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2007年6月30日 (土)

359 温暖化再考2

358の続きです。つまり、温暖化効果ガスは、我々全ての生物にとっては、まさに必要で不可欠なものではありますし、生物進化の歴史は、今の平均気温がほぼ理想的な範囲である事を語っています。しかし、その15℃に保たれていた気温がジリジリ上昇を始めています。過去100年に限ってみても、0.5℃は上昇したと言われています。では原因は、何かですが一義的には1)太陽光が強まっているか、2)あるいは温暖化効果ガスの濃度が上昇したか、3)あるいはその両方の相乗効果が疑われます。しかし、1)は何か納得できません。太陽のエネルギーは、数分で地球に到達しますから、太陽の活動が、たとえば100年かけてジワジワ強くなってきたという考え方を飲み込むにはどうしても抵抗があります。100%ではないにしても、産業革命以降の人間の活動が温暖化を加速していることは、まず間違い無いでしょう。

温暖化効果ガスとしては、しかし最も効果が大きいのは、実は雲を含めた水蒸気です。雲はその上部では太陽光を反射しますので、プラスマイナスがありますが、目に見えない水蒸気は赤外線を吸収し強力な温暖化を引き起こします。しかも、温暖化により水の蒸発は活発になりますので、温暖化は加速する事になります。大気中の水蒸気が多いという事は、結果としては急速に雲が発達し易い結果を招き、雨が降れば土砂降りになり易いため、水害も多発することにつながります。いずれにしても、温暖化はロクな結果を招かないようです。

繰り返しますが、温暖化の原因が何であるかの議論をしている時期ではありません。この事態に、既に人類として以下に知恵を集結するかをこそ議論する時に至っています。温暖化はしかし、ゆっくりしたスピードでしか進みませんから、その知恵を絞った結果は、将来世代でしか確認できません。浅知恵はかえって温暖化を悪化させますから、自然の営みをしっかり観察し、間違いの無い手を、それも一つではなく、可能な限りの多くの手を打つ必要があるでしょう。それらの対策は、間違いなく科学的・工業的な手法ではなく、林業や農業や毎日の生活での知恵を寄せ集めたものになるはずです。

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2007年6月29日 (金)

358 温暖化再考

温暖化のメカニズムをここで再度確認しておこうと思います。温暖化は、固体の地球の上に、液体の水や気体としての温暖化効果ガス(具体的には、水蒸気、CO2、メタン、N20、などなど)が存在するために発現します。もし、水や気体が全く無い裸の地球を想像するなら、地表の平均温度はマイナス18℃ほどに下がると試算されています。水は、熱を貯めておく蓄熱材として働きますから、日中(または夏に)暖められた海水が、夜間(あるいは冬)も穏やかに熱を放出し続けてくれるので直感的に分かり易いのですが、では気体はどのような働きを持っているのでしょうか。気体は、分子として大気の中に存在していますが、実際は非常に活発に動き回るブラウン運動をしています。一方、気体分子には分子に固有の吸収スペクトルという特性があります。即ち、ある気体分子は、ある波長の光(目に見えない紫外線や赤外線やマイクロ波も入ります)と共振し、運動を活発化させます。気体分子の活動の活発さ度合いを気温と定義していますので、つまりは気温も上昇する訳です。太陽光には、非常に広いバンドの波長を持つ光が含まれていますが、そのうちの波長の短い光(マイクロ波や紫外線)は、実は殆ど大気圏上層に存在するオゾン層を中心とした層で吸収されていましまいます。結果、我々生物は太陽光を浴びても、何とか生きていくことができるのです。(勿論オゾン層の破壊も深刻な環境問題です)

太陽光の内吸収されなかった波長の光は地上に到達しますが、海や陸や氷河は光をある程度反射しますので、かなりの割合で光はそのまま宇宙空間へ戻っていきます。しかし、吸収された光は、結果としては熱に変わります。絶対零度で無い限り物体は常にその表面から赤外線という形でエネルギーを放出しますので、たとえ物質の温度が上昇してもやがては冷えてしまうはずです。理論上冷え切ってしまう温度がマイナス18℃になると言われています。しかし、宇宙に向かって放出された赤外線の一部は、元の光に比べれば波長が変わってしまっているので、今度は大気中の温暖化効果ガスによって吸収され、気温を上昇させる事になります。その結果、現在の地表の平均気温が15℃程度に保たれているという訳です。続きます。

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2007年6月28日 (木)

