« 2007年9月 | トップページ | 2007年11月 »

2007年10月31日 (水)

471 ラニーニャ暖冬?

ラニーニャの年は寒さが厳しくなると言われてきました。詳しいメカニズムはさておいて、結果的に見れば、ラニーニャの年は北極気団が強まる傾向にあるからです。北極に蓄積された非常に冷たい空気の塊は、何度と無く冷たい舌(北極気団の形は、クローバ型ですがその葉に当たる部分)で日本列島を舐めまわす事になります。しかし、今後は状況が変化する可能性があります。それは、冬場の北半球の気候は、夏場の北極海の浮氷面積の減少に大きく影響を受けると思われるからです。なぜか。夏場の北極海は長い時間太陽の光を受け続けます。なにしろ夏至ともなれば太陽は1日中沈まない訳ですから。しかし、北極海に浮氷があると日光の殆どを反射してしまいますので、海水温は低いままで夏が終わります。しかし、近年のように氷の面積が減少すると、日光が直接海水に照射されます。その結果何が起こるかと言えば、先ずは植物プランクトン、ついで動物プランクトンが大増殖します。この夏も、そのプランクトンを食べるために、これまでは殆ど観察されていない鯨が北極海に入り込んでいたと報告されています。

さてプランクトンが大増殖すると海は緑色に変わりますので、日光の成分の中でも補色である赤色(赤外線=熱線とも呼ばれる)を吸収し易くなります。結果、海水温度がそれまでより、多分数度高くなりますので、大量に蓄積された熱が季節を越えて冬まで持ち越される現象が起こる事になります。これが、極地方が温暖化の影響を特に受け易い地域となっている一つのメカニズムです。北極海の海水温の上昇は、結果として冷たいほど強まる北極気団を、骨抜きにしますから暖冬傾向になりやすい訳です。今年の冬、予想に反して暖冬で推移するならば、北極海の温暖化は間違いなく進んでいると判断してよい一つの証拠となるでしょう。南極観測は、各国が競って基地を建設し、気象観測や資源の探索も熱心に行われているのですが、実は基地を作ることのできない北極海は、気象観測の空白地帯でもあるのです。現在、北極海の海水温上昇に関する客観的なデータを探しています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月30日 (火)

470 三分法

世の中は二分法が幅を利かせています。勝ち組vs負け組、金持ちvs貧乏、善vs悪、品格有り(上品)vs品格無し(下品)、前向きvs後ろ向きなどなど。そろそろ、これを考え直さなければならない時期だと思っています。例えば、勝ち組vs負け組についてですが、投稿者は以前にドンケア組(そんな事は気にしない組)を提案しました。金持ちvs貧乏に対しては、中流を間に置くのではなく「金では動かない人種」を定義したいと思います。つまり、大中小、上中下の三分法ではなく、投稿者が二分法に換えて提案するのは、間に置くべきは異なる立場の考え方であるわけです。

いじめる人といじめられる人との間には、見て見ぬ振りをする人ではなく、なぜいじめるのかを不思議に思う人たちが必要であるわけです。いじめが増えた背景には、そうなった病理が存在したはずだからです。物には表面と裏面の他にも、いくつかの側面がありますし、場合によっては、上面も下面もあり得るわけです。とりあえずは、二分法の立場に左右されない醒めた目で、世の中を公平に眺めてみることが重要です。

さて環境問題ですが、環境に優しいvs環境に優しくないという二分法に対しては、従って投稿者流の三分法では、両者の間で「人間は地球という環境の中でどう生きるべきか」という問いを発する必要があると思うのです。その結果、そもそも「環境問題は、本当は何が原因で引き起こされているのか」のという問いにも、正確に答えることが出来るようになるのだと思います。ところで「本当は何が原因で引き起こされているのか」の問いに投稿者流に答えるとするなら、環境問題の根源には、はびこり過ぎた人類(人口)とその底なしの欲望(物欲)があるのだと、このブログでは結論付けています。また、では「人間は地球という環境の中でどう生きるべきか」という問いに対しては、増えてしまった人口は当面いかんともし難いにしても、とりあえずは物欲に代わる精神的な満足を得るための「適当な方法」を工夫しなければならないのでしょう。その具体的な提案は、また項を改めて書く事にします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月29日 (月)

469 「創」エネルギー3

最悪のケースは、せっかく作った質の高いエネルギー形態である電気を、熱に(熱い熱も、冷蔵庫やエアコンの様に冷たい熱もあります)に変えてしまう事です。電気を起こすためには、発電所が必要ですが、発電所ではなんと燃やしたエネルギーの半分を煙突や冷却水として環境に放出し、更に送電線から発生する熱(オーム熱?)により、更に半分位に目減りしたエネルギーが家庭の届くわけですが、これを例えば調理の加熱に熱として使う場合、結局は元々の化石エネルギーの2割程度しか熱としても有効に利用されていない計算になります。ならば、効率面で言えば石油を直接燃やして熱を出せば、熱利用の効率は100%となるではないか、と突っ込まれそうですが、現実には発電所で燃やしているのは精製度の低い重油であり、家庭で燃やせるのは手間ひま掛けて生成した灯油しか使えない訳です。

それでも、原理的には灯油で煮炊きすれば、電気の半分程度のエネルギー使用量で済むでしょうから、創エネルギーにはなりえます。しかしここで提案したいのは、暖房や煮炊き程度の温度であれば、何も電気や石油から取り出さなくても、身の周りに結構見つかるのではないかという点です。夏場ブン回っているエアコンの室外機から50℃のお湯が取り出せるのであれば、それは風呂水としては最適です。太陽光を集めれば数百度の熱は取り出せますから、これは調理にも十分使えます。投稿者の家でも使っていますが、小さな規模の太陽熱温水器でも、冬場を除けば風呂の給湯用としては十分間に合います。

つまりは、熱(特に低い温度の熱)や輻射を上手くコントロールしさえすれば、エネルギーの使用量は大幅に削減できるのです。それを、省エネルギーと称して単に冷房温度を上げたり、暖房温度を下げたりする小手先の対策をどれだけ頑張っても、6%削減の「ささやかな約束」さえも守れないでしょう。これからは、チマチマした省エネルギーではなく、そこここにあるエネルギーを最大限利用する「創」エネルギーを進めるべきでしょう。勿論同時に、このブログでも繰り返し書いているように、同時に生活スタイルを見直して、慎ましい社会に脱皮していく事も忘れてはなりません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月28日 (日)

468 「創」エネルギー2

続きです。さて全ての形態のエネルギーが熱になって逃げてしまうとすれば、その熱を逃がさないで貯めておき、そこからエネルギーを創り出せば良いではないか、とのアイデアも出てくるでしょう。実際、いくつかの先進的な事例では、そのような取り組みも行われています。投稿者がドイツで見聞した例では、鋳物工場のクーリングタワーでキュポラ(小型の溶鉱炉)の排気ガスを冷やした水(温水)は、数十度の温度を持っているので、これを隣接する集合事務所ビルに暖房用として売っていました。単に川や大気に熱を捨てる事を考えれば、まさに工夫でエネルギーを創っている例だと言えます。しかしこの例でも熱を「貯めておく」訳ではありません。黙っていれば、環境に逃げていく熱にもう一働きしてもらうだけです。

しかしそういう目で身の周りを眺めてみると、結構温度が高いのに、そのまま捨てられているケースがなんと多い事でしょう。冷暖房という分野だけを見ても、熱の無駄を「見る」事ができます。夏、確かに気温は高いのですが、よくよく暑さを味わってみると、暑さの元は空や地面からの強烈な「熱輻射」であることに気がつきます。輻射エネルギーは、窓ガラスである程度は反射されますが、半分以上は室内に侵入します。外壁が暖まっているので、壁からもかなりの熱輻射攻撃が行われます。それを冷やすためには、エアコンの吹き出し口では10℃以下の冷たい空気を作り出す必要があります。結果として、室外機からは5-60℃もの温風を吹き出し、それでなくても熱い周りの空気を更に暖めるのです。

なすべき対策は、窓ガラスや壁の断熱(輻射熱の遮断)なのです。高度に断熱さえすれば、家の中はさながらトンネルの中の様になり、ごく小さなエアコンや上手くいけば全くエアコン無しでも過ごせるはずです。これも、結果としてみれば新たにエネルギーを創り出した事と同じ意味になります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月27日 (土)

