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2012年1月31日 (火)

1620 正義について

M.サンデルの、正義に関する問いかけはなかなかに刺激的です。テレビ放映された講義や、著述の中で、学生や読者に正義の選択を求める極限状態を投げかけ、人としての正しい行動=正義のあり方を問いかけます。サンデルの頭脳には遠く足元にも及ばないにしても、このブログでの視点は、人間の正義ではなく、環境によって生かされている生き物全ての正義を論じてきたつもりです。「環境原理主義」との揶揄は甘んじて受けた上で、このブログでは、より長いレンジでの「持続可能性」こそ正義だと書き連ねてきました。サンデルが論ずる人の世の正義は、残念ながら多くの生き物の中でも動物、その中で「地上にたった60億個」の個体しか存在しないヒトの世界の出来事にしか適用できません。そのくらいの数の(微)生物で良ければ、手のひらの上の一握りの土の中に見つかるでしょう。

サンデルの正義を、環境全般(森羅万象)に広げたものは「環境正義」とでも呼ぶのでしょうが、それを人間のイデオロギーに置き換えるとすれば、環境原理主義とでも呼ぶしかないのかも知れません。しかし投稿者は、原理主義者でも功利主義者でもましてや、神秘主義者でもないつもりです。元技術屋、今環境屋としては、単純に環境効率については大きく問題にしなければならないし、現世代の人間が引き起こした(引き起こしつつある)問題については、次世代にツケを先送りすることなく、我々責任世代でどうにかカタをつけなければならないと考えているだけです。

環境原理主義は、たぶん環境保全のためには人間の犠牲も致し方ないとまで極言するのでしょうが、このブログの立場は、過剰な人の欲を抑えて環境負荷を下げる、精々「環境禁欲主義」程度のものでしかありません。かなりの程度「環境正義」の方向は向いているにしても、環境の今以上の悪化を防ぐための姿勢や生き方を考えるものでしかないのです。

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2012年1月30日 (月)

1619 一粒で三度…

自然エネルギーの利用の際のキーワードは、一粒で二度おいしい、或いは一石二鳥などの「エネルギーお下がり利用」利用です。太陽光発電で電気だけを起こして終わりでは知恵が足りません。最低でも、高温になると効率が低下する太陽光発電(以下PV)の欠点をカバーするために、PVの裏側を水冷し、その水(温水)を利用する、電気・熱のハイブリッドシステムくらいには太陽光を活用したいものです。

しかし、ここで提案するのは、そこで終わらせたくないという欲張り案なのです。太陽光には、種々の波長の光(一般的にはそれらをまとめて電磁波と呼びます)が含まれます。連続した太陽光のスペクトラムを無理に言葉で切り分けるなら、虹の七色、或いは紫外光、可視光、赤外光くらいになるでしょうか。異なる波長の電磁波には、それぞれの特徴があって、利用法も当然違ってきます。紫外光は、エネルギーレベルが非常に高いのですが、減衰も大きく地上まで届く割合は限定的です。しかし、PVに起電力を与えるのは紫外光ですし、植物の光合成や光触媒を活性化するのもこの波長です。

可視光は、動物にとっては重要なものです。モノの認識に可視光を使う生き物は、数多いでしょうし、人間は特にこの光に頼り切って暮らしています。そのため、昼間っからビルや工場や家庭でも、電灯を点けなくては仕事ができないし、暮らしても行けません。しかし、晴れた日中に、何故屋内で電灯を点けなくてはならないのか、天窓や昼光利用の方法はないのか、建築家には照明デザイナーとコラボして、改めて考え直して貰いたいのです。建物構造に、光を導くダクトを作り込んでおけば、昼光利用も簡単でしょう。

しんがりは、赤外光です。赤外光は減衰しにくい電磁波です。というより、絶対零度でもない限り、温度を持つ全ての物質から放射されるくらいです。つまり、温度に応じた波長の赤外線が我々の周囲には入り乱れて行き交っています。もちろん、低い温度(長波長)の赤外光は、殆ど役には立ちませんが、短い波長の赤外光は使い道も広い筈です。赤外光は、反射材で集めたり曲げたりできますので、工夫してもっと上手く利用したいものです。太陽光を三度くらいしゃぶり尽くせば、化石エネルギーの使用は大幅に削減できるはずです。

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2012年1月29日 (日)

1618 利害の統一

今の政界のドタバタは、結局のところ短期的な利害を代表する政治屋の勢力争いに過ぎません。と言うより、つい最近までは、確かに政党はステークホルダーの看板でしたが、最近の小競り合いの様子は、国民のみならず既にステークホルダーからもソッポを向かれている状況としか見えません。つまり、今の政局は、まっとうなステークホルダー間の勢力争いから、政党(というより政治屋グループ=ファクション)だけの小競り合い(あるいは場外乱闘)としか言えないでしょう。

ステークホルダー間の利害の統一(調整)は、簡単だとも言えますし、非常に困難だとも言えます。つまり、利害を想定する期間とそのグループのアスペクト(あまり良くない表現では「縄張り」)をどう考えるかによって、結果が大きく異なるからです。あるファクションにとって、短期的には不利益だとしても長期的にはそれを回収できるかも知れません。また、自分のグループにとっては不利益でも、国として見れば利益につながる事も多い筈です。

結局、利害の統一のためには、想定する期間と範囲を可能な限り長く、広く取るしか方法は見つからないはずなのです。それを「国家百年の計」と呼んだり、或いはこの愚ログ「7世代後の幸福」と喩えたりしています。短期的な景気の変動や、狭い業界団体の利益誘導だけ、ましてやその利益団体の支持さえ失いつつある、政党間の醜い場外乱闘は、いますぐにでも止めなければなりません。つけっ放しのラジオから流れてくる、相変わらずのかみ合わない国会論議(ではなくて原稿の読みあわせなのですが)は、時々の「原稿の読み間違い」も混じって、まったく聞くに堪えないやり取りではあります。

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2012年1月28日 (土)

1617 悪いリストラ

この国を代表する老舗のエレクトロニクス企業もリストラだそうです。しかし、リストラ(Re-structuring)の本来の意味は、「事業の再構築」ではあっても、絶対に「大量人員整理」ではなかった筈です。製鉄不況の時代、大手製鉄会社が養豚を始めた事を思い出します。これは、結果としてはやや方向はズレていたかもしれませんが、大量解雇に比べれば、100倍くらい立派な行動だったと思います。プラスとマイナスですから、実のところ倍率などでは比較できないかも知れません。重厚長大産業が飽和し、軽小短薄の代表であったエレクトロニクスにも限界見えた今、企業の取るべき行動は、将来の飯のタネ探しであるべきなのです。鉱物資源もエネルギーも無く、その他のめぼしい資源にも恵まれないこの国が、今後何で飯を食っていくのか、人員整理などに夢中になっていないで、皆で知恵を絞ってみるべきでしょう。

人員整理の人選などしているヒマがあれば、先ずは社内で「新事業コンテスト」を行ってみるべきでしょう。授業員が天井を向いて、或いは外にアイデアの刺激を求めてウロついている間は生産=売上は低下しますので、給料は大きく下げざるを得ないでしょう。それでも、首切りの100倍はマシでしょう。10%の人件費の削減が必要であったなら、首切りの前に20%給料カットして、数か月間アイデアを必死に考えて貰う方が、本来の意味のリストラの達成可能性が格段に上がるはずです。

アイデアを出した社員(グループ)には、20%下げた人件費の中から10%分を、社内ベンチャーの起業資金として使って貰えば、自分の身を切ったお金ですから、大事に使って必死に新しい事業を起こしてくれるでしょう。もちろん昭和の右肩上がりの時代は、何をやっても商売になり得たでしょうが、流石にこの時代はそんなに上手い話は転がっていないでしょう。しかし、10個事業を立ち上げれば1個くらいは箸か棒には引っかかる筈です。事業企画案をしっかり見極めれば、その確率は更に上げる事も出来ます。経済界の暗黙の法則である、「30年企業寿命説」に従えば、企業は結構頻繁に「良いリストラ」を行う必然性があるのでしょう。尻に火がついてから慌てておこなう「悪いリストラ」に理はありません。

