2020年1月26日 (日)

3707 最初に決断ありき2

素材の脱化石燃料が進んだとしても、GHGの大幅抑制が進む訳ではありません。それは、家電に囲まれ、雨に濡れずに車で移動する「便利過ぎる」私たちの生活スタイルを変えないからなのです。便利過ぎる生活スタイルを支える、便利過ぎる家電、自動運転まで視野に入って来た快適過ぎる車、冷暖房が完備された快適過ぎる住宅や職場、調理済みでレンチンだけでありつける超便利な食事、これらの利便が欲しい時にすぐ手にできる様にできる流通業などを機能させるためには、膨大な量のGHGの排出が前提となるのです。
これらにどの様な有効な網が掛けられるか、甚だ疑問でもあります。「炭素税」が、いくつかの国で提案されつつある有効な法制(税制)の一つでもあるのですが、これは間違いなく経済活動にブレーキとなる政策でもあります。炭素税こそ化石燃料を使う活動を直性抑制する仕組みだからです。しかし、採掘、製造、流通、廃棄までのGHG抑制に最も有効な手段の一つでもあるのは間違いないでしょう。つまり、私たちの選択肢は限られているという事です。経済成長を諦めて、GHG抑制に勤しむか、あるいは欲望のままに振舞って、温暖化と心中するかの二択です。現状維持が中立かと問われれば、温暖化にブレーキが掛けられないのですから後者を選んだ事になります。
最初に決断ありきとの表題にしたのは、私たちには前者の選択肢しかないと言いたかったからです。温暖化による災害を食い止めるには、この国の、最終的には全ての国々でGHG排出ゼロをゴールと定める必要があるのですが、問題は大多数の人々の豊かになりたい(便利で食べ物に困らない生活をしたい)という欲望を政策や法制で抑え込むことが可能か否かだと言えそうです。それが如何に難しいことであるかは、COPを何十回開催しても、不十分であいまいな削減目標の合意しか得られない状況一つを眺めても明らかです。スエーデンの元気のよい女の子の世代がCOP会議に出席する様な時代(数十年後)まで待たなければならないとすれば、結果的に私たち世代は、後の世代に、温暖化との心中を選んだ世代という烙印を押されることになるのでしょう。不便を楽しみ、便利さへは決別するという決断がいま必要です。

 

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2020年1月24日 (金)

3706  最初に決断ありき

人為的な温暖化効果ガス(GHG)の排出抑制になかなかゴールが見えません。原因ははっきりしています。それが、経済的繁栄と矛盾するかあるいは、それにブレーキをかける可能性を恐れているからです。それは、既に工業化に成功して繁栄を享受している先進国にも、あるいは今工業化を加速し、先進国に追いつこうとしている途上国も、あるいはそれに取り残されて今ガムシャラに経済力を高めようとしている国々にも共通した恐れでもあります。量としてみれば、GHGの排出源の大半が化石燃料起源のものであることは容易に想像がつきます。現在の経済の仕組みでは、先ずは石炭・石油・天然ガスを地下から掘り出すことが、経済活動のスタート地点でしょう。最初に産油国が経済の指標である石炭・石油・LNGマネーを手にする訳です。工業国では、その化石燃料を利用して、工業製品の原料としたり、発電や輸送に使って工業化マネーを手にすることになります。それを、世界中に張り巡らせた輸送ネットワークを使って、輸送を担うキャリアやAマゾンなどのディストリビュータが流通マネーを生み出す訳です。この全ての経済活動の過程で、残念ながら多量のGHGが排出されることになります。結局経済活動を活発にし、経済指標(例えばGDP)が成長すればするほどGHGも増え続けることになります。
つまりGHGの抑制には、先ずは経済活動のスタート物質である化石燃料から脱却する、つまりは脱化石燃料が最初のアプローチになります。工業原料としての化石燃料から、自然物であるバイオマスなどへの転換が必須です。だからと言って、プラスチックの原料を(本来食料であるべき)コーンなどの穀物に求めるべきではないことは明らかでしょう。そうでなくて、プラスチックの使用量を極端に減らすか、あるいは100%リサイクルの仕組みを作るかして、脱化石燃料を達成するしかないのです。
しかし、便利過ぎて安価なプラスチックに変わる素材はなかなか現れそうにもありません。先ずは、工業製品に使われるプラスチックの種類を極端に減らし、100%リサイクルの仕組みを確立すべきでしょう。例えば、複写機などの業界では、この動きはほぼ達成されていると考えて良いでしょう。しかし、家電や車など量の多い産業では、その兆候も限定的です。必要な法律は、製造した企業=メーカーが、廃製品の回収まで責任を負うものであることは間違いないでしょう。メーカーは、自社製品に使われている素材を熟知していますから、廃製品から外した部品を100%リサイクルするのも容易でしょう。プラスチック部品を外したら、それを洗浄・破砕し新しい部品の射出成型に回す訳です。続きます。

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2020年1月23日 (木)

3705  温暖化考2

近年のこの国の暖冬傾向は一応理解できたとはいえ、では南半球、とりわけ豪州の干ばつはどう考えたらよいのでしょうか。確かに、豪州の夏場は大陸を高圧帯が横断し、雨の少ない時期続きます。だからこそ、この大陸の中央部には荒涼たる平原や不毛の砂漠地帯が広がっている訳です。この高圧帯は、当然の事ながら南極大陸にデンと居座る極気団に起因するものではあるのですが、干ばつが長く続く理由としては、この高圧帯に南北方向の動きが殆ど無く、乾燥気候に変化が無いことが挙げられるでしょう。これが、北極気団と南極気団の大きな相違ではないかと見ています。
つまり、北極気団は確かに浮氷の縮小=海水温上昇による温暖化の結果縮小はしてはいますが、クローバ型の(ジェット気流)蛇行により、それなりに寒波も来るのですが、大陸に分厚い陸氷が載っている南極では、季節に関わらず比較的気温が安定しているので、ジェット気流の蛇行も限定的なので、その結果同じような気象条件が続いてしまうのでしょう。加えて、地殻変動からは隔離された様な古い大陸である豪州は、地表に凸凹が少なく、ジェット気流の蛇行やカルマンカ渦による低気圧を発生させて降雨をもたらす様な標高の高い山脈も存在しないのです。
その結果が、この数か月続いている豪州の干ばつと、山火事の頻発なのでしょう。この事と温暖化がどう関わるかですが、やはり高圧帯下の気温の上昇=湿度の極端な低下が干ばつの長期化と山火事発生の決定的な原因となっていることは間違いないでしょう。いわば、豪州の現状は、「山火事発生条件のしきい値」(温度と湿度から導かれるもので、ある気温以上、ある湿度以下の条件に風速を加味した係数)を大きく超えていると想像できるのです。しかし、残念なことに人類にこの三大条件をコントロールする能力は与えられていないため、私たちには発生した山火事に対し、消火活動を行う事しかできないのです。消極策ではありますが、私たちに残されている選択肢は、ひたすら温暖化効果ガスの発生を究極的にはゼロに抑え込む努力を重ねるしかないのでしょう。勿論、この干ばつ災害の裏返しとして、地球上の何処かでは逆の豪雨災害に見舞われている筈なのです。

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2020年1月21日 (火)

3704 温暖化考

異常な冬です。何しろ雪国のここ秋田で、平野部では積雪が完全にゼロですから。少し雪が降って積もったのは年末だけで、その後は少し雪が舞って白くなってもすぐ消えてしまう日が続いています。例年1月は、日中の気温が0℃+/-2℃程度の日が多く、田んぼには根雪が見られる季節なのですが、今年の田んぼは土色のままです。
原因が知りたくて、北極周辺のジェット気流の状態を調べてみました。その結果、今年は(も)どうやら北極気団のサイズが小さい様なのです。冬場、北極周辺には冷たい空気が沈降し、北極気団を形成します。その気団の周囲から吹き出す風は、コリオリの力により気団の周囲を巡る気流(ジェット気流)を作り出し、結果的には冷たい気団を閉じ込める働きをするのです。気団のサイズは、北緯40度以北を覆う程度なのですが、地形の影響を受けリング状の気流は、蛇行しクローバの葉の様な形状に歪むのです。その葉の部分が日本列島に下がって来たタイミングで、気象庁は「寒波襲来」を告げるのですが、今年はジェット気流の輪が小さく、日本に届いていない様なのです。
つまり、投稿者の結論としては、北極海の温暖化により、北極気団が弱く、サイズも小さくなった結果、寒波が日本に届いていないと見ています。そもそも、強い気団はほぼ真円形になっているのですが、最近の気団の形は楕円形になっている様なのです。しかも、その楕円の長径が日本には掛かっていないので、暖冬傾向が長く続いているのでしょう。北極圏の弱い気団の原因は、間違いなく温暖化です。夏場の浮氷は、近年は広い面積で消失してしまう結果、白夜の太陽光が間断なく海水を温め、結果として次の冬季に結氷が遅くなり、氷の厚みも薄くなる訳です。それは、北極圏の平均気温を押し上げ、気団を弱めることに繋がるのです。続きます。

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2020年1月18日 (土)

3703  過疎に勝つには3

過疎に勝つには、やはりどこまで行っても若者を引き付ける雇用の確保に尽きるでしょう。林業や漁業や農業あるいは建設業等は、いわゆる3Kの職業と呼ばれ、敬遠されてきたのでした。しかし、体が暑さ寒さに晒されることを除けば、近年はそれぞれの業界で機械化、自動化、IT化が進み、ゲームで育った世代には、それらの機器をオペレートする事への興味が湧くかも知れません。例えば、建設業ではドローンやレーザーを使った測量や3DのCADによる設計と、その後の工事における自動化された重機のオペレーション等、農業においても誤差数十センチの新世代のGPSによって、半自動で農地を耕作し、更には農作物の管理をドローンや衛星画像を利用して行うなどの新しい動きも活発になってきました。
更に温室内で全ての環境(温度、湿度、光量、炭酸ガス濃度等)を管理する形の農業もかなり盛んになってきた様です。勿論これからの時代、石油をがぶ飲みする、従来の温室農業やLED照明農業は廃れる運命にあります。自然の陽光や地熱あるいはCO2コントロール等の工夫を積み重ねた新しい温室農業が求められるでしょう。それは、これまでの3K職業としての農業の概念を覆すものとなるはずです。そこには、単に農業だけの知識だけではなく、工学やITやIoTなどの知識もいる筈なのです。ここにこそ、若者の活躍する場が広がっているのです。
林業でも単に樹木を木材として利用するだけではなく、バイオマスエネルギーやセルロースナノファイバーや工業材料としての圧縮木材など、多面的に利用することによって、伐採して山から降ろす際の「立米単価」も現状の倍以上に設定できるため、林業従事者にも十分な収入が期待できるでしょう。
農林業あれ、漁業であれ、建設業であれ、いずれの職業ししても、最終的にはそれが10年後、100年後までの「持続可能性」が十分高いことが求められます。そうでなければ、20世紀が石炭・石油の時代であった様に、新しい農林業、漁業や建設業も、アッという間に一時代の流行に終わってしまうかも知れないのです。

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2020年1月13日 (月)

3702  過疎に勝つには2

少し昔(投稿者が子供のころ)を思い返してみると、経済はほぼ地域完結型だったのです。つまり、地域で必要なモノ地域で生産され、消費されていたのです。その地域で生産できない、いわゆる工業製品はもちろん工業地帯で生産され・輸送されますが、食べ物や飲み物は勿論、日用品や軽工業品はほぼ100%地産地消であった訳です。
例えば、薪ストーブですが、その頃は鋳物でできたストーブなど見ることはなく、ほとんどがブリキのストーブでした。これだと、町の板金屋さんが屋根工事の合間や「夜なべ」でトンカン槌を振り上げれば、地域内で生産することが可能なのです。投稿者が生まれた町(全国各地の田舎町も同じでしょうが)には、こうした板金屋、鋳掛屋、鍛冶屋、桶屋、自転車屋、建具屋などがたいていは町内毎に散在し、地元のニーズを満たしていたのです。加えて、町の中心部には朝市が立ち、近郷からは農家の主婦が、野菜や農閑期に作った日用品などを、夏は手押しの4輪車やリヤカーで(冬は箱ソリ)で運んで来るのでした。
人口は、たぶん現在の倍くらいだったので、城下町で道狭い町の中や駅前には人通りが途切れることはなく、川向うの町の端に住んでいた投稿者は、30分ほどかけて町の中心部を抜けて、南の城山の麓にある小学校に通っていたのでした。しかし、ブラックホールの様な都会は、田舎町の人口を、悪魔の様に吸出し元々密度の高い都市の密度をさらに高めたのでした。結局、ブラックホールとしての都市機能が、その高すぎる密度に耐えられるなくなるか、あるいは決して望ましくはないのですが、大震災や大水害などで住めなくなるかのいずれかのタイミングでしか都市ブラックホールの引力が弱まる事は無さそうなのです。悲しい結論ですが、田舎町が本格的に過疎に打ち勝つには、地道な地産地消の努力を重ねつつも、都市の崩壊まで辛抱強く待つしかない、というのがここでの結論になりそうです。

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2020年1月10日 (金)

3701  過疎に勝つには

仕事で、A森県の山間部の村に出かける機会がありました。聞けば現在の人口は2千人余りとのことで、ピーク時のおよそ半分にまで減少中の様です。山間部のため農地も広くはなく、林業と農業、牧畜などが主な産業で、加えて昔からの建設土木業の企業がある程度です。観光資源も少なく、加熱している温泉施設やなぜかかなり古くに作られた「キリストさんのお墓」がある程度でした。例に漏れず少子高齢化が進み、村の中で出会う人の殆どは60代より上に見えました。とはいえ、考えてみればこの様な村や地域は、全国の山間地や離島の何処に行っても目に付くはずなのです。
しかし、良くよく観察してみると、この村には水量が豊富な3本の川が流れていて、山には先祖が植えた豊富な木があり、更に奥に行けば手つかずの天然の自然も残っているのです。山の木(バイオマス)と、豊富な川の水(水力)と、家畜し尿を使ったバイオガスなどを組み合わせた再生可能エネルギー源を利用すれば、たぶんこの村のかなりのエネルギーが自給できそうなことに気が付きます。そうなれば、これまで村民が外部の石油会社(最終的にはアラブのお金持ち)に支払っていたお金が、村内で回り始めることになるでしょう。少なめに見積もって、一戸当たり5万円としても、村内1000戸では5,000千万円程度の金額になるはずです。この金額が村内で回り始めれば、10-20人の新たな雇用も生み出せると試算できます。つまり、お金をできるだけ村から出さない工夫をすれば、その分を新たな雇用に向けることが可能であるという事なのです。
南ドイツにレッテンバッハ村という数千人の村がありますが、そこでは太陽工発電、ナタネ油から作る燃料、木材+バイオマス燃料、林業、農業、牧畜業を組み合わせて、ほぼエネルギーの自給と食料自給を達成したのですが、その仕組みを見学に来る観光客向けには村営のホテル建て、バイメタルの地域通貨まで作って、ほぼ「閉じた小さな経済圏」を作ってしまったのでした。
同様の仕組みが国内で実現できない筈はないでしょう。上記の村では、村長が一念発起し半分ボランティアでこの仕組み作りをけん引してきたのでした。その結果、子育てにも理想的な環境であることもあって、都会から若者も移住し始め、結果として人口も2倍に増えてきたのでした。この村のケースは、最初に述べたA森県の村の状況の真逆であることが分るでしょう。少子高齢化と過疎の悪循環を止めて、そのサイクルを逆転させるには、先ずは地域からお金を外に出さないで、その分を地域内の雇用に向ける工夫こそ必要な第一歩だと、日々確信する今日この頃です。

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2020年1月 7日 (火)

3700  装備に頼るな

3699で述べたように、山下りが避けられないとして、見通しが効かないルートを移動するのに、例えばGPSや最新式の装備(文明の利器)を使って新しいルートを探す方向もあるでしょう。一方で、足元をしっかりと確認しながら、一歩一歩元来たルートを引き返すという考え方もあるのでしょう。しかし、考えてみなければならないのは、最新式の装備を駆使したとしても、それが全く未知のルートを指し示してくれる訳ではないという点です。つまり、未知のルートには、実は道などできておらず、自分で岩を避けたり、藪を切り開かなければならないかも知れないのです。いくらGPSを持っていたとしても、そのGPSには道など示されていないのかも知れませんし、そうこうしている間にGPSの電池(化石エネルギー?)が切れてしまうかも知れません。
いま私たちが手にしている文明の利器、電化製品や移動手段や化学製品などは、現在の(山の上の)生活を便利にするために作られ、使われていますが、それらは私たちの本来持っている能力を棄損しこそすれ、補強してくれるものでは決してないでしょう。具体的には、子供たちの平均体力は年々低下し、大人たちはと言えば生活習慣病に怯えながらも、洋風の食べ物を腹いっぱい食べるという「飽食生活」をやめることができないでいます。
そうではなくて、私たちは自身の基本的な生活能力を高めながら、文明の利器に頼り過ぎることなしに、自分自身の足でルートを踏みしめなければならないと思うのです。その時辿るべきルートは、霧に巻かれて見通しの効かない山頂部ではなく、これまで歩いてきたルートを戻り、見通しの良い山の中腹より下を目指すべきであるのは当然でしょう。勿論そこでは、山の上で享受してきた様な、物質的に豊かで、文明の利器に囲まれた生活は期待できないのでしょうが、たとえ物質的にはやや貧しくも少なくともココロ豊かに、ココロ安らかに、のんびり暮らせる生活が待っている筈なのです。私たちの今の便利でモノやエネルギーに溢れた生活が、如何に脆く、それを得る競争のために如何にリスクに囲まれているものであるか、昨今のきな臭い国際情勢を見るまでもなく、思い起こすべきでしょう。

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2020年1月 3日 (金)

3699  戻る勇気

同様の投稿を言葉を変えて何度か書いています。今の社会が視野狭窄で、ココロや幸福感を置き去りにしているとして、ではどうすれば良いかですが、当然の事ながら先ずは立ち止まって、できれば少し戻って何を為すべきか考えてみる必要があるでしょう。後戻りです。これまでは、進歩は100%良いことである、停滞や後戻り(退歩)は悪でしかないとの「前のめりの考え方」が社会を支配していました。しかし、進化の歴史を眺めても、人間社会の歴史を振り返っても、前進と停滞と時には後退を繰り返してきたはずです。時には、マンモスや恐竜の様に、環境の変化に対応できなかったために、絶滅してしまった生物も多かったはずです。
しかし、それでもなお人間が、自然が許容できるスピード以上に環境に悪影響を与えながら進歩を止めないのであれば、自然は、何らかの警告を与えないではおかないでしょう。近年の自然災害の多発もそうした「警告かあるいは罰」の一部なのだと考えるしかありません。自然は、強力な復元力あるいは「ホメオスタシス(恒常性)」を内在していますが、しかしそれを超えるような変化には対応できず、急速な変化ももたらすでしょう。これをカタストロフィー(破局)と呼びますが、これは後戻りできない変化であり、いわゆるフィードバックが効かない変化でもあるのです。破局が起こるのは、変化のスピードや度合いが限界(しきい値)を超えた時に起こります。
最新の科学者の研究からも、人間が引き起こした環境への(悪)影響が、今後の10年も同じペースで続くと仮定した場合、間違いなくこの環境変化の「破局」が引き起こされると警告されているのです。その最たるもので最初に起こる破局は間違いなく「温暖化の加速」でしょう。温暖化がこれまでのペースで進むのではなく、歯止めが効かなくなり加速し暴走するという警告なのです。人間で言えば、単に風邪をひいて39℃程度の発熱をするのではなく、40℃をはるかに超えて命に関わるほどの高温を発するという事でもあります。その事態は、体温がまだ30℃台だった時に、医者の警告を無視して働き(あるいは遊び)続けた結果の末路だと言えるでしょう。私たちは、まだ医療が効く症状のうちに、安静にして症状を鎮めるべきなのでしょう。10年前に戻っても、投稿者が社会に出た1970年代に戻っても、私たちはそれなりに豊かさや、少なくとも将来に対する夢が描けていたと振り返っています。私たち(登山者)は、登った山の山小屋(都会?)に長く留まる事は出来ず、必ず麓(田舎?)に下山しなければならないのです。私たちは、間違いなく「今の文明の頂上」に立っているのです。このまま、見通しの効かない濃霧の中を進み続ければ、間もなく切り立った崖に迷い込み、10年以内にはその崖から滑り落ちるとの警告を受けているのです。新年の(かなり暗い)展望でした。

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2020年1月 1日 (水)

3698 置き去り

さて新しい年です。3697の続きですが、新年らしいコメントも交えます。近視眼的なビジョンについて書きましたが、これを別の見方で喩えると、それは「置き去り」だとも説明出来るでしょうか。科学が何を置き去りにしてきたかと言えば、それは人間としてのココロや幸福感の様な気がします。それは、科学が常に人間の先を行かねばならない必然性を背負っているからに他なりません。もし、科学が過去に遡るだけのものであったと仮定すれば、それはすなわち考古学であり歴史学になってしまうでしょう。もはや常に時代の最先端を走らねばならない学問になってしまった科学にとって、人間のココロや幸福感などに構っている余裕などないのです。ガムシャラに突っ走るしかないのです。
政治の世界ではどうでしょう。その前に、今の政治は経済に引っ張られ過ぎているいることを指摘しない訳にはいかないでしょう。経済が回って初めて、政府は税金が入り、予算が立てられる訳です。従って、政治は経済界に忖度せざるを得ないし、逆に経済界も政治を意識しないではいられないのです。しかし、その経済は規模が余りにも拡大してしまったが故に、どうやら一人歩きを始めた様なのです。つまり、経済の主体である「お金」が自分自身を太らせるために、ガムシャラに経済に拍車を掛けているという事の様なのです。そのために、お金がお金を生むための仕掛けを作りまくりました。GAFAと呼ばれるジャイアントを筆頭に、似たような仕組みが世の中の経済をリードし、あるいは牛耳っているのです。
ガムシャラに走っていると、車に乗っていても気が付くように、速度が上がるにつれて視野が狭く、より遠くに視点を送るしかないのです。そうでないと、早い速度に対応するハンドル操作が遅れてしまうからです。科学ももはや経済的パフォーマンス抜きには存続が出来にくい時代に入ってしまった様です。つまり「視野狭窄の二乗」と言えるでしょうか。この掛け算は、ココロと幸福感をさらに後ろに置いて、更に加速してしまうのでしょうか。車を運転していると仮定して、終わりの無い加速が何を意味するか想像してみると、ハンドルでコントロールできなくなってカーブから飛び出すか、あるいは車が速度に耐えられなくなって破壊してしまうかのいずれかでしょう。動き出した車は、やがて止まらなければならないし、離陸した航空機は間違いなく着陸しなければならないのです。停止したり、着陸したりする先は、人間のココロであり、幸福感という大地なのだと言うしかないでしょう。新年からやや暗い論調になってしまいましたが、科学や経済がそのスピードを緩めて、足元を確認するだけで視野は急激に広くなるはずなのです。

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2019年12月31日 (火)

3697  危険なビジョン2

科学者の視野狭窄より酷いのが、いわゆる「政治屋」のそれでしょう。彼らには、目先の選挙での勝利しか見えておらず、取りあえずは有権者の「直観に訴える言葉を連呼」するしか能がないのです。その主張は、現在の危機を煽りながら、少しはマシに聞こえる政見を抽象的な言葉でガナリ散らす訳です。その中身は、主に景気を良くし、そのおこぼれが庶民にも及ぶ様に聞こえるものである場合が殆どです。つまり、出発点が現在か少し前の過去をあげつらい、自分の主張がさも最善である様に論を展開する訳です。
自分たち世代だけが、化石エネルギーや短期間の好景気を享受しさえすれば、そのツケを後の世代に回そうがどうなろうが「知った事ではない」という態度は厳に慎むべきなのです。政治屋は、まさにそうした「現世代エゴ」に付け込む輩だという事ができます。それをポピュリズム政治と呼ぶ人も居ます。
そうではなくて、私たちはまず将来あるべき社会の姿(ビジョン)を描いてみるなのべきでしょう。しかも、そのビジョンは自分たち世代を超えて、次世代かそれ以降の世代の幸福を見据えるべきなのです。そうでないと、現世代のエゴに陥るからなのです。現世代のビジョンが正しかったかどうかは、現在が未来の歴史になった時に検証されるのでしょう。その意味で、間に平成という時代を挟んで、昭和がかなり遠くなってしまった今、改めて昭和という時代を、戦争前後に分けて反省を込めて振り返ってみるべきだと思うのです。戦後の時代を、バブルという狂乱の時代でさらに二つに分ける必要があるかも知れません。すなわち、戦争に突き進んで言った「軍部狂気の時代」、兎に角、大きいことは良いことであり、先ず右肩上がりありきで24時間戦い続けた「高度成長期」、実態の伴わない価値?の膨張に狂喜乱舞し、それがある日突然破裂した「バブル崩壊後の時代」の三時代です。
投稿者は、戦前の時代は直接には知りませんが、残りの昭和時代を知る者として、いずれもが、今しか見ていない危険なビジョン(視野狭窄)の時代だったと振り返っています。何より、それらが間違いなく「持続可能ではない」時代だったことがそれを証明している筈です。野心に満ちた国土拡大も、終わりの無い成長も、実態を伴わない価値だけの泡やその泡の破裂も、それを受けての何とかミクスも全て、今しか見ていない近視眼的なビジョンに立脚しているのです。さらに続きます。

 

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2019年12月30日 (月)

3696 危険なビジョン

科学者が、来るべき未来を予測する場面も多いのでしょうが、それはロクな事にならないのは歴史が物語るところでもあります。というのも、およそ科学者という存在は、自分の研究分野以外は殆ど目に入らない、視野が狭い人達だからです。勿論、自分の研究分野は他の誰よりも深く掘り下げ、綿密に研究していることでしょう。しかし、ビジュアル的にも想像できる様に、穴を深く掘れば掘るほど、周りの景色は見えない筈です。周りは自分が掘った穴の壁だけで、ほかに見えるのは、上の方にポッカリと小さく見える空だけでしょう。
科学者たちは、結果的に見れば多くの危険なモノを考え出し、技術者たちがそれを実用化してきました。ノーベルのダイナマイトは言うに及ばず、アインシュタインから始まりオッペンハイマーのプロジェクトで完成を見た原水爆、V.ブラウンを嚆矢とするミサイル、ライフル銃における螺旋状の溝は、銃における命中率と殺傷能力を飛躍的に向上させましたが、それを発明したのは誰だったでしょうか。いずれにしても、それらは人類を豊かにするどころか、非常に危険な発明や発見であった訳です。
何かに例えるとするなら、科学者やそれをサポートした技術者は、いわば「競馬馬」だと言えるかも知れません。競馬馬には、左右の競合相手が見えにくいように(前だけが見えるように)種々の目隠し(ブリンカーの様なもの)が装着されます。科学者は、自分の研究が論文として認められる様に、穴の中でさらに横穴を掘り続け、技術者はそれらの研究成果を金儲けにつなげるために日夜走り続けるのです。
しかし、彼らに決定的に欠けているのは、世界や森羅万象を眺める広い視野だと思うのです。同様に欠けているのは、長い進化や文明の歴史を振り返る長いレンジの視野(歴史観)だとも思うのです。残念ながら、科学的な立場に立ちながら、同時に広い視野や歴史観を持っていると思われる人物は、寡聞にして殆ど知りません。それを一人の人間で実現するのは、たぶん人間の脳の処理能力の限界を超えているからかも知れません。だからこそ、とりわけ一分野に秀でた人は、他の事が見えなくなって危ない方向に走ってしまうのだと思っています。続きます。

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2019年12月22日 (日)

