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2006年12月31日 (日)

198 新しく有意義な習慣

197で述べた、時間をもてあましている人の「新しく有意義な習慣」をすこし考えてみましょう。人間が最も生甲斐を感ずる瞬間は、「達成感」が得られた時でしょう。マラソンレースに参加した人が完走した時、会社の小さなプロジェクトが完了した時、あるいは試験に受かった時、人は達成感を感ずるはずです。しかし毎日達成感を味わう訳にもいきません。次善の感覚は「効力感」である、と投稿者は考えています。効力感とは、「自分が何か、或いは誰かの役に立っている」という感覚の事です。例えば、他人に対する小さな親切やボランティア活動で受けた「ありがとう」の一言が、効力感を感ずる時に当たるでしょう。

という訳で、効力感を感ずるにはまず人や自然などに対する働きかけが必要です。働きかけの無いところに結果も感謝も存在しないからです。暇をもてあましている人は、まず働きかけの「場」を作る事から始めなければなりません。それは自分の家の車庫でも良いし、地域の集会所でも良いし、使われなくなった空き店舗で良いわけです。一方で行政は、これらの「たまり場」の提供に力を貸す必要があります。次には、地域に貢献できる「作業」を考え出す必要があります。内容は何でも良く、とにかくそれが地域のためになりさえすれば良いのです。特に有意義なことは、例えば壊れたモノの修理、ゴミ拾い、ゴミの完全分別、草刈、花壇の手入れ、カーブミラーの清掃、ドブさらい、空き地でのミニ農園、子供の遊び道具作り指導、公園の遊具の給油、落書き消し、でも望ましくは生きていく為の知恵の伝承、などなど。確かに昔の年寄りは、毎日何がしかの「地域の作業」をこなして、一日を暮していました。これらはいわば地域の「小さな環境保全活動」だったのです。

なんとなく8月から書き始めたブログですが、ここまでで書きたかった事の2/3くらいは書けたような気がします。新たに頭に浮かぶ事もあり、あたりまえですが書くことが無くなるまでは続けます。良いお年をお迎えください。

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2006年12月30日 (土)

197 移動の是非を考える

携帯電話や電子メールが全く普通の通信手段として使えるようになった現在、通勤通学を含め毎日人々が移動しなければならない必然性は大きく薄らいできたはずです。工場でモノを加工する人達には確かに通勤する必然性があるでしょう。しかし、多くのサラリーマンが事務仕事をするために、電車や車を使って、込み合う朝の時間帯に通勤する必要は全くないと感じます。その多くの時間をメールの応答やパソコンでの文書・データ作成に費やしているのであれば、家でも十分その仕事はこなせるはずです。会社のメールは、自動転送にしておけば全て家のパソコンでもチェック可能です。あとは、定期的な会議や連絡のため、週に数回込まない時間帯に会社に顔を出すだけで良いはずです。顔を見ての複数人でのミーティングが必要なら、パゾコンに接続して使う無料の「スカイプ」も活用できます。

毎日通勤して会社に通うのは、実は人間にとっては何か安心の出来る「習慣」の様なものではないか、と通勤をしなくなってしみじみ感じます。というのも、投稿者が通勤の習慣が無くなって始めた「習慣」といえば、論文の作成時期でもあったのですが近くの図書館通いであったからです。勿論それは、収入が減った事に関する「同居人」の小言から逃れる意味もありますが。という訳で、時間が有り余っている人を多く見かける図書館で、団塊の世代を含めた退職者の「新しく、有意義な習慣」を考えることが当面の「仕事」になっています。

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2006年12月29日 (金)

196 温暖化の原因と対策

温暖化現象は、実はCO2増加が原因ではない。温暖化の結果CO2が増加したのだという説があります。しかし投稿者の立場は「そんなことはどうでもよろしい。温暖化が進んでいること自体が問題なのだ。」となります。その理由を述べてみます。

例えば山登りをしていて、急に天候が悪化してきたとします。天候悪化の原因が、急に濃くなってきたガスであれ、急激に気温が下がって霙(みぞれ)が降ってきたことであれ、ともかく登山隊には危険が迫っている訳で、パーティは山を降りるか、避難小屋へ退避しなければならない訳です。温暖化の問題にも全く同じことが言えます。温暖化が進む結果、地球環境がますます悪化する事が明らかである以上、私たちはその原因として考えられるあらゆる可能性を排除していかなければなりません。最も確実な方法は、山登りでの避難と同様、少し高度を下げて(少し昔に戻って)みることです。1970年代には、確かに局地的な公害問題はありましたが、温暖化やオゾン層破壊や国境を越える酸性雨などの地球規模の環境問題は顕著ではありませんでした。ならば、まずはその当時の資源・エネルギー消費のレベルで暮すことを考えてみるべきです。その意味で、現在の京都議定書の基準年が1990年であることは、全くのナンセンスでもあります。バブル景気で加速され地球規模の環境悪化が問題になってきた時期のCO2排出量などは、その原因がどうであれ全く何の根拠にもならないからです。

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2006年12月28日 (木)

195 環境経営

企業も最早「環境」をさておいては存続できません。環境を意識した企業経営は「環境経営」と呼ばれています。では具体的に環境経営とは何を指すのでしょうか。投稿者なりの考え方を示します。まず大前提として「自然あっての人間、人間あっての企業、つまりは自然あっての企業」という事があります。自然環境の存続無くしては人間の存続もなく、企業存続の基盤も失われるということです。

次に「環境に負荷を与えずには置かないもの作りの本質」を十分に押さえておく必要があります。ものづくりやサービスの提供においては、資源採掘に関わるエネルギー・廃棄物、加工のエネルギー、産業廃棄物、使使用エネルギー、用済み製品の廃棄を抜きにしては語れないからです。そこに導入すべき視点がとしては、「単位製品当たりの投入資源・エネルギー」という係数欠かせません。つまり、同じ製品やサービスを提供するのに如何に少ない資源やエネルギーの投入で済ますかという経営的視点です。

例えばコンビニは、確かに現在は優れた小売サービスの業態と見られていますが、環境経営的視点を導入すれば、全く別の小売システムが考えられるはずです。大規模工場で作られた製品を、いくつかの配送拠点に集積し、更に小型のトラック配送システムで、日に何度も店に配送するシステムの代わりに、地元企業で作られた商品で品揃えし、その企業のトラックで直接コンビニまで配送してもらうシステムも考えられます。流通コストが大幅に下がる結果、工夫次第では店の利幅も大きく出来るはずです。品揃えは確かに少し減りますが、消費者もやがてはそれに慣れる事でしょう。よく考えてみれば頻繁な配送を要求するのは、実は生の食べ物だけなのです。それこそ、地元の家内工場で作り直接20-50軒の商店やコンビニに配送するのに最適な商品でしょう。

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2006年12月27日 (水)

194 木材力3

植物の代表である木材の力を語って語り尽くすことは出来ません。それは、植物が陸上に進出してから7-8億年という歴史の持つパワーを語ることになるからです。その想像も出来ない長い時間の経過の中で、植物はいたずらに時を過ごしていたのではなく、着実に進化を重ねて来たわけです。植物は、環境(つまりは土壌や大気や天候)から様々なストレスを受けただけではなく、その後上陸してきた動物からもあらゆる攻撃を受けることになりました。その中で、種々の物質を作り出しながら、それに耐える術を磨き上げてもきたのでした。例えば、セルロースやリグニンによって強い重力を克服して直立し、硬い樹皮や忌避物質によって昆虫などから身を守り、逆に種子の運搬では鳥や獣や風などを積極的に利用し、長距離の移動さえ実現してきました。

