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2010年11月30日 (火)

1240 環ビジ5(一坪農園キット)

これは、とても可愛らしい環ビジ製品です。庭付き一戸建ての家を持つ家庭はもちろん、普通のマンション住まいなどでもベランダに一坪くらいのスペースはあるはずです。そんなスペースが見つからなくても、ベランダの手すりの外側には、日当たりの良いスペースを何とか確保できるでしょう。この製品は、例えば廃繊維と木くずを固めたような人工土壌のマットと、栽培が容易な野菜や果物などの種や苗がセットになっているものです。マットを広げ、種や苗をマットの穴に植えて、水や液肥を与えれば、だれでも家庭で新鮮な野菜や果物を収穫できるというものです。究極の地産地消です。土を使っていないので、根っこまで全部食べることができるため、生ごみも減るでしょう。管理を子供に任せれば、自由研究も夏休みの宿題も食育もスイスイ楽勝です。収穫済みの後マットは、天日で乾燥させて殺菌、管理すれば数回程度は使える様にしますが、最終的には、燃えるゴミとしても処分もできる材質とします。

少し規模を大きくするのであれば、マットを連続したものとして作り、非常にゆっくり動くかまたは間欠的に動くベルトコンベアの様にしておくと、例えばスーパーマーケットの屋根を利用した、マーケット自前の菜園も実現できるでしょう。1-2週間程度で一周する様にしておけば、連続的に野菜が収穫できる仕組みも実現可能でしょう。これも、マーケット自前の「朝採り野菜」を自店で売るという、注目される地産地消の実践例となるはずです。間違っても、地下室で人工照明を使って野菜を作るような「変な」地産地消は考えるべきではありません。人工照明では、照射できる波長の範囲が限られ、デンプンを作るなどのパワーの要る光合成は無理なので、今のところ小さな葉物野菜しか作れませんし、お天道様が作ったものより味も落ちるでしょう。

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2010年11月28日 (日)

1239 環ビジ4(海鉱山)

都市鉱山から類推での思い付きです。海水には、実に多くのミネラル分が溶け込んでいます。水そのものは、決して優れた溶剤ではないのですが、何よりその膨大な量と、何十億年という気の遠くなるような時間を使って、有機物のみならず、地球上のほぼあらゆる鉱物や金属までをも溶かし込んでしまったのです。

さて、海の水から貴金属やレアアースなどを回収する事は現実的な話なのでしょうか。短時間で、しかも商業的なレベルで、と条件をつけられるとたぶん難しいかも知れません。しかし、十分な時間(例えば数十年)をかけて、子孫のために資源を残す、などという悠長な枠組みであれば十分可能だと、投稿者は勝手に思っています。それは、小型の太陽光発電パネルを備え、「種金属」をぶら下げた電極を持つ、筏のような設備になるでしょう。条件をうまく設定し、特定の金属だけが析出する様にしておけば、何十年か後には、見事な貴金属のインゴットが得られるはずです。その間、良からぬ輩にそれを盗まれない様にする工夫は必要かも知れません。太陽光発電の電力で動く小型のポンプで、海水や河川水を連続的に汲み上げる仕掛けをしておけば、陸上の施設でも実現可能かも知れません。このビジネスのポイントは、ひたすら長い時間と付き合う「根気」だけだと言えるかも知れません。

ただ注意しなければならないのは、深海の熱水が噴き出す場所(熱水鉱床)などで見つかるマンガン団塊や、メタンがシャーベット状に固まっている、メタンハイドライトなどは、決してここでいう海鉱山などではなく、従来の穴掘り鉱山=モグラビジネスと何ら変わらないという点です。なぜなら、それらは掘り尽くせば、やがて消えてなくなるからです。

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2010年11月26日 (金)

1238 環ビジ3(都市鉱山)

都市には、実に多くの鉱物がゴミとして埋もれています。それは廃棄された工業製品の中に眠っています。携帯電話の廃棄物からは、やっと貴金属やレアアースなどがそれなりに回収されるようになったと側聞してはいますが、その他電化製品や車や工業製品からの回収はかなり遅れていることでしょう。現状の問題点は、手間暇をかけた丁寧な収集と、製品(原料)別の正確な分別が殆ど行われていない事なのです。それは一に掛って、この国のリサイクル法が違法な廃棄の防止を主眼に作られたもので、使用者やメーカーに「完全な回収」までは求めていない中途半端なものだからです。望ましいリサイクル法は、使用者とメーカーに完全なリサイクルルートを示し、製品は必ずメーカーが責任をもって回収する様に作られるべきです。

