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2006年8月31日 (木)

34 工学と農学

最初にも書いた様に、投稿者は技術屋です(でした)。しかし、35年間の技術屋生活を振り返って総括した結果、それを卒業する事を決意した訳です。何故か。それは、工学が自然に対して全く謙虚でないという事に気がついたからです。実は、技術屋とは、「我々に材料とエネルギーさえ与えてくれれば、どんなものでも作り出して見せましょう」という傲慢な人種だったのです。その結果、原爆を作ったり、小さな石を持ち帰るためだけに月ロケットを飛ばしたりする、愚かな行為も重ねてきた訳です。勿論、それらを開発している最中は、彼ら技術者はクソ真面目で馬車馬のように脇目も振らずに邁進するだけです。しかし一方では、製品を作る過程や、それを使い廃棄する過程でエネルギーや資源を消費し、廃棄物が増える「負の部分」には全く無頓着でもある人種でもあったのです。彼らの無頓着さが、消費者の無頓着さとあいまって、現在の環境問題を作ってしまったと言えます。

これに対し、少なくとも農学者や植物学者は、全ての生物の生きる拠り所である植物の巧妙な仕組みに謙虚に学び、それを理解しようとする立場です。しかし、経済性が社会の価値判断の基準となってからは、これらの学問は超マイナーな分野に陥ってしまった訳です。もし、投稿者がもう一度人生をやり直すチャンスを貰えるなら、迷いなく「植物に学ぶ学問」を選択したいと強く思います。遅蒔きながら、昨年放送大学の大学院に入学し、この分野の勉学を始めた事が今せめてもの救いとなっています。

某映画評論家の決めせりふではないですが「生物って本当に面白いものですね。」と言っておきましょう。

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33 寄生生物としての人間

地球上で唯一食糧を生産しているのは植物です。人間は、植物自体を食べるか、或いは植物を食べて成長した動物を殺して食べるかしなければ、生き延びてはいけません。何しろ、金属や石油は食糧にはなり得ません。つまり、直接にせよ間接にせよ我々人間は植物に「寄生」して生きている訳です。しかしながら、我々はその事実をつい忘れがちになります。食糧はスーパーマーケットが生産・供給している様な錯覚を持ってしまうからです。野菜は水と太陽光と炭酸ガスと土を使って植物自身が作っているものですし、食肉は植物が作った穀物を食べた動物の体そのものです。人間が出来る事はといえば、せいぜい肥料を施して植物の生産力を少しくらい上げてやるくらいの事なのです。

寄生していながら、植物や生き物を大切にしない人間には絶望感さえ覚えます。人間は、環境に対して、植物や生き物に対してもっともっと謙虚になるべきでしょう。全ての動物は、植物への寄生が許された代わりに、相応の奉仕の役割を担って進化してきたはずです。花を受粉させる昆虫、木の種子を糞と共にばら撒く鳥、種子を体につけて運ぶ動物、不要になった植物を分解するダニや多くの昆虫などなど。人間だけが、一方的に植物や動物を支配して、利用するだけの例外的な存在だと言えるでしょうか。「それでどうなんだ」、といわれれば返す言葉もありませんが、環境カウンセラーとしてはぜひ、「もう少し植物や生き物に感謝し、奉仕しても然るべきでは」、と言っておきたいところです。この国でも僅か数十年も遡れば、農村や漁村では、植物や生き物への敬虔な感謝が捧げられていた筈なのです。もちろん、今でも田舎に住むお年寄りはそうしていますが。我々はいつから、その感謝を忘れてしまったのか、強く反省する必要がありそうです。

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2006年8月29日 (火)

32 環境モラトリアム

一時期「モラトリアム」という言葉が流行しました。債務不履行などという意味ですが、環境問題もこのモラトリアムが重要なキーワードです。以前環境問題とは自家中毒のことであると書きましたが、緩慢な中毒では、実は時間的なずれが生ずる事も多いのです。特に地球規模の環境悪化ともなると、本当に中毒症状が出始めるのに数十年掛かる場合もありえます。そのため、原因を作った世代が責任を果たさないまま退場し、次の世代が害だけを被るといったケースも出てくる事になります。ある世代が環境問題の責任を果たさない(借金を返さない)まま退場する、これが「環境モラトリアム」です。ちなみにこれは投稿者の造語です。

しかし、環境モラトリアムの回避は実は非常に困難です。何しろ、温暖化問題に限ってもCO2が主たる原因ガスであるとの因果関係が完全に特定された訳ではないのですから。「従ってCO2の削減のために経済の減速を伴う京都議定書は批准しない。」とアメリカのブッシュ2世は堂々と述べている程です。モラトリアムには、しかし利息がつきます。環境悪化の利息は、考えているよりずっと重い可能性があります。即ち、環境悪化に関する限り、それを元に戻すには悪化させた期間より数倍或いは数十倍もの長い時間や費用が必要なケースが多いからです。インデアンは7世代後の世代の幸福を考えて、事の善悪を判断すると言われていますが、我々も100年後の社会の青写真を描いておく必要がありそうです。そうすれば、我々が今何をしなければならないかが明らかになってくるはずです。環境モラトリアムを捨て、「インデアンに学べ」が叫ばれなければならないでしょう。

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2006年8月28日 (月)

31.5拾う神

落とす馬鹿がいれば、拾う神も確かにいました。86日に八ヶ岳で落とした財布が無事戻ってきたのです。山に登る人間には悪い人はいないことも証明されたような気がします。なんと長野県の人が拾って宅急便で送ってくれたのが本日届いたのです。ほとんどのIDは再発行が終わっていたのですが、再発行できないものも数枚含まれていましたので、久しぶりで旧友に再会した時のようななんとも言えない気持ちです。あまりうれしかったもので、ついブログに書いてしまいました。ありがとうございましたYさん。

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2006年8月27日 (日)

31建設という名の環境破壊(復旧業の提案)

建設といえば新しく作るのですから、環境破壊とは無縁の活動のようにも見えます。しかし、実は環境破を伴わない建設は存在しません。何故か。それは、いかなる建設においても、まず自然を一度破壊、例えば地ならしを行った後でなければ開始できないからです。その典型的な例がダムでしょう。ダムは、ダムそのものを建設する場所の木を切り、地面を岩盤まで堀下げた後、初めてコンクリートを打つ建設が始まります。しかし、ダム建設はそこで終わるのでなく、時間を掛けてダムに水を溜める行為によって、水面下に沈む全ての自然を完全に破壊してしまいます。

建設という名の破壊を、最小限にとどめるための知恵こそ、今後の社会には強く求められます。出来れば、一度は建設のために犠牲になった自然を、元に戻す公共事業があっても良いと思うのです。例えば、コンクリート護岸で覆われた川岸を元の土手に戻す事業、一度はバイパスや農道が建設されたが結局交通量が少なかったので、道路を無くし削られた里山や農地を元の姿に戻す事業、道路で分断された森を、動物のためのトンネルや橋でつなぐ事業などがもっと行われて然るべきなのです。日本列島には、建設のための適当な土地はもう殆ど残っていない事が、建設業の構造不況の原因なのですから、これらの事業は建設業(ではなく復旧業)を盛んにし、雇用も生み出すはずですね。これも、立派な環境ビジネスです。ヨーロッパでは、「復旧業」が既に立派な産業に成長していますよ、建設業界のみなさん。

