« 2008年6月 | トップページ | 2008年8月 »

2008年7月31日 (木)

744 省エネではなく

サミット後一段落とはなっていますが、相変わらず新聞を開いても、マスコミの報道でも温暖化防止=省エネルギーの話題ばかりです。これも多分以前に書いたような気がするので、このブログで伝えたい結論の一つになるのでしょうが、省エネルギーとは、いわば過渡期の「対策」に過ぎません。それは単に、エネルギーを使い過ぎで、地球の環境悪化も実感できる様になった今、「少しは節約しようよ」という態度です。しかし、何度か書いていますが、それでは焼け石に数滴の水にしかならない事は、最新の研究でも明らかです。今以上の環境悪化に歯止めを掛けるのは、資源・エネルギー使用に「急ブレーキ」を掛ける必要があるのです。言えば、今すぐにでも半減、その先は今の1/4以下にしなければ、子孫の未来は暗く厳しいものになると予測されています。

それに対して必要な態度とは、技術を改良し、多少の辛抱をする「省エネ」ではなく、化石エネルギーの大量使用を前提とする今の社会構造から脱却する「脱エネ」しかありません。脱エネに必要な資源としては、一にも二にも消費者自身の体力しかありません。石油に替わる動力として「人力」という直接的なパワーも必要でしょうし、寒さや暑さや疾病に抵抗力=体力を持つ事もまた必須です。これは簡単に言えば、猛暑日にも真冬日にも自転車で通勤し、暑さを団扇一つで耐え、寒さも着膨れで乗り切る体力の事です。

脱エネは、しかしエネルギー資源が薪炭くらいしか無かった江戸時代の生活に戻る事とは必ずしも同じ意味ではありません。私たちは、すでに石油に頼らないいくつかの優れた発明をしているからです。脱エネ製品や技術の幾つかを示してみましょう。たとえば、太陽熱温水器です。少し大型のものを導入すれば、太平洋側の地域では、冬でもガスや電気は殆ど無しでも毎日入浴可能です。パッシブ冷暖房も有効な脱エネ技術です。日射を利用して、家屋の中に空気の流れ(エアサイクル)を作り出し、夏は床下の冷気、冬は屋根裏の暖気を利用して、冷暖房を行います。湿度の高い日本の夏を乗り切るには、デシカント冷房も有効かもしれません。これは、シリカゲルなど吸湿剤を利用して、空気中の水分を下げ、冷房効果を上げるもので、デシカントの除湿は太陽光で行わせます。この他に、黒く塗った煙突や二重壁で太陽光を集め、上昇気流を作り出すソーラータワーやソーラーウォールもまた、脱エネ技術だといえます。もちろん、これらの技術は単独で用いるのではなく、幾つかを上手く組み合わせる必要がありますが、いずれにしても、これらの技術によって、化石エネルギーの使用は、殆どゼロで運用する事が可能となります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年7月30日 (水)

743 温暖化熟考

温暖化に関して、もう少し深掘りして見ます。温暖化は、太陽光から受けたエネルギーが熱となって地球を暖め、最終的には遠赤外線となって宇宙に放散するのを、大気中に増えた温暖化効果ガス(GHG)が阻害するために起こる現象です。

更に詳しく見るならば、8-14ミクロンの波長を持つ、生き物にも深く関係する周波数帯域の遠赤外線を吸収し易いGHGが、実は地球の平均気温を押し上げる主たる原因ともなっているのです。この帯域の遠赤外線が宇宙に十分放散されない結果、気温が上昇し、気温の上昇は大気中の水蒸気(最大の温暖化効果ガスでGHG全体の温暖化効果の8割を占める)の絶対量を増加させますので、悪循環に入り込みます。これをますます加速するのが、私たちが年間数十億トンも排出し続けているCO2であり、メタンガスであり、フロンガスなどのGHGであるわけです。

水蒸気による温暖化への影響は、実は日常でも経験することが可能ですし、砂漠に出かけてみれば、もっと顕著に体験できるでしょう。乾燥している春秋や冬の、晴れて風のない明け方には、地表付近の気温は、放射冷却現象によってかなり低くなります。しかしながら、湿度の高い日や雲のある日には、赤外線が大気中の水蒸気や雲に吸収されて気温が保たれ、冷え込む事はありません。砂漠は、極端に湿度の低い場所でもあるので、日中は50℃を越えても、明け方は0℃近くまで冷え込むわけです。

これらの事実からもわかるように、水蒸気は最も重要なGHGでありながら、これまでの科学的な気候変動に関する研究では、ファクターとして除外されてきたか、或いは軽視されてきた事は否めません。この場合にファクターとして把握すべきは、気象観測で用いられる相対湿度ではなく、CO2などのCHGと同じく大気中の「重量絶対的湿度」であるわけです。水が蒸発する時の潜熱とその水蒸気が雲や雨に戻る時の顕熱が、気象に与える影響は多大で、最近各地で災害を巻き起こしている突風被害の原因にもなっています。私たちの、大気中の水蒸気の挙動に対する知識は、まだまだ貧弱なものに留まっていると感じています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年7月29日 (火)

742 何時の太陽?

夏休みになって、何回か「ソーラークッカー」の工作教室の講師を頼まれました。片側にアルミコーティングを施したダンボール紙を切って折り曲げ、テープで張り合わせて17面体のパラボラを作ります。そのパラボラの底に鍋を置けば、夏の強い日差しの中では、立派にジャガイモも煮える事になります。子供に「太陽の力」を実感させる実験です。このブログでも「太陽生活のススメ」について何度か書いていますが、まさに太陽光だけが持続可能に全ての生物を支えるエネルギー源になり得るわけです。その太陽光が地上に注いだ結果として生ずる熱が、温暖化効果ガスによって、数度高くなるという困った事態が、いまや世界各地で大騒ぎを起こしています。

やらなければならない事は、確かに太陽光(エネルギー)の利用ではありますが、ただしそれは「今の太陽の利用」である必要があります。石炭も石油も、勝手に地上に生じ、地下に埋まってしまったわけではありません。どちらも何億年もの生物活動の結果、太陽エネルギーが固体や液体の形で固定されたものでした。だからこそ「化石エネルギー」と呼ばれるのですが、化石の埋蔵量には限界があることも間違いありません。今問題になっているのは、化石の出方が減るのが早いか、その化石を燃やして放出されたCO2NOx、SOxによる気象への我慢できない悪影響の出るのが早いかの競争であるわけです。

一方、今の太陽の利用には、基本的には制限を設ける必要はありません。「基本的に」と言ったのは、太陽光は植物や動物といった自然界の「人間以外の構成員」との奪い合いになりますから、無節操な太陽光の利用は、自然破壊にもつながるからです。しかし、家屋やビルお屋根や道路ののり面、駐車場の上のスペースなど、すでに人工的に開発された場所での利用は、生物とのあらたな競合は避けられます。

そこに、太陽光発電パネルや、太陽熱温水器や、太陽光採光による照明や、何より植物を植えて、太陽光を利用すれば良いわけです。太陽光発電や温水器でのエネルギー利用は「現金」、植物は、収穫までに数ヶ月を要するので、数か月分の太陽光の「貯金」で、木材に至っては数十年の「定期預金」に当たるわけです。いずれにしても、自分が使う分は自分で貯蓄するのが基本ルールですから、過去の太陽エネルギーの「埋蔵金」を一方的に取り崩す今の化石エネルギーの使用状況は、明らかなルール違反であることがわかります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年7月28日 (月)

741 休題(HDDが転んだ)

転ばぬ先の杖(バックアップ)とはよく言ったものです。パソコンの外付けのハードディスクが見事に転びました。突然全く認識しなくなったのです。殆どのデータをこのHDDに保存していましたので、もし全く生き返らないとしたら、お先真っ暗になりそうです。この日の来る事は薄々感じていました、ハードディスク自体かなり古くなってきましたし、音も大きくなってきたような気がしていました。もっと容量が大きく、転送速度も大きなHDDを買って、データをそっくり引越しさせるつもりでした。その日を1週間延ばしにしたのが最大の敗因でした。週末に新しいHDDを買おうとしていた金曜日に、HDDが動かなくなってしまったのです。パニックになってインターネットでデータ救出を行っている会社を探しまくりました。いくつか見つかりましたが、値段を調べてビックリ。弱みに付け込んでいるわけでもないのでしょうが、スンナリ行って数万円、重症だと10万円程度覚悟しなければならないようなのです。

