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2010年3月31日 (水)

1120 成仏

ガタピシ言いながらも動いてくれていたバイクについに引導を渡しました。最近は、交差点でエンジンが勝手に止まってしまう「天然アイドリングストップ機能」の環境にやさしいバイクでしたが、危ないし、振動も激しくなって、ハンドルを握る手がしびれてしまうほどになったので、仕方なく成仏してもらう事になりました。長年勤めていた企業を卒業した02年に買ったもので、丸8年以上、ほぼ毎日乗っていましたので、愛車というよりは殆ど「相棒」でした。一番遠くまで走ったのは、東北の5つの山々に登った時、青森県の岩木山まで1000kmを一気に走った時でしょうか。バイクは確かにただの機械なのですが、殆ど体の一部にもなっていた様な気がします。なぜなら、これに乗らない日は何か落ち着かないからです。

さて、ほぼ地球を2周半したこの機械は、間違いなく「廃車」という運命ですが、これだけ一緒に行動すると、何か感情移入の様なものもあります。乗り手としては、機械としての「クセ」も熟知していますし、これまで事故もなく10万キロを運んでくれた機械に感謝の心も芽生えます。この機械無しには、この間にやりたかった事、やれた事の半分くらいしか出来ていなかった様な気がします。一方、車を走らせるには何かしらのハードルがあると思うのです。車庫に行き、ドアを開けて、エンジンを掛ける。走る途中の渋滞にウンザリしながら目的では駐車場を探しますが、殆どの場合街中では車を止めるのにお金まで払う必要があります。

しかし、バイクはそれにまたがるだけですぐ走りだせます。渋滞が起こって車が動かなくなったら、仕方がないので横をすり抜けて、信号の先頭まで出ます。駐車場が無ければビルの駐輪場に止め、それも無ければ広い歩道に乗り上げて止めます。降りて押せば歩行者として横断歩道だって渡れます。高速道路では、どこのSAPAでも、親切にも屋根つきの駐輪場がトイレのすぐ前に作ってあり、雨に濡れずに利用できます。もちろん、これは身障者用の駐車スペースを作るついでに、その横に作ってくれたのでしょうが、いずれにしても助かります。

さて、1リットルの燃料で30km以上走ってくれて、これほど便利な乗り物が、この狭い国でドンドン台数が減っている事には大いに疑問を感じざるを得ません。大手の二輪メーカーも、その生産規模を着実に縮小し続けています。もちろん投稿者は、次の乗り物もバイクに決めています。程度の良い中古車が見つかったので、今後67年はこれに乗り続け、その後は時間的な余裕もできる筈ですから、最後は自転車に乗り換える事に決めています。相棒に合掌・・・です。

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2010年3月29日 (月)

1119 境界線

契約の事や、前にも書いた人工環境と自然の関係から、境界線の事が気になってきました。境界線とは、性質の異なる二者を分ける境を指しますが、そもそも人間が住む環境と自然界の間に境界は無かった筈です。ヒトは、森から出た後も、毛の少ない裸のままでは野山で眠る事も苦手だった事でしょう。生物種の一つに過ぎなかった「ヒト」が「人間」になったのは、衣服をまとい、小屋を建てて「人」と「自然界」との「間」に、境界線を作った事に始まった様な気がします。そういえば、これが「人間」という字の起源であるかどうかは確かめてはいませんが、その本質を言い当てているのかも知れません。

さて境界線が線である間は、それほどの問題にはならないでしょう。人間が国境を勝手に引いても、植物の種子や動物は勝手にその境界線を無視して動き回る事でしょう。しかし、鉄条網や向うが見通せない壁を築いた境界は、大型動物や人間自身には、決定的な移動の「壁」になってしまいます。日本型の境界は、しかし緩いものであった筈です。日本の「くにざかい」は、勝手に引いた線ではなく、川や山々の稜線となっていました。それらは、人の移動をかなりの程度阻むものでしたので、それなりに境界の意味をもつ境でもありました。生活の中でも、人間の生活と自然との間には、可能な限り自然を取り込み、自然に包まれた生活を是としていたのでした。街中の住居にさえ坪庭などの工夫で自然を取り込んでいましたし、何よりごく普通の山里の生活こそ、自然の中にほぼ溶け合ったものだった筈です。それが、如何に平和で「ココロ豊かな」生活であるかは、そこに住む殆どのお年寄りが、不便に耐えてでもそこを決して離れたがらない事からも容易に想像できます。

