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2009年2月28日 (土)

955 ムダの定義2

ムダの定義については以前も取り上げました。このブログでのムダとは、もちろんカンバン方式で言うところの「コストのムダ」ではありません。いわずもがなですが、ここでのムダとは「環境に対するムダな負荷」を指します。人間が生きていくための最低限の環境負荷は、たとえそれが環境を悪化させるものであっても、ムダであるとは言えません。しかし、贅沢のための、単なる楽しみのための、快適さのためだけの環境負荷であれば、早急に切り捨てる必要があります。もちろん、この議論で難しいのは、何が絶対必要で、何がムダで切り捨て可能なのか、個人や社会や国の違いによって、その基準が大きく異なることです。

たとえば、Aメリカ人とコンゴのジャングルで昔ながらの生活を送っているピグミー族とで、この議論をすると仮定した場合、その場で行われる頓珍漢なやり取りが容易に想像できます。何しろ、ピグミー族は、車を見たことはあるにしても、乗ったことはないでしょうし、温水シャワーや電化製品などは使ったこともないわけですから、これらが生活に「必要」なものであるかどうかは、議論すら成り立ちません。しかし、ピグミー族は森から毎日300種類にも上る食材を採集し、採集の休憩時間には、植物の根から煎じる「コーヒー?」も楽しんでいるわけです。一方で、Aメリカ人やこの国の人も、毎日30種類の食材を口にする事すら殆ど絶望的なのです。平均的な、コンビニ弁当に使われている食材は、せいぜい10種類止まりだと想像しています。添加物を加えても、その倍くらいのものでしょう。

何万年もの間営まれてきたピグミー族や、アジアで言えばヤミ族などの生活スタイルからは、環境のムダは殆どそぎ落とされているはずです。一方、今世紀に入ってから経済力をつけたAメリカと、戦後急成長したこの国の生活スタイルは、まさに環境的なムダの塊であると言い切っても良い「代物」だといえるでしょう。日本でも、山里の伝統的な暮らし方は、環境の持続可能性に照らせば、かなり理想的なものだと言えそうです。

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2009年2月27日 (金)

954 空調から体感調整へ

以前にも書きましたが、動物としての人間が感ずる、いわゆる体感温度は「気温」だけでは決まりません。それに加えて「湿度」、「風速」、更には「輻射温度」の影響を受けます。とりわけ輻射温度は、気温と同じ程度に体感温度には支配的です。事務所で窓際に座っている人は、気温と輻射温度をほぼ同じレベルで体感していることでしょう。冷房で室温を27℃に保っていても、窓からの輻射温度が33℃となっている場合、体感温度としては「足して2で割った値」、即ち30℃程度にはなっているわけです。

投稿者は、この輻射温度を下げるのにロールカーテンが有効ではないかと思い、その効果を検証中です。つまり、布や和紙で出来たロールカーテンは、熱容量が小さくしかも断熱性能のある空気層を含んでいるので、日の当る面は上の例では33℃程度に、室内の面はほぼ27℃になっているはずです。したがって、室内に面している面からは室温と同じ輻射をしているのです。結局、体感温度は30℃から27℃に下がりますので、冷房温度がほぼそのまま体感温度になるでしょう。この場合は、冷房温度をもう12℃上げても全く問題はないでしょう。

つまり今後は、従来の意味の空気温度をコントロールする「空調=空気調和」ではなく、体感温度とコントロールする「体感調整」の考え方に移行する必要があるということです。このような考え方を入れた、家庭やビルの冷暖房システムが登場する気配が感じられないのは、悲しい限りです。体感温度に着目すれば、エネルギーを大幅に節約しながら、しかもやせ我慢の無い(しかし少しの我慢は必要です)冷暖房が可能となるのです。

その意味では、究極の「個人体感温度調節システム」である「衣服」に関して言えば、その機能追求は未だ究極の形までには至っていないとも言えるでしょう。アパレル業界は、不景気風など吹っ飛ばして、元気に究極のクールビス、ウォームビズ、体感温度調整製品を開発すべきでしょう。

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2009年2月26日 (木)

953 環境の世紀

21世紀が環境(保全)の世紀と呼ばれるのは、環境悪化の状況がもはや一刻の猶予も無く「そうあらねばならない」からです。その意味では、20世紀を一言で総括すれば「環境破壊の世紀」であったと言えます。しかし、環境を保全するのに何かを「する」と考えるのは正しいアプローチとは言えません。特に科学・技術を使って、環境のために何かを「する」と考えるのは、間違いなく自己矛盾に陥ります。それは、例えば膨大なエネルギーを費やして、出してしまったCO2を圧縮して、地下深くの岩盤の隙間に押し込んでしまう暴挙(とは言いながらこれは現実に税金を使った実験が行われている愚挙でもあります)と似ています。液化し、地下に押し込む膨大なエネルギーは、石油を燃やし、あるいは地下からエネルギーを使って掘り出し、濃縮した核物質を使った原発で生み出すしかないわけです。これは、一方でCO2を固定しながら、他方で別の場所からCO2を吐き出すという全くの自己矛盾なのです。

そうではなくて、これからの時代を環境の世紀にするためには、何かを諦め、何かを止めるしかないと思うのです。ハイブリッドカーを作って、これまでの半分の燃料で車を動かすことを考えるのではなく、まずは車を捨ててみて、しかる後に如何にして快適に、健康に暮らすかに知恵を絞る必要があるのです。安易に省エネ家電に買い換えるのではなく、今ある家電を、絶対に必要な場合にしか動かさないという決意を固めるだけで良いのです。例えば、エアコンは、「死にそうに暑い日に」、「死にそうな時間帯だけ」動かすべきなのです。環境のために何をするかではなく、「環境のために何を諦め、何を捨てるか」を考えることこそが、地球環境に100%依存して暮す私たちの責務だと言っておきます。

その意味で、今後の時代を「環境の世紀」などと勝手に呼ぶのは、人間中心の幻想に過ぎず、環境そのもの「は、多くの生物が滅んでも、人間が自分の出した環境毒で苦しんでも、それは依然としてそこに在り続けます。それを「カミ」と呼ぶか、「ほとけ」と呼ぶかは、専ら文化の問題です。

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2009年2月25日 (水)

952 中毒

以前「便利中毒」という言葉を使い、商品が売れれば良い(というより短期の収益が上がりさえすれば良い)という企業や、その中で働くあまり方向の正しくない技術屋などからの、便利製品を押し付けられ続けた結果、私たちはそれらに対してすっかり馴らされ、便利中毒になってしまったと書きました。しかし考えてみれば、それらの多くの便利製品は、限られた人間の力や能力を、エネルギーの力を借りながら、何倍か或いは何十倍、何百倍に増幅させる仕掛け(Gadget)だったといえるでしょう。

結果として起こった事は、それらのガジェットへの過剰な依存状態(=中毒)と、人間の本来持っていた(或いは生きていく上で是非獲得しなければならなかった)多くの能力の喪失でした。

この便利中毒を、言葉を代えて表現すれば、多分「エネルギー中毒」と呼んでも良いでしょう。何故なら、現代のガジェットの殆ど全ては、石油やガスや電気エネルギーで動いているからです。その証拠に、もし災害や落雷によるインフラの寸断や停電が起こると、これらの便利機器は金属かプラスチックの箱に電気回路が入っただけのガラクタになるでしょうし、ガス欠を起こした車は、単なる道路上の障害物になるだけです。

