« 2008年8月 | トップページ | 2008年10月 »

2008年9月30日 (火)

805 100kmカーへの道(動力伝達系)

100キロカーの場合、軽い車体と小出力のエンジンの組み合わせになりますから、変速装置には重たい歯車変速機などは不要です。バイクに採用されている、自動遠心クラッチ付きの、ベルト駆動の変速機程度で十分でしょう。これは伝達効率も実はそれほど悪くもありません。また衝突時の安全性を考えれば、やはりエンジンは前置きのFF構造とすべきでしょう。

最終段の動力伝達も、やはり差動歯車(デフ)など重たい鉄部品を使うべきではありません。タイミング(歯付き)ベルトとフレキシブルなシャフトの組み合わせなどで十分です。操縦安定性さえ確保できるなら、三輪にするのも一つの選択肢でしょう。そういえば、その昔ドイツのメッサーシュミット社が作った前二輪の三輪車があり、それをふるさとの町の「新し物好き」の医者が乗り回していたのを思い出しました。つまりは、燃費と安全性さえ確保できるのなら、100キロカーのコンセプトにはタブーなどは存在しないのだ、ともいえます。

今の車の動力系を徹底的に検証する中で、問題点は比較的簡単に見つかるでしょう。その方法は比較的単純です。それは、室内のテストスタンドで車を通常通り動かし、熱画像カメラで動力系のあらゆる部分を撮影すると言うものです。効率の悪い部分、例えば自動変速機やデフ(差動歯車)や軸受け部やタイヤなどからは、高いレベルの熱の発生が観察されるはずです。より高い熱の発生する部分は、同時に摩擦損失の大きな部分なので、これを目のカタキにすれば、自ずと改善すべきツボが見えてくるでしょう。

さてFFで、超低速回転エンジンを採用した結果、床下にはプロペラシャフトも大きな排気管やマフラーも必要なくなり、床面は限りなく低くフラットにすることが可能です。その分、座席を立てて視野を確保しても、車高をかなり低く抑える事も可能です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年9月29日 (月)

804 100kmカーへの道(潤滑)

全てのメカニズムの機械効率上で一番の障害となるのは実は摩擦だと思っています。工学の世界で、摩擦学(トライボロジー)があまり重視されていないのは、実は悲しむべき事態です。車の走行上の効率でも問題となるのも、タイヤと路面との摩擦(路面抵抗)、パワートレインの機械損失、高速走行では空気との摩擦など、車を後ろから引っ張る諸々の摩擦なのです。先ずは、エンジン自体の機械損失を考えて見ましょう。その損失で特に大きいと考えられるのは、ピストンとシリンダー間の滑り摩擦、各軸受けの滑り・転がり摩擦、歯車や変速機の機械損失です。スライド面としては低摩擦の個体潤滑が理想ですが、必要悪としてエンジンには潤滑油を回しています。しかし、油膜を介して金属を滑らせる際には、潤滑油自体の粘性による摩擦ロスが結構大きいのです。その意味で潤滑油の性能は、エンジンの機械損失を低減させるにはかなり重要な役割を演じます。それと、潤滑油を回すために、仕方なく油圧ポンプを駆動しますが、これもマイナスの動力になります。

結局摩擦損失を下げるには、上で述べた燃焼効率と同じく、極限まで常用回転数を下げるのがもっとも効果的でしょう。元技術屋の山勘で言えば、超省エネエンジンの常用回転数は、多分今のエンジンのアイドリング回転数に近くなるはずです。具体的には800-1000回転、或いはそれより低くなるかも知れません。トロトロと回転する「ゆるゆるエンジン」の登場です。

低速、低摩擦のエンジンでは、摩擦損失による熱の発生も最小限です。焼き付きのリスクも低下するので、上手く行けば安い金属材料で済ます事も可能でしょう。摩擦力は、物体間の摩擦係数とそこに掛かる荷重の積ですから、エンジンの出力が小さくなると、摩擦損失も小さく抑える事が可能となります。更には、粘度の低い潤滑油を用いても焼き付きも問題にならないでしょうから、二重の意味で摩擦損失を抑えることができるでしょう。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年9月28日 (日)

803 100kmカーへの道(エンジン)

現在の主流であるガソリンエンジンは、実は原理的に大きな問題(壁)を抱えています。それは、ダイムラーベンツ以来変っていませんが、液体であるガソリンを、気体である空気(酸素)と混合させ、それに着火するという基本原理に根ざしています。つまり、キャブやインジェクションノズルで「霧化」された液体は、確かに細かい霧ではあってもまだ液体の状態であるわけです。高温のシリンダー内で、急速に気化はするにしても、高回転のエンジンほど着火の瞬間でみればガソリンの一部が液体のままで燃焼せざるを得ないので、結果としては燃焼効率上の壁が生じます。

エコランカーでは、エンジン回転数を極限まで低く抑えます。そのため、ガソリンはほぼ完全に気化した状態で空気と混合し、ほぼ完全燃焼させることが可能なのです。つまりは、完全燃焼こそが、高いエンジン効率の第一の要件なのです。結局、100キロカーのエンジン向けには、超ロングストロークで、かつ低回転で高いトルクの発生が実現できるエンジンを開発する必要があるでしょう。このエンジンは、クランクシャフトの腕が長くなるので、エンジンの大型化を招きがちですが、そこは上手いメカニズムを考えて、コンパクトにまとめるしかありません。

投稿者の一つの思いつきは、パイロット点火のために少量のガスを使うというものです。LPG車やLNG車の効率が高くて、排気ガスが清浄なのは、燃料ガスが空気と完全に混合し完全に燃焼するからです。また燃料の中に数%の水を細かく分散させる方法も有望です。水が蒸発する際に燃料の水滴を分断するからです。完全燃焼が保証できれば、圧縮率のジレンマからも開放されるはずなのです。圧縮工程とは、必要な量の空気を確保するため、結局負のパワーを要求しているからです。多くの燃料を噴射するためには、高い圧縮率が要求されますし、少ない量のガス燃焼には低い圧縮率で十分です。そこで、ガスとガソリンの2段燃焼方式として、あるいは水の水蒸気爆発でガソリンの気化率を高めてやれば、低い圧縮率でも燃焼効率は十分確保できるのではないかと踏んでいるのです。また、上記の低温燃焼エンジンでは、排気ガス中のNOxも大幅に低減できるでしょう。(NOxは高温燃焼で多く発生)

さて、2人乗りの100キロカーを時速60km+αの巡航速度で走らせるには、これも山勘ですが、10馬力もあれば十分でしょう。これは、つまりは原付バイクのエンジン出力に毛の生えた程度のレベルだと言えます。勿論、このエンジンには、セルモーターなどの贅沢部品はつけません。足踏みか手回しのゼンマイか蓄圧器に力を貯めておいて、クランキングを行います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年9月27日 (土)

802 100kmカーへの道(概要)

抽象的な反省文を書く事にも少し疲れましたので、ここらで元技術屋として、現役の車産業の技術者諸氏に思いっきり具体的な挑戦状を突きつけたいと思います。

さて、いまや街で石を投げればT社のPリウスに当りそうな時代です。初代Pリウスを注文し、数ヶ月待たされてやっと手に入れた人は、それなりにエココンシャスだった可能性はありますが、最近の「追従Pリウスオーナー」の購入動機は、車両代と燃料費の金銭的な損得計算の結果に過ぎない事はほぼ間違いないでしょう。

しかし、もしT社の技術者や消費者が、実質燃費で20km/ℓ走るこの車の性能程度に満足しているとすれば、全く情けない話ではあります。根性のある技術者なら、今の車の1/5程度の燃費、即ち100km/ℓ(以下100キロカーと呼びます)レベルの燃費性能を持つ超省エネカー開発に挑戦すべきでしょう。しかしこれは決して夢物語ではありません。何しろ、実績としてガソリン1リッターで数千キロkm走る事は何度も証明されているわけです。(エコランカーレース)

現在市場にある車をいじくり回して省エネカーに仕立て上げる方法では、精々Pリウス程度の性能しか達成できないと見ています。そうではなくて、100キロカーのベースとすべきは、燃料を極限まで節約して走るために、走りに無関係な全ての機能を省いてしまった「エコラン実験車」しかないのです。つまり、今の量産車からの引き算ではなく、エコランカーへ公道を走るのに最低限必要な機能を加えて行く、足し算のアプローチでなければ100キロカーの実現は不可能なのです。エコランカーは、多分ドライバーの体重と同じ程度の車重(60kg程度)しかないはずですが、そこに保安装置つけ加え、耐久性能や安全率を掛け合わせて、例えば2人乗り車で車重を2-300kg程度に押さえ込めれば、100キロカーの実現が見えてくるでしょう。

以下、車のコンポーネント毎に具体的な挑戦状を書き付けていく事にしましょう。偶然にこのブログを読んだ車関係の技術者は、この挑戦状をぜひ真正面から受け取ってもらいたいものです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年9月26日 (金)

801 哲学?

