影響の無い小さな気候変動や、病気や害虫によって、その地域のコシヒカリが壊滅的な被害を受ける事は十分想定できます。

同様に、同じ遺伝子を持つM崎牛の子孫が、ある種の口蹄疫ウィルスに極端に攻撃され易い場合、今回の様な早いスピードでの壊滅的な感染も、実は予想されても然るべきだったと言えるでしょう。事実、今回猛威を奮っているウィルスは、数十頭の優良種牛にも牙をむいています。感染した牛は、彼らの血を(遺伝子)を引き継いでいる筈ですから感染の急拡大も当然の話です。COP10のテーマは生物多様性ではありますが、現在栽培されている作物も多く飼育されている家畜も、全く逆の方向を向いている事に、私たちはもっと敏感になるべきでしょう。

その意味で、家畜、穀物、果物、養殖魚介類、そして最終的には人類(の文化)や経済までも、一様性のレール上をばく進している様に見えてしまいます。地域の特性に応じた、多用な生物を利用しながら、基本的には地産地消の仕組みの上で動くシステムこそ、今後も永く維持可能な(持続可能な)仕組みだと断言できます。学者にばかり任せるのではなく、私たち自身が(やや不便で)多様なライフスタイルを実現しなくては、結局は「一様性」の流れを引き戻す事は出来ないと思うのです。

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2010年6月 1日 (火)

1151 断熱・遮熱

エネルギーを使う話や節約する話を縷々書いてきましたが、実はエネルギーを逃がさない工夫こそ、もっともっと真剣に考えられて然るべきだとも感じています。何度も書いている様に、エネルギーの最終形態は熱(赤外線放射)であり、それは、放っておけば結局は宇宙に逃げて行く事になります。

一般に流通している断熱材(例えばグラスウール)は、繊維状の物質の中に多くの空気を抱え込んでいる、いわば綿状のものが殆どです。確かに、ある厚みを持たせれば、空気層の中では、温度が徐々に変化する結果、例えば外気と室内の温度差を保つ事が出来ます。しかしながら、この種の断熱材は、輻射熱の貫流(つまりは遠赤外線の透過です)には、殆ど無力であるのと、内外の温度差が大きい場合には、その厚みを極端に大きくする必要があり、結局はコストアップになってしまいます。それは本州では50-100mm程度で済む家屋の断熱材が、北海道では150-200mm程度かそれ以上必要な事からも分かるでしょう。次善の策は、通気性の断熱材ではなく、独立気泡を抱え込んだ断熱材(ウレタンフォームの様なもの)を使う事ですが、この種の断熱材は、しかし環境には優しくありません。リサイクルも難しいですし、発泡剤にフロンなどの温暖化原因ガスを使っている場合も多いのです。

実際のところ、理想的な断熱材は「真空層」で、しかも温度の高い側に向けて、反射膜が付加されているものが最強です。昔の、保温ポットの内壜が、二重のガラスでできていてその中が真空になっており、しかも内側に向いた面が鏡になっていましたので、保温性能は非常に高かった筈です。投稿者が見つけた最強の断熱材は、非常に細かいセラミック粉をまぶしたセラミック繊維でできた断熱材です。これは、真空断熱並みの性能を発揮する優れモノですが、残念ながらまだまだ高価です。

とは言いながら、ペアガラスの例の様に、非常に狭い空間の中に閉じ込められた空気は、対流を起こしませんので、真空層並みの断熱性能を示す筈ですし、それに加えて可視光は透過させるが、赤外線の多くをブロックする反射膜を組み合わせれば、ほぼ理想的な断熱窓や断熱壁を、実現する事も可能です。しかも、この断熱材は十分に薄くすることが可能なので、既存の建物にも簡単に適用できる筈です。

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2010年5月30日 (日)

1150 贅沢エネルギー

途中に、北海道レポートとジョギングシリーズを挟みましたが、民生向け「エネルギー仕分け」の続きです。ここでは、そのエネルギーが必要かどうかではなく、逆の立場から見て、それでは何が「贅沢エネルギー」なのかを考えてみます。実は、この定義が可能であれば、温室効果ガスの排出にかかる問題の半分以上は解決したのも同じだとも言えます。つまり、毎日入浴する事が贅沢ならば、では2日に1回では、3日に一度は贅沢ではないのか。生まれてから殆ど風呂に入った事が無い(というよりバスタブなど見た事もない)人たちに比べれば、1週間に一度の入浴も贅沢の極みだとも言えるかも知れません。民生部門の必要不可欠と贅沢の境界線は、実は企業活動に関連して述べたBEに比べれば、はるかに幅が広いと考えなければならないでしょう。

そうではありますが、私たちは無理やりにでも、不可欠エネルギーと贅沢エネルギーの間に境界線を引かざるを得ません。ここでは、先人が不可欠としていたものを一応「不可欠エネルギー」と定義し、私たちの子孫が使えると思われるエネルギーレベルを超えるものを「贅沢エネルギー」と考えてみます。しかし、では何時頃時代を基準に取るのか、ここでも議論が巻き起こるでしょう。なぜなら、江戸時代を基準に取るなら、99%の人たちは数日で悲鳴を上げるでしょう。数日とは、つまりはキャンプ場で過ごす日数程度を指します。現実的なところでは、例えば1970年代の半ばの生活を知る世代であれば、あの時代のエネルギー消費が現在の丁度半分であった事実が参考になるでしょう。とりあえず、それを基準と仮定すれば、一家に1台の車は一応不可欠でしょうし、居間についているエアコンや居間のテレビは一応セーフとなります。

一方、将来世代がどれほどのレベルでエネルギーを使えるかを想像してみると、再生可能エネルギーを最大限活用しても、現実的な数字としては、現在の1/4以下となる筈です。これを超える、エネルギーの消費は贅沢と考えなければ、世代間の格差が大きくなり過ぎるのです。現在の1/4のレベルだと、私たちは多分、1960年代の生活を思い出さなくてはならないでしょう。それは多分「三丁目の夕日」の時代に戻ることを意味するのでしょう。

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2010年5月28日 (金)

1149 アオスジアゲハ

ジョギングシリーズの続きです。走っている途中、見慣れない蝶に出くわしました。形は小さなアゲハ蝶の様にも見えましたが、何しろ黒い羽根の中の瑠璃色の紋が息をのむくらいきれいです。見回しても配偶者?らしきものも見当たらず、水溜りのきらめきに反応しているだけらしいのです。帰ってから忘れないうちにネットの昆虫図鑑で調べると、どうやら「アオスジアゲハ」らしいのですが、機械系の技術屋を長い間務め、早期の卒業後にやっと自然に目を向けるココロの余裕が出てきた投稿者にとっては、この昆虫との出会いは新鮮で、さながら空飛ぶ宝石を見つけたようにも感じられました。

さてCOP10などという、鳴り物入りの国際会議だかイベントが予定されていますが、そんなものより、先ずは家族揃っての自然観察を日常化する働きかけの方が、よっぽどお金を掛けずに、生物多様性を一般市民に意識して貰うのに役立つと思うのです。植物の戦略や、その植物に100%依存して進化してきた昆虫や動物達をじっくり観察しさえすれば、彼らが数億年掛けて仕組んできた太陽光だけを使った巧妙なサイクルに思い至れば、改めて生物多様性などという小難しい言葉など使わなくても、自然や生き物の素晴らしさを、人々に感じて貰う事は簡単だと言えるでしょう。そんな事よりも、なぜアオスジアゲハが、クロアゲハから分かれて(逆かも?)、鮮やかな瑠璃色の紋を持つに至ったか、アオスジアゲハの気持ちになって想像するだけでも、結構楽しい時間になるはずです。

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2010年5月26日 (水)

1148 竹の戦略

ジョギングコースの川岸の狭い集落を包む里山の裾は、多聞に漏れず竹に占領されています。しかも良く見れば、その上の自然林(あるいはかつての薪炭林)の中にまでかなり進出している様です。どうして、枝葉を広げている樹木の間に竹が進出する事が可能なのかを考えてみると、どうやら地下茎に秘密がありそうです。植物は、光合成のために太陽光が注ぐ様に葉を広げる必要がありますが、樹林帯に竹が進出するためには、樹木の上に伸びて、葉を広げる必要があります。竹は、年間5m程度は伸ばせる地下茎を使って樹林帯に侵入し、親竹の養分を地下茎に蓄えておいて、春先に地下茎から新芽(タケノコ)を、信じられないくらいのスピードでそれを成長させます。それは、伸縮できる釣りざおを伸ばす行為にも似ています。つまり、親竹もタケノコも、根元の太さは一生変わらず、節の間だけを伸ばす訳です。

竹は、その類まれな戦略をもって、その昔たった1本(数本?)だけ中国から移入され、日本でこれほどの隆盛を誇るほどまで反映して(はびこって?)いる訳です。竹の、多分唯一の弱点は、竹は種子で増える植物ではないため、当然ですが中国から移入された後は全て、根の移植でふやされたという事実です。つまり、全ての竹は同じ遺伝子を持っているという事になります。従って、同時に花を付けて、同時に枯れるのも仕方がない運命です。もし竹を枯らす、強力な微生物や昆虫が登場すると竹は全滅してしまう可能性も抱えている植物なのです。

とはいえ、竹は木材に比較して、2倍程度CO2をセルロースとして固定する力が強い植物であり、竹の繊維や抽出物にも有効な成分を多く含んでいると言われていて、放置され厄介者とだけ思われている彼らには、同情を禁じ得ません。

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2010年5月24日 (月)

1147 タンポポの天気予報

いつもの木曽川河畔をジョギングしていると、異常にタンポポの綿毛が飛んでいました。天気は乾燥していて少し風のある夏日ですが、天気予報では明日、あさっては大雨との事、タンポポにはその予報は先刻ご承知という訳なのでしょう。乾燥していれば、綿毛は目いっぱい広がるでしょうし、そよ風に乗ってかなりの距離の飛行が出来て、しかも着地した翌日にはたっぷりの雨が降るという絶好の日に、綿毛を放つのです。

さて乾燥した日は、空気中の湿度が下がるので、綿毛が十分に広がる事は、人間の浅知恵でも分かるのですが、では一体風の具合や、明日の天気までどうしてタンポポに予報できるのでしょうか。ここではタンポポの気持ちになって想像してみます。さて、種子をぶら下げた綿毛が十分に熟し、綿毛が乾燥するためには乾燥した日が数日続く事が必要です。この春先の様に、日替わりで晴れと雨が繰り返す様な日和では、タンポポとしてもオチオチ綿毛を広げている暇はないでしょう。しかし、この季節の様に、数日周期で晴れが続き、その後に雨が降る周期の整った気候になると、彼らも安心して綿毛が飛ばせる様になるのでしょう。

タンポポの気持ちは想像できたとしても、やはりその気候をどうやって感知しているのかは、やはり謎です。最も単純な気温や日照時間だけでは、天気予報はできません。数日間の日照時間の積分値や、同様に数日分の湿度の平均値などのデータを取り、それを元に予測する必要があると思うのです。もちろん、これほど世界中に広く繁茂しているタンポポの事ですから、数億年掛けてその技を開発してしまったに違いありません。こんな植物や動物の予報ワザを、理解する事が出来たなら、多分散歩しながら数日後の天気を簡単に予報する事も出来るでしょう。

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2010年5月22日 (土)

1146 北海道

今週は数日間北海道で過ごしました。滞在した場所は道東の内陸部でした。天気にも恵まれ、さわやかな北海道の初夏を満喫しました。とは言いながら、仕事で行ったので、車で走りまわる事になりました。内陸は、確かに気温も上がり、カラッとした気候なのですが、山を越えた釧路はまた違った気候です。ここでは、海風が入ると一気に10℃程度気温が下がり、ひんやりしますので、夏でもストーブは「スタンバイ状態」にしておきます。

内陸部は寒さも半端ではなく、聞いた話では、例えば普通にストーブを焚くと、煙の中に含まれる水分が、ギンギンに冷やされた煙突の中で凝縮し(水になり)煙突の中に溜まります。下手をすればこれがストーブに逆流し、騒動にもなります。というわけで、この地域のストーブの煙突は、しっかり保温材でカバーされた二重煙突になっています。立木が寒さで凍って、突然バキッとわれてしまう凍裂で有名な「陸別」は、滞在した場所のすぐ近くでした。その寒さは、そこに住んで経験した人でなければ、多分内地(本州)の人間には簡単には説明できないと想像しました。

数キロ走れば隣の町に入り、下手をすれば家並みがつながっている本州の都市部に比べ、隣町まで数十キロもあり、途中は大小の牧場や農家しか見えない北海道の景色では、比べるべくもなく、それはむしろ北ヨーロッパの景色を彷彿させるものでした。いくら便利とは言え、せせこましい都市部にギュウギュウと群れて住む事への疑問がしみじみ湧いてきました。「お金と便利ささえ放棄すれば、こんなにも豊かな海山の恵みが手に入るのだ」とも思い、と数年後この土地に住んでいる自分を想像したりもしました。そのためにも、今以上に「耐寒訓練?」に励まなくては、と決意した次第です。

さて、移動中に見た、遠くの雌阿寒岳や雄阿寒岳、小さなオンネトーの湖には、山男のココロが揺さぶられ、来年あたりには、是非北海道のバイク&トレッキングに出かけてみようと決意した次第です。数えてみると、北海道には名山と呼ばれる山が9個もあり、2週間程度は掛けたいと、気がつくとついつい頭の中で来年の計画を練っています。

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2010年5月20日 (木)

1145 不可欠エネルギー

事業所のエネルギーの使い方や省エネルギーに関しては、実は話は結構簡単です。お金(付加価値とエネルギーコスト)で説得すれば、よほど頭の固い経営者以外は納得してくれるからです。しかし、日常生活で私たちが消費しているエネルギーを、VAENVEに分ける事は事実上できません。その人のライフスタイルや価値観まで立ち入って吟味する必要があるからです。例えば、車が趣味で、4-5リッターも廃棄量があるSUVを転がしている人に、世の中にはガソリン1リッターで1000kmも走る車がある事を説明しても、「それがどうした」の一言で切って捨てられる事でしょう。その人にとっては、ガソリンをまき散らして砂浜や荒れ地を走る事こそが価値だからです。

その意味で、日常生活で使われるエネルギーに「色を付ける」とするなら、そのエネルギーが生活を維持する上で、不可欠なものであるか否かという物差しを持ち込まなければならないでしょう。とは言いながら、これも結構難しい話ではあります。例えば、毎日の通勤にたった一人しか乗っていない車を転がすのは、「必要でかつ不可欠か」と問われれば、多分半分くらいの人たちは、首をかしげるかもしれません。つまり、公共交通機関や会社の通勤バスを使えば、少し不便でも何とか通勤は可能な人が多いからです。

また一方で、この国では何の気なしに毎日沸かしている風呂ですが、これが果たして「必要不可欠」であるかどうかも議論が分かれる行動でしょう。アフリカの草原に住む人々が、毎日入浴しているなどとはとても考えられません。その様な「無駄な水」は一滴も存在しないからです。精々、井戸のそばで、頭から水をバケツ一杯かぶる贅沢が許される程度でしょう。つまり、不可欠であるか否かの境界線は、国や人々が置かれた環境で、雲泥の差が出る事になります。世界の人口の2割しか占めていない先進国が、エネルギーの半分以上を使っているという事実は、結局途上国と比較して、必要不可欠のレベルが国や文化によって大きく異なる事を意味します。

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2010年5月18日 (火)

1144 境界エネルギー(BE)

さて、上で述べたVAENVEの間(境界=Boundary)は、単に一本の線となっている訳ではありません。それどころか、これまでの投稿者の観察では、この境界線上のエネルギー(BE=Boundary Energy)が実は7割程度はあるのではないかと感じています。BEとは、無くてもどうにか凌げる、あるいは他の手段で代替できるエネルギーを指し、いわばエネルギーのイエローカードだとも言えます。

分かりやすい例を示せば、例えば、どの工場でも日常的に多用される「圧縮空気」があります。その昔、圧縮空気を得るためには、円筒形タンクの上に空冷式のコンプレッサーが載った機械を動かす必要がありました。この機械は結構騒音がひどく、如何にも頑張って空気を送っていると主張していました。しかし、今日では効率が良く、静かなスクリューコンプレッサーなどを独立したコンプレッサー室内で動かし、固定配管で工場全体に送り、そこからフレキシブルホースで、作業者が使う仕掛けとなっている事業所が殆どです。しかし、残念ながら空気は眼には見えませんので、それを浪費しても、ホースの継ぎ手から漏れていても、作業者は頓着しないでしょう。それどころか、床のゴミを吹き払ったり、部品についた切り屑を必要以上に丁寧に吹きとばしたりしています。

しかし、VAEの視点からは、これらの行為(掃除)では、その工場が作っている製品に「たった1円」の付加価値を追加してはいないでしょう。かといって、これを無効エネルギーと考えている経営者や工場長もいないのではないかと想像できます。とは言いながら、圧縮空気は、それが直接的に製品を加工するのに使われていない限りは、立派なBEでありイエローカードが切られるべきカテゴリーだと言えます。

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2010年5月16日 (日)

1143 無効エネルギー(NVE)

一方で、無効なエネルギーとは、当然の事ながらVAEではないエネルギー(NVENon Value adding Energy)を意味します。無駄に消費されているエネルギーですが、狭い意味の省エネとは、この部分の削減を指している場合が多い様です。つまり、誰も入っていないトイレの電気を消す、昼休みは外に出て事務所の照明を消す、あるいは使っていないコピー機のヒーターを省エネモードに切り替える、車の運転でアイドリングストップを励行する、などなどの行動です。

しかし、どの様にひねっても、この様な努力で削減できる割合は、エネルギー全体の精々10%程度しかないと思われます。もし、これだけで2割も3割も削減できたとすれば、それは単にそれまでのエネルギーの使い方が如何にゾンザイであったかの証拠に過ぎません。つまり、これまでの意味での省エネ活動で削減できる割合は、非常に限定的なものになる事を意味します。この種の努力は、容易に想像できますが、省エネのネタが段々少なくなり、削減割合も、例えば初年度5%削減、2年目更に3%削減できたとしても、3年目は1%、その後は多分横ばいになる筈なのです。過去に二度のオイルショックを経験し、つい最近もガソリンの高騰を経験した「エネルギー小国」のこの国では、元々エネルギーの無駄に関しては、意識は高くなっていると思うのです。結局、無効エネルギー(サッカーゲームのレッドカードに相当しますが)としては、元々絶対量は少ないものなのです。

この事は、大幅な省エネの実現のためには、別の切り口で「省エネのポテンシャル=宝の山」を探す必要がある事を意味します。ではどこにそんな宝の山があるのでしょうか。問題の根は、石油資源の無いこの国でも、長い期間に亘ってエネルギーコストが比較的低く推移してきた結果、エネルギーがさながら水か空気の様に、意識に登らなくなってきた事にあります。そこにある事が当たり前である事と、それが必要であるという事は全く別の認識でなければならないでしょう。更に続きます。

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2010年5月14日 (金)

1142 有効エネルギー(VAE)

さて、省エネルギーの考え方の整理です。事業所の省エネルギーで意識しなければならないのは、事業で生み出している付加価値(お金を生み出す製品やサービスなど)を作りだすのに必要なエネルギーを意識する事です。ここではそれを「有効エネルギー(Value Adding EnergyVAE)」と呼んでおきましょう。つまり、ある製品なり、サービスの価値を1円(ではあまり単位が小さいので1万円でもOKですが)上げるために、どの様なエネルギーをどの程度消費しなければならないかを意識するという事です。

投稿者のこれまでの観察では、ごく平均的なメーカーでも、「本当に」有効なエネルギーは、実は3割程度しかないのではと思えるのです。「そんなはずはない。ウチでは、製品を加工するのに、この加熱機や射出成型機あるいはこのマシニングセンターを運転しないと、全く製品が作れないし、その電力が工場全体の7割を占めている」と主張する社長さんも多い事でしょう。しかし、この社長さんは、確かに「森=工場」は見てはいますが、「木=個々の設備」を見てはいないと言うしかありません。月々100万円の電気代の内の7割は、設備を動かす動力として使われているかも知れませんが、問題は個々の設備の中に隠されているVAEの割合なのです。例えば、マシニングセンターで金属を実際に削るのに使用されるVAE動力は、この機械が消費する電力のたった3割程度しかありません。つまり、金属を削るカッターが回り、それに加工物を接触させるために「送りを掛ける」ために実際に必要なエネルギーです。それ以外の動力は、実は全く無くても良いか、あるいは「超省エネ型工作機械」では、必要としないエネルギーだと言えるでしょう。

車に至っては、状況は更に悲惨です。ガソリンが持つ理論上のエネルギー(エンジンが持つ理論上の熱効率=30%弱、を考えてですが)に対して、実際に車を前に進めるのに使われる割合は、20%を下回まわると想像しています。残りのエネルギーは、タイヤの摩擦、機械損失、エアコン、空気抵抗、何より大きいのは排気管やラジエータから捨てられる熱量です。それらを極限まで減らせば、実はガソリン1リッターを使えば、1000km以上も走る事も可能なのです。(マイレージカーレースでの実績)

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2010年5月12日 (水)

1141 省エネ再考

省エネルギーは、投稿者の趣味であり、同時に仕事にもなっています。このブログでも、省エネルギーに関する考え方や、具体例なども幾度となく取り上げていますが、ここでは最近の想いも含めて書き加えておきます。

「省エネルギー」という言葉も、「温暖化(防止)」という言葉と同様に、あまりにもマスコミに登場し過ぎて、「耳タコ」言葉(cliché)になり下がっているきらいがありますので、投稿者は最近敢えて「脱エネ」という言葉を使う様にしています。さて、その脱エネですが、ケチケチ作戦だけでは、所詮「チームマイナス6%」ではありませんが、その辺りの削減率で飽和してしまう筈です。そこで、脱エネの登場になるわけですが、そこでは「もし化石エネルギーは存在しなかったら」という仮定から出発します。電熱器の電力やエアコンプレッサーの空気使用量や設備のモーター動力を削減するのではなく、それらが無かった時代に先輩達はどうやってモノづくりを行い、社会生活を維持してきたのかを、じっくり歴史を紐解いて勉強したいものです。

石油・石炭や天然ガスや、それら化石エネルギーから作りだした電力の(行き過ぎた)便利さを享受しながら、大幅な省エネルギー(例えば現在の半分以下)など、とてもおぼつかない話です。不便を甘んじて受ける態度、というより積極的に不便を楽しむ余裕こそが不可欠な所以です。ところで、今日は忙しい1日になりそうなので、短く切り上げます。続きます。

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2010年5月10日 (月)

1140 幸福度2

それでは別の尺度は考えられないでしょうか。もう一つ思い当たるのは、「自信」というキーワードです。「自信」とカッコ付きで書いたのは、これは単にConfidenceの意味ではないからです。ここでは、「自信」を「自分を信ずる事」の省略語だと考えます。自分を信ずる事が出来ない人々のココロを想像するに、多分かなり不幸な状態だと思います。その人たちは、自分がこの世に自分として存在する事に、何らかの違和感を持っていると想像できるからです。

違和感とは、自分を取り囲む環境との間に「トゲ」が存在し、時に、または頻繁にそれが引っかかったりチクチク痛んだりする状態でもあります。ここでの環境とは、家庭環境、職場環境、友人環境を含めた社会環境を指しますが、主として「人間環境」と考えても良いでしょう。人間関係に自信が持てない人たちは、殆どの場合自分にも自信が持てないでのではないかと想像しています。もちろん、そうでない人たちも少数は存在するでしょう。世の中がどうあれ自分は自分だと考えている芸術家や、単純な独りよがりの「自信家」などがその様な人たちかも知れません。いずれにしても、どんな状況にあるにせよ、最後まで自分を信ずる事が出来る人は、幸福度が高いでしょうし、同様に他の人を信ずる事が出来る人も、多少他力本願ではありますが、一応幸せなのだと想像できます。

では、どんな国に住むのがより幸福なのでしょうか。坊さんを敬い、ほほえみの国と呼ばれた東南アジアのあの国も、今や騒乱の国になりましたし、国民の地域や企業への帰属意識が非常に強く、生活の満足度が最も高い国であったこの国も、今やコミュニティの多くが崩壊の危機に瀕し、企業の経営者も再び終身雇用制に戻るなどとは、多分露ほども考えていないと想像しています。あの国も、この国も、では古い時代の制度に戻せば再び幸福になれるのでしょうか。人々の意識そのものがかなり変化してしまった今、得られる結果は分かりませんが、現在のまま五里霧中で進むよりは、思い切って試してみる価値は大いにありそうです。

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2010年5月 8日 (土)

1139 幸福度

B-タンという国が、採用している「国民の総幸福度(GNH)」という指標が、最近注目され始めています。確かに、戦後の国全体が貧乏であった時代、お金を儲けて、家や、車や家電製品を買い集める事が幸福であると考えられてきました。終身雇用が前提の社会システムで、右肩上がりの経済成長を続けている時代(20世紀後半)は、GDPに比例する形で、GNHも増加してきた筈です。人々は、何の疑問も持たずに、ひたすら前に向かって進めば良かったでしょう。しかし、ここにきて、「ところで、本当の幸福って一体なんだったんだろう?」という疑問が、物質的な満足度を一応獲得した人たちの間に広がり始めている様なのです。

そこで、このブログでも、今後折に触れて「幸福」の定義について、少しずつ考えてみる事にしました。さて、サラリーマンを卒業してすっかり貧乏になった投稿者ですが、幸福度を尋ねられれば、多分8.0程度かそれ以上のスコアと答える事になりそうです。ここにきて、一応ですが環境カウンセラー業でも、なんとか日々の糧は得られるようにはなりましたし、かなりの人々からそれなりに「頼りにされている」事が実感できているからです。企業人として、企業から毎月給料を貰い相応の成果が期待されているのと、一人の人間として、パフォーマンスが期待され、その提供の結果としていくばくかの謝礼がいただけるので、順序が全く逆です。

回りくどい言い方になってしまいましたが、投稿者の考える幸福度とは、結局は「効力感の大きさ」という尺度で測るもの、という事になりそうです。つまりは、自分が何らかの行動をした結果、幾人かの人々に感謝され、その感謝の発露として、感謝の言葉やいくばくかの謝礼をいただき、それで日々の糧が購えれば、これに勝る幸福は無いと思うのです。もちろん、家族を含めた身近な人々との良好な人間関係は、そのベースになるでしょう。自分が何を、どの様に活動しても、何も変わらない様に思える「無力感」に苛まれている人々の不幸は計り知れません。でも、その人達でさえ、自分が行動した結果としての、自分の周りの小さな変化(例えば、自分が挨拶をした時に挨拶を返してくれるお年寄りや子供たち、あるいは自分がゴミを拾った結果、前の様に気持ち良くなった歩道など)に注目しさえすれば、小さな効力感を感じる事は十分可能でしょう。幸福度の高い人たちとは、つまりは「小さな幸福を集める事が上手い」人たちなのだ、というのがここでの結論になりそうです。たぶん続きます。

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2010年5月 6日 (木)

1138 ミツバチの衛兵

晴れた日に木曽川の河畔をジョギングしていると、頻繁にハチ達に「監視されている」事に気が付きました。胴体の太いハチなので、多分ミツバチの仲間の「衛兵」なのではないかと想像しました。ミツバチにとっての天敵は、ハチの仲間では、肉食のスズメバチなどでしょうが、動物では多分甘いものには目が無く、時々巣を襲うクマの仲間ではないかと思います。紫外光や赤外光でしか、世界を見渡す事が出来ないハチなどの昆虫にとって、太陽に照らされて、表面温度が高くなった、真黒い毛をもつクマと、黒い髪の毛を持つ人間の区別は、全くできないのではないか思われます。つまり、太陽光に照らされた、クマと人間の頭は、ハチのとっては同じ様に「天敵」に見え、その天敵に対しては、監視の目を緩める訳にはいかないのだと想像してしまいます。子供たちが遠足で行った山道や田舎道でハチの大群に襲われる理由も同じ事になるでしょう。ハチの衛兵は、しっかりと本能に従って仕事をしただけで、晴れた日の遠足に行くのに白い帽子をかぶるように指示しなかった、親や教師にも責任があるのでしょう。

という訳で、元技術屋にとって、ホンの些細な自然観察ですが、特に生き物たちの相互の関係には、いつもその絶妙な仕組みに感嘆させられます。2時間弱のジョギング中でさえ、日々変わっていく自然の様子、木々や植物、鳥や昆虫の変化に、毎回のように発見があります。そんな時は、走っている場合ではないので、立ち止まって目を近づけてしばし観察するのです。すると、今度はアリや地面を這う虫たちが、目に入ってきます。そこで、彼らの仕事ぶりを、ややしばらく観察する事になります。子供のころに読んだ「ファーブル昆虫記」をもう一度読み返したくなりました。今なら、筆者の虫たちに対する優しいまなざしや気持に少しは近づけるかも知れません。

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2010年5月 4日 (火)

1137 23.5度の奇跡

一方、この星の自転地軸が、公転面に対して、23.5度という「中途半端な角度」で傾いてしまった事も奇跡に近い出来事でした。この事によって、四季が生まれ、生物の多様性を(そうでない場合に比べて)天文学的な数の種に分化させたからです。季節の変化は、動けない植物に関しては、葉を落としての休眠や、種子を残しての越冬などの仕組みを進化させ、一方動物に関しても、卵や蛹での越冬や冬眠や渡りなどの知恵を発達させました。もし、地球が年中一定の気温で、生物にとって楽に生きられる世界であったなら、多分生物たちは安穏とした無性生殖を続けていたかも知れません。同じ種を雌雄に分け、世代を重ねる事によって、厳しい冬の時間をやり過ごす事によって、生物の分化や進化が続く事になったとしか思えません。

動物に関して言えば、鳥の渡りの助け無しに、動けない筈の植物が、海を渡って異なる大陸に移動して繁茂できる訳はありません。一方で、例えば鳥の渡りによって多くのウィルスや病原菌が世界中にばら撒かれた事でしょう。しかし、結果としてみれば、多くの種がそれらに対する免疫を身につけたばかりか、細胞の中にウィルスを取り込んでの進化も果たしたと思われるのです。その証拠として、高度に進化した生物ほど、細胞が複雑で、ミトコンドリアなど別の生物の痕跡をその内部に残していたりもする訳です。

つまりは、地軸の傾きこそがこの星に四季を作りだし、それが生物の交流を加速し、現在の生物多様性を生み出したという順番になりそうなのです。しかも、現在の程良い傾きが、冬を生物がどうにか耐えられる程度に抑え、夏も生き物が焼き尽くされる事なく加減しているのです。これも、やはりこの星が与えられた、天体の奇跡というしかありません。

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2010年5月 2日 (日)

1136 24時間の奇跡

最近、この星が持つ数々の奇跡に想いを馳せています。太陽系の中で、地球だけが選ばれて、現在の位置に座っている事も奇跡で、兄弟星である火星は、生物を育む権利を与えられませんでした。もちろん、星の歴史をずっとずっと遡れば、火星の表面にも水が流れていて川や海があったのでしょうし、もしかすると生物らしきものも存在したかもしれません。しかし、いま荒涼としたこの星の水は凍りつき、生物の影も見られません。

一方、地球の最大の奇跡は、24時間という自転の回転速度にあると、投稿者は見ています。この自転速度は、基本的には地球のサイズに依存しています。つまり、より大きなサイズの星の自転の周期はかなり長くなる筈ですし、小さければせわしく自転するでしょう。もし、星の自転周期が、例えば1週間程度だとすると、その星の気候は劣悪なものになると想像されます。つまり、昼の間は、灼熱の太陽にさらされて、最高温度は百℃をかなり超えるかも知れません。一方、夜に入った半球は、夜間の放射冷却により零下何十℃にもなるでしょう。しかし、24時間で一回りするこの星では、日中の温度は熱帯でも水が沸騰する温度になる事はありませんし、温帯では夜間に零下になる期間は限定的です。

一方、もし自転周期が数時間になったと仮定ですれば、地球の至るところでほぼ平均気温である15℃前後になってしまう事でしょう。この場合、気候変化の幅が極端に小さくなる結果、生物の多様性はすっかり失われて、同じ緯度であれば、非常に種類の少ない生物相しか観察できなくなる筈です。平均化された環境には、非常に少ない種類の生物しか進化し、棲息できないからです。この事は砂漠地帯や、極寒の日々が続く極地方を見れば、直ちに納得できると思います。

一方、自転によって生ずる、昼夜の10℃~30℃の幅の温度変化は、生物の多様性を一気に爆発させたであろうことは、元技術屋の投稿者などにも容易に想像できます。カゲロウなどの様に、最適な気温の日に羽化し、その晩に街灯に集まって交尾し、死んでしまうはかない存在もありますし、恒温動物でも、夜間の数時間の暗黒や寒さに耐える事さえできれば、朝にはまた暖かい太陽を拝む事が出来るのです。そう考えると、24時間という自転周期は、まさに生物にとっては奇跡に近い天体現象だと言うしかありません。

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2010年4月29日 (木)

1135 エアロゾル

文字だけの地味なブログですが、長い間書いているだけに、どうやら最近50,000アクセスに達した様です。

さて、北の島の、舌を噛みそうな名前の火山の噴火で、今後大気中のエアロゾルの増加が懸念されます。花粉化石の調査などから、長期間に渡る地球の気温の変化が明らかにされてきましたが、この数百年ほどを見ても、明らかに年較差に比べて大きく気温が下がっている時期が観測されます。その殆どは、火山活動の活発化による、大気中のエアロゾルの増加、結果としての短期的寒冷化現象だと思われます。もちろん、太古まで遡れば、巨大隕石の落下・爆発による大量のエアロゾル発生と、急激な気温低下によって、生物の大絶滅が起こったとの仮説は、最近の研究で、はっきりと証明されました。

エアロゾルの正体は、非常に細かく長い期間に亘って落下しない微粒子や、火山ガスの成分が溶け込んだ細かい水滴(ミスト)などです。それらは、それぞれの大きさにより太陽光に含まれる特定の波長の光を遮りますので、地表に到達する太陽光のエネルギーが、ホンの僅かですが弱まります。空気中の水蒸気(湿度)が下がっただけでも、明け方の放射冷却現象が起きたり、逆に湿度が高いと、気温が下がらず熱帯夜になったりするほど微妙な気象現象ですから、エアロゾルの増加は、天変地異と呼んでも良い様な異常気象を引き起こします。有史以降の、冷害や大飢饉によるいくつかの文明の消滅も、その原因の多くは火山活動の結果が引き起こしたものだと考えられます。

火山活動によるエアロゾルの増加とその影響は、火山活動の規模にもよりますが、数年程度は続く場合があります。今度の北の島の火山が、定量的にどの程度の噴出物を出したかは今後の調査に待つしかありませんが、温暖化と冷涼化が同時に現われて、温暖化防止に向けた行動が混乱する事がない様にしたいものです。

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2010年4月28日 (水)

1134 循環の原動力

この数回の投稿で書いた「循環シリーズ」の、サイクルを回している原動力は、いわずもがなですが「お天道様」です。彼の国の太陽神ではありませんが、何しろこの太陽系では一番偉い存在ですので、やはり「様」を付けざるを得ません。北の島のたった一個の小さな火山の活動で、右往左往させられるこの地球上で、お天道様が、多少の黒点活動の消長はあるにしても、地球を含む惑星たちを、機嫌良く照らし続けてくれている事に関しては、感謝以外の何物も湧いてきません。初日の出ではなくとも、やはり手を合わせたくなります。農業が主要な産業であった、戦前のこの国で、村々の人たちが、村の東にある(朝日が昇る)山に、神様が鎮座ましまして、太陽を毎日引っ張り上げて?くれている事に感謝し、東の方角や山の頂に社を建てて崇めたとしても、何の不思議もありません。

その行動や感情を、シャーマニズムといった宗教的な言葉で切り捨てるべきではないでしょう。それはお天道様に生かして貰っているという内面の感謝のココロであり、宗教以前の、例えば子供が母親に持つ感情にも近いと言えるかも知れません。自分たちの先祖を育み、自分達を生かし、あるいは自分達の子孫を守ってくれるであろう、お天道様や自然に感謝し、それを崇めるのは、むしろ自然の子である人間としては、極々自然の行動なのだと思っています。

それにつけても、自然の循環に使われる物質の、なんとありふれている事でしょう。HNCPKFeMgAlなどなど。というよりも、これらの地球上にありふれた物質を上手く使いこなすように、気の遠くなる様な長い年月を掛けて、植物が進化し、それに100%依存する形で、我々動物も「共進化」してきたとしか思えないのです。

数日前の新聞に、太陽の表面で時々観察される、炎の環の写真が掲載され、その環の中に地球が何十個も入る大きさである事が紹介されていましたが、地球は確かの太陽の何番目かの子供であり、私たちはその地球に育まれ、その上に一瞬だけ生きる事を許された、はかない存在だと思えば、人類が高々数千年の短い年月で作ってきた文明の誇りや奢りなどというものは、大自然から見れば実はチリ・アクタの類でしかないのかも知れません。少なくとも、この環境坊主はそう考えています。

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2010年4月26日 (月)

1133 栄養塩類

栄養塩類とは、要は肥料と考えれば良いでしょう。つまり、植物の必須栄養素であるNPKなどを含む塩類を指します。これらの塩類は、比較的重いので、海水に溶けると海底近くに滞留し易くなります。しかし、これも自然環境の巧みさですが、海洋には深海の底を這う様な海流も存在するのです。とは言いながら、その流れは海面で見られるいわゆる海流とは異なり、非常にゆっくりとしか流れてくれません。従って、大きな流れになると、1サイクルの完結になんと千年以上の年月が費やされる事になります。水の流れですから循環を形成しており、必ず沈み込む流れと、湧き上がる流れが存在します。以前の投稿で、「熱塩循環」として、主に気象に及ぼす影響について書きましたが、ここでは湧き上がった栄養塩が、植物プランクトンを育むという話になります。

