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2008年6月30日 (月)

713 ゼロカーボン社会

「低炭素社会」という言葉が流行語になりかけています。今年か来年くらいの「流行語大賞」の候補くらいにはなるかも知れません。しかし、ヨーロッパなどでは少数の先行例はありますが、日本で「ゼロカーボン社会」を標榜する自治体がまだ出ていない事は悲しむべきことではあります。山間で、人口が少なく、食糧や林業がそれなりに持続している地域では、その取組みは十分可能だと思うのです。食糧は地域だけで自給できるでしょうし、木材を主としたバイオマスエネルギー、太陽光や小水力や風力エネルギーを組み合わせた発電や熱利用、限られた量とはいえ、外から買った化石エネルギーの排出分を森林で吸収させるために、森林の手入れを行って、吸収率を高め、余った食糧や林産物やバイオマスを近隣地域に売れば、お金もある程度回すことも可能なはずです。ゼロカーボンを売り物にすれば、外部からの見学者がどっと押し寄せ、観光収入も期待できるでしょう。

環境宣言都市の指定などと他力本願のケチな事は狙わず、先ずは「ゼロカーボン村」と看板を揚げ、そこに向かって、貧しい時代を経験しているお年寄りの知恵やパワーを結集し、それを次世代に伝える環境教育にしっかり予算を使う、そんな地域が現れる事を夢見ています。そんな自治体が出てきたら、投稿者としても即刻手弁当で駆けつけることになるでしょう。

地域を限定したゼロカーボン社会の実現は、そんなに困難ではないはずです。なにも江戸時代まで遡らなくても、戦前や戦後のあまりモノが無かった時代を思い出せばよいだけです。あの時代、どうやって食糧を生産し、どのように冬の寒さを凌いでいたか、再現してみればよいのです。高齢化してしまった村だけでは、労働力の面で無理があるならば、都市からボランティアやアルバイトを受け入れれば良いでしょう。工場の派遣労働で、不満だらけで働いている若者には、農村の暮らしは新鮮なものに映るはずです。ましてや、自分が最先端の「ゼロカーボン社会」の実現に少しでも貢献していると思えるのであれば、彼らに決定的に不足している「生甲斐」や「達成感」も大いに充足されるはずです。

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2008年6月29日 (日)

712 年数より回数

以前にも少し書いたような気もしますが、ある年配のお百姓さんの言葉が頭から離れません。彼は、何かのインタビューの中で、親から引き継いで40年間米作りを続けて来た事に対し、「自分はまだ40回しか米つくりをしていないので、稲の気持ちが判る境地までにはとても達してない。」というコメントを述べていました。多分、数ヘクタールの田んぼで農業を続けてきたのでしょうが、限られた「農地という環境」を理解し、そこで稲を育てるという行為だけをとっても、人知の及ぶ範囲は、精々田んぼの表土に留まっているということでしょう。この人が特別に謙虚な人だったのではなく、農業一つを取り上げても、奥が深いという証左だと受け取っています。

振り返って、35年ばかり技術屋を続けてきた投稿者は、まとまったプロジェクトという意味でも10本の指で足りるほど、ゼロからの開発という意味では片手で数え切れるほどの回数の経験しかしていない事に気がつきました。それも、大きなプロジェクトの一部分しか担当していない訳ですから、胸を張って「長年の技術屋経験がある」などとはとても言えたものではありません。ましてや環境屋としては5-6年しか勉強していない訳ですから、ホンの駆け出しに過ぎないわけです。

長い年月、同じ仕事に取り組んでいる事は、それなりにすばらしい事ではありますが、本当にすばらしいのは、謙虚な姿勢での取り組みです。謙虚さは、自分を限りなく「ささやかな存在」と認識し、地に足をつけて物事を考え、コツコツと事を進めるところから生まれます。50数年生きてきて、その内の35年間技術屋であり続けた事が何かの意味を持つのではなく、その中で社会的に意味のある仕事に何回携わってきたかが問われると思うのです。

とは言いながら、「社会的意味」は時代とともに変わってしまう事が大問題でもあります。安く潤沢なエネルギーや資源を背景に、モノを大量に安く生産し、それを大量に消費することが是とされてきた社会規範は、急速に過去のものになりつつあり、その逆の価値観が息を吹き返しつつあります。私たちが、今後一体何回の気象変動に伴う自然災害を蒙れば、過去の短い繁栄を諦め、持続可能な軌道に戻る事ができるのか、50年掛かった過程を同じ50年かけて元に戻すのでは、すでに間に合わないポイントに来ているのです。そうではなくて、今後数年の間に何回の荒療治ができるか、その荒療治に社会が耐えられるか否かが問われていると思うのです。

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2008年6月28日 (土)

711 家並み

710と同じく新幹線から見えた景色への感想です。狭い日本の国土の中で、東海道や山陽新幹線沿いのベルト地帯には、工業と人口が集中しています。新幹線での帰途、東京から名古屋間の景色も、点在する工場群とその間に軒を連ねた家並みが、途切れることなく続いています。平地に立地している工場や戦後建てられた家々の敷地の多くは、元はといえば田畑であったはずです。そこを埋めたてて、工場や宅地にした訳ですから、失われた質の良い農地の面積を考える時、私たちは取り返しのつかない愚行を犯してきたのではないかとの思いに襲われます。

つまり、私たちは特に戦後、農機具を工具に持ち替え、田畑をつぶして鉄とコンクリートとスレートで出来た屋根付きで土の無い農場(工場)を作るという、後戻りのできない一方通行の道を突っ走ってきたのではないかとの思いです。土のある田畑は、太陽光と天水があれば持続的に農業が営めるのですが、一方工場にはどこか外国から原料を運び込み、機械とエネルギーを使ってその原料の形を変え(加工とも言います)、加工の結果出る屑(産業廃棄物とも言います)を排出しながら稼動しなければならない事になります。

一方、隙間無く立てられた家屋や集合住宅は、当然の事ながら住宅専用ですから、自分の敷地内の農地で食料を調達することはできませんし、近くの山から勝手に薪を取ってくる訳にも行きません。つまりは、これも工場と同じく、食料、エネルギーの供給を外部に頼り、生活の結果出るゴミと生活排水の環境負荷を、お金を払って誰か(多くの場合は自治体)に頼まなければならないことになります。

工場にしても、住宅にしても、原料(食料)かエネルギーか廃棄物の処理のいずれか一つでも絶たれた途端に、その運営維持ができなくなるという「本質的な脆さ」を内在している仕組みだと言えます。無責任な想像ですが、このベルト地帯を貫いて走る高速道路や国道や鉄道が、発生が予想されている大地震で分断された場合を考えると、この国の産業と生活のいずれもが壊滅的な被害を受けると思われます。効率的である事と、環境ハザードに強いロバスト性とは、本質的には両立し得ないはずです。とりわけ、この時代に特徴的な「交通インフラに頼りすぎる脆さ」を克服するには、可能な限りの地産地消への転換しかあり得ないのだとも思います。

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2008年6月27日 (金)

710 煙突

東京からの帰り、新幹線の窓から見える工業地帯の煙突を何気なく眺めていました。気がついたことは、どの煙突も、「真っ白な」煙をモクモクと出している事でした。真っ白いということは、それは出される煙の多くが水蒸気であるということを意味します。しかし、曇った白い空を背景にして、水蒸気が消えた辺りの空を透かして見ると、煙にはしっかり色がついている事が分かります。何故、煙突からわざわざ水蒸気を出すかを想像してみると、多分それは「色の着いた汚い煙」を隠すためだと思われます。ボイラーで重質油を燃やすと、薄い褐色に着色した煙が排出されます。過去に公害問題で散々悩まされた企業は、少なくとも煙突から出た直後の煙としては、見栄えの良い白い色に拘るのでしょう。

しかし、環境おじさんとして投稿者は、一言苦言を述べたいところです。意味もなく煙突から水蒸気を排出するために、費やされる水資源、その水蒸気を作るためのエネルギーを考えると、例えそれば煙の見える日中の12時間だけであろうと、大いなるムダである事には変わりありません。環境への負荷を考慮すれば、燃料は灯油にすべきなのでしょう。しかし、ギリギリのコスト削減をせざるを得ない中小企業には、割高な灯油を買うだけのコスト的余裕は残されていないとも想像されます。次善の策としては、仕方なく重油を使った場合でも、スクラバーで煙を洗ってやる方法が考えられます。つまり、細かい霧で煙を洗ってやる訳です。洗った水はNOxやSOxを吸収し酸性に傾きますから、中和してやる必要がありますが、簡単な設備ですのでコストの上昇は限定的です。とは言いながら、その後は工場排水にも気を使わなければならないので、環境担当者の心配事が一つ増える事にもなります。

