« 2007年8月 | トップページ | 2007年10月 »

2007年9月30日 (日)

440 体の中の自然

もっとも身近な自然環境は、私たち自身の体であると言えるでしょう。体の中にも、太古の時代に育まれた巧妙な仕組みが存在します。循環器系、消化器系、内分泌系、免疫系などなどです。しかし、それだけではなく、体の内部でありながら「しかし外部でもある」消化器系には、実に多様な微生物を住まわせてもいます。腸内細菌叢(腸内フローラ)と呼ばれるものです。私たちは、これらの微生物に栄養物を与えてお腹の中で飼っていると同時に、体内では合成できない種々の物質をこれらの微生物たちから貰ってもいます。つまりは、完全な共生関係を築いているという訳です。これは、植物が土壌中のバクテリアと根を通じて行っている共生関係と良く似ています。一方、血液を含む体液は、限りなく海水の塩分濃度に近いものですし、海水にも多く含まれるカリウムやカルシウムなどのミネラル分は、体内でも重要な働きを担っています。

とは言いながら、私たちは毎日環境からも大きな影響を受けてもいます。絶え間ない呼吸による空気の取り込み、飲み水、食べ物、気温や湿度などの気象条件、太陽光の恩恵(或いは害)などです。体内の環境と、体の外側の環境とは皮膚1枚を境に、密接に物質やエネルギーの交換を行っています。体の中の物質濃度を一定にするために、私たちは飲食で物質を補給し、呼吸やし尿という形で要らないもの(炭酸ガスや消化できなかった食べ物や不要な物質や水分)を排出しています。またあまりにも急激な環境温度変化の影響を防ぐためには、私たちは衣服というバリアを発達させてもきました。こうして、体の中の環境は、ホメオスタシス(恒常性)を維持しながら継続できるシステムとなっているわけです。

しかし、あまりにも便利になりすぎた生活のせいで、私たちの体内環境を守る能力は年々弱体化(はっきりと退化している能力もありそうです)もしています。その為に発生していると思われる病気には、不定愁訴や自律神経失調などの訳のわからないものが挙げられるでしょう。体の中も立派な「自然環境」なのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年9月29日 (土)

439 スモールイズベスト

Small is beautiful.はM.シューマッハの言葉ですが、ここでは「小さいものこそ最善だ」、と仮定してみます。小さいもので思い出すのは、例えば家の広さや車や大きさなどですが、それを少し掘り下げて考えて見ましょう。まず家です。小さい家は、何より材料が少なくて済みます。勿論床面積を半分にしても材料は7割程度にしか減りませんが、それでも3割は大きな値です。さらに、この小さな家では冷暖房費も少なくて済みます。厳密な計算ではありませんが、光熱費も多分3割以上は削減可能でしょう。

車はどうでしょう。ここでは目方が今の半分となった車を考えて見ましょう。目方を半分にするためには、サイズも小さくする必要がありますが、ここでは、面積として2/3にしたと仮定しましょう。結果、燃費は間違いなく半分以下にできます。もっとも効果的なのは、実は前面の投影面積が支配的な空力的な抵抗の低減なのです。時速100kmでは、路面抵抗や機械系の摩擦損失に比べ、空気抵抗がなんと全摩擦65%にもなっているのです。(ちなみに路面抵抗は20%、機械損失が15%程度です)路面抵抗は、目方が半分になれば半分になります。機械損失の割合は、あまり下がらないのですが、エンジンパワーも小さくて済みますので、やはりかなり小さくできます。これらを足し合わせれば、燃費は今の車に比べて間違いなく半分以下にする事ができます。家も車も、サイズが小さくなれば家族や同乗者との間の距離が近くなって、きっと親密度も上がることでしょう。こう考えれば、とにかく小さい事は良い事尽くめのようにも思われます。

ロンドンに立ち寄った際、市内を少し観光しましたが、大英博物館の収蔵物の他では感心した事が一つだけあります。それは地下鉄(チューブ)車両のコンパクトさです。この地下鉄の車両は、径の小さなトンネルに合わせ、非常に小型に作られています。トンネルとの隙間も多分30センチくらいしかなさそうでした。車両の屋根は、トンネルの形に丸く削られていて、車内も感覚では日本の地下鉄の2/3程度の広さで、車内を見渡すと背の高い人が多いので結構窮屈です。しかし、投稿者には「好ましい狭さ」に感じられたものでした。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年9月28日 (金)

438 シンプルイズベスト

単純である事は多くの場合望ましいことです。何故なら原因と結果が良く対応していて、問題が起こった際にも対策が打ちやすいからです。一方、複雑なシステムでは、原因と結果が複雑に絡み合うため、何が真の原因であり、そのための対策として何が適当であるかがつかみにくくなります。以前に書いたように、自然環境は間違いなく複雑系です。したがって、温暖化問題一つをとっても、人為的な温暖化効果ガスの排出が主たる原因であるという国際合意さえ、間単にはまとまりませんでした。未だに、他の現象(例えば太陽の黒点の変化や地軸の歳差運動など)にその原因を押し付け、化石燃料の制限に消極的な国々も多く存在します。

ここで提案しようとしているのは、少なくとも「人間が作ったシステム」だけは、余分な複雑さを排除して、できる限りシンプルにしてみようということです。投稿者として一番不快に感じている人間が作った複雑さの代表は、じつは経済システムと政治です。経済活動とは、もっとも単純に考えれば、物々交換や精々お金を介在させる取引そのものとそれを支えるシステム(単純な金融システムなど)を指します。しかしながら、今の経済活動の複雑さは目に余ります。中間業者の間の取引では、一体誰が売り手で誰が買い手かは素人には理解不可能です。在庫の横流しや再販制度や、問屋間の取引など、値段もあって無い様なものなのでしょう。職人がものを作って、自らそれを売り歩いた時代に比べれば、私たちは複雑なビジネスの世界で、きっと高いものを買わされているはずです。何故なら何段階もの中間業者がマージンを取っているはずだからです。しかし、私たちにこのシステムを回避してものを買う自由は殆ど許されていません。

一方、政治屋たちの茶番劇については、既に何を書くのもバカバカしい事態に陥っています。何より、国の方向を決める芯の通ったポリシーが欠けています。国家100年の計を論ずる政治家が増えない限り、場当たり的な離合集散劇は、二世族やタレント族など限られた大根役者だけで繰り返されるだけなのでしょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年9月27日 (木)

437 近自然

近自然とは、確かスイス在住の研究者Y脇氏の造語だったと思います。この人は、天然自然と人工環境の間には、たとえば里山や川と堤防の間の川原の草地など、緩衝地帯としての半自然的な環境が存在するし、もし存在しなければ、意識してそれを復活させなければならない、と説いています。彼に指摘されるまでもなく、このような緩衝地帯の重要性は、多くのこころある研究者によっても指摘されてもいます。特に、里山の重要性は、植物学者や動物の生態を研究する学者などからは繰り返し指摘されてきました。このような近自然は、基本的には適当な土壌と植物相から形成されます。適当な土壌とは、ある程度の養分を持ち、適当に空隙があり、適当な砂礫の粒度で構成される土という意味です。その結果、植物は自然発生的(種は動物や風や水が運んできます)にこの土壌に進出し、遷移的な変化を経て最終的には安定的な植物相を形成します。場所によって、草原になったり、アシ原になったり、あるいは樹木と草原の混合相を経て、最終的には森林になったりします。そこには、各相に応じた昆虫や動物が移り住み、一つの安定的な環境が出来上がることになります。この過程には人間が介在する余地はあまりなく、その過程を乱さないように見守ることくらいしか出来ません。

