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2010年4月29日 (木)

1135 エアロゾル

文字だけの地味なブログですが、長い間書いているだけに、どうやら最近50,000アクセスに達した様です。

さて、北の島の、舌を噛みそうな名前の火山の噴火で、今後大気中のエアロゾルの増加が懸念されます。花粉化石の調査などから、長期間に渡る地球の気温の変化が明らかにされてきましたが、この数百年ほどを見ても、明らかに年較差に比べて大きく気温が下がっている時期が観測されます。その殆どは、火山活動の活発化による、大気中のエアロゾルの増加、結果としての短期的寒冷化現象だと思われます。もちろん、太古まで遡れば、巨大隕石の落下・爆発による大量のエアロゾル発生と、急激な気温低下によって、生物の大絶滅が起こったとの仮説は、最近の研究で、はっきりと証明されました。

エアロゾルの正体は、非常に細かく長い期間に亘って落下しない微粒子や、火山ガスの成分が溶け込んだ細かい水滴(ミスト)などです。それらは、それぞれの大きさにより太陽光に含まれる特定の波長の光を遮りますので、地表に到達する太陽光のエネルギーが、ホンの僅かですが弱まります。空気中の水蒸気(湿度)が下がっただけでも、明け方の放射冷却現象が起きたり、逆に湿度が高いと、気温が下がらず熱帯夜になったりするほど微妙な気象現象ですから、エアロゾルの増加は、天変地異と呼んでも良い様な異常気象を引き起こします。有史以降の、冷害や大飢饉によるいくつかの文明の消滅も、その原因の多くは火山活動の結果が引き起こしたものだと考えられます。

火山活動によるエアロゾルの増加とその影響は、火山活動の規模にもよりますが、数年程度は続く場合があります。今度の北の島の火山が、定量的にどの程度の噴出物を出したかは今後の調査に待つしかありませんが、温暖化と冷涼化が同時に現われて、温暖化防止に向けた行動が混乱する事がない様にしたいものです。

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2010年4月28日 (水)

1134 循環の原動力

この数回の投稿で書いた「循環シリーズ」の、サイクルを回している原動力は、いわずもがなですが「お天道様」です。彼の国の太陽神ではありませんが、何しろこの太陽系では一番偉い存在ですので、やはり「様」を付けざるを得ません。北の島のたった一個の小さな火山の活動で、右往左往させられるこの地球上で、お天道様が、多少の黒点活動の消長はあるにしても、地球を含む惑星たちを、機嫌良く照らし続けてくれている事に関しては、感謝以外の何物も湧いてきません。初日の出ではなくとも、やはり手を合わせたくなります。農業が主要な産業であった、戦前のこの国で、村々の人たちが、村の東にある(朝日が昇る)山に、神様が鎮座ましまして、太陽を毎日引っ張り上げて?くれている事に感謝し、東の方角や山の頂に社を建てて崇めたとしても、何の不思議もありません。

その行動や感情を、シャーマニズムといった宗教的な言葉で切り捨てるべきではないでしょう。それはお天道様に生かして貰っているという内面の感謝のココロであり、宗教以前の、例えば子供が母親に持つ感情にも近いと言えるかも知れません。自分たちの先祖を育み、自分達を生かし、あるいは自分達の子孫を守ってくれるであろう、お天道様や自然に感謝し、それを崇めるのは、むしろ自然の子である人間としては、極々自然の行動なのだと思っています。

それにつけても、自然の循環に使われる物質の、なんとありふれている事でしょう。HNCPKFeMgAlなどなど。というよりも、これらの地球上にありふれた物質を上手く使いこなすように、気の遠くなる様な長い年月を掛けて、植物が進化し、それに100%依存する形で、我々動物も「共進化」してきたとしか思えないのです。

数日前の新聞に、太陽の表面で時々観察される、炎の環の写真が掲載され、その環の中に地球が何十個も入る大きさである事が紹介されていましたが、地球は確かの太陽の何番目かの子供であり、私たちはその地球に育まれ、その上に一瞬だけ生きる事を許された、はかない存在だと思えば、人類が高々数千年の短い年月で作ってきた文明の誇りや奢りなどというものは、大自然から見れば実はチリ・アクタの類でしかないのかも知れません。少なくとも、この環境坊主はそう考えています。

