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2006年9月28日 (木)

80 二項対立から三項関係へ

これまでの世の中では二項対立が、議論の手法でした。例えば、規制か自由か、経済か福祉か、或いは環境か景気か、都市か田舎か、輸入か国産か、男か女か、先進国か途上国か、キリストかムハンマドか、戦争か平和か・・・・・・。しかし、この様な2項対立では、問題解決の出口が見えない場合が殆どです。なぜなら、それぞれの側に立つステークホルダーの利害が明確に対立しているからです。多数決に持ち込んで一度は決まった後も、結局少数になった側の不満は消えませんから、時間が経つとまた議論が再燃することになります。

投稿者が提案するのは、三項関係です。例えば他、「テロ」か「話し合い」か、といった2項対立に、「人間は何のために生きるのか」という第三の視点を加えればよいのです。キリストとムハンマドが宗教の歴史の上では、実は兄弟分であったことを、どれ程の人が理解しているでしょう。二項対立では、両者のベクトルは、全く反対の方向を向いていますから、歩み寄りは容易ではありません。しかし、第三の視点を加えれば、ベクトル間に角度が生まれ(例えば互いに120度になり)、同じ方向のベクトル成分が増えてきます。

「環境」か「経済」か、という議論には、例えば「人間を含めた全生物の幸福」の視点を加えましょう。そうすれば、自ずと環境と経済の折り合いの方向が見えてくる筈です。経済の仕組み無しに現代生活は持続できませんし、環境保全だけ追及していても行き詰ります。人間を含めた生物の幸福を追求する中で、より良い経済の仕組みや環境との付き合い方が見えてくるはずです。

ところで数日留守にしますのでブログも休憩です。

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79 バランスの事

地味な内容のブログですが、お蔭様でどうやら1000アクセスに達したようです。毎日毎日環境ネタでブログを書いて、飽きないのか自分でも不思議なくらいですが、やはり何が原因でこうなったか、これからどうすれば良いのか、その答えらしきものが見つかるまでは書き続けざるを得ないとも思っています。

さてサラ金ではありませんが、バランスは全ての物事の基本であるべきです。収入と支出のバランスが悪い(赤字の)家計は、いずれ破綻します。同様に、環境問題も物質収支で起こるバランスの崩れに原因があるのです。繰り返しになりますが、人間が排出した物質でも、自然が受け取り分解してくれる範囲であれば、それは廃棄物ではありません。単なる循環に過ぎないのです。しかし、排出した物質が環境に蓄積し続けるなら、それは間違いなく廃棄物に化けてしまいます。これが物質バランスの崩れです。人間は、自然の分解スピードにもっと敏感になるべきでしょう。それが難しいのは、廃棄物がなるべく人の目に触れない様に運ばれ、処理されているからです。そして、ある日突然不法投棄の現場がテレビで報道されたりするわけです。

自分が出した排出物を、どの様にして環境が処理しているのか、処理できないとすればそれはどこに蓄積しているのかを少し考えれば、物質バランスが見えてくるはずです。海外から大量に製品や食糧を輸入している日本の物質バランスは、一体どの様になっているのでしょうか。モノを買う際には、それがどこから来て、最後はどこに行くのか、是非もっともっとバランスの事を考えてみましょう。

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2006年9月27日 (水)

78 哲学のススメ(というより登山のススメかも)

哲学が面白いです。池田昌子は確かに読み易いのですが、それより昔の哲学者の思索の方が、暇に任せて考えている事もあり奥が深いものを感じます。日本にも、和辻などの偉大な哲学者がいました。しかし現代の哲学は、多くの先人の思索を踏まえているため洗練されてはいますが、古い哲学に見栄えの良いカバーを掛けただけのものも多いのです。勿論哲学を難しく考える必要はありません。考えることを楽しむのが哲学の本来の意味ですから、哲学者の様に難しい言葉をつかって、回りくどい表現をする必要は全くありません。というより、人間は自分の頭の中にあり意味を知っている言葉を使ってしか考えられませんから、難しく考えるだけ損というものです。

また哲学は考えるだけなのでなにしろ安上がりです。でも机に向かっていては良い考えも浮かばないので、ゆっくりと緑の中を歩きながら考えるのがベストです。投稿者も山の尾根筋を一人で歩いていると、実に様々な思いが駆け巡ります。たかだか2-3km平地より高い場所に登っただけで全く世界が変わり、心も洗われ純粋になれるような気がします。一番の効用は、自分が大自然の懐の中でちっぽけな存在に思える事でしょうか。自然に包まれていると感じている時だけ、人間は「環境」などという厄介な事を考えずに済むのではないでしょうか。何しろその瞬間は、自分も環境の一部になっているのですから。登山は、近くの低い山なら靴と小さなリュックさえあれば誰でも登れる最も安上がりな趣味の一つです。

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77 環境と人間の乖離

環境問題は、環境と人間が乖離したときから始まったといえるでしょう。即ち、人間が森を捨てて都市に群れて住むようになってから、人間社会と環境の間にギャップが出来ました。このギャップの拡大こそが問題の根源なのです。現代の森の民であるピグミー族と環境との間に問題は生じていません。何故なら彼らは、環境が許す範囲でしか森からの資源を頂戴しないからです。

それに引き換え、都会のマンション暮らしを眺めてみると、住まいはCO2を山ほど出しながら作った鉄とコンクリートとガラスで出来ていますし、食べ物や電気やガスや水は遠くの田舎や外国から、多量のエネルギーを使って送られています。冷暖房や照明にも同じく多くのエネルギーを消費し、おまけに休みの日にはレジャーと称して車で田舎に繰り出します。これがハイキング程度ならまだ許せる範囲かも知れませんが、砂浜を4WD車で走り、車で川原に繰り出しBBQをする程度のレジャーは、単なる自然破壊行為でしかありません。

そうではなくて、何もしないで静かに自然の色や音や匂いや感触を楽しめば良いのです。植物と昆虫の微妙で巧妙な関係に驚くだけでよいのです。そうすれば、人間と環境の間の距離が少しずつですが縮まって、環境問題も縮小していくはずです。

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2006年9月26日 (火)

76 環境学は経験学

環境学は確かに総合学ですが、実は机の上だけで完結する学問ではありませんでした。理論と現実の環境、現実の行動が結びついていなければなりません。その点、昔の人はまず経験から入ったので、順序の逆転はありません。長い人生の経験の中で、実体験として身についたものだけが、正しい価値観となって行動につながる訳です。

たとえ話になりますが、赤ん坊が言葉を覚える順番は、繰り返し母親の言葉を聴く、アーウーという言葉の基礎となる発声を繰り返す、短い単語を発音する、単語をつなげて文にする、簡単な文を読む、簡単な字を真似して書く、自分で考えて作文する、・・・・・という順番になるでしょう。

環境学も全く同じです。自然や環境を、まず五感を使って「観察」する、小さな発見を積み重ねる、小さな問題点を見つける、それを修正する、それを別の問題解決に応用する、より大きな視点で問題点を探す、それを解決する枠組みを作る、・・・・・というステップになります。

当然の事ですが、立派な環境学の本の中にも実際の環境はありません。まず外に出て、田畑や里山を歩く、日本の2/3を占める森林に分け入り、山に登るという体験を通じてしか環境にはアプローチはできません。40代から偶然始めた登山が、投稿者にとっての「環境事始め」だったような気がしています。それらの実体験の後に、改めて本に入っていけば良い訳です。

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75 環境学は総合学

環境カウンセラーになるためと、環境の大切さを説き回るために、これまで「環境学」を勉強してきて分かったことは、環境学は総合学であるという事でした。環境学を学ぶには、まず環境問題を起こした元凶でもある「工学」や「物理学」や「化学」はやはり押えておかなければなりません。これは、元が技術屋出身ですからどうにか守備範囲内でした。しかし、世の中は経済で回っていますから「経済学」も非常に重要な視点ですし、社会的なシステムや人々の行動や価値観も重要ですので「社会学」も必須です。勿論生物の多様性や自然環境の仕組みを知るためには、「生物学」「植物学」や「地理学」「地球物理学」や「気象学」も欠かせません。何より重要なものは「倫理学」だと思いました。

さてこれを企業や社会人や、子供たちに分かり易く伝えるためには「教育理論」も必要ですし、「コミュニケーション能力」も問われます。エコクッキングの講釈をするためには「調理」もそれなりには知っている必要があります。これらを学ぶため、ここ数年間は、多分学校時代とその後のサラリーマン時代に勉強した量を全て併せたくらいのボリュームの勉強したような気がします。勿論内容的には、はるかにレベルが高いものでした。何しろ、環境学は単独の学問ではなくそれらが複雑に絡み合う総合学だったからです。勿論この5年間でそれが十分学べたなどとは思っていませんが、いまもし若い学生に「将来どんな分野を勉強したら良いか」と聞かれたら、迷わず「環境学」と答えるでしょう。