メーカーであれば、どの様な材料を使って、どの様な工程で作られたかについて、完全に把握している筈ですので、それを100%リサイクルするか、場合によってはきれいに洗浄して、機能を保証しさえすれば製品へのリユースも可能となるでしょう。また廃棄製品に含まれる、金属やレアアースやプラスチックは、正確に分別しさえすれば、非常に純度や含有率が高く、落盤事故の危険を賭して鉱山から掘り出したり、環境を汚して鉱物を精錬したりする事に比べれば、100倍も効率が高いでしょう。増してや、途上国の鉱山では、山に直接強い酸をばらまき、染み出てきた液から金属を抽出するなど、荒っぽく環境を破壊する方法で資源採取がおこなわれている現状を考えれば、しっかりコントロールされた国内の「都市鉱山」で金属精錬を行う方が100倍も安全です。つまり、10010010,000倍も有利なはずなのです。足りないものは、このような行動を行なうメーカーや消費者へのムチ(課税など)を、リサイクルを積極的に行うメーカーや消費者へのアメ(減税やデポジット制度=廃棄物の買い取り)などでしょう。金属の回収は、たぶんメッキなどの逆サイクルでしょうから、回収に当たって大幅な設備投資までは必要ないと見ています。

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2010年11月24日 (水)

1237 環ビジ2(事務所内製紙機)

第2回目は、ささやかな環ビジ製品案です。先ごろのビジネスメッセで、某事務機器メーカーから、使用済みのコピー用紙を、事務所内で溶解して再度紙漉きを行う紙のリサイクル機械が発表されました。しかし売値を聞いてひっくり返りました。家が一軒建つほどの価格だったからです。これでは、紙代だけで年間数百万円飛んでしまう事務系の大企業かお役所くらいしか買ってくれそうもありません。何しろ、これは小型とは言え、溶解、紙漉き、乾燥、加熱ロール掛けと、製紙工場と同じ機能がある機械なので、それも仕方ありません。ランニングコストも、大出力のヒーターが仕込まれていそうなので、かなりの電気代も覚悟しなければならないでしょう。

一方投稿者の提案は、たった5万円でできる機械です。コピー機で紙に付着させているトナーは、顕微鏡で見ると、数ミクロンですが紙から「盛り上がって」定着されて居ます。これはカーボンブラックを樹脂で固めたものなのですが、実際には、紙の繊維によってできた凸凹の凹部分にも多少(数ミクロン)は入り込んで居ます。提案の機械は、使用済みの紙の表面を数ミクロンだけ削り取るものなのです。つまり、数ミクロンのカーボンブラックとプラス数ミクロン(望ましくは2ミクロン以内)の紙を削り、圧延ローラーで均せば、紙は「白紙」に戻るわけです。紙の厚みは30ミクロン(100枚で3mmの厚み)をすこしこえる程度が標準ですので、この方法でも5回以上は再生できるはずです(紙の厚みは2/3になりますが)。紙の使用量も当然1/5以下には減らせる事になります。紙を削る動力はそんなに必要ありませんので、電気代も心配する事はありません。開発要素はと言えば、耐久性のある精密な回転刃(たぶん髭そり用のロータリー刃の技術に似ています)と、紙の削り代をミクロン単位で調整できる切り込み機構だけです。昨今の工作機械はミクロンレベルの精度は十分確保できていますので、それも難しいものではないでしょう。出てきた紙の削り具合を確認して、手動で調整するだけなので、難しい制御も不要です。売値が5万円程度であれば飛ぶように売れ、殆どの事務所でコピー機械に並べて置いてくれるはずです。

リサイクルペーパーも、実は(収集運搬・溶解・脱色・再度の紙漉きで)バージンペーパーとほぼ同等のエネルギー(紙1トン当たり4-5tのCO2が発生)を使って作られていることはあまり知られていません。紙のリサイクルは、海外でパルプ材を切り出す量を減らす事には確かに役立っていますが、CO2削減には決して寄与していないのです。この機械で、事務所内で紙を「リユース」できる仕組みが出来上がります。

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2010年11月22日 (月)

1236 環ビジ1(木材の多面的利用)

