« 2008年4月 | トップページ | 2008年6月 »

2008年5月31日 (土)

683 変わらないもの

死すべき存在である人間は、古来より変わらないものへの憧れを募らしてきました。キリストさんもマホメッドさんもお釈迦さんも、亡くなってから神として奉られ、人々の中で次第に「偶像」、即ち実体は無いがしかし絶対に変わらない「存在」として、心の拠り所になってきました。それが、いかに普遍的なものであるかは、時代が変わろうが、地域が変わろうが、現代に至っても多くの人々がやはりその偶像を崇拝し続けている事でも容易に想像できます。いずれにしても、私たちは、自分の座標の確認のためにも、絶対に変わらない「ピボット」を必要としている訳です。しかし、この国では事情が少し違いました。伝統的な日本の宗教観では、自然そのものを「形のある神」として位置づけ、畏敬の念を以って接してきたのでした。神は、従って自然物八百万(やおよろず)全てに宿っているとされてきました。東の方向に見え(陽が昇り田畑の水を恵んでくれる)山の頂、大きな岩や祠、川や滝や湖、千年を越す大木などがその地域の神々であった訳です。別の言葉で言えば、西洋では神を人の姿に重ね、この国では多くの神々を自然の中に「発見した」という事になります。

このブログの主題である「環境」に関して、西洋と日本の2つの価値観のどちらに与するのかと問われれば、結論は自明です。人が世界の主体であると信じて疑わない西洋と、そうではなくて自然あっての人間であると考える「へりくだった」価値観の日本の、どちらが環境に優しく接してきたかは、少し歴史を遡ってみれば小学生にも理解できるはずです。その変わらないものであったはずの自然が、人間の活動が原因で、無視できない程度に歪んできているのです。1970年代ころまでは、公害などと呼ばれて地域限定的な自然環境の悪化であったものが、バブル景気などと呼ばれたお祭りにうつつを抜かしている間に、国境を越え、更には地球規模の環境改変を引き起こしてしまったのです。

投稿者には、現代の不安定な情緒は、変わらないものであった筈の自然が、人間の無節操な営みの結果、大きく傷つき、五感で感じる事ができるほど質が悪くなった事に対する不安感から生じている様な気がしてならないのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年5月30日 (金)

682 休題(ねたみ) 

K泉首相の持論に代表される規制緩和=自由競争の増長政策は、結果として格差の拡大を生み出しました。素晴らしい規制ではなかったにしても、ある程度の秩序を維持していた日本の社会は、自由競争の美名のもと、企業倫理などというタガも外した「やりたい放題」がまかり通ってしまう事態に陥ってしまいました。

ところで、この時代を個人レベルで眺めてみれば、時代の気分を表す言葉として「ねたみ、嫉み」を挙げることが出来そうです。つまり、正規社員のあいつに比べて、非正規の自分だけが何でその日暮しのWPにならなければならないのか。若いときは働き詰めに働き、後期高齢者になったからといって何故差別されなければならないのか。ITを駆使して株を売り買いしながら楽に稼いでいるあいつと、コツコツ油や泥にまみれて肉体労働をしている自分の差は何処から生まれるのか、といった捩れた疑問から生ずる気分のことです。

ねたみや嫉みは、実際のところ「無力感」から生まれます。無力感は、自分の努力がなかなか報われない事から生じますが、近年は努力したと「本人が感じる」期間が極端に短くなっているような気がします。「苦節十年」などという言葉は、既に完全な死語になっています。現在の雰囲気で言えば、精々「苦節1年」といったところではないでしょうか。1年で結果が出なければ、若者たちは、その段階で簡単に無力感に襲われてしまう様なのです。結果、すぐキレて、もっと悪い場合は自分や無関係の人を傷つけるという行為に及びます。

この気分の根底には、以前も少し書きましたが「時間の加速」があるように思います。加速された時間の中では、短期間の間に結果を出すことが強く求められますし、ましてや規制緩和の流れの中では、その短期間での競争に負けるという事は、即ち社会からのおちこぼれを意味するからです。言葉の上では「再チャレンジ」などという、耳に心地よい言葉もありますが、無力感に疲れやすくなっている若者の耳には聞こえないでしょう。加速する時間から逃れるには、その渦の中心(具体的には都会です)からできるだけ遠くに身を置くことです。東京から千数百キロ離れた沖縄の離島などには、きっと東京の倍くらいのゆったりした時間が流れていると想像できます。そこでは、無力感やねたみや嫉みも、殆ど影を潜めているはずなのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年5月29日 (木)

681 コンクリートの悲劇

コンクリートは、それを補強する鉄と共に人類が手にした最も優れた建築資材であることは、間違いない事実です。これらの資材なしに、今日の都市や交通インフラは実現できなかったでしょう。しかし、そのあまりに優れた強度と比較的広範囲に分布する資源、安い価格は、ある意味で悲劇も生み出しました。今度の中国の奥地の巨大地震の被害もその一つだと言えるかもしれません。ニュース画像で見る跡形も無い瓦礫の殆どはレンガ積みか、ひ弱な鉄筋コンクリートのなれの果てです。

話は地球の裏側に飛びますが、ブラジルでみた20階建てくらいのマンションもひどい構造でした。見るからにひ弱で、素人目にも「静荷重」にしか耐えないだろうと思われる鉄筋コンクリートのスケルトン(骸骨)を作り、各部屋の壁は素焼きレンガを積み上げただけの建物でした。それ以上の高層ビルは、流石にブラジルでも鉄骨で作らなければならない法律になっているようで、マンションビルは判で押したように20階建てなのでした。地震が無いブラジルであればこそ、あのようなひ弱な建物が許されるのでしょうが、しかし中国では不幸にも何万人もの死者を出す悲劇に繋がったのでした。

コンクリートは、100年経ってもその強度は上がり続けるとも言われ、事実小樽には、100年前に作られたコンクリートの建物と、同時に作られた強度試験用のコアサンプルが残っており、いまだに強度試験が行われてそれを証明しています。しかしながら、近年の大気の環境悪化により、例えば雨水の酸性度は極端に高くなってきており、アルカリ性のコンクリートが雨水の浸透により、致命的な強度低下や鉄筋の腐食という攻撃に晒され続けています。増してや、石炭の燃焼量が格段に多い中国では、雨水の酸性度も日本などより数段高いと想像できます。

一方日本でも、高度成長期に塩分を含む「海砂」を使って大量に作られた、新幹線や道路や建物などのコンクリート構造物が、設計した時の強度を今も保っていると言う保証は何処にも無いのです。流石に、各地の学校では、安全性を確保するために、古い鉄筋コンクリートの建物に、鋼鉄製の筋交いを入れる工事が行われてはいますが、さて一般のビルや交通インフラに対する手当てが十分かと問われれば、投稿者の周りにも、素人が見ても首を傾げざるを得ない箇所が散見されます。例えば、コンクリート構造物が酸性雨で犯されて白くただれている箇所や、鉄筋が錆びてコンクリートが赤く染まっている部分などの事です。もし四川省の地震並みの強さの揺れが襲った場合、それらが耐え得ると言う保証は全く無いのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年5月28日 (水)

680 逆開発

679で「逆開発」に言及しましたので、このキーワードに更にこだわって見ます。投稿者が、逆開発の現場を目にしたのは、2001年に北ドイツを「環境旅行?」をした時です。北ドイツはフランスにも跨るルール炭田の石炭を利用し、古くから石炭重化学工業や製鉄業が盛んでした。その中を貫いて流れる複数の川は、絶好の水上輸送路ともなっていたのです。エムシャー川もその一つで、川幅は数十メートルの中小河川なのですが、博物館で数十年前の写真をみると両岸が完全にコンクリートで固められ、工場から沿岸の化学工場から垂れ流される廃液で、真っ黒なドブ川になっていました。

しかし、投稿者が訪ねたときは、河岸のコンクリートは完全に引き剥がされ、緑の土手に戻されており、水も緑色で多くの水鳥も戻ってきていました。魚も結構取れる様で、食用として立派にレストランでも出されていました。彼らが行った事は、川を部分的にせきとめ、水を干し上げて護岸のコンクリートを剥がし、ヘドロを浚渫して安定化処理し、緑の土手に修復すると言う「逆開発」を、長い時間を掛けて地道に繰り返したのでした。その先見性と、時代や政権が変わろうが一度決めた事はテコでもやり抜く粘り強い実行力は、どこかの国も是非見習わなければならないでしょう。

