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2007年3月31日 (土)

283 休題(水汲み族)

飲み水の話です。自宅のある住宅団地の裏には標高200m前後の山並みが連なっています。その尾根は10km弱の長さがありますが、中高年にも密かな人気があり手ごろなハイキングコースとなっています。この山並みの東の端に団地があるのですが、不思議と神社が多く建立されている一角でもあります。主なものでも5つ位は集まっています。その山並みの数箇所からは、美味しい水が湧き出しています。山は決して高くは無いのですが、殆ど枯れる事が無いのが不思議です。考えて見れば、湧き水(あるいは池や滝)と神社は多分密接な関係があるはずです。

ある泉の水は地元では「なんとか霊水」と呼ばれています。流石に山の水にはピロリ菌が含まれている可能性も高いので、生水をゴクゴクと飲むのは躊躇われますが、お茶やコーヒーを入れる水としては、殆ど理想的な水ではないかと思っています。適当な炭酸の溶け込みにより、コーヒーをドリップする際にもきれいに泡が立ち、ミネラル分のバランスが良いためと思われるまろやかな味は全く申し分なしです。投稿者は、数本の2リットルのペットボトルの空き瓶を利用して、2週間に一度くらいの割合で水汲みに出かけます。しかし噂を聞きつけてか、最近は水汲み族が増えすぎて、水汲みに列を作るので、結構時間がかかるのが目下の悩みの種です。ひどいケースでは、数人の飲食店関係の商売人と思われる人達が、入れ替わり立ち代り20リットルの容器を10個くらい車に積んで水汲みに来るので、運悪く彼らと鉢合わせした日は仕方なく水汲みを諦めざるを得ない事態になります。

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2007年3月30日 (金)

282 超異常渇水

所要で「下呂市」近くまで行き、ついでに山里に年金生活のための庵(小住宅)を建てた年長の友人を訪ねてきました。途中に、岩屋ダムという結構規模の大きなロックフィルダムが見えましたが、何とダム湖には水が殆どありません。(多分満水時5%以下ではないでしょうか。)春先のこの季節には、雪解け水が流れ込んで、それなりに水位が上がってくるはずなのですが、周囲の山々には雪が全くありませんので、森林はカラカラの乾燥状態です。聞けば、例年は数メートル積雪がある地域らしいのですが、今年は一番積もった時で2-30cm程度とか。今後、春先に大雨でも降らない限り、今年は春先に必要となる農業用水にも事欠く非常事態が目前に迫っています。

日本では、本来シベリアに蓄積した寒気団から吹き出す季節風が、暖かい日本海の湿った空気を吸い込んで、山地に雪を降らせるのですが、そういえば今冬の天気図を眺めても、シベリア気団が非常に弱く推移していました。春先、山からの雪解け水を田畑に引き込んで農作業を始めるという、弥生時代から続く日本型の農業が、このままでは崩壊しかねません。小雪の一方で、保水力の低くなってしまった人工林との組み合わせで考えれば、今後夏場の異常渇水が頻発する恐れも拭いきれません。「水に恵まれ、緑の山々が連なる美しい国日本」は、そのうち古き良き時代の昔話になるのかも知れません。

この小雪、少雨の事情は、北欧や地中海沿岸でも似たような状況だとか。例えばギリシャでも今冬の雨季に、やはり殆ど雨が降って居らず深刻な水不足が始まっているようですから、やはりこれは地球規模の異常気象に違いなさそうです。

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2007年3月29日 (木)

281 律儀な自然2

以前、秋が深まる時期に同じようなタイトルで投稿しましたが、日々春らしくなる最近もやはり律儀な自然を強く感じます。光の春は、2月に入るとそれなりに実感できますが、本当の暖かさは彼岸まで待たなければなりません。気温には簡単にはだまされない多くの動植物は、昼の長さを厳密に計りながら活動を開始します。彼岸花の律儀さはその代表といえるでしょう。太陽からのエネルギー照射時間と、夜間の宇宙への赤外線放射の時間が等しくなる季節は、まさに1年の平均気温と等しくなる季節でもあります。しかし、その平均気温がこの100年で、確実に0.7℃は高くなっているとの事実は一体何を示唆しているのでしょうか。

もし、その気温上昇の原因の殆どが人間の営みにあるとすれば、人間は律儀な自然を限りなく裏切り続けていることになります。特に気温にだまされやすい性質の動植物は、既に季節を1ヶ月近く勘違いしているでしょうし、気温に特に敏感な動植物は、特に温帯域からかなり駆逐されて、その生息場所を狭め続けています。代わって温帯域に進出してきているのは、熱帯性の動植物や病原菌ということになります。一方で、極地方にしか生息できない動植物は、既に絶滅に危機に瀕していることは、マスコミなどでも度々取り上げられているところです。温暖化の影響が何倍にも増幅される極地方、取り分け数十年後には夏場の浮氷が消滅すると言われている北極海では、シロクマの多くは間違いなく絶滅していることでしょう。

自然の律儀さには、人間も律儀さで応じなければなりません。律儀でない行動には、多分痛いしっぺ返ししか返ってこないでしょう。投稿者としては、とりあえずは律儀にブログを書き続ける事といたします。

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2007年3月28日 (水)

280 ドンケア組

株の話で勝ち組と負け組の事を書きました。お金を唯一の価値と考える限り、金持ちは勝ち組で貧乏は負け組と判定されるのでしょう。一方、確かにお金は十分に持っているとは言えないし、生活も質素であるが、しかし精神的には十分満足して暮らしている人達を何と呼んだら良いのでしょうか。このグループは、実はかつては日本の社会のマジョリティーであったと思われます。適当な言葉が思い浮かばないので、とりあえずここではこのグループを「ドンケア組=Don’t Care組」と呼んでおきます。高度成長期には、社会のパイが毎年拡大し続けていましたので、ドンケア組が手にするお金もそれなりに増え続けて行きました。その結果、お金的に見ても一億総中流意識時代が到来したわけです。結果、多くのドンケア組も、自分達も勝ち組ではないかと思うようになりました。しかし、バブル崩壊を経て、経済のパイが一時的な縮小、引き続いての超低成長(もしくは停滞)の時代となった現在、パイの無理な分割は、明らかに「お金の」勝ち組と負け組を作り出し、ドンケア組の社会に占める割合は更に小さくなり、比較的少数の勝ち組と、もしかすると過半数を占めるかもしれない負け組だけを生み出してしまったと言えます。

必要な事は、ドンケア組を増やす様な仕組みでしょう。これは話としては結構単純なのですが、価値観の再転向を必要とするので、なかなか進まないと思われます。この場合の価値観の転向とは「お金は唯一の価値ではない、精神的満足こそ真の価値だ」というものになりそうなので、結構どこかの宗教の教義に似ているかもしれません。しかし、これこそが環境悪化を回避するたった一つの方法ではないか、とも投稿者は考えています。言葉を換えて言えば、ドンケア組とは、「お金に固執せず精神的な満足に価値をおく」種類の人間グループであると言えるでしょう。投稿者は、サラリーマンを卒業することで、ドンケア組に入ったと思っています。勿論、勝ち負けに一喜一憂する必要がなくなったので、ストレスとも無縁になりました。

