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2007年2月28日 (水)

254 ラッキー探し

自分が不運な人間であることを示すのは実に簡単です。就職した会社の業績が良くない、宝くじに当たったためしがない、配偶者に「あまり」恵まれなかった、子供の出来が良くない、ちっともお金に縁がない、などなどいくらでも愚痴れるでしょう。しかし、特に田舎に住む人達が口にする、「田舎には現金収入につながる働き口が無い」という嘆きには、贅沢な悩みを感じます。何故なら田舎に住んで、先祖伝来の土地を持ち、それを耕して「食べることには困らない」人たちは、ある意味では最も裕福な人達であるとも言えるからです。理由は明確です。都市に住んで高給を得ているサラリーマンが、例えば高層「億ション」の最上階に住んでいるとしましょう。都市の全てがそうであるように、都市機能の全ては田舎の食料や海外の油田、穀倉地帯などからの供給に100%依存しています。もし、インフラの一部例えば電気の供給が止まったとします。このサラリーマンが勤め先から自宅にたどり着くためには、線路に沿って何キロも歩き、何十階かの非常用階段を登らなければなりません。近くのスーパーの在庫も冷蔵設備が動かないし照明も非常灯だけになるので、その晩から食べ物の入手にも苦労するようになるでしょう

一方田舎は停電やエネルギーや食料の供給ストップにも鈍感です。作物が沢山取れたときには、納屋の冷暗所に保存したり、干して乾物にしたり、何より米さえあれば非常の時にも食べるものに困ることはありません。燃料は近くの里山の枯れ枝を集めてくれば、煮炊きにも困らないでしょう。要は、現代の多くの人たちはラッキー探しがすこぶる下手になっているのではないかというのが投稿者の見方です。田舎に住むラッキーは、多分10や20はあっという間に数えられるでしょう。旬の山菜などの食べ物、人情、助け合い、ゆっくり流れる時間、美味い空気や水、動植物からの癒し、明瞭な季節感などなど。これらのラッキーを上手く探し出せれば、田舎は都会の地獄に比べ、まさに天国に見えることでしょう。勿論変わったのはその人の見方だけであり、実は田舎の中身は、住んでいる人が減り、平均年齢が上がり、道路が便利になっただけで、100年前とは基本的には変わっていないはずです。都会の人々が田舎のラッキーに気づき始めたとき、田舎回帰の「Uターンラッシュ」や「Iターンラッシュ」が始まるかもしれません。

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2007年2月27日 (火)

253 時間という神

話が哲学っぽく、宗教っぽくなったついでです。251で神の話を書きましたが、実は投稿者は時間こそ神であると言えるかもしれない、と考えています。つまり、たった1週間や一夜で「全能の神が全てのものを創り賜うた」と言う作り話は全く信じていませんが、何億年という長い時間の経過の中で、単純な生物から多様な生物に進化したという、現代の進化論はかなりの程度説得力があります。であるならば、時間こそが神であると言い換えても、おかしくはないでしょう。例えば、食べ物や栄養状態が変わった事により、たった数世代前には小柄、胴長、短足であった日本人も、いまや肉食の外国人に迫る体格に「進化?」しました。ならば、数日で世代交代する微生物や数ヶ月の昆虫や数年の小動物が、時間の神の庇護の元で、多様に、複雑に進化を繰り返しても全く不思議はありません。その意味で環境とは、いわばその過程を抱合する揺りかごに他なりません。

私達が抱える環境問題とは、この神そのものである(かもしれない)時間を、人間の活動が加速しているという間違いであると、投稿者は考えます。1万年掛かって、平均気温が数度変化する程度の変化には、地球の生物はどうにか追随してきました。しかし、たとえば大隕石(小惑星?)の衝突によって生じた激変には、多くの生物種が絶滅という終末を迎えざるを得ませんでした。いま、地球は過去100年間に0.74℃平均気温が上昇した、という「事実」と、今後100年間に少なくとも2℃、悪くすれば6℃以上の気温上昇を経験するとの「予測」を持っています。この「変化の加速度」に果たして、100年後は石油の殆どを使い尽くしているであろう人間を含め、どの程度の生物が追随できるかという問題です。時間と言う神通力を、勝手に加速されてしまった神は、実は私たちをもう見放している可能性もあります。

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2007年2月26日 (月)

252 時間の円環

話が段々哲学っぽくなりますが我慢してください。ニーチェは「神は死んだ」という、いわゆるニヒリズムを提唱した、かなりネガティブな人のように思われていますが、決してそうではありません。むしろ能動的な前向きのニヒリズム、つまりはニヒリズムによるニヒリズムの克服を叫んだ人であるわけです。彼の著述をじっくり読んだという訳ではない投稿者としては、ニーチェの人となりについては、彼の著述を解説している数冊の本から伺い知る「孫知識」程度ですが、ニーチェの次の言葉が頭に棲みついてしまいました。それは「全ての直線的なものは偽りである。…あらゆる真理は曲率を持つ。時間それ自身が一つの円環である。」というものです。時間の円環とは、時間軸は直線なのではなく、将来と過去は、現在という接点で結合されて一つの環を作っているという考え方です。ヒンズー教や仏教にも「輪廻」とい言葉がありますが、因果は巡るというものの見方は洋の東西を問わず、物事を突き詰めて考えていくとき最後に行き当たる普遍的な視点かもしれません。

その意味では、点と点を結ぶ最短距離の線は直線であり、たった1本だけしか引けないという「合理性?」だけを唯一の根拠とする現代科学や、その実践としての技術には、何か割り切れないものを感じます。この感覚が、結局投稿者が環境人間へ踏み出した第一歩のような気がしています。ニーチェが言うように、様々な価値観という「曲率」を導入すれば、2点を結ぶ線は無限に存在すると考えたほうが、投稿者のココロは納得する様です。勿論時間についても、直線を突っ走って生き急ぎ、死に急ぐ人生もあるでしょうが、時にはわき道にそれてじっくり草花や虫たちを観察する余裕が欲しいところです。投稿者の人生は、結局50歳を機に、間違いなくわき道に踏み込んだのだと実感しています。

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2007年2月25日 (日)

251 宗教?

