2019年5月26日 (日)

3597  田舎ビジネスを考える

田舎に人を呼び戻すためには、新たなビジネスが必要でしょう。しかし、それらは今都会で流行っている様なビジネスではない事は確かでしょう。田舎には、田舎の資源や風土といったものがあり、いずれのタイプのビジネスであるにせよ、都会でのうたかたビジネスではなく、持続可能性をど真ん中に据えて考えるべきだからです。そこで、先ずは田舎に潤沢にある、持続可能な資源についていくつか考えてみます。
田舎に豊富にあるものとしては、平地にある都会とは対極の「山」でしょう。そこには、冬には雪がドカッと積もり、雨も降り、その結果樹木や豊富な種類の植物に覆われています。山の持つ資源は、言わずもがなの「水と樹木」です。奥山は除いて、里からパッと見える山の2/3程度は、たぶんご先祖様が植林した「人工林」です。投稿者が住む地域では、圧倒的にスギとヒノキです。樹木は、バイオマスの代表として、木材の他、紙、、燃料として、計画的に伐採すれば持続可能な資源となり得るでしょう。木材産業も、かなり廃れてしまったとはいえ、大規模な数か所と、小規模な製材所が少なからず残ってはいますので、木材の持つセルロース素材としての特徴を最大限に生かすビジネスは、まだまだ大きな可能性があると思うのです。ここでは、木材を圧密して強度を大きく上げた工業材料としての「圧縮木材」と、木材を爆砕して得られるセルロースファイバーを利用した素材産業の可能性を挙げておきます。
田舎の資源として次に思い浮かぶのは、稲わらともみ殻でしょうか。稲作は、省力化や機械化がし易いしかも弥生時代から続く持続可能な農業形態の一つであり、田舎では今でも圃場整備が大規模に行われており、一面当たりの田んぼの面積は、大きくなり続けています。ざっと言えば、1枚の田んぼの面積が、かつての単位(1反)の10倍くらいになると想像して貰えば良いでしょう。広くなった田んぼでは、稲作機械もGPSを使ったり、大型のドローンを使ったりして自動化、省力化が進んで居ます。その稲作からは、今後とも大量の稲わらともみ殻が排出される訳です。稲わらは良質なセルロース素材であり、畳などの原料であり、燃料にもなり得る訳です。更にもみ殻も燻炭とすれば、理想的な土壌改良材となり、完全燃焼させたモミガラ灰は、優秀なコンクリート混和剤にもなるのです。必要なビジネスは、これら稲作から継続的に出てくる材料を使って、消費量とバランスが取れる製品を作る持続可能な産業を興すのが理想でしょう。
この他にも、田舎には持続可能な資源は、豊富に存在します。山から豊富に流れ下る水資源、同じく山からの恵みである湧水、伐採してもやがて根からしっかり萌芽再生する雑木、豊富な温泉熱、山菜やキノコなどの山の幸、海の幸、冬期の季節風、夏場の長い日照時間、春先まで残る積雪、増えすぎたいわゆる害獣駆除からのジビエなどなど、枚挙に暇が無い程です。これらを、持続可能な形で利用し、付加価値を付ければ、田舎ビジネスを生み出すことも可能でしょう。

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2019年5月25日 (土)

3596 ブラックホール

最近話題になった宇宙のブラックホールの話ではありません。人を吸収し続けてなかなか離さない大都会(この国では東京)の話です。人口の都市集中は、何もこの国だけの現象ではありません。むしろ、C国やIンドやアフリカ諸国などの方が極端かも知れません。田舎に住んでいる人たちにとって、確かにテレビで見る都会は煌びやかで、何でも揃っていて、文化的なレベルも高い様に見えます。しかし、一歩裏(通り)に回ると、ごみごみと猥雑で、犯罪も多く、物価も高く、住居費のバカ高いでしょう。でも何故か人を引き付け続けるのです。
何故なんでしょうか。若者が都会に上るタイミングはいくつかあるのでしょうが、大きなものの一つは多分進学でしょう。都会には、それこそありとあらゆる種類の学校が揃っています。単に学問のための学校ばかりではなく、芸能はもちろんコンピュータやアニメや各種学校や特殊なノウハウを教える学校も数限りなく存在するでしょう。人が都市に集まる次のタイミングは、たぶん学校を卒業してからの就職でしょう。学校のために上京した若者にとって、都会にはありとあらゆる職業が揃っています。仕事の中身がやや怪しいものも含めれば、職種も求人数も都市は求職者にとっては天国の様な場所である事は間違いないでしょう。とても、求人数が極端に少ない田舎に戻って、職を探そうとするインセンティブは出てこないのです。
結局、都市で学んで就職して、増して結婚までしてしまった若者は、都会の暮らしに疲れて精神的に病んでしまうか、あるいは親の(病気や家業継承といった)都合でもない限り、田舎に戻る事は考えもしないのです。完全に都市というブラックホールに飲み込まれた集団が膨れ続ける事になります。高度成長期に都市に取り込まれた若者たちの現在の姿は、郊外の大規模団地に行けば目にする事が出来るでしょう。夫婦二人だけか、あるいは結構な歳になってしまった独身の息子や娘と同居するか、あるいは連れ合いに先立たれた独居老人が目につくことでしょう。彼らは、ブラックホールの中心で燃え尽きてしまう物質にも似ています。
他方で、人口が確実に毎年1%ずつ減少し、高齢化がドンドン進む田舎では、放棄された空き家ばかりが目につき、子供の姿は殆ど目にすることは無く、人が少し集まるスーパーやショッピングセンタ―には高齢者の姿だけが目につくのです。町に人通りは無く、たぶん最も人が集まって混んでいるのは、病院と遊技場くらいでしょうか。都市のブラックホールに比べれば、田舎は対極にあるホワイトホール?の様なものでしょうか。さて、これら両者を足して2で割る妙案は無いものでしょうか。引き続き考えてみます。

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2019年5月24日 (金)

3596  SVO/WVO改造

SVOはStraight Vegitable Oil(食用油)の頭文字、WVOはWaste Vegitable Oil(廃食油)の略です。ここでの改造とは、ノーマルのディーゼルエンジン(車)を、これらの植物油でも動くようにすることを指します。一番安易な方法は、タンクを2個並列に設置し、コックで切り替える方法でしょうか。先ず軽油でエンジンを起動し、エンジンが暖まったたらコックを切り替えてSVO/WVOに切り替える方法です。当然の事ながら、植物油は予め目の細かいフィルターでろ過しておきます。しかし、この方法は非常に簡便ですが、気温が低い時期には植物油の粘度が高過ぎ流動性が悪くなってエンジンが停止してしまうでしょう。
そこで、植物油の温度を上げてやる必要がありますが、方法として冷却水をバイパスさせて暖める方法と、バッテリーから電源を取り燃料管に伝熱ヒーターを巻いて加熱する方法、それを併用する方法があります。これらの改造キットは、インターネットで検索すると欧米では広く実施されている様で、必要な部品をキット化したものを数万円で入手することが出来る様です。投稿者としては、先ずは車の改造ではなく、工事用のエンジンコンプレッサーや発電機などで改造をしてみるのが実際的だと考えています。地元の外食産業やスーパーなどと契約すれば、回収された廃食油を継続的に入手するのは比較的容易でしょう。
SVOやWVOの欠点は、発熱量が軽油に比べ16%程度低いため出力の低下があること、低温時の粘度が高く流動しにくいこと程度しか無く、硫黄分はほぼゼロであるため、環境にも優しいのです。当然の事ながら、排気管からは天ぷらを揚げた時と同じ匂いがする筈です。廃食油が年間何万トン無為に廃棄(焼却)されているかですが、農水省の2007年度のデータでは、消費量が237万トン、その内回収される廃食油量は45万トン程度の様ですが、35万トンは外食産業から10万トンは家庭から排出されるとされています。同じ量の軽油、ざっと40万キロリットル(4億リットル)相当の軽油は、金額にすればざっと400億円に相当し、これが石油として輸入されていると考えると、残念でなりません。400億円の純利益を出すために、企業は一体どれほど製品を売り上げなければならないのを考えると気が遠くなります。一方で、廃食油の焼却と軽油の消費で、ダブルでCO2を排出している訳で、それが半減できるポテンシャルをこの国は持っている訳です。

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2019年5月22日 (水)

3594 知・情・意・・・2

3592で少し書き足りなかったのでついか追記します。M野隆司の表現によれば、私たちは決して、自分の知情意を操っている主人公ではなく、脳の中に住む小人たち(脳のニューラルネットワーク)の行動の結果生ずる脳のアウトプットを、さながら河畔に佇んで川の流れを眺めている「観測者」に過ぎないと主張するのです。自分というものを意識し過ぎる人を「自意識過剰」と呼びますが、この様な人達は多分生きていくのに大きなストレスを感じている筈です。
なにしろ、自分を他人がどう見ているかを常に気にして、そこに少しでも差異があれば自分を修正するか、あるいは修正出来ない場合は他人を恨むしかない訳で、いずれにしても安寧には暮らせないでしょう。しかし、自分を自分の(脳の)中に住む小人たちの行状の観測者と考えれば、生きてく上ではかなり気楽になると思われます。なにしろ、他人の見方と自分の小人たちの行動にズレがあった場合でも、それは自分の所為ではなく小人たちの仕業なのですから、自分の小人たちを責めれば良いでしょう。もし、小人たちの行状が良くない場合は、彼らを脳内に養っている家主としての軽い責任は感ずるにしても、全面的に責任を負う(と思い悩む)必要までは無いでしょう。もちろん、小人たちをその様に悪く育ててしまった事には、少しばかり良心?呵責を感ずる必要はありそうですが・・・。
当然の事ながら、その良心でさえ、脳内の小人たちのネットワークの機能から生ずるものである筈なので、やがて「卵とニワトリ」のサイクルに迷い込んでしまい、なかなか自分という存在をクリアに定義するのは難しいのです。しかし、M野隆司は工学出身の学者であり、彼の見方は同じく工学を職業にしていた投稿者には、結構分かり易いものでした。
さて、投稿者にはもうしばらくの寿命が残されている様ですので、精々自分の小人たちの行動の観察を続ける事といたします。

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2019年5月21日 (火)

3593  逆流(逆転)

物事には流れがありそうです。戦後の時代を歩いてきた身としては、その間の時代の流れも見てきました。しかし、最近その流れには一方通行しかないのか、と考え込む事も多くなりました。確かに、時間を遡ることはSF小説や漫画の中でしか出来ないでしょう。しかし、ヒトが関わった営みは、かなりの程度後戻りが可能の様な気がします。やや小難しい言葉で、言えば後戻りが出来ない「非可逆変化」と後戻りが可能な」「可逆変化」という分類になるでしょうか。
前者の例としては、入れ物からこぼれてしまった水が挙げられそうです。覆水盆に返らずの喩えの通り、地面に浸みてしまった水を全て回収することはほぼ不可能でしょう。一方で、可逆変化の例としては、土木工事などが挙げられそうです。例えば、山を削って谷を埋めて道路を作ったとしても、時間と費用さえ掛ければ、もう一度谷を埋立てた土砂をすくって、山に戻すことは可能でしょう。コンクリートに覆われた川の護岸でも、それを剥がして土手に戻すことは可能でしょう。もちろん、増水時の濁流に耐える様な工夫は必要ですが、これに当たる復元工事を、北ドイツで目にした事を思い出します。彼の国では、エムシャー川と言う、工業地帯を流れるドブ川の護岸を剥がして、土手に戻す工事を長年に亘って続けていたのです。もちろん、ドブ川のヘドロを浚い、水質の改善努力を続けた結果、やがて魚や水鳥が戻ってきたのです。
これは、インフラを造り、増やすだけの土木工事を逆流させた例と言えるでしょう。日本で言えば、山の中を通るめったに車の通らない道を、減幅して元の山道に戻せば、削った分の土地には草木が戻り、自然に戻り始めるでしょう。
さて、人間社会のシステムです。戦後の混乱からの復興で、主にB国にリードされながら、新憲法が作られ、工業が復活し、農業も大改革が行われて小作農も無くなりました。政治システムや行政組織も整備され、折々のバージョンアップもあって現在に至っている訳です。しかし、例えば選挙制度がバージョンアップによって改善されたのか、あるいは改悪されたのかは怪しい部分も多いでしょう。3割しか支持率の無い政党が、2/3の議席を占めてしまう様な選挙制度は、やはり理想には程遠いのです。熟考の上でという条件は付きますが、私たちは物事やシステムの逆流(逆転)を畏れるべきではないでしょう。もちろん、逆流させた結果の最終的で持続可能な着地点は慎重に見極めて置く準備は必須ですが。

 

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2019年5月20日 (月)

3592 知・情・意・・・・

文庫本の、M野隆司の「脳は何故心を作ったのか」を何度目かの読み直しをしています。この人の「突き抜けた」結論が好きで、あまり同じ本を再読はしないのですが、Y老孟司のいくつかの本と共に、これを手元に置いて時々拾い読みもしています。何が突き抜けているかと言えば、筆者は私たちの行動は全て脳内に居る「小人」達の多数決による「受動的」なものだと言い切るのです。私たちが、自分の意志で行動していると思っている行動も実は錯覚であり、何らかの外部からの刺激によって喚起された、受動的な行動だと言うのです。
私たちが、自分は自分であると感ずるのは、脳内の小人たちの行動は、個人によってかなり個性が偏るので、彼らの行動を常に観察してきた自分は、自分として小人たちの個性やある状況下の行動をかなりの程度知っているため、それがあたかも自分の個性だと錯覚してしまっているのだとか。この考え方だと、実は私たちの気持ちはかなり軽くなる様に思うのです。何かトラブルが飽きた時、他人の所為にするのが一番安易で気楽だと思うのですが、自分(だと思っている個性)の行動が、脳内に居る小人たちの多数決によって決まっていると考えれば、間違った事も「奴ら」の仕業だと責任を転化できるからです。
ここで、筆者が小人と呼んでいるのは、言わずもがなですが、脳内にあるニューラルネットワークの単位(ユニット)を指します。それらのユニットには、表題の知・情・意の他、記憶と学習などもありますが、いずれにしても私たちは、自分の意志だと思っている行動でも、外からの刺激に反応したこれらのユニットからのアウトプットでそれを起こしている様なのです。
例えば、昼に昼食のために食堂に入ったとします。それは、まさに自分の意志で食べたいものを決めた上で、入るべき食堂を決めたと思い込んではいますが、実は血糖値が下がった結果、食べ物を補充すべきという信号が脳に飛び、その結果目に入ってきたいくつかの食堂候補の内の一つの入り易そうな、あるいは空いていそうな外観に刺激されてフラフラと入ってしまったというのが実情でしょう、つまりは、蛾が誘蛾灯に導かれてその周りに群がるのと、あまり差は無い様なのです。この本を読む事によって、唯一無二だと信じている自分という存在が、実は小人劇場の観客に過ぎないと思う様になり、その比重がかなり軽くなり、生きる上で気楽にもなっていきます。一読をお勧めします。

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2019年5月16日 (木)

3591 政治の劣化

政治(政治家)の劣化が止まりません。このブログは、批判を目的とはしていませんので、批判に終始することは避けますが、政治家の劣化は指摘せざるを得ない状況でしょう。大臣という席に座る資質の無い人が座る、酒癖の悪い人が議員になるなど、最近の政治家(政治屋)の行状は目に余るものがあります。それもこれも、選挙制度に主要な原因の一つがあると考えるざるを得ません。今の選挙制度では、たった1/3の支持率しかない政党が、2/3の議席を獲得できるのです。積極的に政党を指示しない人達(支持する政党なし層)が4割を占めているにも関わらず、私たちは人を選ぶのでなく、無理やり政党を選ばざるを得ない仕組みなのです。
もちろん、選挙演説だけを聞いたところで、候補者の人となりがしっかり分かる筈もありませんが、少なくとも任期中の行状が悪かった議員は、次回の選挙では落選することでしょうから、資質の無い人が長年議員をつとめ、当選回数の多さで回ってくる大臣の席に座る事もないでしょう。
政党制が打ち壊せないなら、少なくとも3大政党制を推進すべきである、と提案しておきましょう。2大政党制で、時々その交替が起こる仕組みの手本は、たぶん日本も政治の制度を真似たE国でしょう。しかし、そのE国でさえ、EUからの分離を巡って、僅差の賛否での決定が、その後の大混乱を招いているのです。3大政党制というのは、政策によって3つの政党が組む相手を変えるのです。ある経済政策ではA党とB党がタッグを組む一方、外交政策ではB党とC党が協力する訳です。あるいは、福祉政策ではA党とC党の意見が一致するかも知れません。保守か革新かではなく、保守と革新と中道が柔軟に相手を組み替えるのです。この結果、政治に緊張感が生まれ、決められない政治も少なくなるのでしょう。なにしろ、2つが手を組めば議会の2/3を握れる訳ですから、決まらない筈はありません。中道勢力が、保守に寄ったり、革新に近づいたりするのは、かなりの程度世論の指し示す方向で決めれば、民意の反映もかなりし易くなるのではないかと思うのです。現状の国会(民意)無視の保守暴走は、国の将来を脅かさずには置かないでしょう。

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2019年5月15日 (水)

3590  どこでもドア

ところで、今回の表題として、何故「どこでもドア」にしたのか思い出せませんが、兎に角このKWからの連想を徒然なるままに書いてみる事にします。これは、言わずもがなですがSF漫画の主人公が出す種々の道具(機械?)の一つです。流石に漫画家は、なかなか良いピッタリのネーミングを考え出すものだと感心します。
さて、このピンク色のドアを使えば、ある場所でこのドアを開くだけで、何処でも行きたい場所に出る事が出来るという、Dラえもんの道具の中でも、かなり優れものの道具だと言えるでしょう。ドアを開けたら、そこは別世界であったというシチュエーションは、誰でも夢想した事があるのでしょうが、漫画家はそれを絵にし、映画製作者はそれを画像にする訳です。多少真面目にSF的に考えれば、この道具は「テレポーテーション」を可能にする機械だとも言えるでしょう。ドアを開けた人物を瞬時に原子に分解し、その人が想像した行先に送り、そこで原子を再構成して本人を「出現」させる機械だと言えそうです。
これは、人間の移動手段としては極限の理想を実現する機械だとも言えるでしょう。何故なら、朝起きて身支度をしてドアを開ければ、そこは例えば勤務する職場であったりする訳で、通勤時間ゼロを実現する夢の手段となるでしょう。これさえあれば、新幹線もジェット機もリニア新幹線も不要になるでしょう。帰省やレジャーの際、車で移動する時の交通渋滞さえ無くなるのですから。つまり、私たちが太古の時代からの課題である「移動」するための努力をゼロにしてくれる機械だと言えるでしょう。
以前にも書きましたが、ヒトは移動したがる存在(Homo-movens)である事は間違いないでしょう。そうでなければ、アフリカで発生した人類が、赤道地帯から極北の地まで、あるいは海面下の低地から数千メートルの高地まで広く拡散して住む事になる筈もありませんから。1ヶ所で静かに生活をするだけなら、長い距離を移動する必要もないのでしょうが、ヒトは何故か移動したがります。旅行や観光などという、移動のための移動も進んで行う種なのです。その意味で、移動はヒトのDNAにしっかりと組み込まれた衝動なのでしょう。ヒトである投稿者も、時々どこでもドアが欲しくなる一人です。

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2019年5月14日 (火)

3589 ブルーオーシャン3

続きです。さて、具体的なブルーオーシャンの例です。この場合のオーシャンとは、具体的には「市場」と言い換えることも出来るでしょう。まだ、誰も漕ぎだしていない真っ新の市場の事なのです。市場と言うからには、そもそもその市場を形成するであろう顧客が、モノやサービスに関して明確なニーズを持っていることが前提となります。つまり、ブルーオーシャンは物理的な地球の大きさに制約を受けるものではなく、小さなオーシャン(池?)であれば、人の数だけ殆ど無限に存在することになります。つまり、自分以外のたった一人しか持たないモノやコトへの欲求があれば、そこには一人分のニーズの池が出現するでしょう。それが、10人、1000人、数万人とまとまれば、立派なブルーオーシャンが出現でする事につながるのです。
自分のニーズを満たしても、お金儲けは出来ませんが、自分以外の人にモノやコトを提供し、それに代価が生まれれば、先ずは水たまり程度ではありますが、超ミニ市場が生まれたという瞬間になるでしょう。現代社会では、ネット上でニーズを持つ個人や少ない人数にも容易にアクセル可能ですから、超ミニ市場を見出すには殆どリスクは発生しない筈です。但し、誰でも提供できるモノやサービスであれば、それに気付いた人がすぐに真似をするでしょうから、安心はできません。しかし、他人が容易に模倣できないモノやサービスであれば、やや安心できるかも知れません。形は容易に模倣できますから、例えば目には見えないレシピや製法であれば、ガードが可能かも知れません。
ここでの結論としては、もし誰か一人でもお金を払ってでも手に入れたいモノやサービスを考え出せれば、それをリスクなく拡散し、新たなブルーオーシャンを創造するのは、比較的容易な時代になったと言えるのです。もちろん、既に高齢者の域に踏み込んでしまった投稿者としては、今更ブルーオーシャンを作り出そうとは思いませんが、暇はたっぷりあるので、もし何か面白いビジネスのネタを思いついたらこのブログで紹介してみることといたします。勿論、アイデア料は無料です。この項は取り敢えず終了。

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2019年5月13日 (月)

3588  ポツンと・・・

日曜夜の「ポツンと・・・」というTV番組が人気の様です。投稿者としても時々視聴しますが、なかなかに興味深い人と暮らしが登場します。この番組が何故人気なのかですが、それはとりもなおさず人里から遠く離れた山間地や離島で、不便であるがしかし時間や山の恵みに感謝しながら暮らす、かつて日本にあった本当の田舎暮らしを、今でも実践している姿を見る事の興味でしょう。人里離れた場所での暮らしは、今日でこそ電気も通っていない場所は殆ど無いのでしょうが、買い物にせよ、病気になった場合にせよ、アクセスは大変でしょう。特に積雪地では、車の使用もままならないでしょうから、殆ど「冬籠り」になってしまうでしょう。
加えて、番組に登場する殆どの人達が、いわゆる「後期高齢者」である事も興味深い点でもあります。つまり、人が何処で人生を終えたいか、あるいは終えるべきかをポツンと・・・の住人たちは身を以て示してくれているのでしょう。生まれ育ち、あるいは若い日に嫁ぎ、長年暮らした場所で一生を終えるために、不便な暮らしを(たぶん楽しみながら)続ける人達の生き方は、確かに参考になりますし、また参考にすべきでしょう。家の周りの自然から手に入るものは、ありがたく頂戴し、手に入らないものは諦めて、無しで済ますか代用品で済ます生活。時々害獣に作物を横取りされながら、それをある意味「自然の取り分」として喜捨している様にさえ見える暮らしは、額に汗する労働の尊さに繋がっている様にも見えてしまいます。
ポツンと・・・の彼らの暮らしは、資源に恵まれない、しかし自然には恵まれている、一方で超高齢化社会に突き進んでいるこの国に暮らす我々の、食べ物やエネルギーの入手や暮らし方の理想的なサンプルだと思うのです。そこでは、山菜やジビエや自家農園で得る食糧を食べ、薪で風呂焚きや暖を取り、羽釜で飯を炊き、しかしゴミを殆ど出さない生活スタイルは、少し前に流行ったナンチャッテLOHASなど足元にも及ばない、それを突き詰めた暮らしぶりだと思うのです。いずれにしても、私たちはポツンと・・・の住人の暮らし方を、目を凝らして観察し、出来るところから真似をするべきだと思うのです。このユニークな番組の視聴率が更に上がる事を期待しています。

 

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2019年5月12日 (日)

3587 ブルーオーシャン2

ブルーオーシャンは、分野ごとに存在するものなのでしょう。しかし、この分野を今市場にある瀬品やサービスで括っては、方向を誤る事になりそうです。例えば、車(乗用車)ですが、現在の買取り・自分で所有することが前提の製品として見做してしまうと、メーカー間の熾烈なシェア争いというレッドオーシャンに溺れてしまう結果につながります。唯一無二の「車」でなければ、ブルーオーシャンを独り占めは出来ないのです。
実は、その唯一無二の市場を狙って、メーカー間で熾烈な開発競争を繰り広げている分野が、あります。それは、空飛ぶ車です。しかし、最近でこそ注目を集めてはいますが、そのアイデアは非常に古く、軽量化した車に翼と強力なエンジンを積んだものや翼を折りたためる様にした空飛ぶ車なら、既に1950年代に実現してしまっているのです。つまり、この分野は古くからレッドオーシャンでもあった訳です。それらが、何故実用化されなかったかは、言わずのがなですが、安全性とコストの壁を打ち破れなかったという事でしょう。取り分け、空を飛ぶとは言っても、精々200㎞/h弱でしょうから、高速道路が整備されるにつれて、空飛ぶ車自体の存在価値が薄れてしまったというのが正しい見方かも知れません。
では、今日何故再び空飛ぶ車の開発なのでしょう。技術的に難しい事は何も無いでしょう。ドローンを大型化してもOKでしょうし、極限まで来た軽量化技術を使えば、空飛ぶ車を作るなど造作もない事でしょう。しかし、十分に軽量化された車を空に浮かべて飛行している時、突然突風が襲ってきたらどうでしょう。軽い空飛ぶ車はひとたまりもなく吹き飛ばされて、最悪は墜落の憂き目に遇う筈です。もちろん、地上で巻き込まれる不運な人も出る筈です。十分に安全性が確認されている金属製の旅客機でさえ、時々突風やダウンバーストで事故を起こしているのです。
そう考えると車のブルーオーシャンは空飛ぶ車では無い事は明らかでしょう。かと言って、自動運転車かと問われれば、3585に書いた様に、それも筋が違っている様に見えるのです。
投稿者としては、車というパーソナルな移動手段そのものを見直して、新たな乗り物のカテゴリーを生み出さない限り、この分野のブルーオーシャンンは見つからない様な気がしています。例えば、歩いて移動しながら日本の名山巡りをした冒険家が尊敬を集めた様に、この時代歩いて移動することは時間を潤沢に使った贅沢でもあるでしょう。歩きに準ずる贅沢は、たぶん自転車での移動でしょう。ならば、歩くことや自転車を科学で徹底的に分析し、どれほど歩いても疲れない(疲れにくい)靴やウェア、更に人力を効率的に使える自転車を考案すれば、たぶんブルーオーシャンに漕ぎだせる気がしている。更に続きます。

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2019年5月10日 (金)

3586 ブルーオーシャン

ブルーオーシャンとは、言わずもがなですが、競争の無い新たな市場や分野を指す言葉ですが、現実には人々は血みどろの競争だらけの「レッドオーシャン」にしか興味が無い様に見えてしまいます。AIと言えばAI分野に、IoTと言えばIoT分野に、具体的な製品で言えば、同業他社を横目に見ながら、自動運転車やリージョナルジェットなどの、まさにレッドオーシャンと殺到している様に見えるのです。何度も書いた様に、人々や市場の「真のニーズ」はさておいて、メーカーの信ずる道を突き進んでいる方向に関しては、投稿者は懸念を持ち続けている者です。
では、競争の無い(少ない)ブルーオーシャンは何処にあるのかと問われれば、それはSDGsを眺めてみなさい、という結論になってしまいそうです。これまでも書いてきた様にSDGsには、17のゴールが記述されていますが、全体に通底するKWとしては「持続可能性」である事は間違いないでしょう。もし新たなビジネスを始めるとして、それが100年後も持続可能なものであれば、取り敢えずのファーストチェックとしてはOKでしょう。加えて、そのビジネスに関わる資源やエネルギーが同様に持続可能な形で入手でき、ビジネスの結果としての廃棄物が環境を汚さない範囲であれば、GOサインを出せると太鼓判が押せそうです。
SDGsのゴールを目指すビジネスが、ブルーオーシャンであると断言できるのは、現状ではそれらはコストが掛かり過ぎて、殆ど誰も(大規模には)手を出していない分野であるため、競争が殆ど無いと思われるのです。もちろん、それらは現在的な意味でのコスト(マネーだけで換算したコスト)で比べれば、まだまだ採算が合わないと思われますので、SDGsに敏感なカスタマーに照準を合わせる必要はありますが、希望的観測ではありますが、そのようなカスタマーも今後増えていくでしょうから、まだ誰も踏み込んんでいない今はまだ狭いブルーオーシャンも多く存在する筈なのです。抽象的な言葉をいくら重ねてもピンとこないかも知れないので、次に具体的な例を挙げてみる事にします。続きます。

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2019年5月 9日 (木)

3585 AIの限界

LoT やVRに加えて、もう一つの次代のKWであるAIについて少し考えてみます。AIは、日本語にすれば人工知能ですが、いわゆる予め編纂された「百科事典」でない事は明らかです。何故なら、一度作られて印刷された百科事典のページ数や内容改定が自動的に行われる事はないのに比べ、AIは自分でドンドン学習し、知識をアップデートしながら増やしていくからです。つまり、人間で言うところの「賢さ」が日々増していくのです。
もし、記憶容量が事実上無限のコンピュータがあるとして、それにほぼ完ぺきにデザインされたAIが組み込まれ、そこに日々流される膨大な情報が流し込まれると仮定すれば、やがてこのAIは、あらゆるカテゴリーで人間の能力を超え、神様の様な存在になり得るのか、という疑問が湧いてきます。確かに、このAIに問い合わせれば、瞬時に答えが返ってきて、人間たちの行動を助けてくれるでしょう。
しかしながら、このAIには私たち人間とは明らかに違う点がいくつかあります。その一つは、このAIは人間の脳で言えば、知識のインプットと情報処理とその構造化の部分だけを完ぺきに行う機能は持っていても、それ以外の何者でもないという点です。例えば人間の脳には、いわゆる感情(Emotion)なる機能もありますが、AIにはそれが欠けているでしょう。
またAIには、人間で言う五感や手足に当たるActuatorもありません。五感で感ずる事が出来ないし、自分で動いて行動を起こす事もないのです。その意味で、ALを搭載した自動運転車は「得体の知れない存在」と言えるでしょう。何故なら、自動運転車は「自分で」動ける機械だからです。人間が目的地をインプットすれば、視覚だけですが一応外界をセンシングし、ALが混雑状況などの情報を使ってルートを決め、AIが適当と判断した速度とハンドルさばきで、乗客を目的地まで移動させる訳です。しかし、地震や洪水や歩行者の予想外の行動や道路の陥没など、AIの判断を超える外乱への対処などは全く未知と言えるでしょう。つまり、その時自動運転車がどう動くか(行動するか)が全く予測できないのです。全知全能のAIは、たぶん巨大なサイズになると思われますので、車に搭載できる程度のAIの能力などは、所詮知れたものに過ぎないと思うのです。結局、AIの限界は、物理的なサイズで決まってしまうという単純な結論になってしまいました。もちろん、最近流行の5G通信を使えば、AIの物理的なサイズの限界は無くなりますが、無線通信はそれほど安定的な情報伝達の手段ではありませんので、結論はやはり変らない事になります。

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2019年5月 8日 (水)

3584  VR(疑似体験)

以下は単なる随想です。VRという概念は小説に初登場したのもカウントすれば非常に古い言葉でもあります。現代的な意味でのVRが再登場するのは、たぶん1980年代ではないかと振り返っています。当時のVRは稚拙なモノで、例えばサイコロ型のブースの6面に、映像を映し出しサイコロの中に居る人物が、風景の中での疑似体験が出来る程度のものだった様な気がします。その後、工業系のVRとしては、例えばDソー社の3DのCAD/CAMシステムの中で、さながら狭い場所にカメラが潜り込んだ様な映像(ウォークスルー映像)が画面の中で再現できる様なり、設計の事前検証や整備性の改善などにも活用されてもきました。その後は、特殊なメガネやヘッドマウントディスプレーなどの小型の機器を使って、手軽に3Dの疑似体験が出来る様になってきた様です。
しかし、考えてみれば疑似体験はあくまで疑似の体験に過ぎないでしょう。実際に、手で触ったり匂いを嗅いだりといった五感に訴える「本物の」体験と同じ体験などは出来ない相談です。もちろん、映画館などでは迫力あるサウンド効果や振動や音や、時には水しぶきなどの特殊効果で疑似体験を強化する様な試みも行われてはいますが、何処まで行っても結局は疑似的な体験に過ぎません。疑似体験は、本物の体験に比べて「脳に刻まれる度合い」が弱い事は容易に想像できるでしょう。脳に刻まれる「記憶」は、画像や絵の様な平面的なものに比べれば、五感の刺激で刻まれた「立体的な記憶」の方が強いのは当然の事でしょう。
VRで旅行体験をしたとしても、実際に現地に行って口にした食事やその場所の香りや騒音や、ましてや失敗体験などの濃密な体験とは比べるべくもないでしょう。六十数年間の投稿者のつたない経験を振り返っても、ラッキーな事に仕事で20回以上は海外に出張し、合計2年ほどは現地で暮らした経験が、人生をどれほど豊かにしてくれたかと考えると、会社に感謝してもし過ぎる事はないでしょう。今後、どれほどVRが発達したとしても、実体験に迫る事は出来ないのです。何より、VRでは体験の中で周りの対象に働きかけ、リアクションを得ることは不可能だからです。双方向のアクションとリアクションが、実体験の神髄だと思うのです。

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2019年5月 7日 (火)

3583  シーズよりニーズ2

繰り返しになりますが、本来の意味の市場というものを考えれば、シーズに基づいた「押し込み型」でなく、ニーズに基づいた「引っ張り型」の市場メカニズムを指向すべきでしょう。後者の方が、間違いなく廃棄物が減るからです。生産された食糧の何割かが、消費されずに期限切れで廃棄されているという事実を見ても、消費者を待たせてはいけないという現代的な悪しき商習慣がその背景にあるのは間違いないでしょう。
このブログで何度も強調しているのは、最終的な社会の持続可能性の最長化こそが環境問題を考える上でのゴールであるという点で、生産にエネルギーと資源を投入した製品(ここでは食糧ですが)を消費しないまま廃棄に回すという「最悪のムダ」こそ絶対に無くすべきなのです。それは、生産に要した資源やエネルギーに加え、廃棄するにもそれを運搬し燃やすための燃料、燃やした後の灰を処分する埋め立て地など、いわゆる環境負荷が高い社会なのですから。
一方で、投稿者が望ましいと考えている「引張型の社会」では、消費者はニーズ情報を発信し、生産者に生産を促します。当然の事ながら、モノが実際に市場に出て消費者の手元に届くまでには、時間が掛かりますので、消費者には忍耐を求めますが、一方で生産されたモノがムダになる割合は非常に低くなる筈なのです。情報化時代と言われ続けていますので、ニーズの発信方法と生産の方法と流通の方法を工夫すれば、待ち時間も最小限に留める事は十分可能でしょう。ムダの多い押し込み型社会から、上で提案した引張型社会への移行は、生産者と消費者双方の意識改革が不可欠ですので時間は掛かるのでしょうが、しかし絶対に成し遂げなければならない事でもあります。何故なら、世界野食糧生産状況はこのままでは決して持続可能ではなく、天候不順などで不作が続けば、世界規模での飢饉が起こる事は必至だからです。その一方で、何割もの食品廃棄を行っている現状は、決して看過できない問題でしょう。

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2019年4月28日 (日)

3582  シーズよりニーズ

続きです。技術に自信がある企業ほど、自社製品を市場に送る事に熱心です。それは、市場に送るというより「市場に押し込む」という行為にも見えてしまう事も多いのです。市場は、既にゲップを出しているにも関わらずです。カラカラに乾いた大地に雨が降れば、雨は土壌に浸みこんでいきます。しかし、雨が続いた後では、雨は地表に浮き、低い場所を求めて流れるだけになるでしょう。この国にはモノが溢れていると思うのです。街中の商店街にあった、小売店の多くはシャッターを降ろしましたが、それらは大型スーパーや郊外型のSCに取って代わられ、その隙間を埋める様に数万店のコンビニが乱立しました。
その結果、人々は食べたいモノや日用品を、少し歩くか車を転がせば、好きな時間に手に入る様になったのでした。つまり、私たちは最早欲望を抑えるとか我慢する必要が無くなってしまった国民なのです。だから、若い人達に尋ねても、たぶん今欲しいモノなど無いなどと答えるでしょう。欲しくなったらすぐ手に入るモノは、意識の「欲しいモノリスト」にすら上らないのです。
さて、考えてみなければならないのは、市場の「ニーズ」でしょう。マズローによれば、人々の欲求は5段階に分けられるのだとか。モノに対する欲求は、その中でも当然低いレベルのものなのですが、一方で今後は高次の欲求、即ち「承認の欲求」や「自己実現の欲求」といったものがクローズアップされるだろうと想像できます。その背景で、市場のニーズを見直す必要があると思うのです。つまり、そのモノやサービスを購入することによって、自分が(世間的に)承認(評価)されたという感触が得られるものに注目しなければならないでしょう。更に、そのモノやサービスを購入することが、自己実現につながるものであれば、更に理想に近づく筈なのです。
具体的に考えてみましょう。マズローによれば、承認欲求以下のレベルは、欠乏欲求で、自己実現欲求だけが、成長欲求なのだとか。だとすれば、市場のニーズの将来を見据えるならば、自己実現のためのモノやサービスに注目せざるを得ないのです。移動手段で言えば、単に車を作って売るというビジネスモデルは、破綻せざるを得ない様に見えます。自己実現というKWで言えば、投稿者はある時期に自分に「日本百名山踏破」という目標を課しました。しかし、百名山は広域に分散しているので、夫々の山の間を移動する手段に苦労しているのです。もし鉄道や飛行機やレンタカーやその他の移動手段を組み合わせ、最短の時間で、しかも安い費用で移動できるサービスがあれば、是非利用したいと考えているのです。更に続きます。

 

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2019年4月25日 (木)

3581  技術よりデザイン?

3580の続きです。それでもなお、この国のメーカーの中には(モノを大量に安く作る)技術さえ磨けば、何とか生き残っていけると考える経営者が多いと想像しています。さて、3580では、市場やそこからのニーズが最重要であると書きましたが、それだけでは十分ではない事もまた事実です。そこに加えるべき要素としては「デザイン」ではないかと思っているのです。例えば、家電で言われるところの技術とは機能を形として具現化したもので、例えばパソコンでの処理スピードであるとかメモリー容量であったりする訳です。また車で言えば、原動機の馬力であるとか乗車定員の数とかいった性能になるでしょう。
しかし、良く考えてみると、私たちはその様な性能や諸元だけで購入を決めているのでない事は自明でしょう。最後の決め手は、たぶんモノの形(デザイン)だと思うのです。モノの形には、それを使う人達の好き嫌いがはっきりと反映している事でしょう。スポーツカーのテイストの車が欲しい人に、ファミリーカーのデザインはアピールしない事は明白です。逆に、子供が居る家族には、二人乗りの車は全く選択肢に入らない筈です。
この国のメーカーが、デザインを軽視している事は、例えば欧州製の車や家具や家電を見る度に感ずる不満です。本当にデザインが良い製品には、だれしもつい手に触れてみたくなるものなのです。良いデザインの製品を購入すれば、消費者が必要な機能を得ることに加え、所有する喜び、使う喜びなども得られる事でしょう。残念ながら、この国のメーカーが作った製品に、所有することが自慢になるモノは殆ど見当たらないのは残念な事実です。もちろん、数は少ないのですが、いくつかの工芸品に中には、何年待っても入手したいモノがいくつかあるのは事実ですが、わゆる工業製品の中にはその様なモノは殆ど見当たりません。そもそも、この国には、NYにある近代美術館の収蔵品の様に、カテゴリー毎にデザインが優れた製品を展示し、顕彰するという文化さえ無いのです。
それどころか、この近代美術館に収蔵されて初めて、あの電化製品は実は優れたデザインだったのだ、と「評価が逆輸入される」始末です。この国で、工業デザイナーが、やや幅を利かせているのは、たぶんモニュメント的な建物の設計や自家用車の外観デザインの分野程度ではないかと想像しています。悲しい事に、実用的な技術屋であった投稿者にも、デザイン的なセンスは殆ど無い事を告白しておきます。

 

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2019年4月24日 (水)

3580  技術よりビジネス

この国には、技術さえ優れていればモノは売れる、と言う根強い神話がある様です。しかし、モノを作ってそれを売る前に、考えなければならない重要な事がいくつかあると思うのです。先ず第一には、マーケット(市場)の存在でしょう。市場は、既にそこにある市場=既存市場と、まだ目に見える市場が形成されていない潜在市場がありそうに思えます。市場が拡大しつつある局面では、メーカーはその市場に向けて、安くて品質の良い製品をドンドン押し込めば、やがて市場のココロを掴み、売り上げは伸びていく筈です。
しかしながら、現代の様に成熟した市場ではどうでしょう。メーカーは、激しいシェア争いを繰り広げ、忙しいけれどしかし儲からない苦しい経営を余儀なくされるハメに陥ります。利益なき繁忙です。それもこれも、既存の市場に分け入って、シェアを得るという苦しい戦いを選択した経営戦略の所為だと言うしかありません。もちろん、まだ影も形も無い潜在市場を開拓するのは既存市場に切り込むのとは違い、リスクも大きいでしょうし、何倍も苦しいことでしょう。
しかし、この国の企業、特にメーカーはこのリスクや苦労を回避し続けてきたと言うしか無さそうなのです。例を挙げましょう。民間航空機市場の一分野として、RJ(リージョナルジェット)があります。国内の地方路線を担う、比較的小型のジェット旅客機の市場だと言っても良いでしょう。この分野では、欧州の中規模メーカー、カナダの航空機メーカー、ブラジルの航空機メーカーが先行し、市場を形成してきたという経緯があります。そこに、この国ではメジャーな航空機メーカーであるM社がMRJを引っ提げて参入した訳です。参入発表当時は、確かにMRJの性能は、先行していた他社の機体に比べれば、例えば燃費性能などで上回っており、注目もされたものでした。しかし、YS-11から50年もの時間が空いてしまい、新規機体の開発経験者が居なかった事もあり、スケジュールがべた遅れになり、その結果として、既存メーカーによる技術的追い上げで、追いつかれてしまったのでした。市場は、常に高いコスパとタイムリーな市場投入時期を求めます。その結果としてMRJは市場から見放されたと言われても仕方がない状況に陥ったのでした。
では、この国の航空機産業はどう行動するべきだったのでしょうか。一つの回答は、水上飛行機または飛行艇の市場投入でしょうか。多数の離島を抱える、この国や東南アジアの多くの国々や太平洋の島嶼国では、離島間の移動は船に頼っているケースが多い事でしょう。しかし、これらの島々を水上機でリンクさせれば、人の移動、取り分け観光業の興隆に多大な効果が期待できる筈なのです。水上飛行機の市場は、まだ十分には開発されては居ない、いわば潜在的な市場だと言えるでしょう。その市場に、J衛隊に採用されている飛行艇の技術を民間に転用した機体を送り込めば、新たな市場の拡大に寄与することになる筈なのです。これが、技術よりビジネス(市場)と投稿者が主張する、一例となるでしょう。続きます。

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2019年4月22日 (月)

3579  大きい事は良い事?

B国民は何でも大きなモノが好きな様です。この度は、世界最大の航空機が試験飛行に成功したと事。翼のスパンが100mを軽く超え、ジャンボジェット機用のジェットエンジンを6基も取り付けて、なんと宇宙ロケットを吊り下げて高高度でローンチさせる目的を持つ機体なのだとか。確かに、使い捨ての打ち上げロケットでペイロードを打ち上げる従来のロケットに比べれば、何百トンもの重量のロケットを、例えば20000mの高度まで持ち上げるにはこの航空機を使えば良い訳で、随分ロケットの小型化・軽量化には寄与できそうではあります。
しかし、閑変えてみなければならないのは、そもそもこれらのロケットで打ち上げるべき起動の過密度合でしょう。静止軌道(約3600㎞の高度)はどんな静止衛星を打ち上げる場合でも使わざるを得ない訳で、この起動は年々過密の度合いを高めているのです。公にされている通信衛星や観測衛星の他、軍事上の理由で、秘密裏に運用されている軍事衛星の数は、民需用よりははるかに多いのでないかと想像しています。と言うのも、軍事・偵察衛星は戦後の冷戦期のかなり早い時期から、両陣営が競って打ち上げたでしょうし、寿命が尽きても誰もそれを除去しなかった筈だからです。つまり、衛星のなれの果ての宇宙ごみ(宇宙デブリ)の増加です。
上記の様な超大型の航空機を作り出す前に、宇宙デブリを増やした張本人の一人(一国)であるB国には、是非静止軌道を掃除する「宇宙空間掃除ロボ」を開発して貰いたかったのです。建物などのインフラを作るに当たっては、よく「スクラップ&ビルド」と言うKWが聞かれます。新しいインフラを作る前に、先ずは古いインフラを破壊し、取り除くという準備をしておくわけです。そうでなければ、新しいインフラの間には、使われなくなった古いインフラが残ってしまい、見た目も悪く機能上も邪魔になってしまう訳です。
その上で、新たに作るインフラとしても、大きくなく、小さくないピッタリサイズのものとする事が求められるでしょう。この国の様な人口減少社会においては、冗長なインフラは投資額が嵩む一方、将来的には余剰部分が邪魔者にさえなってしまうからです。大型のインフラ投資こそ、そのインフラのライフサイクルを見通した上で、無駄の無いものとしたいものです。ところで、その意味でリニア新幹線などは如何なものでしょうか。

 

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2019年4月17日 (水)

3578 巨大インフラのリスク

熊本の震災に関連して、熊本出身のK尚中の想いに共感してしまいました。彼の、良く考えられたコメントには、日頃から賛同することも多いのですが、今回のものは大きなインフラや便利過ぎるインフラが内在するリスクに関するものでした。彼の意を汲み取って、投稿者なりに例を挙げてみるなら、例えば海岸に築かれた防波堤が思い浮かびます。かつて、海岸に防波堤など無かった時代には、人々は大きな地震が襲った際には、全てを投げ打って一目散に高台をめがけて非難をした事でしょう。それが、過去の災害で犠牲を出した経験からの先祖の教えでもあった訳ですから。しかし、数メートルのコンクリートの壁が築かれてしまうと、人々は海岸のすぐそばまで家を建てる様になってしまったのでした。地震や津波が、その堤防の設計時の想定を超えてしまうと、防波堤など何の役にも立たない事は、先の東日本の震災でも証明されてしまったではありませんか。
同様なリスクは新幹線やこれから本格化するリニア新幹線などの高速大量輸送インフラにも内在されている事でしょう。なにしろ、地面に設置された線路やガイドウェーそのものが地震で揺さぶられる訳で、脱線やあるいは磁気浮上時のガイドウェーとの接触事故のリスクはかなり大きいと見なければならないでしょう。新幹線の場合は、特に上下列車相互の接触や衝突事故も懸念される事態です。もし運悪く対面衝突にでも至った場合は、相対速度は走行速度の倍になる訳ですから、ただでは済まないでしょう。
それより、何よりここまで密集してしまった都市インフラの方が深刻な問題の様に見えます。記憶に新しいのは、先の東日本大震災で生じた大規模な液状化現象の結果、埋立地の地下インフラが滅茶苦茶になってしまった事態です。水道やガスや地下送電線や下水と言ったインフラがズタズタに切られて、その復旧には非常に長い期間を要したのでした。水道が使えても、下水管が繋がっていない限り、何処の仮定でもトイレや風呂や台所では水を使えない訳です。もちろん、田舎の個別浄化槽ではこんな事態は起こり様はありません。
インフラの大規模化は、一見効率的で利便性も高い様な印象を受けるのですが、半面では非常に脆い側面も内在している点は改めて認識して必要があると思うのです。対策としては、やはり都市の超過密を、地方への分散と言う手段で軽減していく事しか良いアイデアは無さそうなのです。

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2019年4月 9日 (火)

3577 サスティナビリティの指標2

3576での提案の様に、環境の持続可能性を測るには、二値ではなくグラデーションを描く指標が必要だと思うのです。例えば、植生で言えば樹林帯か砂漠化ではなく、樹林帯から灌木のある草原地帯へ、更には草原(ステップ)へ、更に半砂漠へのグラデーションを指します。もちろん、砂漠と言っても年回降水量が殆ど無い純砂漠もあれば、雨季には草も生える砂漠もあり得る訳です。
その意味では、いわゆる精密な定点観測こそが最必要だとも言えるでしょう。例えば、温度や湿度を℃や%で計測するとして、整数の表示では、微妙な変化が見えていませんが、それが小数点以下まで計測できる場合、数年単位の比較的短期の温暖化や湿潤化のトレンドが読み取れる可能性があります。当然の事ながら、計測条件を厳密に揃えることと、十分な精度の計測器を用いることは基本の「き」ではあります。
さて、環境(持続可能性)を確認するに良い指標ですが、3576に述べた「ダニ指標」の他に、植物相指標も上手く設計すれば良い指標になるでしょうが、では物理量の指標なるとなかなか良いものが見当たりません。無ければ、作るしかないのですが、気温や湿度などを厳密かつ精密に計測出来たとしても、時間毎あるいは日々の変化(日較差)が大きく、何らかの数学的処理が必要です。以下の様なものはどうでしょう。それは、例えば温度変化の蓄積が記録可能な媒体です。これは、電池を内蔵した記録媒体で、環境に放置して毎分温度や湿度を計測し、記録できるものです。これを定期的に回収して、コンピュータに記録させ分析を加えるのです。観測点を多くして、地図上に落とせば、地域的な環境変化も可視化できるでしょう。配置や回収は、有志のボランティアを募れば、費用もあまり掛からないでしょうし、人々の環境への関心も高まる事につながる筈です。更に続きます。

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2019年4月 8日 (月)

3576 サスティナビリティの指標

環境問題に関して最重要なKWは、と言えば「サスティナビリティ(持続可能性)」である事は論を待たないでしょう。温暖化問題にしても、結局は温暖化と言う気象変動(環境悪化)が、環境の持続性に黄信号を点灯させるからであって、それは持続可能性問題のたた一つに過ぎない訳です。しかし、考えてみればこの持続可能性に関しても、何らかの尺度は必要だと見ています。
さてその尺度としては数多くの提案が出ている様に思います。例えば、海洋の温暖化に関して言えば、北極海の浮氷面積があるでしょうし、南洋の海ではサンゴの白化現象も指標になりそうです。陸上に関して言えば、草原地帯(ステップ)の砂漠化や針葉樹林帯の北上などの植物相の変化、それに伴う動物相の変化などもあるでしょうし、南洋の島々では海進による水没なども大問題でしょう。大気に関して言えば、大気中のCO2濃度の右肩上がりの変化、気象の激烈化に伴う豪雨災害の多発、あるいはフロンガスによるオゾン層破壊の結果として紫外線増加などが頭に浮かびます。
しかし、浮氷が解ける0℃の上か下かと言う基準もそうですが、動物が居るか居ないかなどという、いわゆる「二値の基準」では、変化の度合いを捉えるのに適当な指標だとも言えないでしょう。環境変化がゼロか1かではなくて、0.1か0.9かが知りたい訳です。それで思い出したのが、環境指標としての「ダニ指標」です。ダニは、日本で知られて(分類されて)いるだけでも600種類以上はあるそうで、ダニはとりわけ土壌(表層)の環境変化に敏感で、僅かな変化、例えば平均温度や平均湿度、あるいはpHや有機物の割合などが影響を与えるでしょう。その一方、土壌の変化率は一般的に言えば緩慢である事も事実でしょう。土壌でも数センチの深さともなれば、気象の影響も平均化されて緩和されるからです。
その土壌に蠢くダニを採取して数と種類を分析すれば、環境の中期的変化が定量的に評価できそうに思うのです。しかし、大きな問題は地味なダニの研究者が、非常に少ない事でしょう。ダニの分類に熱心な昆虫学者は少ないながら存在するのでしょうが、ではそれがどの様な環境変化の指標になるのか、などという更に地味な研究を行っている人は、寡聞にして知りません。このでは、ダニ指標を考えてみましたが、更にいくつかの別の指標も考えてみる事にします。続きます。

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2019年4月 6日 (土)

3576  決算の重要性

出来るだけお金に関わらない様に生きてきたつもりの「お金の素人」としても気になる事があります。国会の予算員会は、それなりの頻度で中継されている様ですが、その中での予算の仕分けやカットもさることながら、より重要なのは実は決算の内容でしょう。この国の「最も悪しき風潮」は、たぶん喉元過ぎれば熱さを忘れて「水に流してしまう」ことではないかと疑っています。つまりは、過ぎ去った事をじっくりと反省することが少ないと思うのです。
予算だけを吟味しても、結局この国の基本制度は単年度予算制なので、予算執行開始(例えば7月頃)から、予算の締め(たぶん翌年の2月頃)までは、正味7-8か月しかない訳です。そのため、期末が近付くにつれて、「予実の帳尻合わせ」のために、余った予算を無理やり「消化」してしまう事が常態化しているのです。神様でもない限り、綿密で完璧な計画の下に予算案を作り、その予算通りに執行するのは多分大変な労力をかけたとしても困難でしょう。だからこそ、余った予算は余ったままとし、予算が足りない場合は工夫とやりくりで何とか乗り越える事が必要で、なおかつそれを決算段階でしっかり「反省」することが肝要なのです。
もちろん、帳簿上だけの数字を眺めていても、無駄使いや予算編成の抜けを見つけることは難しいでしょう。実際の予算執行を監視する組織こそが不可欠でしょう。これまでも、いわゆるオンブズマンと言うグループが、ローカルの自治体ではささやかに活動していた実態はある様ですが、国政レベルでは、千人あまりの少ない人数の「会計検査院」が、国と地方自治体の両方に、弱いながら睨みを効かしている程度です。問題は、この組織も所詮は「国の行政機関」であるという点で、役人が役人を監視しているという「甘さ=目こぼし」や人手不足による「抜け」が懸念されるところです。
であるならば、民間が別の組織を作って、予算執行の工事現場や予算のムダを、専門家の目でチェックできる様にすべきでしょう。民間の会計事務所は、たぶん春先は民間企業の決算で多忙でしょうが、それを過ぎると能力にも余裕が生まれるでしょうし、現場を良く知る専門家は、退職したベテランを探せば、人材には事欠かないでしょう。ベテランは、子孫に財政赤字のツケを回さない様に、税金の使いみちにもっと強い責任を感ずるべきなのです。野党は、彼らの実態により近い報告書を元に、税金の無駄使いを更に強く指摘できることになります。もちろん、この民間組織のささやかな活動費は、膨大な税金のムダの中から楽々捻出できる筈です。投稿者は、自営業なので、不十分なりに毎年の青色申告時に、ムダ使いへの反省を重ねてはいます。

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2019年4月 5日 (金)

3575 三大政党制?

