« 2007年11月 | トップページ | 2008年1月 »

2007年12月31日 (月)

532 棚上げ

省エネルギーや省資源、或いは家計のやりくりで有効な方法があります。それは、その日(週や月でも良いですが)に使う分を取り分けておき、それが無くなったらその日の冷暖房や工場の操業や買い物を打ち止めにします。家計では、給料を貰ったら先ずは貯蓄分を取り除き、残ったお金を等分にしてその月の日数分の封筒に入れておきます。その日は、封筒の中のお金で買い物をして、無くなったら買い物は打ち止めです。日用品を買いすぎて、食糧を買うお金が少なくなったら、多少ヒモジくても仕方がないので水を飲んで「明るく」乗り切ります。そうでなくても、近頃私たちはヒモジさをすっかり忘れています。そういえば投稿者の子供時代は、オヤツもろくに無かったので、キュウリなどの生で食べられる野菜に塩や味噌を付けたもので空腹を満たしていたような気がします。何度も書きますが、私たちモンゴル系の民族は、時々飢えるくらいで丁度長生きができるDNAを持っているのです。

さて、企業にも同様の行動が必要です。企業にとって顧客は神様だと言われますが、どっこい「環境様」こそは、その上を行く全能の神(オールマイティ)だと言えます。ですから、多少顧客に対しては不義理になったとしても、その日の計画分の材料か或いは予定の電力が尽きたら、さっさと仕事仕舞いをしましょう。そうすれば、在庫を抱えてそれを冷凍し、日付を書き換えて出荷し直す愚を犯す必要もなくなるはずです。人気のある製品・商品は「本日は売り切れました」という札がステータスシンボルとなるかも知れません。

ところで、本年も退屈なブログをお読みいただきありがとうございました。とは言いながら明日からも、クドクドと書き続けますので、折に触れてお読みいただければ幸いです。というわけで、良い新年をお迎えください。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年12月30日 (日)

531 排出権批判

ポスト京都の温暖化防止の枠組みを話し合うCOP13でも、先進国(特にA国)と途上国(特にC国)がエゴをむき出しにして、醜い攻防を繰り返しました。植林を推進させる決議はまだしも、情けないのは「排出権取引」を温暖化防止の対策と考えている輩がまだまだ多いという事実です。排出権取引とは、排出枠に余裕がある国(企業)から、枠を超えた国(企業)が排出枠をお金で取引するという制度です。つまり、それが実際に温暖化防止に効果があるかどうか分からない、妥協の産物としての制度であるにも関わらず、それを既得権とみなして、お金で売り買いするというバカバカしさです。

実質では何の温暖化防止効果も生まない「排出権取引」などではなく、各国が自国の排出割合を競って下げる「排出削減競争」こそ必要な枠組みでしょう。削減率が高い国ほど、国際社会からは評価・尊敬され、国としてのステータスも上がるという仕組みがぜひ欲しいものです。日本は、公害防止や省エネルギーに熱心で、技術面での大きな国際貢献もできる国である、と言われてはいますが、その実技術の多くは、公害問題の解決過程や前のオイルショックの省エネ技術など、先輩達が築いた技術の遺産に過ぎないのです。従って、確かに今の日本の省エネ・省資源レベルより大きく遅れている途上国に対しては、技術支援も可能とは思いますが、現在の日本のエネルギー・資源効率で十分であるはずがありません。不断の製造技術の改良や省エネルギー技術の研鑽が欠かせないのです。投稿者は仕事柄、企業を訪問する機会が多いのですが、省エネや省資源に関してみれば、現状の2-3割程度の削減は十分可能ではないかと見ています。必要なものは、設備投資などのお金なのではなく、エネルギーや資源の無駄を鋭く発見する目と、それを改善する工夫だけなのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年12月29日 (土)

530 暖房服

528で書いた暖房服の続きです。暖房無しの事務所に居るときは、気合で寒さに耐えていますが、何か工夫はできないものかと考えました。一番楽な方法は、あっさり白旗を上げて、安い石油ストーブでも買う事ですが、環境おじさんとしてそれはご法度です。指が冷たくてキーボードが打てないのは、アルミボトルに湯を入れ、それを保温袋に入れた「指タンポ」でしのいでいますが、室温が10℃以下になる日は体の寒さはどうにも我慢ができなくなります。そうなると、寒さに耐える事だけに注意が向き、集中力が無くなってしまいます。

という訳で、体の寒さを主に感ずるのは一体どの部分なのか、自分の体に尋ねてみました。その結果、首筋とわきの下と背中の上部であるとの結論になりました。ならば、そこを集中的に暖かくすれば良いわけです。以前も書いたように、人間が寒さを感ずる重要なファクターに、対表面からの輻射熱が奪われることがあります。色々考えた末、体から放出された輻射熱を反射させて体に戻すことを思いつきました。輻射熱を反射するのに最適なものは鏡です。しかし、総鏡張りの妖しい部屋に改造するとか、重いガラス製の鏡を背中に背負うわけにはいきません。次善のものはアルミ箔ですが、これもシワになったり破れたりしますのであまり良い素材とも言えません。そこで思い出したのが「ポーラーシート」です。これは、北極を越える航路を持つ航空機に必ず積まれているもので、薄いビニールシートにアルミを蒸着したものです。これを体に巻きつけておけば、寒い北極の雪原でも数時間程度なら薄着の状態で耐えられる(だろう)といわれています。

ホームセンターの防災用品売り場で、このシート素材で作られた防災用の簡易寝袋が売られていたのを発見しましたので、早速買ってきて先ずは簡単に出来るベストを試作してみました。現在事務所の室温は10℃を下回っていますが、実際に服の下に着ると体の中からポカポカしてきて本当に快適です。この分なら、このシーズンもどうやら暖房器具なしで過ごせそうです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年12月28日 (金)

529 VP志願

以前VP(自発的貧乏)について書きましたが、偶然テレビで見た自給自足生活者の様子が印象に残りました。テレビですから、それなりに「脚色」されているとはいえ、彼らこそがVPの実践者であると思いました。家賃数千円でボロ屋を借り、タダで荒地を借りて米や野菜を育てることで、日々の食べ物を得て、余ったものは売ってささやかな現金収入を得る。粗食が基本である日本人の体質にぴったりの野菜や山菜や雑穀中心の食生活は、きっと健康にも良いでしょうし、アレルギーにも無縁です。山の水や湧き水はミネラルをたっぷり含み、排気ガスとは無縁の空気はそれ自体が生命の源です。夜には満天の星空を独占し、野山の動物たちと馴染み、寒い冬にはひたすら耐える。春には、あらゆる植物の芽吹きや動物たちの目覚めに立会い、夏には雑草と戦い、秋には豊かな恵みに感謝する。

数十年前までは、これはごく当たり前の田舎の生活でしたが、いまや一大決心をし、貧乏(単に現金収入が少ないという意味ですが)を覚悟して臨まなければ実現できない生活になりました。しかし貧乏の代わりに得られるものも多いとも想像しています。健康な体、家族の結束、村人の人情、何でも自分でできる能力の獲得、自然とのつながり等などです。

投稿者も、もし65歳を越えて寿命をいただけるものなら、迷い無く自給自足の生活に入ろうと思います。その為に、日ごろから粗食に耐え、体を鍛え、VP生活にもすぐ順応できるようにお金には距離を置き、基本的な自給自足の技(野菜の育て方、道具の作り方、大工仕事など)を仕入れておこうとおもいます。これらの技は、ずっと田舎で過ごせば自然に身についたはずのものですが、悲しいかな35年のサラリーマン生活で、すっかり忘れてしまったようです。しかし、お金貧乏とココロ貧乏のどちらを取るかと聞かれれば、迷わず前者を選択し、しかしココロ豊かに暮らす道を選びます。ここではこれをVP志願と呼んでいます。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2007年12月27日 (木)

