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2006年10月31日 (火)

122 三つの解

環境問題を解決するのに三つほどの選択肢がありそうです。一つ目は、絶対的に科学を信じ、核融合技術の開発やバイオテクノロジーによる食糧増産を推し進めて、エネルギーや食糧の問題を解決してしまおうという積極論です。核融合は核分裂よりかなり危険ですが、リスク覚悟でかなり無理をすれば実現できるかもしれません。またバイオテクノロジーを使えば、少ない水や肥料で今の2倍くらい収量が上がる麦や大豆や米の品種が作れるかも知れません。

2の選択肢は、配分を上手く考えるという方法です。現在の技術でも、資源とエネルギー及び食糧の配分さえ上手く行えば、多分今より多くの人口を養うことは可能なはずです。日本で多量に輸入しながら結局捨てている量の食糧があれば、途上国であれば日本の人口の何倍かの人々が食っていけるでしょうし、先進国で使っているエネルギーを半分に減らすなら、残りの国々では今より何倍ものエネルギーを使うことができるはずです。

三つ目の選択肢は、ひたすら貧しさに耐えるという方法です。「清貧の思想」ではありませんが、粗食に耐え、多少の暑さ寒さは耐え忍べば、例えば今の1/5程度の資源やエネルギーで暮せるかもしれません。この場合には江戸時代に盛んに使われた技術や知恵が、間違いなく重宝されるはずです。ここまで読んでこられてお分かりのように、投稿者の立場は「勿論」最後の選択肢に立っています。

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121 人口爆発問題

環境問題は3大ゴミの問題だと再三書いています。では温暖化によって起こりつつある、食糧問題や砂漠化や生物種の絶滅問題は環境問題ではないのか、という突っ込みがあるかも知れません。例えば砂漠化は、直接的な環境破壊例えば焼畑や森林伐採や家畜の過放牧によっても引き起こされますので、これはゴミ問題の結果だけとは言えない訳です。この問題の根は、過剰な人口を支えるための食糧生産や薪炭採取にあることは間違いないところです。

その意味では、人口爆発問題は環境悪化の議論には加えざるを得ないのかも知れません。しかしながら、この問題はゴミ問題とは明らかに視点が異なります。ゴミ問題は、罰金や節約の奨励などで軽減することもある程度は可能でしょうが、人口問題は宗教感の問題でもあり、一筋縄では行かない事は明らかです。勿論、先進国では生活水準や教育水準が上がった結果として、人口問題は解決されたようにも見えます。しかし、発展途上国がそのレベルに至るまでには確実に破局的な環境破壊が起こってしまうことも間違いありません。「シュバイツアーの過ち」とも呼ばれますが、先進国の医療援助によって達成された乳児死亡率の劇的減少が、一方では途上国の多産を逆に加速した事実は否定できないところです。冷たいようですが、今後途上国の人口問題を考えるに当たっては、医療支援や食糧援助もほどほどに抑制しつつ、「環境の命ずるままに任せる」という選択肢も考えなければならないかも知れません。少なくとも、これは「科学技術」の問題としては殆ど解くことができないはずです。

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2006年10月30日 (月)

120 美味しい料理の罪

料理は美味しい方が良いとは思っていないでしょうか。もしそうであれば是非考えを変えましょう。食事の本来の機能は、人間にとって必要な栄養素を採り、健康を維持する事だけなのです。その昔、火を使う事を覚えた人間はまず火で食べ物を焼く事をおぼえ、更に水で煮、更には油で炒めたり、蒸したりする事を知りました。一方で、岩塩や海水での味付けでは満足せず、種々の調味料や香辛料を発明し使ってきました。それが今や食文化ともなっているわけです。

その結果起こった事といえば、日本では庶民でも和洋中華やエスニックなど、世界中の味覚を味わう事ができ、しかもそれを食べ過ぎる弊害を招いています。人間は甘い味や美味しい味にはすぐ慣れ、しかもそれを再々欲しがる強い性質があります。これは一種の「美味しさ中毒」とも言えるでしょう。向こうの言葉では「グルメ」とも呼びますが、この中毒から逃れる事は実は至難の技なのです。多くの人は、美味しいものを食べ続け、最後は病的肥満か成人病にでもならない限り止める事はできません。栄養に関する知識は豊富なのに、じつは料理があまり得意ではない(つまりは美味しい味付けが不得手な)女性と結婚した男性は、その意味では非常にラッキーだといえます。料理の真髄とは、栄養が豊富でしかも中毒になるほどは美味しくないため結果として食べ過ぎが防げる事だとは思いませんか。

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119 21世紀は修理の世紀

「修理」という言葉も死語になりかけています。技術屋としてのキャリアを「船舶修理技師」としてスタートした投稿者にとって、これは寂しいと同時に由々しき事態です。最近はメンテナンスというやや耳あたりの良い言葉もありますが、やはり「修理」という言葉が好きです。昔町々には必ずあった「鋳掛け屋」という職業も懐かしく思い出されます。

モノ余りで、大量生産やその使用後の廃棄が環境の維持を強く圧迫する現代においては、修理屋がもっと活躍しなければなりません。というより「21世紀は修理の時代でもある」と断言しておきます。少し古いか、性能が落ちただけで捨てられるモノのなんと多いことでしょう。機能が落ちた小さな部品を交換するか、少し錆を落として油をさすだけで、殆どの中古品は新品同様によみがえります。実際、国内で「粗大ゴミ」と判定された多くの製品が海外に送られ、新品同様に手入れされてその後完全に機能を失うまで使われています。多分日本では数年で捨てられる電化製品が、海外では更に10年以上は丁寧に使われ続けているはずです。車であれば、その倍の期間は使われ続けるでしょう。また、もし古くなった全てのインフラがスクラップ&ビルドされるなら、大量の建築廃材や産業廃棄物が排出されることにもなります。これらについてもやはり選択肢は修理しかないでしょう。

ところで、かなり前の機種でメカニカルな機構の中古ラジカセが、今アフリカ当たりでは大人気だそうです。何故なら、メカニカルゆえ故障してもそれなりに修理が利くので、電子式の新しい機種に比べ圧倒的に長持ちするからです。何より古い機種は、多少の雨に降られても故障することもありません。

さて、これは投稿者の夢ですが、もし65歳を越えても寿命が少し残っているなら、それ以降は完全にボランティアの「修理屋」となって、修理工具を積んだリヤカーを引きながら村や町を流して歩こうと決めています。

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2006年10月27日 (金)

118 不便を楽しむ3

毎日ラジオを聞きます。使っているラジオは約30年前のトランジスターラジオ(この言葉も既に懐かしい響きです)です。チューニングが面倒なのでNHK第1に固定しています。よく聞くのは朝晩のニュースやバラエティや深夜便の最初の部分などの番組です。特に夜11時前の「音の風景」は楽しみな番組です。村や町や自然の「風景」を音だけで表現しようとする番組です。音だけで風景を想像するのですから、何しろたくましい想像力を要します。この他にも、ニュースの中継など音だけで現場の様子を想像しなければならないので、想像力がますます強くなります。また朝6:40台の日替わりで5人の評論家による「ビジネス展望」も今を知る上で結構興味を惹かれます。

ラジオの聴取には他にもメリットがあります。第一に超省エネです。トランジスターラジオの電源は充電式の電池なので、電力は殆ど無視できます。その上、耳だけで話の内容を理解しなければならないので、論理的な思考が磨かれます。結果、人に対して話をする場合も多分上手くなるはずです。自信はありませんが、多分投稿者も少しはそうなっているはずです。これは、テレビをあまり見ないという不便を楽しんだ結果とも言えます。つまり、見えないという不便を経験すればするほど、人の想像する能力や工夫する力は向上するという一例でもあります。

