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2009年10月31日 (土)

1044 屋根ビジネスの予感

投降者の事務所からは、近くや遠くの家並みが見えます。それらの屋根を眺めても、屋根がほとんど利用されていない事がきにかかります。つまり、太陽熱温水器を上げるとか、太陽光発電パネルを上げるなどの行動が非常に低調なのです。この地方では、冬でもしっかり日照時間が長いので、特に太陽熱の利用が進んでいない事は、悲しむべき事態だといえるでしょう。投稿者の自宅では太陽熱温水器を上げていますが、夏場の晴れた日にはほとんど追い焚き無しで、入浴ができますし、冬場でもたぶん湯船の半分程度は太陽熱だけで給湯できます。

日本には住宅が5000万戸程度あり、そのうちの2/3が戸建ですが、現状1割である温水器の設置率を上げて、戸建住宅100%に太陽熱温水器が設置されたとすれば、年間に削減できる二酸化炭素の排出量は1200万トンを軽く超えるはずです。これは、家庭生活から排出される二酸化炭素排出量の5%程度に当たりますので、現在と全く同じ生活レベルでも丸々5%削減するポテンシャルが目の前に転がっているわけです。太陽熱温水器を製造するには、あまり高度な技術は不要でしょうから、小さな町の鉄工所でもそれなりに製造は可能でしょう。それを設置したり、メンテナンスしたりする作業を考えれば、かなりの規模の立派な産業が創出できるはずです。今でこそ、太陽熱温水器のメーカーは、体力のある中堅企業以上に絞られてしまった感がありますが、前のオイルショックの時には、雨後のタケノコのように中小のメーカーが林立していたはずなのです。

加えて、少し大きめのシステムを設置すれば、暖房や夏場のデシカント冷房の熱源としても活用できます。屋根には薄いパネルだけ上げて、温水タンクは地面に置いておけば、地震に対する不安も解消できるでしょう。世の中が不景気だ、仕事がない、省エネにはお金が掛かるなどと愚痴ってばかりいないで、屋根という「貴重な資源」を活用するビジネスを起こそうと考える起業家は出ないものでしょうか。商売ではない投稿者がビジネスを起こしても3日でつぶれる事は目に見えていますので、ブログに書く程度のことしかできませんが・・・。屋根ビジネスは単なる予感ではなく今や必然だと言えるでしょう。

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2009年10月29日 (木)

1043 スモールビジネスの予感

1042で書いたことを別の言葉で表現すると、それはスモールビジネスでもある、となるでしょうか。スモールビジネスの特徴は、ほぼ完全に顧客の名前が特定できるという点です。つまり、今日仕入れた材料は、AさんとBさんとCさんとXXさんに向けた○○を作るためのもので、それは夜なべになるが今日中には仕上げよう、などと経営者(兼職人)が頭の中で計算ができるビジネス規模を指します。したがって、作り過ぎの無駄も出ませんし、必要な資源(材料)やエネルギー量もぴったり計算した通りになるはずです。そもそも、今の社会に見られる経済の拡大(膨張)は、一に掛って作り過ぎから始まった事でしょう。作り過ぎがストックを生み、そのストックの膨張が資本蓄積や先物市場(取引)といった投資や経済活動を生みだしたわけです。

さて、スモールビジネスでは、中央経済にあまり頼りませんから、しばしば「物々交換」も行われるはずです。投稿者の生まれ育った田舎町には、毎日市が立ちました。近郷の農家や小さな漁港からは、腰の曲がったばっちゃんやおかみさんが、その日に売り切りたい量の農産物や魚介類を、手押し車やリヤカーや自転車に乗せてやってきます。その場では、頻繁に物々交換が行われていた事は容易に想像がつきます。売り手と客は顔なじみで、値段の交渉さえも和やかに行われます。ここに、荒物屋さんや乾物屋さんや電気器具修理屋さんスナック店や薬草を商う人たちが加われば、立派なマーケットが誕生するはずです。このようなマーケットを、比較的最近ブラジルに滞在していた時目にしました。間口数メートルの小さな店がひしめく、このマーケット(メルカード)は、その中を歩くだけでも結構楽しいものでした。

