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2008年1月31日 (木)

563 生き物

生き物について改めて考えて見ます。確かに、原始地球は火の玉で、ろくな大気(つまりは酸素を含む大気です)も無かったため、燃え尽きることなく地上に降り注ぐ流星の攻撃に曝されていた「無機の地球」であったはずです。それが徐々に冷えていき、マグマの中から沁みだした水を湛えた原始海洋が生まれ、その中の有機物から原始生物らしきものが生まれ出たと想像できます。原始生物が離合集散を繰り返して光合成を行う藻類のようなものが生まれ、その中にミトコンドリアを取り込んで活発に活動するバクテリアが形成されたと思われます。

生物の偉大な「発明」は、太陽エネルギーを利用した炭素+水素(つまりは炭化水素)の固定装置としての葉緑素による光合成、細胞を複製させる仕掛けとしての遺伝子=RNA(&DNA)、植物が固定したエネルギーを動物が代謝して活動するための仕掛けとしてのATP(アデノシン3燐酸)サイクルだといえます。動物だけに関して言えば、多様性を確保するための有性生殖でしょうか。これらの優れた仕組みを活用しながら、生き物たちは、小惑星衝突などの幾度かの壊滅的な生物絶滅事件を乗り越えて、現在あるような多様な生物圏を確立したと言えるでしょう。遺伝子のもう一つの特徴は、一度出来上がれば変化しないのではなく、DNAの分裂や再合体などのタイミングで、多様に変化(進化)を重ねる点にあります。その為、最初は単純であった生物は数億年という歳月を経て、今日あるような複雑で多様な生物圏が出来上がってきたのでした。

しかしながら、私たち人類が知恵を絞って作り上げてきた科学・技術には、自動的な進化の仕組みは組み込まれていません。最初に作った人間と違う子孫が、改良を積み重ねて、今ある科学・技術とそこから生まれる工業製品を作り上げてきたのです。その科学・技術は、もはや革新的な改良は期待できず、いまや飽和の時期を迎えた、というのが投稿者の認識です。他方で、その進歩には環境悪化の面からも強いブレーキが掛かったとも言えるでしょう。やはり、良識ある科学者や技術者は、生物を見習いここらで一度立ち止まって、今後の人類の進むべき方向を見定める必要がありそうです。

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2008年1月30日 (水)

562 科学とは

少し前、ラジオで最近の「科学離れ」に関する特集番組を放送していました。日本の子供も大人も科学離れを起こして久しいのですが、番組のところどころだけを聴いて、投稿者なりに科学離れの原因を考えてみると、どうやら物質的満足度と、科学への興味は反比例の関係にあるような気がしてきました。科学への興味は、「好奇心」に裏打ちされていますので、物質的満足度によって、ヒトが本来持っているはずの好奇心が、ひどく弱められている可能性があるのです。モノが無い時代には、ただ我慢するか、あるいは自分で代用品を作るしかありませんでした。そこに工夫が生じ、一つの工夫は更なる工夫や新たな疑問点を生み出します。それはなぜなのか、どうすればそれができるのか、そしてそのやり方では誰がやっても同じ結果になるのか、などなど。自然現象に対する疑問と、それに対する筋道をたてた答えを見出す課程こそが科学なのだと思います。

さて、科学を私たちの生活を向上させる「手段」としてみては道を誤ります。科学とは、その全体を理解することは人間には到底無理であり、森羅万象を覗き見る「小さな窓」に過ぎないと思うからです。科学の時代(20世紀のことです)といわれるようになって久しいのですが、いまだに人間自身の体ひとつとっても分からないことだらけです。なぜ病気になるのか、なぜプラシーボ(偽薬)が実際に効くのか、なぜ老化には個人差があるのか、なぜ寿命があるのか、なぜなぜ・・・・。ましてや、自然現象や宇宙の出来事に至っては、殆ど無知といっても良い状態です。だからこそ、温暖化の問題ひとつとっても、科学的な原因と社会的な対策を議論しても、明確な結論が出せないのです。科学という小さな窓から覗いた群集が、中にいたのはゾウなのか、カバなのか、巨大なヘビだったのか、それとも全く未知のエイリアンだったのか、判断ができないのが現状だといえます。

その意味で、温暖化や環境問題が科学で解決可能か、と問われれば、投稿者としては即座に「否」と言うしかないのです。さらに言えば、今の科学では人間の欲望の制御すらできない事でその一部を説明できるかも知れません。今のところ、人間の欲望の制御に成功しているのは、ごく一部の宗教に過ぎないこともまた事実なのです。その話をしだすと、またまた投稿者の考えも哲学的な迷路に入ってしまうのですが・・・。

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2008年1月29日 (火)

561 金ゴミ

お金が余っています。行き場を失ったオイルマネーやファンドマネーが、自己増殖の獲物を求めて、土地バブル、ITバブル、サブプライム、穀物、石油、金、宝石、レアアースなどなどへ、次々と流れ込んで行きます。投稿者は、無くても良いものをゴミと呼んでいますが、その意味で実態経済を超えてダブついているお金は、いわば「金ゴミ」だといえます。ゴミは常に厄介者ですが、金ゴミはもっと厄介です。つまり、お金には持ち主のハンコが押されていないので、主が代わればその金がどのような道筋を通ってきたかは無関係となりますので、自動的にロンダリングされ続けている「媒体」だといえるでしょう。しかも、普通の人には必要なお金と、金ゴミは区別がつきませんから、金ゴミをそれとは意識しないで、後生大事に抱え込む人も多いと想像されます。墓の中にまで持っていけないはずのお金を、それもその人が生きている間には絶対に使いきれない額のお金を、タンスや貸し金庫や天井裏に隠しているお金持ちもきっと多いのでしょう。

その人が、その人自身の時間を使って、まっとうな労働で得たものではない、株や投資や土地売買で得たあぶく銭は、何度も書くように、誰かの時間を搾取して得たものにほぼ間違いありません。働かずに儲けたお金の裏には、同じ額を失ったか取られた人が必ず居るはずです。もし、そんな犠牲無しにお金を儲けたと言い張るなら、それは、本来は未来世代が受け取るべきお金を先取りしたに違いありません。アラブの石油王は、間違いなく未来に引き継ぐべき石油資源を、今掘り出してお金を得ている先取り人間たちだと言えるでしょう。

さて金ゴミですが、このゴミを減らすのはかなり骨が折れる話になります。何故なら、これは社会の経済活動に伴って発生する、本当のゴミに比例して増え続ける性質があるからです。石油を掘りそれを燃やしても、地下資源を掘り出して製品を作っても、元々値段がない土地を地ならしして値段を付けて売り買いしても、会社価値に株価という値段を付けて売り買いしても、何をしてもますます増え続けるゴミなのです。つまりは、経済活動のレベルを下げて、実際のゴミを減らさない限り金ゴミも決して減る事は無いのかもしれません。このゴミが劇的に減るのは、世の中のバブルというバブル全て弾けて、金ゴミがただの紙切れになった時なのでしょう。そのときには、石油が買えずに寒さに耐え切れなくなった人々は、仕方がないので紙くずになったお札を焚き付けにして焚き火をするしかないでしょう。

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2008年1月28日 (月)

560 利便∝豊かさ?

便利であることと豊かであることは比例すると考えている人が大半だと思います。コンビニに飛び込めば、日常必要な殆どのものが手に入り、お金の払い込みやATMやチケット予約や宅急便を送るなどのサービスもその種類がますます拡充しています。しかし豊かに商品が揃っているコンビニから食べ物を買ってきて、貧しく偏った食生活を重ねている若者も多いだろうと容易に想像できます。お金さえ出せば、和洋中印と選択に困るほどの食べ物が入手できます。しかし一方では、嗜好が偏り同じものを食べ続ける「ばっかり食べ」が蔓延したりもします。余談ですが、大リーグに行った某有名野球選手は、昼食に毎日まいにちハヤシライスを食べるとか、やはりこのパターンにハマッているのかもしれません。

ここでもう一度書いておきたいのですが、利便を追及するほど私たちの生活の質は貧しくなるのだ、という事を再認識する必要があります。私たちは、利便を求めて車を多用し、電化製品に囲まれ、計画も無しにコンビニやネットで買い物をしますが、代償としてその利便を得るために自分の時間を売り払い、環境を悪化させ、人間関係を貧しくし、ギスギスした社会に邁進してしまう愚は、ここらでそろそろ打ち止めにしたいものです。