250の様な話しをあちこちでしていたら、最近ある人から投稿者は何かの宗教を信じているのではないかと問われたことがあります。しかし残念ながら?これまで宗教に染まった経験は全くありませんし、染まりかけた事も無いと断言できます。しかし、日本の荘厳な寺社や海外の教会やモスクに入って、何も感じないほど神々に対して鈍感であるという訳でもありません。生命の存在しなかった太古の「無機な地球」に、最初単純な微生物が発生し、それが何億年も掛けて現在の多様な生物群に進化してきた過程には、何らかの意味での「神なる力」が働いてきたことは、全く疑がっていません。もしそうでなければDNAの様にたった4種の単純な物質で出来ていながら、しかし殆ど無限の多様性を持つ生命の仕組みがどうして出来上がったのか、僅かにヒトゲノムの配列解析が終わっただけの「稚拙な現代科学」では、全く説明のしようがないからです。

その意味で、日本の古代宗教でもある、多様な八百万の神々の話は個人的には大好きです。八百万の神々に対する信仰とは、つまりは自然物の全てに神々が宿ると信じて敬うことです。一方、自然物ではない人工の建物である寺社や教会には、その中に「偶像」を安置して礼拝することは出来ても、建物それ自体は神々の住まいにはなり得ないわけです。

宗教に染まった事が無いと言いながら、投稿者が自分を「環境坊主」と自認しているように、結局投稿者は「環境教」という宗教への帰依者であるのかも知れません。生命の揺りかごは、まさしく天然自然しかないわけで、その意味でキリストさんであれ、マホメッドさんであれ人間の形をした神様はあまり尊敬できません。何やら、人為的な胡散臭さが禁じえないからです。投稿者は山登りの際、時々案内書にあまり載っていないサブルートを登ります。自分の周囲10km以内には、自分と動植物以外誰も居ないだろうと確信できたとき、自然に包み込まれている「ちっぽけな存在としてのやや心細い自分」を発見しますが、その時が多分自分の周りに神々の気配を感じている瞬間のような気がします。

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2007年2月24日 (土)

250 生きる根拠

1月末の全国ニュースに3日ほど先駆けて「初花粉」を検知した、敏感な花粉センサーを目や鼻に持っています。結果としてアレルギー鼻炎が絶好調ですが、そのぶん目のかゆみや鼻づまりでテンションは最低レベルに落ち込んでいます。とは言いながら、何かの義務のようにブログのアップは続けています。

さて現代の社会では、多くの人は不安に取り憑かれています。かのキルケゴールではないですが、自分の中に生きる根拠を持たない事が、不安の大きな原因となっている事は多分間違いないところでしょう。有名な著述の中で、彼は強い不安の結果としての「絶望」を「死に至る病」と呼んでいますが、最近働き盛りや若い人が死に急ぎ、或いは人を殺めるニュースが多い風潮もこれとは無縁ではないと考えています。と言うより直接的な原因であるとも言えるかも知れません。では生きることの根拠とは何でしょうか。受け売りではない投稿者の言葉でそれを書くならば、それは「駅伝ランナーとしての責務」ではないかと今は思っています。人類の存続のための駅伝は、ヒトがサルと決別して以来面々として続けられてきた作業でもあります。今では、ヒトは多くの国々や地域に別れて住み、民族間の熾烈な駅伝競走を繰り広げていますが、駅伝本来の「目的」つまりは生きる目的とは出来るだけ長く、できれば未来永劫人類を存続させる事であるはずです。というより、むしろそこにしか生きる根拠は無いはずなのです。

そのためには、走り続けている現役ランナーとして私たちは、人類だけではなく人類を支えている多くの動植物や、そのベースとしての自然環境をなるべく壊さずに持続可能な形で利用し、かつそれを次世代に引き継ぐ責務があると思うのです。それがいまや投稿者の生きる根拠そのものとなっています。

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2007年2月23日 (金)

249 「体」験的理解

市民講座や学校の出前講座に時々出かけるのですが、環境問題や温暖化問題を十分に理解してもらう事は実は至難の業です。取り分け子供たちには、頭で理解させる事はほぼ諦めています。要はどのようにして体で(字のごとく「体」験的に)理解させるかが、今後の環境教育(学習)のポイントではないかと思っています。近々試して見たい事は、エネルギーを自分で作らせる学習です。自転車で車輪を回して僅かな電気を起こす、自作の太陽電池(色素増感型など)で微弱な電気を起こす、更にバケツを使ったミニ水力発電所を作って豆電球を点す、小さな風力発電機を作るなどなどです。

一方廃棄物問題に関しては、自分が1週間で出したゴミを全て集めて一つの袋に入れさせます。残飯などの生ゴミは腐るので、先ず新聞紙に包み物干しに吊るして乾燥させてから袋に入れます。それがゴミ収集車に飲み込まれ、更にゴミの焼却場で石油を使って燃やされる過程を見学させる必要があります。最後にその灰は埋め立て処分場に運ばれて、未来の世代に押し付けられるまでの全ての過程を理解させる事が必要です。

温暖化について言えば、宇宙からみた地球の絵を示し、温暖化ガスの布団をまとった姿を説明しても、体験的に何が理解できるか全く自信がありません。温暖化のメカニズムを伝えるのにどうすれば体で体験できるか今まじめに作戦を考えています。いずれにしてもたった1時間の出前授業では、殆ど何も伝えられていない事も痛感しています。多分多くの子供や市民は、1日経てば聞いたことの殆どを忘れてしまうでしょう。体に染みつく体験こそが、長く影響を与えるものになるのでしょう。これに深く関連しますが投稿者が環境おじさんになった、大元の「体験」については追々書いていく事にします。

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2007年2月22日 (木)

248 勉強のための勉強

これまで通ってきた放送大学の岐阜学習センターには色々な人が集まります。酸素吸入器のカートを引きながらも毎日通ってくる70代の人、もう3回も入学と卒業を繰り返している人(最低でも12年間掛かります)、談話室にダベリに来るだけの人、勿論本当に必要な看護学や教育学、福祉関係の学科、建築や語学の勉強に来る比較的若い人もそれなりには見かけます。

しかしながら見受けるところ、多くの人(特に定年後のおじさん?)は、単に勉強のために勉強をしているような気がします。勉強のための勉強とは、つまりは自己満足のためだけの勉強のことです。それは、勉強した結果を何かに役立てるという目標のない、やや寂しい「内向きの勉強」でもあります。投稿者が放送大学の大学院に入ろうと思ったきっかけは、55歳からと決めていた、人に環境保全のメッセージを伝える生活に入るためには、先ずは自分自身の知識の幅を広げる必要性を感じたからでした。技術屋としての長い経験はそれなりにまとまった工学や経済の知識を残してはくれましたが、特に自然の理解という面では、地球環境科学や生物環境科学をはじめ、環境という森羅万象を含む知識体系を取り込む必要があると強く思ったことでした。勿論、「集団としての人類が引き起こした問題」の把握のためには文化や社会面からのアプローチも必須でした。

