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2009年9月30日 (水)

1030 山栗

久しぶりに週末のジョギングコースを変え、これまでの川沿いのコースから、元使っていた自宅近くの裏山から続く山道にしました。東海自然歩道の一部ともなっているこの道は、ちょっとした峠道になっており、身体的にはかなりの負荷になります。

ジョギングの途中で数本の山栗の木を見つけました。通常走っている時は気づきにくいのですが、何しろこの季節は道路上に栗のイガが転がっているので、見つけるのは容易です。早朝ではなかったものの朝まだ早い時間だったこともあり、夜の間に落ちた栗は誰にも拾われずにゴロゴロ転がっていました。ズックでイガの裂け目を広げながら、小粒ながら艶々した栗をポケット一杯になるまで拾いました。それ以上拾うと重くて走れなくなるので、残りはリスに譲ることにしました。

さてそういう目で見ると、この里山には結構栗やドングリの実を付ける木が多いことにも気が付きました。これらの木は、人間を含めた動物の胃袋を満たすのにも役立ってきたでしょうし、コナラやクヌギの木は、薪炭の材料にもなったことでしょう。そういえば、小学生の頃は秋になると、町内の一家総出でその冬の薪を集めるために、数キロ離れた近くの入会林までリヤカーを引いて向かった事を思い出しました。その頃は実家の周辺で切り倒されて薪になったのは、殆どがマツだったような気がします。

しかし、現在の里山はとみれば、どこの地域でも、長い間適切な手入れ(間伐)が行われ来なかった結果、遠くから見ると確かにうっそうと茂っているようにも見えますが、中身はと見れば細い木々が込み合って生えており、それぞれは背が高くヒョロヒョロに伸びきっていて樹冠に少しだけ葉をつけているだけです。したがって地面には日も差さず下草も生えていません。林床にはフカフカの腐葉土も見当たらず、結果として土壌の保水力も弱いので、少しの雨でも河川が一気に増水し、一方少し雨が降らない日が続くと、小さな河川は水が枯れてしまいます。里山は、農業用水の確保、薪炭や食糧の「倉庫」という役割を外されて、ただひっそりと生き続けているだけの存在になってしまったようです。山栗のしっかりと固い実を味わいながら、同時に寂しさも感じてしまいました。

ところで、同じコースでアケビのツルも一本見つけました。しかし、ツルにまだぶら下がっている実も、多くは鳥に先を越されたようで空っぽになっており、昔の味を懐かしむ事はできませんでした。

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2009年9月28日 (月)

1029 浮かれ病

何故だかわかりませんが浮かれ病という言葉が心に浮かびました。たぶん、このブログで考えてきた20世紀後半とそれに続く21世紀の最初の10年も、高度成長期の浮かれ気分が抜けていないとの感慨から出てきた言葉だと思います。何が浮かれているかですが、先ず何よりそれ自体は煮ても焼いても食えない、いわば国家に対する信用だけで成り立っている、「通貨」本位制がその象徴だと言えるでしょう。特に20世紀末には、この国も、金さえあれば何でも買えるとの風潮に支配されたことは記憶に新しいところです。世界中の不動産を買い漁り、競って大型の車に乗り、ブランド品を身につけて、海外旅行に遊び呆けた時代のことです。日本の土地転がしの手法を真似たかどうかは知りませんが、B国でも懲りずに不動産バブルを巻き起こしました。

もし、これらのマネーを将来に向けた環境ビジネスの投資に向けていたら、今これほど温暖化防止に奔走しなくても済んだことでしょう。とは言いながら、過ぎ去った事を悔やんでも何も始まりません。新しい首相が国連で打ち上げた「ささやかな花火」ですが。なかなかの好感触を持って世界の元首に受け取られた様ではあります。25%の削減を10年で達成するためには、年率3%の割合で、化石燃料の消費を減らしていく必要があります。一般的に言えば、キャンペーンによる節約(ケチケチ作戦)で達成可能な削減はせいぜい5-10%止まりでしょう。2-3年すれば削減案も尽きて、削減カーブも飽和してしまうはずです。現状レベルから言えば30%を超える削減のためには、視点を変え、腰を据えた計画が必須です。

