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2007年8月31日 (金)

413 デジアナ

デジタル放送のアナウンサーの事ではなく、デジタルとアナログの話です。投稿者はどうにもデジタル時計には馴染めません。部屋には貰いもののデジタル目覚まし時計がありますが、どうしてもアナログ時計の方を見てしまいます。ところで、人間の頭の中はデジタルなのかアナログなのかを考えてみると、確かに脳細胞個々についてみれば、興奮(ON)しているか沈静(OFF)しているかのどちらかなので、一見デジタル的なのですが、実際には膨大な数の脳細胞が連動して(パターン化して)動くことを考えれば、機能としてはアナログ的な動きである、ということになります。したがって、時間をデジタルで確認したとしても、実は頭の中のアナログ時計に置き直していたりするのでしょう。

デジタルは、0と1で表示されますので、一見正確で且つ論理も明快のようにも見えますが、実際には時間は連続して進んでいる(と思われる)ので、連続して滑らかに動く秒針が実態としての時間に近いことになります。人間が、GOかNO-GOか決める時には、デジタル的な判断を下しているようにも見えますが、投稿者のイメージで言えば、例えばいくつかの山があるとして、どの山が高いかを判断するに、人間は頭の中での海水面を徐々に上げていって、最後に顔を出している山が一番高いと判断しているのでないかと思うのです。また言葉の上では確かに、「机」と言えば「椅子」ではなく机なのですが、机という言葉には実に様々なイメージが結びついているのも事実です。学習机もあれば、両袖机もあれば、サイドテーブルもあれば、文机もある訳です。しかも、それらのイメージは、連続してつながっていますから、言葉もアナログ的連続性によって成り立っていることになります。それは、さながら虹の七色とは言いながら、赤と橙の間には連続した無数の色合いが存在するのと同じだといえます。

環境(問題)ももちろんデジタルでは、殆ど理解できないもののひとつでしょう。昨日の環境と今日の環境は、アナログ的な連続性でしか説明できませんが、しかし日々何かが変化していることも事実です。それは炭酸ガス濃度であるかも知れないし、気温上昇であるかも知れないし、有害物質の濃度上昇かも知れません。アナログ現象の理解に必要なのは、アナログ的な感性です。その感性に照らしてみて、今の時代が変なのか変でないのかの判断が必要な時代なのです。投稿者は、今の時代がアナログ的に見て変だと感じたからこそ生き方を見直したのです。

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2007年8月30日 (木)

412 コンプライアンス

コンプライアンスの欠けた企業行動や役人や首長の「悪事」がニュースにならない日はないと言っても良いでしょう。「白いお菓子」の賞味期限の書き換えなどはまだ可愛い方と言えるかもしれません。「コンプライアンス」は日本語になりにくい言葉ですが、敢えて訳せば「法令遵守」でしょうか。しかし、コンプライアンスには単なる「法令」遵守だけではない意味も含蓄されていると、投稿者は考えています。というより、法令遵守は最低限の線でしかありません。いま多くの企業に欠けているのは、企業の存在意義の裏づけとしての「社会貢献」という大きな理念を掲げることだと思うのです。個人商店である間は、単に社会の一員に過ぎませんが、企業体を造り、それを維持するためには単なる法令や内部のルールのだけでは足りません。加えてレベルの高い「理念」が必要なのです。企業理念は、また企業倫理に裏打ちされている必要がありますが、悪い事にはこの企業倫理という言葉も、いまや死語になりかけています。企業は法令の遵守に加え、この企業倫理も守る必要があるのです。

ではここで言う企業倫理とは具体的には何を指すのでしょうか。倫理とは、平たく言えば善悪の判断基準の事ですが、何が善で何が悪かの基準は、実は時代によってかなり変化もしているのです。ある時期、工場から有害な廃液を川や海へ流す事は必ずしも悪ではありませんでした。何故なら量が少ない間は、多量の水がそれを薄めて「事実上無害化」してくれていたからです。しかし、問題なのは廃液の濃度ではなく、絶対量なのです。高度成長により化学プラントからの煙の量や廃水量が急激に増えた結果として、日本各地で重篤な公害問題が頻発しました。それをうけて、未処理の煙や廃液を大気や水系に流してはならないという「公害防止に関する法令」が整備され「企業倫理」が叫ばれ、結果として公害は殆どのケースで克服されたのでした。(細かく見ればまだ残っていますが。)

しかし、直接的な被害程度が弱い公害(というよりは環境問題)についての企業倫理は、まだ殆どといってよいほど確立されてはいないのです。たとえば、今日企業が電力を大量に消費する事は、お金さえ払えば問題なく合法的な行動です。とは言いながら、電力を使えば火力発電所の煙突からは、それに見合う量のCO2が大気中に排出されるか、または原子力発電所では放射性廃棄物が蓄積されていきます。しかもその被害を直接的に受けるのは将来世代になります。このように弱いがしかし多量で、しかも影響が出るのに長いタイムラグがある汚染問題に関する倫理上の問題には、企業としても未だ全くといって良いほど手がついていない状況です。

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2007年8月29日 (水)

411 昨日の贅沢品

先に少し言及しましたが、ここで贅沢品の考え方について書いてみます。実際問題として多くの企業は、昨日の贅沢品を今日の必需品にするために日夜努力しています。20年前、誰が個人の殆どが携帯電話を持ち歩くなどという事態が想像できたでしょう。また誰が、一家に2-3台の車を保有し、普通の主婦が買い物に車を使うなどと言う事態が予想できたでしょう。いま、携帯電話や「主婦車」が贅沢品だ、などと少し大きな声で主張したとすれば、少し変な人だなどと思われることでしょう。その意味で、確かにDコモもTヨタ自動車も、彼らの「贅沢品→必需品化戦略」を成功させたと言えるでしょう。

ところで、贅沢品と必需品の境目は日々変動していますが、変わらない基準が存在します。それは、何度も書きますが「それが持続可能か否か」と言う点だと言えます。車が化石燃料を燃やしている限りは、絶対に持続可能ではありませんし、また携帯電話が壊れたからといって翌日からの生活が出来ないわけでもありません。その意味で、これら2つが必需品であるという主張は明らかにFaultです。便利なものが発明されると、最初の内こそ便利さを享受するだけですが、やがて人々はそれに「依存」する様になります。今日では、殆どの人は車依存症、携帯電話依存症に罹患していると断言できます。告白すれば、投稿者もパソコン依存症気味ですが、しかし少なくともそれを意識して暮らすようには努力しています。

それが贅沢品であるか否かの判定は、別の方法でも可能です。壊れたか無くした積りで先ずは1週間、ひき続いて1ヶ月間それ無しで暮してみることです。その結果、確かに不便にはなったけど、無くても何とかなったものであったならば、それは必需品ではなく贅沢品であったという証拠になります。それに気がついたら、思い切って処分してみましょう。捨てればゴミになるので、出来れば中古品としてリサイクル市場に出すかフリマにでも出品しましょう。そう考えてみれば、身の回りの多くのものが贅沢品であったことに気がつくはずです。投稿者の経験でも、ものが少なくなればそれに反比例する形で心が豊かになり、考える時間が長くなり、結果発見や工夫もより多く生まれるようになることは請け合います。

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2007年8月28日 (火)

