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2010年8月30日 (月)

1194 大山

「ついで登山」で大山に登ってきました。日本海の海岸から10kmほどの場所にニョッキリそびえる1700mのこの山は、そんなに高い山ではありませんが、独立峰でもあり、美しい日本の山の代表だとも言えるでしょう。多くの日本の山が国立公園内にありますが、ここも例外ではなく、あまりお金持ちではないK境省の予算がたっぷり使われていました。例えば、それは登山道の整備状況を見ればはっきり分かります。かなりの標高まで石段が刻まれ、その上は、丸太で土砂止めを施した階段状の登山道が続きます。更に頂上近くになると幅が広い立派な木道が敷かれています。結局、登山口から頂上に至るまで、自然の岩や土だけの登山道は殆ど見られないのです。

しかし、単に登山道だけに予算が使われている訳でもない事は、頂上近くの植生の歴史を説明した説明板で分かりました。大山は、崩壊し易い火山灰や凝灰岩でできている「若い」山であり、大雨のたびに激しい崩壊を繰り返すので、放っておくと頂上付近は禿山になってしまいます。事実。ここもかつては禿山の頂上でした。それは、実のところ大勢の登山者が立ち入る事によって、悪化してもいた筈です。その為、環境省が予算を付けて、頂上付近には木道を設置して、それ以外には立ち入りできないようにしてしまったのでした。それに加えて、地元や登山者が協力して、少しずつ少し標高の低いところに自生していた植物を移植して、ついには見事に頂上にも緑の植生を復活させたのでした。

投稿者が登った日も、日曜日という事もあって、家族連れやバスを連ねた中高年登山者が行列を作っていましたが、みな行儀良く木道から植物の写真を撮って満足していた様です。しかし、非常に狭い幅の環境条件だけに適応している高山植物は、ヒトの入山だけに限らず、お隣の大国から海を渡って飛んでくるSOxやNOxなどから生まれる酸性雨や温暖化の厳しい環境の試練に耐えなければなりません。10年後この山の植生がどうなっているか、もう一度くらいは登って観察してみたくなりました。

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2010年8月28日 (土)

1193 ハグロトンボ

蝶の様にヒラヒラと優雅に飛ぶハグロトンボが好きです。トンボの幼虫はヤゴなので、ほぼ全てのトンボは、水辺に棲んでいます。中でも、ハグロトンボは水辺に近いところでしか観察できません。蝶の様にか細いハグロトンボは、飛行能力の高いアキアカネみたいに、勇ましく標高の高い山にまで登れる訳ではないので、生まれた辺りで暮らすしかないのでしょう。ハグロトンボの翅は、ほぼ黒色ですが、胴体はきれいな青色の金属光沢を放っていて結構感動します。この青い色は、以前ブラジルで見たモルフォチョウを彷彿とさせます。このトンボは、葦原などで水面に浮いている植物の葉に産卵しますので、川や池から離れては繁殖できない種でもあります。一時はめっきり減った様な気がしていましたが、どっこいしぶとく生き延びてくれていた様です。ハグロトンボは、アキアカネなどとは異なり、日影が好きなようです。その羽根の黒色も、好きな場所に適応した結果だと思われます。

見回せば、開けた畑ではアキアカネ(ナツアカネかも)が群れて飛んでいます。こちらは、強力な飛行能力を見せ付ける様に、高速で羽ばたき、ホバリングしたり、急速に移動したりして、遊んでいる風にも見えます。トンボに代表される様に、狭い地域に、同種でありながら多様な外観を持って、繁殖している虫たちの生態とその環境は、やはり末永く大事にしていく必要があると思わせる、自然の造形美ではあります。

さて、トンボは飛んでいる虫しか捕食しません。止まっている時はもちろん、葉で虫がうごめいていても多分食べないでしょう。きっと、トンボの複眼は、高速で動いている物体しか認識できないのかも知れません。そういえば、トンボを捕まえる時に、手をグルグル回しながら、その輪を段々小さくして近づいて行った子供の頃の遊びを思い出しました。その時、トンボの頭が手と一緒にグルグル動いていて可愛いらしく感じたものでした。