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2006年9月25日 (月)

74 リサイクル再考

環境問題の解決の切り札は3R(減らし、再使用し、リサイクルする)だと思っている人が多いようです。投稿者としては、最初の2Rには賛成しますが、リサイクルには否定的です。何故なら、リサイクルするには、場合によっては新しい原料から作る時より多くのエネルギーやコストが掛かってしまう事も多く、一方リサイクルによって品質はどんどん劣化するからです。それでもリサイクルするのは、ゴミの処分場の逼迫という裏事情があるからです。ゴミ処理を担当する自治体としては、何が何でもこれ以上ゴミを捨ててもらっては困る訳です。

もう一つの問題は、ゴミを出す側が「リサイクルするから沢山使い捨てても良いのだ」と思ってしまう事です。ですからリサイクルは強調しないで、2Rだけで十分なのです。とにかく使う量をギリギリまで減らし、壊れても修理に修理を重ねて使い、或いは何らかの形で再使用すれば、リサイクルに出す量が格段に減るはずです。PETボトルの消費量は、急激に伸び今や樹脂の量にして50万トンレベル(500mlビンで160億本以上)が使われています。確かにそのリサイクル技術は確立されては居るのですが、採算が合わないため結局コンテナに詰められて、中国などにゴミ輸出される量も急激に増えているのです。またかなり前のデータですが、日本では20数人に1台の割合で自販機があるそうで、自販機自体の消費エネルギーも、大型冷蔵庫と温蔵庫、あるいは給湯器がくっついたものなので、かなり多いのです。更に捨てられるアルミやPETボトルのリサイクルに必要なエネルギーを考えれば、何らかの形で自販機の規制も必要な時期かもしれません。

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73 ローカルエネルギー7(BDF)

食用油は年間40万トン程度が廃棄されています。外食産業から出るものが圧倒的に多いのですが、給食センターからも多いし、一般家庭からの排出も固めたりして燃えるゴミとして出されるケースも多いので、これを集めればもっと多い量になります。廃食油は、しかし立派な燃料として使える資源です。ヨーロッパの大規模農家は、農場の機械で使う菜種油を得るため広大な菜種畑を持っているほどです。エンジンを調整すれば菜種油を直接燃料として使うことも可能ですが、ノーマルのディーゼルエンジンを使う場合には、メチルアルコールと触媒を使ってメチルエステル化処理したBDFが使われます。

しかし、実は投稿者はこのメチルエステル化をあまり評価していません。副産物として、多量のグリセリンが出来るからです。きれいなグリセリンは使い道があるのですが、汚れたグリセリンは結局廃棄物になります。廃棄物を再生しながら別の廃棄物を作ってしまう方法には、やはり無理があります。それを解決する最も単純な方法は、ろ過した廃食油を直接ディーゼル油と混合してしまう事です。実に簡単ですがこれをやらないのは、商業的にこれを行うと高い税金がかけられるからです。しかし、自家製造・自家消費で農業機械など車以外の用途であれば、全くフリーで合法なんです。投稿者は、これに少量の水を均一に混ぜてやればNOxも低減し、より理想的な燃料になると見ています。ローカルエネルギーの話題は今後も何度か取り上げる予定です。

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2006年9月24日 (日)

72 ローカルエネルギー6(バイオマス2)

エネルギーの源として使えるバイオマスは、勿論木材だけではありません。農業残渣(商品にならずに捨てられる部分)や街路樹などの剪定枝、ゴルフ場の刈り芝、下水汚泥の類まで、生物が関わっている物質全てが資源になりえます。現在これらは、殆どが廃棄物として無為に焼却処理されているのです。しかも多量の石油を使って。バイオマスは、その昔は100%有効活用されていました。例え燃やしたとしても、灰はカリ肥料として田畑へ戻されました。多くは積み上げられていましたが、やがて発酵しミミズが活躍して立派な堆肥になりました。いずれにしても、断言しますが、自然が作ったものに無駄なものは一切ありません。

しかしただ集めて燃やすだけでは、循環の輪は切れてしまいます。勿論燃やされた炭酸ガスは、やがては植物に取り込まれはしますが、地域での循環という意味では殆ど途切れてしまいます。これらの質が低いバイオマスも、例えば木粉と混合してペレット燃料などに加工すれば、立派な燃料としてよみがえります。足りないのは、少しの手間と工夫だけなのです。何より堆肥化して土に戻すのが最良ですが、勿論土に戻す量は、その土地から発生したバイオマス量の範囲内で考える必要があります。それが、正しい意味での循環になります。日本は食糧輸入大国ですから、もし生ゴミを全て堆肥にして土地に入れ続けると、最後には有機質過多になり植物の生えない土になってしまいます。

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71 ローカルエネルギー5(熱電併給)

太陽光には、幅広い波長の光が含まれて居ます。可視光は勿論、オゾン層や大気に吸収されなかった紫外線から赤外線までも含みます。植物が緑に見えるのは、緑の補色である赤い光(ある波長域の赤外線)を吸収しているからですが、この波長の光を成長光線とも言います。一方で植物は、光合成にはエネルギーレベルの高い紫外域の光もしっかり活用しています。つまりは太陽光をフルレンジで活用している訳です。

人間もぜひこれを真似しましょう。たとえば太陽光発電は、もっぱらエネルギーレベルの高い紫外域の光だけを使っています。一方、発電パネルの温度が上昇すると発電効率は数割方低下しますので、太陽光発電パネルは冷却した方が良いわけです。これを水で冷やしてやると、結果温水が出来ますね。この温水を溜めておいてお風呂に使えば、つまりは太陽光を一粒で2度おいしく活用できる訳です。しかし、何故かこの様なシステムが実用化されている例は殆ど聞きません。(ヨーロッパの1例だけは見た記憶があります)もしかするとこれらの研究は、ガス会社の陰謀によって潰されているかもしれません。

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2006年9月23日 (土)

70 ローカルエネルギー4(太陽光照明)

高いビルを見るたびに考えさせられます。かんかん照りの晴れの日でも、窓際の蛍光灯はこうこうと点灯されていますね。実は太陽光は、理想的な照明装置でもあるのです。なぜなら、人間の目は太陽光が出す波長の光の中で、最良の視力が発揮されるように進化してきたからです。それを企業は、社員にわざわざ目にはあまり良くない蛍光灯の光で仕事をさせているわけです。多少不細工でも、全てのビルの窓には、小さい反射鏡を設置すべきでしょう。直接の反射光は強すぎるので、理想的には窓ガラスの一部に光を乱反射させる機能を持たせるのが良いのですが。

いくつかのビルでは、屋上にヘリオスタット(太陽追尾装置)を付けたレンズを設置し、それで集めた光を光ファイバーでビル内に導くような「馬鹿げたハイテク」を使っていますが、そんな無駄なものをつける費用で鏡がいくつ買えるか計算すれば、結論は自明です。鏡だって何も割れ易く危いガラスでなくても、ピカピカに磨いたアルミかステンレスの薄板で間に合うわけです。建築会社が、ビルのカーテンウォール(外壁)と一体になった鏡を開発すれば、建設のコストアップは殆どないでしょう。これで、めでたく晴れた日には窓側の2-3列の蛍光灯は全て消灯できることになるわけです。

一般家庭ならもっと自由度は大きいはずです。例えば、マンションでも屋上に設置した幅の広い鏡を使えば、日当たりの悪い北側の部屋にもいくらかの太陽光のお裾分けができるでしょう。

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69 ローカルエネルギー3(太陽熱)

太陽光の直接利用は、もっともっと頑張らなくてはなりません。もちろん、変換効率の悪い電気なんかに変換する必要はありません。太陽光発電パネルは、値段が下がったとはいえ、まだ少し立派な乗用車1台分程度の設備費が掛かりますから。先ずは簡単な熱利用でしょう。何は無くとも太陽熱温水器は、全ての家の屋根に取り付けるべきです。毎日各家庭で風呂焚きに使われているガスや石油や電気の総量は、天文学的な数字になるはずです。例え3割の確率の晴れの日に節約できるだけでも、びっくりするほどの省エネ効果につながるでしょう。今度ゆっくり計算してみます。頭を少し使えば太陽熱は実は冷房にも使えます。デシカントと呼ばれる乾燥剤をつかえば、それを太陽熱により乾燥させる事ができますので、次に室内空気をそのデシカントに通せば、湿度が下がる上にいくらか温度も下がります。(デシカント冷房)日本の夏の暑さは、湿度が高いのが問題ですから、これで十分実用的な冷房効果が期待できます。こんな地味な研究は、殆ど誰も興味を示さないのが歯がゆいですね。投稿者ももっと暇になったら是非研究したい分野だと思っています。太陽熱だけで、暖房ができ、給湯ができ、少しの冷房ができればエネルギーの使用量はぐんと下がることでしょう。これで困るのは、多分電力会社とガス会社と家電メーカーくらいでしょうか。もちろん、このシステムが完成しそれを設置してしまった家庭は、一日中雨の日は仕方が無いのでお風呂は諦めて早めに寝てしまいましょう。