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2007年3月27日 (火)

279 バブル再考

もう少し「素人経済学」の続きです。先に株の話を投稿しましたが、株価の下落はその程度が大きいか小さいか別にしても、バブルの崩壊の一種と言えるでしょう。バブルとは、見かけが実態以上に膨らんだ状態を指します。株や、先物取引やコンピュータマネーが激しく動き回って経済が拡大する時、必ずバブルが発生します。何しろ、業容の拡大には設備投資や人材育成が必要な企業が、実態として1年や2年で急速に拡大する事はあり得ない訳ですから、株価の異常な高騰も間違いなくバブルであると断言できます。

しかも、現代の世界経済は、EUやFTA(例えばNAFTA)や世界市場などの枠組みで国境が取り払われた結果、本来は必要なバリアも無くなってしまいました。それぞれの国は、規制緩和によって、逆に他国のバブル崩壊を国境で食い止める術さえ失ってしまったのです。ある国で始まったミニバブルの崩壊は、24時間の内に地球上に蔓延してしまいます。それも、影響を何倍にも増幅しながらです。これはとりもなおさずグローバリズムの負の側面を示していると言えるでしょう。グローバリズムは、経済規模の拡大と自由貿易により、製造と流通の効率化を図る目的で拡大されました。これは世の中が、右肩上がりの時代には確かに良い考え方かも知れませんが、これは例えば、巨大なビルを建設しながら、しかし「防火壁」を全く作らないと言う間違いにも似ています。

私達は、今目の前で起こっていることがバブルか否か確実に理解する必要があるし、一方ではグローバリズムに代わる新しい世界の枠組みを検討しなければならない時期にも差し掛かっています。現在も、円安ドル高、ユーロ高に支えられたバブル期である事は間違いありません。都市部で起こっている、年率50%にも迫る地価高騰がその証拠の一つでしょう。

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2007年3月26日 (月)

278 卒業式

NHKホールで開催された放送大学の卒業式(学位記授与式)に出席してきました。時間をひねり出しながらのこの2年間の勉強と、それなりに苦労した修士論文作成を思い出し、やはり感無量ではありました。

しかし、答辞を読んだ学部卒業生の総代は、70歳代の女性でしたが、何と全ての学部(4学部)の課程を修了して今回が4回目の卒業式だとか、世の中にはすごい人が居るものだと改めて感心させられました。都合20年以上にも亘る勉学への飽くなき関心を持ち続けること、文化から経済、教育、産業に至るまで広い分野の勉強が必要なことを考えると、自分がその立場になった事を想像しすこし気が遠くなりました。

ともあれ、同じゼミの卒業生や論文指導に当たった先生方と挨拶を交わしましたが、風邪と花粉症で体調が最悪であったため、謝恩会は失礼して早めに宿に入りました。とは良いながら、この晩は数人の知人と一杯やりながら日本の行く末を憂える会?が予定されておりましたので、風邪薬を飲みながら、鼻水をすすりながらも結構盛り上がってしまいました。新たな知人も増え、風邪を押して飲みに出かけた甲斐がありました。

翌日は、少し早起きし在来線で東海道を下りながら静岡県で途中下車し、20年近く会っていなかった友人宅を訪問しました。長い年月の空白もまるで無かった様に、一緒に子育てをした若い時代の思い出話を、昨日の事の様に話し、美味しい干物を出す和食レストランで昼食を採って楽しい時間を過ごしました。無理をしたお陰で?で今朝は最悪の体調ですが、やはりブログを書いています。

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2007年3月23日 (金)

277 休題(超省エネ事務所)

事務所の近況です。3月になってから事務所の電気料金の請求書が届きました。それによると過去2ヶ月の電力使用量は、23kWhと40kWhでした。つまり1日当たりで言えば、僅か1kWh程度の電力を消費していた計算です。環境カウンセラーとしては、まあまあとの評価をしています。基本的には3面が窓の明るい事務所なので、昼間は一切電灯を点けません。使用している電気製品は、ノートパソコンとトランジスターラジオと日に数回使う電気ポットと(パワーコントローラで出力を20Wに絞っている)電気座布団だけです。

最大の問題は、採光が良い分だけ室内が抜群に寒いことだけです。この冬も日が射さない寒い日には、日中でも室温は外気温度に近い7-8℃程度にしか上がりませんでした。寒さ対策は、小さな電気座布団と室内でも外套を着込むことだけです。でも手が冷たくてキーボードを叩けなくなるので、ポットでやや熱いお湯を作り、アルミ製の飲料ボトルにつめて布の袋に入れた「指たんぽ」で手を暖めながらパソコンに向かっています。足元も寒いので、靴下を重ね、スリッパを履いてひたすら寒さに耐えます。多分、将来山で遭難しかけた時、この「耐寒訓練」がきっと役に立つだろうと密かに思っていますが、いずれにしても待ち遠しいのは、暖かな春です。

肝心の仕事の方ですが、実は予想より忙しくなりかけています。しかし、仕事の中身はといえば「環境経営相談」よりは、実はもの造りに関わる「技術相談」が多いので、なるべくモノを作らない方が望ましいと思っている環境カウンセラーとしては少し複雑な気持ちです。

さて、明日は放大の卒業式に出席で東京に出かけるため、ブログのアップを数回休みます。

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2007年3月22日 (木)

276 経済外経済

これは、実は放送大学での修士論文のひとつのキーワードとして、投稿者が勝手に考え出した言葉です。経済とは、多くの「市場」から成り立っていて、社会を動かす一つの仕組みといえるでしょう。市場では、単にモノを売り買いする市場だけではなく、株式市場、為替市場、先物市場など、実に多くの市場が存在しています。しかしながら、お金が主たる価値交換の手段である現在の経済の仕組みは、実はそれほど長い歴史を持っていません。日本では、せいぜい「和同開珎」に遡れる程度です。貨幣経済が生まれてからも、一般市民の間では、投稿者が言う「経済外経済」が主体となった取引が大部分でした。言葉を変えれば、それは例えば物々交換であり、労働の代価としての現物支給であり、年貢という税米?であり、石高(米)による武士への給料の支払いであったりした訳です。つまりこれらはお金(=日銀への信用)と言う実態の無いシンボル交換ではなく、モノという実態での価値交換の方法でもあるわけです。