投稿者は元技術屋でしたので、つい物事を理屈で割り切る癖がついてしまっています。それを合理性とも呼んで、自分の行動規範としてもきました。しかし、深く反省してみれば、一体何が「理(ことわり)」なのかを定義をしないまま、理屈だけを振りかざしてきたような気がするのです。合理性の理は、果たして科学の理なのか、真理の理なのか、あるいは倫理の理なのか、あるいはそれらを全て抱合する森羅万象(あえて神とは言いませんが)の理なのかが不明確のままか、或いは全く無視していたのかも知れません。技術屋の合理性では、ささやかな人間の知識を体系化した科学や工学の原理に矛盾していないか、コスト最適か効率最適か程度のチェックしか要求しません。したがって、技術者は何の矛盾も感じずに、大量殺戮兵器の代表である核爆弾の開発や、国力の誇示でしかない月面着陸プロジェクトや、環境を無視した車の大量生産にも喜んで(或いはそれと気づかず)協力をしてきたと思うのです。

過去の自分を含めた、(イケイケドンドンであった20世紀の)技術屋に決定的に欠けていたのは、深く思慮を重ねる作業だったと思うのです。それを哲学などと呼んだりしますが、少なくとも投稿者が知る限り「技術哲学」や「技術倫理」などというタイトルをテーマにした著書は、たぶん夫々数冊しか書かれていないと思います。山のように発刊される「品格本」に比べて、なんと寂しい状況でしょうか。個々人の品格などは、そのそも「理」に叶った価値観のベース上にしか存在し得ないもののはずです。とは言いながら、人間が精々数十年の寿命の中で考え付く事は、先人の残した膨大な著述を含めても限りがあります。それを指して投稿者は「人間の浅知恵」と呼んでいますが、少なくとも行動を起こす前には、たとえ浅知恵であってもそれを使って(広い意味での)合理性をチェックする必要があると思うのです。

さて法令遵守とは、最低限法律に触れない線を守れば良い単純なルールですが、それさえ守れない企業のなんと多いことでしょうか。人間が、技術者が最低限守るべきは、人間がこの環境の中で、可能な限り他の生き物と共存できる「理」であるはずなのです。それを今の時代は「環境保全」や「生物多様性の確保」、或いはもっと分かり易く「省エネや温暖化防止」と呼んでいるに過ぎないのです。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2008年9月25日 (木)

800 油圧装置の省エネ

機会があって、油圧装置の省エネルギーに取り組んでいます。元機械屋なので、得意分野のはずなのですが、何しろ持ち合わせているのが数十年前の知識なので、改めて少し勉強し直しました。結論としては、何十年経っても油圧は油圧で、ちっとも進歩していないようなので、すこし安心しました。

さて、油圧装置のあまり知られていない「常識」としては、実際にアクチュエータを動かして、仕事をする割合(有効仕事率)は実は、50%を大きく下回っていると言う事実です。油圧装置はメカの塊なので、多くの部分でパワーの損失があるのです。例えば、油圧ポンプの摩擦、管路抵抗、アクチュエータ損失、制御弁損失などなど。これらの損失は「ほぼ全て熱となって」油の温度を上げますので、仕方なく全ての油圧装置にはオイルクーラーが備えられています。しかし、夏場には油の冷却が十分行われない結果、油温が上がり(粘度が下がり)装置のトラブルを招いたりもしています。

ところで、丁寧に調べてみると、エネルギーコストがますます大きくなりつつあるご時勢なので、各油メーカーからは、省エネルギーを売りにした新しい銘柄が発売されていました。つまり、これらの油を使うと、摩擦損失が5-10%小さくなる結果、消費電力が下がり、油温の上昇も抑制されると説明しています。話半分としても3-5%くらいはパワーダウンしそうです。捨てたものではありません。しかし、油を交換するとなるとかなりのお金が掛かります。そこで、投稿者が考えたのは、タダで出来る方法です。殆どの油圧装置はフルパワーを出していない時に「低圧」に切り替わっています。低圧と言ってもポンプは回っており、油圧も発生していますので、フルパワーの30%程度の電力を消費しています。パワーレベルは低いものの、時間的には圧倒的に低圧モードの時間帯が長いので、低圧時の油圧を調整し、例えば10%程度下げておくと、ほぼその割合で消費電力が下がるのです。一般の機械ユーザーは、確かにオペレータではありますが、一方で装置の中身(メカニズム)には結構弱いので、こんな簡単な調整もなかなか出来ない悩みを抱えているようですが・・・。尚、前述の低摩擦油の価格は1.5倍程度高いのですが、油の寿命が3-4倍に伸びるので、採用すれば作動油自体のコストも下がります。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年9月24日 (水)

799 屋根農場

798に関連して、食糧自給率の向上にも寄与する様なミニ農場を時々夢に描くことがあります。それは、たとえばスーパーマーケットやショッピングセンターの屋根の一部を利用した「水耕栽培」農場です。短期間で成長する野菜を植えうけた不織布のコンベアベルトをゆっくり回転させ、1週間か10日くらいで端から端まで移動するようにします。そのコンベアベルトのところどころには、肥料分を溶かした水を灌水するノズルを渡します。天候をモニターしながら、コンベアスピードは多少加減します。スーパーの店員は、朝の開店前にその日の分の野菜を収穫し、軽く埃を洗って直ちに店の棚に並べます。カードには「自家農園栽培・無農薬・朝取り野菜」と表示します。

不織布のベルトの消毒には、農薬は一切使わず、少量の蒸気と太陽光の紫外線で殺菌すればよいでしょう。屋根農場の運転には大きなエネルギーは不要です。小さなコンベア送りモーターや灌水ポンプを動かすのは、小さな面積の太陽光発電パネルで十分です。

屋根はどうせ活用されていないスペースですし、元を質せばスーパーやショッピングセンターが建っている場所の多くは、その昔は多分立派な農地だったはずです。これは、終戦直後に比べて2/3にまで縮小した農地面積を、僅かでもリカバーできる数少ない方法でもあります。屋根農場は、無農薬でかつ究極の地産地消の枠組みでもあります。この仕組みは、野菜の新鮮さ、食の安全、運ぶエネルギーの削減いずれの条件もクリアできると思うのです。

勿論、このシステムをビルやマンション屋上や家庭の屋根に転用するのも「あり」でしょう。その場合は、規模が小さくなるでしょうから、野菜の種類は限られるかもしれませんが、なんの問題もありません。必要な事は、より多くの野菜を栽培しようとする工夫だけなのです。こんな悩みは、むしろ楽しみでさえあるはずです。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2008年9月23日 (火)

