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2010年1月31日 (日)

1090 共生

新政権の「コンクリートから人へ」というKWには実は賛成していません。コンクリートは、その生産に、それ自体の目方とほぼ同じ重さの二酸化炭素を排出しますが、かといって環境坊主として貴重な税金を「ヒト」だけに重点的に振り向けるという、ヒト(人類)の身勝手に賛成する気にはならないのです。投稿者なりに上のKWを気にいるように修正するなら「コンクリートから人と自然の共生へ」となってしまいます。ヒトは今や、自分たちが作ったインフラや経済システムに押しつぶされそうになっているとも言えます。インフラの代表としての「都市」には、今や2/3の人口が集中し、人と人との軋轢による事件や、自然との断絶に起因すると思われる「情緒不安定トラブル」などが観察されます。それは、さながら狭い動物園の檻に密集して詰め込まれた動物たちがいさかいを繰り返す様にも似ています。

ヒトを含めた生き物は、自然(環境)と共生してこそ辛うじて世代を積み重ねられる危うい存在だと思うのです。ヒトが人として生きていくためには、お金や食糧だけでは全く事足りません。人口の2/3が農村や山村に暮らしていた時代の様に、ヒトと自然が溶け合って暮らすために、何が必要なのかを考え直さねばなりません。そのためには、時にはせっかく作ったとは言いながら、インフラを壊して元の自然に戻す必要もあるかも知れません。事実、ヨーローッパではその様な活動も活発になりつつあり、いわば建設業の逆サイクルとしての、「自然再生業」が産業として育ちつつあります。具体的には、コンクリートで固められた川岸や湖岸を、昔の土手や渚に戻す事業を指します。つまり、ヒトと自然の間にコンクリートの壁を築くのではなく、その境界線を限りなく見えなくする活動だとも言えるでしょう。都市と、自然との間にはかなりの幅の草地も必要でしょう。そういえば、昔はそれらを野原や里山と呼んでいました。

里山の間に民家が散在する中山間地の風景は、自然とヒトの生活が溶け合った、いわば日本の原風景でもあります。そこでの生活は決して便利ではありませんが、しかし自然への感謝や生活の工夫に満ちたココロ豊かな生活ではあるでしょう。またそこでは、自然との共生はもちろん、住民同士の共助(結い)にも満ちた暮らしがあったはずなのです。少なくとも、私たちの遺伝子の中には、川辺や里山の生活の中で進化した縄文人のDNAが組み込まれていて、その中でこそ安らぎが感じられる筈なのですが・・・。

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2010年1月29日 (金)

1089 N航破綻に思う

先ごろN航がついに経営破綻しました。実のところ、この事態は10年も前から予測されていたとも言えるのです。少なくとも投稿者は予測していました。だからこそ、航空機産業に見切りをつけ、そのついでに技術屋もやめたのでした。環境屋になったきっかけの一つは、実はWTCのテロ事件でした。自分も関わって作られた「何の変哲もない旅客機」が、空飛ぶ爆弾となって巨大なビルを崩壊させた事実もショックでしたが、事件後の航空旅客がそれまでの45%まで落ち込んだという数字はさらなるショックでした。つまりは、55%の客は不要不急のいわば物見遊山客であったという事実が表面化したからです。

飛ばせなくなった旅客機は空港に置いておくわけにはいきません。なぜなら空港は航空会社の財産ではなく、自由に使える自前の格納庫も数少ないからです。便数を減らした航空会社は、仕方がないので余った旅客機をわざわざアメリカまでフェリーします。そして、アリゾナのMojave砂漠にある空港に駐機させておくことになります。WTCテロ直後、この空港にはなんと大小2,500機もの旅客機が持ち込まれました。この空港は、内陸の砂漠にありますから、保管中は湿気も塩気も問題にはなりません。ただ、時には砂嵐が発生しますので、唯一の対策として、エンジンだけにはすっぽり覆う防砂カバーをつけて、再び飛ばせるようになるまで静かに寝かせておく事になります。

さて2,500機という数字は、世界中の航空機メーカーが束になっても製造に5年掛ってしまう機数でもあります。上で述べた55%の物見遊山客の内の「半分」は、それなりに堅い需要だったと仮定しましょう。WTC直後に砂漠に持ち込まれた機数をざっと2,000機と仮定すると、1,000機分に相当する20-30%旅客数は、実は空き席を埋めるための格安航空券に群がるバブル客だったとも想像もできます。事件のホトボリがさめると、見掛け上殆どの旅客機は定期運航に戻りましたが、N航を含めた各ライナーは、潜在的にはバブル需要の「格安旅客」で空席を埋めながら、儲からない運航を続けていたはずなのです。海の向こうの住宅バブル崩壊や金融ショックによる景気冷え込みで、さすがのナショナルフラグN航も赤字の山に持ちこたえられなくなったとしても、何の不思議もないのです。この種の破たんは、航空機の便数が、少なくとも今の25%程度減らされるまで続くと考えてもよさそうです。偶然ですが、これはH山首相の温暖化効果ガス25%削減という数字にもぴったり一致するので、温暖化防止に向けた帳尻も合ってくるでしょうし・・・。