貧乏な環境坊主にはかなりの金額です。更に探して、名古屋でハード修理も行うパソコンサポート会社を見つけました。自分で持ち込めばかなり安くなりそうです。しかし、安いという事は結果もあまり期待できないかも、と心配にもなります。とりあえず運を天に任せてHDDを持っていきました。結果は、思ったより重症で最悪コース(10万円コース)を覚悟しなければならないかもしれません。データは、これまでの温暖化防止の出前講座のパワポ資料、省エネルギー診断や助言事業の記録、数え切れない枚数の写真、その他顧客に関する資料や、セミナー資料などなどです。これらを作り出した作業時間を考えるなら、やはり10万円を覚悟してもデータを復活させるべきかもしれません。一方で、どうせ自分で作り出したデータなのだから、全てをご破算にして、全く新たにデータを作り出せば良いではないか、という内なる声もあり、近いうちに何らかの決断をしなければなりません。それにしても、新しいHDDを買いに走る1時間ほどの僅かな手間を後延ばしにしたためのトホホ状態です。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2008年7月27日 (日)

740 快不快

利便の追求とは、つまりは快の追求及び不快の回避であるわけです。しかしながら、そこに持ち込まれた価値観はあまりにも一面的なものだったといえます。極端な言い方になりますが、これまでの(特にメーカーが押し付けてきた)快とは、一義的に「筋肉と頭を使わない事」であった訳です。それまで人間が自らの筋肉を使って行っていた事を動力(モーターやエンジン)で代用する「動力化」、また、人間が頭を使って考えて実行していたことを機械に行わせる「自動化」がその中身であったのです。

具体例として車についてみれば、その傾向は顕著です。具体的な車の「快」装備としては、パワステ、パワーウィンドウ、パワーシート、電動ミラー、オートエアコン、極めつけはオートマチックシフトでしょうか。他方、自動化についてみれば、上とも重なりますが、エアコン、オートマに加え、ナビゲーション、加えて運転者が決して意識する事のない多数のセンサーとマイクロコンピュータが挙げられます。これらの装備の結果、車の「快適度」は非常に高くなりましたが、車重は普通のセダンでも200-300kg程度は重くなり1トン前後が普通となりました。その結果、パワートレイン(動力系)の大幅な効率向上が達成されていながら、カタログ値ではない実際の燃費で見れば、30年前と殆ど変わっていないと見てよいでしょう。車利用の初期の目的は、運搬や移動に関わる筋肉労働の軽減であり、人力では到達できない場所までの行動半径の拡大であった訳です。それが、何時の頃からか、車は快適さを追求する製品の代表に変貌してきたようです。

家電品でも同様の事態です。炊飯器や電子レンジや洗濯機や掃除機やエアコンやガスレンジなどにもマイコン(マイクロコンピュータ)が埋め込まれ、人間は、スイッチを押すだけの存在になり下がりました。水加減、火加減、洗剤量や洗濯時間、温度調整などで全く体も頭も使わなくて済む時代になったのです。自分で何も考えないうちに体が勝手に動いて行動する人間を、投稿者は「自動人間」と呼んで馬鹿にしていますが、時々自分も「自動行動」をしている事に気がつき苦笑します。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年7月26日 (土)

739 ゼロベースからの発想

現状の温暖化効果ガス発生量から、今後何割減らすという考え方には疑問があります。このアプローチでは、現状の社会システムや資源・エネルギーの使い方に対し、いくつかの方法で削減努力をすることになりますが、一方でかなりの無理も生じます。何故なら、例えば設備や車などのエネルギー効率を何割もの大幅な削減を行うためには、使い方・乗り方などのソフトウェア的なアプローチでは絶対無理で、根本的には省エネ型の設備への更新や低燃費を売り物とした車への買い替えが必要となるからです。確かに、体力がある大企業やお金に余裕がある家庭では、それも可能でしょう。しかし、中小零細企業やお金に余裕のない家庭や発展途上国は一体どうすれば良いというのでしょう。

今の温暖化防止へのアプローチは、大幅に見直すべきです。投稿者としては、「ゼロベースからの発想」を強く提言したいところです。つまり、もし「海外からの資源やエネルギーが全く途絶えたら」或いは「もし災害で送電線が切れて長期間の停電が起こったら」更には、「車がガソリン高騰で庶民は乗れない時代になったら」というIfを想定するわけです。その時、私たちがどの様に行動しなければならないのか、多分戦時中を知っているお年寄りは「予行演習済み」なので、慌てる事はないでしょう。投稿者の世代(50代後半)も戦後の貧しい時期はそれなりに知っていますし、石油が潤沢には手に入らなかった学生時代や、その後の石油ショックを経験していますので、それなりに対処できるでしょう。問題は、それらの時代を全く経験していない40代以下の若者世代です。彼らに、モノもエネルギーも殆ど手に入らないというゼロベースのアイデアを求めても、何も答えは捻り出せないような気がするのです。何しろ、物不足、食糧不足やエネルギー不足の厳しさを、身を以っては経験していないのですから「具体的なアイデア」も出ようがない訳です。

しかし、例えそうであっても、例えばテレビ番組でこの種のアイデア出しを競うゲームを見せるとか、ラジオ番組などで、賞金つきでアイデアを募集するなどの工夫で、今から想定訓練を行うべきなのです。無人島で、お笑い芸人にサバイバルをさせる番組など、少数の実例はありますが、まだまだショーアップされたお遊び番組に留まっているような気がします。例えば、土地を与えられた場合、そこで短期間に食べられる様などんな作物を育てるのか、それが食べられる様になるまで、山や川や海でどんな食糧を手に入れる事が可能なのか、などよりシビアな状況でのサバイバル知識を競うわけです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年7月25日 (金)

738 ソーラーハイブリッドカー

ある乗り物のコンセプトが浮かんだので、忘れないうちに書き留めておきます。それは、小型の電気自動車です。しかし車重は頑丈な自転車かバイク並みに軽くなくてはなりません。理由は、動力として非常に小さな出力のモーターしか搭載しないからです。具体的には1-kwか出来ればそれ以下にします。従って鋼板をプレスした重たいボディーは搭載できませんので、アルミのフレームに簡単な風よけが付いている程度の車体構成になります。そして今後開発されるであろう、小型で高性能のバッテリーを必要最小限だけ積み込みます。つまり通勤用であれば50km程度の航続距離に足りるだけ、それよりやや大型の車には150km程度の航続距離を持たせます。最高速度は、車の構造上から運転者の目線が低くなるだろうと思われ、その分60km以下程度には押さえる必要があります。

さて、この車にはエンジンを載せません。ではどこがハイブリッドなのかといえば、バッテリーと太陽光発電パネル(PVC)と人力(マンパワー)のハイブリッドなのです。通勤車は、普通日中は駅周辺の駐車場にほったらかしにされますので、その間車体の上面に貼られたPVCパネルで充電しておきます。太陽電池の大きさとしては、太陽光だけでも時速1020kmでトロトロ走れる程度の面積は必要でしょう。具体的には、300-500W程度のPVCを搭載することになります。雨続きで、太陽光発電が出来ず、バッテリーも切れたときの非常用として、足踏みペダルも装備するのは当然の考え方でしょう。そうでないと、道路上での突然バッテリー切れに対応できません。

この車が出来ると、晴れた日の通勤は俄然楽しくなるでしょう。何しろ、電気代もガソリン代も全く掛からないで通勤できるのですから。しかし、駅から1-2km程度の人は迷わず「歩き」でしょうし、4-5kmの人は自転車を使うべきで、10kmを越える通勤距離の人が、この車を使う候補者になります。価格は、ガソリン自動車の半分か1/3には押さえ込むことが可能でしょう。勿論、この車に快適さを求めてはなりません。移動のための単なる道具に過ぎないのですから…。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2008年7月24日 (木)

737 平均値の無意味

多くの統計データで「平均値」がよく使われます。平均年齢、平均体重、平均月収、平均気温、平均食糧自給率などなどです。しかし、よくよく考えてみると平均値ほど意味のない数字は他に無いのかもしれません。勿論、標準偏差のデータが加わると、それなりの意味もでますが、単なる平均値には殆ど何の意味も無いと決め付けることもできます。

これに対して、例えば定点観測は重要な意味を持ちます。ある人の一生を定点観測し、出生、成長、生活習慣、住環境、家族構成、病歴、死亡原因などに関して、とりあえず2000人ほどのデータを集めれば、日本社会の問題点を浮き上がらせるには十分なデータだと思われます。また、気象観測に関して言えば、学校の百葉箱で調べた何十年にも亘る気象データは、非常に貴重な定点観測のデータになるはずです。つまり、ある時点の平均値とは、ある断面で切った数字の断片(フラクション)でしかない訳で、重要なのは個体、またはある地点の履歴(プロファイル)だといえます。プロファイルデータからは、例えばある変化が起こった時期、その背景にある原因の推定なども可能となります。

最近問題となっている平均値の例では、日本の「平均食糧自給率は40%」などと報じられていますが、この数字からは日本の貧弱な食糧生産力がなんとなく見えるだけで、なんらの危機感も湧いてきません。しかし、例えば東北地方の食糧自給率は100%をかなり超えていて、一方で東京都の自給率は1%程度であるという、個別の数字を見ると何かが少し見えてくるかもしれません。更に、これに年毎のプロファイルデータや世界情勢の転換点が加われば、本当の意味での食糧問題が浮き出てくるはずです。それを眺めると、多分B国の戦略に完全に乗せられて、食糧自給率を大きく減らしてきたこの国の政治家や官僚の無策も浮き出てくるはずです。

繰り返しますが、平均値からは、なんらの対策もアイデアも生まれてきません。プロファイルデータ、定点観測データ、個別データの詳細な分析と検討こそが意味を持ち、問題を修正・解決するためのアイデアも生まれてくる事になります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年7月23日 (水)

736 石油<穀物?

