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2010年5月30日 (日)

1150 贅沢エネルギー

途中に、北海道レポートとジョギングシリーズを挟みましたが、民生向け「エネルギー仕分け」の続きです。ここでは、そのエネルギーが必要かどうかではなく、逆の立場から見て、それでは何が「贅沢エネルギー」なのかを考えてみます。実は、この定義が可能であれば、温室効果ガスの排出にかかる問題の半分以上は解決したのも同じだとも言えます。つまり、毎日入浴する事が贅沢ならば、では2日に1回では、3日に一度は贅沢ではないのか。生まれてから殆ど風呂に入った事が無い(というよりバスタブなど見た事もない)人たちに比べれば、1週間に一度の入浴も贅沢の極みだとも言えるかも知れません。民生部門の必要不可欠と贅沢の境界線は、実は企業活動に関連して述べたBEに比べれば、はるかに幅が広いと考えなければならないでしょう。

そうではありますが、私たちは無理やりにでも、不可欠エネルギーと贅沢エネルギーの間に境界線を引かざるを得ません。ここでは、先人が不可欠としていたものを一応「不可欠エネルギー」と定義し、私たちの子孫が使えると思われるエネルギーレベルを超えるものを「贅沢エネルギー」と考えてみます。しかし、では何時頃時代を基準に取るのか、ここでも議論が巻き起こるでしょう。なぜなら、江戸時代を基準に取るなら、99%の人たちは数日で悲鳴を上げるでしょう。数日とは、つまりはキャンプ場で過ごす日数程度を指します。現実的なところでは、例えば1970年代の半ばの生活を知る世代であれば、あの時代のエネルギー消費が現在の丁度半分であった事実が参考になるでしょう。とりあえず、それを基準と仮定すれば、一家に1台の車は一応不可欠でしょうし、居間についているエアコンや居間のテレビは一応セーフとなります。

一方、将来世代がどれほどのレベルでエネルギーを使えるかを想像してみると、再生可能エネルギーを最大限活用しても、現実的な数字としては、現在の1/4以下となる筈です。これを超える、エネルギーの消費は贅沢と考えなければ、世代間の格差が大きくなり過ぎるのです。現在の1/4のレベルだと、私たちは多分、1960年代の生活を思い出さなくてはならないでしょう。それは多分「三丁目の夕日」の時代に戻ることを意味するのでしょう。

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2010年5月28日 (金)

1149 アオスジアゲハ

ジョギングシリーズの続きです。走っている途中、見慣れない蝶に出くわしました。形は小さなアゲハ蝶の様にも見えましたが、何しろ黒い羽根の中の瑠璃色の紋が息をのむくらいきれいです。見回しても配偶者?らしきものも見当たらず、水溜りのきらめきに反応しているだけらしいのです。帰ってから忘れないうちにネットの昆虫図鑑で調べると、どうやら「アオスジアゲハ」らしいのですが、機械系の技術屋を長い間務め、早期の卒業後にやっと自然に目を向けるココロの余裕が出てきた投稿者にとっては、この昆虫との出会いは新鮮で、さながら空飛ぶ宝石を見つけたようにも感じられました。

さてCOP10などという、鳴り物入りの国際会議だかイベントが予定されていますが、そんなものより、先ずは家族揃っての自然観察を日常化する働きかけの方が、よっぽどお金を掛けずに、生物多様性を一般市民に意識して貰うのに役立つと思うのです。植物の戦略や、その植物に100%依存して進化してきた昆虫や動物達をじっくり観察しさえすれば、彼らが数億年掛けて仕組んできた太陽光だけを使った巧妙なサイクルに思い至れば、改めて生物多様性などという小難しい言葉など使わなくても、自然や生き物の素晴らしさを、人々に感じて貰う事は簡単だと言えるでしょう。そんな事よりも、なぜアオスジアゲハが、クロアゲハから分かれて(逆かも?)、鮮やかな瑠璃色の紋を持つに至ったか、アオスジアゲハの気持ちになって想像するだけでも、結構楽しい時間になるはずです。

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2010年5月26日 (水)