さて模様替え初回ですので、気張って考えてみます。やはり最初は、この国の最大の資源である「山の木」の利用について書くべきでしょうか。国土の6割以上を占める山の木が殆ど利用されず、1億トン近くの外材が輸入されているという現実は、何より山から木を切り出すお金が回らないから生まれています。山の急斜面で木を倒し、それを里まで(石油を使わないで)安く運ぶには、例えばその昔、ご先祖さまが木曾の山から木を切り出して、三河湾まで流してさらに伊勢神宮あたりまで運んだ方法のように、冬場にソリを使って降ろし、その下の川での筏組みや筏乗りの技が必要です。現代では、そんな危ない事を作業者にさせることもできないでしょうから、別の切り出し方法が必要でしょう。

切り出しの方法を考える前に、手入れが殆どされてこなかった、ヒョロヒョロの木に、どうにかしてそれなりの値段をつけなければなりません。建材としての価値だけでは、とても切り出すお金が出ない事は、国内林業が殆ど廃れてしまった事を見ても明らかです。しかし、木材を多面的に利用する事を考えれば、「一粒で何度か美味しいお菓子」の様に、建材だけとして売るのに比べて何倍かのお金を生み出す事は可能だと思うのです。具体的には、

1)工業材料として:木材を半分くらいの体積になるまで圧縮し熱をかけて固定すると、重くはなりますが、強度は飛躍的に向上します。理論的には、比重は1.6前後まで圧縮可能で、その場合の強度はアルミニウム並みになるはずです。しかも、材料は木材繊維の方向に強度の偏向がありますので、方向をうまく組み合わせると、複合材であるGFRP程度の強度を持つ材料とすることも可能です。蒸気で処理して粉砕すれば、プラスチックと同様に射出成型することも可能となるのです。日本の山には、アルミやガラス繊維やプラスチック原料が大量に眠っていると考えれば良いでしょう。木材をコウカイ(紙すきのために繊維にばらす事)すれば、非常に強度が高く、保温性にも優れる繊維原料も得られます。2)食料や薬として:木材からは、口に入れられる食料も得られます。メープルシロップやキシリトールなどを例に挙げるまでもなく、木からはまだ開発されていない食料資源が見つかりそうな気もします。カブトムシが、なぜクヌギの木が好きなのか、だれかクヌギの樹液を詳しく研究してください。3)肥料として:木材の葉(腐葉土)や破砕した竹が、非常に有用な肥料になる事は、昔から知られています。建材や工業材料として利用された残りものも、立派な肥料の原料になり得ます。4)燃料として:上記に使えなかった木材屑は、押し固めると立派なペレット燃料になり、ストーブやボイラーで燃やせば、石油代替燃料となります。投稿者はペレット燃料を「固形灯油」と呼んでいます。引火性が無いので、これから高齢化社会迎える日本では、理想的に安全に取り扱える燃料になることでしょう。

これだけ、木材を徹底的にしゃぶり尽くせば、木材を山から切り出すお金も、お釣りがくる位はひねりだせる筈なのです。山に近い村々に、これらを実現する「ミニ木材コンビナート」が数多く生まれるのが、投稿者の夢です。

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2010年11月20日 (土)

1235 環境ビジネスとは

今日からは、(たぶんですが)前向きブログに模様替えです。さて産業構造のシフトが、国レベルの政策にも俎上されてきました。その内の一つである環境関連ビジネス(以下環ビジ)ですが、それは間違いなく今後の社会の大きな部分を構成する産業に育てなければなりません。それが、悪化しつつあるとはいえ、まだ十分にヒトや生き物が棲める地球環境が残されている今、私たちに残された唯一の選択肢だからです。そうなければ、前回に書いたレミングのたとえ話と同じ運命を辿るしかないでしょうから。

しかし、省エネや新エネと呼ばれる新産業や、この国がかつて公害で苦しんだのと同じ道を辿っている途上国に、公害防止機器や省エネ機器を売りつける事が環境ビジネスではありません。ましてや、補助金頼りで赤字を垂れ流している、各地の自治体の風力発電なども除外されなければならないでしょう。投稿者なりの定義では、環ビジには次に挙げる幾つかの要件が必要だと思っています。

1)持続可能性:何より、このビジネスは100年後も変わらず持続できなければなりません。つまりは数十年で無くなってしまうエネルギーや資源には依存できないのです。この種のビジネスモデルは、何代にも亘って変わらず引き継がれる筋合いのものなのです。 2)エネルギーの太陽光依存度:持続可能なエネルギーは太陽光しかありません。それ以外のエネルギー源を前提にする全てのビジネスは間違いなく破たんします。 3)原料の環境への依存度:当然の話として、環ビジの原料は、環境を破壊することなしに持続的に環境から入手できるものでなければなりません。具体的には、植物が水と太陽光を使って作り出す「バイオマス」である必要があります。2次的に植物を代謝し動物が作り出す「バイオマス」ものもこれに含まれます。 4)ものを運ばない:環境から得た原料や製品を、長い距離を運ぶのであれば、またぞろ「石油の呪縛」に陥る事になります。環ビジは、やはり「地産地消」が大々原則でなければなりません。この国元首が主張する「開国」やビジネスの国際化は、環ビジには矛盾しその対極にあると考えなければなりません。 