410 構造主義

ここでの構造主義とは、構造やシステムなど「形のあるものに頼りすぎる傾向」を批判的に指しています。社会にせよ企業にせよ、その組織は階層的に確固として作りこまれています。トップがいて、中間管理職がいてその底辺には実行部隊が存在します。では、これ等の組織で実現していることは言えば、決まった手順やマニュアルに従って、あるタスクを処理するという事になります。投稿者が危惧するのは、今やこの構造やマニュアルが無ければ夜も日も明けなくなった現代社会の風潮です。冷静に考えてみれば、先ず構造ありきではないはずです。その構造はそもそも「何のために」作られたかを吟味してみる必要あります。例えば役所は、行政の仕組みや住民の福祉を考えて欧米から導入された構造のはずなのですが、結果として役人天国を作り出す弊害を生みました。役人は役所を存続させ、自身の保身を図るために多くの法律や許認可制度を営々として作り上げてきたわけです。

これに対して、投稿者が提唱しているのはいわば「機能主義」です。全ての構造は、「~を~する」と言う機能の実現のために作られたはずです。従って、常にこの機能に立ち戻って考えれば、無駄な構造を見直して、修正する事も可能になると思っています。役所の例で行けば、確かにある時期は、日本の国土に高速道路網を整備すると言う機能が必要な時期もあったでしょう。しかし、ガラガラの「田舎の高速道路」を見る限り、これ以上の建設は必要がなさそうに見えます。そうであれば、高速道路を建設するために作られた「公団」と言う構造にも見直しの手が入っても然るべきなのです。構造主義者とは「既得権」にしがみつきたがる存在の事ですから、一度作った構造を壊すことに対しては、強い拒否反応を示すことになります。

さて、以上の事で言いたかったのは、私たちの日常の行動も同じ目で見る必要があると言う点です。新しい車(と言う構造)が欲しいという前に、本当に欲しいのは通勤手段なのか、たまに家族でドライブに出かけたいのか、或いはオモチャとしてのカラクリ箱が欲しいのか、よーく考えてみる必要があります。たまのドライブのためであるなら、例えば月に1回、1万円少し払ってレンタカーを借りて済ませば、機能としては十分実現できる訳です。レンタカーを借りに行くのは結構煩わしいはずですから、自然に無駄な目的の車の使用も減るので一石二鳥です。車は全く乗らないでただ所有しているだけでも、月に2万円以上は経費として飛んでしまいます。また通勤に使いたいなら、その機能を実現する方法として、自転車やバイクや電車・バスを並べて検討し、コスト+時間+環境負荷でチェックし、最適な方法を選べばよいわけです。機能主義を徹底して推進すれば、まちがいなく多くのお金の無駄や環境負荷が削減できます。

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2007年8月27日 (月)

409 輸送バブル

この環境ブログでは、経済の話題も再々取り上げています。それは、投稿者が経済活動の増大と環境への負荷増大が、ほぼ比例関係にあると見ているからです。お金の持つ意味については、一つの見方ですが、価値(現在ではほぼ個人が持つ時間の価値です)交換の手段であると「定義」してきました。しかし、そう考えると、一人が持つ時間は1日24時間しかないので、時間単価を1000円としても、労働人口を多めに50億人としても、精々全世界のGDPは5兆円x365日分しかない計算になります。途上国では時間単価は一桁以上低いでしょうから、現在の経済はこの見方では説明できないことになります。

投稿者の見方では、もしものを殆ど運ばないか、人力や畜力で運ぶ限りにおいては、時間=お金の計算は成り立つと見ています。しかしながら、人間は多くの資源や製品を非常に長い距離を運びます。さながら運ぶ事によりものの価値が上がるかのような錯覚に陥っているとしか思えないほどです。現在の経済活動の規模は、従ってものを運ぶ活動によって実際に人々が時間を使って生み出している価値以上の規模に膨張していると言えます。つまりは運べば運ぶほどGDPが大きくなる勘定です。しかし人力や畜力以上の規模やスピードでものを運ぶには、輸送機械(輸送機械、船や飛行機や鉄道やトラックの事です)が必要となります。しかも、その機械を動かすには莫大な量のエネルギーも必要になります。この場合のエネルギーとは、ほぼ石油事を指します。従って、運ぶ事が経済活動を活発にして景気が良くなる、と言う20世紀の神話が幅を利かせている限りにおいては、石油の消費量=CO2の排出量が鈍化する事はあり得ないという事になります。

上の意味においては、ものを運ぶ量と経済規模は、ほぼ比例すると考えて良いでしょう。しかし、お金がお金を生み出す仕掛け(例えば証券や債権などのペーパーマネー)が出来上がってからは、最早このような単純な考え方では現代の経済規模は説明できなくなってもいます。つまりは、いまや経済活動の中には、楽をして(自分の時間を使わないで)お金を儲けようとする、欲や利権が入り込んでその規模を何倍にも膨らませていると見ることが出来ます。欲や利権の膨張部分をバブルなどと呼んでおり、90年代のバブルは不動産屋や金融業だけでしたが、いまやバブルは普通に我々の日常生活に入り込んでいると言えるでしょう。主婦が近所のスーパーに買い物に行くのに、「自分の車」を転がして行くという状態をバブルでなくて一体なんと呼べば良いのでしょうか。ここでの結論としては、単に運ぶ事によっては、ものの本質的な価値は全く変化しないということです。やたらとモノを運ぶ事を「輸送」バブルとでも呼んでおきましょう。

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2007年8月26日 (日)

408 パッシブシステム

家庭生活での省エネルギーについては、このブログでも再々取り上げてはいますが、407での勝手サマータイムの結果として、家庭でのエネルギー消費が増加する事は絶対に避けなければなりません。早く起きるのですから寝る時間は自然早くはなるわけで、その意味では電気を消す時間は早まるわけですが、照明のエネルギーはたかが知れています。一方、外で働いている人はまだ日の高い(暑い)内に帰ってくるのですから、先ずクーラーのスイッチを入れるかもしれません。これでは、せっかく職場を早く切り上げて、冷房電力を節約した意味がなくなります。

というわけで、ここでは人間が暑く感じる仕組みを少し考えて見ます。暑さを感じるにはもちろん「気温」がもっとも直接的に利きますが、それだけではありません。加えて、「湿度」と「輻射熱」があります。高い湿度は汗の蒸散を抑えますから、体温上昇につながります。一方、汗で肌表面の温度が下がったとしても、壁や窓からの体温以上温度になっている物質からの熱輻射(特に8-14μm波長の遠赤外線)が直接肌にエネルギーを照射しますので、やはり暑く感じます。気温はいかんともし難い訳ですが、湿度と熱輻射ならどうにかなるかも知れません。

例えば、シリカゲルの様な吸湿剤を使えば、簡単に部屋の空気から湿気を取り除くことが出来ます。水分を吸ったシリカゲルは、太陽熱を利用して水分を取り除きます。湿度が少し下がるだけでも体感温度はずいぶん低く感じるでしょう。これを「デシカント冷房」と呼びます。一方、青空に放射温度計を向けて計測した場合、その温度は湿度にもよりますが15-6℃に相当する温度となります。つまり、室内の熱気を適当な手段で空に放射することが出来れば、室温よりはかなり低い温度が得られるはずです。これを「放射冷房器(動くものが無いので器です)」と言いますが、これ等についてはまだ本格的なシステムは開発されていないようなので、新しい製品を考えている企業には狙い目かもしれません。