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2010年4月26日 (月)

1133 栄養塩類

栄養塩類とは、要は肥料と考えれば良いでしょう。つまり、植物の必須栄養素であるNPKなどを含む塩類を指します。これらの塩類は、比較的重いので、海水に溶けると海底近くに滞留し易くなります。しかし、これも自然環境の巧みさですが、海洋には深海の底を這う様な海流も存在するのです。とは言いながら、その流れは海面で見られるいわゆる海流とは異なり、非常にゆっくりとしか流れてくれません。従って、大きな流れになると、1サイクルの完結になんと千年以上の年月が費やされる事になります。水の流れですから循環を形成しており、必ず沈み込む流れと、湧き上がる流れが存在します。以前の投稿で、「熱塩循環」として、主に気象に及ぼす影響について書きましたが、ここでは湧き上がった栄養塩が、植物プランクトンを育むという話になります。

主に熱塩流が深海から湧き上がるのは、北大西洋、北太平洋やインド洋になります。もちろん、湧き上がった栄養塩は、海面近くを流れる海流にも巻き込まれますので、広く海洋にばら撒かれる事になります。これらの流れに無関係な海域(サンゴ礁の無い南洋の海など)では、一見青く澄んで美しいのですが、殆ど生物の影も見られず、いわば死んだ海域(海の砂漠)とも呼べる状態になります。湧き上がった栄養塩の豊富な海では、それを栄養とする植物プランクトンが爆発的に増殖し、結果として魚類や大型の海洋哺乳類を引き寄せます。ではこれらの栄養塩類は、どこから供給されるのでしょうか。どう考えても、PNは動物(の死骸)から、Kは植物の腐植からと見るのが自然でしょう。これは、鉄分の供給源とも共通していますので、どこまで行ってもやはり植物の偉大さは変わりません。残念ながら、この方面の研究は結構少ない様なのです。理由は簡単で、こんな研究では儲からないし、研究者もメシが食えないからなのでしょう。

改めてこの数回で、いくつかの循環について考えるにつけ、自然のカラクリには一々驚嘆させられる事ばかりです。それらの微妙な自然の循環への最大の危機は、実は私たち人類が日夜行っている「文明活動」そのものである、という点については、率直に認めざるを得ないでしょうし、投稿者はその危機感故に自分の非力を感じながらも環境坊主を目指しているのだ、といっておきます。

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2010年4月24日 (土)

1132 鉄循環

多くの無機質(ミネラル)の内で、鉄(Fe)の循環が最大で、しかも最重要ではないかと思っています。鉄は、ほぼ全ての元素と結び付いて存在する酸素(O)や岩石を構成するシリコン(Si)を除けば、アルミニウム(Al)に次いで最もありふれた元素ですが、自然界ではもちろん純粋な形で存在する事は稀です。鉱床中の酸化鉄や金属化合物や鉄イオンとして水中に存在します。太古の海水中にイオンの形で存在した膨大な量のFeは、浅瀬に生息するストロマトライトという生物(現在でもオーストラリアなど限られた地域では観察されます)が放出する酸素で酸化され、酸化鉄として海底に分厚く沈殿し、長い年月を経て現在採掘されている様な鉄鉱床を形成しました。その厚さは、厚いところでは数百メートルにも達するほどです。

一方で、隆起して山脈になった、鉄分を含む岩石からは、風化によって常に鉄分が流出し、川を経て海に流化します。しかし、生物の循環に最重要なのは、実は上記の無機鉄ではなく、フルボ酸鉄など、キレートを形成して「水に溶けている鉄分」なのです。その供給源は植物であり、それを利用する主たる生物は、プランクトンや海藻など海に繁殖する「植物」という事になります。それらを摂食する海の動物(多くは魚類です)は、実のところ山の木が育んでいると言っても過言ではありません。賢い先人達は、山林は単に水源を涵養するだけでなく、樹木(広葉樹です)が海の生き物を育んでいる事に、間違いなく気がついていた筈です。だからこそ、この国の2/3を占める山林の、およそ半分ほどは人間の手が入った「半人工林」になっているのです。