さて、人生経験も豊富な上、更に放送大学で学問を修めた年配者や、これから退役して、持て余す時間を勉学に当てるため、放送大学などの生涯学習の場に集まるであろう団塊世代には、その成果を是非次の世代に伝えて貰いたいと強く思います。それはいわば年を重ねた者の責務でもあります。そのためには、自分が得た知識や経験からの知識や知恵を「体系化」或いは「構造化」するという作業は不可欠でもあります。

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2007年2月21日 (水)

247 事実と価値

人間は、しばしば科学的事実とそれが持つ価値を混同します。特に科学者や技術者は、科学的裏づけを持つ事実を唯一の価値と思い込み勝ちです。実際、かつては「科学少年」であり、その後は「サラリーマン技術屋」であった投稿者もそうでした。しかし事実の持つ価値の重みは、それを受け取り判断する側の人間の価値観に左右されますので、両者は元々次元の違う話なのです。ましてや、ある技術が有用か否かの判断は、専らその社会が(背景として持つ)価値観の問題だと言えます。私たちは、戦後、ある意味では「米国に誘導された価値観」を持たされ、それが唯一絶対のものであるかのように信じ込んできました。言論の自由はいざ知らず、自由主義経済、技術万能主義、消費=美徳主義、更には教育システムに至るまで、欧米流(米国流)が正しいと疑わずに進んできました。

そのため、結果としては、モノを捨てない江戸文化や、神仏混交に代表される奥ゆかしい精神的文化までほぼ完全に捨て去り、科学・技術と経済(お金)を「新しい神々」として敬う社会を推し進めてきたと言えるかも知れません。しかし、今や科学・技術や経済活動無しには、たった1日とて社会は存続できないこともまた事実です。しかし「科学的事実」と「環境的事実」とは必ずしも一致しません。むしろその乖離はますます大きくなっているとさえ言えます。いま必要なことは、科学・技術や経済の持つ価値は絶対ではなく、精神的・文化的社会との対比としての相対的な価値として見直すことでしょうか。そのためには、科学的事実やお金では評価できない、「多様な価値観」を認め、それらにも価値を見出す多様な人間からなる社会を作り上げる事だと、「環境保全に価値を見出した」環境おじさんとしては、しみじみ思う今日この頃です。

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2007年2月20日 (火)

246 待つ楽しみ

245で提案したインコビニエンスストアとは、別の言葉で言えば「待つ楽しみ」を作り出すことでもあります。投稿者の少年時代、雑誌の殆どは「月刊」でした。週刊誌登場までは、少年たちは月1回の発売日が待ちきれず、発売日が近づくと毎日本屋をのぞきに行ったものでした。何しろ田舎の事ですから、雑誌は鉄道便に揺られはるばる旅をしてきますので、発売日は1日や2日はズレて当たり前でした。しかし、少年たちには毎月毎月「待つ楽しみ」が確かにありました。また雑誌は付録も含めて大切に保管されていました。

週刊誌が現れたのが何時だったか定かではありませんが、子供向け雑誌では「少年サンデー」や「少年マガジン」がはしりだったような気がします。しかし多くの雑誌が週刊となって、雑誌は「読み捨てるもの」になりました。何しろ、週刊になっても雑誌の厚みはそれほど変わりませんでしたので、取っておくにしても家の中では保管場所が確保できませんでした。雑誌の輸送も鉄道便にからトラック便に替わりました。

週刊誌になって「待つ楽しみ」はぐんと小さくなりました。今や、週刊誌も待ちきれずインターネットで読む雑誌も多分存在するのでしょう。待つ楽しみがゼロになった時、真のユビキタス時代が到来するのでしょう。投稿者はそんな時代にはなって欲しくないし、全く興味もありません。既報のように事務所に固定電話が引けたので、携帯電話も廃止するつもりです。投稿者の現在の楽しみは、「社会が環境保全に目を向ける時代」が到来するのを待つ事です。しかし人間の寿命は限られていますので、ただ待ってだけも居られないという事で行動しているわけです。

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2007年2月19日 (月)

245 インコンビニエンスストア

244のコンビニ中毒現象に対して、投稿者が待ち望んでいるのは、利用者に一手間を要求する少し不便な、いわば「インコンビニエンスストア」の登場です。ここでは、例えば注文を受けてからスナックを作り始めるため小さな調理場があり、狭いながらも椅子やカウンターがあり、利用者は自分で操作する給茶機やコーヒーメーカーで、お代わり自由の飲み物を入手できます。店には実際の商品は殆ど置かず、食べ物を待っている間に客が眺めるためのカタログと商品サンプル程度が展示されているだけです。客がある商品が欲しいと思っても、実際に手にするのは早くても2、3日後で、通常なら1週間後という、「不便さ」を売り物にします。その代わり、ネーム入れやサイズの調整や量の加減などやや込み入った客の注文にも柔軟に対応してくれます。そのための豊富な商品知識と街情報を持つスタッフ(いわば買い物のコンシェルジェ)を抱えているような店というイメージです。勿論、昼間は電灯を殆ど点けず、天窓からの自然光を最大限に活用します。従って、またまた不便な事に、営業時間は日の出から日没までになってしまいます。つまり夏場は夕方7時近くまで営業しますが、冬場はなんと4時半には店じまいしてしまうという不便さです。何しろ物流がスローなので、トラックによる配送は、多分2-3日に1回程度で十分です。商品入手は非常に不便なので、客は1週間先位まで、自分が何を必要とするか計画し、メモに書いて置く必要もあります。つまり「不便は消費者に計画する事を要求する」のです。しかし不便は客と店員のコミュニケーションも要求しますね。誰かこんな不便な店を作ってみませんか。フランチャイズ料は何と「未来永劫無料」ですよ。

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2007年2月18日 (日)

244 便利中毒

コンビニエンスストアは文字通り「便利な店」です。今や、買い物だけではなく、郵便物や公共料金支払い、各種チケット手配から宅配便、通販の受け取り支払い、ATMの引き出し、更には今や生鮮食料品の購入まで可能です。コンビニで用が足りない事は、電化製品や洋服などコンビニの棚に並べられない大型商品の購入くらいではないでしょうか。こうなってくると、コンビニの便利機能は、ますます拡充されてくる事は間違いないところとなりました。何しろ、コンビニ業界では、グループの売り上げ拡大のため、日夜企画会議が繰り返されているはずだからです。投稿者がホンの数分考えただけでも、二つや三つの新サービスはすぐ思いつきます。勿論、この流れに批判的な立場である環境おじさんとしては、口が裂けてもそんなアイデアは教えませんが。