製造業にもこのような形態が成り立つでしょう。そこでは、すべての製造は「注文生産」によってはじまります。基本的な材料はストックされますが、着手は注文を受けてからになります。つまり、製品在庫は一切置かないで済みます。落語の話の様に、注文が舞い込んでからあわてて質に入れた道具を受け出し、材料の仕入れ資金を借りに走る、といった光景も茶飯事になるかも知れません。シューマッハのスモール・イズ・ビューティフル」をもじって、ここでは「スモール・イズ・エコロジー」と言っておきましょう。そういえば、投稿者の事務所も個人経営の自営業でした。

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2009年10月27日 (火)

1042 地域ビジネスの予感

似たようなタイトルで以前にも書いた様な気がしますが、念押しの意味でもう一度書いても無駄にはならないでしょう。というのも、1041で書いた環境税で景気が減速し、雇用が無くなったら、人々は何を生業として暮らしていけば良いのか、途方に暮れると思うからです。先に書いたように、環境税は一極集中を否定するわけですから、逆に地方分散の流れが生まれる事は明らかです。その中で、最近時々目にするのは「地域ビジネス」といキーワードです。その定義は、まだまだボンヤリしてはいますが、ここではいくつかの具体的方向を示しながら、その輪郭を少しくっきりさせたいと思います。

地域ビジネスを起こすのに、その原料や労働力を他の地域に求める事は矛盾に陥ります。まずは足元にある原料や資源を掘り起こすことから始める必要がありそうです。農産物なのか、森林資源なのか、海産物なのか、あるいは水資源なのかといった地場の資源を再確認する作業です。今は何もないとしても、たとえば休耕田を多く抱えている地域では「土壌」そのもののが資源となり得ます。北陸や北国では「雪」も立派な資源になり得ますし、一方夏場に気温が上がり晴天率の高い地域では「太陽光や太陽熱」も立派なエネルギー資源になり得ます。

さて資源が見つかったとして、それを活用するのに大規模な工場や自動化など「ユメユメ」考えてはなりません。まずは、家内工業、それも人力を活用した産業を指向していく必要があります。地方分散を更に「戸別分散規模」までブレークダウンする訳です。このようなビジネス形態では大きな設備投資は不要なので、思い立ったらすぐ始められますし、上手くいかなかった場合でも短期間で方向転換が利くはずです。買ったのは設備ではなく「道具レベル」でしょうから、例え要らなくなっても中古品として処分できます。落語に出てくる「道具屋」も商売として復活することでしょうし。

地域ビジネスでは、顧客もまた地域の人々です。顧客の顔が見えますから、今日は誰が何を何個くらい買いそうだ、というかなり正確な予測もできますから、作り過ぎの無駄も無くなるでしょう。商品が無くなったらその日は店じまいです。もし、その年に地域の資源(例えば農産物や海産物)が豊作(豊漁)になったとしても投げ売りなどしてはいけません。保存食に関する先人の知恵を思い出せば良いのです。缶詰や瓶詰やジャム、干物や塩蔵(漬物)などなど。保存食を、農産物が品薄になる「端境期」にボチボチ出荷すれば、収益も安定する事でしょう。このようなビジネス形態では、決して多くは儲からないでしょうが、食うに困ることもないはずなのです。都会にも似たようなビジネスモデルは存在しました。何の事はなく、それは少し前まではどの町内にもあった小規模な豆腐屋や納豆屋や惣菜屋などをイメージすれば良いのです。

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2009年10月25日 (日)

1041 排出権取引の愚

排出権取引がマスコミを賑わしていますが、投稿者としてはまったく合点が行きません。そもそも、誰がCO2を堂々と排出し続ける「権利」を有していると主張できるのか、という根本的疑問があります。増してや、CO2に値段をつけて市場で取引しようなどと、手間ひまをかけて検討し、準備し、実際にそれを運用するシステムの無駄を考えただけで頭が痛くなります。

そもそも、排出権取引を何のためにしなければならないのかですが、その目的は破局的な気候変動の防止です。その目的を考えれば答えはたった一つしかないでしょう。アメ(大いに努力した人や企業への減税)とムチ(CO2を排出した時の環境税)の組み合わせです。省エネに励んだ人や企業をほめ、それを怠った人や企業を懲らしめるというシンプルな方法が最も効果を発揮するはずなのです。もし、削減目標に届かなければ、税率を見直せば良いでしょう。環境税は、本来目的税であるべきですが、それでなくても国の借金が天文学的数字になっているこの時代、そんな理想論は引っ込ますべきかも知れません。何しろ、現世代は、過去数十年間にわたって環境へ負荷をかけ続けながら高度成長を果たして、いまある豊かな消費生活を享受しているわけですから、それを維持するために政府がばらまき続けた借金を、環境税から少し回して埋め合わせてもバチは当たらないはずです。いずれにしても、現在の財政出動、金利政策や消費税などを組み合わせた、複雑で間接的な経済政策に比べ、何しろ環境税は直接的でシンプルです。

