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2010年7月31日 (土)

1179 植物>動物

当たり前の事ですが、動物は植物の存在を前提に進化した筈です。というより、面倒くさく時間が掛りしかも効率も悪い光合成という作業を諦めて、他人さま(植物や自分より弱い動物)からちゃっかり養分を戴く戦略に転じた存在が、ヒトを含む動物であるとも言えます。しかし、もちろん地球上から植物が完全に消えてしまった場合、同時に動物も滅びるはずです。

その意味では、私たち動物はもっと植物たちの行く末に興味を持たなければならないでしょうし、その存続に力を貸さなければならないでしょう。では、具体的にはどうすれば良いかですが、何より、水、太陽光、土壌とそこに含まれるNPKや植物の栄養素の供給にもっと気を使うべきでしょう。そのためには、先ずは森林の手入れにより水源を涵養しなければならないでしょうし、持続的な栄養素の供給に、努力すべきです。先人は、その努力を怠りませんでした。例えば、田畑には客土と称して、山の土を運んできて入れる作業を数年に一回程度は行っていたのです。山土には、鉄分を始めとするミネラル分が多く含まれ、作物を育てて疲れた土を元気づけた事でしょう。また、田畑には堆肥や腐葉土や雑魚を干したもの(ほしか)などを入れていた事でしょう。(事実、江戸時代には、ほしかを扱う専門も卸問屋が存在した程でした。)それらがゆっくり分解される過程で、土壌中の微生物が活性化し、結果として作物の収量も増加し、病害虫にも負けない農業が持続したのでした。

一方、水源の涵養という意味では、ご先祖様たちは、せっせと里の上に広がっている山に植林を続けた事でした。戦後は、針葉樹一辺倒になってしまいましたが、伝統的には水源を涵養する力が強いブナ等の広葉樹や各種の雑木だったはずです。勿論何の考えも無しに植林したのでなく、高木と低木と灌木をバランスよく組み合わせて、山菜の収穫や薪炭の採取も行いながら結果としての水源確保が出来たのでした。しかし、知恵が無く労力を惜しむ現代人は、何とも単純なコンクリートのダムでそれが代用できると勘違いしてしまった様です。そうではなくて、植物や海のプランクトンに上手く育って貰うには、広葉樹林の林床から浸み出す、フミン酸やフルボ酸や多くの無機物・有機物を含む清涼な水が不可欠なのです。そこに再び気がついた少数の人たちが、再び広葉樹林の植樹に細々と取組みはじめている事はココロ強いことです。

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2010年7月29日 (木)

1178 何を諦める

これも何度か書いた様な気もするテーマで、環境坊主としての提案でもあります。「環境保全のために、何ができるか、何をすべきか」、という大上段にかぶったテーマが、このところの先進国の主要な課題となっています。しかし一方では、景気の減速による不景気風が、それに水を差し始めてもいます。もちろん、この国で起こった様に、景気の減速により企業活動が鈍化し、大した苦労もなく2012年までの90年比6%の省エネは達成できそうです。とは言いながら、この夏も電力ピークを更新しそうな勢いですが、民生向けのエネルギーは、まだ右肩上がりを続けて行きそうな様相です。一方で、多量の化石エネルギーを消費していながら、ささやかな緑化活動や、ライトダウンや、打ち水、まして川での生物採取による生物多様性のお勉強程度の活動で、この厳しい環境悪化の状況に歯止めが掛るとはとても信じられません。

そうではなくて、私たちは何を諦め、何を捨てるかの覚悟を決めなければならないと思うのです。そのためには、先ずは体を鍛えて、来るべき厳しい環境にも耐え得る体力を付けておく必要もあります。難しい事はさておき、とりあえずは暑さ寒さに音をあげない体があれば十分でしょう。寒さは、目いっぱい着こめばなんとかなりますが、暑さに耐えるためには、体質改善が必須です。何より、熱中症を防ぐ耐えにはたっぷり汗をかける体質が不可欠でしょう。そのためには、汗腺をしっかり働かせる訓練が欠かせません。

冷房を効かせた室内環境に慣れると、汗腺がサボタージュを始めますので、体温以上の環境にさらされるか、湿度の高い環境では熱が体に貯まる事になります。水の様な、汗をしっかりかいて、体温を下げる能力は、今後の気象条件の中で生き抜くには基本的な能力となるでしょう。これができると、蒸し暑い日本の夏も、扇風機程度で乗り切れる事にもなります。これで、暑い夏を更に暑くしているエアコンを諦める事が可能になります。