また壁や窓からの強烈な熱輻射を抑えるには、壁面の外断熱と窓に貼る熱線反射フィルムが有効です。それらについてもまだ決定版が市場に出回っているわけではないので、潜在的な市場規模は大きいでしょう。可能な限り資源を使わない工法の開発が必須です。これ等はいずれも運転には直接的なエネルギーを投入する必要がないため、「パッシブシステム」と呼ばれます。つまり、太陽光(熱)を防いだり反射したりする、機械を使わないで湿度を除去するなど「受身」の対策なのでパッシブと呼ぶわけです。パッシブなシステムには、それが使われる環境に応じた細かな工夫も求められます。なにしろ地域や家屋の立地条件によって、システムに利用できる要素には大きなバラつきがあるわけですから。

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2007年8月25日 (土)

407 勝手サマータイム

省エネルギーの一方法の提案です。サマータイム制の導入が、夏場の省エネルギーに有効なことは論を待ちません。多分、10-20%程度の省エネは可能でしょう。何しろ、朝の涼しい内に仕事を始めればそれだけで仕事の能率が上がるでしょうし、冷房負荷も下がります。夕方残業しても、外はまだ明るいので照明も節約できるでしょう。

ならば、何も政府が京都議定書の「ささやかな約束」を守るためにしぶしぶサマータイムを導入するのを待つ必要はありません。顧客の限られた中小企業であればなおのこと、営業の一部を除いて自分の会社だけで勝手にサマータイムを導入すれば良いわけです。少なくとも、工場側は全く困らないはずです。工場で働く人々は、通勤のラッシュからは解放される訳で、今すぐ1時間通勤時間を早めてもたぶん電車・バスの公共交通機関の便が無いという事は無いはずですし、車通勤なら尚のこと道がすいていて渋滞にも無縁で、朝はエアコンも切って走れますから大幅な燃費向上にもつながるでしょう。結果、6%か14%か知りませんが、この程度のささやかな省エネ目標なら、「勝手サマータイム」だけで十分達成可能です。全国的にサマータイムが導入された場合でも、自分の会社だけ更に30分時差出勤を行えば、効果はほぼ同じです。

そうなると、例えば朝は5時には起きだして、6時には家を出る生活を送ることになります。子供も勿論一緒にたたき起こします。でも夕方4時には終業、5時には家に帰れますから、北アメリカや北欧並みに10時まで明るい訳ではありませんが、それなりに夕方の家族での新しい楽しみ方も盛んになるかも知れません。

一方、ざっと考えて見ても日本人が、お金を使わないで家族で楽しく時間を過ごす技に関して言えば、ひどく下手な国民であることは明らかです。だからといって職場から帰ってから家で冷房をガンガン効かして、テレビを見ているなどという生活を送っては、企業の省エネ分を家庭で食ってしまうだけになるので意味がありません。夏の暑い盛りの夕方、家庭での時間の使い方や省エネ方法については、別の知恵をひねり出すことといたします。

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2007年8月24日 (金)

406 経済不安

素人ですが経済活動にも批判的な意味では興味はあります。世界同時株安は、基本的には米国のSPL(サブプライムローン)の貸し倒れ不安や日本と諸外国の大きな金利差を利用したキャリートレードによる不自然な円安にその震源があると言われていますが、話はそれほど単純ではないはずです。現代では、投資者や資金運用者(ファンド)は、大損をしないように何段階にも証券化するなどしてリスクの分散を図っています。そのリスクのかなり大きな一端は、日本の金融機関や損保会社も引き受けていて、資金が回っている間はその運用益で儲けてもいます。しかし、一度信用不安が表面化した途端に、投資者は資金を引き上げ始めますから、実態以上に信用不安が加速します。リスクを受け持った側には、紙くず同然の証券や債権だけが残るだけです。

中国やインドの繁栄も非常に底が浅いと思われます。ものに例えれば巨大な泥舟とでもいえるでしょう。石油や資源の供給や環境悪化が許す間は、薄くなっている船底を新たな泥(新たな起業や追加投資)で塗り固めることも出来るでしょうが、経済破綻やエネルギー不足や資源枯渇が現実のものとなって、舟底に穴が開き始めると、急激な沈没は不可避でしょう。その前に、投稿者が懸念しているように、先ず水不足が現実のものとなり、次いで環境悪化による健康被害が大ブレーキを掛けると見ています。中国にはもはや安全な水は残されていませんしインドでも地下水の過剰くみ上げで、食糧生産が制限を受け始めています。早晩、汚染された水による健康被害や食糧不足による飢饉が、これ等の国々の成長を阻害することは、素人目にも明らかです。それが現実となれば、これ等の国々に進出している企業や投資者にも、結果として日本経済にもその影響は甚大なものになるでしょう。日本はこれら途上国のリスクを大きな部分の、経済面で背負っている国の一つでもありますが、何より経済的なリスクとは元手も無いのに「楽して金を儲けようとする行動」から生まれるものでもあります。

自動車メーカーであるT社も、Pリウス程度で消費者の目を誤魔化していては、多分数年後には業績が落ち始めるでしょう。彼らには、いまこそ莫大な利益をつぎ込んで、車体重量が今の半分で、燃費が今の2倍以上の(つまりは1リッターで50km以上走る)車を開発する「責任と義務」があります。リスクとは(巧みに隠蔽した上で)安易に分散するものではなく、真正面から引き受けるものなのでしょうから。皆がそう考えるようになれば、単なるマネーゲームの結果としての経済不安もかなりは解消されるはずです。

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2007年8月23日 (木)

405 石油値上がりを喜ぶ

石油の値上がりが止まりません。既に書いたように、石油資源の半分は既に掘り出して使ってしまった訳ですから、今後値上がりしこそすれ、値下がりの圧力は殆ど働かないと思われます。中国での車の普及カーブを見ても、途上国のエネルギー需要の盛り上がりを見てもそれは確信できます。しかし環境おじさんを自認する投稿者としては、内心この石油の値上がり傾向を大いに喜んでいます。石油価格が上がれば、さすがにガソリンのガブ飲みは少なくなるでしょうし、人々は少しでも燃料代を節約しようと頭を働かせることでしょう。投稿者の願いもここにあります。

かつて起こった第1次、第2次の石油ショック時には、人々は本気になって省エネルギーに知恵を絞りました。実は、困った時に頼りになるのは、本に書いてある知識ではなく、人間が絞り出す知恵の方なのです。その意味で脳とは、単なる知識の倉庫ではなく、本当に困った時にどうにか生きていくための知恵を搾り出すためにある器官なのです。

必要は発明の母とは良く語られる言葉ですが、投稿者は「困窮こそ本当の発明の母」であると断言します。前のオイルショックの時には、なんと鋼鉄製の大型タンカーに帆(布の帆ではなく、硬いハードセイルです)を張る事まで考えられ、実際にもそれが試作されました。人々は、当時2万円くらいのビニール袋でできた安い太陽熱温水器を屋根に上げて、ガス代を節約もしました。その他、この時代に考え出された省エネルギーの知恵を、思い出し、あるいは図書館で古い新聞記事でも引っ張り出して、改めて掘り起こして見るならば、あっと驚く裏技も見つかるかもしれません。もちろん裏技は、一つや2つでは全く足りません。たぶん100個くらい昔の知恵を発掘すれば、少しは省エネ効果が実感できるかもしれません。

