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2010年2月27日 (土)

1104 無魂和才

久しぶりにラジオで「和魂洋才」などという言葉を聞きました。いずれにしてもこれは、西洋の技術や文化(洋才)が輸入された明治以降の言い慣わしなのでしょうが、ここにきていかにも古すぎて、逆に違和感のある言葉ともなってきています。洋才とは、多分西洋で開発された科学技術なのでしょうが、問題はこれを和魂と組み合わせるのが今でも最善かどうかです。和才が貧弱な時代は、確かに追いつき追い越せがこの国の合言葉だったとは思います。時代で言えば、1960年代や70年代で、この時代に盛んに見られた「海外ライセンス導入」ラッシュが思い起こされます。例えば、日本の近代ロボット元年は、多分1960年代にアメリカのユニメート社からK社が技術導入を行った時になるでしょう。

しかし、この国の技術者・技能者はたゆまぬ努力によって、独自の「和才」を編み出したと思うのです。それは、T社の生産方式に至って一つの完成形を得たように「見えました」。そう見えたのは確かですが、本当に完成したかについては大いに疑問です。なぜなら、技術はそれを裏付ける倫理によって完成されるものだからです。倫理の「倫」とは、人と人との関係を示す言葉ですが、技術における「倫」とは、人と機械の関係(Man Machine Interface)を指すのだと思っています。つまり、人が機械に使われるのではなく、人が五体の延長として機械を自由に使いこなす事が大前提なのです。

であるにも関わらず、ここにきてその前提が狂ってきています。運転者の知らないうちにコンピュータというブラックボックスに支配されている(リコールの嵐に揉まれる)車の例ではありませんが、現代の技術には魂の部分が見えなくなってのではないかと危惧するのです。それはむしろ「無魂」という状態かもしれません。魂の無い技術は、実は非常に危険でもあるのです。なぜなら、その技術を使う側の人間が、悪用したり、誤用して技術自体に振り回されたりしてしまうからでもあります。和魂の神髄とは、勿体なさをわきまえ、自然が与えてくれた恵みに感謝しつつ、つつましく暮らすものであったはずです。それを「エコライフ」、「LOHAS」あるいは「スローライフ」などと呼ぶかどうかは、単なる言葉の流行り廃りの問題に過ぎません。無魂の現代の技術に魂を吹き込むのは、この和魂しかないと思うのです。その意味では、今後に科学・技術利用する際のKWとしては、本来の意味の「和魂和才」を目指せばほぼ完璧だと思うのです。

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2010年2月25日 (木)

1103 パンデミック

インフルエンザなどのウィルス達の主な戦略とは、「定宿」の宿主(たとえば渡り鳥や豚など)に狙いを定めて、日頃はその免疫に抑え込まれた「フリ」をしておとなしく暮らしていますが、時々は遺伝子の一部を変えることにより、動物の免疫機能の網を掻い潜って爆発的な感染(パンデミック)を繰り返すことでしょう。その際の「乗り物」としては、行動範囲が広い渡り鳥を用命する事が多いのです。ウィルスは生物と無生物の中間的な存在ではありますが、一方では宿主自体の進化にも重要な役割を演じてきたと感じています。つまり、宿主細胞の中にちゃっかり棲みついたり、DNAを書き換えたりして宿主自体の特質を変えてしまう場合もあると想像できます。例えば、私たちの細胞の中にもあり細胞のエンジンでもあるミトコンドリアは、元々は別の生物であったと言われていますが、エンジンも小さく、鈍い細胞であった私たちのご先祖微生物の細胞の中に入り込んで、一気にパワーを注ぎ込んでくれたとも言えるのです。ウィルスについても、私たちのご先祖生物に同様の刺激を与えてくれたはずなのです。

さて、歴史の中では大量死を招く脅威の新型ウィルスであった、ソ連型や香港型も現在は私たちの免疫機能やワクチンによって表面上は豚や鶏の中でおとなしく暮らしてはいますが、小さな進化を重ねながら、再度のパンデミックを虎視眈々と狙っているのでしょう。その一部は強毒性SARSとなって、アジアの国々で暴れる傾向を見せました。今度の新型ウィルスさんは弱毒性の気弱な性格が幸いして、殆どのケースでは抗ウィルス薬で対処できた様です。