中毒を治すのは、比較的簡単です。一定の期間それを遠ざけるだけで良いのです。勿論、それを手放した直後は、ある種の「禁断症状」が出ると予想されます。しかし、そのつらい時期を脱した時、中毒患者だった人たちは「何であんなものに手を出し、べったり依存して暮らしていたのだろう」と、しみじみ思い返すはずです。航空機業界に身を置いていた時は、投稿者自身も幾度となく航空機に乗り海を渡りましたが、近頃は上を飛ぶ旅客機の騒音を煩わしく感じます。車を捨ててバイクに乗っている今は、大分くたびれてきた今のバイクの後継として、カタログ値ですが1リッターで100kmは走る事になっているSカブか自転車に狙いを定めています。というわけで、投稿者の場合ですが航空機中毒と車中毒は、どうやら脱した様な気がしています。

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2009年2月24日 (火)

951 最終コーナー

このブログも950題を超え最終コーナーに入ってきました。以後の50回くらいの投稿の中で、これまで考えてきたことを濃縮しながらまとめ、自分なりの結論を述べてみるつもりです。振り返って書き連ねたタイトルを眺めてみると、書き始めた頃は、やはり大上段に振りかぶって、肩に力の入ったものが多いようですが、間に「休題」を混ぜながら、毎日毎日書き続けていると、どうやら力の抜き方も分かってきたような気がします。

更に途中からは、「環境坊主」としての習わぬ経も増えてきて、環境を考える事は、とりもなおさず人間の生き方や、社会のあるべき姿を考えることであると改めて気がつきました。そこまで来て、元技術屋であった投稿者も、やっと環境屋の端くれ程度にはなれた様な気がします。勿論、環境坊主の役割としては、環境に無頓着な人たちに、できるだけ分かりやすい言葉で、環境の中での生き方や社会像を伝えることではではありますが、かといってそれを無理やり押し付ける訳にもいきません。言葉を変え、色々な喩えを使いながら何とか理解してもらう様に、口を酸っぱくして話し、書き続けるだけです。

その結果、元祖「見習い環境坊主」としては、何らかの形で影響を受けた数人の「見習い環境坊主見習い」を増やし、学校や市民や企業で行った(これからも行う)出前講座や、セミナーなどを通じて、話を聞いてもらった数百人~数千人の人たちに、時々は環境のことを考えながら暮らしてもらうことで満足すべきでしょう。より、広い範囲に影響を及ぼすためには、やはり「環境カリスマ」に登場してもらうしかありません。少し前は、GアさんやM-タイさんに期待はしていたのですがカリスマ性にややかげりも見られます。今後はやはりOバマさんでしょうか。これにしても、本格的な環境カリスマの登場が待ち遠しい限りです。それまでは、及ばずながら環境坊主の一人として、細々と説教を続けることといたします。

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2009年2月23日 (月)

950 やや・・・

人間に限らず生物は、例外なく環境と戦いながら生きています。「環境と戦いながら」、というのは正確ではないかもしれません。というのも、生物は環境によって生かされている存在なので、戦ってもそもそも勝てる「相手」ではないわけです。もっと正確に言えば、環境のニッチを獲得するために、同じニッチを狙っている同類や他の生き物と戦っている、というべきでしょうか。

その戦いに勝利するためには、それぞれの生き物は、「体」を鍛えなければなりません。かといって、植物や、微生物や、昆虫や動物が、筋トレをするわけではありません。彼らは、環境によって「淘汰され」生き残ったものが結果として強い系統となっていくわけです。しかし、現代の人類はやや異なります。なぜなら、現代の人類は、太古からの暮らしを守っている少数民族などの例外を除いては、人工の環境である家屋やビルを建て、外部とは異なる「室内環境」を作り出しているからです。とりわけ先進国や途上国でも富裕層と呼ばれる階層に所属するヒトは、冷暖房を完備し、多くのエネルギーを消費しながら、ほぼ完全な人工環境の中で日々の生活を送っているわけです。この過剰な環境のコントロールが、人間の戦う力を弱め、多くの虚弱な人類を年々増加させていることは疑いようがありません。かつて、人類はコレラや、ペストや、香港風邪などで、短期間に大量の人工を失った歴史を経験して来ました。その、疫病の嵐の中で生き残った人々の系統は、きっと免疫力が強い遺伝子を持っていたことでしょう。人工環境や、抗生物質入り食品やや煮沸消毒されたレトルト食品に慣らされ、体力や免疫力が極端に低下した今の人類に、来るべき時代にひどく劣化した環境は厳しく向かってくることでしょう。

私たちは、今急いで体を鍛えることを始めなければなりません。その為には、何事をするにしても「やや」厳し目な肉体負荷を受け入れ、「やや」不潔な生活を送り、「やや」不便で、「やや」暑さ寒さに耐え、「やや」粗末な食事に甘んじる必要があるでしょう。結果、流した汗の量に応じて、よりチューンアップされた体温調節能力や、軽い病気程度であれば薬に頼らなくても耐え得る免疫力を獲得できるはずなのです。

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2009年2月22日 (日)

949 マタニティドライブ

環境に配慮して車を転がそうとする場合、最近よく耳にするのが「エコドライブ10ヶ条」です。環境省が音頭をとって、ふんわりスタートだとか、加速の少ない運転だとか、余分な荷物を積まないなど10項目を挙げています。しかし、人間が常時覚えておけるのはせいぜい3か条程度ですから、10個もの要求を出されても、実際上それをしっかり守る事はできません。そこで、投稿者が薦めているのがたった一つの言葉、「マタニティドライブ」です。マタニティとは、妊娠中の状態や出産直後の女性の状態を示す言葉ですが、これは運転者により具体的な省エネ運転法を伝えるのにピッタリのイメージです。つまり、臨月間近の奥さんか、生まれたての赤ん坊を抱いて病院から帰る女性が助手席に乗っている、と想像して車を転がせばよいのです。もちろん、この状況では急発進や急加速、信号手前での急減速はもちろん急ハンドルもご法度です。

ですから、職業的なドライバーも、たとえば貨物室には客から預かった「妊娠中の女性のような大切な荷物」が載っていると考えて毎日運転するわけです。たったこれだけの心がけで、燃費は5%以上改善すること請け合いです。何しろ、急発進や急加速によって、多くの無駄な燃料が消費されますし、ブレーキを踏む信号機の直前までスピードを維持するのも、やはりアクセルをしっかり踏み続ける必要があるからです。投稿者は、エコドライブに替わる省エネドライブの方法としてこの「マタニティドライブ」を流行らせようと、色々な場所で紹介しています。このブログ経由で、更に広まる事も期待しています。

この様に、省エネルギーや省資源や廃棄物圧縮など、環境に配慮した生活や企業活動においては、「抽象的な標語」ではなく、市民や社員が「具体的」にその行動をイメージできなければ、単なる掛け声に終わってしまうでしょう。より具体的で、万人に判りやすい行動指針を、どうすれば示せるか、このブログでも更に提案していこうと思います。

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2009年2月21日 (土)

948 休題(ジョギング)

