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2008年1月23日 (水)

555 時間

環境との関わりで、このブログでも「時間」について多くを書いてきましたが、時間に関しての最近の思いを書いてみます。お金とは、他人の時間を自由にする権利の事だと繰り返し書いています。もしこれがかなりの程度真理だとすれば、私たちはお金やモノや多くの利便を手に入れた代わりに、私たち自身の将来の時間だけに留まらず、私たちの子孫の時間までも先取りしてしまったのでないかと考え込んでしまうのです。普通の人たちが矢鱈と忙しく、何か強い飢餓感やあせりを感じてしまう現代の日常は、きっと何かが狂っているはずです。

投稿者は、それはお金やモノや利便性を手に入れた結果、時間を奪われた結果ではないか推定しています。逆にこれらを手放せば、失った時間が戻ってくるかも知れません。それをスローライフと誰かが呼ぶのなら、そのスローライフに少しでも近づけば良いはずです。しかし例えば利便性のシンボルとしての車を手放せば、自転車や公共交通機関を使うために大分早起きしなければならず、朝は逆にせわしくなるはずだ、との突っ込みが入るかもしれません。でも決してそうではなく早起きして、鳥の声に気がつき、駅まで歩いていく間に、家々の庭木や鉢花の変化に気がつき、毎朝道路を箒で掃いている近所のお年寄りと挨拶を交わすこと、何より車では感じられない空気の変化を肌で感ずることが、とりもなおさずスローライフそのものだと思うのです。

どうやら、私たちは高度成長期を通じて、なにか大きな間違いを犯してきたのではないかとの疑問を禁じえないのです。つまり、時間を惜しむあまり「過剰な利便性」を追求した結果、その代償として逆に自分達の時間を売り渡してしまったようなのです。悪魔にココロを売った人間が奈落に落ちていくように、利便と引き換えに時間を売った我々は、逆に時間の召使になり下がってしまったと言えるかも知れません。これが、自分の時間を約半分ほどは取り戻す事に成功した、と感じている投稿者の最近の思いです。

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