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2006年9月22日 (金)

68 ローカルエネルギー2(バイオマス)

日本のローカル資源で、最も普通に見られるのは木材です。木材はもちろん優れた構造材ですが、柱にならない部分や雑木は昔から熱源でもありました。投稿者はここ数年ペレットの製造と燃焼装置の開発にのめりこんできましたが、それは木材がローカルエネルギーの本命の一つであると思ったからです。ざっとした計算でも、日本国内で毎年成長する分だけを伐採すると仮定しても、現在のエネルギー使用量の10%程度は賄える筈です。省エネを頑張って現在の半分までエネルギー消費を下げれば、それは20%にもなるでしょうからこれは立派な本命です。

もちろん一番大きな問題は、急峻な日本の山からどうやって効率的に木を運び出すかです。北米や北欧のようにまっ平らな場所に木が生えている訳ではない日本では、これを解決しなければ大きくは前に進めません。それにしてもご先祖さまは45度もあるような急斜面にどうやって木を植え、それを利用していたのでしょう。もちろんチェンソーも重機はありませんから全て人力+畜力しかなかったわけです。只一つの味方は、位置のエネルギー(重力)くらいでしょうか。確かに昔の木の搬出は、冬場にソリを使って行われていたようです。現代は、ワイヤーも動力も場合によってはヘリも使える訳ですから、頭の良い研究者や技術者には是非その仕掛けを考えてもらいたいものです。

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67 ローカルエネルギー(雪発電)

進化の話を書き出すと、だんだん話が発散気味に広がっていきそうなので、ここらで足元の具体的な話題に戻しましょう。

環境問題の軽減には化石エネルギーの消費を大きく絞り込む事が必要ですから、代替エネルギー源の確保は必須です。とは言いながら、石油に代わり切り札となる新エネルギーは残念ながらどこにも転がってはいません。チマチマした数多くの「ローカルエネルギー」の組み合わせしかないわけです。困った事に、このローカルエネルギーの在り様は、地域によって千差万別です。しかし、潮汐エネルギーや地熱エネルギーを除けば、全てのローカルエネルギーの大元は太陽エネルギーである事だけは間違いありません。バイオマスは勿論、主として植物が固定した太陽エネルギーの塊ですし、風力や水力は太陽光で動かされている気象システムからの贈り物です。太陽熱や太陽光発電こそ太陽の直接利用の典型です。したがって、ローカルエネルギーを見つけるのは比較的簡単です。その地域で太陽光がどのように流れ、変換されているかよく観察すればよいのです。

例えば、冬場の日射量が少ない日本海側の皆さんも決して悲観することはありません。山に降る雪も立派に太陽光の塊なのです。雪や氷を冷熱源ともいいますが、少し暖かな地下水と組み合わせれば20-30℃程度の熱落差が得られますので、動力源になり得ます。またそんなに立派な設備を作らなくても、冬場に雪を雪室に放り込んでおくだけでも、夏場は冷蔵庫かクーラーとしては使えます。北陸には、雪で発電をしようと頑張っている先生も居られます。「雪発電」のキーワードで検索すれば、多分最初に出てくるでしょう。それより何より雪の最大の役目は「天然のダム」なのです。冬に山に降った雪は、真夏近くまで雪解け水を麓に流し続けてくれます。

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2006年9月21日 (木)

66 進化論は面白いが分からない

30代の後半、進化論にのめりこんだ時期がありました。ヒトは何ゆえに人間に進化しなければならなかったのか。サルのままで居れば何も悩まずに済んだのに。では悩むために進化したのか?。人間の生きる事への執着は、たぶん生き物の中では最も強いのは事実ですが、その執着心が進化の原動力となったのか。サルのままで残った兄弟達と我々ヒトは一体どこで、何をきっかけに分かれたのか、などなど。進化は謎だらけです。デジタルなDNAが、アナログの塊である生命を操っているのも全く不思議です。何冊本を読んでもますます分からなくなるばかりなので、その時は取り敢えず、「分かった様で良く分からない今西進化論」を無理やり飲み込んで、一応分かった事にしてしまいました。

しかし最近、その不思議な生命を育んできた環境は、それにも増してますます謎だらけであることに感動しています。なぜ地球には大量の水が残ったのか、なぜ15℃の平均気温に落ち着いたのか、なぜ酸素が21%もあっても生命は酸化されずに生きていられるのか、なぜ数百メートルもの厚さの鉄鉱床が出来たのか、石油は一体どこから来たのか、生命と地球環境はどのような相互作用を行っているのか、などなど。生命が、地球環境に大きな影響を与えることは、ストロマトライトが多量の酸素を作り出し、人間が出す排気ガスが地球表面の温度を上昇させている事でも十分証明されています。しかし、我々もまだ知らないもっと微妙な相互関係もありそうに思います。地球誕生以降何十億年も変化し続けてきた地球環境は、たかだか数万年の歴史と数千年の知恵しかない人間には、そもそも理解不可能なのかも知れません。

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65 進化とニッチ(居場所)

これまでは結構力が入った書き方で、既にいくつか結論めいたことも書いてしまったのですが、まだ書きたい事も大分残っていますので、以降は少し力を抜いて「徒然なるままに」書き継いで行くことにします。

さて全ての生物は、進化の過程で常にニッチを求め続けてきました。類人猿の生きるニッチは、森と草原の境目でした。二足歩行となったヒトは、更に草原へとニッチ拡大を進めました。農耕技術を手に入れると共に、ヒトは社会生活を営むようになり、つまり人間らしくなり川沿いや海辺へもニッチを広げてきました。しかし、それにしても生活に適した環境を探して住む訳であり、そこで養える人口は限られていました。

が、ついに化石燃料を発見し、それを動力としても使える様になると、人間は大規模にニッチ拡大を始めたのでした。つまり森を焼き払い、山を削って平らにならし、低地を埋め立て、橋を架け水路やトンネルを掘って自分たちが住むニッチを拡大し続けたのでした。しかし忘れてはならないのは、これまでのニッチ拡大は、化石燃料(取り分け石油)があって始めて可能であったという事実です。もし今後石油の供給が減少に転ずるなら、人間が住むのに適するニッチはそれに比例して減少するはずです。例えば真っ先に住めなくなるのは極地方です。そこでは暖房なしに冬の寒さはしのげませんから。次に危ないのは半乾燥地帯でしょう。深い井戸から地下水を汲み上げるポンプの電力や農業機械の燃料無しには、現代農業は持続できません。温帯や熱帯に住む人間は、まだ幸せな方ですが、温暖化による海面上昇や気象の激甚化によって、やはり生存が脅かされます。いま石油によって辛うじて維持されているニッチは、今後ドンドン狭くなり続けるでしょう。その意味で、投稿者には大都市はまさに石油に浮かんでいる楼閣にしか見えません。石油が無くなれば、都市には人間は住めなくなるでしょう。

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2006年9月20日 (水)

64 目的と手段のすり替え

少し前、体の存続が目的であり、脳はそれを達成するための手段に過ぎないという意味のことを書きました。ここで改めて「目的」と「手段」のことを考えて見ましょう。分かりやすい例です。お金を儲けることは目的でしょうか手段でしょうか。お金の歴史を見れば明らかですね。古くは、人々は物々交換によって価値を交換していましたが、それでは不便なことも多かったので通貨が発明されました。つまり、お金は価値を交換するための「手段」であったわけです。

しかし何時の頃からか、お金儲けがビジネスの目的になってしまいました。今の世の中では、最初手段であったものが目的になった例は数え切れないほど見つけることが出来るでしょう。官僚組織、大学・学校、全ての企業、銀行、自治体、国際貿易、全ての輸送・交通機関、全ての市場などなど。これらの「手段」は今や殆ど例外なく「目的」になってしまいました。例えば役人は、自分の官僚組織の権限を維持することを目的に行動していますし、独法化後の大学は、もはや学生の教育の場ではなく構造の維持自体が目的となりつつあります。普通の人間はといえば、心ゆたかに生きることが目的ではなく、モノに囲まれて生きることが目的となってしまいました。もう一度、人間は「何のために生きているのか」「会社は何のために作られたのか」を考えてみる必要があります。確かに難しい問ではありますが、時間を沢山持っていた昔の人は、暇に任せて実に深くこのことを考えてくれていました。例えば何冊かの優れた哲学書にはそのヒントがちりばめられています。目的を本来の軌道に戻しさえすれば、環境問題も自然に軽減されるはずです。完全な解決は無理でも。

