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2011年12月31日 (土)

1588 年の終わりに

物理的にも、社会システム的にも、今年はまさに100年に数度の激動の年であったと、後年永く振り返る事になりそうです。物理的とはもちろん地面が大きく揺れ、津波が押し寄せ、原発が壊滅的な事故を起こしたと言う意味においてです。社会システム的とは、20世紀型の大量生産システムにおいて、「選択と集中」が極限まで進んだ結果、実は苦労して作り上げたそのシステムが非常に脆いものであった事が、震災による東北地方のモノづくりの停滞や、タイの洪水で見事に証明されてしまった事を指します。同様に、債権市場に代表される「膨らませ過ぎた信用」も激しく揺さぶられたと言うべきでしょう。

モノづくりの世界においては、T社の先輩が口を酸っぱくして説いた、カンバンを使った「無駄を省いてピンと糸を張ったモノづくり」は、確かに無駄を極限まで省き、大量生産をこれ以上ないレベルまでブラッシュアップはしましたが、一方で実は「必要なゆとり」まで削り取ってしまった可能性もあります。ピンと張った糸は、一旦切れると大混乱を起こします。適正な在庫とは、いわばシステム上必要な糸の弛みだと考え直すべきなのかもしれません。つまり、在庫は保管のための場所も要り、投じた資本を寝かすから悪だという一面的な見方ではなく、在庫はいざという時のバッファや溜めであるとの多面的な見方が必要になると言う事です。更に言えば、部品の調達はコストと効率を追求して、力のある少数の下請けに集約するのではなく、可能な限りソースの幅を広げておくべきなのでしょう。

地震が引き起こす現象は悪い事ばかりではありません。地盤の弱い所や、崩壊が進んでいる危険な斜面を、激しい揺さぶりにより顕在化させてくれます。地下水を吸って緩んだ地盤を、水を絞り出して引き締めてくれるかも知れません。昔の人々は長い言い伝えの中で、そのような危険な場所に家を建てる事を戒めてきたはずですが、小手先の治山治水(結局その中身は砂防ダムと堤防のかさ上げ程度です)や擁壁工事程度で、それが防止できると勘違いしていた現世代に、改めて警鐘を鳴らしたと捉え直さなくてはならないのかもしれません。不謹慎な意味ではなく、天災とは天が与える試練だとも言えそうです。新しい年は、それを乗り越える知恵を絞り出す年になると、自らをも戒めておきます。

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2011年12月30日 (金)

1587 手段の目的化(個人)

個人の人生の目的を一言でくくるのは難しい話です。と言うのも、人は目的を持って生まれてくる訳ではなく、いわば成り行きで誕生する訳です。したがって、もし人生に目標が設定されるとすれば、それはその人が長じて、何らかのきっかけで人生の目標を見出してからの話になります。多くの人は、実は人生の目的など特に意識しないで一生を終えるのかも知れません。とは言いながら、それなりの割合の人々は、明確な目的を掲げて人生を駆け抜けます。政治家になる人、金儲けの達人や経営者になる人、医者になる人、投稿者の様に環境坊主や本当の坊主になるため出家する人、などなどです。

しかし敢えて、人々の共通項として普遍的な目的を考えてみるならば、それは「子孫を残し、その子孫へ文化を引き継ぐ事」となりそうな気がします。その前提として、子孫の生活が持続可能であることを保証しなくてならない、と言う点を忘れてはならないでしょう。そうでなければ、過去の多くの文明が滅びてしまった事実に照らすまでもなく、この文明も危うくなるからです。と言うより、実は今の文明も既にその結末に向かい始めているのかもしれませんが…。

いずれにしても、現世代は、駅伝に喩えれば、あくまでも単なる「中間走者」に過ぎず、資源やエネルギーを可能な限り温存して、子孫の暮らしを保証してやる義務を負っているはずです。少なくとも景気を押し上げて、より多くのお金を得ようと考えれば考えるほど、子孫の分け前を減らす事につながることは再確認すべきでしょう。そうではなくて、贅沢に慣れ過ぎて、資源やエネルギーやましてや食べ物の無駄を見ても、何も感じなくなっている感性こそ叩き直すべきなのです。その上で、オーバーシュートした、生活のモノやカネをダイエットし、子孫に分け前を残す事も人生の立派な目的になり得ると思うのです。間違っても、例えば退職後に貯金と年金で遊びまわり、一方で子孫に天文学的額の借金(国債残高)だけを残す愚だけは避けなければならないでしょう。

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2011年12月29日 (木)

1586 手段の目的化2(企業)

企業の目的は、もちろん企業自身の利益の拡大でもなく、従業員の待遇改善でも、株主の配当でもありません。多くの企業が忘れかけていますが、それは「顧客満足」しかないと思うのです。短期的に見れば、企業収益や株主への配当を増やす事が出来るかもしれませんが、顧客満足度が低い企業はやがて淘汰されるでしょう。何故なら、リピートオーダーが無くなるからです。100年企業が100年間存続しているのは、時代の変化を読みながら体質を修正し、その時代時代において顧客満足を得てきたからに他なりません。

一体どれだけの企業が、飛ばしや粉飾決算を繰り返してきたのでしょうか。つい最近も、大手企業が飛ばしで「挙げられ」ましたが、規模の大小を問わなければ、氷山の下にはそんな話は、いくらでも見つかるはずです。それは、兎にも角にも当期の利益を確保し、株主に配当を渡さなければ、経営者の責任が問われるという社会の風潮が、経営者の目を曇らせているとしか思えません。

企業の目的は、先ずは顧客満足度のレベルを高く維持しつつ、受注の継続により企業の稼働率を確保し、その結果として「適正な利潤を上げる」事しかないと思うのです。では企業の中で、誰が顧客の満足度をより正確に把握しているかと言えば、それは「アフターサービス部門」や「クレーム窓口」や「接客担当者」に他なりません。その上で、理想の企業組織の在り方を突き詰めれば、それは「ソフトクリーム型組織」になる筈なのです。つまり、組織で一番重要視される部署は顧客窓口であるべきで、それはクリームの様に柔らかく顧客に接し、他の組織はその部署をしっかり支え、一番下には経営者が組織全体を支える、逆三角形の組織になるべきだと思うのです。いち早くそれを提唱し始めたB国の航空会社(SW社)がありますが、大手キャリアーであるAA社の破綻をしり目にして、その企業の目覚ましい快進撃こそが、この組織の在り方の正しい事を証明しているとみています。

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2011年12月28日 (水)

1585 手段の目的化(政治)

年の終わりに際して、最近特に気になる事として「手段の目的化」を挙げておきます。例えば、国が政府を作り、行政組織を持つ最大の目的は、結局は富の適正配分(再配分)に他なりません。つまり、税の負担能力のある法人や個人から適正に徴税し、それを社会インフラの整備や弱者の救済に振り向ける仕掛けとして国の存在意義がある訳です。もちろん、国家の仕組みを他国から守るためには、外交交渉や軍事力も「手段」としては必要なものなのでしょう。国家としての枠組みを固めるためには、立法(国会)やそれを守るための組織、警察や裁判所確かにも必要なのでしょう。