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2010年1月27日 (水)

1088 退化

バイクが故障して1週間近く入院しました。足が無いのでまるで幽霊状態でした。考えてみれば、このバイクは2002年に技術屋を卒業した時に退職金で買って以来の親友です。距離計はと見ればすでに地球を2周半した勘定になります。タイヤ交換が数度、変速機のベルトも2回交換しました。今回は何とか退院できたので、こうなれば完全に寿命が尽きるまで、トコトン付き合う事になりそうな予感がします。

バイクが無い週は、なぜか非常に忙しい週でした。仕方がないので、歩きと電車で何とか飛び回りましたが、それはそれで結構どうにかなったのです。いつもより、1-2時間行動開始を早める必要ありますが、2-3km歩く覚悟さえあれば、狭い日本なので、特に不便は感じませんでした。投稿者は、夏山では12時間歩くことも珍しくはないので、時間さえ許せば数時間の歩きは全く苦にならないどころか逆に楽しくもあります。たまに上京した際でも、山手線の内側の移動程度であれば、急ぎの時以外は必ず歩くようにしています。

さて歩きは、森の樹上生活から草原での生活に移ったヒトの基本動作でもあります。ヒトは、そのために下肢が長くなり、脊椎が直立してより重い頭部を支える事が出来るようになり、結果として脳の容積が大きく進化する事が可能になったのでした。あまり歩かない人は、すでにヒトとしての能力が退化しつつあると考えても良いかもしれません。進化には長い時間が掛りますが、退化は短期間で進むのではないかと、実は密かに考えています。その例として、若者のアゴ(下額)が小さくなった事を挙げましょう。戦後の食糧難が解消され、十分過ぎるほどしっかり調理された柔らかい食物を、ロクに噛まないで飲み込む現代の日本人に、下アゴの小さな小顔の人々が増えたのは、実は退化現象なのではないかと疑っている訳です。この現象は、戦後の数世代で急激に進んでいる現象なので、退化のスピードは結構早いのではないかと見ている訳です。骨は、日々破壊と再生を繰り返すものなので、形態の変化は、それをどの程度使ったかどうかにも大きく依存するのかも知れませんが、一方で歯牙の形や大きさは先天的な要素で決まるので、顎に並び切らなかった歯が八重歯になってはみ出します。投稿者は、急ぎでもない買い物に車に乗って移動する人や、八重歯の若者の口元に人類の退化を見て、日々嘆いているという次第です。

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2010年1月25日 (月)

1087 省エネという「対策」

投稿者の今の仕事の半分以上は企業の省エネ指導に関するものです。しかし、修業中の環境坊主の身としては、内心忸怩たるものを感じながら事に当たっています。それは、省エネルギー活動は「所詮対策に過ぎない」と認識しているからです。問題の原因が判明したら、それからの悪影響を弱めるために講ずるのが対策です。しかし、確実に問題を「解決」するためには、根本原因を取り除かなければならない訳です。

かつて、公害問題で悩んだこの国では多くの「公害対策」が講じられましたが、しかしそれらは経済的に成り立つ対策でなければなりませんでした。そうでなければ、企業が存続できないからです。従って、この時代に至っても低レベルな有害物の排出は「法律の範囲内」で継続していると考えなければならないでしょう。というより、殆どすべての法律は「対策法」でもあると言えますが・・・。生活排水も下水処理場で処理はされますが、同じく「経済が許すレベルでの妥協」があるはずです。それ以上の浄化は、川や海の微生物浄化に委ねられ、それ以上の負荷にとなっている地域では、やはり低いレベルの環境汚染問題は残されたままなのです。問題の原因を取り除くには、その排出の原因となっている行動を止めるか、問題を起こさない別のプロセスに切り替えなければなりません。具体例を挙げれば、石炭や重油による火力発電を、LNGによる「よりクリーンなエネルギー」に転換したというのは単なる対策に過ぎないのです。そうではなくてエネルギーの使用レベルを大幅に低下させる技術開発や社会システムの構築こそが、根本原因の除去につながるわけです。