さて、この様な便利な仕掛けが出来上がると、困った現象が起きます。「コンビニ中毒患者」が激増する事です。とりあえずコンビニに飛び込めば、弁当やスナックは勿論、雑誌やレジャー情報などが手に入りますので、「とりあえずコンビニ族]も生まれてしまいます。また投稿者が山に入る前に、おにぎりを調達するため仕方なく立ち寄るかなり田舎のコンビニでも、地元のお年寄りがコンビニで弁当を買う光景をよく目にします。一人分の食材を調達して調理するのに比べれば、500円で弁当を買えばとりあえず昼食や夕食にありつける訳です。都会のオフィスで昼食をとる若者にもこのコンビニ中毒が蔓延しています。

つまり人間は、便利な事にはあっという間に慣れ、慣れた後は少しの不便にも辛抱できなくなる情けない存在だと言えます。つまりは「便利中毒患者」です。結局今問題になっている環境問題に対しても、不便が生ずる対策には殆どの人は賛成しない事は明らかです。その人たちがやっと行動を起こすのは、本当に自分達が直接的に被害を蒙る時になるでしょう。

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2007年2月17日 (土)

243 電灯生活・太陽生活

現代の生活を「電灯生活」に例えてみます。電灯生活とは、生活全てに電気や化石エネルギーを必要とする生活スタイルのことです。実際、全てのコンビニでは24時間煌々と電灯りを点し、多くの事務所ビルでも昼間っから電灯を点けっ放しになっていますね。一方、日の出と共に起床し、日没と共に一日の生活を終える生活では、夕方に短時間電灯を点けるだけで済みます。これを「太陽生活」とでも名づけましょう。

さて電灯生活では、何によらず電気や化石エネルギーに頼りますので、短時間の停電や多少の石油の需給逼迫でも大パニックに陥ります。この国でも、1970年代に2度ばかりそのようなパニックを経験したことを覚えている人も多い事でしょう。しかし、エネルギーの供給が安定していない発展途上国では、停電は日常茶飯事でもあるわけです。現代の中国でさえ、急速な電力消費拡大が原因ではありますが、停電騒ぎは日常的に発生しています。

一方太陽生活を基本とする社会は、不便ではありますが非常に安定したものであると言えるでしょう。確かに太陽生活では、これは仕方がない事ですが雨が降って太陽が顔を出さない日が数日続くことはあり得ます。しかしその場合は、家の中で静かに手間のかかる手仕事などをして過ごせば良い訳で、かえって生活にもメリハリがつく事でしょう。図書館から本を借りて読みふけるのも良いでしょう。しかし、晴れた日には日の出とともに起床し、太陽を基本とする食糧の生産や生活のエネルギーを得ながら日没まで働けば良いわけです。どちらがより人間らしい生活かを問えば、現代の社会では多分電灯生活が圧倒的に支持されそうな気がします。勿論、純粋な太陽生活が最早実現できない事も明白ですが、少なくとも「パートタイムの太陽生活」は目指すべきでしょう。

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2007年2月16日 (金)

242 下からのアプローチ

高度成長期後の私たちの生活水準は、結局資源・エネルギーの消費水準は、温暖化や廃棄物問題から見れば行き過ぎであった事は明白となった訳です。従って、然るべき(より低い)生活レベルにゴールを定め、そこに向かって軟着地する必然性があります。さて、あるレベルに近づく方法としては、大きく2つの方法がありそうです。一つは上側からのアプローチで、もう一つは下側からのものです。上側からのアプローチでは実はストレスが溜まります。何故なら、常に我慢や節約が求められるからです。そのため我慢に慣れていない世代は、最初からそれが出来ないかも知れませんし、節約が何たるかを知っている世代でも、二度とあんな生活には戻りたくないと考える人も多いことでしょう。

一方、下からのアプローチではそんなストレスとは無縁です。何故なら、お金も食べ物もエネルギーも全く不足している状態から、知恵や工夫で何とか「不便ながらも快適に過ごせる生活レベル」を目指す事は、それほど困難でも大変でもないはずです。実際、50年代や60年代前半の生活を知っている世代は、そのようなアプローチを経験してきており、それが今の社会につながっているわけです。投稿者は、自発失業するまでは、どちらかといえば恵まれたサラリーマンとして暮してきたのですが、中小企業に転職し、更に自営の事務所を立ち上げる過程で、お金にはなるべく関わらない生活を実験しつつある訳です。しかしながら、山の中で仙人のような自給自足をする「完全環境人間」としてではなく、地方都市に暮らす「環境人間見習い」である投稿者は、市民や子供や企業に、環境の大切さを説きながら「お布施」いただく生活を、少なくとも今後10年は続ける決意を固めている状況です。ですから、投稿者は下からのアプローチの実験として、先ず全てをご破算にした上で、必要欠くべからざるものから少しずつ揃える生活を選択しているというわけです。実はこれは、投稿者の連れ合い(普通の専業主婦です)に100回説明しても未だに理解してもらえないというアプローチ方法でもあります。仕方がないので一生かかって1000回説明するつもりです。

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2007年2月15日 (木)

241 水飢饉

目前に迫った環境問題(人災?)として淡水の枯渇が挙げられます。この場合主に問題となる淡水とは、アメリカ中西部やインドなどで農業用水に多用されている深層の地下水(化石水)の事です。化石水は最近降った雨水が浸透したものではなく、太古の昔にその付近が低地であった時期に蓄積された水である訳で、従ってその後の補給がされないという困った特徴を持っています。従って、深い井戸から大量に水を汲み上げるにつれて、地下水位はドンドン下がっていく事になります。現在インドの内陸やアメリカ中西部では、既に涸れた井戸も出始めており、まだ水が出ている井戸でも年々水位が低下し続けています。やがて、水が出なくなる井戸が多数に上ると、いくら土地があっても食糧は生産できなくなります。

一方で、アラル海を含む旧ソ連地域では事情が異なります。綿花などの換金作物の生産のため、アラル海に流れ込む複数の川から多数の水路を掘り、農業用水を多量に採取する農業政策を採りました。しかし、用水路は素掘り(ただ土を掘っただけ)であるため用水の約半分は地下に浸透して失われてしまいます。また、これらの川は地表のミネラル分を多く溶かし込んで流れているため、採取した用水で灌漑を行うとそれらのミネラル分(塩分)が地表に蓄積する、いわゆる「塩害」が発生し開発後数年でそれ以上の耕作が続けられなくなってしまいます。軽度の塩害では、多量の水を撒いて塩を洗い流しますが、限度を超えると農地を放棄せざるを得なくなります。そのため、新たな農地の開墾と用水路の延長という悪循環が止まらなくなります。アラル海は、結局農業用水の過剰な取水の結果大半が干上がり、且つ塩分濃度が急上昇した死の湖と化しています。中東にも同じような歴史的背景があると見られる「死海」という湖が存在します。