一方、政治家の役割はと言えば、再配分に当たってのステークホルダーの代表者であって、実のところそれ以上でもそれ以下でもありません。彼らに期待される本来の役割は、あるべき将来の社会の姿を語って、それに賛同する支持者を増やす事ですが、今や現在の諸課題の火消しだけに追われ、或いは既得権を持つ団体の飾り物に成り下がっている可能性さえあります。何より、殆どの政党が一般国民からの支持率を失っている事が、その証左かもしれません。支持する政党無し層が、今や国民の半数に迫ろうとする国家は、明らかに異常でその体を失いつつあると言うしかありません。

私たちは、今一度国家の「目的」に立ち戻る必要がありそうです。行政組織も、経済の仕組みも、社会インフラなども全ては「手段」だと考え直さなければなりません。最大の目的は、やはり国民の安寧を第一優先とする社会の仕組みを構築・維持する事だと言うしかありません。そうであるならば、党利党略などあり得るはずもなく、議論の核心は、では一体どの法案が「より合目的」なのかという一点に集中するはずなのです。反対のための反対、安易に合意を得るための法案の骨抜きは、ますます「支持する政党無し層」を増やす茶番劇に見えてきます。

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2011年12月27日 (火)

1584 環ビジ88(原発停止リスク回避)

九州では全部の原発が停止して、しばしの原子炉の完全休息?期間に入ったとか。ここまで、原発の停止が広がり、更にその休止期間が長期に亘ると、この国の経済活動や社会生活にも大きな影響を与えずにはおかないでしょう。取り敢えずは、電力会社や国からの節電要請が、企業や市民に向けて突きつけられるはずです。関西では既にそれが始まっています。しかし、本当にその影響が効いてくるのは、電力料金の値上げかもしれません。原発停止により火力発電への比重が高まる結果、化石燃料とりわけ重油や天然ガスへの需要圧力が高まります。火力発電コストは、従来の原発電力に比べてかなり割高である上、今後はC国などとのエネルギー資源の奪い合いが激しくなって、燃料価格の高騰にも一段の拍車が掛かる筈です。

この大きなリスクを回避するについて、確実な妙案がある訳ではありません。先ずは、一にも二にも「省エネ体質国家」への脱皮が必須でしょう。一般的な製造業では、少なくとも3割程度の省エネは、それほどコストを掛けずに達成可能であるとみています。必要な事は、現状の把握のために細かい計測と、その結果を睨んでの知恵と工夫の結集です。電力会社が気にしているのは、総電力量ではなく、ピーク電力の高さだけですので、電力量の推移グラフを眺めれば、対策は結構単純です。電力会社側も少し知恵を使って、ピークが発生する時間帯の電力料金を「びっくりする程」値上げすれば良い訳です。その代り、レベルが下がる時間帯の電力は値下げして、ピークシフトを誘導する訳です。省エネとピークシフトは、一体でビジネス化する必要があるでしょう。

もう一つの対策は、時間が掛かりますが、エネルギーの多様化しか考えられません。それも、太陽光や太陽熱利用の促進だけを考えなくてはいけません。これは、必ずしもお金の掛かる太陽光発電の急拡大は意味しません。電力エネルギーの多くは(事務所ビルでは6割以上が)冷暖房と照明負荷ですので、太陽熱と昼光を最大限利用する、システムを考えれば良い訳です。太陽熱は今でも太陽熱温水器や一部の住宅の暖房に用いられていますが、これを全てのビルや工場に展開します。昼光照明も、鏡と反射ダクトさえあれば済むので、即効性もあり初期投資も安く上がるでしょう。

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2011年12月26日 (月)

1583 初雪

今朝、この地方でも今季初めての積雪がありました。雪国生まれの身としては、何か嬉しくなる朝でもあります。全てのくすんだものが白一色に塗られ、清々しく化粧直しする朝でもあります。とは言いながら、やはり冷え込みはソコソコで、なにか頼りなさそうな積雪でもあります。本当の冷え込みでない証拠には、建物や樹木の陰になった部分では、地面の雪が融けて水たまりになっています。この地方に越してきた冬の様子を思い出すと、やはり温暖化が静かに進行していると考えざるを得ません。この年(S58年末から)の冬には、一冬に20数回の積雪があったと記憶しています。そのシーズンには、とにかく朝起きて会社に出かけようとすると、地面に雪が積もっているか、道がバリバリに凍っていた様な気がします。今回の寒波がどのくらい居座るか楽しみですが、もし1週間程度で退散するのであれば、「冬将軍の老化現象?」が本物になったからかも知れません。

一方で、日本海側の積雪は、実は温暖化で増加する可能性が高くなります。日本海の暖流の温度が上昇すれば、海面からの蒸発量が多くなり、それを大陸からの寒風が急速に冷やして、多量の積雪をもたらすからです。今回も北陸ではドカ雪に見舞われている様です。結果として見れば、夏の暑さと冬の積雪はセットになっているのかもしれません。

しかし、全体として温暖化が進行するのであれば、今は雪として振っているものが、ある時期からは降雨に替わる可能性もあります。雪と雨の境目は、地上の気温で3-4℃ですから、暖流の影響で、寒波が来た朝でも氷点下数℃にしかならない北陸地方では、数℃の温暖化で積雪量が劇的に減少する可能性があります。そうなれば、天然のダムでもある山地の積雪も減り、夏場は渇水に悩まされると言う、しっぺ返しも懸念されます。

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2011年12月25日 (日)

1582 鉄・木時代

鉄は長い時代に亘って、今の文明の基盤材料となってきました。古い時代に作られた鉄器は、ほとんどが錆びて原型は留めていませんが、この国でも弥生時代に遡る事が出来るでしょう。その古い材料である鉄が、今でも例えば車や鉄道車両の主要な構造材料ですし、鋼材無しには一本の橋も掛けられません。何より鉄道の線路は鉄そのものです。豊富に産出する鉄原料(つまりは酸化鉄です)の精錬(還元)には、これも多量に産出する石炭(を蒸し焼きにしたコークス)があれば良いので、今後とも資源量の確保に関しては安定だと思われます。

一方、新しい材料としては、アルミニウムやチタンやマグネシムなどもありますが、これらの新しい材料を精錬するには、多量のエネルギー、とりわけ電力が必要ですので、これらの材料はいわばエネルギーの塊なのだと言っても良さそうです。つまり、これらの新しい材料の確保のためには、「安い電力」の確保が不可欠で、供給が不安定な材料だとも言えます。これらの新材料の実用には高々100数十年ほどの歴史しかありませんが、どの材料も結局は軽量化と言う目的に主眼が置かれて使われます。エネルギー確保が不自由になれば、やがて消えていくべき材料とも言えるでしょう。

