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2007年5月31日 (木)

340 無力な自由経済

「自由」とは「なりゆきまかせ」に近い仕組みです。自由主義の経済とは、最低限のルール(商法)や緩やかな政府や国際間の取り決め(GUTTやFTAなど)のもと、基本的には自由な経済活動を保証するものです。経済という「暴れ馬」は、しかし気の向くままの方向にスピードを上げ続けける性癖があります。例えば、国内外のファンドマネーは、手段は何でも良いがとにかく資金を増やす方向だけに闇雲に突っ走ります。オイルマネー系やキャピタル系とて、利潤の幅が小さいという程度の差こそあれ、資金を減らす行動は絶対に避けるはずです。

ここで言う経済の無力とは、勿論環境問題の軽減に対してです。AB首相は、持続的な経済成長などという、耳に心地よい言葉を並べ立てるものの、断言しますがそれは絶対に無理です。その理由は、このブログでも縷々述べてきました。環境問題の解決(は多分できないにしても)や軽減には、経済規模の縮小・減速しか方法はないと覚悟を決めなければなりません。もしそれ(経済の拡大と環境保全の両立)が出来るというならば、例えばお金だけが活発に動き回って、しかしモノを殆ど消費しないという経済モデルを示す必要があります。

そんなモデルができっこない訳は、経済活動の拡大とは、つまりはより多くの資源を掘り出し、エネルギーを使って加工し流通させ、それを消費する量を増やし続ける事であり、結果としてそれを廃棄して環境負荷を増大させ続ける行為そのものだからです。結果、経済力で環境問題を解決することは出来ないという、当たり前の結論に至ります。

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2007年5月30日 (水)

339 黄砂考

5月末になったこの季節にも容赦なく大陸から黄砂が飛んで来ています。細かいとは言え砂粒そのものである黄砂が大陸から飛んでくるのですから、粒子状の有害物も偏西風に乗って間断なく飛んできている事は容易に推測できます。粒子状の有害物とは、NOxやSOxが空気中の水蒸気に溶けた酸性ミスト、石炭ボイラーやディーゼルエンジンから排出される粒子状物資質(PM)の内でも有害なもの、廃棄物の焼却に伴うダイオキシン類などです。粒子状物質ではありませんが、「西方の国々」では排出規制が無いに等しいフロンや他の温暖化効果ガスや揮発性有害物質(VOC)も飛んできているはずです。単に黄砂だけが、粒子が大きいがゆえに目に見えているに過ぎないのです。

黄砂そのものに話を戻すと、黄砂現象が増えている背景には、大陸奥地における砂漠地帯の拡大という大きな問題が存在しています。温暖化に伴う、沿岸部での降雨の激甚化と局所化は、逆に内陸部ではひどい旱魃状態を引き起こします。それが水バランスの仕組みです。気温上昇に伴って、大気が抱え込める水蒸気の量は、確かにいくらか増加はしますが、それが内陸部まで運ばれる確率は逆に下がっているのではないかと思われます。結果砂漠化の進行が加速され、新たに砂漠化する範囲も広がっています。古くから砂漠であった地域では、既に細かい砂粒はかなり吹き飛ばされていますので砂は飛びにくくなっているので、いま飛んできている砂塵は最近砂漠になった地域からのものと推測されます。黄砂は、海に囲まれ、温暖で降雨も多く自然豊かな国であった日本も、大気を通じた地球規模の汚染には対抗する手段をまったく持たない事を、はっきり目に見える形で示す現象ではあります。

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2007年5月29日 (火)

338 環境と経済

337の続きです。環境への負荷と経済活動は密接に関連しています。と言うより、環境問題と経済活動は全くの背中合わせで、しかもほぼ完全に反対の方向を向いていると言えるでしょう。投稿者の見方では、経済活動(と言うより何事もお金に換える行為)が環境問題の根源にあると考えています。最小限のお金は必要です。それがかなりの点で欠点を持っている仕組みだとしても、です。価値交換の手段としては、昔の貝や石のお金に比べれば、紙幣や電子マネーは確かに優れものではあります。しかし、必要以上になんでもかんでもお金に換える事が、問題を拡大し続けているとも言えるでしょう。

例を挙げてみます。人間の職業が高度に専門化した弊害もその一つです。その結果、日常生活(衣食住)のほぼ全てをお金で決済して賄わなければならない社会が実現しました。サービス業が労働人口の2/3を占めるまでになった事に象徴されるように、少し努力すれば自分で出来る事までも、お金を払って他人に依存する始末です。

しかし考えて見れば、単にお金だけが動く事はありません。お金が動けばその背後では、必ずモノが動き資源やエネルギーが消費されます。消費されたと同じ量の廃棄物(固形ゴミ、液体ゴミ、気体ゴミなど)も発生します。これを環境負荷と呼びますが、経済活動と環境負荷はほぼ完全に比例しているのです。経済活動は、本来は人間が豊かになろうと努力するための枠組みであったはずですが、いまや過度のお金(流動的な資本)が、さながら「自分自身を増殖させる生き物」の如く振舞っている時代に至ったのだと思います。

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2007年5月28日 (月)

337 穏やかな時限爆弾

廃棄物を別の言葉で表現すれば「穏やかな時限爆弾」であるとも言えるでしょう。「有毒」な核廃棄物を除けば、多くの場合廃棄物が直接的な原因で直ちに死ぬ事はありません。しかし、有毒か否かは、実は程度の問題でもある訳です。何故か。多くの食物には、程度の差こそあれある種の毒が含まれています。むしろ全く毒の無い食べ物など何処にも存在しないと言った方が良いかも知れません。例えば、多くの植物はアルカロイドという毒を細胞内に抱えています。「あく」などと呼び、熱湯で茹でこぼす事でその毒性を弱めて「事実上無毒にして」口にしているのです。人間の寿命が、原理的な老衰死(140歳くらいとも言われます)に届かないのは、想像するに必要悪としての「食物毒」に原因があるのかも知れません。

さて、廃棄物ですが、それらは不用物であると同時に多くは慢性の毒性を持っています。フェロシルトの違法な再利用(実は廃棄)が問題になったのはつい最近ですが、歴史上でも多くの鉱毒(金属精錬工程から生ずる毒が水系に流れ出て重金属中毒を起こすこと)事件や化学工場の廃液に絡む公害事件が頻発していました。一方、例えば安定化処理場(と言いながら単に薄い防水膜で覆われただけの埋立地のこと)に埋め立てられたゴミの焼却灰は、ダイオキシンをはじめ金属酸化物や重金属が混じっているはずですので、それらが水に溶け出して濃縮され、穴の開いた防水シートから外の地下水系に漏れ出さない保証は全くありません。

食糧ではありませんが、飲み水は毎日体に入ってくる最も生存に必須の基本的な物質であり、たとえ低い毒性であっても、長い期間には私達自身や多くの生物の寿命を大きく短縮させる原因につながります。まさに、普通の廃棄物と言いながらも穏やかな時限爆弾になり得るのです。

