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2008年4月30日 (水)

652 ばっかり食い

昨日書いた「食材の工業製品化」の結果は実はかなり深刻です。虫も近寄らない、形の揃った「製品野菜」や「製品果物」を作るため、例えば虫の付きやすい葉もの野菜は、多いもの(生育に時間の掛かるもの)では数十回にも亘り農薬の散布を受けることになります。農薬は、人体毒性の低いものに代替されてきたとはいえ、中国野菜の悪口も言えない実体だといえます。

問題は残留農薬だけではありません。スーパーに年中同じような食材を並べる努力の一方、消費者もパターン化した買い物をする傾向になるのは仕方がない事でしょう。丁寧に調べた結果では、平均的な日本の家庭は、1週間でも30種類程度の食材しか摂っていないようなのです。多分、味付けは和洋中印あるにせよ、食材としては肉数種類、卵+乳製品、野菜数種類、加工食品週種類、冷凍惣菜数種類、加えて米とパンと麺(小麦)、主として小麦と砂糖と卵と油脂で出来た菓子類程度でしょうか。確かに30種類位かもしれません。

同じものを食べ続けるのを「ばっかり食い」というらしいですが、日本人は利便性と引き換えに、国民的なばっかり食いに陥っているとも言えるでしょう。雑食性であるべきヒトが、ばっかり食いに陥る危険性は改めて指摘するまでもないでしょう。つまり、非常に弱いとはいえ、多くの食物には毒性(アルカロイドなど)やアレルゲン(卵や小麦やソバなど)が含まれます。これを毎日摂り続ける結果、生活習慣病や各種のアレルギー反応などが発症することにもつながります。残留農薬に関してもばっかり食いは危険です。流石に今日では有機水銀系の農薬は、国内では使われていませんが、体内に蓄積する性質を持つ農薬が使われている同じ種類の野菜を日常的に摂取し続ける危険性は、いまだ正確な評価が下されていないと危惧しています。

投稿者の小さい頃の、日本の伝統的な生活を思い起こしてもそれほど豊かであったとは言えません。しかし、少なくとも旬の無農薬の有機野菜やその漬物と、近くの山や海や川で手に入る食材(山菜や各種の魚やカワガニなど)、豚肉と鶏肉に加えて鯨肉や時々は猪や熊の肉、近所のオジサンが取って来る「ある種のヘビ」やハチの子やイナゴなどなど。種類だけから言えば、圧倒的に豊かな食生活だったと言い直しても良さそうです。大橋力によれば、アフリカのピグミー族に至っては、森で自然に手に入れているだけですが、何と300種類もの食材を口にしているとの事です。一体何が本当の豊かさなのか、しみじみ考えさせられます。

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2008年4月29日 (火)

651 利便∝環境負荷

以前「便利中毒」について少し書きましたが、さらに突っ込んでみます。さて、便利であること、利便の追及には一体どんな意味があるのでしょうか。人間だれしも今より便利になる事には抵抗できにくいもののようです。そのためには、かなりのコストさえも負担します。例を挙げないと分かりにくいので、たとえば東海道の旅を想定してみます。街道が整備された江戸時代、関東と関西間の旅は約1か月を要しました。自分の足を使い、てくてくと何十万歩も歩き続ける必要がありました。画期的にこの旅を便利にしたのは鉄道でした。トロトロした蒸気機関車は、やがて高速機関車(D51やC62など)に改良され、さらには電気機関車へと脱皮しました。利便性、スピードの追及は新幹線の登場へと導き、いまや700系に進化し、それでも飽き足らずにリニア新幹線まで突き進もうとしています。

しかし、本当に今以上利便性の追求だけに突き進んで良いのか、ここで立ち止まって考えて見る必要があるでしょう。何故なら、利便性の追及には陰で大きな代償の支払いが生ずるからです。これは、コストの負担の増大だけを意味しません。高速鉄道の利便を享受するためには、単位当たり(旅客一人当たり、1km当たりのエネルギー消費率)のエネルギー消費の増大、元の美田やゆたかな畑地であった場所を埋め立て、または高架をかけ、多量のコンクリートや鉄などの資材を注ぎ込んで鉄路の建設という環境への負荷(はっきり言うなら環境破壊です)とコスト負担が必要となります。これを法則風に言えば「利便性と環境への負荷は比例する」と表現できるわけです。

別の例を挙げるなら、季節外れの野菜や果物があります。それらの食材を、季節を問わずに手に入れる利便性と引き換えに、端境期(作物の取れない時期)に南の産地では冬季に石油を燃やしてハウス暖房をし、または夏場の高冷地では数種類の作物を集中して作付けする事になります。商品作物は、完璧に選別され、梱包されて夜中の高速道路を走り、都市の市場に運びこまれ、さらに小分けにされてスーパーのバックヤードに送り込まれます。いわば、畑ではなく「土のある工場」で生産されるこれらの野菜や果物の味は、まさに暖房や輸送に使われた石油の味でもあると言えるでしょう。続きます。

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2008年4月28日 (月)

650 Fordの風力発電

Ford社が海外(イギリス)の工場に、電力供給を目的にした、かなりの規模の風力発電設備を導入したという小さな記事に注目しました。石油文明の申し子であるFord社が、自然エネルギーに目を向けた(あるいは目を向けざるを得なかった)事に時代の流れを感じてしまいました。20世紀を通じ、アメリカはラッキーな国であり続けました。南部では、自然な状態で質の良い(軽い)原油が地面に滲み出ていましたし、少しの動力を使えばそれを汲み上げる事は容易でした。それを利用した石油産業(石油成金)と車産業が隆盛を極め、ビッグスリーと呼ばれる自動車産業の巨人と、セブンシスターズと呼ばれる石油メジャーが飛ぶ鳥を落とす勢いで、世界中に手を伸ばしました。陰りが見えたのは、たぶん1970年代半ばでしょうか。その原因は、アメリカ国内の石油産出量がついにピークを打った事にあります。仕方なくこの国は、強大な武力と国際的影響力をバックとして中東やアフリカや東南アジアなどに手を回し、石油資源の確保に奔走したのでした。ベトナムでは手ひどい敗北も味わいましたが、結果としては、直接的または武器供与による間接的手段で、20世紀の後半を通じ、世界各地で頻発した紛争の火付け役ともなったのでした。

さてFord社の風力発電ですが、投稿者としては、この構図に強い違和感を抱いてしまいます。それは、一方では石油をガブ飲みする自動車を大量生産しておきながら、その生産ラインに炭酸ガス排出を削減する目的で、ささやかな風力発電の電力を使うという明らかな自己矛盾への違和感です。そうではなくて、仮にももの造り産業の代表としてのFordが取るべき正しい道は、燃費を大幅に改善した新時代の乗用車を開発し、社会に提案する事しかあり得ないでしょう。勿論この言葉は、日本の車産業にもそのままのしを付けて差し上げる事にいたします。更に掘り下げて提案をするなら、これら20世紀型の車産業には、是非車に代わる新しい形での省エネ・省資源型の社会インフラ(交通システム)を提案して貰いたいのです。それは、自転車とLRTを組み合わせた都市交通システムの様に、稼業の車の生産とは多少趣を異にするかもしれませんが、それが今後の社会の向かうべき方向として正しいのであれば、躊躇する必要はまったくありません。環境への負荷低減への企業の社会貢献と称して、Fordの小手先の風力発電や、日本のT社の様な小規模の植林程度で、「お茶を濁してはならない」でしょう。環境に重篤な負荷を与える原因を作り出しているという意味では、環境保全に関して車産業の果たすべき責任は非常に大きいと言わざるを得ません。

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2008年4月27日 (日)

649 虫も食わない

中国食品、オモチャや衣服に含まれる添加物や有害成分が問題になっています。しかし、本当に問題なのは、食品の原料となる農作物の残留農薬、さらにはポストハーベストと呼ばれる、貯蔵・輸送に関わる追加の薬品散布なのです。輸出する側としては、倉庫に保管している間や輸送中、荷揚げ後の日本国内での倉庫保管中に虫が湧いては大変な損害です。その農産物全体を廃棄せざるを得なくなるでしょう。従って、そうならないための防衛手段として、生産者や流通業者は過剰なほどの農薬散布やポストハーベストを行う事になります。過剰とはいえ、希望的観測ですが、それが法令で定められた範囲内には抑えられているとは思います。しかし、この規制値がどのように定められたかについては、必ずしも明確ではありません。多分、ある農薬成分の残留により、例えば100万人の内の何人かが病気になるかあるいは死亡するかの確率、などがその根拠になっていると思われます。とはいえ、人体実験をする訳にはいきませんので、ラットや動物実験の結果を敷衍しているに過ぎないと想像しています。しかし、複数の農薬や防虫剤が複合した時の安全性に関しては、確認されていないはずなのです。それも当然で、農産物に残留する農薬や防虫剤の種類やその濃度レベル組み合わせは、事実上無限大なので、検証しようが無いわけです。その意味で被害にあった人は災難でしたが、先日の事件は事実上の人体での中毒データ採取の貴重な機会ともなったわけです。