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30 集中から分散へ(マイレージ)

コンピュータの世界でもダウンサイジングがキーワードとなった時期がありました。この世界も、結局スーパーコンピュータは、気象シミュレータなど特殊な用途以外では姿を消してしまいネットワーク化しました。環境問題の解決にも実はダウンサイジングは重要な位置を占めます。中央集中システムは、右高上がりの時代には、多分理想的は仕組みでした。大量生産・大量輸送し大量消費する社会では、中央集中化システムしか考えられなかったかもしれません。しかし、このシステムには原料や製品の輸送に多大なエネルギーが必要となります。いまや、原料ばかりではなく多くの製品が海外からも船や飛行機を使って集中的に物流が行われます。これに対し、ダウンサイジング(或いは分散)システムでは、全てが小規模システムで回ることになります。

さて製品の重量と運搬距離を掛けたものを「マイレージ」と呼びますが、殆ど全ての製品でこのマイレージはますます増大傾向にあるのです。マイレージを低下させるには、地元で生産された製品を地元で消費する「地産地消」でとなります。つまり分散システムでは、輸送のためのエネルギーは非常に少なくて済みます。究極は畑で作った作物を、畑の横で無人販売すればマイレージはゼロとする事が出来るでしょう。

環境にやさしくするには、まずマイレージに敏感になることです。スーパーで食糧を買うときは、まず産地を見るべきですね。その野菜が中国産なら、少し高くても国産(出来れば地元産)のものを買うべきでしょう。同じ国産でも、可能な限り近くの県で作られたものを買うべきです。でも注意しなければならないのは、「博多産」の辛子明太子と書いてあっても、勿論原料は北海道やカナダから来ていますから、原料を加工地の博多まで運ぶ距離まで考えればマイレージは途方も無く大きくなる点です。

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2006年8月26日 (土)

29 時間は価値ではない

時は金なり、と誰かが言いました。しかし、今後この至言は消えて無くなるかもしれないのです。でも例えば、宅急便でも翌日のそれも時間指定の配達では料金が高いではないか。郵便の速達でもそうであるし、多くのチケットでは当日券より前売り価格は安く設定されている、まさに時は金の様に見えるではないか、と言われるかも知れません。そうは言いながらよくよく考えて見れば、時が価値を生み出す事など無いはずなのです。基本的に、臓器売買などをしない限り、寿命の長さを金で買う事は出来ませんし、宅急便も別に急ぎさえしなければ余計なお金を払う必要も無い訳です。ただ時間に対するこだわりだけが、勝手に価値を作り出しているだけなのです。与えられた時間をあくせく暮らすか、或いはじっくり時間を楽しむか、まさにライフスタイルの問題ですね。

環境問題でも時は重要なファクターです。結局、人類が環境から破局的なしっぺ返しを食らうまでの時間が殆ど唯一重要な事だといえるからです。もし、破局が1000年後に来るのであれば、人類の知恵や人間としての体の進化もある程度は追従できるかも知れません。しかし、破局が50年後に来ると言われても、我々は殆ど何も準備出来ないかも知れないのです。時に価値さえ与えなければ、我々は多くの活動をスローダウンさせる事が出来るでしょう。ものを作るスピードを半分にし、それを消費し廃棄するスピードも半分にすれば、破局までの時間は2倍に延ばす事が可能ですね。勿論、給料も半分で暮らす覚悟は必要ですが・・・・。

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2006年8月25日 (金)

28 ゴミを見えなくする社会

ゴミ問題をもう少し。これまでの社会は、ゴミを出来るだけ見せないようにする仕組みを営々として作り上げてきました。自治体によるゴミ収集処理の仕組み、下水システムによる「液体ゴミ」の処理、企業からの産廃の収集処理、原発からの放射性廃棄物に至るまで、社会の表舞台からは、可能な限り隠されてきました。勿論、目に見えない「気体ゴミ」は、何の躊躇もなく大気中に殆どそのまま捨てられてきたのでした 人間は、見えないものは存在しないと考えてしまう悪い癖があります。したがって、多くの庶民の感覚では、ゴミ問題は存在しなかったはずものであり従ってゴミ問題もそれほど深刻には捉えられては居ないのです。時々、マスコミなどで香川の豊島や岐阜の椿洞や岩手・青森県境などで、「目に見える問題」としてクローズアップされた時、庶民はほんの少しだけ胸が痛むのを感ずるだけなのです。しかしそれも75日も経過すると、やはり無かった問題に逆戻りしてしまいます。環境カウンセラー仕事とは、それらの問題を目に見える問題として、繰り返し社会に示し続ける事であるとも言えるでしょう。

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2006年8月22日 (火)

27環境問題はゴミ問題

環境問題の元をただせば、全てゴミ問題にたどり着きます。例えば、オゾン層破壊はクーラーの冷媒や部品の洗浄に多用されていた特定フロンを、使用後大気中に「気体ゴミ」として捨てていた事に原因がありますし、温暖化の原因も、もしCO2が犯人ガスの一つなら、これも発電所や車から多量に排出される「気体ゴミ」によって起こります。目に見えるや固体ゴミ問題も殆ど解決の目処は立っていませんし、環境に主として「液体ゴミ=排水」捨てられた化学物質によって引き起こされる環境ホルモンの問題は、今後ますます悪化の一途をたどる事になりそうです。何しろ、人間が作った化学物質の種類は何十万種類あるか正確にはカウントされていませんし、今でも毎日増え続けているのですから。それらが直接または複合して、人間や他の生物にどのような被害を与えるかは、殆ど解明されていないのです。

江戸時代にゴミ問題は存在しませんでした。金持ちが不要となったものは、庶民の資源となり、庶民の中でも繰り返し使われ、最後は土に還る仕組みが出来上がっていました。特に布や紙は貴重であり、それこそボロボロになるまでこき使われました。現代社会においてゴミが問題となっているのは、社会に投入される資源の量があまりにも多いためです。それらの多くは海外から輸入されています。金属、石油(製品)、繊維(製品)、木材、食糧などなど。しかもそれらの多くは、寿命を全うする事なく、短い期間でゴミとして捨てられています。

思い起こすべきは、ドイツでスローガンとされている次の言葉でしょう。それは、「廃棄物とは、間違った場所(ゴミ捨て場)に置かれた貴重な資源の事である。」というものです。そして、もっと学ぶべきは江戸の「捨てない知恵」ではないでしょうか。

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2006年8月21日 (月)

26 ひっそりと暮らす知恵

人間が生きた証をありありと残すのは、古代より権力者たちが繰り返し行ってきた事です。権力を誇示するための大墳墓を、自分が生きているうちから建設させ、死んだ後は大勢の生きた人間も道連れにしてその墓に入る訳です。しかしながら、そうではない大多数の普通の人間は、ひっそりと生きてひっそりと死んで行った訳です。人間として最も潔い生き方は、死んだ後も自分が生きた痕跡は、その人を直接に知る幾人かの心の中に残すことに留め、物質的な痕跡をほとんど残さない事でしょう。

しかしながら、現代の人間はモノに囲まれ、生きている限りゴミを排出し続け、死んだ後には他の人には使えない多くのモノと、生きている間中捨て続けたゴミの山が残されることになります。LOHASも結構ですが、先ずは痕跡を残さない生き方を考えるのも重要なことのように思います。