798 食料自給率

食料の自給率を向上させようと、やっと政府も重い腰を上げました。とりあえずは、ささやかに40%を45%に上げるのだとか。しかし、大きな問題点が横たわっています。それは、耕作面積の減少です。減反や耕作放棄などの理由で、埼玉県の面積ほどの作付けが行われていない潜在的耕作地は確かに存在します。しかし、終戦直後は600ha 以上あった耕作地は、いまやその2/3に減少してしまっています。その大きな理由は、道路や宅地や工業用地として、優良な田畑が埋め立てられた事にあります。困った事に、もしこれらの農地の一部を回復させようとして、埋め立てた表土を取り除いても元の田畑には戻りません。それは、埋め立て時に田畑の表土を取り除いた上で、砕石や山土などを入れているからです。田畑の土は単なる土くれではなく、有機物や微生物が豊富な「土壌」でなければ、作物は育たないのです。山土を入れただけの痩せた土地で育つのは、雑草程度しかありません。

つまり、食料自給率を上げようと目論むなら、まずは農地の回復から着手しなければならないでしょう。しかも、回復させても直ちに優良な農地の戻すことは無理で、土を肥やすためにはさらに数年の年月が必要となるはずです。戦時中は、確かに食料自給率は100%であったはずです。戦争の激化とともに、植民地であった大陸からの食料輸送はほぼストップしてしまったからです。人々は、あらゆる耕作可能地を耕し、イモなど比較的痩せた土地でもそれなりに収穫できる作物を植えつけました。しかし、この非常事態のときでも日本の人口は7千万人レベルだった訳です。1.2億を超える人口を抱え、しかも1/3の農地を潰してしまったいま、単純な算数でも明らかなように、逆立ちしても食料自給率は40%を超えることは至難の業なのです。ましてや、終戦直後に比べて肥料や農薬の性能は大幅に高くなっている状況での40%を、たとえ5%向上させるのさえ骨が折れる話なのです。

ここでの結論は非常に簡単です。それは、食糧の需要をたとえば10%下げれば、相対的に食糧自給率は45%に向上する計算になります。いくつかの統計では、期限切れや食べ残しで、食糧の30%が生ゴミとして廃棄されているのですから、いくつかの工夫を組み合わせてそれを20%に下げるだけで良いでしょう。もし廃棄食糧をゼロに近づける事ができれば、今のままでも食糧自給率は60%近くに上げる事ができるのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年9月22日 (月)

797 原因者負担

現在の税制は、基本的には「受益者負担」の原則に従って整備されています。行政サービスや道路などのインフラを利用し、その便益に浴する者がそれ(税)を負担する事になります。そのため、今の税制の中から、例えば温暖化対策に予算を支出するには大きな抵抗が生まれることが予想されます。いま温暖化対策の手を打っても、見かけ上はたちまち誰かが利益を受ける訳ではないようにも見えるからです。

こと環境問題や犯罪被害などのように、負の利益(損害)の発生を伴うできごとに関する限りは、問題を悪化させる原因者に負担を求めなければ、解決には向かわない性質のものなのです。現在、ガソリンに掛かっている税金は、二酸化炭素排出を抑制する目的ではなく、「道路族を食べさせるための目的税」でしかありません。環境改善対策の受益者は、現世代ではなく将来世代であることを忘れてはなりません。しかも、この負の利益の原因を作ったのは今の世代ですから、原因者負担の原則に従えば、いま直ちに原因者を特定し、罪の重さを量り、それに見合う罰を科し、服役させなければ問題の解決は不可能だといえます。こんな簡単な原則に激しく抵抗しているのは、経済の規模拡大こそが国の繁栄を支え、国際間の自由貿易(グローバリズム)こそがその原動力だと信じ込んでいる、高度成長時代の幻影を引きずっている「あの人たち」であるわけです。

彼らが、現代の繁栄は将来世代の権利を先取りする事によってのみ可能であるという事実をどの程度わきまえて発言、行動しているのかは想像するしかありませんが、悲しいことに殆ど意識していないのが実態ではないでしょうか。話は非常に簡単なのです。二酸化炭素や廃棄物をより多く排出するものに、より重い罰(税金や刑事罰)を科するだけなのです。その罰がどの程度で効果を発揮し、あるいは経済を減速させるかは、罰を徐々に重くしていくだけでよいのです。効果が確認できた時点、あるいは経済が耐え切れないほど冷え込む直前に、そのレベルを固定すればよいのです。勿論この種の罰には、それを逆手に利用した新しい産業やビジネスを生み出すことも十分期待できます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年9月21日 (日)

796 思えば遠くに

投稿者流の喩えですが、現代の社会を、遊び道具を求めて家から遠くまで出かけた子供に重ねて見ます。遊び道具とは、近代科学・技術を使った諸々のガジェット(Gadget)です。それらは、機械や電気仕掛けが駆使されており飽きません。もし飽きても心配は要りません。誰かが次々に新しい仕掛けを考えて提供してくれるからです。食べ物も、持ってきたお小遣いさえ使えば、問題なく手に入れる事ができます。子供は楽しくて、たのしくて仕方がありませんが、さらに遠くへ行けばもっと楽しい事が待っているはずだと思っていました。

しかしながら、ふと気がつくと周りは薄暗くなってきていました、お小遣い(資源)も少なくなって心細くもなってきました。後ろを振り向くと、自分(達)が捨ててきた壊れたオモチャが、ゴミの山を作っていました。それにたとえお金を出しても、食べ物をこころよく売ってくれるお店(食料輸出国)も少なくなってもきました。さらに、なにやらやたらと暑くなり、空気も汚れて息苦しくもなっていたのです。家に帰れば、山のような宿題(積年の課題や莫大な借金の清算)が待っているのです。子供(達)は立ち止まって、さらに楽しみを求めてさらに先へ進むべきか、あるいは後戻りして家に帰るべきか悩み始めています。

戦後の日本は、先を行く「遊び人」であるB国の後をひたすら追い求め、一時は逆に追い越したりもしました。しかし、先に進むほど後戻りは困難になるはずです。曲がりなりにも食うには困らないご時勢になり、狭いなりにも自分の家を持ち、下手すれば家族全員分の車を持てるまでにもなりました。これ以上どんなオモチャが必要で、どれほど遠くまで出かければ気が済むというのでしょう。投稿者は、遅きに失したとはいえ、50歳の時にやっとこの事に思い至り、元来た道を引き返し始めたのですが、できれば技術屋として打ち捨ててきたゴミどもをいくらかでも整理すべく、環境カウンセラー(環境坊主)になって経を唱え始めたという次第です。思えばまばゆい科学・技術や、そこから生まれたオモチャに目がくらんだヒトは、知らない間にずいぶん遠くへ来てしまったものだと思いますし、一方で帰るべき家は遥か彼方にかすんで姿も見えないのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年9月20日 (土)

795 休題(遊ばないストレス)

現代社会の病巣のひとつとして投稿者が疑っているのは、感覚遮断症候群です。チンパンジーやイルカなど高等?な哺乳類を観察すれば分かりますが、彼らは本当に遊び好きです。道具やボールを渡せば、実に色々な遊びを考え出します。それは、たぶん「食う・寝る・繁殖する」には十分な重さの脳に加えて、余剰な脳細胞を授かっているからだと思われます。人間は、さらにそれ以上の余剰(リダンダンシー)を貰っているはずです。したがって、人間はチンパンジー以上に遊ばなければならないように運命付けられているのだ、とも言えるでしょう。では遊びとは何か。人間の場合、特に手を使う遊び(手遊び)や体の一部を使う遊び(体遊び)やクイズやナゾナゾなど脳に負荷をかける遊び(言葉遊び)が特に重要ではないかと思っています。子供や大人がプラモデルに熱中するのも、クイズ番組がこれほど普遍的な人気を持っているのも、スポーツと呼ばれる「遊びの文化」がこれほど盛んになったのも、この事を物語っています。

さて、これら三つの遊びが十分実行されていないと、ヒトはある種の病気なってしまうのではないかと投稿者は疑っているのです。テレビゲームは、画面の中にはこれらの要素をかなりの程度盛り込んではいますが、所詮バーチャルリアリティの世界でしかありません。実際に、自分の体や脳を使って遊ばなければ、擬似遊びでは脳の刺激剤としては、質と強さが全く足りないと思うのです。その意味で、今の若者の多く、あるいは忙しすぎるサラリーマンは、遊びから得られる感覚に対して一種の「感覚遮断症候群」に陥っているのではないかと疑うのです。この状態は、実は人間にとってはかなりの精神的(あるいは脳の)ストレスで、人間はこの種のストレスに対抗する手段をまだ発明していないのだ、とも思っています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年9月19日 (金)

