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2007年1月31日 (水)

226 省エネの切り札

民生部門の省エネを考えて見ます。1990年に比べ、日本のエネルギー消費は民生部門を中心に8%ほど増えているようです。確かに24時間営業の店舗の増加やパソコンや大型テレビの普及など増加する要素が多いのも事実です。しかしここでは、日本の家族のあり方に着目してみましょう。日本の家はコンパクトで、冷暖房もセントラル化されている家は少なく、部屋ごとの個別対応なので、一般的に言えば省エネ型となっています。人口も減少傾向に入りましたので、何となく民生でもエネルギー消費の上昇は自動的に止まりそうな感じもします。しかし、歯止めが掛かっていないものが一つあります。それは世帯数の増加です。若者のシングル志向?もあり、人口減少とは裏腹に世帯数の増加は止まっていないのです。世帯数が増えれば、風呂好きの国民の事ですから、毎日の風呂沸かしもほぼ全ての世帯ごとに行われる訳です。電気掃除機による掃除も、冷暖房も、炊事も、洗濯でさえも、例え世帯が一人でも大家族でも同じようにほぼ毎日の様に繰り返される事でしょう。この傾向を断ち切り、省エネを推進するには、切り札は「大家族化」しかありません。

話は突然脱線します。ところで日本が核家族化社会となって、一体何が良くなったでしょうか。投稿者には「嫁姑問題」の減少位しか思い当たりません。子育て疲れが引き金となる子供虐待、どんな場合でも孫には優しい祖父母が居ないことによる孤立が原因の(引きこもり・いじめ・不登校・ゲーム浸りなど)子供に関わる多くのトラブル、人の死に接する機会が殆ど無くなった事による命の軽視、子育て初心者の親による構い過ぎ(あるいは弄り過ぎ)などなど、悪化した事のリストアップには枚挙にいとまがありません。人格には、1)厳しい大人、2)常に優しい大人、3)冷静な大人、4)奔放な子供、5)従順な子供の5つが上手く混在する時、理想的な人間となるとも言われています。その意味で、嫁姑問題さえなければ、子供にとっても常に優しく見守る祖父母が居る三世代同居家族ほど安定した家族構成は他に考えられないでしょう。

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2007年1月30日 (火)

225 休題(遍路)

別にドラマや趣味番組に触発された訳ではないのですが、ここ1-2年は四国遍路をかなりまじめに考えています。これを思い立った一番の理由は、多分サラリーマンの卒業という節目と55歳という年齢ではないかと思っています。学校を出てから35年間企業で(一応わき目も振らずに)働き、第2(第3?)の人生を踏み出して、今後向かうべき大体方向の照準が定めたいま、もう一度自分を見つめ直してみたいと思ったのです。

心を無にして、足の痛みや体のきしみに耐えながら何十日も歩き続けることは、確かに厳しいでしょうが、ほんの数日間の山歩きとは全く異なる次元の、緩やかだけれどもしかし深い苦痛と、終わった時全身から湧き出るであろう「達成感」をもたらしてくれそうな予感がしています。昨年7月に再度の自己リストラをしてすっかり寂しくなった懐具合と、勝手にサラリーマンを2度も辞め、稼がなくなった亭主を半ば軽蔑し、半ばあきれて見ている女房殿の顔色を伺いながら、決行のスケジュールを密かに練っている今日この頃です。お金がないので多分遍路宿には泊まれず、山登りの時と同様テントを担いでの野宿旅になる予定です。1日に平均30km歩くと仮定すれば、全工程は約1200kmですから最低でも40日くらいはかかりますが、殆ど食費+風呂代だけ0.3万円/日x40日=12万円くらいの予算で済ますつもりです。四国までは、多分バイクか自転車で移動することになるでしょう。このブログの書き込みがぱったり止まったら、多分遍路に出たと思ってください。もっとも実行は、いまの調子では数年先になるかも知れませんが。

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2007年1月29日 (月)

224 ダボス会議

今年もスイスのダボスで国際会議が開かれています。世界の賢人が集まるとされるこの会議で、今年は温暖化の問題が特に大きく取り上げられているようです。何よりアメリカが、大統領の教書演説でも温暖化の問題に触れていて、今回の会議でも積極的に議論に加わっているのが効奏しているようです。しかしその議論の中身については、やっとスタートラインに立ったようなものであるとも報じられています。アメリカとて、決して心底温暖化問題を心配している訳ではなく、その前触れとしてのハリケーンなど気象の激甚化に恐れをなしているというのが実情と思われます。さて議論の結果何が決まり、何が動き出すかですが、当面は総量を規制し、その総量の中で排出権を取引する「ビジネス」が盛んになるのでしょう。これをキャップ&トレードと呼ぶようです。なんにつけてもビジネスにしたがるアメリカの事ですから、例えば穀物からアルコールやプラスチックを作って日本などに売りつける商売が盛んになるのでしょう。

しかし、少なくとも世界の「賢人」と呼ばれる人たちが集まる会議であればこそ、50年後100年後を見据えた議論をお願いしたいものです。哲学や社会学など人間社会に関する学問こそ19-20世紀に長足の展開を見せましたが、自然の理解に関しては人間の知恵はまだまだだと見ています。地球物理学者や植物学者、動物学者、経済学者、哲学者が力をあわせて真の意味の「環境学」を打ち立ててもらいたいと思っています。投稿者は環境学こそ、自然科学、社会学、経済学、人間学(哲学)をも抱合する最強の学問と考えています。ダボスで如何に優れた政治屋、経済屋、企業屋が顔を揃えても、結局は利害の調整すらできず堂々巡りに終始するだけでしょう。

ところで、話は飛びますが日本でも「ダボス」の名前を借りた地域があります。信州の菅平高原にありますが、本物のダボスを知らないので、そこの景色からダボスを想像するだけしかありません。ダボス牧場から100名山でもある四阿山(あずまやさん)に登るのはややハイキング感覚ですが、山頂からのアルプスの山々の眺望はかなり感動ものです。

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2007年1月28日 (日)