この近自然という緩衝地帯には、かなり大きな生き物も時々は足を踏み入れるでしょうし、勿論人間も近づきます。しかし、完全人工の公園の様に他の地域の植物を平気で持ち込む事は許されません。そうでなければ、近自然は単なる人工環境に陥っていまいますので本来の目的を果たせません。人間が手を加えても良いのは、明らかにその近自然環境をぶち壊す、外来植物や生物を駆逐することくらいのものです。それとて、やり過ぎてはやはり無意味です。あくまでもホドホドに留めておく必要があるでしょう。別の言葉では、近自然という環境は、人間の「自然に対する遠慮」を形にした場所だとも言えるでしょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年9月26日 (水)

436 工夫と汗

「地産地消」はこのブログでも再三強調していますが、一方やや聞き飽きたフレーズともなってしまいました。これは、一義的には地域で生産し地域で消費することにより、運搬に掛かるエネルギーを抑制しようとする考え方ですが、これだけの定義では十分ではありません。日本の食料自給率の低さは、世界的に見ても極端に低いのですが、以前にも書いたように、結果としては食糧それ自体に加えて大量のバーチャルウォーターも輸入している事は非常に重要です。もし日本がこの量に見合う水を、食糧生産のために国内で確保しようとすれば、工業用水や生活用水にまわせる水は、直ちに逼迫することは簡単な試算でも明らかです。つまり、日本では地産地消を推し進めようと考えても、食料の国内生産さえ全く見通しが立たないのです。国内で生産できるだけのバイオマスや農産物だけで養える人口は3000万人程度とも言われています。

とは言いながら、贅沢を慎み、無駄に捨てられている資源(例えば植物廃棄物やし尿処理で発生する汚泥のエネルギーとしての価値など)を上手くやりくりすれば、その倍の人口は何とか生き延びられるはずです。その際に、必要なことは地産地消のより厳密な意味づけです。これは実はあまり難しい作業ではありません。むしろ、高齢化社会になった今は最後のチャンスに恵まれた時でもあるといえます。今、まだ記憶がしっかりしている年寄りは、終戦前後のモノの無い時代を生き抜いてきた世代でもあります。モノの無かった時代に、彼らがどうやって衣食住の最低条件を満たしていたか、その知恵を聞き取っておく必要があります。彼らは、地のものを食べ、地の木材で家を建て、地の産業で作られたもので身の回りを賄っていたはずです。

その為には、多分多くの工夫を重ね汗も流していたことでしょう。持続可能な社会の実現を考える時、必要不可欠な行動は、実はこの工夫と汗だけなのです。便利な社会が、この両方を萎えさせてきたことは、今の風潮を眺めればまったくあきらかです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年9月25日 (火)

435 慎ましい生活

「もったいない」と同時に、ぜひ流行らせたい言葉として「慎ましい」と「ホドホド」があります。ホドホドとは分相応の事ですが、このブログで語ってきた「分」とは、環境が許す範囲内での活動を指します。ホドホドの生活を送るためには、まずホドホドの生活が送れていることへの感謝の念が必須です。ホドホドの生活は、実は私たちの力で成り立っているのではなく、「自然環境に生かされている存在としての私たち」、を認識する必要があります。この場合の「私たち」とは人間ばかりでなく、多くの種類の動物と、それを支えている多様な植物を指します。

さて、ホドホドの生活とはどの程度を指すのでしょうか。日本には、別の美しい言葉があってホドホドの生活を表現するのに「慎ましい」とも言います。慎ましく暮らすためには、過度の欲望を抑制する必要があるでしょう。過度の欲望とは、何とか暮らしていけるレベルを超えて、むやみにモノを欲しがることです。しかし慎ましい生活をするために欲を抑えるのでは、決して長続きはしません。我慢はストレスになるからです。そうではなくて、物欲そのものの大きさを縮小していく必要があります。荒っぽいやり方では、「出家」という手段もあります。俗世の全てを捨てて仏門に入る訳です。僅かばかりの私物の所有だけが許され、殆どの時間を修行に明け暮れる仏門の生活は、確かにモノとは無縁の世界ですが、普通の人には耐えられないかもしれません。次善の方法は、モノを使わない趣味を持つことでしょうか。例えば、バードウォッチング、昆虫観察、植物観察、人間観察、建築物ウォッチング、読書、俳句・短歌、歌うこと、散歩、登山、罪の無い発明などなどです(実はこれらは全て投稿者の趣味です)。絵画などもかなり良い線ですが、絵の具や画用紙を消費しますのでやや難ありです。

これらの趣味に生甲斐を感ずる事が出来れば、かなりモノから開放される可能性は高まります。これらの趣味から得られるものは「精神的満足感」に他なりません。これが得られない人は、仕方なく物欲か悪くすれば犯罪などにのめり込んでいくことになります。精神的満足を得ながら、ホドホドの生活を続けていく事こそ、環境問題の軽減につながるはずです。ちなみに、もったいないという気持ちは、モノに対する感謝の気持ちから出るものの様ですので、感謝の少ない社会はやはり物欲社会だといえそうです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年9月24日 (月)

434 休題(頑張らないが努力する)

これは生き方の問題なので、他の人に押し付けるつもりは毛頭ありませんが、投稿者はある時期に自分の生き方のポリシーとして「頑張らないが努力する」を取り入れました。誰かの受け売りであったか、投稿者のオリジナルであったかもう忘れてしまいましたが、多分30代の終わりごろの事だったような気がします。兎も角これを仕事でも人生でも実践しようと決めました。頑張る事は誰でもできますが、能力すれすれ、或いは能力以上のことを長い期間続ける事はできません。精々、自分の中に蓄えられている予備のエネルギーが続く時間で内しか継続できないはずですう。頑張る事とはさながら、短距離の陸上選手が、走っている間は殆ど呼吸せず、血液中の酸素だけで1レースを走りきるようなものです。

別の言い方では、休息時に回復できるストレスの範囲内でしか活動は続けられない、とも言えるでしょう。ストレスが、平常時以上に高まる「頑張りモード時」には、結果としてストレスが蓄積しますので、精神的にせよ肉体的にせよ、いずれ何らかの破綻が生ずるものと考えられます。

一方、努力とは自分の能力の範囲内で、しかも克服できるストレスの範囲内での活動ですから、何しろ持続することが可能です。投稿者の努力の中身は、2週間に3冊の本を読むこと、腹筋・背筋運動とジョギングをほぼ毎日続けること、自腹を切って週1回の英会話講座を持続することなどでしたが、それぞれ数年間続けた結果、自分の中にある変化が生じてきました。まずは、日本人と欧米人の文化比較などを通じて、物事を考えるのに受け売りではない自分なりの視点ができてきました。ジョギングでは長年悩んできた腰痛がほぼ消えました。英会話では、頭の中で「英作文」をしない「会話」ができるようになりました。

それで何が良かったかですが、多分結果としては何か自分の中にそれなりの自信の様なものができてきただけですが、少なくとも英会話については、その後の何度かの海外赴任では十分すぎるほど役に立ちました。健康に関しても、50代後半になっても快適に山登りが楽しめる程度には、体力の維持も出来ているような気がします。いま思えば、なかなかのポリシーではあったと振り返っています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年9月23日 (日)