また、これらの要件が満足されるビジネスモデルは、間違いなく「小規模」なものでなければならないのですが、以上の原則が、かなりのレベルで実現できるのであれば、そのレベルに応じて環ビジに近づいたと言えるでしょう。次回以降は、大きな環ビジの枠組みや具体的ですがちっぽけな製品案など、玉石を取り混ぜながらの提案を行っていくことにします。それらのアイデアは著作権フリーですので、気に入ったら「玉をしっかり磨いて」勝手に実行していただいても結構です。しかし、あらかじめ断っておきますが、投稿者は「商才が全く欠如」していると、自信を持って?いますので、枠組みが甘く結果的に失敗しても責任は負いかねます。たとえ事業の失敗を愚痴られても、「残念でしたね。めげずにまた頑張りましょう。」と慰めるのが、投稿者にできる唯一の事ですので念のため。

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2010年11月18日 (木)

1234 自壊(反省の総括)

間違いを隠して(見ないふりをして)、その表面を取り繕うことを「上塗り」とでも言うのでしょうか。間違いは間違いとして謙虚に反省し、軌道修正すればたぶん問題はそれ以上拡大しないでしょう。何度も書きますが、この国を含めた、今の文明の問題点は「行き過ぎた経済の拡大」とそれに付随する諸問題だと言えます。その問題を隠さないで、100年程度の長期の視点に立った軌道修正を始めない限り、景気や経済規模の拡大路線には、もはや今の袋小路からの出口は見つからないと断言しておきます。

また、自分が原因で、自分自身がつぶれてしまうことを自壊とでもいうのでしょうが、これまで一体いくつの文明が、自分自身が作り出した仕組みの肥大のために自壊してきたことでしょう。現代文明は、今その自壊の道を突き進んでいるとしか見えません。「レミング」というネズミ科の小動物が居ますが、彼らは個体数が増えすぎて餌が不足すると大挙して海岸に向かい、海に飛び込んでおぼれ死んでしまいます(これは事実とは多少違うかも知れませんが、象徴的なたとえ話です)。それは、個体数を制御するためにDNAに組み込まれたプログラム故なのかも知れませんが、私たちのDNAにもその様なプログラムが隠されていないとも断言ができません。それほどヒト属は増え過ぎてしまったようなのです。ただ幸いな事に、ヒトにはコミュニケーション手段としての言語があり、(たぶんですが)問題解決の知恵もあります。自壊を回避するためには、それを最大限に発揮する事が求められていると意識しなければならない時代だと思います。

幾つかの歴史的な間違いがあったにせよ、実はこれまでは「人間界」の中での間違いでした。世界的な戦争も、爆弾で「とばっちり」を受けた動植物もそれなりに多かったでしょうが、多くは人的・文化的損害だったと言えます。しかし、今進んでいる環境破壊は、継続的に進むこの星の生き物全体の「自壊」への道でもあります。これを必死にくい止めなければ、上に書いたレミングのたとえ話が、現実のストーリーになる可能性がますます強まります。

さて、反省プログもネタが尽きかけて、そろそろ「後ろ向きで走る」のにも疲れてきましたので、今後は「ではどうすれば良いかブログ」に徐々にですがシフトすることとします。

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2010年11月16日 (火)

1233 どこで間違えたか2

例その2は経済システムです。経済は、モノの生産・流通と、その反対の方向に動くお金で回っています。経済活動の拡大とは、同時に流通しているモノやお金の量が増える事にほかなりません。お金は、その量が多くなればなるほど、それを多く所有している人(大企業や大金持ちや小金持ち)は、それを「運用」してさらに増やそうと奔走します。彼らは、通常の銀行利息では決して満足できない人種なので、多少荒っぽい方法も使います。通常利息に比べて、何倍の運用益が得られたか、いわゆる「レバレージ」の高さを、自分の手柄とする事に生き甲斐を感じる人種だからです。

