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2007年7月31日 (火)

389 人力自動車

人力自動車とは、つまりは「自転車」の事です。自分で動かすのも、自分で転がすのも、自分の筋肉を使うことは同じです。さて自転車にのめりこんだ時期があった事はすでに書きましたが、最近再度この自転車に注目しています。きっかけは、長野県に住む発明家の存在をラジオで聞いたことです。その人は、旅行中の飛行機の中で、新たな折りたたみ自転車の着想を得ましたが、後日その特許を取得し、結局勤めていた電気関係の会社を早期退職して、自分が考案した折りたたみ自転車を商品化する会社を興しました。これはなかなかの優れものです。何しろ、折りたたんだ状態では、ハンドルを持ってプルカートの様に荷物を積んで引くことができます。今までのものでは、たぶん布の袋に入れて肩から担ぐか、あるいは車のトランクに入れて運ぶことくらいしかできなかったのです。下記URLで写真を見ることが出来ます。

http://8149.net/mc-1/

投稿者自身もかつていくつかのパターンの新しい自転車を考案しました。たとえば、足けりスクータの車輪径を多少大きくして、凸凹のある歩道でもストレス無く走れて、かつ折りたたみ式にしたもの、あるいは前後輪同時駆動の自転車(2WD自転車)、更には車輪径を極端に小さくした超軽量化自転車などです。ところが最近、最後のコンセプトの自転車が実際に作られて発売もされていることに気がつきました(商品名:エクスウォーカーやA-Rideなど)。どうやら人間が思いつく事は、結局は似通ってくるようです。いずれにしても、自転車を簡単に持ち歩けるサイズにまで小さく出来れば、電車との組み合わせで、通勤や旅行などが快適になるはずです。問題は雨の日ですが、これは見た目も格好の良いレインハットと、通気性があり携帯も出来る合羽(あるいはポンチョ)があれば問題ないでしょう。その他のコンセプトの自転車も、毎日が日曜日と言う身分になった暁には、是非自分でも作ってみようとは目論んでいます。

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2007年7月30日 (月)

388 CO2固定批判

二酸化炭素を深い岩盤や海底の地殻に注入してしまおうという「荒っぽい議論」が盛んです。大気中に存在する二酸化炭素濃度の上昇が、温暖化の原因だとされている訳ですから、とりあえずこれを圧縮・液化して地下奥深くに封入してしまえば、目先の問題は解決できるだろうという単純な考えです。実際、ヨーロッパではかなりの規模で実験が行われていますし、日本でもRITEあたりで盛んに研究がなされているようです。しかし、問題の根本である化石燃料の燃焼による炭酸ガスの排出を野放しにしておいて、出してしまったものを固定するなどと考えるのは、考えが逆で、しかもどだい無理な相談です。発電所からまさに排出されつつある排ガス中の炭酸ガスを捕らえることは、比較的容易でしょうが、すでに大気中に拡散してしまったガスを捕捉する事は、事実上不可能です。それでも、この議論や研究が一向に止まらない理由が、投稿者には全く理解できません。ましてや、空気中から二酸化炭素を分離して液化し、地中深く送り込むために要する、膨大なエネルギーをどの様に賄うかが全く示されていません。炭酸ガスを固定するために石油や天然ガスを燃やすことはできませんから、たぶん原子力でも使うと考えられていることでしょう。

くどいようですが、排出源をそのままにして、出口側で何とかしようと考えるのは、ナンセンス以外の何者でもありません。「臭いものは元から絶つ」必要があるのです。CO2フリーの技術(つまりは太陽光の利用や動力を使わない手仕事のような素朴な技術の事です)を志向していく必要があります。そのためには、今の技術とは逆の方向、つまりは自動化を抑制し、大量見込み生産から受注生産に切り替え、太陽光を最大限活用しながら地域に密着した小規模な工場で生産し、輸送のためのエネルギーを抑えれば、黙っていても二酸化炭素の排出は抑制されるはずです。

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2007年7月29日 (日)

387 時間遅れ

環境における現象の発現には長い時間が必要な場合が殆どです。理由としては、環境のマス(容量)が非常に大きい事が挙げられます。たとえば海水は14億立方km程度(一辺が1kmの升で14億杯分)、一方大気としては、重量で言えば海水の1/300程度と見積もられています。また、特に水に関して言えば、あらゆる物資のなかで比熱が最大であるため、温まりにくく冷めにくくなっており、結果地球表面の温度変化も最低限に抑えられています。この膨大な量の物質に働きかけるに当たっては、大気では組成の0.04%にも満たない二酸化炭素をたった1.5倍に増やすのでさえ、人類は200年も掛かってしまいました。

しかし逆に言えばこの量の大きさが問題なのです。季節変化は、地球全体としてみれば非常に小さい変化ですが、それでも夏至の日(太陽光がもっとも真上から照る日)と最も暑い時期(たとえば8月上旬)では、1ヶ月以上のずれが生じています。一方、もっと大きな変化(たとえば二酸化炭素の濃度)が地球の気候に及ぼす変化を考えるならば、たぶん数十年程度の時間遅れが出ても不思議は無い訳です。これは、車でブレーキを踏んでから実際に止まるまでに、数十メートルも走ってしまうのに似ています。つまり、現在問題となっている温暖化傾向は、実は過去において排出された二酸化炭素の影響が、数十年遅れで影響が現われたものであるとも考えられるのです。結局、たった今ブレーキを踏んだとしても、その抑制効果が現われるまでには、1世代に相当する程度の時間は必要であるという事にもなります。既に影響が現れている温暖化については、その防止の対策が急がれるゆえんです。しかし、今温暖化防止の急ブレーキを踏んでも、効果は現れるまでには、今後数十年間は温暖化の傾向が続くということです。ましてや、今手を打たなければ、この世紀を通じて最悪のシナリオで環境の悪化が続くと言う結果を招きます。

一方で、私達は、オゾン層破壊の一つの原因となっている、フロンガスの削減で1980年代末に急ブレーキを踏みましたが、少しずつですがその効果が現れ始めている事は、やや明るい事実ではなります。とは言いながら、オゾンそのものは強力な温暖化効果ガスですから、環境問題の根はそんなに単純ではありません。

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2007年7月28日 (土)

386 思いやり主義

AB首相は、日本の環境技術で、2050年までに温暖化効果ガス排出を50%削減できると主張しています。しかし、環境技術はそもそもローカルな汚染を減少させるための技術でしかなかったのですから、温暖化防止のためには「省エネルギー」技術を用いることになります。とは言いながら、「節約」には限度があります。必死に頑張れば、10%か20%は何とか削減可能でしょう。逆に言えば、そこが技術の限界です。いくらT社の技術者が束になって逆立ちして頑張っても、今と同じ快適さを維持しながら、今の半分の資源やエネルギーで走る車は作れません。造船技術者や海運会社がいくら頑張っても、今の半分の燃料で、同じ量の輸入貨物を運ぶ事もできません。トラック輸送も然りです。技術屋であった投稿者は、絶対の自信をもって、「技術で温暖化は止まらない」と断言します。

繰り返しますが、温暖化を止めることが出来るのは、結局は生活スタイルの見直ししかないのです。AB首相の言う様に、今以上の経済成長により、確かに「我々世代の生活はより豊かにはなる」でしょうが、それと引き換えに「将来世代の生活は逆により一層厳しいもの」に陥らせます。何しろ、経済の加速のためには、より以上の資源・エネルギーの消費を伴うので、将来世代の分け前を先に食ってしまうという事になります。必要な事は、成長による豊かさの増長ではなく、知恵を使った分け合いによる、底上げだと思われます。