ところで28、29日は東京へ出かけますので、投稿はお休みです。

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117  Win /Lose

Win/Winはインテル社で使われ始めた表現だと言われています。例えば「あなた(顧客)もハッピィ、私(企業)もハッピィ」の関係を指します。投稿者の場合この言葉を聞くと、「あなた」と「私」につい「人類」と「環境」を当てはめてしまいます。これは実は投稿者が「環境症候群」に陥っている証拠かもしれません。もちろん本人が自ら望んで罹患しているのでどうぞほっといてください。

さて、環境と人類がWin/Winの関係に収まることは可能なのでしょうか。残念ながら答えは悲観的です。先ず人口が増えすぎたことが大々問題です。環境に影響を与えずに60数億の人口は絶対に養えません。次は、欧米諸国が科学技術を使って快適な生活を実現して見せたことがやはり大問題です。日本はこれを手本に必死に働いて「近代国家」を実現した訳ですが、後ろに続く国々も「我々もあんな快適な生活が送ってみたい」と考え、続々とその真似を始めている状況があります。

ところで環境自体は絶対に負けません。何故なら環境はどんなひどい状態になってもその状態が「新しい状況の環境」であり、結局被害を受けるのは環境を悪化させた我々自身と、その巻き添えを食う不運な生物達だけだからです。その意味で、負けて引き下がるのはもっぱら人間側でなければなりません。環境と人間に関する限りWin/Winではなく、人間サイドが一方的に譲る<Win/Lose>とならざるを得ないでしょう。今は死語ですが、そういえば日本にも確か「謙譲の美徳」という言葉がありましたよね。

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116 捨てない知恵2

紙を捨てない知恵を考えてみます。紙の原料は木材(パルプ)です。しかし新聞紙やダンボール紙を除けば、紙すきを行うにはパルプだけでは不十分です。紙を白く見せるための漂白剤やタルクや酸化チタンや色をつける顔料などを混ぜなければなりません。この結果、紙を燃やした後には大量の無機物が灰となって残ります。また、紙すきの工程を繰り返すたびにパルプの繊維は切れて短くなりますので、現代的な製紙工程では紙のリサイクルには限界が生まれます。

しかし江戸時代の手漉き和紙は、パルプを水や日光でさらし、手で紙すきを行うため繊維が何時までたっても切れませんでした。従って、くず紙は高値で売買され、従って道に紙くず落ちていることも絶対にありませんでした。もし殆どの用途において無漂白紙で済ますことができれば、リサイクル率やリサイクル回数はかなり向上するでしょう。また、もし平滑度が下がっても良いと割り切れば、充填材が減らせ、燃やすしかなくなっても木材同様ほぼ完全燃焼しますので、紙ゴミの焼却灰が埋め立てに回される割合は1%以下になること請け合いです。古い話ですが、投稿者の子供時代には「ワラ半紙」という紙があって、学校ではガリ版刷りの問題用紙でテストを受けていました。あの紙の原料は、きっと余った稲ワラや再生されたパルプだけだったはずです。僅か30-40年も時間を戻れば、捨てない知恵に満ちていた時代があったのです。

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2006年10月26日 (木)

115 腹八分目の生活

健康に暮らすには、腹八分目に食べると良いそうです。しかし日本の食糧事情を見る限り、食糧の6割を輸入し、満腹どころか肥満や病気になるまで食べ、半分近くの売れ残った食品や食べ残しを捨てている訳ですから、今の食生活レベルからすれば「腹五分目」としても十分実行可能でしょう。方法は簡単で、「食べ物を捨てるとバチが当たる」とお年寄りが口癖のように言っていた時代に少しだけ後戻りすれば良いだけです。ただし日本人は遺伝的には、過剰なカロリー負荷には弱く、逆に少しひもじい程度が理想的な体質の国民なので、「腹七分目」程度でも十分なはずです。

同じことは、資源やエネルギーの消費にも当てはまります。モノが少し足りない状態、エネルギーが少し不足している状態が続けば、人々は仕方なく節約生活を余儀なくされるでしょう。当然足りなくなってから慌てるのではなく、望んで足りない状態に甘んじ、もっと節約する方法を工夫する方が前向きの態度です。LOHAS生活とは、自ら望んで少し足りない「腹八分目」以下の生活を目指すことに他なりません。外国人に改めて教えられた「勿体無い精神」ではありませんが、LOHASなどと洒落たアルファベットになどせず日本語で「腹八分目生活」と、はっきりした数値目標?を入れた標語のほうが分り易くなるでしょう。 

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2006年10月25日 (水)

114 木材の可能性

実は木材は構造材料として理想的なものです。軽く、比強度が高く加工も容易です。唯一の欠点らしきものはシロアリに食われたり、腐ったりしてしまうことですが、これとてゴミになってしまった時の事を考えれば利点にすらなるでしょう。さらに、圧密加工(180℃程度に熱し、強い圧力で圧縮する技術)を行えば、アルミニウム並みに高い強度を得ることも可能です。結果、水分も浸透しにくくなり、シロアリも歯が立たない材料が得られます。大手の自動車会社には是非この材料で車を試作してもらいたいとも思います。何しろ、廃車になった場合には、フレームは立派な燃料(薪)になります。インパネも木質材料で作れば、ウッディカーが完成します。ガラス部分は今のところ<木材ガラス?>は出来ていないので、エンジン部も併せて当面木材化は諦めるしかありません。

小規模なサイズなら、この圧密木材を組み合わせれば橋やビルくらいは問題なく建設できます。問題は、如何にエネルギーの投入を抑えて圧密木材を作るかに掛かっています。しかし、技術的には既に実用化レベルまで降りてきていますから、後は頭の良い技術者が工夫を重ねれば、持続可能な構造材料として木材の価値は一気に向上するでしょう。結果、日本の森林の利用率も上がりますので、環境問題もかなりの部分が軽減されるでしょう。

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113 水素社会批判

21世紀は水素社会だという人がいますが全く信じていません。理由は、水素源を何に求めるかの議論ができていないからです。確かに、燃料電池や水素の直接燃焼では生成物は水ですから、CO2や有害なガスは出ないでしょう。水素からのエネルギー変換効率も高いです。しかし、水素源を天然ガスや石油やアルコールに求める限り、少なくともCO2の発生は防げません。砂漠の太陽光と海水を使って水素を作り、水素タンカーで運ぶなどという荒唐無稽なアイデアを出している学者もいますが、神経を疑います。もし砂漠が無尽蔵のエネルギー畑になるとしても、どこの国がその土地を貸してくれるでしょうか。それがもし本当に儲かるならば、油田と同じように利権が発生し奪い合いが生ずる筈です。

持続可能なエネルギー源は、太陽エネルギーが形を変えたものしか考えられないはずです。もし太陽光と水だけを使って水素発生が可能なら、日本の国土の面積に応じて一部はまかなうことは可能でしょう。しかし、どう考えても結局水素社会は到来しないでしょう。その意味で何千人、もしかして何万人もの研究者を燃料電池の研究に縛り付けるのは全くナンセンスです。それより、最新のテクノロジー(例えばスターリングサイクル)を使った「スーパー木炭自動車」や長く乗っても疲れにくい「超自転車」でも研究したほうがよっぽど21世紀の社会のためには貢献するでしょう。

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2006年10月23日 (月)

112 捨てない知恵1

捨てない知恵を見つけるのは多分そんなに難しい事ではありません。まず捨てられているものを見つければ良いからです。というより、現代はあらゆるものが捨てられています。すこし早起きをして「燃えないゴミの日」や「粗大ゴミの日」にゴミ捨て場(以後このブログでは「資源置き場」と呼びますが)を覗いてみれば明らかです。電化製品、家具、自転車、傘、調理器具などなど。もし新しく生活を始めるとしても、これらの「ゴミ置き場に置かれた資源」を再利用すれば十分間に合うほどです。