多分、人間が自然を離れて都市を築き、コンクリートの「巣」を作った事は間違いだったのでしょう。境界を築くと、それを挟んで争い事が起こるものです。共通の原始宗教から派生し、聖地を共有する宗教派閥が、いまも血で血を洗う争いを繰り返している事は何を物語るのか、じっくり考えてみなければならないでしょう。それに比べれば、自然という神様の前では、殿様も農民も平等に振る舞う必要があるこの国の宗教のなんと平和な事でしょう。自然と人間が住む里との間に、里山という緩やかで幅のある境を置いた先人の、なんと素晴らしい事でしょう。あらゆる境界線を意識して、それを無くす努力を要求する「バリアフリー」は、単に障害を持つ人たちに向けられた言葉ではなく、実は普遍的でしかも最も重要なKWではないかと、あらためて噛みしめています。

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2010年3月27日 (土)

1118 契約社会

「日本は契約社会か」、と問われれば、多分前世紀末まではそうではありませんでした、という答えになりそうです。例えば、この国では企業主と従業員の関係は、単なる雇用主と雇い人の関係ではなく、もっとウェットで密な関係を持っていたような気がします。投稿者も、学校を卒業して、会社に入る際、確かに雇用契約書にサインはしたはずですが、全くそれを意識する事はありませんでした。

しかし、今やまったく事情は変わってきました。能力主義や成果(評価)主義の導入、現代版「人入れ稼業」である人材派遣や契約社員の増加で、少なくとも企業側の「温情主義(的なムード)」や社員側の「忠誠心(的なもの)」はすっかり影をひそめてしまったと想像しています。(現在は自由業なので、時々訪問する企業の雰囲気で感じるだけですが・・・。)規模の小さな中小企業では、もちろん家族的雰囲気は残っていますが、そんな企業でさえ人材派遣や契約社員に頼らざるを得ない状況に追い込まれています。ましてや中堅企業においておや、でしょう。

契約社会の負の側面は明らかです。契約書に書かれている事は、絶対に守らなければなりませんが、それに書いていない事までやらされる事には、確実に抵抗できます。逆に言えば、企業も社員も、契約外の事には見向きもしなくて済む訳です。つまりは、契約書を挟んで甲と乙の間には明確な線が引かれているのが契約社会の本質だと言えます。20世紀(とりわけ昭和の社会習慣)では、両者がこの境界線上の空白部分を、温情や忠誠心で埋め合わせて、労使一体の企業経営が出来ていたと思うのです。それは、さながら機械における潤滑剤の役目を果たしていたのだとも言えるでしょう。残念ながら、今の社会の仕組みの中には、この種の潤滑剤がますます消えつつあり、結果としての無味乾燥社会あるいはギクシャク社会へ突き進みつつある、と結論せざるを得ません。契約書で最も重要な事は、実は本文に書いてあるのではなく、前文で述べる契約の背景(精神)や契約文の行間(Context)でなければならないのだ、と強調しておきます。

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2010年3月25日 (木)

1117 食物連鎖

さて一般的には、食物連鎖の上位に立つ生き物ほど「一応生物学的」には高度の進化を遂げたと言えるでしょう。恐竜もマンモスも居なくなった地球上では、今やヒトが生物の頂点に君臨して居るように見えます。現在の地球上で最大の哺乳動物であるクジラでさえ、かなりの長期間に渡ってヒトの食糧やランプの燃料にされてきました。海の暴れ者であるサメでさえも、フカヒレへの強い需要のために乱獲され、激減しているとか。

ヒトを例外にすれば、全ての生物は、かなり厳密でかつ繊細な食物連鎖の仕組みの中で、その存続が成り立っています。食物連鎖のスタート点は、植物プランクトンや樹木や草本などのいわゆる植物全般です。それらを、餌とする動物プランクトンや小魚、あるいは昆虫、小動物、草食動物などが食物連鎖の比較的底辺を形成しているでしょう。それらを捕食する、大型魚や鳥、肉食動物などがその上に座っている筈です。さて、私たちヒトは、これら殆ど全ての食物連鎖から、無差別かつ自由自在に食糧を得て、食い散らかしてきました。もちろん、そうなったのは比較的近年の事かも知れません。この国でも、かつては、日常の食生活では米飯+一汁一菜+魚程度で済ましていたでしょうから、基本的には草食系だった筈です。しかし、肉汁のうま味に目覚めてしまった人々は、いまや世界中の草原だけでは足りないため、ジャンブルまで開拓して家畜を放牧しています。

さて、食物連鎖の頂点に立つヒトといえども、実はこの食物連鎖からは逃れられません。ヒトの命が終わると、その体は、土葬の国々では土中の微生物や昆虫の「エサ」となって分解され、火葬の国々では、空気中の二酸化炭素や窒素酸化物などの「風」になって空中に飛散し、直接的に植物光合成の「エサ」となって植物に取り込まれるか、あるいは雨水に取り込まれて、プランクトンや植物の根から取り込まれて、食物連鎖の底辺に戻るのです。投稿者としては、しかし、自分もこの食物連鎖の鎖に取り込まれている事に、何故か安らぎを感じてしまいます。

