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2008年2月29日 (金)

592 木製自動車

591で木材フレームの車などと口走って(書き走って)しまったので、責任上真面目に木製自動車を提案してみる事にしました。さて木材の強度はどの程度期待できるのでしょうか。木材は、木の細胞の死骸が乾燥したものですが、長手方向に筋の通った強固なセルロース繊維をリグニンと呼ばれる複雑な一群の物質で出来た接着剤が固めている、いわば天然の複合材でもあります。従って、現存最古の木造建築と言われる法隆寺の様に巨大な塔も木材だけで建造できる訳です。出雲には、更に巨大な木造神殿が作られていたという証拠も最近発掘されてもいます。ある建築家の試算によれば、木材だけを組み合わせて700m程度の高さの塔が建設できるのだそうです。一方、この塔を鉄で作ると、自重に耐え切れずとてもこの高さの建築物は作れないと結論付けています。

つまり、木材は強度と軽さの比率(あるいは比強度)で評価すれば、鋼鉄より優れている材料だともいえるのです。しかし、いざ木材で自動車のフレームと作るとすれば、残念ながらかなり太いものになってしまいます。例えば、普通の車でも家を建てるのに使う10センチ角程度の木材でフレームを組む事になってしまいます。この場合、確かに木材でフレームは出来ますが、人間が乗るスペースは極端に狭い車になってしまいそうです。しかしそれを防ぐ方法があります。それは、木材を「圧密加工(木材に熱と圧力を掛けて体積を1/2程度まで圧縮して形状を固定する加工)」により、原木の数倍程度まで強度を上げてやれば良いのです。この状態にまで加工すれば、シロアリによる食害や湿潤による腐朽も殆ど起きませんので、10年やそこらの期間であれば、耐久性の点でも全く問題にはなりません。材料が木材であれば、例え室内にフレームが露出していても、全く問題にもならないでしょう。むしろ、マニアが好む木製のステアリングホイル(ハンドル)などは、感触も暖かく、値段も非常に高価なものになっているくらいです。室内に木のフレームが見えている車こそ、駅馬車の自動車版である「本物のステーションワゴン」というわけです。

さて、T社が、山を買って木を育てる計画を発表し、カーボンオフセットで世間の目を誤魔化そうとしていますが、そんな事を始める前に先ず自動車メーカーとしてトライすべきは、木材自動車の試作ではないか、と指摘しておきましょう。

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2008年2月28日 (木)

591 資源時間

またまた新しい造語です。化石燃料の成因には諸説があり、いまだに議論が続いていますが、いずれにしても生物により固定された有機物が、地下で化石エネルギーとして固定されるまでには「少なくとも数億年」の時間が経過している事は間違いないところです。一方、最近注目されているバイオエタノールを作るための穀物は1年以内ですし、木材から作られるバイオ燃料は、数十年の時間で固定された太陽エネルギーとなるわけです。更に言えば、太陽光を直接的に利用する太陽光発電や太陽熱利用は、まさに連続する瞬間の利用という形態になります。

太陽光が、エネルギーとして地球に降り注ぎ、それが生物や人間に利用されるまでの時間を、ここでは「資源時間」と呼んでおきます。それがどのような意味を持つかですが、エネルギー利用の優先順位を示すと、投稿者は主張したいのです。つまり、私たちは資源時間の短いエネルギーの利用により高い優先順位を与えなければならないと言いたいのです。理由は単純で、それが環境負荷の小さい順番でもあるからです。その意味では、私たちは原料の多くを植物起源のものに依存する方向に努力する必要があります。安易に石油や石炭起源の合成樹脂などに頼ってはならないのです。何しろ石油・石炭の資源時間は数億年だからです。これらの資源の再生には、数億年待たなくてはならないのです。勿論、化石エネルギーの揺りかごであった「ジュラ紀」が今後再び訪れる可能性は非常に低いので、多分新たな化石エネルギーは二度と再生されることはないのでしょう。その意味では、石炭・石油こそかけがえがなく、非常に貴重な資源であると言わなければなりません。これらを湯水のように使う現代の生活が、危ぶまれるゆえんです。むしろ、鉄などの金属こそ上手くリサイクルすれば、枯渇が防げる意味では、やや安心できる資源であるといえます。その意味では、金(ゴールド)こそほぼ完璧なリサイクルの優等生です。

さて山々に、花粉を撒き散らす以外に殆ど役に立っていない森林を放置しておきながら、一方では「今現在は安い」という理由だけで、大量に石油を輸入し、何でもかんでもプラスチックで作ってしまう今のもの造りは、やがて行き詰る事になるはずです。環境おじさんとしては、「悔しかったら木製フレームの人力自動車でも作ってみろ」、と多くの車メーカーには毒づいて見たいところです。

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2008年2月27日 (水)

590 原発批判

原子力発電所はCO2を排出しないので、温暖化の防止のためには理想的なエネルギー源だと、まことしやかに主張する人々がいます。その先鋒は、たとえばフランスで、この国は電気エネルギーの3/4以上を原子力発電に依存しています。このような国では、石油の値上がりにもやや鈍感にはなれるでしょう。(日本では10%程度で頭打ち状態)確かに原子力発電所は、その建設にはかなりの資源や化石エネルギーを使うでしょうが、一度できてしまえば煙突からCO2を含む煙が排出されるわけではありません。確かに見かけ上は、原子炉で発生させた蒸気でタービンを回した後、それを水に戻すのに海水が使われ、排水口付近の海水が数度上昇する程度の環境負荷しか与えていないように見えます。しかし、使用済みの廃棄物(高濃度、あるいは低濃度の放射性廃棄物)の始末は、結局地下深くに埋めて、一生懸命水で冷やし続け、何百年か何千年かレベルが下がるのを待たなければならないのですから、現世代だけの問題として済ますことはできません。つまりは世代を超えた廃棄物の伝承という事態にならざるを得ないわけです。

天然の放射性元素も、緩やかに崩壊し続けるわけですから、それを集めて濃縮して、短期間に核分裂させてエネルギーを取り出して何が悪い、と血相を変える原子力推進論者もたくさん居るでしょうが、彼らの論点からは「時間」が完全に欠落しています。利便を受ける世代と、廃棄物を押し付けられる世代の時間が完全にずれているのです。自分たちだけが「良いとこ取り」だけして、後は知らない、ハイご子孫様よろしくとする「世代のエゴ」、では済まされないのが放射性物質に関わる環境問題の本質です。(実は温暖化問題も同様ですが・・・。)

ましてや、殆どの利便を受けているはずの大都市の近くではなく、補助金をエサにそこから遠く離れた過疎地に原子力発電所を立地させる政策自体、強い「地域のエゴ」を感じざるを得ません。もし原子力が本当に安全なものなら、なぜ大都市近くの埋立地に原子力発電所を建設しないか、不思議だと言わなければなりません。原発の立地こそ「万が一」のニューマンエラーあるいは百年に一回の大地震で、予測できない事態が起こった場合でも、最小限の人的被害に押さえ込もうとする、地域エゴの典型だと言えるでしょう。という訳で、地域エゴ、世代間エゴの塊である原発電力が、投稿者が使っている電力にたとえ10%でも混じっている事を考えれば、環境おじさんとしてのココロは休まりません。

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2008年2月26日 (火)

589 紛争の種

世界各地で起こっている多くの国際紛争や国内紛争が日夜報道されています。表面上は、イデオロギーや宗教や部族(民族)間の争い事のように見えますが、その根は非常に深いと想像できます。以前にも指摘しましたが、非常に古い時代に起源がある争い事の多くは、「水問題」にその発端があるのです。その昔、水の確保は「生き死に」の問題でもありましたから、水源の確保はまさに命がけでした。川の流れ下る途中に国境がある場合は川の上流と下流での水争い、川が国を分けている場合では、左岸と右岸の水の奪い合いが毎年繰り返された事でしょう。

今日では、それに石油の利権も新たな火種となり、それにチョッカイを出す大国のエゴと宗教問題が油を注ぐものですから、紛争は一向に無くならないのです。勿論石油だけがあっても人々の暮らしは成り立ちません。中東の砂漠の国々では、石油を燃やして海水を蒸留して(またはイオン交換膜で漉して)真水を得て、芝生の水遣りをしたりバカ高い農作物を作ったりしています。それが出来なかった昔には、即ち水の枯渇が文明の終わりでもありました。その例は、栄華を誇りながら、歴史上のある時期に忽然として人々が居なくなり、廃墟と化した多くの遺跡にその証拠を見ることができます。

