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2009年4月14日 (火)

1000 終わりに

このブログでの一応の区切りと考えていた1000題に達しました。途中からは、ブログ投稿をさながら「千日修行」の様に捉えて書き続けてきたつもりです。しかし、これ以上書き続けたとしても、それは中年環境坊主の繰言や愚痴に陥る恐れがあります。それより何より、「環」境と漢字で表現されるように、自然は循「環」し続け、その営みに終わりは無いわけです。一方、人類の歴史には多分終わりがあるでしょう。それは、化石などに見る何億年にもわたる生物の盛衰の歴史が明白に示しています。そのピリオドは、人類自身の出す廃棄物による自家中毒が原因となって打たれるはずです。何故なら、戦争にせよ、環境悪化にせよ、地球規模の害悪には、直接被害を受ける個々の人間はさておき、国際社会や国や地域に歯止めを掛ける力が非常に弱いからです。それは、総論賛成、各論反対と言う「社会的には矛盾の無い主張」を聞くだけで十分でしょう。

めぐる環境の様に、話はめぐり巡って投稿者が環境坊主を目指したスタート点に立ち戻りますが、何回か書いたように、投稿者としては、科学・技術が引き起こした環境悪化は、結局のところ科学・技術には解決できない、との立場を取ったのでした。それは、科学・技術とは「人間だけ」を「物質的」に豊かにする限定的で「欠点の非常に多い手段」だったからです。結果として、科学・技術とは、自然環境を破壊し続ける運命を背負わされた「両刃の刃」であったわけです。一方の刃で、自然を切り開き人類の「科学・技術の恩恵に与る一部の人類」の物質的な豊かさや利便性の向上を図ってきたのですが、返す刃では、地下資源の乱用や自然破壊のスピードを年々上げてきたのでした。

そうではなくて、環境坊主としての見方や立場は、「ココロの豊かさ」あるいは「利他主義」あるいは「利自然主義」なので、科学・技術的視点とは全く次元の違う話になります。このブログで伝えたかった事を一行の文章で書き表すならば、多分次のようになるでしょう。すなわち、この環境坊主が考える、今後私たちの目指すべき方向とは、「環境悪化で荒廃した唯物主義の山を下りながら、ふもとにあるココロの豊かさに近づく行動」、もっと単純に言えば「慎重な時代の巻き戻し」ということになるかもしれません。

さて、ガチガチの環境ブログとしてはここで一旦キーボードを置きますが、日々の思いは、徒然なるままに時々はアップを続けることといたします。ただ今後のアップは不定期になりますので、ここまでお付き合いくださった皆さんには、時々思い出した時にこのブログを訪問していただくだけで十分だと思います。今後は、微力ながら環境保全のお経を唱えながら、一歩でも「ココロの社会」に近づけるように、しっかり修行し汗もかこうと思います。

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2009年4月13日 (月)

999 終わりの前に

20世紀後半、日本で言えば昭和時代の後半の出来事が、果たして「歴史か?」と問われれば、それにはまだ少し時間が必要とされるでしょう。確かに、このブログでは、さながらそれを「歴史風」に書き綴ってきました。その時代のレールを引いてきた「昭和一桁」は、殆ど「お隠れ」にはなりましたが、しかし、そのレールの上を、ひたすら物質的豊かさを求めて邁進してきた「D塊世代」が、まだまだ社会のマジョリティとしてデンと座っています。

と言う訳で、昭和を歴史として眺め、それを客観的に反省・評価するには、それを「懐かしがる世代」が存命であるかぎり、やはり時期尚早であると認めざるを得ません。多分D塊世代がフェイドアウトする20年後くらいには、「20世紀史」や「戦後昭和史」がブームとなるかもしれません。しかし、環境の悪化はそれを待ってはくれません。温暖化についてみれば、2040年ごろには、夏場の北極海の浮氷は完全に姿を消すと予測されています。何年も前から、「数年後」には、ゴミの最終処分場が満杯になると騒がれながら、いまだにレジ袋の有料化とごみの分別収集の徹底以外は、有効な対策は打たれていません。