ウィルス達を完全に撲滅する事は事実上できません。唯一可能な方法は、人を無菌室に隔離する事くらいでしょう。であるならば、私たちは彼らと上手く付き合う方法を考えるしかありません。それは、可能な限り体を鍛えて暑さや寒さに強くなり、バランスの良い食事をし、ストレスを小さくして自然の免疫力を高めておく事でしょう。幸いにも、冷暖房の無い投稿者の事務所は、体を鍛えるには「最適の環境」を備えています。

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2010年2月23日 (火)

1102 窮すれば知恵

「窮すれば通ず」あるいは「窮すれば鈍す」などと言い慣わされていますが、投稿者の見方は窮すればこそ知恵が湧くはずだ、というものです。必要は発明の母ではありますが、窮する事には「強い必要」を伴うからです。温暖化問題に対して、一向に良い知恵が提案されていないのも、温暖化で困っている人は少なからず存在しますが、極度に窮している人たちはと言えば、たとえば大潮の時に、庭先が海水に洗われる地域(ツバル諸島など)に住んでいる人など、ごく限られているからです。

1970年代のいわゆるオイルショックの時代を思い起こせば、あの時は実施可能なありとあらゆる省エネ対策を取ったはずです。夜12時にはテレビの放送が打ち切られ、街のネオンも影をひそめて眠っていました。太陽熱温水器が爆発的に売れ、風車を製造販売する企業も、中小ながらいくつも誕生しました。岩手や、東大阪や愛媛などでは、今再度脚光を浴びている木質ペレットや、木くずを圧縮した人工の薪である商品名「オガライト」なども盛んに製造されました。書店には、省エネルギーや新エネルギー(=再生可能型エネルギー)の本が並び、タンカーに鋼鉄製の帆を掛ける実験さえ行われたのです。あの時は、石油や電力料金が一気に倍ほどに跳ね上がり、みんなが本当に困っていたはずなのです。

今の便利すぎる社会システムや日常生活をそのままにして、何か画期的な省エネ・省資源のアイデアが湧くと期待してはいけません。まずは、キャンプ場の様な不便な生活を送ってみて、生きていく上で「絶対不可欠なもの」と、あれば「それなりに便利なもの」と、無くても全く問題ないものに「仕分け」してみる事です。一番難しいのは、それなりに便利なものと、必要不可欠なものの境界線の引き方です。投稿者の提案ですが、1970年代半ばに既に一般家庭の中にあったものを、一応必要不可欠で、手元に置いてもなんとか「環境が許してくれそうなもの」と考えてみてはどうでしょう。この時代の、私たち1人当たりのエネルギー消費レベルが丁度今の半分だったからです。

この国にも存在するエネルギーや源を上手く使って、組み合わせることによって化石エネルギー今の半分に減じても十分に快適な生活が送れるはずなのです。それらのエネルギー資源とは、例えばバイオマスであり、小型の水力タービンであり、風車であり、何より全ての家の屋根や壁に降り注いでいる太陽光なのです。それらを単に電力として取り出すのでは、設備にお金が掛り過ぎるので、あまり良い方法とは言えません。目的に応じて直接に動力として、あるいは熱として利用すれば、システムも簡単になり安上がりで済むでしょう。

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2010年2月21日 (日)

1101 家庭内鉱山

環境悪化というトンネルに入ってしまったこの地球表面という「場」に、果たして出口があるのかを考えてみます。私たちは、険しい山の向こうに行くために、峠道を超えないで短時間で到達できるように水平にトンネルを穿ちます。しかし、この環境悪化トンネルは、実は地中に向かって掘られ続けているとイメージしなければなりません。事実としても、私たちはますます地下資源への依存度を高めてもいるからです。直接的な資源やエネルギーだけではなく、農業や社会システムを機能させるために、ほぼ100%に近い割合で「地下資源」に依存しています。さらに、この地底トンネルは、実は水平に掘られている訳ではありません。地下に向かって傾斜していると想像する必要があります。傾斜とは、地下への依存度が増している事の象徴です。

このトンネルを「何らかの技術力を使って」上向きに掘り進めるという議論は、自己矛盾であり幻想に過ぎません。その技術を使うために、さらに多くの地下資源に頼らなければならなくなるからです。地下への依存度を、たとえばEVFCVで弱める事が可能かを考えてみれば自明です。電気を生みだす発電所や、燃料電池を動かす水素を発生させるために、どれほどの地下資源やエネルギーを消費されるか想像すればよいだけです。