3695 リケン国家2

愚痴りついでに、カンリョウに関しても書いておきましょう。彼らは、確かに選抜されてお役人になった賢い人たちの集団ではあります。若い間は、比較的安い給料で長時間残業を厭わず、根回しや稟議のワザを磨き、そして徐々に出世の階段を登って行ったのでしょう。フルイに掛けられながら、本当に賢いか、または立ち回りが上手いホンの一握りの人達が、お役所のトップに立てるのです。
さて、そのトップに立った人たちは勿論、残念ながらレースから脱落してしまった人たちも、定年が見えてくるとソワソワしだします。つまりはセカンドキャリア(天下りとも呼ばれます)が気になってくるからです。天下りと呼ばれるには、それなりの理由があります。つまり、民に対して官は許認可権を持っていますので、立場としては上(彼らがお上と呼ばれる所以です)になる訳です。官から転じて民の重役や経営層になるので天下りという言葉がぴったり馴染むのでしょう。
問題は、天下り前の官での立場が上であるほど、官に影響力を残したまま天下ることになります。官での最高位は、いわゆる事務次官でしょう。政治のトップと直に接触する立場でもあります。彼らが美味しい立場に天下りした例は、枚挙に暇がないでしょう。もちろん、民で手柄を上げるためには、前職での力関係が残っている間に、許認可権限を自分が天下った企業に甘くしてもらう必要があります。従って、官僚は伏線として、自分が天下るであろう業界に有利になるルールの緩和を画策し、それを政治家に「ささやく」のです。かくして、この国の「灰色の規制緩和」が横行することに繋がるのです。そしてそれが、官の権限(というリケン)が民に移行した瞬間になるのです。
手柄を握った天下り経営者は、自分の手柄を広げるためについついやり過ぎてしまいがちです。つまりは「オーバーラン」です。例えば、お役所において昔部下だった官僚を動かして、自分が天下った業界をさらに有利にしようと立ち回るのが一番ありがちな行動パターンでしょうか。目に余る行動は、さすがにマスコミ沙汰になりますが、水面下のこうした動きは、多くの場合お国のパワーを削いできたことでしょう。直接的には、国の予算を膨らませて、それを自分が天下った企業や業界に誘導する作戦が考えられます。つまりは、医療・介護や金融・保険や教育や防衛といった分野で予算の分捕り合戦が展開される訳です。かくして、天下り官僚のリケン欲を満足させるためにお国の予算は膨らみ続け、結果として借金は膨張し続け、天下った官僚の懐は潤うことになるのです。彼らは、数年で別のミニ天下りを繰り返し、大きな額の退職金も手にする訳です。以上、貧乏な一庶民の怒りを含んだ愚痴でした。このブログは、批判を目的とはしていないので、ここらで矛を収めることにします。

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2019年12月20日 (金)

3694  リケン国家

少し、怒りの混じった愚痴です。表題のリケンとは、言わずのがなですが、頻繁にニュースになる、立場を利用した「利権」の事です。多くの利権は、ある人が一定の権限を有する立場になった際に転がり込みます。転がり込むという言い方は、その利権に群がる輩たちが、権限を握った人を担ぎ上げることによって、自動的に利権を行使することをグイグイと押し付けてくることによって生まれるからです。もちろん、その人が好んでその様な立場になりたいと望む場合もありますし、順番が回ってきてその様な立場になってしまうこともあるでしょう。
いずれにしても、この国では、大きな(公共)工事やエネルギー関連産業や運輸行政や教育産業や医療産業や枚挙に暇がありませんが、つまりは全ての行政組織に絡んで、利権が存在するのです。いわゆる疑獄事件の歴史を遡ると、江戸時代の「代官と越後屋」の小判を敷き詰めた菓子折(単なる時代劇の描写です)による贈収賄が思い浮かびますが、当然それ以前の貴族が幅を利かせていた時代にもあったはずです。投稿者の記憶が確かな高度成長期以降でも、明確に記憶に残っている造船疑獄事件、ロッキード疑獄事件などを大とすると、行政や大企業レベルでの中規模、地方紙にしか載らない市町村と中小企業が絡む小口まで含めると、全ての金額の大きな取引の周りに、何かしらの利権が渦巻いているとしか思えないのです。
その利権に対して陰で暗躍するのが、表向きは政治家を名乗る「政治屋」だといえるでしょう。もちろん政治家を志した時、多くの人は高邁な理想を掲げていたかも知れませんが、実際に議員の椅子を確保すると、多くの誘惑に晒されることになるのでしょう。歴史を振り返ってみても、清貧を貫いた政治家や大企業の経営者が非常に数少ない事実を見れば、多くの政治屋や大企業の経営層が、黒ではないにしても「灰色」の利権に関わった可能性は高いのです。まさに、この国は、発展途上国並みの「リケン国家」であることは認めざるを得ないでしょう。それも、これも、利権で終結した「J民党」の50年体制がいまだに存在し続けていること、離合集散を繰り返す弱小野党がそれを切り崩せないでいる政(マツリゴト)に罪を求めるしかないのですが、同時にその政に無関心な私たちにこそ最大の罪があることは認めざるを得ないでしょう。

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2019年12月15日 (日)

3693  人工林

投稿者は山に登りますが、その際この国の山林を眺めると、多くの地域では照葉樹林と、明らかに人工林と分かる針葉樹林がモザイクの様に入り混じっています。針葉樹林の多くは、戦後に植樹された用材としてスギ、ヒノキ、ヒバ、製紙用のツガなどですがこれらの林の弱点の一つは、密に植林されていて、個々の木の根張りが不十分な点にあります。さらに、常緑樹であるがゆえに落葉する量が少なく、林床の腐植層が薄いのです。そのため、強い台風で容易に倒れ、また大雨によって表土が流され土石流や最悪の場合は斜面崩壊も起こりやすいのです。
しかし、歴史をさかのぼると私たちの子孫は、山に分け入り照葉樹も植林していた様なのです。それは、沢筋の洪水や土石流を防ぎ、林床の腐植を厚くして水持ちを良くすることによって、干ばつの際の水不足をも防ぐ唯一の方法だったからでした。それらの照葉樹の樹種は、地域毎に異なりますが、実に多様なのです。この国の国土の概ね2/3は森林で、その半分弱は人工林で占められています。しかし、文献によると天然林と呼ばれている照葉樹林や針葉樹林の約半分は人の手によって植林されたとも言われているのです。針葉樹林は間違いなく用材用でしょうから、なるべく里に近くて切り出し易い場所(里山)に植林され、一方奥山にも分け入って、水源涵養のために照葉樹も植林されたと想像できます。
しかし、戦後復興のためとは言え、計画性も無くひたすら植え続けられた針葉樹林は、今災害が起こるたびに牙をむいて、被害を増長している訳です。いま三陸海岸では、カキ養殖をしている人が先に立って、水源涵養と海産資源の確保のために照葉樹を植林する地道な活動が続いています。それを単なる善行と眺めずに、水害に襲われた地域の人々もぜひ、氾濫した河川の上流や流域部に水源涵養林(人工の照葉樹林)を増やして欲しいものだと願っています。つまりは、近い将来に、これが「緑のダム」になるからです。それがまさに、現世代から未来の子孫への「緑の贈り物」にもなるのです。

 

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2019年12月11日 (水)

3692 災害列島2

仕事では郡山へ行きました。訪問した一つの企業が、実は台風19号の水害で被災していたのでした。その企業がある工業団地は、阿武隈川の一つの支流の傍にあり、運悪くその川の堤防が越水・決壊し、かなりの高い水位で広いエリアが浸水したのでした。その企業の工場は、道路レベルからは、1mほど土盛りをしているのですが、それでも床上1mほどの冠水があったとのことでした。いくつかの重要な生産設備が使えなくなり、完全な復旧までには年を越しそうだと嘆いていました。
少し時間があったので、堤防の決壊現場を見に行きました。すでに、新しく土盛りやのり面の補強は完了していましたが、不思議だったのはそこが何の変哲もない緩やかなカーブの内側だったことでした。流速が速まった川の流れは、通常はカーブの外側の堤防をアタックすると思うのですが、実際に決壊したのは内側の堤防だったのです。メカニズムは良く分かりませんが、たぶん先ず一番低い場所で越水が始まり、その水流で堤防の土砂が徐々に崩れて決壊に至ったのかも知れません。決壊の長さは、50mほどだったのですが、その周辺を水浸しにするには十分だったのでしょう。そのエリアでは、過去にも浸水を起こした様で、残念ながらその時の対策が十分ではなかったと思われます。
この国は、大小の河の沖積平野に人口が密集していますが、沖積平野は何も河口にだけ「ある訳でもなく、内陸の平野もやはり谷が急に開けた場所に点在しているのです。郡山エリアも、東西を山並みの囲まれ、その間を流れる阿武隈川とその支流が度々の氾濫を繰り返してできた沖積平野そのものですから、100年に一度の豪雨が発生すると、氾濫原に再度水が入り込む訳です。山々が急峻で、人々がかつての氾濫原に密集して住んでいるこの国では、実のところ何処で洪水が発生してもおかしくないのです。まさに、谷筋や内陸平野や河口の沖積平野に住居を構えている全ての人々が、水害のリスクに晒されていると考えるしかないのでしょう。水害の点だけから見ても、この国は間違いなく「災害列島」なのですが、これに地震、津波、台風による風害、落雷や竜巻など、自然災害のタネは数多く転がっているのですが、災害列島の何乗になるか考えるだけでも気が遠くなります。

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2019年12月 8日 (日)

3691  事前疎開

ヒトは必要に迫られなければ行動しない存在の様です。それは、動物としての本能の様なものでしょう。そもそも、脳は動物が危険を避け、生き延びて、子孫をより多く残すように進化してきたはずです。つまりは、周りの状況を判断して、それにより良く対応するための行動を決める器官だった訳です。「だった」と書いたのは、ヒトにおいては脳はさらに巨大に進化し、計画したり、将来を予測するまでになってきたからなのです。
しかし、そうではあってもなお人の脳には、安全バイアス(または正常性バイアス)という「癖」があって、事態が急変しても自分の命が危険に晒される直前まで行動を起こそうとしない傾向にあります。1週間続いたNスぺの災害シミュレーション番組では、その安全バイアスを何とか突き動かして、不安感に訴えるという意味では、なかなか思い切った企画ではあったとは思います。しかし、たぶん人は1週間も経ってしまえば、そんなことはすっかり忘れて、また気楽な日常に帰っていくのでしょう。とは言っても、南海・東南海のトラフに蓄積された歪が日々増大し、Xデーが日々迫ってきている事実に変わりはないでしょう。
やはり、私たちは脳の高次機能である予測する能力を最大限生かし、「事」が発生する前に行動を起こすべきだと思うのです。田舎に実家があって、年老いた親がそこで暮らしている人はとてつもなくラッキーでしょう。子供がすでに自立しているとか、定年前後であるとか一定の年齢に達しているのであれば、早めに仕事にケリをつけてUターンが出来易い条件を持っているからです。田舎に人々が戻れば、事前発生的に仕事も生まれるでしょう。町や村にも賑わいが戻れば、田舎暮らしもそれほど捨てたものでもないでしょう。投稿者も還暦到達を機に、生まれ故郷にUターンした一人ですが、残念ながら連れ合いの親を含め、親はかなり前に亡くなってはいますが、兄弟姉妹を含めた親類縁者や同級生などはそれなりに居ますので、年に数回は冠婚葬祭などで引っ張り出されます。Uターン後に新た作った人間関係、あるいは新たに掘り起こしたそれなりの仕事も続けています。中部地方にあった以前住んでいた家は処分しましたし、年金もありますので、故郷で新たに土地を購入して、小さな終の棲家も建てました。いわば、「事前疎開」を実行してみた訳です。確かに、東北地方の冬は厳しいのですが、自然には恵まれていますので、春から秋にかけては山歩きを楽しみ、ストレスの少ない快適な日々を過ごしています。

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2019年12月 7日 (土)

3690 災害列島⇒災害疎開

Nスぺの首都直下型地震の想定ドラマは衝撃的な映像の連続でした。一見華やかで、便利な都市空間は、大地震や堤防破壊による水害で、如何に大きな犠牲が出るかのシミュレーションという意味で、今回のドラマは映画並みの迫力ではありました。もちろん、今回のドラマは最悪ケースを集めたドラマでしょうから、実際の「次の関東大震災」あるいは「東南海地震」では、もう少し控えめな被害とはなるのでしょうが、多くの物的、人的被害が避けられないことには変わりはないでしょう。
少し前、この国はいくつかの豪雨や台風の直撃で風水害に関しては、かなりしっかりと経験させられてしまいました。豪雨災害では、この国の広い地域で、表土は花崗岩の風化した「真砂土」で覆われていて、山崩れが起きやすいことを改めて突き付けられましたし、コンパクトですが強力な風台風では、多くの電柱がなぎ倒されて、長期停電を余儀なくされました。これから多発すると予想される「超大型台風」では、広い流域面積に降る大量の雨によって、並みのダムが無力になるほどの洪水が引き起こされることが証明されてしまったのでした。
災害列島とも呼ばれるこの国では、これに地震被害の想定が加わる訳です。一番怖いのは、地震と水害の合わせ技です。海洋で発生する地震に津波は付き物ですが、直下型地震であっても、都市部においては流動化現象で地下水が上がってくるタイプの水害や、あるいは堤防の流動化破壊でゼロメートル近いの洪水被害も考えなければならないでしょう。悪いことには、被害が想定される地域には、人口が密集していることを忘れるべきではないでしょう。とりわけ、東京、名古屋、大阪地域への人口集中は、世界でも類を見ないほどのレベルなのです。
これに対応する方策はかなり限定されます。先ずは何はなくとも「災害疎開」をすぐ始めるべきでしょう。首都直下型地震では、直撃で何万人も亡くなり、それより一桁多いケガ人が出て、更にその二桁多い数の帰宅困難者が予想されますが、それを救助する側に回る人たち自身も「被災者」である訳で、救助に当たる人数も出来ることも限定されるでしょう。結果的には、直撃は避けられた避難者であっても、救助の手が届かずに亡くなってしまう可能性も非常に高いのです。田舎には、十分なスペースがあり、特に山沿いでは空き家が目立ち耕作放棄地も年々広がっているのが現状です。投稿者が住むA田県では、なんと毎年人口が1万人ずつ減っているのです。同様の状況の道県も多いでしょうから、うまく誘導すれば年間数十万人単位の「災害疎開」も十分可能でしょう。都会の片隅で、為すべきことも少なく老いていくよりも、自分の小さな畑を耕し、自分の食べ物を自分で作って生きていく生活がどれほど生き甲斐に繋がるか想像してみてください。都会に住む人々の祖先の多くも、つい数十年前までは田舎に住んで、そんなつましい生活を送っていたのですから、地縁血縁をたどれば十分実現可能でしょう。

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2019年12月 6日 (金)

3689  R100その2

次に資源のR100を考えてみます。製造業にしても、サービス業にしてもエネルギーを使い、資源を消費しながら活動を続けています。どの様な資源であっても、それが「地下資源」である限りにおいては、その資源が枯渇していき、製品やサービスの「消費後」は、必ずゴミ=廃棄物を残さずにおかないでしょう。「我が社は、あるいは我が家は、絶対にゴミを出しません」言い切れる企業や家庭は存在しないでしょう。時たま、例外的に絶対にゴミを捨てない住宅が存在しますが、そのような家は「ゴミ屋敷」と呼ばれて好奇の目に晒されるだけでしょう。
しかし、全てのゴミは元を質せばそれは資源だったはずです。食べ物だった残飯やパルプから作った紙製品以外の形のあるゴミの殆どは、間違いなく地下資源から作られたモノでしょう。包装ゴミの大部分を占めるプラスチックゴミは、元は石油ですし、それが金属である場合は地下から掘り出したものに違いありません。
もちろん、割合からすればささやかですが、それなりの量の廃棄物はリサイクルのために回収されてはいますが、プラスチックの包装ゴミが、再度包装原料にリサイクルされる訳ではありません。いくつかの種類のプラスチックが混じったリサイクル原料は、もっとグレードの低い混合プラスチック材として、例えばプラスチックのパレットや車止めなどの限られた用途にしかリサイクルできないのです。PETは例外的にPETに戻される割合が80%を超えるプラスチックですが、それにしたってR100にはまだ距離がありそうです。ましてや、他の材種のプラスチックにおいておや・・・でしょう。
結局、ここでも3688で述べたエネルギーと同じ構図が見えてきます。つまり、現在の社会で流通し消費され、廃棄される資源量をそのままにして、リサイクル率だけを上げようとするのは、明らかに間違いなのです。そうではなくて、先ずは社会活動を維持するための資源消費量を最低限まで絞り込む努力が必須なのです。とりわけ、大量生産・大量消費のトレンドの中で、どんどん(不必要に)過剰になった「包装」は、製品の消費後は間違いなくゴミに変わる訳で、簡易包装は極限まで進めるべきでしょう。その上で、その他の資源消費を必要かつ最小限に抑え込むライフスタイルを確立すべきです。勿体ないとか、LOHASだとか、エコバッグだとか、断捨離だとか、シンプルライフなどという言葉を、その年だけの「流行語」に終わらせてはならないのです。R100の「基本のき」は、先ずはモノ=資源を減らしたり、無くしたりすることから始めるべきでしょう。

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2019年12月 5日 (木)

3688 R100

環境人間にとって、「R100」は理想であり、最も心地よい響きを持つ言葉です。つまり、エネルギーで言えば100%再生可能型エネルギーで賄うこと、製品であれば100%リサイクル原料を使っていることを意味します。決して「映画用語」ではありませんので念のため。さて、まずはエネルギーのR100ですが、これを実現しているのは例えば、ZEHとかZEBとか呼ばれる、建物内で使用するエネルギーを、建物自体に組み込まれた再エネ(例えば太陽光発電)で賄い、トータルとして外からのエネルギー供給無しで自律的に運用できる仕組みになります。もちろん、蓄電池を使って昼間の余剰分を蓄電しておき、夜間や雨天の日にそれを使う「完全自立」のシステムも、余剰分は売電し、必要な時は買電で賄って、差し引きゼロと考えるシステムもあり得るでしょう。
厳しく定義すれば前者、ゆるく考えれば公社もZEHやZEBと呼んで構わないでしょう。しかし、ZEHやZEBのキモは、住宅やビルを現状のままとして、エネルギーだけをR100に切り替えることではないのです。それは、利便性やエネルギーの使用レベルを現在のままにして、ダバダバのエネルギーに支えられた欠陥のあるZEHやZEBと呼ぶしかないのです。そうではなくて、まずはエネルギーの使用レベルを最低限まで絞り込む努力が必要でしょう。例えば、建物の断熱性を北欧並みに上げてやれば、夏場の冷房負荷も最低レベルで済むはずなのです。同様に、太陽光を照明にも利用し、太陽熱を熱源として使えば、サイズの小さな太陽光発電システムで十分間に合うでしょう。
というのも、大規模な太陽光発電システムの場合、それを工場で製造する際に、無視できない量の環境負荷を出すことになるからです。つまり、建物のライフサイクル全体を通じて眺めた場合、建物性能や省エネ、太陽光(熱)などを総合的にデザインしない限り、真のZEHやZEBには程遠いものと断ずるしかないからなのです。先ずは、建築屋とエネルギー屋と環境屋が一致協力して、理想的なZEHやZEBを建ててみる事でしょう。それをひな型として、ハウスメーカーや建設業がコピーしていけば、やがてこの国の家やビルのR100化が進むのです。

 

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2019年12月 2日 (月)

3687  企業連携による地域活性化

仕事で八戸へ行く機会がありました。出かけた企業の担当者が、ついでに市内を回ってくれましたが、海岸部の「工場地帯」はなかなかの景観だったのです。浅学で申し訳ないのですが、八戸と言えば、時々漁業に関連したニュースに顔を出すだけの街だと思っていましたが、実際は北東北随一の工業都市だったのでした。基本となる発電所があり、鉄鋼・金属関係、セメント、造船所、精密工業、電機・電子に加え、もちろん食品加工業もあります。意外だったのは、既に斜陽産業ととなって久しい造船所が、ケミカルタンカーに特化する戦略が功奏する中で、結構多忙を極めているとの説明だでした。地方には、意外なほど産業が生き残って活動を続けているのです。
しかし、考えてみなければならないのは、地域の活性化の基本は、いわゆるコンビナートの様な、有機的な企業間の連携にあると思うのです。つまり、足し算の1+1=2ではなく、掛け算で2以上にできるのが企業連携です。例えば、ある企業が原材料を購入し、部品に仕上げて大手企業に出荷しているとしましょう。原材料その他の変動費20で仕入れ、100の製品を出荷していると想定します。しかし、この企業が半製品の形で隣接する企業に渡し、その企業が最終製品に仕上げる場合、50を半製品で売り、地域のその企業がさらに付加価値を付けて最終製品に仕上げて出荷する訳で、出荷額は間違いなく100以上になるはずです。お金も地域内で回る量が増えて、地域経済も潤うでしょう。もちろん、地域内でモノを動かす限りにおいては、輸送に関わるエネルギーやコストもミニマムで済むので、いわゆる「環境効率」も改善することになります。
投稿者が考えるには、地域の疲弊は、地域の人、モノ、カネ全てについての慢性的な赤字体質からくると思うのです。先ずは、地域内にある資源に着目し、それらを活用して生き残っている伝統的産業群に目を向けるべきでしょう。かなり細くなったとはいえ、地域内には細々としかし脈々とそれらの産業がつながってきているはずなのです。それらの産業の連携を考える中で、地域で生み出す「総付加価値」の拡大を考えて行けば、地域に入りその中で回るお金が増え、同時に地域から出ていくお金が減ることになり収支が改善する筈なのです。その結果、人口の流出という人の赤字も減ってくるのでしょう。

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2019年11月25日 (月)

3686  非通貨経済

3685の続きです。現代社会の中で暮らしながら、しかし3685で述べた「経済のブラックホール」に巻き込まれるのが嫌だったら、非通貨経済で生きるしか方法は無さそうです。非通貨経済というのは、可能な限り「自給自足」を原則に、暮らしの仕組みを組み立てることを指します。そうはいっても、お金でしか入手できないアイテムもあるでしょう。しかし、モノ余りのこの国では、そんなモノでもタダで入手することは可能でしょう。要するに、他の人が用済みになったモノをタダで貰うか、あるいは自分が生産したモノ(自家栽培野菜など)と交換して貰う方法などが考えられます。
とは言いながら、どうしてもお金で決済しなければならない部分は残るでしょう。例えば公共料金や税金や学費やその他モロモロの料金などです。もちろん、相続税などでは「物納」などという制度もあるにはありますが、所得税や各種料金をモノで支払う事は出来そうもありません。しかしながら、自給自足が前提なのですから、そもそも所得税など心配する必要はないでしょう。住民税など住むだけで掛かる税金もあるにはありますが、そもそも所得が殆どゼロなのですから、この種の税金も殆ど課税されない筈なのです。むしろ、自治体の担当者から、生活保護を受けるかどうかの問い合わせが来るかも知れません。多少でも年金が受け取れる世代であれば、その心配すら必要ないでしょう。年金を銀行口座で受け取り、各種料金をそこから自動引き去りする様に手続きしてあれば、お金に関わらずに暮らすことも十分可能でしょう。
その昔、生家ではクリーニング業を営んでいましたが、まだまだ通貨経済の規模が小さかった戦後ですから、農家の人達がクリーニング代をお米や果物や作物などで支払っていた様な記憶があります。時には、魚などで支払うケースもあった様で、数日同じような献立が続くこともあった様でした。おぼろげですが当時は、医療費でさえ物納が認められていた様な記憶もあります。もちろん、相手は馴染みの町医者であることは当然なのですが。非通貨経済の規模が大きくなってしまったら、自治体や国は税金が集まらなくなり、困り果てる事でしょうが、個人が自分の事は自分で始末する範囲が大きい訳ですから、お役所の仕事も減るでしょうから、民と官の割合で言えば官が減り、税金を少なく集める代わりに支出も減らすことになるでしょう。つまりは自動的に「小さな政府(お役所)」が実現することに繋がりのです。税収が減るのですから、一度税金の形で集めてからばら撒く今の制度で起こりがちな、政治家や役人の「恣意的な」無駄使いや悪用も減る訳です。

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2019年11月20日 (水)

3685 経済というブラックホール

世の中はどうやら「経済」という仕組みで動いているようです。今の経済活動の大元になっているのは、お金(通貨)でしょう。この国では、かつてコメが通貨の代わりをしていた時代もあったのですが、ある時期以降経済活動の規模が拡大するにつれ、コメの生産高が経済活動の規模に見合わなくなり、発行元の信頼に裏付けられた「貨幣(紙幣)」が主役に躍り出たのでした。
その後、株や債券などのいわゆる「有価証券」の市場規模が拡大するにつれて、これらの株券や証券などの紙が、通貨量を凌駕し経済活動のベースに座ったのでした。その後、これらの「紙」は電子データに置き換わり、価値や権利はどこかのコンピュータの中のデジットとなって保管されることになったのでした。そうなると、価値や権利は数字に過ぎませんので、間違ってゼロを1個付け加えるか、あるいは1個付け忘れるだけで、あっという間に一桁増減してしてしまうことにもなり兼ねません。もちろん、数字のやり取りだけですので、価値や権利の移動も瞬時で完了しますから、これを利用して、例えば為替の変動を利用して、パソコンで細かい売り買いを繰り返し(デイトレード)で莫大な利益を上げる輩も出てくる訳です。
モノや通貨が動かない、株や権利や外貨などの売り買いの市場は年々拡大し、今やその規模は誰も正確には把握できない規模になったことでしょう。一方で、石油などの地下資源は日々採掘され市場に投入される訳で、通貨量=経済規模は日々拡大しているのも間違いないでしょう。これを、神様が天上から眺めているとすれば、まるで人類が。経済というブラックホールに飲み込まれつつある様に見えるのではないか、と想像してしまいます。
あるいは、彼(あるいは彼女)には、私たちの国や社会や地域コミュニティーや個人の生活が、(お金の移動を伴う)経済に依存するあまり、経済という海に溺れ、飲み込まれつつあるとしか見えないと思うのです。今やお金がなければ、日々の食料やエネルギー(石油や電気やガス)すら手に入らないまさに「経済の時代」なのです。どうしたら、このブラックホールに飲み込まれずに済むのか、考えこんしまう今日この頃です。

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2019年11月13日 (水)

3684 高齢者福祉費が増え続ける

ここらで福祉の意味をもう一度考えてみる必要がありそうです。福祉とは、幸福などという言う意味を難しくした言葉ですが、つまりは高齢者の幸福とは何かという意味を考えてみましょうと言う話です。長く生きて、いわゆる「現役」から引退した高齢者の幸福とは一体何でしょう。もちろん、食べるには困らないにしても、一日中為すべき事も無く、新聞を広げ、テレビを見て、30分程の散歩に出る生活ではない事は確かでしょう。これでは、いくら体の健康は維持出来たとしても「生ける屍」の様なものだとも言えます。
人が人として幸福に暮らすためには、私たちには絶対に「生き甲斐」が必要だと思うのです。それも、その生き甲斐が「他人の役に立つ」ものである事が、最高の幸福感につながる筈なのです。それが、孫の世話だとしても何もしないよりは大分マシでしょうが、孫はすぐ大きくなり相手にしてくれなくなるものです。出来れば、赤の他人の役にたてる幸せを探すべきでしょう。災害現場に風の様に現れる、彼の「スーパーボランティア」は、まさにそれを理想的な形で体現している一人でしょう。
税金で賄われる福祉費を、単に老人福祉施設の建設や、高齢者をボケ防止のための歌やゲームに興じさせるためだけ使ってはならないのです。そうではなくて、高齢者にも年齢に応じた社会貢献に向かわせるためにこそ、貴重な税金を差し向けるべきなのです。具体的に案を示すなら、高齢者は街をきれいに維持するためにもっと時間を費やすべきでしょう。徒に散歩するのではなく、1週間に2回は、トングと袋を携行し、ゴミを集めて回るべきでしょう。更に言えば、知識や技能を持った高齢者を徒に無職にしておくのではなく、それらを若者に伝承する場を提供するべきでしょう。週末に、集会場をセットし、軽食を準備した上で、高齢者が先生となって、若者に「何か(経験を通じた知識や技)」を伝えるのです。それが苦手な高齢者には、いわゆるファシリテータを付けて、その「何か」を引き出して貰えば良いでしょう。全ての高齢者は、若者に伝えたい事を、10個くらいは持っているのではないと想像しています。
高齢者に対する福祉費を、ボケ防止のためのレクレーションに使っては納税者に申し訳が立ちませんし、その様な使い方では予算も天井知らずとなるでしょう。そうではなくて、それを高齢者が、何かを社会に還元できる場を提供することによってこそ、予算も生きてくると思うのです。

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2019年11月12日 (火)