マツリゴトにあまり興味はありませんが、最近の体たらくを見るにつけ、腹が立ち、やがて悲しくなってきます。少し前、M主党がまだ勢いがあった頃、二大政党制がクローズアップされた時代がありました。これは、たぶん議会制民主義のお手本であった、E国の議会を意識したものだった筈です。しかし、その御本家でさえ最近はEU離脱を巡って「決められない政治」を露呈してしまっているのです。
これを打開するためには、投稿者としては三大政党制を提唱したいところなのです。つまりこれは、議会にそれなりの勢力を持った政党が3つあり、その他の小さなグループがチラホラある、と言った状況を指します。大きな政党2つが手を結べば、過半数を取る事が出来、マツリゴトを決める事が出来るのがポイントと言えるでしょう。しかし、政策毎に手を繋ぐ相手が変れば、マツリゴトにも俄然緊張感が生まれる筈なのです。今の政局の様に、クジラの様にデカい政党があり、それにコバンザメの様な小政党がくっついている状況はやはり「異常」でしょう。かと言って、野党もまとまりが無く、細かく分裂している状況では、クジラの動きを変えることなど叶わないでしょう。
このクジラのエサはと言えばそれはもちろん「利権」です。票と利権の交換は、長くこの国のマツリゴトを汚してきた黒い歴史です。地元に大きな公共インフラを呼び込むなどが象徴的な利権誘導ですが、記憶に新しいところでは、教育産業や土地転がしやさらには外国人労働者の導入に関してまで利権が絡んでいるようです。マツリゴトの闇は一体何処まで深いのでしょうか。出るのはため息ばかりです。以上、元技術屋で今環境屋の短い愚痴でした。

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2019年4月 2日 (火)

3574 何をどう作るか2

必要なモノを必要な時に必要なだけ作るJITと言う考え方には賛同できますが、現実の世界ではそれはやはり理想に過ぎません。材料や部品が、必要なタイミングで必要量確保できるのであれば、その理想は成り立ちますが、現実にはそうはいかないでしょう。仕方なく、JITを目指すモノ造りでも、必ずどこかに「在庫」を置かなければならないのです。車に関して言えば、車体を形作る鋼板の在庫は、製鋼メーカーの工場のどこかに倉庫があるでしょうし、数日分の小さな倉庫は車メーカーも持っている筈です。一方で、部品の在庫はもちろん部品メーカーに押し付けられている事でしょう。車メーカーには部品在庫は置かないのが通常だからです。そのために、部品メーカーでは翌日に組立ラインで使われる部品は前日に発送しますが、そのトラック便は高速道路のSAで夜明けを待って(時間調整をして)始業前の車メーカーに滑り込む訳です。
そこまで考えると、やはり私たちは何らかの形で在庫を持つ必然性はありそうです。在庫を圧縮する方法はいくつか考えられますが、やはりサイクルタイムを適正化する方法が王道でしょう。1時間に10個しか出来ない部品メーカーと、同じ部品が同じ時間で100個作れる能力のメーカーがあったとして、毎日100個納品すると仮定すれば、前者は1日10時間稼働してやっと翌日分を発送できますが、後者は僅か1時間の設備稼働で1日分の出荷量が確保できる勘定です。
どちらがJITの理想に近いかを考えれば自明でしょう。車メーカーではその部品が使われる車種を、1日に100台生産している訳で、超自動化された最新の部品工場ではサイクルタイムが短すぎて設備余裕が大き過ぎるムダがあるのです。前者のやや古い工場は、実は今のJIT生産のサイクルタイムに同期していて、理想に近いのです。
その考え方を極限まで突き詰めたのが、「1個流し」でしょうか。車1台が組み立てられる間に、それに使われる部品1個を作れば全くの在庫のムダ無しに、生産が続くでしょう。問題は、部品や素材の輸送手段です。もちろん部品を1個ずつ個装して、バラバラのタイミングでトラック輸送するには多大な輸送エネルギーのムダが発生します。それを避けるには、部品を車メーカーのすぐ近くで生産するのが理想です。多数の部品を、下請けに分業させ、大量に作らせてそれを集める今のモノ造りは一見効率的な様でも実はムダが多い手法なのです。もし、組立工場内で部品を作るのが現実的ではないならば、車のデザインを変えて車をユニット化し、そのユニットをいくつかの企業が分担して生産させ、最後に車メーカーでそれを結合させれば良いのです。かくして、ほぼ理想的なJIT生産も実現に近づける訳です。ここでのK/Wとしては、「製品のユニット化の追求」と言うことになります。今後車のEV化が加速すれば、その実現はあっけない程容易でしょう。

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2019年4月 1日 (月)

3573  何をどう作るか

無責任な話ですが、現役をほぼ卒業し、頼まれ仕事を細々と引き受けている身の上でも、この国や世界の行く末をそれなりに案じて、このブログでも種々の提案を続けてきました。元生産現場にいた技術屋の端くれとしては、やはりこの国は何を作って・売って国を支えていくのだろうと言う点が心配でなりません。モノが不足していた時代は、何か便利で目新しいモノを作れば、片端から売れてきた時代もありました。それは、年号で言うなら先の大戦の戦後から続いた昭和の時代です。しかし、平成に入って少しして、いくつかの経済ショックと言う地震で、経済地盤が液状化現象を起こし、結果として地盤が引き締まってしまい、経済的な停滞期が未だに尾を引いている状況なのです。
昭和の時代に起こった大ショックと言えば、いわゆる二度のオイルショックでしたが、これはモノとしての石油の需給ひっ迫が引き起こしたショックでした。しかし、バブル崩壊やリーマンショックは、形の無い債権や架空のお金(や価値)への不信が引き起こした、精神的なショックであったとも言えるでしょう。つまり、イケイケドンドンの強気で木を登ってきた人々が、ふと下を見下ろした時の恐怖感(ビビリ)による「足のすくみ」が長い平成の停滞期に通底していた筈なのです。
しかし、どの様な時代でも人々の衣食住は不可欠でしょう。贅沢は戒められなければなりませんが、Minimul sufficient(必要最低限)は確保されなければなりません。
今後は、そのMinimul sufficientを元に、何をどの程度作らなければならないかを決める必要があるのでしょう。大量生産、大量消費時代の問題点は、生産態勢の「慣性」が非常に大きいので、需要に応じた柔軟な生産が出来ない事でしょう。そのため、素材や部品の在庫、更には製品の在庫を抱えて、いわば押し出し型の生産を余儀なくされたのです。それが、経済的に効率的だと信じられていたのです。しかし、今後は生産規模の最小ユニットが追求されるべき時代になったと言うのが投稿者の見方です。具体的に言えば、かつての家内工業が、いにしえの最小生産ユニットとすれば、製品が複雑化した現代では部品調達もある程度のまとまりが必要でしょうから、例えば月産数十~数百と言った生産数量が頭に浮かびます。いわゆる、中小企業が得意とする数量範囲です。完成車を買ってきて、ボンネットやフェンダーを自社デザインのものに付け替えて付加価値を付けて売るビジネスを考えた北陸のM岡自動車を思い浮かべています。続きます。

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2019年3月30日 (土)

3572  悪夢の再来

B社のベストセラー機の連続事故で思い出した事故例があります。それは、94年にK牧空港で起きたC華航空機事故です。この機体は、B社製ではなくAバス社製だったのですが。思い出した理由は、今回の連続事故もC華航空機の事故も、いずれも自動操縦装置(MCASまたは類似のシステム)とパイロット操作の「相反」の結果、機体の姿勢が異常に下げ、または上げの状態になって墜落に至ったという類似性なのです。水平尾翼は、翼後端についているいわゆる「エレベータ」と言う補助翼で機種上げ、または下げを操作できるほかに、翼の付け根自体に軸があって、水平尾翼の固定部分ごと回転する様にもなっているのです。水平尾翼全体の操作は、自動操縦装置と結びついている様で、これがMCASとパイロットの操作が相反する結果となっている様なのです。
B社の事故では、センサーが上昇角(仰角)が過大であると間違って検知し、結果として失速を防ぐために水平尾翼全体が機首下げの方向に動き、エレベータで必死に機首上げを操作したパイロットの意志に反して急激に機首を下げて地面に激突したのでした。一方C華航空機事故では、着陸態勢に入っていた同機が、パイロットの着陸操作をした際に、自動操縦のスイッチを切り忘れて、MCASが急激な機首上げを指示してしまい、同機はほぼ垂直に急上昇した後にキリモミ状態で地面に激突したのでした。
この2つに事故に共通するのは、パイロットと自動操縦装置の相反(喧嘩)であるという点です。つまり、自動操縦装置はパイロットの操作を支援するものに留めるべきであるのに、そうではなくて操作の相反を招いてしまったという点が、「悪夢の再来」と書いた所以なのです。MCASは、操作の相反を検知した場合は、自動操縦モードを解除し、パイロットの操作を優先すべきだったのです。今回の事故につながったB社のソフトウェアの誤設計は、C華航空機事故に学んでいなかったという点で厳しく糾弾されるべき事例だと言うしかないでしょう。

 

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2019年3月28日 (木)

3571  空飛ぶ車を嗤う

自動運転車の次は、空飛ぶ車だそうです。人間の欲望は一体何処まで膨らむのでしょうか。先日、出張で空の便を使いましたが、帰路は前線の影響で酷い乱気流に巻き込まれて寿命が少しばかり縮まってしまった様です。移動手段には、古くからある鉄道、その後急速に普及した車、20世紀に入ってからの発明である飛行機がありますが、その飛ぶ車とは翼の浮力に頼らない、それを飛ぶパーソナルな移動体という事になるのでしょうか。
しかし、鉄道を線路上といういわば1次元の自由度を持つ乗り物、車を広がりを持つ道路網を2次元の自由度を持って移動する乗り物、飛行機や空飛ぶ車を3次元の自由度を持つ乗り物、と単純には定義できないのは、リスクを考える上では、リスクを次元の自由度の累乗、つまりは鉄道のリスクの3乗程度という想定は明らかな間違いだと言うしかないのです。というのも、確かに空間の自由度は2次元から3次元への展開なのですが、それを飛ぶためにメーカーなり運航者がどれだけ神経をすり減らしているかを考えてみれば単純ではない事が理解できるでしょう。飛行機を運行するためには、単なる空路という空間の交通整理だけではなく、気象条件という人間にはコントロール出来ないファクターが最大のリスク要素となって立ちはだかるのです。
ベテランのパイロットであれば、気象の急変にもある程度は対処できるでしょう。しかし、積乱雲やダウンバーストや地形に伴う乱気流などに遭遇して、事故を起こしてしまった例は、数多存在する筈なのです。
それを、気象に関する知識も無く、3次元の操縦にも習熟していない素人ドライバーが、空飛ぶ車に乗り込むなど、まさに自殺行為以外の何者でもないでしょう。どうしても、空中に浮き上がりたいのであれば、数センチだけ浮き上がるホバークラフト型の車でも作れば良いのです。ホバークラフト型だと、構造上「ゴム製のスカート」が必要なので、衝突事故の際でも被害はかなり軽減できそうです。空飛ぶ車が、たとえ数メートルでも飛び上がる事が出来て、それが時速数十㎞の速度を出して移動すると仮定した場合、事故を起こした場合は、人命に関わる事故になるのは不可避でしょう。安全上からも、空飛ぶ車は絶対実用化されないと断言しておきます。砂漠や、海の上でレジャーととして遊ぶ分には、他人を巻き込まない範囲でなら自己責任でどうぞと言うしかありませんが・・・。

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2019年3月27日 (水)

3570  線路上の空間利用

渋谷に乗り入れているS部の本社ビル跡地の活用され、線路を跨いだ形で高層ビル建設されたと、小さなニュースになっていました。考えてみれば、線路も道路も交通量の増加に伴って、幾度となく拡幅され、鉄道と道路の締める日本の国土に占める面積は、たぶん数%にも達するのではないかと想像しています。しかし、その鉄道インフラや道路インフラの上の空間は、全くと言って良い程利用が進んでいないのも事実でしょう。道路に関して言えば、都市部では多くの地下埋設インフラが通っていますので、上空利用のために基礎工事を行うのはかなり困難かも知れません。しかし、鉄道に関して言えばその地下は殆ど利用されてはいない筈なのです。地震国の日本でもあり、このビルでも、鉄道を跨ぐ基礎部分と、上に載るビル部分との間に免震構造を入れて、大地震にも耐えうる仕組みにしている様です。
これが出来るならば、特に都市部では、鉄道インフラの上の膨大な面積を、種々の目的で活用するのは今後の国土利用の目玉に出来るのでないかと思っています。駅近くでは、線路の真上にビルを建てて、その中に商業施設と住宅を同居させれば、それこそ駅から徒歩0分の良質な住宅が供給できるでしょう。住宅に隣接した線路上空間には、ビルと同様に線路を跨ぐ基礎を作り、公園や運動施設にすれば、駅前商店街ではなく「車の入る事が出来ない」駅上商店街にする事も可能でしょう。この街では、人々は専ら徒歩で移動しますので、いわゆる車対人の交通事故は皆無になるのです。
人口の割に、狭い国土しか持たないこの国では、私たちは地震の発生を懸念しつつも、生活のインフラを立体的につくり込むしか方策が無いのです。これまでの開発と言えば、街の郊外の丘陵地を削り、それで海や谷を埋め立てた、軟弱地盤に一戸建ての住宅地が野放図に拡大するというパターンでした。しかし、上記の様に鉄道インフラの上に、強固な基礎をを築き、その上に免震構造を入れた人工地盤の上に街を作れば、来たるべき大地震での被害への懸念も大幅に軽減できる事でしょう。これは自分ながら、なかなか良いアイデアだと思うのですが・・・。

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2019年3月24日 (日)

3569  分断社会2

ここでは、都市と地方の分断について考えてみます。近年で都市と地方の分断が始まったのは、たぶん戦後の高度成長期だと見ています。つまり、大量生産・大量消費の社会の仕組みは、都市に人々が群れて暮らす方が、断然効率が良いからで、その流れの中で田舎の人口は、ドンドン都市に吸収されていったのでした。国の機関や金融機関はもちろん、大学などの教育機関や企業の本社も都市に集中していますから、都市への人口集中はますます加速していった訳です。
その流れに乗れなかった田舎は、川の中に取り残された洲の様に、オイテケボリとなってしまったのです。つまりは都市と田舎の分断は、流れに乗れたものと、置き去りにされたものとの間に生じたものだとも言えそうです。この(都市への)流れは、実はまだ止まってはいない様なのです。投稿者の住むA田県では、毎年1万人ずつ人口が減少していますが、一方東京都では増加が続いている様です。地方の人口減には、少子化と高齢化による自然減が主な理由ですが、それにしても3月末ともなれば、数千人規模で田舎を出る若者による流出源が止まりません。田舎には、彼らの十分な職の受皿が無いのがその理由です。
では人口の流れが止まるのを、(物騒な想像ですが)次の関東や東南海の大震災が起こるまで待たなければならないのでしょうか。確かにそれが起これば、人々は最早都市に住むのを諦めて、縁故を頼りに田舎に回帰せざるを得ないのでしょう。一度大震災が関東・東海を襲えば、地震の建物への直接的被害の他に、埋立地の地盤のいわゆる液状化により、地下埋設のインフラ(水道や下水など)は壊滅的な被害を受け、長く人が住めない状態が続く筈なのです。
今必要な対策は、都市人口を地方へ誘導する実質的な政策でしょう。ささやかな地方交付税程度ではなしに、都市と地方で税金に大きな傾斜を付けるのも良いかも知れませんし、都市型震災の怖さを声高に喧伝するのも効果がありそうです。いずれにしても、人々の心に「都市は全く住みにくいし、大災害の時には住み続けられないかも知れない」という感情を形成しなければならないのです。不謹慎ですが、あまり被害が大きくない「小震災」程度で泰平の眠りを貪っている都市を少しだけ揺さぶって欲しいものだと願っています。人口の流れが地方に還流すれば、都市と地方の分断も少しは緩和されるものと期待しています。

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2019年3月23日 (土)

3568 分断社会

近年のこの社会や世界のKWを上げるとすれば、それは多分分断でしょう。分断が起こる最大の要因は、たぶん二者択一という事になるのでしょう。都市か地方か、保守か反保守か、H野古埋め立てかそれに反対か、海外に目を転ずれば、Iスラムか反Iスラムか、EUに留まるのか離脱するのか、Tランプか反Tランプかといった、多くの国や社会で分断が起こっている様に見えるのです。二者択一という仕組みを良く考えてみると、投票による多数決という、一見民主的なプロセスが、皮肉にも分断の原因になっているという側面は見逃す事が出来ないでしょう。
つまり、AかBかという選択が、図らずもA派とB派の分断を生んでしまっているのです。EU離脱か残留かという国民投票に、もしどちらとも言えないという第3の選択肢を作っていたら、離脱派が過半数を取る事はなかったかも知れないのです。それでも、過半数に届いたのであれば、それは本当の多数決となるのでしょう。つまり、どちらとも言えない派の半分が、どちらかと言えば離脱賛成で残りがどちらかと言えば反対であったと仮定すれば、離脱賛成の気持ちが傾いていた人がが2/3程度に達することになる訳で、多数決の原則に沿った決定になったかも知れません。しかし、二者択一システムではたった1票の差で、重大な事項が決まってしまうかも知れないのです。
分断を回避する最良の方法は、A派とB派だけを作るのではなく、AB派あるいはC派も作るべきなのです。つまり二大政党は真の理想ではなく、三大政党かそれ以上の政治システムこそが理想と思えるのです。その中で、政策毎に連立を組む事が出来れば、分断によって賛成か反対かという噛み合わない議論ではなく、「ではどうするのが理想に近いか」という、実のある議論が出来る様に思うのです。A派もB派も第三勢力がどちらに与するかによって、自分たちの立場が良くも悪くもなる訳で、絶対多数に胡坐を組んで、何でもカンでも「閣議決定」や「大統領令」で物事を進める事が出来なくなるでしょう。そもそも、この国も彼の国も政治システムの設計が間違っていると断ずるしかありません。

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2019年3月21日 (木)

3567 変更点管理

前職で航空機産業に関わっていた事もあり、B国のB社の旅客機が引き起こした連続事故を心配しています。投稿者は、単なる元構造屋であり、その中でも一生産技術者でしかない立場で想像するだけですが、この事故は、たぶん変更点管理の問題に還元できるのでないかとみています。変更点とは、それまで作っていた製品に何らかの理由で、ある時点から変更を加えるポイントを指す言葉です。つまり、それまでとそれ以降の製品の間には明確な違いがあると言う意味なのです。
変更には、何か問題があってそれを修正するもの。車で言えば1)リコールがそれに当たりますが、その他にも2)市場価値を上げるための改良、3)製造コストを下げるための「カイゼン」などが考えられるでしょう。今回問題を起こした旅客機のケースは、2)に該当すると想像しています。つまり、これまでの機材に比べて燃費を向上し、パイロットにとっては自動化率を高めより操縦し易くする等、多くの改良を加えた機体だった筈です。
しかし、安全性を特に重視する旅客機の場合、実は一足飛びの改良には、大きなリスクも絡んでいる筈なのです。例えば、表面に現れない「潜在的不具合」が、確率の問題で何万回かの飛行でしか出現しない、稀なケースである場合が例示出来るでしょう。巷間噂される、仰角センサーの誤動作が原因であるにせよ、事故を起こすまでは誰もそれに注目することは無かった訳です。しかし、新型機になって操縦システムの自動化率が上がった事は事実であり、それはとりもなおさず重要な「変更」でもあった訳です。
B社が、新型機を競争相手であるA社に先駆けて、いち早く市場投入しようと焦り、確率的な不具合の発生(例えばセンサーの特性のバラつきやシステムのソフトウェアバグ)に思い至らなかったとすれば、それは明らかに変更点の管理が不十分であった、という誹りを甘んじて受けなければならないのです。車の不具合は、最悪でも動かなくなるだけなのでしょうが、旅客機の場合は一時に多くの人命が失われる事故につながる事を私たちは再度銘記すべきなのでしょう。

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2019年3月20日 (水)

3566 徒然に2

このブログも大分煮詰まってきた様な気がしています。思い返せば、十数年前になりますが、かなり早期にサラリーマンから脱皮し、「環境人間」目指した頃に投稿を始めた「環境ブログ」だったのですが、今はフリーランスとしての立場から振り返っても、脱皮は良い選択だったと思っています。この間、環境屋としての知識や実績もそれなりに積み上げては来ましたが、かといってそれが満足すべきレベルであったがどうかを問われると、忸怩たる思いも残ります。
このブログのゴールは、一応3,650題に置いています。つまり、毎日書き続けて丸10年分という事です。その間に、自分が考える高いレベルの実績が出せれば、突然満了を宣言するかも知れませんが、目の前の忙しさに紛れ、なかなか「それ」に取り組むまでには至っていないのが残念です。定年までサラリーマンを続けて、毎日が完全な日曜日になっていたらそれが達成できたのか、今でも時々夢想する事もありますが、それはあくまで「もしも~」の話でしかありません。
現在は、前職の関係で航空機関連の勉強会の講師、環境カウンセラーとしてのボランティア的な活動、企業の環境経営の審査、省エネルギーの指導、バイオマスエネルギーの普及活動、それと余暇の登山が仕事の様なものですが、もちろん自分の経験や知識が役に立つのであれば、ボランティア仕事であっても厭わず引き受けるつもりでいます。取り分け、Uターンした東北の町での人口減少や高齢化、地場産業の衰退にはココロを痛めていますので、ここに歯止めを掛ける活動には手弁当でも協力したいと思っています。毎日が日曜日になった時には、是非時間の100%を地域の活性化のために使おうと心に決めているこの頃です。その日が待ち遠しい・・・。

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2019年3月17日 (日)

3565 徒然に

ハシゴ酒ならぬハシゴ出張から戻って投稿再開です。さて何を書きましょうか。この1週間は出張でした。行先は、郡山と米子でした。いずれも前職である航空機関係だったのですが、実はあまり気の進まない仕事でした。というのも、この国の航空機産業の行く末にあまり期待をしていないからです。それどころか、行き先は暗いと思っているからなのです。航空機産業自体は、確かに10年分くらいの受注残を抱えて忙しく回っているのですが、一方この国では専らB国のB社の下請け仕事に黙々と取り組んでいるだけなのです。勿論、M社が国産リージョナルジェットのプロジェクトを立ち上げましたが、未だに一機も納入されていませんし、これまでの受注機数もかなりの低水準に留まっているのです。つまり、忙しくそうには振舞っていますが、航空機業界の実情は利益無き繁栄と言うしかない状態で推移していると言うしかないのです。

さて、常々感じている事ですが、この国の産業はこれまではブレる事の無い「プロダクトアウト」の姿勢から変わる事がなかったと分析しています。つまり、先ずは市場があって、そこのシェアを少しでも伸ばすために、コストを引き下げるために量産技術を磨き続けるという呪縛に支配されてきたと思うのです。そのためには、品質、コスト、納期(いわゆるQCD)で他社をリードできれば、シェアは後からついて来る式の経営で突き進んできた訳です。少し厳しい言葉で言えば、これはビジネスでも何でもない単なる猪突猛進経営と呼ぶしかないでしょう。航空機市場で言えば、狭い国土でありながら、それでなくとも旅客数の少ない地方県に、複数の空港を作ってしまい、日に数往復しか便を飛ばせない状況を作り出しているいるのはビジネスでも何でもなく、単なる行政の失策と断ずるしかないでしょう。

そうではなくて、ビジネスのスタートラインとは、真に市場が求めているニーズを把握すること、いわゆる「マーケットイン」の徹底)、更に踏み込んで言えばこれまでには無かった(見えなかった)潜在市場を掘り出す事だと思うのです。最近、地方のミニ新幹線の中でも、大きな荷物を抱えた外国人観光客を見かける様になり、奈良・京都の様な有名観光地ではない「ディープな地方観光」が盛んになってきている様です。外国人の家族連れや数人のグループが、ガイドも無しに田舎深くに足を運んでいるのです。彼らは、たぶんカネも暇もある富裕層ですから、列車やバス移動ではなく、地方の湖や大きな川の河口や波静かな湾を使った「水上飛行機便」は人気が出ると思うのです。しかし、その様なマーケットがこの国に出来る兆しは1ミリも感じられません。たぶん彼らは、今後もプロダクトアウトの「アリジゴク」の中で必死にもがき続けるのでしょう。

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2019年3月 7日 (木)

3564 地産地消

この表題では、それこそ何度となく投稿しましたが、改めてその重要性を記しておきます。地産地消は、最初は食糧に関して唱えられたと記憶しています。その土地で採れた、コメや野菜などの産物を、徒に長距離輸送せずに、その地域で消費する事によって、無駄な輸送や廃棄を減らそうとする無駄減らしの動きだった筈です。その後、この考え方はエネルギーの地産地消等にも拡大され現在に至っていると思っています。

モノにせよ、食糧にせよ、エネルギーにしたって、遠くに運んで使うに当たっては、輸送のためのエネルギーを消費するでしょうし、送電にしても大きな送電ロス(変電損失や送電線からのジュール熱としての損失)が避けられません。何より、運んだり送ったりする事によってモノや食糧や電力そのもの価値は1円だって増えないでしょう。これからの時代、大量生産、大量輸送、大量消費そして結果としての大量廃棄は、高度成長期の負の遺産と考えなければならない筈なのです。

では、地産地消に最も大切な仕組みは何だと言えるか考えてみます。投稿者は、それは小規模化、小型化、分散化だと思うのです。大規模化は一見、効率は高そうにも思えてしまいます。そのプラントや機器単体で考えれば、そうかも知れません。しかし、夜間や季節要因で負荷を下げたプラントの効率はガクンと下がりますし、何より輸送エネルギーや送電ロスをカウントしての、全体的なシステム効率は、小型のシステムと比較しても決して高いとは結論できなくなるのです。それどころか、例えば災害時などに大規模システムがダウンした時、そのシステムを利用しているユーザー全体が影響を受ける羽目にも陥るのです。

地産地消の基本である、小規模化、小型化、分散化のシステムは、上手く設計しさえすれば、効率の低下は限定的ですし、逆に輸送エネルギーが不要であること、災害に強い事などメリットも非常に大なのです。何より、地産地消はビジネスユニットが小さい結果、中小企業や小規模事業所、或いは個人にも手が出しやすい筈なのです。地方再生の切り札は、新しい事業の創出などではなく、産物やエネルギーなどの地産地消の追求であると思うのです。勿論、そのためにも地産地消に全く逆行する都市への人口集中はどうにかしなければなりませんが・・・。

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2019年3月 5日 (火)

3563 堂々巡り

何度も書くように、このブログは環境ブログであり、何にせよ批判を書くつもりはありません。しかしながら、国のマツリゴトの堂々巡りに関して言えば、市民の我慢の限度をかなり越しているので、ホンの少しだけですが書くことにします。問題の根源は、やはり同一政党の一人勝ちにあると言えるでしょう。いずれの局面(政局と呼ぶようですが)においても緊張感が見られないのです。カケ蕎麦、だったかモリ蕎麦だったかの追求ではかなり盛り上がった様な気もしますが、一つの国会が閉会すると、その話題もすっかり影を潜めてしまいました。まさにこの国のポピュラーな諺、人のウワサも75日が正鵠を得ている証左の様です。

国際情勢が流動化する中、この国の舵取りをどうするのか、喧々諤々の議論をしなければならない局面だと思うのですが、いわゆる閣議決定された「大盤振る舞い予算案」の重箱の隅をほじくるのが国会論議の中身なら、これほどの数の議員など全く不要だと断ずる事が出来そうです。最近読んでいる、N羽宇一朗の新書の中で、一介の元経営者でさえ国の将来を激しく憂えているのに・・・です。野党が為すべきは、先ずは反J民の旗印への結集でしょう。一政党に2/3の勢力を許している現状こそ強く反省すべきだと思うのです。

一方で、マツリゴトとは別に国の予算を2/3に圧縮するための方策と同時にこの国将来の青写真を作るための作業を、若者を含む有識者と政治家が汗をかいてまとめ上げるべきだとも思うのです。その中で国際的に尊敬される国になるための方向性も打ち出されて然るべきですし、そこに向けて子供や若い人達も希望を抱きながら行動を起こせる様にして貰いたいものです。いずれにしても、必要な動きは省庁の壁を取り払った、柔軟な横連携でしょう。それ無くしては、新しい何かを始めるには、現在の既得権者たちとのヒト、モノ、カネの取り合いに陥るからです。

国会の開催に掛かる費用は、議員の歳費を含めると、一日当り数億年にも上るそうですが、国のリーダー自ら発する品の無いヤジと与野党議員からの怒号など、一国民としてはあまりも情けなくてため息しか出ないのです。諦めが大半ですが、これからの世代のためにも愚痴をこぼさずには居られないのです。以上は、あくまでこのブログでご法度の批判ではなく、あくまで愚痴なのでした。

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2019年3月 4日 (月)

3562 中小企業にも手の届く技術

年間何度かの展示会を冷やかします。元々は修理屋、その後はモノ造り屋で今は環境屋・再エネ屋に変身したつもりなので、殆どの展示物に興味が湧きます。展示会での展示で感ずるのは、それらの多くが夫々に「大き過ぎる」という点でしょうか。使われている技術も複雑過ぎますし、実際の製品サイズ自体も大き過ぎると思うのです。つまりは、大型化や大規模化による高い効率を狙っての方向性が強すぎる様な気がします。

しかし、効率を云々する上で考えてみなければならないのは「部分負荷時の効率」でしょう。例えば、折角大きなサイズのバイオマス発電所を作ったとしても、夏冬や昼夜の負荷変動によって、ある時期や時間帯に2-3割程度の低負荷で運転せざるを得ない事もあるでしょう。全てのプラントは、例えば80-90%の負荷時に最大効率(例えば発電所の熱効率で言えば40%)が発揮できる様に設計されている筈ですから、2-3割程度の低負荷では、効率が大きく落ちてしまう羽目に陥るのです。

それを防ぐには、小さな規模のユニットを多数(複数)組み合わせて、部分負荷時には運転する台数を減ずるという方法が有効です。その意味では、メーカーにはユニットの最小サイズを見極めるという作業をお願いしたいのです。つまり、実用的(経済的)に実現可能な最小サイズは一体どの様な大きさになるのかの見極めです。例えば、バイオマス発電ですが、大型のものは例えば数千キロワットの出力を持つものが普通ですが、経済的に運転可能な数kwから数十kw程度のユニットが開発可能であれば、1台を使った家庭用から10台位を組み合わせた企業の自家発電所までカバーが可能となるのです。現状はと言えば、大規模な木材加工場では、廃材を活用した部分的な自家発電と熱併給システムが実用化されてはいますが、プラント価格が高い方の数億円に上りますので、多額の公的補助金に頼らなければ、経済的には成り立たないプラント設計となっているのです。

大量生産によって、小型プラントの価格を下げて、台数を徐々に増やしながら必要な台数の導入が可能となる枠組みが是非必要でしょう。その結果、夫々の技術が「中小企業にも手が届く技術」となり、この国全体としても技術力の底上げが可能となると思うのです。中小企業が、部品の下請けに留まっている限り、この国の産業の未来は暗澹たるものになるでしょう。

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2019年3月 1日 (金)

3561 取引

B国とNK国の話し合いが物別れに終わった様です。B国のリーダーは、取引の専門家の様ですが、そもそも取引とは何なのか、彼はあまりご存知ではなさそうです。取引とは、価値と価値との「等価交換」を指す言葉です。彼がこれまで磨いてきたのは、たぶん不動産価値とお金の交換などが主なものだったでしょうから、その駆け引きには熟達していたかも知れません。つまり、取引で得た価値の多くは、その後値上がりしたのでしょうから、その結果彼は億万長者になれたわけです。しかし、国際交渉に当たっても、取引が成立する条件はやはり「等価交換」ですから、何処から見ても交換する価値がほぼ同じである事が求めらます。事前の話し合い(Negotiation)は、交換する価値が等価であるかどうかの確認の詰めなのですが、モノとお金の交換ならまだしも、安全保障と人道支援などと言う、見えないものと見えるモノとの交換などは、普通に考えても容易である筈はないのです。

さて、当事者同士の話し合いがつかないのであれば、仲介者(Mediator)を間に立てるのが得策でしょう。勿論その仲介者は、両者に全く利害を持たない人(国)である必要があります。その意味で、この国やC国はその任には適さないでしょう。利害がある場合には、公平な価値判断を邪魔するからです。さて、安全の価値と例えば人道援助額と言った価値は比較できるのでしょうか。安全保障にはコストが掛かります。もし、仮想敵国などが全く無いのであれば、防衛費はゼロに出来る筈です。必要なのは、災害時の緊急出動程度でしょうから、名前さえ今のJ衛隊ではなく、災害救助隊などに変えた方が良いでしょう。その安全のためのコストと経済援助額を考えれば、当然後者が小さいのは自明でしょう。高価な武器に比べれば、食糧や生活物資などの価値など著しく低いからです。

国々の間を忙しく動き回り、互いの緊張感を解く人物や国の存在が、今ほど求められている時代は無いでしょう。北の国は、絶対に迎撃出来ないミサイルを開発していると宣言していますし、中東やアジアでは、戦闘もどきも頻発しています。C国の覇権は、近隣諸国を脅かしていますし、B国は最早世界の警察官の役割を放棄しています。真のノーベル平和賞に値するのは、この様な緊張を解くための知恵と交渉力を持った人や国や団体の筈なのです。悲惨な被爆に見舞われ惨めな敗戦を経験し加えて近年の震災や原発事故まで経験した、この国こそ永世中立を宣言し、世界のMediatorになる資格を全て持っていたにも関わらず、その意味での戦後の向かうべき方向を間違えたと言うしかありません。なにしろ諸外国から「B国の金魚のフン」に喩えられる様な国になってしまった訳ですから・・・。喩えがあまりに適切過ぎて笑うに笑えません。

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2019年2月26日 (火)

3560 WBGT計

仕事先で省エネの相談を受けたので、冷暖房に関して輻射温度について少し解説しておきます。温度と聞くと、先ず普通の温度計が示すいわゆる「気温」が思い当たるでしょう。気温は、空気分子が熱振動の度合いを示す指標だと定義できます。勿論、固体や液体であっても絶対零度以上になれば、振動していますので、温度計で温度を計測する事が出来ます。当然の事ながら、普通の棒温度計で計測できる温度範囲は限られてしまいますので、高い(低い)温度は例えば「熱電対」式の温度計でないと計測は出来ないでしょう。

一方、輻射温度という概念もあります。つまり、絶対零度以上の物質は全て熱振動をしていますので、その温度に対応した波長の赤外線を放射している事は、日頃はあまり意識されません。日常でそれを感ずる事が出来る例として、焚火や薪ストーブなどに近づいて手をかざすと、何かしら暖かさ(熱さ)が実感できるでしょう。つまり、これは手のひらにある赤外線センサー(温点とも呼びますが)が、焚火やストーブから発せられる赤外線を感知しているからに他なりません。

人間の暑さ、寒さという感覚は、結局皮膚の表面にあるセンサーから、赤外線が入ってくるか、或いは逃げるのかによって決まってくるといえるでしょう。前者の場合暑さを感じ、後者の場合に寒さを感ずる訳です。その意味で衣服には、体に地番近い肌着の温度が一番近い物質の輻射温度になるため、その温度が体温に近く保つ機能があるのです。

さて、人間のいわゆる体感温度は、気温とこの輻射温度を足して2で割った値になると言われています。つまり、気温が30℃になっても、部屋を冷房して壁や床の温度が20℃に下がっていれば、冷房を切ったとしても体感温度は25℃となる筈なのです。WBGT計(輻射温度計)とはその輻射温度を計るための計器なのです。

結局冷暖房の本質は、寒い時に如何にして体から壁や窓を通して逃げる輻射熱を遮断するか、或いは暑い時に、如何にして体から出る輻射熱を放散させるかに掛かっていると言えるでしょう。その意味で、冬にはしっかりした断熱窓にして壁や床の表面の温度を例えば30℃前後に保つ暖房が、夏には壁や天井の温度の表面温度を15-6℃程度に保つ冷房が理想だと言えるでしょう。今主流のエアコンは、冬は部屋の空気を50℃以上の熱交換器に通して暖め、或いは夏には5-6℃に冷やされた熱交換器に空気を通して冷房する、非常に効率の悪い方法だと言えるでしょう。冷暖房の熱源としては、冬は太陽熱で得られるぬるい温水、夏は井戸水程度の少し冷たい水で十分なのです。結局私たちは、冷暖房で随分エネルギーを浪費しているのだ、と言えるでしょう。

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2019年2月25日 (月)

3559 なげる

ここ秋田を含め、かなりの地域ではモノを捨てる事を「なげる」と言います。投げ捨てる、投棄するにも投げるが含まれますので、語源は同じでしょう。さて、時間があれば堤防道路を散歩しますが、雪解の季節になると土手に投げられたモノ=ごみが目ってきます。多くは、空き缶や瓶やPETボトルなどですが、中には長靴や鍋など大きなゴミも含まれています。興味深いのは、その多くが土手のかなり下まで、散乱している事で、つまりは捨てた人は、足元ではなく出来るだけ遠くに放り投げた事になります。人は、不要なモノを出来るだけ遠くに放り投げ、自分の目には見えない(見えにくい)所に捨てがちな動物の様です。

ごみは、持ち主にとって不要になったものを捨て去る事によって生まれます。よくテレビで、モノを捨てられない人が取り上げられますが、それを指して「ごみ屋敷」などと呼ぶようですが、一面ではそれらの部屋の主は環境を汚さない殊勝な人達だとも言えるかも知れません。しかし、ごみを「適正」に処理したとしても、そのモノ(物質)が雲散霧消し消えて無くなる訳ではないでしょう。それらは、集められて燃やされるか、燃えないモノであればゴムシートを敷いた「管理型処分場」に埋め立てられる運命にあるからです。たとえ燃やされたとしても、ごみを構成していた物質は熱分解されて二酸化炭素や二酸化窒素などのガスになって大気に拡散し、灰分は灰となってやはり処分場に埋め立てられる事になります。つまり、ごみを燃やすという行為は、ごみの嵩を減らすための「減容」に過ぎない訳です。

ヒトは、自分の目に入らない(見えない)モノは「存在しない」と見做す様で、ごみをなげたり、焼却してしまうと、それらの存在を完全に忘れてしまう様なのです。その証拠に、温暖化に歯止めを掛けようと毎日の様に国際的なキャンペーンを打つ一方、日々電力を使い、車を転がし、大量にモノを生産・輸送・消費・廃棄を繰り返しているのです。このブログでも、繰り返しこの事に警鐘を鳴らし続けてはいるのですが、残念ながら歯止めが掛かる兆候は全く感じられません。次の世界的な「オイルショック」が必要なのかも知れません。以上、堤防の土手のごみからの連想でした。

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2019年2月21日 (木)

3558 統計のウソ2

3557の続きです。政府が公開する統計データには、継続性が求められます。もし、サンプリングデータが入れ代わった場合、処理した結果には何らかの「段差」が生じて違和感が出てくるはずです。その違和感が、政府(時のリーダー)に有利なものであればたぶんそのままパスされるかも知れませんが、もしそれがネガティブな結果であれば、リーダー(達)はお役人に命じて、恰好がつくように補正(補悪?)させるでしょう。勿論、それを書いたもので指示する様なポカミスはしない筈ですので、然るべきレベルのチャンネルを通じて「口頭で」指示されるでしょう。

もっとも、お役人としてもそのまま出せば上司に「叱られる」様な分析結果をそのまま報告する筈もなく、それなりの理窟をこねた上で、前回のデータと辻褄を合せる様に、(都合の良いデータに)修正せざるを得ないでしょう。いわゆる「忖度統計」です。かくして、この国の統計データには、間違いなく為政者に都合よく脚色されたものが公表されるという悪しき伝統が根付いたと想像しています。

しかしながら、統計データのウソを見抜くのは簡単ではありません。現実的なチェック方法としては、別の複数の統計データを突き合わせる事でしょうか。異なるサプリングの母集団を用いて、異なる手法でデータを処理した結果が3つ以上存在すれば、より数字の近い2つが真実に近いと思われますし、3つの平均を取る事も良い方法かも知れません。いずれにしても、統計はあくまで統計であって、決して真実ではない事は改めて銘記すべきでしょう。ましてや、それを自分の手柄にしようとあがく政治家が統計データをチラつかせる場合には、大いに疑って掛かるべきでしょう。統計学は、全く地味な学問であり、それを専門にする人達も少ない事も、統計の素人がだまされ易い原因にもなっている様です。残念ながら投稿者も、学生時代は統計の授業が大嫌いだった統計素人の一人ですが・・・。今回も、どうやら為政者側がお役人に指示して、統計結果に手を加えさせたらしいのですが、言葉を失います。

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2019年2月19日 (火)

3557 統計のウソ

ラジオから流れてくる、聞くともなく聞いている統計国会で、答弁する側の歯切れが悪いのは、統計というものはそもそもウソをつく道具である事から来るものだと見ています。統計でウソをつくのは簡単です。先ずはサンプリングのウソです。悉皆調査には、非常な手間暇が掛かるので、通常はサンプリングでデータを集めます。この際、「都合の良い集団」のデータを集めれば、統計データを良くしたいと目論む輩には、都合の良い結果が期待できるでしょう。逆の結果が欲しければ、サンプリング集団を変えるだけで、操作が可能です。

一方で、サンプリングデータを集計・分析する論理(ロジック)にも注目すべきでしょう。つまり統計は、あくまで推計であり事実ではない訳ですから、結論を出すためには何らかの数字の操作が必要です。多くの場合は、データ処理のためのロジックに基づいた論理式を使って分析結果を導くのですが、そこに何らかの「係数」を持ち込めば、論理式で導かれる結果もかなりの程度操作が可能となる事でしょう。

この他、統計には内挿や外挿といった様な、過去データからの推計値も使われるので、統計データを使えば統計の専門家でもない庶民をだますのは、赤子の手をひねる様なものでしょう。残念ながら、統計データの公開に当たっては詳しいサンプリング集団や推計式がガラス張りに公開される事は殆ど無く、役所の密室の中でしかそれを確認する事は出来ません。つまり、庶民は統計の結果を鵜呑みにするしかないのです。統計結果に接する時には、眉に唾をべったり塗って掛かる必要があるでしょう。今日は短く。

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2019年2月16日 (土)

3556 北極振動

太平洋を隔てた隣国のリーダーが、強烈な寒波を引き合いに「ほら見たことか、地球温暖化なんてフェイクニュースだ。」と言ったとか言わなかったとか。これは彼が、如何に物事を深く考えては居らず刹那的なコメントする人物かの証左でしょう。寒波は、北極気団を包み込む気流(ジェット気流)の凸凹の張り出しによって齎されるという事実は古くから知られています。勿論、冬期にその気団が強い場合には、ジェット気流も強く従って、ある緯度以北は非常に強い空気に覆われ、ジェット気流以南は比較的温暖な冬となる筈です。

しかしながら、温暖化によって夏場の北極海の浮氷の多くが消失し、太陽光によって海水が暖められ、冬場の寒気団が弱まります。その寒気の吹き出しが、コリオリの力によって西風のジェット気流になるのですが、寒気団が弱いとその気流も弱まり、結果として蛇行が始まる訳です。今回の寒波の様に、蛇行が酷くなると最早蛇行とも言えず、北米と東アジアに二分化され、寒波が低い緯度まで下りてきたのでした。

これを冬場に見られる温暖化の影響と言わず何をそう呼ぶのでしょうか。その証明は、毎年の夏場の集中豪雨の多発や、逆に別の地域の酷い旱魃被害のニュースを眺めるだけで十分でしょう。長期的な、平均気温の上昇トレンドも雄弁ですが、百年単位での1℃程度の上昇の影響は、一見穏やかな変化と見られがちです。しかし、投稿者としては温暖化は、ある閾値を超えると、途端に気象の激変となって牙を剥くのだ、と思っているのです。気象の激変とは、冬場には一見温暖な気象でありながら、時として数十年に一度の寒波が来襲するとか、夏場に平均以上に暑い日々が続き、時としてこれも数十年に一度の嵐や豪雨に襲われる、という近年の傾向を意味します。一方で、米国や豪州やブラジルやユーラシア大陸の、海洋から距離のある内陸の穀倉地帯は酷い旱魃に襲われる頻度が高まる結果にもつながるのです。

まったく、50年後100年後の子孫の暮らしは、一体どうなる事やら、戦後の高度成長期を通じて温暖化傾向の原因を作ってしまった世代の一人としては、ココロの痛みが続きます。

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2019年2月10日 (日)

3555 どう作るかより何を作るか

前職の関係もあり、頼まれれば航空機関係のモノ造りのノウハウを教える機会があります。その際、何時も感ずるのは、どう作るかより先ずは「何を作り、誰に、どう売るか」を考えなければならないという点です。たった、今は確かに国を跨ぐ観光客も多く(というより多過ぎます)押し寄せて、航空旅客数も伸びてはいるでしょう。しかし、既に飽和状態のインバウンド観光客数が、更に伸びて4000万人になる姿は想像できませんし、何より来年の五輪でピークを打つ事は、素人が考えても明らかでしょう。

一方で、手軽で安いバスツアーに客を取られて、地方空港には閑古鳥が声高に啼いています。つまり、今更航空機関係の下請け仕事を狙ったところで、人材を育成し、設備投資が終わった頃には、需要そのものが下火になっている可能性が髙いのです。なので、投稿者の立場では、この分野に参加を画策する企業の背中を押すには、かなりの躊躇があるのです。

では何を作るかですが、それはこのブログでも何度も書いている、再生可能型エネルギーに関連する技術を磨くしかないと思うのです。石油や電力は、エネルギー自体の密度が非常に高いので、使うにはそれほど難しい技術は要らないのです。古い技術である、内燃機関や外燃機関或いは電気モーターの技術を磨けば何とかなるでしょう。後はコストの問題が残っているだけでしょう。しかし、再エネは違います。賦存する原料、太陽光や水力や風力やバイオマスなどの密度が元々低い上に、エネルギー利用効率そのものが低いからです。

しかし、知恵を使えばそれをカバーする技術は多く存在するのです。一番有効なのは、エネルギーの多段階利用(カスケード利用)だといえます。つまり、太陽光を太陽光発電「だけ」で利用せず、太陽熱利用即ち植物栽培促進、暖房、給湯などエネルギーのポテンシャルに応じて、多段階で利用すれば、各ステージの効率の足し算になるので、システム全体としてのエネルギー効率は十分に高く出来るのです。しかし、実際にこのシステムを形にするには、かなりチャレンジングな技術やモノ造りが求められるのも間違いないでしょう。各企業は、今こそその技術を磨くべき時でしょう。航空機は、既に過去(20世紀)の技術でしかない、と切り捨てておきます。

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2019年2月 3日 (日)

3554 万物斉同

やや難しそうな表題です。これは荘子の説く、「道から見れば、万物は等価である」という教えの一つです。浅学でもあり、そもそも、荘子の言う「道」なる概念を理解するのも難しいのですが、単純な頭の投稿者は、それを「真実」と言い換えて理解しています。本当はもっと広く、深い意味があるのでしょうが、それは理解を超えるので諦めます。

さて、真実は一つである事は、たぶん間違いのない「事実」なのでしょうが、世に複数の(或いは数えきれないほどの数の)宗教が存在し、数えきれないほどの神様が崇められているという事実は、一体何を物語るのでしょうか。それは、同じタイトルのニュースなのに、それを報ずる立場によって、全く意味が異なるという事に似ているのでしょうか。それは、とりもなおさず道=真実(と信じれらていること)が、人や民族や宗教によって異なるという事を意味するのでしょうか。その問いに対する投稿者の見方はYESです。人々がその集団の中で信ずる「真実らしきもの」と、絶対無比の「真実」とはきっと異なるものなのでしょう。

では、何が真実で何が事実なのかという問には、たぶん人類は永遠に答えられない様な気がするのです。そうでなければ、何千年にも及ぶ宗教間の軋轢や利害の対立が背景にある、戦争や紛争が無くならない歴史の説明が出来ないのです。どうやら、私たちは荘子の様な賢者の再登場を期待するしかないのかも知れません。是非その賢者には高い立場から、この世界を眺めてもらい、公平な目でコトの善悪を判定して貰いたいのです。しかしながら、「古典的な賢者」の目は、現代社会を眺める上でもヒントにはなり得るのでしょうが、そのまま現代社会に当てはめる事にはかなりの無理がありそうです。現代には、現代の賢者が必要だとも思うのです。その現代の賢者の出現までは、たぶん「百年河清を待つ」事になるのかも知れませんが・・・。

今日から、長期の出張のため、10日ほど休稿です。世の中には何の支障もありませんが・・・。

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2019年2月 1日 (金)

3553 ゼロサムゲーム

ゼロサムゲームとは、ゲームで勝ち負けを合算して均せば、プラスマイナスゼロになっているゲームを指します。ゲームでは、誰かが勝ち、誰かが負けますが、地球全体で見た経済(ゲーム)もあまり変わりがないでしょう。特に、株や債権の様な「権利」としての価値は、誰かが儲ければ、誰かが損を蒙る様になっている筈です。それでも、経済規模が拡大するのは、誰かが最初に地中から資源を掘り出すか、又は土壌+水+太陽光(+肥料+農薬)を利用して作物を育てるなどの活動の結果、地上にある資産が増えているためなのです。

一次産品を加工する人、それを運ぶ人、売る人、取引に必要なお金を印刷して、それを扱う人、それを買って2次加工したり、消費したりする人、その結果出た廃棄物を処理する人などが関わって経済という仕組みが出来上がっていますが、この仕組みの中で全ての人が何らかの利益を得て、毎日のオマンマにありつき、誰も損をしていないと仮定した場合、結局損をしているのは、資源を略奪され、廃棄物の捨て場所になっている地球(環境)だけだと言う変な結論になってしまいます。

現実は、かなり異なるでしょう。資源をコントロールできる立場の(特に先進国のメジャーと呼ばれる企業や資源国の特権階級)の手元には、使い切れないほどの資産(モノを買う権利)が集まっている事でしょう。一方で、資源の草刈り場にされてしまっている途上国や資源すら持たない国々とそこで暮らす人々には、全く不十分な分け前しか与えられていないのです。これは、悲しい不平等というしかないでしょう。貧しい国々では、食糧生産を抑えてでも先進国に売れる「換金作物」を育てるか、或いは先進国に出稼ぎに出るか、或いは安い賃金で軽工業と呼ばれる産業、衣料など先進国への輸出商品を作るか、さもなくば喰うや喰わずの生活に耐えるかといった選択肢しか残されていないのです。更に悲しいのは、途上国の産業は多くの場合先進国の資本で興され、利益の多くが先進国に持ち去られている言う事実でしょう。

結局、地球が蒙る損(環境負荷)を除けば、世界の経済は人口増加程度しか拡大していないゼロサムゲームであるにも関わらず、勝者(Winner)と敗者(Loser)の格差は、日々拡大し続けている様なのです。これに歯止めを掛ける知恵を、まだ人類として発明出来ていないのが残念至極です。

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2019年1月30日 (水)

3552 ポジティブキャンペーン

都合の良い点だけ並べて、自社の製品が特に優れている様にCFなどを展開する行為をポジティブキャンペーンを呼びますが、これは何も商品宣伝に限った話ではないでしょう。勿論、自社製品の欠点などは、もしあったとしてもひた隠しするでしょうから、表に出る事などないのです。外交に関するニュースでは、夫々の国から発信されるのは全てこれに該当するでしょう。外交交渉で、もし自国に少しでも不利な合意内容なら、野党や国民に総スカンを食ってしまうからです。

しかし、考えてみなければならないのは、ポジティブキャンペーンの裏側でしょう。欠点を隠して打つキャンペーンですから、それを裏返せば欠点がボロボロと出てきても不思議ではありません。新車のキャンペーンでは、その車の良い点を並べ立てますが、その裏には欠陥ギリギリの品質隠しがあったりもするのです。隠しきれなくなった欠陥だけが、リコールとして届け出られ、公表されるのでしょう。

一方、政治に世界ではどうでしょう。間違った発言や不適切発言などがあっても、表面面だけの謝罪会見でチョンにしてしまうケースが圧倒的でしょう。もし、政治家の存在価値が彼(又は彼女)の考えとその行動≒発言にあるとするなら、その失言は致命的だとも言えるでしょう。人は、言い違えを除けば、自分の考えている事以外は言葉に出来ない筈だからです。もし、その発言が無知に基づくものであれば、それこそ政治家を辞めるほど自分を恥じなければならないのです。またゾロ国会が始まり、この国のリーダーが最も得意とするポジティブキャンペーンと揚げ足取りの野党の追及、のらりくらりとした答弁の応酬になると思うと、気が重くなるは投稿者だけではないでしょう。やれやれです。

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2019年1月28日 (月)

3551 バイアス

何にせよ物事を考えたり、判断したりする際にはバイアス(偏向、偏見)は避けたいところです。そのためには、是非広い視野を持ちたいものです。広い視野があると、物事を多面的に捉える事も可能になる筈なのです。物事には、正面からの見方の他、裏から見た場合、或いは左右の側面から見た場合など、いくつかの(或いは多くの)見方が存在するでしょう。取り分け、人種や宗教が異なる人々の間では、そもそも物事を見る立ち位置が全く異なる事さえありふれているでしょう。そうでなければ、たった一人であるべき一神教の神が複数存在し、しかも同じ神を奉る宗教にさえ、多くの「宗派」が存在することの説明がつきません。勿論、自然発生的に生じたと思われる、この国の伝統的な宗教?では、全ての自然物に神が宿るといった様な多神教の地域も多いのでしょう。

さてバイアスです。例えば、私たちが日々見聞きするニュースでさえ、多くのバイアスを抱えながら報道されています。そのバイアスは、記者の思い込みやそのニュースを取捨選択するデスクの思い込み、ひいてはその局の報道責任者のバイアスによって生ずるのですが、時にはお上?からの「天の声」によって、報道そのものが消されたり、捻じ曲げられる事もあるかも知れません。しかし、そのニュースを受け取る側に広い視野さえあれば、それを冷静に受け取れる筈なのです。同じニュースであれば、異なる国のニュースにも注目し、ニュアンスの違いを理解するとか、或いはニュースを自分が持つ価値観のフィルターに掛けるなどの方法でより真実に近いものに近づける訳です。

取り分け、経済や政治に関するニュースには留意が必要でしょう。公共放送局は、当然の事ながら受信料という名の税金が使われ、政治の管理を受けているでしょうし、民放であればスポンサーのご意向が番組内容にさえ影響を与えずには置かないでしょう。はなはだしい例は、海を隔てた大国の例でしょうか。あの国では、全てのニュースを「フェイク」として疑わなければならない様ですし、お隣の大国では、ニュースそのものが100%お国によって管理されてもいるのです。そんな世の中で、信じられるのは自分の常識や価値観だけの様ですが、繰り返しますがその常識や価値観さえ、何らかのバイアスに支配されていないか、折々にセルフチェックしてみる必要がある事は銘記すべきでしょう。自戒を込めて・・・。

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2019年1月26日 (土)

3550 リーダーシップ

リーダーシップについて少し考えてみます。よく国のリーダーがニュースになったり、話題になりますが、人柄や行動が取り沙汰されても、その資質について議論される事は少ない様に感じています。取り分け、この国においては氏や家柄が重視されている様で、いわゆる2世議員が、他の2世議員に担がれて、リーダーの椅子に座ってしまう例も多いのです。そもそも、政治家を志す人は、その資質を備えていなければならないでしょう。高度成長期に、所得倍増を御旗に掲げる政治家や、或いは列島改造を掲げてブルドーザの様に突っ走った政治家は、ある意味時代が求めたリーダーだったと振り返っています。

しかし、経済の停滞期に入って以降、この国には時代にマッチしたリーダーは、残念ながら現れていないと思うのです。ある意味、山に登るのは簡単な事かも知れません。ひたすら汗をかいて、標高を稼いでいけば良いからです。しかし、経済の停滞期や後退期には異なるアプローチが必要でしょう。山の例えで言えば、それはさながら見通しの効かないガスに巻かれたか、或いは天候が悪化して移動が難しくなった事態に似ていると思うからです。その意味で、登り(成長期)のリーダーは誰でも務まるとも言えます。やるべき事は、パーティの先頭に立って、頑張れと鼓舞するだけで済むからです。

しかし、見通しが効かない時代のリーダーに求められる資質は全く異なります。正確な地図(未来の設計図)と正確なコンパス(事態の把握)及び気象予報(将来の正確な予測)が出来る並外れた資質が求められるからです。今のリーダーの様に、達成できないインフレターゲットを示し、景気を鼓舞する政策(とも言えない政策ですが)だけで、この国の経営が上手く行くなどと言い続けているリーダーには、これらの資質が全く欠落していると断ぜざるを得ないのです。

そうではなくて、リーダーに求められるのは、先ずは将来の青写真を描いて、それを提示することなのです。この国は、世界でどの様な立ち位置を取り、そのために国民はどの様に行動する事が求められるのかを示す必要があるのです。ヨーロッパのいくつかの国々では、十分ではありませんがそれが出来ているリーダーが出ているのですから全くの夢物語でもないでしょう。勿論、その様なリーダーが出る土壌を国民が醸し出す事も、重要な事は指摘するまでもないでしょう。これが一番難しい事かも知れませんが・・・。

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2019年1月20日 (日)

3549 経済症候群

経済症候群とは、利益(金勘定)や株価などのいわゆる景気指標に敏感過ぎる風潮を揶揄した表題で、辞書にそういう言葉が載っている訳ではありません。さて経済症候群です。世の中が、モノの生産・流通とその逆方向に動くカネの動き、即ち経済システムで動いているのは間違いないでしょう。しかし、これだけで世の中を全て説明しようとする輩には全く賛成出来かねます。社会をヒトの体に例えてみればすぐ分かる筈です。ヒトが食糧を食べ、消化・吸収し、それで体の中に血液やリンパを巡らし、体細胞や骨などをリフレッシュさせたり、活動のエネルギー源としつつ、体が要らないものは排泄するという活動が「生体システム」です。しかし、それで生き物ととしてのヒトの活動が説明出来たとしても、人間が説明できる訳ではありません。人間には、加えて健全な精神活動も必須だからです。むしろ、それこそ生体活動の上位に来る活動であるとも言えるでしょう。

経済学者や企業経営者は、確かに経済活動を説明できるスペシャリストではあるのでしょう。しかし、彼らに今の社会に内在する「病理」を説明する事は望めません。つまり、全てをモノの価値(=カネ)に還元する、数式に表す事が出来る様な経済システムは説明出来ても、例えば「ココロある経済活動」などと言うものは、説明する言葉さえ持たないと想像しています。だから、現代の(経済優先)社会は病んでいると見るしかないと思うのです。現代の社会では、社会を主導している人達は、生体活動で言えば血液の流れしか見ていない様に思えます。だから、経済活動の結果不要なモノ(廃棄物)が違法に(或いは合法であっても)、勝手に環境中に捨てられても無関心で居られるし、体で言えばリンパに当たる目に見えない流れは無視しますし、増してや社会を構成している個々人の心の中などはスッパリと無視してしまうのです。

上の例えで、リンパと書いたのは、実例を挙げれば経済活動の外のモノや価値の流れを指します。食糧してのコメを市場で買えば経済活動ですが、縁故米にはお金は介在しません。同様に、物々交換をしても経済指標には一切現れないのです。

さて、経済症候群の病理です。お金(血流)に換算できないモノや活動を無視する訳ですから、社会の構造(骨格や細胞)或いは神経、増してや神経や脳の健康(民心)などは無視してしまう訳ですから、たとえそこに病魔が隠れていても、見過ごされてしまうでしょう。必要なのは、血流データだけではない、神経の通った経済システムでしょう。今流行のAIがそれを可能にするかどうかは、浅学にして予測できませんが、上手く使えばAIが(社会の)神経の一部或いは脳の一部になる可能性はあるのでしょう。しかし、AIを金儲けの手段に貶めれば、その可能性は潰えてしまうのです。社会の「総合診療医」が必要な所以です。

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2019年1月14日 (月)

3548 メガ発電なんか〇〇喰らえ

人々は、いわゆるスケールメリットを強調しがちです。例えば、大量生産によるコスト削減や大規模発電所の建設による電力単価の引き下げなどが例示されるでしょう。しかし、考えてみれば大量に生産した場合、それを大量に消費する必要もあるでしょう。また大規模システムは、小回りが利かない(いわゆる慣性が大きい)ため、デマンドの拡大縮小に対応できず、結局大量の在庫で対応するしか良い方法が見つからないのです。Tヨタのカンバン方式は、いわゆる「引っ張り生産」システムだと言い張ってはいますが、生産在庫は部品メーカーの倉庫、或いは高速道路上を走っているか時間調整でSAに駐車しているトラックの荷台にあるでしょうし、完成車の在庫は工場に近い巨大なパーキングロットに溜まっているでしょう。

では、メガソーラー発電はどうでしょう。電力は、使い易い便利なエネルギー源ではありますが、一方でバッテリーなどの蓄電設備にストックしない場合、発電した瞬間に消費してしまわなければならない厄介なエネルギーでもあります。それらの全体電力に占める割合が小さな時代はそれほど問題にはなりませんでしたが、発電量が昼間のある瞬間にデマンドの半分以上を占める様になると、需給バランスの取り方が難しくなるのです。ソーラー発電の割合が極端に大きくなってしまった九州では、電力会社の「買取り拒否事件」まで起こってしまいました。もし、ソーラー発電所毎に蓄電設備を設けるとした場合、kw当たりの投資額は、たぶん今の2倍以上には膨れ上がる筈です。そうなると、FIT価格を適用したとしても、投資回収は困難になる訳です。

