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2009年1月31日 (土)

927 永久機関2

経済サイクルを回していたもう一つのエンジンは、実は人口の増加でした。人口が増加すれば、自動的に経済のパイは大きくなるわけです。しかし、例えばその胃袋を支える優良な農地は、同じ割合では増えていないはずです。仕方がないので、人々はそれまで農地としては不適とされた半乾燥地を地下水で灌漑し、或いはジャングルを焼き払って畑に変えました。

これらの「新しい農地」は、両方とも持続させる事は不可能な仕組みでもあります。アメリカ中西部やインドやアフリカの多くの農地では、天水だけでは作物が出来ないため、地下深くから水を汲み上げています。その地下水は、実は太古の昔に溜まっていた「化石水」で、やがては井戸枯れを起こす事は明らかなのです。何しろ今は殆ど雨が降っていない訳ですから。更に、地下水に含まれる塩類が、灌漑水の蒸発によって地表に蓄積する結果、やがて作物が作れなくなる耕作放棄地が拡大する事になります。塩害です。アメリカ中西部やアフリカやアラル海周辺地域には、真っ白になった耕作放棄地が拡大し続けています。

一方、熱帯の焼畑農業はもっと悲惨です。熱帯地方では、生物分解が非常に活発であるため、温帯や寒帯地域のようには有機物が土壌に蓄積されません。熱帯の樹木は、したがって地中深くに根を張る事はなく、もっぱら地上に広く根を広げます。この様なジャングルを焼き払っても、樹木の灰(ミネラル分)や僅かな有機物が残っている数年間は耕作が可能ですが、急速に収量が減少します。仕方がないので、農民は更に奥地の森林を焼き払うと言う、悪循環が続くのです。有機分の少ない熱帯の土壌は、少しの雨でも簡単に流出し、少ない土壌が更に失われ、そうした地域では慌てて化学肥料を補ったとしても、最早作付けそのものが不可能になるのです。このサイクルも全く持続可能ではないどころか、逆に温暖化などの環境悪化を加速し続けているのです。

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2009年1月30日 (金)

926 永久機関

サイクルやシステムを動かすためには、その為の仕組みとエネルギー(燃料)が必要です。古い時代から、人々はエネルギーを加えなくとも、動き続ける「永久機関」を夢見て、発明家がこぞって挑戦してきました。実は、その原理が否定されてしまった今の時代でも多くの「発明おじさん」達が同じ挑戦を続けているのです。まあ、それはおじさん達の生き甲斐でもあるでしょうから、仕事をそっちのけで奥さんから三行半を突きつけられない限り平和な趣味でしょう。

さて、現代の社会の仕組み、経済の仕組みのシステムはどうなっているでしょう。社会のインフラでハードウェアの部分を動かしているエネルギーは疑いなく石油です。一方、経済システムを動かしているのは、「過剰なお金」だと言えます。以前にも書いたように、お金とは、本来は人の労働時間を使う権利ですから、60数億人の労働に見合うお金以上は、実は過剰なお金だと言えます。そのお金はどこから出てきたかと言えば、それは地下からだと答えます。地下資源が十分に使えなかった時代、地上の資源だけで地球が養っていける人口は、多分数億人が限度だったはずです。地下資源が潤沢に使えるようになった20世紀後半に、人口は爆発的に増加し、経済システムのエネルギーである、過剰なお金もドンドン増え続けたのでした。

とは言いながら、今の経済システムが永久機関ではないことは、少し考えただけでも分かります。実際、昨年後半以降、経済機関の燃料(資金)が急速に減ってきています。資金はどこから生まれていたかですが、仕掛けは比較的簡単です。経済機関のエンジンは、かなりの部分がB国にありました。実のところ彼らの「浪費癖」がその原動力だったのです。彼らは、モノ造りをやめて海外から大量に輸入し、大排気量の車をガンガン乗り回し、バス代わりに飛行機を使っています。貯蓄をしないで、レジャーに奔走し、しかし投資には熱心でした。このエンジンを動かすお金は、結局のところ、石油の値上げと消費増加で膨らみ続けたオイルマネーと、世界の工場となったアジアマネー(日本や中国や韓国など)がB国に流れ続けたのです。この流れが順調である限り、このサイクルは回り続けると期待されていましたが、B国の「普通の人が普通に行っていた」、住宅投資がもはやお金を生まなくなって以降、経済エンジンを動かす燃料が不足し始めたのです。

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2009年1月29日 (木)

925 断熱性能

以前にも書きましたが、全てのエネルギーは結局熱になり、最終的には波長の長い赤外線(遠赤外線)となって絶対零度に近い宇宙空間に放射されます。全ての生き物は、太陽から発せられたエネルギーの流れの中で生きています。人間の科学技術をもってしても、このエネルギーの流れをコントロールすることは至難の技なのです。仕方がないので、人間は比較的にコントロールが容易な、化石燃料の火でこれを代用することを始めたわけです。

もちろん、エネルギーの流れが全くコントロールできないわけではありません。たとえば、鏡を使えばある波長のエネルギーの流れである電磁波を、反射させたり、ルートを変更したりはできます。また、熱を通しにくい材料(断熱材)を使えば、熱になったエネルギーの流れを少しゆっくりさせる事も可能です。

来るべき「低炭素社会」における、ひとつの重要なキーワードが、このエネルギー流のコントロールなのですが、とりわけ「断熱材」は重要なアイテムだと考えています。つまり、潤沢に使えなくなる化石エネルギーの代用として、広く薄くしか配られていない太陽光を使おうとした場合、より高い性能の反射材や断熱材の重要性が相対的に高まる筈なのです。熱の流れ方向を変え、蓄えた熱を逃がさない、あるいは無用な熱の流入を防ぐ、反射材や断熱材の価値は、今後右肩上がりで上昇を続けることでしょう。

ここに、ひとつの環境ビジネスの可能性があります。今、無為に漏らし続けているエネルギーに注目し、その漏れを食い止めるための技術や製品は、当面大きな需要の伸びが見込めます。たとえば、安価な材料と方法で、既存住宅の断熱性能が高められるなら、冷暖房に掛かるエネルギーは大幅に削減できるはずです。

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2009年1月28日 (水)

924 環境コスト

残念ながら「環境コスト」は目には見えにくいものです。電気料金は確かに請求書の数字として目で確認できるでしょう。しかし、火力発電所の煙突から排出される「環境が引き受けるコスト=環境コスト」や、原子力発電所で蓄積されている放射性廃棄物の増加量は、目では確認できない、計算上の数字でしかありません。もちろん環境コストを目に見える形にするにはいくつかの方法が考えられますが、例えば環境税もその一つです。

環境税の導入には、産業界や消費者がこぞって反対のノロシを上げると思われます。何しろ、消費税と同様に、環境税の網が広くかけられると、ほぼ同じ率で製造コストが上がり、日々の生活費もアップするからです。その結果、消費が落ち込み、経済が減速し、不景気を加速すると言い張るでしょう。とは言いながら、環境税は国民の「意志」で決定し、実行が可能です。しかし、今のまま放置し、環境悪化が人類の存続にも関わる様になった場合を考えると、事態は取り返しがつかないほどの最悪の事態になるでしょう。その時代には、消費が環境からの強制的な抑制を受けるわけです。取り返しがつかない環境悪化を「環境ハザード」と呼びますが、事故を起こしてから、ハザードランプを点灯させるのでは、やはり遅すぎるのです。

そうなる前の警告やブレーキの役目を果たすのが環境税であるわけです。人々に環境コストを意識させるのに、環境税ほど有効な手段は、実のところ他には見つからないでしょう。まずは、低い税率で様子を見ることで十分です。そこで、効果が上がらなければ、細かに税率を上げていけば良いわけです。まずは、イギリスなどですでに始まっているように、商品に環境負荷(具体的にはCO2量や森林減少面積など)を表示することからスタートするのも大きな前進ではあります。何より、それを表示する側のメーカーや、それを認定する公的機関が、環境負荷を自覚するようになるからです。そして、低い税率からでも良いので、それを環境税として、目に見えるお金に換算していく必要があります。

