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2008年8月31日 (日)

775 環境vs経済

環境問題を考えるとき、絶対に乗り越えなければならないのが実は「経済の壁」です。環境悪化は資源やエネルギーを大量に消費する近代工業の発達によって引き起こされたと思われがちですが、その工業化は経済からの要請によって極端に加速されたことを忘れてはなりません。エジソンが発明に没頭したのも、人に先んじて発明し、市場に出せば大いに儲かるからですし、原爆に代表される兵器産業の隆盛は、それを使って経済の利権を確保するため道具として使われた側面を無視する訳にはいきません。経済規模が、戦後だけでどの程度の規模に膨らんだかは正確な数字が手元にありませんが、多分数桁は大きく膨らんだはずです。経済規模の拡大と、資源・エネルギーの消費量はきれいに相関している事は明らかで、たとえ政府や経済学者が、「(環境的に)持続可能な経済発展」などという、それ自体に矛盾抱えた言葉を考え出して流行らせようと目論んでも、とても無理な相談だと言えるでしょう。何かに喩えるとすれば、環境と経済はさながらコインの裏と表のようなもので、それを同時に眺める事は元々出来ない相談なのです。

さてそれが正しい喩えだとすれば、環境保全のためには経済の歯車を逆転させ、その規模を縮小均衡に向かわせるしかないのだ、との結論に向かわざるを得ないようです。実際それは正しくて、経済活動の代表であるモノの売り買いのためには、原料を掘り出し、モノを生産し、運び、消費し、廃棄すると言う活動が必ず伴います。もしF田首相が資源・エネルギーの消費を半分にしたいのなら、経済規模を今の半分にしても日本と言う国が存続できる条件を提示する必要があります。人々は、今の半分の収入、半分の消費生活レベルで、しかし「精神的に満足」するというライフスタイルを見つけ出さなければなりません。しかし、その答えは既に過去に存在した事も忘れてはなりません。1970年代中頃までの生活を思い出せば良いだけなのです。あの頃が、貧しく、夢がなかったかと問われれば、全くそんな事はなく、精神的には個人も社会も今よりずっと健全な時代であったと答えます。私たちは、いまはっきりとコインのどちらを見ながら暮らしていくのかを決めなければならない時期に来ています。繰り返しますが、経済と環境の両立は所詮無理な話で、はっきりとした対立項なのです。

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2008年8月30日 (土)

774 お金の意味

お金の持つ意味については、このブログでも散々考えてきました。その繰り返しにもなりますが、ここでもう一度確認しておきます。このブログで「定義」してきた事は、ひとつには「お金とは他人の時間を自由に使う権利である」というものでした。例えば、お金があれば人を雇って一定時間拘束して作業に当らせることができますし、不幸にして事故で残りの人生の時間を奪われた人には(残された家族が他人の時間を買うことができる様に)お金の補償があります。ドラマの世界だけでなく、闇の世界ではある人の命(残りの人生時間)がお金で取引される事もあるかも知れません。

一方、今の社会で最もお金につながりにくいものが、実は「環境」なのだとも思います。と言うより、環境こそが最もお金で取引しにくい種類のものだ、とも言い換えられます。実際、これまでも企業などが環境を汚しっぱなしにする、いわゆる「環境ただ乗り論」がまかり通ってきたわけです。とはいうものの企業も、渋々ではありますが、体力のあるところから順に、環境にお金を支払う風潮が見えてきたのが現状ですが、それが中小零細企業レベルにまで波及するには、多分百年河清を待つ事になると思われます。企業経営者の多くは、この時代になっても、環境を優先すると儲からなくなるし、環境では食えないと思っているはずです。しかし、環境に100%依存している私たちが、その環境をないがしろにする事は、実は自殺行為である事は少し考えて見れば明らかなのです。私たちの食糧は、今の地球の気候条件下においてのみ辛うじて確保できるでしょうし、私たちの健康も、人口の大多数が住んでいる場所が亜熱帯や温帯や亜寒帯域だからこそ守られているからです。

人の時間を買うために、自分の時間を売り、結果として私たちが生きるための基盤である環境を悪化させる行為を「愚行」と呼ばなくて一体なんと呼べば良いのでしょう。同じ意味で、企業が環境負荷対してお金を支払うために、環境負荷を更に増やしながら企業活動を維持しなければならない状況も、やはり愚行だとは言えないでしょうか。自分のために自分の時間を使い、余った時間をささやかに他の人に買ってもらう生活スタイルを「自給自足生活」と呼んだりしますが、社会的にもそれと似たシステムが検討されて然るべきではないかとも思います。そのモデルは、実はその昔、田舎の村々には多く存在したのですが、いままたいくつかの中山間地域でその復活が模索されているようです。

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2008年8月29日 (金)

773 悲観論

事態の予測を行う場合、楽観的立場と悲観的立場があるのでしょう。しかし、こと環境問題に関する限り悲観論に立たなければなりません。何故なら、もし楽観的立場に立ったとして、環境の悪化が私たちの想像を超えて進行し、それを短期間内に有効に抑え込む技術が存在しない限り、破局的な結果を招くからです。破局的な結果とは、具体的には環境ハザードによる大量の人口減少という事態を指します。例えば、温暖化による直接的な人口減少という事態は考えにくいでしょうが、特に可能性が高いケースとしては、半乾燥地帯の砂漠化により食糧生産の極端な低下による飢餓と、低地での高潮の頻発による洪水被害でしょう。

一方、悲観論に立てば、最悪の事態を回避するための行動は、急速に広まり、その効果も高いものになるはずです。例えば、温暖化防止のためにエネルギー消費を大幅に抑制する事に成功すれば、結果として世界的な不況が長く続くとしても、資源やエネルギーは温存され、温暖化の影響も小さくて済むことになります。不況は確かに、あまり好ましいものではありませんが、1930年代の世界恐慌で、事業に行き詰って自らの命を絶った人はそれなりに居たのでしょうが、少なくとも不況が直接の原因となって、世界各地で大量の餓死者が発生したと言う事実は無かったと想像しています。不況期というのは、いわば経済の自動調整のメカニズムが働いている証拠でもあり、自然な現象でもあるわけです。むしろ、それはバブリーな部分をそぎ落とす、絶好の機会でもあると言えます。

実際、アメリカで発火したSPLの導火線は、世界各地に飛び火し、世界同時不況(つまりはバブルの調整局面の事です)が進行しつつあります。日本でも、不動産ミニバブルが調整を受け、大型倒産が続きそうな状況です。

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2008年8月28日 (木)

772 原発考2

以前、H岡原発の見学記を書きましたが、少し時間を置いて、原発についてさらに書き足したくなりました。今回見聞きした技術も織り込みながら、元技術屋として冷静に原発を眺めてみると、その安全性に関して気になる点がいくつか見つかります。先ずは、材料の問題です。原発は、原子炉容器自体は金属で、それを格納する容器は、基本的には分厚い鉄筋コンクリートです。それ自体は、かなり頑丈に作られてはいるのですが、その容器には多くの管路が接続されています。主なものは、給水、緊急炉心冷却、蒸気などですが、それらは多くのバイパスやバックアップラインなど、複雑に絡み合って接続されています。材料の問題は、実は材料自体ではなく、その接続部の溶接施工強度なのです。溶接は、金属を一度溶かして接合しますので、溶けなかった部分(母材)と溶接金属との間の部分の強度は、ある程度低下しているのです。そこに、流体の流れで生ずる衝撃力(キャビテーション)が長期間作用することにより、腐食によるキズが出来た場合、急激な破壊に至る恐れが出てきます。実際、シュラウドと呼ばれる部分では、過去幾度となく腐食割れの発生が報告されています。

もう一つの大きな懸念箇所は、蒸気タービンです。これは、原子炉で発生させた蒸気で、大きな羽根車を回すようなものですが、原子炉で出来る蒸気は、いわゆる過熱蒸気ではではなく、飽和蒸気に近い性質の蒸気であるため、蒸気の中に水滴(ドレン)が混入する可能性を抱えています。このドレンが、タービンまで達した場合、その衝撃力によりタービンの羽(ブレード)に繰り返し衝撃加重を加え続けることになります。金属が、繰り返し衝撃加重を受けるとき、応力腐食割れと疲労破壊が相乗的に作用し、ついには破壊に至ります。事実H岡原発でも、まさにこのメカニズムでタービンの羽根が破損しました。タービン羽根の破壊は、最悪の場合はタービンケーシングの破損を招きますから、そこからの放射能を含んだ大量の蒸気漏れが起こる可能性が出てきます。前回の事故ではこの最悪の事態は回避されましたが、この幸運が次回も期待できるとは限りません。