467 「創」エネルギー

創エネルギーといっても、人間が創れるエネルギーの規模は精々筋肉のパワーの範囲内に過ぎません。ここで言う創エネルギーとは、創意工夫を使ったエネルギーの多様化や結果として、これまでと同じ機能をより少ないエネルギー量で実現できる仕組みを考え出すことです。

例を挙げましょう。今エネルギーの主流となっているのは、石油、天然ガス、石炭などの化石エネルギーと先進国での原子力利用、それらを変換して電気エネルギーにしたものが殆どを占めます。水力や風力や太陽光によるいわゆる再生可能型のエネルギー利用も行われていますが、それらは水資源や風況や経済力に恵まれた、ごく一部の国でしかあてにできない種類のエネルギーです。しかし、エネルギーの性質を、頭を冷やして考えてみれば、これらに代わるアプローチは可能なようにも見えます。エネルギーの最重要な性質とは、それがやがては熱に、それも波長の比較的長い電磁波(赤外線のことです)となって、結局は宇宙に放散してしまうというものです。そんなことはない、車やモーターを使った機械では、エネルギーは力となって車や工作機械を動かしているではないか、と突っ込まれそうですが、やはり力も最後は主に摩擦熱となって最後は熱に変わるのです。その証拠として車が通過するとき、道路はタイヤにより擦られて熱を出し、空気を掻き分ける事によって気温をごく僅かですが上げ、大きな音を出す事によってやはり最後は空気の温度を上げ、何より排気管やラジエータからは大量の熱が放出されるではありませんか。

モーターで動かされている工作機械、例えば旋盤ではどうでしょう。旋盤を動かすモーターですが、鉄損、銅損により望ましくない熱が出ています。旋盤の軸を動かす歯車や軸受けでも摩擦熱が出ていますし、とりわけ金属を削る刃物の先端では数百度もの熱が発生しています。つまりは、人間がエネルギーを使って何をするにしても、最後は熱になって大気や水を温め、最後は環境の温度とほぼ等しい温度になるまで、宇宙に輻射エネルギーを放出し続けるというわけです。続きます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月26日 (金)

466 モノと金

別にお金にうらみはありませんが、またまたお金の悪口です。モノと金が等価であるか否かについては、投稿者は否定的です。モノの値段は市場のそのときの状況や雰囲気で決まってしまうものだからです。本来、人間が生きていく上で欠かせない衣食住、とりわけ食について、市場の意思で「勝手に」決められてしまう事には細心の注意を払う必要があります。何度も書きますが、お金は食えませんし、ましてや工業性製品も腹の足しにはなり得ません。勿論、工業製品を市場で(節度を守って)取引することには、意義を差し挟みませんが、しかし食糧に関しては、生存の基本のきであるが故に問題は全く別です。

農業生産物や林産物とは、考えてみれば水と太陽光と農林業従事者の費やした労働の成果物であるわけです。それが、市場の暴力で勝手に値付けされてしまう事には組みできません。市場のパワーは、安い輸入食糧を引き入れ、国内産地を集約化し、季節はずれの農産物をスーパーに並べるために、農家に石油を焚いて温室を暖めることを強いているわけです。

モノの価値は、基本的にはそれを得るために流された汗の量で決められるべきだと、最近しみじみ思います。涼しいオフィスでのキーボードの操作だけで、巨額のお金を動かし、不労所得を得ている人たちには、その利益がどの様な犠牲の結果生まれたものか、是非じっくり考えて貰いたいものです。誰かが苦労しないで儲けた金は、誰かが同じだけ損をした金か、或いは未来からの借金であるはずだからです。その証拠ですが、過去に訳の分からない仕組みで(アメリカでの住宅投資で)楽してお金を儲けた人たちが大勢居たせいで、その仕組みが破綻したいま、それに一枚噛んでいた多くの金融機関やファンドが損失を出し、国によっては税金でそれを補填しているではありませんか。

農林水産業の人たちには、自分たちが人々の生存を保証する現物を握っているというゆるぎない自信を持っていただきたいのです。どんな時代になってもあなた達の基盤は堅固ですし、最後は(金ではなく)太陽光を使って、汗を流して得た現物を握っている人が勝ちですから。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月25日 (木)

465 機能優先

モノが重要なのではありません。モノが持つ機能こそが重要な要素なのです、というのが投稿者のここ10年来の持論です。例えば、電化製品を考えて見ましょう。主婦は、決して冷蔵庫や電子レンジというモノが欲しいのではなく、食糧を腐敗させずに貯蔵しておく事や食品を短時間で加熱・調理するという機能が欲しかった訳です。同様に、人は腹を膨らませるためにモノを食するのではなく、最終的にはそれを体に取り込んで栄養として生命を維持するための機能が必要なので毎日の食事が欠かせないのです。

そう考えると、世の中にあるモノの見方が大分変わってきます。例えば、車を考えてみれば、私たちは動く応接室(最近の大型のワンボックスカーはまさに動く応接室ですが)欲しいのではなく、雨に濡れずに、或いは夏の暑さの中でも汗をかかないで、楽に移動する機能が欲しいわけです。その機能には豪華な座席や、重たい車体や、オーディオやカーナビ・テレビは本来不要なのです。しかし、メーカーはあれやこれらの余計な機能を付け加え、値段もドンドンつり上がっていきました。いまや「スタンダード」という車のグレードは、どのメーカーでも設定していません。

余分な機能は、余分な資源やエネルギーの消費につながります。余分な装備をドンドン省いて、単純に移動する手段としての機能だけ残すとすれば、多分1トン前後ある車の重量は3割方は減らせるはずです。そうなれば、資源もエネルギーもほぼ3割減らせることになります。勿論、消費者もこの機能優先の考えを容認し、すっぱりと割り切るしかありません。

世の中に溢れている多くの製品の見かけや余分な機能に囚われず、本来必要な機能に目を向けるならば、環境の保全のためにはどの製品を購入すべきかが見えてくるでしょう。当然の事ながら、その機能は「本当に必要な機能」でなければなりません。「出来ればあった方が良い機能」とは、結局は「無くても良い機能」に過ぎないわけです。問題は、その線引きです。何しろ毎日メディアに溢れる宣伝文句は、限りなく「あった方が良い」側に消費者を誘っているのですから。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月24日 (水)

464 きれい好きの罪

身近な話題です。日本人は異常なほどきれい好きです。何しろ毎日入浴する人が多分90%を超えるでしょう。残りの10%の人は、きっと入院中であるか老人施設などで寝たきりであるなどの理由で毎日入りたくても入れない人たちだと想像しています。さて、ここではきれい好きであることの「罪」をカウントしてみます。

まず、自分をきれいに保つためには自分の外の環境を汚す必要があります。何故か。例えば体や衣服を石鹸で洗えば、石鹸(界面活性剤)に取り込まれた汚れが下水に流されます。下水は、下水処理場或いは河川に流されて、水系の環境負荷を上げてしまいます。家の中のガラクタを整理すれば、要らなくなったモノは、次の粗大ゴミの回収日にはゴミ置き場に移動されているはずです。その粗大ゴミは、破砕され多分最新の溶融炉で燃やされて、結局は煙や灰やスラグになります。煙は、集塵されているとはいえ、それなりの有害な成分が大気に放出されます。灰やスラグは安定化処理場に埋め立てるしかありません。結局、自分自身や身の周りをきれいにすればするほど、周りの環境は汚染されることになります。

次に過度のきれい好きは資源も浪費します。入浴に関して言えば、水も資源ですし、湯を沸かすボイラーも電気やガスというエネルギーをそれもかなりの量使っています。

もうひとつ罪を挙げるなら、きれい好きの結果としての免疫力の低下です。体からバイ菌やバクテリアを排除して清潔にする事が健康な生活への第一歩のように考えられていますが、結果人間の免疫力は逆に年々低下していると疑われます。免疫力とは、どうにか持ちこたえられる程度のバイ菌を体にと取り込んで、それを攻撃することで初めて得られる能力です。昔自然に感染していた結核菌ですが、今は殆ど晒されていない現代の若者の間に、結核が静かに蔓延している事実があります。「体にバイ菌を適当に入れる工夫」が必要ではないかと思っているこの頃です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月23日 (火)