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2009年1月27日 (火)

923 同居

あまり苦労しないで環境にやさしく暮らす最も簡単な方法は、たぶん親や友人との同居でしょうか。親家族と子家族が離れて暮らす場合、資源やエネルギーの消費は、同居の場合に比べ、1.5倍以上にはなるでしょう。殆ど2倍に近いかも知れません。核家族となって家族が別居する場合、別々の家を構え、別々に風呂を沸かし、別々に冷暖房して、別々に調理を行います。更に、別居の場合、子供を乳飲み子の時代から保育園に預け、その保育料を稼ぐためと、より物質的に豊かに暮らすために、たぶん妻も共働きするでしょう。

同居は、たぶん青少年の多くの問題を解決する事にもつながるはずです。何故なら、青少年が捻じ曲がるのは、彼らを認め、励ましてくれる存在が居ないことに大きな問題があると考えるからです。忙しい両親にあまりかまって貰えない、非行予備軍や引きこもり予備軍の子供たちも、常に優しいまなざしで自分を見守ってくれる祖父母の存在が強い支えになることでしょう。核家族化により、十分な支えが無くなった多くの若者が、限度を超えて取り返しの付かない罪を犯し、あるいは引きこもりになった例のなんと多い事でしょう。統計的な数字に聞くまでもなく、日々のニュースを眺めるだけでも十分でしょう。

いまだに比較的大家族で暮らすケースの多い田舎で、比較的若者が健全に育つのは、環境にも優しい、同居の大きなメリットの証左だと思っています。せっせと働き、多額のローンを組んで、郊外に、隣家と30cmしか隙間が無い、せせこましいウサギ小屋を建て、あるいは駅前の高層マンションに「積み重なって住む」文化は、20世紀で終わりにせねばなりません。田舎には、年老いた親が二人で、あるいは一人で、広い家に住んでいるではありませんか。

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2009年1月26日 (月)

922 無形の財産

財産には不動産や動産・お金のように目に見える財産と、目には見えない無形の財産があります。後者には、例えば、家族の助け合い、面倒見の良い友人や同僚・上司、いざと言うとき役に立つ資格や能力、人並み以上の体力や健康、何より困ったときにすぐ飛び出す知恵やアイデア力などがあるでしょう。もちろん生きている事(命)は最大の財産です。しかし、現代人は悲しいことに、ある時期以降、目に見えるものしか信じないようになってしまいました。中でもお金の価値はもはや絶対的です。無形の財産に対して、有形な財産の代表であるお金の価値が上昇した証拠として、僅かな金額のお金目当てに、目には見えない財産の代表である「命」を奪う事件の、劇的な増加を例示しておきます。結局この時代は、財産がある人とは「単に」お金がある人だけを指すようになってしまいました。このブログで長々と書いてきた事の背景には、実はこのひどいお金重視社会への批判と無形の財産への再評価があったのです。

環境は、無形の財産の代表です。環境は大気などを除き、殆どが目に見えますが、一方その悪化の程度は、はっきりとは確認できません。その変化のスピードが、人間の持つ時間のモノサシに比べてあまりにもゆっくりだからです。毎日、マスコミでも取り上げられる「温暖化」は、結果的には200年ほどかけて顕在化しました。海洋の「熱塩循環」に伴う気候変動は1000年経たなければ白黒が判明しないでしょう。

環境は確かに財産ではありますが、実際問題としては誰もそれを所有はできません。というより所有してそれを自由に使う権利は誰にも無いのです。私たちは、たまたまこの瞬間に、この環境を借りているに過ぎないと思うべきでしょう。借り物であれば、それを散々汚して後の世代に渡す事には強い罪悪感を持たなければならないはずです。車の窓から、レジ袋に入れたゴミやタバコの吸い殻をポイ捨てする輩は問題外ですが、それと意識しないで週2回、両手で持ちきれないほどのゴミ袋を捨てにくる人や、平気で下水に食用油を流す主婦、あるいは車の排気管から排気ガスを捨てる事に何の罪悪感もない人たちは、今後もこのかけがえの無い無形の財産をゆっくり、しかし確実に汚し続ける事になるでしょう。

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2009年1月25日 (日)

921 愛と決意とサムハンド

表題は、もちろんC.チャップリンの有名な言葉のパクリです。投稿者なりに少し変え「(地球)愛と決意とサムハンド(少しの手間)」としてみました。かけがえのない地球とはよく言われる表現ですが、その地球を愛する気持ちは、環境問題軽減の方向へと導きます。勿論、この問題は、何度でも書くように、解決は殆ど無理な話です。60数億の人間の存在そのものが、環境破壊の根本原因だからです。とは言いながら、都会を離れ、自然により近い場所に立つと、その愛しさがグンと強まるはずです。でも自然をボンヤリ眺めてはいけません。立ち止まって、鳥の声を聞き、植物の逞しさを実感し、昆虫達の営みをマジマジと観察しなければなりません。例えばアリの行列を観察しても、行きと帰りのアリたちの「情報交換」や、新たな食糧を求めての「探索行動」など、見飽きることがありません。増してや、植物と鳥や昆虫との共生の観察では、自然のカラクリの全く無駄のない巧みさに感嘆させられるでしょう。

決意とは、この地球環境に対する負荷を可能な限り減らそうとココロを定めることを意味します。その決意無しには、日頃の行動に基準が無くなります。決意と言いながら、別に難しい事は必要ありません。目の前に2つの選択肢があるとして、「より環境にやさしい方を選ぶ」行動を日々繰り返すだけで十分なのです。

サムハンド(少しの手間)とは、億劫がらずに自分の手や体を動かすことを指します。自分の体を使う分には、少し呼吸が荒くなり、結果呼気に含まれるCO2が微量増加する以外、環境への負荷は全くありません。自転車が環境に最もやさしい乗り物である所以です。勿論、それよりは徒歩がさらに好ましいわけですが・・・。

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2009年1月24日 (土)

920 ねじれの発見

919は少し抽象的過ぎたかもしれません。もう少し、ねじれを具体的に示します。20世紀、とりわけその後半に、何らかのねじれ現象が起こったとの認識は、何も投稿者だけの思い込みではないはずです。生活を(物質的に)豊かにしようとすればするほど身の回りや地球の環境が悪化するという事実、モノを生産しようとすればするほど廃棄物が増えること、ある利益集団の利益を追求すればするほど、他の集団の利益を損ねることなどがその例です。また、農村を捨てて都会に群れ、食料の半分以上を外国に頼るこの国の状況も、ひどい捩れ以外の何者でもありません。何より、マスコミで日々流される「国会の捩れ」を、外国人に一体どのように説明すれば良いのでしょう。あれも、「捩れの時代」の単なる象徴のひとつでしかありません。

人のココロもねじれがひどくなっている様な気がします。たとえば、金のために携帯電話で次々に年寄りをだまし、僅かな金を盗るために路上やタクシーで人を殺傷し、挙句は「刑務所に入るために」あるいは「自分の存在を確認するために」意味の無い殺傷事件を繰り返す若者や、長い人生経験を積みながら、それを伝える術もなく、日々散歩やゲートボールやカラオケに時間を費やすリタイヤ組、シャッター街を作りながら一方では平日の日中から巨大モールにあふれる人々などなどです。

残念な事は、ヒトは日々の暮らしに埋没すると、目の前のねじれが全く認識できなくなるという性質です。ねじれを確認するためには、鳥のように一度高みに駆け上って、俯瞰することが不可欠なのです。その方法はいくつか考えられるでしょうが、団塊の世代が、勤め人というハーネスから解き放たれる「定年」は、その絶好のタイミングだと言えます。そこで安易に悠々自適のしかし退屈な生活に入らず、まずは自分の半生や自分が歩いてきた時代を振り返りましょう。一方、自ら積極的に鳥の目を得ようともがいた先人の多くは、きっと俗世を捨てて出家するか、あるいは放浪の旅に出ることを決意したのだと思います。その結果、自分や自分の子孫が歩むべき、道が見えてくるのだと思います。