223 自由度の法則

再度の自己リストラ(世間的に言えば自発失業)により、平日の日中に様々な場所に行くことが出来るようになって感じている事が二つあります。それはしみじみお金が不自由になった事と、しかしそれに逆比例して自由度が飛躍的に増加したことです。これはもしかして法則かもしれません。曲がりなりにも、1.5流?の大企業に勤務して居たときには、土曜日のサービス出勤は当たり前で、毎晩9時以降が定時といった日々が続きました。それなりの給料を貰っていたとはいえ、眠っている時間や食事の時間を除けば自由に出来る時間の7-80%を会社に「売り渡していた」様な気がします。

一方、今はほぼ100%が自分の時間です。その代わり、当たり前ですが現在の収入は自営の仕事が立ち上がるまでは雇用保険のみです。こんな事をあれこれ考えていた時、ある日のA新聞に載っていた動物学者の紹介している言葉が妙に気になりました。それは、「自己家畜化」という言葉です。人間は、牛や馬やラマや犬や亀や熱帯魚を家畜やペットとして飼育しますが、言うまでもなくこれらの家畜のご先祖やペットも、元々は全く自由な野生動物だったわけです。一方、人間は人間自身をも、色々な組織やコミュニティやその中のルールで縛り、より不自由な状態を選択、つまりは自分自身をも家畜化(自己家畜化)しようとします。投稿者は、いま自分を「野生化」することを楽しんでいます。とは言いながら、こんな自由な状態も、やがては退屈に感ずる日も来るのが実は人間の本質かも知れません。その意味では間違いなく登校者も普通の自己家畜化しがちな人間の一人です。勿論、それを意識して生きるか否かで生活態度は大分異なるでしょうし、多分本当の理想は、適当な不自由と適当な自由を持ち、時と場合によって切り替える生活なのですが・・・。

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2007年1月27日 (土)

222 多様性の淘汰

放送大学の単位認定試験も終わり一息ついています。

さて岩波講座「地球環境学10」に面白い表現を見つけました。それは「貨幣経済による多様な価値観の淘汰」という表現です。私たちの社会は、高度成長期を通過する中で、何でも金に換算する価値基準の社会を作り上げてしまいました。地場産の食糧、森林、伝統産業、地域での助け合いは勿論のこと、親切や普通の情報(耳寄りな話)にさえ値段を付けて扱う様になったのです。それがもたらした具体的な状況は、輸入食糧と国産品との価格競争の結果としての40%の食料自給率、需要の80%(9000万トン)にも上る材木の輸入、伝統産業の衰退、介護年金制度などです。いずれ「親切」や「助け合い」にもコストが掛かるようになるでしょうし、現に目に見えない「情報」までその質や価値にかかわらず確かに量(パケット量)で取引されていますね。

価値観は、本来個々人によって大きく異なるはずなのですが、今やその殆どがお金の問題に「還元」されているのです。これがつまりは「貨幣経済による多様な価値観の淘汰」の意味するところになります。以前も書いた様な気がしますが、食糧と工業製品の価値は本来同じ土俵では比較できないはずですし、経済と環境についても同じことが言えます。お金という「のっぺりしていて一枚板の氷のようなツルツルした価値観」の上では、人間は誰でもが滑ってしまい抑制が効きません。今こそ、表面が凸凹した多様な価値観が必要とされる時代であると言えます。そのためには、例えば物々交換の場や、或いはエコマネーや地域通貨のような、お金に直接関わりの無い価値交換の仕組み拡大が望まれるところです。

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2007年1月26日 (金)

221 バックキャスト

従来の社会から将来を演繹的に(現在の延長線上で)予測するだけでは、今後の環境悪化を食い止めることは出来ません。何故なら、今の生活スタイルの延長線上には、環境の極端な悪化という破局しか待っていない事を、いくつもの指標が警鐘を鳴らしている訳です。例えば、CO2増加、温暖化、オゾンホール、環境ホルモン、酸性雨、気象の激甚化などなどです。

早急に考えて描くべきは、まず100年後のあるべき姿でしょう。例え大まかでも100年後も継続できる生活スタイルやそれを支える産業や経済の仕組み、その入れ物としての国家の姿を設計すべきでしょう。その設計図に照らして、現在はどの段階なのかを議論すれば良いわけです。その設計図(鋳型=キャスティングの型)を作ってから、逆にそれに必要なものを流し込んで形を作って行く作業がつまりバックキャスティングです。

国の借金である国債残高が800兆円にも上るそうですが、ここまで増えれば1兆円や10兆円はものの数ではないという風潮になっても仕方がない面もあります。しかし、実際問題としてこれを100年で償還するにしても、年間8兆円ずつ減らして行かなければならないのです。次年度は25兆円まで国債(借金)発行額を減らしたと胸を張っているどこかの国のAB首相も、そこまでしか減らせなかった事を少しは恥ずべきでしょう。伸びきってしまった日本の経済規模は、これ以上の拡大には無理があるでしょうし、景気は今程度で維持できれば十分満足すべきなのでしょう。後は富の配分の問題が残っているだけです。今後もこのブログでは少しずつですが、投稿者が考える「鋳型」の具体的な姿を書き記していこうと考えています。

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2007年1月25日 (木)

220 耐寒訓練

新しく開いた事務所の様子をお伝えします。事務所の看板は、とりあえず単純に「H環境カウンセラー事務所」としました。小さな事務所ビルの3階北側部分で、20平米の広さがあり、個人の事務所としては広すぎるくらいです。ビルは川沿いの道路に立っていますが、河岸にはマンションや旅館が並んで立っているので窓からの景色は貧弱です。三方窓なので採光は抜群で、昼間は全く照明の必要がありません。しかしその分冬場は「冷房が効きすぎる」傾向にあります。つまり、外と中の気温差が殆どありません。所長(投稿者の事です)の方針で、必要度の高い備品から揃えていくため、実はまだ暖房器具はありません。電灯も点けず、暖房も無い状態でどの程度の寒さに耐えることが出来るか実験中です。何のことはなく、これは冬山に登る前の「耐寒訓練」と同じことだと気がつきました。この事務所は、ラッキーにも毎日耐寒訓練が出来る環境にあるという訳です。耐寒訓練ご希望の方は是非事務所を訪ねてきてください。