更に付けくわえれば、より少ない食糧で生き抜けるスリムな体も欲しいところです。小柄で、飢餓に強いというモンゴル民族の遺伝子を受け継ぐ、私たち日本人は、実のところ悪化した環境の中でもより長く生きのびる条件に恵まれていると言えそうです。しかし、それも、今お年寄りと呼ばれる世代までかも知れません。投稿者以降の世代は、便利で快適なライフスタイルの代償として、世界で最もひ弱な体力しか持たない民族になり下がってしまった可能性もありそうです。

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2010年7月27日 (火)

1177 時間の加減速

先が短いせいか、最近時間の事が気にかかります。もちろん気にかかるのは自分に残された時間の事もありますが、一方地球時間はと言えば、その「環境時間」も含め、数十億年の時計をゆっくりと刻んでいる途中に過ぎません。ここで環境時間と名付けたのは、有機の地球環境という意味においてです。宇宙には、地球などよりもっと古い、しかし無機の天体はそれこそ星の数ほどあるのでしょうが、地球に類する有機の星は、数えるほどしか見つからないでしょう。というより、それらの星は自分で光っている訳ではないので、きっと永遠に見つからないのでしょうが…。

さて、有機の環境は、狭い意味での生物によって、その時間が刻まれると言っても良いでしょう。つまり、植物は熱帯地方を除いて、太陽光の強弱によって春には芽を出し、夏に葉を広げ、秋には実を付け、冬には葉を落とす年周期を繰り返します。鳥や動物は、その植物のサイクルに合わせて、繁殖を繰り返します。しかし、熱帯はそうではありません。植物は年中花を咲かせ、いずれかの植物は実を付けています。つまり、温帯以北には季節と時間が明確に刻まれ、熱帯ではさながら時間が無い様な、生態となっていると言ってもよいでしょう。

結果として何が起こったかと言えば、熱帯地域ではさながら進化の過程が止まっているか、あるいは非常にゆっくりとしか進んでいない様に見えますし、一方温帯や亜寒帯では、生物の進化が加速された様に見えてしまいます。生物の進化は、多分どうにか耐えられる程度の厳しい環境の変化によってもたらされるのではないかと、投稿者は密かに考えています。温帯以北の冬は、まさに多くの動植物にとって試練の季節となっています。冬を越すために、植物は葉を落とし、幹の中の水分を最小限に抑えて凍結を回避しますし、あるものは種で冬を越します。昆虫は蛹となり、クマは冬眠し、リスは餌をたっぷり蓄えて冬ごもりをする能力や体の形態を進化させたのでしょう。季節という時間の刻みは、結果として進化という時間軸を加速させ、一方季節の無い熱帯や深海では、多分その時間がひどく減速されてしまったのではないかと思っています。

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2010年7月25日 (日)

1176 酷暑考

ただならぬ暑さです。体を冷やす仕組みとして扇風機しかない投稿者の事務所では、35℃の熱風を送ってくるこの機械で、体温並みの気温と戦っている訳です。体温を維持できているのは、体が適当に汗をかいてくれるからですが、暑さとの戦いに疲れて仕事の能率はちっとも上がりません。そんな時は、仕方がないので山の地図を広げて、盆休みに向かう予定の山のルートの検討を始めるしかありません。

さて、何故こんなにも暑い(熱い)かですが、日本の熱帯化が疑われます。熱帯化の一つの証拠は、梅雨の時期にも観測された、信じがたい程の集中豪雨ですが、時間当たり100mmを超える様な豪雨は、熱帯のスコールを彷彿させるに十分です。それも、地域が非常に限定的である事もスコールに似ています。もう一つの間接的な証拠が気温です。砂漠の様な場所では、日中50℃を超える様な事も珍しくは無いでしょう。しかし、湿度の低い砂漠では、夜間の放射冷却によって、明け方までにはしっかりと地表の温度も下がる事が出来ます。一方、熱帯地方では、空気中の高い湿度が、さながら強力な温暖化ガスとして(厚い布団の様に)作用し、夜間の放射冷却を妨げます。そのため、夜間の気温が下がらず、結果として翌日の最高気温も引き上げてしまいます。いわば、地表への熱の蓄積が起こっている訳です。熱帯化の確実な指標は、しかし生物相の変化によって確定的になります。生物相の変化は、気象の変化がある程度定常化し、固定化した証拠でもあるからです。熱帯地方でしか育たない植物が育ち、冬越しが出来る事、あるいは温帯で良く育つはずの植物が最早育たなくなる事、あるいは熱帯にしか生息しない筈の鳥や昆虫が定常的に観察できる様になるなどの指標です。

