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2011年11月30日 (水)

1560 やはり環境税しか・・・

1556で書いた排出権取引の仕組みは、やはり善意に期待する「弱い仕組み」と言うしかないでしょう。このシステムでは、どうしても誰かが善意で排出権を買ってくれるのを待つ、受け身の姿勢になりがちです。排出権の取引価格が高い時には、それでもいくらかは市場で動くのでしょうが、今の低価格状態ではそれは殆ど期待できません。この事態を打開するためには、どう考えてもやはり「環境税」導入しかないと思われます。消費税に加えての環境税の導入は、このご時世納税者に受け入れられないのではないか、という見方もありますが、もちろん環境税は強烈なメッセージを持つ「目的税」でなければなりません。

その目的は、もちろん化石燃料や原子力エネルギーを使った、環境に厳しい社会インフラに替えて、再生可能なエネルギー(グリーンエネルギー)の割合を急速に増加させる事しかないでしょう。再生可能エネルギーにドンと助成金を乗せて高く買い、火力発電や原発で作った電力と化石燃料に薄く環境税(炭素税)の網を掛ける訳です。メッセージの強さは、その比率で表現できるでしょう。例えば、ヨーロッパでは、グリーンエネルギーをそうでないものに比べて4倍程度で買い上げる制度を敷いており、かなり強いメッセージを発信していると言えるでしょう。

今以上のCO2削減を実現するには、どうしても環境税導入しか無さそうなのですが、それは諸外国に対しての経済的ハンディキャップを意味するものではありません。それどころか、今後数十年のスパンで眺めれば、世界の持続可能性を高めるために、どうしてもヒト1人当たりの化石燃料の使用量を、半分以下にはする必要があります。何故なら、その頃には世界人口が多分100億を突破しているからです。

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2011年11月29日 (火)

1559 足竦み

世界全体の足がすくみつつあります。C国やIンドでさえ、経済減速が明確になりつつあります。「成長エンジン」の出力が弱くなって困るのは、1558にも書いたように私たちが「空を飛んでいる」からです。つまりは地に足がついていないのです。通常、旅客機のエンジンが出す推力は、実は機体重量の3割程度です。旅客機には、戦闘機とは異なって、どんなに頑張っても垂直上昇はできない芸当なのです。それどころか、自分の機体重量よりずいぶん小さな推力で飛び続けられるのは、上手く設計された翼が発揮する浮力のお蔭なのです。早く飛ぶことで、出した推力の何倍もの浮力を発揮する状況は、今の世界経済の状況を連想させます。

何処が似ているかと言うと、実際に持っているお金の何倍(何十倍?)もの取引が出来る仕掛けがまるで同じに見えます。金を借りてそれを債権にしておけば、それがまるでお金の様に価値交換ができると言うのですから、それが無かった時代には夢のような話には違いありません。同じく、企業は債権に替わるものとして「株券」を考えだしました。これらの仕掛けによって、権利(価値)が、さながらモノの様に流通し、しかもその流通によって価値が膨らんだり、縮んだりする様にもなった訳です。もちろん将来の価値が膨らまない限り、誰も債権や株券を買ったりはしません。

これらの「紙」が、実際の価値より格段に大きな「帳簿上の価値」を持っている限りにおいては、経済の飛行機には決して着陸が叶わない事を意味します。自分で飛び上がっておきながら、足がすくむのは、さながら子供が勢いよく木に登り、しかし途中でふと下を見下ろすと急に足がすくむ状況によく似ています。これは、一種のカタストロフィックな反応だと言えます。

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2011年11月28日 (月)

1558 視界よし?

毎週団地の裏山(400m)に登ります。時間があれば土日も祝日にも登ります。数日前の土曜日は最高の視界でした。この日は、北は、笠や槍、穂高連邦から乗鞍、御嶽まで、東は恵那山や中央アルプス、南は名古屋の高層ビル群や空港まで、西は養老山地や伊吹、能郷白山あたりまで、西の電波塔以外は何も遮るものが無い「350度」の景色を楽しみました。この山には走って登りますので、往復でも1時間半程度しか掛かりません。登る際の呼吸の苦しさ度合いが、健康のバロメータだと思って走ります。

この日の視界の良さは抜群でしたが振り返って今の時代世界の視界の悪さはどうでしょう。霧の中を飛行機で闇雲に飛んでいる様な状態を想像します。車で走っているのであれば、視界が悪くて危険な場合は、取り敢えず路肩に停車すれば良いのでしょうが、飛行機の場合は、エンジン出力を極端に絞る事は墜落を意味しますので、それもできません。無茶苦茶に飛んでどこかの山に衝突するか、地上に錐もみで落ちていくのか、それとも徐々に速度と高度を下げてなんとかより安全な場所への不時着を目指すのか、あまり頼りなさそうですがパイロット(政治家?官僚?)に任すしかないのでしょうか。

別の可能性も考えられます。それは、飛んでいる飛行機の中から、出来る限り目方の大きなモノを放り出し、少し機体重量を下げながら高度を上げる努力をすることです。もちろん、法放り出されるモノ(既得権?)にしがみついている人たちは犠牲になるでしょう。飛行機に見切りをつけて、パラシュートを付けて飛び降りる人も出るかもしれません。パラシュートで降りた先は、たぶんつましい暮らしですが平和な山里の暮らしになると想像しています。

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2011年11月27日 (日)

1557 信用不安の連鎖

欧州では信用不安(収縮)の連鎖が止まりません。本来この手の信用収縮は一国の範囲内に収まるものなのでしょうが、経済統合という名の通貨の統一で、経済的に国境の垣根が非常に低くなってしまった欧州諸国では、もはや国境に堤防の役割はあまり期待できなくなったのでしょう。それを敏感に感じ取っている投資家は、危ない国に嫌気を感じて、「少しでも安全な国」へお金を動かします。かなり安全とみられていたDイツでさえ、不安な国に足を引っ張られているとみられて、割を食っています。この不安は一体どこまで広がるのでしょうか。素人が考えても、専門家が考えても多分結論は同じでしょうが、先に書いた「底なし沼」の底に、どうやら足が届いたと感じるまで、不安感や不信感は払拭できないと考えるべきでしょう。

ところで、今の状況を誰が招いたかを考えてみると、結局それは今不安を抱えている先進国自身だと言う事が分かります。例えば、先進国は特に戦後、一貫して石油の消費量を拡大してきました。私たちは、地下から石油を組み上げてそれを使ってしまいましたが、結局その代価は消えることなくオイルマネーとして地上に積み上がった訳です。そのオイルマネーを運用する「市場」は、石油を汲み上げた量に比例して拡大してきたのでした。今や、石油の消費が作り出した二酸化炭素も、オイルマネーも地上に満ち溢れ、その処置について人類は途方に暮れていると見るしかありません。

地上へのマネーの積み上げは、何も石油や天然ガスに限った事ではありません。鉄鋼やアルミやレアアースや、あらゆる採掘型の資源についても同じ事が言えるのです。ギリシャ神話で言う「パンドラの箱」とは、何のことはなく全ての再生不可能な地下資源の事だったのか、と最近合点がいった次第です。この泥沼の不安の連鎖は、結局私たちが際限なく地下から資源やエネルギーを掘り出し、それを消費し続ける限り終わる事はないのだ、と改めて知るべき時だとは思います。