虫や獣や鳥も木材を利用し傷つけますが、しかし人間ほど徹底的に切り倒し、削り、燃やす生き物は(ビーバーの)ほかには存在しません。つまりは、木材力を弱めているのは専ら人間の仕業と言えるでしょう。木材力は利用し尽くすのではなく、育てながら上手く循環の軌道に乗せてやる必要があります。木材は少し手を掛けてやれば、勝手に何万枚もの葉を広げ太陽光を受け止め、日々バイオマスを生産してくれる、人間や他の生き物にとってかけがえの無いありがたい存在でもあります。

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2006年12月26日 (火)

193 木材力2

木材の力の元は、ほぼC・H・Oという「たった3種」の元素からなる、しかし気が遠くなるほど複雑な多数の物質の化学構造にあります。しかもそれらが廃棄され最終的に分解された場合にも、またH2OとCO2に逆戻りし、次の世代の植物の原料に戻るという最大の利点も持っています。勿論物質的に用済みになって廃棄する場合には、良質な燃料としてエネルギーも回収できます。考えて見れば、いくら石油が安い時代でも、資源の乏しい日本で木材力を活用しないという選択肢は無いはずなのです。石炭や石油も炭化水素の固まりですから、石炭や石油から作れて、同じ炭化水素の化身である木材から作れないものは原理的にはないでしょう。(素人考えですが)事実、木材セルロースから作られる高分子フィルムであるセロファンは、その湿度調節機能など優れた性質によって、現代でも重要な包装資材と位置づけられています。木材プラスチックが殆ど存在しないのは、単にコストの問題なのです。また1トンの木材からは、300リットル近くのDME(ガソリン様燃料)が抽出できます。ということは、石油に対しては燃料側と原料側の双方からの綱引きによる激しい奪い合いが始まるかもしれません。一方では木材資源としては、日本国内にも潜在的には上手く使い回せば10%近くは石油代替ができる量が存在しています。何しろ、私達は国土の2/3は森林で覆われている、世界でも稀な国に住んでいるのですから。

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2006年12月25日 (月)

192 木材力

放送大学では、植物や生物についてもかなり勉強しました。学んでみて気がついたのは、単純な驚きですが、それらは技術屋としての人生には全く無関係で済まされた知識だったという事です。生物の進化、木材の複雑な化学構造、生物の多様性、地球環境の歴史、生物と環境、気象、生物の共生関係などなど。一番感銘を受けたのは、植物が殆ど水と酸素と太陽光だけから作る複雑な有機物群の存在でした。取り分け、植物が進化した究極の形である樹木は殆ど驚嘆に値するほど複雑な生物システムでありました。幹の部分はセルロース、ヘミセルロース、リグニンなどの材料を巧みに組み合わせて、風雨に耐える構造を作り、根や枝葉を張り巡らせて水や養分や太陽エネルギーを集めるシステムを作り上げているのですから。太陽光の「集光装置」としての数万枚の葉を持つブナや、高さ100m以上にも達するジャイアントセコイヤの存在はその象徴でもあります。

残念な事に、木の化学=ウッドケミカルは、木材から紙やセルロース系繊維を取り出すために19世紀に長足の発展をしましたが、その後石炭化学や石油化学に押されて、研究者も激減したため、停滞を余儀なくされてきました。しかし、木材の原料としての潜在性は開発しつくされているとは決して言えません。リグニンの構造すら十分には決定されていないのが現状です。

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2006年12月24日 (日)

191 自転車社会のススメ

メタボリックシンドロームが毎日のようにマスコミを賑わしています。問題は大きくは2つ、つまりカロリーの取り過ぎと、運動不足であることは明らかです。先ず、何故カロリーをとり過ぎるかについて言えば、投稿者の見方は「食物中毒」ではないか、というものです。人間は「快」を与えてくれるものに対しては中毒になりやすい性質を持っています。例えば、酒、タバコ、麻薬、スピード、TVゲーム、ギャンブルなどなど。今や街では5分も歩けばコンビニに行き当たり、そこで簡単に手に入る食物は十分中毒の原因物質になり得ます。また運動不足に関して言えば、元凶は車社会であると断言できます。ドアからドアへ、天候に左右されず、疲れないで移動したいという過剰な欲求が車社会を拡大しました。日本においても車社会を実現するため、既に何百兆円もの「道路目的税」が道路建設のためだけに費やされてきました。その結果、集落横の美田がつぶされてバイパスになり、めったに車の通らない山間部の道路まで2車線の舗装道路になっていたりするわけです。

ここらで、この税金の一部を「環境目的税」及び「健康目的税」などに振り替えるべき時期にさしかかっているはずです。その前に、庶民は自らの贅肉(精神的にも肉体的にも)をそぎ落とす必要があります。先ずは使われずに倉庫で寝ている自転車に再登場してもらいましょう。会社まで10km以内でならゆっくり走っても30分もあれば到着してしまいますので十分自転車通勤圏内です。同じく、天気の良い日には自転車で散歩や買い物も楽しいでしょう。その結果メタボリックシンドロームも影を潜め、健康な社会にもつながります。またもし自分が事業主なら、自転車通勤者には多額の手当てを支給し、車通勤者からは駐車料を取るでしょうね。

いま思い起こせば、とにかく昔の人はよく歩きました。山の田畑に出かけるのに1時間、学校へ通うのにも1時間、町に買い物に出かけるのに2時間といった具合です。何しろ万病に効き、脂肪細胞で作られる「アディポ・・・・」とやらは、よく運動して初めて増えるもののようですから。

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2006年12月23日 (土)

190 誰にとっての損得

人は損か得かを常に考えます。そして多くの場合は、得とは「自分にとっての得」のことになるでしょう。損得の計算はそれ自体悪いことではないにしても、問題は損得勘定が非常に短期的な視点で判断されることです。具体的には、人間は長くても自分の一生程度のスパンで算盤をはじいてしまいます。その結果何が起こったかは、既にこのブログでもクドクドと書き連ねてきました。そうです環境問題は、短すぎるスパンでの損得勘定によって発生しているのです。

ナバホインデアンは、部族の方針を決定するに当たって「7世代後の子孫の幸福」を考えると言われています。アメリカ西部の急激な開拓や銃によるバッファローの大量殺戮は、彼らにとっては絶対許されざる行為に見えたはずです。アメリカの「西洋人による建国」からほぼ7世代経過した現在、彼らの子孫である「ネイティブアメリカン」が現在幸せに暮らしているか現地で確認するまでもなく、白人の開拓に強力に抵抗した彼らの決意は正しかったのでしょう。

人には目先の事しか見えないので、大きな損得に関しての決断は、結局それが「歴史」にならなければ正しく評価できないもののようです。その意味で、いま手をつけなければならない環境問題を、お金の損得で判断する危険をもっとまじめに考えて見るべきでしょう。

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2006年12月22日 (金)

189 太陽光発電

家庭用の太陽光発電について考えてみましょう。少し前の予測では、太陽電池のコストはドンドン下がり、やがて一般家庭でも手が届く価格になり、普及が一気に加速するなどという楽観的な予測が立てられていました。しかし、現時点で冷静にながめて見るとこれは既に夢物語になりつつあるような気がします。問題は、「シリコンの価格」です。シリコンは地球上にはありふれた原料ですが、しかし純度の高いシリコン結晶は、実は電力の塊です。従って原料の供給元は、電力料金の安い北欧や北米などに限定されています。一方で、IT産業の展開に伴って、シリコンの需要の右肩上がりが止まりません。結果起こっているのがシリコン原材料の高騰です。太陽電池は面積で稼ぎますので、パソコンのCPUなどとは異なり、シリコン価格は電池価格に直結するコスト要素になっています。直近の電池価格は、多分約60万円/kw強だと思いますが、これが例えば30万円に下がるのは、今や夢物語になりつつあるわけです。

投稿者も数年前から太陽光発電を検討しています。何度か見積も取りましたが、最終的なフンギリがつきません。そこで作戦を少し変えて、まずは小規模(例えば1kw程度)で初めて見ようと考えています。つまり、架台やシステム(パワーコンディショナーなど)は一式必要ですので、無理をしない程度で始めてみるわけです。データを取りながら節電をすすめ、2kw程度のシステムで買電額ゼロにしたいものだとも思っています。

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2006年12月21日 (木)

188 暖房服?