多くの消えた文明には、上流で水源を支配した別の文明との争いに敗れたか、あるいは水源そのものが突然涸れてしまったかのいずれかの事件が起こったはずです。今、化石燃料の使い過ぎによる資源の枯渇や、温暖化による環境悪化の議論が喧しいわけですが、実は水資源の再評価により、ある地域に居住可能な人口の見積もり直しが必要だと考えています。その水には、使いっぱなしで補充の期待できない、地中深くから汲み上げる「化石水」をカウントしてはならないでしょう。その意味で、アメリカ中西部やインドやオーストラリアなど今穀倉地帯と呼ばれる地域の多くは、「実質的な砂漠」として食料生産地域からは除外して見積もりを進める必要があります。この場合、楽観的に見積もったとしても、地球環境が許す人口規模は、たぶん今の半分程度(30億人規模)となると見られます。少子高齢化社会の日本は、その意味では来るべき時代に向かって、最先端を突っ走っている理想的な国家なのかもしれません。

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2008年2月25日 (月)

588 成層圏飛行船

587ではやや汚い言葉を書いてしまいました(反省・・・)。もとより、特定の人たちの誹謗中傷は本意ではありません。宇宙バカを引っ込めて「盲目的宇宙開発推進論者」と言い直しますが、彼らが引合いに出すもう一つの宇宙開発のメリットは、通信衛星や気象衛星や軍事衛星など各種の人工衛星の役割です。確かに、現代の通信手段の一部やGPSの利用には衛星が(今のところは)必須です。しかし、通信についていえば、今日では圧倒的なデータ量は、道路・鉄道沿いや海底に敷設された光ファイバーを通じて授受されますので、衛星の役目は実は補助的です。話は飛びますが、ここで宇宙話のついでに書いておきたい事があります。それは飛行船の可能性についてです。それは、低空を飛行するいわゆるツェッペリン型飛行船ではなく、成層圏(例えば20km程度の高度)まで登らせる成層圏飛行船の話なのです。この飛行船は、「ザイロン」などの強力な繊維で作られた、軽くて強い膜材から構成され、上部には薄くて軽い太陽光発電パネルを貼り付けています。小さなプロペラを持ち、多少流されても、昼間の間に貯めた電力を使って、決められた位置に自力で戻る事も出来ます。この無人の飛行船の役割は、言わずもがなですが国内の「通信中継基地」や比較的低高度の「地上観測」です。

587にロケット1発の打ち上げ費用が約100億円だと書きましたが、飛行船だと多分一発5億円以内で打ち上げることも十分可能でしょう。何しろ、通信機器を除けば、モノは単なる巨大な風船と大型の「扇風機(電動プロペラの事です)」で構成されているだけのものですから。しかも、日本の国土を全てカバーする事を考えても、多分3-4個の飛行船で十分間に合います。全体予算としても最大見積もっても50億円も掛からないはずです。しかも打ち上げに必要なエネルギーは全く不要です。なにせ飛行船に詰め込んだヘリウムガスの浮力が、巨大風船を自動的に成層圏まで引っ張り上げてくれるわけですから。数年後にガスが抜けて飛行船の高度が下がっても、上手く操縦すれば無傷で回収することも十分可能です。

10年ほど前に立ち上がった、こんな夢のあるプロジェクトが、たった数回の要素試験だけで終わってしまった(残念ながらこのプロジェクトの後日談については把握していませんので推測です)のです。なんという税金のムダ遣いでしょうか。こんな省エネ・省資源型の技術こそ、日本が得意分野として世界に先駆けて実用化すべきだと思うのです。一時、このプロジェクトに関わった投稿者としては、その後実用化に向けた計画が立ち上がらなかった事に絶望したことも、技術屋を辞めた大きな理由の一つになっています。

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2008年2月24日 (日)

587 宇宙バカ

超高速通信衛星の打ち上げニュースを見ての感想です。表題のようなアブナイ言葉を、流石に特定の人に投げつける訳にはいきませんので、お金や環境問題や煩わしい諸事はさておいて、宇宙開発の可能性に夢中になっている人一般を指す言葉としておきましょう。さて、その宇宙バカの人たち(実際のところ彼らはそれぞれの国では、頭脳と呼ばれるほど賢い人々なのですが)は、口を開けば例えば無重力の可能性を演説します。無重力下では、確かに金属はほぼ完璧な状態で合金できますので、優れた性質を持つ金属間化合物が出来るかもしれません。同様に、地上では合成が出来にくい複雑な医薬品も、無重力の空間では比較的容易に作れるかもしれません。しかし、考えて見なければならないのは、そのコストです。ロケットを1発打ち上げるのに100億円近いお金が発生するとして、そのロケットで起動に浮かぶ宇宙ステーションに運べる荷物(ペイロード)は精々数トンくらいのものです。つまり、資材1g当たり、例えば1千万円程度のコストにつく勘定です。

宇宙空間で作った、金(ゴールド)より何桁も高価な合金を、誰が一般の製品に使うことを考えるでしょう。同じく、超大金持ちしか使えない医薬品を宇宙で合成して何になるのでしょう。100億円あれば、エイズ治療薬や各種疾病のワクチンがどれほど確保できるのか、あるいは環境保全対策がどれほど行えるのか、考えるだけでもあまりの勿体無さに気が遠くなります。

オマケに、宇宙に長期間滞在した宇宙飛行士は、無重力下で過ごした結果として、骨が本来の機能(重力に抵抗して体を支える機能)をサボり、骨の吸収が起こってしまい、地上に帰還しても自分では立つことすら出来なくなってしまいます。もし無理に立てば、その瞬間に手足や背骨のアチラコチラで骨折が起こってしまうでしょう。従って彼らは、他の誰かに抱きかかえられて何とか地上に戻る事になります。(人体実験を買って出たW田さんに幸あれです)

宇宙には、フロンティアはありません。あるのは、危ない宇宙線が飛び交う真空と暗い空と無重力の世界だけなのです。これまでそこに人を送るために使われた巨額の国費やエネルギーを考えるだけで卒倒しそうです。運良く(あるいは運悪く)選ばれて宇宙に送られた優秀な人材が、その後の人生では、宇宙から見た地球の美しさや無責任な宇宙旅行の夢物語を、無邪気な市民や子供たちに講演して回るだけの、宇宙ピエロになってしまう姿には涙さえ誘われます。これも、投稿者が航空宇宙産業を見限った大きな理由となりました。

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2008年2月23日 (土)

586 格差社会

585の環境線の一例です。WP(ワーキングプア)というキーワードを巡って、日本社会では日々議論が盛んです。ここで想定される環境線は「企業の正規雇用」と「非正規雇用」の間に横たわっています。企業は、同業他社や同種製品を供給している海外の企業との間にある環境線を挟んでのバトルで、少しでも優位に立つために、規制緩和の網を掻い潜って「非正規雇用」の枠を最大限まで押し広げてしまったわけです。これは、日系(もどきも含めて)の外国人にも就労の門戸を開いた、別の規制緩和策とあいまって、その枠は現在でも広がり続けています。非正規雇用の枠は、3割をあっさり突破し、やがては全労働者の半数にも迫る勢いで拡大し続けているのです。

さて、この環境線は、ひいては経済のグローバル化により熾烈な企業間競争という別の環境条件に規制されてもいます。その根っこの部分をよくよく眺めて見るなら、経済のグローバル化は、実は低コストの大規模輸送によって支えられているという事が分かります。もし、海を渡る交易に掛かるコストが、非常に大きなものであるなら、たとえ現地ではゴミのように安い製品でも、決して高い運賃をかけて輸出入しようなどとは考えないでしょう。いくら中国の野菜が安くても、運賃が原価の何倍も掛かるのであれば、流石に食糧自給にノウテンキな日本でも、狭い国土を隅々まで耕して、国産の野菜の供給量を上げる方向に進むはずです。そうはならないのは、つまりは安いコンテナ輸送のなせる技というわけです。

その安いコンテナ輸送を支えているのは、船の建造に使われる安い鋼材(最近は一気に高くなりましたが)と、随分高くなったとは言え、まだまだ相対的には安い石油のお陰でもあります。ここで、経済問題が資源やエネルギーに関わる、いわゆる従来の意味での環境問題につながってくる事になります。もし、鉄鉱石や石油資源が逼迫して、今の何倍にも跳ね上がる事態にもでもなれば、経済のグローバル化という枠組みも成り立たないことになります。そうなれば、国々は自国の資源の範囲内で実現可能な生活レベルで、ひっそりと暮らすしかなくなるでしょう。もちろん、それが嫌で、少し豊かな資源を持つ隣国に、武力を使って攻め入る乱暴な国も無くならないでしょうし、富の分け前を巡る国内紛争も激化するかもしれません。

話が脱線しましたが、風が吹けば桶屋が儲かる話にも似て、格差社会もひいては資源・エネルギーに関わる環境問題に根があると主張しても、全くのコジツケではない事が説明できたのではないでしょうか。この問題に関してはまた触れる事になりそうです。