地底トンネルから抜け出す方法は、実は簡単です。地下資源への依存を直ちに中止して、徒歩で元来た方向へ歩きだすしかないのです。方法は簡単ですが、実行は非常に困難でもあります。それは、戦後営々として先輩や私たち自身が築いてきた「モノドモ」を、エイヤっと気合とともに放り出す必要があるからです。しかし、使わなくなったモノドモは簡単に捨ててはいけません。車は車庫に置きっぱなしにして、物置や応接室としてでも使い回します。冷蔵庫は電気をつながないで、光を嫌う乾物や調味料などのストックに使います。石油ストーブも、鉢植えの台程度には使えるでしょう。なぜなら、これらの製品は丁寧に分解し、材料毎に完璧に分別しさえすれば立派な資源ともなります。子孫のためにも仇やおろそかに扱ってはなりません。「家庭内鉱山」の資源として、丁寧に取り扱って保存しましょう。

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2010年2月19日 (金)

1100 贈り物と収奪品

今私たちが口にしている食糧が、環境からの贈り物であるかあるいは収奪品なのかを考えてみましょう。例えば、今も採集生活を送っている「森の民ピグミー」は、森からの贈り物だけ暮らしていますが、一方、石油を燃やして動かす大型の農業機械を使って、土地に化学肥料や農薬を多量に施しながら、しかも太古の地下水(化石水)で灌漑する現在の農業は、土壌環境からの作物の収奪である事は、少し考えるだけで分かる話です。両者の境目はたった一つ、それが「持続可能であるか否か」だけです。ピグミーたちは、森から食糧を得る際、例えば植物や蜂蜜などを「いただく」時、それらを根こそぎ奪ったりはしません。何日か、あるいは何週間か経つと、それらが元通りになる様に、遠慮がちに贈り物をいただく訳です。

一方で収奪は、しかし徹底的に行われます。収奪を受けた農地(元々そこはジャンブルや草地だった訳ですが)の多くは、最終的には、例えば過剰灌漑の結果としての「塩害」により耕作ができなくなり、最終的には放棄されます。それらの証拠は、G-グルアースを使えば、緑の大地に点在する「白い爪痕」として、容易に観察できます。また別の収奪の証拠は、ジャングルに残された焼畑農業の痕跡が、さながらガンか何かの病巣の様に観察できるでしょう。多くの焼畑農業地域では、焼いた灰(灰分)を肥料として使い、何回かの収穫後は、土壌は有機の養分を失って無機の土に戻りますので、作物が取れなくなるためあっさりと放棄されることになります。それが、ジャングルに「土色の傷」を残す事になります。今や、アマゾンやコンゴ川流域に代表されるジャングルという緑の大地には、白い爪痕や土色の傷が、ガン病巣の様に拡大し続けています。

環境に生かしてもらっている人類としても、こんな収奪は長くは続かない事を銘記すべき時に至った、との思いは日々強くなっています。一部の地下資源は別にして、食糧にしても、地球の平均気温が15℃前後という、生物の生存に絶妙な温度に保たれているのも、この星が太陽からの距離が、生きものに最適な軌道を回っていてくれるお陰だと言えます。その意味では、私たちを含めた生物の命自体が、太陽を含めた自然からの贈り物と考えなければならないでしょう。20世紀の後半、たった50年で、私たちはこれをすっかり忘れてしまった様にも見えます。

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2010年2月17日 (水)

1099 後の祭り

確定申告の季節ですが、四苦八苦ししながら、鉛筆ナメナメ申告書を作成しました。今年から青色申告なので、訳の分からないまま、教科書通りに決算書も貸借対照表も作りました。帳尻が合わなくて悩んでいても仕方がないので、とりあえずこの季節開催している申告相談会に持ち込んで、指摘を受けてから修正した話が早そうです。いずれにしても、改めて決算書を眺めて分かる事は、投稿者もしっかりワーキングプアの一員であることは間違いないようです。