794 多品種多量2

多品種多量生産を維持するためには、T社の生産方式に代表されるように、膨大なサプライチェーンを構築し、それを維持する必要があります。しかしこの考え方では「在庫は悪」なので、これらのサプライチェーンは、ピンと張った糸のように緊張し、かつ日々動いてもいます。この「見えないベルトコンベア」を動かすためには、夜間の高速道路を見ればよく分かりますが、切れ目の無いトラックコンボイを形成し、翌朝の組み立てラインの稼動に備える必要があります。

生産の省エネ・省資源を図る方法は比較的単純です。先ずは製品の種類を絞るだけでよいのです。その為には、何十年経っても売れ続けるロングセラー(定番商品)を確立する必要があるでしょう。定番商品とは、それ以上改善する余地が殆ど無い究極のデザイン、究極の生産方法、究極のサプライチェーン、究極のサービス体制が確立されているものを指します。その意味で、例えば車産業は、第2のビートルともなる車の開発を目指すべきです。

最近T社で発表したサブコンパクトカーですが、性能を見てがっかりしました。あれほど小さくしたにも関わらず、燃費はPリウスをやや越えた程度だったからです。目指すなら、先ずは50km/ℓレベルの車でしょう。最終的な目標はさしずめ100km/ℓでしょうか。そんな車が出来たら、50年くらいの製品寿命があるでしょうから「定番商品」もどきにはなれる事でしょう。このレベルまで行けば、多分国民車と呼んでもそれほど違和感は無いはずです。温暖化に本気で歯止めを掛けようとするこの時代に、Pリウスの性能程度で誤魔化されてはならないでしょう。

定番製品が各分野に生まれれば、多品種多量生産神話は崩れ、少数の定番製品の絞り込んでの生産が可能になり、メンテナンスに要する部品ストックも楽になり、製品寿命も延びる事になります。多品種多量生産から、「少品種注文生産」への移行です。そんな時代には、車を注文しても、3ヶ月や半年待たされるかもしれませんが、そうなると、たった1週間で終わる「選ぶ楽しさ」よりずっと長く続く「待つ楽しみ」が手に入ります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年9月18日 (木)

793 多品種多量

生物の多様性を確保する事は絶対に必要なことですが、一方で人間が作り出した製品の多様性をどう考えれば良いのでしょう。例えば、車の車種です。30年ほど前までは、各メーカーでは、軽自動車、小型大衆車、中型車、高級車、スポーツ車、ワゴンや商用車程度の区分しかなく、それぞれに装備のグレードが異なるスタンダード、デラックス、特別仕様車程度のバリエーションを準備している程度でした。したがって、消費者はあまり悩む必要がなく、サラリーマンであれば選べるのはせいぜい中型車止まりで、後は懐具合に応じてグレードと色を選ぶ程度のオプションしか許されていなかったのです。

しかし、いまや同じメーカーの同じ排気量の車(動力系は同じものを使い回していますが)外観は、下手をすれば5-10種類は選べるわけです。街中で取り回しの楽なショートボディ車、2ドア車、4ドア車、ワゴン車、スポーツ車、ワンボックス車、2WD車、4WD車などなど。これら多くの車種を目の前にして、消費者は悩む事を楽しめる時代になったといえるでしょう。しかしながら、その為のコスト負担や見えないデメリットを忘れてはなりません。車種の外観を変えるためには、多人数の設計チームが1年なりの時間を費やして設計し、強度計算し、モックアップ製作や風洞試験を行い、製造側に移っても金型製作や部品試作や耐久試験などを繰り返し、購買部門が下請けネットワークに部品を発注し、莫大なCM費用を使ってメディアで宣伝し、その段階でやっと消費者の目に触れるわけです。しかし、現代の製品寿命はますます短くなり、今日の新製品も三月(75日?)も経てば陳腐化して話題性も無くなることでしょう。これらの開発・拡販に掛かる莫大なコストは、結局車の値段に乗せるしかない訳です。山勘で言えばそれは、たぶん売値の20-30%程度には相当するはずです。

投稿者の心の痛みは、しかしコストではありません。個々の車の製品寿命の短さなのです。モデルチェンジが殆ど無かった車、例えばドイツの某初代VWですが、長い間にわたって車の全ての部品には完全な互換性が保たれていたわけです。エンジンはもちろん、車台やドアやミラーや平面ガラスに至るまで、古くなった車や事故車から外した部品は、他の車の修理用にストックされ全く無駄にされることはありませんでした。 続きます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年9月17日 (水)

792 リークコンシャス

一般に、殆どのエネルギーは蓄える事が難しく、一度解放すればその「逃げ足」は非常に速いのです。例外的に、化石エネルギーと呼ばれる石炭や石油、天然ガスなどのエネルギー源は、酸素さえ遮断しておければ、長期間の保存は比較的容易だといえるでしょう。化石エネルギーが本格的に利用される以前は、エネルギーを最も効率よく蓄えていたのは樹木でした。樹木は、数十年~数百年程度の太陽光エネルギーを、セルロースやリグニンなどの炭化水素の形で固定し蓄えています。

さて、酸素と隔離しておいた化石エネルギーも、一度酸化(燃焼)させると、激しく炎を上げて燃え続けます。その際、かなりの反応(燃焼)熱を発生させますので、人類はその熱を上手く利用してきたのです。煮炊きや加熱利用、暖房利用、蒸気力利用、そして発電利用へと、利用する技術レベルを進歩させてきました。しかし、利用技術ほどには進化してこなかったのが、熱の漏れを防ぐ技術ではなかったかと、元技術屋としては深く反省しています。つまりは、化石エネルギーはその本格利用の開始以降、一貫して非常に低い価格が維持されてきており、あまり熱(エネルギー)のリークに対して神経質になる必要なかったのがその大きな理由のような気がします。

しかし、一息ついているとはいえ、いまや石油価格が異常な高値で安定してしまいました。エネルギーの最後の姿は、間違いなく長波長の赤外線放射となって宇宙へ逃げていくわけですから、そこに目を光らせれば、エネルギーのムダが見えてくるはずです。逃げようとするエネルギーを抑える(断熱)するか、或いは熱機関の様に原理的に熱を捨てなければならない場合でも、その廃熱をカスケード利用してやれば良いのです。内燃機関の熱効率は20-30%ですが、残りの熱を逃がすために100℃近くになる冷却水を循環させ、最終的にはその水をラジエータで冷やして(空気を加熱して)いるのですから。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2008年9月16日 (火)

791 時間の尺度

連休中は山(五竜+唐松)に入っていたので、自動アップにしていました。下界に降りてきてまた日常が始まりましたが、山での時間はまるで夢のようでもありました。たった3km標高を上がっただけなのに・・・。

さてBラジルに駐在していた時の話です。国際共同開発プロジェクトに関わっていたのですが、ブラジル式の「ゴム紐スケジュール」には泣かされました。ゴム紐スケジュールとは、投稿者の命名ですが、かの国では開発日程の目盛りが、さながらゴム紐に刻まれているように段々伸びるのです。当初半年の予定で渡航し、滞在期間が半年だからとホテル住まいをしていましたが、結局丸々1年ホテルで暮らす羽目になりました。

確かにその時はイライラもしましたが、考えてみれば時間などと言う刻みは、月や太陽の運航をもとに人間が勝手に決めたものであり、仕事に関して言えば一つのタスクが終わった時が、それに続くタスクの始まりになるのであり、最初に決めたスケジュール通りに仕事を進めようと躍起になるのは、まさに日本的な几帳面さの成せる技なのでした。そう割り切って構えれば、ゴム紐に刻まれた目盛りの中身こそが重要なのであり、日々しなければならない事は、その目盛り(マイルストン)を確実にクリアすることに集中することだけです。

