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2011年10月31日 (月)

1530 超貿易社会

超円高が怖いのは、何しろこの国が「超貿易国家」だからです。国内のほとんどの企業が、直接ではないにしても輸出を行っている企業に関連して事業を営んでいるでしょうし、一般市民においてもほぼ100%の人が毎日輸入された製品を手にし、輸入食品を口にしている訳です。この超貿易社会を、TPPによってさらに加速しようなどと考えるのは、もはや何をかいわんや状態だとも言えそうです。それは、関税を撤廃して経済等の交流の規模をさらに拡大し、互いの国々が相互依存度を高めましょう、という条約だからです。

戦後、一貫して安い輸送コストに依りかかる状態で拡大してきた、工業化社会と超貿易主義に警鐘を鳴らし続けているのが、このブログの趣旨なのですから、自動的にTPPにも反対するしかありません。いずれにしても、このまま手をこまねいて事態を放置すると、円高がピークを打つのは対ドル50円前後ではないかと警鐘を鳴らす学者もいるくらいです。

そうではなくて私たちは、もっと足元を見つめてみる必要があると思うのです。足元には土があり、そこに太陽光が当たっています。急峻な山々は、世界でも稀にみる樹林帯に覆われており、それが蓄える豊かな水が、狭い平野を潤しています。周りは、これも世界でも稀なほど豊かな海に囲まれており、海産物や海水に含まれる微量元素だって資源として手に入ります。先ずは、地域で継続的に手に入る資源を利用して、可能な限り食糧やエネルギーや産業の原料を手に入れ、安定的な産業を固めるのが先決でしょう。そのベースの上に、ある程度の貿易経済を載せれば、国としてより安定するはずなのです。貿易は、今回の超円高の様に、他の地域の社会や経済状態によって、大きくブレる不安定な仕組みの一つであることは、素人が考えても明白です。1ドル50円は極端な話だとしても、成り行きに任せるのではなく、日本として明確な意志を持った未来予想図を描いておき、折に触れて諸外国にも提示してみせる必要はあるでしょう。

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2011年10月30日 (日)

1529 ストレステスト

ストレステストの最初のレポートが出た様です。それはもちろん理論的な裏付けのあるものなのでしょうが、誰がそれを行ってレポートを書いたかを考えると、鵜呑みには出来ないとも思われます。検証とレポート作成は、実のところメーカーの設計者が行ったからです。メーカーには、設計書が保管されており、その前提条件によりシビアな条件を当てはめて、再計算したものがストレステストレポートそのものでしょう。したがって、その根拠は明確なものなのでしょうが、いかんせん「身内のチェック」に過ぎないので、あやふやな結論が出た場合は、恣意的に安全側に誘導されがちになると想像しています。

それを、チェックするのは行政側ですが、どう考えてもメーカーの専門家より、ハード面の設計に関して造詣が深いとは考えられません。したがって、計算の過程を100%トレースできるとも思えないのです。仮にそれが出来る人が検証に当たったにしても、今後どっと出てくるレポートの山を、かなり短い期間で検証せよと要求されれば、やはり抜き取りで検証するしかないと思われます。

結局、長い時間と費用を掛けて、中途半端なストレステストを行うくらいなら、最悪の事態でも炉心の冷却が問題なく続行できる仕掛けでも考えてもらい、一日も早くそれを設置して貰いたいものです。机上のテストはさておき、原子力発電再開への近道は、それしかないのです。

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2011年10月29日 (土)

1528 木枯らし1号

早々と木枯らし1号が吹きました。逆説的ですがこれは温暖化と必ずしも無関係ではなさそうです。というのも、北極圏では冬場の気温が下がってきている様なのです。その顕著な影響一つは、オゾンホールの発生でしょうか。オゾンホールは南極ではかなり以前から観測され、注目もされてきましたが、基本的には北極海があって、南極ほど冬場の気温が低下しない北極圏では、オゾンホールは発生しないとみられていました。それは、オゾン破壊の原因物質である塩素を含むラジカルの活性は、マイナス80℃程度の低温でより強まるからで、それより高い温度では、オゾン生成速度と破壊速度の差が小さいために、オゾン層が保持されてきた訳です。しかし、近年は北極圏でも冬場の上空の気温低下が著しく、オゾンホールが出来る条件が整ってきている様なのです。

原因は、低空に蓄積されているCO2であると言う説があります。この説では、CO2は地表の熱を閉じ込める効果はあり、空気に対して密度が高いため、比較的低層に溜まる性質もあります。しかし、この性質は逆に言えば、地表からの赤外線の宇宙への逆放射が上空に届かず、大気高層の気温を下げる方向に作用すると説明されています。それなりに納得できる説明ではあります。

そうであればなおの事、私たちはCO2の排出抑制にまい進しなければならないのでしょう。原発が動かないからと言って、一旦は退役させた火力発電所を復活させたり、現役のLNG発電所をフル稼働させたりして、発電量を増やすのではなく、節電型の暮らし、節電型の産業構造を確立して、世界に「良い手本」を示すべき好機だと捉えるべきでしょう。木枯らし1号のニュースからの連想でした。

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2011年10月28日 (金)

1527 情けない社会

環境には直接関係はありませんが、それにしても情けないニュースが続きます。どんな時代になっても汚職は無くならないのでしょうか。悪事に額の多寡は無関係なのでしょうが、それにしても道路会社で何億円というお金が闇から闇へと移され、一企業の元経営者から数十億円という大金がネバダのカジノに送られた薄気味悪さは、喩え様もありません。それが、道路料金に上乗せされ、製品価格に転嫁されていると思えば、怒りさえおぼえます。組織のチェック機能は一体どうなっているのでしょうか。またどう考えても同僚や家族の半端じゃない金遣いの荒さに、誰も気が付かないなどというトボケた話はないでしょう。

と怒ってみても、どこの国や社会でも、贈収賄事件は無くならないのかもしれません。それは、拝金主義や権限の集中が社会のベースとなっている限りにおいては、ドンと太鼓判が押せます。お金という、紙に印刷された軽くてあまり嵩張らない「価値のシンボル」の価値が、国立銀行によって保証されている限りにおいては、それを封筒に入れて、テーブルの下でやり取りする行為は、止めようがありません。まして、目には見えない電子マネーのやり取りにおいておや、です。やはり、この種の犯罪の罰則を、もっと厳しくするしかないのかもしれません。例えば、どこかの国の様に、公衆の面前でのムチ打ちの刑でも導入しなければならないのでしょうか。

マスコミには、この種の罪の人間としての「情けなさ」をもっと強調して貰いたいとも思います。淡々と事実だけを報道するのでは、単に受け手に「またか」程度のリアクションしか起こさないでしょう。そうではなくて、犯罪を起こした本人だけではなく、組織のずさんさを、もっと暴いてもらいたいのです。それが真の意味での組織の法令遵守に他ならないからです。

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2011年10月27日 (木)

1526 情報の不平等

Nューヨークの反格差デモは、公園の中にコミュニティも出来て長期化しそうな様相ですが、一方で彼らの具体的な要求は見えていません。一見、平等に見える競争社会で、一部の人間がチャンスをつかんで成功し、金持ちになって一体何が悪いのかを論破できないからからかもしれません。何が悪いかを論理的に説明できなければ、今回のデモもやはりただの騒動に終わってしまう可能性が大となります。