省エネの話に戻れば、エネルギーの多量消費にまつわる環境問題(たとえば温暖化)を解決するには、エネルギーを殆ど消費しないプロセスへの転換を真剣に考えなければなりません。少々の節約で達成できる省エネ程度では、焼け石に数滴の水を垂らすだけのポーズに陥ってしまうでしょう。従って、私たちはいまや対策の「省エネ」というキーワードではなく、早急に原因除去の「脱エネ」に切り替えなければならない時期に至ったと認識する必要があります。したがって、投稿者の目下の目標は、脱エネを唱える環境坊主に脱皮することなのです。

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2010年1月23日 (土)

1086 共助・自助

右肩下がりの時代、政府の力も弱るのは避けられません。お金(税金)が集まらなければ、行政組織も縮小せざるを得ませんし、その上に乗っかっている政治家の力も弱体化するのは自然でしょう。今やこの国でも「親方日の丸」は死語になりつつあるように見えますし、政府の先を見越さない景気対策は、いたずらに将来世代の借金を増やす自殺行為だと思い知らなければならないはずです。命が危ない時のカンフル剤投与は必要な処置ですが、とりあえずの緊急事態脱したら、最終的には病気の原因となった「生活(経済)習慣」を矯正しなくては再発を招くだけです。今の各国の緊急経済対策は、あくまでカンフル剤である事を忘れず、長期的な視点にたった治療に早急に移行する必要があると思うのです。借金に借金を重ねる、今の流れには強いアラートを出し続ける所以です。

さて阪神淡路の震災を思い返すと、あの未曾有の災害時にキーワードとなった言葉が、公助、共助、自助という言葉でした。状況が悪いほど、公助の比重は下がり、となり近所の共助や自分自身で身を守る自助の比重が急激に大きくなります。では、経済における共助、自助とは何を指すのでしょうか。それは、たぶん一つの経済圏のサイズを、コンパクトにまとめる方向で修正する事を指します。ある地域に、ある人口が集まると、それに応じた経済活動が必要となり経済圏が生まれます。かつてそれは、例えば川の流域にコンパクトに広がっていました。つまり、河口に広がっている都市部の人口密集地があり、その胃袋を支えるため中流域では農業がおこなわれ、また建材やエネルギーとしての木材と薪炭は川の上流部で生産され、一方の都市の生産物は逆ルートで循環していました。

しかし、今や経済圏は海を跨いで地球規模で拡大し続け、日本で私たちが日常使っている製品や口にしている食糧の生産国さえ、パッケージをひっくり返さないとにわかには想像できません。自国の農家や零細規模の商業に冷たくしておきながら、工業製品を輸出して外貨を稼ぐために応分の輸入を増やすという、これまでの経済政策は、今後比重が高まると思われる、共助・自助の面からは評価できそうもありません。

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2010年1月21日 (木)

1085 環境維新

この国で価値観が大きく転換した事が何度かありました。近くは先の大戦の終戦の時、さらに前では明治維新が挙げられます。後者では、日本的(江戸的)価値観の否定と西欧的(特に英国的)社会システムの導入がありました。また前者では、それまでの富国強兵的国家主義が否定され、米国的で物量にモノを言わせる豊かな唯物的価値観が社会を支配したのでした。これは「戦後維新」と呼んでも良いような大きなエポックではありました。この二度の維新は、急激にしかも徹底的(後戻り無しに)に進みました。

ここで挙げたK/Wである「環境維新」とは、戦後の米国的豊かさは、決して全世界の人々が享受できる筋合いのものではない事の確認の上に立って、ではどうすれば100年後やその先の子孫が幸福に暮らせるか、という新しい価値観や社会システムを問うものだと言えるでしょう。しかしながら、今回の維新は決して急激には進まない事は容易に想像出来ますし、逆に小さい後戻りもあり得る緩やかな変化になるでしょう。もちろん、ハリケーン・カトリーナの様な、環境ハザードが頻発し、社会インフラや経済が大きくダメージを受けるような事態に陥れば、それは急加速するとは思います。とは言いながら、南のサンゴ礁国家やインド洋などに面した海抜の低い国々の冠水被害や氷河や凍土の融解程度のローカルな変化しか起こっていない現状では、今回の「ご維新」にはなかなか加速がつかないのです。

投稿者の予測では、今回の環境維新に火が付くのは、たぶん広範囲の干ばつ被害による世界的な食糧難が起こった時ではないかと思っています。なにしろ人は、飢えや渇きには1か月とは耐えられないからです。今日明日の自国の食糧不足を起こさないため、食糧輸出国は日本などへの輸出分を大幅に減らさざるを得ません。そうなれば、いくらお金を積んでも食糧が手に入らなくなりますから、海の向こうの干ばつは、直ちに此の国の問題に波及する事になります。