主に熱塩流が深海から湧き上がるのは、北大西洋、北太平洋やインド洋になります。もちろん、湧き上がった栄養塩は、海面近くを流れる海流にも巻き込まれますので、広く海洋にばら撒かれる事になります。これらの流れに無関係な海域(サンゴ礁の無い南洋の海など)では、一見青く澄んで美しいのですが、殆ど生物の影も見られず、いわば死んだ海域(海の砂漠)とも呼べる状態になります。湧き上がった栄養塩の豊富な海では、それを栄養とする植物プランクトンが爆発的に増殖し、結果として魚類や大型の海洋哺乳類を引き寄せます。ではこれらの栄養塩類は、どこから供給されるのでしょうか。どう考えても、PNは動物(の死骸)から、Kは植物の腐植からと見るのが自然でしょう。これは、鉄分の供給源とも共通していますので、どこまで行ってもやはり植物の偉大さは変わりません。残念ながら、この方面の研究は結構少ない様なのです。理由は簡単で、こんな研究では儲からないし、研究者もメシが食えないからなのでしょう。

改めてこの数回で、いくつかの循環について考えるにつけ、自然のカラクリには一々驚嘆させられる事ばかりです。それらの微妙な自然の循環への最大の危機は、実は私たち人類が日夜行っている「文明活動」そのものである、という点については、率直に認めざるを得ないでしょうし、投稿者はその危機感故に自分の非力を感じながらも環境坊主を目指しているのだ、といっておきます。

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2010年4月24日 (土)

1132 鉄循環

多くの無機質(ミネラル)の内で、鉄(Fe)の循環が最大で、しかも最重要ではないかと思っています。鉄は、ほぼ全ての元素と結び付いて存在する酸素(O)や岩石を構成するシリコン(Si)を除けば、アルミニウム(Al)に次いで最もありふれた元素ですが、自然界ではもちろん純粋な形で存在する事は稀です。鉱床中の酸化鉄や金属化合物や鉄イオンとして水中に存在します。太古の海水中にイオンの形で存在した膨大な量のFeは、浅瀬に生息するストロマトライトという生物(現在でもオーストラリアなど限られた地域では観察されます)が放出する酸素で酸化され、酸化鉄として海底に分厚く沈殿し、長い年月を経て現在採掘されている様な鉄鉱床を形成しました。その厚さは、厚いところでは数百メートルにも達するほどです。

一方で、隆起して山脈になった、鉄分を含む岩石からは、風化によって常に鉄分が流出し、川を経て海に流化します。しかし、生物の循環に最重要なのは、実は上記の無機鉄ではなく、フルボ酸鉄など、キレートを形成して「水に溶けている鉄分」なのです。その供給源は植物であり、それを利用する主たる生物は、プランクトンや海藻など海に繁殖する「植物」という事になります。それらを摂食する海の動物(多くは魚類です)は、実のところ山の木が育んでいると言っても過言ではありません。賢い先人達は、山林は単に水源を涵養するだけでなく、樹木(広葉樹です)が海の生き物を育んでいる事に、間違いなく気がついていた筈です。だからこそ、この国の2/3を占める山林の、およそ半分ほどは人間の手が入った「半人工林」になっているのです。

しかし、不思議な事は、例えば植物のエネルギーを生み出す葉緑素(クロロフィル)が直接的にFeを利用している訳でありません。葉緑素の中心となり、触媒的に働く金属元素は、実はMgだったりします。植物の持つ、気の遠くなるよう年月をかけての知恵は、ただただ不思議で、驚嘆するしかありませんが、結局のところ鉄循環のスタート点は、植物の葉が枯れて臨床を形成する腐葉土から染み出るフルボ酸などが、土中の鉄分を加えこんで、川を経て海に流れ下り始めることだと思われます。鉄が、植物の必須ミネラルとしてどの様に作用しているか、活発な研究を期待しています。

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2010年4月22日 (木)

1131 水循環

水素は、単体の原子または分子として自然界に存在する事は稀で、殆どの場合炭化水素として固定されているか、あるいは酸素と結合して水となっています。特に、水として存在する量は莫大で、それは海辺に行って広い海原を眺めるだけで、容易に実感できる筈です。海は、生命の揺りかごでもありますし、その大きな比熱故に、地球環境を生物が棲めるマイルドな環境に維持してくれてもいます。何より、大気中に水蒸気として存在し、地球を水星の様な灼熱地獄でも、火星の様な極寒地獄でもなく、生物にとって理想の環境を「フトン」の様に守ってくれています。

この水の持つ物理的性質、比熱、気化(蒸発)温度、固化(氷結温度)、温度と重力によって対流するという性質、多くの物質を溶かしこむ性質、何より地球上に大量に存在する事自体、それぞれの特徴は、奇跡としか言いようがありません。地球上の全ての生命が存在するのは、まさに「水のお陰」だとさえ言えるでしょう。先人が、山に木を植えて水を養い、川や滝や池に竜神様を祭っているのは、ごくごく自然の行動だったと言えるでしょう。しかし、その精神は、蛇口をひねれば水が出てくる、文明の進歩?によって、殆ど忘れ去られようとしている事には、環境坊主として強い危機感を感ぜずには居られません。

アメリカを始めとする、食糧輸出国の多くで、水(淡水)が使い捨てられている事には、もっともっと強い危機感を持つべきでしょう。何しろ、今使われている農業用水の多くの部分が、「天水」ではなく地下深くに太古の昔に蓄えられていた「化石水」だからです。化石水は、現在ではほとんど雨水により補給が無いからこそ「化石」水と呼ばれるのです。その補給と使用量のバランスを考えないで、使い続ける現在の農業は、「全く持続可能ではない」というしかありません。水は、上手く自然のサイクルに乗せて循環させる必要がある物質の筆頭に挙げるべきである、と断言しておきます。その循環回復のためには、まずは人間のエゴを抑制して、すなわち人間の取り分を出来る限り減らして、自然に返してやる行動こそが、唯一必要な事かも知れません。

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2010年4月20日 (火)

1130 炭素循環

窒素循環も重要ですが、それより何より炭素循環が最重要である事は間違いないところです。炭化水素こそ、地球上の全てのバイオマスや、殆どのエネルギー源の骨格となっているからです。例えば、植物(樹木)の骨格であるセルロースはほぼ純粋な炭化水素で出来ています。加えて、生物のエネルギー源である太陽光も、炭化水素(栄養学では炭水化物とも呼ばれます)の形で固定されたものを殆どの生物が利用しています。植物は、葉で固定した炭水化物を、根に蓄えたり子孫を残したりするための実や種の中に濃縮して蓄えます。動物は、植物が固定した淡水化物を、食糧として体内に取り込み、体の組織を作ったり、運動したりするためのエネルギーとして利用しています。

植物や動物の体を構成していた炭化水素は、その死とともに朽ちて分解され、最終的には水と炭酸ガスに戻るでしょう。炭酸ガスは、大気中にしばらく留まるでしょうが、やがては植物の光合成のために、葉にある気孔から取り込まれ、あるいは根から水に溶けた炭酸ガスが直接的に取り込まれ、植物の成長に使われる事になります。1個の炭素原子に着目すると、その原子は地球の数億年の生物の歴史の中で、一体何回植物や動物に取り込まれ、何回大気中に放出されたのか、想像するだけで気が遠くなります。もちろん、その気の遠くなり方は決して不快なものではなく、むしろ気の遠くなるような心地よさだと言えるでしょう。

しかし、地球の長い地学的な活動の中で、必然か偶然かは分かりませんが、地中深く固定された大量の炭化水素が存在しました。いわゆる石炭や石油などの化石燃料です。「など」というのは、その成り立ちや、現在の固定状況を含めて、非常に多用な固定のされ方をしているので、一くくりには出来ないからです。石炭でさえ、良質の瀝青炭ばかりでなく、褐炭や亜炭や泥炭あるいは石炭化の前段階であるピートモスなどが存在します。石油も、その性質は油田によって大きなバラつきがあり、軽質油や重質油、あるいが砂と一緒に採掘されるオイルサンドなどがあり、また多くの場合は一緒に天然ガス(一般には石油ガスと呼びます)も産出します。この、本来は炭素循環に加わっていなかった炭化水素が、産業革命以降の人間の活動の結果、大量に炭素循環のサイクルに送り込まれ続けているのです。その全地球的影響の評価が、単に温室効果メカニズムだけによる、温暖化問題だけで説明でき、エネルギー使用量の抑制だけで、その負の影響を回避できるなどとは、楽観的で単純な頭しか持たない投稿者でも、とても信じられないのです。むしろ、温暖化は多くの環境問題の一つに過ぎないか、あるいは最悪の環境悪化の序章に過ぎないとさえ思えるのです。

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2010年4月18日 (日)

1129 窒素循環

持続可能であるという事は、物質についてみればそれが永遠に循環しているという事を意味します。ここでは、物質としての窒素を取り上げてみます。窒素は、大気の80%を占めるもっとも豊富なガスであると同時に、アミノ酸やたんぱく質の形で、あるいは多くの有機物質を構成する元素として、生物体にも不可欠の物質でもあります。というよりは、窒素無しには生物自体が存在し得なかったとさえ言えそうです。なぜなら、炭化水素や六角形のベンゼン環の単純な構造だけでは、複雑な生物が発生する事には無理がありますが、窒素が入り込む事により、5角形の環やアミノ酸を形成する分子のブリッジとして働き、単純な元素(CHN等)から、考えられないほど多用なアミノ酸や有機物を生み出す事が出来るからです。

さて、その窒素は環境の中で見事に循環しています。例えば、根粒バクテリア等の微生物は、空気中の窒素を生物中に直接取り込む働きがあり、それを取り込んだ植物(例えば豆類)はアミノ酸の集合体であるたんぱく質を作り、動物に食糧を提供します。それを、体内に取り込んだ動物たちは、そのたんぱく質を筋肉など、体を構成するために使ったりエネルギーに変えたりして動き回ります。しかし、寿命を全うした動物たちは、息絶えて土に戻り、さらに分解されて窒素ガスにと戻る循環を繰り返します。それは、生物が発生して何億年も、この「物質的には閉じた」地球上で繰り返されてきた循環でした。地球上に存在する窒素の総量は、太古の昔から全く変わらずに、その循環を繰り返してきた事は、信じられないほどの奇跡にも見えます。

食物連鎖の頂点に立つヒトでさえ、この循環からは逃れられません。天国に旅立つという事は、煙になって「大気に戻る」という事に他なりません。私たちが、呼吸している空気の中に含まれる窒素分子は、果たして何度生命体に取り込まれて、何度生命の循環に使われて来たのかを考えるだけで、体内に取り込む空気に愛しささえ感じてしまいます。これは、殆ど環境坊主に特有の「環境病」の症候群の一つと言えるかも知れませんが、しかし苦痛も無く楽しい症状ではあります。

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2010年4月16日 (金)

1128 汚染物質保存則

これも法則シリーズです。エネルギー保存則や物質の保存則は有名ですが、ここではそれをもじって、汚染物質保存則を提案しておきます。汚染物質の定義は結構ぼやけていますが、要は環境、とりわけ生物種の存続に悪影響を与える物質であるという事が出来ます。その汚染物質の一部は、環境に排出された場合、一部は生物に、別の一部は太陽光に含まれる紫外線等で、光化学的に分解される事はあるでしょう。というより、このような(生分解性)物質はあまり大きな問題を起こさないのです。しかし、重金属や(人間が余りにも巧妙に合成した結果)PCBや古くはDDT等の様に長期間安定的に環境に残留する有害な物質は、枚挙に暇が無い程多いし、毎日のように新物質が合成され続けてもいます。

この様な難分解性物質は、結局環境に蓄積し続け、結果的には生体内に蓄積される事になります。しかも、それが食連鎖の中に取り込まれると、いわゆる生体濃縮が起こり、連鎖の高位に立つ生き物程、その悪影響を強く受ける事になります。人間は、実はその頂点に立っている訳ですが、どの様な物質が、どの様な形で体内の臓器に蓄積されているか、実は少数の物質以外は、研究例が少ないのです。

ここで重要なKWは「複合汚染」です。つまり、A物質の安全性(多数の試験動物=マウスの内の発病率や致死率が指標です)がそれなりに確認?されているとしても、B物質との複合的な影響は確認されていません。それに、C物質やD・・・が加わった場合の組み合わせは天文学的な数になり、その安全性の確認は事実上不可能です。現代病とも言われるアレルギーや、精神性の疾患の増加に、複合的な形で汚染物質が関わっていない、と誰も断言はできないでしょう。環境に蓄積する新規化学物質は日々増加し続け、既に生産中止になった物質も、実は環境中に蓄積された量は、薄まっているとは言え、総量としては保存され続けている筈なのです。

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2010年4月14日 (水)

1127 凸凹道の法則

このタイトルでは、前にも書いたような気もしますが、書いた本人も確認する根気も無いので、ダブったとしても再度書いておきます。さて、数日前は歩いての通勤(と言いながら頼まれもしないのに自分の事務所に同じ時間までに通う事なのですが)だったので、例によって田んぼの畦道と堤防の上の砂利道を通って行きます。堤防の砂利道は人だけが通る部分と、家があって車庫に出入りする車も通る部分があります。人だけが通る部分には凸凹はありませんが、車が通る区間は見事に凸凹道になっています。という事は、凸凹道を作った犯人は車である、という推論が成り立ちます。事実、道に出来る凹は、車が作るのです。カラクリはこうです。完全に平坦な道はありませんので、少し低い部分には小さな水溜りが出来ます。人は(小さな子供以外は)水溜りを避けて通りますが、車は頓着しません。一定以上のスピードで走ると、見事に水はね=泥はねを起こし、水溜りの泥が少しだけ飛ばされます。確かに1回の泥はね量はわずかですが、これが100回も繰り返されると、水溜りの深さは、確実に1センチは深くなります。深くなった水溜りには、それまでよりも深く、長く水が溜まって居る可能性が高いので、ますます泥はね量が大きくなり、かくしてますます水溜りは深くなり、凸凹の度合いがひどくなり続けます。

環境坊主としては、環境の悪化と凸凹道の悪化は、殆ど同じ構造ではないかと言いたいのです。凸凹道が、自分で勝手に水溜りを均し、元の平らな道に戻る事が無いように、私たちが汚してしまった環境は、汚染源が広く薄く広がる事はあっても、勝手に浄化される事は無いのです。不法投棄された膨大な産業廃棄物を「適正に処理する」事とは、汚水が漏れないように、コンクリートやゴムシートで囲まれた「安定化処理場」に単に移動する事を意味し、廃棄物自体を無害化や消滅させる事など元々出来ない相談なのです。毎日少しずつ出される家庭ゴミや工場の産廃も、チリも積もれば巨大な山になってしまい、そのゴミの山が勝手に消える事はないのです。

エネルギーの消費から排出されるCO2も、小さな温暖化を引き起こし、それが大気中の水蒸気量を増やし、さらには湿地帯での有機物分解量を増やし、そこからのメタンガスの排出を促進し、結果として温暖化の凹を大きく、深くする事は十分予測できる話です。この「凸凹道の法則」は、放っておいても事態が改善しない現象には、殆どの場合当てはまるでしょう。

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2010年4月12日 (月)

1126 小型化・分散化

巨大化・集中化の反意語は、もちろん小型化・分散化です。産業について言えば軽薄短小化というKWになるのでしょうが、加えて今後は「持続可能性」こそが絶対不可欠のKWとなります。軽薄短小を実現すれば、間違いなく資源もエネルギーの消費も小さくなります。それは、製品の目方に比例すると断言しても良いでしょう。1トンの乗用車の目方を、500kgにするだけで、車の原材料の重量は半分になりますし、それを加工するエネルギーも半分になるでしょうし、エンジンの馬力も、従って消費する燃料も今の技術だけでほぼ半分に出来る筈です。

確かに、一時は軽薄短小が産業のKWになった時期はありました。それは、多分二度のオイルショックやマイクロエレクトロニクス技術の伸張に触発された一方、行き過ぎた重厚長大への反動の様な気がしますが、バブル時代の到来とともに彼方に吹き飛ばされてしまったのでした。しかし、今後の軽短小の動きは、環境からの強い要請であり、後戻りのできない必然だと覚悟を決める必要がありそうなのです。そのためには、まずは絶対不可欠なものと、無くてもどうにかなるものを明確に腑分けする事が求められます。交通の話だけに限っても、一家に3台の車は本当に必要なのか、この狭い国土に100か所を超える空港(ヘリポート空港も含めて)が作られる必然性があったのか、さらに言えば、東京名古屋を一時間で結ぶ鉄道がこの国の交通体系に本当に不可欠なのか、明確な必要性を訴える事など出来るとはとても思えません。

そもそも、都市のスプロール現象は、戦後の高度成長期に急伸した重厚長大化からの要請で始まり、急拡大した筈なのです。それを下から支えるために、というお題目の「列島改造のまつり神輿」に乗って出来上がったのが現在の交通体系だったと言えます。900兆円にも上るとも言われるこの国のインフラを、単純に機能を維持するだけでも毎年数兆円~十数兆円のお金が必要な筈です。人の移動について言えば、歩きや自転車やバイクを基本に、バスや鉄道を組み合わせれば、そんなに不自由は無いはずですし、貨物について言えば、鉄道コンテナやコンテナバンを効率的に運ぶ船と小型のトラック配送の組み合わせで、燃料効率の悪い長距離トラック便での輸送量は、大幅に抑制できる筈です。

システム構築は、最大デマンドに合わせて、十分な余裕をもったサイズが望ましいのでなく、小型のシステムを、必要に応じて台数を追加していく、積み上げ方式という考え方にシフトしていく必要があるでしょう。それは、既にコンピュータの世界では実現されてしまったとも言えますが、社会システム全体としては、やっとターニングポイントに差し掛かった、程度しか見えません。

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2010年4月11日 (日)

1125 巨大化・集中化

20世紀の出来事をたった一つのKWで括れと言われれば、たぶん「巨大化・集中化」になるでしょう。それは、世界を巻き込んだ戦争で明確になり、戦後は戦力にものを言わせた二大国の政治的スーパーパワーと、この国やドイツなどで起こった技術立国の産業の強大化に代表されるでしょう。それは、核物質の寡占と軍事技術、あるいはそれを平和目的に転用した工業技術に裏打ちされていると言えますが、何度も繰り返すようにこれら武力や技術の巨大化・集中化も石油のパワー無くしては、殆ど何も実現も機能しなかったと思われます。

産業について言えば、重厚長大が高度成長期のKWでもありました。「大きい事は良いことだ」というチョコレートのCFを引き合いに出すまでもなく、投稿者が10年余り関わった造船業においても、石油を運ぶタンカーであれ、鉄鉱石を運ぶ鉱石船は言うに及ばず、製品を運ぶコンテナ船も、液化ガスを運ぶLPG、LNG船なども全て覇を競って巨大化したのでした。航空業界でも1960年代末には、既にジャンボジェット機が登場し、新幹線などとも相まって高速大量旅客輸送時代が始まったのでした。繰り返しになりますが、これとて中東の安い石油が手に入らなければ、殆ど実現は出来なかった筈です。

このブログで、巨大化・集中化の過程を何度も書き出すのは、それが本当に正しい行動だったのかを反省するためです。しっかりした反省無しには、次の一歩の正しい方向を見定める事も出来ないでしょう。投稿者の見方では、次の一歩は「慎重な後ずさり」でなければならない、というものです。その理由は、これまで歩みを進めてきた現代社会の殆どの営みが、「持続可能ではない」からです。持続可能ではないという事は、必ずいつかはそれが「破綻する」という事を意味します。そうならないためには、既に歩いてきた(経験してきた)道を、できるだけゆっくりと後戻りするしかないと思うのです。資源やエネルギーの消費量が丁度現在の半分で暮らしてきた、1970年代の暮らしを懐かしみ、思い出して実行してみれば良いだけなのです。今や時間をたっぷり出手に入れた団塊世代には、その先頭に立って実践する事を強く期待しています。

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2010年4月 8日 (木)

1124 念仏

今回のタイトルは、バイクの「成仏」の連想かも知れません。さて、修行の浅い環境坊主が唱える念仏なので、誰かが聞いていようがいまいが、とにかく何度も唱えるだけです。念仏には、それを唱え続けるだけで、さながらそれが真実であり、それを糧にして生きて行けそうな感じが生まれる不思議な効果があります。そういえば、田舎の念仏講の年寄りたちが、手のひらに余るほど大きな数珠玉の数珠を皆で繰り回しながら、無心に念仏を唱えていた姿を、子供ながらに不思議な感覚で見ていた事を思い出します。その時の年寄りたちは、多分無心で幸福な恍惚状態に入っていた様な気がします。日常の人間的なトラブルも、きつい労働も何もかも忘れる事が出来る時間を、念仏を唱える事によって得ていたのだろう、とぼんやり想像しています。

さて、この環境坊主の念仏の特徴は、とにかく色んな角度から、数多くの言葉を織り交ぜて、繰り返し、繰り返しクドクドと書き続け、唱え続ける事です。もちろん、偉人達は凝縮された短い言葉で、真実(に近い教え)を語ってきました。そんな事が出来ない修業の身では、万の言葉を重ねて、やっと真実の縁の部分を語る事が出来るレベルでしょう。投稿者が考える唯一の真実とは、「持続可能性が他の全てに優先する」というものです。言い換えてみれば、持続可能性こそが「唯一の神」でなければならない、という思い込みなのです。漢字ばかりで取っつきにくい、持続可能性という言葉を、もっと単純な言葉に置き換えるなら、「いつまでも変わらないこと」という表現になります。ヒトが誕生する以前から続く悠久の大地や海、何億年も隆起や浸食を繰り返してきた山塊などの大自然、そしてそこにへばり付いて生きてきた生物群たちこそ、小さな進化を繰り返しながらも、全体としては変わらずに「神」であり続けた本質だと思うのです。それを高々数百年程度の人間の活動で、メチャクチャにしてはいけないよ、というメッセージがこのブログで繰り返し書き続けていることなのです。勝手に環境坊主を名乗っている投稿者としては、言葉を変えながら毎日まいにち念仏を唱え続け、坊主臭くなる事に生き甲斐を感じているこの頃です。

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2010年4月 6日 (火)

1123 風車考

自然エネルギーの旗手としての風車が危機に立たされています。風車の羽(タービンブレード)から発生する「低周波騒音」による健康被害が表面化しつつあるからです。低周波は可聴域下限かそれ以下の、数十Hz程度の音波が引き起こす不定愁訴の原因として疑われているのです。不定愁訴という限り、第三者にも明確に「症状が見える」訳ではありません。基本的には本人が不快に感じるだけなのです。同種のトラブルは、クーリングタワーやコンプレッサー、建築騒音や航空機騒音など音と振動の複合的な影響にも共通するものです。人間には、不快に感じる音や振動が確かに存在します。音楽で言う不協和音、ガラスを固いもので擦るキーキー音、振動機械から出る低周波振動などです。投稿者の経験で言えば、バイクのエンジンが3000rpm50Hz)程度で回っている時のハンドルから伝わる振動が非常に不快です。その回転数で少し長い時間運転する事になると閉口します。

問題は、この種の低周波騒音による健康被害に関して、十分な研究が行われてこなかった事にあります。研究で、もし明確に有害な周波数が特定できるのであれば、設計者はその周波数を短時間でパスする様にハードウエアやソフトウエアで対処できるからです。風車で言えば、その周波数から遠い回転数を常用域とすれば良いでしょうし、風速の加減から有害周波数域で回りそうな場合には、ブレードのピッチを変えるか、停止させてしまえば良いのです。

風車側にも改良の余地はあります。プロペラ型の発電風車では、回転数を稼いで、発電機を小型化するために、タービンブレードの周速は風速をかなり上回るほどにもなります。そのために、風速が高い程、いわゆる風切り音が大きくなるのです。一方、「抗力型」と呼ばれる風車群(例えばサボニウス型)は、回転数が低く、周速も風速以上にはならないので風切り音は問題にならない筈です。もちろん、効率も低く発電には不向きですが、熱源用や動力用としては十分な働きをしてくれるでしょう。風車も道具も、要は使い様なのです。

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2010年4月 4日 (日)

1122 全体最適

バイクを褒めたついでに車の悪口をもう少し重ねます。以前にも、石油を消費する限り、石油精製工程から出るタールやピッチの捨て場所として「舗装道路」の距離が伸び続けると書きましたが、車が増えて何が一番勿体ないかといえば、道路の拡幅や延長と駐車場として使われる土地の面積です。統計データによると、道路面積は、この狭い国でなんと国土の3.5%となっており、これは農地の1/3ほどに相当し、宅地面積にも迫る割合となっています。しかも、上で指摘した通り、農地が激減している一方、道路面積の割合は、平成に入ってからでも確実に0.5ポイント(10%以上)は増加しているのです。

商用車や通勤に使われている車を除けば、殆どの車は車庫に入れっぱなしで、たまにドライブや買い物に使われるくらいでしょう。商用車も、用件があって動いている間以外は、自社か道路上かどこかの駐車場を塞いでいる事でしょう。もし、全国の車が一斉に動き出したと仮定すれば、全ての主要な国道や県道は車で隙間なくつながり、全く身動きできない状況になると想像できます。ここで言いたい事は、この狭い国では、移動手段としての車は、既に全体最適の域を超えてしまった、という点です。

増え続ける車の台数を後追いする形で、時間当たりの車の通過台数を増加させるために、バイパスを作り、2車線や3車線の道や高架道路を作っても、結局その先で車線数が減少しているために、あいも変わらず何キロも渋滞の車列がつながります。そのパイパスや拡幅された道路は、と元を質せば、そこは優良な近郊農業の農地だった筈です。通行量が少ない道路を削って減幅し、農地や里山に戻したという話は、この国ではついぞ聞いた事がありません。そういえば「減幅」などという言葉自体も、マスコミに登場する事も無かった記憶しています。

交通体系の全体最適を考えるなら、車台数の総量規制、道路の減幅や廃止、建物の減築、インフラの規模縮小、ついでに言えば鉄道との連携を図り、ガラガラの空港は思い切って閉鎖して農地に戻すなどなど、この国で打つべき手は数多くありそうな気がします。

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2010年4月 2日 (金)

1121 鬼の霍乱

一応ひかない事には決めていましたが、先週ついにひどい風邪をひいてしまいました。風邪で寝込んだのは何年ぶりでしょうか。殆ど思い出せないくらい前の話です。そもそも、風邪のきっかけは高山への出張でした。欲張って3か所の企業を訪問する計画を立て、それぞれ駅からはかなり距離があるので、バイクで出かけたのでした。ところが、天気予報に反して気温はグングン下がってしまい、高山に入った時は3-4℃ほど、夕方になってしまった帰路の高速道路では、気温はなんと氷点下すれすれだったのです。一応、防寒対策はしていたものの、グリップヒーターは殆ど効かず、手はかじかんで感覚が無くなりかけているもののPAで休んで時間をロスすると、路面が凍結する恐れもあり、ともかく先を急ぎました。山から里に降りてきて、やっとプラスの気温になったところで、PAに入ったのですが、そこで急に悪寒が襲ってきたのでした。

その次の日も仕事があったので、仕方なく自分の事務所に出かけたのですが、その朝は経験した事のない程ひどい「胃腸風邪」の症状が出て、洗面所もトイレもすっかりMess(修羅場)になってしまいました。家族にも風邪をひかないのを自慢にしていましたが、まさに鬼の「霍乱」状態ですっかり信用も失墜しました。食欲も全く失せて、2日間は暖かいお茶以外は受け付けない状態でした。早めに帰宅してしょんぼりと布団に入りながら、普通に食欲があり、普通に通じがある、普通の生活の有難さがしみじみ感じられたのでした。まさに「病気なって知る健康の有難味」でした。そういえば、この冬は忙しさにかまけてあまり体を鍛えていない事に気がつきました。反省、反省・・・。

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2010年3月31日 (水)

1120 成仏

ガタピシ言いながらも動いてくれていたバイクについに引導を渡しました。最近は、交差点でエンジンが勝手に止まってしまう「天然アイドリングストップ機能」の環境にやさしいバイクでしたが、危ないし、振動も激しくなって、ハンドルを握る手がしびれてしまうほどになったので、仕方なく成仏してもらう事になりました。長年勤めていた企業を卒業した02年に買ったもので、丸8年以上、ほぼ毎日乗っていましたので、愛車というよりは殆ど「相棒」でした。一番遠くまで走ったのは、東北の5つの山々に登った時、青森県の岩木山まで1000kmを一気に走った時でしょうか。バイクは確かにただの機械なのですが、殆ど体の一部にもなっていた様な気がします。なぜなら、これに乗らない日は何か落ち着かないからです。

さて、ほぼ地球を2周半したこの機械は、間違いなく「廃車」という運命ですが、これだけ一緒に行動すると、何か感情移入の様なものもあります。乗り手としては、機械としての「クセ」も熟知していますし、これまで事故もなく10万キロを運んでくれた機械に感謝の心も芽生えます。この機械無しには、この間にやりたかった事、やれた事の半分くらいしか出来ていなかった様な気がします。一方、車を走らせるには何かしらのハードルがあると思うのです。車庫に行き、ドアを開けて、エンジンを掛ける。走る途中の渋滞にウンザリしながら目的では駐車場を探しますが、殆どの場合街中では車を止めるのにお金まで払う必要があります。

しかし、バイクはそれにまたがるだけですぐ走りだせます。渋滞が起こって車が動かなくなったら、仕方がないので横をすり抜けて、信号の先頭まで出ます。駐車場が無ければビルの駐輪場に止め、それも無ければ広い歩道に乗り上げて止めます。降りて押せば歩行者として横断歩道だって渡れます。高速道路では、どこのSAPAでも、親切にも屋根つきの駐輪場がトイレのすぐ前に作ってあり、雨に濡れずに利用できます。もちろん、これは身障者用の駐車スペースを作るついでに、その横に作ってくれたのでしょうが、いずれにしても助かります。

さて、1リットルの燃料で30km以上走ってくれて、これほど便利な乗り物が、この狭い国でドンドン台数が減っている事には大いに疑問を感じざるを得ません。大手の二輪メーカーも、その生産規模を着実に縮小し続けています。もちろん投稿者は、次の乗り物もバイクに決めています。程度の良い中古車が見つかったので、今後67年はこれに乗り続け、その後は時間的な余裕もできる筈ですから、最後は自転車に乗り換える事に決めています。相棒に合掌・・・です。

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2010年3月29日 (月)

1119 境界線

契約の事や、前にも書いた人工環境と自然の関係から、境界線の事が気になってきました。境界線とは、性質の異なる二者を分ける境を指しますが、そもそも人間が住む環境と自然界の間に境界は無かった筈です。ヒトは、森から出た後も、毛の少ない裸のままでは野山で眠る事も苦手だった事でしょう。生物種の一つに過ぎなかった「ヒト」が「人間」になったのは、衣服をまとい、小屋を建てて「人」と「自然界」との「間」に、境界線を作った事に始まった様な気がします。そういえば、これが「人間」という字の起源であるかどうかは確かめてはいませんが、その本質を言い当てているのかも知れません。

さて境界線が線である間は、それほどの問題にはならないでしょう。人間が国境を勝手に引いても、植物の種子や動物は勝手にその境界線を無視して動き回る事でしょう。しかし、鉄条網や向うが見通せない壁を築いた境界は、大型動物や人間自身には、決定的な移動の「壁」になってしまいます。日本型の境界は、しかし緩いものであった筈です。日本の「くにざかい」は、勝手に引いた線ではなく、川や山々の稜線となっていました。それらは、人の移動をかなりの程度阻むものでしたので、それなりに境界の意味をもつ境でもありました。生活の中でも、人間の生活と自然との間には、可能な限り自然を取り込み、自然に包まれた生活を是としていたのでした。街中の住居にさえ坪庭などの工夫で自然を取り込んでいましたし、何よりごく普通の山里の生活こそ、自然の中にほぼ溶け合ったものだった筈です。それが、如何に平和で「ココロ豊かな」生活であるかは、そこに住む殆どのお年寄りが、不便に耐えてでもそこを決して離れたがらない事からも容易に想像できます。

多分、人間が自然を離れて都市を築き、コンクリートの「巣」を作った事は間違いだったのでしょう。境界を築くと、それを挟んで争い事が起こるものです。共通の原始宗教から派生し、聖地を共有する宗教派閥が、いまも血で血を洗う争いを繰り返している事は何を物語るのか、じっくり考えてみなければならないでしょう。それに比べれば、自然という神様の前では、殿様も農民も平等に振る舞う必要があるこの国の宗教のなんと平和な事でしょう。自然と人間が住む里との間に、里山という緩やかで幅のある境を置いた先人の、なんと素晴らしい事でしょう。あらゆる境界線を意識して、それを無くす努力を要求する「バリアフリー」は、単に障害を持つ人たちに向けられた言葉ではなく、実は普遍的でしかも最も重要なKWではないかと、あらためて噛みしめています。

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2010年3月27日 (土)

1118 契約社会

「日本は契約社会か」、と問われれば、多分前世紀末まではそうではありませんでした、という答えになりそうです。例えば、この国では企業主と従業員の関係は、単なる雇用主と雇い人の関係ではなく、もっとウェットで密な関係を持っていたような気がします。投稿者も、学校を卒業して、会社に入る際、確かに雇用契約書にサインはしたはずですが、全くそれを意識する事はありませんでした。

しかし、今やまったく事情は変わってきました。能力主義や成果(評価)主義の導入、現代版「人入れ稼業」である人材派遣や契約社員の増加で、少なくとも企業側の「温情主義(的なムード)」や社員側の「忠誠心(的なもの)」はすっかり影をひそめてしまったと想像しています。(現在は自由業なので、時々訪問する企業の雰囲気で感じるだけですが・・・。)規模の小さな中小企業では、もちろん家族的雰囲気は残っていますが、そんな企業でさえ人材派遣や契約社員に頼らざるを得ない状況に追い込まれています。ましてや中堅企業においておや、でしょう。

契約社会の負の側面は明らかです。契約書に書かれている事は、絶対に守らなければなりませんが、それに書いていない事までやらされる事には、確実に抵抗できます。逆に言えば、企業も社員も、契約外の事には見向きもしなくて済む訳です。つまりは、契約書を挟んで甲と乙の間には明確な線が引かれているのが契約社会の本質だと言えます。20世紀(とりわけ昭和の社会習慣)では、両者がこの境界線上の空白部分を、温情や忠誠心で埋め合わせて、労使一体の企業経営が出来ていたと思うのです。それは、さながら機械における潤滑剤の役目を果たしていたのだとも言えるでしょう。残念ながら、今の社会の仕組みの中には、この種の潤滑剤がますます消えつつあり、結果としての無味乾燥社会あるいはギクシャク社会へ突き進みつつある、と結論せざるを得ません。契約書で最も重要な事は、実は本文に書いてあるのではなく、前文で述べる契約の背景(精神)や契約文の行間(Context)でなければならないのだ、と強調しておきます。

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2010年3月25日 (木)

1117 食物連鎖

さて一般的には、食物連鎖の上位に立つ生き物ほど「一応生物学的」には高度の進化を遂げたと言えるでしょう。恐竜もマンモスも居なくなった地球上では、今やヒトが生物の頂点に君臨して居るように見えます。現在の地球上で最大の哺乳動物であるクジラでさえ、かなりの長期間に渡ってヒトの食糧やランプの燃料にされてきました。海の暴れ者であるサメでさえも、フカヒレへの強い需要のために乱獲され、激減しているとか。

ヒトを例外にすれば、全ての生物は、かなり厳密でかつ繊細な食物連鎖の仕組みの中で、その存続が成り立っています。食物連鎖のスタート点は、植物プランクトンや樹木や草本などのいわゆる植物全般です。それらを、餌とする動物プランクトンや小魚、あるいは昆虫、小動物、草食動物などが食物連鎖の比較的底辺を形成しているでしょう。それらを捕食する、大型魚や鳥、肉食動物などがその上に座っている筈です。さて、私たちヒトは、これら殆ど全ての食物連鎖から、無差別かつ自由自在に食糧を得て、食い散らかしてきました。もちろん、そうなったのは比較的近年の事かも知れません。この国でも、かつては、日常の食生活では米飯+一汁一菜+魚程度で済ましていたでしょうから、基本的には草食系だった筈です。しかし、肉汁のうま味に目覚めてしまった人々は、いまや世界中の草原だけでは足りないため、ジャンブルまで開拓して家畜を放牧しています。

さて、食物連鎖の頂点に立つヒトといえども、実はこの食物連鎖からは逃れられません。ヒトの命が終わると、その体は、土葬の国々では土中の微生物や昆虫の「エサ」となって分解され、火葬の国々では、空気中の二酸化炭素や窒素酸化物などの「風」になって空中に飛散し、直接的に植物光合成の「エサ」となって植物に取り込まれるか、あるいは雨水に取り込まれて、プランクトンや植物の根から取り込まれて、食物連鎖の底辺に戻るのです。投稿者としては、しかし、自分もこの食物連鎖の鎖に取り込まれている事に、何故か安らぎを感じてしまいます。

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2010年3月23日 (火)