従って、このブログもかじかむ指に息を吹きかけ、鼻水をすすりながら書いているという状態です。これ書いている今は、外気温は6.5℃、室内温度は7.3度です。何で温度を測っているかといえば、商売道具として購入した「デジタル式の放射温度計」です。(照準用のレーザーポインターも付いているので、出前講座のプレゼンにも重宝して使っている優れものです。)現在、この事務所で消費しているエネルギーとしては、ノートパソコンとラジオ、合わせて40W弱です。これは「クランプメータ」による概略の実測値ですが、この計器も工場の省エネ診断の道具です。

という訳で、環境おじさんの事務所は、環境にも優しくスタートを切りました。問題は、まだあまり忙しくなっていない事ですが、申し込み中の電話が引けたら早速名刺を作り、寒さに耐えながらバイクにまたがって「営業」に出かけるつもりです。

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2007年1月24日 (水)

219 出前授業

昨日久しぶりに小学校で出前授業を行いました。テーマは「温暖化防止のために」でしたが、小学校の5年生に温暖化の原因を理解させ、どうしたらそれを防ぐ事ができるのかを考えさせる事は結構難しい作業です。理由はハッキリしていて、温暖化は直接目に見えないため、彼らの「直感への訴える」ことが出来ないからです。更に、温暖化の影響が実感できるほど顕著になるには数十年から100年単位の時間の経過が必要なのですが、長い時間軸を見通す事が苦手な小学生には理解するのに少し荷が重いということもあります。

そのため、授業には絵や写真を多く入れたパワポ資料を準備し、小学生も習っている漢字や表現になるように気を使ったつもりです。苦労した甲斐があって、最後の質疑応答の時間では、こちらがタジタジとなるくらい沢山の質問が飛び交い、楽しい時間になりました。質問が出るという事は、理解しようと努力し、もっと知りたいという気持ちの表れですから、講師としては聴くだけで何の反応も無い場合よりずっとうれしいものです。勿論地球規模の温暖化の状況を、通り一遍に説明するだけでは分かり辛いので、出来るだけ身近な例を交えて説明する必要がありました。そこで植物の開花時期や紅葉時期、昆虫が始めて羽化する時期や雪氷の多寡など目に見えるものを温暖化の指標として自分で観察したり、過去と現在の気候の比較を大人(祖父母や父母)から聞き出したりする調べ方も教えました。

岐阜県でも比較的田舎のM市ですから、この学校の周りはいわゆる里山に囲まれていて、里山での観察が大好きだと言う一学年1クラスの子供たちも素直に育っている様子でした。環境おじさんとしては、ますます出前講師がヤミツキになりそうな予感がして、例え「お金を払ってでも」出前講師を続けたいと思った事でした。

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2007年1月23日 (火)

218 企業存続の条件

企業が長く存続するための条件について考える機会がありました、投稿者の結論は、1)従来の意味での堅実な経営、2)持続可能性を睨んだ環境経営、3)実体あるニーズに応えるための製品のアイデア出し知財創出)、それに加えて4)人材育成を中心に据えた経営、などとなりました。

1)と4)は言わずもがなですが、2)と3)に関してこそが、投稿者が十分な助言ができる範囲だと思っています。216の工場燃費の考え方は、その内のアプローチの一つになるでしょう。

投稿者は、これまで1)の条件に従ってサラリーマンを続けてきましたが、ある時期以降は2)の条件に向かって微力を尽くそうと決意し人生の進路を修正しました。多分ですが4月からは知財活用のアドバイザーとして、3)も開始する予定です。しかしながら4)についてはまだ具体的なロードマップが描けていません。

これまでの教育や人材の育成は、How toを教えれば良かったので、話は簡単でした。しかし今後のそれは、受け手にWhyやWhat forを考えて貰わなければならないので、これまでの考え方、教え方では立ち行かない訳です。ではどうすれば良いのか。投稿者としては、当面今後の10年で投稿者の考え方に同調する若者を数人程度育てるつもりです。いわば私塾です。これはボランティアでやる話なので、学生、社会人を問わず自然に集まってくるのを待つつもりです。勿論、投稿者の考え方を押し付けるのではなく、今後のあるべき社会の方向を皆で議論しながら考え、師弟ともに成長する集まりにしたいとは思っています。

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2007年1月22日 (月)

217 生活燃費

工場に燃費があるのなら、各家庭にも燃費という考え方が適用できます。家族一人当たりの消費資源とエネルギーの事です。例えば、一家4人の衣食住をまかなう上で一体どれくらいの資源やエネルギーを消費し、どれくらいの食糧を腹に納め、どのくらいのゴミを出し続けながら暮しているのかを評価した場合、その1/4が生活燃費の指標になります。少し暇が出来たらこのための分かり易い燃費指標を実際に作ってみようとも思っています。

多分、それほど面倒なことを考えなくとも、毎月の電気量、ガス量、水道量、ゴミ袋の大きさと数くらいのデータがあれば、指標が出来そうな気もします。まずは環境ガチガチの投稿者の家が基準になりますので、資源エネルギーをダブダブに使っている家庭は、燃費が極端に悪いと評価される可能性もありますので要注意です。

216で述べたように工場燃費はあるレベルまで達成されていますが、生活燃費はむしろ悪化傾向にあるのです。バブル期を経験した1990年に比較しても、現在は8%前後も燃費が悪化しているというデータがそれを証明しています。現在私達は、ずぶぬれのタオル状態で暮らしているとのことになります。「焼け石に水」である京都議定書の約束」である6%に、既に増えてしまった8%を足した14%の省エネだけでは不十分で、当面少なくても腹八分目、つまり20%の燃費減を目標とすべきでしょう。

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2007年1月21日 (日)

216 工場燃費

215で書いた様に新しく行動を起こそうと思っています。やる仕事は、当面、企業に向けては省エネ・省資源のアイデア出し(コンサル)です。初志がめげない様に、外に向かっての意思表示として、小さいながらも一応事務所も借り、看板も上げるつもりです。出来る限り多くの企業を訪問し、工場やビルの省エネ・省資源のポテンシャル診断をして報告書を書き、それを買ってもらいます。勿論飛び込みでの押し売りは門前払いを喰らいそうなので、当面いくつかの企業を無料で診断し、報告書を作るつもりです。企業経営者には、もし出来栄えが良ければ、知り合いの企業を何社か紹介してもらう約束をしています。つまりは口コミでの展開です。