さて、「祭りの後」は普通の表現ですが、「後の祭り」は日本では特別な意味を持ちます。国民的歌手であったあのひとの持ち歌ではありませんが、祭りに夢中になってしまい、祭りが終わって帰って見ると、家が火事で焼け落ちていた、という歌詞を思い出します。20世紀後半は祭りの時代で、その絶頂期はバブルの時期であった、という「説」はこのブログでも何度か書いたような気がします。上のたとえ話の様な大火こそ起きてはいませんが、ボヤであれば、今や世界中のあちらこちらで煙が上がっています。もちろんこのブログで言う火事やボヤとは、環境の異変を指しますが、その異変とは通常の自然現象の振幅の限度を超えた、人為的異変としか考えられないものを意味します。その中で、温暖化の問題は緩やかではありますが、最大の異変ではないかと思っています。それは、影響が単なる陸氷や海氷の融解に留まらず、後戻りのできない環境破壊につながるからです。後戻りのできない変化としては、たとえば生物の絶滅が挙げられます。一度絶滅した生物は、たとえ環境が復元されたとしても、再度出現する事はありません。なぜなら、その生物固有の形態や能力は、数億年にも及ぶ気の遠くなるような年月の中で進化してきたものだからです。

焼け落ちた家は、お金を工面すれば似たようなものは復元できるでしょうが、その中にあったかけがえのない品や思い出は最早戻っては来ません。環境変化の多くは、実はこの後戻りのできないケースに当たる事は銘記すべきでしょう。風化して崩れた山が、再度高さを取り戻す事がない様に、一度破壊された環境のほとんどは回復できないのです。理由は、環境の悪化により増大したエントロピーは、莫大なエネルギーをつぎ込まないと減少させる事が出来ないからです。しかし、局部的なエントロピーの減少のためには、同時により大きなエリアでエントロピーが増大してしまうという自己矛盾を抱えています。具体的な例を挙げれば、空気中のCO2を集めて地下に押し込んでしまうのに、化石燃料を使った莫大なエネルギーを消費するという、現実ではない計画を思い浮かべます。これを漫画に描けば、蛇が自分の尻尾を飲み込んでいる様子にも似ているでしょうか。

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2010年2月15日 (月)

1098 アレニウスの法則

アレニウス則は、コンデンサなどの電子部品の寿命予測などに使われることが多いのですが、元々は化学者であったアレニウスが、化学反応と温度との関係観察から導いた法則でした。それを電子部品の業界で、例えばハンダ付けを行う際に、部品に加えた温度が高いほど寿命が短くなるという再現性の高い事実により、実用的に応用しているというわけです。実用的には組立て時に10℃低くできれば、寿命が約2倍に伸びると言われています。ここでは、投稿者なりの解釈で環境の劣化に敷衍してみたいと思います。

さて、環境劣化の指標として全球の平均気温を取り上げてみましょう。平均気温が今より10℃上昇する時代には、人間を含めて多くの生物が死滅しているでしょうから、たぶん1℃程度が現実的な刻みかもしれません。COP15では、一応の目標として最終的には2℃の上昇に抑えたいとの気持ちをにじませました。あてずっぽうで、1℃平均気温が上昇するごとに、主な生物絶滅までの時間が半分になるとして、これを環境のアレニウス則として勝手に提案しておきましょう。問題なのは、実際にこれが実験室の中なり、コンピュータの数値計算なりで、予測可能かということですが、残念ながら人間の浅知恵程度では、そんな演繹計算ができるほどの証拠も掴めないでしょうから、この無責任な「環境のアレニウス則」も検証で否定される心配もないでしょう。

「豊かな海」とはよく使われる表現ではありますが、海水温の高い南の海には、実は単調な生物相しか観察されません。例外的にサンゴ礁が発達している限られた海域にのみ豊かな生物が群がるのです。真に豊かな海とは、実のところ「栄養塩類」が湧き上がる北の海を指す限られた表現なのです。この海では栄養塩類により植物プランクトンが湧き、植物プランクトンを餌とする動物プランクトンや小魚が湧きます。さらに、それらを餌にするために大型の魚類や海洋哺乳類が集まるわけです。植物プランクトンの増加には、栄養塩類に加えて太陽光が必要ですので、豊かな海は、北極付近と南極で半年交替を繰り返すことになります。たくましいクジラや海鳥の一部は、地球を半周する渡りを繰り返してもいます。