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2008年2月22日 (金)

585 一つの結論

このブログでは環境をめぐる投稿者の思いを毎日まいにち書き続けています。一方、環境問題は煮詰まるどころか、逆に日々発散し続けていますので、このブログで書くネタも尽きないことになります。とは言いながら、毎日考え続け、書き続けた結果として、いくつかの結論らしきものもハッキリしてきました。以下はその一つです。その結論とは、「地球上の全ての問題は環境問題に還元できるらしい」というものです。そんなはずはない、例えば人口爆発の問題や経済のグローバル化による歪みの問題や、きな臭い国際紛争(や国内紛争)の問題が、環境問題と同列であるわけがない、と突っ込みが入りそうです。

しかしそうなのです。何より、私たちが棲む地球そのものは有限の資源やスペースしか持っていないことがその理由です。有限であると言うことは、どのように環境の内と外に切り分けても、そのいずれもが有限の大きさを持っていることになります。国境という人間の勝手で引かれた線を考えて見ましょう。その線に囲まれた内側を自分(達)のテリトリー、それを取り囲む外側を「環境」と規定してみます。例えば、国境をまたぐ国際紛争は環境の内外で、イデオロギーやら資源の配分を巡る争いであり、国内紛争もやはり国内民族間の境界線を挟んでの、不平等や宗教派閥を巡る争いであると言えます。ここでは仮にこの境界線を「環境線」と呼んでおきましょう。もし、全ての問題が、有限のスペースに引かれた環境線を挟んでの揉め事であるという仮説が成り立つなら、ここでの結論もほぼ正しいと見ることができるはずです。

さて、国際的な経済摩擦も、特定地域の環境線の内側で起こっている人口爆発も世界各地で起こっている国内・国際紛争も、環境の内側と外側の揉め事であるとはいえないでしょうか。物理的に環境線が引ける場合もあるでしょうし、社会問題のように社会の階層間に存在する、目には見えない環境線もあり得るかもしれません。しかしいずれにしても、環境線の中の主体とその周りの環境との軋轢であることには変わりがありません。以上の説明だけではまだ少し分かりにくいかもしれないので、追っていくつかの具体例を示すことにいたします。

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2008年2月21日 (木)

584 非サービス生活

昔話になりますが、投稿者は中学を卒業してすぐ、学校の寄宿舎に入って以降、結婚するまでは会社の寮で暮らしましたので、何でも自分でする癖がついてしまいました。従って、いわゆるサービス業にお世話になる頻度は、非常に低かったと振り返っています。家庭を持ってからも、外食嫌いの連れ合いに恵まれ?外で食事をすることは非常に稀な事になってしまいました。

それに慣れてしまうと、高いお金を出して嬉しくもないサービスを受けることには全く興味が湧きません。アメリカでの単身赴任中も、毎日自炊生活をしていました。自炊も慣れると15分か20分ほどで夕食の支度が出来てしまいますので全く苦にはなりませんでした。アパート近くの韓国スーパーには、日本の食材も結構置いてありましたので、料理の(と呼べるかどうかは別にして、食べものではありました)レパートリーは殆ど和食中心で組んでいました。

また床屋さんには申し訳ないのですが、投稿者は、中学卒業以来、結婚式の時の1回を除いて床屋に行ったこともありません。実家の近くの床屋は、環境には優しいのですがあまり切れない「手動バリカン」を使っていたので、それで頭を刈られる事は、時として毛をむしられるに近い苦行でもあったわけで、何度か頭を半分刈った状態で家に逃げ帰った苦い経験が、すっかり床屋嫌い人間を作ってしまったからでした。15歳で寮に入ってからは、レザーカッター(カミソリを仕込んだ櫛のようなものです)で、鏡を見ながら自分で適当に頭を刈ってきました。これも慣れると、段々上手になりますので、今でも自分で刈っていますし、今後も多分床屋さんのお世話になることは無さそうです。

という訳で、投稿者はサービス業泣かせの人生を送ってきたわけですが、そのお陰で今では殆の事が自分で出来る様な気がしますので、サービス業界からはますます縁遠い生活となそうです。このライフスタイルは、お金から距離を置くようになって、結構役に立っているようです。この上は、土地でも借りて、自分が食べる分の米野菜を作る生活にでも入れば、非サービス生活もほぼ完成するでしょう。

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2008年2月20日 (水)

583 サービス業

日本では労働者の7割がサービス業と呼ばれる業界に属しています。サービス業とは、言わずもがなですが「製造業」ではないわけです。投稿者が中学校の社会で習った時は、確かその割合は3-4割だったような記憶があります。モノを作らない(投稿者の言葉で言えば「加工しない」ですが)でモノを売り買いしたり、運んだり、運ぶ人の娯楽を提供したり、お金を動かしたりといった産業であるわけです。しかも、これらの産業の給与水準は、農林業や製造業よりははるかに、或いはかなり高くなってもいるのです。モノを作らない人たちが高い生活水準を維持するためには、少数の製造業の人にもっとモノを大量に生産「させ」それを売り買いし、お金を循環させ、娯楽を盛んにさせる必要があるはずです。これを現代では「経済の活性化」などと呼ぶのですが、それを推し進めれば進めるほど、環境に対する負荷は増加する事にもなります。何故か。それは、モノを必要以上に生産し、必要以上に運び、売りさばき、必要以上に多様な娯楽を生み出さなければならないからです。必要以上のものを「ムダ」と言いますが、現代風の経済活性化とは、このムダを継続的に作り出す行為でもあります。

しかし、何がムダで、何が必要なものかの判断は、結構難しいものがあります。アラブの石油王と庶民とでは、必要と考えるモノやサービスが異なるのは勿論ですが、環境人間と無駄遣い人間は、例え収入が同じだとしても、必要なモノがかなり異なると思われます。目に見え、実体があるモノの代表として車がありますが、それが「必要なモノ」なのかどうかに関しては、以前にも何度か議論しました。しかし、例えば目には見えない「冷暖房の程度(温度)」の必要性の線引きについては、百人で百の議論が出てくる可能性があります。温暖化の議論も全く同様です。大気中のCO2やメタンやその他の温暖化効果ガスの濃度は、それが自分の生活に直接影響がない限り、人々の関心のレベルは、ゼロから投稿者の様に最重要と考える人まで多様にバラツキます。

サービス業に関しても、冷暖房温度や温暖化の問題と同様、完全に程度の問題と考える事ができます。例えば、働く人にとっての街の食堂は必要なものでしょうが、ではグルメを売り物にしているレストランは必要なものなのか、季節はずれの野菜や、海外の珍しい果物や、得体の知れない食材で作られた冷凍食品の輸入が必要なものなのか、ここらで頭を冷やして考えて見たいものです。もしその基準に照らしてもムダなものであれば、来るべき時代にはそのようなムダを含んだサービス業の存続はあり得ないと決め付けても良いでしょう。

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2008年2月19日 (火)

582 対策ではなく

イギリスで、「カーボン・フットプリント」という団体が製品のCO2負荷を表示する取り組みを始めています。しかし、最近投稿者が特に強く感じるのは、「対策では間に合わない」ということです。対策とは、表面化した問題に対して講ずる対症療法のことを指します。本当に必要な事は、問題を引き起こした社会の病理の根本原因を特定し、それを取り除いて根治させるか、あるいは社会の体質(価値観とも言い直せます)そのものを変えることなのです。環境問題の根っこは、人間の持つ必要以上の欲望にあることは再々して指摘してきましたし、一方社会の体質とは物質、拝金主義の価値観であるとも言い続けてきました。したがって、商品(例えば袋菓子)の工場出荷までに排出されたCO2量を表示し、消費者の良心に訴えるという「対策」は、すでにそのスタート点から後ろ向きになっていると言えます。

対策ではない根治治療とは、例えば袋菓子を買わなくても済む社会の価値観を醸成することに他なりません。環境負荷のより小さな袋菓子の製造や消費を促すのではなく、歩きながらスナックを頬張る習慣や価値観を否とする社会的風潮を育てればよいでしょう。10時や3時のお茶は、かつての大英帝国時代の様に、カップでお茶をすすり、スコーンを少し食べる上品な習慣に戻せば良いだけです。スコーンを一個焼くエネルギーと袋菓子を一袋つくり、輸送して店頭に並べるエネルギーとどちらが小さいかを比べるのは実はナンセンスです。お菓子を袋に入れる包装やそれを遠く離れた消費地まで輸送するという行為は、オヤツを食べて、小さな満足感や安らぎを得るというニーズをなんら充足しません。つまりは、大いなるムダを生じさせている訳です。食糧は、本来は米や麦(小麦粉)などの様に、保存が利くものを中心に据えるべきであり、加えて生きた食糧備蓄である家禽類や地元産の野菜を季節ごとに取り入れた食事が、本来あるべき姿だと思います。野菜で言えば農薬やポストハーベスト(出荷前の薬剤処理)にまみれ、加工食品で言えば着色料や保存料がしっかり練り込まれた「危ない食糧」に頼るのではなく、地産地消の本来あるべき姿に近づける努力こそが、「対策ではない方策」となるべきでしょう。

