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2009年12月30日 (水)

1074 年末に思う

今年もすっかり押し詰まりました。今年できた事、できなかった事をあれこれ思い出して、それらを書きだしてみました。

できた事

l  企業の省エネ指導と環境経営のコンサル20社くらい

l  エコアクション21の事業所審査10社くらい

l  学校や市民への出前講座10か所くらい

l  北アルプス登山の一応の締めくくりとしての剱・立山への登山

l  つぶれない程度の環境カウンセラー事務所の維持

l  環境カウンセラー協議会(NPO)の運営

l  1000題で一旦中断したブログの再開

l  汎用的な企業の省エネ手法の確立、

できなかった事

l  中型バイクからカブへの乗り換え

l  書きためた雑文のまとめ

l  十分な量の読書

l  十分な距離のジョギング

l  海外での省エネ支援

l  南アルプス南部への山行

l  四国歩き遍路への準備

l  貯金

l  県内でのペレット燃料製造拠点作りへの寄与

l  自転車の購入

l  ノートパソコンの更新

できた事はなんとささやかで、できなかった事はなんと多いのでしょう。来年は、当然のことながら今年できなかった事へ再挑戦する事になりますが、貧乏にはますます磨きをかけていますので、お金が掛かる事はやはり実現できないだろうとも予想しています。力を入れないでボチボチ進めていく事にします。

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2009年12月28日 (月)

1073 寒波

今月の中旬は久しぶりの強い冬将軍の到来がありました。寒波も「波」なので、当然の事ながら強弱が生まれます。北半球の場合、冬将軍の「砦」は北極海の上空に溜まった冷たく重い空気(北極気団)ですが、その溜まった空気は、そもそもは温帯地方の低気圧などで上昇した空気が、高い高度を通って北へ流れて行ったものです。一方地表では、そのお返しとして北極気団から温帯地方に向けて冷たい空気が絶えず流れるはずですが、コリオリの力で自転と同じ方向に捻じ曲げられた強い風(ジェット気流)が冷たい空気の吹き出しをブロックしてしまいます。

しかし、北極に冷たい空気が溜まり過ぎると、さすがに耐えきれなくなってジェット気流が膨れて蛇行し、一部が破れて冷たい空気を放出することになります。今回の場合、アメリカ東部とヨーローッパと東アジアで蛇行が大きくなって、強い寒波となりました。北極気団の「呼吸」は概ね3か月サイクルなので、年末に寒波が来る年には、早春にもう一度大雪が降る事になるかも知れません。

投稿者はしかし、寒波が来ると嬉しくなります。何がそんなに嬉しいかと言えば、それは山にドカッと雪が積もるからです。山雪は、天然のダムでもありますから、来年の春先から夏場にかけて、麓の里をたっぷりと潤してくれることになります。山にしっかり広葉樹を増やして、温暖化にブレーキを掛け、山雪をしっかり守れば、コンクリートダムなどは無用の長物だと言えるでしょう。ダムなど全く無かった時代、ご先祖様は遠くなるような時間を費やして、この国の面積の2/3を占める山地の約半分ほどに手を入れて、水持ちの良い広葉樹の森を育ててきたのでした。

世界各地では年々歳々樹木が木材として使うために伐採され、あるいは農地を広げるために焼き払われ、一方日本の山の樹木はその二酸化炭素吸収能力を失った結果、温暖化がますます進む中で、氷河や山雪が縮小する事は、結局は今でも不足気味の水不足を加速することにもつながります。温暖化問題の前に来るのは、間違いなく水不足問題なのです。この問題は、この10年以内にも、破局的に浮上する事になるでしょう。何故なら、それは食糧不足・飢餓という悪い仲間を引き連れてやってくるからです。寒波からの連想ゲームでした。

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2009年12月26日 (土)

1072 不連続性

環境問題をトコトン「還元」すると、不連続性の問題になりそうです。不連続性とは、例えば地表に勝手に線を引き「国境」とする事、あるいは都会と田舎の間に大きなギャップを作ってしまうことなどが挙げられます。さらに言えば、生産や生活の場と、ゴミ捨て場の分離があります。ゴミ捨て場が、社会との分離が一応出来上がっている「固形ごみシステム」は今のところどうにか機能してはいますが、事実上分離ができない気体ゴミ(たとえば二酸化炭素)は、自分たちが呼吸する大気中に捨てざるを得ません。その量が、間もなくある許容限度(=しきい値)を超えようとしていると考えなければなりません。しかし残念ながら、「たえず流動している」大気には国境が引けませんから、同じ大気を呼吸する先進国と途上国では、大気中にGHGを排出する事の是非に関しては180度の対立が生じてしまう事にもなります。