その意味では、私たちは本当の豊かさを定義し直す「豊かさ学」を打ち立てる必要がありそうです。豊かさ学を教える先生としては、田舎でゆったりと暮らしてきた、いま70代以上になっているおじい、おばあ達が最適でしょう。田舎に住んで、本当の豊かさを知り抜いている彼らだからこそ、都会の息子や娘達がいくら一緒に住もうと声を掛けても、自分たちが生まれ、あるいは嫁ぎ、そこで生活をしてきた豊かな田舎暮らしを捨てることなどは、夢にも考えられないのだと想像しています。利便やモノの追求は、更なる利便やモノへの飢餓感を招き、結果としては公害や地球規模の環境の悪化も招いてきた事は、私たちは20世紀を通じて既に十分に学んできたはずです。問題は、モノの豊かさをまだ知らない数多くの途上国の存在ですが、先ずは先進国と呼ばれる日本を含む国々が、モノに依存しない新しい豊かさ学を確立して、その範を示す必要があります。その意味では、物に神が宿るとする(必ずしも宗教として位置づける必要もないのですが)神道とアジアから生まれた仏教や、信長時代にはキリストさんに至るまで、見事に融合させた日本こそ、その先頭に立つ資格を兼ね備えている国だといえるかも知れません。

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2008年1月27日 (日)

559 圏外投棄

温暖化問題に限らず、環境問題は全てゴミが原因だと、このブログでも繰り返し書いています。人間が住む社会は、よほどの未開の地で無い限り、自然を一度破壊し、再度人間に都合よく作り直した環境でもあります。そこでは、人間の役に立たないものは「厄介者」であり、排除すべき対象でした。例え、それが自然環境の維持にどれほど有用であっても、です。ダニやゴキブリやバクテリアやミミズやオケラなどは、全く無視されるか、多くの場合は故なく「迫害」されてきました。これの生き物を、人間以外は精々ペット程度しか住むことを許さない人工環境から締め出すために、川には護岸を張り、道路を農道まで含めてほぼ完全に舗装し、コンクリートで建物を作り、庭や田畑には殺虫剤を撒き散らしながらシャットアウトしてきたわけです。しかし、一方でゴミ(気体ゴミ=排気ガス、液体ゴミ=廃水・下水、固体ゴミ=廃材・ゴミ・焼却灰など)は、やはりこれも人間にとっては厄介者なので、人工環境の圏外へ投棄し、その最終的な分解や無害化を、自然環境側に押し付けてきたのだといえます。最近のニュースでも報じられているように、世界各地では温暖化を問題とする以前に、いまだに固体ゴミの問題が取りざたされています。ごく最近のニュースになっただけでも、フィリピン、台湾、イタリア、アルゼンチンなどなどが挙げられます。日本とて例外ではありません。ゴミの処分場が満杯だという問題は、自治体によっては今日明日の問題として非常に逼迫しているのです。これは、野放図な「圏外投棄」のしっぺ返しだと言っても良いでしょう。つまり、ゴミは自分達の目につかないところに放り出せば良い、という自己チュー行動の結果なのです。何度摘発されても、不法投棄は無くなるどころか、今も頻繁に発生し続け、悪徳業者と取締り側のイタチごっこが繰り返されています。

ゴミは見えない場所(圏外)にポイッと捨ててはいけないのです。ゴミを目の前に広げてしみじみと眺め、自分たちが住む圏内で何かに使いまわすことを考え出さなくてはいけません。もし、それが圏内で処理不能なら、圏外から今以上のゴミの原因(つまりは商品などのモノや余計な資源)を入れない工夫が必要なのだと考え直すべきでしょう。

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2008年1月26日 (土)

558 環境技術立国?

日本は環境技術で世界に貢献するのがどうやら今後の方向らしいです。政府のリーダーもその様に申して居るようです。しかし彼らの頭の中にあるのは、世界に冠たる省エネ・省資源技術とか言うものかも知れませんが、現実はといえば、過去に何とか公害を軽減した「公害対策技術」や太陽電池技術程度なのです。確かに日本は60年代から70年代に掛けて公害に苦しみ、それを何とかくコントロールできる技術は蓄積して来ました。その意味では、公害に悩み始めた中国を始めとする途上国に対して「公害」の悲惨な経験を伝え「公害防止技術」を売る事は可能だと思います。当面の洞爺湖サミットで、この底の浅い「公害防止技術」などで、他の国に評価されるかどうかは分かりませんが、少なくとも今後リーダーシップを取り続けることが出来るはずはありません。

日本には環境問題克服後に着地すべき、持続可能な産業のビジョンとそれをサポートする技術は決して育っていないのです。必要な環境技術とは、何度もなんども書いているように「持続可能な産業」に寄与する技術なのです。そのためには、持続可能に供給できる原料と同じく持続可能なエネルギーを探さなければなりません。先ず原料ですが、私たちは地下ではなく地上でそれを手に入れなければなりません。しかも、その原料は来年も十年後も百年後も持続的に入手できる必要もあります。たとえば、私たちの祖先は山の木を切って利用する一方、例えば50年後の子孫の繁栄を考えて植林を続けました。ほぼC・H・O+Nからなる植物体(バイオマス)がその最有力候補ですが、その利用技術はまだまだ寂しいレベルに留まっています。国や企業で燃料電池の開発に当たっている研究者の例え1割でもこちらに振り向けて欲しいものです。

ついで、持続可能なエネルギー源を確保する必要があります。太陽光が唯一で最大の候補ですが、それが弱くなる冬場や曇りや雨の日の、上手いバックアップ方法を編み出す必要があります。太陽光発電だけで解決できるはずもありません。電力を夜間にも使うためには、安価で無害で効率的なバッテリーの開発が必須です。熱の用途には太陽熱を直接利用する技術が必要です。この面でも、ハイブリッド車で先行するT社と家電やIT用に小型バッテリーの技術を持っている家電メーカーには大いに期待したいのです。当面はあまり儲からなくても、です。以上が投稿者の考える「本当の環境技術」の中身です。

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2008年1月25日 (金)

557 ポスト車社会

ダイムラーベンツがガソリン自動車を発明して以降、20世紀を通じて世界は急速に車社会へ移行してきたわけです。車造りは、J.フォードの流れ作業から始まり、T社のカンバン方式に至って一つの爛熟期を迎えたのだといえます。しかし、この車社会は燃料の面、資源の面、環境悪化の面から、ほぼ同時に「持続可能ではない」との3枚のイエローカードを受け取っています。サッカー競技では、当然退場を願わなければならない状況ですが、しかし車産業とそれを支える諸産業が退場したら、特に日本ではそれに代わるプレイヤーがいないことも事実です。これらが退場すれば、日本として輸出するものが無くなり、燃料も食糧も輸入できない事態にもなり兼ねません。このままでは環境的に行き詰る、かといってそれをやめれば食えなくなる、という状況を打開する方法は一体見つかるのでしょうか。

投稿者としての提案は、先ず農林水産業を自立可能な生業(なりわいであり産業ではありません)として柱をしっかりと立て、その上でポスト車産業として「持続可能な新しい産業」を打ち立てる必要がある、というものです。安い高いで判断し、安易に安い外材や輸入食糧に飛びつくという、「商社マン的な価値判断」はもうやめにする必要があります。では、ポスト車に位置づけられる産業とはどんなものになるのでしょうか。その例を挙げるなら、それは再生可能なエネルギー源や資源を利用した、エネルギー産業、製造業ということになります。火力発電所や原子力発電所の替わりに、太陽光、太陽熱、風力、小型水力、バイオマス、潮汐など多様なパワーを利用した発電とそれに関わる裾野産業、さらには海水からの有用元素分離や廃棄物からの有用物回収、或いは持続可能なレベルでのバイオマスを原料とする化学産業などが有力候補となるでしょう。

さて身の周りを見回して、有望な資源を探すとするなら、それは住宅の屋根であると指摘しておきます。日本は狭い国土でありながら、都市の中心を除けば高層住宅は結構少なく、郊外ではかつては優良な農地であった土地をつぶして戸建ての住宅が散在しています。1.2億人もの人が住むためにはこれは仕方が無いことかもしれませんが、一方その屋根は殆どといって良いほど利用されていないことに気が付きます。現状はといえば、僅かに10軒に1-2軒が太陽熱温水器を載せ、200戸に1戸ほどが太陽光発電システムを載せているに過ぎません。続きます。

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2008年1月24日 (木)

556 時間泥棒

続きです。M.エンデのモモではありませんが、「時間泥棒」という言葉が以前から気に掛かっています。この話題に深く入ると複雑な迷路か袋小路に入るだろうことは目に見えているのですが、ともかくも書き進めて見ます。さて、20世紀には鉄道や船や車や航空機の技術的進歩に加え、各種の電化製品の発明によって便利になり、「時間も節約できるようになったはず」でした。確かに、1ヶ月も掛かっていた五十三次の「旅」が、新幹線での数時間の「旅行」で済む時代になりました。ところでそれで節約できた時間の使い道について問われれば、多くの人は答えに窮するのではないでしょうか。何故なら、生まれた時間は、旅行代金や諸々のモノを買うためのお金を稼ぐため、企業に売り渡しているはずだからです。利便を手に入れ、時間を稼ぐために自分の時間を売る、という矛盾に私たちは早く気が付くべきでしょう。これは意味の上からは「時間泥棒」ではありませんが、わざわざ時間をドブに捨てるような行為だといえないでしょうか。