そこで捨てない知恵シリーズの第1回目としては、「買わない工夫」を挙げてみる事にしました。買わなければ捨てる必要もないからです。さて、買うためには、人は多くの場合店に足を運びます。現代は通販も多いので、ネットショップやカタログも店の陳列棚の一種と考えても良いでしょう。私たちは必要なものがあって店に行くのですが、実は店には「見てしまうので欲しくなりそうなもの」も多く陳列されているのです。100円ショップなどはまさにその典型で、目的のものを一つだけ買って帰る「勇気」のある人はきっと珍しいでしょう。この誘惑に勝てない限り、ゴミは増え続けていくのです。そこで提案ですが、いらないものを買わないコツは、実は「お店に行かず、商品を見ない」事に尽きると言っておきましょう。欲しいものがあっても3日間我慢しましょう。結局無しで済むことも多いはずです。同様に、陳列棚のまえでその商品がやがてゴミになった場合を想像してみる事も、余計なものを買わないコツの一つです。

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2006年10月22日 (日)

111 「裂き織り」のこと

先日織物の工房を訪ねる機会がありました。住んでいる市内にそんな店があるなどということは、人に教えられるまで全く知りませんでした。見たかったのは「裂き織り布」です。以前、石川英輔か誰かの本で、江戸は布が貴重な時代だったので、擦り切れて薄くなった布も絶対に捨てなかった。それを細かく裂いて横糸の代わりに使い、新しい縦糸で織り込んでいく「裂き織り」が行われていたとの話を読んでいたからです。流石に現在では、擦り切れた布さえ探すのが困難ですから、その工房では織布工程で出る紐状の縁布を横糸にした布を試作していましたが、ほつれた糸が布からはみ出し、逆に面白い風合いを出していたのが印象的でした。

この日は、「江戸の捨てない知恵」の一つを垣間見たような気がして、古い時代の捨てない知恵を発掘しあるいは自分でも「新しい捨てない知恵」をいくつか考えてみようと決意を固めたのでした。面白いものを思いついたらこのブログでも紹介するつもりです。小さなアイデアであれば、TVの「伊藤家の食卓」でも紹介されていますので、それよりは少し大きなものを考えてみるつもりです。

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110 山・猪の法則

またまた法則シリーズです。日本には、「山よりでっかい猪は出ん」ということわざがあります。この世で起こったことはこの世で治まるというほどの意味です。これを少し変えて「山・猪の法則」を作ってみました。これは、猪は山よりは大きくはなれないという意味の法則(あるいは掟)です。人間も地球という有限の環境を越えては大きくはなれない存在といえます。しかしながら、いまや私たちはこの掟を破ろうとしています。つまり、環境に地球規模の大きな影響を与え、しかもその影響を一世代では解決できずに次の世代にも持ち越そうとしているのです。これは山より大きな猪以外の何者でもありません。

例えば、人類を一つの生命体と考えた場合、それが呼吸をして大量の呼気(排気ガス)を出すことにより、地球大気の組成が日々影響を受け続けているという現実があります。一方この生命体が出す糞(固形の廃棄物)が野山を埋め尽くし、尿(水に溶ける廃棄物)が川や湖や海を汚しています。しかしどうひっくり返って考えてもこの掟を破った我々の罰を、罪もない次の世代が償うという理不尽がまかり通ってよい筈はないでしょう。この生命体に排出が許されるのは、あくまでも自然が浄化してくれる範囲内に限られるのです。少なくとも現在の猪(人類)の大きさは、山(自然の許容範囲)の2倍程度にはなっている感じがします。早急に今の半分の資源・エネルギーで暮す知恵を考えていく必要があります。

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2006年10月21日 (土)

109 所有から使用へ

これまでは、消費者はモノを所有し、それを消費してきました。結果、モノは最終的には廃棄物になって捨てられてきた訳です。これまではモノは捨てられる事にこそ意味がありました。もしモノが捨てられないと、新しいモノが売れなくなり多くの「メーカー」は倒産してしまいますので。しかし、廃棄物の捨て場所がなくなってしまう将来は、モノを所有し最後は捨てる生活は変えなければなりません。

今後求められる消費者(ではなく使用者)は、モノを「所有しないで使用する」生活スタイルを求められるでしょう。例えば、電化製品は商品を買うのではなく、機能を購入する事になります。この時代には、メーカーは、例えば使用済みになった製品を引き取る義務が生じます。引き取った製品は、清掃され修理されて次の使用者に引き渡されます。メーカーはもはやメーカーではなく、ケイター(機能提供者)呼ばれることになります。もしそうなれば、廃棄されるモノの量は画期的に減る事になるはずです。勿論、使用者は、新品ではなく商品でもない不特定多数の人が使ったモノで機能を得ることに早く慣れなければなりません。

さて昨日岐阜市内で、新しくオープンした家電専門の修理店を見つけ、新種の生き物を発見したようなうれしい気分になりました。

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108.5 お詫び

昨日予告しました投稿者の開発したペレットストーブのテレビ紹介は直前で差し替えがあったようで結局放送されませんでした。遅くまで起きていて見ていただいた方には大変申し訳なく思っています・・・・・・・・。

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2006年10月20日 (金)

108 農本主義から環本主義へ

またまた新しい言葉を作ってしまいました。表題の農本主義という言葉は、じつは投稿者の作った言葉ではありません。資本主義が最も華やかだった頃、それに批判的な立場の人が農業こそを社会の中心に据えるべきだとして作られた言葉葉でした。またかつてデモクラシーが声高に叫ばれた大正時代には、人民を政治の中心に据えるべきだとする「民本主義」が掲げられたこともありました。

これを真似て、環境おじさんを自認する投稿者は、「環本主義」という言葉を作ってみました。これは「資本主義」や「経済主義」に対抗する言葉でもあり、社会の仕組みの基本に環境保全を据えるという考え方です。もっと過激な言葉では、「環境ファシズム」や「環境原理主義」なる言葉もありますが、「環本主義」はもう少しソフトです。これは、社会の規範や価値観の中に、より環境にやさしく暮すという視点を持ち込むものだからです。生活スタイルの見直しという意味では、正確な意味でのLOHASに近いとも言えます。一方「環本主義」の実践は経済主義とは、反対の方向に距離を置くわけですから、多分「お金」とも距離が遠くなるはずです。投稿者は、自ら進んで失業することにより、身をもってこの事を考え続けています。

小さな報告ですが、今晩11:00からのWBSのトレンドたまごで、投稿者の開発したバイオマスストーブが紹介される事になっています。ご参考まで。

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107 6回目の大量絶滅

一口に地球が誕生してから46億年、生物が生まれてから38億年と言われていますが、その間生物は順調に多様性を増やし続けて来たわけではなく、高等な生物が誕生して以降だけでも、約1億年ピッチでなんと5回もの大量絶滅の危機に見舞われてきたのでした。その都度、多くの生物種が絶滅し、辛うじて生き残った生物がまた1億年くらい掛けて多様性を復活させてきたわけです。最後の大量絶滅から見ると、現在までには6500万年位の時間が経過しています。しかしながら、人間の活動が環境に目立った影響を与えるようになって以降、既に15%もの生物種が絶滅してしまったと考えられているのです。日本では、ニホンオオカミやニホンカワウソの絶滅などしか認識されていないようですが、河川の淡水魚の多様性は、逆に残っているのが15%ではとないかと言われるほど激減しているのです。まさに地球上の生物は、3500万年を残して、6回目の大量絶滅に瀕しているといっても良いでしょう。今回の大量絶滅の場合、全ての原因はたった一つの生物種である人類だけが作り出しています。

自然環境の破壊を伴う開発、環境汚染物質の廃棄、温暖化の加速、農業のための焼畑などなど。いまや人間の活動の全てが、生物種を減少させることにつながっているような錯覚さえ覚えます。我々は、今まさに6回目の大量絶滅の時代に直面しながら生きています。