石油と穀物のどちらが重要か、と問うまでもなく、それに答えるまでもなく、勿論後者に決まっています。石油は飲めませんし、石油製品を食べるわけにも行きません。しかし、現実はといえば、現代の農業は、石油(電気)動くピボットを使って地下深くから水を汲み上げ、石油で飛ぶ飛行機で種や肥料や農薬を散布し、石油で動く農業機械を使って収穫し、石油で動くトラックや船で穀物を消費者まで届けています。

つまり、今の農業の仕組みでは、石油がなければ十分な食糧を得る事さえおぼつかない事になります。このままでは、石油の切れ目が即大量の飢餓発生につながる事は間違いないでしょう。鉱工業生産や日常生活におけるエネルギーの半減を議論する前に、先ずは最優先の農業における省エネルギーを真剣に議論しなければならないゆえんです。とりわけ、生産された農産物の流通が鍵を握っています。省エネルギーの大原則は地産地消ですから、農産物輸出国が大規模農業により穀物を生産し、国際市場を通じて(プランテーション時代から続く)換金作物を作らされている途上国に売り払われる矛盾を先ず解消する必要があります。全ての国は、自国民の胃袋を満たすため、自国内で最大限の食糧生産を行う必要があります。コーヒーやカカオやアブラヤシやジュートや綿花などの換金作物は、それ自体は食糧にはなり得ませんので、食糧供給に余裕がある場合のみ栽培できることになります。

石油に頼らない食糧生産とは、結局消費者自身が出来る範囲内で自給自足を行うというスタイルに限りなく近づくことに他なりません。自給自足では、農作業の労働力は自分自身の人力ですし、出来た作物を運ぶ必要もありません。食物を食べて排泄したモノもリサイクルして、化学肥料も最小限に抑える必要もありますし、ましてや危ない農薬は絶対に使わず、作物に群がる害虫はひたすら手で取り除くか、クモやテントウムシやツバメに食べて貰うしかないわけです。食糧を含む全てのモノやサービスを「お金というフィルター」を通す、今の流通の仕組みこそが、環境問題の底に横たわっている様な気がします。そのフィルターは、実は殆どが石油で出来ているとも言えるのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年7月22日 (火)

735 削減カーブ

久しぶりに山に登り、自然に包まれてリフレッシュしてきました。今回は、日本で「2番目に高い」北岳と間ノ岳でした。天然林や雪渓から流れ下る水量のある沢や、太古の岩が風化崩落し続けている頂上の山塊や兄貴分の冨士の山容など、天気にも恵まれ「やっぱり山は良い」の思いを再確認しました。

さて環境話です。大量生産・大量消費のトレンドがやがてピークを打ったとして、そこから取りあえずF田首相の言う資源やエネルギーを半分まで削減するとして、この際の下降カーブには種々のシナリオが描けるでしょう。初めは出来るところからチョロチョロ始め、軌道に乗ったらパッパと頑張れば良い、というのが先日のサミットの結論のような気がします。そうではなくて、現在のレベルから目標とするレベルまで直線的削減を行うべく中間目標を定めて、着実に下げていくべきだというのが、多分実務的と言われる欧州の「表面的な」立場なのでしょう。

しかし、冷静に考えてみれば両者共に無理がありそうです。何故なら、削減努力とその効果はやがて「飽和」するものだからです。50%ものエネルギー削減を達成するためには、主だったものだけでも、例えば100位の手を打つ必要があるでしょう。しかし、その手を全て打ってなんとか30%程度は削減できたとして、その時点で既に打つ手が尽きてしまうわけです。したがって、そこからの削減スピードはガクンと落ちて、やがて停滞してしまうでしょう。その意味では、理想的な削減カーブは、今後20年で半減させるつもりの「過激なもの」とする必要があるのです。その程度の意気込みで臨めば、やっと2050年半減という目標に届くことも可能となるでしょう。

日本では、1970年代中頃は確かに資源・エネルギー消費が今の半分であった時期があり、それが1/4世紀で2倍になったのですから、今後逆向きの同じ割合で削減を目指さなければ、2050年半減の目標の達成はとてもおぼつかないでしょう。身の周りのモノを半分に減らすか、或いはそれらを使う頻度を二日に1回に抑えるか、いずれかを実行しない限り、資源・エネルギーの消費が半分になる事はないのです。国に、その指導責任を転嫁し、メーカーには製品の重量を半分にして、エネルギー消費も半分にする新技術の開発を期待するのは、余りにも他力本願で無責任過ぎる態度だといえるでしょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年7月21日 (月)

734 ターニングポイント

続きです。私たちはこの不確実性の荒野に立って、では一体どう考え、どう行動すべきなのでしょうか。人類が荒野(フロンティア)を目指した時代は、実はもうとっくに終わっている、というのが投稿者の立場です。1960年代の終わり、人類はついに月に人を送り込みました。未開のジャングルの探検を繰り返し、道をつけて木を皆伐し、あらゆる高山に登頂し、地下を掘りまくって石炭や鉱物や石油を採掘し、南極には競って基地を建設し、海に橋を架け海底にまでトンネルを掘って道路を限りなく延長し続けてきたわけです。人々は最早、この地上にはフロンティアは存在しないとまで考える様になったのです。しかし、未開の地が少なくなるほど不確実性が増したのはどうした訳なのでしょう。

不確実性増加の大きな原因としては、新たな技術を使った、新たな製品や建造物や土木工事が、環境に及ぼす影響の評価(アセスメント)が、ほぼ何も行われなかった事に求められるでしょう。確かに、近年は大きな建造物や土木工事に当っては、環境アセスメントが行われています。しかし、その中身はといえば、その工事が行われる周囲数キロの生物調査や、地下水の変化予測などの限られた中身に留まっています。最近明らかにされた「証拠」としては、諫早湾の締め切り工事の環境アセスメントが全く不十分であった事が、締め切りが行われて何年も経過した今、再び議論されている事でも明らかです。学者の頭の中で行う環境アセスメントは、何も評価を行わないのと同じことです。それは、自然の仕組みは、単純な人間の知識程度で理解できるほど単純ではないからです。

人間が、新たな工業製品や、化学物質や、建造物や、土木工事や経済の仕組みを付け加えるたびに、不確実性は間違いなく増加するでしょうし、それらがお互いに絡み合って、影響し合いその混沌の度合いは悪化するでしょう。そうであればなおのこと、ここらで、私たちはターニングポイント(今の文明の折り返し点)素早く回って、元来た方向に戻るべきだ、という点もこのブログでの一つの重要な結論となっています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年7月20日 (日)

733 不確実性の時代

J.ガルブレイスの著作を熟読したわけではないので、ここでは彼の著書のタイトルだけを借りることにします。20年前に発刊された表題の著述は、単に今日の社会の混沌を予言したものではないと思っていますが、あらゆる意味で、現代の不確実性は日々増加していることも間違いない事実ではあります。その昔、人々が部族間の揉め事以外の大きな問題もなく、平和に暮していた時代、不確実性の原因は、ある幅をもって変動する気象や火山などの地殻活動程度しかありませんでした。その多くは、人間には如何ともし難い自然現象であり、諦めて受け入れざるを得ないものでした。

しかし、文明と呼ばれる、人間のまとまった活動が、不確実性を大きくしました。何が現代の不確実性の振れ幅拡大の原因かを考えてみると、それは人間の活動の複雑さそのものであることが分かります。科学・技術こそが近代化の推進力だと考えられていた産業革命以降の時代、それが転用された大型の軍事技術(戦車や航空機などの兵器)は、国際関係の不確実性を一気に増加させました。それと並行する形で、特に戦後急拡大した経済規模は、矛先の定まらない過剰なマネー(過剰流動性)という鬼子を生み出し、今それが猛威を奮っています。また、科学・技術の生み出したゴミである、炭酸ガスやNOx、SOx或いは放射性廃棄物は、気象変動の原因あるいは大量破壊兵器の原料として、やはり気候や世界情勢の不確実性を増しています。