1148 竹の戦略

ジョギングコースの川岸の狭い集落を包む里山の裾は、多聞に漏れず竹に占領されています。しかも良く見れば、その上の自然林(あるいはかつての薪炭林)の中にまでかなり進出している様です。どうして、枝葉を広げている樹木の間に竹が進出する事が可能なのかを考えてみると、どうやら地下茎に秘密がありそうです。植物は、光合成のために太陽光が注ぐ様に葉を広げる必要がありますが、樹林帯に竹が進出するためには、樹木の上に伸びて、葉を広げる必要があります。竹は、年間5m程度は伸ばせる地下茎を使って樹林帯に侵入し、親竹の養分を地下茎に蓄えておいて、春先に地下茎から新芽(タケノコ)を、信じられないくらいのスピードでそれを成長させます。それは、伸縮できる釣りざおを伸ばす行為にも似ています。つまり、親竹もタケノコも、根元の太さは一生変わらず、節の間だけを伸ばす訳です。

竹は、その類まれな戦略をもって、その昔たった1本(数本?)だけ中国から移入され、日本でこれほどの隆盛を誇るほどまで反映して(はびこって?)いる訳です。竹の、多分唯一の弱点は、竹は種子で増える植物ではないため、当然ですが中国から移入された後は全て、根の移植でふやされたという事実です。つまり、全ての竹は同じ遺伝子を持っているという事になります。従って、同時に花を付けて、同時に枯れるのも仕方がない運命です。もし竹を枯らす、強力な微生物や昆虫が登場すると竹は全滅してしまう可能性も抱えている植物なのです。

とはいえ、竹は木材に比較して、2倍程度CO2をセルロースとして固定する力が強い植物であり、竹の繊維や抽出物にも有効な成分を多く含んでいると言われていて、放置され厄介者とだけ思われている彼らには、同情を禁じ得ません。

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2010年5月24日 (月)

1147 タンポポの天気予報

いつもの木曽川河畔をジョギングしていると、異常にタンポポの綿毛が飛んでいました。天気は乾燥していて少し風のある夏日ですが、天気予報では明日、あさっては大雨との事、タンポポにはその予報は先刻ご承知という訳なのでしょう。乾燥していれば、綿毛は目いっぱい広がるでしょうし、そよ風に乗ってかなりの距離の飛行が出来て、しかも着地した翌日にはたっぷりの雨が降るという絶好の日に、綿毛を放つのです。

さて乾燥した日は、空気中の湿度が下がるので、綿毛が十分に広がる事は、人間の浅知恵でも分かるのですが、では一体風の具合や、明日の天気までどうしてタンポポに予報できるのでしょうか。ここではタンポポの気持ちになって想像してみます。さて、種子をぶら下げた綿毛が十分に熟し、綿毛が乾燥するためには乾燥した日が数日続く事が必要です。この春先の様に、日替わりで晴れと雨が繰り返す様な日和では、タンポポとしてもオチオチ綿毛を広げている暇はないでしょう。しかし、この季節の様に、数日周期で晴れが続き、その後に雨が降る周期の整った気候になると、彼らも安心して綿毛が飛ばせる様になるのでしょう。

タンポポの気持ちは想像できたとしても、やはりその気候をどうやって感知しているのかは、やはり謎です。最も単純な気温や日照時間だけでは、天気予報はできません。数日間の日照時間の積分値や、同様に数日分の湿度の平均値などのデータを取り、それを元に予測する必要があると思うのです。もちろん、これほど世界中に広く繁茂しているタンポポの事ですから、数億年掛けてその技を開発してしまったに違いありません。こんな植物や動物の予報ワザを、理解する事が出来たなら、多分散歩しながら数日後の天気を簡単に予報する事も出来るでしょう。

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2010年5月22日 (土)

1146 北海道

今週は数日間北海道で過ごしました。滞在した場所は道東の内陸部でした。天気にも恵まれ、さわやかな北海道の初夏を満喫しました。とは言いながら、仕事で行ったので、車で走りまわる事になりました。内陸は、確かに気温も上がり、カラッとした気候なのですが、山を越えた釧路はまた違った気候です。ここでは、海風が入ると一気に10℃程度気温が下がり、ひんやりしますので、夏でもストーブは「スタンバイ状態」にしておきます。

内陸部は寒さも半端ではなく、聞いた話では、例えば普通にストーブを焚くと、煙の中に含まれる水分が、ギンギンに冷やされた煙突の中で凝縮し(水になり)煙突の中に溜まります。下手をすればこれがストーブに逆流し、騒動にもなります。というわけで、この地域のストーブの煙突は、しっかり保温材でカバーされた二重煙突になっています。立木が寒さで凍って、突然バキッとわれてしまう凍裂で有名な「陸別」は、滞在した場所のすぐ近くでした。その寒さは、そこに住んで経験した人でなければ、多分内地(本州)の人間には簡単には説明できないと想像しました。