何も部屋を暖めたり、壁を暖めたりするだけが暖房ではありません。先に説明したように、体表面から輻射熱が放出され過ぎることが寒さの原因ですから、それを高い効率で反射するものを身にまとえば、寒くは感じないはずです。実際、北極圏を飛ぶ旅客機に必ず備え付けてある「ポーラーシート」はこの目的で作られたものなのです。これは薄いプラスチックフィルムにアルミニウムを蒸着させたもので、北極圏など寒い場所に不時着した場合(もし旅客機が壊れずに乗客が生きていた場合の話ですが)、乗客は寒さをしのぐためにこのポーラーシートで身を包みながら、救助隊を待つことになります。

そこで考えたのですが、このシートを例えばゆったりしたセーターの全面に貼り付けておけば、冬場暖房の無い部屋でも十分快適に過ごせるはずです。手足は多少冷たく感ずるでしょうから、厚手ですっぽりと足が入る部屋履きと、手先をあっためるミトンが必要かも知れません。でも頭はいつでも冷たい状態なので、勉強するには逆にベストなコンディションになるはずです。実物を見たことはありませんが、宇宙服は寒さ対策として多分同様の考え方で作られていると思います。誰か試作してみて、それが具合よければ製品にしてください。そしてもし売り物になるようでしたら、アイデア料として投稿者にそのセーターを1着プレゼントしてください。

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2006年12月20日 (水)

187 輻射型冷暖房2

輻射型冷房の続きです。夏の冷房時は、壁の温度は15-6℃にはする必要がありますが、これは実は井戸水の温度程度です。一方今のエアコンの噴出し口の空気温度は、6-7℃程度まで冷やされているのです。温冷風と輻射のどちらのエネルギー効率が高いかは明らかですね。それと夏場だけモンスーン気候に支配される日本の気候の過ごしにくさの原因は、大部分は高い湿度にあります。少しの温度低下とかなりの湿度低下が理想的な日本の冷房方法です。

輻射型冷暖房に必要な要素は、太陽熱温水器でも容易に得られる30℃程度の暖房用温水源または15-6℃程度の冷房用の冷水源に、細かいチューブを仕込んだ壁、水を循環させる小さなポンプだけです。全くのローテク製品ですが、不思議な事に日本ではこの種の冷暖房システムを手がけている企業は殆ど見られず、かなり魅力的な市場に感じられます。もし投稿者が起業家であれば放っては置かない分野です。

投稿者が知る限りでは、ヨーロッパでは銅管とアルミ板を組み合わせた放熱壁が量産されていて、普及段階に入っている様です。日本でもT社だけが手がけていますが、残念ながらコストが壁になって採用実績はまだ10本の指で数えられる程度にとどまっています。

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2006年12月19日 (火)

186 輻射型冷暖房

投稿者が行ったペレットストーブの開発では、熱輻射(熱放射)についてかなり勉強しました。最も大きな収穫は、冷暖房に関する考え方が大きく変わったという事でしょうか。それまで、冷暖房とは冷風や温風によって部屋の温度を人間が心地よいと感ずる温度(夏は26℃前後、冬は20℃前後)に調節する事だとぼんやり考えていました。しかし、輻射という概念を突き詰めて考えてみると、人間などの動物や植物にいたるまで生き物は、種々の波長の広い意味での光(電磁波)によって恩恵を受けていることが分かってきました。(勿論、水の中で暮している生物は水の温度に完全に依存していますが。)

さて、冬に人間が寒さを感ずるのは実は気温ではありません。体表面、具体的には首筋や背中などから放散される輻射熱が、壁などから来る輻射熱との差し引きで、あるレベル(しきい値といいます)以上マイナスとなった時、初めて寒さを感ずるという順番です。特にガラス窓から外に輻射熱が逃げているような場合には、部屋の温度が多少高くても寒く感ずるはずです。厚いカーテンは、部屋の温度を保つのが役目ではなく、外に逃げる輻射熱を遮断するためのものだったのです。ですから、冬場部屋の温度が例えば10℃以下でも、壁の温度が例えば30℃程度になっている場合、人間はかなりの薄着でも寒さを感じない事になります。それは、体表面が壁から適度な輻射熱の補給を受けているからです。これが輻射型暖房の原理ですが、30℃程度の温水であれば、冬場でも太陽熱温水器などで十分作れる温度なので、石油温風ヒーターやエアコンなどで作る50-80℃程度の高い温度の熱源に頼る必要がないのです。

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2006年12月18日 (月)

185 図書館の省エネ

よく利用する小規模な図書館で、日中は点灯されっぱなしになっている書架の照明に気がつきました。数えてみるとこの図書館の開架は31台あってそれぞれ27wの蛍光灯12本で照明されています。しかし、窓が広いこの図書館では、日中であれば書架の閲覧には全く照明の必要は感じないのです。ためしに電気代をざっと試算してみたらなんと年間50万円にもなる結果となりました。それぞれの書架に個別のスイッチを設け、照明の必要な人にその都度点灯してもらうように改善するだけで、多分実質でも40万円以上の省エネにつながるはずです。

考えてみたらこの図書館は県税で運営されており、我々が払った血税が使われているのでした。急に腹が立ってきたので、早速管理責任者に改善の提案を出しておきましたが、こんなムダは実は何処にでも転がっているはずで、特に公共施設では目に余るものがあります。一方省エネに気を使っている企業では、環境ISOの取得が盛んになり始めた10年以上も前から天井の蛍光灯には個別に紐付きスイッチをつけ、席を離れる都度自分の机の上の照明は消灯するなど良い習慣を守っているのです。もっと「始末」している企業では、天井灯は入り口や通路だけにして(それもかなり間引いて)、机には蛍光灯スタンドだけを付けている例もあります。どうせ似たような製品を買うのであれば、投稿者は当然この様な会社の製品を買いたいと思っています。何故なら、「単位製品当たりの投入エネルギー」が小さいからです。

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184 移動の省エネ2

146でも取り上げましたが、さらにつけ加えます。車については真剣に考えなければならない問題があります。それは、車は移動手段としては「重過ぎる」という点です。簡単のために、例えば人間の体重を60kgとし、平均的な大衆車の重量を940kgと仮定すると、運転者が自分自身を運ぶ場合は全体で1トンの重量になるわけです。ガソリンが持つエネルギーを100とした場合、車が推進力として取り出しているパワーは20程度ですが、実はその94%は車自身を移動させるために費やされていることになります。人間の移動に役立っているのは、残りの僅か6%です。したがって、元々ガソリンが持つ100のエネルギーから見れば、純粋に人間の移動のためにはたった1.2(1.2%)しか使っていないという計算になります。