しかし、経済規模が大きくなり過ぎると、最早それを人の力で制御する事はままならない状態に陥るのでしょう。この国が、何兆円というお金を投じても、為替の暴走をたった数日しか止める事しかできません。増してや、負のお金である債権まで考えると、何が実態で、何が絵空事なのか、真実は厚い「お金の霧」のかなたに隠されてしまっています。素人考えでも、実際のモノや土地の評価額に比べて、たぶんその何倍ものお金や負債が世界中を駆け巡っている事は容易に想像できます。その内のかなりの部分は、通貨や債券(証書)のように形のあるものではなく、コンピュータの中の「01」の数字として存在するだけだとも想像しています。

実態のないモノは、実に始末に負えないシロモノでもあります。たとえば我が家の財産です。確かに、自分の家やその中に収まっているガラクタは自分の財産であるモノとしては把握できますが、一方では財布にある現金以外の「形の無い財産」の実態は、銀行のコンピュータの中に記録されている「01」だけのDigitでしかありません。仮の話として、もし社会システムや銀行のシステムが、未曾有の災害等で修復できないほどの壊滅的な被害を受けた場合を想定すれば、自分には、例えば地震で半分壊れた家だけが残るだけです。1週間分程度の食料の備蓄も無ければ、水道管が壊れれば水も飲めなくなり途方に暮れるでしょう。そうではなくて、私たちには実態のある、食料の備蓄や、緊急の時に使える井戸こそが、生きていく上で「役に立つ財産」として必要です。私たちは、田舎を出て、都会の暮らし始めた時に、お金と引き換えに大切なものを捨ててしまったのかも知れません。たぶん、これも大きな間違いの一つだった様な気がします。つまり、この数十年をかけて、実態のあるモノや財産を捨てて、「実態の無い経済(お金)に過度に依存する社会」を作り上げてしまったとも言えるのです。さて、反省や「愚痴」は、「一応」次回で打ち止めにする事にします。

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2010年11月14日 (日)

1232 どこで間違えたか

では、戦後の高度成長期から、経済大国へ邁進し、失われた20年と言われる時期を経て、現在に至るまでの過程で、一体どこで何を間違えたのでしょうか。明らかな間違いの一つは、「問題の先送り」だったと言えます。「椅子取りゲーム」に明け暮れ、国政をお役人の先送りテクニックに任せて、本当の問題から目をそむけて来た事が現在のカオスを招いた事は間違いないところでしょう。

もう一つの間違い、というより勘違いは、人間が作ったシステムは、人間がコントロールできるはず、ということ自体への幻想だと見ています。たとえば、官僚組織、たとえば経済システムです。システムには、いくつかの側面があります。それが作られる時には、確かに一定のルールに基づいているのは間違いありませんが、全てのシステムは変化を嫌い「慣性」を持つこと、自己増殖すること、自己修正ができにくい事など、多くの硬直した側面も抱えています。通常のシステムには、将来を見越した修正プログラムまでは組み込まれていないのです。もっと考えなければならないのは、それを作った人間が居なくなった後でも、システムは生き続けるという事実です。つまり、そのシステムが必要とされた時代背景を踏まえ、そのシステムを作った「ココロ」が引き継がれないまま、ただ形だけが残るという事実です。

具体例をすこし挙げましょう。まずは官僚組織です。正確なデータは手元にありませんが、官僚組織は、一貫して肥大化し続けてきたはずです。行政を円滑に行うためのシステムであるこの組織は、それが一旦安定的に機能し始めると、強力な自己保持機能を発揮します。つまり、前年度の「実績」が全ての基準になり、その延長線上で次年度の予算を組むからです。それが一番楽で、しかも大きな間違いが少ない唯一の方法だからです。もし、毎年毎年ゼロベースで事業計画を立案し、予算を積み上げると仮定した場合、たぶん今の2倍の人数の官僚組織が必要となるはずです。つまり、半分の官僚は年がら年中事業計画と予算の積み上げに追われる事態になるという意味です。地方自治体レベルでも、概ね住民の100人に1人は役人ですから、それがやがては2%に肥大化するわけです。続きます。

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2010年11月12日 (金)

1231 歴史ブーム

歴史がブーム、らしいです。興味本位で江戸時代やそれ以前の歴史掘り出すのも結構ですが、過去の文明の過ちの過程を改めて検証してみるのが、歴史を紐解く本来の意味の様な気がします。歴史の勉強とは、結局は過去の失敗に学ぶという意味あいが大きいと思うからです。投稿者も一時、その手のタイトルの本を読み漁った時期がありました。たぶん、70年代の終わり頃の事です、時代的にも社会が、70年代に噴出した各種の問題に直面し、それまでの経済拡大一辺倒の「行けいけドンドンの価値観」が揺らいで右往左往していた時代に重なります。