3683 医療費が肥大化し続ける

医療費の天井知らずの増大は、看過できない大問題です。もちろん、その最大の原因は高齢化社会が今後も進み続ける事があるでしょう。しかし、ここらで医療費の中身を腑分けしてみる事は最重要な作業だと思うのです。つまり、何に医療費が消えているのかの特定です。手元にデータはありませんが、素人目に見ても検査漬け、薬漬け、入院ありきの医療体制がその根源にある事は間違いなさそうです。加えて、高齢者をベッドに押し込んで、動けない状況を続けさせることが、ひいては寝たきり老人を増やし続け、医療費の増大を加速させていると見ています。人が一人寝たきりになると、食事から下の世話や入浴まで、より人手が多くかかります。また寝たきりになると、筋肉や骨が急速に衰える、いわゆるロコモティブシンドロームが進み、一度寝たきりになると二度とは立ち上がれない状況に陥るでしょう。
そうではなくて、老人を寝たきりにしない努力こそ、医療費を抑制する最良のアプローチだと思うのです。老人側も、たとえ這ってでも、トイレに行き、風呂に入る能力を自分に残し続けるべきでしょう。快適な生活を送るために、自分で動いている限り筋肉の衰えは防ぐ事ができ、軽度の筋トレを行えば、多少の回復も期待できるでしょう。もちろん、これを寝たきりになってしまってから行なったのでは効果がありません、先ずは元気に動ける間に筋力を維持、出来れば少し増やすくらいのプログラムを準備し、高齢者は半強制的に参加させるなどの対策が考えられます。意識高い系の高齢者は、言われなくともその様な行動を習慣化しているとは思いますが、たぶんそれは1-2割の人達に限定されていると想像しています。
以上から導かれる結論としては、先ずは国の医療・老人福祉政策を、対症療法的なものから、予防的なものに転換すべきだと思うのです。その上で、「病院」と言う言葉を廃止すべきでしょう。新しい、施設の名称は「健院」つまりは、健康に生き、病気になった人を一日も早く健康にするための施設と位置付け、そう名付けるべきだと思うのです。もちろん、「対象療法から、予防的行動への転換」は、環境悪化問題や経済や財政の立て直しや、いわゆるイジメ問題などあやゆる問題に対処するための魔法の言葉でもあるのです。

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2019年10月29日 (火)

3682 職が少ない

これは5年前に取り上げた表題なので、この時期は少し景気が停滞していたのかも知れません、今は、確かに見かけ上の求人倍率は、1.6前後でかなり高いのですが、実情はと言えば、企業側は時給の安い雇用者を強く求めてはいますが、条件の良い優良な職という目で見ると、求職者にとっては決して良い状況だとも言えないのでないかと想像しています。想像するしかないというのも、投稿者としては55歳で早目にサラリーマンを辞して以降、求職活動をした事も、実際に再度サラリーマンになった経験も無いからです。
さて、給料の安い職はそれなりにあるが、将来も見通せるような条件の良い職が少ないと言う事態は、何を意味するのでしょうか。必然的に、人は現在の暮らしの満足度を上げる事だけに集中し、将来のビジョンが描きにくくなっている事を意味するのだと思うのです。投稿者の若い頃、一応大企業と呼ばれる会社に就職し、給料も物価の上昇を超えるスピードで順調に上がって行ったのでした。人並みの年齢で結婚し、倹約が趣味の家人のお蔭もあって、40代で借金も無しに家が買えました。しかし、今の人達が同じ様な人生を送れるかと問われれば、多くの???が湧いてくるはずです。第一、いわゆる昇給は、殆ど停滞していると言うしかないでしょう。確かに物価の上昇率は低いのですが、一方で企業の体質は、大企業と呼ばれる規模の会社でも非常に脆いと言うしかありません。それほど、世の中の、世界の動きが、日進月歩ならぬ「秒進、分歩?」で目まぐるしく変化しているからなのです。
その中で、安定した職が少ないと言う事態は、いわゆる「少子化傾向」にとっては、ますます強い向かい風になるだろう事は容易に想像できます。不安定な人生を送るカップルが、多子をもうける事など望むべくもないからです。振り返ってみれば、事態は「岩盤規制の破壊」をスローガンにあのリーダーが椅子に座って以降始まった様に思います。それまでの、定年まで勤めるという日本型の正社員を基本とした「雇用習慣」を「ぶっ壊して」、不安定な派遣や有期の契約社員のタガを殆ど外してしまったのでした。企業にとっては、確かに短期的には経済的メリットもあったとは思いますが、中長期的に見れば例えば企業に対する「愛社心」などと言うものは、どこかに吹き飛んでしまったに違いないのです。株主だけを向いた短期的経営方針は、間違いなく企業の体質を脆くし、世の中の激しい動きにも対応しきれなくなったと想像しています。
優良な職が減り、結果企業の対応力も弱ると言う「負の連鎖」の問題は、今後も続くと見ています。残念ながら。

 

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2019年10月25日 (金)

3681 天候が激甚化する

今回の台風15号や19号の被害状況を見るまでもなく、近年の台風被害や豪雨被害は、激甚化してきている事は否定できないでしょう。台風や低気圧の卵は、季節にもよりますが、週一くらいには発生している筈です。しかし、それらが発達するかどうかは、海面の水温に大きく依存しているのです。これまでも、海水温が高い傾向は続いていましたが、近年は例えば水深50mほどの深さでも、かなり高くなっている事が分かっています。これは、海に潜ったり浮上したりを繰り返す計測機器(例えばアルゴフロートなど)で、海面だけではない水温も計測できる様になった事が寄与しています。
海表面だけの水温上昇であれば、海水は台風の強風などによってかき混ぜられ、高温が続く事はないのですが、深い水深まで温度が高い場合には、台風はパワーアップし続ける事になるのです。高い海水温は、台風ばかりではなく「普通の低気圧」にも、湿った空気を供給し続けるのです。しかも、高い海水温は、日本のすぐ近海まで押し寄せていますので、結果として、豪雨を伴う台風の上陸やいわゆる線状降水帯を発生させ、災害をもたらす事につながる訳です。
もちろん、近年の異常気象や気象の激甚化の原因は、太平洋の海水温上昇だけではないでしょう。例えば、日本が冬場に寒冷化するか暖冬になるかは、遠く離れたバレンツ海に生ずる気団の強弱に支配されると言われています。その寒気が、ジェット気流に乗って、シベリア経由で日本上空に運ばれてくると、日本は寒冷化し豪雪に見舞われる事になるのです。つまり、温暖化が原因と言われている気象の激甚化は、単に平均気温の上昇で、夏場に異常高温が頻発する程度のぬるい影響などではないのです。
大気が平均的に抱え込める水蒸気の総量は、ある程度決まっていますから、ある場所で豪雨や豪雪が起こると言うことは、別の場所では全く雨が降らないと言う旱魃被害が起こっている筈です。それが、世界の穀倉地帯である中緯度のステップ地域で発生した場合には、間接的な影響としての食糧不足が引き起こされる事にもなるでしょう。実際、中長期的な視点で眺めた場合、小麦などの乾燥地帯に適した作物はもちろん、より多くの農業用水を必要とするトウモロコシや大豆などの収穫量が、一貫した右肩下がりで減少しているデータが示されているのです。天候の激甚化は、まさに人類の生死の問題であり、しかもその傾向は年々悪化している様なのです、残念ながら。

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2019年10月23日 (水)

3680 農が細る

今の日本が抱える問題の続きです。就農者が年々減り続けている事は、間違いなくこの国の大問題です。足りない食糧は、工業製品を輸出して、そのお金で輸入すれば良いとの安易な主張をする人が居ます。現実の食糧自給率を見れば、その様な主張が多数を占めていると言えるかも知れません。
しかし、農業が持つ多面性を考える時、食糧自給率などはホンの一部分の議論でしかないとも言えるのです。農業の持つ最重要な側面としては、持続可能な形での「環境維持業」であると言う点だと思うのです。山間まで耕された棚田は、沢からの水の流れを貯留する人口のミニダムの様なものだと言えるでしょうし、低地の田んぼは、いざという時には洪水の際の遊水池としての働きもあるでしょう。養分がたっぷり含まれた沢水を使う水田農業は、人が施す肥料をあまり必要しない弥生時代に始まる「持続可能型農業」であると言う点は、この国の農業を考える上で、非常に重要な点でもあるでしょう。
その農業用水を涵養するのは、実は祖先が守り続けてきた、広葉樹林帯である点も忘れてはならないでしょう。現在多くの山々で観察される針葉樹林帯は、決して天然林などではなく、戦後復興に大量に必要となった建築用材を得るために、国の政策で植林されたものが大部分を占める筈です。登山をしていると、時々ツガの人工樹林帯を見かける事がありますが、それは製紙業の大手企業が、国産のパルプを確保するために植林したものだったりもするのです。しかし、農業用水に不可欠なのは、ブナ林の様に数メートルにも及ぶ厚くフカフカの林床を作り、降った雨を長い時間保持し、ゆっくり流し続ける涵養紅葉樹林帯なのです。
林業を厚くし、それが麓の農を活発にし、結果的には大水害から街を守ると言う、良い循環を取り戻す必要があると思うのです。ささやかな森林税を設定している県もあるにはありますが、補助金をエサにした場当たり的な政策ではなく、長期的に林+農業を復活させる息の長い取り組みが求められるのです。農に関して5年前より状況が好転している兆しは、残念ながら見当たりません。

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2019年10月22日 (火)

3679 インフラは劣化し続ける

インフラが劣化し続けるのを誰も止める事は出来ません。しかも、高度成長期に建てられた建物や構築されたインフラが、半世紀以上の年月を経て、大規模な改修や作り替えが必要な時期に来ている事実にも目をつぶる事は出来ないのです。インフラの基本的な材料は、鉄(及び鉄筋)とコンクリートですので、鉄の酸化(サビ)とコンクリートの脱灰やひび割れ、あるいはその複合により、強度的には寿命の時期を迎えつつあるという訳なのです。
以前にこの同じ問題を取り上げてから5年を経過して、問題は拡大しこそすれ、解決に向かった例は非常に少ない様に思えます。もちろん、老朽化に耐えられなくなって、既に建て替えられたインフラもそれなりにはあるでしょう。五輪というきっかけがあったにせよ、大騒ぎの結果確かに国立競技場も更新されました。しかし、今回の台風19号で引き起こされた水害の過酷さを見るとき、インフラの劣化以外にもインフラ建設の設定条件が崩れかけている可能性も否定できないでしょう。これは、ある意味では、環境の変化によってインフラの設定条件そのものが古くなってしまった結果とも言えるでしょう。同様の例で言えば、例えば交通インフラが、増加する車や旅行客数を支えきれず、高速道の新設や、電車ダイヤの過密化などでどうにか対応しているケースがあります。
しかし、現状のインフラの劣化や能力限界近くでの運用には、かなりの危うさが内在している様に思えるのです。気候変動の結果、過酷化した気象も考慮しなければならないでしょうし、負荷オーバーによって、重要な交通インフラが突如破綻してしまう危険性も孕んでいると見なければならないでしょう。例えば、高速道路の多くの橋やトンネルあるいは新幹線の高架などの鉄筋コンクリートが、既にかなりの程度劣化しているのは事実でしょうから、大きな地震や水害で突如通行止めなどの障害に陥る危険性はますます拡大傾向にあると言うしかないのです。既に、首都圏のゼロメートル地帯に住んでいる大勢の人達の、イザという時に「広域避難」しようにも、交通インフラの停止で「絵に描いた餅」になった事は、19号の際の様子から分かる様に現実のものになったのです。ゼロメートル地帯を、水害にも耐えれる様に数メートル嵩上げする様な、インフラの作り替えは不可能である以上、問題は現在そこに住む人達が、如何にして「広域移住」できるか、という問題になりつつあると思うのです。

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2019年10月20日 (日)

3678 システムが肥大化し続ける

戦後、多くのシステムが作られ、それらが肥大化し続けて来たことは論を待たない事実でしょう。経済システム、金融システム、流通システムなどは言うに及ばず、インフラシステム、交通システム、教育システム、電力システムからインターネットを使った情報システムに至るまで、およそ「システム」と名前が付くものは、ほぼ例外なく一貫してその規模が拡大してきました。その一方で、その便益を享受して来た側としては、一方的にそのシステムへの「依存度」を高めて来たこともまた事実でしょう。
もちろんそれは両刃の剣であった点は看過できません。システムの重要度が上がるにつれて、システムの安定性や冗長性も議論され、整備も進んで来たでしょう。しかし、多くは完璧というレベルからは程遠い位置にあるとしか言えない事も否定できません。新幹線も、地震や豪雨の前では運休せざるを得ないでしょうし、航空機の運休の頻度はそれよりかなり高くなります。送電線が倒木で寸断されても、停電が長時間に亘る事は不可避です。同様に、災害による光ケーブル破断や停電に伴って基地局がダウンし通信手段が絶たれ、パソコンやスマホが使えなくなった場合、人々はまさにパニックに陥って、依存し過ぎたシステムからの情報不足で右往左往するしかないのです。
システムを構築するに当たっては、少なくともシステムを二重以上にする「冗長性」と災害に抗う「ロバスト性(強靭性)」を重視する必要がある事は、改めて銘記しておく必要がありそうです。電力に関して言えば、今の電柱による配電システムは、戦後の間に合わせ電力網の延長線上にある打たれ弱いシステムである事を改めて認識した上で、電力会社の送電網から受ける電力以外に、電気自動車や太陽光発電+バッテリーを使った、「オフグリッドの電源」も確保する理想形を目指すべきだと思うのです。これは、(お金と時間ばかり掛かる)電線の地中化などより安価なので優先順位をグンと高め、補助金や優遇税などで誘導しながら整備を進めるべきでしょう。これは、実現すべき「巨大システムの分散化による強靭化」の方向のホンの一例に過ぎません。

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2019年10月16日 (水)

3677 希望が持てない

希望は、現在の生活の状態に関わらず、社会の将来展望が明るい時に抱くものの様です。取り分け、現在の生活状態があまり良くない時には、より良い生活を夢見る希望が湧いてくるのでしょう。しかし、それもこれも社会が今より良くなるというと言う確信があってのことではあります。しかし、昨今の社会情勢は、必ずしも希望が持てる状況とは言えそうもない様です。つまり、皆がそれなりに衣食住が満たされ、一方では経済の閉そく感が社会を覆っている状況では、とても将来に明るい夢は抱けないのでしょう。
しかし、これはあくまでも「経済」を指標にして考える場合である事には留意する必要もあるでしょう。つまり、自由に使えるお金がある事が目標で、それが幸福だと思い人にとっては、確かに夢が持てない社会情勢と言えるでしょう。しかも、その意味においては、世の中の情勢は右肩下がりで悪化していると言わざるを得ないと見ています。
とはいえ、人の抱く希望は良い懐具合に関わる訳ではないでしょう。人が、「より良く生きる」にお金がそれほど重要ではない事は、これまでの偉人の例を引くまでもなく、人々の達成感や満足感は、実はお金に無関係な部分で獲得されていると思うのです。一番重要なポイントは、結局人は、他の人のために何が出来たか、それによって感謝の言葉がどれくらい受けられたかに掛かっている様な気がするのです。他の人の中には、当然の事ながら自分以外の家族も含まれますし、知人の範囲も含まれますが、人が最も多幸感を得るのは、たぶん如何に多くの見知らぬ人達からの称賛を受けるかなのだとも思います。だからこそ、人々は競ってSNSに投稿し、一人でも多くの「いいね」を受けるために、血道を上げるのでしょう。
しかし、SNSは当然の事ながらネット上の出来事です。そうではなくて、理想的を言えば私たちは体を動かしてあるいは知恵を絞って(行動して)額に汗かいて、その結果を多数の人達に評価して貰いたい筈なのです。それこそが、あのスーパーボランティア(O畠春夫氏)が、かなりの高齢にも関わらず「体を張って」活動するエネルギー源にもなり得るのでしょう。人々の幸福の物差しを、これまでの「経済的豊かさ」一辺倒から、それ以外の「多様な物差し(群)」に変更する必要がある時代になった様です。投稿者としても、世の中のために何ができるか引き続き考え続けていく事といたします。

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2019年10月15日 (火)

3676 命が軽い

何時の頃から人の命がこんなに軽くなってしまったのでしょう。かつて、人の命が失われる様な事件や事故は、マスコミでも日夜大きく取り上げられていた様な気がします。しかし、今や海外も含め、多数の人命が失われてしまった事件や事故でさえ、事件当日とその翌日に報道されれば、さながら何も無かった様に、スポーツや日常のニュースに切り替わってしまうのです。
逆を考えてみましょう。では、命に代わって一体何の比重が増してきたのかです。それは、間違いなく「お金」とそれを使った「エンターテイメント」、更に言えばパソコンやスマホに関連した「情報」でしょう。つまり、人々が実際のモノや風景に直接触れる機会や人との直接的な関わりが希薄になって、代わってよりバーチャルな仕掛けを重視する様になったしまった事が、命の軽さの背景に潜んでいそうな気がするのです。バーチャルのゲームの中では、失われた人の命だって簡単にリセット出来てしまうでしょうし、宝物も簡単にゲットできるでしょう。いくつかの人の命を奪った事件に関わった若者たちは、「自殺志願者」とネット上でコンタクトした上で、「人を殺してみたかった」などとコメントする事も多くなった様な気がするのです。そこまで行かなくとも、ネット(SNS)に関連しての陰湿なイジメや、その結果としての若者の自死事件は、最早日常になった感さえあります。
このまま、命の重さが軽くなった先には、一体どんな時代や社会が待っているのでしょうか。恋愛などもバーチャルになり、当然の事ながら生まれてくる子供の数の更に減り続けるでしょう。何しろ、生まれてくる新しい命の重さも軽くなる訳で、結果として生まれてからも子供の虐待事件も増加しそうな気がします。近い将来、「子供は宝である」、などとの表現は遠い過去のものとなってしまうかも知れません。
さて、この風潮をどうしたものかと考え込んでしまいます。投稿者のつたない経験を元に想像するに、やはり「核家族化」の弊害が大きかった様に振り返っています。大家族の中では、日常的に人の死や、赤ん坊の生まれる瞬間などに立ち会う経験をする筈です。その人の死や、誕生を「病院」や「介護施設」の中に「隠して」しまった事により、生まれること、そして人が死ぬことの比重が大きく下がってしまったと思うのです。沖縄における大家族の維持が、たぶん同時に出生率の高さを支えていることが、上記の推定が結構正しい事を裏付けてくれそうです。長い歴史の中に一瞬生まれる一つの命が、それを育む地球より重いとは言いませんが、少なくとも家族にとってはそう思える筈なのです。

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2019年10月14日 (月)

3675 災害列島

今回の台風19号の挙動を見て、この国が改めて災害列島である事を認識せざるを得ませんでした。地理的に見れば、この国はまるで大陸を防護する「防波堤」の様に横たわっています。これは、列島の成因が、巨大なプレートによって大陸の端に出来た「シワ」の様なものである事から来ていますが、気象学的に見ても太平洋が引き起こすあらゆる気象現象を第一線で受け止めざるを得ない運命を負っているのです。
今回の強大な台風も伊豆半島を直撃して、関東から東北南部を縦断して、多大な被害を引き起こしたのでした。15号がコンパクトな風台風だったのに比して、サイズの大きな今回の19号は、さながらカリブ海のハリケーンの様に巨大で、強力だったのですが、結果としては国交省の想定を大きく超える量の雨をもたらしたのでした。大量の降雨は、かなりの数のダムでさえ決壊を防ぐために放水せざるを得なかった訳で、水防の役割を果たせなかったのでした。嵩上げが繰り返されてきた各地の堤防でさえ、簡単に横溢しついには決壊に至ったのでした。横溢や決壊に至るであろう場所の特定は、実は素人が考えても明らかです。山から流下した急流が、勾配の小さな場所に至って、急に流れのスピード(=流量)が低下する場所、あるいは2本の川が合流するする点、更に言えば川の流れが大きくカーブしているポイント、ということになるでしょう。つまり、そこは他の場所より堤防の高さや幅を補強しておかなければならない筈なのです。
台風襲来の真っただ中、千葉を震源とする地震が発生した事は、この国が災害列島である事を更に印象付けました。大陸端にプレート移動によって出来たシワ(であり)、気象上も天然の防波堤であるこの国は、改めて地震や風水害への備えを補強しなければならない時代だと言えそうです。
アイデアはあります。例えば、各戸の屋根を風速50mにも耐える様に補強するついでに、屋根に太陽光発電パネルを設置するのです。バッテリーと組み合わせれば、各家庭のオフグリッド化が実現できるでしょう。電力会社からの電力網が寸断されても、影響は最小限でしょう。電柱の地中化に1㎞当り5億円も掛かる事を考えれば、この改造にそれなりの補助金を出してもペイするでしょう。水害に対しては、時間は掛かりますが、上記の危険個所の補強を行うと同時に、針葉樹の人工林を、保水力の高い照葉樹林に少しずつ植え替えていく以外にはなさそうです。

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2019年10月13日 (日)

3674 経済頼み

3673にも関連しますが、今の時代はあまりにも(貨幣)経済に頼り過ぎの様な気がします。国も財界人も口を開けば「景気の善し悪し」、「株価の昇降」、「インフレ率」、「経済成長率」など、景気指標の話題に終始します。国会の予算委員会などは、もはや税の使い道を議論する場などではなく、さながら政治家が景気のよもやま話をする場かあるいは、週刊誌記事をネタに新閣僚の「身体検査」の場になっている感があります。
特に、今のリーダーが椅子に座ってからは、N銀の金利やマネー操作と赤字国債の乱発にだけ頼り切った何とかミクスの効能を、口を開けば自慢げに披露するのを聞くたび、この国の行く末にひどく憂慮せざるを得ません。今のこの国の好況は、単に欧州の勢いが減退したのとB国のバブル的好況に引っ張られてのものである事に、経済の素人の投稿者でさえ気づいてもいるのですから。N銀の買い入れた資産は、今やこの国のGDPをはるかに超えるレベルに到達している様です。余りにも、経済頼み、貨幣経済頼りに陥ってしまったこの国将来は、ひどく暗いものになりつつあるのです。なにしろ、「金兌換」ではないN銀の資産など考えてみれば、ただの紙の紙幣であり、紙の債権でしかない訳ですから、いざそれらの紙の価値が下がった場合には、ただの紙屑になってしまう恐れも十分考えられるのです。
経済活動を確固たるものにするには、それを裏付けるモノが必要です。かつてドルは、金と交換可能でした。今の価値の円はそれなりの価値があり、確かに食糧やエネルギーやその他の資源と、比較的良い条件で交換(輸入)が可能ですが、その価値がこの先も変わらない保証は何もないのです。でも、たとえば国内で供給可能な食糧は、どの様な時代になってもこの国の台所を潤し続ける筈なのです。経済頼み一辺倒から脱却し、ぜひモノ、取り分け国内産を減らさない努力が必要な時代になったと言っておきましょう。それを軽視する様な政治は、間違いなく国民を窮地におとしめる事になるでしょう。この国の価値を保証するのは、この国の信頼性を高めると言うただ一点に掛かっていると思うのです。

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2019年10月12日 (土)

3673 田舎が取り残される

田舎が取り残される傾向も、やはり加速していると言わざるを得ない様です。ココロ無い政治家の「大震災発生が、人口密集地ではなくて、不幸中の幸いだった」発言(失言)を引用するまでもなく、中央集権が極限まで進んでしまった中で、田舎が取り残されている感はますます強まっていると言うしかないでしょう。なにしろ、税金を納めているのは、大都市住民と企業であり、田舎は地方交付税と高齢者福祉費を「消費」するばかりなのですから、政治が軽視するのも納得は出来ませんが想像はできるのです。
しかし、これはお金(経済)だけで物事を推し量る、現代の政治・経済の仕組みが正しくないのであって、田舎の無い国は、さながら都市国家であるSンガポールの様に振舞う必要が出てくる筈なのです。つまり、観光立国であり流通・交通の拠点であり、経済の交差点であるという特徴をフルに生かして、必要な資源やエネルギーや食糧などを全て他国に依存する国を目指すと言う道のことです。しかし、この国には狭いながらも恵まれた森林資源や水資源、田舎を眺めれば耕作放棄された田畑もかなりの面積で見つかる筈なのです。
一方田舎に住む者は、地方創生などという「お役人言葉」で誤魔化されてはならないでしょう。田舎は、人口の割には、恵まれた食糧自給率やエネルギー自給率など、中央の経済活動とは別の重要な資源を持っている訳ですから、何も交付税ごときで頬を引っ叩かれる必要はないのです。豊富な食糧や森林資源や風力などの再エネを活用しながら、資源も食糧もお金も地域内で循環する仕組みを作れば良いだけです。何も、ゼロから始める必要はありません。つい50年前を思い出し、人々が田舎でどうやって(つましい)暮らしを永く営んでいたかを思い起こすだけで良いのです。その頃、街には周辺の農家が作物を持ち寄って「朝市」が立ち、商店街は賑わっていたのですから、徐々にその方向に向かえば、今更「創生」などしなくとも、地方は良い方向に復活できる筈なのです。このまま、中央におんぶに抱っこのままで手をこまねいていては、田舎の空洞化が加速するばかりでしょう。何もGDPや納税額の多寡でカウント・評価されなくても構わないのです。ぜひ「物々交換経済」や「地域通貨経済」をバンバン活性化させ、中央のお金(日本銀行券)では評価できない田舎ならではの豊かさを享受したいものです。

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2019年10月11日 (金)

3672 エネルギー不足

この国のエネルギー自給率が低い事は、数度のオイルショックで思い知らされている筈ですが、これまでも喉元過ぎればそれを忘れてしまうのが、この国の人々の特性の様です。原発停止で、6%程度に落ち込んでいた国産エネルギーの割合(自給率)も、原発稼働再開で8%を回復し、国や電力会社も更なる再稼働を目論んでもいます。
しかし、一応原発は「国産エネルギー」には位置づけられているとはいえ、燃料であるウランは100%輸入に頼っていますし、原発で燃やした後に残る強い放射能を帯びた燃料棒を始末する方法が見つからず、原発内のプールで冷やし続けている事実を見ても、原発は出口のない核物質の貯蔵場所になりつつあると言えます。そもそも地震や津波の頻発する場所であるこの国には、安全な核廃棄物の捨て場所など存在しないと考えるべきでしょう。このままでは、核廃棄物は動かすこともできず、原発=核物質貯蔵所=核物質廃棄場所になってしまうでしょう。これこそ、子孫にとっての「負の遺産」でなくて何だと言うのでしょう。
従って、いわゆる再生可能エネルギーを格段に増やす以外に、この国の国産エネルギーを増やす方策は無いと断言できます。景観は多少犠牲にはなりますが、洋上風力発電も含め増やして行かなければなりませんし、メガワットクラスの太陽光発電ではなくて、各戸や各事業所の屋根には、それなりの規模で太陽光発電を義務付ける必要もあるでしょう。山で眠っているバイオマスも、熱エネルギー源として活用すべきでしょうし、廃食油や生ゴミ、畜糞なども直接燃焼やバイオガス化などでエネルギー利用を進める必要があります。先ずは、再エネ=国産エネが50%を占めるまで増やすのが当面の目標になるでしょう。
同時に、家庭、産業、輸送とも例えば3割程度の大幅な省エネを進め、輸入される原油やLNGを大幅に削減すべきでしょう。それによって、いわゆるエネルギーの安全保障も大幅に改善するする筈なのです。国民も国も忘れている(国は忘れたフリをしている?)様ですが、2030年に2005年比でエネルギーを26~28%削減すると言うのは「国際公約」でもあるのですから、3割削減は、実は必達目標でもあるのです。この5年、省エネ目標がますます達成困難になったと言うしかなさそうです。

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2019年10月 7日 (月)