そう考えてくると、どうやら私たちは発想を逆転させなければならない時代にある様なのです。つまり、製造側(供給側)からの発想ではなく、デマンド側(消費側)からの発想へ転換しなければならないという事なのです。ソーラー発電で言えば、メガソーラーでの系統連携による「押し込み」でなく、戸別の屋根で発電・蓄電し、その家で消費してしまう、エネルギーの地産地消(自家消費)を基本に考えるべき時代になったという事です。数kw程度の小規模システムであれば、それこそこの国の得意分野であるコストを抑えた量産技術を上手く使って、安価に製造できるでしょう。もちろんそこには、ハイブリッドカーに使われている蓄電・パワー制御技術はそのまま流用できるのです。

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2019年1月13日 (日)

3547 ドロドロのお金

表題で言う「ドロドロのお金」とは、真っ当に労働し、生産して得たお金ではなく、何かを転がしている間に膨らんだ、いわばアブク銭の事を指します。転がすモノには事欠きません。石油や農産物などの先物、土地・建物などの不動産、株などの債権、レアものなど、チケットと言った何かの権利など、宝飾品など、果てはネット上での現金販売などなど。少しお金を持っている人は、これらを転がす事によって、雪だるま式にお金を増やす事も可能な時代になってきました。

オレオレ詐欺などとは違って、これらの転がしはもちろん「合法」なのですが、考えてみれば額に汗して働かないにも拘らず、誰かが儲けるという事は、結局誰かが損を背負わない事には収支がバランスしない筈なのです。土地転がしで誰かがお金儲けをしたと仮定して、誰が損をしたのでしょうか。土地価格は下がらないという「神話」を信ずる限りにおいては、誰も損をする筈はないのですが、一方で現実はバブルの崩壊などで土地価格が大幅に下がる事は私たちは痛い程経験してきたでしょう。しかし、人々は喉元の熱さをすぐ忘れる様なのです。隣国のC国で起こっている、不動産バブルも間違いなく崩壊するでしょう。

モノは売買されない限りその価値は明確にはなりませんし、お金もそれが使われない限りにおいては、ただの精密に印刷された紙屑に過ぎません。真っ当な取引で、取引に関わった人達がささやかで正当な利益を上げる限りにおいては、損をする人達はそんなに多くは無い筈ですが、誰かが暴利を貪っている限りにおいては、必ずや犠牲者を生むのは火を見るより明らかな話なのです。つまり、現世代が損を出さない取引においてさえ、それを引き受けた次の世代がモノや権利を手放す際に、世の中の状況がマイナス方向に変化してしまっていれば、大幅な損を出す羽目になるのです。結局私たちは、ドロドロのお金に近づかない様に額に汗して慎ましく暮らし、暴利を得る行動を「犯罪に近い」という目でチェックして行かない限り、最後にババを握らされて途方に暮れる「犠牲者」は減らないのです。

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2019年1月12日 (土)

3546 補助金頼みの再エネ

今関わっているバイオガス発電での再エネもそうですが、動き始めている再エネの殆ど全てが補助金に頼っているでしょう。何故なら、補助金抜きでは到底初期投資が回収できないからなのです。ひどい場合は、8年から16年ほどで投資回収できる金額の一桁高い投資金額になっているケースも多いのです。つまりこの国では、商業ベースでの再エネは実現できない事を意味するのです。例外的には、随分値下がりした太陽発電(PV)では、40/kwを少し超えるくらいのFIT価格で電力を買い取って貰えた期間は投資も回収出来た事でしょう。

しかし、FIT価格がガクンと値下がりした後には、PV投資も大きく落ち込む事でしょう。PVメーカーは、売れなくなるので当然値下げ競争を始める事でしょう。実は、この時期こそPV投資のチャンスでもある筈なのです。つまりFITに頼らなくとも、電気代で投資が回収できるかも知れないのです。当然ながら、そうなるとPV電力を電力会社に売る必要はなくなり、自家消費で対応すれば良いのです。特に工場などの大口消費家は、PVを利用して夏場の冷房負荷のピークをカットする事によって、年間を通じて基本料金が下げられるという隠れたメリットも享受できる筈なのです。

一方PV以外の再エネに関しては、より多くのメーカーの参入によって、システム価格を大幅に、下げる努力が必須なのです。具体的にkw当たりで言えば、PVや風力の様に稼働率が低い者はkw当たりで50万円以下、ガス発電の様に24時間動かせるシステムでは、100万円/kw程度が目安になるでしょう。50kwの小型発電所レベルで考れば、2500万円程度以下に、ガス発電も5000万円以下には抑え込みたいところです。その上で、最終的な段階ではその半額を目標にすべきでしょう。この国の量産技術で、昔は金持ちしか乗れなかった車が「庶民の足」になった過去を踏まえれば、全く無理な目標とは言えない訳です。

この国の歴史を振り返ってみれば、この補助金まみれのシステムが、どれほどその普及を阻んで来たかが想い起され、何時も悲しくなってしまうのは、投稿者だけではないでしょう。自分が在籍した企業でも、たった50kwのバイオガス発電所を、100%の補助金を受けた企業体に5億円ほどで売った事を思い出しました。この金額は、上の基準で言えばまさに1桁高い金額だったのです。結局、補助金が切れた後は、同様の発電所を受注する事はついぞ無かったのです。2002年当時、自費でヨーロッパの再エネ状況を視察した際に、2-3000千万円程度に値がこなれていたバイオガス発電所が、既にヨーロッパだけでも2000箇所移動が稼働していた事を思うにつけ、補助金まみれで普及させようと目論む行政手法には、全く同意できないのです。補助金やFIT以外の上手い手法も考えられると思うのですが・・・。

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2019年1月10日 (木)

3545 効率なんて〇〇喰らえ

技術屋の価値観の全ては「効率」というKWに集約される様な気がします。機械のエネルギー効率や設備の熱効率、あるいは製造設備等でのシステムでの費用対効果という効率で、システムの善し悪しを判断するのが技術屋だからです。しかしながら、残念な事に現代社会は、この効率という概念を、社会システム全体に持ち込んでいるのです。社会インフラはもちろん、本来効率という言葉が馴染まない教育システムにさえ、この効率が持ち込まれているのです。その背景には、社会システム全体が「カネ」もっと正確には、税金を主とした「カネ」で動いている「装置」となっている事があるでしょう。つまり、ほぼ全ての価値や価値観を、取り敢えずは「カネ」に還元する必要があるのが現代の社会システムという事が出来そうです

しかし、もちろん価値観が「カネ」という価値とは相反する場合も多いのです。例えば、人々の健康に関する社会インフラです。少し前、水道事業の民営化の可否という議論がありました。飲み水の品質を、経済効率だけで民営化してしまうのは、水質の確保という点では大いに不安です。何より、今の老朽化した水道インフラをかなりの税金を注ぎ込んで更新して行かなければならない状況での民営化は論外でしょう。

さて、教育システムです。教育こそ効率には全く馴染まないシステムの筈です。というより、全く相反するものでしょう。効率の良い教育とは、より少ない教員や学校設備で、最大の学習効果を得るものだ、と全体を見る政治屋や官僚は言い張るでしょう。しかし、そのシステムから落ちこぼれそうだったり、落ちこぼれてしまった人達を救うには、役人が考えるより何倍もの投資が必要な筈なのです。効率追求のシステムでは、教育全体の底上げはおぼつかないのです。

同様の事が、医療システムにも当てはまるでしょう。3分診療で、検査データだけで診断し投薬する医療は、確かに効率的ではありますが、同じ医者が同じ患者を診続ける「主治医」制度には大きなメリットがあると思うのです。というのも、教育同様全ての人には、それぞれの体質があり、医療はそれに真正面に向き合う必要があるからです。バイタルデータだけに基づく医療は、万人の平均値からの逸脱情報しか提供しませんので、その人の個人データの来歴を無視しがちになるのです。効率を全てのシステムに持ち込むのは間違いだ、と言うしかありません。

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2019年1月 9日 (水)

3544 2019年問題 

2019年問題とは、2019年で高額なFIT価格での電力買取り期間が終了する事態を指します。これまで、例えば42/kwで売っていた電力の買取り価格が大きく(たぶん20円程度)低下するのですから、投資を出来るだけ早めに回収しようと考えていた人たちには大ショックです。買取り価格がこれほど下げられるには理由があります。地域によっては、夏場の太陽光発電量が想定以上に大きくなり、買取りを拒否するケースも増えて来たからです。太陽は気まぐれなので、発電者や電力会社の目論み通りにはならないのです。

そこでどうしても必要になるのが蓄電システムでしょう。日中に発電し過ぎて余った電力を蓄え、夕方や翌朝に発生する様ないくつかの電力ピークをバッテリーからの電力で補完する訳です。売電すれば、自分が買い取る価格より低くなる訳ですから、売るよりは自分で消費した方が有利となるのです。それよりなにより、エネルギーは「地産地消」を理想とすべきである事は強調しておきましょう。再生可能エネルギーは、確かにCO2排出は限りなくゼロに近いのでしょうが、出力が不安定である点が最大の難点なのですから、蓄エネルギーの仕組みは必須だといえるでしょう。

大規模発電所と大規模蓄電システムの組み合わせではなく、小規模な戸別の太陽光発電とその家での負荷に見合った小規模な蓄電システムこそが理想に最も近いのです。この国は、〇〇年問題が直前になってマスコミを賑わし、慌てて右往左往するケースが多いのですが、2019年問題もまさにこの年に直面しなければならない問題となってしまった訳です。残念ながらこの国は相変わらずの「ドロ縄国家」或いは「行き当たりバッタリ国家」であり続けている様です。

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2019年1月 7日 (月)

3543 来たるべき時代の社会2

地下資源と言えば、やはり化石燃料(石炭・石油・LNG)が圧倒的にその量が多いでしょう。なにしろ、それらの多くは、発電所や車や工場や家庭で燃やして熱エネルギーに変えてしまう訳ですから、いくら掘り出しても十分という事はないのです。つまり、地下から消費先までの化石燃料の「流れ」が出来ていて、その流れは信じられないくらい速いのです。その流れは、原油やLNGの様に実際のパイプラインが敷設されていて、その中を流れる場合もあり、残りは列車やLNG船や石炭運搬船で運ばれています。

それらの流れは、景気の善し悪しや価格の変動によって、僅かに増減する事はあっても、流れが社会システムの中に完全に組み込まれてしまっている以上、大きな変動は生じないのです。しかし、来たるべき社会ではその流れを兎にも角にも「絞る」必要があると思うのです。何故なら、化石燃料こそ掘り出す一方であり、「再生不可能な資源」の代表であるからです。それらの資源は、使えば使うだけ減少し、可採期間も比例して短くなるのです。同時に価格は、うなぎのぼりに上昇するでしょう。想像ですが、供給が需要を10%も下回れば、価格は倍に跳ね上がっても不思議ではありません。実際、前のオイルショック時は石油価格が2倍になったではありませんか。現代は、先物取引の仕組みが出来上がっており、あの時ほどの価格の激変は無いにしても、その抑制効果も長くは続かないでしょう。

化石燃料の流れを絞るのは、太陽光をエネルギー源とした「再生可能エネルギー」である事は論を待ちません。再エネが使いづらいのは、その出力が大きく変動する事でしょう。太陽光発電は、晴れの日の日中しか機能しませんし、風力発電は風任せ、水力発電だって渇水期の夏には出力が低下するでしょう。真に必要な社会インフラは、エネルギーを貯め込む仕掛けだと断言できます。昼間電力を蓄え、夜間に放出する蓄電システムは、太陽光発電には欠かせないシステムでしょうし、風力発電にも同様な事情があります。その際組み合わせとして良さそうなのは、水力発電所との組合せ、即ち揚水発電でしょう。上流ダムと下流ダムを接近させて設置するなどの工夫は必要ですが、かなり大きな電力を蓄える事が可能となるでしょう。ここでの来たるべき時代のK/Wは、「蓄エネルギー」になるでしょうか。熱エネルギーの貯蔵については稿を改めます。

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2019年1月 6日 (日)

3542 来たるべき時代の社会

このブログは、現状を嘆いたり批判したりする目的ではなく、「環境」をK/Wに前向きな提言をしようとしていますので、新年に当たっていくつかの青写真描いててみようと思います。さて、如何なる時代になったとしても、絶対に守るべきは「持続可能性」となっている仕組みでしょう。それが崩れた場合、如何に優れたシステムでもやがて崩壊するからです。持続可能ではないシステムとは、結局不可逆で再生可能ではない資源やエネルギーを「消費」するものである事は、このブログでは何度も言及してきました。具体的に言えば、資源に関して言えば既に地上に存在している物質を、それを劣化しない様にリサイクルし、エネルギーに関して言えば100%再生可能なエネルギーに切り替える事を意味します。

リサイクル材料が劣化するのは、例えばプラスチックで言えば、PPPEPSなど異なるプラスチックが、回収の段階で混合してしまう事に根本原因があるでしょう。もし、他のプラスチックや汚れや不純物が全く混じらないプラスチックが回収できるなら、100%リサイクルが容易に達成できる筈なのです。従って、先ずメーカーが飲料ビンにPETを使い、その蓋にPPPEを使い、更にラベルにPPPSなど、複数のプラスチックを混ぜて使っているので、PETのリサイクルそれなりに行われてはいますが、量的に対応できない自治体では焼却処理に回されたりしているのです。ならば、PETを欧州の一部の国が行っている様に、分厚く作ってリユースする方法も考えられるでしょう。それが出来ないこの国は、政治力や行政調整力がすこぶる弱いと断じざるを得ないのです。

もう少し、物質のリサイクルについて付け加えます。プラスチック同様に、地下から掘り上げる資源で多いのは金属材料でしょう。取り分け、鉄、アルミ、銅などは産業の「コメ」とも呼ばれ、大量に生産され消費され続けているのです。金属材料で問題となるのは、とても把握できない種類の合金の存在でしょう。金属は合金するする事によって、多種多様の性状が実現可能なのですが、一方でリサイクル性は悪化します。例えば、航空機材料として多用されるジュラルミンは、酸化が進んだ切り粉はジュラルミン自体としてはもちろん、アルミ缶などにも再生は出来ないのです。精々、強度が求められない安いアルミ鋳物に少量混ぜるといったリサイクル法が残されているだけです。現状の様な、「不完全なリサイクルシステム」では、何時まで待っても地球からの資源の収奪は終わらないのは明白です。続きます。

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2019年1月 4日 (金)

3541 お祭り行政

新年の投稿再開です。この国の行政が、お祭り体質になっている事を懸念しています。五輪や万博などで、短期的に景気を浮揚し、海外からの観光客を集めれば、それでヨシとしている風潮が、ますます顕著になっている様に見えてならないのです。いわば、他力本願の行政や経済体質になっているといっても良いでしょう。これは、祭りによって一時的ににぎわう、自社や城下町の状況に似ているといっても良いでしょう。祭りが去ってしまうと、ひっそりとした日常に戻るだけです。私たちは、この日常の生活こそ基本に据えるべきだと思うのです。

比較的円安で推移している現在でこそ、年間数千万人もの外国人観光客が押し寄せてはいますが、円高や燃料高による航空運賃の高騰などの逆風の曲面では、これもアッと言う間に減少に転ずる筈です。それよりなにより、日本に何度も観光に訪れる事が出来る、中国や韓国やアジアの富裕層が好景気を享受できるだろう時間も限られてきていると見ています。次の景気の落ち込みが何によってもたらされるか予想出来るほどの知見はありませんが、景気が大きく波打つ「社会現象」である事は間違いないでしょう。

さてお祭り行政です。お祭り行政の根源は、やはりポピュリズムに染まった政治屋の存在でしょうか。それを忖度し迎合する計画力の無い官僚にも重い責任はあるでしょう。全く残念な事ですが、この国には、国のあるべき将来の姿を描く「青写真」が見当たらないのです。国際社会の中で、どの様な立位置で、どの様に世界をリードする国になるのか、なりたいのか。それより、何よりこの国の国民は、一体何を拠り所にして生活していくべきなのかの目標が見当たらないのです。高度成長期には、「先進国に追いつけ追い越せ」を目標に我武者羅に突き進めば良かったのですが、さて追いついて、立ち止まっている間にいくつかの国に再度追い越されてしまって、途方に暮れているのがこの国の現状でしょう。

結局、高度成長期とその後の停滞期を通じて、モノに囲まれた経済的な繁栄は、それが最終的な目標ではなかった事が明確になっただけでした。GDPではなく、国民総幸福度が重要な指標とであるとの一部の議論はあるにしても、ではそこに向けて具体的に何をどうすべきか、誰も答えていないのです。そうこうしている内に、幸いにもこれまでは鳴りを潜めていた、地震や水害などの災害が牙を剥き始めて、その対応に右往左往しているのがこの国の現状の様に見えます。残念ながら今年も明るい年とはならない様に予感してしまいます。

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2018年12月29日 (土)

3540 SDGs18:結論として

長い出張から戻って、投稿再開です。さて、ここまで、SDGsを考えてきて、これら17のターゲットとは、結局はターゲットでも目標でも何でもなく、人類のあり方を問う「見果てぬ夢」ではないかと思えてならないのです。人類は、繁栄と衰退(滅亡)の歴史を繰り返してきました。かつて、社会科の歴史で習った大河のほとりで栄えた四大文明も、南米のインカ帝国も、国内の〇〇文化と呼ばれる多くの権力も、結果としては全て衰亡したのでした。直接的な原因としては、長期の繁栄を支える、人・モノ・カネと農地を含む資源の枯渇が挙げられるでしょう。

しかし、実際はそれらの裏で文明の再生を促す陰の力が働いていたのかも知れません。陰の力の具体的なイメージとしては、例えば文明・文化に対する「飽き」、「倦怠感」の様なものになるのかも知れません。あるいは、文明・文化を享受できる「持てる者」とそれを不満を持って眺めている「持たざる者」との電位差?の様なものが蓄積され続け、最終的にそれがスパークして、革命なり下剋上が湧きあがるというイメージになるのでしょうか。そういう意味では、一つの文明は、やがて崩壊し、置き換わるべく運命づけられているのかも知れません。

さて、現代の文明です。19世紀の科学技術が成熟し、それを活用した産業革命、更にそれを下から支えた化石燃料と鉄(金属資源)が今の文明を形作っている、この現代文明です。その崩壊の影がちらついている様なのです。少なくとも、崩壊の入口に歩を進めているのは間違いないでしょう。今回の文明崩壊は、しかしかつての古代文明の崩壊とは明らかに異なります。古代文明の崩壊は、例えば周辺の利用できる森林の皆伐や、使い過ぎて枯れた水源など、ローカルな問題で起こった筈ですが、現代文明の崩壊は、資源の乱用お結果、悪化した「地球環境」が引き金になると予想されるからです。しかも、その崩壊は一気に進むのではなく、真綿で首が締まる様に「ジワジワ」と進行すると考えられるのです。気密性の高い部屋に閉じ込められた人が、部屋の酸素を使いながら呼吸し、やがて自分の呼気に含まれるCO2によって部屋の空気が汚れ、やがて低下した酸素濃度によって自分が苦しめられる状況に似ているでしょう。その部屋で、より長く生き残るためには、ベッドに横になって出来るだけ安静にする事によって、代謝レベルを最低限に保つしかないのです。

SDGの本質とは、結局は自分(現世代)の欲望を徹底的に抑制しつつ、それを持たざる人々や次世代の人達に残そうとする努力にあると思うのです。そのためのキーワードとしては、単に「勿体ない」と言うだけではなく、更に進めて「徹底的に始末(節約)する」まで行かなければならないと思うのです。SDGsも詰まる所、この国の伝統的な価値観に行きつく様です。

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2018年12月18日 (火)

3539 SDGs17:パートナーシップで目標を達成しよう

この表題については、投稿者の体験談を綴ってみます。投稿者は、50代に入ってすぐ、自分の内側の諸事情を勘案して、いわゆるサラリーマンを卒業しようと決心しました。しかし、それでは生活に困る事は目に見えていたので、中小企業に籍を移す事にしました。中小企業を選んだのは、たぶん大企業ではできなかった「身の丈サイズ」の技術が駆使できるのでは、と思ったからでした。いくつかの新製品の開発を進める中で、大学や高専、他の中小企業、或いは公設試や大企業の研究者まで、間口の広いパートナーシップを拡大していったのでした。

パートナーシップとは、結局は「隣は何をする人ぞ」の興味を持って、新たな人との繋がりを紡いでいく行動だと思うのです。30年以上大企業に在籍してる間に交換した名刺は、たぶん300枚を超えない程度だったと振り返っています。しかし、中小企業に移っての3年あまりで、その数倍の名刺の山が出来たのです。完全にサラリーマンを卒業してからは、更にその枚数が積み上がったのでした。名刺には、会った場所や日付をメモしていますので、個人や中小企業に関して、特に環境問題に関してどの様な立場でどの様な動きをしているのか、といったデータベースは、現在も着実に増えています。

しかし、問題はその関係を如何に具体的な行動に繋げるかという点である事は間違いないでしょう。NPOはやや軽い組織と言えるのでしょうが、何らかのビジネスを展開する法人を立ち上げるとなるとかなりのパワーが必要でしょう。ですので、ここでの提案は、先ずは「個人事業で如何でしょう」というものです。個人事業で、先ずは自宅で、口コミで広がる程度のミニビジネスを開くのです。その後、同様な個人ビジネスと連携するとか、或いはNPOと連携するとか、最終的には行政に認識して貰う中で、「地方発の小ビジネス」として認知度を上げる様な動きが理想だと思うのです。その際に、いわゆる人脈というパートナーシップが「ものを言う」のでしょう。SDGsで言うパートナーシップ、つまり県を跨いであるいは国を跨いでのパートナーシップは、その後に広がっていくものだと思います。

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2018年12月17日 (月)

3538 SDGs16:平和と公正をすべての人に

今時代の流れは、表題の平和へも公正へも逆行を強めている様に見えます。この国も、その流れの中で防衛費を膨らませようとしていますし、隣国との関係もなにやらギクシャクする場面が多くなってきました。B国にすこぶる強気の大統領が現れて、自国第一主義を掲げて以降、今のところはこうしたギクシャクも経済問題に留まってはいますが、今後武力紛争に発展しない保証はどこにもありません。一方、欧州でもEU崩壊の始まりかも知れない動きや、Fランスでの騒動など平和とは逆行する動きが気になります。

経済に素人の投稿者が大雑把に括るなら、モノや人の行き来をそのままにして、経済だけ時刻主義を唱えても、決して上手くはいかないという結論になります。EUは壮大な社会実験ではありましたが、今のところ種々の縛りで、加盟国の不満は抑え込んでいる様には見えますが、経済問題(不景気)や難民問題の渦巻いている国々ではいつ爆発が起こってもおかしくないでしょう。つまり、自国第一主義を唱えるなら、人の流れもモノやお金の流れも絞って、軽い「鎖国政策」をしなければならないという事でもあります。確かに、南蛮貿易しかなかった江戸時代を通じて、この国は最も平和な時代が続いていたのでした。

一方、全ての人の公正を担保するのは、ひどく込み入った「多元連立方程式」を解くような作業になるでしょう。なにしろ、何が人々にとって公正なのかの定義そのものが困難だからなのです。全ての人々が、均等にお金を持っている社会を想定しましょう。上手く立ち回れる人は、手元の小金を元手に商売を展開し、利益によってやがて金持ちになるでしょう。一方才覚に恵まれない人達のお金は、使ううちにドンドン目減りしていく事でしょう。何処まで行っても、社会は、一握りの政治や経済のリーダーとそれに引っ張られる「サイレントマジョリティ」と、そこにも入れない底辺の人々に階層化され易いのです。これを、世界中の国々に敷衍しても同様でしょう。

この国は、憲法で「最低限」の教育や生活レベルを保証しようとはしていますが、最低限のレベルを引き上げない事には、不公正を均す事は叶わないでしょうし、これに類する「世界憲法」でも出来ない限り、飢えに苦しむ国々や人々は減らない事は明白です。結局人々は交易などは減らして、それそれの国境の内側に閉じ籠って、ひっそりと平和に暮らすべきなのかも知れません。船や飛行機の無かった古の時代の様に。もちろん、今の時代に於いては見果てぬ夢に過ぎませんが・・・。

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2018年12月16日 (日)

3537 SDGs15:陸の豊かさも守ろう

この表題に関しては、ある時期放送大学の大学院で、学問として考えた事がありました。その時の結論は、例えば生物多様性の根源は、結局は自然環境の多様性、具体的に言えば人工と手つかずの天然自然(今は殆ど残っていないのですが)の間の、滑らかなグラデーションだというものでした。つまり、徐々に変化する環境のグラデーションは、その中に生きる植物や昆虫や動物相を豊かに保つと思うのです。もし、人工的な都市の周りが、全く手の入らなくなった藪と草ぼうぼうに放置されていたとすれば、里山の多様性は失われ、シカやイノシシの天下になってしまうでしょう。

そうではなくて、環境のグラデーションは適度な人手の介入によって、自然とグラデーションを持つ「半人工」が混在する「緩衝帯」を設ける必要があると思うのです。程度に樹木や藪が間引かれ、日の差す様になった里山には、山菜やその他の多様な(在来)植物が育ち、それを目当てに人も適度に立ち入り、昆虫も集まり、結果として小動物が出没する代わりに、自分の姿が人間に見え易くなる結果、大型動物(しばしば害獣と呼ばれます)は、里山にはあまり立ち入らなくなる筈なのです。

陸の豊かさは、実は山の豊かさからもたらされると断じても良いでしょう。それは、その土地の気候に適した、多様な樹木や植物相によって担保されなければならないでしょう。一方で、戦争で禿山にされた各地の山々は、材や紙として利用しやすいスギやヒノキやツガが植えられた「単相林」に代えられてしまったのでした。その結果、落葉樹の落ち葉がつくるフカフカの林床が失われ、僅かの針葉樹の落ち葉の下には、土壌が見えている様な貧相な山林ばかりになったのでした。この国の山林面積は、国土の2/3にも達しているのですが、その半分は人工の単相林であり、それも間伐すら行われていない為に、樹木の生長が極端に遅い、ヒョロヒョロの「貧相林」になり下がったいるのです。見かけだけは、緑に覆われている様に見えるこの国の国土ですが、私たちはやはり山に分け入って、そこで何が起こっているかを確認すべきなのです。陸の豊かさは、実はこの国でもピンチに直面しているのです。

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2018年12月14日 (金)

3536 SDGs14:海の豊かさを守ろう

これは、非常に重要なターゲットである事は間違いないでしょう。日本近海で沖縄などよりはかなり緯度が高い地域でも、温暖化の影響で海水温が上昇した結果、魚の住み処である藻場が消え、暖かい海の生き物であるサンゴが進出してきている様なのです。海の豊かさは、山の豊かな森林、取り分け照葉樹林から流れ出る栄養分(フルボ酸、フミン質やミネラルなど)によってプランクトンが増え、結果として小魚やそれを捕食する回遊魚も増える連鎖がある訳です。中でも、海のジャングルとも呼ばれる豊かな藻場は、まさに魚や海藻をエサとする海洋生物の揺り篭なのです。

海中に、例えば屑鉄などを沈めておくと、やがて溶出する鉄分の効果もあり、やがてそこは藻場となり、漁礁となる事は、沈没船の海中写真などを見ても明らかでしょう。しかし、それも海水温が限度以下である事が最低条件となるのです。つまり、海の豊かさを守るには、先ずは地球温暖化を防止する事が先決で、結果としてまたSDG13の気候変動の防止≒温暖化防止ターゲットの話に戻り、出口の見えない堂々巡りに陥る事になるのです。

もう一つ、海の豊かさを大きく毀損するするものとして、いわゆるマイクロプラスチックスがあります。投稿者は、東北の日本海側の町に住んでいますがそこには長い砂浜が続いていて、たまに散歩をすると信じられない量と種類の漂着物が打ち寄せているのです。その多くは、PETボトルなどの容器類である事は多分想像通りでしょう。容器には空気が入っているので、当然浮いており、大陸側で投棄されれば海流や季節風によって、日本海側の海岸に流れ着く事になるでしょう。しかし、想像してみなければならないのは、漂着物よりずっと多い筈の壊れたプラスチック製品の行方なのです。海岸線は砂浜ばかりではなく、岩礁が続く海岸では、波で岩に打ち付けられた容器は壊れ、破片となって海中を漂う事になるのです。その量は、漂着量より一桁も二桁も多い筈なのです。プラスチックスは、いわゆる毒物ではないにしても、海洋生物に取り込まれ、体内濃縮されて、やがてそれを人間が摂食するでしょう。プラスチックスを構成する高分子は消化されないにしても、含まれる可塑剤などは緩効性の有害物であるとも言えるのです。海は、地球上で最も低い場所であるが故に、陸で投棄された有害物は、全て海に流れ下って、蓄積を続ける事になるのです。残念ながら。

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2018年12月12日 (水)

3535 SDGs13:気候変動に具体的な対策を

言葉では短いですが、17個のゴールの中では最も重たいテーマでもあります。なにしろ、これほど多数の人類の利害が絡むテーマは、地域紛争などを除けば他に見当たらないからです。石油資源やその利権の恩恵に与れるいわゆる産油国や先進国では、温暖化に関わるCO2排出抑制に真面目に取り組んでいる様で、実は過去に湯水の様に使ってきた犯人でもあります。もちろん産油国はオイルマネーを使って、この世の春を謳歌してきた事でしょう。化石燃料は、いわば20世紀を通じての「基軸通貨」でもあったということで、21世紀に入っても状況にそれほど変化は起きていないのです。

一方で、この恩恵に殆ど縁が無い、非産油国で且つ他の資源産出の少ない、貧しい国々では、出来ればこれから経済成長を果たして、エネルギーをもっと潤沢に使いたいと考えているのは間違いないでしょう。なにしろ彼らは、目の前であるいはメディアを通じて、化石燃料を潤沢に使う先進国の状況を見ている訳で、自分達もそんな生活するスタイルを真似したいと考えるのも当然でしょう。

基軸通貨としての化石燃料、取り分け石油が地域的に極端に偏在しているのは、20世紀を通じての人類の不幸でした。この事が、地域紛争や世界大戦などの争い事の背景に存在し続けたからです。しかし、太陽光は逆に貧しい国々にも等しく、むしろ手厚く降り注いでいます。太陽光は、太陽熱やあるいは植物を育てるエネルギー源ともなっている訳で、太陽光、太陽熱、バイオマス、風力や波力などの太陽をエネルギー源とする多様な再生可能型エネルギーの割合を増やす事は、石油資源の偏在やその利権によって生じた、いわゆる「南北差」を縮小する事に寄与するのは間違いないでしょう。先進国は、そのための技術開発し、途上国への技術・資金支援を積極的に行うべきでしょうし、その結果としてCO2発生量の抑制につながるでしょう。

しかし、これが気候変動の速度をやや弱める事につながるにしても、解決策でないのは悲しい事実でもあります。つまりは、地球は今、温暖化や気候変動に関する限り、赤熱しており、小手先の対策では正に「焼け石に水」状態なのです。結局、人類は自ら排出した温暖化効果ガスで、苦しくなって多くの犠牲者が出るまで、まるで常習性のあるドラッグの様に、化石燃料を燃やし続ける様に見えます。残念ですが・・・。

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2018年12月10日 (月)

3534 SDGs12:つくる責任 つかう責任

SDGsのこの表題の「ココロ」は、あくまでも「持続可能性を高める事」にあります。従って、ここでのつくる側とつかう側の責任もその点にフォーカスを置くべきなのです。

先ずつくる側ですが、先ずはその製品の原料が持続可能なものである必要があります。例えば、プラスチック原料であるナフサ(石油)は、地下から汲み出せばやがて枯渇する資源であり、またその廃棄物処理でプラスチックを燃やせば、多量のCO2を出す訳で、決して持続可能性が髙いとは言えません。また、違法に投棄されたプラスチックは、やがてマイクロプラスチックスとなり、環境や野生動物の体内に入って彼らを汚染する事にもつながります。従って、もし飲料容器にPETを使いたいのであれば、厚手のビンを作って20回程度再使用すると共に、用済みになった際も完全に回収してPETに戻す完全なマテリアルリサイクルシステムを作らなければならないでしょう。それがつくる側の責任でもあり、当然の事ながらつかう側もその費用負担を引き受けなければならないのです。もちろん、全ての製品やその容器・包装の原料やリサイクル方法に関して明示し、消費者が環境に配慮した行動が出来る様にしておく必要もあるでしょう。

一方で、使う側も単に安くて便利であることを求めるのではなく、環境への配慮もコストの一部であるとの認識が浸透させなくてはなりません。例えば、再使用を前提としたガラス瓶を多用していた時代には、一升瓶やビール瓶、或いは牛乳瓶と言った容器が、ほぼ100%回収されて再使用されていた筈です。回収率を上げるために、商品は瓶代を上乗せした金額で売られ、瓶を返却した際には少額の瓶代が返却されていたものでした。(デポジット制度)同じことが、PETボトルでも出来ない筈はないでしょう。自動販売機の隣に、自動瓶回収機を置けば済むのです。PET瓶は回収され、洗浄滅菌され、外側のプラスチックフィルムのみ剥がされ新たな商品に使われる容器となる訳です。そのためには、先ずはPETボトルの規格を統一する必要がありますが、この国の行政はこんな面倒な事が大嫌いの様で、規格化については全く手つかず状態だと想像しています。欧州では10年以上前から統一規格を作っていたと言うのに、です。つくる側もつかう側も果たすべきその責任に関しては、「死んだふりをしている」としか見えないのです。残念ながら。

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2018年12月 9日 (日)

3533 SDGs11:住み続けられる街づくりを

長い出張から戻り投稿再開です。表題は、実は非常に重要なゴールの一つでもあります。つまり、一度故郷を出た人が、最終的には生まれた町に戻るのが普通の社会を作るという事でもあります。田舎の町は住み良い筈です。何より、山や川や海などの自然が近い、或いは自然に囲まれているからです。当然の事ながら、昔ながらの農林水産業が残っていて、贅沢さえしなければ(むしろ地産地消は贅沢?)食費だって抑えられるでしょう。若い人達にとっての問題は、産業、直接的にはいわゆる勤め口が少ない事でしょうか。従って、地元あるいは都会の学校を卒業した若者の多くは、地元を離れて都会で職を得ようともがくのです。

卵が先か、或いはニワトリが先なのか、いずれにしても田舎では人口減少が加速し、結果として昔存在した産業も何時しか廃れてしまったのです。人口が減って商売が成り立たないのです。しかし、考えてみれば高齢者人口は増えているとも言えます。少なくとも、人口に占める割合は急速に増加している筈です。しかし、社会構造が大量生産・大量消費のままでは、地方の行政がお経の様に口にする「企業誘致」や「観光客の誘致」だけで、田舎が賑やかになる筈もありません。有名な観光地を除けば、田舎の町には売りに出来るものは「何も無く」、掛け声が空しく響くだけなのです。

持続可能な社会の実現のためには、人口の移動は最小限に抑えるのが理想でしょう。若い時に都会に出たとしても、結婚してからの子育ては絶対田舎の方が良いでしょうし、親世代(ジジババ)からのサポートにより、経済的にも楽になるでしょう。ゆくゆくは同居でもすれば、介護問題だって住宅問題だって生じない筈です。人は歳をとってからは、病院でチューブを繋がれながらジタバタと延命治療で生き長らえずに、自分の寿命を受け入れて自宅の畳の上で静かに人生を終える事が理想の筈なのです。自分が生まれ育った土地が、一番住みやすく住み続けられる場所である事は間違いないでしょう。もし、そうでなかったとしたら自分達自身で理想に近づける様に努力するしかないのです。このまま、人口の都市集中が続き、考えたくはありませんが次の大震災が大都市を襲った場合、国としての存続も危うくなる様な気がするのです。

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2018年11月29日 (木)

3532 SDGs10:人や国の不平等をなくそう

この目標(ゴール)達成が一番難しそうな感じがします。というのも、この世の中や地球上にはありとあらゆる不平等が渦巻いているからです。その不平等は、地政学的な差から出てくるものや宗教、人種に起因するもの、性差によるもの、学歴や家柄によるものなどなど、不平等のタネは尽きません。例えば、生まれついての家柄の善し悪し(特に裕福な家か否か)によって、受ける教育にもおのずから差がついてしまいますし、同程度の家柄同士のカップルも生れ易いでしょうから、家柄の差の連鎖は世代を超えて継続するでしょう。

国の差は決定的とも言えるでしょう。つまり、工業化が進んだ持てる国と、農産物やや鉱物資源の草刈り場になっていて、持たざる国と呼ばれる国の間の格差は、むしろ年々広がっても要るからです。その差を埋めて平等を目指すのは、至難のワザではないでしょう。持てる国々は、持たざる国々から買う農産物や資源を今の何倍かに値上げする必要があるでしょうし、そうなると工業製品のコストが跳ね上がり、売れなくなってしまうでしょう。そうなると、モノが売れなくなり世界同時多発の不況が勃発してします事でしょう。

それを防ぐアプローチは多分たった一つでしょう。それは、誰もが気が付かない程度のジリジリとしたスピードで不平等を正す方向に、特にお金を動かす事です。もちろん、誰かがこれを「さあやるぞ」と叫んだ途端に、世界の経済は身構えて、その対策を打ち始めますので、その効果は消されてしまうでしょう。そうでなくて、誰もが気が付かない様な静かなアプローチでなければならないのです。例えば、ありとあやゆる取引の際に、誰もが気が付かない程度に(例えば日本円で言えば銭の単位で)お金を、富める者から貧しい者へのシフトを行うのです。しかし、塵も積もれば山となるので、無数の取引によって、徐々にですが確かに不平等が是正される方向に向かうでしょう。いわば、誰もが気が付かない自動的な富裕税の様なものです。これは、「有益な?」コンピュータウイルスの様に、あらゆる電子取引システムに潜り込ませる必要があるでしょう。全く無責任な予想ですが、電子取引が取引の大部分を占める様になった現代社会では、ホワイトハッカーが力を合せれば、たぶん実現可能となる企みだと見ています。 明日から出張のためしばらく休稿です。

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2018年11月26日 (月)

3531 SDGs9:産業と技術革新の基盤をつくろう

このタイトルに関しては、ややネガティブなコメントにならざるを得ません。と言うのも、何か技術革新さえすれば、自動的に産業が興り、世の中の景気が良くなり、全て丸く収まるといった様な風潮が見えるからです。さながら、技術革新こそが社会共通の目的でしかないと言い切っている様にも見えるのです。このブログでも繰り返し書いていますが、あくまでも目的(ゴール)とそれを実現するための手段としての技術革新は分けて考える必要があると思うのです。

従って、この表題を注釈無しにSDGsの目的(ゴール)とするのは間違いだと言うしかないのです。例えば、IoTやAIに用いるビックデータにしても、それをどの様な目的(ゴール)に向かって使うのかがはっきりしないまま、技術やデータ収集だけが先行する事には強い違和感があるのです。革新的技術も膨大なデータも、単なる技術やデータに過ぎず、それをどの様に使うかによって、良い技術やデータにもなるでしょうし、使い方を間違えると悪い(危険な)技術やデータにもなり得るからです。つまり、本稿のタイトルを生かそうとするならば、私たちは先ずは目的(ゴール)をもっと明確にすべきなのです。その上で、技術革新をそのための手段として位置づけし直す必要があるでしょう。

では、どの様なものが目的(ゴール)になり得るのでしょうか。例えば、IoTやAIやGPS技術やセンシング技術などを駆使した自動運転車の実用化が目的(ゴール)になり得るかを考えてみましょう。もしそれが、全ての人が享受できるものであり、かつそれが100年後のまだ見ぬ子孫の幸福につながり、かつそれが「持続可能」なものであれば、たぶんGO技術でしょう。そもそも、主に20世紀の技術であった車そのものが、果たして22世紀まで「持つ」技術であるかどうかの吟味は、まだ殆ど議論されていない様な気がするのです。その一方で、やれ空飛ぶタクシーだとか、ドローン配送だとかの技術だけが先走って勝手に踊っているとしか見えないのです。

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2018年11月25日 (日)

3530 SDGs8:働き甲斐も経済成長も

残念ながら、働き甲斐と経済成長を両立するのは無理だと投稿者は感じています。何故なら、経済成長は間違いなく地球環境を悪化させる事が明らかだからです。この地球の富の殆どは、地下から資源を掘り出す事によって増加してきました。鉄などの鉱物、石炭・石油や天然ガスを掘り出す毎にそれに代価を支払う人(国)があって、GDPとして計上される訳です。それらの資源を使って作った工業製品が更に付加価値を積み上げて、工業国のGDPの元になっているという構図になっているのです。

従って、経済成長を促す事は、今より急なピッチで地下資源を掘り出す事の背中を押す事につながるのです。もちろん、経済成長の基盤を再生可能型資源やエネルギーに置けば良いのでは、という議論に持ち込もうとする人も要るのでしょう。しかし、現在の規模のエネルギー消費や工業生産を、再生可能型の資源だけで賄えると本気で思っている識者は存在しない筈なのです。何故なら、例えばバイオマスエネルギーを得るために、世界中の樹木を伐採しても、化石燃料の消費量には届かないでしょうし、もしそうしたにしても、全く持続可能ではない事は明らかでしょう。

その前提に立つと、私たちが指向しなければならない社会は、結局経済規模を徐々に縮小しながら、しかし人々の生活の質や働き甲斐を高める事しか考えられないのです。そのために考えるべきは、スモールビジネスでしょうか。大企業による、大量生産・大量消費の時代は間違いなく過ぎようとしていると思うのです。そうではなくて、個々の人々が日々の糧を得るために、小さな規模で事業を営み、しかし生き甲斐を感じながら暮らす仕組みは、知恵を絞れば実現できる筈なのです。それらのビジネスは、原料やエネルギーを地産地消に頼り、大規模な工場設備ではなく、道具や人力にベースを置くものになる筈です。一人当たりの「見かけ上」の生産性は低下し。GDPも下がるのは間違いないでしょう。しかし、人々の働き甲斐は飛躍的に向上する事は疑いないところでしょう。SDGs8個めのゴールは、経済成長は諦めて、生き甲斐の向上にこそ集中すべきだと思うのです。

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2018年11月24日 (土)

3529 SDGs7:エネルギーを皆に そしてクリーンに

これからのエネルギーを考える時に、キーワードとなるのは多分「ローカルエネルギー」となると思っています。ローカルエネルギーの対極にあるのは、極端に偏在している化石エネルギーでしょう。石油や天然ガスが出るのは、中東やRシアやアフリカや南北アメリカ大陸に加え東南アジアの一部などです。化石エネルギーの偏在こそが、第二次世界大戦勃発の背景にあったのでしょうし、現在でも地政学的な不安定の主原因ともなっている筈です。

一方、ローカルエネルギーの源は、それぞれの地域に分散して所在しますので、その所有権を巡って国々が争う心配もないのです。しかしながら、点火すれば直ちに燃焼し、または爆発的に燃焼する化石エネルギーとは異なり、ローカルエネルギー≒再生可能エネルギーは、エネルギー密度が小さい故の使いにくさがあり、利用に当たっては大いに工夫が求められる事になるのです。

例えば、風力エネルギーを例に引いてみましょう。風は、年間を通じてコンスタントに吹く北海沿岸地方の様にラッキーな場所は少なく、特に内陸部では殆ど役に立たないエネルギー源だと言うしか無さそうです。しかし、間欠的動けば良い目的、例えば揚水して、その水を蓄えておく場合などでは、たまにしか吹かない風だって利用は可能でしょう。太陽光も南北地域での偏在はありますが、極地方だって夏場は長時間の日射を享受できますので、南北で必ずしも極端に不公正という訳ではありません。とは言いながら、夜間や曇りや雨の日には、太陽光エネルギーは期待できませんから、そこに工夫する余地が大いにあるのです。

結論から言えば、必要な工夫の第一に挙げなければならないのは、「蓄エネルギー」システムでしょうか。電力で言えば蓄電池、熱利用であれば蓄熱、運動エネルギーであればフライホイールの様な仕組みの事です。残念な事ですが、化石エネルギーの価格レベルが低過ぎるが故に、蓄エネルギー技術を磨くインセンティブが高まらないのです。投稿者としては、化石エネルギーがジワジワと今の倍くらいに値上がりする事を期待しているのです。投稿者の様に古い人間は、前のオイルショックの跡に、再瀬可能型エネルギーの利用が、雨後のタケノコの如くに隆盛したのを思い出します。ローカルエネルギーは、間違いなくよりクリーンなエネルギーでもあるのです。

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2018年11月23日 (金)

3528 SDGs6:安全な水とトイレを世界中に

水分が2/3を占めるヒトの体には水が不可欠です。それも汚染や細菌フリーの清浄な水が必要です。水資源に恵まれているこの国では、上水道も完備されており、日常上水の供給を心配している人は殆どいませんが、災害や今般の橋梁破損事故などで上水道の供給を断たれた時、私たちは改めて水の重要性を意識せざるを得なくなります。基本的には多雨地帯であるこの国ですが、もしダムなどの貯水施設が無ければ山に降った水は数日で海に流れ下る筈です。もちろん、保水はダムだけに頼っている訳ではありません。山を覆う森林が作った臨床のフカフカの腐葉土が、水を抱え、それをジワジワと滴下させる事によって渓流の流れが保たれ、穏やかにダムに水を補給している事は忘れるべきではないでしょう。

渇水に悩んでいる多くの国々に不足しているのは、実はこの森林面積比である事は意外に重視されていない様なのです。森林の働きとしては水を抱える以外に、雲を呼び降雨をもらたすのです。森林が無い乾燥地域は、地球上の何処であれ「砂漠」と呼ぶしかありません。砂漠は雲を遠ざけ、今後も永久に砂漠であり続けるしかないのです。中緯度の砂漠は、実は人間によって作り出されたケースも多い筈です。開拓という名の森林伐採で、B国や中東や南米やアフリカで砂漠化が激しく進行しています。最悪のケースは、森林に火を放ち、その後の数年は焼き畑農業が出来ますが、やがて地力を失った耕地は放置され、それがやがて砂漠化するというパターンでしょう。G-グルアースで見る衛星写真で、それらの乱開発の詰め跡が生々しく確認できるでしょう。乱開発が砂漠化を引き起こし、その砂漠が周囲の砂漠化を促進するという、まさに砂漠化の悪循環が起こるのです。

そうではなくて、水を確保するためにダムを数多く作るのは間違ったアプローチであり、先ずは砂漠を草地に戻し、更にそこに木を植えて、緑化を推進すべきなのです。緑化は、その地域のアルベド(太陽光反射率)を変え、雲を呼び、やがて雨をより多く降らせるのです。乱開発は、そこから収入も得られるので、政府が許可さえ出せば自動的に進行するのでしょうが、それを逆回しする「緑化のサイクル」は、開発の何十倍もの努力が必要であることは政府も含め、改めて皆が認識しなければならないでしょう。

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2018年11月22日 (木)

3527 SDGs5:ジェンダー平等の実現

ジェンダーに関しては、以前から感じている事があります。それは、男と女という二つの性の間には、限りないグラデーションが存在するのではないかという仮説です。男らしい男から、女らしい女の間には、やさしい男や女性的な男、或いはさっぱりとした男前の女や激しい闘争心を持った女など、種々のジェンダー色のグラデーションがあると考える事も可能でしょう。一つの事実として、第二次世界大戦の末期、ドイツの空爆が過酷になった時期、その時妊娠していた女性から生れた子に、有意にホモセクシャルの男性が多いというのはよく知られた事実です。つまり、妊婦に降りかかった空爆による極度のストレスが、ホルモンバランスを崩して、結果としては女性的な男子が生まれる結果を招いた可能性が指摘されているのです。

たぶん生まれついての傾向が強いと思われる、いわゆるLGBTの人達が差別を受ける所以は絶対に無い筈です。私たちが住むこの地球は、多くの(又は全ての事象に亘って)グラデーションに満ち溢れているのです。虹は決して7色ではなく、虹の各色の間に境界線など引けないでしょう。同様に、人間は都市を作り、自然と隔絶された人工的なエリアを築きましたが、そのエリアからは徹底して「天然自然」を排除してきたのです。山を削り、谷を埋め、木を切り倒し、草原は畑や住宅地変え、川を削って真っ直ぐに直したのです。この様ないわゆる「二分法」が、強いストレスや多くの問題を生んでしまっている事に気付いている人は少ない様です。例えば、イジメです。その根っこは、自分達のグループとそれ以外という二分法にあると思うのです。

ジェンダー平等を掲げるのであれば、先ずは(ジェンダーを含む)天然事象の前提であるグラデーションこそが自然であり、人工的な二分法こそが諸悪の根源であると言っておきます。

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2018年11月21日 (水)

3526 SDGs4:質の高い教育を皆に

常々教育を小中高や大学での「座学」に還元するのは間違いだと感じています。つまり、本や教科書の「知識」を詰め込んでも、若者が人生を上手く生き抜けるかは甚だ疑問である事は明らかです。上手く生きていくためには、知識の他に状況の変化に対応する知恵や、知恵を行動や形にするためのワザだって必要な筈なのです。知識だけを詰め込んで、他人と上手く付き合うための「形だけのコミュニケーション能力」を教え込んだとしても、果たして彼らが上手く世間を渡って行けるかを保証出来ないでしょう。学校で教える見かけのコミュニケーション能力だけで上手く行かない事は、イジメのタネが尽きない事でも明らかでしょう。

それは、人と渡り合うための知恵を身に付けさせていないのと、場合によってはそれが苦手な人は、それとして例えばワザで生きていく「職人」や自然が相手の「農林水産業」だって立派な生き方だと教える事も出来る筈なのです。ITOAAIの知識をいくら詰め込んでも、それで自動的にモノが作れる訳ではないでしょう。それらは、ビジネスやモノ造りの効率を上げるための補助的手段ではあるのでしょうが、主役ではありません。工場では、主役は設備であり、それを作りオペレートする人である訳です。全てのビジネスは、もちろん人が相手ですから、主役は当然の事ながら人でなければ務まらないでしょう。

従って、質が高い教育の大前提としては、より質の良い社会を築いていくために資するもの、という事が前面に押し出されなければならないのです。この時代、実はどの様な社会がより質が高いかという基本的な議論が横に置かれているのは残念至極というしかありません。何か、景気が良くなって皆が、潤沢にモノが流通しさえすればそれでヨシという風潮が蔓延してしまっている様なのです。それは、単なる物欲=消費行動ありきの拝金主義に他なりません。

そうではなくて、質の高い教育の目指すものとは、質の高い社会を実現するための、「実学」でなくてはならないのです。単に、IT教育やコンピュータ教育だけが質の高い教育などと吹聴し、社会全体をそれに染めるのは、明らかに間違いだと断ずるしかありません。

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2018年11月17日 (土)

3525 SDGs3:全ての人に健康と福祉を

実は、SDGsについてはこれまでも書いてきました。つい最近も書いた事を忘れて、また書いている様な気もしますが、書くたびに違う角度で書いているつもりなので、まあ良いでしょう。今回は、健康について考えてみます。人が病気になるのは、遺伝的なものを除けば、病原菌など外的な要因で発病する場合と、不摂生に起因するいわゆる生活習慣病的なもの、あるいは複合的なものもあり得るでしょう。しかし、運動をしない事による不活発病は、不摂生の中でも注意しなければならない悪習慣でしょう。

人が寝たきりになるのは、例えば骨折などで動けなくなった結果、床につきそのまま動けなくなってしまうケースが殆どではないかと想像しています。老人がどんなに歳を重ねたとしても、死ぬ間際まで、自分で歩き、摂食をし、排泄できる能力は維持する様に、社会全体の目標としなければならないでしょう。もし、老人を例えば数週間でも寝たきりにすると、筋力はドンドン衰え、重力から解放された骨格は、あっという間にスカスカになってしまうでしょう。ロコモティブ・シンドロームです。動けなくなったらすぐ車椅子を使い、もう少し弱ったらベッドに寝かせたままにする今の介護制度は、寝たきりで10年以上も人を生かしておく「拷問」と言っても良いかも知れません。自分だけの力で動き、食べ、排泄するのは、人として生きるための当然の能力であり、同時に喜びである筈です。それを奪ってしまうのは、あまりにも残酷というものでしょう。

そうではなくて、高齢者はたとえ「這ってでも」自分の事は自分で出来る様に、常に努力すべきでしょうし、もしその能力がひどく弱ってきた場合には、周囲は能力を可能な限り維持するためのリハビリを勧めるべきなのです。作るべきは寝たきり老人を作る、いわゆる現在の老人病院や老人施設に代わり、自立のための能力を維持させるための、老人向けジム+リハビリ施設でしょう。そこでは、彼らに生き甲斐を提供し呆けなくするために頭や手先を使う「軽作業」さえ必要だと見ています。

人を含めた生き物は、楽をし始めた瞬間から、能力の低下が始まる存在だからです。老人には、死ぬまで適当な負荷を与え続けなければならないのです。もし、彼らの人生を幸せに終わらせたいのであれば・・・。この小文を書いて投稿しようと思っていたら、なんとNスぺの「人生100年時代」を放送していました。ちなみに、この特集でも、この投稿とほぼ同じ趣旨の様でした。つまり、全ての高齢者施設の目指すべきは、入居者の要介護度を軽くする事を目的とし、高齢者のQOLを上げる事に注力すべきだと言うものでした。

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2018年11月15日 (木)

3524 SDGs2:飢餓をゼロに

今地球上に実際に飢餓状態にある人々は一体どれくらいいるのでしょうか。地域に定住している人達は、たぶん旱魃などの天候不順があれば短期的には飢餓に陥る事もあるのでしょうし、自分たちの土地を追われたいわゆる難民は、国連やNGOなどからの継続的な食糧支援を受けざるを得ないのでしょう。何は無くとも、私たちが生きていくためには、継続的に農業を営み、食糧を得るための最低限の土地が必要なのです。仮に、1反(300坪=約1000㎡=0.1ha)の土地があるとして、人一人が飢えずに暮らせるのでしょうか。この国には、400haの程の作付されている農地があって、食糧自給率は40%弱ですから、国内だけで自給しようとした場合、今の2.5倍の農地が必要と言う計算になります。その面積を、単純に人口で割り戻せば0.83haになりますから、1反程度の土地ではとても足りないという計算になってしまいます。

つまりは、この国はどこかの国の土地で食糧を作って貰い、それをお金で買ってどうにか生きて行っている国だとも言えるでしょう。加えて、私たちは肉を食します。牛肉を1㎏得るためには、たぶん10㎏の穀物を必要としますので、その穀物を直接食糧にする場合に比べて単純に計算すれば、約10倍の農地面積を必要とするでしょう。つまり、肉食は間接的には何処かの国の、飢餓状態にある人達の食糧を奪っているとも言えるのです。

私たちが日常で出来る事はと言えば、狭くても庭やベランダで野菜を作り、肉食を週一程度に抑え、タンパク質は豆や魚で得る努力をする程度しかないのかも知れませんが、少なくとも単に安いというだけの理由で、海外の農地を使って得られた農産物を可能な限り買わない様にする程度の「心掛け」だけは無くすべきではないでしょう。同様に、いわゆる「商品作物」、例えば油ヤシやココア、コーヒーなど、本来は食糧を作っていた畑を潰して、国際商品として取引される作物の購入にはやはり敏感になる必要がありそうです。チョコレート1枚分のココアパウダーを得るために、その国では一体どの程度の食糧農産物を諦めているのかを考えてみるべきなのです。飢餓ゼロの第一歩は、飽食の対極の行動にこそあるのです。

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2018年11月14日 (水)

3523 SDGs1:貧困を無くそう

今回から、たぶん17回に亘って、SDGs(持続可能な開発ゴール)に示される「各ゴール」について、では我々市民レベルでは何が出来そうか、考えてみたいと思っています。初回は貧困問題です。貧困は、たぶん個人財産や通貨等の「富」の概念が出来て以降、つまりは有史以降常に存在した社会問題だったと想像しています。つまり、貯め込む事が可能な「富」がある限り、それをより多く持っている金持ちグループと、殆ど持たない(持てない)いわゆる貧乏なグループが生まれてしまう訳です。理想を求めて例えば共産主義などという仕組みも試行されましたが、結局は一極集中は腐敗を生み、一部の特権階級とその他大勢の一般市民階級を生み出してしまっただけでした。国営工場や集団農場を作り、人々は配給を受けては居ましたが、慢性的なモノ不足から結局は皆慢性的な渇望感に苛まれていた事でしょう。

一方で、高い税金を徴収する代わりに、国民皆が高い教育や福祉水準を享受できる仕組みを指向した、例えば北欧の諸国の社会制度が生まれました。こちらは、それなりに上手く機能はしているとは思いますが、結局これらの国々が高い生活水準を維持していくためには、途上国などとの貿易で、「富」を稼ぎ出さなければならない筈なのです。つまり、全世界の国々やそこに住む人々が、全て北欧の様な水準の生活など送れる筈もないのです。どう考えても、地球の資源の限界や、温暖化を含めた環境悪化がそれを許さないでしょう。

ではどうするかですが、結局は夫々の国が、それぞれのレベルで可能な限り平等な水準で生活を送れる様な仕組みが必要だと思うのです。それは、たぶんこれまでどの社会システムでも、イデオロギーでも達成できなかった仕組みになるでしょうから、皆で知恵を絞って考えるしかないでしょう。少なくとも、先進国は途上国で産出する農産物や資源を安く買い叩く行為は止めにしなければなりません。それと、人口の都市集中が、富の格差の元凶である事は間違いないでしょうから、既に都市に生じているスラムを解消し、田舎での「通貨にあまり頼らない」仕組みの中で、人々が安寧に暮らせるモデルケースを実験してみる必要はあります。南ドイツでその様な実験を行っているレッテンバッハ村は、投稿者が知る限りその一つではありますが、先ずはその様ないくつかの例を真似て、実験してみる価値は十分にありそうです。この村では、村が発行する地域通貨が流通しており、それを介して(又は物々交換で)村内のモノを取引出来る様にしていますから、お金(ユーロ)を持たない人でも不自由なく暮らせるのです。ここでのキーワードは、人口の地方分散と通貨の要らない(物々交換)取引の拡大という事になるでしょうか。先ずは、自分が持っているモノと他の人のモノを交換する事から始めましょうか。