さて、今回の維新の特徴は、決して「物質的・エネルギー的」には「前進する革新」ではなく、逆に後退・回帰する革新でなければならないという事でしょう。このご維新では、昭和的、明治的、あるいは江戸的(あるいは縄文的?)ではあっても、しかし環境的に見ればすぐれた技術や社会システムやライフスタイルの落ち穂を拾いながら、今後のあるべき社会に組み込んでいく努力が必要とされるでしょう。

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2010年1月19日 (火)

1084 大は小を兼ねない

この時代、ことわざも見直しが必要です。ここでは「大は小を兼ねる」を考えてみます。20世紀、特に後半を振り返るなら、この時代は「大きいことは良いことだ・時代」だと言えそうです。とりわけ、高度成長期以降は全てが大型化した様な気がします。ダムやビルや橋などのインフラをはじめ、航空機や車やタンカー(船舶)だけではなく、家電や官僚組織や社会システムそのものが大きくなり、膨張し続けた時代でした。交通システムも大量・高速輸送を理想に掲げたのでした。この時代になっても、社会はこの流れを引きずっているようにも見えます。南アルプスのどてっ腹にトンネルを穿つリニア新幹線計画も打ち上げられました。しかし、今後のあるべき社会を展望すれば、この流れには急ブレーキを掛けなければならない事は明白です。

分かり易い例を挙げてみましょう。ある人が、一杯のお茶が飲みたいだけなのに、大きなヤカンで湯を沸かし、同じく大きなポットにそれを詰めてからお茶を飲む行動を想像してください。湯沸かしには5分も掛かるでしょうし、ポットに残ったお湯は、2時間も経てばかなり温度が下がるので、次に飲む時は沸かし直す必要があるでしょう。そうではなくて、今後は、まず使う湯呑に飲む量だけ水を入れ、それをヤカンに移してから湯沸かしを行う行動が求められます。これだと30秒も待てば湯は沸くでしょう。

同様に新たな社会インフラやシステムを作ろうとする場合、まずは必要な機能とサイズをじっくり見据える必要があります。大は小を兼ねるとばかり、必要以上に巨大に作られたインフラや箱モノの如何に多い事でしょう。外観は立派ですが維持費がバカ高く、使用率の極端に低い公共施設、ガラガラの山間道路やローカルの高速道路、更地のままの工業用地などなど。何より。大き過ぎるインフラは、完成後にそれを運営するエネルギーや機能を維持するためのメンテナンス経費を考えれば、初期の冗長はそのインフラが寿命を終えるまで続くでしょう。さらに寿命が尽きた原発を想像しても分かるように、インフラ解体後の廃棄物処理も頭痛のたねとなってしまいます。まずは可能な限りニーズの質と量をキッチリ計り、一期工事での部分的な運用から始めて、利用率の実績を見た上で、二期以降最終的な完成に向かうべきでしょう。「大は小を兼ねる」はスッパリ忘れて、「必要かつ十分」や「ステップバイステップ」を意味する新たなことわざが必要な時代です。

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2010年1月17日 (日)

1083 自己と非自己

環境問題を考えるとき、投稿者の頭に浮かぶのは自己と非自己という言葉です。微生物で言えば、細胞膜で囲まれた境界の内側が自己で、その外側はすべて非自己です。しかし、生物は自己の中の物質だけで生きて行ける訳ではないので、生きていくために必ず非自己である周囲から養分や栄養なりを取り込まなければなりません。その一方、代謝の結果生じた物質は不要ですし、場合によっては毒にもなり得るので、自己の外(環境)へ捨てなくては生命が維持できません。人間は、これまでの歴史の中では、ほとんど自己の事だけを考えて行動してきたのでした。

短く急流の川が多いこの国で、ご先祖様たちが山に落葉樹を植え続けるという利他的に見える行動でさえ、自分たち自身あるいは「自分たちの子孫」の農地の灌漑や水防のためだったはずです。それらの森が多様な生き物の揺りかごになったとしても、それは一つの結果に過ぎません。

しかし、ヒトは火を味方につけ、その火を持続的利用する手段として、環境から化石燃料を掘り出しました。また、草や木や岩に代わる構造材料として、金属に代表される地下資源も大量に掘り出し、精錬し、消費し始めました。しかし、環境から物質やエネルギーを取り入れれば取り入れるほど、自己から環境へ捨て去る廃棄物も増えてしまいました。ヒトは移動するために自分の足の延長としてクルマを作りだしましたが、クルマを動かすために燃やした石油の廃棄物として排気ガスや熱を環境に捨て続ける事になります。もし捨てないで排気ガスを車の中に残したままにすると窒息死してしまうからです。しかし、ちっぽけなヒトに比べれば無限に広い様に思われた、非自己である地球環境も産業が巨大化した結果、(相対的には)有限である事が種々の気象異変などにより明確になってきました。