色々書いておきながら、事態を余り深掘りしているとの自信はありませんが、平等に見える自由主義と言われる経済圏の競争で決定的に不平等だと思うのは、実は情報の量の様な気がしています。金持ちには、そのお金に付随する形で、更なる金儲けにつながる多量の情報が入ってくるのでしょうが、一方貧乏人にはそもそも金儲けの情報などこれっぽっちも流れてはきません。99%貧乏人は、やっとツイッターという情報網を得て、金持ち側の情報と対峙しようとしている様にも見えますが、やはりその情報量と何よりその質において、到底太刀打ちできないだろうと観ています。

情報は、何も整理されていない状況では、単なる「雑音」でしかありません。明確な「価値観」というフィルターを通して初めて、それは情報としての価値を持ち始めます。ツイッターは今のところ、雑音の一つでしかありません。G-グルも、単なる便利な検索エンジンの開発で満足するのではなく、ここで「情報フィルタリングエンジン」でも開発してみてはどうでしょう。

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2011年10月26日 (水)

1525 五十にして・・・

今週ラジオで盛んに取り上げている論語は、残念ながらいま手元にありませんが、近々手に入れたいと思っています。とは言いながら、忙しさにかまけて本屋の前をついつい素通りしてしまいます。ほとんど中身を知らない論語ですが、「五十にして天命を知る」程度のフレーズは何となく頭に残っていました。その意味で、論語で孔子が言う世代とはだいぶかけ離れますが、学ぶ事の面白さを知ったのは、たぶん30代後半だったような気がしますし、50歳過ぎに一念発起して環境人間に脱皮をし始めたのは、もしかすると天命に目覚めたのかもしれません。

さて、うかうかしていたら六十歳になってしまいましたので、論語の教えではこれからは「耳従う」必要があるとの事、人の話をよく聞くことを心がけたいとは思っています。自分から、論理を組み立てて話をすることは、むしろ容易なのかもしれません、しかし、耳従うためには、予断を持たず、プラスでもマイナスでもないニュートラルな態度で人に接する必要がありますし、話の腰を折らない忍耐力も養う必要がありそうです。先ずは、家族の話を聞くことから始めようとは思っていますが、実はこれが一番難しそうですが・・・。

そして出来れば死ぬ前までには、心の欲するままに行動して、しかし矩を超えずの境地にはどうにか辿りつきたいとは思いますが、全く自信はありません。先ずは環境人間としての天命をどうにか少しでも前に進めたいとは思います。

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2011年10月25日 (火)

1524 環ビジ84(軽量化ビジネス)

ある運送会社の環境経営を審査しました。多聞に漏れず、ここでも車両燃料が一向に減らない事に悩んでいました。普通のバン型トラックの荷台部分はほぼ100%アルミ製になりました。その意味では、トラックの軽量化はかなり進んでいるとも言えそうです。しかし、車体部分を見ると、まだまだという感じが否めません。例えば、鋼鉄製で梯子型の車台です。構造を最も軽量にするためには、一定断面の梯子ではなく、ビーム形状であれば真ん中が太い形になる筈です。片持ち部分は、根元が太く先細りの形状になる筈です。少し凝った設計で、少しは作りにくくはなるかもしれませんが、小型のトラックでも100㎏や200㎏位はすぐにでも軽量化が可能でしょう。例えば、車重を5%削減できれば、燃料も同じ程度には減らせるはずです。

製造業からは隣のK国に追いつかれたり、C国にコピーされたりして、作るものが無くなるなどと嘆きも聞かれますが、どっこいこの国の強みは、細かいところまで気を配った「軽量化技術」だったはずです。携帯電話やスマホをここまで軽くできたのは、ほぼ100%日本の貢献でしょう。ならば、車産業でも極限までの軽量化を達成するべきです。

車のやるべきことは山ほど残っています。高張力鉄板で作ったモノコック構造、エンジンそのもの、ガラス窓、インテリア、車輪、ゴムタイヤなどなど。また何故、1トンもある車に、60㎏の体重の人がたった一人だけ乗って移動しなければならないのか、何故タイヤは4本もなければならないのか、車のコンセプトそのものについても考えるべき点は多いでしょう。

この国には、軽量化に使える素材はいたるところに転がっています。高張力鋼板以外にも、各種アルミ合金、マグセシウム合金、チタン、高強度繊維、ハニカム材料、プラスチック素材、木材?などなど。それらをベストミックスにより、例えば車の重量を今の半分に出来れば、石油資源の枯渇は、さらに数十年は先延ばしできるかもしれません。全ての製品の軽量化は、ゴールの無いしかし必須の課題であり、何でも良いのですが、目の前にある製品の重量を半分にする事を真剣に考えれば、新たなビジネスも起こせるはずなのです。

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2011年10月24日 (月)

1523 環境メッセ

ローカルなイベントながら、びわ湖岸で開催される環境メッセは、毎年活況を呈しています。ヒトが集まるため、結構遠くのメーカーもブースを構えます。ほぼ毎年のぞきますが、今年も短時間ですが会場を回りました。最近の展示のKWは、LED照明や太陽光発電や冷暖房の省エネ、エネルギーの見える化やEV車試乗などですが、確かに昨年と比べても、この分野が大きく前進している様な気がしました。例えば、LED照明の性能もコストダウンも長足の進歩を遂げているようです。

しかし、例えば照明の分野では、既存の照明、つまりは蛍光灯ですが、この分野でも省エネ性能が随分と進歩し、LEDに迫るところまで健闘している様です。テレビやパソコンのバックライトとして用いられている消費電力の小さいCCFLや、安定器の電子化による既存蛍光灯の省エネ、さらには管端にインバータを組み込んだ蛍光管など、比較的低価格でしかし省エネ性能の高い従来型照明も格段に種類を増やしてきています。中でも、管端にインバータを組み込んだ蛍光灯は、継ぎ足しも容易で、店舗照明などに使われる長尺蛍光管の代替としても有効です。インバータや安定器が不要なので、蛍光管の交換のためには、これらを切り離す必要がありますので、一手間は掛かります。

いくつかのブースでは、LED照明を使った野菜工場の展示もありました。つまりは、多段の棚に葉物野菜の種を蒔き、液肥とLED照明を使って無菌状態で栽培する技術です。しかしながら、植物はやはり太陽光で育てるべきだと思っていますので、この技術には疑問を持っています。つまり、本当にLED照明だけで、バランスの良い栄養価なりビタミンなり、味が期待できるのかという疑問です。どんな時代になっても、人工照明野菜には手が伸びません。

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2011年10月23日 (日)

1522 役所

行政の役割はますます重くなってきています。とりわけ、今回の震災を承けて、国民や住民の安全・安心に関しての「需要」が極端に強まり、その需要を実現するためには、人材も税金も全く足りない事態に陥っている様に見えます。もちろん、3月に東北で起こった事態は、今後東海や東南海でも起こる事は十分想定されます。しかし、だからと言ってそれを人間の力で完全に防ぐ事など到底できる話ではないでしょう。現実的には、災害で亡くなる人を一人でも減らす努力程度(減災対策)しかない事は明白です。

