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2008年5月31日 (土)

683 変わらないもの

死すべき存在である人間は、古来より変わらないものへの憧れを募らしてきました。キリストさんもマホメッドさんもお釈迦さんも、亡くなってから神として奉られ、人々の中で次第に「偶像」、即ち実体は無いがしかし絶対に変わらない「存在」として、心の拠り所になってきました。それが、いかに普遍的なものであるかは、時代が変わろうが、地域が変わろうが、現代に至っても多くの人々がやはりその偶像を崇拝し続けている事でも容易に想像できます。いずれにしても、私たちは、自分の座標の確認のためにも、絶対に変わらない「ピボット」を必要としている訳です。しかし、この国では事情が少し違いました。伝統的な日本の宗教観では、自然そのものを「形のある神」として位置づけ、畏敬の念を以って接してきたのでした。神は、従って自然物八百万(やおよろず)全てに宿っているとされてきました。東の方向に見え(陽が昇り田畑の水を恵んでくれる)山の頂、大きな岩や祠、川や滝や湖、千年を越す大木などがその地域の神々であった訳です。別の言葉で言えば、西洋では神を人の姿に重ね、この国では多くの神々を自然の中に「発見した」という事になります。

このブログの主題である「環境」に関して、西洋と日本の2つの価値観のどちらに与するのかと問われれば、結論は自明です。人が世界の主体であると信じて疑わない西洋と、そうではなくて自然あっての人間であると考える「へりくだった」価値観の日本の、どちらが環境に優しく接してきたかは、少し歴史を遡ってみれば小学生にも理解できるはずです。その変わらないものであったはずの自然が、人間の活動が原因で、無視できない程度に歪んできているのです。1970年代ころまでは、公害などと呼ばれて地域限定的な自然環境の悪化であったものが、バブル景気などと呼ばれたお祭りにうつつを抜かしている間に、国境を越え、更には地球規模の環境改変を引き起こしてしまったのです。

投稿者には、現代の不安定な情緒は、変わらないものであった筈の自然が、人間の無節操な営みの結果、大きく傷つき、五感で感じる事ができるほど質が悪くなった事に対する不安感から生じている様な気がしてならないのです。

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