1116 経済騒動

ヨーロッパ経済が、Gリシャの経済破綻が震源となってかなりの震度で揺れています。もちろん、財布の中身に相談しないで、景気高揚のために財政を大盤振る舞いした政府にも大きな責任はありますが、一方でその弱みにつけ込んで、国の経済を激しくゆらした揺さぶった張本人は他に居そうです。つまり、機関投資家と呼ばれるマネー集団が、高い値が付いている間にGリシャの国債を売り抜き、結果として暴落した値で買い戻せば、その利ザヤが懐に入ります。日本の様に経済規模も借金も、非常に大きな規模となっている国では、この手はあまり効きませんが、小国であれば、ソコソコの資金力さえあれば、結構激しい揺さぶりは掛けられるでしょう。一つの機関投資家が事を起こすと、コンピュータシステムの「指示」に従って、瞬時に他の投資家も追随せざるを得ないのが昨今の事情です。ヨーロッパの通貨が持っていた「信用力」は、この数カ月で結局1割程度は目減りしてしまった勘定です。

今回の騒動の直接の原因が何であったにせよ、この騒動を利用してかなり儲けたグループと、同じ程度の損失を出したグループに分かれた事でしょう。あまりに損失が大きくて連鎖反応が想定される様な金融機関の損失に対しては、またぞろどこかの国が税金を投じて救済策を打たざるを得ません。かくして、騒動は繰り返され、投資集団は次なる獲物を狙って牙を研いでいる事でしょう。獲物には事欠きません。ヨーロッパにはPルトガルもSペインも残っていますし、もっと大物を狙いたければ、日本なども結構歯ごたえはありますが、獲物となってもおかしくはない経済状況でしょう。

経済活動は、結構微妙な信用バランスの上に構築されていますから、その信用を突き崩す「小さなキッカケ」さえ作ってやれば、結構この国の経済の構えも脆いものかも知れません。少なくとも、この様な経済騒動が何回か起こってしまうと、信用という「人の心の中に築かれた土台」は、結構短期間の内に、それもあまり意識されないで脆くなってしまうものの様です。それは、下を見ないでドンドン木登りをした子供が、ふと下を眺めた途端に、手足がすくんでしまう状況にも似ています。

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2010年3月21日 (日)

1115 レバレージ

この十年近く戦友として走り回ってきたバイクが死にそうです。低速で走ると、ハンドルを握っている手が振動病(昔は白蝋病と呼んでいました)になりそうなくらいしびれます。距離計は10万キロに迫っていますからほぼ地球を2周半した計算になります。この間焚いた燃料を計算してみると、ドラム缶で15本程度にはなりそうですから、環境坊主としては忸怩たる数字です。そこで、それだけの燃料を焚いて、外に向かって一体どれだけの啓発を行い、結果としてどれだけCO2の削減に寄与出来たか、一度振り返ってみる必事にします。投稿者が焚いた3,000リットルのガソリンからは、既に3000*2.36900kg(約7トン)のCO2が発生してしまいました。走った年数で割って一年間に換算すると、約1トン程度になります。これは、平均的な家庭のCO2排出量の半年分程度には相当しそうです。

さて、これまで、何社の企業に省エネ指導を行い、何人の人を対象に出前講座を行ったかを、ざっとカウントしてみると、多分企業数は20社以上、出前講座では、小学生から高齢者大学まで多分2000人は下回らない様な気がします。中小企業では、平均的には毎月20,00030, 000kwh、多い場合は50, 000kwh程度の電力を使い、さらにその半分か1/3程度の化石燃料も消費しています。簡単にするために、平均的に毎月30,000kwh相当の電力消費だけでCO2の全てを排出していると仮定すると、1年間では30000*0.455*12163800kg160トン)のCO2を出しながら事業を営んで計算になります。企業にはかなり厳しく指導した積りなので、少なく見ても5%の省エネは達成してくれている筈です。つまり1社当たりでは、年間8トン余り、20社合計で160トン-CO2を毎年削減してくれたものと推計出来そうです。一方、投稿者の出前講座を聞いてくれた2000人が、家に帰って省エネの重要性を家族に話し、早速省エネに取り組んでくれて、年平均2,000kg排出しているCO22%削減してくれたと仮定すると、合計で80トン-CO2/年程度は削減出来た可能性があります。

自分で年間1トンのCO2を出して、活動の結果240トン弱のCO2削減につながっているのであれば、レバレージ(倍率)は240倍なので、一応満足すべきなのかも知れません。もし、大師様や芭蕉の様に「徒歩で行脚」して上記の結果を出せたのであれば、レバレージは無限大になります。生活の事を考えないで済むのであれば、実は徒歩か自転車での「環境行脚」こそが環境坊主を自認している投稿者の理想なのですが…。

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2010年3月19日 (金)

1114 アメ=ムチ

家電や車に加えて、住宅にもエコポイントが設定されました。いわゆるアメ(インセンティブ)ですが、アメは、実はムチとの合わせ技でこそその効果が倍増するものだと言えます。景気が悪いこの時期にムチ(ペナルティ)は課しにくいと、行政は思っているのでしょうが、冷静に眺めてこの先景気が急速に回復する見込みはないと、経済素人の投稿者ですら、断言しても良いと言い切れます。したがって、インセンティブを与えるなら、その財源として一方で同じ規模のペナルティを課さなければならないと思うのです。そうでなければ、インセンティブは将来世代からの単なる借金で終わってしまうからです。

ではどこにペナルティを課すべきかですが、どう考えても環境負荷全般に、広く薄く網を掛けざるを得ないでしょう。あらゆる再生不可能なエネルギーの消費にも、ゴミにも、緑地の開発にも、水道や下水道の使用にも、森林破壊の結果としての外材にも、宇宙開発のロケット燃料にも、化石水や農業機械に依存した環境破壊食糧にも、環境ペナルティの網を被せるべきだと思うのです。

そこで得られた原資は、徹底的に目的を環境改善に絞って注ぎ込まれなければなりません。う上で述べたペナルティとは、すなわち環境税という完全な目的税だからです。お金には色が付いてないが故に、これまでどれほどのお金が無為に使われた事でしょう。出処がはっきりしたお金を、訳のわからない使い道に振り分けるのに、どれほど多くのお役人を必要としたのかを思い返せば、環境税がほぼ自動的に環境保全の目的に使われる、効率的な社会システムこそが求められます。一度国庫に入れたてからばらまくのではなく、お店のレジでインセンティブとペナルティが相殺できる仕組みが一つの理想形でしょう。そして、レシートに「あなたのインセンティブは~円です」あるいは、「あなたのペナルティは~円です」と印字されるのがベストです。最高の効果を上げるためには、人々は、日々ペナルティとインセンティブを実感する必要があるからです。

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2010年3月17日 (水)

1113 何は無くてもFS

T社の車は、やはり本来の意味のフェイルセーフ(FS)にはなっていなかった様です。コンピュータがどう暴走し、アクセルペダルがどうマットに引っかかったにせよ、ドライバーが強くブレーキを踏んだ場合、エンジンは止まり、車も停止する必要があります。ブレーキペダルは、その意味では制動の仕組みではありますが、同時に緊急停止装置でもあるわけです。今の車は、たまたまこれを兼用させているに過ぎないと考えるべきなのです。

この種のトラブルで思い出されるのは、名古屋空港で起こったC華航空機の悲惨な墜落事故です。あの時に起こった現象は、自動操縦を解除しないままに行ったパイロットの下げ舵の操作に、モードが自動のままになっていたコンピュータが「反発」し、水平尾翼全体を上げ舵に動かしてしまった事が原因だったのです。つまり、Aアバス機のコンピュータは、直陸の最終段階に行ったパイロットの緊急回避操作は、「プログラム上はあり得ない」と勝手に判断してしまったのでした。結果、この機体は通常の操縦では起こり得ない角度で急上昇し、結果としては失速して尾翼側から墜落したのでした。

航空機の墜落や車の暴走は、操縦者が失神したり、残念ながら急死してしまったりした時以外は、基本的にはあってならない事で、増してそれがハードウエアの設計思想に起因するものであっては絶対ならない筈です。さらに理想的なFS思想では、操縦者の単純な勘違いや操作ミスを、機械側がカバーするものであって貰いたいとも思うのです。例えば、コンビニの前で、運転者が(ブレーキを踏んだ積りで)急にアクセルを踏んでも、機械は「このような急激なアクセル操作はあり得ない、何かの間違いだ」と判断して、エンジンを止め、赤ランプを点けて貰いたい訳です。ブレーキは危険が迫った場合に強く踏む場合がありますが、低いギヤ位置にある場合、暴走族でもない限り、床までアクセルを踏み込む事は全くあり得ない操作なのです。車が運転者の意志に反して勝手に止まった場合、運が悪ければコツンと追突される事はあるかも知れませんが、少なくとも暴走して道路を飛び出すとか、コンビニに突っ込んで買い物客を巻き込むなどの、大事故は防げると思うのです。車の設計者には、是非考えられるだけの故障ケース(Failure Case)や誤操作を想定し、事故回避の仕組みを設計思想の中心に組み込んで貰いたいのです。

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2010年3月15日 (月)

1112 エネルギー考2

エネルギーの本質について、少し書き足りない様な気がしてきました。エネルギーの伝わり方としては、殆どの場合が波長の異なる電磁波であると書きましたが、これ以外の場合を考えると、水の流れや風などの物理的な流れ、あるいは化学的な反応熱、導体の中を流れる電流などしか思いつきません。エネルギーは流れ(フロー)であるとも書きましたが、もっと本質的には、エネルギーは物質振動と言えるのではないかとも思うのです。絶対零度でもない限り、全ての物質は(個体も液体も気体も)個体振動やブラウン運動を繰り返しています。分子や原子たちが動かざるを得ない様に駆り立てている根源こそエネルギーの本質ではないか、と感じている次第です。原子を構成する要素である電子も、ある「しきい値」となっているエネルギーレベルを超えると、遊離電子となって導体の中で動きまわります。それを集めれば、太陽光発電などの仕組みで、エネルギーとしての電流を得る事が出来ます。太陽光発電の場合、電子にしきい値を超えさせるエネルギーの大元は、波長が短く強力なエネルギーを持つ太陽光という事になります。

一方、発電所においては、電子を突き動かすエネルギー源は、発電機の回転子が作る強力な磁場という事になります。その回転子を動かすエネルギーの更なる大元は、ダムに貯めた水の流れ(フロー)や化石燃料を燃やして作られた蒸気の流れ(フロー)となる訳です。ここで、さらに突っ込んで考えを巡らせれば、そもそもこれらのエネルギーは誰が作りだした訳でもなく、元々天体の中に仕込まれていたものであったという事実に気が付きます。つまり、全てのエネルギーは「天体力」であるとも言い換えられると思うのです。石油も石炭も、太古の太陽光で作られ地下に貯めこまれた太陽力でしたし、原子力も地球を構成する元素の一部として既に埋め込まれていた天体力でした。

つまりは、全てのエネルギーは、例えば太陽系では、この系が生まれて年をとる間に流れて消え去る母なる太陽からの、大量の「エネルギーの本質」の流れ(フロー)のホンの一部の恵みのそのまたお零れを、私たちはありがたく頂いている、という構図になりそうです。でもやっぱり残念ながら、そのエネルギーの本質を「見る」事は神ならぬ人間には到底出来そうもありません。

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2010年3月13日 (土)

1111 グリーンビジネス

グリーンビジネスという言葉がマスコミで飛び跳ね始めています。では、何を指してそう呼ぶのか、という定義については、実は結構あいまいなままに見えます。そこで、大胆にもここではその定義を試みようと思います。投稿者なりの定義では、単なるリサイクルの拡大や省エネルギー製品の製造や販売はグリーンビジネスとは呼びたくはありません。勝手に「エコビジネス」とか、「省エネ製品」とか呼んでくれれば良いでしょう。

本来の意味のグリーンビジネスとは、原料と製造プロセスに関わるエネルギーが、殆ど全てが「持続可能性のチェック」をパスする必要があると思うのです。まず原料について言えば、それらは基本的には殆どが太陽光と土と水から作られている必要があります。つまりは、植物や木材である必要があります。例えば、上手く計画して植林と伐採を繰り返せば、一定量の木材は持続可能な原料になり得ます。リサイクル可能な金属は、少量なら必要悪として認める事にしましょう。また持続可能なエネルギー源としては、これもやはり太陽光(熱)や、そこから派生した風力や水力である必要があります。人力は、これを積極的に使う必要があります。最小限の畜力も場合によっては許されるでしょう。

しかし、これでは道具や家具や精々頑張っても家くらいしか作れないのではないかという突っ込みが来そうですが、決してそうではありません。畜力と人力と木材や土石しか手に入らない時代にも、巨大な建築物が築かれているからです。ピラミッドや万里の長城や中南米の天空の遺跡、日本の「古の出雲大社」や法隆寺などに見られる「木造高層建造物」などを例に引くまでもないでしょう。現代の建造物との圧倒的な違いは、投入されるエネルギーの質と建設に要する時間の長さなのです。数か月か長くても数年程度で「あわてて」建設される現代の建造物に対し、数十年長い場合では、数世代に亘ってコツコツと建設され続ける古代建造物という時間軸の長さが、圧倒的な違いなのです。その意味で、グリーンビジネスも、同様に時間軸を引き延ばして考えてみる必要があると思うのです。種蒔きは今の世代が行い、収穫は次世代に譲る、という程度には時間軸を伸ばして考える必要があるかもしれません。手本にすべき事実として、私たちのご先祖様は、食うや食わずの生活の中でさえ、私たち子孫のためにコツコツと開墾と治山治水を行い、美しい棚田を残してくれたではありませんか。海の向うでも、石と木材と少量の金属と布で、立派なオランダ風車が建設され、その力で水を汲み上げて干拓し、湿地帯を豊かな牧草地や畑に変えてもくれたではありませんか。

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2010年3月11日 (木)

1110 蛇行

川は自然のまま放っておけば必ず蛇行します。その蛇行は、川の傾斜が緩くなる平野部で極端になってしまいます。例えば石狩川をG-グルアースで眺めてみると、見事な蛇行が観察できるでしょう。しかし、この国や多くの国々では、増えた人口を養うため、川沿いの「遊水地」にまで街を作らざるを得なかったので、ダムや堤防などの治水工事で暴れ水を抑え込まざるを得ませんでした。しかし、治水工事の最大の過ちは「川の直線化工事」だったと言うしかないでしょう。

時々水を溢れさせて、豊かな湿原を作ってきた川の例は、例えば釧路川と釧路湿原だけではないはずです。ダムが無く、自然に蛇行している川は、鉄分が多く滋養豊かな山土を里に運び降ろしてくれますし、結果として豊かな海中の海藻林や白砂青松の砂浜もプレゼントしてもくれました。それに気がついた北海道の行政は、まだ試験的ですが、一度直線化された釧路川の蛇行を復元する工事を行っています。瀬や淀みが連続する流れや、葦原の河岸は豊かな生態を生み出します。幻の魚と呼ばれるイトウもこうした環境でのみ安住できるはずです。蛇行した川は、時々横溢し、湿原の生態も維持してくれます。湿原では、河岸以上に多数の固有の植物相や昆虫、動物相が観察されます。

投稿者の見方は、ある環境と別の環境の境界域こそ、生物進化や多様性の発現の原動力だ、というものです。水辺と陸地の境界でこそ、魚(水棲生物)が陸に進出する機会を得たはずですし、その後の進化の歴史では、森と草原の境でこそ類人猿はヒトになり得たのでしょう。その意味で、都市と天然自然の間には、出来るだけ滑らかなグラデーションを持つ、半人工(半自然)の緩衝ベルトが必要だと思っています。それは、かつては街の郊外に広がっていた河原や氾濫原(遊水地)や野原であり、あるいは農地と山地の間の里山だったのでしょう。しかし、気がついてみれば都市と自然の境界は、川や海岸のコンクリート護岸であり、山際まで土を削って開発された結果としての、コンクリートよう壁になっていたのでした。これに歯止めを掛けるためには、M主党のキャッチフレーズをパクッて表現すれば「コンクリートから半自然へ」となるのでしょうか。

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2010年3月 9日 (火)

1109 人エネルギー

エネルギーのイメージを敷衍すれば、そのまま人間社会にも当てはまりそうな気がします。人の移動や文化の交流も、まさに電流か熱の移動と同じ本質を持っている様にも見えるのです。勿論人間の場合、文化の違いを考えれば、物理量の様にポテンシャルが高い低いなどという議論が出来る訳もありません。そうではなくて、人の行き来や接触によって初めて、その人の持つポテンシャルが顕在化してくると思うのです。人間は考える存在であると同時に、刺激の種類によっては考えられないくらい強いレベルの喜びを感ずる存在でもあります。それを脳内ホルモンの分泌で説明しようとする向きもありますが、いずれにしても人間の欲望に基づく行動の内でも最強のものになり得るとは思います。とりわけ、人の役に立ったと感ずる「効力感」にこそその本質がある、と投稿者は信じています。

一人の人間の力はしかし全く非力です。それが、数人、数十人と集まった時にこそ、そのポテンシャルが引き出されるのだと思います。昔の仕組みですが、地域には「結い」という集落単位の集まりがありました。例えば、数十年に一度とは言え、傾斜のきつい茅葺屋根の葺き替えは、この結いの仕組みなしには全く考えられません。萱場での萱刈り、萱小屋での乾燥から始まり、古い萱屋根の解体、葺き替えや縄による結束は、多数の「結い」構成員の共同作業でしか完遂できない訳です。

人々が持つエネルギーの総和を(個々人の持つポテンシャル*その交流度合い*その回数)で表現できると仮定すれば、人の交流の非常に少ない砂漠や草原やジャングルの国々と、この国を比較してみれば、戦後の短期間のうちに「一応」先進国の仲間入りを果たした、そのマンパワーの源が理解できそうな気もするのです。これをもっと単純に、「人力=人圧*人流」とでも書いて、オームさんの向うを張って「人力の法則」にでもしてみましょうか。人力の法則になりそうな証拠としては、例えば「団塊パワー」や「中国・インドパワー」を挙げる事が出来ます。

さて、ホンの十数年前までの古き良き日本企業の風土には、この結いの精神が流れていたように思いだされます。だからこそ、企業と社員の一体感が醸成され、家族的な会社組織が存在し得たのでしょう。効率優先主義や能力主義の名のもとに、個々に分断されてしまった企業人たちが、そのポテンシャルを発揮できないまま、孤独に陥っている様に見える今の姿には、割り切れないものを感じます。

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2010年3月 7日 (日)

1108 エネルギー考

エネルギーの本質について時々(というよりしょっちゅう)考えます。その重要な本質として、エネルギーは流れ(フロー)であるという点があります。身近で観測できるエネルギーの流れとしては、電子の流れ(電流)と熱の流れ更には電磁波(赤外線や光など)によるエネルギー移動程度しかありません。電子の流れを別にすれば、熱エネルギーの本質は分子(原子)振動であり、その振動の結果として電磁波(可視光も紫外線も赤外線も電波も全て電磁波です)を発していると言えるでしょう。

電子の流れは、電流計等の簡単な計器で測定する事が出来ます。しかし、電磁波の流れはどうでしょうか。人間が、感覚器(目や温点)で感ずる事が出来る電磁波は、可視光と赤外線の一部に限定されます。例えば、焚き火に近づいた場合、赤い炎が見え、手をかざせば赤外線の放射を感ずることはできますが、その大きさや流れそのものを感ずることまではできません。エネルギーの量は、そのポテンシャルの高さ(電気で言えば電圧)と、流れの太さと速さの度合い(同じく電気で言う電圧)の積になります。私たちは、熱エネルギーでのポテンシャル(温度)は比較的容易に計測できますが、熱エネルギーの流れを検知する有効な機器を殆ど持っていません。

したがって、私たちはそれ(熱エネルギーの流れ)には非常に鈍感にならざるを得ないのです。直接的に熱の流れを計る手段としては「熱貫流計」がありますが、あまり使い勝手が良い訳ではありません。そこで、投稿者は「熱の尻尾」をつかむ事を考えました。それをつかむ計器としては、例えば「サーモグラフィー」や放射温度計があります。これらを使えば、熱エネルギーが逃げ出す場所を特定する事が出来ます。加熱炉で言えば、断熱材が傷んでいる個所からは、多くの熱が逃げ出し、外壁の温度が他の場所より表面温度は高くなっているはずです。

もっと身近なエネルギーの流れもあります。それは水の流れや空気の流れです。水は透明ですが、空気との屈折率の違いで「見る」事が可能ですし、空気の流れは風車や手のひらや濡らした指先で「感ずる」事も可能です。そう考えると、エネルギーの可視化で一番遅れているのは、電磁波の流れを「見る」仕掛けだと結論できます。だれか是非これを発明してください。大儲けできる事を請け合います。少なくとも、投稿者は1台だけですが購入予約を入れます。

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2010年3月 5日 (金)

1107 製品の色分け

いま多くのメーカーでは、今後何を作っていけば良いのか悩んでいる様です。何を作っても売れないこの時代、その悩みもいたしかたないのかも知れません。しかし、数年のレンジ(あるいはバブル崩壊以降の十数年レンジ)だけを眺めた、近視眼的なものの見方で結論を出すのは、あまりに早計と言わざるを得ません。投稿者の様に、数歩下がって視点を引いて眺めてみれば、見えてくるものは同じででも、そこから感じられる時代の流れや、背景が透かして見えてくると思うのです。

既に現役を退いた人たちも、徒に新聞を舐めるように読み、書店やホームセンターを冷やかし、さらには長い散歩などに貴重な一日を費やさずに、自由な時間が出来たのを機に、自分たちの来し方と、子や孫たちの行く末を(一歩引いた立場で)改めて考えてもらいたいとも思うのです。その中で、自分たちが本当に必要とするモノ(青)と、あればあったで便利なモノ(黄)と、別に無くても全く困らないモノ=例えばブーム製品(赤)に、あらゆるモノ共や仕組みを仕分け(色分け)してみて貰いたいのです。人が生きていく上で本当に必要とするモノは、どんな時代になってもやはり必要なのです。しかし、あれば便利なモノ共は、来るべき時代には消えていくべき運命にあります。

メーカーは、「さて当社の製品は、上の色分けで行けば何色製品なのか」をじっくりと考えてみて欲しいのです。その結果、青であれば今の路線で良いのでしょうが、黄や橙や赤であったり、あるいは青なのだけれど黄に近い黄緑であったりしたなら、それを可能な限り本当の青に近づける努力を傾けるべきなのでしょう。そのためには、「必要でかつ十分な製品機能」の見極めを行い、機能の冗長や無駄を省き、原材料や製造プロセスに省資源や省エネの考え方を織り込んで、製品の色を限りなく青色に戻す必要があると思うのです。青色製品は、どんな時代になっても社会から要請され続けますから、黄赤製品の様にパッタリと売れなくなって、企業存続が危うくなる筈もないのです。

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2010年3月 3日 (水)

1106 タガ

技術屋を卒業して強く感じるのは、「技術はタガ(縛り)である」という事です。人間が持つ夢は、無限で自由ですが、一面非常にワガママでもあります。その多くのワガママを、これまでは科学・技術が時間を掛けて、あるいは急速に実現してきたのでした。1980年代に重たい「ポータブル電話」が出現した時、あるいは1990年代にMS-DOSに代わってWインドウズ95が出た時、誰が今日の携帯電話やPCの性能向上や、いま使われている状況を想像していたでしょうか。電子技術者は、重さのタガ、メモリーやCPU速度のタガを次々に広げ・外してきたのでした。

しかし、今私たちは新たな、しかも最終的なタガを嵌められつつあると考えなければならないでしょう。そのタガを「持続可能性のタガ」と呼ぶ事にします。いくら素晴らしい技術であっても、それを作るため、あるいは運用するために、莫大なエネルギーを必要とするものであれば、エネルギー源の枯渇により、やがて動かないガジェット(からくり)になってしまうでしょう。宇宙ステーションも、そんな技術の一つかも知れません。と言うよりも、私たちは、この地球上で植物や他の生物に支えられて生きるしかない、という「地球のタガ」からは絶対に踏み出せないと思うのです。今後の技術のタガを考えるにつけ、「持続可能性のタガ」と「地上に張り付いて生きる」というタガを緩めたり外したりして考える事はできません。投稿者が、20世紀と21世紀の境目で、航空機産業の技術屋を卒業して環境屋になったのも、今にして思えばその様な直感が働いたのだと思っています。

今後とも、いわゆる「ものづくり」に関わる企業や技術者は、技術に強く嵌められつつある強力なタガを意識せずには居られない時代になりつつあります。それは単なる、省エネや省資源といった掛け声では解決できず、各種の技術や企業自体の存在価値が問われる事態だと覚悟を決める必要があると思うのです。なぜなら、持続可能でない技術や化石エネルギーを多量に使う(タガの外れた)ビジネスモデルは、遅かれ早かれ消滅する運命にあるからです。

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2010年3月 1日 (月)

1105 電車発進

省エネドライブのテクニックの一つは、「ふんわりスタート・ジワジワ加速」です。市街地走行の場合、実に燃料の約4割が発進・加速時に消費されますから、それも頷けます。さて、それではどの程度の加速度(G)であれば「ふんわり」なのかですが、時速20kmまで5秒、40kmまで10秒が一応の基準といわれていますが、そんな数字で言われてもなかなか身につきません。投稿者はこれまで、臨月間近い妊婦さんや生まれたての赤ん坊が、助手席でスヤスヤ眠っていると想像して車を運転する「マタニティドライブ」を推奨してきましたが、残念ながらそんな経験の無い人や遠い記憶しかない人達にはこれもあまりピンとこない様です。

最近ですが、実は「電車の加速度」がこの理想に近い事に気がつきました。それもそのはずで、電車の運転手は、まさにその加速度を身につけるために、非常に長い時間訓練を受けたはずなのです。もし、規定以上の急加速をして、まだ吊革に掴まっていない乗客が将棋倒しにでもなったとしたら、その運転手は罰金ものか、しばらくの間は乗務停止になる事は間違いないからです。上手な運転手が加速する場合、吊革にぶら下がらなくても乗客は「オットット」状態にならずに乗っていられるはずです。車であっても、後の座席で前を良く見ようと、小さい子が立っている事を想像し、その子が加速でペタンと座ってしまわない様に、やさしく加速すれば良いのです。

考えてみれば、電車は鉄の塊であり、慣性が非常に大きいので、馬力の大きなエンジンやモーターを備えていても、車の様な急加速は元々無理なのです。その意味では、今の車の馬力は大き過ぎるとも言えるでしょう。元技術屋のヤマ感で言えば、今の半分程度の馬力でも市街地走行や100km/時程度の高速道路走行であれば十分なはずです。車体を徹底的に軽くして、エンジン馬力を低く抑えれば、何もシステムがややこしくて重くて「時にはアブナイ」HVや、バカ高いEVFCVなど作らなくても、今の倍以上の燃費改善は可能なはずです。というより、今の車の開発技術者は、少なくともリッター当たり50km以上、望ましくは100km走れる車を開発する使命を負っているとも思うのです。

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2010年2月27日 (土)

1104 無魂和才

久しぶりにラジオで「和魂洋才」などという言葉を聞きました。いずれにしてもこれは、西洋の技術や文化(洋才)が輸入された明治以降の言い慣わしなのでしょうが、ここにきていかにも古すぎて、逆に違和感のある言葉ともなってきています。洋才とは、多分西洋で開発された科学技術なのでしょうが、問題はこれを和魂と組み合わせるのが今でも最善かどうかです。和才が貧弱な時代は、確かに追いつき追い越せがこの国の合言葉だったとは思います。時代で言えば、1960年代や70年代で、この時代に盛んに見られた「海外ライセンス導入」ラッシュが思い起こされます。例えば、日本の近代ロボット元年は、多分1960年代にアメリカのユニメート社からK社が技術導入を行った時になるでしょう。

しかし、この国の技術者・技能者はたゆまぬ努力によって、独自の「和才」を編み出したと思うのです。それは、T社の生産方式に至って一つの完成形を得たように「見えました」。そう見えたのは確かですが、本当に完成したかについては大いに疑問です。なぜなら、技術はそれを裏付ける倫理によって完成されるものだからです。倫理の「倫」とは、人と人との関係を示す言葉ですが、技術における「倫」とは、人と機械の関係(Man Machine Interface)を指すのだと思っています。つまり、人が機械に使われるのではなく、人が五体の延長として機械を自由に使いこなす事が大前提なのです。

であるにも関わらず、ここにきてその前提が狂ってきています。運転者の知らないうちにコンピュータというブラックボックスに支配されている(リコールの嵐に揉まれる)車の例ではありませんが、現代の技術には魂の部分が見えなくなってのではないかと危惧するのです。それはむしろ「無魂」という状態かもしれません。魂の無い技術は、実は非常に危険でもあるのです。なぜなら、その技術を使う側の人間が、悪用したり、誤用して技術自体に振り回されたりしてしまうからでもあります。和魂の神髄とは、勿体なさをわきまえ、自然が与えてくれた恵みに感謝しつつ、つつましく暮らすものであったはずです。それを「エコライフ」、「LOHAS」あるいは「スローライフ」などと呼ぶかどうかは、単なる言葉の流行り廃りの問題に過ぎません。無魂の現代の技術に魂を吹き込むのは、この和魂しかないと思うのです。その意味では、今後に科学・技術利用する際のKWとしては、本来の意味の「和魂和才」を目指せばほぼ完璧だと思うのです。

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2010年2月25日 (木)

1103 パンデミック

インフルエンザなどのウィルス達の主な戦略とは、「定宿」の宿主(たとえば渡り鳥や豚など)に狙いを定めて、日頃はその免疫に抑え込まれた「フリ」をしておとなしく暮らしていますが、時々は遺伝子の一部を変えることにより、動物の免疫機能の網を掻い潜って爆発的な感染(パンデミック)を繰り返すことでしょう。その際の「乗り物」としては、行動範囲が広い渡り鳥を用命する事が多いのです。ウィルスは生物と無生物の中間的な存在ではありますが、一方では宿主自体の進化にも重要な役割を演じてきたと感じています。つまり、宿主細胞の中にちゃっかり棲みついたり、DNAを書き換えたりして宿主自体の特質を変えてしまう場合もあると想像できます。例えば、私たちの細胞の中にもあり細胞のエンジンでもあるミトコンドリアは、元々は別の生物であったと言われていますが、エンジンも小さく、鈍い細胞であった私たちのご先祖微生物の細胞の中に入り込んで、一気にパワーを注ぎ込んでくれたとも言えるのです。ウィルスについても、私たちのご先祖生物に同様の刺激を与えてくれたはずなのです。

さて、歴史の中では大量死を招く脅威の新型ウィルスであった、ソ連型や香港型も現在は私たちの免疫機能やワクチンによって表面上は豚や鶏の中でおとなしく暮らしてはいますが、小さな進化を重ねながら、再度のパンデミックを虎視眈々と狙っているのでしょう。その一部は強毒性SARSとなって、アジアの国々で暴れる傾向を見せました。今度の新型ウィルスさんは弱毒性の気弱な性格が幸いして、殆どのケースでは抗ウィルス薬で対処できた様です。

ウィルス達を完全に撲滅する事は事実上できません。唯一可能な方法は、人を無菌室に隔離する事くらいでしょう。であるならば、私たちは彼らと上手く付き合う方法を考えるしかありません。それは、可能な限り体を鍛えて暑さや寒さに強くなり、バランスの良い食事をし、ストレスを小さくして自然の免疫力を高めておく事でしょう。幸いにも、冷暖房の無い投稿者の事務所は、体を鍛えるには「最適の環境」を備えています。

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2010年2月23日 (火)

1102 窮すれば知恵

「窮すれば通ず」あるいは「窮すれば鈍す」などと言い慣わされていますが、投稿者の見方は窮すればこそ知恵が湧くはずだ、というものです。必要は発明の母ではありますが、窮する事には「強い必要」を伴うからです。温暖化問題に対して、一向に良い知恵が提案されていないのも、温暖化で困っている人は少なからず存在しますが、極度に窮している人たちはと言えば、たとえば大潮の時に、庭先が海水に洗われる地域(ツバル諸島など)に住んでいる人など、ごく限られているからです。

1970年代のいわゆるオイルショックの時代を思い起こせば、あの時は実施可能なありとあらゆる省エネ対策を取ったはずです。夜12時にはテレビの放送が打ち切られ、街のネオンも影をひそめて眠っていました。太陽熱温水器が爆発的に売れ、風車を製造販売する企業も、中小ながらいくつも誕生しました。岩手や、東大阪や愛媛などでは、今再度脚光を浴びている木質ペレットや、木くずを圧縮した人工の薪である商品名「オガライト」なども盛んに製造されました。書店には、省エネルギーや新エネルギー(=再生可能型エネルギー)の本が並び、タンカーに鋼鉄製の帆を掛ける実験さえ行われたのです。あの時は、石油や電力料金が一気に倍ほどに跳ね上がり、みんなが本当に困っていたはずなのです。

今の便利すぎる社会システムや日常生活をそのままにして、何か画期的な省エネ・省資源のアイデアが湧くと期待してはいけません。まずは、キャンプ場の様な不便な生活を送ってみて、生きていく上で「絶対不可欠なもの」と、あれば「それなりに便利なもの」と、無くても全く問題ないものに「仕分け」してみる事です。一番難しいのは、それなりに便利なものと、必要不可欠なものの境界線の引き方です。投稿者の提案ですが、1970年代半ばに既に一般家庭の中にあったものを、一応必要不可欠で、手元に置いてもなんとか「環境が許してくれそうなもの」と考えてみてはどうでしょう。この時代の、私たち1人当たりのエネルギー消費レベルが丁度今の半分だったからです。

この国にも存在するエネルギーや源を上手く使って、組み合わせることによって化石エネルギー今の半分に減じても十分に快適な生活が送れるはずなのです。それらのエネルギー資源とは、例えばバイオマスであり、小型の水力タービンであり、風車であり、何より全ての家の屋根や壁に降り注いでいる太陽光なのです。それらを単に電力として取り出すのでは、設備にお金が掛り過ぎるので、あまり良い方法とは言えません。目的に応じて直接に動力として、あるいは熱として利用すれば、システムも簡単になり安上がりで済むでしょう。

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2010年2月21日 (日)

1101 家庭内鉱山

環境悪化というトンネルに入ってしまったこの地球表面という「場」に、果たして出口があるのかを考えてみます。私たちは、険しい山の向こうに行くために、峠道を超えないで短時間で到達できるように水平にトンネルを穿ちます。しかし、この環境悪化トンネルは、実は地中に向かって掘られ続けているとイメージしなければなりません。事実としても、私たちはますます地下資源への依存度を高めてもいるからです。直接的な資源やエネルギーだけではなく、農業や社会システムを機能させるために、ほぼ100%に近い割合で「地下資源」に依存しています。さらに、この地底トンネルは、実は水平に掘られている訳ではありません。地下に向かって傾斜していると想像する必要があります。傾斜とは、地下への依存度が増している事の象徴です。

このトンネルを「何らかの技術力を使って」上向きに掘り進めるという議論は、自己矛盾であり幻想に過ぎません。その技術を使うために、さらに多くの地下資源に頼らなければならなくなるからです。地下への依存度を、たとえばEVFCVで弱める事が可能かを考えてみれば自明です。電気を生みだす発電所や、燃料電池を動かす水素を発生させるために、どれほどの地下資源やエネルギーを消費されるか想像すればよいだけです。

地底トンネルから抜け出す方法は、実は簡単です。地下資源への依存を直ちに中止して、徒歩で元来た方向へ歩きだすしかないのです。方法は簡単ですが、実行は非常に困難でもあります。それは、戦後営々として先輩や私たち自身が築いてきた「モノドモ」を、エイヤっと気合とともに放り出す必要があるからです。しかし、使わなくなったモノドモは簡単に捨ててはいけません。車は車庫に置きっぱなしにして、物置や応接室としてでも使い回します。冷蔵庫は電気をつながないで、光を嫌う乾物や調味料などのストックに使います。石油ストーブも、鉢植えの台程度には使えるでしょう。なぜなら、これらの製品は丁寧に分解し、材料毎に完璧に分別しさえすれば立派な資源ともなります。子孫のためにも仇やおろそかに扱ってはなりません。「家庭内鉱山」の資源として、丁寧に取り扱って保存しましょう。

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2010年2月19日 (金)

1100 贈り物と収奪品

今私たちが口にしている食糧が、環境からの贈り物であるかあるいは収奪品なのかを考えてみましょう。例えば、今も採集生活を送っている「森の民ピグミー」は、森からの贈り物だけ暮らしていますが、一方、石油を燃やして動かす大型の農業機械を使って、土地に化学肥料や農薬を多量に施しながら、しかも太古の地下水(化石水)で灌漑する現在の農業は、土壌環境からの作物の収奪である事は、少し考えるだけで分かる話です。両者の境目はたった一つ、それが「持続可能であるか否か」だけです。ピグミーたちは、森から食糧を得る際、例えば植物や蜂蜜などを「いただく」時、それらを根こそぎ奪ったりはしません。何日か、あるいは何週間か経つと、それらが元通りになる様に、遠慮がちに贈り物をいただく訳です。

一方で収奪は、しかし徹底的に行われます。収奪を受けた農地(元々そこはジャンブルや草地だった訳ですが)の多くは、最終的には、例えば過剰灌漑の結果としての「塩害」により耕作ができなくなり、最終的には放棄されます。それらの証拠は、G-グルアースを使えば、緑の大地に点在する「白い爪痕」として、容易に観察できます。また別の収奪の証拠は、ジャングルに残された焼畑農業の痕跡が、さながらガンか何かの病巣の様に観察できるでしょう。多くの焼畑農業地域では、焼いた灰(灰分)を肥料として使い、何回かの収穫後は、土壌は有機の養分を失って無機の土に戻りますので、作物が取れなくなるためあっさりと放棄されることになります。それが、ジャングルに「土色の傷」を残す事になります。今や、アマゾンやコンゴ川流域に代表されるジャングルという緑の大地には、白い爪痕や土色の傷が、ガン病巣の様に拡大し続けています。