もしこれが140kgの重量の単車を使った場合には、最終的に移動に関わる効率は約6%に向上しますので、単純に言って車の5倍(エネルギーとしては1/5の消費)の効率が得られるわけです。勿論、自転車を使えば、効率は車に比べ「無限大」に大きくなります。たった一人しか乗っていない車を見るたびに、重い殻を背負って動いているカタツムリを連想してしまいます。車はエアコンまで装備した動く小部屋でもある訳です。これが贅沢ではなく何を贅沢というのでしょうか。10km以上遠くへでかける際には、(少し恥ずかしく感じながらも)単車を使っている投稿者としては、いつも嘆いている次第です。

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2006年12月17日 (日)

183 カント後

放送大学で「総合人間学」も勉強中ですが、関連して今はカントを読んでいます。あまりにも有名なこの哲学者を知るにつけ、先人の思索の奥深さに改めて感銘を受けています。カントの偉大さゆえカント後の哲学者は、いやおうなしにカントの思索を踏まえて自分の哲学を打ち立てなければならないのですが、それをたとえ批判的に引用するにせよ、この偉大な哲学者をよけて通る事は決して許されない訳です。

どうせ教養として哲学の表面を眺めているだけなので、それほど単純ではないのですが理解した範囲で無理やり簡単に説明するなら、カントの思索は次の4つの問に集約することが出来ます。つまり、1)私は何を知り得るか、2)私は何を為すべきか、3)私は何を望んでよいか。加えて、人間の本質を問う4)人間とはなにか、ですが4)についてはカントも終生その答えを探し続けたものと思われます。

環境おじさんを目指す投稿者は、これを勝手にパクッて、次のように書き換えました。1)私は環境について何を知り得るか、2)私は環境保全のために何を為すべきか、3)私は環境に何を望んでよいか、です。加えて、本質を問う第4の問である4)環境とは一体なにか、については、あまりに複雑すぎて、ホンの一部しか理解することができないでしょうし、老い先もそれほど長くはないのですが今後一生問い続けることといたします。

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2006年12月16日 (土)

182 自転のおかげ

地球の殆ど全ての生命は太陽光の恵みを受けています。殆どというのはごく少数の例外があるからです。例えば、地中深くあるいは深海の熱水口の周りに棲むある種の微生物や生物は、硫化水素など太陽光以外のエネルギーで生きています。ところで投稿者は、最近太陽光に加え、地球の自転が生物にとって重要な要素であることに気がつきました。地球は、太陽から絶妙の距離に浮かんでいる結果、大気にも守られて平均15℃弱という生物に理想的な環境を実現しています。しかし、もし地球の自転周期が48時間など今より少し長くなっただけで、昼と夜の気温差は極端に大きくなります。もしそれが、夏と冬の気温差になれば、生物は「1日毎に冬支度」をしなければならなくなるでしょう。熊は夜になるとただ寝るのではなく「冬眠」しなければならないのです。しかしラッキーな事に地球では1日はほぼ24時間です。

また自転のおかげで、風や海流にも循環が生まれ、深海の栄養塩や大気も適度にかき混ぜられています。自転のおかげで地球磁場が生まれ、自転のおかげで生物にリズムが刻まれます。植物の光合成は、実は昼にしか行われず、夜は植物も呼吸して酸素を吸収しているのです。昼夜で異なる活動が行われる結果、植物も植物して活動を続けられることになります。勿論人間も夜ぐっすり眠ることができなければ、寿命は何分の一かに短縮するはずです。(ちなみに最適な睡眠時間は7時間程度であり、長くても短くても健康を害します。)これらの恵みはまさに自転のおかげだと言えます。

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2006年12月15日 (金)

181 生物の偉大な力

「複雑系を超えて」というタイトルの本の中で、K.ケリーは地球上の岩石もその多くが生物活動の結果できたものであるというヴェルナツキーの説を紹介しています。具体的には、ヒマラヤのかなり標高の高い場所でアンモナイトなどの「海の化石」が発見されますが、つまりヒマラヤ地方もかつては海底であったという証拠です。海底に蓄積する土壌は、実は生物自体の死骸や生物活動の結果の代謝物が蓄積したものが殆どを占めています。つまり、岩は、確かに一部は溶岩そのもので出来ていますが、例えば火山の高い熱を受けて性質が変わった「変成岩」を含め、地表に出ている多くの岩石の大半は堆積岩で、生物活動の結果生じたものだといえます。

実際、オーストラリアや南米に産出する純度が高く、厚さ数百メートルに及ぶ鉄鉱床は、実は太古の(鉄を好む)微生物活動の結果濃縮された海中の酸化鉄が、沈殿堆積して出来たものであることが分かっています。微生物の死骸が数百メートルの厚さに堆積するには、想像を超える長い時間の経過の結果でしか実現しません。多分億年単位の時間が必要なのでしょう。ちなみに、一般に土壌が30センチメール堆積するのには1千年程度必要だといわれています。私たちはその鉄鉱石を、500トン積みの巨大なトラックを使って掘り出し、年間約1億トンレベルの量の鉄を精錬して消費しています。生物による数億年の蓄積を、たった数百年で消費してしまう「人間の営みの異常さ加減」を、いま改めて認識するべきでしょう。

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180 技術中毒

技術バカについては既に述べましたが、それを通り越すと「技術中毒」に陥ります。技術バカはそれから覚めると、投稿者のように環境バカなどに転向することも可能ですが、技術中毒から抜け出すのは至難の技です。何故なら、技術社会は既にあまりに便利にしかし複雑になりすぎて、一個人や小さな集団の力では、最早コントロール不能になっているからです。いくつかの例を挙げれば、人間に役立つものとして開発されたフロンやDDTが、自然のメカニズムの中では逆に生物や人間自身にも害悪を及ぼしていますし、人間の力を何十倍にも拡大してくれる石油エネルギーの大量消費の結果も温暖化現象となって我々に襲いかかろうとしています。

技術中毒の怖いところは、中毒者は自分が中毒になっている事さえ気づかない点にあります。目に見えず、日常生活では意識もされる事もない空気と同じように、技術があまりに身近過ぎて、それが無くなった時の事を想像すら出来ないのです。たぶん水に潜るか、空気の薄い高い山に登ったとき、人は初めて空気のありがたさを実感するだけです。技術バカとして、技術中毒を支えてきた投稿者としては、この中毒患者をどうにか救いたいと考え、あえて「環境中毒」の道を選んだ訳ですが、ささやかにこのブログで警鐘を発しながら、明日からも「環境・環境・・・」と経を唱える日々が続きそうです。しかしひどい中毒症状は、田舎で超不便な生活を経験するなどして、「技術的禁断症状」を経験しないと改善しない可能性もあります。

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2006年12月14日 (木)

179 作られたものと生まれたもの

最近読んだK.ケリーの本の中に出てくる「作られたもの」と「生まれたもの」という言葉が心に引っかかりました。これはとりもなおさず、「人工物」と「自然物」を指します。我々が、冷たい金属や滑らか過ぎるプラスチックなどの人工物に触る時の「違和感」に比べ、暖かい木や天然繊維(綿や羊毛や絹など)や動物などに触る時の「癒し感」の差は、このことから来ているのだと改めて感じさせられます。その一方で、作られたものと生まれたものは、今や境界線がぼやけてきても居ます。つまり、天然自然というまだ人間の踏み込んでいない土地は、既に地球上では非常限られたエリアにしか存在せず、また多くの「生まれたもの」も人工的な操作(例えば品種改良や遺伝子操作など)で人間の都合の良い形態に歪められています。食べ物の多くは、既に作られたものにもなっています。野菜も果物も養殖されている魚も食肉も例外ではありません。という事は、少し頭がおかしくなりそうですが、それを毎日口に入れている我々人間も、実は人間によって作られた存在だとも言えます。