しかし、のど元過ぎれば、公害も石油ショックもすっかり忘れ、カネ儲けを企む企業は、80年代に入ると、大型の高級車や贅沢品を普及品と錯覚させ、主婦は軽自動車に乗るべきだとの作戦を考え出し、もっとずる賢く立ち回ったブローカー連中は、土地や建物や株や債権などを転がして、ボロ儲けを始めたお祭りの(バブルの)時代もありました。その後は、記憶にも新しい、失われた10年(20年)とも呼ばれる停滞期に落ち込むわけです。その意味では、のど元を過ぎても過去の熱さを記憶に留めておくのが、歴史の役割であるとも言えるのです。

この国の戦後の歴史でいえば、「一体どこで間違えたのか」を考えてみる必要があるでしょう。先の大戦の総括については、数多くの歴史書や研究がおこなわれていますので、このブログでは主に高度成長期以降の「現在と地続きの歴史」を振り返ってきました。せっかくの歴史ブームですので、この際20世紀後半を、冷静な目で総括してみるのも大切な事だとは思います。もう少しだけ、20世紀の振り返りを続けたうえで、このブログも「環境に関して徹底的に考え、自分が50年生きた20世紀を反省するブログです」というタイトルから、たとえば「20世紀の反省を踏まえて、来るべき社会を展望するブログです」などと模様替えをしていくつもりです。もう少しだけ「反省」が続きます。

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2010年11月10日 (水)

1230 分解産業

前を向くための一つの産業の提案です。これまでの第2次産業は、原料の大半を輸入し、いくばくか(あるいはかなりの)廃棄物を出しながら原料を加工し、それを組み立てて売ると言うスタイルでした。しかも、近年のビジネスモデルでは、まだ使えるのにすこし型遅れになった製品は、消費者に出来だけ早く捨てさせ、替わりの恰好が良く、機能も少し加えた新型製品を買わせる、というものでした。一方では、引き取られた、あるいは不法に投棄されたまだ使える製品は、結局は環境を汚すゴミだった訳です。流石に国も重い腰を上げて、いくつかのリサイクル法を作り出しはしましたが、全く不完全です。法律の網をくぐった不法廃棄は一向に減る気配がありません。

そこで新たな産業の提案です。全ての製品は、完全に分解しさえすれば、間違いなく立派な資源の集まりです。鉄も、アルミも、電気基板も、電線も、プラスチックの筺体も、ボルトやビスまで、もし完全に分解して、材料種類毎に、あるいは劣化の程度毎に厳密に分別できれば、ほぼ100%材料としてのリサイクル、あるいは中古部品として再使用が可能な訳です。そのためには、先ずは材料が何でできているかの情報は必須です。もし、メーカーが機密事項として材料組成を公表したくないのであれば、メーカー自身が分解工場を作るべきでしょう。というより、メーカーは自社の使用済み製品は無償で(あるいはデポジット制度の元に有償で)引き取り、完全にリサイクルする様に、リサイクル法を整備すべきでしょう。

それは、立派な産業になり得ます。都市鉱山とは最近耳にする言葉ですが、レアアースも金も、半導体も、日々廃棄される「ゴミ」の中に、有り余るほど(ゴミにして捨てるほど)資源として含まれているではありませんか。使用済み製品の分解、分別産業を法制化すれば、軽く見積もっても100万人以上の雇用が生まれるはずです。

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2010年11月 8日 (月)

1229 付加価値

加工により付加価値を上げる話の続きです。付加価値の話で、持ち出さなければならないのは、付加された機能とそれに支払う代価という視点です。C国の万博では、全自動トイレが大変な評判を呼んでいるとか。土を焼いただけの便器に暖房・洗浄便座を付けた「従来便器」と、トイレに入るだけで、殆ど何もしないで用を足せる「ロボット便器」で、値段の差が例えば40万円だったとしましょう。ロボット便器では、立ち位置によって「大」「小」を判断し、便座を上げ下げしてくれ、用後は局部の温水洗浄や温風乾燥や、音消し音楽などが自動的に提供されるはずですが、体が不自由な人ならいざ知らず、全てはヒトが本来持っている(自分で排泄し、それを始末する)能力を奪ってしまうものでしかなく、ヒトは、自分が不器用になるためだけに、40万円という法外な代価を支払おうとしている、というしかありません。