さて、お金は無いのに責任だけを負わされた行政は、仕方がないのでお金の面だけにはなりますが国に頼る事になります。しかし、お金をもらってもそれを上手く使う人材は限られているので、結局それを業者に丸投げするしかありません。かくして、税金の無駄使いは一向に減らず、国はますます借金を重ね、貧乏になっていく訳です。インフラの整備は長い時間とお金を掛ければ、徐々にですが規模を拡大できます。その様にして、この国にも900兆円とも言われるインフラが構築されてきました。しかし、インフラは作れば終わりではなく、エンドレスのメンテナンスと更新が求められる事になります。その意味では、行政にはそれをまともに行う予算も人材もありませんから、モグラ叩きの様に、トラブルが発生した都度、その場所の修理を行うだけしかできません。しかし、震災の様に大きなインフラの破壊が起こると、もはやお手上げ状態に陥る事になります。

ではどうすれば良いかですが、正直妙手がある訳ではありません。インフラの維持には、構築時の金額に対して、毎年3-5%の維持費が必要となる筈ですが、3%としても30兆円弱の維持費が必要な訳で、じり貧の国や自治体の財政状況では、やはり降りかかる火の粉だけを掃うしかないでしょう。一つの考え方は、少し時代を戻る事でしょうか。例えば、道路や橋の様なインフラは壊れてしまったら、元の姿に戻す方向で撤去する訳です。道は、農地や宅地に戻せば、もはやメンテナンスは不要となるでしょう。発生する土木工事で地元の業者も少しは潤うでしょう。

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2011年10月22日 (土)

1521 洪水

インドシナ半島の洪水被害は長期化、広域化を見せています。何度も書きますが、大気中の絶対的な水分量(湿度)が上昇しているとしか思えません。これまでは、3日も降れば、水分の露点が高くなり、自動的に降雨が止まったものが、今は1週間や10日以上も続く結果、何十年振りという豪雨や洪水が起こるとみています。

それと気になるのは、気象のメリハリの弱体化です。具体的には、寒気と暖気の境目や、地球の自転にともなう大気の渦や気象変化が、通常時はどうやら弱まってきている様にも見えるのです。これは、同じ気象状態が長く続く事にもつながり、結果として降雨も長く続く結果になります。日本でもこの夏、新潟や東北南部で、九州南部で、或いは和歌山や奈良でそのような現象が確かに確認されました。つまりは、このような豪雨災害は、今後日常的に起こると考えられるのです。もちろん、エルニーニョやラニーニャといった、地球規模の気象振動は深く関係しますが、長期的トレンドとして固定化する可能性が考えられます。それに対する例外は、台風やハリケーンの強大化がありますが、残念ながらそのカラクリは良く理解できません。

さてどうすべきかですが、時間が掛かるかもしれませんが、個人的には、長期的な解決策としては実は地道な「植林」しかないのではないかと思っています。山崩れを防ぐにも、山の保水力を増加させて大洪水を防ぐのも、植林それも広葉樹を中心とする森を育てるしか安価で有効な手段は無さそうなのです。ダムが治水に非力である事は、戦後のダム行政で既に立証されたと言っても良いでしょう。山の崩落を放っておいて、ダムをいくら作っても、すぐ土砂で埋まってしまうからです。洪水に苦しんでいる彼の国も、きっと山の木はすっかり伐り倒されて裸になっている事でしょう。大きな河の三角州に築かれた都市は、堤防を越える様な洪水には全く無力です。

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2011年10月21日 (金)

1520 反格差デモ

マンハッタンから始まった格差反対デモは広がりを見せています。いわゆるサイレントマジョリティが本格的に声を上げ始めたものか、それとも単なる一時の騒乱に終わるのかは注目すべきポイントではあります。自由主義経済の元では、格差が生ずるのはむしろ当たり前の話であり、それを容認する社会に生きている限りは、大多数の庶民は、上手く立ち回った人間を羨望の目で眺めるしかない訳です。しかし、その格差が限度を超えると、羨望はやがて怒りにすり替わるものかもしれません。

振り返ってみれば、昔の金持ちの暮らしは質素だった様な気がします。ケチケチ生活で小金を貯め、それを元手に事業を起こして、やがて財を為すと言うのが、お決まりの金持ちコースだった訳です。しかし、最近の金持ちは、株取引やマネーゲームなどで千載一遇のチャンスをモノにして、一気に大金持ちになるケースも多いので、そんな事に手を出す勇気も、元手も無い庶民は、その金が一体どこから生まれたのかにやがて気が付いて、割り切れなさを感じているのでしょう。それは、例えばマネーゲームの果てに大量の不良債権を抱えた銀行を、税金で救う様な理不尽な例を指します。

問題は失業率でしょう。なかなか仕事が見つからない人は絶望し無気力になるか、最悪の場合は悪さに走り最後は暴力に訴えるかもしれません。反格差デモはその中間状態とも言えます。仕事が少ない場合は、どう考えてもそれを分け合うしかない訳で、有効に働く「ワークシェアリング」の仕掛けを、早急に構築しなければならないでしょう。10%の失業率の社会では、仕事のある人が1割労働時間を減らして、それを失業者と分け合わなければならない事になります。同時に1割の生活レベルのダウンも受け入れる必要がある訳ですが、自発的失業で7割以上のダウンを経験した立場から言えば、そんなことは造作もない話だと言っておきます。

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2011年10月20日 (木)

1519 モノと空想

モノは空想力を阻害します。モノが空想を具現化した結果、もうそれ以上の空想を掻き立てなくなるからです。その証拠に、今頃の子供に将来の夢や空想物語を語らせれば、かなり具体的なものになる筈です。大人でも事情は全く同じでしょう。例えば、今の団塊世代が若者の頃、経済は毎年どころか、毎月或いは日々拡大し、10年後自分は、自分の会社がどうなっているのかさえ、十分には想像できませんでした。したがって、向上心のある若者は起業を考えたでしょうし、そうでもない若者は、所属する企業でのそれなりの昇進や、マイホームの夢を抱いた事でしょう。

しかし、その時代の夢の多くは既にモノになってしまいました。掌に収まるコンピュータ(スマホ)が、(数十年前は夢であった「移動電話」の進化形である)携帯電話を駆逐しようとしていますし、一家に1台が夢であった自家用車は、2台目の通勤車や3台目の買い物車が当たり前の時代になりました。庶民の宇宙旅行でさえ、退職金の一部をはたけば、実現できるようにもなったようです。もうこれ以上、モノとして一体何が必要なのでしょうか。

そうではなくて、私たちはモノを捨て始めなければならないのだと真面目に考えるべきだとさえ思います。モノを捨てて、空想する時間を手に入れなければならないのだ、と真剣に思います。夢を食う動物を「バク」と呼ぶ様ですが、多少食べ物が減っても、空想力で人は生きる力を得る事が出来るでしょう。逆に、想像力が欠如して将来に夢が描けず、極端な場合は諦めや絶望につながり、そこから生まれる不安は、キルケゴールではないですが人を死に至らせる場合もあるでしょう。先ずは、思い切ってモノを捨ててみる事が、明るい将来の第一歩だと言いきっておきます。