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2018年11月 8日 (木)

3522 ガバナンス

ESG(環境・社会・ガバナンス)ではないですが、近年よく企業のガバナンスが問題として取り上げられます。ガバナンスが統治や統御と和訳される場合もあるのですが、この場合どうしても上から目線のコントロールというニュアンスが強く出てしまいがちです。しかし、例えば近年の多くの企業の品質記録改ざんや手順無視の不始末を眺めると、どうやらこれらの企業はガバナンスの意味をはき違えているとしか思えなくなったのです。はき違えていると言うのは、ガバナンスは決して上意下達の一方向の概念ではないという点です。

本来の意味のガバナンスは、実は双方向でなければならない筈なのです。つまり、上からの指令が出たとして、それを受けた下部組織は指令を咀嚼した上で、必要に応じてリアクションを返さなければならないのです。よく、上下の風通しなどとも表現されますが、指令の妥当性や指令への対応状況についても、逐次の報告が必要なのです。風通しの悪い組織では、不始末が「内部告発」によって露呈し、やがてそれが根深いものである事が分かり、結果として隠しおおせないと判断したトップ3人?が、謝罪記者会見を開くパターンにハマるのでしょう。

そうではなくて、ガバナンスが上手く行っている企業や組織では、変だと感じた事は、どのレベルの人であっても、隠さず情報発信できるのです。従って、発生した問題もごく小さい内に露わになり、小さい内に対策も打てる事になるでしょう。車の検査手順破りや免震ダンパーの検査記録改ざんなど、一体どの様な組織なら長年隠し通せるものか、全く想像もできません。もし、ある個人んが不正を始めて、周りの誰もがそれに気が付かなかったとすれば、組織の作り方の問題でしょうし、もしそれを小さな組織の長が指示し、部下がそれに従っただけだったとしたら、何をかいわんやでしょう。もし後者だったとしても、内部監査かあるいは人事異動のタイミング等で、当然の事ながら告発されて然るべきなのです。つまり、件の不正をした企業内では、いずれにしても下から上への風通しが殆ど無かったか、あるいは内部監査が「形だけ」に留まっていたかだったのでしょう。内部監査に関しては、稿を改めます。

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2018年11月 7日 (水)

3521 ビジネス優先

品質管理や品質記録の誤魔化し(隠し)などの企業の劣化が止まりません。その根本原因を想像してみれば、経営層やビジネスサイドから現場に対しての「歩留まり最優先」というプレッシャーでしょうか。もし現場で、不具合が見つかったり手直し作業が多くなった場合、利益の低下や納期遅れによる損失などが発生してしまいます。そこで、製造現場としては製品の歩留まりを100%とすべく、小さな不具合を隠す様に行動してしまうのでしょう。小さな不具合隠しは、やがて常態化し、その不具合の記録や手直しの記録まで、完全に隠してしまい表面には出さない様に暗黙のルールが支配的になるのです。

実際、一般的に小さな不具合は、製品の性能には殆ど影響しないものが多い筈ではありますが、その不具合が隠される事により、それを無くすような改善努力も行われないまま、品質記録のみ誤魔化され、時間だけが流れるのです。その間、担当者や経緯を知る人達は、移動や定年で職場を去り、悪しき暗黙のルールのみが引き継がれてしまうのでしょう。

これは、明らかに企業倫理の崩壊と言わざるを得ない事態でしょう。そもそも、企業としては製品やサービスを社会に送り出して、その結果「顧客満足」を得て、その顧客がリピータになる事によって企業存続が可能になる筈です。リピータを得る原動力こそ、他社より優れたデザインや機能を「品質」を通じて顧客を満足度を高める努力に他ならないのです。それかあらぬか、現代の企業の風潮は、収益を可能な限り高めて企業価値を上げ、結果として「株主満足」を得ることのみ強調されている様に見えます。これは、いわば「ビジネスで勝って、現場が敗北する」情けない現象とも言えそうです。頑張れ技術者、踏ん張れ現場、です。

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2018年11月 5日 (月)

3520 小さく生んで・・・

企業にせよ、自治体にせよ、事業拡大や地域の活性化のために、何かしらの新規事業を模索している事でしょう。しかし、多くの場合、次のようなジレンマに悩んでいると想像されます。つまり、新たな事業を起こすのは喫緊の課題ではあるが、いざ実行に当たっては、新規投資や人材の手当てに不安があり、最初の一歩が踏み出せない。と言うものです。

しかし、考えてみれば大きなヒット商品や事業展開の成功例にしても、最初から大成功をおさめた訳ではないでしょう。最初の一歩は、それぞれささやかなものだった筈なのです。「小さく生んで大きく育てる」という言葉がありますが、この言葉こそビジネスの神髄を言い当てている様な気がするのです。つまり、初期の設備投資や人材の投資は最小限に抑えながら、先ずはスケールダウンしたビジネスモデルを作ってみるのです。自社に設備が無ければ、どこかの公設試や試作企業の設備を借りれば良いでしょう。人材が足りないのであれば、先ずは半日単位で今の業務から解放し、数人のグループからなる「ミニプロジェクトチーム」を作れば良いのです。ただし、それは上意下達ではダメで、あくまでもプロジェクトチームメンバーの熱い思いが無ければならないでしょう。

プロジェクトの大きさに応じて半年とか、1年(或いは数年)とかの年限を決め、ささやかでも予算を付けて、明確な行程(マイルストーン)を決めて、新たな製品なり事業を形にする訳です。もちろん、その事業の方向性の筋が良いかどうかは、経営者として確かな目利きが必要である事は間違いありません。その際のキーワードは単純です。それは、その新製品なり新規事業が果たして「持続可能性が髙いか否か」というものです。石油が無くなっても、電気料金がバカ高くなっても、海外から食糧や物資が潤沢に輸入できなくなっても、どんな時代になっても、根強い需要が期待できなければならないのです。これは、単純ですが非常に強力なフィルターであるとも言えるでしょう。このフィルターを通過できる新商品や新ビジネスは、最初は小さく始めても、非常に大きなものに成長する事は間違いないでしょう

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2018年10月31日 (水)

3519 フェイル・セーフ2

フェイル・セーフに関してもう少し書き足りないので補足します。システムの安全性を高めるために一番重要なのは、そのシステムがダウンすると想定される、可能な限り最大の事故・故障状況(Failure Case以下FCと略す)を挙げる事だと言えるでしょう。車で言えば、車自体の異常としては、突然エンジンが止まる、またはエンジンが止まらないで暴走する、ブレーキが効かない(又は片効きしてハンドルが取られる)、突然パンクするなどが緊急を要し大事故につながる異常事態でしょう。それほど異常ではなくとも、エンジンの回転が上がらずスピードが出ない、パワステの異常でハンドルが重い、エンジンが掛かりにくい、排気管から黒煙や白煙が出るなど、機能の劣化に関わる部分もあるでしょう。

いずれにしても、その重大性のレベル別に、故障や事故につながるFCを、出来るだけ細かく、具体的に列記するのです。その上で、重大事故につながるであろうFCに対して、それを回避するための警報システムや車であれば自動減速などの安全対策を、車というシステムに予め組み込む事がフェイル・セーフ=FSの大原則なのです。最近の車でも、運転者の操作ミスをカバーするための、エアバッグ(SRS)やシートベルト、更にはスマアシ等が装備される様にはなりましたが、車自体の異常に対応したFSは、まだまだ少ないのでないかとみています。もちろん、メーカーやディーラーは、そのために車検制度があるので、更なるFCの対策を積み重ねると、重量アップやコストアップにつながり、現実的ではないと言い訳するでしょう。しかし、少なくとも人身事故に直結する様なFCの回避のための努力は惜しむべきではありません。

車に限らず、日常生活では多くの工業製品に囲まれていますし、過日の全道停電のケースや島への給水管の破断のケースの様に、想定外と呼ばれるインフラ事故もありましたが、これは想定外ではなくFCの想定漏れに他ならないミスでしょう。もちろんFクシマ過酷事故も同列のミスと考えられます。公共性の高い、或いは事故発生時の社会への影響が大きいインフラでは、少なくとも系統はダブルとするか、或いは集中システムではなく、分散システムとする様設計しなければならないでしょう。発電タービンは巨大地震では、タービン自体の損傷を防ぐために自動停止するシステムを内蔵していますし、高さが決まっている橋の下を、うっかりものの船長が、背の高い船を通過させるFCもやはり想定して置かなければならないのです。もし水道管を、橋桁の下ではなく、路盤の上を通していたら、今回の断水事故は起こらなかったのです。繰り返しますが、あらゆる工業製品やインフラへのきめ細かいFCの「再」設定が望まれる所以です。

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2018年10月30日 (火)

3518 フェイル・セーフ

全てのシステムに関して最も重要な事は、システムの動作に関連して、事故とりわけ人身事故や環境事故を起こさない仕掛けを、内部に組み込む点にある筈です。それが組み込まれたシステムを、フェイル・セーフと呼ぶ事があります。日本語に敢えて直せば、本質安全とでも言えるのでしょうか。

最近起きたT湾での列車脱線事故を例にとりましょう。列車の運行に関わるシステムで、最重要な改善は、たぶんATCの採用でしょう。ATCには、例えばカーブでは自動的に減速する機能も組み込まれている筈です。しかし、本当にフェイル・セーフとなっているシステムでは、ATCを切ったままの運行が出来ないシステムとなっていなくはならないでしょう。そうでなければ、本当の意味での本質安全にはなっていないと言うしかないのです。もし、ATCを切って列車を進める必要が出た場合でも、出せる速度は徐行程度に制限されていなくてはならないと思うのです。間違ってもタイトなカーブに最高速度で突っ込んで、最悪の脱線事故を引き起こす様なシステムであってはならないでしょう。

Fクシマの原発事故で言えば、原発はどんな過酷な事態が生じたとしても、先ずは制御棒が動かせて核反応を抑制し、同時に炉心を冷やし続ける事が出来るサブシステムが必要でしょう。それも電源が完全に無くなった場合にあってでもです。例えば、制御棒ですが現在のシステムでは、制御棒は原子炉の下部から油圧で操作する様になっていると理解していますが、本質安全システムでは上部からの制御とすべきでしょう。即ち、電源が失われた場合でも、重力で自然落下して核反応が停止できるようになっているべきなのです。それが出来ない場合でも、例えば蓄圧器を設けて、電源喪失の場合には自動的に制御棒を押し込む事が出来る様に考えておくべきです。炉心の冷却に関しても、電源が無い場合でも自分が炉内に持っている蒸気で動く蒸気タービンで動く緊急炉心冷却装置(ECCS)や電動モーターによる場合でも、完全に独立した非常用電源を使って、高い場所に設置して浸水するおそれの無いECCSとしておく必要があるでしょう。

フェイル・セーフに近いシステムとしては、航空機の設計がそれに近いモノではありますが、悲しい事ですが人類はまだ完全と言えるフェイル・セーフシステムを実現した例は無いと見ています。

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2018年10月29日 (月)

3517 劣化学?

新しい、学問の可能性を示したいと思います。取り敢えず「劣化学」と名付けましたが、要は設備や建物や装置・製品などの劣化を、学問的に分析・評価し、故障を未然に防ごうとするものです。世は、まさにIoTでありAIであり、自動運転車や空飛ぶタクシーの時代に入りつつありますが、そこに共通しているのは「電気」です。電気には、モーターを動かすいわゆる「強電」と、それをコントロールするためのコンピュータなどの「弱電」に分けられるでしょう。それに加えるならば、離れた場所に信号や情報を送るための「通信」もやはり、電気・電子機器に依拠しているでしょう。

動かない建物や動く機械を含めて、全ての形あるものは劣化してしまいます。動かないものでも、それを構成する素材は、腐食やコンクリートの脱灰などによって強度が低下します。動くものは、いくら上手に潤滑を行ったとしても、機械には「摩耗」が不可避でしょう。その結果、初期に設計者が目論んだ性能は、徐々に、或いは急激に低下して行かざるを得ないのです。実際上、その劣化に対する利便の低下や得られる利益の低下の責任は、ユーザーに委ねられていると言っても間違いではないでしょう。ユーザーは、最早使うに耐え難い状態に陥った時に初めてメーカーにSOSを出して修理を依頼するのです。

しかし、もし建物や機械装置や製品に、予め自分の「残り寿命」を検知し、表示する機能を組み込んでいたらどうでしょう。ユーザーは、その表示を確認し、その建物や製品を使い続けられる期間を知り、必要によっては致命的な劣化症状を起こす前に、手が打てる事になります。考え方は比較的簡単です。建物であれば、建物と同時に強度評価に使う鉄骨やコンクリート塊を建物の中に組み込んでおき、定期的にかつ自動的に強度を計測・評価するのです。例えば、鉄骨の場合、腐食して減耗が進むと同じ応力を掛けても伸びや圧縮量が大きくなってしまいます。また、可動部のある機械であれば、可動部の摩耗量を非接触で検知できれば、摩耗限度にどの程度近いか評価できる筈です。

それらのデータは、AIで集められ、統計的に処理される事によって、劣化の進み方や傾向の特徴がつかめる筈です。それらは、素材の劣化や損耗に関しての貴重なデータにもなり、その後の設計ミスも防止できる事につながるでしょうし、メンテナンス作業にも役立つでしょう。即ちこれは、劣化学の確立に他なりません。一時期、設備メンテナンスでTPMなる言葉が持て囃された時代もありましたが、残念ながら今は廃れかけている様に見えます。加えて、世の機械装置が殆ど電動化された暁には、電気系統の劣化(断線や接触不良やコンピュータの暴走)によって起こるであろう重大事故の多発が大いに懸念されるのです。劣化学が必要な所以です。

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2018年10月28日 (日)

3516 ニーズとは

一言でニーズと言ってしまいがちですが、ニーズにはその強さに応じたレベルがある筈です。モノが売れない背景には、このニーズの強さへの読み違いもあると思うのです。例えば若者のクルマ離れによって、車があまり売れなくなってきています。高い燃費性能や安い価格を掲げても、最早それに飛びつくユーザーは少ないでしょう。なにしろ、今やそれが当たり前であり、メーカー間の性能や価格の差別化は行き詰っているからです。むしろ、ターゲットを極端に絞ってのデザイン(例えば外観の可愛さ)戦略が上手く当たっている例も散見される程です。

さて、ニーズには基本的欲求(生理的欲求)に基づくものがあり、それが最も強い筈です。例えば食欲を満たす食品産業があります。しかしながら、実際の市場では近所のスーパーで購入する基本食材市場とは別に、いわゆるグルメ市場が存在します。しかも、グルメ食材を使った料理やグルメ店で外食をする「プチ贅沢」が、今やすっかり日常になってしまい、この国の食生活も贅沢なものになってきました。つまり、基本的なニーズの「底上げ」が生じた訳です。

ニーズには、基本的なものの上に、余裕が出来れば欲しいモノというレベルがある筈です。基本的な耐久消費財の上のレベルには、デザイン性や機能の高い家電や性能の高いスマホやあるいは、高級車などと言うものが思い浮かびます。これらのニーズレベルに基づく市場は、利益性も高いのですが、一方で景気の影響をまともに被る市場でもあります。

ニーズレベルの最も高い場所にあるのは、たぶん「趣味に基づくニーズ」でしょうか。なにしろ、趣味人にとって、自分の趣味に注ぎ込むお金など、惜しくも何ともないのでしょうから・・・。しかしながら、多くの趣味にはブームという魔物が関係しているのも事実です。

A.マズローは欲求を5段階に分け、人は常に上位の欲求を求めて行動すると説きましたが、投稿者としてはその背景には常に「満足感への飢餓」があると見ています。満足感が得られた時、人は脳内に快楽物質(エンドルフィン等)が分泌され、更なる満足感を求めて行動するというサイクルを繰り返しています。そう考えると、市場にモノを送り出す側としては、常に顧客が感じるであろう、製品(や商品)から得られる満足度には、最大限敏感であるべきなのでしょう。

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2018年10月27日 (土)

3515 失敗学に学ばない失敗

失敗学は、たぶんH村洋太郎がその著書の中で提唱したものだった様な気がします。失敗を学問と位置付けた慧眼は確かに素晴らしいものだとは思いますが、その学問が生まれたお膝元のこの国で、それが広まっていない事は返す返すも残念でなりません。そもそも、他社で失敗してニュースに取り上げられた醜聞を、自社に引き寄せて考える事をしないのでしょうか。同じ業界ではなくとも、免震ゴムと免震ダンパーの業界は殆ど同業と言っても良いのでしょうが、免震ゴムの品質不適合がマスコミで大々的に取り上げられたのは2015年であり、それから3年余りを経過してから、今度は防振ダンバーの不正騒ぎです。どちらも、建物に設置して、地震の振動から建物を守る目的で、建物の設計者によって免震(地面が揺れてもゴム装置の上に載っている建物は殆ど揺れない)か、或いは防振(建物が揺れた場合、油圧ダンパーなどによりその振幅を減ずる)の機能を有する装置によって、地震被害を回避したり最小化するための仕掛けです。

当然の事ながら、T洋ゴムの不正報道に接した際に、油圧ダンパーのメーカーの品質管理担当は、自社の不正にも思いが及んだのは間違いが無いでしょう。それを内部告発する事ができなかった事は、単に事実の発覚を遅らせただけではなく、引き続き製作され続け、建物に装着され続けた事によって、今後受けるその企業の損害を天文学的な数字に拡大させたのです。もし、不正を行った直後であれば、数件のスキャンダルで済んでいたかも知れないのに、今や対象案件は1,000件に上るというのですから、言葉を失います。しかも、スキャンダルは同業他社にも飛び火している事に至っては全く何をかいわんやでしょう。

失敗学の神髄は、他社の失敗に学び、自社の失敗を未然に防ぐだと言えるでしょう。未然に防ぐことが出来なかった場合でも、少なくとも失敗の結果蒙る損害を極少化する事は可能の筈です。その意味では、全ての企業が為すべきは可能な限り初期に失敗に気付き、それを潔く認め、その対策を打って、しかもそれを公表する勇気を持つべきなのです。対策が遅れれば遅れるほど、その被害は拡大し続ける事は、山の様な失敗例を経験してきた自動車業界のリコール案件やエアバッグなどの関連業界の失敗に学ぶところが大でしょう。しかし、自動車業界でも未だにリコールが数十万台に及ぶ案件を引き起こしているのを見るにつけ「懲りない業界」であると断ぜざるを得ません。リコールが数十万台に拡大する前に、数件の前触れ事故に着目し、その原因を徹底的に追及する事が出来たなら、1-2万台規模で製造にブレーキが掛かったのは間違いないでしょう。生産を止める事は、確かに経営上のリスクではあるのでしょうが、その企業の名声は保持出来た筈なのに、大規模リコールはその名声を大いに貶める由々しき事態なのです。

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2018年10月25日 (木)

3514 モノが売れない 

この国では段々モノが売れない時代になってきました。人々がモノに餓えていた時代、モノは作った尻から売れて行ったものでした。売れなくなってきたのには、いくつかの理由がありそうですが、若者がモノが溢れている社会に育ったしまった事が考えられます。また、高度成長期に消費行動を牽引してきた団塊世代が、ソロソロ「終活」の時代になり、モノを買うどころか、逆に持ち物を処分しようとさえ考え始めている時期に差し掛かっている事も大きな要因でしょう。

しかし、考えてみなくてはならないのは、市場には食べ物を多少節約しても、或いは借金してでも買いたくなる様な「欲しいモノ」が見当たらないのです。

かつて、音楽な好きな人達は、こぞって「Wォークマン」の新機種に群がったものでした。しかし、今やスマホ1台さえあれば、それがカメラ機能、音楽プレーヤ、メールからネットサーフィン、果てはGPS・地図機能まで、取り敢えず欲しいと思われる機能は殆ど実現してしまっている事に気が付きます。スマホが手の中にさえあれば、心が満たされ退屈から何か新しいモノに手を出そうとする気も起こらないのかも知れません。つまり、人々の欲求のかなりの部分がスマホで充足されてしまっている様なのです。

では、メーカーはこのまま手をこまねいて時代の流れに任せるべきなのでしょうか。それもある面では仕方がないと割り切るしかないのかも知れません。なにしろ、少子化、多死社会で人口が減っている状況がありますし、高齢化が加速して、モノの欲しい世代の人口が激減してからです。

しかし、投稿者が見るにメーカーの努力は、まだまだ不足しているとしか思えてなりません。最早、如何にモノを安く・大量に作るかに知恵を絞る時代ではないでしょう。そうではなくて、ベーシックなニーズに対して、出来るだけ小さな環境負荷でそれに応える製品の開発に勤しむべきなのです。スマホは、実際のモノが無くても、実際の旅行に行かなくても、非常にリアルな「疑似体験」が可能である点で、環境負荷が比較的小さな製品であるとは主張できるのでしょうが、十分ではありません。人間が創造的な性向を持つ生き物である以上、スマホの様な受身の製品では、真の欲求は満足できない筈なのです。例えば、ユーザーが、何か創造的に働きかける事によって、その製品が更に機能を増強する様な製品こそが待望される「モノ」ではないかと思うのです。そんな具体的な製品(モノ)が思い浮かんだら、追加で投稿してみましょう。

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2018年10月24日 (水)

3513 QC<QA<QMS

投稿者の若かりし頃、製造業ではQCとかTQCとか小集団活動とかが盛んでした。これは、戦後W.E.デミングが来日し、品質管理の重要性を説いて回り、1951年からは、それがデミング賞という具体的な形で表彰される様になった事で、国内に広く知られる事になったのでした。品質管理ですから、製品のデータを数値化し、基準と照らしての逸脱率(不具合率)をデータ化して、それが限りなく小さくなる様に「管理」するという手法でした。しかも、デミングはその努力は決して「トップダウン」ではなく、小集団活動の様に「ボトムアップ」でなければならない、とも教えたのでした。いわゆるQCサークルやQC活動のスタートです。

その後、QCは顧客の方を向いた品質保証(Quality Assurance)として、発展的に拡大しQAと呼ばれる様になったのでした。かくして、この国の製造業には品質管理や品質保証の考え方が浸透し、機能していた「筈」だったのです。「筈」とカギ括弧で括ったのは、当然の事ながら最近のニュースで、多様な産業で、不具合隠しや検査データねつ造が繰り返し報道されている情けない状況を憂いているためである事は自明でしょう。かつて、この様な不正はデータの「メイキング」と呼ばれて、品質管理上最も忌み嫌われる行動であった筈でした。しかし、報道はこの様な不正が、長年に亘って、しかもその後出世して経営層に上り詰めた人達の黙認のもとで続いていた様なのです。納期とコストが最優先され、品質が置き去りにされた結果である事は間違いないでしょう。

問題は、企業に置いてQAが、更に上位の概念であるQMSQuality Managing System)に成長していないという点にあるのだと見ています。QMSは、品質管理や品質保証の「質」が問われる概念です。その質には、品質管理の質だけではなく、経営の質、事業の質、従業員の質を含めた「企業の質」が問われる概念なのです。従って、不正が行われた場合、まだ芽の内に内部告発出来ない企業の質は、QMSでは最低ランク(というより即退場のレッドカードもの)だと断ずるしかないのです。この国の企業では、まだまだQAがやっと出来ている程度で、真にQMSが実現できている企業は、希少なのだと言うしかありません。元々品質管理に関わっていたかも知れない経営トップが、報道陣の前で言い訳をしながら深々ト頭を下げる絵柄は、もう飽き飽きです。

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2018年10月22日 (月)

3512 この国のジリ貧

この国が、長い停滞期に入ってしまい、そこから抜け出せない閉塞状況に陥っている事に関しては、いくつかの理由が考えられます。確かにこの国は、経済成長を機に労働者の勤勉さと技術力などをテコに、一度は世界トップの経済大国に迫るまで力をつけてきました。しかし、技術力を取り上げると、「それ(製品)を如何に安く大量に作るか」という点のみに注力し、ではその技術力で「何(コンテンツ)を作るか」を横に置いてきてしまった様なのです。例えば、投稿者が内情を良く知っている(と思っている)航空機業界を考えてみれば、Mビシ重工が、それまでCナダとBラジルに抑えられていたリージョナルジェット(RJ)を開発し市場に打って出たケースを考えてみましょう。

Mビシは確かに、開発を行うに当たって、「技術的」な準備を着々と進めてもいました。B-イング社の下請けで胴体製造の技術を、また今やライバルとなってしまったCナダの企業の下請けを行って、主翼を作る技術を「モノ」にしていたのです。しかし、飛行機は胴体と主翼があれば飛ばせる訳でもないでしょう。エンジンも要るし、操縦するシステムやアクチュエータも要るでしょう。更に言えば、航空機全体としてのバランスを確保した上で、業界のルールに則ったいわゆる設計上の航空安全への綿密なチェックも欠かせない筈です。何より、RJ市場の綿密なリサーチが不可欠だった筈です。MビシのRJの開発がスタートした時点では、もしかすると性能は他社を抑えて有利に立っていたかも知れませんが、なにしろ5年ものスケジュール遅れがあって、その間にライバルが改良型RJを市場に出す時間を許してしまったのでした。

そうでなくて、Mビシが考えるべきは、RJではない「新たな航空機市場」だったと思うのです。RJは国内の大都市間、或いはハブ空港と地方都市を結ぶいわゆるハブ路線に向けた市場を向いています。途上国の経済が拡大するにつれて需要もそれなりに拡大しているでしょう。しかし、実績の無い後発メーカーが市場に割って入るのが至難のワザである事は、天下のMビシをしても事情は変わらないでしょう。しかし、新たな市場であれば、トップランナーになれる訳で、初期には市場のシェアもトップを取る事ができるのです。例えば、飛行艇(機体の下部が船の形の飛行機)や水上機(フロート付きの飛行機)であれば、東南アジアに多い島嶼国(フィリピンやインドネシアなどがその例)への市場が開ける筈なのです。そうこうしていたら、最近のニュースでお隣のC国が自前で4発の飛行艇を開発したのとニュースが流れました。

この国(の企業)が持っている技術や人材を使って、今ある市場で勝つためにどう作るかではなく、市場に新たに何を提案して作るかが問われる所以です。

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2018年10月19日 (金)

3511 物質循環:リサイクル設計

メーカーが、自社の使用済み製品を分解してリサイクルを義務化する方向には、大きなメリットが期待できます。先ずメーカーは、リサイクルし易い様に、製品に使われる金属類やプラスチック類の種類を減らす努力をするでしょう。一つの製品に、同じ鉄類でも何種類もの合金鋼やステンレス鋼を使うと、リサイクルがしにくくなるでしょう。同様に、プラスチックでもPPPEPETなど多くの種類の部品があると、外した後のマテリアル・リサイクルはおぼつかなくなります。

そうではなくて、多少の設計上の不満はあっても、材種を統一すれば、リサイクル率は一気に上昇させる事ができるのです。もちろん、理想はリサイクル率100%です。もし、それが出来ない場合は、メーカーですから設計変更をしてそれを可能にする事も出来る筈なのです。

これは一種の「リバースエンジニアリング」に他ならないでしょう。理想的な性能を求めて設計するのがエンジニアリングなら、使用済み製品を「分解・リサイクル」という逆方向から製品を吟味する事もリバースエンジニアリングに他ならないからです。エンジニアは、頻繁に製品の分解現場に足を運ぶ必要があるのです。そこで、作業者がやりにくそうにしている作業を目撃し、それでも埋め立てゴミとなってしまう産廃があれば、それを「腑分け」して製品の原材料や素材の見直しに努力すべきなのです。

金属で言えば、純粋な形で使われる事は少なく、合金鋼などの形で複数の金属や元素を配合したものが使われます。しかしながら、世の中には金属メーカーによって種々雑多な合金が開発され、流通しています。しかし、少なくとも設計者が自社の一つの製品の中で、金属の種類を1種類、または数種類に絞り込む様なデザインは可能です。同じことが、プラスチック類に関しても言えるでしょう。その結果、使用済みの製品を分解した際にも、部品の原材料の種類が少ない程、マテリアルリサイクルが容易になる事は自明でしょう。これが、全てのメーカーにとって、高いリサイクル性=物質循環性能を備えた製品設計の目指すゴールとなる筈なのです。

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2018年10月18日 (木)

3510 物質循環2

物質循環を考える上でのキーワードは、マテリアルバランスでしょう。即ち、ある閉じた系(例えばある工場)の境界線を引いた場合、その境界内に入る物質、その境界から出る物質を、最大漏らさずカウントしてみるのです。工場であれば、素材を購入して倉庫に運び入れるでしょう。同時に工程で使う副資材も買う筈です。見えないものもカウントしなければなりません。例えば、間違いなく電力を購入しているでしょう。工場のフォークリフトやボイラを運転するための燃料も購入しているでしょう。その際には、排気ガス(主としてCO2)を出しているのです。この排気ガスは、やがて工場の境界を越えて、大気中に拡散していくのです。

これを絵にしてみると、マテリアルバランスが良く見えてきます。先ずは、境界を示す四角い箱を描きます。そこに入る物質(+エネルギー)を最大漏らさず⇒入りでリストアップします。可能な限り数値化する必要もあります。つまり、鋼材〇〇トン/年、電力XXkwh/年、など等です。また、工場から出荷される製品量もカウントします。工場に入ってきたのに出て行かない物質は、倉庫に積み上がるストックか、或いは工程途中で発生した廃棄物となって、工場から出ていくのです。もちろん、CO2の量もカウントします。最も望ましくない排出物はCO2と埋め立てられる産廃でしょう。それらは、消える事無く環境に蓄積していくからです。

この絵を眺めながら、先ずはCO2と廃棄物に注目してみましょう。CO2は、その量さえ適正であれば、植物や植物プランクトンなどに吸収されて循環するでしょう。埋め立てではない廃棄物、例えば紙類やプラスチックゴミなどは基本的には燃やされてCO2になるか、或いは金属くずなどはリサイクルされて原材料として再生されるでしょう。問題は埋め立てゴミです。良い例が、廃車のシュレッダーダストでしょう。廃車は、エンジンやラジエータなど、主要なパーツを外された後、荒っぽく巨大なシュレッダーで破砕され、磁選に掛けられます。しかし、ガラス片やシート材やプラスチック片などは、ごちゃ混ぜになったシュレッダーダストとして、埋め立て処理に回されるのです。そうではなくて、先ずはシュレッダーに掛ける前に、徹底的に分解すべきなのです。ガラスはガラス、シートはクッション材とフレームに、プラスチックは出来れば材種毎に、です。これは、たぶんその車を製造したメーカーに任せるべきでしょう。何故なら、メーカーはその車に使われた材料や構造を熟知しているからです。つまり物資油循環社会の理想は、メーカーがリサイクル工場を運営する事なのです。かくして、今は埋め立てゴミとなっている廃棄物が、原材料として蘇るのです。更に続きます

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2018年10月17日 (水)

3509 物質循環

昨日、地元の食品加工業者から、毎日1-2トンも出る廃棄物(主に出汁を取った後の骨=ガラ)を使って、メタン発酵=ガス発電が出来ないか、という相談を受けた。廃棄物の目方の殆どが骨(たぶんリン酸カルシウム)なので、とてもそこから十分なメタンを発生させる事など出来ない相談である事を説明し、諦めて貰った。

この企業は、元はと言えば地元の電子機器大手であるTデーケーの下請けをしていたメーカーであったが、親会社の海外生産や事業転換などの煽りを受けて、食品産業に舵を切った様である。電子部品メーカーから食品産業への転換は、大きな決断であったとは思うが、それにしてもこれからのメーカーは、物質の流れや循環に最大限の注意を払わなければならないと改めて感じた一日であった。即ち、これまでのメーカーはと言えば、原材料や副資材を仕入れて加工し、製品を出荷しますが、必ず工程中から発生する廃棄物が出るため、産廃として処理せざるを得ないという体質でした。この業者の場合、食肉産業から出る廃棄物としての骨ガラを利用して出汁を取り、それを濃縮冷凍したものが製品としており、一見物質循環を担っている様ですが、今のところ出がらしの骨は、産廃として有価で産廃業者に処理させているので、やはり物質循環のループは開いており、廃棄物処理場を逼迫させている元凶となってしまっているのです。

このループを閉じるためには、この骨ガラを何らかの形で最終利用してやる仕組みが必要です。出来れば、食肉産業の出発点となっている、鳥や豚や牛の飼料として、或いは農地へ還元して次なる作物の肥料になれば、理想的な循環が生まれそうです。しかし、牛に関しては直接的に骨粉を飼料に加えた結果、BSEだか狂牛病だかの負の循環に陥ってしまい、大きな問題になってしまった過去がありました。従って、物質循環には慎重な検討も必要なのです。投稿者が、浅学を顧みず助言するのは、やはり骨を熱処理・粉砕した上で、P以外のNKを補った上で、緩効性の肥料として農地に還元するのが最良の物質循環になり得るという方向になりそうです。あらゆる産業では、今後エネルギー効率の改善もさることながら、この物質循環の実現も絶対不可欠の要素であると言っておきます。続きます。

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2018年10月 2日 (火)

3508 休稿

山時々仕事の旅行のため10日ほど休稿です。

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2018年10月 1日 (月)

3507 強烈台風の頻発

強烈な台風24号が、列島を直撃して去りました。台風が、気圧を下げて強大になるためには、何よりエネルギー源が必要です。それは、もちろん台風の卵がウロウロしている南洋地域の高い海水温である事は当然でしょう。一方、台風を育てるのに、意外な助っ人は、実は台風を取り巻く風なのです。つまり、一方向だけの風(例えば偏西風)は、単に台風を押し流すだけですが、もし2方向の風がズレながら吹き込む場合、そこに渦が発生するでしょう。その渦が、右回りなら地球の自転によって打ち消され弱まりますが、逆向きの左回り(反時計回り)である場合には、台風の卵は一気に成長するのです。

結論を言えば、台風は「偏東風」と「偏西風の蛇行」の産物であるとしても間違いではないのです。偏東風と偏西風は、極地方から吹き出す寒気が地球の自転で(コリオリの力)で、押し曲げられた風と、それを補う形で判定方向から吹く風を指しますが、お互いに平行に吹いている間は平和なのですが、それが一旦蛇行を始めると、その接点には雲が湧き渦も多発し、台風の卵が出来てそれがやがて成長を始めるのです。その偏西風の蛇行と渦の元の発生に、アジア大陸にそびえるエベレスト山脈が関係しているとも言われています。つまり、山脈によって偏西風が乱され、吹く方向が曲がってしまうと同時に、山の下流(つまりは太平洋上)に渦(カルマン渦)が生まれる場合があるのです。それは、春と秋のタイミングでありその時期は偏西風が丁度ヒマラヤ山脈の上空を吹いているのです。春は、まだ海水温が低いので台風の卵は、卵のままで消えてしまいますが、秋は海水温が夏と同じくらい暖かいので卵も育ち易いのです。

さて、何故強力台風が頻発するかですが、一般的に言われている温暖化によって南太平洋を含めた海水温が上昇している事に加え、例えば太陽の黒点の活動や、地球の歳差運動による気象のブレも加担していると思われるのです。気象史を紐解くと、数十年に一度と言った極端な気象が現れる年がありますが、たぶん温暖化はその異常気象の発現頻度を高めている様なのです。つまり、かつては30年、50年に一度と言った頻度でしか現れなかった超異常気象が、今は温暖化の加速によって、例えば10年かあるいは数年に一度の割合で頻発していると思われるのです。以上、素人気象学者の雑な見解でした。

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2018年9月29日 (土)

3506 H・O・C・N 

この地球上の生き物にとって重要な元素を挙げれば、たぶんこの4つになるでしょう。炭水化物もタンパク質も基本的にはこれらで構成されているからです。しかも、これらの元素は比較的原子量が小さく、しかも他の元素と結びつき易く、結果として水圏や大気圏を比較的早いサイクルで循環もしています。例えば、水素と酸素と窒素は、前者は液体(水)として、後者は大気中で約2割と8割と大きな割合を占める気体として大量に存在し、かつ循環しています。炭素については、木材や古くは太古に固定された「化石燃料」として地上や地下に大量に存在し、一方で大気中にはCO2として微量(400ppmを少し超える程度)含まれ、しかし光合成の原料として活発に循環を繰り返してもいます。

動物に関して言えば、朝に食べ物として取り込んだ炭水化物は、昼間の活動によってかなりの部分が呼気の中のCO2として、大気中に放出されているでしょう。その呼気を草や木や作物がその日の内に取り込んで、再度利用しているかも知れません。一方で、窒素Nは大気中に多量に含まれてはいますが、そのままでは植物も動物も直接的には利用できません。植物が利用するためには、それを根から吸い上げる事ができる様に、例えば水に溶ける硝酸態窒素としてから取り込む必要があります。取り込まれた窒素はタンパク質として固定され、それを昆虫や動物が食べて自分の体の材料や遺伝子やホルモン様物質として利用しているのです。

しかしながら、今私たち人類は、これらの元素の「自然の循環」に介入し、それをかき乱している様に見えます。例えば、化石燃料の使い過ぎによるCO2増加により、海水中や大気中の割合が急増しています。同時に、結果として進んだと思われる温暖化で、例えば広大なツンドラ地帯の凍土が夏場に溶解し、そこに含まれている膨大な量の有機物が分解され、例えばメタンガス(CH4)やSxNxとしての窒素酸化物として大気中に放出され続けてもいるのです。私たちは、これらの物質の循環バランスの崩れともたらされる結果に関してはまだ十分な知見を持ってはいないのです。残念ながら。

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2018年9月27日 (木)

3505 CO2濃度

地球環境におけるCO2濃度も、とっくに400ppmを突破し、上昇を続けていますが、今日は私たちが呼吸する室内や自動車内などのCO2濃度の話題です。さて、屋外では400ppmを少し超えた程度のCO2濃度も、密閉された室内や空間では、実は人間の呼吸によって、CO2濃度は増加を続けるのです。例えば、比較的狭い会議室に10人ほどの人が集まって会議をする場合、会議室内のCO2濃度は、あっという間に1,000ppmを突破し、長い会議では2,000ppmを超える事も珍しくは無いでしょう。ましてや、冬場に室内で石油暖房機で灯油を燃焼させている場合は、事務所全体が2,000ppmを超える濃度になっている可能性が大なのです。

CO2濃度が、2,000ppm前後に上昇すると、実は人間の生理状態に大きな影響が出てきます。直接的には、体の代謝が不活発にになり、眠気を催します。退屈な会議や授業で、居眠りする人が多くなるのも仕方がない事だと言えるでしょう。CO2の上昇により、脳としてはさながら入眠状態に相当する状態に移行しようとしているのです。車の事故がどの位の割合で「居眠り運転」に起因するものかは手元にデータがありませんが、間違いなく多くのケースの原因になっていると想像しています。先行車の排気ガスの臭気が不快であるとか、冷暖房効果が悪くなるのを避けるために、多くの人が空気を再循環(Recirculation)に設定している人が多いと思いますが、最近の車は密閉性が良いので、室内のCO2濃度はかなり上昇している筈です。ましてや、複数の人が乗車している場合は尚更です。ドライバーに2時間を目安に、休憩を推奨しているのも、ドアを開ける事によって室内空気のCO2をリセットする意味もあるのでしょう。

CO2は、大気中には僅か0.1%以下しか含まれてはいない気体ではありますが、植物の光合成の原料?として直接的に関わっているのは当然としても、温暖化にも私たち動物の生理現象にも大きな影響力を持っているのを忘れてはならないでしょう。

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2018年9月22日 (土)

3504 命の重さ(若者チュー)

人の命は地球より重い、と言ったのは誰だったでしょうか。それにしても、最近の命の軽さには深く考え込まざるを得ません。若い人が交番を襲撃した理由が、自分が撃たれて殺して貰いたいから、と供述するに至っては、発すべき言葉を失ってしまいます。地震や水害や交通事故で、将来ある子供や若い人が亡くなるに至っては、惜しくて惜しくて身悶えてしまいます。ましてや、交通事故を引き起こした人が、運転をすべきではない年齢に達していた場合、二重の意味で残念に感じます。何も、そこまで生きて人を殺さなくても良かったのに・・・、と言った残念さです。命の重さがますます強く叫ばれる現代社会で、実際はその重さが逆に年々軽くなっていると感じているのは、投稿者ばかりではないでしょう。

さて、そうなっている理由は一体何なのでしょう。一つの理由は、たぶん自己チュー人間の増加にあるのは間違いないでしょう。大分前の記憶ですが、かつて年配者(高齢者)は、社会の第一線からは少し退き、若い人の背中を押す側に回るという「奥ゆかしい」人が多かった様に振り返っています。もちろん、その時代は高齢者の体力も急速に衰え、見るからに「年寄り」といった様子にはなっていたでしょう。然るに今の年寄りと言ったら・・・、です。見かけの若さもさることながら、行動自体が若ぶった自己チューのものになっているとしか言えない状況です。定年にでもなったなら、退職金を注ぎ込んで、何度も海外旅行に出かけたり、或いはキャンピングカーを買い込んで、日本国中を走り回ったり、兎に角自己チューに動き回って余生を楽しむのです。

このブログは、批判をご法度としていますので、これ以上自己チュー批判は抑えますが、いずれにしても社会は、自己チューではなく、若者チューでなくてはならないと思うのです。年寄りは、若者安全を確保し、そのの背中を(若者に気付かれない様に)陰ながらそっと押し続ける存在に徹するべきだと言っておきます。自分自身の反省も込めて・・・。

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2018年9月21日 (金)

3503 ESG経営2

更に、ESG経営に向けたキーワードを考えてみます。巨大化・集中化を諦めて分散化し、地域密着企業になったからと言って、それだけでESG経営体質になったと言い切る事は出来ません。それに加えて、原料から工程まで環境に配慮したものに代えていく事が実現出来たとしても、まだ十分ではありません。投稿者は、更に「お金が地域で回る仕組み」も不可欠だと思うのです。例えば、地方のメーカーが主として中央の市場で消費される製品を作っていると仮定してみましょう。原料を、例えば海外から仕入れ、自動化で定評のあるメーカーの設備を使い、少ない人数で工場を動かし、毎日大量の製品を市場に向けて出荷している状況を想像してみてください。

地元に落ちるお金はと言えば、誘致の際優遇を受けた僅かな税金と、10人足らずの工場の「オペレータ」と数人の事務職に支払うだけの「労務費」だけになってしまうのです。これでは、その企業が永く存続出来たとしてもESG経営としては及第点は取れないでしょう。

そうではなくて、可能な限り地元にもお金が回る仕組みを考えて、それを経営にも組み込んで行かなければ、真のESG経営には近づかないのです。例えば、原料を安易に他の地域や輸入モノに求めず、持続的に供給可能な地元産の原料に替えていくべきでしょう。投稿者が住む東北の町でも、例えば木材や稲わらやモミガラなどは潤沢に手に入ります。木材は、化学製品の原料にもなり得ますし、建築資材にも紙にも、端材は燃料になり、その灰はカリ分を含む肥料にさえなるのです。稲わらやモミガラにしても同様でしょう。事実、投稿者の記憶の範囲内でも、稲わらは「わら半紙」の原料になっていた筈です。木材を圧縮して極限まで密度を高めれば(つまりは圧縮木材にすれば)理論上は、アルミニウムレベルの強度が得られるのです。つまり、アルミニウムインゴットを、カナダなどから輸入し国内で、合金したり圧延したりして原料を作り、それを使って種々の製品を作る代わりに、しっかり圧縮した木材を使えば、強度的にも問題が無い製品のフレームでさえ作る事ができる筈なのです。

例えば、原料の一部を地元に求め、顧客の細かいニーズに応えるカスタマイズを容易にするために「人が関わる工程」を増やし、製品の一部はしっかり地元にも出荷し、意匠にも地元の伝統工芸の要素を加え、製造だけではなく開発もしっかり行えば、地元からの若い人の雇用も増え、お金のかなりの部分が地元に還流できる事になるでしょう。ESG経営の一つの形の完成です。

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2018年9月20日 (木)

3502 ESG経営

小旅行から戻り、投稿再開です。さて、略語キーワードが続きますが、ESGは言わずもがなですが、環境、社会、ガバナンスの頭文字を集めたものです。少し前は、CSRというキーワード、即ち「企業の社会的責任」が強調されていた訳ですが、SDGsに集約されている持続可能な社会に向けては、それだけでは十分ではないとの風潮が、企業の背中を押している様な気がします。ESGを、単にCSRE(環境)とG(ガバナンス)を加えただけと考えるのは、正しくないでしょう。

それどころか、実際上ESGに明確なゴールなどと言うものは存在せず、企業が存続する限り、全てに優先して「持続可能性」の追求が求められると定義した方が適切でしょう。もちろん、企業が持続可能に存続するためには、利益も従業員の福利厚生も重要でしょう、それも含めての持続可能性である事は言うまでもありません。正しいESG経営のためには、例えばその企業がメーカーである場合は、先ず使用している原材料や資材が持続可能なものである事の吟味が欠かせません。つまり、その原料が例えば数十年で枯渇してしまう様な地下資源や環境を大きく改変した人工的な農地で作られる「単作作物」などを原料としている場合は、それらが「持続可能ではない」という理由でアウトと判定されます。

同様に、エネルギー源も持続可能性を追求したものである必要もあるでしょうし、例えば経営者や従業員もやはり世代を超えて持続可能に繋がっていく必要もあるのです。その結果、地域の雇用や経済も回っていくのが、まさに持続可能な社会の条件であると言えるでしょう。その意味で、企業の合併による巨大化・集権化は、ESG経営とは主旨を異にする流れであると言うしかありません。少し例の筋は違いますが、電力の集中化が津波や地震に弱い事は、既に東日本の震災に加え、今回の北海道の地震限らず国内外の多くの過去例でも証明されているところでしょう。ESG経営の一つの重要なキーワードは、ここでの結論としては、地域密着の分散型経営にあると言っておきます。続きます。

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2018年9月10日 (月)

3501 SBTとは2

北海道では、主力発電所の再稼働までの長期化が懸念されており、需要家には節電が迫られています。目標は、稼動中の発電能力の積み上げ値があるので、この場合20%以上の節電、と明確になっています。一方、需要家が「単に2割削減すれば良いのか」と安易に考え、例えば照明を2割間引いただけ、或いは4基あるエレベータの内の1k基を止めただけで安心してしまうと、この目標には全く届かないでしょう。つまりSBT的な行動とはなっていないのです。

何故なら、照明電力は普通の事務系ビルでは、電力全体の約3割程度しか占めていないので、これを2割削減したとしても、6%程度しか節電に繋がらないのです。同じく事務系ビルでは、OA関係が3割前後、空調関係が3割程度、残りがエレベータなどの共用部分の電力となっている様です。つまり、残りのOAや空調電力も総じて2割削減を達成しなければ、全体としての2割削減は達成できないのです。ここでのSBT的な考え方としては、先ずはビル全体の電力の使途を「科学的に分析」した上で、それぞれに対して具体的に対策を打つ必要があるのです。例えば、もしOA関係での削減が10%しか見込めないのであれば、その分を照明や空調関係で補わなければ、全体としての2割削減は達成できません。

結局、SBT的な行動のためには、先ずは「科学的な計測」ありきであり、それを「分析」した上で、具体的な行動計画を立てる必要があるという事になります。従って、今回の北海道の様に削減値が明確な場合は、それを依頼する国や電力会社としても、具体的な行動としてお願いする必要がある筈なのです。例えば、照明電力では、通路等は少なくとも半分に間引き、居室の照明も2割以上間引き(できれば蛍光灯スタンドなどに切り替え)、OA関係では流石に仕事中に本体の電源は切れないにしても先ずは使っていないモニターの電源だけはその都度落とし、本格的な寒気が降りてくるまでは空調は送風だけに絞り、公共交通機関では電車の本数を出来るだけ間引くなどの、社会全体としての努力が必要なのです。

しかし、これを実践し、結果が出せればこの国の将来にはやや明るい光が差す筈なのです。つまり、2030年に2013年比26%のCO2削減という目標値も、間違いなくSBTの裏付けが可能となるからです。今回の災害を「不便を強いられる」とネガティブに捉えず、むしろSBTのためのチャレンジケースとしてポジティブに捉えるべきなのでしょう。

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2018年9月 9日 (日)

3500 SBTとは

SBTとは、Science Based Targets(科学的根拠のある目標値)の事ですが、お国も含め、多くのこの国の企業の目標は、「頑張ります目標」になっているのは否定できません。例えば、お国の目標の一つである、2030年に2013年度比のCO2排出量を26%削減するというターゲットを考えてみましょう。26%削減という数字を作るに当たっては、もちろんお役人は数字を積み上げます。それが彼らの仕事だからです。何を何時までにどの程度削減するかという数字です。とは言いながら、それはあくまで「頑張ります目標」に過ぎないもので、具体的な「科学的根拠」に基づいたものでない事は素人にも想像できるでしょう。

例えば、一方で原発を減らすと言いながら、その原発を廃炉にする原子炉政策とは必ずしも連動していないし、まだ実用化には程遠い「水素技術」を大幅にカウントしているのです。つまり、この目標は経産省が「勝手に」作成したものであり、農水省(バイオマス政策)や科技省(原子炉政策)などとの横連携は殆ど取れていない筈なのです。太陽光発電を増やすためには、農地や林地転用なども問題もあり農水省との調整が必須でしょうし、一方で農水がバイオマス発電を増やすと宣言しても、ではその電気を誰が買うのかという問題では経産との調整が不可欠なのです。

つまり、SBTを作成するためには、非常にややこしい「連立方程式」を解かなければならないし、そのためにはお役所、企業の横連携が不可欠なのです。この国が最も苦手とするのは、まさにこの点で、長期的な視点に立った青写真を示した上で、それが示すターゲットに向かって、科学的根拠のある数字を、(省庁間で連携を取りながら)積み上げる、という息の長い行動なのです。それもこれも、殆どの予算が単年度で組まれ、実行計画も実行も同じ年度で「消化」しなければならない行政制度に起因すると見ています。

科学的根拠などと言うものは、行政の都合でズタズタに切り刻む訳にはいかないのです。科学は、天才の閃きで一気に加速する一面もあるのですが、普通は地道な理論と検証実験の積み重ねで成り立っている学問分野なのです。お役所の作る数字も、その意味では科学の進捗の手堅いマイルストン(行程)に基づいて、実現可能性の高いものでなければならないのです。続きます。

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2018年9月 8日 (土)

3499 国栄え、地方廃れる

政治家(屋)は、口を開けば、国家、国民のためと言って、政策を声高に叫びます。しかし、そもそも、国家がありきという訳ではないでしょう。それぞれの住み易そうな場所に集落(ムラ)があって、それらが似たような気候風土や地勢的な理由で地域(藩や県)としてまとまり、その地域がまとまって国を形成しているという順番になる筈なのです。その地域が、今疲弊しているのです。理由は、「国」の都市偏重政策の結果だと断ずるしかありません。

もし完全な成り行きに任せれば、途上国の様に人々は、貧しい農村生活に絶望し、仕事を求めて都市に殺到する事でしょう。事実この国でも、戦後の復興期に人々は、集団就職列車を仕立てて都市に殺到した訳です。その都市でも、今や郊外の団地はすっかり高齢化してはしまいましたが、それでも若者は未だに地方の学校を卒業すると同時に都市を目指すのです。この様な、社会的インバランスを修正するのが、政治(行政)の役割でなくて、何が政治と言えるでしょうか。国を形成する際の「暗黙の約束」とは、短く言えば「国民となった人々の公平を担保すること」以外には考えられないでしょう。もし国の中に看過できない不公平が存在するなら、国の中には不満が蓄積し、政治は不安定になってしまう筈なのです。実際、多くの途上国ではそれが起こってもいるのです。

国の中央だけが栄え、地方が廃れていく現実を放置すれば、その国の存続自体に警鐘が響き亘るでしょう。都市は多くの税収や、中央省庁が存在する事による多くのメリットも享受できるでしょう。交通網も整備され、全てに便利には出来ていますが、多くの都市型災害の歴史が示す様に、これらの便利過ぎるインフラが機能しなくなった時、都市は無力に陥るのです。例えば、超大型台風や大地震が東京湾を襲った場合には、液状化によるインフラの破壊や高潮によって海面より低い臨界地域(ゼロメートル地帯)には信じられない様な惨状が広がる事でしょう。今や田舎には、空き家があり放置された農地も広がっています。農家の後継者も不足し、人手不足により企業の存続も危ぶまれ、同じく人手不足で高齢者を守る仕組みも全く不十分です。この不公平・インバランスに対し、今政治の手を打たなければ、この国の形は近い将来には崩壊してしまうかも知れません。全く望ましくはありませんが、次の壊滅的な都市型の災害しか、このインバランスを解消する力は期待できないのでしょうか。

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2018年9月 7日 (金)

3498 人工光合成

夢のある話もたまには必要でしょう。いま、夢のある研究開発が盛んに行われています。それは、人工光合成です。光合成とは、植物が葉緑素を使って、太陽光をエネルギー源として、糖などの炭化水素を合成する仕組みですが、今研究されている人工光合成は、CO2を吹き込んだ水槽から、電力を使って電極からO2とメタンやエチレンなどの「炭化水素」を発生させるというものです。電力を太陽光発電で賄えば、一つの「人工光合成」の形であるとも呼べる訳です。もしこれが、工業化レベルで実現できれば、石炭やLNGなどを使った火力発電所から出る大量のCO2を、再度メタンなどとして再利用する仕組みが出来るので、単なるCO2回収・貯留(CCS)に比べれば、温暖化防止が効果が非常に高くなる訳で、投稿者としては密かに期待しているところです。

さて、やや古い話になりますが、光触媒が盛んに持て囃された時代(たぶん今から30年以上前)、その光触媒を使って水を直接分解して酸素と水素を発生させる実験が成功したのですが、残念ながらその技術が大きく発展される事もなく現在に至っています。それは、残念ながら分解の効率が低い事が注目されなかった原因だったのですが、酸化チタンと他の触媒を組み合わせれば、実用的な技術に化けたかも知れないので、誰かがそれを生き返らせるのを期待しています。これも人工光合成の一つの形と言えるかも知れません。

さて、本物の人工光合成とは、もちろん植物の様に水と炭酸ガスから、常温で効率良く固形の炭化水素を作るものですが、これは人間にはまだまだ手の届かない技術の一つだと言うしか無さそうです。しかし、バイオテクノロジーを使えば、植物の光合成の効率を更に高める事も十分可能だと思うので、人工葉緑素を作るなどという見果てぬ夢を追うよりは、ずっと実現可能性は高くなるでしょう。

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2018年9月 3日 (月)

3497 7世代後の幸福2

3496の続きです。言葉で、7世代後の幸福と書くのは簡単ですが、では将来は「祖先」になるべき私たちは、まだ見ぬ「子孫たち」のために今何を為すべきなのでしょうか。もちろん、何を為すべきかの中には、何を為さざるべきかも含まれる事は自明です。今行っている、例えば資源の浪費や廃棄物の放置は、急速に抑制し無くすべきででしょう。つまりは、資源・エネルギーの浪費生活は、止めるべきなのです。

為すべき事は明らかでしょう。豊かな資源や財産を、将来世代のために蓄積し、温存し、それを残しておく事でしょう。使ってしまった、地下資源は回復する事は叶わないのでしょうが、例えば伐採して裸になってしまった山に木を植え、森林を回復する事くらいは可能でしょう。再生可能型エネルギー源の割合を可能な限り増やし、代わって危険な原発や化石燃料をがぶ飲みする火力発電所も計画的に減らして行かなければなりません。今、国が建てているエネルギーミックスの計画は、単にそれぞれの割合を示しているだけで、絶対的な数値目標とはなっていません。政治主導という名の「無計画」は、ソロソロ止めにしなければならないでしょう。一方で、右肩上がりの時代には、確かにお役人は手腕をふるっていましたが、彼らの能力は右肩下がりの時代には殆ど無力です。というのも、彼らが得意とするのは外挿法、即ち今年の実績に係数を掛けて、次年度以降のの計画にする掛け算に過ぎないからです。

そうではなくて、私たちは先ず7世代後のあるべき社会の理想を掲げなければならないのです。7世代と言えば、たぶん200年後くらいにはなるのでしょうが、少なくとも200以上前のご先祖様の中には、「国家百年の計」を掲げていた政治家も居た筈なのですが、残念ながら今その様な演説を行う政治家は皆無です。その結果、7世代後どころか、次世代の生活の質の低下さえ危ぶまれる時代になってしまったのです。現世代のための景気回復など○○喰らえ、と叫ぶしかありません。必要な行動は、100年後、200年後の子孫のための「持続可能な社会の仕組み」を考え、構築していく事だけなのです。

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2018年8月31日 (金)

3496 7世代後の幸福

同じ様な表題で以前にも書いた様な気もしますが、なにしろ10年以上も続けて投稿していますので、繰り返しになるかも知れませんが、近年の自己チュー人間に警鐘を鳴らす意味で、書いておきます。これは多分、何かの本に書かれていたアメリカ原住民(Native Ameriacan)の話だった様に記憶しています。それによると、彼らが部族として何か重要な決め事が必要になった際には、部族の長が決める訳ではなく、かといって多数決に頼るのでも無いそうなのです。

彼らの決め方は、その決議が「果たして7世代後の子孫の幸福につながるか?」という問に、Yesでなければならないというものだと言うのです。それは、自分達世代の幸福を横に置いといて、子孫の、それもまだ見ぬずっと先の子孫の幸福を優先させるというのが彼ら部族の方針だという事なのです。これは、自己チュー世代が蔓延している現代社会に警鐘を鳴らす行動だと言えるでしょう。現代社会は、自己チュー社会と言うよりはむしろカネチュー社会だとも言えるかも知れません。現代は、経済(お金)中心で社会が回っていると感ずる場面も、実際にも報道などでも多く見聞きするところです。政治屋はと言えば、出来るだけ長く椅子に座り続け、憲法を改正して「歴史に名を残そう」などという「さもしい」自己チュー目標を掲げ、その他の重要課題(例えば、原発の廃炉問題や国の赤字体質や拉致問題や新産業興しなど)を塩漬けのままに先送りしてしまうのです。おっと、このブログではご法度の批判になりつつあります。

そうではなくて、私たちは借金や問題を子孫に先送りしてはならないのです。我々世代で起こした問題は、我々世代が生きている内に解決する努力をしなければ、後の世代から激しい「無責任の誹り」を受けてしまうでしょう。赤字が拡大している家計で、景気を良くするためとはいえ、更に出費を増やす事はしないでしょう。赤字の解消は、先ずは財布の紐を締める事から始めるしかないのです。政治屋の数を減らし、官公庁が率先して支出を減らす努力を見せれば、国民も少し重い税負担にも耐える姿勢を見せる筈なのです。税金を取り易いところから徴収し、一方では財布の紐の緩め続けて、財政赤字を垂れ流す現世代の行動が、7世代後の子孫を幸福にするなどとは、絶対に想像できないでしょう。

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2018年8月30日 (木)

3495 脳と心2

3494の続きの様なものです。脳は、情報処理装置である事は疑いがないのですが、進化の過程で心を持ってしまったのは、考えてみれば不思議でもあります。もし生き物としてのヒトが、お腹がすいたらエサを食べ、危険が近づいたら戦うかあるいはサッサと逃げてしまう、或いは何もしないでじっと耐えるだけを判断するのであれば、いわゆる脳の自動制御系か「反射行動」に任せておけば十分なので、心などは不必要でしょう。

しかし、生き物としてのヒトは、ある時期以降心を持ってしまい、結果「人間」に進化してきたのでした。ヒトと人間の違いは、ヒトは生物としての定義であるのに対し、人間とは社会的存在としての定義になるという点でしょう。たぶん人が他の人々との「間」で暮らすから「人間」という言葉が生まれたのでしょうか。人が他人と群れて暮らすためには、他の人の行動に注目し、良い行動をしていれば好きになったり真似たりし、悪い行動なら忌避し、或いはそれに反発し、排除しなければならないでしょう。その中間なら、あまりストレス無く行動を共に出来るかも知れません。

いずれにしても、ヒトが単独ではなく、他の人々と群れて暮らすためには、単なるOnOffあるいはYes or Noのフラグだけの単純な制御系では立ち行かなくなるのは目に見えています。それを調整するために、心があるいは言葉が(たぶん同時に)生まれ、不文律というオキテや明文化された法律も整備されていった筈なのです。つまり、脳の中に生れた心とは、取り得る値がOn(1)かOff(ゼロ)かのフリップフロップ回路ではなく、その間の限りないグラデーション値を選び取るためのアナログ性にあると思うのです。ある人やその人の行動が、好きか嫌いかではなく、何がどの程度好きで、逆に別のどの点がどの程度嫌いかを決める役目が心にはあると思うのです。

その結果、好きと嫌い、或いは正義と悪が同居する事にもつながり、人の心には「悩み」が生ずるのでしょう。心はアナログ性があると上に書きましたが、しかし脳の個々のシナプスはフリップフロップ回路である事の事実なので、最終的にはどちらかに決めなければならないのもまた間違いないのです。悩んで悩んで、最後には自分がどう判断するか(行動するか)決めなければならないのが心の役割であるとも言えそうです。

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2018年8月29日 (水)

3494 休題(脳と心)

環境題とは離れますが、これは自分自身の長年のテーマでもあります。何となく、脳は心の「座」である事は薄々感じてはいますが、では具体的にどの場所に、どの様な形で存在しているのかと問われれば、分からないと答えるしかありません。Y老孟司は、「唯脳論」の中で、形のある脳は「構造」で形の無い心はそこで働く「機能」であると説明しましたが、これでも何となく分かった様で、やはり判然とはしませんでした。

しかし、最近読んだM野隆司の「脳は何故心を作ったのか」で、完ぺきではありませんがかなりの程度納得できました。彼は、脳の機能をたくさんの小人(機能ユニット)の集まりとして説明しようと試みました。例えば、脳の中にはリンゴを赤いと認識するユニット、リンゴを丸いと感ずるユニット、リンゴを甘酸っぱいと感ずるユニットなどが存在し、全体として脳はリンゴを認識できるわkです。問題は、それら多くの小人を統率する「指揮者」が居るのかどうかですが、彼はそんなものは居ないと断言します。つまり、小人たちは勝手に蠢き、多数決で時々の機能を発揮すると主張するのです。これはある意味で非常に分かり易い説明だと言えます。つまり、私=私の脳が、リンゴを食べたいと欲した時、ミカンや梨やリンゴの入った籠の中から、視覚ユニットを駆使して、赤くて丸いリンゴを選び取ります。然る後に、それを口に運んで噛み砕き甘酸っぱい味を、味覚ユニットが感じ取ります。その時点では、既に視覚ユニットは活動を停止している訳です。

M野は、「私」の心を、それらのユニットをコントロールしている指揮者ではなく、それを眺めている「観察者」として位置づけているのです。観察者ですから、心は事態の成り行きに任せるしかなす術は無いのです。リンゴを食べたいと欲したのは、喉が渇いて、果物を食べたいと感じた小人と、過去にリンゴを食べて上手いと感じていた小人が、相談して多数決でリンゴを手に取るという行動に出たのであって、観察者である「私」は、単にそれを彼らの多数決の成り行きに任せただけ、とも言えるでしょう。

その考え方を認めると考えると、私=私の心は非常に気楽になれそうです。小人たちは、これまでの経験を元に、多数決の方向を決めるでしょうから、その成り行きに任せるという事は、自分のこれまでの経験則の方向に従って行動する事を意味します。つまり、自分の行動=自分の小人(脳ユニット)達の総意である訳です。もちろん、観察者の強い意志によって、小人たちの総意を変える可能性はありそうに思えます。ただし、その事自体も単に観察者=私にとって都合の良い小人のグループをえこひいきする事に近い様な気もするのです。たぶん続きます。

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2018年8月28日 (火)

3493 二季?