では視点を変え、腰を据えた削減計画とは何を指すかですが、それは私たちの生活スタイルの根本的な見直し無しには考えられないはずなのです。しかしこの国や、いわゆる先進国、それを追いかけつつある途上国の生活スタイルは、20世紀後半の「お祭りモード」のままで固定されたままです。私たちの理想とすべき幸福とは、たとえば旅客機の中の様に、完全に空調されたスペースで、事前に調理され・冷蔵された加工食品をレンジで「チン」して口にする事ではないはずなのです。地元で採れた旬の作物を、暑さ・寒さを体で感じながら、つつましく食べるささやかな幸せこそ「本物」で、地に足がついた生活スタイルに違いないのです。浮かれ病の熱を下げるのに特効薬があるわけではありません。しかし、緩効性の「漢方薬」やささやかなダイエットだけでは時間的にも間に合わないことも確かです。やはり、高率の環境税導入などかなりの荒療治を取り入れなければ、下熱は無理なのかもしれません。

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2009年9月26日 (土)

1028 フンバレ!年寄り

「年寄り」は決してネガティブな呼び方ではありません。歳を重ねて経験や知恵をしっかり持っている人々の総称だからです。さて、時々市民講座など温暖化防止の話や省エネの話をします。そんな場所で、環境坊主のお説教を聞いてくれるのは、時間がたっぷりある年寄りや超ベテラン主婦などになります。確かに、今のお年寄りは戦後のモノの無い時代や、二度にわたる石油ショックなど、貴重な経験をしてきましたが、今起きている地球規模の環境悪化には、何故か鈍感です。自分たちがささやかな省エネやゴミ減らしをしても、状況はそんなに良くはならない、とでも思っているのでしょうか。常に「塊(かたまり)」で生きてきた世代の一つの特徴かもしれません。忘れてならないのは、そんな彼らこそが今の日本のマジョリティであるという事実です。戦後営々として築いてきた彼らの日常行動やライフスタイルこそが、実は今の環境悪化を招いた元凶でもあるわけです。

その後始末に目途を付けないまま、退場してしまうのはあまりにも無責任な態度だというしかありません。子孫には、自分たちが受け継いだ以上の「美田=美環境」を残さなければならないのです。なぜならそれが、駅伝での「中間ランナーの義務」だからです。ある世代の人間は、死んで骨や墓を残すだけでは済みません。埋め立て廃棄物やゴミの焼却灰やさらには「気体ゴミ」である莫大な量の炭酸ガスを大気中に残したままで、お隠れになって貰っては困るのです。ささやかとは言え年金を受け取りながら、暇でヒマでゲートボール散歩やテレビ番くらいしかする事が無いのであれば、とりあえず山や空き地に木を植えるボランティアでも始めてはどうでしょう。植えた木はやがて成長しながら炭酸ガスを吸収して、何十年か後には木材や燃料やバイオマス原料として役に立つ美林となるでしょう。

悠々自適になってからのヒマは、エネルギーやお金を使いながら、それをひたすら潰すためにあるのではなく、自分が生きた証を残すために残されていると考えなければならないはずです。とりあえずは身辺を整理しながら自分が後進に伝えられそうな知恵をまとめてみるとか、それがあまり無さそうであれば元気な内に自分の体を使ってできる事と、それによって将来に何が残せるのかじっくり考えてみて貰いたいのです。ヒマが十分あるのであれば取り敢えずは車を手放しましょう。時間を掛けて歩くか自転車や電車・バスで移動すれば済むではありませんか。広過ぎる家も手放して若者に譲り、自分たちはこぢんまりとした「ソマヤ=隠居所」に引っ越しましょう。それが昔ながらの日本人のライフスタイルだったはずです。

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2009年9月23日 (水)