357 貧乏の効用

環境カウンセラーを職業と定めて、確かに「立派な貧乏」になりました。考えてみれば、某重工で管理職をしていた時貰っていた1回のボーナスよりかなり低い年収で生活している計算です。しかも、いまだ(予定外の)スネカジリを約1名抱えていますので、ものすごく貧乏だと言っても良いかもしれません。勿論霞を食って生きていくわけにはいきませんので、お金も少しは必要です。この事態(つまり環境カウンセラーではメシは食えない)は会社を退職する時には既に予測していたので、退職金を「自分年金」にして蓄えておきました。ところで貯金の取り崩しと、自分年金はどう違うかですが、心構え以外は実は同じことです。しかし年金にすると、生活が計画的になります。少なくとも自分で決めた年金の範囲内で暮す工夫が必須です。結果がどうなったかですが、何しろ必要なモノ以外は買わなくなりましたし、レジャーや外食も殆どしなくなりました。それで何が楽しいかですが、実際のところ毎日の生活は、多分サラリーマン時代より100倍位楽しくなりました。何より、自分自身の義務感によって、自分で考え、自分の責任範囲で行動しているので、誰かに急き立てられているという感覚は全くありません。1月以降は、全くポカンとして過ごした休日は多分1日も無かったと思います。確かに休みは取っていませんが、しかし精神的には全くといって良いほどフリーなので、体がきついと感じたことはありません。

ここでの結論は、貧乏になればなるほど、生活が計画的になり、結果環境にもやさしい生活が送れそうだということです。その上、お金を稼いで、それを守ったり、増やしたりという余計な心配事からも開放されます。その意味では、スローライフだLOHASだとか格好よく呼ばないで、ずばり「貧乏生活のススメ」と呼んだ方が分かり易いでしょう。連れ合いには内緒にしていますが、もう少し貧乏生活を極めようと密かに目論んでいます。

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2007年6月27日 (水)

356 水ビジネスの予感2

日本でも、四国辺りで水不足が深刻です。投稿者も20-30代の10年間は香川県で暮しましたので、その深刻さは他人事ではなく理解できます。日本の水供給という面では、基本的には降雨に恵まれた気候帯に位置しており、南は夏場の降雨量、北は冬場の積雪量に恵まれているという状況にあります。従って、水がめであるダムのサイズは、それほど大きくなくても済んでいるというラッキーな国でもあります。しかしながら、このダムサイズの設計は、平均的な降雨、積雪量をベースにしていますので、その量が例えば例年の70%程度に落ち込んだだけでも、すぐに水不足騒ぎが巻き起こることになります。それが、60%、50%に落ち込もうものなら、ダムは完全に空っぽになり、給水車の発動という事態に陥るでしょう。

これは、如何に日本が「地表を流れ下る水」に依存しているかの証明でもあります。これを地下水に大きく依存している国々と比較すれば、確かに日本は水に恵まれているとは言えますが、短期間の旱魃や或いは地球温暖化による気候変動に伴う降雨量の変動には、すこぶる腰の弱い水事情とも言えるでしょう。一方、数年前に起こった水害も記憶に新しいところで、逆に降雨量が例年の2-30%増しになり、それが短い期間に集中すれば、直ちに各地で水害、山崩れが多発する事態に陥ります。必要な方策は、新しいダムの建設ではありません。役に立たないヒョロヒョロの針葉樹林を整理し、天然のダムであるブナなどの広葉樹林を増やす努力こそ必要です。広葉樹の葉が堆積してできたフカフカの林床は、1ヶ月以上全く雨が降らなくても、ジワジワと水を流し続けることが出来ます。一方、この林床から流れ出る水には、葉が分解して出来た多くのミネラルやフミン質、フルボ質が含まれていますので、この水が海に下ると豊かな海草の林を育み、漁場も豊かに甦るはずです。これも、実は形を変えた水ビジネスと言えるでしょう。

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2007年6月26日 (火)

355 すり替え

温暖化の議論においては、「真犯人は別に居る説」が何度でも繰り返されます。いわく、太陽活動の活発化論、いわく温暖化効果ガスとしての「水蒸気=雲」説、またいわく温暖化の結果として海水中から二酸化炭素が叩き出された説などなど。投稿者も何度でも繰り返しますが、二酸化炭素が温暖化の真犯人であれ、共犯者であれ、全く濡れ衣であれ、別に問題にする必要はないわけです。真の問題点は、殆ど唯一の化学原料であり、エネルギー源でもある「良質な資源としての石油や天然ガスの枯渇」であり、結果としての温暖化による気象の激甚化や大災害復旧に、果たして石油無しで太刀打ちできるかどうかと言う点なのです。炭酸ガスがクロではなく、明るいグレーやシロであったとして、ではこれまで通りに自由に大型車を乗り回しても、エアコンをブンブン回しても構わないのかどうかを考えなければなりません。二酸化炭素犯人説は、省エネルギーという方向には非常に都合が良い説なのですから、これを敢えてひっくり返そうとする説には例えそれが正しいものであっても、「環境屋」になった身としては断固意義を唱えます。何故なら、それらの説は「科学的に正しくても、環境的には間違っている」からです。(自分で言うのもなんですが、これは殆ど「環境原理主義者的発言」ですね。)