結局、人間が作ったモノの欠陥を絶対ゼロにする事はできず、またいくら大きな安全率を見込んだとしても、経年変化や設計時に想定していなかった事態の発生により、事故の確率は残るわけです。通常の火力発電所では、蒸気漏れや火災など局所的な事故被害で留まりますが、原発の場合の放射能被害は、最悪の場合国境も越える事になるわけです。原発は、社会の中での「必要悪」であると、はっきり位置づける必要がありそうです。

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2008年8月27日 (水)

771 発掘

考古学ではないのですが、今発掘作業にハマッています。掘り出すものはモノではなく、実は「省エネアイデア」です。日本は、1970年代にはOPECやイランが引き起こした二度のオイルショックを経験しました。影響は世界中に及んだのですが、とりわけ石油への依存度を急激高めていた日本には、まさに「カウンターパンチ」になったのです。日本は手ひどい打撃を受け、煽りを受けて狂乱物価にも苦しめられました。喉元過ぎれば・・・で、しばらくは石油が潤沢に供給されていましたが、今私たちは三度目のオイルショックの洗礼を受けているとも言える状況に突入しています。

しかし、前のオイルショックの時、日本の行政や企業や市民は、ただ手をこまねいてこの事態を眺めていたわけではありません。当時技術屋になりたてであった投稿者は、多くの省エネルギーに対する技術や工夫を目の当たりにしましたが、残念ながら、印象深いいくつかのもの以外は、その多くを忘れてしまっている事に気がつきました。そこで「発掘」が必要になるのです。暇があれば、是非その頃の工業新聞を丁寧に読み直したいのですが、とりあえず手っ取り早くは、その頃発刊された何冊かの「省エネ本」を読み直す事からはじめています。仕事柄、古い特許公報のデータベースにもアクセス可能ですので、いくつかのキーワードでの特許検索も併用しています。

その結果、かなりの感触を感じ始めています。と言うのも、その頃は価格高騰ばかりでなく、本当の石油の需給も逼迫したわけで、省エネの中身は「脱石油」であるアイデアも多かったのです。太陽熱温水器は勿論のこと、木屑を固めた燃料や鋼鉄の帆を持った大型タンカーや風力発電や波力発電、太陽熱発電なども真剣に研究されました。政府も、太陽エネルギーの利用を促進する「サンシャイン計画」ばかりでなく、エネルギーの利用効率を高める「ムーンライト計画」も打ち上げ、省エネに躍起になったものです。国を挙げて捻り出したアイデアの多くは現在の製品のエネルギー効率向上に活用されていますが、逆オイルショック(石油の値崩れ)によって忘れ去られたアイデアも、丁寧に掘り起こして上手く焼き直せば今でも立派に役立つものも多いのです。その時は特許申請された新しい技術も、いまやその期限はとっくに切れていますので、発掘した省エネアイデアは、そのままそっくりコピーしても誰も文句は言わないのです。

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2008年8月26日 (火)

770 目的と手段

769で述べた事に関連しますが、いわゆる科学も技術もある時期以降、手段が目的を追い越してしまった感があります。科学は、まだ知識が少なかった時代、自然現象を観察・解明しひいてはそれを利用する事に多大の貢献をしました。一方、技術は、個人の持つ技を、体系化された学問にまで拡大し、工業化により安価な大量生産を可能にしました。勿論それを下で支え、加速したのは化石エネルギーの大量供給であったのは間違いないところです。

しかしです。本来は目的であった、私たちの生活を安全で、快適に、豊かにする事は、いつの間にか横に置かれ、手段であった大量生産・大量流通の枠組みの拡大が「擬似目的化」されていったのです。地方で作られていた多様な製品は、生産と流通がさせ易い形で規格化され、消費者はその規格の中から選ぶしかなくなったと言うわけです。野菜は、箱詰めし易いように、大きさが揃って、曲がっていない、傷や変形の無いものが、大きさ別にパッキングされます。それ以外のものは「規格外」として加工用に使われるか、下手すれば廃棄される運命を辿ります。これがまさに目的と手段の逆転現象の典型だと言える例です。食物は、人間の必要とする栄養素やエネルギーを補給するために口にするモノですから、それが確保されていれば見映えや形は問題にならないはずの商品なのですが、流通と言う手段が目的化された結果、例えば流通だけを考えて形を揃えるための品種改良までもする、今のバカバカしい事態に陥ったのでしょう。

化石エネルギーの使用も、絶対に必要なものに限れば、明日からでも半分にする事は可能なのです。それが、世界規模で証明されたのはあの9.11事件後に起こった現象です。この事件の直後からしばらくは、世界の航空旅客数が半分以下に落ち込んだのです。つまりは、それまでは不要不急の目的で旅行していた乗客が、少なくとも半分はいたと言うことを示します。テロが怖くて飛行機を敬遠した客の目的は、実は「旅行それ自体」だったのであり、ビジネスが目的の人たちは、危険があっても飛行機に乗らざるを得なかったのでしょう。その意味でも、環境問題を考える時、目的と手段の再確認は必須の作業だと思います。

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2008年8月25日 (月)

769 ニーズ・情報・枠組み

全てのモノやサービスは、本来は消費する側の「ニーズに基づいて供給」されている筈です。「筈です」と言っているのは、実はそうではない場合も多く観察されるからです。通常は、「欲しい」と言うニーズ情報が発信され、供給側はそれを適正な価格で供給するための「枠組み」を作り、供給を開始します。しかし初めは、需要に供給が追いつかず、仕方がないので枠組みを次々に拡大し、或いは効率を上げる努力を続けます。結果、供給が需要に追いつき、安定的な需給関係が出来上がります。しかし、この枠組みが儲かる場合は、後発業者が参入し、価格競争が始まります。結果としては、供給過剰による値崩れが起こり、ついには設備投資を回収するために投売りも起こることになります。

ここまで行くと、元々のニーズがどこかにすっ飛んでしまいます。つまりは、枠組み(通常は企業です)が、それ自体の慣性で勝手に進んでいく現象です。その究極の姿は、~(ナントカ)市場が形成され、市場で価格が勝手に決められ、生産量や流通量や小売価格までが市場で牛耳られる事になります。企業もバカではありませんので、無用な競争はカルテル(勿論ヤミで行われます)で回避したり、独占性が強い業界では、出荷量を調整して価格コントロールも行われたりする事になります。

この現象が起こるのは、大量生産と大量消費の枠組みを作るため、生産者と流通と小売と消費者の相互の顔が見えなくなり、生産者としては、結局市場に商品を一方的に押し込む事しか出来なくなるためです。このシステムでは、バッファーとして見込み生産と、在庫が絶対に必要になりますから、景気の変動に伴い在庫調整が起こり、過度の景気のオーバーシュートを引き起こします。しかし、枠組みの中にいる人間は、自分で作っておきながらそれに拘束され、市場からの圧力も相俟ってそれを修正する事も出来ないでもがくことになります。

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2008年8月24日 (日)

768 多様性

このブログでクドクド述べている事を、別の切り口で総括すれば、それは生物多様性をいかに守るか、と言う一点に収束します。2010年の名古屋のCOP10でどれほど実質的な議論が行われかは分かりませんが、投稿者は、「問題は結構単純だ」と考えています。必要な事は、環境の多様性を確保する作業だけなのです。環境の多様性などと書くと、小難しいそうですが、話は単純で、「一様な人工環境」を作ることを止め、逆に人間が作ってしまった一様な人工環境を元に戻す作業を行うだけなのです。

一様な人工環境とは、コンクリートで覆われた都市の土壌であり、護岸で固められた海岸や河岸であり、ダムで流れをせき止められた川であり、広い圃場に整理された農地などが挙げられます。そこでは、100m移動しても、ミクロの環境(微環境)は殆ど変り映えがしません。しかし、多様性が保たれた環境では、数メートル移動すれば「微環境」はガラリと変るはずです。微環境とは、非常に狭い範囲の中での樹木や地形や表層水や地下水の流れによる、数度かそれ以下の気温変化、微妙な湿度変化、結果としての土壌生態系の変化、それに伴う植物、動物の生態系の変化を指します。(これは投稿者の勝手な定義です、念のため)例えば、自然の川には洪水がもたらす氾濫原があり、年々大きくなる蛇行があり、結果として瀬や淵や河原や河口の干潟が必ず存在します。その多様な環境ゆえに、種々の小魚や水棲生物やそれを餌にする鳥や小動物が集まる環境が生まれる事になります。しかし、護岸に固められた真直ぐな川では生物の影は極端に少なくなるはずですし、多様性も殆ど失われる事になります。微環境の変化は、土壌中や水辺の微生物、結果として植物やそれに依存する小動物の種類に変化を引き起こすのです。