具体的には、温帯のモンスーン気候で良く育つイネが、日本の酷暑で、例えば九州地区で白化等の発生により品質が大きく低下している事、温帯果樹の代表であるミカンが、最早四国や和歌山では収穫の維持が厳しくなってきている事、あるいは亜寒帯の果樹であるリンゴが、本州の緯度の低い地域では育ちにくくなっているという事実もあります。以上を総合すれば、日本の熱帯化が、かなりのスピードで進んでいると考えざるを得ません。その北進のスピードは、年間10km前後であるという数字を目にした事があります。

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2010年7月23日 (金)

1175 観察力

環境の質の測定は、決して炭酸ガス濃度や、気象観測や、有害物質やましてや絶滅しつつある生物種の数のカウントなどの「数字」だけで測れるものではありません。何故なら、環境の変化には長いながい時間の経過が伴うからです。温暖化の評価にしても、はたして100年程度の短い?時間軸で十分なのかについては、意見の分かれるところです。

その意味で、環境の変化については、実のところ気の長い定点観察によってのみ可能なのではないかと密かに感じています。どの程度気の長い期間かと問われれば、それは少なくとも数世代をまたぐ程度の期間と言っておきます。観察には、先ずは物事や事象をじっと見て、何かを感ずる事が必要です。古人達は、この事に非常に長けていましたが、現代人の感覚たるや、殆どが急激な退化の途上にあるとしか思えません。観察眼で言えば、アリの行動を日がな一日眺めているような子供を見る事は殆ど無くなりました。暑さ寒さの温寒感覚も、冷暖房でかなり鈍感になり、ちょっとした暑さでも熱中症になる人が続出します。ましてや、皮膚感覚や聴覚、嗅覚や味覚はもちろん、何かを感ずる第六感などは、いまや殆ど痕跡も残っていないのではないかと疑っています。

それら全ての感覚は、実のところ私たちの祖先が、厳しい環境を生きのびるために、磨きにみがいてきたものの筈です。それらを総動員して、今環境で何が起こりつつあるかを、敏感に感じ取って、それに歯止めを掛けるか、あるいは自分達のサバイバル能力を強化しておく必要があると思うのです。退化には、実はあまり時間を要しません、戦後食生活が欧米化され、咀嚼回数が激減した結果、ホンの12世代で、急速に下顎が小さくなり、結果として八重歯の若者が増えたという事実は、それを物語ります。

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2010年7月21日 (水)

1174 EV試乗記

仕事先での移動の際、M社の電気自動車(EV)にかなり長い時間同乗させて貰いました。軽自動車サイズですが、重たいバッテリーが功を奏して?か、あまり小刻みな振動もなく、大衆車並みの落ち着いた乗り心地でした。さて、運転者もそうでしょうが、乗っていてもっとも気にかかるのは、バッテリーに貯まっている電力で「後何キロ走れるの?」という点です。この車は、200Vでの充電が基本ですが、2倍の時間を掛ければ(多分一晩くらい掛る様ですが)100Vでも充電は可能とは言え、路上でガス欠(電欠?)になれば、救援車を待つしかありません。現在のところ、200Vの充電設備は、東名高速道路にたった2か所だけ、あとはM社の販売店くらいにしか設置されていないので、遠出をする際には冷や冷やしそうです。ちなみに、フル充電で130km程度は走る様ですが、当然の事ながらエアコンやヒーターも電動なので、これらを併用すると急速に後続距離が短くなります。実用的には、100km未満と考えるべきでしょう。