似たような例としては、科学的に正しい理論によって製造された核分裂装置が爆弾に化け、社会的には全く正しく使われなかった事が挙げられます。また社会的に必要と考えられてきた車が、その数が増え過ぎれば、逆に大気汚染による公害や交通事故などで人間に害を及ぼす刃(やいば)にもなる得ることもややこれに似ています。

投稿者は、「真犯人は別に居る説」によって、資源の枯渇問題が、温暖化の原因論や是非論ですり替えられる事を真に憂います。

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2007年6月25日 (月)

354 油・田

米からアルコールを作る取組みが広がりつつあります。これは実は人間様が飲むアルコールではなく、車様が飲む燃料用アルコールの話です。現在、狭い日本においては、広大と言ってよいほどの面積の休耕田がありますので、燃料用として、美味しくは無いが収量の多いハイブリッド米を育て、茎を含めて全てをアルコールに変えてしまおうという目論見です。

実際のところ投稿者としては、あまり気は進みませんが、フランスやブラジルから大量の燃料量アルコールを輸入すると言う今の政策に比べれば数段マシな行動とは言えるでしょう。何しろ、休耕田は雑草以外の何者も生み出しませんが、米さえ作り続けていればいざと言うときには、それを食糧に回すことが可能です。それに、現在水田である土地の多くは、元々低湿地であるため水はけが悪く、米以外の作物への転作は、結局上手くいかない場合も多いからです。ささやかでも、国産の液体燃料が手に入るという事は、エネルギーの安全保障から見ても、焼け石に少しの水程度ですが、全く無いよりはずいぶん心強いものですう。田んぼが燃料油を生み出すのでまさに「油・田」というわけです。これを真似して、例えばヒマなゴルフ場は、燃料用作物でも作る場所に変えてしまうのも良いかもしれません。実際にヨーロッパでは、バイオマスで発電して売ると、びっくりするほどの補助金が載るので、豊作で作物市場の価格が下落した場合、農家は作物を潰してタンクに放り込み、メタン発酵させた上でガスエンジンを回して「発電所」に早変わりします。S食べる事が出来る作物を電気に変えるには少し抵抗がありますが、それでも、キャベツやニンジンなどの市場価格が下がった時は、いきなりトラクターで踏み潰してしまうどこかの国の農家に比べれば、少なくとも太陽の恵みを有効利用しようと努力するマシな仕組みではあります。

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2007年6月24日 (日)

353 2つのサイクル

現在行われている地球上の活動には大きく分けて2つのサイクルがあります。人工的サイクルと自然のサイクルです。正確には前者は、サイクルとして完全には閉じてはいないので擬似サイクルでしかありませんが、一応サイクルと呼んでおきましょう。さて、投稿者が常に問題にし、思索を巡らしているのは勿論「問題児」である前者ですが、一方で人工的サイクルによって自然のサイクルが乱される事も同じ程度に憂いています。その例は、多くありますが直接的には人間が流した毒によって生物が死滅すること、間接的には温暖化によって生物相が大きく変わったり、絶滅種が出たりすることや環境ホルモンによって、生物の生殖が影響を受けたりすることなどが挙げられます。

この2つのサイクルの動力源は全く異なります。人工的サイクルを動かすエネルギーは、地下から掘り出された燃料である石炭、石油、天然ガス、原子力です。一方の自然サイクルの原動力はたった1種類、つまり太陽光だけです。前者の燃料は、どれも使用後に廃棄物を出します。つまり、石炭灰や二酸化炭素や硫黄酸化物や窒素酸化物或いは放射性廃棄物などです。しかし後者は一切の廃棄物を出さない真にクリーンなエネルギー源です。

また人工サイクルでは、多くの物資収支のバランスが取れていないので、多くの地下資源を採取し、精製して消費し、最後には廃棄物処理場に廃棄するという、確固たる一方通行のものの流れが出来上がっています。他方、自然サイクルでは、一切の物質が完全なサイクルを形作っています。何しろ、殆どの植物はありふれた材料である炭素、水素、窒素、酸素と微量のミネラルで、動物では加えて骨格となるカルシウムやリンなどで出来上がっていますので、死んだ後も物質は完全にリサイクルされます。自然には、その為の完全な物質分解者(スカベンジャー)の仕組みが出来上がっています。

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2007年6月23日 (土)

352 形を変える癖

人類は、種に特有の「癖」を持っています。それはものの形を変えたがる癖です。例えばサルも道具を用いますが、しかし彼らは、石は石として木の実を割るのに用いるだけです。しかし、ヒトは手ごろな石を打ち欠いて刃をつけてナイフとして獣の皮を剥ぐのに用い、或いはそれを手ごろな枝をくくりつけて斧に作り変えます。しかし天然の鉱物を発見して青銅を作り、砂鉄を溶かして鋼で鉄器を作り、ドロドロの原油からサラサラの石油を絞り出す事を発見して以降、その癖は留まるところを知らないくらい「悪化」しました。それは最早癖というよりは、殆ど悪癖あるいは病的状態であると言っても良いかもしれません。