これは、決して共産主義や社会主義などのイデオロギーの問題ではないのです。敢えてこれに名前を無理につけるなら「環境保全主義」あるいは「思いやり主義」でしょうか。これは非常にシンプルな考え方で、つまりは将来世代にも、今と同等以上の環境を残す事こそが、我々いま生きている世代の責務であるという主張に過ぎません。将来世代や恵まれていない同世代人への分け前を思いやる事が、その主義の根底になければなりません。更に言えば、その思いやりの半分くらいを自然環境の保全に向けてやる必要もあります。

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2007年7月27日 (金)

385 熱を「見る」

熱を目で見ることは出来ません。何故なら、熱の元?は分子の運動そのものだからです。分子が活発に動いている状態が、熱エネルギーレベルの高い状態にあり、温度も高いということになります。さて、それでも熱を目で見てみたいとも思います。それが出来れば、熱の漏れ具合を確認できるからです。熱は、あらゆるところから入り込みまたは逃げ出します。それを防ぐために、家の壁の中には断熱材が詰め込まれています。温暖地域では100mmくらい、寒冷地域では150mmが目安です。それでも、熱は例えば赤外線(や遠赤外線)となって、窓から侵入したり、逆に逃げ出したりします。

熱を目で見る方法として「サーモグラフィー」という道具があります。これを使えば、画像として熱を見ることが可能となります。目で見て何が分かるかですが、例えば機械の良し悪しが一目瞭然となります。機械は、エネルギーを使って、ものを加工する道具ですが、効率の悪い機械は、エネルギーが有効利用されずに、一部が熱になってロスされます。つまり、望まないのに機械の一部又は全部の温度が上昇するのです。サーモグラフィーで見れば、温度分布が画像として見えますので、エネルギーロスにより熱に変わっている部分を確認することが出来ます。

冷暖房を使っている部屋でもサーモグラフィーを使えば、無駄なエネルギーを削減することが可能です。夏場に冷房を使っている部屋をサーモグラフィーで見ると、熱が進入している場所が目に見えます。それが壁であれば壁を断熱する必要があるでしょうし、それが窓ならペアガラスに替えるというという手もあります。人間が暑さを感じるのは、部屋の温度もありますが、壁や窓から赤外線となって皮膚に直接届くエネルギーの大きさもそれ以上に作用が強いのです。夏場にトンネルの中に入ると、例え気温が30度であってもヒンヤリ感じるのは、トンネルの壁が人間の体から出る遠赤外線を吸収してくれるからです。夏場、気温は高いが涼しい部屋、逆に冬場気温は10度以下であるが暖かく感じる部屋を実現するのは、「熱さえ見えれば」十分可能なのです。

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2007年7月26日 (木)

384 休題(ボーナス考)

昨年の夏に、多分人生で最後のボーナスを貰いました。世の中では、景気の良いボーナスの話も聞こえてきますが、何処かよその国の話の様にボンヤリ聴いてしまいます。さて、ボーナスは会社の業績が良い時の臨時賞与だったはずですが、不思議な事に日本のボーナスは、殆ど固定的でいわば給料の一部となっています。長期のローンを組むときも、多分多くの人はボーナスをカウントして返済プランを立てることでしょう。

ボーナスが無くなって分かった事があります。それは、ボーナス無しには大きな買い物や贅沢をする気力が湧かないという事実です。当たり前ですが、ボーナス無しに大きな金額を支出するには、貯金をハタいてしまう必要があります。ささやかな収入となった今では、それでは大きな赤字となってしまいます。それを防ぐには、長期的な購入計画を立て、毎月コツコツと貯金をしていくしかないわけです。例えば、車を購入するなどと目論んだ場合には、今の我が家の家計では、多分10年は貯金しなければならないでしょう。

そう考えると、日本が今のような「モノ余り大国」となった背景には、まさにこの日本的ボーナス支給の仕組みがあったればこそ、と言えそうな気もします。つまり、日本的ボーナスとは半年間の強制的な(天引き)の貯金と見ることが出来るということです。そのため、車の頭金や大型家電や教育や住宅ローンなどへ回すお金の余裕が生まれ、一見豊かな消費生活が成り立っているのでしょう。もしボーナスが、会社業績に直接連動していて、多額のボーナスを貰うときもあり、ゼロの時もあるといった不安定なものともなれば、とても右から左に高額商品を買う気にはならないでしょう。

いずれにしても、「あのボーナス」をやや懐かしく思い出している今日このごろではあります。

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2007年7月24日 (火)

383 廃棄物半分

エネルギーや資源が半分に出来たとしても、それで全てが半分になる訳でもありません。もう一つの問題である廃棄物(この場合は固形の廃棄物です)もやはりバッサリ半分にしなければなりません。工場の廃棄物(産業廃棄物)は、先に述べた様に製品重量を半分にすれば、それに比例するかたちで半減するはずです。問題は、一般の事務所や家庭からの廃棄物です。

事務所では、OA化が進んだ結果逆に紙の使用量が飛躍的に増加してしまったのです。何故か?それは、人間は紙の資料を貰うと安心するものだから、のようです。会議で、パワポを使って説明があるにしても、やはりそれを縮小して印刷した紙の資料が配られるのが普通です。手書きの配布資料であれば、それを準備する方も時間も惜しいので、ポイントだけを書いたメモ書き程度になるところですが、何しろ電子データなので、準備する側は、図や表や写真なんかもいっぱい加えたくなるものです。投稿者がサラリーマンをしていた時期の標語には、会議資料はA4で1枚、会議時間は1時間以内(MAXでも2時間)がベストと書いてありました。2時間以上に及ぶ会議は、事前の根回しが出来ていない準備不足の証拠なのです。OA化された結果、何故配布資料が時には10枚以上にもなるのか、やはり反省すべきです。先ずは、字の資料なら1ページに2枚分(大きな字のパワポなら6枚分)印刷、しかも裏表印刷を実行しましょう。老眼が進んだ上司は、どうせ図表程度しか見ないでしょうから、かわいそうですが無視しましょう。これだけで、ずいぶん紙の量がへらせるはずです。

家庭ではどうでしょう。先ずは商品のパッケージに注目したいものです。二重三重の包装や、隙間だらけの箱、過剰なクッション材、派手なカラー印刷で艶のあるダンボール箱、中身の何倍もあるお菓子箱、耐久性のありそうなプラスチック容器に入っている液体商品などなど。これらの過剰包装商品を買うのを止めれば、ゴミ半減は十分可能です。生ゴミも減らしましょう。実に簡単です。生ゴミは先ず水を切り、しかる後に洗濯挟みで吊るした新聞紙の中で1日ほど乾燥させます。これだけで、嵩が半分以下になり、焼却場で燃やす時も補助燃料がグンと減らせます。乾燥させた植物は立派な燃料ですから。それより前に、野菜などは良く洗って皮のまま調理したいものです。実と皮の間にこそ豊富な栄養が詰まっているのですから。

なお明日はココログのシステムメンテナンスのため投稿は休みます。

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2007年7月23日 (月)

382 カロリー半分

資源やエネルギーの消費には、食糧の調達も大きく関与しています。現代の農業は、まさに地球内部から掘り出される資源やエネルギーにべったり依存しています。農業機械を動かすエネルギー、化学肥料や農薬の製造、温室の加熱エネルギー、農産物の流通エネルギー、調理エネルギー、生ゴミの処理エネルギー等などです。しかし、誰がどうやって調べたか分かりませんが、食べ物の半分近くが口にされる事なく捨てられているとも言われています。調理の際に捨てられる食材(例えば野菜の皮や、大根の葉などです)賞味期限切れによる廃棄、生ゴミとして捨てられる食べ残しなどです。数字の上からすれば、もしこれらの食材を全て無駄なく利用した場合には、食糧は殆ど輸入せずに済む事になります。

つまり、この国では食物の半分近くを輸入し、しかもその量とほぼ匹敵するほどの食べ物を、生ゴミとして捨てている、異常な状態にあると言えますし、逆に言えば今消費しているカロリーを半分にしても、飢えることなく暮せるラッキーな国であるとも言えるでしょう。379に書いた目方半分とこのカロリー半分の食生活が実現できれば、資源とエネルギー半分の社会も見えてくるはずです。