面白いのは、M社の各販売店では、わずか500円で1時間賃貸しを行っている事です。充電設備の使用料は、今のところ電力量に応じたメーター金額ではなく、1100円程度の施設使用料制なので、燃料費(電気代)は事実上無視できる範囲だと言えます。500円のレンタルでは、数百万円もする車両代の元は引けませんが、販売台数を1台でも増やしたいと言うメーカー・ディーラーの苦肉の策なのでしょう。今度は、是非500円を払って自分で運転してみようと思います。

さて、EVの性能を左右するのは、一にかかってバッテリーの性能(=単位重量当たりの充電エネルギー密度)なので、軽くて容量の大きなバッテリーの開発に期待するところ大です。それに加えて、太陽光発電を利用した、道路上に設置された充電ステーションの整備でしょうか。そこでは、12時間程度走れるくらいの補充電が短時間(30分以内)でしかも無料でできる様にしておく必要があります。ちゃっかりした人は、そこで毎日充電するかも知れませんが・・・。

もし自分がこの種の車に乗る様な羽目になった場合、是非小型の補助発電機(APU)を搭載してもらいたいと思っています。非常の場合1馬力程度のAPUを回せば、1時間程度の充電で、なんとかコンセントを借りる事が出来る場所へ辿りつけるでしょう。この場合、社会的な契約により、例えばコンビニなどでも充電に対応できる様になっている必要もあります。

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2010年7月19日 (月)

1173 バイオマス考

ここで改めて「バイオマス」を、投稿者の言葉で定義をし直すとすれば、それは「太陽光が、物質として固定化されたもの」となるかも知れません。目には見えない太陽光(太陽光の持つエネルギーの流れ)を物質として固定できるのは、事実上(というより投稿者の浅い知識が知る限り)葉緑素を持つ植物や植物プランクトンに限定されます。葉緑素を持つ動物というものも、少ないながら存在するのでしょうし、人間がまだ知らない未知の生物もそれができる能力を持っているのかも知れません。しかし、事実上バイオマスの殆どの部分は植物や植物プランクトンによって固定されていると言っても間違いではないので、ここでもそう考えておきます。

さて、水と炭酸ガスと少量のミネラルと太陽光の持つエネルギーの一部を使って行われる光合成は、実のところその巧みさにおいて驚嘆に値します。その営みは、例えば葉緑素だけの単純な物質や単純なサイクルでとても説明できるものではありません。そこに関わるのは、種々の酵素や中間物質、太陽光を波長によって利用する、巧妙で繊細な化学工場とも言える仕掛けがそこにあるからです。

人間が逆立ちしても、植物が何億年もかけて開発したこの巧妙な仕組みを真似する事さえできません。人間がこれまで実現できたのは、賢かったハーバー・ボッシュさんが、植物が苦手とする窒素の固定(アンモニア固定)の工業化に成功し、アンモニアと硫酸から硫安を作って植物へ施してあげて、彼らのバイオマス固定量をいくらか増やす手伝いが出来たくらいでしょう。水と空気と太陽光から、単純な構造の糖を合成する事すら、宇宙に人を送る何百倍も難しい研究になるでしょうし、今のところは夢のまた夢に過ぎません。バイオマスに関しては、私たちは今のところ植物様達に、お天道様の恵みを得て機嫌良く作っていただき、それをありがたく頂戴する事しかできない情けない存在ではあります。

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2010年7月17日 (土)

1172 水害考

今年も梅雨末期の水害が多発しています。投稿者の住む地域でも、かなりの被害が出たようです。投稿者は、水害、中小河川の氾濫や土砂崩れ(鉄砲水)は、一面で人災ではないかとも考えています。例えば土砂崩れです。どんな山や丘でも必ず、尾根や谷があります。谷とは、言い換えれば以前にも何らかの理由で、他の場所より浸食が大きかったか、あるいは土砂崩れの痕跡そのものだとも言えます。ご先祖様は、決してそのような場所に家を立てなかったと想像しています。何故なら、地区の長老は古くからの言い伝えを忠実に後継者に伝えたでしょうから、水害の歴史の轍は踏まなかったでしょう。

しかし、戦後の高度成長期になって人口も増えたため、地区の「分家」や都会からの移住者は、深く考えずに小さな谷の下流にも家を建ててしまったのです。これらの被害を増大させているのは、実は里山や人口樹林の手入れ不足です。里山は、かつては薪炭林でもあったため、灌木は切られ、また人工林では間伐や枝打ちが行われ、地面にもしっかり日が射したでしょう。日が射すと下草が生え、土を抑えます。下草が繁り過ぎると、木の成長にも影響が出るため、草刈りも欠かせない仕事でした。しかし、現在の里山や林地には全くと言ってよい程手が入っていません。というより、人々は山に全く無関心なのです。なぜなら、山仕事では食えないし、儲からないからです。