中国でも似たような事態が起きていて、黄河流域でも川の水が途切れる「断流」が毎年の様に発生するようになりました。一方で私達は、気がつかない内にこの犠牲の上に立って多量の中国野菜を輸入して口にしている国民でもあるわけです。これらの淡水の枯渇問題は、まさに農業を商業メカニズムに組み込んだ結果の「人災」と言えるでしょう。

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2007年2月14日 (水)

240 レジ袋

レジ袋の有料化が一部で始まっています。しかし、そのための「法制化」は見送られていて、一部の大型店舗に対して、レジ袋の削減努力が謳われているだけです。当然の事ながら、自分の店舗だけで有料化すると売り上げが減ることを恐れる店長が多いため、「横並びで」有料化実施を「模様眺め」している状況です。国民一人当たり300枚/年というレジ袋の量は、確かに石油換算では50万klにも相当するわけですから、削減努力が必要なことは当然でしょう。

しかし単純に法律だけで縛るのは考え物です。むしろ、マイバッグ所持を社会の風潮に育てる努力こそが必須です。思えば、日本には風呂敷文化があり、風呂敷によるラッピングの技も多様です。一升瓶やスイカ等の包みにくい品物の風呂敷ラッピングも、少し練習すれば誰にでも出来る筈です。ところで、マイバッグを持ち歩くのは確かに面倒ですが、薄い風呂敷生地で出来た袋なら、畳んでポケットに入れても、バッグに入れても嵩張らないはずです。勿論色やデザインは洒落たものにする必要があります。要は、マイバッグの持参が格好良い(若者言葉ではイケテル)行為に映る社会の風潮こそが重要だと考えます。一般に、法制化ではそれに抗う人は世の常としてかなりの割合に上るものの様ですが、イケテル自発的な行動は、若者に真似られるスピードも速いでしょう。レジ袋の削減活動にとって今足りないものは、誰もが持ちたがる格好の良いマイバッグの提案だけのような気がします。世の数多くのデザイナー諸氏には、金になるファッションや携帯電話のパッケージばかりデザインするのではなく、思わず持ち歩きたくなる格好良いマイバッグのデザインも競って貰いたいものです。

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2007年2月13日 (火)

239 環境坊主

環境カウンセラーは何に似ているかと考えたとき、実は坊さんに近いのではないかと最近感じています。坊さんが「職業か否か」という事をまじめに考えてみた事はありませんが、少なくとも自分のパフォーマンスを売る、普通の意味の「職業」ではないことは確かです。坊さんのお経を読み上げる声が、オペラ歌手の様に朗々としていて素晴らしく、或いは木魚を叩くリズム感がどれほど優れていても、お布施の額にはそれほど差が出ないのでないかと勝手に想像しています。先ずは仏事を行って、結果檀家からの「志としてのお布施」をいただくのが坊さん業であり、メニューも単価表も存在する訳ではありません。

環境カウンセラーも同じ様なもので、例えば企業主が環境経営への舵切りを決意したとしても、その日から企業の利益が増える訳ではありません。むしろ、一時的には経費が増加するかもしれません。従って、投稿者が熱心にカウンセリングを行ったとしても、その行為に対して決まった代価を求める訳にも行きません。あくまで経営者として、環境保全に寄与したという(精神的)満足度に見合う額の「お布施」として薄謝を受け取るのが精々でしょう。まさに環境カウンセラーは「環境坊主」である訳です。

勿論、投稿者としてもそれなりに生活が掛かっているので、企業に対しては実質的な経費節減効果が実感できるように助言しながら、メリットに見合った額の「お布施」をいただくように努力しなければなりません。具体的には、エネルギー費の削減や原料費=廃棄物量の圧縮などの目に見える形のメリットを示す必要があります。幸いにも、投稿者のポケットの中にはこの手のアイデアがいっぱい詰まっているので、ネタ出しには苦労しないで済みそうです。

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2007年2月12日 (月)

238 お祭り世代

以前も少し触れましたが、投稿者は団塊世代のことを勝手に「お祭り世代」と呼んでいます。彼らの居るところ常にお祭り騒ぎがあったからです。彼らの子供時代、学校の運動会は町を上げての大イベントでした。すし詰めで教室に収まらず廊下にまで机を並べた小中学校時代、高い倍率を潜り抜けた受験戦争期、一方では多くの浪人生も生み出しました。思えばあの大学紛争もそれらのストレスのはけ口だったかも知れません。彼らのために中学、高校、大学と学校の規模は拡大され、社会に出てからは経済規模を拡大させ続け、結婚しては郊外に大規模団地を出現させ、中年期には国内需要や輸入品の消費市場を支えてきました。とどのつまりはお金のやり場に困ったすえの土地転がしで、バブル経済と言うお祭りの絶頂期まで作り出してしまったわけです。これをお祭り(お祭り世代)と言わなくて、何がお祭りでしょうか。

勿論団塊世代の個々人に責任を問う事は出来ません。なぜなら「時代がそうさせた」という以外に明確な原因を求めることが出来ないからです。投稿者は、その意味では「お祭り世代の直後世代」です。つまりは、祭りの「山車」の少し後ろを、トボトボついてきた世代です。その分、お祭り騒ぎに対しては少し身を引いて、やや冷静に観察できた世代であるとも言えます。これが、50歳にして投稿者の価値観を180度変えさせた遠因ともなっているような気がします。いずれにしても、お祭りは何時かは切り上げなければなりません。そして、明日が今日とほとんど同じである、落ち着いた「日常生活」に戻る必要があります。お祭りは(豪華なご馳走や甘いケーキを食べ、よそ行きの服を着るのは)、年に一度くらいしか来ないから楽しみである訳で、毎日がお祭りの様な生活が持続できない事は全く明白です。

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2007年2月11日 (日)

237 温暖化再考

今回も硬い話題です。IPCC(気候変動に関する政府間パネル)の第4次報告書がまとめられました。これまで概ね5年に一回の割合で報告がまとめられていますが、今回の報告書は過去の報告に比べ、かなり踏み込んだ結論となっています。新しい見解を含め大きくは次の6点に集約されます。