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2011年10月19日 (水)

1518 人間とヒト

このブログでは、人間(人)とヒトを使い分けて書いています。人間は、字の通り人と人のとの関係を持って生きる社会的存在として見ていますし、ヒトは生物の一種霊長類ヒト目としての見方です。前者は、仙人でもない限り、必ず群れて社会を形成しますので、集団として考える必要があり、平均的な人間像が浮かんできます。また、人間社会が引き起こす環境への圧力も考えなえればなりません。それは、70億人にも増えてしまった数からの圧力に他なりません。人間の平均体重と、その数を掛けあわせた生物種としてのマス(バイオマス?)は、動物の中でもかなり上位にランクされる様な気がします。人間の数百倍の体重を持つクジラが、何万頭群れても、とても人間のマスには勝てません。

ヒトは生物学的分類ですから、その興味はヒトが何故ヒトになったかに向かいます。遺伝子レベルではチンパンジーと殆ど変らない生き物が、何故ここまで社会的存在に進化したか、やはり大きな謎です。とりわけ、生物全般に通ずることですが、たったATGCという4種類の塩基だけで、どの様にしてこの多様な生物種を存続させ続けているのかは、まったくエニグマであり、神のみぞ知る世界と言うしかありません。

ヒトは自然の中では、最もか弱い存在の種ですが、一旦群れを作って社会的に組織されれば、地上でもっともパワフルで、しかも環境にとっては最も強力な破壊者になります。この二面性が、あまりにも極端であるために、しかもその二面性がますます乖離しつつあるために、何とかそのカラクリの一部でも解き明かしたいものですから、このブログも連綿として続く事になります。

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2011年10月18日 (火)

1517 EV考

NッサンのEVに同乗させてもらいました。感じは、「中途半端」でした。それは、この車の使用シーンをあまり吟味していない事から来るのかもしれません。つまり、これは通勤車なのか、ある程度長距離ドライブも頭に置いたファミリーカーなのか、それとも買い物中心のセカンドカーなのか、などの位置づけが必ずしも明確になっていません。サイズはこれまで市販されたEVよりかなり重たいので、しっかり積んでいるはずのバッテリーでも、200㎞弱しか航続距離がありません。ファミリーカーなら少なくとも300㎞以上は欲しいところです。

もし、通勤車やセカンドカーなら思い切って2-3人乗りの小型に設計する必要があります。車体の重さは、EVといえども燃費を悪化させるでしょうし、相変わらず運転者に充電場所の心配を強要します。

結論から言えば、EV車は思い切った小型化=軽量化との合わせ技で提案すべき商品だと思っています。小型化すれば、モーターの出力も小さくでき、電池の容量も小さくて済むでしょうし、その結果、例えば手で持てるバッテリーサイズとして、充電する代わりに直接交換する事も可能となるでしょう。また、小型の太陽光パネルを屋根やボンネットに搭載して、駐車中の充電も実用的に機能するでしょう。現状の、重たい鉄製の車からの発想では、方向を誤ります。

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2011年10月17日 (月)

1516 T社の軽

T社でも軽自動車を売る事になったとか。利幅の小さい軽に見向きもしなかった企業としては、かなり舵を切ったと言う印象です。もちろん、これによって市場が広がる訳ではないので、T+Dで軽のシェアを少し大きくする程度のインパクトでしょう。

しかし、その意味するところは結構大きいのではないかとみています。それは、車(自家用車)の軽量化トレンドへの影響です。1トンの車が750㎏になると、ざっと燃費も25%程度は向上する勘定です。軽自動車といえども、高速道路では100/hを超えるスピードで疾走している様ですから、性能もかなり向上しているのですから、何も2台目、3台目の車ではなく、メインの自家用車(特に買い物車)としても十分でしょう。ましてや燃費が30/ℓに迫れば、中途半端なHVなんかは、必要無くなるかもしれません。

しかし、軽は今や「軽」ではなくなっている事は大問題です。軽は、限りなく500㎏に近く作る必然性があります。それによって、燃費はさらに2-3割向上させる事が可能だからです。それは十分可能でしょう。屋根なんかは、搭乗者の安全性さえ確保されれば何も鉄で作る必要はないでしょうし、座席だってカリスマデザイナーが作れば、洒落たキャンプ椅子の様に布で作る事も可能でしょう。エアコンは、社内全体を暖めたり冷やしたりするのではなく、運転者や同乗者の頭や首筋だけに絞れば、今の半分の重量に出来るでしょうし、車重が小さくなれば、その分足回りも華奢にできるでしょうから、さらなる軽量化も可能です。T社も手軽に協力会社のOEMで済ますのではなく、自前で画期的な「次世代の軽」を開発して貰いたいものです。

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2011年10月16日 (日)

1515 何のために生きる

毎日考えると、きっと気が狂うので、時々暇を持て余した時にこのことを考えます。さて、生まれてしまったものは仕方がないので、成り行きのままに生きる人生も「あり」なのでしょうが、それでは少し寂しいので、人は自分の人生に意味づけをして、「人生の目的」の様なものを探したがります。しかし、偉人でも天才でもない限り、普通の人が大それた目的を掲げても、空回りに終わるでしょう。ましてや人が生きた証を何らかの形で刻み後世に残すなどと考えるのは、逆に危険な場合もあります。普通の人間はできる限り生きた痕跡を残さず、生まれて、生きて、少し頑張り、やがては静かに消えていくべきなのでしょう。生きた証としては、二人程度の普通の子供を残せば、それで十分だとも考えています。

生きた痕跡を残さないと言う意味では、縄文人や弥生人などに学ぶところが大でしょう。彼らは、住居の柱穴や貝塚や土器の破片以外、ほとんど痕跡を残さないで静かに生きて、静かに消えていきました。私たちが消えてから千年後の子孫は何を目にするでしょうか。自然の川の所どころを堰き止めてしまった上に、砂で埋まって役に立たなくなったダムの残骸、鉄筋が腐食して危なくなって放置されたビル群、鉄橋部分が落ちて、橋脚だけが残った橋、誰も通らなくなってアスファルトの隙間から木が生えだした高規格林道などなど、千年前の反映の痕跡だけが残る、うら寂しくなる光景だけでしょう。今の時代、誰も1000年後の景観を考えて、インフラの建設を考える人は居ないでしょう。しかし、少なくとも100年後に残る姿程度までは想像を膨らましてみるべきでしょう。

戦後の闇雲な植林は別にして、それ以前の先人は、100年後の豊かな山林と、農業用水の涵養を夢見て、厳しい山仕事に耐えたはずです。その意味で、かなり以前にも書いたような気がしますが、アメリカの先住民の長が、物事の善悪を判断する基準は「7世代後の子孫の幸福」であったと言われています。少なくとも私たちが7世代前のご先祖様から受け継いだ環境は、出来るだけそのままの形で、子孫に引き渡す事が「現世代の責務」なのではないか。そのために生きるのが「善」ではないかなどと、このことを考えるときいつも同じ様な結論に至ります。