久しぶりに、いつものジョギングコースである木曽川沿いの道を走りました。その道のどん詰まりまでは、犬山の橋からはちょうど5kmくらいですので、往復でちょうど1時間ほどのジョギングコースになります。途中の小さな集落には、農業を営み、道の傍に農産物の直売所を構えている夫婦が居ます。株数はそれほど多くないなりに多種類の野菜を植えているようで、季節毎の味覚が並んでいます。野菜などの農作物ばかりではなく、栗やミカンや八朔などの果樹もそれなりに並んでいます。野菜を買っても投稿者の事務所では調理できないので、そこを通るたびに果物などを100円分か200円分買います。今の季節は八朔が並んでいます。小ぶりですが、100円出せば4個ももらえます。しかも元気な声での「何時もありがとね」のオマケつきです。

帰り道は、手に少し重いものを持っているので、走るスピードは落ちますが、その分道端の植物の季節変化や、川面に浮かぶカモたちを少しだけしっかり観察できます。彼らは何を餌にして冬を越したのか知りませんが、かなり動きが活発になってきたので、そろそろ北へ帰る準備をしているのかも知れません。その横では、鮎などの養殖魚を食い荒らす、悪名高い「カワウ」が、羽根を広げて太陽光を受けながら獲物を狙っているようです。

しかし気持ちよく走って、事務所に帰ってからが大変でした。1月末から軽い前兆はありましたが、例の症状が突然悪化したのです。花粉によるアレルギー性鼻炎です。その午後からちり紙の消費量もどっと増えました。殆ど水である液体を吸った紙は、結局はゴミになるので、環境には決してやさしくない困った病気です。例年、杉花粉に軽く反応し、ヒノキの花粉にひどく反応し、黄砂が更に拍車を掛けているような気がします。その三重苦が起こる3月は最悪です。そうなると待ち遠しいのは桜の季節という事になります。これからしばらくは、走らないと気持ちが悪いし、かといって走ると困った状態になる、憂鬱な季節ではあります。

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2009年2月20日 (金)

947 信心

少し田舎の道路を走っていた時のことです。70歳は大分越えたと思われる老人が、道端の祠に向かって熱心に拝んでいました。後ろは、見上げる様な岩山になっていましたが、そこに祀られているのは、何の神様なのか知る由もありませんが、そんな事はその老人には何の影響も無いでしょう。その祠は、多分老人が生まれた時には既にそこに在り、近所の住人の信心を集めていたと想像できます。信心には何の訳も理由付けも要りません。

さて日本には、八百万の神々が存在すると言われています。西洋のたった一人(ひとつ)の偶像を崇拝する一神教(宗教)とは全く違うものが信心だと言っても良いでしょう。お釈迦様への信心でさえ、この国では「輸入」されたものだったはずです。日本古来の信心は、自然物や自然現象への単純な崇拝と畏敬の念から出発した、自然発生的なものだったと思うのです。海に隔てられ、他民族からの侵略になど余計な神経を使う必要もない平和な国では、一つの神の元に一致団結する必要すらなかったはずです。

結果として、この国では、自然を敬い、その恵みに感謝する信心が根付いたと想像できます。農作物を育む太陽が昇り、農業用水を恵んでくれる山の頂を拝み、それが蓄えられている池や湖や湧き水に水神様を祀り、時には暴れる川の流れを畏れ、大きな岩や大木に自然のパワーを感じ、それらを祀り、信心するのでしょう。いま自然物への信心が、ほぼ失われた都会の暮らしに慣れた人々が、一体何を信じて暮らしているのか、非常に気にかかります。いずれにしても、それはお金か、便利な工業製品か、或いはコンピュータの中にあるバーチャルな世界などになるでしょう。

先の老人が、もし小さな孫でも連れて拝んでいたのであれば、信心の伝承も出来るのでしょうが、現実には彼の子や孫は、多分街でモノ(工業製品)に囲まれて「唯物的な生活」をしているのではないかと勝手に想像し、軽い絶望を感じたのでした。

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2009年2月19日 (木)

946 象

象を知らない盲目のひと数人が、像を撫でて感想を述べ合ったとします。ある人は、鼻を撫でて太い蛇のようだと言いました。別の人は尻尾を掴んで、暖かいロープのようだと言いました。もう一人は、そんな事はない、これは少し軟らかいが木の幹に違いない、と太い足を触りながら言いました。物事には、この例のように多くの側面があるはずです。単純な形のコインでさえ、表面、裏面、側面のギザギザを見出すことが出来ます。

しかし、環境に限って言えば、温暖化問題たった一つにしても、賢い人間達が寄って集って議論しましたが、精々IPCCの不確かな「予測」しか結論できませんでした。環境は、モノではないので、人間の持つ「ささやかな科学の知識」だけでは、正確に観測することすら出来ないでしょう。環境とは、観測したり理解したりするものではなく、結局生物とはその中で育まれ、それを感ずる存在でしかないです。環境とは、地圏、水圏、大気圏、熱圏、有機物圏=生物圏に、可視光、紫外線、赤外線や地磁気などの電磁場、太陽光、宇宙線などが複雑に絡みあったものであり、各分野の専門家程度では、とてもとても全体の理解は出来ないはずなのです。気象の専門家集団の「温暖化の警鐘」は確かに一定の意味はあるでしょうが、本当に警鐘を鳴らすべきは、社会学者や哲学者や宗教家による、人類としての価値観や生き方に対してでなければならないと、言いたいのです。

象が果たして取り返しのつかない病気になったのか、どのように感じているかは、象の尻尾を掴んで「温暖化の危険を叫ぶ」だけでは事足りません。象(環境)に寄り添い、五感を使ってしっかり観察し、その中で何かを感じ、その上で象が喜ぶ方向に少しずつでも踏み出して行動する必要があります。もちろん行動と言っても、何も稚拙な科学・技術を振りかざして前進する事は意味しません。慎重な後退や、何かをきっぱりと捨てる(止める)ことも重要な選択肢なのです。

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2009年2月18日 (水)

945 不便だが気持ちいい

投稿者も支援しており、これから環境経営に取り組もうとしている小さな運送会社の社長さんの言葉がココロに残りました。その社長さんは、自分が経営する会社の経費である燃料費を少しでも下げようと、これまでは自宅と会社の往復には、会社の営業車を使っていましたが、最近歩きと電車通勤を組み合わせた通勤方法に変えました。何が一番変わったかといえば、少し早起きをする事にはなったが、この通勤方法は何故か「気持ちいい」のだそうです。家族からは多少のメタボを指摘されていたようなので、健康にもたぶん良い影響が出るでしょう。

振り返って、投稿者の行動に当てはめれば、居心地が良いが「気持ちのあまり良くない」企業を辞め、貧乏にはなったが「気持ちだけは良い」環境坊主生活に入ったと考えることもできます。同様に、20世紀型の社会やその中で暮らす人々の生活スタイルは、確かに「便利で快適ではあった」かも知れませんが、未来世代へのツケ回しや、同じ地球上に暮らす生き物たちへの悪影響など、むしろ「気持ち悪い」ものだったのかもしれません。逆に、不便で質素だけれども「気持ちいい」田舎の暮らしや、環境坊主生活には、なんとなく吸い寄せられてそこに向かう人が、今後一人でも多くなることを願っています。