数キロ走れば隣の町に入り、下手をすれば家並みがつながっている本州の都市部に比べ、隣町まで数十キロもあり、途中は大小の牧場や農家しか見えない北海道の景色では、比べるべくもなく、それはむしろ北ヨーロッパの景色を彷彿させるものでした。いくら便利とは言え、せせこましい都市部にギュウギュウと群れて住む事への疑問がしみじみ湧いてきました。「お金と便利ささえ放棄すれば、こんなにも豊かな海山の恵みが手に入るのだ」とも思い、と数年後この土地に住んでいる自分を想像したりもしました。そのためにも、今以上に「耐寒訓練?」に励まなくては、と決意した次第です。

さて、移動中に見た、遠くの雌阿寒岳や雄阿寒岳、小さなオンネトーの湖には、山男のココロが揺さぶられ、来年あたりには、是非北海道のバイク&トレッキングに出かけてみようと決意した次第です。数えてみると、北海道には名山と呼ばれる山が9個もあり、2週間程度は掛けたいと、気がつくとついつい頭の中で来年の計画を練っています。

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2010年5月20日 (木)

1145 不可欠エネルギー

事業所のエネルギーの使い方や省エネルギーに関しては、実は話は結構簡単です。お金(付加価値とエネルギーコスト)で説得すれば、よほど頭の固い経営者以外は納得してくれるからです。しかし、日常生活で私たちが消費しているエネルギーを、VAENVEに分ける事は事実上できません。その人のライフスタイルや価値観まで立ち入って吟味する必要があるからです。例えば、車が趣味で、4-5リッターも廃棄量があるSUVを転がしている人に、世の中にはガソリン1リッターで1000kmも走る車がある事を説明しても、「それがどうした」の一言で切って捨てられる事でしょう。その人にとっては、ガソリンをまき散らして砂浜や荒れ地を走る事こそが価値だからです。

その意味で、日常生活で使われるエネルギーに「色を付ける」とするなら、そのエネルギーが生活を維持する上で、不可欠なものであるか否かという物差しを持ち込まなければならないでしょう。とは言いながら、これも結構難しい話ではあります。例えば、毎日の通勤にたった一人しか乗っていない車を転がすのは、「必要でかつ不可欠か」と問われれば、多分半分くらいの人たちは、首をかしげるかもしれません。つまり、公共交通機関や会社の通勤バスを使えば、少し不便でも何とか通勤は可能な人が多いからです。

また一方で、この国では何の気なしに毎日沸かしている風呂ですが、これが果たして「必要不可欠」であるかどうかも議論が分かれる行動でしょう。アフリカの草原に住む人々が、毎日入浴しているなどとはとても考えられません。その様な「無駄な水」は一滴も存在しないからです。精々、井戸のそばで、頭から水をバケツ一杯かぶる贅沢が許される程度でしょう。つまり、不可欠であるか否かの境界線は、国や人々が置かれた環境で、雲泥の差が出る事になります。世界の人口の2割しか占めていない先進国が、エネルギーの半分以上を使っているという事実は、結局途上国と比較して、必要不可欠のレベルが国や文化によって大きく異なる事を意味します。

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2010年5月18日 (火)

1144 境界エネルギー(BE)

さて、上で述べたVAENVEの間(境界=Boundary)は、単に一本の線となっている訳ではありません。それどころか、これまでの投稿者の観察では、この境界線上のエネルギー(BE=Boundary Energy)が実は7割程度はあるのではないかと感じています。BEとは、無くてもどうにか凌げる、あるいは他の手段で代替できるエネルギーを指し、いわばエネルギーのイエローカードだとも言えます。

分かりやすい例を示せば、例えば、どの工場でも日常的に多用される「圧縮空気」があります。その昔、圧縮空気を得るためには、円筒形タンクの上に空冷式のコンプレッサーが載った機械を動かす必要がありました。この機械は結構騒音がひどく、如何にも頑張って空気を送っていると主張していました。しかし、今日では効率が良く、静かなスクリューコンプレッサーなどを独立したコンプレッサー室内で動かし、固定配管で工場全体に送り、そこからフレキシブルホースで、作業者が使う仕掛けとなっている事業所が殆どです。しかし、残念ながら空気は眼には見えませんので、それを浪費しても、ホースの継ぎ手から漏れていても、作業者は頓着しないでしょう。それどころか、床のゴミを吹き払ったり、部品についた切り屑を必要以上に丁寧に吹きとばしたりしています。