振り返って国内の状況を眺めると、一部にはこの様な取り組みを真似たと思われる、小規模の逆開発の試みが見られますが、例えば美田を潰して作ったバイパス道路を、昔ながらの田んぼや里山に戻したなどという、「本格的な逆開発」は、聞いたこともありません。特に高度成長期以降、山を削って谷や田畑を埋め立て「土地造成」し、水辺をコンクリートで固める事が開発であると定義されてきた日本では、逆開発などと言う概念さえ生まれない国だったのかも知れません。しかし、このままでは立ち行かない事がはっきりしてきました。化石燃料に依存した、一方通行の開発により我慢できない環境悪化という閉塞感を漂わせてきた今、時代の逆回しの行動、つまりは人工物を解体し元の自然に戻す「逆開発」こそが必要な時代になった、と言えるでしょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年5月27日 (火)

679 CDMの矛盾

世銀の調査によれば、2007年度におけるCDMによるGHG(CO2)削減量が頭打ちになって伸び悩んでいるようです。京都議定書の特徴の一つにCDM(Clean Development Mechanism)があります。先進国が途上国のGHG削減に協力した場合、その削減量が援助した先進国の削減量としてカウントされるというものです。これは、結構美味しい話のようにも聞こえます。多くの場合お金だけ、あるいはお金+某有名企業の技術をセットとして、途上国の企業の設備を改良する、あるいは効率の高い発電所を作る、程度の中身で、それなりの「削減効果」を上げる事が可能だからです。しかし、中身を詳細に検討すれば、多くは見かけ倒しでしょうし、そうでなくともその設備の建設によって、短期的にはCO2の排出はプラスになっているからです。設備の建設に欠かせない建築資材ですが、例えば、石灰岩から1トンのセメントを作る為には700kgものCO2の排出を伴うのです。

このブログでも、繰り返し書いているように、開発と環境保全の両立は土台無理な話なのです。開発とは、殆どの場合、先ずは自然破壊を行った上で、その後に人工物の建設や農地の拡大行うからです。山に大規模に木を植え、人工物を壊して自然に戻すなどと言う「逆開発」は聞いたためしがありません。開発によって破壊された自然が吸収していたCO2が行き場を失う一方で、開発や建設によって新たに発生するCO2が、ダブルで温暖化を加速する訳です。矛盾だらけの「クリーンな開発」は、単なる言葉遊びに過ぎません。

途上国に対し、先進国が真に温暖化防止に効果のある援助を考えるのであれば、先ずは無計画な伐採によって禿山になった場所に植林をし、無理な工業化・都市化のために作られた人工物を壊して、元の自然に戻る事業を検討すべきでしょう。これらの事業によって、途上国では意味のある雇用が生まれ、数十年先にはなるでしょうが、山地や林地の保水率が上がって農業生産が増え、毎年のように繰り返される水害も大きく減るはずです。来るべき次期の議定書では、CDMではなく、GDM(Green Development Mechanism)の原則が打ち立てられる事を望んでいます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年5月26日 (月)

678 気象の過激化

温暖化により気象が過激化すると予測されています。気温の上昇とは、分子レベルで見れば、あらゆる分子・原子のブラウン運動が活発になる事を意味し、それはマクロレベルで見れば、ある系の内部エネルギーが大きくなる事を意味しています。従って、気象の原動力が、その系が持つ内部エネルギーとそこに加わる太陽光、隣接する系から供給される気流や湿度にあるとすれば、少なくとも内部エネルギーが増加するだけで、気象現象が激化する事は十分考えられます。

加えて、先にも述べた温暖化に伴う大気中の湿度やエアロゾルの増加が降雨の過激さを増長するでしょう。気象の過激化に、しかし最も影響を与えるのは、気温の上昇に伴う海水温の上昇だと言われています。低気圧とは、日射や高い海水温によって加速された上昇気流を伴う渦ですから、高い海水温が低気圧(それが巨大化した台風やサイクロンやハリケーンをも)を激烈なものに成長させることになります。

いずれにしても、温暖化が気象を激烈なものにする傾向は、今後の温暖化の加速で顕著なものになっていくことは、多くの指標が物語っているようです。ハリケーン・カトリーナやミャンマーを襲った巨大なサイクロンは、この傾向のホンの序章に過ぎないかもしれません。日本に接近してくる低気圧や台風が、日本近海の海水温の上昇で急激に成長し、そのまま弱まる事無く上陸する傾向も近年顕著になっており、気象過激化の影響は熱帯地域に留まらず、次第に温帯域にも及び始めているようです。

その意味で、私たちは、今後の過激な気象現象に対しての備えを本気になって考えなければならないでしょう。温暖化は、頑張れば少しは減速できるにしても、長期的には最早そのトレンドを止める事ができないとすれば、その対策も受身にならざるを得ません。具体的には、低地やゼロメートル地帯の水害多発への備え、米や果実などでの風害に強い品種への切替え、保水力が貧弱で間伐の行われない人工(針葉)樹林への対策、遊水池が埋め立てられて、水の逃げ場が無くなった水系の洪水対策、高波で簡単に流される防波堤の見直しなどなど。これらの優先度に比べれば、どうでもよい道路の建設ごときに、貴重な税金を投入する余裕など、この国にも地球上に無いはずなのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年5月25日 (日)

677 雲量

水蒸気は、実は最強の温暖化効果ガス(GHG)です。GHGとは、地表から宇宙に向かって放射される波長の長い赤外線を吸収し、地表の極端な冷却を妨げるガスの事ですが、大気中に最も多量に含まれるGHGは、実のところは「水蒸気」であるわけです。二酸化炭素やメタンやオゾンやフロンなどを含む全てのCHG効果を100とすれば、水蒸気は70-80を占めると言われています。その他のGHGを束にしても、水蒸気の温暖化効果の1/4程度にとどまるという事です。とは言いながら、人間の浅知恵や化石燃料のパワーを使った程度では、大気中の水蒸気をコントロールするなどという話は、全く無理な相談です。したがって、実際問題として、人知が辛うじて及ぶ範囲の、温暖化寄与率の小さなGHG、つまりは二酸化炭素の削減程度しか、手が出せないというわけです。

ややこしい数字として、相対湿度という言葉もありますが、ここでは大気中の「絶対的な水蒸気量」として考えます。さて最強のGHGである水蒸気は、温暖化が進めばどうなるのでしょうか。気象の専門家でなくとも容易に想像できるのは、気温が上昇すれば、大気中の水蒸気量も増加するということです。冬場と夏場で、どちらが大気中の水蒸気量が多いかは、考えるまでもありません。夏場が何倍も多いはずです。従って、夏場は夜間の放射冷却が妨げられて、熱帯夜となるわけです。一方、内陸の砂漠地帯では、極端に湿度が低いため、日中の気温が50℃になったとしても、夜間は一桁の気温にまで下がったりするわけです。

問題を複雑にするのは、大気中の水蒸気は均一に分布する訳ではない事です。具体的には、低気圧(上昇気流の中心)と高気圧(加工気流の中心)では、同じ地域にあるものでも、湿度は大きく異なります。また、気温の高い地域と低い地域が隣り合っている場所には前線が発生し、雲が湧きます。地球の温暖化が今以上進んだ場合、宇宙から見た地球が白い雲で覆われる割合(全球雲量)がどのように推移するのか、実のところ正確には予測出来ていないのです。それは、雲の核となる「雲核=多くはエアロゾルの類」の分布の観測や研究は、極端に少ないからです。雲量は、太陽光の反射率(アルベド)に直接関与しますので、温暖化が大気中の水蒸気増加に伴って累乗的に加速するのか、あるいは雲量増加によって少しは緩和されるのか、投稿者が知る限り説得力ある結論はまだ出ていないようです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年5月24日 (土)

676 多様性の確保

環境を語る上で、多様性保全の問題は避けて通れません。地球環境が、今の様な微妙なバランスの上に成り立っているのは、無機(岩石や鉱物)の地球が、その上で繁栄と絶滅を繰り返しながら多様な有機地球(生物の事です)が、相互作用を及ぼしながら互いを変えてきた結果です。鉱物と太陽光と水だけでは、生物の発生や存続の条件としては十分ではありません。多才な元素である炭素(C)と植物の成長や動物の筋肉を構成する窒素(N)が、適当な割合で水の中に遊離している必然もありました。