既に行われてしまったこれらの人為的操作を打ち消すことは難しいのですが、もし我々が今後持続可能な社会をめざすのであれば、資源やエネルギーの多くを「生まれたもの」に頼る方向で見直していかなければならないと考えられます。勿論、それを「生む」エネルギーの源は、太陽光である事は言うまでもありません。「生まれたもの」をベースに考えるのが、本来の環境ビジネスの大原則でもあります。

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2006年12月13日 (水)

178 無くても良いもの

農産物の話のついでに「奢侈(しゃし)」について書いてみます。奢侈とは必要以上の贅沢の事で、つまりは無くても良いものとも言えます。我々の生活を省みてみると、現代社会は奢侈に完全に取り囲まれているとさえ言える状況です。身の回りにある製品をいくつか取り上げて、それが1週間使えない状況を想像してみてください。多分、食生活に関わるもの意外は、無くてもどうにか済ますことが出来るはずです。テレビ、パソコン、携帯電話、掃除機、車、エアコン、洗濯機などなど。これが使えない場合でも、昔使ったやや不便な方法で代替できるはずです。即ち、ラジオ、手紙や紙と鉛筆、固定電話、ホウキ、自転車+電車、コタツ、タライとブラシなどです。

つまり、省エネや省資源といった、環境負荷を下げる活動を進めるためには、身の回りの奢侈に目を向ければ良いわけです。まずは1ヶ月間無くても済むもの、次は1週間無くても済むものと徐々にレベルを上げていけば、身の回りのかなりのものが姿を消すことになります。年配の方は、自分の子供時代のガランとしていた家の中を思い出してみれば納得できるでしょう。その時代を知らない若い人は、カバン一つで引越しをした状況を想像してみてください。そして、絶対買い込まなければならないものをリストアップしてみてください。その日にすぐ必要なもの、次の日でも良いもの、次の休日までに買えばよいもの、使う時になって考えれば良いもの、無くてもレンタルで借りれば済むもの。勿論、お金を切り詰めながらの生活を想像してもらう必要があります。或いは、無人島に流れ着いた時、絶対必要な10アイテムを挙げて貰っても良いでしょう。リストアップしてみれば気づくのですが、大切なものの順番はそれらが発明され、あるいは使われ始めた歴史の順番に並ぶはずです。つまりは新しいものほど限りなく奢侈になるということになります。

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177 農林業問題

農林業問題は、環境問題でもあります。以前農林業は「環境維持業」でもあると書きました。まさに農地や林地は人工環境であり、それを維持することが前提の農林業は、間違いなく「(人工)環境維持業」です。そうであるならば、現在の農林業の置かれたひどい状況は、人工環境の維持放棄以外の何ものでもなく、決して看過できない「異常事態」であるといえます。ではどうすれば良いのかですが、何度か指摘しているように、農林業は「産業」ではないので、経済論理からは切り離して議論する必要があります。具体的には、金が儲かる、儲からないでしか議論しない「経済論理」から隔離する必要があります。勿論都市部の一般市民も食糧の調達が必要なので、農産物を経済市場に出さないという選択肢は取れないでしょう。しかし、特に食べ物は他の工業製品とは明らかに「異なるカテゴリー」の商品ではあります。つまり車が無くても死ぬ人は出ません(むしろ交通事故死亡者分だけ減る)が、食べ物が無くなれば人は数週間の内に確実に死にいたります。

つまり元々食糧や林産品と工業製品を、同じ市場に並べて売買することに無理があるのです。現代のインフラの事情からそのようにせざるを得ないにしても、例えば多くの国がそうしているように、一般消費財と食糧の税率は大幅に差をつけるべきでしょう。そして一般消費税の財源の中から拠出し、中小規模の農林業もどうにか成り立つ様に、インセンティブで誘導する必要もあります。

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2006年12月12日 (火)

176 価値の重み付け

抽象的な議論が続きますが、避けて通れない問題として価値の重み付けがあります。つまり経済的価値として値段を付ける為だけではなく、利害の対立する構図やいずれかを選択しなければならないケースでは、どちらをどの程度優先させるべきか、順位を付ける必要があります。そこで必要となるのが価値の重み付けですが、ここでも「誰のための(何のための)価値か」という根本的な問に答える必要があります。これは、ある環境に負荷を与える技術や化学物質に対し、どんな価値の実現に貢献しているのかという問に置き換えることが出来ます。

車の例で言えば、雨に濡れずにいつでも移動できるという車の機能は、どんな価値の実現に役立っているのか、という問に重み付けに評価を添えて答えなければならないという事です。それが、楽に移動できるというだけの価値ならば、その楽をすると言う価値が、環境に与えるマイナスの価値よりも十分大きいことを証明する必要があります。ある意味では、車は一つの技術であった時代は終わって、既に衣服や靴などと同じファッションというレベルと同じとなったとも言えるかも知れません。つまり、車に関してそれを所有する価値云々という以前の、身につけるアクセサリーのようにそこにある存在にまでなったとも言えます。個人の好みが多様で価値についての評価が難しいアクセサリーと同様、車の価値の重み付けもまた難しい作業になったといえます。

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2006年12月11日 (月)

175 安全の値段

「環境か経済か」の議論は多くの場合、「安全の値段」という見方に置き直す事も可能です。しかし安全の値段付けは単純なトレードオフの関係式では処理できません。つまり、「どのくらい安全なら本当に安全と言えるか」という問には答えが出ないからです。製品の安全に関して言えば、メーカー側とユーザー側では、その境界線が大きく異なり両者の間には大きなギャップがあるはずです。同様に、環境保全に関しても、「どの程度までの環境負荷なら環境の保全に影響が無いか」という問についても環境学者と経済学者の間には深い溝が出来るはずです。PL法により安全が絶対的な価値を持ってきたような錯覚を覚えますが、いまだに「市場が新製品の実験場」である状況は変わっていません。何故なら、開発から市場に出すまでの数ヶ月や数年程度の期間では、とてもとても全ての故障や事故のケース(Failure Caseと言います)について安全であると確認するには、時間的にもコスト的にも無理だからです。ましてや、環境悪化に関して言えば、その影響が明確になるまでには、狭い範囲の公害問題ですら数年かかり、酸性雨や温暖化やオゾン層破壊といったスパンの長い現象では、数十年という評価期間が必要となるわけです。判断が出るまでの間は、因果関係がグレーのまま、しかし経済活動は止まることなく続けられることになります。実際に被害が出始める様になって、初めてその被害額から算定して安全や環境保全に値段が付けられるのが現在の経済社会の仕組みです。京都議定書もその意味では後追いの「焼け石に水決議」に過ぎません。勿論、やらないよりは100倍はマシではあります。

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174 環境の値段

環境か経済かの議論は、過去も繰り返されてきましたし、今後もとめどなく繰り返されるはずです。それは環境に、経済的な意味での「値段がついていない」という単純な理由によります。例えば、日本の森林が持つ価値を試算した例がありますが、それは単純な仮定に基づいて計算した電卓の示す数値であり、「経済学者が認めた値」ではないのです。ましてや、一般市民がその価値を守るために支出しようという金額とは何の関係もない値であるといえるでしょう。一方で、環境に価値を見出す側の一般市民についてみても、個々人の価値観のよって、環境価値への値踏みも全くバラバラでもあります。

環境人間と経済学者と一般市民の終わりの無い、しかも噛み合わない綱引きは、その例に事欠きません。全くの未開の地を発見した先人が、その地を自分のものだと宣言し、そこを開拓しその土地やそこから取れる産物を売り買いすることによって経済が成り立っている訳ですが、筋金入りの環境人間はその土地所有宣言そのものが間違っていると主張します。何故なら、その土地には元々住んでいた動物や植物の種が存在し、それらも人間同様そこに生存し続ける権利がある筈だ、と主張するからです。そこまで極端な議論ではなくても、やはり人間の権利は、環境の前では「かなりの程度制限されるべき」であるというのが投稿者の立場です。何故なら、環境には値段が付けられず、本来お金では買えない「脆くかけがえの無いもの」だからです。