433 プレイヤー交代2

石油を始めものの値上がりが止まりません。石油資源は既にほぼ半分の量を使い尽くしてしまった事も背景にはありますが、値上がりの大きな部分は「金融」の仕業だといえるでしょう。つまりは、有り余っているマネーが、次の目標を石油或いは間接的に注目されている燃料アルコール用穀物に「ロックオン」した結果だと思われるのです。石油も穀物も間違いなく値上がりを続けるでしょう。その値上がりのスパイラルの中で、多分「彼ら」は、アメリカの低所得者向けの住宅ローン(SPL)で儲けた様に、濡れ手に泡の利益を手にするはすです。つまり金融にとっては、値上がりする(させ得る)ものであれば、対象は何でも良いわけです。

この文章を書きながら今突然思いついた事は、実は経済もある意味では環境そのものではないかという点です。つまり、気象環境や自然環境など同様に、「経済環境」として、私たちは気がつかない内に、お金や為替や債権や先物取引などの経済の仕組みに完全に取り囲まれてしまったのではないか、と考えてみたのです。そう考えると、この経済環境も地球環境と同様に、日々悪化を続けているとしか思えなくなります。大気や水質が悪化すれば、私たちは息苦しくなり、健康も損なわれますが、同じように経済の質の悪化によって、本来持続可能であるべき私たちの社会や生活が脅かされている、と結論してみてもおかしくはなさそうです。経済環境悪化の結果生じた「廃棄物」或いは「汚染物質」として、経済環境から弾き出された「経済の吹き溜まり」が存在するのでしょう。

ここではタイトルを「プレイヤー交代」としてみたものの、空気と同じ程度に私たちの周囲を取り囲んでいる経済環境を、別の何かと代替する事は今では殆ど不可能にも思えます。つまりは、それは無人島か山奥での完全な自給自足生活を意味するからです。そこまで行かなくても、しかし投稿者はその方向に一歩でも近づくための社会的努力は是非必要だとは思っています。投稿者はこれを「経済外経済」と呼んで、一つの地域経済のあるべき姿として、放送大学の論文にも書いてもみました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年9月22日 (土)

432 プレイヤー交代

金融は決して社会の主役ではありません。創世記の姿を思い出すなら、金融業とは産業を興すために力を貸す脇役だったはずです。しかし、金融(金貸し)が大きくなるにつれて、あくどい、或いはボロい金融システムも発達してきました。いわく、先物取引、いわく株式市場、いわく各種債権(CP)市場、いわくヘッジファンド、いわく国際為替市場等など。今や金融業の人たちは、自分たちこそが社会を動かしているのだ、と公言してはばからない事でしょう。たかが金貸しや風情が、です。ましてや、なんら生産的な活動を行わずに、単に金を右から左へ移すだけの人たち(トレーダ)が、巨万の富を得ている現実を見るとき、投稿者はただただ溜め息しか出てきません。誰が儲けて、誰が損をしているのかを頭を冷やして考えてみれば、損をしているのは資源を掘り返されて、しかも消費の結果の大量の廃棄物を押し付けられている地球環境である事は明らかだからです。

20世紀後半は確かに金融の時代でした。しかし金の論理には限界が見えてきました。その限界とは、金の存在そのものが人類の存亡を脅かすことによって現実的になるでしょう。現在でも、荒ぶる金の力によって、望ましからざるブレが社会を揺り動かしています。石油を含む資源の価格、世界の穀物市場における食糧価格、為替変動に伴う輸出入価格などに大きな変動のことです。お金で地球の環境は守れません。何故ならお金には、色がついていないからです。環境に大きな負荷を与えるお金も、環境保全を考えて使われたお金も、金は金です。環境に優しい活動で生まれたお金は緑色に、そうでないものが赤色になっていたならば、お金の使い方もきっと変わってくるかもしれません。実際にエコマネーや地域通貨として、色を変えたお金も少しずつですが使われ始めています。

タイトルでプレイヤー交代としたのは、今メインプレイヤーとなっているお金に代わる「価値交換の手段」が広がる事を投稿者は待望してるいからです。その昔各地域に存在した、地域の普請への労働奉仕を証明する札(昔はこれをなんと呼んでいたのでしょうか)を配り、その枚数に応じて税金を軽減するとか、あるいはその労働の代価を預けておくことができる制度など、色々な仕組みが考えられます。これによって、「お金の税金」をまじめに払ってもそれを中央に吸い上げられ、役人によってかなりの程度は無駄に使われる、現在の仕組みにぜひ楔を打ちたいものです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年9月21日 (金)

431 インド考

NHKの番組でインドの現状を紹介していました。短い報道番組でしたが、かつての日本の様に、右肩上がりの勢いのある経済の中で、都会に住む一握りの階層は、確かに消費生活を享受しているようです。しかしながら、一方では残りの90%は田舎に住み、貧しいが故にまともな教育が受けられないジレンマの中で、広がるばかりの格差に為す術もなく、日々の暮らしに追われていました。悲しい映像ですが、インドでも消費生活の結果としての巨大な「ゴミ塚」が築かれていました。そこで、ゴミの中から僅かな有価物を拾うスラムに住む人々の姿は、貧しい国にいきなりアメリカ型の消費社会を持ち込んだフィリピンなどと全く変わるところがありません。むしろ、その規模を何倍にも拡大したに過ぎないはずです。こんな生活が永くは持続的無い刹那的なものであることは、既にこのブログでも縷々書いてきましたが、いわゆる先進国で経験した大気汚染や水質汚濁や公害病などの苦い経験が生かされるどころか、遅れてきた国々もまた同じ道を歩むのを見るのは本当に悲しいことです。それは、遠く離れた国々の事情は陽の当たる側面しか見えないからなのでしょう

多分「燃料切れ」になるであろう数年後、あるいは十数年後位までは、彼らはひたすら突っ走る事になるでしょう。残されるものは、目に見えるゴミの山と、目には見えない温暖化効果ガスと水や大地の汚染だけである事は、間違いないのですが、消費生活を享受している私たちの口から、それを指摘しても、今まさにモノを手に入れる事に夢中になっている彼らの耳には届かないとも思います。「歴史に学ばない事」こそが、まさに人類の特性の一つである事は、ほぼ間違いが無いからです。同じ事は、ほぼ同時並行で中国やアジアの国々でも起こっています。

一体どうしたら、私たちの失敗の歴史を彼らに誤解無く伝えられるか、これは本当に難しい事ではありますが、しかしそれをしないと、彼らと一緒に世界全体が心中する事にもなりかねません。それにしてもどうやって伝えれば良いのでしょうか?本当に途方に暮れます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年9月20日 (木)

430 浪費者

食料のムダに警鐘を鳴らし続けている人が、ラジオで特に近年の日本人の消費態度を指して、「浪費者」と呼んでいました。まさに言い得ています。浪費の証拠は、冷蔵庫に詰め込まれた、やがて消費期限切れになって捨てられる食品の山だけではありません。大規模な電気店やショッピングセンターやデパートの陳列に触発されて買い込んだ、やがて粗大ゴミとなるかフリマで叩き売られるだろうモノの山が出来ている家の中を見回せば、何かを感じるはずです。更に言えば、粗大ゴミの日やリサイクルの日に出される、まだ使えそうな家具や自転車、或いはアルミ缶やビンの種類と数を眺めても、それは感じられます。