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2010年3月23日 (火)

1116 経済騒動

ヨーロッパ経済が、Gリシャの経済破綻が震源となってかなりの震度で揺れています。もちろん、財布の中身に相談しないで、景気高揚のために財政を大盤振る舞いした政府にも大きな責任はありますが、一方でその弱みにつけ込んで、国の経済を激しくゆらした揺さぶった張本人は他に居そうです。つまり、機関投資家と呼ばれるマネー集団が、高い値が付いている間にGリシャの国債を売り抜き、結果として暴落した値で買い戻せば、その利ザヤが懐に入ります。日本の様に経済規模も借金も、非常に大きな規模となっている国では、この手はあまり効きませんが、小国であれば、ソコソコの資金力さえあれば、結構激しい揺さぶりは掛けられるでしょう。一つの機関投資家が事を起こすと、コンピュータシステムの「指示」に従って、瞬時に他の投資家も追随せざるを得ないのが昨今の事情です。ヨーロッパの通貨が持っていた「信用力」は、この数カ月で結局1割程度は目減りしてしまった勘定です。

今回の騒動の直接の原因が何であったにせよ、この騒動を利用してかなり儲けたグループと、同じ程度の損失を出したグループに分かれた事でしょう。あまりに損失が大きくて連鎖反応が想定される様な金融機関の損失に対しては、またぞろどこかの国が税金を投じて救済策を打たざるを得ません。かくして、騒動は繰り返され、投資集団は次なる獲物を狙って牙を研いでいる事でしょう。獲物には事欠きません。ヨーロッパにはPルトガルもSペインも残っていますし、もっと大物を狙いたければ、日本なども結構歯ごたえはありますが、獲物となってもおかしくはない経済状況でしょう。

経済活動は、結構微妙な信用バランスの上に構築されていますから、その信用を突き崩す「小さなキッカケ」さえ作ってやれば、結構この国の経済の構えも脆いものかも知れません。少なくとも、この様な経済騒動が何回か起こってしまうと、信用という「人の心の中に築かれた土台」は、結構短期間の内に、それもあまり意識されないで脆くなってしまうものの様です。それは、下を見ないでドンドン木登りをした子供が、ふと下を眺めた途端に、手足がすくんでしまう状況にも似ています。

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2010年3月21日 (日)

1115 レバレージ

この十年近く戦友として走り回ってきたバイクが死にそうです。低速で走ると、ハンドルを握っている手が振動病(昔は白蝋病と呼んでいました)になりそうなくらいしびれます。距離計は10万キロに迫っていますからほぼ地球を2周半した計算になります。この間焚いた燃料を計算してみると、ドラム缶で15本程度にはなりそうですから、環境坊主としては忸怩たる数字です。そこで、それだけの燃料を焚いて、外に向かって一体どれだけの啓発を行い、結果としてどれだけCO2の削減に寄与出来たか、一度振り返ってみる必事にします。投稿者が焚いた3,000リットルのガソリンからは、既に3000*2.36900kg(約7トン)のCO2が発生してしまいました。走った年数で割って一年間に換算すると、約1トン程度になります。これは、平均的な家庭のCO2排出量の半年分程度には相当しそうです。

さて、これまで、何社の企業に省エネ指導を行い、何人の人を対象に出前講座を行ったかを、ざっとカウントしてみると、多分企業数は20社以上、出前講座では、小学生から高齢者大学まで多分2000人は下回らない様な気がします。中小企業では、平均的には毎月20,00030, 000kwh、多い場合は50, 000kwh程度の電力を使い、さらにその半分か1/3程度の化石燃料も消費しています。簡単にするために、平均的に毎月30,000kwh相当の電力消費だけでCO2の全てを排出していると仮定すると、1年間では30000*0.455*12163800kg160トン)のCO2を出しながら事業を営んで計算になります。企業にはかなり厳しく指導した積りなので、少なく見ても5%の省エネは達成してくれている筈です。つまり1社当たりでは、年間8トン余り、20社合計で160トン-CO2を毎年削減してくれたものと推計出来そうです。一方、投稿者の出前講座を聞いてくれた2000人が、家に帰って省エネの重要性を家族に話し、早速省エネに取り組んでくれて、年平均2,000kg排出しているCO22%削減してくれたと仮定すると、合計で80トン-CO2/年程度は削減出来た可能性があります。