1)温暖化の主たる原因を、ほぼ人間の活動から出る温暖化原因ガス(特に)であると断定。2)21世紀末の気温上昇をシナリオのMin-Maxで1.8-4.0℃、海面上昇を18-59cmと可能性範囲を狭めた。(前回:1.4-6.4℃で9-88cmの海面上昇)、3)2030年まではシナリオによらず年平均0.2℃上昇すると予測。4)北極海の夏場の浮氷は21世紀後半までに消滅するとの予測も加えた。5)CO2濃度の上昇により海水の酸性度が増すと予測。6)温暖化により海中へのCO2の溶け込み量が抑制され、大気中のCO2濃度が更に増加傾向を増すと予測。全体としてみれば、温暖化傾向に人間活動の影響をより踏み込んで断定し、気温上昇や海面上昇、氷河雪氷の後退をより具体的に予測していると言えるでしょう。

この報告書に対する投稿者の感想ですが、IPCC報告は一つの警鐘とはなっていますが、それに対処する具体的な提言が弱いと感じます。温暖化の原因がほぼ特定されたのであれば、それを緩和する手立ても併記されるべきでしょう。具体的には、単にいくつかの予測シナリオを羅列するのではなく、誰が何を何時までに達成しなければならないのかの目標を示し、そのための割り当て量まで踏み込んで論ずるべきと感じました。危ない、危険だと叫ぶのは簡単ですが、それを避ける具体的な指針が無ければ、狼少年と同じことになるでしょうから。京都議定書も、IPCCの報告書を踏まえていたのですから、ポスト京都議定書を意識して、もっと過激に提言して欲しいとも感じました。

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2007年2月10日 (土)

236 ペースメーカー

このブログも、投稿者の初期の予測とは違って、意外に長続きしていると同時に、その時書きたかった事から少しですが議論が深まってきたような気もします。途中から読まれた方もいると思いますので、ここで自分の頭の整理を兼ねて、なぜ投稿者が環境カウンセラー業を目指したかを改めて書いてみることとします。

これまで、時代背景を「山登り」や「お祭り」や「車の運転」などに例えてきましたが、最近は「環境カウンセラー=ペースメーカー」である、と考えるようになってきました。ペースメーカーとは、心臓に異常がある人が、鼓動を正常に保つために体の中に埋め込む機械や最近ではマラソンの前半にレースのスピードを適正に保つ役目の人などもそう呼ばれています。確かに前半飛び出したマラソンランナーが途中で息切れしてリタイヤする光景はよく目にしますね。さて、環境問題は人間の活動が自然の代謝が許容する以上のペースで行われる事に主な原因があることは、このブログでも「キーボードを叩く指が痛くなるほど」強調してきたところです。つまり、人間の活動を一定以下のスピードに抑える役目の人が環境ペースメーカー、即ち環境カウンセラーの役割ではないかとの結論に至ったわけです。

従って、このペースメーカーとして働けるのはなにも環境カウンセラーだけに限らない事になります。世の中にはLOHASをブームにしようとする人もいますし、スローライフを提唱する人もいます。言葉ではとやかく言わずに、都会の生活を捨ててさっさと田舎に飛び込んで、自給自足の生活に入る人も立派にペースメーカーになり得ることになります。しかし、やはり何が本当に望ましいペースであるのかに関しては、しっかりと勉強もし、より正確なペースを刻む事を目指すべきなのでしょう。その意味では、投稿者はたまたま環境カウンセラーと言う第2の職業を選択し、今まさにその正しいペースを模索している最中と言えます。

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2007年2月 9日 (金)

235 環境のグラデーション

234で「環境のグラデーション」という言葉を説明無く持ち出しましたので、もう少し付け加えることにします。さて、人工の環境こそグラデーションが破壊されたものの代表と言えるでしょう。例えば、田んぼの畦道には自然の「痕跡」がありますが、アスファルトの道路は、周りの土壌とは完全に連続性が途切れています。同様に、人間が作った都市の境界と自然の間にも連続性は失われています。しかし少し時代を振り返れば、人間が住む集落や町と自然の間には、必ず緩衝地帯としての里山が広がっていました。この緩衝地帯は、実は野生動物と人間社会との緩衝地帯でもあった訳です。よく手入れされて見通しの利く里山には、動物が近づくことはありませんでした。

いま里山が残っていたとしても、放置され植物が密生している現状では、その茂みに隠れて大型動物も容易に民家にアクセスできることになります。里山でなくとも、放置された(藪だらけの)人工林が、開発された住宅地に隣接しているような場所でも、やはり熊や猪やサルや鹿が頻繁に出没してもまったく不思議ではありません。

自然と人間社会が上手く折り合いをつけて互いに存続していくためには、自然環境>半自然の環境>半人工の環境>人工の環境、という無理のないグラデーションを維持していく必要があると言えそうです。その意味で、高度成長期以降、薪炭や山菜の採取場所としての役目も失って完全に無視され、次々に切り払われ、開発されてきた里山こそが、実は人間にとっても自然にとっても非常に重要な役目を果たしていた、「半人工環境」だったと言えます。その意味で、里山が既に失われている地域では、例え都市や人工林を少し削ってでも里山の再生を検討する必要があります。

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2007年2月 8日 (木)

234 生物多様性2

生物の多様性は、実は微妙に且つ連続的に変化する「環境のグラデーション」によって確保されています。例えば、日本には2000種近く生息するといわれている「ダニ」ですが、実はダニは環境変化に非常に敏感な生き物でもあります。湿度や気温や土壌の酸性度やエサとなる枯れた植物の種類がホンの少し変化しただけで、そこに棲むダニの種類(ダニ相)は大きく変化してきます。ダニは、自然界にあっては有機物の主要な分解者でもあるので、ダニ相が変化すれば、そこに棲む昆虫やひいては鳥や獣まで影響を受けてしまうでしょう。

サンゴ礁の場合はもっと悲惨です。サンゴは平均水温がたった1℃変化しただけで、最早サンゴ礁を維持することはできなくなります。サンゴは、海水の汚濁によって死に絶える場合と、気象の温暖化による海水温の上昇によって絶滅する場合の両面から攻め立てられていると言えるでしょう。既にその兆候は出ていますが、本格的な温暖化の影響が現れる前には気象の激甚化が進むでしょう。暑さ、寒さの幅が大きくなり、極端な豪雨や旱魃や酸性雨や(オゾンの消滅で)強くなる紫外線が、今後も生物の多様性をドンドン失わせる事でしょう。

環境問題の対策があれこれ議論されていますが、生物の多様性こそ最も重視されるべきポイントで、対策の多くも先ずはそこに向かうべきでしょう。環境のグラデーションの保全は、何より人間にとっても心地良いものとなるはずです。