さてその昔、たぶん戦前まで立ち戻らなければなりませんが、ゴミ捨て場は生活圏の中にありました。し尿は、人間のものも家畜のものも下肥や堆肥としてリサイクルされていましたし、プラスチックなどほとんど使われていなかった工業製品は、ガラスや金属類を取り外せば、残りは木でしたから立派な燃料になりました。燃焼灰は、カリ分を含む肥料として畑に戻せば良かった訳です。

環境問題は、自然環境と人間社会の分断から始まったと考えるのは、その軽減に重要な視点提供すると断言できます。つまり、環境問題の解決には、私たち人間と環境との間に築かれた壁や溝を無くし、「ヒトも環境の子である」との謙虚な態度に立ち戻らなければならないと思っています。その第一歩は比較的簡単です。できるだけ身軽になって、深い自然の中で佇んでみる事で十分でしょう。その時に感ずる心細さこそが、自然環境を体感することの入り口なのです。冷暖房の効いた部屋で、電化製品に囲まれ、すぐ近くに出かけるのにも車を使う今の便利な生活を送りながら、ささやかな省エネを行う程度では、私たちの子孫の未来は真っ暗だと言わなければならないでしょう。

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2009年12月24日 (木)

1071 対策か予防か

西洋医学での治療を考えても、日本の公害発生(克服)の歴史を振り返っても、共通しているのは症状(被害)が出てからの「対策」である点です。つまり明らかな症状や検査データの異常が出ない事には、ふつうの医師は病気の診断すらできないでしょうし、公害問題が地域住民の健康に重大な被害を引き起こさなかったならば、種々の公害「対策法」も作られなかったと思われます。その意味で、必要に迫られなければ行動を起こせないのは、人間の悲しむべき特性でもあります。主要な環境問題の一つである温暖化についても事情はまったく同様です。この問題では、温暖化現象そのものが非常に緩慢な変化しか示さない結果、日々痛みを伴って実感できないところが、根を深くしている原因でもあります。

例えば温暖化と肥満症候群は、酷似した現象だと言ってもよいでしょう。気がつかないうちに進行し、気がついた時にはいくつもの合併症を伴って、破局的な結果に終わる(だろう)点などが挙げられます。健康な体の内部にひそかに蓄積する(内臓)脂肪や、血液の異常、血圧や代謝の異常は、われわれの意識しないうちに増え続けてきた大気中の二酸化炭素やその他のGHG、各種の環境汚染や、見えない場所での秘かな生物種の絶滅などと驚くほど似ているのです。

このブログであったか、別の状況であったか忘れましたが、投稿者は「病院」のあり方に大きな疑問を持っていると書いた覚えがあります。病院は、基本的には病気にならなければ行ってはいけない場所でもあります。健康診断や人間ドックでも病院に行く事はありますが、その場合であっても検査値異常に対する「対処法」しか教えてくれません。そうではなくて、より健康になる方法や病気になりにくい体質を作る方法を伝授してくれる「健(康)院」が欲しい訳です。同じように、問題が起こってから公害対策法や温暖化防止法などの「対策法」を作るのではなく、国には環境の健康を回復するための「環境健康法」を制定して貰いたいのです。その法律の中では、国民や企業や行政の責務として、環境の健康維持や回復に資する暮らし方や経営方法を規定することになります。そのためになるのなら、投稿者は喜んでボランティアとして、全国や全世界を走り回って汗をかくでしょう。必要な行動は健康なうちに取る予防なのであって、決して重大な症状が出てからの対策ではないのです。

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2009年12月22日 (火)

