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2007年11月30日 (金)

500 QOSL

またまた投稿者が作った怪しい略語です。まずまともな略語であるQOL(生活の質)について考えて見ます。QOLという言葉の持つイメージで言えば、物質的には満ち足りていて快適で健康的な生活を指しそうですが、多分そこに欠けているのはココロの満足度ではないかと疑っています。そんな言葉はまだ見たことがありませんが、ここではそれを精神生活の質(Quality Of Spiritual Life=QOSL)と呼んでおきます。肉体が物質世界で生きているのと同様、ココロは多分精神世界で遊んでいるのだと想像できますので・・・。 精神世界や心の満足度で困るのは、残念ながらそれが目には見えず、それを計る計器が未だ発明されていないことです。マイクログラム程度の目方やナノメーターというとても目には見えない長さが正確に測れるこの時代にも、心の満足度を計るメーターは作られていないのです。これは科学者や技術者の怠慢でもありますが、同時に宗教者や精神科の医師の怠慢でもあります。なぜ、ココロの満足度を計ることが重要かといえば、投稿者は、人間の満足度はこの2種類の満足度を掛け合わせたもので評価すべきだと考えているからです。物質的な満足度が拡大すると、満足度の入れ物の大きさ(具体的には脳内で分泌されるエンドルフィンなどの脳内物質の濃度)に限界があり、相対的にココロの満足度は減少します。その状態を指して「ココロが荒れている」とも呼ぶことがあります。現代の社会はまさにこの心の荒廃、または心の飢餓状態の只中にあると言っても良いでしょう。 QOLの追求は、結局環境負荷を上げずにはおきません。何故なら、QOLは主に物質的満足度にその重心があるからです。一方、QOSLの追求には基本的にモノは不要です。生きていくのに必要な食糧があれば十分です。座禅するのにモノは無関係ですし、写経には数枚の紙と筆があれば十分です。もしかすると環境問題の解決は、誰かがQOSLを計る機械を発明し、人々はこの機械で検診を受けることによりココロの満足度を改善するだけで十分だ、と最近は考えています。

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2007年11月29日 (木)

499 地域再生 

行政を含め「地域再生」が叫ばれていますが、現在の路線は全く方向が間違っています。いわく、高速道路や新幹線や大規模林道をなどのインフラを整備し、大学や企業の地方進出を促し、観光資源を開発しイベントを打って人を集めるなどなど。これがなぜ間違っているかといえば、全てが10年程度の時間軸でしか見ていない事に理由あります。つまり短期的には正しいが、100年のレンジで見れば間違っているのだと言えます。長期的に正しいかどうかは、一にかかって百年後も持続可能か否かでチェック可能です。

さて地域の再生はどうあるべきかですが、投稿者が考える方向は、「慎重な後ずさり」だと言っておきます。田舎と呼ばれる地域には、かつて確かに大勢の人が住み、それらの人々の生活の場やコミュニティが存在したわけです。高度成長期の、都会のブラックホールのような強大な引力によって、「跡取り」までも引っこ抜かれた結果が地域の崩壊であったといえるでしょう。さすがに、温暖化が顕著になり、エネルギーの逼迫が現実のものとなってきた近年、都市の持つ引力は大分弱くなってきたような気はします。それは、都市の引力圏から脱出して田舎暮らしを始める人たちが増えた事からも裏づけられます。

慎重な後ずさりは、まず都市の引力に取り込まれた団塊世代が田舎に生活の場を移す事から始めなければなりません。昔ながらの(しかしベタベタしない)近所づきあいや親戚づきあいがあり、お金はあまりないが、ココロが満足する生活があれば、やがて都会に住む息子や娘も、「田舎の生活もなかなか捨てたものではないな」と思い始めるでしょう。人々が暮らし始めると、放棄されていた農地や里山にも手が入る事にもなります。田舎にまだ残っているお年寄りから知恵を学び直しながら、都会生活で鍛えられた合理性も加えつつ今風の田舎暮らしを作り上げていけばよいわけです。地域の再生は、その後からトボトボとついてくるはずです。都会から田舎への人口移動は、結局「田舎に住むという価値」が「金+物+便利さ」の価値を上回ったときにしか始まらないのでしょうか。今のところは、百年河清を待つという気分です。

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2007年11月28日 (水)

498 負荷を楽しむ

日本には幸いな事に(今のところ)はっきりした四季があります。夏は、最近はモンスーンの影響を受けるため熱帯並みに蒸し暑く、冬はかなりの南の地域にも雪が降ったりします。春秋には、快適な気温に加え、概ね1週間サイクルの暖かさと涼しさのリズムが繰り返されます。しかし、冷暖房の無い事務所を借りて、やはりしみじみ感じるのが夏の暑さとこれからやってくる寒さです。覚悟しているとはいえ、やはり室温が30℃を超えると汗が流れますし、逆に室温が10℃を下回ると手足が凍えます。投稿者は、多少自虐気味ですが、自分の体にある程度の負荷をかけることをモットーとして暮らしてきました。暑さに耐えれば、汗腺が活発に働き熱中症などには無縁の体になります。寒さに耐える訓練は、多分山での遭難の確率を下げるでしょうし、エネルギー価格が更に高騰する将来にも生き延びていくのに間違いなく有利です。

あらゆる生物は、環境からの耐えられる限界ギリギリの厳しい試練を生き延び、進化を重ねてその環境にも適応してきました。来るべき、温暖化が進行し、加えてエネルギーが大幅に不足する時代には、最後に頼れるものは自分の肉体だけになるでしょう。熱さ寒さに耐え、粗食に耐える生活を重ねていけば、人類が存続できる時間も延びていくのでしょうが、今のままでは悪化する地球の環境の中で、折角伸び続けてきた日本人の平均寿命も、今後急速に短縮することになると思われます。

悪化する環境に耐えるために、可能な限り利便を放棄し、不自由に耐えて体を鍛えることが、皮肉にも環境悪化を食い止める重要なアプローチともなります。というより、むしろ人力活用による省エネ・省資源と体の抵抗力の増加の相乗効果で、地球の住みやすさが格段に良くなると期待されます。繰り返しますが、このアプローチとは私たちの祖先が実践してきた伝統的な生活に、一歩でも二歩でも近づくことに他なりません。

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2007年11月27日 (火)

497 自然に学ぶ

企業は、国際競争(具体的には中国や東南アジア)に打ち勝って、生き残っていくべく将来の製品開発にしのぎを削っています。その為、今作っている製品のコストを極限まで絞り込んだり、時には法を犯したりしながら日々努力を続けているのです。しかし、視点を変えれば新しい製品などはいくらでも考え出すことができる、と投稿者は楽観しています。なぜ、新しい製品が生まれないかを考えてみれば、それはナノテクやらバイオテクやらロボットやらの「最先端科学・技術」にしか目を向けていないことに原因があります。1960年代の宇宙開発競争で開発された太陽電池がやっと実用化の域に達したものの、同時期に開発された燃料電池は未だ足踏みを続けています。それほど、人間の知恵などは知れたものだと断言しても良いでしょう。

最近、東北大のI田教授のことを知る機会がありました。彼によれば、自然の仕組みに目を向ければ、環境負荷を大きくしないで、新しい技術を開発できる可能性は大きく広がっていると主張しています。例えば、イモリの指先の微細構造や分子間力を学べば、人間が壁や天井を自在に這いまわれる可能性を開きますし、ハスの葉の表面構造を学べば超撥水性の衣服も開発可能となります。しかも、そこに使われる材料は決して「化学物質」ではなく、自然の物質を使った微細構造の工夫だけですから、製造のための環境負荷は当然低くできることになります。