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2007年5月27日 (日)

336 手間の掛かるCB

CBとはコミュニテイ・ビジネスのことです。コミュニテイ・ビジネスとは簡単に言えば、狭い地域に限定されたビジネスの枠組みの事を指しますが、なにしろ地域限定ですから、基本的には遠くの産地で作られたものを運んだり、そこで作った商品を遠くの消費地に輸送したりといった、いわゆる流通産業のお世話になることは少ない訳です。産品とその消費というビジネスの場合、まさに地産地消というスタイルになります。一方、地域サービスに関わる事業でも事情は同じです。サービスを提供する側は、それを受ける側と同じ地域に暮らしながら、ビジネスが行われますので、通信や移動手段などインフラに関わる費用も小さくて済むわけです。

CBでもう一つ重要なポイントは、地域の雇用の視点です。田舎と呼ばれる地域ほど、有効な雇用の機会は少ないと考えられますが、CBはその中にあって重要な役割が期待できます。すなわち、「人手の掛かるCBほど良いCBである」とも言えます。究極のCBとは330にも述べたセルフサービスですが、そこまで行かなくても単位あたりのビジネス取引に要する人手は、多いほど良いCBになり得ます。一例として、タクシー業を考えて見た場合、都市部の運転手一人当たりで運ぶ乗客数を、たとえば30人/日と仮定した場合、CBでは多分10人以下になるかも知れません。生産性は確かに1/3にはなりますが、その方がCBとしては都合が良いわけです。それによって、その地域にタクシー会社があるよりも、同じ人数を運ぶ場合、雇用機会が3倍になる訳ですから。田舎であるが故に雇用者の1/3の生活費で済めば、これでも成り立つはずです。

ものを作るCBでも事情は全く同じです。理想的なもの造りCBは、多分家内工業的・手工業的なものになるでしょうから、やはり人手に頼るという本質を持っています。今政府を含め、多くの地域では町おこし、村おこし事業を奨励していますが、とにかく人手の掛かる事業を興すという視点でアプローチすれば、大きく成功に近づくことでしょう。

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2007年5月26日 (土)

335 温故知新

「温故知新」は、実に含蓄のある普遍的な言葉だと思っています。それにしても一人の人間の知恵など、取るに足らないものだともしみじみ思います。歴史上天才と呼ばれる人たちでさえ多分例外ではないでしょう。彼らに与えられたのは、蓄積された知識、その発明・発見がなされるべき絶妙のタイミングと、勿論最後はひらめきです。努力も必要だったでしょう。しかし、それまでに蓄積された膨大な知識や知恵無しには、彼ら(彼女ら)の大発明も大発見も達成出来なかったはずです。一つの文明も5000年も年月を積み重ねれば、かなりの仕掛けが出来上がるものの様です。人間が始めて空を飛んだのは、つい100年あまり前ですが、その前の数千年の知識や技の積み重ね無しには、幼稚な飛行機さえ飛ばなかったでしょう。初期の、つまりライト兄弟が活躍していた頃の飛行機には、当時かなり性能の向上していた自動車エンジンとしっかりした自転車部品と凝った木材加工と布張り技術が巧みに組み合わされていました。それぞれの要素となったもの自体の発達があって、初めて全体として飛行できる機械が誕生できたわけです。

私達は、既に過去4000年以上に亘る「今の文明」の遺産を引き継ぎ、地球が蓄積してきた資源を食い潰しながら、ロウソク(資源)が燃え尽きる前の「つかの間のきらめき」を享受している状況だと言えるでしょう。現在の文明のロウソク(エネルギー源)は、言わずもがなですが、石油や石炭や天然ガスやウランなどの再生が出来ない地下資源です。そうであればこそ、まだ地下資源がそれほど発見されていなかった時代に学び、ものが無いなりに上手く暮らす方法や知恵を掘り起こし、活用すべき時期に至ったのだと思います。

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2007年5月25日 (金)

334 バイオディーゼル油考

バイオディーゼル油が注目されています。ガソリンにエタノールを混ぜるのに比べれば、原料は100%植物油ですから、それを燃料に出来れば環境負荷も格段に小さいはずです。しかし、少なくとも日本では、誰も1リットル数百円から千円弱もするサラダ油をいきなりエンジンで燃やす人は居ないでしょう。精々揚げ油などで使用した廃油を燃料として再利用するだけです。

廃油を活用するのですからなかなか良さそうな仕組みにも思えますが、問題点も幾つか抱えています。第1は、バイオディーゼル油を作るのにメチルアルコールが必要で(メチルエステル化処理)、しかも廃棄物(触媒を含み油の酸化したものとグリセリンの混合物)が、得られる燃料と同じくらい発生する事です。これは結局ゴミとして、ゴミ焼却場で燃やすしかない代物です。もう一つは確保できる量の問題です。正確な統計量はつかんでいませんが、廃油として出される植物油の量は百万トンレベルと思われますので、かなりの部分をバイオディーゼル油として処理したとしても実質数十万トンレベルの燃料しか確保できません。全体的な燃料需要に比べれば、焼け石に水一滴くらいしか寄与できないでしょう。勿論、廃油を下水に流したり、新聞紙に染み込ませて無為に燃やしたりするよりは格段にマシな行動ではありますが。

しかし幾つかの国では広大な面積に菜の花を植え、菜種を搾った油でトラクターなどの農業機械を動かす事が日常行われています。投稿者が見た春先の北ドイツでは、1キロ四方ほどもある菜種畑がいくつも広がっていました。この場合は、想像するにエンジンを改造して、菜種油だけで動くようにしてあると思われます。場合によっては、起動性を良くするため少ない割合で軽油を混ぜているかも知れません。日本の自動車メーカーに期待したいのは、廃油を処理して既存のエンジンを動かすのではなく、是非ゴミを漉しただけの「生の廃植物油」で動くエンジンを開発する事です。そうなれば、廃油はそのまま漉せば貴重な燃料となりますから人気が急上昇し、市場も出来上がるでしょう。そして街には食欲をそそる「てんぷらの香り」が漂うことでしょう。

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2007年5月24日 (木)

333 竹パワー

投稿者が発行し続けている「環境もの造り通信」でも取り上げましたが、植物パワーには想像を超えるものがあります。比較的身近な植物に竹がありますが、パンダに聴くまでもなく、竹の持つパワーはひときわ強力です。竹は、CO2を固定する能力(太陽エネルギーを物質として固定する力)と言う点では、正確ではありませんが、木材の倍以上の能力を持っていると考えられます。その生長するスピードは、一日に数十センチにも上る時期もあります。