便利であると言う理由で都会に住み、2時間も掛けて通勤し、お金のために残業し、品数は揃っているがバカ高い食料品を買い、高くて狭い住まいを手に入れて、電化製品に囲まれて更に狭くなったスペースで暮らし、高い光熱費を払い、そのストレスから逃れるために休日には郊外や田舎に車を走らせる生活。これが、利便の代償として、自分の時間をドブに捨てた結末だといえます。

そうではなくて、私たちは自分自身の時間を、この手に取り戻す必要があると思うのです。話は簡単です。お金から出来るだけ距離を置くだけでよいのです。お金が無ければ、自分のために体を動かして行動する必要があります。田舎に住んで、地続きの田畑を耕して自分達が食べるだけの食糧を育て、里山を整理して出る松葉や薪を燃やすカマドで煮炊きをし、屋根に載せた太陽熱温水器で風呂を沸かし、野山で山菜摘みを趣味とし、近所の人としばしば持ち寄りパーティを開き、お金は無いがストレスも無い生活ができれば、自分の時間はほぼ全て自分の物にできることでしょう。ここでの結論としては、高度成長期から始まった、都会への大移動の流れを幾らかでも元に戻す努力が必要な時代だというものです。いわゆる地方の活性化は、人口の逆流以外の方法では実現できません。

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2008年1月23日 (水)

555 時間

環境との関わりで、このブログでも「時間」について多くを書いてきましたが、時間に関しての最近の思いを書いてみます。お金とは、他人の時間を自由にする権利の事だと繰り返し書いています。もしこれがかなりの程度真理だとすれば、私たちはお金やモノや多くの利便を手に入れた代わりに、私たち自身の将来の時間だけに留まらず、私たちの子孫の時間までも先取りしてしまったのでないかと考え込んでしまうのです。普通の人たちが矢鱈と忙しく、何か強い飢餓感やあせりを感じてしまう現代の日常は、きっと何かが狂っているはずです。

投稿者は、それはお金やモノや利便性を手に入れた結果、時間を奪われた結果ではないか推定しています。逆にこれらを手放せば、失った時間が戻ってくるかも知れません。それをスローライフと誰かが呼ぶのなら、そのスローライフに少しでも近づけば良いはずです。しかし例えば利便性のシンボルとしての車を手放せば、自転車や公共交通機関を使うために大分早起きしなければならず、朝は逆にせわしくなるはずだ、との突っ込みが入るかもしれません。でも決してそうではなく早起きして、鳥の声に気がつき、駅まで歩いていく間に、家々の庭木や鉢花の変化に気がつき、毎朝道路を箒で掃いている近所のお年寄りと挨拶を交わすこと、何より車では感じられない空気の変化を肌で感ずることが、とりもなおさずスローライフそのものだと思うのです。

どうやら、私たちは高度成長期を通じて、なにか大きな間違いを犯してきたのではないかとの疑問を禁じえないのです。つまり、時間を惜しむあまり「過剰な利便性」を追求した結果、その代償として逆に自分達の時間を売り渡してしまったようなのです。悪魔にココロを売った人間が奈落に落ちていくように、利便と引き換えに時間を売った我々は、逆に時間の召使になり下がってしまったと言えるかも知れません。これが、自分の時間を約半分ほどは取り戻す事に成功した、と感じている投稿者の最近の思いです。

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2008年1月22日 (火)

554 猿尾

川の流れを緩め、船着場などとして利用するために、昔の人は天然の岩を利用したり、手頃な岩を幾つか沈めたりして、20-30mほど長さの入り江を形成する「猿尾」を作りました。猿尾とは、水中に岩を並べた形が、なにやらサルの尻尾に似ている故の呼び名でしょうが、もっとも日本ザルにはそんなに長い立派な尾はありませんので、この呼び名は中国あたりから伝わった古い表現かも知れません。毎週ジョギングする木曽川の両岸にも幾つかの猿尾が作られており、鵜飼船や川下り舟の船着場にもなっています。さてその猿尾の中は、この寒い時期にはカモたちの格好の休み場所にもなっています。長年の技術者暮らしで、鉄やアルミばかりを見ていましたので、バードウォッチングなどの「柔らかい趣味」とて持ち合わせていませんでしたので、猿尾に憩っているカモたちが、マガモなのかカルガモなのかそれともガンなのか、残念ながら特定できませんが、いずれにしてもそこで冬越しをするようなのです。

しかし観察していても、水に潜って魚(か水草か何かのエサ)を採る様子もありませんし、単に浮かんで時々少し泳いでいるだけのように見えます。不思議なのは、彼らが一体何を食べてあと数ヶ月の冬場をしのぐのかという事です。アイガモ農法という自然農法があって、カモたちは水田の草を好んで食べる様ですので、猿尾に浮かぶカモたちも時々流れてくる草を食べているのかも知れませんが、それにしてもこの寒空にそれほど多くの草が流れてくるとも思えません。

ここが自然の仕組みの偉大さなのだとしみじみ思います。つまり、殆ど生物の生存は、100%太陽光に依存していますが、その太陽光が弱くなる冬場には、自然の成り行きとして、生命活動のレベルは低下させざるを得ないわけです。ある種の生き物は休眠(冬眠)し、また別の種は、種子や卵の状態で冬越しをします。少し智恵のある生き物は食べ物を洞穴にストックし、別の生き物は秋の間に食べられるだけ食べて体の中に脂肪を溜め込みます。上のカモたちも、きっと体の基礎代謝レベルを大幅に下げ、殆どエサをとらなくても春まで生き延びる術を手に入れているのだと想像しています。冬の寒さに耐え切れず火を焚かなくては生きていけないか弱い人間に比べれば、自然の中で生きている生き物たちの逞しさには、いつもながら感心するばかりです。

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2008年1月21日 (月)

553 自己複製

552のようなわけで、投稿者には最早無機質な工場への興味は失せてしまいました。一方で、自然の仕組みは実に巧妙で美しくも偉大である事に感動しっぱなしです。何しろそれは「地球環境様」が何億年も掛けて開発し、日々改良し続けてきたほぼ完璧な仕組み(システム)なのですから、人間の浅知恵程度では毛ほども文句も付けようがありませんし、勿論それを真似することすら出来ません。精々私たちに出来るのは、その仕組みを利用して農業、科学などという単純な自然の真似事を営む程度です。自然の仕組みの中でも、常に感動させられるのは、生物の「自己複製」のカラクリです。DNAを発見してノーベル賞を貰ったクリックさんたちでさえ、その偉大な仕組みのホンの入り口を発見したに過ぎません。神が存在するとするなら、これらの仕組みを作り、現在でも進化させ続けている環境それ自体であると言っても良いでしょう。その意味で、あらゆる自然物に神が宿るという伝統的な日本の宗教観は、全くエコロジカルなものであるといえます。

さてその自己複製の話です。ロボットに自己複製ができるかと問われれば、間違いなくNOでしょう。何故なら、ロボットの部品は、モーター工場やギヤ工場やバッテリー工場やネジ工場で作られた部品を寄せ集めて組み立てられます。つまり、ロボットに自分と同じロボットを「組み立てる」事は可能でしょうが、ロボットの中に何種類もの部品工場を作りこむことは出来ない相談です。

しかし、生物はそれを苦も無くこなしてしまいます。どんな単純な生物でも、何の問題もなく自己複製を日常的に行っています。小さな生物ほどその複製のスピードは恐るべきもので、適度な温度と増殖のためのエネルギー(エサ)さえあれば、数時間で爆発的に増殖してしまいます。日常的にも、プランクトンの異常発生(赤潮)や、大量のユスリカやカゲロウの乱舞、エチゼンクラゲの大量発生、遠くはアフリカなどでのイナゴの大移動などなど、多くの例を見聞きしているはずです。一方で、自然の自己増殖の仕組みには、それを抑制する仕組みも内在しています。多くの場合、増殖のためのエネルギー(エサ)あるいは季節変化などになっています。異常増殖した種は、今度は短期間の内にエサ不足や低温状態に陥り、大量死を迎える事になります。その意味では60数億に増えてしまった人間だけが、今の所ひどい大量死を免れているようにも見えますが、それは曲りなりにも、多量の地下資源を使って食糧とエネルギーの供給が続いているからに過ぎないのだ、ともいえそうです。

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2008年1月20日 (日)