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63 最適スピードの法則

退屈そうな話が続きますがもうしばらく我慢ください。ここでは道路を車で走る際の最適スピードを考えて見ます。ある長さの道路では、そこを通過する事が出来る最大の交通量が計算できます。車線の数、交差点数、信号機の切り替わり時間、側道からの流入・流出台数などの条件が定まれば、最大交通量も自然に決まってくるはずです。結果、道路の長さも分かっていますから、最適スピードも決まります。つまり、このスピードで走れば最も短い時間で、最も少ない燃料消費で済むはずです。

一方、この道路を多くの車が猛スピードで走りぬけようとしても、交差点毎に信号に引っかかり、先に行くほど渋滞もひどくなるはずです。投稿者の住む岐阜にも、一部が立派な高架となっている国道がありますが、そこを80-90km/時の猛スピードで走っている車は、結局は高架が終わったところの交差点で引っかかり、常に1-2kmの渋滞を作っています。日本の都市内の道路では、投稿者の感覚の最適スピードは20km/時程度だと思っています。よくよく考えてみれば、これは十分自転車の出せるスピードでもあります。車を使って、イライラしながら自転車並みのスピードでしか進めないなら、最初から自転車に乗って颯爽と走るのが、精神的にも環境的にも良いはずなのです。

全く同じことが、物質の流れにも言えるでしょう。自然が受け取れるゴミ処理のスピードでしか、我々は消費活動が出来ないはずなのですが、今はそれが全く意識されていません。間もなく、我々は「ゴミの渋滞」の中で暮らす事になるかも知れません。

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2006年9月19日 (火)

62 時間による善悪逆転

時間シリーズの続きですが、時間の長さも善悪に関わってきそうです。例えば、最小限の薪炭を周りの里山から切り出してきて、炊事や冬季の暖房用燃料とする事は勿論悪ではありません。里山は、やがて萌芽再生や実生再生によって、元通りに再生するからです。しかし、この燃料採取を再生するスピード以上に行う事は悪に陥ります。この場合、やがて里山はハゲ山に変わってしまうでしょう。

別の例では、石油の燃焼によるCO2の増加を挙げることが出来ます。確かにCO2は植物にとっては絶対不可欠な気体ではありますが、今や大気中のCO2は100年で2倍になるほどの勢いで増加しています。しかし、自然の仕組みは巧妙にCO2を吸収する仕組みも持っているはずなのです。例えば、海洋の植物プランクトンによる光合成量の増加、サンゴによる炭酸カルシュウムとしての固定、ミッシングシンクと呼ばれる謎の吸収などの仕組みのことです。しかし、ここでも時間的に急激過ぎるCO2の放出により、自然の処理スピードの変化が追随できない状況に陥っています。これらが、時間による善悪逆転を引き起こしている例になります。

逆に言えば、エネルギーの使用率を今の半分になるように減速すれば、エネルギー危機に至るまでの時間を倍に引き延ばすことができます。つまり、より多くの時間を必要とするシステムは、何は無くとも環境的には良いシステムになり得るという訳です。

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61 規模の善悪

少し前、車の大量生産を例に「量的に正しくない技術」について述べました。これは同じ事を別の言葉で言っているだけかもしれませんが、規模の善悪について考えて見ましょう。例えば、最近植物由来の生分解性プラスチックがよく話題に登場します。いわく、植物が原料なのでCO2ニュートラルである、いわく使用済みとなっても土に埋めれば自然に分解される、などなど。しかし、勿論何事も良いことずくめではありません。もし(そんなことは量的には不可能ですが)プラスチックの大部分が生分解性プラスチックに代わったとして何が起こるでしょう。それは、食糧としての穀物畑が無くなってしまうことを意味するのです。

植物プラスチックの採用は、部分的には正しくても、規模が大きくなると有害な技術に変身することになります。環境問題は、実は規模の善悪の問題でもあるのです。つまり少量なら、何とか環境が頑張って処理してくれた廃棄物も、量がまとまると処理しきれず環境に蓄積します。あるいは、規模の拡大により別の環境要素と干渉を始めます。結果として、現在我々が行っている生産・消費活動は、規模として大きな悪になってしまっている事に気づくべき時期にさしかかっています。規模の大きな技術は、結局はその内容に関わらず「環境に悪い技術」であると言えます。

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2006年9月18日 (月)

60 時間の長さの「法則」

時間の話題のついでに、第何回目かの「法則シリーズ」です。さて時間の長さの感じ方は個々人によってもかなり違いますし、同じ人間でも置かれた状況によってもかなり異なります。しかし、ほぼ全ての人に当てはまる事は、子供時代とりわけ小学校の6年間は、最近の6年と比べても、非常に長かったと思い返されるのではないでしょうか。

理由を考えてみました。その結果、ある時間の長さは、その時間内に体験した新しいイベントの数に比例するのではないかと結論しました。もちろん、学校や会社で日々経験する、昨日や去年と似たようなイベントはカウントしません。あくまで新しい体験であり、新しいイベントの数を勘定します。例えば小学校では、幼稚園を出たばかりの子供達は実に色々な新しい事態に直面します。教室にきちんと机を並べ、時間割に従って毎日決められた教科を学習するという体験。各教科の新しい教科書を開く瞬間。運動会や遠足など多くの学校行事があり、新しい人間関係も大きく広がります。小学校での時間が非常に長く感じられるゆえんです。

これに対し、例えば会社生活ではどうでしょう。ほぼ全てがルーチンワークです。投稿者の経験でも多分90%以上がそれまで経験したことの繰り返しか類似作業でした。よく会社勤めの長い年配者が「あっという間に年をとってしまった」と嘆く訳が納得できます。その意味で、初めての海外駐在で過ごした米国でのある1年は、実に長く感じられたことを今思い出しています。人間は、新しい経験の無かった時間は、さながら存在しなかったことと同じと感じられる様です。「時間の長さは、その間のイベントの数に比例する」これは確かに法則ではないでしょうか。

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59 時間の密度

サラリーマンを辞め、たっぷりの時間が出来て考えた事があります。それは時間の価値ということです。時間には本来「経済的な価値」は無い、と以前に書きました。しかし、人間は生まれてから寿命が尽きて死ぬまで、有限の時間しか与えて貰っていません。その意味で、個々の人にとって、その人が持つ有限な時間は、やはり(精神的には)価値があるとは言えます。病気で余命あと何年と告げられた人たちが、残された時間の中で成し遂げた「密度の高い業績」に感嘆することがよくあります。作家や画家や芸術家だけではなく、一般の人々でさえ偉大な作品を残す場合も多いのです。

投稿者は、取り敢えず自分の寿命を(両親が共に死んだ年齢である)58歳と勝手に決め、50歳の時に残りの人生設計を立てました。少しタイマーがずれましたが、やっと55歳で技術者を卒業し、環境カウンセラー業を以後の天職と定めた訳です。58歳寿命説では後3年しか残り時間がありませんが、逆に3年もあればかなりの事が出来るのはないかとも思っています。いま、より多くの事を伝える事が出来るように、放送大学の大学院で勉学中でもありますが、卒業見込みの来春以降は、更に時間の使い方の密度を上げたいものだと思っています。

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2006年9月17日 (日)

58 時間の消費(浪費)

人間は、遊びを熱心に行う数少ない動物です。他には、高等な類人猿がいるだけです。物質的に満たされた人間は、次には時間の消費(浪費)を始めました。これを遊びとも言います。戦後いち早く時間の消費を推し進めたのは、ギャンブル取り分けパチンコでした。その後競輪や競馬や競艇が盛んになり、隆盛を極めましたね。しかし、時代が進み次に時間消費者の心を捉えたのは、電子ゲームでした。その走りがインベーダゲームでしょうか。ファミコンや携帯ゲーム機の高性能化が、この傾向を加速もしました。結果、出かけるのに不便な公営ギャンブは敬遠され、衰退の一途を辿っている訳です。しかし手軽なギャンブルであるパチンコやスロットはしぶとく生き残っています。どうやら、遊びは脳の癖のようなのです。

時間の浪費は、しかし何も生み出しはしません。逆に、時間を浪費するための資金を稼ぐため、人々はより多くの労働を余儀なくされてもいます。統計的にも余暇支出の増加傾向には歯止めが掛かっていないのです。目的もない単なる旅行のための旅行も「暇つぶし産業」の典型ですね。いまや若い女性、老人会や婦人会が格好の旅行産業のターゲットにされています。しかし単に暇つぶしが目的なら、昔の人は実に環境にやさしい方法を数多く考え出してくれていました。囲碁、将棋、俳句、短歌、盆栽、庭弄りなどなど。これらは、金も掛からず省エネ・省資源型のレジャーであり、しかも実に奥が深い暇つぶしの方法でもあります。これらが苦手の人は、野山の散策や植物観察、昆虫観察などもお奨めです。実益を狙うなら、読書テーマを決めての図書館通いや山菜・キノコ取りや家庭菜園作りや料理なども狙い目の暇つぶしですね。勿論これらは時間の消費ではあっても浪費にはなりません。