さて、環境税が社会の重石となって、経済活動が鈍化し、ひいては更なる景気悪化や失業率の増加につながるという議論があります。しかし、環境税の目的は「エネルギーの無駄使いを絞る」ことであり、エネルギー消費を増やさない経済活動はむしろ奨励するわけですから、そのような単純な批判は無視すれば良いのです。例えば野菜や果物など産地を集中化し、端境期にも市場に出荷するために高原栽培や温室栽培を奨励し、それを、高速道路を使って全国各地に流通させる今のビジネスモデルは、高い環境税を覚悟しなければならないでしょう。そうではなくて、地場で採れた旬の産物を、地場で消費するビジネスモデルでは、生産者や消費者は環境税の網には引っ掛からないので安いコストを享受できるはずです。つまりは中央集中のビジネスモデルは否定される時代になるわけですから、人々も税の高い大都会に群れて暮らす必要も無くなるので、人口の地方分散も進むはずです。これが、投稿者が何度も書いている「時代の逆転」の意味なのです。とりあえずは、社会が1970年代前半まで戻れば、エネルギー消費は現在の丁度半分(50%削減)程度の省エネ社会が実現できるでしょう。

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2009年10月23日 (金)

1040 景気刺激というクスリ

またまた「社会やぶにらみ」シリーズです。新政権になっても、景気刺激と雇用確保に躍起になっている状況は相も変わらない様です。何故、国の借金を上積みしてでも景気を刺激しなければならないのか?それは雇用を確保するためだ。何故、雇用を確保しなければならないのか?それは、景気浮揚で雇用の機会を増やして国の税収を増やし、国の借金を返すためだ。これではどこまで行っても堂々巡りで、国の借金も増えるばかりです。政治家は、官僚の弊害や悪行を暴くのに躍起になってばかりいないで、右肩下がりのこの国の「着地点」の青写真を描くことにもっと力を入れるべきでしょう。この国の今の状況を作ったのは、「護送船団方式」で成功した20世紀の後半の成功体験にすがり続け、将来の設計図の作成を怠って癒着し続けた政治家+官僚と、それを看過してきた私たち国民全部の責任なのでしょう。

何度も書いていますが、投稿者としては、景気刺激は社会の「麻薬」か、精々良く言っても「カンフル剤」だと考えています。何故か。それは、それを止めると「禁断症状」や「クスリ依存症状」を呈するからです。国の財布が薄くなって、景気刺激の弾をあまり撃つ事が出来なってきた近年、禁断症状はますます激しくなってきた様な気がします。その一つが失業者の増大だと言えるでしょう。マスコミで、タレントの「薬依存症」が話題にはなっても、社会の「景気刺激策依存症」が問題にならないのはどうした訳でしょう。学問とは過去の経験則を体系化したものでしょうから、経済学者といえども右肩下がり時代の経済に関しては、赤子も同然なのかも知れません。確かに歴史を遡れば、大国の衰退も数多く起こったことでしょう。しかしそれらは、隣国との戦争や気候変動(特に水資源の枯渇)などの外的要因で起こったことだったはずです。しかし、私たちがこれから経験しなければならない、現代文明の高みから、深さが見えない谷まで、数十年をかけた人為的衰退をいかにデザインするか、まだ誰も答えを持っていないと思われます。

どんな時代になっても、人々が生きていく限り、衣食住など絶対不可欠なものはやはり無くてはならないもの共なのです。それをベースと考えて、そのベースをできる限り、地域の資源と太陽光の恵みに依存した方法を使った地産地消で賄う循環をデザインする事こそが、将来社会のグランドデザインの基礎となるでしょう。それ以上の生産や消費は、結局のところ地下資源や化石エネルギーの採掘を前提としたバブル消費部分だと考えるべきなのです。

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2009年10月21日 (水)