さて現代でもバーター取引という形での物々交換や、エコマネーや地域通貨という形での「経済外経済」が行われてはいますが、貨幣経済の規模に比べれば殆ど無視できる規模に過ぎません。しかしながら、投稿者の立場は、もし環境保全を社会が持つべき価値観として中心に据えるならば、価値交換の手段としては、大きく経済外経済の方向に踏み出さなければならないであろう、というものです。何故なら、価値交換の手段としてのお金を稼ぐには、より多くの環境負荷を発生させずにはおかないからなのです。実例を挙げろと言われれば、同じく交通手段を生産して市場に提供している、自動車メーカーと自転車メーカーを挙げておきましょう。どちらが、より多くのお金を生み出すかは、明白です。勿論前者の環境負荷の大きさは、後者に比べれば何桁も違うはずです。車を作る際の環境負荷に、車を動かす際の負荷がプラスされるからです。

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2007年3月21日 (水)

275 株2

株の話の続きです。株という言葉で投稿者が思い当たる関連語としては「破局の理論」というK/Wがあります。破局とは、秩序の崩壊のことであると言い換えることが出来ます。例えば、ベルトコンベアラインで製品を作っている工場で、工場長が密かにベルトのスピードを上げて、日々の生産量を上げようと目論んだとします。作業者には知られないように、少しずつスピードアップするので、確かに数日は生産量が上がるでしょう。しかし、1週間も経った頃、工場長は頭を抱えました。突然製品の不良率が激増したのでした。作業者が、コンベアのスピードについていけず、「破局」を起こしたのでした。別の例で言えば、木登りが挙げられるでしょう。子供が木に登る時、登りは確かに勇敢に登るでしょう。しかし、ひょいと下を見た途端、子供は恐怖に襲われて動けなくなります。彼(彼女)は、恐怖という破局を起こしたのでした。

株も多分全く同じような現象を起こしそうな仕組みの一つです。世界大恐慌やブラックマンデーは、株主の全てが損失という恐怖に襲われて「破局」を起こした結果でした。今の日本の「いざなぎ越え」という強気が消えた時、バブル崩壊に似た破局を経験するのかも知れません。破局を未然に防ぐ方法は比較的簡単です。なるべく下を見ないようにしながら、そろりそろりと後ずさりするという方法です。

ご想像の通り、投稿者の頭の中では、環境問題も株と同じような現象と見做しています。環境的破局も、急激に押し寄せる事が予想されます。破局を引き起こす限界を「閾値(しきいち)」とも言いますが、いまの社会の変化=環境の変化のスピードは、既にこの閾値にかなりの程度迫っていることはほぼ間違いないでしょう。

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2007年3月20日 (火)

274 株

世界同時株安です。株について素人なりに少し考えてみました。

株とは、投稿者にとっては、お金と同じように、「自身の複製装置」に見えます。お金がお金を生むように、株が株を生み出す構造(株式市場)が出来上がっています。違いは、お金の価値の触れ幅が、インフレ率、デフレ率の幅で収まるのに対し、株は市場の触れ幅一杯に振り切れてしまう恐れのある点でしょうか。株は、リスク幅が大きい分だけ、儲かる時はその幅も大きく出来るわけです。

人はお金を欲しがります。特に楽をしてより多くのお金を手に入れたがります。株も、多くの場合はそのための手段として使われるのでしょう。つまり、株主は投資をした企業に頑張ってもらい、或いはマスコミで騒いでもらい、株価を上げて貰って労せずにお金を儲けたいわけです。儲けた金を更に株につぎ込めば、単にお金を超低金利の銀行に預けておくより、ずっと早く増やせるわけです。しかし、考えてみれば実際にも企業価値(「実態」の総資産)が増大していて、それに見合った程度に株価が上昇しているのであれば結構な話ですが、多くの場合投資家は株価のトレンドから予測して、買いと売りのタイミングを決めているだけです。売るタイミングを失した人が損をし、上手く売り抜けた人が得をするマネーゲームであるわけです。経済規模が殆ど大きくなってはいない日本の現状では、結局全ての株主の収支を均せば+/-ゼロ、つまりは「セロサムゲーム」であるともいえます。最近流行の言葉で言えば、これはまさに「勝ち組と負け組」作り出す仕組みであるともいえます。勿論これは、もしお金がある人を勝ち組、そうでない人を負け組と仮定した場合の話ですが。勿論投稿者は、なるべく金や株から遠い距離に身を置きたいと願っています。

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2007年3月19日 (月)

273 宮崎駿的自然観2

宮崎駿作品の自然観については前にも触れました。実のところ、投稿者は宮崎アニメを見るために映画館に足を運んだことはありません。テレビの映画劇場で見た記憶もないので、多分海外出張か何かの際、飛行機の中で見ただけかも知れません。せいぜい3つか4つの作品を見ただけなのですが、それぞれの作品に不思議と引き込まれるものを感じました。

宮崎作品の底を流れるものは(投稿者が感じた限りでは)自然に対する畏敬の念のような気がします。つまり環境カウンセラー的見方をすれば、宮崎作品は、「自然は、共存しようと努力するものには限りなく優しく、しかし自然に爪を立てるものには徹底的に制裁を加える」という自然の二面性を見事に映像化しているといえそうです。自然へ爪を立てることを、一般化していえば「環境へ負荷を与える」と表現されます。しかし、間接的な負荷も問題ではありますが、「開発或いは建設」という名で、環境を直接的に破壊する行為は、一人人間だけが行う自然への爪立て行為です。川をせき止めるダムがその典型でしょう。ダムは、一度作られると何十年も川の生態系やひいては下流の海の生態系までも大きく壊してしまいます。土砂はダムでせき止められ、滞留したダム湖では、植物性ブランクトンが激増し、川魚の遡上も完全にブロックされてしまいます。勿論、反論としてビーバーが作るダムを引き合いに出す事は可能でしょうが、ビーバー自身も自然物であり、彼らが作るダムは、何年もしないうちに洪水で流されてしまう「自然物」でしかありません。宮崎作品を是非このような目で鑑賞して欲しいとは思っています。

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2007年3月18日 (日)

272 「地球」の歩き方

271で述べた「道路」を見つけ、そこをそれぞれのスピードで走るためには、列車の様に単純にアクセルとブレーキ操作だけでは走れません。車の運転には、当然ですがハンドル操作が不可欠です。しかし、それだけでも走れません。道路地図が絶対必要です。一体何の目的で、何処へ向かって、どの程度のスピードで走るのかを決めなければなりません。そうでなければ、全く間違った方向へ進んでしまうか、或いはデッドエンドの袋小路に入り込んでしまうかでしょう。

さて道路地図はどうやって手に入れるのでしょうか。これまで使ってきた古いロードマップは確かにあります。科学や工業技術を利用し、安い石油エネルギーを原動力として、安く大量に生産し、大量に輸送し、大量に消費・廃棄すれば良いというルートが示された地図です。いわば、これは何車線もある舗装された幹線道路です。多少の排気ガスと騒音さえ我慢すれば、この道路地図は石油資源が続く限りはどうにか維持できるかもしれません。