一方で、竹は一本が一つの植物個体ではなく、地下茎でつながっているため、実は竹林全体として、一つの植物となっている場合も多いのです。昔の人が竹を竹材や筍を採る為に植えた時は、たった一株の地下茎だったと思われます。それが、数十年で小さな山ならその山裾を覆い尽くすほど広がるのです。地下茎の伸びるスピードは、年間数メートルにもなりますから、50年では数百メートルにもなる訳です。しかも、竹は上へ上へと幹を伸ばし、枝を広げて太陽光を独占しますから、竹林の地面には全く太陽光が射さず薄暗いため、他の植物が入り込む余地もまったく無いのです。

無双のパワーを持つ竹ですが、たった一つの弱点を持っています。数十年から百年くらいに一度ですが、一つの竹林は(一つの植物ですから)一斉に花をつけ枯れてしまうというDNAを持っています。かなり古い時代に大陸から日本に竹が移植されたのは、ごく少数の株だったと想像されますから、日本の竹林はDNAから見ても、実は多くの双子の兄弟達であるはずです。つまり一斉に開花すると言う性質は、竹の大量枯死に至る可能性を抱えてはいます。しかしながら、竹の持っている太陽エネルギーを固定する卓抜した能力は、是非有効に活用したいものです。その具体的な方法もこのブログでは考えて行きます。

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2007年5月23日 (水)

332 多様な解

環境問題と一言で言っても、その実態は多様です。地球規模の目には見えない現象である温暖化などは別にして、多くはいまだにローカルな問題も多いのです。日本に限って言えば、いわゆる公害問題は殆ど克服されたとはいえ、ゴミ処理問題と森林の荒廃問題、下水普及率の頭打ちなど、問題は山積しています。ローカルな問題をさておいて、いきなり大上段に振りかぶって国際問題や地球規模の問題を持ち出すのは考えものです。先ずは、目の前のゴミの山、目の前の里山や林地の荒廃に向き合い、地元の知恵を絞り出す必要があります。国がやる事はと言えば、少し税金を使って弱いインセンティブやペナルティを準備しておく事くらいです。多様な地域の特性を考えれば、知恵の出し方も多様である必要があります。例えば、ゴミの処理について言えば、地域によって実はゴミの内容も違っているはずですので、分別の方法やリサイクルや処理の手法も違っていて当然です。住宅地が多い地区と、商業地区、農山村地区ではゴミの内容が大きく異なる事でしょう。先ずはゴミを広げて「じっと見る」事から始めるべきでしょう。里山や林地の荒廃の原因は、人が山に入らなくなった事に最大の原因が求められます。人々が山に興味を示さなくなって久しいのですが、良く観察すれば里山の生物の多様性、恵みの多さに改めて驚かされるでしょう。何はなくても、先ずは足元の環境問題を把握し、多様な状況に応じて「小さくて多様な解」を数多く積み重ねる必要があります。地球規模の環境問題も、結局は日々出し続けてきた小さなゴミ(固体ゴミ、気体ゴミ、液体ゴミ、熱ゴミなど)の膨大な蓄積であった訳ですから。

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2007年5月22日 (火)

331 環境技術幻想

AB総理が最近「環境技術立国」なる構想を再々表明しているようです。しかしながら、技術で環境問題が解決できると考えるのは物事の本質を見据えない幻想に過ぎない、と投稿者は考えます。彼の見方は、別の言葉では「毒を用いて毒を消す」と言っているのと同じ事になるでしょうか。何故なら、現在の環境問題はまさに「技術の濫用」で生じている訳で、どのような技術を使って環境悪化を防ぐかを明示しない限り、AB総理の言葉には真実味が生まれません。

想像するに、彼の(或いは彼のブレーンの)頭の中には、精々中国などでの公害発生の深刻さに対処する「公害防止技術」、同じく中国や発展途上国での石油のガブ飲みを緩和する「省エネ技術」程度しかないと見ています。これは、火事を見てからバケツを用意する行動にも似ています。そうではなくて、資源やエネルギーを高いレベルで節約する持続可能なライフスタイルの提案を行うというアプローチ必要です。「技術」は常に資源とエネルギーを強く求めます。つまり、必要な手段は決して環境技術ではなく、持続可能な枠組みを作る「知恵」の提示である訳です。

具体的には、モノを作るのに資源やエネルギーを節約する技術を伝えるのではなく、モノが無くてもココロ豊かに暮らせる、自然に寄り添った形の暮らし方を伝えるべきなのです。その手本は、少し時代を溯るか、または田舎で多くのお年寄りが今も実践している伝統的なライフスタイルに求めれば良いだけです。もし江戸時代のライフスタイルを世界に向かって紹介するなら、大きなインパクトを与える事は間違いないでしょう。環境技術に対抗するため、敢えてこれに名前をつけるなら、「環境に寄り添う知恵」あるいは「不便を楽しむ知恵」とでも呼ぶべきでしょうか。勿論相手に説法するためには、先ず自分で手本を実践することが必須ですが。

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2007年5月21日 (月)

330 セルフサービス

なかなか興味深いキーワードとなりそうなので、「セルフサービス」について更に考えてみることにします。日常生活でセルフサービスの例を見るとすれば、カフェテリアスタイルの食堂で、自分で食べ物や食器を運ぶ行為や、無人販売でお金を入れてものを買う行為がこれに当たります。結果、ウェートレス(ウェイター)や売り子が不要になり、もし経営者が正直者であればその分料金もやや安くはなっている筈です。自分自身を運ぶために自分で車を運転する行為も、もしそれをしなければタクシーを拾うか電車かバスを利用する事になるわけですから、広い意味で言えばセルフサービスとも言えるかも知れません。329ではセルフサービスをすれば環境負荷が下がると結論したのですから、電車・バスに比べ車を乗る事による環境負荷が大きいことと矛盾しそうにも思えます。

投稿者の考え方はしかし、自分の家の車庫で車に乗り込んで、自分のために職場まで車を運転するというサービス行為は、歩いて最寄りの駅やバス停に行くというサービスに比べ、明らかに手抜きサービスであり、レベルの低いセルフサービスであると言うものです。何故なら、駅まで歩く事は、自分を移動させると同時に体の心肺機能を維持し、病気になりにくくすると言うセルフサービスも実現している訳で、こちらの方が質の高いセルフサービスであると言えるからです。勿論、車を運転する事によりガソリンを燃やし、排気ガスを撒き散らして環境を悪化させ、自分や他人への交通事故のリスクを増やし、道路を痛め、昼間は無駄な駐車スペース(その多くは昔は農地であったはず)を占有している多くのマイナスポイントをカウントすると、車の運転は更に質の低いサービスに位置づけられるでしょう。繰り返しますが、より質の高いセルフサービスの実行を目指せば、間違いなく環境負荷は小さくなります。

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2007年5月20日 (日)

