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2009年2月20日 (金)

947 信心

少し田舎の道路を走っていた時のことです。70歳は大分越えたと思われる老人が、道端の祠に向かって熱心に拝んでいました。後ろは、見上げる様な岩山になっていましたが、そこに祀られているのは、何の神様なのか知る由もありませんが、そんな事はその老人には何の影響も無いでしょう。その祠は、多分老人が生まれた時には既にそこに在り、近所の住人の信心を集めていたと想像できます。信心には何の訳も理由付けも要りません。

さて日本には、八百万の神々が存在すると言われています。西洋のたった一人(ひとつ)の偶像を崇拝する一神教(宗教)とは全く違うものが信心だと言っても良いでしょう。お釈迦様への信心でさえ、この国では「輸入」されたものだったはずです。日本古来の信心は、自然物や自然現象への単純な崇拝と畏敬の念から出発した、自然発生的なものだったと思うのです。海に隔てられ、他民族からの侵略になど余計な神経を使う必要もない平和な国では、一つの神の元に一致団結する必要すらなかったはずです。

結果として、この国では、自然を敬い、その恵みに感謝する信心が根付いたと想像できます。農作物を育む太陽が昇り、農業用水を恵んでくれる山の頂を拝み、それが蓄えられている池や湖や湧き水に水神様を祀り、時には暴れる川の流れを畏れ、大きな岩や大木に自然のパワーを感じ、それらを祀り、信心するのでしょう。いま自然物への信心が、ほぼ失われた都会の暮らしに慣れた人々が、一体何を信じて暮らしているのか、非常に気にかかります。いずれにしても、それはお金か、便利な工業製品か、或いはコンピュータの中にあるバーチャルな世界などになるでしょう。

先の老人が、もし小さな孫でも連れて拝んでいたのであれば、信心の伝承も出来るのでしょうが、現実には彼の子や孫は、多分街でモノ(工業製品)に囲まれて「唯物的な生活」をしているのではないかと勝手に想像し、軽い絶望を感じたのでした。

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