しかし、この道路を維持する資源供給や、道路の周囲の環境は確実に悪化し続けています。これから必要なロードマップは、細く、曲がりくねって、多分舗装もろくに施されていない枝道の集まりになることでしょう。エネルギーだけに石油に代わる答えは無いのですから、幾つもの代替案の組み合わせという対応しか考えられないでしょう。しかも、それらには環境悪化を加速させてはならないと言う「タガ」が嵌められていますから、先ずは太陽光がそのベースとなっている事が必須です。必要な事は、細い道を探してひたすらゆっくりと進むことだけです。それこそを「本当の意味のスローライフ」と呼ぶべきです。

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2007年3月17日 (土)

271 レールと道路

20世紀は楽な世紀でした。何しろ行政や企業や人々は、レールの上の列車に一斉に乗りこみ、一生懸命前進パワーを出し続ければ良かった時代でしたから。列車の向かう方向ははっきりとは決まっていなくても、とにかく「豊かになろう」という合言葉を合唱するだけで十分でした。世界大戦や多くの地域紛争や景気の山谷や石油ショックなどがあったにせよ、いずれにしてもトレンドは右肩上がりでした。結果、人並みに頑張れば、人並みの生活レベルで暮していくことが出来ました。

しかし、レールの上を走る列車には、実は自由度がかなり制限されるわけです。列車がまともに走っている間は良いのですが、線路がひん曲がっていたり、途中で切れていれば脱線事故を起こしたりします。トンネルに入れば、世の中全部が暗く(不景気に)陥ります。レール上では止まることも後退する事も事実上出来ません。例えば、マスコミで話題の「業界談合」が悪いと分かってはいても、それを完全に止める事は、業界レールからの離脱(脱線)を意味するので、業界の誰かが途中で止めるわけにはいかないわけです。

一方道路はかなり状況が異なります。道路には幅があり、自由度が大きくなります。何より道路にはわき道がいくつもあり、Uターンや方向転換も容易です。離島の道路はいざ知らず、始点と終点しかない「閉じた道路は存在しない」でしょう。これから先は、人も企業も社会も、列車を降りて、自分で切り開いた道路上を、自分の足で歩き出すべきなのでしょう。歩けば、きっと色んなものが見えてくるはずです。時には立ち止まったり、寝転んで空を見上げたり、鳥の声に耳を傾けるべきなのでしょう。先を急いでも、未来には環境悪化という不可避の破局しか待っていません。

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2007年3月16日 (金)

270 製品安全

環境の話からは少し外れますが、今年の冬は、ガスストーブやガス瞬間湯沸かし器の、中毒事故が連日マスコミで話題となりました。このことを少し考えて見ます。これと同様の事故では、確か昨シーズンに起こったP社の石油ストーブでの一酸化炭素中毒問題が記憶に新しいところです。「石油ストーブが危なくて、ガスは安全と見ていたのか」とガス器具会社の関係者に聞いて見たいところです。技術的にみれば、むしろガスの方が酸素不足の場合、石油より一酸化炭素の発生が懸念されるはずなのです。更に問題なのは、天然ガス化はかなり進められていますが、ガス会社によっては、ガスそのものの中に、一酸化炭素が可燃ガスとして元々含まれる場合も多いという事実です。従って、種火の立ち消えや室内への開放状態でガス器具の使用を想定した場合、一酸化炭素中毒は、最も気をつけなければならない事故となります。問題の核心は、メーカーで予見可能な事故であったか否かです。

予見できなかったとしても、何件かの事故が発生した段階で、企業としては機器の間違った使い方の危険性には十分気がついていたはずです。それを、事故が数十件に膨らむまで放って置いたのですから、人命軽視=利益重視とのそしりも仕方がないところです。何より、ガスや石油の燃焼を、密閉された室内で行う事自体、酸欠事故の発生上非常に危険な行為であることは、「火を見るより明らか」である訳です。それを許すなら、3重程度の厳重な安全装置を備えて置くべきでしょう。何より、自社で製造した製品は、嫁に出した娘と同様に、廃棄されるまでその行く末を見守ると言う姿勢が絶対不可欠です。

遅蒔きながら、経済産業大臣からもやっと「製品安全に関する自主行動計画のガイドライン」が出されました。

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2007年3月15日 (木)

269 予防主義vs対策主義

問題に対処するのに大きく2つのアプローチがありそうです。特に、ヨーロッパなどで普遍的に観察される行動として「予防主義」があります。つまり、問題が小さい内にその拡大を予測して、予め対策を打つという行動です。これはISOなどでも言われる様にリスクの回避方法としては、望ましいアプローチ方法と言えます。

一方、日本人の得意?なアプローチは「対策主義」です。問題が起こって、辛抱が出来なくなってから、仕方なく行動を起こします。元々器用な国民なので、これまではそれでもどうにか間に合ってきました。しかし、温暖化などの環境問題や潜在的で環境リスク(化学物質や有害物や環境ホルモンなど)の長期的スパンの問題に対処するには、対策主義では全く役に立ちません。影響の及ぶ範囲が大きすぎるため、気がついた時には既に手遅れになっているからです。

一例として、2006年7月に実効に移された、欧州における「RoHS」指令が挙げられます。この指令では、製品に含まれる鉛や水銀や六価クロムやカドミウムなどの有害物質の含有量を厳しく規制しています。これらの物質の、地域(欧州)への蓄積や拡散を「未然に防止」するためです。一方日本でも、これらの物質は有害物質として、環境への拡散に関しては確かに規制されていますが、それは即時の禁止は意味しておらず、出口で環境濃度を管理するための基準値としての規制であり、例え製品に含まれていても「表示」さえすれば良いことになっています。それにしても日本は、歴史的にもイタイイタイ病や水俣病やカネミ事件などで、この種の重金属や有害物質の環境汚染や慢性中毒にはすっかり懲りている、世界でも数少ない国であるはずなのですが。

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2007年3月14日 (水)

268 変極点

言葉では表現しにくいのですが、グラフで表現した場合、あらゆる現象は安定に向かって変化するはずです。もしそうでなければ、現象は無限大に発散するか、或いはゼロになって消滅してしまうからです。さて、私たちの「石油文明」はどうでしょうか。当然のこととして、石油の産出という現象も、必ずピーク=産出量の変極点を迎えるはずです。同様に、石油を原料やエネルギーとするモノの生産という現象もほぼ同じ道を辿るでしょう。ところで、石油文明は「マイナスに向かう変極点」を何時迎えるのでしょうか。大きな現象の変化はゆっくりしていますから、その中に居て変極点の到来を自覚するのは難しいでしょう。事実1970年代にアメリカの国内の石油産出量がピークを迎えたという事実が「確認」されたのは、その後10年も経ってからでした。それよりも大きな現象である、世界の石油産出のピークが確認されるのは、多分今から10-20年後かも知れません。しかし何人かの学者も指摘していますが、投稿者としても、過去数年以内のある時点で、まさに石油産出はピークに達してしまったと見ています。同様に、産業革命以降拡大の(プラスの)変極点を通過してきた今の文明も、何十年か後に振り返ってみれば、例えば2005年前後がこの文明のピークであったと評価される事でしょう。