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2010年8月26日 (木)

1192 境界は作らない

多様な環境を残すのは、実はそんなに面倒でも、大変な事でもないと言っておきます。ポイントは、「境界を作らない事」だと言えます。人工の環境は、えてして境界線が明確に引かれています。コンクリートに覆われた道路や駐車場と田畑の間には、フェンスがありキッチリと線が引かれています。しかし、少し昔はそうではありませんでした。道路は舗装されてはいましたが、路肩は土が見えていて、土手の草っ原とつながっていました。その向こうには水路と土手を挟んで、田畑の畦があり、農地とは緩やかに分けられていました。多様な環境のキーワードは、実は「環境のグラデーション」だと言い換えても良いでしょう。緩やかに変化する環境は、さながら小さな幅の、多様な環境のモザイクの様になっている筈です。従って、昔の風景で言えば道路から農地までの、ホンの10m足らずの幅の中に、かなりの多様性がある小さな環境が並んでおり、もちろんその中で多様な生き物や植物が観察された事でしょう。

しかし、今は舗装された道路から農地を見渡すとは、その間にはコンクリートで作られた用水路と、これもコンクリートで固められた畦があるだけです。これでは、何度COP10会議を開いても、机上の空論を積み重ねてしまう結果にもなりかねません。生物多様性は、昆虫学者や魚類の専門家、あるいは河川の専門家が自分の分野だけの勝手な知恵を出しても、良い方向は示せないでしょう。そうではなくて、先ずは微小な環境をしっかり観察し、植物や生物の適応力のすごさを知るべきでしょう。

とは言いながら、人間は境界を引きたがる存在でもあります。川や高い山並が境界になっていた昔はいざ知らず、国境で言えば、緯度や経度で真っ直ぐな線を引いたり、砂漠の中に線を引いたりする訳です。地図上の国境や境界線なら、生き物には何の影響もないでしょうが、鉄条網でも築こうものなら、大型の動物は移動ができませんので、その動物に依存してテリトリーを広げていた植物相も、境界線でクッキリと分かれるでしょう。

人が群れて住む地域から、手つかずの天然自然の間に、少しずつ違った度合いで人間の手が入った、「半自然」の環境が、グラデーションを描きながら続いている環境こそ、多様な生物の生息を許す、豊かな環境だと言えるでしょう。

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2010年8月24日 (火)

1191 生物多様性考

この地方でも、生物多様性を議題としたCOP10の開催が近付くにつれて、生物多様性論議が盛り上がりを見せてきています。しかし、生物多様性についてよくよく考えてみれば、実はそれは「環境の多様性」の問題である事に気が付きます。何故なら、ある特定の生物は、ある一定の幅の条件を持つ環境の隙間(ニッチ)に適応して進化してきたものでしょうから、その母なる環境の多様性を保てば、黙っていても生物相も多様になる筈なのです。

悲しい事に、私たちのご先祖さまは、子孫のためとはいえ、金になるからという理由だけで、山にスギやヒノキといった単一の針葉樹を植えました。しかもその後の手入れを怠った結果、山林から流れ出る土砂を防ぐために、今度は多数の砂防ダムを築き、下流の川の両岸をコンクリートで固めざるを得ませんでした。加えて、農地以外の里山は荒れるに任せているという今の状況を見る時、私たちの身の周りは、実のところたった数種類の人工的な環境に単純化されてしまったとも見える訳です。

もちろん、生物の多様性を掲げ、子供たちに川で水棲生物を採集させ、外来種が増えた事や在来種の生物の数が減った事を観察させるのも一つの教育の姿でしょうが、そんな事をさせなくとも、川から田んぼの畦、雑草地や「かつての里山」で、狭いエリアの中で生物相がどの様に変わっていくのか、時間を掛けて観察させる方が、生物の多様性を学ぶには、よっぽど有効でしょう。