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2012年1月27日 (金)

1616 流れを絞る

31年振りの貿易赤字だそうです。貿易の本質は、安い国で仕入れて、運んで、高く売れる国で売る事です。いわゆる加工貿易が成り立っていたのでは、製造に必要な資源やエネルギーをいくつかの国が安い価格で輸出承認してくれ、この国の技術の国際競争力と比較的円安の為替レートとあいまって、結果として価格競争力が維持出来ていたからでした。何度か書きましたが、運ぶ事によってモノの価値は1円も上がりません。それどころか、徒に輸送のためのエネルギーを消費するだけです。貿易とは、結局は国際的な価格差を利用した、利ザヤ(輸送ザヤ?)稼ぎ商売でしかない事を再認識すべきでしょう。

さてこれからの身の振り方です。輸出の落ち込みに恐怖を感じ、無理な価格の勝負に持ち込んでそれを回復させようと考えても、結局は更に自分の首を絞めるだけに陥ります。安直にコストを下げるために元請は、下請けを絞り、下請けは孫請けを絞るしかないからです。ひいては、消費が冷え込み、デフレのスパイラルは止まらないでしょう。そうではなくて、無駄なモノの移動を抑制する新たな仕組みこそ、ここで工夫しなければならないのだと考えています。運ぶことは無くせないにしても、ジャストインタイムと称して、トラックや航空機で日々チマチマ運ぶのではなく、鉄道や船でまとめて運ぶのが効率的なのは、子供が考えても分かる道理です。震災で明らかになった事は、在庫は悪ではなく、適正なレベルの在庫は、本来必要なものであると言う単純な事実でした

これからのシステムは、結局いくら安く作れても「要らないモノは作らない、買わない」しかし、「必要なモノは適正な量と価格で作り、適正に在庫し、まとめて効率的に運ぶ」ものとすべきでしょう。このシステムでは、結果的に流通量は減る事になります。しかし、製品の単価は高いレベルに保たれ、在庫により価格も安定するでしょうから、GDPが大きく落ち込むとは思われません。それが、下がるにしても「本来あるべきレベルに落ち着く」とみるべきなのです。集中的な大量生産システムに替わって、必要な地域の近くで多品種を少量生産する分散システムが必要になりますから、流通は絞られても、逆に雇用も拡大し、地域経済も活発になる筈です。

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2012年1月26日 (木)

1615 環境のツケ払い

環境経営に取り組む企業のみならず、家庭といえども今後は環境保全に資するためのコストを負担する事が求められます。例えば省エネ投資や環境負荷の小さな資材や製品を選定すること、有害物や廃水を適正に(今より更に高度に)処理する事などですが、それを追加のコストと考えて、忌避する傾向が出ないかを懸念します。企業で言えば、経営者は、設備投資や原料調達に余分なコストが発生し、結果として市場での競争力を失う事を嫌がるからです。

しかし、環境保全への努力をコストと考えるのは、明らかに間違いでしょう。何故なら、環境が悪化した原因は、環境への影響を適正に評価しないままに、環境負荷物質(つまりはCO2や廃棄物や汚水など)を環境に放出し続けた事にある訳で、当然果たすべき義務を、これまで免れてきたツケと考えるべきでしょう。つまり、このブログなり表現スタイルに直すと、環境改善のためのいわゆる環境コストは、本来は「環境のツケ払い」と呼ぶべきなのです。

ここにも、現在のお国の窮状とのアナロジーが見えてきます。つまり、ツケの先送りの結果、利息も含めて、後年多大なツケ払いに苦しむと言う例の構図です。それは海外でも例外ではなかった事を、最近の欧州からの経済ニュースが知らせています。ツケの先送り政策の権化であり、戦後長くこの国の政権の座にあった政党と、その亜流にあったいくつかのグループが新たなファクションを組んだ現政権との勢力争いは、その意味でも見るに耐えません。

愚痴はさておき、環境のツケです。ツケは利息を付けて支払わなければなりません。環境における利息払いは、現在の環境の質を保全するだけでは十分ではありません。自分の代で汚した環境は、最低でも自分達が受け取った時点まで環境を改善した上で、次世代に引き継がなければならないでしょう。しかし、地下から掘り出して燃やして、大気中に出してしまったCO2を圧縮して地下に戻そうなどと考えるのは、技術屋の愚案と断ずべきでしょう。それに必要なエネルギー=原子力発電はもはや当てには出来ないからです。長い取り組みにはなりますが、コツコツと森林面積を増やしてあるいは海中の植物プランクトンに元気になって貰って、活発に吸収していただくのが、まっとうなツケの払い方だと言っておきます。

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2012年1月25日 (水)

1614 定点観測

サラリーマンを卒業し、今の事務所を構えてから、世の中の動きが少しは見える様になったような気がします。つまり、社会的には経済活動の当事者ではなくなった訳で、いわば定点観測者の様に世の中を観る事が出来る立場になったからでしょう。したがって、2006年から5年以上も書き続けているこのブログの視点も、それほどはぶれてはいないつもりです。

さて、その5年間の定点観測の中間報告ですが、結論としては「環境」の置かれた状況は着実に悪化の方向に進んでいると言うものです。考えてみれば原因は簡単で、この間に間違いなく石油埋蔵量の半分を消費してしまった「オイルピーク」を迎えたはずなのですが、先進国ではささやかに省エネに勤しんだ一方、途上国のガブ飲みが加速した結果、逆に使用量は増加してしまいました。更に隣のC国やアジアで工業化を進めた国々では、世界の工場の地位を固めようと、闇雲な生産活動の加速を行い、結果として自国のみならず、隣国までに影響を及ぼすような、大気汚染、土壌汚染、水域汚染を加速してしまいました。

それに加えての天変地異です。地震やハリケーン等の発生は人間の力では如何ともしがたいにしても、沿岸部の津波や河川の氾濫に伴う洪水などは、海岸部の低地や氾濫原に都市を建設した結果の人災の側面が強いと言うしかありません。その人災に追い打ちを掛けたのが昨年の原発事故でしょう。

温暖化の影響は、急激には顕在化しないので、数十年しか生きられない人間には、ささやかな変化しか感知できませんが、長いスパンで見ると、北極海の浮氷面積の減少や、大規模氷河の減退、とりわけツンドラ地帯の永久凍土の融解で着実に進んでいる事は明白です。ごく短期ですが、環境の定点観測者としての懸念は、たとえば、温暖化⇒永久凍土の融解⇒夏場の沼地の増大⇒有機物の分解⇒メタンガスの発生増大⇒温暖化の加速と言う「負の連鎖」です。環境悪化が常態化するのは仕方がないにしても、それが安定しないまま負の連鎖を起こし、将来に亘って悪化傾向が続く事には、その「原因世代」としては何としてでも歯止めを掛ける必要があると思うのです。

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2012年1月24日 (火)

1613 経済実験

経済とは、モノと情報とお金が流れる仕組みだと言えます。経済素人が考えて、ごくごく単純化すれば、一次産業が原料を掘り出し、或いは農林水産物を収穫して売り、それを買って加工する産業が製品にして出荷し、流通業はそれを消費者に配り、逆の流れで金融機関が金を動かすのが経済システムだ、という事も出来るでしょう。

自然発生的に生まれた古い経済システムは、この流れが滑らかに行くように種々の改良が加えられて、今の形に収束してきたはずです。その意味では、多くの学問と同じように、経済学などは、まったく後知恵の学問でしかない訳です。その証拠としては、この時代になっても経済学者が束になって掛かっても経済の問題を解決できない事一つで十分でしょう。これまで「国」は、その国の企業と国民の利害と、他国の利害の折り合いをつけるための、国際間の取り決めと国内調整を行う役割を持っていて、一応それを果たしてもきました。国が持っているパワーとしては、基本的には通貨を印刷する機能と、税収を得てそれを使って行う経済調整機能だったと言えそうです。