528 体感温度

市販されている冷暖房器具全てに不満です。何より、殆ど全ての器具は、温風または冷風を吹き出すことにより、暖かさや涼しさを与える構造となっているのがその理由です。人が感じる暑さ寒さには、実は多くのファクターが絡み合っています。勿論気温がベースにはなりますが、湿度、空気の流れ(風速)、周りの物体からの平均輻射温度、衣服、更には運動による体内からの発熱などです。これらのファクター全てに目を配るなら、冷暖房の機能は、建物の壁や窓の構造や断熱程度、衣服や湿度にも着目しなければ、完結しないからです。単に15℃の冷風や30℃の温風を吹き出し、室温を一定に保つ機械だけでは十分ではないのです。

さて、投稿者が考える理想の冷暖房は、建物の構造から見直す必要があります。建物の外気の熱気や冷気を可能な限り遮断しなければなりません。具体的には、壁を厚くして断熱材を増やし、(床下や屋根裏も同様)窓には、熱貫流率の低い、中間スペースにガス入りか真空としたペアガラスを入れるか、あるいは熱線反射フィルムを貼る対策が必須です。更に、屋内の南北の温度差をできるだけ小さくする工夫も必要です。結果それだけで、温暖な地域では冷暖房(特に暖房)が殆ど不要になるかもしれません。

その上で、体から(へ)の輻射熱をコントロールする衣服の工夫も欠かせません。たとえば薄いフィルムにアルミを蒸着したシートなどはもっと冬の衣服に取り入れられるべきでしょう。これで随分寒さを感じなくなるはずです。

それでもまだ寒い暑いと騒ぐ人たちには、エネルギーを殆ど使わない、輻射型冷暖房がお勧めです。これは、壁に細いチューブで作ったパネルを貼り付け、そこに夏は15℃程度の地下水を、冬は屋根で作った30℃程度の温水を少量循環させるものです。これで、不快な風を送らなくても、十分快適に暮らせるはずです。以上の提案は全て、実際の気温ではなく、人間が感ずる温度である「体感温度」の理論に基づいています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年12月26日 (水)

527 標準化の愚

企業人は口を開けば、合理化や標準化という言葉を口にしたがります。ここでは標準化のマイナス面を考えてみましょう。まず標準とは、絶対不変のものではなく、時代とともに変わらなければならないという点を指摘しておきます。そんなことは無い、JISやISOで決められている標準こそが、これまで積み上げられてきた技術や品質管理に基づいたものであり、標準として相応しいものである、と主張する人も多いことでしょう。第一標準が無ければ、任意のボルトとナットがぴったり合うはずがなく、工業製品の生産はそもそも成り立たないとも主張することでしょう。

しかしここで取り上げる標準とは、オーダーメイドに対する「標準(品)」という意味で使っています。オーダーメイドの服は、テイラーがまず客の採寸をして、型紙に落とし、裁断、縫製、試着、調整を経てやっと仕上げられます。したがって、その人の体型が大きく変わらない限り、擦り切れるまではそれを着続けることができます。しかし、標準化されたものは、やれA体だY体だB体だと勝手に人の体を分類した上で、既製品に体を合わせざるを得ないことになります。

オーダーメイド(あるいはセミオーダーメイドでも良い)に対応する製品の種類を増やせば、間違いなく産業は省エネ・省資源型に移行できる、と投稿者は信じています。まず、材料の無駄が減りますし、製品としての寿命は格段に長くなり結果ゴミも減るでしょうし、製造に人手は多く掛かりますが製造に使われるエネルギーも減らせるはずです。手間が掛かる分だけ売り値は高くなりますが、修理が利くため長く使えて、製品の使用時間当たりの金額で見ると、格段に安上がりとなるでしょう。

製品として製造側から考えるならば、せいぜい製品のコア部分のみ標準化し、顧客が直接触れる部分(インターフェイス部分)こそセミオーダーができるように設定しておくべきでしょう。他人と違う製品を持つ事は、オーナーの自慢にもなり、より長く使ってもらえるはずです。その分、売値を上げる事ができるでしょうから、売上げは減らさなくても済むかもしれません。大量生産の規格品を持たされて何が楽しいのでしょうか。顧客とものづくり側の関係を根底から考えなおすべき時期に来ているのではないでしょうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年12月25日 (火)

526 先送り

相変わらずの素人経済学です。株や債権や先物取引など、儲け話は数多くあり次から次へと「小金」を握っている人たちの前に提示されます。その多くは「甘いワナ」で、残りは少しまともな投資話です。甘いワナの多くは、最初は砂糖水で誘い、金を集めたところで胴元がドロンするか、計画倒産させる詐欺まがいの話です。一方、まともな投資話であっても、それが「持続的」な経済に照らしてまともであるとは言い切れません。というのも、まともな投資話の中にまともでない博打が組み込まれているからです。アメリカのSPL問題が長く尾を引いているのも、まともな投資の中に小型のヤバイ時限爆弾が多く埋め込まれていたからです。いまや多くの投資話は砂の上の楼閣に過ぎません。実業の裏打ち無しに、お金がお金を生むという話ばかりだからです。

お金がお金を生むという投資話は、結局は今日得た自分の利益は、将来の誰か(自分かまたはそのときババを握っている人)の損失に等しいはずです。したがって、何らかの仕組みで虎の子のお金を「運用して」増やそうと考えている「虫の良い人たち」は、早くこの事に気がつくべきでしょう。本来の意味の投資とは、お金を投じてビジネスの成長を助け、そのビジネスが起動に乗った暁に、配当を得るという形が本筋であり、誰かにお金を預けて運用してもらえば、自動的に増えるというのは全くの幻想に過ぎません。第一運用とは何を意味するのでしょうか。単なるお金ころがしであれば、上の意味での投資ではなく、詐欺まがい商法と変わるところはありません。違いは合法か違法かだけになるでしょう。

今日良い生活を送れれば、明日はどうなっても構わないとの考えを、苦労を先送りするだけの自堕落と見るのか、あるいは明日の糧を今日先食いすると見るのかの違い程度しかない情けない態度でしょう。最早先送りするだけの余裕は無い、というのが投稿者の持つ危機感です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年12月24日 (月)

525 農林業

農林業は産業ではない、というのが投稿者の主張です。たぶん社会が農林業を一産業として位置づけるようになって以降、その衰退が始まったと考えているからです。今はやや古い言葉になりましたが、かつて農林水産業などを指して第1次産業と呼んでいました。産業と位置づけられる以上、常にその生産性が問題にされ、お金で評価されますから、他の産業(工業やサービス業)に比べて、常に低い労働生産性が槍玉に挙げられ、ドンドン衰退が進んだのでした。日本ではいまや、サービス業が全労働人口の2/3にものぼり、人々は他人へのサービスにより生活の糧を得ている状態です。考えて見れば、多くのサービスは自分でやろうと決心すれば、消費者自身が実行できる内容のものが殆どだといえます。自分で自分が作った商品を運び、それを売り、家族の散髪をし、毎日料理や洗濯をし、得たお金をタンス貯金して、薬草や民間療法や気合?で病気を治す生活を送れば、実は他人からの「サービス」なんかは別に受けなくても生活ができるはずです。昔の農村の生活は、まさにこのような生活スタイルでした。

農家は、まず自分たちが食べる作物を育て、余った分を町に運んでささやかな現金を得ていたのです。しかし、産業となってからは、年に数回しか動かさない大型の農業機械を導入するために圃場を広げ、その機械を買うためにJAに多額の借金をして、それを返済するために出稼ぎや兼業サラリーマンとして企業で働かざるを得なかったわけです。米だけは、何とか価格が維持されましたが、その他の農作物や木材は、厳しい海外との価格競争に曝され、次々に淘汰されていったのでした。

農林業は、産業ではなく「生業(なりわい)」或いは「環境維持業」だと、このブログでも何度か主張してきました。環境を維持することは、実はお金には換算できない至上の価値を持つはずなのです。何故なら、環境こそが人間を含めた生物が生きていくための「条件」そのものだからです。その条件をないがしろにした産業としての農林業が持続可能なはずはありません。農林業こそ私たちの生活の基本の「き」であるべきです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年12月23日 (日)

524 川の流れ

方丈記や美空ひばりではありませんが、ジョギングの途中にふと立ち止まって川の流れを眺めていると人生や輪廻などという言葉を連想します。なにしろ自然は、太陽光のエネルギーだけを使って、水を蒸発させて雲にして空に浮かべ、山に雨を降らせてせせらぎをつくり、多くのせせらぎを集めて絶え間なく川に水を流し続けるわけです。水の惑星である地球は、その意味で広い宇宙の中でも奇跡的にラッキーな天体ではありますが、何より太陽から絶妙な距離を置いて、太陽の引力に取り込まれた点、生命誕生にとって決定的な出来事だったのでしょう。