「清貧」という言葉が、ほんの瞬間的に流行った時代がありました。多分、バブル時代に経験した過剰な消費生活への反動もあったのでしょうが、のど元を過ぎるとすっかり忘れてしまうのが日本人の悪い癖でもあります。

もう一度、環境に影響=足跡(フットプリント)を残さずにひっそりと暮らす知恵を探し出し、それを実行してみるのも奥ゆかしい生き方かもしれません。100、1000年後まで消えないのが大きな足跡で、数日後には消えてしまうのが小さな足跡ですが、例えば温暖化は100年単位の大きな足跡です。

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2006年8月20日 (日)

25 LOHAS再考

LOHASという言葉が注目されています。これは健康で持続可能なライフスタイルの事なのですから、誰も反対のしようがないはずの立派なコンセプトです。しかし、言葉が先行するあまり、ともすればちょっと意識しさえすればLOHASな生活スタイルが実現できそうな錯覚に陥り易くもなっています。ある時期、チョッとしたボランティアをするチョボラが流行しましたが、同じくチョッとLOHASな生活をすればかっこいいとの風潮も出始めている昨今ではあります。でもちょっと待って下さい。健康な生活は良いとして、持続可能な生活はちょっとやそっとでは実現できないはずのものです。持続可能な生活は、一般的に言えば大きな不便を要求します。節約やこまめな再利用や修理やリサイクルを行いながら、可能な限りモノを捨てない生活が要求されることになるのです。

現代人が、本当にLOHAS的生活が実現できるか否かは、先ずはライフスタイルを少なくとも1970年代当たりまで、逆戻りできるかに掛かっています。それには、価値観の大転換も求められるはずで、数年で達成できるような生易しい話では済まないのです。もちろん、チョッとだけロハスな生活、「チョロハ」なら可能かもしれません。この程度なら、いわゆるLOHAS製品を人より多く購入するなどの自己満足で済みますから。むしろ、肩肘張らないでLOHAS的な生活を送るならSLOW LIFEを推奨しておきたいものです。SLOW LIFEなら誰にでも出来るはずです。これは「巻き戻し」の項でも述べた様に今までと同じ事を、より多くの時間を掛けて行うだけで済むからです。

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24 人力の活用

精神論ばかりでは退屈なので、具体論も混ぜて行きます。ところで人類は60億人をかなり超えてしまいました。数十年後には100億の大台に乗るかも知れません。その意味で、石油・石炭(使いたくないが原子力も)を除けば、人類に残された最良のエネルギー源は、実は人力だと言えます。エネルギーは、使う場所で発生させるのが、最も効率が高いのは当然の原理です。エネルギーは、変換や輸送によって大きく目減りするからです。発電所では確かに効率的に発電が行なわれてはいますが、途中の送電線からは熱の形で多くのエネルギーが失われています。

その点、「人力」は使う人が使う場所で(自分で)発生させる訳ですから、輸送に伴う損失はゼロになります。しかも、筋肉は低温でも動く最も効率の高い「化学エンジン」ですから、エネルギー効率の点から見ても理想的な仕組みと言えるでしょう。逆に、60数億人力のパワーをムダにする事は、人類にとって最大の不幸といえるかもしれません。人力を使えば、人が移動する(歩く、自転車に乗る、カヌーを漕ぐなど)、物を動かす(背負う、テコで動かす、台車を使うなど)、エネルギーを発生させる(運動して温まる、自転車をこいで発電する、ぜんまいを巻くなど)がその場で実現できます。人力は、加減も自由だし、低いレベルであれば何時間でもエネルギーを出し続けることが可能なのです。

人力を有効活用した種々の道具(機械ではなく)は、もっともっと考案されても然るべきでしょう。人類発明史上最高傑作の一つとも言える自転車が発明されて今の形になってから、もう2世紀以上も経過しているのです。燃料電池の開発なんかにに多額の金と労力を浪費しないで、例えその1000分の1でも自転車の改良に振り向けるべきでしょう。何しろ人力は偉大です。ピラミッドも万里の長城も全て人力(勿論畜力も使ったでしょうが)だけで作られました。来るべき時代のために、自分の中の「人力パワー」を鍛えておきましょう。

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2006年8月19日 (土)

23 ID社会(閑話休題)

八ヶ岳に登った際、財布を紛失しました。ズボンの後ろのポケットに入れておいたのですが、はっと気がつくと無くなっており愕然としました。急斜面を下ってくる時何度かスリップして尻餅をつきましたが、その時飛び出してしまったようです。30分ほど戻り、何人かの人にも聞きました結局見つからず、山小屋の管理人に届いた場合の連絡先だけ伝えて山を下りました。財布には、免許証から各種カード、保険証の類まで、ほとんどのIDが詰まっていたので最悪の事態です。山梨から自宅のある岐阜まで200km以上あり、どうやって帰ろうかと途方に暮れましたが、探してみるとポケットにはラッキーな事に500円玉が2枚残っていました。バイクでアプローチしていたので、500円あればガソリン代は何とかなりそう。うまくいけば夕食にもありつけるかもしれない。という訳で、高速道路は使えず、下道を6時間かけて(免許不携帯で)トロトロと帰ってきました。その後の1週間は、ご想像の通り無くしたIDをかき集めるのに、免許センター、銀行、保険事務所etc・・・・を駆け回ったのでした。

何しろこのID社会では、IDがないと、車にも乗れない、お金が引き出せない、病院に掛かれない、・・・できない、というオンパレードとなるわけです。というわけで、IDを失うことの惨めさを、いやというほど味わったのですが、でもでも良く考えてみると、自分はIDがあっても無くても自分自身であるわけで、何もIDに証明してもらわなくても結構、とも言ってみたくなりました。結局自分に対して腹を立てるしかないのですが、まだIDが全部揃っていない新しい財布を眺めてため息をついているところです。

教訓:IDはぜひ大事にしましょう。でも自分が自分であることはもっと大事にしましょう。

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22 生きる、うまく生きる、よく生きる

人間の脳は3層構造だといわれます。中心部は爬虫類脳と呼ばれ、呼吸や本能的で基本的な機能を司っています。その上を、哺乳類が普遍的に持つ機能、子育てや仲間とのコミュニケーション能力などを司る部分が覆っています。一番上には、大脳皮質と呼ばれる、人間らしい行動を司る部分が存在します。これが、それぞれ「生きる」、「うまく生きる」、「よく生きる」事に対応しているようです。

ではうまく生きると、よく生きるのとの違いは何でしょうか。キーワード風に言えば、それは共感の有無だと言えるかもしれません。共感無くしては、人間らしい生き方は望むべくもないでしょう。動物には他人の悲しみが理解できないし、他人の痛さにも、他人の苦しみや喜びにも共感する能力はありません。人間だけが、共感という能力を持ち合わせた存在であるわけです。その人間が、自然に対する共感を忘れた結果生じたのが、環境問題だとも言えるでしょう。

昔から、人間は自然に共感しながら、過度の収奪には自ら一定の歯止めを掛けてきました。魚を取り過ぎない、山菜を取り過ぎない、木を切り過ぎない、獣を必要以上に殺さないなどなど。しかしながら、経済主義、商業主義は、儲かるか儲からないかを全ての基準として、鯨を減らし、山を丸裸にし、地下資源を掘り尽してきました。つまりは、戦後のある時期以降は金儲けに目がくらんだ結果人間らしく「よく生きる方法」を完全に忘れてしまった様な気がします。