しかし、今問題になっているのは、その経済の仕組みが国際連携によっても、ましてや一国のパワーだけでは、とても制御できないほど巨大に膨れ上がってしまったという事態です。地下資源やエネルギーを掘り出す量に比例して、地上のモノと同時にマネー量も膨張し続ける訳ですから、今後はそれを制御する事はますます困難になっていきそうです。その困難と闘う目的で始まったと思われる、欧州における市場統一⇒通過統一の実験が、今後失敗に終わるかどうかが、経済学や国際連携の限界を見極める試金石となるのは、誰が考えても明らかです。

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2012年1月23日 (月)

1612 使う技術、作る技術

長年技術屋として暮らし、それを卒業して改めて「技術」をながめてみると、技術には「使う技術」と「作る技術」があることに気が付きます。使う技術とは、車産業や投稿者も関わってきた航空機産業、いわゆる電機産業などが製品を生み出す技術を指します。つまり、これらの産業では多量の資源を採掘し使いながら製品を加工し、消費者はエネルギーをたくさん使いながらそれ使用し、最後は使用済みの製品が、処理しきれないほどの廃棄物となってしまいます。つまり、資源やエネルギーをたくさん使い、ゴミを増やし続ける技術です。HVEVや新型の国産旅客機がどれほどの省エネ性を強調しようが、使う技術であると言う事実からは逃れられません。使用中のエネルギー量がやや減るだけです。その意味で、20世紀は、使う技術の時代だったと総括しても良さそうです。

さて作る技術です。とは言いながら、たかが人間の浅知恵如きで、とてもモノを創造(Create)出来るはずもありません。お天道様に手伝ってもらいながら、少なくとも化石エネルギーを消費しないで、逆にささやかにエネルギーを作り出す事くらいしかできないと思うのです。風の力を借りて風車で電力を生み出す、太陽光や太陽熱を直接利用して電気や熱を作る(有難くいただく)、植物や微生物に食糧やバイオマスを作っていただくお手伝いをする、などの作業を、ここでは便宜上作る技術と呼んでおきます。その意味で、植物や微生物は「様」付けで呼ばないと失礼に当たるかもしれません。ご先祖様たちは、確かにそれらを敬い、奉っていたはずです。各地の神社やご神体に見られる様に、八百万の自然物や生き物に神が宿ると考えた訳です。

おこがましくも、使う技術を指してモノづくりなどと呼ぶのは、やはり人間の傲慢でしょう。そうではなくて、作る技術の背景には、お天道様の力を借りて、「作らせていただく」と言う姿勢が無くてはならないのです。木材にしても、食料にしてもそれを育てるには、間伐等で日光を上手く取り込み、或いは有機肥料で土壌の力をパワーアップする等以外の行動は、自然からの収奪と何ら変わらない事になります。収奪とはつまりは、植林を伴わない伐採や地下水や化学肥料や殺虫剤や大型農業機械に頼る、持続可能ではない(工場型)農業を指します。

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2012年1月22日 (日)

1611 カネゴミ?

欧州における経済トラブルは、結局のところ国家に対する信頼が極度に低下して、国債と言う手段での市場からの資金調達に行き詰ったという現象です。いわゆる格付け会社は、投資家と言う見えないパワーに向けて、企業の格付けを実施してきましたが、ここにきて「おこがましくも」国の信用度まで格付けする様になりました。影響力が大きくなってしまった、格付け情報は、発進された途端に、短期的利益やリスク回避のために、一つの国の介入だけでは火消しが出来ないほどに炎上する事になります。

国や企業の資金調達を容易にするためには、何より資金を出す側、国民や企業や銀行や投資機関の信用を得る事が不可欠です。今起こっているのは、資金調達を受ける側の近視眼的コメントに、出す側が完全にそっぽを向いていると言う事態です。それは、いわば国民や企業や金融機関による「国売り」状態と言っても良いでしょう。

行き過ぎたグローバリゼーションの結果、相対的に国のパワーが低下した事は否めません。パワーと言う意味には軍事力も含まれますが、ここでは金融パワーを指します。国家予算は、その国の例えばGDPに比例してしか拡大できませんが、一方で例えば日々増加するオイルマネーは、アラブの金持ちでもとても使いきれないはずで、ドンドン蓄積して膨張を続けるでしょう。使い道のないモノをゴミと呼ぶなら、これはもはやカネゴミと呼ぶしかありません。このブログでも何度も書いているのは、石油や資源掘削量を減らして経済活動を絞り込み、モノとカネの流れを抑制でもしない限り、相対的に国の信用力は低下し続け、ひいては国売りを加速する、と言う予感なのです。国売りもやはり、カネゴミが原因の「環境問題の一つ」だと言うしかありません。

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2012年1月21日 (土)

1610 四千年の浅知恵

やや重過ぎるテーマです。今の文明が、たとえば四千年の歴史を刻んでいるとはいえ、その結果として得た知恵は、いまだ浅知恵の域を脱していないと言うしか無さそうです。何より、同じ星に住み、同じ場所を聖地と崇める、「僅かな違いの宗教」を信じて暮らす民族同士の争いごとを、丸く治める方法をまだ確立していません。それどころか、何千年にも亘っていわゆる「縄張り争い」に類する小競り合いや国同士の争い(戦争)を繰り返してもきました。その意味で先の大戦後、とりわけS連邦崩壊後は、歴史的には例外的に平和な時代だったとさえ言えるかもしれません。その短い平和の結果と言うべきか、地上に満ち溢れつつあるヒト類の数(世界人口)の膨張は、すでに破局的なレベルとなっていると言っても過言ではないでしょう。この問題が実のところ、縄張り争い(今は資源獲得争い)の根底にも横たわっているのでしょうが、未だ有効な解決手段が見つかっていません。

浅知恵と呼ぶもう一つの理由としては、私たちは自らの飽くなき欲望をコントロールする方法をまだ発明していない事が挙げられるでしょう。底なしの欲望(物欲や金銭欲)は、地球上の資源という資源を掘りつくし、代わりに排出したゴミや汚水を地上や水系に蓄積し続けています。欲望のコントロールを失った結果、ある人は楽な金儲けに走ろうとして賭博に溺れ、ある人は飽くなき食欲の結果、玄関ドアから出られないほどの肥満に陥る訳です。一方、社会で上手く立ち回った人々は、経済的な勝ち組に回り、そうでない人は負け組になって、社会の階層を構成します。

公平な富の再配分を狙った、共産主義や社会主義の実験は、これまでのところはことごとく失敗した様に見えます。数百キロ上空の無重力空間に浮かぶ金属の箱に人を送ったり、一発で何十万人も殺傷できる兵器を開発したりするくらいの知恵がありながら、いまだ争い事や富の再配分の方法さえ確立していない私たちの文明は、やはりトホホの浅知恵文明だと自嘲するしかありません。

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2012年1月20日 (金)

1609 ITという環境

ITは、人間の頭脳の増強や延長と言う位置づけで進歩を続けてきたとは思いますが、ここにきてITが実は新たな「環境」になっているのでないかと思うようになりました。大気や水や土壌環境などと同じレベルで、私たちは情報を環境の一つとして、また欲求の一つとして消費し或いは呼吸している様な状況にあるのかも知れません。ヒトと言う存在を考える時、情報について考えない訳にはいきません。他の動物に対して見ても、突出して発達し過ぎた脳は、常に情報の飢餓状態にある様なのです。生きていくために必要な情報はさておき、ヒトは余分な情報(トリビア)まで欲しがります。