さて、素人が出来る最も単純で確実な毒性の確認方法は、その農産物を虫が食っているかどうかだと思うのです。虫も食わないほど残留農薬がキツイ輸入野菜などは、それが如何に安くても、如何に形が良くても、投稿者には口にする気は起きません。モンシロチョウの幼虫に、予め少し毒見をしてもらい、毒性が十分に低いことが証明されたキャベツは、より安全なものだと判断しても良いでしょう。虫も食わない野菜はアブナイ代物といえます。

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2008年4月26日 (土)

648 休題(昭和レトロ)

昭和ブームらしいです。昭和グッズの収集・売買や復刻版の再生産などが目白押しです。何故今「昭和」なのか、つれづれに考えてみます。平成も20年になり、昭和も大分遠くなってきたような感じがします。昭和は64年も長く続いた年号であり、私たち昭和世代には、身に染み付いた時代観のようなものがあります。昭和の前1/3は暗い時代でしたが、投稿者が物心ついた昭和30年以降の後半は、朝鮮戦争、ベトナム戦争など、世界で頻発した戦争特需をブースターとして、全てが一気に加速した時代でした。高度成長期と呼ばれた経済規の拡大、それに伴うモノに溢れた生活、テレビに代表される猥雑な文化、生活の欧米化、交通戦争と呼ばれた急激な車社会の到来などなど。しかし、石油ショックと呼ばれた踊り場の時期を除けば、戦後の昭和の時代には、実は挫折という言葉はありませんでした。バブル崩壊とそれに続く長いトンネルの時代は、平成に入ってからの経験になるのです。

昭和はその意味では、全ての人が将来に向けて夢を抱く事が出来た時代でもありました。毎年の様に賃上げがありましたし、夏冬の何ヶ月分かのボーナスを当てにして、高価な耐久消費財を購入する事も出来ましたし、ローンを組んで少し背伸びをした価格の住宅も購入出来ました。昭和はまた、元禄時代にも匹敵する多様な文化も生み出しました。少し数え上げて見ても、漫画雑誌、TVドラマ、大河ドラマ、バラエティ番組、アニメTV番組、アニメ映画、怪獣フィギュア、何とか五戦士、新書・文庫本、ロカビリー、フォーク・ロック、歌謡曲、アイドル歌手、タレント、漫才、云々かんぬん・・・。これらは、その都度何とかブームと呼ばれながら、消えてはまた形を変えて、繰り返し社会に登場してきました。冷静に振り返ってみても、殆ど全ての庶民にも夢が持て、実に多様な文化が花開いた昭和は、戦争と言う暗い時代を除けば、歴史的にも非常に興味深い、そんな時代に数えられる事になるはずです。

さて、そんな昭和時代を懐かしく、その頃抱いていた夢や希望と共に思い出す、投稿者以上の世代ばかりでなく、昭和時代を殆ど知らない筈の世代にも、昭和が魅力的に映るのは何故でしょうか。それは、どうやらこの時代の文化の猥雑性が、今の若者達には、逆に非常に新鮮に見えているようなのです。とは言いながら、ヒゲの作曲家が「大きい事は良い事だ」と叫んではばからなかった昭和の時代は、思い出の中にそっとしまい込んで、小さく慎ましく暮らして行きたいものです。

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2008年4月25日 (金)

647 ヤドカリ

ここでは、衣食住のうち住に関わる環境問題を考えて見ます。衣食住のうち、住は最も資源やエネルギーを必要とするものでもあります。例えば、建築資材としては、土台のコンクリート、何立米かの木材、鉄筋や金具などの金属、調度品や電化製品などの目に見える資源に加えて、住環境を維持するための電気や石油やガスなどのエネルギーは、毎日の事なので膨大な量になることでしょう。日本においては、概ね30-40年毎に家屋を建て替える事が暗黙の前提になっていて、投稿者が住むかなり規模の開発団地でも、初期(70-80年代)に立てられた古い家では、建て替えるところも目だってきました。

一方、ヨーロッパではかなり事情が異なります。地震が殆ど無く、石造りの建物が多いとはいえ、数百年を経過した建物も、内装を度々改装しながら、今も住宅として営々と使われ続けています。資源・エネルギーの効率から言えば、勿論このスタイルに軍配が上がりますが、地震国の日本でこの方向が無理かと言われれば、実はそんなことも無いはずです。投稿者は建築に関しては門外漢ですが、例えば鉄骨で、激しい地震にも耐える頑丈な骨組み(スケルトン)を作り、その中に、建物強度に無関係に住居空間を(ユニット化した内装として)作りつける住宅の構想はかなり有望です。住居部分は、住み手が変われば、多分数百万円程度の費用で改装が可能でしょうし、建物構造を壊す訳でもないので、建築廃材の発生も最小限で住みます。スケルトンの利用権利は、買い取るのではなく長期借用と言う形態が良いでしょう。

これは、さながらヤドカリが、自分の成長に合わせて空になった貝殻を探し出し、サッと住み替える行動にも似ています。この頑丈なスケルトン(貝殻)は、普通に使っても100年程度、塗装を繰り返しながら丁寧に使えば数百年は持つはずなので、それを建築する場合には、立地場所に関しても慎重に計画する必要があるでしょう。勿論、このようなスケルトンを一戸建てにするのは勿体無いので、5階程度の中層住宅として設計すべきでしょう。省資源・省エネルギー住宅の理想的なサンプルは、ヤドカリにこそ見出すことが出来そうです。

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2008年4月24日 (木)

646 年貢の納め時

年貢は領民が領主に納めた税ですが、現代の年貢である税金は環境問題に対しては、かなり無力です。当たり前のことですが、原理的にも現代の税は、全ての価値をお金に交換せざるを得ない訳です。言うまでもなく江戸時代の年貢は、米などの「現物税」でした。

さて税をお金の形にして徴収すると言う行為は、一度経済活動というフィルターを通さなくてはならないので、農家は米を農協に出荷し、現金に換えた上で税を納めます。その米は、消費地に出荷され、スーパーや米屋で売られて初めて人々の口に入ります。このシステムに関わるJAや金融機関や運送会社や小売業は、やはり何らかの手段でお金を生み出しつつ回っているでしょう。それらの活動は、やはり環境に負荷を与え続けるものです。原理的には、システムが複雑になればなるほど環境負荷の度合いは大きく膨らむ事になります。その意味で、封建時代の年貢米という形の物税は、環境負荷の極小化という面から見れば、実に理にかなっています。

さて私たちは、政府や自治体に納める税の他に、環境に対しても年貢を納める義務を負っているのですが、勿論この年貢は「お金」に換えてはいけません。それは環境負荷を上げる行為につながるからです。この年貢は、環境に対する人力を使った奉仕を基本とすべきで、それが嫌な人はお金でカタをつけるのではなく、環境負荷を放棄する方向でなければなりません。つまり、5リッターの排気量を持つ四駆の車を転がす行為が、税金を多く払えば許される方向ではなく、白い目で見られる方向に、社会そのものが変わる必要があります。つまり、大型の乗用車や四駆は単なる移動手段としての枠を大きく踏み越しているというのがその理由です。踏み越した分は、単なる「贅沢成分」ではなく、環境的に見れば立派な「エゴ」に当たる行動だからです。

環境保全に関わる年貢(環境税とも呼ばれます)は、お金であってはならないと思っています。お金で徴収しようとすると、それを稼ぎ出すために、新たな環境負荷を与えてしまう自己矛盾を抱えるからです。普通者の倍のCO2を出す大型車を乗り回したい人には、例えば普通の人の倍の植林の義務を課すとか、あるいはバイオマスからエタノール燃料を取り出す工場での奉仕を義務付けるとか、労働で(年貢を)払って貰う仕掛けがベストでしょう。その活動の中で、自分が大型車で撒き散らしてきた環境負荷の大きさを実感してもらうしか、有効な歯止めの方法は無さそうなのです。

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2008年4月23日 (水)

645 物差しとしてのお金

644で書いた、私たちが到達してしまった現代の経済社会、グローバル時代の中で、お金はほぼ完全に価値の物差しになってしまいました。ところで僅か50年ほど昔の話に戻りますが、田舎では物々交換に近かった経済も残っていたその時代、庶民はお金にはあまり縁がありませんでした。典型的な東北の田舎で、典型的な庶民でもあった投稿者の親は、ささやかなクリーニング業を営んでいましたが、子供時代(1960年代)には、かなりのお客がクリーニング代を農作物で置いていっていたような記憶があります。例えば、お米、果物(地域の特産のナシやイチゴやブドウが多かったような気がします)野菜などなどです。商売を営んでいると、どうせこれらの食物は店から買わなければならないものですから、量が多くて数日同じものを口にしなければならない不便を除けば、全く問題はありませんでした。むしろ、品質の良いものを(通貨を使わないで)安く買っていたようなものです。そんな時代には、お金(現金)は強い力を持っていて、目立った産業も無い田舎町でまとまったお金を持っていたのは、たぶん造り酒屋か医者くらいのものでした。彼らは、庶民に比べて余計にお金を持っていたと言う理由で、まだ高価だった乗用車を乗り回す特権を持っていたのでした。しかし、高度成長期を通じてお金は(通貨量)は異常に増え続け、そんなにお金の回ってこない庶民でさえ、複数台の車を保有し、乗り回すことが出来るようになりました。相変わらず狭い住宅の中には、殆ど使わないモノが溢れかえり、消費生活からは多量のゴミが吐き出されます。