生物が多様であることの重要性は、改めて指摘するまでもありませんが、最も重要なポイントとして、未知の微生物による病気の発生への耐性を挙げるべきでしょう。つまり、遺伝子操作による品種改良で、収量が多く、農業用水使用も、肥料も、農薬の使用量も減らせる、「スーパー・トウモロコシ」が開発されたとします。数年は、農家も市場も消費者もめでたく暮らせるかもしれません。多分それを見た世界中の農家がこぞって、この新品種の作付けを始めるでしょう。しかし、ある日、ありふれたトウモロコシの病原菌が突然変異を起こし、この「スーパー・トウモロコシ」に壊滅的な被害を及ぼす「スーパー・ウィルス」が出現してしまうことはかなりの確率で想定されます。結果、世界中の畑では、褐色に変色したトウモロコシが立ち枯れ、その年の収穫は殆ど無くなってしまいます。世界各地では、深刻な飢饉が始まることになるでしょう。これが、「単一品種の悲劇」というストーリーになります。

一方で、世界各地で、その土地に自生していた品種を、遺伝子改良ではない手法で品種改良した作物は、ある種の凶悪な病害虫が発生したケースでも、地域限定の不作程度で済んでしまうでしょう。つまり今の地球環境を保全し、多様な生物を守る事には、私たち人類(ヒト)の存続にとっても重要な意味があったのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年5月23日 (金)

675 Gグル・アース

最近Gグル・アースをよく使います。無料で、地球全体の航空写真情報が使えるという、ちょっと前には考えられなかった夢のようなサービスです。詳細モードで撮影されたエリアは、地上の車程度までは識別できますし、撮影された季節はエリアによってバラバラですが、土地利用の様子や砂漠化の程度は十分に読み取れます。例えば、アメリカ中西部のピボット(地下水を汲み上げるポンプとスプリンクラーを備えたアームが一体になったもの)と円形の農場が緑のゴマ粒のように広がっている様子、あるいはアマゾン地域で、密林の中に開発道路が伸び、そこから枝葉のように伸びた道路の周りの樹木が伐採されて魚の骨のように地面が露出している様子、あるいは南極の巨大な棚氷が割れて流れだしている現場、あるいはアラル海が干上がって、真っ白な塩に覆われた湖底が広がっている様子なども手に取るように観察出来ます。これらの「現場証拠写真」を、温暖化防止の出前講座などで見せると、子供にも大人にも結構インパクトがあるようです。

つまり、「温暖化のお話」はそうでなくとも毎日のようにマスコミで報道されていますが、では具体的に、どこで、どんな困ったことが起こっているのかは、なかなか実感できないのも事実です。しかし、Gグル・アースで、上空からその現場に急降下して「疑似体験」することによって、さながら自分がその場に立っているかの様な気になってくれるようです。

Gグル・アースの面白い機能として、画面の視点を自由に変えられる事が挙げられます。最近は、建物の「擬似立体表示」もサポートされていますので、視点を下げてみると、さながら自分が都会のビルの谷間に立っているかのような疑似体験をする事も可能です。地形についても、同様な機能がありますので、山の形も立体的に見ることが出来ます。先の中国内陸部の巨大地震が引き起こされた地域も、視点を下げてみると、地面に沢山の複雑なシワ(断層)が刻まれているような地域のように見えますので、昔から地震が多発していたことが容易に想像できます。「地球の観察ツール」でもあるGグル・アースは、なかなか使えるソフトウェアではあります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年5月22日 (木)

674 アメリカン・スパイラル

以前に、道路とは、石油精製で出た廃棄物(タールやピッチ)の捨て場所であると書きました。アメリカで、石油を大量に使いだした時期、石油精製の過程で製油所から蒸留残渣として排出されるタールやピッチは、最初はそのまま道路に散布されたでしょうし、少し知恵がついてくると、細かい砕石と混合したアスファルトとして、舗装道路の原料として利用され始めました。その結果、石油を消費すればするほど、舗装道路は延び続け、結果として長大な高速道路網が生まれ、それが更なるモータリゼーションを加速するという、「アメリカン・スパイラル」が出来上がりました。

それは、二度の世界戦争という石油の「大量消費事件」を通過し、やがてヨーロッパや日本でも加速されました。しかし、庶民が車に乗れるようになった高度成長期以降は、そのスパイラルはさらに加速していきました。モータリゼーションの加速は、モノの消費も加速しました。何故なら、運ぶ事が出来ない商品は市場価値が低いでしょうし、大量生産も大量消費も出来ないからです。

石炭以外、めぼしいエネルギー資源のなかった日本では、国策として早くから輸送のエネルギー効率の高い鉄道網が整備されましたが、この時期、逆に言えば鉄道の輸送量が、社会のモノの移動量(輸送量)を制約していたともいえるでしょう。しかしながら、現在の高速道路に見られるように、数十メートルの間隔で、大型トラックが数珠繋ぎになって疾走できるインフラが出来上がって以降は、鉄道輸送力の制約からは一気に解放されたのでした。

あの列島改造論で急加速された日本でのアメリカン・スパイラルは、ここにきてやっと「道路特定財源の見直し」と言う儀式を経て減速しそうですが、逆に中国や発展途上国では今からまさに加速されようとしているのです。この悪しきスパイラルが、環境悪化を加速している事は、疑いが無い事実なのですが、便利中毒から逃れられないという、困った性質を持った人類はこれからもこのスパイラルを登り続ける事になるのでしょう。得意になって木登りをした子供の様に、登り続けてふと下を見たとき、人々は環境悪化の恐怖に頬を引きつらせる事になるのでしょうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年5月21日 (水)

673 ラベルの貼り替え

少し前まで、食品の賞味期限や消費期限のラベルを貼り替えることや、産地や原料名を偽る事(食品偽装)が流行っていました。マスコミでさんざん叩かれましたので、多分ホトボリが冷めるまではそんな悪行もなりを潜める事でしょう。しかし、ラベルの張替えは何も食品に限った話ではありません。それどころか、そんな行為は多くの分野で日常的に行われているような気がします。

思いつくだけでも、紙のリサイクル率や印刷インクの大豆油成分率の水増し、原料は完全な輸入なのに国内で加工して国産のラベルを貼る「国産」ウナギの蒲焼、国内で組み立てられてはいるが、内蔵の部品のほぼ全てが台湾や中国で製造されている電化製品、襟のところに縫い付けられているブランド名は確かに日本のものではあるが、ほぼ100%海外で縫製されているアパレル製品、さらには車のタイヤでさえ、国産有名ブランドなのに実は海外で製造されていたという事実も先日のリコール騒ぎで明らかになりました。

つまり、いまや日常的に接している製品や食品の全てのラベルを疑って掛からなければならない時代になったと覚悟しなければなりません。複雑な国際間の交易の中で作られる製品や食品に、輸入や国産という単純なラベルを貼ることはできなくなりましたし、ましてやその原料や製造過程をさかのぼる「トレーサビリティ」もほぼ絶望的だと言わざるを得ません。単純に見える国産の製品でさえ、例えば包装に使われているフィルムやリボンなどの包装材や、派手な色で印刷された化粧箱は、実は海外で作られているかも知れません。

最近近くのショッピングセンターの食品売り場には、「・・・農園の野菜」と言うコーナーが出来ました。特別な包装もなく、全てバラ売りか葉もの野菜を輪ゴムで止めただけです。これではラベルを偽装する余地すらありません。これを究極の物流とするなら、他の商品もできる限りこれに近づける努力をすれば良いだけです。値段で買うものを決めては、環境に優しい生活はおぼつきません。ラベル貼り替えが「比較的少ない」国産の食材の値段が、例えば輸入物より2割高ければ、先ずは買う量を2割減らし、「皮ごと調理」で捨てる部分(生ゴミ)を1割減らし、健康のために食べる量を1割減らすだけで済むでしょう。いずれにしても、ラベル張替えを最小限にするためには、何しろ流通経路を単純に、かつ短くする必要があります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年5月20日 (火)

672 土壌の働き

勿論、植物があって水と太陽光があるだけでは十分ではありません。何より、その直物が根を張る土壌が必要です。岩が風化したただの土と、有機物と微生物が棲む土壌とは全く異なるものだ、という話は以前にも書きましたが、植物にはまさにその土壌が必要であるわけです。土壌の機能は、しかし単純ではありません。例えば、植物に必要な有機物、無機物を含んでいる事は当然としても、水分を保持する機能、逆に余分な水分は地下に浸透させる機能、根は空気も必要としますので適度な通気性、ヒゲ根が伸びるための適当な空隙などが挙げられます。しかし、どこの土壌もこんな良い条件を満たしているわけではないので、結果としてはその土壌に合った植物や或いは作物しか受け付けない事になります。そのため、多様な土壌と多様な気候が、いま地球上に存在する多様な植物群を育む結果となったと言っても良いでしょう。