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2009年1月23日 (金)

919 メビウスの輪

「環境」を突き詰めて考えていくと、解決できない矛盾が多いことに気がつきます。例えば、人間だけが地球上に満ち溢れ、その全てが生きていくためには、かなりひどい環境破壊を続けなければならないこと、あるいはモノを作ったり(実際には形を変える加工の事ですが)消費したりすると必ず廃棄物が出ること。さらには、熱源からエネルギーを取り出すためには、必ず大量の熱を「環境に捨てなければならない」ことなど等です。

これらの事実を、もし絵に描くとすれば、それはきっと「メビウスの輪」のようなものになるはずです。メビウスの輪とは、テープの端同士を半ひねりしてつないだもので、表と思って辿っていくと、いつの間にか裏面に入ってしまう立体のことです。これを今の社会に当てはめると、20世紀では良かれと思って「まい進」してきたことの殆ど全てが「裏目にはまります」。それは、例えば重化学工業が地域に公害を撒き散らし、今はそれが地球規模にまで拡大してきていることなどを指します。今の時代に見られるメビウスの輪のねじれは、結局のところ、化石燃料や地下資源を発見し、それを大量に掘り出して消費する「産業革命」以降定着したと考えるべきでしょう。つまり、それまでの宗教的な、精神的な幸福ではなく、物質的な豊かさこそが、人間の幸福につながる、という価値観の反転が、この輪の半ひねりに相当します。

とりわけ20世紀の後半を通じ、この価値観はほぼ完全に人類を席巻したと思われます。しかし、その輪の表の部分、つまりは鉄や石油を使った物質的に豊かな世界の裏側では、着実にその影の色を濃くしていたのでした。つまりは、田舎で自然に囲まれた、お金は無いが大家族に囲まれた、精神的に豊か生活こそが、やはり「表」である、と考え直す再度の価値転換こそ、現在の影である地球環境の悪化を防ぐ、唯一の方策だと思えるのです。続きます。

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2009年1月22日 (木)

918 Rニア新幹線を笑う

南アルプスにトンネルを通して、東京名古屋間を40分で結ぶRニア鉄道の計画が打ち上げられました。近頃肩身が狭い運輸族や建設族には、ずいぶん先の話とは言え朗報でしょう。しかし、山をこよなく愛している投稿者としては憮然としています。何も、せっかく鎮座ましましている南アルプスのお山のどてっ腹に、わざわざ穴を掘らなくてもいいのに、という気持ちです。

さて、計画を打ち上げた人は本当に、この計画を真面目に吟味したのでしょうか。もしそうであれば、その吟味は「単に技術的な側面」からしか行われなかった可能性があります。そもそも、需要予測はどうなっているのでしょうか。2つの都市(東京と名古屋)の中心間を、今の2時間弱から1時間弱に縮めたとして、今の新幹線からどの程度の客が、新しい鉄道に流れるでしょうか。確かに、今の新幹線のダイヤは「超過密」ですが、超繁忙期であったはずのこの年末年始も、今回は便数の大幅増発にも関わらず、旅客数が完全に頭打ちになったことが報告されています。事実として、日本の人口は既に減り始めているのです。

Rニア新幹線の発案者は、せっかくの雄大な日本アルプスの景色が、真っ暗なだけのトンネルで見られなくなり、社内販売や駅弁を楽しむ暇もない旅行や忙しいだけの出張を、一体誰が望むと考えているのでしょう。これを計画した人は、たぶん、人の気持ちの全く理解できない、「技術バカ」にほぼ間違いありません。百歩譲って、急ぎのビジネス客が、この鉄道をある程度利用すると仮定しましょう。では、利用料金はどの程度にするつもりなのでしょうか。もちろん、今の新幹線と同レベルであるはずがありません。200兆円にも上る膨大な建設費を考えれば、ざっと2倍くらいにはなるでしょう。客を誘導するために、無理して1.5倍程度に抑えることを決断したとしても、(給料を割り戻した)時給にして2-3000円程度のビジネス客が利用するには、まったく元が引けません。つまり、客がたった1時間の時間節約のために、余分に5000円を払うかどうかの簡単な計算も、彼らにはできていない様なのです。加えて、来るべき環境の時代には、勤労者の持つ時間の価値は、「相対的」に低くならざるを得ないという、基本的な認識にも全く欠けているとしか思えません。

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2009年1月21日 (水)

917 雨にも負けて

このブログを振り返って反省してみると、投稿者の心積もりに反して、やや小難しい言葉で書き進めた結果となっているようです。と言うより、文才が無いので、頭の中にあるありったけの言葉を「ぶち込んで」、量で稼ぐしかなかったというのが事実です。もし、宮沢賢治の1/10ほどの文才でも授かっていたとすれば、こんなダラダラ長いブログなどではなく、たぶんいくつかの「短い環境詩」を書いていたと思います。その意味では、賢治の「雨ニモマケズ」の詩は、何度読んでも驚くほど簡素で、しかも力強さにあふれています。この短い詩の中に、環境問題や格差社会問題や社会的弱者問題や生活習慣病の問題など、現代社会が抱える、殆ど全ての問題とその解決策が示されているとも思うのです。雨にも、風にも負けて、少々の夏の暑さや冬の寒さにも耐えられない現代人は、改めてこの詩人の精神を学ぶべきかもしれません。悲しいかな文才の無い投稿者は、今の気持ちを表すために、この詩をそっくりいただき、たった1語だけ書き換えました。

「雨ニモマケズ」

雨にも負けず

風にも負けず

雪にも夏の暑さにも負けぬ

丈夫なからだをもち

慾はなく

決して怒らず

いつも静かに笑っている

一日に玄米四合と

味噌と少しの野菜を食べ

あらゆることを

自分を勘定に入れずに

よく見聞きし分かり

そして忘れず

野原の松の林の陰の

小さな萱ぶきの小屋にいて

東に病気の子供あれば

行って看病してやり

西に疲れた母あれば

行ってその稲の束を負い

南に死にそうな人あれば

行ってこわがらなくてもいいといい

北に喧嘩や訴訟があれば

つまらないからやめろといい

日照りの時は涙を流し

寒さの夏はおろおろ歩き

みんなに「環境坊主」と呼ばれ

褒められもせず

苦にもされず

そういうものに

わたしは

なりたい

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2009年1月20日 (火)

916 ステップダウン

強気のエコノミストの中には、今回のリセッションは、新たな拡大のための踊り場だ、と楽観論を述べる輩も多くいるようです。確かに、踊り場ではあるでしょうが、これはステップアップの踊り場ではなく、逆にステップダウンのための踊り場だとの認識が必要だと、投稿者は思っています。資源やエネルギーを半分にして「暮らなければならない社会」においては、従来の意味の物質的豊かさは、やはり全て半分以下にするしかありません。その意味で、今回の不況は、従来の経済学で言うところの景気循環による不況などでは決してなく、非常に大きなパラダイムシフトを伴う未曾有の経済縮小(ステップダウン)と考えなければならないでしょう。

私たちはこれまでに何度も大小の不況に見舞われました。大きな地域紛争や戦争の終結時やオイルショック、超円高やバブル崩壊などが引き金になってきました。しかしながら、その一方で世界経済のパイは大きくなり続けていましたので、それぞれは上り坂での踊り場となっていたのです。しかし、パイがそれほど拡大しないこれからの時代には、自由主義経済に任せておけば、分け前を奪い合う、血みどろの競争に陥ることにもなりかねません。企業は競って、合併や業務提携を繰り返し、大樹となるしか生き残る道は無い、とばかり突っ走るでしょう。一方、大樹の枝の下に入れず、そこから弾き飛ばされた中小企業は、下請け仕事を奪われて途方に暮れ、やがては消え行くしかないのかも知れません。