その為には、まず何か環境に優しいことを始めて、「気持ちが良くなる」経験が必要です。上の社長さんは、歩き通勤が気に入ってくれました。それは川原のゴミ拾いでも良いでしょうし、自転車通勤でも良いでしょうし、たまには家族揃っての歩いての買い物でも良いでしょう。電気を消して、まん丸になったお月様や星達を愛でるのも良いでしょうし、この時期でも暖房を消して、外で走って体の中から暖まるのも良いでしょう。何しろ、快適な生活ではなく、気持ちが良くなる生活を始めればよいだけなのです。改めて眺めてみても、今の社会には、快適だが気持ちの悪いものが多過ぎます。車はその典型的な例でしょう。それは、大量に吐き出されるCO2や廃車が不法に捨てられている現場や、シュレッダーダストの最終処分場を改めて確認するまでもなく、車はやはりなんとなく気持ち悪く、後ろめたい乗り物なのです。ましてや、某鉄道会社の計画しているRニア新幹線などは、環境的に見れば、車の何倍も得体が知れず、気持ちの悪い乗り物だとバッサリ切り捨てておきます。

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2009年2月17日 (火)

944 お節介

投稿者はどう考えてもおせっかい者です。頼まれもしないのに、家族の反対を押し切って勝手にサラリーマンを辞めて環境カウンセラーになり、交通費程度しか出ないのに学校や公民館で「温暖化防止の出前授業」を引き受け、お余りお金が回らない中小企業の省エネルギー診断では、ささやかな謝金をおそるおそる申し出て、もしいただければありがたく受け取り、誰に読んでもらう当ても無く、結構な時間をかけて毎日ブログをかき続けています。

当人に言わせれば、それは生きとし生けるものの母である「自然環境への義理立て」なのですが、勿論一人の環境坊主がどんなに経を唱えようと、人々の意識が変わり、温暖化に急ブレーキが掛かるわけでもありません。しかし、それでも何とかしようとあれこれもがくのが、お節介のお節介たる所以だとも思っています。とは言いながら、お節介にも言い分はあります。街にお節介オジサンや、世話焼きオバサンの居なくなった、今の社会には余裕も潤いも消えてしまいました。効率とお金が全ての世の中に、お節介の入り込む隙間は少なくなってしまいました。統計データとてありませんが、きっとお節介オバサンの減少と、未婚率の高さは見事に逆相関しているはずです。

しかし、自然そのものへの気持ちの上での義理立てはまだしも、直接的な手出しによるお節介は更に深刻な環境破壊につながる恐れもあります。例えば、山火事のあった山に植林をする行動は、今の社会では是とされます。焼け爛れて土の見えている山肌は、単純に見苦しいからです。しかし、灰が残ってミネラルが豊かになった地面には、少し雨が降れば草が芽吹き、やがては自然に潅木も甦るはずです。つまり、火事になる前の植物の様子(植物相)は、気の遠くなるほどの長い時間と、人間が少しだけ手を掛けた結果できあがっていたのです。人間が働きかけて自然にお節介を申し出るとすれば、慎重な観察と長い時間を掛けた「人手による」働きかけこそが必要だと言っておきます。自然に対しての余計はお節介は考え物ですが、一方貧乏に引っ張り込まれた家族の思いは別にすれば、投稿者としては、市民や企業にお節介を焼く自分は結構肯定しながら暮らしています。

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2009年2月16日 (月)

943 照明費倒れ

大分前、小規模な図書館でも、誰も閲覧しない書架の照明に掛かる電気代が年間50万円にも上る計算になる書いたことがありますが、各種の大型店舗の横を通るたびに同じ様なため息が出ます。それは、その照明の煌々たる明るさと、その結果生ずるCO2の排出量の多さ、その結果生ずる店舗の費用負担、その結果生ずる商品単価への価格上乗せ、などなど「勿体無さの連鎖」を想像してしまうからです。

例えば、2灯式の蛍光灯(40wx2)の天井灯ですが、営業中の10時間で1箇所当たりの電気代は、年間4500円程度になります。少し大きな売り場面積の店では、その天井灯の数が500個程度設置されている事も珍しくないので、その店の照明の電気代は、しめて年間200万円以上になる計算です。蛍光管に反射率の高いフードをかぶせるだけで、明るさは約2倍になりますので、天井灯の数を半減でき、電気代も半分で済みます。また別の車ディーラーでは、明るい店舗イメージを強調するために、250ワットの水銀灯を50個以上も常時点灯していました。この場合でも年間の電気代は、軽く50万円を超えます。赤字を出さないためには、それを、年間販売する車の価格に上乗せするしかありません。それを190ワットの高効率ランプや100ワット相当のメタルハライドランプに交換するだけで、電気代はそれぞれ24%~60%削減できるわけです。

考えてみれば、照明をいくら明るくしても「商品自体の価値」が上がる訳ではありません。見かけ上、経費を上乗せした商品価格が上がり、結果として店の売り上げは増えるでしょうが、逆に利益率は薄くなるのです。そうではなくて、売りたい商品があるのなら、店の全体照明は暗くして、その商品にLEDのスポットライトを取り付けるのです。サボっているのは照明デザイナーかも知れませんし、もしかすると、店舗の照明の仕様を決めたのは、照明デザイナーではなく、設備屋さんや建築屋さんが適当に配置しただけなのかも知れません。一方、ショップキーパーの「売り物」は、明るい照明ではなく、接客時の笑顔と客に対する親切心だけで十分でしょう。そもそも、半年や1年も売れ残っている商品の上も降り注ぐ、ただ明るいだけの照明は一体何のためのものなのか、店長や店員はもう一度じっくり考えてみるべきです。

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2009年2月15日 (日)

942 ロードマップ

車で旅行や移動する時は、やはり道路地図は欠かせません。そうでなければ道に迷い、目的地に着けなかったり、時間に間に合わなくなったりするでしょう。この頃は、新しい車には「ナビ」と呼ばれる電子地図が装備されていますが、一方で環境保全を織り込んだ社会へ至る道筋を示す地図は(青写真=これももはや古語でしょうか)、まだ殆ど出来ていません。

まったく悲しむべき事ですが、今の日本には国家百年の計を議論できる「政治家」が見当たりません。政局に群がり、相手の言葉尻を突っつき、揚げ足を取るだけの「政治屋」が居るだけです。何百人もの政治屋が、役人に繰られながら寄って集って税金を食いものにし、国の屋台骨をグラグラにしてしまった現状は、まさに位置を失って、霧の中をただ前に進もうとしている無謀な車にも似ています。

ロードマップ作りは、結構骨の折れる作業です。何しろ、国家や社会のロードマップは、時代をまたがる代物でなければならないので、先ずは歴史を振り返ってじっくり眺める作業が欠かせません。その上で、過去の過ちを反省しつつ、自分達の子孫が生き易くなる方向で道を作らなければなりません。同時に、人間の都合だけではなく、他の生き物との共生を忘れてはならないでしょう。つまり、これまでのようにブルドーザをただ闇雲に前進させて、山を削り、橋を架けて真直ぐな道を作ればよいのではなく、象徴的に言えば地形をじっくり見定めた、「等高線」を通る道を作らなければなりません。更に言えば、それは片側3車線の真直ぐな道ではなく、必要な場所に作る必要な幅の道でなければなりません。

それを具体的に書けば、例えばある産業の適正なサイズを考え直すことであり、人口の偏在と社会インフラの一極集中を見直すことでもあります。その際見直しのポイントは、「ゼロベース」でということになります。現状から出発して見直すのではなく、そもそも絶対不可欠なものは何であるかを見定め、それを積み上げていく作業でなければなりません。