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2011年11月26日 (土)

1556 排出権価格

CO2の排出権取引価格が最低線を彷徨っています。排出権制度に熱心であったEU諸国が、とりわけDイツが、足元に迫った経済の「火の車」を遠ざけるのに精いっぱいで、「環境」なんぞに目を向ける暇が無くなっている事がその原因なのでしょう。もちろん排出権価格が低迷している状況では、その吸収や削減に努力を傾けて、排出権を売ろうとするインセンティブも薄れますので、この制度は大きく後退すると思われます。

先進国が頑張ってCO2を減らしましょうと言うCOP10も、2012年以降のポストCOP10も結局それを先導してきた先進国が経済的に息切れすると、推進力も無くなるのでしょうか。それならそれで、経済が大きく減速するにつれて、経済活動レベルも低下してきて、CO2の排出量も自動的に低下するのかもしれませんが、その際のポイントは、経済減速の度合いと、CO2排出量の低下が、必ずしも比例関係にならないことです。つまり、人は一度手に入れた快適さを容易には手放さないと言う事実があります。それは、アメニティ中毒と呼んでも良い性癖かもしれません。具体的に言えば、折角ローンを組んで買ったお気に入りの車を、給料が下がったと言う理由だけで、簡単には手放さないでしょうし、冷暖房完備のビルに入居しているテナントが、売り上げが多少減っただけで暑さ寒さに耐えながら仕事をするとは思えないのです。もちろん、給料や売り上げが半分に落ち込んだ場合は、そうも言っていられないでしょうから、慌てて省エネに走ると想像できます。

結局、経済の減速が始まっても、工場の操業に比例する部分のエネルギー(CO2排出)量はそれなりに減るのでしょうが、社会全体で見ればその現象にはかなりの時間遅れがあると思われます。私たちは、排出権取引に替わる別の制度も工夫しなくてはならない時期に入ったのかもしれません。

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2011年11月25日 (金)

1555 GHG濃度

温室効果ガスの濃度が、歴史上の最高値を更新し続けています。問題はCO2ばかりではなく、気温上昇によって、凍土地帯の地下に眠っていた、強力なCHGであるメタンガスまでもが目を覚まし、さらに過剰な農業生産によって、最強のCHGのN2O(一酸化二窒素)までがその濃度を上げ続けています。その上がり方は、単なる一本調子に上がっているのではなく、カーブが加速度的に持ち上がっています。例えば、少し前まではCO2濃度は毎年1.5-2.0%弱の範囲内で上昇すると言われてきましたが、今年は2.3%に加速しています。

さてCO2の濃度は、結構簡単に上がるもので、例えば手持ちのCO2計で計っても、一人だけの事務所の濃度は、朝の300ppm台から半時間もすればすぐ700ppm程度に上昇します。車の排気管からは、10%前後の高いCO2濃度の燃焼ガスが排出されます。1%(10,000ppm)になれば人の生死にかかわるのがCO2濃度ですから、この濃度の高さが如何に異常なものであるかが分かります。CHGが温暖化の直接的な原因であるとかないとかの議論が、相も変わらず続いていますが、そんな議論はもちろん不毛です。現実に、加速度的に上昇しているCHGの濃度こそを問題にして、その増加量減速に注力すべきでしょう。対策案の一つとして、それを圧縮して地下の岩盤に封入してしまおうと言う議論もありますが、個人的にはそれには与しません。

電力供給の40%占めていた原発が、何とか20%程度を維持してくれる程度にまで回復するにしても、その20%の穴を、CHG増加の元凶の化石燃料を使った火力発電だけで埋める事はできません。死にもの狂いになって、20%以上の省エネに取り組む事こそ、エネルギー資源小国であるこの国の取るべき唯一の道でしょう。

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2011年11月24日 (木)

1554 やはり宇宙には何も無い

日本のアストロノーツが、半年近くのミッションを終えて帰還しました。当然の事ながら、無重力体験の代償として、骨の脱灰が進み、自力ではとても起き上がれない状態で(やや情けない状態)で搬出されました。過酷な訓練を積み、ほぼ完全な肉体で出発した事を考えれば、やはり大きな犠牲だと言えます。

さて、彼が宇宙でのミッションで何を成し遂げたかを考えれば、これもやはり少し寂しい成果しかカウントできなさそうです。自己健康診断システムを完成させたにしても、では私たちはこれから何処へ人類を送り込み、暗黒の宇宙から一体どんな果実を手に入れるつもりなのでしょう。何年間か掛けて火星に人を送って、或いは月に基地を設置できたとして、そこで何を見つけるつもりなのでしょう。小さな重力、大気に遮られない強烈な日射と逆に夜の過酷な低温、さらには強力な宇宙線(放射線)の照射と、真空で絶対零度に近いかそれに近い過酷な空間条件を考えても、そこで例えば地球の起源のヒントが得られ、或いは地球には微量しか存在しない物質を発見したとしても、それらを持ち帰れる訳でもありません。

それこそ「天文学」的な費用が掛かる、知識欲本位や興味本位の宇宙開発は、いま地上が経済と環境悪化で火の車となっているいま、そろそろ打ち止めにすべきではないか、と以前から憂いています。もしこれらの費用や科学者のパワーのたとえ半分でも、自然エネルギーの開発や環境保全技術の開発に振り向けられたら、今の地上の災いがどれほど軽減できるかを考えると、残念ざんねんで涙が出そうです。

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2011年11月23日 (水)

1553 環ビジ86(環境修復業)

経済の泥沼については、15461551でも書きましたが、ここでは環境悪化の泥沼を論じます。環境悪化について考えるべきは、人為的な環境破壊は、その修復に気の遠くなるような時間が掛かると言う点です。例えば、河川を堰き止めているダムについてだけを見ても、その下流域には多大な環境上の影響を与えているはずです。何より、山から土砂が運ばれない結果、海岸が痩せていきます。河川は、その勾配や流速に応じて、河床は礫や砂や泥などに適度に覆われ、多様な生物も育んできました。しかし、今はダムの上流と下流に二分された単調な環境が続くだけになりました。この環境条件は、建設されたダムが土砂によって完全に埋まる、数じゅん年後まで変わらないでしょう。

環境修復業とは、人間が改変した自然を、元々あった状態に引き戻す、建設業とはいわば対極にある産業を指します。この業界では、土砂に埋まって目的達成が出来なくなったダムを、少しずつ削って低くし、最終的には完全に取り去って元に戻します。下流のコンクリート護岸を剥がし、一方で洪水対策としては、昔の様に川底から砂利を採取し水深を深くして洪水を防ぎます。また深い山の中を走り、一日に数台しか車の通らない高規格林道は先ずは減幅し、ついで砂利道に戻すか場合によっては完全に廃止して原野に戻します。