企業で言えば、経営者は、自分たちが勝手に決めた期間(決算期)の中で、赤だ黒だと一喜一憂しています。しかし、時間の尺度を延ばして眺めれば、改めて見えてくるものがあるのだと思います。つまり虫眼鏡で見る短期の事ではなく、鳥が上空から眺めるように、時間の流れを含めた広い視野で自分の企業を見直す作業が欠かせないのです。その結果、これからの時代の方向に照らしてずれている社業は、大胆に見直す勇気が必要だとも思います。もし、社会の方向が混沌の中で読めないのであれば、改めて自分の時間の尺度でオリジナルの青写真を描けば良いのです。自分自身の青写真が描けない経営者は、残念ながら経営者としての重要な資質が欠けているのですから、退場願うしかなさそうです。長い時間の尺度で、いまの日本の政局を眺める時、投稿者としては全く言葉を失います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年9月15日 (月)

790 電中

エネ中との類推で電気エネルギーの利用に過度に依存する人を「電中」と呼んでおきます。フランクリンが雷から電気を取り出し、ボルタが電池を発明し、エジソンによってその電気の大衆化が促進されたのですが、電気中毒が蔓延の主犯は、実は動力利用の拡大であったことは間違いないでしょう。つまり電気モーターの発明です。初期のガソリンエンジンは、車の前に回って人間がクランクを回して起動する必要がありました。しかしセルモーターが付くようになって、車はキーひとつで力の無い女性でも起動できる機械になったわけです。

工場の動力としても、ワットの蒸気機関に電気モーターが取って代わり、起動やメンテナンスが画期的に便利になりました。電力のメリットの本質は、実は「瞬時起動性」にあることを忘れてはなりません。つまり、待たなくても良いという特徴の事です。これが、実は悪性の中毒を撒き散らします。欲しい機能を欲しい時に実現するのが電力だということです。中毒になった人は、アルコールであれ、タバコであれ、モルヒネであれ、禁断症状が起こってしまうと待つことができなくなってしまうのです。車を動かすのに手動のクランクを回さなければならないとすれば、車の使用頻度はすぐにでも90%は減るでしょう。主婦の買い物や、近距離通勤者は間違いなく自転車を使うからです。また、夏場に扇風機を使うのに、外に設置してある自転車型の発電機を1時間こいでバッテリーを充電し、たった10分間しか使えないとしたら、人々は縁側で水を張ったタライに足を突っ込み、団扇で扇ぐ行動を選ぶでしょう。

スイッチを入れた瞬間に、人力の何倍もの力や熱を出すことを可能とするエネルギー源に、人々が夢中になり、中毒になったのは無理からぬ現象ではありました。しかし、私たちは、地球環境の悪化故に、この中毒に楔を打たなければならない事態に陥ったのです。中毒を解消するのに最も効果的な治療法は、それを一定期間断つことしかありません。電気を使わない生活はいまや1~2泊のキャンプ生活でしか実行できないかもしれませんが、それでもたまには「停電になったつもり」で1日暮らして見る体験をすべきかも知れません。このブログでも、以前に「非電化生活」を提案しています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年9月14日 (日)

789 エネ中

アル中からの連想で、このブログではエネルギーへの過度の依存=エネルギー中毒をエネ中と呼ぶ事にします。さてアル中に限らず、殆どの依存症は放っておけば悪化傾向を辿ります。それは、中毒症状を起こす脳内物質が快感を引き起こす濃度の閾値が、その快感に慣れるにしたがって徐々に高くなるからです。つまり、依存症になると依存行為をより強く、より長く続ける必要が出てくるわけです。アルコールで言えば、ビールから酒、さらには焼酎へとアルコール濃度を上げるか、あるいは酒量を増やすかといった「対策」が必要となります。

アル中とエネ中を同根と仮定するなら、エネ中の人はエネルギーへの依存度をますます高めずには居られない人のはずです。例えば車は、エネルギー依存度を図る絶好のモノサシであるといえます。エネルギー依存度の高い人ほど、馬力のある、大型車に乗りたがります。その意味で多くのアメリカ人はエネルギー依存症だと言えるでしょう。何しろ彼らは、普通3-4リッターの排気量を持つ車で通勤し、週末は5-8リッターもの排気量を持つ大型ピックアップトラックでモーターボートかキャンピングカーを牽引して、自然の中での人工的なレジャーを満喫するわけです。キャンピングカーには、温水シャワーさえ装備されているわけです。

エネ中患者の行き着く先は、より多くのエネルギーの消費となるわけですが、近年温暖化という警鐘が鳴らされ、かなりの割合の人がエネ中から引き戻されつつあるようです。それには、ほぼ第3次オイルショックと呼んでも良いようなエネルギー価格の高騰も寄与している事でしょう。しかし、アルコール中毒の人は借金してでも飲みたがります。エネ中の人も、環境や子孫への借金(負の遺産)を残してまで、石油を飲み干そうと暴れまくっているように見えます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年9月13日 (土)

788 ラーニングカーブ

だれの言葉だったか「人間は無能に向かって進歩する」というものがありました。その意味するところは、いくら努力しても、人間の能力はラーニングカーブ(学習曲線=LC)に乗って向上するのであるから、やがては絶対的な進歩の停滞(無能)に向かうしかないのだ、といった事だったと記憶しています。これは、確かに真実を言い当てていますが、普通人間は方法を変えながら学習するので、一つのLCが飽和しても、進歩の可能性はまだ開かれている訳です。ここで言いたい事は、実はそのLCの性質に関してなのです。LCは、新しい事を学ぶスピードを、時間軸を取って描いたものですので、最初は急激に進歩いても、やがてはそのスピードは鈍り、最後は停滞してしまいます。この曲線を逆にしたものが、例えば作業の習熟によるコストの低減カーブともなりますが、いずれにしても、急速な改善がやがては減速し、最後は停滞することには変わりがありません。

これを、例えば温暖化防止に向けた、省エネルギー活動に当てはめて見ます。皆が、省エネルギーを熱心に考え、種々の対策を始めた当初は、確かに削減効果は目に見えて現れるでしょう。しかしながら、これらの対策は、誰でもが考え付くもの、或いは実行が容易なものから手を打たれるはずなので、やがてその効果は停滞を始めます。LCで言う停滞期、或いは飽和期です。計画を立てる人(行政マン)は、ある時期の省エネルギーの結果を外挿(延長)して、その後の予想を行う人種ですから、数年もしないうちに計画の修正を余儀なくされます。しかし計画を立てた人は既に別の部署に配置転換されていることでしょう。

正しい計画では、実行する側の慣れや意気込みの停滞を予想し、初期計画に加えて、二の矢、三の矢を準備しておかなくてはなりません。本当に良いといわれる計画の中には、その計画実行中のポイントポイントでの評価と、それを踏まえた次の矢の準備が織り込んであるはずなのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年9月12日 (金)

787 21世紀型対応

20世紀は、前半の戦争、戦後の冷戦期と不幸な時期もありましたが、全体を通して眺めればほぼ右肩上がりで、その意味では希望に満ちた時代でもありました。つまり、アメリカンドリームに代表される様に、貧しい生まれの人も努力と幸運次第では、一代で大きな財産を築く事も可能であった時代でもありました。普通の人も、普通にさえやっていれば給料も上がり、狭いながらも家を手に入れ、モノに囲まれたそれなりの暮らしも出来たのでした。