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2007年2月 7日 (水)

233 生物多様性

生物多様性は、企業活動においても重要な指標になり得ます。いくつかの例を挙げましょう。最近は健康志向から、酸化されにくい食用油としてパーム油の消費が拡大しています。パーム油は、東南アジアの大規模な農場でパーム椰子を栽培し、その実から絞る油で作られます。マレーシアなどで見られる大規模なパーム椰子農場は、熱帯林を切り開いて作られ、且つ動物の棲家や獣道も分断してしまうので、生物多様性にとっては最もひどい仕打ちに当たります。

地球の温暖化を軽減するために、石油や天然ガスを使った発電の代わりに、水力発電の量を増やすと仮定します。その為には新しいダムの建設が必要となりますが、結果としてダムは川の生態系を破壊し、川から土砂が運ばれなくなるため砂浜が侵食され、結果川や海岸の生物多様性も失われます。温暖化を防止するならば、代替エネルギーを求めるのではなく、まずギリギリの省エネルギーを志向すべきなのです。

エネルギーや木材や紙の使用量が多い企業が、お金を出して植林事業を拡大させる動きも活発です。植林する樹種は、当然再度紙や木材として使うのに適した樹種ですから、結果として森林の多様性、ひいてはそこに棲む生物の多様性も失われます。起こすべき企業の活動としては、単なる植林ではなく、樹木の多様性まで考えた生態学的な植林であり、その前にすべきは木材の使用量を抑える技術の開発であるはずです。新聞社が植物性のインクを採用したからといって、新聞を朝晩配達するという行為が、果たして、生物多様性にとって正しいのかどうか、森林地帯の真ん中に道路を通す事が生物にどのようなインパクトを及ぼすのか、ちょっとした想像力があれば十分チェックできるはずです。

生物多様性さえ確保されれば、結果としてその生物が棲む環境自体も保全されている証拠になるはずです。生物多様性への配慮は、企業の経営思想をチェックする上でも不可欠の視点です。

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2007年2月 6日 (火)

232 環境倫理

231で環境倫理という言葉を使ったので、少し整理し補足します。これは実は放送大学での投稿者の主要な研究テーマの一つともなっていました。さて環境倫理ですが、大きくは次の3点に括って考える事が出来るでしょう。1)生物自体の権利、2)地域間公平、3)世代間公平です。

1)の)生物自体の権利とは、人間以外の全ての生物にも、「人間と同等の」生きる権利を保証すべきであるかどうかという論点です。もしNOなら、人間以外の動物例えばペンギンやシロクマやサンゴが死んでも構わない。人間さえ生き延びれば良いという考え方を支持する事になります。

2)の地域間公平とは、いわゆる南北問題です。石油や天然ガスなどの化石燃料の大半は、先進国が位置する高緯度地域で消費されています。しかし、温暖化の影響は最初サンゴ礁の国々や大河のデルタ地帯に広がる発展途上国に強く現れます。海面下の干拓地面積が多いオランダは、この問題に敏感な例外的な先進国の一つです。

3)の世代間の公平の問題は、時間軸では将来の問題です。我々世代が排出した多量の廃棄物(核廃棄物を含みます)や温暖化原因ガスやオゾン層破壊ガスの影響は、永くまたは未来永劫残り続けます。現在の快適な生活のツケを(何の責任もない)後世の世代に押し付ける事が果たして倫理的に許されるのか、という重い課題でもあります。

勿論この他にも、企業倫理や政治家倫理、消費者倫理などもポイントも考えられますが、キリがないのでここでは割愛します。このブログも、背景にはこの環境倫理を踏まえながら書いているつもりです。

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2007年2月 5日 (月)

231 ルールを越えるもの

ここまでこのブログで書いてきたことを振り返れば、それは多分環境を中心に据えた「ルールの確認作業」であったような気がします。人は「上手く生きていく」上では、少なくとも最低限のルールが必要です。しかし、「良く生きる」ためには、ルールだけでは足りません。ルールを越えるルール、それは多分「倫理」などという言葉で表現されるものになるでしょう、が絶対必要になります。倫理の倫は、人と人との間というほどの意味ですが、実は人と自然の間にも倫理の導入が必要である訳です。投稿者はこれを「環境倫理」あるいは「自然の理」と呼んでいます。この国の昔の人は、それを良くわきまえていて、自然の中になんと八百万(やおよろず)もの神の姿を見出し、それらを敬いながらささやかながら心豊かな暮らしを営んできたのでした。自然の恵みをもたらす大元である太陽が昇る東の方角に見える山の頂や丘、巨岩、滝、湖、大木などなど、多くの自然物に神(尊敬の対象として)の姿を見てきたのでした。その一方で、自然からは決して必要以上のものは奪わず、どうしても必要なものは、食べ物なら命を「いただきます」と感謝しながら口にしてきたのでした。

しかし現代の様に、殆ど全てのものが工場で加工(野菜でさえ工場で無菌栽培される時代です)されるようになると、何より自然に対する感謝の気持ちが失われていきました。製品を使う場合や食べ物を口にする時、「工場に感謝する?」人は殆ど皆無だと想像しています。感謝すべきは、原料を供給してくれた自然や大地である事を、倫理という言葉を忘れかけた現代人は、すくなくとも時々は思い出すべきでしょう。

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2007年2月 4日 (日)

230 暖冬と渇水

記録的な暖冬です。場所によっては100年来の異常な暖冬状態だとか。北半球での暖冬の主な原因は、北極気団(冷たい高気圧)の弱体化です。北極気団のエネルギー源は、極地方の厳しい寒さに他なりません。投稿者の古い記憶では、地球上で最も低い気温を記録したのは、確か北極海沿岸にあるベルホヤンスクという土地で、マイナス80℃近い気温だったと思います。この厳しい寒さが、大気を冷やして密度を上げ、高気圧として北極に蓄積するのです。この高気圧のフチは地球の自転(コリオリの力)により蛇行し、三つ葉や四葉のクローバーのような形に変化します。この葉の1枚が日本に下りてくると大寒波になるというメカニズムです。

いずれにしても、台風や低気圧が熱帯のエネルギーを極地方に運ぶのも、逆に極地方から寒波が温帯地域に降りてくるのも、地球の大気(や海流)が地球の気温を平均化しようとする自然のメカニズムです。異常な暖冬や夏季の異常高温は、このメカニズムに異変が起きていることの間接的な証拠と考えられます。温暖化の具体的な事象は、実は極地方により顕著に現れる事が分かっています。このままの調子で温暖化が続けば、2040年までには、夏季の北極海の浮氷は消滅するという予測が立てられています。こうなると、北極海での太陽光の反射率(アルベド)が大幅に低下し、温暖化の悪循環がひどくなるはずです。