環境の多様性、ひいては生物の多様性は、実のところ環境の緩やかな変化によって育まれます。道路と言う、アスファルトに覆われた無機質な環境のボーダーは、森を分断し、生き物の通る道を遮ります。ダムは、川を上流と下流に分断しますし、川や海の護岸は水辺を無くし、水環境と無機質な人工環境に、やはり二分化します。森と里山と人里は、連続したグラデーションを描いて貰いたいし、川は連続して魚の遡上を妨げないでもらいたいし、川や海は土手や砂浜を残して多様な生物の棲家を保証したいのです。

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2011年11月22日 (火)

1552 環境における閾値

閾値(しきいち)と言う概念は、多くの現象で観察されます。多くの現象と言いながら、原因と結果がかなり程度の因果関係を持つ現象を指している事に注意すべきでしょう。例えば、気象について言えば、夏が来て日照が強くなると気温が上がり、海からの水蒸気の発生が活発になり、雨が多くなり台風などの激しい気象現象も増えてきます。つまりは、日射量の増加と言う原因があって、夏場の気象現象が結果する訳です。夏場の気象現象は、例えば氷河や浮氷の融解の程度を左右しますから、翌年の夏場の気象にも何らかの影響を与えずにはおきませんので、先人がいみじくも指摘している様に因果は巡っている事になります。

また例えば、不景気や災害などが続き社会不安が高まると言う原因が、自殺者や犯罪の増加と言う望ましくない社会現象を結果する事にもつながります。不景気なったという現象自体にももちろん原因がありますから、これも巡っている因果の例となります。環境の悪化という「現象」には、しかしもう一つの側面である閾値がありそうに思うのです。思うと言うのは、つたないながら過去の記憶を辿ってみての感触の様なものです。例えば、身近な自分の体内環境で言えば、外から細菌なりウィルスが侵入してきて一定限度を超えると、残念ながら発病してしまいます。ギリギリまでそれを防いでいるのが免疫システムですが、これも体内を巡る因果に深く関わっています。

さて環境悪化にも、決定的で後戻りできない環境破壊の閾値があって、ギリギリまで環境を保全しようとする免疫システムの様なものがあるのでしょうか。J・ラブロックが提唱したように、地球全体を一つの生き物の様にみなす「ガイア仮説」から見れば、それは間違いなくイエスなのでしょうが、実のところ投稿者もこの考え方に寄り添いたい立場を取っています。

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2011年11月21日 (月)

1551 50年後の社会

1546で書いた底なし沼に沈む事を避けるために、何が必要であるかは、このブログでも縷々述べてはきましたが、結局は泥沼の水抜きをして、地固めを行う事しか方法はないと思うのです。たとえ話の「泥沼の水抜き」を、現実に社会に戻して考えると、それは「モノの裏付けがない価値」の縮小を意味します。モノの裏付けがない価値とは、当然のことながら、債権や有価証券や歳入の裏付けがない赤字国債などのペーパーマネーや電子マネーを指します。

これらの、「数字だけの価値」の氾濫が現実の社会の泥沼化を招いている事に関しては、あまり異論がないでしょう。ではそれらの水増しされた価値は、一体どこから生まれたのかを考えてみれば、間違いなくヒトが持つ金銭欲に源を発している事もまた間違いないでしょう。古くは、イギリスで始まった不安定な海運業に掛けられた貨物保険の仕組み、新しくは株式会社への投資がありましたが、少なくともそれらについては裏付けがありました。しかし、今行われている多額の金を借りてまで投資を行う様な金儲けだけが目的の経済行動は、やはり経済の拡大局面で20世紀に急拡大した好ましくない行動の一つでしょう。

取り敢えずは、放漫経営による赤字や投資目的の借入を「社会悪」として、早急に駆逐しなくてはなりません。替わって、基本的で社会に不可欠な産業と環境を保全・維持するための投資は、子孫へ渡す財産として、ますます拡大しなくてはならないはずです。50年後のあるべき姿を描き、今そこに向かって舵を切らないと、泥沼はますます深く、邪悪になるとみなければなりません。

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2011年11月20日 (日)

1550 環ビジ85(リサイクルビジネス)

消極的な意味においてですが、リサイクルビジネスは、環境ビジネスの一つの柱ではあります。では少し積極的意味ではどうあるべきかですが、それは「元々廃棄物の出にくい社会システム」という事になります。そうは言いながら、生産し生活を営む上で、何がしかの廃棄物の排出は避けられません。元々廃棄物の出にくい社会のためには、元々廃棄物の出にくい製品が必要です。そのためには、廃棄物の出にくい製品設計が必要になります。

その中ではリサイクルのし易さも、当然の考え方ですが、使用材料を可能な限り少なくして軽量化する、或いは廃棄の際の分解を容易にする、使用する材料の種類を減らす、などなど、数え上げれば廃棄物の出にくい設計は非常に難しい連立方程式を解く必要があるのです。その前に、そもそもこの製品は、社会に「絶対必要なのか」の問いにYESと明快に答え得る事が前提です。

歌舞伎には、リサイクルに向けた一つのヒントがあります。歌舞伎役者の真骨頂はなんといっても見得を切る瞬間でしょうが、そのほかに早変わりがあります。裏方が、着物の仕付け糸をたった1本引き抜くだけで、上に着た着物がハラリと落ちて、下の着物が現れます。同様に、ボルトかピンを数本取り外すと、製品がバラバラになって、部品の分別が容易になれば、クリーニングをして再使用する部品、消耗して交換する部品、鋳つぶして材料に戻す金属やプラスチックに分ける事もやりやすくなるでしょう。

このようなシステムは、結局のところメーカーは作りっ放し、リサイクルは廃棄物処理業者に任せっ放しと言う社会システムを変えない限りは実現できないかもしれません。最も容易な方法は、メーカーにリサイクルを義務付ける社会システムでしょう。自分が回収した製品をバラしてリサイクルをしなければならない立場に立てば、自然の行動として上に述べた環境に配慮した設計がグンと進む事は請け合います。

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2011年11月19日 (土)

1549 第三極人

 

今や、M主かJ民かという不毛な議論の時代ではなくなっている事は明白です。何しろ、どこよりも「無党派」支持層が多いのですから…。つまりAかBの二者択一の時代は終わったと、政に関わる人たちも気づくべき時だと思っています。20世紀後半は、成功(裕福)か失敗(貧乏)か、近年は経済拡大(お金か)か福祉(生活)か、などの選択を有権者に迫ってきました。しかし、前世紀の終わり頃からは、「環境」と言う第三極が俄然注目される様になったのです。お金やモノがいくら潤沢でも、住むのに困るほど悪化した環境の中では何の意味もありません。つまりは、今や右か左かの議論ではなく、先ずは進むべきか、少し後退して適正なレベルを見極めるべきか、その適正なレベルとは一体どこなのか、と言う議論が必要となっていると思うのです。

 

これを、登山に喩えると分かり易いかも知れません。つまり、20世紀後半はJ民党がリーダー役に立って、闇雲に「標高を稼ぐ事」にまい進してきた時代だったと総括できそうです。90年代以降は、切り立った岩壁に阻まれてそれ以上高度を稼ぐ事が出来なかった停滞の時代が続き、じれた隊員の中からはリーダー交替の声も高まり、結果としてM主新リーダーの時代になりました。