物差しとしてのお金の話に戻りますが、この物差しは、しかし社会における「信用」の重み次第でその目盛りがゴム紐のように伸び縮みする類のものでもあります。それは、90年代のバブル期には極端な形で証明されましたが、土地などの物権に付けられた値段が大きく変わるということでもあります。投稿者が投げかけたいのは、これからの時代、私たちは何をもって変わらない価値の拠り所に出来るだろうか、という疑問です。このブログ述べてきた方向としては、環境を悪化させない(変えない)努力に価値を見出し、それを何らかの形で社会的価値の物差しに据えなければならないというものです。それを、お金のように、全ての人が理解できる物差しにするためには何が必要なのか、少なくとも「炭酸ガス排出権」ていどの単純な仕掛けではない事は明白ですが、引き続きこのブログでも考えていく事にします。

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2008年4月22日 (火)

644 価値とは

ここでもう一度、私たちとっての価値を考えて見ます。それは、いわゆる私たちや社会の持つ「価値観」の元になっている重要な定義だからです。このブログでも、この価値観が戦後の経済成長の中で大きく変容してしまった事を繰り返し書いてもきました。これは、その一つの整理ノートです。

さて、その価値ですが、伝統的な日本の社会では「お家の存続」こそが至上の価値であるとして、長い間社会の高い位置に据えられていました。家の存続のためには、家人は命も投げ出した歴史も多く伝えられています。それは、実は自然の理にかなった価値観でもあり、行動でもあったと言えます。つまり、「種の存続無くて何のための価値だ」という天然自然の感覚でもあります。武士は武士として、農民は農民として、職人や商家はそれとして、来年も10年後も、数世代先も、今と同じ営みが続けられる事に価値を見出していた訳です。生業(なりわい)は、お家存続のための手段ではあっても決してそれ自体が目的ではありませんでした。

しかし、江戸期を通じての分業の細分化と専門化、取り分け商家の社会進出を通じて、経済活動が活発になり、明治以降の日本としての産業革命につながる産業と経済至上主義へと第1期の価値観の変容を引き起こしました。言葉を換えれば、お金に価値の比重が移ってきた時代だと言えます。貸し金業が大きく伸び、賭博や富くじなど射幸心を得る仕掛けも盛んになり、人入れ業など労働を売り買いする市場も生まれ、今日に見られる価値観の原型は、江戸期に完成したと言えるでしょう。しかし一方では、伝統的な主従関係や「家」と言う概念は、しっかりと根を張っていた時代でもありました。

産業革命期は、経済社会化を加速はしましたが、価値観そのものは、日本においてはまだ江戸期の延長線上にあったのだと想像されます。この国の価値観が、根底からひっくり返ったのは、やはり先の大戦の敗北と、そこからの奇跡的とも呼ばれる復活の中でした。成長神話と呼ばれる、モノを作れば売れ、売って得られたお金が更にお金を生み、全ての物価が右肩上がりに上昇する高度成長期に、モノ依存、拝金主義が蔓延ったと言えるでしょう。この動きの中で、まだ残っていた企業(城主)への忠誠心や核家族化の流れの中で大家族(家長)制度の崩壊が急速に進んだのでした。こうして、額に汗して働かず、コンピュータの中で数字を動かして荒稼ぎする「鬼っ子(トレーダー)」も数多く輩出し、一方ではそんな裁量のない庶民には、モノ(商品)やエネルギーの浪費にささやかな喜びを見出す、消費社会(浪費社会)が生まれたと言う順番になります。

さて大きく変わってしまった戦後の拝金主義、唯物(モノ)主義の価値観との対比になりますが、このブログを書き継いできて得た一つの結論は、封建時代のそれとは、当然ニュアンスは異なりますが「本当の価値とは、事物が変わらないことだ」というものになりそうです。

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2008年4月21日 (月)

643 自然のサイズ

人間は、大きさを測るのに自分の体の一部を使ってきましたし、今も感覚的にはその傾向は変わっていないと思われます。小さなものであれば手指、少し大きなものであれば腕の長さや歩幅、身長などです。長い距離であれば、人間が歩く距離、マイルや「里」などで測って、その長さを認識していました。しかし、自転車の利用程度まではその延長で問題ありませんでしたが、スピードが1桁上がった車や、2桁上がった航空機の登場によって、私たちの距離感覚は「すっかり狂ってしまった」様です。それを強く感じたのは、‘99年に仕事でブラジルに飛んだ時でした。ブラジルには、ロサンゼルスで給油して約24時間で行く事が出来ます。これを24時間も飛行機の乗りっ放しで辛いと感じるか、たった24時間で地球の真裏まで行く事が出来る時代になった、と感じるかは人にもよるでしょうが、投稿者は後者でした。サンパウロは、直線(地球は丸いので曲線でした)距離で飛んでも2万キロ先にあるわけです。J.ベルヌの時代には、80日間も掛かった地球の一周旅行も、いまや僅か2日で終わってしまう勘定です。

これと同じ比率で、自然環境のサイズも相対的に縮んでしまったと言えるでしょう。流石に、今でも徒歩でしか行けない未開のジャングルのサイズは昔のままですが、アマゾン地域の様に、ジャングルの中に縦横に道路が切り開かれ、更にその道路から無数の枝葉の道路を伸ばした地域の自然サイズは、確実に小さくなっています。人類の発生する環境負荷が大きくなり続ける一方、それを吸収してくれる自然のサイズが逆比例して小さくなっている訳で、環境悪化の加速度は増加を続ける事になります。京都議定書とは、環境悪化のたった一つの指標である「温暖化効果ガス」、象徴的には二酸化炭素だけに焦点を定めた、全く不十分な枠組みでしかないと言えます。自然環境の保全全般を考えるなら、ワシントン条約も、ラムサール条約も、ウィーン条約も、バーゼル条約も、南極条約も、モントリオール議定書も全て包括した、強力な枠組みが必要とされるとはずなのです。こんな枠組みは、自分の国の、自分の党の勢力拡大だけや大統領選挙に身をやつしている、某国の政治屋たちには絶対作れない事は明白です。地球全体を見渡す広い視野と、世界を束ねるカリスマ性も必要とされます。残念ながら、こんなカリスマまだこの世に現れてはいないようです。とりあえず環境おじさんに出来ることは、自然サイズを大きくするようにコツコツとブログを書き、それを説いて回る事くらいですが、もしそんなカリスマが現れたら是非手弁当を持ってでも駆けつけ、サポートに参加したいところです。

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2008年4月20日 (日)

642 期限

「期限」・・・いやな響きの言葉です。仕事の締め切り、製品の納期、借金の返済・・・・そして地球が人類の為している環境悪化行為をギリギリ許容する期限などなど。時間や期限などというものは、間違いなく人間が作り出し、結果として自分自身を縛っている「概念」だといえます。例えば、動物達には時間や期限はありません。彼らは、餌場でエサを食べつくせば、仕方がないので別の餌場へ移動する事にはなりますが、それは時間的な期限ではなく、単にその地域で得られるエサの量と言う物理的な制限に過ぎません。彼らは、別の場所に移動し、そこで十分なエサが得られれば、しばらく留まり、もし移動を繰り返してもエサが十分得られなければ、子孫を残す事を控えてひたすら飢餓に耐えますが、しかし最終的な飢餓限界に至れば、その群れは消えて無くなるだけです。

環境問題にも期限はありません。だからこそ、人々は事態を看過し、更なる「今現在の快適さ」を追及するわけです。自然界にあるのは期限ではなく「閾値(堪忍袋の緒の強度)」だけなのです。自然が許さない限度以上に環境が悪化すれば、自然は手加減をしないで粛清を行うでしょう。その兆しが、先ずは環境悪化に弱い生物種の部分的絶滅であるにしても、やがては張本人である人類にもその手が伸びるはずです。閾値を越える事態を別の言葉では「破局」と呼びますが、破局が始まると、歯止めを掛けるには実は時既に遅いのです。例えば、土砂崩れなどで自然に出来たダムが決壊する場合を想像すれば理解し易いでしょう。そこに溜まった水が空っぽになるまで、私たちには全く手出しが出来ないでしょう。環境悪化の閾値が何処で、その期限は何時かの議論が始まっていますが、IPCCの予測シナリオだけでは、実は不十分です。破局的シナリオに言及していないからです。そのシナリオは恐ろし過ぎて公表できないのかも知れませんが・・・。