これらの不確実性は、元々は人間が作り出したものでありながら、私たちには最早それを制御する事が出来なくなりつつあるように見えます。巨大なプロジェクトでは、メンバーはたった一個の歯車に過ぎませんし、現代の複雑な経済システムの中では、ノーベル賞を受けた経済学者であっても、一人のコメンテータに過ぎません。彼が(彼女が)新しい経済の原理を提唱し、世の中がそれで上手く回りだす事は絶望的なのです。私たちは、自らの身から出た、巨大で邪悪な不確実性の前で、なす術もなく立ち尽くすしかないのでしょうか。続きます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年7月19日 (土)

732 車を捨てる2

この連休は山に入っているので、21日分までは自動アップロードです。

さて、ガソリンが200/ℓをオーバーすると、車を諦める人がどっと増えるという調査結果があります。特に、都市に暮らし、駅近くのマンションに暮らす人たちにとって、駐車料金、税金を含む車の維持費に加え、ガソリン代の重圧に耐えてまで、車が提供する利便は大きくない、と判断を下してもおかしくない程度にガソリン価格は急上昇しました。ましてや、途上国の需要増と、既にかなり限られた数になってしまった、石油供給国の顔ぶれを見る限り、ガソリン価格が再び100円をやや超えるレベルまで下落し、そこで安定するなどとはとてもとても想像できないわけです。

原油の国際価格や供給国の戦略など外的要因で車を諦めるのも、癪に障る話ですので、ここでは一つプッツリと車を捨てる行動に出たらどうでしょう、と提案しておきます。車を捨てれば、車に関わる悩み事(多額の経費の支出、駐車中にキズをつけられる事、休み毎の洗車など)から完全に開放されます。もし、どうしても車を使う必要が出たなら、かなり安くなったレンタカーを利用すれば良いし、短い距離ならタクシーも余っていますので、時々は利用すれば良いでしょう。もし通勤にどうしても「足」が必要だと言い張るなら、バイクという選択肢があります。事故った時に起こる身の危険を十分意識して乗れば、バイクはそんなに危ない乗り物でもありません。勿論、車のドライバーから見れば、こんなにチョロチョロして危なっかしく迷惑な乗り物はありませんが・・・。

メタボを解消し、健康になりたい人は迷わず、歩きか自転車に切り替えるべきでしょう。人間は、二足歩行に適する様に進化してきましたので、歩かないでいると体は間違いなく退化します。人体の最大の弱点は多分腰と膝ですが、歩く事によりじん帯や筋肉や関節が鍛えられて、トラブルも減ってきます。自転車に乗る事は、少しスピードを上げれば理想的な有酸素運動でもあり、膝や腰にトラブルを抱えている人が始める運動としても良いでしょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年7月18日 (金)

731 自然とじねん

自然(しぜん)と自然(じねん)は違うのだそうです。前者は、英語のNatureの日本語訳として比較的最近当てられたものであり、後者は元来仏教用語のようです。想像するに日本では、人間は自然と一体の存在であり、自然に抱かれて暮らしていただけに、自然(しぜん)を客観的に見るNatureという概念や言葉は必要なかったという事なのでしょう。国語学者でも歴史学者でも宗教学者でもない投稿者としては、単純に後者の「じねん」という言葉の響きが気になります。その訳を考えて見た時、どうも「じねん」の「じ」という響きが耳に引っかかるような気がします。つまり、西洋の科学的、客観的なNatureに比べ、東洋の「じねん」という言葉には、自己(自我)という思いが入っているように思うのです。人間が、神様のような立場で自然を眺めるのと、自然の中に包まれているちっぽけな存在であるという視点では、おのずからアプローチが異なるはずです。前者は、自然を科学的に分析し、その資源を利用し、自分が所属する人間社会を豊かにしようとするでしょうし、一方後者は、自分と自然を一体と捉え、その中でささやかに自然の恵みを頂戴して暮らすことを考えるでしょう。

別の言葉で言えば、利用する対象として外から眺める自然(しぜん)と、その中で思考する「じねん」という構図になります。それでどうだと言われれば、前者は「だから環境問題を引き起こすのだ」という答えになるでしょう。結局環境問題の解決の糸口は、自然(Nature)を自然「じねん」と捉えなおす事から始める必要があると思うのです。問題(科学や技術などを使って)をどうにかするのではなく、環境の一員としての私たち(あるいは自己)が、環境の中でどのように行動すべきかが問われている訳です。環境の中で行動する限り、私たちの環境への働きかけ(作用)を行えば、必ずそれに対応する同じ大きさで向きが反対のリアクション(反作用)が起こるはずです。しかしながら、私たちは特に産業革命以降激しくなった、地球に対する作用に対して、沈黙を守ったままの地球のリアクションを無視しようとしてきたのだ、と言えるでしょう。

しかし、注意深い人々は、もはや無視できない地球からのリアクション(復讐)について、1970年代には既に気がついていたのです。その時代から40年近くの歳月を要して、今普通の人たちもその警鐘をやっと耳にしたという次第なのです。気がついただけでは不十分で、「じねん」の立場で、どう考え、どう行動するかが問われているのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年7月17日 (木)

730 帆走漁船

石油価格の高騰に伴う、漁船の採算性悪化に伴って、休漁のニュースがにぎやかです。集魚灯の電力が馬鹿でかいイカ漁や、遠洋の漁場まで長い航海をしなければならないマグロ漁などは、燃料費の増大圧力に耐え切れず、品薄感を演出してでも市場価格を少しでも上げるために、一時休漁をせざるを得ないのでしょう。

しかし、燃料の値上がりを、ただ手をこまねいて嘆き、果ては政府に休漁補償を求めるなどという他力本願の態度は実に情けないものに見えます。こんなご時勢こそ、知恵の見せ所があるはず、と頭を切り替えるべきでしょう。燃料費が馬鹿高くなったのなら、燃料を使わない漁法を考え出すべきでしょう。例えば、霞が浦や汽水湖では昔から帆船を使った漁法が発達していました。近代的な漁船でも、漁場に向かう時や、網を引くときに、帆を併用すれば、使う燃料は何割も削減できるはずです。帆を張るためには、船の安定性を高めるために、船底にキールやバラスト(錘)を追加して船体の重心も下げるなどの改造が必要がありますが、結果的には転覆にも強い船となるでしょう。その分、いくらか積荷量が減るのは仕方がない事です。

一方、イカ釣り船など、集魚目的で、強力な電灯を多数装備している種類の船もあります。工夫が足りないのは、使っている電球が白熱灯(或いはハロゲンランプかも?)であるという点です。彼らは、イカが、或いは特定の魚が好む光の波長を真面目に調べた事はあるのでしょうか。その波長が特定でき、その波長を多く出すLEDを使えば、電力は何分の一かには削減できるでしょう。光が弱いなら、海上から照らさずに、耐圧ガラスなどの容器に入れて、海中にぶら下げればよいでしょう。更には、イカや狙う魚が好きな(嫌いな)波長の音なども併用すれば、より集魚効果は大きいはずです。

そんな漁法が工夫されたという話はあまり聞きませんので、多分彼らはただ燃料費の高騰を、指をくわえて嘆いているだけなのでしょう。人間、とことん困窮しなければ良い知恵は出せないのかも知れません。投稿者としては、もう一段の燃料高騰を待つこととしましょう。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年7月16日 (水)

729 牛のゲップ

牛のゲップには多量のメタンガスが含まれるため、CO2増加による温暖化と「同程度」には問題であると言われています。理由は、日本の飼育牛は精々数十万頭程度とささやかなものですが、人口の何倍も牛口?がある国々では、たかがゲップとはいえない量に上る訳です。それというのもメタンは、CO2に比べ、20倍以上も強力な温暖化効果ガスですから、量的には化石燃料の燃焼から出るCO2に比べれば桁は違いますが、温暖化への寄与率で見れば、実は同じくらいの桁になってしまうからです。具体的に国を挙げれば、例えば牧畜国であるニュージーランドでは、この国で出す温暖化効果ガスのなんと3割が牛のゲップによるものといわれています。オーストラリアやアメリカや南米やヨーロッパでも、天文学的数字の牛を飼っています。