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57 体あっての脳

前にも書きましたが、「都会は頭で、田舎は体である」という言葉が時々頭を横切ります。つまり、都会は人間の脳みそが考え作り出したモノで溢れているという事です。ビルや高架の道路や地下鉄や地下街などなどです。何一つ自然物はありません。川や公園でさえ、全て人工の手が加えられています。しかし都市は田舎からの補給無しには1日として立ち行かない体質を持っています。同様に脳みそも数分間血液が届かないだけで、脳死状態に陥りますね。

一方田舎は体ですから、例えば頭が無くとも生きて行く事は可能です。人間でも、酸素と栄養物さえ供給すれば、脳死状態でも何年間も生かしておくことは可能です。つまり、体こそが環境であり脳を働かせる原動力であるはずなのです。しかし現実は田舎が見捨てられ、考え方が全く逆転しています。それが何時始まった事であるのか冷静に考えてみる必要があります。

脳は、発生学的には神経節、つまりは神経と神経の交差点に過ぎないのです。事実、は虫類など古い形態の動物では、体に比べ大脳は非常に小さく逆に神経節が大きくなっています。人間や一部の哺乳類の神経節だけが間違って巨大化して大脳になってしまったのです。脳はしかし、体をうまく動かす「手段」に過ぎません。体の大切さを、今一度考えてみる必要があります。今や体である田舎には、年寄りだけが取り残されてしまっています。体が死ねば、殆ど瞬間に脳も死にます。若い世代の田舎への回帰が求められるゆえんです。

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2006年9月16日 (土)

56 技術者倫理2(定番商品)

くどい様ですが、技術者倫理・企業倫理について付け加えます。倫理観の無い(薄い)企業や技術者は、市場を「製品の実験場」にしてしまいます。つまり、新しい製品が出来たら取り敢えず「市場に投げ込んでみる」訳です。他社より先に市場に投入し、幸いにもヒットすれば、より大きな利益が確保できるからです。その結果、これまでに如何に多くの欠陥商品が市場に投げ込まれた事でしょう。死人が出る様な製品は、流石にマスコミに叩かれますが、消費者が知らない間に市場から引き抜かれ闇から闇へ葬られた欠陥製品は、多分無数に存在する筈なのです。良心的な製品開発では、徹底した商品テストが繰り返される結果、例えば3-4年の開発期間が必要なはずですが、1年と持たない製品サイクルの市場では開発期間が半年程度のものも少なくないでしょう。これでは、直接市場で製品の耐久試験や安全性の評価を行っているのと変わらないでしょう。

これは想像ですが、P社のガス湯沸かし器の欠陥は、低温では劣化し割れる事がある鉛ハンダの性能評価を十分に行っていなかった事に根本原因が認められる筈です。北海道で事故が多く発生している事がそれを物語ります。一方短いモデルチェンジの期間は、環境にも全くやさしくありません。買い替えによって、多量の粗大ゴミが発生するからです。そうではなくて、徹底的に安全性やLCAによる環境負荷低減を追及し、モデルチェンジをしない「定番製品」を10年、20年と作り続け、売り続けていく企業姿勢や技術者の姿勢こそが、これからの時代に求められると思うのです。修理より買い替えが安いという今の時代は、間違いなくどこかが狂っています。

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2006年9月15日 (金)

55 「量的に正しくない」技術

自分が技術屋を卒業したから言う訳ではありませんが、今ほど技術者倫理や企業倫理が必要な時代は無かったと言えるでしょう。何故なら、いま我々は価値観の転換という重大な局面に遭遇しているからです。きっかけは地球規模の環境悪化でした。我々が出し続けてきたゴミ、気体ゴミ、液体ゴミ、固体ゴミの量がもはや地球が処理できる限界を大きく超えてしまったのです。それでも、企業の収益を確保するためには製品を作り続ける事が、日本の技術者には要求されている訳です。特に単価が下がるデフレ時代には、企業の売り上げを確保する為には、ますます多くの製品を出荷する必要があるのです。

しかしこの方向はぜひとも転換する必要があります。でもどうやって。使うべきは「なまじっかなハイテク技術」ではなく、「正しい知恵」なのです。これまで我々は、なまじっかな技術で公害を生み出し、地球規模で環境を悪化させてきた訳です。しかし正しい倫理に基づく正しい知恵は方向を誤らせる事はありません。なぜなら、正しい倫理は「少なくとも持続可能である事」を求めるからです。一時代だけの正しさは勿論本物の正しさではありません。100年後の世代や地上の生物が、我々の世代と同等以上に幸せになれる技術だけが倫理的に正しいものと言えるでしょう。果たして車は、多くの電化製品は、この正しい倫理に照らして、正しい技術で作られた製品でしょうか。現在世界中で使われている車を赤道上に並べて置いたとしたら、地球を7周以上するはずです。台数では、間もなく10億台になるでしょう。今や車は間違いなく「量的に正しくない」技術になり下がっているのです。

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54 技術者倫理

硬い話ばかりのこのブログにアクセスいただいている皆さんには深く感謝いたします。もう少しやわらかくしようとは心掛けてはいるのですが、性格もありなかなか難しいです。今回もかなり硬いです。

さて日本ほど技術者が「産業の道具」になっている国はありません。欧米では、技術者は医者や弁護士同様のプロフェッションとして社会的地位や収入が約束されます。勿論、そうあるためには狭き門をくぐり抜け、高い倫理観を持ち続ける事が求められるのです。通常欧米の技術者は、技術者協会などに属した上で企業などに職を得るのですが、それぞれの技術者協会には「倫理綱領」なるものが燦然と存在するのです。その中には、技術者として為すべき事、してはならない事が明確にうたわれています。しかしそこまでしても、素行の悪い技術者によって、いくつかの深刻な問題が発生してきたのも事実です。しかしこれは倫理を意識した上での確信犯です。

それに比べ日本の技術者の情けない事は群を抜いています。まず日本の技術者は企業だけに属し、企業の言いなりです。間違って?ある技術者がナントカ学会などに属しているとしても、その学会にはまともな「倫理綱領」は存在しないか、あっても欧米のそれの焼き直し程度にとどまっています。その結果、企業や技術者が引き起こした事件は、高度成長期の公害問題にとどまらず、列島改造という名の国土の荒廃事件や野放図な都市化、廃棄物を全く想定しない大量生産技術など、枚挙に暇がありません。結局、日本の技術者は企業の収益構造を支えるためのエンジンであり、手段ではあっても、技術者倫理などという言葉を一度も考えた事がない人が殆どでしょう。何より技術者倫理などという科目は、工科大学ではあまり教えていないでしょうから、普通の技術者は一企業の中だけで経験を積み、技術者倫理を意識しないまま(悪意無く)多くの問題を起こし、それを先送りしたまま年老いていく訳です。

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2006年9月14日 (木)

53 自分のため、会社のため、社会のため、子孫のため

自分の人生を振り返ってみると、若い頃は自分のためや結婚してからは家族のために働きました。しかし会社で、ある立場に立たされふと気がつくと、自分は自分の所属する部署や会社のためだけに働いていました。それは50歳になる少し前のことです。そこで「50歳の反省」が始まった訳ですが、最終的な結論としては55歳からは「社会のため」に働くことを決意したのでした。それからというもの、ではどのような形で社会に役立てるのかを考え続けました。得た答えは、自分たちの世代が、良かれと思って働いた結果ではあるが、今日の様な環境問題を作り出してしまったのだから、為すべきはこれを可能な限り我々が受け取った時と同じような形で次の世代に渡す事だというものでした。

勿論「覆水は盆に還らない」ものですから、掘り出して使ってしまった資源を鉱山や油井に戻すことは出来ません。しかし、自然の生態系であれば、少しずつでも修復することは可能だと思いました。自分ひとりでも、例えば「木を植えた男」の様な地道な行動を起こす事も可能ですが、投稿者が選択した道は、「環境おじさん」になって、環境の重要性を「口を酸っぱくして説きまわる」という役柄でした。自分のため、会社のために働いた年配者が、問題を先送りにしたまま、再度自分のためだけの「楽隠居」生活に入る事は、社会的には許されないのだ、と投稿者は固く思い込んでしまったのです。更に言えば、全ての人は最終的(棺おけに入る前)には子孫のために働く事が求められるのだ、ということになります。実際にご先祖さまは、我々に美田や美林や里山を残す事でそのように行動してきました。ある年齢以上になった人は、自分が歩いて来た道をじっくり反省し、もはや次の世代から年金を貰いながら「自分のためだけに生きるわがまま」は許されないと覚悟を決めるべきです。我々が貯めてきたと信じている年金は、とっくに今のお年寄りに使われてしまっているのですから。