バクテリアなどの増殖を、時間を追って観察すれば、環境に栄養物が不足するか、あるいは環境に排出された排泄物の濃度が高くなるにつれて、増殖が鈍化・停止し更には逆に個体が減少し始めます。微生物が減少するのは、自己が環境に出した排泄物によって引き起こされた「自家中毒」現象に他なりません。ヒトの、廃棄物による自家中毒は、何によって引き起こされ、あるいは環境からの贈り物である食糧の不足によって何時から個体減少(人口減)が始まるのか、真剣に注視して行く必要があります。

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2010年1月15日 (金)

1082 超高層ビル

最近中東のDバイで、世界でもっとも高いビルが完成したとか。800mをかなり超えるというその高さの異様さは、実際に見てみなければ想像すらできません。その高さは、自然物で言えば、1000m近くの標高をもつ山にも相当します。これはまさに現代のバベルの塔なのでしょう。それとも、砂漠の国に建てられたビルですから「砂上の楼閣」と呼ぶべきかも知れません。

投稿者としては、このビルを見てみよう、ましてやそれに登ってみようなどという気にはさらさらなれません。何故なら、持っている耳が気圧の変化に非常に敏感だからです。自分の足で山に登るだけでも、100m毎に耳がピーンとなり、唾を飲み込む「耳抜き」が必要です。毎秒10m程度のスピードの高速エレベータを使えば、多分数分で最上階まで着いてしまいますが、「気密ドア」が開いた瞬間に耳の激痛で卒倒してしまうかも知れません。高ければ高いほど良い電波塔とは違い、人間が立ち入り生活するビルは目的が全く異なります。地震は無い国なのでしょうが、火事や停電などの人的災害を考えれば、その時のパニックぶりは「タワーリングインフェルノ」の状況どころではないはずです。800mを一気に滑り下りる脱出シュートは事実上作れないでしょうし、ヘリコプターで1回に吊れるのは数人に過ぎないからです。

数少ない対策は、クアラルンプールにあるようなツインタワーでしょうか。こちらは実際にも見ましたが、二つのタワー間にはいくつかの連絡通路が作られていました。しかし、これでは何のために高いビルを建てるのか、訳が分からなくなります。たぶんいずれの場合も、これらの超高層ビルは、人集めのためのアトラクションかランドマークの意味しかないと思うのです。ならば、人が住み、あるいは事務所として使うビルではなく、ただの世界一の展望タワーで十分だとも思ってしましいます。Dバイのビルも、そのバカ高い家賃故に、結局はテナントが集まらず赤字を垂れ流されるであろう事は、だいたい予想できてしまいます。人間の更なる愚行のサンプルとしてしばらくは注目する事にしましょう。

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2010年1月13日 (水)

1081 刹那人間

近年の世相を見ていて浮かぶ言葉がこの「刹那的な人間」の増加という事でしょうか。投稿者は、人間の脳は3層構造であるという、幾人かの学者の指摘を鵜呑みにしていますが、その3層とは、用語として正確ではないかも知れませんが、爬虫類脳、動物脳、人間脳となります。爬虫類脳や動物脳は今周囲で生じている事態に対して、その瞬間を生き延びるのに最適な行動を指令するだけですが、人間脳の最も特徴的な能力として思いあたるのは、想像と共感でしょうか。数学・コンピュータ用語を使えば、ヒトは「演繹と帰納」を駆使して未来を想像することができます。一方で、人間脳は他人が考えている事を想像し、共感することもできます。そうでなければ、ただの映像である映画を見て、あるいは文学を読んで内容に感動し、涙を流せるはずもありません。

刹那人間の増加現象は、とりもなおさずこの想像と共感能力の低下にその原因がありそうです。もし、刹那的な行動の結果自分や周囲に及ぼす影響を想像出来たり、周囲の人間の心情を共有できたりするなら、日常茶飯事となっている事件や自殺など起こるはずもないからです。罪を犯した結果として被害を受けた人々の痛みや、自ら命を絶った結果残された人たちの悲嘆を、少しでも想像できるなら、それらの行動を踏みとどまるはずなのです。その社会的な背景としては、やはり刹那的な娯楽の蔓延を指摘せざるを得ません。種々の、「指の反射だけを求めるゲーム」やギャンブルや刹那的なお笑い番組が思い当たります。