463 我慢ではなく

先にも書いたように我慢はストレスを招き長続きもしません。我慢してたった6%ぽっち節約しても、温暖化防止の効果という点で見れば、焼け石に数滴の水のようなものです。ここで言いたいのは、我慢する事を止めて、「諦める事」を薦めたいのです。我慢と諦めとどこか違うのか?大いに違います。我慢とは、目の前にあるものをじっと耐えて使わない事ですが、諦めとは最初から無いものと割り切る事なのです。犬を飼ったことはありませんが、餌を目の前において「待て」を指示する事は多分犬にとっては酷な話です。しかし、餌を見えない(臭いもしない)ようにしておいて、棒切れやボールで犬と遊んでやれば、多分腹が減っていることなど忘れて、元気に走り回るでしょう。

人間も同じことです。目の前にあるものを眺めながらそれに手を出さないのはストレスになります。目の前からモノや食べ物を消しましょう。エネルギーや資源の消費を10%減らすのは、全く簡単な話です。これまで月に10回買い物に出かけていたとしたら、これを9回に減らすだけです。多分、月に数回は足りないものが出るでしょうが、その時買い物に走るのではなく、あるもので済ます工夫をします。料理の途中で調味料、例えば醤油が足りなくなったら、コンソメや中華スープや塩や何かでごまかします。結果もしかして新しいレシピが生まれるかもしれません。思い出しましたが、投稿者がアメリカに駐在していたとき、外食も飽きるのでしかたなく自炊していた時、万能のお助け調味料は実は麺ツユでした。これさえあれば、麺類は勿論、どんぶり物、煮物、酢と混ぜて和風ドレッシング、炒め物、和風ハンバーグのタレ、などなどに使えます。また同じ煮物でも、和風の他、中華スープ味、コンソメ味、カレー味と変化をつければ、同じ具でも毎日飽きずに食べられました。

節約から、手抜き料理の話になってしまいましたが、要は工夫次第で冷蔵庫の中に、長い間放って置かれ消費期限切れになる食材が無くなるという事です。食材が不足したら、買いに走るのでもなく、我慢するのでもなく、あるもので代用する工夫を身につける事は、きっと節約が強いられるだろう今後の社会を生き抜くのには役に立つはずです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月22日 (月)

462 環境おじさん度

毎日毎日飽きもせず環境ブログを書いていますが、では環境おじさんを名乗る投稿者自身がどれほど環境人間なのか、改めて自己チェックしてみます。

とは言いながら、個々の点についてチェックするまでもなく、投稿者が環境人間である客観的証拠があります。それは、投稿者の家計です。サラリーマンを早めに卒業して、年収は画期的に減りました。某1.5流企業に勤務していた時に比べれば、多分8割程度は下がっているはずです。(つまり1/5になりました)ボーナスもありませんので、大きな買い物もできません。外食もできませんので、連れ合いにブツブツ言われながら弁当を作ってもらって持ち歩いています。ちなみに、外出した時はどこで弁当を食べるかいつも悩みます。物が潤沢に買えないのですから、廃棄物の出し方もささやかです。週2回のゴミ出しの日は、近所に比べてダントツに小さいゴミ袋に環境人間としてはすこし誇りを感じます。

移動手段といえば、本当は公共交通機関と徒歩で通したいのは山々なのですが、残念ながら先立つものがないので酷暑の夏も冬場もバイクです。リッター当り30km以上走るこの乗り物は、結構走り回っても1万円もあれば2-3ヶ月は走れます。また最近着るものを買った記憶がありません。体型が全く変わらないので、擦り切れない限り衣類の補充は必要ないのです。毎日履いている靴は、既に3年以上酷使した結果、側面に穴が開いてしまったので買い換えないといけない思いながらも半年くらいたってしまいました。さすがに最近は、穴から靴下が見え隠れするので、年内には買おうと思っています。

環境カウンセラー専業を目指して作った事務所は決して忙しいとは言えない状態です。それでもささやかにゴミも出しますが、小さなゴミ袋を月に一度くらいの頻度で出します。中身は殆どが両面印刷した紙ゴミとコーヒーをドリップしたペーパーフィルターなどです。勿論、このフィルターはしっかり乾燥させてから捨てています。事務所は3面窓なので日中の照明は必要ありません。パソコンと点けっぱなしのラジオと日に数回コーヒーを飲むための電気ポットの電力が全てのエネルギー消費です。これから寒くなりますが、体の中から温まるためには1時間くらいジョギングしないといけないでしょう。

以上が、お金とモノから遠ざかる生活スタイルを選んだ環境おじさんの日常とその環境度です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月21日 (日)

461 休題(国産旅客機)

過去20数年間、飛行機屋として飯を食ってきました。その間、国産旅客機のプロジェクトが生まれては消えていきました。実は、日本の航空機業界にはトラウマがあります。技術的には名機といわれた戦後の国産旅客機の第1号である「YS-11」は、東京オリンピックの聖火を運んだ事でも知られていますが、結局たった300機前後しか売れず、ビジネスとしては「大」失敗だったのです。というのも、旅客機の巨額な開発費の元を取るためには、少なくとも1000機以上売らなければならないのです。

さて、M社がMRJと呼ばれる国産旅客機の開発に着手し、エアラインへの売り込みを開始したようです。プロジェクトに対しビジネスとしてGOサインを出すためには、まだ図面も引き始めたばかりの初期段階でも、とりあえず100機以上の確定契約が欲しいところです。技術的に見れば、複合材を多用して軽量化を図り、燃費の向上を売り物にしている様ですが、結果としてはかなり高いものにつきそうな気がします。燃費は良いが、値段が高い航空機の「プリウス」が売れるものかどうか、注目してみています。とは言うものの、投稿者は売れない方(従ってプロジェクトが消えるほう)に1票投じようと思います。理由はいくつかありますが、例えば最近のニュースではロシアが(国も後押しして)100人乗り程度の新型旅客機を開発して、市場投入したことがあります。これでリージョナルジェット機という分野には、カナダ、ブラジル、ロシアの3社がひしめくことになりました。それにもまして景気の動向不安があります。北京オリンピック後を眺めれば、さすがの中国も息切れがするでしょうし、そうなると国内線に使われる小型のジェット旅客機の市場は伸び悩むでしょう。更に追い討ちをかけるのは、航空燃料の値上がりです。今後、石油の価格は天井知らずに上がり続けるでしょうから、20%やそこらの燃費向上程度では、エアラインが飛びつくような魅力になるとも思えません。

話は少し違いますが、エアバス社の巨鳥も結局は飛び上がれない可能性が高いと見ています。1970年代に登場したジャンボジェットは大成功でしたが、何しろ2年も引渡しが遅れた事も災いしていますが、超大型機が登場するには時代が悪すぎます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月20日 (土)

460 大規模化の愚3

大規模化の愚に関してはこのブログでも再三書いています。最近の例では、餅菓子の老舗であるA福事件にそれを感じます。300年も続いたこの「店(老舗)」は、ある時期以降中堅「企業」に変貌しました。店と企業の違いは?勿論何より規模が違いますが、最大の違いは、店(老舗)は伝統を守ることで固定客の信用を得る努力をし、一方企業は利益を最優先することでしょう。利益を優先するためには、大量生産し薄利多売路線を選ばざるを得ないのです。なぜ薄利かですが、手作りでは原料と鍋と臼と作業台があれば餅は製造可能ですが、大量生産では複雑な自動化設備が必要です。この設備投資額や運転のエネルギーコストは餅の価格に転嫁せざるを得ません。単価としての人件費の割合は確かに下がりますが、設備費やエネルギーコストの割りかけは想像以上に大きいので、結果としては薄利に陥ります。

企業化して、製造規模を拡大したことによって別の大きな問題が生じます。在庫(売れ残り)です。店の裏で製造している間は、店頭の売れ行きをから見て次のバッチ量をセットして、柔軟に追加生産ができますので、基本的には売れ残りは殆ど出ません。一方大規模で自動化された工場では、その日の生産量に応じた原料を一時に仕込むので、毎日決まった数量が自動的に出荷されることになります。これをトラックで販売拠点に配送する訳ですから、天候や人出に変化が出た場合には、売れ残りが出る日も多くなります。売れ残りを無くすためには、生産量を抑える必要がありますが、もし実際にそうすれば売り切れが多発し、売り上げも伸びないので「企業」としては、その存在意義が問われることになります。