いずれにしても、白い煙は賞味期限が切れた食品パッケージに、嘘の期限シールを張りなおす行為と本質的な違いはありません。小さな違いがあるとすれば、一つはそれはある基準で作られた法律に触れるか否かと、もう一つは前者が人への健康被害が問題であり、後者は環境への緩やかな被害が問題である、という点です。

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2008年6月26日 (木)

709 体が無い不安

701の続きです。心身分離により生ずる不安の中身は、では一体どの様なものになるのでしょうか。脳が心身のコントロール器官であるか否かについては、いくつかの考え方がありそうです。パブロフの様に、脳を「反射を司る器官」と見る見方もあるでしょうし、脳こそ「精神の座」であるという、「唯脳論」もあるかも知れません。投稿者の見方は、両者の中間で、しかしパブロフに近いもののような気がしています。

さて、果たして正しい答えがあるのかは分かりませんが、一応両者の中間にあるとして、いずれにしても、進化の過程から言えば、脳と体はシンクロナイズしながら進んできたはずです。何故なら、単に枝を掴むだけのサルの手から、モノの微妙な触感を感じつつ掴み、道具を作り、モノを改変する能力を持つ手指、或いはサルとは異なり、モノの形の僅かな違いを記憶し、比較する優れた能力を持つ視覚と、全体としての脳の拡大・発達は表裏一体だったと思われるのです。忘れてならないのは、「体あっての脳」という大前提です。脳があって体が出来てきたのではなく、先ずは体が存在し、その体が生き延び易い様に脳が発達するという順番になるからです。

養老の、脳を都市、体を農村とする例えが好きですが、先に述べた現代人の不安の中身は、実は体を失った脳の不安ではないかと思うのです。全ての情報やモノや人が流れ込み、出てくるものはといえば、加工されたモノと情報と多量の廃棄物となる都会の営みは、心臓が送り出す血流のほぼ1/3以上を要求する脳の傲慢さにも似ています。

脳がコントロールすべき対象を失うこと、或いはコントロールできなくなる不安は、井上ひさしの「吉里吉里人」に面白おかしく描かれていますが、彼の天才は、現代の不安の原因を、あの時代に既に察知し、それをストーリーとして語った点にあります。投稿者としては、心身分離の後に来るものは、脳(都会)が持つ「体(田舎)の喪失感」となるのではないかと、危惧しています。そうでなければ、これほど体(つまりは田舎や農林業という意味です)を軽視、ひどい場合は無視する社会の病理は、どうにも説明できないからです。

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2008年6月25日 (水)

708 枕木

引き続き東京発です。研修会場は毎回虎ノ門ですが、宿はいつも神田近辺にとります。そこから、外堀通り、内堀通りを通り、皇居の縁を回って桜田門、霞ヶ関を通って歩いて通います。皇居の外苑を歩くのは、そこが時代の境目だと思うからです。つまり、江戸時代から時間が止まってしまった皇居と、夜の8時を回っても90%の窓の電気がついている近代的なビル街の境目を歩くと、色々考えさせられることも多いのです。

話しは変わりますが機会があって、先日枕木工場を見学しました。コンクリートの枕木が安価に作れるこの時代、「木材の枕木」が一定量製造され、売れ続けるという事実には驚きましたが、工場長から理由を聞いて納得しました。つまり、コンクリートの枕木は耐久性があり、半永久的に使用できる「固定資産」なのですが、木の枕木はやがては朽ちるものなので、税制上は「消耗品」扱いの様なのです。つまりは経費扱いということです。細かく計算すれば、鉄道会社にとっては多分それなりの節税になるのでしょう。また技術屋から見れば、レールと路盤材である砕石との間に、衝撃を吸収するクッションがあると、車軸や軸受けといった機械系にとって、寿命延長にもつながっているのでは、とも想像しました。というわけで、私鉄を中心にまだかなりの路線で枕木が使われており、国内でもかなり大手になる老舗のその企業は、今での多量の木材を枕木に加工し続けているという訳です。更に聞けば、国内で手に入る樹木の99%は、太ささえ十分なら枕木の材料として使えるとか。勿論、ヒノキやヒバなどの天然の防腐剤を含む樹種は、特別な薬剤処理をしなくてもそのまま使えるそうで、鉄橋部など、油分を含む防腐剤を使ってはまずい箇所には、これらの樹種の枕木が指定されるとか。などという、なかなか得がたい(が特に役には立たない)知識が身につきました。

さて、これらの枕木の製材工程で、多くの木屑が発生しますが、その行方を聞くのが今回の訪問の目的でした。投稿者が長年取り組んできた木質ペレット燃料の原料とならないかと思ったからです。回答は、拍子抜けするほど単純なものでした。隣接する製紙工場が持つ、木屑ボイラーの燃料として売っているというのです。しかしその単価は殆どただ同然であることも分かりました。樹皮や汚れのあまり無い部分をペレット燃料に加工すれば、多分一桁高い単価で、灯油代替燃料として売れるはずなのですが・・・。

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2008年6月24日 (火)

707 対策ではなくて2

今日は出張先からの投稿です。F田首相の打ち出した温暖化防止に対するビジョンは、数字的には評価できるものの、具体策としては「排出権取引」程度しか盛り込まれていませんし、投稿者としては、中に示される地球温暖化「対策」という言葉がどうにも腹に入りません。対策とは、自分がしでかした不始末で起こった問題、あるいは不可抗力の外部的要因で生じた問題の「火消し」を行う行為だからです。火事を見て火消しをするのが対策ならば、火事の原因を調査して未然に防ぐのが、防火の極意だといえます。つまりは、温暖化対策ではなく、温暖化用心へできるだけ速やかに移行しなければ、延焼しつつある火事は、本格的な鎮火には向かわないでしょう。異常乾燥注意報が出て、風も強い中あちらこちらで火の手が上がっているのに、小さな水ポンプでチョロチョロと消火活動を行うようなものです。まさに焼け石に数滴の水です。

低炭素社会は、リサイクルを中心に据える循環型社会同様、耳に心地よい言葉ではあります。しかしながら、その中身が「対策」である限りにおいては、火消しの域は出ないといえます。必要な事は、今の「高炭素病社会」がどのような課程をたどって出来上がってきたかの検証と、それを180度方向転換するための具体的提案であり、グローバルな経済発展と、低炭素社会は両立できない事の再認識なのです。F田首相の示した数字の達成は、通常の手段(つまりは政策誘導)では達成不可能に見えます。つまり、二酸化炭素の排出をざっと1/3にする訳ですからまずは3割カットし、しかる後にそれを半分にする必要があるのです。生活レベルや経済規模は現状のままで、技術開発や政策だけで達成できる数字では無いことは明白です。その数字の実現には、車で言えば、羽根のような軽さの車体で、1リッターで100kmは走れる夢のような車の開発の実現を意味しますし、物流を1/3にして現在の経済規模を維持する魔法があるのか、との問いにも答える必要があるのです。

そうではなくて、これからはもし化石燃料が極度に不足したらどのようなライフスタイルが可能なのか、といったゼロベースからの議論や思考の組み立てが必要とされるのです。それは、簡単な思考実験で検証することが可能です。つまり、例えば風呂に入りたくなったら裏山に焚き木を集めに入る事の想像からはじめ、隣町へ行く用事ができたら、自転車を探すか、それが無ければ足を使って歩き出すしか無い事を想像するわけです。これは、社会の価値観の180度の転換に他ならないのです。モノの豊かさではない、ココロの豊かさ追求への180度の価値転換こそが、対策ではない、「高炭素病」根治の唯一のアプローチだ、と投稿者は感じています。

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2008年6月23日 (月)

706 青大将

自宅から自分の事務所までの2kmほどの道は、裏道を歩けば堤防の土手や田んぼの農道を通ることになります。バイクで出かける用事がない日は事務所まで歩いて行きます。途中の田んぼには水が張られ、ほぼ田植えも終わっています。当然の事ながら、カエルが活動を開始し、鳴き声もにぎやかです。ある日農道を歩いていると、2-3m先の畦道の草むらに動くものがあるので何気なく見ると、1.5mほどのかなり大きな蛇でした。長年の技術屋生活で、四角いものは大小見慣れていますが、長くクネクネした有機物は、実は結構苦手です。頭の格好と体の色からすれば青大将のようです。毒はないのでしょうが、やはり積極的に近づこうと思うほど好きにはなれません。それでも、暗い側溝から出てきたためか、やや暗い青緑色は、人工の色には比べるものが無いほど美しく、姿の気持ち悪さを忘れて見とれてしまいました。しばらく立ち?止まっていた青大将は、やがて腹ごしらえのためカエルの声のする方にスルスルと進んでいったのでした。