そこにコンピュータとWebとの組合せと(=IT)言う格好の「情報環境」が整った現在、それが「情報欲」を満たしたのでなく、逆に情報の飢餓状態の火にかえって油を注いでしまった可能性すらあります。地上の総人口に迫る数10億という数になってしまったHP数がそれを物語るかも知れません。それだけの数のHPが存在するという事は、それを欲する情報飢餓が存在すからに他なりません。HPに置かれた情報が事実かどうかは問題ではありません。脳は一つの情報を得ると、それに満足することなく、別の情報やもっと細かい情報を欲すると言う、困った「癖」を持つ器官だとも言えるでしょう。

問題は、しかしWeb上に蓄積するゴミ情報でしょう。それらは、有用で必要な情報を覆い隠したり、汚染したりする恐れさえあるからです。情報の洪水の中から有用な情報を取り出すのは、優れた検索エンジンを以ってしても、ますます困難になるでしょうし、せっかく取り出した情報が、別の正しくない情報を参照していたため、実は間違っていたと言う可能性は、今後ますます増えるでしょう。結局、今後重要になるのは、個々人が情報をしっかり濾しとるためにフィルターを備えるということになります。このフィルターの事を「価値観」とも呼びます。

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2012年1月19日 (木)

1608 除雪・利雪

北日本では歴史的な大雪の様です。雪国生まれの投稿者としても、ドカ雪に降り込められた時の窮状は痛いほど理解できます。

さてその雪を楽に取り除き、出来ればそれを利用したいものです。雪は、一晩に数十センチ程も降り積もることがあります。除雪のコツは、積もった雪を特に屋根に「貯めない」事に尽きます。つまり、前の晩に積もった雪を、翌朝には間髪を入れずに降ろしてしまう事です。除雪のために梯子を掛けて屋根に登るのは、あまりにも危険すぎます。やはり、何らかの道具を屋根に仕掛けて、簡単な操作で一気に雪を始末してしまいたいものです。例えば、屋根にブルーシートの様なものを被せておき、それが屋根のトップで分かれる構造になっていれば、ロープの操作で引き剥がせますので、あまり積もらないうちなら簡単に屋根の雪下しが出来そうです。その後は、反対側のロープで再度屋根にシートを引っ張り上げる事になります。大きな屋根であれば、ロープを引くためには、手動式のウィンチくらいは必要になるかもしれません。地上に落とした雪は、仕方がないのでボチボチ手や小型の除雪機械で取り除くしかないでしょう。

利雪については、今後ともこのブログでも考えて行きますが、取り敢えずは、以前にも少し書いたような気がしますが、地熱(例えば20℃)と雪氷熱(例えば0℃)の差を利用しての動力発生をもう一度提案しておきます。20℃で蒸発し、0℃で凝縮する作動流体(例えばフロリナート)を使って、地熱で液体を蒸発させ、屋上の雪で凝縮させれば、凝縮した液体を重力で流下させて小型のタービン(水車)を回す事が出来ます。これは決して夢物語ではなく、北陸のある大学では、実際に小型のシステムを作って研究している先生もいます。

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2012年1月18日 (水)

1607 貯水タンク

阪神淡路の大震災からもう17年も経ってしまいました。東北の震災でもそうでしたが、インフラの破壊で、取り敢えずの飲み水にも困ったとのニュースを多く聞きました。それについて、たった今良いアイデアを思い付いたので、忘れないうちに書き留めておきます。

いま家庭の蛇口は、当然の事ですが水道管に直接つながっています。単純なアイデアですが、これは元栓が付いた水道メーターから蛇口の間に、たとえば100リットルのタンクを設置するというものです。このタンクは、圧力タンクなので、水の勢いが弱くなる事はありません。水道水は、単にタンクを通過するだけです。しかも、中の水は常に入れ替わるので、塩素濃度も問題ないレベルのままで保たれますから水質悪化の心配もないでしょう。

さて、地震で水道が止まっても、タンクの中には100リットルのきれいな水が貯留されていますので、インフラ復旧までの数日間であれば、非常用の飲料水として利用可能です。ペットボトルでも水を溜めておくことはできますが、腐敗を避けるために時々は入れ替える必要があり、結構不便です。このタンクの設置に助成金でも出せば、ステンレスの加工が出来る、町の鉄工所や水道屋さんの仕事量も増えるでしょうから、ささやかな産業おこしにもつながります。何よりバケツやヤカンを持って給水車の列に並ぶ必要もなくなるでしょう。

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2012年1月17日 (火)

1606 ツケを払うアイデア

欧州での債務超過国に発した経済の混乱は、勘定をツケで回すのは簡単だが、そのツケを払うのが如何に困難かを如実に示していると言えそうです。例えば、お金を借りるのは、赤字が出て資金繰りに困っているからであり、それを返済するには、実は借りる前の倍ほどの利益(や税収)を上げる努力が求められるのです。その見込みも無いままに借金を重ねる場合、それは間違いなく不良債権の山に成り下がるだけです。

借金を返すには、アイデアこそが必要なのです。アイデアがあれば、もしかすると金を借りないで済ませる事の出来たかもしれません。材料の在庫があるのに、注文が無いなどと嘆く前に、その材料を使った新しい製品を工夫しなくてはならないでしょう。例えば、戦後、航空機業界が余ったアルミのシート材料で何を作ったかを振り返れば、それは鍋や釜であった訳です。旋盤に板を取り付け、スピン成形をすれば鍋底が出来ます。それに、取っ手をリベットで取り付けて、アルマイト加工を施し、木製の蓋を付ければ、立派な鍋の完成です。同じような例をアメリカで目撃しました。それは、航空機材料で作られたアルミ製のカヌーです。借りていたアパートの前の湖で夏場に開かれていたカヌー教室で使われたのは、年代もののアルミ製でした。それを作った企業は、かつての軍需産業の雄であるグラマン社でした。戦後、余った材料を使って民生品を作ろうとしたに違いありません。

アイデアは、しかし闇雲にひねり出しても始まりません。戦後の社会事情が、煮炊きに使う鍋を欲し、アメリカでは戦後の解放された雰囲気の中でレジャーを求めていたと言う背景があって、上の作戦も効奏した訳です。つまり、潜在的なニーズに合致するものでない限り、それは「アイデア倒れ」に終わってしまうでしょう。

資源もエネルギーも殆ど無く、財政はと見れば世界でも抜きんでた借金まみれのこの国が、世界の中で生き残っていくアイデアは結構限られていると思うのです。ざっと考えても、製造業で、既に韓国や中国に出し抜かれつつあり、結局環境保全(公害防止)技術や新エネ・省エネ技術くらいしか見当たらない様なのです。そうであれば、あれこれ迷っていないで、国を挙げてそちらの方向に一直線にまい進するだけでしょう。

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2012年1月16日 (月)

1605 傷んで知る

食事中に結構しっかりと舌先を噛んでしまいました。最近はそんな記憶がないので、数十年ぶりかも知れません。その痛いこと。翌日になっても、舌先の赤黒くなった部分は痛々しくはれ上がり、じっとしていても「舌の存在」を知らせてくれます。人間とは勝手なもので、舌であれ、手足であれ、腰であれ、痛めて初めてその存在を意識はしますが、日常生活では全く意識には登らないで暮らしています。例えば、膝や腰を痛めてしまった場合など、歩いたり、立ち上がったりするたびにその存在を意識しない訳にはいきません。歩行が不自由になって初めてその大切さを知るのでしょう。

環境に関しても、まったく同じ事が言えそうです。環境を破壊するのは、人間と家畜だけだと言っても過言ではありません。イナゴなど、時に増えすぎた生き物が植物を食い尽くして環境を破壊する事はあり得ますが、エサが無くなればそれらは死んでしまい土に戻って、植物の肥料になってくれるでしょう。しかし、人間の薪炭採取や家畜によって完全に裸にされた土地は、砂漠から緑の沃野に戻る事はありません。自然が完全に破壊され、最早薪炭採取も家畜の放牧もままならなくなるほどになった時、初めて人はそのかけがえの無さを知る事になります。