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2006年12月10日 (日)

173 宮崎駿的自然観

日本人が古来から持ち続けてきた自然観は、「トトロ」や「もののけ姫」に代表され、一貫して宮崎作品の底流を流れる「宮崎駿的自然観」に結構近いかも知れません。我々の祖先は、太陽や山や大木や滝や大きな岩に人格(神格)を見出し、それを敬ってきたのでした。その証拠は、各地にある神社のご神体が何であるかを考えて見れば全く明らかです。それは、自然物に対する畏敬の念であり、暗闇や嵐や雷などの自然現象への恐れに基づいた自然観でもあります。50代半ばである投稿者にも、この自然観はスンナリ理解できます。それは、たぶん子供時代にこれらの自然が色濃く残っていた田舎で暮して居た事が大きな影響を与えていると考えています。

その意味で、まだ自然の残っている田舎で暮らす経験こそが、宮崎駿的自然観を持ちながら自然に寄り添う事ができる人々の条件になるかも知れません。都会で生まれ育った現代の若者や子供達にそれを理解してもらおうと考えるのはどだい無理な話かもしれません。それが、環境カウンセラーとして数年間活動してきた経験からの感触でもあります。しかしながら、この壁をブレイクしない事には、環境おじさんとしては失格になってしまいます。救いは、よく社会や自分自身について考える若者ほど「このままではいけない」との危機感を持っているという事実です。彼らを含めた若者世代が宮崎駿の作品群からどんなメッセージを受け取ったか、じっくり聴いて見たいものです。何より田舎での生活体験こそが必要です。近い将来は、是非そのための枠組み作りに携わりたいとも考えています。

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2006年12月 9日 (土)

172 言葉による価値観変化2

技術やそこから生まれた言葉によって、我々の考え方や価値観が変わったと仮定すれば、環境問題に関しても全く同じことが言えるかもしれません。事実、現代の日常会話にも環境関連の言葉が徐々にではありますが増えています。例えば、「今月のリサイクルの日はいつだったかなー」、「今日はやけに暑いな。温暖化の影響かなー」、「今度学校でねエコツーリズムに行くんだよ・・・」、「今度隣に出来た家は太陽光発電を屋根に載せているね・・・」、「この辺も緑がすっかり減って環境が悪くなった・・・」、「4駆が走り回ってウミガメの産卵場所が荒らされた・・・」、「ダムができて自然の生態系が崩れた・・・」、「いま会社で環境ISOの取得に取り組んでいる・・・」、「今度できたLOHASショップに行って見よう・・・」などなど。

これらの会話が夕食のとき食卓で普通に交わされるようになれば、将来に少し希望の光が差すかもしれません。何故なら、言葉は考え方や価値観に強い影響力を持っていますので、言葉がやがて行動を変えていくからです。投稿者は、これらの環境用語を日常語とするための伝道師(環境おじさん)となる事を決心したという訳です。

したがって、もうこれ以上環境に関して書く事が無くなったと投稿者が感じるまで、読み手の皆さんには「環境ガチガチ」話ばかりで申し訳ありませんがこのブログを書き続けることといたします。とは言いながら今後は、できるだけ努力して柔らかい話題も取り上げるようにします。

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171 言葉による価値観変化

当たり前のことですが、人間は「言葉」を使ってしか考える事ができませんし、言葉によって思考や行動も影響をうけます。例えば、現代では科学・技術用語によって我々のものの考え方価値観までもが影響を受けています。その例は山ほどありますが、日常使う言葉に最も明瞭に表れているような気がします。例えば、いまから20年ほど前にはコンピュータはありふれたものではありませんでした。1990年中盤に至って個人が普通に使えるコンピュータであるPC(パソコン)が現れ、更に携帯電話が普及して、日常会話もすっかりこれらの技術用語に染まってしまいました。いわく「今日の仕事のアウトプットは・・・」、「顧客とのインターフェイスの改善・・・」、「今月の売り上げデータは・・・」、「明日の出張のアクセス方法は・・・」、「就職活動のためのエントリー・・・」、「メールでアポをとる・・・」、「我社でもEコマースが拡大し続けている・・・」などなど。まさにコンピュータや技術用語無くしては毎日の会話が成り立たないほどです。

逆に言葉は我々の思想や価値観にも大きな影響を与えます。キリスト教の影響を受けている国々では自然それに関する語彙が多いでしょうし、日本語は当然の事ながら漢字や仏教を輸入した中国やアジアの影響を受けているはずです。同様に、戦後急速に(特にアメリカ経由で)導入された技術用語やコンピュータ用語が我々の文化や価値観にどのような影を落としているか、今の時点で一度考え直し、評価しておく必要があるような気がしています。

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2006年12月 8日 (金)

170 目的の無い技術

161で目的と手段を取り違えた技術バカのことを、投稿者の反省を交えて述べました。しかしながら、もっと悪いのは現代の経済・技術主導社会の指導者が、目的そのものを見失っているという事態です。今の社会の指導者や世論の風潮は、「特に目的はないが進歩し、豊かになるのは良いことだ」と言っている様なものではないでしょうか。つまり目的もなく技術を進歩させ、目的もなく経済規模を拡大させることが、社会の「仮の目的」となっている様に見えてしまいます。

そうではなくて、我々が人間として、社会として存続する意義は何で、そのためには何を目的と定めて生きていくべきで、そのために必要な技術や社会基盤は何であるか、という順番で思考しなければならないはずです。ナノテクやバイオテクやITや車といった技術や製品が、一体何の目的で開発され使われなければならないのか、という根本的な議論は最近殆ど聞かれなくなっています。「まず科学技術ありき」、「まず経済規模拡大ありき」は20世紀で終わらせなければならないアプローチだ、と考え直さなければならない時期です。では何が目的となり得るかですが、それは、この地球という環境の中で「人類を含めた地上生物の持続的な生存」に置くべきだというのが、投稿者の立場です。この方向に向かっていない全ての技術は、やがては行き詰る「目的を失った技術」に陥る運命にあります。

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2006年12月 7日 (木)

169 便利=不便の法則

久し振りに法則シリーズです。われわれは便利さを追求してきました。その良い例が自動車の発明です。昔から、人々は天候に左右されないで、速く快適に移動したいという強い欲求を持っていました。屋根つき、御者つきの馬車は、しかし金持ちの乗り物にしか過ぎませんでした。しかし、J.フォードがT型フォードの量産に成功して以降、自動車は庶民のこのニーズを満足させ続けてきたのでした。

しかし、便利なことは一面で不便であることを自動車は証明してもいるのです。車の不便さを徹底的に挙げてみましょう。1)燃料がないと動かない、2)運転に熟練が必要、3)急には止まれない=事故が避けられない、4)道がないと走れない、5)鳥の鳴き声や自然の香りが届かない、6)景色を十分には鑑賞できない、7)依然高いコストが掛かる、8)排気ガスが出る、9)廃車の完全な処理が出来にくい、10)運転者は酒が飲めない、11)足腰が弱る、などなど。暇に任せて挙げればこの10倍くらいは不便さをリストアップできるでしょう。