1070 技術か知恵か

省エネ「技術」や環境「技術」という言葉があります。しかし、これらの言葉はほとんど自己矛盾を含んでいるというしかありません。何故なら、技術には必ずハードウェアが伴いますので、それを形にし、使う際には必ず資源もエネルギーもお金も必要とするからです。しかし、知恵にはそれらがほとんど必要ありません。このブログでも繰り返し書き綴っているのは、この知恵の部分なのです。省エネ技術とは呼ばずに、省エネの知恵と呼ばないと「ハードウェアの呪縛」からは逃れられません。産業革命以降、私たちは「技術」を使って、数限りないハードウェアを世に送り出してきたわけです。それは蒸気機関であり、内燃機関=車であり、電動モーターであり種々の油圧機械であり、列車や航空機などの高速大量輸送手段であったわけです。それらのハードウェアは例外なく、地下から掘り出した金属を使って多量のエネルギーを消費しながら作られますし、同じく大量の化石エネルギーを使って動かされます。

一例として、環境にやさしいと言われ、省エネ「技術」として注目されている太陽光発電装置を見てみましょう。発電セルには、単結晶や多結晶やアモルファスのシリコンが使われています。しかし、それらのシリコンは河原に転がっている石ころからは取り出せません。純度の高い鉱石から多量の電力を使って取り出され、精錬され、限りなく100%に近いところまで純度が高められます。その製造エネルギーは、その発電セル自身が生み出すエネルギーの3年分程に相当する量に上るのです。つまり新たに設置された太陽光パネルは、最初の3年間は自分の製造エネルギーの「借金」を返すためだけに発電し続けるのです。

技術はハードウェアで、知恵はソフトウェアだと言い換える事ができます。別の視点から見れば、技術は自然現象の「稚拙な模倣」に過ぎません。その稚拙な模倣のために、稚拙な仕掛け(Gadget)を作るために技術が使われている訳です。元技術屋として恥じ入るのは、やっと環境に本格的に向き始めた多くの国々の指導者が、未だに「環境技術」を振りかざしていることで、多くの技術屋もそれを鵜呑みにしてきたことです。環境保全のための知恵は、しかし技術は使いません。稚拙な自然の模倣ではなく、先ずは自然に学ぶ必要があるのです。その上で、自然の恵みをいただきながら暮らす知恵を磨く必要があります。そんな知恵は、しかしこの国にはそここそにゴロゴロ転がっていたはずです。今でも田舎の年配者には引き継がれているのです。今の世代は、手遅れにならないうちに、それらの知恵をできる限り多く受け継がなければならないと、ココロばかりが焦る日々です。

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2009年12月20日 (日)

1069 ポスト車社会

深く考えるまでもなく、化石エネルギーがひっ迫する時代においては、車や飛行機などという速くて便利な移動手段を、個人が自由に使う事は出来なくなるはずです。とは言うものの、地球規模で直面しつつある温暖化現象という、決して過激ではなく真綿でジワジワ締め付けられる様な現象に対しては、人々はまったく鈍感です。その鈍感さは、国家予算で赤字を垂れ流し、将来世代へツケを回す事にココロの痛みを感じない、いまの人々の鈍感さと同じ質だと言えるでしょう。残念ながら、短い距離でも車を使い雨に濡れないで移動しようとする私たちの行動が、温暖化で土砂降り雨が増えると思われる未来に、車に乗れなくなった子孫たちが、傘をさしてトボトボと歩かなければならない事態に陥ることは、多くの人は想像すらできないのです。

このブログで書きたい事は、そんな遠い将来世代が口にするかもしれないご先祖様(今の世代の事です)への愚痴の想像ではなく、今の世代の反省の言葉と、描くべき近未来の行動指針なのです。20世紀を通じて、私たちの先輩や私たち昭和世代は、より豊かな社会を目指して必死に働いてきたのでした。しかし、その過程で、エネルギー獲得戦争でもあった前の大戦をひき起こし、酷い公害問題を経験し、数回のエネルギーショックも通過してきたのでした。背景としてこの国の邁進を蔭から支えたのは、どう考えても大量・高速輸送システムだったことに思い至ります。大型タンカー、高速コンテナ船、高速道路網の整備とトラック輸送システム、新幹線や航空機に代表される高速旅客輸送などです。人々の移動手段も、列車、バス、自転車や徒歩から、老いも若きも車移動にシフトしました。その結果、この国はなんとエネルギーの1/4をモノや人々を移動させるためだけに消費する事態に至ったのでした。