 

しかし、新しいリーダーを立てても、これ以上の登坂は困難であることが、隊員にも段々知れるところとなった訳です。隊員も、これ以上頂上に近づいても、頂上にはゴツゴツとした不毛の岩場(都市?)しかなく、しかも狭いために全ての隊員がそこに立つ事は出来ない事にも感づき始めたからです。ふと下を振り返ると、一面の緑に包まれた山麓と、さらにその下には豊かな山里や平野が広がって見えるではありませんか。ザイルやピッケルや近代的な登山装備(つまりは工業製品の事です)を投げ出して麓に下り、モノは豊富ではないが、心豊かな農村生活も悪くはないな、と考え始めた「第三極人?」が増えても何の不思議もないでしょう。おりしも。GNHを提唱している国の国王も訪問しています。お金で買えない幸せを真面目に考える時期ではあります。

 

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2011年11月18日 (金)

1548 何を残す?

今後の社会を維持していく上に、本当に何が必要かは真剣に議論すべき事柄ではあります。無くても済むものは、少しずつでも減らしていく必要があるでしょう。「捨てる技術」とでも言うべき能力が、今後の社会に生きていく上で必要になるでしょう。投稿者は、取り敢えず車を捨てました。自営業となって細かい移動が多いため、やむを得ずバイクを買いました。事務所を借りていますが、冷暖房器具は基本的にはありません。冬になって、室温が10℃以下になると、さすがに寒さに耐える事が気になって仕事にならないため、最小限の暖房として25wの電気座布団を使っていますが、電気料金はコーヒーメーカーとパソコンの電力を合計しても、1500円を超える事はありません。それでも寒い日は、ひたすら着込みます。もちろん、本当に寒い北国では別の対策が必要でしょう。その対策の一つは、身に着ける暖房器具でしょうか。この冬も、充電式の電池を使った、性能の高いネックウォーマーやウェストウォーマーが売り出されました。必要なものは、雨露をしのぐ住と最低限の衣料があれば先ずは生きていけます。

 

もちろん生きていく上で、絶対欠かせないものは必要最低限の食糧ですが、一方で、工業製品の中で「絶対に必要なモノ」が想い浮かびません。敢えて言えば自転車くらいでしょうか。もちろん、調理器具などは、工業製品ではなく「道具」という位置づけです。電線にぶら下がっている電化製品なんぞは「〇〇くらえ」です。

 

エネルギーに関しては、最小限の暖房用と給湯目的、加えて煮炊きに用いるものがあれば、十分です。高価で貧乏人が買えない上に効率の悪い?太陽光発電も「〇〇くらえ」です。暖房や給湯や一部の煮炊きには、もちろん太陽熱を集めたものを最大限活用します。ここで必要なものは「太陽熱コレクター」です。太陽光をパラボラで集光すれば、煮炊きもできるはずです。補助的なエネルギーとしては、もちろん薪炭です。これも、新しい形の燃料(例えばペレット燃料)として生き残るはずです。風力は、台風も落雷も多いこの国では、実用的ではないので、発電目的ではなく「発熱風車」として冬の日本海側にはいくらかは必要です。

 

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2011年11月17日 (木)

1547 経済成長モデルの限界

隣の大国であるC国の減速が顕著になってきた様です。20世紀型の経済成長モデルの限界については、1970年代に既に「ローマクラブ」が予測し、警鐘を鳴らしていたはずです。限界は、資源とりわけエネルギー(いわゆる化石エネルギーです)の枯渇と環境汚染の両面から議論され、いずれの見方においても早晩経済成長は減速し、やがて縮小過程に入るとの予言だったと記憶しています。数値モデルもあったと思いますので、予言と言うよりは予測と言うべきでしょうか。その意味では、今更ながらTPPだ、へったくれだと経済の拡大を議論している場合ではないとも思うのです。経済の縮小が避けられないとの前提に立てば、着陸すべき水準をあらかじめ予測した上で議論し、そこに向かって如何に滑らかにソフトランディングすべきかの知恵を集めるべき時期に至っているはずなのです。

C国の限界は、その国土の広さに、エネルギー供給面での対応が困難であると言う点でしょう。沿海地域は別にしても、数千キロの内陸部まで経済の原動力の前提となっている十分な量の石油や運ぶには土台無理があります。もし内陸部を切り捨てる方向に走れば、情報公開が進んでいる今、国民からのクレームが噴出する事でしょう。

そうではなくて、自国の資源やエネルギーを使いながら農業などの基本的な産業を守りつつ、先ずは持続的なレベル維持が実現可能な経済モデルをベースに据えなくてはならないでしょう。瞬間的には、ある程度の無理をして、経済の規模やレベルを上げ得たとしても、所詮資源とエネルギーと環境汚染によって、越えられない壁が行く手を塞ぐ訳ですから、今日明日の利益を求めるのは、やはり意味がありません。俯瞰的にいま置かれている状況を認識し、進むべき道を見据える必要があるでしょう。

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2011年11月16日 (水)

1546 底なし沼

最近の経済の泥沼化の原因を考えてみると、どう考えても実体の無いマネーに行き当たります。実態が無いと言うのは、それがモノに裏打ちされていない事を意味します。ある時期までは、マネーは金(Gold)によって裏打ちされていました。金本位制です。しかし、急速な経済規模の拡大と国際化により、有限な資源である金のストックが、マネーの名目上の価値に追い越された結果、古くからのシステムは崩壊せざるを得なくなった訳です。

しかし、モノを伴わないマネーの価値は、それを保有する国家なり金融システムの信頼性だけに依存する事になり、信用保証のあり方こそが、現在の金融のベースに据えられるべきものなのでしょう。信用が失墜した時のよりどころは、モノや担保なのでしょうが、今この世界で膨れ上がってしまったマネーの価値を裏打ちするモノは存在しません、つまり、泥沼に沈む事に抗う浮き輪が存在しない訳です。唯一のよりどころは、抜け駆けを防ぐために、主要な国々(例えばG8G20)が手を結び、見かけ上お互いを「信用し合おうね」と言う約束を取り交わすしかないのです。

もちろん、実態の伴う経済活動をしている限りは、マネーはモノに裏打ちされ、ほぼ同時に動きます。理想的には完全に同時交換である「現金取引」を中心に据えれば、実のところ何も恐いものは無くなります。つまりは、泥沼に近づかない事によりリスクは回避される訳です。現金取引を実行している限りにおいては、個人も企業も身の丈サイズの活動しかできませんが、安全性は格段に向上するでしょう。今泥沼の中には頼りになるべき「テコの支点」は殆ど存在しませんので、経済のレバレージ(つまりはROIです)は、最早限りなく1.0に近づけるしかリスクを回避する術は無いように見えます。

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2011年11月15日 (火)