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2009年2月14日 (土)

941 負の連鎖

とは言いながら、940で述べた鎖は、安定しているときは確かに頼りになります。それにつながっている限り、自分だけ、或いは自分の所属する企業だけが落ち込む怖れはあまり無いからです。しかし、一旦その鎖の一方の端を握っている大企業が沈み始めると事は重大です。鎖にぶら下がる状況にどっぷり漬かっている体質の裾野企業に、親会社の危機を救う力はありません。それと言うのも、緊張したサプライチェーンの中で、殆どの下請け企業は、親会社の認める以上の利潤を上げる事は許されず、結果として体力的にはギリギリの状態での自転車操業を余儀なくされてきたからです。

市場に、製品をドンドン押し込んで、空前の利益を謳歌していた親企業が、一度でも「売り上げ減少」と言う小石に躓くや、強力な設備故に、産業の慣性力が非常に大きくなってしまった結果、市場の在庫は短期間で一気に積み上がり、操業を止めるしかない状態に陥るわけです。部品を親会社に引き取ってもらえない中小企業は悲惨です。親会社の生産増に合わせて設備投資を繰り返し、結果として気がつけば売り上げの大部分を、特定の親会社に依存する悲しい下請け体質が、企業の隅々まで滲みこんでいるのでした。これは、「イザナギ越え」などと呼ばれるぬるま湯に、気持ちよく長い間漬かっていた高いツケだと知るべきでしょう。

さて、負の連鎖を断ち切るにはどうすれば良いのでしょう。中小企業について言えば、市場のニーズをじっくり見定め、いざとなれば、自社の製品を車や自転車やリヤカーに積んで、社員が売って歩ける自社製品を開発すべきです。そうして、これまでの親会社向けの売り上げ比率を、半分程度まで引き下げておく必要があると思うのです。

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2009年2月13日 (金)

940 サプライチェーン

今の社会では、全く意識しないままに、個人や会社や社会システム自身が、複雑に絡み合った「鎖」につながれている状態にあるようです。そんな事はない。自分は自由業だと、例えば文筆業の人が言い張ったとしても、それは虚しい叫びに過ぎません。その人自身や家人が、コンビニやスーパーで買い物し、食べ物を手に入れている限り、「フードサプライチェーン」に完全につながれていると認めなくてはなりません。企業にしてもそうです。いまや、ほぼ全ての企業は、親会社や商社や流通業に手綱を握られ、アリの様にせっせとモノ造りに勤しんでいるはずです。それは、サプライチェーンと言う名の強力な鎖です。

製造業者や産地から、製品や農産物や海産物などが、数段階の仲買人や商社や流通業によりサプライチェーンの上で転がされ、その鎖の端につながれた消費者の手元に届くまでには、農協の買い上げ価格や漁港でのいわゆる「浜値」に比べれば、価格は数倍に跳ね上がっていることでしょう。それは、仕方のない流通コストだと諦めるにしても、実態はコストに加えて更に「市場価格」が上乗せされているはずです。そしてその上積みの言い訳としては、値崩れしたときの保険金のようなものだ、と流通に関わる人たちは主張するでしょう。

それも認めるにしても、流通に関わる人たちの多くが、儲かるときには目一杯(本来売ってはならない事故品まで混ぜ込んで)売り、儲からなくなると手を引いてしまう、Hit away (食い逃げ)ビジネスを繰り返すに至っては、もはや責任あるサプライチェーンとは呼べないでしょう。伝統的なサプライチェーンは、本来生産者と消費者がお互いに顔の見える関係で築かれていました。顔の見える関係においては、売り手は一度買い手の信頼を損ねれば、翌日からの商売が出来なくなるわけです。そうであればこそ、吟味した商品を適正な価格で商う必然性があったのです。その基本を忘れた多くの企業は、20世紀後半を通じて、楽で安定的に見える親会社依存の比率を拡大する道を突き進んだのでした。

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2009年2月12日 (木)

939 予算消化

この季節になると腹の立つことがいくつかありますが、「予算消化」もその一つです。よく見かける光景は、道路工事やその下に埋まっているガスや水道や下水管を「いじる(失礼、修理でした)」事ですが、空に目をやれば航空基地の上空を、グルグルと回っている「点検飛行」と言う名の「燃料費消化」も気になります。勿論、これに関連する業界に籍を置いていたときは、全く気にもしていなかった事なのですが、利害関係が全く無くなった今はただ喧しく感じるだけになってしまいました。ヒトとは全く勝手なものだと自分でも嫌になります。

さて、その消化される予算は勿論税金ですが、税金を一度手にしたお役人は、1円残さずキッチリと使うテクニックが身に付いていますので、予算を使い残して翌年の予算を削られるようなドジは決して犯さない訳です。しかし、残さずキッチリ使う事はさておき、下手をすれば消耗品を「買った事にして」業者に裏金をプールさせ、職場の飲み食いに当て、更にその管理をまかされていた経理担当が、個人的に流用(横領)するにいたっては、もはや呆れるしかありません。「公僕」などという言葉は、既に「古語」かも知れませんが、公金横領は何時の時代になっても立派な犯罪です。

そんな極端な話ではなくても、ここで言いたいのは、税金を公平に運用すべき立場の役人が、果たして不要不急の予算を、2-3月に無理やり消化することが、黒ではないにしても「灰色」ではないかということなのです。これは公金横領ではないにしても、「公金不適切使用」だと思うのです。余った税金は、ガラス張りの金庫に入れて、数年はプールできるようにすべきでしょう。その間には、地震や台風などの自然災害や、今回のような不況もあるはずです。その時にこそ、この貯金が役立つのです。それでも、慎ましい行政運用の結果、貯蓄が累積する場合は、税金負担者に正しく返還すべきでしょう。いずれにしても、今政府や地方行政が打ち出している全ての不況対策の原資は、未来からの借金に間違いありません。

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2009年2月11日 (水)

938 風呂敷もどき

温暖化の出前講座で、主婦に温暖化防止の話と同時に、エコバッグの代用としての「風呂敷」の活用法を話してもらうように依頼を受けました。勿論、ネットで風呂敷の活用法、見事な包み方や結び方の紹介も見つかるはずですが、投稿者は自分なりに活用法を考えて見ました。あまり時間が無かったのですが、1時間ほど考えて12個ほどの活用法を挙げて見ました。結論から言えば、風呂敷は日本人の大発明であることが改めて実感できました。つまり、折り紙でもそうですが、正方形の布切れの活用法は、殆ど無限に考えられるのです。(これは想像ですが)折り紙の、新しい折り方が今なお毎日のように考案され続けていることを考えれば、風呂敷の用途もドンドン「発明」されても然るべきなのです。次に、その12種類の活用法を挙げてみます。

<風呂敷の12の使い方>

1.         包む

2.         敷く

3.         下げて運ぶ(ハンドバッグ)

4.         背負って運ぶ(ナップサック)

5.         腰に結ぶ(ウェストポーチ)

6.         首に巻く(スカーフ)

7.         頭にかぶる(帽子代わり)

8.         飾る(タペストリーの様に壁に下げる)

9.         隠す(あまり片付いていない箇所を覆って隠す)

10.      羽織る(ケープのように)

11.      応急手当する(止血する・三角巾として使う)