1027 アラル海

1026で強調した水(淡水)の重要性をはっきり目撃できる場所があります。アラル「海」です。元々は、四国程の面積を持った豊かな(海のように大きな)湖であったアラル海は、農業用水としての利用やチョウザメなど豊かな漁場としての恵みを与えていました。しかし、人間の愚行は、そこに流れ込む二つの河、アムダリア河、シルダリア河の水を農業用に大量に横取りし、上流地域の乾燥地帯で、水をより多く消費する作物、たとえば綿花などの商品作物を大量に栽培し始めました。その結果、湖の水位はどんどん下がり始め、半乾燥地帯ゆえに、残った水の濃縮も起こり、今では面積は1/3に、塩分濃度は中東の「死海」にも相当する濃さまで高くなり、元々の湖底には真っ白な塩が厚く堆積している状態です。川から流れ込む水が本当に有効利用されているのであれば。まだ救われますが、実際には工事の楽な素掘りの農業用水路からは半分ほどの水が地下に吸い込まれ、無駄に消費されています。

私たちは、人間の愚行の典型的な見本として、この湖の事を銘記しなければならないでしょうし、淡水の収奪という意味では似たような事が起こり始めている、アメリカ中西部や中国(とりわけ黄河流域)にも注目していかなければならないでしょう。重要な事は、多くの地域で農業が金儲けのために利用され、換金作物が栽培され続けているという事実です。人々の分業がトコトン進められた結果、ほとんど全てのモノの交換が通貨を介して行われるようになった現在、食糧でさえ商品として安易に扱われています。誰が、ガソリン1リットルとペットボトル入り500mlの水と米1合が同じ値段だと決めたのでしょうか。人間の生命の維持のための価値という意味で言えば、順序は当然水>米>ガソリンの順番になる事は小学生でも理解できるはずです。

石油がまだ残っているうちに、水を上手く回す仕掛けを準備しておかなくてはならないでしょう。もしそれを怠ると、私たちはかつての様にモッコを担いで、汗水たらして人力で土木工事を行わなければならなくなるのです。

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2009年9月18日 (金)

1026 生き物としての地球

地球を一つの生命体(ガイア)としてとらえる見方があります。確かに、良くよく考えてみれば地球上の生物は個々に独立して生きているのではなく、密接な相互作用や食物連鎖を繰り返しながら、太陽光をエネルギー源としながら「全体として生きているように」も見えます。無機の地球はもちろん生きてはいませんが、海洋(特に表層)や岩石が風化した結果としての土壌(表土)は微生物の塊であるとも言え、それ自体生きていると言ってもそんなに誇張ではありません。

とは言いながら、地球自体が一つの生命体であるとの言い方は極論です。しかし、たとえば人間の体とのアナロジーで言えば、やはり限りなく生命体に近いと認めざるを得ないでしょう。人体で言えば血液に当たるものは、地球で言えば水になるでしょう。というより、地球の水を血液やリンパ液として取りこんだのが生物や人間である、という順番になるのですが・・・。水は、量を別にすれば、地球上のいかなる場所(砂漠にさえ)にも運ばれます。それを運ぶポンプ、動物の心臓に当たるものは太陽光です。日射により水が蒸発し、雲になり、霧や雨や雪になって地上に降り注ぎます。それはさながら、毛細血管で人体の隅々まで運ばれる血液にも似て、その場所で多くの生命を育みます。死んだ植物や動物は、はやがて朽ちて分解され、風や雨に運ばれて再配分されます。

その大切な水を、人類だけが自然の分け前をはるかに超える量を独占し、本来それを必要とする生き物へ分け与える事を拒否してきました。近年はそれでも飽き足らず、化石時代に地下に浸み込んだ水(化石水)さえも汲み上げて使い込んでいる始末です。毛細血管が閉塞した場合、人体では実は決定的な異変が起こります。脳の血管が詰まれば脳細胞が破壊され、体の毛細血管が機能しなければ「細胞の壊死」が起こります。この場合の細胞の死は「不可逆」です。つまり一度死んだ細胞は決して元の状態には戻らないのです。

振り返って、水がほとんど循環しなくなって「壊死した土壌」とも言える場所である砂漠は、果たして再生可能なのでしょうか。確かに、水を汲み上げて送ってさえやれば、ある種の植物を育てる事は可能のように見えます。中東のお金持ち国は、海水を真水に変えて都市の緑地を灌漑し、維持しています。しかし、それは決して持続可能な生物圏とは言えないシロモノだと言うしかありません。もし庭師が数週間水やりを怠れば、殆どの植物は枯れて砂漠に戻り始めるからです。本当に砂漠を緑化するためには、現在はまだ植物相が残っている地域の面積を、「本当に徐々に」広げ続ける気の遠くなるような努力が必要なのだと思います。その結果、「生きている土壌」の面積が徐々に広がり、その上に植物相が戻り、それに依存する昆虫や動物相も回帰するという順序で再生するはずなのです。