田んぼの中では、水中生物(虫)→カエル→鳥または青大将へと続く食物連鎖が、今年も繰り返されるはずです。しかしながら、この時代、大きな青大将を捕まえるほどの猛禽類は近くには棲息していそうも無いので、字のごとく彼(または彼女?)が田んぼでの食物連鎖の「大将」には違いありません。正確ではないかも知れませんが、「わが山と思えば愛し青大将」などという誰かの句がふと頭に浮かびました。とは言いながら、蛇は我が事務所のツバメ家族にとっては、最も怖い天敵でもありますので、招かざる客であることには変わりありません。

さて、今日から数日は東京都内での研修に参加しますので、コンクリートだけの道を歩きながら、皇居の中にはもしかして蛇の一匹や二匹は棲息しているのか、などと想像しながらホテルから皇居外苑を通って修会場へ歩いて通う予定です。想像するに、大勢の几帳面な庭師によって雑草の1本まで抜かれて、もはや蛇が棲めるような藪や草むらなど見つからないのかも知れませんが・・・。

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2008年6月22日 (日)

705 休題(ツバメ)

事務所の駐車場の梁に巣を作っているツバメの番いが2度目の子育てをしているようです。前と同じ番いなのか、空いた巣を借りた別のカップルなのかは定かではありません。

その巣から、孵化した後の卵の殻が下に落ちていました。見ると、丸い部分の直径は1センチあまりしかなく、ツバメの卵がこんなに小さいことに何故か感動してしまいました。卵といえば、日常見慣れている鶏卵とつい比べてしまうのが人間の視点となっている事を、また変に反省もしました。親鳥は、それはもう忙しく餌取りに飛び回っています。その飛び方はまさに「ツバメ返し」の連続技で、見ていて少しも飽きません。渡り鳥に特徴的な、体の大きさに比べて広い翼面積、急激な方向転換に最適の尾翼の形、流線型で無駄の無い体型、高速で飛びながらも小さな虫を認識する動態視力などなど、神様としては、鳥類の中でも造型の傑作と自慢しているのではないかと想像したりします。

ところで、ツバメの卵や雛は、蛇やカラスなどの多くの敵に狙われています。だからこそ、ツバメなりの知恵で、人間を味方につけるべく人家の軒先に巣を掛けるわけですが、それでも敵は攻めてきます。わが事務所のツバメにも時々カラスからの「恐喝」が行われます。しかし、見ているとツバメは親が力を合わせてカラスを攻撃するのです。近くの電線に止まったカラスに、繰り返し「急降下攻撃」を仕掛けます。カラスが、そのしつこさに閉口して逃げ出すまで、何分でも攻撃を繰り返すのでした。

10センチほどの体長で、50グラム程度しかない体重、多分1グラム位しかないと思われるツバメの脳で、雛に対する愛情、巣を守る知恵、餌場の確保、外的から攻撃への対応、冬場には温暖地まで海を渡る飛翔力などなど、一体どこにその能力が隠されているのか、電線に止まってしばし憩うツバメを、今日も飽きずに眺めています。

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2008年6月21日 (土)

704 原発見学記

ここまでこのブログの全部、または一部を読まれてきた方は感じていると思いますが、その立場は「太陽生活」に基本を置いています。したがって、「化石燃料」ではないものの、有限な地下資源であるウラニウムを燃やし(=核分裂させ)、燃えカスは地下深く保管するしか処理の術がない放射性廃棄物を発生させる原発など全く評価していませんでした。それでも、当面の問題である二酸化炭素をあまり出さないという理由と、原油高という追い風もあり、原発推進者は勢いを得ているようです。残念ながら、投稿者はこれまでその原発の実物を見たことがありませんでした。現物を見ずに想像だけで批判的な文章を書くのもフェアではないので、今回機会を得てH原発の見学会に参加することとしました。

当日は、電力会社から差し向けられたバスに乗ってH原発に向かいました。参加者は、20数名。この見学会に掛かると想像される経費を頭でざっと計算し、それが電力料金から出ている事に少し胸を痛めながらも現地に向かいました。とは言いながら、電力会社の見学会なので、一般の見学者とは違い、ガラス越しとはいえ原子炉建屋、中央制御室、タービン建屋の内部まで見ることが出来ました。

見学での印象は、入口での厳重なセキュリティチェック、絨毯を敷き詰めた見学者通路、建屋を負圧に保つためのエアロックなどですが、何より意外であったのは、原子炉建屋の上部フロアを、普通の作業服を着た作業者が、普通の工場のように歩き回っている姿でした。見学者にことさらの安全性をアピールする目的なのか、或いは日常作業なのかは分かりませんが、あまりの無防備さに、若者も多い作業者への、低レベルながら長期間に亘る被爆の健康への影響が懸念されました。

案内者に、いくら何重にもなっている安全システムと、大地震への備えを強調されても、ヒューマンエラーや超巨大地震など不測の事態の可能性もゼロではない事を考えれば、やはり絶対の安全性などはありえないはずです。ましてや、ここH原発では、低圧タービンの羽根がちぎれて飛んでしまう重大な事故を起こしています。このタービンを動かす蒸気は、原子炉内で原子燃料に直接触れて加熱されたものなので、タービンケーシングの破損は、タービン建屋への直接の放射を含む蒸気の漏洩を意味します。火力発電所からのCO2による長期の地球規模の環境悪化を取るか、或いは万が一の可能性とはいえ、放射能事故による地域限定ながら急激な放射能汚染を取るのか、といわれれば、投稿者としては、放射性廃棄の処理方法が、数千年にも及ぶ冷却と保管しか無い事を考え併せても、やはりドイツ流の道(新たな原発を建設しない原発の自然消滅政策)しかないだろうと思っています。原発については、もう少し咀嚼し、再度取り上げる事にします。

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2008年6月20日 (金)

703 アイデア発掘

702で述べた、当時の省エネ技術のいくつかを、記憶の中から掘り出してみました。当時造船所に勤務していましたが、同業のI社が開発した、機帆タンカーが思い出されます。これは、通常のタンカーにハードセイル(多分薄板鋼板で出来た硬い帆)を装備し、エンジンと帆走を組み合わせて30-50%の省エネルギーを図るというものでした。一隻は間違いなく作られた筈ですが、その後急速に石油需給が緩んだので、幻の省エネ船になってしまいました。

あの時代、太陽熱給湯器も爆発的に売れました。今のように性能の高い温水器ではなく、確か単なる厚手のビニール袋がついた、浅い箱のようなものだったと思います。これにつないだホースから水を送ると袋が膨らみ、太陽熱で暖かくなったお湯を、夕方風呂場の窓から湯船にホースを突っ込んで落とすという簡単なものだったような気がします。これは当時のお金で確か1-2万円程度の価格だったと記憶しています。勿論、しっかりした温水器も開発され、S社のガラス製の二重管を採用したものはかなり高い性能を誇っていました。

パッシブ形ソーラー住宅も、特にアメリカ辺りでブームになりました。これは、例えばトロンベウォールと呼ばれる蓄熱壁を居室の南側に配し、中間の太陽熱を遮り、或いは蓄熱して夏や冬の居室温度を平準化するものでした。また、半地下式の住宅での地熱利用や、更には床下の砕石の蓄熱層に小さなファンで暖かい空気(夏は冷たい空気)を導き、やはり室温を制御するスタイルも実用化されました。

OPECの陰謀とはいえ、石油供給が不足したわけですから、代替エネルギーの利用も盛んでした。とりわけ、当時国内でも結構入手しやすかった石炭や木質燃料への転換も盛んに行われたり検討されたりしました。石炭火力や原子力発電所の急速な展開もその流れの中で進みました。オガライトと呼ばれた木質燃料や、あまり知られてはいませんが木質ペレットも数万トンレベルで製造もされたのです。

このほか、ヒートパイプやフライホイールや種々のヒートポンプや汽水域での海水濃度差発電、重油への水混入燃焼、ガソリンエンジンの希薄燃焼技術、モーターやトランスの効率向上技術などなど、丁寧に掘り起こせば、いまでも立派に通用する、多くの省エネ技術がゴロゴロ出てくるはずなのです。また思い出したら書く継ぐことといたします。

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2008年6月19日 (木)