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2006年10月17日 (火)

106 I=PAT

ココログのシステムメンテナンスのため、19日までのまる2日程度書き込みができないようですので、少しまとめてアップしてみました。

さて何やら略語のような数式のようなものです。実はこれは英語の頭文字の数式で、日本語では「環境へのインパクト=人口x豊かさx技術の質」と書けます。環境への負荷が大きいほど、環境問題の悩みは大きくなりますから、右辺のどれが大きくなっても問題です。右辺のどれか或いは全部を大幅に減らす必要があります。しかし人口は今後とも増加し続けるでしょうから、他の2つ、豊かさと技術の質で頑張らなければならないでしょう。しかし、技術は19-20世紀型の技術が環境汚染を加速してきた事実を踏まえるならこれもあまり当てにはできません。残る選択肢は、結局豊かさの抑制しかないのです。

しかしものは考えようなので、ここでそもそも豊かさとは何であったのかを改めて考え直してみる必要があるでしょう。人間は、衣食住が満たされていてモノに囲まれていれば豊かで幸せでしょうか。それとも、貧しくても精神的に満たされている人が幸せでしょうか。結局、豊かさとは価値観の問題になってしまいそうです。しかし環境からの警鐘は、今後我々の価値観は、間違いなく後者でなければならない、と言っているのです。今後豊かさの定義も考えてみる事とします。

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105 環境が受け取れる汚染

環境に廃棄物を捨て続ける事は、必ずしも人間に特有の活動ではありません。全ての生物は、「代謝」という行為を通じ、不要な物質や熱を環境に排出し続けています。しかし、人間以外の生物の物質廃棄は、何らかの要因で制限を受けています。例えば、ある生物が異常に繁殖した場合には、その生物が出す廃棄物で環境が悪化し、結果として自家中毒などが起こりその生物自身の増殖が抑えられます。また、全ての生物が出す廃棄物は、何らかの形で分解され、やがては環境に同化してしまうはずです。

しかし、人間が作り出した化学物質や環境には存在しない純粋な金属や合成された人工物質には、環境が分解できないものも多く含まれています。何年経っても錆びない金属や何年経っても分解されない安定した化学物質は、もしそれが廃棄された場合は、永く環境を汚染し続けることになります。我々は、廃棄物を捨てなければならない時は、それらを環境が自然に分解できる形にしてから、環境にそっと置いてやる必要があります。勿論、それはある期間内で環境が分解できる質や量の範囲内でなくてはなりません。環境が分解できない物質、環境が分解できる量以上の物質は、全て「ゴミ」となり環境汚染の原因となります。

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104 必要悪としての環境汚染

ラブロックも指摘している様に、人間は環境を汚染する事によって生き延びています。何時ごろからそうなったかについてですが、どう考えても産業革命以降と断言できるでしょう。縄文人がそれなりに大きなゴミ捨て場(貝塚)を作っていたとしても、環境汚染にはつながりませんでした。貝や魚の骨は自然物だからです。長い年月の間には分解されて自然に還ります。

しかし、人間が作った化学物質のかなりのものは、分解される事なく環境に蓄積します。自然に分解されず、年々蓄積していく物質こそが即ち「環境汚染物質」であるわけです。CO2も自然が吸収できる範囲内であれば、全く問題にならないどころか、植物を育み、地球の温度を快適に保ってくれる役に立つ気体なのです。しかしそれさえも年々蓄積し続けるならやはり「環境汚染物質」になるのです。汚染を防ぐには、蓄積し続ける物質を抑制し、環境濃度を下げる努力が欠かせません。問題は、それが「経済的に好ましくない」場合が多い事です。お金にならない事は誰もやりたがらないのなら、対策としてはそうならないように予め法的にタガを嵌めるしかないのでしょう。

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2006年10月16日 (月)

103 半自然

天然自然と人工環境の間には「半自然」があります。これを「近自然」と呼んでいる学者もいます。これは、人間の手が加えられた自然というほどの意味になりますが、日本は国土の2/3が森林ですが、その半分には何らかの形で人間の手が入っていると言われていますので、つまりは国土のそれぞれ1/3ずつがそれぞれ、天然自然・半自然・人工環境ということになります。典型的な半自然は「里山」に見ることが出来ます。里山にある植物のかなりの部分は、人間が選択的に育てたり移植したりしたものでもあります。里山は、薪炭を採取するためにコナラやソヨゴやヤブ椿といったしっかりした材が取れる木や、実がなる木、山菜、材や竹の子を取るための竹などを、人間が植えたり保護したりして最適な利用が出来るようにしてきた場所なのです。

その里山の荒廃が問題視されています。見た目にはこんもりした緑の森になっているので、荒れている様には見えませんが、実は中身はひどい状態です。林床には日が届かないため下草も生えず、昆虫や植物の多様性が損なわれています。木が混んでいると大型動物が姿を隠して人家に接近できるため、熊や鹿や猪と人間との遭遇事故も多発しています。里山は、本来スカスカに樹木が整理され、見通しが良く人間にとっても動植物にとっても緩衝地帯であり、かつ快適な空間でもあったはずなのです。里山の利用について真面目に考えなければならない時代です。

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2006年10月15日 (日)

102 人工環境維持業

農業や林業は実は「産業」ではありません。少なくとも投稿者は、経済的な意味での産業と位置づけてはならないと考えています。農林業は植物資源を基にした生業(なりわい)ではあっても、お金だけで決済する経済の仕組みには元々馴染みにくいものだからです。何故なら、例えば食糧は、お金の有る無しに関わらず、全ての人が一定量を必要とする資源です。しかしそれが「商品」として位置づけられた瞬間、見栄えや食味や季節を問わず手に入ることが「商品価値」になってしまいます。しかし食糧としての本来の機能や価値は、体に取り込まれて「栄養」となり人々の生命を維持することだけです。

一方で農林業は、林地や農地の状態を何百年も維持し続けるための人間の根源的な活動でもあります。それが出来なければ、林地はやがてハゲ山か価値のない荒地になり、農地も雑草だらけになるか自然林に吸収されてしまうでしょう。このような土地は水源としての能力が著しく低下し、慢性的な洪水の原因ともなってしまいます。一方で林地や農地は人間の努力無くしては維持できない「人工環境」でもあるのです。したがって、農林業は「人工環境維持業」であるという結論になります。問題は、経済主義の社会では、誰もこの維持のためのコストを負担しようとは考えないという事です。結果、木材や食料の多くが輸入され、国内の林地や農地は放棄され、荒れるに任せている現状がある訳です。繰り返しますが、農林業は産業ではありません。

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2006年10月14日 (土)

101 沈黙の春(環境ホルモン)

環境ホルモンが問題視されています。短期的には、病気をもたらすほどの毒ではないが、体内でホルモンの様に働き、生命活動のバランスを乱す物質の事です。いわく、魚のオスがメス化している、ワニのペニスが小さくなっている、人間の原因不明とされる病気の引き金となっているなどなど。人間が作った化学物質が、環境へ薄く拡散することによる生物への悪影響を最初に指摘したのはR.カーソンでした。しかもそれは40年も前の1960年代の事だったのです。DDTは、最初に合成した人がノーベル賞を受けるほどの優れた農薬でしたが、当時農薬に対する需要があまりにも強すぎた事もあり、環境に与える影響が十分に評価されないまま大量生産されてしまいました。

事実として、食物連鎖の頂点に立っている人間の体内には、容易には分解されない化学物質、例えばDDTやダイオキシンやPCBなどが蓄積され続けています。これらの化学物質の母乳の中の濃度も上昇し続けているのです。特に体重が少なく毒への感受性も強い赤ん坊への悪影響が心配されるところです。その意味で、ゴミの焼却や有害な化学物質などは今度速やかに減らしていかなければなりません。その一方で、新たな環境ホルモンの発見や新しい物質による環境ホルモン作用が次々に明らかにされてもいます。現在、疑わしいものまで含めると100種類以上の環境ホルモン物質が知られていますが、これは非常に怖い話ではあります。