さらに言えば、偉い学者が額を寄せ集めて会議を繰り返しても、生物の多様性が増して行くわけではないでしょう。しかしながら、生物多様性への近道は確かに存在しそうにも思います。これについては次回にもう少し詳しく書く事にします。

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2010年8月22日 (日)

1190 ついで登山

良い事を思いつきました。仕事に追いまくられて、山に登る時間がないとこぼしましたが、何の事はなく、仕事で出かけたついでに山に向かえば良い事に気が付きました。今度岡山の仕事を貰いましたが、残念ながら岡山には「岡山」と呼ばれるだけに、岡はあっても高い山は見当たらないので、お隣の県の大山まで足を伸ばす事にしました。住んでいる近くの山は、思い立った朝にバイクを飛ばせば、日帰り登山も可能ですが、さすがに日帰りで大山までの距離の数百キロを一気に往復する訳にも行きません。

もしわざわざ、大山当たりまで足を伸ばすとすれば、夜遅くに出発して夜中も走り、朝方までに麓についてそのまま登山、昼過ぎまで下山して、どこかの温泉にでも漬かり、無理をして夜中に帰宅する0泊3日の強行軍になるでしょう。とは言いながら、この年齢になるといささかキツイものがあります。そこで、ついで登山です。出張だと、一応旅費も確保されますので、そこから足を伸ばす旅費と、追加の宿泊費程度の出費で済みますし、体も楽です。大山の様に低い山であれば、大した装備も要らないので、ナップサック一つで十分でしょう。

ついで登山で思い出しましたが、サラリーマン時代よく「ついで出張」をしました。もちろん遊びではなく、例えばアメリカのシアトルに出張するついでに、中西部かカリフォルニア辺りまで足を伸ばし、その地域のベンダー数社をまとめて訪問する、といった「真面目」なついで出張でした。メールで事前にアポを取っておくのですが、出張日程が数日伸びるだけで、飛行機代は殆ど変わりませんので、上司は問題なくハンコをついてくれました。その後味をしめて、この手で数十社を訪問した事が、今思えば投稿者の良い肥しになっていると思い返しています。どんな大きな企業も、あるいは小さな企業も、厳しい競争社会で生き残るためにはいくつか(あるいは多くの)の工夫や努力を重ねているものですから、それを見聞する事が役に立たない筈はないのです。

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2010年8月20日 (金)

1189 クロアゲハ

ジョギング中クロアゲハを何度か目撃しました。多分、コースの近くに柑橘系の植物があるのでしょう。そういえば、季節になると道路にボタボタ落下している甘夏を見た様な気がします。蝶で面白いのは、種によって幼虫が育つ(親が卵を産みつける)植物が、かなり明確に決まっている事です。キアゲハは、ニンジンやパセリが好きな様ですし、アオスジアゲハはクスノキ、モンシロチョウは言わずもがなのキャベツ畑に群れています。

いつも考え込んでしまうのは、蝶がニッチを求めて、多様な植物に適用する様に分化したものか、あるいは植物自身が、授粉やその他の目的のために、特定の蝶との「契約」を結んだものかどうか、つまりはその多様化の道筋の順番です。私たちは、つい蝶を主人公として考えがちですが、実は蝶や昆虫たちは、植物が仕掛けた巧妙な罠にはまっているだけではないのか、というのが最近の投稿者の結論です。

植物たちは、動けないのではなく、実は動かないズボラな戦略を取っているだけなのかも知れません。結果として、こまめに働かせる昆虫たちの多様性を確保するために、おいしい葉や花の蜜や樹液を提供し、自分達の繁茂の手伝いをさせているという訳です。植物の僕としての役割に喜々として甘んじている多くの昆虫たちを眺めていると、何とも愛しい想いにさせられるのも、自営業になって、時には道端に立ち止まって自然の観察をするココロの余裕ができた賜物だと思っています。