一体私たち日本人は何時頃から、モノが豊かでココロが貧しい浪費者に陥ってしまったのでしょう。上で浪費者と言った人は、ここ50年くらいの現象だと思っているようですが、投稿者の「研究」では1970年代の中頃にそのターニングポイントがあったと考えています。実際これはまともな研究論文で、多くの経済指標を集めて、上昇指標(例えば一人当たりの可処分所得や車の保有台数や電力使用量など)と下降指標(食料自給率、鉄道貨物の輸送量など)を同じグラフ上に並べて見ると、多くが1970年代で交差する結果になりました。上昇指標は、その背景に上昇し続けてきた消費があります。一方下降指標には、大量消費時代には最早不要であるとして、社会から切り捨てられてきたものがリストアップされていたはずです。それらを、同時に眺めて見たとき、驕り高ぶる日本の「浪費者」の姿が見えてきました。

例えば鉄道は、鉄の車輪とピカピカのレールという組み合わせで、ゴムタイヤとアスファルト道路に比べ約1/10という小さな摩擦力しか発生しない理想的な省エネ輸送手段ですが、しかしトラック輸送は伸び続け、その陰で鉄道貨物の輸送量は減少し続けてきたのでした。それは、トラックを使った直送便の方が、生鮮食料品の輸送や貨物の翌日配達など、グルメ生活や大量浪費生活に圧倒的に便利だったからです。結果、冷蔵庫を使わないで長期に食料を保存するなどの「おばあちゃん知恵」は、その殆どが失われてしまいました。かくして大量の浪費者が誕生したのでした。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2007年9月19日 (水)

429 環境原理主義

時代を鋭い目で見つめ、インパクトのあるコメントをする養老猛の最近の言葉です。文面通り憶えている訳ではないのですが、「環境保全や全面禁煙などいう禁欲的な態度は、原理主義や全体主義と結びつき易いものの代表だ」という意味のものでした。確かにガチガチの環境人間である投稿者も、冗談で自己紹介する場合には「環境原理主義者です」と言ったりもしています。やや似たような例を挙げるとすれば、それは宗教でしょうか。ある宗教では、一人の教祖様の教えが絶対真理であり、それに従うことが信者の幸福につながると諭します。その意味では、宗教も一つの宗教原理による、信者全体の拘束を行う全体主義以外の何者でもないでしょう。しかし、環境原理主義と宗教原理主義が、あるいは社会的原理主義が異なるのは、環境=自然はたった一つしかないという事実です。つまりは唯一の存在としての地球環境です。

一方、「他の原理主義」には、別々の教祖様が何人もいて、原理がいくつも存在します。いくつも存在するものが本当の原理や真理になり得るか否かの議論は別にしても、ある宗教団体(例えばWASP)の幸福は、別の宗教団体(例えばMスレム)の不幸となっている現実を眺めるとき、所詮宗教が絶対的な原理にはなりえない、という証拠を日々のニュースで目にしていると言えるでしょう。キリストさんかマホメッドさんかお釈迦さんが、ゆるぎないほどに絶対的な真理を教えたのだとすれば、世界中がどれかの教義に染まってしまったはずです。そうはならなかったのは、砂漠と森や田園にはそれぞれ違う教義や原理が必要だった、という投稿者の仮説の間接的な証拠でもあります。

さて原理主義と揶揄されようが、自虐的に「環境原理主義者」を名乗ろうが、かけがえの無い、たった一つのこの地球環境は、どうしても守らなければなりません。それが、環境を傷つける事によって繁栄を享受してきた、私たち世代の義務だと思うからです。ということで、このブログも投稿者自身を鼓舞する意味もありますが、無理やり毎日毎日書き続けることといたします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年9月18日 (火)

428 ハイパーカブ

車社会がやがて行き詰る事は、誰が考えても明らかです。さすがに今の世の中でいきなり車を全部止めてしまうわけにもいかないでしょうから、軟着陸する前の着陸態勢として「バイク社会」の実現を一考しても良さそうです。バイク社会とは、今東南アジアがそうであるように、町にバイクの洪水ができるような社会のことです。今日本で道を走っている車の殆どが一人しか乗っていません。配達に使うトラックやバンはさておいても、5人乗りの乗用車は、一人だけの移動には大き過ぎます。ましてや、7-8人乗りのミニバンにおいておやです。

バイク族として投稿者が不便に感じる時は、精々少し大きな買い物をした時に、荷物を積むスペースが少ないことぐらいで、雨の日でも少し性能の良いカッパを着れば全く問題ありません。燃料消費量は、クオーター(250cc)でも車の1/3ですから、皆がバイク族になれば石油の枯渇時期も3倍近く先に延ばせることになります。さらに主婦の買い物など近距離使用は、H社のカブ並みの小型のバイクを使うとすれば、燃費は1/5以下になりますから、さらに好都合です。

問題は、バイクの種類です。勿論カタログを眺めれば、オンロード、オフロード、スクーター、チョイ乗りバイクからビッグバイクまで、ありとあらゆる種類が揃っている様にも見えます。しかしバイクを足と考える場合、種類が不足しているカテゴリーがあります。それは、「実用車」と呼ばれる分野です。目的別の配達用のバイク、通勤用のバイク、買い物用のバイクなどなどです。これらのバイクに絶対不可欠な条件は、扱い易さと低燃費しかありません。勿論デザインが良ければなお可ですが。

この手のバイクを探すとき、さびしい事に今はSーパーカブ程度しか見当たりません。しかし考えて見れば、カブの原型ができたのは、今を去る50年前であるわけで、いかにも古い設計である事は否めません。車種のレパートリーも精々新聞配達バージョンが目に付く程度です。投稿者の理想は、最大125ccくらいまで排気量の幅を広げ、長距離の移動や通勤にも十分耐えるものも揃えたいところです。下のモデルは、主婦の買い物用にもっと洒落たデザインとしたいところです。確かに50ccのスクーターは数多く売られていますが、安全性のためには、車輪径は可能な限り大きくしておきたいところです。燃費は最低でも実際の使用モードで50km/㍑は確保したいところで、小さな排気量のバージョンでは実質7-80km/㍑は欲しいところです。その為には、かなりの軽量化と新エンジンの開発が必須でしょう。まさに技術屋の腕の見せ所というわけです。Hンダの技術者には気概を持って、ぜひ環境の世紀でもある21世紀の要求にも耐える、次世代の「ハイパーカブ」を開発して貰いたいものです。そうでなければ、創業者を越える事はできないはずですから。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年9月17日 (月)

427 航空路線廃止

国内の航空路線で赤字路線と呼ばれていたものがかなりまとめて廃止されようとしています。経営が苦しいJ社だけでなくA社も同様の動きです。航空機(製造)産業に長く関わっていた投稿者としては、この業界も相当の右肩下がりになったか、との感慨をもってこの状況を眺めています。勿論、正常なセンスを持っていれば、海を越えて行かなければならない海外や離島はいざ知らず、トンネルや橋で結ばれ、新幹線網が延び続けている日本列島において、「それでなくても危ない」航空機路線が維持できるはずが無い事は、少し考えれば納得できるでしょう。最近の航空機事故(部品が外れたスラットのメカが燃料タンクを突き破る、前脚が降りない、或いは主脚がへし折れる、エンジンの部品が飛んでしまう等など)が、全く例外的な突発事故ではなく、良く調べてみたら同様の不具合が他の機体でも見つかるに至って、投稿者には、これらの事故は車産業で言われる「リコール」に当たるほどの大問題だと思われます。車の欠陥は、最悪の場合でも数台の車が比較的短期間に連続する事故を起こして発覚しますが、車の欠陥の場合事故で死者が出るケースは結構少ないのです。精々エンジンルームから煙が出るか、車が止まってしまう程度のトラブルで済みます。しかし航空機の場合下手をすれば一回の墜落事故や炎上事故で100人を超えるような多数の犠牲者が発生します。