3671 作るものが無い

この5年間で、いわゆるメーカーのあり様もかなり変わってきた様な気がします。この国のメーカーは、戦後一貫して、品質の高い製品を、1円でも安く作る事に専念し、得意にしてた来たと言えます。その中で、一時期はWークマンに見られる様な小型化や精密化を進め、モノ作りとしては限界を極めたと言っても良いでしょう。しかし、その一方でモノの持つ機能やデザイン(所有する喜び)の様なものは、二の次の位置に置かれ、気が付けば得意分野だった、携帯電話やスマホ分野でもAップルやK国、C国の後発メーカーに水を開けられ、赤字を積上げた結果、事業として浮き上がれなくなってしまい、ついには海外に身売りを余儀なくされる企業も出てきたのでした。
一方で、車メーカーは、ハイブリッド化や電気自動車化やスマアシ化や自動運転化にも、それなりに対応し、何とか面目は保ってはいますが、N産のドタバタ劇も含め、必ずしも将来は明るいとも言えない状況でしょう。今後10年、20年のレンジで見て、今ある様な鉄の塊りである「車」が、売れ続けるのか、立ち止まって考えてみるべきですし、メーカーは、もっともっと製品を作る目的、つまりは製品の持つ機能やデザインや使い勝手など、いわゆる製品の「クオリア」を重視すべきだと思うのです。.
人々がモノに餓え、メーカーがモノを作れば売れた時代昭和や平成の初めまでで、それは既に終わりを告げたと断言できます。これからは、品質が高く、機能やデザインに優れ、それを所有する者に喜びを与える様な製品を、手入れをしながら、出来れば世代を超えて永く使い続けるといった風潮が重視される時代に入ったと考えるべきでしょう。モノづくりはベテランが担うにしても、デザインに関してはアニメやフィギュア等に慣れ親しんだ若い世代が活躍する筈です。人類が存続する限り、最低限の食糧やモノを生産する事は無くなりません。問題は、十分に長いレンジで展望して、何を作るか、作り続けるのかをじっくりと考えてみる必要があると思うのです。もし、それを怠れば、この国の産業も土台からの瓦解が避けられないでしょう。

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2019年10月 5日 (土)

3670  少子高齢化

少子高齢化は、この5年で明らかに悪化(加速)していると言えそうです。国の統計でも、2005-2010年の5年間では97万人の人口減でしたが、2010-2020年の5年では、なんと177万人も減るとの推計なのです。推計とは言っても、来年までの推計ですので確度は高い数字でしょう。つまり、生まれる人の数より亡くなる人が多い結果生ずるこの国の人口減は、間違いなく加速しているのです。
一方で、逆ピラミッド型で頭でっかちになっている人口年齢構成(人口ピラミッド)は、当然の事ながら少子化傾向を如実に示してもいます。出生数は2015年頃に100万人を割って以降、着実に減少を続けていて、2065年には何と56万人にまで減ると推計されているのです。
結果としてみれば、少子化による人口減とますます長寿命化した社会は、必然的に高齢化を加速する事になります。現在30%を僅かに切っている高齢化率も、2025年には30%を突破する予測になっているのです。平成4年の「楽観的な予測」では、高齢化率が30%を超えるのは2040年頃とされていたのですから、予測も15年ばかり前倒しになり高齢化もかなり加速していると見るべきでしょう。などと書いている投稿者自身も、この統計では高齢者に区分されているのですから、笑うに笑えません。
しかし根本的な問題は、社会を支える肝心の労働人口が、もっと極端に減り続けている事です。2015年から2020年に向けては、15-64歳の労働人口は、なんと223万人も減る様なのです。人口減より、労働人口が激しいと言うことは、この国では現役世代への負荷がますます強まり、結果(未婚率も上がり)少子化にも悪影響を与えると言う「人口減少の悪循環」に陥っているのです。小手先の、保育料無償化程度のささやかな政策では、この悪循環を断ち切る事など到底出来ない事は全く自明です。姥捨て山ではありませんが、天寿に近い高齢者を可能な限り(介護負担の重い)寝たきりにしない施策と、子育て所帯にはかなりの額の奨励金を送るなどして、少子高齢化に歯止めを掛けなければ、この国の未来はドンヨリと暗いものとなるでしょう。

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2019年10月 3日 (木)

3669 問題点

5年ほど前のブログ原稿を読み返していたら、投稿者としてこの国の問題点としては、次のような点を挙げていました。ここで改めてその問題点が、果たしてその後軽減されたのか、あるいは重篤化したのかを考えてみる事にしましょう。それらは、
・少子高齢化
・作るものが無い
・エネルギー不足
・田舎が取り残される
・経済頼み
・命が軽い
・希望が持てない
・システムが肥大化し続ける
・インフラは劣化し続ける
・農が細る
・天候が激甚化する
・職が少ない
・医療費が肥大化し続ける
・高齢化福祉費が増え続ける
・税の不公平が拡大(増税のタイミングなので今回追加)
でした。個々の議論は次回以降に続きます。

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2019年10月 2日 (水)

3668  消費税ではなくVATで

昨日から消費税の2%アップがスタートしましたが、以前の3%増税の時にも感じた「違和感」がさらに強くなった様な気がします。そもそも、消費税とは消費者が消費する瞬間に掛かる税金ですが、当然の事ながらこのシステムでは消費にブレーキが掛かることは自明です。なにしろ、年間の消費金額が、明らかに税率分だけ増加する訳ですから、収入が増えない人は、消費額を抑えざるを得ないからです。
一方、VAT(付加価値税)は、時に消費税と訳される事もありますが、考え方は全く異なります。VATは、ざっと言えば、企業において仕入れと売り上げの差額(企業が付加した価値)に対する課税ですから、企業に税の納入義務が生ずる事になります。従って、VATが増税された場合でも、もし企業が売り上げ数量を減らしたくないのであれば、仕入れ値を抑えるか、原価を絞るなどの企業努力でそれを吸収しようともがく筈です。しかし、消費税のアップであれば、売る側の企業や店舗は、間違いなくそのままのアップ税率を表示し、消費者に負担をお願いすれば済む訳です。投稿者にとっての(たぶん多くの消費者にとっても)税の違和感とは、よく考えれば消費者の重税感と恵まれた企業の低い税率の間の「不公平感」なのです。
つまり、消費税は消費者に厳しく、VATは企業に厳しい税制と言える訳です。今の政権も、福祉費や国の借金の返済のため、兎に角税収は増やしたいばかりなのですが、それを一方的に消費者につけ回していると言えるでしょう。消費税は二桁になってしまいましたが、支払いの時暗算がし易く分かり易い10%は仕方がないにしても、一方では将来的にはVATの考え方を導入し、企業にも一層の努力を求めなければ、企業と消費者間の不公平がさらに拡大してしまうでしょう。税制における基本のきは、支払者側の限りない「公平感」しかない訳ですから。

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2019年10月 1日 (火)

3667  積上げ方式2

3666で述べた、エネルギーの色分けについて、補足しておきます。絶対不可欠のものを「青」、一見必要そうだが、無くても何とかなるものを「黄」、惰性で使っているが考えてみるとムダなものを「赤」とするのです。黄や赤は、サッカーなどで審判が使う、イエローカード、レッドカードにたとえれば分かり易いでしょうか。黄は警告、赤は一発退場なのです。
では、具体的にエネルギーの色分けをどの様に進めるか、企業活動を例に考えてみましょう。企業活動の場合にキーワードになるのは「付加価値」でしょう。付加価値とは、メーカーで言えば原材料を加工して製品に仕上げる過程で、材料の持つ価値に製品としての価値を付加したものを指します。例えば、100円で仕入れた材料を加工して1,000円の製品として出荷した場合は、900円の付加価値を加えたと勘定するのです。900円の中には、加工に携わった人の人件費、加工に使ったエネルギーや資材などの原価に加え、設備の減価償却や維持費あるいは会社として経費として製品価格に乗せられる、いわゆるオーバーヘッドも含まれるでしょう。
青エネルギーとは、この付加価値を乗せる際に絶対不可欠なエネルギーを指すのです。しかし、黄エネルギーとは一見すれば、必要な様に見えても、よく考えればそれによって1円の付加価値の増加につながらないものなのを指すのです。例えば、材料や製品の工場内での横移動を考えてみましょう。倉庫から材料を設備の傍に運ぶ、あるいは仕掛品をA工程から次のB工程に運んだとしても、そこに付加価値の増加は全く無いのです。つまり、モノを移動させるために使ったフォークリフトのガソリンやLPG、あるいは天井クレーンやコンベアの電気代にはイエローカードを出すしかないのです。工場内の空調エネルギーはどうでしょう。空調は、工場内の作業環境を整えるには必要ですが、空調エネルギーで製品の付加価値が上がる訳ではないので、取り敢えずは「黄エネルギー」と仕分けするしかありません。しかし、黄エネルギーには何らかの代替手段が存在する事が多いのです。例えば、工場を高気密断熱建屋に改装すれば、冷暖房に関わるエネルギーは少なくとも半減以下に大幅に削減可能でしょう。あるいは、そこにお金が掛けられない場合、作業員が身に付ける「空調服」を支給するのも一方法でしょうか。黄色エネルギーこそ削減余地は非常に大きいのです。先ずは、環境負荷を積上げてそれを仕分けしてみる事です。

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2019年9月29日 (日)

3666  積上げ方式

民放のニュース番組で、来たるべき異常気象頻発時代の特集に見入ってしまいました。大型コンピュータを使っての近未来の気候の予測によれば、台風は2割大型化し、風速67メートルにも及ぶ超大型台風も珍しくなくなるとか。同時に、日本近海の海水温の上昇が固定化し、近海で発生し、1日又は数日で急速に発達し、間髪入れずに上陸するゲリラ台風も多くなると言うのがコンピュータの出した予測だったのです。
気候変動に対しては、今大胆な手を打ったにしてもその結果を確認できるのは、たぶん数十年後になる筈です。だからこそ、16歳の少女の世界を巻き込んだ温暖化防止を呼びかける活動も重要な意味を帯びてきているのだと思います。しかし、徒に危機を煽ってやる気の薄い政治家を悪者にしても実際に動き出す行動は限定的になるでしょう。プラスチックごみに対する政策として、僅かにレジ袋の有料化が始まるだけ、といったささやかで象徴的な政策しか期待は出来ないでしょう。
ならば、熱の無い政治家になど任せないで、企業が、あるいは私たち消費者が立ち上がり、温暖化防止に関して、どんな行動が可能で、しかも実際にも効果が期待できる方策は無いのでしょうか。投稿者が提案しているのは、積上げ方式と呼ばれる行動です。それは、エネルギーで言えば最低限必要なものから優先順位を付けて順位の高いものから積み上げていくと言うものです。企業で言えば、生産に直接必要なエネルギーを「青色エネルギー」と規定しますが、一方で工場内の横移動に使われる搬送エネルギーや空調、圧縮空気を使った掃除機などはそれが無くとも生産は持続継続できるので「黄エネルギー」に分類、待機電力や誰もいないスペースの照明や空調などは「赤エネルギーに区分して、それを棒グラフなどにして積上げる訳です。
多くの企業の環境や省エネへの取組みを観察する中での結論は、青エネルギーはいわゆるメーカーで40%前後、黄色エネルギーも同じ程度、残り10%前後だけが赤エネルギーという割合になっていたのです。つまり、通常の意味の省エネ行動では、頑張っても10%程度しか削減出来ないと言う結論になるのです。これでは、温暖化防止行動としては「焼け石に数滴の水」と言われても仕方がないでしょう。私たちが着手すべきは、黄色エネルギーを目の敵にする事なのです。スレートの屋根や壁の「安普請」の工場建屋のままにしておきながら、夏冬の冷暖房に多大なエネルギーを使っている工場の何と多い事でしょう。思い切って、屋根や壁に300㎜もある様な断熱材を入れた工場に改装するなら、冷暖房費だけでも半分以下に削減可能なのです。コンプレッサー電力も大きな割合になっていて無駄使いも多いので、これも半分以下に圧縮できる筈です。冷暖房と圧縮空気に関するエネルギーの半減で、全エネルギーの30%は削減可能でしょうから、赤エネルギーの10%を合算すれば、工場のエネルギー半減も視野に入ってくるでしょう。とはいうもののそうなってもやっと、温暖化の加速に緩やかにブレーキが掛かる程度なのですが・・・。続きます。

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2019年9月28日 (土)

3665 価値観

時々、価値とは何かを考えます。人類を基準とする物差しで考えれば、たぶん多くの人々はモノやモノを買うためのお金が十分手元にある事を価値と見做すでしょう。しかし、動物にとっては、あるいは植物にとっては、あるいは環境にとっての価値はと考えるとそれは大きく異なる筈です。想像ですが、彼らにとっての価値とは、結局は「変わらない事」ではないかと思うのです。今も、10年後も100年後も現在と同じ状態が保たれていれば、子孫を残せますし、十分ではないにしてもそれなりにエサや養分を手に入れる事ができると思うからです。
さて、人がモノやお金を手に入れるためには、経済活動が不可欠でしょう。もちろん、自給自足でモノを手にする事は可能ですが、それでは自分が作れないモノを手に入れるためのお金は手に入りません。しかし、本当に人にとっての価値の物差しはモノやお金しかないのでしょうか。人にとってもやはり変わらない事は価値だと思うのです。変らない=安定している事は、人々の心に安寧をもたらすでしょうし、変る事による不安も最小限に抑える事もできるからです。山間の田舎で暮らす高齢者が、若い人や子供が少ない事を除けば、ほぼ自給している食糧を隣近所で分け合いながら、伝統的な暮らしを続ける中で、本当に穏やかな表情をしているのは、彼らのココロの幸福度を如実に表していると思うのです。
結局、現代社会においては、モノやお金など手にして勘定できるものだけしか認めない文化になってしまったのかも知れません。目に見えないもの、例えば人と人、あるいは人と動植物などとの絆を感じた時の幸福感や、自分や他人のために何かを成し遂げた時の達成感や、あるいは他人に認められ承認欲求が満たされた時の満足感など目には見えない幸福度の物差しは、さながら存在しないものとして軽んじられてしまっているのです。
しかし、考えてみなければならないのは、あらゆる経済活動においては、間違いなく環境負荷が発生すると言う事実でしょう。モノを作る、運ぶ、それらを手に入れるためのお金を稼ぐ行動、不要になったモノを処理するにも、必ず環境から掘り出した資源やエネルギーを消費し、一方ではそれを廃棄し続けなければ、経済活動は直ちにフン詰まりを起こしてしまうでしょう。つまり経済活動とは、資源やエネルギーの絶え間ない流れを必要とする点、滔々たる大河の流れと全く同じ本質を共有していると思うのです。経済活動を無理に拡大しようとすれば、川が氾濫を起こす様に、経済バブル(=負債の洪水)が弾けたりもするからです。人々が、、肥満など起こさない程度に食を得て、精神的満足感や幸福感を感じながら文化的に暮らすには、経済活動の川をどの程度に絞る事ができるのか、私たちは真剣に考えなければならない時代だと思うのです。続きます。

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2019年9月25日 (水)

3651  台風考2

強風による風圧は、風速の二乗に比例します。ということは、現在の基準で風速40mに耐えられる住宅や電柱などのインフラを、例えば50mにも耐えられる様に作り直すには、強度的には約1.6倍に補強する必要があると言うことになります。電柱だって、一回り太くする必要があるでしょう。しかしながら、電柱の構造(プレストレスト・コンクリート)の規格は、JISで明確に決められていますから、先ずはそこから作り直す必要があるのでしょう。事務手続きが遅いのが特徴のこの国ですから、実際に頑丈な電柱なり、インフラの規格が改定されるまでには、少なくとも10年は必要でしょう。実際にその規格でモノが作られるのはその後になるのです。
従って、それまでの期間、私たちは知恵と工夫で乗り切るしかなさそうなのです。何を工夫するかですが、風圧を低減するにはいくつかの方法が考えられます。電柱や鉄塔は、地面に立っている片持ち梁ですから、折れない様にするには背の高さを低くするしかなさそうです。しかし、電線は電柱や鉄塔の一番上に張られていますので、それを下げるのは至難のワザでしょう。そうであれば、何らかの補強を考えるしかないでしょう。片持ち梁を補強する最良の方法は、支線(ステー)を付けることでしょうか。電柱などでよく見られるあの斜めのワイヤーです。電柱が倒れるのは、実は電線が引っ張っている方向ではなく、電線の方向と直角の方向になるのです。しかし、通常電柱は道路に沿って並んでいるので、道路側にステーを張ろうとすれば、道路上にステーの基礎を置くか、あるいは道路を横切った反対側に基礎を設け、ステーはその下を車が通れるように、道路面に平行に張る必要があるでしょう。これは現実的ではありません。
残る手段は、電柱そのものの補強です。例えば、新幹線の高架の支柱の様に、カーボン繊維と樹脂で補強する方法が考えられますが、工法は全く異なるでしょう。鉄道高架の支柱が受ける荷重は専ら圧縮ですので、支柱を繊維でグルグル巻きにするだけでOKです。しかし、電柱が受ける荷重は曲げですので、折れ始める側の表面には引張力が生ずるのです。そのため、電柱は鉄筋で補強されていますが、設計荷重以上の力が掛かると、コンクリートの表面が割れはじめるのです。引張応力を低減させるには、繊維を長手方向に張り付ける必要がありますが、グルグル巻きにする方法ではNGなのです。最低でも、繊維を45度以上に傾けてダイヤ目に巻きつける必要があるのでしょう。実際、航空機のカーボン製の機体は、その様に繊維が巻かれているのです。先ずは、その様な機械を開発する必要があるでしょう。少なくとも、既設の天文学的な数の電柱を全て頑丈なものに交換するよりは、補強機械を使っての補強の方が一桁以上安く上がる筈です。

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2019年9月24日 (火)

3663 台風考

台風17号が日本列島を駆け抜けました。そもそも、台風のエネルギー源を考えると、それは間違いなく太陽光でしょう。その太陽光が、海水温を上昇させ、それによって大気中の水蒸気量が増え、それが台風に供給される結果、台風が発達し、移動中のパワーを維持し続けるのです。何度も書く様に、台風の卵はエベレスト山脈の下流に、偏西風が起こした左巻きの「カルマン渦」なのですが、フィリピン沖の高い海水温によってパワーを貰い北上を始める事になります。温暖化傾向によって、台風の通路に当たる日本近海の海水温が、例えば30年ほど前に比べて2℃程度高くなっており、台風はパワーを増強しながら北上する事が可能になっているのです。
その結果、台風15号でも今回の17号でも強い勢力のまま上陸したり、陸に接近したりする事ができる様になっているのです。残念ながら、温暖化を進めてしまったのは私たちですが、この状況を変える事はほぼ出来ないと言うしかありません。というのも、温暖化は数十年スパンの気候変動現象であり、悪い事にはその過程には「イナーシャ(慣性)」があるので、たとえ二酸化炭素の排出をたったゼロに出来たとしても、温暖化が急に止まる訳ではないのです。さながらそれは、高速で車を走行させていて、停止するためにアクセル離した状態に似ています。車にはブレーキが付いていますが、気候現象にはブレーキは存在しないので、温室ガスの放出を完全ストップしたとしては、車で言う「空走状態」になるだけなのです。車は行き脚の分だけ走り続けるしかないのです。
従って、私たちは、今後次々に襲いかかる台風によってもたらされる「風速50m」にも耐える住宅なりインフラ補強を、地道に続けるしかないのです。強風によって屋根の瓦やトタンが飛ばされる被害に対しては、例えば、台風襲来前に強力なネットで屋根を覆い、飛散被害を受けない様に対策をしておくべきでしょうし、道路や電線を寸断するおそれのある樹木などは、予め伐採を進めておく必要もあるのです。そうでなければ、今後とも台風被害による大停電やインフラや住宅被害を食止める事は出来ないでしょう。何故なら、この国のインフラや住宅設計における台風に対する基準は、たぶん風速40m程度以下の想定しかしていないからなのです。

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2019年9月23日 (月)

3662  北極調査団

大型砕氷船を使って、北極点において1年間に及ぶ長期の定点観測・調査がスタートするとの小さなニュースに注目にしました。これは、近年北極圏において顕著に進んでいる温暖化を、綿密な観測によりデータに裏付けようとする国際的なプロジェクトである。北極圏でどの程度温暖化が進んでいるかと言えば、例えば夏場には殆ど浮氷が融けてしまう事が知られていますが、気温について言えば、夏場には北極点の気温が、ドイツ国内で観測された気温を上回ったとの報告もあるほど、温暖化の進み方が酷いというのです。
北極海の浮氷はもちろん海に浮いていますので、それが融けたとしても特に被害は出ないのでしょうが、しかし北極圏にはグリーンランドという世界最大の氷河に覆われた「島」があり、同様にシベリアやカナダやアラスカの凍土地帯が含まれている事は看過できないでしょう。何故なら、氷河解けた場合には、間違いなく海面上昇が起こりますし、凍土地帯の凍土が融ければ、夏場には沼地が生まれ、未分解の有機物がメタン発酵を始める結果、大気中のメタンガス濃度が増加して、温暖化がますます加速する事になるからです。ちなみに、メタンガスの温暖化効果係数は、二酸化炭素の20数倍にもなる「強力な」温暖化ガスなのです。
いずれにしても、北欧の女の子一人にだけ温暖化の危機を叫ばせておくわけにはいかないのです。今回の調査団に米国の研究者も同行していて、温暖化は起こっていないと強弁し続ける彼の国の大統領に、ぜひグーの音も出なくなる様な結果を突き付けて貰いたいものです。今日は短く。

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2019年9月20日 (金)

3661  リスク管理の欠如

昨日の判決によると、Fクシマ原発事故に関しては、誰も「刑事上の責任」を負わないのだそうです。原発での事故といえば、放射能漏れ事故を思い起こしますが、もちろん最悪の事故と言えば間違いなく原子炉の入れ物である圧力容器やその外側の格納容器が、高温となった燃料の熱で溶ける「メルトダウン」でしょう。実際にもFクシマではその事故が起こってしまった訳です。
最悪の事故が起こらないように、緊急炉心冷却装置などが設置されてはいるのですが、それは少なくとも非常用電源が確保できているという前提に設計されているのです。しかし、Fクシマでは地下に設置されていた、非常用発電機やバッテリーなどの電気設備が津波による浸水で使えなくなり、当日宿直していた要員は、為す術もなくメルトダウンを迎えるしかなかった訳です。そもそも、非常用発電機やバッテリーを地下に入れるという設計思想が全く納得できません。最悪のリスクを想定するのであれば、当然の事ながら地下室への浸水も想定されて然るべきでしょう。その想定が行われていれば、非常用発電機は2階以上か、あるいは発電所の裏山の高台に設置されていたでしょう。冷却水ポンプのモーターだって、ポンプは地下に置く必要があったにせよ、例えば長い中間軸を付け加えて、モーターだけは2階以上に設置する事も可能だった訳です。
つまり、T電や安全保安院のリスク想定に津波による冠水など「全く想定されていなかった」ということなのです。もちろん、T電だって津波の想定はしていたでしょう。しかし、それは僅か数メートルの高さという「楽観的過ぎる」想定でしかなかったのです。
実際は、誰かが事前に最悪のケースとして想定していた様に15mを超える津波が来襲したのでした。もし、当時の責任者が、上に述べた比較的安い費用で実現できる、非常用発電機の移設とモーターの対策さえ取っていたら少なくともメルトダウンは回避出来ていた筈なのです。もちろん、今各地の原発で行われている様な、長い期間と費用の掛かる高い防潮堤の建設は不要なのです。リスク管理とは、天災から全てを完璧に守ることではなく、実際にそれが起こっても、最悪の事故だけは回避できる手を打っている事を意味するのです。誰も結果に対して責任を負わず、ウヤムヤにして最後はカネだけで始末を付けようとするのは、この国の悪しき文化だと断ずるしかありません。

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2019年9月19日 (木)

3660 災害の背景

災害が発生する度に、マスコミがこぞって行うのが、その災害が何故起こったのかの犯人探しです。今回の千葉の災害でも、特に電力の復旧が遅れている状況が日夜報道され、それは何故なのかとの(やや底の浅い)分析が加えられます。数千本の電柱が倒れた未曾有の災害であったにせよ、復旧を妨げているのは間違いなく倒木の多さでしょう。千葉は、意外にも隠れた森林県でもあり、しかもスギの人工林の割合が多い地域もあるのです。手入れの悪いスギ林にありがちな状況として、枝払いが行われていない事によるトップヘビー化、間伐が行われないていない結果としての内部が腐朽した木の増加などが考えられます。
台風による倒木被害が多いのはこうした状況が進んでいる人工林なのです。少し前になりますが、三重県の人工林(熊野杉)で起こった強風と降雨によって大量の倒木が発生し、その後の豪雨で川を流れ下り、三河湾を覆い尽くした光景が想い起されます。これも、手入れの行き届かない人工林が引き起こした、半天災、半人災の災害といえるでしょう。
近年の災害の多くは、その背景には間違いなく、人の活動が隠れている場合が多いのです。大量の倒木、電線の破断、復旧の遅れの背景には手入れの悪い人工林があったのです。つまり、これは電力供給を管理する「経産省」だけで収束する問題ではなく、河川を管理する国交省、山の利用を管理する農林水産省、全体としての環境を把握しなければならない環境省が、一致協力して事に当たらなければ、今後同様の災害が多発する事にもなり兼ねません。山林の放置は、人が住む地域における地震や豪雨によって引き起こされる山崩れや鉄砲水の直接的な原因ともなり得ます。
私たちは、天災と呼ばれる災害発生原因の殆どには人災的な背景がある、と改めて銘記しなければならないのでしょう。それに予め手を打つことよって、大災害発生時に右往左往するのではなく、災害を小さい範囲内にとどめる、災害に強い国土になって行くのです。高齢者が、楽しみで山に入る事によって、山手入れが進み、彼らが健康になれば医療費が削減され、山林の保護にもより多くの予算が回る様になるかも知れません。もちろん今の制度では、老人が健康になれば厚労省の手柄となり、浮いたお金は間違いなく新たな厚労行政に回されるのです。近年の災害多発の背景には、縦割りの省庁という行政の仕組みがある事もまた否定できないでしょう。

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2019年9月14日 (土)

3659  小粒台風だが

台風15号は、サイズとしては小粒でしたが、中心気圧はかなり低下してしまいました。台風の発達度合いは、概ねそれが通過する海域の海水温の高さで決まってしまいます。海水温が高いということは、海面からの水蒸気の発生が活発で、台風中心の上昇気流を加速すると同時に台風に水蒸気を供給する事につながります。つまり、台風が強大に発達する訳です。しかし、これは必ずしも台風のサイズを大きくする事には繋がらないのです。サイズが大きな台風は、元々渦の直径が大きく生まれているので、高い海水温で強さや雨量は増加しますが、サイズまで発達する可能性は低いのです。サイズが拡大する場合には、台風を巻き込む偏西風の蛇行が関係している場合が多いと思われます。
一方で、今回の千葉県の被害が如実に示した様に、近年は小粒でも強い台風が多発傾向にあるので、特に台風進路の右側に当たる地域では、台風サイズに惑わされず、強風・豪雨に十分備えたいものです。それにしても、一定以上の強風下では鉄筋で補強された電信柱が簡単に折れてしまう事が証明されてしまったので、その復旧に長い時間が必要である事を改めて認識させられてしまいました。停電では、水道水を上げるポンプも止まりますし、浄水場もストップしてしまいます。つまりはインフラ崩壊のダブルパンチです。私たちが、如何に電力だけに依存した社会構造になっていて、それ無しには生活が成り立たない事が暴露されてしまった形です。夏場に日本近海の海水温が高い状態は、既に常態化しており、今後とも強い台風の直撃は避けられそうにありません。
そのための対策ですが、台風が防げない限り、自衛策としてはやはり各戸ごとの独立電源や共同の井戸、冬場には常用の熱源の他に代替熱源などの準備が必要だと言えるでしょう。投稿者の家では、小型ですが太陽光で補充電できるバッテリー式の独立電源、車から100V電源を得るためのインバータ、風呂の熱源は通常は太陽熱温水器ですが、それをペレットボイラとプロパンガス給湯器でバックアップできる様にしています。但し、断水に関しては現状バックアップがありません。いずれ検討が必要ではあります。

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2019年9月10日 (火)