ポスト車社会が、HV車やEV車時代ではあり得ないと思うのです。軟着陸するためには、まずはバブル期以前の「昭和」に立ち返るという選択肢を考えるべきでしょう。自家用車は、田舎でも一家に1台で十分です。追加の移動手段はバイクや自転車に切り替えましょう。輸送手段も、トラック便ではなく、鉄道輸送の割合を可能な限り多くする必要があります。翌日配達はできないかも知れませんが、鉄道便でも3日目には十分配達可能でしょう。ポスト車社会は、まずは輸送や移動に関して少しだけ不便を我慢する時代に戻る必要があります。その後は、なるべくモノを運ばない、また公共交通機関や徒歩や自転車以外ではなるべく移動しないような時代にしなければならないのです。

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2009年12月17日 (木)

1068 HVは要らない

本格的な電気自動車(EV)時代に入る前はハイブリッド車(HV)時代だ、とばかり、複数の車メーカーからHV新型車が投入されています。しかし、これほど中途半端な製品もないと言っておきましょう。HV車は、加速をモーターで、巡航とバッテリー充電をガソリンエンジンに役割分担をさせたために、システムとして非常に複雑になってしまいました。確かに、市街地では車の発進・加速するためにエネルギーの4割程度を消費してしまいますので、それをモーターでアシストして燃費を向上させようとするアイデアもあるでしょう。しかし、発進と加速時の燃料をセーブする目的であれば、エンジン回転数を抑制する簡単な装置(スピードガバナーと呼ばれます)を追加するだけで済むはずです。それでなくとも、現在の車にはコンピュータが搭載され、エンジンコントロールを行っているのですから、加速時に回転数を燃費が良いレンジに保つなどは朝飯前の芸当でしょう。

もちろん高速道路などでは、加速が悪いと、困ったり危なかったりする事もあるでしょうから、省エネモードと通常モードの「セレクタースイッチ」を設けて、市街地では省エネモードにしておくわけです。これに、アイドリングストップ機能を加えるだけで、十分HB車並みの燃費は実現できるはずなのです。HB車は、従来の車に追加のシステム(バッテリーやモーター)を乗せたため車重が増加しています。これに比べ、上で述べた簡単な電子回路の追加だけで済ます単純な省エネカーの方が、資源効率的にも優れている事は明白です。

車産業が、このコンセプトをすっ飛ばしていきなりHVEVに飛びついている理由は明白です。複雑で、さも「新しい技術を駆使している様に見える」新車を開発して、消費者の目を向けさせる事によって、細った売上を伸ばそうとするマーケティング戦略の一点で説明できるでしょう。つまりHV車やEV車は、「省エネカーブーム」を演出するための、「ショーウインドウ製品」だと言ってもよいでしょう。ところでM社がひっそりとアイドリングストップ機能付きの乗用車を発売しましたが、ガソリン車でも大幅な省エネに向けて工夫する余地は、まだまだ大きいと言えます。

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2009年12月15日 (火)

1067 利便か安定か

ABか」シリーズです。利便を享受するためには、何らかの形で作り上げられたシステムに「加入」する必要があります。携帯電話では、通信各社のシステムを使う権利を買わなければなりませんし、電化製品を使うためには一般的には電力会社と契約し電気を買わなければなりません。しかし、システムには必然的にリスクが内在しています。災害時の電話回線のパンク、サーバーのダウン、ソフトウェアのバグなどがあります。一方、電力回線では自然災害による停電や電力ピークの避難回避の電力カットなどにより、電化製品が使えなくなります。停電は、浄水場や下水処理施設も止めますので、断水も同時に起こるでしょう。比較的最近の名古屋近郊で起きた水害時は、同時に起こった停電のため、暗渠につながっている排水ポンプが動かず、多くの家々が水没してしまいました。大規模な停電は、交通にも打撃を与えます。電車がとまり、信号が消え、ECTゲートも開きません。

私たちは、便利さを追求するあまり、システムを肥大化・複雑化させ過ぎたような気がします。今や、そのシステムを動かすソフトウェアですら全容を知っている人は少ないはずです。主たる開発者が定年で退職すれば、後継者にはメンテナンスができるだけの知識しか残らないからです。開発後に継ぎ接ぎされた、追加システムやパッチは複雑元のソフトウェアに挟み込まれ、今はどうにか機能しているだけかも知れません。