552 自動化考

この項も「元技術屋の技術批判」のようなものです。どこの工場でもコストを下げるために、自動化率の向上に必死です。がしかし、その中身を見るとがっかりします。何故か。実態は、人々がロボットやベルトコンベアにこき使われているからです。ロボットは、教えられた通りに同じ作業を、結構正確に繰り返すことが得意です。しかし、残念ながら「段取りロボット」はまだ完成していないのです。段取りとは、作業前の準備のことですが、今は仕方がない無いので人間がロボットのために「お膳立て」をしてやっているわけです。例えば、ロボットが掴みやすいように部品の向きや間隔を揃えた文字通りのお膳(パレット)を準備し、ロボット様に食べてもらいます。しかも部品が無くなる前に、人間が次のお膳を準備させていただいているという次第です。

自動化の必然性は、企業側に言わせれば、大量生産とコスト削減です。繰り返しの作業には、確かに人間よりロボットに一日の長があります。ロボットは人間と違って疲れないし、繰り返しの精度も作業によっては大いに高いはずです。しかし、状況に応じた判断力や工夫や予測や手加減や指先の微妙な感触による微調整や直感など、多くの複雑な能力を併せ持つ人間の能力を殆ど殺してしまい、自動化を進めた弊害が今多くの企業で表面化し始めています。自動化設備は、一度設置されると、それを設計製作した人たちが試運転をし、ユーザー側に引き渡しをした後は、工場のオペレータたちにとっては「ブラックボックス」になってしまいます。スイッチを入れ、製品の流れるスピードをセットし、材料や原料をお膳立てさえしてやれば、設備の出口からは製品が出てくるでしょう。しかし、このような工場の中に最早「技」や「技量」の向上の入り込む余地は残っていません。つまり、自動化の最大の弊害は、人の無能力化という皮肉な結果なのです。品質ISOでマニュアルを整備し、自動化設備でもの造りを行っている企業に、最早技術の改良や技量の面での進歩は期待できません。これが「技術の退歩現象」であり、いま日本の多くの企業を蝕んでいる病巣だと言っておきます。

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2008年1月19日 (土)

551 お金と環境問題

何度も書いていますがお金や技術で環境問題は解決できません。何故なら、お金こそ環境問題の元凶だからです。本当にそうなのか、幾つかの例で検証してみましょう。人間が自然の与える資源やエネルギーだけで暮らしていた頃(日本では江戸時代までになりますが)、経済規模は人間一人ひとりが働き、稼ぐお金の総和にほぼ等しかったはずです。しかし、地下から資源や化石エネルギーを掘り出し、工業的に大量生産ができるようになった時代(つまりは産業革命以後ですが)その経済規模は、掘り出した資源やエネルギーの量に比例して、急速に拡大してきたのでした。勿論、一方では、資源の精製後の廃棄物や化石エネルギーの燃焼などにより、環境負荷も増大の一途を辿ってもきました。結果として、現代の社会で動いているお金の量を考えて見れば、60数億人の人類が(人力で)稼ぐ場合に比べれば、数桁違いの通貨量となっているはずです。

お金をかければ環境問題が少しは解決するのでしょうか。答えは間違いなく「No」です。例として、いま使っている設備や製品を省エネルギー型に転換していく場合を考えて見ましょう。設備について言えば、効率80%のボイラーを90%のボイラーに交換すれば、その後のエネルギーは1割程度は削減できる計算になります。しかし、一方では、古いボイラーを撤去し、解体し、廃棄物を処理するエネルギーや新しいボイラーを製作するための資源を掘り出し、製造し設置するエネルギーの総和を計算して見ると、省エネルギー分で使ったエネルギーを回収するまでには、何年も掛かってしまう計算になります。省エネルギー効果が出る前に、先ず大量のエネルギーを消費してしまうので、瞬間的には環境負荷がドンと上昇してしまう事にもなります。経済的に見れば、確かに省エネルギーによりお金は回収できても、逆に資源やエネルギーの消費、つまりは環境負荷が増えてしまう結果になってしまいます。経済的メリットとライフサイクルでの環境負荷軽減は両立できない場合も多いのです。

同様に日本が持つといわれる環境技術(でも一体どんな素晴らしい技術があると言うのでしょう?)で、途上国の省エネルギーや省資源にも貢献する、というプロパガンダも、結局は効率の良いマシな設備を売りつける行為と何も変わらない結果になるでしょう。逆説的ですが、どうやら経済規模を縮小する以外に有効な環境対策はあり得ないという結論になりそうです。

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2008年1月18日 (金)

550 休題(人生の棚卸)

以前に、エネルギーや資源の棚卸というテーマで何コラムか書きました。「棚卸」とは、日頃目の届かない倉庫の棚の在庫を全て広げ、帳簿と突き合わせ直す作業を指しますが、投稿者はこれをエネルギーや工場に投入される資源まで拡張してみた訳です。ここでは、更にそれを人生にまで広げてみましょうという提案です。

人間は、親から貰った肉体や基本的な性格以外は、全てそれまでの経験の積み重ねで成り立っていると言い切っても良いでしょう。人は、天才でもない限り学校で勉強したり、自分で本やメディアで見聞きしたり、自分の体で経験した範囲より賢くはなれません。そうであれば、幾つかの人生のポイントで、これら自分中に蓄積された知識や経験の棚卸を実行して見るのも有意義な事かもしれません。実際に、投稿者も50歳前後にこれをやってみました。その結果、自分の人生の棚の殆ど全て(通算35年)が「技術屋」経験に占領されている事に気がつきました。投稿者が勝手に定義しているように、科学が森羅万象を観察する「窓」であるとするなら、技術とはその森羅万象のうち、人間に都合の良い部分を、都合の良いように利用する技であるわけです。それは間接的ですが証明できます。例えば、土の中に住むミミズやオケラやモグラたちが健康に暮らせる技術を開発した農業技術者の話は聞きませんし、ましてや、やがて食肉になる家畜や本来の「意志」にも関わらず勝手に品種を改変され、人間に飼われているペットが快適に、嬉々として暮らせるような製品や技術が発明されたという話も聞きません。

そこに気がついて、改めて自分の人生の棚卸を行った結果、少なくとも自分自身は、科学や技術から足を洗わざるを得ないとの結論に至ったというわけです。しかしヤドカリではありませんが、いざ技術屋という殻を脱ぎ捨てるには、新たな住処が必要であることは、人間を50年もやっていると痛いほど分かるので、まずそこから探し始めたのでした。幸いにも、環境屋(環境カウンセラー)という新たな殻があることを見出し、そこから数年掛けての脱皮を決行したという次第です。

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2008年1月17日 (木)

549 休題(自分探し)

マスコミや本などで「自分探し」などというKWが氾濫しています。しかし、何もわざわざ探さなくても自分は自分だ、と何故考えられないのか不思議です。「別の自分」が何処に転がっているはずもなく、今息をして体温を維持している肉体とその上に載っている頭があり、目という窓を通して外界を認識して、あれこれと考えているのが自分自身であり、それ以外の何者でもないはずです。それを改めて探さなければならないのは、むしろ自分を見失っているか、或いは自信が持てない結果、どこかに「もっとマシな自分」が居るのではないかという「妙な期待」をする風潮が蔓延しているのかも知れません。

そうではなくて、もし探すとすればそれは「自分の穴」ではないかと思っています。人間は自分の穴に入っている時が一番安心でき、心が休まるはずです。穴という言葉がぴったり来ないのであれば、自分の居場所と言い換えても良いでしょう。例えば、普通のサラリーマンは、会社で自分の居場所を得て、それなりに安定的な仕事が可能となる事でしょう。しかし、元々職人肌の人が、企業で人に囲まれていると、多分居心地も悪く力も発揮できない事になります。とは言いながら、現代では2/3もの人たちが、サービス業に従事し人に接する仕事をしています。これらの仕事に馴染まないと感じている人たちの中に、ココロの病が蔓延しているのは故無き事ではないはずです。彼らには、作業机に座ってコツコツとモノを作る仕事や、植物に向き合う農林業が向いている可能性が大なのです。それが彼らの穴であり居場所であるはずです。

これは実は「環境カウンセラー」という穴を探り当てた投稿者の実感でもあります。自分にピッタリの穴が見つかったとして、もしそれで十分にメシが食えなくとも、ココロ豊かにさえ暮らせれば、それはそれで十分幸せなのではないでしょうか。先ずは、これまでの人生を振り返って、自分の履歴書を書き、本当は何がしたかったのか、それが出来る穴はどうすれば見つかるのかじっくりと考えて見れば、より住み易い穴が見えてくるはずです。見つかったと思った穴が窮屈であることが分かったら、ヤドカリの様に移動すれば良いのではないでしょうか。続きます。

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2008年1月16日 (水)