自分で年間1トンのCO2を出して、活動の結果240トン弱のCO2削減につながっているのであれば、レバレージ(倍率)は240倍なので、一応満足すべきなのかも知れません。もし、大師様や芭蕉の様に「徒歩で行脚」して上記の結果を出せたのであれば、レバレージは無限大になります。生活の事を考えないで済むのであれば、実は徒歩か自転車での「環境行脚」こそが環境坊主を自認している投稿者の理想なのですが…。

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2010年3月19日 (金)

1114 アメ=ムチ

家電や車に加えて、住宅にもエコポイントが設定されました。いわゆるアメ(インセンティブ)ですが、アメは、実はムチとの合わせ技でこそその効果が倍増するものだと言えます。景気が悪いこの時期にムチ(ペナルティ)は課しにくいと、行政は思っているのでしょうが、冷静に眺めてこの先景気が急速に回復する見込みはないと、経済素人の投稿者ですら、断言しても良いと言い切れます。したがって、インセンティブを与えるなら、その財源として一方で同じ規模のペナルティを課さなければならないと思うのです。そうでなければ、インセンティブは将来世代からの単なる借金で終わってしまうからです。

ではどこにペナルティを課すべきかですが、どう考えても環境負荷全般に、広く薄く網を掛けざるを得ないでしょう。あらゆる再生不可能なエネルギーの消費にも、ゴミにも、緑地の開発にも、水道や下水道の使用にも、森林破壊の結果としての外材にも、宇宙開発のロケット燃料にも、化石水や農業機械に依存した環境破壊食糧にも、環境ペナルティの網を被せるべきだと思うのです。

そこで得られた原資は、徹底的に目的を環境改善に絞って注ぎ込まれなければなりません。う上で述べたペナルティとは、すなわち環境税という完全な目的税だからです。お金には色が付いてないが故に、これまでどれほどのお金が無為に使われた事でしょう。出処がはっきりしたお金を、訳のわからない使い道に振り分けるのに、どれほど多くのお役人を必要としたのかを思い返せば、環境税がほぼ自動的に環境保全の目的に使われる、効率的な社会システムこそが求められます。一度国庫に入れたてからばらまくのではなく、お店のレジでインセンティブとペナルティが相殺できる仕組みが一つの理想形でしょう。そして、レシートに「あなたのインセンティブは~円です」あるいは、「あなたのペナルティは~円です」と印字されるのがベストです。最高の効果を上げるためには、人々は、日々ペナルティとインセンティブを実感する必要があるからです。

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2010年3月17日 (水)

1113 何は無くてもFS

T社の車は、やはり本来の意味のフェイルセーフ(FS)にはなっていなかった様です。コンピュータがどう暴走し、アクセルペダルがどうマットに引っかかったにせよ、ドライバーが強くブレーキを踏んだ場合、エンジンは止まり、車も停止する必要があります。ブレーキペダルは、その意味では制動の仕組みではありますが、同時に緊急停止装置でもあるわけです。今の車は、たまたまこれを兼用させているに過ぎないと考えるべきなのです。

この種のトラブルで思い出されるのは、名古屋空港で起こったC華航空機の悲惨な墜落事故です。あの時に起こった現象は、自動操縦を解除しないままに行ったパイロットの下げ舵の操作に、モードが自動のままになっていたコンピュータが「反発」し、水平尾翼全体を上げ舵に動かしてしまった事が原因だったのです。つまり、Aアバス機のコンピュータは、直陸の最終段階に行ったパイロットの緊急回避操作は、「プログラム上はあり得ない」と勝手に判断してしまったのでした。結果、この機体は通常の操縦では起こり得ない角度で急上昇し、結果としては失速して尾翼側から墜落したのでした。

航空機の墜落や車の暴走は、操縦者が失神したり、残念ながら急死してしまったりした時以外は、基本的にはあってならない事で、増してそれがハードウエアの設計思想に起因するものであっては絶対ならない筈です。さらに理想的なFS思想では、操縦者の単純な勘違いや操作ミスを、機械側がカバーするものであって貰いたいとも思うのです。例えば、コンビニの前で、運転者が(ブレーキを踏んだ積りで)急にアクセルを踏んでも、機械は「このような急激なアクセル操作はあり得ない、何かの間違いだ」と判断して、エンジンを止め、赤ランプを点けて貰いたい訳です。ブレーキは危険が迫った場合に強く踏む場合がありますが、低いギヤ位置にある場合、暴走族でもない限り、床までアクセルを踏み込む事は全くあり得ない操作なのです。車が運転者の意志に反して勝手に止まった場合、運が悪ければコツンと追突される事はあるかも知れませんが、少なくとも暴走して道路を飛び出すとか、コンビニに突っ込んで買い物客を巻き込むなどの、大事故は防げると思うのです。車の設計者には、是非考えられるだけの故障ケース(Failure Case)や誤操作を想定し、事故回避の仕組みを設計思想の中心に組み込んで貰いたいのです。