もう一つ、投稿者が心配しているのは、日本では今冬の高い山への積雪が少ない結果、今年の夏場までの雪解け水の水量が減り、特に関東平野を中心に渇水騒ぎが起こるのではないかという点です。これまでは、暖冬と渇水被害の因果関係はあまり議論される事がありませんでした。しかし、日本に限らず、高い山への多量の積雪は、「天然のダム」でもあるわけですから。例えば、ヒマラヤなど比較的緯度の低い高山への降雪量の減少は、そこに発する大河が流れる多くの国々への渇水被害をもたらす可能性があります。特に中国やインドや旧ソ連などが大きな被害を受けると懸念されます。

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2007年2月 3日 (土)

229 時代の物差し

物差しは重要です。物差しが無ければものの長さが測れません。現在は地球のサイズ、赤道の長さ(の約1/40000000)が長さの基準になっている事は、実は非常に重要な点です。それまでは、人の体の部分の長さが基準でした。指の差し渡し(インチ)、肘の長さ(フィート)、一歩の幅(ヤード)などなど。地球の大きさを長さの基準と決めたとき、人類は初めて地球のサイズを感じ始めたと言えるでしょう。

しかし、1mの長さは確実に(相対的に)短くなり続けてきました。白金製の「メートル原器」(これは実は少し古い表現で、現在は光の波長を長さの基準としています)の長さは変わっていませんが、感覚的な長さが相対的に短くなった証拠として世界1周の時間が挙げられます。J.ベルヌによって「80日間世界一周」が書かれた時代は、メチャクチャ無理しても80日も掛かった世界一周旅行でしたが、今では日本から見て地球の真裏のブラジルへも僅か24時間で行ける時代になりました。往復2日として、長さは1/40にも短くなった訳です。

これは、実は時間軸の目盛りにも密接に関係します。ものの長さと違って時間の長さを直接比較するわけには行きませんが、投稿者の実感としては、例えば60年代にくらべ時間の経過が少なくとも半分くらいまで圧縮されてきたような気がします。人生80年の時代ですが、我々は、この80年の時間を実は40年程度の感覚で生きているのかも知れません。人生50年といわれた時代に比べても、如何に我々が「生き急ぎ、死に急いでいる」かが分かります。そういえば最近ラジオで聞いた、43年間農業を続けて来た人のコメントが強く心に残りました。「私はまだ43回しか作物を育てた経験がないのですが、それでも最近(作物の気持ちが)やっと少し分かってきたような気がします」。これ以上地に足がついていてしかも謙虚な表現が他にあるでしょうか。

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2007年2月 2日 (金)

228 時間泥棒

227で書いた減速とは、実際的には少し昔に後戻りすることとほぼ同じ意味になります。実際過去には、現在よりスローな社会が存在したはずです。もちろん既に出来上がっている社会の仕組みは、簡単には後戻り出来ない事ははっきりしていますが、とは言いながら少なくともその方向に歩み寄る努力は不可欠です。

ところで「時は金なり」と言われてからどれくらいの時間が経過したのでしょう。この場合の金とは価値のことであり、このような社会では、人々はお金を得るために自分の時間を売り続けなければならない運命に晒されます。もし自分の時間を売らないでお金を儲けている人が存在するとすれば、多分その人は他人の時間を盗んでいるか、地球環境から資源やエネルギーを不当に略奪している計算になります。エアコンの効いた事務所で、モニター画面を見ながら株や電子マネーを動かしているトレーダーは、一度自分の給料はどこから来ているのか考えて見るべきでしょう。それは、どこかの途上国の外資系大規模農場で(環境を破壊しながら)現地の労働者が酷い労働環境で働いて作った「換金作物」の、先物市場で儲けた金からきているかも知れません。トレーダーが、自身が働いて紡ぎだした「有形の価値」は、実はどこにも存在しません。つまりトレーダーは労働者の時間を盗んでいる、という「屁理屈」も成り立つのかもしれません。例えば、今マスコミを賑わしているのは「宝探し」ですが、形を変え繰り返される「ネズミ講」や「マルチ商法」は、まさに典型的時間泥棒の犯罪です。被害者は、詐欺師に自分の将来の時間をそっくり盗まれた訳です。勿論、被害者とは、ネズミ講が持続している間は、実は時間泥棒の加害者であった人たちでした。

「時間は価値ではない、(良く生きる)人間らしい生き方や豊かな自然環境こそ価値だ」、主張する投稿者の様な考え方で行けば、自動的にゆったりした時間が流れる生活に立ち返る方向に変化すると信じています。投稿者は、いままさにそのための(自分の時間を売らない)実験をしている毎日です。

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2007年2月 1日 (木)

227 減速時代

このブログでは、これまで時代や社会を山登りに例えてきましたが、山にあまり登らない人のために、ここでは車の走行に例えることにしましょう。車の運転の3要素は、アクセル(A)、ブレーキ(B)、ステアリング(S)です。当然の事ながら構造の要素としては、車体、エンジンなどのパワートレイン、居室、その他の補機もありますが、ここでは運転の話とします。

さて、A、B、Sを操作しながら時代は進みますが、これまで(20世紀)は殆どA、Bだけの時代であったといえます。景気が良くなればAを目いっぱい踏み込み、つまり銀行は金を貸し企業は投資を拡充させる結果経済が加速されます。景気が陰りを見せると企業は急ブレーキを踏みます。つまり銀行は金を引き揚げ、企業は生産を縮小するため雇用を抑制し、経費支出や設備投資を抑制します。結果、車の速度は激しく変動しながら、しかしスピードは右肩上がりに推移してきた訳です。しかし気がつけば、車の燃料(石油)は既に半分にまで減り、室内の温度も上がり過ぎて少し不快になってもきました。そういえば、道路を広げ続けてきたためSもあまり使わないでも運転が出来ていたことにも気がつきました。その一方で、自分達は一体どこに向かって車を運転して来たのかが定かではなくなり道に迷いかけてきました。しかも速度が上がるほど運転者の視野は狭くなります。

ところで道に迷った時最初にすべきは、先ずは路肩に車を寄せて停車し、周りを見回すことでしょう。出来れば地図を広げて行く先を再確認したいところですが、生憎古い(前世紀の)地図しか手元にはありません。しかしいまAを緩めても、惰性でそれなりのスピードは保てるはずです。少し減速しながら、周りの景色を確認し、これから向かうべき目的地を再確認すべき時期に差し掛かっているのは間違いありません。

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