548 ロボコンよりエコラン

最初に断っておきますが、これは決してロボコン批判ではなく、一つの提言です。投稿者は寒い地方に生まれ、地元の高専を卒業したので、高専ロボコンはそれなりに参加者側に立って見守ってきました。ものづくりに興味が持てない若者が多くなっている昨今、若い技術者のヒヨコがものづくりに熱中する姿は、メカ少年でもあった投稿者には本当にほほえましく感じられます。しかし、これも度が過ぎると、単なるメカオタクを作ってしまうのではないかと危惧してしまいます。ロボットは、産業用に本格的に導入されて(車ボディーのスポット溶接と塗装用など)既に40年ほど経過していますが、一方で40年も経って21世紀になっても、手塚治虫が予言したロボットは、影も形もないわけです。その最大の原因は、手で持てるくらいのコンパクトなパワーパック(動力源)の実現が全く見えていないことです。手塚は超小型原子炉を想像しましたが、しかし現実には、それでなくとも危ない放射能を人間の手が届く範囲内で使うことなどは、毛ほども考えられないはずです。従って、いまだに自立型ロボットの動力源は充電式バッテリーしかなく、もしフルパワーを出し続ければ、精々30分程しか動けないことになります。これが、たとえば自立型で実用的な介護ロボットが生まれず、案内ロボットや楽器演奏ロボット、或いは愛玩ロボットに留まっている最大の理由でもあります。

さてロボコンですが、毎年難しい課題が与えられ、それをクリアするため高専生たちが知恵の限りを絞り、ユニークな形のロボット達を生み出す姿にはそれなりに感動しますが、「テレビ受けする」ロボコンばかりが注目される事には抵抗もあります。それは、これらのロボット達が全く実用的ではないからです。学問である科学とは異なり「技術には、実用的である必然性」があります。それが技術(者)の存在理由だからです。

見て楽しい(お祭りとしての)ロボコンはロボコンとして、何か世の中の技術にインパクトを与える、「中身のあるコンテスト」も企画して貰いたいものだと常々感じています。例えば、乗り物で言えばソーラーカーや超省エネカーやスターリングエンジンを木炭で動かす車のコンテストなどが考えられます。1リッターのガソリンで1000km以上の距離が走れる乗り物や木炭や木質燃料で実用的に走れる車のアイデアに、若い技術者達の知恵を絞ってもらいたいのです。Pリウスでさえ、1リッターで走れる距離は精々30km止まりですが、若い彼らには100km以上は走れる実用的な車を開発してもらいたいのです。出走車のベースとなるエンジンなどのコンポーネントは、中古のS―パーカブ程度で十分ですからそんなにお金も掛からないでしょう。如何に、エンジンの燃焼効率を上げ、メカの摩擦を下げ、車体を軽量化するのかに知恵を絞れば、それらは即実際の製品を生み出す技術にも展開できるはずです。

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547 環境という資源庫

環境は立派な資源です、と声を大きくして主張しても今のところ殆ど反響はありません。しかし、これは間違いのない事実なのです。その証拠として多くの資源は、環境の中で育まれました。石炭や石油や天然ガスなどの有機物を含む資源は言うに及ばず、鉄鉱石や石灰石などの無機の資源まで、実は生物活動の結果としてある特定の地域に蓄積された資源であるわけです。これは「環境による資源の濃縮(或いは一種の生物濃縮でもあります)」とも言える現象です。つまり環境とは「資源の母」或いは「揺りかご」であり、より大きな意味での資源庫であるといえます。資源として各種の鉱物やエネルギーを考えるとき、一番の大きな問題はその偏在ぶりにあると言えるでしょう。つまり、ロシアや中東やアフリカ北部などには石油が偏在しており、有用な鉱物はオーストラリアやニューギニアや中国や南アフリカなどに偏在し、宝石などは南アや東南アジアの一部やブラジルに偏って産出しているわけです。

しかし、まだ濃縮されていない形であれば、自然界にはほぼ満遍なく資源がばら撒かれています。例えば、海水中には金やウラニウムを含む多くの鉱物がイオンとなって溶け込んでいます。今は経済的ではないので、流石に海水から金や貴金属やウラニウムを分離する事は行われていませんが、多くの貴金属や鉱物資源の価格が今の数倍になるかもしれない未来を想像すれば、たぶん誰かがこれを始めるのだと思います。日本は確かに資源小国ですが、海岸線の長さだけを見れば大国にも決してひけをとりません。日本は今から、「海水精錬技術?」を磨いておいて、来るべき資源逼迫時代に備えるべきでしょう。また、気体のなかではその割合が非常に少ないガス(希ガス)でもあるアルゴンは、大気を圧縮・液化しそこから分離されます。しかし、問題点もあります。それは気体を液化するにしても、海水をイオン濃縮して、そこから鉱物を分離するにしても膨大なエネルギーが必要となることです。エネルギー小国でもある日本は、この点では逃れられないタガをはめられている国だといえます。残念ですが。

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2008年1月14日 (月)

546 人力

人が力を出せば人力になります。意外かもしれませんが、人力の活用が環境悪化を防ぐには大きなカギを握っていると言っても良いでしょう。何しろ、大昔には、動力としては人力と畜力程度、これに加えても精々小さな水車や風車程度しかありませんでした。しかしいまや、人力資源は「60数億人力」までに急拡大しました。人は、瞬間的には1馬力(0.75kw)程度を出せますが、これは火事場の馬鹿力の場合であり、持続的に多分0.2-0.3kw程度が精々でしょう。しかしこれでもバカに出来ません。何しろ、60数億人力です。赤ん坊もお年寄りも含めて、平均0.1kwの出力が期待できるとして、60億人としても6億kwになります。1基で約100万kw原発と比べてみても、如何に大きな数字であるか分かると思います。

人力は、瞬間的に大きな力を出す用途には向いていませんが、小さな力を長い時間出し続ける目的には最適です。投稿者が若かりし時には自転車で良く旅行をしました。特に訓練しなくても1日に200kmくらいは平気で走れたものでした。勿論平均時速は20kmを少し超える程度ですので、10時間は走り続ける必要があります。

別の例ですが、小さなパワーの集積の例として、過去の偉大な建造物を挙げることができます。平均的なピラミッドを作るのに何十年掛かったか分かりませんが、何トンもある石を動かすためには、綱を引く人、コロを並べ替える人、石の上で旗を振って合図をする人などなど数十人が必要と思われ、それを何千個も積み上げるわけですから全く気が遠くなります。一方万里の長城は別の意味でも偉大です。長城の外側は大半が石を積んでいますが、中身は土の場合が多くなっているようです。その土を突き固めるための道具は2人で持ち上げ、落下させる槌だったようです。偉大なのはその長さです。何千キロにも及ぶ長城が、幾重にも築かれている訳ですから、人力パワー恐るべしです。これらの建造物を作るためにかり出され、働かされ、死んでいった数多の人々に思いを馳せます。そんなに遠くを探さなくても、身近でも標高400mの山のてっぺんに築かれた岐阜城の築城や木曽三川の治水工事なども、実際に現地に立つと、偉大な事業であった事が分かります。人間は筋肉という、たった数杯のご飯で動く、最も効率的な化学エンジンを持っている事に感謝し誇りを持つべきでしょう。

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2008年1月13日 (日)

545 雪力2

さて肝心の雪パワーを如何に取り出して利用するかの話です。積もった雪は、冬は氷点下になっており、春夏になっても0℃を保ちながら少しずつ解けて行きます。その意味では、熱力学的に見れば雪の持つパワーは「低熱源」としての利用価値がありそうです。全ての熱サイクルには、高い温度の「高熱源」と廃熱を受け取って捨ててくれる「低熱源」が必要です。車のエンジンで言えば、ガソリンの燃焼温度が高熱源であり、排気ガスを出す大気温度が低熱源となるわけです。気温20℃の低熱源に比較して、温度が0℃の雪を低熱源と考えれば、高熱源と低熱源の差は20℃分大きくなるので、熱サイクルの効率はかなり改善される事になります。

別の見方をすれば、例えば工場の冷却に用いられた温排水を30℃程度と仮定し、これを高熱源とし、雪の0℃を低熱源とすれば、熱落差が30℃しかないので効率は低いかも知れませんが、立派な熱サイクルを構築することも可能です。作動流体としては、フロリナートなどが候補ですがそれに飛びつく前に、フロンガス(=オゾン層破壊&超強力温暖化ガス)の二の舞にならない様に、その性質には十分な注意がひつようです。効率は低くなっても構わないので、天然の冷媒、つまりは空気やCO2や水(水蒸気)などを作動流体とする熱サイクルがより望ましいでしょう。

雪は保温材でもあります。氷と異なり雪の中には空気が閉じ込められているので、例えば家等がすっぽり雪で包まれる雪国の家屋は、結構暖かかったりするわけです。であるならば、それを上手く利用する工夫もきっとあるはずです。雪を厄介者として除雪したり、融雪に多大な熱エネルギーを使ったりするのではなく、積極的に利用する智恵(利雪技術)を最大限に磨く必要があります。