702 エネルギー社会

現代の社会の特徴を一言で表現するなら、それは科学・技術社会でも、国際経済社会でもなく、「エネルギー社会」だと思うのです。確かに、科学・技術が無ければ、また経済の仕組みが無ければ、この社会は上手く回っていかないでしょう。しかし、もし今エネルギーが絶たれれば、たった一日どころか、数時間遮断しただけで、特に都市機能は完全にマヒすることでしょう。1970年代に起こったニューヨークの大停電は、今に比べればまだエネルギー依存度が低い時代の出来事でしたが、大混乱を引き起こしました。そういえば2003年にも北米のかなり広い地域での大停電がありました。神戸の地震でも、確かにエネルギーのインフラはズタズタにはなりましたが、幸いにも発電所や製油所が被害を受けたわけではなかったので、電線が引きなおされ、道路が開通すれば、それなりの秩序は回復できました。しかし、次にくる「根本的なエネルギー危機」が引き起こすはずの問題は深刻です。送電線に流すべき電力量は絞られ、道路を走る車の数や電車の本数はめっきり減り、スーパーマーケットやコンビ二の商品棚はガラガラになり、夜の街はすっかり暗くなるのです。

でも待ってください。実は私たちは、それほど遠くない昔に、殆ど同じ光景を目にしていたはずなのです。1970年代の二度のオイルショックです。このときも、街のネオンサインや広告塔の電気は消され、便乗値上げとトイレットペーパーなどの(実は作られた)品薄騒動に苦しみ、ガソリンスタンドに列を作り、一気に2倍に上昇したガソリン価格の値札をあきれ返って眺めていたはずです。この時に、なりふり構わず飛びついたり開発したりした、省エネの工夫や技術はどこに行ったのでしょう。そのいくつかは、確かに、技術や製品に昇華し、省エネ技術や省エネ家電として、現在の日本社会の僅かな優位性のタネにはなっています。しかし、多くの優れた省エネ技術や節約の工夫は、その後起きた「逆オイルショックの雪崩」に埋もれたままなのです。仕事が減ったと嘆く企業は、とりあえずこの頃考え出された、省エネ・省資源技術を丁寧に掘り起こして見るべきでしょう。磨けば宝石やダイヤともなる玉(ぎょく)がザクザクと見つかるはずです。

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2008年6月18日 (水)

701 心身分離社会

先日の東京の事件を含め、「刃傷沙汰」が毎日のように報道されています。英語では、刃物で刺すことをStubなどと表現しますが、まさに「Stub社会」となりつつあります。これほどの社会現象ともなると、何かその底流に流れる原因を考えて見たくなります。関西の小学校で起きた事件にも共通しますが、これらの事件では「何か」に対する憎しみが、縁もゆかりも、罪も無い弱い人たちに向けられています。「何か」とは、思うようにならない社会であることはほぼ間違いないでしょう。これまでも時として、社会から疎外された(と感じていた)人たちによる立てこもり事件や殺傷事件がそれなりの頻度で発生していたような気もします。しかし、最近のようなピッチで事件が頻発し、誰でもが加害者や被害者になる可能性を秘めている社会は、やはりかなり異常だといえます。

その昔、私たちが戦う相手は自然でした。近世になって、向かう相手は横暴な封建地主や専制君主になり、近年は資本家と呼ばれる、あまり従業員を顧みない企業主にその矛先が向けられてきたはずです。しかし、今はそれが「自分を顧みてくれない社会全体」に向けられ始めたようなのです。訳の分からない怒りが、訳が分からない対象に向かうのは、その対象である社会が訳の分からないものになってしまった事に原因を求められるでしょう。いまや社会学者でさえ、自分が専門とする「ある社会分野」の事しか理解できていない可能性があります。それは、社会の仕組みがあまりにも複雑になり過ぎて、原因と結果が一対一で対応できなくなっているからでもあります。なぜ、社会に対する漠然とした怒りが、縁もゆかりも無い通行人に向かうのか、社会学者にも心理学者にも、たぶんすっきりとした因果関係は説明できないでしょう。ねじれ、屈折し、社会の闇で醗酵したリピドーが、どこでどの様な形で噴出するのか、神様でさえ予想ができないかも知れないのです。

投稿者なりの理解では、何度か書いている事ですが「人間と自然環境の乖離」にその原因らしきものを感じています。彼らの疎外感は、かつての様な社会からの疎外感ではなく、自分の肉体が所属すべき場所が見つからない焦りなのだと思うのです。その焦りは、自然環境からほぼ完全に離脱した人間社会の中で醸成されてきたに違いありません。たとえば、自然や動物相手に田舎で暮らす人々に、そのような焦りや衝動は起こり得ない事が、ひとつの証拠になるはずです。一つの方向として、例えば若者が農村に入る事を奨励する制度と、結果として彼らが耕作放棄地を耕すというムーブメントの起こる事が待ち遠しいのです。五木寛之ではないですが、やはり青年は(都会ではなく)荒野を目指すべきだとも思います。

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2008年6月17日 (火)

700 経済学の限界

あるとき、「脳は脳自身を理解できない」という、ごく当たり前の原則を再認識しました。何故なら、ややこしい話になりますが、脳は情報処理装置で、外部からの刺激(信号)を受け取り、その個体がより生き易い方向の判断を下す器官だからです。ブラックボックスである情報処理装置の機能を調べるには、その処理装置に種々の信号を入れ、その出力を分析して機能を判断することになります。ここに矛盾が生じます。つまり、被験者の脳を調べるために別の脳(試験者)が考えた、恣意的な信号(例えば質問など)を加えるのですが、その信号により被験者の脳の状態は、何らかの影響を受け、場合によっては回路が組みかえられる可能性が高いのです。例えば、被験者にとって答えるのが微妙な質問に対しては、無視したり、反発してウソの答えを返したりする行動が見られます。

振り返って、これを経済の問題に落としてみると、経済学に経済が理解できて、経済の歪みを経済的手法で解決できるのか、という問を発することが出来ます。ところで、これまでも数多くの「経済的オペレーション」が実施されてきました。しかし、それは「ああすれば、こうなる」という、物理学のように完全な公式を元に行われたのではなく、(経験則に過ぎない)経済学のややあやふやな理論?で行われてきたと思うのです。その証拠には、経済学には多くの枝葉(学派)があり、それぞれが正しさを主張する変な学問の一つであるという事実です。従って、ある局面での判断を求められると、いくつかの学派が全く逆のオペレーションを主張し始めるというわけです。

とはいうものの、これまでの右肩上がりであった時代には、A学派もB学派も、将来の経済規模は現在より拡大するだろうとの大前提は踏んでいたはずです。しかし、今後の見通しの利かない社会においては、これまでの「単なる経済学」は、社会の方向を定める学問としては役に立たないと思われるのです。何故なら、少なくとも今の経済学には「環境という側面」が欠けているからです。先見の明のある一群の人たちからは、それを組み込んだ「環境経済学」なる学問も提唱されてはいますが、いかんせん今後予想される(または予想を超える)未曾有の環境ハザードに対しては、経験があまりにも少なすぎて、「学問」に出来るほどのデータは蓄積されていないのです。今の社会は、舵を失った船に似ています。闇雲にエンジンの回転数を上げて動き回るのではなく、先ずは静かに減速してみませんか、というのがこのブログの底にあるメッセージなのです。

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2008年6月16日 (月)

699 環境修復

688に書いた「デコボコ道の法則」の続きです。道路の凸凹悪化と車の通行との関係を、環境とそこに暮らす人間とに敷衍すると、環境悪化をとどめるためには、何らかの修復作業が必要であることに気がつきます。道路の高い所を削り、深い穴になった部分に砂や砂利を入れる修復作業は、ではすでにかなり悪化してしまった地球環境ではどの様な作業に相当するのでしょうか。

一番簡単な方法は、自然を何年間か完全に放置することです。その間、雑草が生え、あるいは樹木の種子が芽を吹き、昆虫が戻り、それを捕食する鳥や小動物も帰ってくるはずです。作物の連作で疲れた田畑も、数年間の休眠で地力もかなり回復することでしょう。しかしながら、実のところ、自然環境の収容力に比べ、かなり定員オーバーとなってしまった人類には、もはやそのような贅沢な土地の使い方は許されなくなってしまいました。もし本当にそんな事をしたら、明日から食っていけない人々が世界中にあふれかえってしまうからです。農地や、すでに人間が手を入れた自然は、それが価値を生まなくなるまでは、手を入れ続けなければならない仕組みになってしまっているのです。

では次善の策は無いのでしょうか。ひとつ挙げるならば、一度手を加えた自然を維持するには、可能な限り自然のメカニズムに近い循環に近づける努力を、日々怠り無く続ける行動です。農地で言えば、農薬や化学肥料や機械力に頼らず、土には有機肥料を入れ、害虫は天敵(鳥や蜘蛛やてんとう虫など)で駆除し、人力で浅く耕す農法に近づける努力が欠かせないのです。川の蛇行は土手を残しながら、軽い水害ならばそれを許すように遊水地を確保しながら管理し、ダムの砂は可能な限り排出して下流の砂浜の侵食を防ぎ、海では干潟を確保して水質を守る行動が望まれます。私たちの祖先が、材料や筍を得るために中国から持ち込んだ、竹をはじめとする外来植物物や外来生物は地道に管理・駆除し、日本古来の土着植物や在来種生物を少しずつ回復させる作業もまた重要です。