切り口は、単位製品当りの資源・エネルギーの投入量、つまりは車で言うところの燃費になります。工場では工場燃費、建物だとビル燃費になります。これを出来るだけ下げるための助言を行うという商売になります。電力会社やガス会社などが後ろ盾となった「ESCO事業」も盛んになりつつありますが、電力ESCOが主体ですし、事業所の規模がある程度大きくなければビジネスとして成立しません。一方投稿者は、金を使わず知恵を使うことをコンサルのポリシーにしていますので、設備に使えるお金のあまりない企業には十分アピールできると思っています。

日本では、確かに工場燃費の分野では世界のトップランナーであると言えます。しかし、環境おじさんの目から見れば、それでもタオルの絞り代はまだまだ十分あると見ています。

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2007年1月20日 (土)

215 事務所開き

昨日は旅行不在で投稿なしでした。さて職業としての環境カウンセラーが、今の社会で果たして成立するのかどうかを実験するため、1月16日に自分だけの事務所を開設しました。看板に掲げる事務所の名前はまだ決めていませんが、いまのところ例えば単純に「XX環境カウンセラー事務所」かまたは「等身大技術研究所」などが候補です。今後は「身の丈サイズ」のことを考えて暮して行きたいからです。事務所と言いながら、小さなビルの一角にある、使われていなかった和室を、知人を通じてびっくりする程安く借りたもので、とりあえずはありあわせの事務機器と電話・Faxが置いてあるだけの小さなスペースです。

ここをベースに活動する環境カウンセラーとしての仕事はといえば、1)企業の環境経営、取り分け省エネ・省資源や「エコアクション21」など環境規格認証取得のコンサル、2)学校、市民に向けた出前講座、3)主に環境に関わる知財の活用アドバイス、4)環境教育のプログラム開発、5)技術系人材の育成(たぶん私塾のようなもの)などですが、考えてみれば1)以外はお金にはつながらないボランティアベースの活動ばかりです。こんな仕事の中身で一体食っていけるのかどうか、全く自信はありませんがそこがまさしく「実験」である訳です。

しかし、霞を食って生きる仙人ではない生身の環境おじさんとしては、「飢え死?」にしては元も子もないので、ささやかな副業も考えています。正式に決まったらまた紹介することにします。また、環境カウンセラーとしての日常や活動も、日記のように書き記して行こうと考えています。

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2007年1月18日 (木)

214 初講義

昨日は、ココログのシステムメンテナンスのため、投稿できませんでした。

さて昨日はG大学で、150人くらいの学生を前に「自分らしいキャリアの積み方」というタイトルで講義をする機会を与えてもらいました。大勢の学生を前にして講義をするのは、考えてみれば生まれて始めての経験でしたが、55年間の人間をやってきて、35年間社会を泳いできた結果としての「知恵」みたいなものを是非伝えたかったのです。しかし、良くあることですがこちらが知恵のエッセンスを話したつもりでも、ちょっと間違えるとお説教調になってしまう恐れがあります。また同じような立場で社会人が学生相手に経験談を話す場合、意識しないままつい手柄話になったりもしがちです。

そうならない様に気をつけた積りですが、講義後のアンケートをざっと見せてもらった限りでは、幸いにも投稿者の伝えたかった内容を結構理解してくれていたと思われる感想が多く、少しうれしくなりました。やや癖になりそうな体験でした。短時間でしたので、伝えたい事の1割くらいしか話が出来ませんでしたが、出来れば純ボランティアでも良いので、たびたびこんな機会があって欲しいとも思いました。子供は、親の話は「自動的に」説教と受け取りがちですが、よその善意のオジさんの話は、もしかして少しまじめに聞いてくれるのかも知れません。

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2007年1月16日 (火)

213 心の空白

高度成長期以降、特に団塊世代の頑張りにより、確かに我々の生活は(物質的には)豊かになり続けてきました。しかし、これに反比例する形で、心の貧しさが進んできたような気がします。その理由を考えて見ました。

進化の過程で、ヒトはサルには無かった「心」を手に入れました。ところがこの「心」は非常にさびしがり屋で、刺激が少ない状態には耐えられないという厄介者でした。その結果何が起こったかといえば、刺激を求めて部族(国や地域)間に繰り返されてきた無用の争い(戦争)、道具や機械を作り出す事への熱中、宗教やオカルトへの傾注、更にはモノを手に入れることへの飽くなき執着、バーチャルな世界への没入などがあります。心は、刺激が無く空白であることには耐えられないのです。「なに」で心の空白を埋めるかが、実は「価値観」などと呼ばれる、耳あたりの良い言葉の中身ではないかと思っています。環境おじさんが、技術屋として空白になりかけた心を埋めるべく価値観を見出したのは、環境・カンキョウと経を唱えながら環境人間を一人でも増やす「布教?」活動でした。一体全体、現代社会に暮す人々の心の空白は、モノでしか埋められないのでしょうか。

節約生活を心がけ、資源やエネルギーを次世代に残すこと、不要・不急や使い捨てのモノを買うことを我慢してゴミを減らすこと、自転車通勤で温暖化の歯止めにささやかに貢献すること、野菜の皮や葉や根っこの部分まで無駄なく使った料理で生ゴミを減らすこと、着られなくなった衣類をリフォームして使いまわすことなどは、立派に心の空白を埋め得る価値観の実践になるはずです。結果モノが減って、世の中の景気はやや停滞気味にはなるでしょうが、節約で生活費も圧縮されているので、暮していく上で不自由は無いでしょう。というより、多少の不自由こそが工夫を引き出す源泉であるとも言えます。不自由な時代に生まれなかったら、あのエジソンの発明の多くも生まれなかったはずですから。工夫こそは空腹な心の糧にもなる活動であり、有意義でもっとも高度な精神活動の一つではないかと考えている今日この頃です。

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2007年1月15日 (月)