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2006年8月18日 (金)

21 破局(カタストロフィー)

破局、恐ろしい言葉です。破局は、登りの過程では決して起こりません。常に下りにおいて発生するものなのです。例えば、木登りですが、登る時に恐怖心を感ずる人は殆ど居ませんが、降りようと思って下を見た途端、足がすくんで動けなくなるはずです。株の売買ではどうでしょう。買いに走っている時、人は株下落の可能性を殆ど意識しません。しかし、株価が少しだけ下落を始めた時、多くの人はパニック(破局)に陥り、連鎖的に売りに走る訳です。別の言葉で言えば、強気から弱気に転ずる瞬間、人はパニック(破局)に陥ると言えそうです。

環境問題でも、かなり似たような状況が予想されます。つまり、地球規模の環境問題は、実は我々個人の問題としては認識が薄いのが実情です。温暖化の問題は、夏の暑さや暖冬で薄々は感じる事はあっても、まだまだ我々の生活の質を落とすまでには至っていません。毎日感ずるほど生活の質の悪化が顕著になった時、初めて人は環境悪化に対する強気が萎えて、急に弱気になり始めると予想されます。もしかすると破局的なパニックに陥るかもしれません。

一方自然現象にも破局は現れます。例えば、雪崩。雪の圧力を辛うじて耐えていた雪庇が、ほんの小さな音などの刺激で突然崩落する。マグマの噴出を、古い溶岩ドームが辛うじて抑えていた休火山が、ある日突然噴火を始める。地殻のずれを何とかこらえていた断層が、突然動き始め地震を発生させる、などなど。人間の活動の結果、自然に蓄積された歪が、いつ何時破局的な災害を起こさないとも限らない訳で、何時までも自然の包容力に頼ってばかりは居られないのも間違いないところです。

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2006年8月17日 (木)

20 機能の消費

少数のモノ集めマニアを除けば、実は人間はモノが欲しいのではありません。本当は、モノの持つ機能(働き)が欲しいだけなのです。(多分そうだと思います)。例えば、我々は車が欲しいのではなく、何時でも雨に濡れずに快適に移動できる機能が欲しいのです。また決してブランド物のバッグが欲しいのではなく、ブランド物をもつことにより満足感を得るという機能を求めている訳です。更に言えば、食べ物が欲しいのではなく、栄養を摂取し、健康を維持する機能が実現できれば、これに変わるものでも良い訳です。

つまり、これまでは物を消費してきたので、その結果として廃棄物も多く発生してきたのだ、とも言えるでしょう。したがって、今後の社会を考える上で、機能の消費という事をまじめに考えてみる必要がありそうです。イギリスのある都市では、誰でも自由に使える公共の車を準備し、車の所有に歯止めを掛ける実験が行われています。奈良でも、乗り捨て自由な自転車を数多く準備して、車の乗り入れや、放置自転車の問題を解決しようと努力しています。問題は所有する事に慣れ過ぎた我々が、レンタルの範囲をどれ程広げることが出来るかです。時々しか使わない製品でも、やはり自分のものとして購入し、狭い部屋にギュウギュウ詰めにして置きたがる消費者の傾向に歯止めが掛った時、たぶん資源の消費や廃棄物の発生にブレーキが掛るときなのでしょう。

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2006年8月16日 (水)

19 遠き慮り(おもんばかり)

これが実は、このブログで一番書きたい事の一つかも知れません。つまりは、技術屋から環境カウンセラーに「脱皮」して得た結論のようなものです。遠き慮りとは、もちろん論語の「遠き慮りなくば近くに憂いあり」からの引用です。ここでは、しかし単純に「遠くの存在に対する配慮こそが大切である」という意味に使っています。「遠くの存在への配慮」とは、例えば遠く離れた国であるツバルやバングラディッシュやイタリアのベニスが、時として海に沈んでしまう事や南極のペンギンや北極海のアザラシが化学物質にひどく汚染されている状況を、自分の側に引き寄せて考えること、或いは多量の産業廃棄物や放射性廃棄物を押し付けられるであろう、まだ生まれてもいない遠い未来の子孫たちの事を案ずる事だといえます。今日の環境問題の全ては、この配慮が全く欠けていたために起こったはずなのです。

今ポイっと捨てようとしているゴミの行方を、頭を冷やしてじっくりと考えるならば、焼却場で燃やされ、或いは燃えないゴミとして破砕され、結局は最終処分場に埋め立てられる事に気がつくはずです。今日、車に一人だけ乗って会社に通勤したならば、10km当たり、2.3kg(あるいは体積にして1立米以上)のCO2を出し、それが大気に拡散して濃度を少しだけ上げた事も少しは悔やまれるはずです。或いは、今朝トイレで出した排泄物が、下水処理場で処理されてもなお残る、燐酸分や窒素分がやがては川や湖や海に流れ下って、富栄養化の原因となってそこに棲む生物の影響を与えている事に少しは胸が痛むはずです。もし、全く何も感じない人々が大多数であるとするならば、人間に未来は無いとの結論になるでしょう。やはり、コンピュータのシミュレーション通り、温暖化が進み、廃棄物に埋もれ、或いは海に沈んで誰もいなくなるでしょう。でも、数億年前からいるゴキブリは、暖かくなった地球でこれまで以上に繁栄するかも知れません。その他、悪化した環境をかろうじて生き延びた動植物も、問題児の人間さえいなくなれば我が物顔で繁殖できることでしょう。

などというように、遠い遠い未来まで想像してみるのもやはり「遠き慮り」です。

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18 人類の悪い癖

ここで、少し回り道をして人間の進化の事を少し考えて見ましょう。かなり前、進化の上で何がサルとヒトを分けたのかを深く考えて見たことがあります。その時は、ヒトはサルには無い、「幼形成熟=長い学びの期間」、「反省」と「伝承」を手に入れたのではないかとの結論になりました。つまり、生まれてから成人するまで、人によっては一生涯学び続け、間違えたら反省をし、そして次の世代に知識を伝承する能力を、進化の過程で何かをきっかけとして獲得したサルだけがヒトになったと考えた訳です。しかしながら、最近改めてこの事を考えて見ると「加工すること=変えること」が抜けているような気がしてきました。つまりヒトは、例えばものの形を変えて道具を作る事を熱心に行います。勿論、高等なサル(チンパンジーやゴリラやボノボ)も簡単な道具を作りますし、使いもします。例えば、木の実を割る手頃な石や蜂蜜を取り出す棒のような簡単な道具のことです。道具は、しかしゼロから創ったものではありません。元々ある原料を加工して(形を変えて)道具にする訳です。ヒトは食べ物でさえ加工します。つまりは料理です。煮る、焼く、蒸す、調味するなどの食糧を美味しく加工する手段を駆使します。