安定的なシステムのキーワードは「ロバスト性」だと言えるでしょう。これは日本語になりにくい言葉ですが、敢えて言いかえれば「野太さ=頑丈さ」という言葉になるでしょうか。シンプルなシステム程このロバスト性は高く、安定していると言えるでしょう。またシンプルなシステムほど故障しにくく、故障した場合でも修復は簡単です。トラブルの原因特定が簡単だからです。かつての車は、故障した場合でもボンネットを開ければ、素人でもある程度の故障診断ができました。ラジエータの漏れによるオーバーヒートなのか、バッテリー液が少なくて上がってしまったのか、あるいはダイナモのベルトが切れて発電しなくなったのか、注意深く観察すれば故障個所を見つけられたものでした。しかし、センサーとマイコンと電動機器の塊となってしまった現代の車は、専門家が専用の診断器(アナライザー)を使わない限り原因特定はできません。特に車にも多用されているマイコンのソフトウェアに関して言えば、条件判定が複雑に入れ子状態になっているため、故障の原因を特定するのは至難の業といえるでしょう。便利になり過ぎた、現代の車や社会システムの脆弱さ=不安定性を心配しているのは、ひとり投稿者ばかりではないでしょう。

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2009年12月13日 (日)

1066 国際競争力

「新」首相の打ち出したCO2削減目標の実現のため、国を挙げて努力をする場合、産業界の国際競争力が弱まるとの懸念が消えません。しかし、これは明らかに考え違いだと言わなくてはなりません。狙うべき目標は、エネルギーを25%以上削減しながら、同じ品質の製品を、同じコスト(エネルギーコストを除いたコスト)で製造できるプロセスを作り上げることなのです。そんな事が可能なのかと疑う人は、知恵が無いと言うしかありません。かつて、オイルショックで石油価格が倍になったとき、この国の先輩たちは、実に多くの省エネの知恵を絞ったではありませんか。その間、輸出は国際競争に打ち勝って増加し続けたのです。その後の油のダブつきで、この国の製造業や流通業やサービス業のあり様は、省エネ体質からはドンドン乖離してきたのでした。逆オイルショックの時代に増やしてきた、モノや設備やシステムを徐々に整理していくだけでも、2割や3割の省エネは達成可能だと思うのです。

抽象的な言葉をいくら並べてもイメージは湧かないでしょうから、例によって車を引き合いに出してみます。今街を走っている車と、同程度の排気量を持っていた二昔の車を並べてみれば、その違いは明白です。外観で分からなければ大きな秤に乗せましょう。たぶん、車重が2-3割は重くなっているはずです。ドア内部のサイドインパクトバーやエアバッグなどの安全装置ばかりでなく、強力なエアコンを搭載し、パワステとなり殆どの可動部は電動式になっているでしょうし、キャビンは分厚い保温材や防音材で取り囲まれ、太いタイヤを履いてもいます。部品点数にしても、かつての何割増しかにはなっているでしょう。部品点数を多くし、車の重量を増していく中で、製造に関わるエネルギーもそれに比例して増えて行ったはずです。

考えるべきは、製品やプロセスの簡素化、軽量化というポイントになるでしょう。製品の目方や部品点数を3割削減すれば、比例して製造エネルギーも必ず下がります。現在の車から不要なモノや機能を取り外すのでなく、まず車の基本機能(雨に当たらないで移動できる手段)のベースカーに、本当に必要な機能を慎重に付け加えましょう。そういえば、その昔ラジオすらついてない「スタンダード」というグレードの車がありました。そのうちに「スーパーデラックス」や「ラグジュアリー」が普通になり、今やそんなグレードさえも設定されていません。私たちは、いったいどこで道を踏み外して、変な金持ち意識を持ってしまったのでしょうか。

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2009年12月11日 (金)

1065 信用不安

これも数回書いているテーマの様な気がします。B国発の、SPLと呼ばれる不良債権騒ぎも小康状態となったところに、今度は中東発の貸し倒れ騒ぎです。日本を含めた世界の経済システムは、底知れない信用不安に陥っているように見えます。それも「むべなるかな」でしょう。何故なら、現在の経済システムの大部分は「信用取引」の上に構築されているからで、その規模が拡大するにつれて、実態経済の何倍(何十倍かも?)の債権の存在無しには、一日として立ち行かない状況になっているからだと言えます。つまり、私たちはしっかりと綿の入っている座布団の上に座っているのではなく、薄いビニールでできていて空気(形のない信用)で目一杯膨らませた「空気マット」の上に不安定に座らされていると考えるべきです。誰かが相場を揺さぶって、座布団からのおこぼれで儲けようと企むか、B国ショックや最近Dバイショックのように、耐えきれなくなった銀行や証券会社やファンドが音を上げ始めるか、何らかのきっかけでマットに穴が開き、そのたびに経済システムは急落下する羽目に陥ります。