少し早めでしたが、環境坊主を目指して「企業」や「技術屋」から「出家」した投稿者は、このブログを通じて、つたない「お経」を書き綴ってきたつもりです。しかし、1000題のブログを書き連ねても、そこに100万の言葉を並べても、「環境」を明確に言い表すことはできないでしょうし、ましてや「環境保全」に向かって歩き始める人の数を増やすことはなかなかできません。そうではあっても、この環境坊主には毎日お経を唱え続ける義務を負わされているとの思いから逃れることが出来ず、重要な仕事を与えてくれた企業や、それまでの数分の1収入での生活を余儀なくされた家族には大いに迷惑をかけながら、どうにかここまでやってきましたし、これからもいただいている寿命の範囲内でそれを続けることになるでしょう。

もちろん、シャカリキになって走りまわっても、それこそ無駄なエネルギーを消費するだけなので、できるだけユルユルと、あまり力を入れないで、少しずつ前に進んでいくこととします。それは、熱力学で言うところの「準静的な過程」という表現に似ているような気もします。(技術屋卒業生としては、熱力学などという浅知恵を振り回すべきではありませんでした…反省)つまりそれは、誰にも気づかれず、感謝もされないで、しかしなんとなく前に進んでいる「ミヤザワケンジ」の世界に通ずるものかも知れません。

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2009年4月12日 (日)

998 まとめ9(地球に生きる)

W田さんが狭い宇宙ステーションの中でどんなに大活躍しようと、NASANASDAが膨大な予算を確保・維持し続けようと、宇宙空間や他の星に人間が住む訳には絶対にいきません。なぜなら、今のヒトの生物的な構造は、1気圧の大気と太陽光が育てた植物(食糧)と1.0Gの重力の元で進化してきた存在なので、小さな重力下で、人工的に管理された空気を呼吸し、レトルトパックされた加工食品だけでは、いくら訓練を重ねた宇宙飛行士だとしても、たぶん半年も暮らすのが精一杯だと思うのです。それを超えると、無重力下での骨の脱灰が進み(いわゆる骨粗しょう症がひどくなり)結局は命にも関わることになるはずです。

そんな危なく、意味もない実験に天文学的な予算をつぎ込む位なら、この地球上で「持続的な農業を営むための研究に、今の何倍も予算をあてがわなければならない」と思うのです。それは、期待というよりは絶対に必要なことであると、大きなフォントと太字とアンダーラインで強調しなければなりません。それは、何も収量の多い作物を開発するなどというのではなく、先ずは、(益々ひっ迫しつつある)水資源をあまり消費しない品種でなければなりません。しかも、味は良くなくても、土壌養分のより少ない消費で成長する品種である必要もあります。それらの新しい品種の遺伝子は、たぶん荒れ地に逞しく自生している雑草の様なものから発見されるはずなのです。

そもそもジャガイモはアンデス高地の荒地が原産地ですし、稲は東南アジアの湿地の雑草でしたし、小麦も半乾燥地帯のペンペン草の様なものに過ぎなかったはずです。しかし、今食糧にしている穀類や野菜は、より良い味と収穫量の増加だけを目指して品種改良された「換金作物」に過ぎなく、持続可能性とはほとんど無縁の、石油エネルギーと化学肥料と農薬からできている「アヤシイ」食べ物だとも言えるでしょう。

私たちが、今後ともより永くこの地球に住まわさせていただくためには、何より環境への負荷を最小限に抑える努力を欠かしてはならないでしょう。それが、この限られたスペースである地球の環境に暮らすための最低限のルール(オキテ)だと思うのです。その答えは決して宇宙空間にあるのではなく、私たちが立つ大地(土壌)の中にこそ見つかるはずのものなのです。

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2009年4月11日 (土)

997 まとめ8(神々の世界)

自然のサイクルは、気の遠くなるような時間の中で微妙なバランスを獲得してきました。それは、大気を介した炭素循環、雲からの雨や雪や川や海からなる水循環、動植物を巻き込んだ有機物循環などに代表されますが、人間の与り知らない「隠れた循環」も実はあるのかも知れません。例えば、海洋における「熱塩循環」などはつい最近発見され研究が始まったばかりなのです。見えない循環や、種々の循環システム間の相互作用やフィードバック(あるいは負のフィードバック)、フィードフォワードなどは、自然の理解がまだまだ浅い私たちには、逆立ちしても予測不可能な「神々の世界」なのです。