川の流れに代表される自然の営みの原動力(エネルギー源)は、まさに太陽光しかないのだ、と気づくべきでしょう。私たちは、確かにこの数百年は、化石燃料が安く手に入るという、長い人類の歴史の中では「瞬間的なラッキー」に恵まれた期間だったため、いまのような安寧な生活を享受していますが、これは単に川の流れが、途中の早瀬で流れが速まっただけだと考えなければならないでしょう。それは科学・技術といった手段で人工的に速められた瀬でもありますが、一方で化石燃料という、水量は多いが汚いドブ川が流れこんだ事も寄与しています。

しかし、化石燃料が余り手に入らなくなると、瀬はやがて流れが急激に弱まる淵(環境のよどみ)に変わります。そこでは、水の停滞があり、或いは渦を巻いて、上流への逆戻りも観察されるでしょう。その意味で私たちは、環境のよどみから脱出しようともがくのではなく、むしろそこに身を任せて力を抜くしかないと思うのです。その上で、できる事をできる限り努力するしかないのでしょう。

投稿者は、早々と「科学・技術の早瀬」を脱出し、瀬の横をチョロチョロと流れる側流に入り込んだ訳ですが、そうであればこそ早瀬の異常さが良く見えるようにもなりました。特に、化石燃料のドブ川や流れに浮かぶゴミ(廃棄物)の汚らしさを強く感ずる今日この頃です。百年待っても川の流れは澄まないかも知れませんが、これ以上の汚濁にはささやかに抵抗して行こうと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年12月22日 (土)

523 一木一草の理屈

一木一草にも、自分がその場所に存在するだけの理屈を述べる権利はあります。全ての植物や動物は、その場所で手に入れることができる資源、つまりは土壌や水や太陽光や気候や天敵の存在などを見極めて、他の生物の棲んでいない隙間(ニッチ)に入り込むことを「決断し実行した」わけです。多分はじめは、やや居心地が悪かったでしょう。さながら転校生のように。しかし、時間を掛けてそこに馴染むことによって、結局は自分の居場所を確保したはずです。という訳で最近では、身の周りの人間が植えたものでない雑草のような植物や、ペットではない小さな生物(アメンボウやミミズやオケラなどなど)を見つけるたびに、彼らに「良く努力してその場所に住み着いたなぁ」と声を掛けたくなるほどいとおしく感じている次第です。彼らがその場所を居場所と定め、実際にそこに存在することだけで、生命の逞しさを実感する事ができます。

一方、人間が植えて、肥料や水をやり、雑草を抜いて丹精して育てる野菜や花は、所詮「箱入り植物」に過ぎません。まして、路地ではなく温室でヒョロヒョロ育てられた、自然環境への免疫力が全く無い野菜や果物は、温室の加熱に使われたエネルギーとN・P・Kの3要素しかない肥料と、虫やバクテリアまで根こそぎにしてしまう農薬の味しかしないのではないでしょうか。家畜や人間が出したモノを含む堆肥を入れ、ミミズやオケラが這い回り、それを食べるモグラが「暗躍」する豊かな畑、或いはドジョウやガマ蛙が泳ぎ、蜘蛛が巣を張ってウンカやヨコバイなどの稲の害虫を食べてくれる田んぼこそ、持続可能で、立派な理屈の立つ農業だといえます。

この持続可能な農業地域には、コウノトリやヘビは勿論タカやトビなどの猛禽類も共存でき、そこからは人間にとっても安全な食糧を持続的に得ることも出来るはずです。少数の「種屋」に種苗を牛耳られ、JAによってビジネス化され、農機具屋によって機械化され、化学肥料や農薬漬けにされている現代の農業には、植物や関係する生き物の理屈のかけらも見られません。お百姓の誇りや良心は何時のころから、何処へ消えたのでしょうか。半自然であった畑や田んぼは、一体何時からお金を生み出す「屋根の無い工場」になってしまったのでしょうか。それを辿るためにも今後、日本の農業の歴史を少し掘り下げてみようと思っています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年12月21日 (金)

522 脱力感

脱力感といっても別に体がだるいわけではありません。むしろ体は絶好調と言っても良い状態にあります。休日に2時間程度走っても筋肉痛は出ませんし、寒い中をバイクで走り回っても風邪をひくわけでもありません。とは言いながら、昨年サラリーマンを辞めて「環境おじさん」を名乗り始めてから、しばらくは少し肩に力が入っていたような気がして反省しています。

ここにきて、肩の力が抜けてきて、自然体でものを考え、人にもそれを伝えることができるようになってきたような気がしています。一番の変化は、これまでの「空回り」から、少しだけですが「手応え」を感ずることができるようになった事だと感じています。「温暖化」という既にやや言い古された感のあるキーワードですが、ここにきてやっと中小企業レベルの会社でもそれなりに反応してくれるようになって来ました。とは言っても「持続可能性」という言葉に反応する人たちはまだ少数です。温暖化は単なる現象に過ぎませんが、持続可能性は、実は「全ての価値観の大前提」でなければならないはずなのです。人々は、やっと現象を認識するようにはなりましたが、20世紀型の価値観を変えるまでには、「いまだ道遠し」の状態にあります。

いずれにしても、これからも肩に力を入れ過ぎないように、しかし口は酸っぱくしながら、「環境念仏」を唱えて暮していくつもりです。というのも、過去の50年掛けて変化してきた人々の価値観を変えるには、同じくらいの時間か或いはそれ以上の時間が必要だと思えるからです。その意味で、その価値観のターニングポイントに、「二度も立ち会える幸運」に恵まれた事は、むしろ感謝すべき事かもしれないと考えるようにしています。われながら、何と前向きな感想でしょう! 誰も言ってくれないので、しかたなく自分で書いておきます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年12月20日 (木)

521 加工度2

加工というK/Wで少し書き足りないので付け足します。加工とはモノに付加価値をつける行為のことで、具体的には人手や設備を使って「モノの形を変える」行為だといえます。昔の加工はもっぱら職人が、道具を使って手仕事で行っていましたので、モノのコストは少しの材料費と掛かった人手(工数)がその殆どでした。しかし現代の加工は、金属を溶かし、削り、溶接し、メッキをして組み立て、電装部品をつけ、何重にも包装して、トラックで配送されますので、エネルギーコストが非常に大きな部分を占めているはずです。省力化された工場では相対的に人件費の割合は低下し続け、それでも間に合わなくて派遣社員やら、外国人の「研修生やら」まで動員して、自動化により元々コストに占める割合が下がっている人件費をさらに絞り込んでいるのです。

加工度というK/Wで投稿者として提案をするなら、メーカーには是非「半製品」というコンセプトを拡大して欲しいと思うのです。今でも少ないですがその例は見られます。例えば組み立て式家具というコンセプトです。いまはボルトで締めるだけの組み立てですが、できればもう少し加工度を下げて貰いたいものです。少しカンナを掛けるとか、簡単な塗装を必要とするなどの余地を残した半製品です。ブキッチョであっても、ブキッチョなりのオリジナル製品ができて、愛着も湧くでしょう。従って、短期間でポイ捨てすることも無くなり、ゴミも減ります。

これをさらに拡大するなら、組み立て式パソコン、組み立て式自転車、組み立て式バイク、組み立て式住宅、組み立て式・・・、といくらでも広げることができるでしょう。消費者の工賃は本人にとってはタダですし、道具さえあれば人力にはエネルギーは不要ですので、省エネルギーにもつながります。輸送も楽になり、部分的な修理も利くのでさらにゴミが減ります。という訳で、加工度を下げることは、非常に重要な環境対策になり得ることが分かると思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年12月19日 (水)

520 加工度

モノの加工度が時々気になります。つまり素材にどれだけ手を加えたかの度合いのことです。例えば料理は、基本的には調味料の種類や調理の手数がかかるほど、複雑な味が出せるはずです。しかし一方では、度が過ぎると本来素材の持つ味が殺され、調味料の味しかしないような料理にもなりかねません。