私達日本人は、生まれた時のお尻の蒙古斑の有無を母親に確認するまでもなく、遺伝学的に見て、モンゴロイドの血を色濃く受け継いでいますので、カロリーの過剰摂取には非常に弱い民族です。欧米人は、動けなくなるほど太っても何とか生きていけますが、私達の多くは食べ過ぎると重い糖尿病になるリスクが極端に大きくなります。それは、ハワイの移民や同じ遺伝子を受け継ぐインデアンの子孫の約1/4が、カロリーの取り過ぎで糖尿病を発症している事実を見ても明らかです。良く見聞きするように、日本では長生きの老人はほぼ例外なく「小柄で痩せ型で小食」です。それが、私達民族にとっては長生きに理想的な体型なのでしょう。ここではカロリーをばっさり今の半分に減らしても、私達はむしろ健康に生きていけるのだ、との結論をだしておきます。

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2007年7月22日 (日)

381 エネルギー半分

エネルギーを半分にするのは大変だと思っている人も多いと思われますが、これもやれば出来るはずです。必要なことはQuotas(割り当て)です。半分しか燃料の割り当てが無ければ、運送会社は配送頻度を半分にせざるを得ませんし、車通勤の人は同僚を誘って「相乗り通勤」にする必要があります。二人が一日交代で車を出せば、半分の燃料で済みますね。

風呂や料理の煮炊きのエネルギーはどうでしょう。これには、太陽光の活用とやや便利な道具に登場願うしかありません。先ず屋根がある家に住んでいる人には、例外なく太陽熱温水器の設置を義務付けます。幾らかの補助金を出せば、普及には簡単に弾みがつくでしょう。調理にも太陽光を使いたいところですが、これは流石に雨の日は困るので、保温式の調理器具を活用します。一度沸騰させた鍋などをこの容器に入れて蓋をして20-30分放置すれば、殆どの食材に火が通ります。これで十分エネルギー半分での調理は可能となります。電灯はどうでしょう。最近の蛍光灯は、従来の直管式やドーナツ型のものに比べ、間違いなく半分の電気代で同等以上の明るさが確保できます。古い蛍光灯が切れたら迷わず新型の電球に換えるだけなので、これもどうにかなりそうです。

一番の問題は冷暖房のエネルギーです。一度快適さを知ってしまった「冷暖房中毒」の人たちに、特に夏場の冷房を諦めて貰うのは至難の技です。最近熱中症が増えた主な原因は、生まれた時から冷房に慣れてしまった体が、正常な発汗作用を忘れていて、必要な時(熱い時)に体温調節が上手くいかない事ですが、それを頭では理解できても、手が思わずリモコンのスイッチを押してしまうかも知れません。人間の皮膚の汗腺の密度(単位面積当たりの数)は、生まれてから3ヶ月間に赤ん坊が体験した気温で決まってしまうと言う医学的事実がありますが、近年は、真夏に生まれた子供ほど(冷房により汗腺の発達が未熟で)熱中症のリスクが高まると言う皮肉な結果にもなっています。健康のためにも夏は、ウチワ片手に思いっきり汗をかくべき季節なのです。そうすれば自動的にエネルギー使用量も半分には下がってくるはずです。

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2007年7月21日 (土)

380 軽さへの挑戦

続きです。投稿者は、自転車にのめり込んだ時期がありました。会社に入ってすぐ位の時期です。単に自転車を買って乗る事に飽き足らず、自分で部品を買い集めてはオリジナルの自転車を作っていました。当時、どうしても欲しい完成車がありました。それはイタリアのデ・ローサ社のロードレーサーでした。この会社はしかし、手作りで生産している小企業(町工場)なので、年間何百台も生産できるわけでありません。従って、当時の給料は多分5-6万円程度だったのですが、たしか当時最低でも25万円以上もしたこのメーカーの自転車には、結局手が届きませんでした。この自転車の魅力は、何と言ってもその軽さです。あらゆる部品の余分な肉を削ったり穴を開けたりしなから10kg前後までシェイプアップしていました。当時、国産車でも1kgの軽量化は1万円の価格アップに相当すると言われていました。

全く違う世界ですが、航空機製造にも似た部分があります。旅客機であれば、機体重量を60kg軽くすれば、乗客をもう一人乗せることが出来ますので、乗り物としての付加価値が増加しますから、軽さが即ち製品の価値になります。従って、旅客機の設計・製造では必要な強度や剛性を保ちながら1kgでも軽くする事に最大限の努力が傾注されます。何しろプロジェクトチームの中では、「重量エンジニア」が重要な役柄を演じており、各部位を担当するエンジニアに割り当て重量を守るように指示できる権限も持っていました。

一方車ではどうでしょう。安全性と快適さを追求するあまり、車体サイズはドンドン大きくなり、重量も重くなってきました。装備もエアコン、パワステ、ABS、オーディオ、パワーウインドー、ナビゲーションシステム、豪華なシートや内張りなどなど。これらは、人や荷物を乗せて雨に濡れずに60km/hほどで移動するという、車本来の機能とは無関係なものばかりです。つまり今の車には、「移動する居室」という無駄な機能を「山ほど」搭載している状態なのです。車メーカーもここらで、思いっきり軽くした試作車を世に問うて欲しいものです。徹底的に軽量化した車では、燃費として50km/リッター以上の達成は必須ですし、500kg程度にまで軽量化さえ出来れば今のエンジン技術でもそれは十分達成可能です。

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2007年7月20日 (金)

379 目方半分

環境負荷を今の半分にする方法を考え続けます。さて、もの作りの世界では(何度も書きますがこれは物の形を変える行為のことです)では、コストと製品の重量をほぼ同じものと考えます。大きな重量の製品の製造には、大きな設備、原材料の重量、それを扱う工数、加工に投入されるエネルギーも多く掛かるので、当然の結果として、原価も多く発生することになります。したがって、工場の能力を示す指標として、工場の出荷重量が用いられることも多いのです。

さて、環境に対する負荷を下げるには、製品の重量を下げるのが一番確実な方法です。つまり、目方が半分の製品には、大まかには原材料や加工に要する投入エネルギーは半分で済むはずです。問題は、今の製品と目方が半分に抑えられた製品が全く同じ機能を有するかという点です。車を考えて見ましょう。現在街を走り回っている乗用車の平均的な重量を1000kgと仮定します。この平均的な車体重量を500kg以下にしないと資源・エネルギーの半減が見えてこないでしょう。今やありふれた軽自動車でさえ700kgを越えていますから、既に「軽」自動車ではなくなっています。S社の2シーターで、車体寸法も思いっきり短くした「ツイン」でさえ、500kgを大きくオーバーしている訳ですから、500kg以下の車を作る事が、如何に大変であるかは技術屋であれば容易に想像がつくでしょう。でもそれを実現しない限りは、資源。エネルギー50%削減は見えてきません。

方法はあります。技術的には、今のデブった車をダイエットで痩せさせるのではなく、例えば今のバイクに肉を付けていった方が簡単でしょう。投稿者が乗っている250ccのバイクは、結構車体大きくバイクとしてはデブですが、それでも170kg台です。これを2台並べてくっ付けてもたった340kgで済みます。おまけに屋根を掛けても400kgには納まるでしょう。排気量もエンジンが2個分では500ccとなりますから、馬力も十分でしょう。このコンセプトだと、多分燃費も今の車に比べれば簡単に半分程度には出来るはずです。当然エアコンはありませんが全く問題ありません。昔の車にもありませんでした。その代わりその時代の車には「三角窓」があり、自然通風で何とか夏の暑い盛りも乗り切っていたものです。こんな車では、夏は暑くて冬は寒く、ぶつかったら下手をすれば死ぬかも知れません。でも、車を乗り回すのであれば、そのくらいの不便や危険は覚悟すべきでしょう。