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2009年9月16日 (水)

1025 電化中毒

このタイトルはもしかすると2回目かも知れません。便利なモノの代名詞が「電化製品」である事は明らかです。もちろん動力としては、石油を直接燃やす「内燃機関」や油圧や空気圧を利用した機械もありますが、日常使う製品としては圧倒的に電気式の機械が多くなります。電化製品は、多少邪魔なコードが付いているものの多くはスイッチ一つで動かせ、小型のコンピュータを搭載したものは複雑な機能も簡単に実現できます

さて投稿者の心配は、私たちがこの便利な電化製品の中毒になってはいないか、ということなのです。試しに、ある家庭のブレーカが何らかの原因で落ちた時のパニックぶりを想像すると、その心配はかなり現実のものとなっている事が分かるはすです。洗濯機も冷蔵庫も掃除機も動かず、テレビも音響製品も使えません。家事ができず、情報も遮断されると、多くの人間は不安になり、それが数時間でも続こうものなら、完全なパニックに陥ることでしょう。このパニック状態こそ実は典型的な「禁断症状」の一つなのです。ニコチンやアルコールや覚せい剤ではありませんが、中毒症状を改善するには、それらを遠ざけて、きっぱり断つしかありません。電化中毒改善のためには、やはり電気が無いものと諦めてしばらく暮らしてみる必要がありそうです。子供を一泊のキャンプに連れ出すのも一つの方法ですが、そこまでしなくても数時間だけの「電気の無いつもり生活」を時々実行してみるだけでも十分でしょう。その電気の無い時間が、一日の内の1/10相当なら10%の省エネが達成できるはずですし、国のエネルギー削減目標が25%なら、現在の生活時間の1/4を電気の無い時間にする必要があるだけです。

しかし、いわゆる「省エネ家電」なるシロモノはそれ自身、本来の省エネの本筋からは外れており、自己矛盾であるとも言えるでしょう。つまり、消費電力の低い電化製品への買い替えは、それを製造する過程で多量のCO2を発生しており、機器の性能だけで省エネを達成しようと考えるのは、金に頼った他力本願でしかありません。省エネ家電で事足りるなら、使用者の努力は一体どこにあるのでしょう。真の省エネ行動のためには、多少不便な思いをしながら、私たち自身が体を動かして(自前のエネルギーを使って)「汗をかく」必要があると思うのです。

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2009年9月14日 (月)

1024 湯水か空気か

日本語では、安いものの代表として「湯や水」が引き合いに出されます。「湯水のように使う」ことは、後先を考えない無駄使いの意味に使われます。投稿者としては、これに「空気」を加えたいと思います。企業の省エネ支援に関わっていて、工場の中で「湯水」を連想させるのは実は「圧縮空気」なのです。湯水と共通しているのは目に見えないということかもしれません。湯水は、透明ながら目で見ることも可能ですが、空気こそ全く見えません。従って、どこかで無駄使いをしていても誰も意識してくれない理由ともなっています。しかし考えてみれば、空気は結構コストがかかるエネルギー源なのです。空気を断熱圧縮(急激に圧縮)すると当然の事ながら発熱します。ゲージ圧7k程度まで上昇させる普通のコンプレッサーでは、約200℃程度まで上昇するのです。これでは、空気を使う機械が壊れたり、作業者が火傷したりするので、仕方がなくそれを多量の空気や水などで冷却します。このとき捨てる熱量は、投入した電気エネルギーのおおむね半分ほどにも相当しますので、冷却された圧縮空気のエネルギーとしての「使いで」は既に半分ほどに目減りしているのです。その「高い=立米当たり3円ほど」圧縮空気を湯水の様に使っている「普通の工場」を見ると、環境坊主の投稿者としてはつい涙が出そうになります。