金属の加工についても考えて見ましょう。銀細工などの手仕事は、手数を掛ければ掛けるほど、複雑で繊細なものが作れますから、多分売値も高くなるでしょう。一方、工業製品などは可能な限り工程が少ない方が、安価に作れますから、金属を削る代わりに曲げたり、打ち抜いたり、塑性加工で形を変えたりして部品を作ります。工業製品の価値は、部品自体の加工度ではなく、組み合わせる部品の数で稼いでいると言っても良いでしょう。例えば、車では各部品自体の形や加工度は低くなっていますが、多くの部品(大体2万点程度)を組み合わせて、車としての機能を満たしています。車の部品は、加工され、メッキされ、塗装されて元々の素材としての質感は殆ど感じられなくなっています。

いずれにしても、モノの価値は、掛けた人手の手間(工数)と、使われた部品の数の足し算で決められているようなのです。ではそれでどうだという事ですが、私たちはこれまで部品の数に価値の比重を置き過ぎていたような気がするのです。そうではなくて、いかに人手をかけたかに価値の基準を置けば、より環境にやさしくなれるはずなのです。良い例が思い浮かばないのですが、若かった頃イタリアのデローサ社製の手作りの自転車がどうしても欲しかった時期がありましたが、確かその時の給料の5-6ヶ月分かそれ以上の値段だったので手が出せなかったことを思い出しました。何しろその当時は、同じ金額で立派な250ccのオートバイが買えたのです。結局この自転車は買えませんでしたが、神戸の自転車屋のウインドウに飾られていた、職人が多くの手数をかけたあの「羽根のように軽く宝石のように美しい自転車」が今も懐かしく思い出されます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年12月18日 (火)

519 休題(ブロガー)

なにしろブログを1年半以上も毎日毎日書き続けているので、投稿者も一応ブロガーの一人だと名乗っても良いような気がしています。それでどうだというのではありませんが、自分を含むブロガーが何故ブログを書き続けるのかをたまに考えます。いくつかの理由が書き出せそうです。

まず、とにかく頭の中にある言葉や考えを、できる限り多量に吐き出すことにより、自分が何者であり、今後どの様に生きたいのか、がかなり明確になってきます。ブログを書き続けることで気がついたのは、毎日何らかの新しい経験を重ねることで、書くネタは絶対に尽きないだろうという確信のようなものです。勿論、何も考えずにいつもの道を歩いていても、それが新しい経験になるとは言えません。歩きながら人や風景や植物や虫や鳥を観察し、何かの変化を感じ、考えることが必要です。なにしろ木々や生物だけを見ても、日本には季節が24個もあって2週間毎に一つ季節も進むのですし。

次に、書く事によってできる自分が成してきたことの振り返りがあります。人間を長くやっていると、あの時にああすれば、こうすれば良かったと悔やむことも多いものです。しかし、だからといって過去に戻ることもできませんから、精々今後は同じような後悔をしないで済むように暮すしか方法はありません。とは言いながら、人は忘れやすい存在でもあり、同じ過ちを繰り返すことが多いのです。日記やブログに書き留めることにより、それがかなり防止できるのではないかとも感じています。

また、これも非常に大切なポイントだと思うのですが、人には「気づき」があります。それはいわゆる発明の様なアイデアであったり、小説の筋であったり、ブログのタイトルであったりするわけです。その気づきを都度書き留めておかなければ、翌日にはすっかり忘れてしまうでしょう。日記は、たぶん自分ひとりしか開かないものでしょうが、一方でブログは毎日何人かの人が読みに立ち寄る可能性がある、日記と出版の間にある「中間的なメディア」でもあります。したがって、書き手としてはそれなりの緊張感を持ちながら書く必要もあります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年12月17日 (月)

518 脱エネ力

脱力や鈍感力が話題になっています。同じような発想でここでは「脱エネ力」を考えて見ます。(化石)エネルギーとは、結局人間の筋力や自然エネルギー(太陽光や薪炭など)を補完し、拡張するための手段といえます。車のエンジンは、人間の脚力の限界である自転車のスピードを軽々と超えるために発明されましたし、菜種油のランプや行灯で得られる照度の何百倍の明るさが、電灯の発明で手に入るようになりました。電気の放電(アーク放電)を使えば、金属でさえ瞬時に溶かすことも可能です。唯一でしかも最大の問題は、しかしこれらのエネルギーを得るために、持続的ではない手段(化石エネルギーや地下資源)が使われている点だといえます。

さて脱エネの考え方ですが、ひたすら人力・畜力を活用し、天気力(太陽光を唯一のエネルギー源とする手段)に頼るしかないと思われます。勿論、大昔の生活に完全に戻ることは、今更できない相談でしょうから、浅知恵とはいえ近年新しく身につけた「科学・技術」もそれなりに活用する必要もあります。多量のシリコンさえ使わなければ、太陽光発電も結構優れた仕組みだとはいえるでしょう。というのも、現在の太陽電池は、使われているシリコンの純度を高めるために多量のエネルギー(電力)を消費するという矛盾が生まれているからです。これを回避するためには、効率が半分以下になっても構わないので、ありふれた金属酸化物(具体的には酸化鉄や酸化亜鉛などの事です)で代用する研究がもっと大々的に行われるべきだと考えています。

つまり、より高い効率や性能を求めるのではなく、再生不可能な資源やエネルギーの消費からいかに脱却するかを課題に据えなくてはならないと思うのです。すでに省エネでは間に合わない、脱エネの時代に突入したとの認識が必要です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

517 ビジネスの本質?

最近のニュースを見ていて気がついたことがあります。それは、どうもビジネスの本質とは、法令を掻い潜って(バレさえしなければそれを犯してまで)「如何に上手く誤魔化すか」にあるようなのです。これまでの社員は、運命共同体としての会社を守るために、誤魔化しを口外する事はありませんでした。しかし、雪マークをロゴに持つY社やPコちゃんのF社、さらには北海道の「白いクッキー」や三重の「赤い餅」事件などが重なり、なにやら内部告発がブームにもなり、多くの消費者も、実は商品の誤魔化しをしていない企業は無いのでは、と諦め顔で考えるようにもなりました。考えて見れば、賞味期限や消費期限などという数字自体にも「まやかし」は内在しているとみても良いでしょう。業界基準や社内基準の多くには、科学的根拠などはなく、エイヤっと経験的に決められたものだと思われるからです。例えば、製造直後と味が少し違うと何人かの素人が気付くまでが賞味期限で、かなりの人が気付くまでが消費期限と決められているのかもしれません。

誤魔化しは食べ物に限った話ではないでしょう。ビルや構造物の強度偽装や車のリコール隠し、安全検査の手抜きや検査数値の改ざんやデータ隠しなど、多かれ少なかれ、或いは程度の差こそあれ、どの企業でも行われていると考えた方が、不祥事にいちいち腹を立てる必要がなくなるので、精神衛生上は良さそうです。また、短期間に企業規模や売り上げが急成長した企業ほど、誤魔化しの度合いはひどいと推論してもそんなには見当違いではないでしょう。そもそも、何百年も祖先が工夫した製造法を頑固に受け継ぎ、少しずつ工夫を加えてもの造りをしてきた老舗が、それほど急成長するはずがないのですから。職人を作業者に代替して技能レベルを下げ(あるいは機械化し)、大量生産を可能にした老舗が、ついには株式会社=企業となり高度成長の波に乗ってビジネスの急拡大ができ、そうではなかった「真面目な老舗」が、時代の流れの中で消えて行ったのでしょう。

しかし、今の大企業の多くが「環境的には持続可能でない」という理由で、遅かれ早かれ「環境の壁」が越えられなくなり、やがて淘汰される事は間違いないでしょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年12月15日 (土)