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2010年3月15日 (月)

1112 エネルギー考2

エネルギーの本質について、少し書き足りない様な気がしてきました。エネルギーの伝わり方としては、殆どの場合が波長の異なる電磁波であると書きましたが、これ以外の場合を考えると、水の流れや風などの物理的な流れ、あるいは化学的な反応熱、導体の中を流れる電流などしか思いつきません。エネルギーは流れ(フロー)であるとも書きましたが、もっと本質的には、エネルギーは物質振動と言えるのではないかとも思うのです。絶対零度でもない限り、全ての物質は(個体も液体も気体も)個体振動やブラウン運動を繰り返しています。分子や原子たちが動かざるを得ない様に駆り立てている根源こそエネルギーの本質ではないか、と感じている次第です。原子を構成する要素である電子も、ある「しきい値」となっているエネルギーレベルを超えると、遊離電子となって導体の中で動きまわります。それを集めれば、太陽光発電などの仕組みで、エネルギーとしての電流を得る事が出来ます。太陽光発電の場合、電子にしきい値を超えさせるエネルギーの大元は、波長が短く強力なエネルギーを持つ太陽光という事になります。

一方、発電所においては、電子を突き動かすエネルギー源は、発電機の回転子が作る強力な磁場という事になります。その回転子を動かすエネルギーの更なる大元は、ダムに貯めた水の流れ(フロー)や化石燃料を燃やして作られた蒸気の流れ(フロー)となる訳です。ここで、さらに突っ込んで考えを巡らせれば、そもそもこれらのエネルギーは誰が作りだした訳でもなく、元々天体の中に仕込まれていたものであったという事実に気が付きます。つまり、全てのエネルギーは「天体力」であるとも言い換えられると思うのです。石油も石炭も、太古の太陽光で作られ地下に貯めこまれた太陽力でしたし、原子力も地球を構成する元素の一部として既に埋め込まれていた天体力でした。

つまりは、全てのエネルギーは、例えば太陽系では、この系が生まれて年をとる間に流れて消え去る母なる太陽からの、大量の「エネルギーの本質」の流れ(フロー)のホンの一部の恵みのそのまたお零れを、私たちはありがたく頂いている、という構図になりそうです。でもやっぱり残念ながら、そのエネルギーの本質を「見る」事は神ならぬ人間には到底出来そうもありません。

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2010年3月13日 (土)

1111 グリーンビジネス

グリーンビジネスという言葉がマスコミで飛び跳ね始めています。では、何を指してそう呼ぶのか、という定義については、実は結構あいまいなままに見えます。そこで、大胆にもここではその定義を試みようと思います。投稿者なりの定義では、単なるリサイクルの拡大や省エネルギー製品の製造や販売はグリーンビジネスとは呼びたくはありません。勝手に「エコビジネス」とか、「省エネ製品」とか呼んでくれれば良いでしょう。

本来の意味のグリーンビジネスとは、原料と製造プロセスに関わるエネルギーが、殆ど全てが「持続可能性のチェック」をパスする必要があると思うのです。まず原料について言えば、それらは基本的には殆どが太陽光と土と水から作られている必要があります。つまりは、植物や木材である必要があります。例えば、上手く計画して植林と伐採を繰り返せば、一定量の木材は持続可能な原料になり得ます。リサイクル可能な金属は、少量なら必要悪として認める事にしましょう。また持続可能なエネルギー源としては、これもやはり太陽光(熱)や、そこから派生した風力や水力である必要があります。人力は、これを積極的に使う必要があります。最小限の畜力も場合によっては許されるでしょう。

しかし、これでは道具や家具や精々頑張っても家くらいしか作れないのではないかという突っ込みが来そうですが、決してそうではありません。畜力と人力と木材や土石しか手に入らない時代にも、巨大な建築物が築かれているからです。ピラミッドや万里の長城や中南米の天空の遺跡、日本の「古の出雲大社」や法隆寺などに見られる「木造高層建造物」などを例に引くまでもないでしょう。現代の建造物との圧倒的な違いは、投入されるエネルギーの質と建設に要する時間の長さなのです。数か月か長くても数年程度で「あわてて」建設される現代の建造物に対し、数十年長い場合では、数世代に亘ってコツコツと建設され続ける古代建造物という時間軸の長さが、圧倒的な違いなのです。その意味で、グリーンビジネスも、同様に時間軸を引き延ばして考えてみる必要があると思うのです。種蒔きは今の世代が行い、収穫は次世代に譲る、という程度には時間軸を伸ばして考える必要があるかもしれません。手本にすべき事実として、私たちのご先祖様は、食うや食わずの生活の中でさえ、私たち子孫のためにコツコツと開墾と治山治水を行い、美しい棚田を残してくれたではありませんか。海の向うでも、石と木材と少量の金属と布で、立派なオランダ風車が建設され、その力で水を汲み上げて干拓し、湿地帯を豊かな牧草地や畑に変えてもくれたではありませんか。