確かにものの形を変える能力により人間は、先ず集団の中での文化を形成し、その集大成としての文明さえ築いてきましたが、反面「つくり過ぎることを抑制する能力」は非常に低かったと言わざるを得ません。過去の全ての文明は、周りの環境を作り変え過ぎ、周りからの森林などの資源を収奪し過ぎ、それを消費し過ぎ、更にはそれを廃棄し過ぎた結果、破滅の道を辿りました。その意味では、現在までに我々が築き、その中で暮らしている最も新しい「石油文明」も決して例外ではないでしょう。実際、加工し過ぎる事の弊害が、地球規模の環境悪化や資源の枯渇、ゴミ処理の逼迫や更には地球規模の気候変動などの現実的な問題となって、我々に襲い掛かっています。つまり単に加工するだけではなく「加工し過ぎる事」がもう一つの人間活動の特徴であり本質であると言えるかも知れません。これは、実は人類の非常に悪い癖である、と認識しておく必要がありそうです。

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2006年8月15日 (火)

17 ゴールの無い駅伝そしてゴミ塚

人類が存続するための行い自体にゴールはありません。それはゴールの無い駅伝の様なものであると言えます。もし無理やりゴールを作るとすれば、それはたぶん「人類の滅亡」などというものになるでしょう。いくら人類が栄えても100億人の人口は、地球環境として支えきれないのは、多くの学者も認めるところです。レミングの様に滅亡するために前進する訳には行かないのです。ではゴールの無い駅伝の上手い走り方はどうあるべきかと問われれば、その答えは出来る限りゆっくり走って、資源やエネルギーを温存することとなるでしょう。エジプト人や中国人とは異なり、控えめな縄文人や弥生人は、彼らが生きた痕跡として我々に竪穴住居跡の柱の穴や土器のかけらと、ささやかな規模のゴミの捨て場である貝塚しか残しませんでした。

彼らの子孫である我々は、将来世代に巨大なゴミの処分場である「ゴミ塚」を残そうとしています。資源を探して地下を掘る1000年後の世代は、地下に巨大なゴミの埋め立て跡であるゴミ塚を発見し肝をつぶすことでしょう。駅伝で後世に伝えるべきはきれいなタスキです。実際の世界で伝えるべきタスキとは、少なくとも今ある形で、これ以上悪化させない「環境」とその「環境の恵みの範囲内で暮らす知恵」だと言えるでしょう。山村や田舎で、自然の恵みの範囲内で暮らす知恵は、いまや、田舎のお年寄りが少なくなるに連れどんどん失われています。伝えるべきタスキが何であるか、私たちは再度確認しておく必要があります。

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2006年8月14日 (月)

16 自然乖離(あるいは旅客機)

自然乖離(かいり)とはあまり聞かない表現かもしれません。そのはずで、投稿者が勝手に作った表現です。環境とは、私たちを取り巻くものですが、都市という山小屋の項でも取り上げたように、私たちは、すっかり自然から離れた「人工環境」の中で暮らして訳です。つまり、都市は自然に囲まれているわけではなく、自然から離れた(乖離した)存在なのです。そして自然と都市の間のギャップはますます大きくなってきている様な気がします。さながら、ロケットが発射台から離れる(リフトオフする)状況に似ています。またまた例え話をすると、私たちは人工環境という飛行機に乗って離陸した乗客のようなものといえます。飛行機の中では、お金さえ出せばおいしい食べ物が出されますし、もっとお金を出せば広い座席スペースも買えます。乗客よりもずっと高給取りの運転手(失礼、パイロットでした)やエアホステスが動かしている乗り物は、石油という燃料を使って空高く飛び続けています。

しかし、燃料の限界も見えてきたし、自分たちが出している排気ガスの影響で、視界もやや悪くなってきたので、乗客としての私たちは、そろそろ着陸準備に入るようにパイロットに告げるべき時期に来ているのです。しかし、乗客の中には居心地の良い旅客機からでて、外に出るのは嫌だとダダをこねる人も多いようですね。特にファーストクラスに乗っている人達は・・・・。

人間は自然から生まれた存在である事は確かですが、その自然から乖離してしまったいま、人間はもはや自然の一部ではなく、自然を対象としてみる存在になってしまったようです。かつて、人間が自然の一部であった時代は、自然を「対象」として捉えることが出来るのは唯一神だけでした。では人間は神になったのかと問われれば勿論NOで、これほど出鱈目な存在は、お世辞にも神とはなり得ないでしょう。それどころか、人間はニーチェが言うように神を殺してしまったのかも知れません。この殺神鬼?である私たち人間は、これから一体何を目指しているのでしょう。

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15 昭和への復古

最近「昭和」への回顧ものを多く目にします。昭和のメニューを出す食堂、昭和の料金でラーメンを出す店、昭和の番組を流すチャンネル、昭和の中古品を扱うリサイクルショップなどなど。以前環境ビジネスを取り上げたのですが、スローダウンビジネスも環境ビジネスの一つと位置付けても良さそうです。昭和復古ビジネスは、スローダウンビジネスの象徴になりえますね、きっと。シンプルな昭和の製品に囲まれて、昭和のメニューの食べ物を食べ、昭和のゆったりした歌を聴きながらゆったりと生活すれば、たぶん人生の時間も延びて長生きできるのでしょう。その結果生まれた余分な時間は、無駄につぶすのではなく、ぜひ世の中のためになることに使ってもらいたいものです。環境保全活動などは、「環境おじさん」としても一押しのボランティア活動です。

昭和も遠くなりかけていますが、今こそ昭和をもっと研究してもいいのかも知れません。少なくとも、戦争によって区切られてはいますが、現在の私たちの生活スタイルを作り上げてきた時代である昭和という激動のプロセスを、じっくりと振り返って見る事はぜひ必要だと思っています。とりあえずは自分の人生の年表を作ってみませんか。

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2006年8月13日 (日)

14 生き急ぎ、死に急ぐ

生活スタイルのスローダウンは、人間のストレスをも大きく減らすことでしょう。かつて、猛烈社員という言葉があり、現在でもリストラの結果起こった長時間労働による過労死が時々マスコミで取り上げられます。時は金ではなく、ゆっくりと流れる「豊かな時間こそが金」なのです。その結果、働く時間が少なくなって収入も減るかも知れませんが、せわしくモーターで動く電化製品や高い車が要らなくなるわけですから、収入が減ってもそれほど苦になりません。勿論、便利な外食や甘いだけの菓子などの嗜好品も減る訳ですから、ますます収入なんかはぐんと減っても問題はないでしょう。テレビで流行の10万円で豊かに暮らせる場所やライフスタイルは、今の日本でも確かに存在するのです。ただ一点、都会の高層マンションでの便利な生活さえ諦めるだけで済むのです。

要は生き急ぎ、死に急ぐことを止めれば良いだけです。目的地に直行し、遊んだら急いで帰ってくる「旅行」の代わりに、過程を楽しむ「旅」に切り替えるだけで良いのです。人生は旅行ではなく、旅と考えた方が楽しいに決まっていますよね。何しろ、人生の最後に行き着く先は、全員間違いなくお墓の中と決まっているのですから。子供時代に塾でガリ勉をして、いい会社に入って出世し、沢山の退職金をもらった途端に早めに「最終目的地」に着いてしまった悲しい人の話は非常に多く耳にします。目指すは「波平」的生活スタイルかもしれません。テレビの中の磯野家では確かにゆっくりとした時間が流れているような気がします。なにしろ何年経っても「タラ夫」はちっとも大きくなっていないのですから。