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2011年10月15日 (土)

1514 環ビジ84(淡水ビジネス)

1513で書いた淡水の確保ですが、これは立派な環境ビジネスになり得ます。何十年も、何百年も持続的に淡水を確保する技術は、今後どんなビジネスも増して重要視されるべきものです。B国やその他の先進国で行われている、地下深くのいわゆる化石水をポンプで汲み上げる灌水方法は、持続的ではないと言う理由で否定されなければなりません。では、どの様な方法が考えられるのかですが、先ずは途上国で普通に見られる「素掘りの用水路」は改善されるべきでしょう。四国ほどの面積があった、アラル海は、綿花の栽培拡大のための無計画な素掘りの用水路の建設によって、干上がってしまいました。たぶん粗い計画では、そうはなっていなかったのでしょうが、実際には用水路から地下に浸み出す水量が、約半分にも達し、それを補うためにより多くの水を、アムダリアとシルダリアの二つの大河から取水し続けたのでした。結果は、現在のアラル海は、真ん中あたりに塩分の非常に濃い水溜まりが残っただけで、チョウザメの豊かな漁場でもあったアラル海は消えました。一方中国の黄河では、これに工業用水の圧力が加わって、断流が頻発しています。

ではどうすべきですが、先ずはせっかく取水した用水を漏らさずに、ほぼそのままの量を、いかに農地まで導くかの知恵が必要です。先進国では、当然の事ながらコンクリートで固めますが、途上国ではそうもいきません。ならば、地下に浸みる水の量を減らすために、粒子の細かい粘度などで、シールするなどのビジネスが考えられます。5割の漏水を半分に出来れば、増えた水で新たな農地が灌漑できます。つまり、農地は現在の1.5倍に拡大できる勘定です。

淡水ビジネスに、海水の淡水化を挙げる向きがありますが、そのためには多大な石油エネルギーが必要であり現実的ではありません。精々、都市部の水道用としての可能性があるだけです。農業用水としては、穀物1トンの生産のためには、その数千倍の淡水が必要である事を忘れてはならないでしょう。

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2011年10月14日 (金)

1513 70億人時代

世界の人口が70億人に達したか、間もなく達する様です。途上国の多産、多死の傾向が続き、しかし前者が後者を大きく上回っている状況に変化が無い事を示しています。90年代半ばの人口が60億人程度だった事を考えれば、たった10数年で10億人も増えてしまった訳です。まだ60億に達していない時期だったと思いますが、もし世界中の人を1ヶ所に集めて、隙間が無い状態で立って貰ったとしたら、どのくらいの面積に入るかというトリビア話があったと思いますが、その時は、琵琶湖に何とか入ると言う結論だった様な気がします。意外に狭い面積だな、とその時は思いました。

この星でも、食糧と水を上手く分配すれば、何とか100億人くらいまでは暮らせるとは言われていますが、環境がそれを許すかについては大きな疑問符が付きます。環境が許すかどうかのボーダーラインは、結局はその環境が持続可能か否かに置かれます。環境が瞬間的に100億人を受け入れたとしても、その環境がどんどん悪化していけば、犠牲になる、いわゆる環境弱者が淘汰圧を受けざるを得ないでしょう。もろもろの環境悪化のトップには、水不足が来る事は明らかです。淡水が枯渇すれば、農業用水が確保できなくなり、食糧生産量が減少します。飢餓が世界規模で発生すれば、これは1-2年スパンの緊急事態になります。

淡水は、一方で氷河が長期間抱え込み、他方で森林が降雨を誘い涵養し、それが川となって平野を潤すのですが、両者とも確実に、しかも大規模に消滅を続けています。このまま、手をこまねいていると、間違いなく100億に達する前に、破局的な水飢饉が起こり、先進国が取り分を減らして分配しても、(物理的に食糧生産量を人口が超える事により発生する)本当の飢餓が襲来するでしょう。いま考えるべきは、景気回復や電力不足などの目先の問題ではなく、人工増加にどうやって歯止めを掛けるか、農業用の淡水をどうやって確保するかに最大限の知恵を使わなければならない時代ではあります。

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2011年10月13日 (木)

1512 体が脳を育てる

脳の話を出したついでに、最近耳に残った言葉で連想した事を書いておきましょう。私たちは、脳が指令を出して、例えば手足を動かしていると信じ込んでいます。しかし、脳みそそのものは「盲目の臓器」である事を忘れてはならないでしょう。脳は、目や耳や五感につながるネットワーク(神経線維)を持ってはいますが、それ自体に感覚器がある訳ではありません。脳が判断できるのは、結局のところ、五感から来る情報、とりわけ目からの情報がそのほとんどなのでしょうが、を取り入れて、どの様にリアクションを起こすかを判断する、灰色の臓器に過ぎないのです。

ポイントは、脳の可塑性は、外部からの情報によってのみ、影響を受けると言う点です。目や耳や、体中に張り巡らされた感覚器からの情報により、脳は初めてリアクション情報を発信できる訳です。脳は、もちろん生まれた時から情報を持ち、判断が出来る訳ではありません。感覚器からの情報を受け止め、自身の快を増し、不快を取り除くようにプログラムを修正していくしかない訳です。

その意味では、体は周囲環境と脳のインターフェースそのものであり、その体が脳をプログラムしているとの指摘は、的を射ています。その意味で、子供時代の運動や行動体験、とりわけその中での失敗経験を軽視すべきではなく、快と不快をできるだけ均等に、たっぷりと経験させるべきでしょう。不快だけを避けた経験は、明らかに脳の「歪なプログラム」につながるでしょう。最近の、子殺しや刹那的な殺傷事件などの暗いニュースを見聞きするにつけ、そのことを深く考えざるを得ません。快に慣れ過ぎた現代人に足りないのは、適当な不快経験であると言っておきます。

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2011年10月12日 (水)

1511 合理主義の限界

20世紀は科学の時代だったと言っても良いでしょう。実際には、その前の世紀から始まった潮流でした。科学は、物理や数学などの公理や定理や法則に従った合理的学問であり、一見誰にも否定しようがないようにも見えます。話題になった光速より早い粒子の存在も、今のところアインシュタインを否定するところまでは確かではありません。しかし、穴の無い様にも見える科学の合理性も、所詮は森羅万象に対して人間の頭の中で組み立てた、自然界への理解の一側面に過ぎない事は認めなければならないでしょう。人知を超える現象などは、実のことろ珍しくもなんともありません。一握りの土の中で蠢く、虫眼鏡でも見えない微生物たちの「生活」などは、「彼ら」の多くが特定・命名すらされていないものが殆どであることを考えれば、何も分かっていないとすら言えるでしょう。時々テレビの特集番組で扱われる、超常現象と呼ばれる殆どはカメラトリックやフィクションかも知れませんが、それでもその中のいくつかは、底の浅い科学では理解が出来ないが故に否定的に扱われている様な気もします。