破壊されてしまった自然や環境を眺めると、それを元に戻す事はもはや不可能に見える地域も多く存在しますが、まだ残っている自然・環境は、痛めてしまう前に何か手を打ちたいものです。とは言いながら、自然環境に向かって「手を打つ」などとは、実はおこがましい表現だと言えるかもしれません。むしろ、人間が一歩も立ち入らない事こそ、本当の意味での環境保全だ、と言った方が正しいのでしょう。何もしないで完全に放置すれば、環境は自然の治癒力で、あるべき姿に回復され筈です。

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2012年1月15日 (日)

1604 暖房ダウンベスト

暖房の無い事務所でこのブログを書いていますが、このところの室温は日中でも5℃を少し超える程度にしか上がりません。ここが屋外よりマシなのは、室内なので風が吹かない点だけです。ボヤいていても仕方がないので、更に工夫が出来ないか考えました。これまでの「装備」は電気座布団25+金属製の飲料ボトルの湯たんぽ+バイクに乗るのと同じ服装、だけでしたが、着ぶくれしているのでどうにもモコモコして動きにくいのです。

そこで新たに考えたのが、ダウンベストです。ただの綿入れベストでは、このひどい寒さ対策には十分ではないので、少し張り込んで本物のダウン入りのものを買いました。これを着ると確かにかなり改善はしましたが、まだ物足りません。そこで、雑貨屋を探して見つけたのが、USB電源でほんのり暖まるシート状のヒーターです。安っぽい毛布に仕立てられていましたが、これをバラしてヒーターだけを取り出して、ダウンベストの内側に縫い付けて、電源をつないでみました。すると背中から腰に掛けて、心地よくほのかに温まってくるではありませんか。これで、氷点下にでもならない限り、冷蔵庫内並みに涼しい事務所での仕事にも十分なレベルの「体感温度」になりました。

この工夫での結論は、「暖房器具は身に着けるに限る」と言うものでした。USBの出力としては精々5w程度しか出せないので、電気座布団と足しても精々30wの出力ですが、これでも体に密着させれば、室温5℃の環境でも仕事が可能なら、1kw以上も食ってしまう普通の電気エアコンを100%とすれば、数%の電力で暖房が出来る勘定です。これで、この事務所では、95%以上の省エネルギーを達成した、と胸を張れそうです。ここでも、「原発なんかは○○くらえ」、と、大声で吠えておきます。

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2012年1月14日 (土)

1603 提案14(再軽少短薄時代)

重厚長大時代の終わり頃、軽少(小)短薄時代の到来が叫ばれた時期がありました。しかし、それは家電やエレクトロニクスなどの、単なる「電化の時代」の宣伝でしかなかったと振り返っています。ここで提案する、今後求められる「真の」軽少短薄時代の定義とは、現在ある製品の重量を、取り敢えず半分にしましょう、というものです。例えば、1200㎏程度のありふれた小型自動車の目方を、半分の600㎏(つまりは軽自動車以下)にする技術などを指します。

1割や2割の軽減化は、現在の技術の延長線上でも十分可能ですが、半分以下にするにはかなりのブレークスルーが必要です。具体的には、単に軽量素材への見直しだけではなく、機能そのものや、構造の大胆な転換が求められるでしょう。たとえば、車の目方を半分にするには、内装や装備の見直しはもちろん、最高速度、加速性能、航続距離など基本的な性能の再考が欠かせません。加えて、原動機そのもの(ガソリンエンジンか電動モーターか、或いは別の原理の動力装置か)の見直し、動力伝達装置、タイヤに至るまで、「車」という20世紀に確立された交通手段のコンセプトそのものを一から見直すことが必要なのです。

15年以上も前の話ですが、投稿者が、若い技術者を集めて、手作りのソーラーカーを作った経験から言えば、パワーの小さいソーラーカーでは、極限までの軽量化が必須でした。ですから、車体構造は、車から出発するのではなく、自転車からの発想が必要でした。人力は、しっかり頑張っても数100wの出力しか出ません。それとあまり出力レベルの変らない小型のソーラーカーの構造も、やはり自転車並みにならざるを得ません。その時搭載した、たった1kwの出力しかなかったモーターでも、車体構造だけだとドライバーの体重並みに抑えた車重のお蔭で、時速50㎞はどうにか出せたのでした。60㎏程度の車重は、ありふれた小型車の1/20ですから、非力なモーターでも十分走るのです。来たるべき、再軽少短薄時代には、贅肉だらけの現状製品からの発想ではなく、ゼロからの積み上げこそが必要な視点なのです。

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2012年1月13日 (金)

1602 提案13(環境シニア)

最近何かの文章で、「環境シニア」と言う言葉を目にしました。その明確な定義はないのでしょうが、結局は若いころ見聞きし、一部は体験もしたいわゆる「公害」や、二度のオイルショックなどを経験として持っている世代を「環境シニア」と呼んでも良さそうです。この世代は、これらの困難を克服する中で、低公害技術や省エネ技術の工夫を積み重ねた経験を持っている貴重な人たちだとも言えるでしょう。

そもそも投稿者が環境人間を志したのも、この環境シニア世代の最後尾の辺りを歩いてきたからだとも言えます。100%当事者であった環境シニアに比べれば、投稿者の世代は、R.カーソンやローマクラブからの提言やその後の地球温暖化などの国際的議論にも接してきたので、やや第三者的で少し広い目で「環境」を考える事が出来た世代でもあります。その中で蓄えた、公害防止や省エネの知恵を、単に定年退職したと言う理由だけで、楽隠居を決め込み、それら捨ててしまったりお墓の中に持ち込んだりしてしまうのはあまりにも「勿体なく」「身勝手」だと言うしかありません。

そうではなくて、今後のますます厳しくなる環境の悪化に歯止めを掛けるためにこそ、そのノウハウを使って欲しいのです。環境カウンセラーになって、市民や学校や企業で経験談を話しても良いでしょうし、自分が経験したノウハウが生かせる業種・業態で、公害を出さない方法や、省エネのノウハウを教えても良いでしょう。いわば、「環境シニア十字軍」の結成です。世間的に見れば、10年ほど早くこの十字軍入りをした立場として、それを必要とする人が居るならいくらでも十字軍入りを支援する事は吝かではありません。立ち上がれ、そして来たれ「環境シニア」です。

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2012年1月12日 (木)

1601 提案12(脱電力)

このブログでも、電気があまりにも便利である故に、私たちが電気中毒に陥っていると再々書いてきました。一方、春先には全部の原発が停止する異常事態に陥り、しかも原発の稼働率が極端に低い状況は今後も長く続くと見られます。原発で電力の4割を賄っていたこの国は、取り敢えずは3割程度の電力量削減の必要に迫られていると言えます。

その中で、望まれる行動としては、いわゆる単なる省エネではない「脱電力」しかないと言っておきます。脱電力とは、日々の生活やサービス業や製造業で、電力に頼る割合を減らすと言う事を指します。とはいっても、電気で動くエアコンしか冷暖房設備の無い建物で、どうやって脱電力を行うのか、との突っ込みが来そうですが、そこは必死の工夫で切り抜けるしかないのです。何故さ寒いか、何故暑いかを突き詰めて考えれば、それはこの国の建物が、冬に建物内に熱を閉じ込めたり、或いは夏に外からの熱の侵入を食い止めたりする性能が低い事や衣服が十分ではない、と見方を変える必要があります。更に言えば、カイロや湯たんぽなど、身に着ける暖房器具が昔ほど使われなくなった事があります。充電式のカイロと、小さな電気座布団と、ダウンベストがあれば、朝晩は5℃以下に下がる投稿者の事務所でも、エアコンや石油ストーブ無しにどうにか凌げます。