幸いな事に、この国には四季というものがあります。南の方の地域には、雨季と乾季しかない国々も多い事を考えると、やはりラッキーです。四季は、当然の事ながら23.5度という地軸の傾きと、地球の公転によって生まれますが、その天体としての動きに加えて、海洋や大気の動き、更にはそこに生きる生物などの活動が入り混じった全体的な結果だと言えるのです。

天体の動きだけを考えれば、夏至の時期が最も暑く、冬至が最も寒い筈なのですが、実際はそうはなっていません。実際には、6月下旬ではなく、7月末か8月初めに暑さのピークが来ますし、寒さのピークは12月末ではなく1月下旬か2月初めになっています。それは、地球の大地や海洋が暖まり、或いは冷えるのに時間が掛かる(時間遅れがある)事に加え、夏場の植物やプランクトンの活動、氷雪や雲による太陽光の反射率(アルベド)の変化なども絡んでくる訳です。この国の四季がはっきりしているのは、これに加えて極気団を取り巻く偏西風(ジェット気流)の存在も大きく関わっているのです。ジェット気流は、寒気を縛る鉢巻きの様なもので、それより北(南半球では南)では、冷涼で乾燥した大気が気候を支配し、それより赤道に近い地域では暑く湿潤な気候が支配しているからです。季節によって、極気団は増大したり、後退したりを繰り返しますが、それが中緯度地方にあるこの国を跨いで南北に移動するために、夏と秋、或いは冬と春の境目が明瞭に感じられるのです。

しかしながら、近年は特にこの国の南側ではさながら熱帯の様に、暑い夏と冬の「二季」に近い状況が観測されつつあります。つまり、例えば夏が5月頃から10月頃まで続き、11月頃に突然寒さがやってくる様な極端な気候です。冬はそれなりに寒いのですが、春が短くあっという間に暑さがやってくる気候サイクルになってきた様なのです。これは、ジェット気流の位置で言えば、春秋にこの国の上に居座る期間が非常に短くなってしまった事を意味します。これは、森林面積の縮小や海洋温度の上昇傾向、何よりいわゆる「温暖化」傾向が大きく関与している事は疑いないでしょう。

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2018年8月26日 (日)

3492 チベット高気圧と太平洋高気圧

今年の夏の気圧配置の特徴として、「チベット高気圧と太平洋高気圧の重なり」が指摘できそうです。本来、大陸性の高気圧は寒冷な極地方や高山帯に生ずる下降気流によって形成され、一方太平洋高気圧は、夏季に相対的な温度差によって海洋に生じた弱い下降気流によって蓄積された気団であると言えます。本来、異質な2つの気団が重なるとはどういう意味を持つかを考えてみると、鍵はその高さにあると言えそうです。

つまり、チベット高原に発する高気圧、本来背が高く、一方で海洋に生れた高気圧は、比較的背が低い筈なのです。従って、両者は性質も異なり、高度も異なるので、重なったとしても長続きはしないで、別々の動きをしていたのでした。しかし、今年はそれらがくっついて、長く繋がり合っていたため、晴天が多く強い日射と相俟って南からの暖気を引き上げ続け、或いは熱帯低気圧の北上をブロックし続けた結果、酷暑で変化球台風を生み出していた様なのです。高気圧(低気圧も同じですが)、気圧さえ同等であれば、お互いにくっついて繋がってしまうのは、致し方ないのですが、気温や湿度が異なる高気圧の場合、大気が不安定になり易く、例えば背の高い積乱雲が発生し、結果豪雨や突風や竜巻やヒョウといった、過激な気象現象も起こり易くなるのです。

さて、問題はこれがこの夏だけの一過性の現象なのか、或いは今後も同様の傾向が続くのかですが、特に夏場の偏西風の弱体化は今後とも大きくは変らないと言われていますので、残念ながら今年の異常気象は、今後は「例年並み」になりそうだと思われます。これは、一にも二にも、北極海の温暖化(夏場の浮氷消失)により、中緯度地域との温度差が小さくなっていく事と密接に関連しているのでしょうから、今の異常気象もやがては平年並みと呼ばれる様にならざるを得ないのです。

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2018年8月18日 (土)

3491 旱魃と豪雨2

旱魃はさておき、豪雨に関しては地上の天気図だけを見ていても、その原因は分かりにくいものです。地上の気圧配置と併せて参照しなければならないのは上空の寒気です。寒気は、極地方に蓄積されていて、その縁を回るジェット気流によって「縛られて」いるのが状態ですが、そのジェット気流は、極気団から吹き出した寒気が、コリオリの力で押し曲げられて北半球では強い西風になるものです。従って、極地方の気温が上がって、中緯度地域との温度差が小さくなると、寒気の吹き出しやジェット気流も弱くなり、結果としてジェット気流の蛇行が起こり易くなるのです。つまり、寒気団を真上から見ると、円に近かった筈の気団が、さながら「クローバーの葉」の様に、3つまたは4つ程度に歪んでくるのです。この結果、突き出した葉の部分が回ってきた地域では寒気が南下しやすくなって、寒冷化や気候の急変(雷雨や豪雨や竜巻など)が生じ易くなり、逆に葉と葉の間の温暖域に入ると、南から暖気が上がってきて、湿気の多い熱波や旱魃が発生する事になるのです。

注意したいのは、この寒気のクローバーの葉は、極から見れば反時計回りにゆっくり移動するのですが、その回転スピードが数か月サイクルという長い周期を持っているという点です。これを利用して、長期の気象予報も行われる訳なのですが、一方でこれが猛暑や寒気の影響が長い期間に亘って続く原因ともなるのです。この夏の猛暑も、既に2か月に及ぼうとしていますが、9月も気温が高い予報となっているので、結局3か月程度持続した事になりそうなのです。極気団が円形ではなくクローバー型に歪む傾向は、既に20世紀後半には時々現れてはいたのですが、近年その頻度や歪みの程度がひどくなっている事は間違いありません。私たちは、今後ともこの激しすぎる気象と付き合って行かなくてはならないのです。残念ながら。

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2018年8月16日 (木)

3490 旱魃と豪雨

ある地域では旱魃で水不足、一方別の地域では、短時間豪雨による水害や土砂崩れなど、最近の気象は極端に走る傾向がありそうです。その原因を少し考えてみると、どうやらコリオリの力によるものの様な気がしています。地球の自転により生じ、流れに渦が生ずる原因がコリオリの力なのですが、台風の衛星画像を見ても気付く様に、それを取り巻く雲は、決して一様ではありません。筋状の雲が螺旋を描きながら、台風の周りに集まっている様に見えます。

これは、どうやら降水をともなう場合、大気中の水分が偏在し易い事を示している様な気がします。つまり、降雨とは雨粒の核になるエアロゾルに周りの過冷却した水分がくっつき、大きく膨らむ結果、上昇気流が支えきれなくなったサイズの水滴が落下してくるものですが、当然の事ながら雨粒を送り出したエリアの大気の「絶対的湿度」は下がります、しかし大気はコリオリの力によって旋回していますから、雲が描く形は筋状の雲の螺旋になる訳です。その螺旋に水分を供給するのは、海洋性の暖かい高気圧の縁を回る南寄りの風や、熱帯で水分を抱えて北上してきた熱低や台風である事は論を待ちません。

近年の温暖化傾向は、低気圧や高気圧のあり様にも変化をもたらし、より上昇気流の強い低気圧や、より温度の高い海洋性高気圧などを生み出してもいます。結果として、筋状(線状)になった雨雲に襲われた地域では豪雨に見舞われ、それが外れた地域では雨不足に陥る訳です。夏場は偏西風が弱いので、同じ気圧配置が続く時間が長い事もあって、各地で豪雨被害が続出する結果になるのでしょう。

ちなみに、線状の雨雲(線状降雨帯)が、川の流れと重なった時が最も注意を要する状況です。それは、川の上流から下流に至るまで雨が集中して川に大量の水を流し込む事を意味するからです。もちろん、一時的で大量の降雨は、脆い地盤を流動化させるでしょうし、洪水に加えての土砂崩れ被害も頻発する事になります。広島など西日本の豪雨被害や鬼怒川が氾濫した時などがまさにその状況に一致するのです。私たちは、この旱魃と豪雨の繰り返しにも対応できる、社会インフラのあり方を指向して行かなければならないのでしょう。例えば、被害が想定される短時間降雨量は、もはや多くの自治体が採用している50/時では不十分で、少なくとも100/時で考えて、それに耐え得るインフラとする必要があると思うのです。

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2018年8月13日 (月)

3489 休題(遠征雑感)

仕事出張のついでの、栃木・群馬の山遠征で感じた事を少しまとめてみます。今回、栃木の男体山から始めた遠征では、改めてこの国の山々が、激しい火山活動で形造られてきたことを強く感じました。コニーデ型の男体山と、火山活動の結果谷がせき止められて中禅寺湖が出来、華厳の滝が現れた古代の激しい景色を想像すると、ある種の感慨を禁じ得ません。引き続き登った、奥白根山でもやはり粘性の高い溶岩で出来たと思しきドーム型の山頂とそこに出来た爆裂の跡は印象的なものでした。

一方で、今回最後に登った至仏山では、山が出来てからそれが自然の中に同化していった姿を見る様で、尾瀬ヶ原と共に植物・動物が、岩だらけの自然に入り込んで行った様子が興味深かったです。最初は胞子で増えるコケ類やシダ類が、次いで鳥たちが種子を運んでくれた高山に適応できた植物たちが根を張り、やがてそこに昆虫や小動物が暮らす様になったのでしょう。そこに、何万年の月日が流れたのかは知りませんが、いずれにしてもヒトの歴史よりは十分に長い期間である事は間違いありません。

高い山々は、冬に深い雪を戴き、それが水源となって作物が水を必要とする初夏まで里に水を供給し続けます。しかし、近年の極端な降り方をする雨は、それらの雪(雪渓)を急激に減らし、山間の棚田でも渇水の危機に瀕する事も多い様なのです。やはり、地球全体の気温が上昇した結果、大気中の「絶対的な湿度」が上昇した事にその原因があると見るしか無さそうです。遠征の途中に出会う、道路脇の小規模な沢の崩落を目にするにつけ、ちっぽけな人間に何が出来るのだろう、と考え込んでしまいます。

雄大な自然に分け入るという事は、改めて自分の(人間の)ちっぽけさを実感する体験でもあります。大自然の大きさと、それを形成した悠久の時間に比べ、人間の非力な事と、長くても百年弱の人生を比べてみる時、人間はもっと謙虚に、自然に同化する形で暮らさなければ、と改めて感じた短い遠征でした。

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2018年8月 1日 (水)

3488 遠征休稿

明日(8/2)から仕事と引き続きの登山遠征のため、1週間以上休稿の予定です。

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2018年7月31日 (火)

3487 ブロッキング現象2

3486の補足です。物理学の用語に「エントロピー」というものがあります。一言で言えば、物理現象における不規則性の度合いを示す概念ですが、例えば熱力学的にエントロピーが最大の状態とは、その現象が起こっている「場」で、至るところ温度が同じになってしまう事を指します。至るところ温度が同じなのですから、最早熱の移動は起こりません。これを「熱的死」と呼ぶ場合があります。

投稿者は、気象におけるブロッキング現象とは、実はこの熱的死に至る過程なのではないかと疑っているのです。北極t赤道の間の気温にあまり差が無くなってしまうと、温度差が作る気圧の差も小さくなり、その結果風も弱まり、最終的には風の影響を受け易い海流さえも弱まってしまうでしょう。つまり、朝から晩まで、或いは季節が移っても、風が弱く、海もベタ凪状態が続く事になるでしょう。熱的死は、季節を無くし、まるで時間が止まった様な陰鬱な世界となると想像できるのです。

熱的死に近づくと、当然の事ながら自然の多様性、植物相や動物相も単純になり、全くつまらない世界にもなってしまう筈です。四季のハッキリしている日本の様な中緯度の国に住む人々が、果たしてその様な世界に住む事に耐えられるでしょうか。投稿者としては、御免蒙りたいと思ってしまいます。常に夏の様な、生暖かくベタッと風の弱い日常など想像すらしたくないのです。集荷秋冬があり、夏は暑くても、冬には雪が降って貰いたいのです。春の芽吹きや秋の紅葉も毎年この目で見たいのです。

このブログでは、今後とも忌むべき熱的死を回避するために、私たちが何を為すべき事を考えていきたいと思っています。

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2018年7月30日 (月)

3486 ブロッキング現象

地球の気候温暖化に関連して、今後重みを増してくるであろう気象用語として、「ブロッキング」がありそうです。そもそも、地球規模での気象現象の重要なカギを握るのは、極地方と赤道地域の温度差と海洋循環でしょう。前者は、北極や南極に冷たい空気の塊り(極気団)を形成し、それが吹き出す際の気流が、地球の自転によるコリオリの力で「ジェット気流」となる大気循環の原動力となっています。後者は、いわゆる「熱塩循環」という千年単位の熱循環に関係する大きな海洋循環と、エルニーニョやラニーニャと言った、表面層に近く比較的短期の気象変動に関係する局所的熱循環に関係している訳です。

さて、温暖化とりわけ夏場の極地方の温暖化は、結果として極地方と中緯度地域との温度差の縮小を招き、これは最終的にはジェット気流の速度も小さくなる事を意味します。ジェット気流は、中緯度地域の気象変化に重要な働きをしていますから、例えば移動性高気圧を動かすエンジンとしても働いている筈なのです。しかし、このジェット気流が弱まり、大きく蛇行する様になると、この蛇行のポケットでは、低気圧も高気圧も動けなくなってしまうのです。これがブロッキング現象です。

今回の台風12号の異常な動きも、このブロッキングに関連している事は、気象の素人である投稿者にも容易に想像できるのです。つまり、例年の様に北上し、やがてジェット気流に流されて北東の方向に進む台風のルートとは、明らかに違っているのを見ても、その原則が崩れているのが分かるからです。モンゴル高気圧と太平洋高気圧が、頑として居座り猛暑が続いているのも同じブロッキング現象の為せるワザでしょう。

猛暑が、極東の端っこにある日本だけではなく、北米やヨーロッパ、ユーラシア大陸を含めた地球規模である事は、日々の報道でも明らかですが、このブロッキング現象も、今後悪化はしてもなかなか改善する事は期待できそうもありません。たぶん、どこかの火山が大噴火を起こし、数年間続くような地球規模の冷涼化が起こるなどの天変地異くらいしか、この事態を動かす「気象事件」が起こる事は無さそうなのです。残念ながら。

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2018年7月29日 (日)

3485 猛暑対策3

猛暑対策の切り札は、たぶん「輻射冷房」に尽きるでしょう。輻射冷房とは、天井や壁に細管を埋め込み、そこに比較的温度の低い水をゆっくり流して置く冷房法です。この冷房法が体感できるのは、暑い戸外からトンネルの中に入った場合などになるでしょう。トンネルの入口は、外気温度と同じなのですが、トンネルの壁は「地温」になっているので、ヒンヤリと感ずる事ができるでしょう。この時、温点で感ずる輻射温度は低く抑えられていて、地温に近いものとなっている筈です。つまり、例えばその時の外気温が35℃あっても、体感温度は20℃程度になっているという事になるのです。

体感温度とは、温点が感ずる「周囲の輻射温度の平均値」ですから、体全体が包み込まれる室内の様な環境では、天井の温度や壁の温度が、例えば25℃であれば、体は25℃に感じてしまう筈なのです。天井や壁の温度を25℃程度に保つには、たぶん20℃を下回る井戸水程度の水温で十分ですから、エアコンの様に25℃の吹き出し温度を得るために、ヒートポンプを回して6-7℃の低温を得る必要はないのです。つまり、輻射冷房は、省エネ冷房でもあるのです。難点は、設備投資額の高さですが、住宅全体ではなく、居間など狭い範囲の施工であれば、それも限定的でしょう。床暖房に使う市販のパネルユニットがそのまま使えるでしょう。

この輻射冷房の最大の利点は、冬にはこのパネルに30℃程度のぬるま湯を送れば、そのまま快適な「輻射暖房」に切り替える事ができる点です。冷房も暖房も、空気の吹き出しは不要なので、エアコンやダクトにホコリが溜まったり、カビが生えて健康を害する心配が無いのも大きなメリットでしょう。その意味では、このシステムは事務所ビルや病院など、不特定多数の人々が出入りする場所でも、空調ダクトを通じて広がる感染症予防には、非常に有効である事も間違いないでしょう。いずれにしても、輻射冷暖房を云々する前に、日本のビルや住宅の断熱、遮熱性能ですが、例えば欧州の住宅などに比べれば最低レベルである点は、早急な対策が必要である事は論を待ちません。

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2018年7月28日 (土)

3484 猛暑対策2  7/28

猛暑の日に暑さを感ずるのは、体の表面にあるセンサー(温点)だと想像しています。その温点が何を感じているかと言えば、熱線(赤外線)で間違いないでしょう。赤外線にも色々な波長のものが混じっていて、例えばそれが体の周囲全てで35℃相当である場合、体から汗が吹き出す様に仕組まれているのでしょう。もし、汗が出てそれが蒸発する際に熱を奪って、体表面や下着の内側が30℃を下回れば、少し涼しさを感ずる筈なのです。この事を少し考えてみると、温点を誤魔化す方法にはどうやら2つありそうです。

先ず一つは、温点に到達する赤外線を遮断してやることです。気温が35℃を超える様な猛暑の日、室温が30℃以下でも、空や雲から窓を通じて届く輻射温度は、35℃相当になっているのです。従って、体感温度としては35℃になるので、熱く感ずる訳です。もし、性能の高い赤外線反射フィルムを窓に貼っておけば、体感温度はグッと低くなるでしょう。もちろん、建物の断熱性が髙ければ室温の上昇も抑えられるでしょうから、更に体感温度は低下するでしょう。

もう一つは、体表面からの発汗を活発にし、それを上手く蒸発させる方法です。最近は、その様な効果を持つ下着も開発されている様ですから、それらも活用したいものです。もちろん、発汗を活発にするためには、そのための少しの「訓練」も不可欠でしょう。エアコンに慣れ過ぎると、発汗作用が不活発になって、汗腺が縮小し汗かきが下手になってしまうからです。何しろ寒い時期に生れた人には、生まれつき汗腺密度が少ないとさえ言われているくらいです。汗を上手く蒸発させるには、加えて風が必要です。風速1mで体感温度は1℃程度低下すると言われていますので、扇風機を「弱」にした程度でも風速は2-3m程度になりますから、体感温度も2-3℃は下がる勘定です。もちろん、3483で述べたデシカント冷房で湿度を下げると、汗の蒸発が加速されますので、体感温度の低下はそれ以上に感ずるでしょう。打ち水も、同じ利用で地面温度を下げ、輻射温度も下がる結果、体感温度を下げる効果が期待できるのです。

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2018年7月27日 (金)

3483 猛暑対策

さて、命に関わる猛暑の対策ですが、外気温度を下げる事は流石に科学の力を以っても無理だと思うので、先ずは室内での対策を考えてみましょう。室内温度を下げるには、手っ取り早くはエアコンを回す事でしょう。エアコンは、いわゆる「ヒートポンプ」なので、原理としては室内の熱を汲み上げて、それを外に捨てる機械であると言えます。(もちろん冬は逆サイクルを回します。)従って、熱を外に捨てるためには、室外機の排気温度を外気温より高く設定する必要があり、室外機付近はムッとするくらい高温になるのです。

しかし、もし気温は30℃でも、湿度だけでも例えば50-60%に下げられれば、出た汗の蒸発する気化熱で涼しさが感じられる筈なのです。いわゆる「除湿冷房」です。何らかの方法で、室内空気の湿度をドンドン下げて行けば良いのです。電気店に行けば、梅雨の時期の室内干し対策として、除湿器が売られていますが、その中には、たぶんデシカント式とコンプレッサー式とそのハイブリッドの3種類がある筈なのです。デシカントとは、除湿剤の事で多くはゼオライトが使われている様です。コンプレッサー式は、小さな冷房機と考えて良いでしょう。問題は、市販の除湿機の能力が小さい事と、デシカント式にしてもコンプレッサー式にしても、それなりに電気代が掛かるという点です。デシカント式も、水分を吸ったデシカントを再生させるためには「電気ヒーター」で温めてやる必要がありますし、コンプレッサー式は常にモーターを回してやる必要があるのからです。

投稿者が有望だと思っているのは、家庭用除湿機よりかなり大型の除湿ローターで、より多くの空気中の水分を除いて、室内の湿度を下げる方法です。除湿ローターは、十分に水分を吸ってやがて飽和状態になりますから、水分を吸わなくなります。そこで水分を飛ばす「再生」が必要なのですが、それを太陽熱で行なうのです。具体的には、太陽熱集熱器で70-80℃程度の温風を作り、その温風でデシカントを再生して(乾かして)やるのです。ローター状のデシカントとしておけば、これをゆっくり回転させれば、除湿と再生が連続的行えるのです。

このシステムでは、太陽がギラギラ輝くほど、室内の空気をカラカラに除湿できますから、猛暑でもちっとも怖くない訳です。もし、気温も下げたければ超音波式の加湿器を併用すれば、水が蒸発する際に気温を下げてくれるでしょう。このシステムに使うエネルギーは、デシカントローターをゆっくり回す小さなモーターと部屋の空気を循環させる扇風機程度のファンだけなので、エアコンに比べれば、たぶん一桁少ない電力量で冷房が実現できるのです。私たちは、猛暑に対応するためと言いながら、エアコンをバンバン回し、更に温暖化を加速するCO2をドンドン増やす訳にはいかないのです。

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2018年7月26日 (木)

3482 猛暑と温暖化効果ガス2

3481の補足です。CO2やメタンなどの温暖化効果ガスに対し、水蒸気が「共犯」ではないかとという説を支持するのが、水蒸気の性質です。データによれば、温度と、飽和水蒸気量は直線的に比例するのではなく、二次曲線を描いて増加するというのです。たとえば、30℃で1㎥の空気が最大含む事の出来る水蒸気(飽和水蒸気量)は、30gを少し超える程度ですが、これがたった5℃上昇するだけで、その量は39gを大きく超えるのです。その増加量は、9.3gになります。一方、気温が低い場合、例えば15℃から20℃のレンジを見た場合、その増加量は4.4gに留まるのです。

今まさに、日々の気温が35℃を上回る様な気候になっていますが、卵が先かニワトリかの議論はあるにしても、間違いなく絶対的な湿度(空気中の水蒸気量)は格段に増加している事は疑いないでしょう。つまり、相対湿度が同じく80%と表示されていたとしても、気温が30℃の時と、35℃の時では、水蒸気量には30%の開きがあるという事になるのです。気温の増加は、温暖化効果ガスの一つである水蒸気量を急激に増やし、その結果更に気温を上昇させるという、いわゆる「温暖化の悪循環」に陥ってしまうのです。もちろん、これは海洋性気候で、夏場は暖かい海から十分な水蒸気が供給されるという東アジアの気候の特徴であるとも言えます。

しかしながら、本当に恐ろしいのは、北極圏の気温上昇なのです。この夏、北極海の浮氷のかなりの部分は消失した結果、氷による日光の反射率(アルベド)が低下し、夏場は一日中陽が差していた北極海表面の海水温がかなり上昇したと考えられます。当然の事ながら、海水温が上がればそこから蒸発する水蒸気量も増えて、結果として気温上昇した筈です。実際、この夏は北極圏でも30℃を超える気温が報告されているのです。何が恐ろしいかと言えば、この気温上昇でツンドラ(凍土)が溶け出して、沼地化する結果、沼地から最強の温暖化ガスであるメタンがボコボコと湧き立つ事です。実際近年では、これまで凍土の中に閉じ込められていた、冷凍マンモスが次々と掘り出される様になった事がその証左でしょう。この先、温暖化は一体どうなるのか、どうやら予想をはるかに超えるスピードで加速している事は間違いなさそうです。

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2018年7月25日 (水)

3481 猛暑と温暖化効果ガス

各地で、「命に関わる猛暑」が続いています。しかしながら、40℃ソコソコの気温であれば、赤道に近い場所や砂漠の国々では、ごく普通に現れる気温であるとも言えるでしょう。砂漠の気温の特徴は、その日較差にあると言えるでしょう。つまりは最低気温と最高気温の差です。砂漠地帯では、その差が40℃に上る事も珍しくはありません。つまり、50℃になった日があっても、翌日の夜明け前には10℃前後にまで気温が低下するのです。これは、砂漠地帯では空気中の絶対的な湿度(空気の単位体積当たりの水蒸気量)が低いので、夜間の放射冷却がグングン進む結果だと言えます。

一方、この国や東南アジアの国々の夏は、モンスーン気候と飛ばれ、夏場は海洋性の高気圧に支配される気候ですから、最高気温が40℃を超えた日では、翌朝の最低気温も30℃前後あったりする訳です。砂漠地帯との大きな差と言えば、大気中の水蒸気量だけですから、次の結論が導きだせます。つまり、CO2やメタンガスなどが、温暖化効果ガスとして目の敵にされますが、実は、「水蒸気(H2O分子)こそ最大、最強の温暖化効果ガスだ」と結論出来るのです。モンスーン気候では、大気中の水蒸気量が多いので、暑さで汗をかいてもなかなか蒸発してくれません。ですので、私たちの体の中に熱が籠って、いわゆる熱中症になり易いのです。しかし、砂漠地帯では水さえ十分に飲んでいれば、汗が出てそれが蒸発しながら体温を下げてくれる結果、熱中症にはなりにくいのです。

もう一つ、湿度が高い弊害があります。それは、湿度が高いと体感温度も高くなる点です。体感温度とは、体の温度センサー(温点)が感ずる気温の事ですが、それは温度計が示す気温と、温点が感ずる輻射温度との平均値であると言われています。湿度が高かったり、周囲の建物や舗装道路の表面温度が高い場合、輻射温度が高くなるため、私たちの体感温度も高くなってしまう訳です。その意味で、残念ながら私たちは、夏場の気温(体感温度)に関しては、世界でも最も条件の悪い「温帯」の国に住んでいると言うしかありません。対策については、続きます。

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2018年7月24日 (火)

3480 分散システムのメリット

今の科学・技術を前面に押し出した文明では、一貫してシステムの巨大化を推し進めてきた様な気がします。例えば、発電所を考えてみても、原発などでは1基100万kwもの出力がある発電機が、5-6基も集まっている様な巨大なシステムを構築していて、それを太い送電線網を使って北陸から関東まで送ったりもしてきたのです。システムの巨大化の第一の目的は、効率化だと想像しています。建設も効率的でしょうし、立地を検討するのも集中させれば楽でしょうし、運用面でも少ない人員で、大きなシステムを維持管理可能となるでしょう。

しかし、考えてみれば電力を消費する需要家は、広く分散している筈です。個々の工場やビルや住宅は、網の目の様に張り巡らされた電線網(グリッド)で需要家に届けられるのです。巨大システムで勿体ないと思うのは、巨大化に伴うムダです。上に、巨大化の目的は効率化だと書きましたが、実は大きな無駄も出しているからです。例えば、送電ロスです。送電は、アルミ合金製の送電線を通じて行われますが、アルミは電気の良導体ではあるものの、銅や銀などよりかなり性能が落ちるのです。ざっと言えば、単位長さ当たりの抵抗値は、アルミは銅や銀に比べて2倍近いので、結果としては送電によって2倍の発熱量(エネルギーロス)が生ずる事になるのです。もちろん、銅や銀にしても完ぺき導体ではないので、それらを使っても送電ロスは生ずるのですが・・・。

更に言えば、大きなシステムのメンテナンスに関して言えば、複数あるシステムのメンテナンス停止の期間を考えると、それでも電力不足が生じない様に、余剰システムを抱えておく必要があるでしょう。つまり、定常時5基の原発で構成されるシステムには、メンテナンス時のバックアップのためだけに6基目の発電機が必要になるのです。つまりは、余剰率20%という訳です。しかし、システムの構成単位(ユニットサイズ)が十分小さければ、余剰率も小さくて済む筈です。適正な余剰率は、たぶん5%前後で十分でしょう。それよりなにより、システムを小さくした上で、需要家に近い場所に分散して設置すれば、送電ロスも無視できる様になるでしょうし、災害時の堅牢性(ロバスト性)も高まるのです。

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2018年7月23日 (月)

3479 持続企業(製品)の十分条件

持続企業が持続製品を作り続けるには、原材料が持続可能なものである以外にも条件がありそうです。それは、製品を作るプロセスが持続可能性が髙いというポイントです。製品を作るには、原材料が手元にあるだけでは十分ではありません。モノの形を変えるための設備やプロセスが必要ですし、その設備を動かすためには多大なエネルギーも必要です。更に言えば、如何なるプロセスでも歩留まりというものがあり、必ず不要な廃棄物が出ます。もちろん、歩留まり100%の夢の様なプロセスが存在するのであれば、それはラッキーな事ですが、残念ながらその様なプロセスは非常に少ないのです。非常に少ないと言ったのは、皆無ではないという事です。歩留まり100%のプロセスに近いのは、例えば醸造業でしょうか。酒造りにおいては、精米したコメや糀や水などを使いますが、酒の搾りかす(酒粕)を含めて、ゴミは出ません。精米して削ったコメも何らかの形で再利用しているでしょうから、ゴミにはならないでしょう。

しかし、同じ醸造業でもビールではどうでしょう。原始的なビールの作り方では、殆どゴミは出ませんが、近代的なビールの作り方では、ビールを透明にするために「ろ過」していますので、その際に使う濾材(多くの場合は珪藻土です)を使いますから、それが燃えないゴミになってしまいます。基本的には使い捨てで、燃えませんから埋め立てるしかないだろうと想像しています。

更に言えば、プロセスには多大なエネルギーが必要ですから、エネルギーの消費には必ず環境負荷(例えば大気中のCO2の増加)を伴いますから、持続企業は厳密に言えば自立型の再生可能型エネルギーを追求しなくてはならないでしょう。持続可能型の原材料、廃棄物の無い(少ない)プロセス、再生可能型エネルギーを使って作られた、製品はほぼ持続可能製品と言えそうですが、残念ながらこれらは必要条件ではありますが、十分とは言えません。その製品の使用中の環境負荷(電化製品であれば使用電力)も考慮しなければなりませんし、その製品が寿命を迎えた際にもそれを次の製品のためにリサイクル出来なければなりません。現在使われている多くの製品は、金属+プラスチック+電気基盤などの複合的な材料で出来ていますから、リサイクルには多大な手間とエネルギーが必要です。もし、製品の分解が数本のビスを外すだけのワンタッチで完了し、その結果原材料毎の分別が容易になれば、リサイクルによって生ずる環境負荷は極少になり、真に持続製品に近づくのでしょう。

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2018年7月20日 (金)

3478 追い風と持続製品

ビジネスを展開する上では、もちろん逆風(head wind)に立ち向かうよりは、追い風(tail wind)を利用する様が賢いでしょう。その意味で言えば、今吹いている社会の追い風は何か、と考えてみれば、答えは比較的簡単で、3476に述べた「SDGsの17項目に乗る事」と言い切っても良いでしょう。その17項目のカテゴリーにアプローチする際のキーワードは、間違いなく「持続可能性」でなければなりません。つまり、持続可能な社会に向けた事業を展開していけば、自然にその企業の持続可能性も確実になっていく筈なのです。

ここでは持続可能性の高い製造業(仮に「持続企業」とでも呼んでおきます)の例を挙げてみましょう。現在の製造業の状況を考えてみると、市場で売れそうな製品やそれを作っているメーカーの下請け部品を作って、各期毎で利益を出してさえいれば、当面はなんとか存続できそうです。しかし、持続企業ではそうはいきません。持続製造業では、先ず製品を作るための源材料から吟味しなくてはなりません。つまり、環境に大きな負荷を与える事無しに、持続可能な形で入手できるモノでなければなりません。例えば、古の日本では鉄を「たたら製鉄」で作っていました。砂鉄と、周辺の山で産する薪(炭)を使って行う製鉄ですが、しかし規模が大きくなるにつれて、砂鉄を手に入れるために山を崩した土を水で洗い、薪炭を手に入れるために片っ端から山の木を伐採したために、山野は荒れ果てたのでした。もし、その地域で毎年手に入る量の砂鉄、毎年増加する分だけの薪炭で賄える範囲で、細々と製鉄を行っていたなら、たたら製鉄は長く存続していたのかも知れません。

さて、持続可能性はそれほど高くはない鉄を諦めた場合、それに代わる原材料は手に入らないのでしょうか。そうではないでしょう。例えば、圧縮した木材や純粋な形のセルロースファイバーは、十分に金属に肩を並べる素材になり得ると見ています。山の木を循環的に利用し、その産出する範囲内であれば、持続可能な形で素材を得る事は可能なのです。先ずは、車メーカーが「木製の車」を実用化してみる事が必要でしょう。もっとも密度を高めた場合でも、比重が1.6に過ぎない木の車は、間違いなく軽い筈なので、鉄の車に比べてエンジン(モーター)も小さくて済み、燃費も向上するでしょう。例えば、ここで想像してみた「木製自動車」は、確実に強い追い風を受ける事ができる持続製品なのです。

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2018年7月18日 (水)

3477 ESGとは

アルファベット言葉が続きます。SRI(社会的責任投資)という言葉が流行った時期がありましたが、今はESG投資と呼ぶ事になった様です。ESGとはそれぞれ、「環境」・「社会」・「ガバナンス」の略ですが、それらを意識した投資が、全ての投資家に求められる時代だという事でしょう。とは言いながら、では何をどうすれば良いのかは、言葉だけでは釈然としません。

投稿者の解釈としては、比較的単純で企業経営やガバナンスに当たって、2476に書いたSDGsの17項目を意識しながら当たる、という事に尽きるのではないかというものです。SDGsには、環境も社会も網羅されていますから、それらを意識して企業経営(ガバナンス)に当たれば、ESGは担保される筈なのです。

もちろん、企業経営で常に17項目の全てを意識し続ける訳にはいかないでしょう。というよりあまり難しく考えずに、あらゆる経営決断のタイミングで、より「持続可能性」に近づける方向を選択するという単純なセレクションでOKだと言っておきましょう。例えば、新規の製品を立ち上げようと企画する場合、その原料や製造法あるいは流通や使用済みになった製品の末路まで想像し、持続可能性に照らして旧製品より優れていれば、ひとまずブレーキは掛けずに済むでしょう。

当然の事ながら、旧製品より新製品が持続可能性に優れるからと言って、それは必要条件は満たしてはいるのでしょうが「十分」だとも言えないでしょう。「十分」条件とは、程度の問題だからです。つまり、持続可能性を「高い」レベルで達成して初めて「十分」だと胸をはれるからです。それでも、旧製品より持続可能性(≒環境性能)が劣るモノを世に出すよりはマシでしょうし、少なくとも、ネガティブ・スクリーニング(持続可能性がマイナスになる事を避けるチェック)はパスできるでしょう。いずれにしても、経営者が金儲けだけを考えて居れば済む時代は終わった、というしかありません。

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2018年7月16日 (月)

3476 SDGsに向けて

数日の山行から戻って投稿再開です。最近マスコミでも、このSDGsが取り上げられる事も多くなりました。その持続可能な社会に向けた目標とは、下に挙げる17個ですが、理念としては素晴らしいと分かっては居ても、では日々の暮らしの中で、私たち個々人は一体何を為すべきか、途方に暮れてしまいます。しかし、投稿者としては考えるべき事、為すべき事は比較的簡単ではないかとも思っています。つまり、次の一挙手一投足が、以下の目標に向けての方向を向いている(プラスのベクトル)か、或いはマイナスのベクトルなのかを吟味すれば良いのです。例えば、少し贅沢な外食を考えた時、庶民的なメニューに落として、食費を少し浮かせ、その分を慈善団体に少し募金を寄せれば、目標の1.10.16.などの目標にたとえ半歩でも近寄った事になる筈です。要は、塵も積もれば・・・スタイルで進めば良いのです。個々人だけではなく、企業もこの17個の目標を経営方針に入れ込めば、より永く存続する企業に近づける筈なのです。

1.貧困をなくそう

2.飢餓をゼロに

3.すべての人に保健と福祉を

4.質の高い教育をみんなに

5.ジェンダー平等を実現しよう

6.安全な水とトイレを世界中に

7.エネルギーをみんなに、そしてクリーンに

8.働きがいも経済成長も

9.産業と技術革新の基盤をつくろう

10.人や国の不平等をなくそう

11.住み続けられるまちづくりを

12.つくる責任つかう責任

13.気候変動に具体的な対策を

14.海の豊かさを守ろう

15.陸の豊かさも守ろう

16.平和と公正をすべての人に

17.パートナーシップで目標を達成しよう

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2018年7月 9日 (月)

3475 休稿 

早目ですが、今日から移動で連続の「勝手に山の日」に決めましたので、しばらくは休稿です。

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2018年7月 7日 (土)

3474 未曾有が日常になる時代

近年、気象予報でしばしば「数十年振り」という枕詞を聞くようになった様な気がします。取り分け、数十年振りの降雪や降雨というのがその典型でしょうか。降雪や降雨には、なんといってもその時点の大気中の水分率が寄与する事は間違いないでしょう。もちろん、雪や雨粒の核となる大気中のエアロゾルの濃度も重要でしょう。

その意味で、未曾有の降雪や降雨が観測されている近年は、大気中の水蒸気量(相対的な湿度ではなく、絶対的な水分重量)が、未曾有の状態まで増えていると考えるしかないでしょう。そこまで、水蒸気量が増加したのは、元を質せば海水温の上昇ですが、その大元はやはり地球自体の温暖化である事は、B国の大統領が何とツイッたしても、疑いない事実でしょう。

地球の温暖化を食い止めるには、地道な取組みではありますが、地表面の太陽光の反射率(アルベド)を回復するしか無さそうなのです。アルベドは、極地方の雪氷が特に高く、次いで上空の雲ですが、砂漠などは白い砂だけなので高そうですが、0.3以下になっている様です。森林は、太陽光を良く吸収するので、アルベドは低いのですが、一方で二酸化炭素の吸収源となるので、温暖化にはブレーキを掛ける要素になっています。

極地方の凍土が、温暖化によって解け出し、夏場は沼地になってしまう地域が、特にシベリアやカナダで増えている様ですが、沼地のアルベドは特に低いので、温暖化を加速する悪い要素になっています。沼地は、同時に強力な温暖化効果ガスでもあるメタンガスをだしますので、更に温暖化を加速してしまいます。

大局的に眺めれば、いまや温暖化は、単純に今消費している化石燃料の量を抑制するだけでは追いつかない段階に入ったというべきでしょう。化石燃料の使用を大幅に(半減以下に)進め、現在は裸地となっている地域の緑化を行う事により同時に海プランクトンの増加を図る、即ちCO2の吸収源を増やしつつ、湿地から発生するメタンガスの捕集技術も磨く必要がありそうなのです。人類に残された仕事はまだまだありそうです。もはや、現世代の利益だけを求めチマチマした景気刺激策などに、引っかかっている場合ではないでしょう。

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2018年7月 6日 (金)

3473 体感温度の表示

平均気温や最高気温が、各地で上昇しつつあるのは統計的に眺めても間違いなさそうです。気温とは、温度計(厳密には温度計測器内の熱電対の起電力)の指示値ですが、それとは別に体感温度という指標もあります。体感温度に関連するファクターとしては、気温、湿度、輻射温度(放射温度計=サーモグラフィ―の指示値)、風速等ですが、それらを複合的に「体」が感じている暖かさ、寒さ、快・不快の程度を示す指標であると言えるでしょう。

さて、その体感温度ですが、暖かい(暑い)と感ずる場合、湿度と輻射温度が高まると累乗的に暑く感ずる様なのです。つまり、暑い日に湿度が高く、かつ直接に太陽光が、或いは間接的に全空からの放射が強まると、体は耐えられない暑さを感じてしまうのです。気温が25℃以下に下がる夜間でも、建物の壁が日中の日射で「焼けていると」寝ている間も体感温度は、25℃相当をかなり超えているおそれがあるのです。夜間の気温が下がって25℃を下回り、熱帯夜が回避出来たとしても、時に寝ているお年寄りが熱中症で亡くなる事がある所以です。

その意味で、近年の気候を概観してみると、体感温度を上げる湿度と、乱反射を起こして全空放射のレベルを上げる大気中のエアロゾルやPM2.5の濃度が、いずれも上昇傾向にある事が気になります。投稿者の実感(体感温度)としては、例えば湿度が低くカラッと晴れた日の35℃と、ジメッとしてボンヤリした空から強烈な輻射が降り注ぐ日の30℃は、あまり変わらない様な気がするのです。というより、むしろ後者の方が体にとっては厳しい様にも感じてしまいます。温暖化が進み、エアロゾルも増えてしまった今の地球では、気温は、温度計だけで計測するのではなく、体感温度も併用すべきだと主張しておきます。

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2018年7月 5日 (木)

3472 再エネ価格

誰が情報をブロックしているのかは知りませんが、再生可能型エネルギーのコストが、他の全てのエネルギー源よりかなり安価になっている事実は、殆ど公表されていない様です。中でも、太陽光と大型風力のコスト低下は著しく、いま消費者がそれを選択しない事は不思議でなりません。原発推進派は、既にある原発インフラを活用しないと、さも電力価格が上昇する様な論調で、原発の再稼働を煽り立てますが、どの電力会社が最初に原発から再エネへの舵を切るのかについては、我々消費者としても注目すべきでしょう。

人々は、投資してしまったものを惜しみ、それをなかなか諦める事ができない様です。ましてや、その投資の改修が済んでいない場合はなおさらです。しかし、その方向が間違っている場合は、それを素直に認め、早めに方向転換を目指すべきでしょう。間違って進んでしまった場合、方向転換は、早ければ早い程、正道からの逸脱は小さくて済む筈だからです。

原発は、この国の場合100%海岸部に立地しているのでしょうから、先ずは休止している40年を経過して古くなってしまったサイトには、先ずは風力発電所を建設すべきでしょう。どんな大型の風車を建てても、十分な容量の送電線は既に設置されているので、発電した電力の送り先には何の問題も無いでしょう。高速道路や国道や鉄道の法面には、太陽光発電のパネルをドンドン貼って行きましょう。そうすれば雑草を刈る無駄な手間も費用も大幅に省けるでしょう。国道だけでも、除草費用は年間100億円以上に上るという数字を見た記憶があります。

必要な事は、これらの再エネの発電量と需要家のデマンドをリアルタイムで監視するシステムです。もちろん、再エネの割合が日本よりずっと大きな割合になっている諸外国では、既にこの様なシステムが作られていて有効に働いている事が知られていますで、風況や日照状況が刻々と変わるこの国でもそれは有効に動いてくれる筈でしょう。必要な事は、現世代の都合による政策ではなく、将来世代を利するための現世代の思いやり政策なのです。このブログでも、改めて「原発再稼働絶対反対」を表明しておきましょう。

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2018年7月 3日 (火)

3471 えー、空飛ぶ車

何度も書きますが、このブログは批判をしない事をモットーに書き連ねているつもりです。しかしながら、昨日報道された、政府が(でも本当は誰が?)決めた、空飛ぶ車の開発には強い待ったを掛けたいのです。ドローン程度の目方の飛行物体ならば、最悪でもドローン自体と積載物の物損程度、運が悪ければ地上に居た人やモノが巻き添えを食らう恐れが出る程度でしょう。

しかしながら、人が乗って飛ぶ機体ともなれば、搭乗する人の体重を持ち上げるために、最低でもその数倍は必要でしょう。重量当たりのエネルギー密度が最大のものは、化石燃料なのでしょうが、それをバッテリーでカバーするとなると、さらに重くなりそうです。例えば、離陸重量を500㎏と仮定して考えても、事故が起こると高度100mほどからこんな重量物が「降って」来るわけですから、利便を重視し過ぎた乗客には生存を諦めて貰うにしても、地上で巻き添えを食った人は、まさに青天の霹靂となるでしょう。

便利なモノを発明し、実用化しようと考える人達には、実は回りがあまり見えていない事が多いのです。特に、利便と背中合わせのリスク(事故)には関心が低い様なのです。車を発明したダイムラーやその大量生産を進めたフォードには、交通事故などと言うリスクは殆ど見えて居なかった筈です。どんな機械でも、使っている内に必ず故障し、最後は動かなくなってスクラップになるのです。空飛ぶ車だって、おろしたてでピカピカの内は故障も事故も少ないのでしょうが、2年、3年と使い込む内に、あちらこちらで劣化が起こり、重大な故障は、間違いなく墜落につながるのです。

日々運行されている旅客機が、一体どれほど頻繁に点検や整備が行われているかを考えれば、空飛ぶ車の運用が如何に煩雑になるか想像できるというものです。車の事故は、暴走や停止程度で済みますが、空飛ぶ車の場合は、たぶんギリギリで設計される筈の揚力が足りなくなったり、ローターが停止した場合には間違いなく「車」は、100m程度の高さから落下するのです。もちろん、この高さからパラシュートを広げるにしても、落下する時間は数秒しかないわけで、開傘する前に地上に叩きつけられる事はまず間違いないでしょう。この開発を決めた人達は、物事を全く知らないか、或いは技術を盲信する無謀な輩であると決めつけるしかありません。

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2018年6月24日 (日)

3470 再エネ応援団2

環境人間として活動を始めた50代のある時期、再エネへ取り組むを応援しようと決めたのは、大げさに言えば、それがこの国にとっての唯一の生きる道だと結論したからでした。この国は、かつては(つまり団塊世代が働き手であった時期)人的資源に恵まれた人材大国ではありましたが、資源には恵まれず、今やその頼みの綱の人的資源さえも先細りになりつつある、元気の無い国になりつつあります。少し、批判的な事を書けば、お国はその問題には目をつぶり、お金をジャブジャブにする何とかミクスだとか、十分な宿泊施設や地震対策も無いのに国外から観光客を無理やり誘致するなど、燃え尽きつつある焚火を、無理やり掻き立てて、少ないリソースを使い尽くそうとしている様に見えるのです。

省エネルギー機器の開発は、確かにこの国の企業のお家芸であるとは言えるでしょう。しかし、小手先の省エネだけでは、年々顕著になる温暖化や化石エネルギーの枯渇傾向に伴う混乱を考えると、化石エネルギーを今の半減あるいは数分の一にしなければならない社会にはとても間に合わないのです。エネルギーを今の数分の一にするためには、例えば今の車の延長線上でない、新しい移動手段を提案する必要がある筈なのです。つまり、現在の車、つまりはガソリン車やハイブリッド車やEV車を改良するという発想では、超省エネ時代の実現は無理だからです。そうでなくて、新しい時代の車(移動手段)は、結局は人力車(自転車に代表されます)からの発想でなくてはならないでしょう。自転車は理想的なZEV(ゼロエネルギー車)でもありますが、そこから発想すれば、省エネカーレースでは、何とガソリン1ℓで1,000㎞以上も走る車さえ作られているのです。それを実用化に向けて改良すれば、100/ℓの省エネカーの実用化はすぐにでも見えてくる筈なのです。

それが出来れば、それを動かすための僅かなエネルギーの転換もでき易いでしょう。少量の植物油で動くエンジンなら明日にでも作れるでしょう。木質資源に恵まれた地域なら、前の戦争中に実用化された「木炭自動車」だって再び動き出すかも知れません。効率的な「外燃機関」が実用化されれば、熱を発生させる全てのバイオマス資源が車の燃料に使えるでしょう。これらの挑戦は、決して大企業でなければ完遂出来ないものではないでしょう。数億円のプラントではなく、車程度の小さな規模の再エネなら、やる気と技術力のある中小企業が手を組んで事に当たれば、殆どの難題が解決できると思うのです。再エネ応援団でもある投稿者は、今後もそんな中小企業を応援し続ける事といたします。

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2018年6月23日 (土)

3469 再エネ応援団

昨日は、県境を越えて隣県の中小企業家同友会を表敬訪問した。以前の講演会で、ここの理事の講演を聴講して、投稿者と同じ方向を向いている人だと感じたので、すぐ名刺交換をしていたのでした。中小企業の集団ですから、基本的には大メーカーの様に大型風車だとか、メガソーラーだとか、投資額が大規模の大きなものに参入するのは基本的には不向きです。ですから、彼らが視野に入れるべきは、中小規模の再エネの枠組みになるのは当然でしょう。風車で言えば数kwクラス、小水力ならポンプ逆転水車、太陽光発電なら50kw以下で、直接電柱トランスに接続する規模、バイオマスなら出力50kw前後の中小以下の規模の熱利用かガス化発電などになるでしょうか。

小規模な再エネのキモは、実は標準的なサイズの機器をユニット化し、必要な規模に応じてユニット数を増やすというアプローチだと思うのです。面談した理事は、結構再エネ先進地域である欧州の視察にも複数回行っていて、海外の事情には詳しい方でしたが、国内はまだまだだろうとの認識でしたが、昨日の雑談では、投稿者も関わっている50kw規模程度の畜糞などをメタン発酵させるバイオガス発電やバイオマスを乾留するガス化発電などの国内における現状を説明し強い興味を持って貰えたようです。

投稿者は、「再エネ応援団」を自認していますので、同じ方向を向こうとしている中小企業を応援してきましたが、近くこの同友会メンバーとの雑談ミーティングを開催する事を約して帰ってきました。今日は短く。

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2018年6月22日 (金)

3468 非電化製品

表題の非電化を標榜する工房もある様ですが、3468に関連して、災害に強い非電化製品について考えてみる事にします。非電化ですから、電力は基本的には使わないという前提です。もちろん、小さな風力や水力や太陽光などを使って、化石燃料を使わずに便宜的に使う小電力は除外する事にしましょう。ですから、利用できるものとしては、人力を主体として、太陽光、太陽熱、小水力、小風力、地中熱、場合によっては畜力などなどですが、どこかの駅でも実験された様に、人々が歩く際の振動もエネルギー源にはなる様です。

さてそれらを利用した製品ですが、まだ少ないですがいくつかは既に実用化され製品として流通しています。代表的なものは「自転車」です。これは、ドライバー自身が足を動かして動力を生み出し、移動の動力とするもので、既に究極の形状や機能に近づいていると思われます。少し別の例ですが、体温で駆動する腕時計も非電化製品に分類しても良いでしょう。体温と外気の僅かな温度差を利用する熱起電力で省エネ型に設計された時計のムーブメントを駆動するものです。ハイテクを使ったややこしい製品を想像しなくとも、投稿者が子供の頃は、電力や内燃機関を使った動力源は限定的にしか使えなかったので、身の周りは非電化製品だらけだったのです。

例えば、モノの移動にはリヤカーが活躍していました。市内のちょっとした引っ越しなどは、リヤカーで済ましていたものです。製品の運搬にも大活躍していました。少し距離が遠い場合には、頑丈な自転車の後ろにリヤカーをけん引して使っていたものです。その頃の暖房器具はと言えば、専ら炭火による火鉢か薪ストーブでしたので、リヤカーを使った燃料の運搬は重要な冬支度の一つでした。冬には、箱ぞりも活躍しました。近隣の農家は、冬には雪の下に貯蔵してあった野菜などを箱ぞりに載せて、町の中心で開かれる市場に運んできたのでした。そう言えば、雪の下(雪室)に貯蔵するのは、非電化冷蔵庫であるとも言えそうです。

未だに捨てられずに納戸に納まっている非電化製品に「タイプライター」があります。これこそ、人力だけを使って動かす「人力ワープロ」であり、非電化製品の代表例でしょう。もちろん、専門家は当時でも電動タイプライターを使ってはいましたが・・・。

非電化製品は、懐かしいモノ達ではありますが、実は新しい製品でもあり得ます。つまり、化石燃料(電力)を消費しないで、少しだけ便利な機能を手にする、環境に優しい製品だからです。病気の時以外は何時でも使える人力や晴れれば誰にでも利用可能な太陽光や、田舎ではそれなりに手に入る薪やバイオマスといった再生可能なエネルギー源を、必要最小限の形で、工夫の積み重ねで徹底的に効率を高めて利用するのが「最先端の非電化製品」だと言えるでしょう。

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2018年6月21日 (木)

3467 観光立国?