さて、植物は土壌(微生物)との間で、相互に物質のやり取りを行っています。根は、単に水や養分を吸い上げるだけではなく、根から土壌生物へ物質も与えているからです。それは、ある種の糖や有機物ですが、根の周りに生息する微生物の栄養源となって、微生物を活性化し、結果として植物に有用な養分を生産させる効果が跳ね返ってくるからです。豆類と根粒バクテリアの共生関係については、よく知られていますが、殆ど全ての植物は同様の共生関係を築いていると想像できます。

共生関係を詳しく観察すると、一体どちらが主でどちらが従なのか、分からなくなってしまいます。つまり、植物がより大きく成長するために根粒バクテリアを利用している宿主なのか、或いはバクテリア群が生き延びるために植物を利用しているのか、考えれば考えるほど分からなくなるのです。話は少し脱線しますが、人間とその体内に数多く生息する腸内微生物(大腸菌や乳酸菌やチョイ悪のウォルシュ菌などです)の関係もまた複雑です。これらの腸内微生物の存在無しには、私たちは食物を上手く消化できないでしょうし、人間の体内環境に適応した微生物群もまた人間の体内を出ては、活発には増殖できないでしょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年5月19日 (月)

671 緑色の意味

植物の話題のついでです。植物が緑色である事には重大な意味があります。これは、工学系の学校では教えてくれなかったし、重工業に長年勤務していても、全く必要の無かった知識でもありました。さて、光合成を行う葉緑素は緑色ですが、私たちの目に緑色に見えるのは、緑色以外の光(特に赤色・赤外線)を葉緑素が吸収しているからに他なりません。光合成の原動力である電気・化学的力は、エネルギー準位が高い紫外線で駆動されますが、その後の光合成を進めるエネルギーや植物の活性を維持するには、波長のより長い赤色や赤外光・遠赤外光が不可欠です。事実、たとえ気温が低くても、十分な量の紫外光や赤外光を照射してやれば、植物の光合成は活発に進む事が確かめられています。その仕組みを十分に理解しないままでは、例えば多量の化石エネルギーを使った温室栽培などが、何の疑問もなく行われたりする訳です。

足りないのは、「緑のサイクル」の原動力である光合成をもっと掘り下げる研究者です。エネルギーをあまり使わないで、植物が好む光や赤外光を発生させる事が出来れば、日本の農業で湯水のように使われている化石エネルギーが大幅に節約可能です。これは、単なる省エネルギー技術などではなく、「植物のご機嫌伺い技術」なのです。

植物学などは全くの門外漢である投稿者でも、この程度の事を思いつくのですから、農学系の研究者と照明器具などを開発している技術者が、酒でも飲みながら議論するだけで、もっと画期的なアイデアが生まれるかもしれません。農学者が、農業の衰退を嘆き、メーカーの技術者が、納期と品質と価格に追い回されながら忙しく動き回っているだけでは、温暖化のアリ地獄から抜け出すアイデアなど生まれるはずがありません。先ずは技術者が、植物の葉っぱを一枚手に取ってマジマジと観察すること、農学系の研究者が発光ダイオード(LED)の光に注目し、どんな波長の光が出ているのかに注目すれば良いだけです。その結果、植物達が躍り上がって喜ぶ波長の光を出すLEDの開発でき、温室栽培のイメージは大きく変わってくるでしょう。その光は人間の目には見えないかも知れませんが、多分温室内の気温は凍結しない程度で問題ないでしょうし、消費するエネルギーも画期的に小さくなるはずです。

そんなに難しいことを考えなくとも、単純に木陰が涼しいのは、樹木の葉が熱線(赤外光)を殆ど吸収してくれるからに他なりません。葉が緑色に見えるのは、熱い(赤い)光を全て吸い取り、赤の補色である緑の光だけを反射しているのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年5月18日 (日)

670 集光装置

自然の観察は、実は非常に重要です。多くの科学や工業技術は、自然現象の模倣にその出発点があるからです。例えば、色素増感型の太陽電池は、葉緑体のなかで光子(フォトン)が持つエネルギーが、電気(化学的)作用を起こし、光合成のサイクルが回る現象の一部を模倣したものです。しかし、人間が作ると太陽光発電パネルは、平板型になり、屋根に敷き詰める程度の智恵しか出ないようです。しかし、光を集める名人を探す事は、自然界では容易です。

例えば樹木です。植物、取り分け樹木は太陽光を集める名人です。広葉樹の葉の重なりは、決して伊達ではありません。太陽光は、その高さも方位も刻々変化しますので、それを取り込んで光合成を行い、幹を太くして実を付ける活動に関して、無駄についている葉は多分1枚も無いはずです。そのため、太陽の高度が、高い位置まで登る熱帯や温帯の樹木は、概ね樹冠が球形または半球形をしています。H立グループのCMに出てくる、ハワイにある「あの木」の形がその典型なのです。

針葉樹の樹形が円錐形をしている事にもやはり意味があります。北国では、夏でも太陽は低い高度にしか上がりませんので、南洋の木のように、半球形の樹冠は意味がありません。低い高度の太陽光を最大限に利用するためには、面に太陽光が直角に当たる円錐形が最適となるわけです。木に直接訊ねて見るわけにも行きませんが、注意深く自然物を観察する事によって、自然界にあるものの形が「自ら」そうなっている訳が何となく理解できるでしょう。

技術屋は、自分が考えやすい、製造しやすい方向に単純化して設計する傾向にあります。ですから、これまでに作られた全ての太陽光発電のパネルは、ただの平面で構成されています。新幹線から見える、某家電メーカーの700kwを超える電力を生み出す巨大な太陽光発電施設も、奇抜な船の形の構造物に張られてはいますが、電池自体は単純な平面です。太陽光発電の研究者や技術者には、「悔しかったら葉っぱみたいなソーラーパネルを作ってみろ」と言いたいのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年5月17日 (土)

669 緑のサイクル

投稿者のこの5-6年の「研究」によれば、現代は地下資源を採掘し、生産し、消費し、その結果出たゴミを廃棄物処理場に送り込む一方通行の社会であり、結果としては資源の枯渇と廃棄物の横溢に苦しみだしている社会でもあります。

一方江戸時代(田舎では多分戦後まで)は、自然物に基盤を置いた物質の循環がしっかり出来ていました。自然物とは、草木(バイオマス)や地表付近に露出している(砂鉄などの)僅かな鉱物、ありふれた粘土や、水や、人や家畜から出る「し尿」などのことです。資源もほぼ全ては自然物なので、最終的に廃棄物となっても、最終的には自然に還るものばかりです。

ところで、工業的材料や地下資源をリサイクルする方向も「循環型社会」などと紛らわしく呼ばれることもあるので、ここでは上の昔の循環社会を「緑のサイクル」と呼んで区別しておきます。緑のサイクルを回している原動力は、言わずもがなですが「太陽力」やそれが形を変えた、水力や風力などの自然エネルギーです。

現代の循環型社会の定義と、緑のサイクルで全く異なる点は、前者はリサイクルのための収集運搬や再資源化に多大な化石エネルギーを費やすのに対し、後者は基本的には少しの人力と後は自然の分解力(生分解力)だけで成立していることにあります。現代の社会で多量に使われている材料の多くは、何十年、何百年自然の中に放置しておいても、それが地下の鉱脈に戻ることはありません。少し酸化して、周囲の環境を汚す程度のことです。技術者は、簡単には劣化しない材料を「優れた材料」として多用してきたのです。鉄よりはステンレス、木材よりはコンクリートやプラスチックといった具合です。劣化しないことは、廃棄物になった時に簡単には分解されないという弊害がある事については、一顧だにしなかった技術者の落ち度こそが環境問題の元凶だといえます。

そこに気がついてしまえば、今から作る製品の原料選定は、いかに短期間に生分解されるかを最優先に据えなければなりません。確かに愛知県で開かれた万博では、会場で使われた食器は、穀物から作られた生分解性のプラスチックで作られていました。しかし、その様なまともな取り組み、たった半年の万博期間内しか持続しませんでした。「環境祭り」から日常に戻った現在、「生分解性プラスチック」の文字がマスコミに登場する事は皆無になりました。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年5月16日 (金)

668 ソーラークッカー

投稿者がデザインしたソーラークッカー(太陽熱調理器)の開発が進んでいます。開発と言っても、知り合いの紙屋さんに頼んで、片面にアルミコーティングされたボール紙が素材の、ごく安価なものです。素材の原価は多分数百円にもならないでしょう。この材料を加工して17面体にする簡易型と、二重円錐で構成する性能重視型と2種類開発しました。これは、商品にして売り出す積りのものではなく、子供たちの環境学習の教材とするために考え出しました。小中学校向けの出前講座も多くこなしていますが、座学だけではその場の「ふーん、温暖化の仕組みはそうなっていたのか」程度の理解で終わってしまうからです。