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2006年10月13日 (金)

100 ガイア仮説

ラブロックという人は、地球(表面)はさながら意識をもった一つの生命体であると考えて、それを「ガイア」と命名しました。地球の表面には、数千万種あると言われるくらい豊富な種類の生物が満ち溢れていますが、それらは互いに何らかの関わりを持ちながら種を維持している訳です。例えば、多くの植物はそれを住処やエサにしている昆虫や動物に利用されてはいますが、一方では彼らに受粉や種子の運搬も引き受けてもらっているわけです。これが共生関係ですが、広い意味で言えば、ある生物と別の生物は、無数の生物連鎖の中では、必ず何らかの関わりを持って生き延びていると考えたのがラブロックです。

したがって、例えば人間や家畜にとって有害と考えられてきた特定の生物種(オオカミなど)を絶滅させた結果、カモシカや鹿が異常に繁殖し、農林業へ被害が及ぶ結果を招いているともいえる訳です。同様に、地球表面全体を、一つの統一された原理に従って生きている生命体として考えた場合、ガイアの生存に悪い影響を与える人間活動の結果(例えば温暖化や酸性雨)を無視するわけにはいかないはずだというのがこの考え方なのです。

さてとりあえず100話まで一気に書いてきましたが、多分書きたかったことの半分程度は書けたような気がします。同じようなことをくどくど書いている退屈そうなブログですが、もうしばらく我慢してお付き合いください。

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99 AT(代替技術)

AT(Alternative Technology=代替技術)という言葉も環境問題を考える上で重要なキーワードです。ある技術が環境に与える負荷が大きい場合、これに代わる負荷の小さい技術に置き換えて行かなくてはなりません。これがATです。しかしATは必ずしもハイテクではありません。従来の技術に比べ、より少ないエネルギーや資源投入で済む技術なのです。

ATを具体的に考えて見ましょう。例えば車という技術があります。これよりはバイクの技術がより好ましいATですが、それよりも自転車の方が更に優れたATになります。つまり1トンもの車体を動かす自動車と、100kgを越える程度のバイクと、重くても20kg程度の自転車では、使われる資源の量がそれぞれ1桁ずつ小さくなります。勿論それを動かすためのエネルギー消費量も大きく異なるでしょう。シューマッハは、より小さな技術であるATを「中間技術」と呼びましたが、ATや中間技術にはハイテクが必要ないという事も重要なポイントです。ATの適用に必要な事は、従来の大型技術に比べて足りない部分を補うための知恵と、それを使う側の工夫や努力なのです。

もう一つ重要な点は、ATに適用は実は時代の逆行に近いということです。時代的に見れば、自転車はバイクの前に発明され、バイクは自動車の前に普及しました。我々は、これまで通ってきた時代を振り返って、そこを通過しなければならなかった必然性を改めて確認しておく必要があるでしょう。

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2006年10月12日 (木)

98 エントロピー増大の法則

エントロピーは難しい概念ですが、一度理解すれば環境問題の本質がよく分かるようになります。ここではなるべく分かり易く書いて見ます。この法則は一言で言えば、「万物はエントロピーが増大する方向に変化する」というものです。エントロピーが増大する具体的意味とは、高い温度を持った物体がやがて冷えて周囲の温度と同じになっていく過程や最初純粋に分けられていた物質が、やがて形を失い周囲のものと混じり合うような状況をさします。しかもこの過程は一方向(増大する方向)にしか進まず逆は起こらないというのがこの法則なのです。更に分かり易く言えば「覆水盆に還らず」の法則ともいえます。例えば一度温度の下がった物質が、勝手に周囲の物体の低温度の熱を集め、自らの温度が高くなる事は絶対に起こらないわけです。

同様に、一度環境にばら撒かれた気体、液体、固体のゴミは、勝手に集まって再度資源としてよみがえる可能性は無いという法則でもあります。混ぜてしまった砂糖と塩が、勝手に分かれてしまうことも起こりえません。つまり、環境問題に立ち向かう事とは、放っておけば混じってしまう物質を、なるべく長く物質として使うため、人間が分別し続ける努力であると言う事ができます。この法則の示す事とは、エントロピーの増大を遅らせるためには、間違ってもゴミを分別するために新たな機械を作ったりエネルギーをつぎ込んだりという対策であってはならないという事なのです。

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97 地域通貨

最近「地域通貨」や「エコマネー」などという言葉をよく耳にします。呼び方は色々違いますが、役割としてはこれら全てが「地産地消」を助ける仕組みであるといえます。何度も書きましたが、地産地消とは地域で生産しそれを地域で消費する仕組みで、環境負荷低減にはこれが不可欠です。運ぶ事にエネルギーを使っても、モノの値段は上がるかも知れませんが、決して付加価値は上げませんのでいずれにしてもムダな行為です。地域通貨はある特定の地域でしか通用しませんから、モノやサービスを地域通貨で決済すれば、地域内での循環が生まれます。一方エコマネーは、必ずしも地域限定通貨ではないのですが、環境に対する負荷を下げることを目的に考え出された仕組みですので、最終的には地域通貨と同じ様な使い方になるはずです。

地域通貨は、消費者に「お金の意味」、「価値観」などというものを改めて考えさせます。現代の社会ではお金を使えば事実上殆どのものを(ひどい場合は臓器や命でさえ)買うことが出来ます。しかしながら、お金で買えないものも数多くあるはずなのです。例えば、その土地に住んでいる人しか実感できない風景や季節感、朝取りの特産物の味などは、お金を出しても決して「よそ者」には買えないのです。お金では買えないものを地域通貨で買える幸せが、地域に住む人達が地域通貨を使う原動力になるでしょう。結局、何らかの形で価値観の転換を求める事も地域通貨の隠れた働きでもあります。

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2006年10月11日 (水)

96 モノの消費者から機能の消費者へ

95で消費者という言葉がやがて古くなると書きました。その意味するところは、「モノの消費者」は今後の社会では減るはずだということなのです。モノを消費すれば必ずゴミが出ます。作る段階でも産業廃棄物が出ます。しかし、「機能を消費する」と考え直せば、製品は最低限の数だけあれば、それを使い回すことで、ある程度の量あれば間に合うという事になります。結局リース業に近いイメージにはなりますが、リース業と異なるのは、コスト最適ではなく環境効率が最大となるような仕組みであるという点です。即ち、機能を提供するための道具(枠組み)をつくり、それを不特定多数で利用する仕組みを作れば、個々の消費者がモノを所有し、それを使い捨てるムダが無くなるでしょう。

20世紀は「モノの消費の世紀」でした。では21世紀はどうすべきでしょう。一言で言えば、「持続可能な社会を再構築する世紀」となりますが、そのためにはモノの消費をやめ、社会の仕組みを「機能の消費」に切り替えて行く必要があります。当然その前に、まず何が「本当に必要な機能」なのかを考えて見なくてはなりません。これから我々が早急にしなければならない事は、この絶対に不可欠なモノのふるい分け作業といえます。持続可能性という尺度で見れば、間違いなく殆どの資源やエネルギーを現状の1/2以下に削減しなくてはならないでしょう。

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2006年10月10日 (火)

95 できるだけ作らない仕組み

「何を作れば良いか分からない」、という嘆きに対しては「できるだけ作らなければよろしい」と言っておきます。「それでは会社がつぶれ従業員が路頭に迷う」と経営者はうろたえるかもしれません。しかし、消費者(この言葉もやがて古くなるかも知れません)が本当に欲しいのは、モノではなく機能なのですから、企業はモノを生産して売るのではなく、機能を提供してその代価を得る組織に脱皮すればよいのです。