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2010年8月18日 (水)

1188 夏草

夏草が矢鱈と元気です。あるものは、高く伸びていち早く葉を広げて他を圧倒し、あるものはツルを伸ばして、高い木に巻き付き、木より大きな葉で宿主を出し抜きます。これらの夏草をしみじみ眺めていて、ある事を思いつきました。

それは、この夏草の活力を、例えば有用な植物の成長に利用するか、あるいはこれらの雑草を品種改良して、食用か有用な作物に変身させる事です。植物の成長には、成長物質(成長ホルモン)である、オーキシンやジベレリンやサイトカインなどが関わっていますが、夏草にはこれらが豊富に含まれている筈です。また、夏草は、同じ様な種類が固まって繁茂しています。もしかすると他の植物の成長を押さえる、「忌避物質」を出している可能性もあります。これは、とりもなおさず自然農薬そのものだとも言えます。忌避物質とは、好ましくない競合相手を殺すのではなく、遠ざける様な物質を指します。

夏草の戦略は、それに留まりません。夏草の多くは、広い面積の葉を持っており、より多くの太陽光を受け、それを固定して豊富な数の種子を残します。それらの種子は、風を利用し、あるいは水の流れや更には鳥や動物の体を利用して、陣地を拡大し続けます。それに比べれば、栽培作物のなんとひ弱な事でしょう。過剰ともいえる施肥と昆虫を近づけない農薬散布、更には雑草抜きまで、徹底的に人手による管理を求めます。

放っておいても、勝手に、それなりの実や種子を毎年みのらせる「雑草作物」は、今後ますます高齢化する農業人口の行く末を考える時、絶対に必要だとも思うのです。考えてみれば、イネも歴史をたどればモンスーン地帯の湿地に自生する雑草でした。今のイネは、食味と収穫量だけを追求して品種改良され続けた結果、弱く不完全な植物になり下がってしまったと思われます。収穫量は少なくとも、放っておいても毎年実を付け続ける原種に近いイネが待たれるところです。もちろん、田植えや稲刈りは行いません。実りの季節に穂だけを摘み取れば、残った根からまた茎を出して勝手に実を付ける事でしょう。収穫方法は、稲刈りではなく、穂積みという訳です。

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2010年8月16日 (月)

1187 逆ストレス

ストレスとは、本来精神的か肉体的な何かの過度な負荷がかかった場合に発生するものなのでしょうが、普通かかるべき適当なストレスがかからない場合にも、同様に発生するものの様です。若かった時、転勤で、目茶苦茶に忙しい工場から、そうではない工場に移動しました。前の工場では、長くても1週間先の予定しか考えられませんでしたが、新しい職場では6カ月から数年先に、製造される部品の製造計画を行う様な部署でした。しかしながら、新しい職場でなんとか早く仕事を覚えようと焦る投稿者に、指導員は、善意からなのですが「まあのんびり行こうや」という風な態度で接してくれました。とは言いながら、頭の中では仕事時計がコチコチ刻んでいるのに、昨日から今日まで殆ど仕事が進まない場合、これもまた強いストレスとなるようです。実際、転勤後数カ月で、夕方になると胃がシクシク痛み出し、ついに病院に駆け込み、胃カメラを飲みました。診断結果は意外なもので、医者には「きれいな胃をしていますね。全く問題ありません。」というものでした。結局、診断結果を聴いて、ほっと肩の力が抜けたのか、胃痛はパッタリと消え、逆ストレスは無くなったのでした。

さて、最近同じようなストレスを感じています。それは、忙しすぎて山に登れない事が原因の様です。自営業になれば、気が向いて天気の良い日には、いつでも山に向かえる筈でした。しかし、今年に入ってからは、幸か不幸か目茶目茶に忙しくなり、自分のペースでの仕事がなかなかできなくなりました。加えて、6月の旅行で休んだ時のしわ寄せが、未だに残っている様です。一方、逆ストレスのせいか、机に向かっても山の事が頭に浮かび、仕事の能率もさっぱり上がりません。やはり、無理をして山に向かうべきなのでしょうが、今度は天気がなかなか良くなりません。という訳で、最近出るのはため息ばかりです…。