1039 気候変動2題

最近のニュースで気になる話題が2題ありました。ひとつ目は、北極海の浮氷です。かなり前(2000頃)の予測では、2040年頃には夏場には、北極海の浮氷がほとんど融けてしまうと言われていました。しかし、最近の再予測では、その時期がさらに10年以上早まっているようです。その理由は「悪循環」にありそうです。単純な気象モデルでは、極氷の減少により北極海の太陽光吸収率(アルベド)が変化し、白夜の夏は海水が今より多くの太陽熱を吸収し、冬場の結氷が遅くなり、氷の厚さも減るので、翌年の浮氷がさらに減少するだろうというものでした。しかし、事態はそれほど単純でもなく楽観的でもなさそうです。背景としては、海洋と大気の相互作用による長期的な「気象振動」も考慮しなければならないからです。その振動に関する最近の話題では、「エルニーニョ」があります。赤道付近の海水温の変化が、赤道付近のみならず、日本など中緯度地域の気象まで強い影響を及ぼしているという事実があります。その根には、赤道付近にふり注いだ太陽のエネルギーが、海流や大気の流れ(例えば低気圧や台風など)によって、極地方に運ばれるという地球規模のエネルギーの流れが存在していると言えます。これは、「北京での蝶の羽ばたきが増幅されて、やがてはカリブ海のハリケーンになる」という冗談話が、現実のものとなる可能性を含んでいます。

もう一つの話題は、アフリカのひどい干ばつです。過去1年間一滴の雨も降らなかった地域が拡大し、草が枯れた結果家畜が大量に死に、それに依存している遊牧民が飢餓にさらされているとのものです。その数は数千万人規模に上るとか。まさに彼らは、地球規模の温暖化による環境難民になりつつあると言っても良いでしょう。どうやら、温暖化は気象現象の過激化を増幅するようなのです。つまり、雨は降る場所には、台風やサイクロンなどの過激な現象を伴って「どさっと降り」、一方降らない場所には一滴も降らないという気象の激化現象を指します。これも大きな意味では、最初に書いた短期的な「気象振動」と長期的な温暖化傾向の合わせ技としての現実だと思われます。もちろん短期的振動とは言っても10年程度の単位となりますので、干ばつが数年続くだけでも、そこに暮らす人々が飢餓状態に陥る危険性にさらされるわけです。さらにその振幅が右肩上がりの温暖化傾向の中でさらに大きく振れようとしています。

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2009年10月19日 (月)

1038 目的あるウォーキング

近くの東海自然道を黙々と歩く人の何と多いことでしょう。見ると、60代それも前半の世代が多い様に見えます。団塊世代で最近退役した人たちなのでしょう。もちろん彼らは体力的にもまだまだ十分現役で活躍できる人たちでもあります。健康のために歩くのは、健康保険制度の健全化のためには結構なことなのですが、その様は「徒歩=徒に歩いている」としか見えません。そして、その人たちの日常生活をつい想像してしまうのです。朝起きて、朝食を取るかあるいは早朝ウォーキングに出るか順番の違いはあるのでしょうが、いずれにしても帰ってからたっぷり2時間以上かけて隅から隅まで新聞を読むはずです。その後は、奥さんの買い物に付き合うか、あるいは近くのホームセンターを冷やかすでしょう。真面目な人は午後には図書館に出かけて本を借りてくるかも知れません。

しかし、投稿者としてはこの生活が毎日繰り返されることを想像するだけで、うんざりしてしまいます。それでなくても彼らは勤勉な世代なのですから、とりたてて何もする事がない「逆ストレス」に長期間耐えられるとはとても考えられません。したがって、彼らは自分にそれなりのルーチンを課して、ストレスを和らげようと必死になっているのかも知れません。たぶん彼らには、足代と弁当代程度を出して、適当な仕事をしてもらう何らかの仕組みが必要なのだと思います。それが、社会の役に立つ事であれば、皆が幸せになれる事でしょう。

ここではいくつかのその様な仕組みを考えてみましょう。地域に暇な人が多ければ仕方がないので輪番制にします。

1)   地域掃除隊:これは地域の掃除を定期的(それもかなり頻繁)に行う活動です。ついでに空き地の雑草抜きや見通しを悪くしている道路沿いの灌木の刈り込み程度は引き受けてもらいます。

2)   宅配サポート隊:自分が住む地域への宅配を請け負う仕事です。宅配便は、担当する人の家にまとめて届け、地域の配送は小さなリヤカーかプルカーを使って徒歩で行います。温暖化防止に大きな効果が期待できます。独居老人世帯では、必ず30分は世間話をしてくることを義務付けます。