以前のコラムで「太陽生活」、つまりは生活の基盤を、より太陽光に依存する方向にシフトする生活を提案していますが、天気の良い日は親子で、太陽光で煮たジャガイモを食べて、太陽光の実力を実感してもらいたいものだと思います。勿論、10万円弱を投資すれば、多数のキラキラした反射板を備えた、スマートで性能の良いソーラークッカーが手に入りますが、如何にお金も資源も使わないで太陽光のパワーを手に入れるかが、環境おじさんの智恵の使いどころだと思うのです。

この夏休みも、出来る限り多くの場所で、ソーラークッカーの製作講習会を開く積りですし、性能向上型のものは、耐久性のある材料で作って、(スポンサーを見つけて)全ての小学校や中学校に配りたいものだと目論んでいます。知り合いの紙屋さんは、なかなかの商売人でもありますので、近い内にネット販売くらいはやってくれるかもしれません。ただ、売るための製品としては完成度が低いので、性能と外見をさらにブラッシュアップしなければならないとも思っています。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年5月15日 (木)

667 秩序と無秩序

養老猛も「エコの壁」で指摘しているように、環境問題とは環境内の秩序を保つために、環境外に放り出された無秩序が引き起こした結果であるといえます。その無秩序は、目に見える(固体ゴミ)、汚れた排水(液体ゴミ)、空気中に排出される有害ガスや温暖化効果ガス(気体ゴミ)の順に、影響を与える周囲環境の面積は拡大していきますし、一方で影響の現れかたの時間的遅れ(タイムラグ)も大きくなっていきます。気体ゴミについてみれば、その影響の範囲はいまや全地球に及ぶ事態になって来ましたが、本格的な影響が現れるのは、しかし数十年後かも知れません。

突然、極端な例を挙げますが、テレビなどで時々紹介される「ゴミ屋敷」は、実は究極のエコ生活だとも言えるのです。ゴミ屋敷の家主は、自分の家や部屋の無秩序と引き換えに、外部環境には殆ど影響を与えていないからです。秩序を守るために「環境内」から放り出したゴミは、それを自治体や廃棄物処理業者が回収して、焼却あるいは埋め立て処理することによって、大気にCO2や少量のダイオキシンが放出され、埋立地の秩序はゴミの搬入によって乱されるわけです。

別の例ですが、車の排気管が車の後ろを向いているのは、排気ガスが有害物質を含んでいて運転者に害を与えるからに他なりません。後ろの車との間隔(数十メートル)の間で、車が作る乱気流が息苦しくない程度には排気ガスを拡散してくれるからこそ、ギリギリ許される気体ゴミのいまのところ合法な投棄行為であると言えるでしょう。もちろん例外的には、世界的な観光地などで、排気ガスを出す車が「条例違反」であるとして街から締め出されているケースもあります。いずれにしても、車を捨てて単車を移動手段に選んだ投稿者には、時としてトラックの側面から排出される真っ黒な排気ガスを見る時は、健康被害の恐怖に晒される瞬間でもあります。もちろん、必死に息を止めて、そのガスを吸わないようにしてトラックから離れます。とは言いながら、単車と言えど、たとえ車の1/3程度ではあっても、排気ガスを出している事に変わりない訳で、投稿者も実のところ胸を張って単車を転がしている訳ではありません。環境の無秩序(負荷)を増やしながら生きていかなければならない葛藤と毎日闘っているのですが、その中から生まれた独白がこのブログでもあるとも言えます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年5月14日 (水)

666 依存症

このブログでも何度か「便利中毒」と言う言葉を使っていますが、もう少し枠を広げて、現代の依存症について書いて見ます。人々が、自分だけの力で生きなければならなかった時代、他人への依存は最小限でした。例えば、手先が器用で道具を作るのが得意な人は、村の鍛冶屋となって、農機具や刃物造りを分業し、農家からはその見返りとして農作物を受け取っていたことでしょう。しかし、貨幣による価値の交換が普通の事となった近世以降、分業が進み、産業革命を経て、産業や職業と言う形で分業が明確になり、結果として人々は互いに多くの人々に依存して生活する羽目になったのです。今では、自分自身で一から作り出せるものは殆ど無くなりました。身の周りで数えてみても、編み物や裁縫でさえ、自分で毛糸を紡ぎ、あるいは機織をして布を作れる人は、人間国宝並みに稀になってしまいました。単純な、道具(簡単な刃物や器や箸や楊枝など)に至るまで、全て工業製品、しかも殆どは海外からの輸入品になってしまったのです。

この、あまりに他者依存が進んでしまった社会に強い不安を感じているのは、投稿者だけではないはずです。ある日、何らかの事故で、食料や日用品やエネルギーの供給が短期間途絶えた場合を想像すれば、私たちの依存症ぶりが明らかです。高速道路の大事故や、雪などの天候による数日間の物流の遮断でさえ、大きな組立工場をストップさせ、あるいは大都市のスーパーの食品棚を空っぽにするには十分でしょう。中国が、自国の食糧価格を安定させる目的で、食料の輸出をホンの何割か削減するだけで、やはりスーパーの冷凍食品や野菜売り場はガラガラになるはずです。

また、自分達の日常生活を振り返れば、車や電気(電化製品)や携帯電話やパソコンやコンビニや外食産業への依存度は、ますます拡大しています。携帯電話が使えなくなった時の、若い世代のパニックぶりは容易に想像できます。ガソリン高騰で、車が自由に使えなくなった時の、通勤者や主婦のうろたえぶりもまた、想像が容易です。依存症を治すには、禁断症状は予想されますが「~断ち」しか有効な対策は考えられません。車断ち、輸入食糧断ち、電気断ち、石油断ち、携帯断ちを1週間実行してみれば、自分の依存症が実感できるでしょうし、もし1ヶ月も実行できれば、多分にそれからの依存症は克服できる見込みが出てきます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年5月13日 (火)

665 環境配慮型~の矛盾

「環境配慮型の~」や、「地球にやさしい~」という文字が氾濫しています。例えば、環境配慮型の車、環境配慮型の電化製品、環境配慮型の製品、地球に優しい再生紙などなどです。しかしその中身は、これまでより20%燃費が良い、あるいは同じ程度消費電力が少ない、または何割かのリサイクル原料を混ぜている、といった程度に留まっているのが現状です。それどころか、トータルでの環境負荷を評価する手法であるLCA(Life Cycle Assessment)で見た場合、逆に環境負荷を上げている例さえ見受けられます。原因は、それを評価した人が、自分の守備範囲しか見ていないからです。つまり、材料メーカーは原料の入荷から、精製・梱包・出荷まで、部品メーカーは材料の入荷から部品出荷まで、製品メーカーは部品入荷・組立・出荷までの範囲でしか環境負荷を評価していないのです。従って、原料から製品になり、さらにはそれが廃棄されるに至るまで、製品のライフサイクルを通じて評価すれば、例えばリサイクル製品の環境負荷は、バージン材を使った製品よりかなり高かったりする訳です。勿論、森林の伐採や資源枯渇の面だけを考えれば、リサイクルすべき材料や製品は多いのですが、一方で環境負荷(CO2排出、製造工程から出る産業廃棄物、リサイクル原料の収集運搬など)を総合的に考えた場合、両者を立てる場合に矛盾が生ずるケースが多いのです。

その場合、どちらがより環境に優しいかの判断は簡単ではありません。製紙産業などは、その典型例だと言えるでしょう。その難しさの象徴として、「古紙リサイクル率の偽装事件」が生まれたのでしょう。つまり、古紙のリサイクル率を高く表示した方が、取引先からの評価が高く(多分単価も幾分高く)、100%パルプの紙よりは、「見かけ上」は環境配慮型の製品にはなっているわけです。一方で、リサイクル率を高めるほど、古紙の収集運搬、古紙インクの漂白、酸を含んだ製紙スラッジの処理、廃水処理などで、環境負荷を押し上げている事は否めません。この矛盾は、社会がどちらに優先権を設定するかによって、時代と共に変化する筋合いのものです。とは言いながら、最終的な判断の尺度は、決して経済性ではなく、結局「どちらがより持続可能性が高いのか」という1点に絞られる事になります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年5月12日 (月)