増してや、この貴重な空気を、機器の整備不良や配管の漏れなどで、ただ浪費している現場を見ると最後には腹さえ立ってきます。とは言いながら、空気の漏れは目には見えません。実際には、休憩時間に耳を澄まして空気漏れる「シュー」という音を聞くか、あるいは怪しい所に手さえかざせば簡単に発見できるのです。天井付近の配管でも漏れの発見は簡単です。釣り竿の先に、細く裂いたビニールテープをくくり付け、天井を走っている空気配管の継ぎ目に近づければ良いのです。

圧縮空気は、普通の製造業では総エネルギー消費量の25-30%を占めると言われています。しかし、このエネルギーを絶対に必要とする機器は実は限られています。エアシリンダーで動く機器や、製品を吸いつけるエジェクター等です。多くの圧縮空気は、実は製品のゴミを吹きとばしたり、あるいはプロセス途中で製品を冷却したりする用途にその多くが使われているのです。部品の掃除なら掃除機やブロアで、冷却ならファンやブロアで十分事足りるはずです。圧縮さえしなければ、電力はほぼそのままの「使いで」で空気の流れを作ってくれるのです。もし、空気の無駄使いだけを止めて半減できれば、工場の消費エネルギーは少なくとも15%は削減できるはずなのです。別の工夫を組み合わせれば、30%の省エネは決して無理なハードルとは言えないでしょう。湯も水も空気は決してタダではないのです。

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2009年9月11日 (金)

1023 削減目標

次期首相の打ち上げたCO2削減の中期目標が話題になっています。A生首相より数歩踏み込んだ「やや野心的」な数字に、環境に敏感な人は歓迎する一方、産業界からはあまりに高いハードルだとブーイングも起り始めているようです。ブーイングの理由は一つです。企業や家庭では、高い削減目標達成のために大きなコストが発生し、ひいてはそれが重荷になって経済が減速するのだとか。しかし、この論理は投稿者には全く理解できかねます。なぜエネルギーを節約すればコストアップになるのか論理のつながりが見えないのです。確かに、たとえばある企業が今持っている重油ボイラーから、よりクリーンで省エネ型のLNGボイラーやコジェネに設備を更新すればお金はかかるでしょう。しかし、真の省エネとは今の重油焚きボイラーのままで済ますけれども、その燃料費の3割削減を達成することなのです。

確かにこれは難しい取り組みにはなりますが、決して不可能ではなく、その手法も色々考えられるでしょう。例えば、現状の加工プロセスを、より少ない燃料で今と同じ製品ができる様に改善すること、あるいはプロセスで使った蒸気の廃熱を使って、いくらかでも発電回収して工場の電力を削減すること(廃熱発電)、あるいはプロセスイノベーションにより、熱反応ではなく圧力や振動で加工(反応)が進む方法(たとえばソノケミカルやメカノケミカル法)を適用する事などが考えられるでしょう。「真の」省エネルギー活動で使うべきはお金ではなく、頭なのです。小難しい科学・技術すら不要です。これまで培ってきたローテクと知恵+工夫で十分だといえます。

さて1990年比で言えば30%を超える省エネが、実際問題として果たして可能なのかどうかですが、実はその実現は政策的に見れば結構簡単です。それにはアメとムチを使い分けます。アメとは、省エネ投資や省エネ行動に対するインセンティブ(ご褒美)であり、省エネ減税や省エネ助成金を指します。一方、頭と少しのお金を使うことを惜しんで、あまり省エネ行動をしない企業や人からはビシッと税金を取ります。環境税です。両者が丁度バランスを取る規模ならば、社会全体としてあまり文句は出ないでしょう。アメとムチを併用すれば、元々工夫が好きな国民ですから、たった30%程度のささやかな省エネなど楽観的過ぎる目標だとさえ言えるでしょう。

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2009年9月10日 (木)

1022 畏れと感謝

現代の社会に最も欠けているのは、実はこの二つかもしれません。古の時代、ご先祖様たちは自然を畏れ敬い(奉り)、毎年の収穫に対しては感謝の祈りを捧げてきたはずです。災害が起こるのは自然の怒りの結果であり、収穫を手に出来るのも自然の恵みであると考えてきたわけです。日本には八百万もの神々が存在するゆえんです。しかし、作物が石油(化学)やどこか遠くの土地(多くは海外)を使っての大型機械農業で大量に作られ、消費者の目に触れない流通システムに乗って、忽然とスーパーの店先に並ぶこの時代、食べ物対する感謝は「ほぼ完全に失われました」。増してや、自然災害の起こった地域の当事者は除けば、風水害や地震などの自然の脅威に対する畏れの意識は、極端に希薄になっているのでしょう。その僅かな畏れさえも、表面上のインフラが復旧するにつれて、数か月後には忘れてしまうのが人間の常ではあります。