3)   空き地耕し隊:雑草を抜いた土手や空き地に少し土を盛って、あちこちにミニ菜園を作ります。できれば少し離れた場所につくるのが理想です。なぜならそこまでしっかり歩く必要がありますので、「目的を持って歩く」ことができるでしょうから・・・。自家消費以上に収穫できたら、無人販売所で売ることにしましょう。形が悪くても、多少虫にかじられても無農薬で作ることにこだわっていただきます。

4)   ミニ植林隊:ドングリなどや近くの里山に自生している雑木を、実生から自分の庭で育て、雑草に占領されている空き地や土手にミニ植林を行います。自治体が、場所を確保して目印を立てておけば、変な場所に植えられることもないでしょう。

まだまだありそうですが、いずれにしてもこれらの提案は彼らに「目的を持って歩いていただく」ことが「目的」です。続きはまた考えておくことにします。

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2009年10月17日 (土)

1037 リチウム汚染

効率の高い蓄電池を作るためにはリチウムが不可欠なのだとか。残念な(幸運な?)事にこの金属資源は日本では全く産出しません。いま多くの商社が、その資源確保に南米や中国などを奔走していることでしょう。しかし、投稿者としてはこの物質に「危険」を感じてしまいます。なぜならリチウムは、人体(生物)には有害な金属元素の一つだからです。投稿者の記憶でも、1970年代に航空機のジュラルミン材にリチウムを添加し、剛性を高めようと研究された時期がありました。確かに、リチウムを合金する事によりアルミ合金の剛性(たわみにくい性質)が上がって、機体重量を10%以上軽減できる事は事実です。しかし、加工時に発生する金属粉じんを作業者が吸引した場合、急性あるいは慢性の中毒が強く懸念されたため、結局その採用は見送られたのでした。

さて、形あるものは必ず壊れ、最終的には廃棄されます。この危険な材料が電池に大量に使われた場合、最終的に用済みになった電池が環境に不法に投棄される懸念がぬぐい切れません。コストのためには、その処理を押し付けられた業者が、夜陰に紛れて不法投棄を繰り返す例は、豊島や岩手山間の例を挙げるまでもなく、これまでも各地で数多く報告されてきたところです。歴史に学ぶためには、リチウムを大量に輸入し、それを大きな産業に組み込むためには、まずはその出口(廃棄電池処理)技術を確立してから進めるべきなのです。

しかし、メーカーばかりがいくら努力しても、それだけではこの問題は解決しません。なぜなら、今度起きるであろうハイブリッド車の交通事故で、電池の破損に伴う環境汚染も劇的に増えることになるからです。道路に散乱し、あるいは側溝に流れ込んだリチウム化合物が、生物や人体に与える、「長く持続すると思われる」環境被害を強く懸念せざるを得ません。徐々に歴史になりつつあるとは言え、過去いくつかの有害物質による環境汚染やそれに伴う健康被害が、有機水銀やカドミウムやヒ素やPCBや各種の環境ホルモンなどで繰り返されてきた事実を忘れるべきではないでしょう。

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2009年10月15日 (木)

1036 省エネのツボ

企業での省エネ支援を続けるうちに、最近省エネのコツがだいぶ分かってきたような気がします。もちろんこれまでもセオリー通りに助言はしてきたわけですが、セオリー通りでは精々5-10%程度の省エネが限界になり、大きな壁に当たります。それを突き破って、何割とかいう大幅な省エネを実現するためには、更なる深掘りが必要となると思うのです。深掘りのためには、省エネのセオリーと同時に、プロセスへの深い理解が必須です。ではプロセスを良く知る技術屋が、省エネのセオリーを身につけた方が近道かと言えば、実は必ずしもとも言えません。というのも、その業界の常識が身に染みついている事が、逆に大幅な省エネ案を出すのには結構邪魔になるのです。

大幅な省エネのためには、先ずは常識を外して考えなければならないからです。例えば、金属を削って部品を作っている工場を考えてみましょう。これまでのセオリーでは、エネルギーの無駄がないか、ネタを求めて工場の隅々を探し回ることになります。照明の無駄や断熱材の不備、あるいは空調などに関わる電力関係の無駄などなどに目を向けて、ケチケチ作戦でこれらを減らします。しかし、省エネで深掘りをするにはこれでは不十分です。「そもそも」、金属で部品を作るのに大きな素材を削る事しか考えられないのか、と立ち止まって考える必要があるのです。例えば、この時代に「ネジ部品」を、金属を削って作る企業はほとんどないはずです。今やほぼ全てのネジは「転造」という塑性加工技術で作られているからです。この加工法では切り屑は一切出ませんし、何より加工が瞬間的に完了しますから省エネ技術でもあります。