しかし、不思議な事は、例えば植物のエネルギーを生み出す葉緑素(クロロフィル)が直接的にFeを利用している訳でありません。葉緑素の中心となり、触媒的に働く金属元素は、実はMgだったりします。植物の持つ、気の遠くなるよう年月をかけての知恵は、ただただ不思議で、驚嘆するしかありませんが、結局のところ鉄循環のスタート点は、植物の葉が枯れて臨床を形成する腐葉土から染み出るフルボ酸などが、土中の鉄分を加えこんで、川を経て海に流れ下り始めることだと思われます。鉄が、植物の必須ミネラルとしてどの様に作用しているか、活発な研究を期待しています。

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2010年4月22日 (木)

1131 水循環

水素は、単体の原子または分子として自然界に存在する事は稀で、殆どの場合炭化水素として固定されているか、あるいは酸素と結合して水となっています。特に、水として存在する量は莫大で、それは海辺に行って広い海原を眺めるだけで、容易に実感できる筈です。海は、生命の揺りかごでもありますし、その大きな比熱故に、地球環境を生物が棲めるマイルドな環境に維持してくれてもいます。何より、大気中に水蒸気として存在し、地球を水星の様な灼熱地獄でも、火星の様な極寒地獄でもなく、生物にとって理想の環境を「フトン」の様に守ってくれています。

この水の持つ物理的性質、比熱、気化(蒸発)温度、固化(氷結温度)、温度と重力によって対流するという性質、多くの物質を溶かしこむ性質、何より地球上に大量に存在する事自体、それぞれの特徴は、奇跡としか言いようがありません。地球上の全ての生命が存在するのは、まさに「水のお陰」だとさえ言えるでしょう。先人が、山に木を植えて水を養い、川や滝や池に竜神様を祭っているのは、ごくごく自然の行動だったと言えるでしょう。しかし、その精神は、蛇口をひねれば水が出てくる、文明の進歩?によって、殆ど忘れ去られようとしている事には、環境坊主として強い危機感を感ぜずには居られません。

アメリカを始めとする、食糧輸出国の多くで、水(淡水)が使い捨てられている事には、もっともっと強い危機感を持つべきでしょう。何しろ、今使われている農業用水の多くの部分が、「天水」ではなく地下深くに太古の昔に蓄えられていた「化石水」だからです。化石水は、現在ではほとんど雨水により補給が無いからこそ「化石」水と呼ばれるのです。その補給と使用量のバランスを考えないで、使い続ける現在の農業は、「全く持続可能ではない」というしかありません。水は、上手く自然のサイクルに乗せて循環させる必要がある物質の筆頭に挙げるべきである、と断言しておきます。その循環回復のためには、まずは人間のエゴを抑制して、すなわち人間の取り分を出来る限り減らして、自然に返してやる行動こそが、唯一必要な事かも知れません。

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2010年4月20日 (火)

1130 炭素循環

窒素循環も重要ですが、それより何より炭素循環が最重要である事は間違いないところです。炭化水素こそ、地球上の全てのバイオマスや、殆どのエネルギー源の骨格となっているからです。例えば、植物(樹木)の骨格であるセルロースはほぼ純粋な炭化水素で出来ています。加えて、生物のエネルギー源である太陽光も、炭化水素(栄養学では炭水化物とも呼ばれます)の形で固定されたものを殆どの生物が利用しています。植物は、葉で固定した炭水化物を、根に蓄えたり子孫を残したりするための実や種の中に濃縮して蓄えます。動物は、植物が固定した淡水化物を、食糧として体内に取り込み、体の組織を作ったり、運動したりするためのエネルギーとして利用しています。

植物や動物の体を構成していた炭化水素は、その死とともに朽ちて分解され、最終的には水と炭酸ガスに戻るでしょう。炭酸ガスは、大気中にしばらく留まるでしょうが、やがては植物の光合成のために、葉にある気孔から取り込まれ、あるいは根から水に溶けた炭酸ガスが直接的に取り込まれ、植物の成長に使われる事になります。1個の炭素原子に着目すると、その原子は地球の数億年の生物の歴史の中で、一体何回植物や動物に取り込まれ、何回大気中に放出されたのか、想像するだけで気が遠くなります。もちろん、その気の遠くなり方は決して不快なものではなく、むしろ気の遠くなるような心地よさだと言えるでしょう。