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2006年9月13日 (水)

52 出口対策から入り口計画へ2

別の問題解決策は無いのでしょうか。実は良い特効薬があります。それはライフスタイル=価値観の転向です。コペルニクスが地動説を唱えたように、ここでは「物質否定説」を唱えてみましょう。まず必要以上にものを欲しがる社会的傾向は何時頃から始まったか考えてみます。思い起こせば高度成長期、多分1960年代の後半に一つのCMが爆発的にヒットしました。某菓子メーカーの「大きいことは良いことだ」というキャッチコピーが日に何度もテレビに登場したのです。この時が多分拝物主義への転向点だったような気がします。その後の列島改造計画では、日本の国土は滅茶苦茶に開発し尽くされ、企業においては大量生産が進み、Dエーなどの流通業が大量物流と大量消費を鼓舞しましたし、勿論マスコミもその尻馬に乗り「お祭り」を盛り上げました。

それにつけても思い返されるのは、同じころ提出された全く逆のコンセプトであるシューマッハの「Small is beautiful」でしょうか。彼も指摘する様に、大きな技術は、実は脆く危険なものでもあった事に我々は気がつくべきなのです。賢明な先人は、R.カーソンにしてもローマクラブのメンバーにしても、とっくにそれに気がついていました。

臭いもの、汚いものは見ないで無かった事にする姿勢はこの辺で止めなければなりません。そのためにすべき事は、実に簡単です。ライフスタイルを、少し不便、少しものが足りない、少し時間が掛かる、少し体を動かさなければならない、少し知恵を使わなければならない、少し・・・・・の方向にシフトするだけで良いのです。この生活スタイルさえ守れば、生活習慣病が減り、ゴミが減り、間違いなく健康にもなるでしょう。それが地味ですがLOHASへの確実なアプローチの第一歩に他なりません。日本には昔から良い言い回しがあります。それは「腹八分目」です。これだけで20%の消費・廃棄物の削減=環境への負荷低減が達成されてしまいます。とりあえず目指すべきは、「ちょっと物足りない」8割の生活スタイルですね。

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2006年9月12日 (火)

51 出口「対策」から入り口「計画」へ

環境問題はゴミ問題だと書きました。投稿者の立場は、気体ゴミ、液体ゴミ、固体ゴミの蓄積が環境問題の根源だとの認識に立っています。一般に問題の解決にはいくつかのアプローチが考えられますが、大きくは「対策」と「原因排除」に分けられます。これまでのゴミ問題へのアプローチはほぼ100%が対策でした。それは入り口になんら規制を加えず、出口側だけで問題を解決しようとする場合には必然的にそうなるからです。入り口側で規制が出来れば、自然出口の問題も軽減されるはずなのです。

では具体的にその方法を考えて見ましょう。入口側で物質をコントロールする方法として最も一般的なものは税です。増えては困るものに税金を掛ければ自然に生産や消費行動の抑制が可能です。しかし、「それでは世の中が不景気になる」とのブーイングが噴出します。でもチョッと待ってください。不景気って何だったでしょうか。ものが売れなくなる。商売が低調になる。結果給料が減り失業も増える、云々かんぬん。しかし、不景気になれば間違いなく環境負荷も減るはずです。問題は、物流が絞られる事による金回りの悪さだけなのです。そうであれば、対策はいくらでも考えられます。例えば少ないお金でも心豊かに暮せる仕組みを考える、売り上げ半分でもやっていける企業体質をつくる、環境保全に関わる新たな雇用を作り出す等などです。それではあまりに理想論過ぎる?。そうです、でもまさにこれが今後の社会の理想像なのです。もしそうならない場合、結局今の社会は環境問題の「対策」で行き詰ると断言できます。

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2006年9月11日 (月)

50 環境が受け取れるゴミ

人間は廃棄物を出さずには生活できません。環境おじさんになり切ろうと決心した投稿者でさえ、食物を食べない日はありませんしトイレに行かない日もありません。つまり人間は、生きている限りは環境に何らかの負荷を与え続ける存在なのです。しかし、もし色々な工夫を重ねるならば、廃棄物を減らし、その最終的な始末は環境に引き受けて貰うことも可能になってきます。それには環境が受け取れる形に前処理してから、然るべき場所に捨てるという行動が必要になります。

身近な生ゴミで見てみましょう。生ゴミは今のところ水気を含んだままゴミ袋に入れて、焼却処理されています。生ゴミは燃やされても少量の灰を残すだけなのですが、燃えるまでには水分を蒸発させるためにかなりの石油を使います。ゴミ1トン当たり重油で70-80リットル必要だと計算できます。しかし少し昔をみれば生ゴミは、ゴミではなく豚の餌かもしくは畑の肥料でした。土と混ぜて腐敗・分解させ、更にミミズが活躍すると生ゴミは立派な肥料になります。庭が無い家でも努力は出来ます。生ゴミを新聞紙に包んでベランダの物干しに下げた籠に入れておくだけでOKです。臭いも出ず、十分に乾燥ができます。この状態ではもはや生ゴミではなく、燃料になりますからゴミ焼却場では大幅に重油の消費が減らせる事になるのです。たった一手間で、環境に与える負荷を減らす方法例は、この他にも沢山かんがえられますが、今後少しずつ紹介していくことにしましょう。

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2006年9月10日 (日)

49 現代の江戸:キューバに学べ

キューバは物質的には貧しい国の一つです。ある時期は、先進国によって支配された結果、森が切り払われサトウキビのプランテーションが国土を覆いました。カストロが現れて独立を勝ち取った後は、今度は特に米国から長く厳しい経済制裁を受け、輸入される物資は共産圏からの(量も質も十分ではない)物資だけになってしまいました。その結果何が起こったかといえば、なんとものを捨てない文化が育ち始めたのです。

キューバでは、今でも1950年代に米国人が「捨てていった車」が丁寧に修理されながら走っています。もちろん鉄や金属の屑も廃棄物になどになるわけがありません。とにかく貴重な資源なのですから。この国では、例えばドラム缶のフタでさえ加工され立派な打楽器に変身します。幸い、トロピカルな気候ですから作物を生育させる事にはそれほど苦労はしません。しかし化学肥料も十分には輸入できないでしょうから、多分人間が出した排泄物も何らかの形で肥料として畑に戻していると想像できます。物質的な貧しさが無限の知恵を生み出すことは、実は日本でも既に証明されています。それは戦時中の生活や江戸時代の文化を少し深く学べばすぐにでも分かるでしょう。つまりは、「あるもので済ます知恵、ものを捨てない知恵」です。戦時中は松ヤニから航空燃料を作りましたし、江戸時代には貴重であった金属はもちろん、紙や布の切れ端でさえぼろぼろになるまで繰り返し利用しつくされ、最後は土に戻されました。使い捨て生活にどっぷりと浸かった我々は、キューバや江戸の知恵に大いに学ぶ必要があります。

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48 ~の無い日(チームマイナス14%)

6%の省エネが叫ばれています。現在のエネルギー使用量から見れば14%程度の削減が必要なのですが、なぜか目標はマイナス6%のままになっています。マイナス6%は少し気合を入れて我慢すれば達成可能ですが、マイナス14%達成はとてもそれだけでは達成できそうもありません。そこで、投稿者が推奨しているのが「~の無い日」です。~には、例えば車、電気、お風呂などが入ります。車の無い日には、勿論車は車庫にいれたままで、自転車か徒歩で通勤や買い物をします。電気の無い日は、夜になったら家の電気を全部消して家族全員で外に出かけます。晴れた夜には、星空の観察も良いでしょうし、公園の街灯に集まる虫の観察も良いアイデアです。お風呂の無い日は、シャワーで済ますか夏なら行水で汗を流すだけにします。庭にたらいを出して水を張っておけば、夕方にはお湯になっているはずです。

これを2週間に一度実行すればマイナス7%、1週間に一度の実行ではなんとマイナス14%の削減が可能です。エネルギーの使用が1990年から増加した分は、殆ど全てが民生用(多くは家庭用)ですから、全ての家庭は「チームマイナス14%」に入らなければならないはずなのです。

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2006年9月 9日 (土)

47 非電化製品

非電化製品を考えて見ましょう。言葉は難しそうですが、要は、動力を使わず人力で動かすものは全て非電化製品なのです。動かないで機能する製品も勿論非電化製品になります。具体的なものを挙げましょう。非電化扇風機=団扇、非電化掃除機=ほうき、非電化冷蔵庫=井戸水、非電化アイロン=寝押し、非電化ヘアドライヤー=やっぱり団扇、非電化計算機=そろばん、非電化洗濯機=たらいと洗い板、非電化炊飯器=釜戸、非電化エアコン=行水、非電化冷蔵庫=バケツと井戸水などなど。そういえば昔の人は、電灯意外は全て非電化製品で暮らしていました。