つまり、ロボット便器に仕組まれた、数多くのセンサーやアクチュエータや電子回路は、全く「余計なお世話機能」と言わざるを得ないでしょう。ですから、そんなお節介機能をいくら付加しても、停電になったら用足しもできないという不便を抱え、不器用なヒトを増やすだけの欠陥商品だと断じても良いと思っています。似たような例は、「全自動~」あるいは「電動~」などの冠を付けた製品に見出す事ができます。電動のシニアカーが、歩行能力を急速に奪い、車いす生活者や寝たきり生活者を増やす事にしかならない事を、私たちはメーカーの言葉に惑わされずに、再認識する必要があります。そんなものより、軽くて使いやすい2本のストック(杖ではありません)を使って、3点支持歩行の訓練をした方が、よっぽど「生涯しゃっきり」の幸福な老後が送れるはずなのです。

そういう意味では、付加価値とは、適正な機能を、適正な価格で提供するために、許される必要かつ最小限のものと定義しなおす必要がありそうです。それ以上お金の払える金持ちが、他人に見せびらかすために余分な機能や華美な装飾を求めるのは全く勝手ですから、それは量産ラインから外れた特注ラインで職人の手作りで作りこみ、その代わり立派な値段を吹っかければ良いだけです。例えば、車や電化製品の適正な機能は何で、付加価値とは、それに対する代価とはどの程度かについては、また改めて考えてみたいと思います。

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2010年11月 6日 (土)

1228 加工貿易

「加工貿易」とは中学校の社会科で習った懐かしい言葉で、いまや死語かもしれません。何故、いまこの埃の被った言葉を掘り出したかと言えば、この国の本質は、その頃(高度成長期)と何ら変わっていないと感じる事が多いからです。この言葉の定義を思い出してみると、途上国から原料や一次産品を輸入して、それに付加価値を付ける「加工」を施して、それを輸出して国の経済を支える、という産業構造を差すと習った様な気がします。「加工」については、以前にも定義しましたが、簡単にはモノの形を変えて、付加価値を上げる作業の事です。

輸出入には、為替による決済が必要なので、為替レートは大きな問題です。つまり、国内企業が付与した負荷価値以上に、為替レートが円高に振れると、輸出すればするほど赤字に陥りますので、企業は存続できません。だからこそ、倒産する前に海外移転を画策する事にもなる訳です。市場経済では、コスト(原料やエネルギーや加工費)に利益を乗せた価格で売れる訳ではありません。従って、原料や材料価格は仕方がないにしても、加工コストをギリギリまで下げる事によって、薄い利益を確保する事に、企業はキュウキュウとせざるを得ない事になります。

加工については、このブログでも再々取り上げていますが、では何が何でも付加価値を上げて、原材料の仕入れ値段と、売値の差を大きくすべきか、という議論に関しては、そうではない(それだけではない)というしかありません。例えば、有名な時計メーカーが、仕入れ価格でわずか数万円の材料を使って、数百万円の腕時計を作って売るとします。その売値は、長い間掛って築き上げたブランド名故に、可能となったとも言えますが、では数百万円の腕時計に、1000円の時計以上に機能としての価値があるか、と問われれば「NO」というしかありません。つまり、付加価値などという、訳の分からない世界では、モノを買う側の懐具合に依存する、水商売的な要素も大きいと言うしかないのです。

もちろん、デザインやブランドは気にしないから、機能さえしっかりしていて、頑丈でさえあれば十分だ、という消費者もそれなりにいる事でしょう。市場とは、結局ブランド買い消費者と機能買いの消費者の混じったものであり、その比率は時代背景によって変わるものだと考えしかないでしょう。バブル時代に起こった事を少し思い出せば、あの時代が異常な比率だった事が容易に分かります。続きます。

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2010年11月 4日 (木)

1227 COP10 雑感

前回、前向きな提言を増やすと書きながら、また少し後ろ向きのコメントとなりそうです。COP10が終了して残したものは、「生物多様性の減少問題とは、結局人間社会の経済の問題だったのか」感です。この会議を外から眺めると、途上国は、これまでは先進国に独占されてきた、生物「資源」からの分け前に与り、先進国は今まで通りより多くの利権を確保したいという、人間社会の経済エゴのぶつかり合いだった様に思えてなりません。利権の問題なので、ステークホルダー間には対立が生じ、その調整は、結局は両社の妥協ポイントの探り合いに終始するだけの集まりなってしまいます。それは、温暖化問題に関してのCO2の排出量の割り当て(排出権の奪い合い)と何ら変わるところはありません。