212 知情意

放送大学で、「哲学」や「人間学」も少しは勉強して、そこから学んだ事は多いのですが、(年齢も年齢ですし)しばらく経てばかなり忘れてしまいそうです。しかし、キーワードとして頭に叩き込んだ「知情意」だけは忘れないで置こうと思います。たった3文字ですので多分大丈夫でしょう。学んだ事の結論としては、人間として生きる上では、この3文字のバランスが重要だということです。

「知」とは、つまり知識や知恵や知性といった、理屈で割り切れる世界の事です。学校や社会で学ぶ多くの学習の成果でもあります。もし知識が十分なければ、地図もなく知らない土地をさまよう旅人の様にもなりかねません。

「情」は、情けのことで、情熱や感情など人間の内から湧いてくる、制御できないどうしようもない情動でもあります。しかし、一方では情の無い人間は、温かみがなく機械のように冷たい存在に見えることでしょう。最も人間らしい部分であるかも知れません。

「意」とは、意志や意識或いは決意などのように、ある目標を定めそれに向かう行動の原動力に当たるもので、人間にしか与えられていない精神の働きでもあります。投稿者は現代の社会に最も足りないものとしてこの「意」を挙げたいと常々思っています。つまり、現代社会に暮らす私たちには、将来の社会はどの様にしていくべきかという議論やビジョンは殆ど欠けているような気がしているのです。だから、人間自身が作り出してしまった環境問題一つとっても、解決の糸口さえ見えてこないのだとも言えるでしょう。

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2007年1月14日 (日)

211 薄型ペットボトル?

自販機については以前も書きましたが、最近自販機を見かけるとつい銘板を覗き込み消費電力をチェックしてしまいます。缶とペットボトルが詰まっている普通の冷温両用の自販機では、最近の機種だと650w程度と、見かけによらず意外にささやかな消費電力でした。これに対し、お湯や氷を作ってカップで供給するタイプの自販機では、それが1.0kw程度に増加してしまします。缶やペットボトルの自販機と紙コップ自販機は、環境負荷の優劣をまじめに比較してみる必要がありそうです。最近見つけた「最強・最悪の自販機」は、Nレイの、冷凍食品を電子レンジでチンして売るタイプの自販機では、消費電力はなんと3.5kwに跳ね上がります。電子レンジの出力を1.5kwと推定しても常時2.0kw程度の電力は使っているわけです。(平均値はこれよりもやや小さい?)

この例でも分かるように「より便利なモノは、より環境負荷が大きい」という事実は、ほぼ法則に近いものの様です。「犬も歩けば棒」ではないですが、自販機も街中ではほぼ数十メートルもあるけば見つかります。しかし、腰に袋に入ったペットボトルをぶら下げ、それに家や会社でお茶や水を補給しておけば自販機が無くても平気なはずです。でも背広を着て歩く人には、尻ポケットや内ポケットに入れて歩くのに適した「薄っぺらなペットボトル」が必要かもしれません。是非誰か開発して売り出してみてください。そういえば、よく似たもので洋画などにウイスキーやブランデーを入れるのに使っている小奇麗で薄いボトルが出てきますが、日本では何処で買えるのでしょうか。山用品の店で見かけたような気もしますが。

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2007年1月13日 (土)

210 無理な相談

AB総理が、国産のバイオ燃料(多くはエタノール)でガソリン燃料の10%を代替するという構想を持っているとの話が伝えられています。しかし、いくらなんでも10%はどだい無理な数字です。これは現在のガソリン使用量換算では600万klに相当するからです。海外からエタノールを36万kl輸入するという現在の目標でさえ危ぶむ空気がある中で、国産でその10倍以上を賄うという数字は、「逆立ちしても無理」な相談です。コストを全く度外視し、ありとあらゆる国産バイオマスを動員すれば数字の上では達成可能ですが、経済的に考えればその数分の1(100-150万kl)程度がせいぜいでしょう。勿論、逆にガソリンの使用量を現在の1/4に削減すれば、その目標達成も可能ですが、それにしても車の燃料消費を1/4にする技術は、今は全く想像できません。唯一可能であるとすれば、国民の大多数が通勤に車を使うことを諦め、自転車かせいぜいバイク(しかもカブでなければなりません)に乗り換えれば、比較的簡単に達成可能かも知れません。なにしろカブであれば、実用的にもガソリン1リッターで50km以上は十分走りますから。

ABさんは勝手な目標数字を口にする前に、しっかりした勉強が必要と思われます。目標の達成には綿密な計画の裏づけが必要なものです。一国の総理になろうとする人が、タウンミーティングのシナリオを書いているようでは先が思いやられます。是非100年後の国の(ではなく具体的な)青写真を描いて貰いたいものです。とは言いながら、数字は別にすれば目の付け所としてはそれなりに評価できますね。バイオエタノールやDME燃料は木材からも得ることが出来ますので、適正に推進すれば山の手入れも進み「美しい日本の山」が甦るかもしれません。

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2007年1月12日 (金)

209 コペルニクス的転回

ものの見方が180度ひっくり返ることを「コペルニクス的転回」と例えますが、投稿者の環境に対する見方にも6年くらい前この転回が起こりました。科学者や技術者は人間を中心に考え、環境(自然)を、人間を「取り囲むもの」と捉え、それに働きかけます。しかしながら、実際には私たちは、自然という舞台装置の上に、ホンの一瞬だけ登場する役者(多分通行人役)に過ぎない訳です。このチョイ役がどのように踊ろうが、喚こうが、舞台装置(自然)の一部に少しキズがつく程度でしょう。とは言いながら、長い間には多数の役者が登場し、よく眺めてみれば舞台(地球)も磨り減り、かなり汚れが目立つようにはなってきました。

クーンという学者は、ある価値観に支配された社会システムを「パラダイム(規範)」と呼び、このパラダイムの転回(シフト)は定期的に起こると述べています。私たちは、その中で暮してきたのではっきりとは気がつきませんでしたが、確かに日本においては特に戦後、伝統的価値観から科学技術の高度化や経済の発展に軸足をおく社会へ向けて、一つの大きなパラダイムシフトが起ったことは間違いないでしょう。しかし、戦後も60年を経過し、環境悪化の警鐘は、「次のパラダイムシフト」を強く要請している訳です。