そうならないためには、世界同時不況にただうろたえるのではなく、これまでの5割の操業でも生き残って行ける方策を考えるべきでしょう。むしろ、自由主義経済下では、企業の操業度は50%から100%の間で、好不況の波を刻むのは、ごく自然の成り行きなのです。昨年あたりに、操業度が80-100%で、今後もやって行けるなどと考えていた経営者は、よっぽどのノウテンキだったと強く反省すべきでしょう。9.11事件直後、航空旅客数が半分以下になった事実を引き合いに出すまでもなく、昨年夏までの需要の5割は、バブリーな需要であったと考えるべきでしょう。しかし、そうではあってもあと5割の需要は残るはずです。皆が必要以上に不況に恐れおののき、結果として踊り場の板が割れて、全員が奈落の底に転落するよりは、足元を固め直し、5割の操業でもどうにか生き抜く知恵を磨くべき時だとは思います。

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2009年1月19日 (月)

915 顔の見える市場

これも以前に取り上げたポイントのような気がしますが、ここでは再度見方を変えて考えてみます。究極の生産者と顧客のあるべき姿は、店舗や市場(いちば)における対面販売です。店舗では、普通店の後ろが工房(作業場)になっていて、そこで製品を作っている主人や職人の耳には、店でのやり取りが聞こえるはずです。市場で農家自身が対面販売する場合も同様で、産物の売れ行きや、客の気持ちを直接感ずることができます。小さな店の主人や農家は、それを即時かつ直接的にフィードバックできるはずです。

つまり、顔の見える市場とは、顧客のニーズが即時に製品やサービスの品質に反映できる環境を指すということです。それは、何も顧客のワガママをそのまま鵜呑みにする事は意味しません。そうではなくて、顧客の真のニーズに耳を傾けるということなのです。真のニーズとは、贅沢をそぎ落とした、スリムなニーズを指します。

たとえ話として、あるケーキ屋さんを考えて見ます。店員が、顧客との雑談の中から、実は客によっては、好みのケーキの甘さに、かなりの差があることに気づいたとしましょう。これまでは、ケーキ職人は十年一日の如く、決められたレシピを頑なに守って、日々ケーキを焼いていましたが、店員からのフィードバックを元に、職人は甘さに違いのある、3種類の新製品を作ることにしました。甘め、普通とさっぱりめ、の3種類です。見かけは同じでありながら、客の要望をしっかり入れたため、それに感激した客は、その後は甘さを指定して買う事になるでしょう。さながら、我が家で自分好みでケーキを焼いている様な気分になるはずです。これが、客と店との顔の見える関係の例ですが、それは、実はそのままメーカーと顧客との関係にも当てはまります。最早、作れば作っただけモノが売れる時代ではない今後は、その製品(やサービス)を、固有名詞の分かっている顧客に、直接的に売る事を考えなければならないのです。これは、かつての洋服の作り方であった「テーラーメイド=完全注文生産」に近いモノ造りを意味します。景気より、右往左往する、顔の見えない顧客に向けた「見込み生産経済」は既に限界に来ていると見るべきです。

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2009年1月18日 (日)

914 人=コスト?

913の様に、経済効率を追求する社会(会社)では、結局「人=コスト」とみなされます。この社会(会社)では、人を原材料と同等に見て「人材」と呼びます。しかし、冷静に考えてみれば、カイシャ存続の条件は、高い品質の製品やサービスを提供する事によりリピータ顧客を掴み、同時にその事業継続を可能とする人的財産=人財を持っている事なのです。人をコストと考えて、しかも長く事業を続けている企業を、少なくとも投稿者は知りません。その意味で、来るべき将来社会への布石をサボり、株主を意識した目先の利益追求に終始して、余剰なコストとしての雇用の切捨てに走った多くの企業の行く末は「推して知るべし」でしょう。

コストとしての人材は、その価値が変わることはありません。何故なら、彼らは人手であり、彼ら自身の時間を売って生計を立てていると思われているからです。しかし、人財は決してそうではありません。財産が利子で増えることがある様に、人財は自己啓発や企業内教育により、その価値は年々増加するものなのです。終身雇用の時代、企業は入社仕立ての若者に、時間とお金をつぎ込んで、しっかり仕込みました。社員は、その意気に呼応して愛社精神を培い、社員を家族とも思い、忠誠を誓ったのでした。

さて、ここでの結論は明確です。人=コストと考えている企業は、早晩市場から駆逐されることになるでしょう。しかし、苦しい時代に必死で社員を抱えていた企業は、来るべき時代にも生き残り、新たな環境ビジネスで、一定の地位を確保するはずです。繰り返しになりますが、人は決して材料やコストではなく、ココロを持ちしかも「日々進化する財産」なのです。

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2009年1月17日 (土)

913 コスト効率追求の限界

T社のカンバン方式は、作業効率の最大化を狙い、もってコスト最小を実現するための考え方であり、生産手法です。しかしながら、この路線の効率追求では、勤労者の「幸せ度」向上の追及や、生産における「環境効率」の追求とは、明らかに矛盾します。

先ず前者です。作業を、ストップウォッチを持った同僚が観察し、作業手順のムダを秒単位で記録され、最終的にはそれをそぎ落とすことを要求される場合、作業者の「仕事のやりがい」や「達成感」は一体どこに追いやられるのでしょうか。勿論、作業者の中にはそのムダ取り作業、即ち「カイゼン」に新たな生き甲斐を見つけ出す人もあるでしょう。しかし、多くの場合ムダと余裕の違いについては、意識される事は少ないのです。カンバン方式の考え方では、製品やサービスに付加価値を乗せる作業は「作業」ですが、そうではないものを「ムダ」と定義します。しかし、安定的に運転するためには機械も「遊び」が必要です。例えば、歯車の噛み合いの間の遊びを「バックラッシュ」と呼びますが、これ無しに歯車は全く回りません。増してや、機械ならぬ「ヒト」が持続的に作業を行うためには、余裕や「遊び」が絶対に必要なのです。

一方、後者の「環境効率」とコスト効率の綱引きですが、環境効率はより多くの人力の活用を要求する一方、コスト効率は可能な限り自動化して、人手を掛けないことを最優先におきます。その結果、コスト効率を追求した、究極の自動化工場では、多くの「ロボット様」が忙しく働き、その数を十分に少なく抑えられた作業者(その多くは非正規労働者です)は、ロボット様たちが快適に働けるように、部品を途切れなく供給するお膳立て、いわゆる「配膳」作業に従事する事になります。はてさて、この様な工場では、一体誰が「主」で、誰が「従」なのでしょうか。最近の四半世紀の中で、何らかの望ましくない「価値逆転現象」が起こっているとしか思われません。

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2009年1月16日 (金)

912 GNH

911の様な事を考えていた時、先日のラジオでGNHGross National Happiness)と言う言葉を耳にして、ハタと膝を打ちました。これはブータンと言う国の国是らしいのですが、なかなかに説得力があります。自由主義経済が行くところまで行くと、勝ち組と負け組に分かれます。ウサギとカメではありませんが、経済の仕組みを熟知してウサギのように素早くしかも上手く立ち回れば勝ち組に、しかしカメのようにコツコツとマイペースを保つ生き方をしている人は取り残され、結果として負け組になってしまいます。それも、経済の仕組み上、必ず一握りの勝ち組と大多数の負け組に分離してしまうのです。

それを、911の「幸せ度」と言う指標を使って表せば、その国の平均値はずいぶん低くなるでしょう。しかし、GNHという指標を導入し、同じ国民総生産レベルでありながら、ほぼ全員がホドホドの幸せを感じる社会が作れるとした場合、国民の「総幸せ度」は最大にできるはずです。K総理の目指した、規制緩和=自由な競争によるGNHの増加は、明確に失敗に終わりました。「お金儲けはそんなに悪い事ですか・・・」などと公然と言い放つ鬼子を生み出し、いまその歪の狭間に多くの失業者を取り残そうとしています。