製造業では、電力の2-3割を占めるエアコンプレッサの電力を目の敵にして減らしましょう。方法は簡単です。集中エアコンプレッサを止めて、必要な部署にはベビコンをあてがうのです。分散化して「見える化」すれば、無駄なエアの消費も抑制できるでしょうし、配管からの無為な漏れに関しても問題が無くなります。つまり、工場では「絶対に電気でしか動かない」製造設備を特定し、改めて必要な電力を積み上げる作業が欠かせないという事です。照明に関しても例外ではありません。工夫を重ねて昼光の活用を進めるのです。太陽光は、曇りや雨の日もあり不安定ですが、脱電力をバックアップする心強い味方です。

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2012年1月11日 (水)

1599 提案10(自産自消)

ラジオでチラッと聞いただけなので、聞き違いかも知れませんが、「自産自消」と言う言葉を初めて耳にしたような気がするので、改めてここでその定義を考えてみます。地産地消は、かなり聞きなれた言葉になりましたが、自産自消はこれを更に一歩進めた言葉だとも言えるかもしれません。地元で作って地元で消費する地産地消を究極まで突き詰めると、消費者自身が必要なものを作る「自給自足」になりそうですが、ここでは自産自消はその中間であると定義しておきましょう。

具体例を挙げるなら、ある工場が、屋根で太陽光発電をして、工場の電力の一部を賄うのも自産自消の一部にはなり得ますが、更にボイラで焚く重油の量を減らすために、太陽熱でボイラの燃焼空気を予熱してやり、加えて太陽熱で給水も加熱してやれば、重油も2割程度は節約できる皮算用が成り立ちます。一方で地熱や地下水を利用した冷暖房システムを構築すれば、工場の敷地内にあるエネルギー源で、工場で使うエネルギーのかなりの部分が賄える事になります。

つまり、消費家が、自分の敷地内で使えるあらゆる資源やエネルギーを総動員して、これまでその敷地内で消費されていた資源・エネルギーを極小化する行動を、自産自消と定義したいのです。ですから、話はエネルギーだけで終わりません。地下水は、水資源でもありエネルギーでもあります。敷地の横の水路は、水利権の問題さえなければ立派なエネルギーです。工場の空き地にはびこる雑草だって、バイオマスとして使えるかもしれません。しかし、これまでは、設備の入れ物でしかなかった工場の最大の資源は、広い屋根や壁に降り注ぐ太陽光であることは間違いありません。もちろん可視光はそのまま光源としてスマートに活用します。

太陽光には、紫外線、可視光、赤外線と多様な波長の光(電磁波=エネルギー)が含まれますので、それぞれの波長に応じた多様な用途を開発すれば、平米当たり1kwものポテンシャルを持つ太陽光のかなりの部分が有効活用できる事になります。

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2012年1月10日 (火)

1598 提案9(政治)

政治については、書くべき事は多くありません。何を言っても「政治屋」に届く事はないからです。彼らは、20世紀型の中央集権の既得権や利権まみれの政治は、これからの右肩下がりの時代には、もはやまったく通用しない事に早く気が付くべきでしょう。地方政党がこれに取って代わられるかは、関西や東海地区の「実験」を見守るしか無さそうです。何より、マツリゴトに関わる人たちは、政策=利権を共通にする人たちが、緩く群れて政党を作ると言う旧来の政治行動それ自体の問われていると思い定めなければならないでしょう。それに気が付いたリーダー(真の政治家)が現れる事を一日千秋の想いで願っているのは、投稿者ばかりではないはずです。21世紀型のビジョンを掲げる20代、30代で政治を志す若者の登場が待たれますが、O市の首長になったあの人も、考えてみれば既に不惑に乗っていますので、「年齢的」にはあまり期待していません。

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1597 提案8(生活3)

個別の世代への提案です。とりわけ投稿者の年代以上の世代に向けてのメッセージです。この世代は、第一線を退いたからと言って、安穏としてはいられません。老老介護が待っていますし、年金だって段々当てに出来なくなってきているからです。ですから、朝から新聞を嘗め回す様に読み、昼はただただ散歩に時間を費やし、ましてや国内外のパッケージ旅行などにうつつを抜かしている暇はない筈なのです。そんなお金がある位なら、国内で困っている人に手を差し伸べるか、何より膨大な国の借金を減らす工面をしてもらいたいのです。

必要な事は、自分が、自分たちの世代が、国全体の中でどの様な立場に置かれているか、それは国=世代全体の取って望ましい状態なのを問い続けていく姿勢です。その結果、もしそうなっていなければ、それを望ましい姿に近づける様な努力が必要でしょう。国がなかなか動かないのなら、ぜひ団塊パワーを発揮すべきです。団塊世代より年齢が上の塊は、人口全体の1/3以上となっているという事は、今後しばらくはこの世代が日本のマジョリティーであり続けると言う事にもなります。そのマジョリティーが、責任を放り出して、ダンマリや「楽隠居」を決め込んでならないでしょう。何故なら、この国の政治・経済は、今後50年間かそれ以上、持続可能と思われるレベルでのシステム構築が出来ていないどころか、破局の危機さえ懸念される崖っぷちの状況に立たされているからです。

既に年金生活に入っている人たちは、それが自分の払ったものだと考える事は間違いだと認識すべきです。何故なら、自分たちの世代が払った掛け金は、掛け金を払わずに年金を受け取った世代に、既にかなりの部分が使われてしまったので、自転車操業になってしまった年金システムは、現役世代にそっぽを向かれてしまうと途端に破算してしまうからです。

そうではなくて、、特に団塊世代に求められているのは、望ましい暮らし方の実践なのです。金銭的な余裕は、ぜひ東北で困っている人たちに振り向けるか、その年金を支えてくれている現役世代に還流しましょう。そのためには、景気を良くするためと、何も考えずに消費行動に走るのではなく、使ったお金が、真にそれを必要な人に流れるか否かを十分に見極める事が必要でしょう。お金が無くて暇と体力がある人は、この春から活発になるであろう、放射能の除染活動に労力を出すのも有意義でしょう。団塊世代は、現役世代の重荷になるのではなく、むしろ気球の様に「自ら浮力を稼いで」、彼らを楽にしてやることだけを考えて、残りの人生を有効活用しましょう。それは、言葉を替えると部分的な「権利の放棄」を意味します。

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2012年1月 8日 (日)

1596 提案7(生活2)

世の中の変化の一つの原則として、景気の上昇はゆっくり進み、一方で悪化は急激に進むという事があります。現在の私たちの生活レベルは、先輩や私たち自身が、戦後連綿として積み上げてきた努力の上に構築されました。しかし、今を頂上として、ここから転げ落ちるにはそんなに時間は掛からないでしょう。何しろ、景気の悪化には「引力」が作用しますので、自由落下が時間の自乗に比例して速度が増す様に、あっという間に転がる事になります。転落の加速度を減ずるには、ひたすら手を広げ足を踏ん張ってこらえなければなりません。

具体的に足を踏ん張るとは何をする事を指すのでしょうか。取り敢えずは、世の中の速い流れに目を奪われてはならないでしょう。つまり、流されながらその中でもがくのは、努力の割には報われない行動だからです。視点は、あくまでも流れの外の「定点」でなければならないのです。坂道を転がりながら、或いは流れに流されながら、事態を観察すべきはこの定点からである事を忘れてはならないでしょう。では、定点とは何を指すのかと問われれば、それは人としての絶対的な価値の基準だとしか言えません。学者はそれを、倫理と呼びますが、更に抽象的になるだけです。