車の例の様に、便利過ぎるものほどより多くの不便さや欠点も併せ持っている様です。もしかするとこれは法則になるかも知れません。法則風に表現するなら「便利さと、その裏腹の不便さは比例する」或いは「便利=不便の法則」とでも言えるでしょうか。便利さと、環境に与える負荷の大きさが比例するのと同様、便利さは「諸刃の剣」であるわけです。

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168 太陽主義

ココログのシステムメンテナンスのためこの2日間アップできませんでした。まだまだ書きたい事もあり、決して中断した訳ではありませんので念のため。

さて投稿者の立場を一言で表現するなら「太陽主義」でしょうか。この太陽主義が、太陽神(アラー)を崇拝する砂漠の宗教と何が違うかと問われれば、多分そんなに違いは無いのかも知れません。精々「主義」と「宗教」との違い程度です。何しろ、生命のほぼ全ては太陽光に依存していますので、一生物種である「ヒト」の、一個体である投稿者は太陽主義にならざるを得ない訳です。勿論、5年ちょっと前までは、投稿者も石油主義・科学(技術)主義に凝り固まっていました。その改宗は突然始まった訳ではありませんが、行動はかなり思い切って起こしました。とりあえずは技術屋を卒業し、改めて何屋で生きていくのかを見定めた訳です。それは初回にも書いた様に「環境カウンセラー=環境おじさん」という職業の選択だったのです。

同時に、太陽主義への改宗も起こったという訳です。太陽主義者の特徴としては、資源やエネルギー源を徹底的に太陽起源のものに求めるという行動特性を挙げることができます。これは、何のことは無く、石炭や石油を大量に使う前の、伝統的な生活スタイルを志向することを意味します。太陽主義は質素な生活を求めますが、決して惨めな生活ではありません。生活リズムは日の出と日没時間に大きく依存しますが、体にとってもその方が良いに決まっています。何しろ、それが人類の誕生以来のリズムであったのですから。太陽が恵んでくれる自然の食物や羊毛や木綿や木材などの素材も、自然に還る材料であるため、廃棄物処理に悩むことも皆無です。あらゆる面から見て、持続可能な社会は「太陽主義」を求める事が明らかです。

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2006年12月 5日 (火)

167 バランスの回復3

バランスが崩れたのは形のあるものばかりではありません。最も大きなバランスの崩れの代表は、夜と昼の比であるとも言えるでしょう。その昔、夜と昼はほぼ同じ比率でした。夏冬で差があるにしても、昼は夜明けと共に始まり、夜は日暮れと共にやってくるのでした。夜の照明(油やロウソク)は高いので、暗くなると人々は寝床に入るしか仕方がありませんでした。

産業革命はエネルギー革命でもありますが、その最大の影響は夜の生活に及びました。庶民が照明を自由に使えるようになるにつれ、夜は「昼化」し始めたのです。更に高度成長期以降、エネルギーが潤沢に使えるようになってからは、夜間の街も明るくなり24時間営業の店舗や深夜番組など、夜も寝ない世界が出現しました。夜は一日の1/3以下に縮小し、逆に昼は昔の1.5倍近くに長くなりました。同時に、昼の始まる(朝の)時間も遅くなってきました。

このバランスの崩れを元に戻すことは、早寝早起きが本来の生理的リズムなので体に良いだけではなく、実は効果の高い省エネ政策にもなり得ます。多くの国々で何の問題も無く実行されているサマータイムが、日本で採用されない理由が全く理解できません。夏場は早起きして、涼しいうちに仕事の能率を上げ、日光の明るさをより多く利用し、明るいうちに帰宅し、安らぎの夜を長くするサマータイム制に何の欠点も無いからです。投稿者は時間の自由が利く身分になって、今では種々の「一人時間差」のメリットを利用できる様になりました。

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2006年12月 4日 (月)

166 バランスの回復2

バランスが崩れたものは人口の構成比だけではありません。55年体制と呼ばれる政治体制やそれに隠れた形ではありますが、経済もやはり55年体制に移行したのでした。即ち、経済企画庁・通産省指導による「日本株式会社」経営の流れの事です。この「会社」の経営方針により、先に述べた人口移動や産業のバランス崩壊の流れが形成された訳です。一方では、モノ・金の中央集中がものすごい勢いで加速され続けてきたとも言えます。

その結果、健闘を続けてきた地域の地場産業は廃れ、一層の都市集中が進んだのでした。地方の自治体は、地方交付税というニンジンによって誘導される駄馬になってしまいました。それも若者という活力を抜かれ年老いた駄馬にされてしまったのです。養老猛が好んで用いる、「田舎は体で都市は脳である」という比喩に従えば、日本は無理なダイエットの結果、体がどんどんやせ衰え、体調を崩したの若い女性にも似ています。

体(田舎)の栄養バランスとは、とりもなおさず農林漁業にベースを置く、地域経済の活性化に他なりません。人・モノ・金の全てが、中央というチャネルを通してしか流通しない異常な事態を早く脱して、中央とバイパスとしての地方という二本立ての安定したチャネルを持つシステムこそ、より持続可能な社会へ近づく近道でしょう。動脈だけを太くした結果何が起こったか、山積する問題を考えてみれば明らかです。いま必要なことは、太すぎる動脈をスリム化し、一方では末端に達する地域の「毛細血管」と最終的にそれを集める静脈システムを正しく整えることです。地域の時代といわれる本当の意味はここにあります。

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165 バランスの回復

戦後の高度成長期を通じて、バランスが崩れ続けてきたものは非常に多く存在します。取り分け、都市と田舎の人口比、結果としての第3次産業と第1次産業(特に農業従事者や林業従事者)のバランスの崩れが大問題です。海外(特に欧米諸国)ではこの問題を、農場の大規模化・機械化などで表面上はどうにか切り抜けてきました。しかしながら、北海道や一部の平野部での大規模農業を除けば、山間地や狭い圃場が大部分を占める日本型農業は、元々この流れには乗り切れない体質を持っています。つまり、狭くて傾斜の多い国土の利用には労働集約型農業しか馴染まないわけです。林業も全く同じ事情を持っています。急傾斜地に密に植林されている日本の人工林の利用は、間伐や枝払いや下草刈りは多くの林業従事者の存在が前提となっていました。工業化と都市化によって工場や都市が、これら農林業人口を強力に吸い寄せた結果、山や田畑は荒れるに任せる現在の状況を生み出してしまったのです。

これに歯止めを掛けるには、都市から農村への人口の逆流以外に解決策は見つかりそうもありません。今後その呼び水として先頭に立つべき世代こそ退役した団塊世代とそれに続く投稿者の世代であるはずです。日本の山間地の環境を守りながら、そこから得られる再生可能な資源を最大限利用するには、消費者自らが何らかの形で生産者になる「部分的な自給自足生活」以外に答えは無いだろうと考えています。

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2006年12月 3日 (日)

164 団塊世代に恨みは無いけれど

156でも書いたように投稿者が意識を転向させたいと狙っているターゲットは、(特に恨みはない)団塊世代ですがその中でも特に技術バカでもある集団です。元技術バカであり団塊直後世代でもある投稿者が自分で勝手に反省し、たどり着きつつある環境バカの世界に、如何に早く彼らを引っ張り込むかが当面の課題です。何しろ、彼らは良い意味でも悪い意味でも、強いパワーをもって経済社会であり技術社会でもある日本を引っ張ってきた実績があり、オピニオンリーダーであり、人的パワーも多分お金も持っています。もし彼らが完全引退し、退職金や子供の世代からむしり取る年金で、便利で快適な定年後の生活を都会で送る事を望むとしたら、環境悪化のカタストロフィーも加速し続ける結果を招くでしょう。何しろ彼らは3学年で800万人もいる社会的多数派ですから。