今では、よっぽど田舎まで出かけないと、痕跡さえ見ることが出来ませんが、資源を持たないこの国の最も優れたコミュニティの仕掛けは、実は「結い」と呼ばれる人々の助け合いだったのです。この仕組みは、高度経済成長で、急激に膨らんだ製造業やサービス業でも「終身雇用」などとなって、形を変えて受け継がれてきたのでした。多くの人々は、単にある職業を就くのではなく、ある結いの形式である「カイシャ」に帰属する事に、収入を得ると同時に精神的な満足感を得ていたのでした。その当時は、多分「カイシャ」としてのGNHは最大となっていたことでしょう。しかし、能力給を導入し、評価する側に立たされた上司と、評価される側になった部下の関係はギクシャクし、企業の業績とGNHは逆比例の悪循環に陥ったのではないかと想像しているのです。根っからの技術屋であった投稿者は、人を評価する立場に立たされたとき、迷い無くそれを放棄したのでした。GNHの追求は、決して古典的な意味での社会主義や共産主義とは同じではありません。経済を離れた場所での、人間の幸福の在りようの追求なのです。

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2009年1月15日 (木)

911 幸せ度

もし、一人当たりの収入とその人の「幸せ度」をグラフに描くなら、そのカーブはある時点までは、収入の上昇につれて幸せ度も比例的に大きくなるでしょう。収入が増えれば、住居費や日々の食糧費の捻出も考えなくても済むでしょうし、また自家用車や便利な電化製品も買えるでしょう。子弟の教育費を出すのも楽になります。しかし、一定の水準を越えると、幸せ度の上昇はストップし、逆に下降を始めるに違いないと想像しています。想像と言うのは、投稿者としては50歳到達を機に、収入上昇の権利を放棄したので、それから上の経験が無いからです。

さて想像を逞しくして、自分や家族が一生住んで食っていくのに心配が無いレベルまでお金持ちになった状況を考えて見ます。例えば、企業活動で成功した経営者がその例ですが、日本ではまずその財産を自分の親族(子供)に、可能な限り(税金徴収などで)減らさずに引き渡す事に知恵をめぐらします。富裕のシンボルとして建てた邸宅の周囲には、高価なセキュリティシステムを張り巡らし、資産増加のために行っている種々の投資や信託のリターンに一喜一憂することでしょう。また、寄付の申し込みを如何に断るかのマニュアルを作って家人に教え込むでしょう。自分と家族のために買い揃えた高級外車は、キズが付くのを恐れてあまり乗らずに飾っておく事になるでしょうし、毎日の栄養たっぷりの豪華な食事は、着実に家族の生活習慣病を進行させるでしょう。

必要な額の収入(通貨)は、少しの貯蓄を除けば、殆どが消費に回されるので、その回転率は非常に良いはずです。しかし、それ以上の余剰な資産は、結局貯蓄だけではなく、利殖のための投資に回される事になるのです。国が工業化を進め、経済規模が拡大する局面では、これらの余剰資産も上手く循環していたでしょうが、日本の様に成熟し、定常状態に移行している国では、このカラクリは既に立ち行かないのです。この国がいま行うべきは、「ホドホドの幸せ度」のレベルを明確にし、より多くの人がそのレベルに向えるように、誘導する制度を整えることのような気がします。持てるものが、ムダな資産を手放し、持たざるものに少し回す事が出来る社会は、結局国全体としての平均幸せ度が高くなることでしょう。

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2009年1月14日 (水)

910 雇用創出の矛盾

失業率が高くなると、政治家は「雇用の創出」などと軽々に口走ります。しかし、右肩下がりのご時勢には、それは所詮無理なのです。経済規模が縮む時代に、新たな職場がそんなに増えるはずもないのです。現実的な対応策としては、結局仕事の分け合い(ワークシェアリング)しか考えられません。経済が縮小している時には、皆が身を縮めて、小さくなったパイを更に分け合うしかないからです。それを、間違って税金を使った雇用創出などの「麻薬」を投与してしまうと、その効果が切れる近い将来に、もっとひどい痛みを引き起こすことになるはずです。

もっと不便で、モノが不足していた時代でも、人々は大家族で身を寄せ合いながら結構幸せだった様な気がします。例えば、田植えや稲刈りの時期には、母親の実家で農作業を手伝い、労働の代価としてささやかに米の現物を貰いました。実家は田舎町でクリーニング業を営んでいましたが、料金の半分程度は農作物などの現物で支払われていたような気もします。どうせ、お金を貰ってもそれを使って店屋から買うわけですから、むしろ手間が省けるというものです。冬場に焚く薪は、秋口に近所総出で近くの入会林に入って、予め間引いていた木をリヤカーに積んで持ち帰り、乾燥させるため切って軒下に積んでおいたものでした。

思い出話はさておいて、ここでの結論は失業対策としては、残業など全て廃止し、その分を仕事のない人に上手に振り分ける仕掛けを作ることしかないというものです。その結果、今の「物質的レベル」での生活が維持できないなら、車をバイクに乗り換え、或いは自転車や歩きに切替えるしかないでしょう。食事も腹八分目にすれば、生活習慣病の大半が消えうせ、医療費も安く上がるでしょう。元気なお年寄りは、良い暇つぶしではあっても、あまり運動にはならないGートボールなどにうつつを抜かさず、Gートボール場をささやかな畑にして自分達が食べる分の野菜を育てる事に生き甲斐を見出すべきでしょう。皆が、欲をかかずに適度に働いて、ささやかに暮らせば、気がつくと環境問題は解決しているかもしれません。政治が口先で言うだけの雇用創出など、環境的側面から見れば明らかな矛盾にしか見えません。

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2009年1月13日 (火)

909 グリーン化

B国でも新しい大統領が「産業のグリーン化」による雇用の創出を表明しています。しかしながら、投稿者の厳密な定義によれば、省エネカーの開発や太陽光発電やバイオマス燃料などをグリーン産業と呼ぶには抵抗があります。敢えて言うならそれらは「グリーンっぽい産業」などと呼ぶべきでしょう。本当のグリーン産業とは、原料がそもそも太陽エネルギー起源でなければなりません。ずばり言うなら、それはバイオマスでなければなりません。それらから作った製品は、消費して、最終的に廃棄しても、それは土に還ります。加えて、それらの産業に関わるエネルギーも可能な限り、太陽エネルギー起源か畜力・人力などなければなりません。使うエネルギーが化石エネルギー起源の場合は、結局環境負荷を出し続ける訳ですから、グリーンに「灰色」が混じった、汚い製品になり下がるからです。

これまで、このブログでは「絵」を示してきませんでしたが、今回はイメージを明確にさせるため、模式図を示す事にします。この絵で、グリーンで示されているサイクルを回す産業を、まさにグリーン産業と定義すべきでしょう。このサイクルは、輸送や製造に関わるエネルギーの消費と海外からの資源輸入を大幅に抑制するものでもあります。

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2009年1月12日 (月)

908 伝統産業

持続可能な産業として、何も新たな産業を無理に考え出す必要はありません。その地域に昔からあった生業(なりわい)を再度掘り起こせばよいだけです。多くの地場産業は、江戸時代にその基盤が固まったものが多いと想像できます。長年に亘って戦乱が殆ど無かったこの時代に、人々は多くの産業を興しました。自生していた漆を使った塗り物、質の良い陶土を活用した焼き物や瓦産業、コウゾやミツマタの樹皮を使った和紙つくり、木材生産や木工業、酒や醤油などの醸造業、砂鉄や手掘り鉱山からの少量の鉄や金銀銅の生産、イグサが良く育つ地域での畳表の生産などなどです。地域に寄らない普遍的な産業としては、里山の雑木から作る薪炭生産や、ワラや竹やスゲなどを使って日用品を作る手工業などがあったでしょう。勿論、主食である米や、中山間地での雑穀つくりや木こり(つまりは農林業ですが)は、もっとも普遍的な産業でした。

しかし、いまやこの国では、この漁業を含む第1次産業の占める人口割合は、なんと5%台まで落ち込み、その一方で第3次産業は70%に迫っています。工業は自動化が進み、一人当たりの生産性こそ向上しましたが、狭い平野と急峻な山地という地形的な制約もあり、林業の機械化や田畑の圃場整備ができにくい日本では、農業の生産性は頭打ちになってしまいました。加えての農林業従事者の「超高齢化」があります。