さて、事故が続かないとしても、航空燃料がドンドン値上がりする一方の現在、航空会社間の過当競争や新幹線との競争があって、しかし運賃の値上げもままならない航空会社がついに音を上げ、路線廃止に至ったのは必然でもあった訳です。投稿者は、これはこれで好ましい社会のリアクションの一つだと歓迎しています。右肩下がりの航空業界で失業したパイロット諸兄は、ずっと安全で操縦も容易な電車の運転手にでも転進することになるでしょう。ひとりの運転手で運べる乗客の数も、旅客機の何倍にもなる訳ですから多分やり甲斐も感じることでしょう。もしパイロットが電車の運転手に転進したら給料も半分以下になるだろうし惨めだ、と感ずる人は、実は職業の差別をしているココロの狭い人に相違ありません。まっとうな職業に貴賎はありません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年9月16日 (日)

426 車オタク

Tヨタの次期の生産目標は1千万台だそうですが、本当にあきれながらこの数字を読みました。一体あの人たちには右肩下がりのシナリオは描けないのでしょうか。このブログでも再々取り上げていますが、私たちは既に石油資源の半分を使い尽くしているわけです。このまま、途上国にも自家用車が普及し、先進国でも一家にレジャー用の車を含めて数台の車を保有する社会が持続できるはずもありません。そうであれば、石油価格が急上昇し、破局的に車が使えなくなる時が到来する前に、然るべきレベルに軟着陸するシナリオが必要になるはずです。

開発力も資金も豊富に持っている大企業のなすべきことは、それを利用してより少ない資源で作れ、より少ない燃料でより長い距離を走行できる、ホドホドの快適性を備えた車の開発なのです。自分の会社の売り上げや利益を大きく伸ばし、株主の利益を優先する、「いまは理想といわれている企業価値」は、資源エネルギーの枯渇が進むにつれて、やがては過去の価値観になり下がるはずのものです。儲け過ぎている車屋さんには、ぜひ理想の自転車を開発してもらいたいと思いますし、老舗のバイク屋さんにはぜひスーパーカブの後継機種としての、理想の省エネルギービークルを開発してもらいたいものです。

さて、世の中には車好きの人も多い訳ですが、その理由の一つは人間の筋肉の延長としてのハイパワーエンジンにあると思うのです。なにしろ世界の陸上競技のトップアスリートでさえ、瞬間的にせよ時速40kmには到達できないわけです。その一方、人並み以下の体力しかない人でも、パワーのある車に乗ってパトカーにさえ捕まらなければ、日本の高速道路でも140-50km/時程度のスピードを手に入れる事ができます。車好きは、メカオタクとスピードオタクと外車(高級車)オタクとドライブオタクの4種類くらいに分類されますが、いずれにしても肉体の延長としての機械に依存する中毒患者と言えます。とは言いながら、この中毒はアルコールやタバコ程度には、人類が陥り易いものであるだけに、車の普及には歯止めが掛からないという困った状況が続く事になります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年9月15日 (土)

425 休題(忘れていたもの)

事務所の近くの川岸をジョギングしていたら、岸近くの水面に何か動くものがありました。立ち止まって良く見るとそれは数匹のアメンボウでした。そういえば、アメンボウをマジマジと見るのは何年振りだったでしょうか。少し考えましたが殆ど思い出せません。小学生くらいまでは割と大きな川の近くに住んでいましたので、毎日魚釣りに行きました。空き缶を手に、近所の農家の堆肥塚でミミズを掘り、自分で切ってきた竹で作った竿を担いで、お気に入りの場所である近くの高校のボート部が所有している木の桟橋で、日が暮れるまで糸を垂れていました。そこには、フナが居り、セイゴが泳ぎ、時には亀も顔を出し、川ガニやゲンゴロウやアメンボウもそこの住人でした。

自転車のリムに綿糸で適当に網を作っておき、真ん中に近くの魚屋で貰ってきた魚の頭を付け、竹竿に吊るして柳の木の下に仕掛けておけば、翌日には大きな川ガニがわんさと群がっていました。軽く塩茹ですれば、身はそんなに多くは無くても良い味でした。あるいは、川に流れ込んでいる小川には、セイゴが群で遡上します。草陰で待ち構えていて、ザワザワと上ってきたところを、直径1m弱の半円形の網を流れにザッと突っ込めば、慌てて本流に戻るセイゴが呆れるくらい取れました。取れた小さな魚達は、甘辛く煮付けられて佃煮になる運命でした。また月に数回は、釣りと将棋とパチンコが3度の飯より好きな父親に連れられて、自転車で20分くらい走ったところにある、河口の防波堤に釣りに出かけました。この日は、リールの付いた本物?の竿が使えるので、急に大人になったような気がしたものでした。河口では、スズキやチヌが子供でも結構良く釣れました。釣れた魚は、その晩のオカズとして、大きなものは刺身にそうで無いものは煮魚や焼き魚として「丸い」ちゃぶ台に乗るのでした。大漁の日は、近所におすそ分けに行くのは投稿者の仕事でした。

たった数匹のアメンボウが、忘れていた懐かしい景色や、モノは無かったけれど、本当に楽しかった子供時代の生活を思い出させてくれた日暮れ時でした。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年9月14日 (金)

424 ラーニングカーブ

「人間は停滞(或いは無能)に向かって進歩する」と言った人がいます。けだし名言です。それは、有限の脳みそを持った人間は、ある時期は大いに進歩はするが、その容量の限界に近づくにつれやがては、停滞に陥るということを意味しています。習い事においてもそれは同じで、どんなに幼い時期から始めてそれなりの才能があっても、「名人」より優れた技を持つことはできないでしょうし、そこに至る過程も初期の右肩上がりの進歩が、最終的には停滞(あるいは減退)に至る「ラーニングカーブ(学習曲線)」に見事に乗ることになります。

さて、人間社会ではどうでしょうか。社会は多くの人々で構成されていますから、時にはエジソンやアインシュタインといった天才も出現するかもしれません。しかし、たとえエジソンが現代に生きていたとしても、画期的な発明が出来ていたかは甚だ疑問です。現代社会で毎年洪水の様に出願される特許の多くは、権利の幅の大きな「基本特許」ではなく、重箱の隅を楊枝でほじくるような、小粒なものしか見られません。まだ何も発明されていなかった時代に生きたエジソンは、その意味で幸福な時代に生まれたと言えるでしょう。

投稿者は科学や技術の進歩も、かなり飽和(停滞)してきていると見ています。例えば、自動車といえども、ダイムラーベンツのエンジン付き馬車から、それほど「原理的」な進歩があったとは思えません。単に、取り回しが便利になり、効率が少し上がり、室内が豪華に快適になっただけです。今以上の快適性の追求は、結果として資源とエネルギー量の累乗での投入を意味します。何故なら、今の消費者が言うところの快適性とは、単純に人が汗をかかない事を意味していますので、より多くの自動的な装置を、エネルギーを使って動かす必要があるからです。2倍便利にするためには、たぶん4倍の資源やエネルギーを使う必要があるでしょう。

しかし、超便利な生活が最終的に行き着く先は、すべての仕事や家事がリモコン一つで完了する生活スタイルでしょうか。そうなった場合の、人間の能力の退化に関しては、今のところ殆ど警鐘が鳴らされていないような気がしていて、最近の投稿者の最大の懸念になっています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年9月13日 (木)