地球が宇宙の中心であるとする、それまでの間違った宇宙観をひっくり返したコペルニクスではないですが、誰か人間中心の地球感を打ち壊し、環境中心の価値観にひっくり返してくれる偉大なカリスマが出ないものかと、首を長くして待っています。

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2007年1月11日 (木)

208 環境教育3

理想的な環境教育・学習は、多分数冊の本にでもなるべき範囲と手法をカバーする必要があるでしょうが、ここではその取っ掛かり(入り口)とすべき教材を考えて見ます。入り口としては、207でも述べた様に是非「身近な」問題を取り上げるべきです。省エネルギー問題で投稿者が有効だと思ったのはエコワット(コンセントに取り付ける電力計)や今省エネルギーセンターから借用している、各家庭の元電源に取り付ける「簡易電力計」でした。特に後者は、データを無線でロガーに送り、1時間ごとの消費電力のデータとしてパソコンに取り込む事が可能な優れものです。季節の変化(例えば気温)の変化と消費電力の傾向をグラフに描いてみれば、考えさせる点が沢山出てくることでしょう。投稿者の家でも、夏場は毎日7-8kWh程度でしたが、最近の寒い日には夏場の2倍もの電力を消費している事にビックリしました。

自然観察も重要です。ダニ博士とも呼ばれる青木博士によれば、日本には2000種類ほども生息するそうですが(ちなみに家の中に棲んでいるのでは数種類だけです)、一方でダニ相は気温の変化に非常に敏感なんだそうです。ダニはちょっとした顕微鏡で十分に観察できますので、学校での教材としても適当なものです。植物の開花・紅葉・落葉時期も目に見える良い温暖化観察対象です。面白い例では、木の樹皮や石にこびりついている苔類が大気汚染の良い指標になっているという事実があります。これは写真にもとれますので、学年を超えた継続的な観察の優れた教材になると見ています。またナガサキアゲハなど昆虫の北上も興味深い題材です。

ゴミの問題も自分たちが消費した結果の確認として非常に重要です。子供に大きなゴミ袋を1枚渡し、1週間自分が出したゴミを全て集めさせるのも面白いでしょう。外出先で出したゴミも全て家に持ち帰り、その袋に入れさせる訳です。温暖化ガスとは異なり、固形のゴミは目に見える環境負荷の証拠でもあります。

温暖化によるツバルやベニスやバングラデッシュの浸水被害や極氷・氷河の後退現象、酸性雨による森林被害やオゾンホールの問題は、対象が遠すぎ(大きすぎ)その影響評価に長い時間軸が必要なだけに、扱う教材としては適当ではないような気がします。

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2007年1月10日 (水)

207 環境教育2

現在の一般的なカリキュラムでは、(実際の調査はしていませんが)小学校の高学年の2年間で各20時間程度を環境学習に当てていると想像しています。その内容も現場の教員に任されているようで、屋外での自然観察にだけ重点が置かれたり、省エネルギー(つまりは家庭でのテレビの視聴時間調べ、冷蔵庫の開け閉め回数調べなど)にだけ集中したりしているようです。理想的には、幼稚園から小学校の卒業まで(つまりは刷り込みが完了するまで)幅広い一貫した教育こそが求められるでしょう。年少のうちは無条件に自然へ親しむ事やゴミ分別の躾を身につけさせるだけで十分でしょう。理屈が分かる年齢になったらやっと、身近な自然の生物多様性や身の回りの温暖化の悪影響や「目で確認できる」省エネルギーを教えれば良いでしょう。更に理想的には、中学校や高校では、それまでの環境教育のフォローアップとして「社会システムによって引き起こされる環境問題」に目を向かせればなお素晴らしいです。ゴミ収集・処理システムやエネルギー問題(石炭、石油やウランなどがどこから来て、最終的な廃棄物は何処にどう処理されているか)、温暖化の影響がいま地球上のどこに最も顕著に現れているか(極氷の減少にほぼ間違いありませんが)、それに対して個々人はどう行動するのが良いかといった学習や議論をさせるべきでしょう。「教育」と「学習」の切り替えは、小学校の高学年か中学の段階で行われるのが自然だと投稿者は考えています。

また環境教育として独立の教科と考える必要はありません。岐阜県で使われている小学校の教科書を片っ端から広げてみたことがありますが、環境問題は実に幅広い教科書で扱われていました。具体的には、理科の教科書よりは、むしろ国語や社会や道徳に関する教科書に全ての学年に亘って掲載されています。しかし例えば国語の教科書では、漢字や言葉や文章を教える教材としてしか見られて居りませんので、折角の優れた内容が授業では生かされていない事でしょう。この回の書き込みの結論としては、環境教育・学習は、年齢に応じてその対象となる環境の範囲を広げていくべきだと考えています。環境問題などを全く考えて見た事もない人に、いきなり「地球規模の環境問題」を吹き込むのは論外と見ています。

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2007年1月 9日 (火)

206 環境教育

最近環境教育について考える機会がありましたので数回取り上げます。「環境教育」は、お役所言葉では「環境学習」と呼び変えなければならないようですが、ここでは敢えて環境教育と書いておきます。さてこの環境教育こそが、今後の若者世代や市民のライフスタイルへ大きな影響を与えると思われます。手元にある国の「第3次環境基本計画」でも環境教育・学習の重要性が(小さく)述べられ国もやっと重い腰を上げたようですが、計画中には殆ど具体策は述べられて居りません。全ての法や計画はその「運用」で裏付けられる訳です。自治体レベルで条例を制定したとしてもやはり「心」は入りません。要は誰がその教育の任に当たるか、その人が将来に対してどのような青写真を持っているかが問われるはずです。環境教育は、投稿者の今後の人生における一つのライフワークにしようと考えているテーマであり今後折りに触れて書き込んでいくこととします。