しかし、今後の社会を見通す上で、ぜひ考えてみなければならないのは、石と並んで最も古い構造材料である木材の活用でしょう。木材は、確かに腐朽と言う弱点はありますが、比強度で考えれば理想的な素材ともなり得るポテンシャルを持っているからです。木材の長手方向には、強靭な繊維の束が通り、その周りには円筒状の空隙があり、結果として比重も0.5以下の軽量材料となっています。これを、体積で半分以下になる様に圧縮し、水蒸気で形状固定(圧密化)すれば、腐朽も殆ど問題の無くなり、アルミニウムに匹敵するほどの強度も実現できます。五重の塔ではありませんが、中層ビル程度であれば「新しい木材」で建設する事は十分可能ですし、その可撓性を考えれば地震にも強い筈です。木材を結合する金具には、鉄やステンレス鋼などが必要でしょうが、最小限の使用で済むでしょう。木製の自動車も結構有望だと思っています。その意味では、鉄・木時代は、長く持続可能な時代でもあります。

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2011年12月24日 (土)

1581 四季

何かの機会にG.アルチンボルドの絵を知りました。種々の精細に描かれた静物を組み合わせて、全体として人物を描く手法は独特のものですが、どちらが真似をしたかあるいは、洋の東西を問わず、共通の文化というものがあるのか、江戸時代の日本の戯画にも似たようなものが見つかるのは興味深いところです。

さて、彼の作品の中でも「四季」と呼ばれる4枚の連作は、人間の一生を描ききっていると同時に、文明の盛衰などにも通ずる普遍的な何かを訴えかけてくるような気もします。環境坊主を自認する投稿者としては、その中に「環境問題」を探してしまいます。全ての生命が息を吹き返して活動を始める春、それらが太陽光と雨の恵みを受けて最も活発に活動する夏、植物は果実や種子を実らせて、動物はその恵みにあずかりながらやがて来る冬に備える秋、全ての生き物が眠りに入る冬は実は春への準備でもあり、それらが4枚の絵に見事に表現されています。それを見る時、振り返って季節感の少ない人間の生活の事を考えない訳にはいきません。

四季は見事に循環しますが、季節感を可能な限り消し去った人間社会は、その循環が極端に弱まっていると言えます。食糧は、自然の循環を利用するのではなく、化学肥料と農薬と石油燃料で動く大型農業機械を使いながら、電力を使って大量の地下水(化石水)を汲み上げながらの農業によって「工業的」に作られます。ほぼ全ての工業は、地下資源を製錬した原料を使い、多量の熱と電力を使いながらその形を変えられます。汚く食べ残された「元食品」や用済みになった工業製品の多くは、一方通行の処理ルートに沿って、最終的には処分場に埋め立てられます。かなりの割合の紙や分別し易い金属などがリサイクルに回されるだけです。アルチンボルドの絵は、この持続可能ではない社会の仕組みへの警鐘の様にも見えてきます。機会があれば、ぜひ本物の絵の前に立ってみたいものです。

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2011年12月23日 (金)

1580 ソブリンリスク

今世界で起こっている、金融危機に始まる経済の閉塞感ですが、元を質せばそれはグローバル化の是非論に還元できるはずです。ヨーロッパの実験は、国境を超える通貨の統一でしたが、文化的背景や価値観の異なる国同士が、無理に価値交換の手段である通過を統一した場合、当面の(つまりは新しい通貨単位に慣れていないための)トラブルと、今起こっている様な根本的な壁が存在するという事がはっきりしてきました。

言葉を替えれば、ソブリンリスクとは国や文化の壁を越えた、無理なグローバル化の歪だとも言えると思うのです。基本的には楽観的で、その日を気分よく暮らせれば幸福なラテン系民族と、全ての物事を理窟と合理性で割り切ろうと努力する勤勉な北の民族が、たかが通貨や流通システムを統一し、関税を撤廃したぐらいで、短期間で融け合うなどとはとても信じられません。ソブリンリスクとして挙げられる国々に、ラテン系の国家が出てくるのは決して偶然ではないでしょう。つまり今や国境は目には見えませんが、明らかに国境には何らかの形のバリアは厳然として存在していると考えざるを得ません。つまりは、それは人モノカネに対しては、通過する方向で抵抗の異なる「ダイオード」として作用する訳です。

では振り返って、この国にソブリンリスクは存在しないのでしょうか。存在しないどころか、今やリスクだらけとみている人は少なくないでしょう。国家としての長期的な展望が無い中で、椅子取りゲームしか眼中にない政治屋と、自らの保身しか考えない官僚と、その中で方向を見失っている企業と、震災・津波被害と放射能汚染や電力逼迫に翻弄される国民が、莫大な借金に押しつぶされそうになりながら耐えている姿は、まるでソブリンリスクのデパートの様です。GリシャやPルトガルやSペインやIタリアやその他の危ない国々を、他人事として見過ごす訳にはいかないはずなのです。取り敢えずは今後50年後の社会システムや国を支えるべき産業や、或いは国民の幸福の物差しを示し、そこに向かっての10年後、20年後のステップを設計しないままでは、間もなくアジアのソブリンリスクを代表する国に成り下がるとみています。本項も続きます。

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2011年12月22日 (木)

1579 復興需要

震災の復興需要が期待され始めていますが、道のりは平坦ではありません。と言うより大変険しいと言うしかないでしょう。理由は、壊滅した産業の回復は、単に旧に復する事ではなく、東北と言う地勢的な特徴や資源を生かしながら、持続可能な新たな産業を興す事が必須だからです。つまりは復興ではなく、かなりの部分は「新興」でなければならないと見ています。震災地にも、重要なモノづくり産業が集積していた事は、震災後のモノづくり産業の混乱でも十分過ぎるほど証明されましたが、それに懲りた産業側は、当然の事ながら拠点の分散を図る筈です。つまりは、量的にも復旧はあり得ない話になります。

では、持続可能な産業の新興とはどの様なものになるのかを考えてみると、どの様な道筋で考えても、東北の産業の特徴でもある農業や林業や漁業などの一次産業に関連するものにならざるを得ないでしょう。しかし、一次産品をそのまま市場に出すのでは、海外の産品に太刀打ちはできないでしょう。そうではなくて、より大きなお金を生み出し、震災地の経済を拡大させるためには、産品を多面的に利用しより大きな付加価値を付ける新たな産業を興すしかないのです。

林業を例に具体的に考えるなら、現在1億トンに迫る量を輸入している「外材」に、日本の山から切り出した「材木」そのままでは決して価格競争力は生まれません。頑張っても赤字を垂れ流すだけです。しかし、例えば付加価値の向上では、木材を圧縮して強度や硬度を上げ、構造材や内装材として新たな付加価値を与えるとか、或いは美しい木目を際立たせて、意匠を売りにするとかが考えられます。

間伐材や端材や残材についても、単に燃料にするだけではなく、繊維を利用して複合材化(例えばランダムストランド合板など)するとか、保温材としての機能を引き出すなどの工夫をし、最後にどうしても製品にならない部分は、ペレット燃料に加工するなど「一粒で三度おいしい」使い方を実用化すれば、儲からないと言われて久しい林業でさえも十分再生可能だと思うのです。続きます。

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2011年12月21日 (水)

1578 では原発は?