投稿者なりの解釈では、例えば7世代後の子孫の幸福を考える事がその基準となり得ると信じています。この国の言葉で言えば、「国家百年の計」になるでしょうか。つまりは、この絶対的な定点に照らしてみて正しい行動こそが、私たちに求められているのであり、そのように生活をして行かなくてはならない、と思い定めるべきでしょう。先人が、数十年後の子孫の幸福のために、目もくらむような急な斜面にせっせと木を植えた様に、ネイティブアメリカンが7世代後の子孫の幸福を守るために、無理やり侵入してきた白人と、槍や弓や斧だけで勇敢に戦った様に、私たちも今の生活スタイルを見直して、後の子孫に恨まれない様に襟を正すべきでしょう。大上段に「環境倫理」と振りかぶるのではなく、遠い子孫を思いやって質素に暮らす、と考え直して贅肉の多い暮らしぶりをしっかりシェイプアップしましょう。

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2012年1月 7日 (土)

1595 提案6(生活)

経済システムは、結局は人々が日々生活をしていく上での自然発生的な仕組みだと言えるでしょう。どの様な立場の人であれ、オフではただの生活者に過ぎません。農業や漁業だけではなく、全ての産業は、人々の「普通の生活」を支えるためだけに存在すると言い切っても良いでしょう。その生活レベルが、贅沢に傾けば「贅沢産業」が繁盛し、そうでなければ「堅実産業」がソコソコのレベルで栄えるでしょう。極端な実例はバブル期を思い出してもらえれば十分ですが、実は私たちはその頃の贅沢を今も強く引きずっていると言わなければなりません。

例えば、建物を考えてみます。バブル期に建てられた多くの建物は、贅をつくし、高い材料を使っていて広々としたレイアウトを持っているはずです。しかし、その広々としたスペースを、照明し冷暖房を効かせるためには、それ以前のものに比べれば、単位面積当たりでみれば、たぶん2倍程度のエネルギーを要しているはずなのです。キラキラする照明は、JISの照度基準で見れば過剰でしょうし、エアコンの効かせ方も、夏場にジャケットを羽織り、冬場には逆にそれを脱ぐほどのレベルになっている事でしょう。乗り物(車)について見れば、1990年代に圧倒的に増えたのは軽自動車でした。主婦や若者の「足」として、一家の2台目、3台目として購入され始めたのでした。しかし、その頃購入された車が耐用年数に至っても、所有者は間違いなく代わりの車を欲しがったはずです。それも、軽ではなく小型車を…。

流石に建ててしまったり、買ったりしたものを、生活を質素にするためとはいえ簡単に廃棄する訳にはいかないでしょう。そうであれば、エネルギー消費を半分にする「使い方」を考えなければならないでしょう。建物について言えば、廊下の照明を半分に間引き、室内照明には手元照明を活用して天井灯をこれも半分以下にします。エアコンは、温度を控えるだけではなく、運転時間を大幅に減らす工夫をします。これでバブリーな建物もエネルギー消費が半分近くになります。車について言えば、エコドライブを実施しても燃費を2倍に改善する事もできませんので、仕方がないので乗る時間を半分にします。乗らない日は、友人と乗合出勤をするか、徒歩+電車・バス通勤に、あるいは晴れた日の自転車通勤を併用するしかありません。これを省エネのためとは考えては長続きしません。あくまでも健康のためと考え直して、バブリーになった体に鞭を打ちましょう。

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2012年1月 6日 (金)

1594 提案5(経済システム2)

経済システムの軌道修正には、一にも二にもスピードが欠かせません。予測も必要かも知れませんが、所詮景気は「気のモノ」ですから、経済アナリストの数だけ予測シナリオも存在するはずです。ここで言う軌道修正のスピードとは、小さな変化の兆しが見えた時に、すぐ小さな手を打つと言う素早い動きの事を指します。自動制御で言うところの時定数(又は応答速度)を小さく設定すると言う意味です。

もちろん、理想を言えば最も望ましいシナリオに沿って、世の中が変化を起こす前に、変化を誘導する「フィードフォワード」を行う事になりますが、神ならぬ人間にはなかなか難しいのも事実です。と言うのも、経済におけるプレイヤーの数やそれらを結ぶシステムも半端でないレベル複雑になり、結果としてそれを解きほぐす連立方程式の数も多くなり過ぎているからです。しかし、どの様な前提で考えても、この星の狭さが、最早右肩上がりの経済成長を許さなくなっている事は、誰の目にも明らかでしょう。どの様に欲望を膨らませようが、その大きさは地球のサイズで頭打ちになると言う事です。ならば、私たちは欲を減じて、望ましい着地点を見定めなければならないのでしょう。ここでいう着地点とは、つまりは決して贅沢ではない平均的な「暮らしぶり」であり、それを支えるためのつましく適正な経済規模であると言っておきます。

一体どの程度のつましい生活が可能であるのかは、実際にシミュレーションを行ってみれば良いでしょう。たとえば1週間でも良いので、冷暖房を止め、一汁一菜の食事をし、車に絶対乗らず、入浴を2日に1回にして、コンビニに立ち寄らない生活が出来れば、たぶん資源もエネルギーの消費も今の半分以下には出来るはずです。これは、実のところ1970年代半ば以前の生活に似ていますし、投稿者もほぼ実行中です。その頃がそれほど豊かではなかったにしても、決して不健康で、貧しかったとは言えないでしょう。胸は夢や希望で膨らんでおり、人と人との接触が密で助け合いがあり、親切心や他者への思いやりのレベルは、今より数段高かったはずです。つまりは、GNHは少なくとも現在の2倍以上は高かったはずです。何時から、貧富の差が拡大し、幸福な人より不幸な人が増えたかを振り返れば、きっとバブル期がターニングポイントとなったのでないかと想像しています。それ以前は、この国にも「一億総中流意識」が満ち溢れていたからです。バブルの泡をつかんだか、つかみ損ねたかの差が、「日本流の中流意識(つまりは、他人と同レベルの生活であると言うささやかな満足感です)」真ん中に楔を打ち込んだと思うのです。

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2012年1月 5日 (木)

1593 提案4(経済システム)

経済システムへの提案は、元技術屋の門外漢にとっては難しそうに見えます。そこで、ここでは話を極端に単純化して書くことにします。

経済とは、元を質せば、モノの売り買いの仕組みです。モノの売り買いの歴史は、たぶん分業化の歴史だとも言い換えられるでしょう。つまり、まとめて作れば品質の良い製品が効率よく(安く)出来るので、一人が全てを作ってしまう自給自足社会に比べれば効率が良いと言えるでしょう。モノの売り買いの仕組みはドンドン拡大し、それに合わせて種々のサービス業(第3次産業)も急拡大しました。それどころか、彼らは第2次産業をコントロールし始め、経済の仕組みを支配する様にさえ「成り上がり」ました。何故モノ売りや、カネ貸しが、モノづくり屋より高い利益を出し、良いサラリーを手に出来るのか、誰も不思議に思わない社会が、つまりは今の「経済至上社会」と言う定義になります。

これに楔を穿つ手段としては、例えば「バーター取引」が考えられます。その昔、町には市(いち)が立ちました。その市には近郊から、農作物や海産物(生魚や乾物)や実用的な道具や日用品が並びました。多くは、お金で決済(売買)されていましたが、時には例えば乾物を作った漁師のオカミさんと農家のバアちゃんは物々交換もした事でしょう。

現在の仕組みで。このような取引が、合法なのかどうかは別にして、製品との物々交換で原料が買えるなら、運転資金が少なくても企業を回す事は出来るでしょう。とは言いながら、製品を受け取った材料問屋が、製品で仕入れ代金を決済するのは結構骨が折れるかもしれませんが…。しかし、部分的にもそれが可能であれば、GDPと実際の「経済」とはかなりの乖離が出る事にもあります。物々交換による取引には、消費税も掛かりませんから節税にもなります。企業や国民の節税は、即ち行政にとっての歳入減となりますので、自然の成り行きとして行政組織や金融業もその規模を縮小せざるを得ない事になります。モノも食糧も作らない、本来は社会の僕であるべき「あの人たち」を社会のトップでノサバラしておくシステムは、決して健全ではないでしょうから…。続きます。

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2012年1月 4日 (水)

1592 提案3(環境カンバン2)