温暖化問題の根源も、地球全体が熱帯や温帯の気候に変ってしまい、生物の多様性が失われてしまうという一点にあります。熱帯域が拡大し、温帯が北上する事により、亜寒帯や寒帯に生息していた植物や動物相が失われる事が最大の問題なのだと言えます。熱帯の害虫や疾病が人口の多い「今の温帯」で猛威を振るう事になるのは、災いの一つに過ぎません。2010年のCOP10開催までに一体何種類の生物が地球上から消える事になるのか、想像するだけでも空恐ろしい話です。

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2008年8月23日 (土)

767 削減策

見える化ができたとして、エネルギー(=CO2)削減は、「勿体ない」や「兎に角省エネ」といった掛け声だけでは達成できません。削減のためには具体的な工夫や知恵出しが欠かせないのです。いくつかの工夫の例を示しましょう。

1)    設定変更:よく言われる省エネ策ですが、冷房温度を上げる、暖房温度を下げるなど、エネルギー消費を抑える方向での設定変更を指します。

2)    間欠運転:エアコンなど連続的に運転される機器では、一定時間内にある比率で機器を止めることが更に有効です。プログラムが可能なタイマーの活用が役立ちます。止めた時間の割合が即削減率になります。

3)    間引く:電灯やエアコンの一部を取り外し、残った電灯には反射鏡をつけ、またエアコンを間引いた代わりには室内の空気を動かすためにサーキュレータ(扇風機)をつける対策も有効です。体感温度とは気温と風速と輻射温度の合算だからです。

4)    エネルギーの尻尾をつかむ:あらゆるエネルギーは最後には低い温度の熱となって、大気や水を温め、最終的には長波長の赤外線となって宇宙に放散されます。赤外線をエネルギーの尻尾と呼んで起きますが、その状況をサーモグラフィーなどの機器で観察すれば、エネルギーの逃げ道が見えてきます。それをできる限り小さくする対策(たとえば断熱する)を打てば、投入するエネルギー量も削減可能となります。

5)    カスケード利用:利用価値の低いと思われるエネルギー(熱など)を、段階的に利用することをカスケード利用と言います。エアコンの室外機からは50℃を越える熱気が排出されますが、なぜか誰もそれを風呂水の加温に利用しようとは言い出しません。しかし、一方では風呂の水は別にガスを焚いて温めている訳です。

6)    代替エネルギー:化石エネルギーの代替エネルギー源は、絶対に太陽光由来のものである必要があります。太陽光こそ完全な持続可能エネルギーだからです。とりわけ、太陽熱利用、昼光利用などが利用しやすい形です。多くのビルやコンビ二では、カンカン照りの日中でも、全ての天井灯が煌々と点灯されています。簡単な天窓や反射鏡、あるいは導光ダクトなどを活用して、室内に取り込めば、照明のエネルギーは何割も削減できるでしょう。

これらはホンの一例です。

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2008年8月22日 (金)

766 見える化

「見える化」と言う言葉は、多分企業の「カイゼン用語」から来ているような気がします。つまり、カイゼンのネタとなる問題点を目に見えるようにするための仕掛けの事です。例えば、不良率の変動を分かりやすく示した折れ線グラフや、段取りに要した時間を分析した棒グラフ、直接的にはラインから送り出された製品の数量カウンターなどなどです。

最近のマスコミ用語では「CO2の見える化」が脚光を浴びているようです。炭酸ガスは勿論目には見えませんので、何らかの形でその排出量を可視化する必要があります。具体的には、電気、ガス、石油など消費がCO2の排出につながるエネルギーの使用量を全てカウントし、それを表やグラフに落として目に見える形にすることです。それを、時間を追って連続的に記録すれば、排出量の経時変化が可視化できます。さらには、エネルギー種類別にパイグラフに表せば、どの種類のエネルギー消費からのCO2排出が多いのか、したがってどのエネルギーの削減に力を入れるべきかが明確になります。

しかし、そこで安心してはなりません。削減目標を定める必要があります。とりあえずは5%削減を目指しましょう。1%や2%では誤差の範囲内なので、努力の結果なのか、偶然なのかが分からないからです。その削減手段は、しかし徹底的に具体的に決める必要があります。何を、どのような手段で、どの程度削減するか、その為にどんな手を打つのかといった計画が必要です。5%の削減とは、つまりはそのエネルギーを使っている時間を、1時間当たり3分間縮めることを意味します。あるいは、エネルギーを消費している機器の効率を5%向上させる方法でも達成可能です。その為の計画を、皆の目に見える場所にデカデカと掲示すれば、とりあえず「見える化」作業は一段落です。

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2008年8月21日 (木)

765 ヒト・モノ・カネ・自然

現代社会が抱える病巣とその原因についてはこのブログでも度々書いています。ここでは、破局に至った多くの事件を考えます。さて、例えば自殺や「人を刺さざるを得なかった」彼らの周囲には、何があったかを想像してみましょう。多分それはヒト・モノ・カネのたった3つだけだったと想像されます。ヒトとしては、家族、同級生、バイト先や職場の同僚・上司など、極々限られた数の顔見知りと、その他大勢の赤の他人であるわけです。一方、私たちの周りはモノ(人工物)に囲まれています。モノがこれほどまでに増えた背景としては、以前のブログでも、一つの要因として年2回の日本的ボーナス制度を挙げました。即ち、企業は固定給の一部をプールしておいて、年2回まとまった金額を支給する制度のことです。ボーナスにより消費者の消費マインドは間違いなく強く刺激されるはずです。彼らの周りもモノ(人工物)で埋まっていた事でしょう。最後の要素はカネです。カネがあればほぼ全てのモノが買えるという事になってしまった現在、たった数万円のためにヒトを殺傷してしまう事件のなんと多い事でしょう。ヒトの命の重さが数万円にまでなってしまったかの錯覚さえ覚えます。当然のことですが、彼らの手には「彼らが十分と感じるほどのカネ」は無かったと思われます。つまりは、ヒトとの接触不足、モノ(人工物)との過剰接触、絶え間ないカネへの飢餓感、という社会の歪みが浮き上がってきます。

環境おじさんとしては、今の時代に決定的に欠けているのは自然との接触であると言っておきます。つまり、自然とは、ヒト・モノ・カネしか見えず、閉塞的になっている現代社会の「通風孔」であると言いたいのです。自然に包まれてストレスを受けていると感じるヒトは絶対居ないはずです。それは、ヒトのDNAには自然とのコミュニケーションが織り込まれているからです。と言うより、ヒトは自然の中から生まれ出た存在そのものなのです。今、概ね50代以上となっている人たちの多くは、たとえ都会で育ったとしても、まだ残っていた空き地や河原で、毎日日が暮れるまで遊んだ経験を持っています。また投稿者の若い頃は、モノもカネも今よりずっと少なかったはずですし、しかし行きずりの見知らぬヒトとの関わりは、今より大分濃かったような気がします。結果として、ヒト・モノ・カネからのストレスと、自然との関わりによる癒しのバランスが、問題なく取れていたと思うのです。現代のストレス社会で、そのストレスを軽減してくれる何があるでしょうか。とりあえずは、森に入って深呼吸を繰り返せば、多くのストレスが消え、結果として自殺や殺傷事件などの殆どは無くなるものだと思います。良い人間関係があり、健康を維持できる食べ物が手に入り、身近な自然があれば他に一体何が必要なのでしょう。

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2008年8月20日 (水)

764 順序

30代の半ばのある日、投稿者は考え方の順序をひっくり返しました。その日は、だだっ広い工場の端の建物で開かれる会議に出席する必要があったのですが、あいにく構内通行用の自転車が1台も無く、しかたなくテクテク歩いている時のことでした。普通に歩くと30分は掛かる距離です。歩きながら突然感じた事は、サラリーマンは、こんな風に歩いている時間も拘束時間としてカウントされて給料を貰っているのだという、という単純な事実でした。なんと言うラッキーでしょう。考え方を変えれば、これは体に良いウォーキングしながら、しかも給料も貰えることを意味するのですから。