上の熱塩循環ですが、これは熱と栄養塩を抱え込んだ海水(海流)が、海底深く潜り込み、概ね1000年単位の循環サイクルで、再び海洋の表面に浮かび上がるという、非常にスパンの長い海洋循環を指します。液体である海洋のボリュウムは、気体である大気に比べれば何桁も大きく、それが抱え込む物質(栄養塩や溶け込んだCO2など)や熱量は、地表と大気のごく低い高度の現象である「気象」に大きな影響を与えるであろうことは、学問を積んだ学者でなくても容易に理解できるでしょう。しかし、その影響が、植物や動物の食物連鎖を介して、いったいどの様に収束するのか、あるいは逆に発散・破局を迎えるのかはほとんど予測不能で、やはり「神々の世界」にお任せするしかないのです。それほど、自然の仕組みは巧妙で複雑だ、というのがここ5-6年の、まだまだ修行が浅い環境坊主の得た率直な感慨です。

何しろ、「虫」メガネで見なければよく見えないような虫の中にさえ、生命と生殖と環境を生き抜くためのメカニズムが内蔵されており、何万年も(あるいはゴキブリの様に)何億年も代を重ねて進化を続けている「世界」が存在しています。また、たった一握りの土(土壌)の中にも、何億もの微生物が蠢き、有機物の循環が行われている「世界」が存在するわけです。それらは、私たちが持っている浅い表面(おもてづら)の知識程度では、ほとんど理解不能な、神々の世界としか言うしかないと思うのです。

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2009年4月10日 (金)

996 まとめ7(開発=自然破壊)

カンボジアには、多くの仏教遺跡があり、環境坊主としても一度は訪問したいと思っていた国の一つですが、今となっては実際に行くことはなさそうです。というより、物見遊山であれば行くべきではないとも思うのです。それは、観光目的でアンコールなどの遺跡の周りは道路やホテルなどの観光施設が増えてすっかり開発が進み、森林もまばらになっているとの報道に接したからです。それらの施設から処理されずに垂れ流される汚水やゴミで、周囲の環境も極度に悪化しているようなのです。かつてこの国の国土の90%は森林で覆われていたのですが、それが今ではたった30%までに激減しているとか。ベトナム戦争の時に、ゲリラの潜むジャングルの焼き払いが行われ、戦後も農業開発や観光開発により、緑したたる熱帯林が土色の国土に変貌してしまったのです。それはまさに開発という名の自然破壊に他なりません。

同じ事は、日本でも高度成長期の大規模宅地開発と称する「里山の破壊」という形で進行しました。同時に、干潟はゴミの島としてドンドン埋め立てられ、都市近郊の海岸は、ほぼ100%コンクリートの護岸で覆われることになったのです。同じように、多くの川の上流には貯水ダムや砂防ダムが建設されて海岸には砂が供給されなくなり、下流の川の両岸は水害防止の御旗のもとに真っすぐに削られてコンクリートで覆われてきました。これらの開発は、間違いなくそのまま自然破壊と呼ぶべき行為に他なりません。何故なら、これらの開発によって自然のサイクルへの「不可逆的な変容」が起こってしまったからです。

「不可逆的な変容」とは、後戻りしようにも最早引き返すことができない状態を意味します。英語ではPoint of no-return.などと表現されますが、実は私たちはこのポイントをだいぶ前に通過してしまった可能性が高いのです。すでに作ってしまった、900兆円にも上るインフラを維持する事さえ難しいのに、今以上の道路建設や農地の宅地化や里山の破壊は必要ない、と知るべきでしょう。この国では、分配の仕方がかなり不味いだけで、モノやインフラの量は十分過ぎるほど足りているのですから。

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2009年4月 9日 (木)

995 まとめ6(技術ではなく)