423 環境ブーム

ある調査によれば、消費者の90%が環境問題に興味を持っているのだそうです。それはそれで結構な数字ですが、その中身が、アル・ゴアやエコバックや近年の暑い夏に触発された、底の浅いブームではないかと危惧しています。環境への問題意識を持つのは良いことではありますが、重要なのは具体的な行動です。環境をこれ以上悪化させないために必要なことは、買い物にエコバックを持参し、冷房温度を28℃や29℃にすることや車を走らせるのにアイイドリングをやめ、加速を抑える程度の「ささやかな」省エネ行動ではありません。もはや、この程度で間に合うレベルはとっくに終わっていて、さらなる「本格的な」省エネ、省資源行動が必要となっていると言えるでしょう。では、本格的とはどの程度のレベルを指すのでしょうか。投稿者の頭の中にある数字は、ここ10年以内に、単位製品やサービス当りの消費エネルギーと資源消費を、現在の半分にしなければならないというものです。10年という期間も、実際問題としては長過ぎるのですが、社会の減速にはこの程度の時間は最低でも必要だとも思います。

これは、年率にすれば.6-7%の削減に当り、なかなか厳しい数字ではあります。しかしAB首相の言う2050年までの半減では、明らかに間に合わないのです。この緩やかな目標でさえ、年率2-3%の省エネ・省資源が必要になるのですが、京都議定書の5年で6%という削減目標すら、全く達成の道筋が見えていない現状では、AB構想は単なる画餅に過ぎないことはあきらかです。政治家や官僚には、所詮実行力は期待できないのです。何故なら、大幅な省エネ・省資源は、間違いなく景気の減速と大幅税収減を招きますが、それは彼らの生き死に直結する大問題だからです。419で書いた様に、彼らの頭の中には、できる、できないに関わらず、永遠の成長神話しかないということなのです。

では「本格的」にしかも「大幅な」省エネ・省資源のためにはどのように行動すべきなのでしょうか。先ずは、便利すぎる現在の生活のいくつかは即刻諦める必要があるでしょう。取り分け、車に頼らない生活スタイルを速やかに確立する必要があります。また大量のエネルギーや資源を消費する冷暖房も、先ずは冷暖房自体を無くする事を前提に、大幅なカットのための工夫が必須です。

| | コメント (1) | トラックバック (1)

2007年9月 9日 (日)

422 大規模化の愚2

421の話を社会や工場に展開してみましょう。最近起こった「R研ピストンリング事件」でも明らかなように、大規模化、集中化の弊害はかなり大きいと見なければなりません。弊害は、今回の様な自然災害によるケースばかりとは限りません。もし、品質に重大な欠陥が内在していた事が判明した場合、被害の広がる範囲には計り知れないものがあります。たとえば、ある工程で作られたピストンリングの疲労強度が小さく、一定時間の運転によって破断する欠陥があったと仮定しましょう。その影響は、国内販売車のみならず、エンジン単体で輸出して取り付けられた海外の車にまで波及します。これは、必ずしも全くの空想ではありません。なぜなら、メーカーは親会社からの「間断のないコスト削減圧力」の下、日夜「カイゼン」を続けているわけです。カイゼンには、工程のカイゼンも含まれますから、品質に影響を与える「悪いカイゼン」も起こり得る話です。

政治や行政で噴出している多くの醜態も、結局は大規模化の弊害に他なりません。肥大化し、「大奥化」した政治システムや官僚組織は、やはり多くのリスクを生む温床になり得ます。何億円という、人が一生働いて手にする様な金額も、何百億も扱う官僚にとっては、ほんの「はした金」にしか思えなくなる事でしょう。たとえそれが国民から預かった他人の金(税金)であるにせよ、です。だからこそ、裏金や個人的流用(横領)などという情けない事件が後を絶たないわけです。

大規模化は、効率向上にとっては最も有効で効果があると思われがちなアプローチ方法の一つではありますが、唯一の手段ではありません。むしろ、リスクという意味合いでは、それが比例的に拡大する仕組みといえます。コンピュータシステムでよく言われる「ロバスト性(頑丈さ)」を、社会システムや工場にも展開するならば、コンピュータが辿った道筋と同じように「ダウンサイジング」こそ有効であるとの結論になります。小型のコンピュータシステムを、多様な回線で有機的にネットワーク化したものが、最もシステム障害に強くなるように、社会や工場も一つのシステムと考えるならば、障害に強くなるためには、やはり多様化とダウンサイジングおよび分散化しかないだろう、との結論になります。銀行やデパートや製造業における合併・経営統合は、この流れには全く逆行していますので、投稿者には、やはりこれも20世紀型の社会システムは行き詰る直前の、断末魔的現象としか思えないのです。

さて明日から数日間、旅行不在のためブログを休みます。再開は、9/13日の予定です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年9月 8日 (土)

421 大規模化の愚

似たような話が続きますが、政府が進めている農地の大規模化に真っ向反対です。大規模化の前提は、圃場の区画整理→大型農業機械の使用→コスト削減→国際市場競争力の強化という単純なシナリオです。単純という意味は、このシナリオでは本来あるべき自然環境の保全・維持という視点がまったく欠如しているからです。これで何が困るかですが、人間以外の生物は殆どが迷惑を蒙ります。区画整理の結果、里山を含めた動植物の生態破壊、沢+棚田によって形成されていた、地域の保水能力の破壊、化学肥料と農薬の投入による土壌環境の破壊などなど、生物の多様性の維持という面では大迷惑になります。

しかも、自家消費米や縁故米を作っていた小規模な農家は淘汰されますから、結果として耕作放棄地は確実に増加する事にもなるでしょう。投稿者の見方は、「大規模化は環境の敵だ」というものです。工場にせよ、農地にせよ、大規模化により、コストが下がり、品質が安定するので良いこと尽くめのようにも見えますが、裏を返せばエネルギーや地下資源のより多くの投入と、災害に対する脆弱性、多様性の低下という重大な欠陥を抱えるシステムに陥るということでもあります。

特に多様性の低下は重大な意味を持ちます。なぜなら、たとえばコシヒカリという、味がよく、売値も高い米の品種がありますが、これは夏場に特に高温になる中越地域には適した品種であるかもしれませんが、反面茎が細いため風害に弱く、病害虫にも弱いという欠点を併せ持っています。従って、コシヒカリの作付けが全国的に増加したと仮定した場合、コシヒカリだけが特に敏感に反応する病害虫が発生した場合や穂が実る前に強い風に見舞われた場合、米は全滅に近い被害を受ける可能性が大きくなるのです。一方、地域の気候・風土に適した多様な品種を作付けしていれば、被害の範囲は最小限にとどまる筈です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年9月 7日 (金)

420 成長神話

Tヨタの1000万台超えの製造計画に見るまでもなく、多くの企業の経営者は成長神話にとり憑かれているように見えます。今年度の売り上げ規模や、利益は前年度比~%増、と言う目標を立てないと株主も納得してくれないのでしょう。消費者人口が増えたのであれば、それに見合う形で売り上げが増えても不思議ではありませんが、日本の様に人口がピークを向かえ、減り始めた国の企業が、売り上げを伸ばすためには、作った製品を輸出して海外の消費者に「買わせる」必要があるでしょう。そうでなければ、国内の消費者に対しては、必要も無い機能を追加するか、無理に高級品化して、単価を上げなければなりません。具体的には、T社のLクサス戦略のようなことを指します。煌びやかなショーウインドウの中に納まっている、ピカピカの高級車は大きなエンジンと豪華な内装を備えた、これは必需品ではなく間違いなくかなりの贅沢品です。