今回は教育のタイミングについて述べてみます。さて鉄は熱いうちに打たなければなりません。というよりは、出来る限り幼少のうちに「刷り込み」を完了しなければなりません」。子供を刷り込むためには先ず親や幼稚園の先生(大抵は若い女性ですが)を教育しなければなりません。時期として小学校の低学年ではマアマアですが、現在主流となっている高学年からの環境教育は遅過ぎると言わざるを得ません。人間では刷り込みの臨界期は12歳前後と言われているからです。臨界期以降の刷り込みは、結局は持続性の弱い付け焼刃になってしまいます。時間は掛かるでしょうが、幼児の手本となりやすいジーちゃん、バーちゃんを始め、若い女性や主婦への環境教育こそが実は長い目で見れば、重要なポイントとなりそうです。それによって、幼児期からの環境教育(この時期は環境のための躾となる)がはじめて可能になるでしょう。

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2007年1月 8日 (月)

205 山くだりの法則

何度も書きますが、投稿者は山が大好きです。しかし、どんなに楽しい山登りであっても、登ったからには必ず下らなければなりません。私たちは、毎日会社に出かけたり、学校に行ったりしますが、やはり必ず家には帰ってきます。これを改めて「法則」と呼ぶのかどうかは疑問ですが、最近の社会の風潮を眺めていると、やはり法則として掲げなければならないような気がします。

では科学技術や市場経済社会の「山」はどう考えたら良いでしょう。何度か書いているように、科学技術の成果や経済活動でお金を稼ぐことは、決して「目的」ではありません。あくまで手段に過ぎないはずです。これらの手段によって、人類の幸福を含めた生物一般の幸福という「目的」に向かわなければならない筈なのです。「筈」であるというのは、これが投稿者の希望的観測だからです。世の中をよく観察すると、実際は製品を作り・売ってお金を稼ぐことが目的になっている風潮が顕著です。断言しますが、科学技術や経済だけで生命の少ない「山」の頂上は、無味乾燥で荒涼とした世界に過ぎません。

一方、法則は法則です。私たちは、下るべき時期を失してしまったかも知れませんが、いずれかの時点では絶対に下り始めなければならないのです。具体的に下る方法としては、とりあえずは10年前、更には20年前の生活レベルまで引き戻すことが安全なルートです。何故なら、私たちは過去にその道を通って来ているので、様子が分かっているからです。最先端の新エネルギーやら燃料電池やらナノテクなど科学技術を駆使した新しい下りルートには、多くの危険や落とし穴が待ち構えているような気がします。身の丈サイズの科学技術や経済のシステムこそが、たぶん安らぎの感じられる社会の道標となり得るでしょう。科学技術を荒っぽく駆使した、いま以上の登りは全くの論外です。

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2007年1月 6日 (土)

204 釣り鐘の法則

これも法則シリーズです。最適値が存在する様な現象を考える場合、その最適値は必ず釣り鐘型(逆U字)か逆釣り鐘型(U字)のカーブを描くという事を法則として提唱したいと思います。いくつかの例を挙げてみましょう。ある人口に対する企業の数は、もし少な過ぎるとモノ不足が生じますのでやがて増加しますが、逆に多すぎると企業間の競争が激しくなり、最終的には淘汰されて一定のレベルに落ち着きます。同様に、一定の地域当たりのコンビニの店舗数や、単位面積当たりの稲の株数と収穫量にも最適値が存在するでしょう。原因があり、それに応じた結果が生ずる現象には、たぶん例外は無いような気がします。もし、例外があるとするならば、そのシステムは「暴走」し無限大に発散するか又はゼロになってしまう筈です。

これを地球規模に拡張して考えてみると、現在の地球表面における気温も同様なものではないかと思えてきます。例えば現在の地表の平均気温は15℃弱ですが、気温がこの温度に落ち着いた事には必然性あるはずです。せっせと人類が化石燃料を燃やし続けて、大気中の二酸化炭素の量を増やし、結果として温暖化が進んだと仮定しましょう。自然のメカニズムは、これを修正しようとあらゆる手を繰り出すことでしょう。その一つが、例えば極の陸氷を溶かし、海面を上昇させて温暖化の原因を作った人類を滅ぼすことであり、或いは異常気象を頻発させて作物被害を増加させ人口を減らすことかも知れません。いずれにしても何億年も掛けて到達した現在の地球環境は、多様な生物の繁栄一つを見ても、最適値にあることは間違いないでしょう。これを簡単に動かすことは一生物種である人類には許されていないはずです。これを無理やり動かすことは、「暴走」行為に当たりますので、行き着くところは破局しかなくなります。

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2007年1月 5日 (金)

203 誤差の累積

長いステップを持つ計算の過程では必ず誤差が累積します。何故そんな当たり前のことを言い出すのかといえば、それは現在の環境問題が「科学技術の誤差」に原因があるのではないかと思うからです。では科学技術の誤差とは何を指すのでしょうか。それは、科学技術が、本来望まない「悪しき副産物」の事だと考えています。具体的には、石油の利用技術(消費)にともなうCO2やSOxやNOxの発生、車の増加に伴う事故や騒音や排気ガス、エアコンの増加に伴うフロンによるオゾン層破壊や廃棄物や廃熱問題などなどです。これまでは、この好ましくない副産物を全く無視するか、或いは経済的な損得勘定だけで覆い隠してきました。これらの誤差(或いは望ましくない余り)は、経済活動の増加と人口爆発に伴って、指数級数的に増大してきています。

必要なシステムは、この「誤差」や「余り」をどうにかして処理する事や次世代に先送りする事ではなく、余りをなるべく出さないようにするものでなければならない筈です。少なくとも、人間活動の結果生ずる余りに、もっともっと敏感にはなるべきでしょう。それを、なるべく人の目に触れないようにゴミ収集車に押し込み、焼却場の炉へ送り込む、或いは廃棄物処分場の土の下にこっそりと埋め立てる、という現代の「見せない」ゴミ処理システムは改めなければならないでしょう。

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2007年1月 4日 (木)

202 閑話休題(人生の目的)

人生の目的ついて時々考えます。つまり、何のために人類は、周りの環境を破壊してまで生きていかなければならないのか。その一員である投稿者は、一体何を目的として生きていけばよいのか、という疑問のことです。散々考えましたが、とりあえずの答えとしては「よく生きる」ためであると決めました。人間の脳の構造は、爬虫類脳の上に動物脳が覆いかぶさり、その上を大脳皮質(或いは新皮質)という人間脳がカバーしていると言われています。