投稿者が何故技術屋を卒業したかについては、何度か書いてきました。ここで繰り返すと、技術で引き起こした環境の悪化を、技術では解決できないことを悟ったからなのでした。それは「毒を以って毒を制す」という状況にも似ています。すでに、この地球は温暖化の「悪循環」に突入しつつあります。それは例えば、既に学者たちが認識している悪循環、たとえば温暖化により海水中のCO2が大気中に出ていく圧力の加速、あるいは夏季に極地の凍土が融けて湿地帯となり有機物の分解に伴って強烈な温暖化ガスであるメタンが多量に発生することなどを指しますが、実はまだ認識されていない悪循環も存在する可能性が高いのです。それは、さながら静かな時限爆弾と呼ぶべき現象かも知れません。

危ないと分かっている事をボチボチ減らすのではなく、プッツリと止めてしまえないものでしょうか。タバコとの類推で言えば、節煙ではなく、思い切って全面禁煙とすべきでしょう。同じように、省エネではなく、少なくとも心構えとしては「禁エネ」を指向すべきなのです。とりあえずは、投稿者の事務所の様に一切の冷暖房を止めてみれば良いのです。確かに室内温度はと言えば、夏は30℃をかなり超え、冬は5℃以下に下がることもありますが、別に命に関わるほどではありません。もちろん、省エネ家電と呼ばれる「技術を使った」エアコンを設置すれば、従来機種に比べてたとえば半分のエネルギーで快適な空調もできるでしょう。しかし、生き方を変えるだけで、その空調エネルギーはほぼゼロにできるわけです。

今後、この社会に必要な事は、省エネルギーにつながる新たな技術の開発などではありません。そうではなくて、地下資源や化石エネルギーの助け無しに、何とか暮らしを立てていくための工夫や技や知恵だと思うのです。それらは、科学・技術の専門書や教科書には書かれてはいません。ご先祖様たちが編出してくれたくれたものか、それが消えかかっているのなら、自ら「不便な状況」を作り出してみれば、自然に湧いて出てくる筋合いのものだとも思います。科学や技術とは、人々の持つ体験や技や知恵を体系化して一般的原理としてまとめた、いわば「帰納的なアプローチ」だと言えます。しかし、投稿者が提案するのは、環境が生み出す諸現象の注意深い観察により、そこから日常生活に必要な個々の知恵や工夫を紡ぎ出す「演繹的なアプローチ」の重要性なのです。

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2009年4月 8日 (水)

994 まとめ5(ゼロベース)

ゼロベースとは、今ある状態からの改善ではなく、全く何もないところ(ゼロ)から「絶対不可欠なもの」を積み上げることを指します。少なくとも投稿者の定義ではそうなっています。毎日の食糧を得るのが主な生活の活動であった時代には、少なくとも肥満であった人は皆無だったでしょう。むしろ、必要なカロリーが取れず、食べ物が不足する冬季にはガリガリに痩せていたことでしょう。少なくとも、私たちが属する東アジアの民族は、飢餓状態に非常に強い人種に当たります。反面、カロリーの過多には非常に弱く、簡単に糖尿病になったりするのです。

ゼロベースの考え方では、空腹に耐えられなくなった時にホンの少量の食料を口にすることになります。照明の明るさは、読書や工場や事務所の仕事に「支障が出ない程度」に落とすことになります。それを更に徹底すれば、読書や仕事は「昼の明るいうちに片付ける」生活スタイルになるでしょう。その意味で、日本が夏時間を採用しない理由が投稿者にはまったく理解できません。

工場では、製品に付加価値をつけるために必要な最低限の資源やエネルギーの定義が必要でしょう。従業員のための衛生設備や周辺設備は、必要なものから吟味して積み上げることになります。その意味では、あらゆるエネルギーや資源には、その必要性の優先順位を割り当てる必要があるでしょう。これに関しての投稿者の気づきを紹介しておきましょう。それは、モノに対してその必要性に優先順位をつけると、それは見事に「発明され作られた順番に並ぶ」という事実でした。つまり、人々の移動手段としては、航空機の前に列車の発明があり、その前には自転車が作られ、その間にエンジン付き馬車である自動車の発明、進歩が挟まっているわけです。ゼロベースで考えるならば、人々の移動手段である「歩き」はヒトが二足歩行を始めた時以来の能力ですし、その延長である自転車もどんな時代になっても生き残るでしょう。しかし、一家に2-3台保有されている車や、今から開発されるはずのリニア新幹線などは、明らかにひどく過剰な状況であることは間違いないと結論するしかないでしょう。