投稿者は、自分が考案し、あるいは掘り出して「ストックしてきた」省エネルギーや省資源の知恵の出番が近いことに、実はかなり自信をもっています。知恵の幾つかは既にこのブログでも紹介しましたが、今後も随時紹介し続ける事といたします。

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2007年8月22日 (水)

404 SCかHCでも

最近日中にSC(ショッピングセンター)やHC(ホームセンター)の前を通過することがありますが、それはもういつでも良く混んでいます。夏休みということもありますが、最近投稿者の住んでいる街に出来た巨大SCでは、駐車場に止めるのに数時間待ちというプラカードが出ていたりします。毎日が日曜日となった人口がやや増えたとはいえ、お金がソコソコあって、しかも暇な時間の多い人のなんと多い事でしょう。確かに建物の中は涼しいし、店内を冷やかして歩けば暇もつぶれますが、しかし他に何かすることは無いのか、やや寂しくもなります。第一、巨大SCやHCの顧客ターゲットはたぶん15km四方の地域程度に設定されているでしょうから、平均的には片道7-8km程度は車を転がすことになります。これだけで往復ガソリン約2リットルは燃やすわけです。数千台の車がそれぞれ燃やします。加えて天井の高い巨大なスペースをギンギンに冷房し、煌煌と照明するエネルギーの量を考えると気が遠くなります。それでも、単位売り場面積当りのエネルギー使用量で言えばコンビ二よりも大分マシなのですが。

ところで、投稿者は、ある時期人生を3つのフェーズに分ける事に決めました。第1のフェーズは「学びフェーズ」で、生まれてから曲がりなりにも独り立ちして社会に出るまでの期間を指します。現代社会ではもしかすると30歳前後まで続くようになったかもしれません。続いては「働きフェーズ」です、社会に出てからも少し第1のフェーズが続く場合もあるかも知れませんが、これは家族を持ち、子供たちが独り立ちをする頃まで続く、たぶん最も長いフェーズです。最後が「伝えフェーズ」です。社会的地位もでき、そろそろ定年や引退というイベントが現実の問題となってきた頃に、この第3のフェーズの始まりがあるでしょう。このフェーズでは、それまでの人生で学んだ知恵を後進に伝えることが主な仕事です。

SCやHCで暇つぶしをしている年配の人たちには、是非この「伝えフェーズ」で一体自分は何を後進に伝えるのか、改めて考えて貰いたいのです。退職金と年金で、たっぷりと海外旅行や温泉旅行を楽しもうなどと間違っても考えないで欲しいものです。もし何も伝えるものが無いと思うのだったら、公共の場の清掃や草抜きなど、為すべき仕事はたんまりあるはずです。それが嫌だったら、ご先祖さんの居た田舎にでも引っ込んで、自分が食べるくらいの田畑を作るべきです。資源の少ない日本では、ますます増加する多数の「楽隠居(年金生活者)」を養うだけの余裕は、間違いなく無いはずですから。

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2007年8月21日 (火)

403 知財経営

以前に企業に必要な「三本柱」について書きました。堅実経営、知財経営、環境経営のことです。環境経営については再々書き記していますので、ここでは知財経営について書いておきます。知財経営とは、単に自社の製品に関するいくつかの特許や実新を登録してあれば十分というわけではありません。ここでの意味は、今後どのような製品・サービスを提供していくかのアイデアのことです。しかしながら単なる思いつきのアイデアではどうにもなりません。世の中には多くの発明家と呼ばれる人々が居ますが、彼らの着想はたぶんそれなりに独創的なものではあるでしょうが、多くは単なる思い込みかアイデア倒れの場合が殆どでしょう。アイデア倒れの真の理由は、確固たるニーズの裏づけが無いことです。つまり面白い発想ではあっても、それを必要としている多くの顧客の存在が見えていないのです。それが無いアイデアは、目新しい内はそれでもいくらかは売れるでしょうが、3ヶ月以降(つまりは噂の平均持続期間である75日以降)は、たぶん市場からは潮が引くように消えているはずです。

つまりは、ここで述べる知財経営でのアイデアとは、ニーズによって裏打ちされたものという大前提が必須です。しかもそのニーズは、持続的で普遍的なものである必要もあります。ニーズにはレベルがあります。それが無ければ毎日の生活が送れないもの(生活必需品)をレベル5とすれば、趣味の世界などのニーズは、衣食足りて初めて必要とされるレベル2、さらに贅沢品と呼ばれるものは、お金が余っている時以外は手を出す人は殆ど居ないでしょうからレベル1以下となります。

一方、現在では必需品と呼ばれているものも実は、かつては贅沢品であった訳です。投稿者が子供の頃は、商売をやっているか医者でもない限り、自家用車を持っている家はありませんでした。カラーテレビも冷蔵庫も贅沢品でした。投稿者のレベル分けでは、古い時代に開発された製品やサービスほど根源的なニーズに根ざしているとしています。江戸時代に作られた製品やこの時代に始められたサービスこそが、必要不可欠だと考えても良さそうです。これらの製品やサービスを現在でも扱っている企業は、加えて堅実経営と環境経営さえキープしていけば、今後の100年も安泰でしょう。一方、高度成長期に作られた製品やサービスに関わっている企業は、今後生き残りが大変だと同情せざるを得ません。何故なら、それらの多くは高度成長期に無理に作り出された需要であるからです。いま必要な事は、自社の製品やサービスに対し「持続可能性を物差しにしたニーズレベルの再吟味」です。そのレベルが高く、日々そのニーズへより確かに応えるための工夫を積み重ねていれば、やはりその企業の将来は、(経営者がバクチさえしなければ)安泰だといえるでしょう。

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2007年8月20日 (月)

402 3人4脚

科学と技術は2人3脚の関係で進んできました。産業革命により、それに経済が加わり、3人4脚のややこしい状態になってしまいました。特に、戦後石油が自由に使える時代になると、国際間の貿易ができ易くなり、この3人の中では特に経済と技術がぐいぐいと前に出始めました。結果として科学がその倫理的チェックを含めて相対的に足が遅くなり、他の2者に引っ張られる状況に陥っています。科学・技術が経済論理で押し切られると異常な事態が発生します。つまり、経済的に都合の良い科学・技術のみが前面に押し出され、逆に都合の悪いものは後ろに追いやられます。

農業関係でその例を見ていくと、例えば科学や技術の力で、収量が多くなった品種、あるいは遺伝子組み換えで病害虫に強くなった品種は、経済的にも強い品種であるため多くの農家がそれを作付けするようになります。しかしながら、その品種が実は人体にとってあまり良くないアレルゲンを持っていたり、あるいはたった1種類の害虫や病気に弱かったりする「穴(まさにバグです)」まではチェックできないものです。結果として、日本の現代人にアレルギー症状が多いのは、小麦の多食に一つの原因があると見ています。小麦は、日本の伝統的な食生活では量は限定されていました。麦の収穫時期は日本では6月頃(麦秋)になるため、稲作と競合するからです。従って、6月以降の田植えでも間に合う温暖な二毛作地帯でもなければ、麦は作れなかったのです。今は外貨さえあればいくらでも輸入できます。小麦粉の中には、間違いなくアレルギーの元となる物質が含まれています。日本人は体質的に、パンや麺やパスタを毎食食べてはいけないのかも知れません。結局一方では、主食である米は余り続け、他方で小麦やトウモロコシの輸入量は増え続けてきました。

