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2009年1月24日 (土)

920 ねじれの発見

919は少し抽象的過ぎたかもしれません。もう少し、ねじれを具体的に示します。20世紀、とりわけその後半に、何らかのねじれ現象が起こったとの認識は、何も投稿者だけの思い込みではないはずです。生活を(物質的に)豊かにしようとすればするほど身の回りや地球の環境が悪化するという事実、モノを生産しようとすればするほど廃棄物が増えること、ある利益集団の利益を追求すればするほど、他の集団の利益を損ねることなどがその例です。また、農村を捨てて都会に群れ、食料の半分以上を外国に頼るこの国の状況も、ひどい捩れ以外の何者でもありません。何より、マスコミで日々流される「国会の捩れ」を、外国人に一体どのように説明すれば良いのでしょう。あれも、「捩れの時代」の単なる象徴のひとつでしかありません。

人のココロもねじれがひどくなっている様な気がします。たとえば、金のために携帯電話で次々に年寄りをだまし、僅かな金を盗るために路上やタクシーで人を殺傷し、挙句は「刑務所に入るために」あるいは「自分の存在を確認するために」意味の無い殺傷事件を繰り返す若者や、長い人生経験を積みながら、それを伝える術もなく、日々散歩やゲートボールやカラオケに時間を費やすリタイヤ組、シャッター街を作りながら一方では平日の日中から巨大モールにあふれる人々などなどです。

残念な事は、ヒトは日々の暮らしに埋没すると、目の前のねじれが全く認識できなくなるという性質です。ねじれを確認するためには、鳥のように一度高みに駆け上って、俯瞰することが不可欠なのです。その方法はいくつか考えられるでしょうが、団塊の世代が、勤め人というハーネスから解き放たれる「定年」は、その絶好のタイミングだと言えます。そこで安易に悠々自適のしかし退屈な生活に入らず、まずは自分の半生や自分が歩いてきた時代を振り返りましょう。一方、自ら積極的に鳥の目を得ようともがいた先人の多くは、きっと俗世を捨てて出家するか、あるいは放浪の旅に出ることを決意したのだと思います。その結果、自分や自分の子孫が歩むべき、道が見えてくるのだと思います。

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