1545 電気の発明

今回は「電気」について書いてみます。電気の発見の手柄は、フランクリンに上げるべきか、電池を作ったボルタさんに上げるべきか、はたまた実用化に大いに貢献したエジソンさんに捧げるべきか議論の分かれるところです。しかし、話を人間社会に限定しさえしなければ、地球が出来て以降、とりわけ水が地表に溜まって雲が生まれてからは、カミナリ様は日常的に地上のどこかで強力な放電を繰り返してきましたし、生き物に限定して考えても、例えば「デンキウナギさん」などは数百ボルトの電気を起こす能力は、生まれながらに備えている訳です。

それを、人間が自在に操る技を工夫した点で言えば、エジソンさんの功績は偉大ですが、原子力発電に限って言うならば、貢献者は原子力潜水艦の開発競争における技術者だと言えるでしょう。原発の起源は陸上の発電所ではなく、実は初期には原子力潜水艦や原子力空母の原動機として開発されたからです。閉じた空間で、どうにか人間が「そんなに被ばくしないで」推進力や電気を生み出せるなら、陸上でもたぶん大丈夫だろうという事になり、陸上用の原発をおそるおそる作ったのでした。その実用化過程での性格が「兵器」である限りにおいては、それはある程度のリスクを飲みこんだ上で開発された事は容易に想像できます。その後の改良において安全性のレベルは上がったのでしょうが、古い原発は多分原潜の技術を引きずっているのは間違いないところでしょう。

一方で、ワットさんやニューコメンさんが作った低速の往復動の蒸気機関では、精々鉱山の湧水を汲み出す目的にしか使えませんが、ド・ラバルさんらが実用的な高速蒸気タービンが開発して以降、発電設備は急激にコンパクト化に成功し、各地に石炭火力発電所、石油の時代になって重油焚きの火力発電所が次々に建設されたのでした。石炭や石油にはかなりの硫黄分も含まれていますので、現在はその多くの燃料はLNGに転換されて来ています。ここでは、電気の便利さが、他のエネルギー形態に比べてあまりにも強烈だったため、人々はその魅力酔って全く抵抗しなかった事が、現在の「電気中毒社会」を作ってしまったとだけ結んでおきます。

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2011年11月14日 (月)

1544 流動化

現代の社会や世界情勢を、俯瞰的に見てKWを付けるとすれば、それは「流動化社会」となりそうです。流動化は至るところで起こっている様に見えます。流通網や交通網が発達するにつれて、先ずモノやヒトの流動化が始まりました。古くはアメリカやブラジルへの移民船、或いは国内では集団就職列車による労働力の移動です。隣の大国でも、内陸部から海岸部への歴史的な民族大移動が起こった事でしょう。

流動化はモノ、ヒトに留まりません。モノに裏付けされていない余剰なお金=価値も、生き物の様に流動化を加速しました。即ち、お金は債権や電子マネーと名前を変えて、儲けを生む国や枠組みや先物取引を求めて、24時間彷徨い歩いている状態です。その旺盛なる攻撃力の犠牲となる国々も欧州を中心に増え続けています。つまりは、ある期間を通じて流れ続けていた流動化資産が、ある時期を境に引き抜かれる事によって悲劇が始まる訳です。流動化は、お金にとどまらず、モノでも起こっている事でしょう。モノは1円でも高い売り先を求めて、市場を彷徨う事になります。少しでも供給が弱るか、或いは需要が高まると、市場価格はすぐに反応し、高いお金を出しても買ってくれる国へ流れの方向を変えます。今は、C国、I度などがモノの向かう国になっていますが、これもいつまで続くかまさに「流動的」です。

流動化に対する言葉としては、「モザイク」や「地産地消」などがありそうな気がします。かつての、国内の藩がそうであったように、地理的に独立した小国が、経済的にも独立性を保ちながら、慎ましく「地産地消」の社会を営む社会です。ヒトの流動化が争いを起こし、モノの無理な流動化が戦争を生んだ歴史を振り返れば、そのような社会のメリットも納得できます。その意味で、20世紀は流動化が劇的に進んだ時代であり、21世紀もそれが「やや減速しながらも」続いている様に見えます。

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2011年11月13日 (日)

1543 駅伝ランナー

これもかつて書いたタイトルの様な気がしますが、二度書いてもまあ良いでしょう。さて長い人類の歴史から見れば、人の一生なんぞはホンの一瞬の出来事に過ぎません。しかし、生れ落ちて、生きて、生殖して、死んでいく昆虫や多くの動物などとは違って、ヒトには親から子へ、或いは書物という形で世代を超えて伝えていく知恵があります。もし、ご先祖様たちがこの知恵を伝えずに親世代が死んでいったと仮定するならば、今は地上に満ち溢れている人類の辿った道は、過酷なものとなっていたでしょう。それは、古代の洞窟生活と何ら変わらないものになるからです。

時代は流れて、伝承や書物で伝えてきた知恵が、今や電子化されてWeb上で誰でも閲覧できる素晴らしい時代にはなった訳ですが、一方でその中から役に立つ情報だけを選び出す事はますます困難になったのも事実でしょう。いわば、情報の環境汚染です。雑多な雑情報にまみれた、貴重な情報を探し当てるためには、それを濾し取り磨くためのフィルター(価値観)を持つ必要があります。

そこで、駅伝です。つまり、駅伝のタスキ受け渡しのためのリレーゾーンを十分に長く取り、正しい価値観を十分に伝えない限り、次世代にこの情報の洪水を泳ぎ切る力は生まれません。何が正しいかですが、それは人類を含むこの地上のあらゆる隣人たちが、出来るだけ長く共存できる方法、というしかありません。ただの駅伝ランナーである現世代が、地上や地下のあらゆる資源を浪費し、後の世代に大量のゴミに加えて多額の借金までオマケについた、だらしのない社会の仕組みだけを残し、無責任にタスキだけを渡す訳にはいきません。どうにかして、より持続可能性を高めた社会システムを次世代に渡す事こそが20世紀世代の責任だと強く思う日々です。

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2011年11月12日 (土)

1542 正解のない問題

日々飛び込んでくる、国内や海外のニュースを眺めると、どうやら私たちは正解のない問題に直面していると考えるしかないと思っています。例えば、人口密度の比較的高い場所が震災と津波と放射能汚染の三重苦に同時に見舞われた経験は、全世界の人類の歴史を見ても皆無でしたし、今の様な、経済規模で債権市場の拡大の中で、お金の流れの制御に関しても、国営銀行の総裁や偉い経済学者といえども未経験でしょう。と言うより、歴史の経験が無いのですから類推さえままなりません。

そうであれば、私たちには少し後ずさりする方法しか残されていないのではないかと思う日々です。環境悪化と、経済悪化、資源の枯渇というこれも三重苦の荒野を、答えの無いまま彷徨うのは、(人類の)命を縮めるだけになると考えねばなりません。そうではなくて、歩いてきた道は後ろにつながっているはずなのです。かつては、より小さな経済圏単位で、慎ましく事業を営み、暮らしていましたし、化石燃料や原子力を使った大機規模工業ではなく、より再生可能エネルギーに依存した農業や家内工業で生計を立てていました。