実行はかなり困難ではありますが、下向きの(マイナスの)変極点の影響を小さくする事自体は簡単です。それは、早い時期にそれを予測して、ゆっくり減速し続ければ良いだけです。一方では、どの程度減速が出来たかを常にモニターし続ける事も欠かせませんが。

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2007年3月13日 (火)

267 企業理念

日記やブログを書くことは、「自分の頭にゴチャゴチャと渦巻いている事を整理するには最適のツールだなあ」と思うようになりました。ところで最近、某SCグループの社会貢献(CSR)について現場担当者の話を聞く機会がありました。確かに、「環境財団」や「1%クラブ」などのNPOや地域活動への助成制度や植林活動など、他の企業に比べても活発な活動を繰り広げている事は何となく知ってはいましたが、環境保全を中心とした地域社会へのCSRがこのグループの理念になっている事は、説明を聞いて初めて知りました。これは、四日市出身で、身をもって四日市公害の凄まじさを体験した、名誉会長であるO氏の固い信念の様です。米国型自動車社会の仕組みの一つのコピーとしての大型ショッピングセンターの乱立には、否定的な感じを抱いていた投稿者ですが、このグループを少しですが見直しました。

しかしながら、勿論今回話を聞いたショッピングセンターの店長レベルの感覚になると、これらの社会貢献も、地域にあるNPOなどを取り込んでの集客事業の一つとして考えられている節も見え隠れしているような気がします。例え社長や会長が打ち立てた立派な企業理念があったとしても、そのココロが現場レベルまで浸透しているか否かが一番の問題です。例えば岐阜県のO市で、市民レベルで以前から取り組んでいるレジ袋の削減活動ですが、今のところこのグループ単独でこの活動に参加する意志は無さそうで、他の大規模店舗も足並みを揃えるのであれば、協力はやぶさかではないと言う、やや引いた態度なのです。その意味で、このグループの理念や活動が本物であるかどうか、投稿者としても実際に幾つかのショッピングセンターと、温暖化防止やゴミの圧縮、エコライフセミナーなど環境保全に関わる活動でコラボレーションの提案を試みながら、それを見極めてみようとは思っています。

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2007年3月12日 (月)

266 土壌

植物の話題のついでに土壌を取り上げます。土壌は、実は自然環境の土台です。「母なる大地」とは洋の東西を問わず良く引き合いに出される表現です。日本では「土一升、米一升」などとも言われてきました。自然の摂理に従って良く管理された土壌は、同じ面積でもより多くの作物を生産します。何故なら、有機の養分、水はけと同時に水分保持を両立させる団粒構造、根からの養分や窒素固定を助ける豊富なバクテリアの存在など、植物の成長に必要な要素を全て備えているからです。こんな土壌には、勿論ミミズも喜んで生息し、土壌をますます肥沃にします。良い土壌にはミネラル分もまた重要な要素となります。米作にはかなり多量のシリカ分が必須ですし、一般的に光合成が活発であるためには、鉄分や灰分も重要です。

しかしながら、長年3要素(N・P・K)だけを強化した化学肥料を施肥し続け、収穫量を増やし続けてきた土壌は、すっかりバランスが崩れていると想像されます。これはさながらヒトがまともな食事を取らずに、デンプンとビタミン剤と抗生物質だけを摂り続けているようなものです。これでも何とか生きていく事は可能でしょうが、決して健康であるとは言えない状態です。

30cmの厚みの土壌が形成される(つまり岩が風化し、土になって雨水や風で移動し降り積もる)のに、約千年掛かると言われています。これは、実は日本の例で、熱帯など条件の悪い場所ではこれ以下になります。一方で土壌は、少しの降雨や上昇気流などの要因で、簡単に失われるものでもあります。それを抑えるのが植物ですが、焼畑など手荒い農業が長年続けられている南の国々では、この土壌の流出が止まっていません。黄砂の供給地である黄土平原でも同様に、土壌が固定されることはありません。土壌の喪失を、簡単に金額に直す事は出来ませんが、経済外の喪失としてその損失ははかり知れません。

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2007年3月11日 (日)

265 植物

植物は、動物と無機自然(岩や鉱物)とのインターフェイスと言えます。勿論、無機自然だけでは生物は存続できないし、植物、動物、菌類などが絶妙のバランスを保っているからこそ、環境システムが存続している事は間違いないでしょう。さて植物は、無機の土壌に根を張り、微量の無機物質と水を吸い上げ、一方、葉では光合成を行い、多量の炭素を固定します。しかし動物は、一部の原始的バクテリアを除けば、無機自然で生きていくことは「絶対」に出来ません。何故なら、全ての動物は植物の繁栄した環境の中で発生し、進化を続けてきたわけで、植物への依存無しにはその存在さえ否定されてしまう事になります。

従って、動物は植物を「根絶やし」にする行動には出られないと言う「運命」を背負っているわけです。葉や実を食べる虫や鳥や動物も、決して植物そのものが絶えるほどの摂食は行いません。むしろ花粉の運搬や種子の拡散や有機物(肥料)の供給などで、植物に積極的な協力すらしています。一人人類だけが、森林の皆伐や湿地の埋め立て、半自然の農地化、自然の理に背く灌漑水路の建設などで、植物を根絶する行動を取り続けています。勿論、そのような行動に対しては、自然は一見穏やかですが徹底的な反撃を加えざるを得ないでしょう。たとえば温暖化、或いは、間接的にせよ人間が引き起こしたと思われる洪水・旱魃や、環境汚染による人間自身への被害など、既にその一端が現れ始めています。それを映像化した例としては、例えば「もののけ姫」など宮崎作品にも、これに警鐘を鳴らすメッセージが繰り返し出てきます。

私達はインターフェイスとしての植物をもっともっと知らなければならないでしょう。5-6年前までは、植物に全くといって良いほど関心がなく、植物の本当の役目が何たるかを認識していなかった投稿者も、今ではそれを深く悔いています。

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2007年3月10日 (土)

264 物質の棚卸

263の手法は、実は全く同じようにモノの収支にも使えます。エネルギーに比べモノの棚卸は分かり易いでしょう。何しろモノは目に見えます。しかし、物量が大きい事業所では、流石に毎日棚卸をする訳にはいきません。たぶん月別程度でこれを行えば十分でしょう。入ってきたモノの量は、購入伝票でチェックできますし、出荷量も同様に簡単に拾えます。水は、水道料金表に直接記載されていますので、使った水の量はそのまま排水量となります。しかし、最もつかみにくいのは廃棄物の量でしょう。特に、ゴミとして混ぜてしまった場合、何がどの程度廃棄されているのかがほとんど掴めなくなります。