そろそろ、来年が今年同様の売り上げで、しかし着実な固定客を抱えているような、持続可能な企業経営を志向する経営者が現れてもよい時代に入ったのではないでしょうか。投稿者は山が好きですが、残念ながら登った山からは必ず降りなければなりません。そうでなければ、仙人にでもなって霞を食いながら生きていかなければならないからです。石油産出量の減少は、間違いなく成長神話の終焉のきっかけに他なりません。石油は、成長エンジンの殆ど唯一の燃料だからです。私達は、山の頂上から、9合目へ更には8合目へと、何とか転げ落ちないでうまく下るルートを見つけなければなりません。それ無しには、ガスに巻かれて(環境の悪化で)遭難あるのみです。

成長神話で描かれる進歩の反対は退歩ですが、環境問題を頭に置く限りにおいては、持続可能な社会への回帰しかない訳です。ギリシャ神話にある、イカロスが太陽に近づき過ぎて、ロウで固めた羽が取れて墜落した話のように、科学・技術文明も「石油と言う羽」無しには飛び続ける事ができなくなり、20世紀型の成長神話も終わりを告げざるを得ないのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年9月 6日 (木)

419 環境技術

418の続きです。「環境技術」、実に耳に心地よい言葉です。この技術を使えば、さながら環境悪化に歯止めが掛かり、さらには環境改善もできそうな響きがあります。AB首相も、日本には公害を克服し、二度の石油危機を乗り切った「環境技術」というものが形として存在すると誤解しているフシが見られます。しかし、どんな技術であれ、それを使えば使うほど環境が良くなる技術というものは何処にも存在しません。それどころか、技術は使えば使うほど環境に負荷を与えるもの以外の何者でもないのです。

例を挙げましょう。環境技術として「公害防止装置」があるとしましょう。これらの装置は、ある製造工程から排出される有害な物質(廃水や排ガスや固形物)を分離し、あまり害を与えない形で固形化する仕組みに過ぎません。集めた物質は、結局は燃やすか高温で処理して安定化し、何処かに埋め立てる事しかできません。そんな事はない。燃費が良くて、排気ガスのきれいな日本の自動車技術こそ環境技術であると主張する人も多くいる事でしょう。しかし考えて見れば、それは単なる「(比較的)低公害車」でしかない事に思い至るはずです。排気ガスの出ない車でも無い限り、無公害車ではないのです。では、燃料電池車はどうだ。この車からは水蒸気しか出ない。これこそ無公害車だ、との突っ込みが入るかもしれません。しかし、車の製造に関わる資源やエネルギー消費はどうカウントすれば良いのでしょう。ましてや、燃料である水素を作るための電力や、原料となる石油や天然ガスやアルコールから水素を取り出した後に残る炭素(炭酸ガス)はどう始末するのでしょうか。結局は、廃車はゴミを増やし、水素を搾りとった「かす」を炭酸ガスとして大気中に放出するのであれば、ガソリン自動車と環境負荷においてはなんら変わりない話に陥ることになります。

結局「環境技術は単なる幻想」に過ぎません。環境を保全するために必要な事は、余分な技術をできるだけ使わないで済ます工夫しか選択肢は残っていないのです。だからこそ、投稿者は技術屋を辞めて環境屋になったという次第なのです。「技術で環境は絶対に守れない」もこのブログの主要なメッセージの一つです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年9月 5日 (水)

418 省エネ産業の幻想

先進国は、中国やインドなどの途上国の産業構造を、省エネ型に誘導するために、持てる省エネ技術を活用すべきである、という議論が続いています。しかし、投稿者が関わった、或いはいま関わりつつある企業群を眺めても、それほど胸を張って諸外国に紹介できそうな例は見当たりません。むしろ、省エネ・省資源に限ってみても、工数(コスト)を削減することだけに目が行き、まだまだ無駄は大きいと感じています。ISO14001を取得して、表面上環境経営に取り組んでいると見られる企業でさえも、細かく見れば全く情けない状態であるといえます。

その一例です。ある企業では、24時間工場を動かし、鋳造工程(つまりはキュポラです)から発生する粉塵を取り除くため、非常に大きくて立派なバグフィルター(集塵装置)を運転しています。送風機はと言えば、何台もの100kwほどもある巨大なモーターで駆動していますので、送風機の電力料金だけを考えても毎日10万円程度は掛かっている計算です。しかし、よく眺めて見ると工場でも特に粉塵を発生させている場所に設置されている、吸入口(ベルマウス)からちっとも粉塵を吸っていません。結果、工場の空気はボンヤリと霞み、作業環境も悪そうです。原因は、実は排気ダクトの中に面積の半分くらいのホコリが堆積していることでした。多分何年も(もしかすると作られてから一度も)掃除された事がなかったと思われます。

一方、毎日製品を製造している設備については、出荷が止まったら困るので、しっかりメンテナンス担当を決めて、定期点検を行っているのでした。確かに、排風装置の様な衛星設備や周辺設備は、直接的にお利益を生み出すものではありませんが、そうは言いながら経費と言う形では、日々コストを発生させ続けてもいるのです。

いくら近代的な省エネ型の設備や公害防止設備を途上国に輸出したとしても、かつての石油危機の際に育んだ、きめ細かい省エネ・省資源の知恵を付け忘れてしまえば、保守を怠りながら数年も使えば、従来の古い設備となんら変わらない「垂れ流し設備」に陥る事でしょう。ここで言いたかった事は、省エネ・省資源は設備そのもののハードウェアの問題ではなく、そこに吹き込む「ココロや知恵や一手間」の問題であるという事になります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年9月 4日 (火)

417 自然に学ぶ

植物を見ているといつも感心させられる事があります。それは、ほぼ完全な形の集光装置としての木の形や葉の茂り具合です。日中太陽が真上からさす事が多い熱帯や温帯地方では、樹木の茂り方は円盤型かほぼ球形です。しかし、夏場でも低い高度からしか陽がささない高緯度地方では、樹木の形はほぼ例外なく円錐形です。いずれの形も、その緯度でもっとも効率的に太陽エネルギーを捕まえるために、樹木が長い時間をかけて形態を進化させてきたわけです。それにしても、人間が作った太陽エネルギー補足装置である太陽電池パネルのなんと味気ないことでしょう。単なる平らな板の寄せ集めでしかありません。

太陽電池パネルの開発者や風力発電装置の設計者たちが、自然の究極的な進化の形である樹木の姿や滑空を得意とする鳥の羽の形に学ぶならば、装置の効率も格段に向上することでしょう。技術者を辞めた投稿者としては、いまさら最高効率の集光装置を考案したり、それを作ったりするつもりもありませんが、ここで言いたい事は、太陽エネルギーに依存する、「究極の持続可能な生活」のヒントは、自然の仕組みにちりばめられているという点です。

同じように、蓄えたエネルギーを力に変える仕組みにしても、石油を燃やす内燃機関の効率を高める方向ではなく、食べ物のエネルギーを筋肉によって力に変える、私たちの体の中に作りこまれているメカニズムにその答えがあるように思うのです。何より、人間は機械の力を借りて楽をすることばかりを考えるのではなく、まずは自分の肉体を鍛えて、楽に力仕事ができるように考え方を変えるべきでしょう。67億人の人類には、67億人力のマンパワーという、エネルギー資源があるわけです。