空気マットの穴は、今のところなんとか各国の政府が「税金を注ぎ込んで」塞いでいますが、この国の様に、その資金の出処が既に半分が将来世代からの借金になっている危うさは、目を覆いたくなるほどです。これは、将来の自分を信頼する事や将来世代を頼りにする範囲をとっくに超えていて、単に借金を先送りしている状況以外の何物でもないでしょう。このような状況では、信用も何もあったものではなく、疑心暗鬼、不安、猜疑心、諦観などおよそ信用とは対極の気分に支配されていると言えます。従って、ホンの些細な噂がひどいパニックを誘う結果になります。これは、直接経験した事はありませんが戦争前夜か強大なハリケーン来襲直前の気分と類似しているのではないかと想像しています。

その不安を解消する方法はたった一つしかありません。ひたすら脹らまし続けたビニール袋を、その上に座っている私たちの意思で、徐々に空気抜きをしていくしかないのです。消費者は贅沢を控え、必要不可欠な物資やエネルギーを使う行動が必要でしょうし、一方で企業は実際に消費者が絶対に必要としている堅い需要(実需)に、生産量のベースを合わせなければなりません。

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2009年12月 9日 (水)

1064 暴走

コントロールが利かない状況を暴走と言います。この時代の経済は、ほとんど暴走状態となっているのではないかと危惧しています。一国の経済の浮沈の操縦は、その国の政府の専権事項でしょう。しかしながら、情報が24時間地球を駆け巡るこの時代、一夜明ければ為替が大きく変動し、あるいはかの国の株価や、政治情勢がこの国の株価に連鎖反応し、同じように経済を激しく揺さぶります。為替レートに関して言えば、かつて、大きな変動に対しては政府が介入して、微調整を行っていたはずです。しかし、今や貧乏になったこの国にそんな外貨準備もないでしょうし、どうせそんな事をしても焼け石に水なので、基本的には放置するしかない状態です。

それを良いことに、ディーラーはここぞとばかりに変動幅がさらに大きくなる様に揺さぶりをかけます。コントロールを失った現在の市場では、一体誰が儲けて誰が損をしているのか、実は誰も知らないのかも知れません。あるファンドが瞬間的に大儲けをしたとしても、その情報が地球を一周する間に、大損に変わっている事は茶飯事だと想像しています。それでも、市場の取引額が拡大の一途を辿っているという事実は何を意味するのでしょうか。最早、これは国際市場という仕組みの暴走に、各国や国際企業やファンドやディーラーがほとんどどれい隷属状態になっているとしか言いようがないのだと思われます。これら市場の奴隷たちは、市場自身に鞭打たれ、仕方がなく現れた数字に反応して売り買いのボタンを押すしかないわけです。

暴走は、組織が肥大化した時にも現われます。私達は、巨大化したがために気候変動に耐えられず滅亡した、恐竜やマンモスあるいは廃墟となった古代都市の歴史に学ぶ必要がありそうです。巨大化したシステムは、しかし急に方向を変えるべきではありません。バランスを失って倒れてしまうのが見えているからです。必要なことは、まずはブレーキング(制動)です。たとえ景気が悪化しても「徐々に」しかも出来れば、ほとんどの人が気づかない程度にとは言いながら確実にブレーキを掛けなければなりません。しかる後に、慎重な後ずさりを始めなければならないでしょう。

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2009年12月 7日 (月)

1063 つながり(絆)

久しぶりに本を読んで感動しました。何気なく本屋で手にした、大井玄著の「痴呆老人は何を見ているか」という新書です。終末医療の臨床医である著者は、数多く見届けた痴呆の症状を持った老人の生きざま(=人生の終わり方)から、人間という存在に対する多くの考察を得たようです。本の内容はさておいて、本の中で繰り返し使われた言葉「つながり」に心が動かされました。このブログでは、環境をキーワードに書き続けていますが、私たちを取り囲む環境と人間や人間社会の関係においては、実のところこの「つながり」こそ、最も重視されるべき言葉だと思っているからです。環境問題は、自然(環境)と私たちのつながりが希薄になると同時に、逆に顕著になってきた事は明白です。海や川を、生物の棲家であり恵みを与えてくれる存在として捉えず、単なる工業用水や冷却水として、あるいは廃水の捨て場所として切って捨てた結果、この国でも酷い公害の歴史を積み重ねてきたはずです。