664 電気自動車ごとき

電気自動車の販売計画が目白押しです。電気自動車には、確かに排気管は無く、排気ガスも出ません。しかし、しかしです。電気自動車の普及は、逆に環境問題を見えにくくする可能性が拡大します。何故なら、電気自動車の利用者は、自分がどこかの発電所の煙突から石炭や石油や天然ガスを燃やした二酸化炭素を出している、或いは原発で放射性廃棄物を出しているという罪の意識からは逃れられますし、ガソリンをスタンドで買うことに比べれば、実際問題としてサイフもかなり楽になるはずだからです。

電気自動車は、環境問題の切り札には絶対になり得ません。車体は相変わらず鉄板で作るでしょうし、ニッケルー水素電池やリチウムイオン電池(ところでリチウムは人体や生物には有害な物質です)などが廃棄物になった時には、新しい公害が発生する可能性も高いからです。シリコンなどの高価で、製造にエネルギーを多量に要求する様な資源をあまり使わないで太陽電池などのエネルギー源を整備し、しかもその土地で太陽光や風力から得られる電力だけを使って、「電動アシスト自転車」を動かすくらいなら、まだしも可愛らしい話ですが、日本だけでも何千万台もある乗用車の半数が、例え電気自動車にすげ替えられたところで、環境問題の解決にはなんら結びつかないのです。

真に必要な作業は、社会基盤の確保に必要な順に優先度を設定し、不要・不急な車の数を制限する以外には無いのです。この国では、明らかに国土面積に対する車の数が過剰だからです。それは、駐車場に入っている全ての車を動かしたと仮定した場合、全ての国道には隙間なく車が数珠繋ぎになって全く動かなくなるほどの数なのです。車の数を2-3割削減したところで、この国では困ることは全く無いはずです。通勤の乗り合い乗車が少し増え、道路の渋滞も大幅に減少し、石油エネルギーの削減も進み、国道筋の大気汚染や騒音も少し改善され、数えてみても良いことずくめです。

今のところそんな声が出てくる兆しはありませんが、「環境のために先ず車の数を減らしましょう」と呼びかける声にこそ是非耳を傾けてください。車メーカーの小手先の目くらまし作戦でもある、電気自動車ごときに惑わされてはならないのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年5月11日 (日)

663 排出権ごとき

排出権とは、一義的には二酸化炭素を出す権利を売り買いする制度ですが、問題は二酸化炭素の排出者に課す上限(キャップ)です。つまり、その上限を超えてしまった人は、お金を出してまだ余裕がある人(事業者)から権利を買うことになるわけですが、そのキャップの決め方が大問題です。つまり、世の中に絶対に必要なもの(衣食住関連)を作っている重要な事業所も、レジャー産業やお遊びグッズを作っているそうでない事業所も、一律にキャップを載せられた場合を考えてみると、世の中は大変な事態になることが予想されるからです。かといって、衣食住に関わる基幹産業と、サービス業のキャップの重みに差をつける事は、自由主義経済の社会ではご法度です。それは、最終的には業種によって、環境負荷の色分け(または差別)にもつながるからです。しかも、いくら環境負荷が高くとも、例えば食品産業に重いキャップを義務付けると、食糧価格の値上がりにもつながるでしょう。

排出権取引には、軽いキャップには排出抑制の効果は無いでしょうし、かといって重過ぎるキャップは産業構造を歪める、という難しい舵取りが必要になります。もし排出権取引を、正しく機能させたいのであれば、産業ごとの環境負荷の公平な評価と同時に、社会に対するその産業の重要度も同時に評価しながらキャップの重さを参酌しなければなりません。これは、事実上矛盾だらけの作業に陥り、多分全ての利害関係者からブーイングが噴出するのは間違いありません。それは、たとえば仕事で使っている車と、遊びか暇つぶしでドライブしている車を、区別し、しかも排気量に応じて、それまでの実績としての運行距離の上限を定めるような、ややこしい作業となるからです。

とは言いながら、排出権ごときに環境問題は解決できない事は、全く自明です。何故なら、このブログで何度と無く指摘しているように、権利とかお金とか、色のついていないモノにすり替えた瞬間、実際はその裏でいくら環境に対してあくどいやり方で手に入れたモノであっても、誰も文句を言えないからです。結局はお金で解決しようとする排出権云々の議論ではなく、先ず排出量を減らすための100くらいの多様な方策を立てる事にこそ衆知を集めるべきでしょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年5月10日 (土)

662 人口の圧力

地下資源が本格的に掘り出されるまでは、各地域の人口を制約していたのは、殆ど場合その地域の耕作地が持つ食糧生産力だけでした。例えば、日本においては江戸時代を通じてほぼ人口の均衡状態にあった3000万人程度だといえます。それが、20世紀の四半分時点で5000万人を越え、1970年代には1億人を突破する事ができたのは、ひとえに地下資源を比較的安い価格で利用できたお蔭と言えるでしょう。つまり、国内の数少ない資源としての石炭で製鉄業や化学工業を興し、輸入した鉄鉱石やボーキサイトなどで安価な金属材料を手にして、それを製品に加工して外貨を稼ぎ、食糧を手に入れる事ができたからでした。国内に石炭が出なくなってからは、安い中東原油がその後を引き受け、原料兼エネルギー源として、日本の産業を牽引してきました。地球規模で見れば、人口は戦後の20数億人レベルから、1980年代後半に倍の50億を突破し、直近のデータでは67億にも膨れ上がったのです。

しかし、環境悪化からの制約もさることながら、石油を含む地下資源自体の採掘ピークが見えきた事が、今以上の人口増加により人類の存続自体へのリスクが、幾何級数的に高まることが危惧されます。つまり、農業機械や化学肥料・農薬に大きく依存している現代の農業の行き詰まりが明確になってきた現在、地球にはこれ以上の人口を養う力が、残っていないと思われるからです。産業革命以降、20世紀を通じて拡大し続けてきた資源と人口の相互作用が、まもなく逆回転を始めると予想されますが、人口増加時の状況とは全く異なり、人口減少は飢餓や環境難民によって急速に進行すると思われるだけに、悲劇的でもあります。

その意味では、いまや人類の生息数(人口)とその密度こそが、環境に対する最大の負荷になってしまった、というのもあながち言い過ぎとはならないかもしれません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年5月 9日 (金)

661 制御不能

環境問題は経済問題でもあると繰り返し書いています。しかしながら、環境おじさんとして抱いている無力感の原因は、経済活動が地球規模になったのと並行して、環境問題も地域の環境問題(典型的には、公害や里山の消失など)の枠を超えて、気候変動などのグローバルな問題に拡大してしまったことです。経済問題ですが、1970年代か80年代の初めくらいまでは、政府の打つ各種の経済・金融政策が確かに機能していました。政治家、例えば池田隼人や佐藤栄作や田中角栄なども、役人のお膳立てしたヤグラの上で踊っていれば良かったのです。しかし、いまや国家予算にも匹敵する規模に膨れ上がったフリー(ラジカル)マネー(正しい経済用語は知りません)が、ガタガタと為替水準を揺り動かし、原材料や石油の価格を吊り上げています。つまり、金融政策や経済政策が制御できる範囲が縮小している状況は、多くの学者やエコノミストの認識以上に事態が進行しているのかも知れません。

一方で、BRICSの急速な台頭の結果、経済規模は数年で倍近くになる勢いで拡大しているわけで、同じ割合で増加し続けているフリーラジカルマネーの力は、最早一国の政策程度では、歯が立たなくなったような気がします。この状況は、以前にも引用した「パンドラの箱」現象に相違ありません。つまり、地下資源というパンドラの箱を開けてしまった人類は、公害や環境悪化という害悪からは逃れられないのではないか、と悲観せざるを得ないのです。しかし、確か箱の中には「希望」という言葉も入っていたはずです。

制御不能になった最大の理由は、人間が作り出したものでありながら全てシステムの規模が、人間が制御できる範囲を超えて巨大化してしまった事にあります。その象徴が、暴れまわるフリーラジカルマネーであり、温暖化効果ガスの増大であるわけです。もし人類が、経済を制御できないのであれば、それは温暖化も制御不能である事を意味します。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年5月 8日 (木)

660 ゴミ減らしの方法

659で書いたゴミ発生の原因が分かったとして、それを減らすのは簡単ではありません。何故なら、生産、流通、消費、廃棄という社会のシステム自体が、一定量のゴミの発生を前提として作り上げられているからです。例えば、野菜の流通を見ても、生産地での選別、ものによっては、クッション材による個別包装、ダンボール箱への詰め込み後のトラック輸送、小売店での箱バラシ、再度のラップやビニール袋での小分け包装という過程を経て消費者に渡ります。もし、農家が作物を直接トラックに積んで朝市に持ち込み、台の上でバラ売りを行えば、包装ゴミの殆どは無くす事が可能のはずです。しかし、悲しい事にそうはできない社会システムになっているのです。