329 お金の意味2

ついでなので、お金の意味を更に考えて見ます。多くの場合、お金が動くところ必ず資源やエネルギーの消費と廃棄物の発生が伴います。勿論、純サービス業従事者、例えば弁護士や教師や医者が活動して、謝礼や給料や診療費を貰っても、見かけ上殆ど資源やエネルギーは使われていない様にも見えます。しかし、顧客や学生や患者がお金を支払うためには、やはりどうしても資源やエネルギーを使い、廃棄物を出しながら働く必要がある訳です。むしろサービス業の割合が増大すればするほど、手や体を動かしてものを作る人の割合は減り、逆に多量のエネルギーや資源を投入する工場の自動化が行われ、大量生産、大量流通が進むはずですから、環境への負荷は加速度的に増加する事になります。

ここでの結論は、サービス業の増加が、かなりの強い相関を持って環境悪化へ関与しているというものです。産業の構造変化は予想以上に進んでいて今や、就業人口の2/3は第3次産業人である訳です。これに歯止めをかけるためには、私達は自分の能力を高め、自分自身へサービスする能力を高める必要があります。上で例に引いた職業(弁護士、教師、医者)の例で言えば、法律に関して最低限の知識をもって自分を弁護し、本を読むなどして自分自身を教育し、日頃から病気にならない努力をして医者になるべく掛からないという事です。自給自足をしなくても、自分サービスの割合を増やせば、サービスに支払うお金が減り、結果的に環境負荷が減る事になります。環境に優しくするためのキーワードは、LOHASでもスローライフでも省エネでも3Rでもなく、実は「セルフサービス」であった訳です。327での結論と併せれば、自給自足とセルフサービスの割合を増やせば、環境負荷は間違いなくグンと小さくなると言えるでしょう。

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2007年5月19日 (土)

328 お金の意味

最近は、お金にトンと縁遠くなりましたが、懐かしさ?もあってお金の持つ意味を時々考えます。人間が生み出したこの不思議な発明品(或いは怪物)が、今や一人歩きを始めたどころか、もしかして多くの面で人間を支配さえしているのでないかと感じているからです。お金の機能については以前も少し触れました。その時は「価値交換の手段」と定義しましたが、ここでは「他人の時間を買う権利」と言う側面を見ます。

私達はお金で色々なものを買いますが、その実は他人の時間を買っているのだとも言えるでしょう。例えば、食糧を買うという行為で、私達は農家の人やその流通に関わった人たちが費やした時間を買っているのですし、車を買う事は車体を構成している鉄板を作るために鉄鉱石を精錬した人や、車に付けられている多くの部品を作った人、それを組み立てた人たちの時間を買ったわけです。またガソリンを買う事によって、原油を掘った人、タンカーで運んだ人、精製しタンクローリーで運んだ人たちの時間を少しずつ買ったことになるでしょう。

一方で、お金で私達はものを買ったり、サービスを受ける権利を買ったりするために自分の時間を他の人に売り渡します。もしこの世にお金が存在しないと仮定すれば、他人の時間を買うためには、自分が作ったものと他の人が作ったものとを物々交換するしかないわけです。しかしこの場合は、人間は自分が生きるために、自分自身が持つ多くの時間を費やなければならない筈です。これを自給自足と呼んでいますが、実はこれこそが究極の地産地消でもあるのです。何しろ自分で作って自分で消費するのですからものを運ぶ必要は殆ど無くなります。

環境に優しくする事とは、実は自給自足の割合を増やし、通貨の量を減らす努力をする事なのではないかと、最近感じ始めています。

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2007年5月18日 (金)

327 進歩or退歩?

大阪万博(古い話ですのでうろ覚えですが)のキャッチフレーズは「人類の偉大な進歩」だったような気がします。奇抜な形の建物(何故かパビリオンと呼んでいたようでした)や、奇怪な太陽の塔がそびえ、月の石を見るために長蛇の列を作っていました。ここでわざわざ古い話を持ち出したのは、「進歩」という言葉を改めて考えてみるためです。

以前に書いた「時間の円環」を持ち出すまでもなく、時間軸や歴史の物差しは単なる直線ではないような気がします。歴史は繰り返し、因果は巡っているという見方が真理に近いとすれば、偉大な進歩とは、「一つの終末」へ向かって大きく近づいただけと言うことになります。全てが便利になり、人々が筋肉や脳みそを使わなくなることを進歩と言うのであれば、それはまさしく「進歩という名の退歩」であると言うしかない訳です。同じように、温暖化や環境悪化を進める道具を科学・技術というならば、それはどう考えても悪い道具を使った退歩と呼ぶしかないでしょう。

逆に、進むスピードをぐっと抑えて亀のように歩くならば、環境的破局に至る時間をグンと引き延ばせるはずです。そんな生活スタイルをスローライフとも呼んでいるのでしょう。投稿者は、出来れば後ろ向きに歩くか、或いはソロソロと後ずさりをする事を推奨しているのです。躓かない様に後ずさりする方法を広めるのが、実は「環境カウンセラー」の役割だと信じて行動しています。

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2007年5月17日 (木)

326 温暖化効果ガス算定

今年度から、企業への温暖化効果ガスの算定・報告が義務付けられました。しかしながら、この義務はCO2換算で3000t以上排出している企業のみに課せられているので、非常に目の大きなザルで水をすくう様なもので、CO2削減にどれほどの効果が期待できるのか、甚だ疑問です。企業側にとっても、このザルに引っかからない場合はやれやれと胸を撫で下ろし、一方義務が生じている企業も「取り敢えず報告しておくか」と言った態度でしょう。勿論、報告義務が生じた企業に対しては、年率1%の削減努力は求められますが、インセンティブもペナルティも無い枠組みなので、実質的な効果は期待薄です。

こんな有様で、京都議定書の約束年限までに6%の削減が果たして可能なのか、投稿者としては大企業と中小企業の内情を知っているだけに、かなり悲観的に見ています。そうなれば、例えば中国がオリンピック後に急速に経済が減速し、つられて日本も景気が悪化して、結果としてエネルギーの消費が落ち込むか、或いは世界経済が引き続き膨張し、石油供給が逼迫する結果、石油価格が高騰して、エネルギー消費が落ち込むか、いずれかの「神風」を待たざるを得ないかもしれません。

勿論、全ての企業や或いは家庭でも、やる気にさえなれば10%やそこらの省エネルギーは十分可能なのです。但し、それは前の石油ショックの時の様に、追い込まれなければその気にならない、日本人の普遍的な性格が災いしてあまり期待できないのも事実です。投稿者としては、今後とも企業や学校や市民講座に出かけて行っては、口を酸っぱくして省エネ・省資源の必要性を説く事といたします。

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2007年5月16日 (水)

325 資源としての廃棄物

日本は資源の無い国であり、他方で原材料や工業製品、食料や木材の輸入大国です。これらの輸入品は消費され、やがては廃棄物やゴミとして捨てられる運命にあります。何度も書いたように、廃棄物やゴミは混ぜてしまえば全くの厄介ものになり下がります。金属とガラスと木材と生ゴミが一緒になったものはやはりゴミでしかありません。(埋立地が豊富なアメリカでは、全てのゴミは完全にゴチャ混ぜにして捨ててしまいます)