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2010年3月11日 (木)

1110 蛇行

川は自然のまま放っておけば必ず蛇行します。その蛇行は、川の傾斜が緩くなる平野部で極端になってしまいます。例えば石狩川をG-グルアースで眺めてみると、見事な蛇行が観察できるでしょう。しかし、この国や多くの国々では、増えた人口を養うため、川沿いの「遊水地」にまで街を作らざるを得なかったので、ダムや堤防などの治水工事で暴れ水を抑え込まざるを得ませんでした。しかし、治水工事の最大の過ちは「川の直線化工事」だったと言うしかないでしょう。

時々水を溢れさせて、豊かな湿原を作ってきた川の例は、例えば釧路川と釧路湿原だけではないはずです。ダムが無く、自然に蛇行している川は、鉄分が多く滋養豊かな山土を里に運び降ろしてくれますし、結果として豊かな海中の海藻林や白砂青松の砂浜もプレゼントしてもくれました。それに気がついた北海道の行政は、まだ試験的ですが、一度直線化された釧路川の蛇行を復元する工事を行っています。瀬や淀みが連続する流れや、葦原の河岸は豊かな生態を生み出します。幻の魚と呼ばれるイトウもこうした環境でのみ安住できるはずです。蛇行した川は、時々横溢し、湿原の生態も維持してくれます。湿原では、河岸以上に多数の固有の植物相や昆虫、動物相が観察されます。

投稿者の見方は、ある環境と別の環境の境界域こそ、生物進化や多様性の発現の原動力だ、というものです。水辺と陸地の境界でこそ、魚(水棲生物)が陸に進出する機会を得たはずですし、その後の進化の歴史では、森と草原の境でこそ類人猿はヒトになり得たのでしょう。その意味で、都市と天然自然の間には、出来るだけ滑らかなグラデーションを持つ、半人工(半自然)の緩衝ベルトが必要だと思っています。それは、かつては街の郊外に広がっていた河原や氾濫原(遊水地)や野原であり、あるいは農地と山地の間の里山だったのでしょう。しかし、気がついてみれば都市と自然の境界は、川や海岸のコンクリート護岸であり、山際まで土を削って開発された結果としての、コンクリートよう壁になっていたのでした。これに歯止めを掛けるためには、M主党のキャッチフレーズをパクッて表現すれば「コンクリートから半自然へ」となるのでしょうか。

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2010年3月 9日 (火)

1109 人エネルギー

エネルギーのイメージを敷衍すれば、そのまま人間社会にも当てはまりそうな気がします。人の移動や文化の交流も、まさに電流か熱の移動と同じ本質を持っている様にも見えるのです。勿論人間の場合、文化の違いを考えれば、物理量の様にポテンシャルが高い低いなどという議論が出来る訳もありません。そうではなくて、人の行き来や接触によって初めて、その人の持つポテンシャルが顕在化してくると思うのです。人間は考える存在であると同時に、刺激の種類によっては考えられないくらい強いレベルの喜びを感ずる存在でもあります。それを脳内ホルモンの分泌で説明しようとする向きもありますが、いずれにしても人間の欲望に基づく行動の内でも最強のものになり得るとは思います。とりわけ、人の役に立ったと感ずる「効力感」にこそその本質がある、と投稿者は信じています。

一人の人間の力はしかし全く非力です。それが、数人、数十人と集まった時にこそ、そのポテンシャルが引き出されるのだと思います。昔の仕組みですが、地域には「結い」という集落単位の集まりがありました。例えば、数十年に一度とは言え、傾斜のきつい茅葺屋根の葺き替えは、この結いの仕組みなしには全く考えられません。萱場での萱刈り、萱小屋での乾燥から始まり、古い萱屋根の解体、葺き替えや縄による結束は、多数の「結い」構成員の共同作業でしか完遂できない訳です。

人々が持つエネルギーの総和を(個々人の持つポテンシャル*その交流度合い*その回数)で表現できると仮定すれば、人の交流の非常に少ない砂漠や草原やジャングルの国々と、この国を比較してみれば、戦後の短期間のうちに「一応」先進国の仲間入りを果たした、そのマンパワーの源が理解できそうな気もするのです。これをもっと単純に、「人力=人圧*人流」とでも書いて、オームさんの向うを張って「人力の法則」にでもしてみましょうか。人力の法則になりそうな証拠としては、例えば「団塊パワー」や「中国・インドパワー」を挙げる事が出来ます。