しかし、VAEの視点からは、これらの行為(掃除)では、その工場が作っている製品に「たった1円」の付加価値を追加してはいないでしょう。かといって、これを無効エネルギーと考えている経営者や工場長もいないのではないかと想像できます。とは言いながら、圧縮空気は、それが直接的に製品を加工するのに使われていない限りは、立派なBEでありイエローカードが切られるべきカテゴリーだと言えます。

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2010年5月16日 (日)

1143 無効エネルギー(NVE)

一方で、無効なエネルギーとは、当然の事ながらVAEではないエネルギー(NVENon Value adding Energy)を意味します。無駄に消費されているエネルギーですが、狭い意味の省エネとは、この部分の削減を指している場合が多い様です。つまり、誰も入っていないトイレの電気を消す、昼休みは外に出て事務所の照明を消す、あるいは使っていないコピー機のヒーターを省エネモードに切り替える、車の運転でアイドリングストップを励行する、などなどの行動です。

しかし、どの様にひねっても、この様な努力で削減できる割合は、エネルギー全体の精々10%程度しかないと思われます。もし、これだけで2割も3割も削減できたとすれば、それは単にそれまでのエネルギーの使い方が如何にゾンザイであったかの証拠に過ぎません。つまり、これまでの意味での省エネ活動で削減できる割合は、非常に限定的なものになる事を意味します。この種の努力は、容易に想像できますが、省エネのネタが段々少なくなり、削減割合も、例えば初年度5%削減、2年目更に3%削減できたとしても、3年目は1%、その後は多分横ばいになる筈なのです。過去に二度のオイルショックを経験し、つい最近もガソリンの高騰を経験した「エネルギー小国」のこの国では、元々エネルギーの無駄に関しては、意識は高くなっていると思うのです。結局、無効エネルギー(サッカーゲームのレッドカードに相当しますが)としては、元々絶対量は少ないものなのです。

この事は、大幅な省エネの実現のためには、別の切り口で「省エネのポテンシャル=宝の山」を探す必要がある事を意味します。ではどこにそんな宝の山があるのでしょうか。問題の根は、石油資源の無いこの国でも、長い期間に亘ってエネルギーコストが比較的低く推移してきた結果、エネルギーがさながら水か空気の様に、意識に登らなくなってきた事にあります。そこにある事が当たり前である事と、それが必要であるという事は全く別の認識でなければならないでしょう。更に続きます。

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2010年5月14日 (金)

1142 有効エネルギー(VAE)

さて、省エネルギーの考え方の整理です。事業所の省エネルギーで意識しなければならないのは、事業で生み出している付加価値(お金を生み出す製品やサービスなど)を作りだすのに必要なエネルギーを意識する事です。ここではそれを「有効エネルギー(Value Adding EnergyVAE)」と呼んでおきましょう。つまり、ある製品なり、サービスの価値を1円(ではあまり単位が小さいので1万円でもOKですが)上げるために、どの様なエネルギーをどの程度消費しなければならないかを意識するという事です。

投稿者のこれまでの観察では、ごく平均的なメーカーでも、「本当に」有効なエネルギーは、実は3割程度しかないのではと思えるのです。「そんなはずはない。ウチでは、製品を加工するのに、この加熱機や射出成型機あるいはこのマシニングセンターを運転しないと、全く製品が作れないし、その電力が工場全体の7割を占めている」と主張する社長さんも多い事でしょう。しかし、この社長さんは、確かに「森=工場」は見てはいますが、「木=個々の設備」を見てはいないと言うしかありません。月々100万円の電気代の内の7割は、設備を動かす動力として使われているかも知れませんが、問題は個々の設備の中に隠されているVAEの割合なのです。例えば、マシニングセンターで金属を実際に削るのに使用されるVAE動力は、この機械が消費する電力のたった3割程度しかありません。つまり、金属を削るカッターが回り、それに加工物を接触させるために「送りを掛ける」ために実際に必要なエネルギーです。それ以外の動力は、実は全く無くても良いか、あるいは「超省エネ型工作機械」では、必要としないエネルギーだと言えるでしょう。