今回の大阪エリアでの直下型地震は、この国のあり方にまたまた多くの課題を突き付けた様な気がします。公共交通機関のマヒは、都市機能を完全に殺してしまったのです。新幹線、JR線、私鉄・地下鉄が動かなくなると、人も全く動けなくなります。高速道から一般道に降りた車で、道路は1ミリも動かないデッドロック状態に陥り、当然の事ながら事故対応の緊急自動車も動けなくなってしまう負の連鎖が起こるのです。

しかし、もし半数の人々が自転車で通勤したり移動していたとすればどうでしょう。自転車にデッドロックは無いでしょうし、最悪の場合は車の渋滞の間を縫って押してでも動けるでしょう。鉄道やエレベータなどの保守担当者も車ではなく、日頃から自転車を使う準備をしていれば、初期出動もスムースに運べたはずなのです。

その中で、地震に慣れていない外国人観光客の右往左往ぶりも報道されましたが、たぶん日本人の何倍ものひどいパニック状態に陥った事でしょう。お国も、ホテルの数が足りなくなって、民間アパートまで動員しなければならない程、外国からの観光客を急激に増やす政策ばかりに奔走せず、彼らの安全対策にも予算を割き、対策を打つべきでしょう。

対策にはすぐできるものと、時間が掛かるものがあります。考えてみると、電気や動力を使った「文明の利器」ほど災害に弱く、人力を使った原始的なものほどイザという時には役立つと結論できそうです。通勤する人々や観光客を、電車やバスやタクシーにばかり導かず、もっと自転車や歩きを推奨すべきだと思うのです。それよりなにより、受入れ態勢もロクに出来てもいないにも関わらず、観光客は何千万人来日したとかの「数字だけ」に一喜一憂すべきではないのです。観光立国とは、政府が誘導して無理に作り出すべき状況では決してなく、一度来日した人達から口コミでジワジワと拡大すべき「緩やかなブーム」である筈なのです。もちろん、彼らの安全対策やましてや宿不足問題は、事前に手を打つべき事柄である事は論を待ちません。観光立国を目指すこの国は、狭小な国土しか持たない災害大国でもある訳です。

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2018年6月20日 (水)

3466 地震の予知

大きな地震が発生し、被害が起こるたびに地震の予知が取り沙汰されますが、投稿者の感覚では、残念ながら地震の余地は殆ど無理ではないかと感じています。物体の中に貯め込まれている応力(内部応力)を測定する方法はいくつか存在します。詳しい原理はさておいて、例えば、X線を使ってその回折によって内部の応力をかなり正確に推定する技術は存在します。これは、例えば金属サンプルなどでは有効ですが、例えば地盤でも応用できるかと言われれば、そんな技術はまだ開発されてはいません。

もし、仮に何らかの有効な方法が開発されて、地盤内に生じている歪なり内部応力が測定出来たにしても、ではその結果地盤が破砕し、何時断層がずれて地震になるかまでは、知る手段は無さそうなのです。というのも、地盤の種類によってそれが弱い応力でも破砕し断層がズレるのか、あるいは地盤が強固でなかなか破砕しないのか、それを評価する基準がないからです。しかも、地震を起こす断層のズレは、ゆっくり進むのではなく、突然かつ急激に起こるのです。

これでは、いくら神様でも地震の発生を前もって「お告げする」ことは到底無理と言うものです。加えて、この国の地盤は、大陸プレートの移動による大きなズレ(構造線と呼ばれます)に加えて、数十キロに及ぶ長い断層や数キロ程度の短い断層が複雑に入り混じっている事もあり、熊本や今回の大阪北部地震の様なローカルな地震の予知など、科学者が束になって掛かっても無理だと言うしかありません。

結局、この国に住む限り、地震には比較的高い頻度で(具体的には一生の内では数回)遭遇するものだ、という前提で日頃から心構えをしておくしか方法は無さそうです。いわゆる、防災や減災と言った考え方ですが、それにしても3464にも書いた様に、都市への人口集中は、その意味からも早急に解消すべき重い課題である事は間違いないでしょう。

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2018年6月19日 (火)

3465 目からうろこ 

イギリスで発明された、新エンジンに注目しました。これは、従来の内燃機関では、クランク軸からギヤやチェンを介して吸排気弁を駆動するカムシャフトを動かしていたものを、サーボモーターで適正なタイミングで直接駆動するという考え方のメカニズムです(IVAエンジンと呼ばれます)。燃料の供給に関しては、既に電子制御化され、燃費の低減に大いに寄与しましたが、吸排気のタイミングも負荷や回転数に応じて制御できれば、更に2-3割の燃費低減も視野に入ってくるでしょう。この例の様に内燃機関は、過去の「枯れた技術」だと考えられていて、既に多くのメーカーはEVにシフトしている中、古い技術だという思い込みが強すぎた、と元技術屋としては反省しきりです。

「目からうろこ」で連想した事に、乱流害悪論があります。航空機の世界では、翼面の乱流は揚力を消し去る害悪であり、失速の原因となるので忌避されてきました。確かに、翼型における揚力は、翼面の上下に流れる層流の速度差によって生ずるものであり、結果としての上下の圧力差によって機体の高度を維持させる揚力が発生するのです。

しかし、流体力学の世界では、これは正しい常識のですが、一方で熱力学の世界を振り返れば、これは非常識になってしまうのです。熱力学における多くの理論式は、理想的な乱流状態を前提に作られています。これが、もし層流の流体を扱う事になると、例えば熱交換器は殆ど役に立たないシロモノとなるかも知れません。エアコンの室外機を考えた場合、熱交換器のフィンを通過する空気流が層流である場合、高い温度になっているフィン表面から熱が殆ど放散出来ないのです。層流では、フィンの表面から空気の激しく流れる場所まで、空気流が層状になっているため、温度の分布も同じように層状になってしまう結果、相間の熱交換が上手行かないからです。

一方乱流に保てれば、フィン表面の高温は上手く空気に取り込まれて持ち去られるでしょう。つまり、熱交換器のキモは乱流を如何に上手く起こさせるかにある訳です。もし、この考え方を全ての熱交換に適用できれば、多くの熱を扱う機器、暖房機や冷房機や風呂や温水器や加熱器などなどの熱効率は、たぶん2-3割は向上すると見ています。人間の目は、幾重にも「ウロコ」で覆われてしまっている様です。特に、投稿者の様に技術者としてもバックグラウンドがあると、特に頭が凝り固まっている傾向がある様です。反省・・・。

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2018年6月18日 (月)

3464 地震列島

比較的強い震度の地震が続いています。それぞれ、震源の震度が比較的浅いいわゆる断層のズレであり、大きなプレート境界で発生する大地震とはメカニズムが異なります。とは言いながら、断層にズレを生じさせるのは、より大きな範囲に歪を加えているプレートの動きである事も間違いなく、大きな目で見ると日本列島は、まさに4つの大きなプレートの境界に出来て翻弄される島国ではある訳です。

さて、各地に網の目の様に走っている断層です。地面と地面のズレである断層は、もちろん独立したものではなく、互いに連動したり、時間差で動いたりする訳です。ある小規模な断層のズレは、隣接する断層には目には見えない歪を残します。その歪は、大きなプレートからのより大きな範囲の歪、或いは気温や雨水の浸透などの外的要因によって、突然ズレるのです。残念ながら、この目には見えない「地層の内部歪」を可視化する技術は未だ発明されていませんので、今のところ私たちは地震が起こってから慌てふためくしかない様なのです。

それにつけても、今の様な都市への人口の過度の集中は、地震列島であるこの国では、大災害が強く懸念される状況だと言えます。関東大震災や神戸地区の震災の例を引くまでもなく、人口密集地域での震災は、多くの人的被害が予想されるからです。投稿者の脳裏には、キラキラ輝く「構想のガラスビル」から、大小のガラスの破片が雨あられと降り注ぎ、その下で人々が逃げ惑うる地獄絵がちらつくのです。

一方、田舎で地震にまつわる心配の種はと言えば、例えば山際に寄り沿うように家が建てられている山村では、裏山の土砂崩れなどは懸念されますが、高層ビルも無いので、小さな災害の散発程度で済むのでしょう。訪問する度に胸が痛みますが、首都圏や大都市の過密度を見るにつけ、都市集中にピリオドを打って、地方回帰を進めるべきだと、田舎に住む投稿者としては、しみじみ思うこの頃です。

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2018年6月17日 (日)

3463 刹那的社会2

3462の続きです。ヒトをヒトたらしめているのは、脳の中でも[前頭前野]だと言われています。前頭前野は系統発生的にヒトで最もよく発達した脳部位であるとともに,個体発生的には最も遅く成熟する脳部位である一方、老化に伴って最も早く機能低下が起こる部位の一つでもあると言われています。この脳部位は、ワーキングメモリー、反応抑制、行動の切り替え、プラニング、推論などの認知・実行機能を担っていると同時に、高次な情動・動機づけ機能とそれに基づく意思決定過程も担っている様です。さらに社会的行動、葛藤の解決や報酬に基づく選択など、多様な機能に関係しているとも言われています。

投稿者が疑っているのは、この部位の老化が起こり易いという事は、逆に言えばこの部位は生まれ落ちてから発達すべき部位である筈で、刹那的行動を起こしやすい人達は、この前頭前野が未発達なのではないかという点です。例えば、長い時間ゲームに耽っている子供たちは、物事を深く考えたり、将来の事を考えたり・計画したりする訓練を怠っているとも言えるでしょう。一方で、違う年頃の子供達が群れて外遊びをしている時には、今日の遊びの「計画」や、誰がリーダー(或いはオニ)になるとか、日が暮れるまでにはあとどのくらい時間が残っているか、など等考えるタイミングも多いことでしょう。それは、まさしく前頭前野の訓練に他なりません。前頭前野は、危険に取り囲まれている野山で、弱い人間が強い野生動物の中で生き延びていくための「知恵」の引き出しだと思うのです。

そこを鍛える訓練も無く、空調の効いた室内で、モニター相手に何時間も過ごす子供達、或いは人生の殆どを人工的で清潔な都会で暮らしてきた大人たちの、前頭前野が未発達であるか、或いは非常に若い年代で退縮しやすい、という疑い(仮説)は否定はしにくいでしょう。つまり、刹那的な社会というトレンドは、このままでは歯止めが効かず、それにまつわる社会(や政治)の混乱や犯罪は、今後とも増加傾向が止まらない、と推測できるのです。これが、投稿者の杞憂に過ぎないのであれば幸いなのですが・・・。

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2018年6月16日 (土)

3462 刹那的社会

最近のニュースを眺めていると、背景が浮き上がってくるような気がします。キーワードとしては、「あまりに刹那的」でしょうか。つまり、前後の見境なく行動してしまって、様々な事件を引き起こすのです。ムシャクシャして、或いは収監されたいからという理由だけで人を殺傷する、社会に大きな混乱を与える形で自ら命を絶つ、僅かな金品を奪う目的で必要も無いのに相手を傷つける、ちょっとした事に腹を立てて危険な煽り運転を繰り返すなどなど、一体この国はどうなっていくのだろう、と心底心配になる事件が頻発しているのです。

それよりなにより、日々報道される世界情勢や国内のマツリゴトだって、決して自慢できるものではないでしょう。何より鼻につくのは、リーダー達の自画自賛です。痛いところを突かれれば、全く同じ言い訳を何度も繰り返す一方、少しでも手柄らしきものを立てれば、針先の様な中身でもを棒や大木の様に喧伝するのです。そして、いわゆる世論調査による支持率に一喜一憂し、それを1%でもアップさせる事に汲々とするのです。その際には、過去の野党の状況と比較し、少しでも上回っていれば、さも自分の代になってからの手柄の様にひけらかすのです。

刹那的と別な言葉で言い表すなら、動物的あるいは幼児的と言っても良いかも知れません。動物も、幼児も「今を生きる存在」だからです。どちらも、過去の自分を振り返ったり、或いは10年後の自分を想像して、今の行動を軌道修正する事などできないのです。情勢は、時々刻々変わります。その中に居て、10年一日の如き、産業の活性化と経済成長や景気対策しか口にしないリーダーを支持は出来ません。政治家なら、先ずは国家百年の計を論じて貰いたいものです。その上で、バックキャストした結果、今何を為すべきかを考えて行くべきでしょう。もちろん、百年後にどれだけの経済規模にしたいかなどという「低次元」の計では意味がありません。それは、国民の価値観や幸福感や達成感の問題であるべきなのです。

経済的に豊かになった結果、ほぼそれに相関する様に刹那的になったのだとすれば、私たちは額に汗して働いて、幸福度としてはマイナスの方向に走ってきたのかも知れないのです。必要な事は、立ち止まって足元を見つめてみる事でしょうか。その上で、視線を50年後100年後に向けて、この国を、ひいては世界をどの様な社会にしていきたいのかを、いま真面目に議論する必要があると思うのです。

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2018年6月15日 (金)

3461 マネー本位制社会

その昔社会科の授業で、金本位制という言葉を習った様な気がします。ある時期以降、兌換紙幣の代表であった$がそれを放棄し、その後はいわば「マネー本位制」の世の中になったのでした。それ以前の社会を含めて、「価値」の考え方を振り返ると、価値交換の手段としての貝や石貨や金属貨幣以前は、モノ本位制であった筈です。例えばこの国では、コメがその役目を果たしていた時代が長く続きました。さて、ものの価値ですが、それは一にも二にも「それ」がどの程度所有する人の役に立ち、所有する満足度を高めるかに掛かっているでしょう。しかし、贅沢品や装飾品に代表される様に、ある時期以降人々はそれを所有する満足度に酔う様になってしまったらしいのです。

その証拠には、例えば大金持ちは、めったに乗りもしない高級車を何台も車庫に並べて悦に入っているらしいですし、そうでない別の金持ちも、一生かかっても使い切れない程のマネーを銀行に預けて、ゼロの数を数えて満足しているらしいのです。その人にとっての価値とは、結局生活の役に立ついわゆる実利(実用)ではなく、所有欲の満足の様に見えるのです。それほど、極端ではなくとも、現代の社会で価値の基準になっているのはお金(マネー)になっている事は疑いないでしょう。若者は、職業の選択の基準として「給与」を最初に考慮するでしょうし、世の中での成功者、敗北者も持っているお金(お金に変えられる財産)の多寡によって判断される場合が殆どでしょう。

しかし、お金に換えられない価値、ここでは仮に「非兌換価値」とでも呼んでおきますが、はもっともっと重視されるべきだと思うのです。非兌換価値の例としては、美味しい空気や水、無農薬の野菜、国際や国内の平和、人と人或いは人と自然の間の愛情や幸福感、安全・安心感、信頼感、生き甲斐感、自身などなど、有形・無形のものが挙げられそうです。残念ながら、それらはお金に換算出来ないという理由で、あまり大切にされていないのが現状でしょう。取り分け、B国に代表されるマネー本位制社会では、それらは殆ど無視され続けているのです。それは、銃による犯罪が日常茶飯事となっている現在でも、それが殆ど規制されていない事でも自明です。

戦後一貫してB国のお尻を追いかけてきたこの国でも、事情はあまり変わりません。そうでなければ、児童虐待や僅かな金品を奪うために人を殺傷する犯罪、更には無差別の大量殺傷事件などに通底する根本部分の動機が説明できないのです。

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2018年6月14日 (木)

3460 電力輸入?

発電の元となる化石エネルギーは輸入されているのですから、大陸と送電線網を繋いで、ロシアなどから電力を買う、という選択肢もあるだろう、と言うことで具体的に検討され始めた様です。確かに、「どちらもエネルギーの輸入である事に変りはない」、という議論は間違っていない様にも聞こえます。しかしながら、両者には大きな違いがあると思うのです。化石エネルギーは、確かに発電用のエネルギー源でありながら、同時に化学工業の原料でもありますし、かなりの部分は車や船や航空機などの輸送用エネルギー(ガソリンや軽油)に振り向けられており、またLPGLNGや灯油などの熱源エネルギーでもある訳です。

確かに電気にさえ変えれば、それは電気自動車のエネルギー源にもなるし、エアコンでは暖房や冷房にも使えるし、電灯やOA等の日常生活に不可欠となったコンセント電源など便利なエネルギー源にもなるでしょう。しかし、考えてみなければならないのは、そのエネルギー効率です。火力発電では、発電の段階で化石燃料が持つエネルギーの6割程度は捨てなくてはなりません、加えて送電ロスもかなりの割合に上るでしょう。元々、エネルギーを電気にして使うのは、無駄の多い「贅沢な使い方」だと言うしかありません。

さて、電気を海外から輸入するとなると、海峡をまたいで繋ぐ送電で生ずるロスと、もしかすると接続する地点の周波数の違いによっては、周波数変換のロスも加わるでしょう。しかも、電力の貯蔵はコスト的に、原油やLNGの貯蔵より高くつくので、基本的には輸入と同時に逐次的に消費するしかありません。話は、机の上で考える程簡単ではないのです。

こんな事を検討する前に、先ず為すべき行動がある筈です。それは、徹底的な省エネです。確かに、この国では省エネは進んだレベルにあるとは言えるでしょう。但しそれは、相対的な意味においてです。例えば、冷蔵庫やエアコンなどの家電でも省エネはかなりのレベルである事は認めますが、では住宅の断熱状況はどうなのかと問われれば言葉に詰まるでしょう。暑い、寒い住宅を、冷房し、暖房しても省エネには限界があるでしょう。そのエアコンの冷媒だって、代替フロンより省エネになる炭化水素系のものだってある筈です。車にしたって、燃費競争も行き詰った様に見えますが、実は車体の軽量化をもっと進めれば、大幅な燃費向上も達成可能なのです。そんな努力を惜しんで、エネルギー不足を輸入で埋めるなどと考えるのは、まさに問題外の外です。そんな輩には、上杉鷹山の言葉でも煎じて飲ませるしかなさそうです。

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2018年6月13日 (水)

3459 地域(方)創生???

3458の続きです。屁理屈の様なものですが、「地域(方)創生」などとお役人言葉でわざわざ唱えなくとも、地方は都会なんかよりずっと古くから人が住んでいて、営みを続けてきた場所である事は間違いないでしょう。農林水産業を中心にして、決して豊かではなくともしっかりとした社会基盤を築いていた筈なのです。しかし、高度成長期に都市が、つまりは新しい産業が、農家の跡取り以外の若者をドンドン吸い取り、それでも足りずについにはその跡取りさえも吸い上げてしまったのでした。

しかし、少子・高齢化の加速もあり、もはや高度成長が止まってしまった都会に残ったのは、街に溢れる人々と、せせこましいしくバカ高い住宅事情と、長い通勤時間と、朝夕に限らない常に人にぶつからないでは歩けない人混みと、緑が無く照り返しがひどい夏場の気候と、人工的に手を加えた加工食品しか手に入らない食生活と、出会いが多い筈なのに実は独身や少子化が田舎よりひどい社会と、信号が無いだけでノロノロしか動けない高速道路と、地震の時には「破片落下地獄」となる筈のガラス張りの高層ビル群と、何処に行っても外国人だらけの街などなどでした。

地域創生などという訳の分からない「行政用語」はすぐにでも止めにして、必要な行動や政策はと言えば、スカスカになってしまった地方への「人の再移動」しかない筈なのです。既にあてがわれつつある地域創生予算で、地方に移住しようとする独身者やカップルや家族には、十分な助走資金が準備出来るでしょう。田舎では、住宅なんぞは、掃いて捨てる程有り余っています。少し手を加えれば、骨組みがしっかりしている古い住宅などは、この先もまだ長く住めるでしょう。そのリフォームの際には、大工や左官や配管や電気など多様な職人が必要ですから、間違いなく雇用も増える筈です。地域を活性化させ、飽和してしまった都市に余裕を取り戻すに必要な政策はたった一つ、人口の地方移動の誘導しかないでしょう。

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2018年6月12日 (火)

3458 SDGs2(長期レンジ)

地域創生や働き方改革などと言った政治家が唱えるお題目も、SGDsに照らして考えれば、おのずと実際の行動に繋がってくる筈のものでしょう。先ずは、地方創生を考えてみましょう。これは、もちろんお役人が考えて、その時のリーダーに進言した「お役人言葉」である事は間違いないでしょう。お役人言葉の特徴としては、聞いて耳に心地よく、しかし抽象的で実際の絵が描きにくく、かつ税金を使わなければ決して動き出さないものが多いのです。その意味で、単なる掛け声やスローガンではない事だけは確かです。それは、お役人という存在が、計画=予算を立て、それを計画通りに消化してナンボであり、それ無しには存在価値が疑われてしまう人達だからなのです。

しかも、この国の予算制度は基本的には「単年度予算制度」なので、予算や計画を立てても、実際に使えるのは、その会計年度で言えば7月頃であり、年末・年始を過ぎる頃には慌てて財布(会計)の締めに掛からなければならないという忙しさです。地方創生関連でも、予算をばら撒き、人材が少なくそれを消化しきれない地方組織は、毎年帳尻合わせに四苦八苦を重ねるのです。

そうではなくて、SGDsの含まれる項目の全ては、長期のレンジで取り組まなければならない事柄ばかりなのです。こんな予算制度や行政組織のままでは、たぶん百年経っても良い政策には殆ど手つかずで、殆どが先送りになってしまう事は容易に想像できます。先ずは、計画や予算を、例えば5年、10年と言った中期や、20年、30年といった長期レンジに至るまで、柔軟に使える様に構える仕組みが必要でしょう。目先の景気の上下にばかり気を配り、民衆の支持率しか興味が無い、いわゆる「政治屋」には速やかに退場願わねばなりません。代わって、国家百年の計が議論できる、若い政治家の登場こそが待たれます。

ただ待って居ても、そんな政治家の登場が期待できないのであれば、今の内に若い人材を育てる場(決して政治テクニックを教える場ではなく)が必要なのかも知れません。最大の問題は、その先生を誰が務める事ができるかでしょうか。出来るならば、かつて国家百年の計を滔々と説いていた、古の政治家に生き返って貰いたいくらいです。叶わぬ夢ではありますが・・・。

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2018年6月11日 (月)

3457 SDGs(不便を楽しむ)

S井の「国体論」に触発された随想=休題が続きましたが、やっと本来の環境ブログの話題に戻ってきました。さて、SDGs(日本語では「持続的開発ゴール(目標)」などと訳されますが)については、既に何度かこのブログでも取り上げてきました。ここでは、SDGsの17項目のゴールの個々についてではなく、「持続可能性」について改めて考えてみる事にします。持続可能性(Sustainability)という如何にも難しそうな言葉ですが、もっと単純に言えば、「それが一体何時まで続けられるのか」という問に変えれば分かり易いでしょう。化石燃料を考えると、石油だと数十年、天然ガスも同様の「可採年数」でしょう。石炭は、その数倍あるにしても、持続可能性に照らせば、このまま化石燃料を消費し続ければ、資源の枯渇の前に地球の気象の変動が大き過ぎて、例えば農業や沿岸地域の都市環境が持続可能ではない(復旧できない程の甚大な)被害を蒙る事になると予測されます。

つまり、17個の開発ゴールは実はゴールなどではなく、今日からすぐにでも実行しなければならない項目達だと言うしかありません。私たちの一挙手一投足は、何らかの形で地球環境にキズを付けずには置かないでしょう。それは、私たちの生活スタイルそのものが、既に自然に同化したものではなく「人工的」なものになってしまっているからです。日の出と共に起き、日の入りと同時に寝るのではなく、私たちはすぐ照明やエアコンのスイッチを入れるでしょう。1時間以上歩いて移動することだって、日常生活ではもはや稀になっているでしょう。田舎でも都会でも同様に、ドアからドアへ、車や電車を使って移動する生活にすっかり慣れてしまっているのです。

持続可能性とは、結局先人たちが行って居た様な、自然のサイクルの中に組み込まれた生活に近づくか、という問に答え続ける事に相違ないのです。ひたすら歩き、少しの空き地があればそこで作物を育て、里山に分け入ってはその恵みをいただき、太陽と共に寝起きし、ひたすら歩くか自転車で移動し、それが手に入る場所では薪を割って風呂を沸かし・暖を取り、古い家や衣服をリフォームして使い続け、道具を良く手入れして長持ちさせ・修理を重ね、と言った生活スタイルに出来る限り速やかに移行しなければならないのです。

いわゆる、自然児という言葉があります。広い世界ですから、辺境の地では今でもこの様な生活を送っている地域や部族も多い筈です。彼らも、このままでは私たちの様な「文化的(=環境破壊的)」な生活に憧れて、その生活スタイルを変えてしまうかも知れません。そうなる前に、私たちは彼らから「持続的な生活スタイル」の一端でも学ばなければならないです。つまりそれは、私たちが、夏場の短時間のレジャーとしてのアウトドア生活で感ずる「不便を楽しむ」感覚を、日常にしなければならない事を意味します。

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2018年6月10日 (日)

3456 休題(平和ボケ)

この国の状況を一言で表すなら「平和ボケ」又は「経済ボケ」でしょうか。戦後長く続いた(勝ち取ったのではなく与えられた)平和の中で、外交・防衛はB国盲追、自分たちは経済活動に専念し、兎に角外貨を稼ぐ事にだけ努力を傾けてきたからです。朝鮮半島や東南アジアや中東での戦争・紛争でさえ、この国の経済発展を加速してきたのです。北の大国が崩壊するまでは、東西冷戦のバランスの中で、その後は宗教に絡むテロや北の隣国を仮想敵国としながら、B国お仕着せの武器を揃えながら、専守防衛や非核三原則などの御旗を掲げて、実際はB国の傘の下で専ら金儲けにまい進してきたのです。

しかし、外交方針がB国盲追だけでは他の国々との関係が上手く行く筈もありません。経済援助でお金をばら撒いた途上国はいざ知らず、いわゆる先進国からは少し(かなり)低く見られていた事は否めないでしょう。B国は、身勝手な国でもあり、自国に有利になる事なら、かなりアクドイ作戦も敢行します。例えば、ドルを守るためであれば、レートの切り下げ誘導や関税の上げ下げによる輸出入のコントロール等、時にはルールは自分が作ると言った態度で暴れ回るのです。この国が、どれだけその身勝手に泣かされ、資本を巻き上げられてきたか、少し経済史を振り返れば、投稿者の様な経済の門外漢にだって理解できるのです。

この国は、一日も早く戦後の幼稚園児(被占領国)状態から脱する必要があるでしょう。もしそんな事はない、と言い張る人が居るなら、歴代のリーダー達のB国参りを説明しなければならないでしょう。彼らが、B国参りの度に頭を撫でられ、B国製品(特にJ衛隊の武器)を買わされ続けて来たかを思い出さなければならないでしょう。私たちは、ノウテンキなこの平和ボケをどうにかして叩き直さなければならないのです。それが時期的にはやや遅きに失したにしてもです。

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2018年6月 7日 (木)

3455 休題(見ない事に)

休題が続きます。この国の人々に通底する性癖として日頃感ずる事があります。それは、3454で述べた(特に政治的)無関心です。つまり、自分の利害に直接的に関係する事柄には、当然の事ながら興味を示しますが、そうでないものには極端過ぎる程無関心かあるいは無関心を装うのです。それが、古の時代からの習い性なのか、或いは長年の鎖国の時代の遺物なのか、或いは民族性なのか、正確な事は分析はできませんが、間違いなくその傾向は指摘できるでしょう。

それがどこから来るものなのか、私たちはよくよく考えてみる必要があると思うのです。この国では、戦前は軍の支配のもと(もっと古くは封建支配者のもと)、戦後はいわゆるGHQの支配の下、私たちの行動や言論はコントロールされ続けても来ました。その中で、人々は目立たない様に振舞うには、マツリゴトに無関心になるか無関心を装うしかなかったのでしょう。しかし、最初は意識しての表面上の装いであったにしても、装うにもそれなりのストレスを感じた筈なのです。しかし、それが無意識の「習い性」となれば、人々はストレスも小さく暮らせるようになるのでしょう。

その意味で言えば、私たちの社会は、「国体論」で、S井も指摘する様に、古の頃から今も変わらずに、何らかの支配社会であるのかも知れません。S井は、国体論の中でこの国の国民を「気の狂った奴隷」とまで呼んで蔑みますが、声なき被支配者はやはり「奴隷」と呼ぶしかないのかも知れません。

この国は、戦後70年以上も経過しているとはいえ、今日に至ってもB国の呪縛の中で動かされているとしか思えない政治の局面を頻繁に目にします。例えば、この国のリーダーは、リーダーになった途端(間髪を入れず)に訪米している筈です。そこで、B国のリーダーとの会見で、見かけ上の、First name bassisで呼び合う事を確認してやっと、帰国してからのマツリゴトに安心して取り組める立場に納まるのです。もちろん、移民の国であるB国では、自己紹介の後は誰とでもFirst nameで呼び合う暗黙の前提なので、それが国のリーダー同士の関係であっても同じになるだけの単純な話なのですが、Sンタローなどと下の名前で呼ばれた瞬間に、この国の人達は、何か特別に親しくなった様な錯覚に陥る様なのです。

さて「見ない事に」です。特に戦後の人口ピラミッドのコブである、いわゆる団塊の世代は、生まれてから現在に至るまで、大勢の同世代の人達の中で、One of them.という立場に、あまりにも馴らされ過ぎたと言うしかないと思うのです。その世代を、すぐ後から追いかけてきた投稿者には、それが痛い程理解できるのです。しかし、この国で相変わらずのマンパワーを持つ世代は、このまま黙して時代から消える訳にはいかないとも思うのです。奴隷から脱するためにも、声を上げて行動を始めるしかないのです。

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2018年6月 4日 (月)

3454 休題(戦後民主主義)

3452の続きの様なものです。この国の政治スタイルである民主主義は、戦後民主主義あるいは「民主主義もどき」と呼ぶべきで、他国の民主主義とは一線を画するものであると言うしかありません。何より、政治に民意が反映されにくいシステムであると同時に、民意を表明する国民が少な過ぎる、即ちいずれの選挙結果を眺めても投票率が余りにも低いという際だった特徴があります。たった3割しか支持率を集めていない政党が、議席の2/3を獲得してしまうという選挙制度も問題ではありますが、支持する政党なし層が半分近くを占めているという事態もかなり異常でしょう。

それは、今の政治システムが、戦後の占領軍(=B国)によって「与えられた民主主義」に基づくものであり、その後も大きな見直しされる事無しに、シームレスに(つまりは無意識に)現在まで引き継がれており、しかも誰もそれを問題として糾弾しようとしない風潮が支配的だったからでしょう。つまり、外交はB国任せ、政治は政治、市民の生活は生活として、割り切って考えるという風潮が完全に定着してしまった様なのです。

それで何が問題かですが、例えばこの国でリーダーの所業が気に食わないとしても、国民には直接働きかける手段は持たされていないのです。国民は、議員を選ぶ権利はありますが、議員は政党という名のグループを作り、その中の最大グループが政治を牛耳る事になります。しかも、自分の考えにやや近い支持政党があったとしても、現在の選挙制度では、3割の支持率しかない政党でも、2/3の議席を獲得出来てしまうのです。少なくとも、国民が支持割合に近い数字で、各政党の議席が揃わない事には、より正しかろうマツリゴトには近づかない筈です。

私たちは、もっと政治に関心を持ち、戦後民主主義の欠陥を正すべく行動を起こさなければならないでしょう。もっとも悪い行動は政治に対する「無関心」である事は自明です。

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2018年6月 2日 (土)

3453 休題(同根)

これは「環境ブログ」ですので、それ以外の事を徒然に書く場合は「休題」と言うことになります。ここでは、一向に収束しない国会での「MKけ問題」と、一応収束した様に見えるひどい「レイトタックル=潰しタックル問題」に同じ根っこを見てしまった様な気がしたので、それを書き残しておきます。さて、両者に共通する根っことしては、「ルール違反」が挙げられるでしょう。行政が特定の事業者に便宜を図るのはアウトですし、ましてやそれに政治の圧力が掛かってはならないでしょう。また、単純なラフプレーなどではなく、明らかに相手の選手を潰す(痛める)ための、プレー外でひどいレイトタックルは、ルール違反の範疇を大きく超えているでしょう。

しかし、もしこれらのルール違反を素直に認め、事件直後に謝罪会見を開いていたら、問題はこんなにも拡大しなかった事は間違いないでしょう。当然の事ながら、事件を引き起こす根っこの部分に居た政治家や監督・コーチは引責辞任をするという前提にはなりますが・・・。しかし、両方のルール違反を起こした当事者は、違反を認めるどころか、逆に言い訳をし、更には証拠を隠そうとまで画策したのですから放ってはおけません。マスコミや世論が黙っている訳にはいかなくなって、国会やSNSが炎上してしまったのでした。つまり、もう一つの問題の根っこは、「言い訳」あるいは「誤魔化し」であるとも言えそうです。

起こしてしまった事件を元に戻す訳には行きませんが、火事(問題)の拡大を小さくするコツは「初期消火」しかない筈です。もちろん、火事を起こさない「防火」や「リスク管理」も必要ですが、自分の立場に甘んじているリーダー達は、残念ながら脇が甘くなっている様なのです。しかも、初期消火を怠ってグダグタと言い訳した結果、炎上しこれほど事件が長引いているのでしょう。もちろん、政治家がささやかとはいえ「口利き」が表面化した場合には、責任を取らなければなりませんが、もしごく初期の段階でそうしたならば、この国ではむしろ「潔い」として称賛される事はあっても、訴追される事はない筈なのです。言い訳をしながらの居座り(居直り)は、この国では最も忌嫌われる行動であると、全てのリーダーは思い至るべきでしょう。

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2018年6月 1日 (金)

3452 休題(戦後の総括)

S井の「国体論」を読んで、一番強く感じたのは、人口ピラミッドのまさに塊りである団塊世代が、自分達自身が生きてきた戦後の時代を振り返り、十分に反省しているとは言えないなあ、という感慨です。団塊世代は、殆どが社会の第一線は退いている筈ですが、人生の余暇を楽しむ事に熱中する前に、自分たちの生きざまを冷徹な目で総括する必要があると思うのです。平成も終わりに近づきつつある今、昭和は既に「歴史」になりつつありますが、当事者が自分達自身の仕業を公平に評価しにくいのは確かですが、それはそれとして評価するという努力は必要でしょう。

人は、過去を振り返っての評価・反省無しには、実は将来の展望も描けないのです。だからこそ、歴史学があり過去の出来事の評価を繰り返し行う意味があると思うのです。その意味で、S井の書は、近現代史を明治維新後から戦前と、終戦を「分水嶺」として、戦後の70余年を均等に眺め、明治維新以降の近代化の盛衰?と戦後の高度成長の盛衰に相似なるものを見出すという新しい視点の嚆矢となるものかも知れません。それは、比較的若い世代の論客としてのS井だから打ち出せた論点なのかも知れません。何故なら、いわゆる団塊世代の論客に、同様の視点を持ち込んだ人を、寡聞にして知らないからです。

さて、団塊直後世代としての投稿者は、比較的団塊世代の仕業を身近に眺めながらも、一歩引いた立場で眺めて来たと思ってはいます。その中で感じた事を少し述べるならば、一言で言えば彼らは「夢中になって」突っ走ってきた集団であったとなりそうです。夢中になってと言うことは、周りを眺めたり、立ち止まって足元を確認し考えたりするという行動を殆どしてこなかった、という事を意味します。それは、例えばキチガイじみた工業化の中で、一時は人の命に関わるレベルまで悪化させた環境(公害問題)もあるでしょうし、批評無しに希求したアメリカ的な「文化生活」を、車や電化製品などと言った商品で実現したつもりになっている点も同根でしょう。

もちろん、ここで簡単に結論を出せるような軽いタイトルでもありませんが、いずれにしても私たち(戦後世代)には、戦後の70年余りを総括し、その中から今後あるべき社会システムの修正版を編み出す必然性があると思うのです。この国のリーダーも、確かに戦後世代ではありますが、S井の指摘する様に、彼は間違いなく戦前にもあった「国体」という言葉に相似した「戦後レジューム」の網に捕らわれ続けている人物の一人と言えるでしょう。団塊世代は、その責任(総括と反省を元に、今後社会のあるべき方向を指し示す)を果たさずして、早々と余生を謳歌する生活に入るのは許されないと思うのです。

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2018年5月31日 (木)

3451 モノ造り

モノ造り(ものづくり)と言う言葉は飲み込むのに抵抗があります。そもそも、神でもない人にモノが作れる訳がありませんし、モノを作ってもショウガナイとも思うからです。モノを作れないというのは自明でしょう。例えば、製鉄業に関わる人達は、我々は鉄を作っていると主張するのでしょうが、鉄はそもそも地球上に存在した物質なのです。もちろん、鉄は隕鉄などの例外を除けば、酸化鉄として赤茶けた地層(地層ですから元々は海の底だった場所)に堆積していた物質であり、製鉄所はその酸化鉄をコークスを使って「還元」している工場に過ぎない訳です。還元をモノ造りと呼ぶのは、おこがましいでしょう。

いわゆる、モノ造り工場と言う言う存在は、原料を買ってきて、それに手を加えて(加工して)何らかの付加価値と利益を乗せて、客先に売り払うビジネスを指すと言えるでしょう。加工は、決してモノ「造り」でもましてやモノ「創り」でもなく、単に原料の形や見かけ上の性質を変える作業に過ぎないでしょう。この国の、「モノ造り産業」に展望が開けないのは、まさに加工と言う名のモノ造りに徹し過ぎているからだと感じています。材料を買ってきて、加工をすれば勝手にモノの付加価値が上がる筈だという思い込みが強過ぎるのです。なので、もし儲からない事態になれば、同じ加工をより安いコストで作るべきだと思い込み、ひたすらコスト削減にまい進する事になります。

この間違いは、結局モノの「機能」あるいは「働きの持つ価値」を考えていない事から始まるのです。例えば、ひたすらボルトを作る加工に専念している工場があるとします。今頃は、丸棒を削ってボルトを作るなどと言う工場は存在せず、転造と言う技術で作っている筈です。しかし、ボルトの持つ「機能」を考えてみると、それは「モノを締結する」事にあると定義できます。ボルトなので、当然の事ながら緩める事によって分解も出来るでしょう。しかし、分解の出来る締結はボルトと言う(古いアイデアの)部品にしか出来ないか、という問への答えはYesではない筈です。スナップピンやスナップリング、また分解を前提にしないのであれば接着剤や溶接やFSWだって考えられるでしょう。「ボルト」をモノを締結するという機能、「車」をドアからドアへ雨に濡れないで移動する機能を持つ手段、冷蔵庫を食品の腐敗を防ぎながら短期間保存する方法などと定義し直すと、全く新しいアイデアによる製品も生み出せると思うのです。モノ造り大国は、既に煮詰まってしまった幻想に過ぎないのです。今後は、機能創り(コト創り)大国へ脱皮・移行しない限り、決してこの国の展望は開けないと思うのです。

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2018年5月30日 (水)

3450 利便と代償

昨夜クロ現で取り上げていた、究極の「Aマゾン社会」を想像して、暗澹たる気持ちになりました。ここでは、AIスピーカを通じて注文すると翌日には商品が届き、子供が宿題の答えをAIスピーカから聞き出し、家から出ずに何でも手に入れる事ができる社会を「Aマゾン社会」と呼んでおきます。確かに、便利な社会です。足が不自由なお年寄りでも、買い物に不便はないでしょうし、交通が不便な山間地でも、近いうちにドローンか自動運転車で配送してくれる仕組みが完成するでしょう。

しかし、その様な超便利な社会が人々の幸福につながるか否かは全く別問題です。何より、人と人との交流がありません。注文はAIスピーカを通じてコンピュータが受付け、無人の自動搬送車が縦横に動く倉庫で箱詰めされ、直ちに宅配便業者に引き渡されます。トラックは、夜通し走り、翌日には注文主に届けられる事になりますが、人は殆ど介在していないのです。配送まで無人化された暁には、注文主はモノだけを機械から受け取る事になるのです。90年代に登場し、その後この国でも爆発的に増えたショッピングモールですが、B国では、Aマゾン等のネット通販に押され、次々に閉鎖に追い込まれているのだとか。小売り商店にシャッターを降ろさせたモールが、今度は通販によって閉鎖を余儀なくされるのは、皮肉な話ではあります。モールは、デパートとスーパーと小売り商店を集約した、人々の交流の場でもあった事を考えれば、ネット通販はその交流を全く断ち切ってしまうのです。

人間とは、読んで字の如く、そもそも人と人との間の関係(交流)無しには生きていけない存在だと思うのですが、通販社会によって人間関係がドンドン希薄になっていく結果、一体その様な社会にどんな病理が蔓延るか、恐ろしくて想像もしたくない程です。少なくとも、人と人との関係を、AIや自動機械に任せてしまう結果、人間関係を上手く築けない人達、今流行の言葉で言えば「コミュ障」人間が、飛躍的に増える事は間違いないところです。人の表情を読み、心情を汲み取るなど全く出来ない人間は、たぶん感情的には極度に不安定な筈なのです。コミュ障国家でもある北の隣国の行動を引き合いに出すまでもなく、人間同士の関係にも、既にその兆候はボチボチ表れてはいますが、今後「信じられない様な事件」が更に頻発する事を憂えます。(便利過ぎる)利便に対する代償としてはあまりにも大き過ぎる事に私たちは早く気付くべき時代に差し掛かっていると思うのです。

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2018年5月29日 (火)

3449 持続可能型企業

久しぶりに、投稿者と同じ方向を向いている企業と巡り合いました。同じ方向と言うのは、単に環境経営を指向してと言うだけではなく、持続可能な地域資源を使って、中小規模の持続可能な形でのビジネスを展開しているという意味でです。いわば、「持続可能型企業」とでも呼べるでしょうか。投稿者の住む、A田県にも大規模なバイオマスは発電所や生ごみをメタン発酵させるバイオガス発電所がありますが、いずれもが設備に多額の助成金を仰いでいる事や前者については燃料を輸入バガスに頼っている点など、ビジネスとして成り立っていない上に、燃料調達も持続可能とはなっていないのです。

一方で、製材屑やモミガラや稲わら、売りものにならない廃棄農作物や家畜のし尿・畜糞など、身の周りには、小規模であれば十分持続可能な形で、熱やエネルギーを手に入れる事ができる「資源」も見つかるのです。そこに着目して、小さくとも地域にお金が回る仕組みを作って行けば、それをコピーする地域も広がって、やがてそれが産業に育つと思うのです。何チャラ特区とか、6次産業化だとか、地域創生だとか、お役人が作った抽象的な念仏では、地域の活性化は半歩も進まないでしょう。もし本当に地域を活性化したいのなら、小金もありまだまだ元気な団塊世代が力を持っている今の内にバリバリ手を打たなければならないのです。と団塊直後世代の投稿者は思うのです。

持続可能型企業になろうとするなら、先ずは遠くではなく足元をじっくり観察する必要があるでしょう。着目点は、モノの収支と、お金の収支、加えて地域の困り事(ニーズ)でしょう。モノや、お金の収支が崩れている地域は、間違いなく持続可能ではないでしょう。地域の困り事を、持続的に解決できる企業は、100年後も存続できるポテンシャルを持っていると断言できます。最初に述べた、企業はそのポテンシャルを持ってはいますが、もし経営者が売り上げや利益重視に走った瞬間、持続可能性はガラガラと崩れるでしょう。企業の存続に適正な利益は重要な源泉ではありますが、売り上げや利益は、顧客とのWin/Winの関係を達成した上で、後からついてくるものと、順番を入れ替えて掛かる必要があるのです。繰り返しますが、利益は後からついてくるもの(ご褒美)に過ぎないのです。これは、目先の利に走る商売と「持続する生業」の違いであると言えるでしょうか。

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2018年5月28日 (月)

3448 休題(通奏低音)

バロック音楽の用語に「通奏低音」と言うものがあります。これは曲を通じて流される低音の旋律の事で、演奏者はこの低音に和音を乗せながら全体としての楽曲を完成させる訳です。それにつけても、MリだKケだと一向に収束しない政局にせよ、N大のひどいレイトタックル事件にせよ、この国の文化の底流に流れる、「通奏低音」に注目せずには到底理解不能だと思われます。

事の善悪を断ずるのであれば、実は[便宜を払った、払わない]或いは「指示した、しなかった」で決着する筈なのですが、この国では、一方が「匂わして(暗黙に示唆して=暗示して)」、他方が「それを解釈して(忖度して)」事が進む文化なのです。つまりは、ゼロか一かでは決着せず、一方がどの程度匂わしたか、他方がそれをどの様に受け取って忖度したかと言う程度問題が常に付きまとう社会なのです。この国のリーダーが、友人のために便宜を図る様に匂わしたのは間違いないでしょう。友人なので、その見返りとして現ナマは受け取ってはいないでしょう。もし、受け取っていればロッキード事件の再現になってしまうでしょう。しかし、示唆と受取り方の程度問題にしておく限りにおいては、何年議論しても解決しない堂々巡りに陥ってしまう事でしょう。実際にも、この問題は国民がアキアキするくらい長引いているではありませんか。

N大の事件にしても、確かに監督者は具体的な指示はしなかったのでしょうが、逆らえない程強力な示唆(暗示)があった事は間違いないでしょう。純真な選手がそれをどう受け取ったかが問題の本質であるにも関わらず、監督者は「言っていない」の一言で、罪を逃れようとしている様に見えます。

実はこの様な構図は、政治でも、学校や大学や研究機関でも、企業でも、警察などありとあらゆる組織で繰り広げられて来たことは、少し古い人間であれば、いくつでも実例を想起出来る筈なのです。この通奏低音を掘り起こす事無しに、問題の本質に迫る事は到底無理な相談だと断言できます。これまで、この国で一体いくつの問題が「ウヤムヤ決着」で幕が降ろされた事でしょう。原発問題然り、いくつもの学校におけるイジメ事件然り、と言うより、この国で起きた全ての事件が例外ではあり得ないとも言えるでしょう。暗示や示唆する側は、いわば確信犯で、忖度した側は被害者であるとも言えるでしょう。確信犯が、ウヤムヤに逃げおおせるこの社会は、どうにかして変えなければならないでしょう。長年積み重ねられた澱(おり)の様な文化を変えるのは、確かに並大抵の努力では無理だとは思いますが・・・。

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2018年5月27日 (日)

3447 宇宙開発の終焉

宇宙ステーションに暮らす幸運に加え、名誉まで手にしたアストロノーツや、月にマイクロ・ローバーを送ろうと必死になっている人達には申し訳ありませんが、3446に引き続き、今回も(いわゆる宇宙開発に対する)ネガティブな投稿です。将来性のある産業分野として、航空・宇宙産業などともてはやされ、何かと脚光を浴びる宇宙開発ですが、何度か書いた様に、宇宙に対しての夢は夢として現実を直視する事も大切でしょう。現実は何かと問われれば、私たち人類は地球以外では頑丈なシェルターや地上と同じ組成の大気や体に必要な適度な日射や植物食を含めた普通の食糧無しやには暮らせないという事実です。数か月か1年位の短期間なら、無重力であろうが、シェルターの中であろうが何とか暮らせるでしょうが、それ以上の長き及ぶ宇宙生活には人類はとても耐えられない筈なのです。

重力が小さな環境では、ヒトの骨は吸収されてスカスカになり、適切に日照を浴びない結果必要な体のバランス(ホメオスタシス)も崩れてしまうでしょう。宇宙空間や他の惑星でも人工栄養で、命を繋ぐ事は可能なのでしょうが、長期間に亘って新鮮な野菜や果物や醗酵食品の摂食無しに、それらを必要とする腸内細菌が結構な状態を維持できるとはとても思えません。

一体何のための「宇宙開発」なのでしょうか。地球の環境悪化や資源の枯渇や人口爆発に問題があるにしても、私たちは宇宙に逃げないで、この地球上で問題に立ち向かうしかないのです。百歩譲って、月や火星の探査の結果、そこに水や資源見つかって、その水と太陽光を使ってロケットの燃料が出来たと仮定しましょう。ではそれを使って、私たち人類は宇宙空間で一体何を成し遂げようとするのでしょう。

確かに、宇宙に何があるかさっぱり分からなかった時代は、それを探索するエクスプローラは必要だったでしょう。しかし、既に私たちは宇宙空間には絶対零度に近い暗闇と真空しかない事を確認済みですし、月や火星には赤茶けた土や岩石くらいしかない事を知ってしまったのです。無責任に子供に宇宙飛行士になる夢を見させるのは止めにしましょう。私たちには、足元を見つめ、そこにある私たち自身が作ってしまった数多くの問題を解決する責務がある筈です。上を見上げながらの宇宙開発などと言う言葉は封印し、足元の問題に一つずつ取り組むしかないのです。

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2018年5月24日 (木)

3446 空飛ぶ車は飛ばせない?

車の進化形のみならず、ドローンの進化形も含め、空飛ぶ自動車のニュースを見ない日はない程です。このブログは「対案」することを主体に書いているつもりですので、あまりネガティブな表題や中身はあまり好きではないのですが、「無駄なコト」に人材や資源を注ぎ込む無駄を看過する訳にもいかないと思い、この表題にしました。

さて、空飛ぶ車ですが、これは今ある小型飛行機(軽飛行機)とは事なるカテゴリーの乗り物だと定義するしかありません。飛行機は、基本的には翼の揚力を利用して飛行するものですが、一方で空飛ぶ車は、揚力を例えば浮上用のファンで生み出し、同じファンか又は推進用のファンで前進をさせるものであり、専門訓練を受けたパイロットではなくても操縦が可能な乗り物でもあります。極端に言えば、今ある小型のドローンを大型化し、キャビンをつけて人が乗れる様にしたものである、とも言うことも出来るでしょう。もちろん、軽量化した車に可動式の翼をつけて、道路から離陸できる様にした「翼付き茶車」やジャイロコプター型のコンセプトは古い時代からあり、実際いくつかの試作機も作られてはいますが、それらはとても実用機とは呼べないシロモノだったのです。

さて、仮に実用レベルのドローン進化形の空飛ぶ車が完成したとしましょう。では自由にそれを飛ばす事を許可するかと問われれば、誰にも二の足を踏むでしょう。何故なら、誰もその安全性を担保出来ないからなのです。車には、車検制度と言うものがあり、基本的に整備不良車は運行出来ない事になっています。車であれば、もし整備不良があったとしても、最悪はエンジンが止まったり、タイヤが外れて道路から飛び出す「程度」の事故で済むでしょう。しかし、空飛ぶ車では、整備不良は即運転者の死亡を含む重大事故につながるでしょう。なにしろ、地上数十メートル(現在の法律では高度150m以上の飛行は航空機の運航に当たる)から落下するのですから、高いビルから車ごと落下するのと何ら変わらない衝撃なのですから。全身を包むエアバッグが装備されていたにしても、墜落で巻き添えを食うであろう、地上を走行する車や通行人はたまったものではないでしょう。

データを示しましょう。およそ350機が生産され運用されている、V-22(愛称は、和名でミサゴと言う鳥)と言う、ヘリの様な飛行機の様な軍用の輸送機がありますが、ほぼ完ぺきに整備されている筈のこの機体でさえ、なんと年間10件前後の重大事故を起こしているのです。増してや、民間機でしかも個人所有となると、誰がどうやって安全性を担保するのか、と言う根本的な問には何人も答えを出せないでしょう。従って、たとえ空飛ぶ車が完成したとしても、法律上は飛ばす事ができないシロモノなのです。その開発は、人材とお金の無駄使いなのですから直ちに打ち切るべきでしょう。

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2018年5月23日 (水)

3445 この国の資源6

この項の最後として、地熱についても考えてみます。地熱エネルギーは、完全には冷え固まっていない地球内部の熱を利用しようとするものです。もちろん、見かけ上硬い岩盤で出来ている地殻にしても、薄い部分もありますし、何よりそれらは相対的に動き、摩擦し合って盛んに地殻変動=地震や火山活動も引き起こしている訳です。特にこの国は地殻で言えばユーラシアプレートの東の端にあり、そこに北米プレートや太平洋プレートに更にフィリピン海プレートが複雑に入り混じってぶつかっている、地球上も稀な地域に当たっています。

そこでは、地震や火山活動が日常茶飯事で、日常的に噴煙や噴気を上げている火山や数十年或いは数百年を経て大爆発を起こす火山も多いのです。同時に、それらの火山は温泉と言う恵みも与えてくれてもいるのです。東北に行けば、いくつかの県には全ての市町村に1ヶ所以上の温泉場がありますが、里に湧く温泉の多くは泉源の温度が低いため、加温しているケースも多くなっています。もちろん、山際の温泉の多くは、火山の恵みでかなりの高温の泉源を持ってはいるでしょう。温泉熱は、温泉として入浴する以外では、今は単純に温室や建物に導いて、暖房熱として利用するケースが圧倒的でしょう。

しかし、泉源が60℃以上ある場合は、エネルギー利用もかなり有望になってきます。つまり、60℃かそれ以上で「沸騰」する作動流体を用いて、温泉熱でタービンを駆動するのです。気化してタービンを回した作動流体は、空冷かあるいは水冷で液体に戻す必要がありますが、温泉場には渓流がつきものなので、地熱発電の適地ではそちらの心配をする必要はないでしょう。もちろん、湧出量が多い場所ではそれより低い温度の泉源でもパワー利用は可能です。より低い温度で沸騰する作動流体を使えば良いのです。アンモニアや炭化水素を主体とする作動流体では、例えば40℃程度の泉源と15℃の谷川の水の温度差を利用して、発電する事も十分可能です。温度差が小さい場合には、発電装置が出力の割に大型にならざるを得ない事は致し方ないでしょう。

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2018年5月22日 (火)

3444 この国の資源5

この国の資源として、水力(小水力)についても少し考えてみます。水力は、原理に立ち戻れば、山に降った雨が、海面に対しての「位置のエネルギー」を持ち、それが谷や川を流れ下る際のエネルギー(位置エネルギー+流れのエネルギー)を利用するものです。ここで注意を要するのは、エネルギーポテンシャルとしては、確かに位置のエネルギー(水頭)が重要なのですが、それを取り出す際には。どれだけの水頭の水が、どれだけの速度で、どれだけの量流れたかが問題にされる訳です。緩い傾斜だが水量が多く滔々と流れる川でさえ、その流れの持つエネルギーは、高いダムから導かれているが、しかし水量が限定的な発電所に匹敵するエネルギーを持っているのです。つまり、大河は水頭は小さいが、水量で稼げる可能性があるのです。

問題は、川は公共財なので、それを勝手にエネルギー利用だけに振り向ける訳にはいかないという側面です。と言うより、長い歴史の中で、河川水は農業(とりわけ水田)利用を主体として位置づけられ、水力の利用は農業利用に組み込まれていない細い渓流程度に限られていたのでした。とは言いながら、田舎に行くとかつて電力供給が十分ではなかった時代に、地元電力とでも呼ぶべき水力発電所の痕跡なども見つかるのです。山間の渓流をせき止めて、小規模なダムを作り、そこから比較的細い導水管や開水路を組み合わせて発電所まで水を引き、数百キロワット程度(つまりは数百軒程度の家庭向け)の発電を行っていたのです。ダムや水路は、補修を重ねれば耐久性はあるので、後は発電機をメンテしたり交換したりして、今でも現役の発電所が投稿者の住む町でもいくつか見ることができます。

もう少し、小規模な水力発電を考えていくと、規模はいきなり10kw以下に落ちてしまいます。その意味で、数十kwの規模の発電所の適地は、殆ど存在しない事を意味するのです。と言うのも、この規模の発電所を動かす事ができる水路の殆どは、既に農業水利に組み込まれているからです。農業排水が川に流れ込んでいる所や沢水が無為に川に落ちている小規模な水資源も田舎ではそれなりに見つかりますが、それらは、例えば数kwの発電ポテンシャルしかないケースが殆どなのです。そう思って見回すと、小規模で効率の高い水車や発電機は殆ど開発されていない事に気が付くのです。理由は明快で、そのサイズの需要が極端に少ないからでしょう。

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2018年5月21日 (月)

3443 この国の資源4

ある研究会のメンバーと共に、県内の内陸にある農業コンサルが作っているモデル温室を見学しました。雪国秋田でもこの地域(内陸)は特に多雪地域で、通年で農業を行うためにはハウス暖房が不可欠です。通常の温室では、灯油か重油ボイラで行うのでしょうが、ここではもみ殻ボイラを使っていたのです。厳冬期には、もみ殻ボイラだけではハウス内温度と地温が保てない様で、小型の灯油ボイラも併用していましたが、熱量の6割以上はもみ殻の燃焼熱で賄っているとの事でした。

このもみ殻ボイラには副産物もあります。それは「燻炭」です。完全燃焼では、もみ殻は白い灰になりますが、空気量を絞って燃焼させるともみ殻の形が残っている黒っぽい「燻炭」になるのです。燻炭は、土壌改良材として理想的なので、結構な値段で農業資材として取引される様なのです。国の政策が代わって、これまでもっぱら田の暗渠排水用として使われていたもみ殻ですが、今は余り気味で、基本的にはもみ殻は農家が無料で運び入れてくれる様なのです。厄介もので無料の燃料から、燻炭と言う付加価値を生み、同時に発生する熱で灯油を節減した上に、温室を暖めて季節外れの作物を収穫する。いわば、もみ殻と言うバイオマスエネルギーを組み込んだ、「農業システム(ビジネスモデル)」に仕立てる事も十分可能だと感じました。バイオマス資源の活用を考えるに当たっては、単独で発電したり暖房目的でエネルギーを取り出したりするよりは、農業との組合せで多段階でエネルギーと付加価値を生み出すという「ビジネスモデル」にする事によって、十分な採算性も期待できるのです。一言で言えば、「再エネと農業は相性が良い」、という事になるのでしょうか。

林業や農業からは、多くの残さが排出されますが、問題は「水分率」にあると見ています。もみ殻は、そもそも乾燥させたモミを籾摺り過程から生れますので、そのまま屋内保管すれば十分に乾燥させた燃料が手に入りますが、一方で林業残渣や売り物にならない農業残渣などは、屋外保管でたっぷりと水を含んでしまっているので、その活用は厄介です。ここでの提案したいのは、農業ハウス(ビニールハウス)や使われていない建物を活用して屋内保管とし、更に太陽熱で乾燥させて燃料としての価値を高める方法です。バイオマスと太陽熱の組み合わせは、これまた相性が抜群なのです。