雪はそのままでも立派な冷熱源です。冷蔵庫の無かった大昔には、人々は大きな穴(雪室あるいは氷室)を掘り、その中に雪を溜め込んで置き、夏場にも冷たいものを楽しみました。これを現代に再現するなら、投稿者なら古い国道トンネルやそれが無ければ、適当な丘のどてっ腹に、人が立って歩けるくらいのトンネルを掘りますね。そこに冬の間に雪を詰め込んでおいて、野菜の貯蔵庫にします。取れ過ぎた野菜を保管しておけば甘くなって価値も上がり、オマケに端境期に出荷すれば、値崩れもなくなります。ところでこの話題、去年も書いたような気もしますがまあ良いでしょう。

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2008年1月12日 (土)

544 雪力

七曜パワーのついでに、雪国では厄介者として嫌われている雪パワーについても考えて見ます。この天からの贈り物には、幾つかの重要な役割が隠されています。

その第1は、雪は天然のダムであるという点です。即ち、高い山に数メートルの厚みで降り積もった雪は、夏場まで少しずつ解けながら、清浄な水を麓の村や町に供給し続けます。人口のダムなど無くても、降雪自体が天然のダムとしての機能も担っているわけです。問題は、多くの山では、初夏ともなれば雪が溶けきってしまい、真夏の渇水期が乗り切れない事です。これを、例えば巨大な反射シートなどで覆うなどの方法で、春先や初夏の雪解けをある程度遅らす事が可能となれば、中部以北の日本の水資源の確保は、ほぼ安泰になるはずです。

2は、上とも関連しますが、湿度や気温の調節という隠れた機能を見逃す訳にはいきません。標高の高い山に降り積もった雪は、春夏に山を駆け上がってくる暖かい空気を冷やして雲を発生させ、適当な降雨をもたらしますし、熱く乾いた空気の温度や湿度を調節してくれます。オーストラリアやアメリカの西海岸などのカラカラ地域とは異なり、日本では雪山が極端な乾燥を防ぎ、同時に山火事も防いでくれているわけです。

3は、2に少し似ていますが、これは気温に直接関係する最も重要な働きです。雪源や海氷は太陽光の大半を反射しますので、地表の気温上昇に大きな影響を与えます。冬がしっかり気温が下がり雪氷の厚みが厚い年は、初夏近くまで雪が残り、結果として強い陽光の下でも気温の上昇は緩やかです。しかし、暖冬傾向で積雪量や海氷の厚みが薄くなってしまっている近年は、雪解け時期が早まり、黒い土や緑の海面に春になって強まった太陽光が照射されると、急速に地表の気温を押し上げます。つまり、冬から、気持ちの良い春を通り越して、いきなり夏になるような激しい気候をもたらしてしまいます。これは、最近の春先の気候の傾向を思い出していただければ、多分納得できるでしょう。暖冬と春夏の酷暑傾向はいわば悪循環を形成しますので、例えば大きな火山の噴火などで、空気中のエアロゾルが増えるような事件でも起こらない限りなかなか歯止めは掛かりません。続きます。

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2008年1月11日 (金)

543 日力

七曜パワーの真打は、言わずと知れた日力です。お日様(全ての生き物のエネルギー源である太陽には、絶対に様付けで呼ぶ必要があります)あるいはお天道様とも呼ばれますが、太陽(様)の存在は文句無しに絶対です。その証拠といえば、例えば大昔に直径1キロにも満たない小惑星が地球に衝突するか、或いは大きな火山が大爆発を起こして、長い時間(例えば数年間)チリ(エアロゾル)が上空を覆うだけで、地表の平均気温が数度下がり、生物の絶滅が繰り返されて来たことは、地層に残された多くの証拠で証明されています。たった数度の気温低下(変化)ですが、それが短期間の内に起こる現象である限り、多くの生命体にとっては致命的な変化になるわけです。

さて太陽エネルギーは、ほぼ全てのエネルギーの根源でもあります。石炭も石油の太陽エネルギーが形を変えたものですし、水力も風力も、太陽光が地表に降り注ぎ、それが雨や風を起こした結果に過ぎないわけです。従って、地球が元々持っている地熱や月や太陽により引力変化を利用した潮汐エネルギーなど、ごく限られたエネルギーを除けば、ほぼ全てが日力であるとも言えるでしょう。これを徹底的に利用する技術を磨けば、エネルギー資源が無いと嘆いている日本のような国や、石油資源に恵まれない南の途上国でさえも、日力エネルギー大国になれる可能性を秘めているはずなのです。

足りないのは、平米当たり1kwにも満たない、薄いエネルギーである太陽光を、如何にかき集めるかの「智恵出し」であり、それを利用する人自身が体を動かす少しの手間だけなのです。その意味で、例えば日本でも全ての家の屋根に、太陽熱温水器の設置を義務付けるだけで、莫大な量の化石エネルギーが節約でき、京都議定書でのたった6%の削減という「ささやかな約束」など簡単に守れるはずです。また例えば、駅近くの駐車スペースなどは全て屋根つきにして、屋根の上には太陽光発電パネルを設置します。その電力で通勤用の小型電気自動車(ではなくて電気バイクで十分です)を充電すれば、ガソリンの消費量もグンと減らせる事でしょう。

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2008年1月10日 (木)

542 土力

土力については書くことが山ほどあります。先ずは、植物の繁茂する土台としての土壌について考えて見ましょう。土壌(土)は、単なる岩が風雨や河川や海洋で風化されて堆積したものと安易に考えられがちですが、たった30cmの土壌が形成されるにも、概ね1000年程度の時間が必要である事を認識すべきです。しかも、土壌(正確には表面が地表に露出していて、植物の繁茂する1mにも満たない極薄い土の層のこと)は単なる土くれではなく、その中には多くの微生物や昆虫やモグラやミミズなどの小動物が含まれて居なければなりません。それより、深い層にある土は、単なる土であり養分に乏しく、雑草などの植物しか育たないものとなっています。

さて、植物を育てる力を持つ土だけが、土力を持つわけですが、農業などより多くの植物を育てようとする場合、短期間の内に植物にとっての養分が失われ、痩せてしまいます。従って、肥料という形で養分を補う訳ですが、これまで野菜などの栽培に必要な養分はN・P・Kだけであると誤解されてきました。しかし、葉緑素の詳細な化学構造を見れば一目瞭然ですが、その中にはマグネシウムなども含まれ、微量元素(ミネラル)も必要であるわけです。日本の米作が、連作が可能で持続可能である理由は、何より水田に使われる水が、山からのミネラル分を溶かし込んで、補給される事にあります。米国や、オーストラリアで行われている、地下水を使った稲作は、近い将来立ち行かなくなる、持続可能ではない農業だといえます。

土壌の本質的な機能に着目しない、やたらと機械化された「屋外工場としての農業」は、早晩立ち行かなくなるものであることは、投稿者のような農業や植物学の素人にも容易に想像できます。「土一升=米一升」の格言ではありませんが、土壌の持つ機能やパワーにもっと敬意を払い、これを研究しようとする科学者(農学者・土壌学者)がもっともっと増えても然るべきだと日々感じています。土力については、また別の視点からも書いてみる積りです。

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2008年1月 9日 (水)

541 金力

金は金属の意味でもあり、お金の意味でも使います。お金の話やそれに関わる素人経済学は、このブログでもたびたび書いてきたので、投稿者としては(定期的に読んでいただいている読者も同じでしょうが)ゲップが出そうになります。敢えてもう一度整理するなら、お金とは「他人の時間を自由にする権利」と定義できますから、もし今の時代に生きている人々の持つ時間の容量を超えて経済が膨張するという事は、とりもなおさず未来に生まれる子孫の持つ時間の権利を先取りする事に他ならない、という点を改めて指摘しておきます。今の時代に生きる人々が、自分たちの持つ時間で購える範囲を超えて、沢山のお金を儲けてそれを使うほど、それは未来の時代に生きるであろう子孫の時間を先食いしている事に他ならないのです。何故なら、より多くのお金を動かす経済を運営していくためには、より多くの資源やエネルギーを掘り出して、それを「消費」する必要があるからです。中東の石油成金たちが持つ、一生かかってもとても使い切れないくらいのお金が、この石油高でますます膨らみ続けている事は、その極端な例といえます。

一方、地下資源の代表である金属は、今のところ限られた種類の鉱物(白金などの貴金属や合金や電子部品に用いる希土類など)を除けば、資源的にはしばらくはどうにか持ちそうではありますが、この資源も実のところエネルギー資源に支配されていると言えます。というのも、金属の精錬には、鉄であれば多量の石炭(コークス)が必要であり、その他の金属でも多量の電力が必要となるからです。ありふれた金属であるアルミニウムでさえ、現行行われている溶融塩電解法では、1gの精錬には電力料金にして1円程度の電力が必要となるとされています。溶解温度が極めて高いシリコンなどは、一桁大きな電力が必要となるはずです。金属は、鉄やアルミなどのように強度の高い構造材料としての他、銅やアルミや銀や金などのように電気の良導体としての優れた機能があり、必要以上に濫用され、不用意に合金され、リサイクルも不十分なままで推移しています。