516 北極開発を憂える

温暖化の影響は極地に顕著に現れます。なにしろ、北極エリアの平均気温は「この40年間で3℃も上昇」したのです。温帯地域では、過去100年で1-2℃程度でしたから、如何にすさまじい速度の温暖化のスピードであるかが分かります。そのメカニズムは以前に書きましたので省きますが、多分非常に近い将来に、夏場には大型船舶の航行が可能となるでしょう。北極航路の誕生です。船が航行できるという事は、例えば北極海に石油リグを浮かべて石油を採掘する可能性も出てきます。かの北の国(ロシア)は、早速これに目を付けて、早々と北極点の海底に国旗を立てたのだそうです。しかし、北極海から石油や天然ガスを掘り出して、それをドンドン燃やせば更に温暖化が加速することは間違いありません。そうなるとロシアは最早、北の寒い国ではなくなるでしょう。しかしその結果、シベリアの凍土が解け出して広大な沼地が出現するはずです。この(フランスとドイツを合わせたくらいの)広大な面積の沼地では夏場には太古の昔に堆積した有機物が分解され、多量のメタンガスが大気中に拡散していきます。二酸化炭素の20倍以上も強烈な温暖化原因ガスであるメタンガス濃度は、シベリア凍土の中に眠っている有機物が分解すると、700億トンとも言われるメタンガスが放出され、産業革命以前に比べて既に2倍になっている大気中のメタン濃度が、更に数倍になる事が懸念されます。

学者の中には、シベリア凍土からのメタン発生のメカニズムは、既に「最終的な引き金が引かれた」と警鐘を鳴らし続けている人も増えてきています。つまりは、既に歯止めが外れたということで、上に述べたリスクは、既に現実の問題になっていると言っているのです。北極海の開発は、単にシロクマを絶滅させるだけに留まらず、温帯地域の温暖化を北からも加速させることは必至です。次々に凍土から姿を現すマンモスの冷凍肉や象牙に、単純に喜んでいる場合ではないのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年12月14日 (金)

515 錬金術

有史以来、多くの科学者や化学者が錬金術に挑戦して来ました。錬金術とは、鉛などの卑金属から金(ゴールド)を合成しようという試みのことです。勿論、元素自体を創り出すことは、この時代にはできない相談でした。今の時代でも、ごく限られた条件でしか、ある元素から別の元素を生み出すことはできません。その例外としては、例えば原子炉でウランを燃やして(核分裂させて)、放射性同位体のウランとし、一部をプルトニウムにすることくらいしか、現代の科学でもできないのです。軽い元素(重水素とトリチウム)から重い元素(ヘリウム)を作る核融合は、何十年間も多額の税金を使いながら、今も実用化の目処は殆ど立っていません。

しかし、一方では信じられない規模で「現代の錬金術」が日々行われているのです。それが、マネーゲームと呼ばれる世界だといえます。何しろ、普通の主婦が毎日毎日ネットでの株取引を繰り返し、結構な金額の収入を得たりする時代なのです。少しの元手が、何倍にもなる状況は、さながら「打ち出のパソコン」からお金が生まれる現代の錬金術とも呼べるものです。いま問題になっているサブプライムローン(SPL)は、土地や住宅をネタにした錬金術ともいえるものですが、結果としては損得の収支は少しもプラスにはなっていないはずです。過去にボロく儲けた人たちのツケは、その債権を組み込んだ「複雑な金融商品」に化け、それに飛びつき最後にババを握っていた人たちや、金融機関や国(つまりは税金ですが)が引きうけざるを得ないのです。

額に汗して働かず、居間のパソコンの前に座って楽をしながらお金を生み出し、それが将来にわたって「持続可能な現代の錬金術」など絶対にあり得ないことは、多くのネズミ講であれ、株であれ、土地投機であれ、債権であれ、過去何度となく証明されているのです。SPL問題とほぼ同じカラクリの結末は、つい最近日本での土地バブル崩壊により完璧に証明されています。しかしそれが嫌になるほど繰り返されるのは何故なんでしょう。投稿者には、全く理解できないのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年12月13日 (木)

514 ピンチ=チャンス

原油100ドル時代になりました。ホンの数年前は1バレル当たり50ドル台でしたので、2倍近くになったわけで、これは立派な何度目かの「オイルショック」であるとも言えます。1970年代に、二度のオイルショックを経験した投稿者より上の世代としては、なぜ社会がおっとりと構えているのか理解できない人も多いのではないでしょうか。前のオイルショックの時には、原油価格には直接無関係なトイレットペーパーのようなものまでも「便乗値上げの恩恵」に浴して、店から消え(実は倉庫に隠されて)値上がりしました。巷では広告塔の照明やネオンサインを消し、テレビの深夜放送も禁止されました。人々は、残業を切り上げて早々に帰宅し、早めに夕食を済ましてさっさと寝るしかありませんでした。

しかし、オイルショックは悪い事ばかりでありません。何しろ、石油やガソリンの値段が倍になった訳ですから、起業も人々も省エネルギーに腐心しました。車の燃費を気にしたり、石油に代わる木質燃料(バイオマス)に飛びついたり、屋根に温水器を上げて風呂の燃料費を節約したりとそれはもう大騒動でした。投稿者が関わっていた造船業でも、鋼鉄のタンカーに帆を張るアイデアまで飛び出して、I社では実際にも試作もされました。当時の試験データでは、20-30%の省エネになったようでした。風車も見直され、知る限りでも中小零細規模ですが、多分10社くらいの風車の製造会社があったような気がします。お国でも、サンシャイン計画だのムーンライト計画だのを打ち上げ、今考えてもなかなか素晴らしい、多くの新エネルギー源にも注目しましたが、結果として国は安定度だけを重視して原子力発電の拡充に飛びついたのでした。

とは言いながら、オイルショックのピンチと言いながら、逆に言えば面白いアイデアを生み出すには絶好のチャンスでもあるわけです。かつてのオイルショック時に生まれたアイデアを掘り起こすのも良いでしょう、或いはもっとエネルギーが無かった100年以上前の知恵に学ぶのは更に望ましいしょう。どの方向を探すにしても、そのエネルギーの大元としては「太陽光」しかないことは、間違いありませんが・・・。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年12月12日 (水)

513 トラック減便

しつこいと思われても書き続けます。運ぶ事によってモノの本質が変わらない限り、運ぶ事それ自体はエネルギーのみを消費する無駄な行為です。であるならば、運ばない工夫があっても良さそうです。石油価格が今以上高騰すれば、間違いなく「運ぶ産業=運輸業」も大打撃を受けることは目に見えています。例えば、宅配便を考えて見ましょう。宅配便は、街のあちこちにある支店や委託店で受け付けられた荷物を、比較的小型のバンで集荷し、地域の拠点で更にトラックに積み替えて流通センターに持ち込みまれます。自動的に行き先別に分別されて、夜間に走る長距離トラックで各地域の配送センターに運ばれます。そこで、再び小型車に積み替えられて宅配されることになります。

いまや本州内であれば翌日には、かなりの田舎でも配達が可能な時代になりました。しかし、便利さの追求のためには、例えバンやトラックには大きなスペースがあっても1便に仕立てて走らせる必要があります。宅配荷物の重量は知れていますので、トラックやバンは、さながら空気を運んでいるようなものです。もし、翌日配達を諦めて、1週間以内の配達を認めるならば、今走っているトラックやバンを走らせる頻度は、多分半分以下には出来ると想像しています。そうなると、トラックやバンは、走らせるルートをしっかり計画し、スペースにぎっしり荷物を詰めて無駄なく走らせることが可能だからです。

もちろん、運ぶ事それ自体も減らす努力が必要です。宅配便の中身は、遠くで採れて冷凍・冷蔵された魚介類やグルメ食品だったり、やがてはゴミになる雑貨や本屋でも注文出来る書籍の類だったりする訳です。店屋で注文して、1週間程度待てるなら、宅配便の規模など今の半分でも十分過ぎると思われます。「何が何でも翌日配達」という「わがまま」さえ諦めれば、トラックの台数は、もしかすると今の1/4程度まで減らしても問題なく機能すると思われるのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年12月11日 (火)

512 付加価値

モノの本質的な価値は、それを移動させるだけでは変わらない「はず」です。例えば食べ物、特にナマ物は、搬送によって痛みこそすれ、味が良くなるなどということはあり得ないわけです。しかし、産地と消費地が離れている場合、それを運ぶ事によって、産地より何倍も高い価格で取引される事はよくあることでもあります。それは、需要と供給の関係によって決まる、「市場価格」に支配されるからです。生産地(田舎)と消費地(都会)の役割分担が進んだ高度成長期以降は、運ぶ事が常態化し、むしろ必要な行動だとさえ思われるようになってしまいました。輸送量が増えた根本原因は、田舎はそのままで大量の人口だけが都市に移動したことでした。