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2018年5月18日 (金)

3442 この国の資源3

太陽光は、どの国にも普遍的に降り注ぐ、まさに天からの恵みだと言えるでしょう。南極や北極の極地方でさえ、一年の中では陽の差さない季節があるにしても、反対の季節では一日中太陽光が降り注ぎ続けるのです。間違いなく、太陽光を最大限に利用しているのは、植物(プランクトンを含む)でしょう。植物は、太陽光を利用するために葉緑素を生み出し、光合成能力を磨くように進化してきた訳です。殆どの動物は、その植物が作る物質に依存して命を繋いでもいるのです。3440で取り上げたバイオマスにしても、結局は太陽光無しには手に入らない筈のもので、ほぼ全ての再生可能型エネルギーの大元は太陽光である事は論を待たないでしょう。

太陽光には、紫外光から遠赤外光まで含まれますから、その利用に当たっても、光のスペクトルを分けて考える必要があるでしょう。例えば、太陽光発電は、エネルギー準位の高い紫外光に近い波長を利用している一方、太陽熱の利用は専ら赤外光に近い部分を利用する事になるでしょう。そう考えてみると、もし光のスペクトルを上手く分解する事ができるのであれば、同じ面積の受光面で、太陽の持つエネルギーを多重的に引きだす事も可能となるのです。つまりは、太陽光のハイブリッド利用です。もし、多少効率が低くても透明度のある太陽光発電パネル(PV)が出来るのであれば、透過した赤外光を熱として利用すれば、約1kw/㎡と言われる太陽エネルギーのポテンシャルを、例えば30%利用できるかも知れません。現在の実用的なPVのコプ率は、20%前後ですから、ハイブリッドにすることにより割増エネルギーが手に入る事になります。

その意味で、光の屈折や反射、集光など、太陽光を最大限利用する技術は、まだまだ改善する余地が残っている分野だと言えそうです。例えば、反射材にしても、安価でしかも反射率の高い材料の開発は、まだ道半ばだと見ています。メッキ技術や金属研磨技術或いは防汚技術を磨けば、太陽光を多重に利用する技術にも弾みがつくでしょう。同様に、太陽光を選択的に透過させる膜技術も太陽光の利用には重要です。光は透過させるが、赤外光はシャットアウトする膜は、窓からの入熱を防ぎ、建物の夏場の冷房負荷を大きく低減させる事でしょう。逆に、冬場は窓から赤外光を積極的に取り入れたい訳で、夏冬で窓の機能を切り替えることができれば、冷暖房両方の負荷が低減できるでしょう。その意味で、私たちの知恵は、まだまだ未熟なのです。

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2018年5月13日 (日)

3441 この国の資源2

次いでこの国の資源として、風力を考えてみましょう。亜熱帯から寒帯まで南北に広がるこの国では、風力の利用と言う面ではかなり不利と言えるでしょう。基本的に、極低温の極地方には空気の溜まり(気団)ができ易く、そこから吹き出す風が、地球の自転の影響を受けながら、いわゆる季節風として冬場を通じて良い風を送るのです。しかし、熱帯や亜熱帯では、強い日射を受けて熱帯性低気圧、それが成長した結果の「台風」となって、毎年この国に大きな被害を及ぼすのです。

つまり、夏場のそよ風でも発電し、台風からの爆風でも破壊されず、冬場の季節風を受けて目いっぱい発電できる様なそんな「都合の良い風車」は、今のところ存在しないのです。一般的な、3枚羽のプロペラ型風車は、強い風で高速回転させると、遠心力で羽根がすっ飛ばされるため、一定風速(カットアウト風速)以上では、プロペラのピッチ(ひねり)を中立にして風を逃がすのです。強風にも耐え、どの方向からの風でも回る風車としてダリウス型風車が提案されましたが、微風では殆ど役に立たないため、主役にはなり得なかったのです。

低速でも回り、強風時にもそれほど高速にはならない風車として「抗力型」もありますが、残念な事に効率が低すぎるため、経済性(費用対効果)と言う面で、これも主役になる事は叶いませんした。しかし、効率を度外視しても、徹底的にコストを下げれば、この種の風車にも見直される日が来るかも知れません。構造をシンプルにして羽根の向きを固定し、卓越風(季節風)が吹く時だけ効率的に発電する様に設計するのです。横軸型にして、軸受を両持ちタイプにすれば、頑丈になりますので、台風も問題なくやり過ごせるでしょう。

要は、何も風況の良い欧州製の風車の真似などしなくとも、この国の風況合せて、この国独自の風車を開発し、改良を続ければ良いのです。オイルショック後は、一時風力発電も脚光を浴びましたが、その後の逆オイルショックで、再エネに目もくれずに突き進んだ結果、風力利用では欧州に対して20年以上水を開けられましたが、微風でも発電し台風にも耐える風車には、途上国にも潜在的なニーズがある筈なのです。

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2018年5月11日 (金)

3440 この国の資源

エネルギーに限らず、資源の利用に当たっては、その持続可能性と、地産地消にどれだけ近づけるかが問われます。そこで、投稿者の身の周りを眺めて、果たしてどの様な(エネルギー)資源が手に入るかを考えてみました。この項では、先ずバイオマスについて考えてみる事にしましょう。バイオマスとは、生物が(主に太陽光を利用して)固定した物質の総称ですが、狭義には植物が固定したものを指す言葉だと言えます。

その中でも、樹木が固定した、「木質バイオマス」が、量的には大きな部分を占めるのは間違いないでしょう。森林は、それが若木で構成されている場合1ha 当り5-7トン/年炭素を固定しますが、20年以上の成木では、その量が2-4トンレベルに低下します。一方で、森林の0.6%を占めると言われる竹林は、どの樹齢でも5トン程度の炭素固定力=バイオマス量を維持すると言われています。竹林は、投稿者の身近な里山でも、タケノコの採取を目的に移植されたものが、放置されて蔓延っている様です。その他にも、目につくものとして河川木や河原のアシやヨシも非常に良く繁茂しているバイオマスだと言えるでしょう。竹や、アシやヨシも、十分な熱量を持つバイオマスエネルギーではありますが、やや難点として挙げなければならないのは、灰の量(灰分の多さ)でしょうか。

投稿者が住んでいる町にも、廃れてしまったとはいえ、それなりの木材産業が存在します。山から降ろされた用材は、製材・乾燥した上で、住宅などに用いられますが、製材屑は現在のところ、然るべき施設まで運ばれて焼却処理されている様です。バイオマス利用の実例ですが、投稿者が6年ほど前にこの町にUターンした際に、見学させて貰ったフローリング工場の年間1000トン以上発生する廃材をいかにも勿体なく感じたため、これをペレット燃料に加工して付加価値を付ける事を提案し、その後県の助成金が付いた事もあって、ペレットプラントが立ち上がったのでした。バイオマス2トンで、およそ石油1klの熱量に相当しますので、1000トンのバイオマスを燃料に転換した結果、石油換算で500klのエネルギー資源が生まれたことになります。

河原に蔓延るカヤ・ヨシの類にしても、簡単な軽量の結果200㎡もあれば、毎年そこから住宅1軒分の冬季暖房に十分な量のバイオマスが手に入る計算になりました。そういう意味で見回せば、製材屑、もみ殻、厄介者の竹林など、田舎では身のまわりのバイオマス資源の何と豊富な事でしょう。エネルギーに関する限り田舎の将来は非常に明るいのです。

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2018年5月 9日 (水)

3439 休題(国、国民について)

このブログは「環境ブログ」ですので、政治やイデオロギーには触れないのが暗黙のルールですが、たまには国や国民について考えてみるのも、環境を別の角度で眺めるという意味では良いかも知れません。さて、国とは、言わずもがなですが国境で仕切られた地域を指します。その中に暮らす人々を、便宜上国民と呼ぶのです。しかしながら、多くの国の中には、いくつかの(又は数多くの)民族が分かれて(又は入り混じって)、仲よく(又は諍いを起こしながら)暮らしているケースも多いのです。中には、民族の独立をかけて、内戦状態にある国々も多いようです。

そこで、ここでは「国境」について少し考えてみる事にします。国境は、誰かが歴史の流れの中で恣意的に引いたものもあれば、海や大河や高い山脈などで隔てられた、天然の国境(環境国境?)もあるでしょう。投稿者としては、多くの国境問題の本質は、国境が「線」である事にある、と思っています。もし、国境に幅があって、その中は隣接する国が同等の権利を有する「共用地」であったなら、と想像することがあります。しかも、利用の目的を農業などに限る必要があるでしょう。例えば、そこから鉱物資源や石油が湧き出ても、諦めるルールを定めないといけません。そうでないと、権益争いの火種になるからです。たとえ農業であっても、「水争い」が考えられますから、そこにも天水利用を前提にしたルールが必要でしょう。

とは言いながら、共用地を設定した場合にはG.ハーディンも指摘したように、「共用地(コモンズ)の悲劇」も想定されるでしょう。ですので、その設定には万国が賛同できる「厳密なルール」の設定が必須なのです。その意味で、共有地を牧場にする事は出来ないでしょう。放牧した牛が、他の人が放牧した牛の群れと、餌場の草地を取り合うからです。もちろん、放牧した牛の持ち主を特定しないのであれば、問題は少ないのかも知れませんが、争いが消えるとも思えません。農業利用であっても、両国に機械力の差があっては諍いの火種に繋がりますから、例えば人力による農業だけに限定する必要があるかも知れません。

この様な、頭の中だけの勝手な想像(思考実験)も結構楽しいものではあります。

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2018年5月 8日 (火)

3438 再エネ考6

再エネでもっともっと活用しなければ、と感じているものが「太陽光(熱)」です。極端に言ってしまえば、全ての再エネの起源は「太陽光」に還元できるからです。正確に言えば、潮汐エネルギーは引力の変化を利用していて、地熱は地球内部のマグマの余熱利用なのですが、バイオマスにしても、水力(雨や雪)にしても、或いは太陽光発電にしても、結局は太陽光の直接的・間接的な利用になるのです。太陽光のスぺクトルのスぺクトラム(分布)を眺めると、大気によって吸収されて歯抜けにはなっているものの、紫外光から赤外光まで、幅広く分布している事が分かります。

紫外光に近い帯域は、エネルギーが高い光なので、太陽光発電(PV)や或いは光化学反応(光合成もその代表です)に利用するのが得策です。一方で、赤外光に近い帯域は、エネルギーとしてのポテンシャルは低くはなりますが、帯域自体が広いので、植物や動物の体温を直接的に上げるエネルギー源として、不可欠な帯域の光でもあるのです。その意味で、私たち人間ももっと太陽熱利用をすべきであると提言しておきたいのです。人間は、他の哺乳動物同様、恒温動物ですから、衣服や住居によって、暑さや寒さから身を守る必要があるでしょう。現代は、文明を享受している国々では、いわゆる暖房器具やエアコンなどの機器を利用して、室温を快適な範囲内に保とうとするのです。

しかし、考えてみれば、冬でも晴れてさえいれば太陽熱を利用して暖房することができますし、真夏でも太陽熱を上手く利用すれば、除湿や冷房も十分可能(例えばデシカント冷房)なのです。現在の衣服や住宅に最も欠けているのは、せっかく暖めた(冷やした)空気の温度を維持する保温、保冷性能だと思っています。保温・保冷性能高ければ、必要なエネルギーは間欠的に使うだけで済みますが、低ければ室温を保つためにはエネルギーを使い続けなければならないからです。まとめて言えば、私たちの体温を維持しやすくするためには、太陽熱をもっと利用し、同時に衣服や住宅の断熱(遮熱)性能を格段に上げなけなければならないという事になるでしょうか。この項一旦終わります。

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2018年5月 7日 (月)

3437 再エネ考5

多様なエネルギー資源がすぐそこにありながら、殆ど無視され続けている再エネが、バイオマスではないかと思っています。と言うのも、バイオマスと言ってもその種類が半端なく多様ですし、しかも個々のエネルギーポテンシャルの密度が小さ過ぎて、「ソロバン」に乗らないからではないかと思っています。多様という面では、一口にバイオマスと言っても、間伐材や流木や河川木や伐採竹、木工端材などの木質廃棄物、家畜し尿、刈り芝やカヤなどの処理雑草、下水処理汚泥、生ごみや廃棄食品などの食品残渣、もみ殻や廃棄される農業残渣などなど、少し考えるだけでも十指に余ります。

確かに資源は多様なのですが、問題は個々の資源がエネルギー賦存密度が低いために、収集運搬に費用やエネルギー(つまりは石油燃料です)が嵩む事が利用を阻んでいる最大の原因でしょう。投稿者が住むA田県にも、2Mwの大型バイオマス発電所や700kwの食品残渣発電所がありますが、原料を発電所に運び入れるためのコストはかなりの額に上るのではないかと想像しています。取り分け、前者は燃料の大きな割合を占めるヤシ殻(パーム油の搾りかす)を輸入に頼っていますので、運搬費用は、たぶん燃やして得られる発電料金の何割かに上ると想像しています。後者は、元々焼却処理するために収集運搬を行っていましたので、収集車の行先が、焼却場からバイオマス発電所に変っただけなので、大きな問題は無いでしょう。

しかし、問題なのはその発電プラントの規模や過剰な設備です。規模の拡大は、上に述べた様に収集運搬コストに、過剰な設備とは、何十年稼動させても、投資額が回収できない様な立派過ぎるプラント設計に問題があるのです。それを回避する方法は、たった一つでしょう。それは、原料の集まる規模に応じて、小さい規模で、シンプル=安価なプラントとする事でしょう。規模拡大には、最小サイズのユニット数を増やせば良いのです。補助金のタップリ入った大型のプラントを部分負荷で動かす無駄を考えれば、最小サイズのプラントを高い負荷=効率で動かす方が賢いのは自明です。再エネの場合、決して「大は小を兼ねない」のです。

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2018年5月 6日 (日)

3436 再エネ考4

再エネの利用を考える際に最も重要な事は、その安定性かも知れません。例えば、商用電源としての再エネを考えてみると、例えば風力発電や太陽光発電は、かなり使いにくいモノと言えるでしょう。無風の日や逆に台風の様な(カットアウト風速を超える)強風が吹いている日には風力発電は役に立ちませんし、太陽光発電も日照が無い日や日没後は殆ど電力が得られません。従って、これらを使う場合には、かなりの工夫が求められるでしょう。

工夫の一つはエネルギーの貯蔵でしょう。発電する場合には、蓄電設備に電力を蓄えるか、或いは風車で熱を発生させ、或いは太陽熱を蓄熱槽で蓄える方法、更には水素や他の化学物質に変換してエネルギーを蓄える方法などが有望でしょう。別の工夫は、刻々と変わるデマンドと、同じく刻々と変わる発電量を、コンピュータを介在させながら、地域を超えて細かくマッチングさせる方法で、ヨーロッパの風力発電システムでは、既に広く行われている方法でもあります。もちろん、この方法には例えば真夏の無風の日などは、冷房デマンドが非常に大きいのに、風力発電は殆ど出力出来ない等、本質的なシステムの限界もありますから、他の発電手段(火力発電など)との連係は不可欠です。

投稿者としては、第三の工夫を提案したいところです。それは、需要家自身がデマンドをコントロールする方法です。各戸や各ビルは、例えば1日分程度のデマンドを賄える蓄電設備を備え、商用電源からかなりの程度独立を果たすという選択肢です。例えば、事務所ビルであれば、非常灯や非常用電源やデータバックアップ設備等は常に商用電源と繋いで置きますが、その他の空調やOAや一般照明は、自前の蓄電設備と太陽光発電設備などとデマンドコントローラーで繋いで置くのです。もちろん、蓄電量が不足してきた場合には、商用電源から電力を買う事になります。その際にも、低く抑えた契約電力量を越さない様に上手くコントロールするのです。それによって、電力会社は発電所への投資が抑制できますから、電力料金を低く抑えることが出来るでしょうし、需要家は買電料金を極めて低いレベルに抑えることも出来るでしょう。この様なシステムを、投稿者の言葉で「セミ・オフグリッド」と呼んでいます。商用電源からの部分的な独立、と言う程の意味です。

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2018年5月 5日 (土)

3435 再エネ考3

再エネを考える上でキーになるのは、実は熱としてのエネルギー利用だと思っています。熱は、暖房、給湯だけではなく、工場のプロセス加熱や調理、更には熱を利用した(吸収式)冷房・冷凍に至るまで、およそ人間の生活を快適にするために、如何に熱が多用(一般家庭では凡そ6割が熱利用)されているか改めて考えてみて欲しいのです。しかも、その熱源として世界中に(特に低緯度地域に)遍く賦存してるのは、実は太陽熱しかないと思うのです。もちろん、この国の様に火山からの贈り物である地熱が利用できる国もいくつかは数えられますが、太陽熱こそ尽きることのない「再エネ」の代表だと言えるでしょう。

太陽熱に利用は、非常にシンプルです。熱を集める集熱器(コレクター)と熱媒体に加えて、熱を蓄える蓄熱体があれば十分だからです。コレクターは、全反射集光器を利用した高度なものから、単に黒く塗られた箱までピンキリです。利用温度でも平板吸収タイプでも80℃前後、集光タイプだと数百℃程度の高温を得ることも可能です。熱媒体も、最もシンプルなものは空気それ自体で、次いで水や鉱物油などの液体、高度なものでは、気体⇔液体の相変化や化学的潜熱を利用するものまで、数多く考えられます。蓄熱体としては、熱媒体自身を利用したもの(蓄熱タンク)が最もシンプルですが、例えば石材を使うもの、あるいは比熱の大きな固体を用いるもの、更には、化学的潜熱を利用するものや、果ては温度が上がると比重が重くなる液体を利用したソーラーポンドまで、多様な形態が考えられるでしょう。

投稿者の家では、最も単純な、不凍液を熱媒体とする平板型コレクター(約4㎡)と200ℓの貯湯タンクを組み合わせるシステムを入れていますが、夏場は半日程度の日照があれば、給湯・入浴には十分な熱量が確保できます。この他にも、壁面に黒く塗ったアルミ板などを取り付け、壁面との間の空気を加熱して太陽熱を得る「ソーラーウォール」もありますが、こちらは蓄熱目的にはあまり向きませんが、日照があるのに寒い冬場の日中には、暖房用途には最適の仕組みだと言えます。取り分け、日中にしか利用しない事務所ビルの暖房目的には最適でしょう。手元のデータによれば、上手く設計すれば冬場でも80℃前後の温風が得られると言われています。実際、冬場にはかなり気温が下がるB国中西部の砂漠にある工場で、このソーラーウォールの設置で、工場のエネルギー消費が半分に減ったという実績データも出ているのです。太陽熱は、それを使おうが使うまいが、毎日世界中に遍く降り注いでいるのです。

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2018年5月 4日 (金)

3434 再エネ考2

再エネとして、先ずは、優等生の太陽光発電を見ていきましょう。太陽光発電は、実は初期には宇宙開発用として開発が進みました。それまでは、いわゆる核分裂物質を人工衛星に積み、出てくる熱で「熱電発電」をして衛星のパワーを賄っていたのですが、人工衛星はやがて用済みになって高度を失い地球に落下するので、核物質を使った発電は危険過ぎたのです。そこで、シリコンやガリウム・ヒ素と言った物質を駆使して、太陽光発電パネル(PV)が開発され、次々に人工衛星に搭載され始めたのでした。

それらの特許が公開されるや、日本のメーカーがそれに飛びつき、ベース技術からの効率アップと量産技術を磨くことによってコスト削減にしのぎを削ったのでした。昔のメーカー名で言えば、Sャ―プ、Sンヨウ、M下電工、Kセラ、M菱、T芝など等です。そう言えば、私が在籍したK重工でさえ、B国企業を買収したりして、それなりに手を出していた事を思い出しました。そんな事もあり、この国の量産技術は飛躍的に伸び、世界に冠たるPV王国になったのでした。その王国に陰りが見えたのは、欧州やC国で、それまでの日本のメーカーに比べると一桁大きな量産工場が建設された頃でした。間もなく、PVのシェアは、Dイツに越され、次いでC国にも追い越されたのでした。たぶん、この国のPVメーカーの失敗は、PVの量産に必要以上に慎重になり過ぎた事でしょうか。確かに、国としても遅まきながらFIT制度などを整備して、応援は始めましたが、例えばC国の急速なシェア拡大にはついて行けなかったのでした。

しかし、そうではあっても、PVが最重要の再エネであり続ける事に間違いはないでしょう。何故なら、再エネの大前提である「エネルギーの地産地消」の理想に最も叶うものだからです。それは、潜在的な需要家である家屋やビルとしては、この国の全ての屋根がPVで覆い尽くされるまでは途絶えることは無いからなのです。PVの効率向上競争は、ほぼ打ち止めになった感がありますが、太陽が照っている間にしか発電しないPVをバックアップする技術として、安価で大容量の蓄電技術の改良・コスト削減こそが今後不可欠でしょう。

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2018年5月 3日 (木)

3433 再エネ考

サラリーマンを辞して、環境人間に脱皮して一番興味を惹かれたのは「再エネ」でした。もちろん、私たちの生活が原始時代の様に、先ずは食糧の確保が第一優先であったなら、興味も違っていたのでしょうが、自分の中では、取り敢えず食糧問題の緊急度は低いと思っているのかも知れません。エネルギー問題は、昭和の石炭から石油時代に移った時には、問題の中心は価格でした。兎に角、一番手に入り易く、価格も安いのが石油だった訳です。石油は、精製や備蓄さらには流通まで、液体であるが故の扱い易いという最大のメリットがあります。ガスであれば、それを圧縮して嵩を小さくした上で、加圧又は冷却しながら運ばなければなりませんし、使う時にはベーパライザーで再度気体に戻す必要もあるからあります。

もちろん、二度のオイルショックを通じて、この国でも再エネ開発への機運が高まった事もありました。それは、70年代の事なのですが、その時代に(1980年に)NEDOと言う組織もそのために作られたのでした。太陽光、太陽熱、風力、水素、小水力、バイオマスなどなど、種々の新エネん(再エネ)のアイデアが出され、多額の費用を掛けて実証試験も行われました。しかしながら、風力利用の例を見ても分かる様に、それらの多くは「お蔵入り」になり、この国の固有技術のなる事はなかったのです。太陽光発電は、例外的だと言うしかありません。それは、太陽光発電は工業的に量産が可能であるという点で、この国の産業構造にマッチしたためと想像できます。

殆どの再エネの工業化が失敗になった理由がいくつか考えられますが、たぶん大きくは国のリーダーシップと、企業の熱意の両方が弱かったためと振り返っています。新エネ(再エネ)を形とするために、国は補助金制度を作り、重工など大手企業がその補助金を狙って(使って)「高価なテストプラント」を作るまでは、勢いがありました。しかし、2番手3番手のプラントの助成金は絞られ、或いは廃止されると、アウトプットに比して高価すぎるプラントの採算性などとても確保できなかったのです。

一方で、その間海外では、例えば欧州では、風力発電やバイオマスの利用に息長く取り組んできたのでした。気が付けば、風力発電やバイオマス利用技術のシェアは、欧州勢に抑えられていたのです。どう考えても、この国の政策や企業家のマインドには、単年度の予算や利益に興味が集中し過ぎて、中長期のビジョンが殆ど無視されているという本質的な欠陥があると思うのです。再エネの各論については更に続きます。

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2018年5月 1日 (火)

3432 製品ジャンル6

もう少しこのテーマを続けます。そもそも「製品」と呼ぶからには、誰かが誰かにそれを売って代価を得るために、自然物に手を加えて(加工して)、素材(原料)に何がしかの「付加価値」を追加したものだと定義できそうです。それ以前は、ヒトは自分自身のため、或いは家族のために自給自足をして暮らしていた事でしょう。しかし、ある時期以降、人は自分たちが消費する以上の余剰を作り出し、それで物々交換するか、後には通貨なども媒介して交換する様になったのでした。

産業革命期以降の、規模を拡大した工業化が前提とされた社会システムの中では、工場を持つ企業家は、何より売れる製品を作って、企業に利潤を上げることに腐心した事でしょう。それが社会の仕組みであり、企業(株式会社)の株主に対する義務となってしまったからです。それが、更に戦後の高度成長期を通じて、消費者が求めるものを作るのではなく、企業が売り捌きたいものを提案して、市場に「押し込む」ことが普通になったのでした。これまでに述べた製品ジャンルは、まさにこの流れの中で出来上がってきた産物だと言っても良いでしょう。

食べ物にしても、家電にしても、車などの耐久消費財にしても、今私たちが目にしている市場は、結果的には企業の提案に、消費者が乗っかった果ての姿だと言うしかないでしょう。それで何が悪いかですが、やはり納得がいかないのは、消費者側に常に「買わされている感」が拭えないからの様な気がします。ある個人が本当に欲しいモノは、たぶん完全なオーダーメイドでないと実現できないでしょう。しかし、全てに効率やコストを優先する現代社会のシステムでは、そんな面倒くさくて、まだるっこしい事は現実的ではないと切り捨てられるのです。

ここでの提案は、先ずはある製品で徹底的にオーダーメイドに応えるモノ造りをやってみてはどうかと言うことです。ある製品が、使い勝手が良く、長く手元に置きたくなるモノであれば、それを見た別の人が、同じもの或いはそれを少しカスタマイズしたモノが欲しいと思う事でしょう。その様にして、やがて新たなロングテールの「定番製品」が生まれると思うのです。もちろんロングテールの製品などというものは、1年や2年で生まれる筈もないのです。生活の中で使われ、使い込まれる過程でそれが定番になっていくだけなのです。製品を開発する人達は、消費者が買いたくなるものを作るのではなく、使用者が「一度手にしたら手放せなくなる製品」を目指すべきだと思うのです。この項一旦終わります。

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2018年4月27日 (金)

3431 製品ジャンル5

次いでエネルギージャンルについて考えてみましょう。エネルギーのジャンルとしては、大きくは再生可能型エネルギーと非再生エネルギー(いわゆる化石型エネルギー)に分けられます。前者、即ち使っても、自然が主に太陽光を使って再生してくれるものと、後者、即ち使えば目減りしてやがてエネルギーとしての資源が枯渇するものに分けられるのです。悪いことに、後者を使えば、例えば二酸化炭素や放射性廃棄物が排出され、それが地球環境、ひいては私たちの生活の質の悪化(例えば温暖化やPM2.5など)につながる事が、ほぼ証明され、世界中の人達もそれを認識する様になったのです。

具体的な、エネルギージャンルですが、前者としてはヒトの歴史の古い時代から使われてきたものがあります。木材などのバイオマスや水力や風力などです。もちろん、地域的に見れば温泉熱や自然に産するロウや植物油(動物油)なども利用していたでしょう。現代の再生可能型エネルギーは、基本的にはそれらを近代技術を使って効率化や大規模化を図ったものに過ぎません。

後者としては、不味い事にヒトは、歴史の中のある時期に燃える石(石炭)や燃える水(石油)を発見してしまい、更には物質の構造を変えることによる膨大なエネルギーの解放(核分裂や核融合)出来る事も理解してしまったのでした。化石型エネルギーの発見とその利用が始まったのです。これは、私たちの文明や生活を根底から変えてしまった発見でした。車で雨にも濡れずに馬より早く移動し、トラックで牛車より多くの荷物を運ぶ仕掛けが作られ、生活の中でも化石エネルギーから作られた電力を使って、快適で便利な生活を手に入れたのでした。

その意味で、再生可能型エネルギーについても、つい「発電」に注目が集まりますが、最終的に電力の形でなければならないのは、照明とOAと動力程度の筈なのです。実際のところは、エネルギーの多くは熱(或いは冷熱)の形で使われているのです。つまりは、冷暖房(空調)であり調理であり、工場でのプロセス加熱などを考えて貰えばすぐ理解できる話です。ある、家庭やビルの電力量を眺めれば、春秋に比べ夏冬が2倍以上になっている事は、請求書をチェックすれば一瞬で理解できるでしょう。それが、冷暖房にかかるエネルギーなのです。

ならば、熱は熱として再生可能型エネルギーで賄える範囲で賄えば、電力や化石型エネルギーは、取り分け地方では大幅に削減できる筈なのです。熱利用のエネルギー源を、化石型エネルギー(による発電)に依存したまま、徒に大型の太陽光や風力発電だけに頼るのは、やはり筋違いと言うものでしょう。まとまらないので更に続きます。

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2018年4月26日 (木)

3430 製品ジャンル4

移動手段についても考えてみましょう。投稿者は最近、「竟の車(人生最後の車)」を発注しました。もちろん最近の車は、オートマ車で何やら視覚センサーや安全ブレーキが装備されており、お金さえ出せば、高速道路で白線からはみ出さない機能などてんこ盛りですが、投稿者は敢えて一番プリミティブなMT車を選択しました。発進時にクラッチをミートさせるとか、速度に応じてギヤを選択するという運転操作は、実はかなりの運動能力を必要としますから、いわゆるボケ防止にもつながる筈なのです。

オマケに、車重はと言えばオートマ車に比べて50㎏(一人分)軽く出来ていますので、余分な目方を移動させる必要もありません。燃費は、加速時と自重と転がり抵抗の積によって支配されますので、もちろん自重が軽い方が有利でしょう。その意味で、車はもっと軽く作る事ができると思うのです。車メーカーには、もっと大胆に車の軽量化に取り組んで貰いたのです。最低限の動力や運転装置と、最小限の安全装置で、最軽量の車を実現して貰いたいと思っています。たぶんそれは、3輪のバイクに雨除けの車体を乗っけた様なスタイルになるだろうと想像しますが、過去には似たような例が見つかりますが、新しい車のジャンルと考えても良いでしょう。前二輪とするか、オート三輪の様に前一輪とするかは、操縦安定性と衝突時の安全性で判断すれば良いでしょう。

狙いは、軽量化による燃費の画期的な向上です。少なくとも、ガソリン1リッターで50㎞以上、出来れば100㎞も視野に入れて貰いたいものです。車の基本的な性能は、雨に濡れずにドアからドアへ移動したいという「基本的な欲求」に基づいている筈なのです。取り敢えずは安価な鉄でボディーを作り、実用的なレベルまで量産化が可能となったエンジンに、種々の快適装備を乗っけた結果が、小型車でも1トンを優に超えてしまうのが今の車なのです。それで数十㎏の体重の運転者や乗客を運ぶ訳ですから、如何に無駄が多いか分かるでしょう。単車だと二人乗りでも100㎏を超えても知れているでしょう。それに複合材で作られたキャビン付きの三輪にしたとしても、たぶん300㎏以下には抑え込めると思うのです。特に難しい技術に頼らなくとも、普通に作れば、燃費だって50/ℓ程には伸びる筈なのです。ここでは、三輪車と言う新しい製品ジャンルを提案してみました。

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2018年4月24日 (火)

3429 製品ジャンル3

メーカーの現状の情けなさについて言いっ放しでは無責任なので、来たるべき時代に投入すべき製品ジャンルに関して、想うところも考えてみます。製品(ハードウェア)ジャンルを考えるに、大きく分ければインフラ依存型と非依存型に分類できそうです。インフラ依存型とは、ガソリンスタンドや家庭用電源や携帯(スマホ)用の無線通信回線を使わなければ役に立たない製品群があります。そうではなくてそれを持っているだけで独立して使えて役に立つ製品、例えて言えば、太陽光や手動のダイナモで充電できるラジオや懐中電灯、或いは自転車や各種の工具や道具類、或いは携帯用音楽機器などが非依存型に該当するでしょう。

インフラ依存型は、インフラの充実と相俟って開発が進んできた筈で、逆に言えば災害などでインフラが寸断された場合には、無用の長物となる様なシロモノです。一方、非依存型は、使いこなすのに面倒で、多少の熟練やコツが必要ではあるものの、使い込むほどに所有者の愛着も湧いてくるというのが大きな特徴になりそうです。

さて、投稿者が推奨するのは、言わずもがなですが後者のインフラ非依存型製品で、何かしら人の基本的な欲求に強く訴えかける製品の提案なのです。所有する喜び、それを使いこなす喜びが感じられる製品が必ず提案出来る筈だと思うのです。その際に、必要な事は、いずれがより人々の基本的なニーズにより近いか、と言う吟味でしょう。テレビとラジオと新聞のいずれがよりプリミティブかを考えれば、それは自明でしょう。災害が起きた時、先ず復旧したのが、避難所の壁に貼られたお知らせ(壁新聞)であり、次いで比較的軽微な設備でスタート出来たラジオ(災害FM)であり、最後にテレビだった筈です。ならば、新聞に関わる人達は、メディアの変容による新聞の発行部数減少を嘆くだけの対応は改めなければならないでしょう。

今の新聞の形態が定着したのは、瓦版があったかなり古い時代に遡るのでしょうが、新聞の役割や面白さを見直せば、まだまだ面白いメディアであり続ける可能性だってある筈なのです。例えば、紙面の中に種々の情報をバーコードの形で埋め込んだ、タブロイド判かそれより小さいサイズの新聞はどうでしょう。人々は、バーコードにスマホをかざして、文字情報に加えて、写真や映像や音声データ等の追加情報を受け取る訳です。新聞は、情報社会のガイド役であり、入口役としての役割を担う事になるでしょう。つまりは、情報に関して言えば、PCやスマホの様にインフラにベッタリ依存するのではなく、紙媒体としての存在感を拡大させるという方向です。更に続きます。

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2018年4月23日 (月)

3428 製品ジャンル2

この国のメーカーからも、かつていくつかのヒット商品が生まれました。一時的なブームで終わらなかった定番商品として頭にすぐ浮かぶのは、SニーのWォークマンやHンダのS-パーカブなどですが(もちろん他にもたくさんありますが・・・)、それらに共通するのは、いずれも新分野を切り開いたという点と、同時にそれらが人々の基本的ニーズに寄り沿っているという点でしょうか。人々が、音楽を気軽に聞ける環境が整った時、彼らは「音楽を持ち歩きたい」と言う欲求を強く待ちました。しかし、その時代録音メディアとして最もコスパが良かったのは、磁気テープ(カセットテープ)であり、それを前提とした時にそのカセットとほぼ同じサイズのS社のテープレコーダが爆発的に売れたのは当然の結果だったでしょう。

一方、生活が豊かになるにつれ、人々の移動する機会は増えるものの様です。先ずは、買い物や物流、ついでレジャーや旅行などでの移動です。この国では、鉄道の歴史は古いのですが、パーソナルレベルでミニマムの移動手段は、自転車⇒バイク⇒車と言う順番でニーズ=市場も拡大していったのでした。そこに、起業初期のHンダが目を付け、原動機付き自転車(モーペッド)と言うジャンルを切り開いたのでした。もちろん、モーペットはHンダの発明品ではありませんが、それを大衆化したという点では功績は大きいでしょう。もちろん、ライバルのY社やS社やK社との切磋琢磨があった事は、この国のバイク産業にとっては幸運だったことは間違いありませんが、Hンダはカブの形態に拘り、未だにモデルを継続している事は超ロングテール製品と言う意味合いで驚嘆すべき事実でしょう。

今後、どの様な新製品が生まれるかは予測しようもありませんが、いずれにしても人々の基本的な、しかし根強いニーズに軸足を置かない事には、一発で終わりの「花火製品」に終わる事は明白です。そのためには、人々の日々の「困り事」に着目する必要があるのは言うまでもありません。「あれば便利」レベルの製品は、すぐ飽きられる事は自明です。一度手にしたら、二度と手放せないレベルを狙うしかないのです。その意味で、背景に携帯電話やタッチパネルと言った、要素技術が成熟しつつあったとはいえ、スマホの発明者であるS.Jブスの新分野開拓のセンスこそ、全ての開発者のバイブルとすべきものでしょう。

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2018年4月20日 (金)

3427 製品ジャンル

この国のメーカーが市場に投入する製品を眺めていて、気が付くことがいくつかありますが、その最たるものは、新しいジャンルの製品が少ない事でしょうか。投稿者が長く関わった航空機分野でも、M社のリージョナルジェットなどは、間違いなく「3匹目のドジョウ」を狙った製品でしかないと断ずるしかありません。既にCナダのB社や、BラジルのE社が手掛けていて、一定の市場を形成していた分野だからです。もし、この国が例えば70年代に、ターボプロップのYS-11に引き続いて、少し大型のリージョナルジェットを開発していたら、この国の航空機産業は、たぶんB国、欧州に次ぐ確固たる地位を獲得していた筈なのです。

Hンダのビジネスジェットは、デザインや性能で注目を集めて、それなりに売れてはいる様ですが、このジャンルにしたって、この国では過去にM社が性能の高いビジネスジェットを開発し、300機ほどは販売した実績もあったのですが、売り方やメンテナンス拠点の作り方に失敗し、結局ビジネス自体をB国のメーカーに売り渡してしまったのでした。YS-11にしても、ビジネスジェットにしても、時代がやや早過ぎたきらいはありますが、それにしてもこの国のメーカーは、「技術で勝ってビジネスで負ける」という轍を何度踏めば気が済むのでしょうか。

投入した時代が早過ぎたとしても、信念を持って取組み、「新たなジャンルを切り開くのだ」といった気概を持ち続ければ、本当にそれが新ジャンルになってしまう例も多いと想像しています。この国のメーカーも、他の国(欧州やB国の場合が多いのですが)で売れているものを手本にして、その性能や品質を高めてシェアを取りに行く、と言う作戦を放棄すべき時期に差し掛かっていると思うのです。航空機で言えば、リージョナルジェット(RJ)やビジネスジェット(BJ)ではなく、飛行場が不要な、水上機や飛行艇などを得意分野にして前に進めば、値段が高過ぎてRJBJが買えない途上国などでも、新ジャンルでのシェアが取れる可能性も高まる筈なのです。家電でも、車でも、世界がアッと言う様なジャンルの製品を開発してみよう、と言う気概のあるメーカーは、シュリンクしつつあるこの国の産業界からは最早出現しないのでしょうか。

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2018年4月19日 (木)

3426 航空機エンジン考

一日当たりで言えば、世界で10万便程が飛んでいると言われる旅客機ですが、旅客運賃低減競争に直接的にインパクトを与える燃費競争も激しく、日々改良や技術的チャレンジが進んでいる様です。いる様です、と書いたのは、投稿者は最早この業界の現役では、単なる傍観者だからです。燃費競争の中では、たぶんエンジンの改良に追うところが大であるのは間違いないでしょう。具体的には、同じジェットエンジンでありながら、かつてのエンジンと今のエンジンでは見かけからして別物の様に見えます。昔のエンジンは、エンジンの後ろから出る排気ガス(ジェット流)が推進力の大きな部分を占めていましたが、現在のエンジンはエンジンの前の部分にあるファンを回す事によって生ずる空気流(バイパス流)が殆どの推進力を受け持っているのです。従って、ジェットエンジンは小型機に採用され燃費も良いターボプロップエンジンに近い考え方に収束されてきた様なのです。さながら、ターボプロップエンジンでプロペラが何段にも重ねられ、それがエンジンダクトの中に納められたといった構成です。

またプロペラ(ファン)は、回転数を上げ過ぎるとスリップが多くなり効率が低下するので、出来るだけ大径にして、ねじり角を大きくし、低回転化を進める方が有利なので、高速化するガスタービン部との間に減速ギヤを入れる構成が主流になりつつあります。これをギアードファンエンジンと呼びます。さらに後段では、耐熱合金の性能向上に伴ってガスタービン部分の燃焼温度はますます上昇させ、高速回転化を進めていますので、これが熱効率の向上を更に後押してもいます。

しかしながら、これは製造技術や品質管理の上では、ますます困難の度を増し、リスクも大きくなってきたとも言えるでしょう。機体やエンジンに最も負荷かが掛かるのは離陸時と着陸時或いは、乱気流に巻き込まれた際ですが、設計条件が厳しい程、条件によっては部材がデッドゾーンに飛び込んでしまう可能性も増加してしまうでしょう。機体に対しては、軽く、しかし剛性が高いという矛盾する要求を、エンジンに関しては低速回転で大径のファン部とますます高温の燃焼温度と高速回転を要求されるタービン部との、これも矛盾する要求を同じ1本の軸上で実現しなければならない訳です。ですから、製造上の僅かな瑕疵が、エンジンブレードの飛散などという重大事故を引き起こすのです。安全性と性能とは、基本的には矛盾するものだと言うしかありません。飛行機に乗る際には、出来ればエンジンの真横の席には座りたくないものです。

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2018年4月18日 (水)

3425 バトルロイヤル?

最近のこの国のマツリゴトを眺めていると、何度目かの既視感に襲われます。派閥と野党が入り乱れて、リーダーの追い落としに熱中するという構図です。この環境ブログでは、マツリゴトは取り上げないルールを掲げていますので、深くは立ち入らず単なる既視感の表明に留めておきますが、ライバルの弱点を、週刊誌(もちろん誰かがタレこんだに決まっていますが)も巻き込みながら、叩き合うという作戦(椅子取りゲーム)に終始するという、例のパターンを何度も何度も見る事になります。いずれにしても、何時まで経っても「進歩の無い」人達ではあります。

既視感と言えば、世界情勢にも同様な既視感を抱きます。つまり、暴れん坊リーダーが座っている国を、寄ってたかって潰そうとする動きの事です。少し前ですが、例えばLビアやIラクと言った国が想い起されます。双方とも、核疑惑があり荒っぽいリーダーが軍をテコに独裁的に国を牛耳っていたのでした。さて、北の隣国のリーダーが簡単に白旗を揚げるか、或いは悪知恵を駆使して国際社会をかき回すのかは注目ですが、いずれにしても資源もあまりない小国ですので、今後とも十分な大国の後ろ盾が得られなければ、たぶん今の体制は長続きしないでしょう。

国内情勢にせよ国際情勢にせよ、あらゆる諍いは、人間の不信感や欲望の結果巻き起こされた「渦」であるのは間違いなく、小さな渦はやがて消えて無くなりますが、水面下の流れはまた新たな渦のタネを準備している事も間違いないでしょう。かつて、人々は部族や信条に従って、モザイクの様に分かれて暮らしていましたが、私たち人類は、地球環境が許容する人口レベルをとっくに超えてしまったと見るしか無さそうなのです。その結果、あらゆる価値観が入り乱れての、人と人、或いは人と環境のバトルロイヤル(少し古い言葉です)が繰り返される結果になるのでしょう。人と経済のグローバル化の加速は、その混戦に大量の油を注ぎ続けているのでしょう。今日は短く。

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2018年4月16日 (月)

3424 スタンダード(旗印)

このタイトルでの投稿は2回目かも知れません。さて、JISISOJASなどの頭文字でもおなじみの「S:スタンダード(Stanndard)」は、日本語では「標準」などと訳されていますが、本来の意味は軍隊などが先頭で掲げる「旗印」であった、という事はあまり知られていません。その割に、この言葉は、たとえば「国際標準(グローバル・スタンダード)」と言った言葉の中に、さも昔から決まっていた「標準」であったが如きの文脈で使われ続けてきました。ISOは、確かに各国から集まったISO委員が、長い時間を掛けて話し合って決めた国際「標準」なのでしょう。しかし、マスコミなどで使われる文脈での国際標準とは、例えばB国標準であったり欧州標準に過ぎない場合が殆どだと見ています。

では、この国のスタンダードは何であるかと考えてみても、にわかに思い当るものはないのです。伝統的な価値観だと思われている仏教でさえ、輸入宗教の一つに過ぎないですし、八百万の神々を敬う素朴な神道イズムでさえ、ある時期以降は軍や極右の思想と融合し、色濃く染められてしまったではありませんか。阪神や東日本の大震災で、せっかく生まれかけた「絆」や「結」と言った互助の風潮も、結局この国の文化の深い場所に根付く事もなく、やはり人々の日々の注目はグルメや景気の行方や政治ごっこやスポーツの結果程度にしか集まっていない様に見えます。

その人やその国の人々の価値観は、結局のところ掲げるべき「旗印」によって決まってしまうと思うのです。たとえ、それが「本音」ではなく「建前」だとしてもです。言わずもがなですが、もし人々や国々が本音を旗印にして進むとなると、恥ずかし過ぎるか危険過ぎるでしょうから、それを掲げる事はそもそも出来ない相談でしょう。旗印は、理想であって構わないどころか、まさに理想そのものであるべきだと思うのです。理想は理想であって現実とは乖離しているのが普通ですが、かといって旗印を降ろしてしまっては、その人や国の存在自体の意味が失われてしまうでしょう。投稿者は、50代のある時期以降、自分の旗印を「環境」を含めたものに書き換え、それを掲げて人生のコースを方向転換してみました。その後に考えた事どもは、このブログに縷々書き連ねてきたつもりですが、2006年夏に投稿をし始めて10数年経過してしまいました。その間、旗印は変えたり、降ろしたりすることは無かった事はすこし胸を張れそうです。

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2018年4月13日 (金)

3423 開発と言う名の破壊

「環境カウンセラー事務所」を開設し、勝手に環境カウンセラー業となって以降15年ほどが経過しました。想い起せば、1960-70年代にいわゆる「公害事件多発時代」を目撃し、その後の地球規模の環境悪化が指摘され続けてきた時代と共に歳を重ねた身としても、「環境」と言うキーワードは、既に体の一部になっている様な気もします。私たちの感覚では、自分と言う人間が居て、それを取り囲む形で環境があると思っていますが、Y老孟司が「自分の壁」の中でも指摘している様に、自分=環境と言う認識が正しいと、投稿者も賛同しています。

自分の体を構成している、原子や分子や細胞のどれ一つとして、自分で創り出したものなど無く、全ては環境からの「借り物」である事に異を唱える事は出来ないでしょう。しかし、悲しむべき事に私たちは、開発と言う名の下で、如何にすさまじい規模で環境を破壊し改変しているかに気付いていないのです。新しい道路を通すには、先祖伝来の美田をつぶし、里山を削ってその土で谷を埋め、或いはトンネルを穿ち、橋を架けるでしょう。その全てが、環境の破壊であり改変である訳です。その意味で、今の家を建てる際には、結構悩みました。と言うのも、買った土地が田んぼを埋め立てた土地だったからです。埋め立てられる前から、その土地は耕作放棄地で草ぼうぼうだったことは知っていましたので、少しだけで済みましたが、やはりココロは痛んだものでした。

私たちが、何か行動を起こしたり、或いはモノを作ろうとすれば、必ずや環境に何らかの変化を与えずには置かないのです。車を少し走らせただけで、人間が呼気から出す量の、何ケタも大きな量の莫大なCO2を排出してしまうでしょう。ましてや、それが旅客機である場合は更に2桁くらいは大きな量となる筈です。歩いたり、自転車で移動しない限り、私たちは地球大気の組成を改変しながら移動を重ねることになるのです。もちろん、環境改変を全くストップさせる事は、人が生きている限りは不可能です。生きていくだけで、少なくとも屋根の下に住み、衣服をまとい、食糧を口にし、排せつをする必要はあるからです。しかし、環境改変を最小限に留める努力は不可欠でしょう。そうでなければ、私たちの子孫の生活の質が著しく劣化せざるを得ないからです。現世代のエゴは、出来る限り抑え込んでしまう必要があります。それが、このブログの一貫したテーマでもあるのですが・・・。

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2018年4月12日 (木)

3422 負の遺産

「遺産」には、もちろんそれを受け取る子孫にとっては、何かしら棚ぼたの様なプラスのイメージがある筈のものです。労せずして、親や親族が残した財産(や権利)を継承できるからです。しかし、考えてみれば遺産はプラスのものだけではありません。それが「負の遺産」です。瀬戸内海の真ん中に懸けた瀬戸大橋が、架橋後30年を経過したそうですが、鉄で出来ているこの構造物は、残念ながら年々劣化が進んでいる筈です。少なくとも鉄は放っておけば錆びる素材だからです。それを食い止めるためには、錆が出たらそれを落として、ペイントを塗り直さなくてはなりません。いわゆるインフラのメンテナンスです。適正なメンテナンスのためには、設備やインフラには、毎年取得価格の2-3%の費用を掛ける必要があると言うのが常識です。瀬戸大橋の寿命を何年に設定しているのかは承知していませんが、100年以上も維持することは多分無理でしょう。

見回してみれば、私たちの周りは先輩や自分達が関わって、作ってしまった遺産に取り囲まれている事に気が付きます。高速道路、鉄道、橋梁、トンネル、港湾施設、各種のプラント、原発を含む発電所・送電網、ダム、河川工事云々かんぬんです。しかも、それらのインフラは、皆結構なお年頃になってメンテナンス費用の嵩む年代に差し掛かってもいるのです。問題は、多くのインフラは建設時にはメンテナンスの事など殆ど考えられずに設計され、建設されているという点です。メンテナンスは、それが出来てから改めて考えるという後追いになっている訳です。それも当然で、建設時の積算費用にはもちろんメンテナンスのための仕掛け(例えば点検用の足場)は、コスト競争に勝つためには除外せざるを得ず、それは使用者が運用の中で考えるべき事項に押し込まれてしまっているからです。

前出の長大橋にどれだけメンテナンスのための仕掛けが施されているか、詳細には知りませんが、もし橋げたの下部の点検・補修のために仮設の足場を掛けなければならないとしたら、海上部だけで10㎞もあるこの橋の場合、その費用だけでも天文学的な金額になる筈なのです。その費用は、メンテナンスに関わる世代へ、先輩世代から贈られた「負の遺産」の典型例と言えるのです。架橋による便益は、今の世代が受取り、崩落しない様にお守りをする費用を次世代に先送りする、といった例の何と多い事でしょう。もちろん、原発はその極端な例である事は論を待ちません。出るのはため息だけ・・・。

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2018年4月11日 (水)

3421 文明の逆転

この歳になると、やはり自分の歩いてきた道と、それを取り囲んでいた時代を振り返る事も多くなってきました。その中では、時代や文明は前に進むものであって、基本的には逆戻りはしないものである、と言った風潮が支配的であった様な気がします。先の戦争に負けて以降、戦後の焼け野原から出発したこの国は、B国の核や軍事力の傘の下で、彼らの顔色を見ながら、ひたすら経済力を高めるために注力すれば良かった時代が長く続きました。その「根性」は、現在でも色濃く息づいているとも言えるでしょう。この国のリーダーの「B国と完全に価値観を共有する・・・」と言った発言にもそれは読み取れます。すぐ北の隣国との関係を考える際に、先ず遠く太平洋を隔てた国の意向を確認しなければ、何も進められない情けない国だとも言えるでしょう。

今読んでいる新書にF沢諭吉の「文明論之概略」が取り上げられていますが、明治の初期に、彼が文明や国(体)について巡らせた思索の余りの深さに驚嘆させられます。ぜひ原文を読んでみたいと思ったものでした。その中で、F沢は文明とは国の独立を保証するための「手段」ではあっても、決して目的ではないと言い切っているのです。文明と言う言葉を、例えば経済や科学・技術や政治と言った言葉に置き替えても、彼の指摘は全く当てはまると思うのです。つまり、私たちはこの国を、鎖国状態の極東の島国から、海外に向けて開いて以降、殆どの時代に置いて、海外の文明を取り入れて、それを丸呑みする事に熱心であり続け、それを消化・吸収する努力を怠ってきたのだ、と断ずるしか無さそうなのです。

投稿者が生きてきた戦後の60数年に限って考えても、長く勤務した某重工でも戦後は殆どの分野で技術導入を行っての「ライセンス生産」から始め、その中で生産技術を養って、やっと今日の立場を確保したのでした。しかし、生産技術の改良は言わゆる「カンバン方式」の高みに到達さえたとはいえ、結果としてこの国から何か世界にインパクトを与える画期的な新原理や新技術なりの発見・開発があった訳ではなく、単なる「改良」に留まってきたことは銘記すべきでしょう。私たちは、明治以降の「文明開化?」の歴史を紐解き、必要によってはそれを巻き戻して、不味かった点を反省し、出来れば正しいピースに差し替えなければならないとも思うのです。文明(科学や経済や政治の仕組み)は、手段ではあっても決して目的ではない。目的は、たぶん「より正しかろう価値観を持った独立国となる」事にあるのでしょうから。

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2018年4月10日 (火)

3420 着地点2

何事にせよ始めるのは楽で、終わらせるのが難しいのは日常的にもよく経験する事です。例えば、自分の人生が間もなく終わるとして、それまでに契約している保険やローンや各種の加入案件を、短い期間でピリオドを打つのは至難のワザでしょう。最近「終活」と言う言葉が注目されていますが、今の社会が急に終わる訳ではないでしょうから、少なくとも全ての社会状況が安定する着地点を見定める「着活?」は今から始めておかないといけないのだと思います。

日本の人口ピラミッドを眺める限りにおいては、団塊世代と団塊ジュニア世代の突出を除けば、1年代当り大体100万人前後の出生で落ち着きそうな感じがします。それらの人が、80数年前後生きるとして、事故や病気もあるでしょうから、たぶんそんな時代の(安定)人口は、5-6千万人前後で推移すると想像できます。もちろん、人口当たりのGDPを考慮すれば、この国の経済力の順位は、たぶん10位前後かそれ以下に落ちてしまう事になる筈です。しかし、たとえそうではあっても、私たちが狙うべきは量より質であるべきだと思うのです。

さて、幸福度の問題です。ヒマヤラの麓に、国民の幸福度世界一と言う国がありますが、この国も一度物質的には頂点を極めた先進国の一つとして、エネルギーや物質を必要最小限レベルまで下げた上で、国民の幸福度はどこまで高められるか、と言う実験がたぶん必要なのでしょう。それによって、この国の、そして多分今の文明の着地点も少しは見えてくる筈なのです。物質(≒お金)やエネルギーは、基本的には人々の暮らしを安定させ、楽(快適)にするために使われてきましたが、今やそれらは「手段」としてではなくそれ「自体が目的」になってしまった感さえあるのです。つまり、原発が安定的なエネルギー源として位置づけられた時代は確かにありましたが、原発推進派にとって、今や原発の存続自体が目的になってしまった、というのがその一例として挙げられるのです。私たちは、一体何処の地平に着地できるのでしょうか、それとも無理やり飛び続けて、最後は大地に叩きつけられる「ハードランディング」しかないのか、このブログでは引き続き考えていきます。

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2018年4月 9日 (月)

3419 着地点

これは多分愚痴になるでしょう。今から10年ほど前、このブログのごく初期の頃、今の(石油)文明を飛行機に喩えて、飛び立った飛行機は有限の燃料の続く限りは飛び続けられるが、最終的には着陸しなければならない、と書いた様に記憶しています。これは、投稿者が若い頃読んだ、ローマクラブの「成長の限界」に影響を受け続けている投稿者の憂慮を表したものでした。あれから10年を経過して、その憂慮(心配)はますます強まっていると振り返っています。

心配の最たる点は、この国のマツリゴトを行っているリーダー達の劣化です。リーダー達とは決して政治家だけを指すのではありません。高度成長期においては、政治のトップに誰が座るかなどあまり問題ではなく、力のある官僚がしっかりした計画を立て、政治家(屋)はそれに乗っかってさも舵を取っている様な風を装えば国は前に進んでいたのです。この時期の計画は楽でした、世銀から借金をしてでもインフラ投資を行い、民間には利子補給をしながら経済を鼓舞し、景気の良さを煽り立てれば、団塊の世代がこの波に乗ってサーフィンをしていた時代だったからです。然るに、今の体たらくです。政治家は、国会の場を使って、さながら小競り合いの如き「何とか問題」での責任のなすり合いを繰り返し、官僚は尻尾を出さない様に(良い天下り先を得るために)保身に汲々とする、嘆かわしい時代になってしまった様なのです。

難しいのは、入口政策ではなく、出口政策である事は論を待ちません。何本だかの矢を放ったとしても、そのストーリーの完結編を書かない事には、やりっ放しの無責任の誹りは免れないでしょう。結局この国の最大の心配事は、少子高齢化の人口減少社会となっての、社会の着地点が全く見えない点なのです。リニア新幹線が開通しても、国民全体の幸福度を上げるとはとても思えませんし、観光客が4千万人来訪したとてもそれは同じでしょう。マツリゴトのリーダー達(ここでは高級官僚を指します)は、それぞれの分野において、国家百年の計を示し、それに向かってのステップとしての中短期計画を引いて貰いたいのです。政治屋は別として、政治家には単年度の予算の使いみち、ましてや「何とか問題」に徒に1日何億だか掛かる国会の時間を費やすのではなく、もっと国の行く末についての議論を深めて貰いたいのです。投稿者としては出来れば、「着地点国会」を開いて貰いたいくらいなのです。たぶん、そんな望みもこのブログの「独り言(愚痴)」に終わるのでしょうが・・・。

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2018年4月 7日 (土)

3418 省エネ技術・今更ですが2

3417でも言及した様に、エネルギーのベストミックスを云々する前に、先ずは省エネこそが最重要課題でしょう。その中で、住宅や建物の冷暖房に関わるエネルギーをもっともっとやり玉にあがるべきでしょう。通常、この国の家屋やビルのエネルギー消費量を1年間に亘って観察すると、間違いなく夏と冬に大きなピークが立つことが分かるでしょう。春と秋には、冷暖房負荷が殆ど無視できるので、そこからのエネルギー使用量の立ち上がりは、夏は冷房、冬は暖房にかかる負荷である事は自明です。何故、冷暖房負荷が大きくなるかは、結局は建物の断熱性能の低さに還元される筈なのです。もし、魔法瓶の様に完ぺきな建物があるとすれば、夏場に建物内の気温を上げるのは、換気で外から入れる空気と人の出入りの際に一緒に入ってくる熱気だけになる筈です。

従って、冷房負荷は外から持ち込まれた熱量を追い出すだけの微々たるエネルギーで済むでしょう。換気の際に、熱交換型の換気扇使えば、殆ど無視できる程度の小さなエネルギー負荷で、快適な居住空間が実現できるのです。然るにこの国の建物の粗末な事と言ったら・・・。薄い壁、単板ガラスで熱が自由に出入りする窓、日射熱や室内の暖気が出入りする屋根、湿気を抜くために開放的な床下も冬は外気と同じ程度まで気温が下がるのです。かくして、夏は熱く焼けた外壁や屋根(天井)、冬は床面も含め、部屋を構成する部材全てが10℃以下に下がる建物構造の所為で、私たちは莫大なエネルギーを冷暖房に費やす事になる訳です。