車に至っては、状況は更に悲惨です。ガソリンが持つ理論上のエネルギー(エンジンが持つ理論上の熱効率=30%弱、を考えてですが)に対して、実際に車を前に進めるのに使われる割合は、20%を下回まわると想像しています。残りのエネルギーは、タイヤの摩擦、機械損失、エアコン、空気抵抗、何より大きいのは排気管やラジエータから捨てられる熱量です。それらを極限まで減らせば、実はガソリン1リッターを使えば、1000km以上も走る事も可能なのです。(マイレージカーレースでの実績)

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2010年5月12日 (水)

1141 省エネ再考

省エネルギーは、投稿者の趣味であり、同時に仕事にもなっています。このブログでも、省エネルギーに関する考え方や、具体例なども幾度となく取り上げていますが、ここでは最近の想いも含めて書き加えておきます。

「省エネルギー」という言葉も、「温暖化(防止)」という言葉と同様に、あまりにもマスコミに登場し過ぎて、「耳タコ」言葉(cliché)になり下がっているきらいがありますので、投稿者は最近敢えて「脱エネ」という言葉を使う様にしています。さて、その脱エネですが、ケチケチ作戦だけでは、所詮「チームマイナス6%」ではありませんが、その辺りの削減率で飽和してしまう筈です。そこで、脱エネの登場になるわけですが、そこでは「もし化石エネルギーは存在しなかったら」という仮定から出発します。電熱器の電力やエアコンプレッサーの空気使用量や設備のモーター動力を削減するのではなく、それらが無かった時代に先輩達はどうやってモノづくりを行い、社会生活を維持してきたのかを、じっくり歴史を紐解いて勉強したいものです。

石油・石炭や天然ガスや、それら化石エネルギーから作りだした電力の(行き過ぎた)便利さを享受しながら、大幅な省エネルギー(例えば現在の半分以下)など、とてもおぼつかない話です。不便を甘んじて受ける態度、というより積極的に不便を楽しむ余裕こそが不可欠な所以です。ところで、今日は忙しい1日になりそうなので、短く切り上げます。続きます。

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2010年5月10日 (月)

1140 幸福度2

それでは別の尺度は考えられないでしょうか。もう一つ思い当たるのは、「自信」というキーワードです。「自信」とカッコ付きで書いたのは、これは単にConfidenceの意味ではないからです。ここでは、「自信」を「自分を信ずる事」の省略語だと考えます。自分を信ずる事が出来ない人々のココロを想像するに、多分かなり不幸な状態だと思います。その人たちは、自分がこの世に自分として存在する事に、何らかの違和感を持っていると想像できるからです。

違和感とは、自分を取り囲む環境との間に「トゲ」が存在し、時に、または頻繁にそれが引っかかったりチクチク痛んだりする状態でもあります。ここでの環境とは、家庭環境、職場環境、友人環境を含めた社会環境を指しますが、主として「人間環境」と考えても良いでしょう。人間関係に自信が持てない人たちは、殆どの場合自分にも自信が持てないでのではないかと想像しています。もちろん、そうでない人たちも少数は存在するでしょう。世の中がどうあれ自分は自分だと考えている芸術家や、単純な独りよがりの「自信家」などがその様な人たちかも知れません。いずれにしても、どんな状況にあるにせよ、最後まで自分を信ずる事が出来る人は、幸福度が高いでしょうし、同様に他の人を信ずる事が出来る人も、多少他力本願ではありますが、一応幸せなのだと想像できます。

では、どんな国に住むのがより幸福なのでしょうか。坊さんを敬い、ほほえみの国と呼ばれた東南アジアのあの国も、今や騒乱の国になりましたし、国民の地域や企業への帰属意識が非常に強く、生活の満足度が最も高い国であったこの国も、今やコミュニティの多くが崩壊の危機に瀕し、企業の経営者も再び終身雇用制に戻るなどとは、多分露ほども考えていないと想像しています。あの国も、この国も、では古い時代の制度に戻せば再び幸福になれるのでしょうか。人々の意識そのものがかなり変化してしまった今、得られる結果は分かりませんが、現在のまま五里霧中で進むよりは、思い切って試してみる価値は大いにありそうです。

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2010年5月 8日 (土)