しかし、自然の材料を使ったベーシックな日用品の生産や土地ごとに特徴のある食糧生産は、どの時代になっても必要な産業である事は間違いないでしょう。中国産の100円商品は、やはり「安かろう、悪かろう製品」でしかありません。使い捨てに近いもので、ゴミを増やす原因そのものです。手を掛けた工芸品は、修理が利きます。例えば、漆器なども塗りが剥げても、何度でも修理が可能です。伝統産業は、長い時代のフィルターを通過して確立したものなので、真面目に取り組めば、現代社会でも十分通用する産業だと言えるでしょう。この冬、車産業から放り出された人たちのたとえ一部でも、この方面に移っていくことを期待しています。

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2009年1月11日 (日)

907 木材の人力搬出

間伐材の活用が急務です。山を手入れする場合、必然的に間伐する必要が生じます。何故間伐が必要かといえば、最初から疎らに植樹すると、雑草や潅木や笹に苗木が負けてしまうので、密に植えて、ある程度成長したタイミングで間引いてやる必要が生ずるからです。その昔、間伐材は建築用の足場材として、結構需要もあり活用されていました。しかし、今の社会では間伐材の用途は殆どありません。用途が見つからないと言う事は、値が付かず、市場主義社会では厄介者に過ぎないということでもあります。しかし、せっかくある大きさまで育ってくれた木材を、切り倒したまま朽ち果てるまで山に放置するのは忍びないものがあります。一部では、重機を使った間伐材の搬出が行われていますが、確かに能率は人力の2倍ほどはありますが、重機の燃料代を考えると、とても元が引けません。また重機を使っても、搬出できるのは精々5立米/日程度に過ぎません。

そこで検討してみなければならないのは人力での搬出です。間伐材を人が運べる程度に切り、肩に担いで林道まで降ろします。勿論、人力で担ぎ降ろせるのは、精々10kg止まりでしょう。1トンを降ろすには100回も斜面を往復しなければなりません。しかし、間伐を行う林地は、木が密に込み合っていた場所なので、下草は殆ど生えていません。そこで、長い材を必要としない用途であれば、木材を30センチくらいに切り刻んでしまいます。これを、斜面を転がして降ろすことにします。これだと、一個当たりの重さが5kg程度となる代わりに、一日に1000個くらいは降ろせるかもしれません。このレベルになると重機で降ろすのと能率は変わりません。

人件費は、重機を使う場合と変わらないので、重機の燃料費が丸々浮くわけです。山から降ろすコストが立米当たり5千円以下なら、固形燃料に加工しても、多分灯油と勝負できるかもしれません。以前このブログでも散々書いたように、木材には潜在的に種々の用途があるので、ムダ無く100%利用し尽くせば、間伐材の搬出コストは十分に吸収できるはずです。しかも、人力搬出に都会で余った労働力も確実に吸収できるのです。更に、中山間地に人が戻り、過疎の問題も解消するオマケがつくでしょう。

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2009年1月10日 (土)

906 ムダの定義2

しかし、一家の稼ぎ頭が車を乗り回すようになると、人々は車の便利さを享受し、それに「依存」するようになります。自動車産業は関連産業の裾野を益々広げ、同時並行で大量生産されるようになった便利な電化製品も徐々に「不可欠な製品」になっていったのでした。その過程は、とりわけ日本ではあまりにも急激に進んだため、それを反省し、見直す事は殆ど行われませんでした。薬物やニコチンなどの依存症になると、自分がそれに依存して暮らしていることさえ意識しなくなります。利便への依存も全く同様なのです。

依存症かどうかは、1-2週間「それ」を止めるか、「それ」から離れてみる事で簡単にチェックできます。電気やガス無しに暮らすことの難しさは、最近でもいくつかの震災や災害現場で証明されています。明らかに、私たちはこれらに完全に依存しています。車もそうであるかどうかについては、やはり車が故障したつもりで1週間暮らしてみることでチェックできるでしょう。もし車が無かったら、一体何時に起床すれば、会社の始業時間に間に合うのか。それが、例えば朝6時くらいであれば、車を捨てる事は十分可能です。さすがに、朝3時前の起床では、寝る時間がありませんので無理があるでしょう。朝6時に起床し、最寄の駅まで30分歩き、電車で1時間移動し、更に駅から職場まで30分歩くとしても、7時に起床し、渋滞の中を1時間かけて車で通勤する事に比べれば、健康面・精神面で十分過ぎるメリットがあるでしょう。

つまり、頑張れば他の手段で代替できるものは全てムダであると定義しても良さそうです。勿論、その代替手段の環境負荷が、現状の手段に比べて十分低いことが求められます。投稿者の場合、車を捨てて取り敢えずはバイクに乗り換えました。環境負荷は、ほぼ半分以下にはなりました。これが壊れたら、Sカブにするか自転車に戻るか、さらにじっくり考えます。

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2009年1月 9日 (金)

905 ムダの定義

T社のカンバン方式ではありませんが、製造業に限らず、経営の効率化のためには「ムダ取り」が不可欠です。しかし、ムダの定義は結構厄介です。というのも、人や時代によって「必要不可欠」の定義やレベルがひどく違っているからです。たとえば、「車」を例として挙げてみます。車が必要不可欠の移動手段かどうかを日本の状況で考えても、スッキリとは説明できません。都会で公共交通機関が発達している地域では、車は特に不可欠ではないでしょう。時代を遡って、1970年代まで戻っても、同じことが言えます。前者では、代替手段が十分に用意されていることが、後者では「社会の必要レベル」が低かった事がその理由です。

ムダがしっかり定義できない以上、省エネや省資源といくら声を大にして叫んでみても虚しいものがあります。しかし、それでは議論がそこで止まってしまいます。今、先進国と呼ばれる小数のグループと途上国と呼ばれるマジョリティの綱引きも、まさにこの線上での議論です。先進国の必要不可欠と途上国のそれには、それこそ雲泥の差があるのです。必要な事は綱引きではなく、歩み寄りだと言えます。日本を含む先進国は、足元の生活をもう一度見回し、必要不可欠のレベルを再度設定すべきなのです。

もう一度車の「必要性」を考えて見ましょう。車が必要になったのは、人々が日常的に移動をし始めたからに違いありません。その昔、多くの家では農業を含む家業を営み、或いは勤め人(サラリーマン)になったとしても、勤め先に住み込むか近所の長屋を借りた事でしょう。この時代の日常生活は徒歩で事足りたのです。しかし、企業規模が大きくなり、都市のサイズが大きくなるにつれて、通勤距離は年々長く延びたのでした。都市ではさすがに鉄道網が整備されましたが、田舎ではそうは行きません。安い賃金を求めて地方に分散した企業に勤めるために、足としての車が「不可欠」と見做されるようになりました。続きます。

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2009年1月 8日 (木)

904 譲り2

さて、20世紀においては、資源やエネルギーや食糧の均等な分配の手法として共産主義や社会主義などという社会システムも実験はされましたが、それらはことごとく失敗に終わりました。ことごとくと言う表現は実は適切ではなく、アジアの一部やカリブ海の一部で、細々と継続はされています。皮肉な事ですが、環境負荷という面から見れば、これらの国々は最も「エコな暮らし」を営んでいる国とも言えるのです。それは、夜間に宇宙から撮影された写真で見ると、これらの国々がほぼ漆黒に写ることでも明らかです。電力の元となる石油や、一定水準以上の科学・技術が必要な原子力が十分には使えないため、仕方なく日暮れと共に、活動を停止しなければならないわけです。

勿論、黒く写る地域には、社会システムには無関係に、資源やエネルギーを買えない多くの国々も含まれます。経済至上主義の今の文明では、資源やエネルギーは勿論、食糧でさえ「通貨との交換」でなければ分配できないからです。これらの地域でも、古くは自給自足で、貧しいながら平和な暮らしを送っていたはずです。しかし、これらの国々の資源や労働力に目をつけた、かつて列強と呼ばれた宗主国が進出し、ジャングルを切り開いたプランテーションで、地域の風土を無視した「金になる作物」を作らせたのでした。

