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2008年7月18日 (金)

731 自然とじねん

自然(しぜん)と自然(じねん)は違うのだそうです。前者は、英語のNatureの日本語訳として比較的最近当てられたものであり、後者は元来仏教用語のようです。想像するに日本では、人間は自然と一体の存在であり、自然に抱かれて暮らしていただけに、自然(しぜん)を客観的に見るNatureという概念や言葉は必要なかったという事なのでしょう。国語学者でも歴史学者でも宗教学者でもない投稿者としては、単純に後者の「じねん」という言葉の響きが気になります。その訳を考えて見た時、どうも「じねん」の「じ」という響きが耳に引っかかるような気がします。つまり、西洋の科学的、客観的なNatureに比べ、東洋の「じねん」という言葉には、自己(自我)という思いが入っているように思うのです。人間が、神様のような立場で自然を眺めるのと、自然の中に包まれているちっぽけな存在であるという視点では、おのずからアプローチが異なるはずです。前者は、自然を科学的に分析し、その資源を利用し、自分が所属する人間社会を豊かにしようとするでしょうし、一方後者は、自分と自然を一体と捉え、その中でささやかに自然の恵みを頂戴して暮らすことを考えるでしょう。

別の言葉で言えば、利用する対象として外から眺める自然(しぜん)と、その中で思考する「じねん」という構図になります。それでどうだと言われれば、前者は「だから環境問題を引き起こすのだ」という答えになるでしょう。結局環境問題の解決の糸口は、自然(Nature)を自然「じねん」と捉えなおす事から始める必要があると思うのです。問題(科学や技術などを使って)をどうにかするのではなく、環境の一員としての私たち(あるいは自己)が、環境の中でどのように行動すべきかが問われている訳です。環境の中で行動する限り、私たちの環境への働きかけ(作用)を行えば、必ずそれに対応する同じ大きさで向きが反対のリアクション(反作用)が起こるはずです。しかしながら、私たちは特に産業革命以降激しくなった、地球に対する作用に対して、沈黙を守ったままの地球のリアクションを無視しようとしてきたのだ、と言えるでしょう。

しかし、注意深い人々は、もはや無視できない地球からのリアクション(復讐)について、1970年代には既に気がついていたのです。その時代から40年近くの歳月を要して、今普通の人たちもその警鐘をやっと耳にしたという次第なのです。気がついただけでは不十分で、「じねん」の立場で、どう考え、どう行動するかが問われているのです。

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