しかし、その豊かな海も、たった1℃程度の水温上昇で、劇的に様相を変えることは容易に想像できます。たった1℃の違いといえども、海洋上では数百キロの緯度変化に相当しますので、それまでの豊かな海が、突然海の砂漠になってしまう危険性は否定できません。まずは、すぐにでも海のアレニウス則が確立される事を望んでいます。

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2010年2月13日 (土)

1097 フェイドイン・フェイドアウト

今度のPリウスのトラブルに関してもう一つのポイントを挙げておきます。それは、この車のブレーキシステムが、メカニカルブレーキと回生ブレーキ(電動ブレーキ)あるいはABSが「カットイン」「カットアウト」の関係になっている(と想像していますが)点です。多分、両方のブレーキが同時に作動すると、急ブレーキ状態になって危ないと見た技術者が、両システムの間に空白部分を設けたと思うのです。それは、多分コンマ何秒のごく短い時間なのでしょうが、ドライバーをヒヤリとさせるには十分な時間なのです。

これを回避するには、「フェイドイン」「フェイドアウト」というシステム構成にする必要があります。つまり高速時に作動する回生ブレーキは、ある速度以下では徐々に効かなくなり、同時にメカニカルブレーキが徐々に効き始める、という複雑な制御になります。しかし、実はこれは自己矛盾でもあるのです。つまり、「フェイドイン」「フェイドアウト」も最終的にはドライバーの感覚とのずれが避けられないからです。ドライバーは、自分の操作(期待値)とのホンの微妙なずれも、違和感として受け取ってしまうでしょう。ドライバーの「ブレーキング感」は、メカニカルブレーキの経年変化(例えばパッドの摩耗)や路面状態の変化によって、全く経年変化しない回生ブレーキとの関係には、間違いなく初期設定からの狂いが生じます。つまり、二つのブレーキシステムを切り替える限り、どこまで行ってもドライバーの違和感を完全にぬぐい去る事は出来そうもないのです。

これを根本的に避けるには、たとえば減速時の加速度(減速度)を正確に感知するGセンサーによって、実際のブレーキング状態をモニターし、応答速度の速い回生ブレーキを抑え込んだり、強めたりする「アクティブ制御」をするか、あるいは燃費を犠牲にしても回生ブレーキを諦めるかなど、限られた選択肢しか残っていません。ソフトウェアバグを含めてコンピュータをあまり信用していない投稿者としては、もちろん後者の選択肢がベストだと言っておきましょう。前者の場合、システムが更に複雑になり、将来の新たなリコールの種になるかも知れませんし・・・。

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2010年2月11日 (木)

1096 フェイルセーフ

T社の大量リコール騒動やおまけのPリウス・トラブルの報で投稿者が特に感じる事は、「フェイルセーフ(Fail safe)思想の欠如」という言葉で言いつくされると思います。フェイルセーフとは、例えば航空機の設計においては、一次構造の決定的な破壊事故以外では、殆どの故障や部分的な破損事故という事態(Failure Case)が起こっても3時間程度は無事に飛び続けられ、最寄りの空港に着陸できる事が求められます。またたとえば、双発ジェットでは片方のエンジンに鳥が飛び込んで停止した場合でも、飛行や着陸には全く問題がありませんし、同様にフラップやスポイラーなどのアクチュエータのいずれかが動かなくなった場合でも、なんとか着陸は可能なのです。また一次構造に亀裂が入った場合でも、構造的に破局的な亀裂進展を食い止め、短期間であれば運航が可能となるように工夫されています。記憶に新しいのはハワイでの事故で、機体の上半分(屋根)が飛び、客室がむき出しになった状態でも、無事着陸できたニュースなどが挙げられます。

車の場合でのフェイルセーフとは、車のハードウェアやコンピュータソフトにいかなるトラブルが生じようと、最悪ケースでも車を安全に停止できる仕組みを指します。今回の場合、死亡事故につながったトラブルでは、アクセルが戻らない(スピードが落とせない)という極めて危険な状態になるとの事、これではフェイルセーフの原則に完全に反する状況と言えます。一方単車には、ハンドルにエンジンのイグニッションを完全に切断できる赤い非常スイッチが付いています。車のドライバーが、実際にアクセルが戻らす、スピードが落とせないパニック状態下で、冷静にブレーキを操作し、イグニッションキーを操作してエンジンを切る事が出来るかははなはだ疑問です。メーカーには、外観や内装を豪華にする事だけに力を入れず、基本的な安全性にこそコストをかけてもらいたいのです。