この日以降、仕事に対する態度も変りました。仕事というタスクを与えられ、それについて調べたり、資料を作成したりする勉強をさせてもらった上に給料まで貰える、と考えると、単純な仕事でもそれまで以上に踏み込んで、掘り下げて考えるようになりました。より深く考えて仕事をこなす訳ですから、周りの評価も少しずつ変ってきたことも感じました。仕事は、マニュアルやパターンにはめて「こなす」事も可能ですが、踏み込んで考え、それまでより少し改善を加えて仕上げれば、その後の仕事も少し楽になります。楽になった時間は自分の余裕ですから、更に踏み込んで仕事に関連する勉強も可能です。変えたものは、考え方の順序だけでした。お金のために仕事をこなすのでなく、仕事を通じて自分の能力を高め、オマケに給料も貰えるラッキーを実感するだけで良いわけです。

振り返って、このことを環境問題に落としてみると、私たちはこれまで自分たちの利便のために環境(資源・エネルギー)を「利用」してきたので、ついつい先ずは人間社会があって、その外に自然があると考えがちです。その順序を逆転し、生物の歴史的には、最後の最後に私たちヒトが環境の中から生み出され、その環境によって生かされていることを意識して、感謝しながら自然とともに暮らす事を考えていく必要があると思うのです。

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2008年8月19日 (火)

763 三世代スパンで

現代の政治や決め事はあまりにも近視眼的に行われていると言えそうです。何故なら、政治家は次の選挙の事かせいぜい跡継ぎに地盤を譲る事くらいしか頭に無いでしょうし、サラリーマン社長は、会社の経営に関しては目先の当期利益が最優先で、先を見るといっても精々5年先の中期計画程度しか考えることができないでしょう。それに加えて、国際情勢や世の中の景気は、それこそ猫の目のように目まぐるしく変わりますから、今日のエネルギー価格やそれに誘引された食料価格お高騰やSPLから波及した(これから起こりそうな)大不況を10年前に予測することなどは勿論誰にもできなかったはずです。

しかし、そんな時代であればこそ、私たちは立ち止まって、少なくとも三世代後(50年後)の社会のあり方を見据えておく必要があると思うのです。勿論、明治時代の政治家の多くが口にした「国家百年の計」を立てる事ができればベストでしょうが、あまり欲はかかず50年先で辛抱しましょう。最近の例で言えば、F田首相が2050年のエネルギー消費に関して、少し具体的な数字を口にしましたが、それはサミット向けのものだった様で、いまや目先の政治騒動に巻き込まれているようです。できれば、然るべき政治家に登場願い、エネルギーも資源も社会インフラも、教育も社会規範も含めた広い意味の長期国家ビジョンを語ってもらいたいものです。勿論普通の政治屋は、今現在の自分の選挙地盤維持こそが最重要事項であり、精々子供にそれを譲る数年後の事しか考えていない事は明らかです。

そうではなくて、少なくとも普通の人であっても、自分の孫世代の程度までの幸福はしっかり考えて、行動する必要があると思うのです。このブログでも、現役を退いた後は、年金での悠々自適生活を理想としている団塊の世代に辛く当たっているのは、そのような無責任を指摘したいだけなのです。完全な利他主義は理想ですが、ここでは「利後世代」なる言葉を作って、この項のKWとしておきます。

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2008年8月18日 (月)

762 顔が見える商売

いま地方の村や町では、6次産業などという言葉が流行り始めているようです。つまりは、生産する1次産業、加工する2次産業、流通販売する3次産業を全て含んだビジネスモデルを指すようです。このモデルの最大の特徴は、生産者=加工者=販売者であり、消費者にその顔が見えるという点です。昔の朝市では、それはむしろ当然の事であり、農家や猟師のおかみさんやばあちゃんが、生野菜や生魚を直接に、あるいは野菜や果物を乾燥させたり干物に加工したりした上で、直接対面販売をおこなっていたわけです。それを、改めて6次産業などと洒落た言葉で定義し直す必要は全く無いでしょう。単に「朝市の復活」と呼ぶだけで良いのです。自治体の役割は、精々その為の屋根付きの場所(公設市場)を準備する程度で十分でしょう。この種の市は、世界中どの都市や田舎町でも極普通に見られるものです。日本ではDエイのN内氏が仕掛けたスーパーマーケットと言う売り方に、ほぼ完全に染まってしまった日本は、米国と共にむしろ特殊な国だと言えるかもしれません。

顔が見える販売は、都会ではかなり難しいと考える人もいるかも知れません。それはそうなのですが、一方で多くのサラリーマンは郊外に家を持ち、下手すれば片道2時間以上かけて通勤をしているわけで、生活の基盤は郊外においています。郊外の街ならば、その少し外の農村や漁村地帯から、さばき切れる程度の商品を、生産者が毎日担いで売りに出かけてもあまり問題にはならないでしょう。そういえば、昔は担ぎ屋や便利屋と呼ばれる人が多くいて、早朝のローカル線では大きな荷物を担いだ彼らを多く見かけたものでした。その時代には彼らが、今の小口トラック配送に当たる商品の流通を担っていたという事なのです。

その連想で思い出すのは、行商や富山の薬売りで、これも直接販売の典型といえます。彼らは売り手であり、田舎への情報伝達者であり、老人の話し相手であり、健康アドバイザーの役割も担っていたのでしょう。

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2008年8月17日 (日)

761 伝統

伝統というKWをもう一度噛みしめて見ます。何年経てば、一連の行動が「伝統に昇華」する事になるのか明確な定義はありませんが、少なくとも一代や二代では無いことは間違いありません。投稿者は、とりあえずそれを7世代ということに勝手に決めました。特に理由はありませんが、アメリカのネイティブ(インデアン)が、大きな決め事をする際には7世代後の子孫の幸福を考える、と言われている事からの連想です。年月で言えば150年かそれ以上に相当するでしょうか。

さて、歌舞伎や能や伝統工芸などは、人間国宝などの制度もあり、これからもそれなりに受け継がれていく事でしょう。

ここで強調しておきたいのは、もう少し日常的な伝統、例えば暮し方(ライフスタイル)であり、食生活であり、価値体系などの伝統の事です。何に社会の、あるいは各家庭、さらには個人価値観の重きを置くのかは、もっぱら伝統の問題です。食べ物を粗末にしないことを繰り返しバアチャンから教え込まれた子供は、やはり自分が親になっても子供にそれを伝えるでしょう。植物や小動物も立派な命がある事を教えられた人が自然を粗末に扱う事は無いはずです。山や大木や滝や池に神が宿り、お天道様やご先祖さまは常に空の上から私たちを見守っているので悪いことはできない、という様な控え目な態度は、世の中を穏やかに保ってきたことでしょう。

しかし、戦後の30年ほどで、残念ながらこれらの良き伝統の多くは途絶えてしまった様に見えるのです。西洋の科学・技術は、自然を征服し利用する対象(Object)としか見ません。日本の伝統である、八百万の神々と自然の中で、自然に感謝しながら生きる伝統的な共生(Coexist)の姿勢を、もう一度取り戻す必要があると思うのです。

結局伝統とは、言わば長い時間をかけてムダを取り除かれ、更に磨かれて残った真髄(Essence)のようなものだと思っています。

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2008年8月16日 (土)

760 加工度

先にも少し述べましたが、加工度や加工技術は年々高く、複雑になってきています。それは、製品であれ食品であれ、全く同じ事情です。工業の世界では、加工度を上げることは、材料により高い付加価値を付与することを意味し、より高い加工賃を得る事ができるとされてきました。その為、「ムダと思われる加工」すら行われきました。その多くは、見栄えの良さを高める加工です。食品で言えば、着色料、着香料、食味改善剤、保存料、安定剤、分散剤、増粘剤などなどの添加を指します。通常の家電品や車などで言えば、過度の装飾加工やメッキ部品の多用、本来の性能に直接関係の過度の多機能化や自動化(電動化)などが挙げられます。

加工とは、人手や設備を使ってモノの形を変える作業のことですから、加工度が高い製品ほど素材の値段に加えられるコストが大きくなります。食品で言えば、最も単純な例では、収穫する、洗う、店頭に並べる、のたった3ステップで済みますが、いまや多くの食品は、収穫する、集荷して選別する、工場へ運ぶ、洗う、加工する(切る、潰す、混ぜる、煮る)、調味する、パウチに入れる、箱詰めする、冷凍する、何十の工程を通過する事になります。結果、素材の新鮮度は問題とはならず、製品になった時の色合いや見栄えの良さだけが評価点となります。

私たちは、食品や商品を手にした時に、それまでに加えられた加工ステップにもっと敏感になる必要があります。それには、先ずは加工の実際についてその中身を知る必要もあるでしょう。今や多くの情報はネットなどで知ることも出来ますし、調べるつもりがあれば、図書館などで業界誌などを眺めることも役に立つでしょう。その上で、原料の影も形も無い「加工物」を食べたり、使ったりする事への疑問をしっかり持つ必要がありそうです。加工には、多くの場合エネルギーの投入が必要ですから、例えば加工食品の味は、エネルギーの味であるとも言えるのです。