きっかけは地震+津波であったとはいえ、最悪に近い事故を起こしたフクシマの原発の状況はどう考えるべきでしょうか。原発は、基本的には核物質の「連鎖反応」とその制御で成り立っているシステムです。もし、全く制御(冷却)が効かなくなった場合には、大量の核物質は最終的には圧力容器も、格納容器も、その下の岩盤も溶かしながら暴れまわる事でしょう。つまりは、最悪の場合は核物質の持つ核エネルギーのポテンシャルが尽きるまで、負の連鎖が続く危ないシステムだと言えます。

その意味では、原発の本質は「堰止湖」と何ら変わるところはない訳です。核物反応において、堰止湖の水に働く「引力」に相当するものは、核分裂の連鎖反応を起こす中性子群だと言えます。臨界以上の核物質が集まると、この「引力」は自然に発生しますので、原発の圧力容器内には強力な中性子の引力が満ちている事になります。もちろん、原発に用いる燃料ペレットは、わざと純度を低くして、ひどい暴走は起こさない様には考えられてはいますが、それも程度問題です。1100kwもの出力を持つ原発は、やはり日常的には想像できないほどの強大なパワーを内蔵しているパワフルなシステムなのです。

さて、環境に放出された放射性物質は、自然崩壊しながらその引力を弱めてはいきますが、そこから出る放射線(α、β、γ線)は、生体にその放射レベルに応じた害(つまりは細胞や遺伝子の破壊です)をもたらし、負の連鎖が長く持続する事になります。つまり、原発システムは、急激な負の連鎖(暴走事故)が一応収まった後でも、生体に対する負の連鎖は長くながく続くと言う意味で、本質的には人類にとっての「パンドラの箱」であると考えるしかないのでしょう。

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2011年12月20日 (火)

1577 正の連鎖

負の連鎖は、他人の災難を見た人がつい「弱気になって」自分の活動も抑制し始める、いわば心理的な要素が大きいと考えられます。ごく初期のきっかけは、喩えるなら堰止湖から少量の水があふれ出る様な状況かもしれません。それを見た人が「大変だー」と叫んで村に駆け込めば、下流の村々の住民は不安に襲われ、最終的にはパニックに陥ります。これが、負の連鎖の一つのシナリオですが、正の連鎖は全くこの逆プロセスにはなりません。というか、ならないと見ています。

その理由は、堰止湖の喩えで言うならば、地球には引力があるから、と言う説明になります。水を上流から流下させるのは、引力に従う訳ですから、勝手に事態が進行します。それも、加速度がついてです。しかし、水を上流に汲み上げるには、ポンプを使うか、或いはお天道様の力を借りて、水を蒸発させて雲を作り、雨を上流地帯に降らせなければなりません。それには、長い時間が掛かる事でしょう。

悪化した事態の好転も、たぶん同様に長い時間を要するのではないかと考えています。たった数年の戦争で壊滅状態に陥ったこの国が、立ち直るのにどのくらいの時間が掛かったかを思い起こせば、そう考えない訳にはいかないでしょう。では、バブル崩壊やリーマンショックなど、債権市場への不信が引き起こした「人災」から立ち直るには、何が必要で、一体どのくらい掛かるでしょうか。市場における「引力」は何によって生ずるかと問われれば、それは人間の欲望だという事が出来そうです。楽して儲けたいと言う欲望が、常に市場への引力として働くと見ています。一方、その強力な引力から脱するには、先ずは物欲や金銭欲を捨てるしかありません。これが、如何に難しい事かは今更説明するまでもないでしょう。

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2011年12月19日 (月)

1576 負の連鎖

60年のつたない人生経験から言えば、物事の悪化は必ず連鎖します。とは言いながら、事態はどこかで歯止めが掛かるのも事実です。例えば、悪化要因が「堰き止め湖」に溜まっている水だとして、そのダムが決壊すれば、下流の村や町が次々に洪水に襲われることになりますが、溜まっている水が尽きれば、流れは元の清流に戻る事でしょう。つまり、悪化の原因は、所詮有限である事が、結果として事態の悪化の連鎖も尽きる事につながります。

これを、某ラジオパーソナリティ風に言えば「山よりでっかい猪は出ん」、或いは、「この世で起こった事はこの世で収まる」とでもなるのでしょうか。これは、実を言えば投稿者の人生訓でもあります。それはさておき、この環境の悪化や経済の行き詰まりもやがては収まるのでしょうか。その点に関しては、楽観していると言っておきます。楽観の根拠ですが、氷河期や数々の戦争や紛争、或いは未曾有の災害などにもめげず、人類は生き延びてきたと言う事実しかありませんが、それで十分だとも思います。

しかし、要因(例えば水や膿)が完全に尽きてしまわないうちに、事態をウヤムヤに収束させた場合、それが長らく悪さを続ける事態が起こり得ます。不良債権などはその最たる例かもしれません。それらを表に出さずに闇から闇に封じ込めた場合(飛ばしをした場合)は、時限爆弾の様に近い将来に極端な悪化現象として目を覚ますでしょう。それは、例えば原発事故とその処理などについても当てはまるはずです。では、正の連鎖もあり得るのでしょうか。それについても次に考えてみます。

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2011年12月18日 (日)

1575 モノからココロへ

この時代、多くの事態が袋小路に入り込んでしまっている事に気が付きます。資源、エネルギーの確保、経済活動(金融)のシステム、国際関係(軍事バランス)などなど。その根元を掘ってみると、結局全ての問題は、この星が有限の閉じた世界であるという単純な事実に発している事が分かります。その有限である星に、多くのモノを詰め込み、求め過ぎているのだと言うしかありません。資源やエネルギーの権益は、近代の国際関係緊張の原因そのものでした。ドロドロした資源や権益の奪い合いを、一見平和的な価値交換の手段であるマネーに「ロンダリング」した、いわゆる経済活動も、結局のところ同根だと言えます。

ややぞんざいな言い方ですが、武器や軍事力を使ってドンパチやるのか、金にモノを言わせてジワジワ締め上げるのかは、僅かな違いでしかありません。結局は、武器も金も持てず、しかし資源だけは十分にある国々が、持てる国に絞り取られるだけです。武器も金も持てていなくて、絞り取られていた国々で、比較的力のある国々が、持てる側に入ろうともがいているのが、現状だと言えます。

その中で、戦後頑張って持てる側には入ったものの、90年代から方向を見失っている様に見えるこの国は、ソコソコ持てる国で、しっかりGNHが高い国に変身出来るかが、ここ10年の勝負になりそうな気がします。10年というのは、今回の震災が一応の収まりを得るまでの間、人々のココロの中に、優しさとか絆とか思いやりとか言う言葉が十分に残っている期間と言う事になります。阪神の大震災では、ボランティアとかNPOと言う言葉がもてはやされました。今回の震災では、「絆」と言う抽象的な言葉しか表に出ていない様な気がします。では、絆という言葉を具体的な行動に直したら、どんな形があり得るのか、この一年で皆が考えなければならないはずです。少し時代を戻れば「結い」などと言う言葉があり、それは集落の中では、具体的な決まり事や行動になっていたはずです。モノからココロへの具現化が必要な時代です。

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2011年12月17日 (土)