今後の社会になにもハイテクなどは必要ないと、投稿者は考えています。何億年もかけて進化を続けてきた自然の仕組みに驚嘆し、それを愚直に学び、曲がりなりにも模倣してみることが、今後の企業を、あるいは私たちの生き延びる可能性を高める方向だと思うのです。科学を駆使して資源やエネルギーを浪費する物理学者や化学者やハイテク技術者などではなく、自然の仕組みに謙虚に学ぶ、生物学者や農学者、林学者が大手を振って歩ける社会の到来が待ち遠しい限りです。

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2007年11月26日 (月)

496 休題(忘れる)

企業向けに「アイデア発想セミナー」を時々開講しています。アイデアを投稿者なりに定義すれば、「アイデアとは、機能の実現のための改善された代替案である」となります。もう少し、噛み砕いて言えば、機能とは「ある働き」の事ですから、例えば車の機能としては、人が道路を使って雨に濡れずに荷物と共に数十キロ/時で移動する手段である、などと言えるでしょう。車が出現するまでは、その役目は馬車が担っていました。車に代わる改善された移動手段を誰かが考えたとすれば、それはまさしく新しいアイデアとなる事は勿論です。実際の店舗の機能の代わりに、ネット上に仮想店舗を構える事を思いついたM谷氏率いるR天も、結局はアイデアの為せる技でした。

投稿者は、環境問題の根を考え続けたのと並行して、アイデア発想法についても同じ程度に掘り下げてきました。投稿者なりの、手法も開発し、幾つかの企業で「アイデア発想セミナー」を開講して好評を得ています(得ているつもりです)。しかし、アイデアはそれをひねり出そうと考え続けるだけでは決して出てきません。もしそれが出来るなら、ひたすら時間を掛けて考え続ければ良いのですから逆にアイデア数は時間の関数になり話は単純です。

投稿者が考えるアイデアとは、元々頭の中にあるのでは断じてなく、むしろ外からの刺激により突然点灯する筋合いのものだと思うのです。勿論、その事について情報を集め、ある時間はしっかり頭を整理する必要はあります。準備を整えた上で、一度その事をすっかり忘れなければなりません。しかし、アイデアはある日突然降ってきます。トイレに座っているとき、街を歩いているとき、友人と遊びの話をしているとき、或いは風邪で熱にうなされて寝ているときに、これまで無かった頭の中の新しい回路が突然つながるのでしょう。というわけで、投稿者は枕元にメモ用紙と鉛筆を置いて寝ます。ブログのタイトルも、一晩で2-3個は思いつきますので、このブログも、多分生きている間中はずっと書き続けることも出来そうな予感がします。今ほぼ500話に近づいていますが、後10年も毎日書き続ければ、多分4000話くらいにはなるでしょう。

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2007年11月25日 (日)

495 やはり信心かも 

このブログでも。環境問題への対応には、最後は宗教的アプローチしかないのか、という議論もしてきました。アメリカにはアーミッシュと呼ばれる宗教者たちが、アメリカ移民初期のような昔ながらの生活様式を踏襲していますが、彼らは農業にベースを置いて、自給自足に近い生活スタイルを、禁欲的に守っているのです。古い生活スタイルを守る事がこの教義の基本ですから、禁欲的とは言いながら彼らにはストレスはあまり無いのかもしれません。車には乗らず、馬車を常用し、街に出たときにはパーキングメーターに馬の手綱を結び、コインを入れます。彼らアーミッシュの存在は、投稿者がまだ若かったときに知ったことですので、いまだに彼らが同じような生活を頑固に続けているかは不明です。

とは言いながら、多分彼らの生き方は、現代人の行き過ぎた浪費生活に対して警鐘を鳴らし、どのように軌道修正すべきかのサンプルを示すには十分かもしれません。なぜなら、彼らの表情は(写真集でしか見たことはありませんが)皆優しく、きっと精神的にも満ち足りているように見えるからです。人間の姿をしている唯一の神を信じ、それに帰依することは、必ずしも投稿者として納得しているわけでもないのですが、禁欲的生活を意識しないで送れるのは、社会の姿として一つの理想ではあります。日本では殆ど見られなくなっていますが、東南アジアではまだ健在である若くして出家するお坊さんたちも、投稿者にはアーミッシュと同じような存在に映ります。

先週、仕事で出かけた先で見かけたのですが、地方の神社で年数回開催される例祭に、バスを貸し切ってお参りに集まる近隣の町のお年寄りの穏やかな姿にも、やはり肩に力の入っていない人たちを見ることが出来ました。神社の境内にささやかに店開きしている数件の屋台と、地元の農家が持ち寄る野菜の即売を嬉々として冷やかす彼らの間には、本当にゆっくりした時間が流れているような気がしました。こんな穏やかな生活以外に、一体他に何が必要だと言うのか、としみじみ感じた一日でした。

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2007年11月24日 (土)

494 あとみよそわか

幸田露伴の言葉だったか、今となっては記憶が定かではありませんが、何故かこの呪文のような言葉が心に刻まれています。たぶん教科書に載っていた、露伴の娘に対する戒めの言葉だったような気がしますが、何しろ自分が成したことに対しては後ろを振り返って確認するものだ、といったような意味だったと記憶しています。この「呪文」は今後の人生でも繰り返し心に浮かぶだろうと思いますが、投稿者の最初の振り返りは、実は30代はじめでした。2回のオイルショックを経験して以降自然エネルギーに目覚め、勤めていた造船所を辞めて、東京に出て風車屋になることを目指しました。その時は、結局離陸できず不完全燃焼で終わりましたが、それがポケットの中で焼けぼっくいの様にくすぶり続けていたようで、その20年後の50歳前後に再度の振り返りを行いました。それは、自分が技術屋として30年間やってしてきたことの振り返りでした。

気がついてみると、自分が30年間技術屋の一人として、積み上げてきた(と思った)モノは、実はゴミであったというわけです。確かに工場から出す時は「製品」ではありましたが、船でも航空機でも20年も使えば、やがてスクラップになり、かなりの部分はリサイクルされるにしても、ゴミには違いありません。しかも、それらをつくる過程では、下手すれば製品の目方より多くの産業廃棄物を出していたりもするのです。

今も、毎日毎日数千台の新車を吐き出し続けている自動車工場の人たちは、その台数を目標通りに完成させた事を、本当に胸を張って誇りに感じているのでしょうか。そんな人たちは、是非車の墓場(解体工場やスクラップ工場や廃棄物の埋め立て処分場)を覗いてみてもらいたいものです。これらのゴミの元を出し続けてきた事を忸怩たる思いで眺めるはずです(たぶん・・・)。それが自分(たち)の行いを振り返るということなのです。何はなくても、「あとみよそわか」・・・です。

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2007年11月23日 (金)

493 修理

台所の換気扇が動かなくなりました。スイッチの接触不良かとめぼしをつけて分解し始めましたが、これが一筋縄で行かない代物でした。シャッターがモーターで自動開閉するタイプなので、この開閉モーターが一体となったコントローラで、換気扇のモーターも入り切りしているのでした。換気扇は国産でM社のものですが、なんとこのコントローラは中国製、分解を始めたものの基盤がどうしても抜き出せず、結局自分での修理を諦めました。販売店に修理を持ち込もうとも考えましたが、長年の使用の結果、焼き魚の油のにおいがしっかり染み付いているので、ヒンシュクを買いそうなのでこれも諦めて、結局新しい換気扇を注文せざるを得ませんでした。