さて、ホンの十数年前までの古き良き日本企業の風土には、この結いの精神が流れていたように思いだされます。だからこそ、企業と社員の一体感が醸成され、家族的な会社組織が存在し得たのでしょう。効率優先主義や能力主義の名のもとに、個々に分断されてしまった企業人たちが、そのポテンシャルを発揮できないまま、孤独に陥っている様に見える今の姿には、割り切れないものを感じます。

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2010年3月 7日 (日)

1108 エネルギー考

エネルギーの本質について時々(というよりしょっちゅう)考えます。その重要な本質として、エネルギーは流れ(フロー)であるという点があります。身近で観測できるエネルギーの流れとしては、電子の流れ(電流)と熱の流れ更には電磁波(赤外線や光など)によるエネルギー移動程度しかありません。電子の流れを別にすれば、熱エネルギーの本質は分子(原子)振動であり、その振動の結果として電磁波(可視光も紫外線も赤外線も電波も全て電磁波です)を発していると言えるでしょう。

電子の流れは、電流計等の簡単な計器で測定する事が出来ます。しかし、電磁波の流れはどうでしょうか。人間が、感覚器(目や温点)で感ずる事が出来る電磁波は、可視光と赤外線の一部に限定されます。例えば、焚き火に近づいた場合、赤い炎が見え、手をかざせば赤外線の放射を感ずることはできますが、その大きさや流れそのものを感ずることまではできません。エネルギーの量は、そのポテンシャルの高さ(電気で言えば電圧)と、流れの太さと速さの度合い(同じく電気で言う電圧)の積になります。私たちは、熱エネルギーでのポテンシャル(温度)は比較的容易に計測できますが、熱エネルギーの流れを検知する有効な機器を殆ど持っていません。

したがって、私たちはそれ(熱エネルギーの流れ)には非常に鈍感にならざるを得ないのです。直接的に熱の流れを計る手段としては「熱貫流計」がありますが、あまり使い勝手が良い訳ではありません。そこで、投稿者は「熱の尻尾」をつかむ事を考えました。それをつかむ計器としては、例えば「サーモグラフィー」や放射温度計があります。これらを使えば、熱エネルギーが逃げ出す場所を特定する事が出来ます。加熱炉で言えば、断熱材が傷んでいる個所からは、多くの熱が逃げ出し、外壁の温度が他の場所より表面温度は高くなっているはずです。

もっと身近なエネルギーの流れもあります。それは水の流れや空気の流れです。水は透明ですが、空気との屈折率の違いで「見る」事が可能ですし、空気の流れは風車や手のひらや濡らした指先で「感ずる」事も可能です。そう考えると、エネルギーの可視化で一番遅れているのは、電磁波の流れを「見る」仕掛けだと結論できます。だれか是非これを発明してください。大儲けできる事を請け合います。少なくとも、投稿者は1台だけですが購入予約を入れます。

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2010年3月 5日 (金)

1107 製品の色分け

いま多くのメーカーでは、今後何を作っていけば良いのか悩んでいる様です。何を作っても売れないこの時代、その悩みもいたしかたないのかも知れません。しかし、数年のレンジ(あるいはバブル崩壊以降の十数年レンジ)だけを眺めた、近視眼的なものの見方で結論を出すのは、あまりに早計と言わざるを得ません。投稿者の様に、数歩下がって視点を引いて眺めてみれば、見えてくるものは同じででも、そこから感じられる時代の流れや、背景が透かして見えてくると思うのです。

既に現役を退いた人たちも、徒に新聞を舐めるように読み、書店やホームセンターを冷やかし、さらには長い散歩などに貴重な一日を費やさずに、自由な時間が出来たのを機に、自分たちの来し方と、子や孫たちの行く末を(一歩引いた立場で)改めて考えてもらいたいとも思うのです。その中で、自分たちが本当に必要とするモノ(青)と、あればあったで便利なモノ(黄)と、別に無くても全く困らないモノ=例えばブーム製品(赤)に、あらゆるモノ共や仕組みを仕分け(色分け)してみて貰いたいのです。人が生きていく上で本当に必要とするモノは、どんな時代になってもやはり必要なのです。しかし、あれば便利なモノ共は、来るべき時代には消えていくべき運命にあります。

メーカーは、「さて当社の製品は、上の色分けで行けば何色製品なのか」をじっくりと考えてみて欲しいのです。その結果、青であれば今の路線で良いのでしょうが、黄や橙や赤であったり、あるいは青なのだけれど黄に近い黄緑であったりしたなら、それを可能な限り本当の青に近づける努力を傾けるべきなのでしょう。そのためには、「必要でかつ十分な製品機能」の見極めを行い、機能の冗長や無駄を省き、原材料や製造プロセスに省資源や省エネの考え方を織り込んで、製品の色を限りなく青色に戻す必要があると思うのです。青色製品は、どんな時代になっても社会から要請され続けますから、黄赤製品の様にパッタリと売れなくなって、企業存続が危うくなる筈もないのです。