これは何より、私たちが自然の移ろいにあまりにも鈍感になってしまった事にその原因がありそうです。つまり、人工的に管理された「環境」に暮らすことに、あまりに慣れ過ぎてしまった結果だと思うのです。人間を含む生き物は、実は環境との相互関係やそれとの戦いを潜り抜けて来たからこそ、高度な進化を重ね得たのだと想像しています。原種と呼ばれる植物が、人間の改良した作物に比べ逞しいのも、厳しい環境に晒されてそれに適応してきた結果だと言えます。時々想像するのは、収量が多く、味も良いという理由で、現在広く栽培されている作物が、実は今後予想される気候変動や、あるいはある種の昆虫やそれが媒介する微生物に決定的に弱い性質を内在している場合、ある年に突然にそれらが壊滅的な被害を蒙る悪夢です。そこで生き残るのは、荒れ地でひっそりと生きのびている原種だけという恐ろしい夢です。残った原種を再度改良して、今ある様な作物の性質レベルまで改良を加えるのに一体何年掛かり、その間にどれほどの人が飢えて死んで行くのか、想像すらできません。

キーワードは、多様性の確保だと思われます。遅まきながら、来年名古屋でそのための会議が開かれますが、果たして人間の力で何ができるのか、できるとしてそれが間に合うのかどうか、真剣に心配しています。

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2009年9月 8日 (火)

1021 積極的中毒

B国で、某有名歌手が変死した「事件」は、たぶん氷山の一角なのでしょう。鎮痛剤や睡眠薬に依存するか、あるいは覚醒剤に手を出すかはホンの偶然に過ぎないのかも知れません。別に、芸能界のゴシップに興味はありませんが、今日は、もしかしてこれは今の社会に敷衍できる現象かも知れないと、つい考え込んでしまいました。

私たちが、モノやエネルギー中毒になっているかもしれない事は、このブログでも度々書いてきました。それらから得られる快感を維持するためには、何しろ景気が常に右肩上がりになっている必要があるでしょう。明日が今日より豊かだろうとの確信が、人々をさらにモノやエネルギーに走らせる原動力になるからです。しかし、逆に右肩下がりがますます顕著になってきた近年、人々の消費意欲はすっかり減退してしまいました。いわば、景気の「うつ」状態だとも言えるでしょう。「うつ」状態に速効で絶大なる効果を発揮するのが覚せい剤ですが、内向的で「うつ」傾向の人が多い作家などにこの薬をたしなむ人が多いのは故無しではありません。締め切りに追われ、書き続けるためにこの薬物の中毒になってしまった作家の何と多いことでしょう。

さて、私たちの社会です。うつ傾向の景気を刺激するために今打たれている手の多くは「覚せい剤的対策」に過ぎません。快感が得られる時期を過ぎると、それ以前にも増した虚脱感に襲われることでしょう。それを回避するためには、さらに強い効果のある刺激が求められるでしょう。これは、まさに「景気覚せい剤中毒」症状に他なりません。中毒を回避するには、やはり辛くても薬を遠ざけなくてはなりません。そのためには、明日が今日より物質的に貧しくなって、エネルギーにも不自由する時代になるにしても、その何倍も精神的に豊かになる術を、私たちは会得する必要があるのです。新しい車や、家電製品を買って得られる幸福は1週間も持続しませんが、会心の俳句をひねった時の幸福は、それを読み返すたびに蘇る幸福感なのだろうと想像しています。薬物中毒の対極にあるのは、実は自分が努力しで得られた結果に対する幸福感への中毒なのかも知れません。これは、もちろん受動的な中毒ではなく、「積極的中毒」と呼ばれる状態に他なりません。

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2009年9月 5日 (土)