メタンの発生源は、実は牛のゲップだけではありません。正確な見積もりはありませんが、北半球の永久凍土地帯から、今後多量のメタンガスの発生が予測されているのです。温暖化によって夏場の融解が進んでいる凍土には、太古の植物が未分解のままで固定されていましたが、融解によって湿地帯となった地域では、それが分解されると共に大量のメタンガスが発生することになります。メタンは自身がGHGですから、温暖化の悪循環はむしろ加速することになります。

つまりは、2050年にCO2半減程度の「ささやかな」GHG削減目標程度では、今の温暖化に歯止めを掛けることにはつながらないわけです。

日本の学者者が、牛のゲップのメタンガスを、カシューナッツの皮から取り出した物質で90%削減する研究を行っていて注目されてはいますが、出来るかぎり多くの人々が牛肉を食べることを諦め、空いた牧草地では穀物栽培を行うと同時に、一部は森林に戻す方向に急速にハンドルを切らない限り、CO2削減だけでは今の温暖化の猛スピードには全くついていけないでしょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年7月15日 (火)

728 快刀乱麻

かつて、人間は小さなコミュニティに分かれ、自然に抱かれて暮していました。コミュニティの問題は、その中で解決され、自然の摂理に逆らわないで、上手く運営された部族だけが繁栄することが出来ました。しかし、いまや、その自然は、森林が伐採され、耕作地として社会インフラに組み込まれ、自然の摂理とはほぼ無関係に人間が、人間のために作り上げ、営々として拡大させ続けてきた科学・技術と経済の仕組みで回る世界となったわけです。

しかし、封建時代は領主と領民、或いは近代になっても資本家と労働者という単純な構図であった社会の仕組みは、いまや誰もその全容を把握しきれないほど、巨大でしかも複雑なシステムが絡み合うものとなってしまいました。

単純であったシステムでは、社会の仕組みは、科学・技術(とりわけそれを利用した兵器)や国の経済政策程度でコントロールが可能でした。しかし、いまや大国の国家予算に比べても桁違いに膨張した過剰流動性(余ったマネー)が存在し、しかも誰にも制御できないコンピュータを駆使した「複数の電子国際市場」が、神経質に相互作用を繰り返す現代の構造は、成り行きに任せるしか仕方がない、暴れ馬のシステムとなった感があります。

その暴れ馬の手綱を繰る事は、いまや超大国ではなくなったB国にも不可能になったように見えます。今のB国には、かつてのスーパーパワーであり、植民地の独立運動によって急速に没落した大英帝国が重なって見えます。B国は、ものづくりを止め、経済大国にはなりましたが、資源や製品の多くを海外から買わなければならない、貧弱な国になり下がったのです。その証拠は、ドルの対ユーロの極端な下落でも容易に観測できます。複雑に絡み合った問題の皺寄せの多くは、環境問題として表面化してきましたが、この乱麻を切る刀(複雑な連立方程式を解く方法)は、今のところ全く見つかっていません。もしそれが本当に不可能なら、私たちはシステムが少し単純だった頃に戻る努力をするしかないのだ、とも思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年7月14日 (月)

727 コンビニ考

現代の利便の代表としての「コンビニ」については、このブログでも直接・間接に何度が触れてきました。ここで、少しまとめてみます。コンビニ数は、全国チェーンと地方チェーン含めて4万店舗を少し越える程度まで増えてきましたが、流石にここに来て過当競争で消える店舗もあり、頭打ちの傾向の様です。コンビニの店舗運営には、普通の家庭の消費エネルギーに比べ、30-50倍のエネルギーが必要です。特に、客数の少ない深夜の時間帯の非効率にはなはだしいものがあります。

さりとて、例えば12時から6時まで閉店するとしても、精々蛍光灯と店内の冷暖房エネルギーがささやかに削減できる程度です。商品の冷蔵・温蔵のために使われるエネルギーは、24時間営業と比べ実は何も変わりません。逆に、休止時間が増えることにより、賞味期限切れで廃棄される割合が増える、という別の非効率を生み出しかねません。

コンビニが殆ど無かった時代、では私たちはどうやって日々の暮らしを送っていたのでしょうか。昼食に関しては、弁当を持参するか、食堂に飛び込むしか手段はありませんでした。夕食に関しては、自宅で食べるかやはり食堂か飲み屋で済ますしかなかったはずです。日用品は雑貨屋か八百屋が少し大型化したスーパーで買っていたような気がします。コンビニ利用者の多くは、実は食べ物を手に入れるために店に入るようです。特に、オフィスでの昼食や1人前の夕食を手に入れるには、コンビニこそ理想的な場所だといえそうです。ついでに、買い忘れた少量の日用品も買うことができるのですから、コンビニの利用率は、今後の高齢化社会では上がりこそすれ、下がる様子は見られません。逆に、コンビニ店舗側から見れば、高齢化食?の品揃えを増やし、独身の若者と独居老人所帯へ焦点を絞り込む戦略すら推し進めることでしょう。

この題を締めくくるなら、周囲数百所帯+通りがかりの数十人に食を中心としたサービス提供するために、もしコンビニ店が不可欠なものだと仮定するなら、むしろそれを地域の冷蔵庫として完全に組み込んでしまうべきでしょう。その代わり、家には冷蔵庫を置かないようにします。精々数本の飲み物を冷やす冷蔵ボックスだけで済ます訳です。その代わり、停電や交通トラブルでコンビニの食糧が品切れになる「不便」については、カップラーメンをすすって乗り切る覚悟が必要でしょう。それにしても、これほどのコンビニの歴史を積み重ねながら、エネルギー消費を大幅に(現状の半分程度に)下げる「超省エネコンビニ」が未だに出現しないのはどうした訳でしょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年7月13日 (日)

726 儲け話

投資と儲け話は似て非なるものですが、この時代、それがごっちゃにされている様な気がします。本来の真っ当な投資とは、ある事業の立ち上げに資金を出し、然るべきビジネスの運用結果生まれた利益を分配する仕組みでした。従って、投資後に配当を得るまでの時間は相当な年月を要したものでした。従って、お金に余裕のある人(投資家や資産家)だけが、この意味での投資を行う事が出来ました。しかし、いまやこの種の投資でさえ、株を細かく割って切り売りする仕組みが出来上がっていて、しかも株価の変動を細かくチェックし、短期間(時間単位)で売り買いするデイトレードが普通のものになりました。

一方、なにやら怪しい詐欺まがいの投資話も世の中に溢れています。貧乏志願の環境坊主にそんな電話をかけるのも間抜けですが、どこから電話番号を入手したのか、投稿者の事務所にも時々その手の電話勧誘が入ります。その時いつも使う殺し文句は、「そんなに儲かる話なら、是非秘密にしておいて自分だけで儲けたらどうですか?」です。電話で儲け話への「投資」を勧誘するくらい怪しいものは他には無いでしょう。それにまんまと乗って、虎の子の財産を差し出す人が引きも切らない事をどう考えたら良いのでしょう。温暖化が座していても止まらないのと同様、黙って座っていてもお金が儲かる筈は無いのです。もし、それが可能なら、間違いなくその儲けの裏では、大損をして泣いている人々が存在しています。

また通常の「真っ当な」投資では、何も問題がない訳ではありません。投資家には、自分では働かないのに配当があるということは、配当をした企業は事業を拡大するために、しっかり環境負荷を上げていたはずなのです。他人の損の裏であざとく儲けるのか、或いは環境の犠牲の裏で、一応真っ当に儲けるのか、投稿者には五十歩百歩に見えます。それにしても、お金があれば、モノも老後の安心も何でも買えるという「拝金主義」が社会的価値観の背景にあり、その中で楽をして儲けようと考える人が居る限り、詐欺師の種も尽きないものなのでしょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年7月12日 (土)

725 LCA的見方

最終的に、その社会活動が環境負荷に与える影響を正確に評価するためには、LCALife Cycle Assessment)的見方が欠かせません。それを正確に評価するには、話は結構込み入ってくるので、ややこしい事が嫌いな日本では、実はあまり流行っていません。例えば、今向き合っているノートパソコンのLCAを少し考えて見ましょう。パソコンは、ケースやキーボードに樹脂やアルミ、内部回路に銅やシリコンやベーク板などが、電源には銅線やリチウムイオンバッテリーなどが使われています。また画面には、液晶パネルや蛍光管などが使われ、全体として機能を発揮しています。