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2007年7月19日 (木)

378 二日に一度

具体的なライフスタイルの見直しの提言です。

車の燃費向上を含め、技術の進歩だけで、資源やエネルギーの消費が半減できるわけではありません。では何が必要かと問われれば、「生活スタイルの見直ししかない」との答えになります。つまりは、今の快適な生活をバッサリ二日に一回程度に減らすか、あるいは1970年代の生活スタイルまで戻るかの選択が必要なのです。しかし前者は結構大変です。例えば風呂好きの日本人にはつらい話ですが、風呂は2日に一回にしなければなりません。車を通勤に使っている人は、事務所や工場へ出かける回数を半分にするか、あるいは通勤の足を2日に一回は自転車か徒歩にする必要があります。

作業者が全く居ない工場で、完全自動でモノを作るのは結構大変ですが、2/3を占めるホワイトカラーの人たちの通勤を半分に減らすのは、接客などが無い業種では十分可能性がありそうです。二日に一度の消費生活では、需要も半分になるはずですから、実は工場の操業度も半分で済むのかも知れません。工場を半分の負荷で動かすのは、エネルギー効率的にはムダも多く出るので、やはり工場も二日に一度(或いは隔週)の割合で動かすことにしましょう。

そうなると企業の売り上げも半分になる訳ですから、給料もざっと半分になりますが、(本業のカウンセラー以外では現在週2日の勤務となっている)投稿者の経験では、大きな借金さえなければそれでも十分にやっていけると見ています。結果、お金が無くなって暇が余る事にはなりますので、374に延べたような、金と時間を浪費する遊びは出来なくなります。しかし日本人は、昔から余りお金を掛けずに暇を潰す方法を非常に多く編み出してきましたから、全く心配は要りません。俳句、短歌、回文、川柳、都々逸、落語、芝居、囲碁、将棋などなど。何より、猫の額ほどしかなくても、庭で自分が食べるための野菜を作るなどと言う究極の暇つぶしの方法もあります。農薬を一切使わなければ、さながらペットの手入れの様に、手で葉の虫取りをしなければいけないので、これはこれで結構暇がつぶれます。

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2007年7月18日 (水)

377 生活スタイル

一人当たりがエネルギーや資源や水を消費する量は、もっぱら生活スタイルに依存しています。そこのところは議論の余地はないでしょう。それは、快適な家に住み、快適に空調し、こぎれいな多数の衣服を持ち、車を乗り回し、食べ過ぎるほど食べ、毎日入浴する私たちの生活と、一方で藁葺きの家に住み、まともに電気も使えず、飲み水や食べ物にも制限が多い国々と比較するまでもない話です。快適度∝エネルギー・資源の消費率という関係も成り立ちそうですが、実際には単純な比例ではなく、快適さを追求するに従って、エネルギー・資源の消費は「指数級数的」に増加するはずです。何故なら、現代の社会や産業構造は多層的で、籠に乗る人担ぐ人、そのまた草鞋を作る人、その人の食料を作る人、それを流通させる人、その為のインフラを作る人、そのお金を貸す人、それを管理監督する人という様に、モノを作るひとの約2倍の割合で作らない人も存在し、やはり皆快適な暮らしを送っているわけです。

すこし考えても、江戸時代にはたった4つ、士農工商しか無かった職業が、高度成長期にはそれまでは存在もしなかった新しい種類の職業が飛躍的に増えたはずです。つまりは籠に乗る裕福な人を、簡単には数え切れないほど複雑に支えている多くの人たちが居て、その人たちの生活もあるということです。戦後、籠に乗れる裕福な人も、ほどほどの人たちも、それぞれの生活スタイルが底上げされて現在に至っているので、上に示したように資源・エネルギーの消費率は、急カーブで上昇してきたのでした。

しかし、物質的に裕福になって何が良かったのか、何が悪かったのか、そろそろまじめに反省してみなければならない時期です。反省の無いところには、如何なる倫理も生まれないからです。毎日のニュースでも、金を懐に入れんがために、法を踏み倒しながら、結局は「指されてしまう」亡者の何と多い事でしょう。もうすぐ棺桶に入ろうとする年齢の人が、何億円も懐に入れて一体どうする積りだったのでしょう。ここらで、もう少し質素なライフスタイルに後戻りしても然るべきではないかと、しみじみ思います。

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2007年7月17日 (火)

376 降れば土砂降り

7月として史上最強の台風4号が通過しましたが、それとは別に最近雨の降り方が気になります。以前に比べて降り方がきつくなってきた様な気がしています。梅雨時はシトシトと降る雨が好きですが、最近はドドーッと雨が落ちてくる感じです。それが単なる感じではなく事実であるとすれば、何故そうなるのか時々考え込んでいます。一つの結論は、これはまだ投稿者だけの仮説の段階なのですが、まず温暖化が進むと大気中の湿度が上がります。湿度が上昇すれば、それがチリやエアロゾルなどの核を得て水滴として凝縮し易くなるでしょう。その結果、これまでより急激(短時間に)に大きな雨滴まで成長が進み、それが地上に降ることになります。更に海水表面の温度上昇は、低気圧にエネルギーを与えますので、影響は加速されます。また、水蒸気は、炭酸ガスよりかなり強力な温暖化効果ガスでもあり、平均的な湿度が高まると、温暖化も加速すると言う、悪い循環に入る可能性もあります。

つまり、限りなく主犯に近いと言われている二酸化炭素により、やや加速された温暖化が、隠れた温暖化効果ガスである水蒸気の蒸発を促進させ、結果シベリアなどの永久凍土も溶かして湿地化させ、これも強い温暖化効果ガスであるメタンガスの発生を促すという、悪しき循環に突入することを強く懸念しています。

今後時間を見つけて、平均湿度の長期的変化のデータを探してみる積りです。平均湿度と、温暖化に相関関係が見つかれば、間接的にせよ上の仮説が証明されたことになります。この様に、地球規模の環境変化は、単に気温、単に二酸化炭素濃度、単に水質の汚濁、単に生物種の生息地の変化や絶滅などの指標だけでは評価できない可能性があります。前にも述べたように、これは環境における「玉突き現象」ですから、その変化は直線的ではなく、指数関数的な変化である可能性も高いのです。つまり、一つの変化は、2つあるいはそれ以上の現象変化に影響を与える訳ですから、次の段階ではその自乗の現象変化を引き起こす可能性があると言うことです。最近の雨の降り方からこんなことまで考えてしまいました。

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2007年7月16日 (月)

375 花火

374の時間の浪費で、連想したことがあります。夏は、日本では花火の季節ですが、これも偉大なる時間の浪費と言えそうです。花火の製造には、多大な手間と時間を必要とします。まず星と呼ばれる小さな玉を多数準備する必要があります。星には、発色のため火薬に種々の金属粉(マグネシウムや銅やカリウムやナトリウムなど)を混ぜ、手で丸めます。安全のためと、固まりやすくするため多分水分を加えますが、丸めた後は十分に乾燥させる必要があります。強制乾燥をさせると発火する恐れがありますので、もっぱら時間を掛けた自然乾燥に頼ることになるでしょう。それらの星玉を、紙を張り合わせて作った半球形の入れ物に、きれいに広がるように工夫しながら、やはり火薬と共に仕込んでいきます。最後は導火線を付け2つの半球を合わせて、テープ状の帯紙で封をします。

これをさらに乾燥させると花火になりますが、真夏に各地でほぼ一斉に開催される花火大会に間に合わせるため、花火作りは年間を通じて行われ、作られた大小の花火は、倉庫に長期間保管されることになります。時々、不運にも作業中の工場やこの倉庫の花火が空気の乾燥する時期に、何らかの原因で自然発火し、誘爆によって大きな事故となることもありますね。