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2008年2月18日 (月)

581 脱エネ

省エネでは間に合わない、「脱エネ」で行かなければならない、と以前にも書きました。この脱エネの考え方では、化石エネルギーは「始めから無いもの」として考えます。したがって、動力が必要なのであれば、先ずは人力を優先します。熱が必要なのであれば、太陽熱や地熱や何かの廃熱の利用を優先します。また光が必要なのであれば、迷わず昼光を利用することを考えます。人力や、太陽熱、廃熱や昼光で足りない部分があれば、仕方が無いので最低限の化石エネルギーで補助するわけです。脱エネの考え方ではまた、運ぶ事をよしとしません。運ぶ事自体に、モノの価値を高める機能は無いからです。ここで言う価値とは、食糧であればそれを食べて美味しいと感じ、栄養になって体を作り、活動のエネルギーを生み出す値打ちのことを指します。輸送すれば、確かに地方の漁港では1箱数百円の大衆魚が、都市の中央市場の競り値では数千円がつくことでしょう。しかし、消費者にとって魚1匹は魚1匹分の栄養価しかありません。都市での値段の殆ど全ては、輸送費と仲買人の利益で占められる事になります。

脱エネではまた、加工度を如何に下げるかに智恵を絞ります。加工することによって、そのモノ自体の価値は決して増大しないからです。ここでも食糧の例を挙げましょう。魚を丸ごと買う場合と、切り身にしたりツクネやすり身の天ぷらにしたりする場合を考えて見ても、魚自体の栄養価が加工によって増大するはずがありません。加工食品では、確かに買ってきてすぐ食卓に並べられる利便性は向上してはいますが、メリットはそれだけに留まります。それよりは、多少手間が掛かっても魚を3枚に下ろし、身は煮魚に、頭は吸い物に、骨はカラリと揚げておつまみにすれば、捨てるのは内臓くらいになるでしょう。

また脱エネでは、体を鍛えます。鍛えて熱さ寒さや病気に対する抵抗力を増加させます。その鍛えた体でも、残念ながら北国の氷点下の室内で暮らすわけにはいきませんので、最小限の暖房手段は確保せざるを得ないでしょう。田舎で言えば里山を整理して得られる薪も重要なエネルギー源ですし、冬場でも太陽光が期待できる都会では、屋根に降り注ぐ太陽の熱を最大限に有効利用すべきでしょう。

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2008年2月17日 (日)

580 川の流れ2

以前にこのブログでは、太陽から放出され、地球の生きとし生けるものを養い、最終的には遠赤外線となって宇宙に放射されて消えるエネルギーの流れを、川の流れに例えてみました。その続きのようなものですが、エネルギーの流れを例えるにせよ、人生を例えるにせよ、川は実に象徴的な存在です。特に、地球における水の循環を目の当たりにできるという点では、環境教育にとっても優れた教材であるといえます。

さて、投稿者の放送大学修士課程の論文テーマも川に関わっていました。そこでは、川を単なる水の流れと捉えずに、伝統的な物質循環の中心と考えたのでした。つまり、川の上流(山地)には森林があって材を供給すると同時に農業用水を涵養し、中流域には農地があって米や野菜を産出し、下流域には商業地域があって人々が密集して暮らす町があるわけです。日本の川は短いので、これら流域ごとの暮らしぶりの変化は50kmも移動すれば、つぶさに見聞できるでしょう。川は海につながっており、山で産出された有機物を海に送り込みプランクトンを養い、ひいては魚類を養っています。この場合の山地の森林を「魚付林」といいますが、これも大きな意味では循環を形成している例であるといえます。とは言いながら、今ではこちらの循環は心元ない状態です。その昔、農家は小魚を干したものを田畑に入れていました。「田つくり」などという魚の名前にその名残がありますが、流石に現在ではそんな手間隙のかかる事は行われていません。

例外的ですが、カナダの針葉樹林帯を流れる川には、サケが遡上し、熊がそれを採って食い散らかしたものが、やがて森林の肥料となって、森林をさらに豊かにするという興味深い循環が見られます。川の途中にサケが遡上できない滝があると、その滝の上流の森林は極端に貧弱になることからも、サケ+クマによる海からの還流が裏付けられています。

結論として言えることは、環境保全という活動は、単に山に木を植えて、降った雨が川となって流れ下り水の循環をおこなっていれば済む話ではないということです。それは、自然の循環を守る連綿とした作業であるわけです。したがって、山に木を植え、それを間伐しながら維持し、時々は川下で産生された有機物を肥料として山や農地に還し、さらに山林や農地の生産性を上げる、という息の長い行動が必要とされているわけです。

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2008年2月16日 (土)

579 トレーサビリティ2

続きです。最近気がついたことですが、以前から時々食べていたヨーグルトの密閉シールの中央が何時の頃からか凹んでいました。理由は、内部をごく弱い負圧(真空)にしているためのようで、もしシールが輸送中に破れたり、誰かが故意に注射針などで異物を入れようとしたりしても、内部の真空がブレークするので「注意深い消費者」なら気がつくはずです。同じ考え方は、以前からジャムなどの瓶詰め商品やパウチでは実用化されていました(真ん中がペコンと凹むキャップを使用し開封後はそこが逆に膨らむ)。問題は、その事を消費者に積極的には知らせていないことです。

今回の毒入り冷凍食品事件でも、もし袋の内部が負圧に保たれていれば、針で穴を開けて殺虫剤を入れようとしても、容易に発見できたはずです。バッグや瓶の内部を負圧にするのに別に立派な設備は要りません。ちょっとした真空掃除機に毛の生えたようなもので代用可能です。それを、密閉されたケースに入れ、作業員はそのケースと一体になったゴム手袋に手を入れて作業すればよいのです。これだけで、食品の安全性は格段に向上することでしょう。

元々熱を加えて処理する食品ならもっと話は簡単です。単に熱いうちにパウチや瓶を密閉すればOKです。冷えるに従って、内部の蒸気圧が下がり自動的に真空になってしまいます。多くのパウチ食品は、カビなどの微生物の進入と繁殖を防ぐ目的で、真空包装をしますが、むしろ全ての包装食品を真空パック化すべきなのかも知れません。特に、いまの時代のように地球の裏側からも普通に加工された食糧が運ばれて、普通のスーパーの陳列棚に並べられる時代であればなおさらです。単なる冷凍食品は、細菌が氷の中で休眠している可能性もあり、全く安全ではありません。

とは言いながら、食材、多種類の調味料、添加物など多種類の原料から作られる現代の食物に、工業製品のようなトレーサビリティの考え方を直接持ち込んでも機能はしません。食物に適した形のトレーサビリティの仕組みが必要です。全く逆の見方をすれば、食糧という生命維持に直結した資源を、工業や流通などのややこしいシステムに載せること自体がおかしいのかも知れません。それが、ややこしいシステムであればある程、トレーサビリティの必要性が叫ばれる、というジレンマを考えて見るべきでしょう。畑の横の野菜の無人販売には、トレーサビリティもへったくれも無いはずですから。

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2008年2月15日 (金)

578 トレーサビリティ

最近の毒入り冷凍食品騒ぎで、トレーサビリティが注目されてきました。元々このトレーサビリティという言葉は、軍需産業や航空機産業などで装着されている部品が何らかの原因で壊れた場合に、その部品の製造ロットは勿論、その材料のヒートロット(材料の溶解と圧延ロット)まで遡ることを目的に、製造工程を確実にトレース(追跡)することを指していました。(例えばISO9100に規定されています)

かなりの昔の話にはなってしまいましたが、かつて食用油メーカーで、製品のてんぷら油の中に、工程中の熱交換器で熱媒体として使われていたPCBが漏れ出して混入し、1万人を超えるPCB中毒患者を出したことがありました。また原因は少し異なるのですが、別の乳業メーカーでは粉ミルクの中に、不純物として砒素が混入し、やはり同じくらいの数の中毒患者を出しました。後者の場合、患者は全て乳児であったため、成長後の後遺症の苦しみなどを想像すると今でもココロが痛みます。