いずれにしても環境が指し示す「期限(ではなくて我慢の限度でした)」は迫っています。私たちには、Bッシュさんに代表される、自然から収奪を続けてきた民族の(後ろ向きの)発言に耳を傾けている時間の余裕は全く残っていませんし、今まさに将来に向けて腹を決めるべき時期にさしかかっているのです。

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2008年4月19日 (土)

641 油断

堺屋太一の著書のパクリではありませんが、最近のガソリン騒動を見ていると、しみじみ日本のエネルギー事情の底の浅さを感じてしまいます。つまり1円でも安いガソリンスタンドに並び、数十円か数百円を節約しようとする底の浅い行動などを指します。これらの行動の真の原因は、将来を予測し、それに対する対策を打たない事にあります。そもそも、石油の産出しないこの国で、石油の取れる国以上に潤沢に石油を燃やす事自体、実は異常な状況であると認識する必要があります。それは、産油国が一定水準以下の価格で原油を供給してくれ、産油国から日本に石油や運ぶ道(シーレーン)の安全が確保され、備蓄基地に十分な在庫を持ち、製油所が順調に稼動し、ガソリンスタンドで安定した価格が維持されて給油ができる、などと言う数多くの前提のバランスの上に成り立っている(結構脆い)状況だからです。

話はそれで済みません。それどころか、社会や産業の構造全体が、この(安い原油の)インフラの上に構築されている事こそが、実は大問題だと言えるでしょう。エネルギー資源の殆ど無いこの国は、石油の海に浮かぶ楼閣なのだ、とも言えるでしょう。その石油が、例えばたった5%供給量(輸入量)が減らされただけで、品薄傾向への市場の思惑も重なった場合、20-30%位上昇してもおかしくはありません。税が元に戻された暁には、200円ガソリン時代を迎える訳です。これは必ずしも、架空の物語ではなく、ロシアが石油供給の首根っこを抑え、中国やその他の途上国も石油のがぶ飲みを始めている状況では、近未来の現実になるはずです。

道路建設なんかに税金を浪費してはいけません。先ずは、日本で手に入るあらゆる種類の原料を使って、エネルギー源を得る「代替エネルギー源」の開発にこそ、惜しみなく予算を向けるべきでしょう。しかも、それは大規模な工業的手法であってはなりません。何故なら、多用な原料を大規模な工場に運ぶためには、輸送のエネルギーが必要になるという自己矛盾を抱えますし、出来た虎の子のエネルギーを消費者に配送するためにも配送エネルギーが必要となるからです。代替エネルギーは、地域によって異なる特色のある原料を使って、小規模につくり、小規模なマーケットで使い切る必要があります。余った、場合には貯蔵が利かない場合は、仕方がないので商用電源網に送って広域で使う事になります。ここでの文脈での油断とは、油が切れてから慌てるのではなく、自ら退路を「断」って、石「油」代替エネルギーを必死に探す努力を指します。

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2008年4月18日 (金)

640 6次産業

6次産業なる言葉があります。1次産業+2次産業+3次産業と足し合わせて、6次産業と呼ぶわけです。取り分け、今後の地方の活性化のK/Wとして注目されつつあります。つまり、1次産業である農林水産業に原料を求め、それを加工する2次産業を興し、3次産業として出来た製品を自らの手で地元を中心に販売する。これは、大量生産・大量輸送・大量消費・大量廃棄を是としてきた、20世紀型社会・産業構造への反動だとも言えるでしょう。

しかしながら、何も改めて6次産業などとして定義し直さなくても、このような産業構造は、古い時代には全く普通の行動でした。何より、いくら高く売れるとはいえ、作った産品や製品を遠くの市場まで手間暇をかけて運搬することは全く現実的ではありませんでした。精々、日持ちのする米や塩や干物や酒やミカン程度を、海路で運搬した歴史があった程度です。殆ど全ての産品は、地元で生産され、地元で消費されていました。

6次産業などと敢えて強調しなくても、今後の社会のK/Wは間違いなく「ローカリズム」です。普通の人間は、地域に生きて、地域で人生をまっとうするのが、環境的には「自然」なのですから。戦後の日本列島の動きの様に、活発な海外需要に応えるために人が移動し、資源を輸入し、製品を送り出す、グローバリズムへの一方通行の中で、一貫して疲弊したのは、地方でした。自身が消費者でもある働き手(最後は農家の後継者をも)を都市に送り出し続けた結果です。これに歯止めを掛けるためには、当然の話ですが、これまでの社会の動きを、少し逆回しする努力が必要となるはずです。それを一般的な言葉で表現すればローカリズムでしょうし、具体的な活動の例が6次産業となるでしょう。今や、有名になり過ぎた感はありますが、四国の山村で始めた「葉っぱビジネス」は、市場調査から企画、材料の調達、パッケージングから出荷まで、全て村の共同体が行う6次産業の典型です。これら葉っぱの出荷先である高級料亭が持続可能な市場であるか否かの議論は別として、足りないのは社会の鋭い観察とアイデアである事は間違いないでしょう。しかし、大上段に構えてマスコミで取り上げられたビジネス成功例を挙げるまでもなく、例えば農家の主婦が自宅前に小さなレストランを出し、自家製の有機野菜を使った料理を提供すれば、これも立派な6次産業だと言えるでしょう。

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2008年4月17日 (木)

639 右肩下がり

少し前、中部国際空港の旅客・貨物輸送の予測値が下方修正され、右肩下がりの数値が公表されました。やっと日本も、物や人の移動が落ち着きつつある(大人の)国の仲間入りをしそうなこの統計数字に、投稿者としては少し安堵しています。何度も書きますが、右肩上がりは絶対に持続可能ではありませんから。持続的な工業生産や経済活動の拡大が夢物語である限り、私たちは右肩下がりの時代を生き抜く智恵を身に付けなければなりません。企業においても同じことが言えるわけで、例えば売り上げが年率数%ずつ下がり続ける状況で、企業活動を如何に維持し、従業員の雇用を確保するかは、今後の企業家に最も必要とされる能力となるわけです。

このような時代に一番必要な事は、今自分の会社で生産している製品の、「実体としてのニーズ」を改めて吟味してみる事です。例えば、毎日プレス機で鉄板を、打ち抜きつつ曲げるブラケット(A部品)加工を下請けしている町工場は、その部品が一体どんな製品に組み込まれて、その製品は誰が買ってくれるのかに興味を持たなければなりません。上位の組立品や、最終製品をよく吟味した結果、例えばA部品とB部品は別々に作られていたが、それを合体させたC部品として設計し直せば、C部品の単価は2倍近くになっても良い訳で、組立時間も短縮されて親会社も喜ぶでしょう。

一方で、その部品が、例えば石油ストーブに使われていたと仮定しましょう。さて、石油ストーブが、今後とも右肩上がりで需要が増え続ける製品か否かをじっくり考えて見る必要があります。温暖化に起因すると思われる暖冬傾向の中で、来年も再来年も生産が増加するなどとはとても思われません。であるならば、その町工場は、今後の10年は何で生き抜いていくのか、じっくりと考え、手を打たなくてはなりません。その際、自分が見たことも無い海外の市場などに思いを巡らす必要は全くありません。先ず自分自身の生活を振り返り、絶対に必要な「モノ」や「サービス」から順に優先順位を振ってみれば良いでしょう。10年後も絶対に必要とされるものに、自分の工場としても関与していけば、たぶん食いっぱぐれる事もないでしょう。

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2008年4月16日 (水)

638 ガソリン狂走曲

今月に入ってのガソリン価格下落(と近い内の再上昇?)による世の中の狂想(走)振りを眺めていると、如何に私たちが石油に依存した生活を送っているかが良く分かります。20円下がったスタンドにいち早く列を作る風景は、70年代の石油ショックにより、ガソリンが品薄になった時を思い起こさせます。勿論この時のガソリン不足は、裏で演出されていた事も否定できませんが。いずれにしても、実際の需給バランスとはかけ離れた、短期的な価格の上下だけでも、さながら需給の崩れが発生した場合にも似た現象が引き起こされる例だとも言えます。直接的には、少しの価格上下に一喜一憂して過剰に反応する消費者行動に、この騒ぎの原因があります。しかしその背景には、エネルギーの多様化が「全く」進んでいない事がありそうです。石油に代わるべき輸送用(特に乗用車やトラック)の燃料は、現在のところ影も形も見えないのです。石油程度にエネルギー密度を持ち、安価で、液体で、余り危険ではなく、今のインフラ(例えば石油スタンド)にもスンナリ馴染むエネルギー源は、今のところ見つかっていません。仕方がないので、K産省でもガソリンにたった3%のエタノールを混ぜたもので「お茶を濁そう」としているわけです。