正解の無い混沌とした問題に向かって、これまでの経験を元にした「演繹的手法」ではたぶん道を間違えるでしょう。もしかすると現在の延長線上の先は、断崖絶壁となっているかも知れないからです。今後は、もしさらに前進しようとするなら、暗闇を手探りするように慎重に歩を進めるか、或いは元来た道をソロソロと後ずさりするかの、二者択一になるのではないかと思うこの頃です。どんなに間違っても、アジアの成長エンジンなどを当てにして、つまりは他力本願で、さらに経済規模を拡大しようなどと考えるべきではないでしょう。今以上の加速をすれば、その先の減速は「破局的な」ブレーキを結果するであろう事は、経済の素人にも明らかだからです。恐ろしい事ですが、この国の多くの人々は、もはや国の行状を信頼してはいない様にも見えます。その人たちを指して「無党派層」と呼ぶのでしょうか・・・。

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2011年11月11日 (金)

1541 立冬

数日前に暦は立冬を刻みました。流石にお天気は几帳面で、一応本格的な寒さを運んできました。環境坊主の事務所でも、足先と手先が冷えるので、20wの電気アンカを足元に、同じく20wの平型ソフトアンカを「マウスパッド」替わりにしてスイッチを入れました。電気を使うのはあまり好きではないので、日中は切りますし、調光器を使って半分くらいに弱めて使います。つまりは合計で20wとなる訳です。

今年は更に省エネ暖房に挑戦する予定です。それは、パーソナル暖房=身に着ける暖房です。この秋、かなり性能の高そうな充電式のウェストウォーマーとネックウォーマーが発売されました。以前から似たようなものはあったのでしょうが、電池の持ちが悪く数時間で止まっていたようです。少なくとも8時間くらいは暖かさが持続してくれないと実用的ではありません。寒さのセンサーは背中と首筋に集中していますので、ここを暖めれば手足も少しは暖まるのではと期待しています。

今年の冬は、寒さが厳しいとか、それでも今年も冷暖房無しの事務所で、寒さをこらえる知恵を絞り出すつもりです。太陽光・熱の活用が最大のテーマです。「ソーラーウォール」は一つの答えですが、もう少しパーソナルなものは考えられないか、などとボンヤリ考えをめぐらしています。

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2011年11月10日 (木)

1540 ナノテクの幻想 

 

ナノテクは一時の流行語でした。でした、と書いたのは、最近少しトーンダウンしたと思うからです。しかし、当然の事ながら研究所レベルでは、日夜深く静かに研究が進んでいるとも想像しています。ナノテクが嫌いなのは、それが目に見えないからです。目に見えないものは時として非常に危険でもあります。例えば、5ミクロンより小さな物質は、喉や気道の繊毛にキャッチされないまま、肺の奥深くにまで入り込みます。

 

前端が尖った硬い繊維状態になっている石綿は、肺組織に変性を誘発し、時にはガン化を引き起こします。では丸いナノテク粒子が安全かと問われても、現状では誰も自信を持っては答えられないはずです。何故なら、そんな粒子が地上にある密度で存在した試しがないからです。黄砂や火山灰や花粉はずっと大きな粒子ですが、人体にかなりの程度の影響を与えます。ナノテク粒子は、空気中では気体分子のブラウン運動により、沈降速度が極端に小さくなるので、非常に長い時間空中に留まるでしょう。その影響も長く続く訳です。

 

ナノテク粒子の扱いの開始には、少なくともその吸引によって、人体に悪影響の出ない事を綿密な検証によって確認されていなければならないのです。しかし、例えば石綿の場合、日常的な吸引からガンなどの発症に至るまで数十年というケースもある事を考えれば、基本的には吸引が絶対起きない状況でしか扱えないと思うのです。一方生物は、間違いなくナノ分子を上手く利用しているのでしょうが、それは多くの場合「ナノコロイド」など、水に溶けた状態での利用でしょうから、それが悪さをする可能性は殆どない筈です。ナノ粒子の安易なドライ状態での扱いは、くれぐれも戒めたいものです。その意味で、生物が持つ素材やメカニズムの真似は、多くの場合安全です。

 

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2011年11月 9日 (水)

1539 錬紙術

光学機器メーカーの老舗が死に体の様です。詳しい経緯は別にして、投資によって利益を上げようと必死になっている企業は数多くあると想像しています。何故誰かが労せずして金儲けをした場合、誰かが損をすると言う簡単なルールが、無視され続けるのか、何故、地道に「本業」に取り組まないのか、やはり理解に苦しみます。カメラが駄目だから、株主に褒められるために投資(ちょっと懐かしい言葉では財テク)に走ったのかもしれませんが、それしても度を超しています。

環境坊主の立場から言えば、例えば誰も損をしない夢のような投資話が存在すると仮定しても、最後は環境に甚大な影響を与える収奪により、地球から資源を掘り出さなければ、どうしても帳尻は合わない事は明白です。そうではない「普通の儲け話」の場合には、間違いなく誰かが儲けたのと同じ額を誰かが損をしている事になります(=ゼロサムゲーム)。20世紀の右肩上がりの時代には、一方で石油や地下資源を多量に掘り出して素材を作り、それを元に洪水の様に製品を作り続けていた訳ですから、見かけ上は夢のような投資話が存在したかもしれません、がしかし、今は時代が違います。

化学が万能と考えられていた古の時代には、化学によって鉛が金(Gold)になると言う錬金術(Alchemy)が信じられていました。さて、金融が万能と考えられているこの時代には、紙切れ(債権)が金(Money)を生むという「錬紙術」が信じられているのでしょうか。しかし、鉛から金が出来ない様に、ただの紙切れからお金がザクザクと生まれるはずもありません。結局は巡りめぐって誰かが損を出さない限り、紙がお金を生むはずもないのです。余り儲からないかも知れませんが、やはり本業の中で地道に、顧客に信頼される製品を生み出し、ささやかですが適正な利益を得る事に勤しむべきでしょう。品質の付加価値を上げて、安定的なリピート顧客を得る事しか、企業が長く生き残る道は無い、と経営者は腹をくくるべき時代ではあります。

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2011年11月 8日 (火)

1538 雪虫

週末の裏山登山(標高400m弱)で、先週あたりから雪虫をよく見ます。寒くなると観察される虫ですが、今年の異常な暖かさの中でも、着実に進んでいる季節を感じて現れたものでしょう。さて、その季節ですが、近年の傾向として夏の延長として秋が異常に暖かく、その後急激に寒さが来ると言う「夏冬型」の気象になりつつあるような気がします。

一つの可能性としては、北極の浮氷の減少にその原因を求める事が出来るかも知れません。即ち、夏場には温暖化の結果、北極の浮氷は殆ど消えそうなほど融けてしまいます。その結果北極海には沈まない太陽によって、夏の間にはしっかり熱が蓄積されます。しかし、季節が移って極地方に日が差さなくなると、厚みは薄いものの海面は結氷します。氷が張れば、暖まった海面も氷で蓋をされる訳で、気温は急激に下がり北極高気圧も急発達することでしょう。つまり、氷が薄くなったことで、秋から冬への季節変化が急速に進むと言う、一見矛盾する結果を生むという見方です。これは、まだ正式なデータで裏付けされている訳ではないので、このブログ内だけでの見解にしておきます。