結果、売れ残り商品のリサイクル(ではなくそのまま日付を変えて売るだけなのでリユースですね)などの悪知恵が生まれることになります。大規模化の反対は小規模化・分散化ですが、A福は、売り上げが増えた時、販売店のすぐ近くに小規模な製造場所を追加で作るべきだったのでしょう。それは、老舗の分店に相当するものです。そのことによってしか老舗の信用は確保できないのです。今度の事件が例え噂が消える75日後に収束したとしても、大規模化したままの企業体質では似たような事件は繰り返されるだけです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月19日 (金)

459 スイッチオフ

更に節約を考えるなら、先ずは手近にあるスイッチを切ってみましょう。スイッチは、電化製品を入り切りするもので、便利さのシンボルであると同時に、人間をズボラにした元凶でもあります。自分で電気を起こす代わりに、発電所で作られ延々数百キロの送電線で送られてきたエネルギーの流れである電力のパワーを、たった一つのスイッチを押すというアクションだけで、手に入れる事ができます。結果、洗濯機が回り、掃除機がゴミを吸い込み、エアコンが部屋を冷やし、煌々と電灯が点ります。

とりあえず夜になったら、部屋の電気を消してみましょう。テレビのスイッチを切ってみましょう。代わりに小さなロウソクを灯し、ラジオのスイッチを入れてみましょう。何が起こるかと言えば、照度の低い場所でものを見る目力が鍛えられます。日頃はあまり使っていない聴力が磨かれます。何よりエネルギーが殆ど不要ですし多分家族の絆も強まります。次の日は、洗濯機が壊れたと仮定して、一度たらいで洗濯をしてみましょう。洗濯機のありがたみが実感できます。

長い信号待ちや、踏み切り待ちでは是非車のエンジンスイッチを切ってみましょう。静けさの意味が少し分かります。勿論、それよりは車を車庫に置いたまま、ぶらりと自転車か徒歩で出かけてみるのがベターです。車というシェルターに守られていないと、花の香りや風の音や秋の冷気や草木の冬への準備の様子などの心地よい刺激が五感を伝わってきます。できれば、少し山に入ってアケビやグミなどの秋の味覚も味わえれば最高です。スイッチを切ることは、人間が作った人工物から一時的に離れることを意味し、それによって環境(自然)に一歩近づく事が始まるのだと思っています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月18日 (木)

458 節約術

節約術の「ツボ」を考えて見ます。節約術とは、主として消費者が支出を減らすために取る行動ですが、ただただ我慢・辛抱するだけではストレスが溜まります。これまでと同じ行動をしても、知らない内に節約が出来ているのが実は理想なのです。

最近投稿者の目に留まって気に入った節約の例です。そのトイレットペーパーを見たときに何か違和感がありました。良く見ると、通常の規格品より1-2割ほど幅が狭いのです。それは、二連型のペーパーホルダー専用に作られたものですが、例え幅が少々狭くても、それをちぎって使う分には、実際に「目的物」をふき取るのは、折りたたんだペーパーの中心部分だけのはずですから、別に何も問題は生じません。しかし、確実に15%程度は資源の節約になっていますし、下水に流されて下水処理場に与える負荷も間違いなく下がっているはずです。これが「我慢しない節約術」の一例といえるでしょう。

知らない間に節約が出来る例をさらに挙げてみます。水道の蛇口に節水コマを入れて水量を絞る、トイレのフラッシュタンクにレンガを数個入れておく、照度が要らない場所の電球をワット数の低いものに入れ替える、ヤカンでお湯を沸かす時飲む量を茶碗で計って火に掛ける、などですが、この手の工夫はいくらでも考えられるでしょう。

別の例も挙げます。風呂桶に張る水の量、毎日の食事の量、包装が過剰な商品を買う度合い、車を使って買い物に出かける回数か店までの距離などを10%削減しても、生活にはなんら支障が出ないはずです。買い物をする場合には、買う量を結構頭を使って考えなければならないので、頭の老化防止にも良いでしょう。食事の減量こそ、健康には良い効果を与えるでしょう。何しろ、私たちモンゴロイドは、どちらかといえばかなりの飢餓状態にも適応できるように進化してきた「省エネ型の民族」ですから、過剰なカロリーの摂取に対しては、逆に糖尿病や循環器系疾病などの贅沢病の害が顕れるリスクが高くなります。是非、ややひもじい程度の食生活を心掛けましょう。勿論食生活だけではなく、モノや便利さに対しても、少し物足りない程度で暮らしましょう。これに慣れれば、自然に節約術が身についているはずです。

| | コメント (0) | トラックバック (2)

2007年10月17日 (水)

457 感覚遮断症候群

これまでも自然と人間社会の活動の乖離については度々書いてきましたが、現代社会の病理の多くが、実はこの乖離現象にあるのではないかとさえ疑っています。人間が自然に囲まれて自然に依存して、時には自然と戦って暮らしていた時代には、人間の力はささやかなものでした。一人ではできない事は「結い」という共同体で力を合わせるしかありませんでした。とは言いながら、自分の五感で感じられる範囲の出来事には実体がありました。

しかしながら、現代の人間によって作り出された人工的社会には多くの「感覚遮断」が内在しています。例えば、テレビに美味しそうな料理が映し出されたとしましょう。確かに視覚とジュージューと肉の焼ける音により聴覚は使われてはいますが、嗅覚や触覚やましてや味覚は完全に遮断されています。また例えば携帯電話でのメール交換というコミュニケーション手段では、ただ一つの感覚、つまりは視覚しか使われていません。残りの四感は全く遮断されているわけです。

多分正常な人間を、何の刺激もない部屋に長期間(例えば1週間以上)閉じ込めるだけで、簡単に発狂させるかそれに近い状態にことが可能です。それほど、人間の五感は「刺激を求めている」のです。感覚遮断による弊害は、例えば動物園でも観察されます。餌を探さなくて済む動物たちは、けっして幸福なのではなく、自分の五感を使って餌を探すという自由(或いは生甲斐?)を奪われていて、もっとも不幸な生活を強いられている動物たちであるといえます。

感覚遮断のよる弊害がある程度まで進行すると、動物では他の個体に対する攻撃性が強まります。つまりは、自分の刺激が少ない事を、他の存在のせいにするという行動です。人間も立派な動物です。まさに、現実の社会で毎日の起こっている、理由のない攻撃性を説明できるのではないでしょうか。攻撃を実行した人間の背景を見るならば、かなりの程度社会から、何より自然から乖離した生活を送っているはずです。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2007年10月16日 (火)

456 ソフト・パス

省エネルギーが話題になるたびに、やれ省エネ家電への買い替えだとか、省エネルギー設備の導入やらが議論されます。勿論寿命が到達した設備(それとて主要な磨耗部品を交換すれば新品同様に蘇るはずですが)を更新するのは仕方がない行動でしょう。しかし、まだ十分使えるものを捨てて新しくするというのは全く考え方が間違っています。何より、代替の製品を作るためのエネルギーとまだ使える設備を処分するエネルギーが余分に発生します。いま直ちに実行すべきは、20%省エネルギーが達成できる新しい設備に更新する事ではなく、どうしたら知恵を使って今の設備で20%の省エネルギーが出来るかを考えることなのです。ハードウェアを更新する事をハードパス」と呼ぶならば、工夫することは「ソフト・パス(Soft-path)」と呼べるでしょう。

例を挙げましょう。これまでより20%省エネ型の冷蔵庫を買うかどうかで悩んでいる人が居たとします。古い冷蔵庫は買ってから10年近く経過ししましたが、まだしっかりしています。さてこの冷蔵庫の使用電力を20%減らす工夫を考えて見ると、先ずはコンプレッサーが実際に回っている時間を減らさなくてはなりません。そのためには、庫内の設定温度を変える事が最も簡単で効果的な方法です。温度設定は、買った時電気屋さんが設定したままか、或いは工場出荷の設定のままになっているはずです。もし自分で設定したという人は、省エネ人間として合格点が取れます。1℃高めに変えるだけでも、1-2割の省エネはすぐ達成可能です。その結果、影響を受ける食品があるならば、その食品だけの保管方法を考え直せば良いでしょう。