よくよく考えてみれば何も作らない会社は数多く存在します。多くのサービス業ではモノを作らずに、しかしモノを作る企業以上にお金を稼いでいます。もちろん世の中全てがサービス業になって、それで社会が回っていく筈はありません。投稿者が提案しているのはサービス業ではなく、「機能の提供業」なのです。今後適当な例を考えて、示していこうと思いますが、ここでは分かり易い例を一つ挙げておきます。

例えば、自動車のプール利用システムがあります。少し複雑な仕組みが必要ですが、街中にはいくつかのモータープールがあり、車に乗りたい人は少し歩いてそこで車を借ります。用が済めば、おなじモータープールか別の場所に返却することになります。レンタカーと異なるのは、これらの仕組みが半公共で運営され、必要最小限の数の車で運営される事です。車の数は、都市の規模に応じた「環境負荷」の許容量で決定されます。現在の感覚で言えば、「慢性的な車不足」になる事は間違いないでしょう。この「やや不足」という状況が非常に重要なのです。車が出払っている場合は貸し自転車という手もあります。タクシーもこのシステムの中に加えれば、運転できない人も利用できますし、タクシーの流しや駅待ちの風景もなくなるでしょう。車を所有しているだけで掛かる経費(税金や保険料や車検代や整備費)や駐車スペースや渋滞による無駄を考えれば、このシステム賛同する人も多いかもしれません。

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94 何を作ればよいのか分からない

右肩上がりの時代には、ほぼ全ての分野で需要が拡大する訳ですから、企業は何を作ってもそれなりに売れて、業容を拡大することができました。しかしバブル崩壊後は、大型の公共事業は減り、一般消費レベルも低下し、トヨタなどの一部の企業や産業の「一人勝ち」状態は見受けられるものの、一般の中小企業にとっては現在も「夕暮れの時代」が続いていると言えるでしょう。多くの中小企業では、今後何を作っていけばよいのか分からず途方に暮れています。なにしろ、日本が担ってきた「世界の工場」の役目は、今や中国をはじめとする「アジアの成功者」に取って代わられているからです。

とはいいながら、もはや時間を巻き戻して燦々と日の当たる明るい午後にする事はできません。出来るのはせいぜい夕暮れの時間を引き延ばす事ぐらいでしょう。夕暮れになった事には、動かしがたい背景と現実があるからです。それこそ地球規模の環境悪化の問題であり、資源枯渇の兆しである訳です。そしてこれは、決して「また日が昇ることの無い夕暮れ」でもあるのです。再びの日の出を夢見ることを諦めてはっきりとその認識に立てば、夕暮れ時や日没後に適した新しいビジネスも見えてくる事でしょう。日が暮れたからといって、太陽そのものが消えて無くなる訳ではありませんから。

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2006年10月 9日 (月)

93 不便を楽しむ2

不便を楽しむにはいくつかのテクニックが必要です。まずは、あるもので間に合わせる工夫です。エアコンが故障したら扇風機を引っ張り出してきますが、団扇で我慢すれば出す手間もエネルギーも不要です。団扇に加え庭に打ち水をすれば、より効果的でしょう。モノに溢れた現代生活で、毎日使っているモノを無かったと仮定して暮してみましょう。ドライヤーや電子レンジや洗濯機や冷蔵庫はどうでしょう。これら無しで1週間暮せるでしょうか。もし出来るなら、それは元々不要なものかも知れません。

次のテクニックは、行為そのものを止めたり、無くしたりしてしまうという方法です。生ゴミを分別してゴミ袋に入れ、ゴミステーションに出すのが面倒で不便なら、ゴミを無くする料理方法を考えれば良いでしょう。その意味で「カリスマ主婦」奥薗壽子の調理の工夫には驚くべきものも多いと感じています。何しろそのテクニックの多くには生ゴミを減らし、ついでに手間も省く工夫が溢れていますので。

もう一つは、これが最も楽チンですが不便に暮していた昔の知恵を借りる方法です。江戸時代の暮らしぶりには、驚くべき工夫の数々が発見できるでしょう。何しろ、便利なものは一切無かった時代ですから、その節約振りや工夫や技は細かく研究すれば、立派な論文が書けるかもしれません。石川英輔の江戸風俗の著述にもそのような情報が数多く発見できます。そうでなくとも、身近な「バアちゃんの知恵袋」にも優れた工夫が数多く見られる筈です。

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92 不便を楽しむ(工夫しないストレス)

この季節では考えられないほど北アで多数遭難しましたが、投稿者が先週登った時も、3000m級の山は、夜間は氷点下まで気温が下がっていましたので夜はテントの中で震えていました。荒れれば雪になる季節に入っているので、山を甘く見ればこのような結果が起こっても不思議ではありません。

さて山によく登りますが、山小屋は狭い上に料金が高いので殆ど使いません。専らテント+自炊ですが、やはりそれなりに不便です。なにより炊事用の水の確保や食材や炊事用具を運び上げなければなりません。しかし、実際のキャンプでは不便は殆ど気になりません。何故ならそれを「覚悟」して山に登るからです。同様に、環境にやさしい生活にもそれなりの覚悟があれば、どうにか実行できる筈なのです。人間は何時から我慢や覚悟が出来なくなったのでしょうか。辛抱という言葉はいまや殆ど死語になりました。これらの事をじっくり考えてみる必要があります。原因は、多分便利過ぎ、快適過ぎる生活に慣れ過ぎた事でしょうか。

不便は実は楽しいはずです。限られた資源を使いながら不便を克服するためには、多くの工夫が必要となります。工夫する事は、好奇心と同様人間の根源的な能力であり性質だと想像されますが、これを発揮しない事は逆にストレスの原因にもなり得るような気がします。もしモノを作ったり、工夫したりしない事がストレスの原因になるのなら、便利になり過ぎた今の世の中で、我々のストレスが減らない原因の一つが説明できる可能性があります。モノを一生懸命作らせたり、発明工夫をさせたりすれば、キレル子供が減るかもしれません。いずれにしても沢山の工夫をしながら、不便を大いに楽しみましょう。

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2006年10月 7日 (土)

91 対策と原因排除2

対策は、実行するのにより多くの努力を必要とします。例えば、塩と砂糖を、容器を取り違えて混ぜてしまい、これを分けなければならなくなった事態を想像しましょう。一粒ひと粒ピンセットで分ける方法は論外ですが、溶液などにしてどうにか濾し分ける上手い方法が見つかったにしても、分離やはり大変な作業です。これに対して原因排除は最小限の努力で達成できます。混ざった原因を考え、混ざらないように例えば予め色を変えた容器を準備しておけば良いだけです。更に「砂糖」・「塩」のラベルを貼っておけば原因排除はほぼ万全でしょう。

ゴミでも全く同じことが言えます。容器ゴミを、包装紙とヒモと紙箱とホッチキスとプラスチックフィルムに完全に分別しておけば、それらは全て資源として再利用可能です。しかしこれをグチャグチャに混ぜてしまえば、分離には多大な労力が掛かりますから、現在行っているようにまとめて燃えるゴミとして処理するしかありません。これではいくら対策を打っても、焼け石に水状態になるでしょう。固体ゴミはまだしも、液体ゴミ(例えば微量の環境ホルモンや有害物)や気体ゴミ(例えばCO2やフロンガス)を効率的に分離するには莫大なエネルギーと手間がかかり(というよりほぼ絶望的です)、実用的な技術は今後も発明されないでしょう。とすれば、やはり出さない工夫を考えるしかない訳です。もっとも簡単で安上がりな方法は、ぐっと我慢して「それ無し」で済ますという方法ですね。