そこで工夫が必要となります。投稿者のおススメは、ゴミ箱を全て処分し、種類別の「資源箱」を設置することです。資源箱の運用は、確かに面倒ですが種類が多いほど理想に近づきます。可能であれば、工場で使われている材料の種類別に設置すべきです。勿論、これを長期間続けるのは大変ですから、棚卸が終わったら、後日処分の方法別にまとめ直しても構いません。

これで何が分かるかですが、材料の「歩留まり」あるいは一般化して言えば、「材料効率」が算出可能となります。つまり、ある期間、ある部品(例えばボルト)を作るのに、鉄棒を1000kg購入し、結果として、500kgの削り屑を出してしまった場合、材料効率は50%止まりとなります。しかし、購入していた材料が、製品の仕上がり寸法に比べてかなり太い事に気がつき、これまでより断面積で1割細い棒でも十分だとすれば、必要な鉄棒の目方は900kgとなり、切り屑量は400kgに減り、結果材料効率は56%となり6ポイント好転します。全ての材料についてこれを行うのは大変ですから、材種別や使用量の大きな材料別でもOKです。これも工夫を積み重ねていけば、材料費が減り、更に廃棄物の処理費(=環境への負荷量)も大幅に減り、結果コストも低減されている事に気がつくでしょう。なにもカンバン方式だけが唯一のコスト削減方法ではないわけです。

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2007年3月 9日 (金)

263 エネルギーの棚卸

262で述べたエネルギーの削減について、先ず必要なことは、「エネルギーの棚卸」作業です。在庫の棚卸という言葉がありますが、これは投稿者が作った言葉です。作業は、比較的に単純です。先ず、エネルギー種類別に、自分の家や工場、事務所などで使っている機器をリストアップします。その際、例えば電力系統別、或いは直接製造に関わる設備と衛生設備など周辺器に分類しておくと完璧です。しかる後に、これらの機器リストに、例えば平均的な1日のエネルギー消費量を調査し、記録します。曜日別や季節毎で大きな変動がある場合には、いくつかのリストを作る必要があるかも知れません。これをエネルギーの棚卸作業と呼ぶことにします。

さて、例えば電力やガスや灯油や重油といったエネルギー種別、機器別にエネルギーの棚卸リストが出来たら、これをどう活用するかです。例えば製造工場であれば、これらのリストを色分けします。つまり、製造に必要不可欠で、その機器が止まると製造が全く出来なくなる(あるいは品質に重大な影響を与えるもの)バイタルな機器と、一方電灯や空調など、それが一時(あるいは部分的に)止まっても、製造や品質に全く影響が出ないものに大きく分類します。圧縮空気など、短時間の停止では問題がなくても、数分間の停止には耐えられない機器については、バイタルな製造設備に加えても良いでしょう。

知恵が必要なのはこの後です。製造量や品質に全く影響を与えない設備に関しては、大胆に省エネルギーを敢行しましょう。勿論、集塵機の停止などは人体に悪影響を及ぼす恐れもあり、法的に必要な設備はこの限りではありません。例えば、照明に関して言えば「照度」は作業別に法制化されています。しかし、例えば、天井照明から手元照明に代えて、照度が保たれるかアップするなら、それを実行すべきでしょう。集塵機なども設置具合によっては大幅にエネルギー消費量が変化します。この種のアイデアについては、機器の数だけ(あるいはそれ以上に)ひねり出せるでしょう。この様な工夫を積み上げて、後日気がつけば模範的な省エネ工場、省エネ事務所に脱皮していることでしょう。

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2007年3月 8日 (木)

262 ダイエットとリバウンド

省エネや省資源及び廃棄物圧縮などはダイエットとほぼ同じ行動です。理想的なダイエットでは、栄養のバランスを考えながら食物の摂取量を減らし、代謝が正常になるように適度の運動も欠かせません。しかし、多くの人がダイエットに挑戦してはリバウンドの前に敗北しています。リバウンドを防ぐ最良の方法は、実は精密な体重モニターです。少なくとも50gが測れる体重計で、毎日モニターし続ける事が必要です。つまり、ホンの小さなリバウンドでもこれを発見し、それを行動にフィードバックしていく事が重要であるといえます。

企業における省エネや省資源及び廃棄物圧縮でも事情は全く同じです。例えば電力に関しては、先ずは可能な限り細かい電力系統に電力計を設置しなくてはなりません。理想的には、データをパソコンに取り込んで、電力デマンドのトレンドがグラフでモニターできる仕掛けが欲しいところです。然る後に、電力ではデマンドの立ち上がる時間帯の原因分析が不可欠です。起動に大電力を食う大型設備には、インバータによる緩慢な起動が有効かも知れません。電気炉などの設備は、他の設備との時差運転が有効かも知れません。これだけでも契約上のピーク電力料金はかなり下げることが可能です。それと同時に、製品の付加価値を上げることに寄与していない電力に関しては、徹底的に省エネを進める必要があります。勿論廊下や窓際やトイレなどの不要な照明の消灯などは、基本のきです。電力以外のエネルギーや資源や廃棄物に関しても、正確な計量が不可欠です。

ところで最大の問題は「継続性」です。ダイエットも省エネ・省資源も日々の努力の積み重ねが欠かせません。そしてそれが習い性となり、さらに体質にまで変化すればそうそうリバウンドする恐れはなくなるはずです。それに加えて、更に長期に亘るモニターを続ければ万全でしょう。

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2007年3月 7日 (水)

261 環と境のこと

環境の「環」という字には実に含蓄があります。環(わ)、環境、循環、還暦、還元、還付、還流、償還などなど。繰り返すこと、終わりの無い事、生まれ変わる事、つながっていて切れ目のないこと、などという意味があるでしょう。転じて、自分の周りをとり囲むものという意味にもつながるでしょう。

環境には「境」という字も含まれています。境(境界)という概念は非常に重要なものです。サルとヒトとの境、自然と人工との境、都市と田舎の境、陸と海の境、地球と宇宙の境などなど。一方、境を考える時どうしてもその「内」と「外」を考えない訳にはいきません。内とは私たち自身が住まい、生活する場所ですが、それは天然自然である「外」とは明確に区別されています。勿論、時々ですが私達は「外」へも出かけます。登山やハイキング・キャンプなど野外活動や海でのレジャーなどですが、しかしそれはホンの数日間のそれも限られたエリア(登山道でありキャンプ地であり海水浴場など)での経験に過ぎません。ホンの少しの不便さを経験した後は、「やれやれやっぱり家=内が良いや」と言いながら人工環境である「内」に帰って来るわけです。