人間はいまや、天然自然のものをそのまま使い、或いは口にする事は殆どないでしょう。必ず一度「工場」を通過させ、何らかの「加工」を加えます。その加工が、単なる包装や梱包である場合もありますが、いずれにしても加工します。例えば、ありふれたリンゴでさえ、農家は沢山の化学肥料や農薬を使って育て、人工授粉や摘果を行い、袋をかけ、採果後も大きさや糖度別に選別し、ワックスをかけて磨き、緩衝材に包んでダンボールに詰め、或いは冷蔵倉庫に保管し、最後はトラックを使って輸送し、スーパーでビニールの袋に詰めてから売られて、やっと私達の口に入ります。しかも殆どの家庭では、ご丁寧にもナイフで皮を剥き、8つに切り分け、芯をくり抜くと言う「加工」が行われる事でしょう。もっとひどい場合には、8つに切った後で、ジューサーなる恐ろしい機械に投げ込み、全く形を無くしてしまうという「リンゴに対する暴挙?」すら平気で行われています。木から太陽の光をたっぷり浴びた、無農薬の果物をプツンと摘んでガブッとかぶりつく状態に比べれば、リンゴの例ひとつを取っても、如何に人間が「形を変える病気」に陥っているかが明らかでしょう。間違いなくこの病気は、かなりの重症です。これは、日本で言えば戦後に欧米(特に米)から伝染した、悪性の伝染病である事は間違いないところです。

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2007年6月22日 (金)

351 戦略より価値観

6月1日付けで、政府から「21世紀環境立国戦略」が提出されました。AB首相がサミットで話した内容を裏付けるべく急遽作られたか、或いは首相が事前に密かに集めたメンバーからなる諮問会議でまとめたものかは定かではありませんが、訴えかけるもの(具体策)に欠ける「玉虫色」の内容ではあります。戦略と銘打つからには、世界の中で日本が担うべき責任やそれを果たすための、具体的な道筋が示されていなければなりません。少なくとも、産業界や国民生活にどのように目標を落とし込むかを論じない限り、「CO2半減を目指して頑張りましょう」と言う掛け声に過ぎないものとなり下がります。これまでにも多くの国家戦略が、時々のトップの思惑で作られてはゴミ箱に捨て去られてきましたが、国際社会で大見得を切った限りにおいては、今回の戦略には裏づけを行って欲しいものです。

投稿者は、しかしいくら優れた国家戦略を立てたとしてもCO2半減は達成できないと見ています。それは、蛇口を全開にしておきながら、容器から溢れないようにバケツでボチボチくみ出す事にも似ています。蛇口から出る水とは、今の社会では石油エネルギーや地下資源の消費を指し、バケツでのくみ出しとは、ささやかな省エネルギー・省資源の取り組みを指します。50%の削減は、なまじっかな戦略程度では全く歯が立ちません。それよりは、国民全部の価値観を変える方が先決で、しかも効果が長続きします。最も簡単で効果のある方法は、今から全ての義務教育のカリキュラムの中に環境教育を織り込むことです。現在より50%環境負荷を下げた生活とは、具体的にはどのようなもので、どうしたらそれを実現できるかを子供たちに徹底的に教え込む事です。先生としては、貧しい時代を経験し、勿体無いという感覚をしっかりと身に付けているお年寄りに登場願う必要があります。大量に退役する団塊世代にも是非活躍をお願いしたいものです。このような教育を20-30年も続ければ、間違いなく「新たな勿体無い世代」が誕生し上記の「戦略っぽいもの」の目標も確実にクリアできるはずです。

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2007年6月21日 (木)

350 日本の位置づけ

国際社会における日本の位置づけには、多くの側面が考えられます。政治的なもの、経済的なもの文化・社会的なもの、地理・資源的なものなどが考えられますが、このブログではやはり環境的側面で見ることとなります。環境的な側面と一口に言っても、そこにもいくつかの切り口があります。環境負荷、資源・エネルギー、廃棄物、温暖化、環境面での国際貢献、環境経済的見方、自然環境の保全などなど、細かく挙げればきりが無いほどです。

ここでは資源・エネルギーの側面を特に見ておきましょう。日本は資源小国ですが、幸いにも戦後朝鮮戦争やベトナム戦争といった、国際紛争の特需にも乗り、長年に亘り非常に高い経済成長率を達成しながら、「資源やエネルギーを札束で買える国」に成り上がりました。しかし全ての成長状態は、必ずいつかは飽和状態に達します。もし成長が止まらなければ、それは「ガン」と同じ状態なので、危険でもあります。その意味で国際的緊張が緩和した90年代に、日本の経済が急減速した理由は、国内バブルの崩壊だけではなかったはずです。しかしながら、曲がりなりにもバブル崩壊後の停滞くぐりぬけ、一息ついたのも束の間、BRICS、取り分け中国の追い上げにより、資源やエネルギーを買う経済力も脅かされる時代にいたりました。日本は、今後一体何を作ってそれを売り、資源やエネルギーや食糧を買うのでしょうか。車?工作機械?家電?IT?それとも鉄鋼?。投稿者の感じでは、多分いまの牽引車である車産業が、環境問題か石油不足が引き金になって息切れした途端、日本経済は回復見込みのない重病に陥ると見ています。