12.      手品の小道具

1時間かけて上の12個を思いついたので、もう1時間考えれば、この倍くらいは出てきそうです。更に、実際に風呂敷を手にとって触りながら考えれば、もっともっと面白いアイデアが出てきて、もしかすると新たな「風呂敷産業」が生まれるかもしれません。ちなみに、呉服屋で立派な風呂敷を買えば2000円ほどしますが、今回の出前講座では、100円ショップで90cmx90cmのハギレを買って実演しましたので、たった105円で立派な「風呂敷もどき」が手に入りました。今後活用する予定です。いま思い出しましたが、そういえば子供の頃、風呂敷は、棒切れや「肥後守」と同じくらい遊びの「重要な小道具」だったのです。つまり、その頃子供たちがこぞって真似をしたテレビや映画のヒーローは、何故か皆、覆面や頭巾やマントを愛用していたからなのですが・・・。

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2009年2月10日 (火)

937 アリ・キリ3

もう一つの、無理やりはじき出されたアリさんたちの活躍の場は、やはり農山村や漁村など田舎にあるはずです。何故なら、そこではヒトの生命維持に「絶対不可欠」な食糧を生産しているからです。生産と言う言葉は実は正しくなくて、生産しているのは植物であり、食糧となってくれる動物や魚介類たちなので、収穫と言うべきでしょうか。

規格化され大量生産向きに自動化された工場では、人手は殆ど掛かりません。矛盾していることですが、「製造」工場では大部分の人手は製造ラインではなく、出荷作業などにより多く掛かっている場合すら珍しくありません。そこで働いていた、多分派遣の人たちは、製造業ではなく工場の中の流通業に従事していた、と表現すべきかも知れません。

一方、食糧や森林資源の収穫は実に人手の掛かる作業の一つです。植物は、土壌にしかそれを育てる力がありませんし、魚介類は海中や川の中でしか捕獲できません。勿論、葉物類やモヤシなどの一部の植物は、エネルギーを使って人工的に環境管理された「工場」で作られる場合もありますが、所詮食糧の中では「添え物」にしかなりません。米や小麦やトウモロコシを工場で育てる事は所詮できない相談です。その人手が掛かる、植物育成や、森林の手入れや、魚介類の収穫作業は、実は大変過酷な肉体労働でもあるため、楽をしてお金を稼ぎたい人たちからは、戦後一貫して敬遠され続け、いまやこの国では労働人口の5%も大きく下回る事態に陥っています。どう考えても、少なくとも10%近くの労働人口は、食糧の収穫や森林の維持に回ってもらわなければ、バランスの取れた社会の維持はままならないでしょう。労働人口の5%の移動とは、日本では300-400万人を意味します。この不況で製造業やサービス業から100万人規模ではじき出されたとしても、その受け皿に右往左往する必要は全くないはずです。来るべき社会ではキリギリスさんは、文化的な活動をするホンの少数で十分で、残りの人たちはやはりアリのように、なるべく環境に負荷をかけずに暮らさなければならないと思うのです。

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2009年2月 9日 (月)

936 アリ・キリ2

アリとキリギリス物語の続編です。さて、934で書いた「バブル産業」で働いていて、余った(とされてしまった)アリさんはどう行動すべきでしょうか。確かに、介護産業(介護を産業と呼ぶべきかは迷うところですが)やバスやタクシー運転手など、業種によっては慢性的な人手不足状態にあるでしょう。

しかし、いま本当に人手が足りない産業の一つは、実は「静脈産業」なのです。この言葉は、産業廃棄物の不法投棄などと結びついて、マスコミ的にはあまり響きが良くない(ネガティブ)なものと考えられがちですが、実は今の大量生産・大量消費時代には「絶対不可欠」な産業なのです。試しに、今産業廃棄物処理を行っている業者が、何らかの理由でストライキを打てば、多くの産業はものの1週間も経たないうちに操業ストップに追い込まれるはずです。製造業では、バックヤードに、工程から出てくる廃棄物が溢れて最早製造ラインを動かせませんし、サービス業でも厨芥ゴミやその他のゴミの処理が出来なくなれば、やはり店舗などを閉めるしかないでしょう。しかし、考えて見なければならないのは、これまで儲けてきた製造業やサービス産業は、その活動から出た廃棄物を、静脈産業に安い料金で押し付けてきたと言う事実です。安く請け負った人たちは、より多くの利益を出すために山間の谷に不法投棄に走ったのでした。

そうではなくて、真の静脈産業とは、不要になった製品や、今はゴミと呼ばれている「貴重な資源」を丁寧に「分解」し、あるいは「分別」して、完全にリサイクルできる原料に戻す作業なのです。この生真面目な作業をセッセと行っているのは、昆虫などの小動物であり、更にキノコなどの菌類やバクテリアなどの微生物です。人間の社会でも、この作業を行うために大勢の人手が実は必要なはずなのです。ドイツではこのために外国人中心にはなっていますが100数十万人の雇用を創り出しています。日本では、自治体から請け負っているゴミの収集運搬や処理に当る人、それをまとめてダンプトラックで運ぶ人たちを含めても、この半分には遠く及ばないはずです。その差は、廃棄製品を「手分解」や「手分別」する人たちが十分居るかどうかなのです。メーカーは、義務として、製造工場のすぐ横に、自社製の廃棄製品の分解工場を設けるべきなのです。雇用も、製造だけしている場合に比べれば、少なくとも3割増にはなるはずです。「きれいな分解工場」では、アリさんたちも自信に満ちて幸福に働けるはずです。

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2009年2月 8日 (日)

935 悪くても5割

「未曾有」の不況だそうです。「百年に一度」と言う形容詞もマスコミに乱れ飛びます。しかし、どんなに最悪の事態になっても、最も良かった時の5割減ほどで止まると思うのです。例えば、9.11事件の直後、人々は第二、第三の旅客機による特攻テロを恐れ、飛行機での旅行を敬遠しました。その時でさえ、最も落ち込んだ数字で、その直前からは45%までの落ち込みで踏みとどまったのでした。つまり、大きな不安はあるにしても、絶対しくじることが出来ない商談や、親の死に目にあうため、人々はテロの恐怖に怯えながらも旅行を決行したのでした。勿論、物見遊山の旅行客は、どっと予約のキャンセルに走ったのですが・・・。

今、車産業をはじめ、電機あるいは工作機械などの設備型産業の売り上げ(或いは受注)が前年比20-30%ダウンしている、と連日報じられています。50%が「底」だと仮定すれば、更なる底割れも起こるかも知れません。しかし、それでもゼロになる事は絶対ないはずです。企業は、売り上げ落ち込みの底も5割までと「腹を括って」、改めてそこからも巻き返しの準備を始めるべきでしょう。勿論、景気がある程度回復するかもしれない数年後でも、昨年前半までのレベルには戻る事は殆ど考えられません。もし多額の税金をつぎ込み、無理やり景気刺激を行って、このレベルに戻したとしても、その先の更なる落ち込みの恐怖と、将来世代への更なる負債の押し付けが残るだけとなります。

そうではなく、この未曾有の不況を如何に上手く利用するかを考えなければなりません。つまり、これは企業や社会の贅肉をそぎ落とすための「千載一遇」のチャンスと考えるべきなのです。どう考えても、バブルであった製造業やサービス産業は、やはり退場してもらわなくてなりません。一方、社会の基盤を支えている産業やサービスも、従来の半分のレベルを想定して、事業戦略を見直してもらわなくてならないでしょう。余った労働力の受け皿については、改めて考えて見ます。