しかし、右肩上がりの成長が最早「環境的に無理」であることが明白になった現在、20世紀型の価値観では暮らしていけないこともハッキリしてきたと言えます。では、21世紀型の対応とは具体的には何をどの様に目指せばよいのでしょうか。一つ確実に言える事は、私たちは着地点を明確に決めなければならないと言う点です。物理的に、どのレベルまでなら環境が許すのか、物質的には多分ささやかな生活になるはずのその時代に、精神的に豊かに過ごすためには、何をココロの拠り所に生きるのか、と言った「21世紀型の価値観」を確立する必要があるのです。しかも、その着地点へは、速やかに、しかもショックの小さい軟着陸を果たさなければならないと言う難しい必然性も抱えています。ハードランディングでは、多大な犠牲が発生してしまうからです。しかもその犠牲者は、現世代ではなく将来世代の中に発生するはずなのです。温暖化は、比較的ゆっくり進行する環境ハザードですが、上で言うハードランディングのシナリオで考えられる害悪としては、環境悪化による直接的な健康被害と、それよりも更に深刻な食糧危機があります。前者は日本の4大公害にも見られるように、比較的地域が限定され、被害にも時間的遅れがありますが、後者に関してはある年の突然の干ばつや大水害が、壊滅的な食糧減産=飢餓の発生をもたらします。

この最悪のシナリオを回避するためには、やはりなんらかの方法で、需要(つまりは人間の物欲のことです)或いは生産を抑制し、環境への負荷を大幅に削減することしか考えられません。非常に難しい作業ですが、社会の大多数の合意を得ながら、その適正レベルを探り当てる事こそが、21世紀初頭の課題として据えられるべきです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年9月11日 (木)

786 温暖化問題の本質

温暖化防止こそが、さながら当面の人類の最大の目標であるかの様に扱われ、日夜マスコミを賑わしています。しかし、このブログで何度も書いているように、それが環境問題の本質ではありません。温暖化防止は、多くある環境保全活動のひとつのシンボルにしか過ぎないのです。たとえ温暖化がひどく進んだとしても、多くの生物種が絶滅し、気候の過激化により洪水や干ばつが多発し、結果食糧が不足して飢餓に苦しむ人口が増える「だけ」だと割り切ることもできます。実際に「それ」が起こっても、ヒトの数(世界人口)が何億人かの規模で減るだけでしょう。したがって、地球の歴史上では、たとえば小惑星の衝突で起こった生物種の大絶滅事件に比べれば、些細な出来事だともといえるかもしれません。

温暖化が本格的になれば、生物種の大爆発が起こったカンブリア紀の様に、高温に強い生物種は逆に大増殖することになります。年中繁殖できるようになるゴキブリなどの昆虫は、温暖化によりわが世の春を謳歌するはずです。

温暖化で何が(人類にとって)一番困るかといえば、温暖化は今突然CO2の排出を全面的にストップしたとしても、その後何百年も影響が残る事と、使ってしまった化石燃料(や地下資源)は、最低でも数億年後でないと回復しないという2点に収束します。これを裏返せば、われわれ世代が作った負の遺産で、我々の子孫は長い期間苦しまなければならないでしょうし、使ってしまって廃棄された資源は、人類が存続する期間内には絶対に回復しないと言うことでもあります。全く当然のことですが、数多くの生物種を、絶滅という道ずれに巻き込むにしても、自然はそれを悪化させた原因者に罰を下す事になります。温暖化で長く苦しむのは、人類自身、それも将来の人類である事が温暖化問題の本質なのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年9月10日 (水)

785 ダイエット

ダイエットとは、元々病院食のように厳密に栄養とカロリーが管理された食事を意味します。しかし、この時代は単にメタボを解消して痩せること程度しか意味していないかも知れません。メタボの基準は、しかし精々胴回りの寸法の事らしいので、それが85センチのところにとりあえず一線を引いてしまった訳です。とは言いながら、スポーツマンは胴回りに厚い筋肉があり、90センチの胴回りでも、内臓脂肪は極端に少なく、血液成分も多分全く問題は無いはずなのです。スポーツマンはその筋肉量ゆえに基礎代謝率も高く、普通に暮らしていれば脂肪もつきにくい体質になっています。危ないメタボとは、たとえ一見痩せていても、殆ど運動をしないような人を指す言葉だと言えます。

振り返って、現代社会を人間の体に喩えるならば、大気中にドンドン増えつつあるCO2は、いわば血液中のコレステロールでしょうし、その原因となっているエネルギーや資源の大量消費は、人間で言えば必要以上のカロリー摂取に相当するものでしょう。地球のある地域で、闇雲な工業化の結果、あらゆる種類の汚染が広がっている場合、それは人間の体で言えばガンに相当する現象だといえます。放置すれば、その地域を放棄するしかないほどの環境ハザードを引き起こします。(例えばアメリカのラブキャナル事件など)

さて本来の意味での現代社会のダイエットについて考えて見ます。その際、考慮すべきは「社会の基礎代謝」になるでしょう。基礎代謝とは、人間で言えば活動していない時(寝ているときに相当)でも心臓を動かして、体温を維持するのに必要なエネルギーを指します。社会が死なない程度に活動を維持するレベルを推定するのは、実は生易しい作業ではありませんが、しかし絶対にやらなければならない事でもあります。そうでなければ、何が余剰な活動に相当するのかの色分けができないからです。つまり、米を作ることは基礎代謝の維持には必要なのでしょうが、ではバカ高いマスクメロンの栽培は、あるいは露地の野菜あるいは温室栽培の野菜作りはどうなのか、あるいは最低限の食糧輸入量のレベルなど、判断基準が引けないのです。

社会が温暖化防止などという「対策」に躍起になっている今だからこそ、基礎大代謝を考えて見るべきでしょう。投稿者は、数年前に、サラリーマンを早期に卒業し、収入を減らす事により自分の基礎代謝を見出してみようと決心しました。反省すべきは、そのことを家族に全く相談なしに実行したことなのですが・・・。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年9月 9日 (火)

784 ハレとケ

このブログでは、後先(特に遠い将来)を考えない大騒ぎを「祭り」と呼んでいますが、そういえば日本には古来よりの大和言葉としてハレの日とケの日と言う表現がありました。祭りに代表されるストレスのガス抜きの日をハレと呼び、そうではない普段の日をケと呼び慣らしていました。ケの日は、一年で見れば99%を占める訳で、その間は日常の小さな変化はあるでしょうが、平々凡々でかつ各自の持分に応じた労働をしながら辛抱強く暮らすことが求められます。しかし、たとえばハレの日である祭りの3日間は、全ての人は全ての労働から解放され、着飾り、爆発的に飲食し、体を動かしながら騒ぎ続けることになります。投稿者が生まれた東北にも、爆発的で情熱的な祭りが数多く見られます。

投稿者が1年間暮らしたブラジルにも別の例が見られました。ブラジル国民の最大の関心事は、カーニバルとサッカー試合の結果でしょうか。特に、前者については老若男女、都会も田舎も信じられないほど熱狂するのです。ある都会の労働者の1年を想像すると、たぶん彼(彼女)は、数日の本番カーニバルのために、残りの時間の多くを費やすことになるはずです。たとえば、カーニバルの花である山車は、多くの連のメンバーの寄付で作られます。また、その周りで踊る踊り手の衣装は全て自前です。質素なものでも10万円前後掛かりますから、裕福でない労働者にはかなりの出費です。さらに、経費を浮かせるためには山車の製作には、長い期間(数ヶ月)の労働奉仕が求められます。加えて、カーニバル本番のかなり以前から稽古が始まります。稽古は殆ど毎晩行われるのです。結局、この労働者は、カーニバルのために1年間の殆どの時間を費やすことになります。

結局、人間は昔から数日のハレの日のために、残りのケの日常を暮らす長い歴史を積み重ねてきたのでしょうが、「毎日がハレの日」となった今、私たちの生き方や価値観が今後一体どのように変わってしまうのか、行く末が見えません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年9月 8日 (月)

783 釣鐘型特性

782の関連です。「釣鐘型特性」とここで呼ぶのは、多くの現象がU字型、或いは逆U字型の特性カーブに乗ることを指しています。具体的な例で言えば、たとえば動物の群れの適正数があります。群れの固体数が極端に少なければ、日本におけるトキや日本オオカミや日本カワウソなどの絶滅の歴史に見られる様に、加速度的に絶滅が進みます。一方、個体数が異常に多くなり過ぎると、その種が必要としている食糧が確保できずに、やはり急激にその数を減らすでしょう。結局、ある地域に生息主する、ある生物種の個体数、あるいはその密度には、最適な範囲があり、結局はそこに収束することになります。