しかし、地球の長い地学的な活動の中で、必然か偶然かは分かりませんが、地中深く固定された大量の炭化水素が存在しました。いわゆる石炭や石油などの化石燃料です。「など」というのは、その成り立ちや、現在の固定状況を含めて、非常に多用な固定のされ方をしているので、一くくりには出来ないからです。石炭でさえ、良質の瀝青炭ばかりでなく、褐炭や亜炭や泥炭あるいは石炭化の前段階であるピートモスなどが存在します。石油も、その性質は油田によって大きなバラつきがあり、軽質油や重質油、あるいが砂と一緒に採掘されるオイルサンドなどがあり、また多くの場合は一緒に天然ガス(一般には石油ガスと呼びます)も産出します。この、本来は炭素循環に加わっていなかった炭化水素が、産業革命以降の人間の活動の結果、大量に炭素循環のサイクルに送り込まれ続けているのです。その全地球的影響の評価が、単に温室効果メカニズムだけによる、温暖化問題だけで説明でき、エネルギー使用量の抑制だけで、その負の影響を回避できるなどとは、楽観的で単純な頭しか持たない投稿者でも、とても信じられないのです。むしろ、温暖化は多くの環境問題の一つに過ぎないか、あるいは最悪の環境悪化の序章に過ぎないとさえ思えるのです。

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2010年4月18日 (日)

1129 窒素循環

持続可能であるという事は、物質についてみればそれが永遠に循環しているという事を意味します。ここでは、物質としての窒素を取り上げてみます。窒素は、大気の80%を占めるもっとも豊富なガスであると同時に、アミノ酸やたんぱく質の形で、あるいは多くの有機物質を構成する元素として、生物体にも不可欠の物質でもあります。というよりは、窒素無しには生物自体が存在し得なかったとさえ言えそうです。なぜなら、炭化水素や六角形のベンゼン環の単純な構造だけでは、複雑な生物が発生する事には無理がありますが、窒素が入り込む事により、5角形の環やアミノ酸を形成する分子のブリッジとして働き、単純な元素(CHN等)から、考えられないほど多用なアミノ酸や有機物を生み出す事が出来るからです。

さて、その窒素は環境の中で見事に循環しています。例えば、根粒バクテリア等の微生物は、空気中の窒素を生物中に直接取り込む働きがあり、それを取り込んだ植物(例えば豆類)はアミノ酸の集合体であるたんぱく質を作り、動物に食糧を提供します。それを、体内に取り込んだ動物たちは、そのたんぱく質を筋肉など、体を構成するために使ったりエネルギーに変えたりして動き回ります。しかし、寿命を全うした動物たちは、息絶えて土に戻り、さらに分解されて窒素ガスにと戻る循環を繰り返します。それは、生物が発生して何億年も、この「物質的には閉じた」地球上で繰り返されてきた循環でした。地球上に存在する窒素の総量は、太古の昔から全く変わらずに、その循環を繰り返してきた事は、信じられないほどの奇跡にも見えます。

食物連鎖の頂点に立つヒトでさえ、この循環からは逃れられません。天国に旅立つという事は、煙になって「大気に戻る」という事に他なりません。私たちが、呼吸している空気の中に含まれる窒素分子は、果たして何度生命体に取り込まれて、何度生命の循環に使われて来たのかを考えるだけで、体内に取り込む空気に愛しささえ感じてしまいます。これは、殆ど環境坊主に特有の「環境病」の症候群の一つと言えるかも知れませんが、しかし苦痛も無く楽しい症状ではあります。

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2010年4月16日 (金)

1128 汚染物質保存則

これも法則シリーズです。エネルギー保存則や物質の保存則は有名ですが、ここではそれをもじって、汚染物質保存則を提案しておきます。汚染物質の定義は結構ぼやけていますが、要は環境、とりわけ生物種の存続に悪影響を与える物質であるという事が出来ます。その汚染物質の一部は、環境に排出された場合、一部は生物に、別の一部は太陽光に含まれる紫外線等で、光化学的に分解される事はあるでしょう。というより、このような(生分解性)物質はあまり大きな問題を起こさないのです。しかし、重金属や(人間が余りにも巧妙に合成した結果)PCBや古くはDDT等の様に長期間安定的に環境に残留する有害な物質は、枚挙に暇が無い程多いし、毎日のように新物質が合成され続けてもいます。