刹那人間は、その瞬間の自分の欲求や保身や快楽のためだけに行動しますから、ニュースとしてみれば信じられない様な「事件」を引き起こしてしまいます。人間脳を使うことなく、「脳の深い場所からの指令」で行われるその時の行動は、たぶん事後に振り返っても、本人にさえ全く説明不可能な行動だと想像しています。そんな彼らを嘆くのは簡単ですが、彼らの中に人間脳を育てるには、「社会環境」として一体何が必要なのか、このブログでも考えていく事にします。

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2010年1月11日 (月)

1080 無重力ビジネス

少し前N口さんがロシアのロケットで宇宙に送られました。宇宙とは言ってもたった数百キロメートル「上空の空間」です。そこには、重力と遠心力がちょうどバランスした空間を持つ箱である宇宙ステーションが浮かんでいます。その空間に行き来するには、1座席当たり数十億円もかかる乗り物に乗らなくてはなりません。もうすぐ、スペースシャトルが引退すると、この路線はロシアの独占となりますので、たぶん「運賃」も2倍くらいに跳ね上がる事でしょう。需要と供給のバランスしたところで運賃が決まるのが「旅客運送業界」の常識だからです。もちろん、独占ともなるとさらに足元を見られるので、2倍では済まない可能性もあります。人が滞在しない宇宙ステーションは、ただの宇宙ゴミとなりますので、今後とも年間一人くらいは税金を使って、この「ロシア線」を利用する事になるはずです。

さて、そんな高い運賃を払って何が得られるかですが、無重力で作られた天文学的コストの医薬品や合金など、あるいは無重力空間で飼育される小動物や微生物、同じ空間に保管されあるいは発芽した植物の種子などしか思いつきません。無邪気な少年少女に向かって、宇宙飛行士になって宇宙に向う夢を与えるのも、確かに今の宇宙飛行士の仕事ではあるでしょうが、そろそろ、こんな20世紀のお遊びも終わりにしなければならないとしみじみ感じています。宇宙空間には何も存在せず、闇と真空と無重力しか手に入らないのです。一体誰が月や火星に移住してそこで死にたいと思うのでしょうか。今は、私たち地球で生まれた生物の「生まれて食って寝て生きて死ぬ場所」は、この星の表面しかないと覚悟を決めるべき時期です。

私たちは将来、無重力ビジネスのピークは、月に人間を送り込んだアポロ計画だったと、歴史として振り返る事になるでしょう。意味がない(というと関係者に叱られそうですが)宇宙ごっこは、ここらで「お仕舞いにする計画」をたてるべき時期に来ている、などと考えているのは、投稿者だけではないと思います。それでなくとも貴重な資源やお金やマンパワーの使い道は、この地表にはごまんと存在しています。いま使われている無重力ビジネスの経費や資源・エネルギーで、例えば太陽光発電所がどのくらい建設できるか考えるだけでも、「気が遠くなるような勿体なさ」を感じてしまいます。実験で無重力が必要だったら、数キロ掘り下げた竪穴で、自由落下カプセルを落下させるだけで、数十秒間程度であれば無重力時間を確保する事が可能なのです。もし通信衛星が必要なのであれば、たった5億円ほどで上げられる「成層圏定点気球」数個で、日本全体がカバーできる事を知るべきでしょう。

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2010年1月 9日 (土)

1079 日の入り(カモ知恵)

この時期の投稿者の楽しみは、日の入り時間が日を追って遅くなることです。日の出は、1月上旬まで遅くなり続けますが、日の入り時間は12月初めが底で、徐々にですが遅くはなってきています。しかし、サインカーブの底はほとんど平らなのですが、カーブが上向く1月中旬から、日がのびた事が実感できるようになってきます。この時期、日の出の時間は横ばいですが、日の入りの時間は毎日1分ほど遅くなってきているので、昼の長さも1分ずつ長くなっているのです。とは言いながら、気温についてはまだ下がっていきます。日光が射す時間が長くなっているのに、気温が下がる理由は簡単です。確かに中緯度では日射時間がのびますが、北極点に日が射すのは春分の日まで待たなければなりません。結局1月下旬までは、北極にいる冬将軍様やその子供の寒太郎はさらにパワーを蓄え続けることになります。と、ここまで書いてきて、同じような事を以前にも書いたような気がしてきました。