神様でもない人間が、「自然保護」などという言葉を使うことは、傲慢でおこがましい以外の何者でもありません。私たちが意識して、または無意識のうちに傷つけた自然の範囲を、改めて認識し、その傷を可能な限りは人手で回復させる行為を、ここでは「環境修復」と呼んでおきます。

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2008年6月15日 (日)

698 人類問題

R・カーソンの「沈黙の春」に始まり、ローマクラブの「成長の限界」などによって、環境問題が叫ばれて久しいのですが、投稿者の認識としては、環境問題はもはや「人類問題」にすり替わっているというものです。つまりは、環境の中でひっそりと暮らしていた人類が、自然を破壊・改変しながら都市という人口環境を作り、その都市が化石エネルギーと産業革命というエンジンを得て急拡大し、母体となるべき自然を修復できないほどに痛めつけた、というストーリーになります。

それは胎内で異常に育ちすぎた胎児が、母体を危険に晒す事にも似ています。その環境に抱かれた胎児であったはずの人類が、母体をのっとりすき放題を行っているという構図を見て何も感じないのは、やはり異常です。健全な母体があればこそ、健全な赤ん坊が生まれるわけで、その母体が生命の危険に晒される場合には、多くの場合胎児に犠牲になってもらうしかありません。いま地球上で起こっている事態は、胎児が体内で出す排泄物により、自分自身や母体が中毒症状を起こしている状況に似ています。それは、胎児があまりにも大きくなりすぎて、その排泄物が母体だけで引き受けることが出来なくなったという意味になります。

自明のこととして、有限な地球環境が引き受けることが出来る廃棄物量は有限です。それを越えて排出され続ける量は、環境に蓄積されていいくしかない訳です。その代表例が大気中の二酸化炭素であり、その他の人為的な温暖化・オゾン層破壊ガスであり、また内海や閉水域の水汚染であり、行き場を失っている固形廃棄物ということになります。いずれにしても、それを排出し続けているのは私たち自身であり、つまりは環境問題ではなく「人類問題」と呼ぶのが正しい事になります。母体が死ぬのが先か、或いは胎児である私たちが死ぬのが先かという、頓珍漢な問いに対する答えは、言わずもがなですが後者です。母なる環境は、どんなにそこに住む生物にとって悪化したとしても環境であり続け、例え生物が全滅したとしても、無生物の世界が広がる「環境」として残り続ける訳ですから・・・。

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2008年6月14日 (土)

697 第3次石油ショック

ガソリン200円時代がヒタヒタと迫ってきているようです。大いに困って右往左往している人たちには申し訳ないのですが、投稿者にとっては願ってもない時代の到来なのです。こんな異常事態なのに誰も「第3次石油ショック」とは言ってくれないようなので、改めてここでその言葉を強調しておきましょう。先に書いたように石油の異常な値上がりは、住宅バブルから逃げ出したマネーが、石油や穀物の先物市場に流れ込んでいるという側面はあるにせよ、世界経済の気分としても「安い石油が今後とも継続して潤沢に手に入る可能性はないし、むしろ事態はますます悪化する」というムードに支配されているようです。

しかし石油ショックは、実際問題としては、省エネルギー技術が長足の進歩を果たす絶好の機会でもあります。日本は「一応」省エネルギー先進国と呼ばれていますが、その技術の多くは前の石油ショックの時の省エネ対策の遺産に過ぎないのです。例えば、日本車の省エネ性能は、強度の高い薄板鋼板の製造技術を活用した軽量化、またエンジン効率の向上は、Hンダ社のCVCCまでルーツが辿れるガソリンエンジンの「希薄燃焼技術」の賜物であるわけです。

また、一般の目には触れないものの、原発の推進や発電所効率の向上、送電・変電技術の進歩、家電製品の省エネ性能の向上、鉄道車両軽量化や回生ブレーキの採用などの省エネ化の長足の進歩、さらには省エネルギーを追及した製鉄やセメント製造技術などなど、多くの省エネ技術は、実は前のオイルショック後の数年で確立されたベース技術を、さらに洗練させたものに過ぎません。石油ショックこそ、私たちの「石油依存症」を治すためのショック療法として、最も効果が期待できる現象なのです。

この国の首相や政治家が、この夏のサミットで、胸を張って「世界に冠たる日本の省エネ技術」などと、叫ばれると、その中身を知っている技術屋なら、間違いなく気恥ずかしく感じるはずです。温暖化防止に関して、政治家の口にする数字には、学問的・技術的な根拠はないでしょうし、それを約束したとしても、彼らはごく近い将来に、政治の舞台からも(多分この世からも)退場してしまうはずです。その数字は単に政治的なものに過ぎません。もし、多くの政治家に、今が長いながい「第3次石油ショック」の過程に入ったとの認識があるのなら、環境サミットでのアプローチ案は、もっと過激でなければならないし、短期間で効果が上がるものでなければならないでしょう。

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2008年6月13日 (金)

696 熱画像診断

貧乏なのにかなり無理をして買ったサーモグラフイー(熱画像カメラ)がついに手に入りました。これを使えば、赤外線輻射による温度分布が画像として撮影可能となります。例えば、ある設備をこのカメラで撮影すると、輻射熱がより強く発生している部分は白赤く、そうでない部分は青や黒に写ります。つまり、これが温度の高い部分からより多くのエネルギーが「漏れている証拠写真」になります。

基本的なことですが、全てのエネルギーは最終的には低い温度の熱となり、さらに長い波長の遠赤外線輻射を伴いながら消失(宇宙に放散)し、最終的に環境温度と同じになるまでエネルギーの放射は続くことになります。「全て」のと書いたのは例外がないからです。熱エネルギーはもちろん、電気エネルギー、機械エネルギーや化学エネルギーに至るまで、同じ過程をとるのです。従って、熱画像写真を撮れば、殆どの場合ムダなエネルギーの漏れが診断できる事になります。いわば、このカメラによって「エネルギーの尻尾」を掴む事が出来るのです。

また、たとえば事務所や居室の居住環境を考えた場合も、夏場の窓からの輻射熱の侵入、逆に冬場の漏出についても、やはり画像として撮影できます。先にも書きましたが、体感温度は実は気温だけでは決まらず、輻射温度の平均値、湿度、風などを総合したものですから、ただ気温を上げ下げするだけの、現在の空調の考え方を根本から再考するツールにもなるはずです。

今後、このカメラを持ち歩き、企業や病院や事務所ビルなどの省エネルギー診断を広く行っていくつもりです。多くのデータを積み上げ、投稿者流の新しい省エネルギーの考え方を確立しようと目論んでいます。その考え方とは、つまりは逃げていくエネルギーの尻尾を掴まえ、それを出した本人に動かぬ証拠として突きつけて、省エネルギーを迫る手法といえるでしょう。激しく熱が逃げている場所を断熱材で遮断すれば、間違いなくエネルギーのムダは少なくなります。またムダな発熱が見られる機械は、何らかの不具合(ベアリングの劣化や望まない摩擦熱の発生など)を抱えているはずですから、故障の予防診断も可能でしょう。エネルギーの源(石油や電力など)が使われて、パワーを出しながら、やがて宇宙に輻射熱として逃げていくまでの過程を観察し、記録するにはこのツールこそが最適だと思っています。

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2008年6月12日 (木)

695 流れ去るもの

エネルギー価格の高騰が取りざたされています。しかし、その対策に右往左往するのではなく、少し立ち止まって、私たちの社会の行く末を冷静に眺めてみる必要があると思うのです。化石エネルギーについては、このブログでも繰り返し視点を変えて論じています。いずれの見方を採るにしても、それらは太古に生物が固定した太陽光の缶詰であるわけです。その缶詰の数量が有限であることも自明ですし、食べ散らかした空き缶(大気中の二酸化炭素)が、問題であることもまた事実です。

一方で、毎日私たちの頭上に降りそそぐ太陽光や無為に流れ去る風や河川水が十分に活用されていない事も認める必要があるでしょう。エネルギーの危機が叫ばれる今こそ、たとえ少量でもそれらの流れ去るエネルギーを受け止め、活用する知恵を育むべき時期なのです。実際のところ私たちの祖先は、連綿として太陽光を固定する知恵を発達させてきました。それは農業です。植物の光合成を最大限に引き出すべく品種改良を繰り返し、単位面積当たりの収穫量を上げてきたのです。その技術の使い方の善し悪しは別にすれば、それは結構洗練されたレベルには到達しているでしょう。