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2010年8月14日 (土)

1186 しきい値

しきい値(Threshold Value)については、この言葉を知るようになって以降、折に触れて気にかかります。しきいとは閾でもあるし、敷居の意味も持ちます。ココロの問題であれば堪忍袋の緒が切れる限界でもあるでしょうし、自然現象の例でいえば洪水が堤防を越える限界という場合もあるでしょう。

環境問題についても、未だそれを証明する理論は無いようですが、ある限界を超える環境悪化は、破局的な終末を意味するのかも知れません。もちろん、知恵のある人間ですから、そこまで手をこまねいている筈もありませんが、自然現象の慣性(Inertia)を考える時、私たちの打つ手が遅きに失する可能性も否定できません。

もう一つ、指摘しなければならない点は、誰にとってのしきい値か、という点です。もちろん、全てのしきい値は、それを超えた時に被害をこうむる側にとっての値です。古代に起こった小惑星の衝突は、確かに多くの爬虫類にとって、種の絶滅というしきい値を突破してしまった現象でした。しかし、私たちや現代の生き物の祖先となった生物群は、どうにかそのハードルを越えたのです。人間が堤防を築くまでは、川は日常的に氾濫を繰り返し、肥沃な平野を作りました。堤防が無いので、自然の川の土手は、少しの雨でも氾濫したでしょう。しかし、川は遊水地という自然のバッファーを用意していたので、洪水が地域の生き物に壊滅的な被害を与える事は無かったでしょう。そう考えると、元々は緩やかで低い自然のしきい値を、人間が人工物で高く、しかし脆く作り変えてしまったという事も出来そうです。

もっとも脆弱に見えるしきい値は、実は増え過ぎてしまった人口に起因する災害に見る事が出来そうです。今や、僅かな干ばつや水害などが、多くの飢餓人口を作り出してしまいます。遊水地やかつての土砂崩れによってできた谷筋に、多くの住宅を建ててしまった私たちは、しきい値を上げるため、堤防をより高くし、砂防ダムを築いて、ささやかに抵抗するしかないのです。

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2010年8月12日 (木)

1185 えくさエコのススメ

楽エコの裏返しで、ここでは、新しい言葉として「えくさエコ」を提案します。えくさエコの「えくさ」とは、言わずもがなですがエクササイズの意味です。えくさエコのいくつかの例を示しましょう。

それでなくても、今は空前のウォーキングブームです。ある年齢に達して、忙しくなくなった人は、時間だけはたっぷりありますので、気のすむまで何時間でも歩けば良い訳です。昔の旅人は、お殿様以外は自分の足で歩く事が普通だった筈です。旅に出ないまでも汗をかき、達成感を感じながら数キロ離れたショッピングセンターまで、リュックを背負って買い出しに行けば、車で出かけた場合に出した筈の数キログラムの二酸化炭素が減らせますし、同時に足腰の鍛錬にもなる筈です。

同様に、ただ闇雲にウォーキングをするのではなく、しゃがみ込む際の筋肉の負荷を意識しながら、道路に落ちているゴミや煙草の吸殻を拾いましょう。10回拾えば、10回のスクワット運動をしたのと同じ筋肉負荷です。また同じ掃除でも、柄のついたモップではなく、雑巾がけを行えばかなりの運動負荷になるでしょう。

それでも暇や体力が有り余るようならなら、固定式の自転車で発電しながら読書でもしましょう。アリストテレスの逍遥学派ではありませんが、歩きながら考え事をするのは、昔から良い知恵を出す方法でもありました。自転車を漕ぎながらの読書も、きっと知識がドンドン頭に入ってくるはずです。ウォーキングシューズやジョギングシューズの靴底には、圧電素子でも埋め込み、衝撃力を和らげながら、携帯電話機やラジオの充電もしてしまいましょう。ケチケチ作戦の省エネに頭や時間を費やすのはソコソコにして、筋肉を使って自分ため、できれば少しは社会のために、自前のエネルギーを生み出しましょう。えくさエコで…。