それぞれの部品の環境負荷を調べ上げ、それを加えれば、パソコン製造時の環境負荷は計算できそうですが、話はそれほど簡単ではありません。例えば、銅という金属原料を得るには、先ず鉱山から鉱石(多くは銀や他の金属が混じりあった状態で産出されます)を掘り出し、精錬工場に運び、電力や石油エネルギーを投入して精錬し、粗銅とします。用途によっては更に精錬され、或いは他の金属と合金され、やっと電線メーカーに出荷されます。そこでは、原料が細く引き伸ばされ、束ねられビニールやシリコンやゴムで被覆されやっと電線になります。話はそこで終わりません。電線はパソコンメーカーに運ばれ、接続金具がつけられ、やっと回路に組み込まれます。ここまででも、採鉱、運搬、精錬、2次精錬、伸銅、被覆、2次加工、組込みの各工程で発生する環境負荷を正確に計算するのは結構骨が折れます。しかし、パソコンの一番大きな環境負は実はその使用に関わる部分なのです。つまりは使用中の電力消費です。更に、使用後にパソコンを廃棄する段階でも環境負荷を発生させます。特に回路や電池は有害物も含まれ、100%リサイクルできる訳ではないので、必ず埋め立てゴミの発生を伴います。

それでも、根気良く積み上げれば、LCAを計算することは可能でしょう。しかし問題は実はそれからなのです。積み上げた環境負荷には、重みがありません。つまり、銅の精錬工程を例に挙げるなら、精錬工程に関わるエネルギーの消費によって発生するCO2と、銅の精錬の結果多量に発生する鉱滓(鉱物の残りかす)の山から流れ出す有害物質を含んだ水による河川や地下水の汚染のどちらが、どのくらい危険か、という評価の物差しが無いのです。本題は続きます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年7月11日 (金)

724 サミット考

今回のサミットの成果も、環境おじさんなりに一応総括してみなくてならないでしょう。予想通りというか、国際的発言力の弱いこの国が努めた議長の限界というのか、結局読む立場によって解釈が分かれる「玉虫色の決議」に終わった様です。温暖化防止へのより踏み込んだ結論を得るためには、先ずは欧州連合を味方につける必要があった訳ですが、やはりB国の方だけを向く悪い癖のある、この国の政治家の首の曲がりは直らないようです。ましてや、途上国や京都議定書に加わっていない国々から踏み込んだ約束を引き出すためには、先進国側としては相当踏み込んだ削減案を示す必要があった訳ですが、何の裏づけも無い、数字を慌てて作ったとしても、そんなものはすぐ見破られることでしょう。逆に彼らからは目も当てられない目標値を突きつけられる始末でした。

温暖化について言えば、最終的には、国民一人当たりのキャップ(上限)の設定が不可欠なのだ、と投稿者は考えています。この点に関しては715でも言及しました。もしそうでなければ、先進国が車を乗り回し、エアコンの効いたオフィスで、途上国も等しく痛みを分かち合うべきだ、などと説得側に回っても賛同は得られないはずだからです。途上国の排出量「1」に比べ「10」のGHGを出している先進国と、途上国が同じテーブルにつくためには、もし最終的な到達点が「5」だとするなら、途上国側も先進国も等しく「5」の排出権があるとするのが本当意味の公平になるはずです。「とにかく世界平均で5に近づけるように国連の場で決議することを強く求める」程度の決議文は、何も決めなかったのと同じ程度に説得力の無いものだと言えます。

クオタ(割り当て)の分捕り合戦とは、別の言葉で言えば既得権と成長権の争いであるわけです。先進国が現在持っている既得権を「極端なほど放棄する」こと無しに、途上国の成長権を大幅に制限することは叶わないでしょう。考えて見なければならないのは、1割強の人口しか持たない先進国の既得権と、残りの人口を占める途上国の成長権の勝負になるという事です。数字的に言えば、今後途上国にそれなりの排出増加を認めると仮定すれば、先進国側は80-90%の排出削減を行わなければ、2050年半減という計算は成り立たないでしょう。さて、このサミットが成功であったか否かは、後日振り返ってみたとき、資源・エネルギーとそれを動かす経済システムに折り返し点(ターニングポイント)としての足跡が残った場合は成功であり、20世紀の大量生産・大量消費のトレンドが少し減速する程度では明らかな失敗だったと総括できそうです。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2008年7月10日 (木)

723 帰農

722で述べた環境ハザードを防止するためには、農業従事者の減少に歯止めをかけ、逆に回復させなければなりません。それには、多くの人たちに農村の生活を魅力的なものと感じさせることから始めなければならないでしょう。多くの意味で、現代の利便に囲まれた生活から見ると、農村の生活は質素で不便なものに映りがちです。しかし、自分で作った最も安全な食物を口にし、里山で得られる季節の食材や薪炭など、自然の恵みに依存する生活こそが、実は豊かなものであるとする価値観さえ育てば、農村への回帰は本格化するはずなのです。

投稿者も以前に指摘しましたし、最近も誰かが同様のことをコメントしていましたが、農業は普通の意味の産業と同列に議論することは間違いです。何故なら、工業製品が不足しても死ぬ事はありませんが、食糧が不足すれば下手をすれば死人が出るからです。食糧の確保は、全てに優先し至上の優先度が与えなければなりません。その意味では、工業製品の多くは、必要不可欠なモノは殆ど無く、多くは利便提供を目的としていると言って良いでしょう。さて、食糧が、人間が生きていく上で必要不可欠である事は当然ですが、それを支えるべき農業の位置づけが、この国では取り分け低く評価されているのはどうした訳でしょう。考えて見れば、戦後の高度成長期に刷り込まれた、科学・技術および工業偏重の価値観を、現代のリーダーも庶民も捨てきれずにいるのがその理由だと想像されます。

何度も言いますが、工業製品は食えません。土壌と太陽と水を使って作られる農産物だけが、人間が口にできる食べ物なのです。肉や卵や海産物でさえ、植物(や植物プランクトン)から得られる2次製品に過ぎないのです。私たちの多くは、かつて先祖がそうであったように、一定の割合で農業に従事する必要があります。そうでなければ、世界情勢や農産物輸出国の重大な自然災害により、この国は直ちに飢える国に成り下がってしまうでしょう。当面は団塊世代の帰農が呼び水になってもらうしか無いかもしれませんが・・。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年7月 9日 (水)

722 耕作放棄ハザード

投稿者が言う、戻り道の一つとして農業への回帰を挙げることができます。戦後の高度成長期が始まった初期から、日本の農業従事者は右肩下がりの直線に載って減り続けています。年率にすると4%から5%の間にもなる高い減少率です。しかも、数年前には農業従事者の平均年齢は60歳を越えてしまいました。若い新規就農者が非常に少ない現状では、平均年齢も順調に?高くなり、農家数も自然消滅的に減少していくのは間違いありません。農家戸数の減少=耕作放棄地の増加は、実は新たな環境悪化問題を引き起こす事も懸念されています。農地として長年維持されてきた「半人工環境」は、それなりのバランスを保って、自然環境と共存してきました。しかし、耕作の放棄により先ずは雑草が進出し、次いで潅木が農地に侵入します。結果、棚田として耕作維持されている場合に比べ、土地の保水能力が著しく低下すると考えられます。

これは、水害への脆弱性を悪化させるでしょうし、地下水や表層水の涵養も損なわれます。その結果引き起こされる環境問題とは、言わずもがなですが水害の頻発と慢性的な水不足という事態です。

潅木(藪)の増加は、生態系へも深刻な影響を与えるはずです。野性動物たちは、新たなテリトリーを与えられ、人家や農作物へのアクセスも容易になる訳で、飢える心配もなくなり爆発的に繁殖することでしょう。サル、イノシシ、クマなどに加えて外来の獣なども繁殖の勢いを得るはずです。これを自然への回帰とばかり喜んではいられません。高齢化して、ただでさえ力の無くなった農家は、獣害により農産物への大きな被害を蒙ることになるでしょうし、更なる離農も加速するかもしれません。まさに悪循環です。

水不足も獣害も、まさに離農が引き金となる環境ハザードに他なりません。これまでの環境ハザードは、主として人間が環境に手を加え、それを破壊すること、あるいは有毒な物質を環境に放出することによって引き起こされてきましたが、離農ハザードは逆に何もせずに放置する事による環境悪化である点、その対策も自然これまでの環境保全活動とは趣を異にします。この新しいハザードに対しては、何か(環境破壊)を止めるのではなく、何か(農業環境の維持)をし続ける必要があるからです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年7月 8日 (火)

721 言葉遊び

俳句や短歌や川柳だけが日本人の大発明ではありません。探せば、環境にやさしいリクリエーションはまだまだありそうな気がします。勿論、お金をかけずに暇を潰すには、囲碁や将棋などもありますが、盤上でのゲームは日本人のオリジナル発明ではありません。私たちの祖先の発明になるリクリエーションの特徴は、多くの場合「言葉遊び」にありそうな気がします。