最近のこの国家屋は、長くて50年のサイクルでスクラップ&ビルドを繰り返している訳ですが、建屋コストを1-2割アップさせるだけで、冷暖房負荷を2-3割下げることは十分実現可能でしょう。更に断熱のためのコストを掛ければ、冷暖房負荷を今の半分以下に圧縮する事も問題なく実現できる筈なのです。見てくれだけを良くした、薄壁住宅がこの国の省エネを妨げる元凶だと断言しておきましょう。

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2018年4月 3日 (火)

3417 省エネ技術:今更ですが・・・

どんな団体かは知りませんが、D力広域的運営推進機関(OCCTO)の予測によれば、2021年にはこの国の予備電力率8%が確保できない状況になるのだとか。この報告が誰に向けてされたものかは承知していませんが、どうせ原発推進派が「再稼働やむなし」のムードを高めるために利用されるだろうことは容易に想像できます。その報告書を読んではいませんが、もしその結論が「もう一段の省エネが必要」となっているのであれば、OCCTOを評価する事は吝かではありませんが、そうでなく単に危機感を煽っているだけであるなら、きっと天下りの受け皿となる業界団体の一つに過ぎないのでしょう。

さて、投稿者は省エネ指導を仕事のカンバンに掲げていますので、上の報道に接して、ここで再度省エネの重要性に言及しない訳には行きません。省エネ(=ネガワット)の最大のメリットはと言えば、そのための投資が(殆ど)不要であるという点です。また、発電所を増設したり、再稼働のための安全設備の増設などを実行するためには、莫大な投資と工事期間が必要ですが、省エネは決断さえすれば、あまり役に立っていない照明や設備のスイッチをポンと切るだけで、瞬間的に実行可能なのです。

原発再稼働を回避するためには、先ずはピーク電力をカットする事が肝要です。発電所の規模や送電線の容量は、ピーク電力(たぶん夏場の晴天の日の昼下がりに発生)に合せて準備されますので、これをカットできれば、予備電力の余裕も生まれてこようと言うものでしょう。盛夏の電力ピークは、間違いなくガンガン使っている冷房機の電力消費によって生じていますから、それをカットするためには、いくつかの工夫や努力や少しの投資も欠かせないでしょう。冷房効果を上げるためには、建物の断熱や遮熱は必須です。建物の改修には大きな投資が必要ですが、遮熱シートや遮熱ペイントならば、メンテナンス費用の一部としてカウントできるでしょう。冷房機(エアコン)の冷媒にも工夫の余地があります。フロンより少ないパワーで圧縮できる炭化水素系の冷媒が普及すれば、それに入れ替えるだけで2-3割の省エネが実現できる筈なのです。蓄熱(蓄冷)も省エネやピークカットに効果の大きい技術でしょう。負荷が小さい時に、熱や冷気を蓄積しておき、必要な時間帯にそれを放出する訳です。たぶん続きます。

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2018年4月 2日 (月)

3416 超高齢化社会

投稿者が今住んでいるA田県は、少子(人口減少)高齢化社会の「トップランナー県」なのですが、最近の予測では、人口減少と高齢化に更に拍車が掛かり、2040年前後には高齢者の割合が、なんと50%を超えるのだとか。住人の二人に一人が65歳以上という社会は、なかなか想像できませんが、人口ピラミッドで今生きている人達の状況は変えようがありませんので、この予測は実際にも当たってしまうのでしょう。

もちろん、その時期まで投稿者が生きているとは思えませんが、予測はどうにも変えられないにしても、今から何らかの対策は考えておかなければならないのでしょう。さて、どう考えるかですが、少子化にはある程度の歯止めが掛かるにしても、姥捨て山でもない限り???、高齢化は医学の進歩もこれありで、ますます加速すると想像されます。その様な時代に必要な事こそ、「生涯現役」というキーワードでしょう。ピンピンと生き、コロリと居なくなるのが理想なのでしょうが、ヨロヨロしても良いので、或いは這ってでも、死ぬまで自分の力で動ける状態を維持するしかないでしょう。そのために、年寄りこそ「肉をほおばり」、活動的に動き回って、死んでも?ロコモティブシンドロームに陥る事を阻止しなければならないのです。

年寄りが寝込むきっかけは、多くのケースで転倒し、足を骨折してしまう事ですが、その対策は喫緊の課題でしょう。骨の再生を助けるサプリや食材の提案、更に骨に振動や適度な衝撃を与えて骨密度の低下を妨げる運動や機器の開発などなど、活動レベルを低下させない仕組み作りが不可欠です。

同時に、(僅かな額でも収入につながる様な)高齢者の働く場が絶対に必要です。その仕事やサービスは、それを受ける側から感謝されるものである必要もあるでしょう。いくつかの例を示すなら、例えば公園や街の清掃作業が考えられます。また、公園や街路の緑化維持・推進なども良い仕事になる筈です。田舎においては、異常な勢いで増加し続ける「空き家」や「耕作放棄地」の再生も重要な仕事になり得るでしょう。建物構造が寿命を迎えているのであれば、解体もやむなしでしょう。筋肉労働において、高齢者の弱った体力を補完するためには、素人でも扱える重機やロボットスーツの開発も必須でしょう。

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2018年4月 1日 (日)

3415 超ロングテール製品

B社のB737型旅客機の引き渡しが既に10,000機を超え、総受注数では14,000機を超えたとか。この世界では、500機程度を売り上げれば、開発費が回収でき、それ以上の売り上げで、徐々に利益が出ていくと言われており、数千機を売り上げれば、成功プロジェクトと評価されるのです。B737は、当初短距離機、いわゆるRJとして開発されましたが、特徴はそれ以前の機体の設計を生かす形で、単通路ながら336列キャビンとした事でした。いわゆる胴が太い寸胴タイプで、従って燃費もあまり良くなかった筈です。しかし、結果として、その後のエンジンの低燃費化、胴体延長型や長距離型の派生型機のラインアップで、顧客のニーズに応えて来たのでした。

その後、見かけ上は同じでありながら2代の代替わりを経て、設計的には全く異なる新世代のNGタイプへと進化を続けたのでした。今では、LCCが多用するやや大型のRJタイプから、200数十人が乗れる中型領域の機体、更には200人程度を乗せて、大陸間を行き来できる長距離タイプまで品ぞろえを増やした結果、最初に述べた様に「超ベストセラー機」となったのでした。

しかし、ここで強調したいのは、この機体は開発されて以降、数多くの改良や新設計を繰り返しながら、50年以上の長きに亘り第一線の機体として売れ続けている「超ロングテール」製品でもあるという点です。例えば、‘70年代を代表する旅客機でもあるB747B767などは既に製造中止に追い込まれていますし、AアバスA300シリーズを除けば、競合機種は全て市場から駆逐されてしまったのです。ロングテール製品に育てるには、非常に粘っこい努力が必要である事は言うまでもありません。それは、例えば家電や車などの耐久消費財や更に言えば日用品や加工食品の世界でも同じでしょう。○○と言えばXXといった様な「商品イメージ」をユーザーや消費者に植え付ける事に成功した製品・商品のみがその栄冠を手にする事ができる筈です。新製品の開発合戦も結構ですが、(高齢化した)消費者の目が肥えて、成長率も低い成熟した今後の市場で狙うべきは、「超ロングテール製品」以外あり得ないでしょう。その意味でB737は理想的なお手本と言えそうです。

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2018年3月30日 (金)

3414 不安定⇒安定化

このブログは、基本的には環境ブログであり、暗黙にですが政治・信条には触れないことに決めています。しかし、最近の国内・国外の政治情勢を俯瞰して眺めるに、何かが起きている様に感じられ、それが何かを少し考えてみる事にしました。

さて、砂や砕石が入った箱を振動させると、それはやがて引き締まって嵩が減ってくることは日常的にも経験する現象です。英語ではSettle downと表現しますが、それは例えばログハウスなどでも、木材の間の隙間が小さくなって、安定するという意味でも使われます。さて、国内や海外の不安定要素ですが、例えば国内では、安定政権が終わりを告げようとしており、政局が不安定化に向かっている様に見えます。海外では、近隣国の独裁者やB国の「予測不能な」リーダーやEUの一枚岩を揺るがしているE国、或いはRシア包囲網などが、世界を揺り動かしています。もちろん、血を見る様な戦争にでもならない限りにおいてですが、流動的な情勢は決して悪い事ばかりではありません。

最初に述べた様に、今は流動的でも、やがて事態は落ち着くところに落ち着くものだからです。不安定な隙間は、揺り動かされて引き締まり、より安定的な状態に落ち着くのが、世の理だと見ています。それは、何より歴史が雄弁に物語っていて、終わらなかった戦争は無かったと言えるでしょうし、ざっくりと言えば数千年以上に亘って、安定的に存続し続けた国も無かったでしょう。もちろん、「国」という制度が出来てから歴史が始まったのでしょうから、有史以前の事は想像するしかありませんが・・・。

さて、今の不安定な状況が、上手く落ち着くのか、或いは更なる不安定を生み出すのか素人には分析出来ませんが、いずれにしてもその不安定もやがては安定に向かう事は疑いないでしょう。物騒な想像ですが、例えば核戦争が起きて地球上のいくつかの国が消えても、「死の静寂という安定状態」には落ち着く筈なのです。揺さぶり上手なB国のリーダーには、やや皮肉な意味においてですが、ある意味期待もしているのです。

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2018年3月28日 (水)

3413 PM2.5考

春先になると憂鬱になります。花粉や、黄砂や、いわゆるPM2.5なる浮遊状物質などが大挙して押し寄せてくるからです。3月の初め頃、鳥取県のスギの名産地を車で通過した際に、突然今年の鼻炎が発症しましたので、スギ花粉に対するアレルギーを持っている事は間違いなさそうです。一方、ここ数日の霞んだような空は、大陸からのプレゼントである黄砂+PM2.5の賜物の様なのです。投稿者は、これにもしっかりアレルギー反応する様で、目の痒みと鼻水の量が再びピーク状態となりました。

春は、移動性高気圧が次々に大陸からやってきますが、高気圧は下降気流のかたまりですから、お隣の低気圧が巻き込んだ黄砂やPM2.5をしっかり抱え込んだままこの国の上空に飛来するのです。かくして、この国に住む人たちの間に鼻炎が定着し、更に年々飛来物の濃度が高まるにつれて、「アレルギーのしきい値」を超える人も多くなり、患者の数も増え続ける事になるのでしょう。

PM2.5の怖さは、5ミクロン以下の粒子は、一度肺に入ったら最後なかなか排出されないという点にあります。大きな粒子は、いわゆる気管支などに密生している繊毛の働きにより排出されますが、それ以下だと肺の奥深くに沈着し、排出されにくくなるのです。黄砂は、いわば鉱物ですから高濃度の場合は塵肺の心配はあるのでしょうが、あまり問題は無さそうです。しかし、PM2.5には発電や化学工場やその他の工業生産プロセスから発生する、有害な物質も多く含まれている可能性があるので、問題は深刻です。例えば、発がん物質です。喫煙者は自業自得ですが、PM2.5吸引者?こそいい面の皮でしょう。PM2.5をブロックしようとすれば、殆ど「ガスマスク」レベルになるでしょうから、日常的に装着するのは現実的ではありませんし、ますます生き辛い世の中になってきました。

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2018年3月23日 (金)

3412 自動運転車事故

B国で、自動運転車による初めての人身(死亡)事故が起こった様です。公開された画像によれば、夜に自転車を押して横断していた人が、殆どスピードを落としていない自動運転車にはねられてしまった様に見えます。同時に、試験車に同乗していた人の映像も公開されましたが、人をはねてしまってから慌ててパニックに陥る様子が映っていました。これを見ると、自動運転車の実力は、まだまだこの程度なのか、と暗澹たる気持ちにさせられます。何を犠牲にしても、自動運転車による対歩行者や他車との事故は回避されるべきですが、今回の事故の映像は暗闇からぬっと出てきた歩行者を、機械(AI)は殆ど認識出来ていなかったとしか思えません。

同時に、AIに頼り切った同乗者はといえば、車が事故を起こすまで何も手を打てていない事も問題です。つまり自分がハンドルを握っている場合には、すぐにでもハンドル操作やブレーキ操作ができる様に常に準備状態にあるのでしょうが、単に自動運転のお手並みを拝見している立場に置かれると、人間の注意力レベルも最低になってしまっている様なのです。自分自身の事を考えても、連れ合いがハンドルを握っている車に乗る時には、最初の時間帯はつい「助手席でブレーキを踏んで?」しまう事も多いのですが、しばらく走って行くうちに諦めて居眠りしてしまったりすることを思い出しました。

兎に角、何がなんでも事故を起こしてしまっては、AIも自動運転も便利も何もあったものではないでしょう。自転車がふらついて車線に入って来ようが、子供が急に飛び出してしまおうが、AIは事前に危険を認識し、回避動作を起こさなければならないのです。もし、それが人が運転している場合には不可避な事故であったとしても、自動運転車のAIにはヒト以上の「安全意識」が求められているのは間違いないでしょう。試験の途中で、人命が失われたという事実は、開発のスピードをかなりの程度遅らせることになるのは致し方ないでしょう。人命は、全ての利便性に優先しなければならないからです。

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2018年3月15日 (木)

3411 煮詰まる

Y老孟司の近刊に、時代が「煮詰まる」という表現が何度も出てきます。バブル後失われた数十年があり、その間に人口減少が始まり、それに輪をかけての「少子高齢化」社会が加速し、震災や原発事故に見舞われ、社会の隅々に何とはない「閉塞感」が充満している現代を、流石に上手く表現していると感心します。

しかし煮詰まっているのは事実としても、その事をはっきりと認識するためには、誰かが画策して煮詰めているのか、或いは文明の汁気(可塑性)が失われて、自ら煮詰まっているのか、分析してみる必要はありそうです。その分析は投稿者には荷が重すぎるのですが、感想程度であれば何か書けそうです。結論から言えば、前者もあるのでしょうが、主には後者の比重が大きいと見ています。それは、曲がりなりにも今の文明の一員として現代文明が、経済や物質的豊かさを追求し続けてきた結果、文明が必要とする文化や宗教などといった「ココロ」の問題を置き去りにしてしまった、との後ろめたさがあるからなのです。「人はパンのみにて生くる者に非ず」とは、あの宗教者の最強のスローガンですが、まさにパンの偏重が、現代文明の「煮詰り」を加速したとみているのです。

この「煮詰り」を回避するためには、何は無くとも私たちはモノをドンドン捨てて(喜捨して)、精神的な満足に拠り所を見出すべきなのでしょう。これは、言うは易しで、実行はかなり困難である事は分かり切っています。人は、一度手に入れたものを手放すことが、本当に苦手な生き物だからです。動物であれば、目の前のエサを腹いっぱい食べた後は、たとえ好物のエサが目の前に現れても、興味を示さないでしょう。しかし、私たちは死ぬまでには使い切れない、或いは処分しきれないモノや財産を貯め込んでしまう生き物の様なのです。それもこれも、凡人は死を恐れ、死期が予測できないがために、必要以上のモノを手元に置こうと、それにしがみつくのでしょう。ココロを重視した、ユルユル文明の時代はいったい何時来るのでしょうか。

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2018年3月14日 (水)

3410 やるなら水上機

3409の続きです。百歩譲って、技術的なブレークスルーがあって、安くて性能の良い空飛ぶ車が出来たと仮定しましょう。しかし流石に「空飛ぶ車」であっても、いきなり道路上から離陸は出来ないでしょうし、ましてや路上に着陸する事など危な過ぎて到底出来ない相談でしょう。結局、それを運用する段階では、郊外の田んぼを潰して飛行場を作る必要があるのです。どうしても空を飛ぶ事にあこがれる輩が集まるのであれば、そのパワーを空飛ぶ車に注ぐのではなく、むしろ水上機に向かうべきでしょう。海に囲まれた、島国であるこの国を含め、東南アジアの国々は島が多かったり、海に開けている筈です。水上機であれば、内湾や大きな川の河口など波が静かな水面も確保できるでしょう。当然の事ながら、水上機には飛行場などの大きなインフラは不要で、単に桟橋や岸壁があれば十分なのです。

これは、まさに島国や島しょ国或いは途上国の交通機関としてはうってつけの「足」だと言えるでしょう。加えて、水上機だと海上や水域だけを飛ばす事により、事故発生のリスクを最小限に抑える事も可能なのです。つまり、陸上に部品を落下させたり、或いは飛行機自身が墜落すれば、地上での「巻き添え事故」も起こるのでしょうが、飛行ルートが水上であれば、墜落時に乗員が助かる確率も上がりますし、巻き添え事故も殆ど起こらない筈だからです。

水上機の欠点は、フロートをぶら下げている結果、速度が遅いですし、燃費もそれほど良くない事です。しかし、その欠点を補って余りあるメリットも多いのですコストの掛かる飛行場は不要ですし、沿岸ルートを使えばハードランディングといった重大事故のリスクも無くなり、万が一の不時着水時でも、プカプカ浮いてさえいれば救難のための時間は十分取れるでしょう。水上機は近距離の旅客輸送手段としては、まさに最適なのです。どうしても飛行機をやるなら水上機しかないでしょう。

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2018年3月13日 (火)

3409 空飛ぶ車を嗤う

ビジネスジェット機が日常のTVCMに登場し、自動車ショーに空飛ぶ車が展示される時代になった様です。しかし、考えてみれば、旅客機や軍用ヘリの小さな(時には結構大きな)落し物が大問題になる様な、市街地だらけのこの国で、一体空飛ぶ自家用車の飛行が許される日が来ると夢見ている企業や輩が居るのかと想像すると、つい嗤ってしまいました。可愛らしいドローンがお祭りで使われ、それがバランスを崩して下に居た子供達の中に突っ込んで、大問題になったのは記憶に新しいところでしょう。

空飛ぶ車を夢見ているノーテンキな輩には、日々何千便も飛んでいる旅客便の安全のためにどれだけの努力が傾けられ、コストを掛けているか考えてみていただきたいものです。機体やエンジンなどの定期点検や日常整備、パイロットの訓練や健康状態のチェックなどなど。空飛ぶ車の型式証明が取れたと仮定しても、その莫大な運用コストと想像できない程増大する、無関係な市民の危険を考えれば、少なくともこの国の国内での運用は全く現実的ではない事は、真昼間の太陽光より明らかでしょう。外れやすいボルトを全く使わない構造が実現できたと仮定しても、天候の急変によって飛行が不安定になって、或いはエンジン不調などで墜落する危険性が低くなる訳ではないでしょう。増してや、ロクに訓練を受けてもいない運転者の操縦ミスを考えれば、それが空を飛び回る時代は全く想像できないでしょう。

地上を走り回る車の事故でさえ「ゼロ」に出来ない社会に、空飛ぶ車を持ち込むなど以ての外と言うしかありません。そんな事に資源(カネと人)を向けるくらいなら、先ずは原発廃炉技術や再エネ技術を磨く方がよっぽど優先順位が高いでしょう。空飛ぶ車などバカバカし過ぎて、これ以上書く気にもなれません。

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2018年3月 7日 (水)

3408 モノの消費コトの消費

表題で「コト」は、かなりの部分「情報」と置き替えても良いかも知れません。モノとは、言わずもがなですが、形があって触れるモノを指しますが、一方でコト≒情報は、それ自体には形がありません。別の言葉で表現するなら、コトとは脳に痕跡を残す「経験」だとしてもそんなに間違いではないでしょう。その具体例を挙げるなら、例えば、モノとは車や家電や食べ物といった、ものになるでしょう。一方、コトとは、例えば旅行やテーマパークでの経験とか、書物やPCやスマホから得られる情報や或いはその他趣味上の楽しみなどといったものになるでしょうか。

それで何が言いたいかですが、私たちの生活上の消費割合が、年々着実にコトの消費の比率が増えて行っている、という事実の指摘なのです。それも、徐々にではなく、ある時期以降は急激に増えて行った、というべきでしょう。その加速時期を振り返ってみれば、1990年代後半からの急激な情報化社会化以降だと言えるでしょうし、更に近年の携帯・スマホやAI化やIoT化の進捗によって更に急加速するのは間違いないでしょう。若者や子供たちは、ゲームやネット漫画などによってモノとしては実体のないVRの世界に取り込まれ、それを多量に消費する事に生き甲斐を見出していますし、それはスマホの小さな字が見にくいが故に、PC上でのネット遊びにうつつを抜かす中高年でも事情は似たりよったりでしょう。

コトを消費しても、実は現実の世界に何の影響も与えない事には注目する必要があるでしょう。もちろん、事を消費する段階で、現実の世界に触ればそれは話は別ですが、特に情報を消費する限りにおいては、スマホやPC上で、通信回線をデジットが流れるだけなので、消費するモノと言えば、多少の電力と通信回線の使用料だけなのです。当然の事ながら、消費するコトを創り出している人達が居て、彼らが暮らしを立てるために、たくさんのモノを消費しているのも間違いありませんから、コトの消費が環境に対して何らの影響を与えないという主張は必ずしも正しくはありません。結局、モノに充足してしまった、先進国と呼ばれる国々に住んでいる私達は、やり場の無くなった消費の矛先を、今度はコトの消費に向けて、突き進んでいるのだ、と考えるしかありません。結局、私たちの今後の最大で喫緊の課題とは、旺盛な消費「欲」を如何に弱めるかになりそうです。

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2018年3月 5日 (月)

3407 仮想現実の怖さ(○○したつもり)

仮想現実(VR)という技術があります。つまり、最終的には人間の五感に訴えて、(そこには存在しない)現実を創り出す技術だと言えるでしょう。視覚と聴覚程度であれば、既に性能の高いゲーム機やゴーグル等の道具を使えば、かなりの程度レベルの高いVRが実現できているものと想像しています。(投稿者は未経験)

しかし、VRというものは所詮コンピュータ上で作り出された現実であり、もちろん真の現実ではありません。ではそのまがい物の現実を、私たちが「経験」したとして、果たしてそれは現実の経験と同じものだ、と主張できるのでしょうか。例えば、車や航空機や電車の操縦を、VRで体験できたとして、その経験を積み重ねれば、実際にもそれらを動かせるのでしょうか。フライトシムレータ等の機器を用いれば、より現実に近いVRを体験できるのでしょうが、しかしそれで「免許皆伝」とはいかないでしょう。何故なら、車の免許で言う路上教習が抜けているからです。実際に車で道路を走れば、道路から車に伝わる振動やタイヤの軋み、他に路上を動く人や他の車の動き、或いは天候の急変など、VRに設定されていない事態を経験は、車の免許を与えるためには必須だと思うのです。

最も怖いのは、今の若い世代が生まれてすぐVRに接してしまう事だと思っています。つまり、彼らの経験は実際の経験とVR経験が、頭の中でごちゃ混ぜになっていると想像するからです。ゲーム機の中のVRでは、パンチを受けても痛くないし、相手を剣で切って血が出ても何の感情も湧かないでしょう。つまり、実際の経験では必ず伴う、五感に訴える刺激やココロの動きが、VR体験には殆ど伴わない心配があるのです。高精細のテレビを見て、ある場所に行ったつもり、或いはゴーグルをつけて仮想空間を移動したつもり、或いは人を傷つけたつもり、など等「つもり」が積み重なった時、仮想と現実の区別がつけにくい(或いは完全につけられない)人間が出来上がってしまう事を危惧します。杞憂であってくれればそれに越した事はありませんが・・・。

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2018年2月26日 (月)

3406 デジタルデクテータ

最近IT化の加速が気になって仕方がありません。そうした中、「デジタルデクテータ」或いは「デジタル経済」という言葉を耳にしました。デクテータとは、言わずもがなの独裁者ですが、デジタル業界で成功してしまったB国のM社や、F社や、G社や、二つのA社や、あるいはC国の2社など何社かの「デジタル巨人」が、お金で決済されていた実体経済を超えて、デジタル経済を寡占し始めているとの危機感を表した言葉でもあります。デジタル化の背景には「情報」の寡占も存在する筈です。その情報が、完全に誰でもアクセスできるならば民主化されたデジタル社会も実現できるのでしょうが、例えばC国やRシアの様に、或いはたぶんB国でも何らかの形で、情報の囲い込みや監視、更には情報操作が、国の権力の元に行われているに違いありません。

もし、それが国々のエゴや、時のリーダーが悪意によって操作されたら、デジタル経済何ぞというシロモノの操作や世論といった揺れやすいものも簡単に歪められるでしょう。つまり、勝手に数字(デジット)を弄るか、或いは勝手なフェイクデジットを差し込む事によって、情報などと言うものは簡単に操作可能だと思うのです。間違いないと信じて疑わない「写真」や「映像」でさえ、それはフィルムに焼き付けられた物的証拠ではなく、メモリーの中のデジット情報である訳です。デジタル映像である限り、その加工は今や素人でも出来てしまうのです。デジタル空間に溢れる、超美形の写真はどの程度実体を写したものなのでしょうか。

私たちは、デジタルデータに依存し、それに100%寄りかかった社会を作ってはならないと、投稿者は思ってしまいます。デジタルとアナログと実体を程よくミックスしながら、しかもシステムの中に人間が介入できる余地を残しながらの仕組みを模索すべきでしょう。今や、国も企業もIT化やデジタルデクテータの波にすっかり飲み込まれてしまっている様な気がするのは杞憂でしょうか。デジタル経済=実体経済「ではない」と何時誰が声を上げてくれるのでしょうか。と言いながら、今日もデジタル社会の掲示板に投稿するのでした。但し自戒を込めながら・・・。

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2018年2月25日 (日)

3405 設計ミスか製造ミスか

新幹線台車の亀裂の解析がかなり進んできた様です。中間的な情報では、製造時の部材の削り過ぎが原因と考えられている様です。幸いな事に今回は人身事故にはつながらなかったので、外野の勝手な当て推量も許されるでしょう。凡そ事故原因は、モノの破壊がきっかけになるものと、ヒトの操作・運行ミス(ヒューマンエラー)によるものに分けられるでしょう。もちろん、地震や突風などの転変地異は除外しての話です。ここでは、モノの破壊原因についてだけ考える事にしましょう。もちろん、設計ミスにしても施工ミスにしても広い意味ではヒューマンエラーではありますが、先ずはモノ自体に着目します。

さて、設計ミスの多くは、モノ(製品)の動的な挙動の解析が不十分なところに起因する場合が最も多いと推定しています。静的な荷重であれば、教科書に載っている公式で、或いは現代では、コンピュータを使った数値解析(CAE)で容易に設計可能でしょう。しかし、動的挙動の解析は必ずしも簡単ではありません。鉄道で言えば、線路地盤の歪みなどで、台車には想定外の力が力や振動が加わっている可能性があります。そこで想定されるのが「安全率」ですが、安全率を大き取り過ぎると製品が重くなり、経済性で見れば不利になるでしょう。そこで、ホドホドの値とするのですが、瞬間的な衝撃力によるピーク値は、時としてそのホドホド値を超える事もあり得るでしょう。また、気象(極低温による脆性)や、塩分による腐食環境(による減耗や応力腐食割れ=SCC)も設計者想定のホドホド値をオーバーさせる危険性を孕んでいます。

一方製造ミスは明確です。要は、モノが図面通りの寸法になっているか、更に溶接などの加工によって表面からは見えない「内部欠陥」が残っていないか、という確認(寸法検査と非破壊検査)が着実に行われてさえいれば、殆どの施工ミスは発見できる筈です。しかし、問題は最近報道を騒がせている「手抜き検査」の横行でしょう。あるいは、不良率を下げるため、施工者が検査員の目をごまかす「不良隠し」も懸念される事態です。今回の事故の教訓と対策は、当たり前過ぎますが、どんな場合でもモノ造りのAtoZの基本に忠実に従うことと、隠し立てのない真っ当な検査しかなさそうなのです。

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2018年2月23日 (金)

3404 水は高きから低きへ?

水は高きから低きへ流れるのは自然のコトワリでしょう。しかし、そこに人間が絡むと、その自然の摂理通りにはいかないものの様です。例えば、人口です。殆どの時代を通じて、しかも洋の東西を問わず、都会は田舎から人を吸い出し、それを飲み込んで拡大してきました。もちろん、例えば首都東京の中心部は、オフィス街となっており、従って夜間もそこで生活をしている人口は少なく、殆どは臨界のタワマンか郊外の住宅地域に住んでいるのでしょう。その意味で、昔はまとまった駅周辺の街以外は田園風景が広がっていた関東平野は、今や市街地の間を住宅地が埋め、さながら一続きの「関東圏都市」の様相を呈しているのです。

何故、人々は住み良い田舎を出て、緑も少なく窮屈な都会に群れて住みたがるのでしょう。学校を出て、就職口を探そうとした場合、望んでいる(給料を支払う)職が都会にしかない、というのが一つの理由かも知れません。しかし、住居費が殆ど掛からない広い田舎の家に住み続けようと決意さえすれば、都会の半分程度の給与でも田舎では十分暮らしは成り立つ筈なのです。少し昔を思い起こせば、田舎では3世代や4世代が身を寄せて暮らしていました。時と共に各世代は歳を取るので、働き手とそれに支えられる世代が一緒に暮らす事によって、いわゆる介護の問題もあまり目立たなかったのです。人は、住み慣れた我が家の畳の上で生涯を終えるのが仏だった訳です。しかし、まるでブラックホールの様な都会が、そんな社会をすっかり「個の社会」に変えてしまったのです。都会は、「人は結婚して家庭を持つ」という基本的な生活スタイルまで変えようとしています。独身世帯の猛烈な増加です。

都市化の底に横たわる真の原因を考えてみるに、そこには「経済論理」がありそうなのです。都市(とその近郊)は、大量生産の拠点でもありますし、同時に大量消費の市場でもあるからです。つまり、都市化は、経済活動(経済効率)にとっては理想的な環境であるとも言えるのです。都市化の中で犠牲になっているのは、いわゆる人間らしいライフスタイルだと言うしかありません。国も経済界も、経済(GDP)拡大を目指し、経済効率を追求する限り、都市は吸引力を維持し続け、その「引力圏」から抜け出せない捉われ人の数は増え続けるのだと見ています。どうやら人は、高きから低きへ(人口過密地帯から田舎へ)流れるのではなく、逆に経済力という引力によって引き付けられる存在の様なのです。

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2018年2月22日 (木)

3403 野菜メーカー?

いわゆる「家電メーカー」などが、異業種とも言える例えば「野菜工場分野」へ進出する動きが加速している様です。昔の事を思いだせば、鉄が売れなくなった時代に、製鉄屋さんが養豚業などの異分野に手を染めた事などが頭に浮かびます。残念ながら投稿者は、それが正しい戦略なのか否かについて議論できる程「ビジネス」を熟知している訳ではありませんので、単なる感想に留めますが、やはりメーカーとしては、消費者のニーズに寄り沿わなければならないのだ、との思いが強くなります。しかも、そのニーズは根強く、基本的なものを重視しなければならないという事です。

確かに家電は、便利で快適な生活を演出するものではありましたが、ある家電が無かったと仮定しても、生活に大きな支障は出ないでしょう。炊飯器が無くとも、土鍋でもっと美味しくコメを焚くことは出来るでしょうし、エアコンが無くとも石油ストーブやコタツでも寒さはしのげる訳です。しかし、食欲だけは電化製品だけでは満たす事は出来ません。現代のどんな科学技術を駆使したとしても、人間が、水と炭酸ガスと太陽光だけで食糧を合成する芸当は出来ません。食糧生産は、植物にしか出来ない芸当である事実は受け止めなければならないのです。あらゆる動物は、その植物の生産物に依存して生きている訳です。

だからこそ、メーカーは仕方なく、植物(今は葉物野菜程度ですが)が成長しやすい環境を、つまりは電気を使って実現する「電化畑」という仕組み作りにまい進しているのでしょうか。結局、電気仕掛けのカラクリ(Gadget)には限界があり、私たちは自然の摂理の理解に努め、必要かつ最小限のニーズに向かい合う必要があるのだと、投稿者としては改めて認識を強くしている次第です。野菜は、無菌化された野菜工場で育てるべきではなく、一握りの土の中に数えきれない程蠢く土壌菌群の中で、逞しく育てるべきだと思うのです。野菜工場で出来るのは、無菌化された「まがい物の野菜」に過ぎないでしょう。何故なら、植物は土壌(の土壌菌や微量元素)と共に生き延びて進化してきた存在だからです。

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2018年2月21日 (水)

3402 ガラスビル

都会に出て、何時も不安に感ずるのは、背の高い「ガラスビル」を見上げる時です。ガラスビルとは、ビルの外壁に殆ど全面ガラスが貼ってある様に見えるビルの事です。ガラスビルは、全面ガラス張りで見た目も美しいのですが、ガラスは熱の出入り量も多いでしょうから、冷暖房効率からみても、あまり良い選択肢とも思えません。またもし、この様なビルが強い地震に遭遇した時、当然の事ながらビルの構造が歪み、最悪の場合は嵌めてあるガラスが割れて、地上に落下するでしょう。怖いのは、ビルの高さです。例えば、100mの高さから、割れたガラスが落下する事を想像するだけで、肌があわ立ちます。ガラスの破片は真っ直ぐ落下する訳ではなく、たくさんの破片がヒラヒラと広がりながら落ちてくるでしょう。

たとえ、重さが数キロしかない破片であっても、鋭い破断面を持つ分厚いガラスが地上付近まで落ちてきた時の破壊力は、想像をはるかに超えるでしょう。ガラスビルの壁の真下に、屋根も無い歩道が広がっている場所では、そこで起こるかも知れない阿鼻叫喚を思い浮かべずには居られません。昼時などには、当然の事ながら帽子もヘルメットもかぶっていない人々が群れて歩いている筈なのです。

ではどう対策するかですが、たとえ、不細工ではあってもガラス壁の真下には、万が一ガラス片が落下してもその衝撃を受け止めるだけの強度を持つ強靭なガードを取り付けるべきでしょう。陽光にキラキラと輝くガラスビルの外観だけに目を奪われてはならないのです。今日は短く。

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2018年2月19日 (月)

3401 利雪

窓の外の雪景色を眺めながらの投稿です。以前も考えた様な気もしますが、あまり良いアイディアを書けなかった様な気がするので、改めて利雪(雪の有効利用)を考えてみる事に致します。その前に、雪の持つ特徴を整理してみましょう。1)冷たい(氷温である)、2)嵩高い(少なくとも水より比重が小さく嵩張る)、3)まとまって降る(ドカッと積もって長く居座る)、4)放っておけばやがて解ける、5)空気を抱え込み保温性がある、6)地域の偏在が非常に大きい(北陸以北の日本海側)、7)年度によって降雪量に大きな変動がある、8)締まって固まるとひどい厄介者になる。9)雪温によって性質が大きく異なる(パウダースノウからツユダクの雪まで)、などでしょうか。

さて、その利用法です。現在の対処方法は、兎に角屋根に積もった場合にそれを落とし、雪を集めて、邪魔にならない場所に捨てる事です。山間の雪深い地域には、流雪溝があり、住民は家の前の水路に小分けにした雪を放り込んで流します。また、北陸の一部地域には道路に地下水を散水して、雪を解かしていたりもします。この後者の地下水の活用は結構有望です。地下水は、冬でも十分10℃以上の温度を保っていますので、これを屋根のてっぺんから流す事により、屋根の雪は少な目で抑えられそうに思います。各戸では、地下水を汲み上げるための井戸を掘り、ポンプと散水パイプの設置という設備投資が必要となります。これはどちらかと言えば、雪下ろしを楽にする克雪対策にはなりますが・・・。

利雪で言えば、やはり1)と5)に注目する必要があるでしょうか。雪寄せのためには、どこかに雪を寄せて、道路や通路を確保する必要があるのですが、毎年の事なので、いっそその雪を放り込んでおく部屋(雪室)を準備しても良いでしょう。雪室は、古くからの先人の利雪の知恵の一つでしょう。雪室は天然の「氷温冷蔵庫」になり得るからです。雪室の中では、モノは凍結せずお0℃前後の温度に保たれる訳で、食糧の保存や種や球根などの発芽の季節調整には非常に有効な方法なのです。

氷温は、果物やコーヒーや酒などの熟成にも有効だと言われています。植物は、氷結を防止するために「糖分」を作り出すため、甘みを増すメカニズムを備えていますので、コメや野菜などの貯蔵にも適しているでしょう。雪室として使うには、普通のスチール物置ではやや強度に不安がありますので、既存の入れ物では間に合わないでしょうから、強度が高い中古のコンテナに断熱を施すのがベストでしょう。雪室があると、苦痛な雪寄せが、楽しい雪集めになりますので、冬の楽しみが増えることにもなります。雪に苦しむのではなく、考え方を変えて雪を利用するのです。

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2018年2月15日 (木)

3400 列島の裏表(克雪・利雪)

この季節に列車や車で日本列島を移動していると、いわゆる裏日本(日本海側)と表日本(太平洋側)の気候の大きな違いに改めて気づかされます。列車だと、例えば新潟から関東平野に入った途端、車移動だと上越から妙高高原の豪雪地帯を抜けて長野県に入った途端、周りの風景や空模様がガラッと変わるのです。日本列島の中央部にでんと居座る山並みと、冬場に暖かく湿った日本海を渡ってくる大陸育ちの季節風(冬将軍)の襲来が、世界でも稀に見る積雪地帯を生んでいる訳です。

なので、今は死語となってはしまいましたが、太陽光が差す太平洋側を「表」、冬場は日が差す事もメッキリ減って、暗くジメジメしてしまう日本海側を「裏」と呼んできたのでした。

しかし、考えてみれば、日本海側は大陸からの冬将軍の攻撃を「矢面」に立って食い止めている最前線ではありませんか。裏どころか、なんと矢面(表)の前線なのでした。そこで大切な事は、実は冬将軍様の寒波攻撃を如何に受け流すかという知恵なのだと思います。具体的に言えば、冬場は寒波攻撃の置き土産でもある雪の始末でしょうか。雪は、当然の事ながら水が凍ったものですが、実はその「嵩」によって、全く性質が異なるのです。つまり、気温が低くサラサラのパウダースノウの状態だと、強い風でも吹けば一度積もっても、やがてどこかへ持ち去ってくれるでしょう。

しかし、気温が比較的高い(0℃前後)時に降る湿り雪や降った雪が昼間の暖かさで一部溶けて「締まった」雪は、全く処置に困るシロモノに化けるのです。雪は、春になれば自動的に解けて水になって流れ去るのですが、それまで待っていては生活が成り立たなくなるのです。その原因は、実は車への依存度の高さにあるのでしょう。子供の頃の風景を思い起こせば、雪が積もってもめったに除雪車など来ないので、道路は凸凹で歩きにくくなっていたものです。仕方がないので、人々は食糧や暖房用の薪を貯め込んで「冬籠り」するしかありませんでした。町の中心で立つ「市」に品物を運ぶ主役は「箱ぞり」だったのです。その意味で、人々は雪に負けながらもしかし降伏はしていなかったのでした。重機を使って雪を蹴散らす事ができるのは、今が石油が比較的安くて何とか重機を動かせる幸運な時代なだけなのです。続きます。

 

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2018年2月11日 (日)

3399 トンネル列島のリスク

10日ほどの長い出張から、またドンヨリとした鉛色の空の自宅に戻りました。その間、車で岐阜まで移動し、その後列車で中国地方まで移動しました。その時お世話になったのが「トンネル」です。車であれば、長野道の長短のトンネル群、中央自動車道であれば8㎞強もある恵那山トンネル、新幹線であれば、トンネルに挟まれた新神戸駅をはじめ、全路線の1/3がトンネルだらけという山陽新幹線など、トンネルの話題には事欠きません。

しかし、それを利用する立場で気になるのはトンネル壁、正確にはコンクリートの劣化です。これまでも、トンネル内でのコンクリート剥離事故が何件かニュースになっていますが、そのニュースの陰には、たぶん数十件か数百件の微小剥離事故が隠れていると想像しています。もちろん、コンクリートの劣化は表面剥離だけではないでしょう、漏水や酸性水によって生ずるコンクリート自体からのいわゆる「脱灰」によって、コンクリート強度は大きく低下するでしょう。結果として、内部に隠れている鉄筋も錆びて膨張し、コンクリートに亀裂を作るでしょう。これは、亀裂と漏水と脱灰まさに悪循環です。多くのトンネルは、この国に多数刻まれている断層帯(破砕帯)を貫いて掘られてもいます、もしその断層が再び大きく動いた時に、それを貫通しているトンネルの健全性は全く保証の限りではない筈です。

その意味では、私たちはコンクリートの健全性に関して、非破壊で正確に診断する方法をまだ手にしていないと言えるのかも知れません。超音波で、「間接的に」内部を診断する事は居尼でも可能でしょう。しかし、コンクリートからどれくらいの割合で石灰分が抜け、その結果強度がどの程度低下しているかを知る定量的な方法はまだ見つかっていないと見ています。もちろん、あるトンネルが造られた時期に、同時に試験片も作り、経年劣化試験は実施されてはいるでしょう。しかし、それは試験場の環境での劣化試験に過ぎません。実際のトンネルと同じ、土壌、気象条件下で行われている経年劣化試験は、殆ど行われていないと想像しています。実物トンネルでの耐久性試験は、たぶん東海道線の「丹那トンネル」が嚆矢となるのでしょうか。このトンネルが開通して80年以上経過していますし、大規模な破砕帯を貫いていて、今でも大量の漏水に耐えてもいます。超過密な東海道線のダイヤを一度完全に止めてでも、「転ばぬ先の」大規模な劣化検査を実施すべきだと、建設のド素人は憂えています。

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2018年1月29日 (月)

3398 RJの行方

投稿者の前々職は、航空機メーカー勤務でした。仕事の中で、Bラジルとの共同開発リージョナルジェット(以下RJ)の開発にも、現地で深く関わりました。その中で、広く世界の航空機事情を見聞する機会にも恵まれたのでした。一方、この国ではM社が中心となって、悲願でもあったYS-11後継の、国産旅客機の開発に着手したのでした。残念だったのは、それがお国が後押ししたオールジャパンの取組みにはならなかった事だと振り返っています。何故なら、ブラジルでのRJ開発時に発生し、解決してきたノウハウが、M社での開発に生かされなかった結果、同じ様な問題で躓き、五度に亘るスケジュールの後ろ倒しを余儀なくされたからです。

製品の開発で最もモノを言うのは、実は「経験」である事は自明です。経験が無いゼロからの開発では、石橋をソロソロ叩いて渡るしかなく、場合によっては何度かの後戻りも起こり得るからです。取り分け、既存製品を超える性能を狙う場合には、いわゆる「開発要素」も多くなり、計画時には予想できない障害にも多くぶち当たるものなのです。経験が豊富であれば、その経験値で新規開発に当たってもリスクの予測と事前回避もし易くなるでしょう。残念ながら、この国の戦後の航空機産業の歴史は、朝鮮戦争時のB軍機の整備、今は博物館でしか見られない古い国産旅客機の開発、いくつかの自衛隊機の開発などしかない寂しいものである事は認めざるを得ないでしょう。

その中で、新たな「国際商品」であるRJの開発は、実は至難のワザだと言わざるを得ない事業だった訳です。その意味では、オールジャパンの人材を集め、Cナダの様に国の支援も仰いで、取り組むべき一大事業ではあったのでした。今となっては、以上の事は後知恵となってしまいましたが、今回の国産RJの開発も、残念ながらYS-11同様、「技術で勝ってビジネスで負ける(売れない)」という失敗プロジェクトになるだろうと予測しています。そのことは、B国エアラインからM社に突き付けられた、40機もの大量キャンセルという報道でも明らかになりつつあります。

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2018年1月27日 (土)

3397 ネット通貨2

3396でネット通貨を取り上げたのはタイミングとしては偶然なのですか、奇しくも昨日に「ネット銀行強盗」が起こった様です。電子マネーやネット通貨は、サイバー空間上の口座にある数字(デジット)に過ぎませんから、何重にもなっている筈の鍵が破られると、それこそアッと言う間に強盗が成立してしまう訳です。普通の銀行などで金庫が破られて、札束や金(ゴールド)や貴金属が奪われた場合、形のあるモノが奪われて移動するのですが、サイバー犯罪の場合は、良くて鍵破りの痕跡がログとして残るだけで、奪われた数字がこれまた瞬時に別の複数の口座に、何段階にも亘ってばら撒かれた場合、いわゆる(ネット)通貨ロンダリングもアッと言う間に成立してしまうと想像しています。

現金や、現金代わりの電子マネーは、それなりに価値が裏付けられてはいますが、ネット通貨は投資(や投機)対象ではあっても、日常的に決済する通貨としては明らかに「不適」なのです。今回のデジットの紛失が、どの様に保証されるのか素人には知る由もありませんが、少なくとも投機目的でデジットを保有していた人たちには、何らかの「お灸」が据えられて然るべきでしょう。

ここでの結論としては、便利なものは、受けられる便益と引き換えに、それなりのリスクを覚悟しなければならないという点です。これは、何も通貨に限った話ではなく、例えばスマホやAIスピーカや自動運転車、あるいは空飛ぶ車などの便利商品も、事情は全く同じでしょう。成りすましやシステム異常などを考えれば、犯罪や重大事故の温床になり得る筈なのです。今日は短く。

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2018年1月26日 (金)

3396 ネット通貨

Bットコインをはじめ、種々のネット通貨が流通している様です。長い歴史の中で考えるに、いにしえの時代から、いわゆる「兌換通貨」が普通であった訳です。それは、通貨が紙(紙幣)に変った近代においても、例えばある時期までの$の様に、国が通過の値打ちを保証する「兌換紙幣」が流通していて、その存在感を示していた訳です。しかし、例えば兌換紙幣の価値の裏付けとしての「金(Gold)」の量が有限である限り、通貨量(経済規模)が天文学的額に膨れ上がってしまった今、通貨価値の総額の明確な裏付けにはとても対応できない事は明らかです。

一方で、決済に人手を殆ど必要としない電子マネーは、その流通量が日々、それも飛躍的に伸びている事も間違いないでしょう。なにしろ、時代の流れに乗り遅れていると思っている投稿者でさえ、日常的に犬の鳴き声がする電子マネーや交通系の電子マネーは常用しているのですから・・・。ただし、使い過ぎを避けるため、電子マネーへのチャージは、面倒でも現金で行う事は励行していますから、小銭の釣り銭が無く、千円札数枚以上の現金を持ち歩かなくなったため、単に財布が薄くて済むというメリットしかないのですが・・・。

投稿者の見方としては、後者の電子マネーの拡大は間違いないにしても、誰がその裏付を行うかが明確になっていないネット通貨は、全く不安定なものであり、その流通量の拡大には否定的な立場です。例えば、ネット通貨として「預金」を持っている人々は、その価値の乱高下に、枕を高くして寝る事は出来ない筈です。そのそも、サイバー空間であるモノの価値が勝手に上下する事などあってはならない事態でしょう。電子マネーに似ているものとして、例えば先物取引の権利や債券などというものもありますが、それらにしたって、短期に何倍に膨らんだり、何分の1かに目減りする事などは考えられないでしょう。ここでの結論としては、ネット通貨は単に経済の拡大で溢れかえった通貨のはけ口に過ぎず、マネーゲームの道具でしかないと見ています。触らぬカネ(ネット通貨)に祟り無しです。

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2018年1月24日 (水)

3395 ディーセントワーク

SDGsの17の目標の中にも取り上げられているディーセントワークを改めて取り上げます。ディーセントワークとは、3381にも述べた様に、「働き甲斐のある生業」とでも訳すべきなのでしょうが、多くの人々は、夫々にとって、仕事は飯のタネとなる(代価を受け取るための義務としての)仕事であり、それ以外の何物でもないと主張するかも知れません。しかし、もし心底そう思って働いている人々が大多数であるとしたら、それ程不幸な事態はないとも思うのです。

つまり、どうせ同じ仕事をするのであれば、その仕事が限られた人々ではあっても、社会の中の誰かの助けになり、感謝されるものであれば、どれほど「働き甲斐」が生まれる事でしょう。どんな仕事であれ、その代価として受け取るサラリーは、最低限家族の生活を支え、家族には感謝されてはいるでしょう。しかし、仕事の枠を少し広げるだけで、同じ仕事をこなしていても、より多くの人から感謝され、より強く働き甲斐を感ずる事は可能なのです。

例えば、道路工事で片側車線で交互通行をしている場所を通過する事がよくありますが、その際単に旗だけで車を止めるのはなく、同時に「お急ぎのところ、交互通行へのご協力感謝いたします」などと書かれた看板を掲げてあれば、ドライバーも気持ちよく時間待ちが出来るでしょう。客商売であれば、モノやサービスと一緒に無料の「笑顔を売る」のも同じような行動でしょう。

それらの行動をよくよく考えてみれば、それは関係した相手への「感謝」に裏付けられたものである事が分かります。働いている全ての人々が、その労働の代価を受け取る事ができるのは、その仕事に関わっている全ての人々の「お蔭」であると意識を切り替えることさえできれば、世の中は感謝で溢れかえる事でしょう。感謝は、邪魔にならないどころか、相手を幸福にさせ、感謝する側には「働き甲斐」をもたらす魔法でもあると思うのです。感謝の出来る仕事が、つまりはディーセントワークでもあると思う所以です。

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2018年1月22日 (月)

3394 寒波

寒波はよくクリスマス寒波、年末寒波、立春寒波などと、時期に応じて呼ばれたりもします。今度の寒波は、しかしいわゆる「大寒」の時期に重なっているので、それが来襲したからといって驚いたり、パニックに陥ったりするのは筋違いでしょう。冬場には、北極海に冷たい空気の寒気団が居座るのは、まさに自然な現象だからです。むしろ、異常であるのはその寒気団が、丸い形ではなく、歪なタコ足形状をする事が多くなった事でしょう。冬場は太陽光が全く差さない北極圏に、寒気が溜まるのはごく自然なのですが、何らかの原因でそれが歪な形になってしまう事が異常であり、その原因を考えてみるべきなのです。

一冬に強力な寒波が、何度か来たからと言って、温暖化に歯止めが掛かった訳ではないのは明らかです。むしろ、寒気団がタコ足形状になっていて、その足の間は極端に温暖化してしまっていると表現した方が適切だと思うのです。先週も、1月だというのにまるで3月の様なポカポカ陽気の日が続き、人々がすっかり春気分になっている状況での「普通のやや強い寒波」来襲ですので、数年ぶりの「大寒波」などと騒ぎ立てる事態になっている訳です。

北極気団は、近年は上に述べた様にタコ足型になり易い傾向にありますが、そのタコ足は上から見ると徐々に回転していますので、上手く予想すればかなり前もって寒波(或いはその間の温波?)の来襲は、前もって知る事も可能なのです。現状の気象予報は、精々1週間先の寒波を知らせるだけですが、これを1か月予報を織り交ぜて予報してやれば、社会の混乱は最小限に抑える事も可能でしょう。

さて、今回の寒波です。今回の寒波も、タコ足寒波である事には変わりはないので、それが冬中続く訳ではないわけで、精々1週間以内にピークは通過する筈です。子供の頃を思い起こせば、「本物の寒波」が来た冬には、何度も豪雪に襲われ、除雪が道路に厚く積もった雪の上を学校に通った記憶があります。それに比べれば、最近の寒波などは可愛いもので、ピークを越せば、積雪量もドンドン目減りしてしまうでしょう。やはり全体的に眺めれば、温暖化は着実に進んでいるのです。

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2018年1月16日 (火)

3393 改めて「時間」について考える

時間は、現代文明にあっては、ますます価値を大きくしつつある「概念」なのではないでしょうか。金持ちにも、貧乏人にも時は同じように流れます。しかし、金持ちは時間と共に(例えば利子や配当)などでますますリッチになり、逆に貧乏人は、同じ時間の経過の中で必要不可欠の支出や利息を払いながらチマチマと暮らす事になっている様です。つまり、時を味方に付けた人々と逆に敵に回した人達では、時間という概念には雲泥の差がある事になるのでしょう。

しかし、それは「時はカネなり」と考えた場合の話であって、全ての人々にこれを当て嵌めるのは間違っているでしょう。つまり、お金が無くても「ココロ豊か」に時を送っている人は、たぶんそれなりに多いと想像しています。投稿者も、実際はどうあれ、出来ればそうありたいと願って日々を暮らしている一人ではあります。時の流れに逆らわず、自分が置かれた環境に感謝しつつ暮らせば、その様な境地に少しは近づけるのではないか、とも思っています。つまり、時間と価値(特に富)と結びつけるのは間違いで、時間を如何にココロ豊かに過ごすかに心を砕いて暮らして行けば良いのだと思っています。

そのために忘れてならないは、やはり感謝の気持ちであり、同時に全ての出来事を受け入れ、結果を前向きに捉える事に尽きるとも思うのです。この世で起こった事は、この世で納まるのであり、「山よりでっかい猪は出ない」からです。M空ひばりやTレサ・テンの歌の歌詞ではありませんが、川(時)の流れに身を任せると言った境地でしょうか。ガツガツ稼いで暮らしても、貧乏で慎ましく暮らしても、その人の人生に流れる時間(天体の運行の時間)は全く同じですが、ココロが感ずる時間は多分雲泥でしょう。前者の方が、きっとあっという間に歳をとってしまうだろうと想像しています。投稿者は、50歳過ぎにサラリーマンを早期に退職し、人生の舵を切りましたが、それからの時間の流れは非常にゆったりと流れた、と振り返っています。それは、たぶんお金には変えられない「時間の流れ」でもありました。

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2018年1月15日 (月)

3392 働き方改革って?

政治家(屋)は、言葉遊びが好きなので、ブレーンやお役人は、彼らの気に入る様な「言葉」を考え出します。働き方改革もその様な言葉の一つでしょう。しかし、これほど意味不明な言葉も珍しいでしょう。長時間労働を無くしたいのであれば、単に「時間外労働手当」を極端に上げてやれば済む話で、サブロク協定なんぞで「原則○○時間以内」などとボンヤリした規制なんかは、原則破りが横行する温床になるだけでしょう。

女性にも優しい職場にしたいのであれば、男性にも育児の義務を負わせ、同時に暇を持て余している高齢者を育児に巻き込む上手い育児制度の仕掛けを作るべきでしょう。またテレワークやフレックスタイムの普及や拡大は一体何処へ行ってしまったのでしょう。閣議検定した言葉だけで改革が進むなら、政治家やお役人は不要(までは行かなくても半減で十分)でしょう。

そうではなくて、政策はより具体的で、かつ実行可能である事が最重要なのです。難しい事は別にないでしょう。働き方先進国の事例を一つの目標に据えて、そこに向かう10年計画を立てるだけで良いのです。10年が無理なら20年計画でも仕方がないでしょう。この国の政治社会システムで最もダメだと思うのは、中期計画でも精々3-5年、予算に至っては夏場に執行額が決定し、その年の2月頃には使い切ってしまうという、単年度予算が殆どであり、長期的な展望が持てない点にあると思うのです。考えるべきは、私たちにとって「幸せ」とは何かを掲げる事であって、その幸せを求めるための働き方は如何にあるべきかを考える事でしょう。働くことが、自分の幸福(特に生き甲斐を感ずること)に繋がり、ひいてはたとえ少人数でも他の人々の役にも立つ様な働き方こそ、目指すべきゴールだと思うのです。今日は短く。

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2018年1月13日 (土)

3391 構造改革って?

構造改革などという言葉を考え出した、お役人かリーダーのブレインかが、一体何を頭に描いて進言したのかは、役人の作文はあまりにも抽象的で具体例がないので知る由もありませんが、少なくともそれは、現在のグローバル経済の枠組みの中で、それに迎合するものである事は間違いないでしょう。貿易立国であるこの国には、それしか生きる道は無さそうに思えるからです。しかし、その様な考え方や行動は、結局は自分に跳ね返ってくる「ブーメラン」でしかないと思うのです。例えば、いわゆる構造改革の結果として、今のグローバル経済が渇望する、技術なりビジネスが提供できたと仮定しても、やがてライバル国やライバル企業に追いつかれ、追い越されてしまう事は、この国の少し前の歴史を振り返っても自明でしょう。悲しいことに、繊維、鉄、家電、車などいずれの主要産業を眺めても殆ど例外は見つかりません。

つまり、現在の「社会構造」を前提に、いくら「産業側の構造改革」を行ったとしても、結局それは後追いの対策に過ぎない訳です。対策とは、災害対策などという言い方でもおなじみですが、その対策は災害が起こらない限り発動はされないというジレンマがあります。東日本震災でも、津波被害地では、多くの場所で嵩上げ工事が行われ、ほぼ完了していると思いますが、数十年前の大津波を教訓にして、徐々に高台移転を進めていたと仮定すれば、これほどの被害は避けられた筈なのです。

さて、構造改革です。例えばAIIoTや車のEV化や自動運転化などは、いわば文明の津波だと考えても良いでしょう。その波から逃げるのか、それに乗ってイケイケドンドンで走るのか、或いはそれを下に眺めながら高台移転を進めて、それを冷静に観察するのか、私たちの「胆」が試されているとも思うのです。放っておいても、上に述べた技術はドンドン前に進むでしょうが、しかしその技術が人々を(大多数の人々)を幸福に導いてくれる保証はないでしょう。それどころか、それを享受できる一握りの人々と、それから置き去りにされてしまった大多数の人々との経済格差は、ますます拡大する事は明白です。

そこで必要なのは、ヒステリックに構造改革を叫ぶのではなく、冷静に私たち自身の「意識改革」を進めることだと思うのです。意識改革をもっと別の言葉で表すならそれは「価値観の転換」になるかも知れません。経済第一の社会で価値があるモノ(例えば、石油やお金や債券や仮想通貨など)は、価値観を転換した社会ではただのガラクタになり下がってしまう筈です。意識改革が完了した社会で多分大きな価値を持つのは、自分の手で育てた安全な無農薬の野菜やコミュニティの中でお互いに助け合う「絆」や、汗水流して山から切り出したバイオマスや、一度手にしたモノを、徹底的に使い倒し、最後は燃料や再生して再度製品に戻す「完全リサイクル」システムなどになるのでしょう。転換すべきは構造ではなく、社会の成員の意識なのです。

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2018年1月11日 (木)

3390 目標17 パートナーシップで目標を達成すること