採掘や精錬や運搬や加工を考えれば、金属も結局は火力エネルギーの塊であり、環境への負荷軽減を考えるなら火力エネルギーそのものと同様、その濫用は避ける必要があるということになります。

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2008年1月 8日 (火)

540 木力

木力とは、木材を主体としたいわゆるバイオマスエネルギーの総称です。木をそのまま燃やす焚き火や薪ストーブがその代表例でしょう。しかしながら、薪には、いくら軒下に積んで乾燥させても、25%程度の水分が残っており、従って燃焼温度が低くなり、目にしみる白煙(その中にはダイオキシン類も微量ながら含まれていると思われます)も出るので、流石に田舎の一軒屋でもなければ使いにくいものです。

そのため、燃焼させて扱い易くするために、幾つかの工夫が行われています。投稿者が、数年来取り組んできたペレット化もその一つです。ペレットとは、木材を一度粉砕した上で、改めて強い圧力で押し固めて、小指の先程度のペレット(風邪薬のカプセル錠剤のような形)に加工するものです。この状態では水分率は10%程度まで下がっているので、十分な量の空気を送って燃焼させれば煙突から出る煙は全く無色透明で、都市の中でペレット焚きの暖房器具を使ってもヒンシュクを買う事は無いでしょう。事実、ガス焚き冷房気を作っているY総業では、企業向けにペレット燃料を使う冷房気を市場に出そうとしているくらいです。

別のアプローチでは、木材を化学的に処理して、アルコールやDME(ジメチルエーテル)に転換する事も行われています。問題なのは、木材の中にはほぼ純粋な炭化水素であるあるセルロースの他にも、ヘミセルローズやリグニンなどの分解しにくい成分も多く含まれるという点です。つまりアルコールやDMEに転換できなかった残りは廃棄物になるかもしれないという心配が残ります。その残りカスの使い方までもしっかり考えたプラント設計をする必要があります。何しろ、植物や木材の原料は、殆ど全てが水と炭酸ガスであり、光合成によって太陽光のエネルギーが固定されたもの、とも考えられるのです。

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2008年1月 7日 (月)

539 水力

今日は水力の話です。日本の様に短い川が多く、洪水を防ぐためのダムが多く建設されている国では、結構多くの水力発電所が建設されていて、エネルギーとしても十分活用されているような「誤解」があります。しかし、身近な川(投稿者の近くでは木曽川やその支流ですが)観察しても、結構な水量がある流れでも、無為に水が流れ下っているような場所が多いのです。わざわざ「税金のムダ使いであるダム」(これは別に言葉の遊びではありません)などを建設しなくても、流れの中に没入させるタイプの抗力型の水車であれば、まだまだ景観を保ったままでも多くの建設適地がありそうにも思うのです。抗力型というのは、プロペラ型のように流速を利用して高速で回転させるものではなく、パドル水車のように水の流速と同じスピードでゆっくり回転させるタイプの水車のことです。

65歳を超えて寿命をいただき、自給自足の生活に入る事にでもなった暁には、是非小川の側の廃屋を借りて、そこに水車を仕掛けして、水力生活に入ろうと目論んでいます。そこには、多分投稿者が25年くらい前に「発明したと信じている」(人間の頭の構造は似ているらしく、その後これを特許として出願した人が居ます)オルソプター型と呼ばれる水車を自作して据え付けようと考えています。

何しろ水は、風(空気)より密度が3桁は大きいので、ささやかな流れであっても、意外なほどのエネルギーを得ることが出来ます。日本は、ヨーロッパとは異なり、台風があるかと思えばベタ凪もある、あまり風の恵みが期待できない国なので、是非とも小さな流れの、小さな水の動力をかき集める努力が欠かせないと思うのです。その意味では、水力タービンに関して言えば、この数十年は開発がパッタリ停止している状況にあります。技術屋としては、いまさら水力機械など流行らないと感じている諸氏も多いと想像していますが、投稿者としては、技術屋卒業生として公平に見ても、これほど実用的で面白い分野も少ないのでないかと感じています。

ついでに言えば、川が海に注ぐ場所(汽水域)での濃度差発電も、河川の数が多い日本では有望です。これは、海水と淡水の塩分濃度差による浸透圧を利用するもので、まだ実験レベルですが幾つかの実用例があります。 

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2008年1月 6日 (日)

538 火力

いまや私たちの生活は、火力がなければ一日として成り立たないかも知れません。悲惨な例で申し訳ないのですが、過去に大地震に見舞われた地域では、殆どの火力(電気、ガス、石油など)が経たれた状態に陥ってしまい、精々頑張っても数日間しか耐えられなかっただろうと思われます。人々は、火力をエネルギー源とする電車やバスや車で通勤し、スイッチを入れれば電灯や冷暖房機が瞬時に使え、ガスで調理し、寒い時期は石油で暖房を賄い、日々風呂を沸かしてリラックスしている訳です。しかし、火力への依存度が増せば増すほど、それが災害などで断たれた時、或いはエネルギー資源の逼迫・価格の高騰、更には危険な温暖化の影響によって制限を受けることを考えれば、過ぎたる依存への危険度は日々増大しているとも言えるのです。事実、年末には、石油の先物価格もあっさり100ドル/バーレルを突破してしまいましたね。

その昔、人類は動物たちが恐れた火を手に取り、それをコントロールする術を見出しました。火(有機物の燃焼)は、得られる温度も高く非常に優れたエネルギー源であり、使用にも便利なものですが、先の「七曜の法則」に照らして見れば、比率として私たちはあまりにもこれに頼り過ぎている事は明らかです。地球規模の温暖化は一つの警鐘ではありますが、バランスの崩れの影響はこれだけでは済まない可能性があります。というのも、人類が人工的に作り出した環境が天然自然に与える外乱が、最終的にどのような結果を発現させるか、今の人類が持つ知識程度では予測がつかないからです。例えば、IPCCの科学者の総力を結集しても、やっと温暖化の影響だけが少しまともに予測ができるようになっただけです。今後の社会では、温暖化防止云々の前に、投稿者としてはこのバランスの崩れにこそ目を向けなければならないと、力説しておきます。

つまり、火力への依存度を如何に下げるかが、資源の温存につながり、温暖化などの環境悪化にも歯止めを掛ける最も有効な方法なのです。そのためには、火を「貴重なもの」として再度位置づけ、その効率的な利用と、無駄な火の使用を慎まなければならないでしょう。ご先祖さまが、慎み深く火を敬い、火を大切にしてきたことは、今でも各地の祭りや神社など年中行事にその名残を見つけることが出来ます。

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2008年1月 5日 (土)

537 月力

さて月力です。月は、1970年代のアポロ計画の時代になっても、持ち帰った小さな石を一目見るのでさえ、長蛇の列に並び一苦労するような遠い存在でしたが、今回の「かぐや」のミッションで、かなり身近に感じることが出来るようになって来ました。月の成因については、まだ説が完全に固まっていませんが、地球に非常に近く(地球の直径の30倍程度の距離)に浮かんでいる、地球の質量に比べてもそれなりに大きい(ざっと地球の1%強の)月は、その及ぼす引力は地球の生物には少なからぬ影響を与えていると思われます。事実、人間を含む多くの生物は、かなりの程度月の引力にその体のリズムを支配されています。ほぼ1ヶ月の月の周期を基本とする太陰暦は、生物的には十分に意味のある、自然な暦であるとも言える訳です。

さて、月の引力(に加えて太陽の引力も少し関係しますが)によって引き起こされる現象の一つが海の潮汐ですが、特に内海や大きな湾が形成されている地域では、場所によっては数メートルにも及ぶ潮の干満が観測されます。これをエネルギーとして利用しない手はなく、実際ヨーロッパ(フランスやノルウェーなど)ではかなり大規模な潮汐発電所が建設されても居ます。

日本でも、瀬戸内や有明海などでは、干満によるかなり強い潮流が見られ、場所によっては発電の適地が見つかるかも知れません。月力は、地球が、月が存在する限り絶対に尽きる事の無いエネルギー源であり、ささやかですが上手く利用しなければならない、まさに「天の恵み」でもあるのです。まだ実用化されては居ませんが、この僅かな引力の変化を利用して、何らかの機械的なエネルギーへの変換を可能とするような、夢のある研究が行われても良さそうな気がします。少なくとも、投稿者が知る限り、そんな「おバカな研究」をしている人は(少なくとも日本には)いないようです。しかし、もし月の引力でささやかでも電気を起こすことができ、それで小さな灯りをともせるならば、とても夢があって何かうれしくなるのではないかと想像しています。65歳以降で、毎日が日曜日の身分になった暁には、そんな研究をしたいものだと夢見ています。