そうではなくて、山仕事は「環境維持業」として、捉えなおさなければならないと思うのです。山の恵みを間接的にせよ享受している人々、飲み水や工業用水や農業用水を得ている人々はもちろん、水害被害を受けずに暮らせている平野に住む人々も、そのためのコストを負担しなければならないのです。それを、山仕事に従事してくれる人々にしっかり還元しなければならないでしょう。これも、環境を維持するための持続可能な一つの「循環する仕組み」ともなり得ます。

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2010年7月15日 (木)

1171 環境の懐

環境、かんきょう、カンキョウとマスコミでも日夜連呼していますが、彼らが言うカンキョウとは、実は非常に限られた範囲で、かつどうにか五感で認知できる範囲を指す場合が殆どだと想像しています。例えば、温暖化により気候変動や気象の激化、例えば生物種の減少、また例えば公害に代表される住環境悪化や健康被害などです。しかし、カンキョウはそんなに懐が浅いものでも、単純に人間の五感などで感知できるものでもないと思うのです。つまり、今私たちが問題にしている、しようとしているカンキョウとは、大気圏の環境の場合は20km以上もある大気の厚みの内、気象に直接関係のある対流圏(高くても10km程度まで)、水環境の場合、人間が利用できる淡水や目に見える川や海の汚れ、大地について言えば、農業に利用している地表から僅か30cmの深さまで、それに加えて目に見える一部の森林やそこに棲む目に見える僅かの種類の生き物たち程度なのです。

目には見えず、五感で感じる事の出来ないその他のカンキョウについては、実際上は殆ど無視されていると言っても言い過ぎにはならないでしょう。何故なら、それらは人間の営みには実際上の利害関係を生じさせない(関係無い)からです。人間は、利害に無関係のものには全くの無関心かあるいは冷淡になりがちです。人間が環境を意識するのは、悪化した環境で自分達が生き辛くなった時に限られる事は、もう一度認識する必要がありそうです。

そうではなくて、環境への本当の配慮とは、実際には見る事や感ずる事の叶わない環境やそこに棲む生き物たちに思いを馳せ、彼らを思いやるココロを持つ事に他なりません。生物多様性という耳に心地よい言葉に代表され、目にも見える、例えばホタルやトンボや珍しい蝶や、メダカやハリヨやモロコやクジラなどにばかり目を向けるのではなく、水底に棲むイトミミズや目には見えない一握りの土の中にうごめく、数十億の微生物たちの生活を慮る必要もあるのです。環境への配慮とは、「配慮」という言葉が示す通り、目には見えないものたちへの想像力や気配りであり、彼らへの慮り(おもんばかり)そのものだと思うのです。

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2010年7月13日 (火)

1170 トンボ

この季節は、トンボの羽化の季節なのでしょう。いつものジョギングコースで、今日は沢山のトンボを目撃しました。オニヤンマ、ハグロトンボ、あまり赤くないアカネトンボ(正確な名前は知りません)などです。特にオニヤンマは久しぶりで見たので、さながら旧友に出合った様な懐かしさを覚えました。オニヤンマは、多分全長が1m近かった古代トンボ(例えばメガネウラなど)の遺伝子を濃く受け継いでいる様な気もしますが、日本のトンボでは最大級の大きさです。

さて、ゆったりと飛んだり、ホバリングしたりしているトンボを見ていて感じたのは、彼らにとって空気はどの程度の粘性物質なのか、という変な想像でした。人間のサイズでは、空気の存在を感じるのは、強風の日か、短距離陸上選手か、自転車か単車で走っている時くらいでしょうが、小型の虫にとって、空気はさながら人間にとっての水くらいの粘性を感じていると想像できます。レイノルズさんが、その辺の感覚を見事に数式に表してくれていますが、トンボや昆虫は非常に高速で羽ばたく事と、人間に比べて2桁は小さいサイズによって、空気の粘性を完全に味方につけて悠々と飛び続ける事ができます。鳥は、ややサイズが大きいので、その弱点をカバーするために、体重に比べて強大な胸の筋肉を発達させる必要があった様です。