一方、肉や魚など生ものも、スーパーのバックヤードで中間処理されて、発泡スチロールのパックとラップで個別包装され、シールを貼られて低温ショーケースに並べられます。そうしなければならない(食品衛生法などの)決まりだからです。勿論、今でも肉屋や魚屋に行けば、バラ売りで必要な量だけ買うことができますが、今やそれは少数派の主婦しか実行してない買い物行動だといえます。

では、これらの物流、販売システムに逆らって、ゴミの少ない生活をする事が可能かどうかですが、ここではいくつかの方法を提案してみましょう。先ずは、「より不便な方を選ぶ」事を提案しておきます。つまり、個別パックされた食品を選ぶ代わりに、バラ売り・計り売りを選びます。

次に、「ゴミのより少ない製品を選ぶ」事が重要です。食品をプラスチックトレーに並べて入れたものをビニール袋に入れ、派手な色で印刷された小奇麗な紙箱に入れて売っている冷凍食品の代わりに、単にバラでビニール袋に入れただけのものを選びます。また、靴を買う場合には、紙箱は要らない、と断りましょう。そのような消費者の行動が、結局は生産者の過剰包装を減らす事につながる筈です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年5月 7日 (水)

659 ゴミ問題の多面性

目にも見える環境問題の例として、家庭から出る一般廃棄物や生ゴミが挙げられます。毎日の生活からは、週2回のゴミ出しの日には少ない家でも大型のポリ袋で1-2杯のゴミが集積場に持ち込まれます。毎日の事なので、あまり意識はされていないとは思いますが、このゴミの量は確実に増加し続けてきました。理由はいくつかありますが、取り分け食品や製品の過剰包装とDMなどの無駄な印刷物の増加が拍車を掛けている事は間違いありません。

しかし問題を一面から見るだけでは片手落ちになります。以前にも書いた様にゴミの種類は多様だからです。目には見えないゴミとしては、工場や火力発電所の煙突や車の排気管から出る、化石燃料を燃やして出る二酸化炭素を主としたガス、また液体ですが目には見えにくい汚水や下水に含まれる汚濁物質、さらに言えば不要な雑音や廃熱もまた、目に見えないゴミだと言えるでしょう。この「多様で、多面的な問題」であるゴミを、単なるレジ袋の削減や、資源ゴミのリサイクル率の向上程度で解決できると考えるのは、あまりにもノウテンキ過ぎる話です。多様で多面的な問題には、多様で多面的な対策が必要となるはずです。

具体的に言えば、先ずはゴミ袋をポイと捨てる前に、中に何が入っているか良く観察すべきでしょう。生ゴミであれば、それは野菜くずなのか、食べ残しなのか、また包装ゴミであれば、空箱なのかラップなのか、ビニール袋なのか、セロファンなのかが重要です。燃えないゴミであれば、それは空き缶なのか、空き瓶なのか、乾電池なのか、壊れた電化製品なのかを調べてみる必要があります。その上で、何故それらはゴミとしてゴミ袋に入れられる事態になったのか、じっくり考えてみる必要もあります。その結果、どうすればゴミが減らせるのか、いくつかの対策も見えてくるはずです。続きます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年5月 6日 (火)

658 環境問題の多面性

657で述べた、環境における連続性・関連性の他に、環境問題を理解する上では、問題を多面的に捉える必要があります。温暖化問題一つを取り上げても、経済面、国際関係、技術面、価値観、人間と自然環境との相互作用などなど、検証し、理解しなければならない視点は多く存在します。多くの環境問題に関する議論は、一面的になりがちである点が何時も気に掛かります。例えば、温暖化問題は環境税を導入する社会システム中で解決可能であるという議論や、あるいは燃料電池車やそれを利用したコジェネを各家庭レベルまで浸透させれば、技術的に解決可能であるといった議論が幅を利かせる場合も多いのです。しかし、前者はお金で、環境負荷の排出権を手に入れるという逆の風潮も生む可能性がありますし、後者では燃料となる水素を、環境に負荷を与えずに手に入れる方法という基本的な課題が棚上げされたままになっています。

このブログでも嫌になるくらい繰り返し書いている事は、解決案は一つでは済まないという事です。可能な全てのアイデアを掻き集め、それを地域の特性に応じて組み合わせたモデルを作り上げていく必要があります。その解決(に近づく)モデルは、最後は上に述べた様に、多面的に検証してみるべきでしょう。そうでなければ、解決策が新たな環境問題を引き起こす事も多いからです。例えば、熱的に安定で絶縁性にも優れた特性を持つPCBが、その強い毒性に目をつぶった技術者の怠慢が、その後あまりにも悲惨な中毒事件を引き起こしたことを例示することができます。技術的・経済的な側面だけに注目し、安全性・毒性の面を無視したツケはあまりにも大きかったわけです。

その意味で、環境問題をお金も、力も無いK境省に任せて置くだけでは、事態は益々悪化します。K産省も、K交通省も、K労働省、自治体、学者も市民も全て束になって当たらなければならないほど、多面的で根が深い問題だといえます。こんな抽象的な書き方では、何の提案にもなっていないので、さらに噛み砕いて、具体論に落とすことにします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年5月 5日 (月)

657 分析と統合

科学・技術に対する投稿者の違和感のさらなる考察です。科学・技術の本質は、自然現象を徹底的に切り分け、要素に分けた上でそれを理解し、再構成して「原理や公式」などとして体系化したものに他なりません。よく、分けることによって分かるなどと言われる様に、人間の脳みその構造は結構単純ですから、先ずは要素に分けなければ理解できないようです。

しかし、自然現象は非常に複雑です。北京で蝶が羽ばたいた影響が、めぐり巡ってアメリカでハリケーンとなって大災害を及ぼす、などという例えも全くの作り話とも言えないのです。つまり、蝶の羽ばたきというごく小さな気流の乱れが、例えば強烈な日射と地球の自転などの要素が重なって、一陣の風となり、それがさらに偏西風に乗って海を渡って流される中で低気圧として発達し、ロッキー山脈の南の端にぶつかって渦を巻き、その渦がカリブ海でハリケーンに育つという、「風→桶屋」ストーリーになります。

さて、分析をし続けてきた学者や技術者は、今や行き詰まりを感じているような気がします。いくら、自然や現象を細かく切り刻んで要素に分解し、それを理解しようとして、例えばDNAを構成する塩基配列にたどり着いたとしても、大腸菌一つですら人工合成する事できないわけです。宇宙開発と称して何発も人工衛星を打ち上げ、何千億円も投じて宇宙ステーションを建設しても、精々無常力空間で、ダイヤモンドより高い合金を作り、動物や植物に及ぼす影響を調べる程度の「お遊び実験」しかできないのは、悲しむべきことです。

分析の反対は「統合」などと呼びますが、この事態を変えるのは、180度の方向転換しかなさそうです。生物の理解は、生物自体の構成物の分析によって為されるのではなく、有機物の塊である生物が、環境との相互作用の中で進化し、その中でニッチを見出して他の生物と棲み分けを成功させた知恵や戦略を、ますは謙虚に学ぶべきだと思うのです。さらに言えば、気候変動や温暖化を気象学や地学や地球物理学などの「一面的な学問」で理解しようとするのは、労多くして益の少ない努力だといえます。そうではなくて、ここまで悪化した事態を、人類の歴史、産業史、経済学、社会学、心理学、政治学や国際学と、従前の自然科学との統合的な理解のなかで、その対策(もしそんなものが存在するとすればですが・・・)も少しは見えてくるのかも知れません。虫の目よりは鳥の目、木を見ないで森を見よ、という訳です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年5月 4日 (日)

656 戻る勇気

山登りが好きです。他の人とペースを合わせると疲れるし、スピードも遅くなりがちですので、一人で登ります。しかし、ヘリコプターや捜索隊のお世話にはなりたくないので、冬山へは行きませんし、自分の体力以上の無理はしません。夏山のリスクの殆どは、ガスに巻かれて登山道を外れる(踏み外す)事と、雷に打たれることくらいです。従って、その危険が予想される場合は、避難小屋に入るか、スケジュールを変更する勇気が必要で、無理を押し通すのは、山では決して勇気とは呼びません。これまでの長い山行の中で、本当に身の危険を感じたのは数回程度ですが、無理をしなかったお陰で、山の思い出は楽しいものばかりです。