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2008年8月15日 (金)

759 ノーブランド

ブランドやブランド品について考えて見ます。ブランドが確立された製品やサービスには、確かに一日の長が見られます。しかし、そうではあっても、某老舗菓子舗や老舗割烹や大手食品メーカーや食肉卸業の引き起こした事件ではありませんが、そのブランド力に胡坐をかいた結果の破局が散見されます。老舗の老舗たる所以は、雨が降っても槍が降っても、100年続いた伝統のやり方を絶対変えない事に点にあります。勿論、代々引き継いだノウハウに、新しい世代が少しの工夫を加える事はあり得るでしょう。しかし、売れ残ったものや作り置きしたものを冷凍・解凍して、「作りたて」と表示する事や、売れ残った商品を原料に戻して「リサイクル」する事は、工夫などではなく誤魔化し以外の何者でもないでしょう。

ブランド崇拝の背後にあるのは、消費者自身の自信の無さだと想像しています。消費者の、例えば服飾であれば生地の良し悪し、食物であれば食材や味の良し悪しを見分ける力が年々弱くなっているのではないかとしか思われないのです。若者世代の味覚によれば、食物の味は「マジやばい」と「結構イケル」と「イマイチ」の3段階程度にしか分かれていないようなのです。それは、食材の持つ本来の味を知らず、生まれて以降、「加工食品」しか口にした事がない彼らであれば、さもありなん、なのかも知れません。磨くべきは、私たち自身の五感や第六感なのです。いま流通している食材そのものが、商社が安く買い叩いて海外で作らせたものであり、それに色々な食品添加物を加え、砂糖や味の濃い調味料で味を誤魔化している「加工食品」である訳です。高度に加工されればされるほど、私たちの五感は狂わされ、識別能力が低下することになります。

一時「M印良品」なる企業の「ブランド」が注目されましたが、多くの商品は、地元のメーカーのノーブランド品で十分なのです。問題は、消費者の商品の「本物度」を見分ける能力を磨くことだけなのです。製造者=販売者が早起きして仕込んだ豆腐やパンや、或いは朝取りした野菜が安全で美味しいのは当然の事です。そんな食べ物をかみ締めて、素材本来の味を味わうならば、私たちの味覚もグングン鋭く磨かれる事になるはずです。地元産のノーブランド品のシェアが上がれば上がるほど、私たちの消費生活の環境負荷も下がる事になります。

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2008年8月14日 (木)

758 土壌としての人材

企業の顧客満足を維持する源泉は、実は企業の人材にあります。自然界とのアナロジーで言えば、人材は企業にとっての土壌だといえます。(そういえば戦国の武将にもその様に喩えた人がいました)有機物が多く含まれる肥えた土壌では、根をしっかり張った良い植物(作物)が育ちます。しかし、無機的な土壌に、いくらNPKの化学肥料を施肥しても、見かけは大きくてもひ弱な植物しか育たないはずです。企業のアウトプットが、植物の果実や作物であると考えるなら、企業はまず人材を肥やすことから始める必要があるでしょう。しかし、現実は、目先のコストを下げるため、全く逆の行動を取っているように見えます。それはたとえば派遣労働者の多用ですし、コスト削減のための社内教育費の圧縮だといえます。

人材と土壌がよく似たようなものであるとの前提に立てば、化学肥料のように即効性のある人材育成の方法もあるのでしょうが、投稿者としては「有機肥料型育成」を推奨しておきます。それは、一見日々の業務には直接関係の無い教育や、効果が現れるまでに時間のかかる内容の育成内容になるはずですが、しかし5年後10年後にジワジワ効いてくるものでもあります。それは、例えば製品不具合の直接の原因と、その対策を教えるような底の浅い教育ではなく、その原因を生み出した、社内の組織体質や人的要因や設備保全まで掘り下げて考えさせるものなどが考えられます。また、別の例では、工学の原理原則を教えるのではなく、その技術が生まれた時代背景やニーズレベルまで掘り下げて考えさせる事なども有効です。つまり、「何故」をたった1回で終わらせる教育ではなく、何度も何度も繰り返し「本質に迫らせる」教育が求められると思うのです。このような癖を身につけた人材は、問題が発生しても通り一遍の対策だけで済ます事は無くなるでしょう。

同様の事は、一般の学校教育にも当てはまるでしょうし、企業経営にも敷衍することもできます。今の時代、あまりにも即効性だけを求め過ぎていて、10年後20年後の社会が一体どうなってしまうのかひどく心配です。

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2008年8月13日 (水)

757 顧客満足と金儲け

企業の存続は「顧客満足度」に100%依存していると言っても言い過ぎにはならないはずです。顧客の満足が十分に得られない企業は、顧客からのリピートがない訳ですから、売り上げを維持するためには、その企業の製品やサービスがあまり程度の良くない事を「まだ知らない新しい顧客」を次々に開拓しなくてはなりません。それでも、市場規模が年々拡大し続ける高度成長期のような時代には、基本的にはモノ不足なのですから、品質がそれほど高くない製品でも、値段がソコソコならそれなりに売れてはきたのです。しかし、いまや人口が減少し、目の肥えた消費者を相手にしなければならない、成熟した市場が舞台となっている時代です。成熟した市場とは、つまりは品質レベルが一定以上で、しかも価格的にも「こなれた」レベルになければ売れない事を意味します。加えて、他社の製品とは一味異なる「差別化」も重要なキーワードとなっています。

実のところ、この認識無しには、今後の企業の存続は考えられないはずなのですが、この時代になっても、企業経営者の多くが「ビジネス=金儲け」に走っているのは信じられない気持ちです。つまり、経営者は株主に対しては、ROIの高さをアピールしなければなりませんし、「当期利益」が経営者の評価点そのものになっているわけで、とりわけサラリーマン経営者にとっては金儲けに走るしかないのかも知れません。しかし、しかし、くどいようですが経営の「目的」はあくまで「顧客満足」の追求でなくてはなりません。それを怠れば企業は消えるしかないわけです。ところで、顧客満足を得る事は、顧客のワガママに応える事とは違います。顧客が、お金を払って手に入れた製品なりサービスの費用対効果が一定の水準以上である事を意味します。それは、多くの顧客が、その製品なりサービスをもう一度買いたいと思える水準の事です。

投稿者のとってその様な製品やサービスは、実は余り多くはないのですが、身近な例でいえば混ぜ物を一切していない「石鹸シャンプー」があります。これは、M油脂の植物油をカリ化させたシンプルな液体石鹸で、普通のシャンプーの2倍くらいの値段ですが、使用感がさっぱりしていて、この10年くらいは愛用しています。別の例で言えば、30数年前にドイツ出張の際に購入した爪切りは、ゾーリンゲン地方の、たぶんそれほど有名ではない企業の製品のようですが、未だに十分な切れ味を保っていて、機会があればもう一つ買い求めたいと思っている製品の一つです。いずれにしても、顧客をないがしろにし、金儲けに走った企業の末路は、結局は消え去っている事は、どの時代であれ、さながら法則のように明らかです。

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2008年8月12日 (火)

756 超コンプライアンス

やや理想的かもしれませんが、企業の目的が「顧客満足」にあるとして、その満足を裏づける品質やサービスの基準は、社内の品質管理に示されているはずです。「はず」なのですが、未だに多くの企業では、品質のバラつき幅の管理については全くのノーマーク状態といえるでしょう。品質は、ある一定幅の基準の中心に近いところにバラつきが収まっている状態が理想だといえます。基準を下回れば不良品になりますし、基準以上でも「過剰品質」になるからです。

これを企業経営に置き換えてみれば、よく言われるコンプライアンス=法令順守は、企業の経営品質の幅を示すものではなく、最低限のラインしか示していないのです。つまり、その基準を下回れば、法令に触れるわけで、場合によっては罰則を受ける羽目にもなりかねません。そうならないためには、法令ラインとは別に、社内にそれより厳しいラインを引かなければならないでしょう。つまり、たとえ間違って社内基準のラインを下回っても、法令に触れるまでにはまだかなりのクリアランスあるという状態が望ましいのです。

全ての法令は、過去に目に余る違反を取り締まるために作られ、違反が発覚する度に年々厳しく、かつ細かく修正が加えられてきました。逆に言えば、全ての法令には「過去の違反の歴史」が書き込まれているといっても良いでしょう。単に法令を守っている状態を指して「コンプライアンス企業」などと言って胸を張っている企業の内情は、実は結構危ういものなのかも知れません。それは、自分達は必要最小限の事は行っています、という証にしかならないからです。表題にした「超コンプライアンス」とは、法令などで定める基準は当然として、そこまでにかなりの余裕を持った社内基準により、顧客満足と顧客の安心を確保する事であると、ここでは定義しておきます。