この「事件」で気がついた事がいくつかあります。一つ目は、最近の製品は全く修理を前提としていないということです。壊れれば、全体を交換して古いものは廃棄物として捨てればよいとの方針で設計されているとしか思えません。もう一つは、きわめて分解がしにくい構造になっているという点です。基板は、プラスチックのケースに部品を収め、プリント基板を収めてから半田付けしている構造のため、半田を全部取り除かないと分解ができないのです。それも無理をすれば可能ですが、熱で素子を痛めてしまう可能性も大です。

もし投稿者がこの換気扇を設計するなら、モジュールタイプの設計しようと思います。つまり、コントローラ、シャッターモーター、換気扇モーター部、シャッター部とフレームをそれぞれモジュールにしておいて、コネクターで接続する構造とします。故障した場合は、故障したモジュールだけを交換すれば良いので、寿命が残っているその他の部品は、最後まで使い切ることが可能です。モーターも、巻き線(銅)と鉄心やケース(鉄)をそれぞれ分解可能な構造としたいものです。その結果コストは多分1.5倍くらいにはなるでしょうが、資源の消費(浪費)は殆どでなくなるはずです。用済み後は、分解すればほぼ完全に材料としてのリサイクルが可能です。投稿者の残りの人生では、出来ればこんな環境に配慮した良心的な設計をする技術者を育てていきたいものだと考えています。

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2007年11月22日 (木)

492 覚悟を決める

どうも投稿者は物事を真面目に考える過ぎる傾向にあるようです。たまには、全く事態を放置して、成り行きに任せたらどうなるのか、チャランポランに考えて見ることにしましょう。成り行き任せですから、温暖化はドンドン進み、やがて日本は亜熱帯地域にすっぽり入ってしまうでしょう。本州でトロピカルな果物が栽培できるようになりますが、数十センチ程度の海面上昇と激甚な台風の直撃頻度が増えることへの覚悟は必要です。同時に、これまでは冬場の寒気がその進入を防いでくれていた、熱帯性の病原菌や害虫の侵入に対しても、それを受け入れる覚悟も必要となります。春秋が無くなり、クソ熱く長~い夏と短い冬だけが繰り返すでしょう。

本州のかなり北部でも柑橘類が栽培できるようになる代わり、リンゴは北海道でしか作れなくなる可能性があります。海水浴シーズンは確かに長くなるでしょうが、海面上昇の結果すっかり幅が狭くなった砂浜で窮屈に過ごし、一方で海にはサメやら超巨大クラゲやらが押し寄せてきて、ついには網の中でしか泳げない事態になりそうです。スキーは、本州では標高が高い場所でしかできなくなるでしょうし、夏に山に登って目に入るのは高山植物ではなく、笹や普通の雑草だけになるかも知れません。沖縄に行っても、海水温が高くなりすぎて全てのサンゴは白化(死滅)し、海に潜っても真っ白なサンゴの死骸と、隠れ家を失ってめっきり種類が少数の魚が観察できるだけです。

石油もすっかり高くなって、ドライブが出来るのは年に数回になり、車を諦めて手放す人も増えてくるでしょう。結果、道路の込み具合は緩和されるでしょうが、車が減った結果、直射日光を受け易くなったアスファルトは、ますます焼けて都会の気温を上昇させる事でしょう。しかし、エアコンをガンガン回すエネルギーも不足してきたので、熱中症で亡くなる人も今より一桁くらいは増える事になるかも知れません。

現状を放置し、自然の(人工の?)成り行きに任せるのも一つの方法ではありますが、上で述べた事態にも耐えられる様にしっかり体を鍛えた上で、厳しい覚悟だけは決める必要はありそうです。

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2007年11月21日 (水)

491 二季?

温帯にあり、海に囲まれている日本は比較的温暖な気候に加えて、幸いなことには四季があります。しかしながら、近い将来これが無くなってしまう可能性が見え隠れしてきました。温暖化により、日本が亜熱帯に入ってしまう以前に、日本の気候を特徴付けているメリハリのある四季が無くなってしまうかもしれないのです。兆候としては、春と秋がドンドン夏に侵食されている事が挙げられます。つまり、桜の咲く時期がドンドン早まり、紅葉の季節が年毎に遅くなっているのです。結果春秋と言える季節が短縮され、極端に言えば夏から一気に冬になるような気候、いわば「二季」しかなくなるかもしれないのです。

メカニズムを考えていますが、やはり温暖化の影響を考慮に入れなければ説明がつきません。これはまだ投稿者が何となく考えているだけの仮説に過ぎませんが、温暖化のメカニズムによって夏に相当する気候の長さが長くなってきたのは説明できるでしょう。しかし、なぜ夏から一気に冬になるのかの説明は、結構複雑のように思えます。以下は投稿者の仮説です。真夏には、太陽は北回帰線上空まで北上し、春秋には赤道上空を通過します。冬には、南回帰線まで南下するのですが、問題は春秋と冬の気候です。北半球の冬は、北極海に居座る冬将軍(北極気団)の強さに左右されます。この気団が強く、低い緯度まですっぽりと覆ってしまうような年には、厳しい冬になるし、これが弱いと暖冬になります。

しかし、以前にも書いたように夏場に北極海の浮氷の面積が縮小し、海水温が上昇すると、確かに全く陽の光が差さなくなる冬には北極海は結氷しますが、その氷の厚さは薄いままで冬が終わります。とは言いながら、冬季には海は完全に氷の蓋が覆われるので、海水が暖かくてもそれなりに寒い冬はやってきます。春になって一旦氷が解け出すと薄い氷は急激に解けるので、一気に「夏の様な春」になるのではないかと推測しています。また秋には、再結氷する時期が遅くなるので「夏のような秋」が続く事になります。この結果、長い夏と、相対的に短くなるとは言え、太陽光の弱くなる季節にはそれなりに寒い冬があり、春秋が殆ど無くなるという仮説です。

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2007年11月20日 (火)

490 食糧の安全保障 

お金や情報や地下資源や工業製品は食えない、と繰り返し書いていますがまだ書き足りないとも感じているのでその続きです。

食糧の安全保障とは、日本のようなノウテンキな国にこそ絶対必要な言葉ではあります。工業製品をせっせと作って輸出し、その金で安い海外の食糧を買えば良いではないか、という政治屋や経済屋の口車に乗ってここまで来ましたが、ここにきて「燃料としての穀物」としての新たな需要が拡大し、食糧需要との間の競合関係が日々厳しくなっていきます。一方、食糧輸出国の間にも、人口増加や旱魃や洪水などの自然災害の増加に伴って、輸出余力が縮小し続けています。豪州においても、ピーク時は100万トン以上も植えつけられていた米が、今やその1/10にまで低下しました。本来「米」は、アジアのモンスーン地帯に自生していたイネ科の雑草を品種改良したものですから、遺伝的にこの地方にしか適さない特殊な作物なのです。日本は、さらに品種改良を重ね、とうとう北海道のような冷涼な地域での稲作に成功したのでした。

それをこともあろうか、豪州のような乾燥地帯で稲作を行うには、たぶん地下深くから「化石水」を汲み上げて灌漑を行ったのでしょうから、たぶん数年も経たない内に圃場(田んぼ)に塩分が蓄積して、作付けの続行ができなくなったと想像できます。