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2009年4月 7日 (火)

993 まとめ4(暮らし方)

暮らし方=ライフスタイルの見直しは、環境悪化に歯止めを掛けるためには絶対不可欠です。しかし、少し前に流行った「清貧」や「勿体ない」や、毎日のように叫ばれている「省エネルギー」や「温暖化防止」などのお題目だけでは、実は全く不十分です。可能な限りモノやエネルギーに依存しない暮らし方の実践こそが必要な行動だと言えます。

そのために必要なキーワードとしては、「無しで済ます」あるいは「辛抱する」さらには、「やせ我慢する」、「工夫する」などしか考えられないでしょう。中でも「工夫する」というキーワードは特に重要です。欲望の赴くままにモノやエネルギーを消費するのではなく、より少ないモノやエネルギーで暮らす工夫こそ、すべての環境問題への歯止めの第一歩だと言えるでしょう。大量生産、大量輸送、大量消費、大量廃棄の20世紀後半型の暮らし方が、今の環境悪化を招き、将来のさらなる悪化につながっています。地産地消が叫ばれだしてかなりの時日が経過しましたが、まだまだ日々の行動(暮らし方)までにはなっていません。

たとえば、昔は普通に見られた「市(いち)」が今や観光地の風物詩になり下がっている状況です。地元の産物や不用品や少し余った製品などを、地域の中心地の市場で売買する、あるいは物々交換する行動こそが、環境への負荷を減らすライフスタイルの第一歩でしょう。市による売買は、大量生産・大量消費の対極にある生産・消費行動であると言えます。

もうひとつ例ですが、いまの暮らし方で気になるのは、人々の生活から「歩き」が無くなったことです。近くのスーパーやショッピングセンターへ行くのにも人々は車に乗り、しっかり歩いて足腰の衰えを防がなければならないお年寄りも、電動の「老人カー」に乗って危なっかしく道路を「闊歩」しています。10年以上前、アメリカで1年ほど暮らした時、道路に全くと言ってよいほど人が歩いていない事を奇異に感じた経験がありますが、最近の日本もそれに似たような状況に近づいていることに気づいて愕然としたことがあります。ヒトは森を出て草原に棲み始めた時から、二足歩行で移動すべく、生物学的に進化してきたはずなのです。それを止めた時、つまり筋肉や骨に掛ける負荷を減らす「楽な生活」を選択した時、私たちは生活習慣病や足腰のトラブル、寝たきり老人の増加などの高い代償を払わなければならないのです。

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2009年4月 6日 (月)

992 まとめ3(価値観)

いまの時代は間違いなく、モノやお金にその価値のほとんど(投稿者の感覚では98%)が置かれています。モノがあれば、あるいはそのモノが自由に買えるお金さえあれば、人々は満たされたような「錯覚の幸福感」にとらわれ、それをひたすら求め続けているように見えます。それが見えるようになったのは、投稿者が、まだ十分とは言えないものの、意識的にモノやお金から遠ざかることを選択してからの様な気がしています。モノやお金のもう一つの側面は、その追求に限りがないことです。一度モノやお金を手にした人々は、より華美で高価なモノ(最終的にはステータスシンボルと呼ばれるモノたち)を手にするまで追及を止めないでしょうし、小金を手にした人は、短期間により高い利殖が得られる投資先にそれを預けて、1円でもお金が増えるように知恵を回すでしょう。大金をすでに握っている人々(例えばハゲタカファンドと呼ばれる利益集団)は、さらに狡猾に立ち回り、それを使って企業や市場を激しく揺さぶり、そこからこぼれ落ちた利益を貪るでしょう。それは「お金を儲けることがそんなに悪いことですか」とうそぶきながらの、まさにハゲタカ行動です。しかしそれでも満たされることのないモノ・金の追及は、終わりがなく空虚な「無限地獄」だと言えるでしょう。