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2008年1月 4日 (金)

536 七曜の法則

久々の法則シリーズです。1週間に割り当てられた月、火、水、木、金、土、日の字は、それぞれに「力」という字を加えると、月力、火力、水力、木力、金力、土力、日力などとなり、なかなか面白い視点になる事に気がつきました。つまり、月力といえば、月の引力による潮の満ち引きがあり、それを応用した潮汐発電が一部で実用化されています。火力とは言わずもがなですが石炭、石油、天然ガスによる火力発電に代表されるエネルギーのことです。水力は、山に降った雨が海に流れ下る間の位置エネルギーを利用しています。木力とは、薪炭に代表されるバイオマスを指します。多くの途上国では、今なおこれが日常生活に不可欠のエネルギー源となっています。金力とは、お金の力でもあり、鉱物資源としての金属の力の意味でもあります。土力とは地力(じりきではなくちりょくと読みます)とも表現できるでしょうが、土が持つ力、即ち植物を育み、全ての生き物の土台となる母なる大地のことです。地下には温泉など地熱も隠されており、ポテンシャルとしても非常に大きいものがあります。日力とは、文字通りお日様の力のことです。太陽光発電や太陽熱温水器のみならず、植物の光合成のエネルギー源であり、全ての動物には、平均的には温暖な気候を提供してその生命を支えています。

このように考えて見ると、七曜とは非常に示唆に富んだ、一つのサイクルであることが分かります。しかし、悲しい事に現代は月:火:水:木:金:土:日のバランスがとれた暮らしではなく、火(化石エネルギー):火(原子力):金(お金):金(金融):金(金属):土:日くらいの割合で暮らしているような気がします。ここでは、1週間に割り当てられたパワーを、バランスよく使わなければならないという考え方を「七曜の法則」と定義しておきましょう。

七曜の呼び方に隠された、環境的にもバランスの良い生活を心がけるなら、環境問題もかなり軽減される事は間違いありません。次回以降は、それぞれの七曜パワーについて個別に書いていく事にします。

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2008年1月 3日 (木)

535 魔法のランプ

年末に倉庫を整理していて「すごい暖房器具」を発見しました。それは若い頃乗っていたヨットで使っていた古い「ハリケーンランプ」です。捨てようと思っていましたが、灯油が少し入っていたので、ゴミとしては捨てるに捨てられずにいたものです。ハリケーンランプというのは、嵐の中でも火が消えないというほどの意味の灯油ランプの事です。前にも書きましたが、投稿者の事務所には暖房器具が一切ありません。耐寒訓練だと空意地を張りながら、寒さに耐えていましたが、いかんせん手がかじかんでキーボードが打てません。時々、お茶やコーヒーを入れたカップで手を温めますが、それも面倒です。そこでこのランプを「暖房器具」として使うことを思いつきました。ランプには、500ml程度の油が入りますが、とろ火で日中だけの使用だと4-5日は十分持ちます。環境おじさんとして少し抵抗はありますが、1日に100mlほどの化石燃料を燃やしてしまう計算にはなります。勿論、部屋の温度を上げるほどの熱量はありませんが、近くに置いて手を温めるには十分ですし、なにより「目も温かい」です。

もうひとつ冬場に困るのは、パソコンで使っているマウスが冷たくて、指の熱が奪われることです。指先だけが冷たくなってこれも辛いものです。そこで、仏壇などでロウソク代わりに使われている、5wの豆電球を木箱に入れた「マウス加温器」を作りました。この箱の上にマウスを置いて、冷たくない程度に暖めます。室内でも内側に反射膜を使った防寒着を着て、足には室内用ブーツを履き、手を温める対策をした結果、この冬も暖房器具なしでも快適に過ごせそうです。

どうやら人間は、本当に困ると様々なアイデアが湧いてくるもののようです。省エネルギー・省資源などと掛け声は日々高くなりますが、人々の意識が高まるのは、実際にガソリン価格が200円を超え、灯油18㍑が2千円を大きく超え、その結果諸物価も高くなって可処分所得がガタンと目減りして、お尻に火がつき始めた時なのかも知れません。既に、今まだ余裕のある内にかなりの手を打ち始めているヨーロッパとは異なり、日本という国は「カチカチ山の教訓」が全く生かされていないしみじみ情けない国のようではあります。

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2008年1月 2日 (水)

534 文化の問題

続きです。ではどうすれば良いかですが、例えば飲み物についていえば一つの方法は、やはり「文化を変えるしかない」との結論になってしまいます。Cコーラや製薬会社や乳業メーカー(の子会社の飲料会社)やアルコール飲料メーカーの戦略に乗せられた結果、日本は100mも歩けば自動販売機にぶつかる事になりました。更に、主な交差点近くや車の往来が多い道路筋には、ほぼ例外なくコンビニが出来ています。その結果人々は手軽に、夏はペットボトル入りの冷たい飲料を、冬は暖かい缶入り飲料を手に出来ます。しかし考えて見れば、それらの多くは投稿者の子供時代には無かった文化でした。これは単純に欧米(つまりはアメリカ)文化への感染に過ぎないものとも言えます。実際のところ私たちは使い捨ての(利便こそが至上の価値と捉える)欧米文化に感染した「病人」だといえるでしょう。

子供の頃、母方の実家に稲刈りの手伝いに行くと、竹で作った水筒や、小さな桶で作られた水入れでお茶などの飲み物を運びました。山裾の田んぼではきれいな湧き水が手に入りました。どっさり砂糖入が入った清涼飲料水を毎日飲んで、子供の頃から肥満の成人病予備軍になるか、麦茶やお茶が入った保温水筒を持ち歩くかは、まさに文化の問題である訳です。

環境問題の解決は、結局のところ「文化の時間的巻き戻し」が可能か否かという問題に還元できます。昔に返る事が、あるいは不便に戻る事が、耐えられないくらい嫌なことで、例え環境が悪化しても、今の利便にしがみつきたいと考える人が大多数である限りは、いくら「3R」や、「勿体無い」を流行語にしたところで、焼け石に数的の水にとどまるでしょう。焼けた石の温度を下げるには、どうしても文化を数十年は巻き戻しする必要がありそうです。単純な巻き戻しに抵抗があるかも知れませんが、そうであれば改めて「持続可能な新しい文化」を創造すればよいわけです。

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2008年1月 1日 (火)

533 アルミ缶の旅

昨日、旧い年が暮れたばかりですが、今日はもう新しい年の始めの日になってしまいました。ここ数日外は雪模様なので、冬眠状態で過ごしていますが、新しい年も相も変らずに環境、環境の「お経」を唱え続けることといたします。

さて、リサイクルなどと悠長な事をやっている時ではない、と繰り返し書いています。もう一度、何故リサイクルをしなければならないかを考えて見ると、それはもっぱら廃棄物の捨て場所が逼迫している事に由来している事に気がつきます。ついで、資源の温存目的や省エネルギーなどと続くでしょう。確かに、金(きん)やレアメタルなどの資源が限られているものや、ボーキサイトから多量の電力を使って精錬しなければならないアルミニウムなどはリサイクルすべきでしょう。しかしペットボトルやプラスチック類やその他の「安価な原料」は、リサイクルのための収集運搬には、多大な手間とトラック燃料を消費しますので、実は新しく石油から作る方がよっぽど省エネにつながる事になります。

それでもリサイクル・リサイクルと叫ばれているのは、単に環境保全のシンボルとしてのキャンペーンに過ぎません。殆どのゴミを燃やしてしまう日本では、石油由来のゴミは、焼却炉の性能が向上している今は、そのまま燃やしてしまった方がよほど省エネになるはずです。

さて、ゴミが増えた大元の原因を考えてみると、それは単純に「物質的に豊かになった」という結論になります。その昔、貴重な入れ物である一升瓶を、ゴミとして捨てる人は皆無でした。何故なら、次に醤油や酒を買いに行く時には必ず空の瓶を店に持っていく必要がありました、そうでなくとも一升瓶は色々なものを入れて置くには重宝する容器でもあったわけです。問題は、現代の一方通行の物流システムにあります。大工場で大量に製造された商品の空のパッケージや瓶やらを、個々に回収してまた工場に戻すためには、多くの製品の価格を何割か上げざるを得ないでしょう。例えば、120円で買う清涼飲料意の中身の原価はぜいぜい数円で、アルミ缶の容器代と缶に詰める手間賃、加えて配送代と自動販売機の電気代に利益を加えた結果この売値になっているわけです。しかも、アルミ缶は飲料メーカーではなく、アルミ缶屋によって製造されますので、回収できたとしても戻すべきはこちらの工場になるわけです。しかし、回収したアルミ缶を炉で溶かすのは、またまた別の金属工場だったりする訳で、昔のように店屋→問屋→醸造工場のようなシンプルな改修システムではとても対応できません。続きます。

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