食べ物は、誰がなんと主張しようと、それを「食べる人たちの足元で作る」という原則を無視することはできないと思うのです。それが一番自然で、持続可能な方法であることは、別に深く考えなくても明らかでしょう。大規模な農業は、エネルギーも水も大量に使います。いまそのどちらも枯渇しようかという時代に、工業生産で外貨を稼ぎ、安い食糧を輸入すれば良いという暴論は、すでに時代遅れの考えになり下がっています。

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2007年11月19日 (月)

489 生き延びるには

私たちの子孫である人類が、出来る限り永く生き延びるための条件を考えて見ます。最も重要なものは、実はエネルギー源の確保ではないかと考えています。その理由ですが、人口が集中している北半球の、温帯から寒帯にかけての地域の生活の基盤は、その多くを化石エネルギーに依存しているからです。例えば、冬季の暖房エネルギー無しに、中国北部や北欧や北米やシベリアにかけての寒さは絶対にしのげません。また農業は基本的には、太陽光と水に依存していますが、化学肥料や農薬を製造し大規模農場の大型の農業機械を動かすのは化石エネルギーそのものです。食料の加工や流通にも、同様にエネルギーが不可欠です。結局、毎日の食べ物一つをとっても、全て化石エネルギーの恩恵を受けている訳です。

勿論、太陽からのエネルギーは日中だけですが、また緯度に応じてですが、地球上に遍く降り注いではいます。化石エネルギーが無くなったらこの太陽光からエネルギーを得て、それを使えば良いではないか、という議論も出てくるでしょう。しかし、食料を得るための農業と太陽エネルギーを得るためのエネルギーファームとは、完全に競合関係にあるのです。それは例えば、太陽発電パネルの下の日陰で、作物が出来るかを考えて見れば自明です。太陽光からエネルギーと食糧を得て、それで養える人口は、多分今の数分の1程度だと想像されます。日本では、3000万人以下と見積もられています。全世界で言えば、もし化石エネルギーが枯渇したら、地球上の人口はきっと20億人以下に減らなければならない必然性があるわけです。

人口減少を、たとえば40億人レベルにとどめるには、極限までダイエットされた食生活スタイルをデザインし、それを国や人種を問わず万人が受け入れる必要が出てくるはずです。環境問題の解決には、過激な環境原理主義或いは環境ファシズムとも呼ばれるような、強力で分け隔てないアプローチが必要だと言われるのも、この簡単な試算からも想像できます。

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2007年11月18日 (日)

488 お返しする

487の続きです。債権は実体の無い絵空事だとしても、では物権はどうでしょう。例え法律的には多くの物権を持っていて、つまりお金持ちで、モノ持ちであっても、何時かはそれらを手放さなければならない訳です。エジプトのファラオでもない限り、それらを全て墓の中まで持っていく事はできないからです。普通は、子供や孫にそれを遺していくのだとは思いますが、出来れば自分がそれを貰った時と同じ程度には、きれいにして渡したいものです。処分にも困るような、汚したままのモノを遺す事は、それを受け取る子孫にとっては、迷惑至極となることでしょう。

さて自然環境は、人類に限らず生きとし生けるものの共通の財産です。その財産を、私たちの世代はゴミまみれ、汚染まみれのまま次世代に押し付けようとしています。今の世代が、いくらお金があって、モノ自由に出来る権利を持っていると考えたとしても、実際にそんなことをする権利は絶対に持ち合わせていないはずです。

死ぬときに、残された人たちになにも多くのモノを遺す必要はありません。「良い思い出」だけを渡せばよいだけです。自分が生きている間に手に入れたものは、次の世代も同じように使えるように、きれいなまま、出来れば以前よりきれいにして遺したいものです。実際、私たちの祖先はその様に行動してきました。山裾に棚田を刻み、山に木を植え、用水路を掘って子孫に渡してくれたはずです。その美田は、いまやバイパスとして潰され、道路沿いにはショッピングセンターがデンとそびえている光景を、発展と見るか堕落とみるか、ご先祖さんたちの意見を是非伺って見たいものです。

為すべきは、モノをさんざん使った末にポイッと廃棄することではなく、ありがたく使用させていただいた上で、元あったように地球にそっと「お返し」する事なのです。元通りにお返しできないものは、仕方がないので丁寧に分別してなんとか原料に戻し、繰り返し使うしかないでしょう。一例として、高価であるが故ですが、金(ゴールド)は古代文明で使われていたものが、今でも立派に使われています。いま使われている、金の約半分は、古い時代に掘り出されたものだと言われています。

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2007年11月17日 (土)

487 物権、債権

物権や債権は多分商法などの法律用語だとは思うのですが、法律にトンと縁がない投稿者には正確な定義ができませんし、するつもりもありません。とは言いながら、この二つを並べてタイトルとしたのには、それなりのわけがあります。物権というのは目に見えて形のあるモノに対する権利なのでしょうから、手に取ったり触ったりできる「実体に設定された権利」といえます。所有者のない未開の地や、海の水の様に目に見えても権利者の居ないモノもありますが、法律的に物権が設定されているモノには持ち主が居るはずです。所有者は、あくまでも他人に迷惑をかけない範囲内で、これを煮て食おうが焼いて食おうが勝手であるわけです。つまり物権はモノ対所有者の関係といえます。

一方債権は、権利を持っている人と、それを他人に握られている人との関係で生じるものだといえるでしょう。今の世の中は、あらゆるものに債権を設定したがる傾向にあります。アメリカで、低所得者向けの住宅金融(SPL)が債権化されて、全世界にばら撒かれた結果、債券市場に激震が走り、債権の価値が大幅に低下した例がありますが、この影響は今後数年間にわたって尾を引きそうな状況です。

投稿者なりに言えば、債権とは借金が形を変えたものとも言えるので、全ては「バブル」であると断定しておきます。借金とは、その人が将来の時間(使って稼ぎ出すであろう価値)を他人に売り渡す行為ですから、全く実体は伴っていないものなのです。従って、証文を書こうが書くまいが、口約束の延長に過ぎないわけです。将来その借金を回収できるかどうかは、借金をした人の将来が決まっていないのと同程度には不確定なのでしょう。一方、債権を転がして儲けている人は、実際に借金をした人以外に、(債権を買って楽をして儲けようと甘い考えを持った多くの人たちが)将来失ってしまう筈の価値を先取りしているに過ぎません。有限である(価値に対する)権利がゼロサムゲームである限りにおいて、債権による錬金術は、絶対に成り立ちません。

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2007年11月16日 (金)

486 SRIとCSR

なにやら、似たような横文字略語です。とは言いながら、SRI(Socially Responsible Investment:社会的責任投資)もCSR(Corporate Social Responsibility:企業の社会的責任)も今後の企業にとっては非常に重要なキーワードです。SRIとは、企業の行う投資は単に儲かれば良いのではなく、投資の結果社会の質向上に寄与するものでなければならないのです。とりわけ、投資の結果が環境保全につながる事の重要性が日々増してきています。いまや中小企業といえども、例えばグリーン調達への対応やフェアトレードを行っているか否かなどが問われる時代なのです。より具体的で社会にアピールする行動としては、例えば地域のヒートアイランド現象を緩和する目的で、壁面緑化や屋上緑化に取り組むとか、あるいは途上国の公害防止の活動に投資を行うなどの行動を指します