さて、雪虫ですが、夏場は別名で呼ばれているアブラムシの類が、卵での越冬を目的に変態し、綿毛に覆われる様です。その名の通り、暑さには弱い虫の様で、人間の体温程度の温度でも死んでしまうか弱さだとのこと。この虫が飛び始めてから、どの程度で本格的な寒さが来るか、この虫の「天気予報力」を注目して眺めています。

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2011年11月 7日 (月)

1537 環境コンダクター

E那市で開催された、手作りの環境イベントに出かけました。体育館に30数個のブースがあるだけでのこじんまりしたイベントです。そこで感じたことを少々。それぞれのブースでは、堆肥の利用、3Rの推進、里山の保全、間伐材の利用、水資源の利用、再生可能エネルギーの拡大、菜種油やてんぷら油の活用などなど、それぞれの分野で、小さな活動を続けている様です。しかし、全体としてみれば、各々の活動があまりにも狭い範囲にとどまっている事が残念ではあります。それは、限られた人数の活動では、資金面や人材に限界がある事も大きな理由ですが、それにしてもそれらの活動全体を見渡す機能が欠けていると思われてなりません。

例えば、バイオマスも風力も小水力も、結局は太陽光の利用の一分野に過ぎず、太陽光発電(PV)と同列で考えなければならないはずなのですが、NEDOなどを通じて潤沢に税金が投入されてきた(され続けている)PVと、単発の事業にしか、それも一時期しか助成金のでなかった他の再生可能エネルギーを、同じ土俵で勝負させるには所詮無理があるはずです。

そうであれば、再生可能エネルギーの分野だけに限っても、「地域で」その全体を見回し、エネルギーの地産地消の方向を見定めて、ハンドルを切る仕組みが必要でしょう。それを、行政だけに求めるのはあまりにも買いかぶりでしょう。行政マンにそのための専門的な知識や、将来の青写真を描く力を求めるのは酷でしょう。必要な能力は、オーケストラにおけるコンダクターの様な、全体を見回す能力でしょう。余っているものはそれを抑え込み、足りないものはそれを引き上げて、全体として帳尻が合うようにする、細かい調整能力が必要なのです。

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2011年11月 6日 (日)

1536 人生は暇つぶし?

実際にそれを実行している訳ではなく、それを言ったのが誰かも忘れましたが「人生は暇つぶしである」とのたまわっている人にかなり共感します。親が誕生を望んだにせよ、生まれてくる赤ん坊に、生まれる場所や時や親を選ぶ選択肢はありません。親が与えてくれる食べ物を食べ、義務教育を経て自我が芽生えてやっと「自己」を確立します。しかし、それまでの過程や時間は千差万別です。20歳前に自立し、自活している人も居るでしょうし、30歳になっても親のすねをかじっているモラトリアム人もさぞ多いことでしょう。

しかし、自分が生まれた必然性を信じ込み、一生の間に何事かを成し遂げようと使命感に燃える人はホンの一握りしかいないと想像しています。多くの人は成り行きで学校に行き、成り行きで就職し、成り行きでパートナーに巡り合って家庭を築くだけです。暇を持て余せば、人は悪さをしますので、全ての人が職業を持つのは、社会の安定にとっても良い事には違いありません、昔ながらの衣食住を提供するためだけの職業は非常に単純ですが、人が多く群れて暮らすようになると、経済活動が生まれ、サービス業なども自然発生的に現れます。

しかし、どこまで考えても、今自分がこうして、ここで息をしているのは、やはり成り行きに過ぎません。そうであれば、これからの生き方も、出来る限り環境に痕跡を残さない様に、成り行きに任せて残された時間(暇)を生きていくしかないのでしょう。別に年金生活に入り、暇を持て余す暮らしを送る事は考えていませんが、それにしても有益な暇つぶしの方法はないか考える毎日です。環境坊主としては、数人の弟子を育てるのも良い暇つぶしになるかもしれません。

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2011年11月 5日 (土)

1535 デフォルト

「デフォルト」が国際的な流行語になりそうな様相です。そもそも債務(借金)は、(生きていくための最低限の借金は別にして)多くは身の丈を超える暮らしや企の実行のためにするのでしょう。身の丈はそれほど越さなくとも、例えばお金を貯めてから家を建てるのでは、普通のサラリーマンは下手をすれば老いぼれてしまってからでないと自分の家が持てないでしょう。将来の自分の収入を担保として差し借金を背負いこめば、若いうちにどうにか郊外の住宅団地にささやかなワイホームも持てる事になります。しかし、家などと言うものは、それを背負って墓に入る訳にもいかない限り、一生借家で済ます選択肢もあるはずです。

手に入る収入の範囲内で暮らすのは、長い間多くの国々で、庶民が生きていく際の「オキテ」だったはずです。しかし、通貨が生まれ、小金を貯めた人間(金貸し)が現れて、貧しくて当座を乗り切るためのお金が必要な庶民の前にニンジンをちらつかせて金を貸し、高い利息を稼ぐ上手い商売を発明したのでした。昔から夜逃げなどで謝金を踏み倒す事は多々起こった事でしょう。しかし、逃げ指す訳にはいかない法人や個人、今は一国が、借金は払えないと尻をまくる事は、合法的或いは普通にあり得る話になりつつあります。

しかし、考えてみればニッチもサッチもいかなくなる前に、打つ手はあったはずなのです。この国の借金も、最初から900兆円もあった訳ではなかったでしょう。警鐘は、バブル崩壊後に景気浮揚のために行った国債乱発の大盤振る舞いの結果、国の歳入の何倍にも達した時にも激しくならされました。消費税の増税は、時の政権にとっては「猫・鈴」案件であったため、誰もそれを言い出しませんでした。雪だるま式に膨れる借金問題の本質は、誰もそれを止める人が居ない状況にあるのでしょう。Gリシャの債務も、金を貸した側、それを見過ごした全ての当事者にも責任があります。さて、この国の債務は一体何処に向かうのでしょうか。とは言いながら、この国の国債を買っている人はお金持ちだから、まっイーか、かも知れませんが・・・。

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2011年11月 4日 (金)

1534 住の条件

住はシェルターです。自然環境は、季節や天候が変化し、暑さ寒さ、降雨、降雪、暴風などの試練を生き物に課します。それをどうにか耐えて、個体を維持できた種だけが、いま地上に生き残っている訳です。ミノムシは枯葉で衣を作り、動物は長い冬毛や羽毛で寒さから身を守ります。それでも足りなければ、洞穴や木の洞に身を潜めて冬眠する種もあります。人間だけが家を建てて、人工的に天候をブロックして、安定的な住環境を作り出して、地上に満ち溢れるまでに人口を増やしてきました。もちろん自然を注意深く観察すると、ビーバーなど自然物を使って家を作る生き物は他にも多く存在しますが・・・。