この様な難分解性物質は、結局環境に蓄積し続け、結果的には生体内に蓄積される事になります。しかも、それが食連鎖の中に取り込まれると、いわゆる生体濃縮が起こり、連鎖の高位に立つ生き物程、その悪影響を強く受ける事になります。人間は、実はその頂点に立っている訳ですが、どの様な物質が、どの様な形で体内の臓器に蓄積されているか、実は少数の物質以外は、研究例が少ないのです。

ここで重要なKWは「複合汚染」です。つまり、A物質の安全性(多数の試験動物=マウスの内の発病率や致死率が指標です)がそれなりに確認?されているとしても、B物質との複合的な影響は確認されていません。それに、C物質やD・・・が加わった場合の組み合わせは天文学的な数になり、その安全性の確認は事実上不可能です。現代病とも言われるアレルギーや、精神性の疾患の増加に、複合的な形で汚染物質が関わっていない、と誰も断言はできないでしょう。環境に蓄積する新規化学物質は日々増加し続け、既に生産中止になった物質も、実は環境中に蓄積された量は、薄まっているとは言え、総量としては保存され続けている筈なのです。

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2010年4月14日 (水)

1127 凸凹道の法則

このタイトルでは、前にも書いたような気もしますが、書いた本人も確認する根気も無いので、ダブったとしても再度書いておきます。さて、数日前は歩いての通勤(と言いながら頼まれもしないのに自分の事務所に同じ時間までに通う事なのですが)だったので、例によって田んぼの畦道と堤防の上の砂利道を通って行きます。堤防の砂利道は人だけが通る部分と、家があって車庫に出入りする車も通る部分があります。人だけが通る部分には凸凹はありませんが、車が通る区間は見事に凸凹道になっています。という事は、凸凹道を作った犯人は車である、という推論が成り立ちます。事実、道に出来る凹は、車が作るのです。カラクリはこうです。完全に平坦な道はありませんので、少し低い部分には小さな水溜りが出来ます。人は(小さな子供以外は)水溜りを避けて通りますが、車は頓着しません。一定以上のスピードで走ると、見事に水はね=泥はねを起こし、水溜りの泥が少しだけ飛ばされます。確かに1回の泥はね量はわずかですが、これが100回も繰り返されると、水溜りの深さは、確実に1センチは深くなります。深くなった水溜りには、それまでよりも深く、長く水が溜まって居る可能性が高いので、ますます泥はね量が大きくなり、かくしてますます水溜りは深くなり、凸凹の度合いがひどくなり続けます。

環境坊主としては、環境の悪化と凸凹道の悪化は、殆ど同じ構造ではないかと言いたいのです。凸凹道が、自分で勝手に水溜りを均し、元の平らな道に戻る事が無いように、私たちが汚してしまった環境は、汚染源が広く薄く広がる事はあっても、勝手に浄化される事は無いのです。不法投棄された膨大な産業廃棄物を「適正に処理する」事とは、汚水が漏れないように、コンクリートやゴムシートで囲まれた「安定化処理場」に単に移動する事を意味し、廃棄物自体を無害化や消滅させる事など元々出来ない相談なのです。毎日少しずつ出される家庭ゴミや工場の産廃も、チリも積もれば巨大な山になってしまい、そのゴミの山が勝手に消える事はないのです。

エネルギーの消費から排出されるCO2も、小さな温暖化を引き起こし、それが大気中の水蒸気量を増やし、さらには湿地帯での有機物分解量を増やし、そこからのメタンガスの排出を促進し、結果として温暖化の凹を大きく、深くする事は十分予測できる話です。この「凸凹道の法則」は、放っておいても事態が改善しない現象には、殆どの場合当てはまるでしょう。

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2010年4月12日 (月)

1126 小型化・分散化

巨大化・集中化の反意語は、もちろん小型化・分散化です。産業について言えば軽薄短小化というKWになるのでしょうが、加えて今後は「持続可能性」こそが絶対不可欠のKWとなります。軽薄短小を実現すれば、間違いなく資源もエネルギーの消費も小さくなります。それは、製品の目方に比例すると断言しても良いでしょう。1トンの乗用車の目方を、500kgにするだけで、車の原材料の重量は半分になりますし、それを加工するエネルギーも半分になるでしょうし、エンジンの馬力も、従って消費する燃料も今の技術だけでほぼ半分に出来る筈です。