車は、長期間の訓練を受けたプロドライバーではなく、運転もメカも素人が操作する事が前提の機械です。しかも、二昔前の車とは異なり、殆どの機器は素人にはいじれないブラックボックス(車載コンピュータ)制御となっています。しかしコンピュータが如何に判断しようともドライバーの操作が優先されるべきでしょうし、緊急の場合は、少なくともエンジンが切れるボタンは必須だと思うのです。類推で気になるのは、オートマ車での「店舗突っ込み事故」です。あの場合でも、車は完全にドライバーの意に反した動きになっている訳で、これ(ドライバーの勘違い事故)を根本的に防止するメカや車載コンピュータのソフトウェアは、残念ながらまだ開発されていません。

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2010年2月 9日 (火)

1095 車のマスク

先週末は静岡でした。仕事がらみですが、ETCの恩恵をありがたく享受するためバイクで出かけました。とはいうものの出掛けは雪がチラチラ舞うあいにくの天気。寒さをこらえてハンドルにしがみつき、何ヵ所かのSAに立ち寄りながら4時間弱で到着しました。静岡は、さすがに雪雲が届かない地域なので、すっかりよい天気になり、富士山も頭だけを隠した姿を見せてくれましたが、寒い事には変わりません。ハンドルに付けてあるヒーターもフルパワーで暖めたのですが殆ど役に立ちません。しかし、今年の冬は、バイクに一工夫してあったので、結果を見るのは楽しみでした。

その工夫とは、ラジエータのグリルにクリップでビニールシートを付けた事です。冬場にバイクの燃費が下がる事は何となく実感していましたが、ある人に冬場は冷却水温度が「下がり過ぎる」のでエンジンの出力も下がるとの話を聞いたことがきっかけで、北米で見た「車のマスク」を思い出したのです。冬場の北米では、滑り止めのためにフリーウェイに砂を撒きますが、多くの車がつけている黒い(薄いゴムなどでできた)マスクは、前の車が飛ばした砂利からボディー守るためだとばかり思っていました。しかし、思い出してみるとそのマスクはラジエータグリルを塞ぐ様につけられているため、冷却水の過冷却を防止する目的もあった様なのです。というより、寒冷地では20%程度燃費が悪化する場合もあるので、むしろ燃費向上が主目的だったかも知れません。北海道の知人は、確かに冬の燃費が極端に悪くなると嘆いていましたが、単に朝の長い暖機運転がその原因とみているようでした。

さて、対策の結果ですが、高速道路を走っても冷却水温度は、やや高めの正常値に保たれていて、往復の燃費も対策前の1割以上の改善になりました。これは夏場と変わらないか、少し良いかもしれません。何しろ冬場の空気は、気温が低いため夏場より密度が高く「濃い」のですから、燃焼状態が向上しても不思議はありません。日本の車は、暑い日本や輸出先のアジアの国々で、夏場のオーバーヒートが防止できる様に、ラジエータ能力は大きめに設計されているはずです。したがって、季節に応じてラジエータの冷却面積を加減できる様にする道具(ゴムのマスクや可動式の板の様なもの)を売り出せば、この時代必ず売れるはずなのですが・・・。問題は、暖かくなってもそれを外すのを忘れ、オーバーヒートを起こす事ですが、幸い全ての車にはそれを警告してくれるアラームが付いているので、車を壊してしまう恐れは全くありません。

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2010年2月 7日 (日)

1094 悪循環

もがけばもがくほど、深みにはまっていく状況を悪循環と表現しますが、ではもがかなければ良いのかと問われれば一応「Yes」と言っておきましょう。もがく事は、事態へ何らかの働きかけを行う事で、悪循環状況ではその働きかけが逆の作用を生んで、事態が悪化する不味い状況だからです。もがかなければ状況は「自由落下」になり、スカイダイビングでもそうであるように、ある時点からは落下速度も一定に落ち着きます。落下速度が一定になれば、その後に生ずる事態もほほ完全に予測できる事になります。