一方、ココロの満足感はまったく次元が異なります。最低限の衣食住が確保できれば、そのこと自体に感謝し、人と人の結びつきにより強い価値を置き、他人のために汗をかくことを快く感ずる、穏やかで感謝に満ちた生活だと言えます。不足するモノは、工夫やお互いの融通で乗り切り、余ったものは知恵を使って保存し、来るべき不足に備えます。ここまで書くと、何の事はなく、これは投稿者が子供時代を過ごした地方都市で、あるいは現代ではお年寄りしか残ってない山里でしか見られなくなってしまった「田舎の日常生活」そのものだと気付きます。結局、人々はモノやお金を求めて都会へ流れ込んで物欲や金銭欲を満足させ、一方田舎に残った人々は穏やかなココロの満足感を得た、と対比できるでしょうか。

言わずもがなですが、どちらの暮らしが環境にやさしく、かつ持続可能であるかは明白です。そうであれば、私たちが今後持つべき価値観がどちらの方向に向かうべきかについては考えるまでもありません。必要な事は、その方向にたとえ一歩でも踏み出すことなのです。

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2009年4月 5日 (日)

991 まとめ2(脱エネ)

投稿者は、現在企業の省エネ診断や、省エネ研修、ボランティアとしての温暖化防止の出前講座などを引き受けていますが、率直な思いは「省エネでは届かない」というものです。何に届かないかといえば、温暖化防止に向けた実質的な効果に、です。省エネは温暖化のスピードを僅かに遅くする効果はあるでしょうが、しかし温暖化は着実に進行・悪化するのです。エネルギー消費を今の1/10位まで絞れば、何とかブレーキ効果が期待できる可能性はあります。

しかし現実は、たった6%程度の削減さえこの国では四苦八苦している状態なのです。つまり、今の「省エネ」思考から脱して「脱エネ」思考に転じなくてはならない状況だと思うのです。石油や電力や天然ガスなどのエネルギーの縛りから脱するには、どう考えても「エネルギー大量消費時代」以前の知恵に学ぶ必要がある、としみじみ思います。何も江戸時代までさかのぼる必要はありません。戦前や戦後の、モノやエネルギーの極端に少なかった時代に、その多くのヒントが埋まっていると思うのです。

それらを丁寧に掘り起こし、泥を落として、その後に手に入れたササヤカな科学・技術の知識をちょっとだけ使って、現代風にアレンジすれば、より持続可能な社会に近づくとは思うのです。その際に、間違ってもこの行為を990で述べた「加工場」に持ち込んではなりません。それを行うのは、「現代的な手工業」でなければなりません。なぜなら、それを「加工場」に持ち込んだ瞬間に新たな炭酸ガスの発生が始まるからです。脱エネに最も効果が高いのは、人力や太陽エネルギーを主とした加工へのシフトしかないと思うのです。

脱エネにはまた消費者の努力も不可欠です。せっかく作る側で、エネルギーや資源を絞って生産(ではなくて加工でした)しても、消費する側で蛇口を閉め忘れては、元も子もありません。ここでも、使い、消費する際の「一手間」を惜しんではならないでしょう。時間の短縮や利便には何度も書いたように、必ずエネルギー消費が伴うはずだからです。

それに関わる人たちには申し訳ありませんが、持続可能型社会に流通業は邪魔になります。可及的速やかに「運ばない工夫」を集結させる必要があるでしょう。いまは、A地域とB地域で、それぞれ大量に作ったものを大量輸送手段で交換していたりもする時代です。A地域で使うものをA地域やその近郊で調達すれば、輸送量を大幅に削減することも可能になります。脱エネに必要なことは、綿密な市場調査と少しの工夫と「環境のための一手間」だけなのです。

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2009年4月 4日 (土)

990 まとめ1(モノづくり)

ここで「モノづくり」の本質を再度まとめてみようと思います。よく工場での「モノ造り技術」などが議論されますが、投稿者の辞書には実は「「モノ造り」などは載っていません。なぜかと聞かれればそれは、モノ=物質は元々全てがこの地球上に揃っていたからだと言うしかありません。