話題転換。事務所の前を流れる木曽川では、多くの水鳥達が冬を越します。その中でも数が多いのはカモ(マガモ)です。彼らは、時々水に浮きますが、殆どの時間は岩の上で、これ以上は丸くなれないくらい丸くなって休んでいます。毛に覆われていない鳥たちの足には幸いにも筋肉はなく、腱だけが通っているので、寒さは感じないはずです。しかし、血管が通っている首はさすがに寒いらしく、窮屈に折り曲げて背中の羽根の中に埋めているので、遠くから見ると、まるで岩に上に漬物石がゴロゴロ転がっている様にも見えます。しかし、これは寒さを耐える最も合理的な姿勢でもあります。同じ体積であれば、球形がもっとも表面積が小さくなるからです。表面積が小さいと、そこからの放熱量も最小になります。ところで、人間の世界で冷暖房効果が最も発揮できるはずの球形の家がほとんど無いのは、大工さんの腕がまだそれを作る技術に追いついていないだけだとも言えなくもありません。とは言いながら、サッカーボールの様な多面体の家であれば、同じ形のパネルユニットを、例えば20個くらいつなぐだけなので、実は結構単純な技術で実現可能なのですが・・・。(サッカーボールは実は20個の六角形と12個の五角形でできています。念のため)

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2010年1月 7日 (木)

1078 冬山考

今年の正月も「また」何人もの人が山で帰らぬ人になりました。山をこよなく愛する投稿者としては、好きな山で死ぬのもそんなに悪くはないと思うこともあるのですが、何しろ大勢の人に迷惑をかける事を考えると、あわてて否定せざるを得ません。雪国生まれで、気温が低い時に降る新雪の頼りない柔らかさを知っている投稿者としては、この時期の登山は自殺行為に見えてしまいます。50センチ程度の積雪、つまり膝までの雪であれば、普通の体力を持っていればラッセルは可能です。しかし、腰まで沈んでしまう1mを超える新雪では、事実上身動きする事は出来なくなります。次に動けるようになるのは、雪がやみ、日がさしてきて新雪の表面が少し締まり、カンジキが効く程度になるまで待たなければなりません。つまり、大雪に降りこめられたら、その場で少なくとも4-5日間は留まって待機できる程の装備や食糧を持っている必要があるのです。もちろん、その間の寒さは薄っぺらなテントや寝袋などで凌げるはずもありません。深い雪室を掘って、冷たい雪を逆に断熱材として味方につけなくてはなりません。比較的しっかり踏み固めた雪は、非常に性能の高い断熱材でもあるからです。雪国の「かまくら」やエスキモーの「氷雪ドーム」も決してダテではなく、外は氷点下10℃以下、体感温度ではさらに10℃も低くなる吹雪の中でも数日間は十分耐える事も可能な防寒シェルターなのです。

予想を超える暴風雪下では、超人であったあのU村直美さんでさえマッキンリーからの生還を阻まれました。それでもどうしても冬山に向かいたい人には、少なくともこのシェルター作りをじっくり体験してもらう必要があるだろう、としみじみ思っています。合掌。

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2010年1月 5日 (火)

1077 玉虫決議

昨年末のCOP 15は、事前の予想通り、具体的な決議が生まれないまま閉幕しました。COP15でのせめぎあいは、エコノミー(経済優先主義)とエコロジー(環境保護主義)のせめぎあいでもありました。それは、貧困から抜け出すための方便として経済を優先せざるを得ない途上国と、一応豊かな生活を手に入れた先進国側の反省との対立でもあるでしょう。既に十分豊かになった国々が、まだまだ貧しい途上国に、エネルギーをなるべく使わないように豊かになってくれ、と説法しても、まったく説得力はないのでしょう。先進国がそれを望むなら、自ら豊かさのかなりの部分を放棄して見せるか、途上国にこれまでの半分のエネルギーで豊かさを実現できる具体的方策を示さなければなりません。

結局、まずXX%のCO2削減義務の決議ありきでは今後とも堂々巡りからは抜け出せないと思うのです。先進国は、当面現レベルの半分のエネルギー消費で、失業者を出さずに回る社会の仕組み作りの知恵を絞る必要があるでしょう。その上で、削減したエネルギーの半分だけを使って途上国を豊かにする道を示す必要があるでしょう。結果として、「総量として」現在より現在より20-30%少ないエネルギー量で動く世界を実現できる事になります。

今の半分のエネルギーで本当に日本や先進国が回っていくのか、との疑問は残るでしょう。しかし、考え方は非常に単純です。モノを半分にして、利便を受ける回数を2回に1回に減らせば良いのです。例えば車に関して言えば、自家用車やトラックの台数が今の半分で済む社会システムとは何か、を国民の知恵を絞って必死に考えれば答えは出るでしょう。乗用車に関しての一つの答えは、「カーシェアリング」でしょう。コンビニやガソリンスタンドや場合によっては郵便局に車を配置し、予約制で使える様にすれば良いのです。トラックに関して言えば、収集や配送を、会社別の縦割りで行うのではなく、輸送量実績に従って、エリア別に「重なりの無い集配システム」を構築すれば、同じ道路を別々の会社の車が行ったり来たりする無駄は省けるはずです。