思いつくままに挙げてみると、俳句や短歌や川柳の他にも、しりとり遊び、回文、連歌、折込都々逸、駄洒落、なぞかけ問答(~とかけて~と解く、ココロは?)、連想ゲーム、昔語り(民話)などなど。この種の言葉遊びが最も苦手な職業?の一つと思われる(元)技術屋でもこの程度は挙げる事ができるのですから、地域限定のレアモノやもっとマイナーな言葉遊びを探せば、きっとこの何倍も見つかるはずです。何故、私たちの祖先がこれほどまでに多くの言葉遊びを発明したのかを考えてみれば、多分この種の遊びには資源もエネルギーもお金も道具も必要が無い上に、いつでもどこでも誰にでも出来るからだったと思われます。何より、日本は資源の乏しい国の代表でもあり、封建時代には、領主に年貢を搾り取られ、手元に残された食糧では到底空腹は満たされなかったと思われ、体力を使わないでそれを一時忘れさせるには、言葉遊びこそが唯一で最適のものだったと想像されます。

例えば、俳句です。たった17文字でありながら、毎週月曜日の新聞に載る数多くの句の多様性には毎回驚嘆させられます。たった17文字なのだから、確率から言っても別の人が全く同じ句を作っても良いはずなのです。しかし、例えば、最初の5文字に同じ季語を置いたとして、続く中7文字を連想するのは100100様であり、ましてや残りの5文字まで同じになることは殆ど無い訳です。勿論、数学的には50音から17文字を選ぶ組み合わせは、天文学的数にはなるわけで、更に漢字という輸入文字を使えば、その組み合わせは事実上無限大です。仮名漢字混じりの文字表現こそ日本人の大発明だといえるでしょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年7月 7日 (月)

720 俳句・短歌・川柳

表題は、いずれもがお金もエネルギーも資源も全く消費しない、日本人が発明した究極の省エネ・省資源のレジャーと言えるでしょう。投稿者も、自分で作るところまでには行きませんが、鑑賞するのはどれも大好きです。ラジオを聴いていると、1週間の内にはいずれもが最低一回以上は流れますし、購読しているA新聞にも毎週必ず載ります。

それぞれを何かに例えるとすれば、俳句は風景を切り取る写生に似ているような気がしますし、短歌はココロ模様を表現する小説や演劇やドラマに通じるものがありますし、川柳は最後にオチをつける落語に似ているような気がします。写生も小説も落語も鑑賞するには結構時間が必要ですが、俳句や短歌や川柳は、それぞれが17文字や31文字しかないので、短い時間で作ったり鑑賞したりが可能です。しかも、良い作品ほどその余韻を長く楽しむことが出来るという優れものなのです。また、これらを作るのに必要なものは、たった三つだけ、つまり紙と鉛筆と観察力だけです。なんという偉大な発明でしょう。これらこそが、モノを使った遊びではない、究極のココロのリクリエーションだと言えそうです。ココロが満たされない若者も、暇を持て余して買い物やカラオケやゲートボールに興じるしか趣味が無い老人も、先ずはどれかに、或いは全部に挑戦してみればよいでしょう。たった17文字や31文字の中に、人生も人のココロも、宇宙も、森羅万象さえも表現できる事に誰もが感動するはずです。

40代の頃、一時かなり熱心に俳句を作ってみましたが、その頃は忙しすぎて良いものが出来なかったような気がします。その時足りなかったのは、じっと立ち止まって観察するための時間だったようです。いずれにしても、日本人が発明し、洗練させ、様式を完成させた、最も環境にやさしいレクリエーションを活用しない手は絶対ありません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年7月 6日 (日)

719 出してから処理するムダ

707にも関連しますが、今コンサルを行っている企業の粉塵「対策」に関して感じていることを紹介します。粉塵は、法的(安衛法)には、単位体積当りの空気に含まれる粉塵重量で評価されますが、客観的な指標のように見えて実はあまり科学的ではありません。というのも、粉塵のサイズによって、人体に与える影響が異なるからです。即ち、大きさが概ね5ミクロンより大きな粉塵は、気道にある繊毛に捕捉されて、やがて排出されますが、それより小さなサイズの粉塵は、肺の奥深くまで吸いこまれて、一部は肺胞に付着し、長い年月の間に細胞の変性を招く可能性が高まるからです。

工場の中で、粉塵は多くの原因で発生します。部品の研掃作業、鋳造作業、金属溶解作業、磨き作業、加熱作業などなどです。しかし、小さな粒度の粉塵ほど長い時間空中に浮遊し、人体に悪影響を与えます。一つの方法としては、新鮮な外気で工場内の空気を置換する事が行われます。しかしながら、工場内の空気の体積(気積)の半分の体積の空気を送ったとしての粉塵濃度は半分になるだけなので、投入した通風機エネルギーに比べて効果は限定的です。

そうではなくて、やはりこの種の問題は元から断たなくてはならないのです。その点では、環境問題と全く同じだといえます。粉塵問題解決の第一歩は、先ず粉塵の発生源を徹底的に調べ上げる事です。その上で、発生源毎に粉塵の粒度分布を調べたいものです。その上で、粉塵は発生源を可能な限りブースに閉じ込め、局所排風装置+集塵機で捕捉・処理する必要があります。

粉塵を拡散させないで処理する事により、結果としては小型の集塵機で処理できるので、省エネルギーにもつながります。多くの工場を回ってがっかりするのは、殆どの場合、問題を拡大させてしまった上で、多大な労力やエネルギーを費やして対策したり処理したりしている事が多すぎる点です。問題が本当に問題なのは、それが拡大する傾向を持つ場合です。ボヤの内に手を打てば、殆どの火事は消化できるはずなのです。

粉塵を出さない方法にはいくつかの手段が考えられますが、例えば1)完全密閉の負圧ブースを使う方法、2)湿式として粉塵を舞い上がらせない方法、3)そもそも粉塵を出さない工法に変更するなどが考えられますが、勿論3)が理想である事は言わずもがなです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年7月 5日 (土)

718 リサイクルしない方法

続きです。ダンボール箱の例で、「ムダなリサイクル」をしないで済ます方法を考えて見ます。ダンボール箱は、例えば農作物を傷めないで輸送する方法として、日本では完全に定着していますが、他の国を眺めて見みれば実は例外的な輸送方法です。海外では多くの場合、トラックや馬車に直積みか、精々麻袋や木箱やプラスチック容器など何度でも使える入れ物を使い、多少の傷は問題とならずに流通させている事でしょう。しかし、日本の消費者は傷物の野菜や果物を断固拒否する「性癖」を持っています。これは非常に困った事で、これが無くならない限り、ダンボール箱の無駄も無くす事はできないと思われます。

繰り返し使えるリターナブルコンテナも、工業製品の流通では随分普及してきましたが、現在でも食品や衣料・雑貨の類への応用は、非常に例外的です。個々に確認したわけではないのですが、精々大手流通企業が限定的に試行している程度です。さて、前夜か朝一番にトラックで運び込まれ、その日に店頭に並べられる商品が開梱され、不要になったダンボール箱はバックヤードに運ばれます。しかし、箱を開ける手間、箱を畳んで台車でバックヤードに運ぶ手間を考えれば、毎日毎日積み重ねているムダは膨大なものがあります。中規模のスーパーでさえ何百個ものダンボールを潰しているわけです。使い捨ての箱を使わない搬送方法は無いものでしょうか。

いくつか考えられそうですが、工業製品と同様にリターナブルコンテナにする方法は最も有力です。問題は、毎日配送がされない場合で、空コンテナを発送元に送り返す便が確保できない訳です。工業製品や部品の搬送では、多くの場合毎日、極端な場合には日に数回も配送されるので、空のコンテナ(空コン)の返送問題は少ないのです。空コンの返送に最も有力な方法としては、コンテナを規格化する手法があります。帰りのトラックは、別の荷物を運ぶ可能性もあるため、運び込んだのと同じ数のコンテナを、「折り畳んだ状態で」持ち帰り、発送元に返却します。コンテナに馴染まない大型の製品に関しては、これも規格化されたパッド状の緩衝材で保護します。パッドはマジックテープやファスナーなどでどんなサイズにでも拡大縮小できる様にしておけば、使いまわしも問題なく出来るでしょう。これは、一案ですが、メーカーと小売が本気になって取り組めば、いくらでも良い知恵が湧いてくるはずです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年7月 4日 (金)

717 ムダなリサイクル

くどくどと環境坊主流の禅問答を書き続けても事態は何も変わらないので、ここでは思いっきり具体的なテーマを取り上げます。今回は、収集運搬車(通称:パッカー車)の燃費向上に取り組んだ時の経験談です。この車は、ごみや古紙などの嵩張るものを圧縮し、運搬する目的の特殊車両です。したがって、通常のトラックが持つ走行装置に加え、かなり重くて頑丈な鉄の箱と、運搬物を圧縮するいくつかの油圧装置を兼ね備えています。とりわけ、運搬物を圧縮する際には、エンジンの回転数を上げて油圧ポンプを回すため、走行する燃料に加えて余分なエネルギーを投入する必要があります。また、市内の狭い地域をチマチマと移動するため、トータルとしての燃費は3-4km/ℓ程度となっています。