とは言いながら、トンボを含む昆虫の種類や目にする数はめっきり減った事も事実です。理由は明白で、彼らの幼虫がココロ安らかに育つ事が出来る、自然の水溜りや小さな流れが、激減した事にあります。多くの湿地が埋め立てられて住宅地になり、土がコンクリートで覆われ、水溜りが無くなりました。小さな水路の壁はコンクリートで覆われ、虫の隠れ家となる水草も繁っていません。オニヤンマも絶滅危惧種と呼ばれる日がやがて来るのかも知れません。そう思って見ると、最近のオニヤンマはやや小さくなって、迫力が無くなってしまった様にも感じました。投稿者の気のせいだと良いのですが。

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2010年7月11日 (日)

1169 爬虫類天国

投稿者の借りている事務所ビルは、1階が学習塾、2階は空き家、3階の半分を投稿者が借りている、築30年以上経過したと思われる古いビルです。夜間は完全無人で、常夜灯も「完備」され、しかも階段・廊下部分は窓が無いので、虫がしっかり集まってきます。その虫を餌にしているのは、ヤモリの親子(複数のヤモリを同時に目撃しましたので、とりあえずは親子という事にしておきます)です。ヤモリはトイレのロータンクの中と、洗面所の鏡の裏を棲家としている様で、小さくてそれなりに可愛いのですが、壁中にフンを付けて回る品格の無さには閉口します。

さて、先日そのヤモリを狙っていたのか、常夜灯の下でのたうち回る虫を狙ってきたのか、ついに蛇が登場しました。とはいっても、1mもないシマ蛇の子供?ですが、朝来ると階段にとぐろを巻いて眠っていました。草むらで蛇を見るのは当たり前ですが、直線で囲まれたコンクリートの建物の中で、不定形のぐにゃぐにゃした物体を見ると、やっぱりドキリとします。毒は無いと分かっていても、ココロが受け付けないのです。小石を投げて退散願いましたが、どうも投稿者の遠いご先祖は、葉っぱに棲んで居た青虫の様なものの様で、爬虫類は天敵なのか、かなりの苦手です。

コンクリートの建物にも、これらの生き物が棲みついて、安らかに暮らしている事については、店子である投稿者としても、彼らの同居人という立場である訳で、できる限り邪魔しない様に共存していきたいとは思っています。

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2010年7月 9日 (金)

1168 集光装置

太陽光を集める装置(例えば太陽光発電パネル)がただの平板ではあまりにも非効率です。少なくとも、ナミナミか、曲面か、理想的には多数の平面の集まりにはなっていて貰いたいものです。また太陽光は、理論的には地球の表面至るところに、ほぼ平等に降り注いでいる様にも見えますが、実は厳しい競合関係にあるからです。例えば、田んぼや畑の上に太陽光発電パネルを設置すると仮定した場合、そのパネルの下では最早作物は育ちません。精々、光が要らないヒョロヒョロのモヤシ程度しか収穫できないでしょう。同様に、山の木を広く伐採して、斜面に同様の施設を設置する場合も同様です。山は、結果として保水力を失い、洪水が頻発する事でしょう。海の上でも事情は同じです。植物プランクトンは、太陽光を利用して増えますので、洋上の巨大な構造物は、海に棲む生物にも多大な影響を与えずにはおきません。

つまり、太陽光の利用設備は、他に影響を与えない場所を選びに選んで決定すべきでしょう。南に面していて盛土をした道路の法面、高速道路の防音壁、住宅の屋根、マンションのベランダの手摺の外側、平面駐車場の上の空間、海外では砂漠地帯等が候補地になるでしょう。しかし、砂漠に植物や生物が棲んでいない訳でもありません。それどころか、昼間は砂の中に潜っている乾燥に強い動物や、非常に長い地下茎を伸ばしている植物など、人間が殆ど注目していないが、しかし有用な生物の宝庫かも知れないのです。太陽光の利用に当たっては、それらの生物との競合が無いかどうかに関しても、厳しい影響評価が欠かせないでしょう。