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2008年8月11日 (月)

755 氷山の一角

食品偽装のニュースがひきもきりません。これだけ出るという事は、多分賞味期限や産地偽装などは、日常茶飯事のように行われていて、表面化した企業では、たまたま待遇に不満を持っている人がいて、その人たちからの「内部告発」があっただけなのかもしれません。一方、従業員を待遇面でそれなりに遇してきたか、或いは偽装の知る少数の社員が、社内にも漏れないように情報管理しながら、巧妙に悪事に走っている企業は、表面上の平静を保っているだけなのかもしれません。これまで新聞沙汰になってきた企業は、まさに氷山の一角なのでしょう。氷山はその90%以上が(情報秘匿の)海の中に隠れています。

同じような不正が何回も繰り返されるほど、私たちの神経は「またか」と麻痺し、1週間も経つと無関心の日常に戻ってしまいます。とは言いながら、ある程度物事を考えている消費者は、徐々にではあるでしょうが消費行動を修正している事でしょう。つまりは、中国産を買わない、冷凍食品への依存度を下げる、加工され過ぎて原料の良し悪しが分からない食品を避ける、などの修正行動です。しかし、754で取り上げた「悪意の偽装」が行われた場合、実際のところ素人には見破る事は不可能です。何故なら、包装には偽装された情報が印刷されているので、その情報に100%頼りきっている消費者は、全くの善意の人(お人好し)になり下がっているからです。

お人よしから脱却するためには、消費行動に更なる修正を加える必要がありそうです。具体的には、例えば加工度の低い食品や製品を選ぶことです。加工度が低いと素材の良し悪しがある程度確認できるはずです。つまりは、肉で言えばより多く手を加えられたミンチやハンバーグではなく薄切りを選びます。どうしても必要であれば、肉屋の店頭でミンチにしてもらえば良いでしょう。もう一つは、表示を鵜呑みにしない事です。何故なら、それが正しいとは限らないからです。一応表示が正しいにしても、材料がどこで採れ、どこで加工され、どこで調理され、どこで冷凍され、どのルートで店頭まで運ばれたかという全ての過程のトレースは不可能です。結局、最後に信ずる事が出来るのは、自分の五感だけかもしれません。いずれにしても私たちには、目に見える氷山ではなく、海面下に隠れた氷を見通す眼力が必要です。

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2008年8月10日 (日)

754 転がし

米などの農産物が本格的に「商品」となった江戸期以降、農作の年もありますが、一方で凶作というリスクも持つこの商品は、常に投機の対象になってきました。それに絡んで、業者が少しでも利潤を増やすための数量の誤魔化しや、品質の偽装なども頻繁に行われていたはずです。というより、商品や作物を市場の動きを見ながら、右から左に流して利益を得る事は、むしろビジネスの世界では、あまりにも当たり前の行動ではあります。

しかし、よくよく考えてみると、モノ自体の付加価値を上げない単なる「転がし」は、実に大きな環境的なムダを出している事がわかります。「まともな」転がしでは、少なくとも商品が動き、或いは倉庫に積み替えられて(適正な値段になるまで)保管されます。生産者から消費者に渡るまでに加えられる途中の行為を「流通」などとも呼んでいますが、商品の集積、移動、積み替え、保管、開梱と小分けの詰め替え、などのそれぞれのステージでエネルギーを消費します。また食糧の多くは、冷蔵または冷凍状態で保管されますので、ただ保管するだけでも多大なエネルギーを消費する事になります。その分のコストは、オマケの(あまり適正でない)利潤を乗せて商品価格に転嫁されます。

一方で、アヤシイ転がしという行為も存在します。想像するに、これはまともな転がしに比べてずいぶん手が省けるので、実体はこちらの方が多いのではないかとも考えています。それは、書類だけを動かす「流通」です。そこでは実際のモノは動かさないで、書類だけで転売が繰り返されます。利益と消費税が何重にも上乗せされ、最初の仕入れ値から見れば、最終的な売値は何割も(モノによっては何倍も)高くなっていることでしょう。下手をすれば、裏で同じ経営者が動かす複数の商社を経由する取引もそんなには珍しくは無いはずです。

さて、転がされ、金やエネルギーまみれになった商品を私たちはやっとスーパーや小売店で手する訳ですが、その段階では既に原料や加工や元売りや複数の問屋や小売のルートをトレースする事はほぼ絶望的です。流通経路が複雑で、長いほど、商品はアヤシク値が上がり、得体の知れない品質のモノに化けて行く訳です。

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2008年8月 9日 (土)

753 ココロの時代

行き過ぎた物質主義、拝金主義の社会の中で、精神的なものへの回帰が、少しずつですが見られるようになった気がします。具体的なものではありませんが、例えば毎日聴くラジオで紹介される、視聴者からの投書やコメントの端々などにそれを感じることがあります。それは、実のところ(自然)環境への回帰でもあるわけです。産業革命とは、今振り返って総括すれば、環境を破壊しながらの人間のテリトリー拡大と、同時に自然からの物質収奪の歴史であったと言えるでしょう。この革命では、先ずは石炭の持つ火力を使って、馬で言えば数十頭分の動力(蒸気機関)を生み出し、それを使って地下水の湧出に悩まされていた坑道での石炭や金銀銅などの鉱物の採掘を可能とし、ついには燃える水(石油)を大量に汲み上げ、それを使って動く乗り物(車や航空機)を世に送り出したのでした。

科学技術と車の両輪になる「経済」の仕組みも、最早素人には理解不能なほど複雑に発達し、ついには「金で買えないモノは無い」という輩も多い時代になってしまったのです。このような時代をJ.ワットやT.エジソンやA.アインシュタインが望んでいたかどうかは確認する術もありませんが、少なくとも今の時代を彼らが垣間見たとしたら、間違いなく「行き過だ」と思う、と投稿者は想像しています。何が行き過ぎかと言えば、その便利さ加減であり、資源・エネルギー効率の酷さ加減だと思うのです。つまり、科学・技術を信仰した彼らとしても、なにもこれほど便利にしなくても、或いはこれほど資源やエネルギーを浪費しながら暮さなくても、と感じると思うのです。

さて、そのモノ・金の行き過ぎを今のままで放置して良いのかどうかですが、人間は決してパンだけで生きる存在ではなく、精神的満足感を原動力として生きる存在であるという前提に立つならば、私たちは「ココロの時代」に大きくハンドルを切るべきなのでしょう。具体的には、モノの所有の満足より、ココロが満たされる事に、より高い価値を置く社会に引き戻す事が必要になります。引き戻すと書いたのは、確かに戦前か戦後すぐ(つまりはモノの少ない)時代では、ココロの比重はモノに比べずっと大きかった筈なのです。

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2008年8月 8日 (金)

752 旬を食う

現代の食生活の乱れは、「産地破壊」と「旬の破壊」というKWで代表されそうです。前者について言えば、本来その土地の露地栽培では上手くできないはずの作物を、ハウス栽培や品種改良や化学肥料などで無理やり作付けする行為です。後者については、作付けの時期を無理やりずらしで、旬ではない作物を通年店頭に並べようとする努力の事です。その結果、例えば暖かい土地と、冷涼な土地で栽培期間をずらし、これに海外からの輸入も絡ませて、今では多くの野菜や果物が見かけ上は一年を通じてスーパーの棚に並べることが出来るようにしています。

しかしその為には、冬季のハウス暖房や高地での連作障害を抑え込むため、化学肥料や農薬の多数回散布などの無理を重ねてきたわけです。

地元の旬の作物を口にする事は、最も安全でかつ環境負荷も最小にする、最も合理的な行動であるにもかかわらず、です。多くの作物は、露地栽培では、最小限の肥料と農薬で育てることが可能です。何故なら、露地こそが植物にとって最も自然な状態であり、十分な太陽光を浴びながら健全な状態で成長できる環境だからです。有機肥料を施したフカフカの土壌ではミミズや菌根菌が活躍し、自然の風が余分な病害を防ぎ、農薬を使わない露地ゆえに鳥やテントウムシやクモが害虫を駆除してくれ、強い日射が葉を鍛え、植物本来の遺伝子に合った気候で育てる事が、結局収量も最大に出来る方法だと言えます。