同様に、多大なエネルギーを消費している、製鉄業やセメント工業やその他の加熱を必要とする産業が、冷間プロセスの開発や種々の反応熱をプロセスに再利用するプロセスを工夫すれば、プロセス中における「本当の意味での省エネ技術」が生まれることになります。とりわけ今後考えなければならないのは「エネルギーのコンビナート化」だと思っています。そもそものコンビナートとは、石油ナフサなど中間原料を介して、いくつかの化学工場が敷地を接して立地する企業群を指しますが、これを真似て高温エネルギーを必要とする工場と中温や低温でプロセスが完了する企業が、エネルギーを使い回して、全体としての省エネを図る考え方です。この際の企業群は、必ずしも製造業ばかりではなく、ホテルや老人施設やその他の公共施設との連携も考えるべきでしょう。そこでは大量ですが100℃以下で十分な低温エネルギーを求めているはずですから・・・。

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2009年10月13日 (火)

1035 列島改造の痕跡

1034の続きです。日本の地下資源で例外的に恵まれていたのは、黒鉱(銅や金を含有する優良な鉱石)と石炭と石灰岩などでした。とは言いながら前二者は残念ながらすでにほとんど枯渇してしまいました。しかしセメントは、いまだに自給が可能な数少ない資源の一つです。大手のOセメントやUセメントやTセメントに代表される企業で作られた大量のセメントは、昭和50年代にT首相の提唱した「列島改造計画」のうねりに乗って、港湾や道路やダムの建設に注ぎ込まれていったのでした。一方で、セメント1トンの製造には、CO2700kg以上発生することを考えなくてはなりません。その運搬や、打設に関わるエネルギーも勘定に入れれば、優に1000kgを超えるはずです。つまり、セメント産業やそれを大量に消費する建設業は、CO2の増加に多大な(負の)貢献をしてきた事になります。

さて、伊吹山から下界を眺めおろすと、南東には名古屋駅周辺の高層ビル街が見え、眼下には名神高速道路や新幹線や東海道線といくつかの道路が見えます。琵琶湖周辺にもたくさんのビルや街並みが見えます。200kmを超える速度で走る新幹線でさえ、1000m下に見下ろすとゆっくり、のんびり走っている様に見えます。名神高速の車は、肉眼では個々に確認する事はできませんが、窓ガラスがキラキラ光るので、引きも切らずに走っている事が分かります。しかし、一方ではこの数十年かけて列島を改造してきた結果は、交通路が集中する関ヶ原でさえ精々この程度だと言っても良いかも知れません。つまり、しっかり頑張ったつもりの列島改造工事でも、日本の豊かな自然をほんの少しだけかき回した程度ではないか、とも思うのです。その改造の結果として、やや便利になった交通網整備と平均気温を少し上げる事は出来たものの、100年も経って石油が枯渇すれば、これら多くのインフラも朽ち果て、やがては雑草や灌木に覆われることになるでしょう。

その一方で、どんなに科学技術の時代になっても、やはり食べ物を植物に作って貰うことに変わりはありません。少量の葉物野菜を除けば、工場で食糧そのものをつくる事には成功していない訳です。その例外でさえ、畑の代わりに工場の苗床に植物の種をまく事に変わりはないのです。その意味で、いまの科学技術のバックボーンである石油が無くなったとしても、やはり100年後も人間が自然環境に依存して暮らしているだろうことは間違いありません。

伊吹山の頂上で、1時間ほどおにぎりを頬張りながらぼんやり下界を眺めていて、こんなことを考えていました。

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2009年10月12日 (月)

1034 20世紀の遺物

時々体力測定を兼ねて近くの伊吹山に登ります。11日もそんな日でした。たかだか1400m弱の山と言っても、1合目から歩くと1000m以上の標高を足で稼がなければならないので、そんなにバカにはできません。投稿者のベストタイムは1.5時間ほどですが、当然の事ながら最近は年々タイムが落ちています。今回は2.0時間丁度でした。天気にも恵まれ、見晴らしもなかなか良好で、東の濃尾平野はもちろん、西の琵琶湖や比叡山系、遠くは御岳山辺りまでしっかり見えました。すでに10回以上登っているこの山でも、こんなに見通しが良かったのは過去数回程度だったと思います。