その昔、モノを運ぶ行為はせいぜい町の郊外、あるいは村から町の中心部の市場まで農産物などを運び、同じ人が街から製品を持ち帰る程度の規模でした。やや規模の大きい都会と地方の町の間の輸送は、工業製品と米や魚などの主要な食糧の相互運送が殆どでした。その輸送手段は主に鉄道であり、従って運輸に関わるエネルギーの割合は、全体としてみれば十分に小さいものでした。(鉄道はトラックの1/10程度のエネルギー量で運送できます。)

しかし、いまや速く運ぶことがさも重要な価値であり、遠くで取れた鮮度が良い食物だけが値打ちがあり、待たせない事こそが顧客サービスだと思われているフシがあります。そうではなくて、運ばない事こそが価値であると考えるべきでしょう。野菜の鮮度は、地元の朝取りに限りますし、サバなども取れたてだと実は刺身にしてもイケル魚なのです。根が切られ、或いは死んだ魚は急速に細胞の劣化が進みます。その土地で取れたものだけが、真に価値のあるものだといえるでしょう。どうしても運ばなければならないものもあります。その場合は、安易に大きなエネルギーが必要である冷凍加工などせず、野菜や魚のうまみが増す保存の方法である、漬物や干物などに加工した上で、ゆっくりと「鉄道便」で運べば良いわけです。昔から伝えられている保存食の知恵こそが、食に関わる省エネルギーのツボだと断言できます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年12月10日 (月)

511 車を捨てる2

続きです。車を捨てれば良いことが沢山出てきます。懐が痛まないことは勿論、省エネルギーが達成でき、渋滞が緩和され、温暖化が減速し、街中の駐車スペースが有効利用でき、道路の維持費用が減り、体の抵抗力が増し、バイクで二人乗りをする場合は運転者と同乗者の仲がよくなります。

一方、交通事故はバイクの増加によってやや増えますが、接触など軽微なものがその中身になるでしょう。何しろバイクで事故を起こせば、運転者は確実に痛い目にあうので、歯止めは自動的に掛かるはずです。

道路族は多分猛烈に反対するでしょう。しかし、都市の高速道路や田舎の高速道路の整備をする前に、道路族がしなければならない仕事は山ほどあるはずです。例えば、踏み切りの立体化、国道の主要交差点の立体交差化、信号の連動化、老朽化した橋の補修、歩道の分離工事、電線の埋設などなど。高速道路を1m作るのにどの程度掛かるか知りませんが、名神高速道路ではたしか当時のお金で100万円でした。現在は、多分数百万円程度と想像していますが、土地の取得がもめている場合やトンネルを沢山掘る場合はその数倍掛かるでしょう。これだけのお金があれば、上に述べた一般道の改良工事などは安いもので、大幅に進めることができるはずです。信号渋滞が減り、一般国道の通行容量を道路改良により2-3割増やすことができれば、今以上の高速道路の延長など全く不要です。

高速道路の状態を眺めて見れば全く明らかですが、いまや高速道路はトラックに占領されています。夜間の鉄道や長距離フェリーを有効利用すれば、高速道路のトラックを大幅に減らすことができるはずです。いまのトラックの後ろの部分(アルミの箱のことです)を規格化して取り外し式にするだけで良いのです。これを鉄道貨車や専用フェリーに積んで運び、地方でトラックに載せ換えて配送する仕組みを作れば、高速道路さえ不要になるかも知れません。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2007年12月 9日 (日)

510 車を捨てる

朝寒く暗いので少し寝坊するために、今回から夜にアップする事にしました。従って、今日は2回目の投稿です。

社会の変質を嘆き、文句を並べているだけでは無責任というものです。ここでは車に着目して、環境問題を考えて、その解決の方向を提案して見ます。さて車ですが、昭和40年代後半あたりから、庶民の間では1000ccの大衆車かあまりお金の無い人は軽自動車を、一家に1台所有することがトレンドになりました。サラリーマンは長期のローン(当時は月賦と呼んでいました)組み、農家は米代金をそれに当てました。しかし車が増加すると困った問題も起きました。交通事故、道路の渋滞、沿線の騒音公害、排気ガスによる大気汚染・呼吸器疾病などなどです。その為、東京の都市高速や名神高速から始まった高速道路網の整備、車側では何度かの排出ガス規制の強化も行われてきました。

しかしここに来て、私たちは150円/ℓを大きく越えるガソリン価格、温暖化への歯止めが掛からないという二面楚歌に見舞われているわけです。しかし、日本ではまだ道路が足りないと、族議員や既得権のあるお役所や建設業界が合唱を繰り返しています。しかし地方に行ったときに、トンネルだらけで、しかも交通量も呆れるほど少ない高速道路を見るとき、果たしてどのくらいこの道路が「必要」だったのか考えさせられます。しかし道路は造っただけでは収まりません。道路の補修管理、雪国での除雪費用、トンネルや夜間の照明などなど、維持にも結構お金が掛かります。ここでの提案は、すっぱり車を捨ててみたらどうかという言うものです。

では明日からの通勤の足はどうするのかですが、通勤距離が10kmまでなら迷い無く自転車にしましょう。投稿者は35年間ほぼ10kmの距離を自転車通勤で走り切りました。おかげでメタボには無関係でしたし、裏道の交差点で先方の一旦停止違反が原因で数回車に接触して軽い怪我をした以外は、全く健康に暮してきました。もし距離が10km以上で自転車が無理そうだったら、50ccのバイクに乗り換えましょう。車は所有するだけでも、税金、保険、車検、維持費などなど年間20万円程度掛かり、加えて一回満タンにするだけで1万円のお金が飛んでいきます。しかしバイクであれば、ガソリン1㍑で50kmは走りますので、ガソリン代や保険料を入れても年間数万円の費用で済むでしょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

509 層状節理

近くの木曽川の河畔を毎週ジョギングしています。右岸には国道やJRが走りにぎやかですが、左岸の道は行き止まりになっていて、車も殆ど走らない約5km程度の道なので、走ったり歩いたりするには絶好の道となっています。

先日、河原に降りる道を見つけて、岩だらけの川べりを数キロ歩きました。この付近は「日本ライン」とも呼ばれる風光明媚な場所なので、休日には川下りの観光船が頻繁に下ってきます。ふと、足元の岩を見ると見事な層状の節理を見せていました。5cm程度の厚みで色が変わる地層が、長い時間の変性を受けて岩になったものですが、見事に層を成して積み重なっています。きれいに層を成しているという事は、その昔には海底であったわけで、その後どういう地殻の変動があったものか、今は河原に露出しているのです。想像するに海底の深い場所で変性を受けた堆積物が褶曲し隆起してせり上がり、河川の浸食を受けて現在の場所に露出したものだと思われます。泥が海底に堆積し、高い圧力を受けて岩になって隆起し、それが侵食されて今の場所に露出するまでに一体何億年くらいの時間が経過したのでしょうか。ところで、この場所から数キロ川を遡った場所には、立ち木がそのまま化石になった「珪化木」が見つかる河原がありますので、もしかするとこの場所は、海底ではなく湖底であったのかも知れません。

いずれにしても、この何の変哲もない岩を見て、人類や自分のちっぽけさ加減が身にしみて感じられるようになったのは、たぶん「お迎えが近いせい」なのだ、とも思った午後でした。とは言いながら、一度思い立ったからには、環境おじさんとしてあと10年くらいは頑張らねば、とも気を取り直しているこの頃です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年12月 8日 (土)

508 自家中毒

環境問題とは、結局は自家中毒の問題であるわけです。つまり人間が、自分(たち)が出し続けている害毒や廃熱で、自分自身が苦しむという構図をどう考えるかという、問題提起でもあるわけです。しかしながら、この問題がややこしいのは、便益を受けた側には被害が少なくて、殆ど恩恵を受けていない人たちが、より手ひどい仕打ちにあうことが多い点にあります。例えば、温帯や亜寒帯にすむ人たちが石油を多く使いその恩恵を受けている一方、その恩恵には無関係な南の国々の人たちが、海面上昇や強大な熱帯性低気圧で被害受ける事態、或いは全く便益を受けていない私たちの子孫が、将来害悪だけを受け継ぐという不公平を生む構造にあるわけです。