1139 幸福度

B-タンという国が、採用している「国民の総幸福度(GNH)」という指標が、最近注目され始めています。確かに、戦後の国全体が貧乏であった時代、お金を儲けて、家や、車や家電製品を買い集める事が幸福であると考えられてきました。終身雇用が前提の社会システムで、右肩上がりの経済成長を続けている時代(20世紀後半)は、GDPに比例する形で、GNHも増加してきた筈です。人々は、何の疑問も持たずに、ひたすら前に向かって進めば良かったでしょう。しかし、ここにきて、「ところで、本当の幸福って一体なんだったんだろう?」という疑問が、物質的な満足度を一応獲得した人たちの間に広がり始めている様なのです。

そこで、このブログでも、今後折に触れて「幸福」の定義について、少しずつ考えてみる事にしました。さて、サラリーマンを卒業してすっかり貧乏になった投稿者ですが、幸福度を尋ねられれば、多分8.0程度かそれ以上のスコアと答える事になりそうです。ここにきて、一応ですが環境カウンセラー業でも、なんとか日々の糧は得られるようにはなりましたし、かなりの人々からそれなりに「頼りにされている」事が実感できているからです。企業人として、企業から毎月給料を貰い相応の成果が期待されているのと、一人の人間として、パフォーマンスが期待され、その提供の結果としていくばくかの謝礼がいただけるので、順序が全く逆です。

回りくどい言い方になってしまいましたが、投稿者の考える幸福度とは、結局は「効力感の大きさ」という尺度で測るもの、という事になりそうです。つまりは、自分が何らかの行動をした結果、幾人かの人々に感謝され、その感謝の発露として、感謝の言葉やいくばくかの謝礼をいただき、それで日々の糧が購えれば、これに勝る幸福は無いと思うのです。もちろん、家族を含めた身近な人々との良好な人間関係は、そのベースになるでしょう。自分が何を、どの様に活動しても、何も変わらない様に思える「無力感」に苛まれている人々の不幸は計り知れません。でも、その人達でさえ、自分が行動した結果としての、自分の周りの小さな変化(例えば、自分が挨拶をした時に挨拶を返してくれるお年寄りや子供たち、あるいは自分がゴミを拾った結果、前の様に気持ち良くなった歩道など)に注目しさえすれば、小さな効力感を感じる事は十分可能でしょう。幸福度の高い人たちとは、つまりは「小さな幸福を集める事が上手い」人たちなのだ、というのがここでの結論になりそうです。たぶん続きます。

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2010年5月 6日 (木)

1138 ミツバチの衛兵

晴れた日に木曽川の河畔をジョギングしていると、頻繁にハチ達に「監視されている」事に気が付きました。胴体の太いハチなので、多分ミツバチの仲間の「衛兵」なのではないかと想像しました。ミツバチにとっての天敵は、ハチの仲間では、肉食のスズメバチなどでしょうが、動物では多分甘いものには目が無く、時々巣を襲うクマの仲間ではないかと思います。紫外光や赤外光でしか、世界を見渡す事が出来ないハチなどの昆虫にとって、太陽に照らされて、表面温度が高くなった、真黒い毛をもつクマと、黒い髪の毛を持つ人間の区別は、全くできないのではないか思われます。つまり、太陽光に照らされた、クマと人間の頭は、ハチのとっては同じ様に「天敵」に見え、その天敵に対しては、監視の目を緩める訳にはいかないのだと想像してしまいます。子供たちが遠足で行った山道や田舎道でハチの大群に襲われる理由も同じ事になるでしょう。ハチの衛兵は、しっかりと本能に従って仕事をしただけで、晴れた日の遠足に行くのに白い帽子をかぶるように指示しなかった、親や教師にも責任があるのでしょう。

という訳で、元技術屋にとって、ホンの些細な自然観察ですが、特に生き物たちの相互の関係には、いつもその絶妙な仕組みに感嘆させられます。2時間弱のジョギング中でさえ、日々変わっていく自然の様子、木々や植物、鳥や昆虫の変化に、毎回のように発見があります。そんな時は、走っている場合ではないので、立ち止まって目を近づけてしばし観察するのです。すると、今度はアリや地面を這う虫たちが、目に入ってきます。そこで、彼らの仕事ぶりを、ややしばらく観察する事になります。子供のころに読んだ「ファーブル昆虫記」をもう一度読み返したくなりました。今なら、筆者の虫たちに対する優しいまなざしや気持に少しは近づけるかも知れません。