さて、このブログでは、この社会の変化を山登りに例えて、科学・技術を使って豊かさを求め続けてきた近代化(の山登り)も頂上に近づいていること、その山の頂上には、緑も無い殺風景な風景と人工物だけの山小屋(都市空間)しか存在しないことを再々書いてもきました。山小屋とは、短期間滞在する仮のシェルターであるにしても、そこで長く暮らす場所ではないはずです。山小屋では、水、食料、燃料、ゴミの処理まで、全て麓(都市で言えば田舎)からのサポートで成り立っているからです。そうであれば、私たちはそろそろ山を下る準備をしなければならない時期に差し掛かっていると思うのです。問題は、その引き返すきっかけを何時、どのように見出すかという一点にあります。環境悪化というガスが濃くなって見通しが利かなくなってきましたが、人々はあまり頓着していない様に見えます。大規模な自然災害(雷)に襲われる、と言う不幸に遭わなければ、目が覚めないのかも知れません。それは、ハリケーン・カトリーナ程度では、エネルギーガブ飲み大国である彼の国の目を覚まさせるには不十分であったと言う事のようです。

幸いな事に、科学・技術という近代的装備を駆使して、新しいルートを開発する事に比べれば、今来た道を少し後戻りする事には何のリスクもありませんし、確実でもあります。何より、科学・技術で実現されると約束されてきた未来は、決して明るくもバラ色でもないことは、今や庶民でも気づき初めているのです。ガスに巻かれとか、雷に打たれて命を落とす前に、戻る勇気を振り絞りたいものです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年5月 3日 (土)

655 バイコロジー

懐かしい響きの言葉です。70年代初めに、アメリカ辺りから発信されたバイク+エコロジーの造語です。その頃、投稿者は希望に胸を膨らませた青年で、すぐさま自転車に傾倒して(今風に言えばハマッて)しまいました。その当時は学生でしたが、就職が決まってお金が自由になるにつれて、数台の目的別自転車を保有して楽しんでいました。通勤用、散歩・街乗り用、輪行用(自転車を畳んで袋に詰めて、列車で目的地まで行き、自転車を組み立ててそこから走り出す旅行)、小旅行用などです。以来30数年、投稿者は一貫して自転車通勤を貫いてきました。転勤もありましたが、この間職場から10km程度離れた団地や自宅から通っていましたので、毎日往復1時間は自転車の上で過ごしたことになります。走行距離にすれば、地球を二周り程度は走った計算になります。雨の日も、雪の日も、飲み会がある日も自転車通勤を通しましたので、いわば筋金入りの自転車青年→自転車おじさんであった訳です。しかし、世の中のバイコロジーブームは、石油ショックの熱さが喉元を過ぎ、同時に庶民も車を買える時代の到来とともにほぼ完全に廃れてしまいました。これは、熱しやすく冷めやすい、日本人の特性ゆえでしょうか。

しかし、聞くところによると、最近も静かな自転車ブームだとか。通勤に自転車を使う、ツーキニストなる言葉も出来たのだそうです。元祖ツーキニストとしては、この現象をほほえましく感じながら眺めています。自転車の利用は、いくつものメリットが数えられます。まず、何より健康的です。30分以上の有酸素運動が自然にメタボを防止し、健康体を作るでしょう。次にお金が掛かりません。年に1-2回は釘を踏んでパンクするかも知れませんが、1000円余りで修理が出来るでしょうし、ガソリン価格を気にする必要もありません。何より、自転車は完全なる「脱エネルギー型」の交通手段です。排出されるのは、口から出るやや量が多くなった呼気と、少し力を入れて漕いだ時に間違って後ろから出るAirくらいのものです。多くの人が自転車通勤をするようになると、幹線道路の交通ラッシュも緩和されることでしょう。バイコロジーを、今度こそ一時のブームではない、本物の社会インフラとして定着させるべき時ではあります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年5月 2日 (金)

654 休む

投稿者は、GWなどとはほぼ無関係のマイペースで暮していますが、GWの谷間で考えるのは、温暖化の防止に最も効果が上がるのは、実は休日を増やすことではないかという事です。休日を増やして皆が同時に休めば通勤が必要ないし、事務所や工場を動かす電力も必要ありません。しかし、休んだからといって、お金やエネルギーを浪費するレジャーにウツツを抜かしてはいけません。読書や軽い運動やピクニックや家族でのゲームなど、お金もエネルギーも掛からないもので過ごす必要があります。その意味で、ガソリンも再び値上がりしましたし、もはやドライブなんかは安くて手軽なレジャーではなくなったと認識すべきでしょう。

安くて、手軽で、省エネルギーでもあるレジャーの発見の為には、是非自分の住んでいる周辺で、そんな余暇を過ごせるスポットを探してみる必要があります。例えば投稿者の住んでいる団地の裏山は、結構植物の種類も多く、自然観察には恵まれた環境であることに最近気がつきましたし、旧中仙道や東海自然歩道なども整備されていて、私鉄会社が企画しているウォーキングコースとしても人気があるようです。少し足を延ばせば、犬山城見物や木曽川での水遊び、例えばカヌーやラフト(ゴムイカダによる)川下りなども安い料金で楽しめます。(船頭さんが案内してくれる「ライン下り」は、結構立派な料金を取ります。)

何も、外で遊ぶことだけが能ではありません。投稿者が週2回勤務している公共の建物の中にあるこぢんまりとした図書館は、30席くらいの読書机や10席くらいのパソコンコーナーも備えていますが、年中ガラガラです。自転車で図書館まで走り、半日くらい読書で過ごすのは、実に有意義な余暇の使いかた方ではないでしょうか。もっとお金の掛からない、余暇の過ごし方もあります。例えば、静かなブームともなっている俳句や短歌をヒネルのも良いでしょうし、思わずニヤッとする気楽な川柳に挑戦するのもまた楽しからずや、です。お金などは全く不要ですしボケ防止には最適の趣味でもあります。

結局、余暇にお金を掛けなければ、その分無理な残業をして稼ぐ必要も無いわけです。残業をしてまでお金を稼ぎ、そのお金を使って暇を潰すというムダをシミジミと反省してみるべきでしょう。投稿者の目下の余暇の過ごし方は、毎日ブログを書いてせっせと投稿する事と、夏には5、6個の山に登ることくらいですが本人は結構満足しています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年5月 1日 (木)

653 技術屋の反省ブログ

もの造りに邁進することが環境悪化を加速する、との一技術屋(投稿者の事です)の気づきが「環境おじさん」の誕生につながりました。つまり、技術屋と環境屋は、磁石の対極にあるのだとも言えます。従って、「環境技術」などと書くと、環境と技術の間には強い反発力、あるいは言葉としては「自己矛盾」を抱合しているのだと言えます。少なくとも投稿者はその立場でこのブログを書いています。技術屋から環境屋への脱皮は、180度の価値観転換を必要とするので、実のところ投稿者も完全には脱皮に成功していません。例えて言えば、脱皮しようともがきながらも技術屋の抜け殻がまだ体にまとわりついている気持ち悪さを感じながら、この数年を過ごしてき多様なきがします。

その殻を脱ぎ捨て様と、敢えて環境原理主義風の過激な文言を並べたブログも書き綴ってもきました。しかしその結果、投稿者としてもかなりの程度頭の整理も進み、ある程度の覚悟と呼べる様なものも出来てきたような気がします。その一方で、貧乏を楽しむ余裕も生まれてきたのでないかとも感じています。とりわけ、物事の掘り下げによる頭の整理は、ブログを書き続けることの大きなメリットではないかと思います。相変わらずの悪文ですが、少しだけですが物書き諸氏の楽しみや生きがいが分かりかけてきたようでもあります。とは言いながら、文才も他の能力同様、天分という要素が強いのではないか、としみじみ感じています。

悪文は悪文として、元技術屋としてのやや得意な分野は、現象の分析と、そこからの傾向や法則(のようなモノ)を導くことくらいですので、これまではひたすら、後半は完全に自分の半生にも重なる20世紀の反省とそれを推進してきた科学・技術や経済の徹底した総括をしてきたわけです。

その結果、大分事態が見えてきたような気もしますので、今後はそれを再構成して、さらに環境問題に関わる真実を煮詰めてみたいと目論んでいます。暇と書く能力(文才が無いことははっきりしているので・・・)がもう少し手に入ったら、是非本を数冊書いてみたいと思います。それは、技術屋として重ねてきた失敗の原因を明らかにするもの、それに対して個人レベルで何ができるのかの提案、次世代に伝えるべきものなどになるはずです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2008年4月 | トップページ | 2008年6月 »