環境に生かしてもらっている人類としても、こんな収奪は長くは続かない事を銘記すべき時に至った、との思いは日々強くなっています。一部の地下資源は別にして、食糧にしても、地球の平均気温が15℃前後という、生物の生存に絶妙な温度に保たれているのも、この星が太陽からの距離が、生きものに最適な軌道を回っていてくれるお陰だと言えます。その意味では、私たちを含めた生物の命自体が、太陽を含めた自然からの贈り物と考えなければならないでしょう。20世紀の後半、たった50年で、私たちはこれをすっかり忘れてしまった様にも見えます。

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2010年2月17日 (水)

1099 後の祭り

確定申告の季節ですが、四苦八苦ししながら、鉛筆ナメナメ申告書を作成しました。今年から青色申告なので、訳の分からないまま、教科書通りに決算書も貸借対照表も作りました。帳尻が合わなくて悩んでいても仕方がないので、とりあえずこの季節開催している申告相談会に持ち込んで、指摘を受けてから修正した話が早そうです。いずれにしても、改めて決算書を眺めて分かる事は、投稿者もしっかりワーキングプアの一員であることは間違いないようです。

さて、「祭りの後」は普通の表現ですが、「後の祭り」は日本では特別な意味を持ちます。国民的歌手であったあのひとの持ち歌ではありませんが、祭りに夢中になってしまい、祭りが終わって帰って見ると、家が火事で焼け落ちていた、という歌詞を思い出します。20世紀後半は祭りの時代で、その絶頂期はバブルの時期であった、という「説」はこのブログでも何度か書いたような気がします。上のたとえ話の様な大火こそ起きてはいませんが、ボヤであれば、今や世界中のあちらこちらで煙が上がっています。もちろんこのブログで言う火事やボヤとは、環境の異変を指しますが、その異変とは通常の自然現象の振幅の限度を超えた、人為的異変としか考えられないものを意味します。その中で、温暖化の問題は緩やかではありますが、最大の異変ではないかと思っています。それは、影響が単なる陸氷や海氷の融解に留まらず、後戻りのできない環境破壊につながるからです。後戻りのできない変化としては、たとえば生物の絶滅が挙げられます。一度絶滅した生物は、たとえ環境が復元されたとしても、再度出現する事はありません。なぜなら、その生物固有の形態や能力は、数億年にも及ぶ気の遠くなるような年月の中で進化してきたものだからです。

焼け落ちた家は、お金を工面すれば似たようなものは復元できるでしょうが、その中にあったかけがえのない品や思い出は最早戻っては来ません。環境変化の多くは、実はこの後戻りのできないケースに当たる事は銘記すべきでしょう。風化して崩れた山が、再度高さを取り戻す事がない様に、一度破壊された環境のほとんどは回復できないのです。理由は、環境の悪化により増大したエントロピーは、莫大なエネルギーをつぎ込まないと減少させる事が出来ないからです。しかし、局部的なエントロピーの減少のためには、同時により大きなエリアでエントロピーが増大してしまうという自己矛盾を抱えています。具体的な例を挙げれば、空気中のCO2を集めて地下に押し込んでしまうのに、化石燃料を使った莫大なエネルギーを消費するという、現実ではない計画を思い浮かべます。これを漫画に描けば、蛇が自分の尻尾を飲み込んでいる様子にも似ているでしょうか。

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2010年2月15日 (月)

1098 アレニウスの法則

アレニウス則は、コンデンサなどの電子部品の寿命予測などに使われることが多いのですが、元々は化学者であったアレニウスが、化学反応と温度との関係観察から導いた法則でした。それを電子部品の業界で、例えばハンダ付けを行う際に、部品に加えた温度が高いほど寿命が短くなるという再現性の高い事実により、実用的に応用しているというわけです。実用的には組立て時に10℃低くできれば、寿命が約2倍に伸びると言われています。ここでは、投稿者なりの解釈で環境の劣化に敷衍してみたいと思います。

さて、環境劣化の指標として全球の平均気温を取り上げてみましょう。平均気温が今より10℃上昇する時代には、人間を含めて多くの生物が死滅しているでしょうから、たぶん1℃程度が現実的な刻みかもしれません。COP15では、一応の目標として最終的には2℃の上昇に抑えたいとの気持ちをにじませました。あてずっぽうで、1℃平均気温が上昇するごとに、主な生物絶滅までの時間が半分になるとして、これを環境のアレニウス則として勝手に提案しておきましょう。問題なのは、実際にこれが実験室の中なり、コンピュータの数値計算なりで、予測可能かということですが、残念ながら人間の浅知恵程度では、そんな演繹計算ができるほどの証拠も掴めないでしょうから、この無責任な「環境のアレニウス則」も検証で否定される心配もないでしょう。

「豊かな海」とはよく使われる表現ではありますが、海水温の高い南の海には、実は単調な生物相しか観察されません。例外的にサンゴ礁が発達している限られた海域にのみ豊かな生物が群がるのです。真に豊かな海とは、実のところ「栄養塩類」が湧き上がる北の海を指す限られた表現なのです。この海では栄養塩類により植物プランクトンが湧き、植物プランクトンを餌とする動物プランクトンや小魚が湧きます。さらに、それらを餌にするために大型の魚類や海洋哺乳類が集まるわけです。植物プランクトンの増加には、栄養塩類に加えて太陽光が必要ですので、豊かな海は、北極付近と南極で半年交替を繰り返すことになります。たくましいクジラや海鳥の一部は、地球を半周する渡りを繰り返してもいます。

しかし、その豊かな海も、たった1℃程度の水温上昇で、劇的に様相を変えることは容易に想像できます。たった1℃の違いといえども、海洋上では数百キロの緯度変化に相当しますので、それまでの豊かな海が、突然海の砂漠になってしまう危険性は否定できません。まずは、すぐにでも海のアレニウス則が確立される事を望んでいます。

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2010年2月13日 (土)

1097 フェイドイン・フェイドアウト

今度のPリウスのトラブルに関してもう一つのポイントを挙げておきます。それは、この車のブレーキシステムが、メカニカルブレーキと回生ブレーキ(電動ブレーキ)あるいはABSが「カットイン」「カットアウト」の関係になっている(と想像していますが)点です。多分、両方のブレーキが同時に作動すると、急ブレーキ状態になって危ないと見た技術者が、両システムの間に空白部分を設けたと思うのです。それは、多分コンマ何秒のごく短い時間なのでしょうが、ドライバーをヒヤリとさせるには十分な時間なのです。

これを回避するには、「フェイドイン」「フェイドアウト」というシステム構成にする必要があります。つまり高速時に作動する回生ブレーキは、ある速度以下では徐々に効かなくなり、同時にメカニカルブレーキが徐々に効き始める、という複雑な制御になります。しかし、実はこれは自己矛盾でもあるのです。つまり、「フェイドイン」「フェイドアウト」も最終的にはドライバーの感覚とのずれが避けられないからです。ドライバーは、自分の操作(期待値)とのホンの微妙なずれも、違和感として受け取ってしまうでしょう。ドライバーの「ブレーキング感」は、メカニカルブレーキの経年変化(例えばパッドの摩耗)や路面状態の変化によって、全く経年変化しない回生ブレーキとの関係には、間違いなく初期設定からの狂いが生じます。つまり、二つのブレーキシステムを切り替える限り、どこまで行ってもドライバーの違和感を完全にぬぐい去る事は出来そうもないのです。

これを根本的に避けるには、たとえば減速時の加速度(減速度)を正確に感知するGセンサーによって、実際のブレーキング状態をモニターし、応答速度の速い回生ブレーキを抑え込んだり、強めたりする「アクティブ制御」をするか、あるいは燃費を犠牲にしても回生ブレーキを諦めるかなど、限られた選択肢しか残っていません。ソフトウェアバグを含めてコンピュータをあまり信用していない投稿者としては、もちろん後者の選択肢がベストだと言っておきましょう。前者の場合、システムが更に複雑になり、将来の新たなリコールの種になるかも知れませんし・・・。

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2010年2月11日 (木)

1096 フェイルセーフ

T社の大量リコール騒動やおまけのPリウス・トラブルの報で投稿者が特に感じる事は、「フェイルセーフ(Fail safe)思想の欠如」という言葉で言いつくされると思います。フェイルセーフとは、例えば航空機の設計においては、一次構造の決定的な破壊事故以外では、殆どの故障や部分的な破損事故という事態(Failure Case)が起こっても3時間程度は無事に飛び続けられ、最寄りの空港に着陸できる事が求められます。またたとえば、双発ジェットでは片方のエンジンに鳥が飛び込んで停止した場合でも、飛行や着陸には全く問題がありませんし、同様にフラップやスポイラーなどのアクチュエータのいずれかが動かなくなった場合でも、なんとか着陸は可能なのです。また一次構造に亀裂が入った場合でも、構造的に破局的な亀裂進展を食い止め、短期間であれば運航が可能となるように工夫されています。記憶に新しいのはハワイでの事故で、機体の上半分(屋根)が飛び、客室がむき出しになった状態でも、無事着陸できたニュースなどが挙げられます。

車の場合でのフェイルセーフとは、車のハードウェアやコンピュータソフトにいかなるトラブルが生じようと、最悪ケースでも車を安全に停止できる仕組みを指します。今回の場合、死亡事故につながったトラブルでは、アクセルが戻らない(スピードが落とせない)という極めて危険な状態になるとの事、これではフェイルセーフの原則に完全に反する状況と言えます。一方単車には、ハンドルにエンジンのイグニッションを完全に切断できる赤い非常スイッチが付いています。車のドライバーが、実際にアクセルが戻らす、スピードが落とせないパニック状態下で、冷静にブレーキを操作し、イグニッションキーを操作してエンジンを切る事が出来るかははなはだ疑問です。メーカーには、外観や内装を豪華にする事だけに力を入れず、基本的な安全性にこそコストをかけてもらいたいのです。

車は、長期間の訓練を受けたプロドライバーではなく、運転もメカも素人が操作する事が前提の機械です。しかも、二昔前の車とは異なり、殆どの機器は素人にはいじれないブラックボックス(車載コンピュータ)制御となっています。しかしコンピュータが如何に判断しようともドライバーの操作が優先されるべきでしょうし、緊急の場合は、少なくともエンジンが切れるボタンは必須だと思うのです。類推で気になるのは、オートマ車での「店舗突っ込み事故」です。あの場合でも、車は完全にドライバーの意に反した動きになっている訳で、これ(ドライバーの勘違い事故)を根本的に防止するメカや車載コンピュータのソフトウェアは、残念ながらまだ開発されていません。

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2010年2月 9日 (火)

1095 車のマスク

先週末は静岡でした。仕事がらみですが、ETCの恩恵をありがたく享受するためバイクで出かけました。とはいうものの出掛けは雪がチラチラ舞うあいにくの天気。寒さをこらえてハンドルにしがみつき、何ヵ所かのSAに立ち寄りながら4時間弱で到着しました。静岡は、さすがに雪雲が届かない地域なので、すっかりよい天気になり、富士山も頭だけを隠した姿を見せてくれましたが、寒い事には変わりません。ハンドルに付けてあるヒーターもフルパワーで暖めたのですが殆ど役に立ちません。しかし、今年の冬は、バイクに一工夫してあったので、結果を見るのは楽しみでした。

その工夫とは、ラジエータのグリルにクリップでビニールシートを付けた事です。冬場にバイクの燃費が下がる事は何となく実感していましたが、ある人に冬場は冷却水温度が「下がり過ぎる」のでエンジンの出力も下がるとの話を聞いたことがきっかけで、北米で見た「車のマスク」を思い出したのです。冬場の北米では、滑り止めのためにフリーウェイに砂を撒きますが、多くの車がつけている黒い(薄いゴムなどでできた)マスクは、前の車が飛ばした砂利からボディー守るためだとばかり思っていました。しかし、思い出してみるとそのマスクはラジエータグリルを塞ぐ様につけられているため、冷却水の過冷却を防止する目的もあった様なのです。というより、寒冷地では20%程度燃費が悪化する場合もあるので、むしろ燃費向上が主目的だったかも知れません。北海道の知人は、確かに冬の燃費が極端に悪くなると嘆いていましたが、単に朝の長い暖機運転がその原因とみているようでした。

さて、対策の結果ですが、高速道路を走っても冷却水温度は、やや高めの正常値に保たれていて、往復の燃費も対策前の1割以上の改善になりました。これは夏場と変わらないか、少し良いかもしれません。何しろ冬場の空気は、気温が低いため夏場より密度が高く「濃い」のですから、燃焼状態が向上しても不思議はありません。日本の車は、暑い日本や輸出先のアジアの国々で、夏場のオーバーヒートが防止できる様に、ラジエータ能力は大きめに設計されているはずです。したがって、季節に応じてラジエータの冷却面積を加減できる様にする道具(ゴムのマスクや可動式の板の様なもの)を売り出せば、この時代必ず売れるはずなのですが・・・。問題は、暖かくなってもそれを外すのを忘れ、オーバーヒートを起こす事ですが、幸い全ての車にはそれを警告してくれるアラームが付いているので、車を壊してしまう恐れは全くありません。

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2010年2月 7日 (日)

1094 悪循環

もがけばもがくほど、深みにはまっていく状況を悪循環と表現しますが、ではもがかなければ良いのかと問われれば一応「Yes」と言っておきましょう。もがく事は、事態へ何らかの働きかけを行う事で、悪循環状況ではその働きかけが逆の作用を生んで、事態が悪化する不味い状況だからです。もがかなければ状況は「自由落下」になり、スカイダイビングでもそうであるように、ある時点からは落下速度も一定に落ち着きます。落下速度が一定になれば、その後に生ずる事態もほほ完全に予測できる事になります。

今の経済状態や、環境悪化の問題にこれを敷衍してみましょう。たとえば、経済状態です。不景気になると、政府は一生懸命に「景気対策」打ち出します。それは、たとえば金融緩和政策であったり、財政出動だったりします。確かに事実として、20世紀型の経済システムではこれは効奏してきました。しかし、今後予想される右肩下がりの時代、このような20世紀型の対策は最早機能しないのではないかと疑っています。つまり、国債という借金をどれほど重ねても、近い将来にそれを税として回収する見込みは全くないと見ているのです。返す見込みのない借金を重ねる事は、単なる悪あがき(悪循環)に陥ります。

そうではなくて、右肩下がりの時代においては、その流れに身を任せるフリーフォール(自由落下)しかないと思うのです。フリーフォールに身を委ねるといえども、何も手を打たない訳ではありません。スカイダイビングでも、手足をコントロールして移動したり、落下スピードを変えたりできるはずです。ましてやパラシュートを開けば、怪我なく着地する事も可能になるわけです。まずは、落下しながら「空気の粘性(例えば実態経済)」を実感しなければなりません。しかる後に下界を眺めて着地地点を定め、そこに向けての微調整を始めれば良いと思うのです。その中で、落下スピードを抑えるためには小さなパラシュート政策をいくつか組み合わせ使うことも必要です。パラシュート政策とは、たとえば、来るべきゼロ成長(またはマイナス成長)時代を見越した新しい産業(または古くからの産業の復活)を起こす事などを指します。もちろん、それらの産業の原料やエネルギーは、殆どすべてを自然(=太陽)からの恵みに頼るしかありません。そのオキテを破ると、またぞろ石油ガブ飲みの悪循環の奈落に落ちていく事になるからです。

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2010年2月 6日 (土)

1093 お急ぎペナルティ

20世紀の後半のものづくりは、実は「押し込み型」でした。どうせ経済は右肩上がりで、需要が拡大する事が大体予想できましたので、メーカーはとにかく安く大量に生産する事だけ考えていれば良かったのでした。戦後でも確かに、何度かの経済減速はありましたが、それにしても一時的なものでしたし、その都度「在庫調整」や「財政出動」などの対策をすれば、景気はやがて上向いてきたのでした。さて今後です。もちろん、潜在的には、途上国でのモノへの需要は根強いものがあるでしょう。しかし、それも環境が許す範囲内での話です。

これからの右肩下がりの時代、メーカーは出口を見ながらモノづくりをする事を余儀なくされるでしょう。そのためには、進んだ受注生産の仕組みが必要になります。今の若い世代は、多分注文してから商品が届くまでの1-2週間、ワクワクしながら配達を待つという楽しみを殆ど知らないのでないかと想像しています。したがって、受注生産というビジネス形態を経済の主流に据えるのは、結構難しいかもしれません。しかし、環境保全のためにはそれを、着実にしかも結構速やかに実現する必要があると思うのです。実例はあります。DルというPCのメーカーは、インターネット上で注文を受け付け、受注後に工場に組立て開始の情報を流します。発注者は、注文を出すときに種々のオプションを選択する必要はありますが、それなりにカスタマイズできて、不要なハードやソフトウェアの無駄も出ません。受注後、1-2週間もすれば配達されますので、買ったその日に使う必要でもなければ何の不自由もありません。

新しい受注生産システムでは、メーカーは数段階のプライスを設定するのが賢い選択でしょう。つまり、たとえば2-3日後に商品が欲しい人、1-2週間待てる人、1か月後の入手でも構わない人で、同じ商品でも売値を変える訳です。これができると、メーカーは仕事量の平準化ができ易くなるでしょうし、部品在庫の量も減らせますから、結果としてコストも下げられますし、一方でより多くの受注残が持てるので、経営も安定化するはずなのです。今の経済社会では、一物一価が基本原則ですが、どうせキャンペーン価格の設定などで、値崩れしているのですから、「お急ぎペナルティ」と「のんびりインセンティブ」の選択肢を消費者に与えることなど、何の障害にもならないでしょう。

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2010年2月 4日 (木)

1092 エンジンと燃料

今の巨大な経済システムを下から支えているのは、間違いなく安い石油であるとも言えるでしょう。もし石油が全くないと仮定すれば、貨物や旅客が海を渡るには、石炭焚きの蒸気船か帆船程度しか手段がありませんから、物流量は極端に少なくなるでしょう。その場合は、かつてはそうであった様に、貨物としては軽くて単価が非常に高い香辛料や紅茶や貴金属などしか運べないはずなのです。もちろん、食料品や日用品など運べるはずもありません。したがって、これではとても現在の巨大に膨れ上がった経済を支える事はできませんので、経済システムも自国内でしか回らず、しかも極端な地産地消に陥ってしまうでしょう。

どこをどう考えてみても、石油の供給量と値段だけが今後の社会システムの行方を決定してしまうと思われるのです。今の社会では、社会システム(例えば巨大市場)を動かすエンジンを「輸送機器産業」が作り、それを動かす燃料を「石油メジャー」が供給するという分業を行っていますが、そのいずれをも支配しているのが、他ならぬ市場自身であるという自己矛盾を抱えています。経済が右肩上がりで成長している時は、この矛盾は表面には出てきませんが、燃料(石油)切れによって経済の単調な右肩下がりのサイクルに入った場合には、この矛盾は牙をむき始めるはずなのです。私たちは、過去半世紀以上の幸福な時代にどっぷりと漬かり過ぎていて、実はその様な時代への対処方法は殆ど学習出来ていません。

エンジン(輸送手段や都市インフラなど)は確かにあるが、それを動かす燃料が心細くなる時代、私たちにはどの様な行動オプションが残されているのでしょうか。冷暖房が切れ、水道や電気も時間帯によっては止まり、また本数がめっきり少なくなって、あの「押し屋」が復活した電車を諦めて、徒歩か自転車で10-20km程度離れた職場に通勤しなければならなくなった社会を、私たちは想像を逞しくして考えてみなければならない時代だと思うのです。

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2010年2月 2日 (火)

1091 集配システム

日々高速道路や街中を走り回るトラックを見ていて絶望感に襲われます。それらのトラック群はと見ると、大部分は10数社くらいの大手運輸会社、大手物流会社、郵便会社、中小の運輸会社などが入り乱れて走り回っています。物流企業のトラックのうちコンビニ業界だけを考えても、数社のトラックが、午前と午後(夕方も?)配送を繰り返しています。これを、エリア別に単一の集配業者に業務委託したら、どれほどの無駄な走行が節約できるか、考えるだけで勿体なくて溜息が出ます。ざっと考えるだけでも半分以下には十分削減可能だと思うのです。

今走っている集配トラックが、バンの天井までぎっしり商品を積んでいるとはとても思えません。つまり、多くのトラックは「空気を運んでいる」とも言える訳です。バンの中をいくつかに仕切り、各社の荷物を積んで街中を走りまわれば、トラックの台数は少なくとも3割、うまくシステムを設計すれば、半分にすることも可能なはずです。25%のCO2削減のためには、単純にハイブリッドトラックや電気トラックを導入するという、資源と金を使う安易な方法ではなく、社会システムのソフトウェアを工夫する、頭を使ったアプローチに切り替える必要があると思うのです。

新しい集配システムには縦割りのタブーは作りません。まず集配に関わる全ての業種を、時、場所、配送量のデータを横断的に見渡す必要があるだけです。新聞配達、清涼飲料水配送、牛乳や乳飲料の配達、郵便会社、コンビニ、宅配便、一般貨物の集配などなど、いかに多くの業界が、日々一体何台のトラックやバイクや三輪バイクなどを動かしているかを考えてみるだけで、再度ため息が出ます。

さて、新しい「統合された集配システム」では、配送される製品自体が行き先情報を持っている必要があります。それにはマイクロチップ技術が不可欠でしょう。コメ粒より小さいチップをパッケージに埋め込んでおけば、その商品がどこに届けられるべきかが外から読むことができます。地域ごとにグループ化し、コンピュータが最適の集配業者と配送車に情報発信します。パッケージは、届け先では開梱後はゴミになりますので、次回配送時に配達員が引き取り、マイクロチップに従って、逆ルートで発送元へ返送する事になります。もちろんパッケージは耐久性のある材質で作りますので、最低20回程度は再使用されます。ところで、段ボール業界には申し訳ありませんが、このシステムでは段ボール箱の使用量は1/20になってしまいそうですので悪しからず・・・。

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2010年1月31日 (日)

1090 共生

新政権の「コンクリートから人へ」というKWには実は賛成していません。コンクリートは、その生産に、それ自体の目方とほぼ同じ重さの二酸化炭素を排出しますが、かといって環境坊主として貴重な税金を「ヒト」だけに重点的に振り向けるという、ヒト(人類)の身勝手に賛成する気にはならないのです。投稿者なりに上のKWを気にいるように修正するなら「コンクリートから人と自然の共生へ」となってしまいます。ヒトは今や、自分たちが作ったインフラや経済システムに押しつぶされそうになっているとも言えます。インフラの代表としての「都市」には、今や2/3の人口が集中し、人と人との軋轢による事件や、自然との断絶に起因すると思われる「情緒不安定トラブル」などが観察されます。それは、さながら狭い動物園の檻に密集して詰め込まれた動物たちがいさかいを繰り返す様にも似ています。

ヒトを含めた生き物は、自然(環境)と共生してこそ辛うじて世代を積み重ねられる危うい存在だと思うのです。ヒトが人として生きていくためには、お金や食糧だけでは全く事足りません。人口の2/3が農村や山村に暮らしていた時代の様に、ヒトと自然が溶け合って暮らすために、何が必要なのかを考え直さねばなりません。そのためには、時にはせっかく作ったとは言いながら、インフラを壊して元の自然に戻す必要もあるかも知れません。事実、ヨーローッパではその様な活動も活発になりつつあり、いわば建設業の逆サイクルとしての、「自然再生業」が産業として育ちつつあります。具体的には、コンクリートで固められた川岸や湖岸を、昔の土手や渚に戻す事業を指します。つまり、ヒトと自然の間にコンクリートの壁を築くのではなく、その境界線を限りなく見えなくする活動だとも言えるでしょう。都市と、自然との間にはかなりの幅の草地も必要でしょう。そういえば、昔はそれらを野原や里山と呼んでいました。

里山の間に民家が散在する中山間地の風景は、自然とヒトの生活が溶け合った、いわば日本の原風景でもあります。そこでの生活は決して便利ではありませんが、しかし自然への感謝や生活の工夫に満ちたココロ豊かな生活ではあるでしょう。またそこでは、自然との共生はもちろん、住民同士の共助(結い)にも満ちた暮らしがあったはずなのです。少なくとも、私たちの遺伝子の中には、川辺や里山の生活の中で進化した縄文人のDNAが組み込まれていて、その中でこそ安らぎが感じられる筈なのですが・・・。

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2010年1月29日 (金)

1089 N航破綻に思う

先ごろN航がついに経営破綻しました。実のところ、この事態は10年も前から予測されていたとも言えるのです。少なくとも投稿者は予測していました。だからこそ、航空機産業に見切りをつけ、そのついでに技術屋もやめたのでした。環境屋になったきっかけの一つは、実はWTCのテロ事件でした。自分も関わって作られた「何の変哲もない旅客機」が、空飛ぶ爆弾となって巨大なビルを崩壊させた事実もショックでしたが、事件後の航空旅客がそれまでの45%まで落ち込んだという数字はさらなるショックでした。つまりは、55%の客は不要不急のいわば物見遊山客であったという事実が表面化したからです。

飛ばせなくなった旅客機は空港に置いておくわけにはいきません。なぜなら空港は航空会社の財産ではなく、自由に使える自前の格納庫も数少ないからです。便数を減らした航空会社は、仕方がないので余った旅客機をわざわざアメリカまでフェリーします。そして、アリゾナのMojave砂漠にある空港に駐機させておくことになります。WTCテロ直後、この空港にはなんと大小2,500機もの旅客機が持ち込まれました。この空港は、内陸の砂漠にありますから、保管中は湿気も塩気も問題にはなりません。ただ、時には砂嵐が発生しますので、唯一の対策として、エンジンだけにはすっぽり覆う防砂カバーをつけて、再び飛ばせるようになるまで静かに寝かせておく事になります。

さて2,500機という数字は、世界中の航空機メーカーが束になっても製造に5年掛ってしまう機数でもあります。上で述べた55%の物見遊山客の内の「半分」は、それなりに堅い需要だったと仮定しましょう。WTC直後に砂漠に持ち込まれた機数をざっと2,000機と仮定すると、1,000機分に相当する20-30%旅客数は、実は空き席を埋めるための格安航空券に群がるバブル客だったとも想像もできます。事件のホトボリがさめると、見掛け上殆どの旅客機は定期運航に戻りましたが、N航を含めた各ライナーは、潜在的にはバブル需要の「格安旅客」で空席を埋めながら、儲からない運航を続けていたはずなのです。海の向こうの住宅バブル崩壊や金融ショックによる景気冷え込みで、さすがのナショナルフラグN航も赤字の山に持ちこたえられなくなったとしても、何の不思議もないのです。この種の破たんは、航空機の便数が、少なくとも今の25%程度減らされるまで続くと考えてもよさそうです。偶然ですが、これはH山首相の温暖化効果ガス25%削減という数字にもぴったり一致するので、温暖化防止に向けた帳尻も合ってくるでしょうし・・・。

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2010年1月27日 (水)

1088 退化

バイクが故障して1週間近く入院しました。足が無いのでまるで幽霊状態でした。考えてみれば、このバイクは2002年に技術屋を卒業した時に退職金で買って以来の親友です。距離計はと見ればすでに地球を2周半した勘定になります。タイヤ交換が数度、変速機のベルトも2回交換しました。今回は何とか退院できたので、こうなれば完全に寿命が尽きるまで、トコトン付き合う事になりそうな予感がします。

バイクが無い週は、なぜか非常に忙しい週でした。仕方がないので、歩きと電車で何とか飛び回りましたが、それはそれで結構どうにかなったのです。いつもより、1-2時間行動開始を早める必要ありますが、2-3km歩く覚悟さえあれば、狭い日本なので、特に不便は感じませんでした。投稿者は、夏山では12時間歩くことも珍しくはないので、時間さえ許せば数時間の歩きは全く苦にならないどころか逆に楽しくもあります。たまに上京した際でも、山手線の内側の移動程度であれば、急ぎの時以外は必ず歩くようにしています。

さて歩きは、森の樹上生活から草原での生活に移ったヒトの基本動作でもあります。ヒトは、そのために下肢が長くなり、脊椎が直立してより重い頭部を支える事が出来るようになり、結果として脳の容積が大きく進化する事が可能になったのでした。あまり歩かない人は、すでにヒトとしての能力が退化しつつあると考えても良いかもしれません。進化には長い時間が掛りますが、退化は短期間で進むのではないかと、実は密かに考えています。その例として、若者のアゴ(下額)が小さくなった事を挙げましょう。戦後の食糧難が解消され、十分過ぎるほどしっかり調理された柔らかい食物を、ロクに噛まないで飲み込む現代の日本人に、下アゴの小さな小顔の人々が増えたのは、実は退化現象なのではないかと疑っている訳です。この現象は、戦後の数世代で急激に進んでいる現象なので、退化のスピードは結構早いのではないかと見ている訳です。骨は、日々破壊と再生を繰り返すものなので、形態の変化は、それをどの程度使ったかどうかにも大きく依存するのかも知れませんが、一方で歯牙の形や大きさは先天的な要素で決まるので、顎に並び切らなかった歯が八重歯になってはみ出します。投稿者は、急ぎでもない買い物に車に乗って移動する人や、八重歯の若者の口元に人類の退化を見て、日々嘆いているという次第です。

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2010年1月25日 (月)

1087 省エネという「対策」

投稿者の今の仕事の半分以上は企業の省エネ指導に関するものです。しかし、修業中の環境坊主の身としては、内心忸怩たるものを感じながら事に当たっています。それは、省エネルギー活動は「所詮対策に過ぎない」と認識しているからです。問題の原因が判明したら、それからの悪影響を弱めるために講ずるのが対策です。しかし、確実に問題を「解決」するためには、根本原因を取り除かなければならない訳です。

かつて、公害問題で悩んだこの国では多くの「公害対策」が講じられましたが、しかしそれらは経済的に成り立つ対策でなければなりませんでした。そうでなければ、企業が存続できないからです。従って、この時代に至っても低レベルな有害物の排出は「法律の範囲内」で継続していると考えなければならないでしょう。というより、殆どすべての法律は「対策法」でもあると言えますが・・・。生活排水も下水処理場で処理はされますが、同じく「経済が許すレベルでの妥協」があるはずです。それ以上の浄化は、川や海の微生物浄化に委ねられ、それ以上の負荷にとなっている地域では、やはり低いレベルの環境汚染問題は残されたままなのです。問題の原因を取り除くには、その排出の原因となっている行動を止めるか、問題を起こさない別のプロセスに切り替えなければなりません。具体例を挙げれば、石炭や重油による火力発電を、LNGによる「よりクリーンなエネルギー」に転換したというのは単なる対策に過ぎないのです。そうではなくてエネルギーの使用レベルを大幅に低下させる技術開発や社会システムの構築こそが、根本原因の除去につながるわけです。

省エネの話に戻れば、エネルギーの多量消費にまつわる環境問題(たとえば温暖化)を解決するには、エネルギーを殆ど消費しないプロセスへの転換を真剣に考えなければなりません。少々の節約で達成できる省エネ程度では、焼け石に数滴の水を垂らすだけのポーズに陥ってしまうでしょう。従って、私たちはいまや対策の「省エネ」というキーワードではなく、早急に原因除去の「脱エネ」に切り替えなければならない時期に至ったと認識する必要があります。したがって、投稿者の目下の目標は、脱エネを唱える環境坊主に脱皮することなのです。

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2010年1月23日 (土)

1086 共助・自助

右肩下がりの時代、政府の力も弱るのは避けられません。お金(税金)が集まらなければ、行政組織も縮小せざるを得ませんし、その上に乗っかっている政治家の力も弱体化するのは自然でしょう。今やこの国でも「親方日の丸」は死語になりつつあるように見えますし、政府の先を見越さない景気対策は、いたずらに将来世代の借金を増やす自殺行為だと思い知らなければならないはずです。命が危ない時のカンフル剤投与は必要な処置ですが、とりあえずの緊急事態脱したら、最終的には病気の原因となった「生活(経済)習慣」を矯正しなくては再発を招くだけです。今の各国の緊急経済対策は、あくまでカンフル剤である事を忘れず、長期的な視点にたった治療に早急に移行する必要があると思うのです。借金に借金を重ねる、今の流れには強いアラートを出し続ける所以です。

さて阪神淡路の震災を思い返すと、あの未曾有の災害時にキーワードとなった言葉が、公助、共助、自助という言葉でした。状況が悪いほど、公助の比重は下がり、となり近所の共助や自分自身で身を守る自助の比重が急激に大きくなります。では、経済における共助、自助とは何を指すのでしょうか。それは、たぶん一つの経済圏のサイズを、コンパクトにまとめる方向で修正する事を指します。ある地域に、ある人口が集まると、それに応じた経済活動が必要となり経済圏が生まれます。かつてそれは、例えば川の流域にコンパクトに広がっていました。つまり、河口に広がっている都市部の人口密集地があり、その胃袋を支えるため中流域では農業がおこなわれ、また建材やエネルギーとしての木材と薪炭は川の上流部で生産され、一方の都市の生産物は逆ルートで循環していました。

しかし、今や経済圏は海を跨いで地球規模で拡大し続け、日本で私たちが日常使っている製品や口にしている食糧の生産国さえ、パッケージをひっくり返さないとにわかには想像できません。自国の農家や零細規模の商業に冷たくしておきながら、工業製品を輸出して外貨を稼ぐために応分の輸入を増やすという、これまでの経済政策は、今後比重が高まると思われる、共助・自助の面からは評価できそうもありません。

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2010年1月21日 (木)

1085 環境維新

この国で価値観が大きく転換した事が何度かありました。近くは先の大戦の終戦の時、さらに前では明治維新が挙げられます。後者では、日本的(江戸的)価値観の否定と西欧的(特に英国的)社会システムの導入がありました。また前者では、それまでの富国強兵的国家主義が否定され、米国的で物量にモノを言わせる豊かな唯物的価値観が社会を支配したのでした。これは「戦後維新」と呼んでも良いような大きなエポックではありました。この二度の維新は、急激にしかも徹底的(後戻り無しに)に進みました。

ここで挙げたK/Wである「環境維新」とは、戦後の米国的豊かさは、決して全世界の人々が享受できる筋合いのものではない事の確認の上に立って、ではどうすれば100年後やその先の子孫が幸福に暮らせるか、という新しい価値観や社会システムを問うものだと言えるでしょう。しかしながら、今回の維新は決して急激には進まない事は容易に想像出来ますし、逆に小さい後戻りもあり得る緩やかな変化になるでしょう。もちろん、ハリケーン・カトリーナの様な、環境ハザードが頻発し、社会インフラや経済が大きくダメージを受けるような事態に陥れば、それは急加速するとは思います。とは言いながら、南のサンゴ礁国家やインド洋などに面した海抜の低い国々の冠水被害や氷河や凍土の融解程度のローカルな変化しか起こっていない現状では、今回の「ご維新」にはなかなか加速がつかないのです。

投稿者の予測では、今回の環境維新に火が付くのは、たぶん広範囲の干ばつ被害による世界的な食糧難が起こった時ではないかと思っています。なにしろ人は、飢えや渇きには1か月とは耐えられないからです。今日明日の自国の食糧不足を起こさないため、食糧輸出国は日本などへの輸出分を大幅に減らさざるを得ません。そうなれば、いくらお金を積んでも食糧が手に入らなくなりますから、海の向こうの干ばつは、直ちに此の国の問題に波及する事になります。

さて、今回の維新の特徴は、決して「物質的・エネルギー的」には「前進する革新」ではなく、逆に後退・回帰する革新でなければならないという事でしょう。このご維新では、昭和的、明治的、あるいは江戸的(あるいは縄文的?)ではあっても、しかし環境的に見ればすぐれた技術や社会システムやライフスタイルの落ち穂を拾いながら、今後のあるべき社会に組み込んでいく努力が必要とされるでしょう。

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2010年1月19日 (火)

1084 大は小を兼ねない

この時代、ことわざも見直しが必要です。ここでは「大は小を兼ねる」を考えてみます。20世紀、特に後半を振り返るなら、この時代は「大きいことは良いことだ・時代」だと言えそうです。とりわけ、高度成長期以降は全てが大型化した様な気がします。ダムやビルや橋などのインフラをはじめ、航空機や車やタンカー(船舶)だけではなく、家電や官僚組織や社会システムそのものが大きくなり、膨張し続けた時代でした。交通システムも大量・高速輸送を理想に掲げたのでした。この時代になっても、社会はこの流れを引きずっているようにも見えます。南アルプスのどてっ腹にトンネルを穿つリニア新幹線計画も打ち上げられました。しかし、今後のあるべき社会を展望すれば、この流れには急ブレーキを掛けなければならない事は明白です。

分かり易い例を挙げてみましょう。ある人が、一杯のお茶が飲みたいだけなのに、大きなヤカンで湯を沸かし、同じく大きなポットにそれを詰めてからお茶を飲む行動を想像してください。湯沸かしには5分も掛かるでしょうし、ポットに残ったお湯は、2時間も経てばかなり温度が下がるので、次に飲む時は沸かし直す必要があるでしょう。そうではなくて、今後は、まず使う湯呑に飲む量だけ水を入れ、それをヤカンに移してから湯沸かしを行う行動が求められます。これだと30秒も待てば湯は沸くでしょう。