しかし、いずれにしてもその害悪を今の世代が受けるにせよ、将来世代が渋々引き受けるにせよ、自家中毒による被害が進むと、人命に関わる度合いがドンドン高くなることは間違いありません。毒物の毒性を評価するのに、動物実験の結果半数が死んでしまう値や、一定の%が命を失う濃度などを参照して致死量が決められます。しかし人命について言えば、たとえ1万人に1人の被害であっても、大問題にせざるを得ないわけです。この比率は、人口1億あまりの日本で、年間1万人程度の交通事故死が起こった時、「交通戦争」と呼ばれていた時代を思い出せば、それに近い数字なのです。温暖化が進み、酷暑や熱帯起源の疫病で、年間1万人程度が亡くなる時代になれば、その時は「環境戦争」と呼ばれるようになるのでしょうか。

この夏の酷暑で亡くなった人は、日本では直接的には数十人程度だと想像していますが、結局暑い(熱い)夏が越せなくて、持病を悪化させ間接的に亡くなった人をカウントすれば、この数十倍程度にはなるはずです。数字的に見れば、これは立派な「温暖化戦争」或いは「熱による自家中毒」の兆候であるとも言えるかもしれません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年12月 7日 (金)

507 噴火前夜?

環境問題に大きく関わるため、このブログでもお金=経済の問題を何度も取り上げています。今回も、相変わらずの素人経済学です。お金とは、「他人の時間を使う権利」だと以前に書きました。現代の経済社会では、金さえあればほぼ自由に他人の時間を使うことができます。直接的にお金で人を雇えば、契約した時間内であれば人をある条件下に「拘束」できます。そうでなくても、モノやサービスを購入するという行為を通してであれば、その商品製造の関わった作業者やサービス員の時間を買っているともいえるでしょう。

しかし、現物に裏打ちされたお金ではなく、債権や有価証券といった形で、紙の形になったとたん、(現金ではないので)もはや日本銀行ではその価値を保証してくれなくなり、リスクがグンと高まります。現代の社会は、安価なエネルギー源や地下資源を使って、実態としての工業生産や経済規模も拡大し続けてきました。しかし、その何倍もの規模で、お金や有価証券の世界も膨らまし続けてもきました。さながら、それは経済という巨大な人工の山を築いてきた行為だとも言えるでしょう。この山は、しかし死んだ山ではなく「活火山」なのです。常に熱く膨張し続けているのです。歴史的見れば、1929年に一度この山が噴火しました。多くの溶岩が流れ出し、世界の経済は壊滅的な被害を受けたのでした。2回の世界大戦で、エネルギーを使い果たしたこの火山は、しかし戦後文字通り爆発的に拡大を続け、1990年代の後半に2度目の大噴火の危機を迎えたのでした。日本でも直接的には土地バブルの崩壊ですが、そのあおりを受けて多くの金融機関が倒産し、あるいは血を流し、それは結果的にはアジア経済にも飛び火したのでした。

この時全世界的な噴火を辛うじて乗り越えた(と思わせた)のは、実は「更なる金融の流動化」という手法だったようです。米国のカリスマ連邦準備制度理事会(FRB)の議長G氏は、まさにその先鋒だったのです。しかし、ホンモノの火山からの連想で言えば、この金融の流動化こそが、今後大問題を起こしそうな雰囲気になってきました。制御を失い、極端に流動性が高まったマグマは、小さな割れ目からも大量に噴出して、一気に噴火(次の大恐慌)を引き起こす可能性を増加させつつあります。今は、大噴火前夜の「地鳴り状態」に過ぎない、と考えるのは果たして単なる投稿者だけの杞憂でしょうか。今話題になっているSPL問題は、次なる大噴火の前触れに過ぎないかもしれません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年12月 6日 (木)

506 優先順位

505で「絶対不可欠なもの」と書きましたが、実はその基準は人によって、また育った環境によりレベルが全く異なりますので、言いっぱなしでは無責任になります。例えば、日々の食糧に窮している国々では、何より飢えない程度の食糧確保が不可欠でしょうし、一方で飽食の国である日本では、主婦がスーパーマーケットに買出しに行き、子供を幼稚園に送り迎えするための小型車が絶対不可欠であると主張したりする訳です。

そこで、投稿者なりに、いま私たちが手にしているモノやエネルギーの不可欠度具合を定義してみたいと思います。ある時、いま手にしている道具や食べ物や着るものやエネルギーの古さ加減に注目したことがあります。つまり、それらが発明され、大量生産され、庶民が手にする事が出来るようになった年代を考えてみた訳です。車について言えば、ダイムラーベンツがそれを発明し、フォードが大量生産システムを考案した1900年代初頭がその時期ですし、テレビで言えば1950-60年代でしょうし、ラーメンで言えばインスタント食品化されて初めて毎日でも食べようと思えば食べられるようになったのでしょうし、化学繊維が大量に生産されるようになって、着るものの種類が爆発的に増えましたし、石油が安く・潤沢に手に入るようになったのは、日本が高度成長で外貨がドンドン稼げるようになった、ベトナム特需以降のはずです。

投稿者が言う優先度とは、これらモノや利便を古い順に並べて、古い順により高い優先度を付けていくという考え方です。乗り物の例で言えば、ガソリンがいまの2倍になったとき、日本では先ず手放すべきは車ですが、その場合、とりあえずはその少し前に庶民の足であったバイクや電車やバスに戻るべきでしょう。それも厳しくなったら、迷わず更に歴史が古い自転車に戻る必要があります。私たちが、手に入れてきたモノや利便を時代順に並べて見ると、生活スタイルの変遷の振り返りを含め、見えてくるものが必ずあるはずです。移動手段で言えば、徒歩>裸馬>馬車・牛車(ぎっしゃ)>自転車>鉄道>バス>原付自転車(バイク)>自動車>飛行機>ロケットなどと並べることができます。エネルギーが不足してきたとき、諦める順番はこれを逆に戻る方向になります。投稿者が航空・宇宙産業を最初に見限ったゆえんです。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2007年12月 5日 (水)

505 我慢より諦め

自分で書いておきながらこの言葉が結構気に入ったので、改めてタイトルにしてみました。数パーセントの省エネルギーや省資源に取り組むことは、少し我慢をして節約すれば比較的簡単に達成できるはずです。しかし、現実に目を向けると、この程度の節約では「焼け石に数滴の水」にも等しい努力に過ぎません。全世界で、現在のレベルの50%の資源・エネルギーの削減に成功しても、温暖化やその他の環境悪化には少し歯止め掛かる程度です。目に見える効果を得ようとすれば、多分今の1/4程度までにしなければならないでしょう。いま毎日行っていることを、4日に1回にせよと言われても、我慢だけでは到底実行できない事は明らかです。会社への通勤に車を使うことを4日に1回にし、その他の日は歩きか自転車にする。或いは毎日入っている風呂を、4日に1回に減らすことが、我慢だけでできるかどうか考えてみれば、無理なことは目に見えています。

しかし、我慢ではなく諦めればどうなるでしょう。アフリカに住む多くの人々は、飲み水を汲むためだけに頭にバケツを載せて、朝晩に井戸まで何キロも歩いて往復します。勿論、その水で風呂を沸かして毎日入浴できるはずもありません。諦めるどころか、多分「風呂」という言葉すら彼らの語彙に無いかも知れません。ましてや、車などは目にしたことはあるにしても、自分が所有して乗り回そうと考えるような乗り物ではないわけです。

日本で今消費しているガソリンや資源や材料の3/4をカットし、いま手に入る食料を半分に減らしても、生きていくには多分十分だと思います。というより、そう信じて、最初から無いと諦めて暮らせば何とかなる数字でもあります。事実私たちのご先祖、或いは今生きている高齢の人たちは、そのような生活をしていたはずですから、確実な実績もあります。人々にそこまで、諦めさせることができるかどうか、いよいよ環境おじさん・環境おばさん(達)の力が問われる時代にはなりました。数%程度の省エネ・省資源では、実質的にもほとんど意味がありません。「勿体無い」程度のささやかな節約ではなく、最初から無いものと諦めて、改めてゼロベースで絶対不可欠なものを考えて見る態度が必要です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年12月 4日 (火)