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13 巻き戻しの方法

ビデオテープであれば巻き戻しは簡単ですが、ライフスタイルの巻き戻しはそれほど簡単そうではなさそうです。何しろ社会のインフラそのものが50年前とはすっかり様変わりしています。例えば燃料としての薪炭は、いまやBBQ用かピザ屋か高級焼肉屋以外では、すっかり目にしなくなり、(一時よりは大分減りましたが)代わって町の交差点には数多くのガソリンスタンドが立っています。家々にカマドは既になく、全ての電化製品が電線につながり、石油で暖房し、天然ガスで煮炊きや風呂を沸かしています。

では、巻き戻しは非常に困難かといえば、決してそんなことはありませんし、それどころか話はひどく簡単です。やるべき事はスローダウンだけなのです。単純に、全てに対して今までと同じ事を半分のスピードで行えば良いのです。例えば車の高速道路の走行スピードを、これまでの120kmではなく、最低スピードの60km(これでは社会の迷惑ですからせめて80km)にする。宅急便の配達スピードを翌日ではなく、翌々日で我慢する。どうせ車でも平均時速は30km程度しか出せない街の中では、倍の時間を掛けて自転車で移動する。現在6割輸入して、全体の2割捨てている食糧を、家で調理することで無駄なく活用し輸入量を大幅に減らす。早寝早起きをして、電灯を使う時間を減らす。衣服や電化製品の買い替え時期を、これまでの2倍に延ばす、などなど。

つまり、全てのスピードを1/2にすれば、資源やエネルギーの消費は、ほぼ半分に抑えることが出来るはずなのです。結果として廃棄物も半分になるというオマケもつきますし。

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2006年8月12日 (土)

12 団塊の世代と巻き戻し

焼け石に水だから、では何をしても、何をしなくても良いかという問に対しては、やはり強くNO!と言うしかありません。その対策についても、少しずつ書いていくことにしますが、事は私たちのライフスタイルに関わるので、話は単純ではありません。我々は戦後の貧しい生活から脱出するために、約30年掛けて必死に働いた結果、欧米並みの所得水準を得て、一方決して欧米並みとは言えない狭い住宅ながら物に囲まれた「便利な」生活と一家に2台程度の車を手に入れた訳です。その後の20年で、そのライフスタイルもすっかり定着し、バブルと呼ばれた贅沢な時代も経験できた訳です。つまり、ライフスタイルを現在のものに変えるのに半世紀ほどを要しているのであり、これを環境にやさしいライフスタイルに再度方向転換するのには、やはり30年ほどは掛かるかも知れないのです。しかし、最新の環境悪化の予測によれば残された時間はそんなに多くはない様です。

救いは人間の寿命が延びていることでしょうか。戦前、戦後の貧しい(ではなく質素な)生活スタイルや田舎の暮らしを知っている世代が、まだ大勢社会に残っているのです。中でも最大勢力となっている団塊の世代がまもなくリタイヤし始めます。2007年問題と呼ばれる社会現象です。投稿者が期待するのは彼らのライフスタイルの逆行現象です。全く、質素な暮らしを知らない世代に、質素に暮らせと言ったところで、「質素」の意味すら伝わらないでしょう。「もったいない」の意味を外国人に教えてもらう様な時代に私たちは暮らしているわけですから。しかし、団塊の世代なら、退職後のライフスタイルを自分の子供の頃か、少なくとも若かった頃を思い出しながら、ある程度巻き戻すのは、たぶん可能だと思われるのです。退職したら今度は節約にがんばれ、団塊世代!!

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11 温暖化問題のこと

温暖化の大きな原因となっているガスと言われる二酸化炭素は、決して有害なガスではありません。それどころか、植物の光合成には絶対不可欠な重要なガスでもあります。しかも、二酸化炭素の保温効果によって、地球の平均気温はそれがない場合のマイナス18度ではなく、現在の15度程度に保たれている訳です。その意味では、二酸化炭素は実に有用なガスであるといえます。実際、植物の成長を促進させるため、わざわざ温室内の二酸化炭素濃度を上げる栽培法もあるほどです。しかし、何事も度を越す事は好ましくありません。夏に厚い布団を掛けて寝る人がないのと同様、必要以上の二酸化炭素は有害な事態を招くでしょう。そのひとつが地球の温暖化といえます。

温暖化の問題に関しては、実はそのメカニズムが完全に解明されている訳ではありません。それどころか、主犯と言われながらも排出される二酸化炭素循環のかなりの部分はその行方が分っていないのです。(ミッシングシンク)つまり循環する二酸化炭素は、6割程度が大気に放出され、残りの殆どが海水中に何らかの形で吸収されていると言われていますが、そのメカニズムに不明の部分が多いのです。しかし投稿者は、残りの二酸化炭素の行方や、二酸化炭素の温暖化の寄与率など重要な事とは考えていません。問題は、今地球上にある全二酸化炭素の1%に当たる量の二酸化炭素が、毎年人間活動の結果排出され蓄積されているという事実の方なのです。つまり、単純に計算するとこのままでは100年後には二酸化炭素濃度が倍になることを意味します。これは全く持続可能という尺度からはみ出てしまいます。勿論それに対し、2012年までに京都議定書で決めた僅か6%を減らしたところで焼け石に水であることは間違いありません。

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2006年8月11日 (金)

10 環境問題とは(自家中毒のこと)

環境問題と呼ばれるものを考えて見ましょう。環境とは我々を取り巻くもの全てを指しますが、それが住居の問題、例えばシックハウスの問題であれ、地域のゴミの問題であれ、地球規模の汚染の問題であれ、全て環境問題といえます。違いは規模と影響を受ける程度と人数の差だけです。いずれの環境問題も根は全く同じで、「自家中毒」と言い直すことが出来ます。自家中毒とは、自分が原因となって出した毒によって自分が害を受けるという状態です。では公害はどうかという疑問が生まれます。自分はその工場からなんら利益を得ていないのに、被害だけを被ったと主張する人も存在するかも知れません。しかしながら、現代においては製品を消費するという行為において、程度の差はあるにしても何らかの形で公害を出した企業の製品の恩恵を受けていたはずなのです。四日市や川崎の大気汚染にしても、石油製品や車の恩恵に与っていなかった被害者はいなかったはずです。シックハウス問題はどうか。これも、今自分が暮らして恩恵を受けている家屋が出す有害ガスの被害であるわけで、いずれも自分が出した毒で自分が中毒を起こしていた典型的な例といえます。恐ろしい事実ではありますが、母親が赤ん坊に与える母乳の中で、ダイオキシンの様な人間が作り出した毒物の濃度は確実に増加してきているのです。では温暖化問題はどうか。改めて以降で考えて見ることとします。

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9 保全と保護

環境保全とか、環境保護などという言葉があまり使い分けを意識されることなく使われています。厳密に言えば、全く手付かずの自然を守るのが保護で、ある程度人の手が入った場所を維持するのが保全です。保護地区では、人間は自然に対して一切の手出しをしてはならず、ただ見守るしかない訳です。例え、他の動植物に明らかに有害と思われる動物の数が激増した場合でもです。最終的にバランスが戻るまでただ見守るのです。