別の例では、ある企業のある製品の売上高にもその特徴が見られるでしょう。最初に市場に出した時にはボチボチ売れ始めた事でしょう。価格と品質のバランスが取れていれば、そのうちにかなり売れ始めるにつれて市場の認知度も上がり、ぐんぐん売り上げが伸びるでしょう。しかし、目だって売れれば、2匹目のドジョウを狙う競合企業が現れ、価格競争が始まります。あるいは、同じ品質で価格が安いか、あるいは価格が同じでも機能を追加した製品も開発されるでしょう。結果、オリジナル製品を作り始めた会社のある製品の売る上げ数は、時間を追って記録すると、逆U字カーブで推移するはずです。

自然の現象にせよ、人為的な活動の結果にせよ、あらゆる変化には何らかの意味での調整作用(フィードバック作用)が働きます。その意味で、増え続けているCO2や上がり続けている気温に対する自然の制御が効くのかどうか、あるいは温暖化防止の掛け声による人間自身の排出抑制が効奏するのかどうかについては、定説はありません。つまり、CO2による温暖化のメカニズムに時間的遅れは無いのか、あるいはミッシングシンクと呼ばれる、まだ機構が明確に解明されていない、CO2の吸収作用がどの程度作用を強めるのか、または弱めるのか、誰にも分かっていないのです。IPCCのデータやコンピュータの予測は、やっと大気中のCO2量と、気温の上昇に「何らかの相関関係」を見つけたばかりなのです。人間自身による制御があまり当てにならない以上、地球環境が持つバランス感覚に期待したいところです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年9月 7日 (日)

782 安定化原理

多くの現象は、と言うより殆ど全ての現象はやがて安定化に向かいます。これは、「安定化原理」と呼んでも良いほど明確です。安定化に向かわない現象は、増幅しながら発散し、やがては「爆発」して一つの終焉を迎えることになるでしょう。台風などの自然現象は、非常に分かりやすい例となります。台風の卵である熱帯低気圧が生まれ、熱帯の強い日射や高い海水温を受けて成長し、日本や大陸の沿岸に近づきますが、やがてその勢力は主として温帯のやや低い温度故に弱められ、最後は温帯低気圧となって極地方に上がっていって消えてしまいます。つまり、台風も発生期、成長期、最大期、減衰期、消滅期という普遍的なサイクルを辿ることになります。

これを、生物に敷衍しても同じことが観察できるはずです。ある種の生物(例えばイナゴ)が、突然にその数が増えだして、ある地域を覆いつくしたとしても、やがてその世代の餌が尽きると繁殖はできなくなるので、急激にその数を減らし、最終的には安定した密度まで戻ることになります。植物についても、そのサイクル期間は非常に長くはなるでしょうが、やはりたった1種類の植物が、他の植物を圧倒して蔓延ることはあり得ないことだと言えます。つまりは安定化の神話は、ほぼ全ての現象や生物に普遍的に適用できると考えられます。

しかし、考える葦である人間は、今のところ一つの例外になりつつあります。長い間、人口はその土地に産する食物の量で厳しく制限されていました。日本で言えば、非常によく管理された農地(領地)が養い得た江戸期の人口(約3千万人)がほぼそれに相当するでしょう。明治維新以降の近代化により起こった事は、化石エネルギーを使った近代的な工業化により国際貿易を盛んにし、より多くの食料を集める事ができるようになった事の賜物なのです。結果、日本はピーク時には、本来自然が許す範囲の4倍程度にまで人口を増やす結果になりましたが、2004年で頭を打ちました。しかし、世界の人口が減る傾向はまだ現れてはいません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年9月 6日 (土)

781 雑草抑え

雑草の話題のついでです。いつも通る木曽川の堤防道路は長いながい土手を持っています。その土手は、多分年に2回程度しっかりと草刈りが行われているようです。堤防の草は、そのまま放っておいてもそんなに問題にはならないでしょうが、実は草刈りの名目は「堤防の土手の点検」となっているのです。土を盛った堤防は、しっかりと踏み固めなければ、短時間の増水で土が流され決壊するかも知れません。そこで、国交省は堤防を道路として舗装し、自由に車を走らせています。また雑草もしっかり根を張れば、土が流されるのを少しは防いでくれるでしょう。

もったいないのはこの草刈の費用です。あるデータによれば、一級国道だけでも草刈費用は100億円に迫るとか。実際問題として、草刈作業は建設業界の仕事確保対策にもなっているようですが、同じお金を出すなら是非山の間伐作業をお願いしたいところです。山の間伐を行うことにより、林地に下草をはやし、降った雨が短時間内に川に流れ込むのを防ぐのが、順序としては先であるべきなのです。

また雑草は、わざわざしっかり刈らなくてもそれを押さえる方法はあるはずです。単純な方法では、土手を板や光を通さないシートで覆うだけで、雑草を抑えることが可能です。草は光合成無しには生長できないからです。この板やシートは、廃木材や刈った雑草などを原料にして作れば、理想的です。実のところその技術はほぼ確立されてはいるのですが、想像するにそれによって仕事を失う人たちの反対が強いために普及していないようなのです。しかし話は全く逆で、草を抑えるための資材(防草資材)を作る産業を興して、仕事が少なくなった業界を救済すべきなのだ、とは思います。これらの資材は、植物から作るので、数年で分解されて土に還りますので代替需要は途切れないはずです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年9月 5日 (金)

780 雑草の戦略

時々雑草をしみじみ眺める事があります。ふと気がつけば、手の付け様が無いほど蔓延る夏の雑草の逞しさに圧倒されるからです。雑草には繁茂に向けた、多くの戦略があります。例えば、1)速攻戦略です。これは、他の植物より圧倒的に早い成長スピードで、敵の太陽光を遮ってそれを奪ってしまう戦略です。背の高いセイタカアワダチソウなどが得意としています。2)アエロパー戦略。これは、敵が嫌がる物質(忌避物質)を葉や根から出し、敵を近づけない戦略です。これは、その雑草を食べようとする昆虫や動物に対する毒(アルカロイド)を持つという戦略にも重なります。従って、殆どの雑草は人が口にする事はできませんし、ある種類の雑草は限られた動物しか食べる事はありません。この戦略はほぼ全ての雑草が採用していると思われます。3)武装戦略。棘や硬い物質で、防御してしまう作戦です。イバラやサボテンが得意としています。4)ばら撒き戦略。これは、とにかく数多くの種子をばら撒き、子孫を可能な限り多く残す戦略です。多くの雑草は、種子を鳥や獣や風を使って種子を非常に広い範囲にばら撒くことが出来ます。5)ド根性戦略。多くの雑草は、アスファルトやコンクリートに出来た僅かな隙間や、屋根瓦に積もった微量の埃に根を下ろし、逞しく成長することが出来ます。そのド根性は殆ど敬服に値します。屋根に生えるぺんぺん草はその代表だと言えます。

さて、稲も麦もジャガイモも多分トウモロコシも、その昔は小さな実をつける雑草であったはずです。ご先祖様は気の遠くなるような努力の末に、つける実の量を増やし、毒の量を減らし、味を改善するなどの品種改良を続けてきたのでした。しかし残念な事にそれらの多くは病気や害虫や気候の変動に対してひ弱で、化学肥料や有害な農薬を多く必要とします。温暖化や、気象変動による異常気象が取りざたされる昨今、私たちは雑草の戦略を学び、それを実際に口に出来る新しい作物にまで品種改良を行う努力を急いで始める必要がありそうなのです。収量が多少減ってしまっても、どこでも(コンクリートの隙間でも)栽培できる雑草の様な作物の登場が望まれます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年9月 4日 (木)