問題は、太陽光(やそれが姿を変えたエネルギー)のエネルギーとしての使い方の知恵がまだまだ不足していることなのです。例えば、風呂好きの日本人は毎日入浴しますが、そのお湯をガスや電気で沸かす愚は、今すぐにでも改善しなければなりません。対策としては、全ての屋根に、2㎡くらいの太陽熱温水器を上げることを義務付けるだけで良いのです。前のオイルショックの時には、ビニール袋で出来た安価な太陽熱温水器が爆発的に売れました。最近は、対候性の高い樹脂も出来ているわけですし、例えば細管にしてパネル化するなどの工夫をすれば、数万円程度で販売できる、軽量の太陽熱温水器も実用化は容易なはずなのです。

また、例えば太陽光を吸収しやすい艶無し黒色(フラットブラック)の塔を建てれば、強い日射により上昇気流が生まれます。そこで出来た風を利用すれば、夏季に風が弱い地域でも、小規模なら風力利用も十分可能なのです。流れ去るエネルギーに注目し、それを上手く利用する産業を打ち立てれば、その産業の未来は、太陽光程度には明るいはずです。

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2008年6月11日 (水)

694 戻り道

子供の木登りや山登りや宇宙開発は実はよく似ていて、それを実行する事は、結構容易だといえます。少しの勇気とルートの選択と計画さえ間違えなければ、目標に到達する事は多分出来るでしょう。宇宙ステーション計画も、行けいけドンドンの段階は、予算さえ切れ目なく供給されれば順調に進むでしょう。それは、マンハッタン計画以降、連綿として続く「ビッグプロジェクト管理」の手法を使えば、計画を軌道に乗せるのはそれほど難しくないからです。

しかしながら、難しいのは、一度抜いた矛を鞘に収めること、或いは来た道を安全に戻ることなのです。上空数百キロの軌道に打ち上げられた宇宙ステーションは、そのままに放置すると、やがては高度が下がり、最後は大気圏に再突入しますので、爆破でもしなければ危険な落下物になるでしょう。宇宙空間には、無重力という資源しかない事がはっきりした今、「宇宙族」は宇宙開発の目的を再確認しなければなりません。無重力下に放置した動物や植物の種子を持ち帰り、それを増やして「宇宙~」としてもてはやし、物珍しく眺める茶番はもうそろそろ止めにしなければならないでしょう。宇宙で作った医薬品や合金は、庶民や普通の産業・経済では使えないことは少し考えれば子供にでも分かることです。それに、地震やサイクロンの被害国に援助する金額に比べ「数桁も大きな予算」を使って進める論理に、納得すべき点は見当たらないのです。

戻り道を確実に見出すには、実はそれまでの進んだ道筋の、克明な記録に勝るものはないでしょう。それを「歴史」と呼ぶ事はありますが、戦後起こった出来事は、それを記憶している人々が生きている限りは「記憶」であっても、まだ歴史(第三者の評価を含む記録)までには昇華していません。私たちの記憶を、できる限り早い機会に歴史として評価するためには、私たち自身が自分たちの生きてきた社会を振り返り、反省し、評価する必要があるのです。投稿者も50代になってやっとそこに気がつき、ささやかながら反省生活を始めたという次第です。

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2008年6月10日 (火)

693 パラサイト生物

週末にジョギングする木曽川沿いの道では種々の植物が観察できます。元技術屋の悲しさで、技術用語に占領された頭の中には、鳥や昆虫や木や植物の名前を蓄えるメモリーエリアが少なくなっていて、一度聞いたり調べたりしても、次に観察してもその名前がなかなか想起できません。という訳で、今回の話も「ある広葉樹」としか説明できませんが、2種類の古木が気になっています。その一本は、蔓植物に強力に締め付けられて、幹に深い螺旋溝が刻まれている木です。もう一本は桜の古木で、幹のかなりの部分は朽ちており、もはや木としての勢いがありません。幹の表面は厚いコケで覆われていますが、なんとその太い枝の又にはヤドリギが根を下ろしているのです。

それを眺めていると、環境おじさんとしては、自然と人類の関係に重なって見えてしまうのです。生物学的には間違いなく弱い生物であるヒトは、その弱さを防御するため、衣服や住居を発明し、食べ物も、自然からの採取だけではなく「栽培農業」によって、安定的に収穫する術を考え出しました。とは言いながら、人力だけで耕作出来る範囲は知れているので、古くから家畜も飼っていましたし、近年はエンジンと石油で動く「鉄の家畜」を発明しました。

しかし、その本質を眺めると、人類は自然環境に寄生する、パラサイト生物となんら変わらない事に気がつきます。つまり、自然環境の中で自立できない存在である私たちは、樹木に依存する蔓植物やヤドリギがそうである様に、宿主を土台にして樹冠にまで葉を広げ、家主を差し置いて太陽光をより多く受け取っているのです。この場合の宿主とは「自然環境」の事であり、蔓に相当するのは、私たちが科学や技術や化石エネルギーと呼んでいる、一連の仕組みや資源の利用に他なりません。

寄生生物であった私たちは、いつの間にか宿主の存在を忘れるまでに増長してしまっていたのです。宿主(自然環境)を殺しては、寄生者(私たち自身)も生きては行けない事は自明ですが、多く人たちがこの事実に気がついていないのは全く悲しむべき事ではあります。パラサイト生物である人類は、そのことを深く認識しながら暮す必要があるのです。

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2008年6月 9日 (月)

692 最終ラップ

これも投稿者流のたとえ話の一つです。多くのトラック競技では、先頭を走っている選手が、最終ラップに入るとき鐘がガンガン鳴らされます。正確にこの鐘をなんと呼ぶのか知りませんが、環境に関しても、この鐘が鳴らされ続けていると考えなければならないでしょう。今や、毎日のニュースに「環境問題」「温暖化」「生物多様性」「気象変動」などなどの言葉が登場しない日は一日とてないでしょう。それが、7月のサミットまでの「N閣府」の指示ではない事を願いますが、いずれにしても掛け声だけでも、掛けられ続けていることは一応評価すべきでしょう。

さて、最終ラップの鐘が鳴らされた選手は、弾かれたように力を振り絞ってペースを上げることでしょう。それは、選手には「ゴール」が待っているからですが、私たちにはゴールがあってはならないのです。それは、生物としての「ヒト」が消える日でもあるからです。つまり、最終ラップの鐘を聴いた私たちは、最後の1周に要する時間を可能な限り長引かせるために、急激にスピードを下げる必要があると思うのです。理想的には急ブレーキですが、先ずは数%スピードを下げ、次にさらに数%下げるというサイクルを繰り返すしかないでしょう。政府が今度のサミットの一つのターゲットとして掲げるはずの2050年までの資源・エネルギー半減を達成するには、少なくとも今後数十年に亘って毎年、前年比2%ずつの削減を続ける必要があります。自動車エンジンの効率や社会インフラの効率が、現在の2倍にでも向上しない限り、物流も企業の売り上げも同じ割合で下がってくる事になりますから、国も企業も国民も、その覚悟を決めておく必要があるでしょう。

それは、私たちが地球という競技場に1秒でも長く留まるために、絶対に必要な覚悟なのですが、一体どの様な災いに見舞われたら、人々がその覚悟を固める事になるのか、既に覚悟を決めた(と自分では思っている)投稿者は、強い興味を持って社会の様子を眺めています。

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2008年6月 8日 (日)

691 信用収縮2

信用収縮で、ある市場のバブルが崩壊し、いわゆる景気後退が起こり、経済規模が縮小すれば、古典的な意味での「自然の経済」に少し戻っていきます。つまりは、バブリーな企業の淘汰が進み、失業が増え、モノが売れなくなり、社会が沈滞するはずです。しかし、分厚く膨らんでしまったサイフを握ったままの「金の亡者達」は、サイフを更に膨らませるため、多分次なるバブルの仕掛けを考え出すことになるでしょう。彼らの、住宅バブルの次のターゲットは、多分エネルギーバブルや食糧バブルではないかと危惧しています。事実、既にエネルギー作物に絡んだ、穀物市場には暗雲が立ち込めていますし、原油先物の価格は天井知らずの状況です。

ヒトは食べることを止める訳にはいきませんし、寒さが厳しい地方では暖房無しに暮らすこともできません。食糧の集中的な生産が、行き着くところまで行ってしまった現在、世界中の人々が食べるためにはその食糧を産地から運ばなければなりません。アフリカやアジアの多くの国々では、商業作物(コーヒーやアブラヤシや綿花などなど)の方が儲かるから、と国際メジャー資本にそそのかされ、肝心の食糧供給の多くを他国(多くは広い国土を持つ先進国です)に依存する度合いを一方的に高めてきました。結果として、食糧やエネルギーの首根っこを大国や国際メジャーに抑えられている途上国や日本が、今後の新たなバブル市場で、どの様なひどい目にあうか、想像するのも恐ろしいほどです。