現代でも、やろうと思えばかなりの程度非電化生活が送れます。庭に水を撒けば自然エアコンになりますし、ハタキとほうきとモップだけで十分掃除が完了出来ます。独身者でしたら入浴のついでに下着を洗えば、洗濯機は月に数回回すだけで済みます。昔そろばん塾に通った人は、納戸からそろばんを探し出してきて電卓の代わりに使えば、ボケ防止にも効果絶大です。つまり非電化生活は、体と頭を使うこと(と工夫)を要求し、健康で頭脳もシャッキリとした生活を送ることを可能にします。非電化生活はLOHASでも「基本のき」と言えるでしょう。非電化製品を自分で考えてみるのも結構楽しいことではあります。非電化製品を提案し実行して居る人も結構見受けられます。その一つのURLを紹介しましょう。

http://www.hidenka.net/jtop.htm

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46 オイルピーク(石油のはなし)

石油生産のピークは過ぎたと言われています。まだ一部の学者の説ですが、投稿者は真っ先にそれを信じました。その説によればそのピークは2004年であった様です。それでどうなのかですが、経済社会の常として、例えば5%の供給減はパニック的な現象を波及させます。それは、1970年代に石油ショックを契機として起こった「トイレットペーパー不足騒動」を覚えている年代にはスンナリ納得がいくはずです。短期間のそれも少しの不足が大パニックを呼び、皆がスーパーにトイレットペーパーのまとめ買いに殺到した訳です。しかし実態は、石油の高騰で一部製紙メーカーのトラック輸送のやりくりが苦しくなっていたとは言え、供給量そのものは殆ど減ってはいなかったのです。

石油生産においても、生産が例え数%でも減少したことが公表されるや否や、同じパニック現象が間違いなく起こるはずです。何故なら、絶対に石油を確保しなければならない企業は、買占めや大量備蓄(石油隠し?)に走るでしょうから、市場に出る石油製品はその何倍もの規模でショーテージを起こすと予想されます。皆がガソリンスタンドに行列する事でしょう。これが第3次の(しかも多分最後で決定的な)オイルショックの始まりとなります。「最後」という意味は、石油生産の規模がジリ貧で低下していく限り、石油価格はその日から一本調子に上昇を始めるからです。その日に備え、是非今からでも自転車を買って足を鍛えておきましょう。

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2006年9月 8日 (金)

45 水が危ない

温暖化は確かに人類の、特に海岸近くに住む人々の生存を脅かしますが、投稿者としての目下の一番の心配事は、実は「淡水の枯渇」です。雨の多い日本では、あまり意識される事もありませんが、世界各地で水不足が表面化しつつあります。それは何処かと言えば、例えばアメリカ中西部、インド中部、中国黄河流域、ウクライナのボルガ川流域、アラル海近辺などです。原因は次の4つ程度に集約されそうです。

1) 多量の灌漑用水を必要とする商業作物(例えば綿花など)の作付け増加。

2) 工業用水の需要拡大に伴う取水過多

3) 急ごしらえの(素掘りの)用水路床から地下への漏水

4) 地下水(化石水)のくみ上げ過ぎによる水位低下

特に穀倉地帯と呼ばれる半乾燥地域(ステップ地域)においては、化石水である地下水に頼る割合が大きくなっており、水不足が年々深刻になりつつあります。例え石油の供給が安定していたとしても、水が無ければ穀物は育ちません。穀物1トンの生産には、水が1000-2000トン必要だとされており、その殆どを輸入に頼っている日本は、それらの国から淡水を多量に輸入しているのと変わらないのです。(バーチャルウオーターと呼ばれます。)同じ穀物でもトウモロコシは小麦以上の水を必要とします。しかもそのトウモロコシを家畜に食わせて太らせる訳ですから、人間が食べる牛肉1kgのバーチャルウオーターは天文学的な数字になりそうです。ハンバーガー屋は、是非ハンバーグ1個のバーチャルウオーターの量を開示すべきでしょう。

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2006年9月 7日 (木)

44 森を捨てた人類

人類が、チンパンジーやゴリラやボノボと同様、かつて森で暮らしていた事は、殆ど間違いの無い進化上の事実でしょう。歴史上では、縄文人も確かに森の民でした。しかし、我々現代人は森を捨てて、人工的に作られた都市に群れて暮らす様になりました。日本においても、高度成長期以降、人々は都会の暮らしに憧れ、田舎を捨てて都市に移り住むようになりました。そしてそれまで、都市近郊に多く残っていた里山や丘陵地をまっ平らにならし、大規模なニュータウンを多数建設し続けた訳です。もちろん現代にも森の民は、細々ですが着実に暮らしています。例えば、アフリカのピグミー族はまさに現代の森の民の代表です。しかし見た目とは違い彼らは決して貧しい生活をしている訳ではありません。それどころか、森の恵みを利用して実に豊かな生活を送っているのです。現代人の食生活を詳細にチェックしてみると、日常の食生活では精々30種類を少し超える程度の食材しか口にしていない事が分かります。自分の1週間の食事を思い出してください。(肉、米、小麦、卵、数種類の野菜・・・・)

しかしピグミー族は、森からなんと300種類以上の食材を得ているのです。彼らは木の根から煎じたコーヒーの様な飲み物も飲んでいますし、もちろん蜂蜜のような甘いデザートも楽しんでいますし、虫の幼虫などもご馳走です。我々は森を捨てた代償として、一見豊かで便利なように見えますが実はえらく貧しい生活を選択してしまったと言えそうです。しかし、人類は肉体的にもたった戦後の数十年間で都市生活に適合するように進化できた訳ではありません。その結果が、今日多くの精神的疾病患者や都市不適合者(ホームレスやフリーターなど)を生み出しているような気がします。

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43 「道路延長の法則」

車を使えば使うほど道路が延長され続けるというのが「道路延長の法則」です。実はこれは、投稿者が勝手に考えた法則ですが。法則と考えた理由を説明しましょう。車の燃料はガソリンやディーゼル油です。それらを原油から精製する過程では、燃料としては使えないタールやピッチが大量に残ります。しかしこれをゴミとして捨てる訳にもいかないので、ある頭の良い(実は結構ご都合主義の)人が、それを道路に撒くことを思いつきました。最初は砂利道にそのまま撒いていましたが、やがて砕石と混ぜてアルファルトとして舗装するテクニックを開発しました。この結果、廃棄物であるタールやピッチの処理問題が「見かけ上解決」したのです。つまり、石油を大量に消費する現代社会では、舗装道路は毎日延長しなければ、多量のタールやピッチが産業廃棄物として処理しなければならないという問題が発生するのです。そうなれば、燃えにくいものを無理に燃処理しなければならないため、特殊な焼却炉の開発が必要で、かつ焼却灰には有害な重金属類なども混じるので、その最終処分には大変なコストが掛かるはずです。それを、今は逆に路盤材として有効活用している訳ですから、道路の舗装工事は絶対に止められないカラクリになっています。

少し田舎に行けば、めったに車が通らないけれどやたら立派に舗装された幅の広い「林道」や「農道」を見ることが出来るでしょう。これが「道路延長の法則」の動かぬ証拠に他なりません。

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2006年9月 6日 (水)

42 太陽光の範囲内

石油がどのようにして出来たかまだ確定した理論がある訳ではないのですが、投稿者が信じている考え方では、いずれにしても石油の原料は植物だろうと言われています。たぶん、堆積した植物からのフミン質などが長い時間を掛けて海底に堆積したものが、地殻の変動により高温・高圧化で石油に変化したのだと見ています。それが正しければ、つまりは石油でさえ太陽光が姿を変えたものだと言えます。もちろん石炭は明らかに植物の炭化化石ですから太陽エネルギーの塊ですね。昔の人や、現代でもイスラムの人達などが太陽神を崇拝するのもうなずけます。さてその太陽光こそが、来るべき持続可能な社会のエネルギー源でなければなりません。つまりは、人間が使うエネルギーの総量は、その人々が住むエリアに降り注ぐ太陽光エネルギーの総量以下でなければならないのです。厳密には、食糧生産のための耕作地と環境を維持している植物+動物ための面積は除外しなければなりませんので、精々その量は建物や道路など人工的な構造物の面積に限定される事になります。そうは言いながら、現状では太陽熱温水器でさえ屋根に載せている家庭は1-2割程度、太陽光発電では多分100軒に1軒以下の割合ですから、温暖化防止が叫ばれている割には、太陽光の利用率は極めて低いといわざるを得ません。太陽光は、全ての生命のエネルギーの源泉といっても過言ではありません。世界各地で太陽崇拝が普遍的に行われているゆえんです。

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2006年9月 5日 (火)