ここまで石油にどっぷりと浸かってしまった事態には、行政も、その尻馬に乗った車産業も、その利便を享受している消費者も等しく責任があります。前の石油ショックの際には、確かに国も立派な「サンシャイン計画」なるものを作って、エネルギー多様化を推進しようとしてはいましたが、その後逆オイルショックで熱さが喉元を過ぎると同時に、その推進力も消えうせました。しかし、その時作られたNの頭文字で始まる外郭組織だけは、中身を変えつつお役人の再就職先の受け皿として今なお重宝され続けているのは、皮肉な話です。彼らの既得権への異常な執着をよく物語ってはいます。

脱線しましたが、エネルギーの多様化の話題でした。今のところ、石油に代わる車のエネルギー候補としては、木材などから作ったDME(ジメチルエーテル)や廃棄されるバイオマスから作ったエタノールや下水や有機物発酵によって発生させたメタンガスなどですが、その実用化への道のりは、遠く険しいものではあります。当面の繋ぎはバッテリーを搭載した電気自動車(又はハイブリッドカー)でしょうが、それにしてもその電力を、主として太陽光発電で得るのでなければ、何の環境対策にもならないでしょう。一方、鉛やリチウムやカドミウムなどの有害な物質を使わざるを得ないバッテリーの多用は、その廃棄による新たな環境汚染も懸念されます。

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2008年4月15日 (火)

637 土壌菌

生物話の続きです。ホンの一握り土壌にも、信じられないくらいの微生物が蠢いて(あるいはじっと眠って)います。少し前(愛知万博の頃)生分解性のプラスチックが話題に上りましたが、あれも結局は、6炭糖を重合させたプラスチックが土壌中の微生物によって分解されるという話であり、プラスチックが勝手に水と炭酸ガスに戻るわけではありません。土壌微生物は、土壌中の有機物を分解してエネルギーを得ていますので、多くの有害物と呼ばれる物質も、分解のスピードさえ問わなければやがて分解されてしまうはずです。問題は、その分解スピードを超える汚染物質が負荷された場合、分解が進まずに「汚染土壌」になってしまうわけです。

良く使われるテクニックに、自然土壌から得られた微生物を、ある有害物の分解能力の高い種に分離培養し、そのバクテリアの濃度を上げる事により、分解スピードを稼ぐ方法があります。これは、実際のところある種のバクテリアを人工的に培養することで、その目的には役に立たない、他のバクテリアの増殖を抑えるテクニックでもあります。人間の体内にも「悪玉菌」は存在しますが、たとえばある種の乳酸菌で、その増殖を押さえ込む昔ながらの健康法も同じ原理です。

これを利用すれば、現在は悪玉と呼ばれている菌(腐敗菌や枯草菌、アンモニア菌など)の増殖を抑制することが可能になります。もちろん、これらの悪玉菌は、人間界にとっての悪玉ではありますが、しかし自然界では絶対不可欠な存在でもあります。その意味で見回せば、人間が出した有害物を処理し、自然の環境を保全するために、殆どの場合何もわざわざ「公害設備」などを設計して設備する必要は無いでしょう。固形の有害物(ゴミ)であれば土壌埋設、液体の廃棄物(廃水)であれば一定の面積の池で十分なはずなのです。しかしながら、都市では人間の出す汚染負荷があまりにも大き過ぎて、自然菌の分解能力だけでは追いつかないため、仕方なくごみ焼却や汚水処理場などの大げさな設備で処理せざるを得ないわけです。つまり、現代の環境悪化の大きな原因は、排出される汚染物質や廃水の濃度とその膨大な量にあるのだといえます。

地味であるが故に研究者の少ない土壌菌の利用研究分野ですが、環境保全技術の大きな柱になる潜在性を秘めています。資源小国でありながら環境技術大国を目指すこの国であれば、なおさらこの分野への注力が必要です。

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2008年4月14日 (月)

636 有機物或いは生き物

投稿者が最近感じている「技術」に対する違和感を少し掘り下げて考えて見ました。どうやらそれは、命の無いものに対する違和感だったような気がします。技術屋であった時は、動いている機械は、何かしら生きているような錯覚を抱いていました。火を入れて圧力を蓄えているボイラー、蒸気を得て回転しているタービン、力強くストロークを繰り返すディーゼルエンジン、電気を送られて静かに回り続けるモーターなどなど。それらが動いている間は、さながら命を得て動いているようにも感じられたものでした。しかし、燃料を止め、スイッチを切った瞬間にそれらは全て元の無機物に戻ってしまいます。

しかし、数年間木質燃料(ペレット燃料)をいじくり回していて気がついた事は、同じ木材と言いながら、針葉樹と広葉樹は全く性質が異なる事、また同じ広葉樹と呼びながら、例えばクヌギとヤブ椿ではその硬さや性質が全く異なる事など発見の連続でした。針葉樹は冷涼な地域で成長するので、例えば虫からのアタックは激しくないため、虫の食糧にもなり易いセルロースの割合が豊富で、紙(パルプ)原料や建材として多用されます。しかし、暖かい地方で育つ広葉樹は、年間を通じて虫や鳥や他の生き物からの攻撃に晒される結果、材木の中に物に分解されにくいリグニンなどの物質の割合を増加させたのでした。また、生物に代謝されにくい5炭糖(炭素を5個しか持たない糖で、キシリトールなどが代表)を重合させた物質は、自然界では菌類(キノコ)にしか分解できないため、木材の幹を構成する物質としては、(木材側から見れば)最適である事などを知るにつけ、自然の巧みさには感動させられ続けてもいます。

リグニンなどの分解されにくい物質は自然界に蓄積してしまいがちですが、そこは上手く出来たもので、それを一手に引き受けているのが菌類という訳です。菌類に注目したのでは、実は5-6年前に、刈った芝の処理に困っているゴルフ場からの相談を受けた時でした。枯れた芝(サッチ)は、長い年月を経過しても、普通の草の様には分解されず、ドンドン蓄積するばかりなのです、法令で野焼きが禁止されているゴルフ場は、何処でも困り果てているのでした。調べて見ると芝の成分は、草と言うよりもむしろ木材に近いものであることが分かりました。「芝塚」をじっくり観察した結果分かったことは、古い枯れ芝の中に逞しく生長してくるのは、ある種のキノコだけだったという訳です。続きます。

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2008年4月13日 (日)

635 環境ビークル

634で環境旅客機を提案したので、自動車などの地上の乗り物に対しても、「環境ビークル」を提案しないと片手落ちです。徒歩ではなく、乗り物と言う意味での究極の環境ビークルは、議論の余地無く「自転車」です。乗り手が、自分の持つエンジン(筋肉)で動かす訳ですから、排気ガスは、乗り手がやや荒く吐き出す呼気中の僅かなCO2の増加に過ぎません。筋肉自体は、非常に効率の高い「化学エンジン」なので、60数億人分のエンジンから吐き出されるCO2量は、自然のCO2循環の中では完全に無視できるレベルです。

10km以内程度の移動距離であれば、私たちは迷い無く自転車を選択しなくてはなりません。投稿者も35年のサラリーマン生活を通じて10km前後の通勤距離でしたが、自転車通勤で通しました。雨の日や霜が降りる寒い日は、走り出すまではやはり億劫ですが、雨の冷たさ、口に入った時の味、寒い日に手がかじかむ感触、頬に当たる風の感触など全てが、自分が自然の中で生きている、と言う感触そのものです。

さて、自転車では辛い数十キロの距離を移動するには、やはり動力付きの乗り物に頼らざるを得なくなります。しかし、よく使う国道の通勤車を観察して見ると、結構大型になった平均的な乗用車には、たった一人しか乗っていないのです。二人以上乗っている車を見つける事の方が難しいくらいです。そこで、投稿者が提案する通勤ビークルの要件ですが、何しろ燃費が優れていなくては話しにも何もなりません。最低でも実用値として50km/㍑、理想的には100km/㍑を狙うべきでしょう。車でガソリンを最も使うのは、発進から加速し巡航速度に至る過程ですから、こ非力なエンジンを使い、加速度を制限することで、先ずは今の倍程度に燃費を改善することは可能です。更に、徹底的に(バイク並みに)車重の軽減を図れば、上記の目標燃費は達成できるはずです。工業デザイナーの奮起を期待しますが、この通勤者のイメージは、今の大衆車とは似ても似つかない「代物」になるでしょう。それは何も4輪である必要はありません。3輪でも、必要なら2輪になっても仕方がないのです。犠牲になるのは、快適性と安全性である事はこれも仕方がありません。とは言いながら、この種のビークルの最高速度は50-60km/時程度になるでしょうから、死亡事故は間違いなく減るでしょう。

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2008年4月12日 (土)

634 環境旅客機

少し前、M重工が国産旅客機のローンチ(プロジェクトの開始)を発表しました。いわく、今度の新型機の最大のセールスポイントは、これまでの同クラス機に比較して20%の燃費向上が可能である点だとか。しかし外見を見る限り、カナダやブラジルの同クラスの機体と殆ど区別がつきませんから、多分少し機体が軽くなって、エンジンの燃費が少し向上した程度の進歩だと想像しています。