同様に新たな社会インフラやシステムを作ろうとする場合、まずは必要な機能とサイズをじっくり見据える必要があります。大は小を兼ねるとばかり、必要以上に巨大に作られたインフラや箱モノの如何に多い事でしょう。外観は立派ですが維持費がバカ高く、使用率の極端に低い公共施設、ガラガラの山間道路やローカルの高速道路、更地のままの工業用地などなど。何より。大き過ぎるインフラは、完成後にそれを運営するエネルギーや機能を維持するためのメンテナンス経費を考えれば、初期の冗長はそのインフラが寿命を終えるまで続くでしょう。さらに寿命が尽きた原発を想像しても分かるように、インフラ解体後の廃棄物処理も頭痛のたねとなってしまいます。まずは可能な限りニーズの質と量をキッチリ計り、一期工事での部分的な運用から始めて、利用率の実績を見た上で、二期以降最終的な完成に向かうべきでしょう。「大は小を兼ねる」はスッパリ忘れて、「必要かつ十分」や「ステップバイステップ」を意味する新たなことわざが必要な時代です。

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2010年1月17日 (日)

1083 自己と非自己

環境問題を考えるとき、投稿者の頭に浮かぶのは自己と非自己という言葉です。微生物で言えば、細胞膜で囲まれた境界の内側が自己で、その外側はすべて非自己です。しかし、生物は自己の中の物質だけで生きて行ける訳ではないので、生きていくために必ず非自己である周囲から養分や栄養なりを取り込まなければなりません。その一方、代謝の結果生じた物質は不要ですし、場合によっては毒にもなり得るので、自己の外(環境)へ捨てなくては生命が維持できません。人間は、これまでの歴史の中では、ほとんど自己の事だけを考えて行動してきたのでした。

短く急流の川が多いこの国で、ご先祖様たちが山に落葉樹を植え続けるという利他的に見える行動でさえ、自分たち自身あるいは「自分たちの子孫」の農地の灌漑や水防のためだったはずです。それらの森が多様な生き物の揺りかごになったとしても、それは一つの結果に過ぎません。

しかし、ヒトは火を味方につけ、その火を持続的利用する手段として、環境から化石燃料を掘り出しました。また、草や木や岩に代わる構造材料として、金属に代表される地下資源も大量に掘り出し、精錬し、消費し始めました。しかし、環境から物質やエネルギーを取り入れれば取り入れるほど、自己から環境へ捨て去る廃棄物も増えてしまいました。ヒトは移動するために自分の足の延長としてクルマを作りだしましたが、クルマを動かすために燃やした石油の廃棄物として排気ガスや熱を環境に捨て続ける事になります。もし捨てないで排気ガスを車の中に残したままにすると窒息死してしまうからです。しかし、ちっぽけなヒトに比べれば無限に広い様に思われた、非自己である地球環境も産業が巨大化した結果、(相対的には)有限である事が種々の気象異変などにより明確になってきました。

バクテリアなどの増殖を、時間を追って観察すれば、環境に栄養物が不足するか、あるいは環境に排出された排泄物の濃度が高くなるにつれて、増殖が鈍化・停止し更には逆に個体が減少し始めます。微生物が減少するのは、自己が環境に出した排泄物によって引き起こされた「自家中毒」現象に他なりません。ヒトの、廃棄物による自家中毒は、何によって引き起こされ、あるいは環境からの贈り物である食糧の不足によって何時から個体減少(人口減)が始まるのか、真剣に注視して行く必要があります。

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2010年1月15日 (金)

1082 超高層ビル

最近中東のDバイで、世界でもっとも高いビルが完成したとか。800mをかなり超えるというその高さの異様さは、実際に見てみなければ想像すらできません。その高さは、自然物で言えば、1000m近くの標高をもつ山にも相当します。これはまさに現代のバベルの塔なのでしょう。それとも、砂漠の国に建てられたビルですから「砂上の楼閣」と呼ぶべきかも知れません。

投稿者としては、このビルを見てみよう、ましてやそれに登ってみようなどという気にはさらさらなれません。何故なら、持っている耳が気圧の変化に非常に敏感だからです。自分の足で山に登るだけでも、100m毎に耳がピーンとなり、唾を飲み込む「耳抜き」が必要です。毎秒10m程度のスピードの高速エレベータを使えば、多分数分で最上階まで着いてしまいますが、「気密ドア」が開いた瞬間に耳の激痛で卒倒してしまうかも知れません。高ければ高いほど良い電波塔とは違い、人間が立ち入り生活するビルは目的が全く異なります。地震は無い国なのでしょうが、火事や停電などの人的災害を考えれば、その時のパニックぶりは「タワーリングインフェルノ」の状況どころではないはずです。800mを一気に滑り下りる脱出シュートは事実上作れないでしょうし、ヘリコプターで1回に吊れるのは数人に過ぎないからです。

数少ない対策は、クアラルンプールにあるようなツインタワーでしょうか。こちらは実際にも見ましたが、二つのタワー間にはいくつかの連絡通路が作られていました。しかし、これでは何のために高いビルを建てるのか、訳が分からなくなります。たぶんいずれの場合も、これらの超高層ビルは、人集めのためのアトラクションかランドマークの意味しかないと思うのです。ならば、人が住み、あるいは事務所として使うビルではなく、ただの世界一の展望タワーで十分だとも思ってしましいます。Dバイのビルも、そのバカ高い家賃故に、結局はテナントが集まらず赤字を垂れ流されるであろう事は、だいたい予想できてしまいます。人間の更なる愚行のサンプルとしてしばらくは注目する事にしましょう。

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2010年1月13日 (水)

1081 刹那人間

近年の世相を見ていて浮かぶ言葉がこの「刹那的な人間」の増加という事でしょうか。投稿者は、人間の脳は3層構造であるという、幾人かの学者の指摘を鵜呑みにしていますが、その3層とは、用語として正確ではないかも知れませんが、爬虫類脳、動物脳、人間脳となります。爬虫類脳や動物脳は今周囲で生じている事態に対して、その瞬間を生き延びるのに最適な行動を指令するだけですが、人間脳の最も特徴的な能力として思いあたるのは、想像と共感でしょうか。数学・コンピュータ用語を使えば、ヒトは「演繹と帰納」を駆使して未来を想像することができます。一方で、人間脳は他人が考えている事を想像し、共感することもできます。そうでなければ、ただの映像である映画を見て、あるいは文学を読んで内容に感動し、涙を流せるはずもありません。

刹那人間の増加現象は、とりもなおさずこの想像と共感能力の低下にその原因がありそうです。もし、刹那的な行動の結果自分や周囲に及ぼす影響を想像出来たり、周囲の人間の心情を共有できたりするなら、日常茶飯事となっている事件や自殺など起こるはずもないからです。罪を犯した結果として被害を受けた人々の痛みや、自ら命を絶った結果残された人たちの悲嘆を、少しでも想像できるなら、それらの行動を踏みとどまるはずなのです。その社会的な背景としては、やはり刹那的な娯楽の蔓延を指摘せざるを得ません。種々の、「指の反射だけを求めるゲーム」やギャンブルや刹那的なお笑い番組が思い当たります。

刹那人間は、その瞬間の自分の欲求や保身や快楽のためだけに行動しますから、ニュースとしてみれば信じられない様な「事件」を引き起こしてしまいます。人間脳を使うことなく、「脳の深い場所からの指令」で行われるその時の行動は、たぶん事後に振り返っても、本人にさえ全く説明不可能な行動だと想像しています。そんな彼らを嘆くのは簡単ですが、彼らの中に人間脳を育てるには、「社会環境」として一体何が必要なのか、このブログでも考えていく事にします。

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2010年1月11日 (月)

1080 無重力ビジネス

少し前N口さんがロシアのロケットで宇宙に送られました。宇宙とは言ってもたった数百キロメートル「上空の空間」です。そこには、重力と遠心力がちょうどバランスした空間を持つ箱である宇宙ステーションが浮かんでいます。その空間に行き来するには、1座席当たり数十億円もかかる乗り物に乗らなくてはなりません。もうすぐ、スペースシャトルが引退すると、この路線はロシアの独占となりますので、たぶん「運賃」も2倍くらいに跳ね上がる事でしょう。需要と供給のバランスしたところで運賃が決まるのが「旅客運送業界」の常識だからです。もちろん、独占ともなるとさらに足元を見られるので、2倍では済まない可能性もあります。人が滞在しない宇宙ステーションは、ただの宇宙ゴミとなりますので、今後とも年間一人くらいは税金を使って、この「ロシア線」を利用する事になるはずです。

さて、そんな高い運賃を払って何が得られるかですが、無重力で作られた天文学的コストの医薬品や合金など、あるいは無重力空間で飼育される小動物や微生物、同じ空間に保管されあるいは発芽した植物の種子などしか思いつきません。無邪気な少年少女に向かって、宇宙飛行士になって宇宙に向う夢を与えるのも、確かに今の宇宙飛行士の仕事ではあるでしょうが、そろそろ、こんな20世紀のお遊びも終わりにしなければならないとしみじみ感じています。宇宙空間には何も存在せず、闇と真空と無重力しか手に入らないのです。一体誰が月や火星に移住してそこで死にたいと思うのでしょうか。今は、私たち地球で生まれた生物の「生まれて食って寝て生きて死ぬ場所」は、この星の表面しかないと覚悟を決めるべき時期です。

私たちは将来、無重力ビジネスのピークは、月に人間を送り込んだアポロ計画だったと、歴史として振り返る事になるでしょう。意味がない(というと関係者に叱られそうですが)宇宙ごっこは、ここらで「お仕舞いにする計画」をたてるべき時期に来ている、などと考えているのは、投稿者だけではないと思います。それでなくとも貴重な資源やお金やマンパワーの使い道は、この地表にはごまんと存在しています。いま使われている無重力ビジネスの経費や資源・エネルギーで、例えば太陽光発電所がどのくらい建設できるか考えるだけでも、「気が遠くなるような勿体なさ」を感じてしまいます。実験で無重力が必要だったら、数キロ掘り下げた竪穴で、自由落下カプセルを落下させるだけで、数十秒間程度であれば無重力時間を確保する事が可能なのです。もし通信衛星が必要なのであれば、たった5億円ほどで上げられる「成層圏定点気球」数個で、日本全体がカバーできる事を知るべきでしょう。

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2010年1月 9日 (土)

1079 日の入り(カモ知恵)

この時期の投稿者の楽しみは、日の入り時間が日を追って遅くなることです。日の出は、1月上旬まで遅くなり続けますが、日の入り時間は12月初めが底で、徐々にですが遅くはなってきています。しかし、サインカーブの底はほとんど平らなのですが、カーブが上向く1月中旬から、日がのびた事が実感できるようになってきます。この時期、日の出の時間は横ばいですが、日の入りの時間は毎日1分ほど遅くなってきているので、昼の長さも1分ずつ長くなっているのです。とは言いながら、気温についてはまだ下がっていきます。日光が射す時間が長くなっているのに、気温が下がる理由は簡単です。確かに中緯度では日射時間がのびますが、北極点に日が射すのは春分の日まで待たなければなりません。結局1月下旬までは、北極にいる冬将軍様やその子供の寒太郎はさらにパワーを蓄え続けることになります。と、ここまで書いてきて、同じような事を以前にも書いたような気がしてきました。

話題転換。事務所の前を流れる木曽川では、多くの水鳥達が冬を越します。その中でも数が多いのはカモ(マガモ)です。彼らは、時々水に浮きますが、殆どの時間は岩の上で、これ以上は丸くなれないくらい丸くなって休んでいます。毛に覆われていない鳥たちの足には幸いにも筋肉はなく、腱だけが通っているので、寒さは感じないはずです。しかし、血管が通っている首はさすがに寒いらしく、窮屈に折り曲げて背中の羽根の中に埋めているので、遠くから見ると、まるで岩に上に漬物石がゴロゴロ転がっている様にも見えます。しかし、これは寒さを耐える最も合理的な姿勢でもあります。同じ体積であれば、球形がもっとも表面積が小さくなるからです。表面積が小さいと、そこからの放熱量も最小になります。ところで、人間の世界で冷暖房効果が最も発揮できるはずの球形の家がほとんど無いのは、大工さんの腕がまだそれを作る技術に追いついていないだけだとも言えなくもありません。とは言いながら、サッカーボールの様な多面体の家であれば、同じ形のパネルユニットを、例えば20個くらいつなぐだけなので、実は結構単純な技術で実現可能なのですが・・・。(サッカーボールは実は20個の六角形と12個の五角形でできています。念のため)

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2010年1月 7日 (木)

1078 冬山考

今年の正月も「また」何人もの人が山で帰らぬ人になりました。山をこよなく愛する投稿者としては、好きな山で死ぬのもそんなに悪くはないと思うこともあるのですが、何しろ大勢の人に迷惑をかける事を考えると、あわてて否定せざるを得ません。雪国生まれで、気温が低い時に降る新雪の頼りない柔らかさを知っている投稿者としては、この時期の登山は自殺行為に見えてしまいます。50センチ程度の積雪、つまり膝までの雪であれば、普通の体力を持っていればラッセルは可能です。しかし、腰まで沈んでしまう1mを超える新雪では、事実上身動きする事は出来なくなります。次に動けるようになるのは、雪がやみ、日がさしてきて新雪の表面が少し締まり、カンジキが効く程度になるまで待たなければなりません。つまり、大雪に降りこめられたら、その場で少なくとも4-5日間は留まって待機できる程の装備や食糧を持っている必要があるのです。もちろん、その間の寒さは薄っぺらなテントや寝袋などで凌げるはずもありません。深い雪室を掘って、冷たい雪を逆に断熱材として味方につけなくてはなりません。比較的しっかり踏み固めた雪は、非常に性能の高い断熱材でもあるからです。雪国の「かまくら」やエスキモーの「氷雪ドーム」も決してダテではなく、外は氷点下10℃以下、体感温度ではさらに10℃も低くなる吹雪の中でも数日間は十分耐える事も可能な防寒シェルターなのです。

予想を超える暴風雪下では、超人であったあのU村直美さんでさえマッキンリーからの生還を阻まれました。それでもどうしても冬山に向かいたい人には、少なくともこのシェルター作りをじっくり体験してもらう必要があるだろう、としみじみ思っています。合掌。

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2010年1月 5日 (火)

1077 玉虫決議

昨年末のCOP 15は、事前の予想通り、具体的な決議が生まれないまま閉幕しました。COP15でのせめぎあいは、エコノミー(経済優先主義)とエコロジー(環境保護主義)のせめぎあいでもありました。それは、貧困から抜け出すための方便として経済を優先せざるを得ない途上国と、一応豊かな生活を手に入れた先進国側の反省との対立でもあるでしょう。既に十分豊かになった国々が、まだまだ貧しい途上国に、エネルギーをなるべく使わないように豊かになってくれ、と説法しても、まったく説得力はないのでしょう。先進国がそれを望むなら、自ら豊かさのかなりの部分を放棄して見せるか、途上国にこれまでの半分のエネルギーで豊かさを実現できる具体的方策を示さなければなりません。

結局、まずXX%のCO2削減義務の決議ありきでは今後とも堂々巡りからは抜け出せないと思うのです。先進国は、当面現レベルの半分のエネルギー消費で、失業者を出さずに回る社会の仕組み作りの知恵を絞る必要があるでしょう。その上で、削減したエネルギーの半分だけを使って途上国を豊かにする道を示す必要があるでしょう。結果として、「総量として」現在より現在より20-30%少ないエネルギー量で動く世界を実現できる事になります。

今の半分のエネルギーで本当に日本や先進国が回っていくのか、との疑問は残るでしょう。しかし、考え方は非常に単純です。モノを半分にして、利便を受ける回数を2回に1回に減らせば良いのです。例えば車に関して言えば、自家用車やトラックの台数が今の半分で済む社会システムとは何か、を国民の知恵を絞って必死に考えれば答えは出るでしょう。乗用車に関しての一つの答えは、「カーシェアリング」でしょう。コンビニやガソリンスタンドや場合によっては郵便局に車を配置し、予約制で使える様にすれば良いのです。トラックに関して言えば、収集や配送を、会社別の縦割りで行うのではなく、輸送量実績に従って、エリア別に「重なりの無い集配システム」を構築すれば、同じ道路を別々の会社の車が行ったり来たりする無駄は省けるはずです。

玉虫色の決議を出すために、各国の頭脳ともいえる貴重な人材と時間を使って、ダラダラと議論するのではなく、今はこのような社会システムの知恵を出し合い、小規模な社会実験を重ねる事こそ必要な時期だと思うのです。

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2010年1月 3日 (日)

1076 期待と落胆

多くの生き物の中で、ヒトだけが「期待」します。期待とは、将来の望ましい姿への欲求ですので、未来を想像する能力を貰ったヒトだけが可能なわけです。一方、期待とセットの言葉に落胆がありますが、期待が大きいほど落胆も大きくなるはずです。この落差が限度(しきい値=リミット)を越えると、少数の人は、たぶん諦めて終わるのでしょうが、多くの場合ヒトは怒りの感情を持つことになります。

自分が勝手に期待しておきながら、です。しかもその落胆の原因については他人のせいにしたがります。期待し過ぎた自分を反省するより、他人に責任をなすりつける方が気楽だからです。近年この期待が、過度に政府に向かっているような気がします。歳入の20倍もの借金を背負った国に、そんなに期待しても荷が重すぎると思うのです。もちろん、借金を重ねた上に効果的な政策が打てない政府に落胆し、怒りをぶつけるのは勝手です。しかし、どこかの国の大統領の「国民が国のために何を為したか」と問われると、多くの人は忸怩たる思いに陥るはずです。期待値をぐっと下げると人は心安く暮らせるのではないかと思っています。その上で、子孫の幸福のために、密かでなるべく目立たない行動を重ねることにより、さらに安寧な人生が送れる事になるでしょう。

かつて北欧のある国に、国家とは文字通り「国民の家である」という理念を掲げた政治家が登場しました。国家が国民の家であり、国民全員が家族であると考えるならば、少数の苦しみを国民全員で分かち合う、究極の福祉国家が理想となるわけです。そのためには、所得の半分を税金で持っていかれても、甘んじて従う「家族関係」が当然の形として国民に受け入れられたのでした。つまり、少ししか負担しないで国に勝手に期待しておいて落胆するのではなく、まず自分が家としての国に十分に貢献した上で、その家に守ってもらうという態度こそ、この国の構成員に求められると思うのです。期待ばかりが先行する今の風潮に、強い危機感を抱かずにはいられません。

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2010年1月 1日 (金)

1075 ピークアウト

年の初めの決意は、今年も修行しながら「環境念仏」を唱えていく事でしょうか。さて、考えてみれば、昨年末で2000年代が終わったのでした。10年を歴史の短い一区切りと考えれば、高度成長やバブル経済が立ち止まってしまった1990年代に続く2000年代は、一体どのような時代だったのか、時代に冠する言葉がなかなか見つかりません。まだ湯気が立っている過去10年間ですが、敢えてこの時代にキーワードを付けるなら、それは「ピークアウト」の時代だったと言えるかも知れません。

人が生きていくためには、他の生き物とは違って、地下資源を掘り出して、食糧や家や生活物資を作るための材料やエネルギーを得る必要があります。とりわけ、化石エネルギーに関しては、それらへの依存度がますます高まっています。しかし、少なくとも石油に関しては2004年ごろに埋蔵量の半分を消費しまったため、今後は産出量が減少に向かうとの説が有力になっています。つまりオイルピークはすでに通過してしまったという見方です。経済活動のレベルがエネルギーの消費量にほぼ比例すると仮定した場合、地球総生産という指標を持ち込むならば、経済規模も2000年代にピークを打った可能性もあります。しかし、経済活動に関しては、なにしろ未来から借りてくる事が出来る点が、現物が必要な化石資源とは決定的に異なる点かも知れません。この国の600兆円以上にも及ぶ借金は、国債や地方債やその他の債券の形で、現世代が未来世代から借り入れていると考えなければなりません。

一方、C国やIンドが、今後どの程度経済規模を拡大できるか分かりませんが、ピークを打った(と言われる)資源・エネルギー的に見るならば、彼らの拡大は、すでに経済が拡大し切った国々の縮小の上に立ってこそ可能なのかも知れません。C国に関しては、万博後にはある程度の(あるいはひどい)息切れが始まるでしょう。その意味で年の初めに当たって、来るべき2010年代は、結局「着地点を探す時代」になるのではないかと、ボンヤリ考えています。その着地点では、資源や地球環境が許すレベル、百年後の子孫も安寧(あるいはどうにか)暮らせる、資源・エネルギーの消費レベルでしか使えないはずなのです。もし燃料切れで墜落しそうな飛行機が今の社会を象徴するなら、要らないモノを機外へ放り出しながら、燃料を節約しつつフラフラと低空飛行を続けるしかないとも思うのです。

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2009年12月30日 (水)

1074 年末に思う

今年もすっかり押し詰まりました。今年できた事、できなかった事をあれこれ思い出して、それらを書きだしてみました。

できた事

l  企業の省エネ指導と環境経営のコンサル20社くらい

l  エコアクション21の事業所審査10社くらい

l  学校や市民への出前講座10か所くらい

l  北アルプス登山の一応の締めくくりとしての剱・立山への登山

l  つぶれない程度の環境カウンセラー事務所の維持

l  環境カウンセラー協議会(NPO)の運営

l  1000題で一旦中断したブログの再開

l  汎用的な企業の省エネ手法の確立、

できなかった事

l  中型バイクからカブへの乗り換え

l  書きためた雑文のまとめ

l  十分な量の読書

l  十分な距離のジョギング

l  海外での省エネ支援

l  南アルプス南部への山行

l  四国歩き遍路への準備

l  貯金

l  県内でのペレット燃料製造拠点作りへの寄与

l  自転車の購入

l  ノートパソコンの更新

できた事はなんとささやかで、できなかった事はなんと多いのでしょう。来年は、当然のことながら今年できなかった事へ再挑戦する事になりますが、貧乏にはますます磨きをかけていますので、お金が掛かる事はやはり実現できないだろうとも予想しています。力を入れないでボチボチ進めていく事にします。

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2009年12月28日 (月)

1073 寒波

今月の中旬は久しぶりの強い冬将軍の到来がありました。寒波も「波」なので、当然の事ながら強弱が生まれます。北半球の場合、冬将軍の「砦」は北極海の上空に溜まった冷たく重い空気(北極気団)ですが、その溜まった空気は、そもそもは温帯地方の低気圧などで上昇した空気が、高い高度を通って北へ流れて行ったものです。一方地表では、そのお返しとして北極気団から温帯地方に向けて冷たい空気が絶えず流れるはずですが、コリオリの力で自転と同じ方向に捻じ曲げられた強い風(ジェット気流)が冷たい空気の吹き出しをブロックしてしまいます。

しかし、北極に冷たい空気が溜まり過ぎると、さすがに耐えきれなくなってジェット気流が膨れて蛇行し、一部が破れて冷たい空気を放出することになります。今回の場合、アメリカ東部とヨーローッパと東アジアで蛇行が大きくなって、強い寒波となりました。北極気団の「呼吸」は概ね3か月サイクルなので、年末に寒波が来る年には、早春にもう一度大雪が降る事になるかも知れません。

投稿者はしかし、寒波が来ると嬉しくなります。何がそんなに嬉しいかと言えば、それは山にドカッと雪が積もるからです。山雪は、天然のダムでもありますから、来年の春先から夏場にかけて、麓の里をたっぷりと潤してくれることになります。山にしっかり広葉樹を増やして、温暖化にブレーキを掛け、山雪をしっかり守れば、コンクリートダムなどは無用の長物だと言えるでしょう。ダムなど全く無かった時代、ご先祖様は遠くなるような時間を費やして、この国の面積の2/3を占める山地の約半分ほどに手を入れて、水持ちの良い広葉樹の森を育ててきたのでした。

世界各地では年々歳々樹木が木材として使うために伐採され、あるいは農地を広げるために焼き払われ、一方日本の山の樹木はその二酸化炭素吸収能力を失った結果、温暖化がますます進む中で、氷河や山雪が縮小する事は、結局は今でも不足気味の水不足を加速することにもつながります。温暖化問題の前に来るのは、間違いなく水不足問題なのです。この問題は、この10年以内にも、破局的に浮上する事になるでしょう。何故なら、それは食糧不足・飢餓という悪い仲間を引き連れてやってくるからです。寒波からの連想ゲームでした。

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2009年12月26日 (土)

1072 不連続性

環境問題をトコトン「還元」すると、不連続性の問題になりそうです。不連続性とは、例えば地表に勝手に線を引き「国境」とする事、あるいは都会と田舎の間に大きなギャップを作ってしまうことなどが挙げられます。さらに言えば、生産や生活の場と、ゴミ捨て場の分離があります。ゴミ捨て場が、社会との分離が一応出来上がっている「固形ごみシステム」は今のところどうにか機能してはいますが、事実上分離ができない気体ゴミ(たとえば二酸化炭素)は、自分たちが呼吸する大気中に捨てざるを得ません。その量が、間もなくある許容限度(=しきい値)を超えようとしていると考えなければなりません。しかし残念ながら、「たえず流動している」大気には国境が引けませんから、同じ大気を呼吸する先進国と途上国では、大気中にGHGを排出する事の是非に関しては180度の対立が生じてしまう事にもなります。

さてその昔、たぶん戦前まで立ち戻らなければなりませんが、ゴミ捨て場は生活圏の中にありました。し尿は、人間のものも家畜のものも下肥や堆肥としてリサイクルされていましたし、プラスチックなどほとんど使われていなかった工業製品は、ガラスや金属類を取り外せば、残りは木でしたから立派な燃料になりました。燃焼灰は、カリ分を含む肥料として畑に戻せば良かった訳です。

環境問題は、自然環境と人間社会の分断から始まったと考えるのは、その軽減に重要な視点提供すると断言できます。つまり、環境問題の解決には、私たち人間と環境との間に築かれた壁や溝を無くし、「ヒトも環境の子である」との謙虚な態度に立ち戻らなければならないと思っています。その第一歩は比較的簡単です。できるだけ身軽になって、深い自然の中で佇んでみる事で十分でしょう。その時に感ずる心細さこそが、自然環境を体感することの入り口なのです。冷暖房の効いた部屋で、電化製品に囲まれ、すぐ近くに出かけるのにも車を使う今の便利な生活を送りながら、ささやかな省エネを行う程度では、私たちの子孫の未来は真っ暗だと言わなければならないでしょう。

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2009年12月24日 (木)

1071 対策か予防か

西洋医学での治療を考えても、日本の公害発生(克服)の歴史を振り返っても、共通しているのは症状(被害)が出てからの「対策」である点です。つまり明らかな症状や検査データの異常が出ない事には、ふつうの医師は病気の診断すらできないでしょうし、公害問題が地域住民の健康に重大な被害を引き起こさなかったならば、種々の公害「対策法」も作られなかったと思われます。その意味で、必要に迫られなければ行動を起こせないのは、人間の悲しむべき特性でもあります。主要な環境問題の一つである温暖化についても事情はまったく同様です。この問題では、温暖化現象そのものが非常に緩慢な変化しか示さない結果、日々痛みを伴って実感できないところが、根を深くしている原因でもあります。

例えば温暖化と肥満症候群は、酷似した現象だと言ってもよいでしょう。気がつかないうちに進行し、気がついた時にはいくつもの合併症を伴って、破局的な結果に終わる(だろう)点などが挙げられます。健康な体の内部にひそかに蓄積する(内臓)脂肪や、血液の異常、血圧や代謝の異常は、われわれの意識しないうちに増え続けてきた大気中の二酸化炭素やその他のGHG、各種の環境汚染や、見えない場所での秘かな生物種の絶滅などと驚くほど似ているのです。

このブログであったか、別の状況であったか忘れましたが、投稿者は「病院」のあり方に大きな疑問を持っていると書いた覚えがあります。病院は、基本的には病気にならなければ行ってはいけない場所でもあります。健康診断や人間ドックでも病院に行く事はありますが、その場合であっても検査値異常に対する「対処法」しか教えてくれません。そうではなくて、より健康になる方法や病気になりにくい体質を作る方法を伝授してくれる「健(康)院」が欲しい訳です。同じように、問題が起こってから公害対策法や温暖化防止法などの「対策法」を作るのではなく、国には環境の健康を回復するための「環境健康法」を制定して貰いたいのです。その法律の中では、国民や企業や行政の責務として、環境の健康維持や回復に資する暮らし方や経営方法を規定することになります。そのためになるのなら、投稿者は喜んでボランティアとして、全国や全世界を走り回って汗をかくでしょう。必要な行動は健康なうちに取る予防なのであって、決して重大な症状が出てからの対策ではないのです。

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2009年12月22日 (火)

1070 技術か知恵か

省エネ「技術」や環境「技術」という言葉があります。しかし、これらの言葉はほとんど自己矛盾を含んでいるというしかありません。何故なら、技術には必ずハードウェアが伴いますので、それを形にし、使う際には必ず資源もエネルギーもお金も必要とするからです。しかし、知恵にはそれらがほとんど必要ありません。このブログでも繰り返し書き綴っているのは、この知恵の部分なのです。省エネ技術とは呼ばずに、省エネの知恵と呼ばないと「ハードウェアの呪縛」からは逃れられません。産業革命以降、私たちは「技術」を使って、数限りないハードウェアを世に送り出してきたわけです。それは蒸気機関であり、内燃機関=車であり、電動モーターであり種々の油圧機械であり、列車や航空機などの高速大量輸送手段であったわけです。それらのハードウェアは例外なく、地下から掘り出した金属を使って多量のエネルギーを消費しながら作られますし、同じく大量の化石エネルギーを使って動かされます。

一例として、環境にやさしいと言われ、省エネ「技術」として注目されている太陽光発電装置を見てみましょう。発電セルには、単結晶や多結晶やアモルファスのシリコンが使われています。しかし、それらのシリコンは河原に転がっている石ころからは取り出せません。純度の高い鉱石から多量の電力を使って取り出され、精錬され、限りなく100%に近いところまで純度が高められます。その製造エネルギーは、その発電セル自身が生み出すエネルギーの3年分程に相当する量に上るのです。つまり新たに設置された太陽光パネルは、最初の3年間は自分の製造エネルギーの「借金」を返すためだけに発電し続けるのです。

技術はハードウェアで、知恵はソフトウェアだと言い換える事ができます。別の視点から見れば、技術は自然現象の「稚拙な模倣」に過ぎません。その稚拙な模倣のために、稚拙な仕掛け(Gadget)を作るために技術が使われている訳です。元技術屋として恥じ入るのは、やっと環境に本格的に向き始めた多くの国々の指導者が、未だに「環境技術」を振りかざしていることで、多くの技術屋もそれを鵜呑みにしてきたことです。環境保全のための知恵は、しかし技術は使いません。稚拙な自然の模倣ではなく、先ずは自然に学ぶ必要があるのです。その上で、自然の恵みをいただきながら暮らす知恵を磨く必要があります。そんな知恵は、しかしこの国にはそここそにゴロゴロ転がっていたはずです。今でも田舎の年配者には引き継がれているのです。今の世代は、手遅れにならないうちに、それらの知恵をできる限り多く受け継がなければならないと、ココロばかりが焦る日々です。

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2009年12月20日 (日)

1069 ポスト車社会

深く考えるまでもなく、化石エネルギーがひっ迫する時代においては、車や飛行機などという速くて便利な移動手段を、個人が自由に使う事は出来なくなるはずです。とは言うものの、地球規模で直面しつつある温暖化現象という、決して過激ではなく真綿でジワジワ締め付けられる様な現象に対しては、人々はまったく鈍感です。その鈍感さは、国家予算で赤字を垂れ流し、将来世代へツケを回す事にココロの痛みを感じない、いまの人々の鈍感さと同じ質だと言えるでしょう。残念ながら、短い距離でも車を使い雨に濡れないで移動しようとする私たちの行動が、温暖化で土砂降り雨が増えると思われる未来に、車に乗れなくなった子孫たちが、傘をさしてトボトボと歩かなければならない事態に陥ることは、多くの人は想像すらできないのです。

このブログで書きたい事は、そんな遠い将来世代が口にするかもしれないご先祖様(今の世代の事です)への愚痴の想像ではなく、今の世代の反省の言葉と、描くべき近未来の行動指針なのです。20世紀を通じて、私たちの先輩や私たち昭和世代は、より豊かな社会を目指して必死に働いてきたのでした。しかし、その過程で、エネルギー獲得戦争でもあった前の大戦をひき起こし、酷い公害問題を経験し、数回のエネルギーショックも通過してきたのでした。背景としてこの国の邁進を蔭から支えたのは、どう考えても大量・高速輸送システムだったことに思い至ります。大型タンカー、高速コンテナ船、高速道路網の整備とトラック輸送システム、新幹線や航空機に代表される高速旅客輸送などです。人々の移動手段も、列車、バス、自転車や徒歩から、老いも若きも車移動にシフトしました。その結果、この国はなんとエネルギーの1/4をモノや人々を移動させるためだけに消費する事態に至ったのでした。

ポスト車社会が、HV車やEV車時代ではあり得ないと思うのです。軟着陸するためには、まずはバブル期以前の「昭和」に立ち返るという選択肢を考えるべきでしょう。自家用車は、田舎でも一家に1台で十分です。追加の移動手段はバイクや自転車に切り替えましょう。輸送手段も、トラック便ではなく、鉄道輸送の割合を可能な限り多くする必要があります。翌日配達はできないかも知れませんが、鉄道便でも3日目には十分配達可能でしょう。ポスト車社会は、まずは輸送や移動に関して少しだけ不便を我慢する時代に戻る必要があります。その後は、なるべくモノを運ばない、また公共交通機関や徒歩や自転車以外ではなるべく移動しないような時代にしなければならないのです。

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2009年12月17日 (木)

1068 HVは要らない

本格的な電気自動車(EV)時代に入る前はハイブリッド車(HV)時代だ、とばかり、複数の車メーカーからHV新型車が投入されています。しかし、これほど中途半端な製品もないと言っておきましょう。HV車は、加速をモーターで、巡航とバッテリー充電をガソリンエンジンに役割分担をさせたために、システムとして非常に複雑になってしまいました。確かに、市街地では車の発進・加速するためにエネルギーの4割程度を消費してしまいますので、それをモーターでアシストして燃費を向上させようとするアイデアもあるでしょう。しかし、発進と加速時の燃料をセーブする目的であれば、エンジン回転数を抑制する簡単な装置(スピードガバナーと呼ばれます)を追加するだけで済むはずです。それでなくとも、現在の車にはコンピュータが搭載され、エンジンコントロールを行っているのですから、加速時に回転数を燃費が良いレンジに保つなどは朝飯前の芸当でしょう。

もちろん高速道路などでは、加速が悪いと、困ったり危なかったりする事もあるでしょうから、省エネモードと通常モードの「セレクタースイッチ」を設けて、市街地では省エネモードにしておくわけです。これに、アイドリングストップ機能を加えるだけで、十分HB車並みの燃費は実現できるはずなのです。HB車は、従来の車に追加のシステム(バッテリーやモーター)を乗せたため車重が増加しています。これに比べ、上で述べた簡単な電子回路の追加だけで済ます単純な省エネカーの方が、資源効率的にも優れている事は明白です。

車産業が、このコンセプトをすっ飛ばしていきなりHVEVに飛びついている理由は明白です。複雑で、さも「新しい技術を駆使している様に見える」新車を開発して、消費者の目を向けさせる事によって、細った売上を伸ばそうとするマーケティング戦略の一点で説明できるでしょう。つまりHV車やEV車は、「省エネカーブーム」を演出するための、「ショーウインドウ製品」だと言ってもよいでしょう。ところでM社がひっそりとアイドリングストップ機能付きの乗用車を発売しましたが、ガソリン車でも大幅な省エネに向けて工夫する余地は、まだまだ大きいと言えます。

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2009年12月15日 (火)

1067 利便か安定か

ABか」シリーズです。利便を享受するためには、何らかの形で作り上げられたシステムに「加入」する必要があります。携帯電話では、通信各社のシステムを使う権利を買わなければなりませんし、電化製品を使うためには一般的には電力会社と契約し電気を買わなければなりません。しかし、システムには必然的にリスクが内在しています。災害時の電話回線のパンク、サーバーのダウン、ソフトウェアのバグなどがあります。一方、電力回線では自然災害による停電や電力ピークの避難回避の電力カットなどにより、電化製品が使えなくなります。停電は、浄水場や下水処理施設も止めますので、断水も同時に起こるでしょう。比較的最近の名古屋近郊で起きた水害時は、同時に起こった停電のため、暗渠につながっている排水ポンプが動かず、多くの家々が水没してしまいました。大規模な停電は、交通にも打撃を与えます。電車がとまり、信号が消え、ECTゲートも開きません。

私たちは、便利さを追求するあまり、システムを肥大化・複雑化させ過ぎたような気がします。今や、そのシステムを動かすソフトウェアですら全容を知っている人は少ないはずです。主たる開発者が定年で退職すれば、後継者にはメンテナンスができるだけの知識しか残らないからです。開発後に継ぎ接ぎされた、追加システムやパッチは複雑元のソフトウェアに挟み込まれ、今はどうにか機能しているだけかも知れません。

安定的なシステムのキーワードは「ロバスト性」だと言えるでしょう。これは日本語になりにくい言葉ですが、敢えて言いかえれば「野太さ=頑丈さ」という言葉になるでしょうか。シンプルなシステム程このロバスト性は高く、安定していると言えるでしょう。またシンプルなシステムほど故障しにくく、故障した場合でも修復は簡単です。トラブルの原因特定が簡単だからです。かつての車は、故障した場合でもボンネットを開ければ、素人でもある程度の故障診断ができました。ラジエータの漏れによるオーバーヒートなのか、バッテリー液が少なくて上がってしまったのか、あるいはダイナモのベルトが切れて発電しなくなったのか、注意深く観察すれば故障個所を見つけられたものでした。しかし、センサーとマイコンと電動機器の塊となってしまった現代の車は、専門家が専用の診断器(アナライザー)を使わない限り原因特定はできません。特に車にも多用されているマイコンのソフトウェアに関して言えば、条件判定が複雑に入れ子状態になっているため、故障の原因を特定するのは至難の業といえるでしょう。便利になり過ぎた、現代の車や社会システムの脆弱さ=不安定性を心配しているのは、ひとり投稿者ばかりではないでしょう。