一方で、保全は手がかかります。例えば、人工林や里山は、一度は人間の手が入った半自然ですから、既に未来永劫継続して手を入れ続けなければならない場所になってしまっているのです。それが、近年はお金にならないという理由だけで、完全に放棄されています。間伐がされないため木が混んでしまいヒョロヒョロに伸びた人工林、一見緑に覆われているように見えるが、生物の多様性が失われて薮になった里山、同じく放棄された結果周囲に地下茎を伸ばし放題の竹林、耕作が放棄され樹木が進出してしまった棚田などなど。保全が放棄された結果の状態といえるでしょう。では、保全のためのコストは誰が負担すべきでしょうか。村に残ったお年寄りではないはずです。これらが保全された場合に利益を得るのは誰でしょうか。たぶん、山で涵養された水を利用したり、たまに山にリクリエーションに出かけたりする都会の人間という事になりそうです。確かに、いまいくつかの件で、県民税などの形で、環境保全コストを広く薄く集めようという議論が進められている県も増えています。

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2006年8月10日 (木)

8 利便(便利なこと)

便利な方が良いとは、一体誰が決めたことでしょうか。昔の(田舎の)家では、ご飯はカマドで炊きました。水は井戸から、手押しポンプでくみ上げましたし、燃料の薪は里山で集めてくるしかありませんでした。しかし、今や田舎でもほぼ100%の家庭で電気釜を使って炊飯するでしょうし、やはりほぼ100%の家庭で水道水を使っているはずです。主婦の労働は軽くなったでしょうし、子供達が家事の手伝いをする風景もすっかり消えてしまいました。

移動は、いまや短い距離でも車やタクシーを使いますし、郵便ポストまで出かけなくても、家の中や携帯電話から直接メールが出せます。寒ければ暖房を入れ、少し熱ければすぐエアコンを回します。電化製品や車によって確かに私たちの生活は便利にはなりましたが、失ったものも大きいと考えられます。失ったものを考えてみましょう。まず、間違いなく体力や体の抵抗力が弱っているはずです。何しろ筋肉を殆ど使いませんし、皮膚の神経も暑さ寒さに過敏になりすぎているでしょうし、手先は間違いなく不器用になっている筈です。利便は結局、私たちからどんどん能力を奪っていると結論できます。

でも徒歩や自転車で足腰を鍛え、ホウキやウチワを使って腕の筋力を使い、小刀で鉛筆を削る事は、環境にやさしいと同時に、自分の能力の維持や向上にどれだけ役に立つかを考えて見れば、結論は明確です。それでもなお便利であることを選ぶなら、「どうぞ」というしかありませんが・・・。

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7 旅と旅行

旅と旅行が違うということに気がついたのは5年ほど前でした。ではどこが違うのかですが、まず旅行は決まった目的地があり、移動方法はそのための手段であり安全で速く移動できさえすれば、電車であれ車であれ、飛行機であれ何でも良いわけです。これに対し、芭蕉や野次喜多道中の例を見るまでもなく、旅は移動のプロセスそのものが重要で、目的地は単なる旅の方向を決めるためにあるだけになります。だから道中記そのものが、旅の物語として普遍的に読まれることにもなる訳です。

渋滞に苦しめられる車での移動、座っているだけの列車での移動、時には落っこちるかも知れない飛行機での移動。今や、旅行の手段としてしての移動方法は、早くて便利でさえあれば、何でも良いと考えられる様になりました。窓の景色は、高速で過ぎ去る画像にしか過ぎませんし、飛行機に至っては空と雲しか見えません。楽しみはといえば、移動途中で食べる弁当程度でしょうか。高い運賃と、お金を使わせる仕掛けに溢れた観光地のどこが楽しいといえるのでしょうか。

一方、旅は全く異なります。移動するプロセスが大事ですから、通過する土地土地で出会う人々の親切、五感で感じられる風景、地で旬の食べ物、小さなトラブルの発生とその解決。これらの全てが旅の思い出となって、分厚い旅日記となる訳です。

人生の節々で振りかえって、思い出としてより強く残るのはどちらでしょうか。

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2006年8月 9日 (水)

6 環境ビジネスとは

環境ビジネスなどという言葉がマスコミを時々賑わします。いわく、省エネを請け負うESCO事業や廃棄物を燃料に変えるRDF燃料あるいは新しいリサイクル技術やビジネスなどの事のようです。ここで、環境ビジネスを、最も簡単な尺度で評価することを考えて見ましょう。その物差しの名前は「持続可能性」といいます。つまり、ある環境ビジネスを評価するのに、そのビジネスはどの程度持続可能であるかという評価基準を持ち込んだ時、より長く続くと評価されたビジネスモデルが、より環境ビジネスの理想に近いとの結論になります。もしそのビジネスモデルが、単に今起きている問題の対策にしかなっていなければ、その問題が小さくなるか、逆にもっと大きくなった時、そのビジネスモデルは崩壊することになります。

そんな難しい事を考えなくても、環境ビジネスのビジネスモデルは、少し歴史を振り返るだけでたくさん見つかります。少なくとも鎖国をしていた江戸時代まで戻れば、殆ど全てのビジネス(あるいは生業)は持続可能であることは太鼓判です。何しろ外国からの物資の補給無しに、石炭や石油も全く使わないで暮らせたわけですから。今後環境ビジネスを始めようと考えている人は、まず江戸の風俗の勉強から入るのが近道かもしれません。

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5 都市という山小屋生活2(脳としての都市)

都市の山小屋生活に関して、思い浮かぶのは養老猛の「都市は脳であり、田舎は体である」という指摘です。確かに、眺めて見ると都市は脳の産物で溢れています。ビルや橋、高速道路や繁華街、地下街や人工的に作られた公園などなど。いずれをとっても人工のものばかりですね。一方、田舎には山や谷があり、里山や田んぼには少し人工の香りもしますが、とにかく自然に囲まれています。全ての動物の体の仕組みがそうであるように、人間の脳も体で取り込まれ消化された栄養分で活動を続ける事が出来ます。勿論、脳だけで生きていくことは不可能です。一方で体だけでもたぶん長くは生きられないでしょう。脳と体は元々切り分けられないのです。しかし、人間社会は過去どんどん田舎を切り捨ててきました。理由は、「お金にならない」というただそれだけです。つまりは農業や林業では食えない、という主張です。しかし、食糧の生産地である田舎で本当に食えない訳はありません。問題は、田舎では都会の様な「ものに囲まれた便利な生活」が出来ないという事なのです。都会で脳人間が作った便利なものを買うには、現金が必要でその現金は田舎では十分には稼げないというのです。いずれにしても、脳が作った都市で生活すれば金がかかり、体に相当する田舎ではお金のことをあまり考えないでも暮らせるのは間違いないところでしょう。

体が無くなった脳には一体何が起こるのでしょうか。体を無くしてさ迷う脳の姿を想像してみてください。我々は、今からその人工的に作られた山小屋として都市の中で起こる問題の数々と顛末を嫌というほど目撃することになりそうです。

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2006年8月 4日 (金)

4 都市という山小屋生活

お祭りモードを別の話に例えるとすれば、きっと山登りが適当でしょう。我々は、工業技術や経済政策といった「装備」を使いながら、産業革命以降長い時間を掛けて山を登ってきたように思えます。先を行くアメリカからは、グズグズするなと叱られ、後ろからは中国・韓国をはじめとする東南アジア諸国に尻をつつかれ、ヨーロッパ隊と競いながら山登りを続けてきた訳です。