さて、伊吹山はその殆どが石灰岩でできている様です。様です、というのは麓に工場を持つOセメントが長年この山を切り崩してセメントを作ってきた事でも分かります。この山の西側は、不自然に平面に切り取られています。それを、長いベルトコンベアで麓のセメント工場に運び、セメントに加工していたのです。「していた」というのは、最近ついにこの工場は完全に閉鎖されてしまったのです。工場は建物や設備は殆どが撤去されていますが、壊すのに骨の折れる「コンクリート」の設備基礎や、ドーンとそびえている巨大な煙突はまだ残されたままです。巨大なキルン(回転炉)の残骸もまだ解体できずに残されています。これをしみじみ眺めると、高度成長期であった「20世紀後半という一つの時代」の遺跡か墓場のように思えてきました。

実は、これとそっくりな光景を2001年にドイツのルール地方で見たことがあります。ルール地方は、豊富な石炭を利用した製鉄業や石炭化学工業のメッカでした。しかし、優良な炭鉱が掘りつくされて資源が枯渇したこの地方には、やはり製鉄所の残骸や重化学コンビナートの複雑な設備の残骸が残されていました。これも、ドイツにおける高度成長期の遺物に違いありません。

これらの景色を見るにつけ、高度成長を追求してきた、(特に戦後の)20世紀という一つの時代はほぼ完全に終わったとの確信が湧いてきます。今後、中国やインドがどのようにあがいても、それは線香花火の最後のきらめきに過ぎないのだと断言できます。非常に近い将来に、地下資源の枯渇と環境の悪化が、彼らの暴走に強いブレーキを掛ける事が明らかだからです。セメント工場の残骸から、改めて地球の限界を考えた日でした。

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2009年10月10日 (土)

1033 台風考

強烈な台風があっと言う間に通り過ぎました。近年は、台風が日本に上陸する数は減っている様に感じますが、一方で上陸するものは強力になってきている様な気もします。減ってきた原因を推定するに、手元にデータはありませんが、偏西風のスピードが弱くなってきた事が疑われます。偏西風が概ね5000m程度の高さの山や山脈にぶつかると、下流に渦(カルマン渦)ができます。地球規模の現象では、山の下流数千キロの辺りに渦ができる様になりますが、キリマンジェロ山の下流はインド洋になり、ロッキー山脈の南端の下流はカリブ海、ヒマラヤの下流はフィリピン沖になるわけです。そうしてできた渦ですが、地球の自転によって生ずる力(コリオリの力)によって北半球では右巻きの渦は消え、左巻きだけが残ります。

しかし、台風の発達には別の強力なエネルギー源が必要です。それが日射と海水表面の温度です。北回帰線から赤道に帰る途中の太陽は、9月頃これらサイクロンやハリケーンや台風の赤ん坊が生まれる海域を強烈に熱し、海水温も高くなりますので、台風はドンドン大きく育ちます。最初は、赤道から相対的に気圧が低くなっている北へゆっくり動き出しますが、そのうちに上空を流れる偏西風に流され始めると急にスピードを上げることになります。偏西風は時速100kmを超える場合も珍しくはないので、加速し始めた台風も時速数十キロ程度の、車並みのスピードを持つことになります。

さて、台風の発生減少と大型化に対する地球温暖化の影響ですが、投稿者の感触では間違いなく「影響あり」と見ています。偏西風とは極地方に溜まった冷たく重い空気が南に吹き出す風が、コリオリの力によって一定の方向(西向き)の気流になる現象ですから、極地方の急激な温暖化によって南北の気圧差も小さくなり、この気流も弱くなっているはずです。しかし、一方では台風の揺りかごである南の海の海水温も確実に上昇していますので、一度発生した台風は大きく発達してしまうことになります。結果としては、今後とも今回のような強烈な台風が数年に一回程度は襲来すると考えてそんなに間違ってはいないでしょう。

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2009年10月 6日 (火)

1032 環境を体感する

環境とは一体何かを繰り返し考えます。環境とは、私たちを取り囲むものすべて(森羅万象)ですから、その範囲は、体の中のミクロ環境(例えば腸内環境)から無限大の宇宙空間まで広がっていますし、その見方も単純な無機の環境から生命がうごめく有機の環境まで、気が遠くなるくらいのアスペクトを持っています。