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2010年8月10日 (火)

1184 楽エコのイマシメ

楽をして環境の保全ができるとの風潮には危険性を感じます。ハイブリッドカーを買う、省エネ家電や省エネ照明に買い替える、エアコンの温度を数℃上げる(下げる)、自分の水筒や箸を持ち歩く、などなど。人間が楽をする場合、必ず裏で環境負荷が増加するからです。私たちが楽をして、エコが出来そうな錯覚に陥るのは、新しいいわゆる「エコ製品」が、「旧製品と比較してエコ」であるに過ぎず、絶対的に環境負荷を下げる手段にはなり得ないのです。

絶対的に環境負荷を下げるには、何度も書きますが、今環境に負荷を与えている行動を、止めるしかないのです。ある年齢に達した人が、車に乗るのを諦め、徒歩や自転車や公共交通機関で移動を決意すれば、例え年間数千キロしか走らなかった人でも、1トン近くの二酸化炭素を削減できる計算になります。一般家庭では、年間5トン程度の二酸化炭素を出していると言われているので、ある家庭で1台の車を無くせば、それだけで20%の二酸化炭素を減らせる事になります。

楽をして、環境にやさしくできると言う幻想は今すぐ捨てましょう。汗をかいて、自分が食べ物から取り込んだ(多くの場合は余剰となって身に着く筈だった)エネルギーを使う事によってのみ、石油エネルギーを直接に減らす事が可能になるでしょう。体を動かして、空き地で野菜を育てる事によってのみ、究極の地産地消が実現できて、トラック輸送による環境負荷を直接減らす事が可能なのです。電気掃除機ではなく、ハタキとホウキと固く絞った雑巾で掃除が完了すれば、掃除機で使われる筈だった電力が直接的に削減できるのです。

現代人が罹患している、最悪の病名を投稿者は「エネルギー依存症候群」あるいは「便利中毒」と命名しました。エアコンを効かせて、すいすいと車を転がしている人たちは、例外なく重症化の傾向が観察されるグループだと言えるでしょう。汗にまみれながら、単車を転がしている投稿者は、単車のマフラーから排出される、ささやかな二酸化炭素さえも意識しながら、彼らを横目で眺めています。

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2010年8月 8日 (日)

1183 試験疲れ

昨日エネルギーを管理する資格試験を受けました。これまでは、いわば無免許運転で「省エネ説法」をしてきた訳ですが、やはり免状が無いと話に迫力が出ないのでないかと反省しての話です。さて、この試験は、朝0900から夕方1720まで、4科目の分野の試験を科しています。それぞれ80分や110分の時間、頭をフル回転させるので、終わる毎に頭がしびれます。特に、公式を使って説く問題では、公式が頭に入っていない事もあり、その公式を導くのに時間を費やしたりもします。しかも、意地の悪い事に前問で出した数値を、次の問題を解くための値として使いますので、1問目がずっこけると、後の数問もずっこけてしまいます。この手の問題の回答は、穴埋め式ではなく、数字を書く事になるので、鉛筆を転がして答えを出す訳にも行きません。

穴埋め問題は、選択肢の中から選ぶので、よっぽど気が楽です。概ね、計算問題と穴埋め問題が半々なので、両方ある程度点数を取らないとパスできない仕組みになっている様です。まあ今回は、2科目くらいパスすればオンの字と、帰りの電車の中でリターンマッチの事などに想いを巡らせていました。

試験会場は、専門学校を借り切って、ざっと数えても千人はかなり超えそうな数の受験者です。試験会場を見回すとその部屋では受験者の平均年齢は30歳を少し超えるくらい。投稿者の様なオジサンは数えるほどです。省エネ大国日本の将来も少しは明るいのかな、とココロ強く感じたものでした。今日も頭がシビレっぱなしなので、本日のブログもこの辺で止めておきます。