自然の観察を熱心に行えば、必ずや有用な学びが得られることは間違いないところですが、その際、自然を利用すると言う立場でアプローチすれば、今の農業機械と化学肥料や農薬に依存する「収奪農業」の様に、自然の土壌を壊し疲弊させるだけに終わります。そうでなくて、自然の仕組みの持続性を助け、そこからの「おこぼれをありがたくいただく」と言う姿勢で臨むべきでしょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年9月 3日 (月)

416 ゴミ減らしの方法

環境問題はすべてゴミ問題に還元できる、というのがこのブログの主要なメッセージのひとつです。温暖化の問題は、「気体ゴミ」として、車の排気管や発電所の煙突から排出される二酸化炭素をはじめとする温暖化効果ガス(GHG)によって引き起こされる部分が非常に大きいのです。では、この気体ゴミであるGHGをはじめとするゴミを減らすにはどのような価値観に立ち、どのような行動をとれば良いのでしょうか。結論から言えば、何かを諦める覚悟が必要なだけである、ということになります。単純に、何かを少し減らすという行動だけでは、焼け石に数滴の水をかけるだけに終わります。今の社会活動レベルを基準にした省エネルギーではなく、将来どうあるべきかを議論した上で、必要なレベルに落とし込むように資源やエネルギーの消費目標を定め、その目標に近づけるために「何を諦めるべきか」を決める必要があるといえます。

適当な言葉が見つかりませんが、省エネ・省資源ではなく「止めエネ」と「止め資源」でも言えるでしょうか。車の使用を控えるのでなく、車が無くても機能する社会を考えて見る必要があります。単に夏場エアコンの設定温度を高め、冬場に下げるのでなく、エアコン無しに済ます知恵を掘り起こすべきでしょう。昔の日本の家屋は、夏を涼しくするための工夫にあふれていたはずです。また、江戸の市中には「ゴミ」は落ちていませんでした。何故なら和紙であれば、紙くずでさえ再度漉きなおせば立派な紙に戻ったでしょうし、カマドから出た灰でさえ高値で取引されていたほどでしたから、今の時代でこそ「ゴミ」と呼ばれている殆どのものが、資源としてリサイクルされていたからでした。つまりゴミ減らしの方法は非常に簡単で、余分なものは最初から買わない・使わない、やむを得ず消費するものでも、原料を吟味して自然に還せる原料を用いるか、完全にリサイクルできる素材を選べば良いわけです。もちろん、まずは諦めるものを選び出し、自分の身の回りから遠ざける努力する必要があります。投稿者は、環境おじさんを目指した時、まず車を諦めバイクに乗り換えました。テレビを諦め、30年前に使っていたトランジスタに再登場願いました。昼食もファストフード店やコンビニの利用を控え、連れ合いにブツブツ言われながらも毎日弁当を作って貰ってもいます。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2007年9月 2日 (日)

415 帰路

科学・技術の発展に伴って、私たちは実に色々な道具を手にしました。それは、例えれば子供にとってのオモチャにも似ています。多くの子供は、隣の子が遊んでいるオモチャを見つけたら最後、自分もそれを手に入れるまでは、いつまでもそれに執着します。実際私たちは、高度成長期を通じて経済力をつけながら、実に多くの便利なオモチャを手に入れてきました。テレビ、洗濯機、冷蔵庫、クーラー、オーディオをはじめとする種々の電化製品、バイクや車・バス、航空機や新幹線などの移動手段などなどです。

しかし、楽しい時間は過ぎ去り、太陽も傾いて暗くなり始め(環境も悪化し)見通しが利かなくなってきました、使い捨てたオモチャ(廃棄物)が道にゴロゴロ転がっているため、足元も危なくなってきました。食べ物をアルコール燃料にする暴挙も本格化してきて、なにやらお腹もすいてきました。そろそろ私たちは、家に帰る時期にさしかかっているのかも知れません。家に帰る事とは、これまで手に入れたオモチャを一つひとつ手放しながら、元来た道を戻り始めるということを指します。しかし迷わずに、上手に元来た道を戻るためには道標が必要です。高度成長期を背負い、新しいオモチャを手に入れながらドンドン遠くまで引っ張ってきたのは、昭和一桁から団塊に至る世代だといえます。彼らこそ、ここに至る道順の目撃者ですが、残念ながら昭和一桁世代はほぼ退場してしまいました。一方、今の若い世代は、高度成長期後に生まれた世代なので、実は今に至る道筋は知らないわけです。

団塊世代には、後の世代に、元来た道への戻り方を示さないで退役するのは、実は許されない事だとも言えるでしょう。戻るか戻らないかは、勿論後世の人たちが決める事ではありますが、少なくともそのための地図を描いておく事は、今絶対しておかなければならないことなのです。そのためには、投稿者を含めた20世紀の目撃者たちは、そのキチガイじみた工業化の過程を正確に記録して、それを伝えていく義務があると思うのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年9月 1日 (土)

414 鉄は誰が作った?

1年以上かかってやっと10000アクセスに達したようです。平均1日当たり30件弱のアクセスしかないという、全く人気の無いブログではあります。

さて車や橋やビルを例に挙げるまでもなく、我々の身の回りは金属、取り分け鉄に囲まれています。鉄鉱石の鉱床は、例えばオーストラリアやブラジルでは、200-300mの厚みで広大な面積に広がっています。坑道を掘ってボチボチ掘り進むやりかたでは、膨大な量の鉄消費に追いつかないので、露天掘りと呼ばれる地面を直接掘り下げる方法で採掘されます。そこでは500トン積みのダンプが忙しく動き回り、一回で数十トン掻き取るバケツを数十個付けたエクスカベータが列車に鉄鉱石を積み込みます。

鉄は地球が出来た時から、現在の形で地下に鉄鉱床として存在していた訳ではありません。鉄鉱石がどうやって出来たかを考えてみると、非常に興味深いものがあります。何故なら鉄鉱石の鉱床は「生物」が作ったと言えるからです。鉄は、地殻の中ではありふれた鉱物ですが、金属としての純度の高い鉄のままで産出されることはむしろ珍しいことです。砂鉄はその珍しい例ですが、日本では長く砂鉄が殆ど唯一の鉄原料でした。しかし、上で述べた大規模な鉄鉱床では、金属鉄ではなく赤い酸化鉄として産出するのです。大昔に生物は、この鉄を酸化させる酸素を吐き出すことで、雨によって流され海水中に溶けていたイオンとしての鉄分を酸化させ、酸化鉄として海底に沈殿させる役目を担っていたのです。結果、何億年掛かったか分かりませんが、その沈殿物は数百メートルの厚さに堆積したのでした。鉄鉱床が堆積物である証拠としては、鉱床に見られる見事な地層が挙げられます。地層は間違いなく水の底で出来るものですから。

因みに石灰岩はサンゴが作りました。海水中のカルシウム分を、サンゴ虫が海水中の炭酸ガスを使って、自分の棲家の材料としての炭酸カルシウムを固定します。サンゴ礁は、海底の沈降によって上へ上へと大きく成長し、やがて地殻に乗って大陸に乗り上げて岩となったものが石灰岩になるという事になります。石灰岩から作られるセメントも元を正せば生物が固定していたということになります。結局私たちは、さも自分たちが作ったものの様に思い込みながら、実は生物が数億年掛かって溜め込んだ堆積物や沈殿物を、たかだか数百年の期間内で大量に掘り出して消費していると言うことになります。結果、セメントを作る過程では、炭酸カルシウムを加熱して生石灰(CaO)とするので、セメントを1トン作れば、それとほぼ同じ目方(700kg)のCO2が大気に放出されるのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2007年8月 | トップページ | 2007年10月 »