いずれにしても大型の車に、たった一人だけ乗り、幹線道路を使って通勤している車の列や高速道路を数珠繋ぎになって疾走する大型トラックのコンボイを見るたび、この繁栄がいつまで続くのか、とつい考え込んでしまいます。

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2007年6月20日 (水)

349 虫の戦略

以前植物の戦略について書いたので、今回は昆虫の戦略を考えて見ます。昆虫は当然の事として、植物や動物に100%依存して暮らしています。勿論、まだ分類もされてない昆虫も数多い事ですから、何にも頼らず岩の汁を吸っている?「独立独歩」の昆虫も存在するかもしれませんが、ここでは日常良く目にする昆虫に注目してみます。良く見る昆虫とは、蜂やクワガタやトンボや蝶や蚊やムカデやノミやアリやゴキブリやダニ(流石にこれは良く見えませんね)の様なありふれた種類のことです。

これらの昆虫は主として食糧や棲家を、植物や大型の動物に依存している場合が多いようです。たとえば、ミツバチや蝶はその食糧を花の蜜に求めますし、カブトムシやクワガタはそれをクヌギなどの甘い樹液に求めます。アリは他の生きた昆虫や死骸やなどに食糧を求めますし、ノミや蚊は、人間や動物の生き血が無ければ繁殖できません。

しかし、昆虫は宿主に全てを求めるだけではありません。たとえばアリは、植物の樹液を吸って弱らせるアブラムシなどを、植物の枝で持ち構えてブロックしてくれますし、蝶やミツバチは良く知られているように、植物の受粉に大いに貢献しています。一見、単に宿主に害だけ与えているように見える昆虫でも、実は何らかの形で宿主に恩返しをしている場合が殆どであると言えるでしょう。もし、全くの一方通行の利益(片利)であるならば、宿主は強力な虫除け物質を分泌して、その昆虫を遠ざける事でしょう。植物は、長い進化の歴史の中でそのくらいの力は十分蓄えているはずなのです。つまりは、殆どの昆虫は宿主との共生(相利)関係を作り出し、宿主に養ってもらう戦略をとっていると思われます。環境問題とは、人間が環境から一方的に利益を奪い取る片利状態になっていることから生じています。人間が生きていくことによって、何らかの利益が自然界に還元できるような仕組みが必須です。少なくとも、産業革命の以前の伝統的な社会では、そのような関係がかなりの程度は確立されていたはずです。

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2007年6月19日 (火)

348 ブーメランの法則

ブーメランは、オーストラリアの原住民の発明品です。ここではブーメランそのものに関するウンチクを傾けるつもりはなく、「ブーメラン現象」について書く事にします。ブーメラン現象は既に幾つかの格言や言い回しにも引用されています。いわく「因果応報」、「自分で蒔いた種」、「天に唾する・・・」、「しっぺ返し」などなど、多分その普遍性は洋の東西を問わないでしょう。言葉を換えて言えば、ある行動が、幾つかの「変化の連鎖」を経て、行動を起こしたものに還ってくることを指しますが、環境問題がまさにその典型であると言えます。何故なら、人間の活動の全ては、閉じた系としての地球上で行われているので、活動の一つひとつが、結果として地球上で起こる現象に何らかの影響を与えずには置かないからです。良く引き合いに出される例としては、北京での1匹の蝶の羽ばたきが、ニューヨークで嵐を引き起こすと言う表現があります。地球の大気は全てつながっていますので、羽ばたきが微風を引き起こし、微風がそよ風を、そよ風が強風を、強風が巨大なハリケーンを結果しても不思議は無いでしょう。事実、現在の気象予報に使われているコンピュータには、離散化された20kmのメッシュ(網目)を元に、膨大な連立気象方程式を走らせるプログラムを入れておき、ある日の気象を初期値として入力して将来の天気を計算・予測しています。20km間隔のメッシュの交点は、相互に周りの点の天候に影響を及ぼし合う、作用点群であるわけです。いずれにしても今地上で起こっている現象が、先の北京の蝶の例で言えば、強風程度なのか或いは嵐の直前なのかを十分吟味してみる必要があります。

経済現象にも、実は殆ど同じ様なブーメラン現象が見られます。上海で始まった株価の下落が、下落の幅を増幅しながら24時間で地球を一周するような現象がその典型です。株のトレーダは天気予報でいう離散化された点というわけです。現在の世界の経済はコンピュータで動いているにしても、そのプログラムは間違いを犯す人間よって作られ、最終的に判断するのも生身の人間ですから、このブーメランの法則からは逃れようがありません。

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2007年6月18日 (月)