太陽光は無限のエネルギー源の様に考えられがちですが、人間がそれを集めて利用する際には、まだまだ考えなければならない事柄が多そうです。もっとも安全で、正しい方法は、植物やプラントンに太陽光を集めて「いただいて」それを、人間が「利用させてもらう」という腰の低い姿勢を持つ事かもしれません。

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2010年7月 7日 (水)

1167 バックキャスト

成長の限界点というイメージ出来上がり、それが具体的に描けたとして、では今それに向けて何を為すべきかを決めるのが「バックキャスト」という考え方です。つまり、将来に亘って安定的に使える資源やエネルギーが、今の25%であるとすれば、私たちの日常生活や社会システムのサイズも、同じ縮尺で縮めて行かなくてはならないわけです。誰もが、自分の生活水準を下げるには抵抗があるでしょう。しかし、皆で渡ればそれも怖くはなくなるでしょう。隣の生活も、ウチの生活と同じレベルになるのであれば、人々はかなりの事に我慢できる筈です。しかし、やせ我慢は決して長続きはしないので、その物質的には低い生活レベルでも、人々がココロ豊かに暮らせる知恵や工夫が、今後の社会システムには不可欠になるでしょう。つまりは、無責任な経済予想を繰り返す経済学者や政治屋には退場願い、少ない資源・エネルギーでココロ豊かに暮らす知恵を生み出す、数多くの知恵者やアイデアマンに登場願いたいものです。

投稿者を含め、企業経験や行政経験の長い人たちは、多分決められたゴールを目指して、そこに至る計画を引くのは比較的簡単な作業に違いありません。何故なら、「外挿法」が使えるからです。つまり、過去の実績を引っ張り出してきて、それに成長率を掛けて、将来の予測がかなり正確に出来ると言う事です。しかし、右肩下がりの計画を引くのは容易ではありません。過去の実績にマイナスの成長率を掛けて予算を引き下げると、既得権益を持つあらゆる勢力から、一斉にブーイングが湧き上がるからです。結局は優先順位の問題にはなるのですが、これが実は至難の業なのです。企業に場合は、それでも経営者のツルの一声で決める事も可能なのでしょうが、一般社会の生活に絶対不可欠なもの、あれば快適なもの、無くてもどうにかなるものと、無駄なものを「仕分け」するのは、行政仕分けほど簡単ではありません。乗用車は一家に1台に制限し、湯船に湯を張った入浴を週2回に制限し、庭の水撒きには屋根に降った雨水を使わなければならない法律でも作らない限り、現在の25%の資源・エネルギーで動く社会の設計は、結局各論反対で実を結ばない結果に終わるでしょう。右肩下がりのバックキャスト手法の開発が必要な所以です。

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2010年7月 5日 (月)

1166 成長の限界

今度の選挙の争点の一つである税率の議論を聴いていると、イライラします。なぜなら、これがまさにタマゴとニワトリの論争そのものだからです。景気が悪いから税金が集まらず、結果として消費物資に課税せざるを得ない。いや、増税すると過去の例でも税収は更に下がったのであるから、景気は完全に失速するから景気対策が先だ、という不毛の議論です。日本を含む、世界経済の成長の限界はどこか、という議論は、実は1970年代から繰り返し行われてきた筈です。その端緒となったのは「ローマクラブ」がまとめた「成長の限界」という報告書でした。コンピュータの能力が限られたものであったあの時代、その推計値は大まかなものでしたが、資源の有限性から論じ詰めたその結論には説得力もありました。それは、投稿者の頭の片隅にも、明確な暗示の様に刷り込まれてしまったのでした。

成長の限界は、地球のサイズが有限である限り、100%認めなければならないとしたら、では、その限界点(着陸点)はどこになるのか、真剣に議論してみなければならないでしょう。マクロ経済で見る目も必要でしょうが、私たちの日々の生活は、一体過去の何時の時代に相当するレベルまでが許されるのかも具体的に示して行く必要があると思うのです。私たちは、既に地球が(資源が)許す、生活水準をとっくに超過してしまった訳です。確かに、その水準にはるかに届かない生活を送っている人口が圧倒的に多いのも事実ですが、欧米を手本として、モノが豊かで過剰に清潔な生活スタイルは、最早持続可能ではない事は率直に認めなければならないでしょう。その際、輸出入が殆ど無かった時代に、100万人の都市(江戸)を、ココロ豊かにしかも清潔に維持してきた、先人の知恵の結晶は、一つの着陸点として頭の片隅に置かなければならないでしょう。それに加えるべきは、エネルギーを馬鹿食いする近代科学技術ではなく、江戸時代の知恵のブラッシュアップ版でなければなりません。