さて境界は、物質やエネルギー(熱)の出入りする境でもあります。つまり、自分が住む「内」はそれ自体閉じているわけではなく、周りの環境とつながっているのです。自分の家を考えてみても、ガス管や電線や水道管や下水管で環境である地域とつながっています。その地域は、送電線や水源のダム湖や食糧輸送のための道路や鉄道といったインフラで他の地域と結ばれています。国も海路や空路で国境をまたいで海外と輸出入をします。

地球と宇宙も全く同様です。地球からは時たまロケットを打ち上げるだけで、宇宙からは時々隕石が降ってくるだけが物質の出入りの全てですが、一方では太陽からの莫大な量の(種々の波長の)光が降ってきますし、他方では殆ど同じ桁の赤外線を宇宙に向けて放射し続けています。これが地球と宇宙の境を跨いだやり取りです。その境の物質・エネルギー収支のアンバランスの蓄積こそが、環境問題の根源と言えます。結局、境の内側、例えば地球に熱が溜まる状態を「温暖化問題」と呼び、地域へのゴミの蓄積を「ゴミ問題」と呼んでいる訳です。

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2007年3月 6日 (火)

260 Low Gドライブ

今回は身近な話題です。4年前投稿者は車を捨て、完全にバイク族に逆戻りしました。今乗っている250ccのバイクだと少なくとも同じ燃料で車の2-3倍の距離を走りますから、環境への負荷も少しは小さいと考えたのです。色々活動のため動き回ったので、この間地球を一周するほどの距離を走りました。この間ドラム缶で7本くらいのガソリン(約1400リットル)を使った勘定になります。車を使った場合それが20本以上になっていたはずですが、それにしても7本分の環境負荷を発生させた訳で、心が痛みます。これがいよいよ動かなくなったら、次は50ccの「スーパーカブ」にするつもりです。これだと、遠出は出来ませんが、今のバイクより更に環境負荷が半分以下になるはずです。勿論今でも近く(20km以内)なら自転車を使っていますし5kmであれば歩きます。一方今のバイクでも、燃費を向上させるために実行している事は「Low Gドライブ」です。Gとは加速度のことですが、車やバイクはアクセルを大きく開ければ当然の事ながら加速し、ドライバーには加速度が実感できます。車だと、座席に背中が押し付けられるような感じがするはずです。多くのドライバーは、この加速度にある種の中毒症状を抱えています。例えば信号待ちの発進で、馬力の大きい車を乗り回し、他の車より一歩でも先に出ようと加速するG中毒ドライバーも多く見かけます。

しかしLow Gドライブでは、さながら妊婦を同乗させているように、ソロソロと加速します。投稿者がこれを心がけるようになってから、燃費は確実に1割向上しました。勿論、多くの枯葉(落ち葉?)マークのドライバーの様に、他の車に迷惑を掛けるほどノロノロでは困りますが、車の流れを邪魔しない程度のそれなりのゆっくりした加速でも、燃費は確実に向上します。必要な事は、それまでより5分早めに行動を開始することだけです。更に、移動体の空気抵抗は、スピードの2乗に比例して大きくなりますが、特に80kmを超えると(路面抵抗に比較しても)急激に増大します。一般道でも高架になった場所では、普通の車でも80km以上で走っていますが、これをグッと我慢して70km以下に抑えるだけでもかなりの燃費向上につながるはずです。Low Gドライブとは、妊婦を同乗させているつもりの「マタニティ・ドライブ」でもあります。是非お試しください。

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2007年3月 5日 (月)

259 時間の売り買い

環境人間ストーリーはここらでひとまず置きましょう。

さて、サラリーマン時代は、当然の事ながら企業に「自分の時間を売って」暮らしていました。7時10分前には起きて、7時20分には自転車にまたがり、10km弱を25分ほどかけて通勤し、夜8時半か9時、時には10時頃まで「仕事」を続け、家では飯・風呂・寝る生活を繰り返しつつ、土曜日もサービス出勤が当たり前でした。勿論、多分世間的水準からみてもそれなりのサラリーは得ていましたが、やはり「自分の時間を切り売りしている」感覚は日ごとに大きくなっていったような気がします。いろいろありましたが、結局これが258話=第1話で、サラリーマンの卒業を決意した最大の要因となりました。

その後は「環境人間への脱皮」準備のために中小企業にワラジを脱ぎ、それなりの成果を出して昨年7月に完全にサラリーマンを卒業したわけですが、かといって幾らお金を積んでも、これまで売り渡した時間をいまさら買い戻す事は出来ないわけです。一個人となって活動を始めた投稿者は、しかし自分の時間を自由に使う権利だけは間違いなく手にしました。その時間を、一企業のためではなく、企業一般、市民一般、学童や学生(つまりは世の中)のために使う事が出来る自由を、サラリーを失うことと引き換えに手にしたわけです。いわばこれからは、ボランティア三昧です。時間を売り渡さずに、逆に人に時間をあげる生活です。見返りは、いくばくかの感謝の言葉と、もしかして少しいただけるかもしれない「お布施」です。自分にとっては、それ以上に大きな見返りである「生甲斐」が、多分得られるでしょう。勿論、良く言われる様に、「生甲斐と自己満足は、実は紙一重」です。違いは、「より確からしい価値観」に裏づけされているか否かなのでしょう。投稿者としては、自己満足に陥る事態にだけはなるまいと堅く誓ってはいますが、このブログの中でも再々反省を繰り返すこととします。

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2007年3月 4日 (日)

258 環境人間への道4

かくして話は、このブログの最初の書き込みに戻ります。256話で無理やりポケットに押し込んだつもりの焼けぼっくいが、50才を目前にした2000年頃、なんとまたまた激しく燃え出してしまったのです。きっかけは、自分もデザインビルド(設計支援)に加わった、小型旅客機の設計思想にも大きく関わりますが、今の航空機の部品製作では、厚いアルミの板(厚いものでは25cmもあります)を時間とエネルギーを掛けて、ペラペラ?になるまで薄く削りだすのです。結局素材の90%以上が「切り粉=殆ど値段のつかない屑アルミ」として排出されます。勿論、削るためには大きな電力も費やされます。何よりアルミ自体が「電力の塊」なので、その90%が屑になってしまうことは、投稿者にとって蕁麻疹が出来るほど耐えられない事だったのです。それが、他にもいくつかありますが、航空機技術者を辞め長年勤務した会社を辞する原因の一つにはなっています。

それから4年弱、中小企業に勤務しつつ環境へ配慮した製品の開発を行いながら、環境人間に脱皮するための可能な限りの資格取得や勉強を続けてきました。環境カウンセラー(事業者・市民部門)の認定、放送大学大学院での環境学の勉強、温暖化防止推進員としての活動、省エネルギー普及指導員の認定、その他多数の環境教育セミナーの受講と実践、などなどです。そして、昨年7月のサラリーマンの完全卒業とこの1月からの「H環境カウンセラー事務所」の開設となった次第です。文字にすれば、たった数話のブログで書けてしまいましたが、これが、投稿者が環境人間に脱皮したストーリーです。その裏には、多分百冊以上にはなると思われる環境関連書籍の読破と、技術屋としての自分や科学技術の限界を、反省しながら長い時間を掛けて「総括」してきたこともありました。いずれにしても、現在の社会が歩んでいる「石油に浮かんだ道」は、やがては途切れ、何も考えないでこのまま進めば、多くの人間が道を失い路頭に迷うであろう事は、時間の前後はあるにしても紛れもない現実になる、という投稿者の危機感が今の行動を支えています。