今の経済状態や、環境悪化の問題にこれを敷衍してみましょう。たとえば、経済状態です。不景気になると、政府は一生懸命に「景気対策」打ち出します。それは、たとえば金融緩和政策であったり、財政出動だったりします。確かに事実として、20世紀型の経済システムではこれは効奏してきました。しかし、今後予想される右肩下がりの時代、このような20世紀型の対策は最早機能しないのではないかと疑っています。つまり、国債という借金をどれほど重ねても、近い将来にそれを税として回収する見込みは全くないと見ているのです。返す見込みのない借金を重ねる事は、単なる悪あがき(悪循環)に陥ります。

そうではなくて、右肩下がりの時代においては、その流れに身を任せるフリーフォール(自由落下)しかないと思うのです。フリーフォールに身を委ねるといえども、何も手を打たない訳ではありません。スカイダイビングでも、手足をコントロールして移動したり、落下スピードを変えたりできるはずです。ましてやパラシュートを開けば、怪我なく着地する事も可能になるわけです。まずは、落下しながら「空気の粘性(例えば実態経済)」を実感しなければなりません。しかる後に下界を眺めて着地地点を定め、そこに向けての微調整を始めれば良いと思うのです。その中で、落下スピードを抑えるためには小さなパラシュート政策をいくつか組み合わせ使うことも必要です。パラシュート政策とは、たとえば、来るべきゼロ成長(またはマイナス成長)時代を見越した新しい産業(または古くからの産業の復活)を起こす事などを指します。もちろん、それらの産業の原料やエネルギーは、殆どすべてを自然(=太陽)からの恵みに頼るしかありません。そのオキテを破ると、またぞろ石油ガブ飲みの悪循環の奈落に落ちていく事になるからです。

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2010年2月 6日 (土)

1093 お急ぎペナルティ

20世紀の後半のものづくりは、実は「押し込み型」でした。どうせ経済は右肩上がりで、需要が拡大する事が大体予想できましたので、メーカーはとにかく安く大量に生産する事だけ考えていれば良かったのでした。戦後でも確かに、何度かの経済減速はありましたが、それにしても一時的なものでしたし、その都度「在庫調整」や「財政出動」などの対策をすれば、景気はやがて上向いてきたのでした。さて今後です。もちろん、潜在的には、途上国でのモノへの需要は根強いものがあるでしょう。しかし、それも環境が許す範囲内での話です。

これからの右肩下がりの時代、メーカーは出口を見ながらモノづくりをする事を余儀なくされるでしょう。そのためには、進んだ受注生産の仕組みが必要になります。今の若い世代は、多分注文してから商品が届くまでの1-2週間、ワクワクしながら配達を待つという楽しみを殆ど知らないのでないかと想像しています。したがって、受注生産というビジネス形態を経済の主流に据えるのは、結構難しいかもしれません。しかし、環境保全のためにはそれを、着実にしかも結構速やかに実現する必要があると思うのです。実例はあります。DルというPCのメーカーは、インターネット上で注文を受け付け、受注後に工場に組立て開始の情報を流します。発注者は、注文を出すときに種々のオプションを選択する必要はありますが、それなりにカスタマイズできて、不要なハードやソフトウェアの無駄も出ません。受注後、1-2週間もすれば配達されますので、買ったその日に使う必要でもなければ何の不自由もありません。

新しい受注生産システムでは、メーカーは数段階のプライスを設定するのが賢い選択でしょう。つまり、たとえば2-3日後に商品が欲しい人、1-2週間待てる人、1か月後の入手でも構わない人で、同じ商品でも売値を変える訳です。これができると、メーカーは仕事量の平準化ができ易くなるでしょうし、部品在庫の量も減らせますから、結果としてコストも下げられますし、一方でより多くの受注残が持てるので、経営も安定化するはずなのです。今の経済社会では、一物一価が基本原則ですが、どうせキャンペーン価格の設定などで、値崩れしているのですから、「お急ぎペナルティ」と「のんびりインセンティブ」の選択肢を消費者に与えることなど、何の障害にもならないでしょう。

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2010年2月 4日 (木)