夏雲の上に秋の雲を発見しました。さすがに立秋です。

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2010年8月 6日 (金)

1182 釣鐘型特性

70年代のチョコレートのCMの様に、なんでも多い方が、大きい方が良いわけではありません。そんな事は無い、お金はどんなにあっても困る事は無い、と突っ込みが来そうですが、ではお金の額と、幸福度の相関をグラフに描いたら、どんな形の曲線・直線になるでしょうか。もちろん、単調な右肩上がりの直線、まして指数曲線になる筈もありません。何故なら、(経験がありませんから想像するだけですが)お金が有り余ってくると、色々と困った事が起きると思うからです。何より、盗まれない様にどこにしまっておくか、税金はどうするか、増やすには何に投資すべきか、寄付をどうやって断るか、何より一体何にお金を使えば良いのか、問題が次々に湧き起こり、安寧な生活はままなりません。ココロが安らかでない生活が幸福である筈はありません。つまり、全く無一文も困りますが、お金を持つなら、逆U字(釣鐘)の様な、何やら最適値(額)が存在する様なのです。

同じような現象は、色々な現象で観察される様な気がするのです。例えば、石油の掘削量と、それによって生ずる受益者の総幸福度には、やはり同様の関係があるように思うのです。つまり、ある時期までは石油を掘削すれば、それがエネルギーになり、プラスチックなどの原料になり、種々の薬品や工業材料にも作りかえられ、人々の幸福度を上げてくれました。しかし、ある時期以降石油は、投機の対象となり、戦争の原因物資となり、今や世界規模の環境悪化の原因物質になり下がってしまいました。加えて、先ごろはメキシコ湾で、歴史に残るほどの環境破壊まで引き起こしてしまったのです。今後、無秩序に石油を掘削する事は、逆にそのために不幸になる人々を急激に増加させる恐れさえ出てきたと思えるのです。

つまり、少なくとも石油採掘とその利用に関して言えば、その最大利益を享受できた時代は既に過ぎ去ってしまった様なのです。では、そのピークは何時であったのかをつらつら考えてみるに、異論が出るかも知れませんが、1980年前後ではなかったかと振り返ります。このころは、まだ温暖化問題は大きな問題とはなっておらず、湾岸戦争の気配もあまりなかった筈ですし、まだ「大きい事は良い事だ」というキャッチフレーズが、死んではいなかった時代だったからです。考えてみれば、その頃から既に30年が経過してしまったわけで、山で言えば頂上から8合目くらいまでは下ってしまったのではないかとも感じています。

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2010年8月 4日 (水)

1181 何をつくるか?

新幹線に乗って移動している時、窓を流れる景色の中に、数多くの大企業や中小企業の工場が見えます。こんなにも多くの企業が一体毎日まいにち何を作り続けて、生業としているかいつも気にかかります。モノをつくるためには、原材料を仕入れ、色々な機械を使って加工し(材料の形を変え)、ペイントを塗ったりして、小奇麗に包装し、段ボール箱に詰めてからトラック便で送り出す訳です。私たちは、Tヨタのカンバン方式などから学んで、「どうやってモノを作るのがQCD(特にコスト)最適か」については、もうすでに散々学んできた筈です。それを実現するために、工場建屋などにはお金を掛けず、スレートの屋根と壁の、夏は暑くて冬はしっかり寒い、工場で暑さ寒さに耐えながら、安くて高品質の製品を、顧客が望む値段と納期で出荷してきたのでした。

しかし、今後経営者が考えなければならないのは、将来に向かって、何を作って社会に提供していくのか、という一点でなければならないでしょう。しかも、提供する製品は、1)何十年にも亘って持続的に入手できる原材料で、2)加工に掛るエネルギー効率や3)材料歩留まりが最大で、しかも4)使用に掛るエネルギーや5)使用後の廃棄物が最小となるようにしなければならないのです。この5条件が満足されるならば、しかもその製品が、6)社会にとって(贅沢品ではなく)必要不可欠なものであれば、その企業の存続は何十年にも亘って担保される事でしょう。