こうして出来た安全な作物は、大きな市場(しじょう)は通さず、農家が朝取りして直接近くの町の市場(いちば)で消費者に対面販売します。この仕組みでは、流通コストがカットできると同時に、運輸に関わる化石エネルギーが削減でき、同時に食の安全も完全に確保できる一石三鳥の効果が期待できます。そういえば、投稿者が育った田舎の町にも毎日市が立ち、野菜や果物を満載した手押しの荷車を押したばっちゃん達が家の前を通ったものです。商売をしていた実家では、代金をよく野菜や果物の現物で支払う農家も多かったような気がします。というわけで我が家では、少し量が多くて持て余しますが、常に新鮮な野菜や果物が食卓に上っていたものでした。

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2008年8月 7日 (木)

751 米を食う

米は、日本人の遺伝子レベルまで浸透している食べ物だと言えるでしょう。稲作の始まりは弥生時代だと言われていますが、それは遺跡発掘などの客観的な証拠から、概ね3500年くらい前からと推定されている話で、事実はもっと前から行われている可能性の方が高いと思われます。その間、何代の世代交代があったかは分かりませんが、多分150-200代くらいは引き継がれてきたはずです。戦後の数世代で平均身長が10センチくらい伸び、頭が小さくなり、顎の骨が華奢になった事を考えれば、この世代数は、稲作と米飯食文化の、遺伝子レベルまでの定着にも十分な時間といえるでしょう。それに比べれば、麦食の歴史は非常に浅く、あまり知られていませんが、日本人の麦に対する「弱いアレルギー」は、米アレルギーに比べてかなり広く観察されるようなのです。卵に対するアレルギーはもっと広く見られます。

さて、米作は日本の国土(急峻な山と短い川と狭い平野)条件にピッタリ合致した作物だと断言できます。ご先祖様は山に広葉樹を植えて保水を図り、棚田を開いて自然のダムを作り、水田を開墾して地下水を涵養してきました。確かに米は主食ですが、ご先祖様は米の他に雑穀も多くの種類を育て、「ばっかり食い」を避けても来ました。その意味では米と野菜(山菜)やイモと雑穀と魚介類の取り合わせこそが、遺伝子レベルまで浸透している日本人の伝統食だと断言できます。

いずれにしても、日本人の体質に合った米が余り、実は体に余り合わない麦やトウモロコシが大量に輸入されるこの時代は、絶対何かが間違っているような気がします。伝統食という言葉がありますが、私たちのご先祖が長い間食べ続けてきた食物だけが、私たちの体がスンナリ受け入れられるものであり、それを自分たちに近い場所で作る事が最も安全な食生活なのでしょう。米は、単に炊飯してご飯として食べるだけではなく、米粉にすれば麺やパンや焼き菓子や蒸した食品などとして、多様な用途が広がります。国内で作れる米は、休耕など一切行わず最大限に作付けすべきでしょう。もし米が余るなら小麦やトウモロコシの代替原料として、それでも余るなら当面は家畜にでも食わせてやったら良いのです。

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2008年8月 6日 (水)

750 汗は裏切らない

パンクしたHDDのデータがやっと回復しました。とは言いながら、クリーンルームでHDDを分解し、ディスクのデータを読み取るその作業に大枚5万円も取られてしまい、夏休みに山に向かう資金が不足してかなり落ち込んでいます。

さて、「かいた汗は裏切らない」とは誰の言葉だったでしょうか。現代社会が抱える問題の多くは、汗をかかなくなった事に原因が見出せるような気がします。健康面について言えば、特に夏の暑さに対する抵抗力の無さは、夏に汗をかかないエアコン・シンドロームの重大な症状だといえるでしょう。汗腺の発達は、かいた汗の量に比例するような気がします。実際、生まれてから3ヶ月間の平均気温が、その人の汗腺の密度を決定するとの研究もあります。

汗をかく満足感は、人の労働行為への確認としても重要です。その昔、汗をかく事は真面目に労働する事と同義でした。真面目に働く事の重要性は、その人の存在理由の確認につながる点にあります。とりわけ農業従事者が大多数を占めた時代においては、働く事はその結果としての相応の農作物を得ることを意味していました。働いて、生きるための糧を得て、それを食べて満足感を得る事が即ち自分の存在を確認する行為でした。従って、食事のたびに口にした食糧には「ご馳走様」と言って感謝の念を奉げてもきました。

環境問題にも、現代人の健康悪化と同様の原因が潜んでいるような気がします。環境の保全は、本来環境に自然に存在する材料を使って行わなければなりません。そうでなければ、使った資材が用済みとなった後に、それを廃棄する事による別の環境問題(環境の病気)を引き起こすからです。分かりやすい例で言えば、洪水を防ぐために重機を使って鉄やコンクリートのダムを作ってはならないと言うことです。そうではなく、ご先祖様たちが行った様に、山に広葉樹を植えて洪水を抑え、渇水期にはその林床(フカフカの落ち葉にたっぷりと水を含んだ土壌の事です)から染み出る水が、川の水量を一定に保つ仕掛けこそが自然であるわけです。

植林は機械では出来ません。どうしても、人間が腰に苗木をくくりつけて斜面を登り、額に汗して苗を一本一本植えていく作業が欠かせないのです。しかし、少し前のご先祖様はやや考えが浅く、このルールを踏み外し、「将来金になると考えた木=針葉樹」だけしか植えませんでした。結果は、今日みられる様に木がヒョロヒョロで林床に保水力が無く、殆ど価値の無い山林を残したのです。とは言いながら、いくらかでも先祖様の汗に報いるには、たとえヒョロヒョロ針葉樹であっても工夫を重ねながら最大限に利用するしかない、とは言えるでしょう。

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2008年8月 5日 (火)

749 ヒステリシス

完全な可逆サイクルが存在しない限り、全ての現実の現象は何らかのヒステリシス(履歴)現象を伴います。それは、自然現象であれ、社会現象であれ全く同じことです。さてその前提で、現在の地球環境や人間社会を眺める時、暗澹たる気持ちにならざるを得ません。つまり、問題が表面化して、それに対策を打とうにも、忠実に後戻りをしたとしても最早元通りには戻せないからです。温暖化が進んだ反省として、例えば今すぐ1970年代半ばの状態(化石燃料の使用量が半分)に戻せたとしても、自然界の炭素バランスは、既に二酸化炭素濃度で言えば380ppmレベルに見合う状態に移行している訳で、その「行き足(加速度)」には強い慣性が働いていると見なければならないでしょう。その慣性がある限り、化石燃料の使用量を今すぐ完全にストップしたとしても、温暖化の加速は、ホンの少ししか減速できないと予想されます。

ヒステリシスの影響を少なくするためには、自動制御の分野では、外乱や先の変化を予測して、やや大きめの修正制御信号を入れる事(フィードフォワード)がよく行われます。この際の問題点は、正確な予測がないと、逆に制御が不安定になる場合もあり得るという事です。温暖化一つを取ってみても、予測値の幅は非常に大きくなっていて、明確な効果を得るためには、一体どの程度の軌道修正を行わないといけないか、という基本的な点でさえまだ明らかになっていないわけです。

投稿者の感触では、これまで資源やエネルギーの使用量を増やしてきた割合の倍のスピードで減らして行かないと、温暖化にさえ歯止めは掛からないと見ています。それは、過去25年掛けて倍になった化石エネルギーの使用を、今後の10数年で半減しなければならない事を意味します。F田首相の言う2050年半減などノンビリした話ではなく、2020年半減が必要だと言って置きます。この数字は、事実上、温暖化の影響により大災害の多発や、石油資源の枯渇の明らかなシグナルでも発せられない限り、政府や企業や市民の決意だけでは、殆ど実現困難な数字でもあります。

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2008年8月 4日 (月)

748 植物力

以前にも取り上げましたが、再度植物の持つ力について考えてみます。生物が陸に上がってから、7-8億年くらいは経過していると言われています。勿論、今日までの間、地球気象が全く安定していたわけではなく、自分では動けない植物にとっては非常に厳しい時代を生き抜いてきたのです。植物は、最初の「裸子植物」から、現在の主流である「被子植物」へと進化を遂げました。固い殻を持つ種子を作る事により、気候が悪化しても、例えば大賀ハスのように、何千年も土の中で眠り続け、その植物にとって繁茂しやすい気候状態に戻った時にゆっくり目を覚ますことも可能となります。