つまりは、理窟で理解できない事は、合理主義の塊である脳みそにも理解が出来ませんから、存在しない事と同じになってしまうのです。環境問題に関しても、同じような事が言えます。環境とは、私たちを取り巻く自然界全体=森羅万象ですから、所詮はその全てを理解する事はできません。その証拠には、科学はいまだに人工の植物を作り出し、それが作り出す一握りのデンプンすら手にしてはいないのです。精々、遺伝子操作などの姑息な手段で、これまでとは少し性質の異なる「兄弟」を作る程度の技しか持っていません。

脳が合理的判断に従わないのは、非常に強い激情に襲われた時くらいでしょう。私たちは、しかしこの「完全ではない科学」を使って生きるしかできません。何故なら、ヒトは、正しいにせよ、間違っているにせよ、ほとんどの場合合理的な判断を下す能力しかない脳を与えられているからです。そうであれば、私たちは「科学が完全ではない」事を認めた上で、それを上手く使って生きていくしかないとの結論になります。

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2011年10月11日 (火)

1510 20世紀型技術の退場

Mツダのロータリー車が無くなるようです。バインケル博士の偉大なる発明も、その燃費の悪さやメンテナンスの特殊性から、歴史から消えようとしています。しかし、考えてみるとこれは20世紀型技術が見舞われる共通の運命の様な気がします。多くの20世紀型技術に共通するのは、強力で、巨大で、物質やエネルギーを実感できる事の様な気がします。コンパクトながら、ローターが1回転するうちに2回も爆発するバインケルオットーサイクルは、現状のクランク2回転で1回しか爆発できないエンジンに比べれば、1/4のコンパクトさで同じ出力が出せるのですから、まさに画期的なエンジンだったのです。

原発にも同じような特徴が見受けられます。燃料やLNGを中東からタンカーで運んで、日夜ボイラで燃やさなければならない火力発電所に比べ、一度燃料をチャージすれば、数年間も水を沸騰させ続ける事が出来る原発は、パワフルで夢のエネルギー源でした。しかし、その素性はと辿れば、それはMンハッタン計画という名の悪魔のプロジェクトに至る訳です。核の分裂を利用した原子爆弾というパンドラの箱を開けるに際して、私たちは見かけ上は、水と減速材を使った緩慢な熱核反応として抑え込む事に成功したかに見えましたが、じつはそれは幻想だった事が、「また」照明された訳です。

これらの20世紀型技術が、時を同じくして否定的な立場に追い込まれたことは、決して偶然ではないかも知れません。それは、これらの技術のいずれもが、「環境の永続的保全」という価値観に照らして、否定的に見られる事になったという、時代背景で理解されるでしょう。さて次に歴史から消える技術は何になるでしょうか。時期の予測はさておけば、予測は結構簡単です。それは、20世紀に入ってから急速に拡大した技術に注目すれば良い訳です。それは車かも知れませんし、航空機かも知れません。それが、発明され、使用が急拡大した時代を、時系列に従って直線上にプロットすれば、退場する順番のある程度は予測できるはずなのです。古くから登場した、自転車や形を変えた帆船などは、どの様な時代になっても残ると断言できます。

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2011年10月10日 (月)

1509 省エネ行動

この夏は、原発停止にともなう節電に振り回されたような気がします。発電量とピーク電力の予想は、毎時の様にニュースで流され、東日本では罰則付きの法律まで施行されて節電が叫ばれました。しかし、省エネ行動は電力削減だけに終始して、片手落ちというものでしょう。エネルギー資源をほとんど持たないこの国では、ほぼ100%のエネルギーが輸入されています。そのエネルギーを買う外貨を稼ぐためには、せっせと製品を作って海外に輸出しなければなりません。その製造にも多大なエネルギーを使っている事が、この夏の節電騒動で明らかにもなりました。業界によっては、労働日の曜日シフトによってピーク電力を平準化せざるを得なかった事でも分かります。

この節電の時代に、車をEVにシフトしようとする世の中の動きには納得できないものを感じます。石油を精製して燃料を絞り取ってそれで車を動かすか、その石油を燃やして発電した電力で車を動かすかを比べてみると、実は総合的なエネルギー効率では、ほとんど差が出ないのです。発電所では60%近くの熱(エネルギー)を捨てなければ発電できませんし、送電でも送電線で生ずるジュール熱によって遠くに送電するには、何割もの電力がロスされます。やっと届いた貴重な電力で、いくら効率が高いからと言って、車を動かすのが合理的か、と問われればやはり「NO」と答えざるを得ません。

必要な事は、工場や家庭での省エネ・節電に加えて、やはり輸送や車の使用に関しても、大幅な省エネを実現する必要があると言えるでしょう。そうでなければ、円高やそれに伴う景気後退で、ますます入りにくくなる外貨で買えるエネルギーも、食料事情もますます逼迫するからです。自転車か、太陽光発電で得られた電力で動く、ささやかな電動バイクくらいが、この国の日常の乗り物としては最適だとは思います。

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2011年10月 9日 (日)

1508 PCB

PCBはしばらく忘れていた物質です。この処理の現状についての講演会に出て、はっきりと思い出しました。昭和の40年代の終わりごろ、この物質が原因で数千人の中毒患者を出しました。この物質が、加熱タンクの熱媒体として使われていた食用油工場で、PCBが過熱コイルから漏れ出して油に混入したのが原因でした。Kネミ油症事件です。原因が特定された時には、既にこの物質が、電源トランスや、コンデンサー、水銀灯などの安定器などに絶縁油として広く使われていましたし、恐ろしい事には、日頃手に取るノーカーボン紙の類にまで使われていたのでした。毒性に関しては、それまでもそれなりに知られていたのでしょうが、大規模な中毒が無かったために無視されていたのでしょう。しかし、この事件で明らかになった人体への重大な毒性の影響は、この物質の非常に安定している化学的な性質故に、数十年たった今日まで続き、たぶん今後数十年まで続くとみられています。

高濃度の絶縁油とそれを使っている機器は、法律で厳しく管理する事を求めてはいますが、PCBという物質そのものを知らない世代の無知や、或いは故意で、年間数%が通常の廃棄物と混ぜられて廃棄されています。PCBは燃やされれば、排煙中のダイオキシンとなりますし、破砕され埋め立てられれば、破砕工場での従業員の吸入、埋め立てられたとしても機器からの漏えいによる地下水汚染などが懸念され、問題は後を引きます。

この物質の製造は既に大分以前に禁止されていますし、ある時期からは機器にも使われてはいませんが、5-6年前に新たな事実が判明しました。つまり、PCBが使われていた電機設備の製造工場で、PCBから無害な絶縁油への切り替え過程で、製造設備がPCBに汚染されたまま使われ、低濃度ながらその後も長くPCB汚染された機器が製造され続けたのでした。低濃度汚染の機器は、原液とはちがって管理された焼却炉で燃やす事はできますが、残念ながらこの種の施設は全国に4か所しかありません。一方で、まだ処理が進まない原液を含む機器や、低濃度汚染機器は、全国には数百万台残っていると言われ、今後何十年掛かるか想像もつきませんし、その間にどれほどが不法に廃棄されるかも分かりません。実際、PCBが使われていないはずの北極圏の生物が、かなりの程度PCBに汚染されていると言う事実も判明しています。これには、食物連鎖による生体内濃縮も深く関わっているはずです。最初にOCB合成に成功した、ドイツの化学者は、偉大な人なのでしょうが、とんでもない物質を作ってくれたものです。20世紀の残した恐ろしい「負の遺産」の一つです。

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2011年10月 8日 (土)

1507 いまどきF-1?