今回の冷凍餃子騒ぎの原因が、単なる製造工程の事故でないらしい事は素人でも推定できますが、ではこれがトレーサビリティで防ぐことが可能かと問われても、大きな疑問符(?)を投げざるを得ません。なぜなら、通常の手段では悪意の毒物混入の阻止までは難しいからです。ましてや、長いながい輸送経路における事故や故意の食品汚染に関しては、いまのコスト優先の流通システムはほぼ無力です。

究極のトレーサビリティは、食物の場合、例えばレストランの隣にある畑で野菜を育てて収穫し、シェフが客の目の前でそれを調理して食べさせる場合ですが、とは言いながらその料理に使われた調味料の類までそのレストランが作っているわけではないので、やはりどこまで行っても食べ物の確実なトレースは難しいのです。

次善の策は、やはり地産地消でしょうか。土地で採れた食物を中心に食べている限りにおいては、今回のような悪意の事件も殆ど場合回避できると思われます。同様に商品に生産者の顔写真を印刷したシールを貼るなどした「産直食品」はかなりの程度安全だと考えて良さそうです。

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2008年2月14日 (木)

577 物質管理

575と576で述べた熱管理におけるカスケード利用の視点は、勿論「物質の管理」にも展開可能です。ここでは木材を取り上げて見ましょう。木材を単に材として用いる場合、まず原木を山から伐採し、枝を払って製材所へ運びます。皮を剥いで、荒製材し乾燥させます。その上で、最終的に必要な寸法に製材し出荷されます。この過程では、材木の皮や製材くずは不要な廃材として厄介者扱いされ、多くの場合は焼却処理されています。

さて、物質のカスケード利用の考え方では、木材は全量全く無駄にしません。材として用いる木材の中心部は従来通り製材されます。しかし、皮や辺材や端材も決して捨てません。樹皮にはタンニンや薬効成分その他の有用な物質が含まれますので、これを抽出して取り出します。辺材や端材はチップやペレットに加工して燃料として活用します。燃やされた木材は灰を残しますが、木灰は立派な肥料となりますし、一方でその水溶液はアルカリ性を示し、これにも多くの用途があります。つまり、木材は一粒で何度もおいしさを享受できるというわけです。この手法は、現在の工業社会では、必要なもののみ製品として出荷され、お金を生まない部分は廃棄物として捨てられている、あらゆる製造工程に応用できます。例えば、食品加工工場で捨てられている野菜の皮や根、あるいはお茶やコーヒーのビール酵母など搾りカスも、考えかた次第では立派な原料となり、食品ではないかも知れませんが、新たな価値を生み出す別の商品になり得るはずの物質です。

とはいいながら、金属のように、基本的には酸化による劣化と望まない金属との(結果的な)合金による劣化以外に、その性質が変わらない物質は、安易にカスケード的に利用すると、最後は劣化して埋め立てるしかない廃棄物となりますので、こちらは丁寧に(望ましくは合金種類別に)回収し、何度でもリサイクルすべき筋合いの物質です。つまり、鉄とステンレスあるいはアルミニウム缶とジュラルミンは決して混ぜてはいけないのです。同じ鉄でも、鋼(鉄とカーボンの合金です)とステンレス(鉄とニッケルとクロムの合金です)は明らかに異なる合金ですし、また同じアルミでも、アルミ缶はほぼ純粋なアルミニウムである一方で、ジュラルミンはアルミと銅と亜鉛とマグネシウムなどとの複雑な合金だからです。

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2008年2月13日 (水)

576 熱管理2

低い温度の廃熱の利用に当っては、山ほどの工夫が必要です。つまり、廃熱の温度や量は雑多なので、その利用に当っては先ず正確なリストを作る必要があります。煙突や冷却塔やラジエータの空気出口の温度、その量を把握する必要があるのです。一方で、熱を必要としている設備もやはり、その温度と熱量を正確に掴む必要があります。

これをつき合わせてじっくり検討すれば、いくつかの可能性が見えてくるはずです。例えば加熱炉から出てきた製品を空気で冷やしている工程を考えてみると、製品を冷やした空気の温度は、もしかすると100℃くらいはあるかも知れません。この空気を熱交換器に導いて水を加熱してやれば、50-60℃のお湯は簡単に作れます。その結果、工場で使っている温水がまかなえますので、それまでに使っていた灯油ボイラーや電気温水器は不要になるわけです。別の工程を眺めてみると、例えば加熱炉の近くのラインでは原料の乾燥や予熱に蒸気を使っていることに気がつくでしょう。湿り蒸気の温度は、100℃を超えても知れていますから、加熱炉の廃熱を導いて予備乾燥を行えば、蒸気の使用量は。例えば半分にできる可能性があります。

これを、エネルギーのカスケード利用と呼びます。カスケードとは、多段になった小滝の事ですが、ここではエネルギーを温度が高い順番に、いくつかの段階で無駄なく利用することを指します。いまの省エネルギーのアプローチは、エネルギー効率の高い変圧器や設備を導入することが主流ですから、効率改善は精々数パーセントにとどまります。しかし、エネルギーのカスケード利用に必要なことは、工場の綿密な観察といくつかの工夫だけなのです。精々必要なハードウェアとしては、ダクトや断熱材程度で済みます。

このように、熱は放っておけば周りの環境温度と同じになるまで、ただ温度が低下するばかりですので、エネルギーの放出を、徒に指をくわえてながめるだけになります。低い温度でも工夫をすれば十分役立つ用途もきっとあるはずです。必要な事は、目には見えないエネルギー=熱の流れをどうにかして見極める努力をする事です。道具として準備するなら1万円弱の「放射温度計」か、ちょっと奮発して50万円くらいまで価格がこなれてきた「サーモグラフィー」があれば、熱の流れを可視化することが可能となるでしょう。

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2008年2月12日 (火)

575 熱管理

あらゆる形態のエネルギーは、最終的には熱(遠赤外線)になって、結局は絶対零度の宇宙に放射されて消えてしまいます。植物にしても動物にしても、私たち人類にしても、このエネルギーの相変化や流れの中で生命を維持しているわけです。例えば植物は、葉で太陽光の持つ光のエネルギー(フォトン)と水と炭酸ガスを使って光合成を行い、炭化水素をつくります。炭水化物として固定されたその太陽エネルギーを、分解する過程で生ずる化学エネルギーとして動物が利用します。化学エネルギーを利用するためには、適当な温度が必要ですから、高等な動物は体温を維持する機能も発達させました。動物の体表面からは、間断なく熱が放出されるため、それを維持するためにも動物は食物を食べ続ける必要があります。

さて、工場も動物の体と同じような有機体であると想定してみましょう。工場を維持するためには、製品を加工するための原料やエネルギーを取り入れる必要があります。生産活動の結果、工場からは大量の要らない熱(廃熱)が放出されることになります。殆どの廃熱は、工場が持つボイラーや冷却塔から大気に放出されます。温まった空気の分子は、より強い振動を起こしますが、やがて赤外線を放出して元の温度に冷えてしまいます。煙突以外からも、多くの廃熱が放出されます。モーターを良く見ると、外側のケースにヒダヒダが見えますが、これは放熱フィンです。モーターは効率の高いエネルギー変換機(電気エネルギー→回転動力)ですが、投入したエネルギー10%近くは熱になってしまいます。そのままでは、モーターは焼けてしまうので、仕方なく自分でファンを回して、放熱フィンから熱を大気に逃がしているわけです。同じように、エアコンプレッサーを回しても、大量の熱ができてしまいます。その為に、冷却水を流したり、空気で冷やしたりしてやはり熱を取り去っています。

一方では、ボイラーを焚いて熱を作り出しながら、他方では熱を捨てているという矛盾に、どれほどの人が気づいているでしょうか。勿論排熱の温度は低いのですが、何しろ量は莫大です。その利用法を工夫せずしては、省エネルギーの掛け声は全く虚しく響きます。続きます。

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2008年2月11日 (月)

574 技術の色分け

少し前、科学について思うところを書きました。では、技術とは何か、ここでもう一度「元技術屋」であることを踏まえて反省してみたいと思います。

科学は学問ですが、工学は学問とは呼べず、むしろ経験則を体系化したものであると表現した方が適切かも知れません。何かと何かを混ぜたら、別の性質を持つ何かができた。たとえば、触媒を使った化学反応によって分子の重合が起こって石油からプラスチックが生まれたとか、錆びやすい鉄にクロムとニッケルを1-2割入れたら、錆びない美しい合金(ステンレス鋼のことです)ができたとかなどの例が示す様に、これらは科学的に予測した上で生まれたものではなく、「技術的試行錯誤」の結果徐々に改良されてきたものですが、そんなものが技術の世界には圧倒的に多いのです。科学では相対性理論の様に、全く新しい知見が生まれることがあるのに比べ、技術は全て以前の技術の土台の上に積まれた、新しい技術のレンガのようなものです。科学は、放射性元素のように危ないものであっても良いのですが、技術は安全なものでなければ絶対に実用にはなりません