しかし、もし廃棄物やゴミを完全に分別できると仮定すれば、実は日本は資源大国に生まれ変わる事ができるでしょう。例外的に、廃棄物に値段をつけてネット上で売り買いの仲介を行っているベンチャー企業は存在しますが、この分野に注目している企業は殆どありません。他方で、中国ではレアアースと呼ばれる産出量の少ない貴金属を輸出禁止にする動きもあり、そうなると日本はますます、完全なリサイクル国家への道を歩まざるを得なくなるでしょう。廃棄物やゴミを分別するには、実は機械は苦手な作業です。せいぜい、アルミや銅や鉄を磁気や、電気伝導度の差で選り分ける装置が実用化されている程度で、しかも分別後の純度はかなり低下してしまいます。プラスチックに至っては、自動的な分別の方法は比重差を利用した荒っぽい分別方法しか実用化されていません。

金属に関して言えば、完全なリサイクルのためには、合金の種類を圧倒的に減らさなければなりません。これまで、金属のプロパティを高めるために、企業は勝手気ままに特殊な合金を開発してきましたが、その結果リサイクル率は極端に低下してしまった訳です。金属のプロパティ(性能)を多少犠牲にしても、合金の種類を今の半分にするだけでも、リサイクル率は大幅にアップすることでしょう。リサイクルが向上した分、資源の輸入量は減ることになります。空き地という空き地にうず高く積まれた廃車は、鉄とアルミと銅とガラスと種類別のプラスチックに分別できるなら、実に有用な資源になるはずです。日本に欠けているのは、廃車を丁寧に部品別に分解するためのリサイクル工場です。このような工場が各地に生まれると、雇用問題などはあっという間にすっ飛んでしまうでしょう。その工場が、新たな資源の「鉱脈」となるわけです。

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2007年5月15日 (火)

324 タイヤ燃費

ここしばらく、使っているバイクの後輪の空気が抜けていたようです。点検に出したら、金属片を踏んでいたらしく、かなり空気が抜けていたことをメカニックから知らされました。そういえば、少し前から燃費が少し悪化したような気がしていましたが、バイクが古くなってきたせいかと勝手に判断していました。確かにそれまでは、ガソリン1リッター当りで、30km以上は走っていたのですが、ここしばらくは26-7kmに落ちていたのです。曲がる際にバンク(傾斜)させるため、バイクのタイヤの断面は、ほぼ円形なのですが、空気圧不足で走っていため、かなり広い面積で接地していた形跡がありました。ところで、車ではご存知の通り接地面はフラットになっていますので、路面抵抗が大きく燃費も悪くなっています。安全性を度外視して、車のタイヤの断面を円形に近づければ燃費は何割も改善されるはずですね。もちろんその為には車の重量を大幅に小さくする必要もありますが。

パンクを修理して規定の空気圧に戻ってから最初の給油をしましたが、見事にリッターあたり31kmまで復活していました。確実に10%以上の燃費改善になったわけです。たかが空気圧、されど空気圧です。そういう目で、交差点で止まっている車を観察してみると、かなりの割合で、空気圧の不足している車を見かけます。空気圧の少ないタイヤで走行すれば、当然ガソリンの消費量は多くなりますし、タイヤからの騒音も大きくなり、タイヤの温度も上昇し、磨耗も早くなるなど良いことは全く起こりません。高速道路ではバーストという最悪の事態にもつながりかねません。まめなタイヤの点検は、お金も掛からない手軽な省エネ作戦です。

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2007年5月14日 (月)

323 休題(木の芽時)

つい最近山の方に住んでいる知人が、新芽の季節は植物の成長パワーに圧倒されるせいか、体調が低下するとボヤいているのを聞きました。確かに、昔から「木の芽時」といい、最近は「5月病」とか呼んで体調の悪化を訴える人が増える時期ではあります。

投稿者なりにこの事を考えてみると、多くの人が不調を訴えるという事は、多分花粉症並みには何らかの科学的・医学的な原因がありそうにも思えます。例えば植物にはアエロパシーと呼ばれる、他の植物や動物に働きかける作用があります。ごく微量の化学物質を空気中や地中に分泌して、他の植物の繁殖を抑えたり、動物(特に昆虫)を遠ざけたりする作用のことです。木の芽の周りの組織は栄養豊かで軟らかいので、基本的には動物にとっては絶好の食糧になるはずです。そのため、ここからは想像ですが、植物の芽の付近から動物が嫌う化学物質を出している可能性もあります。人間も、動物の端くれですから、植物が出す忌避物質によって、これに敏感に反応する人たちが、体調を崩してもおかしくはない筈です。そう考えれば、この季節の人々の体調不良の原因の一部は、空中を漂う植物の毒にあたっているせいであるかも知れません。

一方、この季節を過ぎると、植物は安定期に入るため、この毒も弱められ逆に少量の化学物質、例えばフィトンチッドやテルペン類は人間にリラックス効果をもたらしているのかも知れません。これを森林浴などと呼んでいるという訳です。間接的にせよ、人間も動物の端くれであると言う証拠に接すると、何故かホッとします。

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2007年5月13日 (日)

322 体の延長

人間は、科学・技術を駆使することで、一体何を実現しようとしてきたかを改めて考えて見ます。一つの見方としては、「人間は体を延長し、巨大化させる事に最大限の努力を傾けてきた」といっても良いでしょう。全ての道具は、手の延長でしょう。乗り物や動力機械は足(筋肉)の延長ですし、書物やコンピューターは頭脳の延長です。カメラや電話は、勿論目や耳の延長です。調理器具は、歯や消化器の延長です。

結果として、人類は何も持たなかった原始のヒトに比べ、体の大きさはそのままで、手足や頭脳や耳や目の機能だけが巨大化した、バランスの悪い状態に進化したのだと言えるでしょう。このバランスの悪さは、それを絵に描いてくれる画家が居れば一目瞭然でしょうが、想像するだけで不気味な形相となるでしょう。中でも、足の能力の延長は異常です。人間が1時間に5-6km歩くとして、車を使えば10倍、新幹線では20倍、飛行機にいたっては百数十倍にもなります。荷物を担いで歩く事を考えれば、10トントラックでは、その能力が1000倍にも拡大されている事になります。しかし、手工具を除けは、これらの能力の拡大や延長の仕組み(倍力装置)は、その原動力の全てを化石エネルギーに依存しているわけです。

一方で、一部の職業的なアスリートを除けば、人間の身体能力は明らかに衰退しているはずです。顕著な体の外見上の変化の例としては、顎の退化が挙げられます。現代の若者の顎は、軟らかく調理され噛む必要が無い食べ物を摂取している結果、明らかにエラが張っておらず、ほっそりしています。しかし、歯の進化(退化?)が追随していないため、大きいままの歯が上手く並ぶ事が出来ないため、八重歯や乱杭歯となってしまいます。体は確かに大きくなったかも知れませんが、骨密度や筋力やその持久力を比較した場合、間違いなく退化しているはずです。際限の無い体の延長は、この辺で打ち止めにし、少し昔の体に戻る努力が必要だと、いま真面目に考えています。