1574 使用後処理の設計

1573で書いた事にもう一言付け加えておく必要がありそうです。それは、そもそも製品や設備の設計時に、使用後の処理まで設計に組み込まれているかどうかという点です。原子炉に限らず、製品や設備は、使用時の性能に関しては気を使って作られている事は間違いないでしょう。しかし、それらが寿命を迎え、或いは不要になって処理される方法まで配慮された設計は「殆ど」見た事がありません。殆どと言うのは、「最近は」と言う意味においてです。古くはそうではありませんでした。工業製品や設備は故障すると言う前提で作られていましたし、構造的な寿命が来るまでは、繰り返し修理して使う、のが前提になっていた訳です。

そのためには、何より構造がシンプルで、分解修理も容易な構造になっている必要があります。一般的な工業製品や設備は、フレームがあり、その中に機能部が納められ、その後周囲に化粧パネルを張って、見栄えを良くしていました。これは、車などでも同じ考え方で設計され、基本的にはシャシ(英語ではフレーム)と車体に分離していて、車の作り方も今とはかなり違っていました。車体を取り外せば、エンジンが乗り、座席がついてそれだけでも走れるような車台が現れると言う様な構造です。したがって、ほぼ全ての部分について、部分的な修理が可能であり、廃車になった場合でも、細かく分解して処理すれば、ほぼ全てが資源として蘇らせる事が可能でした。

さて、今の製品です。見栄えを良くするために局面を多用した板金スポット溶接のモノコック構造や種々のプラスチックのフレームに、ブラックボックス化した機能部が込みこまれていますが、組立の容易化のために、そもそも分解できないか、或いは一度嵌め込むと工具無しには分解できない構造にしています。これは、故障した場合には買い替えを前提にしていますから、当然の構造とも言えます。原発でも事情はあまり変わりません。分解出来易い構造は、結局使用中の漏れも懸念されますので、点検部以外はガチガチに溶接されているはずです。これが、事故処理や廃炉作業にとっては、大きな壁となって立ちはだかるとみています。

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2011年12月16日 (金)

1573 廃炉まで40年!?

現在の見込みでは、事故を起こした原発を完全に廃炉にするまでに、なんと40年も掛かるとか。詰まるところ、現世代の手による廃炉処理を、始める前から諦めたと言う情けない事態です。数十年も原発の「お世話」になっておきながら、後のゴミ(放射能汚染+廃炉)の処理を子や孫によろしく、と頼むと言う現世代に、本当に後ろめたさや罪悪感は無いのか、と疑いたくなります。リニア新幹線建設などに注ぐだけの金と技術力があるのなら、そっちを遅らせてでも20年以内での原発の処理を優先させるべきだと、なぜ誰も言い出さないのか全く腑に落ちません。

遠隔操作のロボットや機械を使って、水中で炉内の構造物や融け落ちた燃料の残骸を、少しずつ削り取る、どちらかと言えば単純な作業に、何故そんなにも時間が掛かるのか、元技術屋としても全く理解できません。南アルプスに10㎞もの横穴を掘る技術力とパワーがあるのなら、例えば原子炉の上に巨大な天井クレーンを設置し、小型のトンネルマシンを吊り下げて、炉内の構造物と燃料をガリガリ削り取り、その切り粉を水と一緒に吸い出せば、全て水中の作業で完結する事が出来るでしょう。

そうでなければ、ロボットアームの先に、水中溶断トーチを持たせ、内部の構造物を切り刻んでも良いでしょう。ロボットアームの操作は、税金を使ってしっかり訓練をしていただいたW田宇宙飛行士にでもご教授をお願いすれば良いでしょう。税金もしっかり生きます。内臓物や燃料が何十トンあるか分かりませんが、毎年数トンずつ、毎日に換算すると十数キロずつ(これは手でも持てる重量です)でも処理できれば、10年もすれば処理は完了する勘定です。その準備に5年かけるとしても、現世代が責任を持って廃炉処理はできると思うのです。

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2011年12月15日 (木)

1572 環境ビジネス87(スケールダウン)

環境に配慮した社会システムあるいは環境ビジネスは、何は無くともスケールを小さくして、可能な限り地産地消を目指さなくてはなりません。つまり、現在あるシステムやビジネスモデルを、取り敢えずスケールダウンさせて、しかもそれが安定的に持続させ得るものであれば、何であれ環境ビジネスにはなると言う事にもなりそうです。

分かりにくいので具体例を挙げましょう。例えば、電力供給です。これは、見かけ上いくつかのシステム(電力会社)に分かれてはいますが、いわば国の息がかかった、準国策システムだと言えるでしょう。これを、究極的には個別発電に移行させることは、現在では立派な環境ビジネスになりつつあります。これに対応するものとして太陽光発電もあるでしょうし、ガスを使った熱電併給システムなどもあります。電力に限定せず、エネルギー一般と枠を広げれば、もちろん太陽熱給湯システムもその一員です。たった1基でも100kwは発電してしまう現システムに比べれば、数キロワットの分散システムは、なんと100万分の1のスケールダウンになります。これによって、エネルギーのセキュリティは格段に向上する事になります。例えば、ある家の発電システムがダウンしても、お隣さんから少し融通して貰えば、完全停電のリスクは極端に小さくなるでしょう。

スケールダウンは、生産システムにも必要です。大量生産の本質は、つかみにくい市場の「見込需要」に応えるための、「まとめ作り+中間在庫+流通=押し込み生産」です。しかし、市場が成熟するにつれて最早市場への「押し込み生産」のビジネスモデルは成り立たなくなってきます。一方で、一部の昔ながらの職人技による受注生産+手作り生産は、以前として根強く生き残っています。その意味するところは、本物志向に傾いている消費者の「所有する事による強い喜び」を満足させる事にあると考えるしかないでしょう。スケールダウンし、単価の高いものをしっかりした需要(つまりは注文です)に基づいて、適正な価格で市場に出せば、良いものであれば口コミでも徐々に売れていくはずです。

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2011年12月14日 (水)

1571 冗長性

システムにおける冗長性(Redundancy)は、あらゆる意味で重要です。それは、必ずしもムダ(Excess)を意味するものではありません。たとえば、車で言えば油圧式のブレーキシステムに加えて、ワイヤなどで力を伝えるサイドブレーキが必ず設置されています。春先に事故を起こした原発でも、不十分ではありましたが、非常用発電機は設置されていて、電力が失われた際には「自動的に起動するはず」でした。世の中の多くのシステムにも、確かに「補助~」とか「非常用~」とか「バックアップ~」、「スタンバイ~」などの非常時の手段が組み込まれています。

しかし、それらが十分ではないのは、非常用システムは、主たるシステムとは「別の原理」で働くものでなければならないと言う「原則」が実は多くの場合守られていない点なのです。車のブレーキシステムの例は、ギリギリセーフです。油圧ホースが破損して油圧が失われても、ワイヤさえつながっていれば、どうにか車は止められるからです。最悪の場合はエンジンを切れば、被害は最小限で済むでしょう。では原発の非常用発電機はどうかと吟味すれば、明らかに「アウト」です。電気で動くポンプの非常用バックアップは、電動ではないポンプ(例えば蒸気で動くとか、高い場所に大きな水タンクが設置されていて重力で水が供給されるとか)などの仕掛けが必要だ、と言う事になります。電動ポンプのモーター部分が水に浸かった場合、いくら非常用電源が確保されてもポンプは回らず、何の役にも立たない事は明白です。高い場所に非常用発電機を設置するなら、モーターも同じくらいの高さまで持ち上げなくてはなりません。地下にポンプを据えたままにしておきながら、非常用電源だけ高台に設置しても何の気休めにもならないのです。