しかし、ここで考えておかなければならないのは、安全とは言いながら実は人間にとっての安全しか考えられてこなかったところに、「技術の欠陥」が潜んでいたと言うべきでしょう。冷静に振り返って見ればこの欠陥の予兆はありました。それは、古くは銅鉱石の精錬過程から出る鉱毒による人間の健康被害や周囲環境の破壊事件、新しくは化学コンビナートから出る硫黄酸化物や有機水銀、あるいは製紙工場から出るヘドロや、熱媒体や変圧器油として多用されたPCBなどが原因となった公害・健康被害事件が挙げられます。しかし、公害や健康被害は何も人間だけの問題ではなかった訳です。巻き添えを食ってどれほどの生物が被害を受けたかを考えると気が遠くなりますが、これを黒い技術と呼んでおきます。

一見、日本では表面上の公害は克服されたようにも見えますが、実態は必ずしも手放しで喜べる状態ではありません。なぜなら公害が出やすいヤバイ鉱物の採掘や精錬は、殆どのものが海外で行われ、日本はそれを輸入して加工しているだけなのですから。黒い技術を海外に放り出し、一見小奇麗な自動車産業などを国内に残す、という技術の色分けは、元技術者である投稿者には全くナンセンスな行動に映ります。少なくとも車産業は、投稿者の目には「グリーン」には映りません。それどころか、逆に限りなく黒に近い灰色に見えてしまいます。

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2008年2月10日 (日)

573 道路

国会では道路特定財源の議論が「かまびすしく」行われています。ここで、そもそも論に戻って、道路の機能について考えて見ます。道路は、モノや人の移動に必要なものです。江戸時代に狭い街道で用が済んだのは、広い道路は軍勢の移動が容易となり、各藩の防衛上好ましくなかった事と、精々馬車や2列になった大名行列が通過できれば道としての用が足りたからですが、その後の長い鉄道輸送の時代から、やがて今の車の時代になってからは、トラックがスピードを保ちながらすれ違える道幅と、土ほこりが立たない路面舗装が必須となってきたわけです。

さらに、Dエイに始まり、IY堂やK猫便に代表される大規模流通業が隆盛を極める時代に至って、いわゆる高速道路網の必要性が叫ばれ始めたのでした。つまり、道路の必要性やその規格は、それを使って運ばれる物量の多寡によって決まってくる筋合いのものだといえます。

そうであれば、いまの道路論議の中心は、従って物流量を今以上に増やすのが正しい事かどうかの議論に還元できるはずです。運ぶ事は環境には間違いなく大きな負荷を掛けるということは、このブログでも指が痛くなるほどキーボードを打ってきました。トラックの製造、輸送に使う石油、排気ガスによる健康被害、そして地球規模では温暖化の加速です。経済規模の維持のためには道路の整備は必要だという主張と今以上の環境悪化に歯止めを掛けるには、物流を抑制すべきだ、という背反する主張のせめぎあいとも言えるでしょう。

では、この二論を両立させる道はないのでしょうか。道路が整備されていなかった江戸時代に、経済活動が貧弱であったかを考えてみれば、その答えが見えてくるかもしれません。江戸時代に長い距離を運んだものは、相対的に価格の高い産物でした。それに比べて、現代の物流システムが運んでいるモノはといえば、私たちの可処分所得との比較で言えば安いものが多いと思われます。石油を運ぶタンクローリーは、確かに数百万円分の価値を持つ液体を運んでいるでしょうが、例えば野菜を積んだトラックは数十万円程度の価値を運んでいると想像しています。そうであれば、野菜はできるだけ消費地近くで生産し、なるべく運ばない工夫をすれば、経済活動をそれほど低下させずに、しかし輸送量は抑制できると思うのです。都会近くの農地を次々につぶしておいて、足りない分は多少安全性に問題はあっても、海を越えて安いモノを中国や諸外国から輸入するという「環境的ムダ」にはここらでブレーキを掛けたいものです。

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2008年2月 9日 (土)

572 「新」用不用説?

ラマルクが提唱した「用不用説」ですが、その後のダーウィニズム(ダーウィンの進化論)に取って代わられたとはいえ、一つの真理を言い当てているとは思っています。

その一例です。昨年の夏は、膝が痛くて山に向かう回数が減ったような気がします。登りは兎も角も、山を下るときに強い衝撃が膝に加わるとズキンと痛んで冷や汗をかいたものです。しかし、よくよく考えてみると、サラリーマン時代は毎日ジョギングしていたのですが、最近は殆ど走っていない事に気がつき、秋口からは週末だけですが、また少しずつ走り始めました。不思議なことに、最初痛んでいた膝が徐々に軽くなってきたのです。数ヶ月後には膝が全く気にならなくなりました。どうやら膝関節のクッションが、適当に使った結果かなり再生されたようなのです。機械と同様、人間の体や頭もあまり使わないで放っておくとやがて錆び付きます。関節で言えばクッション組織や潤滑油が減ってギシギシしだしますし、多分頭についても同様で、物覚えが悪くなり、閃きも無くなるでしょう。機能を維持するには、とにかく頻繁に使うしかないわけです。

ラマルクさんは、努力して使った結果、発達した機能は遺伝するに違いないと考え、ダーウィンさんはそれを否定したわけです。しかし、投稿者としては、父親が新しく獲得した能力は兎も角も、母親が獲得した能力は、例えば体内の多用なホルモンや免疫システムなどを通じて、卵や胎児に少しは遺伝してもおかしくないのではないか、と考えています。つまり、進化が主に母親の体内で引き起こされると仮定できるなら、投稿者の「新用不要説=新ラマルク説」もあながち全面否定されるべきではないかも知れません。むしろ、当るも八卦の突然変異説よりは、能率の良い進化の形態となり、人類などの哺乳類の「進化の上での新参者」が現れ・急速に進化した現象の説明もし易くなるのではないでしょうか。間接的な証拠として、第2次大戦下のベルリンで空襲のストレスを受けた妊婦から生まれた男児のうち、約1割が明確なホモセクシャルの傾向を示したというデータがあります。母親は、闘争好きで戦争を引き起こした男どもを見ながら、自分の子供だけには、男らしさよりむしろ優しさを遺伝させたかったのかも知れません。

などと、進化について突飛な仮説を考えて見るのは、誰にも迷惑をかけない投稿者の趣味のようなものです。

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2008年2月 8日 (金)

571 海外ボランティア

日本では、本来の環境カウンセラーとしての仕事は結構暇なので、近々海外ボランティアに出ようと思います。省エネルギーへの取り組みが遅れている、東ヨーロッパや旧ソ連の国々が当面のターゲットです。昨年からヨーロッパ銀行が資金を出しているこの種のプログラムに人材登録しており、何度か提案書も提出していますので、その内に引っかかると思っています。これまでのところ3回の提案書を出しましたが、残念ながら3戦3敗に終わっています。

エネルギーの逼迫や公害などの環境悪化に悩んでいる国々は、アジアを除けば東欧や旧ソ連に集中しています。そこでは、社会主義時代に作られて、効率の悪い古い設備をだましながら使っており、公害の発生と資源・エネルギー効率の低い産業構造の二重苦に悩んでいるようです。エネルギーは放っておけば、使えない質の熱(低い温度の輻射熱)となって、あらゆるところから逃げ出します。しかし、一定の考え方でその逃げ出すルートを発見し、断熱材などで遮ってやれば、熱効率は大幅に上がります。また、工場の各工程で必要とされるエネルギーの質(例えば温度)と量を把握できれば、例えば少しのエネルギーダクトを引き回すだけでも、エネルギーのカスケード利用が可能となります。

幸いにも、毎日まいにち考え続け、企業などにもマメに足を運んでいる事もあり、投稿者の中には、その様な省エネルギーや省資源=廃棄物の圧縮の智恵や工夫が日々蓄積されつつありますので、今それをまとまった形で整理中です。日本語版と英語版で作っていますので、近い将来それが途上国でのボランティアでもきっと役立つはずです。忘れかけている英会話も、錆び付かないように少しずつでも使っておく必要もあります。そういえば最近、日本人の顔をした外国人(韓国人の留学生でした)に高山駅前で、全く唐突に道案内を求められたことがありましたが、地図を見ながら問題なく受け答えができて、ついでに世間話も出来ましたので、多分こちらの方もあんまり問題ではなさそうです。後は、途上国側のニーズと投稿者の提案書が上手く一致するのを待つだけです。

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2008年2月 7日 (木)