話は非常に簡単で、とりあえず今自分の会社で作っている製品について、上の6つの条件で吟味を重ねるならば、来るべき社会での存続可能性は格段に高まる筈です。原材料として使われている資源が、枯渇が心配されている様なものなら、今いくら売れて儲かっていても、撤退を考えるべきでしょう。一方、加工に掛るエネルギーが、他社のレベルに比べて、半分で済むなら、今後数十年に亘って、競争力はあまり心配ないでしょう。加えて、製品が寿命を迎えた時でも、メーカーが全量を引き取って、完全にリサイクルできる設計になっているならば、その企業の存続は数十年に亘って60%程度は確実になります。後の40%は、社会がその製品を、本当に必要(Indispensible=必要不可欠)としているか否かのチェックが必要なだけです。

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2010年8月 2日 (月)

1180 太陽熱エンジン

梅雨明け後太陽光が矢鱈と元気です。実際に、太陽の活動レベルが上がって暑いのか、受けた熱を逃がす仕組み(GHGを含む温度維持装置)が異常を起こしているのか、100年くらい経たないと、正確な評価はできないかも知れませんが、それにしても太陽光の利用レベルはあまりにも低すぎる事は嘆かわしい限りです。太陽光が元気な夏場の時期は、ざっと言って平米当たり1kw相当のエネルギーがあまねく降り注いでいます。それが、山や野原や道や家々の屋根にも分け隔てなく与えられている訳ですから、これを利用しないのは太陽への冒涜とも言えます。我が家では、ささやかに3平米程度の太陽熱温水器を屋根に挙げて、その恵みの何十分の1かをいただいていますが、この3kwの出力の温水器は、夏場の晴れた日は一切の追いだき無しに家族の入浴が完了します。

先日、ある工場で概ね2000平米程度の屋根からの入熱量を試算したところ、晴れた日は屋根から工場内に約200kw相当の熱が流入していました。そこでは、出力70kw相当のエアコンをフル稼働させていましたが、工場内で200kwのヒーターを付けながら、その半分以下の馬力のエアコンを動かしても、精々エアコンの吹き出し口からの空気が直接当たるエリアで涼しく感ずることができる程度でしょう。この流入熱を、もし殆どブロック出来たと仮定すれば、70kwのエアコンは、十分に強力であり日中の半分以上の時間は、Off状態となる事でしょう。

消極的にブロックするのではなく、2000平米の屋根には、潜在的には2000kwものエネルギーが降り注いでいる訳で、できれば簡単な仕掛けで、その1%でも利用したいところです。熱力学の教えるところによれば、高熱源と低熱源があれば、その絶対温度によって決まる効率でエネルギーを産み出す事が出来る筈ですし、その温度差が50℃もあれば、つまり太陽熱で集めた温水と、地下水程度の温度差があれば、適当な作動流体を使えば10%程度のエネルギーが取り出せる筈なのです。太陽熱を温水器で取り込んでしまえば、工場に流入する熱もブロック出来るでしょうし、太陽光発電等という高いシステムではなく、上面を黒く塗った温水パネルに少量の水を流して、75℃のお湯を作り、地下水15℃との温度差60℃動く熱機関を作って、それでエアコンを回せば、エネルギーを全く使わないでも快適な工場環境や住宅環境が実現できる筈です。2枚のステンレス版に、水路になるパターンの窪みを加工し、これを併せて渕を溶接すれば、軽くて効率の良い温水パネルが作れるでしょうし、既存のスクリュウコンプレッサーを流用して逆転させれば、立派なタービンになるはずですから、全く新しい技術などはどこにも必要ありません。作動流体も、多分空気や炭酸ガスで十分でしょう。

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