3658  異常海水温

今回の15号は、特徴的な台風でした。その特徴とは、小さくまとまったコンパクトサイズでありながら、非常に気圧が低く、強い台風だったと言う点です。台風の多くは、南の海上で発生しますが、その大元はジェット気流が高い山に当たった際に出来るカルマン渦であると言われています。アジアの東端では高い山とはヒマラヤ山脈が該当します。北半球では左巻きの渦が強められるので、多くはそれらが生まれるフィリピン沖が台風の生まれる地域になる訳です。
しかし、台風を発達させるのは高い海水温である事は銘記すべきでしょう。今回の15号も、通ってきた経路の海水温は、すぐ陸地の近くまで30℃とか29℃に達していた様なのです。近年、温暖化の影響から、気温も海水温も高くなる傾向が続いていますが、これは今後とも台風の多発と強大化傾向が続くと言うことを意味してもいます。
天気図を見ると、今まさにフィリピン沖に熱帯低気圧があり、数日内には新たな台風に発達しそうな感じがします。これは、かなり大きなサイズの台風になるポテンシャルを持っている熱低の様ですので、油断が出来ません。これまでに比べて異常に高い海水温は、台風ばかりではなく、この国の気象全体に影響を及ぼすでしょうし、その他にも農作物や漁業などの1次産業にも多大な悪影響を及ぼさずには置かないでしょう。省エネで化石燃料使用量(CO2発生量)をホンの少し減らす程度では、この規模が大きく、長期亘る海水温上昇傾向に歯止めを掛けるは難しいでしょうし、どうすれば良いのかまったく途方に暮れてしまいます。

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2019年9月 9日 (月)

3657  ささやかな自社製品

企業の源泉は、どの様にQCD(=品質やコストや納期)を守って製品を作るかでなく、どの様な機能やサービスを市場に提示して、それを受け入れて貰うかにある筈です。つまり、下請けに甘んじて下を向いてモノを作っているだけでは、企業に元気は出てこないのです。たとえ、初めはささやかなモノでも、キラりと光る自社製品が必要だと思うのです。
これまで投稿者が目にしたいくつかの例を挙げましょう。一つ目は「毛抜き」です。岐阜県の山間部で、小さなスプリング(板バネ)ばかりを作ってメーカーに納めている小さな企業がありました。この企業は、一念発起して有り余っているバネ素材を利用して、デザインや色が可愛らしく、毛もしっかり抜ける毛抜きを開発したのです。メーカー向けの部品としてのばねの単価は、たぶん数円~数十円程度だったと想像していますが、ネットで販売を始めた毛抜きには、7-800円と言う定価を設定したのです。しかし、女性に支持されまた口コミで広がった結果、この毛抜きはバカ売れ商品になったのでした。
別の例では、愛知のフォークリフトの部品ばかりを作っていた企業が、余っているアルミ素材を利用して、スマホのスタンドを開発したのです。しかし、ただのスタンドではなく、スマホの小さなスピーカから出た音が、特殊な渦巻き型の穴を通る間に音が拡大されると言う優れものなのです。つまり、電源の不要なスタンド兼スピーカになる製品だったのです。スマホ毎に専用製品を作り、これをネットで売り出したところ、ジワジワと売れ始めのです。きれいな金属用の着色を行い、新しく自社のロゴを入れて、2万円ほどの値段を付けたのですが、スマホ世代には受け入れられた様なのです。渦巻き型の穴の形状は、公設試の協力を得て開発した様です。
結局、今の時代、ネット販売と言う手段がありますから、勝手に製品を開発し、それを売りさばくに当たっても、販路開拓などの手順は省略可能な時代なのです。製品の安全性が問題なく、怪我などの事故につながる様なものでない限り、PL法だって回避できるでしょう。であるならば、B to Bの製品しか作ってこなかった中小メーカーだって、いきなりB to Cの製品を売り出すことも十分可能な時代だという事に気付くべきなのです。

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2019年9月 8日 (日)

3656 メーカーは何を作るか

県内でも有数のエレクトロニクス企業を見学する機会がありました。県内に誘致された時は、数人規模で創業したこの企業は、現在従業員も400人以上となり、既に操業50年以上の歴史もあり、ラインの品質管理もしっかりしている様に見えました。基盤に部品を自動で実装し、ハンダ付けも自動で行うラインも素晴らしく、必要なエリアはクリーンルームとなっていて、モノ造りに関しては素人目に見てもたぶん世界水準なのでしょう。しかし、話を聞いてみると少し寂しくもなって来たのです。つまり、ほぼ全ての部品は、親会社や元請からの受託生産であり、少なくとも自社ブランドで製造販売している製品は無いようでした。
この工場は、かつてのポケベル全盛期に、専用工場として建設された様で、その後は何度かの事業再編や企業合併を経て、今は大手総合電機企業が株主となっている「丸抱え企業」となっている様でした。という事は、ここは、例えば自社でアイデアを出し、製品開発を行う人材も組織も持っていない、「単なるモノ造り工場」であるという事になるのです。ある製品は、製品寿命と言うものがありますので、生産量に山谷があり、最後は生産終了となるのでしょう。親会社は、その次の世代の製品を開発し、この企業に製造委託をするのでしょう。しかし、相手は大きな市場ですから、品質が高いと言う理由だけで、この企業の将来が安泰であるとも言えないでしょう。
企業は、たとえささやかなモノでも「自社製品」を持つべきだ、と言うのが投稿者の持論です。小規模な開発で、販売価格がそれほど高い製品でない限り、開発費や設備投資費も殆ど掛からない筈なのです。しかし、製品には自社のブラント名が記され、自社の販売ルートで売り捌かれるのです。秋田の大手企業であるTディケー社が、かつて自社ブランドで販売を始めたのはカセットテープでした。消費者が実際に手に取る製品に、ブランド名が記されていると企業の知名度は一気に上がるでしょう。しかし、残念ながらこの大企業は、カセットテープやCD盤などが売れなくなると共に、自社製品の販売を止め、他のメーカー向け(B to B)の部品作りメーカーと言う黒子に徹することとなったのです。
訪問したエレクトロニクス企業だって頑張れば、自社製品を生み出す事は可能です。先ずは、手のひらに載るサイズの製品で構わないのです。例えば、かつて投稿者が思いついた、安価な電子製品のケースですが、それは車の運転席に装備し、車の加速度を検知して音声で警告を出すと言う単純なものです。つまり、急加速や急停止は車の燃費も悪化させますし、何より安全な運転ではありません。それに適正な警告を発する事が出来れば、省エネドライブ=安全運転も広がるかも知れません。開発も容易ですし、乾電池で動く様にすれば売値も数千円程度に抑えられるでしょうから、開発リスクも小さいでしょう。

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2019年9月 7日 (土)

3655  科学技術の黒歴史

科学技術の黒歴史を紹介するETVの番組を欠かさず見ています。題名は「フランケンシュタインの誘惑」となっていますので、科学技術の失敗作として(死体を繋ぎ合わせて作ったとされる)フランケンシュタインを象徴的にタイトルにしたものなのでしょう。毎回登場する科学者や技術者の多くは天才的な才能は持ってはいるのですが、自分の才能と信ずる事を唯一無二と思い込み、なりふり構わず開発に突き進むパターンは番組を通じて通底しています。
それは、高性能の爆薬を開発したN-ベルに始まって、放射能を見出しその放射能の犠牲になった科学者夫妻、更には原爆の父と呼ばれたR.Oペンハイマー等、結果として見れば戦争などを通じて多くの生命を奪ってしまった天才たちの黒歴史の番組になっているのです。もちろん、冷静になって考えれば、彼らにも自分が開発しているモノが、使い方次第では殺戮兵器に転用できる事は分かっていたでしょう。しかし、彼らは開発が成功した時の快感や名誉欲の充足の虜になってしまっており、抑制が外れてしまっていたと想像されます。まさに、天才と狂気の同居に他なりません。
原発にしたって、数度の原発事故を振り返れば、非難を余儀なくされた人達の中には、直接的な放射能被曝ではなくとも、かなりの数の原発非難関連死があった事を考えれば、まさに黒歴史を刻んできたと言わざるを得ないでしょう。そう考えれば、例えば便利だと思って開発された車が、これまで何人の人達を事故で殺してしまったのか、など等。考えてみれば殆ど全部の科学技術は陽の当たる面と、真っ暗な影の部分を併せ持っていることに気が付くのです。
ではどうすれば良いのかですが、私たちは常に自分達が科学技術を使って作り出したモノやシステムが生み出し結果を監視する義務を負っていると思うのです。それを生み出した人達は、やがて亡くなってしまうかも知れませんが、少なくともそれを使って、利益を享受している私たちにもその義務は回避出来ない筈なのです。科学技術の成果を使えば、エネルギーを消費するでしょうし、それを使い終わった際には必ず廃棄物(ごみ)として捨てられるでしょう。CO2を出さないエネルギー源とされる原発だって、運転によって多量の核廃棄物を生み出すでしょう。私たちは、その電力を消費しているユーザーでもあるのです。その意味で、原発は即時に廃止を決めるべきでしょう。

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2019年9月 6日 (金)

3654  この国の行く末

N羽宇一朗が書いた新書を読み直しています。この国の在り方に対する氏の提言本です。大きな商社のトップをつとめ、その後も中国大使などの公職をつとめた国際派ですが、氏のバランス感覚が飛び抜けて高いと感じています。その提言でも、当然の事ながら、大小の国に囲まれているアジアの島国であるこの国が、戦後のB国の陰に隠れながらベッタリとくっついてきたこの国の政策(とは呼べない様な気もしますが)には批判的で、全ての国と適当な距離を保ちながらのバランス外交を勧めているのです。
残念ながら、近年のこの国の政治家の中には、その国際的なバランス感覚の持ち主は見当たらない様に思えます。先人が長い年月を掛けて築いてきた、それなりに良好だった隣国関係でさえ、売り言葉に買い言葉スタイルで、短期間の内に険悪に空気に変ってしまう事さえ起こっているのです。広い気持ちで、相手を包み込む様な対応も考えられるのですが、どうやら今のリーダー達は、彼の国の「Deal」がお得意な大統領の影響を受けている可能性もあります。何ともはや、他人の影響を受け易く、自己と言うモノが確立されていない情けない人たちでしょうか。彼らに、この国の命運が託されていると思うと、たまらなく心配になるのです。
そう言えば、この国の政治家連中から、将来この国をどの様な国にすべきか、したいのかと言ったビジョンを聞いた覚えがありません。ビジョンの無い(成り行き)の国家運営が如何に危ういものであるのか、少なくとも先の大戦で軍の暴走を止められなかったこの国は、手ひどく学習している筈なのです。口を開けば、景気浮揚を強調し、無策な景気対策を何とかミクスと美化し、B国盲従を反省しようともしない、この国のリーダー達をこのまま放置して良い筈もないでしょう。何度も書く様に、このブログは批判のための批判を目的にしてはいませんが、時々ガス抜きのために腹にしまっている事を書かないと、ストレスでとてもやって居られません。なので、今日はついリーダー達のバランス感覚の欠如を嘆いてしまいました。

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2019年9月 2日 (月)

3653  強大ハリケーン

フロリダ半島を舐めようとしているハリケーン・ドリアンは、ついにカテゴリー最強の5に成長した様です。中心気圧も910hPa台まで下がってしまったとの事で、これは、海水を万遍なく1m程度の高さに吸い上げるほどの「真空度」となっている事を意味します。高潮とカリブ海の湿気をたっぷり吸ったハリケーンは、未曾有の降雨ももたらすでしょうし、何より風速80m/s以上と言う強風が最大の脅威でしょう。これは、ほぼ新幹線並みのスピードなのですから、体感としては新幹線の窓を全開にして顔や腕を出している様なものでしょう。
台風やハリケーンの強大化は、温暖化による気温上昇⇒海水温の上昇⇒大気中の水蒸気量増加⇒雲量の増加と積乱雲の発達⇒台風・ハリケーン等の強大化、というロジックで説明されていますが、ここでのキーワードと言うか背景には[上昇気流の速度増加]があるのでしょう。上昇気流は、地表と上空の温度差によって生じます。その差が大きい程、当然の事ながら上昇気流は強まります。上空5000mと地上の温度差が40℃を超えると、急激に上昇気流が強まり、雷雲が発達する事が知られています。
更に、この雷雲から台風・ハリケーンへの加速・強大化させるのは、雲を回転させる「渦」の存在でしょう。北半球では、地球の自転に伴う「コリオリの力」によって、反時計回りの渦が強まります。では、その最初の渦は何処で発生するのかですが、それは偏西風が4-5000m級の高い山に当たる事によって生ずる「カルマン渦」だと言われているのです。カルマン渦がはっきり観察できる例は、鳴門海峡などの渦潮ですが、当然のことながら同様な渦は大気中でも発生します。大気の渦の場合、渦が発生しコリオリの力で発達するまでに2-3000㎞の移動距離が必要だと言われていますが、台風の場合はヒマラヤ山脈の下流に当たるフィリピン沖等、ハリケーンの場合はロッキー山脈の南端の下流に当たるカリブ海が発生場所となり易いのです。偏西風は、近年蛇行が大きくなっているとも言われ、蛇行がカルマン渦の強度を上げている可能性も否定できないでしょう。つまり、偏西風が蛇行してカーブするポイントとカルマン渦が重なると渦は強まるのです。
いずれにしても、気象に関わる多くの指標が台風やハリケーンの巨大化を加速しているのは間違いなさそうです。この傾向が何処まで行くのか末恐ろしい気もします。

 

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2019年9月 1日 (日)

3652 方向転換

ここ数年の世界のざわめき様は異常と言えそうです。どうやら人間は、権力を握るとそれを利用して自分の影響力を試してみたくなる様です。僅か144文字のツィートでも、権力を握っている人間が書くと、翌日の株価や緊張している国際関係にもすぐにリアクションが現れます。つまり、世界の情勢は、安定期などではなくむしろ、一つブロックを外せばガラガラと崩れる「積み木」の様な不安定要素を多く孕んでいると言えそうです。
投稿者は儲からない自営業者ではありますが、企業の経営については素人と言うか適正が無い人間だと自認しています。そうではあっても、この不安定な世の中で、企業経営者にもの申したい点があります。それは、企業の進む方向です。企業経営は、船の舵取りに喩えられますが、現状保持を舵角0度とすると、数度から10度程度舵を切る「微調整」もあるでしょう。90度程度舵を切る大転換もあるでしょう。しかし、世界情勢が不安定で人口減少も顕著になりつつあるこの国では、たぶん180度の舵切りこそ必要だと思うのです。180度とは、元来た航路を引き返す事を意味します。元々人口減少社会で売り上げを伸ばしたり、企業規模を拡大すること自体が無理な相談なのです。人口(消費者)が減る局面では、売り上げも減るのが自然な話でしょう。もし、売り上げをじょうそう伸ばそうとすると(客)単価を上げなければならないのですが、デフレ社会ではそれは逆効果で、給料の殆ど上がらない消費者からはソッポを向かれる筈なのです。ならば、値下げをして売り上げを数の増加でカバーしようとすれば、下請けに無理な値下げを押し付けるとか、正規社員を減らしてアルバイトを増やすとかの小手先の対策しか残されていません。
そうではなくて、後戻り戦略を取れば、かつて通ってきた見覚えのある航路(道)を戻る事になりますので、暗礁も回避できるでしょうし、気象(景気)の変化にも比較的容易に対処できる筈なのです。つまり、企業のリスクは全体として大きく低減できる事になるでしょう。向かい風の時は、180度方向転換をすれば、風も追い手に変るのです。前に進む事が善で正しいのではなく、100年先も安定進む社会にする事こそが善であり、結果的に正しい行動だと言えるのです。世の経営者は、右肩上がりの経済成長(インフレ社会)こそが善だと言い張る「20世紀型のリーダー」にはぜひ耳を貸さない様にしましょう。

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2019年8月29日 (木)

3651  雑草の戦略

I垣栄洋の「身近な雑草の愉快な生きかた」と言う本がたまらなく面白かったのです。道端で普通に見かける雑草には、もちろん夫々に名前が付けられていますが、ネーミングも面白いのですが、その生き方が夫々に興味深いのです。今普通に見かける雑草は、在来種も帰化種も夫々熾烈な生存競争を経て、生き残ったものばかりでしょう。それらは、例えば道端で踏みつけられることに耐えて生き延びて来たもの、信じられないくらい沢山のタネを付けてテリトリーを広げて来たもの、地下茎を深く伸ばして地上部が刈り取られてもすぐ芽を出すもの、在来種より背丈を高く伸ばし太陽光を独占してしまうもの、他の植物に絡み付いて締め殺してしまうもの、根から有毒な物質を出して他の植物を遠ざけてしまうもの、受粉のために昆虫を徹底的に利用するものなどなど、全ての雑草が今その場所に生えているのは、それなりの戦略が成功した結果だと言えます。
雑草たちは、人間が品種改良した作物とは異なり、与えられた環境に順応し、加えて巧みな戦略の下にそれなりの進化も織り込み、テリトリーを広げて来たわけですが、その中にはタンポポの様に在来種と帰化種との交雑も含まれている様です。著者は、それらの雑草の生き方を、人間社会に投影して見せて、ユニークな生き方を浮き上がらせているのです。その比喩は、古の万葉集の引用やサッカーの試合、アニメや芸能界の出来事まで、多岐に亘っているので読み飽きません。
振り返って、人間と環境の関係を眺めて見ると、雑草(植物)と環境の相互(互恵)作用の関係ではなく、人間が一方的に環境を利用し、環境を勝手に改変してしまう歴史だったと言えそうです。後戻りが出来ない形の改変は、結局ブーメランとなって人間を痛めつける結果になる事は、これまでの生物の絶滅や公害や鉱害やゴミ問題や気候変動と言う事実が雄弁に物語っている筈です。食物連鎖の頂点に立っている人間こそが、自分達が環境にばら撒いてしまった「毒」が濃縮する被検体である事に私たちは早く気付くべきなのです。もしかすると、アレルギーやガンや生活習慣病や難病と呼ばれる病気のかなりの部分が、環境(悪化)由来かも知れないのです。環境や他の競合相手とも共存し、環境変化に順応してしぶとく生き延びてきた雑草や植物に、私たちはもっと学ぶ必要がありそうです。

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2019年8月28日 (水)

3650  一応の区切り

55歳で完全なフリーランスになった2006年の夏に、暇だったので何気なく始めたブログですが、始めるに当たっては、兎にも角にも「毎日1稿」はアップしようと決めていました。振り返って書き溜めた原稿を眺めてみると、初期には、1日に2稿書いていた日もあった様です。累計3650稿という事は、毎日1稿をアップして365日/年書き続けると、丸10年間アップし続けたという勘定になります。当然の事ながら、仕事や旅行でアップ出来ない日も多かったので、実際には丸13年を要した事にはなりました。
このブログは、「環境ブログ」という事で書き出しましたが、もちろんここまでで環境問題に関して書き尽くしたとは思っていません。何故なら「環境」とは、宇宙を含む「森羅万象」を抱合するのであり、神でもない限りそれら全てを論ずる事は元々無理な話だからです。それでも、環境というKWで凡人として考えられる限りの面から論じてはきたつもりでした。振り返って自分の投稿を読み返すと、初期はかなり大上段に振りかぶってはいたものの、我ながらなかなか「良い事」を書いていたとは思います。
最近はといえば、どちらかと言えば随筆的な投稿が多くなってしまった様ではあります。つまりは、凡人の頭で考える「環境ネタ」が尽きてしまった様な気もするのです。もちろん、一応の区切りの投稿数に達したとはいえ、ここで投稿を止める訳ではありません。書き残すべき事を思い付いた場合には随時アップしていく事とします。ただ、投稿(更新)の頻度は大分少なくなるとは思ってます。
さて、PCでブログを開いてみると左側に「バックナンバー」が表示されますが、その文字をクリックすると、2006年8月からの全てのバックナンバーが月別に表示されます。それをさらに開いて拾い読みしてみると、特に初期には、我ながら環境問題を熟考しながら力を入れて書いていると振り返っています。(スマホの場合には、上のカテゴリをタップし、アーカイブを開くと見られます)機会があれば、何らかの形で投稿を編集し、自費出版してみたいとは思っていますが、先立つものを準備出来るかどうか、自分の中にそのパワーが残っているか全く自信がありません。たまたま、このブログを読んでいただいた方々には、時間が許せば是非バックナンバーも読んでいただきたいと思います。但し、合計3650題もありますので、全部読むにはかなりの時間をいただく事にはなります。ある人が最近それをやってくれた様ですが、約3か月掛かったと教えてくれました。
実は、この環境ブログとしては1,000題のポイントで一応の区切りをつけており、1,001以降は「随筆ブログ」としてやや趣が変化しています。1,000題直前の十数題は、環境ブログとしてのまとめとなっていますので、2009年の4月の投稿を眺めていただくだけでも、このブログの主旨がある程度伝わるのではないかと思っています。蛇足ですが・・・。

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2019年8月27日 (火)

3649  環境学は総合学

投稿者は、50歳過ぎに早期退職し、やや自由時間が取れる企業に再就職する中で、改めて放送大学の大学院の門を叩き、環境学を学びました。しかし、一口に環境学と言っても、その間口は広く、森羅万象と言っても間違いではないでしょう。地球が今の姿を見せている事を確認するには、地球環境科学や地学、気象学、海洋学などを学ぶ必要があります。地球環境をかなりの程度支配しているのは、海洋や地上で暮らす各種の生物(微生物、植物、昆虫、動物など)ですが、それを学ぶには夫々の分野の知見を学ぶ必要もあります。
地球上で起こる気象などの諸現象を理解するには、いわゆる自然科学と呼ばれる各種の学問もある程度知っていなければなりませんし、人間が取る行動を理解し、予測するためには心理学や社会学もチェックしてなければならないでしょう。それらを手当たり次第に学ぶ中で、元技術屋として、投稿者に最も欠けていた知識は、実は生物に関する知識である事を思い知らされ田のでした。植物や昆虫や動物、ましてや微生物などは、投稿者の中ではほぼ中学時代の理科の知識で留まっていたのです。
しかし、放送大学の十数冊のテキストを勉強しながら、並行して国内外で進んでいた環境保全の取組み例を目撃しながら知識の肉づけを行ったのでした。例えば、ドイツにおける、風力や太陽光などの再生可能型エネルギーの普及への強力な意志、フィンランドやオーストリアにおけるバイオマスのエネルギー利用の拡大、インドや中国など発展途上国におけるバイオガス活用の意外との言える進歩、その他バイオ燃料などの実用例を見るにつけ、1周遅れどころか、下手をすれば2周遅れの日本の状況がもどかしく思えたのでした。
環境学が総合学である所以は、単に植物や微生物の何たるかを知るだけでは不十分で、それを利用するための科学・技術、仕組みを継続できる様な経済学の裏付け、新しい仕組みを社会に行きわたらせるための社会学の補強、更に言えばエネルギー密度の低い再エネを利用するための「運ばない工夫」と言うロジスティクス、激甚化する気候からの災害を緩和するための防災学などなど、数えあげればキリの無い知識を総合しなければ何も進まない点だと言えます。〇〇だけ、と言う「偉い」が間口が狭い学者が何人集まっても、環境悪化に対応する策は殆ど何も生み出せないでしょう。総合的な知識を利用して、環境負荷を小さくするに役立つ仕組みを生み出すのは、決して紙の上の学問や知識などではなく幅広い「知恵」なのです。

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2019年8月26日 (月)

3648  量的に正しくない技術

3647で言及した時間の問題に加え、量の問題もあります。量的に正しくない技術とは、技術それ自体で直接環境を悪化させるものではないにしても、その量が大量になるにつれて、害悪を与え始める技術を指す投稿者の定義です。たとえば、古代においては石油は地下から自然に滲み出てくるものであり、自然に着火したものは「燃える水」として、信仰の対象にさえなったものでしたが、それを大量に掘り出して燃料やプラスチックの素材として大量に消費する様になって、その消費は「悪」と見做される様になったのです。
人類は、資源を利用する事に夢中になり過ぎ、それを消費した後の始末に関しては、殆ど考えてこなかったのです。その結果、大気中に放出されるCO2などの温暖化効果ガスもモノを消費した結果のプラスチックごみも、燃やされて更なるCO2を増やし、また埋立てられたり、海洋投棄されたりしてごみ公害を生んだりしているのです。その結果、例えば海で死んだ魚やクジラなどの海洋生物を解剖してみると、100%の確率で消化器やエラなどからプラスチックごみが見つかるのです。
原発も同様です。実験室レベルの放射性廃棄物は、深い穴でも掘って、その中に溜めておけば良いでしょう。しかし、既に原発でウランを燃やして(核分裂させて)生まれてしまった、プルトニウムや放射性廃棄物は、大量であるが故に安全に保管・処理する技術も場所も確立されてはいないのです。何しろ、放射性廃棄物の放射能が半分になるのに(半減期に)何万年も掛かる物質があるくらいですから、時間により解決を待つ訳にもいかないのです。ましてや、生まれてしまった放射能を消したり、中和したりする技術は未だ発明されていません。和たちに出来る事と言えば、自分達の身を犠牲にしてまで放射能の利用に身を捧げたキュリー夫妻やそれを世界のパワーを握るため、巨費と多数の優秀な科学者・技術者を投じて、原爆や原子力潜水艦のエネルギー源として原子炉を実用化したB国を恨むしかないのです。
現代の世の中を見回してみると、この様な「量的に正しくない技術」に満ち溢れていると言わざるを得ません。元技術屋として、それらの技術を拡大するため、ホンの端っこだけですがその先棒を担いで来た身としては忸怩たる思いしかありません。

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2019年8月25日 (日)

3647 時間による善悪逆転

時間によって善悪など逆転する筈がないとの突っ込みが来そうですが、それはあり得るのです。取り分け環境に関しては、それは真理だと言うしかありません。自然には、環境を維持する力があり、事実地球は度々の大規模な地殻変動や小惑星の衝突等の地球規模の災害に遭いながらも、現在見る様に多様な環境と生物を育んできたではありませんか。それは、とりもなおさず自然の復元力の為せるワザでしょう。
しかし、私たち人類はその自然の復元力を超えるスピードで、自然環境に負荷を与え続けてしまったのです。スピード(速度)は時間の関数です。もし、環境負荷が自然が許容する程の長い時間を掛けて与えられるならば、環境の復元力が勝り変化は小さい筈です。しかし、ある限界を超えると自然が環境負荷を抑える事が出来なくなり、環境が変化(悪化)してくるのです。
目に見える環境の変化として「気候」を考えてみましょう。もちろん、日々目にする気象に比べれば、長いレンジで見る気候の変化は分かりにくいのも事実です。しかし、統計的に処理してみれば、近年(残業革命以降)の気候変動は明白です。取り分け、石油の大量消費時代に入った1950年代以降の気候変動(激甚化)は、日々の気象としても実感できるほどになってしまいました。
例えば異常な高温日(猛暑日)や洪水や土砂崩れを伴う様な集中豪雨の頻出です。例えば、台風やハリケーンなどの熱帯性低気圧の大型化、超低気圧化です。また、例えば北極圏における数十℃にも及ぶ温暖化です。北極海沿岸地域では、冬期の気温がこの50年間で40℃程度も上昇したと報告されているのです。もちろん、それでも冬場は零下数十℃ではありますが、北極海の浮氷面積や凍土の厚みは年々減少を続けているのです。
私たちに出来る事は、可能な限り経済活動を減速させて、同じ負荷を環境に与える時間を引き延ばさなければならないしょう。いずれにしても、ここまで地球の人口が増えてしまっては、いくら質素な生活を送ったとしても、悪行、即ち環境に対する負荷を増やし続ける事にはなります。私たちに出来る事は、環境が牙を剥いて私たちに襲いかかってくるまでの時間を、出来るだけ引き延ばすことだけの様です。環境人間として投稿者は日々無力感に苛まれています。

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2019年8月24日 (土)