さて、こうして苦労して作られる花火ですが、打つ上げ用の筒に入れ、導火線に点火すれば数秒間で最高点に達し、玉は爆発して粉々になり、同時に多くの星を花の形にばら撒きそれらが一瞬光って全てが終わってしまいます。一年がかりで、危険と隣り合わせでコツコツと作ってきたものを、一瞬で煙にしてしまうのですから、これも偉大な時間の浪費と言える行為でしょう。

少し趣は異なりますが、あきれるほどの暇つぶしであるドミノ倒しもかなりこれに似た行為に見えてしまいます。どうやら、洋の東西を問わず人間というものはこのような時間の浪費という楽しみには、目が無いような気がします。

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2007年7月15日 (日)

374 休題(時間浪費の快楽)

昼間出歩く事が多くなり、いつも前を通るパチンコ屋や時々通る競馬場或いは競輪場に昼間から入り浸る人達の事が何故か気になります。投稿者は、体を動かして遊ぶことが大好きだと書きましたが、一方世の中にはお金をたっぷり使って行う遊びも多く存在します。ギャンブルなどはその好例でしょうか。ギャンブルで儲けた話は、映画や小説の世界ばかりでなく、実際の社会でも耳にします。競馬や競輪で大穴を当てた、パチンコで大儲けした、宝くじ(宝くじがギャンブルかどうかは議論が分かれますが)が当たったなどなど。しかしその裏では、大きな損や小さな損を出した数え切れないくらいの、不運なギャンブラーが存在するはずです。

どのようなギャンブルであれ、クジであれ、胴元は絶対に損をしないように、オッズが決められます。つまり、全てのギャンブルはギャンブラー同士のお金の奪い合いに過ぎないわけです。それでも、あまり文句が出ないのは、胴元の上前が文句ガでない程度に決められているからに過ぎません。これら普通の、大勢の、不運なギャンブラー達は、自ら進んでその損な役回りを演じているとしか思えません。そこで、彼らがどのような心理状態にあるかを少し考えてみました。とは言いながら、投稿者としては学生時代の半年ほど、パチンコにのめりこんだ時期があったくらいのささやかなギャンブル経験しかありませんので、以下は想像に過ぎません。

さて、時間とお金を浪費したがるギャンブラーの心理ですが、投稿者は時間の浪費に注目しています。何故なら、時間を有効に使ってもなおまだ足りない人達は、殆どギャンブルなどには手を出さないからです。つまり、日頃あまりやりたくないことを「させられて」お金を得ている人達が、その埋め合わせとしてギャンブルに逃げ込むのだと言えるかもしれません。お金は、(あまり幸福ではない状態で労働して)自分の時間を売って得たものでもあり、ギャンブルは二重の意味での時間の浪費行動でもあります。自分の時間を思いっきり浪費する快感を知ってしまった人達は、多分かなりの中毒状態にあり、彼らが大金(=自分の時間)をパァーッとスッてしまった瞬間には、多分強い快楽すら感じているのだと勝手に想像しています。

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2007年7月14日 (土)

373 エコロジーの幻想

エコロジーあるいは生態学と言う学問がありますが、それをマスターしたエコロジストは、環境の保全に貢献できると考えている人がいるとすれば、それは大きな誤解かもしれません。思うに、エコロジーとは複雑な自然の仕組みを、例え表面だけでもなんとか理解しようとする努力の別名にしか過ぎないからです。と言うより自然自体が、偉大なエコロジストそのものなのです。投稿者はこの2年間大学に入りなおして、環境学なるものの一部でも理解しようとしてきましたが、結果は生態の長い時間の流れの中で完成された、巧妙で複雑で偉大な仕組み圧倒され、ただただ頭を垂れることしかできませんでした。

複雑で偉大な自然の理解を学問の一分野に据えてしまおうなどと考えるのは、やはり学者の傲慢に過ぎません。ましてや、その学問で得られた浅い知見を、環境悪化の防止に役立てようなどと考える技術者の態度もやはり幻想にとりつかれた「おこがましさ」と言えます。自然は放っておけば、勝手にその巧妙な仕組みを使って、本来「自ら然るべくある姿」に戻るはずです。そうならないのは、ひとえに私たちが自然に与え続けている環境負荷(つまりは固体、液体、気体のゴミの排出のことです)の為せる技といえます。

我々に出来ることは、環境を悪化させる範囲を出来る限り狭くして、その外側の自然が回復するのをじっと待つ事しか出来ないのでないか、と言うのが最近の思いです。とにかく、環境負荷(つまりはゴミ)を必要最小限に抑える努力しかないのです。そのためには、身を低くして、質素に暮す術を先人に学ぶしか良い方法は無いとも考えています。エコロジーではなく、「伝統的な昔の暮らし方」こそが、今以上の環境悪化を抑える切り札ではないでしょうか。そのために必要なものは、科学や技術、ましてやエコロジーなどと言う理解が浅い学問ではなく、深い「伝統の知恵と技」だと断言できます。これも、このブログの重要な結論の一つで、これまでも言葉を変えて何度か繰り返してきたことです。

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2007年7月13日 (金)

372 大循環

自然界には、想像も出来ないくらい長い時間をかけた大規模な循環が存在します。たとえば、地殻の運動は億年単位のサイクルを持っています。地殻のプレート運動の速さは、毎年数センチのオーダーに過ぎませんが、しかし100年も経つと数メートルのオーダーになるので馬鹿になりません。数億年も経つと、マントル対流に乗って一度沈み込んだ大陸プレートが一回りしてまた地表へ戻ってきてもおかしくありません。つまり、いま地表に現れている古い地殻もかつては地底奥深くに眠っていたものであり、今まさに噴火している火山の噴出物も、かつては地表で堆積したものが地底で熱と圧力を受けて変性した岩石であるかも知れません。

これほど長いタイムスケールでなくても、例えば深海の海水も千年単位で見ると、対流して表面の海水と完全に入れ替わっています。その際、海底に沈んでいた栄養塩類だけではなく、海水が持つ熱量自体も循環しますので、「熱塩循環」とも呼ばれています。結果、海面の流れ(海流)を補う形で深海の水も循環し、熱帯地方から極地方へ熱の移動を助けています。しかし、地球の温暖化の進み具合によっては、この循環が完全に止まってしまう事が懸念されているのです。そうなると、熱帯と極地方の熱循環も滞り、結果としては、寒い地方と熱帯地方の温度差がさらに極端になるはずです。例えば、今はメキシコ湾流によって温暖な冬となっているイギリスや西ヨーロッパも、緯度から見てもロシアと同程度の極寒の地になってしまう事でしょう。西ヨーロッパの人口密集地帯が、寒帯同様の気候となった場合には、今のレベルの生活を維持するためのエネルギー所要量は飛躍的に増加することになります。勿論、農業にも大打撃がありますので、今は食料輸出国であるフランス、スペインなどの国々の食料事情もいっぺんに逼迫することでしょう。ましてや、今でもジャガイモくらいしか育たない、イギリス北部などはコケくらいしか生えない全くの不毛地帯に転落することになります。

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2007年7月12日 (木)

371 元技術屋として

あまりにスケールの大きな事を書いても、それを読んでも虚しくなるだけかもしれません。今回は翻って、自分自身の振り返りを再び取り上げます。

最近読んだM.Q.ヴェリエの「Water」に衝撃的な言葉を見つけました。水源開発に関して技術援助を受けているあるアフリカの国で、現地スタッフの口からポロリと出た本音の言葉です。「・・・技師というものは、一つの問題を解決して、別の新たな問題を作る人たちのことです。」元技術屋として、この言葉が再びグサリと心に突き刺さりました。再びといったのは、投稿者の50歳の反省でも薄々感じていた事だったからです。「一体俺は(我々技術者)は何をやってきたんだ。世の中は、モノが豊かになった以外一体何が良くなったんだ。」と言う反省に完全にトドメを刺された感じでした。