しかし、この程度の性能では、航空機分野に関わった、元技術屋で今環境おじさんとしては、全く納得できません。狙うなら、少なくとも燃費の50%向上という「野心的レベル」でなければなりません。何故なら、今後のサミットでも、数値目標として50%のエネルギー削減が決議されるはずだからです。この旅客機の本格的な就航は5-6年後になるでしょうし、次世代の近距離旅客輸送を担うと主張するなら、せめてこの程度の省エネ性を謳わなければ、10年後には間違いなく競争力を失う事になるでしょう。それは、取りも直さずYS-11の二の舞を意味します。

現在の技術でも、航空機の燃費を50%改善する事は十分可能です。先ずは、巡航速度を下げれば良いのです。例えば、巡航速度を少し下げた分翼面積を広げ、一方で翼型を低速型に改良し、翼端のウイングレットを改良し、層流制御による空気抵抗の低減技術などを組み合わせれば、現在の材料(アルミ)や技術を使っても十分達成可能だと見ています。技術者とは、厳しい目標を与えられれば、それなりにその目標に向かって智恵を絞る人種だといえるからです。20%省エネ程度の緩い目標では、環境的にもすぐ時代遅れになる「ろくなもの」が出来ないことが目に見えています。つまりこの新型機は、投稿者に言わせれば、「環境旅客機」を標榜していない中途半端な機体であるということです。

一方マーケットを眺めてみても、今旅客機を買っているのは、広大な国土を持ち、お金も持ち始めている中国や、世界の石油を牛耳り始めているロシアなどですが、その繁栄が今後10年を超えて持続することは、環境的に見ればあり得ないことなので、本格的にこの旅客機の引渡しが始まる例えば5年後には、既にマーケットは冷え始めている事でしょう。加えて、悲しい事には、YS-11後40年の長いブランクにより、日本には航空機関連のビジネスマンが全く育っていなかった事があります。ただの商社マンでは、この業界では荷が重過ぎると思うのです。環境おじさんの無責任な予測ですが、このビジネスはYS-11に近い失敗に終わるだろうと見ています。

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2008年4月11日 (金)

633 レバレージ

レバレージという言葉が時々気になります。「テコ」の連想で、入力より大きな出力を得る場合などに使います。人間は、最も大きな筋力を持つ脚力としても精々0.5kw程度の出力しか出せません。しかし、小型車でも50kw、大型車では100kwものエンジンを搭載する乗り物で、脚力を数百倍に拡大している事になります。筋力のレバレージとしては、普通の人でも日常でも数百倍を駆使して暮らしている訳です。大型のトラックや重機などでは、このレバレージは更に一桁上がります。この場合、エンジンは筋力の出力を拡大する「テコ」として使われているわけです。重機を使えば、数万人が数十年掛かって築き上げたピラミッドなども、数十人だけで数年で完成させることも可能になります。つまり労働者数や建設期間も、筋力のレバレージの逆数として圧縮される結果になります。

さて、レバレージは何も筋肉―機械の出力比率に限りません。経済活動の世界では、もっと極端なレバレージが観察されます。一青年が数百万円の元手で始めたLドア社の一時期の時価総額を考えて見れば、レバレージとしては、4桁は優に上回るでしょう。本業でも少しは頑張ったのでしょうが、殆どはリスクの高い投資話でお金を増やし続けたことでしょう。では、額に汗して働かないでお金を増やす場合の「テコ」は、一体何になるのでしょうか。この場合、上の筋力―エンジンの例とは異なり、形が無いものになります。それは実は「信用」なのです。お金を借りる場合、信用が無ければ銀行もおいそれとは貸してくれません。慎重な銀行は、信用のカタとして「担保」を要求するでしょうし、会社の取引の実績も信用にはなり得るでしょう。しかし、お金を儲けたい銀行は、信用度の低い企業や怪しい担保しか持たない個人にもドンドンお金を貸し続けました。信用の膨張現象です。中身(実体)を伴わない信用は、風船やシャボン玉(バブル)に似ています。それを膨らませれば膨らませる程、皮が薄くなり、脆くなります。ここに、たった一本の針が触れるだけで、それ(信用)は急激に縮小します。

レバレージには、何らかのカラクリが仕組まれていると見なければなりません。作用と反作用にも似ていますが、そのカラクリは何か(誰か)の犠牲の上に組まれているはずなのです。合法的なカラクリでの犠牲者は、「善意の庶民」と「自然環境」となっているケースが多いと言えば少し言いすぎかもしれませんが・・・。

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2008年4月10日 (木)

632 職住接近

直接の生産や消費活動ではないため、無視されがちですが、通勤の問題は社会全体としてのエネルギー消費に大きなインパクトを与えます。何しろ毎朝、毎夕の行動なのですから、これに車を使っている人も電車やバスで通勤している人も、お金に換算すれば月に数万円を支出しているはずです。何度も書いている様に、お金とエネルギー消費はほぼ比例していますので、エネルギーの消費量も減らないことになります。

さて、高度成長期に、大量の労働人口が都市に流れ込んだ結果、都市の郊外には大規模団地が林立しました。更に人口が増すと、労働者の通勤距離はますます延びたのでした。通勤時間にしても、始発に近い駅の近くに住宅を求めた場合、下手をすれば片道3時間なども珍しくなく、そうなると人生の1/4は電車の中での生活という事にもなりかねません。また、環境負荷が少しマシな電車とはいえ、環境的にもムダが多く、通勤者へのストレスも大きい通勤地獄はどうにかしたいところです。

職住接近は、究極の環境保全生活と言えます。例えば、専業農家や酪農家は、基本的には通勤距離はゼロで、精々少し離れた飛び地の畑に通勤するくらいです。自宅で店を営んだり作業場を持ったりしている、商店や職人の人たちも通近距離はゼロになります。これを一般化すれば、伝統的な産業ほど通勤距離が短く、新しい産業ほどそれが延びる事情になるようです。特に、急激に巨大化した産業は、そこに勤務する従業員の住宅が、職場の近くに確保することが出来なかったため、職住分離の距離が極端に伸びたのでした。

投稿者は、自宅から徒歩20分の場所に格安で事務所を借りる事ができたので、ゆったりと徒歩通勤が出来ます。わざわざ遠回りして、堤防の土手を通ります。季節の花々や雑草や虫や鳥などが観察できて、本当にココロが安らぎます。

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2008年4月 9日 (水)

631 無しで済ます「技術」

この表題には実は矛盾があります。技術(Engineering)とは本来モノ造りに寄与すべく運命付けられている概念だからで、モノを作らず「無しで済ます」事を技術と呼ぶのはかなりヘンかも知れません。試しに、モノを作る事に全く関係しない技術を探して見ると結構少ないことに気が付きます。ところで、ここでは技術と技量(Skill)は使い分けています。場合によっては、文章を書く「技術」とか、人を説得する「技術」などと呼ばれるものは、ここでは技量や技と呼んで区別しておきます。

さて、モノを作らないで済ます技術(というよりはむしろ智恵や工夫に近いのですが)を提案してみたいと思います。以前、投稿者は一本の数直線を描いてみました。その直線の目盛りは時間です。その直線上に、「それ」が発明された年代順に書き込んで見ました。例えば、乗り物の中で船を例に挙げれば、丸木舟、帆掛け舟、スクーナー帆船、蒸気機関車、蒸気船、タービン船、ディーゼル船、(原子力船:これは極めて危険なので廃れてしまいましたね)、ホバークラフト(これも主流にはなれませんでした)、水中翼船、などなどとなります。この数直線上に並ぶ乗り物の特徴は、その輸送スピードが、時代が進むにつれて上がってきていることです。これをグラフに描くと、右肩上がりの直線に近いカーブが描けるはずです。しかし、一方で輸送量当たり、輸送距離当たりのエネルギー消費率は、累乗カーブを描いて増加しているのです。それはスピードが2倍になった場合、エネルギー消費は例えば4倍になるといった傾向の事です。

ところで進歩がピークを打って、何らかの理由で下降局面に入る場合、2つのケースが想定されます。シナリオAは、行くところまで行って「破局的」な下降を始める場合で、カタストロフィーとも呼ばれます。シナリオBは、軟着陸シナリオで、徐々にレベルを下げて適正な状態に滑らかに着陸するものです。勿論常識人であれば後者が望ましい事は自明であると考えるはずですが、こと環境悪化の問題に関して言えば、逆の行動をしているとしか思えないです。シナリオBで進むためには、上で述べた「進歩」の過程を、新しいモノから順に捨てつつ後ずさりをするしかないと思うのです。シナリオBで進み、今使っているモノを捨てるためには、やはり「無しで済ます技術」は絶対不可欠なのです。このテーマには再々立ち戻る事とします。

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2008年4月 8日 (火)