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2010年3月 3日 (水)

1106 タガ

技術屋を卒業して強く感じるのは、「技術はタガ(縛り)である」という事です。人間が持つ夢は、無限で自由ですが、一面非常にワガママでもあります。その多くのワガママを、これまでは科学・技術が時間を掛けて、あるいは急速に実現してきたのでした。1980年代に重たい「ポータブル電話」が出現した時、あるいは1990年代にMS-DOSに代わってWインドウズ95が出た時、誰が今日の携帯電話やPCの性能向上や、いま使われている状況を想像していたでしょうか。電子技術者は、重さのタガ、メモリーやCPU速度のタガを次々に広げ・外してきたのでした。

しかし、今私たちは新たな、しかも最終的なタガを嵌められつつあると考えなければならないでしょう。そのタガを「持続可能性のタガ」と呼ぶ事にします。いくら素晴らしい技術であっても、それを作るため、あるいは運用するために、莫大なエネルギーを必要とするものであれば、エネルギー源の枯渇により、やがて動かないガジェット(からくり)になってしまうでしょう。宇宙ステーションも、そんな技術の一つかも知れません。と言うよりも、私たちは、この地球上で植物や他の生物に支えられて生きるしかない、という「地球のタガ」からは絶対に踏み出せないと思うのです。今後の技術のタガを考えるにつけ、「持続可能性のタガ」と「地上に張り付いて生きる」というタガを緩めたり外したりして考える事はできません。投稿者が、20世紀と21世紀の境目で、航空機産業の技術屋を卒業して環境屋になったのも、今にして思えばその様な直感が働いたのだと思っています。

今後とも、いわゆる「ものづくり」に関わる企業や技術者は、技術に強く嵌められつつある強力なタガを意識せずには居られない時代になりつつあります。それは単なる、省エネや省資源といった掛け声では解決できず、各種の技術や企業自体の存在価値が問われる事態だと覚悟を決める必要があると思うのです。なぜなら、持続可能でない技術や化石エネルギーを多量に使う(タガの外れた)ビジネスモデルは、遅かれ早かれ消滅する運命にあるからです。

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2010年3月 1日 (月)

1105 電車発進

省エネドライブのテクニックの一つは、「ふんわりスタート・ジワジワ加速」です。市街地走行の場合、実に燃料の約4割が発進・加速時に消費されますから、それも頷けます。さて、それではどの程度の加速度(G)であれば「ふんわり」なのかですが、時速20kmまで5秒、40kmまで10秒が一応の基準といわれていますが、そんな数字で言われてもなかなか身につきません。投稿者はこれまで、臨月間近い妊婦さんや生まれたての赤ん坊が、助手席でスヤスヤ眠っていると想像して車を運転する「マタニティドライブ」を推奨してきましたが、残念ながらそんな経験の無い人や遠い記憶しかない人達にはこれもあまりピンとこない様です。

最近ですが、実は「電車の加速度」がこの理想に近い事に気がつきました。それもそのはずで、電車の運転手は、まさにその加速度を身につけるために、非常に長い時間訓練を受けたはずなのです。もし、規定以上の急加速をして、まだ吊革に掴まっていない乗客が将棋倒しにでもなったとしたら、その運転手は罰金ものか、しばらくの間は乗務停止になる事は間違いないからです。上手な運転手が加速する場合、吊革にぶら下がらなくても乗客は「オットット」状態にならずに乗っていられるはずです。車であっても、後の座席で前を良く見ようと、小さい子が立っている事を想像し、その子が加速でペタンと座ってしまわない様に、やさしく加速すれば良いのです。

考えてみれば、電車は鉄の塊であり、慣性が非常に大きいので、馬力の大きなエンジンやモーターを備えていても、車の様な急加速は元々無理なのです。その意味では、今の車の馬力は大き過ぎるとも言えるでしょう。元技術屋のヤマ感で言えば、今の半分程度の馬力でも市街地走行や100km/時程度の高速道路走行であれば十分なはずです。車体を徹底的に軽くして、エンジン馬力を低く抑えれば、何もシステムがややこしくて重くて「時にはアブナイ」HVや、バカ高いEVFCVなど作らなくても、今の倍以上の燃費改善は可能なはずです。というより、今の車の開発技術者は、少なくともリッター当たり50km以上、望ましくは100km走れる車を開発する使命を負っているとも思うのです。

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