結局、バブルの仕掛け人とは、将来不足=値上がりが予想される分野に注目し、その先高期待を煽ることによって利益を上げる集団だといえます。バブリーな信用は収縮を起こし、適正な経済規模に戻ろうとするのですが、その自然な経済の成り行きに抵抗しようとするのが、現在の各国の経済政策であり、大企業の経営戦略であると言えるでしょう。つまりは、一定の空気(お金)が詰まった風船の一部が萎んでも、その余分な空気を移動させる別の仕掛けを作る努力が行われるわけです。かくして、ある信用収縮は別のバブルを生み出しながら経済規模の拡大を続け、それに伴う環境悪化のイタチごっこは今後も続くことになるはずです。しかし、本当に厳しい煽りを食うのは、濡れ手に泡で儲けた財産をフィにした金持ちやファンドではなく、そのバブルに踊らされる庶民や途上国の人たちである事は、本当に悲しむべき事です。

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2008年6月 7日 (土)

690 信用収縮

経済規模の拡大は、そのまま比例的に環境の悪化を加速させる、と繰り返し書いています。SPLショックにより、しかしバブリーであったアメリカの住宅市場も、かなり縮小(正常化)している様です。とはいいながら、信用収縮の連鎖は中流社会に向けた住宅ローンでも、破綻を引き起こしてきているとも報じられてもいます。ここで、経済と信用収縮について、素人の目でもう少し突っ込んで見ます。

さて、経済規模には、実態としての物やお金(現金)だけではなく、株や債権など紙(証券)や電子マネーによる信用経済もカウントされます。信用が拡大する(好景気)の局面では、これらの形の無い権利も膨張しますから、実体経済も引きずられて拡大し、モノや人の流れも活発になるでしょう。従って、環境負荷もトータルとしての経済規模に比例する形で大きくなります。

しかし、今後急速に到来することが懸念される「信用収縮社会」では、今ある無形の権利は、時間が進むにつれて小さくなる訳です。権利が小さくなると、その権利で買えていたモノや物権が買えなくなり、実体ではない経済の部分は縮小に向かいます。つまりはバブルの崩壊です。私たちは、株や債権など、目には見えない経済の規模が、短期間の内に巨大に膨れ上がってしまった事に、あまりにも無頓着過ぎるようです。無頓着で何がいけないかと問われれば、その無頓着さが、バブルを増長させていると答えます。例えば、お年寄りが自分の財産を少しでも増やそうとして、投資信託を買ったとしましょう。それが、まっとうな企業であれば、然るべき市場で資金を運用し、運用益から債権者に配当を分配するでしょう。この配当金には、しかしある市場が拡大した事に伴う、バブリーな配当も混じっているかもしれません。つまり出資者も、時には運用者自身も知らない内にバブル拡大に加担している可能性が大きいということです。

話が泡の様に発散しそうですが、信用収縮の時代には、みすみす損が見えている投資は控えられますから、バブルは縮小し、結果トータル経済規模も縮小しますので、一般的には環境負荷もそれなりに小さくなる事が期待されます。本当にそうなれば、投稿者の望むところになりますが、困った事に実際はそうはならないケースも多いのです。この話題には今後も再々立ち戻るつもりです。

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2008年6月 6日 (金)

689 森の発電所

仕事上の機会があって、S町にある「森の発電所」を見学してきました。ここでは、製材工程で出た端材や木屑をチップ状に破砕し、専用のボイラーで燃焼して蒸気をつくり、600kw程度の電力を発生させています。電力の一部は、製材工場やそれに付随する施設で自家消費し、余った電力はグリーン電力として、契約している企業に売電しています。余談ですが、ここの発電機のサイズは、大型船舶で航行中に使う船内電源用の発電機とまさに同じ大きさで、かつて造船業界に身を置いた投稿者には、非常に懐かしい一品でした。投稿者が言う緑の循環(グリーンサイクル)で、CO2が循環している様にも見えますが、内情はなかなか理想的とも言えないようです。何より、木材価格は市場メカニズムに左右される部分が大きく、安定した量が安定した価格で取引されることが少ないようなのです。

投稿者が知る限り、日本でのこの手のバイオマス発電所のはしりは、秋田県のN市に建設されたバイオマス発電所だったと思います。その後、新潟県や岐阜県などでも同様の発電所が建設されていますが、これは想像ですが、もし設備の建設時に多額の補助金が受けられなかった場合は、間違いなく投資は回収できないはずなのです。それは、売電価格と発電量、それに対する設備投資額の簡単な算数で計算することが可能です。

投稿者が懸念するのは、この種のバイオマス発電設備や風力発電所が、全て「発電」を行っていることです。実際に、多くのエネルギーが必要なのは、実は製材所の場合、木材乾燥用の熱や蒸気だったりするからです。であるならば、何も何億円も掛かる複雑な発電設備など作らなくても、バイオマスや風車や水車で「熱を作る」という解もあるはずなのです。実際、北欧では風車で油圧ポンプを回し、圧油を小さな穴から噴出させて高温の油を作り、校舎の暖房や給湯などに使っている例が多く見られます。石油に代わるべき、量は少ないが多様なエネルギー源に対しては、多様なエネルギー形態のニーズがあり、それに対する解もまた多様であるべきなのです。ささやかな森の発電所を見学してのささやかな感想です。

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2008年6月 5日 (木)

688 デコボコ道の法則

デコボコ道がなぜデコボコなのか真面目に考えた事があります。まず舗装していないダート道ですが、当然の事ながら道路の表面は砂利か土です。しかし、ほとんど雨が降らない砂漠地帯では、それほどひどいデコボコ道にはなりません。何故なら、ひとたび砂嵐に見舞われると、少しのデコボコなら砂で埋まってしまうでしょうから。しかし、時々でも雨が降る地域で、それなりに車が通る道路のデコボコは、確実に状況が悪化するはずです。デコボコがひどくなるメカニズムは「水溜り」がきっかけになります。水溜りの底には泥がありますが、車が通る度に水を飛ばすと同時に泥も飛ばしてしまいます。従って、その水溜りはますます深くなって、水溜りができなかった高い部分との段差が大きくなります。結果として、その道路は、手入れをしない限りデコボコが自然に修復される事もなく悪化の一途をたどります。やがて車で行き来する人たちは、天井に頭を打ちながら進む羽目になるでしょう。

一方、舗装道路でも同様の事態が観察されます。舗装道路のデコボコ化のきっかけは、アスファルトの割れ目です。道路の舗装は、詳しくは承知していませんが、5cm刻み位でランクが分かれるようです。裏道では5cm程度の薄い舗装になっていますが、交通量が多い道路では、それが10cm、15cmと厚く舗装されています。さて、一度割れ目ができるとそこから雨水が侵入し、舗装面の下が湿潤します。車はかなりの重量物なので、それが通る度に少しずつ泥水が割れ目から滲み出ます。結果、路盤の下には少しの空隙が生じ、割れの範囲が広がり、やがて複雑な割れ目模様を持つ範囲が出来上がります。ある日、その割れ目の一つが、タイヤの衝撃で「コロッと」抜け出ます。抜け出た後は、段差になりますから車の衝撃が大きくなり、その隣のかけらも脱落する連鎖が始まります。かくして、どこのデコボコ道も、本格的な手入れが行われるまで、デコボコ度の悪化は止まらない事になります。

この話を書いたのは、勿論話を「環境悪化」に落とし込むためです。環境悪化を道路のデコボコに例えてみると、道路での車の通行に相当する「環境負荷」が無くならない限り、その悪化は防げない事になるのです。もしデコボコ道の悪循環が環境や他の悪化現象にも適用される「法則」であるならば、その防止のためには、例えば道路に車を走らせない、という厳しい対策しかないとの結論になります。道路のデコボコ悪化を防ぐために、「道路に車を走らせない、という矛盾」のうまい解決案が思いつかない限り、環境の悪化も防げないような気もします。つまり道路や車は一体何のために作ったのか、人間は何のために環境に負荷を与え続けながらも生きて行かなければならないのか、という根源的な疑問に答える必要があるのです。

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2008年6月 4日 (水)