Sサーキットで久々のF-1が開催されるとか。エコでスマートが世界のキーワードとなった今、何か時代錯誤を感じるイベントです。1台のF-1車が、1レース中にドラム缶何本の燃料を焚くかは想像できませんが、数十台が走れば、半端ではない量の燃料が必要なのでしょう。高度成長期で、人々がイベントに飢えていた時代はさておき、若者の車離れが進んでいるいま、やはりこの種のイベントには、そろそろ終止符を打つべきだと思われます。

代わりに時代にふさわしいイベントを提案しておきましょう。それは、E-1とでも呼ぶ省エネカーレースです。1リッターで1000㎞以上も走らすマイレージカーレースは時々行われますが、この種のレースに出走する車は、時速20㎞程度のゆっくりしたスピードでトロトロと走るものなので、あまり実用的ではありません。しかし、E-1ではそれなりのスピードで走ります。何故なら、実用的な省エネカーの開発に当たっては、それなりの加速度やトップスピードも必要だからです。このレースで使うコースは、自動車教習所の様な大きさで十分でしょう。廃校になった教習所そのものでもOKです。

この中を、キビキビと最低タイム以内で車を走らせ、所要タイムを競います。もちろん、タイムは短い方がポイントは高いのですが、一方で燃料を多く消費した車には大きなペナルティが課されるため、基本的には燃費が勝負を左右します。このレースでは、詰まるところエンジンの燃費向上と同時に、徹底的な車体の軽量化が求められます。重たい車体では、加速時により多くの燃料を消費するからです。このレースに参加する事により、自動車メーカーの省エネエンジン技術と軽量化技術が徹底的に磨かれる事でしょう。その結果、例えば1リッターで50㎞以上走る(望ましくは100㎞ですが)実用的な車の開発が加速します。エネルギー資源を持たないこの国の、車メーカーはリッター当たり30㎞程度の燃費で満足してはならないのです。

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2011年10月 7日 (金)

1506 ポスト飽和曲線

1505で書いたのは、これから書く事の前ふりです。「変化は必ず飽和する」というのは、科学でも工学でも法則以前の「真理」です。飽和・安定しない変化を、発散とか、時には暴発などと呼びますが、それはカタストロフィックな変化を意味します。実例を挙げれば、物事の学習においても、脳の細胞数が有限である限り、やがて知識の詰め込みは飽和します。車のアクセルを目いっぱい踏み込んでも、有限なエンジンの出力と、増加する空気抵抗や路面抵抗と釣り合ったスピードで頭打ちになるでしょう。同様に、全ての経済活動の拡大も、やがて来る「飽和の時代」の一つの過程に過ぎません。

しかし、飽和曲線(単調な上に凸のカーブ)のその後についての議論も必要です。多くの人が指摘する様に、この国はかなり以前から飽和状態にある事を認めざるを得ないでしょう。人口は既に減少過程に入っていますし、今後経済規模を拡大できるような産業のテコもありません。超円高に背中を押されて、多くの企業が海外展開を進める中で、国内の空洞化も急加速される事でしょう。

そうであればこそ、私たちは飽和後の着地点を模索しなくてはならない時代に至ったと考えるべきでしょう。飽和曲線のピークを無理やり維持しようとあがけば、結果は、かつての歴史時代の大文明や航海時代の超大国がそうであった様に没落が待っているだけです。歴史が教える様に、無理な繁栄は、ある時期にピークを打ってから急激にシステムが上手く機能しなくなり、やがては全てがネガティブに動くようになります。それは、さながらボールを空に向かって投げた場合と同様に、放物線と描いて変化するはずです。投げ上げたボールはやがて地面に落ちる必然性を持っています。その様な事態を避けるためには、予めピーク時よりはかなり低いレベルに着地点を設定し、そこに向けて膨らんだバブルの中の空気を、ゆっくりゆっくり抜いていく努力が必要になります。その際に、決して「欲を書いてはならない」でしょう。1割や2割のケチなレベルダウンではなく、「先ずは半減」を狙うべきでしょう。モノやエネルギーの消費が丁度今の半分で、しかし大きな夢があった70年代、人々の幸福度は、実はピークを打っていたのかもしれません。あらゆる発動において変化が飽和した後は、マイナスの加速度で減速しながら、望ましいレベルまで活動を下げる「S字カーブ型の変化」に移行しなければ、残された道は「破局」しか残りません。

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2011年10月 6日 (木)

1505 変化の時代

20世紀は大戦を一つの区切りとして、特に後半は激変の時代でした。戦争で社会システムやインフラがご破算になった日本は、ある意味では古いシステムやインフラの制約が無くなり、高度成長には都合が良かったのかもしれません。戦後、食べ物にも事欠いた国民は、その後の40-50年で、ほとんどのモノを手に入れました。両手では数えきれないくらいの電化製品に囲まれ、一家で数台の車を乗り回し、田圃を潰して山を削って道路を巡らし、都会にニョキニョキと高層マンションを建て、大規模な郊外住宅団地の開発で狭いながらも我が家を手にし、食料の大半を輸入しながらその何割かを廃棄する食生活も実現し、結果としてはゴミの捨て場に困る社会を作ってきました。

その過程では、古くは各地で公害問題を引き起こし、開発による自然破壊を起こし、一時は年間数万人が事故で無くなる交通地獄も生み、果てはバブルとその崩壊の時代を通過し、しかしそれらをどうにか克服しながら、ここ20年にも及ぶ長い停滞の時代に入ったのでした。

変化の結果しか知らない若い世代はさておき、団塊の世代やその上の世代は、十分過ぎるほど変化を楽しみ、そのフルーツを手にしたとも言えます。不十分ながら、何とか暮らせる年金制度もあり、毎日ウォーキングや犬の散歩と新聞を嘗め回す事に費やす時間や、時々は旅行に出かける余裕も手にしたはずです。それは、近くの東海自然歩道を、黙々と歩き回る年配者や高齢者マークを貼りつけた車が、街であれ高速道路であれ、かなりの割合で走り回っている事からも分かります。しかし、変化のフルーツを手に入れた世代は、少なくとも負の財産(国の借金などです)を残したまま人生を終わってはならない、と改めて褌を締め直してもらいたいのです。もちろん、ポスト団塊世代の我々こそ、今踏ん張る必要があるのは言うまでもありませんが…。

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2011年10月 5日 (水)

1504 山津波

津波は広域の破壊を伴う恐ろしい自然現象ですが、近年は山津波(土石流)も随分増えたような気がします。実際、この夏も各地で多くの犠牲者を出したのでした。山津波の直接の原因は土壌の「深層崩壊」ですが、もちろんきっかけは短時間ながら集中的な豪雨です。地震による山津波はさておき、豪雨でこれまで崩れたことのなかった山が崩壊するのは、間違いなく雨水がこれまで直接届かなかった深層まで短時間に浸み込んでいくからですが、それだけ「時間当たりの雨量」が増えている事の証左でもあります。日本の「夏場の熱帯化現象」の一つとしての豪雨について、このブログでも再三書いてきましたが、山津波こそが結果として最も明確に顕われた現象かもしれません。