厳しい気候のストレスは、また植物自体のガード力を高めました。樹木は、虫にも食われにくいリグニンという物質を発明し、樹皮を硬くし、またセルロースという、自然界では最強の繊維を発達させて幹を作って重力にも打ち勝ち、高さが100m以上もある樹木(ジャイアントセコイヤなど)にまで進化を遂げました。一方では、何かの拍子に途中で重力に逆らう事をやめた、ズボラな「しだれ柳」や「しだれ桜」の様な植物、あるいは重力への抵抗は他の植物や構造物に任せ、それを利用して伸びる蔓植物や蔦などへも進化を続けました。それは、ひとえにより多くの太陽光の獲得と、一方では土壌からのより多くの水分・養分の獲得合戦での「生き残り戦略の歴史」でもあったわけです。

葉緑素は、植物の葉の中では太陽光を固定し、養分として根に蓄えための「化学工場」ですが、原料はといえば、僅かに二酸化炭素と水と太陽光に加えて僅かなミネラル分だけです。この小さな化学工場で、それこそ数限りない種類の物質を、常温状態で生産してしまう能力を持っているわけです。こんな芸当は、現代の「稚拙な」化学工業には逆立ちしても真似できません。化学工場では、石油や塩やアンモニアなどの原料と、触媒と、大量のエネルギーを使って高温高圧を発生する複雑で大掛かりな設備を使わなければなりません。柔らかい、植物の葉だけが持つこの物質合成力こそが即ち「植物力」の真髄なのだ、といえるでしょう。私たち人類を含む、動物は、ひたすら植物力を頼りにし、それにすがりながら生きていくしか仕方がないひ弱な存在なのです。

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2008年8月 3日 (日)

747 輻射コントロール

これからの技術として投稿者が注目しているのは、省エネ技術でも、燃料電池でも太陽電池でもなく、「輻射コントロール技術」です。少し中身を説明すれば、主として遠赤外線をコントロールする技術ということになります。可視光線やレーザーやX線など、人間が作り出した光線(広義には電磁波ですが)のコントロールはそれなりに出来ています。光源があり、それを集めるレンズや反射させるミラー、或いはそれを遮り照度を制御する技術のことです。

しかしながら、遠赤外線は波長も長く、その分透過力も高い反面水蒸気などによる減衰が大きいこともあり、コントロールが難しい電磁波ではあります。この波長の赤外線は、反射させることも、集めることも結構骨が折れます。遠赤外線は、物質に吸収され易い性質を持つので、例えば鏡で反射させようとした場合、一部は反射されますが、一部は鏡に吸収され鏡自体の温度を上げてしまうのです。その理由は、数ミクロン~十数ミクロンである波長が、分子や物質表面の凹凸の大きさに近く、強く影響を受けてします事にあります。また、遠赤外線は、空気中の水蒸気やガス分子でかなりの部分が吸収されてしまう事もあり、エネルギー波としては扱いにくい性質も併せ持っています。

一方自然界では、強すぎる太陽光をそのまま利用する事は光合成以外ではあまり行われず、生物は、地上に降り注いだ太陽光が熱に変ったもの(赤外線や遠赤外線)の形になったものを間接的に利用しています。植物の葉の緑(葉緑素)は、紫外域のエネルギーの高い光線も使っていますが、遠赤外線をエネルギー源として完璧に利用しています。それは、葉緑素が赤色光を殆ど吸収してしまう結果、その補色である緑色にしか見えない事でも明らかです。

8-14ミクロン帯の赤外線は「成長光線」とも呼ばれており、植物の成長に重要な役割を果たしています。もし、この波長の赤外線を効率よく発生させる技術があれば、ハウス栽培での大幅な省エネルギーも可能となるはずです。また、この波長の赤外線は、人間にも心地よいものであり、やはりこの波長の赤外線を効率よく発生させる暖房器具が発明されれば、気温が低くても暖かく暮らす事も可能となるでしょう。

暑さの感じ方は気温だけではなく、体表面での赤外線の吸収・放散の収支も大きく関係していますから、現在の「冷風による冷房」はあまりにも非効率な方法だと言えます。人間を涼しく感じさせるには、体の表面から放散される赤外線を、上手く取り去ってやる事が最重要なのです。例えば、赤外線を吸収し、それを外に向かって再放出する性質を持つ衣服が発明されれば、それこそが究極のクールビズ衣料と呼べるものですし、もし家の壁にその様な機能が付加出来れば、エネルギーを使わなくても涼しい家が出来るはずです。

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2008年8月 2日 (土)

746 薄っぺらな「環境立国」

手元に、昨年K境省が作った「21世紀環境立国戦略」なる小冊子があります。いつも感心するのは、お役人が作った資料は、中身があまり無いのにも関わらず非常に上手く作られている事で、この冊子でも確かに現状分析と課題を述べ、箇条書きにされたいくつかの戦略を、図表をまじえて判り易く書かれています。しかし中身を良く読むと、実は何も伝わってこないのです。ためしに、この中で述べられている8つの戦略を書き並べて見ましょう。1)気候変動克服に向けた国際的リーダーシップ、2)自然の多様性の保全、3)3Rを通じた資源循環、4)公害克服の知恵を使った国際協力、5)環境・エネルギー技術による経済成長、6)自然の恵みを生かした地域づくり、7)環境を通じた人づくり、8)環境立国を支える仕組みづくり、以上です。

さて、この中に注目すべき戦略があるかどうかを問われても、投稿者としては、明確な数値目標と、それを実現するための具体策が示されない「戦略」には何の意味も見出せません。この冊子に書いてあることを翻訳すると、「環境は大切だから皆で頑張りましょう」程度の中身に留まっています。上の戦略にしても、公害の克服と2度のオイルショックで生まれた知恵を、前面に押し出していても、日本が「それなりの」環境先進国であることを強調しているに過ぎません。その裏を返して現実を眺めてみれば、列島改造でめちゃくちゃに掘り返された国土と、ダムで土砂がせき止められて痩せた海岸と、全く手入れされなくなった山林と、その結果貧栄養化が進んでしまった「死んだ海」と、埼玉県の面積に匹敵する耕作放棄地が列島のそこここで見られるではありませんか。それらを放置したままで、環境立国などと胸を張ってみても、ただの虚勢でしかありません。

環境政策は、社会インフラ、エネルギー、食糧生産、農林水産、経済、教育などを抱合する、非常に多面的なものであるべきですが、単独の省庁のそれも金も力も無いと言われるK境省の「環境立国戦略」をいくつ作って並べ立ててみても、それらに重みはなく、実際の効果も期待できないものと受け取られることでしょう。

地球が直面している課題の危機感からすれば、この国の首相が自ら環境大臣を兼務し、省庁横断的に優秀な人材を集めて環境戦略を立てない限り、今後とも予算のムダ使いに終始するだけです。国が立てる戦略には少なくとも、誰が、何時までに、何を、どうするか、その際の予算はどう確保するかが明記されていなければならないでしょうから。

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2008年8月 1日 (金)

745 休題(山登り)

いま頭の中は、次に向かう山の計画でいっぱいです。そこで山が何故人を引きつけるか考えて見ました。山登りは、苦しい作業です。急な登山道を、時には危険と隣り合わせながら登っていきます。高さが2000mを越す様になると、気圧が下がるとともに、空気中の酸素量も結構低下します。2000mでは地上の2割減、3000mでは3割減程度でしょうか。その中で、結構筋肉に負担を掛けて登る訳ですから、呼吸も苦しくなるはずです。

しかし、一方で山登りでしか味わえない醍醐味も数え切れないくらい挙げられます。森林の中を歩く時の樹木が出す芳香の深呼吸、沢登りの時の涼しく爽快な冷風、雪渓での真夏の雪の感触、稜線に上がった時の涼風、何より見晴らしが利く高度まで上がった時に広がる眺望は、せせこましい都市に暮らす人間にとっては、何よりも得がたい体験となるようです。投稿者も、特に独立峰に立った時の喜びを、最初に連れて行って貰った富士登山での360度の景色で味わってしまい、以来山登りが病み付きになった様な気がします。この時に、もし頂上がガスっていて眺望がゼロだったら、たぶん苦しい体験だけが残って、その後の山登りが続いていたかどうか疑問です。

もう一つのポイントは達成感でしょうか。人は、少し苦しいくらいの体験をクリアした時に達成感を感じ、同時に脳内物資(βエンドルフィンなど)が放出され、快感を得る様にできています。便利になってあまり苦しい事の無くなった今の社会では、山登り程度が手軽で適当な「肉体的負荷」なのでしょう。勿論克服できないほどの負荷をかければ、結果は山中で動けなくなり、ヘリコプターのお世話になる事にもなり、挫折感しか残りません。そこまで行かない、しかし自分にとっては厳しい「適当な負荷」こそが、達成感のある山登りのポイントだといえるでしょう。

さて盆休みは、また南アルプスに向かうか、或いは北アルプスに入るのか、楽しく悩んでいるこの頃です。

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