次に通勤に使っている車のガソリン代を20%削減したいと考えた人がいたとします。アイドリングストップやソロソロと加速する方法で節約できそうなガソリンは精々5%程度でしょう。そこで、一念発起して早起きし、倉庫から自転車を引っ張り出してきて週に1回だけ自転車通勤に切り替えたとすれば、自動的に20%のガソリンが節約できる勘定になります。雨の日もあるでしょうから、前日の天気予報のチェックは欠かせません。もし、勝手な通勤方法の変更を許さない「頭の固い」企業にお勤めの人は、仕方が無いので100%自転車通勤にするしかないですね。投稿者も企業に勤めて居たときには30年間自転車通勤で通しました。

上の例でお分かりのように、ソフト・パスにはお金や新たな設備の導入は必要ありません。必要なものは知恵と工夫と少しの汗(人力)だけです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月15日 (月)

455 ハチドリ

道を歩いていてキンモクセイの花の香りで蜜を連想したせいか、突然ブラジルで見たハチドリを思い出しました。7-8年前、ほぼ1年間ブラジルで暮らしましたが、休みの日はあまりする事がないので安い自転車を買いました。ただし、頑丈な鎖とゴツイ錠前でショッピングセンターのフェンスにくくりつけておいたのに、1ヶ月も乗らなかった自転車ですが、たった10分間の買い物の間に「見事」にパクラれてしまいましたが・・・。呆れるほど手際の良い自転車ドロの技はさておき、パクラれる前のある休日に街の郊外を自転車で散歩していたら、花の咲いている木になにやらブンブン飛んでいるものがいました。大きなハチかと思って良く見るとそれはきれいな青色のハチドリでした。図鑑などで見た事はありましたが、実際に見るとあまりの小ささとその愛らしさに、ポカンと口を開けたまましばし見とれてしまいました。

さて、ダーウィンはガラパゴス諸島で、島ごとに分化し進化したフィンチ(スズメをやや大きくしたような鳥)を観察して進化論のヒントを得たそうですが、投稿者もやはりハチドリを見た時に、環境の為せる技を改めて考えさせられていました。つまり多分最初は、食べ物(昆虫や木の実)が少なくなって、お腹を減らしたハチドリのご先祖様がいたのでしょう。その内、偶然にも豊富に咲いている花の蜜の味を知ってしまった彼らは、長い時間を掛けて口ばしを細く伸ばし、ホバリング(空中停止)の能力を磨いて、見事に花の蜜を主食とする数少ない種に進化したのでした。

人間も、森と草原の間を往復して暮らす内に、サルやゴリラには出来なかった二足歩行と手を使う能力を進化させたのでしょうが、やはり森と草原の間の微妙な環境が、その進化を加速させたとしか思われません。しかし、コンクリートに囲まれて、ろくに体を動かさない「便利な」現代の生活が、人間の能力に進化ならぬ「退化」を引き起こさないか、まじめに心配している投稿者ではあります。キンモクセイからハチドリへ、更に進化論や退化論へ、どうやら暇が多くなると考える事も多くなるもののようです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月14日 (日)

454 氏神様

借りている事務所のすぐ前は公民館です。昨日その近くにある神社の前をジョギングしながら通りかかると、なにやら数人の主婦が集まって手を合わせていました。傍には可愛らしい子供サイズの神輿が置いてありましたのでどうやら地域の秋祭りのようです。公民館には地域の世話人らしい年配のおじさんや主婦や小学生がぞろぞろと集まってきて、その小さなお神輿を担いでワッショイをはじめました。感動したのは、ジーパンをはいたうら若い主婦たちが、お神輿を担ぐ前に神妙に神社に参拝していたことと、祭り半纏を着た小学生たちが(テレビゲーム機から離れて)、ガヤガヤ言いながら集まってきたことでした。この日は日頃ひっそりとしている神社の氏神様が年に数回目覚める日なのでしょう。

神社はそういえば、地域の氏神様が鎮座まします場所でした。投稿者は、この氏神様を「地域の環境シンボル」を呼び換えてみました。つまり、地域には学問の神様である天神様、や商売繁盛を祈るお稲荷様や、水不足や洪水にならないように祈る水神様が散在し、それに加えて日常の家内安全を祈る地元の小さな神社があるわけですが、これらの神社は同じ環境を共有する地域のシンボルでもあるわけです。氏神様への畏敬の念は、即ち自分たちが生きていく上での恵みを与えてくれる環境への感謝の念でもあります。だからこそ、お金が無くても神社の普請には寄付をするし、それもできない人は労働奉仕をしたはずです。そこには、「環境に生かされている自分たち」という好ましい謙虚な人間の姿がありました。

こんな時代になっても、ここのように古くからある地域には、氏神様が一年にたった数日ですが確かにその存在感を示す日があるという事に、妙に安心させられた土曜日でした。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月13日 (土)

453 富

更に続きです。食べ物のストックは、鳥や小動物やアリなども行う行動ですが、人間だけのストックである「富」について考えて見ます。以前にも書いたように、投稿者はモノと金は等価ではないと考えています。元々、人間にとっての富とは食糧のストックでした。いにしえの権力者は高床式に倉庫に領民から献上された(召し上げた?)食糧を蓄えておいた訳です。勿論飢饉の時には、さすがに領民が飢え死にしてはいけないので、ストックを放出することもあったでしょう。しかし、あるとき誰かが金、銀、銅などという貴金属やきれいな石(玉や宝石)を発見してしまいました。その結果、何時の頃からかこれらの貴金属や宝石が富の象徴になってしまったのでした。これらのものは、全く食糧にはなり得ないただの物質でありながらです。

富が実体のモノである限りは、物質不滅の法則があるのでそれは減りもしないし増えもしません。しかし、人類のもうひとつの重要な発明である貨幣(とりわけ紙幣)が出現してからは、様相が一変しました。紙という価値が低い物質に、インクで印刷した途端に急に「価値」を持ち始めるのです。この価値は、たとえば金に交換できる兌換紙幣であった間はそれでも、実体に近いものでしたが、いまや印刷さえすればいくらでも流通量を増やす事が可能です。

さらに、前世紀の終わりごろに至って「電子マネー」が使われ始めるや否や、富と実体とは殆どといって良いほど無関係になってしまいました。電子マネーをコンピュータ上で激しく動かし、短期間で何倍にも増やしたり、一瞬にして消えてしまったりする現象が日常茶飯事になりました。この事態で何にも増して重要なポイントは、先物取引でしょう。何しろ、まだ到来していない将来の取引を先取りするわけですから、これ以上実体の無い価値取引は考えられません。

いまや富とは、コンピュータ内で単に数字の桁数で表すものとなってしまいました。「富」の歴史も、想えば遠くに来てしまったものです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月12日 (金)

452 ストックとフロー

続きです。石油や天然ガスや鉄などの地下資源は、環境が数億年という年月を費やして蓄積したストックです。一方毎日私たちの頭の上に降り注ぐ太陽光や風や川の流れや植物の活動やそれを利用している動物の代謝はフローとして対比されます。都会のライフラインは、確かに流れているパイプですが、一方では全く無料で、しかも多量の流れである太陽光は、都会では殆ど利用されていません。逆に、地下深くに自然が蓄えたストックである化石エネルギーを、多量に消費し続けるという矛盾を犯し続けています。理由は単純で、太陽光の利用は「不便だから」です。もし、太陽光だけで動かせる通勤電車があったとして、これが良く晴れた日にしか動かないのであれば、多分誰も当てにはしないでしょう。同様に、晴れた日にしか屋根に上げた太陽熱温水器がお湯を作らないので、雨が続くと何日も入浴できないとしたら、誰もそんな不便な生活は望まないはずです。

とは言いながら、ストックとフローの境目はあいまいです。例えば、1年や数年という時間のレンジを考えれば、農作物の貯蔵もストックになります。しかし数百年にそのレンジを広げれば、山にご先祖さんが植えた木材さえもフロー資源とみなされます。つまり、私たちの社会のグランドデザインを考える場合には、この時間レンジの取り方を十分検討しておく必要があります。理想的には100年の計ですが、人間が具体的に想像できるのは精々孫かひ孫世代まででしょうから、それはそれで十分だと言えるでしょう。つまりは、50年程度先の事を考えながら暮らせばよいという事です。別の言い方では、「今あなたがしている行動は、孫世代を幸せにするものですか」という問いにYesと言えるならば前に進めば良いでしょうし、そうでなければ改める必要があるでしょう。