347 デジ/アナ

これは勿論デジタル放送のアナウンサーのことではありません。ここではデジタルとアナログの対比を考えてみようと言うわけです。コンピュータ時代・デジタル時代と言われて久しいのですが、生命現象も含め自然界の中には、実はデジタルなものは殆ど存在しません。殆どと書いたのは、自分ではまだ例外的な「デジタル生命」を確認していないからです。想像するにそのデジタル生命体は、全く何も無い状態「0」から突然、存在する状態「1」になるはずです。ですから、何も無い状態では、そこに生命があるかどうかさえも見えないので確認しようもありませんし、もし見慣れない生命体を発見したとしても、果たしてその生命は「0」の状態から突然生まれてきたのか、それとも元々そこに存在したのか、誰も証明も出来ないでしょう。もし幸運にも「0」から「1」になる過程が観察できたとして、その途中の過程が例えば「0.5」という状態を通過するならば、その瞬間にデジタル生命ではなくなる訳です。

デジタル生命は、なにやら訳の分からない結論になりそうなので、これくらいにしてアナログの話に戻ることにしますが、自然現象のアナログ性で重要な事は、しかしながらアナログとはいえども、必ずしも完全に連続である事を意味しない点です。例えば、アナログは生命現象でも不連続な突然変異が生ずる事があるからです。DNA上の非常に微細な変異(キズやズレや複製ミス)が、結果としてみれば殆ど突然に類人猿をヒトに作り変えたのでした。少なくとも、サルからヒトへ進化する過程の連続した化石は見つかっていません。さて、環境問題にも不連続な変化が生ずるのでしょうか。本来は穏やかであるはずの自然環境が、ある日突然人類に牙を剥き出す日が来ないとは限りません。環境変化では急激な変化に先立つ兆しに注目していく必要があります。アナログ現象である限りにおいては、大きな変化の前には必ず何らかの「前兆」が現れるものでしょうから。

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2007年6月17日 (日)

346 休題(遊び)

投稿者はどちらかと言えば体を動かして遊ぶのが好き、でした。テニスは、腰を痛めるまでは生甲斐そのものでした。四国で海の近くに住んでいた時は、海釣りやセーリングにも熱中しました。中学時代に初めて自転車を買ってもらって以降、サイクリングでは殆ど日本中を旅しました。中年以降は、腰痛予防で始めたジョギングでしたがフルマラソンを走るまでのめり込み、団体の富士登山に何気なく参加した結果が、今につながる「登山病」の始まりでした。日本ではしませんがアメリカに駐在していた時には、流石に休日にする事がなかったので仕方なくゴルフを始め、加えてカヌーを買ってアパートの前の小さな湖でカヌーイングを始める始末でした。

人間は遊ぶ動物です。類人猿や哺乳動物の一部も見かけは遊んでいるようにも見えますが、人間ほどではありません。何しろ人間の一部(と言うよりかなり多くの人たち)は、実は遊ぶために働いているのですから。それは、休日は勿論、平日でも遊技場や競輪場や競艇場に入り浸る多くの人たちを見れば納得できるでしょう。

しかしサラリーマンを辞めて「ほぼ」自由業になった今、何故か遊びたいと言う気持ちが消えて無くなったような気がします。その訳を考えて見るに、多分遊びとは仕事などのストレスを消化するための、バランス行動の様な気がしています。ストレスが強いほど遊ぶ欲求も強まるものなのでしょう。しかし、今自分が思う仕事(連れ合いに言わせれば、お金を稼いではいないので、仕事ではなく趣味だそうです)を、自分の意思で行っているためか殆どストレスとは無縁となり、遊びたいという気持ちが起こらないのです。土曜日や日曜日も自分の事務所にこもって、ボランティアで出かける小学校の出前授業の準備をしたりするのが、たまらなく楽しいのです。世間的に見れば確かに少し変かも知れません。しかしこのブログへの毎日の書き込みさえも、実は非常に楽しい日課でもあるのです。

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2007年6月16日 (土)

345 水ビジネスの予感

環境問題の中で最大のものは、実は水問題だと以前に書きました。その思いは、M・ド・ヴィリエの「WATER」を参照するまでもなく、最近ますます強くなってきています。その前兆は、バイオエタノールの需要急増により、オレンジやトウモロコシの価格が急激に上昇している事があります。それと水問題がどう関わるかですが、食糧やアルコールの原料になる穀物やサトウキビの栽培には、大量の水が必要です。トウモロコシやサトウキビのように広い葉をもつ植物は、実は小麦など乾燥に強い植物に比べ、ざっと倍の水を必要とします。1トンの乾燥穀物を作るのに、トウモロコシではなんと2000トン以上の水を必要としていると言われています。