1020 豆ドングリ

昨日は射水市に日帰り出張でしたが、夕方に近頃経験した事がない様な短時間豪雨に見舞われ、帰りの電車も落雷でストップして足止めを食らいそうになりました。とっさの判断で10km少し離れた富山駅までタクシーを飛ばしたら、こちらは雨がほとんど降っておらず、高山線の入っていく山側では日も差していたくらいで、拍子抜けしました。まさに、狭い場所にドッカリと雨を降らす「ゲリラ豪雨」を見た思いがしました。

さて今日は天気も良いのでいつものジョギングコースを走りましたが、久しぶりなので息が切れました。8月には、いくつかの「結構ハードだ」と言われている山に登ったので、体力はそれほど落ちていない様な錯覚に陥っていたようですが、どっこいそれは急降下しているようです。これからは、その加速度に必死に抗うことになりそうです。川沿いのそのジョギングコースでは、結構多くの種類の植物や昆虫・動物を見ることができます。今日は、道沿いの木にドングリ実を見つけました。大きさはまだ直径5ミリ以下で、まさに豆ドングリです。葉は小さくてすべすべしていたので、シイやクヌギではなく多分カシの類でしょうか。びっしりと小さな実をつけて、実りの秋を待っているようです。

帰りがけの畑の横には野菜の直売所があり、顔見知りの農家の夫婦が野菜や果物を売っています。今日は、面白い縞模様のあるウリを2種類買いましたが、どちらも初めて見る種類でした。味が楽しみですが、食べごろはヘタがポロリと取れるタイミングだとか。2-3日机の上に置いて眺めながらじっと我慢する必要がありそうです。こんな何の変哲もない日々の生活が、実はこの上ない幸せな時間なのではないか、と50数年の年齢を重ねてやっとそう思えるようになった気がします。何か遠い回り道をしてきたのではないかとも思います。技術屋として、鉄やアルミやカーボン繊維と格闘してきた日々の意味は一体何だったのか、と改めて考えています。今日も豆ドングリとウリを眺めながら、技術屋を卒業するという自分の判断は、それほど間違っていなかったのだと、密かに噛みしめています。

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2009年9月 1日 (火)

1019 すべてこの世は事もなし

選挙カーが走り回った真夏の嵐もおさまって、日常生活に戻りつつあります。新しい政権が何を目指すのかよくわからない点も多いのですが、肥大化した社会システムや官僚組織が持つ強いイナーシャに逆らって、改革を断行するには結構パワーが必要とされることでしょう。とやかく言っても、結局政治家に求められるのは「国家百年の計」しかないでしょう。それが無い人は単なる政治屋でしかありません。新しいリーダーにそれがあるかどうかは未知数ですが、一見真面目そうな?人なので淡くは期待しています。今回の結果は、細かく割った選挙区で、一票でも多く取った候補者が当選する仕組みを作った政党が、自ら仕掛けたトラップにはまった結果だと言えますが、それはさながらオセロゲームで駒が一気に反転する様子にも似ています。つまり、人気が少しでも上回った候補者や政党が大勝するゲームです。これを「Winners takes all.の法則」と言い換えても良いかも知れません。ついつい、負け続けてきたギャンブラーが大きな勝負に出て、最後にはどうにかこうにか勝ってテーブル上のチップを総取りする場面を想像してしまいます。

一方、人間社会の混沌とは無縁で、自然の営みは悠久で連続的に続いています。植物や昆虫や動物や新型インフルエンザさえ、自然の摂理に従った連続性を維持しています。もし、環境にニッチがあれば少し進出し、天敵からの反撃にあえば少し撤退する控え目な行動を繰り返します。もし自然界が「Winners takes all.の法則」に従って、特定の生物や異常気象に支配されて固定してしまった場合、自然の連続性は一気に破壊されてしまうでしょう。

「すべてこの世は事もなし」は、実はシステムの連続性や維持にとっては最も重視されるべき言葉かもしれません。この国の政権がどのように変わっても、変わってはならないものはしっかり維持されなければなりません。しばらくは、お手並み拝見ですが、どんなに立派な人でも人間の常としてやがて「慣れ」が生まれ、さらには慢心が支配するはずでので、鉄は熱いうちに打たなければならない事は、お手並みを拝見する側も意識しておかなければならないでしょう。

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