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90 対策と原因排除

これもどれかの回と同じ事を別の言葉に置き直したことになるかも知れません。これまで、環境問題が意識されてから考え出されたものは、殆ど全てが「対策」でした。例えばゴミ問題も然りです。廃棄物が大量に捨てられ、目に見える問題となってから焼却施設が拡充されましたし、ダイオキシン汚染が問題になってから、焼却場に排煙処理装置がつけられた訳です。多くの環境関連法の整備も全てが後追い対策に過ぎません。

しかしながら、もはや対策は行き詰りつつあります。これ以上のゴミの大量焼却を続けるなら、間違いなく日本人の体内に蓄積され続けているダイオキシンは危険な濃度に高まり、何らかの健康被害の原因になるでしょうし、焼却灰や不燃ゴミの埋め立て処理場は間違いなく満杯になります。それが、2-3年後か10-20年後であるかは大きな問題ではなく、問題は今のままではそれが確実にやってくるという事実です。

これに対し「原因排除」は、問題となっている原因そのものを減らして行こうという姿勢です。ゴミが環境問題の根源なら、そのゴミの排出を出来るだけ減らしていこうという生活スタイルの追及でなければなりません。ゴミを燃やす事が間違っているなら、徹底的に分別しゴミを資源に変える努力を惜しんではならないでしょう。CO2の排出が問題なら、化石燃料にあまり頼らない社会システムを作る必要もあります。これが原因排除の正しい姿勢です。

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2006年10月 6日 (金)

89 公共投資と社会事業

景気浮揚のためと称して、これまで多くの公共投資が行われきました。その中には下水道事業のように、確かに社会インフラの拡充に寄与してきたものもありますが、多くのダムや林道や農道など、いわゆる建設族や運輸族が駆動する公共事業においては、受益者は行政者自身やゼネコン及びそれにぶら下がる関係者であった事は否めません。確かに、右肩上がりの時代には、景気浮揚に少しは寄与したかも知れませんが、低成長時代も考えも無しに同じ路線を突き進んだ結果として、国の借金である国債発行額は増加の一途を辿ってきたわけです。

一方、社会事業は公共投資とは違う部分の事業といえます。それを一言で言うなら、人・生物・自然に向かう事業や技術でもあります。もっと具体的に言うなら、<固体ゴミ、液体ゴミ、気体ゴミ>の排出を減らし、出たものを上手く処理し、人・生物・自然にやさしくする技術なのです。これまで「環境技術」と呼ばれてきたものは、専ら目に見える固体ゴミの処理だけを視野に入れてきましたが、今後は上記三様のゴミ全てを相手にしなければなりません。もちろん、一番大きな問題は、これらのコストを誰が負担するかですが、もう一つの選択肢も残っています。それは、もしゴミ処理コストを負担したくないのであれば、代わりに「ライフスタイル」を「よりゴミを減らし、より不便の方向に」大きく変えるという方法です。私たちは、今すぐにでもどちらかを選択しなければなりません。もし選択が遅れれば、それだけ大きなツケが子孫に先送りされるだけです。

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88 社会的技術

20世紀の技術はもはや成熟してしまっているように見えます。例えば、エアバス社の600人乗りの旅客機が就航しようとしていますが、実は1960年代末には既に500人乗りのジャンボジェット機が飛んでいたわけです。原子力発電所や火力発電所の効率も、1970年代には既に現在の効率をほぼ達成していました。ガソリンエンジンで走る車は、もはや外観デザインと室内装備でしか差別化できないほど成熟した製品となってしまいました。

しかしながら、これら多くの製品やサービスは個人や企業向けのものでしかありません。「社会的技術」と呼ばれるものは、例えばインフラと呼ばれる社会の基盤に向けた技術であり、地域の産業を活発にする技術であり、より多くの市民の福利厚生に役立つ技術のことです。しかし、これらの技術は儲からないという理由だけで、この数十年間は足踏みを続けている訳です。

その例としてゴミの収集と処理を見てみましょう。相変わらず、ビニール袋に入れゴミステーションに置かれたゴミを、ごみ収集車を使って集め、焼却場か埋立地に運んで燃やし、あるいは単に埋め立てて処理しているのです。画期的なゴミ処理の技術や方法が試されたというニュースはここしばらく聞きません。やや考え方が安易だったとはいえRDFは、ゴミ処理の新しい展開でしたが結局は三重県で火災事故を起こして暗礁に乗り上げています。これに懲りて多分RDF技術は見捨てられるかもしれません。しかし、個人や企業向けの製品やサービスが飽和した現在こそ、社会的技術に挑戦すべき好機ともいえるでしょう。投稿者が再度技術屋として働くのであれば、社会的技術への貢献しかないとも考えています。ただし、基本はあくまでも地域密着の分散型の技術である必要があります。

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2006年10月 5日 (木)

87 夢の実現と後始末

20世紀は、科学技術を使って夢を実現しようとした世紀でした。投稿者も意識しないままながらその片棒を担いできました。勿論子供の頃は、普通の子供のように21世紀には鉄腕アトムができると信じていましたし、庶民が宇宙旅行に行けると期待していました。確かに、20世紀の技術でも、トランペットを吹くロボットはできましたし、限られた人間を月や宇宙空間に送り出すことはできました。超音速旅客機やジャンボジェット機も飛ばすこともできましたが、結果それらの夢の実現のツケとして地球規模の環境問題も残したわけです。これは20世紀に行われた夢実現の努力が、いかに短慮であったかを如実に証明しています。

21世紀は、結局夢の続きを見る世紀ではなく、無理な夢の実現で残したツケを払い、後始末をしなければならない世紀だと言えるでしょう。しかし、どうせツケを払い続けるなら悲壮な覚悟で暮すのではなく、「明るく貧しく」暮したいものです。つまりは、20世紀を悔やんで後ろ向きに生きるのではなく、質素だけれど心豊かに暮らす社会を目指せばよいだけです。これは少し昔の事を勉強するか、或いはまだ田舎で昔風の暮らしを続けているジイちゃん、バアちゃんに知恵を教わるだけでも良いでしょう。

しかしどうしても夢の続きを見ていたいという人は、残念ながらこのブログを読んでも仕方がありません。どうぞ他の楽しく夢のあるブログへ飛んでください。

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86 科学の限界(ダヴィンチ学)

科学とそれを応用した技術について、かなり頻繁に考えます。最近は、色々考えを巡らした末に、「科学は所詮分解・分類の学問だ」というところに落ち着きます。しかし環境は、非常に多くの要素が複雑に絡み合った存在であり、環境を科学の要素に分解するのは間違いではないか、というのが最近の強い思いです。その意味で、環境学の一分野に「環境工学」というものがありますが、これこそ矛盾の学問のような気がしています。そもそも分解できないものを、あえて分解して考えるわけですから、出てくる結論も中途半端なものになるでしょう。

例えば、地球温暖化のメカニズムはまだ完全には解明されていません。いまだに、いわゆる温暖化ガスは温暖化の原因ではなく、太陽黒点の活動レベルのサイクルや地球の温暖化・寒冷化のサイクルの結果であるという学者も多いのです。ある現象の説明が多数生まれるということ自体が、科学が万能ではないことの証明でもあり、それが分解の学問である科学の限界でもあります。事実は、人間が作った原因が現象の連鎖を生み、多くの害悪となって降りかかっているのが環境問題ではないかと思っています。

環境学は、観察からの学びと想像(あるいは思いやりの心)と統合の学問でなくてはならないでしょう。もっとも確実な観察結果は、長く人生を歩んでいる古老の経験談でしょうか。その意味で、古典や古文書の研究こそ、もっと盛んに行われて然るべきでしょう。昔の人の観察は、実に緻密です。また一方で各分野の賢い科学者が10人くらい集まって、毎日顔を合わせて議論を重ねれば、多分理想的な環境学が生まれるかもしれません。それにも匹敵する歴史上の万能の天才を一人挙げるなら、レオナルド・ダヴィンチでしょうか。環境学はダヴィンチ学でもあるのです。