しかし、彼らに幼年期に叩き込まれたはずの「勿体無い精神」や「節約」や「我慢」を思い出してもらい、その楽しさや大切さ実感させることに成功するなら、彼らから強い影響を受けるであろう彼らの孫世代も、自動的にジーちゃんやバーちゃんを真似することになるでしょう。これが投稿者の目論見であり、持続可能社会に例え半歩でも近ける一つの戦略でもあります。本ブログをここまで読んでしまった団塊の世代でもあるあなたは、覚悟を決める必要があります。勿論ここで覚悟を決めるまでもなく、団塊世代が生きている間に間違いなく「環境からの要求事項」が突きつけられますので、孫世代が可愛ければ、その要求には従わざるを得ないはずです。好むと好まざるとに関わらず、団塊世やその後に続く投稿者世代は、結果として環境悪化の責任世代であり、常に時代の先頭に立つべく運命付けられているとも言えるでしょう。勿論投稿者は、その運命に気づく事に全面的に協力するつもりです。

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163 環境バカ2

ブログを書きながら、自分はどうしようもない「堅物」であることを毎日感じています。まず、書く内容が「環境ガチガチ」です。書く立場も「元技術屋」という視点が捨て切れません。それと、今のところそれ以外の生甲斐を見つけ出せないでもいます。ですが、これも生まれもったどうしようもない性格のようなので諦めて、当面はこの路線で生きていこうと自分を納得させています。

さて、技術バカと環境バカの二重人格は成立しない、という結論を出してそれで済むならこのブログはここで終わりです。しかし、現実的な解を要求される技術バカを長年経験してきた投稿者は、少しずるい方法ですが、人格を時と場合によって使い分けようと考えました。例えば企業に勤務しながら、休日には環境カウンセラーとして市民や子供たちに環境話をすることも一つの選択肢として考えました。しかし投稿者の場合、やや環境バカの度合いが強かったので、流石にこんなご都合主義の生活は考えられませんでした。一方で環境への負荷を与え続けながら、他方では別の顔で環境に優しい生活を説法するなどという二面性は、それこそ完全な二重人格者にでもならない限り不可能だとも思いました。

最終的には、環境への負荷が限りなく小さい自給自足に近い生活を続けながら、人々に環境話を説法して回る「環境坊主」が理想の生活ですが、技術の「俗世間」から完全には抜け出せない現状では、自分の中でなんとか折り合いをつけながら、出来る限り早く技術バカの世界から抜け出す努力を続けることにします。その意味で、ギリギリの折り合いの結果が、企業人からの卒業(=自発失業)だったというわけです。

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2006年12月 2日 (土)

162 環境バカ

一方で環境バカは、環境保全を唯一の目的として、それと逆行する全ての行動を悪と決め付けます。投稿者は、実を言えばある時期以降、気持ちの上では限りなく環境バカに転向しました。とは言いながら、長い間に体に染み付いた技術バカの部分が色濃く残っていて、時々自分の中に相克(ジレンマ)が生じています。

極端な環境バカは、例えば鯨などの希少な生物や自然環境を守るために殆ど命をかけて行動します。しかし、目的と手段を冷静に見つめるならば、科学技術に素手で立ち向かう無謀は考えものです。環境バカになりきれば、その目的にまい進するだけであり、むしろ悩みは小さいはずですが、なまじっか「技術と自然の折り合い」や「環境と経済の両立」或いは「持続可能な進歩」などというほぼ実現不可能な夢を追いかけようとすると、投稿者のようにひどいジレンマに陥るはめになります。結果、無理やり技術バカを卒業したつもりにはなっていても、ふと気がつくとその沼からは這い上がり切れない自分を発見したりすることにもなります。

このブログの一つの結論にもなりますが、「環境に優しい科学技術や製品は存在ない」と断言しておきます。「科学や技術」は、人間が生きて行く上で必要最小限の範囲でしか使ってはならない「必要悪」或いは「方便」と考えるしかありません。

一方伝統的な「技」の多くは、自然が恵んでくれた資源やエネルギーを必要な範囲内で利用するテクニックでしたので、科学技術とは性格が全く異なります。投稿者が伝統的な生業(なりわい)に注目しているゆえんです。

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2006年12月 1日 (金)

161 技術バカ

投稿者は、人生のある時期まで確かに「技術バカ」でした。技術バカとは、科学や技術によって世の中がより便利に豊かになりそれによって、より多くの人々が幸福になると信じ込んでいる集団のことです。そのため、より多くの資源やエネルギーを使い、より進んだテクノロジーを駆使してそれを加工し、より安く品質の揃った製品やサービスとして社会に提供することを使命と考えてひたすら企業で働いてきたわけです。しかし技術バカの最大の欠点は、頻繁に目的と手段の取り違えを犯すことです。

例えば、ジャンボジェット機の開発プロジェクトを想像してみましょう。ジャンボジェット機は、航空機による大量の旅客輸送を目的として1960年代末に開発されました。より多くの人を、より安く大陸間を輸送しようという目的でした。しかしながら、このプロジェクトに投入された技術者は、結局この目的を多分最後まで意識することなく、ひたすら自分が与えられた部位(例えば主翼や胴体や油圧装置など)の設計にまい進したことでしょう。技術は、最初の目的を達成するための手段であったはずですが、プロジェクトの真っ只中では、技術を使ってある形の部品を作り上げることだけが目的になって行きます。そこでは安全性追及や環境負荷などは、風前の灯になる場合すらあり得ます。まさに養老猛が指摘する技術「バカの壁」が生まれる訳です。これは、平均的な技術バカであった投稿者の体験談ですから、自分は絶対に目的を忘れたことが無いと言い張る「本物の技術バカ?」からの異論があるにせよ、技術バカの実情であることは間違いないところです。

ここまでは、価値観の問題なのでどうでも良いとも言えますが、本当の問題は、技術バカの行動は殆どの場合環境と対立することです。技術的な興味やお金儲けのために開発された「やばい技術」(例えば結局有害であった化学物質など)のなんと多いことでしょう。開発に当たった技術バカには、結局PCBやフロンや放射性物質やその他環境に有害な人工物質の危険は、技術の光に目がくらみその影の部分は「全く見えていなかった」という結論になります。実に悲しむべき事ではあります

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160 植物は優しい

世の中がギスギスしている理由の一つに、人間が植物から隔てられている事が考えられます。人間は本来自然の優しさや厳しさと向き合って暮してきましたので、自然の前では人間同士は助け合って生きなければなりませんでした。大きな自然に対する、ちっぽけな人間社会という構図が本来自然と人間の間の関係であったわけです。

しかし、自然の脅威が人工的な都市環境の整備によってほぼ完全にブロックされると同時に、自然の代表である植物からも鉄とコンクリートによって隔離された結果、人間は人間だけと向き合わざるを得ない今の状況に追い込まれたとも言えます。森の中で植物に囲まれた人間が安らぎを覚えるのは、人間は進化の過程で植物から守られ、森に依存して生きてきたからでしょう。その植物と隔離される事は、実は人間にとっては大きなストレスとなることが想像されます。ストレスに晒され続ける人間の精神が不安定に陥るのは当然の帰結であるとも言えるでしょう。投稿者の場合、人間社会に疲れた時には、山に入って自然に抱かれる事によって精神的なバランスが保たれていると感じています。深い森の中をたった一人で歩いていると、少しの心細さと同時に大きな森の優しさに包まれて、やっと一つの種としての「ヒト」の戻れたような気がします。環境教育に、植物や自然とのふれあいが重要であるゆえんです。里山に入り植物相手に生き続けている田舎のお年寄りが、実に穏やかな表情で暮らしているのがその証拠です。

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