さて、一方で住居はある時期から富の象徴としての意味合いも強くなってきました。豪奢な館や城がその代表でしょう。そこまでいかなくても、時代や地域が違っても、お金持ちはやはりそれなりの住居を構えたがるものの様です。

ここでは、必要かつ最低限の住居の条件を考えてみます。エネルギーの出入りの簡単な法則から考えれば、住居の理想形は球形でしょう。体積当たりの表面積が最小であり、当然の事ながら熱の出入りも最小限で済むからです。しかし、これでは作るにも、済むにも不便でしょう。次善の形は立方体になります。これだと、4人家族で30坪の床面積の家でも、15坪(50㎡)程度の建坪になりますから、7m四方の小さな面積に建てる事が出来ます。3階建てなら、さらにその2/3で済むでしょう。表面積が増えた分だけ、壁や屋根の断熱性は少し高める必要があります。グラスウールの様な綿状の断熱材ではなく、発泡材料による外断熱が適当でしょう。窓も二重にすれば、熱の出入りが最少で済みます。これをユニット化すれば、安くできるでしょう。構造強度は外壁で確保し、間仕切りを自由にできる設計にすれば、ライフスタイルの変化に従って、住まい方への変化も容易です。躯体は100年以上の耐久性を確保すれば、住宅立って替えにともなう建築廃材も今の数分の一以下に出来るはずです。

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2011年11月 3日 (木)

1533 衣(食)住

全ての環境ビジネスは、衣食住に関連したものであるはずです。極端な例ですが、宇宙旅行ビジネスは絶対的に環境ビジネスにはなり得ません。なぜなら、それは人類の存続や環境保全には全く寄与しないばかりか、ロケットの打ち上げにより例えば、成層圏に有害なガスをまき散らしますし、人ひとりをたった数百キロの上空に打ち上げるためだけに、莫大な資源やエネルギーを消費するからです。あまりにも便利で、今では日常生活に「必要不可欠」とさえ思われている航空機や車でさえ、実はその同類項だと言えます。

表題で食を括弧でくくったのは、食は他の何にも増して重要な環境ビジネスだからです。ただし、その前提は「人類が生きていくのに必要かつ十分な量である限りにおいて」となります。つまり、飽食に寄与する様な外食ビジネスは、問題外になります。衣料や住居にも同様な前提が付けられるでしょう。つまり、過剰な装飾を付けた衣服や、過剰なスペースを有しエネルギーを浪費する住宅は、やはり環境ビジネスの対象外になるでしょう。

さて問題は、どの程度の食事が「飽食」に当たり、どのような衣服や住宅が過剰であるかは、時代によってその物差しが変わっていく事にあります。いずれにしても、今の日本の大多数の人々は、飽食の状態にあり、少なくとも衣服に関しては十分過ぎる状態にあるのは間違いないところでしょう。その証拠は、レストランやコンビニやスーパーのバックヤードに捨てられる、まだ十分に食べられるのに生ごみとして捨て去られる量、或いは数回しか袖を通していないのに、新しいものを買いたいがために捨てられる膨大な衣服の量をチラッと見るだけで十分でしょう。確かに、この国では、住宅事情に関して言えば、まだまだ不十分にも見えますが、もちろん、70年代の「ウサギ小屋」と呼ばれた、ミニ開発住宅に比べれば、近年の住宅の質は雲泥の差で向上していますので、かなりの程度贅沢の域に入り込んだ住宅も増えている様な気がします。いずれにしても、省エネルギーという視点でみると、今ある住宅の多くはリフォームの余地はありますので、ここ部分ではまだまだ「環境住宅ビジネス」拡大の余地はありそうです。

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2011年11月 2日 (水)

1532 ブータンシボリアゲハ

ブータンで幻のブータンシボリアゲハが「再発見」されたとか。アゲハに限らず、昆虫というか生物の多様な進化には、何時も感嘆させられます。僅かな距離しか離れておらず、物理的に見ればほとんど同じ様な環境で、何故こんなにも多様な生物種が進化でき得たのか。ほとんど、奇跡に近い偶然が重なったとしか思えません。もちろん、その偶然が重なるチャンスを演出したのは、気が遠くなるような時間の経過によるところが大なのでしょうが…。

さて、このアゲハは大人の手のひらほどもあるそうですが、ブータンの地理的に特異的な特徴は、とにかく高い標高にある事は明白です。元技術屋の単純な頭で考えれば、昆虫が同じ目方の胴体を、薄い空気の中で飛ばそうとすれば、当然の事ながらより大きな面積の翼が必要だと思い当ります。翼面積は大きくなっても、空気が薄いので、羽ばたく力まで大きくする必要はありません。他より少し大きな翼面積で生まれた個体が、食べ物のより多い、或いはより安全な高地に移動していった事は、たやすく想像できます。長い時間の中で、低地のアゲハが、徐々に高地に適応していったと仮定すれば、当然の帰結として巨大な翼面積の種がブータンで見つかっても不思議ではありません。

ヒマヤラの登山隊が、高地に適応したと思われるカラスの攻撃により、食料や装備を奪われたり、壊されたりする事件が続発しているとのニュースも流れますが、これらのカラスの翼も、高地に適応して面積が増加しているのかも知れず興味が尽きないところです。小さなニュースになったアゲハから、カラスにまで連想が飛ぶのは、たぶん考える(妄想する)暇がたっぷりあるからでしょうか。サラリーマンを早めに卒業して、儲からない自営業となり考える時間が増えた事に、実は感謝している今日この頃です。

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2011年11月 1日 (火)

1531 経験という引出し

本から学んだ知識は、いわば引き出しの見出しの様なもので、引き出しの中身は「経験」でなければならないと考えています。しかし残念な事に、人が一生の間に経験出来るエピソードの数は、非常に限られています。色々な国を放浪して、数々の職業を経験し、多くの人々と交わればそれはある程度は満足されるのかも知れません。それを補うものとして、たぶん本やメディアがあるのでしょうが、それは何処まで行っても疑似体験でしかなく、知識の範囲にとどまります。

経験や体験は、何は無くともその場に居合わせて、それを目撃し、その場の空気を吸い、音を全身で感じ、出来れば手で触って感触を確かめなくてはなりません。つまりは、五感を総動員して味わって記憶する必要があります。もちろん、何も世界中を歩き回らなくても、考えてみれば毎日行動する範囲内でも、立ち止まって注目しないが故に、見逃してしまう貴重な体験のチャンスは多く転がっている様にも思えます。要は、立ち止まってしっかり観察する事で、得られるものは非常に多いのではないかとも思います。

さて、道端の外来種の植物や、見慣れない昆虫や鳥等、観察すべき対象は非常に多くあるでしょうし、例えば何の特徴も無いような、ありふれた工場でさえ、しっかりと観察すると、結構興奮する発見があるものです。この数年、自営業=自由業になって、その気になりさえすればしっかり観察できる時間が取れる様になって、初めて気が付いた(つまりは、それまで目には入ってはいたけれど認識していなかったもの)が非常に多い事に、改めて驚いています。経験という引出は、日常の細かい観察からでも、十分幅を広げ深める事が出来そうです。

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