ここでは、フローとストックの分かれ目の時間レンジを一応50年程度と提案しておきますが、この意味では現在行っている全ての地下資源の利用はすべてストックの食いつぶし行動に当ります。さていま中年以上の年代に差し掛かっている人は、多分50年後の社会は確認できないでしょうから、純粋に自己犠牲的な精神を持たない事には、未来世代のために何をすれば良いかさえ思い当たらないかもしれません。しかし、昔の人は確かに子孫の幸福を考えて、山間の沢に棚田を築き、山に木を植え続けたのだと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月11日 (木)

451 ヒグラシ

今回は都会の「日暮」状態のひどさ加減を書いて見ます。日暮とは、その日暮らしの生活スタイルを指します。よくライフラインと呼ばれますが、生きているラインとは「流れているパイプ」のことを指しています。つまり、都会には、水、電気、食糧、生活用品、お金、通勤人を運ぶ車・電車などのモノや無茶苦茶な量の情報などが1秒も絶える事無く流れ込み続け、一方で下水、廃棄物、排気ガス、お金のおこぼれ、疲れた勤め人を乗せた電車、不必要に多い出版物などが外に吐き出されています。もし、これらのライフラインのどれか一つでも止まった事を想像すれば、たちまち都会は麻痺するはずです。

例えば、電気の止まった都会の姿は、ニューヨークの大停電の例を引き合いに出すまでもないでしょう。この夏も停電が起こる間近まで、電力量のピークが立ちました。幸いいくつかの工場が自主的に操業をストップしたために、最悪の事態は回避されましたが・・・。水供給でみれば、渇水という事態は、今夏は四国の一部で問題になった程度でしたが、川が細くて短く、しかも水量も少ない日本の水系(=水道システム)では、多くの地域で常に危機を内在しているのは間違いありません。

現在の都会様に、常に流れ続けるライフラインを前提に、それに100%依存する生活スタイルは、やはり持続可能なものとは言えないでしょう。地震などの災害が一度発生すれば、例えその破壊が一部に留まったとしてもライフラインは即時に停止され、便利であるけれども所詮その日暮しの生活が一瞬にして破綻してしまうことは、先の神戸の震災でも明確に証明されました。

ヒグラシにならないためには、ライフラインを多様化するか、あるいはそれなりのストックを準備するしかないでしょう。いま蝋燭をストックしている家庭がどれほどの割合であるでしょう。ましてや、缶詰や乾パンをストックしている割合や如何に、というところです。風呂は多分1週間は我慢できるとして、電気やガスを使った調理なしに、すぐ口に入れられる食料のストックは、一億総ヒグラシの今の時代だからこそ必須の行動だといえます。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2007年10月10日 (水)

450 時間的加速

自分の考え方や生き方を確認するつもりで始めたブログですが、よく飽きもせず毎日毎日、環境ネタで書けるものだと自分でも呆れています。しかし、それほど多い訳ではないのでしょうが固定的な読者が居る事もかなりの力になっています。

さて「時間」についてはこのブログでも散々「書きまくって」きました。例えば、長い間にわたって人間が出してきた汚染に関しては、自然の浄化作用(つまりは分解作用)によって、無害化されてきました。二酸化炭素の排出や、水系への環境負荷などの人為的な環境変化に対しても、自然はそれを打ち消す方向でフィードバックをかけてもきました。しかし、この100年間、とりわけ最近の50年の変化は、自然にとって見れば許容しがたい程の急激な変化であったわけです。

ここで別の言葉で表現するとすれば、過去の50年間は「環境的に見た数千年」に相当するほどの、環境変化の時間的加速があったということです。それは、二酸化炭素の濃度変化にも如実に現れていますし、有史以来まったく問題にも何もならなかった廃棄物の処理が、今や後数年しか持たないと悲鳴を上げている地域がますます増えていることでも明らかです。環境問題とは、即ちこの時間の加速の問題でもあります。体を壊すほど働いて、本来はずっと先の子孫が手にする筈だった「ガラクタ製品」を急いで手に入れ、しかもそのガラクタさえも製品寿命を全うせずにポイポイと捨ててしまうという愚を何時まで続けるのでしょう。

単純に、いま必要なことは時間軸の引き延ばし、つまりは減速だけなのです。特に経済の減速が最優先です。でも経済を減速すれば不景気になる?その通りです。一日も早く社会を安定的な不景気モードに突入させ、仕事も減って定時に帰宅し、時間を持て余す社会にしましょう。そうなれば、家族のコミュニケーションが密になり、江戸時代あたりにも祖先が経験した「文化的豊かさ」が間違いなく復活します。環境問題を含め、今起きている多くの問題は、人間が速めた時間の経過に環境や人間自身がついて行けない事に原因があると思うのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月 9日 (火)

449 田舎の定義

物事を自分なりに定義してみるのが投稿者の趣味の一つです。ここでは、「田舎」の定義を考えて見ます。さて田舎を一言で定義すれば、それは「人間が生きていく上での根」といえるのではないでしょうか。高度成長期、多くの農家の「跡取り」ではない人々が、田舎を後にして都会へ移動しました。しかし、更に経済成長が続くと、今度は農家の後継者までもが田舎を「捨て」ました。そして、モノに囲まれた狭い住宅での「便利な」都会暮らしが枝葉を伸ばし、やがて花開いたわけです。とは言いながら、長い間にわたって彼らの根はあくまでも田舎に残っていたわけです。その証拠は、盆暮れの民族大移動に象徴されていました。田舎は、年2回とはいいながら「帰る場所」だった訳です。しかしながら、長い年月が経過するうちに、田舎に残された世代が亡くなるなどの理由で、田舎の根と都会の枝葉は徐々に縁が切れていきました。今や、田舎には住む人も無くなった廃屋が軒を連ね(田舎の家は離れているので、軒は連なってはいませんが)、耕す人もいない耕作放棄地の面積が、なんと埼玉県の面積に匹敵するまでに増加してしまったのです。

さて、根からの養分や水分の補給が無くなった植物がどうなるかは、改めて説明するまでもないでしょう。都会で環境問題を云々する前に、まず自分たちの根である田舎の再生こそが、緊急の課題ともなっています。とは言いながら、実家は東北地方の小さな町にありますが農家ではないので根は残っておらず、投稿者自身も都会に近い地方の街に住んでいますが・・・。勿論将来の計画はあります。投稿者の人生計画では、現在名乗っている環境坊主(或いは環境おじさん)を65才まで(あと10年弱は)続けるつもりです。その後は、どこかの山間の廃屋を借り受け、自給自足生活の仙人生活?に入るつもりです。その時に、既に多くの田舎で、余っている廃屋や耕作放棄地が残っておらず、探すのに一苦労をするくらい、世の中のライフスタイルが変わっている事が今の理想ではあります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月 8日 (月)

448 安全の値段2

安全こそが全てに優先する事項のはずです。いくら美味しくても毒のある食物は口にはできないでしょう。しかし、長い間食べ続けると確かに体には悪いが、味は抜群に良いので、時々は口にしたいような食べ物(飲み物)が存在したら、人間はどう行動するでしょうか。たぶん、多くの人がそれを口にするはずです。そうでなければ、アルコール(体内で分解されるときアセトアルデヒドという毒に変わります)や美味しいがほろ苦くアク(これも実はアルカロイドという毒です)も強い山菜などを口にする人は誰もいなくなるでしょう。それでも口にするのは、個人差がありますが、ある程度は「中毒」になっているからです。

では、環境悪化に関してはどうでしょう。あらゆる環境の悪化は確かに、まず弱い生物、ついで人間自身の健康にも脅威になります。しかし、上の例のように悪化の度合いが弱い環境負荷(まさに二酸化炭素こそがその好例です)に対しては、人間は回避行動をとろうとはしません。それは、食べ物との類推でいえば「二酸化炭素発生中毒」になっているからかもしれません。二酸化炭素は、車に限らず便利な機械を使った時により多く発生しますから、これを化石燃料中毒とも表現できそうです。