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2006年10月 4日 (水)

85 時間を加速させる技術

これも時間シリーズです。地球が小さくなった事を別の言葉では、時間が加速しているとも言えるでしょう。時間の長さの法則でも書いたように、時間を加速すればイベントの数は少なくなり、人間の一生もあっという間に終わってしまうでしょう。もし、<生まれた、学校に入った、就職した、結婚した、子供が生まれた、熟年離婚した、年を取った、死んだ>、などという自分史しか書けない人生だとしたら、やはり寂しいものがあります。もし、東京から新幹線に乗って博多まで行く間に、途中で経験するイベントは「社内販売で駅弁を買って食べる」だけになるとしたら、これは科学技術の大きな罪ではないかとさえ思います。

時代を少し戻って新幹線以前の事を思い起こせば、東京・九州を24時間も掛かって旅行していた時代がありました。その時代には、富士山をゆっくり眺める時間や、夕日の沈む景色や朝日の昇る景色、名古屋や大阪で相席の人が入れ替わること、何回か駅のホームに下りて買う駅弁などなど、きっと長く思い出に残る旅であったことでしょう。「技術によって加速させられた時間」を生きるのも、そろそろやめにしたいものです。これをやめるには、多分スローライフ志向しかないでしょう。今までよりいくらか手間がかかり、より多くの時間を必要とする行動を選び取ればよいわけです。出かける時は、車より自転車、自転車より歩きを選べばよいのです。四国遍路が静かなブームとなっている事も、時間加速時代の反動現象ではないかと見ています。

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84 地球を小さくする技術

私たちの先輩や私たち自身は、生活を豊かにするために科学技術を磨いてきました。その結果何が起こったかといえば、人類の存在が大きくなった分、相対的に地球の大きさが縮んでしまったのです。これは単なる比喩ではなく、実際にも例えば太平洋を横断する時間が短くなり、また海外の資源や製品が雪崩をうって日本に流れ込んでくるようになりました。結果として排出される大量廃棄物は、小さくなった地球を短期間のうちに汚してしまったのです。一人の技術屋として、こんなにまで地球を小さくしてしまった事に<100人分くらいの責任>を感じてもいます。

その昔、人類にとって地球の大きさは無限の広がりを持っていたはずです。もし人間が自分の足だけで地球を回るとすれば、真直ぐ歩けたとしても何年も掛かってしまうでしょう。それが、いまでは日本から一番遠いブラジルに旅行するのでさえ24時間もあれば間に合います。それが技術の偉大な効用なのですが、逆にその反動も大きいわけです。技術は、結果として経済や人々の往来を含めていわゆるグローバリズムを加速しました。その結果として、モノと人との移動量を飛躍的に増加させました。もちろんそれには膨大な量の化石エネルギーの消費を必要とします。私たちは、今後も地球をますます小さくし続けるのでしょうか。先ずは飛行機を降りて列車に乗り、次は列車を降りてテクテクと歩いてみれば、きっと何かが見えてくるはずです。

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2006年10月 3日 (火)

83 ゴミの分類

何度も言いますが環境問題はゴミ問題です。ここで改めてゴミの種類を分類してみました。

まずは3大ゴミです。これが多分問題の9割以上を占めるでしょう。

・固体ゴミ:家庭ゴミ、粗大ゴミ、産廃、一廃など

・液体ゴミ:家庭排水、工場排水、農業排水、地下水汚染など

・気体ゴミ:排気ガス(CO2,NOx,SOx)、フロンガスなど

注意しなければならない事ですが、上から順番に原因を作ってから問題が表面化するまでの時間が長くなります。つまり、液体ゴミが原因の水俣病が表面化するのに数年かかりましたし、気体ゴミの問題である温暖化問題は、その影響が本当に激しくなるのが数十年後となるので解決が難しい問題となっている訳です。

次は意識されにくいその他のゴミです。これらもそれなりに問題ですね。

・音ゴミ:放送から、車から、街宣から

・振動ゴミ:車から、工事現場から

・熱ゴミ:冷房廃熱、排気ガス、ヒートアイランド現象

・光ゴミ:ネオンサイン、広告塔

・電波ゴミ:電波漏れ、高圧送電線からの電磁波

・味ゴミ:水道水、ジャンクフード

・臭いゴミ:悪臭、喫煙

・情報ゴミ:チラシ、迷惑メール

これらのゴミが少なくなれば、環境問題は間違いなく解決に向かって大きく前進します。

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2006年10月 2日 (月)

82 死んだ猫の百の使い道

これは投稿者が言っている訳ではなく、古い格言なので愛猫家の方には悪しからず。「死んだ猫にも百の使い道がある」と昔から言われています。猫は自然物なので、死んで埋められた後はやがて分解されて自然に還ります。しかしその前に100程度の働きをしてもらうことも可能なのです。むしろその方が猫も成仏できるかもしれません。100はとても思いつきませんが、10個くらいは考えられそうです。でもそれを具体的に書くとかなり残酷な描写になりそうなので止めておきます。

さて死んだ猫でさえ100通りもの使い方があるのなら、擦り切れて着られなくなった服にも同じくらいの使い道があるはずです。こちらは切り刻んでも良さそうなので、使い道を挙げてみましょう。縫って雑巾に、切り刻んでクッションの中綿に、端布にしてパッチワークに、細かく裂いて「裂き追織り」で布に織る、切って形を整えて綿を詰め人形に、裂いて撚ってロープに、袖と襟を取ってベストに、古いランプシェードの張替えに、擦り切れた椅子の座面修理に、細かく切って荷物のクッション材に、リフォームしてエプロンに・・・・・・・。きりがないのでこの辺にしておきますが、つまり布は捨てるところがない優れた素材です。同様に、明日捨てようとしてゴミ袋に入れてしまった「あのモノ」も、使い方次第では立派な資源になるはずです。「ゴミとは、間違った場所に(ゴミ箱)に置かれた貴重な資源のことである」というのはドイツの新しい格言です。

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81 機能の消費

長野の友人を訪問するついでに鹿島槍ヶ岳・爺ヶ岳に登ってきました。2000mまで紅葉が下がってきており、朝方には気温が氷点下近くまでなる季節です。移動はバイクでしたが、こちらももうそろそろ寒さを感じる様になってきました。

さてこれも繰り返しかもしれません。私たちはモノを買います。しかし実際は、モノが持つ機能(働き)を買っていると言えるでしょう。例えばカバンは、細かいものや貴重なものを入れて安全に運ぶ入れ物という機能を持っています。その機能は、カバンがカバンとしての働きが出来なくなるまで持続します。しかし、現代ではカバンがそこまで(ボロボロになるまで)使われることはありません。少し手垢がついて見苦しくなった、少し流行おくれになったという理由だけで捨てられてしまいます。カバンに限らず、いまやモノがその寿命を全うし、機能が無くなるまで使われる事は殆どないでしょう。

これも環境問題(特に固形ゴミ問題)の大きな原因となっています。汚れたカバンはきれいに洗浄する方法がありますし塗り直す事もできます、縫い目が破れたカバンも簡単に修理が出来るはずです。仮に、穴が開いた場合でもデザインを考えたパッチを当てれば、前よりも素敵になるかも知れません。何より、手を加えたモノには愛着が湧いてきます。

何でも良いので、一度完全に機能が消滅するまで徹底的に使い込んでみてください。一生使えるものも結構多いはずです。襟が擦り切れてしまったカッターシャツでも、襟を外して裏返せば、また同じくらいの期間は着られるはずです。擦り切れた袖口は少し切り詰めれば良いでしょう。サイズが合わなくなった服には、ダイエットして自分の体型を合わせる事にしましょう。健康にもなるし一石二鳥ですね。

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