確かに、一時は軽薄短小が産業のKWになった時期はありました。それは、多分二度のオイルショックやマイクロエレクトロニクス技術の伸張に触発された一方、行き過ぎた重厚長大への反動の様な気がしますが、バブル時代の到来とともに彼方に吹き飛ばされてしまったのでした。しかし、今後の軽短小の動きは、環境からの強い要請であり、後戻りのできない必然だと覚悟を決める必要がありそうなのです。そのためには、まずは絶対不可欠なものと、無くてもどうにかなるものを明確に腑分けする事が求められます。交通の話だけに限っても、一家に3台の車は本当に必要なのか、この狭い国土に100か所を超える空港(ヘリポート空港も含めて)が作られる必然性があったのか、さらに言えば、東京名古屋を一時間で結ぶ鉄道がこの国の交通体系に本当に不可欠なのか、明確な必要性を訴える事など出来るとはとても思えません。

そもそも、都市のスプロール現象は、戦後の高度成長期に急伸した重厚長大化からの要請で始まり、急拡大した筈なのです。それを下から支えるために、というお題目の「列島改造のまつり神輿」に乗って出来上がったのが現在の交通体系だったと言えます。900兆円にも上るとも言われるこの国のインフラを、単純に機能を維持するだけでも毎年数兆円~十数兆円のお金が必要な筈です。人の移動について言えば、歩きや自転車やバイクを基本に、バスや鉄道を組み合わせれば、そんなに不自由は無いはずですし、貨物について言えば、鉄道コンテナやコンテナバンを効率的に運ぶ船と小型のトラック配送の組み合わせで、燃料効率の悪い長距離トラック便での輸送量は、大幅に抑制できる筈です。

システム構築は、最大デマンドに合わせて、十分な余裕をもったサイズが望ましいのでなく、小型のシステムを、必要に応じて台数を追加していく、積み上げ方式という考え方にシフトしていく必要があるでしょう。それは、既にコンピュータの世界では実現されてしまったとも言えますが、社会システム全体としては、やっとターニングポイントに差し掛かった、程度しか見えません。

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2010年4月11日 (日)

1125 巨大化・集中化

20世紀の出来事をたった一つのKWで括れと言われれば、たぶん「巨大化・集中化」になるでしょう。それは、世界を巻き込んだ戦争で明確になり、戦後は戦力にものを言わせた二大国の政治的スーパーパワーと、この国やドイツなどで起こった技術立国の産業の強大化に代表されるでしょう。それは、核物質の寡占と軍事技術、あるいはそれを平和目的に転用した工業技術に裏打ちされていると言えますが、何度も繰り返すようにこれら武力や技術の巨大化・集中化も石油のパワー無くしては、殆ど何も実現も機能しなかったと思われます。

産業について言えば、重厚長大が高度成長期のKWでもありました。「大きい事は良いことだ」というチョコレートのCFを引き合いに出すまでもなく、投稿者が10年余り関わった造船業においても、石油を運ぶタンカーであれ、鉄鉱石を運ぶ鉱石船は言うに及ばず、製品を運ぶコンテナ船も、液化ガスを運ぶLPG、LNG船なども全て覇を競って巨大化したのでした。航空業界でも1960年代末には、既にジャンボジェット機が登場し、新幹線などとも相まって高速大量旅客輸送時代が始まったのでした。繰り返しになりますが、これとて中東の安い石油が手に入らなければ、殆ど実現は出来なかった筈です。

このブログで、巨大化・集中化の過程を何度も書き出すのは、それが本当に正しい行動だったのかを反省するためです。しっかりした反省無しには、次の一歩の正しい方向を見定める事も出来ないでしょう。投稿者の見方では、次の一歩は「慎重な後ずさり」でなければならない、というものです。その理由は、これまで歩みを進めてきた現代社会の殆どの営みが、「持続可能ではない」からです。持続可能ではないという事は、必ずいつかはそれが「破綻する」という事を意味します。そうならないためには、既に歩いてきた(経験してきた)道を、できるだけゆっくりと後戻りするしかないと思うのです。資源やエネルギーの消費量が丁度現在の半分で暮らしてきた、1970年代の暮らしを懐かしみ、思い出して実行してみれば良いだけなのです。今や時間をたっぷり出手に入れた団塊世代には、その先頭に立って実践する事を強く期待しています。