確かに、例えば水問題を解決しようと、現地に入った技術者(この場合は土木系の人)は、ダムの建設適地を測量して探し出します。彼らが指差す場所は、多分川幅が狭くなっていて、両側に山が迫り、硬い岩盤が地表近くに出ている場所のはずです。それが、最も経済的にしかも工学の原理にも則っているからです。しかし、彼らは生態学については殆ど素人です。従って、例えば、その河の水に含まれているシルト(細かい泥)の量や、そのシルトが河口のデルタ地帯で豊かな土壌を形成してきた事、或いはダムによって河の水質が極度に悪化する事などには頓着しません。

いずれにしても、目的に向かって、「工学的に正しい」技術を行使するのが良い技術者と言われてきたわけです。それは逆に言えば、その技術によって引き起こされる負の側面を、徹底的に無視する技術者でもあります。

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2007年7月11日 (水)

370 チーム・マイナス50%

さて資源やエネルギーを、現在消費している量の半分に減らす方法はないのかを考えて見ることにしましょう。多くの政治家や学者は未来に向けた、持続可能型社会システムの提言を行っていますが、投稿者の見方は逆です。何も難しい事は考えなくても良いのです。ただ1970年代の生活レベルを思い出し、それに近づける努力をするだけで済みます。

例えば交通機関を考えて見ましょう。70年代の初め、当時東北の田舎の町に住んでいた投稿者の家には当然の事ながら車はありませんでした。でもバイクを買う事は十分可能でした。オイルショックガソリンは1リットル50円位だったので、奨学金を2つ貰ってバイクのローン(当時は月賦と呼んでいました)を払いながら、学生ながらバイクを乗り回すことも出来ました。国道の舗装も所々では切れていましたので、従兄弟が買ったばかりの車で、埃まみれになって東京まで出かけた話を聞いて同情したものでした。その頃、ボーナスが貰えるサラリーマンや商売をしている家庭には、そろそろ自家用車が普及してきた時代です。

投稿者の家では、この時代になっても風呂は銭湯に通っていました。その風呂屋は、近くの製材所で出るオガクズで風呂を沸かしていました。冬の暖房は、それまでの薪ストーブから、一般的になり始めた石油ストーブに切り替わる時期にさしかかっていたような気がします。つまりは、車の燃料や灯油として、石油燃料が大量に使われだした時期に当たるわけです。そのため、二度に亘るオイルショックで、日本は簡単にパニクってしまったのです。

化石燃料をたっぷり消費して、少しの石油製品値上げや供給不足で右往左往するのは、やはり賢い行動ではありません。先ずは、今の暮らしで消費している資源とエネルギーを、スッパリ半分にカットした暮らしを想像してみることが必要です。年配の人は、1970年代以前の暮らしを是非詳しく思い出してください。朝起きて、寝るまでにどうやって暮らしていたか、その時の親や年寄りはどんな工夫をしていたか。このブログでも時々「チーム・マイナス50%」に向けた先人の工夫を取り上げる事にします。

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2007年7月10日 (火)

369 GDPの矛盾

今や国力や経済力はGDPなどの経済指標で量られます。しかし、注意しなければならないのは、「全ての経済活動」はGDPにカウントされると言う事です。全てには、例えば公害を出さないようにする設備投資やその運転維持費用、工場や毎日の生活から出る産業廃棄物や一般廃棄物の処理費用、何より原料や製品を遠くの国から運んでくる輸送費用までが、GPDに繰り入れられる訳です。この「マイナス」の経済は、やはり純粋なGDPから分離すべき筋合いのものだと思います。何故なら、これらマイナスの経済はとりもなおさず環境負荷そのものであるからです。プラスの経済でも、そのまま文面通りには受け取れません。何故なら、不必要なものも多量に生産されているからです。作られ、在庫され、使われないまま廃棄されるものの何と多い事でしょう。

これは、決して食べ物だけの話ではありません。投稿者が関わった、航空機産業でさえ、新しく作られた旅客機が、市況が悪い時期にはそのままアメリカのアリゾナにあるモハベ砂漠にストックされます。しかし少し前に開発された機体は、新しい機体に比べて燃費が悪いので、一度も運行に使われないままいまだに放置されたままの新古機もかなりの数に上るはずです。ちなみに、この砂漠には多い時には、多分2500機以上の飛行機が「保管」されていました。「Google Earth」では、しかしこの地域の解像度が低いので、現在は何機ほど保管されているか見てみたいのですが、残念ながら確認できません。

いずれにしても、マイナスのGDPや無駄なGDPは、切り分けてカウントする必要が確かにあります。そうでなければ、自分達が生きていく上で絶対に必要なGDPと環境負荷の低減のために圧縮すべきGDPの区別が出来ないからです。

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2007年7月 9日 (月)

368 灌漑農業のアリ地獄

続きです。地表を流れ下る河は、確かに目に見える水であり、常に紛争の種になってきましたが、ここでは地下水に注目してみます。手掘りの掘り抜き井戸は有史以来、乾燥地帯において貴重な飲み水を供給してきました。しかしある時期以降、人類はポンプを使って地下水を汲み上げ農業に使う知恵を手に入れてしまいました。その結果、草程度しか生えなかった半砂漠地帯が、豊かな農地に変身し続けてきたのでした。今日、乾燥地帯ではほぼ例外なく太古の時代に涵養された地下水(化石水)を汲み上げて、農業を維持しています。地下水は、地表の国境に左右されないので、いわば「先に汲み上げた者勝ち」状態に陥ります。従って、井戸をより深く掘り下げ、大きなポンプで汲み上げる事が出来る力のある国が断然有利になります。

深い地層に蓄えられた地下水は、非常に清浄で使いやすい水源です。これに、多量の肥料と農薬を組み合わせれば、半砂漠も立派な穀倉地帯に変身させることが可能です。アメリカやオーストラリアやアフリカや旧ソ連の大きな面積が、灌漑農業によって穀物や綿花など換金作物などの一大生産地になりました。特に穀物の増産は、それに頼る国々の人口を爆発的に増加させる事にも寄与しました。自然の恵みに頼る農業だけでは、地球全体でも数億人しか養う事が出来ませんが、過剰な地下水の汲み上げに頼る灌漑農業は、60億人を超える人口を養い、今でもその数を増やし続ける事を可能としました。

しかし、繰り返しますがこの農業形態は全く持続可能ではありません。地下水の切れ目が、その地域の農業の終わりなのです。アメリカの中西部(オガララ帯水層地域)や化石水を濫用しているかなりの地域では、地下水の枯渇が現実の問題となり始めてはいますが、しかしそれをストップする事が出来ないのです。例え10年後20年後の地獄が見えていても、世界市場ではとにかく今日の穀物相場が最重要である訳です。

水戦争や地下水の枯渇は、しかし決して対岸の火事ではありません。日本は何百万トンとも食糧を輸入すると言う行為を通して、その1000-2000倍もの水(数十億トンのバーチャルウォーター)を輸入している事になるからです。このバーチャルウォーターの輸入により、私達は間違いなくこれらの国々の足を強く引っ張っている「紛争当事者」なのです。

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2007年7月 8日 (日)

367 水戦争

水にもう少しこだわります。水がビジネスである内はまだ平和ですが、歴史を振り返ってみれば(と言うより現在の世界でも)水は常に戦争の原因でもありました。特に、水が貴重な乾燥地帯で、しかも河が幾つかの国を貫いて流れている場合には、常に大きな紛争や戦争の原因になってきました。上流の国は、ダムを築いたり、堰を築いて流れを変えるなどして下流に位置する国々に簡単に脅威を与えることが出来ますし、逆に下流の国々は祖先の時代からの水使用権(既得権)を主張するので、水の分け前が十分でない場合はすぐに配分を巡る争いに発展します。その例には事欠きません。アフリカのナイル川やザンベジ川やニジェール川、中東のヨルダン川やチグリス・ユーフラテス川、アラル海に流れ込んでいるアムダリア川やシルダリア川、インド亜大陸のガンジス河、比較的平和な北米でもコロラド川やリオグランデ川を巡る米墨の争いがあります。これらの河を巡っては、その水利権が表に出たり、裏に隠れたりしながらも、長い紛争の歴史が刻まれてきました。