1092 エンジンと燃料

今の巨大な経済システムを下から支えているのは、間違いなく安い石油であるとも言えるでしょう。もし石油が全くないと仮定すれば、貨物や旅客が海を渡るには、石炭焚きの蒸気船か帆船程度しか手段がありませんから、物流量は極端に少なくなるでしょう。その場合は、かつてはそうであった様に、貨物としては軽くて単価が非常に高い香辛料や紅茶や貴金属などしか運べないはずなのです。もちろん、食料品や日用品など運べるはずもありません。したがって、これではとても現在の巨大に膨れ上がった経済を支える事はできませんので、経済システムも自国内でしか回らず、しかも極端な地産地消に陥ってしまうでしょう。

どこをどう考えてみても、石油の供給量と値段だけが今後の社会システムの行方を決定してしまうと思われるのです。今の社会では、社会システム(例えば巨大市場)を動かすエンジンを「輸送機器産業」が作り、それを動かす燃料を「石油メジャー」が供給するという分業を行っていますが、そのいずれをも支配しているのが、他ならぬ市場自身であるという自己矛盾を抱えています。経済が右肩上がりで成長している時は、この矛盾は表面には出てきませんが、燃料(石油)切れによって経済の単調な右肩下がりのサイクルに入った場合には、この矛盾は牙をむき始めるはずなのです。私たちは、過去半世紀以上の幸福な時代にどっぷりと漬かり過ぎていて、実はその様な時代への対処方法は殆ど学習出来ていません。

エンジン(輸送手段や都市インフラなど)は確かにあるが、それを動かす燃料が心細くなる時代、私たちにはどの様な行動オプションが残されているのでしょうか。冷暖房が切れ、水道や電気も時間帯によっては止まり、また本数がめっきり少なくなって、あの「押し屋」が復活した電車を諦めて、徒歩か自転車で10-20km程度離れた職場に通勤しなければならなくなった社会を、私たちは想像を逞しくして考えてみなければならない時代だと思うのです。

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2010年2月 2日 (火)

1091 集配システム

日々高速道路や街中を走り回るトラックを見ていて絶望感に襲われます。それらのトラック群はと見ると、大部分は10数社くらいの大手運輸会社、大手物流会社、郵便会社、中小の運輸会社などが入り乱れて走り回っています。物流企業のトラックのうちコンビニ業界だけを考えても、数社のトラックが、午前と午後(夕方も?)配送を繰り返しています。これを、エリア別に単一の集配業者に業務委託したら、どれほどの無駄な走行が節約できるか、考えるだけで勿体なくて溜息が出ます。ざっと考えるだけでも半分以下には十分削減可能だと思うのです。

今走っている集配トラックが、バンの天井までぎっしり商品を積んでいるとはとても思えません。つまり、多くのトラックは「空気を運んでいる」とも言える訳です。バンの中をいくつかに仕切り、各社の荷物を積んで街中を走りまわれば、トラックの台数は少なくとも3割、うまくシステムを設計すれば、半分にすることも可能なはずです。25%のCO2削減のためには、単純にハイブリッドトラックや電気トラックを導入するという、資源と金を使う安易な方法ではなく、社会システムのソフトウェアを工夫する、頭を使ったアプローチに切り替える必要があると思うのです。

新しい集配システムには縦割りのタブーは作りません。まず集配に関わる全ての業種を、時、場所、配送量のデータを横断的に見渡す必要があるだけです。新聞配達、清涼飲料水配送、牛乳や乳飲料の配達、郵便会社、コンビニ、宅配便、一般貨物の集配などなど、いかに多くの業界が、日々一体何台のトラックやバイクや三輪バイクなどを動かしているかを考えてみるだけで、再度ため息が出ます。

さて、新しい「統合された集配システム」では、配送される製品自体が行き先情報を持っている必要があります。それにはマイクロチップ技術が不可欠でしょう。コメ粒より小さいチップをパッケージに埋め込んでおけば、その商品がどこに届けられるべきかが外から読むことができます。地域ごとにグループ化し、コンピュータが最適の集配業者と配送車に情報発信します。パッケージは、届け先では開梱後はゴミになりますので、次回配送時に配達員が引き取り、マイクロチップに従って、逆ルートで発送元へ返送する事になります。もちろんパッケージは耐久性のある材質で作りますので、最低20回程度は再使用されます。ところで、段ボール業界には申し訳ありませんが、このシステムでは段ボール箱の使用量は1/20になってしまいそうですので悪しからず・・・。

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