ここでの結論としては、科学・技術・経済の3人4脚の暴走はそろそろ解消されなければならないということです。代わって必要なのは、今後もこの3人4脚が続くにしても「持続可能性」と言うペースメーカーを導入すべきでしょう。必要なことは、社会のスピードの抑制しかありません。

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2007年8月19日 (日)

401 窮すれば

「衣食足りて礼節を知る」と言われてはいますが、衣食が足り過ぎると一体何が起こるかはあまり言及されていません。一方、「窮すれば通ず」とも言われていますが、投稿者は「窮すれば工夫する」と言い直して見ました。考えて見れば多くの発明や工夫は、困り事から生まれたものが多いような気がします。ローソクやランプは、確かに夜の細かい仕事や読書には適さない照明器具でした。エジソンは、その困り事を、耐久性のある電球の発明により解決した訳です。のろしや伝書鳩や電信による通信も、情報量の少なさや正確さやスピードに問題がありましたが、ベルの電話やその後のFaxの発明は、これを見事に解決しました。

現代社会には、便利で小奇麗な機器や道具やらがあふれ返っています。人間関係や法律絡みの問題を別にすれば、先進国と呼ばれる国々で現代人が生活で「ホトホト困り果てる」事は殆ど無くなったといっても良いでしょう。しかし、一方では「便利病」に犯されていることも間違いない事実です。便利病とは、便利であることに慣れすぎて、全く自発的な工夫を行わなくなる症状の事です。その例は、子供の遊びや生活態度にも如実に表れています。ものの無い時代には、子供は手近にあるありふれた棒や石や葉っぱやゴム紐などで遊び道具を工夫して作り出していました。手ごろな竹と小刀があれば、水鉄砲や空気鉄砲を作り出すことができました。それも無ければ、手ごろな石で石蹴りや水切りで日が暮れるまで遊ぶこともできました。一方、今の子供の遊びはといえば、携帯ゲーム機や出来合いのオモチャしか見当たりません。

これは一つの法則になり得るかもしれません。つまり「モノの充足具合と工夫の量は逆比例する」などという法則のことです。その意味で、投稿者はできる限りお金やモノと距離を置こうと考えたわけです。そのお陰かも知れませんが、最近いろんなアイデアを次々に思いつくようになりました。もちろん、それらのアイデアは今のようなモノに溢れた時代には全く役に立たないものではありますが。やがて到来するモノの不足する時代には、そんなアイデアも多くが役に立つでしょうから、キテレツ斎?ではありませんが巻物にでもシタタメテ、遠い未来の子孫のためにでも書き残すことにでもしましょう。

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2007年8月18日 (土)

400.5 冷暖房不備

投稿者の事務所に暖房設備が無いことは既に書きました。ところでこの事務所には冷房設備もありません。扇風機すらありません。夏場の晴天の日は、事務所内部の気温は35℃程度には上昇します。三方の窓を全開にして風を入れるのですが、無風の日は悲劇です。幸いにも、道を隔ててマンションがありますが、その裏はすぐ木曽川になっているので、時々川風が吹くためこの気温でも何とか耐えられます。冷蔵庫もないので、飲み物は室温と同じ温度の水か、温かいお茶かコーヒーということになります。

しかし慣れとは恐ろしいもので、こんな毎日でも体はついていくもののようです。来客が無い時には短パンにTシャツで団扇片手に仕事をしています。あまり暑いときは、昼前後に近所を少しジョギングしてたっぷり汗をかいておいて、帰ってきてから頭から水をかぶります。これで、気分的には10℃くらい体感温度が下がります。

この事務所は冷暖房なしでも、人は何とか仕事が出来るものだという人体実験の場でもあります。しかし考えてみれば、多くの人が炎天下、屋外で働いてもいます。建設や道路工事に関わる人、ショッピングセンターで駐車場の整理をする人、歩きで個別訪問をするセールスの人、農家の人、山仕事に関わる人、漁師などなどです。肉体労働には冷暖房が不要で、事務所の座り仕事にはそれが必要と言う勝手な理屈はありません。ましてや、その収入に大きな差があるなどと言う不条理は正されるべきでしょう。ここで言う不条理とは、書類しか生み出さず、多量のエネルギーを使う職種が、体を張って何かを作り出している人たちより優遇されるという状態のことです。何しろ投稿者の最近の持論によれば、お金とは他人の時間を使う権利の事ですが、幸いにもこの時間は万人にほぼ平等に与えられているはずで、生涯に獲得するお金の額は、その人の寿命にほぼ比例すべきものであると信じています。もしそれを超えてお金を稼ぐ人があるとすれば、それは他の人の上前をはねているか、或いは環境に無理な負荷を与えたかのいずれかでしょう。

こんな話をまじめに人の前で話せば、きっと「この人は共産主義者に違いない」と思われるかも知れません。しかし断じて言いますが、投稿者は「環境おじさん」以外の何者でもありません。もし何らかのレッテルを甘んじて受けるとすれば精々「環境原理主義者」とでも自称する事にします。

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2007年8月17日 (金)

400 長い鳥の目

鳥の目と虫の目の続きです。しかし困った事には、実は我々人間は鳥の目と虫の目使い分けは結構苦手のようなのです。何故かと言えば、多分人間はある状態に慣れると、その状態を維持しようとする「慣性力」を持つからです。状態の維持は、変化に対応するよりも省エネなので、精神的にも肉体的も楽ではある訳です。例えばサラリーマンは、会社の中のある部門でコツコツと仕事をしていれば、毎月決まった額のサラリーが手に入るので、敢えて会社を飛び出して鳥の目を持つ必然性は感じないで済みます。これまでの伝統的日本の企業社会では、多くの人は会社という壁の中で、定年になるまで虫の目だけを持って過ごす事が可能でした。

しかし、地球のサイズや容量の限界問題としての資源の枯渇や地球環境の悪化が喫緊の課題となった現在や今後の社会には、確かなシナリオは存在しませんので、これまで以上に頻繁に鳥の目を使って、社会全体を「鳥瞰」する必要性が増した時代に至ったといえます。鳥の目を持つのは以外に簡単です。投稿者の様に、長年慣れ親しんだ環境を一度捨ててみることです。それができなくても、できるだけ住む世界の違う人々(できれば外国人)と交わる事も、非常に良い刺激にはなります。

今はまさに、実は100年程度を見通す「長い鳥の目」が必要とされている時代だとも言えるでしょう。なぜなら、19世紀から20世紀を通じて培われてきた科学・技術だけに社会の舵取りを託す時代は過ぎ去ろうとしており、それに代わる新しい(或いは古い伝統的な社会規範の見直しで)社会規範を打ち立てなければならない時代だからです。そうでなければ、昨日のように最高気温は更新され続けるでしょうし、その他の環境的災害が雪崩を打って押し寄せてくるからです。異常気象は30年に一度以上に稀でなければなりません。それが常態化すれば、もはやそれは異常気象ではなく、重大な気候変動になる訳です。

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2007年8月16日 (木)

399 鳥の目

夏休みを取って、親の墓参ついでに山を4つ登って昨晩帰ってきました。山登りはあくまで「ついで」です。バイクを2000km近く転がして、「一日一山?」で過ごしてきました。投稿者が山に登る理由は幾つかありますが、先ず人間にとって酸素と水が必要不可欠の物質であることを、身を以って確認する、2000mを超える高層の気候や天候の変化(例えば雪渓の大きさや湧き水の状態など)を実感すること、もう一つ付け加えるとすれば、自然があるがままの姿を残している場所では、一体どんな秩序が出来上がっているのか観察する事です。自然は、ほったらかしにすれば、何の秩序も無くなりそうな感じがしますが、実際には植物や虫や動物がお互いにしのぎを削りながらも、ほぼ完全なシステムを作り上げます。それを壊すのは、人間と火山や隕石などの天災くらいでしょう