それぞれの脳に対応する生き方は、「ただ生きる」、「上手く生きる」、「よく生きる」ではないか、というのが現在までの投稿者の結論なのです。「ただ生きる」とはエサを喰らい、生殖して子孫を残す行為です。その程度であれば爬虫類でさえ「立派」に実行しています。上手く生きるとは、高等な動物が行うように家族や仲間が協力して狩りをし、夫婦共同で子育てを行い、上手く生き延びていく様を言います。では「よく生きる」とはどういう生き方を指すのでしょうか。この問題は実は難し過ぎて、投稿者も未だ明確な結論を出せないでいます。少なくとも、これ以上環境を悪化させる生き方をしてはならないという方向は見定めましたが、自分自身の毎日の行動を含め、具体的な「よい生き方」を模索している状態ではあります。少しずつ手探りを続けていますが、もしかすると自分が生きた痕跡を、自分の子孫以外に地球上には殆ど何も残さない生き方がその答えになるかも知れない、などとぼんやり思い始めています。

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2007年1月 3日 (水)

201 木材力4

日本の森林面積は、国土の2/3にも及ぶ2500万haも存在し、バイオマス量としては戦後の乱伐期に17億㎥に低下しましたが、その後輸入材が増えるに従って国産材の伐採が抑制された結果として、その量は40億㎥にまで回復・増加してきています。現在の国内の木材消費量は、平成7年の1.1億㎥をピークとして8000万㎥程度にまで低下してきているので、数%を持続的に利用するだけで、少なくとも消費量の半分以上は国産材で十分まかなえるのです。

勿論、消費される木材があれば、一方でほぼ同量の廃棄される木材があるはずです。しかしながら、コストを優先する建設業界では、建物の解体に重機を導入しぶち壊します。その結果、コンクリートや配管や電線がごっちゃになった「建設廃材」が山と廃棄されることになります。それが、違法廃棄物問題を引き起こしている元凶なのです。手間とコストは掛かりますが、人力を上手く組み合わせた解体を行えば、木材は勿論コンクリートでさえリサイクル可能なのです。そのためには、建設における設計同様、「解体設計」が重要なファクターになります。しかし、解体を設計するなど言うことは、現代社会では考えたり研究したりする人が殆ど居ません。何故なら今は儲からないからです。

でも木材は山にしかないのではありません。木造建築物が圧倒的に多い日本では、過去何十年もかけて切り出された膨大な量の木材が、建材などとしてインフラの中に埋め込まれている訳です。しかし夏場は高温多湿となる日本に気候下では、木材の耐用年数は東南アジア並みなので、定期的にこれらを更新する必要もあります。この更新の際に発生する廃木材が、実は隠れた日本の木材資源にもなり得るのです。資源になり得る廃木材を、産業廃棄物として違法に廃棄する過ちは、この辺で打ち止めにする必要があります。

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2007年1月 2日 (火)

200 新エネルギー

国の施策で、「新エネルギー」が位置づけられています。いわく、2030年までには、全一次エネルギーの10%程度を新エネルギーでまかなうとか。その前提として、2050年ごろには実用化されるであろう「核融合」が主たるエネルギー源として使えるようになるまで、石油をもたせるためつなぎとして新エネルギーを当てにしている様です。そのため、例えばせっかく深海におとなしく眠っているメタン(メタンハイドライト)を揺り起こそうとさえしています。メタンといえば、CO2とは比べ物にならないくらい「超」危険な温暖化原因ガスでもあるのです。

しかし、ここで環境おじさんとしては、核融合にはやはり「チョッと待ったコール」を掛けたいところです。理由はいくつかありますが、地上にミニ太陽を作り出すという核融合技術には、現在は予測されていない危険な匂いがします。何万度にもなるプラズマを「安全に閉じ込める」技術は、原子力でさえてこずっている現代の技術では到底太刀打ちできないだろう、と元技術屋としては断言できます。ましてや、それを動力として使うために一定温度にコントロールする事などは夢のまた夢にしか過ぎません。所詮核融合炉の実現は、現代の科学者や技術者の無責任な将来予測以外の何者でもありません。

再生可能で、持続的な供給が可能な太陽光にベースを置く「本物の新エネルギー」こそ、つなぎではなく本命であるべきでしょう。

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2007年1月 1日 (月)

199 石油枯渇歓迎論

明けましておめでとうございます。今年は特に出かける予定も無いので、元旦からブログ三昧です。

さて養老猛は確かに尊敬に値する論客ですが、その彼がある雑誌でタイトルを付けるとすれば「石油枯渇歓迎論」と呼ぶべき論点を述べていました。いわく、石油が無くなるとコンクリートが作れなくなるので、人は木造住宅を土地に余裕のある地方に立てざるを得なくなり、人口の地方分散が進む。いわく、原料や製品輸送用の燃料が無くなるので、自然に地産地消の経済で進むしかなくなる。また、石油や電力に頼った自動化が出来なくなるため、人力に頼る割合が多くなり、結果メタボリックシンドロームも減る。更に、近代の戦争は石油の利権に絡んだものが殆どであり、石油が無くなれば利権も消滅し、同時に戦艦も航空機も戦車も動かなくなるので世界は平和になる。などなど。つまりは良い事づくめであるから、省エネなどせず石油は使うだけ使って枯渇させれば良い、といういささか乱暴な議論なのです。

強引で乱暴な点を除けば、いずれも的を射ており、ついうっかりうなずいてしまいそうです。しかし「チョッと、チョッとチョッと待った」です。突然石油が枯渇すれば話は簡単ですが、徐々に無くなる過程では、最後の利権争いの戦争は間違いなく激化するはずであり、何より石油の消費が今の調子で進むとすれば、地球の環境の方が持たないはずです。CO2は700ppmにもなり、平均気温は数度上昇する地球環境が、いかにすさまじいものであるかを想像すれば、その頃には間違いなくこの世に居ないであろう養老氏の暴論にそのままうなずく事は出来ません。投稿者の立場は、確かに難しいことではありますが

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