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2009年12月13日 (日)

1066 国際競争力

「新」首相の打ち出したCO2削減目標の実現のため、国を挙げて努力をする場合、産業界の国際競争力が弱まるとの懸念が消えません。しかし、これは明らかに考え違いだと言わなくてはなりません。狙うべき目標は、エネルギーを25%以上削減しながら、同じ品質の製品を、同じコスト(エネルギーコストを除いたコスト)で製造できるプロセスを作り上げることなのです。そんな事が可能なのかと疑う人は、知恵が無いと言うしかありません。かつて、オイルショックで石油価格が倍になったとき、この国の先輩たちは、実に多くの省エネの知恵を絞ったではありませんか。その間、輸出は国際競争に打ち勝って増加し続けたのです。その後の油のダブつきで、この国の製造業や流通業やサービス業のあり様は、省エネ体質からはドンドン乖離してきたのでした。逆オイルショックの時代に増やしてきた、モノや設備やシステムを徐々に整理していくだけでも、2割や3割の省エネは達成可能だと思うのです。

抽象的な言葉をいくら並べてもイメージは湧かないでしょうから、例によって車を引き合いに出してみます。今街を走っている車と、同程度の排気量を持っていた二昔の車を並べてみれば、その違いは明白です。外観で分からなければ大きな秤に乗せましょう。たぶん、車重が2-3割は重くなっているはずです。ドア内部のサイドインパクトバーやエアバッグなどの安全装置ばかりでなく、強力なエアコンを搭載し、パワステとなり殆どの可動部は電動式になっているでしょうし、キャビンは分厚い保温材や防音材で取り囲まれ、太いタイヤを履いてもいます。部品点数にしても、かつての何割増しかにはなっているでしょう。部品点数を多くし、車の重量を増していく中で、製造に関わるエネルギーもそれに比例して増えて行ったはずです。

考えるべきは、製品やプロセスの簡素化、軽量化というポイントになるでしょう。製品の目方や部品点数を3割削減すれば、比例して製造エネルギーも必ず下がります。現在の車から不要なモノや機能を取り外すのでなく、まず車の基本機能(雨に当たらないで移動できる手段)のベースカーに、本当に必要な機能を慎重に付け加えましょう。そういえば、その昔ラジオすらついてない「スタンダード」というグレードの車がありました。そのうちに「スーパーデラックス」や「ラグジュアリー」が普通になり、今やそんなグレードさえも設定されていません。私たちは、いったいどこで道を踏み外して、変な金持ち意識を持ってしまったのでしょうか。

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2009年12月11日 (金)

1065 信用不安

これも数回書いているテーマの様な気がします。B国発の、SPLと呼ばれる不良債権騒ぎも小康状態となったところに、今度は中東発の貸し倒れ騒ぎです。日本を含めた世界の経済システムは、底知れない信用不安に陥っているように見えます。それも「むべなるかな」でしょう。何故なら、現在の経済システムの大部分は「信用取引」の上に構築されているからで、その規模が拡大するにつれて、実態経済の何倍(何十倍かも?)の債権の存在無しには、一日として立ち行かない状況になっているからだと言えます。つまり、私たちはしっかりと綿の入っている座布団の上に座っているのではなく、薄いビニールでできていて空気(形のない信用)で目一杯膨らませた「空気マット」の上に不安定に座らされていると考えるべきです。誰かが相場を揺さぶって、座布団からのおこぼれで儲けようと企むか、B国ショックや最近Dバイショックのように、耐えきれなくなった銀行や証券会社やファンドが音を上げ始めるか、何らかのきっかけでマットに穴が開き、そのたびに経済システムは急落下する羽目に陥ります。

空気マットの穴は、今のところなんとか各国の政府が「税金を注ぎ込んで」塞いでいますが、この国の様に、その資金の出処が既に半分が将来世代からの借金になっている危うさは、目を覆いたくなるほどです。これは、将来の自分を信頼する事や将来世代を頼りにする範囲をとっくに超えていて、単に借金を先送りしている状況以外の何物でもないでしょう。このような状況では、信用も何もあったものではなく、疑心暗鬼、不安、猜疑心、諦観などおよそ信用とは対極の気分に支配されていると言えます。従って、ホンの些細な噂がひどいパニックを誘う結果になります。これは、直接経験した事はありませんが戦争前夜か強大なハリケーン来襲直前の気分と類似しているのではないかと想像しています。

その不安を解消する方法はたった一つしかありません。ひたすら脹らまし続けたビニール袋を、その上に座っている私たちの意思で、徐々に空気抜きをしていくしかないのです。消費者は贅沢を控え、必要不可欠な物資やエネルギーを使う行動が必要でしょうし、一方で企業は実際に消費者が絶対に必要としている堅い需要(実需)に、生産量のベースを合わせなければなりません。

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2009年12月 9日 (水)

1064 暴走

コントロールが利かない状況を暴走と言います。この時代の経済は、ほとんど暴走状態となっているのではないかと危惧しています。一国の経済の浮沈の操縦は、その国の政府の専権事項でしょう。しかしながら、情報が24時間地球を駆け巡るこの時代、一夜明ければ為替が大きく変動し、あるいはかの国の株価や、政治情勢がこの国の株価に連鎖反応し、同じように経済を激しく揺さぶります。為替レートに関して言えば、かつて、大きな変動に対しては政府が介入して、微調整を行っていたはずです。しかし、今や貧乏になったこの国にそんな外貨準備もないでしょうし、どうせそんな事をしても焼け石に水なので、基本的には放置するしかない状態です。

それを良いことに、ディーラーはここぞとばかりに変動幅がさらに大きくなる様に揺さぶりをかけます。コントロールを失った現在の市場では、一体誰が儲けて誰が損をしているのか、実は誰も知らないのかも知れません。あるファンドが瞬間的に大儲けをしたとしても、その情報が地球を一周する間に、大損に変わっている事は茶飯事だと想像しています。それでも、市場の取引額が拡大の一途を辿っているという事実は何を意味するのでしょうか。最早、これは国際市場という仕組みの暴走に、各国や国際企業やファンドやディーラーがほとんどどれい隷属状態になっているとしか言いようがないのだと思われます。これら市場の奴隷たちは、市場自身に鞭打たれ、仕方がなく現れた数字に反応して売り買いのボタンを押すしかないわけです。

暴走は、組織が肥大化した時にも現われます。私達は、巨大化したがために気候変動に耐えられず滅亡した、恐竜やマンモスあるいは廃墟となった古代都市の歴史に学ぶ必要がありそうです。巨大化したシステムは、しかし急に方向を変えるべきではありません。バランスを失って倒れてしまうのが見えているからです。必要なことは、まずはブレーキング(制動)です。たとえ景気が悪化しても「徐々に」しかも出来れば、ほとんどの人が気づかない程度にとは言いながら確実にブレーキを掛けなければなりません。しかる後に、慎重な後ずさりを始めなければならないでしょう。

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2009年12月 7日 (月)

1063 つながり(絆)

久しぶりに本を読んで感動しました。何気なく本屋で手にした、大井玄著の「痴呆老人は何を見ているか」という新書です。終末医療の臨床医である著者は、数多く見届けた痴呆の症状を持った老人の生きざま(=人生の終わり方)から、人間という存在に対する多くの考察を得たようです。本の内容はさておいて、本の中で繰り返し使われた言葉「つながり」に心が動かされました。このブログでは、環境をキーワードに書き続けていますが、私たちを取り囲む環境と人間や人間社会の関係においては、実のところこの「つながり」こそ、最も重視されるべき言葉だと思っているからです。環境問題は、自然(環境)と私たちのつながりが希薄になると同時に、逆に顕著になってきた事は明白です。海や川を、生物の棲家であり恵みを与えてくれる存在として捉えず、単なる工業用水や冷却水として、あるいは廃水の捨て場所として切って捨てた結果、この国でも酷い公害の歴史を積み重ねてきたはずです。

山を放置し、水害をダムや川の直線化だけで解決しようとしてきたことにより、逆に水害が多発し、海岸浸食や海の砂漠化を悪化させてきたことにもっと早く気がつくべきでした(いまだに気づいていない人も多いのですが)。その前段階としては、都市や工場が人口を吸収した結果、山に入り山とのつながりを持つ人がめっきり少なくなった事があったのです。その本質を見抜いて、現政権が「コンクリートから人へ」と言っているならば歓迎しますが、都市での子育てを支援する程度の施策であれば、前の政権とあまり変わらない政党の人気取り策に陥ってしまうことでしょう。

人間もあらゆる生き物も、環境とのつながりを断って生きて行けるはずもありません。というより、順番は全く逆で、ある生物は、一定の環境との「つながり」によってのみどうにか生き延びて行けるだけの遺伝子を、環境から授けてもらったというべきかもしれません。それらの生き物のたった一つの種であるヒトだけが、急激に母なる環境を改変しつつある訳です。それも生存のためではなしに、生存するには必ずしも必要のない過剰な快適さや利便の追求の結果である事は、本当に悲しむべき事です

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2009年12月 5日 (土)

1062 機械から人へ

来るべき社会では、人力を最大限活用した手工芸や人力タクシー、さらには都市内のリヤカーでの配送などの省エネビジネスは、最優遇されなければなりません。新政権のキャッチコピーを真似れば、それは「機械から人へ」の展開となるでしょうか。病気や高齢などの理由で、人力をあまりを出せない人は別ですが、普通の生活を送っている人は、0.2kw程度の出力を持つ原動機としての潜在力があります。車いす生活の人でさえ、腕力でこの半分程度の出力は十分出せるはずです。病気や高齢者でも、限定的ですが少しのパワーは出せるはずなのです。

さて、その各々の潜在力は小さくても、何しろ人類は70億人に迫る勢いで増え続けていますから、総力としての人力パワーは数億kwと見積もることができます。火力発電所や原発1基で発電される約100kwと比べると、その2桁以上大きなパワー源となり得る事が分かります。再生可能エネルギー(太陽光発電など)で発生したパワーを高く買い取ってくれるのであれば、全くクリーンな人力は、その何倍もの価格で買い取ってくれても良さそうです。少なくとも、企業でも自動車通勤の甘え人間と、がんばって自転車通勤している人の通勤手当が逆転している事などは、今すぐにでも改善されなければなりません。つまり、ガソリンをたっぷり使う自動車通勤族にはかなりの自腹を切らせ、一方自転車通勤族には、排気ガスを減らし、自身も健康になって健保の負担も小さくしている訳ですから、しっかりとご褒美を上げなくてはなりません。車でしか通えそうもない人たちには、ぜひ同じ方面同士での乗合通勤を指導しましょう。何らの努力もしていない人びとに税金をばらまくのではなく、体をしっかり使っている人達こそ減税やインセンティブでその行動が奨励されるべきだと思うのです。

コンクリートから人へシフトすると雇用が減って不景気に落ち込みますが、一方機械から人へシフトすることにより、雇用も確実に、しかも大幅に増加する事に、この国の指導者も気づいてもらわなくてはならないと思うのです。変な例ですが、沖縄の建設工事予定地で行われてきた遺骨収集なども、まさに人力でしか行えない作業の好例です。

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2009年12月 3日 (木)

1061 エコ贔屓

贔屓という言葉につられたわけではありませんが、標題と似たような言葉で、省エネ製品やリサイクル品の拡販を狙っている制度もいくつかありそうですが、ここでの意味は、消費しないで「節約した人への褒美」を意味しています。省エネカーや省エネ家電を買う人を優遇するのではなく、車を止めてバイクや自転車に乗り換えた人、テレビを捨ててラジオ族となった人などを何らかの形で優遇する制度を想定しています。第三者がそれを証明しないと、「偽装」が横行しますので、例えば自動車の廃車証と自転車の新規登録証のセットで、減税や助成金を申請することになります。窓口は全国の郵便局が適当でしょう。どうせ、国の借金のかなりの部分を埋め合わせているのは、郵便貯金でしょうから、直接ここで清算してもらっても結果は似たような事になるはずです。

それでは、世の中の経済活動レベルが低下し不景気になるではないか、との突っ込みが来そうですが、コストを掛けないで25%の省エネ目標を達成するためには、結局経済規模を25%縮小するしかないのです。25%の省エネは実は当面の目標で、先進国での省エネレベルは今の1/4以下にしなければ、温暖化にブレーキは掛からないとも言われているのですから、経済規模はいずれにしても大幅に縮小せざるを得ないのです。

そもそも「景気」とは、経済活動や消費行動にかかわる社会構成員の「直近の気分」を指しますから、「病気」ともそんなにかけ離れてはいないのです。つまり、景気も病気も「気」に支配されるという意味においてです。たとえお金がなくても、気の持ちようでココロ豊かにニコニコしながら暮らす事は可能です。戦後はモノや食糧が不足しての慢性腹ぺこ状態でしたが、家族団結してのやりくり生活は結構幸せでした。今は少なくともモノ不足はないはずです。不景気だと感じさせているのは、「もっとあれば良いな」との欲張った期待値よりかなり少ない収入しかない経営者や消費者の心の持ち方だとも言えるのです。

少し方向がずれましたが、政を取り仕切る側とすれば、必要でかつ十分な最低限の生活を営むのが最もコストが安くなるような、社会の仕組みに誘導するために、エコ贔屓をうまく使っていく必要があると思うのです。具体的には、現在の大規模工場や単一栽培の農業形態などの「点での大量生産」「大量輸送」「大量消費」「大量廃棄」に代わって、必要な量の物資を地方行政単位以下の「小さな面での生産」を行い、同じ地域の「小さな面内での消費」が強く奨励されるべきでしょう。何の事はなく、これは地方都市での朝市や常設のマーケットや直売所などの復活を意味している事に気がつきます。

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2009年12月 1日 (火)

1060 田舎贔屓

地方は現金収入のレベルが低いはずなので、同じ所得額に対して、都市労働者と同じ率での課税は、全く納得できない税制だと言えます。事実、パートの時給額も都市と地方では大きく差が開いています。地方は物価が安くて、都市は高いという思い込みもありそうですが、事実はそうではなく、地方の方が物価レベルは高いものが多いのです。何故なら、物流コスト一つを取り上げても、都市には大量の物資が能率よく運ばれ、捌かれる「物量ルート」が出来上がっていますが、逆に地方への物流は能率も悪くコスト高になるからです。点(大生産地)から点(大消費地)への輸送は効率的ですが、面で集めた物資を、別の面に配送するのは、ざっと考えても非効率な作業だと分かるでしょう。

一方、確かに税収の流れは、地方交付税という形で地方へ入ってはいますが、その多くは地方のインフラ整備(つまりはコンクリート)を拡大するためや、国の出先機関を通過させて似たような事に使われているはずです。田舎に入れる税金の多くは、田舎で田畑や森林の維持に従事する人たちを、「環境維持業」と位置づけ、手厚くサポートする事業にこそ使われるべきなのです。生産や物流から見て明らかに非効率である田舎の暮らしを支えるには、何らかの形で「田舎贔屓」を考えてやらなければならないと思うのです。お金の面で言えば「田舎減税」でしょうし、里山維持への助成であり、間伐・植林の隆盛事業でなければなりません。田舎は、田舎という「半自然の環境」を守り、水資源や食糧の面で都会をサポートしている訳ですから、優遇するのはむしろ当然の政策というしかありません。

単に現金収入に掛かる税金を軽減するだけでは十分ではありません。むしろ田舎では、お金に換算できない例えば物々交換なども日常行われているからです。すべて一度はお金に換算して計算しなければ夜も日も明けない現在の税制では、物々交換という行為は把握もできませんし、課税や税制優遇の網にも掛かりません。しかし、それを奨励する何らかの仕組みが無いことには、やはりお金が目に見えるシステムに乗せるしかありません。そうではなくて、畑の横での無人販売や、朝市での売買など素人商売を奨励するような仕組みの拡大こそが必要なのです。加工食品の製造や流通にはJASなどの安全基準が必要ですが、そうではない物流は基本的には個人レベルの自己責任での売買で何の問題もないのです。

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2009年11月29日 (日)

1059 田舎留学

コンクリートから人へのシフトは新政権のカンバンの一つです。しかし、その実現への具体策は殆ど見えていません。投稿者としては、このカンバンには、副題としてはっきりと「田舎への回帰」という言葉を使うべきだと思っています。コンクリートは言わずもがなですが、人工の構造物やインフラの代名詞です。ビルやダムや橋や高速道路、新幹線の高架や港湾などが思い浮かびます。見えないところでも、暗渠や下水施設や地下鉄にもコンクリートが大量に使われている事でしょう。それらが何故必要とされたかを考えて見れば自明ですが、高度成長期の人口の都市集中こそがそれらの建設の原動力となっていたはずです。大量に流入した人口を支えるために、必要に迫られてこれらのインフラが整備され続けてきたと言えるのです。

さて、そのコンクリートを止めて、人に向き直るという事は、最早これらのインフラを増やさないとの宣言でもあります。その象徴として、都市での水需要への対応(それを水害対策と言い直すかどうかは別にして)を掲げたダム建設の中止や高速道路の車線を増やす予算などが削られています。その方向はそれなりに正しいとして、人へのシフトとして大切な税金を、子育て支援と称して現金支給の形でばらまく事はどうしても腹に入りません。

そうではなくて、「子供を都会で育てる」事に、すっかりやせ細った税金を使うのではなく、例えば、都会の子供に1年間の山村や農村や漁村への留学を義務つけるなどの制度を作ってみれば良いのです。最初は希望者だけの募集でも良いでしょう。多感な中学生位の子供たちが、田舎に残った年配の人たちやお年寄とふれあい、農作業体験や山海の恵みに感謝する生活を体験する事は、何にも代えがたい体験となるはずです。多分コンクリートに囲まれて、人に向き合うしかない都会の暮らしが、いじめや訳の分からない殺人事件の背景にありそうな気がしますが、田舎で自然に囲まれてそれら向き合えば、毎日が物珍しくて、嬉しくて、忙しくていじめどころではなくなると想像しています。里親を務める田舎の人たちには生きがいと、少しの現金収入が入るでしょうし、留学に出した家族と田舎の里親とのその後の長い付き合いも期待できます。何より、子供たちが里山や田畑や海の環境保全の重要性を、身をもって体験する事は、都会では何十時間使っても絶対に学習できない事柄なのです。田舎暮らしがすっかり気に入った子供が、両親を説得して田舎暮らしを始めるケースも増える事でしょう。田畑や山の維持作業には、いくらでも人手が必要なはずなのです。

新しい政権には、人に対するお金の使い方をもっともっと勉強し、議論してもらいたいものです。

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2009年11月27日 (金)

1058 持続可能性

何度でも書きますが、今後の社会としての価値判断基準は、まず「持続可能性」でなければならないでしょう。しかも、想定しなければならない持続可能期間とは、今の世代だけではなく少なくとも今後の数世代に亘るものである必要があります。持続可能ではない、どのような価値観も「悪である」というしかないのです。とは言いながら、いかなる自然現象も後戻りのできない変化からは逃れられません。険しい高山も風化して、やがてはなだらかな台地になっていきます。それは、エントロピー(無秩序状態)は一方的に増大するしかない、という熱力学の法則に逆らえないからです。従って、自然に増えるエントロピーに加え、人為的増大があります。秩序の代表としての工業製品やエネルギーを消費し続ける限りにおいては、その増大速度は加速的に大きくならざるを得ないのです。

さて、今の世代にとって理想的な判断基準で、理想的な政策が取られたと仮定しましょう。しかし、その政策は長い目で見ると、将来世代に「ツケを回す」ものだった場合、政府は「悪政」を行っている事になります。今政権の打ち出しているいくつかの主な政策は、この持続可能性に照らしてどうなのでしょうか。チェックは比較的簡単です。その政策が10年続いたと想像してみて、相変わらずその政策を続行する事が可能であると多くの人々が納得できるなら、それは「比較的持続可能な政策」だと言えるでしょう。しかし、それが100年先も持続できなければ、やはり悪い政策に位置づけなければならないのです。

政治主導や石油暫定税率廃止や高速道路の無料化や子育て支援などは果たして、このチェックに耐えられるでしょうか。やはり、この政権にも長期的視点が欠けているとしか見えないのは投稿者だけではなさそうです。それも、いたしかたないと言えるでしょう。何しろ、多くの政治家は、自分の当面の任期である数年間の活動とその後の改選時の支持率程度しか頭に無いでしょうから、「国家百年の計」など考えたり、論じたりする時間とて持っていないわけです。仕方がないので、以下にいくつかの新政権への提案を挙げてみる事にします。

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2009年11月25日 (水)

1057 あったかマウス

暖房設備の無い投稿者の事務所では、これからは、ひたすら厚着をして寒さに耐える季節に入ります。冷え込んだ日の朝には、室温も数℃まで下がります。尻や足の冷えには、小さな電気座布団で対策をしていますが、手袋をしてキーボードを打つわけにもいかず、仕方なく手はアルミボトルに入れたお湯で温めていました。しかし、保温袋に入れておいても2時間もすれば冷たくなるので、暖め直しが面倒です。そこで、触っている時間が長いマウス自体が暖かければ良い事に気が付きました。さんざん探しましたが、さすがにそんなニーズは無いのか、どこの電気店やパソコンショップにもそんなマウスは売っていませんでした。

仕方がないので、自作してみることにしました。最初は古いマウスの中に豆電球を入れてみましたが、電球の熱でプラスチックが溶けてしまって大失敗でした。そこで、5300円のLED電球を買ってきて、パソコンの電圧(約5V)で直接点灯させてみると、まずいことに温度が上がり過ぎました。しかたがなく直列に入れる抵抗の値を加減しながら適当な温度になるように工夫してみました。マウスの中の空いたスペースに、ほのかに暖かいLED電球を5個組み込んだ特製マウスは、今のところは快調に手を温めてくれています。来年の夏には小さな「ペルチェ素子」でも入れて、今度はひんやりマウスも作ってみる事にしましょう。でもマウスを2個も買って使うのもあまり楽しくはないので、どなたかスイッチの切り替えで夏冬使える「あったか・ひんやりマウス」を、是非製品化してください。必ず1個は買いますので・・・。

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2009年11月23日 (月)

1056 大きい事は・・・再び

思い返せば1970年代のキーワードの一つは「大きい事は良い事だ」でした。チョコレートのCMから出たこのフレーズは、高度成長期のキーワードともなったわけです。この時代すべてが大型化しました。ジャンボジェット機、レール幅の広い新幹線、大型タンカー、大型乗用車、果ては家庭の冷蔵庫に至るまで急激にすべてが大きくなりました。モノのサイズばかりでなく、人々がこぞって都会に出た結果、郊外団地や大学や行政やあらゆる都市構造そのものが膨張したのでした。しかし、この傾向には1980年代末頃に一旦ブレーキが掛ったものだと何となく投稿者は感じていました。

ところで、昨今の信用収縮の一方で、昨今企業合併による企業サイズの拡大傾向は加速されているようです。大規模小売業界、食品・ビール業界は言うに及ばず、金融・保険業界、各種の製造業、交通運輸業界に至るまで、流れが止まりません。投稿者には金という魔物が、グローバル経済という舞台上で、さながらブラックホールの如く企業群をのみ込んでいるようも見えます。それは、「大きい事は良いことだ・再び」という動きでもあります。それで何が悪いかですが、投稿者には非常に危うく見えてしまいます。

よく引き合いに出す例ですが、品種改良が進んで、味も収量も文句なくすぐれた米や小麦の品種ができたとします。農家はこぞって、この品種を作付し数年は収益も上がって、喜ぶかもしれません。しかし、もしこの品種にある種の病気や害虫に対して決定的な弱点があり、数年後にこの病気と害虫が同時に現れたと仮定すれば、起こる事態は明らかです。農家の収量が減るだけでは済まず、消費者は食糧入手にも事欠くようになるはずです。

その意味で、企業合併にも同様の危うさを感じてしまいます。現在の(前世紀の延長線上の)価値観で成り立っている社会基盤の中で、たった今は巨大な企業サイズが機能するとしても、肥大化し小回りの利かなくなった巨象が、方向転換が効かないで、ばったり倒れてしまう光景を想像しないではいられません。

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2009年11月21日 (土)

1055 ではどうすれば

では、いわゆる公共事業を含む社会の青写真は、今後どのようにあるべきなのでしょうか。必要な作業は、30-50年(計画を立てた人間がどうにかそれを見届けることができる期間)の長期的視点による、あるべき社会のグランドデザインのプロットでしょう。

国を支える産業構造は、交通システムは、エネルギーや食糧確保は、人口ピラミッドは、経済システムは、あるいは人口の産業構成比は、いったいどうあるべきか、叡智をかき集めて描いてみることです。今の政府や官僚の視点はと言えば、せいぜい長くて5年を中期見通しと呼んでいます。それは、5年から先は「どうせ予測ができないので計画しても意味がない」という単純な理由に基づいています。そうではなく、計画する側が青写真を描く訳ですから、たとえ50年先、100年先でもあるべき姿を示す事は可能なはずなのです。そんな先の話が、現在の延長線上にあるはずもありません。あるべき姿なのですから、今の社会が持つ矛盾やトラブルを回避するか、十分に低く抑えこむ事も可能です。目標が定まれば、次に踏み出す一歩(例えば次年度の予算)の方向も正確になります。未来は予測するのではなく、あるべき姿をデザインしてみる必要があるのです。もちろん、そのデザインには私達の欲望を盛り込むのではなく、将来世代にも気を配る、ささやかでかつ必要最小限のニーズしか入れるべきではありません。

いきなり具体案を持ち出しますが、例えば2050年のごく普通の家庭生活を描いたビデオ(最近はDVDですか)を作ってみるのも良い方法かも知れません。家族が朝起きてから、夜寝るまでの何の変哲もない一日の生活を描くのです。ただし、その生活は、例えば使用するエネルギーは今の半分、食糧も自給可能な食材が中心の献立とし、通勤や通学(このような行動自体減るのかも知れませんが)の手段や買い物の様子も、利用可能な資源が賄える範囲内で忠実に再現します。その家庭は、たぶん3世代が同居するものになっているはずですが・・・。

人間の脳の場合、目から入った情報は殆ど100%信ずる「癖」がありますから、この映像は、今の物欲にボケてしまった私達にはかなりショッキングな刺激を与えるはずです。想像するに、この映像は、今の基準からすればかなり「禁欲的」なものに映るはずですが、何度も書くように、それは1970年代にすでに私達が経験してきた生活とそんなに変わるものではないのです。あの時代、モノは輸出に回すのに忙しかったので贅沢品は少ない一方、日用品は不自由なく出回っていたはずです。エネルギーは、二度のオイルショックがありましたので、結構始末して使っていました。家庭の車庫には、ピカピカに磨かれた1000ccか1500ccの乗用車が1台デーンと駐車しましたが、それは休日のドライブ用で、日々の通勤は自転車か電車・バスだったはずです。そんな時代にも似ている未来の生活を、政府が作る「グランドデザイン会議」が監修して、家庭編と社会編などに分けて何本か製作するだけで、ほとんどお金も使わないで、将来の社会の姿を国民に示すことが可能となります。数十秒のバージョンも作り、繰り返しスポットCFを流せば、さらに効果が期待できます。

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2009年11月19日 (木)

1054 借金の世紀

このブログでは、20世紀、とりわけ投稿者の生きてきた後半の文明を振り返り、勝手に反省してきました。さて経済の面からみると、前の世紀の後半は「借金の半世紀」とも言えるかも知れません。つまり、昭和40年代から、この国は「後戻りの無い借金生活」に入ったからです。サラ金ではありませんが、一度借金生活に入ると、そこから抜け出すのは容易ではありません。増してや、その借入額が収入を大きく超えるようになると、利払い額が大きくなり、雪だるま状態まで一気に進みます。歴代の政治家や官僚に、これほどまでに借金を重ねた理由を尋ねても、たった一つのパターンの答えしか出てこないでしょう。つまり、「景気を刺激して歳入を増やし、過去の債務を返済するために、やむを得ず財政を出動させた」という答弁です。

借金大国日本の問題の根は、しかし単純です。それは第一には「単年度予算」制度に他なりません。借金をして財政を投じても、年度末が迫ってきて予算が余っていることがわかったら、「優秀な官僚や賢い行政」は、それを年度末までにキッチリ使い切る事に全精力を傾けます。期末の道路工事などは市民が目にできる「予算消化」の典型でしょう。しかし目に見えないところでは、巨額の基金の積み上げに始まり、不要不急の備品購入などはまだ罪の軽い方で、組織ぐるみの裏金作りや果ては個人的流用(横領)まで、その泥沼や闇の深さは測り知れません。

第二には実績主義があります。前年度実績が次年度予算の基準となるわけです。その裏には、既得権者の群れが蠢いています。B国における。いわゆるロビイストとは少し異なりますが、業界団体と族議員の、献金で結びついた灰色の関係があるはずです。つまり、業界の隆盛や政治家の保身のためであれば、毎年の借金(国債発行)など多少増えても、何らの罪悪感を持つことは無かったでしょう。何故なら、代々(世襲も多い世界です)の政治家がそうしてきたからで、そうすることが当たり前だと考えられていたからです。借金増大策の極めつけはT中氏の例の「列島改造計画」でしょうか。何のカンのと言いながら、彼の打ち出したドデカイ計画の殆どは、実は既に実現されてしまったのです。日本の島々は橋やトンネルでつながり、川という川にはいくつものダムが築かれ、狭い列島は高速道路や新幹線で貫かれ、たまにしか飛行機の飛ばない空港や、あまり活用されていない立派な港湾などが各県ごとに建設されました。

これ以上、この国のインフラとして本当に何が必要なのでしょうか。インフラは一旦建設されるや、すぐにそのメンテナンス作業が発生します。点検や塗装や補修や法面の草刈りや、ダムや港湾の浚渫作業などなどです。既に900兆円にも上ってしまったインフラのメンテナンス費用は、今後年々嵩んでくるはずです。通常の工場やビルなどでは、年々の設備メンテナンスには投資額の数%が必要とされます。控え目に2%の維持費が必要だと仮定しても、毎年18兆円ものメンテナンス費用が発生する(している)勘定です。歳入が40兆円を下回ろうとしていて国家予算の半分が借金となっているこの時代、ダム建設中止など全く当たり前の決断だとさえ言えるでしょう。

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2009年11月17日 (火)

1053 休題(分水嶺)

先月に引き続き富山へ出かけました。交通費を考えて今回も名古屋からの高速バスを利用しました。名古屋に出る電車賃を入れてもかなり割安なうえ、時間的にも名古屋・富山で3時間強しかかからないので、結構速いのです。ところで、行きは金曜日だったせいか、乗客はたった4人でした。どう考えても10人程度は乗っていないと採算は取れないはずだと思ったので、まったく余計なことですが、バス会社の財布をつい心配してしまいました。

さて、東海高速道は、「山波」を貫いて走っていますので、その波をくぐりぬける長短のトンネルの多さ長さとともに、標高の最も高い地点は1000mを超えている事でも知られています(1080mで日本一)。その地点はまさに、北陸と東海の分水嶺ともなっているのです。山の上ではすでに紅葉も終わり、葉を落とした木々と茶褐色の葉をつけたままの木が混在しています。

往きは東海も北陸も天気が悪かったのですが、翌日の帰りの車窓の風景は、この分水嶺を境に完全に分かれてしまいました。つまり雨がショボショボ降っていた富山平野を後にして、分水嶺を越えた途端に雲が切れて明るい日差しが飛び込んできたのでした。富山市から見上げる後立山の標高の高い部分はすでに今年最初の寒波で冠雪していました。立山や北アルプスが寒波と雪雲を遮ってくれるお陰で、投稿者の住む東海地方の冬も好天を享受できるということなのでしょう。呼び捨てなどしないで、「立山さん」と呼ばなくてはならないのかも知れません。

富山市からは、ぼんやりしているものの北アルプスの山並みが、南は薬師岳から北は立山・剱あたりまで見渡せました。考えてみれば、投稿者の北アルプス通いは10年以上前に、南の薬師岳から始まり、今年の立山・剱で一段落はしたのですが、まだまだ低くても良い山が残っているので、今後も通うのを止める訳にも行かないような気がしています。

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2009年11月15日 (日)

1052 エネルギーのベクトル

省エネに関しての一つの視点を提供します。元技術屋のボキャブラリーは結構限定されますので、ここでもその様な言い回しになりますが、ここではエネルギーに「ベクトル」を想定してみようと思います。元より、分子や原子運動のポテンシャルであるエネルギーに明確な方向が見えるはずもありません。そこで、エネルギーが生み出した付加価値をベクトルの方向とみなすことにします。ベクトルの長さは、言わずもがなですがエネルギーの量です。単位を揃えるために、炭酸ガス量に換算します。

さて製造業の場合を例にとって具体例を見ていきましょう。典型的な製造業では、原料を仕入れ、加工を施して、製品に仕上げます。100円の原料を加工して1000円の製品にして出荷したとすれば、この工場ではある量のエネルギーを消費して、900円X出荷数量分の付加価値をつけたことになります。分かりやすく10000個の製品を出荷するために、10000kwhの電力を消費したと仮定すると、原単位で言うと1個当たり900円・1kwhのベクトルを想定できます。

電力1kwhの中身を切り分けてみると、例えば工場や事務所の空調エネルギーであったり、工程から出る埃を吸い取る集塵機であったり、部品を掃除するための圧縮空気を供給するためのコンプレッサーなどの電力も含まれるわけです。しかしながら、これらの電力は、製品に1円の負荷価値も付与していたわけではないのです。もしこれらのエネルギーが半分だったとすれば、0円・0.5kwhのエネルギーベクトルとなるわけです。つまり、これらのエネルギーはこの工場の収益には何らの役割も果たしていないとも言えるのです。

逆に、工場では下向き(マイナス方向)のベクトルを持つ場合も多く見つかります。たとえば、熱や流体の「漏れ」や「垂れ流し」です。漏れは、単なるロスであり、製品に付加価値をつけるどころか、収益を減らす極悪人なのです。結局、投入した総エネルギー量と、製品の付加価値を上げる事に寄与したエネルギーの比が、その工場の環境効率の指標といえるでしょう。これは、車の例で言えば、1リットルのガソリンで車をどの程度進めることができるかの指標、いわゆる燃費に相当しますので、ここではそれを「経営の燃費」と呼ぶ事にします。来るべき社会では、この経営の燃費が企業の優劣を決める重要な評価基準になるはずです。

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2009年11月12日 (木)

1051 ワークシェアリング

航空会社の経営がおかしくなっています。N航ばかりでなくZ日空もお付き合いで続いているようです。日本の航空会社が生き残るためには、早急に何千人もの人員整理が必要なのだとか。しかし、この時代放り出されるこれらの「整理された人たち」の受け皿はどこにもありません。前の政権も新政権も、雇用の創出の必要性は繰り返し口には出しますが、実際の雇用などほとんど増えていないのです。いわく、介護要員が不足している、農林業の新規就労が進んでいない、などなどと言ってはいますが、介護だけでこの国が食っていけるわけでもありません。すでにこの国は、モノを作ってせっせと輸出し、食糧を輸入しなければ生きては行けない体質になっているからです。

さて、首切りをしなければならない状況の企業はどのように行動するべきなのでしょうか。一つの選択肢は「ワークシェアリング」です。仕事が少なくなって人が余ってきたら、残った仕事を分け合えば良いのです。10人に1人が余剰になったのなら、給料を9/10か、短期的には半分に減らして必死に耐えるわけです。人が余っているわけですから、仕事の無くなった人はよりキメ細かい顧客サービスに当たるか外回りの営業に出れば良いでしょう。航空会社は、人減らしをしてサービスを低下させるのではなく、逆に乗務員を増やして顧客サービスを向上させれば良いし、残りの人は企業や学校や自治体を回り、航空機の利用増加のための営業活動を行うのです。一方で失業者を出し、残った人たちには労働強化を求めざるを得ない「人員整理」に比べ、たとえ給料が多少(かなり?)下がっても、皆で仲良く苦しい時代を乗り切る方が良いに決まっています。

以前、B国のSW航空に数回乗ったことがありますが、N航やZ日空に比べればサービスは雲泥の差だった言えるでしょう。客室乗務員は、飛行中に何度も客席を回り乗客の様子を気にしたり、欲しいものはないかを聞いたりしに来ます。もちろん無料の笑顔もふんだんに振り撒きます。また乗務員は、空港に着陸するや否やエプロンをつけて、乗客が降り次第に機内の掃除を始めます。そして掃除が終わるとすぐに折り返しの便の乗客を乗せ始めます。結果として、着陸後30分も経てば、折り返し便が出発できる事になります。乗務員の愛想が良くて、待ち時間が少ないこの航空会社が、良好な財務体質を誇っている事は決して偶然ではありません。それに引きかえN航やZ日空のパイロットや乗務員の、悪く言えば「エリート意識」は、目に見えるかどうかは別にして、彼らよりずっと給料の少ない乗客には、鼻持ちならない態度だと言えるでしょう。お客様は神様だという意識の欠片もない企業は、一度退場してもらうしかないのかも知れません。

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2009年11月11日 (水)