さて、ある日の午後、投稿者は古紙回収業者のパッカー車に同乗させてもらい、運行状態をつぶさに観察しました。そのパッカー車は、その日の午後、数箇所のショッピングセンターなどを回り、空きダンボール箱を回収する業務に従事しました。2箇所の大型SCと大型スーパーでは、その日2回目の回収でした。それでも、人の背丈ほど積み重ねられた専用カートが、6-7台分が出されており、3時間の回収でたぶん5-600kgのダンボール、箱の数にして500個以上の箱が回収された勘定です。パッカー車の燃費から推定して、たぶん3時間の回収で、軽油が10ℓ程度は消費された事になります。今の燃料価格からすれば1500円程度、カーボン量にして約25kgに相当する量です。

ダンボール箱のほぼ全ては、食品や製品の梱包用として、メーカーでは新品の箱が使われました。それをリサイクル業者が燃料と人手を使って細かく回収し、圧縮梱包して製紙工場にこれもトラックを使って輸送します。製紙工場では、これを再溶解して新たなダンボール箱の材料として再生します。これをダンボール箱のメーカーへ運び、接着剤を使って再びあの間にナミナミの紙をサンドイッチにしたダンボール箱に戻る訳です。実際には、これに文字や絵の印刷工程が入りますので、もう一手間(もう1回の輸送)が必要になるでしょう。それを、今度は製品メーカーや農協別にトラック便を仕立てて、箱を送る行為が加わります。リサイクルが如何に非効率な行為であるかが分かります。パッカー車の燃費向上の為の調査をしながら、だんだんこの膨大な「リサイクルという名のムダ」に腹が立ってくるのを止める事は出来ませんでした。続きます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年7月 3日 (木)

716 紛いもの

環境にやさしい包装、リサイクル原料使用、レジ袋削減、カーボンオフセット付き旅行などなど。最近は、モノやサービスを売る際のキャッチコピーとして、環境保全に関わるキーワードが氾濫しています。それはそれで温暖化防止や環境保全につながるのであるから良いではないか、という声も聞こえてはきます。しかし、それらの販売元の「売らんかな」の姿勢には辟易します。例えば、リサイクルするには廃棄された製品の回収運搬、清掃、分別、再溶解、製品への再生など、膨大な手間とエネルギーが必要になります。電力の塊であるアルミニウムなど少数のモノを除いて、多くの製品ではリサイクル品の方が実は環境負荷は高いのです。

また、カーボンオフセット付き製品や旅行ほど、「環境保全は金で買える」という間違った態度を助長する安直な仕組みは存在しないでしょう。何しろ、販売者は飛行機に乗って旅行しさえすれば、環境保全に寄与できるなどという「ウソの宣伝」を堂々と行う訳ですから。確かに、旅行会社はどこかの国の植林事業にいくばくかのお金を出して、その結果ささやかな植林が行われるのかも知れません。しかし、実際にその木が二酸化炭素をドンドン吸収するまでには最低でも10-20年は必要でしょう。また、どこかの国で「余った」排出権を買う場合でも、それが何故余っているかについては何も議論がなされないままです。多分殆どの排出権は、京都議定書を批准していない途上国から勝手に買ったものだと想像されます。

極端に言えば、自分たち自身がなんらの犠牲を払わずに、また辛抱も無しに、環境保全に寄与できるなどと誘う「商品」は全て紛い物の仕掛けだと断言できる様に思います。全ての健康で最低限の生存に必要な限度を少しでも超える利便やアメニティは、程度の問題はあるにしても、過剰でムダな活動であり、エネルギーと資源の大量消費と結果としての廃棄物の大量排出に支えられたものだからです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年7月 2日 (水)

715 カーボンクオタ

表題は、オタクの間違いではなくてクオタです。「基本的人権」は、この国の憲法でも、国連憲章でも明確に書かれています。しかし、そこに欠けているのは、多分「基本的なカーボン排出権」ではないかと思っています。つまり、この権利とは人間として清潔で文化的な生活を送るために許される最低限度のカーボン排出量を指すものです。とは言いながら、熱帯に住む人と、厳寒の地に住む人では、やはり必要とするカーボン排出量は異なりそうな気がします。ですから、大前提として、適切な「カーボン・ハンディキャップ」の設定は必要です。しかしながら、食物に火を通すこと、週に何度かシャワーを浴びて体を清潔に保つ事、夜間に家族が団欒するためや読書のための最低限の照明など、基本的なカーボン排出権は保障されるべきでしょう。それに加えて、気候から受けるストレスを、辛抱できる範囲内まで弱めるためのカーボン量を加えたものを、一人当たりのカーボンの割り当て(=カーボンクオタ)と呼んでおきましょう。

さて、そのカーボンクオタを越えた分に関しては、その原因を作った人に、その量に応じた「累進的なコスト負担」を求める訳です。大金持ちは、しかし湯水の様にエネルギーを使うでしょう。それでも、目の玉が飛び出るくらいのカーボン税の攻撃を食らうわけですから、強い抑制力が働くでしょう。一方、クオタ内のカーボン排出については、基本的な権利なのですから、十分に低いコスト負担が保証されなければなりません。そのためのコストは、カーボン税からの補助金で助成する事に決めましょう。

さて、それで不公平感なく世の中が回って行くかどうかを想像してみると、現状ではやはり否定的な人が大多数を占める事はほぼ目に見えています。何故なら、このカーボンクオタは、神様でもある「環境」だけが決めることが出来るのであって、所詮人間には社会的合意を得ながら決める事は「絶対」に出来ないのは明らかだからです。それこそ、カーボン資源を持つものと、それを持たない人たちの間の利害の衝突で、血で血を洗う争いが起こる事でしょう。とは言いながら、ラッキーに恵まれて、環境が許すカーボンクオタに比べ何倍か、或いは1桁以上過大なカーボン排出量を享受し続けている先進国は、率先して大幅なカーボン減らしに取り組まなければ、途上国への説得は力のないものになり下がるでしょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年7月 1日 (火)

714 諦め

少しぼけ気味です。別件が気になって今朝の投稿を忘れていました。

省エネ技術や政策誘導や経済政策では地球規模の環境悪化には立ち向かえないことを縷々書書き綴ってきました。それは、化石燃料の使いすぎで起きた火事(環境悪化)を、ガソリンエンジン付の消防車(科学技術)で、涸れかけてきた水源から水を汲み上げて消化活動をする努力に似てもいます。今行うべきは、人力による「バケツリレー」しかないと思うのです。

化石燃料の消費を減らすには、省エネ技術を開発するのではなく、化石燃料無しで済ます暮らしや社会の仕組みを工夫する必要があります。具体的には、何をするにも消費者は、できる範囲で一汗掻かなければならないシステムにしておくのが良いでしょう。例えば、車の使用について言えば、車は人口当たりに決まった台数が割り当てられた共有制とし、予約しておかないと使えないようにします(カーシェアリングシステム)。自分の家の車庫に行き、鍵を差込、チョイとひねるだけで車が使える様になっている限り、ズボラに流れやすい人間には、車の使用を控えるなどのプレッシャーは働かないのです。そうこうしている内に、面倒くさがりの人たちは車に乗るのを諦め、自分の足で歩くか、自転車を頻繁に利用するようになるでしょう。

人間は、目先の不便には敏感で、もし強制力で不便を強いられると、声を揃えてブーイングを始めるでしょう。しかし、幸いな事に人間には学習能力があり、新たな状況にも順応する潜在力を秘めています。しかも、その状況が長引くと、多くの人は他人に要求することを諦めて、できる範囲内での自助努力を始めることでしょう。諦める能力に乏しい人たちは、来るべき低炭素社会では生き辛くなると思われます。彼らは、手に入れてしまった権利やモノを手放すことを拒み続けます。環境が最早それを許さなくなった状況でも、最後まで利便にしがみ続ける事でしょう。

そうではなくて、先に利便を諦めて、先にそれに代わる工夫を始めた人たちが最後に笑うことになるはずです。方向的に言えば、その人たちの目は、都会ではなく田舎に向かうのが自然です。何故なら、かつては田舎の不便さに我慢が出来ない人たちが都会に向かう潮流が、現在の利便至上社会を作ってきたからです。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

« 2008年6月 | トップページ | 2008年8月 »