570 Yさんの法則

これは投稿者の考えた法則ではないのですが、最近Yさんと話をしていて、結構納得したので、ここで法則シリーズとして紹介しておきます。それは、掛け算の法則とでも言うべきものです。全体のパワーを10とした場合、最小で1x9=9という掛け算も成立するし、最大では5x5=25という答えもあり得るわけですというものです。もう少し分かり易い例を挙げるなら、仮に日本に10の省庁があるとして、縦割り行政で個別の行政を行っている間は10のパワーしか出せませんが、横の連携を取りながらいくつかの省庁が協力できるならば、全体のパワーはかなり増強できるはずです。

より具体的には、例えば森林の手入れは農水省の守備範囲内にはなりますが、それを怠った結果洪水が発生し、河川の氾濫や土砂崩れにより道路や鉄道が被害を蒙ることにもなります。現在のわが国のシステムでは、こちらは国交省の守備範囲になっているわけです。しかし、ごく最近の例でも、台風の当たり年で、集中豪雨が多発し年間5000億円もの災害(水害)復旧費が発生した年がありました。今、この復旧費の半分か1/3でも森林の手入れに振り向けることができるなら、今後の水害の発生も大幅に抑制できることにもなるでしょう。その結果、災害復旧という「マイナスの予算」が軽減でき、税金も軽くできるはずです。一時のマイナスの予算を道路・建設業界に垂れ流すか、そうではなくて森林の手入れというプラスの予算を地方の行政や森林組合などに継続的に渡して活性化させるのでは、将来にわたって大きな違いが生まれることにもなります。

山の手入れは、ひいては経産省や環境省にも関わる温暖化防止効果にもつながってくる話になりますから、同じ予算で何倍かの効果が期待できることになります。要は、いまの社会は機能が細分化され過ぎていて、全体を俯瞰してそれを調整する機能がどこにも存在しないことが問題なのでしょう。その困った状況は、規模が大きくなった企業などでもしばしば(というより必ずと言ってよいほど)目にすることができるものです。結局、人間は「虫の目と鳥の目を同時に持つことができない」悲しい存在なのだといえるかもしれません。そうではあっても、時と場合によってこれを切り替える努力は必要だと思うのです。

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2008年2月 6日 (水)

569 時間の意識

「時間シリーズ」の続きです。人がふと「人生とは?」などと考えるとき、必ず時間を意識せざるを得ません。そんな事を考えない日常生活では、人は今現在の事、目の前のことしか頭に無いはずです。会社での仕事やあるいは今晩のオカズ、子供の教育、近所付き合いや人間関係などなど。目の前の問題を如何に上手に切り抜けるかを判断する、それが脳の本来の機能でもあるわけです。

しかし、幸か不幸か、進化の過程でヒトだけには高度に発達した「前頭葉」が与えられました。ここでは、将来の予測をすることも出来るようになったわけです。しかし、一方では過去の経験に照らして、将来起こるかもしれない問題の予測(つまりは心配のことです)も出来てしまうので、これが実はヒトに「悩み」をもたらしてしまったのでした。動物は精々数秒先までしか予測が出来ないので(動物に直接聞いた事が無いので、時々見る犬や猫をチラッと観察した程度の想像ですが)、先走った心配というものを知りません。従って悩みも無いわけです。

一方で、ヒトは時間の経過を追って物事を記憶する「エピソード記憶」が出来る能力も手に入れました。この結果、物心ついて以降の主な出来事は、殆ど思い出す事が可能なのです。忘れた(と思っている)ことも、潜在意識の中では活き活きと記憶されているはずです。その証拠に、催眠状態では過去の記憶の細かい部分まで想起できてしまうからです。しかし、そこにはまた「後悔」などという余計なものが忍び込む余地も生まれてしまいます。

過去のエピソード記憶にしても、先々の心配にしても、結局は時間が問題になります。自分が生まれる前の事は歴史として字面で学ぶだけですから、エピソード記憶にはなり得ませんし、将来のことも、何十年先の事は全く現実味がありませんので、単なる夢想に過ぎません。歴史と、夢想の間にその人の「人生時間」が挿入されているのでしょう。

人生時間の中の自分のエピソード記憶を辿り、現実的な将来のことを思い悩むことが即ち人生を想うということなのだと思います。投稿者の場合、まだ見ぬ将来世代に起こるであろう事態(耐え切れない環境悪化のことです)もついつい想像してしまうという「お節介」な性格を持って生まれてしまった結果、頼まれもしないのに「貧乏な環境おじさん」を買って出る羽目になってしまいました。お節介恐るべし、です。

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2008年2月 5日 (火)

568 休題(発明おじさん)

投稿者は環境おじさんを自認していますが、仕事柄「発明おじさん」に出会う機会が結構多いのです。発明おじさん達には、いくつかの決まったパターンがあり人間として興味を惹かれます。さてパターンその1は、彼らは必ずと言ってよいほど「永久機関」を夢見るということです。一度動かせば、永久に止まらないエンジンを夢想したり、入れたエネルギーより大きなパワーが取り出せると主張したりする人が実に多いのです。彼らの頭の中からは、摩擦や損失や効率や熱機関における「マックスウェルの悪魔」といった障害の事はすっかり消えて、発明の大平原に立っているつもりの様なのです。パターンその2は、自分こそが世界で始めて「あるアイデア」を考案したと、これも固く思い込んでいることです。ですから、年金生活者であっても、奥さんと喧嘩してまで大枚をつぎ込み特許出願をするわけです(勿論これらの出願は拒絶査定でチョンとなるのがオチですが・・・)。喜ぶのは弁理士の先生と特許庁という図式です。パターンその3は自営業であるという点です。元サラリーマンで、年金生活に入ったという人も居るには居るのですが、かなりの確率で彼らは自営業のおじさんたちなのです。床屋さん、電気屋さん、商店主などなどです。きっと毎日客の頭を刈りながら、あるいは暇な店番をしながら新しいアイデアを練っているのでしょう。

しかし一方で、「発明主婦」は徹底した現実主義者です。彼女たちは、まず例外なく生活に役立つ小物「しか」発明しません。これだと試作をしてもお金も掛かりませんし、自分でも作れます。適当な店に「発明品」を並べておけば、物好きが目ざとく見つけてくれて、それなりに売れて小遣いも稼げたりします。この種のアイデアを1000個も考えればたぶん3つ位は、一ヶ月当たり数万個程度売れるヒット商品が転がり出して、上手くいけば軽自動車の一台も買えるくらいのお金も稼げるでしょう。発明おじさんは、しかしこれでは満足しません。何しろ一発当てて億万長者になろうと日夜頭を絞っているのですから、狙う目標の高さが違います。

投稿者としては、仕事でもありこれらのおじさん達の話を聞くのは、非常に楽しいのですが、それなりに気も使いますし、根気も必要です。何故なら、絶対に彼らの夢を壊してはいけませんし、かといってその気にさせても収集がつかなくなってしまいます。コツは、科学の原理を分かりやすく説明し、もう少し工夫が必要であることを納得させる必要があります。しかしその工夫が簡単に出来るようなものであってはダメで、あれこれ考えるのに更に数年程度掛かるものであれば理想的です。その間、彼らの生き甲斐は持続し、張り合いを持って残りの人生に挑めるでしょう。人間の生きるエネルギー源は絶対に「生甲斐」だと思っていますので・・・。大博打さえ打たなければ、人畜無害な発明は、お年寄りには理想的な趣味であるとさえ言えるでしょう。

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2008年2月 4日 (月)

567 知識と知恵

以前に少し書いたような気がしますが、ここで知識と知恵の違いをもう一度整理してみます。投稿者の言葉で言えば、知識とは図書館の本のごとく、あるいはダムに溜まった水のごとく「ストック」であるわけです。しかし知恵はストックが利きません。何故なら、知恵とは困難にブチ当たったときに、それを切り抜けるために絞り出すものだからです。昔から、村々には長老や年配の知恵者と呼ばれる人が居て、村人たちの大小の問題を解決してきました。知恵を出すには、単に賢いだけでは足りず、ある程度の経験も必要である場合が多いからです。知恵は、ストックが利かないと言いましたが、ある程度の伝承は可能です。ご先祖様の多くの知恵は、親から子へ、子から孫へと伝承され、時には改良が加えられて今日まで受け継がれてきました。しかし、核家族が普通の家庭の形となった高度成長期以降、日本での知恵の伝承の火はほぼ立ち消えたとも言えるのではないでしょうか。おじい、おばあの智恵は、早々と自立して都会へ出て行った子供たちにも、まして孫たちには全く受け継がれないわけです。