41 LOHAS再々考

以前にLOHASブームの事を書きました。もう少しLOHASを考えて見ましょう。健康で持続的な生活は、まさに「現代の不健康で持続可能ではない生活」の裏返しのコンセプトでもあります。またLOHASは現在の生活スタイルの延長線上にあるのではなく、現在の生活の否定からしか生まれて来ないのです。LOHASには、つまり重大な決心が必要とされる事になります。

結局は物質的な豊かさを否定し、便利さを否定し、豊かな食生活を否定し、清貧に甘んじる生活スタイルを受け入れる事でしかLOHASは実現できないという訳です。まずは20年前、さらには30年前という様に、昔の生活に「喜んで後戻りが出来る」人のみがLOHASの入り口に立てる人々です。覚悟も出来ないブーム大好き人間は、軽々しくLOHASなどとは口にすべきではないでしょう。投稿者は、その意味では覚悟を決めて技術屋を卒業した上で、収入を減らして(殆ど無くして)環境カウンセラーを職業と定め、その結果どんな生活スタイルが実行出来るか身をもって実験する道を選らんだ訳です。最終的に純粋なLOHAS人間になりきるためには、多分どこか田舎の山奥に住んで、自給自足的なの生活に入る必要がありますが、それは多分65歳以降の話で、当面は街の近くに住んで、口を酸っぱくしてライフスタイルの後戻りを説いて回ることになりそうです。

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2006年9月 4日 (月)

40 危ないのは人類だけ

「環境が危ない」などと言われていますが、実は環境悪化で最も危ないのは人類自身の存続と、それに加えて人類のトバッチリを受ける一部の植物や動物達だけなのです。環境を悪化させた人間が環境によって罰を受けるのは、一面では仕方がないことかもしれません。罪は罰によって償われなければなりませんから。巻き添えを食う動植物達には非常にかわいそうな事になりますが、しかしドッコイ彼らは過去の億年単位で発生した自然災害で大量に絶滅しかけても、何とか生き延びてきた逞しさを持っていますので、多分人間がいなくなって出来たスペースにきっと元気に帰ってくるはずです。

人間がすっかりいなくなり、代わって野生動物や昆虫や植物が勢いを得て平和に繁栄する姿を想像するのは、一面では爽快でもあります。つまり、人類は産業革命期に始まって、21世紀まで続いた「石油文明」を最後として、人間自身が作ったレッドデータブックに載ってしまうというやや恐ろしい想像を巡らすこともできます。人類は、絶滅危惧種になるかもしれない我々自身を救う努力が必要な時期にさしかかっています。

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2006年9月 3日 (日)

38 エコクッキング(料理は理科実験?)

実はあまり料理をしたことはありませんが、何故かエコクッキングの講師を頼まれてしまいました。成り行きなのでいくつかのネタを考えて見ました。省エネ料理も「理科の実験」だと思えば、楽しくもあります。お試しください。

下ごしらえ

l 小さく、細く、薄く切る:食材は早く火が通りやすい形に切る。究極はみじん切り。

l 皮ごと茎ごと利用:野菜や果物の皮や茎には食物繊維や栄養素が豊富に含まれる。そのまま調理し食べればゴミも出ない。

l スライサーやフードプロセッサーも活用:瞬間的に千切り、みじん切りが完成

l 電子レンジの活用:電子レンジで軽く火を通す。電子レンジは中心部から加熱される。

煮炊き

l 省エネガスバーナーの使用:内炎式バーナー(炎が内側を向いているもの)は、省エネの優れもの。約20%の省エネ。

l調理器具:底の平らなものが良く、外の水気は拭いてから火に掛けると2%の省エネ。

l 圧力鍋、無水鍋:煮物料理の時間短縮と省エネに効果大。ダッチオーブンも活用。

l 黒鍋使用:黒鍋は熱効率が高い。つや消しがなお良い。お釜の下は真っ黒ですね。

l 同時調理:複数の調理を同時に行う。

Ø 電気釜の中でおかずも同時に調理。

Ø 鍋に小さな容器を入れて、同時に数種類のおかずを作る。

l 保温調理:保温調理器は沸騰したら火から下ろしてもOK。澱粉のアルファ化は70-80℃でも進む。しかも煮崩れも起きず、味も良く滲む。この温度で卵も温泉卵になる。

l ソーラークッカー:太陽熱を利用して煮炊きをしてみる。

l 電子レンジの活用:少量の調理は電子レンジが有利。おひたしなどもOK。

l 揚げ物:深い容器を使い少ない油で揚げる。

その他

l 麺のゆで汁は洗剤の代わりになる。

l お茶はミルで粉砕してからまるごと使い茶殻(生ゴミ)が出ない様にする。

l ダシを取った後の昆布は電子レンジでカラカラに乾燥させてふりかけにする。

l 米のとぎ汁は植木の水やりに使う。

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2006年9月 2日 (土)

37 環のこと

環境とは我々の周りをとり囲むもの全てを指しますが、また「環」は循環をも意味します。仏教の世界では輪廻転生、あるいは因果応報とでも言うのでしょうか。つまり、生物の世界でもある個体の死は、それが分解されやがて別の個体の一部となって再生する循環過程の始まりでもあります。同時に、ある個体の死や再生は、玉突き的に他の個体へ影響が波及することも意味します。良く引き合いに出される例が、中国で蝶が軽く羽ばたくと、アメリカでハリケーンが起こる原因となるかも知れないというものです。地球上の気象変化の原因となる大気や海洋は全てつながっているので、これもあながち冗談ではないかもしれません。

その点人間は、自分が環境に与えているかもしれない影響に、全くと言ってよいほど無頓着な存在です。それは、無くならないゴミのポイ捨てを見れば明らかでしょう。車の窓からポイッと捨てた空き缶や、タバコの吸殻やゴミが入ったコンビニの袋が、その後どの様な運命をたどるか少し考えるだけでそんな行為をする気は起きなくなるはずなのですが。しかし、交差点の中央分離帯の草むらには、ゴミが絶える事はありません。結局は、これらは因果がめぐり巡って自分達に都合が悪いしっぺ返しとなって戻ってくるはずなのです。多分大きくて嫌~なオマケ付で。その意味で環境という言葉は誰が考えた訳語か知りませんが、実に良く出来た言葉ではあります。

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36 植物と昆虫

ついでに虫の話です。植物と昆虫(動物)の間には切っても切れない関係があります。殆どの昆虫は、生きていくうえで依存する植物の種類が決まっています。例えば、蛾や蝶々は、芋虫時代に沢山の植物の葉を食べますが、食べる葉の種類は何でも良いのではなく、カイコであれば桑の葉だけ、モンシロチョウであればキャベツの葉など数種類の植物しか食べません。

一方植物側も、色んな昆虫に食べられてはたまりませんので、手を尽くして自分の身を守ります。例えば、味を悪くするとか、忌避物質を出して虫を遠ざけるとか、木材のリグニンの様に硬く分解されにくい材料を作るなどの戦略があります。逆に、ホルモン様の匂いを出して、受粉に必要な虫をおびき寄せるとか、或いは植物がその虫そのものを食べてしまうケースも結構多くあります。いずれにしても、植物と昆虫(や動物)は長い時間を掛けて、互いに密に関係しあいながら進化してきた訳でこれを「共進化」と呼んでいます。

したがって、人間が勝手に植物を切り倒したり、逆に昆虫を駆除したりすれば、微妙にバランスしていた自然の関係(生態系)がガラガラと崩れてしまう訳で、我々の知らない共進化の関係がまだまだ多くある事を考えれば、安易な自然への干渉や破壊は厳に慎むべきことなのです。最近植物を観察するときは、同時に虫も観察する様にしていますがこれが結構楽しみになりました。

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2006年9月 1日 (金)

35 人類はみな兄弟

どこかで聞いたようなフレーズです。でもそんな事はどうでも良くて、それどころか生物はみな兄弟でもあると、ここでは言いたいのです。殆どの人は「進化の系統樹」というものを見たことがあるでしょうね。そうです、全ての生き物は、共通の生物をご先祖様に持っている、つまりは「みな兄弟」というわけです。長大な遺伝子の鎖をよくよく調べてみれば、我々の遺伝子の中にも、植物的な部分や昆虫的な部分、例えばゴキブリ的な部分やダニ的な部分もあるはずなのです。何しろチンパンジーとは99%共通の遺伝子を持っているのです。ちなみに投稿者は、「ブルーベリージャム」と「青じその葉」が、異常なほどの大好物ですので、たぶん母方の遠いとおい先祖はブルーベリーの実を主食としていた虫で、父方の先祖は青じその葉に住んでいた芋虫ではないかと想像しています。

そう思って眺めてみると、昆虫や植物や魚や動物も何故か全部愛しく見えてくるから不思議です。とは言いながら、蚊や蛇には何故かあまり愛着が感じられないのはどうした訳でしょうか。彼らこそ本当にかわいそうな兄弟たちではあります。

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