山津波増加のもう一つの原因としては、林床の保水力の低下が考えられます。針葉樹は常緑樹でもありますので、広葉樹異なり落ち葉の堆積が非常に少なくなります。結果として、林床は表土が露出して、豪雨時には表土の流出も激しいのです。少し溝になっている部分の表土が筋状に剥ぎ取られると、そこから地層の深い場所にまで雨水が浸透します。これが人口樹林帯で、山津波が多発する事態を招くと考えられます。いわば、山津波には人災の要素も含んでいるとも言えるのです。

その防止は容易ではありません。戦後連綿として禿山に針葉樹を植え続けてきたことが、実は環境的には正しくなかった事を認め、それらの間伐と同時に、針葉樹を植えて「混交林」に育て上げる必要があるからで、林業の担い手が殆ど居なくなった現在、打つ手も無い状態です。森林・環境税を本格的に導入して、「新たな林業」を起こすしか方法が無いのかもしれません。震災復興でお金が動くここ数年が、そのチャンスかもしれません。

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2011年10月 4日 (火)

1503 除染3

セシウムによる放射能汚染は、土壌の表面数センチに集中しているとか。例えば、それを5センチと仮定しましょう。つまりは、5センチの表土を除去しさえすれば、例えば放射能レベルを90%下げる事が出来ると言う事になります。これは手間とコストを掛け、取り除いた土を地下深くに埋める事が出来れば、計算上は一応可能です。

しかしながら、考えてみなければならないのは、そもそも土壌とは何かです。土壌は、単純に風化した岩石ではありません。僅か一握りの土の中に数十億もの微生物が蠢いているのが「土壌」だと言えます。土壌が堆積するには、例えば30センチの厚さになるまでには千年態度掛かると言われています。たった5センチでも百数十年掛かる計算です。この間、自然が持ち込んでくれた土壌に加えて、古の時代から連綿として客土などを行って、守ってきた土壌が、たった数基の原発事故で失われようとしています。

いま開発すべきは、土壌はそのままで土壌中のセシウムだけを除去する技術なのです。これは、例えば土を飲みこんで洗いながら、土壌中でセシウムと結びついている粘土より、セシウムとの親和性が高い物質に吸着させる機械です。これだと、セシウムを含む放射性廃棄物は最小限で済みますので、廃トンネルや廃坑などに埋め立てる事も容易です。物理的に表土の除去をする方法にしても、1年や2年で完了する規模ではない事は明らかなので、科学者や技術者の総力を挙げて、そのような技術を開発すべきでしょう。考えてみれば、そんなことはチェルノブイリ事故の時に、国際協力で確立しておかなければならなかったものでもあったはずです。チェルノブイリ事故は、結局のところ、当事国以外の国々は対岸の火事として見ていたと言う事なのでしょう。しかし、フクシマは間違いなく現実です。

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2011年10月 3日 (月)

1502 除染2

警戒準備地域の解除が発表されましたが、実際の復帰にはかなり時間が掛かる事が予想されます。理由は、一度崩壊したコミュニティや社会システムの復活には時間が掛かる事、何より放射能レベルの低下には、時間が掛かる事があります。とりわけ、放射性物質の除去(除染)には、気の遠くなるような時間と手間が必要となります。

放射能の人体に与える悪影響に関しては、事実上の「しきい値=上限(あるいは下限)」は設定されていません。どこまで高ければ人体に悪影響を与えるのか、どこまで下げれば安全なのか、誰にも正確な事は言えません。断片的なデータ、例えば原爆被爆地の統計的数字、チェルノブイリのデータや、国内の少数の放射線漏れ事故のデータなどで推測するしかありません。しかし、考えてみれば、放射線被ばくに関しての感受性は、たぶん人毎に大きく異なるはずなのです。何故なら、放射線被ばくという言う目で見れば、例えば宇宙線により被ばくは日常起こっているはずですし、航空機のパイロットや宇宙ステーションに滞在した宇宙飛行士は、通常の一桁か二桁高い放射線を浴びていると推測されるからです。にも拘わらず、これらの人たちの中に、例えば「放射線被ばくが原因」で起こるガンの発症率が、特に高くなったと言う疫学的データは無さそうです。

従って、除染に関しても「可能な限り下げる得る数値」を目標とせざるを得ません。それにも増して、放射能に最も敏感な人は誰なのかを特定する必要はあります。それらの判定が可能であれば、放射能レベルの高さに応じて、地域を住み分ける事も可能になります。結局のところ、放射能に対する感受性とは、放射線で傷つけられた遺伝子の修復能力を意味しますから、これは「遺伝的な要因」がかなり高いと想像できます。遺伝子検査で、それに関連する遺伝子が特定できれば、除染レベルや復帰に向けた緩和基準もかなり柔軟になると考えられます。

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2011年10月 2日 (日)

1501 新潟平野

結婚式に出るため、新潟まで行ってきました。ここで感じたのは、新潟平野の広大さです。西は、妙高・火打辺りから始まって、谷川岳、越後駒、北は飯豊山塊、朝日連峰に至るまで、連なる山並から流れ出る大小の河川が、長い年月をかけて、この広大な沖積平野を作ってきたのでしょうえ。その広さは、北ヨーロッパの田舎の風景にも似ています。新潟市から高速道を1時間飛ばしても、平野の西の端に届きません。北東方向も同じです。山と狭い平野の長野や岐阜の風景を見慣れた目には、やはり北海道と並んで、日本の中では異質な何かを感じさせる光景です。この平野は、今でも見渡す限り稲作が行われている田圃ですが、その中にかなりの割合の面積で、米以外の作物も作られている様でした。たぶん、大豆やイモ類だと思われます。

それにつけても、多くの食料を輸入しているこの国で、農業人口の激減に始まり、強制的な転作やその結果としての耕作放棄地の増加には、危機感を持たざるを得ません。耕作放棄地は、県によっては、既に10%をかなり超え、全国平均でも6%を超えていますが、それらのかなりの面積は、もはや耕作をすぐに再開できる状況にはなく(例えば森林の進出で耕作できない)、この数字が固定化する可能性が大です。一方で、住宅地の開発や道路の拡幅、新設で農地以外の目的で潰される面積をカウントすれば、耕作面積は既にピーク時の半分にまで減っている計算です。

広大で、豊かな新潟平野も、この国の人口のごく一部しか支えられません。この問題の本質を考える時、問題は植物に頼ってしか食料を手に入れる手段を持っていない事に思い至ります。植物を育てるには、十分に灌漑された土壌(農地)が必要、その農地がドンドン減っている事が、問題の中心でしょう。世界に目を向ければ、人工比の耕地面積は、年々歳々現象の一途をたどっている現実もあり、全ての産業に優先して、農業問題が議論されるべき時代に至ったと、広い新潟平野を走りながらボンヤリと考えていました。

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