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2010年4月 8日 (木)

1124 念仏

今回のタイトルは、バイクの「成仏」の連想かも知れません。さて、修行の浅い環境坊主が唱える念仏なので、誰かが聞いていようがいまいが、とにかく何度も唱えるだけです。念仏には、それを唱え続けるだけで、さながらそれが真実であり、それを糧にして生きて行けそうな感じが生まれる不思議な効果があります。そういえば、田舎の念仏講の年寄りたちが、手のひらに余るほど大きな数珠玉の数珠を皆で繰り回しながら、無心に念仏を唱えていた姿を、子供ながらに不思議な感覚で見ていた事を思い出します。その時の年寄りたちは、多分無心で幸福な恍惚状態に入っていた様な気がします。日常の人間的なトラブルも、きつい労働も何もかも忘れる事が出来る時間を、念仏を唱える事によって得ていたのだろう、とぼんやり想像しています。

さて、この環境坊主の念仏の特徴は、とにかく色んな角度から、数多くの言葉を織り交ぜて、繰り返し、繰り返しクドクドと書き続け、唱え続ける事です。もちろん、偉人達は凝縮された短い言葉で、真実(に近い教え)を語ってきました。そんな事が出来ない修業の身では、万の言葉を重ねて、やっと真実の縁の部分を語る事が出来るレベルでしょう。投稿者が考える唯一の真実とは、「持続可能性が他の全てに優先する」というものです。言い換えてみれば、持続可能性こそが「唯一の神」でなければならない、という思い込みなのです。漢字ばかりで取っつきにくい、持続可能性という言葉を、もっと単純な言葉に置き換えるなら、「いつまでも変わらないこと」という表現になります。ヒトが誕生する以前から続く悠久の大地や海、何億年も隆起や浸食を繰り返してきた山塊などの大自然、そしてそこにへばり付いて生きてきた生物群たちこそ、小さな進化を繰り返しながらも、全体としては変わらずに「神」であり続けた本質だと思うのです。それを高々数百年程度の人間の活動で、メチャクチャにしてはいけないよ、というメッセージがこのブログで繰り返し書き続けていることなのです。勝手に環境坊主を名乗っている投稿者としては、言葉を変えながら毎日まいにち念仏を唱え続け、坊主臭くなる事に生き甲斐を感じているこの頃です。

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2010年4月 6日 (火)

1123 風車考

自然エネルギーの旗手としての風車が危機に立たされています。風車の羽(タービンブレード)から発生する「低周波騒音」による健康被害が表面化しつつあるからです。低周波は可聴域下限かそれ以下の、数十Hz程度の音波が引き起こす不定愁訴の原因として疑われているのです。不定愁訴という限り、第三者にも明確に「症状が見える」訳ではありません。基本的には本人が不快に感じるだけなのです。同種のトラブルは、クーリングタワーやコンプレッサー、建築騒音や航空機騒音など音と振動の複合的な影響にも共通するものです。人間には、不快に感じる音や振動が確かに存在します。音楽で言う不協和音、ガラスを固いもので擦るキーキー音、振動機械から出る低周波振動などです。投稿者の経験で言えば、バイクのエンジンが3000rpm50Hz)程度で回っている時のハンドルから伝わる振動が非常に不快です。その回転数で少し長い時間運転する事になると閉口します。

問題は、この種の低周波騒音による健康被害に関して、十分な研究が行われてこなかった事にあります。研究で、もし明確に有害な周波数が特定できるのであれば、設計者はその周波数を短時間でパスする様にハードウエアやソフトウエアで対処できるからです。風車で言えば、その周波数から遠い回転数を常用域とすれば良いでしょうし、風速の加減から有害周波数域で回りそうな場合には、ブレードのピッチを変えるか、停止させてしまえば良いのです。