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2007年3月 3日 (土)

257 環境人間への道3

その焼けぼっくいが少し燃え出したのが、40代半ば(90年代半ば)の事でした。その頃、関連会社に一時出向していたのですが、面倒を見ていた20人ほどの若い技術者(殆どが20代前半)が、全くもの造りを経験していない事に気がつき危機感を持ちました。なんと彼らは、コンピュータを使って絵(図面)を描く事や加工プログラムを作る事が技術屋の仕事だと思っていたのでした。そこで、その頃ブームになっていたソーラーカーの製作を始め、彼らを巻き込む事にしたのです。会社から、ささやかな研究費を出してもらい、2年掛かって計480W分の太陽電池を購入しました。その当時の価格で、100万円程掛かりました。車体に掛ける予算は殆ど無くなったので、工場の廃材置き場でアルミのスクラップ部品を拾い、投稿者のポケットマネーでホームセンターからアルミの梯子を調達し、自転車屋で自転車の部品を買い集めて、何とか走るソーラーカーを作り上げました。結局、総予算は150万円位でした。(車体・電装その他で結局50万円弱掛かりました。)しかし、若い技術者には、必要なモーターの選定やトルクの計算、それを受けてのチェンスプロケットの設計・製作など、技術屋らしい作業も経験させました。

勿論投稿者自身が一番熱中したのは言うまでもありません。2年がかりで1号車とそれを全面改造した2号車をつくり2回のラリーに参加しました。当然の結果として、数千万円をかけたチームの立派な性能の車には勝てるはずも無く、完走するのが精一杯でした。しかし、熱し易く冷め易い日本人のことですから、やがてソーラーカーブームも過ぎ去り、ラリーの開催も自然に消滅していきました。その後、元の会社に戻り、三度の海外駐在など忙しいプロジェクトに巻き込まれて、環境人間からは段々遠ざかることになりました。しかし、2000年に投稿者にとっては3つ目の大きな海外プロジェクトであるブラジル駐在から戻って、少し楽な仕事に移動して、考える時間が多くなった事から、つらつら自分の半生を振り返っての反省を始めたのでした。

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2007年3月 2日 (金)

256 環境人間への道2

「信じ込み易い性格」の投稿者は、しかし資源としての石油エネルギーには、近い将来に枯渇という問題が生じてくるという、「ローマクラブの予言」をまともに受け止めていました。たまたまその頃読み漁っていた自然エネルギーの本の中に、「風車」の本が数冊入っていました。とことん突き詰めたい性格の投稿者は、そこから新型風車の発明に熱中していきました。その頃中古の小さなヨットを購入し、セーリングにも熱中していた投稿者は、ある日帆走からヒントを得てついに新しい原理の風車を発想しました。早速模型を作って実験したところ、結構いけそうな感触を持ちました。30代に入ったばかりの事です。

「良いことだけしか考えない性格」でもある投稿者としては、その時「これは風車屋を一生の仕事にせずばなるまい」と一大決心をした事でした。そして、雑誌で東京にあった小さな風車製造会社を見つけ出し、早速社長にコンタクトして次の週から週末だけの押しかけ社員としての東京通いが始まりました。週末の夜行列車で東京に出かけ、その社長と行動を共にし、海外からの引合レターに返事を書いたりして手伝いを始めました。数ヵ月間そんな生活をして、何とか仕事として家族も養えそうなそうな感触を得たので、勤めていた会社の上司に辞表を提出したのでした。

しかし引越しの準備をしていたとき、非常事態が発生しました。妊娠していた女房殿が、それと知らずに団地の運動会に出て思いっきり走ったものですから大変です、その晩から緊急入院・絶対安静を申し付けられたのです。まだ2歳だった上の子を抱え、投稿者も途方にくれました。入院は数ヶ月に亘りましたが、その間世の中の状況も劇的に変化が生じていたのでした。(なおその時の子は無事生まれました。感謝。)二度のオイルショックで、日本を筆頭に石油消費国の省エネルギーが進み、結果として逆に石油がダブつき始めたのです。いわゆる「逆オイルショック」です。石油の価格は値崩れし、省エネルギーや風車は忘れ去られ、当然の結果としてこの風車屋も倒産してしまいました。結局投稿者は会社を辞めるのをやめ、元の鞘に納まらざるを得ませんでした。しかし、これは「焼けぼっくい」を火がついたまま無理やりポケットに押し込んだ状態だったようです。

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2007年3月 1日 (木)

255 環境人間への道

今思えば、投稿者が環境おじさんに変身して行ったことの背景には、それなりのストーリーがあったような気がします。もう時効で、ブログに書いても誰にも迷惑をかけないはずなので、思い出しながら少し詳しく書き残して置きます。

スタートは自転車でした。中学3年の時ドロップハンドルの自転車を買ってもらいました。うれしくて、うれしくて、毎日のように乗り回し、徐々に遠出をするようになりました。高専に入学した夏(多分‘67年夏)に、16歳の少年には大冒険と思われた東北一周の自転車旅行に出かけ、テント生活を続けながら約2週間かけて2000km以上を走り抜きました。その後オイルショックなどを経て「バイコロジー=バイシクル+エコロジー」なるブームが起こり、自転車少年であった投稿者は、逆にバイシクル側から「エコロジー」側にハマッてしまう事態になりました。今でこそエコロジーは普通の言葉ですが、その頃は勉強しようにもまともな本としては、限られた翻訳本しかありませんでした。就職してからも、この種の本を読み漁り、ローマクラブの「成長の限界」に共鳴したり、R.カーソンの「沈黙の春」に感銘を受けたりもしました。

しかし高度成長期にあったその頃の日本は、各地で「公害問題」が引き起こされ、限られた地域ですが住民の健康被害からくる「公害=狭い意味での環境問題です」が議論されていました。投稿者も、若者らしく正義感と危機感を持ち、公害防止管理者などの資格取得に挑戦したりもしました。また一方では、石油需給の一時的逼迫をうけて、「サンシャイン計画」なる国のプロジェクトが立ち上がり、当時住んでいた香川県では「太陽博覧会」が開催されました。(このときの通産省のプロジェクトグループがNEDOの前身になっています。)しかしながら、公害が見かけ上克服され、エネルギーが逆にダブつくようになるにつれ社会は、一方では公害の痛さを忘れ、他方ではエネルギーの再度の浪費に向かって突き進んでいきました。

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