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2010年5月 4日 (火)

1137 23.5度の奇跡

一方、この星の自転地軸が、公転面に対して、23.5度という「中途半端な角度」で傾いてしまった事も奇跡に近い出来事でした。この事によって、四季が生まれ、生物の多様性を(そうでない場合に比べて)天文学的な数の種に分化させたからです。季節の変化は、動けない植物に関しては、葉を落としての休眠や、種子を残しての越冬などの仕組みを進化させ、一方動物に関しても、卵や蛹での越冬や冬眠や渡りなどの知恵を発達させました。もし、地球が年中一定の気温で、生物にとって楽に生きられる世界であったなら、多分生物たちは安穏とした無性生殖を続けていたかも知れません。同じ種を雌雄に分け、世代を重ねる事によって、厳しい冬の時間をやり過ごす事によって、生物の分化や進化が続く事になったとしか思えません。

動物に関して言えば、鳥の渡りの助け無しに、動けない筈の植物が、海を渡って異なる大陸に移動して繁茂できる訳はありません。一方で、例えば鳥の渡りによって多くのウィルスや病原菌が世界中にばら撒かれた事でしょう。しかし、結果としてみれば、多くの種がそれらに対する免疫を身につけたばかりか、細胞の中にウィルスを取り込んでの進化も果たしたと思われるのです。その証拠として、高度に進化した生物ほど、細胞が複雑で、ミトコンドリアなど別の生物の痕跡をその内部に残していたりもする訳です。

つまりは、地軸の傾きこそがこの星に四季を作りだし、それが生物の交流を加速し、現在の生物多様性を生み出したという順番になりそうなのです。しかも、現在の程良い傾きが、冬を生物がどうにか耐えられる程度に抑え、夏も生き物が焼き尽くされる事なく加減しているのです。これも、やはりこの星が与えられた、天体の奇跡というしかありません。

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2010年5月 2日 (日)

1136 24時間の奇跡

最近、この星が持つ数々の奇跡に想いを馳せています。太陽系の中で、地球だけが選ばれて、現在の位置に座っている事も奇跡で、兄弟星である火星は、生物を育む権利を与えられませんでした。もちろん、星の歴史をずっとずっと遡れば、火星の表面にも水が流れていて川や海があったのでしょうし、もしかすると生物らしきものも存在したかもしれません。しかし、いま荒涼としたこの星の水は凍りつき、生物の影も見られません。

一方、地球の最大の奇跡は、24時間という自転の回転速度にあると、投稿者は見ています。この自転速度は、基本的には地球のサイズに依存しています。つまり、より大きなサイズの星の自転の周期はかなり長くなる筈ですし、小さければせわしく自転するでしょう。もし、星の自転周期が、例えば1週間程度だとすると、その星の気候は劣悪なものになると想像されます。つまり、昼の間は、灼熱の太陽にさらされて、最高温度は百℃をかなり超えるかも知れません。一方、夜に入った半球は、夜間の放射冷却により零下何十℃にもなるでしょう。しかし、24時間で一回りするこの星では、日中の温度は熱帯でも水が沸騰する温度になる事はありませんし、温帯では夜間に零下になる期間は限定的です。

一方、もし自転周期が数時間になったと仮定ですれば、地球の至るところでほぼ平均気温である15℃前後になってしまう事でしょう。この場合、気候変化の幅が極端に小さくなる結果、生物の多様性はすっかり失われて、同じ緯度であれば、非常に種類の少ない生物相しか観察できなくなる筈です。平均化された環境には、非常に少ない種類の生物しか進化し、棲息できないからです。この事は砂漠地帯や、極寒の日々が続く極地方を見れば、直ちに納得できると思います。

一方、自転によって生ずる、昼夜の10℃~30℃の幅の温度変化は、生物の多様性を一気に爆発させたであろうことは、元技術屋の投稿者などにも容易に想像できます。カゲロウなどの様に、最適な気温の日に羽化し、その晩に街灯に集まって交尾し、死んでしまうはかない存在もありますし、恒温動物でも、夜間の数時間の暗黒や寒さに耐える事さえできれば、朝にはまた暖かい太陽を拝む事が出来るのです。そう考えると、24時間という自転周期は、まさに生物にとっては奇跡に近い天体現象だと言うしかありません。

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