その結果どこにたどり着いたかといえば、都市という人工的に作られた「山小屋」でした。山小屋は、ふもとからの補給無しには1週間と持ちません。都市も同様で、毎日供給される食糧、電力、ガス、水道、生活用品の補給無くしては、数日しか持たないでしょう。コンビニの食糧は数時間で空っぽになるはずです。つまり、都市は全く山小屋と同じ構造だったのです。

山小屋や都市生活は、補給が続けられている限りは確かに快適です。空調された住宅や事務所、便利な交通機関、人工的なアミューズメントも豊富です。しかし、神戸の震災が雄弁に証言しているように、ライフラインが断たれた都市や山小屋は悲惨です。その日から、とりあえずの水や食糧にも困窮してしまう事になります。

我々は、戦後の復興期以降、高度経済成長期を通じて、一生懸命努力しながら結局は山小屋的生活を選び取ってきたと言う事になりそうです。ではどうすべきかですが、それをこのブログで少しずつ書いて行く事とします。

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3 お祭りモード

2000年頃自分の人生や歩いてきた20世紀の後半の社会をじっくり振り返って見たとき、この時代は100年後に振り返ってみると、きちがいじみたお「祭り」の時代に見えるかも知れないと、しみじみ思いました。バンバン車にのり、ガンガン冷暖房を効かせ、モリモリと美味しい食べものを口にし、ポイポイゴミを捨てる生活は、まさにお祭りにしか見えません。祭りの後には、虚脱感と山のようなゴミが残るだけでしょう。お祭りモードの絶頂は、多分1980年代後半のバブル期でしょう。タイミングの良いことに、1990年代に入るとバブルが崩壊し、「右肩上がり神話」も崩壊したかに見えました。景気の悪化により、資源やエネルギーの消費も少し減速したかに見えました。

しかし結果としてみれば、1990年を基準にすれば、エネルギーの消費は8%も増加していたのでした。産業用は確実に減りましたが、日々の生活に関わる民生用が大幅に増えたためです。どっこい、お祭りモードは終わってはいなかった訳です。政府は必死になって、京都議定書の約束期限である2012年までに、6%の達成のため、声を大きくし、旗を必死に振りますが、今のペースでは多分達成は無理で、結局は、CO2の排出権を金でロシア当たりから買うしかないでしょう。

お祭りモードを出来る限り早く終わらせるのも環境十字軍の仕事のひとつなのです。

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2 天職その2

環境カウンセラーになって、では一体何をしたいかですが、「環境保全」「環境保全」とお経を唱えるつもりです。何しろ環境十字軍の戦士を志願してしまったのですから。

35年間もの長い間もの造りに関わってきた訳ですが、前にも書いたようにその結果はと言えばゴミの量や環境の汚染を拡大する片棒を担いできただけかも知れません。どんな製品でも、例外なく最後は廃棄物になる訳ですし、どんな製品を作るにも必ずゴミが発生します。食べ物だけはゴミにならない様にも見えますが、製造時に発生する生ゴミや食べた後の包装ゴミが必ず発生します。我々の排泄物は、下水処理場で処理しないと川へも流せません。もの造りとは即ちゴミ作りでもある訳です。

もちろん「環境保全」のお経の合間には、「省エネ」「省資源」「ゴミ減らし」「もったいない」「捨てるな」などのお経も取り混ぜます。それが技術屋を卒業して、環境カウンセラーを第2の天職として選んだ投稿者のやりたい事と言っておきます。もちろんお経を唱えるだけでは誰も耳を貸してくれませんから、なぜそれが必要なのか、そうしなければ我々はどうなってしまうのか、元技術屋らしく理路整然と説明し続けることになるでしょう。

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2006年8月 2日 (水)

1 天職

そもそも環境カウンセラーなどというものになろうと思ったきっかけを少々書いてみます。投稿者は30年間某重工で技術屋を生業としてきましたが、世紀の変わり目に立った2000年ごろから自分の人生を振り返って、「自分は技術屋としていったい何をしてきたのだろうか」、「一生懸命モノを作ってきたつもりだったが、結局それらは古くなればすべて廃棄物になるのでないか」、「結局自分は技術屋としてゴミを増やし環境悪化に加担してしてきたのでないか」・・・・・・・と言う強い疑問にとりつかれてしまったのです。

その疑問は日を追うごとに強くなり、結局一度自分の人生をご破算にしてみるしか、その答えが見つからないとまで思い込むようになりました。考えて見れば、その会社はいい会社で処遇も含め不満は何もありませんでした。その上30年間の勤続に対しては旅行クーポンまで支給してくれました。とりあえず2002年春に、そのクーポンを使って、環境先進国と言われていたドイツを視察に出かけることにしました。

いくつかの環境関連の施設、環境コンサルの事務所などを訪ねてみると、確かにドイツは、環境政策に関しては日本の10年先を走っているように見えました。燃やさない廃棄物処理、リサイクルシステム、風力やバイオマスや太陽光発電などの自然エネルギー利用の推進などなど。しかし、帰ってから冷静になって考えてみると、「日本にも江戸時代という、立派な持続可能型社会があったではないか」ということに気がつきました。つまり、日本がまじめにさえ取り組めば、ドイツ型とは違う形での理想的な循環型社会へのアプローチが出来るのではないか、と単純な人間である投稿者は強く思い込んでしまったのでした。

それからと言うもの日中は会社の仕事をバリバリこなし、定時後は天井を向いて「環境問題」について考え込むようになりました。(残業手当はつかない立場だったので、これは決してサボりではないから念のため。)

そこで得た結論は、「環境十字軍に参加しよう」というものでした。つまり環境にやさしいもの造り、環境にやさしい生活スタイルを広めるため、残りの人生をそのために掛けてみよう、と決心をしたのでした。さて具体的には何を始めるかが次の問題でした。世の中にいくつかのらしいNPOやNGOは散見されましたが、もちろん環境十字軍などというものはどこにも存在しません。いろいろ考えた末、とにかく何時までも重工長大の製品を作っている場合ではない、もっと規模が小さく自分の手の中で育てられる「環境にやさしい製品」を作るしかない、と更に決意を固めたのでした。

結局その年の暮れには、長年勤めた会社を退職し、投稿者の考えに同調してくれた中小企業に移ったのでした。給料は2/3に減りましたが、それからの3年余りはかなり充実したものでした。しかし、環境にやさしい製品を「3つほど」形にするなかで、更に深く環境問題を考えることにもなってしまったのです。それについては、追って書いて行くことにしますが、その中で絶対に必要だと感じたことのひとつが、人々のライフスタイルを変えるような「環境教育」の必要性でした。

環境について体系的に学び直すため、53歳にして放送大学大学院の門もたたきました。(現在も学生です)同時に、環境大臣が認定する「環境カウンセラー」にも応募して、経歴や小論文が認められて、まず「事業者部門」、追って「市民部門」のカウンセラーとなりました。

もちろん環境カウンセラーなどと言うものは、現状では職業という訳ではなく単なる認定者に過ぎません。しかし投稿者は、これを職業として世間に認めてもらおうと決心し、しかもそれを残りの人生の天職として選び直したという訳です。

こうしてめでたく?06年7月に「技術屋を完全に卒業し」多分日本で最初の「自称専業の環境カウンセラー」となったのでした。

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