これらの「経済活動」は、「譲り」どころか逆に「収奪する」行為そのものでした。多くの換金作物は、それを育てるためには、多くの水を与える必要があります。ジャングルの伐採・消滅は、結果としてその地域での降雨量を減らし、一方プランテーションが横取りした水のために、多くの地域で水不足=水争いが発生しました。現在「紛争地域」と呼ばれる多くの場所では、歴史的に見れば水争いが戦争の根本原因になっていたのです。この水争いが原因の紛争・戦争は、歴史上でも中東など、その他の「半乾燥地域」でも多く見られるところです。その意味では、水は譲り・分け合うことが特に難しい「資源」の代表だとも言えます。

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2009年1月 7日 (水)

903 譲り

「もったいない」以上に重要なキーワードとして「譲り」を挙げたいと思います。現代の、地球規模の気候変動や限られた地域の公害問題などの根っこを掘り起こすと、それは「独占欲」に行き着きます。独占欲には、個人レベルのものも勿論ありますが、ここで指摘するのはある「世代の独占」です。問題なのは、社会全体が独占を進めても、人々にはそれが意識できないことなのです。何故なら、多くの人々は「隣の人」を見て暮らしていますから、例えば社会全体が贅沢をしていると、自分の贅沢さ加減が見えないのです。しかも、忘れっぽい性質も持つヒトは、年配の人でも多くが、かつて自分の経験した質素な生活を、既に忘れかけている様なのです。

昔、ヒトは自然に包まれて、自然の生態と資源を分け合いながら暮らしていました。しかし、化石燃料や金属などの地下資源を発見し、それを使った近代的な産業を興しました。一つの産業(例えば製鉄業)が別の産業(例えば鉄道などの輸送業)を興し、それらの産業はさらなる地下資源の採掘を要求しました。しかし、この地下の資源(パンドラの箱)の蓋は閉じられるどころか、近年は益々広く開け放たれてきました。これが結果としては「世代の独占」を加速してきたのでした。分かり易くいえば、この2百年で、10世代が生きてきたとします。一方、新人類(ホモサピエンス)が20万年の歴史を刻んできたとしても、精々1万世代余りしか代替わりしていないはずです。我々がいま生きている文明は、僅か10世代で石油資源の半分を使い果たし、多くの地下資源の半分以上を掘りつくしてしまったのです。同じ割合で掘り続けると、単純に考えても次の10世代で殆ど全ての資源や化石エネルギーを使い果たしてしまうでしょう。

これを、世代の独占と呼ばずに一体何と呼べばよいのでしょうか。僅か20世代で、地下資源の殆どを掘りつくそうとしている今の文明は、資源・エネルギー的には原始生活に戻らざるを得なくなるはずの将来世代に、一体どのように評価されるでしょうか。我々の世代に最も欠けているのは、資源やエネルギーを他の世代のために温存し、子孫や地球環境を共有する他の生き物に「譲り」と言う態度だと言えるでしょう。

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2009年1月 6日 (火)

902 青写真

全治3年の不景気と言おうが、100年に一度の経済危機と叫ぼうが、それは「大変だ、オオカミだ」と叫ぶオオカミ少年に近いものがあります。正月を前に雇用を切られた派遣社員や、内定を取り消された学生や、資金繰りが苦しい企業への緊急融資などの「対症療法」ばかりをバタバタやっても先は見えてきません。とりあえずは、目の前の火事を消すためにはワークシェアやビジネスの分け合いにより、飢え死にを防ぐ必要はあるでしょう。しかし、その先を見越すならば、必要な事は「持続可能な新たな雇用の創出」しかないはずです。重要な事は、目先の雇用ではなく、持続可能な雇用の創出でなければならないという点です。

しかし、今回の「人災」では、例えば人間が作った価値である日本の株価が一気に4割も落ち込んでしまう有様です。これは、システム設計が上手く行われておらず、人間(社会)の自由な欲望の赴くままに、成り行きに任せてきた「ツケ」が回ってきた結果だと言えます。いくら国債を乱発して景気を鼓舞しても、青写真のない政策では、舵の無い船のエンジンをやたらに吹かしているようなものです。

答えは比較的簡単、と言うよりはかなり限定なものとなるはずです。何故なら、持続的なビジネスとは、持続可能な資源やエネルギーに依拠するものでなければならないからです。石油や地下資源を多用する産業をいくら鼓舞しても、必ず10年に一度くらいの息切れを繰り返し、最終的には立ち直れない状況に陥るだけです。一方、太陽光やバイオマスなどの再生可能な資源やエネルギーに頼る場合でも、大きな天候のリズムにはそれなりの影響を受けるかもしれません。例えば、冷害や干ばつや、台風などの害を指します。しかし、システムのデザインさえ上手く行えば、これら悪天候による落ち込みは1-2割で歯止めが掛かるはずなのです。これは、景気変動による波に比べれば、十分に小さい範囲です。

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2009年1月 5日 (月)

901 チューブ物流システム

これは大分前の初夢だったような気がします。運ばないポスト車社会でも最低限の物流は必要でしょう。と言うわけで、ここでは夢に出てきた究極の省エネ物流システムを提案しましょう。それを、「チューブ物流システム」と名づけてみました。それは、単なる直径1メールか2メートル程度の金属製のチューブです。貨物を詰めた円筒形のコンテナは、このチューブの中のレール上に、極限まで摩擦を小さくした車輪を持つ台車に載せられて運ばれます。このチューブには適当な勾配が作られているので、殆どの区間はニュートンさんの力(重力)で、「ころげ落ちて」いきます。全くの平地や逆に高度を稼がなければならない場所では、リニアモーターを使って少し加速したり、高い場所まで引き上げたりします。トンネルの様な大規模な土木工事を避けるため、チューブは山の等高線に沿うような形で設置されます。どうせ、重力でころげ落ちていくので、コンテナが走った距離の長さは無視できるでしょう。

このシステムには、危ない「寝不足の運転手」は不要です。行き先のマーカーが付いているコンテナは、分岐点では自動的に目的地の支線に振り分けられます。目的地では、チューブの片側が開いて、円筒状のコンテナがゴロリと回収される事になります。行きと戻りの2本のチューブが必要ですが、都市に届いた田舎からのコンテナには、帰りには都市の工場でできた製品を入れますので、ムダな空コンテナの往来は最小限で済むでしょう。チューブは、密閉されているので、内部のレールやシステムやコンテナは、風雨や雪や腐食からは守られるので、メンテナンスは最小限で済むはずです。リニアモーターの電力は、チューブの上に貼り付けた太陽電池や、所々に設置する中型の風車で十分賄えるレベルです。このコンテナに入らないサイズの製品は、仕方がないので、乗用車しか走らないのでガラガラになった道路を使って細々とトラック輸送すればよいでしょう。目的地では、円筒コンテナは、小型の専用トラックに積替えられて、顧客まで運ばれます。円筒型なので、クレーンなど使わなくても、簡単に転がしながら移動できるでしょう。

問題は、このシステムを全国に広げる費用ですが、大都市間の移動時間をホンの1-2時間ばかり節約するだけの、バカバカしいリニア新幹線の計画を止め、その膨大な額の建設費を振り向ければ、かなりお釣がくるはずです。

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2009年1月 4日 (日)

900 ポスト車社会2

B国のビッグ3の危機を見るにつけ、ポスト車社会を考えないわけにはいかないようです。20世紀はとにかく(石油を使って)人やモノを運ぶ時代でした。しかし、石油が逼迫し、或いは逼迫しないまでもその使いすぎの影響(例えば温暖化)による、石油時代への急激なブレーキが掛かっている今、今後の社会は20世紀の延長線ではない、新たな文明をプロットする必要があると思うのです。難しい課題ではありますが、しかし答えを出さなければならない緊急の課題でもあります。

