« 2009年4月 | トップページ | 2009年7月 »

2009年6月26日 (金)

1003 脱エネ

企業からの「省エネ相談」がラッシュ状態です。石油の先高感もあり、操業が落ちている今の時期に手を打っておきたい経営者の気持ちは、モノづくり屋の卒業生としては理解できます。しかし、小手先の5%や10%の「省エネ」では、所詮焼け石に水に過ぎません。これからの時代を生き抜くためには、企業としては、まずは3割、望ましくは5割程度の資源とエネルギーの削減に挑戦する必要があります。とは言いながら、この数字は、単純な節約や工夫ではとても達成できないでしょう。そこで、投稿者が口を酸っぱくして経営者に説くのは「ゼロベースからの積み上げ」です。今ある設備や工程やエネルギー投入量を御破算でゼロにしてみて、改めて「ある機能のサービスや製品を市場に提供するために、最低限必要な設備やエネルギー」を積み上げてみるわけです。もちろん、今すぐできるものと、中長期に構えなければ実現できないものもあるでしょう。それでも良いのです。望ましい(あるべき)姿さえ頭に描いておけば、次に何か手を打つタイミング(例えば老朽設備の更新時期)に、正しい方向へ一歩踏み出すことが可能になります。

最終的には企業も社会も、脱エネ(脱化石エネルギー)を目指さなければなりません。脱エネとは、基本的にはその地域に降り注ぐ太陽光だけで、社会生活やそれを支えるモノづくりを維持していくことを意味します。このような社会の実現には、産業革命からのサイクルを逆に回すことになるわけですから、単純には100年以上掛かるでしょう。一方では、この100年で3倍以上にも「爆発的」に増えてしまった人口からの強烈な圧力にも耐えなければなりません。何より、最優先されるべきは「水と食料に確保」しかありません。100年で3倍になった人口の、少なくとも1/3は常に飢えています。それをあざ笑うように、森林伐採と温暖化に大きな原因がある水不足の災害は、乾いた草原や森林を焼き尽くす野火の様に、燃え広がりつつあります。A生さん、本当に10年でたった15%削減目標で良いんですか?と何度も尋ねたくなります。

まだ6月だというのに、最高気温が35℃になりそうな今日の空を見上げながら、50℃近くになるであろう南の国々を思いながら、今日も自分にできるささやかな「環境坊主活動」を開始することにしましょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年6月19日 (金)

1002 削減目標を嗤う

少し前、国の温暖化ガス削減の中期目標が示されました。政治家のトップとして、かなり頑張ったつもりの目標なのでしょうが、あれではせいぜい「焼け石に数滴の水」にしかなりません。そもそも、温暖化ガスを削減することが、どうして企業や国民に犠牲を強いることになるのか、投稿者には全く理解できません。企業いわく、「CO21トン削減するのにコストが10万円掛かる」のだとか。それは、たとえばこれまで重油焚きの加熱炉を使っていたのを、LNG焚きに変更して、同じ熱量でもCO2の排出量を何割か減らした、という「安易なアプローチ」の結果に過ぎません。

温暖化ガスの削減に先ず必要なものは、削減することの決意と削減のための工夫なのです。加熱炉での工夫とは、上の例でいけば、プロセスや材料を変更して加熱温度を下げるとか、設計を変更して小型化し1チャージ当たりの部品数を何割か多くするとか、あるいは廃熱を利用して、次にチャージする部品を余熱しておくとかを指します。そのために、お金(投資)も少しは必要かも知れませんが、企業側からの経済原理から言えば、その額は数年(長くて5-6年)で回収できる範囲でなければならないでしょう。国は、そのための資金を貸し付けるだけで良いのです。環境負荷である資源=廃棄物量、やエネルギーを節約したもの造りが、企業や消費者にとって負担であるはずがないのです。材料費やエネルギーコストが圧縮できれば、値段は安くなって然るべきでしょう。

エネルギーや資源は有限ですが、人間の工夫は基本的にはタダで、しかも無限なのです。

A生総理が口にすべき中期目標は、少なくとも40-50%削減でなければ、本当の意味での国際的なインパクトは無いはずなのです。50%と言っても別にびっくりするような数字ではありません。私たちは1970年代の中頃に、そのような産業構造や生活レベルを経験済みなのです。その時代私たちは、別にその時代が苦しいとか、不幸だとかは感じなかったでしょう。むしろ、モノやお金が少し不足気味であったからこそ、それが前進するためのパワーの源になったでしょうし、将来への期待も強かったはずです。満ち足りてしまった時代の後には、無力感と退廃しかないのかも知れません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年6月10日 (水)

1001 ツバメ

ガチガチ環境ブログは一旦キーボードを置きました。確かに毎日アップするのは結構骨ですが、逆に書き慣れると書かないでいると何か落ち着きません。多くの人がブログにはまる理由が分かるような気もします。というわけで、今後は不定期で日々の徒然なる思いをアップしていくことにします。

さて、今借りている事務所の駐車場の梁に、今年もツバメが巣を掛けています。昨年、心無い大家の家族が、自分の車に糞を落とされたのに腹を立て、巣の一部を壊したのですが、今年のツバメ(去年と同じつがいかは不明)は、懲りずに近くの田圃の泥を運んで、見事に修復したのです。幸い今年は、巣の下に誰も車を置いてはいないので一安心です。自分も駐車場に入る時は、彼らをおどかさないようにバイクのエンジンを切って惰性で入ります。

ツバメの体重は、想像するに鶏卵1個よりは軽いくらいだと思いますが、彼らの小さな体のどこに「大きな海を渡る力」が蓄えられているのか、いつも不思議でそして感嘆させられます。常夜灯の下には多くの死んだ虫が落ちていますが、ツバメたちはそれには見向きもせず、ひたすら飛んでいる生きの良い虫を、見事な「燕返し」でキャッチする技を披露し続けます。巣を見上げると、今日も巣から少し茶色かかった橙色の頬の顔を覗かせながら、親鳥は警戒を怠りません。

日本で田植えの季節になると急増する虫を求めて海を渡り、その田圃の泥で巣を作り、カラスなどの外敵から身を守るため、人間の力を利用するために軒下に巣を掛ける知恵を、いつの頃から彼らは身につけたのでしょうか。少なくとも家に「軒」の無かった?縄文時代以降の知恵であることは間違いないでしょう。同様に、元々は断崖に巣を掛けていたドバトが、人間が作った橋梁やビルを「故里の崖」に見立てて巣を掛ける行動や、人間の生ごみ置き場をしっかりレストランにしてしまったカラスたちにも、環境の変化に順応する野生の生き物の逞しさを感じます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2009年4月 | トップページ | 2009年7月 »