玉虫色の決議を出すために、各国の頭脳ともいえる貴重な人材と時間を使って、ダラダラと議論するのではなく、今はこのような社会システムの知恵を出し合い、小規模な社会実験を重ねる事こそ必要な時期だと思うのです。

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2010年1月 3日 (日)

1076 期待と落胆

多くの生き物の中で、ヒトだけが「期待」します。期待とは、将来の望ましい姿への欲求ですので、未来を想像する能力を貰ったヒトだけが可能なわけです。一方、期待とセットの言葉に落胆がありますが、期待が大きいほど落胆も大きくなるはずです。この落差が限度(しきい値=リミット)を越えると、少数の人は、たぶん諦めて終わるのでしょうが、多くの場合ヒトは怒りの感情を持つことになります。

自分が勝手に期待しておきながら、です。しかもその落胆の原因については他人のせいにしたがります。期待し過ぎた自分を反省するより、他人に責任をなすりつける方が気楽だからです。近年この期待が、過度に政府に向かっているような気がします。歳入の20倍もの借金を背負った国に、そんなに期待しても荷が重すぎると思うのです。もちろん、借金を重ねた上に効果的な政策が打てない政府に落胆し、怒りをぶつけるのは勝手です。しかし、どこかの国の大統領の「国民が国のために何を為したか」と問われると、多くの人は忸怩たる思いに陥るはずです。期待値をぐっと下げると人は心安く暮らせるのではないかと思っています。その上で、子孫の幸福のために、密かでなるべく目立たない行動を重ねることにより、さらに安寧な人生が送れる事になるでしょう。

かつて北欧のある国に、国家とは文字通り「国民の家である」という理念を掲げた政治家が登場しました。国家が国民の家であり、国民全員が家族であると考えるならば、少数の苦しみを国民全員で分かち合う、究極の福祉国家が理想となるわけです。そのためには、所得の半分を税金で持っていかれても、甘んじて従う「家族関係」が当然の形として国民に受け入れられたのでした。つまり、少ししか負担しないで国に勝手に期待しておいて落胆するのではなく、まず自分が家としての国に十分に貢献した上で、その家に守ってもらうという態度こそ、この国の構成員に求められると思うのです。期待ばかりが先行する今の風潮に、強い危機感を抱かずにはいられません。

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2010年1月 1日 (金)

1075 ピークアウト

年の初めの決意は、今年も修行しながら「環境念仏」を唱えていく事でしょうか。さて、考えてみれば、昨年末で2000年代が終わったのでした。10年を歴史の短い一区切りと考えれば、高度成長やバブル経済が立ち止まってしまった1990年代に続く2000年代は、一体どのような時代だったのか、時代に冠する言葉がなかなか見つかりません。まだ湯気が立っている過去10年間ですが、敢えてこの時代にキーワードを付けるなら、それは「ピークアウト」の時代だったと言えるかも知れません。

人が生きていくためには、他の生き物とは違って、地下資源を掘り出して、食糧や家や生活物資を作るための材料やエネルギーを得る必要があります。とりわけ、化石エネルギーに関しては、それらへの依存度がますます高まっています。しかし、少なくとも石油に関しては2004年ごろに埋蔵量の半分を消費しまったため、今後は産出量が減少に向かうとの説が有力になっています。つまりオイルピークはすでに通過してしまったという見方です。経済活動のレベルがエネルギーの消費量にほぼ比例すると仮定した場合、地球総生産という指標を持ち込むならば、経済規模も2000年代にピークを打った可能性もあります。しかし、経済活動に関しては、なにしろ未来から借りてくる事が出来る点が、現物が必要な化石資源とは決定的に異なる点かも知れません。この国の600兆円以上にも及ぶ借金は、国債や地方債やその他の債券の形で、現世代が未来世代から借り入れていると考えなければなりません。

一方、C国やIンドが、今後どの程度経済規模を拡大できるか分かりませんが、ピークを打った(と言われる)資源・エネルギー的に見るならば、彼らの拡大は、すでに経済が拡大し切った国々の縮小の上に立ってこそ可能なのかも知れません。C国に関しては、万博後にはある程度の(あるいはひどい)息切れが始まるでしょう。その意味で年の初めに当たって、来るべき2010年代は、結局「着地点を探す時代」になるのではないかと、ボンヤリ考えています。その着地点では、資源や地球環境が許すレベル、百年後の子孫も安寧(あるいはどうにか)暮らせる、資源・エネルギーの消費レベルでしか使えないはずなのです。もし燃料切れで墜落しそうな飛行機が今の社会を象徴するなら、要らないモノを機外へ放り出しながら、燃料を節約しつつフラフラと低空飛行を続けるしかないとも思うのです。

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