何せ、これらの河は乾燥地帯を流れ下るので、その水無くしては飲み水にも農業用水にもたちまち困窮します。たとえば、中東でイスラエルがヨルダン川を含む領土拡大に熱心なのは、間違いなく水源を確保するための軍事力による力ずくの行動に他なりません。逆に、人口が増え続け、政治的には比較的安定していて力のあるエジプトは、アスワンハイダムを建設して、下流からナイル川をコントロールしています。国際舞台の表面に出ていないところでは、チグリス・ユーフラテス川の水源を持つトルコが、自国とイラクに分かれて住むクルド人を絡めながら、その下流のヨルダンやイラクの首根っこを握っていると言う例も挙げられます。

長期に亘って紛争を繰り返している地域は、その背景には宗教やイデオロギーの対立があるように考えられがちですが、水資源に注目してみれば、じつは水争いが深く根を下ろしていることが見えてくるでしょう。

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2007年7月 7日 (土)

366 水=石油

現在の文明は、「終わりの方に至って」はほぼ完全な石油文明と呼べるようになりました。終わりの方という意味は、石油がなくなったらこれは最早立ち行かない文明だからで、石油を本格的に使い出して100年も経っていないですが、既に半分を汲み出してしまったとすれば、残り100年間せっせと石油を使い続けるだけで、この文明も終わりを告げる計算になります。この文明の殆ど全ては、まさに石油(石油と共存する天然ガスを含む)やそれから得られる電力に依存しています。何しろ、例えば水にしても川や地下から汲み上げる農業用水や水道の維持でもポンプを回す電力は必須です。工場や農業機械を動かし製品・穀物を運ぶにも石油が欠かせません。人々が群れて暮らす都会こそ石油に浮かんでいる場所だとさえ言えるでしょう。

石油が無くなれば、先ず水を使えなくなるため農業生産がひどく落ち込むはずです。天水(雨水)だけで農業を営んでいるのは、いまやモンスーン気候を持つ東アジアや伝統的な農業を営んでいる限られた辺境の地だけだと言っても良いでしょう。石油の切れ目は、食糧の切れ目でもあるゆえんです。食糧が十分に得られない文明は、歴史が教えるように滅びるしかないのです。これまでも数々の文明が、水不足と農業の破綻が原因で滅びました。

しかし、石油に依存しない水供給の方法は確かに存在しました。例えば、山の麓から地下水道と縦穴をいくつも掘ってそれを連ねたカナートは、大いなる先人の知恵でした。砂漠の国々では、数千年を経た現在でもほぼ当時のまま使われている場所もあります。同じような仕組みは、実は江戸時代の「水道」にも見られます。多摩川などからの清浄な水を、木や竹などを使った地下の水路で市中の井戸に導いて使っていました。

まず私達は、水=石油の関係を切り離さなければなりません。いかに石油や電力を使わないで清浄な水を手に入れるかは、現代の技術者に聞くのではなく、昔の知恵に学ぶ必要があるでしょう。日本の先人は、水田の水や飲み水を得るために先ず山に、ブナなどの落葉樹を植えたはずです。日本の森林の半分以上(つまりは国土面積の1/3)は、何らかの形で先人たちが植え、手を加えた「人工林」でもあるのです。深い思慮も無しに、それを針葉樹林に変えてしまった愚は、大いに反省すべき行いではあります。

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2007年7月 6日 (金)

365 パンドラの箱

このブログでは、特に過去に起こったこと、今起こっていること、これから起ころうとすることを色々なたとえ話で示そうとしてきました。それは、自分自身の義務感の根本をしっかり確認する為の作業でもあります。それを考え、ブログに書き留めておき、これを読んで貰っている小数の人達にも、それぞれの立場で考えていただければ、毎日書き続けている目的は達せられます。

さて今回のたとえ話は「パンドラの箱」です。パンドラの箱とは、良く知られているように、ギリシャ神話に出てくる、あらゆる災いを詰め込んだ箱のことです。投稿者は、技術屋でしたが、今は科学や技術というものは、結局は一種のパンドラの箱であったと思うようになりました。確かに、科学や技術の恩恵に浴したと感じた時代もありました。しかし、恩恵は背中合わせの関係で「同じ程度の災い」も背負っていたのでした。一般的には産業の発展と公害の関係、具体的には車と交通事故や大気汚染、化学物質と環境毒、原子力による発電と放射能汚染や放射性廃棄物、農薬と生物に対する毒性、便利な石油エネルギーと大気汚染や温暖化、などなどです。結局私達は、快適な生活を手に入れようと努力しながら、開けてはならないパンドラの箱の蓋を、「科学や技術というテコ」を使いながら、グイグイとこじ開けてきたと思うのです。

折角地下深くに静かに眠っていた、化石エネルギーや鉱物や放射性物質を、便利さと引き換えに環境汚染という大きな犠牲を払いながら、無理やり叩き起こしてしまったのです。今後為すべき事は、多分大きく開けてしまったこの箱の蓋を何とか少しずつでも閉める努力だと、しみじみ思うこの頃です。健康を維持する程度の食糧は絶対必要ですが、お金と同程度には、エネルギーだって無ければ無いで済んでしまう筋合いのものだと思っています。それがなければ1日として生活が成り立たないなどと考えるのは、結局はエネルギー依存症以外の何者でもありません。

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2007年7月 5日 (木)

364 訳が分かるという事

続きです。科学とは、訳が分からない自然の現象を、何とか理屈をつけて訳が分かるようにしようという学問です。しかし、363にも書いたように自然の仕組みはあまりにも複雑なので、たかが人間の単純な頭脳程度では理解できるはずがありません。そこで、少し頭の良い学者達は、自然現象の一部を取り出し、それを細かく要素に切り分けて理解しようとしたのでした。そこで、科学は、天文学、地学、気象学、物理学、化学、材料科学、社会科学、生物学、遺伝学などと枝分かれさせ、更にその分野さえも幾つかに切り分けて発達させて現在に至りました。

さて細かく切り分けて何とか訳が分かったとして、その学問を現実の社会に役立てるため、単なる技でしかなかったものに理屈をつけて学問に高めた「工学」が発達しました。機械工学、熱力学、材料工学、電気工学、電子工学、土木工学、化学工学、エネルギー工学、自動車工学、航空工学、宇宙工学、原子力工学、遺伝子工学云々カンヌンです。しかし、述べたように一つの工学分野の守備範囲はあまりに狭いので、ある工学から生み出された技術なり製品が、環境に与える影響の十分な評価までは眼が行き届かない稚拙なものだったのです。結果として、工学が生み出した多くの産業が深刻な公害問題を引き起こしました。先ずは量的にも大きく、人体や環境に甚大な影響を与えた重化学工業や製鉄業が槍玉に上がりましたが、現在では東京の大気汚染訴訟に見られるように、その台数が膨大となった今日では、ダイムラーベンツが荷車にエンジンを付ける工夫をした時は、比較的小さな技術でしかなかった自動車工学=車産業でさえも例外ではなくなった訳です。

さて、学者先生は認めたがらないでしょうが、科学や技術がこれほど進歩しても、実はますます訳が分からなくなっている事が多くなってきているというのが現状です。本当に訳が分かっているのなら、例えば植物の様に、空気と水と太陽光から澱粉や多様な物質を合成する事だってできるはずですから。

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2007年7月 4日 (水)