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2007年5月12日 (土)

321 農業の二面性

農業は、たとえば水田では水を湛える事により地下水を涵養する、或いは山間の棚田などで沢の水を食い止め、下流の水害を抑制するなど環境を保護する働きをしています。またかつては、都市部で発生したし尿の引き受け場所となって、河川や海の汚染も防いでもきました。

しかしながら一方では、農地を開発する事は同時に環境の破壊活動でもあるわけです。今の農地は、かつてはなだらかな林地であったり、氾濫を繰り返す川の遊水地(洪水時の水の逃げ場所)や沼地であったりしたわけです。そこを切り開きあるいは埋め立てて、畑地にし、堤防を築いて畦を盛り水田を開発したのでした。結果として、多様であった生態系は、水田や畑地という「単純で半人工的な環境」に作り変えられたのです。そこに生き残れるのは、作物の間に顔を出す雑草と、少ない種類の昆虫や小動物しかいないことになります。そうは言いながらも、畑地や水田は、コンクリートで固められた都市の土壌に比べれば、自然の環境により近い形であることは間違いありません。

いずれにしても、農業は環境保全と環境破壊の二面性を持っている事に、私たちは注意を払わねばなりません。過去の歴史を溯れば、過度の農地開発やその維持のための灌漑を行った結果、農地の疲弊を招き、結果として崩壊した文明の例がいくつ数えあげられるでしょう。今の文明もその仲間入りをしない保証は何処にもありません。

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2007年5月11日 (金)

320 禁煙礼賛

ヘビースモーカーであった父親が、投稿者の中学時代に肺ガンになり、骨と皮になって惨めに死んだ様を見ているので、それを反面教師として喫煙をしたことはありません。そうでなくても、かつて九州を自転車旅行した時に見た、見事に手入れされたタバコ畑を知っているだけに、その収穫物である乾燥させたタバコの葉を、単に火をつけて煙にする好ましくない習慣には、絶対に同意できません。あれだけのタバコ畑の面積(正確には2年前の統計ではおよそ2万ヘクタールだそうです)の肥えた農地があれば、どれだけの食べ物が作れるのかを考えるだけで、勿体無さに気が遠くなります。

あまり誇れることではありませんが、公衆が集まっている場所で傍若無人に煙を吐き、吸殻を床や道路にポイ捨てする人間を見るたびに「頼むから早く肺ガンになって死んでくれ」と心の片隅で呪うのを止めることが出来ません。最近、名古屋市のタクシーが全面禁煙になったようですが、非喫煙族には「ささやかな良いニュース」であり拍手喝采です。少なくとも、病院やレストランや鉄道車両を含む公共交通機関は、駅やホームを含め全て禁煙にすべきです。あの肥えた2万ヘクタールの畑では、タバコの栽培をやめ、是非美味しい無農薬野菜を育てて貰いたいものです。

農家がタバコ栽培を段階的にやめ、タバコが品薄になって価格が高騰すれば、自然に喫煙人口も減るはずです。JTは、是非「無農薬作物」の供給会社に脱皮してください。

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2007年5月10日 (木)

319 緑のサイクル

物流のパイプを細くするだけで、勿論十分ではありません。細くしたとしても、最終的に消費されたモノは、最終的には廃棄物になって「ゴミ捨て場は拡大し続ける」事になります。廃棄物を埋め立て廃棄物としないためには、「緑のサイクル」が不可欠です。緑のサイクルとは、原料を自然物に求め、結果として廃棄物も最終的には自然に返してやる仕組みのことです。現状、この様なサイクルは非常に細いものとなっていて、具体例を挙げるのにも苦労するほどです。緑のサイクルの例としては、木質燃料で発生するCO2と灰の再利用が挙げられます。CO2は再度植物に吸収され、灰はカリウムやミネラル分を農地に戻すためには有効な肥料となります。農業残渣も畑に鋤き込んで、植物性の肥料として再利用されていますが、十分に醗酵させないと次の作物に悪い害を与える場合もあります。

投稿者が考えているのは、この程度の「ささやかな緑のサイクル」ではありません。工業製品のかなりの部分を木材や植物プラスチックなどの自然素材に切り替える様な動きが必要だと考えています。木材は、目方あたりの強度という目で見ると、実は鉄よりも強い素材です。何しろ鉄の比重は7.8前後ありますが、乾燥木材は僅か0.45ほどです。その昔車や航空機が木材で作られたこともありました。現代の技術を使えば、圧縮固定(圧密処理)された木材ではアルミニウム並みの強度が得られますので、うまく使えば金属を代替することも可能です。用済み後の木材は、もちろん立派な燃料として完全に再利用可能です。

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2007年5月 9日 (水)

318 物流のパイプ

投稿者の放送大学での修士論文のテーマは、「持続可能型技術の実証研究」というもので、木質資源や植物起源の資源を使った技術の調査に、自分としての視点を加えたものでした。その前段の、現代技術の分析の部分では、自分が長く関わってきた輸送機器産業が深く関わる「物流のパイプ」を一つのキーワードとしました。

大昔、長距離の運搬手段がせいぜい帆船程度しかなかった時代に、モノを運ぶ量は非常に限定されていましたので、米や香辛料など必要不可欠か価値の非常に高いモノしか運ぶ事は出来ませんでした。しかし、今や野菜や衣料や雑貨など「目方当り、体積当りの単価が非常に安いモノ」まで、大量の石油を使って国境を越えて交易しています。しかし一方通行の物流の結果、消費したモノに比例して廃棄物は、消費地に蓄積し続けることになります。つまり、現代社会は「大量に運ぶ事によって、大量のゴミを生み出している」、と結論付けても筋違いではないように思います。

投稿者が「輸送機器産業」に見切りをつけたのも、この結論故とも言えるかもしれません。物流のパイプを細くするのは、実行はかなり困難ですが、考え方は比較的簡単です。「とにかく近くで出来たものを消費し使う」だけです。地域で取れた農作物を消費し、多少高くても近くの町で作られた産物や製品を使うだけです。「地産地消」とは、この行動をたった四文字熟語で表現した、ドンピシャリの標語だといえるでしょう。地産地消の仕組みをまじめに考え、真面目に実行するだけで、輸送に関わる石油エネルギーは、画期的に削減できるはずです。結果、日夜高速道路を占領している大型トラック群もその数が大幅に減ることでしょう。

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2007年5月 8日 (火)