表題に挙げた安全の値段ですが、モノの値段は、今はそれが持つ(市場)価値によって決められますが、安全だけは値段のつけ様がありません。命に関わるものであれば、実際のところいくらお金を積んでも支払わなければならないはずです。しかし、10万人に数人の犠牲者が出るかもしれない危険ならどうでしょう。かつて公害が華やかだった時代の日本では、これは「安全」であるとみなされていました。喘息で苦しむ人が多くても、死ぬ人がそれほど目立たなければ、亜硫酸ガスの煙突からの放出はOKだったのでした。いま、流石にこれはご法度にはなりましたが、では100万人に数人の犠牲者が生まれる環境悪化はどうでしょう。これは果たして安全な環境といえるでしょうか。その意味で、温暖化はまさにそのレベルに達しています。今年の夏の酷暑が原因の熱中症や山火事で亡くなった方は、日本でも100人以上を数えますし、北米やヨーロッパでもその何十倍もの人が亡くなっています。その原因のひとつとなっている、自動車や電化製品や溢れる輸入食糧や雑貨の消費は、もし安全のためのコストを上乗せすれば、今の数倍程度に値段が上がっても然るべきだと投稿者は考えています。安全により多くの価値を見出すならば、国産品や地元産の製品や食料も間違いなく競争力(この場合は価格競争力ではなく安全競争力です)を持つはずです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月 7日 (日)

447 キープグレイドリサイクル

カタカナのタイトルが続きます。アップグレードリサイクルという夢のような言葉があります。意味の上からすれば、廃棄された原料をリサイクルする過程で、純度が高まるとか新しい機能が付加されるとかして、価値が高まるメリットが生まれる事を指します。しかし、この言葉には矛盾があります。もし、このアップグレードリサイクルの過程で、廃棄物中の不純物が取り除かれて純度が上がったと仮定しましょう。でもよく考えてみれば、純度を上げた結果残された不純物(多くの場合有害物であったりします)の濃度は濃縮されているはずです。つまりは、より後始末に困る有害物を作り出してしまった事になります。別のケースですが、廃棄物Aと廃棄物Bを混ぜた結果有価物ABが出来たとしましょう。このABは、AやBより各段に価値がある物質だとします。確かに一回は価値を上げる事に成功したにしても、ではABそのものが廃棄物になった時には、最早AにもBにも戻せない訳ですから、やはり厄介者の「ゴミ」になってしまうでしょう。

あまり都合の良い夢を追うのをやめて、やはり地道に廃棄された物質は徹底的に分解し、ペンキや汚れを取り除いて純粋な物質に戻し、他の物質と混ぜる事無しに、元々の原料に戻す必要があります。これをここでは、リサイクル後も価値が変化しない「キープグレイドリサイクル」と呼んでおきます。その意味で、キープグレイドリサイクルの優等生としては、例えばガラス瓶やアルミ缶などが挙げられます。しかし鉄は、多くの場合メッキなどの防錆処理が施されているのと、元々の鉄そのものが、最低でも炭素などの元素との「合金」になっていて、製鉄所毎に微妙に成分も異なる事もあり、純粋な鉄は基本的に存在し得ないので、キープグレイドリサイクルするには無理があります。

いずれにしても、最終的なリサイクルの目標は何遍リサイクルしても劣化が進まない方法を確立する事です。そうでなければ、リサイクルの度に劣化が重なり、最終的にはどうにも使いようのない多量の「厄介な混ぜ物」が将来世代に残される事になります。これが、リサイクルを前面に打ち出した「循環型社会」の限界となります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月 6日 (土)

446 スケール「デ」メリット

環境への負荷を度外視した経済では、生産や流通などのスケールは、多分大きいほどメリットが出ることでしょう。しかし、このシステムの維持には多量のしかも安いエネルギーの供給が前提になっています。一方、投稿者が理想として掲げている「分散型システム」では、特に運送に関わるエネルギー消費は最小限にとどまります。

分かり易い例としてビールを挙げてみましょう。ビールは、穀物(麦)、ホップ、酵母などを原料に作られますが、原料の殆どは実は「水」です。ビールにして工場から消費地に運ぶということは、この「殆ど水」を、多量のエネルギーを使って移動させる事を意味します。また、日本ではビールを大きな樽で運ぶ事は少ないので、もっぱらワンウェイ容器である瓶詰めやアルミ缶詰にして配送されます。これも、缶やビンを作る、詰める、運ぶ、リサイクルさせるにはやはり多大なエネルギーを消費します。一方ドイツなどでは、多くのレストランは、実は地下にビール工場を持っています。典型的には7個の1立米程度のステンレス製のタンクを持ち、曜日毎に1週間前に仕込んだタンクからその日のビールを客に提供します。つまりは究極のJIT生産で地産地消です。原料そのものは乾燥しているので保存性に優れており、ストックが利きます。もしもですが、水を注ぐだけでおいしく飲める「粉末ビール」が発明されたら、輸送のエネルギーが殆ど不要となり、環境負荷はグンと下がることでしょう。ただし、残念な事にはこのビールにはアルコール分は殆ど含まれていないので、単なる清涼飲料水ではありますが。しかし、少なくてもビールでの飲酒運転は無くなるので、これはこれで別のメリットが生まれます。自家製のビール製造キットも販売されてはいますが、これはこれで、作る楽しみにもつながるでしょうし結構な趣味にはなり得ます。

スケールの拡大はいずれにしても環境的には好ましくない行動です。しかし、一方ではスケールメリットと価格破壊を同時に達成するために、多くの日用品の製造が中国や東南アジアに逃げ出しました。しかし、環境がさらに悪化しスケールデメリットだけが目立つ時代になった時、既に日本では多くの設備が廃却され、製造技術(者)も既に消えている事が懸念されます。そうなれば、日本では単純な日用品でさえまともには生産できなくなるでしょう。その時は、投稿者が見る限りでは、すぐ目の前に迫ってきています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月 5日 (金)

445 物欲抑制機械

そんなものが出来るかどうか知りませんが、ぜひこの世の中に「物欲抑制機械」が存在して欲しいとしみじみ思います。この機械を頭にかぶってスイッチを入れると、物欲のリピドーが機械に吸い込まれて、ギラギラした人間が、おっとりした人間に変化します。つまり、何回かこの機械のお世話になると、何故かものが欲しいという気持ちが段々小さくなると言う訳です。あるいは、CDかDVD等のソフトウェアがあって、これを視聴する事によって、何故か自分の物欲が恥ずかしくなって、やがてものを欲しがらない人間に脱皮できるとかの事です。勿論あまり度が過ぎると、仙人の様になって霞を食って暮らそうと考える人間が多数出現しても、やはり少し困りものではありますが。

もしそんなものが出来れば、環境問題なんかはあっという間に解決に向かうことでしょう。何しろ、大きな車を所有して、ガソリンをブチマケながら道を走る事は、非常に恥ずかしくなるでしょうし、エアコンをブンブン回すのにも、近所の目が気になるはずですし、何より朝に大きなゴミ袋を出すには、かなりの勇気を要するようになるからです。メタボな人は、町を歩く時には下を向きながら遠慮がちに道の端を歩かざるを得ませんし、チャラチャラした装飾品やブランド物を身に付けている人たちには、なにやら好ましからざる素性の人たちというレッテルが貼られる事になります。そうなると。お金を持っていてもあまり役に立たなくなるので、あくせく稼ぐ必要がなくなり、残業も減る結果家族の団欒が復活することになります。外食残業は廃れ、ブランド品や家電量販店や車のディーラーの業績はひどく悪化するはずです。

しかし、街にきれいな空気が戻り、殆どの商店は早々と店じまいするので夜が暗くなり、星空もきれいに見えることでしょう。公害防止機器や省エネルギーの装置や環境保護など、改めて考えなくても、環境問題は殆ど姿を消す事でしょう。政府には是非、税金を沢山つぎ込んでも、そんな機械やソフトの開発を行って貰いたいものです。でもそうなると、税金も減ってしまうので、役人も減らされる事になるので、やはりお役人にその推進を期待するのは全く無理のようですね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月 4日 (木)

444 生存光線

遠赤外線は、生物の環境条件としても、温暖化の原因あるいはその解決方法にとっても重要な要素です。まず生物ですが、植物も動物もある波長範囲の遠赤外線にかなりの程度依存して生きています。植物でも比較的高等なものは光(例えば菊などにおける日照時間)を感知して春夏秋冬を計っていますが、多くの植物は気温(つまりは遠赤外線の強度)を生活史の指標としています。つまり、寒い時期の後に来る暖かい季節を春と認識し、暑い季節の後に来る急激な気温の低下を秋の到来と認識するわけです。遠赤外線の強度が一定以下になるとそれは活動のできない季節、つまりは冬なので、多くの植物は休眠状態に移行して、数ヶ月間活動を殆ど停止します。