さて、よく鳥の目と虫の目が比較されます。確かに目の前の現象を細かく、しっかり見るためには虫の目が必要ですが、こと環境問題について言えば絶対に鳥の目が必要です。それも、時間軸の長い鳥の目です。山は岩や森や植物などが集まったものですが、個々の岩や木に着目しても何も見えてきません。岩について言えば、それは全体的に見れば火成岩なのか水成岩なのか、森にについて言えば、それが針葉樹の森なのか、広葉樹の森なのか、混合林なのか、それも人工林なのか自然林なのか、はたまた半人工林なのかといった様に、森の理解のためには全体を見る必要があります。

同様に地球規模の現象を理解するためには、気象学者の目だけでも、地理学者の目だけでも更に植物学者の目だけで不十分です。多くの学者は、拡大倍率は高いが、しかし虫の目しか持ち合わせていないと想像されるからです。(あくまで想像ですが)

一方、鳥の目だけでもやはり用が足りません。何故なら、全体としての現象は掴めても、その個々の原因は虫の目を使わないと見えてこないからです。とはいいながら、私たちにはこの二つの目を同時に使う能力はありません。つまりは、私たちには鳥の目と虫の目の両方が必要ですが、それを時と場合によって使い分けなければならないということになります。

頭がまだ「山モード」のブログです。

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2007年8月 9日 (木)

398 技術的夢遊病

誰の言葉か忘れましたが、20世紀後半の技術の爆発的展開を指して、「技術的夢遊病」と評した人がありました。夢遊病とは、脳は睡眠状態にありながら、体は覚醒している時のように勝手に動いて、訳の分からない行動を起こしてしまう状態ですが、確かに20世紀後半は、世界全体が「技術の進歩と人類の幸福は比例する」と言う夢の様な話に酔い、深い考えも無しに盲目的に動き回っていた時代だったとも言えそうです。

元技術屋として深く恥じ入るのは、多くの技術屋は「殆ど盲目」であるという事実です。確かに特定の分野では技術のプロではあっても、他の技術分野、経済、社会、人間工学、農業、自然環境、生物、生態系、気象、廃棄物の処理などには殆ど関心を持たないか、或いは勉強してみようという気持ちも持ちません。さながら、横の馬(分野に)目がいかないように「横目隠し」をされた競走馬にも似ています。その結果何が起こったかといえば、多くの公害問題や製品の構造や使用法が原因となったユーザー事故などが多発したわけです。

始末の悪いことに、技術的夢遊病者は、「技術を使う事は人類の幸福に寄与する」と頑なに信じ込んでいます。結果、「使ってはいけない技術」と使っても「どうにか環境が許す技術」を混同してしまいます。むしろ、工場の中にこの2種類の技術が同居しているケースの方が多いと言えるかもしれません。量が少ない間は環境問題を引き起こさない技術でも、その量が拡大するにつれて、使ってはいけない技術に変容するケースもまた多いのです。一つだけ例を挙げるならば、車はその代表でしょう。地球上には、もう既に7-8億台の車ガ走り回っていますが、この地球には問題を起こさずにこれ等の車を走らせる環境的余裕は無いのです。

新潟の地震の影響でたった10万台ほど生産台数が減ってしまった車産業が、休日返上や残業でそれをカバーしようとしていますが、もはやこれら企業の「夢遊病者」には、地球環境のために数歩だけでも歩みを止める余裕すら残されていないという悲しい事実を見る思いです。

どうも話が暗くなりがちですが、楽天的悲観論者である投稿者の本意とするところではないので、今後はではどうすれば良いのか、もう少し前向きの話題を取り上げる事とします。

さて明日より投稿者は墓参と山登りのため1週間弱ブログを休止します。15、16日頃再開予定です。

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2007年8月 8日 (水)

397 システムというレール

システムは国や社会や企業などの仕組みを転がしていく上では欠かせないものではあります。もしシステムが無ければ、社会は混沌の中で「もがく」だけになります。太古の社会ではろくなシステムはありませんでしたが、しかし決して混沌状態ではなかったと想像しています。それは、社会の規模が圧倒的に小さいことがその理由だと考えられます。つまりは部族のリーダーの目が届く範囲の中に、その社会のサイズが納まっていたからです。それは、日本では幕末まで続きました。各地で大小の川が作った沖積平野には城があり、領主がいて、その目が届く範囲に領地が広がっていたわけです。

しかし、日本の国程度のサイズでも、国がひとつになるとシステムが必要です。そのため、封建主義というシステムしか持っていなかった日本は、欧米から種々のシステムを輸入しました。憲法、法律、道路交通法、金融、流通、官僚、学校、郵便システムなどなどです。システムを別の言葉で表現するならば、それは鉄道のレールに似ているかもしれません。社会の構成員は、動くことの自由は保証されてはいますが、あくまでそれはレール(おきて、規範又はルールとも言いますが)の上での話しです。レールから外れる事は許されません。それはルール違反(おきて破り)に当たるからです。

一方で、自然環境にも厳然としたルールはあります。しかし、わがままな人類はそのルールを守らず、身勝手なルールを作り上げてしまったのでした。結果何が起こったかといえば、本来自然のルールでは、住んではいけない場所、例えば洪水の時大量の水の受け皿としての「遊水地」や土石流のストップする場所としての「扇状地」、海面より低い「干拓地」、あるいは川の「氾濫原」或いは古い「断層帯」などにも工場や家を建てて暮らし始めたという訳です。

社会のシステムが小さく弱い間は、自然のシステムの陰に隠れて問題は小さかったのですが、いまや人間社会のシステムのレールは、アマゾンの奥地や南極や半砂漠地帯やシベリアのツンドラ地帯などにまで張り巡らされて、「資源開発」という名の自然システムの破壊行為を繰り返しています。たまには人間が引いたレールから外れて、野山を歩きながら自然のルールを観察する余裕を取り戻すべき時期だとは思います。

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2007年8月 7日 (火)

396 間違った場所

ゴミの話のついでです。7-8年前ドイツに行った事がありました。ドイツでの環境への取り組みは日本の10年は先を走っていると感じたものでした。その頃ドイツで定着していたキャッチコピーの一つとして「ゴミとは間違った場所(ゴミ捨て場)に置かれた貴重な資源での事である」がそこここに掲げられていました。ドイツでは、焼却場から発生する排気ガス(ダイオキシンなどの有害物質も含まれて居ます)や焼却灰の処理場の逼迫(殆どが廃鉱となった地下の炭鉱跡に埋められていました)などの問題を抱えていましたが、ゴミを徹底的に分別する事により、ゴミの殆どを資源として再利用する事によって、国内の殆どの焼却場を閉鎖する計画を立てていました。

