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2006年12月11日 (月)

175 安全の値段

「環境か経済か」の議論は多くの場合、「安全の値段」という見方に置き直す事も可能です。しかし安全の値段付けは単純なトレードオフの関係式では処理できません。つまり、「どのくらい安全なら本当に安全と言えるか」という問には答えが出ないからです。製品の安全に関して言えば、メーカー側とユーザー側では、その境界線が大きく異なり両者の間には大きなギャップがあるはずです。同様に、環境保全に関しても、「どの程度までの環境負荷なら環境の保全に影響が無いか」という問についても環境学者と経済学者の間には深い溝が出来るはずです。PL法により安全が絶対的な価値を持ってきたような錯覚を覚えますが、いまだに「市場が新製品の実験場」である状況は変わっていません。何故なら、開発から市場に出すまでの数ヶ月や数年程度の期間では、とてもとても全ての故障や事故のケース(Failure Caseと言います)について安全であると確認するには、時間的にもコスト的にも無理だからです。ましてや、環境悪化に関して言えば、その影響が明確になるまでには、狭い範囲の公害問題ですら数年かかり、酸性雨や温暖化やオゾン層破壊といったスパンの長い現象では、数十年という評価期間が必要となるわけです。判断が出るまでの間は、因果関係がグレーのまま、しかし経済活動は止まることなく続けられることになります。実際に被害が出始める様になって、初めてその被害額から算定して安全や環境保全に値段が付けられるのが現在の経済社会の仕組みです。京都議定書もその意味では後追いの「焼け石に水決議」に過ぎません。勿論、やらないよりは100倍はマシではあります。

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