一方、動物においても遠赤外線は生存にやはり非常に重要な役割をもっています。変温動物は、遠赤外線の強度を敏感に感じ取って、生存競争を生き抜いています。例えばヘビなどの爬虫類は、頭部に非常に鋭敏な赤外線センサーを持っており、獲物や敵の存在を素早く察知できます。それはまた、季節を知る温度センサーでもあるわけです。ふくろう族も顔面に性能の良い赤外線センサーを持っており、夜間でも獲物の動きを鋭敏に察知できます。彼らの首が、ほぼ360度回転するのは、獲物の発する赤外線が最も強い方向にセンサー(顔面)を素早く向ける事ができるためなのです。すなわち顔を向けた方向に、間違いなく体温の高い動物(例えばネズミ)がいるというわけです。

さて遠赤外線は、人間にとっても勿論重要な生存ファクターです。人間の場合、この赤外線センサーは首筋や背中に集中しています。勿論顔面や目にもセンサーを持っていますが、主に暑さ寒さを感知し生存に関わるのは首や背中のセンサーです。寒さにブルッとふるえるのは、首筋や背中に寒さを感じた時です。この時、背中や首筋からは必要の以上の遠赤外線が、寒い周囲の環境に向かって放射されています。他の人と背中合わせでいると、ポカポカしてくるのは、その人から背中を通して遠赤外線を貰っているためです。植物が有効に利用している8-14μmの波長の遠赤外線を指して「生長光線」と呼ぶ事もありますが、ここでは、敢えてこの重要な遠赤外線を「生存光線」と呼んでおきます

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月 3日 (水)

443 振れ幅

このブログでは、環境という言葉が導く多くのK/Wをタイトルとして、毎日毎日飽きもせず書き続けています。これまで書いてきたものを振り返ると、かなり枠が広がってきたような感じがします。たとえば、お金や経済と環境との関係や宗教などの価値観の問題と環境との関わりなどのテーマを指します。それだけ、「環境」という概念がつかみにくい存在なんだろう、と理解しています。環境という言葉を置き換える他の適当な言葉が見つかりませんが、多分「森羅万象」などという言葉が近いのかもしれません。つまり動かない系としての環境ではなく、常に変化しうつろい易い存在としての環境として捉える必要があると思うのです。しかしながら、結果としてその変化の幅(振幅)は、自然が決めた範囲内に収まってきたことも事実です。人為的な活動の影響としか考えられないのですが、その変化の幅が、何故かいま大きく振れ始めている訳です。

振れ幅が大きくなる原因はいくつか考えられますが、最も確からしいものとしては「不十分なフィードバック」が考えられます。例えば、地球の気温が上昇に転じたとき、それを阻止しようと、環境はあらゆる手を尽くすはずです。例えば、二酸化炭素が原因であったとすれば、それを吸収しようとする働き、例えば森林による吸収や海中のプランクトンによる吸収などの活動が活発になり、結果として二酸化炭素濃度を押さえ込むことになります。

しかしながら、その振れ幅が極端に大きいか、あるいはその変化が極端に短い期間で起こったとき、環境のフィードバックは殆ど効かなくなります。というより、フィードバックの力が働いてはいるのですが、自然界のフィードバックのスピードは非常にゆっくりしているので、実際的にそれが作用していないと表現したほうが正しいでしょう。その結果何が起こるかといえば、「オーバーシュート」という現象です。つまりは現象の行き過ぎということです。100年掛けて増やし続けてきた二酸化炭素の影響は、例え100年間全くその排出を止めたとしても、温暖化という自然現象のオーバーシュートは止まらないでしょう。でも破局的な環境破壊を食い止めるためには、そのための努力は絶対続けなければならないと思うのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月 2日 (火)

442 生物多様性

生物多様性は、環境問題では重要なK/Wです。この場合の環境問題とは、単なる資源やエネルギーの問題や廃棄物の始末など狭い定義ではなく、それこそ地球環境といった広い捉え方を指します。では何故生物多様性が環境保全に重要な意味を持つのかを少し掘り下げてみましょう。農業を取り上げてみます。ある畑に1種類の作物を植えたとします。植物にとっての原料は、土壌と水と炭酸ガス+太陽光ですから、農家はその作物が最も良く育つように、肥料や農薬を散布します。その結果何が起こるかといえば、その土壌はその作物の生育に適する様に変化してしまいます。それにつれて、土壌の養分や微生物、土中の昆虫相もかなり単純な方向に変化します。つまり、出来上がった新しい土壌環境には、殆どその作物しか育たなくなるでしょう。高原キャベツ栽培然り、トマト栽培然り、投稿者の住んでいる市でも盛んなニンジン栽培然りです。特産と呼ばれる農作物の多くは、実は人為的に作り出されたものであった訳です。

生物多様性を織り込んだ農業とはどんな姿になるでしょうか。多分それは雑草の中に、まばらに野菜が植えられている様な畑に見えるはずです。しかし、雑草はそれぞれの特性に応じて、土壌を利用する深さ(根張り)も違いますし、土中の微生物との共生関係も異なります。昆虫は、野菜も食べますが、多様な昆虫相が形成されるため、1種類の害虫だけが蔓延ることはありません。したがって、基本的には農薬は不要となるはずです。しかも、野菜はまばらに植えられているので、少ない量の有機肥料の施肥で十分です。雑草は、枯れればそのまま肥料に変化もします。

別の例では、遠くブラジルの胡椒畑の成功が挙げられます。天然の胡椒は、実は大きな木の下のあまり日当たりが良くない場所に自生しています。しかしながら初期の大規模な胡椒農園では、胡椒の木を密植していますので、病害虫や旱魃や雹などの自然災害で、多くの農園が壊滅的な打撃を受けました。しかし、日本の篤農家(農学者)がブラジルに渡り、長年の苦労の結果、多様な樹木の林の中に、まばらに胡椒の木を植えるという作付け方法に到達して以降、胡椒の生産は非常に安定したものとなっています。またその胡椒畑には、いくつかの種類の野生種に近い果樹なども植えられていますから、多様な農産物も収穫できるオマケもついています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年10月 1日 (月)

441 分析から統合へ

20世紀末までは、何を為すべきかについては結構明確でした。企業においては、新しい製品やサービスを開発し、売り上げを前年比で増加させれば良かった訳です。結果として、利益も増加し、給料のベースを引き上げ、より多くのボーナスも手にすることができました。その為に、終身雇用という慣習に守られた社員は、多くの残業をして仕事を「こなせば」良かったのでした。このような時代においては、分析的手法が有効です。分析とは、物事を要素に分解し、明確に理解する事を指します。たとえば、経営指標を分析して、次年度の計画に反映させるとか、工程を分析してムダを排除するなどの行動を例示することができるでしょう。

しかし、将来の見通しが利かないこれからの時代は、分析的手法では行き詰る事になります。つまり何をどうすればよいのかを、ゼロから決めていく必要がある時は、分析など何の役にも立たないのです。同様に、現在の姿からの外挿法でも答えは出てきません。何故なら将来の姿は現在の単純な延長ではないからです。では何が必要かですが、その場合は統合的視点が求められるはずです。つまりは、バラバラにされた要素を再度結合して、全体像を把握する必要があるという事です。これまでの様に、科学や経済学や社会学や経営学や政治学などの個別の学問の立場でこれからの時代のあるべき姿を語るのは非常に危険です。何より、これらの学問は将来の指針を示す事には殆ど無力だからです。

統合的な学問としては、たとえば環境学などがありますが、これとて自然科学に偏りがちな、不完全な学問に過ぎません。学者は、まずは重たい専門の外套を脱ぎ捨てる必要があります。自然の理解だけで、今の地球環境の悪化の原因は突き止められないし、その対策のヒントすら示すことも出来ません。人間の社会、自然現象、地球と宇宙の関係、水の惑星である地球の水循環、植物の理解、土壌生物の理解などを統合した学問(学問という言葉自体、分析的な表現ですが)が必要だと考えています。しかし、そうなるとそれは既に学問ではなく、世界を見渡す価値観のようなものになることでしょう。その意味で昔の人は、いくつかの優れた価値観を「宗教」という形ですが確かに打ち立てていたのだと思います。そんな大きな事を考えなくても、投稿者には身近な雑草1本や虫1匹をながめるたびに、長い歴史の統合(=進化)が感じられます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2007年9月 | トップページ | 2007年11月 »