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2010年7月 3日 (土)

1165 電磁波

「エネルギー」と私たちが呼びならわしている「モノ」の本質が、実は種々の波長の「電磁波」とほぼ同じ意味である事は、強調してもし過ぎる事はないと考えています。エネルギーが伝わる場合には、例外なく電磁波が関わっています。物質が、内部にエネルギーを抱えている時は、必ずその物質が熱振動を行っています。熱振動があるところには、その物質表面からの電磁波(例えば赤外線)の放射が伴います。空気の分子も熱振動を繰り返していて、分子からも活発に赤外線が放出され、結果エネルギーレベルが下がりますが、同時に周りの環境からも新たな電磁波の放射を受け取っており、通常振動状態は維持されます。

物質が熱振動を止めるのは、その物質の温度が絶対零度(ほぼ-270℃)に到達した時だけです。従って、エネルギーをコントロールする事とは、電磁波をコントロールする事と同義だと言っても過言ではありません。しかし、私たちが持っている電磁波のコントロール手段は十分ではありません。例えば、通信に使っている電磁波(いわゆる電波です)だけを遮るのであれば、例えば鉛や炭素等でシールドすれば可能だと言えます。しかし、もっと長い波長の電磁波(赤外線)やもっとずっと短い波長の電磁波(例えばX線やγ線)を遮るのは、分厚いコンクリート等の遮蔽物を準備する必要があります。

高温の物質の温度を保つには、不十分ながら、断熱材と呼ばれる「フトン」を使う方法や、少々大げさですが、周りに真空に保った空間を作る程度の手段しか持っていない訳です。しかし、これらの手段でブロック出来ない波長の電磁波は、ほぼ自由にこれらのバリアを通過し、エネルギーが失われる事になります。そう考えると、エネルギーの使用量を大幅に減らしたいのであれば、電磁波となって失われる(役に立っていない)エネルギーの量を如何に少なくするかに、私たちの叡智を集めるのが近道だと言えます。

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2010年7月 1日 (木)

1164 環境の劣化

ここでは、環境の劣化は何を意味するのかを考えてみます。これは実に難しい問で、一介の環境坊主にすっきりと答えられる筈もありませんが、なんとか無い知恵と言葉を絞り出してみます。さて、環境劣化を投稿者なりの言葉で表現すると、一つは環境のメリハリが無くなる事だと言えるかも知れません。高い山が浸食されてなだらかになると、高山植物やそれに依存して暮らしていた生き物、例えばライチョウやホシガラス等は暮らしの場を失う事でしょう。北極海の氷が解けると、それに乗ってアザラシやオットセイを捕食していたシロクマは絶滅するしかありません。凍土地帯の永久凍土が溶けると、その上の僅かな表土にしがみついていた針葉樹やその他の植物が失われる事でしょう。つまり、環境にはメリハリが無くなり、植物や動物相が単純になってきます。これを、環境へのエントロピー増大の法則の適用という言い方もできますが、同じ事を学者先生が難しく言っているに過ぎませんので省略します。

環境の劣化のもう一つの指標は、環境汚染という言葉に代表されます。汚染とは、本来そこにあるはずの無い物質が、人為的に排出された結果、環境が許容する濃度を上回って存在する状態を指します。火山が爆発して、大気中の火山ガスや硫酸ミストなどが増加するのは環境汚染ではありません。しかし、火力発電所で石炭を燃やし、十分に脱硫しないまま、亜硫酸ガスが排出され、結果として酸性雨が降るならば、それは環境汚染であり、とりもなおさずもう一つの意味での環境劣化を意味します。

実際のところ、これらの劣化は個別に進行する訳ではなく、人間社会の活動量の増大に比例して、同時に進行する事が問題で、時にはこれらが相乗的に影響し合う事も問題です。特に、温室効果ガスと呼ばれるもののうち、オゾン層も破壊するものや、化学肥料起源のものなどが思いア当たります。それらの、環境劣化への影響力は、足し算では収まらず、掛け算としてカウントしなければならないでしょう。

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