例えば、製鉄所では鉄を作っているのではありません。元々地球の岩石に多量に含まれていた鉄分が、気の遠くなるような永い時間をかけて風化され、海中に溶け込んだ多量の鉄イオンがあったのです。地球が冷却するにしたがって、海の浅瀬に「ストロマトライト」という酸素を出す生物が繁殖し始めました。「ストロマトライト」が出す酸素は、鉄イオンを酸化し、酸化鉄に変えていきました。酸化鉄になった鉄は、最早海水に溶けていることができなくなって、やがては海底に沈殿していったわけです。その堆積物が、場所によっては数百メートルもの厚みになったのですが、ラッキーな国であるオーストラリアやブラジルでは、その堆積層が数億年の時を経て地上に顔を出しているという次第なのです。敢えて言えば、植物の祖先であるストロマトライトが、長いながい時間をかけて鉄鉱石の純度を高めておいてくれたお陰で、今の製鉄業が成り立っているだけなのです。それ以前には、人類には川が鉄分の多い岩石を風化して作ってくれた「砂鉄」しか鉄資源としては使えなかったわけです。

その意味で製鉄所とは、その酸化鉄を、これも「植物様」の化石遺産である石炭(コークス)を使って還元し、単に金属鉄に戻している「還元場」に過ぎないと言えるでしょう。その代り、コークスに含まれていた炭素(というよりコークスはほとんど炭素の塊なのですが)が酸化されて、多量の炭酸ガス(二酸化炭素)となって高炉の煙突から大気に捨てられ続けてもいるのです。アルミの工場も事情はまったく同じです。酸化アルミナ(身近な例では陶土がその代表ですが)であるボーキサイトを、大量の電力を使って精錬しなければならないので、アルミ1g当たり製造に1円程度の電力コストがかかると言われています。この過程も、まさに酸化アルミナの還元工程に他なりません。

一方で、これらで精錬された金属を、切ったり、曲げたり、溶接したりするいわゆる「加工」も結局はモノの形を変える行為に過ぎません。つまり、工場とは実はモノの形を変える「加工場」のことで、モノ造りとは「モノの形を変えるだけの行為」でしかなかった、との結論になります。重要な問題は、金属の精錬(還元)やその加工には多量のエネルギー消費と、精錬で不用になった廃棄物(鉱滓)や炭酸ガスが必ず多量に排出されるという事実なのです。それがモノづくりの本質だと言えるでしょう。

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2009年4月 3日 (金)

989 時はエネなり

このブログもそろそろ、本当のまとめに掛かるべき「時」になりました。さて、「時はカネなり」は、実は20世紀の格言でした。しかし今の時代に即して言い直せば「時はエネルギーなり」とでも表現できるでしょうか。いまの時代、先にも述べたように人々は狂ったようにスピードを上げて移動し、またモノを運んでいます。まるで、時間を短縮すれば人やモノの価値が上がる様な錯覚を抱いているとしか思えません。しかし、どんなに長い距離を移動しようが、モノは多少劣化するかもしれないし、人はやや疲れるかも知れませんが、その価値に変化はないはずです。にも拘わらず、私たちは自ら移動し、あるいはモノを運び続けます。何故なら、20世紀後半の50年をかけて連綿とそのような社会システムを作り上げた結果、もはや移動したり、モノを運んだりしなければ、一日として生活が続かなくなっているのです。車や公共交通機関を使わないで職場に通勤できる人は、たぶん全体の3割もいないでしょう。トラック便無しには、スーパーやコンビニの棚からは数日で食料が消えてしまうはずです。

結局のところ、私たちは移動や輸送に関わるインフラを作りながら、一方ではそれに完全に依存する社会システムを作ってしまったようなのです。しかも、その移動や輸送に要する時間を短縮する事に社会的な(過剰な)価値を認め、より速い移動手段に、より高い輸送コストを認めてきたのです。それは、在来線鉄道と新幹線と航空運賃を比較すれば自明です。割高ですが翌日配達時間を保証した宅配便もごく普通に使われるようにもなりました。しかし、私たちは輸送コストには敏感ですが、輸送に関わるエネルギーには全く鈍感なようです。鉄道便がトラック便に比べて1/10のエネルギーしか使わないことを知れば、例え配達に4-5日かかってもやはり鉄道便を選ぶべきなのでしょう。