とは言いながら、その環境から命を授かった生き物としての存在である人間ができる事は限られています。それは、不十分ではありますが自分の五感を使って感じ、それを脳細胞で「解釈」するしかないのです。その意味で、たとえば「温暖化」を五感で感じることができるかどうかですが、難しいものの辛うじて可能だと言えるでしょう。難しさは、人間は時間を正確に「体感」する事が下手な事から生じます。下手だからこそ、「時計」などという道具を発明し、日に何度も「それ」に時間を教えて貰う不便に甘んじているわけです。「自然」にとっては、時間を意識すること自体不要なことでしょう。例えば、岩石など無機の自然には何億年単位の時間しかありませんから、ほぼ時間を気にする必要は「感じていない」でしょう。一方、人間以外の生き物は、環境との相互作用の中で、瞬間しゅんかんを生きているだけでしょうから、やはり時間には無縁です。自然の時間は、この星の上では地球の自転や公転で自動的に刻まれるだけです。

しかし、不十分なレベルであれば自然を体感するのは結構簡単です。できるだけ無防備で、自分の体を自然の中にさらけ出すだけで十分です。暑い夏は「オロオロ」と暑さに打ちのめされ、寒い冬は「ガタカタ」と体を震わせて身を縮めて過ごせばよいのです。どこかへ移動する時は、可能な限り歩くかまたは自転車を漕いで、道中の景色や臭いや移動した距離を「感じれば」良いのです。さら確実に環境を体感するためには、自分で育てた作物を口にし、仕方なく命を奪って自分の体の一部なってもらった動物たちに感謝する事になります。しかし、実際にそれを行う事態になった事を想像すると、たぶん自分には魚くらいしか、「生きていた動物」を食する勇気が出ないようにも思います。そのかわいい眼を見てしまうと、とてもとても牛や豚をサバいたり口にしたりする事などは出来ないと想像してしまいますので・・・。

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2009年10月 4日 (日)

1031 大幅な省エネ

6%程度のささやかなレベルではなく、新首相が言う3割などといった大幅な省エネルギーのためには、何が必要か考えてみます。この程度の大きな割合になると、こまめにスイッチを切るなどのいわゆる「ケチケチ作戦」では届かない事は明らかです。昼休みの完全消灯でさえ精々「事務所の照明のエネルギーの10%削減」にとどまるからです。一方では、温度を20℃や28℃に調節するとは言えエアコンは点けっぱなし、机の上のパソコンも電源が入ったままでは、焼け石に数滴の水に留まるはずです。

必要な事は、それを「諦めるための優先順位」を決める作業なのです。電力を30%削減するためには、電化設備全体への通電時間を30%削減するか(これはたぶん勤務時間を5時間に短縮する事を意味します)あるいは、30%の電化設備を撤去するかの選択になってしまいます。最終的にエネルギー消費に対して、現在の70%以下という枠を嵌められた時、私たちは何を諦めるのか、予め覚悟を決めておかなければなりません。日常生活で言えば、たとえば車を捨ててバイクや自転車にするのか、電気掃除機を捨てて箒とモップに戻るのか、多少高くても国産の食材を中心に食生活を組み立てるのか、テレビを消してラジオを聴くのかなどを決めなくてはならないのです。

企業で言えば、お金があるうちに安普請のビルやスレート葺きの工場の外側に、高機能の断熱材を取り付けて、小さなエアコンでも冷暖房効果が出るように改装するか、さらに太陽光や太陽熱を照明や冷暖房用のエネルギーとして活用できるなどの仕掛けをしておかなくてはなりません。加えて、現状のビジネスモデルや工場のプロセスを根本的に見直して、モノ売らないで機能を売るビジネスモデルや、「非加熱プロセス」採用などのイノベーションで、消費やモノ造りの枠組みを見直す必要もあるでしょう。それを実行するためには、確かに一時的な投資は必要ですが、最終的な企業の「持続可能性」は大幅に向上するはずです。数十年のスパンで見れば、大幅な省エネは、社会基盤の維持や企業活動にとって絶対に避けては通れない関門だと言えます。この関門を避ける道もあり得ますが、その先にあるのは「環境の破局的悪化」という断崖絶壁で、しかも後戻りも許されない道だと思うのです。まずは、今手元にあるモノの内3割捨てるとした場合に、何が捨てられるか優先順位をつけてみましょう。

最も簡単な事は、今濃尾地震並みの大地震か伊勢湾台風並みの超大型台風の襲来を受けて被災したと仮定し、生きていく上で絶対欠かせないモノを積み上げて(リストアップして)いくやり方かも知れません。その他のモノやエネルギーは、あった方が確かに便利ではあるが、無くてもどうにか生きては行けるはずなのです。

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