環境カンバンという新たな言葉を作ってしまったので、具体的なイメージを書いておきます。現在のカンバンとは、例えば部品箱に付いており、その部品箱が空になった時点で、カンバンと空箱が部品メーカーに戻されます。そのカンバンを発注根拠として部品メーカーが、部品製作に着手するというものです。即ち、カンバンがモノづくりのトリガーになると言う仕組みで、欠品や作り過ぎを防止して、ピンと糸を張ったようなモノづくりが継続できる事になります。

一方で、環境カンバンの一つのイメージは、工場内に掲げる電子掲示板の様なものになるでしょう。このカンバンには、その日の完成品の個数(台数)も表示されますが、同じカンバンにその工場で消費されたエネルギーの推移や累積も表示されます。同時に、累積エネルギーを完成個数(台数)で除した値、つまりは1個(1台)当たりのエネルギー量も表示されます。これが設定された数字より大きくなると、エネルギー効率が低下している訳ですから、何らかの省エネ改善が必要だと言う情報が発信されます。この看板には、同時に工程から出る廃棄物量の指標(つまりは原材料が製品になる率=歩留まり率の事です)も掲示されますので、この工場における環境パフォーマンスが数字で示されていると言えるでしょう。

更に、梱包・倉庫部門では、別のカンバンが必要です。即ち、その製品を個装、輸送パッケージングするための材料(ラップ材や段ボール箱など)のLCAと製品1個(1台)当たりの使用量を把握し、掲示します。加えて、送付先までの距離により、輸送のためのエネルギー原単位も同じカンバンに表示します。上のカンバンと合算すれば、この企業が製品を出荷する際の全環境負荷が、ほぼ把握できたことになります。もちろん、事務部門や営業所の環境負荷も「見える化」して、上記に合算します。ここまでやらないと、今後の社会では、とても環境企業とは呼べないと言えるでしょう。

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2012年1月 3日 (火)

1591 提案2(環境カンバン)

これまでの生産方式の行き着くところがカンバン方式であったにしても、これからの生産方式は、資源とエネルギーの見える化、即ち「環境カンバン」を掲げなければなりません。基準とするものは、これまでのモノづくりとその製品になります。これを100とした時、改善された材料や工程を取った場合、何ポイント下げる事が出来るかが、今後の企業評価の指標になる、と言うよりならなければならない、と考えています。

材料について言えば、その材料を精製する際に、単位重量当たりどの程度のエネルギーを使っているのかを、採掘から輸送、精製、配送に至るまで、ライフサイクルで評価する事が求められます。その材料を、ある製品に何キロ使うのかが設計者の腕の見せ所です。例えば、比重の小さなアルミやマグネを使う場合、確かに重量的には小さくはできますが、それが例えば鉄に比べて10倍もエネルギーを費やして精錬されているのであれば、環境性能の軍配は鉄に上がります。各材料メーカーは、少なくとも全ての材料に関する環境カンバンを掲げてそれを供給する責任があるでしょう。

さてそれを使って製品化している企業の設計者は、使う材料の目方を出来るだけ小さくするように、年々改善を続ける必要があるでしょう。もちろん性能は維持する事は必須です。生産技術者は、その製品の製造に関わるエネルギーを最少となる様に工程設計を行い、その際排出される産業廃棄物の量も最少化する努力が求められます。工場では、材料の使用量のカンバンと、製造エネルギーの2枚のカンバンが必要です。

話はここで終わりません。製造企業と流通企業は、パッケージングや配送方法についても環境負荷が最低限となる様に、互いに協力しつつ工夫を重ねる必要があります。現在多用されている段ボール箱はいくらリサイクルに回すとは言っても、所詮「ワンウェイ容器」に過ぎません。更に言えば、メーカーと流通業者は、使用済みの製品の行く末にも責任を持っていると言わなければなりません。つまり、メンテナンスや修理が容易であるか、或いは使用後の分解(素材別の分別)やリサイクルが容易であるかについても不断の改善努力が必要です。つまり、今後は作りっ放し、売りっ放しは許されない時代になったと言えます。続きます。

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2012年1月 2日 (月)

1590 提案1(産業基盤)

一国の産業政策は極めて重要です。つまり、その国の国民が一体何を生業(なりわい)にして生きていくのかのデザインの事です。振り返って越し方を見れば、この国の産業政策は単純で、一貫して「加工貿易」でした。資源やエネルギーをほぼ100%輸入し、種々の部品や製品を輸出して、得たお金で新たな資源や食糧を輸入して、国を支えてきた訳です。しかし、そのシナリオは、近年の途上国の追い上げによって、徐々に崩れてきたのでした。「世界の工場」の地位は、K国をはじめとするアジアやBラジルやC国やIンドに取って代わられつつあります。確かに、一部のコア技術はまだ国内にあり、例えば車の主要部品などは世界のシェアを握ってはいます。しかし、多くの「設備型産業」は、旺盛な途上国の投資に押され、ジリ貧状態にあります。しかし実のところ、その設備は他ならぬ日本やドイツなど、技術的に優れたものを維持している国々が提供している事は、まったく皮肉な事実です。

さて、この時代、お金さえ積めば、精度が高く、生産性も高い設備が作れますが、この国の産業政策として考えるべきは、先ずは今後何を作るかであり、それを如何に資源・エネルギーを節約しながら作るかという点だけだと思います。つまりは、省エネ・省資源技術と呼ばれる技術の事です。省エネは、かつて石油ショック後に苦労しながらも必死に開発しました。また省資源技術に関しては、元々資源の殆ど産出しない国として、軽量化技術や複合機能技術で磨いてきたはずです。それを、今後は徹底的に研ぎ澄ましていかなければならないでしょう。

これまでの産業の基盤は、如何に安く・大量に・品質の高い製品を作るかに主眼を置いてきたはずです。その行き着くところが「カンバン方式」による無駄の無い生産システムだと言えます。しかし、今後のキーワードは「環境保全を織り込んだ生産」でなければならないと思っています。環境保全とは、可能な限り環境負荷を削減する事とほぼ同義ですから、結局は省エネ・省資源生産と言い換えても良い訳です。環境保全の考え方を、製品設計や生産技術=生産設備、さらに言えば使用済み製品の処理方法に織り込まなくてはなりません。具体的な考え方は、個々の項で展開する事とします。

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2012年1月 1日 (日)

1589 新しい年に

新年あけましておめでとうございます。旧年中は、退屈で繰り返しの多いこのブログを辛抱強くお読みいただきありがとうございました。このブログは、実のところ自分自身の戒めのために書いているので、楽しく読んでいただく事には力を入れておりません。毎日まいにち「有言実行」のための、自分自身に向けてのプレッシャーとして書いている訳です。そのような目で今後もお読みいただければ幸いです。

さて、この国には、新しい年を迎えるに当たって、旧年をリセットする風習があります。そのために寺社に詣で、元旦の日の出を拝みます。確かに季節は巡り、枯草や葉を落とした木々も春には再生します。しかし、人が作ってしまった文明や社会システムは、一度崩れ始めると、放置しても決して再生はしません。古の人たちが、繰り返しの地震に見舞われても、城の石垣などをコツコツと継続的に補修して美しい姿をこの時代まで残してくれた様に、私たちもシステムの綻びや解れを、手当が出来るうちに繕っておくべきなのでしょう。農地を埋め立てて道路を広げ、計画なしに工場を建設したり、細切れにした住宅地を増殖させたりする事はここらで止めにしなくてはなりません。また先人が残してくれた山林を忘れるべきでも、上流を洪水に弱いままに放置し、河川にムダなダムを造り続けるべきでもありません。

新しい年の初めには、来たるべき時代のグランドデザインを描き直す事こそが必要な作業だとも思います。そこで、今後数回に亘って投稿者なりの提案を書いてみようと思い立ちました。とりわけ、この国の産業の在り方は重要なデザイン要素ですので、力を入れて書こうと思います。

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