一方でCSRの方も、いまや単に法令を遵守しているというだけでは十分ではありません。コンプライアンスよりはむしろ社会的貢献の方の比重が増しているのです。つまりは、単にある基準や法令をしっかりと守っている事は、いまや企業の態度としては基本の「き」であり、それに加えて社会に向けてポジティブな活動をしているという印象が重視される時代になったのだと言えるでしょう。例えば、企業ファンドを立ち上げて、社会的・文化的活動に助成を行うとか(かつてはマスコミ受けのする派手な活動が「企業メセナ」などと呼ばれてもてはやされましたが)、とりわけ環境保全に寄与する活動への支援はポイントが高いCSRと言えるでしょう。

SRIであれCSRであれ、今後は「社会的存在としての企業」には、社会的な貢献がより強く求められる事になるでしょう。なぜなら、企業は、その規模が大きければ大きいほど、環境から資源を掘り出して生産し、それを消費者に売って消費させ、結果として環境に負荷を与えている存在だからです。その環境とは、よくよく考えて見れば生きとし生けるもの共通の財産である訳で、いくら将来世代がお金を積んでも、掘り出して燃やしてしまった石油や廃棄して埋め立ててしまった資源は、決して元には戻らないのです。

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2007年11月15日 (木)

485 リサイクルではなくて

昨日はシステムメンテナンスでアップできませんでした。

ここでは、リサイクルについてここでもう一度考えて見ます。現在のリサイクルは、実は最初からシステムに組みこまれていたものではなく、廃棄物の増加によって処理に困り、それを圧縮しなければならないという、やむにやまれぬ事情から始められたものです。もちろん、貴金属の様に使い捨てすることが大きな損失になるケースでは、たとえば古代で使われたその同じ「金」が、現代でも使い回されています。しかし、価格の安い資源はリサイクルなどせずに、古くなった製品はゴミとして処分し、新たな資源を掘り出した方が経済的には有利だったわけです。つまりリサイクルしなければならなくなった最大の要因は、結局はゴミ処分場の逼迫という現実問題を突きつけられたからなのでした。

仕方なく始められたリサイクルが、マスコミなどでさも環境悪化を防ぐ上での切り札のように宣伝される事はマズイ傾向だ、と言わなければなりません。いみじくも3Rの呼び方の順番もそうなっている様に、先ずReduce(減らす)とReuse(再使用)に取り組まなければならないでしょう。リサイクルは、出来ればしない方が良いケースも多いのです。リサイクルで資源を温存するために、逆にエネルギーを使い、温暖化を悪化させる事は、絶対避けなければならない行動なのです。紙やアルミやPETやガラスなどをリサイクルするために、廃棄されたものを収集し、運び、再溶解し原料に戻すまでに使われる膨大なエネルギーを考えて見なくてはなりません。そうではなくて、そもそもリサイクルに回す量を可能な限り減らす努力をしなくてはなりません。なぜ紙に印刷しなければならないのか、アルミ缶ではなく再利用するビールビンや、或いは厚みがあって洗って再使用できるペットボトルではなぜいけないのか、デザインがバラバラで使い捨てのドリンク飲料ですが、「茶色の小瓶」以外で消費者が中身を飲む方法は無いものか、是非ここらで知恵を絞って考えて見ましょう。

リサイクルは「決して」環境にやさしくありません。

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2007年11月13日 (火)

484 棚卸

続きです。以前にも少し書きましたが、ある程度の省エネルギー、省資源を達成するのは実は非常に簡単だとも言えます。それには先ず、自分の工場や事務所に投入しているエネルギーと資源の「棚卸」をする事です。例えば、エネルギーの棚卸では、一月の電気代や燃料代を調べるだけでは十分ではありません。なぜなら、全体量を掴むだけでは、何がどの程度積み重なってその使用量になったのかがまったく分からないからです。事務所で言えば、毎月の電気代の中身は、冷暖房なのか、照明なのか、OA機器なのかが分からないのです。そこで、事務所で電力を消費している機器と消費電力と使用時間を調べ上げる必要が生じます。これが「エネルギーの棚卸」です。

最初は手間が掛かりますが、一度これを作ってしまえば、省エネルギー対策は非常に楽なものとなります。つまり、省エネはまず使用量が大きいところを狙えばより大きな効果が得られるからです。棚卸の結果、冷暖房(エアコン)の電気代が50%を占めていたとすれば、これを10%削減すれば、全体としては5%の節電になります。しかし、10%しか占めていない蛍光灯を昼休み小まめに消して1割節電しても、全体としては1%の削減しか達成できないのです。なにしろ節約は、使用量が大きいところから狙うのが効果を上げる近道です。

モノの棚卸も重要です。ある工場で、同じ生産高を上げるのに、これまでより少ない原料の投入で実現できれば、工場としての歩留まり(環境効率と言い換えても同じです)は向上した事になります。成り行きとして、工程から排出されるゴミ(産業廃棄物)も圧縮できるわけです。結果としては、地球から掘り出す資源の量も抑制できるでしょう。

工場の良し悪しは、その分野の専門家でもない限り、製品が流れている生産ラインを見ても殆ど分からないでしょう。しかし、工場の裏(バックヤード)に回って、廃棄物の集積場をチラッと見るだけで、素人でもその工場のレベルを測ることが出来るはずです。

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2007年11月12日 (月)

483 休題(忍者)

昨日川岸をジョギングしていたら、風が舞って沢山の落ち葉が吹き上がり、それがきれいに渦を巻きました。なぜだか分かりませんが、突然「忍者」を思いましました。多分、落ち葉→忍法木の葉隠れ→伊賀の影丸→忍者という単純な連想が突然つながったのかもしれません。投稿者と同年代の人たちには、多分懐かしい漫画のタイトルではないでしょうか。私たちの年代の子供時代には、忍者はさながらアメリカでのスーパーマンかスパイダーマンのような存在でした。一日に数十里を駆け、「水ぐも」で堀を渡り(或いは水に潜り)、石垣をクモの様に登り、屋根に音も無く飛び上がり、天井裏や床下に何日も潜む、一日に数粒の粒状の保存食(正しい名前は忘れました)で生き延び、武芸百般に優れる、まさにスーパーヒーローでした。

投稿者も、漫画を真似て近くの畑の畦に麻(が手近に無かったので適当な植物でごまかしましたが)を植え、植物の成長に負けないように毎日飛び越えていました。勿論、1ヶ月くらいであっさり植物の成長に負けてしまいましたが・・・。

更に忍者から、忍びの者、忍びの者から忍耐を連想しました。忍者の様に体を鍛え、忍者の様に省エネ型の人間になれば、多分食糧問題も一気に解決するかもしれません。元来は小柄で痩せ型が多い日本人ですが、洋風の食生活と楽な生活を続けたせいで、体格もこの半世紀ほどで一気に欧米人に近づくほど急激に変化(このくらいの期間では進化とは言えないでしょう)しました。今や日本人に忍者は務まらないでしょう。第一体が大きすぎて潜入した天井が抜け落ちるでしょうし、10kmも走れば息切れがするでしょうし、大食漢になったので保存食が懐に入りきらず、リュックサックが必要になるでしょうから、いかんせん隠密活動には目立ち過ぎますので・・・。

落ち葉が舞い上がったのを見ただけで、瞬間的に色々な記憶がよみがえるのですから、人間の記憶とはしみじみ不思議なものだと感じた日曜日の午後でした。

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2007年11月11日 (日)

482 感触

サラリーマンを辞め、自営の事務所を構えてもうすぐ1年になりますが、やっとここに来てすこし手応えが出始めた感じがしています。「副業」の特許の説明で企業を訪問するたびに、お経の様に「環境経営」も唱えてきたので、幾つかの企業からボチボチ声が掛かるようになってきました。具体的には、企業向けの環境経営セミナー開催や環境経営へのコンサルなどの依頼が出始めたのです。あまり期待はしていませんが、少しは生活も楽になるかもしれません。