言葉を代えて言うならば、時間の掛かる行動は、ほぼ全て省エネルギーになっていると断言しても良いと思うのです。社会的にどうしても省エネルギーを推進したいのであれば、その「人質としては時間を差し出す」しかないのです。

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2009年4月 2日 (木)

988 2100年の教室9

先生:「今日はみんなで環境についていろいろなことを議論しましたね。温暖化が進んで、今日も教室内が35℃近くになりましたが、最近新しくできた法律では、気温が体温を超えないとクーラーをつけてはいけないと定められたので、今日も皆には暑さを我慢してもらいました。でも今温度計を見ると、どうやら午後になって気温が36℃に到達したようなので、やっとクーラーが使えるようになりましたね。やれやれ。」

全員:手を叩いて喜ぶ。

先生:「でも、夏場の冷房温度は30℃以下には設定できないように機械側で設定されていますので、涼しさも少しだけですが・・・。」

全員:ブーイング。

生徒A:「温暖化が進んだので、日本では冬はほとんど暖房が要らなくなったけど、今年も4月になった途端に最高気温が30℃を超える日が現れたし、先週にはついに日本国内での最高気温が45℃に更新されたんだよ。」

生徒C:「空調にはエネルギーを使うけど、でも春先にみんなで窓の下に植えたゴーヤが結構伸びてきたので、隣の1組の教室に比べれば、こっちの教室の方が結構涼しいんだよね。」

先生:「そうですね。植物の力はすごいですね。休み時間になったら、屋根に降った雨水を貯めているタンクの水を使って、教室の外の芝生に水撒きをしましょう。もっと涼しくなりますよ。今日の当番の人は誰ですか?」

生徒A:「ハイ。僕とFさんです。」

生徒D:「二人ともケチらずにたっぷり水撒きしてよ。がんばってね。」

生徒F:「ハイハイ。」

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100年後の教室での議論もどうやら尽きたようなので、明日からはまた「通常の」環境ブログに戻ります。

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2009年4月 1日 (水)

987 2100年の教室8

先生:「少し視点を変えて、目を宇宙に向けてみましょうか。皆さんの使っている携帯端末にもGPS機能が付いていて、人口衛星のお世話になっていますが、環境の悪くなった地球を諦めて宇宙に飛び出していくという方向についてはどう考えますか。」

生徒C:「21世紀の初め頃、日本人も参加した宇宙ステーションが作られたと記録されていますが、たくさんのお金とエネルギーを使った割には、その成果がちっとも出ていないんですよね。人工衛星が、気象観測や通信だけにしか使えないのであれば、もっと安い通信用飛行船を成層圏まで上げれば十分間に合いますよね。」

先生:「成層圏プラットフォームですね。20世紀の初めに日本でも研究されたのですが、その後実用化がほとんど進みませんでした。ただ打ち上げコストが非常に低いので、途上国では自分の国の通信用に使っている地域が結構あるようですね。ではC君は、宇宙開発にはあまり意味がないという意見ですね。」

生徒C:「ロケットの打ち上げにはあまりにも沢山のエネルギーを使い過ぎますよね。だってたった1トンの衛星を打ち上げるのに、何百トンもの液体燃料を使うんですから。それに、宇宙空間には、使われなくなった衛星やその破片の宇宙ゴミが、それこそ星の数ほど浮かんでいるんですよ。」

生徒F:「そういえば、飛行機が飛ばないような高い高度の大気汚染の原因は、ロケットの打ち上げが原因だと聞いたことがあります。」

先生:「でも皆も一度は宇宙に飛び出してみたいと思いませんか?。」

全員「シーン!」

先生:「そうですか。今の若い人には宇宙開発はまったく人気がないようですね。」

生徒C:「だいぶ前に、21世紀の初め頃に数ヶ月間宇宙に滞在した最初の日本人が地球に帰ってきたときの動画を見たことがあるんだけど、自分ではまともに歩けないで車イスに乗せられているのをみて、すっごくカッコ悪いと思ったことがあったよ。」

先生:「そういえば、最近は宇宙飛行士になりたいという人がめっきり少なくなって、仕方がないので、政府は軽い犯罪歴のある人の中からボランティアを探すしかなくなった、と最近のニュースが伝えていましたね。」と軽いため息をつく。

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