3646  自然とのかい離

3645で述べた様に、私たちは森(自然)からドンドン離れながら、化石燃料に頼って今の文明を栄えさせてきたという事でしょう。それを絵として描き表わすとすれば、人間が作った人口環境(例えば都市空間)と自然環境の間がくっきりと分かれている構図になるでしょう。少し昔に遡れば、それはシームレスで繋がっていた筈です。環境がグラデーションを描きながら、連続しているイメージの構図です。例えば、都市と里との間には農地が広がり、里と森林の間は里山で繋がっているイメージでしょうか。つまり、人々は日常的に自然に分け入って暮らしていた訳です。
しかし、今私たちは都市と言う完全に人工的な環境を作り、その中だけで暮らしているのです。自然に触れるためには、登山などで分け入るのですが、それとて誰かが作ってくれた「登山道」を歩くだけの限定的な経験に過ぎないとも思うのです。そんなアウトドアの趣味すらない多くの人達は、人生の殆どを人工環境で暮らす事になるのでしょう。Y老孟司は、直線で構成された都市空間を「人間の脳が作った」と表現しましたが、そこで生まれ育った人達は、自由曲線(面)で構成されている自然の造形物(例えばヘビなどです)を指して、気持ちが悪いと感ずるのです。
自然と乖離する距離が大きければ大きい程、私たちはその自然の破壊に鈍感になるのは当然の成り行きでしょう。事実、私たちは自分達が出したごみが、山間や人工島の埋め立て地に運ばれて、投棄されそれが埋立て場を埋め尽くしていくのを、興味を持ってみる事は殆ど無いでしょう。それも当然で、行政や業者はそんな自然を冒涜する現場を、人々になるべく見せない様に努力しているからなのです。つまり、現代社会では人工環境と自然環境を出来る限り乖離させるのが良いとされる風潮が続いているのです。
そうではなくて、私たちは今こそ人工社会を出来る限り自然環境に近づける努力が必要だと思うのです。少なくとも、地下資源から得てそれを使った後に廃棄する人工物の量を可能な限り減らし、人工環境の周縁を可能な限り自然環境に近づける努力が絶対に必要です。海岸や河岸はコンクリートで覆うべきではありませんし、都市の周辺はシームレスに自然環境に溶け込んでいるべきなのです。それが、ヒトがヒトらしく生きる唯一の方法だと思うのです。

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2019年8月23日 (金)

3645  森を捨てた人間

我々のご先祖は元々は森に棲んでいて、その後草原に進出・進化する際に二足歩行となり、ヒトになったと言われています。とは言いながら、ごく最近までご先祖様たちは、森につかず離れずに暮らしていたのでした。つい50年ほど前までは、私たちは山裾には植林して森林として木材を利用し、里のある平地との間には里山を「作って」その里山からも薪炭や山の恵みをいただきながら質素に暮らしていた訳です。
しかし、ある時期以降私たちは猛烈な勢いで、里山や森の破壊を始めたのです。工場用地や核家族化した人達が住む住宅を建設するためでした。それでも足りず、多くの都市近郊の農地も工業用地や住宅のために消えて行ったのでした。いわゆる「高度成長期」以降の話です。海外の途上国でも、世界中で急激に増えた人口を支えるために多くの森林に火をかけ、焼き畑農業と言う持続可能ではない農業形態で、農地を広げていったのでした。当然の結果として、焼き畑農業で開かれた農地は、やがて肥料分が枯渇し、収量が上がらなくなるため、結局は放棄されて砂漠化するのです。放棄された農地は、雨で表土が流され、もはや森林に戻る事も出来ず、不毛の大地だけが残るのです。G-グルアースで見ると、例えばアマゾン流域には、放棄された農地が、森林に刻まれた茶色ののアバラ骨の様に残されているのが観察できるでしょう。
断言しますが、ヒトは森を離れては暮らせない存在なのです。森の空気が吸えなくなったヒトは、無意識ながらストレスを感じ、中には「気がふれる」人達も出てくるのです。日々報道される、イジメや煽り運転や引きこもり族などのニュースに触れるたび、森を捨てた人間の愚行の結果を見る様で、ココロが痛むのです。投稿者は、還暦到達を期に田舎に家を建てましたが、田んぼやその先に見える里山を眺めながら、それらに癒される毎日を過ごしています。たまに、ブナ林等の自然林が残る鳥海山や各地の山々に登る趣味は、ストレスフリーな人生を約束してくれています。繰り返しますが、ヒトは森と離れては暮らせないのです。投稿者には、人々が退役後も、狭い都会に群れて暮らし続ける理由が全く理解できません。

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2019年8月22日 (木)

3644 技術者倫理

技術屋を十数年前に卒業した(つもりな)ので、堂々と技術や技術者の「悪口」を書くのですが、今の技術者には倫理が欠けていると言うしか無さそうなのです。倫理とは、投稿者の理解する範囲で大雑把に言えば、人が他人との関係に於いて守るべき則の様なものだと思うのですが、残念ながら技術者は他人ではなくモノと向き合っていますので、最初から倫理をすっ飛ばしてしまうのです。
いくつか例を挙げましょう。例えば、車です。車は現在では最も普及した移動手段の一つなのですが、残念ながら車対人の関係に於いて倫理が欠けていると言わざるを得ません。もちろん、車を運転するのは人であり、車に対面する通行者も人です。しかしながら、ドライバーと通行人は対等の関係にはなり得ないのです。それは、車と人が衝突した時を想像すれば十分でしょう。車に衝突された人は、通常タダでは済まないでしょう。大怪我をするか、ひどい場合には命を失う場合も多いのです。
車を設計した技術者は、この非対等の関係を無視してきた様に思います。最近でこそ、スマアシブレーキや監視カメラによる衝突回避機能などを盛り込んだ車が出ては来ていますが、それが法制化されまでには遠い道のりがありそうです。
(経済)効率を優先する技術者は、これまでも倫理上の多くの過ちを繰り返してきたと振り返っています。全ての公害問題や多くの社会問題は、技術者によって引き起こされました。多くの技術者は企業に所属していますので、倫理上の技術者の良心も、企業の経済論理が許す範囲内でしか発揮できないのです。この縛りを抜け出すためには、技術者は自分で会社を興すしかないのですが、得てして技術者には経済オンチが多いのです。もし技術者倫理を守っていく事が社是の企業を作ったにしても、それは3日で潰れてしまい兼ねません。その意味で、技術者「倫理」と経済「論理」の両立はほぼ不可能であると結論せざるを得ない様なのです。残念ながら。

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2019年8月21日 (水)

3643  環境モラトリアウム

モラトリアムという言葉があります。日本語にすれば支払猶予や怠慢とでも言うのでしょうか。表題の「環境モラトリアム」とは、辞書に載っている言葉ではなく、環境の悪化が顕著になっているにも関わらず、殆ど手を打たず、成り行きに任せている状況を指す、投稿者の造語なのです。モラトリアムの後に来るのは、実はより悪い状況であるのは、例えば借金の返済を猶予して貰った人のその後を想像するだけで十分でしょう。
環境悪化、例えば環境汚染を考えてみると、環境が持つ自然の浄化作用で、放置したとしてもいくらかは軽減される場合もありますが、重金属など分解されない(分解されにくい)汚染物質が原因の場合は、汚染が世代を超えて長く続く事になります。ましてや汚染源からの発生をそのままに放置し続けた場合には、汚染が酷くなり、ある限界(後戻りできない点=Point of no return)を超えてしまうと、人々や生物に多大な害悪を及ぼす結果につながるのです。
借金の例の場合、負債を返済するにはひたすら働き、少額でもコツコツと返済を続けるしか道は無いのです。環境悪化においても、先ずは汚染の原因を取り除き、然る後に汚染を少しずつでも取り除く努力を続けるしか方法は無いでしょう。しかし、考えてみなければならないのは、例えば放射能の除染と簡単に言いますが、実は取り除いた汚染物質は何処か別の場所に移動させるだけですから、正しくは「移染」と呼ぶべきなのです。真に汚染を軽減できるのは、汚染物質を無害なものに分解するか中和するなどの方法で、毒を弱めるしかないのです。その意味で、私たちの文明は未だ放射能を無害化する技術を手にしてはいないのです。それでもなお、放射性廃棄物を生み続ける原発の稼働に突き進む政府やそれを指示する業界や人達は、「環境モラトリアム勢力」と切り捨てるしかありません。

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2019年8月20日 (火)

3642  時間は価値ではない

時は金なりとはよく聞く諺の一つです。時は貴重なものになったのは、一体何時からでしょうか。例えば、動物たちや植物などが、時間を気にしてソワソワしているのを見たことは無いでしょう。彼らには、たとえば1日や1年という時間の塊は重要ではあるでしょうが、1分や1秒などという人間が作った時間単位には興味も無いでしょうし、気にもしていない筈です。つまり、時に価値を与えているのは、時を気にする人間だけである言えそうです。
取り分け、時が金銭と等価であると言う風潮が固定した背景には、もちろん「時給」と言う制度が定着して以降の事でしょう。いくら働こうが、年俸制である限りは、人々が時間を気にしてあくせく働くモチベーションは生まれにくいでしょう。自分のペースで働くことも可能でしょう。月給制も年俸制に近い仕組みではありますが、月給を労働日で割り算をして考えやすいので、実質は日給や時給制とムードはあまり変わらないでしょう。
ここで議論したいのは、もちろん自分の時間を売って、給与を得る制度の是非ではありません。むしろ、時間は価値ではないとの視点を強調したいのです。時間は、ある一定の時間例えば、地球の自転の時間を均等に割る事によって定められました。たまたま、12進法を採用していた国が時間の物差しを決めたので、一日が24時間に決まった訳です。
もし、時間ではなく人々が働いた代価を誰もが同意できる方法で正確に評価できる仕組みが発明されたと仮定すれば、時間給や月給などという時間の価値は消滅してしまう筈なのです。もちろん、難しいのは労働の代価の測り方そのものなのですが、取り分けその代価が一体誰にとっての価値であるかは、事実上誰にも決められないのです。と言うのも、ある人にとっての利益は、時として他の人の損失の上に実現して事も多いからです。とは言うものの、時間が自動的にある価値を生む、などと言う風潮はソロソロ終わりにしなければならないとは思います。特に、自然環境が変化しない事こそが価値だとすれば尚更そうでしょう。

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2019年8月19日 (月)

3641  お祭りフェイズ

投稿者は、事態を一応「フェイズ」と「モード」に分けて眺める様にしています。フェイズとは、事態が一定の方向に進む際の「相(段階)」を指すと考え、一方でモードとは、フェイズの中でどの様な状態であるかを示す言葉だと思っているのです。車の走行にたとえると、目的地に向かって走る際の出発直後、安定した中盤、目的地近くの終盤等のフェイズに分けられるでしょうか。一方で、道路の状態に応じてギヤを切り替えるとか、あるいは疲れたのでSAで休憩を取るとかの切り替えはモードに関わる部分だと考えるのです。
さて、投稿者の見方では現在社会は長いながい「お祭りフェイズ」の中に入っていると考えています。投稿者の定義では、お祭りフェイズとは、いたるところで騒ぎ、美酒・美食に酔い、日常を忘れて浪費に走る様な生活スタイルを指すと考えます。食の分野で言えば、昔はお祝い事やお祭りの時にしか口に出来なかった、お菓子やご馳走や果物も、今では年中手に入るし、また口にする様になりました。服装にしても、かつてはハレの日の服装だったものが、今では普段着になってしまっている様な気がします。
経済の面でも、人々は年に一度か二度のハレの日のために、日々の生活では、支出を切り詰め、せっせと貯蓄に励んでいた訳ですが、今は取り敢えず欲しいモノはクレジットを利用して先に手に入れ、それを何回に分割して支払うかを考えるだけになったのです。お祭りフェイズが、例えばR-マンショックで水を差されたかを振り返ってみると、確かにある期間の踊り場はあったにせよ、それは下り坂ではなく、経済が横ばいの「踊り場」に過ぎなかった訳で、景気の停滞は、モードのチェンジではあってもフェイズのチェンジではなかった様な気がするのです。その証拠には、この国は既に人口減少局面に入って10年以上を経過する中でも、相変わらず経済成長率だけを指標として掲げる、経済優先の政策から抜け出せないでいるではありませんか。縮小局面では、それを見越した長期のビジョンが必要は筈なのです。お祭り(ハレ)フェイズを卒業した後は、間違いなく日常(ケ)フェイズに戻らなければならないのでしょう。

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2019年8月18日 (日)

3640  旅と旅行

旅と旅行は違うと投稿者は考えています。例えば、江戸時代の伊勢参りの様に、一応目的地があって行く場合でも、東海道の風物を愛でながらその過程を楽しむのは、「旅」と分類して良いでしょう。一方、最近の風潮の様に目的地があって、そこまでの道中は可能な限り短時間で移動するするために、新幹線や飛行機を使うのは「旅行」と呼ぶのが適当だと思っています。つまり、目的に至るまでの過程を重視するのが旅、目的を果たすことだけを重視するのが旅行と言って良いでしょう。
これを一般社会での行動に引き戻した場合、なかなか夫々を一言で言い表す適当な言葉が見当たりません。と言うのも、現代社会ではそもそも旅をする機会が無いからだと言えそうです。もちろん、退役した人達が、たっぷり出来た時間を利用して、四国の歩き遍路に出たり、あるいは旧東海道を歩いてみるなどの疑似旅を試みたりはしていますが、どうやら彼らには四国遍路や東海道の宿場町をコンプリートする、などと言う明確な「目標」があって、道中で目にするものを愛でたり、楽しんだりする余裕が少ない旅の様な気もするのです。そうだとすれば、単に移動手段を徒歩にしただけの旅行に過ぎないとも言えそうなのです。
さて、振り返って投稿者自身の事を反省すると、投稿者は一応百名山踏破を目標に、山登りを続けているのですが、どうやらある時期から百個の名山の頂上に立つ事だけが目標になってしまった様な気がします。50代のある時期にそれに気がついてからは、山に登る際には登山道で見かける樹木や花々や昆虫、あるいは太古の昔に火山や地殻変動が作った地形などにも注目しながら登る様にしたのです。その結果、その後の山行がどれほど豊かになったか言うまでもありません。登山ではなく、山歩きに変ったからです。

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2019年8月16日 (金)

3639  機能の消費

最近、車や自転車のシェアなど、それを所有(購入)しないで利用する仕組みが増えてきた様です。つまり、モノを所有・消費しないで、機能を消費すると言う考え方です。モノの消費に比べ、機能の消費は、省資源・省エネの行動につながります。資源やエネルギーの消費を、LCA(Life time assessment)という視点で眺めると、当然の事ながら機能の消費では、モノを作るための資源の採掘や製造エネルギーが不要な分、大幅な省資源・省エネになるのは自明です。
現代の人間、特に日本人は、過剰な潔癖症であるため、とかく他人が使った製品は使いたがらない様です。しかし、手や体が接触する部分さえ、適正にアルコール消毒などをしさえすれば、実質的には、感染症などの問題は生じないなずなのです。であるならば、これまでは「耐久消費財」と見做されてきた車などの高額商品も、積極的にレンタルやリースやカーシェアなどの機能消費を行えば良いでしょう。その結果、もちろんカーメーカーの生産台数は減少するのは致し方ないと割り切るしかありません。考えてみれば、車が走っている時間は、駐車も含めた総使用時間の中では低い方の数%しかないと想像しています。
もし、その実走行割合をその2倍にする事が出来れば、今地球上に存在する車の数を半分にする事が出来るのです。課題は、車を使いたいと言うニーズが発生した際に、如何に容易に使用可能な車を見つける事が出来るのかという点です。これに関しては、車を保有する企業とユーザーを繋ぐ適当なスマホアプリなどがあれば解決できるでしょう。実際には、車はコンビニやガソリンスタンドやショッピングセンターなどの駐車スペースを利用すれば、アクセスに関しては問題は無いでしょう。車の管理者も、同じ情報を共有すれば適切で利用率の高い配車計画も可能になる筈です。現代社会で、モノではなく機能を消費する社会を作るのはそれほど難しくは無いのです。

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2019年8月15日 (木)

3638  人力の活用

全世界の人口は、75億人を超えた様です。ネット上にカウンターがアップされていますが、それを眺めていると大体1秒毎に人口1人が増えている様です。1時間で3600人、1日では8万人以上増える勘定です。
さて、ドンドン増えつつあるそれらの人達が、欲望の赴くままに、資源やエネルギーを消費し続けたら地球はどうなってしまうでしょうか。答えは自明です。資源の枯渇が早いか、それとも地球環境の悪化で、例えば疫病の蔓延などで、人口減少先に始まるか、いずれにしても悲惨な未来しか想像できないでしょう。その前に打つべき手は少なからずあるのでしょうが、ここでは増えすぎた人口の活用を提案しておきます。つまりは、人力の活用です。
さて太古の時代、私たちのご先祖は、人力と畜力だけで、ピラミッドや万里の長城など壮大な土木工事を完遂させました。巨大なモアイ像などは、採石場から今の位置まで、一体どの様にして石像を運んだのか未だに論争を呼んでいるほどです。先人の知恵には感服せざるを得ません。
ちなみに、人が連続的に発生させる事が可能な馬力は概ね1/4馬力程度とされていますが、4人が力を合せれば1馬力、40人では10馬力を発生させる事が出来る勘定になります。人一人を移動させる手段としては、移動者(運転者)自身が駆動パワーを出す自転車が理想である事は間違いないでしょう。
それを楽をしたいと言う理由だけで、すぐ近くに出かける場合でも車に乗る人の何と多い事でしょう。自転車は、それを作る上でも使われる資源は、少量の金属やゴムなどの最小限で済みます。それを使う際に必要な化石エネルギーはゼロなのです。しかも、自転車に乗る事は適度な運動になり健康も増進できるでしょう。自転車は途上国でこそ最大限活用できますので、経済援助には是非十分な数の自転車を加えるべきでしょう。
その他にも、人力で少しの発電・蓄電を行えば、夜間の照明や通信機器の電源くらいには十分利用可能でしょうし、人力で井戸から水を汲み上げる事も出来るでしょう。私たちは、今あまりにも機械やそれを動かすための化石エネルギーに頼り過ぎているのは間違いないでしょう。そうではなくて、効率の高い道具を人力で動かすことの重要性を今一度見直す必要があると思うのです。

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2019年8月 7日 (水)

3637  破局(カタストロフィー)

破局(カタストロフィー)とは、安定した状態が、突然何らかの理由で急激に崩壊してしまう現象を指す言葉です。「破局の理論」という本によると、通常状態から破局に至る状況は、立体的な局面で表現でき、その局面は折れ曲がっていて、破局に至る局面では事態が不連続になると主張するのです。
局面を文字で表現するのは難しいので、たとえ話にするならば、子どもが木登りをする様子が良いかも知れません。つまり、子どもが夢中になって木登りをする場合、彼らは下を見る事無しにひたすら上を目指します。しかし、ある高さになって下を見た途端、その高さにびっくりして足がすくんで動けなるなる訳です。この足がすくむ状況が、子供のココロが破局(カタストロフィー)を起こした瞬間に相当するのです。もちろん、冷静に登った時の逆のステップで、ジリジリと後ずさりをすれば、安全に降りる事も出来るのですが、破局状態では全く動けなくなる筈なのです。
さて振り返って、世の中の状況や環境問題を同様の視点で眺めてみましょう。例えば景気です。景気が上向いている時は、皆が行け行けドンドンでお祭りの様になるでしょう。かなり昔になりますが、いわゆるバブルの時代がこれに当たるでしょう。しかし、何かにつまづいて(例えばサブプライムローンの仕組みの破綻)誰かが不安に陥ると、その不安は次々に連鎖し、最終的には景気の破局を招くのです。この時代の流行言葉で言えば「リーマンショック」という事になります。
環境問題に話を転じても同様でしょう。化石燃料の使い過ぎなどが原因で、温暖化や異常気象が徐々に進行する場合、人々は楽観的に構えている筈です。しかし、命に関わる様な高温や気象災害が連続して起こる様になると、人々はパニック(破局)に陥り、右往左往する事態になるかも知れません。破局を避ける唯一の方法は、決して下を見ないでひたすらジワジワと後ずさりする事なのです。
さて、私たち社会の後ずさりとは、具体的に何をどうすれば良いのでしょう。取り敢えずは、冷静に自分たちが過ごしてきた過去の暮らしを振り返って、そこを起点に自分達の歩みの何処がやり過ぎだったのか反省する事から始めてみるしか無さそうです。

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2019年8月 6日 (火)

3636  自家中毒

自家中毒とは、生き物が自分自身が出した(有害な)物質で、自身が中毒を起こしてしまう現象を指す言葉です。その意味で、全ての公害は人類の自家中毒の実例であるとも言えるでしょう。その毒となる物質は、企業によって、あるいは大気、あるいは水、あるいは土壌中に思慮なく廃棄され、やがてそれが自然に濃縮され、あるいは全体に地域的な濃度が高まって、ついにはそこに暮らす人々に害をもたらす結果につながったのでした。
しかし、もっと深刻なのは、生活をする私たち自身が出す廃棄物で生ずる自家中毒です。それらは、一見毒ではない様な物質で引き起こされるからです。例えば、生活ゴミです。その多くは燃やされる訳ですが、ゴミの中でも生ゴミは焼却炉の燃焼温度を低下させ、いわゆる「ダイオキシン類」を発生させ易くするのです。今でこそ管理され適正な方法でリサイクルされている廃蛍光管は、以前は安易にガラス管を割って処理していましたので、その中に微量含まれていた水銀は、大気中に放出されていたでしょう。同様な例は、エアコンに使われてきたフロンガスにも見られます。フロンガス自体の直接的な毒性は殆ど無いのですが、大気中に放出されると成層圏の上まで上昇し、それに含まれる塩素がオゾン層のオゾンを破壊するのです。その結果、地上に到達する紫外線の量が増えて、やがて高い率で私たちに皮膚がんなどの害悪を及ぼすのです。
全く毒ではない物質でも自家中毒は起こり得ます。それが、たとえばCO2やメタンです。それらは、自然の状態でも大気中には夫々数百ppm、千数百ppb程度含まれている物質ですが、その濃度が急激に上昇し続けているのです。CO2は400ppmをかなり超えてしまい、メタンも2000ppbに迫ってきているのです。これは、多量の化石燃料の使用の結果CO2が増え、その結果温暖化が進み、寒冷地の凍土地帯の湖沼がより多く融解し、そこからメタンガスが多量に発生する事により、更に温暖化が加速すると言う悪循環を引き起こしているからに他なりません。
こう考えてくると、いわゆる環境問題と呼ばれる諸問題の多くは、つまるところ何らかの形での自家中毒ではないかとも言えそうなのです。自家中毒の恐ろしさは、私たちがそれを分かっていても残念ながら(便利な)生活スタイルをなかなか変えられない点にあるのです。やがて人類は、人類自身が出した毒で滅亡する事になるのでしょうか。

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2019年8月 5日 (月)

3635  ゴミ塚

ゴミ塚とは、貝塚からの発想で投稿者が作った言葉です。縄文時代の人々が、生活の中で出して後世に残したゴミは、各地のその時代の貝塚で見つかる様に、食べた後で捨てた貝殻や魚の骨だけでした。獣の骨だって、何らかの道具を作る材料として役立てていたと想像できます。それは、戦後のモノの大量生産・大量消費時代が来るまで、あまり変わりなく続いてきた筈なのです。特に、江戸時代にはモノのリサイクルはきっちり行われていたのです。金属は貴重でしたし、紙や布は最後の最後まで徹底的に利用し尽くされました。生ごみは家畜に食わせるか、堆肥にし、排泄物だって近郷の農家が買取り田畑の肥料したのです。
しかし、問題は最近の生活スタイルの酷さです。殆どのモノは使い捨てです。大量に出る生ごみはもちろん、売れ残りの可食商品さえ賞味期限切れという理由だけで惜しげもなく捨てるのです。その量は、食品全体の3割とも推計されているのです。耐久消費財さえ、もし修理代が新品とあまり変わらなければ、迷いなく新品を購入するでしょう。それより、メーカーでさえ既に修理に対応できる人材が居らず、故障して修理に出した際には、新品よりは少し安い修理代?ながら、全くの新品を送ってくる時代なのです。
かくして、生ゴミは燃やされて灰になった形で、耐久消費財は破砕されて、価格が高い銅合金や磁石に吸着する鉄だけは回収しますが、残りはシュレッダーダストとして埋立て処理に回されるのです。その中身はと言えば、プラスチックやゴムや布やアルミなどの安価な金属やその他の屑が混じった燃えないゴミと呼ばれるモノなのです。もちろん、プラスチックだってもし厳密に種類別に分別できるなら元の材料としてリサイクルは可能なのでしょうが、残念ながら多くは劣化していて材料として完全にリサイクル出来ない可能性も高いのです。しかし、プラスチックは元々は石油なのですから、上手くデザインすれば燃料としての利用は可能なはずです。
後世の子孫たちは、我々が埋立てたゴミ塚を掘り返して、その中に何を発見し、どう利用するのでしょうか。その時代には、石油が掘り尽くされ、ゴミ塚の中から出てくるプラスチックを何らかの形で利用するのでしょうか。しかし、一緒に出てくる利用価値の無いゴミには、その量を含めてあきれ返る事は間違いありません。

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2019年8月 2日 (金)

3634  ゴミを見えなくする社会

私たちの社会は、ある時期以降ゴミを見えなくする(無かった事にしてしまう)社会に移行してしまった様な気がします。それは、私たちの認識が、ゴミは汚いもので厄介者だという姿勢が強まってしまった結果でもあるのでしょう。ゴミはゴミ箱に捨て、最後は黄色いゴミ袋に押し込んで、道路沿いにあるゴミ捨て場に置いておくと、知らない内に行政や行政に指定された業者のパッカー車が回収して、市民があまり知らない場所(焼却場や埋め立て場所)で処理されるという訳です。もちろん、燃やしたからといってゴミが全て気体になって雲散霧消する訳ではありません。どんなゴミでも燃やせば一定量の灰が出ますので、その焼却灰はやはり埋立て処分場に持ち込まれ、埋立て処理される運命にある訳です。
かくして、ある自治体が使っている埋立て処分場は年々不燃ゴミや焼却灰で埋まって行き、最後は満杯になってしまうのです。十分な広さの最終処分場が確保自治体では、手を打たなければ10年以内にも埋立てが出来なくなると言われ、日本全体でも20年以内には埋立て処理が行き詰ると予想されているのです。これは、ゴミを見えなくする社会の仕組みに欠陥があるから、としか言えない現象だと言えるでしょう。もし、昔の様に行政によるゴミ回収システムが整っていない時代であれば、自分が出したゴミは自分で何とかしなければならない時代であれば、人々はゴミをなるべく出さない様に行動する筈なのです。
方法は、ゴミをなるべく見える様にするしか見当たりません。海外では、ゴミ収集業者のストライキにより、例えば1週間以上ゴミの回収が滞ったなどというニュースが時々流れますが、その際には道路の両側に放置されたゴミが溢れかえるといった画像が流されました。ゴミを捨てた人々は、否応なしに自分が捨てたゴミと向き合わなければならなかった訳です。問題は問題として当事者が目で見て、それ(ゴミ問題)を認識する様に出来れば、ゴミも少しは減る様になるとは思いますが・・・。

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2019年8月 1日 (木)

3633 農学と工学

工学と農学(植物学を含む)の違いについて時々考えます。何より、両者のアプローチの方向が全く異なるのは間違いないでしょう。農学は、そもそも植物というものが存在し、その挙動を学ぶ事によって、植物がより元気になって、結果として収量が増える様に彼らの「ご機嫌取りの方法」を学問として固めたものでしょう。一方で工学とは、物理現象の原理を利用して、それを人間の役に立つ形で学問に仕立て上げたものであると言えるでしょう。
既に何億年もの進化の歴史があり、ほぼ完成形態の植物に学ぶ農学と、高々産業革命後の数百年の歴史しかない工学をそもそも比べることもおこがましいのですが、特に欠陥だらけの工学を学問と呼ぶ事にさえ抵抗感を感ずるのです。残念ながら、投稿者は道を間違えて「工学者(技術屋)」としてのキャリアを積んでしまったのですが、50歳過ぎにそれを反省して、取り敢えず技術屋はドロップアウトしたのでした。では何者になり得るのかを考え、模索を続ける中で、森羅万象を対象とする「環境学」にたどり着き、放送大学でこの方面の勉強をする事になったのでした。
環境学も、農学同様既にある地球環境について、その仕組みを学び、通底する原理やルールを学ぶ中で、ほぼ完成形態で存在する「(地球)環境」に学ぶべき事は多く、少しは真実に近づく事が出来たのでは、と感じています。
それに比べ、科学・技術で作り上げた近代文明は、それを作ってきた人間の浅千恵もあるのですが、完成形態とは程遠い欠陥だらけの間に合わせの感が拭えないのです。もし、今の文明が享受している科学・技術が完璧で完成されたものであると仮定すれば、世の中で起こっている製品に起因する事故などは起こり様がない筈なのです。ヒューマンエラーだって製品さえ完璧であれば、いわゆる「ポカ除け(フールプルーフ)」の仕掛けによって、未然に防止できる筈です。
繰り返しますが、両者の違いはアプローチの方向なのです。既に完成された自然の事象に学ぶ学問と、まだ確立されていない技術を、経済や利便性などの論理だけで安易に製品に仕立てて、使ってしまうと言う新しい(未完)の学問とはアプローチの方向が全く逆向きなのです。より重要なのは、前者である事は間違いないでしょう。そう思って、投稿者は技術屋を早めに卒業したのでした。今では、投稿者としては、科学・技術にはある種の疑いを抱きつつ接する様になりました。