たとえば、団塊の世代は、都会に出て大学を卒業し、企業教育もありそれなりの知識は身につけたでしょうが、田舎で暮らす年老いた親からの知恵は受け継いでは居ないはずです。今こそ、彼らは田舎に戻り、改めて親世代からの知恵を受け継ぐ努力をすべきでしょう。「団塊直後世代」である投稿者も、10年以内には田舎にはせ参じるつもりで準備中です。そのためにも、私たちは先人たちが蓄えてきた智恵を受け継ぐ努力をしなければならないでしょう。取り分け、自然を持続的に利用するための智恵、例えば里山の雑木の利用法、野山の山菜の恵みや薬草の知識、土の肥やし方、自然観察による天候の予測、川や海の幸を得る技、食糧保存の方法、暑さや寒さに耐える技などなどを是非学びたいものです。

つまり、永く伝承すべき智恵とは、刻々と到達しては流れ去る「フロー」としてのエネルギーである太陽光を、如何に上手く利用して、私たちが生きていくための取り込むのか、という方法を示しているのだといえるでしょう。

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2008年2月 3日 (日)

566 アリ地獄

またぞろ素人経済学です。世の中にお金が余っているという話を再々書いています。そのお金が湧いてくる場所は、実は地面の下からです。石油、石炭、鉄や多くの金属、鉱物の類は全て下から掘り出されます。エネルギーは、最終的には低い温度の廃熱になって、やがて宇宙空間に放射されて消えるものですから、ある意味ではあとくされの無い資源です。一方、金属や鉱物類は、その精製・精錬工程からでる有害物、使用後リサイクルされない廃棄物を考えると「頭の痛いものども」なのです。

ここでは、資源の経済的位置づけを考えますので、これらの資源がお金に換わった瞬間から考えをスタートしましょう。金属を考えると、金属精錬会社の多くは自社の山を持ち(あるいは山の所有者・所有国と長期契約を結び)、鉱物を掘り出しては自分で精錬して金属材料として出荷しています。さて中間の問屋が精錬会社にお金を振り込んだ瞬間から、ただの石ころが金属という商品になってお金を生み出し始めます。問屋から金属材料を買ってそれを部品に加工する会社、その部品を使って二次製品や最終製品を作って市場に出している企業、その商品を流通させる企業、そして小売業を経て消費者の手に渡ります。

消費者がもの買うお金は、地下資源を掘ったり、精錬したり、加工したり、流通させたり、売ったりして得たお金ですから、結局地下からものを掘り出して、それを動かさない限り世の中の経済は回らない仕掛けです。しかし、地下から資源を掘り出せば掘り出すほど、地上には廃棄物が堆積し、お金もダブつく結果になります。ダブついた結果凶暴になったお金は、その投資の矛先を、石油に向けたり、金に向けたり、食料に向けたりして暴れまわる事態に陥るというわけです。

ここまで考えてくると、私たちが地下資源への依存というアリ地獄から逃れるには、地上にある資源(つまりは太陽光やバイオマス資源)に何とかしがみつきながら、少しずつ這い出すしか方法は無さそうなのです。殆ど全ての「科学」や「技術」は、潤沢で安価な鉱物資源や化石エネルギーの使用を前提にしている事はいまさら指摘するまでもありませんが、やはり結論としては、科学や技術でこの「地下資源依存のアリ地獄」から抜け出ることが出来るなどと考える「某先進国」の首相は、科学技術に頼れば頼るほどエネルギーと資源の消費は増える、という自己矛盾に全く気がついていないとしか思えないのです。

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2008年2月 2日 (土)

565 環境ロンダリング

マネーロンダリングという言葉は時々マスコミに登場します。これは汚いお金もそうでないお金も、一度お金になってしまうと区別がつかないため、悪事隠しに利用されるという文脈で使われますが、ここでは環境悪化のロンダリングを考えて見ます。ややこしい例ですが、環境に大きな負荷を与えている企業が、大きな収益を上げ(お金を儲けて)、そのお金を環境改善に寄与する活動へファンドなどを構えて援助を始めたとしましょう。社会的にみれば、現代の社会ではこのような態度は大いに評価される事でしょう。何しろ、環境に大きな負荷を掛けようが、それが合法的な企業活動でさえあれば、いくらお金を儲けても文句をつけられる筋合いは無い、と自由主義経済社会では胸を張って主張できます。

少し前に「金ゴミ」について書きましたが、お金と環境の関係を考えてみても、一番の問題は環境を悪化させながら稼いだお金も、生きていいくために必要最小限の活動で得たお金にも、お金には何も印がついていないので、それを貰った側には全く判断がつかない事です。ここに環境ロンダリングの危うさが隠されているのです。

同じように、商品だけを眺めまわしても、素人にはそれがどの程度環境に負荷を与えて出来上がったものか殆ど分からないのは困ったものです。せめて、その製品が消費者に渡るまでに一体どの程度のCO2の排出があったのか、ラベルに表示してもらいたいものです。ただ困るのは、例えばこの製品を、工場から出荷し、消費地に運搬している間にも刻々と増加居し続けているCO2の排出量をどうやって表示させるかです。更に、耐久消費財であれば使用中にも、それを廃棄する場合にもドンドンCO2を出し続けるわけで、それを次々に加えていかなければなりません。そんな面倒な仕掛けを考えるくらいなら、いっそその製品を消費するのを止めてしまう方がよっぽど楽かもしれません。そうでなくても、せめて5段階程度でも良いので、環境負荷の大きさが素人にも分かるようにしたいものです。つまり、限りなく「グリーン」なのか、限りなく「ブラック」なのか、その中間なのかの表示のことです。

とは言うものの、環境負荷の大小はCO2排出量の評価だけでは、一つの側面しか見ていないこともまた事実です。正確な意味の環境負荷とは、持続可能性に与える影響全てを含む、といえるからです。

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2008年2月 1日 (金)

564 バイオ燃料

バイオ燃料(いわゆる穀物アルコールの事です)を買ってはいけません。馬鹿を言うな、買うのは個人の勝手だと言われても、やはりやめていただきたいのです。理由は簡単で、バイオ燃料は食料事情を逼迫させ、かつ環境にも決して優しくないからです。何度か書いていますが、穀物を育てるには非常に多くの資源が投入されています。穀物からアルコールを得るには、穀物1トン当たりでも、数千トンの淡水、数百CCの農業機械の燃料や運搬トラックの燃料、アルコール工場の運転エネルギー、できたアルコールの消費地までのタンカーやローリーでの運搬などなど。考えただけでも、1リットルのアルコール燃料を消費者が手に入れるまでに費やされる「化石燃料」を考えるだけで、環境おじさんとしては吐き気がしてきます。それも、バイオ燃料だけで世界で7億台とも言われる全ての車を動かせるはずもなく、焼け石を冷やすための(実際には全く効果は期待できない)一滴の水のために貴重な食料を潰してしまう愚には真っ向反対なのです。

結局バイオ燃料は、「ピンチヒッターにも何もなり得ない」のですから、そんな無駄なことに税金や研究者の人材を使わないで、たとえば太陽光と水だけを使って水素を作る研究などに注力すべきでしょう。将来の持続可能型エネルギーの研究費は、迷わず化石燃料への課税(炭素税)で賄えばよいのです。ガソリン1リットルに、たった1円でも良いので炭素税を上乗せするだけで、何百人もの研究者の給料が出てくるでしょう。

もう一つ必要な事は、化石燃料を高値で安定させ、省エネルギーに寄与する技術を徹底的に誘導することです。人間は困り果てれば結構優れた知恵を絞り出すものです。もし、私たち世代にそれほどの知恵が無ければ、ご先祖様たちが編み出した、知恵を掘り起こせば良いでしょう。たとえばご先祖様は、身の危険を顧みず、あらゆる野草や木の実やキノコを口に運んでその安全性を人体実験し、里山から得られる薪炭や農業残渣を燃やしてエネルギーとし、魚の干物(魚粕)や家畜堆肥や人間のし尿まで肥料として活用しつつ、田畑から持続的方法で作物を得てきたのでした。私たちには、その時代には無かった金属やその他の豊富な材料があります。彼らの知恵と、現代の材料をドッキングさせれば、持続的で優れた代替エネルギーを手に入れられると思うのです。

カーボンニュートラルなどという耳に心地よい言葉に惑わされないようにしたいものです。問題の核心は、石油の代替燃料を探す事ではなく、石油の使い過ぎの抑制なのです。石油の消費を抑制すれば、相対的に代替燃料の比重が増加し、資源の温存にもつながります。確かに地球の温暖化により多くの生物が絶滅し、その多様性が失われるでしょうが、どっこい多くの生物は自らを進化させ新しい環境で生き延びていくはずです。その意味では、環境悪化と同時に起こるエネルギーの逼迫で、一番被害を受けるのは、家や衣服で体を過保護に守り、過度に調理した加工食品を常食して、環境変化への適応力を失い「退化しつつある」人類自身である事は銘記しておくべきでしょう。

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