同じように、例えば効率化(光熱費の削減?)のためにオール電化に走った家庭が、停電に襲われた時には食事の準備さえできなくなる悲劇を考えれば、少なくとも水とガスが残っている家庭の冗長性は貴重です。加えて、十分な食糧と薪ストーブと薪のストックがあれば、何があっても怖くはないでしょう。

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2011年12月13日 (火)

1570 COP17その2

COP17が、ほぼ事前の予想通りの決議を行って閉幕しました。決議は、要するに「環境より経済が重要だ」というものです。CO2発生抑制で、経済の減速を極度に怖れるC国や人口世界一のIンドや大統領選挙を控えたB国は、当然の事ながら何もコミットしませんでした。京都議定書のささやかな枠組みでは、実効は殆ど期待できない中で、この国は原発の殆どが停止している中で、そのささやかな約束さえ守ることが難しくなっています。

そこで、考えなければならないのは、環境効率と言う指標です。これは、経済活動の大きさ(例えばGDP)を、環境負荷(例えばCO2発生量)で割り込んで、この値を最大にしようという視点です。割り算の分母、分子をひっくり返すなら、最小化すると言う事になります。この視点を持ち込めば、話は結構単純になります。経済活動は、主には地下資源を掘り出すか農作物を清算する、或いは原材料に付加価値を追加するか、またはサービスを提供する事などによって営まれます。つまり付加価値を上げるために費やされたエネルギーや資源と、そうではなく無駄に費やされたものを峻別すれば良い訳です。例えば工場の工作機械の動力は有効、空調や集塵機の動力、あるいは廃棄物となる原材料の切れ端は、取り敢えずは無効と「仕分け」しなくてはなりません。無効の資源・エネルギーをどうしたら最小化できるかに注力すれば、経済規模を落とさずに環境負荷は下げられます。

問題は、生産的経済活動とは言えない「個人の消費行動」です。これは、確かに景気には左右されますが、一度自家用車の便利さを「知ってしまった」人にその使用抑制を求めるのが困難である様に、環境負荷抑制の最大の難関になるでしょう。物欲に替わる何か(ブータン流の満足度?)を示すか、或いは起こりつつある気候変動と、それによって起こり得る災害のプロパガンダしかないのかもしれません。

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2011年12月12日 (月)

1569 月食

久しぶりの皆既月食でしたがあいにくの雲が湧いて見損ねました。月食と言うKWで、地球と月の関係について改めて考えてみました。直径が、地球の1/4をやや超える大きさの月は、太陽系でも5番目の大きさの星で、地球との質量の比を考えれば、たんなる一般的な衛星以上の大きさだと言えます。そのため、重力だけを見ても例えば潮汐の変化や、たぶん動植物にも多大な影響を与えていると思われます。月は、やや重心が偏っており、地球側には常に同じ面だけしか見せていません。つまり、地球側の半球より反対側の半球が重たいので、バケツを振り回した時の様に、一定の面だけを見せている訳です。

さて、生物への月の影響です。ヒトを含め、重力の変化や潮汐の変化は、意外に大きいものです。太陽暦では、月の運行と暦は一致しませんが、古来多くの国々では太陰暦で暮らしていました。いわゆるバイオリズムにも、月齢は大きな影響を及ぼしているはずです。では何が影響を与えているかを考えてみると、重力以外にはあまり想像できません。微小な重力変化が生き物に与える影響に関しては、投稿者の不勉強のせいかもしれませんが、あまり重要な研究が見当たらない様な気がしています。

20年ほど前、自転車に乗っていて車に「軽く」はねられたことがありますが、実はそれ以来重力の変化にひどく敏感になりました。具体的には、板張りの廊下やスノコ板の上を歩いていて、自分が予測した以上に板が沈み込むと(つまりは1センチにも満たない程度落下すると)何か不快な感じが起こります。同じく、バイクに乗っていて道路の微妙な凹みで自分の予測以上に沈み込むとやはり不快です。どうやら重力センサーが敏感になってしまった様なのです。ヒトの場合、重力センサーは耳の辺り(三半規管)にあり、その入力情報を脳が判断しているのでしょうが、本来は非常に感度の鋭い器官の様なのです。日常でも、乗り物に乗っていて繰り返しGの変化が加わると、多くの人は乗り物酔いになりますし、長期滞在の宇宙飛行士も、筋肉の衰えの以前に三半規管の異常により、立って歩けないはずなのです。月の影響を含む1.0Gの重力が、今地上に満ちているあらゆる生き物の形態に100%の影響を与えている事は疑いがありません。月食からの取り留めもない連想でした。

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2011年12月11日 (日)

1568 選択する存在2

ヒトは、時々「考え」を巡らしますが、実はあれこれと「選択」している事を「考える」と呼んでいるだけなのかも知れません。実のところ、ヒトの頭の中に突然「考え」が降って湧いてくる訳ではないでしょう。何時か知った誰かの考えや示唆の内のどれかを「選び取る」事が、考えると言う行為の中身の様な気がしてきました。それが、他人がそれとなく認めている「自分らしさ」に沿っていれば、その人らしい「考え」になるでしょうし、そうでなければ、意外な選択と思われてしまうかも知れません。

何しろヒトは選択しないと歩く事すらできません。先ず右足を出すのか左なのか、つま先をどちらの方角に向けるか、決めない事には何も行動が始まらないのです。しかし、「考えて」みると、選択にはよく考えた選択と、ほとんど自動的にしてしまう選択がありそうです。例えば、右足を先に出すか左が先かを考えてから出す人も少ないでしょう。たぶん陸上競技のスタートラインに立ったランナーくらいのものでしょうか。S・アイエンガーも別の言葉でそう述べています。無意識の自動的な選択を出来るだけ避けるために、例えばバスや電車や航空機の運転手は、自分の選択を声に出して呼称するのでしょう。

その意味で、国政に集うあの「困った人たち」の発言にはホトホトあきれ果てます。ほとんど思った事を無意識のうちに自動的に言葉にしているとしか思えません。余りに自己中心的で、あまりに近視眼的です。熟慮するためには、先ず「考え」のフレームを広げてみる必要があります。例えば、時間の枠を広げて考えれば、国家100年の計になるでしょうし、地域的な枠を広げて考えれば、アジアや国際間の自国の立ち位置に言及しない訳にはいきません。次世代や、その次の世代の身の上を考え、国際間の利害を頭の端に置き、国民の幸福とは結局何なのかを考えれば、マツリゴトの結論は誰が議論しようが自ずとある方向に収束してくるはずでしょう。陣取りゲームは、もう終わりにする「選択」をあの人たちにはぜひお願いしたものです。

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2011年12月10日 (土)