とは言いながら毎日の生活からはゴミが排出されます。ドイツではゴミは4つくらいにしか分別されていなかったような気がしますが、その代わり収集したゴミを機械選別と手選別を併用して徹底的に分別していました。「容器リサイクル法」も日本よりは数段進んでいて、容器の材質もかなり少ない種類に制限されていました。従って、分別も人手を掛ければ殆ど完全に分けることが可能となっていました。当時でも国内のごみ焼却場は数箇所に減らしたとの成果が出ていると、関係者から聞いた覚えがあります。結果として、実は雇用の創出も生まれました。仕事の種類が限られる海外移住者を含めゴミの分別、リサイクル産業だけで150万人の雇用が確保されたという事でした。これが、よく言われる「静脈産業」というものになります。消費行動の結果、必ず要らないものが発生します。誰もそれを処理しなければ、アメリカやフィリピンなどに見られるように、単に集めて大きな穴に埋めるか、単に野積みにするしかありません。東京都の「ゴミの島」も似たようなものでしょう。しかし、考えて見ればゴミは、ゴミになる前は何らかの機能を果たしていた物質でした。紙ゴミ包装ゴミは紙でしたし、容器はプラスチック原料から造られました、生ゴミは食糧でしたし、燃ないゴミは形のある製品であった訳です。紙は紙、プラスチックは原料別に、燃えないゴミは鉄は鉄、木は木、アルミはアルミと完全に分解・分別できれば、ゴミとは実は捨てるところの無い資源の塊である事が分かります。「ゴミとは間違った場所(ゴミ捨て場)に置かれた貴重な資源の事である」が、実に正しい標語であることは間違いありません。

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2007年8月 6日 (月)

395 秩序とゴミ

部屋の掃除や洗濯が好きな、きれい好きな人も多くいることでしょう。しかし投稿者は、部屋を片付け、掃除した後のゴミの行方をついつい考えてしまいます。部屋の隅を占領していた、古い棚を処分した場合、それは翌日の粗大ゴミの日にゴミ置き場に移動されます。一方、床のゴミを掃除機で吸い取ると、当然の事ながら掃除機のパックにゴミが溜まります。雑巾がけをしても、汚れが床から雑巾に移動するだけです。その雑巾をバケツで洗えば、汚れは水に入って下水処理場へ送られ、そこの処理の負荷を上げます。処理場では、主に活性汚泥法で処理されますが、その汚泥は掃除機に吸われたゴミは、石油を使って焼却処理されます。石油と一緒に燃やされた汚泥やゴミは、二酸化炭素や二酸化窒素やその他の酸化物となって大気を汚します。結局人間は、自分たちの住む社会の秩序を守ろうとして、ますます自然の秩序を乱しているのだと言えます。便利で良く片付いている家や建物こそ、実は自然破壊の元凶です。狭くて、不便で、物の無い家(例えば、昔の世捨て人の庵のようなもの)こそ、より自然に同化した、自然に優しい住まいであると断言できます。そこでは、廃棄物は最小限で、しかもその殆どを土(自然)に戻してリサイクルします。生ゴミ、植物を燃やした灰はもちろん、し尿も例外ではありませんでした。

勿論現代社会においては、世捨て人のようなライフスタイルの実行は無理かも知れませんが、たとえ一歩でもその様な方向に近づく事は十分可能です。自分の周囲からモノを遠ざければゴミが減ります。生ゴミは水分を十分に切って、出来れば新聞紙に包んで洗濯バサミで吊るして置き、乾燥させてからゴミとして出せば、ゴミ焼却場で燃やす石油の量がぐんと減ります。食べ残しを減らし、食器や鍋にこびり付いた料理の残りや油を新聞紙でふき取ってから洗い、体に付けて洗う石鹸の量を減らすだけで、下水処理場の負荷は大幅に減ります。私たちは、人間社会の秩序を守る事とは、実は自然の秩序を乱す行為そのものである、とそろそろ気がつくべきです。

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2007年8月 5日 (日)

394 あちら立てれば

あちら立てればこちらが立たず、とかくこの世はままなりません。ここでのあちらとは、便利な人間社会、こちらとは言わずもがなの自然環境です。これを、経済的発展と環境保全、あるいは経済優先主義と心静かな生活、はたまた便利さと事故防止、更には快適な生活とゴミの圧縮などと言い換えても、やはりその相容れない関係は成り立ちます。私たちの住む社会が今直面しているのは、今の快適な生活と温暖化を含めた環境悪化の防止の、一体どちらを取るのかという問題なのです。しかし問題を複雑にしているのは、快適な生活を享受するのは今の(しかも先進国と言われる国々の)世代で、割を食うのは途上国と呼ばれる国々に住む現世代や将来世代であるという点です。受益者と被害者が同じであれば合意は得られ易い話ですが、それが違う場合はエゴが前面に出てきます。人間は、殆どの場合一度手に入れた権利は手放したがらないものだからです。温暖化の問題、は現世代のエゴが形になったものです。

温暖化防止を、いくら声を大にして呼びかけても、結局は今の世代が実際に被害を被って痛い目を見ない限り、その動きは本格化しないのでしょう。それにしても、ヨーロッパのかなりの国々では、将来世代のために幾つかの大胆な手を打ち始めているのは立派だと言えるでしょう。これも繰り返していますが、今の世代が多少不便で苦しい思いをしても、将来世代の幸福を考えると言う立場にならない限り、地球環境の悪化にブレーキが掛かる事も期待できません。限られた地球の環境の中や資源量の範囲内では、あちらとこちらを同時に立てる事は不可能なのです。何は無くても、不景気になっても、政府として先ず手を打つべきは、環境税の導入しかありません。しかもこれは、環境悪化を防ぐ事だけに使う完全な「目的税」でなければいけません。一方普通の生活人が始めるべき事は、資源の浪費やエネルギーの多用から一歩でも距離を置く努力、つまりはより質素な生活へ向かう努力です。自発的失業後のこの1年で、特に感じているのは、質素に暮らすのは本当に気持ちが良いものだという事です。

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2007年8月 4日 (土)

393 お金の引力

お金の話の続きです。お金は、人が持つ時間や命に比べて相対的に力が強くなってきたと書きましたが、それは、殆どあらゆるものに比べても力が強くなり始めているとも感じています。今は、人間の臓器も含めて金で買えないものは殆ど無くなったとも言えるでしょう。ただし、それは人間の持っているモノという前提がつきます。お金はそれ自身強力な引力を持っています。お金を持つ人は、労せずしてそれを増やそうと画策します。株、信託などへの投資、一円でも利息の高い預金、怪しげな儲け話、ネズミ講、利息の高い海外への退避などなど。お金を持っている人はますます、その引力を利用して増やす事が可能なのです。

お金の引力を弱め、暴走を止める事は、考えようによっては実に簡単です。それはお金で買えないものを増やすだけです。お金で買えないものは少なくなったとはいえ、人間が作ったものではない、例えば自然環境は、お金では買えないものの代表ですし人間の心などもその一つです(とは言いながら、金で心を売り渡す例には事欠きませんが)。しかし残念なことにそれ以上の例をすぐには思いつきません。

いずれにしても「お金の暴走」には歯止めを掛けなければなりません。出来る限りお金から遠ざかって暮らすことが出来ればそれが一番の方法ですが、現実を眺めればそうも行きません。黙って息をしているだけで毎月出て行くお金があるからです。食費だけではなく、住民税、固定資産税の月割り分、保険の掛け金、車を持っている場合は諸費用の割り掛け分、光熱費、通信費(固定、携帯電話、光通信等でこれが結構バカになりません)などなど。しかし、自給自足を理想としておき、これに少しでも近づく努力をしていけば、徐々にでもお金の引力圏から離れられると思うのです。一つの方法として、可能な限り太陽光の方ににじり寄っていく事があります。具体的な行動としては、狭くても庭やベランダで野菜を育てる、風呂は太陽光で沸かす、プラスチックの製品ではなく木の製品を選ぶ(勿論国産材の)、肉を遠ざけて野菜・穀類中心の食生活にする、早寝早起きで太陽光を有効利用するなどなどです。