石油は油田主によって所有されていますが、水には基本的に所有者はいません。しかしながら、昔から水争いがありましたし、それを上手く切り抜けるための水利権の設定も行われてきました。一方、現代の農業では、規制の緩い地下水源に多くを依存する、持続可能性の低い水の使い方をしている地域が多いのです。アメリカ中西部がそうですし、インドもそうです、中国も大河がひどく汚染され水量も細る共に、地下水源に頼る割合が増えるはずです。地下水といっても、結局は補給がされない限りは、やがては枯渇してしまうものです。実際、地下水の補給が殆ど無いアメリカ中西部では、太古の昔に地下深く溜まっていた水(化石水)が大量に使われた結果、地下水位がドンドン低下しています。既に枯渇した井戸も現れています。

つまり、今はオイルビジネスやアグリビジネスが国際市場を握っていますが、やがては「水ビジネス」が市場を牛耳ることになると予想されます。しかし、いくら広大な土地があっても、地下深く掘っても出なくなった水を今後どのように確保するのか、残念ながら今は殆ど誰も真面目な答えを考えていないように見えます。しかし、石油の枯渇や温暖化の激化の前に、水飢饉は確実にやってきます。水なくしては、食料不足による飢饉が加速されるでしょうし、ましてや穀物やサトウキビから燃料を作っている場合ではなくなるはずです。水ビジネスを誰が、どのような形で握る事になるのか、一応水には恵まれていると言われノウテンキに暮らしている日本人も少しは真面目に考えてみる必要がありそうです。

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2007年6月15日 (金)

344 戦後体質

毎日霞ヶ関の官庁街を歩いて通勤していると、地下鉄の入り口(出口?)から吐き出され、或いは吸い込まれていく、信じられないくらいの数の公務員に圧倒されます。公務員の数は、想像するに国家予算の額に正しく比例して膨らんできたはずです。この仕掛けは、戦後の高度成長期を演出した、大蔵や通産や国土や運輸などの省庁が総力を挙げて作り、維持してきた戦後の仕組みです。カラクリは簡単で、お金を「各種税金」と言う形で中央に集め、財政や補助金という形で産業や地方を誘導し、センセイ方の集票も考えつつバラ撒く仕組みに他なりません。また知恵の回る彼らは、外郭団体(~財団など)もしっかり増殖させ、自分自身の受け皿も仕組みました。これを戦後体質(あるいは日本株式会社とも揶揄されますが)と名づけるならば、21世紀はこの仕組みから脱却する方策を見つけなければならない時代のはずなのですが、実際問題として戦後の仕組みを作り上げた彼ら自身が、その変化に強烈に抗っていると想像されます。何故か。オヤクニンはそれを温存する遺伝子を、その仕組みの中に巧妙に組み込んでいるからです。例えば前年度実績を元に予算を立て、それをビタ1円残さないで消化し、その正確さによって行政マンの評価が決まる仕組みそのものが、変化を許さないシステムそのものであると断言できます。

勿論、オヤクニンそのものには別に個人的な恩も恨みももっていませんので、以上は非常に控えめで中立的なコメントです。しかしながら、今や私たちの社会システムは、変わらなければならない時期に差し掛かっているのも事実です。この様な時代にあっては、来年は去年や今年の延長線上にはなく、むしろ10年後50年後の社会はどうあるべきかのビジョンを真剣に議論し、その青写真をゼロから引いてみると言う決意こそが必要なはずです。既得権にしがみつき、裏金を作り、年金の甘い汁を吸い、天下って安穏な退職後の生活のみしか考えない低レベルの公務員モラルに国会議論の大半を使っている暇はないはずです。もっともそれを行っているセンセイ方も、実は選挙や自分自身の保身しか考えていないともいえそうですが。官庁や国会もしてくれないとしたら、「この国の将来像のプロット」は一体誰が、どの様な形で議論すべきなのでしょうか。投稿者の結論は、私達個々人と人との草の根ネットワークしかないと言うものです。

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2007年6月14日 (木)

343 都会の狭さ

研修で10日ほど都心のホテルに滞在しました。値段で決めたら、宿は神田駅近くのビジネスホテルになりましたが、研修場所は虎ノ門の少し南でしたので、最初は地下鉄で通おうと考えていました。しかし、研修初日は午後の開始でしたし、前泊したこともあって初日の時間はたっぷりありました。そこで、ブラブラ歩いて行くことにしました。多分5kmくらいの距離だったと思うので1時間弱で到着しました。結構早く行けたので、帰りも翌日以降も歩き通勤にすることにしました。朝7時半ころ神田からスタートし、皇居外苑を通り、桜田門から霞ヶ関の官庁街を抜ければ、間もなく虎ノ門です。道に慣れて早足で歩くと40分ほどで行けることが分かったので、これは結構毎日の通勤でも苦にならない距離だとも思いました。