687 環境モデル都市

各地の自治体が環境モデル都市に名乗りを上げました。投稿者の住む街も、一応「横並びで」手を上げましたが、指定を受ければ勿論何がしかの交付金が出るのでしょう。しかし、仮にもモデル都市となるためには、何がしかの「アイデア」が必要だと思うのです。やる気だけの表明では、税金の無駄遣いに終わってしまいます。アイデアは、その地域に特有の「環境条件」を活用するものでなければなりません。山持ちの自治体であれば、山の木や川や森を活用した、あるタイプの環境モデル都市ができるでしょうし、海辺の街であれば、磯や河口の干潟や水産資源を活用したモデルができるかも知れません。また、日照時間に恵まれた地域であれば、徹底して家屋の屋根に太陽熱温水器や太陽光発電パネルを設置する施策を推進しても良いでしょう。しかし、もし殆ど特徴を持たない自治体であれば、住民の合意の下に、徹底した人力活用作戦も考えられるかもしれません。例えば、街から徹底して車を排除し、中心部を自転車だけの街にし、ゴミの分別を30種類くらいに増やして、ゴミのリサイクル率を90%以上にする活動を展開し、晴れた休日には多くの市民が公園や川や里山の清掃や手入れに勤しむような地域することなども、立派な「環境モデル活動」になり得ます。

役人が作文しただけの、目や耳に快い言葉だけを並べた、中身の無い計画書だけで、あわよくば指定を取り付け、財政を少しでも楽にしようと考えるような甘い自治体は、勿論指定を受ける資格はありません。投稿者が住む自治体の計画案がどの様なものか承知していませんが、少なくとも上に述べたようなアイデアを、市民から募集するような動きは一切ありませんでした。多分、作られた計画書の内容は「推して知るべし」だと想像しています。

国は、地域的な特徴を持ち、アイデアに溢れた提案を持つ自治体だけを重点的に指定すべきでしょう。もし、本当に優れた計画であれば、類似の環境条件の自治体への横展開は容易でしょうし、逆に特徴の無い自治体からの「ユニークなアイデア」は、むしろ多くの普通の地方都市の参考になるはずです。

いずれにしても、環境保全を進める上での答えは、両手では数え切れないくらいのアイデアの積み上げでなくてはなりません。そこに必要な要素としては、お金でも設備でもなく、多くの(とりわけ年配者の)知恵と、加えて可能な限り多くの人力活用なのです。人力の活用で重要な事は、わざわざ手を煩わすのではなく、「何かのついで」に自然に体が動くような活動でなければ、長続きはしないでしょう。

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2008年6月 3日 (火)

686 竜巻と雹

アメリカの中西部で竜巻が「量産」されているようです。オマケについ最近は、なんとゴルフボール大の雹も降ったとか。雹もこのサイズになると、農作物や住宅被害は勿論、運悪く当った人は命にも関わる大きさです。実際幼児が犠牲になってしまったようです。竜巻と雹のセットは、上空に冷たい空気が残っているタイミングで、強力な日射により竜巻が発生し、強力な上昇気流によって、竜巻が急成長し、その天辺で小さな氷の粒が上下しながら大きくなる結果生まれます。もしその上昇気流が非常に強烈であれば、なかなか地上に落ちて来られない氷の粒が巨大サイズに成長し、ついにはゴルフボール大までになるわけです。

さて温暖化が北進するスピードは、年間10km以上とも言われていますので、温帯にあって比較的冷涼なステップ気候帯(半乾燥地帯)であったアメリカ中西部の気候は、既に亜熱帯並みの気温や日射条件になっている可能性があります。結果として、上空と地上の気温差が大きくなるほど竜巻は強大に発達し、その竜巻の付録としての雹も巨大化することになります。地上の気温上昇だけが取りざたされていますが、今後の気象研究には、上空の大気温まで含んだ立体的な観測データの採取とその分析が望まれるゆえんです。

つまり、大気圏だけを取り出してみても、それは決して熱帯や亜熱帯や温帯や寒帯といった平面の分布ではなく、高さ20kmにも及ぶ立体的な構造であり、その中に含まれる水蒸気や種々の気体分子のマクロ挙動の成せる技であるわけです。ましてや、それに水圏、生物圏が複雑の絡み合うわけですから、その分析は単なる気象学的なアプローチの限界を超えていますので、狭い分野に分かれ、一面的な現代科学では全く歯が立たないのです。これらの現象の分析には、多分十個以上の学問の学際的なアプローチが必要になるはずで、つまりは、省エネルギーや廃棄物圧縮やリサイクルや温暖化研究などの「対策学」に留まらない「新しい環境学」に登場願わなければならないのです。

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2008年6月 2日 (月)

685 排出権のジレンマ

投稿者には絶対納得できない「排出権取引」の悪口を更に書き足します。京都議定書のささやかな目標値でさえ、約束期間の突入のかなり前からその達成を諦め、他国から排出権を買うことで対処しようとしてきた情けない国である日本は、やはり実際にも多量の排出権を買う羽目になりそうです。国も、電力会社も企業もこぞって排出権買いに走る結果、何が起こるかと言えば結果は明白で、海外に多額のお金を払うのですから、税金が上がり、電力料金が上がり、製品価格の値上げが待ち構えているわけです。

最近は、コンビニでも個人レベルで排出権を買うことが出来る時代になったとか。全く、信じられない事態になったものです。金さえ出せば、自由に二酸化炭素を出しても良い、とする筋違いの風潮は、ある意味では約束以上に二酸化炭素を出してしまった事を追認する行為でもありますから、それを減らそうとする強い動機付けにはつながらない仕組みなのです。

この仕組みを作ったヨーロッパでも決して上手く機能しているわけではないようです。つまり、排出権と取引とは、予め上限(キャップ)を設定した上で、そのキャップを越えた企業は、下回った企業から排出権を買う仕組みなのですが、キャップの決め方は結構微妙です。以前のコラムでも書きましたが、社会に絶対不可欠な産業と、どうでも良さそうな産業に同じ割合の削減を要求するのは、見かけの公平は確保されている様にも見えますが、社会的には間違っています。また例えば、前者の産業として食品産業を考えた場合でも、それが日常の食生活に関わる産業なのか、或いは嗜好品(お菓子やケーキ)を作っている産業なのかによっても、社会的な位置づけは変わってくるはずです。

無理やり「ある基準」を決めたにしても、結局どこかからはブーイングは起こりますから、自然キャップも緩い基準にせざるを得ない訳です。排出権取引市場ができて、それなりのお金は動く仕組みは出来るのですが、肝心の排出権の削減にはちっともつながらないという、ジレンマに陥るのです。

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2008年6月 1日 (日)

684 人とヒト

このブログでは、人とヒトを使い分けています。つまり、「人」とは社会的な存在としての群れて暮らす人間を指し、「ヒト」とは生物学的な「霊長目・ヒト科」を指してきました。683で述べた、人々の情緒不安定のもう一つの原因として、投稿者が疑っているのは、個人の中での人とヒトの乖離かも知れないという事なのです。少し時代を遡って投稿者の子供時代を思い返せば、多くの人々は生きていくのに(食べていくのに)必死でした。ヒトとしての生命を維持するために、人として社会の中で身を粉にして働いたのでした。それ以前の時代、戦時中やずっと以前の時代は推して知るべし、でしょう。そこでは、きっとヒト=人として暮さざるを得なかったはずです。

しかしながら、高度成長期を経て、食っていくことにそれほど困難を伴わなくなるにつれ、私たちの中での「人」が急激に肥大化し、逆比例して「ヒト」が無視されるほど小さくなってきたのかも知れません。そうでなければ、人の命がこれほど軽くなっている事の説明がつかないからです。養老猛の言葉を借りれば、脳が作った社会(脳社会)に生きる人は、最早ヒトとしての能力や本能の多くを失い始めているのかも知れません。その意味では、法則風に「科学の進歩に逆比例して、ヒトの能力が退化する」と断言しても良いかもしれません。脳が作った文明社会に住む「人」と、元々環境が育み、その中で進化した自然物であるヒトが、同じ肉体の中で、明確に分離してしまったのが現代社会とそこに住む私たちなのだと言えるでしょう。

やや微妙な例を引きますが、「~同一障害」と呼ばれる人たちが存在しますが、上記の分離は、肉体の中における「人・ヒト同一性障害」と呼んでも良いのかも知れません。その結果、私たちの中には、ぬぐいきれない不安が広がってきていると思われるのです。この症状への根本的な対策は少ないのかも知れませんが、取り敢えず手っ取り早く症状を和らげるには、先ずは出来る限り自然に近い環境、例えば大きな森や奥深い山中を歩き回れば良いでしょう。その中では、自分がヒトであることの小さな発見が出来るはずです。例えば足に出来たマメ、急坂を登るときの激しい自分の呼吸、木々の呼吸から吐き出される微量物質などから、自然が放つ「得体の知れない力」を、五感を使って感ずるだけでよいのです。

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