630 土一升・金一升

土壌の一升は黄金一升にも相当する資源的価値を持ちます。自然の摂理にさえ従えば、同じ土地で何千年にも亘って作物を作り続けることが出来るからです。しかし、自然のままで長期間作物を収穫し続けると、土地は痩せてきて、収量が落ち、また連作による障害が出たりします。そのため、原始的な焼畑農業は、一度焼き払った畑地は、収量が落ちると放棄され、新しい畑地へ移っていきます。

同じ土地で作物を作り続けるには、大きく分けて2つの方法があります。一つは、堆肥や化学肥料を施肥し続ける方法と、もう一つは稲作の様に、山から流れ下る養分を含んだ水を田に導き、土壌へ養分を補給する方法になるでしょう。日本では、2つの併せ技で、高い収量を得ていると言えます。化学肥料の無かったその昔、農家は家畜を飼って、せっせと堆肥を作りました。昔、投稿者が住んでいた家の向かいは小規模な養豚場で、立派な堆肥の塚がありました。そこには、丸々と太ったミミズが、信じられないくらいの数(つまり表面を5cm掘るとミミズがギッシリと絡み合って蠢いている状態)いるが棲息していて、近所の子供は毎日魚釣りのためのエサ掘りをしたものでした。その堆肥を使った畑には、色艶が良く味も濃い、季節の野菜がたわわに実っていました。その養豚場の豚たちのエサは、もちろん近所の家々から出る残飯(立派なブタのエサを生ゴミとなどと呼ぶのは適当ではありません)でした。

一方、土壌から採れるだけ農作物を採りつづけると、土地が痩せ、土壌生物も棲めなくなり、最後は塩害なども加わって、ついには耕作が出来なくなります。 Google Earthで農業地域を丁寧に眺めて見ると、旧ソ連地域などでは、耕作されている土地の隣に、真っ白になった区画が市松模様のように観察されます。これは、塩害などで耕作放棄された元の綿花畑などだと想像されます。本来金一升であるべき土が、塩一升で覆われている状態であり、持続可能性を考えずに収奪を続けたツケなのです。

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2008年4月 7日 (月)

629 昼光利用

自然に寄り添う方法の一つに、太陽の刻むリズムに従うアプローチがあります。というより、それが中心になるべきだと思います。さて、ここでは昼光利用に焦点をあててみます。明るい晴れた日の真っ昼間に、多くのビルでは煌々と蛍光灯をつけています。日光で明るいはずの窓際でさえ、間引かれることなく点灯されているのを見ると、環境おじさんとしては本当に悲しくなります。直射日光や明るい空が映り込んでパソコンの画面が見づらいため、ブラインドを降ろすケースも多いので、ますます蛍光灯が消せないようです。眩しさに対しては対策があります。窓の下側を暗く、窓の上側を明るくするブラインドが市販されています。これは、ブラインドのブレードの角度が上と下で徐々に変化させているもので「グラデーションブラインド」などと呼ばれています。これをつければ、窓際の直射日光を遮りつつ、窓の上側の明るさだけを取り入れることが出来ます。

また、一向に普及・製品化されないものに、屋根に明り取り窓を設ける方法(トップライト)や窓の上部に取り付けて太陽光を室内に反射させる「昼光照明器」がありますが、これなどはお金も掛けずに省電力が実現できるアイデアだといえます。昼光の欠点は、時間によって太陽の傾きが変わるので、明るさが変化する事、曇天や雨天には照度がガクンと落ちる事ですが、これは風力発電や太陽光発電など、再生可能型エネルギーとも共通するものなので、補助照明など何らかのバックアップの方法は考えておく必要はあります。

何はともあれ、日本としては「サマータイム」を採用しなければなりません。洞爺湖サミットは、その為の一つのキッカケにはなり得るでしょう。以前にも書きましたが、やろうと思えば自分ひとりでもサマータイムで生活する「勝手サマータイム」は実行できますので、私たちが「国がそれをやらないから出来ない」というのは、単なる言い訳に過ぎないことなのですが・・・。

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2008年4月 6日 (日)

628 環境時間

「時間」に関しては、このブログでも特に力を入れて繰り返し書いています。それは、環境と時間が切っても切れない関係にあるからでもあります。環境負荷は、その規模が小さい(時間当たりの負荷が小さい)間は、自然浄化により環境負荷は問題になりません。しかし、時間当たり、単位環境エリア当たりの負荷量が増えるにつれて、自然浄化作用が追いつかなくなり、結果環境汚染が蓄積する事になります。汚染地域が限定的に留まっている場合には、私たちはそれを公害と呼びどうにか対処してきました。しかし、今や汚染は国境を越えて他の国にも影響を与え、更に地球規模の気候にも顕著な影響を与えるまでになってきました。

ここで言う環境時間とは、もちろん環境側の時間ではなく、環境に負荷を与える人間側の時間なのです。この環境時間の無理な加速こそが、全ての環境問題の根源になっていると言えるでしょう。最近よくマスコミでも聞かれるスローライフは、まさにその時間の個人レベルでの減速を指します。社会レベルでの減速は、物流の減速に象徴される事になります。環境負荷を半減させるには、ざっと言って物流量を半分にカットすれば、それはほぼ達成可能だと言えます。具体的には、今東名高速を走っているトラックを、今の半分にする方策を考える事になります。

物流が半分になると言う事は、とりもなおさず工場出荷量が半減することを意味しますが、必ずしも消費も半分になる事は意味しません。つまり、地元で生産し、運ばないで地元で消費する割合(地産地消)が増えるからです。取り分け、食糧について言えば、むしろこれは今後社会の必然でもあります。

時間を加速する「エンジン」は、間違いなく地下資源であり、化石エネルギーの大量消費行動です。結局、人間の時間の刻みを、環境が本来持つ時間のスケールに近づける努力が、即ち環境保全につながる行動だと言えるでしょう。先ずは、地元産品の消費に努め、「時間が許す限り遅い交通手段を使う」事により人間の活動時間を、自然の持つ時間に近づける様に暮らせば、気がつかない内に環境負荷も下がってきます。

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2008年4月 5日 (土)

627 E3よりM3

買おうと思えば、大都市圏では今やE3(エタノール3%混入ガソリン)ガソリンは手に入るようになりました。もちろん近所のスタンドで買えるほどの量は確保されていませんので、現状はいわば国や地自体の「エコ行政の格好付け」に留まっている感があります。

しかし、そのためのエネルギーやインフラのムダを考えれば、全くといってよいほどカーボンカットオフには貢献できないアプローチである事は明白です。何故なら、エタノール1リットルを輸入し、ガソリンにブレンドし、限られたガソリンスタンドに配送するのに使われる(化石)エネルギーを考えれば、その効果は多分半減するでしょう。ましてや、E3でガソリン自体を節約・削減するという力は全く生まれてきません。結果は、古紙100%表示と同様の「自己満足」に陥ることになります。

そんなムダ(というか頓珍漢な)努力をするよりは、ガソリンを3%削減する活動(M3=マイナス3%)を展開する方が、よっぽど効果的でお金も掛かりません。またまた苦言になりますが、車の燃費を悪化させた張本人は、実はオートマ車だったのです。投稿者が10年近く前に車を買った時点で、既に市販車の95%はオートマ車でした(勿論1ヶ月以上待ってマニュアル車にしました)。オートマ車は、マニュアル車に比べ燃費が約5%は悪化しますので、単純にこの比率を逆転させるだけで5%の燃費改善は可能です。ヨーロッパはこの点、実質的です。実際、2001年に投稿者がヨーロッパでレンタカーを借りようとした時も、オートマ車なんかは殆ど置いてありませんでした。走っている車の9割がマニュアル車なので仕方がありません。突飛な事を言い出しますが、車のオートマ化は、主婦やメカに弱い人にも車を買わせようとした、車業界挙げての「陰謀」だったと思うのです。何しろ自家用車の殆どがオートマ車に染まっている国を考えて見ると、アメリカ一国が存在するくらいの異常さなのです。

車の燃費は、同じ距離を走行する間にエンジンが何回転したかにほぼ比例しますから、流体継手故に機械的な滑りが生じ、かつギヤ比が上がる毎により高い回転数でつなぐオートマ車は、いま以上の効率向上は望めません。オートマ車でもCVTは金属チェーンベルトで動力を伝える事が出来るので、燃費は良好なのですが、如何せん大きな馬力のエンジンには対応できません。結局、実質的に車の燃費を向上させる方策は、ドライバーの意識による省エネ運転しかなさそうです。しかし、3%程度の省エネであれば、急加速・急停止が必要なキビキビした走りを止めてホンワカ・トロトロ運転に切り替え、エアコンを絞る程度で十分達成可能だと言えます。

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2008年4月 4日 (金)

626 手の届く技術

バブリーな時代に計画された、「天文学的な額の予算」の国際宇宙ステーションで繰り広げられている、予算の割には実りの少なそうなプロジェクトは問題外ですが、お国のプロジェクトにも納得できないものが結構多いのです。取り分けK産省の外郭団体には、その種のプロジェクトを抱えているケースが特に多く見受けられます。