1567 選択する存在

最近ブログの中身が薄くなった事を反省しています。理由は明白で、忙しさにかまけて本をほとんど読んでいないのです。もちろん、本を山ほど読んで、その受け売りだけを書くブログもうんざりするかも知れませんが…。その意味で、このブログで書いているのは、投稿者自身の企業人としての経験と、30代にそれこそ山ほど読んだ本を10年ほどかけて咀嚼した結果、それに加えて50代に放送大学で学んだこと、その後に自営業(自由業)となってから越し方を振り返って考えた事などをベースに書いたものだと言えます。とは言いながら、ブログに書いた言葉に厚みを加えるのは、実際の経験(できれば失敗体験)と、これまで巡り合った良書からの影響だと言えます。

さて、久しぶりに手に取った本で、感銘を受けたのは、S・アイエンガー著の「選択の科学(The art of choosing)」でした。この本の結論は、非常に短縮して言えば、「人間は本能として選択する存在」だ、と言うシンプルなものですが、合点がいってストンと飲みこめました。例えば、若者がのめり込むゲームですが、これこそプレイヤーに連続的に選択を求める究極の遊びに他なりません。これにのめり込んでいる限りにおいては、少なくともその最中は、選択本能が満たされ、他の嫌な選択をすることを忘れていられるのかも知れません。そうでないと、学生なら、やれバイトは何曜日に入れるのか、科目や単位はどうセットすべきか、やれ就活はどうするのかなどの煩わしい日常の選択をしなくてはなりません。会社員なら手がけている仕事は今日中に仕上げるべきか、今度の飲み会は参加すべきかどうか、上司のお歳暮はどうすべきか、などなど、やはり毎日の様に好きでもない選択を迫られます。

もちろん、選択には結果として、良い選択とそうでない選択はあり得ますが、たとえ結果が良くないものであっても、ヒトはひたすら選択し続けるでしょう。そう考えないと、競馬やその他のギャンブルに、人生を破滅させる程のめり込む人たちの行動が上手く理解できないのです。彼らは結果的には、人生に躓くにしても、ギャンブル行為の最中は選択本能をほぼ100%満足させ、ほとんどエクスタシー状態なのではないかと想像しています。続きます。

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2011年12月 9日 (金)

1566 干ばつと洪水

ケニアでは最近までの深刻な干ばつに引き続き、今度は大洪水に見舞われている様です。この傾向は、何もアフリカだけに特異な現象でもなさそうです。その意味するところは、結局のところ直接的には水蒸気(=雲)の偏在が加速している事と、その状態が持続し易くなってきたと言えるでしょう。しかし、その現象が何故多発しているかについては、少なくとも投稿者はまだ納得にいく説明に遭遇していません。一方で、個人的に疑っているのは、「熱塩循環」の異常です。

熱塩循環とは、千年単位のサイクルで、地球規模で海洋を循環する壮大な循環流です。それらは複雑に影響し合い、場所によっては深海に沈みこみ、場所によっては海面に湧き上がっています。ただし通常の海流と熱塩循環流が異なるのは、前者が海表面だけをかなりの速度で流れるのに比して、後者は長い時間を掛けての海表面と深海の熱エネルギーの循環に関わっていると言う点です。例えば、ある海域に深海から湧昇している熱塩流があるとすれば、それは多分数百年前の気候の痕跡を内在している流れだと見る事が出来ます。その時期が、例えば寒冷期であれば、当然湧昇流も寒冷でしょうし、逆にその時期が温暖期であれば、かなりの熱量を貯めこんだ流れになっているかもしれません。

つまり、現代のGHGの増加による温鈍化傾向と、過去の気象のブレ(気象振動)が、現在の地球上でせめぎあう(あるいは影響し合う)状況もあり得る事になります。温暖な熱塩流の湧昇は、その地域の大気中の水蒸気量(雲量)を押し上げるでしょうし、逆に寒冷な湧出流は、寒冷な高気圧(気団)をもたらすでしょう。しかも、この傾向は長く持続する事になります。湧昇流はインド洋、太平洋、大西洋にあると言われていますが、実際はもっと複雑でしょうし、異論もあり話は投稿者が考えるほどには単純ではなさそうですが…。

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2011年12月 8日 (木)

1565 地球益

誰かがラジオで「地球益」と言う言葉を使っていました。対になる言葉は、たぶん私益や企業益や国益となるのでしょうか。とりわけ、国益は今や地球益と拮抗する大きな「マイナスベクトル」を持つまでになりました。国益とは、ある国の国民の私益を優先する事に他なりませんから、個人の欲望が限りないのと同様、富める国の富める一部の国民の生活と、そうでない国の際貧民の暮らしとは、天文学的な差が生じているはずです。富める国は、その富と快適な生活を捨てたくはないでしょうし、そうでない国はいくらかでも国民に豊かな生活をしてもらいたいので、それらを制限する様な枠組みを話し合う国際会議の場では、意見が真っ向対決する事になります。

つまり、「国益を守る」とは、現状の国際間のレベル差を変えない事とそれを変えるとのせめぎ合いだと言えそうです。一方で、待たざる南の国の権利は地球益とは完全に対立しますが、それを制限する事は、豊かな暮らしを享受している北の国側には説得力がありません。結局、地球の地下資源が掘りつくされ、それを消費した結果ゴミの捨て場が無くなり、呼吸も息苦しくなるまで、地球益は略奪され続けるのかも知れません。

そこに、もし歯止めが掛かるとすれば、先ずは富める国と企業と国民が、自らの権益を大幅に放棄する事しかない事は明白です。つまりは率先垂範です。この国は、まだ戦前戦後の貧しい暮らしと、その後の目覚ましい高度成長とオイルショック、加えてバブルの崩壊や、さらには今回の大震災まで経験した得難い経験を持つ国民により構成されています。その知恵を結集しさえすれば、富める国々の中でも、持続可能性が高い世界(つまりは地球益を優先する世界)の構築でのリーダーに躍り出る可能性は非常に高いと思うのです。続きます。

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2011年12月 7日 (水)

1564 渋滞による環境負荷

四国からの帰路、いくつかの高速道路を利用しましたが、四国内の閑散とした交通量に比べ、阪神地域の渋滞のひどさに、改めて気づかされました。渋滞が起こるのは、もちろん道路の設計に対して、それ以上の交通負荷が掛かるためですが、結局のところ出口のランプで車列が出来る事がきっかけとなって発生する様です。

渋滞が発生すると、発停を繰り返し、低速で動く車からは不完全燃焼の排気ガスが排出され、同じ距離を進むのに通常の倍ほども燃料を使わなくてはなりませんので、大気汚染やCO2排出の負荷も増大します。多くの車は、渋滞に引っかかるまでは100kmで疾走し、渋滞の最後尾で急ブレーキを踏みます。道路が一定時間内に流せる車の量は、一定の区間に存在する車の台数と、それが動く平均速度の積になります。渋滞が起こった場合、車間距離が非常に小さくなりますから、道路上にある車の台数は、例えば4倍程度になってはいるのでしょうが、平均速度が例えば10㎞程度に落ちているので、4*1/100.4で、例えば交通量は半分以下に低下している勘定です。したがって、渋滞を予測した車が次のランプで流出して、道路上の車の数が一定以下になるまで、渋滞は解消されない事になります。