土日を挟んでの研修でしたので、休日も徹底的に歩きました。神田から蔵前、浅草、両国辺りまで歩き、秋葉原を回って帰ってくると2万歩以上は歩くことになります。しかし、考えてみれば山手線の内側でも、短径では10kmも無いわけで、しっかり歩けば2時間強で東京から新宿まで歩けてしまいます。この狭さの中に信じられないくらい多くの高層の建物があり人がひしめいて居る訳ですから、なにも車やタクシーや地下鉄を使わなくても、地上の電車とレンタサイクルと歩きを併用すれば、ラッシュの無いかなり快適な通勤生活が送れるはずです。勿論雨の日もあるので、出来れば幹線道路の沿いの広い歩道には簡単な屋根でも掛けておけば、更に便利になるでしょう。網の目のように地下鉄のトンネルを掘ることに比べれば、お金持ちの東京都にとって、歩道上の簡単な屋根など殆どタダみたいな投資額で設置可能でしょう。

僅かな通勤の労を惜しむために、費やされた天文学的な額のインフラ投資とそれを毎日動かすために膨大なエネルギーを使っている事を考えれば、都会のサラリーマン諸氏は、是非自分の足をもっともっと使うべきでしょう。結果メタボ症候群もなりを潜めることにもつながります。

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2007年6月13日 (水)

342 運ぶ文明

脳みそが「特許漬け」になって帰ってきました。勿論いくら特許法や制度を勉強したところで、それで特許が取れるようなアイデアがドンドン湧く様になったわけではありません。

さて、いまの文明の最も際立った特徴は「運ぶこと」ではないでしょうか。文明の発達に伴って、例えば中国の宋の時代には、既に数十メートル規模の帆船が建造され、かなり遠くの国々とも交易していたようです。(間もなく、中国でその時代の帆船がほぼ原型のまま黄海の海底から引き上げられるようですが)

勿論、蒸気船が作られタイタニック号の様な超大型船も作られ、更に石油を燃料とする現在の船が作られるや、交易の量は飛躍的に増大しました。今や、日用品や生鮮食料品に至るまで、「よその国」で作られ、コンテナ船やひどい場合には航空機まで使って交易されています。何しろ、国のトップから地場の企業まで、国際交易を盛んにして経済規模を拡大することが良いことだと叫んでいる時代のことですから、運ぶことには全く歯止めが掛かっていません。幾度か書いたかも知れませんが、運ぶ事でそのものの本質には変わりがありません。いくら遠くから運んできても冷凍野菜はただの野菜で、冷凍マグロはやはりただのマグロに過ぎません。電化製品が、運ぶ途中で性能が突然良くなるわけでもありません。変わるのは、運ぶモノに付けられた値段だけです。中国ではただ同然の農薬まみれの野菜が、冷凍庫で凍らされ、箱に詰められ、コンテナに詰められて数日海を揺られ港に着きます。更に、トラックで問屋の倉庫に入り、地域別に仕分けされて更にトラックに揺られる内に百数十円の値段が付けられ、日本のスーパーの陳列棚に並ぶことになります。

この間消費されたのは、それを加工し運ぶための多量のエネルギーであり、そのコストと流通マージンが上乗せされたものを消費者は買わされています。これを自分の家の庭やプランターで育てた野菜や、近所の農家の無人販売で100円出して買った野菜の場合と比べてみれば、如何に私達が「運ぶ文明」にどっぷり漬かっているかが良~く分かるはずです。

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2007年6月 1日 (金)

341 アメとムチ

環境問題を比較的効果的に軽減する方法としては、環境に優しい者へのインセンティブと、逆に厳しく当たる者へのペナルティの両方の制度を設けることです。どちらか一方では効果は限定的になります。

前者の例としては、補助金があります。家の屋根に太陽光発電のパネルを載せることへの助成、或いは省エネルギー型の家電や設備や車の導入の消費税の軽減、或いは努力して昨年より省エネや省資源に努めた企業に対する法人税の軽減などが考えられます。バイオマスなど自然エネルギーへの転換などもその対象になりますから、これらの燃料には補助金を載せて安目に誘導します。目の前にニンジンをぶら下げられれば、馬は張り切って走りますので、効果は目に見えて上がるでしょう。

一方ペナルティも重要です。その典型は課税です。排気量4リッターの4輪駆動車への環境税は、目の玉が飛び出る程度には上げるべきでしょう。上に上げたインセンティブの費用を捻出するためには、化石燃料に掛けられている税金を、環境目的税分だけ上げるか、または道路目的税の一部を環境税化すべきです。明らかに環境破壊につながる行為に対する罰金も有効です。企業の売上高や消費者の耐久消費財の購買高はほぼ環境負荷に比例しますので、薄く広く環境税として網掛けをすべきでしょう。環境税は、ペナルティの意味合いは勿論ありますが、大きくは生産や消費の抑制力として位置づけ、実際にも環境負荷が下がるレベルまで、段階的に税額や課税範囲を調整する仕組みとすることが必要です。

さて、特許の知識を得るための「缶詰講習」などのため、明日6/2日から6/12までは長野経由東京に出かけるので本ブログは一時休止です。その間、昨年8月からの古い投稿も是非溯って読んで見てください。

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