とは言いながら、企業の姿勢はまだまだ受身です。その姿勢は、いわく、親会社から言われたから(言われそうだから)、そのうち温暖化防止の網が中小規模の事業所にも掛かってくるから、或いは時代の流れだからなどなどです。しかし、環境保全に取り組んで、つまりは、1)水や原料を減らし、3)エネルギーを減らし、結果として3)排水や廃棄物量を圧縮して企業が儲からないはずがないのです。なにしろ人件費を除けば、企業のコストの殆どを占めているのは、殆どがこの3つだからです。環境保全に取り組んだお陰で会社の業績が好転した、と喜ぶ企業の数をますます増やして行きたいものです。

投稿者は、企業の環境経営では、環境省のガイドラインに従って中小企業向けにデザインされた、エコアクション21をツールとして使っていますが、それだけでは十分ではありません。投稿者なりの「上乗せツール」も使っています。

というのも、毎日工場を見ている当事者には、何が問題であるのかすら全く見えていないからです。投稿者が良く例に挙げるのは、日本人は空に「ウジャウジャと引き回されている電線」を全く意識もせず、うっとうしくも感じていないという事実がありますが、環境悪化に対する問題意識も、エネルギーや資源を潤沢に使う生活に慣れすぎた人々には、何が問題なのかも意識できないのも当然かも知れません。待ち遠しいのは、次のオイルショックの到来ではあります。その時こそ、人々が本当にエネルギー資源温存の重要性と環境問題に向き合わざるを得ないからです。

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2007年11月10日 (土)

481 百年製品

ゴミ(廃棄物)は、大量に製品を作る過程と、使った後それを廃棄する事によって生まれます。ならば、出来るだけ長く使える製品を作ったらどうかという代案が生まれても良さそうです。製品を丁寧に作りこんでも、労働力(人力)は少し余分に掛かりますが、投入する資源の量はそれほど増えないはずです。つまり、1台1台手作りに近い形で作りこんでいるRールスロイスと「意味も無く舗装道路を疾走している」大型のオフロード車の車体重量、つまりは原料の目方は変わらないわけです。しかし、片や何十年も使われ、オーナーによっては中古車でも新車の何倍にも値段が跳ね上がるRールスに比べ、10年も経たないうちに廃車にされる後者では、詳細に比較するまでもなく、資源の無駄使いのひどさ加減は理解できるでしょう。

ここで投稿者が提案するのは100年製品というコンセプトです。たとえ、原料のグレードが高く、手作りの結果、値段が今流通している製品より3倍の売値になったとしても、その製品が世代を超えて使えるほど耐久性を持っているとすれば、決して高いとはいえません。投稿者が今使っている爪切りは、30数年前にドイツに出張した際に、必要に迫られて現地で20マルクほどで購入したものです。ゾーリンゲンのINOXスチール(錆びない鋼)で作られているのですが、今でもパチパチと快適に爪を切る事ができます。買った時は、日本円で3000円弱の爪切りはかなり高いと感じたものですが、今は逆に良い買い物をしたと思っているほどです。おじいさんの古時計ではないですが、もし孫でも生まれたらこの爪切りをピカピカに再研磨し、きれいな箱に入れてプレゼントにでもしようかなどと考えています。

話は飛びますが、建築物(橋やビルや住宅など)も100年を基準に考えるべきです。今各地で、ボロボロになっている橋やビルは、高度成長期に濫造された安物です。今後建設する橋やビルの構造は、最低でも100年は持つように頑丈に作りたいものです。住宅用のビル(マンション)も、住人のライフサイクルによっては20年程度で用済みになります。構造さえ頑丈であれば、構造はそのままで内装だけを更新すれば、全く新築の住宅として新築同様の値段で新しい住人に売る事ができます。これは、ヨーロッパの石造りの住居が、何度も内装を更新しながら何百年も使われ続けているのと同じ考え方です。

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2007年11月 9日 (金)

480 多面利用

資源、とりわけ生物が作り出した資源(バイオマス)は、その構造が複雑で多様です。とても、C・H・O加えてN・Sという主な5つの元素+微量元素だけで成り立っているとは思えないくらいです。その中でも、特にC・H・Oがその大部分を占めています。代表的なバイオマスは、たとえば木材資源や食物ともなる炭水化物類です。

しかし、物質構造的には、生物はこれらの単純な元素を組み合わせて、遺伝子(DNAやRNAや各種好酵素)情報を使いながら非常に複雑なものを作り上げています。逆に、それを利用する立場から見れば、これらの物質の単純な利用はむしろ資源の持つ潜在力を殺してしまいかねません。たとえば木材を考えて見ます。木材は、主として建材としての木材と紙の原料(パルプ)としての利用が、その大部分を占めます。しかし、木材に含まれている精油成分(チオール類やツヤ酸類)などの利用、或いは家畜の粗飼料としての利用、さらには昔多用されていたような燃料としての用途など、その多面的な利用は進んでいません。

多様な原料は、多様に応用すべきなのです。投稿者は、木材(或いは植物)の利用に関して、分かりやすいように5つに分類しました。語呂合わせでもありますが、それがバイオマス利用の5Fです。それぞれのFは、Food(食物・医薬品など口に入れるもの)>Fiber(木材、紙、布など)>Feed(家畜の飼料)>Fertilizer(農業用肥料)>Fuel(燃料)に対応します。書いた順番に、目方あたりで取引される場合の値段が安くなっていきます。

複雑なバイオマス資源は、このように多面的に利用すると同時に、値段が高い順番に段階的に利用する必要もあります。これは「カスケード利用」とも呼ばれています。例えば、木材を建築や家具の材料として利用し、古くなったものは解体して燃料とするか或いは腐朽させてから堆肥などとして活用するなどの段階的利用を指します。

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2007年11月 8日 (木)

479 S人間 

さらに続きです。人をタイプに分けるにしてもA人間とB人間の2分法は、いかにも単純すぎます。投稿者がよく引き合いに出す3項関係でいえば、アクセルとブレーキだけでなく、冷静にハンドル(Steering Wheel)を握るS人間を定義しなくてはいけません。S人間は、例えば環境問題は、科学や技術をうまく使って、環境負荷を下げたり、廃棄物のリサイクルを上手にやったりしていけば、解決できるのではないか、などと主張するタイプの人たちを指します。投稿者も、実は少し前まではこの路線で行けるのではないかとも考えていました。しかし。その後やはり、現在の資源・エネルギーの消費(浪費)量はあまりにも膨大で、この勢いを抑えるには、「たかが科学・技術ごとき」では全く歯が立たないとの結論に至ったのです。つまり、これは車を猛スピードで走らせながら、危険をハンドル操作だけで回避しようとする行動とも例えることが出来るからです。これを、下に述べる別のS人間と区別するため、S1人間とでも呼んでおきます。

勿論まったく別のタイプのS人間も存在し得ます。たとえば、環境負荷を下げてココロ豊かに暮らすためにはどうすべきか、などと考えるタイプの人間です。このタイプの人間は、車は確かに便利ではあるけれと、1年に1万人にも迫る数の人々が死んでいる。そもそも日常生活で、車を乗り回す必要があるのだろうか。なぜ人々は、自転車や徒歩では生活が成り立たないなど贅沢を言うのだろうか、と考えるタイプの人たちでもあります。これは、立場が上のS1人間とは明らかに異なるのでS2人間とでも呼ぶことにしましょう。