317 雑草の戦略

樹木の太陽光を獲得する戦略に関しては309に少し書きました。ここでは、目立たない存在である雑草にスポットを当て、その戦略を眺めてみる事にします。

さて日本国内には5000種を超える植物が自生しています。その多くは「雑草」と呼ばれる名も無い(本当は故牧野博士の努力もあり、全てに名前がついていますが)植物群であると想像しています。さて木材は、リグニンと呼ばれる物質を作り出して幹や枝を硬くして展ばし、太陽光を獲得する作戦でしたが、草は柔らかい茎しか持たないので、同じ作戦は取れません。そこで、樹木が進出できない場所に適応する事により、反映を実現してきました。樹木が生長できない場所とは、例えば土壌が薄い(殆ど無い)場所、乾燥が著しい場所、人間が切り開いた場所、河原など洪水を繰り返す場所などです。例えば、屋根の瓦の隙間、土が殆ど無い岩の割れ目、田畑の畦や堤防や道路ののり面などは雑草が好んで進出する場所です。別の戦略をとるちゃっかり者もいます。つる性の植物は、樹木に絡みついて太陽光を獲得しますし、樹木に直接寄生する植物も結構多いのです。根から養分を吸い上げることを止め、虫を採る戦略に切り替えた植物(食虫植物)も多く見られます。この場合、高い山など岩だらけで殆ど土の無い場所でも子孫を増やす事が出来ます。

雑草の戦略とは、樹木が進出することを諦めた場所を敢えて住処と定め、そこに進出する事でした。繰り返しになりますが、化石燃料が枯渇する時代には、私達に使えるエネルギーは太陽光だけです。そうなってくると、上に述べた雑草の戦略に大いに学ばなければならなくなるでしょう。と言うより、雑草と太陽光を奪い合う事にもなりかねません。その意味で、建物の屋根や堤防や道路ののり面など、人間が作った環境や土壌は是非有効に利用しなければならない貴重な資源となります。周囲の状況を判断して、自分の対処方法を変える事を「考える」と規定するなら、雑草も何万年あるいはそれ以上の長い年月を掛けてですが、確かに考えていると言えます。

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2007年5月 7日 (月)

316 公平性3

もう一つの公平性の視点として、「自然自身の権利」を認めるか否かというポイントがあります。これまで私たちは、この視点を「全く」無視してきました。そうでなければ、川や湖や海の生物がほぼ死滅してしまうほど毒性が強い工場排水や下水を流せる筈はないでしょうし、多様な植物や小動物が生息していた豊かな里山を、工場や住宅を建てる目的とはいえ、何の躊躇も無しにブルドーザで地ならししてしまうことは出来なかったでしょう。少し心優しい開発業者が居て、里山の一部を残して開発したと仮定しても、小さく分断されて残された里山に動物達が生き残ることは出来なかったはずです。

投稿者の立場は、この問題に対しては「議論の余地が無い」というものです。何故なら、人類が誕生する遥か以前から、文句のつけ様が無いくらい完全な秩序の元に、自然の営みは営々として続いていたわけで、我々人類はホンの新参者に過ぎない存在と言えます。その新参者が、我が物顔に「自然の権利を認める、認めない」などと議論する事は、全くおこがましい態度だと言えるでしょう。先ずは、人類は自然の前に頭を垂れ、その偉大な仕組みを謙虚に学ぶという態度を身につける必要があるのだと思います。つまり、自然と人間が公平か否かという議論は最初から存在しない訳で、自然があってこそ人類が存在できるのだ、と思い直す必要があります。そうでなければ、自然を破壊し続ける人類に対して、自然は手ひどいしっぺ返しを見舞うことになるでしょう。繰り返しますが、自然と人間は決して対等ではありません。

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2007年5月 6日 (日)

315 公平性2

次に考えるべきは、「世代間の公平性」の問題です。これは、ともすれば抜けがちになる視点でもあります。何故なら、私たちの直接の子孫(子や孫のことです)は、殆どの場合直接顔をみてコミュニケーションすることが可能ですが、一方絶対に顔を見ることができない子孫(曾孫やその子孫)とは直接接触することができませんから、彼らの言い分に耳を傾けることもできません。しかし意見が聞けないからといって、彼らを無視することは出来ません。

冷静に考えてみれば、我々の世代が今存在するのは、ひとえに前の世代の生存努力の結果であり、未来の世代は我々の血を引き継ぎながらやはりその次の世代のために、生存努力を続けていかなければならないからです。

今の世代だけで枯渇性の資源を使い果たし、結果として使い捨てたゴミだけを後世に残すならば、辛うじて生き残った未来世代から「20世紀や21世紀前半の世代はなんと言うジコチュウ人だろう」と非難されても文句は言えません。

いま生きている世代は、どう考えてもう少し未来世代のことを思いやらなければなりません。それには、過去の世代が2世代先のことを考えて、急峻な山に地道に植林を続けた献身的な努力を思い出す必要もあるでしょう。前にも書いたような気がしますが、かつてのアメリカインデアンは7世代後の子孫の幸福を考えて、現実の問題の結論を出したとの事です。資源やエネルギーを節約する行動は、確かに今の時代の経済を減速させ、失業者が増えるかもしれませんが、「それは未来世代の幸福の為だから仕方が無い」と考えるしかないのでしょう。これが出来ないと、将来私たちは「身勝手なジコチュウ時代人」と、歴史の教科書に書かれるはずです。

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2007年5月 5日 (土)

314 公平性

環境保全にかかわる公平性にはいくつかの切り口が考えられます。最初に挙げるべきは、「地域間の公平性」の問題でしょうか。地域間の公平性で常に議論となるのは、太陽光に恵まれてはいるが貧しくエネルギーや資源をあまり使えない南の国々(途上国)と、資源に恵まれているか、経済的に豊かであるため潤沢にエネルギーや資源を使っている北の国々(先進国)との公平性の問題です。このような状況の中で、たとえば温暖化という環境悪化の原因が、化石燃料の使いすぎに原因があるとした場合、誰にその責任があるのかを決めなければならないとすれば、公平性の観点から言うなら当然先進国にその責任の大半を負ってもらわなければならないはずです。この点は、京都会議で議定書をまとめ上げる際にも大議論になりましたし、その後のIPCCの報告書の結論がなかなかまとまらない原因にもなっています。

普通にかんがえても、温暖化や酸性雨など、国境を越える環境悪化によって蒙る被害を考える場合、原因に殆ど関与していない南の国々が、被害だけを受けるのはやはりフェアではありません。途上国から見れば、先進国がたった数%程度の温暖化原因ガスの削減目標を立て、あわよくば途上国にもそれを展開しようとしている態度には我慢がならないはずです。彼らから見れば、先進国こそ削減目標を、例えば5割程度にして然るべきだと感じているでしょう。

曲がりなりにも先進国である日本は、少なくとも途上国のこの様な不公平感を理解する努力は続けなければならないのです。しかし、投稿者としてはやや楽観視しています。何故なら、化石燃料が枯渇してしまう時代、石油無しには地下資源も掘れなくなるでしょうが、一方南の途上国こそ太陽光という絶対に枯渇しないエネルギー源を持っている、エネルギー大国になるはずですから。