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2009年2月 7日 (土)

934 光の春

大分昔の話になりますが、雪国に住んでいた子供の頃、何故昼間が最も短い冬至の時期ではなく、1月下旬の「大寒」が最も寒い時期なのか、真面目に考えたことがあります。その地方では、地域によっては、冬休みは結構短くなっていて、その代わり1月下旬から2月初めにかけて「寒休み」を取るのが普通だったのです。投稿者の生まれた地域は海岸に近く、積雪が比較的少なかったので、やや長めの普通の冬休みしかなく、残念に感じていたものでした。さて上記の疑問の答えは、実は比較的単純で、冬至の日に南回帰線の真上に「居た」お天道様が、そろそろ北へ帰ろうかと考えて少しずつ戻り始めても、実際には北極では一日中夜で「陽の差さない日々」がまだまだ続くわけです。陽が差さないと、地表からは、絶対零度に近い宇宙空間に向けての放射冷却も続くので、一日の最低気温が日の出直前に記録されるのと同じ理由で、北極の年間の最低気温は、1-2月に記録される事になります。

とはいいながら、今の時期になると冬至の日に比べて、既に昼間の時間がちょうど1時間は延びても居るのです。まさに、今は光だけ先行して春を告げている「光の春」となっています。植物が目覚める草芽の春や花の春、同時に始まる虫や鳥の春までには少し時間がありますが、それも南から着実に近づいてきています。それにつけても、もしこれでこの冬が終わってしまうのであれば、やはり既に50年以上も人間をやっている投稿者としては、実感としても間違いなく温暖化が進んでいるとしか言えません。

夜明け前や立春の直前が最も寒くなり、その後急激に暖かくなるのと同様、温暖化も更に進行すると、突然大きな気候変動が始まる可能性も否定できません。それは、バネが反発を開始する前に、最大のエネルギーを溜め込んでいる状態に似ているかもしれないと思う今日この頃です。

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2009年2月 6日 (金)

933 ハンドパワー(道具産業)

ハンドパワーと言っても何もサングラスを掛けたマジシャンの話ではありません。文字通り手力(てぢから)のことです。たぶん普通の人の握力は、女性では20-30kg、男性では30-50kg位でしょうか。先日、出先で次の予定までにポッカリ時間があいたので、名古屋駅にあるTハンズの売り場を冷やかしていました。売り場で特に目に付いたのは、手動のエスプレッソマシンやハンドスクイーザ(ジューサー)、ハンドフードプロセッサーなどでした。つまりは手の握力を利用してコーヒーや果物を搾り、調理をする道具たちです。いずれにしても、これらは電気の力で動く「機械」ではなく、人力で動かす「道具」なのです。特にハンド・エスプレッソマシンは、デザインも洗練されていて、もし値段が1万円以下だったら即刻買っていたかも知れません。残念ながら、輸入ものの電気式コーヒーメーカーが買えるほどの立派な値段だったので、今回はあきらめました。

しかし考えて見ると、ハンドパワーや脚力を連続のパワー源と考えて、それを利用した簡単な機械(ここでの機械とはmachineではなくgadgetの意味です)や道具の可能性は、もっと広がっても良さそうです。つまり、機械や道具を使って、そのメリットを受ける人自身がパワーを出すわけですから、究極のエネルギーの地産地消の仕掛けになります。ハンドルを回して、充電するラジオやハンドドリル、あるいは運転者自身がエンジンとなる自転車、あるいは昔使っていたような足踏みミシンや脱穀機などなど。ハンドパワー(握力や腕力)やマンパワー(人力)の可能性はまだまだ広がると思われます。これは、来るべき時代の、古くて新しいビジネスの種に十分なり得ます。つまり石油を多量に消費し、その重量が1トンもある車を作る産業が無くなっても、重量が車に比べ2桁も軽い15kg程度の自転車産業は、どんな時代になってもそれなりのレベルでは生き残るということでもあります。言葉を換えれば、車1台の資源やエネルギーで、自転車は100台近く製造でき、しかも自転車を転がすのに何らの化石エネルギーも使わないという意味です。ましてや、ハンドツールや道具を作る産業は、人類が続く限り永久不滅でしょう。

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2009年2月 5日 (木)

932 消費者

ここでは「消費者」という言葉について少し考えて見ます。この言葉が、いつごろからマスコミに登場したか、言語学者ではないので詮索はしませんが、たぶん高度成長期に庶民の消費行動がグングン伸び始めた時期に重なるのだろうと想像しています。元々、自給自足に近い社会を営んでいた時期には、生産者=消費者でしたので、区別する必要は無かったわけです。しかし、多分「信長」の時代になるのでしょうか、農、工、商の色分けが濃くなり、それが江戸時代には明確に区分される時代になったのでした。つまり、作る人と消費する人との分離の時代が始まったのです。とは言いながら、信長の時代には、商家や職人の家であっても、裏庭には畑があり、それなりの芋や野菜を作っていた事でしょう。人々の大きな仕事や興味は、先ずは「食」だったはずなのです。

一方、食に全く無頓着になってしまった現代の消費者は、お金さえ出せば何でも、どれだけでも「スーパーマーケット」で買えると信じ込んでいます。スーパーの裏口には、毎日毎日トラックが、その日に売り上げる生鮮食料品を、各地から運び続けていることを、全く考えてもいないわけです。もし、何らかの事情で、全てのトラックが動かない日が3日続くだけで、生鮮食料品の棚は空っぽになり、缶詰などの保存食の棚の前もやはり奪い合いの場になることでしょう。

どのような道筋で考えても、消費者は最低でも自分達の「食」にもっとコンシャスでなければならないでしょう。その食品の原料はどこで栽培され、あるいは採集され、どこで加工されて、どの程度の距離を運ばれて来たものなのか。あるいは、その食品が環境的に見て、果たして持続可能な種類のものなのか、などなど、食品一つ手にとっても考えるべきことは多いはずです。残念な事に、日本ではその持続可能性に関する指標が評価される事は殆どありませんし、それが商品に表示されるケースも皆無なのです。全ての消費者は、少なくとも「考える消費者」にはならなければならないでしょう。

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2009年2月 4日 (水)

931 休題(風邪はひかない)

少し前から、街や電車はマスクを掛けた人であふれています。また多くの学校での学級閉鎖がニュースをにぎわしています。

投稿者は、最近風邪を引いて寝込んだ経験がありません。頭が痛くて少し寒気がする日も、早めに布団に入って暖かくして寝れば、翌朝は問題なく起きられます。風邪は、種々のウィルスで引き起こされます。ウィルスは、細胞壁を持つ細菌ではないので、通常の細菌の様な湿潤状態ではなく、逆に乾燥状態を好みます。ですから冬に猛威を振るうことにもなります。人工的な乾燥状態は、実は暖房によって引き起こされます。電熱器で直接的に暖房される電車暖房は、その極端なケースです。電車の中は、人の吐き出す呼気があるにしても、10%程度まで下がることも珍しくないでしょう。家庭でもやはりエアコン暖房が広く行われています。つまり、外でウィルスを貰えば、家庭でそれが爆発的に増加することになります。