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2019年7月31日 (水)

3632  寄生生物としての人間

人間が、食物連鎖の頂点に立っているのは間違いない話なのでしょうが、一方で見方を変えれば、人間こそ最低レベルの「寄生生物」であるとも言えるかも知れません。寄生生物というのは、宿主に寄生して、それに依存して生きる存在の事ですが、人間の場合の宿主は地球そのものであると見做す事が出来ます。
100%寄生生活を送る寄生生物もまれにはあるのでしょうが、一方では宿主にも何らかのメリットがある「共生関係」という例も多いのです。というより、寄生された事により宿主が殺されてしまわない限り、生き物は何らかの形で共生していると考えて差し支えないとも思うのです。共生には、相利共生、片利共生、片害共生、完全寄生などレベルがありますので、考えてみれば地球上に今繁栄している全ての生物は、何らかの形で他の生物と共生していると考えて間違いはないのです。猛獣と、その餌食になる動物達でさえ、片害共生的な例だとも言えるのでしょう。何故なら、猛獣は餌食となる動物達を狩って根絶やしにする事は絶対に無いからです。
しかし、人間だけは違います。その貪欲な欲望を満足させるためには、森林を焼き払って農地に替え、資源量が少ない鉱物でも掘り尽くすまで収奪を止めませんし、たとえ環境汚染が酷くなっても、自分達の健康被害が顕著にならない限り汚染物の排出を止める事はないからです。宿主である地球環境の悪化は、人類の数が急増するにつれて、最早後戻りが出来なくなるポイント(Point of no return)に至ったのではないかと危惧せざるを得ないのです。私たちが、100%の寄生から、より共生の形に近づくためには、一体どの様に行動すべきかを考えるにつけ途方に暮れざるを得ない自分に気が付きます。

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2019年7月30日 (火)

3631  夢と現実

子供や若い世代に夢を抱いて貰う事は重要です。しかしながら、無責任に見果てぬ夢を若い世代に吹聴する事には賛成できません。その代表例が、宇宙への夢でしょうか。例えば、ラッキーにも税金で宇宙ステーションに乗り込めた人達(宇宙飛行士)が小学生相手に、誰もが宇宙旅行が出来る時代が来る、あるいは月に人が居住する、あるいは火星に人類が到達できる、などという夢を誇大に宣伝し、それを掻き立てるべきではないと思うのです。人類は、宇宙旅行からは、殆ど何も得るものが無いからです。闇と真空の世界やその道中で体験される無重力からは何も生まれないのです。火星に到達するには、狭い宇宙船の中で、何年も過ごす強靭な精神力と体力が求められますが、最初に火星に近づいた、あるいは着陸した人類という名誉は手に出来るにしても、下手をすれば宇宙飛行士達の、精神の崩壊も覚悟しなければならないでしょう。
何も宇宙に夢を求めなくとも、この地球上には解決しなければならない問題が山積している筈なのです。その問題を解決する事に従事する事は、単に宇宙からの地球の姿を眺めて感動するためだけに、宇宙旅行をする事の何百倍も重要な行動でしょう。もちろん、人類が長年かけて貯め込んできた問題を、解決するには長い年月の地味で地道な努力が必要ですので、派手さはありません。しかし、誰かがそれを行わない限り、放置すればそれこそ取り返しのつかない環境悪化を招く事はかなり明白になってきたと言えるでしょう。
温暖化は、非常にゆっくりとした速度で進行する気象変動の例ですが、既に無視できない数の人達が夏季の高温のために亡くなるという時代に入ってしまっている事は銘記しなければならないでしょう。宇宙開発に従事する賢い人材があれば、プラスチックに変る物質だって開発出来るでしょうし、今起きているマイクロプラスチック問題だって解決の糸口も見つけられる筈なのです。必要な行動は、誰かが人類が取り組むべき活動に、優先順位を付けることなのです。当然、宇宙開発などはかなり低い優先順位になる筈なのです。そのために貴重な国家予算など使わずに、宇宙オタクが趣味程度に活動すれば良いのです。私たちは、この地球の地面(現実)を離れて、宇宙(夢)で暮らすことなどできないのです。

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2019年7月29日 (月)

3630 水環境3

水は、物理的に見ても非常に興味深い物質です。第一に、地球の普通に見られる環境で、固体(氷)、液体(水)、気体(水蒸気)の三態が存在する事です。これは、殆ど奇跡とも言える状況で、地球に多くの水が存在した事、地球が太陽から絶妙の位置を公転していて、平均気温が十数℃に維持されている事が相俟って、実現しているのです。
水は、一方ではほぼあらゆる物質を溶かし込める「溶媒」でもあるのです。例えば、海水中には、なんと「金(Gold)」のイオンさえ溶かし込まれているのです。
一方で、地球上で容易に観測できる温度範囲で、固体、液体、気体の三態に容易に移行できるのですが、重要なのはその「変態」の際に、かなりの量の熱を奪ったり、放出したりするのです。たとえば、水と氷の変態では、1㎏当り80kcalの凝固(融解)熱の授受がありますし、水と水蒸気の変態では、なんと540kcalもの気化熱(凝縮熱)が伴うのです。これは非常に重要な性質で、地球の環境温度を安定させる役割や、あるいは雲の発生や降雨(降雪)の原因にもなっているのです。この水の変態に伴っては、同時に気圧の変化ももたらしますので、水は気象全体に深く関わっているのです。
結局、水は私たちが住んでいる地球の気象を、変化には富んでいるものの、総じてマイルドにする重要な役割を演じていると同時に、水循環と同時に溶媒として物質循環、ひいてはエネルギー循環にも関わっていると言えるでしょう。つまりは、水環境無くしては、地球の生物圏も存在し得なかったとの結論になりそうです。

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2019年7月27日 (土)

3629 水環境2

水に関しては、まだまだ書き足りないので、追加して行きます。投稿者が、水で真っ先に想起するのは、実は「バーチャルウォータ」です。バーチャルウォータとは、製品特に食品を製造する際に使われる工業用水や灌漑水を指し、直接的には表面に現れない量の水を意味する言葉です。これは、入れ子になっていて、例えば牛肉1㎏を生産するのに、例えば穀物を10㎏飼料として与えたと仮定した場合、牛が直接飲む水はもちろん、穀物10㎏を収穫するまでに必要な灌漑水もカウントされるのです。ある試算では、牛肉1㎏を生産するに必要なバーチャルウォータは、その20000倍とも言われているのです。分かり易い単位に直すなら、水20トンに相当すると言う訳です。
アメリカ中西部で生産された牛肉には、その地域で生産される穀物を与えるので、その飼料の生産にはこの地域の地下に眠っている太古の地下水(=化石水)が使われます。この地域は極度の乾燥地帯(ステップ地帯)であり、化石水が無いと仮定すれば少しばかりの草しか生えない砂漠同様の地域なのです。農家は、先ず井戸を掘り、その井戸を中心としたコンパスの様な「ピボット」と呼ばれる灌漑装置を動かします。つまり、井戸からポンプアップした水をピボットの腕から噴射し、円形の農地を強制的に灌漑するわけです。しかし、化石水は殆ど補給されませんので、地下水位は年々低下し、現在では150mより更に低下していると言われているのです。一部の農場では、既にポンプの揚程を超えてしまい、地下水が得られなくなっている地域も増えているのです。
グーグルアースでこの地域をよく眺めてみると、確かに緑の円形農地群の中に、歯抜けの様に茶色いままの耕作放棄地らしき点々が散在している事に気が付きます。想像するに、これらの放棄農場は、まさに地下水が尽きてしまった場所か、あるいは過剰に灌漑水を散布した結果、地下水中のミネラル分が地上に堆積し結果、耕作が継続できなくなった場所と考えられるのです。これを農地における「塩害」と呼びます。これも人間の短慮の結果と言えるでしょう。

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2019年7月26日 (金)

3628 水環境

3627で言及した水環境の設計ですが、実は自然にとっても私たち人類にとっても、最重要と言っても良い程のイシューだと思っています。何故なら、水なしには如何なる植物も育ちませんし、植物の生えない場所にはそれに依存する昆虫や動物たちも寄り付かないでしょう。私たちは、いわゆる世界の各地に広がる砂漠地帯で、その実例を確認する事が出来る筈です。しかし、多くの砂漠地帯も、時代を遡ると肥沃な場所であった事が分かるでしょう。いわゆる4大文明等の文明が栄えるには、その地域は川の水量が豊富で、川が作る肥沃な氾濫原があり、森林や牧草地帯が広がっている必要もあるからです。
しかし、今はそれらの文明が栄えたエリアの多くが砂漠地帯になっているのは偶然ではないでしょう。気象の変動によって、それらのエリアの降雨量が極端に減ってしまったのが、直接的な理由でしょう。とはいえ、それは実は人間がもたらした浅慮の結果であるとも言えるのです。それは、文明の反映と共に拡大した水需要に対し、水環境の設計が脆弱過ぎた結果である事が明白だからです。水は、直接人間が飲んだり、作物に灌漑する以外にも、土壌中に常に存在する「土壌水」のレベルも、文明周辺の植物相を決定するには重要です。川や湿地、水辺の乾燥地、平野、山岳地帯などに生える植生は、地形の他に土壌水のレベルが大きく関わっているのです。初期に湿地である場所も、川が土砂を堆積すればやがて乾燥が進んで、アシやヨシが密生し、更に乾燥が進むとササが繁茂し、やがて灌木や高木が進出してきて、森に変るでしょう。
しかし、そこに人間が住み始め、木を切り倒し、火を放って農業を始めると、土壌の乾燥化と貧栄養化が進み、やがてそこは砂漠に変って行くでしょう。今、砂漠となっている多くの地域では、人間による負の環境サイクルによって、肥沃な緑地が失われてしまったと考えられます。その実例は、実は現代でも目にする事が出来ます。過剰な農業灌漑の結果としての、いわゆる塩害が出ている地域がその例に当ります。具体的には、アメリカの中西部やアラル海沿岸地域などが例示できます。前者では、化石水と呼ばれる地下水を使い過ぎ、後者のアラル海ではそこに流れ込む川の水を農業灌漑に使い過ぎた結果、湖が干上がり周辺地域が砂漠化してしまったのでした。人間の愚行のタネは尽きません。

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2019年7月25日 (木)

3627 環境のグラデーション2

環境のグラデーションが重要な理由は、他にもあります。それは生物の多様性に関わる話になります。小惑星の衝突に起因すると言われる、太古の種の大絶滅後。生き残った哺乳類や鳥類や昆虫が、多様に進化した植物と共に、現在見られる様に溢れるばかりの多様性を以って反映してきた背景には、この環境のグラデーションがあるのは間違いないでしょう。
例えば鳥類ですが、ダーウィンのガラパゴス諸島における観察にも記録されてるフィンチが、僅かばかり離れた島毎に、独自の形態の進化を遂げている事実は象徴的でしょう。身近に見られるトンボだって、生息場所の環境に応じて、イトトンボやシオカラトンボやアキアカネやオニヤンマやショウジョウトンボなど多様な形態や大きさに「分化」してきたでしょう。もちろん、その背景には水環境やそこに繁茂している多様な植物相があるのですが、一方で護岸に囲まれた池や川があるだけの都市近郊の単調な環境を想像するなら、これほど多様な動植物相は発現しないだろう事は容易に想像できます。
つまり、森であるかさもなくば都市であるといった二分法は生物の多様性を「殺す」最悪の選択だと言えるのです。理想は、自然林⇒混交林⇒里山⇒棚田⇒田畑⇒郊外⇒都市といった具合に、環境に多様なグラデーションを設けるべきなのです。しかも、その中では「水環境」も上手く設計する必要もあると思うのです。水環境は、即植物相を決定しますので、これを誤ると、例えば都市近郊に見られる様な手の付けようがない竹林やササ原や藪といった、好ましくないしかも単調な環境が出現してしまうのです。単調な環境には、単調な動植物相しか現れず、もちろん人にとっても暮らしにくい環境になってしまうでしょう。環境のグラデーションこそ、生物多用性の揺り篭なのです。

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2019年7月24日 (水)

3626  環境のグラデーション

長くブログを書いていると、以前に書いた事を忘れて、つい似たようなあるいは同じタイトルを持ち出したりする様です。このタイトルも、かつて付けた様な気もします。しかし、書き出してしまうと、筆(キーボード)の勢いで、違った見方をするとも思うので、気にしないで書き進めます。さて、環境のグラデーションに関してですが、天然の自然環境(日本では殆ど見られません)では、環境は徐々に変化しているのに対し、人工の環境ではそれがスパッと劇的に変化しているという違いがあると思うのです。
具体的に言えば、天然の森林があるのに対し、それを伐採してスギやヒノキといった人工林の境界は、線を引いた様にくっきりと分かれているでしょう。更に言えば、かなり改変されたとはいえ、まだ自然が残っている郊外の森林と、コンクリートとアスファルトに覆われた都市との間には、それ以上に明瞭な境界が出来ている筈です。もちろん、賢い先人は急激に変化する環境は好ましくない事を知っていたので、森林と人が住む地域との間に緩衝帯を設けてもいました。それが里山です。つまり、経験的に里山を設ける事によって、奥山、里山、里、街という様に、好ましい環境のグラデーションを実現していたのです。その結果、奥山に棲んでいた居た大型動物たちも、比較的見通しの良い里山までは入り込まず、人間と動物との棲み分けが実現していたのでした。
しかし、現在はどうでしょう。人手が入らずに放置された里山は、すっかり森林化した結果イノシシやクマやシカやサルたちが、人が住む地域のすぐそばまで近づく様になってしまった訳です。つまり、現代社会(特に田舎)では、少子高齢化の結果、環境のグラデーションを維持する人手も無くなったため、自然が人間の住む里まで侵入する様になってしまったと考えるべきでしょう。ここで言いたいのは、環境保全とは基本的にはまだ僅かに残っている天然自然を守ろうとするのは当然ですが、可能な限り環境のグラデーションを維持する事もまた環境保全の重要な活動だと思うのです。都市と自然が、明瞭な境を接して存在すること自体がどだい無理な事なのです。環境は水や大気や土壌の移動を通じて密接に繋がっていますので、境界や壁で別々の環境同士を隔離する事が元々無理な相談なのです。結局、天然自然を守るためには、十分な幅の緩衝帯を設けて、グラデーションを作る努力が欠かせないとの結論になります。

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2019年7月23日 (火)

3625 徒然に

北海道の山巡りから戻って、投稿再開です。道中ラジオを通して耳にしたニュースはといえば、京都での悲惨な事件と選挙騒ぎなどでした。前者について言えば、何故かベトナム戦争で使われた「ナパーム弾」をおもいだしました。ナパーム弾とは、ゲル状の石油燃料を使った爆弾ですが、爆発すると発火して高温になったゲルが飛び散り、その飛沫をいくつか浴びるだけで命を奪う、まさに悪魔の兵器なのです。これを、いわゆるゲリラが潜むと思われる森林に爆撃機を使ってばら撒く訳です。森林は焦土と化し、多くの人々は焼け死ぬのです。この兵器は、安価な殺戮兵器として発明され、朝鮮戦争やベトナム戦争で、それこそ天文学的な量が使われたのでした。今回の事件でも、数十リットルものガソリンが、同じ目的で建物の中で爆発させられたのでした。灯油なら、たぶん多くの人が脱出する時間が稼げた筈ですが、ガソリンは爆発的に燃焼するため、多くの犠牲者を出す事態に至ったのでしょう。しかし、許すことが出来ないのは、ナパーム弾にせよ、ガソリン爆弾にせよ、たとえ幸いにも直撃が避けられたとしても、その被害を受けた人々は火傷という一生消えない被害の傷跡を体に刻みつけられるという悲惨さなのです。これは、過去の原爆被害にも通ずる悲しい、しかし許すことの出来ない残虐行為だと言えるでしょう
後者に関してのニュースでは、たぶん多くの人々が冷ややかに眺めていた事でしょう。どの国にも、言わゆる「政局」という事態が起こりますが、もしそれが国民を置き去りにして進む場合、私たちは無関心に陥らざるを得ないでしょう。問題は「論点」でしょう。政治(マツリゴト)が何のために存在し、それは一体誰のためなのかを考えれば、自然に政治が論ずるべき点が浮上してくる筈なのです。リーダーがその椅子に何年間座り続けているか、それが憲政史上最長か否か等は、無論政治家の力量には何の関係も無い事でしょうし、それが政治の安定などには繋がらない事は明白です。
そうではなくて、政治家が考えるべきは現世代の利益ではなく、ましてや党離党略など持っての他で、子や孫世代の幸福、更に言えば国家百年の計を論ずるべきだと思うのです。その意味で私たちは、全てのマツリゴトの決定を、「7世代後の子孫の幸福を考えて決める」ネイティブアメリカン(かつてはインディアンと呼ばれていました)の部族の習わしにこそ、学ぶべきだと思う今日この頃ではあります。


 

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2019年7月 8日 (月)

3624 休稿

今夕の青森発のフェリーで北海道への山遠征に出かけますので、しばらく休稿です。

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2019年7月 7日 (日)

3623  後戻りの方法4

後戻りの方法に「惰力走行」という考えもありそうです。私たちは、戦後や高度成長期を通じて、それこそ寝食を忘れて努力を重ね、経済成長とそれに伴う生産・消費の拡大、並びにインフラの充実にまい進してきました。車で言えば、十分な加速の後に、やや十分過ぎる巡航速度に達したと考えても良いでしょう。環境負荷の高い社会の仕組みを、負荷のより小さい社会に後戻りさせるためには、ここらでアクセルを緩めた惰力走行も有効な手段だと思うのです。
惰力走行では、速度が徐々に低下するでしょう。経済や社会の仕組みが止まってしまう程速度を下げる必要はないでしょうが、少なくとも余分な空気抵抗を受けない程度までの減速には大きな意味があるでしょう。車で言えば、高速道で100㎞/時以上の速度で走るのではなく、例えば80㎞/時程度の巡航速度に下げる事を意味します。社会の動きに投影させるなら、生産や消費の勢いを緩めると言う行動がこれに当たるでしょう。食生活で言えば、食べたい時に、食べたいものを、食べたいだけ食べ、3割もの食べ残しを廃棄する生活スタイルではなく、必要な栄養を得ながら、生活習慣病を抑制できる食生活を目指すべきなのです。
これを、一般的な言葉で表現するなら、欲望を抑えた、節制の効いた生活をこそ目指すべきだと言いたいのです。輸送用トラックを高速道で100㎞/時以上速度で疾走させる事を前提にした輸送システムとするのではなく、80㎞/時で十分であるシステムをデザインすれば良いのです。食べ過ぎからの生活習慣病を増やし、医療費を徒に浪費する社会ではなく、時々は計画的な絶食も織り交ぜた食生活を目指すべきなのです。この絶食の期間こそ、食生活における「惰力走行」に該当するのです。
人口減少(人口増加における惰力走行期間)に入ったこの国で、相変わらずの大量生産を続けて、低価格で大量に売り捌くのではなく、時々は計画的な生産調整を行い、適正な在庫量や流通量に維持出来れば、モノは適正な値段で売れ、適正な利益も確保できるでしょう。消費者は、たまには店頭に商品が無くなり、入荷までに何日か待たなければならない事も甘んじて受け入れるべきでしょう。それによって、経済活動や社会の「惰力走行」も可能になってくる筈なのです。

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2019年7月 5日 (金)

3622  後戻りの方法3

山登りの喩えの稿で、私たちは(先進国は)多くの近代的装備(科学技術)を使って山登り(工業化、近代化、都市化)を続けてきたと書きました。では、今度は山を下る(環境負荷を減らす)のに、やはり近代的な科学技術を使えば良いではないか、という議論を始める人達が居ます。しかし、考えてみなければならないのは、科学技術を使って装備を作るにも、それを使うにも資源やエネルギーを大量に消費すると言う点でしょう。その最たる例が、原子力エネルギーでしょうか。この国は、化石燃料を減らすというお題目で原発を50基も作ってしまった訳ですが、原発を作るのにどれだけの資材やエネルギー(=お金でもありますが)を注ぎ込んだか、あるいは今「副一」を廃炉にするために、日々何千人の人達が働いているかを想像するだけで、今の文明の環境負荷を科学技術を使って減ずるのが如何に困難であるか理解できる筈です。
では私たちはどう行動すべきですが、ベストな方法は多分「後ずさり」ではないかと思っています。山を下るには登りよりは確かに体力(エネルギー)の消耗は少なくなるでしょう。しかし、下りには滑落やスリップによる転倒など、登りには無かったリスクも多いのです。ハシゴの昇降も同様でしょう。登りは、両手を使ってハシゴの縦棒を握っていますので、落下のリスクは小さいのですが、一方下りで体を逆向きに降りると、見晴らしは良いのですが、両手でしっかりと握るのが難しくなり、落下を防ぐのは難しくなります。一方、登りと同じ姿勢で下る場合、足元は見づらくはなりますが、ステップを確認しながら慎重に一歩一歩下るのであれば、いざという時には両手で体をサポートできますので、リスクは小さくなるでしょう。この降り方を「後ずさり」と呼ぶのです。
環境の負荷を下げるのも同様のアプローチになるでしょう。先ずは、資源やエネルギーの使用量を減らす「ケチケチ作戦」で可能な限り負荷を減らします。しかし、例えば化石エネルギーを減らす目的で、「代替エネルギー」を持ち出すに当たっては慎重でなければなりません。代替エネルギーも新たな環境負荷を生み出す可能性も否定できないからです。原発の廃炉の問題は指摘しましたが、今問題になりかけているのは、寿命を迎え役目を終えた太陽光発電発電パネルの始末です。ガラス質の基材とシリコン薄膜、銅線や裏張り、アルミのフレームなどの集合体であるパネルは、簡単に分離したりリサイクルしたり出来ない厄介者なのです。科学技術で作ったモノには必ず寿命があり、それを廃棄するにもそれなりの環境負荷が発生するのです。続きます。

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2019年7月 4日 (木)

3621 後戻りの方法2

インフラの後戻りの次は、輸送システムの後戻りです。古の時代長距離輸送の花形は帆船でした。この国では、北前船、西洋の国際貿易の花形は、3本マストのスクーナーでしょうか。この、超高速の帆船は、喜望峰回りでもヨーロッパとインド間を2週間ほどで航海したと言われています。現代の船比べてもその半分ほどのスピードは出ていた勘定です。
陸上では、大量輸送時代の嚆矢は鉄道輸送でしょうか。鉄道は、ツルツルの平滑な軌道(レール)上を、ピカピカに磨かれた車輪が転がりますので、荷車や自動車が道路を走る場合に比べて、転がり抵抗が一桁低い、優れものの省エネ輸送システムだと言えます。実際、正確なデータでも単位貨物当りで比較すると、トラック輸送のエネルギーを100とした場合、鉄道は10のエネルギーで済んでしまうのです。とは言いながら、道路さえ作ればどこへでのいけるトラック輸送に、鉄道輸送はかなり淘汰されてしまった様です。
航空機について言えば、比較的抵抗の低い空中を飛ぶ訳ですから、飛行の際の抵抗によるロスは少ないのですが、なにしろ金属で出来た機体を空中に浮かべなければならないので、余分なエネルギーを費やすため、たとえば陸上の大量輸送システムであるバス輸送に比べても、乗客・キロ当たりのエネルギーは数倍になる様です。
船、鉄道、自動車、飛行機と、私たちはなにしろ高速で便利な輸送手段を求め続けてきた訳ですが、ここらでその無茶苦茶な歩みにもブレーキを掛ける必要がありそうです。一番簡単な方法は、同じ輸送手段であっても減速する事です。特に、時速で言えば100㎞/時に近づくにつれて、走行抵抗に占める空気抵抗が支配的になってきますので、例えば高速道路の制限速度を10㎞/時程度減速させるだけでも、5-10%程度の省エネが可能となる筈です。
更に時代を巻き戻すなら、例えば少し前に持て囃された「モーダルシフト」というアプローチもあるでしょう。フェリーと、荷台だけ切り離せるトラックを組み合わせて、遠距離のトラック輸送を海上輸送に切り替えるシステムです。このアプローチでは、夜間の高速道からかなりの先ずのトラック便が消えるでしょう。つまり、地方の港でフェリーに積まれた荷台だけのトラック便は、翌朝東京のフェリーターミナルで受け取られ、そのままトレーラヘッドに牽引されるか、特殊な運転台明けのトラックに載せられて都内の配送に回される事になります。高速道路のメンテナンスやトラックの燃料費、更に言えば大気の汚染や騒音下などが随分減らせる筈なのです。後戻りは単に不便な社会に逆戻りするだけではなく、工夫次第では他方面の改善も可能なのです。

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2019年7月 3日 (水)

3620  後戻りの方法

ここからしばらくは、数回の「比喩」で書いた最早放置できない現状に対して、少しでもそれを逆転させリスクを減らす方法について考えてみます。初回は手始めとしてインフラに関して考えてみます。
インフラは、近代社会では一貫して(後戻りなく)拡充されてきました。この国だけでも、水道管や下水管だけでも、地球を何周もするだけの長さに敷設されてもいます。しかし、考えてみなければならないのはその維持やメンテナンスでしょう。形あるものは必ず劣化してしまいます。岩の様に頑丈な鉄筋コンクリートでさえ、寿命は50年程度とされています。劣化するインフラは、補修するか場合によっては作り替えなければならないでしょう。その際考えなければならないのは、10年後50年後の姿でしょう。例えば、高度成長期に建てられた大規模団地を考えてみると、既に空き部屋も目立ち、住人の高齢化も進んでいる筈です。であるならば、団地とインフラの縮小化を考えても良いと思うのです。狭い間取りだった古い団地を、例えば二戸一に改造・改装し、相対的に古くなってしまった棟は解体すべきでしょう。つまり、集合団地や住宅団地の集約化・コンパクト化です。それによって、インフラの規模も縮小し、メンテナンスもやや楽になるでしょう。
田舎で、車で郊外を走っている時に目にするのは、高規格の農道や農免道路です。どこかの観光地につながっている場合は別にして、その交通量も疎らです。しかし、道路があって、地震や水害も多いこの国では、道路もドンドン劣化が進むのです。道路は上下にうねり、舗装はひび割れ、橋の袂には大きな段差が出来てしまいます。水害で、盛土は削られ、法面も崩れてくるでしょう。そうであるなら、大規模な補修のついでに「減幅工事」を考えても良いと思うのです。無理に盛土をした箇所は崩れやすいので、谷側を削って細くします。たまに来る対向車とすれ違いが出来れば良いので、部分的には1車線でも十分でしょう。
いずれにしても、インフラに補修などのために手を入れる際には、将来を見越して縮小する方向に改修するのです。これは、住宅にも言える事で、内装に手を入れるついでに「減築」して、老夫婦が住みやすいサイズにすれば良いのです。建物やインフラを補修するに当たっては、単純な原状回復ではなく、クオリティを上げると同時に思い切ったコンパクト化を図る必要があると思うのです。後戻りの方法の一つとして・・・。

 

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2019年7月 2日 (火)