投稿者は、とにかくスピードを出すのは危ないから、ハンドルを切る前に「とにかく減速しようよ」と呼びかけてB人間を増やそうと活動しています。勿論最終的にはS2人間に大量増殖してもらうのが理想である事は間違いありません。

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2007年11月 7日 (水)

478 A人間・B人間

続きです。権利人間はもっぱら権利を主張するので、「自分が働いて得た金をどう使おうが自分の勝手だ」と主張します。従って世の中の景気が上向いているときは、これ幸いとばかり資源やエネルギーを行け行けドンドンと湯水のように使います。高度成長期以降に加速されたこのような行動の結果として、私たちが直面している現在の環境(諸)問題がそのどす黒い姿を現してきたのだとも言えます。権利人間には、「将来世代にその権利の一部を残してやりなさい」という言葉は耳に入らないのかも知れません。とは言いながら、やはりこのままで良いはずはありません。どうすれば、権利人間に聞く耳をもってもらえるか、ホトホト弱ってしまいます。しかし、元を質せば戦後の「自由と権利教育?」がまずかったのかも知れません。この教育システムには、実はそれとバランスを取るべき対極の義務や思いやりと言った面が間違いなく欠如していました。その反省無しには、権利人間は決して減らせないだろうと思われます。

実際問題、自分が稼いだ金で、大型のオフロード車を、ガソリンをブチマケながら転がして一体何が悪い、とケツをまくる「A人間:アクセル人間」たちに、環境おじさんは結構無力感を感じてしまいます。戦後の教育では確かにこれは一応認められている「権利」ではあるのですが、では将来世代に対する義務や思いやりは一体何処にあるかと問われれば、彼らにはそのかけらも見つからない訳です。権利は将来世代にも均等にあるわけですから、現世代の権利を100%主張することは出来ないのです。何らかのブレーキが必要です。それは、多分次のそして最後の「オイルショック療法」しかないのでしょうか。それも仕方がないのかも知れませんが、出来れば早く大多数の人たちがそれに気がついて、「B人間:ブレーキ人間」に変身してもらいたいものです。20世紀型の古い政治家や企業家の、景気の向上が全ての始まりだ、という詭弁に耳を貸してはならないでしょう。将来世代に対する義務感や思いやりこそ、結局は環境諸問題を軽減する方向に働くのです。

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2007年11月 6日 (火)

477 求道人間

長年人間を観察してきて、最近やっとわかってきたことがあります。先にも書いた様に、二分法はあまり好きではありませんが、どうもこの世の中には権利人間と義務人間の二種類の人間がいるようです。その間には多分「いい加減人間」がいるのでしょうか。

投稿者はといえば、どうも義務人間族に属するような気がしています。しかし、やはり二分法はあまり良い分け方ではありません。何より右か左だけでは良い解決法が見えてきません。投稿者が薦める三分法あるいは三項関係で考えると、どうなるでしょう。第3の選択肢として、「求道人間」を定義してみたいと思います。つまり、常に「人間はどう生きるべきか」を追求し続けるタイプの人種です。この種の人間は非常に数が限られますが、実際問題としてこの世に居ないこともありません。昔で言えば、武士道などを追求した一握りの人たちが居ましたし、まがい物ではない宗教者も多分そうだったのでしょう。現実の世界で言えば、自分の生命の危険も省みず、恵まれない人や病める人や貧しい農民の支えになった、心ある医師(Sバイツアーなど)や修道者(マザーTレサなど)或いは名前も知られていない篤農家たちなどは、間違いなくこの種の人なのでしょう。その人たちは、勿論、自己チューの権利意識などかけらも持ち合わせていなかったでしょうし、投稿者が持っているかもしれない程度の単純な義務感だけで生きたわけでもないでしょう。まさに求道者であったと思われます。

さて「環境道」なるものがあるかどうかは知りませんが、環境へ与える負荷を限りなく小さくした生活スタイルを日夜追求している人が居るとすれば、その人こそ環境道の求道者と言えるかもしれません。もしそんな人に出会ったら、迷いなく弟子入りしたいと思っています。いずれにしても、対多数の権利人間と少数の義務人間しか居ないような社会では、環境問題が拡大し続ける事は避けられないでしょうね。

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2007年11月 5日 (月)

476 キーワード集

これまで書き綴って(書きなぐって?)きたブログで、自分なりに重用だと感じたキーワードを改めて書き出してみました。

時代の巻き戻し、自然からの乖離、便利中毒、太陽光の許す範囲、森を捨てた人間、都会の山小屋、量的に正しくない技術、オイルピーク、時間の浪費、ローカルエネルギー、分散システム、地産地消、資源半分、山下り、人力活用、運ぶ文明、多様な解、自然へのにじり寄り、時間の減速、貧乏の効用、ほどほど、慎ましい生活、律儀な自然、技術中毒、新3R、環境の値段、安全の値段、成長神話の崩壊、バックキャスト、祭りの後、水飢饉、環境のグラデーション、近自然、時間という神、頑張らないが努力する、技術バブル、ドンケア組、経済外経済、7世代後の幸福、しきい値、スケール「デ」メリット、作れるものと作って良いもの、進歩か退歩か、八分目の生活、満足度の法則、長い鳥の目、人力自動車、複雑系、技術的夢遊病、I=PAT、社会的技術、モノの消費から機能の消費へ、農本主義、地域通貨、地域ビジネス、捨てない知恵、ブーメランの法則、緑のサイクル、田舎の定義、非電化製品、建設という名の環境破壊、環境モラトリアム、世代間の公平、自然へのまなざし、自然への遠慮、保全と保護、時間は価値ではない、ゴミを見えなくする技術、農業の二面性、江戸の知恵、ゴミとは間違った場所(ゴミ捨て場)に置かれた貴重な資源のことである、技術ではなく生活スタイル、不便を楽しむ、リサイクルは万能ではない、環境が受け取れる汚染、修理の世紀、エコマニュファクチャリング、穏やかな時限爆弾、形を変える癖、足りないものは工夫と汗、VP(自発的貧乏)、温故知新、合掌、・・・。

しかし全てに優先する最重要のキーワードとしてはやはり、100年後も変わらない事を意味する「持続可能な社会」しかありません。

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2007年11月 4日 (日)

475 VP

また新しい言葉を作ってしまいました。VPとはVoluntary Poorの略です。いわば「自発的貧乏」です。WP=ワーキングプアは、この時代を象徴するKWですが、この言葉には何か社会的状況のせいで貧乏とならざるを得なかった悲哀を感じます。VPはそうではなくて、あえて貧乏であることを選択する生き方をさします。実は、VPは大昔からありました、その時代人は、そのような意思を表すために「出家」しました。世俗のしがらみを切り、財産を全て放棄して、自分を見つめる内省的な生活を選択する行動です。投稿者は、さすがにそこまでは踏み切る勇気はありませんでしたので、出家ではなく、先ずはサラリーマンを卒業する「出サラ」程度で妥協したという次第です。

しかし投稿者としては、実質的にはワーキングプア以下の所得で暮らす生活に入ったわけで、立派にVP見習い程度の生活には入ったことになります。VPは、なりたくてなったわけではないWPとは違い、なりたくてなったか或いは生き方を変えた結果なった状態ですから、何しろ気が楽です。貧乏である事を他人のせいにして世の中を恨むのではなく、無いものは無いと諦めて、無くても済むように生き方を修正すればよいのです。しかし、そのトバッチリを一番受けたのは、家族、とりわけ女房殿でしょうか。1.5流企業の管理職の妻から、明日をも知れない貧乏暮らしに突き落とされたわけで、1年たった今でもこの事について愚痴られない日はないくらいです。とは言いながら、それに慣れてしまえばそれなりの生活スタイルに落ち着くだろうとは楽観しています。最近、食卓が以前に比べて質素になったのは間違いありません。おかずは多分平均で1-2品は減りました。投稿者は酒飲みではありませんが、以前だと夏場に缶ビール添えられていましたが、それもなくなりました。

しかし、健康面でみればこれほど体に良い食事はないくらいだと思っています。中年以降のカロリー控えめの食事は、むしろ理想だとさえ言えます。VPを志向すれば、生活は間違いなく健康的になります。VPがWPをぶっ飛ばして、ロングランの流行語になることを切に望みます。

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2007年11月 3日 (土)

474 コンセプトカー?