結論から言えば、渋滞を避けるためには、何らかの方法で、高速道路に入る車の台数を制限するしか方法は無い筈なのです。そのためには直接的な通信手段で、運転者に渋滞情報とそれを避けるための情報を届ける必要が出ます。GPSを利用したナビが十分に発達し、IT万能の時代になった事を考えると、方法はあるはずです。渋滞による、大気汚染と無為に浪費される燃料を考えると、何かうまいシステムの知恵が出ないものかとため息が出ます。

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2011年12月 6日 (火)

1563 休題(剣山)

岡山での仕事を貰ったので、週末は足を延ばして本四橋を通って四国に渡りました。なんと児島坂出ルートは、数十年ぶりに渡る勘定です。幸いにも天気も良く、横風も弱かったので、単車でも快適に通りぬけられました。四国側の最初の街である坂出は、造船業に関わっていた若い時に10年余り暮らした場所なので、無条件に100%懐かしい場所です。

ところで、今回のついで旅には、実は剣山の登山も入っていました。高さが2000mほどの山になると、四国でもさすがに冬は雪が降り寒さも厳しくなり、登る人も少なくなりますが、本格的な冬季シーズンの前なら、天気次第では秋山として登れると思い、数日前から天気予報とにらめっこしました。予報では、仕事が終わった日の翌日にはどうやら低気圧が去って晴れそうで、寒さもそれほどでもない様なので、決行することにしました。日曜日の当日は、どんどん天気が改善し、朝に本四橋を渡る頃には、目的地の見え隠れしていました。とは言うものの肝心の2000m近い山々(四国の屋根)は、雲の中の様です。阿讃山脈を縫って走る山道を抜けると、四国を東西の方向に引き裂く「構造線」に突き当たりますが、その裂け目には、今は吉野川が徳島まで流れ下っています。川を渡って、剣山に入るには、さらに40㎞ほど谷あいの細い道を登らなければなりません。しかし、深い谷を作っている山々を仰ぎ見ると、見上げるほど高い場所にも、農家が点在し、平家落人の末裔かも知れない人々のたくましさに心を打たれます。

峠を越えて祖谷渓側に少し下ると、カズラ橋につながる分かれ道に出て、そこに剣登山の入り口になる神社があります。駐車場には数台の車が止めてありましたが、登山リフトも12月に入ると冬季休業に入るので、山に歩いて登る物好きの車に違いありません。神社が標高1400mほどの場所にあるので、ホンの600mほども登れば頂上です。途中からは数日前の寒波で雪道にはなっていましたが、気温が上がっているので凍ってはいません。寒いので汗もかかずに1時間弱で頂上に立ちました。登るにつれて雲は消え、頂上に立った12時頃はまさに快晴でした。低いところにはまだ雲が残っていましたが、土佐湾や室戸岬まで見渡せ、まさに360度の絶景です。本当の冬山に登る体力や勇気はありませんが、吹雪が去った後の冬晴れの山の醍醐味の一端を味わった様な気がしました。下りは少し遠回りをして遊歩道を使ったので、往復丁度2時間の登山(と言うよりハイキング)でした。

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2011年12月 5日 (月)

1562 北極海の蓋

COP17でのWMOの発表によれば、北極海の海氷の体積が過去最低になっているとか。この報道で、最近の世界各地で起こっている豪雨災害に「少し」合点がいきました。北極海の海氷は、これまでは夏の間もそれなりの面積で北極海を覆っていた訳ですが、それがもう少し減れば夏場は、北極海に航路を設定できるほどに減ってしまった訳です。さて、氷の蓋が小さくなった北極海には、夏の間は沈む事の無い太陽からの日射がありますので、海面からのかなりの蒸発量があるはずです。

蒸発した水蒸気は、結果としてはどこかに雨となって降る事になります。それを運ぶのは、たぶん極を取り囲んで回る偏西風でしょう。偏西風は、複雑に蛇行しますので、低緯度地方にもそれなりに運ばれる事になります。

と言う仮説の元に、今後の気象を展望するなら、豪雨災害はますます増加するでしょうし、一方では偏西風の蛇行のポケットにスッポリ入ってしまった地域では、逆に干ばつが続く可能性もあります。つまりは、これは気象の過激化を意味します。この国が属する地域で言えば、程よい年間降雨と春秋のマイルドな天気がある四季のある気候ではなくなり、暑い夏と寒い冬の夏冬型気象になる恐れもあります。その間には、この夏に見られたように数十年ぶりの豪雨があるでしょうし、豪雪もあるかもしれません。

そこにあるべき蓋が無くなる事で起こる事は、実のところそんなには簡単なメカニズムでは説明できない事も明らかです。何しろ、北京で羽ばたいた蝶の風が、アメリカでの竜巻を結果すると言われるほど、気象の因果関係は複雑で、人知の及ばないところだからです。

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2011年12月 1日 (木)

1561 COP17

京都議定書に続く枠組みの話し合いがCOP17で行われています。おりしも南アの開催地では、数十年ぶりの集中豪雨に見舞われたとか。水害で亡くなった人には申し訳ないですが、会議の参加各国に、いくらかの危機感が生まれれば不幸中の幸いです。その意味では、この種の会議の開催地は、今まさに環境問題が起こっている現場により近い場所で行うのが正しい選択なのかもしれません。例えば、ヒマラヤや南米の氷河湖の畔とか、或いは過剰な取水によって干上がってしまったアラル海とか水が途切れた黄河河畔とか、夏場に凍土が融けてズブズブの沼地になって、メタンガスがボコボコ湧き出しているシベリアのツンドラ地帯や、或いは水がまだ引ききらないタイの水害地帯や、満潮時には波に洗われるサンゴ礁の島々とかが開催の適地になるでしょう。

都会に所在するエアコンの効いた会議場では、所詮これらの現場からの緊迫感は何も伝わりません。この種の議定書は、結局のところ、快適な生活を送るために「化石エネルギーをたっぷり使用する権利」を制限するものですから、あくまでも相対的な対立軸での権利主張の場となりがちです。つまり、これまで潤沢にエネルギーを消費してきた国々と、やっとローンで自家用車が買えるようになった国々やまだまだその域にすら達していない、多くの国々とのせめぎ合いになるからです。

であれば、やはり物差しのゼロは最貧国で、物差しの100はB国でなければ、エネルギーの物差しとしては使えないでしょう。では、物差しのどの目盛に今後のエネルギー使用の水準を置くかについては、100の国とゼロの国が、歩み寄るしかないでしょう。それも公平性の観点から言えば、先進国側が大きく譲る必要がありそうです。しかし、この国も原発事故を理由に、例の25%削減の国際公約さえ反故にしようとしていますから、今回も空回りの会議に終始するのかもしれません。とは言いながら、この夏に東日本が経験したように、15%程度の削減は少し頑張れば十分達成可能な短期目標であり、もう少し時間を掛ければ25%削減なんかは朝飯前だとも言えます。今日から出張のため4-5日休稿です。

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