1050 エコドラおそるべし

投稿者は、10年近く前に車を捨ててバイク族になったのですが、市民向けの温暖化防止出前授業を引き受けている成り行きで、JAFのエコドライブ講習を受講しました。教習車は1800ccのT社の大衆車で、「ドライブコンピュータ」が装着されていました。例の瞬間燃費や平均燃費が表示されるものです。さて、投稿者は長年マニュアル車に乗っていましたので、オートマ車の運転は実は苦手です。案の定、自動車学校の中に設定された約2kmのコースで、最初の「通常走行」のテストランでは、平均燃費が10.0/㍑程度という情けない数字でした。同じチームで同乗した女性は14.0/㍑、日ごろから省エネドライブを心がけているという男性はいきなり16.0/㍑という数字を叩き出しました。その後座学でエコドライブの心得を受講して、再度同じコースでエコドライブの燃費を計測しました。さすがに、2度目はアクセルワークにも気を使い、惰力走行もうまく使った結果、車の運転がずいぶん下手になった投稿者でも、14.0/㍑に改善しました。しかし、かの最初から成績優秀の男性は、何と20.0/㍑という数字を出して見せたのです。JAFのスタッフも感心していましたが、ほぼエコドライブ名人と呼んでも良い数字です。

さて、アクセルワークやその他の指標は、コンピュータによりしっかり把握されデータ化されていました。その名人と投稿者の差を、データを元に分析してみると、次のような点が浮かび上がってきました。

1)   止まるポイントが分かっている場合、はるか手前でアクセルから足を離し、惰力を最大限利用する。止まる位置を合わせるために、投稿者は停止点の手前で再度アクセルを踏んでいたが、名人は一切アクセルを踏んでいない。

2)   坂道を登る場合、平地で十分に加速してから坂に入る。坂の途中で、スピードがかなり落ちてから再度アクセルを踏むと、燃料消費がぐっと増える。

3)   名人は、ブレーキは可能な限り踏まない。基本的にはブレーキは止まる時だけ使う。

4)   アクセルワークは、加速度を感じない程度に行う。シートに背中が押し付けられる感じを受けるのはバツ。そのためにはアクセルはつま先では踏まず、足裏全体で細かくコントロールする。

同じ車で、同じ条件でありながら、投稿者と名人では、14.0/㍑対20.0/㍑と大きく違ってくることに気付かされ、省エネ人間を自認する投稿者も名人には脱帽した次第です。というより、この名人は、今回は単純に講習を受ける目的ではなく、自分のエコドラテクニックを見せびらかすために参加した様なのです。名人の話によれば、通勤に使っている小型車では、日常的に40/㍑の平均燃費程度で走っているとか。まさに「エコドラおそるべし」、です。

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2009年11月10日 (火)

1049 中低温度熱源

もう一つ省エネ技術に立ちはだかる高い壁は、「中低温度熱源の活用」です。熱効率は、熱源の温度が高いほど改善されるので、もちろん燃焼ガスなど温度の高い熱源は使いでがあります。しかし、プロセスで使った廃熱や炉の煙突から逃げていく数百℃の熱源や100℃前後の低温度の熱源は、その潜在量は膨大なのですが、悲しいかなその熱源から回収できるエネルギーは、装置が大型とならざるを得ない一方、効率が極端に低いので「費用対効果」を計算すると元が引けないケースが殆どなのです。しかし、この壁をブレークしない事には、経済社会での省エネは、いつまで経っても前に進めないことになります。

この分野で注目される技術に「海水温度差発電」があります。これは、海底の数℃程度の海水と海表面の25℃程度の差20℃を使って、アンモニアを作動流体としてタービンを回す装置です。温度差はたった20℃ですが、海水の量は膨大であり、それなりの規模の設備を使えば、ちょっとした発電所が出来上がります。もちろん100kwの火力発電所や原発並みの出力は期待できません。その規模はたぶん数桁小さいものしか作れません。その代り、少し深い海が広がっている海辺であれば、どの町にも立地可能です。しかし、考えてみれば海水に温度差がある場所は数多くあるはずです。それは、火力発電所や原発や各種の工場排水は、30℃程度の温排水になっている事でしょう。これを高熱源とし、浅い海底の10℃程度の海水を低熱源としても立派に20℃の温度差は得ることができます。これを放っておく手はありません。

同じく、煙突から無為に放出されている各種の炉の排ガスも大きな熱量を持っていますので貴重な熱源になり得ます。投稿者の住む団地から一山越えたところにある鋳物工場では、24時間キュポラの煙突から大量の熱を捨てています。排ガスは一度冷やして集塵した後でないと排出できないのですが、ガスを冷やすための「空気・ガス熱交換器」の出口温度でさえ、150℃になっていました。排出されるのはきれいな乾燥空気ですが、それを暖房に使うわけでも、温室を温めるわけでも、農産物の乾燥に使うわけでもなく、本当に何の役にも立てないまま大気に放出されているのです。その近くを通るたびに勿体なくて溜息が出ます。もし、安価で効率の高い蓄熱材があれば、それを蓄えて近くの老人施設にでも運べば、給湯や暖房用途に十分使える熱源になるでしょう。そんな、安価で安全な「蓄熱材」の研究でさえほとんど行われていないのはどうしたわけでしょう。環境技術大国の名前が泣いてしまいそうです。

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2009年11月 7日 (土)

1048 輻射熱の利用

今後の省エネ技術で避けて通れないのは輻射熱の有効活用です。多くのケースで、エネルギーのロスが観察されますが、エネルギーが逃げ出す際には必ず熱になり、結局は熱伝導や熱輻射の形で失われます。伝導によるエネルギーロスは断熱材などの適用でかなりの程度軽減できますが、輻射を遮るのは実は結構厄介なのです。鏡のような反射率の高い壁で、輻射熱を追い返すことも有効ですが、やがて鏡面の表面温度が高くなると、そこから二次輻射が始まるので、なかなか効率よく遮ることが出来にくいのです。

その上、他のエネルギーと異なり、輻射エネルギーを貯めて置くことは事実上できません。というのも、温度は物質の振動ですから、断熱すればある程度は蓄えておくことも可能ですが、一方輻射エネルギーとは、その物質振動から放射される長い波長の電磁波ですから、たとえこれを効率的に反射したとしても、そのエネルギーを再度物質に戻して、物質振動に変えることは難しいのです。とは言いながら、全く不可能でもありません。たとえば、輻射の実態である電磁波は、光と同じような性質も持っていますから、パラボラ(凹面鏡)などで集めてやれば、より高いレベルでの有効利用が見えてきます。必要な技術は、例えばアルミやステンレスで、反射効率の高いパラボラを作ること程度ですので、ハイテクは必要ありません。

しかしながら、その限界も頭に置いておく必要もあります。少しややこしい話なのですが、輻射エネルギーを伝達する電磁波は、物質が持つ温度(絶対温度)に支配されます。ある温度を持つ物質から放射される電磁波を集めて、元の物質より高い温度を得ることは、原理上不可能なのです。そんな事はない、太陽光をレンズで集めれば、紙さえ燃える温度にできるではないか、と突っ込みが来そうですが、太陽の表面温度は6000℃もあるので、それを集めて数百℃にすることは造作もない話なのです。一方、100℃の表面温度を持つ放熱体からの輻射熱を集めても、決して100℃の熱源を得ることはできない相談です。

つまり、熱エネルギーや輻射エネルギーの利用は、高い温度から低い温度まで多段階に活用してやることが必須だと言えるでしょう。ポテンシャルの高いエネルギー(電力や石油など)に依存してきた20世紀の技術は、実はこのような仕組みとはなっていません。たとえば、車ですがエンジンで燃やした排気ガスを直接そのまま大気へ捨てているではありませんか。工場などに立ち入った際に、むっとするような熱気(輻射エネルギー)を感じた時、「ああ勿体ない」とつい感じてしまいます。

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2009年11月 5日 (木)

1047 エフワンからイーワンへ

自動車メーカーやタイヤメーカーのF-1からの撤退が続いています。投稿者としては大歓迎です。そもそも、「大きい事は良いことだ、馬力があって速い事も良いことだ」という前世紀のお祭りであるF-1が、今も続いていること自体時代錯誤になりつつあると言えるでしょう。もし、この時代にお祭りを仕掛けるなら、1リッターの燃料しか使わない「Eco-1=E-1」レースを本格的に立ち上げるべきでしょう。この種のレースなら、大きな資金は要らないので、大学や工業高校などでも、たぶん個人でも十分参加可能でしょう。エコランカーの性能は、必ずしも技術力や資金力ではなく、燃焼改善のアイデアや軽量化の細かい工夫の積み重ねで十分カバーできますので、むしろメーカーは参加車から車の省エネ技術について、大いに刺激を受けるはずです。

投稿者の住む市の隣にある町で、つい最近学校参加者を中心に100台以上のエコランカーを集めたレースが開催されましたが、優勝校は工業高校でした。記録は、リッター当たりの燃費が600km以上という好成績です。これまでの世界最高は、記憶している限りでは1000kmをかなり超えているはずですが、高校生でさえこんな立派な数字を叩き出している事は頼もしい限りです。

このブログでも、以前にリッター当たり実用的に100km走れる「100キロカー」を提言していますが、リッターで1000km走る試作車に、保安装置を付け加えて行って「100キロカー」を作る事はそんなに困難だとは思いません。一方、リッター当たりでやっと30kmを超えたハイブリッドカーの燃費を、100kmまで持っていくのは、元技術屋としての暗算ではほとんど無理の様な気がします。つまり、現在のエコカーの出発点は、鉄でできた20世紀の車であり、一方来るべき時代に求められるエコカーは4輪の自転車から発想する必要があるということです。2輪であれば、現在でもリッター当たり100キロはすでにH田のSカブで実現されていますので、「100キロカー」のベースとしてはそこに使われているコンポーネントや技術で十分でしょう。

自動車メーカーやタイヤメーカーは、中国やインドに今のエコでない車を売ることばかりに熱中しないで、ぜひ世界に冠たる「100キロカー」を世に出すために、イーワンにこそ「ポンと」資金を出してもらいたいものです。

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2009年11月 4日 (水)

1046 ESOP(省エネ織り込みプロセス)

またまた新しい言葉を作りました。Energy Saving Oriented ProcessESOP)です。日本語にすれば、「省エネルギーを織り込んだプロセス」とでもなるでしょうか。今あるプロセスの中で、いくばくかの節減対策を行い、投入エネルギーを減らすのがいわゆる省エネ活動です。設備のアイドル時は完全に停止する、昼休みに消灯する、流体の漏れ個所を修理する、エアコン温度を加減する、フィルターなどの掃除をこまめにするなどの、いわばケチケチ作戦です。それでも目標達成に届かなかったら、経営者は仕方がないので、お金をかけてエネルギー効率の高い設備に更新するなどの対策を講ずる必要がありました。

ESOPの考え方では、エネルギー効率の面からプロセスそのものをゼロから見直します。というのも、現在使われている殆ど全てのプロセスは、安い(安かった)エネルギーコストを前提として設計されているからです。エネルギーコストをベースとして、製品コストを積み上げていますので、大きな投資までして、お国が掲げる省エネルギー目標値を達成することについては、ついつい被害者意識を持ってしまいがちです。しかし近年の石油価格の高騰は、資源埋蔵量の限界を意識しての、単調な右肩上がりですから、プロセスのコスト前提を徹底的に見直す必要があると思うのです。(現実にもメキシコ油田の一つが干上がりかけています。)

抽象的な言葉だけではわかりにくいで、具体例を挙げてみましょう。投稿者の住む地域の近くには、多治見や土岐といった昔から窯業が盛んな地域があります。そこで今行われている焼成プロセスは、液化石油ガス(LPG)を燃やして、箱型炉やトンネル炉内の瀬戸物を、1300℃程度の温度で、長時間かけて焼きあげていると想像しています。瀬戸物は、細かな粒子であった粘土(主として酸化アルミナの粉末)を水で練って、まず乾燥素焼をし、釉薬を塗ってから更に高い温度で焼きあげる事によって、粘土の粒子がお互いに結合して一体となるようにするプロセスによって作られます。省エネを織り込んだプロセスの開発とは、焼きあげる方法そのものを根本から見直すことを指します。例えば、ガス焼成に機械的振動(超音波など)や圧力、さらには電磁波などの物理的手段を追加することによって、非常に短い時間で焼き上げることを可能にする技術を開発するわけです。これは単なる投稿者の思いつきなので、時間を掛けて検証する必要がありますが、そんな技術が完成した暁には、瀬戸物業界では現在の数分の1となるような大幅な省エネも見えてくるはずです。政府の打ち出した25%の省エネ目標など朝飯前での達成が可能なのです。

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2009年11月 2日 (月)

1045 温暖化を体感する

温暖化効果ガス(GHG)はもちろんCO2だけではありません。いちばん強力なGHGは、実は「水蒸気」なのです。温泉場での経験を思い出すまでもなく、湯気が充満している風呂場では、冬でもそんなに悪寒を感じません。それは水蒸気が体から放散される遠赤外線をブロックしてくれるからです。湯気がない露天風呂では、冬場は建物から湯船まで走らなければならないはずです。その水蒸気による地球の温暖化寄与率(寒冷化防止寄与率)は、約8割程度と推計されています。もし、大気中に水蒸気が全く無いと仮定すれば、地球の平均気温は今の概ね15℃からマイナス10℃以下には落ち込むはずです。砂漠では、湿度(水蒸気量)が極端に低いので、赤外線の入射や放射が大きくなり、昼は50℃を超える一方、夜は0℃近くまで冷え込むことになります。

砂漠まで出かけなくても、日本でも春秋の乾燥している時期には、日射と夜間の放射冷却で、朝晩の気温差が20℃以上に及ぶことも経験できます。逆に、湿度が高い夏場や厚い雲に空を塞がれている日には、水蒸気のGHGガス効果により、温度差が数度にとどまる事もあります。CO2による温暖化効果が強まれば、平均気温もさらに上昇しますが、加えて一年中夏場と同じようなメリハリの少ない気候にもなるはずです。大きな朝晩の温度差で生まれる農作物のうま味や、鮮やかな色の紅葉などは、来るべき温暖化時代にはもはや期待できないでしょうし、夜間の冷え込で降りる露で水分を補給して辛うじて生きている砂漠の植物や生き物も、死に絶えてしまうはずです。砂漠は、生き物をまったく見ることができない、本当の無機砂漠の世界になることでしょう。

どうするべきかの答えは簡単です。まずは暑さ寒さをしっかり体で感じることです。その上で、季節感を狂わす旬の無い食物を食べるのを止め、季節感を無くす冷暖房を止め、無駄に早い移動手段を諦め、海外の安いが危ない食糧の輸入を止めれば、GHGの大きな部分を占めるCO2の増加も鈍化するはずです。投稿者の事務所のように、冷暖房を一切使わず、暑さ寒さを体で感じる訓練をすることは、免疫力のますます低下している現代人類の存続可能性をいくらか高めてくれることは間違いないところです。

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2009年10月31日 (土)

1044 屋根ビジネスの予感

投降者の事務所からは、近くや遠くの家並みが見えます。それらの屋根を眺めても、屋根がほとんど利用されていない事がきにかかります。つまり、太陽熱温水器を上げるとか、太陽光発電パネルを上げるなどの行動が非常に低調なのです。この地方では、冬でもしっかり日照時間が長いので、特に太陽熱の利用が進んでいない事は、悲しむべき事態だといえるでしょう。投稿者の自宅では太陽熱温水器を上げていますが、夏場の晴れた日にはほとんど追い焚き無しで、入浴ができますし、冬場でもたぶん湯船の半分程度は太陽熱だけで給湯できます。

日本には住宅が5000万戸程度あり、そのうちの2/3が戸建ですが、現状1割である温水器の設置率を上げて、戸建住宅100%に太陽熱温水器が設置されたとすれば、年間に削減できる二酸化炭素の排出量は1200万トンを軽く超えるはずです。これは、家庭生活から排出される二酸化炭素排出量の5%程度に当たりますので、現在と全く同じ生活レベルでも丸々5%削減するポテンシャルが目の前に転がっているわけです。太陽熱温水器を製造するには、あまり高度な技術は不要でしょうから、小さな町の鉄工所でもそれなりに製造は可能でしょう。それを設置したり、メンテナンスしたりする作業を考えれば、かなりの規模の立派な産業が創出できるはずです。今でこそ、太陽熱温水器のメーカーは、体力のある中堅企業以上に絞られてしまった感がありますが、前のオイルショックの時には、雨後のタケノコのように中小のメーカーが林立していたはずなのです。

加えて、少し大きめのシステムを設置すれば、暖房や夏場のデシカント冷房の熱源としても活用できます。屋根には薄いパネルだけ上げて、温水タンクは地面に置いておけば、地震に対する不安も解消できるでしょう。世の中が不景気だ、仕事がない、省エネにはお金が掛かるなどと愚痴ってばかりいないで、屋根という「貴重な資源」を活用するビジネスを起こそうと考える起業家は出ないものでしょうか。商売ではない投稿者がビジネスを起こしても3日でつぶれる事は目に見えていますので、ブログに書く程度のことしかできませんが・・・。屋根ビジネスは単なる予感ではなく今や必然だと言えるでしょう。

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2009年10月29日 (木)

1043 スモールビジネスの予感

1042で書いたことを別の言葉で表現すると、それはスモールビジネスでもある、となるでしょうか。スモールビジネスの特徴は、ほぼ完全に顧客の名前が特定できるという点です。つまり、今日仕入れた材料は、AさんとBさんとCさんとXXさんに向けた○○を作るためのもので、それは夜なべになるが今日中には仕上げよう、などと経営者(兼職人)が頭の中で計算ができるビジネス規模を指します。したがって、作り過ぎの無駄も出ませんし、必要な資源(材料)やエネルギー量もぴったり計算した通りになるはずです。そもそも、今の社会に見られる経済の拡大(膨張)は、一に掛って作り過ぎから始まった事でしょう。作り過ぎがストックを生み、そのストックの膨張が資本蓄積や先物市場(取引)といった投資や経済活動を生みだしたわけです。

さて、スモールビジネスでは、中央経済にあまり頼りませんから、しばしば「物々交換」も行われるはずです。投稿者の生まれ育った田舎町には、毎日市が立ちました。近郷の農家や小さな漁港からは、腰の曲がったばっちゃんやおかみさんが、その日に売り切りたい量の農産物や魚介類を、手押し車やリヤカーや自転車に乗せてやってきます。その場では、頻繁に物々交換が行われていた事は容易に想像がつきます。売り手と客は顔なじみで、値段の交渉さえも和やかに行われます。ここに、荒物屋さんや乾物屋さんや電気器具修理屋さんスナック店や薬草を商う人たちが加われば、立派なマーケットが誕生するはずです。このようなマーケットを、比較的最近ブラジルに滞在していた時目にしました。間口数メートルの小さな店がひしめく、このマーケット(メルカード)は、その中を歩くだけでも結構楽しいものでした。

製造業にもこのような形態が成り立つでしょう。そこでは、すべての製造は「注文生産」によってはじまります。基本的な材料はストックされますが、着手は注文を受けてからになります。つまり、製品在庫は一切置かないで済みます。落語の話の様に、注文が舞い込んでからあわてて質に入れた道具を受け出し、材料の仕入れ資金を借りに走る、といった光景も茶飯事になるかも知れません。シューマッハのスモール・イズ・ビューティフル」をもじって、ここでは「スモール・イズ・エコロジー」と言っておきましょう。そういえば、投稿者の事務所も個人経営の自営業でした。

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2009年10月27日 (火)

1042 地域ビジネスの予感

似たようなタイトルで以前にも書いた様な気がしますが、念押しの意味でもう一度書いても無駄にはならないでしょう。というのも、1041で書いた環境税で景気が減速し、雇用が無くなったら、人々は何を生業として暮らしていけば良いのか、途方に暮れると思うからです。先に書いたように、環境税は一極集中を否定するわけですから、逆に地方分散の流れが生まれる事は明らかです。その中で、最近時々目にするのは「地域ビジネス」といキーワードです。その定義は、まだまだボンヤリしてはいますが、ここではいくつかの具体的方向を示しながら、その輪郭を少しくっきりさせたいと思います。

地域ビジネスを起こすのに、その原料や労働力を他の地域に求める事は矛盾に陥ります。まずは足元にある原料や資源を掘り起こすことから始める必要がありそうです。農産物なのか、森林資源なのか、海産物なのか、あるいは水資源なのかといった地場の資源を再確認する作業です。今は何もないとしても、たとえば休耕田を多く抱えている地域では「土壌」そのもののが資源となり得ます。北陸や北国では「雪」も立派な資源になり得ますし、一方夏場に気温が上がり晴天率の高い地域では「太陽光や太陽熱」も立派なエネルギー資源になり得ます。

さて資源が見つかったとして、それを活用するのに大規模な工場や自動化など「ユメユメ」考えてはなりません。まずは、家内工業、それも人力を活用した産業を指向していく必要があります。地方分散を更に「戸別分散規模」までブレークダウンする訳です。このようなビジネス形態では大きな設備投資は不要なので、思い立ったらすぐ始められますし、上手くいかなかった場合でも短期間で方向転換が利くはずです。買ったのは設備ではなく「道具レベル」でしょうから、例え要らなくなっても中古品として処分できます。落語に出てくる「道具屋」も商売として復活することでしょうし。

地域ビジネスでは、顧客もまた地域の人々です。顧客の顔が見えますから、今日は誰が何を何個くらい買いそうだ、というかなり正確な予測もできますから、作り過ぎの無駄も無くなるでしょう。商品が無くなったらその日は店じまいです。もし、その年に地域の資源(例えば農産物や海産物)が豊作(豊漁)になったとしても投げ売りなどしてはいけません。保存食に関する先人の知恵を思い出せば良いのです。缶詰や瓶詰やジャム、干物や塩蔵(漬物)などなど。保存食を、農産物が品薄になる「端境期」にボチボチ出荷すれば、収益も安定する事でしょう。このようなビジネス形態では、決して多くは儲からないでしょうが、食うに困ることもないはずなのです。都会にも似たようなビジネスモデルは存在しました。何の事はなく、それは少し前まではどの町内にもあった小規模な豆腐屋や納豆屋や惣菜屋などをイメージすれば良いのです。

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2009年10月25日 (日)

1041 排出権取引の愚

排出権取引がマスコミを賑わしていますが、投稿者としてはまったく合点が行きません。そもそも、誰がCO2を堂々と排出し続ける「権利」を有していると主張できるのか、という根本的疑問があります。増してや、CO2に値段をつけて市場で取引しようなどと、手間ひまをかけて検討し、準備し、実際にそれを運用するシステムの無駄を考えただけで頭が痛くなります。

そもそも、排出権取引を何のためにしなければならないのかですが、その目的は破局的な気候変動の防止です。その目的を考えれば答えはたった一つしかないでしょう。アメ(大いに努力した人や企業への減税)とムチ(CO2を排出した時の環境税)の組み合わせです。省エネに励んだ人や企業をほめ、それを怠った人や企業を懲らしめるというシンプルな方法が最も効果を発揮するはずなのです。もし、削減目標に届かなければ、税率を見直せば良いでしょう。環境税は、本来目的税であるべきですが、それでなくても国の借金が天文学的数字になっているこの時代、そんな理想論は引っ込ますべきかも知れません。何しろ、現世代は、過去数十年間にわたって環境へ負荷をかけ続けながら高度成長を果たして、いまある豊かな消費生活を享受しているわけですから、それを維持するために政府がばらまき続けた借金を、環境税から少し回して埋め合わせてもバチは当たらないはずです。いずれにしても、現在の財政出動、金利政策や消費税などを組み合わせた、複雑で間接的な経済政策に比べ、何しろ環境税は直接的でシンプルです。

さて、環境税が社会の重石となって、経済活動が鈍化し、ひいては更なる景気悪化や失業率の増加につながるという議論があります。しかし、環境税の目的は「エネルギーの無駄使いを絞る」ことであり、エネルギー消費を増やさない経済活動はむしろ奨励するわけですから、そのような単純な批判は無視すれば良いのです。例えば野菜や果物など産地を集中化し、端境期にも市場に出荷するために高原栽培や温室栽培を奨励し、それを、高速道路を使って全国各地に流通させる今のビジネスモデルは、高い環境税を覚悟しなければならないでしょう。そうではなくて、地場で採れた旬の産物を、地場で消費するビジネスモデルでは、生産者や消費者は環境税の網には引っ掛からないので安いコストを享受できるはずです。つまりは中央集中のビジネスモデルは否定される時代になるわけですから、人々も税の高い大都会に群れて暮らす必要も無くなるので、人口の地方分散も進むはずです。これが、投稿者が何度も書いている「時代の逆転」の意味なのです。とりあえずは、社会が1970年代前半まで戻れば、エネルギー消費は現在の丁度半分(50%削減)程度の省エネ社会が実現できるでしょう。

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2009年10月23日 (金)

1040 景気刺激というクスリ

またまた「社会やぶにらみ」シリーズです。新政権になっても、景気刺激と雇用確保に躍起になっている状況は相も変わらない様です。何故、国の借金を上積みしてでも景気を刺激しなければならないのか?それは雇用を確保するためだ。何故、雇用を確保しなければならないのか?それは、景気浮揚で雇用の機会を増やして国の税収を増やし、国の借金を返すためだ。これではどこまで行っても堂々巡りで、国の借金も増えるばかりです。政治家は、官僚の弊害や悪行を暴くのに躍起になってばかりいないで、右肩下がりのこの国の「着地点」の青写真を描くことにもっと力を入れるべきでしょう。この国の今の状況を作ったのは、「護送船団方式」で成功した20世紀の後半の成功体験にすがり続け、将来の設計図の作成を怠って癒着し続けた政治家+官僚と、それを看過してきた私たち国民全部の責任なのでしょう。

何度も書いていますが、投稿者としては、景気刺激は社会の「麻薬」か、精々良く言っても「カンフル剤」だと考えています。何故か。それは、それを止めると「禁断症状」や「クスリ依存症状」を呈するからです。国の財布が薄くなって、景気刺激の弾をあまり撃つ事が出来なってきた近年、禁断症状はますます激しくなってきた様な気がします。その一つが失業者の増大だと言えるでしょう。マスコミで、タレントの「薬依存症」が話題にはなっても、社会の「景気刺激策依存症」が問題にならないのはどうした訳でしょう。学問とは過去の経験則を体系化したものでしょうから、経済学者といえども右肩下がり時代の経済に関しては、赤子も同然なのかも知れません。確かに歴史を遡れば、大国の衰退も数多く起こったことでしょう。しかしそれらは、隣国との戦争や気候変動(特に水資源の枯渇)などの外的要因で起こったことだったはずです。しかし、私たちがこれから経験しなければならない、現代文明の高みから、深さが見えない谷まで、数十年をかけた人為的衰退をいかにデザインするか、まだ誰も答えを持っていないと思われます。

どんな時代になっても、人々が生きていく限り、衣食住など絶対不可欠なものはやはり無くてはならないもの共なのです。それをベースと考えて、そのベースをできる限り、地域の資源と太陽光の恵みに依存した方法を使った地産地消で賄う循環をデザインする事こそが、将来社会のグランドデザインの基礎となるでしょう。それ以上の生産や消費は、結局のところ地下資源や化石エネルギーの採掘を前提としたバブル消費部分だと考えるべきなのです。

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2009年10月21日 (水)

1039 気候変動2題

最近のニュースで気になる話題が2題ありました。ひとつ目は、北極海の浮氷です。かなり前(2000頃)の予測では、2040年頃には夏場には、北極海の浮氷がほとんど融けてしまうと言われていました。しかし、最近の再予測では、その時期がさらに10年以上早まっているようです。その理由は「悪循環」にありそうです。単純な気象モデルでは、極氷の減少により北極海の太陽光吸収率(アルベド)が変化し、白夜の夏は海水が今より多くの太陽熱を吸収し、冬場の結氷が遅くなり、氷の厚さも減るので、翌年の浮氷がさらに減少するだろうというものでした。しかし、事態はそれほど単純でもなく楽観的でもなさそうです。背景としては、海洋と大気の相互作用による長期的な「気象振動」も考慮しなければならないからです。その振動に関する最近の話題では、「エルニーニョ」があります。赤道付近の海水温の変化が、赤道付近のみならず、日本など中緯度地域の気象まで強い影響を及ぼしているという事実があります。その根には、赤道付近にふり注いだ太陽のエネルギーが、海流や大気の流れ(例えば低気圧や台風など)によって、極地方に運ばれるという地球規模のエネルギーの流れが存在していると言えます。これは、「北京での蝶の羽ばたきが増幅されて、やがてはカリブ海のハリケーンになる」という冗談話が、現実のものとなる可能性を含んでいます。

もう一つの話題は、アフリカのひどい干ばつです。過去1年間一滴の雨も降らなかった地域が拡大し、草が枯れた結果家畜が大量に死に、それに依存している遊牧民が飢餓にさらされているとのものです。その数は数千万人規模に上るとか。まさに彼らは、地球規模の温暖化による環境難民になりつつあると言っても良いでしょう。どうやら、温暖化は気象現象の過激化を増幅するようなのです。つまり、雨は降る場所には、台風やサイクロンなどの過激な現象を伴って「どさっと降り」、一方降らない場所には一滴も降らないという気象の激化現象を指します。これも大きな意味では、最初に書いた短期的な「気象振動」と長期的な温暖化傾向の合わせ技としての現実だと思われます。もちろん短期的振動とは言っても10年程度の単位となりますので、干ばつが数年続くだけでも、そこに暮らす人々が飢餓状態に陥る危険性にさらされるわけです。さらにその振幅が右肩上がりの温暖化傾向の中でさらに大きく振れようとしています。

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2009年10月19日 (月)

1038 目的あるウォーキング

近くの東海自然道を黙々と歩く人の何と多いことでしょう。見ると、60代それも前半の世代が多い様に見えます。団塊世代で最近退役した人たちなのでしょう。もちろん彼らは体力的にもまだまだ十分現役で活躍できる人たちでもあります。健康のために歩くのは、健康保険制度の健全化のためには結構なことなのですが、その様は「徒歩=徒に歩いている」としか見えません。そして、その人たちの日常生活をつい想像してしまうのです。朝起きて、朝食を取るかあるいは早朝ウォーキングに出るか順番の違いはあるのでしょうが、いずれにしても帰ってからたっぷり2時間以上かけて隅から隅まで新聞を読むはずです。その後は、奥さんの買い物に付き合うか、あるいは近くのホームセンターを冷やかすでしょう。真面目な人は午後には図書館に出かけて本を借りてくるかも知れません。

しかし、投稿者としてはこの生活が毎日繰り返されることを想像するだけで、うんざりしてしまいます。それでなくても彼らは勤勉な世代なのですから、とりたてて何もする事がない「逆ストレス」に長期間耐えられるとはとても考えられません。したがって、彼らは自分にそれなりのルーチンを課して、ストレスを和らげようと必死になっているのかも知れません。たぶん彼らには、足代と弁当代程度を出して、適当な仕事をしてもらう何らかの仕組みが必要なのだと思います。それが、社会の役に立つ事であれば、皆が幸せになれる事でしょう。

ここではいくつかのその様な仕組みを考えてみましょう。地域に暇な人が多ければ仕方がないので輪番制にします。

1)   地域掃除隊:これは地域の掃除を定期的(それもかなり頻繁)に行う活動です。ついでに空き地の雑草抜きや見通しを悪くしている道路沿いの灌木の刈り込み程度は引き受けてもらいます。

2)   宅配サポート隊:自分が住む地域への宅配を請け負う仕事です。宅配便は、担当する人の家にまとめて届け、地域の配送は小さなリヤカーかプルカーを使って徒歩で行います。温暖化防止に大きな効果が期待できます。独居老人世帯では、必ず30分は世間話をしてくることを義務付けます。

3)   空き地耕し隊:雑草を抜いた土手や空き地に少し土を盛って、あちこちにミニ菜園を作ります。できれば少し離れた場所につくるのが理想です。なぜならそこまでしっかり歩く必要がありますので、「目的を持って歩く」ことができるでしょうから・・・。自家消費以上に収穫できたら、無人販売所で売ることにしましょう。形が悪くても、多少虫にかじられても無農薬で作ることにこだわっていただきます。

4)   ミニ植林隊:ドングリなどや近くの里山に自生している雑木を、実生から自分の庭で育て、雑草に占領されている空き地や土手にミニ植林を行います。自治体が、場所を確保して目印を立てておけば、変な場所に植えられることもないでしょう。

まだまだありそうですが、いずれにしてもこれらの提案は彼らに「目的を持って歩いていただく」ことが「目的」です。続きはまた考えておくことにします。

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2009年10月17日 (土)

1037 リチウム汚染

効率の高い蓄電池を作るためにはリチウムが不可欠なのだとか。残念な(幸運な?)事にこの金属資源は日本では全く産出しません。いま多くの商社が、その資源確保に南米や中国などを奔走していることでしょう。しかし、投稿者としてはこの物質に「危険」を感じてしまいます。なぜならリチウムは、人体(生物)には有害な金属元素の一つだからです。投稿者の記憶でも、1970年代に航空機のジュラルミン材にリチウムを添加し、剛性を高めようと研究された時期がありました。確かに、リチウムを合金する事によりアルミ合金の剛性(たわみにくい性質)が上がって、機体重量を10%以上軽減できる事は事実です。しかし、加工時に発生する金属粉じんを作業者が吸引した場合、急性あるいは慢性の中毒が強く懸念されたため、結局その採用は見送られたのでした。

さて、形あるものは必ず壊れ、最終的には廃棄されます。この危険な材料が電池に大量に使われた場合、最終的に用済みになった電池が環境に不法に投棄される懸念がぬぐい切れません。コストのためには、その処理を押し付けられた業者が、夜陰に紛れて不法投棄を繰り返す例は、豊島や岩手山間の例を挙げるまでもなく、これまでも各地で数多く報告されてきたところです。歴史に学ぶためには、リチウムを大量に輸入し、それを大きな産業に組み込むためには、まずはその出口(廃棄電池処理)技術を確立してから進めるべきなのです。

しかし、メーカーばかりがいくら努力しても、それだけではこの問題は解決しません。なぜなら、今度起きるであろうハイブリッド車の交通事故で、電池の破損に伴う環境汚染も劇的に増えることになるからです。道路に散乱し、あるいは側溝に流れ込んだリチウム化合物が、生物や人体に与える、「長く持続すると思われる」環境被害を強く懸念せざるを得ません。徐々に歴史になりつつあるとは言え、過去いくつかの有害物質による環境汚染やそれに伴う健康被害が、有機水銀やカドミウムやヒ素やPCBや各種の環境ホルモンなどで繰り返されてきた事実を忘れるべきではないでしょう。

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2009年10月15日 (木)

1036 省エネのツボ

企業での省エネ支援を続けるうちに、最近省エネのコツがだいぶ分かってきたような気がします。もちろんこれまでもセオリー通りに助言はしてきたわけですが、セオリー通りでは精々5-10%程度の省エネが限界になり、大きな壁に当たります。それを突き破って、何割とかいう大幅な省エネを実現するためには、更なる深掘りが必要となると思うのです。深掘りのためには、省エネのセオリーと同時に、プロセスへの深い理解が必須です。ではプロセスを良く知る技術屋が、省エネのセオリーを身につけた方が近道かと言えば、実は必ずしもとも言えません。というのも、その業界の常識が身に染みついている事が、逆に大幅な省エネ案を出すのには結構邪魔になるのです。

大幅な省エネのためには、先ずは常識を外して考えなければならないからです。例えば、金属を削って部品を作っている工場を考えてみましょう。これまでのセオリーでは、エネルギーの無駄がないか、ネタを求めて工場の隅々を探し回ることになります。照明の無駄や断熱材の不備、あるいは空調などに関わる電力関係の無駄などなどに目を向けて、ケチケチ作戦でこれらを減らします。しかし、省エネで深掘りをするにはこれでは不十分です。「そもそも」、金属で部品を作るのに大きな素材を削る事しか考えられないのか、と立ち止まって考える必要があるのです。例えば、この時代に「ネジ部品」を、金属を削って作る企業はほとんどないはずです。今やほぼ全てのネジは「転造」という塑性加工技術で作られているからです。この加工法では切り屑は一切出ませんし、何より加工が瞬間的に完了しますから省エネ技術でもあります。

同様に、多大なエネルギーを消費している、製鉄業やセメント工業やその他の加熱を必要とする産業が、冷間プロセスの開発や種々の反応熱をプロセスに再利用するプロセスを工夫すれば、プロセス中における「本当の意味での省エネ技術」が生まれることになります。とりわけ今後考えなければならないのは「エネルギーのコンビナート化」だと思っています。そもそものコンビナートとは、石油ナフサなど中間原料を介して、いくつかの化学工場が敷地を接して立地する企業群を指しますが、これを真似て高温エネルギーを必要とする工場と中温や低温でプロセスが完了する企業が、エネルギーを使い回して、全体としての省エネを図る考え方です。この際の企業群は、必ずしも製造業ばかりではなく、ホテルや老人施設やその他の公共施設との連携も考えるべきでしょう。そこでは大量ですが100℃以下で十分な低温エネルギーを求めているはずですから・・・。

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2009年10月13日 (火)

1035 列島改造の痕跡

1034の続きです。日本の地下資源で例外的に恵まれていたのは、黒鉱(銅や金を含有する優良な鉱石)と石炭と石灰岩などでした。とは言いながら前二者は残念ながらすでにほとんど枯渇してしまいました。しかしセメントは、いまだに自給が可能な数少ない資源の一つです。大手のOセメントやUセメントやTセメントに代表される企業で作られた大量のセメントは、昭和50年代にT首相の提唱した「列島改造計画」のうねりに乗って、港湾や道路やダムの建設に注ぎ込まれていったのでした。一方で、セメント1トンの製造には、CO2700kg以上発生することを考えなくてはなりません。その運搬や、打設に関わるエネルギーも勘定に入れれば、優に1000kgを超えるはずです。つまり、セメント産業やそれを大量に消費する建設業は、CO2の増加に多大な(負の)貢献をしてきた事になります。