風車側にも改良の余地はあります。プロペラ型の発電風車では、回転数を稼いで、発電機を小型化するために、タービンブレードの周速は風速をかなり上回るほどにもなります。そのために、風速が高い程、いわゆる風切り音が大きくなるのです。一方、「抗力型」と呼ばれる風車群(例えばサボニウス型)は、回転数が低く、周速も風速以上にはならないので風切り音は問題にならない筈です。もちろん、効率も低く発電には不向きですが、熱源用や動力用としては十分な働きをしてくれるでしょう。風車も道具も、要は使い様なのです。

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2010年4月 4日 (日)

1122 全体最適

バイクを褒めたついでに車の悪口をもう少し重ねます。以前にも、石油を消費する限り、石油精製工程から出るタールやピッチの捨て場所として「舗装道路」の距離が伸び続けると書きましたが、車が増えて何が一番勿体ないかといえば、道路の拡幅や延長と駐車場として使われる土地の面積です。統計データによると、道路面積は、この狭い国でなんと国土の3.5%となっており、これは農地の1/3ほどに相当し、宅地面積にも迫る割合となっています。しかも、上で指摘した通り、農地が激減している一方、道路面積の割合は、平成に入ってからでも確実に0.5ポイント(10%以上)は増加しているのです。

商用車や通勤に使われている車を除けば、殆どの車は車庫に入れっぱなしで、たまにドライブや買い物に使われるくらいでしょう。商用車も、用件があって動いている間以外は、自社か道路上かどこかの駐車場を塞いでいる事でしょう。もし、全国の車が一斉に動き出したと仮定すれば、全ての主要な国道や県道は車で隙間なくつながり、全く身動きできない状況になると想像できます。ここで言いたい事は、この狭い国では、移動手段としての車は、既に全体最適の域を超えてしまった、という点です。

増え続ける車の台数を後追いする形で、時間当たりの車の通過台数を増加させるために、バイパスを作り、2車線や3車線の道や高架道路を作っても、結局その先で車線数が減少しているために、あいも変わらず何キロも渋滞の車列がつながります。そのパイパスや拡幅された道路は、と元を質せば、そこは優良な近郊農業の農地だった筈です。通行量が少ない道路を削って減幅し、農地や里山に戻したという話は、この国ではついぞ聞いた事がありません。そういえば「減幅」などという言葉自体も、マスコミに登場する事も無かった記憶しています。

交通体系の全体最適を考えるなら、車台数の総量規制、道路の減幅や廃止、建物の減築、インフラの規模縮小、ついでに言えば鉄道との連携を図り、ガラガラの空港は思い切って閉鎖して農地に戻すなどなど、この国で打つべき手は数多くありそうな気がします。

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2010年4月 2日 (金)

1121 鬼の霍乱

一応ひかない事には決めていましたが、先週ついにひどい風邪をひいてしまいました。風邪で寝込んだのは何年ぶりでしょうか。殆ど思い出せないくらい前の話です。そもそも、風邪のきっかけは高山への出張でした。欲張って3か所の企業を訪問する計画を立て、それぞれ駅からはかなり距離があるので、バイクで出かけたのでした。ところが、天気予報に反して気温はグングン下がってしまい、高山に入った時は3-4℃ほど、夕方になってしまった帰路の高速道路では、気温はなんと氷点下すれすれだったのです。一応、防寒対策はしていたものの、グリップヒーターは殆ど効かず、手はかじかんで感覚が無くなりかけているもののPAで休んで時間をロスすると、路面が凍結する恐れもあり、ともかく先を急ぎました。山から里に降りてきて、やっとプラスの気温になったところで、PAに入ったのですが、そこで急に悪寒が襲ってきたのでした。

その次の日も仕事があったので、仕方なく自分の事務所に出かけたのですが、その朝は経験した事のない程ひどい「胃腸風邪」の症状が出て、洗面所もトイレもすっかりMess(修羅場)になってしまいました。家族にも風邪をひかないのを自慢にしていましたが、まさに鬼の「霍乱」状態ですっかり信用も失墜しました。食欲も全く失せて、2日間は暖かいお茶以外は受け付けない状態でした。早めに帰宅してしょんぼりと布団に入りながら、普通に食欲があり、普通に通じがある、普通の生活の有難さがしみじみ感じられたのでした。まさに「病気なって知る健康の有難味」でした。そういえば、この冬は忙しさにかまけてあまり体を鍛えていない事に気がつきました。反省、反省・・・。

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