太陽光への依存度が上がれば、自動的にお金の引力からも距離を置くことが出来るようになるでしょう。何しろニュートンさんも示したように、引力は距離の二乗に比例するのですから、それからの脱出も容易ではありません。最近投稿者の財布には小銭しかないことが多くなってきて、少し引力から脱出できつつあるような気がしています。

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2007年8月 3日 (金)

392 休題(時と金)

就職してお金を稼ぎ始めてから既に35年以上経過した訳ですが、最近この歳(Mid50)になってお金の持つ意味がやっと分かってきたような気がしています。投稿者の「最近の定義」によれば、結局お金とは「他人の時間を使う権利である」というものです。お金を稼ぐためには、逆に自分の時間を売り渡さなくてはなりません。例えば、お金を出して車を買うこととは、その車を形にするために関わった人々、つまりは原料を供給した製鉄所の人、車の設計者、部品工場の作業者、自動車組み立て工場の人々、販売会社のセールスマン、それを支えていた間接職の人々の時間を買うことを意味します。

時代は、ますます多くの時間を金に換えることが進行しています。と言うよりは、お金無くしては何かを手に入れる事も、お金無しに自分の時間を潰すことさえも出来なくなった時代であるとも言えます。しかも、金に対する個人の時間の価値は、ますます目減りしているのはないかとも疑っています。例えば一人の命が(つまりは人間の一生分の時間のことです)、世間相場では数億円程度に軽くなってしまった事も同じ根を持っている問題でしょう。少し昔に溯れば、人はもっと自分自身のために自分の時間を使っていました。何しろモノが少ない時代でしたから、そうするより仕方がなかったのですが。

投稿者は、いまお金を捨てて自分自身の時間を取り戻そうとあがいている状態であると思っています。(とは言いながら、今でも週の内16時間は、時間を売り渡していますが。)少なくとも自分ではそう思って暮らしています。それで何が良かったかですが、何しろ自分で自分の時間を自由に使う訳ですから、ココロが自由です。お金はありませんので、モノは買えませんからモノの呪縛からも自由になりました。今使っているモノは壊れるまで使い、壊れたら修理してまた使います。時は金ではなく、自分の時間は時間だという生活に、世間の標準よりは5年ほど早く入った訳ですが、自由になった時間の内、少しでも多くの時間を将来世代幸福のために使おうとは心に決めています。

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2007年8月 2日 (木)

391 1周年

このブログを書き始めてちょうど1年経ちました。毎日毎日、それなりの分量(1000字程度)の文章を書くことは、結構大変ですが、それにも増してタイトルを決める事の方が骨でした。環境問題に絡めて、できる限り広い分野の話題を取り上げたかったからです。

タイトル数も、何日間かの休みもあったのに、既に365を大分超えていますが、そういえば最初のうちは1日に2タイトルを書いた日も結構ありました。書くことは、最近は全く苦にならなくなりました。心に浮かんだ事は、手が勝手に文字にしてくれます。キーボードは基本的には、両方の中指だけを使って打っていますが、特に不自由は感じていません。多分昔習い覚えた英文タイプライターで、指がローマ字配列を覚えている事がその理由でしょうか。投稿する立場になって分かった事はといえば、やはり毎日ブログを読んでくれている人たちが居る事による「書き甲斐」でしょうか。何故か1日に100人近くの人が読んでくれる日もあれば、10人弱に留まる日もあります。見た目は文字ばっかりで、しかも環境問題について同じような事を、言葉を変えてクドクドと独り言を書いているブログに、それほどの人気が出るとは本人も思っていませんが、やはり多少は気になるところです。アクセス数も1年でやっと10000に近づいてきた程度ですが。

さて1年間書き続けて、書くことが無くなって結論が煮詰まったかといえば、実はそんなこともありません。それどころか毎日のニュースや報道で耳にする(テレビや新聞は時々見るだけで、日常的にはラジオが情報源です)だけでも、環境問題に限らず、経済の仕組みの破綻、エネルギー高、倫理観の欠落、社会秩序の崩壊、人間性の歪など、このブログで取り上げたい問題はまだ山積です。

このブログは、特に環境保全にとって「不都合な現象」が何故起こるか、どうしたらブレーキを掛け、出来れば少し後戻りできるか、そのために個人はどうすべきかを、投稿者の考え方、実践行動を通じて書き留めておく事が目的です。実際にそうなっていたかは、自分でも時々チェックしていますが、アクセスしていただいている読者からも折に触れて「痛いコメント」をいただきたいところです。

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2007年8月 1日 (水)

390 複雑系

自然の仕組みは単純ではありません。ひとつの現象がその周りの環境要素(この言葉自体も環境を要素分けしようとするあまり良くない言葉ですが)に影響を与え、元々の現象を引き起こした存在にも影響を与え、さらに別の要素にも影響を与えるという連鎖が生じます。しかも、その影響は比例的ではなく、一定の範囲までは何も影響が現れないが、限度を越すと急激な影響が出ることも珍しいことではありません。一方、科学者や技術者は、物事を公式にあてはめて、養老猛風に表現すれば「ああすればこうなる」式に考えがちです。環境問題も、温暖化防止のために、化石エネルギーの使用量をどれだけ削減すれば、温暖化の影響は何度下げられる、といったシミュレーションに明け暮れています。IPCCの努力は評価しますが、かといって決定的な解決案を示している訳ではありません。つまり、いくら賢い学者が、額を寄せて話し合っても、地球の生態系の複雑さや、結果としてもたらされる現象の解析は、たかが人の知恵では不可能であると知るべきでしょう。

ならばどうするかですが、単にブレーキを踏めば済む時期は過ぎ去り、すでに「バックする事が必要な時期」になっているというのが投稿者の立場です。船舶では、ブレーキを掛ける代わりに、プロペラを急速に逆回転させます。しかし、大型のタンカーであれば完全に止まるまでには下手をすれば2000m位は惰力で進んでしまうのです。同様に、自然現象はその膨大なマス(容量)によって、温暖化ひとつ取っても既にかなり行き足がついていますので、なまじっかなブレーキや後戻りでは、改善効果は殆ど現れません。とは言いながら、資源・エネルギーの浪費には今すぐにでも逆転を掛ける必要があります。AB首相の言う2050年までの半減では間に合いません。

環境の悪化に歯止めを掛けるために、新しい技術を開発しようなどと考えるのは、時間と金の無駄使いに他なりません。開発された「環境」技術の良し悪しの評価は、地球環境の複雑系の中では、決して正しい評価ができないからです。一例を挙げれば、原発が環境的には正しくない技術であることは、スリーマイル島でもチェリノブイリでも「柏崎・刈羽」でも既に十分証明されているはずなのです。放射能が人体に及ぼす研究は、かなり進んではいますが、環境の複雑系に及ぼす影響は、まだ殆どと言って良いほど解明されてはいません。勿論、温暖化問題でも犯人は一人二酸化炭素だけではないはずです。

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