さて、伊吹山から下界を眺めおろすと、南東には名古屋駅周辺の高層ビル街が見え、眼下には名神高速道路や新幹線や東海道線といくつかの道路が見えます。琵琶湖周辺にもたくさんのビルや街並みが見えます。200kmを超える速度で走る新幹線でさえ、1000m下に見下ろすとゆっくり、のんびり走っている様に見えます。名神高速の車は、肉眼では個々に確認する事はできませんが、窓ガラスがキラキラ光るので、引きも切らずに走っている事が分かります。しかし、一方ではこの数十年かけて列島を改造してきた結果は、交通路が集中する関ヶ原でさえ精々この程度だと言っても良いかも知れません。つまり、しっかり頑張ったつもりの列島改造工事でも、日本の豊かな自然をほんの少しだけかき回した程度ではないか、とも思うのです。その改造の結果として、やや便利になった交通網整備と平均気温を少し上げる事は出来たものの、100年も経って石油が枯渇すれば、これら多くのインフラも朽ち果て、やがては雑草や灌木に覆われることになるでしょう。

その一方で、どんなに科学技術の時代になっても、やはり食べ物を植物に作って貰うことに変わりはありません。少量の葉物野菜を除けば、工場で食糧そのものをつくる事には成功していない訳です。その例外でさえ、畑の代わりに工場の苗床に植物の種をまく事に変わりはないのです。その意味で、いまの科学技術のバックボーンである石油が無くなったとしても、やはり100年後も人間が自然環境に依存して暮らしているだろうことは間違いありません。

伊吹山の頂上で、1時間ほどおにぎりを頬張りながらぼんやり下界を眺めていて、こんなことを考えていました。

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2009年10月12日 (月)

1034 20世紀の遺物

時々体力測定を兼ねて近くの伊吹山に登ります。11日もそんな日でした。たかだか1400m弱の山と言っても、1合目から歩くと1000m以上の標高を足で稼がなければならないので、そんなにバカにはできません。投稿者のベストタイムは1.5時間ほどですが、当然の事ながら最近は年々タイムが落ちています。今回は2.0時間丁度でした。天気にも恵まれ、見晴らしもなかなか良好で、東の濃尾平野はもちろん、西の琵琶湖や比叡山系、遠くは御岳山辺りまでしっかり見えました。すでに10回以上登っているこの山でも、こんなに見通しが良かったのは過去数回程度だったと思います。

さて、伊吹山はその殆どが石灰岩でできている様です。様です、というのは麓に工場を持つOセメントが長年この山を切り崩してセメントを作ってきた事でも分かります。この山の西側は、不自然に平面に切り取られています。それを、長いベルトコンベアで麓のセメント工場に運び、セメントに加工していたのです。「していた」というのは、最近ついにこの工場は完全に閉鎖されてしまったのです。工場は建物や設備は殆どが撤去されていますが、壊すのに骨の折れる「コンクリート」の設備基礎や、ドーンとそびえている巨大な煙突はまだ残されたままです。巨大なキルン(回転炉)の残骸もまだ解体できずに残されています。これをしみじみ眺めると、高度成長期であった「20世紀後半という一つの時代」の遺跡か墓場のように思えてきました。

実は、これとそっくりな光景を2001年にドイツのルール地方で見たことがあります。ルール地方は、豊富な石炭を利用した製鉄業や石炭化学工業のメッカでした。しかし、優良な炭鉱が掘りつくされて資源が枯渇したこの地方には、やはり製鉄所の残骸や重化学コンビナートの複雑な設備の残骸が残されていました。これも、ドイツにおける高度成長期の遺物に違いありません。

これらの景色を見るにつけ、高度成長を追求してきた、(特に戦後の)20世紀という一つの時代はほぼ完全に終わったとの確信が湧いてきます。今後、中国やインドがどのようにあがいても、それは線香花火の最後のきらめきに過ぎないのだと断言できます。非常に近い将来に、地下資源の枯渇と環境の悪化が、彼らの暴走に強いブレーキを掛ける事が明らかだからです。セメント工場の残骸から、改めて地球の限界を考えた日でした。

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2009年10月10日 (土)

1033 台風考

強烈な台風があっと言う間に通り過ぎました。近年は、台風が日本に上陸する数は減っている様に感じますが、一方で上陸するものは強力になってきている様な気もします。減ってきた原因を推定するに、手元にデータはありませんが、偏西風のスピードが弱くなってきた事が疑われます。偏西風が概ね5000m程度の高さの山や山脈にぶつかると、下流に渦(カルマン渦)ができます。地球規模の現象では、山の下流数千キロの辺りに渦ができる様になりますが、キリマンジェロ山の下流はインド洋になり、ロッキー山脈の南端の下流はカリブ海、ヒマラヤの下流はフィリピン沖になるわけです。そうしてできた渦ですが、地球の自転によって生ずる力(コリオリの力)によって北半球では右巻きの渦は消え、左巻きだけが残ります。

しかし、台風の発達には別の強力なエネルギー源が必要です。それが日射と海水表面の温度です。北回帰線から赤道に帰る途中の太陽は、9月頃これらサイクロンやハリケーンや台風の赤ん坊が生まれる海域を強烈に熱し、海水温も高くなりますので、台風はドンドン大きく育ちます。最初は、赤道から相対的に気圧が低くなっている北へゆっくり動き出しますが、そのうちに上空を流れる偏西風に流され始めると急にスピードを上げることになります。偏西風は時速100kmを超える場合も珍しくはないので、加速し始めた台風も時速数十キロ程度の、車並みのスピードを持つことになります。

さて、台風の発生減少と大型化に対する地球温暖化の影響ですが、投稿者の感触では間違いなく「影響あり」と見ています。偏西風とは極地方に溜まった冷たく重い空気が南に吹き出す風が、コリオリの力によって一定の方向(西向き)の気流になる現象ですから、極地方の急激な温暖化によって南北の気圧差も小さくなり、この気流も弱くなっているはずです。しかし、一方では台風の揺りかごである南の海の海水温も確実に上昇していますので、一度発生した台風は大きく発達してしまうことになります。結果としては、今後とも今回のような強烈な台風が数年に一回程度は襲来すると考えてそんなに間違ってはいないでしょう。

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2009年10月 6日 (火)

1032 環境を体感する

環境とは一体何かを繰り返し考えます。環境とは、私たちを取り囲むものすべて(森羅万象)ですから、その範囲は、体の中のミクロ環境(例えば腸内環境)から無限大の宇宙空間まで広がっていますし、その見方も単純な無機の環境から生命がうごめく有機の環境まで、気が遠くなるくらいのアスペクトを持っています。

とは言いながら、その環境から命を授かった生き物としての存在である人間ができる事は限られています。それは、不十分ではありますが自分の五感を使って感じ、それを脳細胞で「解釈」するしかないのです。その意味で、たとえば「温暖化」を五感で感じることができるかどうかですが、難しいものの辛うじて可能だと言えるでしょう。難しさは、人間は時間を正確に「体感」する事が下手な事から生じます。下手だからこそ、「時計」などという道具を発明し、日に何度も「それ」に時間を教えて貰う不便に甘んじているわけです。「自然」にとっては、時間を意識すること自体不要なことでしょう。例えば、岩石など無機の自然には何億年単位の時間しかありませんから、ほぼ時間を気にする必要は「感じていない」でしょう。一方、人間以外の生き物は、環境との相互作用の中で、瞬間しゅんかんを生きているだけでしょうから、やはり時間には無縁です。自然の時間は、この星の上では地球の自転や公転で自動的に刻まれるだけです。

しかし、不十分なレベルであれば自然を体感するのは結構簡単です。できるだけ無防備で、自分の体を自然の中にさらけ出すだけで十分です。暑い夏は「オロオロ」と暑さに打ちのめされ、寒い冬は「ガタカタ」と体を震わせて身を縮めて過ごせばよいのです。どこかへ移動する時は、可能な限り歩くかまたは自転車を漕いで、道中の景色や臭いや移動した距離を「感じれば」良いのです。さら確実に環境を体感するためには、自分で育てた作物を口にし、仕方なく命を奪って自分の体の一部なってもらった動物たちに感謝する事になります。しかし、実際にそれを行う事態になった事を想像すると、たぶん自分には魚くらいしか、「生きていた動物」を食する勇気が出ないようにも思います。そのかわいい眼を見てしまうと、とてもとても牛や豚をサバいたり口にしたりする事などは出来ないと想像してしまいますので・・・。

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2009年10月 4日 (日)

1031 大幅な省エネ

6%程度のささやかなレベルではなく、新首相が言う3割などといった大幅な省エネルギーのためには、何が必要か考えてみます。この程度の大きな割合になると、こまめにスイッチを切るなどのいわゆる「ケチケチ作戦」では届かない事は明らかです。昼休みの完全消灯でさえ精々「事務所の照明のエネルギーの10%削減」にとどまるからです。一方では、温度を20℃や28℃に調節するとは言えエアコンは点けっぱなし、机の上のパソコンも電源が入ったままでは、焼け石に数滴の水に留まるはずです。

必要な事は、それを「諦めるための優先順位」を決める作業なのです。電力を30%削減するためには、電化設備全体への通電時間を30%削減するか(これはたぶん勤務時間を5時間に短縮する事を意味します)あるいは、30%の電化設備を撤去するかの選択になってしまいます。最終的にエネルギー消費に対して、現在の70%以下という枠を嵌められた時、私たちは何を諦めるのか、予め覚悟を決めておかなければなりません。日常生活で言えば、たとえば車を捨ててバイクや自転車にするのか、電気掃除機を捨てて箒とモップに戻るのか、多少高くても国産の食材を中心に食生活を組み立てるのか、テレビを消してラジオを聴くのかなどを決めなくてはならないのです。

企業で言えば、お金があるうちに安普請のビルやスレート葺きの工場の外側に、高機能の断熱材を取り付けて、小さなエアコンでも冷暖房効果が出るように改装するか、さらに太陽光や太陽熱を照明や冷暖房用のエネルギーとして活用できるなどの仕掛けをしておかなくてはなりません。加えて、現状のビジネスモデルや工場のプロセスを根本的に見直して、モノ売らないで機能を売るビジネスモデルや、「非加熱プロセス」採用などのイノベーションで、消費やモノ造りの枠組みを見直す必要もあるでしょう。それを実行するためには、確かに一時的な投資は必要ですが、最終的な企業の「持続可能性」は大幅に向上するはずです。数十年のスパンで見れば、大幅な省エネは、社会基盤の維持や企業活動にとって絶対に避けては通れない関門だと言えます。この関門を避ける道もあり得ますが、その先にあるのは「環境の破局的悪化」という断崖絶壁で、しかも後戻りも許されない道だと思うのです。まずは、今手元にあるモノの内3割捨てるとした場合に、何が捨てられるか優先順位をつけてみましょう。

最も簡単な事は、今濃尾地震並みの大地震か伊勢湾台風並みの超大型台風の襲来を受けて被災したと仮定し、生きていく上で絶対欠かせないモノを積み上げて(リストアップして)いくやり方かも知れません。その他のモノやエネルギーは、あった方が確かに便利ではあるが、無くてもどうにか生きては行けるはずなのです。

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2009年9月30日 (水)

1030 山栗

久しぶりに週末のジョギングコースを変え、これまでの川沿いのコースから、元使っていた自宅近くの裏山から続く山道にしました。東海自然歩道の一部ともなっているこの道は、ちょっとした峠道になっており、身体的にはかなりの負荷になります。

ジョギングの途中で数本の山栗の木を見つけました。通常走っている時は気づきにくいのですが、何しろこの季節は道路上に栗のイガが転がっているので、見つけるのは容易です。早朝ではなかったものの朝まだ早い時間だったこともあり、夜の間に落ちた栗は誰にも拾われずにゴロゴロ転がっていました。ズックでイガの裂け目を広げながら、小粒ながら艶々した栗をポケット一杯になるまで拾いました。それ以上拾うと重くて走れなくなるので、残りはリスに譲ることにしました。

さてそういう目で見ると、この里山には結構栗やドングリの実を付ける木が多いことにも気が付きました。これらの木は、人間を含めた動物の胃袋を満たすのにも役立ってきたでしょうし、コナラやクヌギの木は、薪炭の材料にもなったことでしょう。そういえば、小学生の頃は秋になると、町内の一家総出でその冬の薪を集めるために、数キロ離れた近くの入会林までリヤカーを引いて向かった事を思い出しました。その頃は実家の周辺で切り倒されて薪になったのは、殆どがマツだったような気がします。

しかし、現在の里山はとみれば、どこの地域でも、長い間適切な手入れ(間伐)が行われ来なかった結果、遠くから見ると確かにうっそうと茂っているようにも見えますが、中身はと見れば細い木々が込み合って生えており、それぞれは背が高くヒョロヒョロに伸びきっていて樹冠に少しだけ葉をつけているだけです。したがって地面には日も差さず下草も生えていません。林床にはフカフカの腐葉土も見当たらず、結果として土壌の保水力も弱いので、少しの雨でも河川が一気に増水し、一方少し雨が降らない日が続くと、小さな河川は水が枯れてしまいます。里山は、農業用水の確保、薪炭や食糧の「倉庫」という役割を外されて、ただひっそりと生き続けているだけの存在になってしまったようです。山栗のしっかりと固い実を味わいながら、同時に寂しさも感じてしまいました。

ところで、同じコースでアケビのツルも一本見つけました。しかし、ツルにまだぶら下がっている実も、多くは鳥に先を越されたようで空っぽになっており、昔の味を懐かしむ事はできませんでした。

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2009年9月28日 (月)

1029 浮かれ病

何故だかわかりませんが浮かれ病という言葉が心に浮かびました。たぶん、このブログで考えてきた20世紀後半とそれに続く21世紀の最初の10年も、高度成長期の浮かれ気分が抜けていないとの感慨から出てきた言葉だと思います。何が浮かれているかですが、先ず何よりそれ自体は煮ても焼いても食えない、いわば国家に対する信用だけで成り立っている、「通貨」本位制がその象徴だと言えるでしょう。特に20世紀末には、この国も、金さえあれば何でも買えるとの風潮に支配されたことは記憶に新しいところです。世界中の不動産を買い漁り、競って大型の車に乗り、ブランド品を身につけて、海外旅行に遊び呆けた時代のことです。日本の土地転がしの手法を真似たかどうかは知りませんが、B国でも懲りずに不動産バブルを巻き起こしました。

もし、これらのマネーを将来に向けた環境ビジネスの投資に向けていたら、今これほど温暖化防止に奔走しなくても済んだことでしょう。とは言いながら、過ぎ去った事を悔やんでも何も始まりません。新しい首相が国連で打ち上げた「ささやかな花火」ですが。なかなかの好感触を持って世界の元首に受け取られた様ではあります。25%の削減を10年で達成するためには、年率3%の割合で、化石燃料の消費を減らしていく必要があります。一般的に言えば、キャンペーンによる節約(ケチケチ作戦)で達成可能な削減はせいぜい5-10%止まりでしょう。2-3年すれば削減案も尽きて、削減カーブも飽和してしまうはずです。現状レベルから言えば30%を超える削減のためには、視点を変え、腰を据えた計画が必須です。

では視点を変え、腰を据えた削減計画とは何を指すかですが、それは私たちの生活スタイルの根本的な見直し無しには考えられないはずなのです。しかしこの国や、いわゆる先進国、それを追いかけつつある途上国の生活スタイルは、20世紀後半の「お祭りモード」のままで固定されたままです。私たちの理想とすべき幸福とは、たとえば旅客機の中の様に、完全に空調されたスペースで、事前に調理され・冷蔵された加工食品をレンジで「チン」して口にする事ではないはずなのです。地元で採れた旬の作物を、暑さ・寒さを体で感じながら、つつましく食べるささやかな幸せこそ「本物」で、地に足がついた生活スタイルに違いないのです。浮かれ病の熱を下げるのに特効薬があるわけではありません。しかし、緩効性の「漢方薬」やささやかなダイエットだけでは時間的にも間に合わないことも確かです。やはり、高率の環境税導入などかなりの荒療治を取り入れなければ、下熱は無理なのかもしれません。

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2009年9月26日 (土)

1028 フンバレ!年寄り

「年寄り」は決してネガティブな呼び方ではありません。歳を重ねて経験や知恵をしっかり持っている人々の総称だからです。さて、時々市民講座など温暖化防止の話や省エネの話をします。そんな場所で、環境坊主のお説教を聞いてくれるのは、時間がたっぷりある年寄りや超ベテラン主婦などになります。確かに、今のお年寄りは戦後のモノの無い時代や、二度にわたる石油ショックなど、貴重な経験をしてきましたが、今起きている地球規模の環境悪化には、何故か鈍感です。自分たちがささやかな省エネやゴミ減らしをしても、状況はそんなに良くはならない、とでも思っているのでしょうか。常に「塊(かたまり)」で生きてきた世代の一つの特徴かもしれません。忘れてならないのは、そんな彼らこそが今の日本のマジョリティであるという事実です。戦後営々として築いてきた彼らの日常行動やライフスタイルこそが、実は今の環境悪化を招いた元凶でもあるわけです。

その後始末に目途を付けないまま、退場してしまうのはあまりにも無責任な態度だというしかありません。子孫には、自分たちが受け継いだ以上の「美田=美環境」を残さなければならないのです。なぜならそれが、駅伝での「中間ランナーの義務」だからです。ある世代の人間は、死んで骨や墓を残すだけでは済みません。埋め立て廃棄物やゴミの焼却灰やさらには「気体ゴミ」である莫大な量の炭酸ガスを大気中に残したままで、お隠れになって貰っては困るのです。ささやかとは言え年金を受け取りながら、暇でヒマでゲートボール散歩やテレビ番くらいしかする事が無いのであれば、とりあえず山や空き地に木を植えるボランティアでも始めてはどうでしょう。植えた木はやがて成長しながら炭酸ガスを吸収して、何十年か後には木材や燃料やバイオマス原料として役に立つ美林となるでしょう。

悠々自適になってからのヒマは、エネルギーやお金を使いながら、それをひたすら潰すためにあるのではなく、自分が生きた証を残すために残されていると考えなければならないはずです。とりあえずは身辺を整理しながら自分が後進に伝えられそうな知恵をまとめてみるとか、それがあまり無さそうであれば元気な内に自分の体を使ってできる事と、それによって将来に何が残せるのかじっくり考えてみて貰いたいのです。ヒマが十分あるのであれば取り敢えずは車を手放しましょう。時間を掛けて歩くか自転車や電車・バスで移動すれば済むではありませんか。広過ぎる家も手放して若者に譲り、自分たちはこぢんまりとした「ソマヤ=隠居所」に引っ越しましょう。それが昔ながらの日本人のライフスタイルだったはずです。

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2009年9月23日 (水)

1027 アラル海

1026で強調した水(淡水)の重要性をはっきり目撃できる場所があります。アラル「海」です。元々は、四国程の面積を持った豊かな(海のように大きな)湖であったアラル海は、農業用水としての利用やチョウザメなど豊かな漁場としての恵みを与えていました。しかし、人間の愚行は、そこに流れ込む二つの河、アムダリア河、シルダリア河の水を農業用に大量に横取りし、上流地域の乾燥地帯で、水をより多く消費する作物、たとえば綿花などの商品作物を大量に栽培し始めました。その結果、湖の水位はどんどん下がり始め、半乾燥地帯ゆえに、残った水の濃縮も起こり、今では面積は1/3に、塩分濃度は中東の「死海」にも相当する濃さまで高くなり、元々の湖底には真っ白な塩が厚く堆積している状態です。川から流れ込む水が本当に有効利用されているのであれば。まだ救われますが、実際には工事の楽な素掘りの農業用水路からは半分ほどの水が地下に吸い込まれ、無駄に消費されています。

私たちは、人間の愚行の典型的な見本として、この湖の事を銘記しなければならないでしょうし、淡水の収奪という意味では似たような事が起こり始めている、アメリカ中西部や中国(とりわけ黄河流域)にも注目していかなければならないでしょう。重要な事は、多くの地域で農業が金儲けのために利用され、換金作物が栽培され続けているという事実です。人々の分業がトコトン進められた結果、ほとんど全てのモノの交換が通貨を介して行われるようになった現在、食糧でさえ商品として安易に扱われています。誰が、ガソリン1リットルとペットボトル入り500mlの水と米1合が同じ値段だと決めたのでしょうか。人間の生命の維持のための価値という意味で言えば、順序は当然水>米>ガソリンの順番になる事は小学生でも理解できるはずです。

石油がまだ残っているうちに、水を上手く回す仕掛けを準備しておかなくてはならないでしょう。もしそれを怠ると、私たちはかつての様にモッコを担いで、汗水たらして人力で土木工事を行わなければならなくなるのです。

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2009年9月18日 (金)

1026 生き物としての地球

地球を一つの生命体(ガイア)としてとらえる見方があります。確かに、良くよく考えてみれば地球上の生物は個々に独立して生きているのではなく、密接な相互作用や食物連鎖を繰り返しながら、太陽光をエネルギー源としながら「全体として生きているように」も見えます。無機の地球はもちろん生きてはいませんが、海洋(特に表層)や岩石が風化した結果としての土壌(表土)は微生物の塊であるとも言え、それ自体生きていると言ってもそんなに誇張ではありません。

とは言いながら、地球自体が一つの生命体であるとの言い方は極論です。しかし、たとえば人間の体とのアナロジーで言えば、やはり限りなく生命体に近いと認めざるを得ないでしょう。人体で言えば血液に当たるものは、地球で言えば水になるでしょう。というより、地球の水を血液やリンパ液として取りこんだのが生物や人間である、という順番になるのですが・・・。水は、量を別にすれば、地球上のいかなる場所(砂漠にさえ)にも運ばれます。それを運ぶポンプ、動物の心臓に当たるものは太陽光です。日射により水が蒸発し、雲になり、霧や雨や雪になって地上に降り注ぎます。それはさながら、毛細血管で人体の隅々まで運ばれる血液にも似て、その場所で多くの生命を育みます。死んだ植物や動物は、はやがて朽ちて分解され、風や雨に運ばれて再配分されます。

その大切な水を、人類だけが自然の分け前をはるかに超える量を独占し、本来それを必要とする生き物へ分け与える事を拒否してきました。近年はそれでも飽き足らず、化石時代に地下に浸み込んだ水(化石水)さえも汲み上げて使い込んでいる始末です。毛細血管が閉塞した場合、人体では実は決定的な異変が起こります。脳の血管が詰まれば脳細胞が破壊され、体の毛細血管が機能しなければ「細胞の壊死」が起こります。この場合の細胞の死は「不可逆」です。つまり一度死んだ細胞は決して元の状態には戻らないのです。

振り返って、水がほとんど循環しなくなって「壊死した土壌」とも言える場所である砂漠は、果たして再生可能なのでしょうか。確かに、水を汲み上げて送ってさえやれば、ある種の植物を育てる事は可能のように見えます。中東のお金持ち国は、海水を真水に変えて都市の緑地を灌漑し、維持しています。しかし、それは決して持続可能な生物圏とは言えないシロモノだと言うしかありません。もし庭師が数週間水やりを怠れば、殆どの植物は枯れて砂漠に戻り始めるからです。本当に砂漠を緑化するためには、現在はまだ植物相が残っている地域の面積を、「本当に徐々に」広げ続ける気の遠くなるような努力が必要なのだと思います。その結果、「生きている土壌」の面積が徐々に広がり、その上に植物相が戻り、それに依存する昆虫や動物相も回帰するという順序で再生するはずなのです。

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2009年9月16日 (水)

1025 電化中毒

このタイトルはもしかすると2回目かも知れません。便利なモノの代名詞が「電化製品」である事は明らかです。もちろん動力としては、石油を直接燃やす「内燃機関」や油圧や空気圧を利用した機械もありますが、日常使う製品としては圧倒的に電気式の機械が多くなります。電化製品は、多少邪魔なコードが付いているものの多くはスイッチ一つで動かせ、小型のコンピュータを搭載したものは複雑な機能も簡単に実現できます

さて投稿者の心配は、私たちがこの便利な電化製品の中毒になってはいないか、ということなのです。試しに、ある家庭のブレーカが何らかの原因で落ちた時のパニックぶりを想像すると、その心配はかなり現実のものとなっている事が分かるはすです。洗濯機も冷蔵庫も掃除機も動かず、テレビも音響製品も使えません。家事ができず、情報も遮断されると、多くの人間は不安になり、それが数時間でも続こうものなら、完全なパニックに陥ることでしょう。このパニック状態こそ実は典型的な「禁断症状」の一つなのです。ニコチンやアルコールや覚せい剤ではありませんが、中毒症状を改善するには、それらを遠ざけて、きっぱり断つしかありません。電化中毒改善のためには、やはり電気が無いものと諦めてしばらく暮らしてみる必要がありそうです。子供を一泊のキャンプに連れ出すのも一つの方法ですが、そこまでしなくても数時間だけの「電気の無いつもり生活」を時々実行してみるだけでも十分でしょう。その電気の無い時間が、一日の内の1/10相当なら10%の省エネが達成できるはずですし、国のエネルギー削減目標が25%なら、現在の生活時間の1/4を電気の無い時間にする必要があるだけです。

しかし、いわゆる「省エネ家電」なるシロモノはそれ自身、本来の省エネの本筋からは外れており、自己矛盾であるとも言えるでしょう。つまり、消費電力の低い電化製品への買い替えは、それを製造する過程で多量のCO2を発生しており、機器の性能だけで省エネを達成しようと考えるのは、金に頼った他力本願でしかありません。省エネ家電で事足りるなら、使用者の努力は一体どこにあるのでしょう。真の省エネ行動のためには、多少不便な思いをしながら、私たち自身が体を動かして(自前のエネルギーを使って)「汗をかく」必要があると思うのです。

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2009年9月14日 (月)

1024 湯水か空気か

日本語では、安いものの代表として「湯や水」が引き合いに出されます。「湯水のように使う」ことは、後先を考えない無駄使いの意味に使われます。投稿者としては、これに「空気」を加えたいと思います。企業の省エネ支援に関わっていて、工場の中で「湯水」を連想させるのは実は「圧縮空気」なのです。湯水と共通しているのは目に見えないということかもしれません。湯水は、透明ながら目で見ることも可能ですが、空気こそ全く見えません。従って、どこかで無駄使いをしていても誰も意識してくれない理由ともなっています。しかし考えてみれば、空気は結構コストがかかるエネルギー源なのです。空気を断熱圧縮(急激に圧縮)すると当然の事ながら発熱します。ゲージ圧7k程度まで上昇させる普通のコンプレッサーでは、約200℃程度まで上昇するのです。これでは、空気を使う機械が壊れたり、作業者が火傷したりするので、仕方がなくそれを多量の空気や水などで冷却します。このとき捨てる熱量は、投入した電気エネルギーのおおむね半分ほどにも相当しますので、冷却された圧縮空気のエネルギーとしての「使いで」は既に半分ほどに目減りしているのです。その「高い=立米当たり3円ほど」圧縮空気を湯水の様に使っている「普通の工場」を見ると、環境坊主の投稿者としてはつい涙が出そうになります。

増してや、この貴重な空気を、機器の整備不良や配管の漏れなどで、ただ浪費している現場を見ると最後には腹さえ立ってきます。とは言いながら、空気の漏れは目には見えません。実際には、休憩時間に耳を澄まして空気漏れる「シュー」という音を聞くか、あるいは怪しい所に手さえかざせば簡単に発見できるのです。天井付近の配管でも漏れの発見は簡単です。釣り竿の先に、細く裂いたビニールテープをくくり付け、天井を走っている空気配管の継ぎ目に近づければ良いのです。

圧縮空気は、普通の製造業では総エネルギー消費量の25-30%を占めると言われています。しかし、このエネルギーを絶対に必要とする機器は実は限られています。エアシリンダーで動く機器や、製品を吸いつけるエジェクター等です。多くの圧縮空気は、実は製品のゴミを吹きとばしたり、あるいはプロセス途中で製品を冷却したりする用途にその多くが使われているのです。部品の掃除なら掃除機やブロアで、冷却ならファンやブロアで十分事足りるはずです。圧縮さえしなければ、電力はほぼそのままの「使いで」で空気の流れを作ってくれるのです。もし、空気の無駄使いだけを止めて半減できれば、工場の消費エネルギーは少なくとも15%は削減できるはずなのです。別の工夫を組み合わせれば、30%の省エネは決して無理なハードルとは言えないでしょう。湯も水も空気は決してタダではないのです。

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2009年9月11日 (金)

1023 削減目標

次期首相の打ち上げたCO2削減の中期目標が話題になっています。A生首相より数歩踏み込んだ「やや野心的」な数字に、環境に敏感な人は歓迎する一方、産業界からはあまりに高いハードルだとブーイングも起り始めているようです。ブーイングの理由は一つです。企業や家庭では、高い削減目標達成のために大きなコストが発生し、ひいてはそれが重荷になって経済が減速するのだとか。しかし、この論理は投稿者には全く理解できかねます。なぜエネルギーを節約すればコストアップになるのか論理のつながりが見えないのです。確かに、たとえばある企業が今持っている重油ボイラーから、よりクリーンで省エネ型のLNGボイラーやコジェネに設備を更新すればお金はかかるでしょう。しかし、真の省エネとは今の重油焚きボイラーのままで済ますけれども、その燃料費の3割削減を達成することなのです。

確かにこれは難しい取り組みにはなりますが、決して不可能ではなく、その手法も色々考えられるでしょう。例えば、現状の加工プロセスを、より少ない燃料で今と同じ製品ができる様に改善すること、あるいはプロセスで使った蒸気の廃熱を使って、いくらかでも発電回収して工場の電力を削減すること(廃熱発電)、あるいはプロセスイノベーションにより、熱反応ではなく圧力や振動で加工(反応)が進む方法(たとえばソノケミカルやメカノケミカル法)を適用する事などが考えられるでしょう。「真の」省エネルギー活動で使うべきはお金ではなく、頭なのです。小難しい科学・技術すら不要です。これまで培ってきたローテクと知恵+工夫で十分だといえます。

さて1990年比で言えば30%を超える省エネが、実際問題として果たして可能なのかどうかですが、実はその実現は政策的に見れば結構簡単です。それにはアメとムチを使い分けます。アメとは、省エネ投資や省エネ行動に対するインセンティブ(ご褒美)であり、省エネ減税や省エネ助成金を指します。一方、頭と少しのお金を使うことを惜しんで、あまり省エネ行動をしない企業や人からはビシッと税金を取ります。環境税です。両者が丁度バランスを取る規模ならば、社会全体としてあまり文句は出ないでしょう。アメとムチを併用すれば、元々工夫が好きな国民ですから、たった30%程度のささやかな省エネなど楽観的過ぎる目標だとさえ言えるでしょう。

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2009年9月10日 (木)

1022 畏れと感謝

現代の社会に最も欠けているのは、実はこの二つかもしれません。古の時代、ご先祖様たちは自然を畏れ敬い(奉り)、毎年の収穫に対しては感謝の祈りを捧げてきたはずです。災害が起こるのは自然の怒りの結果であり、収穫を手に出来るのも自然の恵みであると考えてきたわけです。日本には八百万もの神々が存在するゆえんです。しかし、作物が石油(化学)やどこか遠くの土地(多くは海外)を使っての大型機械農業で大量に作られ、消費者の目に触れない流通システムに乗って、忽然とスーパーの店先に並ぶこの時代、食べ物対する感謝は「ほぼ完全に失われました」。増してや、自然災害の起こった地域の当事者は除けば、風水害や地震などの自然の脅威に対する畏れの意識は、極端に希薄になっているのでしょう。その僅かな畏れさえも、表面上のインフラが復旧するにつれて、数か月後には忘れてしまうのが人間の常ではあります。

これは何より、私たちが自然の移ろいにあまりにも鈍感になってしまった事にその原因がありそうです。つまり、人工的に管理された「環境」に暮らすことに、あまりに慣れ過ぎてしまった結果だと思うのです。人間を含む生き物は、実は環境との相互関係やそれとの戦いを潜り抜けて来たからこそ、高度な進化を重ね得たのだと想像しています。原種と呼ばれる植物が、人間の改良した作物に比べ逞しいのも、厳しい環境に晒されてそれに適応してきた結果だと言えます。時々想像するのは、収量が多く、味も良いという理由で、現在広く栽培されている作物が、実は今後予想される気候変動や、あるいはある種の昆虫やそれが媒介する微生物に決定的に弱い性質を内在している場合、ある年に突然にそれらが壊滅的な被害を蒙る悪夢です。そこで生き残るのは、荒れ地でひっそりと生きのびている原種だけという恐ろしい夢です。残った原種を再度改良して、今ある様な作物の性質レベルまで改良を加えるのに一体何年掛かり、その間にどれほどの人が飢えて死んで行くのか、想像すらできません。

キーワードは、多様性の確保だと思われます。遅まきながら、来年名古屋でそのための会議が開かれますが、果たして人間の力で何ができるのか、できるとしてそれが間に合うのかどうか、真剣に心配しています。

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2009年9月 8日 (火)

1021 積極的中毒

B国で、某有名歌手が変死した「事件」は、たぶん氷山の一角なのでしょう。鎮痛剤や睡眠薬に依存するか、あるいは覚醒剤に手を出すかはホンの偶然に過ぎないのかも知れません。別に、芸能界のゴシップに興味はありませんが、今日は、もしかしてこれは今の社会に敷衍できる現象かも知れないと、つい考え込んでしまいました。

私たちが、モノやエネルギー中毒になっているかもしれない事は、このブログでも度々書いてきました。それらから得られる快感を維持するためには、何しろ景気が常に右肩上がりになっている必要があるでしょう。明日が今日より豊かだろうとの確信が、人々をさらにモノやエネルギーに走らせる原動力になるからです。しかし、逆に右肩下がりがますます顕著になってきた近年、人々の消費意欲はすっかり減退してしまいました。いわば、景気の「うつ」状態だとも言えるでしょう。「うつ」状態に速効で絶大なる効果を発揮するのが覚せい剤ですが、内向的で「うつ」傾向の人が多い作家などにこの薬をたしなむ人が多いのは故無しではありません。締め切りに追われ、書き続けるためにこの薬物の中毒になってしまった作家の何と多いことでしょう。

さて、私たちの社会です。うつ傾向の景気を刺激するために今打たれている手の多くは「覚せい剤的対策」に過ぎません。快感が得られる時期を過ぎると、それ以前にも増した虚脱感に襲われることでしょう。それを回避するためには、さらに強い効果のある刺激が求められるでしょう。これは、まさに「景気覚せい剤中毒」症状に他なりません。中毒を回避するには、やはり辛くても薬を遠ざけなくてはなりません。そのためには、明日が今日より物質的に貧しくなって、エネルギーにも不自由する時代になるにしても、その何倍も精神的に豊かになる術を、私たちは会得する必要があるのです。新しい車や、家電製品を買って得られる幸福は1週間も持続しませんが、会心の俳句をひねった時の幸福は、それを読み返すたびに蘇る幸福感なのだろうと想像しています。薬物中毒の対極にあるのは、実は自分が努力しで得られた結果に対する幸福感への中毒なのかも知れません。これは、もちろん受動的な中毒ではなく、「積極的中毒」と呼ばれる状態に他なりません。

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2009年9月 5日 (土)

1020 豆ドングリ

昨日は射水市に日帰り出張でしたが、夕方に近頃経験した事がない様な短時間豪雨に見舞われ、帰りの電車も落雷でストップして足止めを食らいそうになりました。とっさの判断で10km少し離れた富山駅までタクシーを飛ばしたら、こちらは雨がほとんど降っておらず、高山線の入っていく山側では日も差していたくらいで、拍子抜けしました。まさに、狭い場所にドッカリと雨を降らす「ゲリラ豪雨」を見た思いがしました。

さて今日は天気も良いのでいつものジョギングコースを走りましたが、久しぶりなので息が切れました。8月には、いくつかの「結構ハードだ」と言われている山に登ったので、体力はそれほど落ちていない様な錯覚に陥っていたようですが、どっこいそれは急降下しているようです。これからは、その加速度に必死に抗うことになりそうです。川沿いのそのジョギングコースでは、結構多くの種類の植物や昆虫・動物を見ることができます。今日は、道沿いの木にドングリ実を見つけました。大きさはまだ直径5ミリ以下で、まさに豆ドングリです。葉は小さくてすべすべしていたので、シイやクヌギではなく多分カシの類でしょうか。びっしりと小さな実をつけて、実りの秋を待っているようです。

帰りがけの畑の横には野菜の直売所があり、顔見知りの農家の夫婦が野菜や果物を売っています。今日は、面白い縞模様のあるウリを2種類買いましたが、どちらも初めて見る種類でした。味が楽しみですが、食べごろはヘタがポロリと取れるタイミングだとか。2-3日机の上に置いて眺めながらじっと我慢する必要がありそうです。こんな何の変哲もない日々の生活が、実はこの上ない幸せな時間なのではないか、と50数年の年齢を重ねてやっとそう思えるようになった気がします。何か遠い回り道をしてきたのではないかとも思います。技術屋として、鉄やアルミやカーボン繊維と格闘してきた日々の意味は一体何だったのか、と改めて考えています。今日も豆ドングリとウリを眺めながら、技術屋を卒業するという自分の判断は、それほど間違っていなかったのだと、密かに噛みしめています。

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