3619 比喩4

何故、現代の世相を何かに喩える必要があるかといえば、それは今の状況が既に「手遅れ状態」なのではないかとの危機感があるからです。何かの事態が進行し、後戻りできない点をPONR(Point of no return)と呼ぶ事がありますが、コト環境問題に限って言えば私たちは、既にこのPONRをかなりの程度踏み越していると考えるしかないと思うのです。
例えば、温暖化に伴って生じている気象の激烈化に関して言えば、少し前から天気予報で「線状降雨帯」と言う言葉を頻繁に聞く様になったのに気が付きます。これは、強い降雨をもたらす積乱雲が列状になって連なり、それが同じ地域に次々に流れ込んで、記録的な豪雨となる現象で、今九州を襲っている様に東西方向に連なる場合だけではなく、少し前に広島県を襲ったケースの様に南北に連なる場合もある様なのです。いずれにしても、この現象が頻発するのは、雲を生み出す海洋の水温がある限度を超えて上昇している事に原因があると思われます。雲は、海水が蒸発して水蒸気になり、それが上空で凝縮して生ずる現象ですので、海水温の上昇で蒸発量が増えるのは、小学生でも理解できる筈です。
では、どの程度の蒸発量になれば、線状降雨帯が発生するのかに関して言えば、実のところ気象学でも正確に解明されている訳ではなさそうです。というのも、海水の蒸発と積乱雲の連続的な発生との間に、はっきりとした因果関係がまだ見つかっていない事が原因だと思われます。蒸発が起こってから、雲が生まれる事の間には間違いない因果関係がありますが、それが線状に並び連続した降雨を起こすためには、雲を運ぶ風(気流)も重要な役割を果たすでしょう。例えば、前線は暖かい空気と比較的冷たい空気との接触部分であるため、それに沿って雲が発生し、整列するのは間違いないでしょう。しかし、ではどの様な気象条件が揃えば前線が生ずるのかについて言えば、大型の気象コンピュータでも十分には予測が出来ていないのが現状でしょう。
もし、正確な前線や線状降雨帯の予測が可能であるなら、近年の豪雨による被害のかなりの部分は未然に防止出来た筈なのです。一時期マスコミが、これらの狭い地域に集中する豪雨を「ゲリラ豪雨」と呼んだ事がありましたが、まさにゲリラ攻撃は「神出鬼没」である事が本質ですが、ネガティブな意味ではありますが、この比喩は正鵠を射ているとしか言えません。世界の政局が予測不可能になりつつあることと、気象現象のPONRを踏み越してしまった事に何かの因果関係があるのかどうかは知りませんが、投稿者には何か関係がありそうな「悪い予感」はあります。

 

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2019年7月 1日 (月)

3618  比喩3

現代の社会や世相を航空機に喩えたのは、現代の、特に大都市における生活が、自然(地面)から完全に乖離し、浮いている様に見えているからに他なりません。都市は、全てが人工的なインフラの上に構築されていて、殆どの地面も建物や舗装道路に覆い尽くされていますので、自然が見えないのです。自然ぽく作られている公園でさえ、全て人工物で覆われ、そこに申し訳程度に植えられている植栽さえ、その土地に自生していたものでなく、他の場所で育ててから植えられた、その土地にとっての外来種になっているのです。
さて、投稿者のもう一つの現代社会の比喩としては、お祭りに喩えたものがあり、気に入っています。それは、現代社会の世相は、もしかして高度成長以降、長くながく続いている「お祭り」なのではないかという素朴な疑問から生れました。投稿者が子供の頃、戦後の延長で貧しい時代でしたが、田舎でしたので食べ物は、海のものも山のものも一応不自由なく手に入りました。一方、甘いものなどいわゆる嗜好品は、親戚からお土産を貰ったり、遠足などの行事でもない限り、口に入る事は殆どありませんでした。甘いものといって思い出すのは、正月のお汁粉や彼岸の際の牡丹餅程度です。
現代社会ではどうでしょう。スーパーを覗けば、嗜好品が山と積まれているのに改めて驚きます。まるで、毎日が「お祭り」であるかのようにです。つまり、取り分けこの国は途中に失われた20年が挟まっていながらも、高度成長期以降長い期間に亘って、お祭り状態が続いているとも言えそうなのです。歌の文句ではありませんが、祭りが終わった後のうら寂しさは、子供の頃も何度も感じたものでした。この国が人口減少の局面に入って十数年経過しましたが、政府は「祭りの後宣言」も出来ないので、さながら経済の拡大が続いていて、景気も「悪くはない」と言い張っていますが、実体は果たしてどうなのでしょう。
私たちは、ソロソロ「祭りの後モード」への準備を始めなくてはならないと思うのです。そのモードに入るためには、先ずは騒ぎ食べ散らかした周辺の後片付けから始めなければならないでしょう。祭りの行事に使った衣装は洗濯し、道具類もきれいに掃除して、格納場所に戻さなければなりません。その後に待っているのは、「日常生活」に他なりません。私たちは、もしかして「必要かつ十分な」日常生活のレベルを改めて定義し、そこに戻るためのトレーニングを始めなければなりません。それは、トレーニングというより、もはやリハビリに近いものかも知れませんが・・・。

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2019年6月29日 (土)

3617  比喩2

現代の世相の比喩として、登山の比喩の他に「航空機の比喩」もかなり本質に迫っていると自負しています。それは、現代文明を航空機に喩えるものです。航空機は、20世紀の発明品として、確かに今の世の中には不可欠の存在になった様に見えます。ライト兄弟のフライヤーから、二度の世界大戦と、複数回の局地戦争などを通じ、航空機の発展は目覚ましいものでした。大型化、ジュラルミン化、ジェット化、長距離化、フライバイワイヤ(電気や光ケーブルによる制御)、複合材化などなど。
しかしながら、航空機の歴史を通じて変わらなかったものがありました。それは燃料です。内燃機関のエンジンではガソリンだったでしょうが、ジェット化以降はケロシン(灯油に近い燃料)ですが、いずれにしても石油由来の燃料である事には変わりがありません。つまり、航空機開発の歴史を通じて、航空機に積んで飛ぶ際に、重量の割に熱量(エネルギー密度)が高い(石油に代わる)燃料が見つからなかったのがその理由でしょう。いずれにしても、全世界では一日当り8000便もの旅客機を飛ばし続けるには、膨大な量の石油が必要な事は自明です。結局、大都市や航空機に代表される現代文明を支えるには、膨大な量のエネルギー(主に石油や天然ガス)に依存するしかないのです。
しかし、投稿者が現代文明を航空機に喩えるのは、航空機が積載できる燃料は「有限である」という最大の欠点が同じであるからなのです。航空機の性能の一つとして「航続距離」がありますが、実用的な旅客機では、精々シンガポールからアメリカの東海岸辺りまでのストップで飛ばすのが精一杯でしょう。航空機は燃料が切れれば、着陸しなければならないのです。いくら、機内の環境が快適で、美味しい食事や飲み物が提供されるとはいえ、それは離陸から着陸までの限られた時間内の話です。
では、都市に代表される便利な日々の暮らしはどうかと言えば、それも航空機の中の過ごし方と変わりは無いでしょう。中東などからの石油や天然ガス及びそれから作られる電力(つまりはエネルギーですが)、海外や田舎からの食糧の供給が途切れれば、都市の暮らしは直ちに困難に直面する筈です。ガスや電気が無ければ、食事も準備出来ないでしょうし、下水場のポンプが動かせなければトイレだって使えないでしょう。電気が無ければ通勤も出来ないでしょう。それにも増して、食糧を都市に運ぶ輸送も止まり、全ての店先の陳列棚から食糧が消えてしまうでしょう。
では、エネルギーや食糧の供給が細ってしまった大都市が航空機の様に何処かに着地できるかを考えてみると、全く無理な相談である事が分かるでしょう。大都市は、外からのサプライ(供給)以上の人口は支える事は出来ないのです。都市が「着陸」するためには、都市から田舎への人口の還流こそが不可欠の条件なのです。航空機の比喩が有効だと思う所以です。

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2019年6月28日 (金)

3616 比喩

初期の頃のこのブログで、投稿者は今の世の中をいくつかの比喩で説明しようとしました。その一つが、登山との比喩でした。それを思い出して採録すると、以下の様になります。つまり、現代文明を高山に挑戦する、いくつかの登山隊(=国)に喩えたのでした。いくつかの裕福な登山隊(先進国)は、近代的な装備を備えて、グングン高度を稼いでいきます。隊員の体力を、例えば酸素吸入器やその他の装備でカバーしますので、地元のシェルパ達が担ぎ上げてくれた大量の装備や豊富な食糧で高山に挑んでいるのです。
しかし、山の中腹にはあまり装備が充実していない登山隊(中進国)がいくつも登ってくるのです。その更に下には、今まさに山に登ろうと準備を始めた登山隊(途上国)が蠢いてもいるのです。
しかし、高山の頂上に何があるかを冷静に考えてみると、そこは荒涼とした岩場しか無く、人工の山小屋があり、そこで使われる物資は全て麓から運び上げなければならない環境だったのです。ヘリコプターなど、近代的な装備が使える金持ちパーティ(登山隊)は、燃料がある限り何の問題も無く山小屋生活をエンジョイできるでしょう。しかし、まだまだ頂上が遠い途上国は、それを眺めて羨ましく、妬ましく思い、早く頂上に立ちたいと無理にペースを上げるのです。
この比喩では、人類のゴールは岩だらけで緑も無く、人工物で固められた頂上ですが、これを現代社会の近代的だけれども無機質な都市と考えれば、この比喩の合点がいくでしょう。そうです、現代社会における人々のゴールは、モノが溢れ、エネルギーが潤沢に使える、便利な山小屋生活を送る事なのです。お金持ちは、ヘリや航空機を雇って、他の山々を観光して回る事も可能でしょう。しかし、お金の無い登山者は、麓近くでその周りで手に入る資源や農作物で暮らすしかなく、何時まで経っても頂上の(都市の)便利な生活には近づけないのです。
しかし、考えてみれば高山の麓は、緑に覆われ牧歌的で不便だけれども、自然が豊かな環境を満喫できる筈なのです。もし、麓から頂上の山小屋(都市)へのエネルギーや食糧や日用品の供給が止まれば、山小屋の生活は1週間と持たないでしょう。大きな災害の度に、都市のスーパーやコンビニの商品棚がたった数日で全て空っぽになった映像は、幾度となく目にしてきた筈なのです。都市部では、地震による液状化現象で、水道管が破裂し下水管が浮き上がってしまうだけで、炊事も出来ず、トイレも使えないのです。
私たちは、山小屋生活に見切りをつけ、ソロソロ下山の準備を始めなければならないと思うのです。混み合った山小屋(都市)の住人たちは、1-2世代前まで親や祖父母が暮らしていた麓(地方や田舎)に回帰すべきだと思うのです。麓には、緑の大地があり、あまりお金を使わなくとも「ココロ豊かに」暮らせるノンビリとした生活が待っているのです。都市に住んでいる人達は、何らかの形で体やココロを病んでいるのではないか、とお節介ながら憂えます。

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2019年6月27日 (木)

3615  持続可能性3

持続可能性を高めるキーワードとしては、結局私たち個々人の欲望をどう抑制できるかに掛かっていると思っています。好きなものを、好きな時に、好きなだけ消費する生活は、もう止めにしなければならないでしょう。同様に、好きな場所に、好きな時に、なるべく短い時間で移動したい、という欲望もやはり抑えなければならないでしょう。更に言えば、夏でも寒いくらいに冷房をかけ、冬は半袖で過ごせるくらいに暖房を効かせる生活スタイルにも別れを告げる必要がありそうです。
これら全体を眺めるなら、結局私たちは20世紀を通じて加速してきた、モノや人やエネルギーの「流れのスピード」を減速しなければ、持続可能性を高める事は出来ないとの結論になりそうです。モノの消費は原料調達から、生産、流通に至るまで、いわゆる物流というベルトコンベアに乗っかっているのですが、そのコンベアの速度を経済活動(=私たちの欲望)が年々加速してきたと言えるのです。
ならば、私たちは敬虔な宗教者の様な禁欲生活を送らなければならないのか、という突っ込みが来そうですが、答えとしてはそれは否でしょう。何故なら、それは望ましい事ではあっても、所詮それは無理な話だからです。凡人が、宗教を信ずる事は出来ても、全てが宗教者になれる訳もないでしょうから。では、投稿者の様な凡人はどう考えるべきかですが、それは欲望の矛先をモノやエネルギーを浪費するレジャーなどから、もっと精神的なあるいは自分の体を使った楽しみに方向転換するしかないと思うのです。食べたいものを腹いっぱい詰め込んで、3割もの食べ残しを出すかわりに、体が必要とする栄養素と量に気を使い、理想体重を維持する事に楽しみを見出せば良いのです。食べ物を、単なる食糧として眺めずに、料理として食材がどこからきて、どんな調理法でどんな調味料で味付けされ、今皿に盛られているのかを考えながら、良く噛み、味わえば、必要かつ十分な量の食材で、五感も満足するのと同時に、大きな満足感も得られる筈なのです。
一方、パック旅行で、カネと休暇とエネルギーを浪費するのではなく、先ずは図書館で、行きたい国の風土や歴史についてしっかり学び、行きたい(行くべき)場所を絞り込み、その場所に1週間程度逗留する旅行スタイルも考えられるでしょう。これは、旅行を移動だらけの単なる物見遊山とするのではなく、彼の地への理解を深める「文化的な旅行」にするという提案なのです。その様に考え直せば、持続可能性と人々の満足度を比例させる事は十分可能だと見ています。


 

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2019年6月26日 (水)

3614  持続可能性2

持続可能性を毀損しているのは、結局人間の経済活動だと断ずるしかありません。そもそも経済活動は、結局モノの余剰が生んだ社会活動だと言えるでしょう。想像ですが、人々が自給自足生活を送っていた時代、手に入るモノだけで、ギリギリの生活を送っている状況なら、夫々の人の手元には他の誰かに売るべき「余剰=商品」はありませんので、商業などと言うものも全く発達しない筈でしょう。しかし、ある人が荒地を開拓し、自分の家族が食べる以上の食糧を手に入れたと仮定すれば、余った食糧を足りない人達に売る事は出来る事になります。手先が器用な人達は、手に入る材料を使って道具を作って、食糧と交換するかも知れません。体が大きくて力持ちの人は、それらの商品を運ぶ仕事に就くかも知れません。
かくして、商業を含む経済活動が始まり、現在の規模まで拡大してきたのでした。経済活動拡大の背景には、もちろん産業革命以後の科学技術があった事は論を待ちません。それどころか、化学技術のコメとも言える、金属・鉱物資源や石炭・石油・LNGなどの化石エネルギーこそが、経済爆発の「起爆剤」であり「爆薬」であったことは、間違いないでしょう。
さて経済活動は、経済発展(拡大)を前提に設計されていますので、その前提が崩れた場合のカタストロフ(破局)は中々想像できません。つまり、経済の恒常的な右肩下がりが確定的な社会では、投資家のマインドは冷え切っていますし、消費も例えば恒常的な人口減少の結果、同じ比率かそれ以上の率でシュリンクしていくでしょう。一見、将来にも夢が描けず、暗黒の社会の様にも見えますが、実はそうでもないかも知れません。
というのも、投稿者がUターンした北国の町では、毎年1%ずつ人口が減っていて、それに応じた程度の率で、消費も縮んでいる筈です。しかし、投稿者の住む地域には新築の家がドンドン建てられ、新しいスーパーも回転してもいるのです。もちろん、中心部から離れた山に近いエリアでは、家主が亡くなったり、冬の除雪が出来ない人達が街に降りてきた結果、空き家が増えてそれらが徐々に朽ちていくのでしょう。それで何が起こるかと言えば、街の中心部の密度が上がり、周辺の過疎化が加速するだけなのです。
地域の持続可能性のために必要な事は、企業誘致だけで雇用を生み出す、百年一日?のごとき「地方創生」政策ではなく、先ずは過密な都市部から、人々を田舎に呼び込む政策が必要でしょう。雇用は後からついても来ますし、農業に興味がある人達なら自給自足も可能でしょう。ネット環境が発達した現代、田舎暮らしこそ、持続性可能性が十分高く、QOLの高いライフスタイルになり得る筈です。

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2019年6月25日 (火)

3613  持続可能性

全ての環境問題は、持続可能性の問題に還元できるでしょう。といよりも、持続可能性を担保出来るなら、全ての問題は雲散霧消するとさえ言い切っても良いのです。持続可能性には、時間軸が付き物です。つまり、現時点(あるいは過去のある時点)をベースラインに取り、それ以降の事態が悪化したか、あるいは現状維持出来たかというのが問題なのです。現状より好転する場合も勿論ありますが、環境問題に関する限りそれは期待できません。何故なら、人間が活動する限り、環境は悪化の一途をたどる運命にあるからです。例えば、流れ着いたごみで埋め尽くされた海岸を、ボランティアを募って清掃したとしましょう。確かに、狭い範囲の海岸はきれいになったのですが、かといってごみが消え去った訳ではありません。清掃後は何十もの大きなごみ袋がパンパンになったものが残るでしょう。参加者にペットボトルに入った飲み物とサンドイッチが配られれば、それを飲んだり食べたりすれば、新たなごみが発生するでしょう。集まれてたごみは、パッカー車に押し込まれて、ごみの焼却上へ向かうでしょう。それらは燃やされ、大気中にかなりの量のCO2が排出され、量はかなり減りますが焼却灰も出るでしょう。
地球環境の持続可能性維持のためには、結局人間は人口を減らし、出来るだけ何もしない暮らしのが最も良い対策だ、という変な結論になってしまいそうです。でも、それはその通りでしょう。人間が何か行動しようとすれば、お腹が減りますから何か食べなければなりません。その食べ物は、自宅の庭で作れる訳ではないので、農家が人手とエネルギーと化学肥料と農薬を使って作った作物、あるいは人工飼料と抗生物質で太らせた食用動物の肉を口にするでしょう。どこかに移動するのに、エネルギーを使う車や電車や飛行機を利用するでしょう。寒ければ、化学繊維で作られた衣服を身にまとうでしょう。
しかし、余暇は寝て過ごし、動かないのであまり食べずに、移動も歩いて行ける範囲内に限る様な生活を送る人は、活動的な生活スタイルの人に比べれば、環境負荷は随分小さくしながら暮らせそうです。皮肉な事ですが、例えばゲームにハマりながら、終日部屋の中で過ごす様な人達は、実は環境に優しく、持続可能性を毀損しない「環境人間」だとも言えるのかも知れません。それが、「人間らしい」生活かと問われれば「否」と言うしかありませんが・・・。人間らしく生きるためには、地球環境を汚さずにはいられない様です。それにしても悲しくなる結論です。

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2019年6月24日 (月)

3612  ホリワー

休暇中なのに、休暇を過ごしている旅先に、例えばパソコンなど仕事の道具を持ち込んで仕事もするスタイルをワーケーションと呼ぶのだそうです。ワークとバケーションを繋げた造語の様ですが、では基本毎日が日曜日ですが、時々は仕事も引き受ける投稿者の様な立場は何と呼べばよいのでしょうか。字ずらで表すなら「日日日仕事日日日」などとなるのでしょうか。ワーケーションに倣ってカタカナ語にしするならワーホリでしょうか。しかし考えてみたら、既にワーキング・ホリデーという言葉もあるのと、毎日が日曜日である場合が殆どなので、ここではとりあえず「ホリワー」にしておきましょう。
さて、投稿者は、税法上は青色申告をしている自営業ですが、実質的には収入の半分以上は年金で占められているので、他の収入は臨時収入程度なので、「主には」年金生活者という事になるのでしょうか。頑張れば、固定的な雇用契約を得て、安定的な給与収入を得る事も可能なのでしょうが、やはり55歳から続けている今の状況が自分にはピッタリだと感じています。あるSNSで、職業としてフリーランスと入力したら何故か「自由工作者」と表示されてしまいました。基本的にカタカナ語より、この変な日本語が好きだったので、そのままにしておきました。
とは言いながら、ホリワーのホリディの部分は、かなりの部分登山に割いているので、夏場はホリワーがトレワー(トレッキング+ワーク)になっていますが、ホリワーでもトレワーでも、そんなに差は無いでしょう。7月には、北海道の名山巡りの個人ツアーを予定していますが、いま予定表を眺めるとそれ以前にはたった1回の仕事しか入っていません。天気も悪いので、今日も距離の長い散歩で体力維持に精を出すといたします。

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2019年6月23日 (日)

3611 新しい事

まだU70(70歳以下)とはいえ、体力の減退を意識せざるを得ない年齢になってきました。その中で、昨今思う事は、常に何か新しい事を探し出して、出来れば新しい事始めなくては、という思いです。年齢は重ねたとしても、体も、頭(脳)もまだ潜在能力を秘めている筈です。それを使わなければ、これまで蓄積した体力や知識など数か月の休眠で。あっという間に減耗してしまうでしょう。特に筋肉に関して言えば、数週間寝たきりになるだけで、かなり細くなってしまうものなのです。
取り分けインナーマッスルは、動きの中でしか鍛える事は難しいでしょうし、維持も同じことでしょう。その点、投稿者の数少ない趣味である登山は全身運動としては理想的だと自負しています。低くて傾斜の緩い山はさておき、傾斜のきつい山は、登りも下りも全身の筋肉を駆使せざるを得ません。特に、手や腰回りのインナーマッスルへの負荷は相当なレベルになっている事は、一つの山をクリアした後に体感できるものです。
では、脳の鍛え方はどうすれば良いかですが、これは体を使った新しい事(運動や手作業など)を始め、更には脳に新しい刺激(知識や負荷)を与えるしか無さそうです。前者に関して言えば、手先を使う趣味が良さそうです。若い頃は、電気工作や模型飛行機作りが趣味でしたが、最近はトンとご無沙汰です。これを復活させたいと思っています。
脳への負荷としては、先ずは最初のインプットとして、やはり読書を通じて刺激を受ける必要があるでしょう。50代の前半、放送大学の大学院に入り、環境学を修めましたが、あの時期どれだけ脳が活性化していたかを思い返すと、やはり幾つになっても勉強は続けるべきだと、ぼーっとする事が多くなった最近特に強く思うところです。そう言えば、最近資格取得にも挑戦していない事に気が付きました。本立てを眺めると、資格試験に挑戦するために買っておいた参考書がいくつか並んでいますので、いまさら再受験はしないまでも、これまでに取りそびれた資格の参考書をもう一度おさらいしてみるのも良い事かも知れないと思っています。脳は、あるいは体は、常に新しい刺激を求めている様です。

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2019年6月22日 (土)

3610  名山ハント3

山に登る魅力の一つに「心細さ」が挙げられます。投稿者は、夏山しかやっていませんが、夏山でも山深い高山に、平日に登る場合、登山者も疎らです。3000m級の日帰り登山でも、すれ違う登山者が数パーティという事も珍しくはありません。豪雨の日は登りませんが、小雨やガスが掛かった日でも登る場合があります。
今でも思い出すのは、唐松岳から鑓ヶ岳の間に不帰のキレットと呼ばれる難所がありますが、その日は小雨のち曇りで、唐松岳の頂上には誰も居らず貸切状態でした。さて、肝心のこれから渡るキレットの方を眺めて、少しばかり恐怖を感じたものでした。つまり、そのキレットの「切れ具合」が半端ではなかったからです。両側に数百メートル切れ込んだノコギリの刃の様なキレットは、とても渡り切れる様には見えなかったのです。
それでも、意を決して岩稜に取りついたのですが、3点確保とお経の様に唱えながらの岩渡りになりました。なにしろ、バランスを崩して滑落しようものなら、たぶん遺体も発見されないと想像できます。そう言えば、登山口に写真付きで「この人を知りませんか」と書かれた尋ね人の札が2枚下がっていた事を思い出しました。札は、まだ新しかったのでこのシーズンの行方不明者だと思われます。
前後に全く人影は見えませんでしたので、慎重の上にも慎重にこのキレットを渡り切ったのでした。この間の心細さは、たぶん人生でMAXに近かったと振り返っています。同様の心細さは、北アの中心近くの高天原から、大東新道という黒部川源流の一つを遡るルートで感じました。ルートの下には水量の多い黒部川がゴウゴウと流れており、ルートの何ヶ所かは狭いので岩に貼りついて、通らなければならなかったのです。もし落下すると、激流に飲み込まれてしまうでしょう。このルートは、使う人が殆どいないらしく、前後に人影は全く見えません。落下すれば、人知れず溺死して数日後には黒部ダムに変わり果てた姿で浮かんでいる、という恐ろしい想像も出来たのです。この様な心細さは、それが過ぎてしまうと、何故か自分が生きている喜びに変ってしまう様なのです。登山をする意味とは、自分が生きている事の確認行為でもあるのかも知れません。
幸いにもこれまでの75個の名山巡りでは、一度だけ滑落しそうになったのを除けば、命に関わる様な危ない目には遇っていませんが、残りの25山には北海道の9山の含まれますので、クマ対策は怠らない様に登るつもりです。この表題では一旦終了します。

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2019年6月21日 (金)

3609 名山ハント2

何故山に登るのか、を時々考えます。日本には、一度は登るべき山が少なくとも100個以上あるから、という答えになりそうです。もし、それらがエベレストの様に超人しか受け付けない山々であったなら、殆どの人は山に近づかないで眺めるだけで満足する事でしょう。しかし、日本の山の殆どは、高くても3000mを少し超える程度で、子供や普通の人間でも少し頑張れば登れる難易度なのです。
つまり、訓練や重装備や綿密な登山計画が無くとも、殆どの山が日帰りでの登頂が可能なのです。日本の山は、古くより信仰の対象でもあり、先人はその山に登るためのルートを切り開いても来たのです。結果として、どの山にも登山道が整備され、藪漕ぎをしなくても登る事が可能となっています。その結果、その中から深田が100個をピップアップし、百名山と決めてしまったので、百名山巡りが山好きの一つの目標に据えられたのでした。
百名山の中には、いわゆる日本アルプス(北、中央、南アルプス)の様に、3000m級の山々が連なる難易度の高い山々も含まれますが、多くは2000m級かそれ以下の標高の山々ですので、初心者は最初それらから始めれば良い訳です。低い山々は、それなりの魅力を持ってもいます。例えば、ユニークな植物相や地形や鉱物、あるいは鳥や動物、昆虫など、多様な山々では多様な自然が満喫できるのです。
結局、山に登る目的は、頂上を極めると言うささやかな(時には強烈な)満足感を得たいという欲求と、同時に体に受ける強いストレスと引き換えに、自然に包まれながら他のあらゆるストレスからの解放が得られるから、という結論になりそうです。山登りに必ずセットにしたいものに山の麓に湧く温泉がありますが、温泉に浸かる事によってストレスの解放はほぼ完ぺきになる筈です。今日現在、投稿者は75名山をクリアしていますので、後は25山が残っている状態です。年々、年齢(体力減退)との戦いにはなりますが、決して無理はしないでボチボチ残りを減らして行こうと思っています。

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2019年6月20日 (木)

3608  名山ハント

40代の中ごろ、会社の山岳部が企画した富士登山ツアーに、気の進ま差そうな中一の息子を無理やり誘って参加しました。天気は高曇りでしたが、雨の心配は無くやや高山病気味になりながらも、何とか頂上を踏み、眼下に広がる壮大な景色を満喫できました。この経験が、山にハマるきっかけになった様にいま振り返っています。その後、3回ほど甲斐駒・仙丈、薬師岳や白馬岳のツアーに参加し、それからは単独での百名山巡りが始まったのでした。長年勤めた企業を早期退職し、中小企業に3年ほど勤めていた時は、土日や連休を利用し、55歳で完全フリーランスになってからは、結構自由に山通いを続けたのでした。
自宅から近い、北、中央、南アルプスの殆どクリアし、名山巡りが半数を超えた頃、「これは死ぬまでには是非全山をクリアせねばなるまい」、と決意するに至ったのでした。その後も、年間5-6個の名山巡りを続けてきましたが、一つの区切りはやはり還暦後に、生れ故郷の北国の町に終の棲家を構えようと思い立った事だったでしょうか。鳥海山が居間から見える土地を探し、そこに小ぢんまりした家を構えました。鳥海山には、春先から初雪が舞う季節まで年間十数回登り、その合間の県外で引き受けた仕事のついでに、仕事先近くの山々に上る「いわば理想的なついで登山」を楽しんできました。
しかし、ボチボチ登山ではなかなかハントした名山の数が増えて行かないので、ここ数年は5-6山まとめて上る、自分ツアーを繰り返す様になったのです。最近も、5月末から6月初めにかけての、秩父・山梨6山ツアーでやっと3/4である75山をクリアするに至ったのでした。今後は、当面移動距離が長くて登りあぐねていた北海道と九州の山をハントし、後は数年かけてこれまで登り残した本州の山の「落ち穂拾い」をする予定です。この7月は、北海道シリーズに挑戦しますが、利尻富士を含め9山ある北海道の名山をどれだけ潰せるか、U70(一応まだ70歳以下です)の体力が試される事になりそうです。

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