779 経済の壁

775で「経済の壁」と言う言葉を断り無く使いましたが、この言葉にもう少し拘ってみます。環境と経済との間の壁とは、言葉を換えれば企業の環境保全のためのコスト負担の壁だとも言えます。その昔、各地の製紙産業や化学工業では、工場から排出される排液を十分に無害化処理せず、そのまま川や海へ放流しました。或いは、石油化学工業などでは、硫黄酸化物を多く含む排気ガスを太い煙突から吐き出し続けました。その結果、四大公害に代表される重篤な公害を引き起こしてしまったのでした。後追いではありますが、裁判沙汰に及ぶに至って国も腰をあげ、対策法(これに限らず殆どの法律は対策法ですが)としての公害対策基本法などの公害法が整備されたのです。

企業はこれらの法律に基づき、排水処理設備や廃棄ガスの脱硫装置などを整備しましたが、その設備コスや公害被害者への補償費は、しかたなく製品価格に転嫁するしかなかったでしょう。高度経済成長期で、物価も年々高騰していた時期であり、私たちは知らず知らずの間に、環境保全のためのコストを負担していたことになります。しかしながら、経済のグローバル化が行き着くところまで来てしまった現在、私たちは意識しないままで環境コストを他の国に転化してもいるのです。例えば、中国から輸入された安い製品は、安価な労働力の利用ばかりではなく、中国の環境を悪化させながら作られているはずです。

日本の社会は、環境と経済の壁を乗り越えるのではなく、それよりずっと楽な方法としてそれを回避する方法として他の国からの輸入することを選択したのです。しかし、これは単なるツケ回しに過ぎません。見えない「環境コスト」のツケは、製品を輸出した途上国に回され、それを負担できないこれらの国では、結局地球へそのツケをたらい回しにするだけです。地球には、もはやこのツケを受け取り処理する余力が少ないのですから、結局はこのツケは将来の地球、次の世代に先送りされる事になります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年9月 3日 (水)

778 熱利用

東京都が、太陽熱温水器で節約したCO2を一定額で買い取る計画を打ち上げました。投稿者にとってはまさに「わが意を得たり」、「やるじゃん東京都」というところです。エネルギーと言えば石油かガスか電力しか思い浮かばない昨今の社会で、都が熱利用に目を向けた事は素直に評価したいと思います。

さて、その中身ですが、太陽熱利用を行っている設備(太陽温水器など)にグリーン熱証書を発行し、温暖化効果ガス削減分を、多分ささやかな金額でしょうが、それを買い取ると言う制度の検討を始めたのです。実施は2009年度からのようですが、エネルギーの捉え方を石油やガスや電気に限らず熱利用まで広げた、行政としては画期的な施策と言えるでしょう。ここまで考えるなら、投稿者としては廃熱にも是非目を向けて貰いたいものだ、とも思います。都市部では、使ったエネルギーに相当する量の熱が捨てられています。何故ならエネルギー保存則によれば、使ったあらゆる種類のエネルギーは、最後には温度は低いが大量の熱としてどこかに捨てられなければ、熱サイクルは機能しないし、結果都市には熱が溜まって耐え難いほどの高温になるからです。捨てられた熱は空気や冷却水を温め、或いはクーリングタワーから気化熱として空気中の湿度を上げながら移動し、最終的には低温度の遠赤外線放射として宇宙に捨てられます。

太陽熱利用に補助金を出すのなら、熱の廃棄に対しては罰金を科すべきでしょう。無数の室外機や設備のクーリングタワーから捨てられる熱は、耐え難いほどの熱気となって都市の気温を高めています。燃料を直接燃やしている設備の煙突や排気管からもCO2と一緒に熱が捨てられます。もしこれに罰金を科すならば、人々はその廃熱を有効に使うことを考え始めるでしょう。室外機からの熱では入浴できる程度のお湯が沸かせるでしょうし、設備から出る廃熱では、原料の予備乾燥やボイラーに供給する水や燃焼空気の予熱などが出来るはずです。これも直接的に都会の気温を下げ、同時にささやかでも化石燃料も節約できる立派な温暖化防止策といえるでしょう。受け取った罰金は、太陽光発電や太陽熱温水器導入への補助金に回します。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年9月 2日 (火)

777 オリンピック後

PB?)京でのオリンピックが終わり、一つのお祭りの区切りがやってきました。祭りの後の侘しさは、実は祭りの後始末の侘しさでもあります。急遽作った、祭り屋台や祭り飾りの解体とそのゴミ処理、見物人が散らかしたゴミ集めとその処理、借金して準備をした場合はその返済などなど。祭りの華やかさのプラスと、後始末のマイナスの落差が大きいだけに、後始末は気が重いものです。日本でも経験した、東京オリンピック後や万博後の景気の落ち込みは、まさに後始末時期に特有の現象であった訳です。さて、お隣の国では何が起こるでしょうか、建設ラッシュが一段落し、観光客数に急激な落ち込みがあり、結果としての失業率の急上昇、それを受けての経済リセッションが始まる筈です。筈と書いたのは、それが動かしがたい経済の原則だからです。無理をして、はち切れんばかりに膨らませた風船は、下手をすれば破裂し、上手く立ち回ってもやがて急激に萎むことになります。

五輪開催をテコとした近代化の加速という、共通の国家目的があった時は隠れていたのでしょうが、祭りが終われば日々の生活を犠牲にして、祭りに大騒ぎした事への反動が人々の間に蔓延するでしょう。明日からの生活の退屈さと困難さが、人々を慌てさせます。その意味で「祭りの後症候群」への対処方法はたった一つしかありません。それは一日も早く日常生活に戻す努力をする事です。日常生活とは、今日と明日が全く同じルーチンで進行する退屈な日々のことです。祭りの痕跡は、できる限り短期間にしかも完璧に消してしまう必要があります。祭りの余韻に酔うことは、そこからの回復を遅らせることに直結するからです。

P京五輪を題にして書き出しましたが、日本の最近のお祭りであった「バブル時代」の後始末にどれほどの時間が掛かり、しかもまだその始末が完全には終わっていない事に私たちはもっと焦るべきでしょう。最近ますます賑やかになりつつある温暖化への警鐘は、私たちの「日常生活への完全復帰」を強く求めている声だ、とも言えるでしょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年9月 1日 (月)

776 メディエータ

環境と経済が両立できないとすれば、では両者の歩み寄る余地は全く無いのでしょうか。少しの望みは、二項対立という枠組みから、三項関係に持ち込む可能性です。つまり、両者のベクトルが真反対だとして、その間に仲人(メディエータ)を頼んで関係改善を図るわけです。似た様な例では、混じり合わない筈の水と油も、界面活性剤を使えば嫌々ながらそれなりに混じり合えます。

環境と経済の間のメディエータとしては、投稿者としては是非「持続可能性」を頼みたいと考えています。より持続可能な活動は、結局は環境にも無理が無いはずなのです。従って、今行われている経済活動を吟味する場合、経済活動Aと経済活動Bのどちらが環境に優しいかを決めるのに、どちらがより長く持続できる枠組みかをチェックすれば良いのです。あまり良い例が思い浮かびませんが、例えば自動車産業(A)とオートバイ産業(B)と自転車産業(C)があったとして、持続可能性という観点からチェックすれば、ABCの順に持続可能で環境的により好ましい産業であると言う事ができます。つまり、産業の持続に必要な、資源やエネルギーの消費量がチェックの指標になります。産業によっては、その産業から排出される廃棄物による環境汚染が、持続可能性を弱める要素になる場合もあります。

石油は、原料でありエネルギーでもある重要な物質ですが、その大量消費は、資源枯渇と言う意味でも、またCO2の排出源である故に、大気中の石油の燃えカスという廃棄物が引き起こす悪影響(例えば酸性雨や温暖化など)と言う意味でも、二重に持続可能性を弱めます。従って、石油産業と太陽光発電産業を並べてみた場合は、明らかに後者に分がありあります。同じようなチェックは、一見似たような産業間で確認してみる必要がありそうです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2008年8月 | トップページ | 2008年10月 »