ここでは、敢えて「運ばない文明」を、自動車文明へのアンチテーゼとして挙げてみる事にします。20世紀は、人やモノを運ぶ事は、時代の要請でもあり「是」であった訳ですが、これを「否」であるというテーゼを掲げてみるわけです。人やモノがあまり移動しない社会は、日本でも戦前くらいまで戻れば、十分な歴史を重ねてきています。戦後でも、投稿者の幼少時代くらいまでは、貨物輸送の手段としてはほぼ鉄道便しか選択肢はなく、物流量はその鉄道の輸送量によって上限が制限されていたのです。道路は、主要な国道以外は、市街地を除き砂利道で、長距離のトラック輸送などは全く考えられない時代でした。この様な時代においては、地方で生産できない電化製品や車や、工業製品あるいは、気候によって栽培できない農作物などが、限られた鉄道輸送量の範囲内で流通していたのです。

ポスト車社会では、トラック輸送に代わる、省エネルギー型の輸送手段が提案される必要があるでしょうし、その代替手段も、輸送量に限度が設定されるはずです。その限られた輸送量の範囲内で、運ばれるものには優先順位が振られ、優先順位が低い「贅沢品」の輸送費は、目の玉が飛び出るほど高く設定されなければなりません。北海道で採れたタラコを博多まで輸送し、それを「明太子」に加工して、全国に配送するなどと言うビジネスは、来るべきポスト車社会には許されなくなるでしょう。どうしてもそれが食べたい人は、今より一桁くらい高いお金を払って買い求める事になるはずです。高くなった分は、輸送コストであり「物品移動税」でもあるわけです。日常的な食生活は、基本的には地場で生産される米や野菜や魚を中心とした、昔ながらの食生活が基本とならざるを得ないでしょう。その土地で手に入らないが、基本的な食材は、仕方がないので例えば次に述べるような、新たな輸送手段で細々と輸送する事になります。

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2009年1月 3日 (土)

899 増幅

社会が人間で構成され、その中で経済活動が営まれている限り、それらはヒトとしての特徴的な行動パターンに左右されます。群れを成すヒトの特徴的な行動で注目すべきものに、「付和雷同」があるでしょう。群集倫理とも呼ばれることがありますが、これが時々困った現象を招きます。たとえば今世の中で吹き荒れている「不景気風」もそんな現象の一つといえるかもしれません。この夏からの動きを眺めて見ても、ごく最近T社が前年同期に比べ、売り上げが2-3割減ったと報道されただけで、殆ど間髪を置かずに、全く関係の無い業界が人員整理を発表し、それが不動産業界やサービス業に飛び火し、あっという間に日本全体が不況風に包まれてしまった感があります。この国の首長でさえ、「100年に一度の非常事態」であると、繰り返し宣伝するほどです。それを見た一般の人たちも、12月に貰った虎の子のボーナスを(車などの)大型商品に回すのを差し控えたのも「付和雷同」が基本のヒト族の行動としては、ごく自然の成り行きでしょう。

T社のアナウンスが、結局自分の首をさらに絞めることになったのは、皮肉な現象ではありますが、この会社を含め、企業や政府が抱えるアナリストやマーケティング専門家達のセンスが疑われます。彼らが、立てるべき戦略は、不安を煽ってそれを「増幅」させ、人々(とり分け社会的に弱い人々)を崖から突き落とすことではなく、如何に世の中の景気を「軟着陸」させるかの、陽動作戦であるべきなのです。つまり、今後の景気はどん底まで落込む、と予言するのではなく、どうすれば軟着陸できるかのシナリオを示す必要があるということです。

ヒト族は、全く予想もしていない急激な状況変化に直面すると、動こうにも全く動けなくなり、多くはパニック状態に陥ります。しかし、一方でヒト族は、動物一般とは異なり、十分な時間が稼げる状況では、色々な知恵を働かせながら、何とか局面を乗り切ろうとする力が出せる、優秀な存在でもあるからです。

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2009年1月 2日 (金)

898 信号と雑音

情報には、信号(シグナル)と雑音(ノイズ)があります。有用な情報を信号と呼び、切り捨てるべき情報を雑音と呼ぶ場合が多いようです。さて情報化時代と言われて久しくなりますが、いまや色々なメディアに溢れ返る情報の99.9%がノイズであると言っても言い過ぎではないでしょう。一般には、要らないものを「ゴミ」と呼んでいます。ゴミには投稿者の定義では「固形ゴミ=いわゆる目に見えるゴミ」、「気体ゴミ=CO2など」、「液体ゴミ=水ゴミ=下水・廃水」、「熱ゴミ」、「音ゴミ=騒音」などがありますが、ここではノイズ情報を「情報ゴミ」と名づけて新たにゴミの分類に追加しておきましょう。

投稿者の場合、なるべく情報を選択して取り入れるようにしてしますが、仕方なく欲しくない情報に接してしまった場合には、直ちにその情報にキーワードを割り振ります。そのキーワードが、「環境」や「持続可能性」に関するものであれば、一応信号として取り入れ、そうでないものは情報ゴミとしてシャットアウトします。その結果、投稿者の頭の中には、信号情報のインデックスのようなものが出来上がります。そのインデックスが実は雑音情報を通さないフィルターの役目も果たしている訳です。

ところで、どんな偉い経済学者が、綿密な理論で武装して論破しようと、有限である地球の資源を使っての、「持続可能な経済成長」は不可能だと言えます。ですから、今以上の物質的な豊かさや、快適さの向上を唱えるいかなる説得も、投稿者には雑音情報としか響きません。しかし、資源やエネルギーを大幅に減らし、逆に精神的な豊かさを追求せよとの囁きは、その声が小さくても敏感に反応するでしょう。結局、環境保全に関する信号情報とは、ヒトを含む地球上の生きとし生けるものが、可能な限り長く存続できる方法に関するものを指すのであり、そうでない環境悪化につながる雑音は、切り捨てことができる情報フィルターを多くの人が備える必要があると思うのです。

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2009年1月 1日 (木)

897 さて新年です

昨日は年末でしたが、当然のようにたった一晩寝ただけですが今日は新しい年になりました。もし、年末年始の区切りが無ければ、人々の暮らしにはメリもハリも無い、平面的な暮らしになってしまうでしょう。その意味では、月の満ち欠けではなく、地球の公転周期を1年と定めた西洋人はさておき、それを24の季節に細かく分けた日本人は、すばらしい季節感を持っている民族と言えるかもしれません。つまりは、この国では2週間ごとに一つ季節が進む勘定になります。例えば、冬至が一年で一番日が短い日である事は小学生でも知っていますが、実際には12月に入るとすぐ、日没の時間は延び始めます。日の出は1月初旬まで遅くなるので、差し引き冬至の昼の時間が最短となる計算です。しかし1月も中旬ともなると、日没の時間は20分以上も遅くなっているので、日照のありがたさが実感できます。12月はじめから見れば、この間に季節が3つくらい進んでいる事になります。

さて季節は、温暖化が進もうが、世の中に不景気風が吹き荒れようが、着実に巡っていきます。お金に絡んで、複雑に、しかも荒っぽく揺れ動くヒト社会とは異なり、私たちが化石燃料を多量に燃やして、大気中のCO2やその他の温暖化効果ガスを、地球の気候変動を起こすほど撒き散らしたにしても、自然はその状態に応じた新たな平衡状態に落ち着き、新たな季節を刻み始めるでしょう。しかし、その新たな状況が、ヒトを含め、今地球上に存在して生き物の安寧な存続を許すかどうかはまったく別問題です。

ところで、気がつけばこのブログももう既に900題近くも書き進めてしまいました。一応の区切りを1000題と決めているので、今年はこのブログにも、何らかの結論めいたものを書いてみるつもりです。とはいいながら、「環境坊主」の唱える「習わぬお経」程度では、所詮教祖様の示すような「教義」にはなり得ません。仕方がないので、投稿者の頭の中にあるありったけの言葉を駆使して、稚拙な文章にはなりますが、その分量だけは山ほど書き続けるしかないようです。

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