363 技術ではなくて

これも繰り返しになるかも知れませんが、環境問題を解くことができるのは決して「科学や技術」ではありません。なぜか。それは、科学や技術は単独あるいは非常に狭い範囲の問題を解くために打ち立てられたものであり、数学で言えば単一の方程式を立て、それを解くことに似ています。その方程式は、科学上の理論に基づいたものであり、筋道さえ間違わなければ誰が解いても同じ答えが得られるものです。それが、科学的原理と呼ばれるものに当たります。

しかしながら、自然の仕組みはそれほど単純ではありません。一つの問題解決が、また新たな問題を生み出している例は、環境問題では事欠きません。つまり、地球の環境は閉じていて、一つの行動が、玉突き的な連鎖を生み出すのです。たとえば、CO2を集めて無理やり深海の海水に吹き込んでしまう、あるいは地中の岩石の隙間に閉じ込めてしまう対策(これは夢物語ではなく既に実験段階です)をとったとします。その結果、海水中の生物に何が起こるか、あるいは地殻変動にどのような影響を与えるかは全く分かっていないのが現状です。

つまり、自然現象の理解には、私達の想像を超えるほど多くの「連立方程式」を立て、それを解く事が求められるということです。この方程式を立てるには、世界中の数学者、物理学者、全工学者、社会学者、歴史学者、考古学者、経済学者、政治学者、企業経営者、農学者、林学者、生物学者、遺伝学者、環境学者、NGO、NPOなどなどに加え、一般の生活者が束になってかかってもまだまだ足りません。地球規模の環境問題には、それほど問題が複雑に絡み合っているという事なのです。だから、「単なる」科学者や技術者などにはとても解ける筈が無いと断言するのです。もちろん、楽観的な悲観論者である投稿者としては、だから諦めて手をこまねいて座っていろとは絶対言いません。まず自分でも解決可能な小さな問題に取り組んで、その輪を広げていこうというのが、このブログでも一貫して書いている方向なのです。

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2007年7月 3日 (火)

362 チーム・マイナス6%

地球規模の温暖化防止に向けて、90年比6%の温暖化効果ガスの削減が日本の国際公約となっています。現在の排出レベルからすれば13%くらいの削減が必要な訳ですから、チーム・マイナス6%の活動は、言わば焼け石に水とも言えるでしょう。それでもまあ、やらないよりはずっとマシではあります。しかし、毎日チマチマした節約をして6%削減するのは、結構骨が折れ、精神的にもストレスがたまり疲れてしまうものです。

一方、投稿者が、学校の出前授業や市民講座で必ず紹介している温暖化効果ガスの削減方法は、非常に簡単です。それは、毎日繰り返している温暖化効果ガス排出に関わる行動を、例えば2週間に一度ピタリと止めるだけです。これだけで7%の削減につながります。その日は、車通勤を止めて自転車にし、風呂を焚くのを止め、夜は電気を消して一家で星の観察をし、洗濯をタライで行い、掃除機の代わりに箒を使い、クーラーを回す代わりに窓を開けて打ち水をして団扇を使うだけです。マイナス6%であればこれで十分達成可能です。しかし、これを1週間に1回実行すれば、なんと14%の削減が可能になるので、京都での「お約束」も立派に果たせるはずです。少し問題もあります。家庭生活では確かに実行可能ですが、企業やお役所が、さらに2週間に1回休日を増やす訳にもいかないからです。省エネや廃棄物圧縮の対策が進んでいると言われている日本ですが、仕事柄訪問する機会が多い製造業に限って言えば、工場の中には「勿体無い」がゴロゴロしており、10%位の省エネ・省資源は少しの努力さえ惜しまなければ、間違いなく達成可能です。足りないのは「節約のための知恵」だけです。聴診器や放射温度計を持って工場のあちらこちらを「診察」して回るなら、油が切れてギシギシ動いている設備や圧縮空気の漏れや、保温材が不十分で多くの熱が漏れている加熱炉など、多くの勿体無いが発見できるはずです。今後このブログでは「マイナス50%」に向けた提案をしていく事といたします。

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2007年7月 2日 (月)

361 輸送のボトルネック

これも一度くらい書いたような気もしますが、繰り返しても無駄にはならないでしょう。今の経済社会では、物質やエネルギーが消費される速度を決定しているのは、実は輸送システムです。鉄鉱石や石炭は豪州やブラジルから船で運ばれます、石油や天然ガスも中東や東南アジアからこれも大型タンカーやLNG運搬船で運ばれます。一方製品はといえば、海外からは殆どがコンテナ船で、一部は貨物航空機で、また国内においては殆どがフェリー輸送を含むトラック便で、一部が鉄道コンテナで運ばれます。生産や消費に直接つながる物流の最大量を決定するのは、実はこれらの運搬手段のキャパシティであるわけです。試みに、東名高速道路と中央道が何らかの事情で一部が1週間程度普通になった場合を考えて見ましょう。トラックの運転手は、仕方が無いのでその区間は一般道に下りて走ります。しかし、一般国道には信号もあり道も狭いので、高速道路に比べて一定時間内に通過させることができるトラックの台数は、多分1/4-1/5程度には減るはずです。勿論、鉄道コンテナやフェリー便もありますが、これらの輸送量を短期間で何倍にも増加させることは不可能です。結果、例えばT自動車などの工場に入荷する部品の量も減りますから、その期間に生産できる車の台数も自動的に減ることになります。比例して、製品を消費地へ運ぶ量も大幅に減ります。この時、もし食糧輸送を優先すれば、製品輸送などは殆どできなくなるかもしれません。

つまりは、この思考実験では、一般国道という物流のボトルネックが誕生したわけです。この事を十分に認識している産業界は、国土交通省に圧力をかけて、第2東名やらなんとか湾岸線やらの迂回路を建設させようとしているわけです。しかし、もしこの物流にボトルネックが無いとしたらどうなるのでしょう。コストを別にすれば、生産量や消費量には歯止めが利かなくなることでしょう。また国際貿易においては、コンテナ船の数がボトルネックになっているはずです。現在は週10便の中国・日本間のコンテナ船が、例えば週12便になれば、物流量は20%増加することになります。日頃はあまり目立たない海運業や輸送業界ですが、時々は注目してみる必要がありそうです。

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2007年7月 1日 (日)

360 環境経営

投稿者の持論として、今後企業が永く存続していくためには最低3つの柱が必要と考えています。一つ目は従来の意味の堅実経営、二つ目は今後何を作っていくかのアイデア(知財)の有無、もう一つは環境経営への取り組み姿勢です。もちろん、これらの3本柱の土台となる「人材育成」が重要な事は、企業活動では基本の「き」でもあります。

ここでは環境経営の重要性を、今一度強調しておきましょう。環境経営を評価する物差しは、単位製品当たりの環境負荷の大小です。1個あるいは単位重量当たりの製品を作るのに必要な、環境負荷(つまりは資源、エネルギー、廃棄物の量の多寡)で評価する必要があります。たとえば、同じ排気量の車を作るのにA社はB社に比べて、原材料、投入エネルギー、廃棄物はそれぞれA社が5%低いとした場合、環境効率はA社の方が5%強高いという評価になります。もちろん、来るべき時代には、消費者は環境負荷の小さいA社の車を選ぶはずです。

環境経営をすれば、売り上げが伸びるだけではありません。原材料が少なくて済み、エネルギーが節約できて、処理に費用が掛かる廃棄物が圧縮できる訳ですから、結果としてA社は利益率も向上するはずです。つまりは儲かります。これが、上に述べた様に企業存続の可能性を高める方向にも働くわけです。

持続可能性に限らず、結局どの角度から眺めても、環境経営をしない手はありません。問題は、いまだに多くの経営者は、「どう(安く)作るか」しか考えていないことです。心ある経営者は先ず、「何を作るべきか」、「それは社会に絶対に必要なものか」、「そのビジネスは100年後も持続可能か」を自問してみる必要があります。その中でも、最も重要なキィワードは持続可能性で、100年後も持続可能であると断言できる企業は、問題なく環境経営の評価でもほぼ合格点を取ることが出来るでしょう。

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