そうではなくて、生物多様性を「環境の安定」の問題として捉え直さなくてはならない、と投稿者レベルの頭でもそう考えてしまいます。多様性の高いシステムほど安定性が高いという考え方は非常に単純で明快です。環境に変化が生じた場合、それを揺り戻すのが環境の安定性ですが、例えば温暖化が進みつつある時代、ある種の植物やプランクトンが徐々に増加し、大気中のCO2をより多く吸収する様に作用すれば、環境は安定性を取り戻すでしょう。一方、作物に重大な損害を与える害虫が大量発生した場合、その虫を捕食する(天敵の)昆虫や鳥が少なくなってしまえば、他の生物にも危険である農薬を、更に多く散布しなければならなくなり、生物の多様性は加速度的に低下するはずです。カネになると考えて、戦後植林された単相の針葉樹林の保水力が弱く、災害に弱い事はたびたび指摘される事ですが、それ以前のご先祖様たちが育てて残してくれた様な、混淆林が人間社会のためにも、生き物たちのためにも理想的であった事を、現世代は謙虚に学ばなければならないでしょう。

生物の多様性は、決して経済の問題などではなく、将来世代に、より安定した多様な環境を残すための、「現世代の責任」だとの問題意識が必須です。生物は、その環境の多様性の重要な指標と考えるべきでしょう。100年後、今の世代が子孫からどの様な批判を受けるのか、そんな時代に生きてはいない、と「ほっかぶり」を決め込む無責任は許されないのです。机上の議論や会議などで生物の多様性が増す事は決してありません。生物の多様性は、人間が気を付けて「環境の多様性」を確保すれば、そこに棲む生物は、「保護」などしなくても自然の多様性を回復する筈です。体を使っての行動しかないのです。犬や、自分自身の散歩で暇つぶしをしている間は無いと、退役した人たちも鉢巻を締め直す必要があります。先ずは(クマに気をつけて)山に入り、その荒れ果てた姿に関心を持つことから始めましょう。9月の連休の中日、日帰りでしたが、南アルプスの塩見岳に登っただけで、パルプ用の人工林とその荒廃、北アルプスに比べて積雪が少ない事による森林相や生物相の劇的な変化など、生物多用性に関して投稿者の感じた事は非常に多かったのです。こと環境や生物多様性に関して言えば、いま必要なことは、実りの少ない後ろ向きの会議などではなく、先ずは前を向いた行動ありきです。

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2010年11月 2日 (火)

1226 前を向くために

このブログを読んでもらっていて面識のある人から、最近このブログが後ろ向きになっているのでは、とのコメントを貰いました。このブログは書き初めに意識したように、自分が50年生きてきた20世紀の後半の出来事を、環境の視点から見て反省する事が目的なので、最初から視点は間違いなく後ろを向いています。しかし、それもこれも、先ずは間違っていた事の反省を踏まえて、来るべき社会に向けて、「より良い方向」に舵を切るための一つの見方になってくれれば、というほどの想いなのです。もちろん、常にこの種の議論には、「誰にとっての良い方向」なのかという疑問符が付きまといます。投稿者としては、それは母なる自然「環境」がより喜ぶ方向だ、という立場なのです。母なる自然「環境」に対して、この国では、古から八百万の神として畏敬の念をもって接してきました。世界を眺めてみれば、唯一太陽神だけを崇める人々も多く存在しますし、地球や生き物を「たった1週間でお造りたもうた」全能の偶像を崇める人々もまた数多くいます。

それはそれとして、(無機の地球はいざ知らず)あらゆる生き物が、環境に順応して進化し、その環境から生かされているという事実は、万人が認めなければならないでしょうし、そのためにこそ、今世界の国々も(いやいやながらでも)実りの少ない国際会議を繰り返している訳です。投稿者のもう一つの視点は、「時間」です。生物は、無生物から複雑な自然現象と、何億年という気の遠くなるような「時間」を通過して現在の姿になった訳です。自然は、確かに八百万の神ではありますが、加えて何十億年という長い永い「時間」こそ、それらに加えて(あるいはそれらを包み込む)本当の神なのかも知れない、とも想うのです。

自然「環境」のご機嫌に十分な注意を払いながら観察し、一方でわたし達のこれまでの行状を反省し、しかしその自然は、百年や二百年程度で今の姿になったのではないとの再確認した上での行動が、今ほど求められている時代は無かったと想っています。その点さえ踏まえておけば、これからの社会を見据える中で、何を、どの様に直していくべきか、前を向いた考え方が出てくるとも考えています。というわけで、今後はなるべく前向きな提言も増やしていくつもりです。

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