投稿者の事務所には、冷暖房設備は一切ありません。ですから、冬場の寒い日には室温が5℃程度まで下がる日もかなり多いのです。手がかじかむとキーボードが打てなくなるので、アルミ製のフタ付き飲料缶にお湯を入れ、保温袋に入れて「ハンドウォーマー」とします。お尻も寒いので、オーバーズボンをはいて、20ワットの電気座布団を使います。暖かくなると電気座布団はすぐ切ります。結果として、部屋の相対湿度は50%以上が確保でき、一方寒さで鼻水の分泌も活発になって邪悪なウィルスどもを、ズルズルと流し去ります。

かくして、今年も投稿者は風邪と無縁で、バイクで走り回って、環境念仏を唱え続けることができています。ちなみに、これは風邪防止に効くかどうか定かではありませんが、ほぼ毎日口にするのは、1カップの(琴欧州の生まれた国の名前が付いた銘柄かピロリ菌の抑制に効くと書いてある銘柄の)ヨーグルトと1パックの野菜ジュースです。

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2009年2月 3日 (火)

930 真の永久機関2

お天道様への依存を強める社会では、資源もやはり地下から掘ってくるわけには行きません。先ずは、日本でも比較的資源量が多いバイオマス、とりわけ木材や、竹や、農業残渣などの活用を考えなければなりません。しかしながら、木材に関して言えば、国産材の利用は非常に限定的で、1億トンにも迫る量が海外から入ってくるのです。その一方では、ご先祖様が急斜面をものともせずに植え続けてくれた杉やヒノキは、全く手入れが行われずに放置された結果、込み合ったヒョロヒョロの林になり、ちょっとした台風や豪雨で簡単になぎ倒される有様です。

先ずは、これらの林の間伐が不可欠です。そうしなければ、太い木材が残らないからです。しかし、間伐が行われただけでは不十分です。枝打ちが行われない木材は、根元の方まで枝が張り、結果「節」だらけの「使えない木材」となってしまうのです。枝打ちのためには、さながらサルのように身軽に木に登り、ナタで枝を払う技を持った多くの人たちが必要です。今、国や県が行おうとしているのは、お金を払って、不況業種になった建設業の人たちに、間伐をしてもらう程度の「対策」しかありません。10年後や20年後、山には切り倒されて朽ちつつある伐採材の「死骸」と、太くはなったが枝が張ってとても売り物にはならない杉、ヒノキの山が残るだけです。

打つべき手は決まっています。先ずは山をしっかり観察して、木材資源として残すべき地域と、伐採して植え替えるべき山を色分けすることです。木材林はお金と人を入れて計画的にしっかり手入れを行う必要があります。つまりは間伐と下草刈と枝打ちです。一方、伐採林から出た木材は、新たな「木質原料活用産業」の原料として、固形燃料や木炭やDMEやその他の木材抽出物の原料としてしっかり活用します。伐採された山には、計画的に針葉樹と広葉樹の混合林を植林することになります。その姿は、上手く計画さえされれば、たぶん戦時中に皆伐されてしまう前の、本来そこにあった自然林や少し人間の手が入った「半自然林」に近い姿に戻るはずなのです。

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2009年2月 2日 (月)

929 真の永久機関

以上書いたように、今の社会システムやそれを裏打ちしている価値観は、決して持続可能ではないことは間違いないところです。では、どうすれば良いかですが、それは事実上の永久機関である「お天道様」に依存する産業構造に移行するしか考えられないはずです。とは言いながら、単にエネルギーを太陽光に依存するだけでは十分ではありません。産業の基本となる原材料もまた、太陽光の産物であることが必要なのです。原材料を相変わらず地下資源に依存する産業構造では、それを掘り出し、輸送するエネルギーや精製するエネルギーを石油に依存しなければなりませんから。

もちろん、お天道様が作る資源やエネルギーだけで、今の地球上の人口が養えるわけではありません。何しろ、60数億人食べるだけでも、その為には全ての耕作地をフル動員しなければなりませんし、樹木などが生産するバイオマス量にも限界があるからです。事情は、日本国内に限っても同様です。お天道様が養える国内人口は、食糧に限っても僅か3000万人程度と見積もられています。一方で、国内に限ってもお天道様への依存度は全く進んでいません。確かに、電機メーカーは、大量の化石エネルギーとシリコン資源を使いながら、せっせと太陽電池を生産しています。しかし、周囲を見回しても屋根に太陽電池を載せている家の割合は、精々数百軒に一軒程度のものでしょう。太陽光発電システムは少し高めの中型車程度の価格ですが、確かにコスト回収には20年程度が必要ですので、簡単には手がでないかもしれません。

そうではなくて、まずはできるところから始めれば良いのです。例えば、太陽熱温水器があります。これは少し立派なものでは20万円くらい掛かりますが、数年程度で回収できる金額です。ガスで風呂を沸かすと、たぶん1回で200-300円は掛かるでしょう。太陽熱温水器は、うす曇りの日でもそれなりに温度は上がりますので、年間200日程度はお天道様の恩恵が受けられそうです。また投稿者が、いま考えているのは「太陽熱冷房器」です。これは、コンプレッサーを回して空気の温度を下げるのではなく、太陽熱を利用して湿度を下げるデシカント冷房と呼ばれるものです。続く予定です。

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2009年2月 1日 (日)

928 永久機関3

現在の経済システムを動かしている、もう一つのエンジンは、経済社会の仕組みそのものにあります。判りやすい例で言えば、日本の国がそうであったように、経済の成長期には第3次産業(いわゆる流通業やサービス業など)に従事する人の割合が急激に増加します。彼らは、モノを作ってはおらず、その意味では「純粋な消費者」なのです。したがって、その人口割合が増えること自体、人口がそれほど増えていなくても、需要は確実に増えるという仕掛けです。しかし、これも持続可能な動きではありません。日本では、製造業の人手が減りすぎて、ついには海外から働き手をかき集めてこなければならなかったのです。その既成事実を合法化するためには、派遣労働を法制化するしかなく、それが現在につながる労働問題の発端ともなっています。

3次産業の野放図な増加傾向も、やはり永久に持続可能なものであるはずがありません。誰かが家畜や作物を育て、誰かが日用品を作り、誰かが家を建て、誰かが布を織り衣服を作らなければなりません。それを、加工・梱包したり売り買いしたりする仕事は、本来は副次的な作業であったはずなのです。農林業や基本的な産業をないがしろにし、何処かの国で作られたモノに相場を張り、流通させるだけの今のシステムは、どう考えても「適正なレベル」まで戻さなくてはなりません。そのレベルがどの程度かと問われれば、現在の2/3ではないことは明らかで、少なくとも半分以下ではあるはずです。

と書くのは簡単ですが、2/3-1/21/6ですから、6000万人以上の労働人口を抱える日本では1000万人以上が、製造業や農林水産業など、より基本的な産業へ移動しなければならない勘定になります。戦後60年かけて作られた今の仕組みを、1-2年で変えることはできません。しかし、時間はそれほど残されているわけでもありません。環境悪化と、世界規模での20世紀型システムからのパラダイム変化の兆候を考えれば、この10年を正念場と捉えなければならないでしょう。その、国の方向を定めるべき「リーダーもどき」達が、毎日繰り返す茶番劇を眺めていると、暗澹たる気持ちにならざるを得ませんが・・・。

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