山を放置し、水害をダムや川の直線化だけで解決しようとしてきたことにより、逆に水害が多発し、海岸浸食や海の砂漠化を悪化させてきたことにもっと早く気がつくべきでした(いまだに気づいていない人も多いのですが)。その前段階としては、都市や工場が人口を吸収した結果、山に入り山とのつながりを持つ人がめっきり少なくなった事があったのです。その本質を見抜いて、現政権が「コンクリートから人へ」と言っているならば歓迎しますが、都市での子育てを支援する程度の施策であれば、前の政権とあまり変わらない政党の人気取り策に陥ってしまうことでしょう。

人間もあらゆる生き物も、環境とのつながりを断って生きて行けるはずもありません。というより、順番は全く逆で、ある生物は、一定の環境との「つながり」によってのみどうにか生き延びて行けるだけの遺伝子を、環境から授けてもらったというべきかもしれません。それらの生き物のたった一つの種であるヒトだけが、急激に母なる環境を改変しつつある訳です。それも生存のためではなしに、生存するには必ずしも必要のない過剰な快適さや利便の追求の結果である事は、本当に悲しむべき事です

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2009年12月 5日 (土)

1062 機械から人へ

来るべき社会では、人力を最大限活用した手工芸や人力タクシー、さらには都市内のリヤカーでの配送などの省エネビジネスは、最優遇されなければなりません。新政権のキャッチコピーを真似れば、それは「機械から人へ」の展開となるでしょうか。病気や高齢などの理由で、人力をあまりを出せない人は別ですが、普通の生活を送っている人は、0.2kw程度の出力を持つ原動機としての潜在力があります。車いす生活の人でさえ、腕力でこの半分程度の出力は十分出せるはずです。病気や高齢者でも、限定的ですが少しのパワーは出せるはずなのです。

さて、その各々の潜在力は小さくても、何しろ人類は70億人に迫る勢いで増え続けていますから、総力としての人力パワーは数億kwと見積もることができます。火力発電所や原発1基で発電される約100kwと比べると、その2桁以上大きなパワー源となり得る事が分かります。再生可能エネルギー(太陽光発電など)で発生したパワーを高く買い取ってくれるのであれば、全くクリーンな人力は、その何倍もの価格で買い取ってくれても良さそうです。少なくとも、企業でも自動車通勤の甘え人間と、がんばって自転車通勤している人の通勤手当が逆転している事などは、今すぐにでも改善されなければなりません。つまり、ガソリンをたっぷり使う自動車通勤族にはかなりの自腹を切らせ、一方自転車通勤族には、排気ガスを減らし、自身も健康になって健保の負担も小さくしている訳ですから、しっかりとご褒美を上げなくてはなりません。車でしか通えそうもない人たちには、ぜひ同じ方面同士での乗合通勤を指導しましょう。何らの努力もしていない人びとに税金をばらまくのではなく、体をしっかり使っている人達こそ減税やインセンティブでその行動が奨励されるべきだと思うのです。

コンクリートから人へシフトすると雇用が減って不景気に落ち込みますが、一方機械から人へシフトすることにより、雇用も確実に、しかも大幅に増加する事に、この国の指導者も気づいてもらわなくてはならないと思うのです。変な例ですが、沖縄の建設工事予定地で行われてきた遺骨収集なども、まさに人力でしか行えない作業の好例です。

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2009年12月 3日 (木)

1061 エコ贔屓

贔屓という言葉につられたわけではありませんが、標題と似たような言葉で、省エネ製品やリサイクル品の拡販を狙っている制度もいくつかありそうですが、ここでの意味は、消費しないで「節約した人への褒美」を意味しています。省エネカーや省エネ家電を買う人を優遇するのではなく、車を止めてバイクや自転車に乗り換えた人、テレビを捨ててラジオ族となった人などを何らかの形で優遇する制度を想定しています。第三者がそれを証明しないと、「偽装」が横行しますので、例えば自動車の廃車証と自転車の新規登録証のセットで、減税や助成金を申請することになります。窓口は全国の郵便局が適当でしょう。どうせ、国の借金のかなりの部分を埋め合わせているのは、郵便貯金でしょうから、直接ここで清算してもらっても結果は似たような事になるはずです。