続きです。T社を批判するだけでは前向きではないので、どうしても車をつくらなければ暮らしていけず、車に乗りたい人たちのために、投稿者なりのコンセプトカーのイメージを示しましょう。

次世代の車(超低環境負荷車)のイメージは、4人乗りで車重は500kgを大幅に切るレベルを達成する必要があります。これは現在の軽自動車の2/3程度ですから、このくらい軽くすると衝撃吸収性能は犠牲になりますが、例えばアルミの泡金属などを利用した新しい衝撃吸収材などで、安全性を確保する必要があるでしょう。その代わりボディーの鉄板は思いっきり薄くします。つまり最低でも今の2/3の厚みにしなければなりません。やや不細工ですが、ビード(凸凹)を一杯つけて強度は確保します。窓ガラスも結構な重量になりますので、面積を小さくするか、薄くして軽くします。屋根は、塗装のないアルミかステンレスにして、鏡のように直射日光を反射することで冷房負荷を下げて、エアコンの馬力も小さくします。昔風の三角窓も復活させて、エアコンはオプション設定にします。車内は狭いのですが、逆に乗る人たちの親密さは大幅にアップしますね。

エンジンは500ccもあればおつりが来るでしょう。30-35馬力もあれば高速道路でも90-100kmの巡航速度は確保できるでしょう。燃費を下げるためには、抵抗の5割前後を占める路面抵抗を下げる必要がありますから、バイクのタイヤを手本にして、接地面積の小さな断面のものを開発します。車体形状も重要です。曲面を上手くデザインして、空気抵抗も大幅に下げる必要があります。減速機は、CVTかいっそ昔に戻ってマニュアルシフトも設定します。

さて、頭の中でこれを形にしてみると、何と大昔にこの車の原型があった事に気がつきました。M社のMニカやH社のN360或いはF社のSバル360などの初期の軽自動車です。これらの車の排気量は、なんとたった360ccだったんです。投稿者がいま乗っているバイクは250ccで23馬力ですが、パワーだけ比べれば多分そんなには違わないはずです。このように今ある材料と技術だけ使っても、燃費はT社の1/Xカーを上回る60km/リッター程度は確保可能でしょう。

CADしか使えない?今の技術者は、これらの車の現物を博物館に通ってでも、詳細に眺めて見る必要があります。環境問題に対する現実的な答えは、決して先端技術や新素材にあるのではなく、過去のローテクにこそ多く見つかるはずです。温故知新・合掌。

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2007年11月 2日 (金)

473 モーターショー

実際に見に行く事はありませんが、モーターショーなども、批判的な意味ではそれなりに興味があります。さて最近開催された東京モーターショーですが、このショーとしてはすでに車市場としての日本は、ジリ貧状態にあるため、世界の自動車メーカーからはそっぽを向かれ、単なる国内のモーターショーになり下がっています。とはいいながらその中でも、日本車としての特徴を示さなければならないので、各社は「環境性能」などを謳った展示に力を入れているようです。

T社でも、革新的な次世代車として、プリウスの1/2の燃料消費を誇る1/Xカーを投入してきました。カーボン繊維の複合材(CFRP)を多用し、車体重量を、500kgをかなり下回る程度に抑えているようです。これとハイブリッドと細いタイヤを組み合わせれば、現在の技術でもたぶんガソリン1リットルで50km程度走る車は十分に作れるはずです。これは、379で投稿者が指摘した事を、T社が追認したことを意味します。しかし、気に入らないのは車体軽量化の手法として、CFRP(カーボン繊維プラスチック複合材)を多用したアプローチです。確かに、強度と軽量化を同時に達成する手段としては、航空機に多用されているCFRPは有効ですが、技術的アプローチとしてはあまりにも安易に過ぎ、コストとリサイクル性を完全に無視しています。車体価格は、鉄のボディーに比べて数倍には跳ね上がるでしょうし、カーボン繊維の織物をエポキシ樹脂で焼き固めたCFRPは、最初からリサイクル性などは考えられていない、性能重視だけの素材なのです。ロケットや航空機に使うのはまだしも、決して量産車に採用すべき素材ではないのです。

つまりT社は、知恵と工夫を使って、現在使われている素材だけで、燃費を半分にするという努力を放棄したことになります。現在もっている技術だけで、超軽量化を指向した車の車体には、たぶん単車などで使われている軽量化技術を転用すべきなのでしょう。その意味で、単車メーカーでもあるH社やS社は、この分野では絶対優位に立っている事に早く気がつくべきでしょう。

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2007年11月 1日 (木)

472 環境カウンセラー

環境カウンセラーになって5年、脱サラして専業になって1年以上経過したわけですが、ここで改めて環境カウンセラーとしての役割を確認しようと思います。というのも、このブログを書き進めることを通じて、どうにか自分の立ち位置の再確認ができつつあるからです。最初環境カウンセラーを目指した時は、省エネルギー技術やリサイクル技術やらを磨いていけば、企業も市民生活でも環境負荷を下げられるだろう程度に安易に考えていました。しかし、2年間の放送大学での再度の学びや、サラリーマンを卒業してからの技術屋としての「反省三昧」を通じて、環境問題の根が私たちの社会の価値観そのものにある事の確認できました。

そこで、50歳で一度見直した自分の生き方を再度見直し、当初考えていた「環境屋」になるのではなく、最終的には「環境坊主」になる決心したという次第です。とは言いながら環境坊主は今のところ孤独です。環境カウンセラーと呼ばれる人は、全国に3500人以上存在しますが、環境坊主は今のところ投稿者一人(もしかすると数人程度は居るかも?)だからです。出来れば、カリスマ性のある教祖様が必要です。環境教の教祖さまには是非GアさんかMータイさんくらいのカリスマ性は必要です。

しかし、技術屋として反省しなければならないという義務感はどこから出てきたのかを更に考えてみると、それは「モノを大量に作り続ける事への閉塞感」だと気がつきました。環境が、もうゴミを受け取れないと悲鳴を上げているのにも関わらず、モノを作り続ける事にまい進せざるを得ない企業およびそこに働く技術屋の出口のない「定め」には、どうしても残りの人生をささげることはできなかったわけです。

とはいいながら環境坊主として為すべきこともまだ明確ではありません。もしキチガイに間違えられないのであれば、袈裟を着て、編み笠を被って家々の戸口に立ち「環境、かんきょう、カンキョウ、・・・」と、お経でもあげて回りたいのですが、それも叶いません。仕方がないので、今のところは環境おじさんを名乗って、企業や市民や学生や小中学校で、「環境のお話」でもするしかやることがありません。お金は要らないので、環境坊主として忙しくなる方法も毎日考えています。

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