顕微鏡でもまともに観察することが出来ず、訳の分からない世界であるナノテクのためのナノテク研究、遺伝子改変作物は誰も食べたがらないのにバイオテクの推進、燃料である肝心の水素を石油資源から取り出すしかないというバカげた前提の燃料電池の開発、溶接程度は何とかこなすが、人間に代わってボルト1本取り付けられない産業用ロボットの技術レベル、トランペットが吹けて道案内なら出来るが、動力がバッテリーのため、人間を抱きかかえて移動する事すら出来ない非力な自立型ロボット、出来るかどうか分からない炭酸ガスの回収・加圧と地下への注入技術、全く実用化の目処すら立っていない核融合炉などなど。私たちの莫大な税金を注ぎ込みながら、全く先の見えない「科学・技術」の何と多い事でしょう。無重力下での植物成長やミジンコ増殖やブーメラン実験など、地上では全く役に立たない実験に何千億もの予算を使う事は、出来る限り早急に諦めるべきでしょうし、手の平に載る、安全で高出力の動力源と筋肉と同様のケミカルなアクチュエータが完成しない限り、自立型ロボットの開発は即刻中断すべきです。何故なら、全く実用的ではないからです。宇宙開発の夢に、多額のお金やエネルギーを使えた時代は、冷戦下の大国競争によるソユーズ計画やアポロ計画の終了と同時に終わったのだ、と考えるべきでしょう。また、21世紀にやっと間に合ったのは、ダイムラーのガソリンエンジンに、ボルタの電池を組み合わせただけのPリウス程度であった事に、科学・技術の実力(というか底の浅さ)を知るべきでしょう。

私たちは、個人でも手の届く技術(技とも言えます)や、従来技術である「ローテク」を精々磨き、上手く利用する智恵を付けていくべきだろう、考えています。これらは、結果的には省エネで持続可能型の技術でもあるのです。

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2008年4月 3日 (木)

625 環境大福帳

K境省のHPから「環境大福帳」なるソフトウェアをダウンロードすることが出来ます。Excelマクロを利用した簡単なソフトウェアですが、これがなかなか使えます。エネルギーや水や廃棄物別にデータをインプットすると、自分が出している環境負荷(CO2換算)が一目で把握できますし、月別の変化なども確認することが出来ます。これは、実は小規模な企業や小売業でも十分活用できるソフトウェアでもあります。人材もお金も無く宣伝も下手なK境省ですから、一度バージョンアップも行っていますが、投稿者の知る限り活用している人は少ないと感じています。

しかし、このソフトウェアで、自分が(自分の会社が)与えている環境の負荷の大きさを実感し、それを少しでも減らす工夫を始める事が、本当の意味での温暖化防止・資源温存につながる行動だといえます。これで最も大きな割合を示す環境負荷を把握して、そこに集中した削減活動を行えば、割合として大きな成果が得られるでしょう。一方、天井灯の小まめな消灯やコピー枚数の削減などの小手先の対策では、実際上の効果は限定的に留まります。環境負荷を大きく削減するためには「大きいところから狙え作戦」が絶対必要なのです。

例えば、コンビニや小売商店の大きな負荷は、店の冷暖房や冷蔵・温蔵のショーケースと照明であることは明らかです。そうであれば、コンビニ店舗の設計者は、大福帳のデータやグラフを睨みながら、何かを感じなくてはいけません。例えば冷蔵棚は、飲み物を除けば開架(扉の無い棚)ですが、工夫次第では簡単な扉をつけるか冷気が漏れない仕切りなどを設ける事により、何割かは電力を削減することが可能です。また照明では、客寄せのためかも知れませんが日中から全部の照明を点灯する必要性はありません。窓際の蛍光灯は別系統として置けば、明るい日中には消灯できるでしょうし、半透明の天窓をいくつかつけておけば、晴天の日の昼間は殆どの照明を消す事ができます。ついでに言えば、最も簡単な省エネは、夜間の閉店でしょう。

更に冷暖房について言えば、外気温が18-28℃の範囲内になる季節や時間帯は、完全にエアコンを切る事が可能です。大福帳などで記録したデータを参照し、上記の省エネ対策を組み合わせれば、電力消費が現状の半分以下で運営できるコンビニ店舗を設計することは、まったく簡単な話です。

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2008年4月 2日 (水)

624 ピークアウト

社会現象あるいは全ての自然現象には必ずピークがあります。もし、ピークが存在しなければ、その系は「発散」し続けている訳ですから、ついには限界に達して爆発・消散してしまうはずです。さながら、臨界に達した放射性物質が、破局的に核分裂を始める現象(核爆発)に似ています。社会現象も例外ではあり得ません。ある国が栄え、やがて衰退する。一つの製品が爆発的に売れるが、20年後は博物館でしか見ることが出来なくなる。石炭や石油が発見され、産業の原料やエネルギーになり、産業を拡大し車社会を形成するが、やがて生産量が減少に転じて炭田や油井が涸れてしまう、などなど。

一方自然現象にも同じようなピークアウトを観察することが出来ます。台風が、暖かい南の海と強烈な日射からエネルギーを得て発達し、コリオリの力と偏西風に支配されながら発達・北上し、陸地に災害を引き起こし、やがてはエネルギーを失って消えてしまう。また、イナゴなどの昆虫やレミングなどの小動物が、なんらかの理由で異常に繁殖しながら移動し、やがて食料を食べつくして、あるいは海に突き進んでその大半が死滅してしまう、などなど。

私たちが排出する環境負荷や、その結果引き起こされる環境悪化にももちろんピークは存在します。その前提となる資源やエネルギーの埋蔵量は有限である事が最大の理由ですが、その前に環境の悪化に私たち自身が耐え切れなくなると想像されます。今まさに中国沿海部や北京で起こっている現象は、スケールを一桁くらい大きくした、かつて日本でもひどい目にあった公害の見本市だと言えるでしょう。日本は、かつては「アメリカの工場」でしたが、中国は今や「世界の工場」にのし上がってきたわけです。

いずれにしても、全ての現象にはピークがあり、そのピークには極大値が存在し、やがてピークアウトするという法則とも言えない必然がある以上、投稿者としてはある意味では「楽観」しています。黙って座っていても、環境悪化には自動的に歯止めが掛かるからです。しかし、成り行きに任せた場合、手ひどい環境からのしっぺ返しは覚悟する必要があります。しかもそのしっぺ返しは、何の罪もない将来世代が受けることになります。たった数十年先に激烈になるはずのそのしっぺ返しを少しでも軽減するために、投稿者は、技術屋から環境おじさんに脱皮することを決意したのでした。西行や山頭火のように環境出家するまでには至っていませんが・・・。

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2008年4月 1日 (火)

623 環境立国2

国の方針でもあり、将来日本が環境立国として自立して国を維持していくためのポイントを考えて見たいと思います。

資源と呼べるものが殆ど無い日本としては、先ず資源の位置づけを考えて見る必要があります。先ずエネルギーですが、これまでは安く潤沢に手に入った石炭や石油や天然ガスを、最初から除外して考えなくてはなりません。何故なら、これらはお金を出さない限り国内では逆立ちしても手には入らない資源だからです。日本で比較的に容易に手に入る資源としては、太陽光エネルギーやそれが形を変えた、バイオマスや水力や太陽光発電程度しか存在しないわけです。日本が環境立国を目指すなら、これらの地球上どこでも手に入るエネルギーである太陽光を、徹底的に利用しつくす技術を磨く必要があります。しかし、太陽光には紫外線の様に、エネルギーレベルの高いものと、赤外線の様に量は多いがエネルギーレベルの低いものが混じっていることに留意する必要があります。つまり、高いエネルギーを持った光を、例えば熱利用目的で利用してしまえば、その分の面積(例えば太陽熱温水器)の陰になった部分では最早エネルギーを得ることはできません。従って、先ず紫外線など高いエネルギーを持つ波長成分は半透明の太陽電池パネルで発電に利用し、赤外線に近い波長帯は熱として利用するなどの工夫が必要です。

資源に関してもやはり、周りを囲まれている海から得るか、または山の資源であるバイオマス(とりわけ木材)を活用する事を考えなければなりません。例えば海水中には、多くのミネラルや貴金属がイオンとして含まれていますので、これを安価に分離する技術を磨けば、原料は無尽蔵だとも言えるでしょう。また山の木の利用に関しては、多くの複雑な分子の塊である木材を、徹底的に利用しつくす化学技術「ウッドケミカル」を磨く必要もあるでしょう。現在、木材には2-3割しか含まれていないセルロースは、確かに紙やセロファンとして利用されてはいますが、残りの7-8割は捨てられるか、精々脱水して燃料程度にしか使われていないのです。

太陽光の徹底的な活用と、廃棄物を減らし、出してしまった廃棄物(有用物と呼ぶべきですが)は、最後の最後まで活用する技術を磨くしか、資源やエネルギーを殆ど持たない「日本の立ち位置」はないはずなのです。

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