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2007年5月 4日 (金)

313 遊び道具

20世紀の、キチガイじみた人間の活動を何に例えれば分かり易いのか、幾つかのたとえ話を作って見ました。これもその一つです。

子供は、ある年齢になると外遊びを始めます。これは、やむにやまれぬ人間が持つ好奇心のなせる技です。初めは近くの探検から、それに慣れると親の目を離れて徐々に遠くに出かけるようになります。探検に出かけた先では、木の枝や小石や虫や草など目に付いたモノを手に取り、遊び道具にしてしまいます。

同じ状況が私達人類にも観察されます。徐々に知恵を付けた人類は、色々な遊び道具(機械)を考え出しました。取り分け、石油を使った遊び道具(車や飛行機がその代表)や電気を使った遊び道具(電化製品、取り分けテレビ・パソコン・携帯電話などがその代表)を作り、それで遊ぶ事に熱中してきました。遊び道具(車や電化製品)はますます大型で複雑になり、消費される資源やエネルギーは、近くで手に入る限度を超えたので、仕方なく山を越えた遠く(海外)まで出かけて手に入れる必要が出てきました。

しかし、気がつけば外は夕暮れが近くなって薄暗くなり(公害や地球規模の環境悪化がひどくなり)、見通しも利かなくなってきました。見回せば、私達が拾って使って散らかした遊び道具の残骸(廃棄物やゴミ)で溢れかえっています。そろそろ私達は、家(持続可能な日常生活)に帰るべき時間が迫ってきていると思うのです。家に帰るためには、手に入れた遊び道具を手放さなければなりません。家には確かに楽しい遊び道具はありませんが、家族が待っていて、暖かい人間関係だけは手に入ります。

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2007年5月 3日 (木)

312 失ったもの

20世紀後半、私たちはモノを手に入れることに夢中になっていました。テレビ、冷蔵庫、クーラー、車、不動産などなど。それでもあき足らずに、余暇の獲得にも精をだし、レジャーや海外旅行にも熱中しました。その熱狂のピークは、日本では90年代の「バブル期」に到来しました。この時期、私達はエネルギーや資源を湯水のごとく浪費してきました。

モノや余暇を手に入れる中で、しかし私たちが失ってしまったものも多いはずです。家庭では個室や個人のテレビを手に入れた結果の家族団欒の崩壊、インターネットや携帯電話を便利に使いながらの人と人との連帯感の喪失、車によるドアtoドアに移動の代わりに失った丈夫な足腰、コンビニを利用する引き換えとしての売り手と買い手の会話に無い関係などなど。つらつら考えるに、モノの獲得と精神的満足感は、実は完全に逆比例するのではないかとも思えるほどです。

問題は、得たもの(モノ)と失ったもの(ココロ)が異質なものであるが故に、失ったものの代価として、得たものがそれだけの価値があったのかが誰も判断できないと言う点です。貧しいけれど人と人とがつながり、ココロ豊かで夢があった時代と、モノは豊富であるがココロは満たされない今の時代とどちらが良かったのか、両方の時代を知っている世代(多分50代以上でしょう)は立ち止まって考えて見るべきでしょう。出来れば、勇気を奮って最近手に入れたモノを捨ててみるべきでしょう。その結果、いくらかでもココロが豊かになることが実感できれば、上に述べた事が正しかったことが証明されるはずです。投稿者の場合、自発的失業をして以降、確かに精神的には安定し、時間もゆっくり進み始めたことを実感しています。

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2007年5月 2日 (水)

311 ヒ・モノセイカツ

退屈な内容の環境ブログですが一昨日から急にアクセス数が増えてキツネにつままれたような感じです。

さて、なにやら怪しげなカタカナですが、漢字混じりでかくと「非・モノ生活」となります。これは、ある時以降、投稿者の過去の生活を反省し、モノに依存しない生活を志した状況を説明する言葉として今朝作りました。モノに完全に依存しないで生活する事は、霞を食って生きる仙人でもない限り無理な相談です。ですから、「非モノ生活」とは、可能な限りモノに依存しないで暮すライフスタイルとでも言い直す事ができます。

難しい話はさておいて、自分が毎日過ごす居間を眺めてみてください。モノに囲まれていると感じている人は、多分ですが「モノ依存症的生活」である可能性が高いといえます。別の見方をすれば、週に2回出すゴミの量が、他の家庭の袋に比べパンパンに詰め込んでいるか、袋が複数になっている人もやはり「モノ依存症的生活」の傾向にあると想像されます。今の日本で、モノの少ない場所を探すのは実は大変な事でもあります。例外もあります。実際に出家した経験はありませんが、かなり以前に高野山などでの修行生活をテレビで見た記憶がありますが、そこの生活はほぼ理想的な「非モノ生活」と呼べるものでした。着ているものは作務衣だけ、自分の持ち物はと言えば俗世界から持ってきた小さなカバン一つだけ。毎日の生活で使うものはと言えば、共用の食器や掃除用具だけでした。修行僧の日常生活は、座禅と写経や読経だけですから、勿論生活する上でモノには殆ど用がありません。

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2007年5月 1日 (火)

310 接写と広角

撮影のテクニックに接写と広角と言うものがあります。鳥や虫や花は、接写や望遠レンズでクローズアップし、より繊細な写真やフィルムに仕上げます。一方、風景は広角レンズ、時には魚眼レンズを使って広い画角で撮影し、その広がりを表現します。写真家はこれらを上手く使い分けて良い映像を切り出しています。

同じ見方は、世の中の出来事一般、取り分け環境問題を取り上げる場合に非常に有効です。つまりは、経済で言えばミクロ経済とマクロ経済、環境で言えばミクロな環境と地球全体を視野に入れるマクロな環境とを考える訳です。地球規模からみれば、ある地域の環境問題、例えば公害などはミクロな問題です。ある国で多くの車を生産し、ガソリンをがぶ飲みする行動は、スモッグやオキシダント問題程度は引き起こしましたが、少し前まではこれは確かにミクロな環境問題でした。しかし、何億台もの車が、厚さ20kmにも満たない大気の層の中で日夜動き回るのは、いまやマクロの問題を惹起するまでになってしまいました。広い範囲の酸性雨や温暖化の問題です。

人間は、接写と広角の使い分けが全く苦手です。多くの人間は目先の事、つまりはミクロの問題しか目に入りません。酸性雨被害や温暖化によって間接的に引き起こされた広角の被害(例えば氷河の消滅や巨大なハリケーンや旱魃・豪雨被害)も直接自分の身に降りかからない限りは、他人事として考えて、すぐ忘れてしまうのです。広角レンズで視野を広げると言うことは、面積的な広がりばかりでなく時間的な広がりをも考える事を求められます。

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