それでは、世の中の経済活動レベルが低下し不景気になるではないか、との突っ込みが来そうですが、コストを掛けないで25%の省エネ目標を達成するためには、結局経済規模を25%縮小するしかないのです。25%の省エネは実は当面の目標で、先進国での省エネレベルは今の1/4以下にしなければ、温暖化にブレーキは掛からないとも言われているのですから、経済規模はいずれにしても大幅に縮小せざるを得ないのです。

そもそも「景気」とは、経済活動や消費行動にかかわる社会構成員の「直近の気分」を指しますから、「病気」ともそんなにかけ離れてはいないのです。つまり、景気も病気も「気」に支配されるという意味においてです。たとえお金がなくても、気の持ちようでココロ豊かにニコニコしながら暮らす事は可能です。戦後はモノや食糧が不足しての慢性腹ぺこ状態でしたが、家族団結してのやりくり生活は結構幸せでした。今は少なくともモノ不足はないはずです。不景気だと感じさせているのは、「もっとあれば良いな」との欲張った期待値よりかなり少ない収入しかない経営者や消費者の心の持ち方だとも言えるのです。

少し方向がずれましたが、政を取り仕切る側とすれば、必要でかつ十分な最低限の生活を営むのが最もコストが安くなるような、社会の仕組みに誘導するために、エコ贔屓をうまく使っていく必要があると思うのです。具体的には、現在の大規模工場や単一栽培の農業形態などの「点での大量生産」「大量輸送」「大量消費」「大量廃棄」に代わって、必要な量の物資を地方行政単位以下の「小さな面での生産」を行い、同じ地域の「小さな面内での消費」が強く奨励されるべきでしょう。何の事はなく、これは地方都市での朝市や常設のマーケットや直売所などの復活を意味している事に気がつきます。

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2009年12月 1日 (火)

1060 田舎贔屓

地方は現金収入のレベルが低いはずなので、同じ所得額に対して、都市労働者と同じ率での課税は、全く納得できない税制だと言えます。事実、パートの時給額も都市と地方では大きく差が開いています。地方は物価が安くて、都市は高いという思い込みもありそうですが、事実はそうではなく、地方の方が物価レベルは高いものが多いのです。何故なら、物流コスト一つを取り上げても、都市には大量の物資が能率よく運ばれ、捌かれる「物量ルート」が出来上がっていますが、逆に地方への物流は能率も悪くコスト高になるからです。点(大生産地)から点(大消費地)への輸送は効率的ですが、面で集めた物資を、別の面に配送するのは、ざっと考えても非効率な作業だと分かるでしょう。

一方、確かに税収の流れは、地方交付税という形で地方へ入ってはいますが、その多くは地方のインフラ整備(つまりはコンクリート)を拡大するためや、国の出先機関を通過させて似たような事に使われているはずです。田舎に入れる税金の多くは、田舎で田畑や森林の維持に従事する人たちを、「環境維持業」と位置づけ、手厚くサポートする事業にこそ使われるべきなのです。生産や物流から見て明らかに非効率である田舎の暮らしを支えるには、何らかの形で「田舎贔屓」を考えてやらなければならないと思うのです。お金の面で言えば「田舎減税」でしょうし、里山維持への助成であり、間伐・植林の隆盛事業でなければなりません。田舎は、田舎という「半自然の環境」を守り、水資源や食糧の面で都会をサポートしている訳ですから、優遇するのはむしろ当然の政策というしかありません。

単に現金収入に掛かる税金を軽減するだけでは十分ではありません。むしろ田舎では、お金に換算できない例えば物々交換なども日常行われているからです。すべて一度はお金に換算して計算しなければ夜も日も明けない現在の税制では、物々交換という行為は把握もできませんし、課税や税制優遇の網にも掛かりません。しかし、それを奨励する何らかの仕組みが無いことには、やはりお金が目に見えるシステムに乗せるしかありません。そうではなくて、畑の横での無人販売や、朝市での売買など素人商売を奨励するような仕組みの拡大こそが必要なのです。加工食品の製造や流通にはJASなどの安全基準が必要ですが、そうではない物流は基本的には個人レベルの自己責任での売買で何の問題もないのです。

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