504 微環境

503で説明なく「微環境」という言葉を使いましたので、少し説明しておきます。これは投稿者が知る限り、学術用語でもなんでもなく、いまのところは投稿者の造語です。非常に狭い地域の気象を指して微気象などと表現することもありますので、それからの連想です。

さて微環境ですが、ここでの狭い範囲とは、精々人間の声が届く範囲程度をさすことにしましょう。つまりは半径数十メートル程度としておきます。その範囲内は、環境的には一つの均一な環境を形成していると考えても良さそうです。ここでいう環境のパラメータとは、例えば土壌の性質、地下水脈の様子、植物相、それに関わる動物相などです。勿論、微環境という意味においては、例えば道路などは非常に高い障壁になります。植物は、道路を越えて根を延ばすことはできませんし、飛べない小さな動物も移動は困難です。道路は、多くの場合土壌を掘り下げ、砂利や砕石を入れていたりするので、土壌の連続性も途切れていることも多いのです。

植物は、タンポポのように風で種を飛ばしたり、鳥に食べさせて遠くまで運ばせたりしますが、他の場所には、既に以前からその場所を占めている植物相・動物相が頑張っているので、新参者が入り込む余地はあまりありません。結果として、全く自然な状態では、植物や動物は複雑に入り組んだモザイク模様を形成しながら、微環境を形成することとなります。

微環境の特徴は、規模が小さいだけに短時間で破壊や改変を受けやすいという点です。道を通す、家や建物を作る、土地を造成する、農業を行う、排水路を掘る、木を伐採するなどの人間の行動で、殆ど瞬間的に環境が激変します。広い意味での環境の変化とは、このモザイク状の微環境が変わる事により、結果としてその地域、ひいては地球規模での「環境の色」が変わることを指します。これは、さながら新聞に印刷された写真は、虫眼鏡で見れば大きさや色が異なる点の集まりなのですが、引いて見ればやはり写真にしか見えない事と似ています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年12月 3日 (月)

503 インタラクション

全ての生き物は環境に依存しながらも、一方では逆に環境にも影響を与えてもいます。植物は、環境から太陽光や水や土壌の養分を貰いながら、一方では二酸化炭素を吸収し、酸素を吐き出し、動物には食物を与えてもいます。とはいいながら動物とても、環境や植物に一方的に依存をしてだけではありません。多くの「目には見えない動物」、例えばダニ類などは、動物や植物遺骸を完全に分解し、土壌に返して植物を育みます。サンゴ虫などは、サンゴ礁を形成しながら、海水中に溶け込んでいる二酸化炭素を固定して、せっせと石灰岩の元を作っています。

ただただ人間だけが、資源を掘り出し、エネルギーを湯水のように使い、汚染物質を増やしながら、地上に「はびこって」いるようにも見えます。人間が、自然環境に対して役に立つどんな事をしてきたかを考えるとき、忸怩たる気持ちになるのは、環境おじさんとしての投稿者だけではないと信じたいものです。

では、人間は自然とのインタラクションにおいて、いったいどのような役割を演ずることができるのでしょうか。投稿者としては、やや唐突ですが人間ができ得る最大の貢献は、たぶん植林という行動しかないのではないかと考えています。自然は放っておいても、自ら然るべくある姿に安定化します。しかし一方では人間活動が、絶え間なく自然に負荷を与え続けるため、自然環境は悪化する一方となっています。中でも最大最悪の環境破壊は、森林伐採であることは論を待ちません。それを回復させるための「樹種をよく吟味した植林」こそが、環境の悪化にブレーキを掛ける殆ど唯一の有効な手段だと思われます。樹種の吟味とは、その木がもし人間が植えなくともそこに存在したであろう2-3種類のものに限定されるということです。そうでなければ、植林の結果、木の周りの小さな環境(微環境)のバランスが乱されるからです。木はそれ自身で歩くことはできません。一方、生き物の中で、60億を超えた人間と、飼われている天文学的数の家畜こそが森林や草地を破壊し、自然を破壊した張本人だといえます。森林を復元するのは、私たち人類の最重要の義務だとさえ言えるでしょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年12月 2日 (日)

502 カタストロフィー

日本語では「破局」などと書かれます。今の経済状況は、カタストロフィー前夜ではないかと、明確に主張している経済学者もいますが、その点に関しては投稿者としても100%賛成しています。現在の社会は、環境問題の解決の目処も立たないまま、無理を重ねて経済規模だけを拡大し続け、国も企業も景気浮揚だけに腐心しているように見えるからです。風船が限度を超えて膨らみ続け、ついには破裂するように、あるいは下を見ないで木登りを続け、ふと下を見たとたんに恐怖に襲われる子供のように、今の経済はまったく脆く危うく見えます。

多くの国々が、安い工業製品を求め続けた結果、たとえば中国は汚染と産業廃棄物大国になりつつあります。かつて日本がそうであったように、海外の製造を「度を越えて引き受けた」国々には、モノを製造した結果として多量の産業廃棄物が蓄積されます。現代の中国では、その量が70億トンを超えた、という試算が最近発表されたほどです。日本の国内でも違法な産業廃棄物の投棄が問題になったりしますが、その量はせいぜい数万トン規模にとどまっています。中国が日本より20倍ほど広い国土を持っていても、その量が日本の何桁も多い廃棄物を上手く処理することは、全く絶望的です。しかたなく、次世代にそのまま負の遺産として残すのでしょう。

一方で、消費者はこの危機的な状況にも全く無関心に見えます。安い製品さえ手に入れれば満足で、どこでどんな汚染を出しながら製造されようが、それを使って廃棄するときどんな形のゴミになろうが、どこ吹く風です。温暖化や廃棄物の問題の深刻さを、マスコミが毎日のように報道するものですから、言葉としてはそれなりに認識し始めているものの、具体的な行動までには至っていません。だからこそ、国もたった6%のCO2削減にも四苦八苦しているわけです。まず必要なことは、全ての人が今の生活の危うさを認識することです。そうでなければ、本当に命に関わるほど環境悪化に直面してパニックに陥り、破局を迎えることにもなりかねません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年12月 1日 (土)

501 排出権買い

最近政府では、お金で海外からCO2排出権を買う検討が進められています。勿論、それを買うお金の出どこはといえば間違いなく私たちの血税です。全く情けない限りの後追い政策ではあります。たった6%削減だけというささやかな京都議定書の国際公約を、結局は自力での達成を諦めて、安易に金で買って決着を付ける方向に流されつつあるというわけです。しかし、この排出権を買う金をひねり出すためには、企業が努力し国民も残業してせっせと働き、外貨を稼いで税金を納めなければなりません。結果、産業におけるエネルギー消費=CO2排出が更に増えるという矛盾が生ずる事を誰も想像しないのでしょうか。例えば、企業が1億円の税金を納めるためには、その何十倍も売り上げなければならないわけですから、もしかすると海外から排出権を買った以上の量のCO2が排出されるかもしれません。

政府にはむしろ、国民を挙げて6%を上回る削減を達成し、逆に排出権を売るための方策を考え、それを実現に結びつける努力の音頭をとってほしいものです。その具体的アプローチは比較的単純で、このブログでも提案しているように、我慢による削減ではなく、諦めによる放棄しかないと思うのです。6%を我慢して削減するのではなく、6%は初めから無いものと諦め、使うことを考えないというアプローチです。その意味での努力は、省エネ努力は十分行っていると信じ込んでいる大企業でさえ、投稿者の目から見ればまだまだ絞り代は残っています。

6%を諦めさせるのに、炭素税などのムチで叩くか、あるいは何らかのインセンティブ(ご褒美)で誘導するかを決めることこそが、行政の裁量であるわけです。ねじれた国会の中で右往左往してうごめく人たちに中に、100年後のビジョンは無いと諦めるしかないのでしょうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2007年11月 | トップページ | 2008年1月 »